1 :
無名武将@お腹せっぷく:
ルール:凡将を名将のように紹介するスレ。その逆もあり。三国志、戦国どっちもあり。人物重複おk
【裴元紹】
黄巾族。文武両道の人物。中国史上の軍神関羽の片腕、周倉の親友でもある。
関羽に会った時、遠くの地で戦っていた関羽の正体を見抜く教養の持ち主。
関羽の赤兎馬を盗もうとした男を寛大な心で許し、親友周倉の元へ関羽を導いた。
周倉が関羽についてくときも拠り所のない部下を一人守って時が来るのを待っていた。
周倉が戻ってきて関羽へ帰順する途中の道で、地面にうずくまっている趙雲に心配して
声をかけたところを斬られた。後世の人は
「趙雲は劉備の配下になりたかったが、裴元紹には実力が劣るのでどうしても廃したかった」
と言っている。
羅貫中の得意技来た
【黄皓】
蜀漢の宦官。董允亡き後の劉禅を支えた。
過激派の姜維に幾度となく殺されそうになるが機智をもって危険を脱出。
蜀を何十年と保つのに貢献した。
劉禅が魏に降伏したため、やむを得なく降伏。
後、存在を危険視され司馬昭に殺された。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 01:31:27
かこうとんはすごいぶしょう
【李楽】
李カクらに追われる献帝を護衛するために要請を受けた賊。
的確な行動で帝を救った。
しかし、李楽の活躍を恐れた楊奉の命を受けた徐晃に殺される。
なんかむちゃくちゃになってしもたorz
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 01:57:50
【エン術】
字は公路。三公を輩出する名門エン家の子孫で、
黄巾の乱や董卓の台頭等を経て確実に国力を蓄え
後漢末期には中華有数の一大勢力を築く。
後に客将の孫策を通して玉璽を譲り受け成朝を建立、
自ら初代皇帝となり、中原に覇をとなえた。
ユーモアに富んだ性格であり、臨終の床に際しても
「蜂蜜が飲みたい」などとジョークをとばすなどして
悲しみに暮れる面々を唖然とさせたというエピソードも残っている。
>>6 なんかもの凄い明るい好人物として書かれているなw
【曹豹】
徐州の武将
良識のある人物で
留守を任された張飛が禁酒を破り酒を飲み
泥酔状態の張飛を諌めるほどの勇の人
が聞き入れられず逆に暴行を受ける
城の行く末を案じ客将である呂布将軍に救援を頼むが
張飛に逆恨みされ斬られた
なんか似たすれなかったか?
>>10 武将辞典を作ろう、みたいなのか?
それとは異質だし、戦国もOKなら良いと思う。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 15:49:36
【劉禅】
蜀の2代目皇帝。
劉備の息子でずば抜けたカリスマ性と不思議な魅力で小国蜀を40年以上保った。
温厚正大な性格で黄皓など、欠点があるものもむやみに見捨てずに登用した。
一方で非常に忠義にあふれた好漢で、孔明の死後、孔明を馬鹿にした者を処刑したりしている。
前線の大将姜維がケ艾を見逃し、蜀に攻め入れてしまった時は、民の苦しむ声に耐えきれず降伏。
息子も忠死するなど、劉家の教育もしっかりしていた。
降伏後、洛陽で司馬昭に「蜀が懐かしいでしょう」と聞かれたときはいち早くそれが自分を殺す口実だと悟り、
劉備の曹操へ見せた雷を恐れて曹操を欺く計に習い、「そんなことはありません。こっちのほうが良いでつ」と答えた。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 16:17:28
【足利義昭】
室町幕府15代将軍
衰退の一途を辿る室町幕府存続に命を賭した偉大な男
畿内平定の夢の為各国の大名と協力して賊徒を多数討伐して名声を手に入れる
当時急成長していた織田家を京に招き後の織田政権のきっかけを作るも
その才を恐れられ信長に疎まれだすと全国に打倒信長を呼びかけ対抗する
各国の大名は信長打倒に同意。義昭による天下が樹立する寸での所で失敗に終わってしまう
その後もひたすら足利の為に尽力するが織田の厳しい監視により遂にそれは成らなかった
しかし今でも彼を名君と呼ぶ者は少なくなく、数多くの人々に愛されている
足利義昭は実際に凡庸では無かった気がするがな
15 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 16:56:43
>降伏後、洛陽で司馬昭に「蜀が懐かしいでしょう」と聞かれたときはいち早くそれが自分を殺す口実だと悟り、
劉備の曹操へ見せた雷を恐れて曹操を欺く計に習い、「そんなことはありません。こっちのほうが良いでつ」と答えた。
後半はともかく…前半は考えてしまうな…
16 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 17:10:28
>>13 足利義昭・・・。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
17 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 17:14:39
前田利家
加賀百万石の祖。元は織田家の高級将校。
賤ヶ岳の合戦では、柴田勝家につくも、戦況不利とみると勝手に七尾城に退却。
これがため、勝家方は北ノ庄まで敗走することになる。
敗走中の勝家が「君は秀吉と仲がいいから、これからは彼を頼るといい」といったことを
良いことに、さっそく秀吉に北の庄攻めの先鋒を願い出る節操のなさ。
晩年は、秀吉にさんざん恩を施されるも、秀吉死後の家康の暴走をまったく止められず。
ついに病を得て、死の間際も切腹と見せかけて柄を胸に当てて果てるという意味不明な行動をとった男。
>>17 前田利家も書きようによっちゃ( ゚д゚)、ペッな武将に見えるなw
19 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 17:17:41
すまん吊ってくる
23 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 17:28:33
豊臣秀吉
織田信長のご機嫌を伺うことで出世した。
出世後も蜂須賀小六や竹中半兵衛などの優秀な部下の立案した作戦を
自らの手柄とし、織田家内での地位を着実に固めていった。
信長と光秀の確執を見て取った秀吉は、自ら志願して毛利攻めを行う。
秀吉の予想通りに本能寺の変が起きると、一番早く戻り、織田家を乗っ取る事に成功する。
関白へと出世した後も野望はとどまる事を知らず、朝鮮出兵などの無謀な出兵を繰り返した。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 17:34:34
>>23 それはそれで名将だろ。
名将→凡将や
凡将→名将
どちらでもないから却下。
【武田信玄】
甲斐の虎。甲斐源氏の一族に生まれる
幼い頃から兵法書などを読み漁るあまり友達に恵まれなかった
父が財政難において行った政策を批判しあろうことか自分の父を国外追放する
その後は虐殺を繰り返しながら領土を拡大した為民は心から心服しなかった事が後の武田滅亡に繋がっている
そして越後の龍上杉謙信との戦いでも約束を違え領土を奪ったり
策を見透かされ殺されかけるなど醜態を晒し続ける
謙信がそれを見かね手を出さないのを良い事にかつての同盟者今川家を侵略
財宝を焼き払い民を打ち殺し文化人と名高い今川氏真にまで手を出す暴挙ぶり
信玄は相変わらず裏切りを続け次は徳川に攻め込むも自分の死をもって勝ち戦を逃す
以上のよう悪事を働くもそれが表向きに出ないのは息子勝頼の努力の成果であり
彼は自ら泥を被り愚父信玄を救ったのである
貶めても有能さがうかがえるな
27 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 19:29:55
【武田信玄】
甲斐の虎。甲斐源氏の一族に生まれる
甲斐を統一した父信虎の飛躍をそねむ家臣たちに担がれ、クーデターを決行
信虎の暴虐をでっち上げ、家臣たちとの共謀の上、信虎を追放する
国主の座に据わる際、家臣の力を借りたことにより、一部家臣の増長を促した。
その後は信濃進出を繰り返すが、遅々として進まず、上田原などで度々大敗。
何とか信濃の大部分を制圧するも、越後の上杉に先を阻まれ、
20年以上の歳月をかけながら、結局信濃全域を制圧することはかなわなかった。
上杉手強しと見た信玄は南に目を向け、弱体化した今川家との同盟を一方的に破棄し、駿河を併合。
義に反すると、この暴挙を諌めた嫡男義信を幽閉。後に自殺させている。
その後、西で急速に力をつけた織田家に危機感を持った信玄は上洛を決意。
三方ヶ原で徳川を破るも、その陣中で没した。
その後、武田家は増長した家臣たちにより内部分裂、瓦解する。
まだ名将っぽい
「信虎を追放する」ってところとか「あきれて信虎は出て行った」
にするとかもっと徹底的にやってほしい
>>29 「あきれて信虎は出て行った」って、廃すれば済むのに信虎がわけがわからん。
「組みやすしと見た家臣達が信虎を追放し信玄を奉りあげられる」くらいでどうだ?
じゃあこんな感じで
【武田信玄】
甲信越地方のローカル武将。
人生の大半をかけた信濃制圧を、越後の上杉謙信に阻まれ、結局あきらめる。
晩年になり、上洛を夢見て東海道を進むも、結局その途中で死亡。
後継ぎを明確にせず、5年間は自分の死を隠せという意味不明の遺言のため、結局武田家は滅びた。
父親を追放したり、嫡男を自殺に追い込んだり、同盟を一方的に破棄するなど、
その人格を疑ってしまうような非道っぷりは有名である。
>>29 呆れて出て行くという選択肢が凡夫そのものだよなw
33 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 00:36:36
>>31 何も知らん人が見たらただの暴君に見えるな。
事実を曲げずにここまで書くってのはたいしたもんだ。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 01:00:52
【上杉謙信】
権威欲しさに、先祖代々の姓をあっさりと捨てた不義理な武将。
いくさには強いが、領土の経営能力はまったく無く、死ぬまで意味の無い争いを続けた。
後継者作りに興味が無いばかりか、いきなり北条と同盟するなど戦略にも一貫性がなく、
家臣達を困惑させた。
最後は厠で倒れるという、彼に相応しい死に様だった。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 01:20:16
【一条兼定】
欲無き義に篤き武将。
祖父の代から目をかけてきた長宗我部家に土佐を与えた。
その後、自分が生きていては長宗我部家の邪魔になると考え、
自殺的な戦いを起こし、長宗我部元親に敗れる。
戦いの後、長宗我部方の刺客がくると自ら首を差し出し死亡。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 01:48:17
【劉璋】
劉備の入蜀前益州を治めていた。
温厚な人物で、父のあとを継ぎ、蜀の地に戦乱を呼び寄せなかった。
そのため人民は豊かで、また漢中の張魯が攻めてきた時は民を守るため
張松を使者に曹操に援軍を求めた。しかし張松は曹操と関係を悪化させ、
劉備に入蜀の計を残していった。劉璋を深く慕う忠臣たちは張松を非難して劉備の入蜀を拒んだ。
しかし劉璋は寛大な心で張松を許し、劉備を同じ漢室の系統として蜀に招き入れた。
奸賊劉備はそれを好機に劉璋を攻め、蜀を乗っ取ろうとした。
劉璋の人柄に惚れこむ忠臣はことごとく死に、不忠の輩は自分の安全を確保するため速やかに降伏した。
劉備が西涼の馬超を招き入れ、民に暴威を振るっているのを見かねた劉璋は自分を人質に降伏。
残酷な劉備、孔明の輩は劉璋を荊州に追いやった。まさに民のために尽くした君主と言えよう。
【孟穫】
後漢末期の南蛮王。劉備死後の蜀主・劉禅の凡庸さを
誰よりも早く見破るなど智勇兼備をもって知られる。
高定・朱褒などと組み反乱を起こすも、自分の能力をひた隠しにし、
自分の部下達を活かすというまさにに理想の君主であった。
現代で例えるなら自分の上司にしたいNO.1な人物だが、
忠義も理想もなにもない凡将は頭の切れすぎる孟穫に恐れを抱き、
凡庸な蜀主劉禅の方を選んでしまう。それにより孔明の南征軍に対し
7度捕らえられるという一世一代の演技を行うも、その影で
今後の治世に邪魔になりそうな周りの南蛮王を孔明に殺させたり、
自分に忠義を尽くす部下を選りすぐるなどの深謀遠慮を武器に南蛮王の
地位を確固たる物にする。義に厚い彼はそこまで付き合ってくれた
孔明に恩義を感じ、まさに今後は沈みゆく太陽のごとき蜀漢であったが
色々な面で蜀漢を助けた。物資・人口で三国中最低の蜀が魏と互角以上に戦い
呉と対等の同盟を結べたのは、まさに伝説の南蛮王・孟穫のお陰である。
かのチンギス・ハーンも世に大王と呼べるのは…余と孟穫だけだと
言ったとか言ってないとか。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 01:58:22
>奸賊劉備
ワロタ
【諸葛亮】
字は孔明。自尊心が高く、人を馬鹿にする事を生甲斐とする。
自らの才能を誇張する面があり、高望みをする余り時代に取り残され、
結局27歳で劉備に拾ってもらうまでは就職する事ができなかった。
その際、せっかく向こうから赴いてきた劉備に対し昼寝で無視するなど、
品行に関しても無礼極まりなく、結局は劉備直々による三度に渡る説得により、
渋々仕官したという。これは日本でも「仏の顔も三度まで」と言われるように、
中国では「三顧の礼」として劉備の寛容さと、諸葛亮の無礼さを描く逸話として残っている。
そうこうして、やっと社会に出た諸葛亮であったが、
当然そのような性格では部下に恵まれず、また戦下手であることも影響して、
出仕当時は彼の命令を聞くものは誰もいなかった。
だが、劉備からだけは絶大な信頼を得ていたため、彼と交わりを深めることで、
一気に軍師へと登り詰める。その後は、権力を利用して呉を騙したり、益州戦役を提案し、
「仁義に背く」と嫌がる劉備を無視して、蜀の地を奪い取った。
劉備死後、彼は皇帝の劉禅を差し置き、ますますその権力を独占し、
度重なる独裁的な北伐を敢行した。結果的に、この北伐が蜀の国力を衰えさせ、
滅亡に導いたとされている。彼は北伐の際にも、密かに恨んでいた仲間の魏延を
策と見せかけて焼き殺そうとするなど、その心の邪悪ぶりを発揮し、
その後、いい加減飽きてきた5度目の北伐中に死亡。享年54歳。
彼の死に、蜀の忠臣黄皓は心から安堵したという。
>>38 禿ワロタww
特にここ
>義に厚い彼はそこまで付き合ってくれた 孔明に恩義を感じ
42 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 02:35:36
>>40 なんかニートみたいな孔明だ。邪悪な野郎だ
>>38 >劉禅の凡庸さを
>誰よりも早く見破るなど智勇兼備をもって知られる。
禿げ藁w誰でも見破るっつーの
最高
すげー、どれも価値観ひっくり返るわw
【刑道栄】
字は不明。親しい人にしか教えなかったらしい。零陵の太守劉度に仕える。
六十斤の大まさかりを振るって近隣諸国を脅かした。あの曹操や孫権も
彼が健在であった当時はあえて荊州に兵を向けなかったという。
赤壁以後、零陵に劉備軍が侵攻して来た時に人生の転機を悟る。
仁君の噂高い劉備の配下として漢室復興の礎たらんと欲し、
己より遥かに技量劣る張飛・趙雲らに屈してその虜となる。
しかし、他の降将のように暖かく陣営に迎えられると思いきや、
「おお 刑道栄を捕らえたか 斬れっ」なる劉備の無慈悲な一言に愕然とする。
純真な刑道栄の胸は張り裂けた。深い失望と共に、この男こそ漢の賊臣と
悟った彼は必死の命乞いを試みて零陵城に逃れ去る。
無論その後戦死した刑道栄は影武者である。流浪の果て、彼は
何と呉の陸遜のもとに身を寄せて打倒劉備に命を燃やす。
荊州占領、夷陵の大勝の裏には木こりに身をやつし間諜として
暗躍した刑道栄の姿があった。
ついに白帝城で劉備が憤死した噂を聞いた彼は、その後、魏の高名な
将軍徐晃の斧術指南役として迎えられ安楽な余生を送ったという。
【劉備】
字は玄徳。120人も子を残したという前漢第六代皇帝景帝の子・中山靖王劉勝の
末裔を詐称した稀代の詐欺師。
また、義弟関羽に長い髭を蓄えさせ、自らの長い耳、長い手などの容貌と併せて
相手に神秘的な印象を与えるという手段で、後継者選びに悩む陶謙・呂布・曹操・
袁紹・劉表らの元を歴訪し、弁舌巧みに自らを後継にするよう説いて回った。
しかし、その企みは、曹操、袁紹には見抜かれて放逐され、陶謙、劉表は騙せた
ものの姦雄劉備の企みに気付いた漢の忠臣・曹操に攻め滅ぼされてしまい、
ことごとく失敗に終わった。
その後、悪徳軍師・諸葛亮と手を組んだ劉備軍は、孫権を唆して曹操と戦わせ、
戦後の混乱に乗じて荊州を占拠し、また戦果も自軍の功績と吹聴して回った。
さらに、漢の忠臣・曹操が天下を狙っているとの流言を広め、民を思う名君と
言われた劉璋を騙し、益州を併合した。さらに、220年に曹操の子曹丕が後漢の
献帝から帝位の禅譲を受けたとき、劉備は献帝が謀殺されたとの虚報を流し、
伝国の玉璽を偽造して221年に漢の皇帝を僭称した。
続いて、劉備は呉に戦いを挑むが、劉備に騙された恨みを晴らさんとする呉軍の
反撃の前に惨敗し、白帝城において詐欺師にふさわしい哀れな最後を迎えた。
【楊松】
五斗米道の教主・張魯配下。清廉潔白の臣で張魯陣営の軍師に任命される。
状況把握に優れた人物であった。馬超反乱の際は傍観を決め込み
馬超が敗れるとそれを保護し曹操を牽制し、劉璋を攻めると見せかけた。
しかしそれにより、劉備が蜀征圧に乗り出すと劉璋に恩を売る為、
今度は馬超を出陣させる。どっちが勝っても恩を売るという一石二鳥な
策略は張魯も舌を巻いたという。
劉備から朝貢という形で収めさせると対曹操戦で降伏時に一番の障害になる
と思われる馬超・馬岱軍を切り離すなど先見の明に優れていた。
自軍より曹操軍が優れているのはとっくの昔に看破していたので、
馬超がいると何かとめんどくさいので劉備に恩を売ったのである。
しかもホウ徳は毒を盛り手元に置いておき今後の馬超対策にも万全の構え。
その証拠に彼(楊松)が生存中は劉備は張魯を攻めなかった。
しかし遂に彼の読み通り曹操が攻めてきた際は主君・張魯を少しでもいい条件
で降伏させる事に全神経を注ぎ見事にそれに応えた。
城を明け渡す際、食糧庫や宝物庫を焼き払わずそのままにしておくなど
功績が認められ主君・張魯は列候に封ぜられた。
楊松も曹操陣営で今までは一端しか披露していない軍略・知略を天下の為に
使えると思っていたが、自分の元で甘い汁を吸っていた閻圃に讒言され
曹操も楊松の機知の凄さに恐怖すら抱いていたので、有無を言わさず市中にて
斬首された。
彼に関しては正史と演義ではここまで評価に差があるのかとは言わざるを得ない。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 07:51:16
姦雄劉備ってなんかエロそう
【伊達政宗】
東北地方の小大名。後の仙台藩主。
保身のために父親・弟を殺害し、母親を追放するなど、肉親の情など
感じさせない凶行を繰り返す。
民に対してもその冷血ぶりは遺憾なく発揮されており、城の住民を
女子供ふくめことごとく撫で切りにしたことは有名。
他にも、秀吉の飼っていた猿を密かに持ち出し鞭で打ち据える、
秀吉に旧芦名の所領を没収された腹いせに一揆を扇動したなど、
その陰湿さは戦国大名でも類を見ない。
だがそんな政宗の人生は、不運と裏目に色彩られたものであった。
子供の時には病気で片目を失い、父親は拉致されそうになり自らの手で
殺さざるをえず、母親には毒を盛られて、ために弟を殺さざるを得なくなり、
滅ぼした芦名の領土は没収され、一揆を扇動すればばれて処刑されそうに
なり、豊臣秀次や大久保長安などに謀叛の疑いが掛かったときには
関与を疑われ、支倉常長をローマに派遣したものの得るところもなく、
さらに関ヶ原の戦いの折に百万石のお墨付きを家康からもらったものの
その約束は反故されるなど、およそ物事がうまくいった試しなどない。
大坂の陣にて行われた香合わせの際の事。景品として、政宗は自分の
馬の飾りのひょうたんを賭けたのであるが、何を勘違いされたのか
馬ごと持って行かれてしまった。
まさか景品がひょうたんだけだったとは言い出せなかったのか、
「ほら、ことわざ通り、ひょうたんから駒が出たぞよ」と負け惜しみを
吐き、馬を渡さざる得なかったいうことである。
【劉安】
呂布の攻撃を受けて、今にも倒れそうな劉備に肉をご馳走した男。
彼がいなければ、今日まで語り継がれる劉備伝説は無かったかもしれない・・・
51 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 14:11:06
52 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 14:30:28
【徳川家康】
日本の文明化を250年停滞させた江戸幕府創始者。幼年、織田、今川家など
人質の漂流時代を送り、桶狭間の合戦を機に今川家から火事場泥棒の様な真似をし
勝手に独立。その後大名ながらも織田信長に家臣同然の扱いを受け、特に武田信玄の
上洛による三方ヶ原合戦では衝突は避けられたものの、自ら無謀な戦を仕掛け
散々な目に合い、結果うんこ漏らす。本能寺の変では信長後継者の最有力候補と
されていたが、この時堺見物に耽っており農民出身の羽柴(豊臣)秀吉に明智光秀を
討たれ、元農民の傘下に入る。秀吉死後、やはり元の性質は変わっていない様で
今度は天下を掠め取り江戸幕府を開く。晩年、大阪の陣では圧倒的な勝利だと
思われたが真田雪村に追い詰められ、逃亡。ちなみにこの時もうんこ漏らしたと
思われる。
【上杉謙信】
越後(現新潟)の眠れる獅子 ほとんど眠ってた
義の人・ホモ・宗教好き
54 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 16:19:34
>>47 むっちゃホントっぽく書いてあるからびびったw
【上杉憲政】
関東管領、長野業正・上泉信綱らの名将を配下にもつ。
周囲で勢力拡大著しい武田氏や北条氏の侵攻をたびたび撃退した。
しかし1546年の敗北を機にその力は徐々に衰退。
臣下が次々と離反する中、忠臣長野業正らとともに上野国を死守、
しかし1552年には善戦むなしく越後の長尾家に身を寄せる。
ここで憲政は己の非力を嘆き、長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲渡する。
『鉄砲の音を聞くと頭痛をおこした』という逸話があるように、
戦乱には向かないタイプであったようだ。
しかしそれでも戦乱に身を投じたのは、
関東管領という職務への責任感からだったのか。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 17:04:28
>>55 その説明じゃ名将なのか凡将なのか全くわからん
57 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 17:23:00
58 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 17:45:29
59 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 17:52:42
このスレ以前あった「誤解をまねくような人物紹介をするスレ」と似てるな。
dat落ちしちゃったけど。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 20:42:07
【司馬懿】
字は仲達。河内の人で世界史上最も幸運な男として後世名を轟かす。
始め曹操に仕え曹操の参謀として漢中戦に従軍するも特に献策もなく
ただ付いて行くのみであった。漢中制圧後に『これを機会に蜀に攻め入るべき』
と初めての策が誰にでも思いつく策であったのは有名な話。
これはあまりにも下策であった為、曹操に却下される。
曹操亡き後は曹丕に仕え、劉備亡き後の五路攻撃を献策するも大失敗に
終わり西涼という僻地に追いやられ、あげくに蜀の馬謖の如き小物の
策に陥り失脚してしまう。しかしその後の彼はツキにツキまくっていた。
自身を失脚させた曹丕が亡くなると日頃仲のよかった鐘繇の進言により官職復帰。
孟達が謀反を起こすも身内に騙され勝手に自滅するも司馬懿の成果として宣伝し、
街亭の戦いでは馬謖も勝手に自滅し孔明の空城の計に陥り孔明を取り逃がすも
曹叡には蜀を追い払いましたと何食わぬ顔で報告し魏での彼の立場は磐石となる。
その後も彼の運はツキまくる。曹一族の重鎮・曹真が病で亡くなり軍権が転がり込む。
呉は蜀より手強いので孔明の強さを必要以上に凄いという事にし自身は蜀方面の
司令官として戦うも、自身の無能さのおかげで焼き殺されそうになったり、
女装しろまで言われるもツキを頼りに何とか長安を死守する事に成功。
その後、孔明が亡くなった事を知ると弱いものイジメをするが如く
蜀を追撃するが孔明の木像を見てビックリし逃走し己の無能さを露呈してしまう。
しかし彼にあって孔明にないものは唯一幸運だけであった。
それは今で例えると毎年年末ジャンボ一等を取るぐらいのツキが彼にはあった。
遼東の公孫淵が反乱を起こすと襄平を囲み攻め方を思案している間、結果兵糧攻め
となり公孫淵が逃亡を図りまたも勝手に自滅。その間暴君と化した曹叡が亡くなるなど
老いてますます幸運度に拍車がかかり手に負えない感じになってくる。
その後は彼の実力を予想以上に評価していた曹叡に後事を託されるなど、絶頂期を
体現する。しかし頭が弱いので曹爽一派に実権を握られるなど墓穴を掘ったが
これも向こう側が勝手に自滅し、結果としてクーデターを起こしてないのに
クーデター成功という幸運で晋王朝の基礎をいつの間にか作っていた幸運の凡将。
も
【曹操】
字は孟徳。宦官の孫で長頭短身。おまけに女好きで冷酷無比ときた、救えない男。
祖父の曹騰、父の曹嵩という家系と、名門の出である袁紹を後ろ盾に頭角を現す。
だが天子を擁立し、ある程度を力をつけると旧友であった袁紹をバッサリ処分。
彼の部下を裏切らせ、息子たちも処刑させると言った非道な手口で中原を制圧した。
また、「自分に甘く他人に厳しい」の典型と言ってもいい人で、
使えなくなった部下に、空箱を送りつけて死を宣告したり、
北方へ無理な従軍をさせて、軍師を死なせるなど割と酷いことをしている。
そのくせに、自分が窮地に陥った際は、赤いほっかむりをかぶって、
味方を置き去りにして一目散に逃げるといった小心者であった。
このような男が何故一国を持てたのかは不思議極まりないことだが、
これも一重に有能な部下たちの必死の働きのおかげだろう。
彼は天子より九錫を賜った後、病に倒れて静かにこの世を去った。
(せっかく治しにやってきた医者を処刑する馬鹿っぷりは健在)
彼は他にも、自らの兵法書も出版したりしてみたが、
その正体はパクりまくりの写しまくりで、早速出版社からボツを言い渡された。
結局自分で自分の作品を焼き払ってしまった、かわいそうな男である。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 00:24:06
>>61 そう言われるとホントに司馬懿が幸運の凡将に見えるw
>>63 最初の一行目だけで駄目人間の象徴が良く出てるな
65 :
1/2:05/02/11 01:48:34
【小早川秀秋】
〜戦国末期の動乱に翻弄された悲劇の青年武将〜
慶長の役では総大将に任じられ、十六万の軍勢を率いて出陣。
渡海すると軍勢を一気に釜山に進め、秀秋は釜山浦城に本陣を置いて各方面に指示を出していた。
しかし、慶長3(1598)年正月、加藤清正らが籠もる蔚山城が
明の大軍に包囲されたことを知った秀秋は、自ら軍勢を率いてその救援に向かい、
敵陣に突入して自ら十三人の敵兵を討ち取る奮戦ぶりを見せ、蔚山城を救出することに成功。
この働きのうわさは朝鮮侵攻の諸将の間にすぐに広まり、
「武将・小早川秀秋」の人気は大変高まった。
秀吉はこの報告を聞くとはじめは大変喜ぶが、成り上がりを目論む石田三成の讒言によって、
秀吉から「総大将自らが敵陣に斬り込むなど総大将にあるまじき軽率な行動である」
として大変な叱責を受けた上、筑前名島城も改易。
越前国北ノ庄城十二万石に転封が命じられた。
しかし秀吉の死によって秀俊の転封は取り消され、五大老筆頭である徳川家康が
秀秋の旧領を復するよう働きかけ、慶長4(1599)年2月、秀秋は筑前名島を復帰。
前知行の三十六万石には及ばないものの、筑前・筑後など三十三万六千石が戻された。
66 :
2/2:05/02/11 01:49:17
慶長5(1600)年、家康は上杉景勝が謀反を企てているとして、
自ら軍勢を率いて京都を離れて陸奥国会津に向かい、その隙に石田三成が挙兵した。
秀秋は憎むべき三成方に属しているが、
これは家康が留守の間に突然石田三成に挙兵されるという、急遽な状況であったためである。
秀秋は、鳥居元忠の守る伏見城攻めの総大将として出陣し、島津義弘とともに猛攻をかけて
8月1日、内応者に放火させて攻め落とした。
関が原での本戦では西軍に属して、
9月14日、東軍を囲む一翼である松尾山の山上に一万五千の軍勢で着陣した。
秀秋は先に大変な恩義のあった家康に呼応して松尾山を駆け下り、西軍の重鎮・大谷吉隆隊と合戦。
秀吉から絶賛された名将・大谷吉隆(刑部少輔)もついに討死を遂げた。
関が原の戦いののち、秀秋は戦功として宇喜多秀家の旧領であった備前国ほか
五十万石の大封を与えられ、岡山城に入った。
彼は城下町の建設整備に力を入れ、また農村に対しても検地を実施するなど、
民政に様々な実績をあげている。
しかし彼はこれからという時の慶長7(1602)年10月18日、
二十一歳の若さで頓死してしまう。これにより小早川の家名は失われる。
心優しい彼は豊臣を裏切ったことを苦しみ、早くに自らの死に場所を求めていたのかもしれない。
>>65 惜しい!もうちょっと秀秋が関ヶ原前後のエピソードを
もう少し上手く誇張していれば名将だったのにw
68 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 02:08:37
文章がおかしかった スマン orz
訂正
もうちょい関ヶ原前後のエピソードで上手く
優秀さを誇張していれば名将だったのにw
文盲は俺だったよw
>>65-66 三国志しか知らない俺が読むと普通に名将に見えるな。
こいつは本当に凡将だったのか?
71 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 02:29:17
若さゆえのだよ。
俺だったら例えばだけど、
↓
9月14日、東軍を囲む一翼である松尾山の山上に一万五千の軍勢で着陣した。
豊臣家に巣食う奸臣三成を討つ為、秀秋の心は既に家康帰順と決まっていた。
しかしなかなか動かない名将・秀秋に向って凡人家康は約定通り動かない秀秋の陣に
向けて鉄砲を打ち込むなどしたが策士でもある秀秋は己の感性を信じて動かなかった。
実は秀秋は西軍総大将・三成を完膚なきまでに打ち破るタイミングを計り、
ついにここぞという時に松尾山を駆け下り大谷隊を完膚なきまでに破った。
かくして戦国屈指の名将・大谷刑部も己の能力の限界を悟り、名将・秀秋に感服しながら
討ち死にしたのである。
偉そうな事言ってゴメンよ。俺もあんまり文才ないわw
関が原では、秀忠本隊の東北での足止めという大誤算が生まれ
西軍では、宇喜多秀家隊らの活躍により当初の大方の予想を覆して東軍は大苦戦を強いられていた。
もはや家康の命運は尽きたかに見え、雄叫びのごとく大砲が大軍・小早川隊の陣に向けて放たれた。
――― しかしその時、山が動いた ―――
このまま西軍側にあれば、関白の座に出世し、大大名の道も辿れたかもしれなかった秀秋。
しかし秀吉に疎んじ捨てられ、表舞台から退けられていたわが身を家康が救ってくれたのは
わずか一年前のことである。
そのままに、大恩ある老将の瓦解を座して待つ・・・
自らの地位まで捨て味方を救った、心優しき勇将・秀秋の心が耐えられなかった事は想像に難くない。
15,000もの大軍を率いる秀秋の呼応により、
日本史に残る大合戦・関が原の戦いは大きく結末に向けて動くのであった。
それと同時に、秀秋の思いは戦国の無常を嘆き、遁世の方向へと進む道を歩み始めるのであった・・・
参考/小早川秀秋(蒼天録)・・・
ttp://www.tcn.ne.jp/~zero/z_icon-kao/kao8/hideaki8.jpg
秀秋は恨み買ってる感が強いので本当に凡将かどうかワカンネ
75 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 09:30:36
ってか実際悪く評価されてるでしょ。全能力50〜60くらいは
あってもいいとおもう
76 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 10:01:20
/::ヽ
|;;:::::|
|;;:::::|
|;;::::|
_ヽ::/____
[;;;;;;;;;:::::::::::;;;;;]
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
// 秀秋 \
/j/ ヾ、
l::||:::: |l
|::||:::::::.. (●) (●) || キター!
|::||::::::::::::: U\___/ || 遂に再評価 キター!!
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ 良スレage!!!
/\ ̄`ー―---oo-――'"ヽ
大ちゃんもういいかげんうんざり
浅井長政の名将評価と凡将評価きぼん
【浅井長政】
北近江の領主。関わる者は皆滅亡という死神領主として有名。
まず六角氏から娶った妻を否応なく犯しまくる。飽きたので妻を無理やり
六角氏に送り返す。その間、父を脅し半ば強引に家督を奪うと六角家の内紛に乗じ
火事場泥棒的に領土微増させる。
その後信長から同盟の話がありここでも信長の弱みに付け込み嫌がるお市を
要求するという非道ぶり発揮し信長も渋々了承し織田・浅井同盟を結ぶ。
しかし信長が朝倉家を攻めると、かねてより美濃・尾張を労せず得たいと
思っていた長政は、自領内を通り奥深く攻め込み逃げ場は無いという時に
信長を闇討ちに近い形で裏切る。そして金ヶ崎に兵を進めるが肝心な信長に
逃げられるという戦国史上類を見ない戦下手を露呈してしまう。
姉川の合戦にて磯野員正が奮戦するが朝倉が破れると員正を放置。
大惨敗の責任を朝倉方に転化する。その後佐和山城を信長に攻められ援軍を
要請されるが見殺しにし、城主の母を殺し遂に佐和山城主・磯野員正に寝返られる。
喉元の佐和山城を失った浅井長政は稀代の英雄・織田信長に本拠地小谷城
を包囲されお市を用無しとばかりに城から追い出し、己の非道を自慢しながら
自害し名門浅井家を滅亡に導いた張本人。しかもその血脈は秀吉の側室お淀にも宿り
豊臣家滅亡まで演出するというおまけぶり。
まさに百害あって一利無しを地で行くどうしようもない家系であった。
なお、浅井親子の轆轤首は頭蓋骨に金箔を塗られ酒の肴にされるという
戦国史上類を見ないダメ親子として後世に名を刻んだ。
古河公方足利藤氏義氏、武衛斯波義銀、三河守護吉良義昭・・・
彼らの名将っぷりが知りたい。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 17:15:45
≫79 ワロス
実際長政って凡将なのか?微妙だよな
【孫策】
玉璽を私物化した逆賊孫堅の長子。
彼もまた玉璽を朝廷に返却する意思はなく
袁術に兵3000と交換してしまった逆賊
叔父を救うと称し、江南を荒しまわった。
軍才だけは優れていたため
江南を制圧し孫呉の基盤を作る。
総指揮官でありながら一騎打ちを行うなどの無思慮な人物で
護衛を付けずに刺客に襲われ重傷を負ったり
家臣、領民、実母などに諌められても徳のある仙人を斬る等
器の小ささを天下に示し続けたため
領民からは武力に優れるだけの小人の意味を込め
「小覇王」と侮蔑されていた
84 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 17:44:58
小早川秀秋も元々、過小評価の歴史人物NO,1の感が否めなかったからなあ。
「罪人秀次の義理の弟」という死に体から、まだ20歳前後の秀吉死後わずか2年で50万石まで復活したのは
なかなかできる政治技ではないぞ。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 18:53:10
このスレ最高っすね
【劉備】
三国時代を築いた稀代の凡帝。
元は幽州楼桑村で筵を織って暮らす貧民であった。
母に茶をかって帰るなど親孝行ではあった様だが
先祖代々の名剣を張飛のような野蛮者に渡すなど
先祖への恩はあまり感じていなかったようである。
容姿も耳は大きく腕が長く、妖怪そのものである。
関羽、張飛の二人の野蛮人と義兄弟の契りを結び
無謀にも義勇軍を結成して黄巾賊と戦う。
名将朱儁将軍の足を引っ張ると思われたが
持ち前の奇跡的な強運で黄巾賊との戦いを乗り越えた。
安喜県の県尉になるが督郵を理由もなく痛めつけた張飛を咎めずに関羽、張飛と逃亡する。
俺はここまでしか書けん。誰か続きを頼む。
>>86 悪くないが、日本と違い多くの国では
耳がデカイとか指が6本とか逆に4本とかの
いわいる奇形は特別な人、非凡の証として崇拝対象になる
【周瑜】
>>83の孫策の義弟。嫉妬深い無能の人。
年少時から孫策とともに見境なく江南を荒しまわる。
孫策との関係を「断金の交」などと評価する向きも以前にはあったが、
近年では、互いに弱味を握られていて離れられなかっただけという学説が一般的になりつつある。
当時の基準からみて容姿だけは優れているとされたため、
江南の人々は、彼を「美周朗」(見栄えだけは麗しい周の香具師)と陰で呼んだ。
とある宴会にて、演奏の音色が半音だけずれたのを理由に楽隊を難詰したことは、
彼の狭量ぶりを示す逸話として後世に語られている。
孫策が軍才頼みで江南を制圧して以降、周瑜は孫策の軍師といった存在になる。
もっとも、それは、孫策の年少時から従っていたことが重視された結果であった。
軍師としての周瑜の評価は、孫策配下・程普が以下の意味のような言葉を残している。
「周瑜殿との面会は、まるで芳醇な酒を飲んだ時のようだ」
(容姿だけはいいため、その場限りでは酔わされてしまうが、あとで強烈な二日酔いと似た嫌悪感がこみ上げてくる)
孫呉が劉備と同盟して曹操と対戦した時、周瑜は戦そっちのけで諸葛亮(劉備配下の詐欺師軍師)の能力にひたすら嫉妬。
嫉妬のあまり病気にかかり、36歳で急死した。
きらびやかな才能が輩出された三国時代において、功績を残さぬままの彼の頓死は、自身の無能ぶりをあからさまに示している。
【真田信繁(幸村)】
真田昌幸の次男。
関が原の大戦が起こったとき、兄信之は一家の主としての器を
既に備えていたため父も独自行動を許したが、
この次男に対しては心もとなく思い手元に置いた。
敗戦後高野山に配流、家康もこの男の存在を忘れていたため切腹の沙汰もなく、
かといって親類が赦免嘆願するほどの人望もなかったので10年以上放置され、
のちに大坂入城のため山を抜けたときは誰も気が付かなかったという。
大坂城では「敵方の本家に寝返ってくれ」とばかりに最前線の一廓に配置されたが、
高野山時代と同様に放置された。
夏の陣では旧臣たちの奮戦により意外に善戦し、徳川方を少し驚かせたが、
結局名もない武士に討ち取られて生涯を終えた。
小身の割には大名達の間でかなり嫌われていたらしく、晒された死体の毛を剃って
辱める武将が後を絶たなかったという。
話は戻るが、夏の陣での真田勢はこの男の指揮にしては手強かった、という驚きから
真田の陣には影武者がいたという伝承になり、二人や三人でがかりで補佐しても
足るまい、という点からだんだん話が大きくなって『真田十勇士』などという講談が生まれた。
また、参陣した他家の武将が、愚将に黙々と従って討死した家士を悼んで
「真田の兵は日本一」と評した言葉も後世に伝えられている。
じゃあ
>>79とは逆に名将評価をしてみる。
【浅井長政】
1560年、家臣たちの支持を得て家督を相続。
相続と同時にそれまで従属していた六角義賢からの独立をはかる。
そのため、それまでの名「賢政」の「賢」を捨て、「長政」を名乗った。
激怒した義賢は斎藤氏と連合して北近江を攻めたが、長政はこれを退ける。
その後長政は朝倉家と同盟、後顧の憂いを絶つ。
また内政面でも北近江を安定させ、満を持して南近江へと勢力を拡大させた。
その有能な若武者ぶりが信長の目にとまり、信長の妹お市を正室に娶る。
その後は信長の上洛を助けたり、共に六角家を攻めるなど、織田家躍進に大いに助力した。
しかし1570年、織田が朝倉を攻めると、長政は両者の板ばさみとなり苦しむ。
結局は「朝倉には先祖代々からの恩がある」との言葉に心を動かし、朝倉に組することを決断した。
朝倉と連合した長政は信長を撃破。すんでの所まで信長を追い詰める。
その後、体勢を立て直した織田軍と姉川で決戦。
動きのにぶい朝倉軍を尻目に奮戦したが、結局は敗北してしまう。
その後は織田軍の執着的な猛攻を受けた。
家臣たちが次々と離反してゆく中、孤軍奮闘しこれをよく守った。
しかし、1573年に朝倉氏が陥落し、万事休す。小谷落城に殉じて自刃した。
長政は死去するが、お市の方との間に産まれた3人の娘は、
それぞれ豊臣秀吉、京極高次、徳川秀忠へと嫁ぎ、浅井の血脈は受け継がれた。
【仁科盛信】
信玄の息子。高遠城主。1582年、周囲の勢力が武田を見限り、平和的に国を信長に
譲ろうと降伏するなか、己の意地のために逃亡も降伏も許さず家来・兵卒全てを巻き
込んで玉砕戦に引きずり込んだ。攻め手の織田信忠は人死を嫌い、死者を送って丁重
に「名誉ある降伏」を奨めたが、すでに自暴自棄になっていた盛信は城主としての務め
も忘れて徹底抗戦を唱え、使者を追い返した。大口は叩いても、総攻撃が始まれば
策も手立てもなく、結局一日で落城した。
私的な感情で兵卒やその家族も巻き込んだ点は人の上に立つ者としては誉められる事
ではない。また抗戦を主張しておきながら防衛の策もなかったというのは武将として
無責任極まりない。彼の死は、多くの人の命を道連れにしながら、武田の滅亡に全く
影響を及ぼさなかった。
まさに、武田の滅亡を象徴する愚劣な人物であった。
実際、長野業正のように城を守りきったわけでもなく、高橋紹雲のように長期抵抗
することで戦局の転回をもたらしたわけでもない。なんでゲームで高評価されている
のかわからん(少なくとも、能力を評価できるほどの功績はない)。
>>91 まあ、言われてみりゃそうだな
武田家一門に最後まで裏切らなかったってだけでなんとなく納得してたが
93 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 21:57:50
しかし凡将っぷりが凄いなw
今後の歴史考察も考えさせられる厨っぷりがGJ!
漏れ的には
>>38の孟獲の良将ぶりにワロタw
【真田大助】
真田幸村の長男。大坂夏の陣では大阪城に籠城。
大阪城の落城が濃厚となると脱出を勧められるが、
あえてそれを拒み、カマボコデブと運命を共にする。
若干14歳であったため、判断力がなかったのだろう。
【真田十勇士】
後世の講談師によって作られた妄想の産物。
【公孫淵】
公孫康の次男である。
父、公孫康が死んだ時、彼は幼かったため、叔父である公孫恭が実権を握ることとなった。
しかし、叔父公孫恭は遼東に引きこもり、散々魏に媚び続けるという惰弱な政略を採っていた。
これではいけない、自決するべきであると考えた公孫淵は機を見て公孫恭から政権を奪い取ることに成功する。
ようやく自立した公孫淵は数年自決するだけの国力を蓄えることに専念する。
魏と決別するため呉と結ぼうとして、さらに孫権もそれに乗り気であったが、張昭の反論を始め、呉の臣に反発があることを知ると、
国論の二分はこちらにとっても益無しと見た公孫淵は呉と決別を決意する。
しばらくは魏の元で苦渋を舐めることを決め、しばし力を蓄える。
そして、西暦236年。いよいよ機と見た公孫淵は紹漢元年と元号を定め、燕王と称し、魏に反抗の意をあらわにする。
それを鎮圧するために向かった毋丘倹を一蹴し、ますます勢い盛んとなった。
また魏に媚び続けようとする佞臣倫直らを果断に死刑に処し、結束を固めた。
だが、ここで運命は彼を見捨てることとなる。
>>61にある司馬懿が討伐に向かってくることとなった。
司馬懿の強運により、味方の将は討たれてゆく。
最後は包囲網を突破しようと奮戦したが無念にもここで捕まり、親子共々司馬懿に死刑に処された。
彼の理想である魏からの辺境の民族自立という物はとうとう果てたのであった。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 22:45:41
【筒井順慶】
大和の大名。先見性に富んだ人物。
家督を継いだ頃には、すでに三好勢力が領内を侵食していた。家臣を糾合してこれに抵抗するも、松永弾正の非道な手口で城を奪われる。
その後、織田信長の天下をいち早く予見し、これに接近して大和国主の地位を得た。織田家の出世頭だった明智光秀をてなづけ、松永を牽制するなど政治力にも定評がある。
本能寺の変が起こると、羽柴秀吉の大返しをも予測。光秀には脅迫に近い出兵要請を受けたが、断固拒否。秀吉の称賛を受けた。
【劉備】
字は玄徳。羅貫中によって誇張された凡愚。
演義でこそ主役級の扱いを受けているが、やっている事は姦族そのものである。
また、身分も低く、容姿も醜かったとされている。みんな、騙されるな!
彼の行いといえば偽善的なものばかりで、己の保身のために数々の人物を裏切っている。
しかも彼に関わった者は全て不幸になるという折り紙付きの疫病神。
曹操然り呂布然り、袁紹然り孫権然り・・・とにかくその被害者は百にも及ぶ。
とにかく自分の命が一番で、長坂の戦いでは妻子を置いて逃げたりもした。
また、漢朝復興を大義としているが、実際は楽しい夜を過ごしたかっただけである。
諸葛亮という有能な部下を得て、ようやく益州に地盤を固めるが、
義弟の関羽が殺されたことで長い間押さえていた本性が爆発。
皆の反対を押し切って弔い合戦に出たところ、予想通りの大敗を喫して、
そのまま逃げ落ちた城で病死した。
彼がいなければ、三国はもっと平和だったに違いない。
【関羽】
奸雄劉備の子分その1。
美髯公と呼ばれるほど美しいヒゲの持ち主であった。
よほど日頃から髭の手入れに余念がなかったであろうことがうかがえる。
青年期から劉備に従い各地を転戦するが、いっこうにうだつが上がらない。
曹操に劉備が大敗し、城を落とされると曹操に仕えた。
ここで関羽は顔良をだまし討ちし、曹操軍の風評を下げるが
それでも曹操は関羽に名馬赤兎馬を与えるなど、大恩を施した。
しかしそれをあっさりと裏切って高飛び。新野に劉備らとひきこもる。
劉備が益州の乗っ取りにかかると、関羽は荊州に取り残された。
荊州は孫権に借りた土地であり、孫権がその返還話を持ってくると、
関羽は知ったこっちゃないとその話を無視。魏に特攻する。
しかしその遠征中、ガラ空きとなった荊州を孫権に制圧され、
あわてて荊州に戻るも、時すでに遅し。
劉封や孟達に援軍を頼み込むが、彼らにも見捨てられた。
それでも自害することはせず、必死に麦城から脱出を試みるが、あえなく戦死。
死後その首は、彼が裏切った曹操によって手厚く葬られたらしい。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 23:23:48
【朝倉義景】
名門朝倉家の最盛期を作り上げた朝倉家最期の名将。
若干一六歳の若さで家督を相続されながら、先代からの悩みの種である
越前各地での一向一騎を討伐、武田家内の御家騒動の際には自ら出兵
するなど義の将でもある。その事が幕府でも評価され、細川家の娘を
妻にされるなど、正に当時の日本においては有数の幕府補佐的大名の
一つであろう。その後、足利義輝公が松永久秀率いる軍に暗殺されると
真っ先に義輝公の弟、義秋公の保護の為に動くなどその忠臣ぶりには
目を見張る物がある。しかしその後越前一向一騎が再発してしまい、
将軍擁立に時間がかかることを知ると、短気な義昭公は織田家に助けを求めてしまい、
更にはその織田家からも見放され、結局は朝倉と織田の関係を悪化させるだけとなってしまった。
その後なんとか織田家との中を元に戻そうと遁走するが、一乗谷城討伐の兵を挙げられてしまった。
その際同盟者の浅井家と共闘し、姉川で奮戦するも、遭えなく敗退。オマケに後世の
歴史学者から浅井を裏切ったとするお墨付きまで塗られてしまった。
その最期は悲劇であり、一門衆でもある朝倉景鏡に斬られ絶命。
悲劇の名将朝倉義景、そして名門朝倉家の命火は消されたのであった。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 23:56:48
赤松則房
名軍師黒田官兵衛を臣下にもち
浦上家の権力に反抗できる勢力を持つも
民を考え甘んじて地方領主になった。
信長の中国攻めが始まると信長との戦いを避けるために
傘下に入った。赤松の傘下をきっかけに別所、小寺なども続々と降伏してきた
ことから、中国ではそれなりの領土を持っていたことを証明できる。
恒屋の裏切りによる襲撃も難なく撃退し、その軍略も評価できる。
また、羽柴秀吉に官兵衛を軍師として与えたことによって
秀吉の中国攻めを効率よくさせたという功績もある。
その後、秀吉に従い賎ヶ岳の戦い・四国征伐に出陣し軍功をあげ、
一万石の領地をもらう。
彼の代には赤松家は没落寸前だったがしぶとく生き残らせ
その血を確保することに成功した。
そして、寿命を迎え静かにこの世を去った。
>>95 「自決」の意味を取り違えている。
自決は自立することじゃなくて、自殺することだよ。
【董卓】
涼州の出身。若い頃から気風よく、腕も立ったため部下や異民族から慕われる。
斜陽の漢朝に仕官してからは、西域の反乱討伐などで大活躍。国家のために尽力する。
また太平道の乱では、いたずらな戦闘を避け、力を温存するという思慮深さも見せた。
そして何進が宦官誅滅を叫ぶと、すぐに駆けつける義の人でもあった。
彼は上京すると清流派官僚の期待を受け、大学者蔡ユウを重用し、
袁紹・曹操といった新進気鋭の若者の懐柔を進める。
また少帝の暗愚さを見抜き、漢朝の明日を憂えた彼は、将来有望な献帝を帝に据えた。
この功績により、董卓は漢の大功臣ショウ何以来、誰も就けなかった相国という地位に就く。
この躍進をねたむ各地の諸侯たちは、連合を組んで都に迫るが、これをよく退けた。
だが、敵の圧倒的物量の前に、劣勢となると長安遷都という大決断を下す。
空になった都は焼き払われたが、彼は事前に人民とその財産を脱出させるという気の細やかさも見せた。
そしてこの策が功を奏し、連合軍は自然瓦解。諸侯たちは互いに争いを始める。
やがて彼は献帝より帝位の禅譲を申し入れられたが、その寸前で養子であった呂布に討たれた。
裏切り者という呂布の性格を見抜きながら、それでも彼を重用してしまった甘さが命取りとなった。
董卓死後、その軍団は統率者を欠き、長安には殺戮と混乱が訪れる。
彼のカリスマ性が軍団を結束させていたのであり、
彼のいなくなった軍団は、ただの烏合の衆と化してしまったのである。
織田信長
奴は弾けた
曹操
奴はエロかった
豊臣秀頼をどうやったら名将のように説明できるのですか
孫権
奴は酒乱だった
劉備
奴は疫病神だった
徳川家康
奴は出腹の狸だった
110 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 01:07:22
「名将を凡将として説明する」レスばっかだと只のアンチスレじゃん
人を貶す方が褒め称えるより遥かに楽だと痛感する
【呂布】
字は奉先。後漢末期の漢朝の忠臣。誠を心の旗印にした最初の将軍。
後漢末期・十常時の何進暗殺のどさくさに紛れた董卓が少帝を廃立し
陳留王(献帝)を立てると知った呂布はそれに反対した養父・丁原を殺害。
暗愚な少帝より聡明な陳留王を擁立した方が漢朝にとって有益と考えた
結果であった。彼は漢朝こそが全てな男気あふれる男であった。
その功により名馬・赤兎馬を賜り逆賊・丁原死後は漢朝の正式な相国となった
董卓を父として慕ったが徐々に専横著しくなる董卓も除かねばならないと
感じた彼が採った策は同じ漢朝忠臣・王允と手を組む事であった。
その為には自分に好意を寄せていた貂蝉を王允の娘という事に仕立て上げ
董卓を骨抜きにするという漢朝の為なら自分が惚れた女をも捧げるという
古今東西類を見ない策略により油断した董卓をついに討ち取る事に成功。
董卓亡き後、王允と共に献帝を補佐するが董卓の残党に長安を包囲され
呂布も応戦したが呂布の武力をもってしても十万に及ぶ軍勢になす術なく敗れる。
この時漢朝復興の為に自分に足りない物を見つける為に東方へ旅に出て自分を磨く
のを常に忘れない謙虚さは彼の魅力の一つであった。
その証拠に彼の後には張遼・高順などの名将が彼の後を追うのである。
【呂布】のつづき
その後の彼は、乱世の姦雄と粋がっていた曹操は漢にとって危険分子との理由で
濮陽を攻める。曹操を見限り呂布に王佐の才ありと見抜いていた陳宮ら有力武将が
寝返り曹操を窮地に追いやるも紙一重で曹操に敗れ、漢室と縁のある劉備を頼る事と
なるが劉備に野心ありと気付いた彼は劉備を小沛に追いやり挙句に徐州を追放する。
漢の忠臣として当たり前の事を私心なしで行動起こす所が彼が忠臣たる所以である。
後世の史家は袁術に唆されたと非難するが呂布は既に見抜いていたのであった。
しかしその後の呂布に不運が襲う。長安で不遇を囲っていた献帝を迎えるはずが
逆賊曹操の手に落ち、逆賊に逆賊の汚名を着せられるという屈辱を味わってしまう。
しかし彼は冷静であった。彼は曹操など一蹴にする実力を持っていながらわざと
売国奴・陳珪親子の策に嵌ったフリをし曹操に降伏を申し出るのである。
曹操の懐に入り込み暗殺を行い、曹操の元にいる献帝を担ぎ漢を復興させるという
壮大な策略の為であった。漢室復興という大義の為、逆賊曹操に降ろうとする
姿に陳宮は罵りながらも感嘆し「彼の探し物は見付かった!」と心の中で叫びながら
絶命していくのあった。しかし、劉備は己の道とかぶる呂布に危機感を覚え
曹操に「丁原・董卓をお忘れか!?」と呂布を完璧に悪者にする事に成功する。
曹操も惜しみながら彼を斬る破目になる。かくして漢朝最後の忠臣・呂布は
刑場の露と消え漢王室はこれを境に没落していくのである。
『燕雀いづくんど鴻鵠の志を知らんや』呂布が劉備を罵る時に吐いた台詞。
何となく、「ゲーパラ」「歴パラ」を思い出すスレですな。
面白い。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 01:23:40
>105 〜109 ツマンネ
このすれ (・∀・)イイ!!
124 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 02:40:11
>>123 お前もネタ出せ
じゃなきゃアナルうpしろ
こいつ、キモイ
126 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 03:24:48
孫皓
若い頃から頭が良く品性良好な賢才ぶりを発揮し、なるべくして呉皇帝となる。
皇帝となった後も、民間から女子を招き宮女とするなど身分に関係のない人事をし、
また国庫の安定をはかり、壮大な宮殿を建設して呉の国威を大いに誇示した。
一方では逆らう者を容赦なく処断する決断力の強さもあり、
そして酒の席で周囲の者に不満を述べさせ、部下の人間関係の把握をはかる深慮さも持ち合わせていた。
だが彼の力量をもってしても、圧倒的軍事力を誇る晋の侵攻を食い止めることはできなかった。
これ以上、民を苦しめることはできないと、孫皓は晋への降伏を決断する。
孫皓の声望を聞いていた司馬炎は、彼を処断することはせず、
むしろ帰命侯という爵位を与えるという厚遇をもって出迎えた。
そして孫皓は平和な余生を洛陽で送ることとなる。
在位中におこなった功徳が実を結んだ結果であろうか。
【今川氏真】
駿河守護、刑部大輔。和歌、蹴鞠に長じ、塚原ト伝に師事し武芸にも長じた文武両道の名将。
また、20歳の頃より駿河の統治を任され駿河の国は栄華を誇った。
不運な父の死に際し尾張を併呑して独立をはかる松平に仇討ちを勧められるが農繁期でもあり
民衆を慮る彼は涙をのんでこれを退けるが、端から独立をするつもりでいた松平は逆に織田と
結び三河を横領してしまう。
喪中を好機とした蛮人武田信玄に同盟を破棄されるも北条上杉と手を結び塩留を行う等外交面
でもその才を発揮する。
しかし、武田織田松平に挟撃される形となりじりじりとその領国は蚕食されていった。
掛川城にて徳川に包囲されるも半年に渡り堅持。その軍才も比肩できる者は少ない。
掛川開城に際し、駿河から信玄を追放した後に駿河国主に復する盟約を結んだが、このような
盟約が履行されるはずもなかった。この甘さが彼唯一の欠点といえるかも知れない。
開城後は岳父北条氏を頼るが北条は武田と和睦、駿河侵攻の大義名分を得たい貪狼徳川に言
葉巧みに取り込まれる。
長篠の戦いにも参陣し、活躍をするも諏訪原城を与えられたのみだった。
利用されただけだと悟った彼は京に移り住み公家との交友深め朝廷に近づく。
彼の朝廷内での声望を無視できなくなった徳川は嫡孫、子供達を高家として旗本に取り立てざ
るを得なくなった。唯一徳川に出来たことは今川姓を宗家に限ることだけだった。
彼らは幕末までその家名を残し、朝廷幕府間の折衝役をし江戸開城に尽力した。
こいつらを名将に出来たら名文家:足利一門篇
下四人は至難かな・・・
細川家綱(最後の管領)
畠山高政(尾張守。三好長慶に追い払われる。一番名将にしやすいかも)
畠山義慶/義隆/春王丸(能登守護。河内、能登とも畠山氏は家臣に暗殺されまくる)
一色義清(信長に丹後一国安堵されるも細川藤孝と争って敗死)
足利義氏(最後の古河公方)
渋川尹繁(最後の九州探題)
斯波義銀(武衛と呼ばれるだけに兵衛佐に任官していると思われるが記録が見あたらない。信長に追放される)
吉良義昭(三河守護。今川と同祖。義銀と一緒に追放される)
>>128 じゃ、俺が挑戦してみます。
【足利義氏】 1541年〜1583年
室町幕府最後の古河公方。時代の狭間を駆け抜けた稀代の謀将。
足利晴氏と北条氏綱の娘の間に生まれる。しかし父は異母兄・藤氏の方を
溺愛し家督は藤氏に継がせると公言していたが、父・晴氏が北条家に反旗を翻した事を
理由に母方の北条氏を利用し兄・藤氏を家督相続争いから脱落させる事に成功。
この戦いで兄・藤氏は母方の簗田氏を頼りに落ち延び、父・晴氏は捕らえられ幽閉されると
1552年家督を父から譲られ古河公方となる。それは11歳という若さという異例の
家督相続であったが末恐ろしい古河公方の誕生であった。その力を恐れた氏康は
鎌倉に留め置くが1558年遂に鎌倉脱出に成功するとそのまま北関東の
要衝・関宿城を根城にし氏康や簗田家を牽制した。しかし越後の龍こと上杉謙信が
兄・藤氏の肩を持ち関東に駆け上る事を知ると守りに不利である関宿城を
捨てるという大胆な策を実行。尚且つ北条氏を利用するという大胆不敵な外交を
展開し江戸城に入る。その後、謙信公の関東制覇が失敗に終わると一転氏康を唆
し簗田家を攻め降伏させる事に成功。簗田家は元々は足利古河公方の筆頭家臣で
あった為、義氏はこれを広い心をもって許したという。
そして遂に念願の古河城に戻った義氏は名実共に古河公方となったのである。
しかしその才能を恐れた氏康は息子・氏照を監視として付けた。
名将は名将を知るという言葉通り氏康は名門・足利の血筋を引く義氏の才を
恐れていたらしい。しかし1583年遂に足利最後の巨星・義氏にも病魔には
勝てず戦国の武将に衝撃を与えながら亡くなったのであった。
しかし断絶の憂き目を見た足利古河公方であったが義氏の伝説を聞いた秀吉は
感嘆し娘を足利義明の遺児に娶わせて名門・喜連川家を起こさせたのである。
こんな感じになったが駄文だったか…な?
130 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 05:54:33
やべえ、足利義氏かなりイイ!ファンになりそうだw
今さっき初めてこのスレ来たけど
>>61の司馬懿名将杉
>>103 悪いことは言わん。
今すぐ辞書を持ってきて調べるべきだ。
民族自決っていう言葉を聞いたことがあるか?
じけつ 0 【自決】
(名)スル
(1)自分自身に関することを他人の力を借りずに決めること。
「民族―」
(2)主義主張を貫いたり責任をとるため自殺すること。自害。
まあ103が間違っているわけだが
民族自決なんて普通聞いた事無いよな
>>134 ちょっと待て、俺は高校の時に普通に授業で聞いたぞ。
それにここは三戦板、一応歴史系なんだしそれくらい普通に知ってるんじゃないか?
むしろ(1)の意味では「民族自決」という熟語以外では聞いたことない。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:54:24
【林秀貞】
織田家筆頭家老。信秀、信長、信忠と三代に渡り家老を勤めた名将。
信長の幼少時代、父信秀から那古屋城を与えられた際に平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介
を出し抜き一番家老としてつけられた。まさに時期織田家当主の後見役であった。
しかし信秀死後、若き当主信長のあまりにもの愚考に目を光らせ、次弟である信行を
柴田勝家らと共に擁立―その実は信行を我が手中に収め織田家の実権を握ろうと―し、
反信長勢力を築き上げた。だが弘治二年稲富の戦いに敗北をする。しかしながら
信長は秀貞のその才を認め、柴田勝家と共に帰参を許しそのまま家老の位置に
座らせた。その後、秀貞は尾張の民政を卒なくこなし、他にも清州同盟での立会人
等も勤め、政治面外交面で主にその能力を揮った。勝家、秀吉、光秀と言った
武将の様な目立った働きは無かったが、織田家の影の実力者とも言えた。
天正三年、信長の嫡男・信忠に家督が譲られると共に信忠付きとなるも天正八年、
信長は秀貞の膨張し過ぎてしまった権力による織田家の内部崩壊を恐れ、過去の
信行擁立に寄る謀反というこじつけの様な理由による罪を問い追放した。
追放後は京に居住し、間も無く死去とされたが本能寺の変の裏の首謀者はこの
秀貞であるという説もある。
袁紹
代々三公を出してきた、名門の後継。
妾腹であった。(彼は生涯その事に苦悩する)
治世に生まれていれば、高位に上り、
人生を平和に終えたのだろうが、時代はそれを許さなかったのだ。
いわゆる「反トウタク連合」の盟主となり、活躍した。
玉璽を奪い、故郷に逃げようとする孫堅を追撃したり、
漢の宰相を斬って逃げてきた呂布を果断にも誅した。(結果は失敗したが)
後には同族の袁術を、血涙を呑んで襲撃した。(結果は失敗したが)
そして成り上がり者の曹操を官渡で誅した。(結果は逆に殺されたが)
面白いなこのスレ
劉安なんかはただのいい人だしなw
曹操
155年 曹孟徳誕生。
208年 赤壁にて敗走。
219年 死去。
【斯波義銀】1540〜1600
父と時勢に恵まれない中、斯波家再興に身を賭した悲運の名将。
室町幕府・管領家として権勢を誇った斯波家も、父義統の代には尾張守護職を保つのみに
衰えており、織田信友・信秀の拮抗の上のお飾りに過ぎなかった。
しかし、その義統はあろうことか一方の織田信友と対立し、義銀不在中に自害させられたため、
義銀は素早い決断力で信長を頼り、家名再興を図ることにした。
信長は崇敬する義銀の期待に応え、清洲城を奪回し、義銀を当主と仰いで城を進呈したと、
信長公記に記されているほど、その才を認めていたことが窺える。
しかし、義銀を尾張一国の守護に祭り上げつつ、今川義元を討つなど勢力を高めた信長もまた、
義銀と並びうる名将であった。信長が尾張一国のお飾り守護でしかない自分の下に就くべき
存在でなくなったことに気付いた義銀は、このままでは信長を上回れないと悟り、持ち前の決断力で
自ら織田家を去る決意を固める。
しかし、時は義銀に味方せず、義銀という重しのなくなった信長はますます勢力を伸ばしてしまう。
だが、義銀はこのまま斯波家再興を諦めるような小人物ではなく、管領家の細川昭元と手を組み、
信長の次の天下人、秀吉を陥れようと策を巡らした。しかし、組んだ相手が悪かったのか、不運にも
露見して捕縛されてしまう。
だが、義銀の才を惜しむ秀吉は、義銀の罪を特別に許し、御伽衆として丁重に迎えた。秀吉もまた、
義銀と並ぶ大器であったことが、義銀にとって不運であった。
義銀は二人の天下人にその才を認められた名将であったが、1600年に没すると、義銀のような人物
が再び現れるのを恐れた徳川家によって、義銀の思いも空しく斯波家は家名断絶とされてしまった。
>>135 民族自決なんて一部の地球市民だけが声高に叫んでる主張。
最大多数の最大幸福を原則とする民主主義の観点からいけば、道理にもとる思想。
それが教科書に出てくるってのはどうかなぁ。ま、すれ違いスマソ。
>>142 「民族自決」は近現代史を動かしたキーワードだよ。今のイスラエルやアラブも含めて
各地の紛争を理解するためには必要不可欠。
でも、道徳の教科書に書いてあるわけじゃないんだから、道理に悖るとかは関係ない。
そんなこと言い出したら、奴隷制とか専制君主制も書けなくなってしまうw
>>142 つーか パリ講和会議のへんで普通でてくる単なる用語
プロ市民がどうとか思想がどうとかそういう問題じゃないから
このスレ (・∀・)イイ!!
趙雲キボン
羅憲
蜀の将である。
蜀滅亡時、彼は呉からの守りを託されていた。
彼は国が滅亡したのを知り、好機と見て、独立をもくろんだ。
呉がそこに侵攻してきたが、彼は彼の野心の為に巴東を防衛したが、
その後、魏の圧倒的な力を知り、それに屈する。
降伏した後は蜀の有能な人材を次々と推挙し晋に媚び続けた。
三国志の著者、陳寿もその一人である。
魏→晋と媚びるように仕え続けたまさしく奸臣と呼べる人物であろう。
>>146 趙雲は裏切り者扱いすれば楽じゃね?
俺は渋川某やってみたいから君に任せた
【趙雲】
若い頃は袁紹・公孫サンと節操なく主君を変え、結局は劉備のもとに落ち着いた。
正史にて彼が記載されているのは、荊州敗退戦と第一次北伐撤退戦である。
ともにこれは負け戦であり、彼の無能ぶりがうかがえる。
荊州敗退戦では劉備の妻子を保護しているが、この行為に劉備は激怒した。
恐らく劉備は阿斗(劉禅)の無能さを見抜き、そのため阿斗を投げ捨てていたのだろう。
浅慮からそれを救ってしまった趙雲、結局蜀はこの阿斗の無能さにより滅亡してしまう。
この時、趙雲が阿斗を救わなければ、蜀はまた違う道を歩んでいたであろうことは想像に難くない。
また「趙雲別伝」という趙雲が大活躍する書があるのだが、これは真偽のほどが定かではない。
おそらく後の捏造と思われる。自分の活躍を捏造するほど、彼は勲功に飢えていたのかもしれない。
趙雲やってみたよ。やっつけでスマソ。
こんなのもアリかな?場違いだったらごめん。
【五丈原の戦い】
蜀の宰相諸葛亮が魏に戦いを挑んだ最後の戦い。
兵糧に不安のある諸葛亮は早期決戦を望み、
しきりに司馬懿に戦いを挑んだが、司馬懿がそれに乗ることはなかった。
あせる諸葛亮はやがて自分が死ぬのではないかという妄想に陥る。
そして自分の天幕内に無数のロウソクを立て、
延命の呪術をおこなうという、太平妖術も真っ青な意味不明の行動に出た。
魏延は諸葛亮を正気に戻そうとロウソクを蹴倒し諌めるが、
彼はこの行動に大きなショックを受け、実際自分の寿命を縮めてしまう。
そして諸葛亮は陣中に没した。
自分の存在を過信した諸葛亮はあらかじめ自分の木像を作らせており、
撤退の際、蜀軍はその木像を小高い丘の上に据えて孔明ここにありを見せつけた。
司馬懿はこれを見て驚く。蜀はこんな馬鹿馬鹿しい策を使うのかと呆れた。
しょせん木像は木像であり、こんなもの子供でも見破ることができる。
蜀軍をあわれに思った司馬懿は、自ら撤退し蜀に情けをかけた。
こんなアホ国家、今攻めんでもいずれ滅びるわい。それが彼の気持ちであっただろう。
これが世に言う「死せる孔明、生ける仲達を走らす」である。
大内義隆を名君にしようと考えていたが、
普通に名君であることに気づき頓挫。
むしろ、陶晴賢を名将にするほうが難しいかもしれない。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 00:37:23
>>150 普通に面白くてイイ!!こーゆーのもドンドンみんなで作ろうよ!!
>>150 いや全然おkっすよ!
結構みんなうまいんで面白(・∀・)イイ!!
【高橋紹運】
豊後の大大名・大友宗麟の家臣。
吉弘鑑理の次男として生まれたが、名門・高橋家が途絶えたことを好機と考え、宗麟に媚びへつらうことによって高橋家の名跡を掠め取った。
斜陽の大友家を支えた人物として見られがちだが、これは恒に名将・立花道雪と行動を共にしたことが作用しているに過ぎない。
事実、道雪死後、大友家は滅亡への階段を転げ落ちて行き、紹運は何らの策も講じることができなかった。
最後の一戦である岩屋城攻防戦においては、城兵以下全滅と言う戦国史においても稀に見る大敗を喫し、彼自身は自害して果てた。
適当に物色していたら臧洪に目がとまった。
どんな人だったかなと思いつつ列伝を読んでいたら
他の人全てが霞んでしまうほどいい人だった。
秀秋の文は見事だな。無理やり誇張したように見える箇所が普通に無い。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 03:34:26
159 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 11:39:12
【本城惣右衛門有介】???〜1640頃
出身:丹波国
明智方に属し本能寺襲撃に参加した。元野武士。
寛永の頃、自身が本能寺襲撃に一番乗りで参加した事を記す日記「本城惣右衛門覚書」を残し昭和の頃ににわかに脚光をあびる。
本城惣右衛門は丹波国の野武士で剛力・豪腕、ターミネーター級の殺戮者だったらしい。(ま、どこの家臣にこのくらいの人はたくさんいると思うが・・・)
「斬取強盗は武士の習い」と称し悪逆の限りを尽くした。信長政権時、織田軍丹波襲来の報を聞くや明智軍に激しく抵抗、織田軍をさんざん苦しめた。
しかしその後は明智軍の雑兵として各地を転戦することになる。
1582年、本城は斎藤利三の配下となり舞台は本能寺へ。変後は豊臣秀長に仕えて紀州一揆征伐に従軍、伊勢亀山城攻略に蛮勇を発揮、その後は藤堂家に使え寛永の頃まで生きた、とさる。(この頃、本城惣右衛門覚書を記す)
ところで「本城惣右衛門覚書」をを皆さんはご存知ですか?
>>110 元々の汚点とただの悪口ばかりの文があるからな
どうやって「悪くも取れなくない」事象を見つけ出すかが腕の見せ所
【吉良義昭】
希代の謀将。当時吉良は西条東条2家に分家していて彼は西条の三男として生まれる。
長兄義郷が西条家を継ぎ、次兄義安が子の無かった東条家を継ぐべく転出した。そこで、
西条家を乗っ取るべく義郷を謀殺するも義安が東条家より復帰、家督を継いでしまいし
ばらく忍従の時を強いられる。
やがて、東条家当主持氏が死去すると義安は東条家を継ぎ漸く西条家は義昭の手に落ち
たのである。
ついで東条家に目を向けた彼は、今川に「義安織田に通ず」と密告し今川はこれを討伐、
義昭は東条領も難なく手に入れるのである。
しかし、東に今川義元、西に織田信秀、国内に松平清康を抱えやむを得ず分家である今
川に従属しまずは三河制圧を目指した。
より効果的に松平を混乱に陥れるべく清康が守山に出陣した時を狙い阿部弥七郎を籠絡、
清康を刺殺させることに成功する。
さらに松平を併呑すべく岩松八弥を籠絡、広忠を刺殺させたのである。
だが今回は今川がこれを横領してしまう。
ついで彼は今川弱体化に乗り出す。時間をかけて寿桂尼に近づき、義元をおだて上げ
西征の陣をおこさせ、田楽狭間周辺に分散して布陣させる。
一方織田方簗田政綱に今川側布陣情報をリークして晴れて義元を打たせることに成功す
るのである。
今川の支配を脱した三河制圧に乗り出した彼は一向宗を煽動。松平を窮地に陥れるが、
所詮一向宗は農民の集団。家康と講和、だまし討ちよろしく壊滅させられてしまう。
この時天下を統一するのは彼だと見込んだ彼は三河から転出、摂津芥川に隠棲する。
しかし、彼の本領はここからである。元々土豪である徳川家は朝廷外交が苦手である
と見込み、甥義定に一流の宮廷マナーをたたき込み、また数々の謀略術を仕込むので
ある。そして晴れて御家再興を果たし徳川家初の高家となる。
ちなみに上野介義央は義定の曾孫である。赤穂藩を潰そうと画策していた徳川の意向
を受け、さらには徳川人気失墜をはかるべくいわゆる忠臣蔵事変を起こすのである。
ひとえに義昭が仕込んだ謀略術が脈々と受け継がれた証であろう。
・・・民明書房級のフィクション入れないと褒めようがないほど記録がないですorz
162 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/13 16:55:18
>>161 元々マイナー武将は資料少ないし、フィクション入れは仕方ないかと。
ただ、どうやって高家に成れたのかが曖昧で勿体無いかも。やっぱりちゃんと
した理由があったと思う。
三国志はマイナーは武将名からして解らないので、戦国物を楽しみに読ませて
貰ってます。日の当たらない隠れた真の名将にも期待age!
163 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 17:36:20
このスレおもろいぞ
【魏延】
字は文長。武勇に長け、義に厚い豪傑。
はじめ韓玄に仕えるが僚友にして大先輩である
黄忠の危機を救うため韓玄を斬り劉備軍へ身を投じる。
孔明は彼の容姿が気に入らず、劉備に讒言をするが劉備は魏延を重く用いた。
彼は劉備の厚遇に涙し、よくその期待に応えた。
入蜀後、中原進出への最重要拠点となる漢中を劉備が制圧すると
彼は迷わず魏延を漢中の太守に据えた。
魏は幾度となく漢中奪還を計るも、魏延は付け入る隙を与えず漢中を守り通した。
劉備が崩御した後、孔明が北伐を敢行すると魏延は長安を強襲する名案を提言するも
軍事に暗い孔明はこれをあっさりと斥けてしまう。
五度にわたる孔明の北伐に付き従った魏延は
獅子奮迅の活躍でたびたび圧倒的不利な蜀軍を奮い立たせた。
五度目の北伐の陣中で孔明が死ぬと魏延が全軍を指揮する立場となったが、
彼がこれ以上の武勲をあげることを妬んだ楊儀の策謀により殺されてしまう。
これにより蜀が中原に返り咲く夢は夢として潰えることを余儀なくされる。
>>164 ↑正史準拠で、名将を名将として説明したら、そんな感じになるんじゃない?
【寥化】
だれかお願い。
書こうと思ったけどうまくまとまらないorz
>>162 そうは思ったんだけど、記録にないことはでっち上げるが記録にあることは
記録に極力準拠する方向で行ったのですよ。
そうすると、兄義安は今川にとらえられてはいるけどその後松平広忠の岡
崎帰還に尽力するなど早くから松平に協力的で、義安は松平清康の娘を
娶って御家再興した義安の息子義定は家康の従兄弟だったりするわけで
す。
一向一揆に関わって追放された義昭と徳川に付き従った義定に接点があ
るはずもなく。ましてや、自身がかなり有能で自ら高家の立場を勝ち取った
義定の子義弥との接点を求めるには短編小説級の文章が必要になりそう
だったので挫折しました。
ちなみに義弥は従四位下少将にまで上り詰め、中将任官を辞退するまで
になっています。
色々弁解しましたが、要は義昭をあそこまで持ち上げるだけで力尽きましたorz
で、資料副産物で吉良、今川、松平の婚姻図を簡単に引いてみた。
兎角瀬名姫だけが取り上げられるけど結構面白いですよ。お試しあれ。
〈豊臣秀頼〉
あの、百姓から太閤にまでのぼりつめた稀代の天才、豊臣秀吉の長男。
大阪冬・夏の陣で徳川家康と天下を二分して戦った。
家康は秀吉の威風堂々とした姿を見て、決戦を決意したと言われる。
残っている書幅の字は雄渾で、その人柄が偲ばれる。
家康の謀略により、籠絡された実母、淀殿の奸智により、城に閉じ込められた。
しかし考子の秀頼は、実母の意見を無視することができなかった。
全然文がまとまらない。やっぱ難しい
【廖化】
廖化 字は元倹 元の名を淳という。襄陽郡の人。蜀に生涯仕えた。
廖化ほど数奇な運命に巡り合わせ、的確な判断を下した人間は三国時代にはいないだろう。
彼は蜀の武将の中でただ一人、蜀の三大敗戦である「荊州失陥」「夷陵の戦」「蜀の滅亡」を現場で経験した人物である。
荊州失陥の際、廖化は関羽の部将だった。彼は関羽の敗北によって呉に降ったが、それは方便だった。
蜀へ帰還するのだという思いは強く、終には自らを死んだことにして周囲を欺き呉を脱出してしまう。
老母を連れて昼夜兼行での脱出だった。この脱出の時はちょうど夷陵の戦の直前で、劉備が呉に対して討伐戦を起こした頃だった。
廖化は、劉備が呉に向かって進撃している時合流する。劉備が彼の帰還を喜ばない筈がなかった。
そして彼は一部将となって夷陵の戦に巡り合わせた。そして諸葛亮の北伐に参加して着々と功績を積み、昇進していく。
170 :
続き:05/02/13 20:48:52
その後は姜維の北伐にもついていく。突撃しがちな姜維をよく諌め得た数少ない忠臣であった。
そして姜維が政治を省みなかった責により蜀漢の滅亡を目の当たりにすることになる。
この時廖化は右車騎将軍であり、末期の蜀での軍の中核になっていた。
おそらく姜維、張翼の次あたりの地位だろう。この時、姜維の相手はケ艾であり、
その戦略眼とそれに基づく作戦立案能力・作戦遂行能力には屈指のものがあった。
廖化は彼我を比較して、姜維に知謀がないわけではないが、
ケ艾の知謀は姜維を上回ると判断、その通りの戦争結果となってしまう。
廖化はこの状況、ひいては自分自身の人生についてこう評している。
「『詩経』の『我より先立たず、我より遅れず』
(なぜ私の生まれる前か、死んだ後出なかったのか)という言葉は現在の事態に当てはまるものである」
まさしくこの後すぐに蜀漢は滅亡を迎え、廖化は最も遭遇したくない事態を迎えるのだ。
劉備の代に仕え、関羽の死を看取り、夷陵の敗戦に立ちあった、蜀漢立国以前から仕え、
蜀の最盛期から衰退そして滅亡と、蜀と共に生きた人物の洩らした、最も重く実のある危惧の言葉と言えよう。
そして姜維は蜀攻略の司令官、鐘会を抱き込んで反乱を起こして
蜀を復活させようとするのだが魏に忠誠を誓う兵士の暴動によって鐘会共々殺されてしまう。
政治に通じていた彼はこのことを予測。早くから洛陽に移ることを申し出ていた
蜀漢滅亡後、洛陽へ移住する途中で廖化は病没した。鐘会の乱での大混乱をも生き残った廖化。
鐘会の乱で事破れて敗死し、終に自らの身を焼くことになった姜維の最期をも見た廖化。
晋都・洛陽で彼の言評を聞きたかったと思う者は多かった筈だ。
171 :
続き:05/02/13 20:49:53
時に運命の流転は甚だしく烈しく一人の人間を翻弄することがある。
一国の戦略が挫折する時、国主が国運を賭けた戦いに敗れる時、そして国家が危難に瀕して閉じる時、
これら総てに居あわせた廖化は運命の転変に弄ばれ数奇な運命を辿ったと言える。
そうした数奇な運命に会合して尚、国に従い、危難をその身に受けることが無かった。
彼の苛烈で烈しい性格を見れば、その何処かで失命しておかしくは無い筈だった。
如何なる運命に際しても状況をよく読み取り、蜀に生きるという己の信念を貫いた、
その思いは昔日の諸葛亮にも勝らずとも劣らないであろう。
なんだか讃えているのかわからなくなってきたな・・
>>166駄文スマソ
作品としては?だが、名文として個人的に保存させてもらうよ。素晴らしい。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 00:08:51
良スレage
数人書いて思ったけど名将化する人選もの凄く難しいなこれ・・・
戦国は多少なりとも有名人と接点がないと誰だ?って事になるし
接点があっても記録が少ないと悶絶することになる。
三国志演義のように名凡分けられていて、且つ圧倒的なシェアを
誇る本があるわけでもないしな・・・
一方三国志は演技のおかげで名将凡将がはっきり分けられてい
るけど陳寿一流の言い回しに踊らされる・・・
176 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 01:25:32
【夏侯楙】
字は子林といい、魏王朝の柱石として曹操挙兵時から付き従った大将軍夏侯惇の次男である。
文帝曹丕は親に勝るとも劣らぬという評もあった夏侯楙の才能を愛し、
若い頃から懇ろに交際を深めていたという。
また、夏侯楙は蓄財の才能があり、有事に備えて金品を蓄えていたともいわれる。
曹丕が皇帝に即位すると、魏王朝の大敵、蜀漢王朝の諸葛亮に対抗する事ができるのは
まさに夏侯楙である、とし、彼を安西将軍に任命し関中の諸軍の指揮権を与え、
以前の関中の司令官であった親類・夏侯淵の失態を回復する機会を与えた。
諸葛亮はその在任中、長安に陣取る夏侯楙を恐れ、魏延の長安奇襲策を
「夏侯楙は国家の名将である。かの者と対峙するにはしかるべき計略を練らねばならず、
奇襲などで簡単に倒せる相手ではない」と退けている。
夏侯楙の世に知られた才略はこれほどであった。
しかし、その夏侯楙の栄達を憎む国家の奸臣達もまた数多く存在し、
文帝死後の明帝・曹叡の時代になって、彼らの讒言によって中央に召還され、
尚書とされた。また、さらに親戚にも恵まれず、彼の弟達はしばしば礼を踏み外した
振る舞いをし、夏侯楙はそれを憎み、彼らをしばしば叱責した。
それを恨んだ弟達は、共謀して罪をでっち上げ、夏侯楙を殺してしまおうとした。
魏の明帝は夏侯楙の才能を見抜けない小人物であった為に、
この際に夏侯楙を殺してしまおうかとも思ったほどであったが、
校尉の段黙はそれを諫め、この件に関してしかるべき調査をするべきであるとした。
そこで、実際調査が行われ、この罪は夏侯楙の弟のでっち上げであると分かった。
しかし、明帝は以後も夏侯楙の才能を認めなかった為、
以後閑職に追いやられ、さしたる活躍もなく死去した。
天下に名高い才略を持ちつつも、君主がその才能を見抜く事ができなければ、
如何なる名将でもその才略を発揮することができないという好例であろう。
こんな感じ?
177 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 01:51:15
>>175 >>1みたいに裴元紹などの登場機会が少なく良将ではないが
これといってすごい汚点が見つからない人物なら大量にいるし良いんじゃないか?
そんなもん腐るほどいるからな・・・
三国で言えば今ぱっと思いつくのは陳式、冷包、董ビン、楊奉、夏侯徳・・・・・・
結構思いつくもんだ。
う〜ん、難しすぃー
歴史は勝者がつくるとういように、たぶん負けた人にも正当性は十分あるはず。
ただ。前提として、知識がないとうまくできん。。。しかも、ひろい知識
光栄「信長の野望の筆頭アホ大名
一条兼定をやろうと思ったけど。兼定側の情報はよくしらねー。
子供の頃は、兼定アホありえないとか思ったけど
最近は、、自分と重なる部分もあるとか思える今日この頃
177とは無関係のレスです
181 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 02:00:30
182 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 02:05:55
【夏侯楙】
三国志に登場する人物の中で最も「木」が多い名を持つ。
初期の頃から読ませてもらってます。最近の人物列伝は力作が多く読み応えがあるが
是非、初期の頃のような読んでて面白い人物列伝もキボンヌ(・∀・)
北条氏康
臆病で息子の育て方を誤った武将。
幼い頃は鉄砲の音が聞こえる度に、怯えて泣いていたという。
河越城戦では、昼間だと敵将の顔が見えて怖いという理由で夜襲を決行。
辛くも勝利を得た。
息子の育て方も酷いもので、飯にかける汁の量さえ覚えさせる事が出来なかった。
上杉謙信が攻めてくれば籠城。武田信玄が攻め来た時も籠城。
「殿、敵が攻めて来ましたぞ!」
「うむ、今回は小田原に籠城じゃ。」
「またかよ・・・。」
がお決まりのパターンだったという。
【毛利幸松丸】
安芸国吉田郡山城主。毛利興元の嫡男。母は高橋久光の女。
1516年、父の死により幼くして家督を継承。一城の主となった。
1517年、安芸の名族で大きな勢力を誇り、その勇名を謳われた武田元繁が
大内義興に反いて大内方の有田城に攻め寄せた際には、
叔父の猿掛城主・元就に兵を委ねて有田城救援に向かわせた。
なお、このとき元就は21歳で初陣であったが、元繁を討つという大功を立てている。
それまで活躍の無かった元就に潜む軍事的才能を見抜いた幸松丸は、
まさに名将の眼力をもっていると言えるであろう。
幸松丸の父の興元も、わずか8歳で家督を譲られているが、
毛利家嫡流は特別の才能を天から与えられたとしか思えない。
毛利家は、大内・尼子二大勢力に挟まれた情勢の中で困難な舵取りを迫られ、
南下政策を強めていた尼子経久に従うことを決断。
1523年には尼子氏に従っての鏡山城攻めで病弱の身を押して初陣を果たした。
山陰に一代で覇を唱えた梟雄・尼子経久の横暴に対して一歩も退かず、
堂々と首実検にも参加したが、その直後幸松丸は頓死を遂げる。
幸松丸の英傑ぶりにおそれをなした経久の謀略であるとも考えられる。
その後、幸松丸に仕えてその手腕を発揮した猿掛城主・元就が毛利本家を継承し、
のちのち中国に覇を唱えることになるのだが、それはまた別の話である。
しかし、元就の才能が開花したのは幸松丸の下であったことは覚えておくべきだろう。
まさに毛利家の繁栄の基盤を築いた早熟の天才であったと言えよう。
【織田信長】
希代のヤドカリ。
まず、斯波義銀を第一の住処とし、すくすくと成長する。
斯波の家が小さくなった彼は今川を住処にしようと思ったが
殻に入ろうとした瞬間に壊してしまったので子分の家康に押
しつける。
住処探しの旅で濃尾平野をさらにうろついていると足利義昭
の家を発見日本最大級のヤドカリに成長する。
足利の家も狭くなり次なる家を探している最中に持病の寄生
虫明智光秀に食い殺されてしまう。
彼のギネス記録への挑戦は惜しくも失敗してしまったのである。
age
【織田信興】
織田信秀の七男、通称・彦七郎。信長最愛の弟だったかもしれない。
信長が最もてこずった戦国最強の戦闘集団・一向一揆の最重要拠点である
長島願証寺を牽制すべく、織田信興は対岸の尾張小木江に城を築いた。
信長の秘蔵っ子、知る人ぞ知るこの名将の進出に対して、
一向一揆側も剛勇の僧兵大将、下間頼旦・下間頼盛を繰り出して対抗、
篤い信仰で結束した雲霞のごとき一揆衆を統率して小木江城に攻め寄せた。
第六天魔王の武威で天下を統一するか。阿弥陀への信仰で地上に浄土を建設するか、
尾張小木江は、それぞれの理念と実力を賭けた日本史を左右する闘争の舞台になったのである。
この歴史的戦闘の舞台で織田軍を総指揮した信興はさすがに信長の弟、
わずかな兵でよく戦い、よく持ちこたえたが、
死を恐れずに突撃を繰り返す門徒の軍勢には衆寡敵せず、ついに城は陥落、
信興は「一揆の手にかかるのは無念」と告げ、自刃して果てた。
花も実もある若き武将の惜しまれる死であった。
信長がこの弟の才能をいかに愛し、その死を無念に思ったかは、
苛烈な長島殲滅戦で数万の門徒を血の海に沈め、
信興の死の代償を払わせたことで知ることができる。
武田信玄
甲斐のローカル大名
若くして父を国から追放し、国を乗っ取る。その後も同盟関係にあった今川氏が
桶狭間で大敗を喫すると同盟を破り攻攻め込むなど仁義を省みない行為や
領土拡張ため、しばし信濃や上野に遠征に出るなどし周辺諸国からは大変迷惑がられていた。
また信濃に侵攻した際に川中島で自軍の方が兵力が多いのにもかかわらず
兵力を2分するという用兵学上もっともやってはいけない愚を犯し、上杉謙信に大敗を喫する。
その後も決着ををつけるべく、両家から力士を1名ずつ出して、その勝負により、
勝った方が川中島を領することと約束のなどとせこい提案をするものの見事に敗れてしまう
最後は、一地方大名にもかかわらず、京に上ろうとしたがあえなく病死した。
関東甲信越のローカル大名らしいあっけない最後だった。
因みに
「人は城 人は石垣 人は堀 」と有名な言葉を残している。
信頼する家臣こそが、国を守るもとであるという考え方からである。 と一般の人は誤解がしているが
本当の意味は城を作るが面倒でお金を掛けるぐらいなら家臣をこき使う方が楽だという
信玄の非情さを表した言葉である。
あんまり上手くなくてすまん orz
あんまり
196 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 14:14:22
【三方原の戦い】
当時の合戦は実はいわゆる運動会などで行われている騎馬戦であったことは現在あまり知られていない。
家康の騎馬は石川数正が務め、信玄の騎馬は息子勝頼が務めたという。
結果は一般に知られるとおりだが、事もあろうに我慢の限界を迎えた家康は数正の上にお漏らしをして
しまった。
後の数正出奔はこの時の恨みによるものだ。
だが、圧倒的勝利を得たはずの武田側ではより大きな問題が発生する。
自陣に帰還中事もあろうに勝頼は、こけたのだ。騎手である信玄は落馬し頭を打って他界してしまう。
武田家臣団のど真ん中で大失態を演じた勝頼は跡を継ぐも信頼を得ることはかなわず、あっという間に
没落していってしまったのである。
こういうのなら幾らでも書けるんだがな・・・
今迄のワロタレス dくす。
その後もこのスレで何点か書きましたが…初代作品より出来が悪く
誤字・脱字も多く己の文才の無さを呪いながら引退してますた…
また、機会があれば書こうと思います。
(・∀・)イイ!!
203 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 16:56:36
>169
駄文スマソがちょっと余計だったね
うん、駄文スマソは余計だったな。反省してる。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 20:12:30
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 03:42:13
信長と光秀キボン
【カテジナ=ルース】
ザンスカール帝国の名将。通称カテ公。性格が180°変わる女性の代名詞。
最初はリガミリティアと行動を共にしていたが、戦争を嫌い否応なく戦うウッソやリガミリティアに徐々に反発感を覚える。
嫌気がさしてリガミリティアを離れ故郷に帰る途中にザンスカールのクロノクルにさらわれる。そのことがきっかけとなり彼女は心機一転、ザンスカールの将校となる。
初めはクロノクルの秘書であったが徐々に頭角を現し、知勇を兼ね揃えた名将へ成長する。
その後愛するクロノクルのために自ら嫌っていた戦場に立つことを選び、破竹の勢いでリガミリティアを蹴散らすも、エンジェル・ハイロゥの戦いで自分を慕っていた敵将ウッソとの一騎打ちに敗れ壮絶な最期を遂げた。
最後までザンスカール帝国と愛するクロノクルの為に戦った誇り高き武将であった。
>>209 宇宙世紀は不勉強で誰のことだかわかりませんわ
211 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 15:43:05
そろそろネタ切れになってきたか
212 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 15:51:57
215 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 16:39:56
誰か董卓を超良将に書いて。
一番良い出来の人には(・∀・)つI やる。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 16:47:18
カテジナはVガン?
だったら宇宙世紀ではないのでは。
宇宙世紀は初代〜逆シャアまで?
【松本氏輔】
陸奥大沼郡船岡城主。父は松本図書舜輔。
会津の名門・蘆名家にあって、四天宿老と呼ばれた重臣の筆頭。
氏輔は松本図書の名で広く知られ、その智謀と武勇とをもって、
不安定な蘆名氏の権力構造をよく支えた。一方で氏輔は剛直の士として知られ、
主君蘆名盛氏を実力をもって諌めることもしばしばであった。
名君盛氏と名将氏輔の強すぎる個性から来る行き違いが原因であるが、
互いに認め合う主従は互いに許しあう仲である。
ひとたび矛を収めると、従来と変わりなく忠勤に励み、盛氏も恩顧をもって応えた。
彼の神算鬼謀により、畠山氏・田村氏・二階堂氏などの諸豪族は蘆名家の軍門に下り
盛氏の下で蘆名家は全盛期を迎えるのである。
1574年、南方への勢力拡大を画策する伊達氏に唆された田村清顕が背き、
安積福原で南奥の覇権を賭けた決戦が行われたが、氏輔は壮烈なる戦死を遂げた。
その後、彼の息子の太郎行輔はその後処遇に不満を持って謀反を起こした。
わずかな手勢で主家の本城・黒川城を攻め落としたのはさすが氏輔の息子であるが、
ついに滅ぼされ、松本氏はここに断絶する。
稀代の名将・松本氏輔の事績が埋もれてしまったのはこのためである。
220 :
【カテジナ=ルース】 :05/02/16 17:43:43
目が見えなくなりましたが、
Vガンダムで最後まで生き残りましたよ。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 18:24:51
冬だ
むしろ春の足音。
冬がくると悲しくなりません?
スレ違いでなく板違い
226 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 07:56:12
>>219 もしかして昔「光栄ゲームパラダイス」読んでた?
227 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 19:20:40
【董卓】
後漢末期の涼州軍閥。エネルギッシュな人。
死して尚、人々を照らし続けた。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 19:30:39
董卓って極悪人かとおもってたら、調べたら
武力もかなりあって、完遂の反乱のときの功を部下に殆どやるとか男気のある人物だったんだな。。
小帝を廃止したのも、大きい目で見れば、善行といえると思う。
でも洛陽を焼き払ったあたりからは極悪人になっちまった。
董卓=信長
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 19:52:27
>>228 曹操が少帝の偽勅で反董卓連合軍結成したことから
劉協は最初皇帝として認められてなかったのでは
洛陽焼き払いを部下のせいにするだけで聖人君子のできあがりです
(・∀・)つI⊂(゜-゜) ソー
235 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 21:00:40
死して尚照らし続けたって、
脂の量が多くてずっと燃え続けたのを変えたのかw
>>230 トウタクはどうがんばっても混乱に乗じてなんだよなあ・・
トウタクと違い信長は恩を売った将軍「そのもの」にかなり色々な邪魔をされたし。
上洛後も色々戦い続けたわけで、毛色が違いすぎる。
どっちかっていうと、まだ曹操のがトウタクに近い
【華キン】
もと予章太守。孫策に降る。
後に使者として魏に赴きそのまま帰ってこなかった愉快な人
魏では曹ヒに見出され皇后の髪を引っぱる等その才をいかんなく発揮した。
【管亥】
黄巾の将。黄巾の乱の後、残党とともに静かに信仰を続けていた。
191年、北海太守孔融が黄巾賊を討伐のため都昌に入城したため
これを包囲。落城寸前にまで追い詰めるが、怠惰な部下が城内から
出撃した太史慈を見逃してしまい劉備軍3千の援軍を呼び寄せてしまう。
退路を断たれ、城の内と外からの攻撃を浴びた黄巾の軍勢は一気に
危機的状況に陥る。管亥は包囲を解こうとする部下を必死に引きとめ、
体中に弓を浴びながらも獅子奮迅の活躍をする。
当時、劉備の配下だった関羽は戦局が思わしくないと判断し、一騎打ち
を申し入れる。
管亥は全身の痛みを堪えながらも数十合に及ぶ力闘を演じるが、力尽き、
あえなく斬られる。
・・・駄目か?
239 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 02:22:56
240 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 02:44:32
こんばんは。
「ジョーク」スレの291さんから紹介されて、こちらのスレに遊びに来ました。
(最近あちらは誰も来てくれないので・・・ファンだったのに・・・)
こちらのネタは考え中です。なかなか難しいですね。
やいやい、そんなかしこまらなくてもいいよ
242 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 03:17:22
こういうキャラなんですよ。
そうおっしゃらずに、仲良くしてください。
>>242さん よろしく〜 仲良くしましょうね(^−^)
たまにスレ覗くんですけど面白いのやら、力作やらイパーイありますよ。
このスレに腐女子の臭いがする
245 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 11:55:40
作ってみました。
【劉禅】
蜀2代目皇帝。温和な性格とされながら、長坂では、幼少の身ながら敵軍包囲の中単騎で駆け巡り、重囲の中にあった重臣趙雲を救い出した記録も残っており、剛勇さも併せ持っていたようである。
しかしこの記録は、思想的に反目する父劉備、軍師諸葛亮により誤った解釈で後世に伝えられたようである。
劉備、諸葛亮が、漢王室復興を第一義としたのに対し、劉禅は常に民衆の幸福を最優先する仁君であった。戦乱の世にあって、近代的な発想をもつ劉禅は、しばしば、父と意見を異にしていたようである。
劉備は臨終の今際において、その座を同一思想をもつ諸葛亮に譲ろうと画策するが、諸葛亮は民衆の内乱を危惧し、正当継承者である劉禅に皇帝の座を譲るべきだと主張した。
皇帝となった劉禅の打ち出した方策は「三国の政治的均衡」であった。即ち、三国間の戦乱をできるだけ回避し、発生した場合でも、国境付近に限定することで、自国の領地だけでなく、魏・呉も含めた民衆の安全を守るというものである。
新進派である諸葛亮が「出師の表」により出兵要請をしてきた際、諸葛亮の国内外の影響力を鑑みやむなく了承するが、諸葛亮軍が長安手前まで侵攻すると、急遽引き上げ命令を出すなど、抜群のバランス感覚で戦線をコントロールしている。
諸葛亮の死後力のバランスが崩れ、ケガイが蜀に侵攻するに至ると、速やかに方針を変更し、徹底抗戦を主張する配下を説き伏せて降伏を即断、蜀の町並みを戦火から救った。
降伏後は、旧蜀派の蜂起の気勢をそぐため、暗愚な武将を装い続けた。司馬昭から「蜀の生活が懐かしいでしょう?」と問われたときには、「いえ、( 民衆のことを思えば)今の状態の方が良いと思います。」と答えたが、司馬昭がその真意を理解できたかどうかは疑問である。
臨終の床にて劉禅は、ごく親しいものだけに打ち明けている。
「民衆の平和を少しでも大きくすること、少しでも長く維持することが、我が生涯の仕事であった。私は死することで、蜀皇帝の最後の仕事をまっとうする。皆のもの、悲しむでない。」
>>245 GJ!
劉禅の名君さが伝わってきてよかった。
でも前半の趙雲を救ったっていうのはちょっと‥。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 14:38:30
黄皓
希望
ちょっと・・・馴れ合い気味・・・?
249 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 18:57:38
ホリエ○ンきぼん
>>249 (#゚皿゚)つまんない〜書いた事恥じれ
251 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 19:37:20
なんだと!
【柴田勝家】
織田家譜代の武将。
若き当主信長の力量を見抜けず、弟信行の擁立を画策するも散々馬鹿にしていた信長に
緒戦で敗退。あっさり降伏する。信行が再度謀反を企むと信長方に軽やかに寝返り、信行の
言動を逐一報告するパシりぶりをみせつける。
戦場での臆病さは有名で、ある篭城戦では恐怖のあまり錯乱し、水がめに頭を叩きつけるという
醜態をさらす。また、北越戦線では上杉謙信の旗印を見るや味方を蹴倒して逃げ出し、
内外の笑いものになった。
信長の死後、光秀を討ち三歩牛を擁した秀吉に予定調和的に敗北。北の庄まで見苦しく
敗走した後、城と女房を道連れにして自害した。
短いうえに下手糞でスマン
253 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 20:05:46
三歩牛
ワロタ
254 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 20:35:50
ケイドウエイが実はオウソウだったってやつ気本
【細川藤孝】
主君・友人を次々に見殺しにした忘恩の武将である。
若い頃は理想主義者で、足利義昭・明智光秀と伴に足利幕府再興を
夢見ていたが、織田信長に協力してから人が変わったように
冷酷になり、唖然とするような行動を繰り返した。
まず旧主・足利義昭を陥れ、織田信長に追放させた後、
光秀が羽柴秀吉に攻められた時に突然敵の羽柴方に付き、
明智光秀を見殺しにする。
この行動は当時の民衆からも批判されたが、藤孝は苦しい言い逃れを
行い、益々反感を買った。
丹後の国主一色氏を騙し討ちで滅ぼすなど、国内統治でも極悪ぶりを
発揮している。
【董卓】
字は仲頴。西涼出身の武人。
馬の扱いに長け騎射を得意とし、左右両方の手で弓を射ることができた。
未だまともな鐙のなかった時代である。その妙技は神業と讃えられ、恐れられた。
また、彼は下賜された品を残らず配下に分け与えてしまうなど、無欲の人でもあった。
彼が頭角を現し始めた頃、洛陽は傾いた王朝を支える柱となるべき者同士がいがみ合い、混乱に拍車を掛けていた。
朝廷は各地の史刺や豪族などに救援を求めたが、進んで火の粉を被ろうという者はいなかった。
その状況を知り心を痛めた董卓はわずかな手勢を率いて懐王の下へと駆けつけた。
その武と奇策を以って窮地に立たされていた王とその弟(のちの献帝)の救出に成功すると
その功が認められ、彼は前漢の蕭何・曹参以来誰も就くことのなかった漢朝の最高位、相国に任命される。
しかし彼の栄達を妬む佞臣達は毎日のように彼の讒言を上奏し、
市井に無根の悪評を撒き、ついには徒党を組んで董卓を亡き者にしようと企んだ。
献帝はそれでも董卓を重用し続けたが、庇い切れないと悟ると長安への遷都を決め、董卓を伴って洛陽を後にした。
それを知った洛陽の民は先を争って董卓の後を追った。
配下の李儒は行軍が遅くなることを嫌って民を帰そうとしたが、
彼らは自ら家に火をかけ、帰る家を失くしてまでついてこようとしたため、董卓は見捨てることができなかった。
なんとか無事長安へと入った董卓であったが、かわいがっていた養子の呂布の裏切りにあい、暗殺されてしまう。
最後の忠臣を喪った後漢王朝に もはや建て直す力はなく、献帝が廃されるに至って歴史の幕を閉じた。
>>256 董卓に関しては演技の悪過ぎるイメージが先行しがちだが、それを覆す名文だ。
感動した
【鍾会 〜生まれる時代に恵まれなかった英雄〜】
魏の重鎮、鍾カイの子。
若年からその才を広く知られ、20才という若さで出仕、時の最高権力者、司馬昭に気に入られ、
「我が張子房なり」と言われるが、この時彼は内心不満であった。
何故なら彼は自らを英雄と信じ、自らを鍛え、又、王戎を初め、多くの人物を見いだすなどもしていたからである。
しかし、時代は英雄を欲する乱世では無く、彼は司馬昭ごときの下で働かねばならなかったのである。
彼には盗みや詐欺を行ったとした記録があるが、思えば彼の仕えた魏王朝の実質的な創始者である曹操も若き日は花嫁泥棒などの悪事を働いたものであった。
兎も角、彼は司馬昭の下で数々の謀略を使い、その実力を天下に知らしめた。
263年、三国の一国、蜀の討伐に任命されたのは、やはり彼でなくては一国を滅ぼすような大事業を行えないという衆目一致の見解であろう。
蜀には姜維という三国一の猛将がいたが、彼は姜維を自ら剣閣に引きつけ、吃音で文官上がりのケ艾に蜀の本拠・成都を突かせるという名采配を見せる。
そして見事蜀を陥した彼は、念願の英雄になろうとした。「劉備ぐらいにはなれよう」という言葉は、
先ずは劉備、そして漢中より天下を覇した劉邦たらんとする彼の決意の現れである。
その大器に、猛将姜維も心から心服し、彼と共に天下を目指そうとする。
しかし、成都を突くという華々しい戦績を与えてもらったにも関わらずケ艾は彼に承伏せず、やもなく彼はケ艾を謀殺する。
ケ艾は司馬氏に阿り、戦時に関しても驕慢で、蜀と魏の国力差も考えずに「姜維は名将だが、同時代に私が居たことが奴の不幸だ」などの言があった。
その様な男の配下である兵士達に彼の高き志が分かろう筈もなく、彼はケ艾系の兵士達に反乱を起こされ名も無き男の刃に倒れた。
その虚しき死も、あるいは英雄らしい虚しさを秘めているといえよう。姜維も、彼に殉じた。
英雄達の時代――後に三国志と呼ばれ、広く人々に愛される物語は彼の死を持って終わりを迎えるのである
鍾会で終わる三国志か。なかなか素晴らしい。
こういうサブタイトルがついてるのもイイネ
【刑道栄】【王双】
刑道栄伝にはこのようにある。
「武勇轟天 彼智勇非凡也」と。
六十斤もの大斧を振るう姿から「斧夷将軍」と呼ばれる。
成り行き上、零陵太守劉度に仕えていたが、先賊首劉備によって攻められる。
その時、刑道栄は病身ながらも出陣が、奮闘虚しく兵力差があったため敗れ、捕らえられる。
しかし、持ち前の怪力を活かし番兵を絞め殺し脱獄。
そのまま隴西に逃げる。ここで、刑道栄伝での刑道栄の記述は終わる。
しかし、刑道栄伝には続きがある。
刑道栄は名前を【王双】偽り、日々鍛錬にいそしんでいたが、
後賊首劉禅配下悪鬼諸葛孔明の南賊軍を危惧した大魏大将軍曹真によりその才能を見出される。
時の大魏皇帝曹叡もまたその怪力に惚れ込み虎威将軍に任命する。
その後、悪鬼諸葛孔明の南賊軍を散々に打ち破るも、天命には勝てず、陣中で没す。
曹真はそれを聞いたとき「王双が、王双が死んだ、う〜ん」とうなり昏倒してしまったと言う。
また、この時の武功から死後、征呂将軍 武安国、征張将軍 曹豹と並び、征趙将軍と呼ばれ
曹叡はこの三人を総じて斬武三将軍と称された。
【黄皓】
宦官でありながらたぐいまれな才覚を劉禅に認められ董允の死後、政務を任されるようになる。
人並み外れたその能力に期待を寄せる者もいたが、悲しいかな彼は宦官であった。
「寵愛をかさに好き放題」 「劉禅に阿り私服を肥やしている」
清廉潔白な彼を心無い中傷が襲い、百官は彼の言がどのようなものであっても必ず反対した。
彼は、高祖劉邦に倣い天然の要害に守られた蜀の地で力を蓄え、機を見て一気に中原に撃って出るべきだと訴えたが、
兵権、すなわち実権を握っていた姜維をはじめとする諸将は強く反対し、たびたび魏の国境を脅かした。
しかし寡ない国力を更にすり減らして得た戦果ははかばかしいものではなかった。
このままではそう遠くない将来、亡国の憂き目を見ると考えた黄皓は蜀を救うべくあらゆる手を尽くす。
その中には祈祷や呪いの類のものもあった。彼を快く思わない者たちはそれすらも悪意をもって解釈した。
やがて魏の大軍が成都に迫り、劉禅が無血開城を選ぶと、黄皓は落胆する間も惜しんで奔走した。
私財の全てを魏の高官へとばら撒き、劉禅の身の安全を確保したのである。が、彼自身は司馬昭に処刑されてしまう。
黄皓の死を知った劉禅は蜀漢の復興を諦め安楽公として余生を過ごした。
董卓ネタでもう一発
【董卓】
後漢最後の大政治家で、悲劇の改革者。字仲頴。
若い頃から西涼出身のエリート武将として前途を嘱望され、
シルクロードの覇者として漢民族・異民族を問わず信望を集めていた。
後漢末期の朝廷は権力闘争に明け暮れ、まともな政治が出来る人物も
居なかったため、政治改革を志す董卓は後漢を復興しようとする
熱い決意の元、洛陽へ乗り込む。
干されていた改革派の官僚を次々に起用し、無能な少帝を廃位させ、
優秀な陳留王を帝位に付けるなど、抜本的な政治改革を徹底的に
行い、一時的に後漢を立て直すことに成功する。
しかし、その行動は守旧派の反感を買い、彼等は董卓が信頼して大事を
伴に語っていた袁紹を中心として謀叛を起こし、偽の勅令をばら撒いて
洛陽に攻め込んだ。平和主義者董卓は袁紹達を初めは許そうと
考え、部下を派遣して戦争の愚かさを訴えたが、袁紹は全く聞く耳を
持たない頭の固い人間であり、使者を却って殺してしまう。
董卓は徹底抗戦を主張する部下を抑え、戦争を避けるため長安へ逃亡し、
そこでも手腕を発揮して巨大な城を築くなど改革を続けたが、
董卓の財産を狙った悪人呂布・王允に殺されてしまった。
董卓と伴に改革を行っていた軍師・蔡ヨウは改革の終焉を悟り、
董卓を哀悼した挙句王允に殺されたという。しかし、その政治哲学は
蔡ヨウの娘・文姫と結婚した董卓一門の董祀に伝えられ、
董祀・文姫を伴に配下とした曹操によって実行されたのである。
245とからめて作ってみた。
【黄皓】
蜀漢の宦官。そのたぐいまれな頭脳をもって劉禅に仕える。劉禅の三国均衡策に唯一賛同した。
劉禅がその地位ゆえに表立って戦争に反対できないと見るやすぐに自分の上奏として撤兵を進言するなど巧みにその意に沿った。
また、限定戦争におけるスペシャリストとして閻于を推薦するなど軍事にも明るかった。実際に閻于は挑発に乗ることなく見事な退却を見せている。
諸葛亮亡き後、姜維によって無謀な北伐が繰り返されるとこれを何度も引きとめようとした。
政治面でも自ら賭博場を管理するなどして大いに経済を発展させた。
劉禅が降伏するに当っては進んで売国奴の汚名を買い心無い臣下によって切り刻まれてしまった。
蜀の民はひそかに悲しんだという。
またその死に際して劉禅に暗愚の王として振舞うよう、最後の進言をして果てた。
俺、スレ主ではないけどそろそろまとめたいと思います。
今から連張り失礼。
ちょっと類型しにくいものは勝手ながら割愛しました。
第1部
>>115-121
271 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 02:31:49
終わり。ついでにageます。
ローカル武将でやろうかと思ったがただの良い所発見に終わりそうで止めた
273 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 04:09:09
【小早川秀秋】
豊臣秀吉からその才を愛された稀代の名将である。
北政所の甥として生まれ、その才を見込まれて秀吉の猶子となり
将来的に秀吉を継いで関白となるはずであったが、策謀家である小早川隆景の策謀により
五大老の一人である小早川隆景の養子となった。
小早川家では天下に名高い秀秋が養子に来るということで大歓迎され、
感激した隆景は2年後に秀秋に家督を譲っている。この時わずか13歳であった。
後に秀吉の朝鮮征伐では、一軍を率い明軍を何度も撃破するが、その活躍を妬んだ
石田三成や小西行長などにより讒言されたが、秀秋の評価は変わらなかった。
1600年に関ヶ原合戦が勃発すると西軍に組するが、
秀秋のアドバイスによって家康が動いたことはあまり知られていない。
決戦当日には不甲斐ない家康に激怒し、山を下って大谷吉継や宇喜多秀家を撃破している。
戦後、その才を危険視された秀秋は家康に毒殺され、
江戸期を通じて「岡山城の乱行」と悪評されたが、それが無実である事は
この読者なら容易に分かるであろう。
魏延
劉表、韓玄、劉備に仕えた。
劉備に仕えた際、諸葛亮は魏延を「気骨がある人だ」と評したが、
周囲が「反骨の相」と聞き違え、大変な誤解を呼んだ。
この誤解を解くため、魏延はその生涯を捧げて戦い続けることになる。
落鳳坡でも街亭でも、幾重にも包囲されながら降伏することなく孤軍奮闘。
生きて帰らぬことを覚悟の上で、単独での子午谷経由の長安急襲作戦を立案したが、
魏延の命を惜しんだ諸葛亮は必死にこれを諌めた。
極めつけは、司馬懿親子を谷に誘い込み、自分もろとも焼き殺そうとした捨て身の火計である。
雨さえなければ、魏延は満足そうに笑って蜀に殉じていたに違いない。
反骨どころか、己の生命すら省みず蜀に忠誠を誓っていた証左である。
あまりに熱烈な忠誠心のため、楊儀や姜維ら若い世代から煙たがられるようになったほどである。
しかし、三国志史上最強と言われる猛者・韓玄を斬っての華々しい登場とは裏腹に、
その実像は勇猛とはかけ離れている。
蜀に攻め入った際には、あわやケ賢に殺されかかったが、流れ矢がケ賢に当たって九死に一生を得る。
葭萌関の馬超軍との戦いでは、馬超と馬岱を勘違いしたあげく、馬岱の矢で痛手を負ってみっともなく逃げ回る。
南蛮征伐では、木鹿大王の猛獣軍に散々に痛めつけられる。
藤甲軍にも全く歯が立たず15連敗。
その最期も、「俺を殺せるものがあるか」叫んだ途端に馬岱の一太刀で真っぷたつにされてしまった。
三度叫ぶ暇さえなかった。
戦場に出て刀を振るうよりは、王宮で劉禅の教育係などを務めるべき人材であった。
ひとつの誤解が良臣を凡将に変え、満足できる死に場所さえ奪ってしまった、悲劇の例である。
俺的に
>>195の信玄伝が大ヒット
腹が痛い・・・w
276 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 15:00:31
>274
演義準拠で良将評価すね。
「教育係などを務めるべき人材であった」に根拠を付けると
もっとおもしろそうで、それが心残り。
でも、良い意味でトリッキーだし、カッコイイすね。
武田信玄
鎌倉以来の名門の家系に生まれたが、武将としての器量はパッとしなかった。
しかし、彼の代に大金脈が掘り当てられ、その資本力を背景に甲信地方の山間部において一勢力を築き上げた。
分国法「甲州法度之次第」や治水事業などでも知られる。
しかし、その他の領土経営、家臣掌握、軍事行動などでは、ほぼ全ての面で失敗。
周りの大国との従属的な同盟関係により、辛うじて生き永らえたが、晩年、頼みの綱だった金脈も尽きはじめる。
家運を賭けて裕福な東海地方への進出を目指したが、その軍事行動の途中、目的を果たす事もなく陣中において病没。
彼の死後、家は間もなく滅亡した。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 23:53:29
霊帝
後漢最後の明君
後漢第12第皇帝。
衰えつつあった漢を延命させた明君。
即位してまもなく、竇武,陳蕃らを始め100名あまりを処断するなど、
決断力の高さをみせる。
黄巾の乱、もともと屠殺業者であった何進を大将軍にするなど、
異例の抜擢を行い平定する。
出自にとらわれず、その人物真価をみぬく明君であった。
(余談だが身分にとらわれず冠位をあたえるなど人事改革も)
その後も,各地で起こる反乱の平定に生涯をかける。
その苦難に満ちあふれた人生と裏腹にその人柄は陽気で、犬に冠をかぶせるなどユーモアあふれる人物であった。
しかし、彼の思いとは異なり士太夫と宦官の権力争いはしだいに激化。
朝廷内部に大きな亀裂がはいってしまう。
その様な状況を憂いながら病にたおれ、かえらぬ人となってしまう。
まだ34才と言うあまりにも早すぎる死であった。
彼の死を契機とし、求心力をうしなった王朝は急速に崩壊にむかうのであった。
彼が長生きしたならば歴史はかわったであろう。
張譲ってもうでたっけ?
>282
誰が(凡君を)凡君の様に語れと言った!!
下がってるな。ageとこうかな
285 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 20:46:41
織田信雄
織田信長の次男。偉大な父の血を受け継いだ名将である。彼は信長の苛烈な性格と粛清癖を見抜いていた。そのため幼い頃は目立たぬよう振る舞っていたのだが、この演技を見抜けなかった回りの者達は彼を暗愚だと評価していた。
そんな彼が真価を発揮し始めたのは本能寺の変の後、徳川と羽柴の争いの時であった。
織田家乗っとりを謀る秀吉を倒すため、機を見るに敏な彼はすかさず家康と結ぶ。秀吉が彼の家老を調略した際には、迷わずに裏切り者を処断している。この辺りの決断の早さはやはり父譲りといえよう。
さて、秀吉軍十万に対して、信雄・家康連合軍は三万程度であった。しかし信雄の巧みな用兵は秀吉軍を寄せ付けない。痺を切らした秀吉は卑怯にも信雄の本国・伊勢を襲撃した。やむなく信雄は秀吉と和を結ぶ。家康は尚も徹底抗戦を訴えたが、信雄に諭されて秀吉和睦した。
おそらく彼には時代の流れが見えていたのだろう。これからは秀吉の、そして平和の時代だということが。
彼はもう歴史の表舞台に立とうとせず、豊臣の世が終って徳川の治世をむかえた頃に安らかに死んだ。
演義基準?正史基準?
>>286 ご自由に。つか自分の料理しやすいエピソードだけを両方からいいとこ取りすればいい。
【宇喜多直家】
兵を思い、民を愛し、正義を重んじた純粋な武将として有名である。
6歳のとき、浦上家の重臣だった祖父が同僚・島村貫阿弥に攻められて自害するという悲運に見舞われた。
両親ともども各地を転々とし辛酸を舐め、流浪の中で父が没した。
美しかった母は浦上宗景に召し出され、直家はおばの尼僧に育てられた。
直家の誠実な人柄と倫理観は、この不遇の少年時代に磨かれた。
直家は平和な暮らしを壊した島村貫阿弥を許せなかったが、そればかりではない。
自分のような不幸な子供を果てしなく生み出す戦国という時代を終息させたいと心から願うようになった。
幼い直家は小さな体に大きな願いを宿し、あえて戦国の荒海に乗り出すことを決意する。
直家は母の口添えもあって浦上宗景に仕え、お家再興を果たした。
直家は祖父の時代の旧臣たちを呼び集め、暮らしに困った民を兵卒として召抱えることができた。
たちまち戦争で手柄を立てた直家は浦上家の前線・乙子城の城主に任じられ、この城を守り抜いた。
直家という武将のやさしさ、つよさを伝えるエピソードがある。
直家はもちろん家臣一同みなみずから耕作して民の労苦を味わい、
一ヶ月に数度は失食と称して絶食して民の生活苦しさを思ったのだという。
1559年、直家は浦上宗景に命じられて、愛する妻の父・中山信正を殺害した。
宗景は嗜虐的な性格であったのだろう。主君の命令には逆らえない。
自分は力があれば、妻を嘆かせることはなかったのに、と直家は純粋な心を痛めたのはいうまでもない。
平和を作るためには、力が必要だ。もっと強く。もっと大きく。
合戦は華々しいが、当然敵味方多くの兵の命が損なわれる。
「一将功なりて万骨枯る」という言葉を、誠実な直家は戒めとしていた。
島村貫阿弥を滅ぼし、祖父の仇討ちを果たした直家は、備前の国に王道楽土を建設するために邁進する。
美作の土豪たちはたびたび備前に攻め込み、民を虐殺したり米を略奪したりしたので、知恵を絞って平定した。
さらに備前・美作の支配を企み、侵略行為を繰り返す備中の三村一族を、激しい抗争の果てに撃退した。
また、評判が高まる一方の直家に醜い嫉妬の心を抱き、邪魔を仕掛けるようになった宗景を、工夫を凝らして排除した。
直家の王道楽土を破壊しようとする陰謀に娘婿が荷担したこともあったが、正義の為に涙を飲んで滅ぼした。
純粋で偉大な精神に、やはりこの時代の殺伐とした空気は耐えられなかったのかもしれない。
聖将・直家の旗の下に、備前美作には平和と秩序が取り戻され、新たな城下町・岡山は繁栄した。
しかし、彼は残された余命が短いことを悟っていた。
中国地方に進出した織田氏の武将・羽柴秀吉の天性の素質を見抜いた。
彼なら天下統一を果たすことができる。そう信じた直家は、息子秀家を秀吉に託すよう
言い残し、涼血塗られた時代に誠実に生きようとした名将は世を去った。享年五十三。
法名は、雲院天徳星友大居士。まさに爽やかで純粋な彼にふさわしい名である。
しまった、一字抜けた。法名は
涼雲院天徳星友大居士
梟雄を聖人のように説明してみたつもりだが、どうだろう。
>>291 いいよいいよ、郷土人の俺としてはものすごく良かった。
華佗。稀代の詐欺師。薮医者
字は元化。
「麻沸散」という麻酔薬を使用したとされるが。
おそらく、鈍器で後頭部を殴打したものと推測される。
その証拠に各地を転々している。
遺族からの訴訟から逃れるためであろう。
関羽は彼を天下一の名医と讃えが。
碁に夢中であんまよく覚えてないので、適当にいったのであろう。
曹操の頭痛を直そうとしたが、
無理なので嘘をついて逃げようとしたところを、投獄されている。
彼の残した青嚢の書は役に立たないので、
呉押獄の妻に薪がわりにやかれた話は有名。
しかも、関羽も巻き添えで
テキトーな人物になってるってのも面白いすね。
張飛
字を翼徳という。
猫の仲間のような顔をしていると評判の男
その実態は、酒乱癖のアル中でしかない。
酒の勢いに任せて県兵を殺したりするなど残虐非道極まりなく
また、禁酒令を自ら破ったことを糾弾されると理屈そっちのけで
批判したものを殴って重傷を負わせたりもするなど
孫皓、董卓も真っ青の暴君振りを発揮した。
年をとるにつれ、猿知恵がついて回るようになり
小細工を弄しては喜んでいた。
最後は、暴君にふさわしく勇敢なる二人の勇者によって討たれた。
>>298 まぁいいじゃないか。名将を凡将にしてる条件は満たしてるわけだし。
ただもうちょっとひねりが欲しかったな。
300ゲット
【方広寺梵鐘】
1614年京都生まれ。生みの父は芥田五郎右衛門充商。
秀吉没後、家康の専横に悩まされる豊臣家にあって、
豊臣方の平和への期待を一身に集めた悲運の名将。
芥田氏は播磨・芥田城主をつとめ、当代一流の棟梁としてその力量が天下に轟いていた。
すぐれた素質に加え、天下の名匠・三条釜座の名越弥右衛門尉三昌によって
徹底的に鋳込まれた彼は、まさに生まれながらの名将の器をもっていたといえよう。
容易に打ち破ることの出来ない頑強と、一見武骨な表情、堂々たる体躯を持ちながら、
一方で打てば響くような聡明さや、公家たちも聞きほれたという柔らかな声を持ち、
口さがない京雀たちの評判が高かった。そのことは、
彼の素晴らしさが多くの書物にも記され、姿が絵に描かれていることでわかる。
まさに豊臣の天下を守護する重鎮であった。
しかし「国家安泰・君臣豊楽」という、天下泰平を願った彼の言葉に
腹黒い徳川家康に難癖をつけ、結局天下の命運を望まぬまま変えてしまった。
彼は、豊臣家の滅亡をただじっと見つめるよりほかなかった。
大阪の陣後も生き長らえた彼は、静かに豊臣家の人々の菩提を弔ったという。
梵鐘を名将のように説(ry
304 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:11:51
ほほう・・・
柴田勝家
織田家臣。初めは信行に属するが、保身のためあっさりと裏切り死に至らしめた。
信長の下でそれなりの戦功をあげるが、
百姓上がりが数日でこなした仕事に失敗するなど、能力の低さをたびたび露呈した。
短気で粗暴な人物としても知られ、近江長光城に篭城したさい、
ただでさえ水が少ないのに、無計画に水を使い、最後に残った水瓶を八つ当たりで壊したという。
当然、兵達からは怨嗟の声で溢れ、多くの将兵の人望を失った。
この時の行いが彼の死に繋がったと後世の歴史家は語る。
仕官歴が長いという理由で、北陸方面の司令官に任命されるが、
秀吉の忠告を無視して進軍、上杉謙信に大敗を喫するなど、北陸攻略は遅々として進まなかった。
本能寺の変後、織田家の後継者問題が勃発。
当主・信忠の嫡子である三法師でなく、信孝を支持するなど非常識な行動に出る。
これだけに留まらず、後ろ盾の欲しかった信孝の弱みに付け込み、
天下一の美女・お市の方を妻に要求するなどした。
この一連の行いに激怒した秀吉と賤ケ岳で戦うが、大敗、部下を身代わりに逃亡。
居城・北ノ庄にたどり着いた時、周りに居たのはわずか数百名であった。
佐久間盛政の命令違反、前田利家の離脱などと並び、彼の指導力・人望の無さを証明している。
最後は潔く散るかと思いきや、兵士一人一人と会見、自分に殉死するよう精神的圧力をかけ、
嫁いで半年あまりである、お市の方まで巻き込み、自害して果てた。
文才ねえな・・・。
>>305 そんなことないよ。なかなかのものでしたよ。
名将を凡将のように説明するスレに変更?
308 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 12:11:02
309 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 12:13:06
1 名前:無名武将@お腹せっぷく 05/02/09 01:19:20
ルール:凡将を名将のように紹介するスレ。その逆もあり。三国志、戦国どっちもあり。人物重複おk
~~~~~~~~~~~~
310 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 12:13:56
ずれたorz
311 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 12:20:59
【王平】
横柄な性格だった。
>311
何じゃそりゃw
信長
うつけ
314 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 14:43:02
【朝倉義景】
越前一乗谷の大名。
隣国加賀の強大な一向一揆勢力を相手に互角の戦いを続け、よく押さえる
一方で若狭をほぼ属国化することに成功する。
また一介の浪人であった若き日の明智光秀を即座に登用するなど
優れた慧眼の持ち主であった。
しかしあくまで客分として遇したのは、
その心底に潜む謀反気を見抜いていたからであろう。
やがて織田信長が台頭してくると三好松永等が尾を振ってこれに従い、
同盟相手の浅井長政までもが信長の女婿になる中、
ただ一人同心せず、敢然とその前に立ちはだかった。
元亀元年、信長軍一〇万に攻められた際には
よく守りわずか2城しか落とされなかったという。(続く)
315 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 14:46:42
それどころか浅井長政を再び寝返らせ、挟み撃ちにして撃退するという
一発逆転の「朝倉マジック」を炸裂させ天下にその名を轟かせた。
四散した信長軍には苛烈極まる追い討ちをかけ
明智光秀、木下秀吉、徳川家康といった家中でも名だたる戦巧者たちを
散々に苦しめた。
その後姉川で敗北するも即座に体勢を建て直し
自ら三万もの軍勢を率いて比叡山に立てこもるという奇策を用いて
信長を絶体絶命の窮地に陥れた。
当時は天下の耳目が義景の一挙手一投足に注目しており、
そのことは義景が兵を引いた途端に
武田信玄から書状が届けられたことからも窺われる。(続く)
316 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 14:48:42
次第に形勢が不利になってきてもどこ吹く風で女淫に耽るなど
生涯持ち前の剛胆さを失うことがなく、
最期は織田の者の手にかかるよりはと一族の
朝倉景鏡に従容として首を討たれた。
義景の死後、越前は瞬く間に一向一揆の手に落ちたという。
>>99さんの関羽が最高ですw
最後までみじめな奴だったんですな…
318 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 17:05:34
すげえ慣れあいスレだな
イイヨイイヨとかワロタとか
どんどん内容悪くなってるのに気づいてないバカの集まりだな
320 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 17:24:01
でも、確かに最近は少し馴れ合い気味だったかも
知れません。その点は俺も反省します。
ところで
>>318さんはどの作品が良かったすか?
322 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 17:38:43
323 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 17:57:10
最近、生意気が増えすぎだと思う。
ファミレスでステーキ頼んだら焼き方はどうしましょうか?とか聞きやがる。
焼き方くらい自分で決めろ。お前らプロだろが。客に助言を求めるな。生意気だ。
仕方がないから、お任せしますと言えば言ったで何だよお前。
ステーキ置いて一言、レアです。何だそれ。自分でプレミア認定かよ。オークションで転売したろかボケ。
お前の持ってきたステーキのどこがレアだ。どこにでもあるステーキじゃねぇか。この自意識過剰が。生意気だ。
それで一口食べてみたら何だよお前ふざけんな。生焼きだ。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 18:24:01
こういう場合は軽くスルーすべきす。
豊臣秀吉
主の家を裏切り天下を乗っ取り、錯乱し大陸に進出した極悪人。
尾張中村の生まれ。父木下弥右衛門、母なか。
兵糧攻め、水攻めを得意とし、数々の敵兵をただいたぶり、
餓死・病死に至らしめる大量殺人狂。冷血漢。
本能寺の変・山崎の戦後は主君、信長の正当後継者たる信雄
・信孝を退ける不忠義者。また、幼子であった秀信を手なず
け、後継者とするも、その約束を反古にし、天下を乗っ取っ
た。
また、将軍になりたいが為、貧民出身にも関わらず、源氏を
名乗るがため、かつての敵である足利義昭の養子になろうと
する節操の無さ。しかも失敗に終わる交渉下手。
源氏が駄目なら藤原氏を名乗ろうとする度重なる節操の無さ
を繰り返し、公家を買収するといった汚職行為も行なった。
女好きで、20数名の側室を抱えるも、種無しであった為、子
はなしで、武将として不完全な一面も露呈。
鶴松・秀頼は実子とされてはいるが、淀殿の相手は臣下であ
る大野治長等諸説あり。臣下に愛妾を奪われる体たらくぶり
も露見。
また、自分の実子ではない秀頼を溺愛し、血のつながった秀
次を切腹させるどう考えても理解できない行動に出る。恐ら
く、秀次切腹時には痴呆もしくは精神錯乱を来していた可能
性が高い。
実の母や妹を徳川に人質に送る冷血な一面も発揮。
また、朝鮮出兵と言った愚かかつ不可能なことも実行。これ
により豊臣政権の実質的破綻を作る発端となる。
あまりいい出来ではないかな…。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 03:54:22
【上杉謙信】
越後春日山城主。関東管領。ホモ。インポ。
若い頃から勤王にかぶれ、当主となった後には国政も省みず二度も上洛を果たすが、
三好松永の専横の前に為す術もなく帰国し、
みすみす将軍を死なせてしまう。
やがて政治能力はないが戦が巧かったことから
念願の関東管領に任官することに成功する。
しかし勇躍して行った小田原攻めでは
十一万三〇〇〇という未曾有の大軍で囲んだにも関わらず
落とせず天下に恥を晒した。
331 :
続き:05/02/26 03:57:48
名誉回復とばかりに催した任官式でも、成田氏長に見当違いの折檻を加え、
更に片手落ちの裁定を下すなど有職故実に通じていないばかりか
紛争処理能力すら欠如しているという無知蒙昧ぶりをさらけ出し、
その権威と信用を大いに堕とした。
その上信濃では武田信玄相手に圧倒的に有利な立場でありながら
敗北を喫し、強い強いと言われながら
ここ一番に弱いという欠点を露呈させてしまう。
332 :
続き:05/02/26 04:04:00
その後は徹底して信玄の策略に踊らされ、西は越中から東は揚北と
きりきり舞いする様はさながら赤備えに興奮する暴れ牛の如くであった。
役職がら関東にも毎年討ち入ったが、
領土欲がなく家臣への恩賞も不十分であったため度々謀反に合い、
しかも関東では北条とイタチごっこを繰り返し
諸大名にも嘗められっぱなしという有り様であった。
それでも飽きることなく同じ行動を繰り返すという、
応用の利かない教科書型人間であり、
これが後世「のぶやぼのCPUの方が個性がある」と揶揄されることになる。
また己の不徳を認めず逆ギレ出家するという無責任な事件も起こしている。
【夏侯楙】
魏の名将、夏侯惇の次男。彼の家は父が貯蓄に無関心だったため役所からの支給まで受けていた。
そんな環境が彼を経済感覚に富んだ優れた人物に育て上げた。
武について劣っていたといわれるが、曹丕の時代に夏侯淵の跡を継いで関中を統率しているため、
おそらくこれは彼が自らの実力を隠し通すために流した偽の評ではないのだろうか?
また、その才を愛した曹操から娘を与えられたことなど、並々ならない人物であったことが伺える。
さて、蜀の諸葛亮一回目の北伐時に上記の策にまんまとはまった魏延が、
「夏侯楙は年若く臆病で無能な男なので、私が長安を責めれば必ず奴は逃げ出し長安は手に入る。」
と進言したが、諸葛亮は夏侯楙を恐れその策を採用しなかった。
英雄は英雄を知るとはまさにこの事である
334 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 12:57:30
袁紹 字 本初
東漢末期に活躍した武将
四世三公と謳われた名門袁家に育つ
若い頃から名声は高く彼と誼を結ぼうとする者は後を立たなかった
董卓が朝廷を壟断した時も袁紹を味方に引き入れようとしたが皇室への忠誠心でこれを拒否
暴政に反旗を翻し友人の曹操や従兄弟の袁術などを伴い関東諸侯を纏め上げ董卓に対抗する
一族の大勢を失っても戦い続ける彼に各地の諸侯が味方した
しかし同じ名門袁家の本流を継いだ袁術はこれを快く思わずに袁紹への対抗心を燃やしこれによって連合は頓挫する事になった
だが天は袁紹を見捨てておらず董卓は裏切りによって横死する
袁紹の望み通り東漢は滅亡の難を逃れるものの時は既に遅く袁紹の思いとは裏腹に群雄割拠の戦乱の時代は始まってしまった
乱れた国を憂いた袁紹は天下を建て直すべく中原の戦乱を収めるべく盟友の曹操と東奔西走する
皇族を私欲で殺害した北の公孫サンを打ち破り河北一帯に平穏をもたらし善政を施す
この時の治世はあまりに素晴らしかったのか後々まで彼の治世を懐かしむ人々が多かったと言う
しかし時代は袁紹に休息の時を与えない
中原を根拠に皇帝を擁護していた親友曹操が皇帝を傀儡とし我欲で天下を壟断しようとし始める
袁紹は友情と忠義の板ばさみに苦悩しつつ国のため戦の天才曹操に戦いを挑む
官渡で痛い一敗すると支配地域で反乱が勃発するもこれを収拾
そして曹操と決着を付けようとするも病によってこの世を去る
彼の死後も曹操は袁紹の支配下だった地域を中々攻める事ができなかった
しかし偉大な父を持った子の不幸ゆえか息子たちはその遺産を巡って争い曹操に付け込まれ袁家は歴史の表舞台から姿を消す事になった
もし袁紹がもう少し長く生きていれば魏晋南北朝の戦乱は起きなかったかも知れないと思うと実に残念な事である
>>334 んー、なんか名将のようで名将じゃなく。
かといって、凡将でもない。
微妙な感じだな。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 21:22:29
【立花宗茂】
大友・豊臣・徳川と二度も主家を変えた変節漢。
大友家臣高橋家の嫡子に生まれながら父に疎まれ、
他家へ養子にやられてしまう。
入った先の立花家でも可愛げのなさが災いして
素足に栗の毬を押しつけられるなどのイジメを受けるが
これは自業自得というものであろう。
長じて家督を継いだ後も幼き日の恨みを忘れられず、
島津が大軍で攻め寄せてきた時には後詰めもせずに実父を見殺しにした。
さらに父だけでなく母・弟までもが島津の手に落ちてもなお
ビクビクと城に籠もったきりであった。
337 :
続き:05/02/26 21:25:41
朝鮮出兵では小早川の走狗となって猪突猛進するも
留守中妻を秀吉に寝取られ天下の笑い者となる。
帰国後も生来の狭量ゆえにこの事を水に流せず別居の運びとなる。
また朝鮮撤退時には頼まれてもいないくせに
恩着せがましく自軍を後回しにしたり
挙兵した三成に加勢するために領国をほっぽり出して上洛するなど
極めて独善的で自己中心的な武将であった。
関ヶ原以後改易となった時には多くの領民が胸をなで下ろしたことであろう。
338 :
続き:05/02/26 21:29:07
当然の報いである。
しかし未練がましく秀忠に泣きつき、
捨て扶持を与えられて低い誇りを保った。
浪人中無禄で支えた家臣達にさえ思いやりの欠片も見せず、
それどころか飯が気に入らんと文句をつけたというからすさまじい。
大坂の陣では加増されたいという我欲をむき出しにして
旧主を滅ぼすのに一役かい、
その後まんまと旧領に復した。
領民の失望落胆たるや推して知るべし。
【雷薄】
成帝国初代皇帝袁術配下の忠臣。
逆臣呂布征討軍の一員として一軍を率いて出陣するも、
勝利目前で心無い家臣の裏切りにより袁術軍は惜しくも敗北。
このとき呂布は「総大将が張勲ではなく雷薄であったのならば、
わしは今ごろこの世にいなかった」と嘆息したという。
のち、袁術が落ちぶれると離反し山賊になったと、演義では捏造されているが、
晋代に成立した「雷薄別伝」によると、同僚陳蘭とともに養蜂業をはじめ、成帝国
の財政を懸命にささえたものの、袁術側近の讒言により受け入れられなかったことが
記されている。袁術は(雷薄が作った)蜜の入った水を求めたもののそれがえられぬこと
がわかると落胆のあまり血を吐いて絶命したという。
>>339 一つだけ言わせてもらうと助かった人間が嘆息するというのは文法的に変だぞ
×「文法的に」
○「意味的に」
立花道雪
大友家の厄介者
若いころに、雷を切ったと嘘をつき
豪将として虚名を上げるが
実際は雷に驚いて階段から転げ落ち脊髄を損傷と思われる。
また、狭量で正月の帰省を許さないばかりか
正月に家族に会いに行った兵士を切る始末。
さらに、輿に乗って出陣させてもらっているのに
偉そうに兵士が逃げようとすると「逃げるならわしの輿を置いてゆけ!」と
意味不明の言動を戦争のたびに繰り返したという。
これは、兵士の士気を挙げるためだろうが実際は士気ががた落ちして
大友家は衰退の一途をたどる。
身体障害者な上に、知的障害者でもあった。
>>342 貶すのに身体障害だの知的障害だの言われると萎える
>>341 文法で合ってるよ
小学校の先生に聞いてみなさい
>344
スレと関係ないことなのであまり言いたくないけど
341は「非文ではないよね」ってことです。
このスレは嘘は書いても良いんだっけ?
嘘はまずいんじゃないかな。
事実を別の観点で書くという主旨じゃないかな
【朝比奈泰朝】
戦国最悪の恥さらし公家大名・今川家の手下筆頭。
朝比奈一族は掛川城を占拠して今川家の遠州植民地支配を実行した。
泰朝はのちに井伊直親に謀反を計画したとの疑いをかけて虐殺したことで有名。
直親の息子が徳川四天王の一人になるんだから、やっぱり今川家はアホである。
そんなことをやってるもんだから、和歌と蹴鞠のほかに一応弓取りくらいできた義元が死んだあと、
遠州の豪族たちが反旗を翻すのは当たり前。ほっとけば1年で今川が潰れてみんな喜んだのに、
凡将泰朝は史上最悪のバカ・氏真の支配をよせばいいのに10年もささえた。
駿府が武田騎馬軍団に一瞬で攻略されると、わざわざバカを自分の城に迎え入れて、
本気の十分の一も出していない神君家康公と全力で戦った。
バカに忠義を捧げる大バカ者。バカのための戦いで殺された足軽がかわいそうだ。
泰朝は命乞いをしたバカと一緒にあっさり掛川城を退去した後の消息は一切不明。
記録を残す価値なしと見切られた凡将。
【今川氏豊】
戦国屈指の名将・今川氏真の叔父と一般的には言われている。
竹王丸といっていた氏豊は、幼い頃に今川勢力を代表して尾張に送り込まれたらしい。
天下に轟いた今川家の貴公子の登場を、草深い尾張の土豪は諸手をあげて歓迎した。
氏豊は那古屋に城を築いて現在の名古屋城や名古屋の町の基礎を築き、
みゃーみゃー言ってるような無知蒙昧な土豪たちに、氏豊は和歌連歌蹴鞠など文明の何たるかを教えた。
赤味噌、えびフリャー、ういろう、金のしゃちほこなど、現在の名古屋文化の代表とされるものも
氏豊が文化先進地・駿河から伝えたものといわれるが定かではない。
氏豊は寛大な性格で、尾張の土豪連中ともわけへだてなく付き合ったが、
連歌を教えて欲しいと卑屈な態度で氏豊に近づいたのが、野蛮な下衆・織田信秀だった。
氏豊は親友として遇し、誠心誠意尽したが、信秀はろくでもない男だった。
信秀は卑劣な手段で親友を裏切り、城を奪った。尾張人の恥さらしである。
しかし氏豊にはあさましい物欲というものがなかったので信秀を許してやり、
京都に上って平和に人生を終えた。
ちなみに友情を裏切った信秀は、葬式で息子に位牌に灰をぶつけられた。
350 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 21:40:34
>348-349
質が格段に落ちたな・・・。
ageてまで言う必要もないがな。
【飲茶】
地球人の中でも5本の指に入る実力者であり
師である武道の神とまで呼ばれた亀仙人を若くして超える。
その実力は本物の神をも凌駕し、宇宙最強の男である孫悟空からも
「目にも止まらぬスピードでムチャクチャ強かった」
という最高の評価を得ている。
おめこぼし思い出した
354 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:09:05
【淀殿】
戦国一の烈女。
天下人織田信長を叔父に持ち、梟雄浅井長政を父に持つ乱世のサラブレッド。
三国一の器量を讃えられた母市を凌ぐほどの美貌を誇り、
人蕩しの名人と言われた秀吉を逆に蕩し込むという高等テクを見せる。
また、若い頃に二度も落城を経験したことから耐落城性に優れ、
それが大坂の陣での堂々たる態度につながっている。
冬の陣では頼りのない息子秀頼をしっかりと支え、
家中に人なしと見るや真田幸村や後藤又兵衛などの
在野の優秀な人材を抜け目なく取り込み、
寡勢ながら戦局を極めて有利に運んだ。
355 :
続く:05/03/01 18:11:52
しかし時勢が徳川にあることを素早く見抜き、積極的に和睦を進める。
この時諸将に先眼の無さを恥じ入らせないために
大砲におびえたふりをする辺りは誠に心憎いばかりである。
だがその分を弁えた性格が裏目に出、
愚かな浪人どもに押し切られる形で戦の再開を許してしまう。
結果大坂城は落城。淀殿は家康の助命の呼びかけを頑としてはねつけ、
秀頼とともに泰然として自害した。
先年妹を徳川秀忠に輿入れさせており、
生き恥を晒さずとも血筋は途絶えることはないと判断したのであろう。
age
361 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 13:18:36
とりあえずあからさまに貶したり称えたりするから変に見える
普通の文章の中に少しずつ混ぜれば幾分かはマシになる
確かに目的の方向に持ってくのにばかり気が行って肝心のそれらしくみせる所が抜けてる感じがする
推論や口語、直接的表現、過剰な表現は控えた方が良いかと
363 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 13:45:09
こいずみじゅんいちろう
ビンラディンとか正日でも作れそうな気ガス
>>361 マイナー武将はもともと資料が少ないので
ある程度のフクションは仕方ないかと思います。
それがきっと気に食わないんだと思いますが、今までもそうでした。
出来たら「まとめ」を参照してください。
こんなこと言いたくないけど、どこがどう悪いのか具体的に言わないで
しかもageるのは、荒らし以外の何者でもないと俺は思います。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 15:05:43
>>365 概ね同意。
ある程度強引にやるのが面白いと思っていたんだけどな。
林や本多の言いがかりみたく。
いまさらだが
>>12の
>一方で非常に忠義にあふれた
ってのはおかしいんじゃ?
それじゃ孔明が君主みたいだ。
370 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 08:37:20
小泉純一郎
一政治家であったが「日の本を変える!」と保守的な国会を破壊。
なかなか手出しできなかった北朝鮮にとらわれていた人々の問題を
5人返還させ現在も交渉中。大国亜米利加と従属同盟を締結して
いるかのように見られるが、それは周りを欺く計略である。
日の本を破壊する過程で股肱の家臣を数名失っているが、かつての
目標である郵政を民主化するなど、かつてない試みを行っている。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 08:39:20
諸葛亮
蜀に人材がいないと嘆きながらも
当時の戦力部将魏延の焼殺を企む
わけがわからん人
柴田善臣
土日ではお馴染みの人。
年末は有馬記念よりもバリ島を好む変な騎手。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 15:32:43
【毛利輝元】
一代の英傑・元就の孫。父・隆元の急死により若くして家督を継ぐ。
当主となって早々に難攻不落と名高い月山富田城を陥落させ、
天下に勇名を馳せる。
その後も将軍足利義昭を推戴して
天下人織田信長相手に一歩も引かず戦いを続け、
別所長治を寝返らせたり、織田水軍を壊滅させて本願寺に支援をしたりと
多方面で目覚ましい戦果をあげた。
374 :
続き:05/03/04 15:35:15
やがて本能寺で信長が横死すると
早くから秀吉の器量を見抜いていた輝元は
元就の遺言を守り毛利の安寧を図るため、
即座に和睦に応じ、秀吉を支援した。
そのお陰で秀吉が天下を取ると輝元は五大老の筆頭格となり、
平和のために尽力した。
秀吉の死後、家康が野望を露わにするとこれを討つべく挙兵。
西軍総帥として四万もの軍勢を率い大坂城に入城し、
徹底抗戦の姿勢を貫く。
しかし三成らの独断専行により関ヶ原ではまさかの敗北。
もはや大事は去ったと悟った輝元は無鉄砲な立花宗茂らを嗜め、
大坂城を退去した。
その後はみだりに世を乱さず粛々と仕置きに応じ、
盛者必衰の未来に卷度重来を期し、
やがては長州から新しき時代が幕を開けるであろうことを信じて没した。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 15:38:31
うまい!
376 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 17:06:18
377 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 18:46:34
何進
字は遂高。
市井の屠殺業者から漢王朝の大将軍にまで上り詰めた立志伝中の人物。
彼の在任中に起こった未曾有の農民大反乱である「黄巾の乱」に対し、近衛兵を率い卓越した指揮によって
劣勢を挽回する。将軍として初めての非常事態が誰も経験したことのない未曾有の状況であったにもかかわらず、
半年余りでほぼ鎮圧するなど見事な手腕を発揮した。
その後、宦官達の専横により腐敗の極みにあった政治を正すべく、袁紹らと宦官の排除に乗り出すが、
事が露見し、逆に暗殺されてしまう。激高した袁紹が宦官をみな殺しにするも、
政変をまとめきれたであろう何進ほどの器量は袁紹にはなく、結果として董卓の専横を招いてしまう。
このことが各地行政官の軍閥化を招き、漢朝は滅亡への歩みを早めた。何進が暗殺されなければ、
卓越した彼の手腕によって漢王朝はその命脈を保てたであろう。
何進は普通に名将だったかもしれん
379 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 20:29:37
380 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 00:10:19
住人の多寡は三国志>戦国なんだな。
【山崎拓】
筑前の大名。将軍家のかつての同盟相手であったことから大老に抜擢される。
しかし英雄色を好むの故事通り生来の漁色漢であり、
その癖リンショク家でもあったため女難が絶えず失脚する。
閨房では腹背を突く奇襲戦法を得意としたという。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 05:34:10
孫晧
字は元宗。孫権の孫で孫和の子。呉の最後の皇帝。
当初孫晧は烏程侯に封ぜられていて、帝位は幼少の孫ワンが継ぐはずだった。
しかし多くの人にその才を認められていた孫晧を推す声が強く、
すでに斜陽の色濃い呉の帝位につくことになった。
晋の脅威に晒される国家の危機を打破すべく、
救国の志を同じくする中常侍の岑昏と強力するも、
これを心良く思わない逆臣の濮陽興と張布が二人の邪魔をしたためやむなく処断した。
古い因習に縛られ改革もままならない呉であったので、
年号を改め武昌に遷都するなど改革への手腕を見せた。
晋の呉への侵略の気配をすばやく察すると、
侵略の準備が整う前に逆に攻撃に打って出るなど軍略の面でも高く評価されている。
この際晋の将と通じた陸抗を降格させるなどその智謀も恐るべき物であった。
宴会の最中にも二心を抱く臣下を完全に察知し厳しく処断した。
そうした断固とした態度で国の再建に懸けた孫晧であったが、
すでに荒廃しきった呉では物量を誇る晋の猛攻に耐えかね、
ついに孫晧は自らを縛して降伏した。
無念のうちに敵国、晋に降伏した孫晧であったが、
その人徳は晋でも認められ、帰命侯に封ぜられた。
その後二八三年、洛陽で没し、河南に葬られた。
降将にも関わらず彼の子孫も中郎に封ぜられたことからも
当時から高く評価されていたことが垣間見られる。
孫晧か。結構好きだな。
「臣も同じ席を設け、陛下が来ることをお待ちしておりました」
ってさ・・・ココまで来るともう何がなんだか
386 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 08:49:11
387 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 10:39:16
>>103 バカですねw
藻前は第二次世界大戦の時のアメリカ軍沖縄上陸の時に
使われた「自決」を言ってるんだよ!
氏ね!ホントは自分で決めるって意味なんだよ!
氏ね!氏ね!知ったような口きいてんじゃねぇ!
藻前の言ってる意味の場合、米大統領ウィルソンの民族自決は
民族自殺の意味になるやんけw
ケンカはするなよ。
じけつ 0 【自決】
(名)スル
(1)自分自身に関することを他人の力を借りずに決めること。
「民族―」
(2)主義主張を貫いたり責任をとるため自殺すること。自害。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
>>103 人に注意するときはいちおー調べなさい。恥かくぞ。
390 :
387:05/03/05 11:30:13
【このスレの>387】
2ちゃんねらー。
「自決」を誤って解釈している>103を憂い、>134ですでに説明されている内容を再び
説明するという壮挙を成し遂げた。
しかし結果として既出の内容しか書き込まない>387の行動には批判も多く、
>389をもって「ついでに
>>387も自決したまえ。」と自分のネタを他人の力を借りずに
作ることもできないことを揶揄されるような発言をされることになる。
ちなみに上の説明は、「自決」の使い方としてはあまりふさわしくないことは念のため
明記しておく。
【このスレの>103】
2ちゃんねらー。
「自決」を「自殺」の意味しか知らない2ちゃんねらーのために、わざと間違えたふりを
して書き込み、自らで辞書を開く手間をかけずに>134や>388に調べさせ書き込ませた謀将。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 13:00:21
【河野藤右衛門】
織田家中の侍。
織田家に人質として連れられた松平広忠の子、竹千代(後の徳川家康)の見張り役を任されたが、
竹千代に天下取りの武人としての器を密かに見抜いた河野は、初めはモズ、ヤマガラなどの小鳥を届けて気を惹き、後には鷹狩りの基礎を手解きした。
獲物を追って野山を駆ける鷹狩りを、頑健な身体作りと、武士としての野戦訓練の基礎を兼ねた重宝なものとして、家康はこれを生涯大いに励行した。
居並ぶライバルの老衰を待ちつつ自らも老いと闘う、彼一流の健康人生戦略、
名うての野戦上手と言われた彼の軍事的素養、
家康の特質の土台中の土台造りは、幼い日に河野という男の手によって、密かに始められていたのである。
・・・藤右衛門自身は天下に私心なく、織田家を離れた後は豊臣氏、越後村上氏に仕え、関ヶ原合戦の頃には、既に隠居の身となっていた。
しかし関ヶ原勝利の後に、家康は人を遣って藤右衛門を捜し出し、この人生最初の恩師の一人を、我が側近として重用したという。
・・・なお、藤右衛門の子は、七光りで権門に交わるをよしとせず、その後も越後村上氏に奉職し続け、
村上氏除封の際に、その孫は捨て置かれぬと、徳川秀忠直接の指示で旗本に取り立てたという、影の功労者の子にふさわしく慎ましやかな逸話が残されている。
佐々成政 1536―1588
古今無双の名将、信玄や謙信にも引けをとらない猛将であり
智謀にも優れた信長の腹心である
佐々成政は佐々成宗の第五子として比良城に生まれる
1542年 小豆坂の戦いで初陣を飾る。
この戦いで兄孫介を失った成政はそれにもめげず角田新五を討ち取る
この時の奮戦振りは敵味方から称えられたという。
織田家の発展の基礎となった桶狭間の戦いでも活躍を見せる
信長とともに今川本陣に突撃。その形相は修羅のようだったと言われる。
しかし、この戦いで兄隼人正討死。佐々家の家督は成政が継ぐこととなり比良城主となる
この戦いで功を上げた成政は信長親衛隊黒母衣衆となった
1562年信長が斉藤義龍の軍勢と美濃軽海にて戦う。
全体的に信長が不利であったが成政は稲葉又右衛門という豪のものを討ち取る。
だが、これに対して古今無双の悪事を働いた者がいた。
前田利家、槍の又佐と呼ばれているにも関わらず一人の首級を取れなかった彼は
稲葉又右衛門の首を奪い、自らの手柄にしようとした。
無論、成政はこれに反論、お互い一歩も譲らなかったが柴田勝家が勝手に自らの手柄にしていた
成政はこれを笑って許し器量の大きさを見せたらしい。
1567年 黒母衣衆筆頭となる。この頃利家は未だに赤母衣衆補欠であったらしい。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:47:10
織田家が最も苦戦に陥った金ヶ崎撤退戦では危険な殿軍として残留。
信長は成政が死ぬだろうと思い、非常に悲しんだといわれる
だが、成政は討死するどころか功、そして新しき戦術を考え帰還することとなる
文献にはこう残っている
佐々鉄砲隊は尾根伝いに布陣、二段の構え入替り立ち替り越前勢へ向け鉄砲打ち懸け、加屋場口数刻の取合い罷り退き候なり
成政は鉄砲二段撃ちを独自に考え付き、これを信長に進言。
これが後に信長の命を救うことになった。
成政は姉川の戦いにも従軍。
常に努力し、新しき戦術を考える彼はついに鉄砲三段を発案。
13陣のうち11陣まで突き進んだ浅井勢を撃ち砕き、勝利に大いに貢献する。
無論、長篠の戦いの鉄砲三段は成政の戦術を活用している
その後、浅井朝倉は滅びその髑髏を信長は黄金に塗りそれを酒器にした。
諸将は信長に意見すれば手打ちにされることを恐れ誰一人として反論しなかった。
――しかし、成政だけはこれに意見した。
「古書に云く王者四海を以て家となし億兆を子と為す、然り而して
一夫服せざる者あれば徳化あまねく浴からざるを知るべし請う不善を省み以て徳誼を有せ」
※訳)古書によれば、王者は四海をもって家となし、兆民をもって子となすとあります。
誰か一人でもあなたに服しない者がありましたら、殿の徳が至らないことを知るべきです。
どうか、不善を反省し、今以上の徳を有してください
主人の信長に天下を獲らせたい成政はこのようなことがあれば人心離れると思い、手打ちを覚悟で諌めた
信長は家臣たちの不甲斐無さに呆れ返っていたが成政だけは気骨を持っていると判断した
これにより成政を多いに活用し、その腹心として働くこととなる。
換言後信長の自室にて2人で政論を語り合うということがあった。
これだけでも信長が成政をどれだけ信用していたか分かるだろう
395 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:48:21
先ほどの古文を例に出したとおり成政は教養、学問に優れた武将でもあった。
学者の千田吟風に師事し、古今の名将の武功や言行、兵法など幅広く学んでいた
成政の教養は細川藤孝以上のものをもっていたとも言われる
信長が生涯恐れ続けた武田家との決戦も成政の鉄砲三段を利用することとなる
長篠の戦いでは成政は鉄砲奉行として活躍、鉄砲3000のうち1000を与えられた
長篠の戦いでは鉄砲がその主役、事実上の総指揮官であった。
その後次々と功を立てついに越中一国の大名となる
だが、越中内は旧勢力の力未だ強く不安定だったので成政は計略を図る
信忠率いる甲斐侵攻軍が勝頼に大敗したという偽情報を城下にばら撒いた
これにより旧勢力派は蜂起、富山城を占拠した。が、それは成政の計略であった。
武田家はすでに滅亡しており成政は備えていた兵で即座に富山城を奪い返した
これにより越中は平穏となる。
成政は善政も引いた
越中では水害の被害が後を絶たなかったため、
戦いに備えながらも神保長住らを助けて治水事業に力を注いだ。
これは成政堤と言われ民百姓が成政のことを神のように扱ったといわれる
その為、一夜泊稲荷神社には成政(じょうしょう)様が祭られている。
なお、成政堤は非常に精巧に建設され現在でも使われている程である。
まだ、逸話がある
越中の領内で疫病が流行したとき、成政が一夜泊稲荷神社の神に祈ったところ
流行病が即座に治まっていったと呼ばれる。
これにより成政は成政大明神と呼ばれることとなる
なお、越中での彼の善政は彼自身を潤す結果となり
現代に鍬崎山埋蔵金伝説を残すこととなる
396 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:51:10
だが、ここから彼に悲運が舞い込む。
本能寺で信長死亡、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家の敗北。
彼は織田家を乗っ取ろうとする秀吉と一戦する予定であったが
戦上手である成政と戦えば敗北必至と思った秀吉は成政の家臣のように装い和睦した。
しかし、信長の遺志の為、織田家を守る為、成政は信長の遺児である
信雄を立て、徳川家康を味方につけるという秀吉を包囲する
さらに、長宗我部、雑賀らをも動かす政治手腕を見せる
成政は若い頃からの宿敵前田利家の末森城へ攻め込んでいた。
利家は信長の恩を忘れ秀吉についていた。これに成政は激怒していた。
成政の善政にひかれ越中一ヶ国だけで一万という志願兵が集まり
配下にも可児才蔵らを始め勇将が控えこのまま前田、丹羽らを打ち破り
秀吉本隊に迫ることも夢ではなかった。
―――が信雄が秀吉と単独講和。これにより徳川家康も秀吉と講和する。
不屈の闘将、佐々成政はそのような絶望的な状況でも諦めなかった。
越中富山城は秀吉の大軍に包囲されている為、諸大名との連携は不可
397 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:51:52
最後の手段として成政は天下があっと驚く芸当をする
「さらさら越え」
成政は再び徳川家康を動かす為、真冬の飛騨の立山を通り家康に会いに行った
しかし、秀吉に恐怖を抱き戦意を完全に砕かれた家康は応じることはなかった。
これにより、成政は秀吉に降伏するしかなくなったのである
秀吉は成政の手腕を高く買い通常斬首のところ降伏を認め、自軍の配下とした
その後彼は九州へ出陣。
九州平定に多いに功を立て肥前一国という破格の待遇を受ける
だが、秀吉は老いるとともに知恵は曇り、自分の死後の豊臣政権に不安を持った
秀吉は自分に好意を持っていなく、天下獲りの器を持つ成政のことを恐れ始めた
そして、ついに肥前で一揆を策動、それの責任を成政に押し付け切腹させる
成政は尼崎・法園寺にて無念の切腹、これにより成政という名将はこの世を去るのである
長文スマソ、凡将じゃないけど名将でもないんで一応。。
孫堅
字は文台。
私事で荊州刺史を殺害した彼は
董卓と反董卓連合の争いに乗じて利権を確保すべく北上。
我欲に動かされて来たこの無道な男は
途上にある都市、南陽にて太守に兵糧を要求。
当然の如く太守は拒否したが、孫堅は即座に太守を殺害し兵糧を強奪する。
ここまでならばただの賊徒として歴史の闇に葬られるはずであったが、
董卓の無道に対し憤りを感じた一人の憂国の志士が丁度洛陽を脱出し、偶然にも南陽に逃れてきた。
後の成国皇帝、袁術である。
孫堅は、董卓の無道に対して立ち上がったとし、破廉恥にも袁術に軍を提供して大義名分を獲得する。
だが、その後の彼はまるで精彩を欠き、董卓配下の猛将華雄に惨敗して部下を犠牲にしてまでも逃げ出したり、
分不相応にも刺史の座についたりして反董卓連合に不和をもたらしたりと正に疫病神。
挙句の果てに洛陽入場の際に玉璽を私物化するなどという暴挙をしでかし、
連合崩壊の決定的要因まで作りだした。
その後は、劉表が必死に復興させている荊州に眼をつけ、軍を率いて侵略。
だが、荊州そのものが彼のかつての無道を忘れなかったのか、
劉表との仁義に答えた豪族黄祖との戦いにおいて一本の流れ矢が彼を死に至らしめた。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 05:43:27
暗い
島左近
欲に生きた愚将。
筒井家に仕官していた頃から勇名を馳せていたが、一説には所領の水争い
から主君に遺恨を抱き出奔。その浪人中に「財宝を人に惜しみなく分け与える
ような人の家は子孫は長く栄え、そうしない人には災害はほど近く訪れる」などと
親戚を脅迫して金を借りるなど、強欲ぶりは目に余るものがあった。
清廉の人・石田三成は、世間に災いをなす左近の欲を懲らしめようと一計を案じ、
秀吉から拝領した知行4万石の書状を破り、半分を左近に手渡して配下に組み
込み、世間に「三成に過ぎたるものが云々」と喧伝させた。ところが、実際の知行は
1万5千石で、三成が佐和山に移って加増されても左近の知行が増やされることは
なかった。しかし、秀吉の寵臣・三成の配下としてその名が天下に轟いた左近を
引き抜こうとする大名はおらず、左近は歯噛みして悔しがったという。
進退窮まった左近は、それでも欲を捨てず、三成がより大きな所領を持てば
知行が増えるはずと期待し、秀吉死後に徳川家康暗殺を献策するなど、三成を
天下人にするべく暗躍した。三成が優柔不断だったため、策のほとんどが退け
られたものの、左近はついに関ヶ原の合戦を起こさせることに成功した。
左近は合戦では大声を上げ、派手な軍装でとにかく目立ち、加増を夢見て功績を
挙げようとしたものの、戦況は次第に悪化。すると、命が惜しくなった左近は、
地味な鎧に着替え、声を張り上げて周囲を威嚇し、黒田隊を押しのけて戦場から
脱出しようとした。これが、後に黒田家家臣が「あの声に恐れおののき、姿すら
覚えていない」と述懐することになった原因である。家臣の間で左近の軍装に
関する証言が一致しなかったのも無理はない、左近は鎧を変えて逃げようとした
のだから。
結局、左近の首を挙げた者は現れず、脱出に無事成功したものと思われるが、
以後の消息は知られていない。欲にまみれた小人物にありがちな、放浪の末の
野垂れ死にという目に遭ったとするのが妥当なところだが、家康の影武者に取り
入って再び天下と大きな知行を狙ったとする噂もある。これは、真偽はさておき、
左近の欲深さが世間に広く知られていたことの証拠と言えるだろう。
402 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 12:07:06
【卞喜】
并州の人。流星鎚の使い手。
後漢王朝の腐敗に義憤を燃やし、黄巾党に身を投じる。
後、ただの賊徒に堕した黄巾党を見限り、曹操に仕える。
曹操は卞喜の武勇を知っていたので「これで沂水関より内の守備は万全である」と、
卞喜を配下に得たことを喜び、これを沂水関の関主に任じる。
建安5年、劉備のもとへ向かう関羽が沂水関に寄る。
卞喜は通行証を持たない関羽を捕らえるため、鎮国寺に兵を配置するが
寺の僧、普浄が関羽の勇名を恐れて計略を漏らしてしまう。
関羽の様子で計略の露見を悟った卞喜は、一騎討ちを挑むが武運つたなく斬られる。
いち早く事情を察知した夏侯惇が最愛の部下である卞喜の仇討ちに駆けつけたのは有名な話である。
曹操は卞喜の身を案じて張遼を差し向けるが間に合わなかった。
夏侯惇は関羽との戦いを張遼に止められると、仇を討てないもどかしさを嘆いた。
また曹操は「二勇(卞喜と関羽)共に我が元を去るか」と言って激しく悔やんだ。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 12:32:35
404 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 13:37:28
織田信雄
織田信長の次男として産まれる。幼名茶筅。信長の愛妾生駒を母とし、信長の寵愛をもっとも受けた器量人。
伊勢攻略での獅子奮迅の活躍がみとめられ、北畠氏の家督を継ぐ。治安情勢の悪化している
伊勢を治められるのは、北畠家の家名と信雄の才幹に信長が期待するところ大だったためである。
後に伊賀へ進行を企てるが些細なミスにより大敗を喫する。
期待を裏切られた信長は激怒するが、処刑されることなく、後に許されている。無能人をもっとも嫌う信長が
信雄を処刑、あるいは放逐しなかったのは、信雄の才を惜しんだからであった。
本能寺の変に際しては明智の残党に占拠される恐れのあった安土城を焼きはらったが、
父信長の心血を注いだ城をあっさりと破却することができたのは、やはり父譲りの果断ぶりといえよう。
本能寺の変後、信長とその世嗣信忠を失った織田家を継ぐのは間違いなく信雄であったが、
先の大敗を恥じた信雄はその任に有らず、と秀吉に命じて信忠の遺児、三法師を後継者に推戴した。
これは信雄の腹違いの弟、不覚人と蔑まれた信孝による織田家乗っ取りを防ぐための処置でもあった。
信長亡き後の混乱を収拾した信雄は、叛心をあらわにした柴田勝家に籠絡される信孝を、織田家存続のため
岐阜城に追い詰め自害させた後、秀吉に命じ柴田勝家を討伐させ、これを討滅する。
ひたすら織田家存続に尽くしてきた信雄であったが、小牧長久手の戦いの後、秀吉に天下人の器量を認め、
主従逆転するも止む無しの境地にいたり、秀吉に臣従することになる。天下人を欠く天下は万民の不幸であるとの判断であり、
後世の史家に指弾されることは覚悟済みの、常人には為し得ない非情の決断であった。
しかし、彼の卓抜した知見を天下は必要としており、信雄は秀吉政権下では御伽衆として、
徳川開幕後は京に隠棲しつつ彼らの天下を陰から支え続けたという。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 14:05:21
【董旻】?〜192?
字は叔穎。涼州の人。
乱世の梟雄・董卓の弟。漢の左将軍。父は董君雅
兄の董卓に付き従い各地を転戦し、名を馳せた勇将。
黄巾の乱では兄とともに戦うが敗戦し、左遷される。だが185年に涼州の韓遂が反乱を起こすと兄は中郎将に任じられて張温を総大将とする約10万の兵に参加。
しかし膠着状態の続いた張温軍は次第に押され、敗戦してしまう。その後、屈強な羌族に追撃され張温の軍は壊滅し、董卓と董旻も羌族に襲われる。
だが董卓と董旻は機転を利かして羌族の追撃を何とか振り切り、兄と共に扶風郡に逃れた。
189年に霊帝が崩御すると、兄と共に上洛を目指す。その頃、ときの大将軍何進が十常侍に暗殺されると袁紹が宦官抹殺に取り掛かる。
その動きを察知した宦官の段珪は少帝と共に逃走。しかし董卓と董旻に殺され、小帝を擁立した董卓と董旻は意気揚々と上洛し、何進の軍勢をそのまま吸収し大勢力になる。
その後も反発する将軍たちを排除し続け、ついにその実権を掌握する。
兄に従って行動してきた董旻は左将軍に任命される。その後、董旻は洛陽で自由気ままな生活を送っていたが、190年、袁紹を中心とした反董卓同盟が結成され、遷都を余儀なくされる。
長安に遷都した董卓は董旻に軍隊を預けさせ、董旻は大軍隊を率いる将軍となる。
しかし192年、兄董卓が腹心の呂布に暗殺されると、長安は混乱し、董旻もその混乱の最中で捕まってしまう。
そして一族共々皆殺しにされてしまった。
常に兄に従い転戦し、敗戦も多い中で生き延びた董旻の実力は兄にも匹敵すると言えよう。
兄の背中を追い求めるが故にその最後も惨めであった。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 14:49:04
趙雲(ちょううん)
生没年:? 〜229
常山郡真定県の人。武勇に優れ、体つきも大きく、謹厳実直を絵に描いたような武人であったため、
形式を重んじる袁紹や軍装の華美さを求める公孫賛などに厚遇を受ける。が、あまりの謹厳実直ぶりに
臨機応変を求められる戦場では大して役には立たなかった上、それが明らかになるや否や悪評が広まることを恐れて
主君の元を去るという、忠義心のカケラもない人物であった。
彼の無能振りを端的に物語るエピソードが劉備の撤退戦である。形式や容姿を重んじる主君・劉備を
見いだした趙雲は、劉備自身の戦下手とも相まって馬脚を現すこともなくしばらく勇将振りを演じていた。
が、曹操の大軍勢の南下によって劉備が荊州から撤退する際、戦略的には何の価値もない
劉備の一子の赤ん坊を追い求めるため持ち場を放棄したため、諸葛亮の建てた撤退作戦を台無しにしてしまい、
ために劉備勢は大混乱に陥る。その混乱のひどさたるや、劉備の配下、張飛の神勇ともいえる活躍がなければ
劉備の命運は尽きただろうといわれるほどであった。
趙雲自体は持ち前の武勇をもって赤ん坊を救出することに成功し、誇らしげに劉備の元へ凱旋してはいるが、
さすがの劉備もこの行為に怒り、趙雲を処断しかけたが撤退戦のさなか、愚将といえども斬ることが出来ず、
赤子に怒りをぶつけるほかなかった。そのときの赤子、後の蜀漢皇帝劉禅は、このとき大地へ放り投げられたため、
頭を打ってしまい、後遺症で愚人となってしまった。哀れ、趙雲のとばっちりを受けてしまったのである。
その後も漢中攻防戦での偵察行動中に魏軍に発見されたり、諸葛亮の北伐に際しても箕谷で曹真に大敗するなど
ヘマを繰り返し、処刑されてもやむを得ないほどであったが、劉禅を救ったという一事のみで首が胴から離れることなく、
寿命を全うした。
没後、順平侯と諡号されたが、これは「その功績は流れに従っただけで、見かけと違って平凡な将軍だった」という
人嫌いの激しい諸葛亮一流の嫌味だったと伝えられている。
>>407 あと、劉備の怒りを買うことを恐れたのか、命を懸けてまで諫言しようとしなかったよな。
>>409 諫言できるほどの戦略眼もないし、そういう発想も出来なかったのかもな。
>>402 卞喜、かっこいいよ卞喜。
黄巾に入るところと抜けるところが
412 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 16:41:20
趙雲って
そんな人?
413 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:06:27
卞喜は何より名前がすごい。
卞喜(ベンキ)。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 17:11:54
卞喜を猥褻にね。
415 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 18:54:40
趙雲 いつも単身で敵陣に突撃ばかりしていたため、主君の劉備は『全身これ胆なり』(度胸ばかりで頭が足りない)と嘆いていた。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 22:21:37
劉備
字を玄徳という。
怒りに任せた人生を送った凡将
怒りに任せて黄巾賊を討伐し
怒りに任せて反董卓連合に加盟し
怒りに任せて曹操のあだ討ちを止めて
怒りに任せて呂布を討ち取り
怒りに任せて曹操暗殺のメンバーに入って
怒りに任せて曹操の下から出奔し
怒りに任せて汝南で独立して
怒りに任せて劉表を頼って
怒りに任せて諸葛亮を軍師にして
怒りに任せて赤壁の戦いを呉とともに戦い
怒りに任せて荊州を制圧して
怒りに任せて荊州を呉に返さなかったり
怒りに任せて益州に攻め入って
怒りに任せて荊州を半分だけ返したり
怒りに任せて漢中を制圧して
怒りに任せて樊城を攻めさせたり
怒りに任せて義兄弟のあだ討ちしようとしたり
怒りに任せて漢王朝を継いだり
怒りに任せて蜀漢としたり
怒りに任せて諫言を聞き入れなかったり
怒りに任せて夷陵に攻め入ったり
怒りに任せて降伏した元武将を惨殺して
怒りに任せて張飛を殺し武将を惨殺したり
怒りに任せて火計にかかって
怒りに任せて白帝城で死んだり
怒りに任せて諸葛亮に跡を継がせようとしたり
怒りに任せて成都に帰れぬと言ったり
怒りに任せて義兄弟の幻を見て逝った
という人生を送った。
>>416 禿藁
ここまで短く簡潔に趙雲の凡将っぷりを説明できるとはw
422 :
404,407:05/03/08 09:32:30
423 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 12:48:43
424 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 19:22:15
【淳干瓊】 ?〜200?
字は仲簡。漢の右校尉。後漢末期、袁紹配下として活躍。
200年、曹操と決戦するため、袁紹が愚かにも官渡に出陣すると、淳干瓊はやむなく出陣し、烏巣で兵糧を護衛するという力量にそぐわない任務に就かされてしまう。
しかし淳干瓊は非常に部下思いの性格で、兵士たちや武将たちと共に夜遅くまで酒宴を開き、労をねぎらっていた。 そのため淳干瓊は部下の信頼も厚かった。
425 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 19:24:30
だが、愚かな袁紹は官渡で決め手のないまま膠着状態が続いていた。淳干瓊もそれを気にかけていた最中に曹操が隙を見てやってきた。
曹操は「お主ほどの名将を斬るには惜しい、私に仕えてみないか?」と尋ねたが、淳干瓊はそれを拒否し曹操軍に突撃する。
しかし幾多の酒宴のせいで部下たちは千鳥足のまま戦い、次々と斬られてゆく…
淳干瓊も責任を感じ、自らの首を刎ねようとしたが、韓莒子、呂威璜らに止められ、部下たちが身を挺して庇っている隙に淳干瓊は袁紹に加勢するべく残りの兵士たちを引き連れて本陣向かって出陣した。
韓莒子、呂威璜らは淳干瓊が後ろに向かって出陣できた事を確認して、敵の捕虜となる。 韓莒子、呂威璜らも曹操から「お主らほどの名臣、斬るは惜しい」と宣告されたが「二君に仕えず」と言い残し潔く斬られる。
曹操も彼らを手厚く葬ったのであった。
一方、援軍として袁紹の本陣に到着した淳干瓊は袁紹に「貴様…よくぞのうのうと戻ってこれたな…」と言われ、淳干瓊は袁紹の本心を察した。
「彼は私に罪を被せて殺す気だ…田豊殿も袁紹様には気をつけろと言っていた」と名臣田豊の助言を思い出したが後の祭りだった。
愚かにも袁紹は殺さずに生き恥を晒させるべく淳干瓊の耳と鼻を斬り落として曹操軍へと送り返した。
淳干瓊の変わり果てた姿を見た曹操は嘆き悲しみ、「淳干瓊殿…すべて責任はワシにある…今後は貴殿を将軍として迎えたいがどうであろうか」と尋ねたが・・・
淳干瓊は「もはやこの様な姿では部下たちもついては来ますまい…いっそ貴殿の手で私を裁いてくれれば私も本望というものです」と強く自らの死を望んだ。
曹操は何度も説得したが、淳干瓊は「こんな私とて袁紹殿の臣。お斬りなされ」と言い続け、最後は曹操本人の手により首を刎ねられた。
淳干瓊は死に際して「貴殿に斬られるということはこの上ない栄誉だ、厚く感謝申し上げる」と言ったとか言わなかったとか。
その後淳干瓊の亡骸は曹操に手厚く葬られ、残された遺族たちは曹操の下で天寿を全うしたのであった。
荀ケ
この人物の全てについて歴史は沈黙している
ただ、この荀ケが自殺した事だけが後世に残されている
428 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 20:32:10
武将じゃないが
【淀殿】
二度に渉り太閤秀吉の子を生み天下を動かした女性。
二度に渉り父を失い落城の憂き目を見た悲劇を経験したゆえ
当時の女性としては稀有な政治力を持っていたと思われる。
秀吉没後は躊躇無く最大の実力者徳川家康を頼みとし
彼の上杉征伐では天下取りに協力の姿勢を見せ
西軍決起の後は決断力の早さから西軍に城を明け渡すが
妹京極氏と内応し西軍の主力を分断して京極攻めに貼り付け
増田長盛を内応者と宣伝して輝元の参戦を妨害する。
戦後は国政を家康に渡して、65万石の封土に削減
官僚層を失った豊臣家の統治負担を減らしている。
また秀頼シフトを考え、淀殿は自分の娘(秀頼の義姉)を公家九条氏
に嫁がせ万一に備え(この家系は江戸期の関白になっている)
大阪にある黄金を寺社建立に寄進したりして豊臣家は
関白家という公家として制外の立場に立つことをアピールするなど
外交政治的センスは当時の人物でも稀であろう。
公家の立場として江戸に赴いたり将軍拝謁するなどは公武の隔てを乱し
承久の乱や建武の二の舞のの騒乱になると家康に訴えるも、
豊臣家をあくまで武家として扱おうとする
徳川の考えは変わらず大阪の陣の悲劇につながる。
大阪の陣では当時の米経済の日本には珍しい
黄金・貨幣経済によるべネチアのような西欧的な都市国家としての存続
の願いや
時代の最先端を行った賃金による常備軍の前身を見せており、
秀吉在時には三成ら近江武将の官僚システムに密着するなど
叔父信長ゆずりの革新的な発想と近代への視点は目を見張るものがあったが
悲しむべきか家康はじめ当時の大名武将には、彼女の近代的な政治と外交
を理解する事は困難だった。
最後は紅蓮の大阪城と運命をともにした。
>404
文章(゚д゚)ウマー
430 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:31:08
431 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 04:10:45
432 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 11:18:29
六角義賢 1521-1598
近江一帯の領主にして日置流弓術の奥義を究めた弓術天下無双の達人。
六角氏はもともと鎌倉時代より近江を領していた名門中の名門。名君の誉れ高い室町幕府準管領であった
六角定頼の子として産まれた義賢は、弓術の腕前もさることながら、定頼に進言して1549年に国内で初めて
楽市を実施するなど先見の明に富む麒麟児であった。
1552年に父定頼が病死した後、30才で家督を継ぎ、颯爽と天下の舞台へ登場する。
だが、義賢にとって不運だったのは同時代に織田信長が居たことである。
早くから天下取りの野望に燃えていた信長は上洛の際には、義賢率いる六角氏がもっとも強敵になると
予想していた。そのため美濃攻略と並行して六角氏の支配下にあった北近江の浅井氏に対して盛んな調略を行い
反乱を起こさせることに成功する。
当時、浅井家嫡男の賢政は六角家家臣より妻を迎えていたが、自らを美男子と信じて堅く疑わない
賢政は、妻の容姿が自分にはふさわしくないと不満だった。これに目を付けた信長は絶世の美女であった
妹、市を輿入れさせる条件で、反乱を起こすよう指嗾する。市に目のくらんだ賢政は直ちに妻を六角氏に
叩き返し挙兵したのだった。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 11:18:36
思わぬ不義理に怒った義賢は反乱の鎮圧に取りかかる。世に名高い「野良田の合戦」の始まりである。
得意の弓術で浅井賢政の先鋒を打ち破った義賢は緒戦に勝利したが、不運にも浅井勢に敗北してしまい、北近江を
失ってしまう。まさかの勝利を得た浅井賢政は反乱を指嗾した信長を幸運の運び手と信じた。その崇拝の様は信長の
一字をとって長政と改名するほどであった。
悪いことは重なるもので、「野良田の合戦」の後義賢の嫡子・義治が事故で重臣を死なせてしまったことから誤解を生み、
家臣団の内紛が始まる。義賢はこれを治めるため、従来成文化されることのなかった君主と家臣の決まりごとを「六角氏式目」として定める。
この処置に感じ入った家臣達は再び結束を高め、浅井氏とその背後の信長との対決に望んだが、時既に利あらず、強大な
勢力に成長していた織田勢の大軍に抗しきれず、南近江をも失なってしまう。
だが、そのようなことで義賢の意志をくじくことはできない。あくまで反織田を貫く義賢は南近江や伊賀、甲賀でゲリラ戦を展開し、
無双の弓術で終生、信長を苦しめ続けたのだった。
【和田ア○子】 1950〜現在
渾名はゴッドネーチャン。噂には身の丈三丈の怪物。若い頃は大阪中にその人ありと噂された偉人。
大阪に生まれ、若い頃からその大物振りから人気を博す。
歌手として「星空の孤独」でデビューすると、その歌声だけでなく、ハッキリと物事を言う性格から、ご意見番としても活躍する。
大晦日の紅白歌合戦などでは「あの鐘を鳴らすのはあなた」等が大人気で名実ともに日本歌手界のドン。
CMなどではリンゴを片手で握りつぶすなど、本人にとっては至って日常の出来事も平民には驚かれてしまうこともw
部下、舎弟には松村、出川といった面々も並ぶ。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 17:09:30
436 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 17:20:59
>>89は確かにイイ。
幸村は豊臣家なんてどうでもよかったんだよ。ただ武士としての死に場所を求めただけ。
大野治長や盛親のほうが名将にふさわしいと思うのだが。
>>435 thx!
>>377が意外にも受けたので
>>404,407、
>>432-433と書いてみますた。
漏れ的には、名将を凡将にするよりは凡将を名将にする方が楽しいです。
でもあんまり歴史詳しくないので、これぞ極めつきの凡将!っていうのを余り知らない。
まだ名将化されてない有名な凡将がいましたら教えてつかぁさい。
>>434 板違いだがこういうの俺好き
たまにはこういう崩したやつもキボソ
439 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 20:04:43
【于吉】
孫策にめった斬りにされたかわいそうな呪術師。後、演義では化けて
孫策の目の前に現れた粘着。それが
440 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 20:15:16
【于吉】
孫策にめった斬りにされたかわいそうな呪術師。後、演義では化けて
孫策の目の前に現れた粘着。それが元で孫策は死に至った。
【関羽】
ヒゲ。
殺すと呪われるので注意。
442 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 21:32:11
【張飛】
大酒飲み。酒豪。
ところで黄祖って実は名将じゃないのか?
445 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 21:54:15
【黄祖】
「目糞、鼻糞、黄祖」という諺ができたのはこの人からである。
>>443 名将だろ。江夏をとにもかくにもそこそこ守り切ってるのは凄い。
でも世間的評価ではやっぱりやられ役なので凡将リストに加えても良いのではないかと。
【黄祖】
剛力無双の勇将。
千数百年後の異国ですら「黄祖パワーはトップ」と謳い継がれている。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 22:21:06
洗剤かよw
450 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 00:45:46
黄祖<曹豹
民明書房のかほりがする
【韓玄】
長沙太守。有能な家臣を持つ知勇兼備の名将。
多少気性が荒いが、用兵に関しては天才で黄忠を用いて関羽を二度敗走させた。
黄忠に謀反の気があることを即座に見抜き、処刑しようとするが、後に反骨の相があると言われた魏延に裏切られ斬られた。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 15:51:46
【麋芳】
たぶん名将。
【麋芳】
叩き上げの名将
元は徐州の商人だったが
その類稀なる才能を
劉備に見初められてそれ以降
古参の武将として活躍する。
長坂の撤退戦では、趙雲の離反を寸前で食い止め
思いとどまらせることに成功するなど
商人らしく弁舌が得意だったようだ。
関羽と共に荊州の守備に当たったから大変
上司である関羽の失敗で荊州が陥落した上に
その失敗を着せられそうになった。
そんなとき、彼の才能を惜しんだ孫権は
彼を救うべく彼がいる城までわざわざ使者を送ってまで
こちらに付かせようとしたほどである。
>>454 続き
その心意気に感銘を受けた麋芳は
「男子は己を知るもののために死す」と言い残し
孫権に忠誠を誓った。
また、孫権が関羽を処刑した理由が
稀代の名将麋芳を虐げていたことであることは
いうまでもない。
しかし、最後は傳士仁と共に和平の使者に大抜擢され、
孫権の期待にこたえるべく意気揚々と劉備に謁見をしたところ
劉備がまた寝返ったのかと勘違いして処刑されてしまった。
孫権は「麋芳が死ぬということは天がわしを滅ぼそうということか」
と嘆き悲しんだという。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 16:14:10
【馬鉄】
おそらく名将。
りょふさまはそのむかし とてもつよかったらしい
春が来た
うむ、ニートか厨房かわからぬが
【北条氏政】
氏康の嫡子、後北条氏四代。
飯にかける汁を目分量で測るなどという小人の業を誇る父を
諌めるため、「汁が足りねば足せばよい」と喝破して
目の前で2杯目3杯目とかけて見せた逸話は有名。
この豪邁な氏政の治下に北条氏が最大の版図を獲得したのも
また当然のことであり、養子や婚姻の形で一門の末端に
連なった勢力を含めれば威令は関東のみならず
北陸、甲信、東海をも圧する勢いだった。
氏政は家臣の活発な発言を好み、自らも理非のけじめを重んじた
開明的な君主としても知られる。
後に秀吉の一方的な侵略を受けた際も、彼は余事をさておいて
小田原城で大会議を招集、戦の意義や戦時に取るべき行動などにつき、
家中の端々にいたるまで討論させた。
結果的に北条氏はこの戦に敗れて歴史から姿を消すが、
この名高い「小田原評定」は後世の統治理論に影響を与え、
日本国憲法のシビリアンコントロールも北条氏に範を求めたものだと言うのが
法制史学界の常識である。
俺の中では氏政は名将なんだよなw
462 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 01:27:39
【丹波守】 ????〜1610?
二〇万石の大名。領国は不明。
幼女趣味でそれがために少女の姿をした魔物に頭を握りつぶされた。
【馬謖】
幼少時代より智謀にて名を馳せた稀代の名将。
劉表亡き後の荊州を良く支えたが、兄馬良の失策から荊州を劉備に奪われてしまう。
賊徒劉備に家族を人質にとられた馬謖は渋々劉備に仕官した。
仕官後は、軍師の後見役として凡愚な諸葛亮を陰で支えた。
その後も、圧倒的な国力を誇った魏国の司馬懿を計略で失脚させるなど、数々の功績を重ねた。
北伐では諸葛亮の無謀な行軍のため、自軍が包囲されたところを自らの命も顧みず僅かの手勢を率いて街亭に出撃。
馬謖が魏将張[合Β]らの軍勢を引き付けている間に蜀軍は撤退に成功する。
馬謖は自らが囮となる事で蜀軍10万の将兵の命を救ったのだ。
しかし、敗戦の責務を恐れた諸葛亮に讒言され、非業の死を遂げた。
蜀の国には彼の死を悲しまぬ者は居なかったと言う。
現代にも【馬氏の五常白眉最も良し】と言う諺があるが、正しくは
【馬氏の五常白美最も良し】である。
馬家には兄弟がたくさん居て誰も皆優秀だが、中でも五常(馬謖の字)は
頭が良いだけでなく、見た目も色白で美男子で素晴らしい。と言う意味の言葉である。
劉備が馬謖には任せられないみたいなこと言ったエピソードがあったけど
それも馬謖を恐れてのことだったのか・・・
>>463 >馬家には兄弟がたくさん居て誰も皆優秀だが、中でも五常(馬謖の字)は
むむむ?
せめて五常→5番目の常くらいの解釈が必要じゃないか?
>>468 バショクを良く書くためのこじ付けでしょ。
馬氏の五常が無理やりバショクを誉める言葉になってるし(^^
名将を凡将どころか愚将のように語るのはトホホ人物伝でお腹いっぱいだから、スレタイど
おりのネタに徹してもらいたいですね。
織田 信行
尾張の大名 織田信秀の子であり、無能で知れる信長の弟。
信長とは違い子供の頃から礼儀を重んじ、情に厚い麒麟児であった。外で遊ぶ
信長を横目に勉学、武芸を磨き、尾張の今後を案じていた。鬼の猛将柴田勝家
や家老林佐渡も「尾張の安泰には信行様意外には居らず」とその才能にほれ込
んでおり、信秀や母の香林院からも尾張の後継者として決められていた。
しかし、信行の相続を認めたくない信長は斉藤道三の娘、お濃との結婚を機に信
秀を脅し、信行の後継者決定を白紙に戻した。兄弟争いを避けたい信行は信長を見
守る事に決めたが、そのうつけな横暴ぶりについに涙を呑んで立ち上がる。しかし、
信頼していた配下の佐久間大学の裏切りによって戦は敗れてしまった。更に信行
の才能を妬んでいた信長は遂に暗殺を決断する。信長は刺客に襲われ怪我をした
と嘘をつき、信行は疾風のごとく見舞いへ駆け寄ったのだが、見舞い先にいた信長
の刺客に暗殺されてしまう。信行の最後の言葉は「兄上のお怪我は無事なのか、
良かった・・・」であった。この言葉に刺客の者も涙してその首を刎ねたという。
信行亡きあとの尾張は無能の信長を操りながら秀吉の思うままとなってしまった。
信行が生きていれば歴史は大きく変わっていただろうと、今でも言われている。
劉備
三国志でも類をみない無能なお人好し。
田舎の藁売りが関羽や張飛に煽てられ決起をするが、なかなか城も持てない凡将
。しかしその無能を利用しようと名将達が集まり、いつのまにか蜀の君主とまでなる。
最後は自分の才能を勘違いした劉備は、孔明の抑えも聞かず呉へと侵略を行い大敗
するという愚案は有名。そしてそのまま陣中で病死してしまう。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 12:38:39
文才ない奴のネタはつまらないし、センスのあるネタの書ける奴は名乗り出て図に乗るし・・・。
馴れ合いになってるな完全に。
>>476=477
じゃあ、センスのあるネタを書いてください。
まさか口だけじゃないよなぁ?
478は読解力0
前々から思ってたけど三戦板の住民はプライドが高すぎるな。
煽り耐性が無いとか厨率が高いとも言える
476
ハンドル名入れなくても投稿出来るの知らなかっただけで、図に乗っててるわけじゃ
ないんだけど。ここのスレ最初は面白くて好きだったのに、何かがっかり。
匿名掲示板でこういうことを言える
>>478は普通にアホだろ…
プライドとか以前の問題
あらあら。
わざわざ相手するオマエもな
>>483の目欄が気になって昼寝できないジャマイカ
うほっ
>>488 わざわざ言わなくても…
483氏は2ch初心者なのかもしれないですし
殺伐としてますね
【赤壁の戦い】
劉備、孫権の連合軍が、南下する曹操と戦った有名な合戦。
208年、劉備の配下諸葛亮がその讒言で若き主孫権をたぶらかしたため開戦。
しかし、百万と噂される曹軍に対して、連合軍はあまりにも規模が小さく
また、戦に不慣れな呉は大きな恐怖に襲われた。
中でも、先君孫策と義兄弟だったという理由だけで都督に祭り上げられた
周瑜の不安は大きく、開戦に際しては曹操が自分の妻を狙っていると
根拠のない妄想にとらわれたり、陣中でも孫呉三代に仕えた功臣黄蓋を
滅多打ちにするという意味不明の行動に出たりしたので、周りの人間はひどく困った。
一方、その頃諸葛亮は祈祷で風を呼んでいた。
>>486 俺はそうは思わんな
言ってることは正しい
>>493 まあ、人それぞれじゃないの?
この辺でこの話を終えて、次行きましょう。
>>492 できはいいけど讒言の意味を勉強した方がいいよ
讒言でもって孫呉をたぶらかしたんだからそれはそれでいいんじゃないの?
495氏のおっしゃてるのは「讒言」で「たぶらかす」は
「男」の「お父さん」みたいだってことですね?
勉強し直して来ます。スマソ
根本的な意味が……
讒言=他者を陥れる物言い
>>492 の場合、「たぶらかす」に相応しいのは
甘言あたりがベターかと思いますよ
春厨増えたなwwwww
wwwwwなんてつけるやつに何もいわれたくはないな。
うん。
嘲笑していることを表すならw一つで充分かと。
キーボード錆び付いててwを押しても戻ってこんのじゃないか?
叢を表現してるんだよ
草葉の陰から発言してる様子を
実はvvvvvvvvvvなのかもしれないな
いやいや
world wide web wild white なのかも知れぬ
>>505 あんちゃん、あのおっちゃん頭狂ったんとちごうか
無理wwwwwwwwwwwwサポシwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そうかFFをやってるのか
【楊奉】
後漢末の忠臣、車騎将軍。
はじめ李カクの部将だった。董卓死後の李カクと郭シの抗争と長安の荒廃を見かねて、
李カクの暗殺を図る。計画は露見するも、李カクの軍勢を手懐けて独立する体勢を取り、
武威を示すことで、跳梁する諸勢力を威圧する。
やがて張済の仲裁によって抗争が終結すると、部下徐晃の進言を容れて天子(献帝)の
洛陽帰還を提案する。
途中、郭シが再び天子を脅迫し【眉β】に都を置こうとしたとき、天子に頼られて護り
戦って、これを敗走させる。やがて合流した李カク・郭シの軍勢が再び天子を強奪せんと
迫ると、生涯の盟友となる韓暹らを呼び寄せて弘農で一大決戦に及ぶが、敗北。
しかしながら、付き従う者十数名になってもあくまで天子を守り通し、苦難の末、
大尉の楊彪らとともに洛陽帰還を果たす。
漢室復興が始まろうかと思われる中で、「楊奉の兵馬は最強」と称えられた。
しかし、諸侯は己の勢力を維持することのみ熱心で、朝廷に参集する者はおらず、
破壊された洛陽の復旧も遅々と進まなかった。
その中、エン州に支配を築いていた曹操が楊奉を介して朝廷への帰順を申し入れてくると、
強力な味方の出現を喜び、曹操を鎮東将軍に口添えする。しかし、曹操は洛陽に
参内した際、兵糧不足を理由に天子を東に連れ出してから、不意をついてそのまま許に
拘留し己の手で天子奉戴を宣言してしまう。
曹操の秘めたる野心を悟った楊奉は、拠所を失いながらもあくまで許への帰順を肯ず、
対決の力を蓄えようと各地を奔走するが、曹操に本拠を奇襲されて軍勢を失い、敗走を
余儀なくされる。
のち、韓暹とともに袁術・呂布ら群雄と互しつつ徐州・揚州に根拠を築き天子奪還の
策を練ろうとしたが、当時曹操と協調していた劉備に誘われた会談の席で騙されて捕らわれ、
賊徒としてあえなく斬首された。盟友韓暹も限界を悟って西へ逃亡する中途で敗死した。
後漢−魏を正統とする「三国志」では、著しく不当な烙印を押されてしまった、悲運の人の
一人である。
>>324 まで遡るが、少なくとも日本語では、「後漢書」「三国志」以外の
後漢末三国時代の史書は手に入らないよ。十八史略は別として。
他に何を読めというんだろう。漢文勉強しろって言うなら、
「趣味にそこまで費やす義務はない」と答える。
無双ノーミスコンプリートしなければ無双語ってはならないと言うなら
別だが。
すまん……思いっきり誤爆した……
515 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 14:51:18
513
最近、投稿レベルの質低下が云々されるなかで、住人同士の言い争いがみられるなど、
荒みつつある当スレの行く先を憂慮し、悪しき流れを断ち切るべく、誤爆を行うことで
なごみムードを演出しようとした器量人。
書き込みの中でさりげなく、ノーミスコンプリートの話題を持ち出すことで
ミスを恐れず、完璧を期さずともレスを行ってスレをり上げるべきだとの促しをおこなうあたりが憎らしい。
516 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 15:08:43
>515
ありがとーorz
518 :
515:05/03/16 18:42:38
513
当スレの存在を疎ましく思い、誤爆を装って混乱を企む破廉恥漢。
>>324へのアンカーを参照させることで、当スレにコピペが蔓延している駄スレであるとの印象を
第三者に与えようとした。
さらに、「後漢書」や「十八史略」などの正史を話題にもちだすことで、当スレで行われる
創造性溢れる史実の読替行為の意義を低下させようと図った。
しかし、迂闊にもsageてしまったことでレスが注目されることに失敗したため、
つづくレスで誤爆であるとわざわざ明言することでミスを粉塗しようとするなど、浅慮と軽忽ぶりを露呈してしまい、
515にてネタ扱いされるなど、スレ住人達に軽侮される始末であった。
名将を凡将評価だね
【515=518】
2ちゃんねらー。
ネタがちらほら出てきた折角のいい流れをぶち壊しにし、当スレを糞スレ化させようと
企んだ人物。しかも、自分のネタを褒められると調子に乗るタイプらしく、同じネタを名乗り
挙げてまで何度を使用するしつこい性格だった。
さらには「515が住人達に軽蔑されている」という自分の主観を、あたかも住人全員が
そう思っているかのように(少なくとも俺は軽蔑なんてしてない)発言したため、ついに、
ちょっと怒った520に「最悪版へでも行け」と言われた。
もちろん、名将を凡将評価ですよ。間違いなく。
ってか
>>447 はいつ見ても笑える (^3^)プププ・・・。完全にツボです!!
蔡和と蔡中
元、劉表の配下で水軍都督蔡瑁の従弟達。水戦では天下無双の2神と言われて
いた。
2人とも先見の才もあり、曹操が荊州を攻めた時もいち早く城を明け渡した。
しかし、赤壁の戦いで周瑜の策略で蔡瑁が曹操に殺されてしまい、2人は身の危険
を感じる。そこで2人は曹操に「埋伏の毒」と偽って呉へ向い、打倒曹操の為に呉軍
に曹軍の情報を流し、蔡瑁の怨みを晴らす事を誓った。
曹軍には「黄蓋や太史慈等が寝返りの勢い有り。東南の風に乗って曹軍へと参り
ます。」と進言し、呉軍を曹操軍へと導く作戦をうまく成功させた。その際にホウ統に
連環の計を進言したり、周瑜に火計を薦め、孔明に東南の風が必ずふくとも説明を
した。そして実際に東南の風がふき、曹軍への攻撃を開始するのだが、蔡和蔡中の
才能に自分の呉水軍都督の座の危険を感じた周瑜は2人を殺害する事に決めてい
た。そして蔡和は陣中にて殺害され、蔡中は曹軍の陣まで案内した瞬間に斬りl殺さ
れてしまった。後に荊州を守る関羽が劉備に
「蔡和蔡中のいない呉など、恐るるに足りませぬ」
と言ったとか言わないとか・・・。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 11:23:48
【ホウ統】
ホウ統は字は士元、孔明とならび称される天才軍師である。
という前評判を覆すだめっぷりを発揮。
風貌は鍋のように黒い顔にげじげじ眉とししっ鼻。不細工な顔であった。
演義での登場は、呉の周瑜に呼ばれ、魏の間者・蒋幹と曹操の陣へ向かった時の事。
彼は士官の好機と思い曹操に北兵の船酔の予防に船と船を鎖でつなぎ、
ゆれを少なくするのがよいとマジレス。
帰るとき徐庶に捕まった。徐庶はマジレスだと見破っていた。
ホウ統は孔明、魯粛に推薦状をもらうが、劉備の元にやってきたホウ統は、推薦状を
なくしてしまったため、そのまま劉備に面会した。劉備は耒陽県の県令を命じた。
ホウ統は、赴任しても毎日酒の日々で、政務などはやらなかった。しかし、
視察に来た督郵と言う役人に賄賂を渡すなどして副軍師の座に上り詰める。
ホウ統の無能さをしる孔明は視察から戻り劉備を説得。
蜀を攻める際に敢えて危険な地「落鳳坡」にホウ統を送ることを提案。
山間の道でホウ統は、村人に地名を聞き「落鳳坡」と言われると
ホウ統の道号は鳳雛、すなわちそれが落ちるのだから不吉きわまりない、
と思い、答えた村人を虐殺し、村ごと焼き払う。
生き残った村人は復讐を誓い、張任にホウ統が野営している場所を密告。
ホウ統はいっせいに矢を射かけられ落命した。まだ36歳だった。
彼には息子がいたができの悪い息子であったという…
【裴元紹】
黄巾族。文武両道の人物。中国史上の軍神関羽の片腕、周倉の親友でもある。
関羽に会った時、遠くの地で戦っていた関羽の正体を見抜く教養の持ち主。
俺の尻の穴に貴方の野太いちんぽぶち込んでくれませんでしょうか?
関羽の赤兎馬を盗もうとした男を寛大な心で許し、親友周倉の元へ関羽を導いた。
周倉が関羽についてくときも拠り所のない部下を一人守って時が来るのを待っていた。
周倉が戻ってきて関羽へ帰順する途中の道で、地面にうずくまっている趙雲に心配して
声をかけたところを斬られた。後世の人は
「趙雲は劉備の配下になりたかったが、裴元紹には実力が劣るのでどうしても廃したかった」
と言っている。
>>524 >俺の尻の穴に貴方の野太いちんぽぶち込んでくれませんでしょうか?
前後の文章との脈絡があまりにもなさすぎるこれは一体何なんだ?
>>1をコピペしてどこかに貼ろうとしていたが、
間違って同時に開いていた出会い系サイトに書き込んでいた確定前の
変換中文章が混じってしまった。
そのうえでカキコをしたが、カキコ先を間違えて当スレに。
推理するに
>>524は三国志をヤオイ視点で読んでるホモだな。
オタのなかでも最悪の部類だろう。
まあ本気で勘違いされると困るので一応フォロー
>>525 2chでは割と古い部類に入るネタコピペだ。
諸葛亮
天性の引き籠もり。
引き籠もりぐせがあったから巴蜀みたいなところに引き籠もっちゃった。
本当は北伐もしたくなかった。嫌々やってるから、ちょっとでも目障りな事する奴が
いたら、すぐに怒って理屈付けて罰したし、なんでも自分の思い通りに
行かないと気が済まなかった。
そんなことやってるからストレスたまって若死にした。
コピペだか何だか分かんないけど
諸葛亮は若死にじゃないんとちゃう?
>>530 うn確か50代ぐらいで亡くなったと思う
若死にの言葉が許されるのは30代までだろう。
>>533 でも、40代で死んだ毛利隆元も若死ってよく言われるよ。
毛利隆元(1523-1563)
親より先に死んだ子は若死よばわりされる
劉備は「50年生きれば若死とは言わない」といってたな
三国時代と日本の戦国時代での平均寿命は違うと思うけど
1000年以上の差があるしな
10年は 夢のよう
100年は 夢また夢
1000年は 一瞬の光の矢
ちなみに明治時代の男性平均寿命が43歳前後。
詳しくは忘れたが。
江戸時代は20前後だったっけか?乳児の死亡率が高かったから。
はなせりゃいいやん電話やし
545 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 12:02:01
斉藤龍興(さいとう・たつおき)
美濃稲葉山城主。安藤守就の手で毒殺された父義龍の後を襲い、
よく美濃を保つ。日々暗躍する西美濃三人衆の策謀に悩まされな
がらも戦場での指揮能力は抜群であり、織田軍団を何度もあっさり
撃退している。衆道の恨みから竹中半兵衛が起こした乱の際も、
あえて稲葉山城を空にしていなし、気負って入場した半兵衛に小便
をかけるというユーモアも持ち合わせている。その後も半兵衛を咎め
だてなく用いたことに対して家臣から諫言された際、「唯才を愛する
のみ」と答えたという。
その後物量に勝る織田方に稲葉山が攻略された際も、自らのことは
全く気にかけずただ家臣の身の振り方に気を遣って粛々と退城した
ことは、当時の美談として伝えられている。可児才蔵も龍興が柴田
勝家に斡旋していなければその後の活躍はなかったであろう。
美濃を去って以後の龍興は、徹頭徹尾反織田の旗を掲げ続けた。
三好三人衆との共同作戦や六角入道との連携作戦など、立案能力
に優れた龍興の軍事行動に、信長が肝を冷やしたことは一度や二度
ではない。信長に最もダメージを与えたのは、龍興が伊勢長嶋の一向
一揆に身を投じたことである。本願寺があれだけ手ごわく信長の前に
立ちふさがった影には、織田軍団と長く闘い続け、その弱点を知り尽
くしている龍興の情報と献策があった。美濃での5年、一向一揆の10年
がなければ、信長はあっさりと全国統一を果たしていただろうというのが
近年の戦国史家の定説である。黒田長政が、父如水の言葉を聞きき記し
たという「足萎者聞き語り」によれば、天下統一後のとある夜にお側衆
と語らっていた秀吉が「総見院が天下を取れなかった理由は何でしょう
か。」という問いに対して、しばらく沈黙した後「それは、斉藤である」と
答えたという記述が残っている。
548 :
1/2:2005/03/22(火) 01:01:27
長宗我部盛親 (ちょうそかべ もりちか)
四国の覇者・長宗我部元親の四男。幼名、千熊丸。
天正十四年に長兄・信親が戸次川の戦いで戦死すると長宗我部家の後継者となる。
小田原の役で初陣、朝鮮出兵にも従軍し活躍、
内政面では元親との連名で「長宗我部氏百箇条」を制定するなど実力をいかんなく発揮している。
慶長四年父・元親が亡くなると土佐二十二万石を継ぐ。折りしも豊臣秀吉・前田利家が相次いで世を去り、
時流が一気に家康へと傾いていたそのときであった。
翌年の関ヶ原の戦いで盛親は当初から東軍有利と見抜き、家康方に密使を送り東軍に付こうとするも、
密使が街道封鎖に遭い失敗してしまう。この時無事に関所を通過できた山内一豊は戦後土佐一国を与えられてる。
これにより西軍につくことを余儀なくされた盛親は「この上は力及ばず、ただ運を天に任せるのみ。」と言ったという。
盛親は六千六百の手勢を率いて関ヶ原に参陣するが、既に家康に内応し戦わないことを決めていた吉川広家に阻まれ
合戦が始まっても盛親は動けずにいた。寝返りは盛親の矜持が許さず、
東軍に突撃しても毛利・吉川に背後を突かれるのは判りきっていた。
そして西軍は壊滅、関ヶ原において盛親が下した唯一の命令は、「撤退」であった。
土佐に帰った盛親は、すぐさま井伊直政を通して家康に謝罪した。
しかし盛親が家臣の讒言によって謀反の疑いで兄・津野親忠を自害させた事を、藤堂高虎が家康に報告したため
家康の勘気を被り、「実の兄を殺すとは父、元親に似つかぬうつけもの」と言われ
切腹を言い渡されてしまう。
直政のとりなしによって命は許されたものの改易され、ここに四国の雄・長宗我部家は滅亡する。
この時盛親26歳、家督を継いで2年目の事であった…。
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 01:35:20
続きはないのか?とりあえず乙
550 :
2/2:2005/03/22(火) 01:57:17
>>548の続き
土佐ニ十二万石の大名から一介の牢人にまで身を落とした盛親は「長宗我部盛親」の名さえ
名乗ることを許されず「大岩祐夢」と名乗り、京都で寺子屋の師匠をして糊口をしのいでいた。
京での生活は厳しく、藤堂家に仕官した家臣の桑名一孝に仕送りしてもらうほどだった。
盛親の名前が再び世に出るのは慶長十九年の大坂冬の陣である。豊臣秀頼から土佐一国を下される約束での大坂城入城であった。
もとは万石取りということから盛親を筆頭に真田信繁(幸村)・後藤又兵衛・明石全登・毛利勝永と並び大坂城五人衆と謡われた。
盛親が京を抜け出した時は僅かな従者しかいなかったが、伏見まで来た時は千人近い人数を引き連れていたという。
長宗我部家復興の願う一領具足を引き連れての入城であった。
冬の陣で盛親は三の丸八丁目口から真田丸の西半分までを受け持っていた。
盛親が今までの鬱憤を晴らすべく意気込んでいたが、戦いが始まると敵は真田丸に殺到し、盛親本隊の出番は少なかったのだった。
だが、「長沢聞書」によると「真田丸の戦いの主力は長宗我部隊であった。しかし世間は真田一人の活躍だったかの様に風聞した。」とある。
やはり「真田丸」という名称、信繁の夏の陣での活躍もあったのだろう盛親の名声はかき消されてしまった。
夏の陣において豊臣方は軍を二つに分け、徳川方を迎え撃った。元和元年五月六日未明、木村重成と共に八尾方面に出陣した盛親は未明に敵の藤堂高虎軍と遭遇する。
濃霧の中、お家再興を夢見る長宗我部勢は突撃してくる藤堂勢に堤防の上から反撃し、旧臣桑名一孝を含む大将四人を討ち取り、混乱する藤堂勢を壊滅寸前まで追い詰めていく。
しかし井伊直孝勢と戦っていた木村重成が若江で戦死し、木村勢が敗走したため、長宗我部勢も撤退せざるおえなかったのだった。
豊臣方は最後の決戦でも敗退し、大坂城は炎上し落城した。盛親はお家復興のため逃亡するが、京の八幡付近で捕らえられ、六条河原で斬首された。
享年四十一。
この後、盛親の五人の子も皆斬首され、一度は四国を統一した長宗我部は滅亡した。
関ヶ原の時、盛親はまだ若かった。長い浪人生活を乗り越えたあと、お家再興を目指した八尾の戦いでの彼は、きっと長宗我部の名に恥じない勇姿だったのだろう…
長文&遅文スマソ
551 :
550:2005/03/22(火) 02:15:38
最後の方適当過ぎた…orz
乙
普通に良い武将っぽいじゃないか
簡擁
【???〜???】
頑張った。
前田秀継
奴は城の下敷きになった。
山名豊国 (やまなとよくに)
彼を排出した山名氏は、応仁の乱の前後に山名宗全
の働きによって見事復活を遂げたことは有名であるが、それからほぼ百年の
時を経た豊国の時代には、山名氏は但馬・因幡で名目的に存在するだけの
没落大名であった。そんな斜陽の山名氏の分家の、しかも次男坊として
生まれたのが彼、山名豊国である。
彼は十二歳の時に岩井城主に任じられ、毛利輝元率いる大軍を退けるのみならず、
自らも名のある武将十人の首を取るなど早くもその才能の片鱗を見せている。
その後兄の豊数が家臣の武田高信に追放され、豊国は雌伏の時を迎える。
兄の死亡の後、豊国はかっての家臣達と協力して逆に高信を追放、因幡一国の主となる。
世の中に下克上で没落した武将は多くいるが、そこから実力で復活したのは彼ぐらいだろう。
また、この戦には山中鹿之助が協力していたが、彼らは何かを求めるでもなく、
山陰を去っていった。これは豊国の人柄に惚れた鹿之助の義挙と見るのが
豊国と鹿之助の性格から考えて妥当なところであろう。
また、彼は非常な愛妻家としても知られている。雌伏の日々を送っていたある日、
盗賊が彼とその側室の館に忍び込んできたことがあった。これに対し豊国は自ら
武器を取って戦ったが、彼の妻が隙を見て賊の一人に着物を投げつけ、
そこを豊国が刺し殺し、賊を討つことに成功した。まさに夫婦の愛のなせる業と言えよう。
しかしながら、そんな愛妻家の彼にとって最大の不幸が勃発した。
なんと彼の正室が戦国一の女好き、羽柴秀吉に捕らわれてしまったのである。
これを聞いた豊国は、即座に苦労して奪回した鳥取城を棄てて秀吉に帰順した。
正室・側室を問わない彼の愛妻家ぶりが仇となってしまったと言える。
しかし、件の側室はまだ鳥取城の中にいた。真の愛妻家である彼は、
涙をのんで秀吉に協力し、鳥取開城のためにあらゆる手を尽くした。
その甲斐あって城主、吉川経家は切腹し、ようやくその側室は豊国と再会を果たした。
この時の豊国の態度を世の人は非難し、経家を讃えたが、吉川元春は経家の行動を
「当世のはやり」として非難している。彼の切腹は子孫が重用されるのを
見越した利己的なものであり、豊国の無償の行動こそ、最も崇高かつ困難であることを
元春は見抜いていたのである。さすが毛利両川を支えた名将である。
その後、豊国はにっくき秀吉を廃するため、新田源氏の誼で徳川家康に近づき、
関ヶ原の戦いでは東軍に与してみごと但馬の地に六千七百石の領土を得た。
その時彼は謀反人・武田高信の子を二百石で召し抱えた。彼の人柄の良さが伺える。
関ヶ原合戦の後、、豊国は黒田如水が謀叛するとの噂が立った際には如水の元に赴いて
彼にその意志がないことを明らかにしたり、大坂城の攻め方を家康に述べたりと、
要所でその才能を発揮したが、彼は栄達を望まず、文化人として生きた。何故か?
さて、豊国の側室であるが、鳥取籠城の為もあってか、餅を食べるとよく喉に詰まらせていた。
それを豊国は「お前は餅が好きだなぁ、ハハハ」と笑っていたという。
しかし、そんなことを言われても、側室は豊国を恨むことはなかったという。
これは、日々の豊国の態度が非常に良かった為と考えて間違い有るまい。
彼にとっては出世よりも、愛する妻を相手に冗談を言う日々が大事だったのである。
趙高(?〜207B.C)
戦国時代末期〜秦代にかけて活躍した稀代の策謀家。
出自は趙の王族であったが、母国を征服した秦を破滅させることを決意。だが、秦帝国は
あまりに強大すぎた。趙高は思案の末、内部からゆっくりと腐らせるしかないとの結論に至る。
自ら宮刑を受けると宦官となり、出自の良さから始皇帝の側に侍ることになる。
趙高は元来の聡明さと偽りの勤勉さで始皇帝を籠絡すると彼を暴政へと導いた。
戦国の覇者だけあってさすがに始皇帝は英邁だったが、母譲りの淫蕩さを
趙高に見透かされてしまっては、彼の手のひらで踊るほかなかった。
阿房宮や巨大な陵墓などの造営により秦の国力は確実に衰え始めたが、これも
趙高の指嗾があったためである。それでもなお始皇帝の英邁の質を恐れる趙高は
房事を盛んに勧め、精力剤と称して水銀を処方するなどして始皇帝の心身を
蝕んでいった。
頃合いを見計らって毒殺した始皇帝の死後、末子の胡亥を擁立し、丞相の李斯を排除。
もともと趙高によって父同様に籠絡されている胡亥を政務から遠ざけ、さらなる暴政をひいた上、
反対者を得意の法知識でもって次々と処断し、秦の実力を徹底的に削いでいった。すべては秦滅亡のためであった。
暴政によってやがて発生した反乱を利用して精強無比だった軍事力を消耗させた後、二世皇帝胡亥を暗殺。
各地の実行支配力を失っていくなか、自らの手で「秦王」子嬰を擁立し、秦は既に中華を支配していない事実を全土に宣言した。
このときが趙高にとって最高の瞬間であった。たった一人の男が強大な秦帝国を覆したのだ。
三世皇帝ではなく秦王とされた子嬰は逆上し、趙高を一族もろとも葬るが、
その子嬰も後に楚の項羽によって処刑され、名実共に秦は滅びた。
だが、秦王国ではなく秦帝国を滅ぼしたのは間違いなく趙高であった。このことにより彼の名は
未来永劫、中華の歴史に刻まれることとなったのである。
>>557 名将として紹介しているか?
微妙に毒気を減らして紹介しているようにしか読み取れない。
すまん、Wikipediaで趙高の説明見たら、
>注:前漢時代、趙高のとった行動は、趙の旧王族として故国の復讐を行ったものと受け取られていたらしく、
>それを題材にした小説が存在したようである。
って書いてあったものに刺激を受けちゃったので・・・。
怒り狂うアヒャ 赤
↓
∩
⊂⌒~⊃。A。)⊃
クリーチャー ― アヒャ 0/1
速攻 側面攻撃
T:対象のクリーチャー1体に1点のダメージを与える。このダメージは軽減されない。
〜がマッドネスにより場に出された場合、〜はターン終了時まで+1/+1の修正を受ける。
マッドネス(0)
FT:マラ卵保有者の第二段階:瑣末な事に怒りを示す。勃起力の異常増大。
よりにもよってお気に入りスレとモナ板とを違へるとは…不覺orzスマソ
マラ卵が気になる俺は腐女子
劉j
荊州刺史劉表の子、劉gの弟。
幼いときより父に寵愛され蔡瑁、張允らの将に慕われる人徳を持つ。
建安十三年(二〇八)七月曹操が荊州に侵攻してくるが、翌八月に劉表が病没し、家中から劉jを後継ぎにすべきだと言う声があがるが、
劉jは「次男が家督を継ぐのはお家抗争の元だ」と一蹴、劉gに侯の印を授けるが、劉gはこの一大事に恐れをなし、これを投げ捨てて逃げ出してしまう。
これにより若干14歳の劉jが家督を継ぐ。
劉jは「あの劉備でも曹操にかなわぬのだ、後漢の丞相に降るのだから道理に反することではない」と先見眼と忠義を併せ持った将であることを示した。
降伏の使者を出した後、劉備が城下から劉jを呼ぶが、劉jは「既に丞相に降伏しているのだから、丞相に刃向かう逆心と話すことなどない!!」と立つこともなかったという。
曹操は劉jを青州刺史に任じて列侯とし、後に諌議大夫、参同軍事に異動させられている。
劉jは深い人徳を持ち、漢室に忠義を尽くした人物であった。
スマン。〜家督を継ぐの後に、「曹操の荊州侵攻の協議の際中には〜」をつけてくれ。
>>564 すまん。携帯だと劉 と表示されるんだが。劉キ?
勉強不足スマソ
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 22:06:54
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 13:23:04
夕刊フジみたいなスレだな
>>553 簡擁
【???〜???】
寛容だった。
【呂布】
彼はものすごい武勇はあるもののバカで、
彼の愛馬の赤兎も足が速いだけのバカ馬だったため
「人中の呂布、馬中の赤兎」
(人の中で最もバカな呂布、馬の中で最もバカな赤兎)
と周りの人にバカにされた。
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 06:28:39
関ヶ原の戦い
過激な春闘であった
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 07:24:04
仙石を語るスレか?
【姜維 202-264年】
字は伯約。天水郡冀の人。天水の戦いにおいて諸葛亮と合間見える。圧倒的な士気と、諸葛亮の
邪悪な姦計を武器に攻め寄せる蜀軍を、巧みな計略で打ち破り、趙雲を苦も無く追い払い、
天水を守りきるも、蜀の恐るべき勢いに危機感を抱く。大した事の無い蜀軍ではあるが、継続して
攻められ続けては、兵の士気は保てず、呉に隙を見せることにもなりかねない。しかし、蜀は一
呵成に攻め落とすにはあまりに険しい場所にある。
―――かくなる上は、我が身を犠牲としても、魏帝の為、蜀を内部から突き崩さねば。
若い姜維はそう考えた。しかし、どうやって蜀に入り込むか。入り込んだ後、どうやって政権の中枢を
犯すか。事は成り難く、机上の空論に過ぎないのではないか。そう姜維は悩んでいた。
しかし、運命は姜維に味方した。命からがら戦場から逃げ出した諸葛亮は、やがて姜維を我が部下に
せんと、姜維の母を人質に取り、蜀に下るように謀を巡らせたのである。姜維はこれぞ千載一遇の
好期であると、わざと諸葛亮の計にかかり、蜀に下る。その後暫くは馬稷に焦りを抱かせ街亭を
失陥させたり、諸葛亮に恨みを持つ苟安を用いて流言を撒き、蜀の勝ちすぎをおさえたりと、裏役に徹していた。
やがて、姜維と共に蜀を疲弊させつづけた諸葛亮は五丈原で倒れ、北伐は止む。姜維は、さらに
戦を続け、蜀を疲弊させんと、蒋エン、費イと共に荊北を水路で攻撃するという、奇策を練る。
しかし、この策は、蒋エンの病死と共にお流れとなってしまった。塞ぎ込む姜維の元に、夏侯覇が
恐るべき情報を持ち、下ってきた。
―――曹一族が司馬懿により誅せられ、実権を奪われました。
その恐るべき知らせに、魏王室を尊び、魏王室の為に生きてきた姜維に、大きな衝撃を与えた。
そして姜維は、北伐を決意する。一つには、蜀に軍費兵糧を消耗させ、疲弊を誘うため。二つ
には、魏の内患たる司馬一族を戦場にて討ち果たすために。当然、費イはこの無謀な北伐を
「諸葛丞相でもなし得なかった北伐。況や我等の如きでは。」と諌めるが、もとより姜維は北伐の
成否など気にしてはいない。兵を挙げ、蜀を疲弊させ、司馬一族を奔走させることが出来れば
それでよかったのである。
度重なる北伐は、蜀の国力を弱めることは成功した。しかし、司馬一族を討つ事は遂に叶わな
かったのである。
姜維には、蜀の内にも、もう一人の敵がいた。他ならぬ黄皓である。疲弊した蜀の現状を憂い、
自ら賭博場を管理するなどして大いに経済を発展させ、また、憂国の士閻宇とともに蜀を疲弊
させ続ける北伐を続ける姜維の兵権を奪わんとしていたのである。怒った姜維は、黄皓に
罪を着せ、将来魏の禍根とならぬ内に切り捨てようとする。しかし、黄皓もさるもの。卓越した
政治感覚と人脈を駆使し、姜維の策を次々とかわし、ついに姜維は沓中に押し込められる事になる。
魏では司馬氏を除けず、蜀では黄皓に抑えられ、最早打つ手は無いかと思われた。が、しかし、
姜維の13年来の計がここに身を結ぶ。鍾会が、蜀討伐のため攻めて来たのである。姜維は、
ここで一計を案じた。
このまま黄皓を生かしておけば、必ずや魏の将来に禍根を残すこととなる。劉禅と黄皓に魏の
内紛の隙を突かれれば、魏が滅びる原因にもなりかねん。
姜維は、黄皓に援軍を要請する書状を送る。しかし、その内容は蜀の存続のためにはとても
飲める内容ではなく、出せば蜀が滅んでしまうような代物であった。既に姜維の真意に薄々ながらも
気づいていた黄皓は、これを蜀を弱らせるための嘘と判断し、蜀を守らんが為に姜維の書状を破り捨てる。
それが姜維の計略とも知らず。
やがて、援軍の無い蜀軍は漢中を捨て、剣閣にて持久戦に入る。しかし、姜維は陰平に防衛の隙が
ある事を知りながらこれを無視し、ケ艾に進入させることに成功。ケ艾は姜維の目論見通り蜀を陥とし、
援軍を送らなかった黄皓を蜀滅亡の原因として切らんとする。しかし、黄皓も我無くば、蜀の再興無しと
自負する身。せっかく劉禅を無傷で救い出し、蜀再興に向けて地下で活動を開始していたのにここで蜀の
命脈を絶たれてなるものかと自らの私財を投げ打ち、馬稷と自らの助命を謀る。しかし、姜維はすかさず
黄皓の危険性を鍾会を通じ司馬昭に知らせ、黄皓の五体を引き裂かせる事に成功する。
当初の目論見通り、蜀を内部から滅ぼすことに成功した姜維。しかし、彼の心は晴れなかった。
なぜならば、魏王室は司馬氏に席巻され、今にも乗っ取られてしまいそうな状態にあったからである。
しかし、蜀の降将である姜維に兵権は無い・・・・ならば、と、姜維は鍾会に謀反を持ちかけ、ケ艾親子を
切る。鍾会を魏より謀反させ、ケ艾親子を切れば、当然司馬昭が討伐に乗り出すであろう。そこに
自らの命を賭し挑みかかり、武勇と知略の全てで以って司馬一族を滅する。それが、姜維最後の
計略であった。しかし、その最後の計も怒った魏の部将達によって潰え、姜維も斬殺されてしまう。
魏の、魏王室為に生きぬいた男、姜維伯約、齢62。夢半ばにして、蜀の地に散る。
後年、正史にも演義にも蜀の武将として、蜀を滅ぼした愚将として記されてしまったのは、彼にとっては
この上も無い不幸であっただろう。
>575-577
文章の質はイイし、解釈の仕方もとても面白いです。GJ!
ただ、姜維って世間一般では良将と考えられてそうなので
このスレ的には「どうかな?」と少し思いました。
姜維
魏の武将だったが普段から信頼されてなかったので上司に内通を疑われたが、弁解もせず蜀に鞍替えする。
何故か諸葛亮には気に入られたが、その後、蜀王朝からは信頼されず、一万以上の兵力を与えてもらえなかった。
魏の本格的侵攻に対し、前線で奮闘しているのに、蜀王朝が降伏してしまい、信頼されてないからその連絡もなく戦ってると
いつまで戦う気だと魏の武将・鐘会に怒られ、自分の信用の薄さが情けなくて泣いて鐘会にわびる始末。
そんなに信用されないなら自分で王朝建ててやると逆ギレして、鐘会を口説いて魏に対して反乱を起こそうとするも、
将兵たちがお前なんか信用できるかと怒り、一族ともにみな殺しされてしまったという。
こんな信用できない人物ぐらいしか、めだった人材がいないという蜀の人材不足を象徴する存在だった。
久々に見たら良作が揃っておりますな。
生粋の戦馬鹿 立花道雪
若年の頃雷雨で出陣できないイライラを解消するために庭で刀を振るっていたところ
雷が直撃。下半身不随となり家中の笑い物となったにもかかわらず「雷を切った!」と
大言壮語したDQN。
主君の大友宗麟が和平路線に転換し、家臣領民が平和を享楽している時に一計を
用い、側近を遠ざけ主君を孤立化した上で強硬路線を取るように脅迫。その形相に
宗麟もただ頷く事しかできなかったという。
これほど戦こそ我が生き甲斐を地で行った人物のくせに肝心の戦となると
からきし駄目で、形勢が不利になると輿を担いでいる部下に「逃げたいなら
敵のど真ん中に突入して我が輿をおいて逃げよ!」とそのまま逃がせば
いいのに支離滅裂な突撃を強制。そのあまりなDQNの言いように部下が
自棄になって暴れ回ったおかげで命を救われた事もたびたびあったという。
愛娘を猫かわいがりし6歳の時に城主に据えるなどという事をしてのけたくせに
他人の家族を思う心を理解せず、正月にこっそり帰省した兵士を斬罪に処すなど
情けを知らない所行も数知れず。
あまりの非道ぶりは東国までも鳴り響き、かの武田信玄も呆れ果てて
「一度会って説教してやる!」という手紙を送りつけた程。
また、人を見る目もなく適材適所を心得ず、武功者の配下を来客の接待に出して
しまい、粗相をしてからはじめて「粗相はしたものの、この者は戦に出れば抜群の者で」
とフォローにもならないフォローと言い訳を始める始末。
息子には恵まれず、主君の命で名門立花氏を嗣いだが、跡継ぎがいない事を心配した
高橋鎮種に彼の子供をお情けで養子に貰えたにもかかわらず、足に刺さった栗の棘を
抜いてやるどころか逆に奥に突き刺すなどの虐待を重ねる。
最後は筑後北野の陣中で没。主を失った配下に撤退戦を強いるという最後の最後まで
ハタ迷惑な一生であった。
>>582 あんまり崩した表現を使うと文そのものが胡散臭くなるから
ある程度歴史書っぽいかちっとした文にした方がいいと思うぞ
>足に刺さった栗の棘を 抜いてやるどころか逆に奥に突き刺すなどの虐待を重ねる。
爆笑w。確かに現代の倫理観ではそうだよなw
織田 信雄
信長の次男。北畠具教の養子に出されるが、すぐさま養父・具教を暗殺して家中を掌握。長兄・信忠の指揮下で働く。
本能寺の変後、只一人明智光秀が山崎合戦の後、安土城に潜んでいたのを見抜き焼き討ち。
結果、明智光秀を討ち果たしたが、肝心の死骸が焼失してしまった。
そのため亡父信長の家臣団は、信雄の能力に疑問を抱く。
清洲会議では亡兄に義理だてし、やむなく秀吉に従った。
しかし弟信孝が秀吉に反旗を翻す。
信雄「兄弟同士で争う事は無い」と判断し、秀吉と結託。
信孝のいる岐阜城を開場させた。
しかし、信孝が秀吉により自害させられる。これに憤慨した信雄は家康と結託し、
秀吉と決戦を決意。
会戦の前に、秀吉に内通していた三家老を切り捨てる。
しかし秀吉の「彼らは内通者では無かった」との流言工作により、
安土城焼き討ちなどで勘違いしていた家臣団はますます信雄に疑心を抱く。
かくして小牧長久手の戦いは始まったが、森、池田といった、長年、亡父の為に尽くしてきた家臣たちが
戦死していくのを見て、信雄は自分が天下人の座を降りる事を決意。
彼のこの英断により、秀吉は後の家康のように、織田家を滅ぼそうとはしなかった。
後の小田原の陣で、北条氏を滅ぼして家康を小田原に封じ、家康の旧領を信雄に与えようとしたが、
信雄は秀吉に危険視される事を恐れこれを拒否。この事が秀吉の怒りに触れたため、野烏山に配流されたが、翌年ゆるされた。
後に秀吉は彼を「戦国の世に生きるには、優しすぎたお方であったかもしれぬ」と評している。
・・・別に名将でもないね・・・
588 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 12:16:02
582おもろい!戦国の人物史もっと知りたい!
蒲生氏郷(がもう うじさと)1556〜1595
幼名は鶴千代。初名は賦秀(ますひで)。洗礼名はレオン。
六角家に仕える蒲生賢秀の嫡男。生来空気が読めない性格であったという。
主君承禎も場違いの発言をかます氏郷を疎んでおり、織田家の六角攻めを口実に
氏郷を織田家の人質に出す、という厄介払いにも似た政策を取った。
だが空気の読めない氏郷は織田家でも人質らしからぬ行動をとる。
まず手始めに、恐れ多くも織田家の当主信長公の娘である冬姫をコロッと騙し妻にする。
ショタコンであった信長自身が氏郷をかわいがっていたためこの件は不問とされた。
次に、織田家の武功談話にも人質であるというのに顔を出し
夜が更けても「まだ聞きたいです」などといって諸武将の内心の顰蹙を買ったという。
もっとも同じく空気が読めず「頑固者」と呼ばれていた稲葉一鉄などはその態度を評価したとか。
戦場でも、部下に対しての心構えとして
「敵の陣に突っ込む銀鯰尾兜の者がいる。お前達はその者に負けぬように頑張ればよい」等と言ったが
それは自分である事から、力劣る部下に対しても突撃、切り込みを強いていた事がわかる。
さて、氏郷は天正十八年松ヶ島十二万石から会津若松四十二万石(後に九十三万石)へと移封を命じられる。
わずか34、5歳という年齢で異例の大出世といわれているが、なんのことはない。
秀吉自身が氏郷の空気の読めなさっぷりを疎んじていただけの事である。
それをあらわす逸話を次に示す。
『秀吉が配下に「会津移封を命じられた氏郷はどんな様子であったか」と聞くと
配下は「大変残念がっております」と答えたという。それを聞いた秀吉は
「それでよい。氏郷をわしの近辺においておくと恐ろしいから会津へ飛ばしたのだ」と答えた』
この事から、氏郷の空気の読めなさを恐れた秀吉が
「まあとりあえず大身の身にしておけば少しは恩を感じて大人しくなるだろう」や
「あいつ空気読めないからあんまり近くにおいておきたくないなぁ」などと考えた事がわかる。
だが、この異例の大出世に対し氏郷は
「京から遠くなればもはや天下は狙えぬ。私は既に天下に不要の身になったか」などと
秀吉に対して一片の恩も感じていないと感じられる言葉を残したという。
氏郷の空気の読めなさが最大限表されている逸話は次である。
『朝鮮出兵の戦況が思わしくない時、秀吉は諸大名を集めて対策を練る談会を開いた。
するとその場にいた氏郷がこう答えたという。
「殿下、恐れる事はありません。朝鮮を私に頂ければ、私が朝鮮を切り取って参りましょう」』
「だからそーいう事言いたいんじゃないっての」と秀吉は言いたかっただろう。
それほど空気の読めなさを振りまき、利休七哲に数えられた氏郷も、文禄四年に死去した。
その死が突然であった事、そして秀吉との仲の折り合いから、三成や兼続の毒殺説も残っている。
余談ではあるが、若い頃に信長の側近を殴り殺すほど空気の読めなかった前田利家とその息子利長。
そして「頑固者」とも呼ばれる稲葉一鉄。
天下人となった秀吉に対し空気を読まず苦言を示した千利休。
これらの人物とは非常に仲がよかった事から「類は友を呼ぶ」との言葉が実感できる。
反面、空気を読み出世した秀吉との仲が悪かったのは当然であったのだろう。
空気の読めない、と言う一点では凄まじく偉大だな、氏郷はw
【豊臣秀頼】(1593〜1615)
最後の戦国武将。5歳の若さで豊臣家の当主となり、広大な領地に覇を唱える。
早くから大老徳川家康の野心を見抜き、石田三成らに監視させるが、家康は
1600年に兵を起こしてしまう。謙虚な秀頼は決戦に際し、総大将の地位を毛利輝元に
譲り、その度量を見せる。しかし彼の才能と地位を妬んでいた親戚筋の小早川秀秋の
裏切りにより、関ヶ原合戦は惜敗に終わる。
だが、この後の人生こそ彼の真骨頂と言えるだろう。巧みな外交術により家康の
追及をかわすだけでなく、家康の孫千姫を人質としてとる事に成功。また、若くして
戦国の覇王織田信長と同じ地位、右大臣に就任。片桐且元ら旧臣が専横するにも
かかわらず、家中を纏め上げ、徳川方が羨むほどの蓄財を成す。
また一方で、方広寺改築など、父の菩提を弔う事に財を惜しまないという仏心に
厚い面もあった。
1611年、二条城にて家康と今で言うサミット会議を行う。その際、秀頼の見識の高さと、
その先祖からの威容を受け継ぐ出で立ちに恐れをなした家康は1614年、またもや兵を
起こしてしまう。それに際し各地から、秀頼の人柄に惹かれて戦国を代表する知将、豪傑が
彼の元に終結する。秀頼の指揮の下、形成された軍団は家康の本陣を揺るがすほどの
勇猛さを示す。この戦いの中、徳川方の工作で、戦場に秀頼を誘き出して討ち取ろうと
するために彼に出陣を促す報が何度もあったが、そんな罠にかかる秀頼ではなかった。
善戦空しく、場内に敵兵が雪崩れ込んだ時、天守閣北側の山里丸にて爆薬を仕掛け、
家康を誘き出して自爆という最後の策を立てるも、千姫の裏切りにより無念の自害を
遂げる。
これは余談になるが、蒲鉾を現在の形としたのは秀頼の発案である。このような日常の
食品への細やかな気遣いからも、彼の遺徳が偲ばれる。
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:13:08
誰もが認める凡将ってどんな人がいるかな。
弁護のしようもないぐらいのトホホな凡将を名将にしてみたい。
陳武は除いてやってくれ・・・
変わりに陳紀を挙げるから
陶晴賢 1521〜1555
大内義興に仕え大内氏の基盤を築いた名将陶興房の息子。
美男子として知られ、大内義隆の寵童として仕えるが武勇・軍略にも長け父興房の死後は家督を継ぎ「西国無双の侍大将」と呼ばれ西国に名を馳せる。
1540〜1542には義隆から尼子攻めに対しての総大将の権限を与えられるなど義隆の彼に対する信頼も深かった。
信頼に関しては、『晴賢謀反』の噂が流れた時、義隆は
「晴賢が謀反するはずはなかろう」
と相手にもしなかったと言われる。
1542年、未だ大内に服さない多くの豪族達をまとめ上げ出雲遠征を行うも天下の堅城月山富田城を攻めきれず、撤退する。
遠征失敗に対し大内義隆は晴賢のまさかの敗北に多大なショックを受け、軍事面に興味を示さなくなってしまう。
主君が墜ちてゆく様を見ていたくなかった晴賢は、手始めに主君を唆す奸臣相良武任を誅殺し主君義隆を正気に戻そうとする。が、この機に乗じた謀将毛利元就により『晴賢謀反』の流言飛語を飛ばされ周辺諸国の反感を買ってしまう。
その後主君を殺害したくない晴賢によって大寧寺に逃がされた義隆は、己の不明を悟り晴賢の足手まといになってはいけないと自決。
そして、自決する際に「後事」について遺書を記したと言われているが記録には残っていない。
果たして義隆の自決は皮肉にも毛利元就に「息子の義父殿の仇」という大義名分を与えてしまう結果となる。
最早毛利との一戦は避けられないと知った晴賢は毛利軍が聖地厳島に宮尾城という小城を築城していると聞き「聖地に城を造るとは何事か」と憤り厳島にて乾坤一擲の勝負を持ちかける。
この時に家臣や妻に「あの城は元就が大内軍3万を狭い厳島に誘い寄せ一気に殲滅せん、とする為に築いたものです」と進言されたにも関わらず怒りに我を忘れて攻め込んでしまった事が陶晴賢その人を名将から凡将に格下げしてしまった最たる物である。
この他には失態は犯してないだけに悔やまれる。
俺は陶晴賢好きなんで書いてみました。
強引な所、無茶な所色々ありますが、そう言う所はスマソ。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 20:23:54
少しずつ質が落ちてきたが…
>>599 陶って基本的に名将扱いされてる気がするんだが、
これは名将を名将のように説明する文章なのか?
確か陶って大内家の武断派リーダーだったような気が・・・
603 :
599:2005/04/06(水) 00:03:35
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 17:09:12
北条親子モノが一番面白かったな。
誰か大野冶長やってくれ
>>603 陶晴賢が好きなんだったら、逆にこのスレだったら相良武任を名将に仕立てたほうが
いい感じかもしれませぬ
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 14:24:32
基本的に長いのは駄目だな 面白いのかもしれんが小説読んでるみたいだ
7行以内が望ましいと思った
「いいよ〜。GJでした。」とかまるでコピペか荒らしのごとく散在してるな
そうやってフォローする決まりなのか?
>>98 >>334 >>407とか悪い例
スレの最初の方はいいの多いけど最近はひどいわ 名将→凡将ばっか
↑こういう奴って何様のつもりなんだろうねw
>608
GJ!
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 15:45:36
【大野治長】
豊臣家家臣。智勇兼備の大英傑で、落日に向かう豊臣家を支えた。
早くから徳川家康の危険性に気づき、関ヶ原の戦いに先駆けた1599年、
暗殺を企てるも未遂に終る。のち、その才能を恐れた家康に許され、関ヶ原では
東軍についたが、豊臣家への忠誠の心は変らなかった。
大阪の陣に際しては最高司令官として淀君と秀頼、浪人諸将の間をまとめあげ、
圧倒的不利を覆して冬の陣では見事に勝利。さらに家康のなりふり構わぬ違反行為に
よって堀が埋め立てられたあとの夏の陣においても、秀頼に代わって采配を振るい
家康をあと一歩まで追い込んだ。この戦いにおいて真田幸村、後藤又兵衛らの
浪人諸将は徳川方に寝返ったり降伏することなくみな晴れの戦死を遂げており、
これは治長の人間的魅力と将才に心打たれた諸将の「あの方のためならば命も
惜しくはない!」という気持ちの現れであろう。とりわけ真田幸村は家康に自殺を
決意させるほどに追い詰めるが、天の時はもはや如何ともし難かった。
家運尽きたことを悟った治長は、秀頼、真田大助らをひそかに薩摩へ落としたあと、
爆薬を炸裂させて壮絶な自殺。自らの死をもって家康の目を欺いた。のち、秀頼の
息子は天草四郎となって幕府と戦った。
その秀頼であるが、実は秀吉の子ではなく、他ならぬ大野治長の息子であったという。
彼の人生は、名乗ることのできない息子と叶わぬ愛を捧げた女性に殉ずる、戦国の
夜の夜明け前の空を流れる美しい流れ星のような人生であった。
>>612 いいよ〜。GJでした。
いや、真面目に。
大野治長
大坂冬の陣において、無謀な奇襲作戦ばかり立案してくる浪人勢をうまく抑え、
家康をして不得手な攻城戦に持ち込んだ名将。
この戦いで大坂城を攻めあぐねた家康に、女童を狙った大砲攻撃や、和議を
背信してまでの外堀埋め立てなど、いくさ人にあるまじき恥ずべき所行を
行わざるを得ないようにし向けた。
治長は徳川に卑怯者の汚名をかぶせることによって将軍家の権威を失墜させることに成功したのである。
気落ちした家康は大坂落城後1年で死亡するが、いまわの際まで治長にしてやられたと
くやんでおり、己の所行に対する戦神の天罰を恐れる余り、自らを対等の神にするしかないとの
妄念から日光東照宮を造営し、朝廷に東照大権現の神号を強要するほどであった。
すなわち日光東照宮の壮麗さは、治長の偉大さを示すものなのである。
余談だが、「日光を見ずに結構というなかれ」という言葉は治長の事跡を追慕する豊臣の遺臣達によって
広められたものであり、徳川への呪詛が込められた言葉でもあるという。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 12:37:45
褒め殺しage
いや、
>>615はマジで良いと思うよ。
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 13:26:24
【どんな将でも名将だったように語るスレ】
を作りたいのですがいいでつか?
褒めるよりけなすほうがよっぽど楽っぽいし、
だったら面倒なほうをやったほうが面白いかな、とか思いましたが……
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 20:50:40
穴山梅雪はガイシュツだっけ?
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 23:18:11
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 00:50:21
【穴山梅雪】
武田家家臣。その溢れる才気を信玄に見込まれて娘を娶る。のち駿河江尻城主
に抜擢されるなど家中で重きを為した。しかし、信玄の死去後、勝頼の圧政に
民百姓の怨嗟の声が高まると、領民のためにこれを除くことを決意。長篠の戦
で自ら戦場を離脱するという古今無類の奇略をもって壊滅に追い込む。さらに
信長、家康に通じていち早く所領安堵を取付け、ために彼の領内では信濃・甲
斐のように戦騒ぎで土地が荒廃することもなかった。本能寺の変に際しては自
ら犠牲となり、彼がこの世でただ一人、天下を背負うに足る男と見込んだ家康
を逃がし、暴徒と化した土民の軍に自ら首を差し伸べた。心から愛した百姓た
ちに刃を向けるよりも、自らの死によって平和をもたらすことを選んだのだ。
穴山梅雪。彼こそは生涯を通じて民百姓の幸福のみを希求し続けた、おそらく
ただ一人の戦国武将であった。
>>621 美化するのは賛成。
衆愚するよりはな。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 01:14:06
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 14:55:31
>>618 多分重複扱いを受けるからなぁ・・・。
考え物である。
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 15:57:19
>衆愚するよりはな。
('A`)?
623家康と梅雪は別行動だったハズだがいいか
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 18:42:53
真の凡将は史書に「某」とか官名で書かれてしまうか、全く歴史に残らないからなぁ
名前が出てくるとしたら家柄だけで高い地位にいる連中だけど小説ではあまり取り
上げられず、マイナー街道まっしぐら。
万人が認める凡将ってのは難しい。
万人が認める凡将なんて歴史に一切残らないようなヘタレだろうな
だがそれじゃ誰も知りえないし、つまり歴史に残っててヘタレな香具師って事か
>>万人が認める凡将なんて歴史に一切残らないようなヘタレだろうな
まさしくお前らのことじゃないか。
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 19:33:34
>万人が認める凡将なんて歴史に一切残らないようなヘタレだろうな
だな、史書に残ってる奴なんて、数千万人から選ばれた超エリートだもんな。
つまりベジータやナッパは歴史書に名前が残ってもラディッツは残らないと言うことか
つまり金八や伸太郎は歴史書に名前が残ってもしゅうは残らないと言うことか
ラオウやトキは残ってもジャギは残らないということか
丸山しゅう
永禄433年生、身の丈5尺1寸、体重10貫と平均的な体格
父は覚醒剤の売人、母は暴力女という複雑な家庭に生まれる
齢十五にして時の教師、坂本金八に師事する
常に無頼漢二人を連れる大物の素質を持っている。
また、彼を中心としてクラスの中で革命がおきていることから
彼は乱世の風雲児と呼べるだろう。
しかし、彼の精神と類まれなるカリスマ性を覚醒剤によって蝕まれてしまう。
彼は必死に隠し通そうとしたが、金八の奸策にかかり馬脚をあらわす。
その後、彼はどこと無く消えてしまった。
最後まで謎の多い武将であった。
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 22:59:11
いいよ〜。GJでした。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 15:52:58
飯に汁…w
【夏侯惇】曹操の親類というだけで大将軍にまで昇った凡将。
「これぞ父の精、母の血。もったいなや」と言って目玉を食うエピソードは、
彼がけちで、しかも下手物食いであることをよく示している。
正史では政治戦下手で、曹操の言葉を理解せずに陣払いをするなど使えない野郎だった。
最期は曹操に祟られて死ぬ。
【夏侯淵】同じく親類というだけの凡将。
曹操のアドバイスすら聞き入れない程に自分を過信している。
銅雀台では曹休らに負けじと自分の弓術を見せつけるなど、大人げない面もある。
最期は帝軍山で、ホーム入りの近いのジジイに唐竹割りにされる。
【曹洪】やはり従兄というだけの凡将。
曹操が徐栄に負けた時にいち早く駆けつけ、
二人ぼっちであることを良いことにマグロ状態の曹操の服を脱がせ、
騎乗させ、自分の上に載せて河を渡った。
ケチで曹丕に金を貸さなかった為、財産没収の上、免官されてしまった話は有名。
【曹仁】やはり(ry
頭が悪く、ぶちぎれやすい横暴な将軍。
そのくせ敵に包囲された牛金を少数で救出に行くなど、匹夫の勇だけはあった。
人々は彼を「天上世界の人(いつあの世に行ってもおかしくない程の馬鹿)」と呼んだという。
>>641 曹仁がやけに手抜きだな。名将にしか見えないぞ。
書いてて疲れてきたな?
【竜造寺長信】
青史に出たと思ったら何もせず、ただ切られただけの非凡な武将。
平和主義者だったと思われる。
ある意味
凡将を語るなら、類希な『ヘマ』や『失態』、『情けない決断』などで
名を残した人物の名誉回復を図る解説をするのが良いんではないだろうか?
【織田信澄】1555-1582
織田信長の弟・信行の子。
稀に見る巨根の持ち主だったために「一段の逸物」と称された人物。
しかしそれが元で本能寺の際、短小包茎だった従兄弟の信孝に殺された。
>>644 >類希な『ヘマ』や『失態』、『情けない決断』などで名を残した人物
大友吉統を名将のように語るのは俺には無理でした
奸臣と暗君の組み合わせは結構多そう
ネタに出来そうな凡君
徳川秀忠(徳川幕府二代目将軍)
土岐頼芸(美濃の大名。斎藤道三に追い出された)
大内義隆(中国地方の大大名。陶晴賢の謀叛で死亡)
徳川秀忠と大内義隆が凡君とは一体
秀忠が凡君?
徳川秀忠
徳川家康の三男。早くから家康にその俊英ぶりを認められており、家康は兄の秀康を結城家に
養子に出してまで秀忠を世嗣に定めた。
その才が発揮されたのは天下分け目の関ヶ原の戦いにおいてである。開戦前より父家康の苦戦を見抜いていた
秀忠は、関ヶ原での敗戦で徳川家の勢力が弱体化することを恐れ、兵力の温存を図るために
西上中の中山道でわざと真田昌幸の守る上田城を包囲して行軍を遅らせた。秀忠が進発を開始したのは
家康勝利の報を受けてからだったが、これも秀忠の忍耐強さを物語るものである。
関ヶ原において秀忠の予想通りの苦戦を演じた家康は参集に遅れたことで秀忠を叱責するが、
内心では秀忠の処置を認めていたため、これはあくまで配下諸将への体裁を繕うための擬態であったという。
実際のところ、空前の大会戦を行った東軍勢は酷く疲弊しており、大坂の毛利勢に対するためにも、
手つかずの秀忠勢3万8千の兵力は極めて重要だったのである。
しかし秀忠の器の大きさは、家康に一切の抗弁をせず、その後も諸事家康の差配に任せきっていたことで、
これは一代の英雄、家康ですら使い切ってみせる度量の大きさを示すものであり、漢の高祖、劉邦に
伍して語られるべき、将に将たる英雄だったといえよう。
単なる紹介って感じだなもちろん
>>651がわるいわけじゃないけど
跡部勝資 飯尾連龍
長坂釣閑 猪俣邦憲
田原紹忍 久武親直
凡将とは違うかもだがこの人らはネタになるし
イメージアップを図るいい機会だな
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 21:39:23
馬謖!
何をしたわけでもないのに、口先だけで謂れの語源にもなった武将。
山本勘助
ロリコン
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 15:46:35
蒲生氏郷か、天を衝くじゃものすごい愚将として書かれてたな
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 16:00:41
>>蒲生氏郷か、天を衝くじゃものすごい愚将として書かれてたな
その小説嫌いだ政実を美化しすぎ、ほかの南部家の武将や晴政を馬鹿にしすぎ、
読んでてむかついてきた
【羽柴秀長】
関白豊臣秀吉の弟。大和大納言。
織田家に仕えた兄が遠慮なくこきつかえるものとして
当時百姓だった彼を無理やり侍にひきあげる。
とはいえ、やっていたことはほとんど山賊あがりのような家来衆と兄の折衝役や、
兄がばらまく金の尻拭い。当然、戦さにも駆りだされるが、
稲葉山城攻め、金ヶ崎の戦い、小谷城攻めなどの戦功をすべて兄に譲るなど、
戦国武将にあるまじき意志薄弱っぷりを見せる。
とはいえ、心中にはやはりなにか含むものがあったのか、
手紙ひとつにしても汚く、当て字だらけの兄とは違い、
二十歳過ぎまで文盲であった者とは思えないほど綺麗な字を書き、ここに兄へのあてつけがみてとれる。
また財貨を貯めるのにも貪欲だったようで彼の屋敷の一室は天井まで黄金で埋め尽くされていたという。
しかも彼はその金を自分のためには使わずに、家中の揉め事の調停に使うという偽善ぶりを見せる。
また様々な女性とのあいだに浮名を残した兄とは対照的に彼は生涯正妻しか愛さず、
ここに彼のストーカー気質の片鱗をみることができる。
その死に対し、数多くの大名が嘆いたといわれるが、それは
「おいおい、これから誰があのサルの介護するんだよ」
という意味の嘆きであろう。実際、豊臣家はここから没落していくこととなる。
いい人にしか見えない
>>657をもっとセコイ小悪人にしてみた。
【羽柴秀長】
関白豊臣秀吉の弟。大和大納言。
織田家に仕えた兄のおこぼれに預かって百姓から侍に取り立てられる
とはいえ、やっていたことはほとんど山賊あがりのような家来衆と兄の折衝役や、
兄がばらまく金の尻拭い。当然、戦さにも駆りだされるが、
稲葉山城攻め、金ヶ崎の戦い、小谷城攻めなどの戦功をあげても兄に掠め取られる
戦国武将にあるまじき意志薄弱っぷりを見せる。
とはいえ、心中にはやはりなにか含むものがあったのか、
手紙ひとつにしても汚く、当て字だらけの兄に当てつけて、
二十歳過ぎまで文盲であった者とは思えないほど綺麗な字を書き、小才をひけらかした。
また財貨を貯めるのにも貪欲だったようで彼の屋敷の一室は天井まで黄金で埋め尽くされていたという。
しかしその金を自分のためには活用できず、兄の家中における揉め事の調停に利用された
また様々な女性とのあいだに浮名を残した兄とは対照的に、彼は生涯正妻以外に相手されず、粘着質なストーカー気質の片鱗をみせている。
その死に対し、数多くの大名が嘆いたといわれるが、それは
「おいおい、これから誰があのサルの介護するんだよ」
という意味の嘆きであろう。
【羽柴秀長】
関白豊臣秀吉の弟。
大和大納言。
織田家に仕えた兄のおこぼれに預かって百姓から侍に取り立てられる。
侍になってからも山賊あがりのような連中と付き合ったりしていた。
兄の使い走りが主な仕事で自然、戦にも駆りだされ稲葉山城攻め、金ヶ崎の戦い、小谷城攻めなどの戦功をあげた。
しかしそれは兄の指示の元であり功績は全て兄のものとなった。
これを妬み色々見えないところで兄に嫌がらせをした。
例えば手紙を書く時に字が汚く当て字だらけの兄に当てつけるように綺麗な文字を書き小才をひけらかした。
万事このような感じで返って小人物であることを周囲に喧伝してしまっているがそれに当の本人だけは気が付かない。
また守銭奴としても名を残しており彼の屋敷の一室は天井まで黄金で埋め尽くされていたという。
しかしその金を兄にきっちり使われてしまった事が彼の評価を益々下げている。
様々な女性とのあいだに浮名を残した兄とは対照的に、彼は生涯正妻以外に相手されず甲斐性の無さも露呈してしまっている。
唯一、気難しい兄の小人物で分かり易い弟としてパイプ役としての価値を見出されていたのでその死に対し、数多くの大名が嘆いたといわれる。
だが、それは「おいおい、これから誰があの太閤の提灯持ちするんだよ」という意味の嘆きであったと言われている。
>>659をもう少しセコくしてみた
【羽柴秀長】
関白豊臣秀吉の弟。
大和大納言。
織田家に仕える兄のおこぼれに預かろうと母の面倒をすっぽかし、兄にしつこくせがんだ。
念願の侍になってからも所詮は母を見捨てた者なので、山賊あがりのような連中しか付き合ってくれなかった。
兄の腰巾着として戦にも駆りだされ稲葉山城攻め、金ヶ崎の戦い、小谷城攻めなど、戦功をあげた。
しかしそれは兄の指示の元であり功績は全て兄のものとなった。
これを妬み色々見えないところで兄に嫌がらせをした。
例えば手紙を書く時に字が汚く当て字だらけの兄に当てつけるように綺麗な文字を書き小才をひけらかした。
万事このような感じで返って小人物であることを周囲に喧伝してしまっているがそれに当の本人だけは気が付かない。
またこれといった趣味も無かったが彼の屋敷の一室を天井まで黄金で埋め尽くしそれを見て楽しんでいたという。
さらに、兄が使ったと見せかけて、自分の楽しみのために使い、被害者ぶったとう。
その弟の一途をモロに食らった兄秀吉は、たまったものではなかっただろう。
様々な女性を惹きつけた兄とは対照的に、彼は生涯正妻以外に相手されず器量と性格の悪さも歴史に名を残し、兄の名を汚す。
唯一、大名からは組みやすい弟として有効利用されていたのでその死に対し、数多くの大名が嘆いたといわれる。
だが、それは「おいおい、これから誰があの猿を丸め込むんだよ」という意味の嘆きであったと言われている。
>>660をさらにセコくしてみた
662 :
657:2005/04/14(木) 23:28:46
な、なんか連載みたいになってる('A`)
猪股邦憲 松田憲定 北条氏勝 この素材キボン
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 13:16:50
羽柴秀長シリーズは久々のヒットだよ。北条親子以来か?
665 :
659:2005/04/15(金) 13:25:46
世間レベルでしかしらず、ここで紹介できるほど詳しくないんで
新作はつくれないが事績さえはっきりさせてくれれば文章を弄って
名将版と凡将版に改変する事ならできる。
そういう人も居るんじゃないかな?
北条氏勝
北条氏繁の次男
地黄八幡を継いだ勇将
彼の一族には
戦上手で今川氏親の信任が厚かった曽祖父福島正成
外交手腕に優れ北条家一の戦上手祖父綱成
名将武田信玄、上杉謙信から居城玉縄城を守りきった氏繁
といった優れた将が多く彼もまたその血を受継いだため
非常に才能豊かな将であった。
そしてその才能は小田原の役にも発揮された。
氏勝は前線の山中城に篭城する。
しかし彼は山中城の落城を即座に悟った。
そして山中城が落城するや否や予め準備していたお陰で
即座に玉縄城まで撤退することが出来たのだ。
この時彼は生き残る術を見つけた。
氏政から小田原にて篭城するように命が下ったもののこれを無視
一緒に篭城しては生き残れないことを知っていたのだ。
氏政は当然彼の叛意を疑った。しかしこれで良かったのだ。
氏勝に叛意があることを見抜いた徳川家康に説得するように仕向けさせ
無事開城する。
さらに君従の姿勢を示す為、北条方に降伏を呼びかけた。
一門の彼が裏切ったことにより諸城が動揺したのはいうまでも無い。
そして結果総岩富城一万石として生き残ることが出来たのだ。
書いて頂きありがとうございます 名将なら開城しないで戦死するでしょう 彼の場合家の事は一切考えず保身ばっかりであり吉川広家や真田信幸のように当主を守れなかった凡将である 兄達が切腹するのをどう感じたのかな? 傍流だから関係ないとか
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 01:14:58
徳川家康の高祖父(祖父の祖父)松平長親は
北条早雲を戦で破ったことがある。
皇帝僭称とかネタにされがちな袁術を誰かまじめに持ち上げてみてくれないか?
袁術は僭称までは割と名将と言うか群雄として結構素晴らしいのでこのスレ的にあんまりネタにならん
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 04:02:20
【馬謖】 190-228
蜀の武将。字は幼常。
馬良の弟、兄弟は五人おりいずれも優秀であったとされる。
司馬懿が西涼の守りについた時には、いち早くその重大さに気づき
謀略によって司馬懿を失脚させた。
司馬懿が西涼に赴任したことを危機と感じたのは蜀には
諸葛亮と馬謖しかいなかったといわれている。
諸葛亮が行った第一次北伐(228年)に中参軍として従い、
食料補給路であった街亭の守備に抜擢される。
街亭の後詰めを任された魏延には反骨の相があると見抜き
魏延を除こうと策略し、機転を利かせて山上に布陣する。
これによって魏延軍は大打撃を受けるが、魏延を亡き者にするまでは至らなかった。
一部の学説ではこれは諸葛亮の策であったとされる。
また連勝の味をしめていた蜀軍に喝を入れるために、
自らの命を賭して軍法の正しさを明らかにした。
諸葛亮を始め、蜀の武将たちはその死を惜しんで涙にくれた。
「泣いて馬謖を斬る」
練りに練った策が失敗に終わり、悔し涙を流し八つ当たりをすること
証拠隠滅のために実行役を除くこと
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 05:03:05
大内輝弘 1520?-1569
大内政弘の孫(政弘の次男、高弘の子)。
幼少から聡明だったため大内義隆と不和になり、豊後大友氏を頼る。
永禄十一年、北九州を巡って大友氏と毛利氏との抗争が激化すると、
智将吉岡長増の進言もあり、大内再興をはかってわずかな兵を率いて
周防国吉敷郡秋穂浦に上陸、瞬く間に築山屋形を占領し、毛利氏を
北九州から撤退させることに成功した。
しかし多勢無勢、強大な毛利軍に抗することができないと知った輝弘は
毛利氏に降るよりはと富海の茶臼山で自害した。
彼はまた戦国武将としては他に類をみない文化人で、学問、和歌、連歌に
秀でていたといわれている。
真田昌幸 1547-1611
信濃国上田城主。真田幸隆の三男。
はじめ武田氏に仕え、信濃の豪族武藤氏を継いだが、長篠の合戦で
兄が戦死したため、旧姓に復して上田城主となる。
天正十年、主家武田氏が滅ぼされると、越後上杉氏、小田原北条氏、
徳川氏、豊臣氏と時期をみては主家を乗り換えた。
関ヶ原の敗戦後、武士の渡りは世の習いとはいえ、こうした行為が
家康の勘気に触れ、高野山麓の九度山へ蟄居を命ぜられて、憂慮の
うちに死去したのは当然の報いであった。
また、武田氏の国人掌握が甘かった実例でもある。
>>646 大友義統 1558-1610
豊後大友氏第二十一代で、義鎮の嫡男。
天正四年ごろ家督を相続するも、実権は父義鎮に握られており、
その結果、二頭政治となり家臣の分裂傾向をみることになった。
天正十二年に竜造寺隆信が沖田畷で戦死したときは、旧領奪回を
はかり、弟親盛を総大将として筑後に侵攻させ一部を回復した。
父義鎮の耳川で島津勢に対する敗戦、島津勢の北上により国人の
離反が相次いだが、志賀親度、朽網鎮則らを討伐、鎮圧させる。
北上する島津勢の勢いはとどまることを知らず、父義鎮を通じて
秀吉の援助を請い、秀吉に従って島津氏を降伏させ、この功により
豊後国を安堵されて、羽柴姓を許された。
文禄の役では6千の兵で渡海し、鳳山城を攻略するなど功をあげた。
小西行長への救援にあたっては慎重策を主張し、石田三成らと反目、
讒言により所領を没収された。
関ヶ原の合戦では、豊臣家の義理を重んじて、吉弘統幸らの進言を
排して西軍に加担、敗戦後は常陸宍戸に赴き、当地で没した。
彼はキリシタン大名としても著名であり、領内でのキリスト教の
布教を認め、また南蛮貿易を行うなど、利益は大なるものであった。
東北に詳しい人、小野寺義道の名将化を求む
主な事跡
・跡を継いで早々盟友、戸沢盛安と反目
・最上や戸沢に領土を削られ続け、六郷や本堂など配下豪族の独立を許す
・離反した由利衆を攻め、数に勝りながらこの豪族連合に大敗
・有屋峠の合戦で最上軍を破った配下の名将、八柏道為を何故か暗殺
・亡命してきた由利の名将、矢島満安とそれを受け入れた兄、茂道を何故か攻撃
・関ヶ原では「最上が嫌い」という理由で西軍につき、戦後改易
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 23:43:00
曹操 字は孟徳
父が宦官という悪職の出でながらする癖に何故か多くの実績を残す歴史上の人物。
しかし、実際は曹操は諸葛亮、周瑜という人に破れており、実はたいしたことがないのでは、
という意見がある。
曹操は人を巧みに操り、(こういう才はあったらしい。自分が楽するために)
部下には仕事をさせ、自分は酒や女に溺れるという失態を犯す。
宛城では、その女好きが出たため、自らは死に追われ、しかも自らの優秀な武人、
悪来典韋を死なせてしまう。
しかし曹操はこりずに、多くの軍勢を敵に回し、官トの戦いでは、運良く
敵の将が、袁紹に呆れ下ったからいいもののそれでも袁紹軍に圧倒的な
ダメージを食らい、すでに軍は病人の状態。
それでも曹操は帝が手中にあるのをいいことに帝という権力を悪用し、
敵を無理やり従わせた。それはまさに董卓、袁術さながらである。
後に曹操は孫権劉備に戦を挑むが乾杯、多くの兵士の命を奪う。
曹操は水軍の練習を怠ったため、というのもこの勝敗に係ったという。
その後も渭水の辺では馬超に殺されかけと悪運だけは強い。
しかし、後に劉備が蜀を得、曹操孫権は荊州の関羽を攻める。
この時今までたまりにたまっていたいた失態の罪がきたのか、
関羽の霊に呪い殺される。
後に曹操は三国志演義と呼ばれる話にて悪役の座を得る。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 00:41:43
今川義元
東海一の弓取り言われた豪傑。体格はがっちりしていて日ごろから鞠を蹴り脚力と筋力をつけていた。
実は僧になるところだったが兄弟が病死し家督をついだ。そして僧の時の師匠太原雪斎を軍師として呼び大名として動き始める。
人質に元康(後の家康)を取り三河を安泰させて武田、北条と同盟を結び後ろを固めた。
そして次の目的は上洛。そのためには尾張を越えていかなければならなかった。粘る織田家は邪魔な存在だが同盟を結び完全に不安要素をなくした義元の前には敵ではなかった。
駿河・遠江・三河から兵を大量に導入しその数は実に二万五千。もはや東海どころか天下一の軍勢を持つ義元だ。
そして幸運は続く。織田信秀が死に跡継ぎは信長という田舎者でうつけ者。
織田の砦を次々落とし後は清洲城だけとなり桶狭間(田楽狭間という説有り)で休息していたところ織田の突然の奇襲に会い命を落とす。
しかしタダでは命はやらんと斬られて首を取られそうになると雑魚兵の足をけり皿を割り、取られる寸前に指を噛み千切ったという最後の意地を見せた。
あ〜なんか微妙です・・・
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 01:07:27
GJ!!
北条綱成 1515-1587
今川氏家臣、福島(くしま)正成の子。
父正成が武田方の原友胤に討たれたため、小田原北条氏を頼る。
月の十五日には身を清めて白衣で包み、足利公方家の衰亡を願い
中国後漢朝時代の張角に倣い「蒼天已死、黄天当立」と唱えて
朽葉色(黄色)に染めた旗を指物としていた。
世の人たちは、彼を「地黄八幡」(*1)とよんで恐れたという。
扇谷上杉朝定を総大将とする連合軍に、川越城を包囲された時は
北条氏康に援助を請い、援軍の夜襲に生じて足利晴氏方の陣を
攻めて、退却させたといわれている。河越夜戦(*2)
のちに河越城下支配を大道寺盛昌に任せ、自身は玉縄城に移った。
天文二十三年以降、氏康の命により一万二千の兵を率いて渡海、
里見義尭の守る久留里城を攻めるが、結局落とせなかった。
房総衆との抗争が激化すると、緊急召集をうけて、江戸川で
里見義弘と対陣した。第二次国府台合戦
第二次国府台合戦では、緊急召集をうけて江戸川で里見氏と対陣、
先陣をつとめたが、緒戦では遠山綱景、富永康景、大田下総守、
山角四郎左衛門、中条出羽守ら名立たる部将を討ち取られるという
大敗を喫している。
武田信玄の駿河侵攻では深沢城代となるが、一ヶ月余で信玄の手に
落ち、のちに出家して「道感」と号した。
家督を嫡子康成(氏繁)に譲り、天正十五年五月六日、死去した。
幸いにも玉縄北条氏は、孫氏勝の代に近世大名として跳躍する。
1. 八幡(ばはん)は倭寇の別名。
2. 近年の研究では河越夜戦は行われていないといわれている。
683 :
682:2005/04/17(日) 01:15:51
>房総衆との抗争が激化すると、緊急召集をうけて、江戸川で
>里見義弘と対陣した。第二次国府台合戦
いらないですね。。
>>678 小野寺義道って最後の難局を乗り切れなかったにせよ、
数々の逸話が残ってるんだから、普通に名将じゃない?
685 :
678:2005/04/17(日) 03:50:30
>>684 そうなの?俺は義道の良い逸話なんてせいぜい
「勇猛だった」程度しか聞いたことがないんだが。
それも8000で由利衆を攻めたにも関わらず突出し過ぎて
5000の相手に自害を覚悟するまで追い詰められる程度だし。
ゲームで言えば戦闘以外20台みたいな。
もし本当に名将だったりしたら、
>>678が名将の凡将化ってことで。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 10:06:55
服部半蔵(1542〜1596)
徳川家康の忠実な忍び。彼の活躍は目覚しく伊賀忍軍を連れて家康を護衛したことや真田丸の停止など重要な役をしたが実をいうと彼は忍者ではない。
彼は槍使いや伊賀に住む忍びをまとめる役など謎が多いが忍びではないことは確かである。もし忍びだとしたらここまで表に名を出せるはずも無く増してや大名の家臣になることなどありえないことだ。
今の説では伊賀忍軍をまとめる役のほうが正しいだろう。それを利用し家康を明智の魔の手から逃し伊賀を超えた。
この手柄により家康の家臣になり200人の忍びをまとめるリーダーとなった。
簡単に言えば伊賀忍軍は術の仕えないリーダーに従ったというわけである
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 10:10:04
>686
服部氏はCIA長官のような役割でよろしいでしょうか?
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 10:15:57
多分www
最近良カキコが増えてきたな
良カキコ判定が多い奴のまとめ欲しいな
まとめサイトでも作る?
そこまでするのはまだ早いか
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 10:22:34
大崎義隆 1548-1603
陸奥国名生城主。義直の男。
大崎氏は、奥州探題斯波家兼の末裔で十五世紀前期には留守、
葛西両氏を勢力化に置いた。
父義直の代に天文の乱が起きると、稙宗方に与力した義宣を
討伐し、独立性を回復することに成功した。
伊達氏との抗争が表面化すると、当時、伊達氏と対立関係に
あった最上、佐竹、蘆名氏らと与して反伊達連合を結成した。
天正十七年六月、蘆名盛重が摺上原で伊達政宗に敗れたのち、
伊達氏の本格的な攻撃をうけ、中新田にて迎え撃ち見事勝利を
収めたが、重臣氏家吉継、一迫隆真らの離反が相次いだため、
伊達氏の勢力化に入ることになった。
同十八年、領国経営の不安定から豊臣秀吉の小田原征伐に
不参のゆえをもって所領を没収されたため、一揆を煽動して
新たな領主木村氏を駆逐し伊達氏ら鎮圧軍を大いに苦しめた。
のち蒲生氏郷に従い文禄の役派兵に従軍、晋州城の攻防戦で
戦功があった。
ついで上杉景勝に仕えて二千七百石を給されるが、慶長八年
会津で没した。
義隆はゲームの能力が不当だと思う。
そこそこの能力はあったはず。
おもろいスレだな
スレの趣旨と違うが、智将⇔猛将みたいなのもキボン
【本多正信】
三河松平氏に代々仕える家系に生まれる。
その猛将の気概は主の家康をも圧倒したという。
実直な性質ゆえに主家康と袂を分かち三河一行一揆に加担、
陣頭に立っては屈強な三河武士を追い払う鬼神の如き働きを敵味方なく賞される。
一時放浪の後、家康自らの帰参願いに応えるかたちで徳川家に復帰。
家康の警護及び副将として勇名をはせる反面、四天王にはその武功を嫉まれてしまう。
家康は正信を「強敵(とも)」と評し、また傍にあって正信も家康への忠義を終生貫いた。
孤高の猛将はその主の理解さえあればよい。
正信は家康が亡くなると、あとを追うように亡くなっている。一説に殉死ともいわれる。
>>696 やってみたけど難しいな
>>696 三蔵法師がちょうどそんな感じだよね。
西遊記だとひ弱な坊主だけど、実際には兵を率いて軍事行動したり。
こんな感じじゃダメ?
諸葛亮 赤壁の戦いにおいて気合い一閃、豪腕で白羽扇を振り回し暴風を巻き起こして呉軍の火計を成功させた。
豊臣秀吉 墨俣攻略の際、攻め寄せる斉藤勢に単騎で駆け込み、これを蹴散らし、その死体を積み上げて自軍の盾とし橋頭堡を築くことに成功。
この「墨俣の一夜城」の逸話は世の豪傑の心胆を寒からしめた。
王允 剛勇無双の呂布を脅しつけて無理矢理董卓を殺させた豪傑中の豪傑。一説には渋る呂布をその戟ごと董卓に投げつけて殺したといわれている。
秀吉は結構軍功多いから、それを並べれば普通に猛将になる気がする。
*文吏→(猪突猛進型)武将化
長束正家 ?〜1600
新三郎・利兵衛。近江出身(尾張説もある)の猛将。はじめ丹羽長秀、のちに豊臣秀吉に仕えた。
1600年7月、石田三成とともに家康の罪悪十三か条を列挙した檄文に連署して
家康打倒急進派の旗幟を鮮明にする。8月伊勢に出陣し、名城として知られる安濃津城を攻める。
城方の策略に惑わされ関までの撤退を余儀なくされるが、
援軍毛利秀元と協力して再び安濃津城を包囲、猛攻を加えた。
安濃津城の合戦は関ヶ原戦当時各地で展開された攻城戦の中でも最も激しい戦いの一つであり、
その激戦ぶりは、城主富田信高の夫人も自ら槍を取って戦ったというエピソードでも知られている。
正家は安濃津城を開城させたあと伊勢一帯を席巻しつつ北上、関ヶ原では要衝南宮山に堅固な陣を構えた。
9月15日の決戦の際には戦闘に加わることを欲したが、謀将吉川広家に妨害されて果たせなかった。
西軍敗走後、正家は居城水口に帰城して篭城、三成の佐和山城陥落後もあくまで抗戦を試みたが、
寄せ手の謀将・池田長吉のために欺かれ、開城を余儀なくされた。
正家は怨みをのんで近江桜井谷で自害し、その首は石田三成とともにさらされた。
織田有楽斎も関ヶ原で誰か武将討ちとってなかったっけ?
文化人⇔猛将になるかも
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 16:42:06
安国寺恵けい[???〜1600] 文字が出てこなかったorz
猛将→文化人
上杉謙信(1530-1578)
7歳で林泉寺に入門し、天室光育の薫陶を受けて成長した。1548年長尾家の家督を継承。
1553年はじめて上洛、公家たちと歌道を論じ、将軍足利義輝と和歌の応酬を行った。
当代随一の歌人・細川幽斎らと親交があり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されている。
また、儒者山崎専柳斎を招いて四書五経を学び、老荘学や国学にも造詣が深かったという。
能筆家としても知られ、養子の上杉景勝に習字の手本を自ら書き与えたりしている。
このほか茶道・謡曲・能・琵琶を愛したと言い、「九月十三夜陣中作」のようなすぐれた漢詩も残すなど、
多方面にわたるすぐれた文化人であった。なお、戦国大名家の当主としてたびたび合戦に出陣している。
1578年没。辞世の詩は「四十九年一睡の夢、一期の栄華一盃の酒」。
>なお、戦国大名家の当主としてたびたび合戦に出陣している。
ワロタw
可児才蔵
戦場で首級を花器と見立てて笹の葉で立花を行うなど戦場にあっても華を忘れない、
常在花活けを徹底した武人だった。
戦のあと、その首級は集められて主君の前に並べられ、死者の顔と笹の葉が生み出す
絶妙な立花の世界を重臣一同と共に楽しんだという。
このことにより「笹の才蔵」とも呼ばれる。
>戦のあと、その首級は集められて主君の前に並べられ、死者の顔と笹の葉が生み出す
>絶妙な立花の世界を重臣一同と共に楽しんだという。
想像してみたが
生首の前で談笑する武将たちの姿はホラー映画でしかなかったw
>>706 主君 「おお、才蔵よ。待ちかねたぞ。して此度の首尾は如何じゃ」
才蔵 「我ながら会心の出来と存じまする」
小姓 「御作をお持ち参らせ候」
重臣一同 「おおーっ。さすがは才蔵。冴え渡ってござるな」
主君 「ふむぅ。未だかつてこれほどの出来映えは目にしたことがないわ」
才蔵 「有り難きお言葉と存じまする。なにとぞ作に御名を頂戴致したくお願い申し上げまする」
主君 「そうじゃな・・・、冬にほろりと落つる心持ち、”寒椿”はどうであろう」
重臣一同 「風流、風流。やんややんや」
才蔵 「ははーっ」
主君 「誠にあっぱれじゃ。笹の才蔵、その技前見事なり!皆の者、今宵は作を愛でつつ、一献傾けようではないか」
一同 「御意」
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 03:14:13
むむむ…(´・ω・`;)
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 06:25:34
織田有楽斎
織田信秀の十一男。本名は長益。本能寺の変の際、一度は自害を図るが近江への脱出に成功する。
その後は小牧長久手の戦いで秀吉・家康間の調停役を務めるなど外交面で活躍する。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、小西行長と交戦。自らも石田三成の勇将・蒲生郷舎を討ち取る。
この時、長男・長孝も大谷吉継麾下の勇将・戸田重政を討つ戦功をあげている。
茶人としても有名で、「有楽流」の始祖となる。また現在の東京、有楽町の名は彼から取ったものである。
まとめサイト作ってみてもいい?
714 :
711:2005/04/23(土) 10:53:00
グッド・ジョブ
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 23:31:02
>>711 改めて見るとおまいらの文にギガワロスwww
いや普通にGJだよ。お疲れサン!
なるべく卑下する言葉を使わずに、淡々と事実を並べて貶めるよう頑張ってみた
【劉備】
姓は劉、名は備、字は玄徳。幽州郡の人。祖父は劉雄、父は劉弘という。
前漢の第六代景帝の子、中山靖王劉勝の子孫を自称。
皇帝の名である劉性を利用し黄巾の乱の際に義兵を挙げ功を立てるが、曹操、袁紹、呂布の元で裏切りを重ね荊州へ逃れる。
荊州劉表の元で客将として居た際に、劉表が死亡し後継者争いのお家騒動が起こると、これに乗じて乗っ取りを図るが阻止され再び逃亡、江夏へ逃れる。
それが元で赤壁の役が起こるが、曹操、孫権が睨み合っている隙を突き荊州を手中に収める。
蜀を治めていた劉障が、同族であることを頼りに張魯との戦いの救援を求めると、これを好機と見て蜀侵攻を開始。
内応者の助けを借りて、蜀の地を治めることに成功する。
義弟関羽が呉に討たれると、諸葛亮、超雲の諌めを振り切り出陣。陸遜に自ら敷いた陣の弱点を突かれ大敗を喫す。
退却先の白帝城で、失意のうちに病に掛かり後事を諸葛亮らに託し章武三年(223)、その生涯を閉じた。行年63歳。
>>714 GJ
>>722 頑張ったのはわかるが、淡々としすぎてどっちかわからん
お前の勝手な意見をもっと入れていいと思う
劉備
魑魅魍魎が跋扈し暗黒の世界と化した後漢末期に現れた救国の英雄にして民族の希望の星。
その仁愛の深さは海よりも深く、度量の大きさは大空よりも広い。
民衆を苦しめその膏血を搾り取る極悪非道の曹操率いる魏の軍勢と対決し、善良な人々を守り抜き、
ついに蜀の地に正統漢王朝を相続建国した。諸葛亮を初めとする名臣たちによって蜀漢は大いに栄え、
まさに地上に残された最後の楽園として、悪の偽朝廷・魏や専横きわまりない孫一族が支配する呉地方の
人々の羨望の地となった。
しかし、神に愛されたものほど地上から召されるのも早く、孫一族討伐のさなか、劉備はその生涯を閉じた。
万民の悲嘆と慟哭は大地を震わせ、天を曇らせたという。
天下を統べ、この世に正義を行う救国の戦いは諸葛亮に受け継がれることとなった。
織田信長
戦国武将。
居城に神体と称する石を置き、家臣や領民に拝ませた。
のち、家臣に謀反を起こされ殺された。
>726
グッジョブ!なんかどっかの国の将軍様みたいだなw
>729
お前らいい加減にしろよ。
ちゃんとやろうよ、ちゃんと。
本多忠勝
三河の人。徳川家康に仕える。
極端に臆病な質で、戦場では常に理由を構えて後方に居たことから、
彼の槍は蜻蛉を追うための「蜻蛉切り」だと揶揄された。
また、徳川勢と敵対した武田信玄が「徳川殿は身代も小さいのに
なぜ戦の役に立たない侍を重用するのか」と不思議がったことから、
当時徳川家で流行った装飾品と並べ称して「家康に過ぎたるもの」と
囃されたこともある。
小牧長久手の一戦では小部隊で秀吉の大軍めがけ猛進するという
彼らしくない一面を見せるが、当時の人士には臆病者ゆえの狂態としか
映らなかったようで、後に彼が秀吉に激賞されたことから考えて
このとき既に通敵していたのでは、という極端な説すらある。
のち、泰平期の幕府が綱紀粛正のため草創の名将譚を欲したことから
彼も四天王とまで呼ばれる猛将に仕立てられるが、
「百あまりの合戦に出たが一度も傷を負わなかった」という寸評に、
実際は前線で働かなかった「猛将」への儒官達の鋭い皮肉を
感じるのは、私だけではあるまい。
>730
ンまいね
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 04:46:42
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 04:50:46
知略家→猛将とかだと諸葛亮なんか上手く行きそうだな。
あいつ正史でも自分で軍を率いると無敵だったし、
司馬懿に引き篭りされて負けるなどポカもやったし。
某ヤンマガの連載に頼らず再評価(笑)に挑戦。
【仙石秀久1551-1614】
通称権兵衛、越前守。織田信長に見出され、早くから秀吉の家臣となる。
姉川の合戦では押されている織田軍の前線を立て直し、浅井勢の士山崎新平を討ち取る功を挙げた。
以後、秀吉に従って転戦し、1574年近江野洲郡に1000石を与えられ、1580年には淡路洲本城主5万石、
秀吉の四国征伐の際には秀吉軍の総大将羽柴秀長と並んで数々の城を攻略し、讃岐高松10万石を拝領した。
秀吉の信頼を得た秀久は、九州征伐において戦目付として四国勢の統率を任されるが、戸次川の戦い
において無謀な攻撃を主張、長宗我部信親や十河存保ら島津の『釣り野伏せ』によって討ち死にさせること
となる。真っ先に戦線を離脱した秀久は秀吉の怒りを買い、所領を没収され高野山に謹慎の身となった。
秀久一代の大失態と言われえるこの件については、腑に落ちない点が多い。
血気に逸って真っ先に突撃したとされる秀久が、最初に戦線離脱しているところもおかしい。
前線で戦う侍大将型の武辺である秀久を、わざわざ一軍を監査する戦目付に据えたのは、
秀吉による四国の有力武将粛清の意図があったのではなかろうか。
また、武士としてあれだけの醜態を犯した秀久に対する処遇、そして再取立ても異例だ。
秀久自身、秀吉の意を受けての無謀な立案と逃亡であったとすれば辻褄が合う。
戸次川の戦勝で勢いづいた島津勢だが、後の秀吉本軍との戦いでは連敗を重ね、遂には降伏する。
見ようによっては戸次川の敗北こそが秀吉の壮大な『釣り野伏せ』の囮であったのかもしれない。
小田原の役の際に徳川家康を頼って参陣、甲冑に鈴をつけて走り回るというパフォーマンスにより
『鈴鳴り武者』の異名をとった。合戦の場において目立つ格好でいるということは死の危険を増や
す行為でもある。その姿で秀吉の歓心を買って許しを得、信濃小諸城5万石を与えられ、名誉を回復した。
秀吉の派手好みを熟知して利用し、ついでに次期天下人である家康と誼を結んでおくあたり、
世渡りに長け、時勢を読むことが上手かったのが伺われる。
伏見城工事の際、有名な盗賊石川五右衛門を捕まえたのは秀久だとも言われる。
講談などでは秀久は剛勇をもって五右衛門を捕らえた豪傑に描かれている辺り、
モデルである史実の秀久の武士としての非凡さを表すものであろう。
関ヶ原の戦いにおいては、徳川秀忠率いる中山道軍に加わったが、上田城攻撃を進言し、
秀忠もこれに乗ってしまったので結果的に関ヶ原の本戦に間に合わなかった原因を作った。
これを秀久一人の責任とするような論調が見られるが、いくら現地の城主であろうと、
外様の秀久の一言で秀忠軍の行動が決まろう筈もない。また、上田城を無視していけば真田昌幸に
背後を衝かれるであろうことも誤りではないのだ。他の将の賛同も当然あったと見て然るべきである。
結果的に遅参したのはやはり、大将である秀忠の決断と采配に責任を帰すべきだろう。
余り知られてはいないが、なかなか落ちない上田城に悩まされる秀忠に対して、
「自分を人質に送り先へ進軍していただきたい。自分が死んでも東軍が勝利すれば満足である」
と進言している。秀忠は大いに喜んだが、「秀久は譜代の将でないため真田昌幸は納得せぬであろう」
と言い実行しなかった。そうなることを計算ずくでのパフォーマンスであったのか、
それとも忠誠から出た本心かは評価が別れるが、凡愚な猪武者には出来ない行動には違いない。
晩年を小諸で過ごした秀久は、領内に蕎麦切りを伝え領民とのコミュニケーションを図ったという。
これが今も伝わる小諸蕎麦で、小諸市民からは「仙石さん」と親しまれている。
また、子孫が転封された但馬出石では、町民が初代秀久を祀った感応殿のある出石城本丸を「権兵衛さん」
と呼んで親しみ、今でも五月六日に例祭を行っている。
このように武一辺倒のように思われていた秀久にも、民政家としての一面を見ることができるのである。
総じて仙石秀久という武将を見直してみると、従来のような「卑怯未練の暗愚な猪武者」ではなく、
「作戦は下手だが世渡りの才と不思議な魅力を備えた豪傑肌の武将」のように思えてはこないだろうか。
↑一応、「戸次川計画的敗戦説」以外は史実をもとに書いてます。念のため
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/09(月) 00:51:40
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/10(火) 18:31:51
タク県の人で中山靖王劉勝の末裔である。
小さい頃から類い稀なる才能をもつ。その例として高名と言われた廬植の弟子となたったが、廬植は高名だけの無能だと見抜き、同じ弟子の優秀な公孫讃と友好を深めた。
『英雄記参照』霊帝の末年、劉備は最初は都にいたが、曹操とともに沛国へ戻り、兵を募集して軍勢を糾合した。この時、劉備は同じく優秀で後漢の衰退を快く思わない曹操と意気投合し二人で後漢を救おうと誓いあった。
その後、董卓の暴政を阻止するため曹操と供に反董卓連合を結成するため力を尽くした。
劉備はその際、当時白馬儀従として一代勢力を築いた公孫讃の元に向かい説得し参加させた。
しかし反董卓連合は盟主の袁紹の優柔不断のため目的をなすことができなかった_ЛО。。。
連合解散後、公孫讃の元に付き公孫讃と供に領内の治安維持につとめた。
その頃、徐州の陶謙が暴虐な振る舞いをしているとの情報があった。
さらに続けて曹操が陶謙の討伐にむかったとの情報もはいった。
しかし曹操は陶謙の配下の兵が民衆に紛れ戦闘を行っていて苦戦しているため劉備は曹操を助けようと策を胸に秘め、表面上は陶謙を助けに行くふりをして徐州に向かった。
劉備の策とは中から陶謙勢力を崩すことだったのだ。
策は成功し陶謙は劉備を全面的に信用し最後には徐州を渡すまでいったのだ
746 :
劉備〜:2005/05/10(火) 23:23:31
徐州を治め、一安心かと思いきや、盟友の曹操が逆賊呂布に攻めらていた。
しかし呂布は武力しかなく勢いは最初しかなく曹操に徐々に領土を取り返されついには逃亡を計った。
他方に呂布が行くとまた荒れると思った劉備は呂布を誘い徐州迎え入れ自分は小沛に入り呂布に刺史の座を譲った。
呂布は刺史の座に満足し、浮かれていた。
その間、劉備は呂布の配下に成り行きでなってしまった、不運な配下たちにやり直すことすすめていた、呂布が気付いた頃には大半の配下は劉備・曹操の方に心を寄せていた。
怒りに任せて劉備を攻めてたが劉備・曹操連合の前に敗退、そして改心した配下に捕われた。
劉備・曹操は改心し後漢のために働いてくれと頼んだが呂布はそれに対して劉備・曹操に暴言をはいた。
そのため二人は泣く泣く呂布を斬った。
こりゃ またずいぶん長い(-д-)zzz‥
しかも面白くない。
劉備は能力高いからなぁ
やっぱ、ベタだけど極悪人として書いた方がおもしろいか
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/11(水) 13:14:49
すまん。文才が俺にはなかった………
つーか、劉備は悪人っていう話の作り方が既に著作物としても存在してたりするから
今更感があるのもたしかなんだよね。
善人、悪人、無能、有能、お人よし、したたか者。。。
劉備ほど多角的に見てそれなりに説明のつく人間も珍しい。
無能ではないよな。
無能さで言えば劉邦に遠く及ばない感がある。
劉邦のすごいところは自分の無能を自覚していたことと、有能な人間を項羽を
破るまでは信用したり信用したふりをして使い続けたことだな。
>>753 本当に強いのは、弱さを認めた奴だと思うがな
>755
スレ潰して何が楽しいんだよ、お前。
【真田信之1566-1658】
真田昌幸の嫡男で、幼い頃は人質として駿河に赴く。
弟の幸村でなく、信之が選ばれたのは、代々名将を産む真田家の長男という、
幸村との埋めがたい重要性の差を如実に現していると受け取れる。
天正9年には沼田城代となり、数に劣る手勢を率い北条軍を撃退し、
北関東に位置する数々の諸城を脅かすなど、数々の功績を挙げる。
天正13年には、上田合戦にて八千を数える徳川軍を一千少々の軍勢での奇襲で破り、
政治手腕でなく、武勇においても秀でていることを、天下に知らしめる。
この合戦での信之の活躍を目の当たりにした徳川家康は、いたく感服したとみられ、
忠臣・本田忠勝の娘、小松殿を養女とし、これを信之に嫁がせる。
その後は、慶長5年に起きた関ヶ原の合戦にともない、
婚姻関係を持つにもかかわらず、徳川の東軍ではなく、西軍に属した父、
昌幸と弟、幸村と袂を分かち、義理の父親である徳川家康の軍にはせ参じた。
第2次上田合戦では、徳川秀忠の率いる別働隊にて、昌幸らの籠もる上田城を攻めた。
信之にとっては、地理地形を完全に把握する自らの庭を攻めるようなものであり、
城を落とすことは容易かったが、父らの身を案じた信之は、功を残す機会を棒に振り、
城を囲む戦況に持ち込んだことで、両軍の被害を最小に抑えた。
戦後、信之は家康から父と弟の首と引き替えに100万石を示されたともいうが、
それを捨ててまで助命嘆願を行ったことからも、信之の慈悲深さが伺える。
1614年の大阪の陣では、病として領地に留まっている。
再び身内と槍を交えることを由とせず、また勝敗は決していると察したためともいう。
代理として、息子の信吉らを従軍させるが、進んでの交戦は行わせなかった。
時代の流れを見通せず、勝ちの見えない戦いを続け、あまつ徳川家康を討ち取りかけ、
あわや戦乱の時代に戻そうとした幸村とは対照的に、先見の明を持っていたのだろう。
その後、上田城から信濃松代に移封される。
これは、上田に根付く真田家、信之の能力を徳川家が恐れたためともいわれる。
1658年、家督問題をすべて綺麗に納めると、冬を待たずにこの世を去った。
この時代には珍しい高齢93歳。信之が摂生な生活を送っていた結果だろう。
亡くなる前、薬を前に「充分に生きた」という言葉を残したと伝わるが、
これは弟に先立たれ、早く会いに行ってやらねばという、
愚弟を持った兄の優しき想いだと読み取ると、その人柄が偲ばれる。
どうせなら、一行くらいで真実を書いてほしい
【竜造寺隆信】
ものすんごいでぶ。
【
>>761】
>>1の意図をまるで理解していないわが道を行く者。だがそれがいい。
1行だと大したことは書けんだろ。
確かにw
梵鐘を名鐘のように説銘するスレ
【金地院崇伝】
方広寺の鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」。
これは家康の字を切り離して豊臣の字をくっつけると言う呪いです。
その点を除けば良い鐘なんじゃないでしょうか。
すみません。もういいです。
はい出た。「いいよ〜GJでした。」
お前少しは空気嫁。
>>770 いいよ〜。GJでした。
やっとこ このスレ Part3! ハイ!
(( (`Д´) (`Д´) ))
(/ /) (| |)
< ̄< < ̄<
ハイ! ハイ! ハイ
(. `Д)_(Д´ )
ノ ノヽ | |>
ノ > < ヽ
ハイ!
(. )_(`Д´)ノ
ノ ノヽ |ヘ |
ノ > <
ハイ!
(`Д´)_(`Д´)ノ
ノ ノヽ |ヘ |
ノノ <
あるある探検隊!
_(Д´ ) _(Д´ )
ヘ| |\ ヘ| |\
< <
あるある探検隊!
( `Д)_ ( `Д)_
/| |ヘ /| |ヘ
> >
羅漢中
蜀マンセー厨を皮肉って劉備や諸葛亮を
冠の玉(立派に見えるだけ)と表現したけど
気付いてもらえず蜀マンセー厨と思われる。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 18:49:45
>>770 うるさい蝿ですね。通報します(^ω^ )
張南 (???〜222)
字を文進。蜀の将軍。
劉備に付き添い、対呉侵攻に参加。
しかし心の内では物凄く反対していたが、先主の心中を察し、諫言することはなかった。
対呉戦ではその消耗によって選手生命が脅かされるほど熱く、激しく、夷陵城を包囲するという舞を舞った。
陸遜が前面に出てくると、その気配と力量を敏感に感じ取り、強敵の出現に涙を流して歓喜したと伝えられている。
そして陸遜を「若輩者よ」と嘲る馮習に対しては心中、軽蔑と、激しい怒りに身を焦がし、
「もしできるなら、あいつの小指の先とか、蹴り飛ばしてやりたい」と、部下に語ったという。
蜀漢の偉大なる将、張文進は六月の決戦において、凡庸なる馮習に足を引っ張られ、徐盛・孫桓らに挟撃される。
張南は、雑兵と百合ばかり撃ち合っていたところを雑兵に刺されて戦死した。
未だ見ぬ宿敵の死に陸遜は、無意識の内に溢れ出す涙をとめる事ができなかった。
傅トウ
張南らと共に対呉戦に参加。
元々は反対していたが先主の意思が固いことを悟り守る為にと従軍する。
張南らが戦死し、退却戦となると殿を受け持つ。
黄忠・沙摩柯らと数十騎を斬る活躍をするが多勢に無勢。
最後は仁王立ちし「蜀漢の大将が呉の犬に降るものか」と大喝。
その姿に呉兵は震え上がり傅トウは更に二十騎余り斬り殺したが果てた。
石兵八陣から出てきた陸遜は「鬼の様な形相の者が部下を十人殺した。」と語った。
>>777 傅トウって最近は子と共に身を挺して散った厚き忠臣、
としてのイメージが強いんだよな再評価としてはいいことだと思う
傅嬰だっけ
あれは別の所じゃねっけ
>>779 傅僉だろ、傅嬰は確か呉の将ジャマイカ。
傅僉は魏の侵攻の際、関城の守備に就いて戦死してるね。
その後武帝に親子二代にわたって命を尽くし、蜀に仕えた忠義を褒め称えられてる。
>>759 真田のお兄ちゃんは普通に名将じゃないか?
寥化
【????〜????】
一説では地球誕生と共に生まれたとされる、不老不死の中国人
彼の特技は死んだふりで、三国時代にも2度行った事が確認されている
一度目は関羽の死後、呉に囚われた際に死んだふり
呉を脱出し、劉備の元へ舞い戻った
二度目は蜀滅亡後、洛陽に移住する最中
あまりにも長生きな事を不気味に感じ出した周囲の視線から逃げるように死んだふり
歴史の表舞台から消え去った
彼の死んだふりは芸術とも言える程完璧で、史書にすら死んだと記される程であったという
現在も中国のどこかで生きているとされ、数々の都市伝説を生んでいる
>>781 メル蘭になんか書いてあるよ。
信之は凡将じゃなく、凡将というイメージがある、が正しいかな?
廖化のことか?
劉カイ
劉璋配下の猛将であった。
劉備が益州に入った際に「油断できない。兵を北に固めておいた方がいい」と劉璋に進言したが
劉璋は「そんなことするはずない。同族だぞ。」といって退けてしまう。
そして劉カイが予想した通り劉備は攻め入ってきて軍を率いて出陣する。
劉備本陣に斬り込んで数十の首級を挙げる活躍をし、更には龐統が死んだ後の龐統軍を300騎で壊滅した。
しかし、諸葛亮らが援軍にくると大軍に囲まれ援軍すら呼べない状況になるが
出陣し10日以上持ち応えたが遂には孤立してしまう。
その状態で数十騎を斬り殺し囲みを突破したが劉カイの能力に嫉妬していた張翼に斬り殺された。
>>785 嫉妬よりも張翼の不忠さを挙げた方がそれらしくなりそうだな
しかし張翼と劉カイって
ある意味蒋舒と傅僉の関係と似てるなぁ
頑なに侵略者から守り抜く将と、それを裏切り殺す将という形で。
それなのに何故こうも評価が変わってくるのやら。
張揚と楊醜とスイ固
>>785 劉カイはホント気の毒だよな・・・
この件があるからどうも張翼は好きになれん
789 :
ddd:2005/05/26(木) 02:36:11
冷苞
主への忠誠に殉じるが
劉備に逆恨みされ殺される
馬謖
第一回北伐にて頭ごなしに命令する諸葛亮や諸葛亮の腰ぎんちゃくの王平の言を用いず、
兵法のセオリーどおりに山頂に布陣。
張コウに真っ向勝負はできないと思わせ長期戦に持ち込んだ。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 05:32:53
>>789 まぁ確かにそうなんだが…
もちっと長い方が面白いかも
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 05:35:44
>>785読んで普通に劉カイがかっこよく見えた…
てかやっぱり死に様が可哀相だな。まさに孤軍奮闘だったわけだしな
袁煕 〜207
袁紹の次男。
官渡で大敗した父を守るべく幽州から倉亭へ駆けつけた。
しかし袁煕・袁譚を邪魔としていた袁尚に後ろから矢を受け負傷してしまう。
袁煕は袁尚が射たことと密告を受けたが後に袁家が分裂することを見越して
「父に言っても無駄だ」とだけ言ったという。
冀州に残してきた妻・甄氏を曹丕に奪われるが
「そのうち滅びるような家にいるよりは幸せだ」と冷静な態度をとった。
袁譚に敗れ袁尚が逃げてくるとこれをかくまった。部下から前の事もあるので殺した方がいいと言われたが
「いずれ死ぬ。」とだけ言って殺さなかった。そして部下の裏切りによって攻められると遼東へ逃げた。
そして曹操が攻めてくると烏桓へ逃げ、遼東の公孫康を頼って落ち延びた。
袁尚だけ遼東を乗っ取るように画策していた。しかし曹操が攻めてこないことを知った公孫康にその事が漏れ、
罪の無い袁煕まで拘束され、冷たい地面に座らせられた。袁尚が「寒いから筵をくれ」と求めると袁煕は
「これから首が万里の旅に出るというのになんの筵がいるのか。」と言ったという。
そして兄弟共々殺された。
李儒
董卓の婿で参謀を務める。血の気の多い董卓をたびたび諌めた。
王允の連還の計をいち早く見抜き、董卓に貂蝉を呂布に譲るよう進めるが受け入れられず
「我々は一人の女の手によって滅亡の道へと進むのか」と嘆息した。
案の定、その後董卓は呂布によって殺され。久しくして李儒も殺された。
>>793 名将凡将というより可哀想な人のような気がする
>>794 名将凡将というより可哀想な人のような気がする
劉カイ
張任と共に蜀に殉じながら、後世の人間にまったく評価されない悲劇の名将
戦乱を避け平和を保っていた蜀の都・成都
この国に張松の手引きを受けた稀代の詐欺師・劉備玄徳の魔の手が伸びようとしていた
しかし、蜀にはこの危機をいち早く察知した4人の忠臣がいたのだ
彼らの名は劉カイ・冷苞・ケ賢・そして張任
劉備の企みを見抜いていた彼らは必死で劉璋を諌めたのだが、その甲斐も虚しく無類の好人物である劉璋は、劉備のペテンにかかってしまう
だが、劉璋は欺けても彼らの鉄のような忠義心は欺けなかった
法正の策で宴席で劉璋が刺し殺されそうになったとき。四将はいち早く主君の危機を察知し、無事に彼を守り通すことに成功する
そして、彼らの必死の諫言により劉璋もようやく劉備の本心に気付き、四人に抗戦の命を発したのだった
開戦前、劉カイは蜀の運命を占ってもらうため、錦山の上人をたずねた
占いの結果は彼らには決して良い知らせでは無かった。蜀の運命も彼ら四人の命も保障は無く、劉カイの不安は募るばかりだった
そして、上人の予言は不幸にも的中してしまう
劉備軍の先鋒は魏延、黄忠。対して蜀軍は冷苞・ケ賢
功にあせる魏延は真夜中に夜襲をかけるがこれをすでに見破っていた冷苞・ケ賢は逆に魏延の挟撃し返り討ちにし、魏延を追いつめる
しかし、ケ賢の刃が魏延の首を取ろうとした一刹那。救援に着た黄忠軍が放った流れ矢が当たり、ケ賢は非業の戦死を遂げ、冷苞も敗走中に運悪く捕らえられてしまう
だが冷苞は何とか劉備の陣から脱走し、無事に帰還する。ケ賢の死を目の当たりにした彼は、別の作戦を劉カイ・張任に提案する
すなわち大雨で増大した川を利用し、劉備軍をいっぺんに水屑にしてしまおうというものだった
この作戦が決まれば劉備軍も壊滅するはずだったが不運は続く。ホウヨウの密告によりこの作戦は劉備の知る所となってしまう
そして待ち伏せされた冷苞は再び捕らえられ「貴様には蝿ほどの同情も湧かぬわ」と罵られた挙句無常にも斬首されてしまう
しかし二名の復讐に燃える劉カイ・張任は烙城に立てこもり劉備軍を破り。敵の参謀、ホウ統を戦死させる
その後も何度も劉備軍を痛めつけ、ついには劉備の命すら危なくなるほどに追いつめる
蜀の勝利まであとわずかというところであったが、それでも不幸は重なり続ける。厳顔、呉懿、呉蘭、雷同といった将が次々と捕らえられ、降伏してしまったのだ
蜀に長年使えた彼らが降伏してしまったのは、やはり劉備のところから逃げ出したばかりに不義不忠の者と決め付けられて惨殺された冷苞の件があったからかもしれない
そして奮戦する張任もついに捕らえらた。だが彼は「忠臣は二君に仕えず」といい立派に切られたのだった
とうとう守将は劉カイ一人となってしまった。しかし彼は弱気になる兵士を叱咤し、烙城を死守し続けた
だが、どこの国にも目先の欲にくらむ小人物はいるものである。蜀では劉カイの副将・張翼がそうだった
すでに敵に内通し、何か手柄を立てて降伏してやろうと企んでいた彼は、防戦中の劉カイに背後から切りつけ、城壁から突き落としてしまう
この最後の忠臣の死により、難攻不落の城・烙城はついに陥落してしまう。そして劉璋の滅亡は決定的なものとなってしまった
四将は蜀に殉じて散っていった。錦山の上人の予言は的中していたのだった
後に、劉カイを殺して城を明け渡した張翼は後に蜀漢の最期まで使え続けた忠臣として名を残し、最後の一人になるまで蜀のために戦い続けた劉カイは、最期は城下にその屍を残した。歴史とは不公平なものだ
アホみたいな長さになってしまった・・・
途中から興奮してきて自分でも何を書いてるのか良く分からなくなってきたしorz
お目汚しスマソ
ナガスwww
しかし劉カイへの熱意が感じられたw
俺も劉カイは弧将って感じで好きなんだが評価は良くないね。
確か演義でも張任に比べてたいしたことないって言われてるし。
ちなみにケ賢は劉備に降ってなかったっけ?
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 08:57:34
忙牙長
孟獲の副将。大刀をつかいこなす猛将。諸葛亮の南蛮侵略戦においては猛獲に付き従い、王平、関索の軍を退ける活躍を見せる。
しかし、突出しすぎた孟獲を救出しようとした時孟獲共々捕らえられた。忙牙長は自刎しようとする孟獲を諫め、持ち前の怪力で脱走を図り無事脱走を果たした忙牙長と孟獲だった。
その後忙牙長は糧道を封鎖せんとする諸葛亮の軍勢に単身挑むが、奮戦の末馬岱に討ち取られてしまう。
忙牙長の死は味方だけでなく諸葛亮さえも惜しんだという。
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 08:59:35
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771さん、
>>447もまとめサイトにいれて〜!マジ何回見てもウケルwww
劉岱
董卓に才を見抜かれて兗州刺史に任命され于禁などの名将も登用した。
しかし董卓が後漢を蔑ろにしているのを憂いでいた劉岱は
任地に赴いてすぐ袁紹らと反董卓連合を形成した。
そして孫堅が華雄を破り洛陽に入るとすぐさま孫堅は帰還した。
これを「孫堅は董卓本軍を恐れてる。そして復興が面倒だから帰ったのだ」と見抜いていた。
その事を漏らされるのを恐れた孫堅に手引きされた青州黄巾賊に襲われた。
しかし鮑信の策を容れて10万に満たない軍で100万の黄巾賊を2ヶ月以上持ち応えた。
だが曹操に唆された于禁に裏切られ鮑信が殺され20人の武装兵に囲まれてそれを全員殺し
更に于禁を追って数十人を殺したが後ろから于禁に矢を射られ戦死した。
そして于禁は曹操に嘘の話をした。その為正史では闇雲に攻撃して死んだことになっている。
趙雲
字は子龍。劉備麾下の武将で、武芸には優れるが、
歴史の随所で、数々の詭弁と暴虐を尽くし、蜀漢を滅亡へと導いた稀代の愚将。
偏屈な性格であったため、袁昭・公孫賛・劉備と次々と主を変えるが、
そのいずれも遠からずして衰亡していることが特徴的である。
公孫賛滅亡後、流浪し、汝南において何を思ったか、「世のため」と称し、
密命を受けていた劉備に味方する山賊をいきなり討伐して、不世出の名将・裴元紹を
不意打ちで討ち取る。
この趙雲の暴虐行為によって、汝南での劉備の兵力・人望は致命的なダメージを受け、
戦略的選択肢を極度に狭め、官渡の敗戦とライバル曹操の台頭の遠因となった。
しかし、「山賊」を討伐したという大義名分があるため、劉備はやむ得ず趙雲を召し抱えることになる。ここから劉備と蜀の悲劇は始まったと言っても過言ではない。
劉表のもとへ劉備が流れてからも趙雲の暴走は続く。
新野からの撤退戦では、曹操の寵将・夏侯恩を討ち取り、青紅の剣を強奪、
これにより曹操の怒りを招き、曹操軍の領民への徹底的な掃討と虐殺という悲劇を招いた。
この危機にあって、将来の災となる趙雲・阿斗の素質を見抜いていた
深謀遠慮の名君・劉備は、苦渋の決断ながら愛妻を犠牲にして、害を成す両人を敵中に残すという、合法的な抹殺を計画する。
しかし、妻は死にながらも、趙雲と阿斗は無事帰還する(夫人は趙雲が井戸に突き落としたとする説も有力)。
それを見た劉備は、阿斗を地面に投げ捨て、
趙雲に対して「お前ほどの疫病神とは二人と居ないだろう」と
天を仰いで嘆いたという。
赤壁の戦いでも趙雲の愚昧な行為は劉備・孔明を苦しめる。
孔明の出迎えに来た趙雲は、孔明を見送りに来た徐盛・丁封らを、
妄想のあまり敵と勘違いして無警告で攻撃、周喩はこれに深い疑いを抱き。
呉との連帯という孔明の戦略に冷や水を浴びせかけた。
いいね
正史から屈折させるとどうなんだろう
傷だらけになって主君の息子を曹純の虎豹騎部隊から助けたり
漢中の偵察に行って敵本隊とかち当たって見事な撤退したり
兵の損害を1人も出さずに帰還とか門の前で1人仁王立ちとか
赤壁の戦い後も趙雲は無茶を連発する。
荊南平定戦では、事もあろうに桂陽太守・趙範を酒の勢いで打擲してしまう。
その原因は、趙範の兄嫁に酒乱の趙雲が○○しようとしたのを
趙範が制止したためであるが、事実をねじ曲げて逆の報告を行った。
野獣の本能が起こした不祥事を逆手にとり、
和平をぶち壊して乱と戦功を求めたのである。
それでも、劉備の仁愛を信じた趙範は、鮑隆・陳応の二将を
和平の使者として趙雲のもとに派遣する。
しかし、趙雲はアルハラを行い両将を酒に酔わせて討ち取るという、
武士にあるまじき姑息な手法を行使する。
この姑息な手法は、悪宰相・周恩来に引き継がれた。
日中交渉において、周恩来は自分は口元のタオルや別のコップに酒を戻しながらも、
角栄には痛飲を勧めた。人のよい角栄は泥酔させられて、交渉を有利に運ばせてしまう。
趙雲の卑怯なやり方は、後世東方の島国にまで不利益をもたららす悪行となった。
桂陽平定後、劉備は趙雲を「まことのもののふ」と称したとされるが
これは彼一流の痛烈な皮肉であった。
また、名将・関羽が中途で荊南平定戦に呼び出されたのは、
趙雲の非道な行いを未然に防ぐ為であったのが歴史の真相である。
五虎将軍選任の際も、趙雲は無理矢理ねじ込まれるが、
これは単なる年功序列で、実体のない情実人事である。
黄忠・馬超の就任には、論理的は反駁を加えた関羽が
趙雲への評価として「趙雲も長く兄者に仕えているから…」と
今ひとつ歯切れが悪いのが証左となっている。
趙雲がその愚将としての本領を発揮するのは劉備入蜀後である。
イヤな予感を感じつつも劉備は、孫夫人との婚礼に趙雲を同行させる。
これが重大な悲劇を招いてしまう。
呉に到着した趙雲は、国老・喬元を、なんとアポ無しで訪問するのみならず
入国の手続きを代行させるというパシリ扱いをしてしまう。
この非常識な行為は、呉人のプライドを深く傷つけた。
宴席でも趙雲の妄想は全開で、またもや警備の兵士を刺客と早合点して
雰囲気を一気に悪化させ進歩のないところを見せつけた。
また、護衛としての自分の無能を棚に上げて、劉備に帯刀をすすめ、
応接側の呉に不快の念を抱かせること限りなかった。
これらの数々の趙雲の無礼な行動に、ついに呉も堪忍袋の緒が切れ
縁談はご破算となりかけたが、趙雲は己のミスを取り繕うため
魏が侵攻してきたという一大誤報をでっち上げ、劉備をアポ無しで出国させる。
尚、引き留めに来た呉将への孫尚香の強硬な態度の背景には
純情な彼女に悪知恵を吹き込んだ趙雲の影がちらついている。
みずからのミスを敵の侵攻という虚報で覆い隠すという下策は
後年李厳も模倣することとなり、その際孔明は過去を思い返して
嘆息してやまなかったという。
しかも、趙雲は、これらの行為を、密書を偽造することにより
「孔明の密命」と居直りを見せる。
劉備・孔明は唖然としたが、一応は結果オーライであったため
追認せざるをえなかった。
これを機に呉と蜀の関係は、悪化の一途をたどり、
荊州の失陥・天下三分の計の破綻という重大な悲劇を誘発することとなる。
趙雲が、荊州失陥後の劉備の呉侵攻に反対し、魏の討伐を主張したのも
呉の平定後、自分の責任を追及されるのを恐れたためである。
一般には、義兄弟を失って理性を無くした劉備の感情的な一面が
蜀の大敗を招いたとされるが、趙雲のケチな詭弁を見抜いた劉備が
小賢しい趙雲に一泡吹かせてやろうと意地になって引き時を
見失ってしまい敗戦を招いたというのが事の真相である。
南蛮編と北伐編は、また後日
糞長い
文章は面白いけど、真実は捻じ曲げないでくれ。
長すぎだよな
せいぜい2カキコに納めてくれ
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 05:00:08
上杉景虎でた?
書き易すぎて面白くないか。
>>818 景虎書き易いのかッ?!
書いてくれ。是非頼む。
だれか左慈を猛将にしてくれまいか
むむむ
左慈
曹操に仕えていたが
その妖術を恐れた曹操に殺されそうになる
しかし壁を素手で壊しいかにも中に入り込んだようにみせたりし
町の人の顔を自分の顔にしたりして逃げきった。
無理
>管理人氏
サイトの更新乙。
字を翼徳という。猫の仲間のような顔をしていると評判の男。
その実態は、酒乱癖のアル中でしかない。
酒の勢いに任せて県兵を殺したりするなど残虐非道極まりなく、
また、禁酒令を自ら破ったことを糾弾されると
理屈そっちのけで批判したものを
殴って重傷を負わせたりもするなど、孫皓、董卓も
真っ青の暴君振りを発揮した。
年をとるにつれ、猿知恵がついて回るようになり、
小細工を弄しては喜んでいた。
最後は、暴君にふさわしく勇敢なる二人の勇者によって討たれた。
・・・・・・・・・・(加筆)・・・・・・・・・・・・・
その原因は、見栄っ張りな張飛が己が戦場で目立つという自己満足のため
無茶な軍事物資の調達を部下に強要したからであるが、
彼を討ち取った勇者の名が張達なのは、
悪を除かんとした神の作為に相違ないと後世に評された。
ベタなネタですが、気が向いたら…
管理人氏がまたサイトを更新して下さったm(_ _)m
でも、ネタの供給が…
聖将→悪将
上杉謙信
戦国史上、極悪卑劣な武将
その悪逆非道ぶりは松永久秀、宇喜多直家すら及ばないと言われる
また、粘着質であり現在で言うストーカーであったとも言われる
戦が唯一得意だったがその後のことはまったく考えていなかった
天文十七年、人気のある兄晴景を妬み突如叛旗を翻し兄を殺害せんと兵を挙げる。
守護上杉定実が調停に乗り出すと自らの非をまったく詫びずに要求だけをずけずけと申した。
晴景方がついに諦め、家督を譲るや隠居命令を下し、生涯幽閉した
その後も次々と逆らえないような弱勢力を脅し名声、金と奪い遂には関東管領の職まで奪った。
これに激怒した聖将、武田信玄と度々川中島などで激突。
第4次合戦では手痛い敗北以降、民のことを考えず地獄の果てまでも追っていく事を決意した。
謙信の死後は越後の民が喚起し喜んだといわれる。
姜維
字は伯約。魏から蜀へと降伏して、色々やったという。
業績よりも、キーボードで「生姜の繊維」と入力後、
その一部を消去・修正して、名前が打ち出されることで知られている。
ショートネタでスマソ
今更感がすごい
828 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 14:04:56
左慈
蜜柑が大好物だった。曹操に献上されるはずの蜜柑を運んでいた輸送隊を襲撃して
残らず平らげてしまったために、曹操に捕縛された。
曹操に「蜜柑が空になってしまった、どうしてくれる」と蜜柑の皮を突きつけられながら罵られると、
胃に残っていた蜜柑を吐いて返した。
激怒した曹操によって斬首と決まったが硬気功の達人でもあったため、刃物を受けつけなかった。
それならば酒に酔わせて斬れと無理矢理飲ませたが、5斗を飲んでも酔わず、満腹になれば寝込むだろうからと
食わせてみたが、羊を丸飲みしてもなお物足りない。
それどころか隙をついて脱走し、たまたま行われていた宴会に乱入、曹操の護衛をしていた
許チョと大乱闘をし、卓に並べられていた珍味の鱸やら、孟徳新書やらを台無しにしたあげくに
料理に使われるはずの大量の鳩を逃がして目くらましに使い、まんまと逃亡に成功した。
その後の行方は杳として知れない。
折角の宴やら進物を台無しにされた曹操は怒りのあまり、左慈に似た者たち400名あまりを全て殺してしまったが
それでも収まらず、血圧が上がりすぎて昏倒してしまったという。
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 17:26:22
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 17:52:21
[竹乍]融
儒教一尊の漢代に、差別を乗り越えてあえて敬虔に仏教を信仰することで、魏晋南北朝の三教鼎立時代の礎を築く。
彼は陶謙から勢力下の補給を一任されるほど信頼されていた。
曹操が徐州で大虐殺を行うと、信徒一万人を救うため、これを率いて南下する。
多くの逆臣をポアしてカルマを払ってやったが、最後は劉ヨウに惨殺された。
反袁術の気風の強い呉の論客が後に彼を批判した時、叔父の諸葛玄ともども袁術派の諸葛亮は彼を庇った。
張昭「徐州の民全員を救えなかったではないか。」
諸葛亮「広陵太守趙cを粛清して暴政から救った。」
虞翻「人望は、せいぜい一万人から思慕されただけだった。」
諸葛亮「李カクの手先と化した朱儁が送り込んだ彼の息子の朱皓は我が叔父から土地を強奪した。[竹乍]融殿はそれを民間人の力だけで討伐し、主君陶謙の上司の公孫瓚の同盟者の袁術に利益を与えた。
歩隲「お前は、蘇秦・張儀を気取っているのか?」
諸葛亮「目標とする人物は[竹乍]融殿のみ。」
薛綜「劉ヨウとは何者だ?」
諸葛亮「仏敵なり。」
孫権「ではその息子の劉基を我々はどうすべきか?」
諸葛亮「大切に扱いなさい。ポアは最終解脱者にのみ許されています。
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 18:47:58
>>831 轟くような膣内の動きと、食いちぎられんばかりに締め付けられた膣口に促されるように、男はは少女の中に勢いよく精液を叩きつけた。
まで読みました。
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 19:02:15
>>832 同じ画像なりマークなりを毎日見せることによって、
それがあっても、それが目に付いてもおかしくない、不自然ではない状態にすることは洗脳の第一歩だよ。
仮にこの画像に普通では視認できないメッセージが刷り込まれていたらどうする?
連日連夜、気づかれないように少しずつ少しずつメッセージを刷り込んでいくんだ。
時々、突然気分が悪くなったり、めまいがしたことはないか?
金縛りにあったことは?
お昼ごはんを食べたことを忘れたことは?
大きな都市が丸ごと停電する夢を見た経験は?
球形プラズマ、蜃気楼、観測気球、写真に撮るとしたらどれ?
マンテル。チャイルズ・ウィッティド。その次は?
『アルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』というフレーズ知ってる?
螺旋アダムスキー脊髄受信体って言葉に聞き覚えはある?
さっきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?
どこを縦読み?斜め読み?
保守
>>834 同 じ画像なりマークなりを毎日見せることによって、
そ れがあっても、それが目に付いてもおかしくない、不自然ではない状態にすることは洗脳の第一歩だよ。
仮 にこの画像に普通では視認できないメッセージが刷り込まれていたらどうする?
連 日連夜、気づかれないように少しずつ少しずつメッセージを刷り込んでいくんだ。
時 々、突然気分が悪くなったり、めまいがしたことはないか?
金 縛りにあったことは?
お 昼ごはんを食べたことを忘れたことは?
大 きな都市が丸ごと停電する夢を見た経験は?
球 形プラズマ、蜃気楼、観測気球、写真に撮るとしたらどれ?
マ ンテル。チャイルズ・ウィッティド。その次は?
『ア ルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』というフレーズ知ってる?
螺 旋アダムスキー脊髄受信体って言葉に聞き覚えはある?
さ っきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?
ネタ切れみたいだから、俺のクソ長いカキコでも読んで
イライラしながら時間を潰しておくれ
愚将趙雲伝(完結)
劉備の死後も、趙雲の暴走は止まらない。
南蛮平定戦では、魏延と談合して、度々の命令無視と抜け駆けを行った。
穏健路線を求める孔明の戦略に反し、南蛮洞主・金環三結を討ち取って
小功を誇ったりしたのはその代表的なものである。
七回もの不自然な孟獲の捕縛&釈放の背景には何があるのかについては、
幾度と無く和平の破壊を図った趙雲の暗躍があるとする意見もあるが、
今後の検証が待たれる。
何はともあれ、南蛮平定後、高徳で有能な名軍師・孔明は
愚将・趙雲を外して北伐という大事に挑もうとした。
そこで、孔明が趙雲を外した行軍計画を発表すると
小利口者の趙雲は、「それがしの名前がなかったのは聞き落としか?」
と嫌みったらしく、これ見よがしに尋ねるが、
高潔な孔明は、「将軍もお年だから…」と礼儀正しく婉曲的に拒否する。
理論では敵わぬと見た趙雲は、「俺はこの日のためにやってきた。
従軍できないくらいなら、今ここで自害した方がましだ!」と、
年齢と地位を無視した分別のない暴言を吐く。露骨な脅迫である。
死んで欲しいのは山々な孔明もさすがに話の流れ上、慰留せざるをえず
やむなく彼を先鋒とした。これが悪例となり、趙雲死後も、
魏延・姜維ら短慮な強硬武断派らが同様の手口で国政に介入し、
度々無茶な戦争に蜀を巻き込み、蜀漢滅亡の大きな要因となってゆく。
北伐では、なまじっか優れる武勇が、趙雲の利敵行為を助長した。
先鋒となった趙雲は、己を退けようとした孔明への当てつけとして
いきなりやってはいけないことをしてしまう。
なんと、魏の先鋒ながらも、心底では蜀に服していた西涼の韓徳と、
その子4人を一騎打ちにて討ち取ってしまうのである。
この事で西域の人々の恨みを買い、馬超存命中からの西域に於ける蜀の威名は地に墜ち、
西域の豪族を手懐けて、魏の崩壊を図るという孔明の戦略は水泡に帰す。
また、西羌軍と敵対関係になる遠因ともなった。
孔明は、「馬超ならば…」と悔やんで止まなかったという。
姜維に天水で敗れた際には、自分の無能と部下の犠牲には一切言及せず、
「いやぁ、負けましたわい。これだけはっきりと負けると
かえってスッキリします」と戦争とスポーツマンシップを混同した詭弁で
巧みに孔明の追求をけむに巻き、責任逃れをした。
駄作・三国志10でも、趙雲に特技「揚足」が付加されているのも当然であろう。
街亭の敗戦からの撤退でも、孔明の期待に背いて見事に生還する。
まさに、憎まれっ子世にはばかるを体現する人でもあった。
この時孔明は、馬謖への玄徳の忠言に背いたせいか、不運にして馬謖が敗れたため、
今度こそはと長橋で趙雲を敵中に放置して始末しようとした先君の例に
倣って、趙雲を殺そうと危険な殿を命じたが、趙雲には通じなかった。
それでも、趙雲を除こうとした孔明は褒美を与え
それを退職金代わりに趙雲の引退を求めたが、
陰湿な趙雲に見透かされ「それがしのみが頂いては不自然です」
と小ぎれいな道徳論でまたもヒラリと身をかわされた。
腹の虫の治まらない孔明は、イライラのあまり智将・馬謖を斬首を命じてしまう。
馬謖は趙雲のとばっちりを食ってしまったのだ。
「泣いて馬謖を斬る」は、本来「感情にまかせたせいで、大事なものを失う」
という意味だったが、現代では「規律のために、愛するものを処罰する」
と伝わっている。
その後趙雲は程なく病没し、宴席中だった孔明は涙を流して喜ぶが
趙雲によって、孔明のストレスは極度に蓄積され、
蜀の国力も致命的なダメージを受けており、時既に遅しであった。
もはや、蜀は衰運をたどってゆくのみである。
陰に陽に歴史の随所で悪行や利敵行為を働き、英主・劉備や名軍師・諸葛亮を
散々に苦しめ、蜀漢を滅亡に導いた稀代の愚将・趙雲。
その用兵の特徴は、自ら深刻な危機を招いておきながらも、
それを中途半端に自己解決するという、独り相撲をやってのけ、
味方をドン底に落とし込むことにある。
歴史にイフは禁物であるが、もし趙雲さえ居なければ…、という想像は
今なお多くの歴史ファンを捉えてやまない。
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 17:36:37
いいよ〜GJでした〜
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:15:22
斯波義銀
尾張守護であり管領家にもつながる名家に生まれたが、当時は父義統とともに守護代である織田信友に
実権を握られ斯波家は傀儡にすぎなかった。それを挽回しようと信友と対立していた信長と連携しようとした
父は信友に先手を打たれ殺されてしまう。義銀は危うく窮地を脱し、名古屋城の信長の下に逃れ、
信長に守護殺害の逆臣信友を討つよう檄を飛ばす。信長と利害が一致することを踏んでの
カケだった。
信長とそのオジ織田信光があまりうまくいっていないという情報を流し、
信光に信友方へ偽の寝返りをさせ、信友の居城清洲城へ埋伏させることに成功する。
信光に信友を暗殺させ労せずして清洲城を奪還。
義銀は尾張をまとめるかに見られたが、義銀の尾張統一を嫌った信長は、
義銀の統治が完了する前に義銀をry
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:26:57
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:49:19
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:52:14
846 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:54:56
>>844 性格ワルスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
↓いいよ〜。GJでした。と社会的に疎外されているキモオタの得意技。気に入らないスレへのコピペ荒らし。
>>845 すまん。書いている最中にモヨオシちゃったyo
リクエストおk?
三国志10を駄作→名作でよろ(そのまま駄作でもよい)
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 16:16:51
いいよ〜、DJでした。
移転したんだ
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 22:06:44
【卞喜】
2000年近く経った現在でも流星鎚の達人として知られる。并州に生まれ、
かの歴史に名高い黄巾族の将として慣らしたのち、元賊という身でありながら
その力量を見込まれ、稀代の英傑曹操の配下に加わり要衝沂水関の守備を
一手に任された。
彼の名が歴史に燦然と輝くことになった最大の理由は、いわゆる「関羽千里行」
の悲劇にある。
曹操配下にあった名将関羽が元の主君である劉備の元へ走った為、その道中
5つの関に於いて曹操配下の6将がこれに対峙したのである。
通行手形を持たなかった関羽を関所破りと見なすのは関を守る将として当然の
ことであろう。彼らが立ちはだかったのは正義を全うせんが為であった。
結果から言えば6将は全て関羽に斬り伏せられてしまうのであるが、この6将中
最も関羽を追い詰めた人物こそ卞喜であった。
関羽接近の報を受けた卞喜は疾風のごとき判断で街道沿いの鎮国寺に兵を置き
待ち伏せることを決断した。あとは関羽を寺に誘導すればそれで済むはずだった。
ところがである。事もあろうに、鎮国寺の僧侶で普浄という人物が、同郷だから
という単純な理由で関羽に伏兵の存在を密告してしまったのである。
大義を知らず、こうした私情で歴史を狂わす小者というのは居るものである。
可愛がっていた部下を瞬く間に斬り伏せられた卞喜は、ここで勇敢にも名将関羽に
一騎打ちを挑むことを決断する。まさに電光石火の決断であった。
こうして彼は、後世に存在が伝わるほどの一騎打ちを繰り広げるのである。
しかし悲しいかな相手は世紀の豪傑関羽、現在も神とまで崇められる武将である。
流星鎚の腕こそ天下に知られているとは言え、関の守備のみに邁進するしかない
卞喜と戦場をこそ住処とする関羽とでは、結果は初めから明らかであった。
結局、名将を後少しの所まで追い詰めながら、健闘空しく力尽きるのである。
裏切りによる敗北、裏切りによる悲劇と言っていいだろう。
鎮国寺に転がった主従の無惨な亡骸を見た者は皆涙したという。
裏切りに遭いながらも正義を全うするために命を散らした偉大な武人卞喜。
この悲劇の主人公卞喜の行いこそ、現代社会に生きる我々に足りないものを
何かしら示唆しているように思えてならない。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 22:29:16
いまさらだが
855 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 22:55:07
うぜー何様だよこいつ
ローカルルールすら読めないガキ
【諸葛孔明】@
若いころに学問を学んだ後、引きこもり生活をしていたが、
劉備の3回の説得により引きこもり生活から脱却した。
その後、曹操により南伐がはじまると、劉備とともに夏口に撤退した。
呉の孫権をたぶらかし、孫権と曹操を対峙させることに成功する。
孫権軍が赤壁で曹操軍を破るとあたかも、自分が曹操軍を撤退させたと触れ回り、
呉の周瑜の怒りを買った。
また赤壁の戦いで勝利した孫権軍はその勢いを加って曹操の領土に侵攻を開始した際に
荊州4群を泥棒猫のように占拠した。この浅知恵が後々外交問題に発展し、
蜀の忠臣関羽を失う原因を作ってしまう。
【諸葛孔明】A
その後、蜀の君主劉璋から張魯討伐を受け、これを気に蜀乗っ取り計画を開始する。
計画したくせに自分で動くのが面倒なため、ホウトウに全てをまかしたしまう始末である。
その後、運悪く稀代の名軍師ホウトウが戦死すると、陥落寸前の成都に乗り込み、
周囲にいかにも自分が陥落させたと思い込ませることに成功した。
荊州で関羽の戦死のした後、劉備が呉への遠征計画を持ち出した際にも
大して引きとめもせず主君を敗走するのを黙って見ていた。
劉備の死後、蜀軍を率いて幾度も北伐を置こうなうが一向に成果が上がらなかった。
街亭の戦いでは周囲の意見を聞かず、若造の馬謖を重要拠点に配置し敗北、
さらに漢中を長い間防衛して地理に詳しい魏延の意見を聞かず、長安より遠い
ギ山に陣を張るなど、一人よがりの戦略を展開し、魏延との関係を悪化させる。
諸葛孔明B
魏延の意見を聞かないどろこかあげくの果てに魏延を爆殺しようさせるなど暴挙にでた。
そんな孔明であったがついに最後の時がくる
最後は自分の死を占星術などという非科学的な根拠を信じ、
あろうことか寿命を延ばす儀式を行うなど最後まで奇天烈な行為に出て、
多くの将が哀れみを感じ涙したといわれる。
彼の死後、魏軍の司馬懿は木造の孔明像みて、逃げ出したと逸話がのこっているが
これは、孔明のあまりの陳腐な策に一種の哀れみさえ感じ
あえて引っかかったととも言われている
結局、孔明の北伐により蜀の数多く兵士が無駄死えおして
蜀の弱体化が一層進んでしまう結果になった。
彼さえいなければ数万という犠牲者も出さずに済んだと
主張する歴史家もいることをここに明記しよう
長文ですまそ
>>857-859 悪くはないけど、同一表現の多用が目立つ。
あと、孔明はお約束キャラだからもう少し個性を発揮して欲しい。
でも、とりあえずは乙。
【諸葛亮】
荊州のそれなりの名士の一族であった。
唯一無二の友人・徐庶の紹介でやってきた劉備を見るやいなや
立ち退き命令を出しに来た県令と勘違いして逃げ出してしまった。
劉備が二度目に訪ねてきたときも一目散に逃げていった。
劉備が帰ってから諸葛均から渡された手紙を見るが、猜疑心の強い諸葛亮はそれを疑い手紙を破り捨てた。
そして三度目に訪ねてきたときは昼寝中であった為逃げるに逃げられなかった。
狸寝入りを続けたが観念して出ていってみると劉備に仕えてくれと言われ、拍子抜けした諸葛亮はとりあえず中に招きいれ
父親と叔父が考えた天下三分の計の図をあたかも自分が考えたかのように見せた。
曹操の南下が始まると「攻めてくる軍の壁になる」という理由で新野の民を無理矢理連れて行って多大な被害を出した。
そして人を騙すのが得意な諸葛亮は孫権を騙し同盟を結ばせ赤壁の戦いに持ち込ませた。
「これで我が軍は漁夫の利を得るだけ」と言わんばかりに曹操の退路に兵をびっしり置いて追撃した。
だが念の為にと周瑜ら呉軍の退路にも兵を伏せていた事がバレ、更には荊州問題を起こして呉との仲を悪化させた。
劉璋を攻めることになると邪魔な龐統に僅かな兵だけを与えるように言い含めて主君劉備を向かわせた。
思惑通り龐統が死ぬと今度は大軍を率いて援軍にかけつけ成都を制圧した。
だが、成都への道は殆ど張飛が陥落させていて、あとは馬超らに降伏を申しださせただけであった。
呉との荊州問題が再び発生したとき、関羽ならば大丈夫と根拠も無しに襄陽を攻めさせ荊州陥落の原因を作った。
このときに荊州を失った事が後々に響き国力を弱める根源となった。
そして対呉のとき、劉備が反対するものは処刑するという言葉に恐れ諌めなかった。
敗戦後の劉備は「法正と龐統と関羽が生きていれば」と呟いた。
劉備死後全軍権を掌握すると度々魏に対して出兵するが10万で3000の兵に負けるなど殆ど成果を挙げられなかった。
流石に責任を感じた諸葛亮は心労より病を発し五丈原で没した。
三国の歴史を纏めると語っていた陳寿とその師・譙周には特別良くしたので思惑通りそれなりに美化されて歴史に名を留めた。
出廬まではそれなりだけど、後半が惰性&食傷気味のネタ。
漢字を頑張って変換したのは吉。
えらそうにソマソ
やっと全部読み終わったわ
>>294がお気に入りです。
番号忘れたけど、空気読めない蒲生氏郷がおもろかった
>865
>589‐590
そろそろネタきぼーん
自分でやれ
久しぶりに職人として一仕事やるか…
三国志10がらみで、
「三国志](駄作)」「三国志](駄作→名作)」「賊」「井蘭」
あたりで、いろいろ練ってみるよ。
がんばれよ
ごめん、失敗したよOTL
ところで本城惣右衛門有介と河野藤右衛門って、それぞれなんて読むの?
>>159と
>>392の。調べてもわからん
前田慶次でなんか書いとくれ
前田慶次
尾張出身の人。前田利家は義理の叔父に当たる。
若い頃、義父、利久が信長に放逐されたことにより、これより十五年間ほど
放浪を余儀なくされる。しかしその間も前田家からの援助はあったようで、
京都で紹巴や古田織部といった一流の文化人と交流を深める一方、
自身は源氏物語や伊勢物語などの研究で著名であった。
後に己の才能を凌ぐ人として直江兼続に惚れ込み、上杉家に仕えた。
関ヶ原の戦いにも従軍し、戦後は京都に移った。この時上杉景勝の
ために弁明をしていたとも言われる。上杉氏が減封された後、多くの大名家から
誘いが来たが、全て断り、小禄で再び上杉氏に仕えた。この時、京都から
米沢に赴く道中の様子を記した『前田慶次道中日記』は当時の風俗を
知るための重要な資料である。晩年は米沢の堂森に『無苦庵』という庵を建てて住んだ。
現在、彼が詠んだとされる和歌五首や、いくつかの日記などが伝わっている。
どっちつかずな内容乙
前田慶次
尾張出身の人。前田利家は義理の叔父に当たる。
天下無双の傾奇者として知られるが、
実は非常に保守的な価値観を持った人物である。
年少期には土地相続問題で、利家と争い、
猫額の地である荒子城の知行に粘着する。
最終的には進歩的な領土支配を志向する信長に与する利家に敗れてしまう。
時代の必然とでも言うべき結末であったが、
この恨みをネチネチと持ち続け忘れることはなかったという。
それなりに武芸には優れてはいたので、傾奇者を自称するようになるが
権力者秀吉に取り入って、傾奇者御免状なるものを授かったと伝わる。
まさに権威主義を地でいくような人物であった。
関ヶ原の合戦では、時代遅れの無骨者らしく立身出世を夢見て
劣勢の上杉家へ仕官するが、得るものはなかった。
東軍・西軍のどちらが有利か見定める戦略眼を持たない慶次には
当然というべき結果である。
また時には、保守派らしく文学や作動に凝ったりするも
器用貧乏で特にものにはならなかった。
晩年は、上杉家からお情けでもらった捨て扶持を食いつぶしつつ
米沢あたりのド田舎で朽ちるように日々を浪費して死んでいったという。
戦国時代に無駄に咲いて散っていった徒花、それが前田慶次の生涯であった。
874とは別人だが、こんなくらいで勘弁してくれ。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 10:31:09
住人は戦国より三国のほうが多いんだね。
義経とか弁慶とかはだめっすか
神話的な部分もあるので日本武尊で
捕手
>>879 乙。
この際香ばしい厨房職人でも何か書いて欲しいよ。
マジレスだけど、地底の文学部の俺(サボりだから説得力無さ杉w)
が全特技と全技能で最大限の賛辞を送るよ!
>>877 那須の与一が魅せた見事な弓の腕前に沸いた平家の者達。
凄い業を見せてくれた礼にとある老武者が舞いを披露したら、
「何だあいつは。おい、あいつを射殺せ」
>>877 那須の与一が魅せた見事な弓の腕前に沸いた平家の者達。
凄い業を見せてくれた礼にとある老武者が舞いを披露したら、
「空気嫁」
那須の与一が魅せた見事な弓の腕前に沸いた平家の者達。
凄い業を見せてくれた礼にと
ある若造がしゃしゃり出て、その弁舌を披露しようとしたが、
「空気を読んで出ないが良かろう」
とやはり引き下がった。
【源義経】
変態ショタホモこと○ャニー喜多川率いる、芸能界の癌とも言うべき○ャニーズ事務所の花形?アイドルである
○沢秀明に後世演じられることにより、その名誉を著しく傷つけられた悲運の将。
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 11:47:45
韓玄
武芸、政治に長けた稀代の名将。
若年から曹操に仕え、曹操もその能力を高く評価していた。
曹操が青洲を平定するといち早く荊州一の富国、長沙の太守に任命された。
人を見る目に優れた韓玄は、長沙に赴任すると黄忠、魏延等
の逸材をいち早く見極めこれを臣下にした。
一方、長沙の治安の悪さを嘆いた韓玄は涙ながらに徹底した処罰をはじめると
魏延をはじめ民からの信頼も次第に薄らいでいった。
劉備率いる関羽の軍が長沙に攻めると韓玄は黄忠を先鋒に迎え撃つが
どちらも決着が着かず、年をとった黄忠を気遣い引き上げさせると自ら討ってでた。
関羽と韓玄の戦いは正に「竜虎の戦い」と呼ぶに相応しいと呼べる戦いであったが
韓玄が戦いから戻ると関羽と内通していた魏延は
民を扇動させ韓玄は後ろから斬られると
韓玄はその才能を全て発揮することなくその生涯を閉じた。
劉備は黄忠を臣下にすすめる際、黄忠は韓玄の徳を忘れなかった為
何度赴いてもなかなか臣下にならなかったという。
また劉備が魏延を臣下にしようとした際、諸葛亮は
「韓玄程の主ですら平気で裏切るような者は斬るべきです」
と答えたという。
蛇足ながら弟の韓浩に屯田制度の話を最初にしたのも韓玄であるというのは周知の事実である。
>>885 とりあえず、乙。
若い女を無理矢理妾にしたのを、
「しつけの悪い娘を城に招いて、自らこれに礼儀を教えた。
人民は彼を『夜回り先生』ならぬ、
『夜回り君主』と尊称し大いに慕っていた。青少年教育の先駆者としても知られる」
とか、もう一ひねりがあると良かったかも
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 22:23:55
戸次鑑連 1513〜1585
立花道雪。戸次親家男。大友義鑑・義鎮に仕える。
若い頃に悪天候にも関わらず木の下で眠っていたところ落雷に打たれ、半身不随となる。
それでも戦場には出ていたものの、主将として出陣した休松の戦いでは寡兵の秋月軍に
弟五人を一度に討たれる程の大敗を喫し、一武将として参加した三年後の今山の戦いでは
竜造寺軍の奇襲に対して何の対策も取れないまま総大将・大友親貞を討ち取られてしまっている。
また各地の寺社をいくつも破壊したことも知られており、現地の民からはしばしば怨嗟の声を向けられている。
こうした中、次第に義鎮にも疎まれるようになっていった。
晩年には僅か六歳の娘を城主に据える・高橋家の嫡男を半ば無理矢理に養子にするなど奇異・迷惑な
行動も目立つようになる。
最期は筑前へ出陣するものの、高良山で命を落とすこととなった。
>>885 能力一桁の韓玄が名将に見えるwGJ
>>887 雷切り戸次鑑連も視点をかえるとさんざんですねwGJ〜
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 02:28:31
age
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 03:31:49
【織田信長】
幼少の頃よりウツケ(池沼)と呼ばれ織田家に暗雲を呼び込む
案の定、弟・信行との家督争いとなり内乱となるも男色で有名な斉藤道三に見染められていたことが功を奏す
以降尾張は道三による魁儡統治となる
しかしそれを善しとしない織田家家臣団が謀略を巡らせ斉藤家打倒に成功する
暗愚な信長は常に周辺諸公とくせの有る家臣に翻弄され続け最期は元斉藤家家臣の明智光秀に積年の恨みを晴らされる
奇異な城を建築したり舶来品を見る度に大騒ぎしていたと言われ今日で言うアダルトチルドレンだったようだ
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 04:23:46
【卞喜】
張燕配下として対袁紹戦で名を上げた
張燕が曹操に帰順すると
「併州を得たことよりも卞喜を得たことの方が大きい」
とまで言わしめた
後に千里行の関羽と激戦を繰り広げるが仲裁に入った曹操に関羽が誤って刃を向けてしまった為それをかばう形で斬られた
卞氏の兄
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 04:25:25
って被ってたスマン
【少帝】175〜189
名は弁。霊帝の長子。後の献帝・劉協の兄。時の大将軍・何進の甥に当たる。
常に冷静であり、鋭い洞察力を持っていたが、己の発言の重大さを知っていたが為に
滅多に発言はしなかったという。
霊帝崩御後、何進らに推戴され帝位に付く。
中央政権を独占していた十常侍の内部分裂を画策、郭勝に仲間の蹇碩を除かせる事に成功。
しかし、十常侍排斥を焦った何進が一気に決着を付けようと地方軍閥に上洛を要請。
これにより崩壊しかけていた十常侍が再び結束し、何進を謀殺する。
宦官を嫌悪していた袁紹・袁術らがこれを機に宮中へ乱入、
少帝が懸命に避けようとしていた大殺戮が始まる。
この混乱の最中、張譲らが非力な少帝と劉協を拉致して城外へ遁走するが、
途中馬車から弟と共に飛び出し、兄として弟を励ましつつ、民家まで辿り着く。
最初に遭遇したのは董卓であるが、董卓はこの時の少帝の目を見て、
己の心を透かし見られている事に恐れを感じ、少帝の排斥を決意する。
都に着いてすぐに、董卓は軍事力を背景に少帝の廃位を強行する。
諸侯に勅命を発すれば董卓を除く事は可能であったかもしれないが、
少帝は都を戦乱の地にするのに忍びず、言われるがままに弘農へと向かう。
しかし弘農への道中に董卓の手により暗殺されてしまう。享年14歳。
民を愛するが為に兵を避け続けたが、皮肉にも兵力に押し潰された。
皇帝の権威を取り戻そうと志した非業の名君である。
贈名の「少」とは、権力の少ない皇帝を哀れんで付けられたという。
【諸葛亮】
臨機応変の軍略を得意とすると評され「軍神」と呼ばれるほどの才を誇った
しかし、法正の勝手な振る舞いを見逃すなど公明正大さに欠け、
内政面では仕事中に泥酔した経験を持つ蒋エンや
諸葛亮派を一掃し、皇帝の権限強化を目指した黄皓を冷遇した董允、
諸葛亮の遺志を継ぎ北伐を実行した姜維の兵数を制限した費イを重用するなど評価は芳しくない
劉備が存命中はその軍才を恐れて内政しか任せなかったが
劉備の親戚と言われている劉表の遺児から荊州を奪うように進言したり
夷陵の戦いでは「法正が生きていれば…(蜀が勝利し私に機会が来ることが無かったであろう)」
等、数々の問題発言をしている
劉禅が皇帝になると軍権を掌握、その後南中の叛乱を鮮やかに平定し、その地位を確固たるものにする
北伐では曹丕の寵愛を得た裏切り者の孟達を司馬懿に始末させるなど緒戦から魏を翻弄
長安を守る名将夏侯楙(
>>176参照)を避け、老将趙雲を囮に使い、曹真を欺くなどの離れ業を見せた
その後の度重なる北伐でも、陳倉城を大群で包囲して魏を揺さぶったり、武都・陰平を奪取や、
名将張コウを討ち取る活躍を見せている
しかし、軍神も病気には勝てず五丈原で没するが、
曹叡に与えた心労は大きく、彼を早逝させて魏の滅亡を早めた
しかし、三国志演義では祈祷による風起こしや、
勇将魏延を反骨の相があるという理由だけで処刑しようとするなど
気まぐれのみで動き、緻密な理論により策を起こすと言った姿は無い
これは劉禅を蔑ろにし、劉備の意思に反したと後世の人間に見なされたからだろう
【小早川隆景】1533〜1597
毛利元就の三男として生まれる。小早川家の養子となったが、
竹原分家であったことに不満を持ち、実父元就をそそのかし
いつのまにか小早川本家を相続する。
他家の三男という立場にありながら、兄元春に楯突き、毛利本家に
たびたび介入し輝元をたぶらかし実権を握った。
戦略眼のなさは際だっており、動くべき時に動かないため
石山本願寺、荒木村重、足利義昭ら盟友を失望させた。
上月城攻めの時は、5万の大兵を率いながら、8千の秀吉を攻撃
せず、宇喜多家離反の原因となった。
備中高松城の攻防では、眼前での築堤工事を傍観し士気を下げ、
明智謀反の報を受けながら何もできず成り行きに任せた。
ところが、幸運にも秀吉は破竹の勢いで勝ち続け、しかも
「隆景が追撃を止めた」と勘違いをしていた。
隆景は本家や兄元春が全く加増されないにもかかわらず、
伊予35万石、次いで筑前50万石に封ぜられる。
隆景は老いて思考力の衰えた秀吉をたぶらかし、
ついに5大老にまで登り詰め、本家と同格の存在に成り上がる。
なお、「三本の矢」の逸話は隆景の創作であり、兄をおろそかに
した自らの悪名を払拭させることに成功した。
晩年は、秀吉に忠勤を励むあまり、金吾こと木下秀秋を養子に
するという失策を侵し、小早川家滅亡を招くこととなった。
正史の孔明の方が演義よりも名将って感じだよ
演義は怪しい軍師って感じで書かれてるからな
関羽
ひげが美しく「美髯公」とよばれ
みなの信頼を受けていたが、
守備していた荊州を簡単に失陥し
主君の信頼を裏切った。
また逃走中に敵の捕虜となり斬首。
明の時代には「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」
に封じられ、そろばんの発明をしたとか、
中国式簿記を発案したらしいということで
いまでは商売の神様となっている。
ただの紹介文書くな
【呂蒙】
字は子明。
武術一辺倒の将だった為、主君の孫権に兵法を学ぶよう命じられ、
周瑜の下で作戦に付き従いながら兵法を学ぶも成果無し。
周瑜という良き上司に恵まれたおかげで、指示された事のみを実行して勝利を治めていた為、
幸運にも出世は出来ていた。
周瑜亡き後、代わって上司となった魯粛が勉強の進み具合を見に来たが、その成長の無さに呆れ、
「(格好だけは偉くなって)もう呉にいた時の蒙ちゃんとは呼べんな」
と、皮肉を言った事を真に受け、
「三日も会わなければ相手を改めて見るべきですよ」
などと言って、魯粛を唖然とさせたエピソードは「呉下の阿蒙」として有名である。
自分では作戦は立てられず、部下の意見を検討せずに実行させる為、
荊州を守っていた関羽も作戦の予測がつかず、彼を恐れていた。
荊州奪取の作戦も、指揮官として名前が残ってはいるが、
作戦の実行案のほとんどは、当時国外では無名だった部下の陸遜が献策していた。
これは後の夷陵の戦いにおける、蜀側の陸遜評からも明らかにされている。
荊州奪取後、関羽の怨霊の噂が流れたが、迷信深い彼はこれを非常に恐れた。
呂範に卦を立てさせ、作戦成功を知った際に笑ったという事からもそれが窺える。
そして戦勝祝賀の席上、とうとう気が触れてしまい、孫権を突き飛ばして罵り、
「我は関うわくぁwせdrftgyふじこlp;@!」と訳の分からない言葉を最後に絶息した。
>>897は「政治家を将軍のように説明」したんだな。
何か勘違いしてるから言うが諸葛亮は実際に「政治家で将軍」なわけで
全然スレの趣旨に沿ってない
金正日みたいなもんだって事か
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 19:38:17
そうそう要は北チョの国営放送を手本にすりゃいんだよ
ここってどういう風に書けばGJなの?
煽りのGJもあるから気にするな
とりあえず書いてみなって
レスがつかないっからってめげるなよ
【朝倉景健】
朝倉家中でも屈指の猛将
姉川の戦いを始めほとんどの戦いに従軍した
特に姉川の戦いでは出陣を嫌がる義景に変わって一万の兵を率いる総大将となり徳川勢を苦しめた。
結果的に敗れたとはいえ信長軍にも小谷城に攻め込む余力は残っていなかったのだから
十分援軍の勤めは果たしたといえるだろう。
さらに宇佐山城の戦いでは信長の弟信治と森可成を討ち取り、その後も信長軍を苦しめた
多くの武将が出陣を拒否した近江出陣でも景健は義景に従軍し
刀禰坂で義景が大敗したときも奮戦し義景の危機を救っている
しかしその後義景が自刃したため景健もやむなく降伏、本領を安堵されるが
1574年一向宗が蜂起し、さらに内部では富田長繁の反乱が起こり
進退窮まった景健は一向宗に降伏、翌年首謀者の下間頼照の首を取り二心の無かった事を示すが許されず処刑された
この越前一揆騒動は旧朝倉家臣を粛清するための信長の策略という説もある、使える主君を間違えた悲劇の将であった
【【黄忠】
字は漢升。何故か蜀の五虎大将の一人。
負けん気が強くてすぐ癇癪を起し、周囲の目を気にする割には傍若無人な振る舞いが多い。
始めは劉表に仕えていたが、後に長沙太守の韓玄(
>>885)に仕えていた。
劉備(
>>98)率いる関羽(
>>99)の軍と対峙した際、韓玄の静止を無視して勝手に出陣。
関羽と一騎打ちをするが、老人を気遣った関羽に遠慮せず、果敢に打ち向かうが、すぐ体力が切れて城内に逃亡。
次は弓で仕留めようと再び出撃するが、矢を忘れ、弦だけを引いて関羽を警戒させた隙に再び逃亡。
進退窮まった黄忠は、後輩の魏延(
>>164)をそそのかし、韓玄を斬らせて降服する。
この時、韓玄を斬ろうとした魏延を止めようとしたというのは、実は芝居である。
この「矢を忘れる」事件以来、彼の兵士は突然のボケを恐れ、長時間の戦闘を避ける為に強兵となる。
蜀への侵攻の際には常に先鋒に居て、魏延の先を行こうとする。
勝手に行動する大先輩のマネをして抜け駆けをする魏延を度々救うが、
同じく抜け駆けしていたのに体力差で遅れて到着しただけである。
黄忠の抜け駆け癖は抜けず、その為に張飛が救援に現れるなど、味方にとっては傍迷惑な爺である。
定軍山の戦いでは人質交換の際に、陳式の事も考えずに夏侯尚を背後から弓で射殺す。
法正の策によって夏侯淵を討ち取る事に成功し、征西大将軍に任じられる。
後の張コウとの戦いでは、またもや抜け駆けして兵糧を襲うが逆に囲まれる。
その危機を趙雲(
>>407)に救われ、趙雲の活躍によって魏軍を破る。
それらの功績によって五虎大将軍に任ぜられたが、関羽にはそれが面白くない。当然である。
こうして名ばかりが誇張され、国外にまで鳴り響く。
呂蒙が関羽を破った際に、呉の張昭が「仇討ちに来たら危険な人物」としてその名を上げる程であった。
関羽の仇討ちの際にも、関興・張苞を押しのけて先鋒を奪うが、戦果は華々しくない。
「老人は役に立たない」という劉備の言葉に激怒し、またもや暴走。
怒りに任せて呉の史蹟を斬り、潘璋とも力闘する。
劉備自身が謝罪するが怒りは治まらず、翌日も抜け駆けして馬忠に肩を射られ、それが元で死亡する。
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 00:55:32
魏の皇帝で司馬から実権を取り戻すために少ない手勢で挙兵した曹なんとかを名将にしてください
レスがなくてもまとめサイトに保存されるのならそれなりに価値がある。
あとここの住民はかなり毒舌なので煽りとか気にしてらんないよなw
【細川氏綱】
室町幕府の管領。政元以来の幕府の混乱を鎮めた武将でもある。
細川高国の養子となったが、彼が十八歳の時に父・高国が細川晴元に殺され、
以後十年以上に及ぶ雌伏の時を過ごす。その間、宿敵晴元は畿内に
独裁的な政権を作り上げ、彼に逆らう者は無かった。この期間、畿内に
攻め寄せようとした者が皆無であったことが、彼の実力を物語っている。
その晴元に対し、1543年、氏綱は遂に挙兵するが、圧倒的な力を持つ
晴元の前にはこの抵抗も無力であったかに見えた。
しかし氏綱は戦っている六年間の間に晴元の懐刀であった三好長慶を味方に
することに成功し、遂に晴元を近江に追放することに成功した。
それから十二年間に渡って氏綱は管領を務め、長慶とともに幕政を司った。
彼の施政方針は将軍、足利義輝を上手くコントロールしていこうとするものであり、
これによって地に落ちたかに見えた将軍家の権威も回復に向かったと評価できる。
しかし、名臣三好長慶が兄弟の死によって精神的に落ち込むにつれて、
氏綱も病がちになり、遂に1564年に両者ともに死んだ。これによって
足利義輝を抑えられるものが居なくなり、翌年義輝は独自に動きすぎたために
三好氏との間に齟齬を生じ、松永久秀に謀殺されたのである。
現在、織田信長以前の政権の担い手として三好長慶を評価する声が上がっているが、
長慶のみでなく、氏綱もまた管領として再評価されるべきであろう。
>>914 普通葬儀の時に付けてもらえるはずの謚号だが
遅れに遅れ結局死後20年ほど経ってやっと「剛侯」が贈られた
この剛侯は剛情で人の話を全く聞かない困った人という意味が込められている
死して20年経っても蜀の人々は彼の剛情さを語り継いでああはなるまいと思ったと言う
老いてもまだ若いと剛情を張る人を「老黄忠」と呼ぶのはその名残である
井ラン(せいらん)
三国志]の世界に登場する古代中国の超絶最強兵器。
矢倉状のものでそこから矢を発射するという。その攻撃力は他を圧倒しており、
僅か数日で一万人を死に追い込む事すらもある。
こういった大がかりな兵器は、移動や運送に手間が掛かるのが常であるが
井ランには一切無関係である。なんと井ランを装備していても、
機動力には一切影響は出ず、山でも河でも林でも通常どおり移動できる。
また、城壁の上に運んだりそこで組み立てたりする分にも、さほど手間は掛からない。
この事から、当時には何らかの重力や空間を制御できる技術があったと思われるが、
それは惜しくも現代には伝わっていない。
井ランの利点はこれだけではない。コストパフォーマンスにも優れているのである。
これだけの兵器が、「馬小屋の修理」や「モグラ退治」を10回ほどすれば
整備できるというのだから驚きである。
とにかく、留守番の文官部隊が放つ井ランが放つ弓矢に、
遠征軍の名将の騎馬隊がガンガン削られてゆく有り様は、
名映画「ラストサムライ」のラストシーンの悲劇と哀愁を思わせるものがあり、
良識ある者はその使用を極力控えるという…。
惜しくもこの兵器は現代には伝わっていないが、
これは平和を願う神からの恩恵であろう。
賊(ぞく)
三国志]の世界に無数に登場する知勇に優れた豪傑。
基本的に100を頂点とする相対武力では、80後半を誇る者もおり、
これは王平・徐盛・干禁ら良将クラスを凌駕し、凌統・黄忠・夏侯淵ら猛将に匹敵する
武勇を誇る。まさに在野の豪傑といえるであろう。
その性格は苛烈で、三国志]がクリックゲームである事を悪用し、
勢いに任せて一端「金を払う」を選んでしまうと、もはや訂正の余地はない。
さらに間違えて、金額を「1」のままクリックすると全財産を
容赦なく奪ってくるという悪辣な人物である。彼に泣かされた者は多い。
あまり知られていない事だが、その手腕は実は彼の比肩なき知謀に
支えられているのである。孔明や仲達が私兵一万人を率いている状態でも、
彼はその私兵をものともせず、一騎打ちに持ち込む事が可能である。
これは、孔明や仲達といえども、彼に「混乱」させられて、
無理矢理「一騎打ち」に持ち込まれていると推測できる。知謀は255はあろうか。
また馬術にも優れ、呂布が赤兎馬に乗っていたとしても逃亡などは不可能なのだ。
しかし、謙虚な一面もあり、舌戦になると案外簡単に道を空けてくれる。
おそらく、このように口下手だったから仕官しなかったのであろう。
以上箸休めの番外編でした〜
訂正
とにかく、留守番の文官部隊が放つ井ランが放つ弓矢に、
遠征軍の名将の騎馬隊がガンガン削られてゆく有り様は、
とにかく、留守番の文官部隊の井ランが放つ弓矢に、
遠征軍の名将の騎馬隊がガンガン削られてゆく有り様は、
>>923 そうだよ。
学生なんだが、テスト期間中に2ちゃんねるに耽るというよいう
状況がインスピレーションをもたらした。
まぁ、完成度自体は凡作クラスだけどね。
ドイツ語まじでうざー
【曹髦】 241〜260
字は彦士。曹丕の孫にあたる。
254年、曹芳が廃された後の群臣による後継者選びが始まった。
わずか13歳であったにもかかわらず、並み居る諸皇子の中から聡明さと決断力を買われて、
満場一致で推戴され、魏の第四代皇帝となる。
255年、文欽と毋丘倹が叛乱を起す。
これを司馬師が討伐しようとするが、司馬師の体調を心配した曹髦は懸命にこれを止めようとするが叶わず、
司馬師は出征する。これが元で司馬師は帰らぬ人となる。
256年、司馬昭が帝位を窺っていると勝手に妄想していた諸葛誕が謀反を起す。
これに呉の孫チンが呼応した為、自ら出なければならないと考えた司馬昭は配下と共に討伐しようとする。
しかし、前年の叛乱でみすみす司馬師を死なせてしまっていた曹髦は、
「逆賊らの大義名分は『君側の奸を除く』としている。
ならば、朕が親征すれば逆賊どもの大義名分は失われ、抜ける者は抜け、兵士の士気も落ちるであろう。」
と言い、自らも軍を率いて御駕親征を行う。
その意気と聡明さに感激した司馬昭や鍾会の活躍により、諸葛誕と孫チンの撃退に成功。乱を鎮圧した。
諸葛誕に忠義を尽くして最後まで降服しなかった兵士達を忠臣として手厚く葬ったり、
呼応した呉の兵士は全員帰国させてやったりなど、
反乱・侵攻の芽を事前に摘むという政治的手腕は、曹操の子孫の名に恥じない立派なものである。
このおかげで、国内での謀反や呉からの侵略は曹髦の在位中には起こらなかった。
しかし、司馬昭を帝位に上らせて恩恵を受けようという貪欲な輩が蠢動しており、その連中にとって曹髦は邪魔な存在であった。
260年夏、宮中で司馬昭を殺そうとする輩が叛乱を起したという知らせを受け、
手近にいた僅かな親衛隊を率いて救援に赴くが、これは司馬昭配下・成済の罠だった。
罠にかかった曹髦は待ち受けていた成済に殺されてしまう。享年19歳、早すぎる死であった。
「曹髦謀殺される」の知らせを受けた司馬昭は泣き、首謀者の成済とその弟の成倅、それらの一族を皆殺しにした。
それまで曹髦と供に魏を支えてきた司馬昭は、群臣から帝位に着くよう勧められるが、
「武帝(曹操)が譲りを受けなかったのと同じ心境だ」と答え、死ぬまで曹髦への忠節を貫いた。
>>924 一月前の宣言を履行するとは律儀だな
とりあえず乙
【諸葛瑾】 174〜241
字は子瑜。蜀の諸葛亮の兄。親の居ない弟らを見捨てて芸人修行に走った薄情者。
しかし呉国最高の芸人となり、彼の「二足歩行のロバ」は笑わぬ者は無いという至芸である。
その芸をいたく気に入った魯粛によって孫権に推挙される。
孫権が彼を外交官として抜擢したのは能力ではなく、「隗より始めよ」を実践したに過ぎない。
関羽の子と孫権の娘の縁談をまとめる使者に立つが失敗。「ロバが喋るな」と追い返される。
これを怨んだ諸葛瑾は孫権にある事無い事を報告。これによって荊州討伐が始まる。
関羽張飛を殺された劉備の仇討ちの時も、魏へ矛先を向けるように使者に立つが、
やはり「ロバが喋るな。生贄にしちまうぞ?」と追い返される。
そんな事とは露知らない群臣は「弟の元に行くのでは?」と疑っていたが、
孫権は「あんなの雇う酔狂な奴はワシくらいだ」と言って取り合わなかった。
諸葛瑾の長子・諸葛恪は幼い頃から聡明で知られていた。
ある日の宴会での事。孫権が顔に「諸葛子瑜」と書いていたロバを引き連れてきた。
諸葛恪は筆を拝借し、諸葛子瑜と書かれたすぐ下に「之驢(のロバ)」と書き加え、
周りを驚嘆させた。諸葛瑾は後にこの時を振り返り、
「ワシの額に書けば笑いを取れたのに・・・ダメだこりゃ・・・」と嘆いたという。
関羽の子と孫権の娘 → 関羽の娘と孫権の息子
929 :
915:2005/07/29(金) 04:42:09
>>919 そうですそうですその人です!
>>925 おぉ・・・我儘聞いて頂きありがとうございます
司馬師もなんかいい奴になってていい感じですね
てっきり悪役になると思ってただけに予想外でしたw
自分結構こういう単身では強くて身分もいいんだけど傀儡みたいな人好きなんですよ
足利義輝とか
本当にありがとうございました
【豊臣秀次】 1568〜1595
三好吉房と豊臣秀吉の姉であるともの子としてこの世に生を受ける。幼少時からその才をいかんなく発揮し、黒田官衛兵も認めるほどの智謀の持ち主だったという。
かの有名な備中高松城水攻めも秀次が発案したということはあまり知られていない。
秀吉の長男である鶴松が死んだため養子となり、跡を継いで関白に就任するが実は謀略の限りを尽くし秀次が暗殺したである。
四国平定の際には豊臣軍の先陣を切り、柴田勝家の再来とまで言われる勇将ぶりを魅せる。
その功により近江43万石を領して、その後の近江の発展と繁栄に大きく貢献する。
しかし、秀頼誕生で名将豊臣秀次の姿は消え行くこととなる。
秀次のあまりの人望と秀才さに秀吉から疎まれた結果、殺生関白の汚名を着せられ粛清された。享年27歳。
秀次が生きていれば関が原の戦いでの西軍の裏切りを阻止できたとさえ言われるほどの人格者であった。
後に徳川家康は「秀次あれば我が天下はなかったであろう。秀吉GJ!」と江戸城の中心で叫んだと伝えられている。
事実以外の完全な空想が入ると微妙な気がしない?
932 :
о丁児 ◆71izTCnSlI :2005/07/29(金) 05:31:03
>>931 全然いいじゃない。
>>930は押さえるべきポイントは押さえてるから、それもまた良きかな、ですよ(^^ゞ
ラストの2行がなきゃまぁって漢字だが
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 05:43:07
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 05:44:06
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936 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 05:51:32
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937 :
о丁児 ◆71izTCnSlI :2005/07/29(金) 06:02:40
面倒だから私の過去の書き込み
>>17でも見て、己らの非力を思い知れ、糞どもWWWWWWWWWWWWWWW(`∀´ )カカカ!シネヨ、オメーラ!
>>937 それがどうした?wスッキリしたか?
だから消えろって。低能。
【福島正則】 1561〜1624
豊臣家家臣にして秀吉の数少ない親類の一人。幼名は市松。
幼少の頃から秀吉夫妻に可愛がられなんの不自由もなく育っていく。
彼の一番の見せ所が賤ケ岳の戦いであり、その戦功により賤ケ岳七本槍の筆頭に数えられる。
実際には賤ケ岳での活躍は微々たるもので秀吉の親戚というだけのお飾り武者だったのは言うまでも無い。
彼だけが5000石拝領し、これにより他の六本槍らからはおべっか正則とあだ名を付けられたという。
秀吉没後は石田三成と対立し、先見のなさから徳川家康の操り人形として東軍の先鋒に加担する。
関が原後に安芸広島に大封されると、家康の意図も読めずおおはしゃぎして喜んだと伝えられる。
その後徳川家康の傍若無人さに対し、加藤清正に「内府って調子にのってねぇ?」と漏らす。
清正から「じゃ戦すればいいじゃん」と言われ、正成は「そりゃ無理」と返したという。彼のへたれぶりを表すエピソードである。
大阪の陣が起こると、「日本号がないと戦できない!」と言い放ち、江戸で軟禁されたという。
桃白白がここまで追ってきたらどうしよ・・・(T_T )ブア
とりあえず今からネタかんがえます。
941 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:36:36
942 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:37:10
943 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:49:29
>>940 シカトしてんじゃねーよ
いい加減にしないとシバクぞゴラァ
944 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:55:35
曹操伝中断してみたら雑魚が騙りとかやってるしちょうウザイ
945 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:58:00
片倉景綱
米沢の神職・片倉景長の子。通称小十郎。
伊達政宗の側近となる。政宗が目を病み「誰か突き潰せ」と言うが
家臣達は皆、政宗を心配し誰もが言い出せずにいた。他の家臣達が心配し
黙っていることを良い事に「では某が」と言い放ち、躊躇なく短刀で突き潰す。
武門の出自でない景綱を召抱えてくれた君主の嫡子の目を躊躇なく
突き潰すところに性格が良くあらわれている。
小田原攻めにおくれた君主を救うためとは言え
「政宗を斬れば京が火につつまれる」など誤報を垂れ流し
反省の態度がまったく見られない格好を君主に強要させる。
さらには太閤様直々の取立てを断るなど、人情もへったくれも無い。
余談だが…戦場に笛を携帯し、息子が刀を抜くと「そうそう抜くものではない!」
と、戒めるなど武士にあらましき行動をする。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 18:47:52
>>946 >「政宗を斬れば京が火につつまれる」など誤報を垂れ流し
これは秀次事件の際のエピソード。とりあえず史実は正確にな。
【呂布】 ?〜198
字は奉先。物欲魔人で群雄割拠時のペテン師。
初めは丁原に仕えるが、心根の卑しさを度々叱責された事を怨み、
董卓に誘われたのを良い事に、赤兎馬と丁原の首をアッサリとすげ替える。
董卓の権勢が強くなると、袁紹を筆頭に反董卓連合が結成され、華雄が殺された後に連合軍と虎牢関で対峙。
一騎打ちの際に敵武将を得意の話術で惑わし、その隙に討ち取るなどの活躍を見せる。
呂布を豪勇と見誤った劉備・関羽・張飛の3人に囲まれ劣勢になり、
ここでは八百長を持ちかけて脱出に成功するが、状況を知らない袁紹らに軍を押し込まれ、虎牢関を撤退。
この為、董卓は長安に遷都する。
遷都先の長安では董卓の愛妾に横恋慕し、それを手に入れる為に「天子が禅譲する」と董卓を騙して
警護が居なくなった所で殺害に成功するが、これに怒った董卓の元部下達に長安を追い出される。
袁術・袁紹・張楊と、群雄の下に赴くもいずれも拒否される。
しかし陳留太守の張バクを上手く言い包め、曹操が留守にしていた撲陽を占拠。
だがすぐに曹操の手によって奪い返され、劉備を頼って徐州へ逃げる。
徐州では劉備を言い包めて小沛に住み着く。そして、劉備が袁術討伐に出ている隙に、
張飛に酒を飲ませて大いに酔わせ、曹豹の手引きで徐州を奪い取る。
投降して来た劉備には小沛城をあてがい、自身は徐州へ居座る。
劉備に対して怒った袁術が小沛へ討伐に来た際には、袁術軍大将の紀霊を騙して無理やり講和させる。
曹操が討伐に来た際には、敵対していた袁術と手を結ぼうと画策し、
自分の娘と袁術の子を結婚させるという名目で、袁術を曹操に当てようとするが失敗。
最後は曹操の水攻めにあい、小ズルく立ち回ろうとする主君に愛想を付かした部下に捕らえられ、
曹操の前に引き据えられた。
最後の賭けで曹操に「自分と手を組めば天下を取れる」と取引を持ちかけるが、
自分を上回るペテン師だと感じた劉備の忠告によって呂布は縊り殺される。
この時、弟子の陳宮とパシリの高順も主君に殉じた。
ぬお!秀次漏れも考えてたのに書かれててびびたw
重複OKなんだし、書いてみたら?
内容まで酷似していたってなら話は別だけど・・・
いや実際こう見せるために司馬昭は動いてたんだし。
管理人がサイト更新したよ、乙。
ぽまいらも遊びに行けよ
管理人サイト更新乙
改めて見ると、取り上げられた武将って意外と少ないんだな
次スレ作るか?
どうだろ
たまーにレスのつきがいいことがあるし
【【トウ頓】?〜207
遼西の烏丸族の首領で義侠の士。弓馬術共に優れ、智謀にも長けていた。
199年、河北統一を企む袁紹から対公孫讃共同作戦の申し入れが来る。
度々公孫讃に国境を脅かされていたトウ頓はこの申し出を受け、平野部では烏丸族が、城攻めは袁紹軍が受け持つ。
だが易京は有名な堅城で、容易には攻め落とせない為、トウ頓は地下道を掘って奇襲する事を進言する。
これは以前から計画していたが、狩猟民族である烏丸族では時間がかかりすぎてしまう。
それゆえ土堀りに巧みな農耕民族である漢民族に実行させたのである。
これが功を奏し、公孫讃を滅亡させる事に成功する。
袁紹は大いに喜び、トウ頓に烏丸の王を意味する「単于」を称させた。
またトウ頓も袁紹に恩義を感じ、民族を代表して袁紹統治の間は中原に踏み入らない事を誓った。
だが袁紹の死後、その子の袁譚と袁尚が分裂して争い、その隙を突かれて曹操に河北一帯を奪われた。
袁譚は戦死し、尾羽打ち枯らした袁煕・袁尚がトウ頓を頼ってくると、この二人を快く受け入れた。
彼らの父・袁紹の恩に報いる為、袁兄弟を渡せという曹操の要求を頑なに拒んで曹軍と開戦する。
地の利と烏丸族独特の騎兵術を生かした戦術に曹操・郭嘉・張遼は手間取り、
郭嘉はなれない気候の為に風土病にかかって戦線離脱する。
しかし執拗な曹操は兵を引く事をせず、名将二人に対するトウ頓は次第に劣勢になる。
袁兄弟を守りきれないと悟ったトウ頓は二人を公孫康の元へ逃がし、
出来る限り奮闘して時間を稼いだ後、とうとう力尽きて張遼に斬られてしまう。
トウ頓亡き後の烏丸族は力を無くし、公孫康は曹操の権勢を恐れて袁兄弟の首を献じてしまう。
しかし、風土病に侵された為に郭嘉は曹操が凱旋する前に死亡してしまう。赤壁で大敗した曹操に、
「郭嘉が生きていたなら、このような敗戦は無かったであろうに」とまで言わしめた智謀の士である。
曹操は中国の6割を支配した魏の創業者であるし、張遼は合肥での活躍で名を轟かせた智勇兼備の将である。
この三英雄を大いに悩ませたトウ頓のおかげで烏丸の名は高まり、トウ頓死亡の207年から218年に至る11年間、
無鉄砲な曹彰が討伐に乗り出すまで、烏丸を恐れて手を出せなかったのである。
【高台院】天文18年(1549年)- 寛永元年9月6日(1624年10月17日)
豊臣秀吉の夫人。尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれる。
杉原(木下)家定は兄。幼名は、於禰、禰々などがある。
従一位を授かった際の位記には、豊臣吉子の名がある。法名は高台院湖月心公。
叔母の嫁ぎ先、尾張国津島の浅野又右衛門長勝の養女となる。
永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁ぐ。
しかし情けないことに子が出来ず、秀吉の親類縁者を養子や家臣として養育したが
その教育は酷いもので、あの福島正則を酒乱に、加藤清正を仕切りたがり屋に育てる。
清正が痔になったのは高台院が肛門を清潔にすることを教えなかったためだろう。
正室でありながら、夫の浮気に悋気を焼いたこともあり、織田信長から直々に
嗜める書状が届く。恐らく、あっちこっちで当り散らしていたと思われる。
>>957 赤壁のって曹操の愚痴みたいなもんじゃないのか
負け惜しみというかなんというか。
>>959 それは曹操に対する色んな見方があるから、これが正解ってのは無いと思うよ。
例)
1、郭嘉がいれば負けなかった。
敵の策略を全て看破して逆手に取れたはず・・・
2、郭嘉がいれば、負けは負けでもここまで酷くはなかった。
最悪の状態になるのを避ける為に事前に手を打ったはず・・・
3、自分に郭嘉ほどの智謀が無い事を悔やんだ。
敵の策に気づかなかった自分の責任だ・・・
4、「お前ら役に立たねぇな!」と群臣に毒づいた。
5、敵の智謀に勝る人材がいない事を嘆いた。
袁紹の「顔良・文醜がいれば」的な葛藤の表れ・・・
6、なんだか分からないけど、とりあえず悔しいから言ってみた。
他にも考えたら出てくるんじゃないかな?
7、ただのif
【劉備】
字は玄徳。琢県の人。若い頃は貧困のため筵を売って生計を立てて
いたが、曹操から高く評価され、以後大出世を遂げる。
建安元年(196年)に曹操の元に亡命するや、建安3年(198年)、
曹操幕下古参の臣を差し置いて左将軍位を得る。曹操に、英雄と呼べ
るのは自分と劉備だけだと言わしめた後、建安5年(200年)の小沛戦、
翌年の汝南戦では自らの軍才をいかんなく発揮、曹操軍に完勝をもた
らした。以後着々と戦歴を重ね、建安24年(219年)の漢中戦では
総大将として大軍を率いるに至った。
官渡・赤壁戦こそ劉備自身に目立った軍功はなかったものの、
義兄弟の関羽が、官渡戦では敵将顔良を斬り、赤壁戦では総大将曹操
の命を救っており、曹操の覇業に貢献するところ大であった。
曹操が建安25年(220年)に没すると、その三年後、後を追うように
死去した。蜀びいきの記載の多い演義でも、劉備は忠臣の代名詞のよう
に描かれている。
なお、子の劉禅も、蜀の北伐軍を率いた諸葛亮を撤退させたり、少兵
の奇襲で蜀を魏に降伏させるなどの功績があり、安楽公に封じられた。
後に司馬昭が劉禅の宴席での失態を嘲ったところ、司馬昭の腹心賈充は、
蜀攻略成功は劉禅がいたからこそと即座に指摘したという。
名?君→名将なので、スレに反するかも。
劉備も劉禅も"蜀にいる誰か"を魏の為に討ったって感じがする
そう言う書き方なんだよ
965 :
915:2005/08/01(月) 02:12:14
すみませんできれば曹髦を名将化で司馬師を悪者にして欲しいんですけど
正史漁るとわかるけど曹髦って名君の素質あったって散々言われてるよ
司馬師も曹操の血を色濃く受け継いだ曹髦を恐れて殺したんだし
サイト更新乙ですー
個人的には良スレと思うし次スレ欲しいな。
【牛金】
魏の武将、曹仁の副官としてともに各地を転戦する。
蜀の将関羽にハン城を襲撃されるが、劣勢ながら奮戦しこれを退ける。
しかし、このときに受けた傷が元で死亡。
広稜で呉軍との戦闘の際、城外に取り残されるが
「牛金ほどの人物を失うのは魏にとって多大な損失だ。」
と曹仁自ら救援に向かい事無きを得た。
このエピソードは後に素晴らしい上司と部下のあり方として語り継がれた。
ぎりぎりな線で書いてみました
程普
三国時代、呉の孫氏三代に仕えた宿将。
・・・と書くと彼が無類の忠臣であったかに思えるが、実はそうではない。
孫堅に従って反董卓軍の華雄と戦ったさいには鉄脊蛇矛という色物武器
を使用し敵味方両方から失笑を買い、怒りに任せて敵将胡シンと一騎打ちをする
というスタンドプレーに走る愚将ぶりである。
このように将としての資質は並以下の程普であったが、主君に取り入ることだけは
人並み以上であり、同僚祖茂を孫堅の身代わりにする非情な献策をしたのも実は彼である。
偶然発見した伝国の玉璽を盗むよう孫堅に進言し、反董卓連合軍瓦解の原因を作った
大悪人は彼であり、ある意味では後漢末の混乱に董卓以上に責任のある人物といえる。
彼の愚将・奸臣ぶりはこれのみにとどまらないが、多すぎてめんどくなったので今日はここまで。
黄蓋のムチの方がもっと色物のような気もする
>>964 お前みたいなのをウザイ奴っていうんだぜ
>>972 おい、そのアンカーの先にお前を映す鏡なんてないぜ。
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 17:13:17
黄蓋
生粋のマゾ。戦が近づくと興奮して鞭打ってもらわないと気が済まない性癖だった。そこを周瑜に利用され、
計略に利用されることに。周瑜による公開鞭打ちプレイでひとしきり燃えたあと、曹操軍に投降すれば、
ものすごい拷問が待ってるよと囁かれ、たまらず脱走してしまった。
しかし、脱走に使った船の中で「ものすごい拷問」を想像して興奮してしまい、待ちきれずにロウソクプレイをしていたら
周瑜が隠していた煙硝に火がつき、船が炎上したまま、曹操勢に突入してしまい、まさかの大火災となった。
しかし興奮していた黄蓋はこれが「ものすごい拷問」だと勘違いしてはしゃぎ回っているうちに、足を踏み外して川に落下。
たまたま助けた韓当も呆れてしまい、厠に放置したが、本人は恥辱&黄金プレイだとうれしがっていたという。
977 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 17:26:40
1000
>>975 テラワロタw
俺もマゾネタは考えてたけど、とてもアンタのは超えられないよw
【韓馥】
冀州の刺史。治世と平和を愛し、悪を嫌悪する事甚だしかったという清廉の人。
冀州を良く治め、実り豊かな土地にした敏腕行政官として官界にその名を轟かせた。
董卓によって少帝が廃されると、曹操の檄によって袁紹を盟主とする反董卓連合が結成される。
この時韓馥の元にも檄は届き、董卓を誅する為に出兵する。
水関にて華雄軍と対峙した際、配下武将の潘鳳を一騎打ちに送り出すがあえなく斬られてしまう。
しかし韓馥は意気消沈する兵士達をよく督戦し、華雄軍や虎牢関の呂布軍を撃退する事に成功する。
呂布軍が敗北した事で董卓は恐れを抱き、天子を連れて長安へ遷都、洛陽を焼き払ってしまう。
ここに来て総大将の袁紹が優柔不断である事や他の諸侯らの利益計算の為に董卓追撃もならず、
うやむやの内に連合軍は解散。韓馥も仕方なく冀州へと凱旋する。
その後も冀州を良く治めるが、袁紹から公孫讃が冀州を奪おうとしているという書簡が届く。
そこで知らせをくれた袁紹に援軍を頼む事にするが、これを耿武に諌められる。袁紹の陰謀だというのだ。
だが人を見る目がなかった韓馥は「四世三公の名門がそんな事をするはずが無い」というのを根拠に、
関純を援軍要請の使者として袁紹の元に派遣する。
しかし、耿武の言が正しかった。援軍と称して来た袁紹はたちまち冀州を乗っ取ってしまった。
激怒した韓馥は復讐の為に陳留の張バクに兵を借りようとしたが、
陳留までの道すがら、自分が人を見る目が無かったのだ、という自責の念と共に、
冀州に乱を起そうとしていた事、そのあおりを食う民の事に想いを巡らせて考えを改め、復讐を思い止まる。
張バクの元に身を寄せたものの、二度と歴史の表舞台に立とうとはしなかった。
乱世にあって輝く事は無かったが、治世においては間違いなく能臣となったであろう。
それは冀州を、名誉を重んじる袁紹が、汚い策で手に入れる程の土地にした功績を見れば明らかである。
>>979 自分ではキ州を守りきれないから自分に拘らず袁紹に地位を譲った、だと名君度アップじゃないかな
それよりも・・・・
自国が狙われている以上、策に乗らなければ、いずれは争うことになる。
そのような事態になれば、苦しむのは民だと悟った末、
自らが愚君と呼ばれることになることも顧みず、騙されたふりをして国を明け渡し、民を守った。
とか。
982 :
979:2005/08/01(月) 22:03:23
>>980,
>>981 正直、自分で見てもそうした方がよかったなぁと思う。
名君(又は漢の名臣。実際はそうしたかった)にしようとした割には
「名」を付けるには足りないヤツになっちゃってるしねぇ。
次書く時はしっかりと推敲してから投稿するよ・・・○| ̄|_
程普(
>>970のつづき)
洛陽から帰還後も、劉表攻めのさいはむざむざと主君孫堅を戦死させてしまい、遺体の引き取りにも行かない怠慢ぶりであった。
また、孫堅の遺児孫策が袁術の庇護のもと食客生活を送っているときは距離をおきつつも、彼の挙兵の話をきくやぬけぬけと帰参して古参面する恥知らずぶりである。
神亭において身の程知らずにも名将太史慈に一騎打ちを挑むもハナであしらわれたるなど、内弁慶の彼らしい話も残っている。
のちにこれを根に持った彼は、孫氏政権に帰参した彼をとことん冷遇し、太史慈は不遇のまま最後はハリネズミのようになって死んだエピソードが伝わる。
また孫策暗殺時には狩りにでた孫策を見失い、刺客の接近を許してしまう失態を演じている。
孫策が弟孫権への遺言に張昭・周ユの名をあげ、父以来の宿将である程普の名前をあげなかったのもうなずける。
赤壁の戦いのときは副都督に任じられるが、これはたんなる年功序列であって、もちろん彼の実力によるものではない。
何も働きがないばかりか、周ユからの苦肉の策の提案をへタレの彼は拒否、さらに同僚黄蓋に嫌な役をなすりつけるという非常識人ぶりを発揮。
もしオトリ役が副都督の彼なら曹軍全体が前線深くまで攻め入り、火攻めの餌食になってたハズである。
さらにいざ苦肉の策が成功すると、嫉妬した彼は手傷を負った黄蓋を便所に放置し殺そうとしたが、程普の悪人ぶりを良く知る同僚韓当によって彼の殺人は未然に阻止された。
赤壁戦後も年長であることを鼻にかけ呉の大都督周ユに執拗に嫌がらせをしたため、周ユは功をあせり手傷を負い、ついに早死することとなった。
まさに程普こそが孫氏政権獅子心中の虫である。
また、張昭の「張公」を真似して周りの同僚にいやいや「程公」とよばせるが、孫権には相変わらず字で呼ばれその他大勢扱いだったという
彼の小者ぶりがよく分かる笑えるエピソードも伝わっている。
最後は謎の怪死をとげたとされるが、便所におきざりにされた黄蓋の復習である説も有力である。
984 :
983:2005/08/01(月) 23:33:30
ごめん改行もめちゃめちゃで誤字も多いわ・・・
ほんとは程普ファンw
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 10:07:50
諸葛瑾
呉の孫権が可愛がっていたロバ。ロバにしては非常に頭が良く、特別に「瑾」(美しい玉という意味)と名付けられた。
もともとは蜀の重臣、諸葛亮が幼い頃に愛情を込めて育てたロバだったため、諸葛瑾と呼ばれることに。
呉の宮殿でも放し飼いだったが、他のロバと間違われてはいけないので、
顔に「諸葛子瑜(子瑜はこの驢馬に与えられた字)」とその名前を書かれていた。
劉備との荊州領有問題を討議する場に、諸葛亮を和ませるためにつれてこられるなど、
蜀との外交によく用いられた。諸葛亮もこれを喜び、ロバとじゃれ合う姿はまるで兄弟のようだったといわれる。
諸葛亮の甥の諸葛恪が呉に仕えると、特別扱いされて宮殿内を歩き回るこのロバに辟易し、孫権を諫めるために、
ロバの顔に書かれた「諸葛子瑜」の下に「之驢(これはロバである)」と書き足し、ただの驢馬であることを
強調した。そのことに深く反省した孫権は、諸葛恪にこのロバの世話をゆだねたという。
987 :
get:
987