1 :
無名武将@お腹せっぷく:
3 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 15:18:38
周瑜、呂蒙、徐盛、丁奉、程普、韓当、黄蓋、朱桓、朱異
沈瑩、賀斉、陸遜、陸抗、唐咨、甘寧、太史慈、朱然、蒋欽、潘璋、凌操、凌統
董襲、陳武、全j、全端、全懌、鍾離牧、呂範、呂拠、呂岱、周泰、吾彦、厳圭
朱治、歩隲、朱拠、朱績、諸葛恪、留略、于詮、孫権、孫策 魯粛
4 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 15:23:37
>>2 前スレも途中からあまり名将ランクにこだわず議論してたから
5 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 15:28:14
名将スレとは別の
呉の人物を語れの次スレ扱いでも構わない
7 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 16:58:54
正史では赤壁の戦いは無かったとか言ってる奴がたまにいるけど、ウソッパチじゃん。
ちゃんと記述あったよ。
それともちくまの捏造なのか?
>>7 30万の曹操軍が火計で壊滅したとか
三国志最大の激戦というものではなかったってことだけで
すべて捏造っていってるやつはほとんどいないんじゃないの
9 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 19:11:36
火計で曹操軍の全ての船が焼けて、陸上の陣にも燃え広がって、焼死や溺死する人や馬がおびただしい数に上ったと書いてある。
ちくまは捏造はしない
初心者にもわかりやすい表現を心がけてただ意訳しすぎるだけ
赤壁自体をちくまが捏造して新たにこしらえるわけなかとですばい
武帝紀にほとんど記述がないそうだとか、
赤壁という地名は当時はなかったらしいとか、
そういうこと言ってくるやつは少なくないな。
「○○はなかった」「××はウソ」ってのが好きで、
何かが「あった」ということについては知識も興味もない人々。
ちくまの過分な意訳はかなり幼稚な話で判断も容易なんだが
正史の捏造や故意の省略は多少難しいところもある
例えば武帝紀にないんだから赤壁の戦いなんてあるわけないじゃんー
て意見は陳寿の立場として曹操の敗戦を本人の伝に詳しく書けないという前提
を考慮することにより否定が出来る
もしくは書いたのだが後に削除された可能性もある
基本的に正史というものの性質上、政権に影響を受けずに書かれると言うことが難しいために
そのへんの背景を加味したり他の史料と比較したり土地の背景や伝承の有無を確かめたりして
多角的に見ていくもんだな
書いてあるから正しい、書いてないから存在しないと言う論法は三戦板らしく
微笑ましい
>>12 世界史板の三国志スレだと赤壁の戦いは思いっきり否定されてるよ
わざわざ世界史板まで行きたくないや
16 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 21:25:19
>>13 「世界史板の三国志スレッドで否定する人がいるから
赤壁の戦いはなかったといえるのです」
それは意見とはいえないよ
ただし呉の伝(特にシューユの伝)にあるような形で赤壁があったかといえばこれまた疑問
これは蜀の孔明の伝とのつじつまをあわせたような節がある
蜀出身の陳寿は育った環境から孔明に対する敬意というものを
捨てきれずにいるのでそこらへんも考慮しないとな
18 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 21:31:23
>>17 あんたが世界史板から来た人かと思って書いてみたけど違ったのか
13じゃないけど探してみた
http://mentai.2ch.net/whis/kako/984/984237336.html 594 : 世界@名無史さん [] : 01/08/29(水) 03:10 ID:djD3EBIA
三国史上最大の水上戦って何?
やっぱ赤壁なのかにゃ?
他にはあったっけ・・・
597 : 世界@名無史さん [] : 01/08/29(水) 11:54 ID:Ds.m.k1o
>>594 赤壁は、正史には記述が少なく、本当に一大水上決戦があったのかどうか
あやしいです。
曹操側の軍に病気が流行したため、若干の小規模な戦いをしただけで曹操
が軍をひいた、といったところが真相ではないでしょうか。
602 : 世界@名無史さん [] : 01/08/29(水) 15:53 ID:IlYPnWOY
>>598 火攻めによる水上戦があったのじゃ間違いないんじゃない?
あと戦死者の数じゃなく、対陣した人間の数を考えると大規模な戦かと思われ。
603 : 世界@名無史さん [] : 01/08/29(水) 16:17 ID:mo4i2KRo
598
>>602 >火攻めによる水上戦があったのじゃ間違いないんじゃない?
ところが、その「火攻め」について正史で言及しているのは、黄蓋の
ところぐらい。
曹操をはじめ、赤壁にいたはずの人たちのどの伝を見ても、火攻めで
ひどい目にあったなどの記述はないのです。
そもそも、本当に、巷説のような大決戦で曹操軍が負けたのなら、曹
操軍の幹部級の武将たちが何人も赤壁で戦死したり捕らえられたり負
傷したりしていなければ不自然でしょう。しかし、私の知る限り、そ
れもありません。
黄蓋の火攻めはあったにしても、ごく小規模なものにすぎなかったと
思わざるをえません。
赤壁は基本的には、曹操伝の記載のように、軍に病気が流行したので
撤退したもので、そこに至るまでの対峙中、あるいは孫権軍の追撃で
小規模な戦闘はあり、その時に黄蓋の火攻めもあったという程度でしょう。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 21:35:44
>>18 ウームいや自分も以前はよく世界史板にも出入りしていたが
あまり三国志はみていなかった
ただ
>>19の意見には正直ほぼ同意
赤壁はあったが一大決戦ではないんじゃないかなという意見
ただ疫病は胡散臭い
よく敗戦の言い訳に使われるよね
22 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 21:42:36
>黄蓋のところくらい
火攻めについては周瑜伝にも記述がある
23 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 21:47:02
>>21 ウーム、どうしてそのような考えになるのかが知りたい。
>>19 火攻めで幹部級が死ななかったのはおかしいと言うけれど
疫病で幹部級が続々死なないのもおかしいような?
俺の意見はこうだ
歴史書や地理史において赤壁といわれる場所は多数ある
そのいくつかで複数の戦場において水上戦が行われた
その過程で数ある作戦の一部として火攻めも行われた
黄蓋も本当に提案したかもしれない
魏は戦況、補給などを理由として劣勢に立たされた
で最終的に烏林の陣地から撤退した
そこである程度の追撃戦があったかもしれない
こんな感じ
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 22:01:18
>>25 周瑜伝の記述はどう読みとく?
火攻めですべての船が焼き払われたとか、焼死溺死がおびただしい数に上ったとか、
とても悠長な感じには見えない。
それに、紀伝体で負けた側の記述が少ないのは当然では?
今まで2スレ?の流れを、
>>7とそれに追随する馬鹿どもに破壊された…
>>26 >>17でも述べたが周瑜伝はチョット胡散臭いかなあ
理由は
>>17の通り
そう、負けた側の記述が少ないから意図的に魏の伝からは削除されてると思う
俺は赤壁が存在しないという意見ではないよ
一大決戦でなく複数の戦いの積み重ねとしていわゆる赤壁の戦いに相当する
戦いが存在したという意見
まあいずれにしても証明できる人はこの世に存在しないけどね
周瑜伝が胡散臭い、とかそういうのが既に反則。くだらん。
世界史板にもよく行くけど、三国志に関しては
三戦板のまじめなスレの方がずっとレベル高いよ。
無双スレの乱立でコンプレックス持つのはイクナイ
>>28 孔明の伝との辻褄あわせがあったとしても赤壁に至る経緯の話では?
実際の戦闘で孔明が何かしたわけではないのだから。
具体的に何処の記述が胡散臭いのかもよく分からない。
周瑜伝は戦果を誇張しているとは思う。
ただ武帝紀では時系列に誤りがみられること、負けた側の記述が少ないことを考えれば
周瑜伝のような形で戦闘があったとみて問題はないと思う。
疫病で撤退にはうさんくささを感じ
周瑜伝の赤壁云々にはうさんくささを感じないのか(苦笑
さすが呉スレ
文脈からすると赤壁の時に急に物語調になり局面を描写する表現に変わっている
で一つの局面を全体の戦果に昇華させようという狙いがありありと見て取れる
赤壁を完全否定する人はここだけを論じ、陳寿が正史を書くに、魏におもんばからねばならぬ理由を無視し
赤壁を完全肯定する人はここを否定して盲目に呉書を信望する
正史スレは前者の傾向が強いように思うし呉スレは後者の傾向が強いと
今感じた
>>33 うん、君が感じたことは日記帳にでも書いといてくれ。
そんなんより、まともな反論を聞かせてくれな。
喧嘩ごしになるなって
疫病で撤退という記述は他の戦でもしばしば見受けられる。
これをすべて信用するというのなら、胡散臭いなどとは言わない。
赤壁の疫病だけ事実であとの疫病は口実、というのはまったく論理的じゃない。
なにより、疫病が発生していても撤退しなかった事例も少なからずある。
圧倒的な大軍を率いながら疫病を理由に撤退、という不自然さをこそ考えたい。
(疫病を一因として負けたのであり、負けたから撤退したのだろうと自分は考える)
周瑜伝では戦の内容が詳述されているから胡散臭い、というのは解らないでもない。
しかしある伝でぼかされたことが他の伝では輪郭をはっきりさせる、というのが紀伝体。
そこから順当に考えれば、赤壁は本紀に記せないような大負けであったと理解すべきであり、
逆にいえばその最大の功労者である周瑜の伝ではいささか伝説化されていても不思議はない。
それを踏まえた上で、なぜ曹操陣営に人材の損失がないのか、なぜ参加者の伝にすら記述がないのか、
といった側面を考察していくべきで、赤壁を疑うというのはそういう段階での議論であるはず。
(吸収した荊州軍勢をほとんど失った、という戦だったのではなかったかと自分は考える)
いずれにしても逆ギレに近いかたちでしか書き込めない
>>33はレベルが低すぎ。
呉スレの平和が…
呂範の話しようぜ。
じゃあ追従して
呂範ってあまり特筆した戦績ではないが
出世しまくりだよね
>>36 最後の一文がなければそれなりにまとも
紀伝体だから詳細に語られたときはその全体像を正確に語っているものだから
周瑜伝での赤壁はそのままの文章で存在するというのはやや強引すぎだ
まあそこが伝説化されているという点に気がついてればうすうすは
感じるものはあるんだろうけどな
曹操が失ったのは荊州の軍勢ってのは全く同じ意見
一つ周瑜伝の物語り調の赤壁のくだりから装飾を除去して見えてくるのは
水上において周瑜指揮の海戦が行われ、呉が魏を打ち破った一つの事例である
>>19の世界史板の赤壁を否定する人は装飾されすぎているから全てを否定
してるが俺は装飾をとっぱらった上で肯定している
感情的になってるようだがそんなに意見が違うというわけでもない
>>39 >>19の否定意見は物語り調とか装飾されたからではなく曹操軍の人材の損害がみられないから。
そもそも物語り調というのがわけわからん。官渡や夷陵、北伐とは違うのか?
> 一大決戦でなく複数の戦いの積み重ねとしていわゆる赤壁の戦いに相当する
> 戦いが存在したという意見
> 曹操が失ったのは荊州の軍勢ってのは全く同じ意見
これは周瑜伝の二回の戦とは違うのか?
複数回戦ってその都度やられるのは荊州勢なのか・・・
戦闘回数が多いほど魏の伝に赤壁が出てくる可能性は高まるんだが
それらは全て負け戦で大した活躍をした将もいなかったってことだな。
正直、妄想のし過ぎにしか思えんw
>>19の否定意見は曹操軍の人材の損失がなかったから
赤壁を否定している。つまり三国志正史において最も赤壁が詳しく描かれている
周瑜伝の信憑性より曹操の人材の損失がないことを重く見ているわけだ
>>40 物語調がホントに訳わからないのか?描写が局面の描写になってるのは
一目瞭然なんだが・・
それ以後の反論も赤壁が正史やその他史料による記載において極めて多くの矛盾
を含んでしか記載されていないという大前提を理解してないように見える・・
つまり赤壁はいくつかの事例を根拠に想像してしか語れず、
断定は誰も出来ていないということだ
その上でそちらの赤壁に対する意見があればまずは述べて欲しいな
そもそも否定する人なのか肯定する人なのかも解らんし
例えばだ
周瑜伝をそのまま信用するという人に問いたいのだが
曹操の伝には劉備と戦って破れたとあったり、
孫権への手紙の中に自ら船を焼いて退却したとあったり、
周瑜の伝と矛盾する記述があるわけで両者は相容れない記述なわけ
両方とも切って捨てる要素はある
孫権への手紙は負け惜しみだよとか周瑜の伝は装飾しすぎとかな
周瑜の伝に関していえばまあ都合がよすぎるという印象は多くの人が持つわけで
それが詳しく書かれていながらも周瑜の伝が完全には信用されず赤壁の全貌がいまだ
解明されていない理由なわけですよ
例え呉スレであってもまずこの前提を認識しよう
周瑜伝をそのまま信用するだけという人って
>>9の意見ぐらいだけ
曹操の荊州軍ってやっぱ相当被害は出したんかな
曹操が北へ退却した時に江陵の曹仁や襄陽の楽進に
大量に編入したかんじじゃないし
赤壁専用スレつくったら
>>44 どれだけ編入されたとかは結局のところわからんなあ。
魏側の将が誰も死んでいないのを説明するのにそれしか方法がなかったりもする。
緒戦で孫権軍が曹操の荊州水軍に大ダメージを与える。
水上戦における力量の違いにビビった曹操が烏林に布陣。
軍の規模からいって陸上戦では勝てないと見た周瑜は対岸に布陣、戦線は膠着。
黄蓋が偽装投降し、火攻めを開始。河岸にきっちり並べてあった曹操の船団が消失。
これによって曹操の南征は頓挫。以後、両軍の将帥軍勢がぶつかりあう通常の戦争へと事態が推移する。
ほぼ周瑜伝のまんまだが、別に不自然なところはないのでは。
赤壁は単なる国と国との戦争ではなくて、曹操の天下平定を阻む弱小勢力孫権の防衛戦。
つまり、南下の象徴でもある大船団を焼き払うことが出来ればその時点で曹操の完敗といえる。
だから曹操軍の人材が失われていなくとも何ら不思議はない。元々そういう戦いじゃないから。
「自ら船を焼いた」ってのは「白帝に劉備がいるから孫権がビビった」なんて夷陵の話と変わらんし、
「劉備と戦った」というのは劉備の救援要請に応じるかたちで孫権が参戦したということでしょう。
あと、周瑜は水上戦に応じない曹操にムリヤリ船戦を挑んだわけで、
この発想力は周瑜の戦術能力にプラスすべき点だと思う。名将スレとして。
開戦自体がシューユの功績とも言える
正史でも記述があるじゃん
手紙は出されたけど偽装投降はないぞ
兵士に「降服」と叫ばせて、
曹操軍に火をかけたんだから、
偽装投降になるのでは…?
と、釣られてみる。
黄蓋は怪我かなんかしてうずくまってるところを発見されたという
記述があるのみだな。
>>47 史料にない偽りの投降があった可能性は皆無ではないが
根本的に論拠からして倒壊している。
出直してこよう。
↑この人は何を曰ってるの?
お前はもう死んでいる
偽装投降は周瑜伝にしっかりと載っているよ。
>>54 黄蓋の伝にはないが周瑜の伝にはある
苦肉の策ってエピソードがないだけだ
おまえこそ出直してこい
実はここも周瑜伝の赤壁のくだりが創作くさい一つの根拠ではあるけどな
なぜ周瑜伝においてあれだけ活躍している黄蓋が本人の伝では
廁でほったらかしにされているのか
普通なら功績は本人の伝で誇張されてすら記述されるものなのに
偽装投降の策を考えたのは周瑜だからじゃないかと推理してみる。
>>60 しかし火計を献策したのは黄蓋伝では黄蓋本人なんだよね
本人が火計を献策して偽装投降と火計はセットで行われてるところ
を見るとやはり不自然
黄蓋の火計の策をより確実に成功させるためにはどうすればいいか、を考えた周瑜が偽装投降の策を考えて、実行に移したとか。
それならば周瑜に従って偽って投降し火攻めによって呉を散々に破ったとか
あるはずだなー
まあそこでいきなり怪我をして廁でほったらかしにされてたといえなくもないが
無理は多い
>>62 同意。
周瑜伝読んでると、周瑜ってまず部下から案を出させて、
それに自分の策をプラスしてることが多いような気がする。
黄蓋が火攻めの実行者として真っ先に突っ込んでるんだから、
怪我する可能性が一番高いのは当然と思う。
まあ問題はなぜ策を献策したところだけ黄蓋伝にはあり
周瑜伝にあるように実行してそれが大成功し魏を打ち破った
にもかかわらず黄蓋伝には実行の様子が書かれていないかが問題
もし本当なら多大な功績なのにね
周瑜伝によるとこれがきっかけで魏を打ち破ったそうだから
>>63 それじゃ周瑜と黄蓋が一緒に投降したみたいだw
残る可能性としては火計の進言は黄蓋と分かっていたが
偽装投降が誰の策によるものか分からなかったとかじゃないかな?
周瑜が提案していたとしても不自然ではないでしょ
>>66 突っ込んだ後の資料が放置プレイしかなかったからだよ
>>66 ただ単に、陳寿が内容の重複を嫌っただけかもしれない。
戦功は削られて記され、廁で放置はキッチリ記されることの矛盾は
感じないもんかな・・
廁で放置は注釈にあるだけで、本文にはない。
つまり、キッチリ記されているわけではない。
>>69 喪前は本文と注釈の違いも知らないで周瑜伝は創作っぽいとか言ってたのかよ
おーそういえば本文にないな
だがおかしいのはかわらないよ
まあここで周瑜伝がそのまま信用されない多く語られる基本的な理由を説明しよう
まずガソリン、灯油もない時代に火矢火船であれだけの巨大船団が全焼するはずもない
しかも陸地にまで燃え移ったってやはりおかしい
さらに赤壁周辺(複数ある候補地のほとんどが)は湿地が多く湿度が高くて
火が燃え広がりにくい
加えて風があっても燃え広がらない要素が多いが万が一風が吹いたとしても
この地域の風は西北の風が基本(呉側に吹く)
東南の風は冬の一時期にたまに吹く程度で作戦に使えるレベルではない
つまり現実的に無理ってこと
周瑜伝の赤壁というのは一場面(ただし最も重要な戦いだとは思う)を
描写したものではあると思う
しかし曹操が焼き尽くされて北に逃げ帰ったというのは
伝にハクをつけるための創作といえる
そもそも赤壁が未だ未知なのはもう一方の当事者である魏側にほとんど記述がないのと
唯一詳しく記述された周瑜伝の赤壁の信憑性が疑わしいのが理由ってことだ
まあ上に書いたことを現実に可能と証明できればキミたちは学者になれるだろう
周瑜の伝にハクつけてどうするの?
その後に南郡取られてるしな。
大した敗戦でないのなら荊州の守りにかなりの兵力を割けるはずなのに、
実際は呉に攻め込まれて領土を失っている。
つまり、荊州を万全にできないほどの敗北であり、
呉にとっては、攻勢に転じても優勢に立てると判断できるほどの勝利であったと言える。
つうか
>>43が周瑜の伝をそのまま信用する人はほとんどいないといったが
結構いるのに驚いた。
せっかくここまで、周瑜伝の内容がどこまで信憑性があるかをみんなで議論をしてきたのに。
>>79 そんなに一方的な意見だけを聞きたいの?
さらにソースを一つ提示してしまおう
劉璋伝には張松の記述の折、赤壁を評した記述がある
「曹操は赤壁で破れその上疫病で死者を多くだし」
というようなことが記されている
この上でという記述の仕方は後にとも訳すことができる
この記述は周瑜が焼き尽くして撤退させた記述とは相容れにくいものだ
そして呉にも魏にも影響されない記述であり劉備のように参加もしてないので
中立の観点が維持され信憑性は高い
俺は疫病が全てというのは胡散臭いと思うがこの劉璋伝の記述は
曹操伝における疫病により撤退したというのを裏付けるものだ
しかも赤壁という水上の戦いがあったことも否定していない
つまり水上の戦いに破れた後曹操は烏林に陣を敷き続けたが
劣勢の中疫病による被害が大きくなり
ついに自ら船に火を放ち撤退したとすると
孫権への手紙で自ら船を焼いたとする記述とも合致し矛盾がなくなるわけだ
東南の風がどう吹いたか、湿地で燃料もなくどうやって
魏の大軍を全焼させられたか誰か説明できる奴いるのかな。
東南の風は台風
孔明が呼んだ
なんかの本で読んだけど、
あの地では、ときどき東南の風が吹く日があるらしい。
>86
冬の一時期たまにな
まあここまで論拠を示してもそれでもやはり赤壁は未解明
どれがどうだと断定する気はないし
解明されてしまえばあれこれ追求する楽しみがなくなる
まあ赤壁にはそれだけ夢があるってことだ
むかし中国のテレビだかで赤壁がホントに起こりうるのかって実験
やってたんだがそれだけ皆が興味津々ということだ
呉のファンならば周瑜の伝を信じてもいいと思うし
最も活躍したのは事実
発端である世界史スレの論拠も否定できてるので呉スレ的には
よろしいんじゃないかと
>>83 東南の風は貿易風つまり季節風
魏の大軍を全焼させたなんて思ってる人はいないでしょ
周瑜伝にも疫病の話はあるんだから
ただ船上、軍営には燃えるものなんていくらでもある
>>75が何を問題にしたいのか分からないが
周瑜伝の記述が誇張されているというのなら同意
火計そのものを創作というのなら同意はしない
劉璋伝は火計を否定するソースではないし
劉備伝にも船を燃やすという話はあるから
結論
周瑜伝は信用できない。
>>36あたりが指摘してたように、逆ギレ、逃げ打ち、はぐらかし、
そういうレスを付けるやつとは議論らしい議論にならないな。
>>88 ちなみに俺が上の方で書いたのは、あくまで「船団が消失」ね。
何で読んだかうろおぼえだが、船は燃えるとマジでヤバイらしいし。
ただそれにしても、船から船へ燃え移って船団が全滅というのは燃えすぎな気もする。
この辺をよく考え尽くして創作したのが演義の連環の計とかなんじゃないかなーと。
実際には、火攻めで大混乱した曹操軍が撤退する際、船を孫権軍に奪われないように
残りの船に自分で火をつけたりしたのかも。陣営に火を放って退くことは少なくない。
曹操も火を付けたし、呉も火を付けたってことだな
>>91 確かに南下のための船を大量に奪われたら致命的だ
火を付けて撤退する理由としてはありうる話
荊州の兵は疫病にはかかってないんじゃないかなあ。
土地の風土病みたいのだと呉の兵が病気になってないのも説明できるし。
この土地になれていない曹操のもともとの兵が疫病にかかったんだと思う。
荊州の兵が主力の船団が赤壁の戦いで敗れて多く燃やされ
後方に控える曹操の主力が疫病に苦しんで残りの船を自ら燃やし
烏林から撤退したとすると全てに矛盾がない。
>>94 でも撤退のきっかけがないのは不自然。
やっぱ呉に焼かれて魏も焼いたというのが順当だと思うけど。
呉スレなのに蒼天厨がやたらと幅をきかせているスレはここですか?
>>95 疫病がひどくなりすぎて退却っていうのに不自然さはなにもないよ。
きっかけは疫病の蔓延。
戦いの最中に、しかも火攻めを受けてる状態で
自ら大量の船に火をつけることなんかできそうもないな。
>>75のこの地域が湿地であることや燃料がない事を考えると燃えにくいので
あれだけ大量の船を燃やすのは対陣中でなければ無理。
そうすると赤壁で破れたあとも陣をひいてたが疫病がひどくなり
撤退を決意し自軍の船を焼いたってのがやはり妥当。
赤壁そのものを否定する立場の論拠に赤壁とされる複数の場所のどこも
赤壁の由来である大きな岩山が存在する地形がによりで船が停泊する場所が
とても狭く大船団が停泊するのは不可能という話がある
>>99 失敬
赤壁そのものを否定する立場の論拠に赤壁とされる複数の場所のどこも
赤壁の由来である大きな岩山が存在する地形により船が停泊する場所が
とても狭く大船団が停泊するのは不可能という話がある
>>100 周瑜伝にある黄蓋が発言で
曹操軍の軍船は船首と船尾がくっつきあった状態にある(狭いところに船団が密集)
という指摘に当てはまるともいえる
俺は呉オタだけど
周瑜伝の火攻めで数万の死者とかは信じてないぞ
赤壁で曹操軍を一番苦しめたのはやはり疫病だと思う
でも曹操が南下に大失敗して荊州の大半を失ったのは周瑜の功績である
なんで幹部クラスの武将に疫病の感染者や死者が出なかったんだろう?
人材は失わないが土地は大いに失う曹操マジック
幹部は野営の環境もよい
感染した者もいただろうが死にはいたらなかったんじゃなかろうか
大量の船団の停泊する場所がなかったのと同様に烏林は湿地帯でまともな駐屯する場所もない
これは赤壁そのものがなかったとする一つの根拠だが、もし駐屯するとすれば
将士は優先して良環境に兵卒は必然的に烏林の大半であるぬかるみのような所に
駐屯し疫病がなくても健康を害すような劣悪な環境だったと思われる
これは赤壁の水上戦でも言えると思うけどね
この場合は荊州の兵や中級指揮官が危険な前面にだされたということ
それかホントに赤壁の戦い自体が存在しないのかも
赤壁で相当な損害がないと
呉が赤壁の戦い後に一気に多方面に反撃に出たりしないと思う
かなり昔だけど赤壁(赤壁市西北)の対岸の烏林と思われる場所で
後漢期の物品が出土したという話があったけどそこは湿地帯ではなかったと思う。
確かにあそこら辺は湿地帯が多いけど湿地帯しかないわけではない。
曹操だってわざわざ湿地帯には駐屯しないでしょ。
赤壁の戦いが曹操の疫病撤退だけって真相なら
曹操は圧倒的優位な立場から無駄に戦線を延ばして
疫病にかかって軍船を焼き払い、荊州の大半まで失うなんて
劉備の夷稜や関羽の荊州陥落よりひどい大失態になるな
曹操は周瑜に破れたのはない
己の無能さから敗れたわけですね
やはり武将のなかに疫病の死者が出てないのは納得いかないな。
江東制圧を諦めて撤退しなければならないほどのひどい疫病だったのなら、当然武将に死者が出ているはず。
そこに至るまでに莫大な戦費と労力をかけてきているのだから、撤退というのはよほどのこと。
大船団を率いながら連戦連敗、でも失うのは荊州で吸収した兵のみ。
湿地帯に駐屯、兵を疫病に感染させまくる。士官は感染しても死なない。
そのうち疫病がひどくなってきたから自分で船を全部焼き払い、撤退。
周瑜は何もしてない。
わー、すごい。これが赤壁の真相だったんだ。
もうくだらなくて見てらんないから次の話題いけば?
まぁ実際に曹操の自滅だったとしても、
周瑜はその事を予期して抗戦を決断させたんだから功績はあるよ。
曹軍は水軍に不慣れとか、疫病の発生の事とか会議で言ってたし。
それに要所である陸口を曹操軍より早く押さえて、陸からの侵攻を難しくしたりしてるし。
それより問題は赤壁後の孫権の動きじゃないか?
周瑜に増援出さないで合肥や徐州を攻めて大敗してるし。
なに考えてんだアイツは。
ハマれば大勝という乱世に相応しい君主の器であったことを裏付けるものにはなっている
ただし見積もりが甘かったのは確かだが
周瑜の江陵攻めの兵って赤壁で使った水軍兵じゃないの?
>>115 そうそのまんまだよ。だから城攻めには向いてない。
でも陥とした。しかも援軍なしで。ある意味化け物。
化け物というか執念だな
赤壁の勝利を形あるものにするためにも領土拡張は必須
命を削って呉に捧げた人生は呉の至宝といっても過言ではない
孫権の格言
三兎を追う者は一兎しか得ず
孫権自身が攻めたのはいいとしても張昭に徐州攻めってどうよ?
地元ってのはあるかもしれんが・・・
>>118 孫権はなんでか、政治家・文人にやたらと兵を与えたがるんだよな。
厳oを馬に乗せてみたり。
>>118 張昭は留守を預かることが多かったようだから
赤壁の時、先鋒が周瑜の三万で
孫権も後々、後発として出陣するつもりだった、そんで留守居が張昭だった。
でも孫権が出陣する前に決着しちゃったから、そのまま三面攻勢に転じたんじゃなかろうか
漏れの勝手な推測だが
まぁ。とりあえず大敗してなければ江陵から撤退する理由は無いね。
武将が死ななかった理由は良く分からんが。
>>119 自分は文官だから。という理由で軍事を学ぼうとしなかった豪族達に、
「乱世にそんな事がまかり通るかボケ」と言いたかったんじゃねぇかねぇ。
>>121 逆に「戦争バカに軍事は任せられない」ということなんじゃないか。
孫瑜伝とか見ると、どうも不勉強な軍人が多かったようだから。
でも孫権自身は文官より猛将と相性が良いから、よくわからんな。
軍の指揮権は豪族達が握ってたんだろ?
豪族は呉書を読むと功績を挙げていないのにベタ褒めされてたりする
>>124 周瑜や魯粛、ニ張、朱治、呂蒙、呂範、徐盛、程普、韓当、甘寧
みんな豪族じゃないですけど
朱治だけダウト
↑(江南・南荊州の豪族ではないという点で)
朱治って丹楊の豪族なの?
若くして孝廉に察せられ州の従事だから、およそ間違いないかと。
丹楊に住んでいたかは分からないが。
>>122 何にせよ孫権はどうも人間バランスが重要だってな考え方だったようだな。
尖った人材より、文武両道を愛した事を示す事例が多い。
呉は豪族の連合体で君主権が弱かった
というのが定説のようだが、
夷稜の前くらいまでは江東・江南の豪族はあまり
力をもっていないように思える。
特に孫策の時代に力を持っていた江東・江南の豪族って
呉景や徐コンら孫氏の外戚ぐらいじゃないの?
孫権が地方豪族との融和政策(陸氏との婚姻等)を行った結果、
地方豪族の力が増していったってことなんかな?
孫呉政権ってのが江南の豪族と華北の移住者の武人らの集合体だから
開発が進むと土着豪族が優位になってくる
でも呉の四姓出身者で目立ったのも顧雍と陸遜ぐらいで
土着豪族に政権の中枢を固められていたというものでもないわけで
豪族もいいが
日本2ー1北朝鮮!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>>131 そりゃ孫策の時の地元豪族が軒並み孫家と対立してただけでは
>>132 孫家側も豪族側も完全な主導権は握られなかったんかな?
孫晧は強権発動しまくり
>>130 偏った人材もうまく使ってるけどね。
でもやはり曹操にくらべて文武両道を重用するし、またそういう使い方をしてる気がする。
曹操はゲームみたいに、統率・武力・知力・政治って感じに分けてるかのような人の使い方。
>>137 曹操の場合は三国一の優良企業として、
「何とかして使ってやらなければならない」という台所事情も有ったんだろう。
それで何が何でも才能を見出して使えるようにしてやらなければならない。
そうでもして職を与えなきゃ、ニートどもが叛乱を起こすしな。
>>138 一人の優秀な人間に任せすぎると、それはそれで叛乱起こされそうだしね。
韓信を作らず、ってのが曹操の基本姿勢っぽい。
周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜にあたる人物が、曹操存命中には見当たらない。
ジュンイクー
>>139 曹操の代わりに魏の総司令官となりうる人物。か。
おらんね。そういえば。
しかし、呉も不幸だな。孫策がもう少し長生きしていれば周瑜と二人で…
…いかん。2方面軍の妄想は鼻血が出そうだ。
豪族そのものは封建的だが豪族の集合体である孫権などの幕僚
の方針決定方法は民主主義っぽかったんじゃないか?
袁紹の陣営もそんな印象あるが、豪族の力が強くて彼等を尊重しないわけにはいかない
事情もあると思うが人柄自体が独裁を嫌い同等者中の第一人者でありたいタイプ
だったんじゃないだろうか・・と珍説を唱えてみる
呉民主主義共和国
利権の代表が豪族とすると日本とあんま変わらんな。
見れば見るほど孫策の戦いっぷりは凄まじいな
>>144 天才だからね。
拠点を落とすのがとてつもなく巧い。
呂蒙も孫策に次ぐ巧さ。無駄にトリッキーだが。
あの若さでの軍事能力の高さは凄いよな
許貢だっけ孫策を項羽の再来と評したのは
孫策以外の誰の長江越えも現実味を感じないが
孫策だけは普通にいけそうな雰囲気さえある
徐州も次はいけたんじゃなかろか
徐州を攻めたのって実際は呂範辺りか?
たぶんそう。
出ると負け将軍、呂範。
陳登伝のことか?
あれは仮に呂範が敗れていても
符合が合わないんだよな
もちろん孫策でも合わないんだけど
151 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 02:41:53
普通に時間軸を整理したらつじつま合わんし、陳登ごときに負けないだろう。
ここでは孫策が一番だと言われているけれど
私はやっぱり呂蒙の方が凄いと思う
絶妙な戦術と電光石火の行動、彼に及ぶものは無かろう
個人的に呂蒙=ケ艾
孫策=曹操と思ってるから
孫策のほうが格上だと思う
呂蒙は関羽討伐に見られるような先の先を読んだ
緻密な作戦能力では孫策より上だけど、
軍を率いての決戦や城・砦を落とすことについては
孫策が勝っていると思う。
孫策のラストバトル(?)である劉クン討伐〜沙羨での
黄祖戦までの一連の軍事行動は神レベル。
そういえば呂蒙は孫策の側仕えをしていたよな。
物覚えのよい呂蒙は孫策の戦術を体で吸収していたかも。
せっかくでたんで呂蒙とケ艾を比べてみた。
個人的武勇:ケ艾>呂蒙
(正史には記述が無いので演義基準。ケ艾は姜維と互角なので強い。
どう考えても腕っ節は文官などエリート出身より海賊のほうが強そうだが、
まぁ張須陀やら史可法みたいな人も歴史物語にはいるねぇ。)
人心掌握術:呂蒙>ケ艾
(部下の心をまとめる力。将の将たる統率力。
呂蒙はアクの強い呉の部将達を良く纏めていた)
拠点突破能力:呂蒙>ケ艾
(呂蒙の荊州争奪戦における展開力と鮮やかな城取りを評価。
ケ艾は蜀との攻防戦では城や関を攻め落とす事なく、
蜀を陥落させた戦でも防衛側を誘き出し野戦で決着をつけている。)
機動力:呂蒙>ケ艾
(移動距離を生み出す法。とくに馬を用いての戦略構築能力。
機動力を生かした電撃戦は呂蒙の十八番。)
兵站構築能力;ケ艾>呂蒙
(ケ艾は元は土地開発の責任者であり、地形把握のスペシャリストだった。
蜀との境界での隘路でも糧秣を絶やす事が無かった事は評価に値すると思う。)
政治力:呂蒙>ケ艾
(人と交渉する力。ケ艾の末路は、人との交渉力の無さによる独断の為だった。
呂蒙は、自分の身を処するのみでなく、時には仲間の身をも救っている。)
奇策:ケ艾>呂蒙
(奇襲・夜襲・罠など、相手の裏をかく策を作り出す力。
ケ艾は機動戦よりも、地形を生かした戦い方を得意としていた。) こんな感じかなぁ
156 :
黄祖:05/02/12 11:10:30
あ。
事務能力:ケ艾>呂蒙
だな。
>>155 個人的武勇は呂蒙が断然上だと思うよ
呂蒙は兵卒あがりの叩き上げの軍人
若い頃は頭が悪い分、武勲のみでのし上がった
呉随一勇猛な甘寧も呂蒙の前では
子供扱いだしね
ケ艾も有能な軍人だけど
農政官あがりだしな
>>154 呂蒙は城攻めで極力兵を使わないようにしてるよね。
濡須での防御策も兵を損じないような作戦。
周瑜は孫策と同じ方法で戦おうとして江陵で苦戦したけど、
呂蒙は孫策や周瑜の戦略戦術、魯粛の搦め手まで学びつつ、
あくまで独自の方法を作り出した上で戦ってる。
ここは呉スレなんだなぁ…と改めて思った
>>160 上の方で赤壁否定してたのと同一人物か?
いいかげんウザいよ。
うざいってかキモイ
あんなに構っちゃったら居着く罠
スレタイ見ずにレスしてたんか・・・
議論しろ
うるせー馬鹿
呂蒙が孫策のように楊州を一気に平定するのは無理だけど、
孫策が呂蒙のように荊州を取るのはできそうな気がする。
劉勲を相手に似たようなことをやってるし。
>>157 まぁ、普通に考えたらそうだね。文官上がりが海賊より強いってのは小説だからだよね。
>>159 数倍の曹操の軍と渡り合った濡須の総司令官の系譜は孫喩→孫コウだったっけ。
その精兵を用いた呂蒙の戦いは、兵を使わないというよりも要らなかったんじゃないかなぁ。
周瑜の時にはそこまで訓練されて無かっただろうし、居たとしても連れて行ってないわけで。
江陵での戦が結果的に周瑜の命を奪った事が、良くも悪くも貴重な経験になったんだろうな。呉には。
呂蒙の勤勉さは光るけど、彼は師匠にも恵まれてるよね。出会いは大切にしなきゃならんですね。
孫策って戦ってる相手ショボくないか
せめて高順あたりでも倒してください(ブヒ
じゃあ関羽倒した潘璋は最強とかになるんか
関羽は別に凄くないと思いますが
曹操を2度倒したカクが最強ということになるな
関羽は凄い武将だよ。
変な過小評価は良くない。
部隊長としての関羽は強いからな
ただ将としての評価はしようがない
将としても十二分に凄い。
でも将として見た場合、倒したのは潘璋じゃなくて呂蒙になるが。
スレ違いだが関羽の将としての功績は演義にしか書かれていない
大勝したからって兵糧切らしちゃいかんがな
しかも大勝の最大要因は天候だし
蜀書は蜀入り前の記述はほとんど無いに等しいからね。
でも、北上に合わせて中原で関羽の支党として蜂起するものがたくさんいたというくらいだから、並の将ではないよ。
ぶっちゃけ呉がカンヌ討ち取ったのは徐晃のお陰
漢中戦にあわせて侯音を蜂起させたりとか
じゃあ駱統の話しようぜ。
じゃあ諸葛瑾が大将軍就任後にも軍を幾度か率いてることは呉主伝や陸遜伝に
見えるのに諸葛瑾伝では大将軍就任以後の軍事的功績を一切記してない点について
紀伝体だから
兵は不祥の器だから。
ヒマだから
やっぱ、ランク付けとかしてた方が盛り上がるのかなぁ。
まぁ前スレも盛り上がっていなかった気がするが。
ランク付けしてたほうが盛り上がるだろうね、話は激しくループするけど
10位以下あたりで話を振っても
食いつかなかったような
盛り上がっているだけというのも見苦しい
無理に流れを作ろうとせずにのんびりやってりゃいいのだ。
それが呉スレ。
曹操と孫策が同条件で戦争したらどっちが強いかな?
厨な仮想だがたまにこんなこと考えたりしませんか?
同条件なら曹操。総司令官が曹操と孫権という時点で、両者の将帥としての差がモロに出るので。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 10:16:08
>>193 いや 孫権は全く関係ない設定だよ
それぞれ総勢3万人率いて別働隊オプション武将二人可
呉としては周瑜、呂蒙が順当かと思われるが周瑜の代わりに甘寧
とか投入してもいいかもw
魏はそうだなー トウガイ、張遼あたりかな カクって手もあるw
単純に防衛側が勝つと思うが
戦国の関が原みたいな戦で同兵力で戦うなら
引き分け
曹操と孫策が同条件の決戦状態なる時点で
魏の国力は大幅に下がってるか不利な状態
勢いのある方が勝つのが鉄則
上策 孫策の許都襲撃、周瑜の蜀征伐、孫登の即位
中策 孫皓が有能、諸葛誕の反乱成功、二宮の変が起こらない
下作 孫策から陸抗までみんな健在で魏に攻め込む
>>上策 孫策の許都襲撃、周瑜の蜀征伐、孫登の即位
まさに上策
曹操と孫策の戦い方を比べてみると・・
曹操は兵站の概念において非常に綿密で優れていると思う
袁紹戦では相手の補給拠点を潰して勝利してるし
呂布戦では刈り入れ期の穀倉地帯を抑えることで優位に立った
反面、正面衝突もそれなりに強いが滅法強いという風はなく
呂布など董卓系の軍には押される場面も目立つ
一方孫策はといえば兵站の概念に特に優れた場面も見あたらないが
逆にそれによる目立った失敗もない
しかし孫堅の軍を見ると董卓系の精強とも正面から五分以上に戦い
それを受け継ぐ孫策の軍も勢いにのせた破竹の進撃からして軍自体の強さ、
拠点を攻略する戦術は曹操を上回ると思う
だが劣勢でも兵站をおさえて良く巻き返す曹操の戦い方を見ると
長期戦で孫策に勝ち目はないと思う
短期で追い込めば孫策にもかなりの勝機があるんじゃないかな
「孫策に曹操の首を取る事が出来るか」全てはそこに掛かってくる訳だな。
曹操も孫策も20歳という条件なら孫策の圧勝
曹操は後ろでどっしり構えるタイプじゃないから討ち取るチャンスはあるかも
ただし孫策が討ち取られる機会はもっとあるのだがw
孫家二代は king of ke-sotu だからな。
やはり周瑜が一番ってことか
しかし討ち取られる機会が多いと同時に討ち取る機会も多いのが孫策
孫策って防衛戦とか苦手そう
>>206 事例がないからそのへんはサッパリわからん
孫策の防衛戦は関羽北伐時の徐晃みたいになりそう。
あるいは江陵戦時の曹仁でもいいが。
機を見て打って出て包囲側の中枢を突く。
下手すると自分が討ち死に。
防衛戦が苦手な名将っているか?
夏侯淵ぐらいしか思いつかない
孫策と夏侯淵は近いタイプかもしれないけど
孫策が戦で敗北死するなんて想像つかん
孫堅みたいに勝ち戦で死ぬことはあるかもしれんが
>>209 夏侯淵は苦手ってのとはちょっと違うんじゃないか?
まぁ、どうせ周瑜が守ってくれるからなぁ
周瑜が居なかったら守る孫策も見れてたかもしれん
そういえば孫策の防衛戦あった
牛渚砦を一度制圧してから空にして他拠点攻略中に取り返された
それを引き返して取り返した
全軍で攻め続けることが孫策のやり方なので普通に防衛する戦いは存在しないのかw
なにげに最初に牛渚落とすときに長江越えも蒲と葦の船でサクッと達成してるし
呉景、孫賁ら袁術の将は何度やっても越えられなかったのに・・
蒲と葦の船なんて浮き輪みたいなもんだから泳いで渡ったようなもんとすると
キチガイじみた戦術だ・・・・
なんかおかしいこの人
まぁ。誰もやらねぇ事を平気でやってのけるからあの強さなんだけどな。
そこにしびれる、あこがれるぅうう!
>>212 その長江越えの際にも拠点の歴陽をカラにした疑いアリ。
イカダ作戦を進言したのが徐琨のママなわけだが、なんで陣営にいるのか小一時間問い詰めたい。
たぶん牛渚を攻めるために歴陽を空にしており、防衛できんから一家眷属引き連れてきたのだろう。
孫策、防衛戦するくらいなら奪還戦したほうが楽でイイやとか思ってそう。変態だ。
孫策=DIOか。カコイイ
>>215 DIOの親父と孫策の親父じゃあまりにも違いすぎるぅううう!
>>213みたいな人が将兵ともども孫策の周りにはたくさんいたと思う
それが孫策の勢いの原動力かと
人はそれをカリスマと言うんだろうな
張紘なんかも呂布や荀爽を断って孫策につくとかありえない
カリスマか・・・そういえば孫策の側近から武将って多いな
呂蒙、周泰、潘璋あたりがそうだっけ?
蔣欽なんかもそうみたい
潘璋ってそうだったっけ?
孫策の神用兵という評価の中にも
討ち取られる可能性があると危惧されるレスが
ちらほらあることから、これといった欠点のない周瑜のほうが
名将として上ではなかろうか
>>223 まあ上下はつけまい。
つけられるもんでもなし。好みの問題。
周瑜は指揮官としてはどうでも、戦線の展開の構想に甘さがあるからなぁ。
たとえば江陵攻めでは城攻めの準備を全くしてなかった訳だし、
荊州攻略をすっ飛ばしての漢中攻めも失敗してるし、
呉兵2万程度での益州攻略に、天下二分もどう考えたって非現実的だろ。
長江上って許昌を攻めるという孫策のほうが兵站等を考えても数段上。
荊洲攻略をすっぽかしての漢中戦なんてあったっけ?
孫策と周瑜は二人で一人なんだろ
>>225 しかしそれは孫策しか出来なそうな作戦だからな
孫策が死んだとなっては誰も同じ真似できる奴はいない
それとどちらかというと戦線の展開は孫策がいないという条件で
中原進出を考えると周瑜以上の策はないと思うぞ
苦しいながらも蜀抑えてから他方面作戦をするしか方法はない
まあどちらもそれぞれの持ち味で非常に優れてるのは確か
赤壁までは江夏一つ維持できてなかった勢力だったんだから江陵攻めの準備なんて用意できてるとは思えないな。
準備できていなかったというより、誰もそこまで上手く行くとは思ってなかったってことだ。
後詰めの孫権軍を攻城戦の主力に使う気だったんじゃないかな
孫策の許都襲撃はリスクが大きすぎると思う。
徐州の陳到にチョッカイさされたり守将にてこずって時間食ったりしたら
孫策も含めて全滅の可能性だってありそうじゃないか。
それに許都だけを取っても中原で覇を唱えるのは難しいから、
結局は帝を連れて楊州に戻るしかないでしょ。
あと天下二分とは性質が違うと思う。
天下二分は実力を蓄えるもので、許都襲撃は大義名分の奪取って感じがする
>>226 ゴメン。命令したの孫権だった。
呂岱伝の記録なんだけど、211年に、張魯征伐をしようとしてる。
失敗したけど。
既に
>>232にレスしたように、225の時点で情報に誤りがあるので、忘れてくれ。
再度勉強してきますorz
>>231 いや、孫策が許都襲撃を目論んでいた頃ならそうムチャでもない。
当時の状況だと許都を奪われた曹操が袁紹に敗れるということも大いにあり得た。
その場合、許都だけでも中原に覇を唱えることは不可能じゃない。
それに、天下二分は実力を蓄えるものではない。
益州・漢中は即時の北伐を計算に入れない限り長期的には孫呉の負担となる。
実力を蓄えるためならやはり魯粛の三分計がベスト。
>>121 久しぶりの呉スレにつき、亀レススマソ。
疫病じゃなくて本当は寄生虫だとしたら、辻褄合うかもね。
寄生虫につかれた宿主は死ぬ思いだけど、
寄生虫で死ぬ事は滅多に無いそうだ(たけしの本当は恐い家庭の医学で観た)。
ただ、そんな状況で戦ったら、兵士たくさん死ぬだろう。
北の人間は知らなかった(もしくは兵士達)、
ヤバい食べ物を喰ったのかもしれない。
みんなでお腹ピーピー。相当カッコ悪い撤退とも言える。
…欣太の解釈も実は鋭いかも
孫策ってキャラ的にいうとバレンタイン監督みたいな感じなのかなあ
と妄想してみる
どこにも繋がってないイヤホンを耳からぶら下げて許都襲撃。
長島監督にも通ずるものがW
大事な戦の前に死んだところとかな。
>>233 そんなに気にスンナよ。
次は魯粛の軍事能力でも語ってみませんか?周瑜、呂蒙、陸遜に比べて大分印象が悪いですが・・・
用兵では周瑜、呂蒙、陸遜とは比べものにならないでしょ。
軍事戦略家としてもイマイチ冴えない。(国家戦略では神)
呉を存続させた功績はでかいな
存続の礎をきずいたとでもいうべきか
軍事能力は…陸戦が得意ってたってどっか切り取ったっけや。
負けては無いけど…正直、程普の功績なのか魯粛の功績なのかハッキリしないし。
天下三分のキャスティングボードを握ってたっていう所の印象が一番だなぁ。
戦わずに勝つ。てのは極めてた気がするな。
用兵そのものはほぼ担当してないかと。
しかし魯粛は役割そのものがちがうからな。
国家大計をなすという面では周瑜にひけはとらない。
だが魯粛が用兵にもしその役割があったなら、まったくセンスがないとは思えない。
若い頃は小規模の軍の調練や武術指導なども行ってるようだし。
最低限以上はいけるとおもう。
武術指導w
香港映画かよ
正史の魯粛は格闘家だからな。
招聚少年、講武習兵、講関節技、得腕逆十字
とある。
これを見ると打撃より接近戦の方が得意だったことが推測できる。
マジというよりマブ
>>248 うん一説では足関節の方が得意だったとある
韋昭の呉書には足・・・うわなにするやめrっっp
まあ体も大きく人に武を教えた記述があるから
なんらかの格闘技というか剣技のようなものを身につけていたんだろう
講関節技、得腕逆十字は俺の史書には抜けてるようだw
きっと印刷がw
崔季珪の剣術よりはまだ魯粛のカンフーの方がしっくりくる。
韓信の股くぐりってあるけど
魯粛の場合自分は大物になるからここで頭を下げるわけにはいかん、と殺してしまいそうだ
魯粛って展望は慎重かつ大胆だけど
本人の人格そのものはイケイケで豪快な感じだよな
外交官というより英雄(w)ぽい
なんとなくだが痩せた西郷隆盛を想像中
>>252 つーかなぜに崔[王炎]が剣術?
それと斬られた使者の名が残ってればかっこいいのに・・・
ところで撃剣って何だ
普通に剣術のことだと思ってたが。
>>257 剣術全般。崔エンは剣術がうますぎて、武人扱いされたのに憤慨して、学問を始めた。
(当時の中国では文人>超えられない壁>武人)だから。
曹操や曹丕もかなりの使い手だった。
曹丕のエピソードはなんかウソくさいんだよな。
曹ヒは戦役に従軍していた事を考えれば別におかしな事じゃ無いかと。
貴族の騎射なんてピアノのレッスンみたいなもんだしな。
山越に名将とか策師とかいねーかな・・
探してみよっと。
>>261 漢代の儒者の中には、「武術も士大夫の嗜み」と考える気風もあった。
古くは孔子の弟子である子路、孔子の孫弟子として儒学を学んだ呉起は、
儒学と武術の両方を嗜んだ。
(呉起は自分を馬鹿にした奴を30人殺すと言う間違った方向で武術の腕を示しているが…)
後漢建国期の劉秀、朱祐、賈復なども、儒者としての教育を受けながら、
戦場にあっては自ら武器を取って多くの敵を殺傷して、武術の腕を示している。
曹氏は武術に長けた人物が多かったので、
「武術も士大夫の嗜み」と考える気風の強い一族だったのかもしれない。
もちろん武術に長けているというのは確かだろうけど、
ケ展をやっつけるときのエピソードが作り話くさい……
だって『典論』の自叙ですぜ。
>>265 あの凄まじいナルシストぶりこそ曹丕の魅力
士大夫階級にとっての武芸って、基本的には射術と御であって、
なにも得物を振り回しての戦いに秀でてる必要性はないんだけどね。
孫権も弓術が優れてる
おれは性技が優れている
魯粛の話しは格闘技の話しに変わりますた
ふと魯粛伝を読んでいて感じたのだが、張昭はいちいちうるさい奴だな・・
謙遜ぶりが足らんなどいらんお世話だっつーの
説教じじい張昭がここでも大活躍
張昭は良い奴でつよ
張昭とか虞翻は、孫策時代があまりにも幸せすぎた感じだな。
孫策存命中のエピソードはいかにも理想の君臣という話が多いのに、
孫権に代替わりすると口うるさかったり強情だったりするようになる。
虞翻も張昭も「先代の先代の」と、孫権と孫策の違いをあげつらいすぎた感があるな。
>>275 それは違うと思うよ
虞翻はともかく、張昭は孫策があのような形で死んだがために
孫権の虎狩りや酒を諫めたと思うよ。
それに孫策と比較して孫権をあげつらうような事はしてないはず
孫策の弟だからって思っていたのかねぇ……
張昭に関しては
>>276が正しいな。自分のミスリードです。
張昭ってすねるところが可愛いよな
俺のじーちゃんおもいだすw
張昭は高名な学者で、孫権が若いころは
張昭の存在が国内統制の核だったのに
孫権が張昭に対して敬う気持ちが低すぎたことも問題
俺としては、孫権が言うところの、”張昭を丞相にはしなかった理由”ってのが
ふるってるように思える。
このふたり、お互いに理想の君臣関係じゃないこと事も、なれないって事も
わかってたんじゃないかな。
孫権と張昭は君臣の関係じゃないんだよね。
張昭は最初から後見人というか養父みたいな気持ちでいただろうし、
孫権も張昭に臣としての待遇を極めさせれば国家にヒビが入ると解っていた。
張昭が荀ケのような立場にならなかっただけでも、やはり孫権は庸人ではないよ。
>>282 太傅ぐらいにはしてやってもいいと思うんだが…。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 03:35:49
>>283 家に火つけなくてもいいと思うんだが・・。
>>282 楽しく酒飲んでるだけで紂王とかまじキッツいんだが・・。
丞相にしなくても張昭は家臣ナンバー1の存在
この二人って「三国志きらめく群像」とか「蒼天航路」とか読んでの印象だと
いろいろもめるけどほほえましいところもある君臣関係だと思ってたけど、
ちくま正史読むと孫権って本気で張昭嫌ってたっぽく感じたなー。
>>282 むしろ最初は後見人という形でよかったのだと思う。
孫権が成長した後もその姿勢が変わらなかったのが問題なのではないか?
孫権がずっとガキっぽかったてのもあるけど。
孫権と張昭は関係は呉の国家としては調度良かったと思う。
というのも、公孫淵の件は、皇帝といえども何らかのケジメをつけるべき失態だった。
とはいえ、丞相の顧雍や上大将軍の陸遜と皇帝の孫権が角突き合わせる訳にはいかない。
でも名誉職で長老の張昭となら、政治的にもあまり影響ない。
孫権と張昭は、どっちかと言えば近親の関係に近いように思う。
いくら亡き皇太后の話を持ち出されたからって、いい年したオヤジとジジイが二人して号泣するかよw
孫権からしたらオトンうぜー、オカンうぜーって感じwでも、どこかで依存している。
孫権が羽目を外す→張昭が孫権が叱る→劉基が孫権を宥める→
顧雍は黙して語らず→虞翻だけ処罰される→孫権が羽目を外す→エンドレス
これこそ呉
>>286 しかし孫輔伝などを読むと孫権と張昭は二人して意見を同じくして
曹操に通じようとした孫輔を糾弾する態度を見せている
孫権が孫策の跡を継いでしばらくはまだ地盤が固まっていなかったところを
張昭の発言力が孫権に説得力を与えるという形で上手く機能し、孫権もそれに頼っている
本気で仲が悪かったという風には見えん
公孫淵の件は張昭の深謀遠慮により政治的に大きな問題に発展させず
張昭自らの首をかけて孫権を諫めることで孫権を救ったとすると
これはまさに親が子供をかばう手法そのものだと感じる
>>288と意見がかぶってますが・・
>>289 理屈では確かに
>>288の考えで合ってると思う。
あそこまでやれば孫権も頭を下げるしかないし、
皇帝が頭を下げてもおさまらない問題などはない。
張昭のムチャのおかげで孫権は救われたといえる。
でも、やっぱやりすぎ。面白すぎ。
>>289 孫権政権初期の頃は確かに張昭の存在感は大きかったんだけど、
赤壁以降はやっぱなんらかのわだかまりを抱いてたんじゃないかなと。
あと、孫権は清流派的名士(?こういういい方が正しいかわかんないけど。張温とか)
に自分の政権下ででかい顔をさせたくなかったっぽいと感じました。
確かに嫌ってるとは違うかもしれないなあ。
自分、まだあんまり詳しくないのでいろいろ間違ってるかと思いますが…。
張昭オトン(笑)。
そう言えば、孫堅と張昭って同い年だね…。
孫権との年齢差はたしか25才くらい
ちょうど親子の年齢差
このふたり、俺の中ではベストコンビだよ。
ここまでぶつかり合ってる偉い奴らの記述はないぜ!
俺の中ではキティガイコンビだが。
孫権はなにげに面白い君臣関係を確立してる。
周瑜、魯粛、呂蒙、甘寧、凌統、蒋欽、周泰、どいつもこいつもグッとくる逸話アリ。
朱然とは幼馴染だし。もちろん張昭とはキチガイコンビだし。王表様もいるし。
よく考えると劉備がいちばんつまんないんだよなー
正史でも美化されちゃってるのかしら。
資料がないだけなんじゃ
>>296 葛仙公と姚光、介象も忘れないでくれ。
赤壁で魏軍を追っ払ったのは彼等だという説すらある。
呉書はヘンテコ人間多すぎw
>>296 蒋欽とのエピソードってどんなのですか?
よかったら教えてください。
蒋欽といえば一見わだかまりのありそうな部下の徐盛を推したとか、
周泰と一緒に孫策の配下になったとかだっけ。あとなんかあったかな。
>>300 孫権が蒋欽の家を訪問した時、蒋欽の家族がみんな粗末な服を着ていたので、
「身分が高いのに、節約に励むとは立派なことだ」と喜んで、
家族全員に豪華な服をプレゼントした。
「お前達は重要な地位に就いているのだから、学問を始めたらどうだ?」と、
孫権から呂蒙と一緒に説教された。
それからは学問に励んだらしく、「呂蒙と蒋欽は、勉強熱心で感心だ」と孫権に褒められている。
>>298 魏の船団に放火したのは姚光。これはガチ。
>>302 「トシとってから勉強してあれほどモノになったのは呂蒙と蒋欽だけだ」
っていう誉め方じゃなかった?
>>296 劉備の君臣関係の分かりやすいエピソードって、
簡雍との「子供を作る道具」の話ぐらいだな。
ついでに言えば、簡雍は劉備の前でもだらしなく座ることが許されてた。
こいつら、マジで古い友達なんだなあって感じ。
関羽や張飛のような親分子分関係じゃなくて、
人目の無いところじゃタメ口で話してそうな関係がいい。
あと、劉備が矢玉乱れ飛ぶ前線で指揮を取ってる時に
「危ないから下がってください」と周囲が諌めても聞き入れなかったところで、
法正が劉備の脇に飛び出してきたので、
驚いて「危ないからお前は下がっておれ」と法正を後ろに下がらせようとしたら、
法正に「主君が危ないところにいるのに、臣下の私が下がるわけにはいきません」と言われて、
二人で一緒に後ろに下がった話がある。
法正が死んだ時には、何日も泣き続けた。
よほど、法正が好きだったんだろうな。
なんだよ劉備もすこしはいいやつじゃねえか
法正とのその話はいいよね。
とりあえず孫権は宴会やっときゃ人間関係丸く収まると思ってるふしがあって困る
それで本当に丸く収まってるからさらに困る
300
>>301-303 教えてくれてどうもありがとう。
302のはまさに"グッとくる逸話"って感じだね。
そういう話だけ聞いてると、孫権はホントに名君なんだけどなあ。
終生傷ひとつない人生ってのは難しいもんだ。
虞翻の華麗な人生について
諸葛瑾→発言に気を使う→大将軍
虞翻→発言に気を使わない→交州
虞翻は孫権に特命をうけて交州に行ったんだよ
>>313 マジレスすると、呉には扶南、林邑を併合して、南州を創設する計画があった。
虞翻は扶南、林邑の豪族への下工作の任を帯びていた。
呉書には記述が無いが、最近ベトナム中部で発掘された資料で明らかになった。
その資料の中の豪族宛て布告文と思われる文章には、
仮節・南州刺史虞翻の署名がある。
なんと!!
まじでか!!
ママママジディスカー
あわわわわ……
特命係長・虞翻
ベトナム行きって中央に居た陳寿からすれば左遷に見えるが、
それが本当なら、孫権の人事は大抜擢だった可能性が出てくるわけか。
一大事じゃー
そもそも俺は前から将軍なんてやるよりエメラルドグリーンの海と白い砂浜ででビーチ蹴鞠してる
虞翻は勝ち組だと思っていた
落ち着け
ちゃんとソースとか確認汁
>>321 そうかも。
出世欲があるようにも見えないし。
実は孫権GJ?
息子の虞も大活躍だし、虞翻は勝ち組だよ。
>>320 いや、孫策の功曹だったと言う経歴、予章を無血開城させるなどの功績を考えると、
本来ならばもっと高位にいてもおかしくない古参文官の大物。
後から出仕した諸葛瑾・歩隲・顧雍・呂岱・潘濬らに官位を追い抜かれてるんで、
晩年に州刺史になったところで、大した栄達じゃないよ。
>>324 むしろ、息子のほうが栄達しとるな。
南州のソースは??気になって仕方ないんだが。
所詮はガセ
ネットのどこにものってない。
もちろん手持ちの三国志本にものってない。
かなり最近のなのかな・・
光孝寺関連かも。
最近ベトナム中部で発見って話だから、
ベトナム史系のページがソースなのかも。
フエで発掘されたやつでしょ?
漢代の木簡とか結構出てるそうだ。
てか、南州の話は太平御覧に引く交広記に出てるぞ。
虞翻が刺史うんぬんは知らんが。
あれだな呉は異民族の対応やらが非常に重要な国家指標であるのと
国家財政に占める貿易黒字の割合も大きそうだから
交州に派遣する人物はそれ相応である必要があっただろうな。
有能かつ、異地で嘗められないような出目などの背景を持ち、
なおかつ独立などを企まないような信用出来る人物。
そして孫権的に信頼はしてるがちょっと煙たいので合法的に遠くにいっちゃって欲しい人物。
ウホ虞翻そのまんまじゃないの・・・
朱然が司馬懿に負けて1万も死傷者がでったってホント?
晋書の超誇張記述だろ
常識的に1万も死傷者が出るわけがない
魏の10倍水増しクオリティー
晋の宣帝なら100倍にもなるかもw
まあ普通に司馬懿に防がれただけなんだろうけど
でも、やっぱ司馬懿>朱然だなぁ。
朱然は名将だけど超一流ではないんだよなー
退却時の話だからあまり鵜呑みにするのもどうかな。
文聘が孫権を追撃して破ったからといって、
孫権より軍の指揮に優れていたとは一概に言えないだろう。
ちなみに「斬獲萬餘人」ね。
>>333 晋書では第三次北伐時に撤退する諸葛亮を追撃し捕虜と斬った兵は数万であったという記述がある。
ちなみに俘斬萬計
340 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 13:25:48
文聘の追撃は朱然伝で見ても相当勢いがあったみたいだけど
魏の防衛→追撃の大勝利コンボ記述はお約束に近い感はある
341 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 15:03:53
呉末期(孫休〜)の名将ってだれかね?
丁奉・陸抗・陸凱・イ昭・華カク・張悌くらいか?地味だ。
孫休の評価ってどうなのかね・・・?
晋書は信用できねー
>>341 なんか名将じゃない奴ばっかだ
評価出来るのは前の二人だけ
施積は朱積のほうが分かりやすいようナー
なんで韋昭や華覈が出てくるんだよ!
朱績、丁奉、陸抗、鍾離牧は確定として、
陸凱、留略、留平、吾彦、周處もよさげ。
周處は晋将か…
孫権が張温を名将とか言ってることについて。
あれはちくまの誤訳?
名のある将軍
他の分野で名を馳せても、別段、構わないのかもね。
虞と陶璜は呉末期の華だな。
みんな279年の呉征伐前に死んでるな
呉の滅亡時に生きてた名将格は吾彦ぐらいか
周處ってどんな人物なの?
東晋が嫌い
それだけかw
丁奉は現代に生まれていたら名ピッチャーになれたはず。
>>355 手先が器用なだけとおもわれ
肩がいいとは限らない
軍事能力ランキングだったら
1位孫策
2位呂蒙
3位陸抗
4位陸遜
5位周瑜
こんな感じかな?
358 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 17:13:12
程普は?おまい何かに影響受け杉
周瑜を舐めすぎ
>>357 まあそんなもんだろうね
俺は呂蒙が1で孫策が2だけど
362 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:10:04
周瑜をナメすぎたとは思うが、このメンツで程普は入らないだろ。
程普って程公なんて呼ばれてるからグレートな将軍だったんだろうとは思うが、
孫策助けたのと赤壁以外に目立った活躍の記録ってあったっけ。
青春の輝きを放っただろう孫堅時代が完璧にスルーされてるってのが痛いよな…。
>>357>>367 そんなあからさまな釣りしなくても
呉スレは盛り上がるときはまともな話題で盛り上がるんだから
荒らすのはやめとけ。
なんで過疎スレで必死に自治してんだ
>>357 軍事能力のみなら甘寧を入れろよ
戦略・戦術・武勇を揃え持つ男だぞ
>>367 赤壁も目立った活躍の記録は無いだろ
371 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 20:27:14
>>370 甘寧は大軍を率いての事績がないから
ベスト5には入れないでしょ
戦術ランクとかなら上位だと思うが
>>358-
>>371 釣られすぎ。
自演しすぎ。
西陵の陸抗の神用兵と統率型タイプ周瑜
軍事能力のみでみたらどちらが優れてるか
375 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 20:50:52
正史の西陵の戦いのところ読んだけど、何が何だかよくわからなかった。
よって周瑜が上。
>>374 そのお題は面白い。釣るならそういうのでお願いします。
陸抗は周瑜の天下二分をふまえた上で西陵を要塞化している。
功績では礎を作って多くの人材を養成した周瑜が大きいと思うが、
陸抗の用兵ぶりは状況的に見るとかなり凄い。
上下はつけられないとは思うけどね。
>>375 何がなんだかわからなかったってw 呉書見聞見るとわかりやすい。
周瑜が指揮官、陸抗が軍師これが一番
統率型ってあまりいないよな
陸抗後にこれはという名将はでなかったものかね。
もしいたら羊□の侵攻は止められたんだろうか・・・
呉の降伏後の戸籍には兵士が20万以上もあったそうだし・・・
382 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 21:53:09
軍事能力ってんだから、兵を纏めたり訓練したり
総合的な統率力も含めての話だろ。
程普も入るよ。いや、入れて下さい(ry
>>382 程普は好きだが釣り認定スルー。
なんか一人へんなのが紛れ込んでるような・・
>>380 魯粛の天下三分って呉の維持を考えると優れてると思うのだが
その先はどういう戦略で中原に進出する作戦なのかよくわからない。
力を蓄えて相手の綻びを突くだけなら嫌だな
>>381 根源は同じだが周瑜の天下二分はあくまで攻めを主眼に置いたもの
対して魯粛のは長江を利用し北と対峙するというもの(積極的な攻めではない)
陸抗の西陵要塞化は後者
>>384 南から北に攻めて成功するのはそれに期待するしかないと思う
>>385 でも西陵は蜀にとても近く、長江の遡上で蜀に侵攻が可能で
水陸両面から蜀を睨む位置にある。
魏に対する想定もあるだろうが対蜀の方が大きいんじゃないかな。
むむむ
>>386 陸抗は隙あらば巴蜀を攻めるつもりだったろうし(実際に蜀滅亡時に動いてる)
そのときに拠点の一つとなるのは西陵だろう
ただ西陵の戦の時やその後の陸抗(陸遜も含む)の話から西陵への考え方は分かる
結論としては両方だったりする
個人的には西陵の戦いは後漢末期〜三国時代一の名勝負だと思う
あれは面白すぎだろ
国ボロボロで戦略的不利を抱えている中であれだけの勝利って小説みたいだもんな
陽人戦、江東攻略戦、黄祖討伐、赤壁の戦い、江陵攻略戦
212年の濡須戦、216年の濡須戦、荊州争奪戦
荊州攻略戦、夷陵の戦い、魏の三方面侵攻防衛戦、曹丕の呉討伐
石亭の戦い、東興の戦い、西陵の戦い
主な呉の勝ち戦だけどどれも名勝負が多いと思う
陸抗が寿命あと100年あったとしたら洋子とかの侵攻防げてたでしょうか?
陸抗ならあの多方面作戦をどう防ぐのでしょうか。
不思議なおどりを踊る
>>394 それマジックポイント盗むだけじゃなかったっけ?
皆さんは誰のどの戦い・作戦がイチ押しですか?
私はとりあえず手堅く赤壁を推しておきます。
一つの戦を推すなら西陵。攻防が凄まじすぎる…
石亭の戦いを推す
魏の対呉総司令官をボコボコに叩きのめすのがいい
名勝負一番は江陵攻略戦だな
一方的な勝利より紙一重のほうが好き
荊州攻略も捨てがたい。
西陵が最大級のハンデを覆した戦い最も厳しい戦だった思う。
荊州攻略は意図するところをほぼ全て成し遂げた戦で、完全試合と言ってもいい内容と思う。
あえて魏の三方面侵攻防衛戦。
朱然カコイイ!朱桓カコイイ!
趙雲の空城の計は嘘くさいが徐盛の空城の計はホントくさい
呉の名将は曹操や曹仁、劉備や関羽を破ったりしてるけど負けがあるのは陸遜くらいだよね?凄くない!?
…他は勝ち逃げだけどね。
>>403 本文と註じゃ扱いが変わってくるからね
しかし長江に船を並べてその後方には数百里の張子の城壁
遠目からみた曹丕には壮観だったんだろうな
呉の最強の敵は満寵だろうな
曹丕に決戦の気構えがなかったことを見抜いたことこそ徐盛の凄さ。かな?
呉ってつおいじゃん!
殊勲賞 荊州攻略戦
敢闘賞 江陵攻略戦
技能賞 夷陵の戦い
MVP 西陵の戦い
>>410 技能賞は西陵か荊州じゃないか
殊勲賞は夷陵か赤壁って感じ
呉将にプと微笑ましい逸話が多いのは陳寿ではなく韋昭の文体
を反映してると思うのは気のせいだろうか。
なんとなく文体が明るい。
陳寿は手を加える時間がそれほどなかったしなぁ。
徐盛の空城の計って・・・文帝側に疫病が流行ってたってやつだね
疫病が深刻化していたから偽壁を作らなくても魏は兵を退いていたとか
>>413 疫病じゃなくて広陵まで来たけど川が凍ってて船を出せなかったって言い訳じゃなかったっけ?
>>414 それは225年、徐盛の空城の計は224年
疫病で帰ったのかは知らんけど
曹丕の負け方は神の域に達してる
曹丕の行う戦争にはやる気がほとんど感じられない
中途半端なものばかり
まあ曹丕も本気で呉を滅ぼす覚悟で戦なんかしないだろ
もう天下は三国で分かれて変事に乗じて攻め入ったりはあったかも知れんけど
史書にあるのは戦争の結果だけで
当初の戦略とか詳しく記載されてるわけじゃないからな。
もし現代史に関して、三国志と同レベルの史料しか残されてなかったら
「ベトナム戦争は、アメリカに本気で勝つつもりはなかった」
「太平洋戦争は冷戦を見据えてアメリカと日本が結託した八百長戦争だ」
みたいな論が出てくるかもしれんぞ
魏も呉も一生懸命やった。(一生懸命やってない戦いもあるかもだが)
でも長江には勝てなかった。
そろそろ真打ち太史慈についてよろしくおねがいします
お題1 曹操の誘いを断った件について
太史慈は呉将・・・か?
まぁ、呉で働いていた時期もあるが・・・
呉魏晋戦争の規模の大きさベスト5は
1.279年の晋の六方面進行の呉討伐
2.216年の濡須戦
3.赤壁の戦い
4.222年の魏の三方面侵攻防衛戦
5.234年の呉軍の合肥・徐州・荊州攻め
って順ぐらいか、諸葛誕の乱は魏の内輪もめっぽいし
太史慈は伝が劉ヨウと士燮という呉に対した人物とともにある。
孫策の配下(?)になってからは何をしてたのか良くわからないほど記録がない。
正史ではあまり多くない一騎打ちのような事跡があったりするのも謎。
劉表の侵略を防いでたんだから立派に名将だ。
カコイイエピソードばっかだし。
射術も一級の腕前のようだし
カコイイエピソードは劉ヨウとか孔融の時なんだよな
あと孫策との一騎打ち
呉でもチッとはがんばってくれよと
敵の手を矢で射抜いて縫いとめたのは呉将のときさ
麻保のときか。
ともかく弓の腕はすごいっぽいね。
呉にいたときではないが三射のエピソードでは
弓の腕だけでなく頭の良さも証明している。
呉での功績はかなり微妙だがこの時代全体を通してみればなかなかの人物ではある。
劉ヨウの時も客将のような扱いだから、
私兵を有して呉に属した名士(?)であるが武勇に極めて優れている点が特殊というところか。
折衝中朗将で最終官位が越騎校尉か。何とも判断がつかない。
程普の前の海昏で太守のような役割を担ってたのかな?
呂布より弓は上手いんじゃない?
手じゃなくて顔とか狙えなかったのかね?
>>432 孫策が軍を率いてるんだぞ。
つまり余裕ってことさ。
太史慈ってかなり特殊なんだよな。
軍を率いての事跡はあまりなく個人的武勇の事跡ばかり。
その地方の武の名士みたいなのじゃないのかなあ。
曹操、劉備と関わりながら孫策を選んだあたりはとても気分がいいのだがw
太史慈の伝ってなんかあやしーと思うのは俺だけ?
なんとなく
最期のセリフはあやしいな。
爆弾発言すぎるw
カコイイエピソードが多すぎる
孫策と一騎打ち→友情
青春ドラマすぎる
441 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 12:15:35
しかし話は変わるが、
未だに陸遜は最期に流罪になって死んだと思ってるヤツラ多杉
ネタが古杉
筑摩の誤訳を発見したのは凄いし日本の三国志ファンからみれば興味深いことだけど
もともと陸遜に罪があると思ってた奴なんてほとんどいないし
孫権が陸遜を詰問したのは確かだから両者の評価という意味ではそれほど変化は無いんだよね
>>443 そうなんだよな
結局、憤死して孫権の痛恨の失敗になるわけで
445 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 16:45:01
洛陽で孫堅が玉璽ぱくって袁紹が問責するところはあくまで袁紹に分があるな。
火事場泥棒と変わらん。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 17:40:30
陸遜を死に追いやったのって、
本当に孫権にとって痛恨だったのか?
「権臣を消せてよかった」
とか実際は思ってたんじゃないのか?
あのまま消さなかったら、荊州が孫権死後に蜀の漢中府化しかねなかったんじゃね?
まあ劉邦や秦も功臣消して国家を安定させてるしね
さすがに消せてよかったまではないだろう
陸遜が死んだ後の陸家に対しての配慮や人事から見ても
功臣を粛清した君主は歴史上ウジャウジャいるけど
どれも天下を取ってしまうか、自国が安泰になってからのこと
もし、本当に功臣を消す目的で陸遜を殺したんだとすれば
「もうこれ以上の勢力拡大は望めない。
どうせいつかは滅びるんだろうが、有能で波風立てそうな奴は消して細く長く生き残りたい」
って判断をしたってことなんだろうな。
ぶっちゃけ、そうだとしたら孫権を尊敬する気にはなれない
んなわけないって
粛清された連中のほとんどは
権力抗争を持ち込んだ奴ばかりだし。
まあ孫権に非がないわけではないが
>>450 太子派は権力抗争を持ち込んだというわけではないでしょ
臣下同士の権力抗争とすれば非があるのは魯王派と孫権
太子派の脇が甘かったのは落ち度といえるけど
452 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 09:03:28
皇太子(+取り巻き)と現皇帝(+取り巻き)の対立
ってのはよく見られる構図
皇帝は相手が例え皇太子でも、自分以外のところに権力が集まるのを嫌うんだよ
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 09:35:05
孫権が相手してた陸遜たち江南豪族が、西晋末期に
「誰か担いでまた独立しようぜ」
って言うような連中だってのを忘れちゃいかん
そんなヤツラを支配するには飴やら鞭やら孫権も大変だったんだろうな
>>451 太子派が先に仕掛けた可能性もあり
流罪になった奴等は特にアヤシイ
>>456 可能性は否定しないが何らかの論拠を示してもらわないとなんとも・・・
太子派が先に仕掛けたにしては魯王派への処遇が厳しすぎると思うし
458 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 00:27:07
二宮事件は二回ある
459 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 09:30:17
二宮事件(前半)では、
太子派が深刻なダメージを受けたはずだが、肝心な魯王は太子に立てられなかったし、
魯王派とされる連中も、どうも魯王立太子にそれほど積極的でないようにも見える
目的は、はじめから魯王を立てることではなく、
太子派を追い落とすことだったのでは?(誰が首謀者にしろ)
正史がいま手元にないので誰か太子派と魯王派の人物を分かりやすく挙げてくれまいか。
>>460 ネットで調べるということをしないのか
某所からコピペ
孫和派・・・陸遜・顧譚・顧承・吾粲・張休・朱拠・屈晃・諸葛恪・陳正・陳象・勝胤・施績・丁密
孫覇派・・・孫魯班・全j・全寄・楊竺・歩隲・呂岱・呂拠・孫弘・呉安・孫奇
462 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 12:24:08
朱拠や諸葛恪は素直に太子派としていいか疑問だな
>>459 積極的に魯王を太子擁立に動いたと思うよ
孫権と楊竺が孫覇を太子に擁立しよとしたのを
陸胤の機転で流した
464 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 16:53:40
機転というか、
太子・陸胤・陸遜は積極的に楊竺を陥れているな。呉録を信じると
(楊竺自滅という面もあるが)
皇帝の密談内容をスパイによって入手してる
太子派のスパイ行為による機密漏洩があったからこそ、
事件が拡大して陸遜らに対する追究や処分も厳しくなったか?
2宮事変の時の陸遜と呉サンの動きって何かと不穏なんだよなぁ…
一度立てた太子を廃嫡しようとしているのだから
止めようと動くことは当然だと思うが・・・
全奇や楊竺といった輩を放っておくのはまずすぎるだろ
467 :
464:05/03/10 18:35:51
一応言っておくと、誰がいいとも悪いとも言ってないよ俺は
善悪や行動の妥当性は論じていない
ただ、太子派の行動は廃立とは関係なく皇帝孫権の逆鱗に触れても不思議ではない、
と思った
皇帝が敢えて人払いした筈の話の内容が漏れたんだから・・・
そして太子派はそれを処分や通報するでなくむしろ利用している
(漏洩したのは太子派の間者だろうか)
あの孫権てアホすぎないか?
陸胤が陸遜に話したのではないかと疑ったのは楊竺なわけで
楊竺が本当に陸胤に洩らしたのならそんなこと言わないだろう位の想像力は無かったのかな。
まああの頃の孫権は正気の沙汰じゃないな
>>467 孫和はどうすれば良かったかという問題だが
処分や通報をしても太子は間者を孫権の身辺に忍ばせていたと讒言されるだけだと思う
ただ太子交代の議論は表に出てたようだから
呉録自体をどこまで信じるかというのはあるけど
>>468 結局のところ、タイミングの問題でしょう
呉将の一番の長所を褒めるとしたらそれぞれどんな点だと思う?
周瑜:主君に地を舐めさせる絶対の苦境を覆し、先代の遺命を執念で果たした。
魯粛:常に現実を提示し、夢見がちで不可能な策を主君に信じ込ませる愚を犯す事が無かった。
呂蒙:年を取ってから己の無学を指摘されても、そこで諦める事なく向上する事に終始取り組んだ。
諸葛キン:主君に恥をかかせる事は一度も無く、終生、主君にとっての最大の理解者であり続けた。
孫瑜:常に適切な人事を行い、正しい後継者の選択を行い、主君の親戚としての重責を真っ当した。
陸抗:神武と呼べる程の能力を持ちながら二心を抱く事無く、また主君の名を貶める戦をしなかった。
とりあえず好きな人だけ書いてみた。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 02:11:20
あ〜・・・w
473は陸遜嫌いか、俺は一番好きなんだがな…ま、どうでもいいわな
>>476 陸遜って終わりを真っ当してないだけに、どこか一つ良い所を、と言われてもキッツイんだよね。
良い所は沢山あるから幾らでも褒められるけど、じゃ、何が一番か。と言われるとちょっと。
周瑜の一番の長所は超名門の出だということではないだろうか
もしあの時いたのが陸遜だったら…
才能だけで渡っていける社会じゃなかったから
周瑜の家柄が孫呉の成立にとって大きいものだったと思う
479 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 09:36:47
確かに、孫氏だけでは政界、官界とのつながりが薄いからなあ
周瑜の家柄なんかがなかったら、袁術配下な一武人あたりから抜け出せなかったかもな
でも家柄とか出目とか豪族とか名士とかそういうもんだけじゃ語れないのが乱世
周瑜より張昭のほうが名声は上でしょ
赤壁後は分からんが、孫策挙兵当時だったら張昭の方が上だろうね
個人としては張昭なんだろうが
家柄は分家でも周家が圧倒だろ
周家は中央にも通ずる名門だが
呉の地盤を考えると張家の方が直接的な影響力は強い
しかしまあ地元豪族が孫策に協力することの正当性をもつ根拠
に一役買ってるだろうな周家の分家であることは
それだけではないだろうけどね
>>484 張昭は確かに近いけど徐州だからな
その点では陸遜にも引けをとると思われ
>>486 それ以前に周家の分家であるという事の直接の影響力はどんなもんだろうね
488 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 15:07:20
>>486 この時代は学者>名家。
地元で幅効かせる地方名家より、中央に名の通った学者のほうが偉いのよ。
よって、張家>周家>陸家。
農民上がりのカンタクの出世具合をみると
学者>名家だといえるな
>>488 学者の名声は個人に依るところが大きい
家格なら周家>張家
個人なら張昭>周瑜
張昭は名士であり学者。周瑜は名族。陸遜は豪族。
張昭の家格が劣るのは当然と言うべきで、あえて表現するのなら
張昭は張昭系、張氏の初代なわけ。
張敬緒からすれば張氏は、曾祖父に張昭がいる名族であっても、
張昭からすれば自身が築き上げた名声であり家に過ぎなく、一族の名声ではない。
まあ、周家の名声や影響力より、張昭個人の名声や影響力の方が大きかったようだが…
「内のことは張昭に、外のことは周瑜に」ってのは影響力・発言力の強さも関係してるのかな?
この二人が率先して孫権を盛り立てることで人心も安定したみたいだし。
どちらにせよ張昭は降伏派であったのに士族達それを強行できなかったところに
周瑜の家柄の大きさがあるのではないだろうか?
分家と言っても父親は洛陽県令
漢室うんぬんの正当性を主張するとき周家の強さがでたんだろう
周瑜の一番の長所が名門の家の出だと言う事なら
周瑜が成功し、袁紹が失敗した理由って何なんだろうな。
494 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 18:43:35
袁紹は自らトップに立った。
周瑜は人の下に付いた。
たしかに、魏でも家柄の低い曹家を名門が支えたわけだしな。
蜀も同じ事がいえるか。
呉は武人の国です
だいたい呉将の中での長所
魯粛・呂蒙・陸遜と比べたときの周瑜のアドバンテージを考慮してるんだから
単なる名門の袁紹を持ってきても仕方ない
>>478 正直そんな単純ではないとしかいいようがない
説明すんのめんどくせー
陸孫が周家だったらどうだろう
死に方ぐらいしか変わらなそう
張昭のような大学者から周瑜のような名門の才子、
陳武あたりの武人、虞翻のようなひねくれ者まで、
悉く心服させていた孫策が凄すぎるってことですよ。
小覇王というけど、項羽を凌ぐ面はこの点にあると思う。
張昭と孫策の手紙云々の話しとか読むとしみじみそう感じる。
いくらなんでも項羽以上の人物ではないと思うけど
確かに孫策の求心力はすごい
そこにしびれるぅ!あこがれるぅ!!そうじゃない奴はヌっころすぅ!!
それが孫策クオリティ
そして死ぬ
それが孫策クオリティ
だがそれがいい
しかしそれを全てにするのはそれはそれで無理はあると思う
孫堅の子であるという求心力に加えて連戦連勝の求心力が基盤にあり
それに周瑜の家柄や学者としての張昭の名声がハクをつけたという感じかと
周瑜については家柄や出目というのは活躍する機会を得るのに極めて有利だと思うが
その後、それをどう利用するか何を成すかはすべて本人の資質による
>>502-503 そういう人物が居る一方で、孫策を嫌って江南から出てった者も大勢居るわけで・・・
孫策には仕えなかったが、孫権には仕えた者も多い。
まぁ気持ちは判るが。
孫策は戦には勝ってるけどキティとしか思えん攻めっぷりだからなぁ…
兄が項羽で弟が句践
やっぱ項羽がいいな
意外と兵法って単純なほうが強いのかも
>>508 孫策みたいなタイプで、かつ文人や名門出にまで求心力があるってのが凄い。
孫権の場合はあれで戦が強ければ文句ないのだが。
孫策は猜疑心が強くて乳母を殺したという記述を
ずうっと以前に何かで呼んだのだがソースが分からない。
手元の史料には載ってないし。
だれか元ネタを知ってたら教えてください。
曹ヒ様・・・
彼(曹丕様)は優しい子よ(特定の人には)
疑い深いってのは聞いたことあるナー
520 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 23:17:02
age
孫権ってのは創業タイプと守成タイプの両面持ってるきがする
曹丕ってのは良い守成タイプだからちょっと違うよな
>>521 共通してるのは二人とも変態ってところだけかもな。
粋でいなせで強い呉の花の慶次、賀斉についての一考
賀斉は強すぎ。(一考)
>443
すごい遅レスで申し訳ないけども、
陸遜が流罪になったかなっていないかは、孫権の二宮での責任問題では
重要なことだと思うよ。
流罪てのは、もう刑が施行された後だから、もしその刑罰が不当なもの
であるなら、孫権は刑法上のミスを犯した事になる。
でも、流罪でないならば刑法上は彼はミスしていなかったことになるし、
陸遜を詰問したことに関しては、陸遜側に全く非がないわけではない。
それこそ「呉録」の機密漏洩に関することでは太子派にも十分非はあるわけだから。
噴武勇猛な将、戟を振るえば天を裂き、鎚を振るえば大地を砕く。
弓は千里を射抜き、その武は呉下に広く称えられる。
また神算無くも深謀を持ち、冷静寡黙な一面も持つ。
その名は子義。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 09:52:53
とりあえず、諸葛恪を太子派に入れるのは間違いってことで
敢えて言うなら二股膏薬
朱拠が空気を嫁ず死んだのも重要
530 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 12:23:26
陸遜ら諌言
孫権、機密漏洩を怒る
陸胤が楊竺を陥れる
孫権、陸胤らに騙されたことに気付き激怒
陸胤を逮捕
陸遜を問責、死亡
こういう流れか?
おそらく
陸胤の逮捕
陸胤が楊竺を陥れる
楊竺が自白して処刑
陸胤は釈放
の間に同時進行で陸遜への問責が行われていたと思われます。
(陸遜は荊州の総監督なので、早々更迭はできない)
で、陸遜は楊竺の処刑される前に死亡したんじゃないかと。
楊竺が自白した後ならば、陸遜に厳しく問いただす必要はないでしょうから。
532 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 13:46:04
王表さいこー
谷利最強伝説
>>531 陸遜が袁紹のところの祖ジュのように空気読めない奴だったら、
楊竺が捕まった事を聞いて「それ見たことか」と言ってしまった可能性はあるわな。
535 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 19:46:18
呉録では、
陸遜が諌言
孫権、楊竺が漏洩したと疑う
楊竺、陸胤が怪しいと言う
陸遜を取り調べ
陸遜、陸胤から聞いたと証言
陸胤逮捕、拷問
陸胤、楊竺から聞いたと嘘つく
楊竺逮捕、拷問
楊竺白状(冤罪)、処刑
て順番になる?
536 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 22:25:48
谷利なんてただの親衛隊だろうが。
あんなもんたいしたことない。
やっぱり王表最高。
>>536 谷利なめんなよ
張遼に襲われたときのことを解説しよう
張遼が孫権めがけて大長刀をふるう
谷利は二本の指でそれを白刃取りし
もう一方の手で孫権の馬に鞭打った
おかげで孫権は張遼の凶刃を回避して
おまけに津の橋も飛び越え逃げることが出来た
こんなことが出来る奴はミルコクロコップぐらいしか思い浮かばない
何その漫画みたいな展開
歴史を捏造しないように
谷利ってそんな凄かったんですね
ほほう。太子側の機密漏洩事件にまで話が広がりましたか<二宮の変
んじゃ、こういうのはどうでしょうか?
儒教において、父親や上司を疑うってのは最大級のタブー。
楊竺の件の情報ソースが、「太子側の用意したスパイ」からの情報だってんなら、
そんなもん孫権に向かって正直に言えるわけがない。
言ったら最後、孫和には「中華の太子」たる資格がないことになるから。
何が言いたいのかというと、結局、孫和失脚は本人の自滅。
孫登が死ななければこんなことに・・・
でも二宮事件は孫権にとって汚点かもしれんけど
呉全体から見れば致命傷でもないような
544 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 09:47:39
俺は孫登がいたらいたで、皇帝孫権派と太子孫登派の争いが生まれていたと思うよ
二宮の時の太子派は多く孫登側近などから流れてるからね
孫権がいいタイミングで死なない限りは、似たような政争は不可避だろう
そこで孫登に父親を殺して皇帝になる危害があるかといえば…NOだろうな。
あの皇太子様は良くも悪くも聖人過ぎ、お行儀が良すぎ、なんだよなぁ。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 11:51:30
早死にしたからそう見えるだけだろ
能力はあっただろうけど、良くも悪くも十分発揮する前に死んだんだよ
長生きすればそれなりにマイナス面みたいなのも見えただろうよ
二宮がどうして起きたのかをちゃんと調べなければ
孫登の場合どうなったかなど、判断しようがないと思うがな。
二宮の裏にどういう政治背景があったのか見るには
まず、表面上二宮問題がどう変わっていったかを知るべきだと思う。
政争どうこう語るのはその後すべきことだよ。
548 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 18:14:53
んじゃあんたがやってみてくれ
549 :
損権厨房 ◆0zpK2aIx06 :05/03/17 18:44:59
____
iii ■ iii
( ゚д゚) ∧__ <呉大帝が有能すぎたんだよ。まっ俺も負けて無いけどな
彡つ権つ彡 ` )
ソ⌒て 丿斤「\/ ̄
彡( (_フ _ヾ丿
/> ノソ >ゝヽ
d //`´´ 〆 |_ゞ
д
孫登は聖人だけど孫家らしいざっくばらんさもあって、実に魅力的なんだがなぁ。
もちろん親父ほど長生きすれば欠点も見えただろうが、それほど早死になわけでもない。
孫策よりはずっと長く生きたわけだし、その評価が実質から大きく外れてることはないと思う。
あと気になるのは、陸遜が孫登の目付役だったんじゃなくて、孫登が陸遜の監視役だったらしいってこと。
周瑜も二分計の際に「蜀には孫瑜を置くから心配すんな」と言ってるけど、陸遜なんて周瑜より危険な存在。
そう考えると陸遜は徳義的にどうあれ軍権を握ったまま政争に関わるべきじゃなかったし、
まして陸氏のものから得た情報で西方から諫言なんてするべきではなかった。不穏すぎる。
朱拠のやったことはむしろ陸遜がやるべきだったかもしれん。その隙に攻め込まれたらヤバイが。
551 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 20:13:13
陸遜を名将とか功臣とか二刀流とか太り気味とかいう視点から見ると孫権が馬鹿やったように見えるけど、現実にはそうとばかりも限らないわけだ
自分が皇帝に警戒される存在だと知らずにやったなら軽率だし、知りつつ敢えてしたのであればある意味では自己責任だ
まあどっちにしろ、晩年の孫権は名君といえねー
陸遜も名臣とはいえんな。能力的にはどうでもケ艾と同輩だろう。
国が大きくなって安定するとどうしてもドロドロした話がでてくるなぁ。
弱小だった孫策時代なんか主従揃ってノリと勢いだけで突っ走ってるみたいな感じだった。
>>554 手紙隠してモジモジする張昭
孫策と二人で山中をゆく虞翻
一騎討ち、そして感動の帰還を果たす太史慈
死にかけた孫権に、それを助けてもっと死にかけた周泰
熱いぜ
張温伝を読んだ感じだと孫権は名士嫌いっぽい印象を受けた
陸遜とも仲良しこよしではやってけんよな実際
>>556 社稷の臣に近し、と言う所に陳寿の痛烈な皮肉を感じるぜ。
あれって、名臣とよばれるべき人も国が体を成していなければ意味が無いって事だよな?
>>557 そもそも呉自体が豪族の集合国家みたいな感じがないわけじゃないし
豪族達の力が強かったみたいだからそういうタイプの人間嫌いなのかも
>>558 陸遜伝て、陳寿と裴松之で随分評価に差があるよな。
読んでると、陳寿は本当に陸遜を名臣として称えたかったのか
何かを匂わせたかったのかわからない事がある。
>>557 張温に関しては、
失脚した当時の役職が「太子大傳」だったことを忘れちゃいけない。
(陳寿がぼかして書いてるから気付きにくいが)。
そんなヤツが、自分の周りを自分の目をかけたヤツで固めだしたら、
「太子(孫登)をないがしろにしている」と見られてもおかしくない。
下手したら、「来るべき孫登政権」の乗っ取り工作に見られるよ。
太子府の人事権を持ってるのは、やっぱり太子っしょ?
孫和の件についても一緒。
特に、渡邊先生説(「名士名士」っての)が正しいんだとしたら、
「来るべき孫和政権への道作り」とする方が、個人的にしっくりする。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 08:25:44
名士が好きか嫌いかじゃなくてね、
皇帝と名士・豪族出身の大臣が政権の主導権争いしてたわけよ
魏は見事に名士系の大臣に乗っ取られたでしょ?
呉も孫権がうかうかしてると陸遜みたいなのに乗っ取られたかもしれなかったってこと
>561
太子太傅がどういう動きをなすかって重要かもね。
孫和の時の太子太傅は吾粲だしね。
その前はカン沢だったか。
彼等の動きに孫権がどう対応していたか見てみるのも面白いかも。
陳寿は呉書に政治的な配慮も思惑もたいしてないんだから
陸遜を批判するならもっとはっきり書くと思うけど
孫権をバカにするため陸遜に配慮した
みんな難しく考えすぎじゃないか?
二宮の変は孫権派と孫和派の争いではないし
孫登と歩騭は仲が良さそうだし
孫登は孫魯班に憎まれる理由もなさそうだし
何が言いたいのかというと、結局、二宮の変とそれに続くきな臭い事件のほとんどは孫魯班のせい
正直全部俺のせい
569 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 14:03:46
>>567 どうしたらそんな結論になるのかイマイチわからん
それに魯班一人に躍らされた孫権や陸遜らみんな馬鹿丸だしってことになっちまうぞ
>>569 二宮の変に関連してる香具師らはかなり馬鹿丸出しだと思うが・・・
特に孫権は
>>569 まぁ、馬鹿丸出しは馬鹿丸出しだろう。
小娘一人の策略とは言わないが、所属した派閥の連中の小細工にまとめて引っかかった訳だからなぁ。
孫権は耄碌だろうが、陸遜なんてクマーされっぱなしだぞ。
>>571 陸遜も耄碌しててもおかしくない年齢だ。
しかし孫魯班はあれだけ権力闘争の渦中にいながら10年以上力を保持していたわけだ。
その間に失脚した人物の多さを考えると小娘(おそらく年齢的にも)と形容されるような人物ではないと思う。
もし周循が長生きしていたら対陸遜で活躍したのか魯班を抑えられたのか興味深い。
ダメだ…
某スレの影響で魯班と聞くとカテ公連想しちまう…
末期だな
孫魯班と孫呉班この二人に政治的つながりはあるんだろうか。
>>565 某昭列皇帝様のために彼が完敗した陸遜の悪口はあまり書かなかった
>>570 孫権は可哀想じゃないか?
諫言ってそれとなくするものだろ。賈クなんてすげー巧いじゃん。
曹操「子桓と子建どっちがいいかな」
賈ク「…」
曹操「どしたのよ。なんかいえよ」
賈ク「あ、すんまそん。袁紹一家のこと考えてぼーっとしてたっす」
それに比べて吾粲や陸胤・陸遜は不穏きわまるし、朱拠は空気読めてないし。
孫和派の諌めが下手すぎるから、孫権は誰も信用できなくなってしまった。
呂壱事件の後とか、宗預との別れを惜しむ時とか、なんかすげーせつないぜ。
と、孫権ファンの俺は思う。
>>577 孫権と蜀の使臣との逸話は結構あるけど劉禅と呉の使臣との逸話はないよね。
諸葛亮や費禕といった宰相級の人材と呉の使臣との逸話はそれなりにあるのに。
劉禅、影薄すぎ……w
579 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 18:29:10
>>578 要するに主権が劉禅の元にはなくて孫権の元にはあった、つうことだな
>>578 他国で劉禅のことが話題になってる例すらほとんど見当たらない…
581 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 18:31:57
ぶっちゃけ傀儡皇帝劉禅
582 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 18:37:55
カテ公が戦争を起こしたわけではないように、魯班も全ての元凶とまでは言えまい
あれだけ拡大・長期化した裏には、争いが起きるようなそれなりの下地があったはず
>>576 だったら臭わせるんじゃなくて普通にほめればいいやん
結局、二宮を同等に扱った孫権が一番悪い
>>583 普通にほめてるじゃん
匂わせるって、個人的解釈にすぎん
>>584 その意見に異存はない。
が、孫権はむしろ、ぎりぎりまで孫和本人はかばっている。
少なくても246年までは、孫和が関わったとして処罰された人間はいない上、
その人たちがいなくなっても孫和は皇太子の座を追われてはいないわけで。
(顧譚や張休たちの交州強制移住の名目は、
芍ハの役の論功行賞での不正っていう立派な理由がある。
そして、その件について文句を言ったヤツは、少なくても私には確認できない。
むしろ、羊ドウが「失脚して当たり前」的な発言をしている)
孫権の中では、孫和が皇太子であることは当たり前すぎて、
周りが「皇太子と魯王の待遇に差を付けろ」って言う理由がわからなかったのでは?
つまり、少なくても二宮の変(前半)における孫権の意識は、
「息子の教育方針を巡る意見対立」以上の何ものでもない。
そして、個人的には、
皇太子にすべき息子にスパルタ教育を施して何が悪い?
…と、思う。
それが、相対的に魯王を可愛がってるように見えちゃったのでは、と……
同じく、孫権ファンからちょっと長めの愚痴。
自分は二宮の並立に関しては
某所で見た「孫覇は孫和のスペア」て意見が一番納得いく。
孫登の死が孫権に与えたショックは相当のものだったと思う。
それは息子が死んだことへの悲しみもあるけど、
それまで築いてきた次世代への体制が一瞬で崩壊したことへのショックもあっただろう。
だから、万が一孫和に何かあったとき、すぐ代えができるように
孫覇を同等に扱ったんじゃないかな。
でも、孫和が健在ならそれでいいと思っていたんだろうし、
>586氏の孫権の中では孫和が皇太子であることは当たり前
ていう意見には同意。
孫権には二宮対立なんて起きることさえ予想できなかったんじゃないかと思うよ。
それは皇帝としては結果的に問題だったかもしれないけど、
孫権が全て悪いわけでもないと思う。
自分も孫権好きだから、彼への評価がちょっと甘いところも
あるかもしれんが・・・・・長文スマン
588 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 21:22:25
落ち着け
それでは孫権を弁護してるように見えて、実は「孫権は二宮を平等にしたらどんな結果になるか想像もできないアホタレ」と言っているに等しいぞ
そうせざるをえない事情があったと見るべきでは?
>>588 確かに弁護してるつもりでなってないかもしれない。
でも自分はどうしても
そうせざるをえなかった事情が見えてこないんだよね。
よく見かけるのが、皇帝権力強化のための一環だったというものだけど、
これには納得できない箇所が多すぎて、受け入れられないんだ。
あと、二宮はカン沢が太子太傅として生存している間は
大きな対立や問題が見えてないだけに、孫権の中では当初はうまくいっている
つもりだったんじゃないかと思ってしまうんだ。
二宮がおかしくなり始めたのは、吾粲が太子太傅になってからだし
陸遜・顧譚は吾粲と繋がりのある人物なのもあって、
どうにもそっちに気が向きすぎているのかもしれない。自分は。
ただ、孫権は赤壁の時も荊州問題の時もトップを二人にしようとしているし、
これは彼の癖でもあるんじゃないかと思う。
結果的には「二宮を平等にしたらどんな結果になるか想像もできないアホタレ」
になってしまうのかもしれんが。
ごめん、ちょっとやっぱり落ち着いた方がいいのかも。
>>588 > 「孫権は二宮を平等にしたらどんな結果になるか想像もできないアホタレ」
孫権は孫策の子を冷遇(というほどでもないかもしれないが)してたからな。
その可能性はないな。
しかしそれでもそういうことをやってしまうところが仲謀クオリティ!
陳寿が上奏文と前後させたりしていて時期がよくわからないのだが、
いわゆる魯王派というものが出来てきたのはいつからなんだろう。
それまで王を立てなかった理由を二宮の変と結びつけて考えると、
孫覇派ってだいぶ前から存在していたんじゃないかと思える。
宮廷を出さなかったから孫覇を取り巻く魯王派が生まれたんじゃなくて、
取り巻きの連中がいたからこそ宮廷から出せなかったんじゃないのか。
たとえば孫覇が王として封地で開府した場合、もっとまずいことになってたのでは?
楊竺って魯王派の大物のわりに、官爵や経歴が不明だよね。
二宮の変での暗躍が語られるのみ。
孫覇取り巻きの謀士の筆頭格で、官位は低かったんだろうか?
魏の呉質や丁兄弟みたいに。
>>590 孫権お得意の二枚看板を後継者問題でもやっちゃったのかも
あれほど呂蒙に嫌がられたのに
>>592 暗闘で史料がもみ消されたというのもあるかも。記録がないから嘘とは
言い切れないのが謀略の厄介なところ。
孫邵は呉の初代丞相なのに、伝が立っていない。注に残る記事も少ない。
陳寿が呉書の基本資料とした韋昭の『呉書』を踏襲したのが原因という。
韋昭は反孫邵派の張温の子分だったから、伝に立てない嫌がらせをしたのだと
いわれている。
みかけるね。そういう説。でも多分違うよ、それ。
仮に孫邵が名臣だったとしたら
韋昭一人が独立の伝を立たなくたって、事績はさまざまな形で伝わるはず。
正史の他の部分にもほとんど顔を出さない、
裴松之が参照した史料にもほとんど事績が残ってないって事実は全く説明できない
思うに孫邵は三条実美だったんでないか。
彼も明治維新後、国家元首とも言える太政大臣職についてるけど
彼の伝記を書こうなんて歴史小説家は一人もいないだろ?
要するに挙国一致で新体制を運営しなきゃいけないんで
能力うんぬんより、ひとまずどの派閥からも文句の出ない人物をトップに据えたって感じかと。
これを言っても意味がないと知りつつあえて言いたいのだが、
二宮の変については信頼に足る資料が残ってない可能性が高い。
たとえば、孫和および太子派にも大きな落ち度があったとして、
あるいは孫覇が英邁で孫覇派にも何がしかの道理があったとして、
その記録を後世に残すことをあの孫晧が許しただろうか。
>597
それを言い出すとキリがないからなぁ。
自分は呉録に関してはかなり信用しているが。
二宮の終着が250年で呉が滅んだのが280年。
この間が30年だけだからな、孫晧が皇帝だった17年の間に
二宮の資料に改竄が行われたとしても、十分書き直しが可能な範囲だと思う。
ただ、二宮が執着した時点で既に改竄か隠蔽が行われていたとしたら
後世の人間にはどうしようもないだろうけど。
なんにしても立証のしようがないことだよね。
史料が全て信用できるわけではない
ただ、だからと言って根拠のない憶測で埋めていいということになれば
歴史は好き勝手に改変していいことになる
>>596 どの派閥からも文句のでない人物は張昭だったが、孫権は孫邵をわざわざ
丞相にしている。孫権が張昭を嫌ったからにしろ、実力のない人物とは思えないのだが。
601 :
孫権:05/03/20 03:16:01
>>598 確かにキリがない。
けど、二宮の変に関しては本文より呉録に分があるような気がする。
後継者について密談するような立場にありながら呉主伝に名前の出てこない楊竺とか、あやしすぎ。
>>600 張昭を丞相にすると色々問題アリ。
そもそも赤壁時に降伏をすすめた人物がトップに居続けること自体が問題だし。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 04:10:30
呉書だけだと太子和や太子派に良く書かれている印象
呉録は太子和のスパイや陸胤の嘘など、太子派の黒い部分も書いてある感じ
>>602 そりゃあ孫権が二人を同格っぽく扱ったのが原因だからな。
太子派も危機感を覚えて相手を失脚させようと図っても不思議じゃあない。
>601
呉録の信憑性に関しては同意。
呉録がなく、本文だけだったら、楊竺の死亡時期が他の孫覇派とは
違うことも分からないからな。
他にも孫晧が即位した時に、二宮や孫和に関わった人間を孫晧がどう対処したかとか
やたら細かく書いてある。二宮に関しては相当詳しかったんじゃないかと思う。
>603
問題は、二人を同格に扱うよう制度を整えたのが、太子太傅のカン沢だって
ことなんだよな。
逆に魯王の傅の是儀の方がこの処置に反対している。
当初は太子側と魯王側の態度が、以降とは正反対になっている。
もちろん、両者の傅の態度が即両陣営の総意ではないけど。
>>577 二宮の頃に諸葛瑾や劉基が生きてたら…。
そういえば劉基の娘は孫覇に嫁いでたんだったか…。
せめて雇擁でも生きていれば…
孫登が生きてたら問題ない
>>607 うむ、その通りだ
もし孫和が継いでもその次は孫晧
実際笑えないわけですよ
どうしてもこんな感じのドロドロしたところを見ると
孫策時代の漫画か小説みたいな展開が懐かしく思えちゃう
>>608 孫晧が暴君になったのは孫和が廃されたからだという考え方もあるぞ
真っ当に孫和→孫晧と継ぐならきっと大丈夫、きっと
孫晧は一応頭いいからな……
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 22:41:54
でも変態だから結局変わらんな
無双からはまって正史〜演義〜その他と三國にのめり込んだが、
本によって武将の死に様違って興味深いな…
気に入ってるのは甘寧のおっさんだが、病死なのか戦死なのか
はっきりしないしさ
孫晧は生まれた時代が悪かった
>>613 それが普通じゃないか?
戦死とか誅殺されてない限りはよっぽど高位な官位につかないと
死に方記述されないような奴多い気がする
甘寧はおそらく218年に病死だろうな
山越について調べようと思ったけどもともとあんまり資料がないみたいだね
山越討伐じゃなく、山越と融和策をとろうという考えはなかったのかな
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 09:00:21
全体を束ねる明確な頭がいないようなので融和は不可能では?
そもそも山越って漢とかにに従おうとしない
よくわかんないような奴全部山越何じゃなかったっけ?
すぐに問題や叛乱を起こすような連中に融和政策は向かないだろ
武力制圧が一番有効
>>620 そうだよね武力制圧が叛乱起こす火種だもんね
>>617 討伐しつつ自軍に組み込むという記述が少なくない。
これが最大限の融和政策だったんじゃない?
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 18:46:14
漢民族に討伐されるのが嫌な山越は、海に出て遠くの島へ逃げたんです。
そうして出来た国が高志(こし、越)国、つまり越前〜越後あたり。
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 18:48:06
>>622 その方法で勢力を広げた人物の中で、有名なのがトウタクだな。
>>623 そのネタはよく聞くが、なんで「エツ」という音が「コシ」に変わるんだよ。
そんなのトンデモこじつけ以外のなんでもないと思うが、他に論拠あるのか?
>>625 和訳の段階でエツ→コシになったんじゃねーの?
ってゆーか、キッチリ文献に残ってることを、トンデモこじつけ扱いするのはいき過ぎだぞ。
>>626 なんで和訳でエツからコシになるかな?
そもそもその文献って何?
>>627 越→越す→こし
文献は正史の注だとおもた。探すのマンドクセ。
中国の国名や地名が、日本語の発音と一致しないのはこれだけじゃない。
漢→あや
唐→から
呉→くれ
呉の語源がクメールだとすれば、「くれ」はむしろ原音に近いことになるが。
呉の山越対策は大成功の部類でしょ
人口、兵力、治安すべて大幅に向上した
黄蓋がずいぶん役に立ってるよね
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 22:47:50
>>629 短期的に見ると、中国統一する余裕を削がれたのであまり成功とはいえないが、
長期的に見ると、江南開発が後の六朝へと繋がって大成功の部類だろうな。
今の上海の繁栄も、遠い昔の呉の地道な努力の効果かもしれん。
でもその恩恵にあずかったのは東晋以降な気が…
中国統一する気がそもそもなかったでしょ孫呉には
>短期的に見ると、中国統一する余裕を削がれたのであまり成功とはいえないが、
近くの武装集団ほっといて遠くの武装集団攻めるの?
まさに、腹心の病だな
統一云々言える立場は北朝の魏であって
六朝の始祖段階の呉や小国蜀は自衛と国力増強するだけ
ほう?
400年前に楚漢が天下を争ったのはスルーか?
後の北朝になる趙やら斉はただ楚漢に攻め滅ぼされるのを待ってたわけだが
呉の生産力や軍事力を過小評価する気なら
烏江の船頭が項羽に言った言葉を思い出せ
おまえの方がもっと勉強してこい
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 01:14:00
豪族とかは助かったし潤ったみたいなので無問題
おまえはイラン
>>638 項羽の拠点どこにあったか知ってる?
烏江の船頭ってwあれを鵜呑みにするのか
>>634 孫権時代には当てはまらないけど、孫策はその気でいたよね。
山越は呉に組み込まれたってことでいいのかね
八王の乱やら永嘉の乱やらの頃には山越はバラバラになってて
暴れるだけの力は残ってなかったって感じなのかな
武陵蛮はどうなったんだっけ?
>>644 後は南下していったり。かな。
中国南部〜東南アジア山岳の少数民族は漢民族の南下によって
玉突き的に押し出されて形成されていったと何かで呼んだな。
山越は今の雲南とかの少数民族の先祖の可能性もあるね。
山越って何系とか解るの?
>>619見たいな感じだと思ってた
そこ本気にとらない。
>>646は単なるでまかせ
チベット系だのツングース系だの人種議論は、史学というより考古学の分野ですから
史書だけ読んで論じられるようなコトでない罠
まあ、いかにも歴史を論じてるって感じで「ベトナム系」とか言って喜んでるあたり
三戦板らしいと言えばらしいが
>>648 中国がベトナム系の民族を「越」と称したのは紛れも無い事実。
無論、中国流の大雑把な分類であることは承知だが。
>>648 最後の二行がいらねーな。
板ごとの優劣なんぞで自己満足できる2ちゃんねらーらしいと言えばらしいが。
2ちゃんを2ちゃんで叩く人間の7割は
2ちゃんで論破された奴なんだろうねぇ
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 12:09:23
能書家の将軍、劉纂について語れ
なんで全く伝がないのか?
伝がないどころか、ほとんど記述がないやん。
でも車騎将軍。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 00:28:05
しかも皇帝のムコどの
でも詳細不明
劉纂かぁ…………。
孫晧に対する態度とか見てると、「皇帝迎合派」かな
と、個人的に思ってみたり
でも、陸凱VS劉纂のくだりはどちらも間違ってない。
危機意識において格段の差があるとはいえ、当面の話としては劉纂の意見も正論。
なにもいきなり攻め込もうと言ってるわけじゃないんだし。
>>656 うん。その時の論を非難はしないし、
皇帝(というか、時の権力者?)迎合が悪いとも言ってない。
ただ、孫魯育が死んだとき、彼女はすでに「朱公主」じゃなく、
時期的に言って劉纂の嫁じゃなかったかなぁ?
さしずめ、「劉公主」か……。
それを全然かばった様子がないっていうのが、なんか引っかかってる。
最初に嫁にしたのも孫権の「中の娘」だしさ。
実は、皇帝の身内になれるんだったら、相手は誰でも良かったんじゃ?とか……
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 22:06:38
しかし孫休っていろいろなHPで「名君」「善政」と書いてあるけど・・・それほどなのか?
>>657 今まで気付かなかったが、それは物凄く引っかかるな。
255年に孫儀の反乱(魯育はこれに連座)、翌年の徐州侵攻作戦で車騎将軍・劉纂の名が出てくる。
時系列からいって孫魯育殺害がこの徐州侵攻の前であることはほぼ間違いない。
つーことは、劉纂は自分の妻が孫峻暗殺事件に連座して処刑されたにも関わらず、
ほとんど時間も置かないで孫峻の軍事行動に車騎将軍として参加したことになる。
なんで失脚してないんだ? なにものなんだコイツ。
>>658 前任(の摂政)と後任がひどすぎるから、相対的に評価が上がってるだけ。
孫チンを倒して、政府を立て直したところまでは良かったが、
その後はアフォ二人に国政を任せて、自分は学問に熱中。
後世の笑い者になるような妙な文字を考え付いたり、
佞臣の言う事を聞いて、忠諌の士を遠ざけたりと、妙なことばかりしてる。
>>660 そこまで言うほどひどくない。
名君ではないけど善政は施いてる。
>>662 孫休がまともに政治したの、最初だけじゃねえか。
その後で国政任せたのが濮陽興と張布なんて、
悪い冗談としか思えない。
なぜかコーエーのゲームだと孫休・濮陽興・張布
の「政治」能力はそこそこ高い。万イクなんてひどいもんだが。
ってスレ違いか
>>664 ____
|___ | ヽ 、
_ _|__ | __| |_
へ | | |____| ヽ、 ; .- ̄ ̄-
( | || _______ "| レ' / ,-~"'i |
| | ||| ,―┐┌―― / / / | |
| | |||/ _| |___// / / | |
リ | | | _ _ | / /| | | |
| | | | | |_| | (_/ | | | |
| | |_,,| | |\ | ',~ i ', \__
リ |_,,|  ̄ ヽ_r \_/
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 01:14:14
劉纂 能書
でぐぐると意外な話が見つかるのだが
皇象と並び称されちゃってるが・・・
ますます何者なのか
呉書って、誰かが別スレで言ってたんだが孫皓のとこ以外は隠蔽とかかなり多いんじゃないか?
劉纂もそれに関わってる余寒
劉纂の人物…
驕るところのなかった劉勲?
私は、孫休については、ものすごくダーティーなオーラを感じているが。
一番胡散臭いのが、呉の歴史書に携わった人物の一人・周昭を処刑したのが、
孫休だってところ。
彼が残した論を読んでも、周昭は優秀な人物だった気がするのに。
そして、その処刑された理由が全くわからないというのも、
史書としては不完全。
ちょっと極端な論かもしれないが、
韋昭の『呉書』に載せる事跡に穴が開いてたとしたら、
それは孫休の時代にはすでに始まっていたのではないかと思う。
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 00:23:07
二宮あたりから孫休の頃あたりは隠蔽、改竄の嵐?
割り喰ったのは孫権かもね
二宮もいろんな角度から見られるようになってきたから
孫権の晩年の評価も少しは緩和されてるはず
少なくても呉ヲタ間では
陸遜が建業で執政してたら
二宮も大事件にならなかっただろうな
それに関しては流石の陸遜の能力も疑わしいだろ人間完璧じゃないからな
顧擁の長生きにかけた方が安全
諸葛謹・・・
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 18:52:26
陸遜が都にいたら、二宮はもっと大変なことになっていた気もしないでもない
中央に丞相不在になってしまったから
楊竺、全奇などの小悪党が動きやすくなった面もある
>>675 国家の重臣が軒並み荊州に出向してたからな。
平尚書事顧譚が、中央での実質的な宰相だったんだろうが、
若すぎて重みに欠けたな。
ロバ兄ちゃんがあと20年くらい生きてればもうチョイまったりしてたはずだよ
驢馬兄の孫権のたしなめ方はなかなか巧いしな
呂壱事件の時は距離置いてたけどな>ロバ兄
呂壱事件の時は潘濬がいたから、最悪の状況は免れたが、
顧擁ですら被害を被ったもんな〜
公孫淵の時は張昭が孫権と喧嘩してくれたしw
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 01:56:24
ロバの息子があんなだからなぁ
二宮ん時には両方に通じていたような奴だぜ
ロバもそんな息子に足引っ張られる予感
ロバの息子って孫権に「お前の親父と孔明、どちらが聡明だ?」って聞かれて「より優れた者に仕える事こそ知者の証でしょう」と答えて孫権を唸らせた奴だよね?
諸葛シユの驢馬って書いたの息子だっけ?
>>683 そうだよ
それみた周りがおもしろがって笑ったらしいけど、何がおかしいのか俺にはわからない
>>684 惇クス
まあガキがよくやったもんだって面白がったんじゃないかな?
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 11:26:44
いかにも南国の人らしいその快活さが呉の魅力だな
酒席のエピソードは山ほどあるし
孫策の許襲撃ってうまくいったと思う?
豪族抑えきれずあぼーんすると思うんだけど
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 12:38:39
赤壁なんだが、正史かじりたてみたいな奴って、たいした戦いじゃなかった、とか言うよな
今までは江夏一つ占領しきれなかった連中が、一気に江陵まで奪ったことの意義を理解できんのかね?
>>688 戦そのものが小競り合い程度だったのじゃないかと言ってるだけで、
意義が大きかったことはみんな理解してると思われ。
呉は建国時代が山だったような気が・・・
>>684 まんじゅうこわい、みたいな話だろ。
「之驢」と二字書き加えただけで、その驢馬は諸葛瑾のものになっちゃう。
孫権は書き加えることを許可したんだから、今更「やらねーよ」とは言えない。
皇帝のものを奪い取ったともいえるわけで、才知だけじゃなくて一抹の不遜さも示す挿話。
当時六歳だろ?
六歳の子が、大勢の大人の前で背中に張られていた「バカ」の紙に、
平然として「が張った」とか書き加えたらスゲッて思うだろ?
>>689 戦が小競り合い程度ってのもあり得んと思うが。
>>687 史実どおりぢゃん。
孫策に恨み持つのは許貢とその一味だけじゃないでしょ。
孫権後継直後に反乱した連中もいるし、そんな状況で許襲撃は難しかろう。
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 17:33:54
戦の規模としても、それなりに大きかったと思うけどな
隣からやってきた地方軍閥に小競り合いで負けて州半分失う丞相ってあまりにアホっぽい
いくら疫病とかあったにせよ
州半分失う云々は南郡の戦いの範疇じゃないの?
赤壁での影響を考えてじゃないの?劉表の兵がそのまま残ってたらまた違うでしょう。
698 :
695:2005/03/29(火) 18:02:01
>>697 まあそんなとこ
赤壁で曹操側に大きな被害が出たのでなければ、孫権側は南郡などまで落とせたか?ってことだね
壊滅的と言っていいくらい負けたからこそ江陵まで一気に攻めこまれたんじゃないか?
>>695 同意。
てか呉の人物や戦の評価は多分に相対的なものだから、
それを過小評価すると相手側の価値まで下がってしまう。
周瑜も呂蒙も陸遜も相手が大物だからこそ際立つ部分もあるしね。陸抗はガチだが。
孫策もガチで
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 20:18:28 ID:
でも実際赤壁での曹操はアホ丸だしに見えてしまう
なんであんな状態で進軍したんだ?
孫権が迎撃することは考えもしなかったのか?
疫病が流行っていたなら、なおのこと揚州まで行ったらイカンだろうし
>>702 炎症と同じ事をしてしまった。
実より名をとってしまい、冷静にならなければならないところで勝ちを焦ってしまった。
>>孫策の許襲撃
現実には難しかっただろうが、あの兄貴ならやりかねんとも思える
孫策儲の俺ガイル
>>702 怒りに任せて、徐州で戦略的意義皆無の大虐殺してるじゃん。
曹操は時たまアホ丸出しになるんだよ。
>>702 そのまま揚州まで行く気があったかは微妙じゃない?
とりあえず夏口にいって降伏しないなら仕切りなおす考えだったかも
>>706 そもそも曹操は劉備を捕らえることは考えてても、孫権と戦うことは考えてなかったんじゃないの?
魏書の劉備に船を焼かれて負けたとあるのは、元々の目標がそれだった所為でしょ。
例の降伏勧告文書は不自然なところが多過ぎ。
孫権を味方につけるため、劉備側でこさえた偽文書の可能性もある。
>>704 裴松之註を見ると何とかなりそうな気もする
>>708 蒼天以前から、あの文書の真偽が取り沙汰されてますが・・・
>>710 708じゃないが劉備側でこさえた偽文書というところでしょ
真偽という点でいえば江表伝自体がかなり怪しいんだよ
赤壁が魏書に多く記載されてないのは、曹操にとっても大失策だったからでしょ。
孫権の参戦を視野に入れてなかったという。
>>709 何とかなったかもしれん。
でも孫策の許都襲撃が何とかなっちゃうとそれまで以上の大乱世になるな。
曹操は官渡で負けるだろうが、かといって一気に滅亡するわけでもないはず。
袁紹は袁紹で、勝てば後継者争いがうまくまとまるってもんでもないだろう。
孫策も足場を固めなきゃならないし、さすがの劉表も動き出しそうだし…
>>713 >>さすがの劉表も動き出しそうだし…
まるで劉表がただ手を拱いていたみたいな言い方だな。
劉表は積極的に江東を狙ってたわけだが。
孫策が動くと、当然劉表は江東にのりだし、その仮定で曹操と同盟ということもありうる。
どっちにころんでも孫策にとっては茨の道しかないと思われ。
戦国時代は茨の道だよ
動いてなんぼよ
>>714 しかし、劉表が誰に江東の平定を任せるかといえば黄祖なんだよな。
黄射とケ龍じゃ、江東の平定は成らんだろう。
周瑜が守るんだから全く問題ない
>>714 基本的に劉表はただ手を拱いていたんじゃないか?
官渡の時だって袁紹と同盟してたけど動かなかったし
積極的に江東を狙っていたっていう程のことがあったっけ?
>>714 いや、あの程度で「動く」とは言わんだろ。
狙ってるだけで結局動かなかったじゃないか。(孫策急死の直後ですら動いてない)
劉表が本格的に動くとしたら、許都が孫策のものになって襄陽が脅かされた場合だと思う。
>>719 劉表の甥、劉磐が積極的に江東に侵入し荒らしてた。
孫権の代になって、太史慈を投入して、やっと静かになった。
>>721 しばしば侵入してたってのは逆に積極的とはいえないでしょ
それに太史慈が派遣されたのは孫策時代のことだ
>>722 太史慈の派遣時期は読み違えてた。スマン。
でも劉表は江東に野心があって、それを狙ってたのは事実。
諸葛玄を送り込んだこともあるし。
>>723 劉ヨウの時だっけ?
あれだけの期間で諸葛玄と劉磐だけでは大した野心ではないとおもうけど。
どちらも単発的だし。
>>705 田中芳樹だったかなあ、彼に言わせると、曹操は肉親の死で逆上して戦略判断を
三度誤ったそうだ。
一度は父親を殺されたことで徐州を攻撃したこと。これで陳宮、張バクの離反を
招いて支配地域も失いかけた。
二度目は曹沖を失った事。この年の遠征で兵站の限界を超えて揚州まで伸ばして
赤壁。
三度目は夏侯淵の戦死。自ら大軍を率いて漢中へ入ったが柳眉のゲリラ戦で撤退。
自分で出しておいてなんだが、一と三はまあ判るんだが、二はちょっと無理があるような。
ここのスレの住人は、官渡の頃の劉表が、
南荊州の支配者張羨と死闘を繰り広げてたことを知らんのか。
許都襲撃する余裕も、孫策急死後のゴタゴタに付け込む力も、
この頃の劉表には無い。
>>726 そんなことは知っている。
張羨の反乱だけが劉表の動かなかった理由か?
許都襲撃はともかく、孫策急死のゴタゴタに付け込む力はあったと思うが。
>>727 結果論だが、孫策急死が呉の崩壊を防いだ気がする。
戦力を温存できたから。
戦線を拡げてたらもっと酷いことになってやしないか?
>>727 張羨の病死後、後を継いだ張懌を平定した後に、
劉表は数千里の領土と十万の兵を持つようになったと、魏書劉表伝には書いてある。
劉表にとって、張羨との戦いは、曹操の対青州黄巾戦に匹敵する意味があったんじゃないかな?
それ以前の劉表は、大して強くない勢力だったってこと。
まさしく張羨相手に全力を出さなければいけなかった程度に。
>>728 それは微妙なところでしょ。
まあ、許都を奪った後に孫策が急死したりした場合、
それはもう惨憺たる事態に陥っただろうとは思うけど。
孫策がやらねば誰がやる
>>729 劉表伝と桓階伝で張羨反乱とその平定の時期が食い違ってないか?
俺はこの時系列をはっきりさせられないので何とも言えない。
少なくとも劉表伝を見る限りでは、
張懌討伐>劉表強大化>官渡で重い腰をやっぱり上げない
という流れで書かれているように思えるんだが。
所詮、田中芳樹ですから
>>733 陶謙にとって無害かつ無防備だった親父が殺された とかなら激怒するのも分かるけど、
敵国と戦っていた将軍が戦死して逆上→規制が効かなくなって盲進、なんてタダのアホだよな。
だいたい曹操自身、夏侯淵は猪突猛進するから身が危ないと感じていたし。
所詮歴史は結果論だからな
後のヘボ作家は、失敗した作戦=考えの足りない無謀な作戦と決め付けて
好きなように批評できる
>>735 そもそも劉備との漢中争奪戦は別に曹操が逆上したため起こったわけじゃないし。
田中芳樹は曹操マンセーだから、うまく行かなかった軍事行動=能力の欠如のせいではなく、逆上したせいだという擁護のつもりなのかもしれない。
あまりにも斜め上だが……
赤壁での曹操もジュズのときと同じ考えだったんじゃないの?
威光は示しておいて戦わずに双方撤退で何年かかけて体勢立て直して
再度進撃みたいな感じ、まともに戦える状況でもないから、戦おうとしてなかったけど
周瑜が火をかけて来たもんだから、撤退した。
南郡云々は遠征してる曹操軍はまともに戦えない奴多いのと周瑜がアホみたいに強かったってことで
そもそも荊州を保持している劉表が揚州を取る必要性ってあるのか?
孫策の許都襲撃って魏延の長安襲撃よりさらにきつい戦術なんじゃないか?
奪ってもどう守る?長安は函谷関、武関辺りを抑えれば、ある程度は抑えられるかもしれない
まあ蜀からの補給が滞ってあぼーんだろうけど
帝連れ帰っても、袁紹の手引きで劉表あたりが同族云々で攻めてくるだろうし、
やっぱり厳しいんじゃないか?
だってやるのは策兄とイケイケな仲間たちだぜ?
攻めてきたらブッ殺せばイイじゃん
出来るって
だって策兄だもん
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 08:30:24
赤壁の曹操がただのアホじゃないとするには、東に進軍した相応の理由がないといけない
ただ孫権参戦を想定しなかった、ではアホに変わりない
参戦しない、もしくは参戦しても勝てると踏んだことになる
しかし、江東を攻めておいて参戦しないと考えるのはそれこそアホなので、江東には直接手出ししないという前提で、かつ孫権は動かないと判断できるだけの要素が当時あった、ということだ
だって呉より広大な領土をもった荊州が
無数の人材とともに簡単に降伏したんすよ?
そりゃこのまま一気に行けるかも、なんて思っちゃっても、ねえ…。
あとは荊州より弱く、自分の勢力と比較する相手じゃない
呉や、さらに弱小の劉璋、張魯、関中諸候のみだし、
多少の慢心があったことは否定できないと思うけどな。
呉内部にだって降伏論があったわけだし。
呉の士大夫連中から保身の手紙が曹操んとこにたくさん来てたりしてな。
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 09:04:28
荊州については、あのときまだ劉備が残っていたことも注意かもしれん
曹操の東進が孫権を目標にしたものだとすると、劉備はスルーか?
劉備は荊州占拠時に
散々追い回されて瓦解してたからな。
>>745 降伏論があったというか、そっちが圧倒的に主流だったわけで。
孫権が参戦したこと自体が当時にあっては信じられないようなことなのだ。
曹操からすればもし孫権が参戦したとしても相手にならんと思ってただろうし。
曹操にとっての孫権は、孫策にとっての厳白虎よりザコだったかもしれん。
孫権がボロボロの劉備を旗印にせにゃならんかったことからもそれがわかる。
曹操>>>>劉表>>>>劉備>>>>孫権くらいの扱いだったのだろう。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 11:49:27
>>748 当時の曹操及びその部下たちは、揃いも揃って満足に彼我の戦力分析もできないタコだったのか?
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 12:29:37
>>750 兵力的には圧倒的な差で、火攻めと風土病で転んだといわれているから。
疫病の死者の方が戦争自体の死者より多くて当たり前の時代。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 13:24:59
>>751 不思議だ
風土病というが、呉への進軍前は影響が少なかったのか?
また、荊州や呉は別に異国じゃないんだし、曹操らもその存在や恐さを知っていただろうし、出征している以上それも考慮には入れただろうに
みんな赤壁で同時に発病したわけじゃないだろ?
あと、周瑜は曹操軍が強行軍で疲弊していることも勝てる理由に挙げている
孫子注釈者ともあろう者が、そういった要素も考えずに、さらに呉にまで進軍したのか?
風土病が本当に猛威を振るったのは水軍使うようになってからじゃないの?
船の上じゃ船酔いとかで体力落ちるだろうし
水もそのまんまで飲まなきゃならないだろうし泥濘地帯だと相当環境悪いだろうし
荊州獲って揚州へ進軍し始めたころからひどくなって
火攻めのころにはもう手の施しようもない状態だったんじゃない?
>>752 それを勝機として戦おうという周瑜がおかしいんであって。
君主孫権の年齢を考えても、降伏してあたりまえの場面。
江東に謎の忠義者集団が生まれていたことに気付かなかったのが曹操の誤算。
孫策と一緒に戦ってきた特攻野郎どもからすれば徹底抗戦して当たり前なんだけど、
理屈で考えると孫呉政権というものを存続させる理由ってのは特に見当たらないんだよね。
>>752 中原にとっちゃ荊州や呉は異国だよぉ。
史書で多少のことが書かれてあっても、実際来て見ないとその影響は判んないっしょ!
それに赤壁の所在は荊州で、江陵から夏口の中間地。劉備をにらむ位置にある。
周瑜はわざわざ荊州にまで出張って来たんだって。そりゃ驚くっしょ!
荊州は田舎じゃない
荊州は十分に田舎だぞ
学者も中原から疎開してきてるから集まってるんだし
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:53:07
平時は、官僚は荊州や揚州に転勤していたわけだし、北の人間だからって南方についてまるでわからない、ってこたぁなかろう
しかし、戦場は荊州にしろ揚州にしろ、実際にあんな降伏勧告したなら、迎撃に来る可能性は考えるべきだろう
それでも驚いたってこたぁ、その時点では孫権を滅ぼす気がなかったか、ありえないくらい周瑜の進撃が速かったか、だな
荊北は都や中原に近いし
田舎とは言えないと思う。
おまいら中華のデカさを考えろ。
北海道→沖縄よか遠いんだぞ?
曹操軍が大挙侵攻してくる前に機先を制して自分から出向いて曹操の船団
を焼いた周瑜の作戦勝ちという事?
場所からして曹操は侵攻を開始して迎撃されたんでなく、むしろ防御側かな。
だから全軍を舟に乗せていた訳は無いし、多くは陸上でポカンとしていた、
という事なら色々納得いく気もするけど。
劉備の存在は無視?
劉備の存在が何か?
曹操が劉備討伐で夏口へ向う途中で赤壁がおきるわけだが
孫権・劉備連合軍の迎撃と考えない理由は何?
>>765 曹操と孫権は親密とはいえなくとも、姻戚関係もあるし、敵対していた訳でもないんだな。
二張を通じて外交上のパイプもあったしね。
それがなんの因果も無い劉備と結んで挑んで来たわけだから、想定しにくい状況でもあった罠。
警戒すべきことではあったけど。
魏書には、赤壁は劉備に負けて撤退した、というようなことが書いてある。
おそらくは、周瑜の水軍による攻撃と劉備の陸軍による攻撃が並行して行なわれていたのだろう。
火攻め前に一度交戦してるから、
奇襲ばりに迎撃して突然火攻めを仕掛けたってことはないだろ。
最初の交戦で魏の水軍は指揮系統が安定しなくて周瑜の水軍に負けてるし。
烏林に引いてからしばらく対峙してたわけだしさ。
直前に孫賁が曹操に降伏を申し出て、
征慮将軍を与えられてるしな。朱治が説得したけども。
だから曹操はイケると思っていたんだろうな。
>>767 当時の劉備にそんな戦力ないよ。
劉備に負けたってのは名義的にそういう戦だったってことだろ。
戦力がないってことはないだろうけど
死力を尽くして戦ってはないだろうな>劉備軍
>>766 何か話がかみ合ってないし
>>762とは別人だろうが
赤壁で曹操が防御側なんて事はありえないだろといいたかっただけなんだが…
>>770 戦力はあった。火計後に陸地で追撃したのも本当だろう。
ただ名義的にというのは同意。若しくは陳寿の編修の問題。
>>773 火計後の追撃に加わったってのははあると思う。
しかし周瑜の水軍、劉備の陸軍という戦力比はありえんだろ。
一説によれば赤壁時の劉備軍は2000ほどの兵力だったそうな。
まあ疫病が流行った上に火攻めで潰走した軍の掃討ぐらいは
かろうじて出来る数ではあるかな。上手くやれば。
劉?の軍はどこ行ったんだろうって話にもなるが。
周瑜と程普がそれぞれ1万。
劉備軍もおそらく1万くらい。
現地での兵力差でいえば劉備軍は無視できるほど小さくはない。
>>774 混成軍になっていた可能性は強いとは思うが
周瑜3万で劉備1万強と考えるとそれ程馬鹿にした戦力ではないでしょ?
でも結局、劉備軍は役割も明確にならんほどの記述もないわけで
一万で参戦した=陸軍による攻撃を並行したとは言えんと思うが
一応776の補足。
呉主伝に周瑜と程普を左右の督にしてそれぞれ兵一万を率いさせとある。
それと劉備は劉gの兵一万余と合流とあるから、全部を動かせなかったとしても荊州から引き連れてきた兵と合わせれば一万前後は率いていたものと思われる。
>>778 赤壁で具体的な記述があるのは黄蓋の火計くらい。
あとは劉備・周瑜・程普が力をあわせて戦ったくらいしか記述がない。
orzかぶりまくり
とりあえずこちらも補足を書いておくと
周瑜3万・・・周瑜伝で孫権が3万の兵を準備したとある
劉備1万強・・・先主伝の劉g1万+関羽の船団+劉備の僅かな兵
>>778 一応、先主伝には水陸並行して追撃したとあったと思う。
あと山陽公載記にも劉備追撃のことは書かれてる。出来すぎた話だと思うけど。
しかし、追激戦自体がどこまで戦果を挙げたのかも分からないし
周瑜が赤壁の文句なしの第一功労者であることは確かだと思う。
寝ますノシ
>>781 ただ呉主伝を見ると周瑜1万、程普1万なんだよね。
残りは予備兵かあるいは1万じゃなく1万余で2軍あわせて3万弱ということなのかもしれない。
何が論点なのかよくわからん
劉備軍の功績の話なのか?
どこを基点にするかがそもそもずれている気がする。
赤壁戦単体で見るなら周瑜が功績第一なのは疑いようもないが
史書はあの戦を赤壁戦〜南郡(+荊州四郡)攻略までを一くくりに
しているんだと思うよ。
だから武帝紀はあの戦を対劉備戦であるように記しているんじゃないか?
括り方が、赤壁の戦いというよりは、
第一次荊州争奪戦って感じだよな。
>>784 孫権が曹操と戦うために劉備と同盟したというより
劉備が孫権に協力を要請して劉+孫連合軍を結成したと解釈
これで主力が呉でも周瑜が活躍しても
名義的に劉備が優先されたと・・・
本当に劉備が大勝したなら蜀書に賞賛されるはずなんだけどそれもないからなあ
>>784 逆じゃないか?
陳寿の書き方は基本的に赤壁戦〜荊州攻略までを一括りにしてるが、
「劉備に負けた」という武帝紀の記述だけは赤壁に限定してのことだ。
つまり赤壁の時点では劉備の援軍要請に孫権が兵を出す形で、名義的に劉備の戦。
それ以降は孫権が自らの意思で軍を繰り出したわけで、名義的にも孫権と劉備が別れる。
ただ、荊州貸与の問題からどの時点で軍が別れたかは両軍にとって曖昧になっていったのではないかと。
その「赤壁」の部分に一連の荊州争奪戦の戦果がまとめられているんだと思うんだ。
武帝紀は孫権の合肥方面の戦闘を先に持ってきて、赤壁を後に記述することで
孫盛に順番がおかしいと指摘されているんだが、
荊州方面に関しては赤壁部分以外の戦闘を端折っている。
時系列的には、赤壁戦〜南郡攻略戦の間に孫権の合肥への侵攻&撤退があるわけで、
本当なら赤壁戦〜孫権の合肥戦〜南郡攻略戦と書かないといけないんだけど、
それだと、曹操の敗戦を二度記述する事になる。
なので、荊州方面の戦役をひとまとめにし、先に決着のついた合肥の方を先に記し
荊州方面の戦役を最初の「赤壁」ではじめて、最終的な結果である「劉備が荊州を得た」で
締めくくっているんじゃないかと。
しかし劉備の劉キの使い方もすごいな。
曹操に追われた時に別働隊として合流させて軍を吸収。
荊州南郡を横取る時は旗頭に担いで正当性を主張。
江陵借りて南郡も一通り手懐けたら病死したことにしちゃうんだからな。
妻も子も捨てて逃亡し、曹操に追撃されて軍は2000にまで減ったのに、
孫権をけしかけて曹操を撃退し、周瑜が曹仁とやり合ってる隙に
劉?の軍や荊州軍残党を吸収合併しつつ4郡を掠め取るんだもんな。
そして周瑜が命を賭けてむしり取った江陵も手中にするし、
赤壁とその後の一連の戦いが劉備の戦いと称されても無理もない気がする。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 07:50:15
曹操の荊州平定に孫権が介入(侵攻)してきたのか
揚州まで平定しようと軍を進める曹操を孫権が迎撃(撃退)したのか
みんなはどっちだと思う?
後者だな。
曹操は事実上の降伏勧告をしてたわけだし。
後者。
それに程イクやカクが揚州へ兵を進めるのを諌めてるしな。
曹操が揚州へ進行したor進行する所だったのは確実かと。
結局劉備に負けたって記述は
その時点で官爵では孫権なんて比べ物にならないほど劉備は位が上だから
曹操側からしたら同盟軍って言うより
劉備が盟主の連合軍みたいな扱いだったんじゃないの?
まじか。
あんな流浪集団でも、昔もらった官爵だけで孫権の上に立ってたわけだ
…いい時代だったんだな。いろんな意味で
>>797 孫権は所詮田舎者、劉備はかつては中原で名を馳せた有名人という言い方も出来るわけで。
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 12:48:59
曹操を追い出した後の荊州統治については、あの時点では孫権はノウハウやコネを持つ劉備を頼るしかなかった
孫権は株主で劉備は経営者
だから経営者が勝手するのをなかなか止められない
なんで劉備を頼るんだよ・・・。そのころの孫権にとったら劉備は
ただの邪魔者だろうが
>>799 荊州統治に関しては劉備の影響力を考慮したというよりは、
対曹操を考えて劉備を影響下に置いとくことを考慮したとみるべき。
しかし結局は周瑜らの危惧どおり孫権の思惑通りとはならなかったわけだが。
>>800 ただの邪魔者じゃないよ
劉備がいないと何の大義名分もない上
当時割拠してた群雄で一番格下だし
劉備居ないとどっかに侵攻しづらいし
と釣られてみる
赤壁の頃の孫権が討虜将軍・会稽太守に過ぎないって、けっこう知らない人も
いるのかね?
劉備の左将軍・豫州牧に較べれば随分と格下。
そのあたりと曹操の名誉を考慮してあるのが、武帝紀の記述なんだろうけど。
呉書は孫権が会稽太守時代の時から不動の君主のごとく書いてるから
ややこしいんだよな
会稽太守なのに誰々をなんとか太守に任じたとか書いてあるし。ウソつけよ
赤壁の頃の孫権に荊州を統治するだけの後ろ盾はない以上
「劉備に頼ってた」のは事実だろう
魯粛構想の劉備同盟もあったしな。
後は劉備が曹操に頼った時みたいな気持ちかも。
ただ、荊州において既に名声を得てた劉備を殺して
当地を穏やかに支配出来たかなぁ
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 21:16:31
赤壁の戦いを見てオソロシク思うのは、
周瑜・魯粛は侵攻してくる曹操の撃退ではなく、はじめから荊州占領を目的としていたという点
片田舎の小軍閥のはずなのにな
彼らにとっては、曹操は自分たちを脅かす強敵ではなく、荊州占領にたちふさがる高い壁なんだよな
しかしそんな無茶苦茶がまかり通るってのはどうなんだ曹操よ
>>806 劉備を殺す意図はないと思うけど
関羽、張飛引き離して酒色におぼれさせて
帝みたいに祭り上げろみたいなこと周瑜も言ってたような気がするし
劉備を祭り上げての天下2分の計ですね、実現してたら孫権には理想的
だったのかも知れないけど。
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 23:14:56
ここで述べられてた赤壁論
「劉備の官爵が高いので、名義上劉備に負けたと魏書に記された」
というのはちょっと無理がある気がするな。
合肥の孫権軍なども含めて広い地域で劉備・孫権軍と曹操軍が対峙し、
劉備の軍、周瑜の軍もそれぞれ別々に陣を構えて、
一連の戦いの間に周瑜の火攻めもありつつ、最終的にというかタイミング的に劉備の攻撃によって曹操軍は負けて撤退したのではないだろうか。
華容道で曹操が語った
「劉備は計略を考え付くのが遅い。さきにすばやく火を放てばわしは全滅していた。」
という言葉が、実際に指揮をしていたのが劉備であったことを物語っていると思う。
>>810 華容道のは陳寿は採用していないし撤退中の出来事なんだが…
魏書の記述は曹操が劉備との戦の為に進軍し破れたから
陳寿が劉備をたてたからとか色々説はあるが真実は分からない
劉備の攻撃によって負けたというのは根拠が乏しすぎる
>810
>「劉備の官爵が高いので、名義上劉備に負けたと魏書に記された」
こういう見方が強くなってしまうのは、どうしてもあの戦を赤壁主体に見てしまうからだろうな。
劉備軍は確かに赤壁戦での活躍の記述はないが、曹操軍が撤退するところから
荊州攻略戦にかけてはちゃんと記述が存在する。
さらに大きく見ていけば、あの一連の戦は劉表死後の荊州の後継者問題の延長線上にあるともとれる。
そういう方向に持っていくためにわざわざ荊州四郡を攻略する前に劉備は劉gを荊州刺史に
押し上げたんだろうしな。
そして、最終的に劉備が荊州牧につくわけだから、あれらの戦は曹操対劉備の戦に孫権軍が参加した
形になるんじゃないだろうか?
膨大な軍を提供して曹操軍を破った呉側からしてみれば面白くない展開もあっただろうが、
この戦で呉は江夏を実質的に領地に取り込んでいる。
さらに南郡一つを譲ることで、荊州全体を劉備軍に貸したような流れにもっていけたんだから
最終的にはそれほど損はしていないと思うんだがなぁ。
>>810 「劉備の官爵が高いので、名義上劉備に負けたと魏書に記された」
別に無理ないよ。強いて言えば言い回しが変。
(1)「孫権の官爵が低すぎるので、戦の名義は劉備にあった」
というのがより正確なはず。
陳寿が後付けで劉備名義にしたわけではなく、当時からそうだったということ。
さらに言えば官爵の違いにプラスして、
(2)「元々は劉備の戦で、孫権はそれを助ける形で参戦した」
(3)「赤壁〜荊州戦で孫権の名は挙がったが、実を取ったのは劉備だった」
といった事実を考えれば、魏書の記述にもさほど奇異とは思われない。
ここまでの流れでいえば
>>787は(2)の説を補強し、
>>788は(3)の説に根拠を与えている。
劉備の攻撃が決め手だったから、というのは魏書の記述の根拠としてはあまりにも弱い。
>>805 太守任命ってのは実効支配の領域だからウソではないだろ。
曹操が来なければ不動の君主だけど、来たらただの会稽太守でしかなくなる。
それが当時の孫権の立場だったのではないかと。
>>812 「南郡一つを譲ることで、荊州全体を劉備軍に貸したような流れにもっていけた」
これが魯粛の天才的詐欺だったわけでしょ。もしこの口約束がなかったら大損だと思う。
それに大して損してないとはいえ、だからといってムカつかないかというとまた別の話。
結論
810の意見が一番、無理がある
今頃気づいた
なんだこの黄帝生年紀年ってw
>>815 どちらかというと劉備の天才的詐欺じゃないのか?
口約束があっても実効支配するのは劉備で
呉に返還したのも呉の武力介入の末の話だし
>819
もしあの時魯粛が南郡を貸していなかったら、劉備が実効支配するのは
時間の問題だったんだよ。
南郡が荊州に属している以上、荊州牧の肩書きを持っている劉備の方が
孫権より南郡への影響力は強くできる。
魯粛はそうなる前に劉備に南郡を貸すことで、借りを作ったわけだから。
劉備にしてみればここで借りを作らずに徐々に南郡から呉の影響力を排除していった方が
あとあとずっと楽に進める事ができたはずだ。
>>820 そりゃ名分論上の話でしょ。
そもそも当時の国力は孫権が劉備より勝っていたのだから、
孫権は普通に権力政治を行えばいい。
逆に劉備は、呉による圧力をはね除けて南郡を奪えないから、
京に赴いたりして外交的努力をし、南郡を確保したんじゃないか。
劉備は長いこと劉表の元にいたし、
荊州の正当な主の子・劉キを担ぎ上げてたから、
民を安定させるのに劉備の力が必要だったのかもな。
劉表の死、曹操の侵攻とかあって、民心は浮き足立ってたろうし、
それからさらに孫家が力づくで支配しよう物なら
交趾あたりへの流民がさらに増えたかもだし。
それにあのまま呉が南群取っても前線が長くなり過ぎるしな。
>>821 曹操の天子奉戴にしてもそうだが名分は重要だぞ
このとき荊州を実効支配できたのは劉備
廬江郡の雷緒らが数万人を連れて劉備に投降するなど
劉備>孫権と見られてた節もある
逆に孫権が劉備を恐れて婚姻関係を結んだと考えた方がいい
劉備は奪おうと思えば奪えたんじゃないかな
まぁこの段階で劉備が孫権と敵対するのはあまり得策でないと考えたんだろうけど
>821
全体的な力に関しては孫権>劉備であった事に異論はないんだが、
荊州にのみ限定すれば必ずしも孫権が権力政治を行えたとは思えない。
劉備の荊州牧は確かに大義名分上の話ではあるが、それを全く無視して
呉側が荊州を支配できるほどの力をもっていたとは言いがたいんじゃないかな?
この当時呉が押さえてたという各郡の太守を教えてくれ
調べたんだけど一部分からなかった
会稽太守:孫権(曹操が任命)
呉郡太守:盛憲(孫権に殺される)→朱治
丹陽太守:呉景(203年死去)→孫翊(キ覧と戴員に殺される)→?
豫章太守:孫賁
廬陵太守:孫輔(曹操との交渉が孫権に発覚し幽閉)→?
一番気になるのが廬陵なんだが
大義名分や正当性が重んじられるのはわかるが
結局のところ、呉が南郡を支配すると地理的に
南郡が劉備領に対して曹操への防波堤になってしまって
曹操の圧力を全部受けるのは得策じゃないと考えたんからでしょ
荊州を貸したって名分がある
→単刀会みたいに荊州を
呉に渡せと外交で言える
荊州を貸した名分がない
→完全に武力によっての略奪しかない
結果はともかく、劉備に対する荊州問題の当り方を
増やした事になると思うんだけど。
周瑜が生きてたら南郡は蜀攻めの拠点になってたぞ
829 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 12:44:09
どうだろうね
よくよく考えてみれば、劉表時代には孫権軍閥は江夏以西には行くこともできなかったんだし、江夏を通過できるようになっただけでも十分な成果だったんじゃないか?
830 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 12:49:45
貸し借りといっても本来なら漢皇帝の土地、盗っ人か詐欺師どうしの契約にしかならないからなあ
窃盗・詐欺歴の長い劉備が勝つのも当然だよなあ
あっす
>>829 いざ黄祖を破って江夏以西には行こうとした矢先に
曹操が動き出したんだよ
833 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 15:02:46
>>832 それは違くない?
黄祖破ったあとに軍退いてるし、太守にリュウキが入ってる
孫権がすんなり江夏以西に行けないのには変わりないよ
>>833 むじん訳さんの所では蘇飛と同一人物と思われる人物が襄陽攻めを行う関羽の下にいたことから、
孫権は黄祖を倒した後に江夏から撤退したのだろう。と、そう推測を立てていたな。
周瑜の天下二分計の算段について。
>>835 倭人は後漢代から会稽にも良く来てたらしいからな。
呉も倭人と交流があったのかな。おもしろいな
日本書紀では、日本と交流があるのは魏ではなく呉
日本書紀は鵜呑みに出来ないぞ。
言い伝えとかも事実のように書いちゃってるし。
841 :
839:黄天当立184年,2005/04/03(日) 02:14:49
勿論、わかってるよ。
とはいえ日本書紀は明帝紀を引用するなどして、
読み手に対して客観的判断ができるよう配慮されてるわけで、
我が国の初期の史書としては良くできているよ。
と、ちょっとだけ日本書紀を弁護しとこ
まあ日本の史書にも呉の名が見えるというのは、このスレ的には話題の一つとしてありかなっと
日本にも呉って地名があるしな。
中国の呉の国(三国時代とは限らないが)が
当時呉市があった地方の国と中国の呉に交流があったからとか
色々名前の出所の話はあるけど。
小学生の頃、日本と交流があったのは魏だと聞いてへこんだ記憶がある。
当時は蜀ファンだったから、「悪者と付き合うなよ!」などと思った。
でも日本と一番近いのは呉だよな
米作とか江南から伝わったんだろうし
呉と日本の関係は深いと思うよ。
もっとも付き合ってたのは九州や瀬戸内海の海賊たちだと思うが。
華南、朝鮮、九州、瀬戸内の海賊はその頃からつるんでたみたいだからね。
ぶっちゃけ、九州の人々は良くも悪くも呉っぽい感じ。
まあ九州あたりの人間はもともと江南地方から渡ってきたんだろうけど
感情的なところとかがいかにも江南の人間っぽいよ
酒席での振る舞いは呉書を見るようだしな。
言い分通らなくて家にヒキコモル江藤新平や西郷隆盛の振る舞いも
まるで孫権とケンカした張昭を見るようだ支那。
日本と一番近いのは朝鮮半島経由だと思うけどな
昔、別のスレで
「日本語には『呉服』なんて言葉がある。三国の呉と倭の交流があった証拠だ!」
なんて珍発言があったのを思い出した。
確かに大昔に江南と日本の交流があったのは事実らしい。
けど、記紀の中でも「呉」って言葉は「韓」「唐」と同じく
漠然と「大陸渡来のもの」って意味で使われてるので、
必ずしも江南から直接伝わったものとは決め付けられないんだよね。
ましてや「呉は呉でも三国時代の呉との交流の証拠!」なんて断定は不可能。
>>853 少なくとも応神天皇紀の呉は、江南を指しているよ。
神功皇后紀に魏書の明帝紀景初三年六月や正始元年などの記事を引いており、
このことから日本書紀の編者は三国の区別が付いていたことが伺えます。
ただし応神天皇紀の記事は時代も疑わしいし、日本の使者は高麗を経由!?して呉に赴いていますので、
この記事の信憑性は疑わしいと言わざるを得ませんが…
また呉服は、応神天皇紀三七年の記事。
呉の王が日本に与えた工女(ぬいめ)の
兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)という
四人の婦女の呉織に由来するという説があります。
もっとも、この記事も疑わしいですが…
日本書紀が編纂された時期は、聖徳太子の記事の例もあり、国家としての自立が芽生えた頃であり、
魏や北朝との朝貢関係を隠すために呉=江南、南朝を持ち出したのかもしれませんね。
>>853 珍発言ってほどでもないだろ<呉服
おれは呉に旅行したとき普通にその話を聞いたぞ
朱然の墓の副葬品をみれば、江南と日本の繋がりは明白だ。
age
>>856 朱然の墓の副葬品てなんだろ?興味津々。
後漢時代には、江南経由の海路ではるばる遠いローマ帝国からの使者も来てたらしいから、
普通に考えて、もっと近い江南と日本に交流があったとしてもおかしくないな。
>>858 もう何年も前に朱然の棺が発見されている。
正確には副葬品から朱然と判明したわけだが、当時の模様を知るうえでの
貴重な発見とされ……というか、これってかなり有名なはずなんだが………
>>859 知ってる。
住んでる町が朱然の墓のある都市と姉妹都市だから。
興味あるのは朱然の墓の副葬品。
もちろん朱然の墓から発見された名刺以外の品。
>>860 脇息や下駄。
一昔前の日本みたいだということで注目になった。
呉の武官の子は罪を犯して流されるケースが魏や蜀に比べて多い気がする。
豪族体制だからかね
この時代は大変だったんだねぇ
大義名分無しじゃ人は全然付いてこないだろうし実力だけじゃどうしようもない
そもそもある程度の家柄じゃなきゃスタートラインにすら立てないとは(いくつか例外はあるけど)
だれでもスタートラインに立てる今の時代はいいもんだ
そうはいっても大概の人間が搾取され続ける一生で終わるのは
今も昔も変わらないがな
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 12:28:31
死ぬまでどころか死んでも子孫の代まで農奴やら兵やらで居続けなければいけなかった三国時代よりはマシだよ
>>869 PC持ってて歴史語れるくらいの教育まで受けてて、それで搾取されとるとは言わん。
日本以外のこと言ってるなら、まあアレだが。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 17:13:35
呉に限らないけど、三国の名将たちは過酷な身分制度の上に成り立っていたわけで
スレの流れから外れるけど聞きたいんだけど
関羽ハン城攻め→荊州失陥
の流れで呂蒙が参戦したのっていつ?
徐晃が関羽撃破した後?前
>>873 関羽、樊城包囲。
関羽、救援に来た于禁を降す。
呂蒙、荊州攻略。麋芳ら下る。荊州陥落。
関羽、徐晃に破れ樊城の包囲をとき撤退。
関羽、荊州陥落を確認。麦城へ方向を変え更に西へ。
関羽、臨沮にて藩璋の軍に捕らえられ斬られる。
>>866 蜀や魏より多いのは
世兵制が原因だと思う
関羽の北伐ってかなりイイトコまでいってたんだよな。
漢中戦と連動してないみたいな評され方が多いけど、徐晃伝を見るとそんなことない。
呂蒙の荊州攻略の時点だと徐晃の軍勢は兵の質量からいって手も足も出ない状態にあったみたいだし。
もし関羽の北伐成功と同時に荊州を奪ってたら、そのまま関羽を降して魏に食い込めたかもしれん。
>>877 でも、関羽が樊城落として曹仁らが撤退してたらどうなるんだ。
その状態で荊州抑えられたら……魏に奪い返されるだけか。うむ。
>>876 徐晃の軍勢は質量とも良しとはいえんけど
その後に控えてる曹操の本隊がいるんだから
878のとおりにしかならんでしょ
と言うより徐晃の軍に完敗している時点で、関羽単独ではこれ以上の北上は難しいだろう。
呂蒙の行動云々の問題じゃなくて。
兵の質が劣っていた徐晃は偽の情報を流しながら軍を動かして関羽を牽制しつつ
時間稼ぎをし、曹操から派遣された軍が到着してから攻勢に転じて
関羽の本隊を撃破して樊の包囲も破ってる。
だから荊州方面で孟達・劉封軍が動くとかしてなんとか相手の兵力を分散させないと
どちらにしろ関羽の北伐は無理。ガチでやっても徐晃に勝つのは厳しいからね。
それに情報として魏と呉の連携が伝わってきた時点で、真偽の是非はともかく
なんらかの対処もせずに徒に対陣に徹して即断しかねた関羽の動向は将と
して明らかに問題。
その後の徐晃との戦いでも翻弄されたように、どうも局面での思考に鈍さを
感じずにはいられない。
このあたり、張飛よりも劣るんじゃないかとさえ思えてくる。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 09:39:54
もしかして、荊州に残されたのは、張飛と比べると益州攻めであまり役立たないと判断されたから?
まあ呂蒙と陸遜という当代切っての池沼2人が
関羽の油断を誘ったりもしてたから、
糜芳と傅士仁が裏切るとも思わなかった関羽が
後方をそれほど顧みなかったのも、
確かに油断してる時点でアウトだけど、仕方ないと言えば仕方ない気もする。
>>882 そんなやつが総大将をやると思うか?
俺が思うに関羽は自身の超人的な武力によって兵を鼓舞し、その兵を
うまく指揮してやることによって成果を挙げるタイプの将なんじゃないかと思う。
正面から敵とぶつかったら普通に戦うことができる一方で、
>>881のいうように
相手からの撹乱や正攻法でない攻撃、戦況の変化にはすごい脆い。
士仁
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 11:05:25
奇しくも同じ羽、項羽を彷彿とさせるな
項羽の羽は字だろ
参謀や副将を付けなかった蜀の人事ミス、というか人材不足。
于禁を捕えたときも関羽が船に乗ってやって来たとか書いてあるし、徐晃戦にも自ら行っているし。
何から何まで一人でやっている感じで、大変だなぁという印象を受ける。
そして相手はそうそうたるメンバーが揃ってるもんな。
メジャー所だけ軽く見積もっても
曹仁、満寵、于禁、徐晃、陸遜、呂蒙、朱然、潘璋、
んで裏で糸引いてるのが司馬懿と。
関羽一人でどうしろって問題だわな。
>>888 関羽がワンマンて全部自分でやんないと気が済まなかったとも考えられないか?
関羽の性格からして
>>881 即断しかねた理由を「無能だから」とするのは不自然だろ。
陥落寸前だったからこそ包囲を解かなかったとも考えられる。
それに徐晃の増援は最終的にかなりの大軍になっている。
徐晃伝の流れを見ると、徐晃は逐次投入された戦力を慎重に合流させ、
軍の規模が勝利を得るに足るだけ整ってから一気に攻勢に転じたらしい。
いかにも徐晃らしい戦術だが、よく考えればこれは救援軍の戦法ではない。
樊城への救援である以上はこれが陥落する前に戦いを挑まねばならないはずで、
もし樊城が落ちていたら「曹仁を見殺しにした」と非難されてもおかしくない。
つまり関羽に増援が来ないこと、さらに荊州を失うことを知っていなければ、
態勢が整うまで待つという悠長な戦術に徹することは不可能だったはずだ。
何が言いたいかというと、やはりキーマンは呂蒙ってこと。
関羽の失敗も徐晃の成功も、この戦においては呂蒙の掌中にあった。
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 12:45:03
>>884 関羽そのとき何歳だと思ってるんだ
項羽は二十代だから可能だけど関羽じゃもう無理だろ
荊州統治をさせたのは人の上に立てる人物がいなかったからでしょ
張飛じゃ局地戦以外では使えないし内政ガタガタ、配下の信頼なしで
こういう役は出来ないだろうし趙雲は格下すぎ文官を頂点には持っていけないから
信頼できる中で一番の武将の関羽にお鉢が回ってきたんじゃない?
>>890 実際、そんな名のある人物は荊州に配置されていない。
呉が三郡を奪ったときを見ても、郡太守はあっさりと降伏したり騙されたりするようなのばかりだし。
名のあるって……結果論じゃねーか
>>894 名のあるって書き方がまずかったか?
当時の荊州に諸葛亮や法正、張飛・趙雲・黄忠・魏延らに比する人物がいたと思うか。
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 13:02:40
ところで孫権の評価高すぎ
荊州はもともと孫権が生まれ育った地だろ?
ましてや親父殺した仇敵の劉表をなぜ本気で攻略しなかったんだ?
国境付近でのいざこざはあっただろうけど
周瑜はじめあんなに勇将、知症がいたのに。
曹操は親父ヌッコロされてちゃんと報復したじゃん。
やつは劉章ぐらいの評価が妥当だと思う。
マターリいこう
ところで益州の劉エン親子って過小評価されてない?
>>895 まあ戦略の要所を任せた関羽自体が劉備の足元にも及ばないから
ホントは荊州に劉備が残れればもっとよかったと思うんだけど
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 13:27:00
>>896
確かに孫権の評価は高すぎると思う。
あ い つ は 何 か し た か ?
呉主伝読み返せ
曹操以上に後の大陸に大きな影響を与えたわけだが
>>904 イメージだけで語ってるんだから一度も読んでないんでしょ
江南を漢人のものとしたのは、これ全て孫権一人の功績であった。
孫権いなかったら東晋以降の南朝は存在し得なかっただろうね
孫権が異民族討伐して江南を開いてなければ
江南なんて山越なんかの南方系異民族が主で、
漢民族のいる場所なんて疎らに点在してただけだったからな。
それに三国時代以降、南方の国家が北を狙う時は
この時代の戦略が活かされてるわけだし。
まあ実際手足となって働いたのは配下だし、
だから孫権何もしてないとか言いたいのかも知れないけど、
命じたり判断したり許可したのは君主の裁量なわけで。
豪族勢の力も大きいから孫権ひとりの手柄だと言い切れない部分はあるけどね
次は孫権が戦にあまり勝ってないからとか言い出しそうだな
>>912 孫策が一族皆殺しにした陸康の親族である陸遜を率いているから
豪族の力を孫権の手柄にしないのはおかしい
そんなんじゃ君主なんて何も評価できんじゃないか
有能な部下をちゃんと使いこなすことが君主の評価だと思うけどな。
孫権は人材の使い方は抜群だろ。
呉は世兵制・軍事職の世襲など魏蜀に比べると豪族の独立性が高いってこと
むろん豪族連合政権をまとめていた孫権は評価しうる手腕を持っていたと思う
孫権死後の呉の状況を見ればその手腕は明らかだろう
ただ豪族勢を「孫権の部下」としてひとくくりに孫権の手柄とはできないように思う
豪族の手柄って何?
顧雍と陸遜の手柄は孫権の部下としての手柄じゃなくて
豪族勢の手柄になるんか?
呉も後半は皇帝の絶対化が進んでるんだけどね
じゃなきゃ二宮の変があんな大惨事にならんだろ?
豪族連合政権をまとめつつ力を弱めたからだろうね
>>917 豪族の独立性を言うのなら、陸遜はろくでもない人物ってことになるな。
二宮の変で失脚ないしは刑死した連中は「孫権の部下」と考えれば名臣。
しかし「豪族勢力」と見なせば魯王派と何も変わるところのない奸臣どもだ。
921 :
920:2005/04/06(水) 19:28:38
>>918 陸遜伝に付す陸抗伝には、陸抗は陸遜が死んだときに兵士五千人を受け継いだとある
また、陸抗の死後息子の陸晏らが陸抗配下の兵を分割して受け継いでいる
つまり世兵制は依然として継続されており「後半は皇帝の絶対化が進んでる」
ということはない
>>920 後継者問題に関してはそりゃ陸遜は「孫権の部下」として上疏したんでしょ
中央(つまり孫権)から見て「豪族勢力」と見なされたかもしれないことはしょうがない
呉の制度がそうなっちゃってるんだから
>>922 皇帝の絶対化ってそういう意味じゃないだろ。
ぶっちゃけた話、呉の豪族の独立性ってのはまやかしだと思う。
むしろ非豪族の連中が豪族制度を利用して国政を動かそうとしたことが問題。
しかしそういう状況であっても有力豪族が豪族として動いた様子は見られない。
陸遜なんか、自分の豪族としての立場に無神経といえるほど「孫権の部下」に徹している。
ただし孫権からすれば呉はあくまで豪族の集合体でしかなかった。だから事態が混乱する。
結局、豪族たちには豪族意識がないのに孫権にはその危惧が強かったという齟齬が晩年の問題を生んだ。
そういう意味では、呉=豪族という一面的な見方は呉のあり方を見誤る。
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 22:47:24
西晋末期の江南を見ると、江南豪族は君主を「擁立してる」という感覚があったように見受けられるね。
まあその時は北の名族に実権握られちゃったが
このスレにはいないだろうけど
呉=豪族のイメージが先行しすぎて
豪族と孫権がまるで元老院と執行官、王みたいなかんじだと
思い込んでるようなやつがいるかもしれん
>>922 >陸抗の死後息子の陸晏らが陸抗配下の兵を分割して受け継いでいる
分割してる時点で皇帝の意思が介入してると思うのですが?
心情としては一人に大軍を握らせたくないっていうな
>>924 いや、結構敵愾心があったようだ。顧栄が一生懸命説いてまわってようやく、それでも実権握れないから反乱が起こるんだが
擁立してるっていう意識より、「もっと土地のモンを大切にしろやゴラァ!」だったと思う
晩年の呉は豪族の力を削いでく政策だったな。
呪い殺されるなんて孫策って結構ヘボイんすね
でひゃひゃひゃ
孫権時代:豪族だが孫権の臣下
↓
晩年:二宮の変を経て政府が混乱状態に
↓
豪族の独立性が強まる
って感じか
末期は中央の収奪が厳しくなったために兵や民が屯田を捨てて商業活動に励むことになり
それによってより一層独立性が強くなったという感じ
ウキツがよくわからん
>>926 陸抗がいい人だったので長男だけに兵士を受け継がせるのは忍びないから
兄弟みんなで分けなさいと言い残した結果かも
いや別に根拠のない妄想ですスマソ
>>931 太平道や五斗米道などの道教の源流になる宗教を大陸東側沿岸を中心に広めた始祖。
とりあえず于吉(ウキツ)と干吉(カンキツ)という2人がいるようだけど、
これは同年代に同じ道教の教祖であることから同一人物と見ていいらしい。
順帝(在位125〜144)の時に、弟子の宮崇が太平清領書を朝廷に献上してる。
受理されたとも、如何わしいから拒絶されたとも言われてるけどな。
桓帝(在位146〜167)の時に他の人物によって再推薦されてるから、どうやら拒否されてたっぽいけど。
どちらにしても125〜144年の間に、朝廷に自分らの教えを採用するよう持ちかけていることから、
当時にしてかなりの勢力と影響力を持っていたと考えられてる。
ということは始祖である于吉は、その頃すでにかなり大きな宗教団体の指導者になれるほどだったわけで、
一番遅い144年に少なく見積もって40才だったとしても、孫策に殺された200年頃には100才弱、
そう考えるとどこまで本当か分からなくなる人物。後漢書に出てる。
軍事や政治とは切り離された思想集団だったから、史書には記述が少ないんだよな。
これぐらいでいいか?
正史の孫策の死因は暗殺じゃなかったかな。
それが、「一代の英雄孫策が暗殺じゃあ格好つかない」という心情から助かったあと
仙人に呪い殺されるエピソードが加わったとか。
暗殺に倒れるのと仙人に殺されるのとどちらが格好つくかは、現代の日本人と近代以前
の中国人とでは違うんじゃないかな。
>>934 許貢だっけ?
小覇王って評したのがこいつだった気がするんだけど
936 :
935:2005/04/07(木) 09:07:49
項羽に比すって評した
小覇王の元ネタってことです
于吉はエロイ人だったんですね。
さらしはげ
于吉は殺したけど死因は暗殺。
それに孫策は演義では猛将だからな。
一時代を築いた強い人間が
簡単に暗殺されてあっけなく死んでしまうのは
話的に面白くないと思ったのかも。
それか後の時代は道教が隆盛を極めるし、
それの源流となった伝説の人物を斬ったんだから、
そういうことすると相応の報いがありますよって
ことにしたかったのかも知れないな。
そこにしびれるぅ!あこがれるぅ!!
>>934 933に対して言ってるなら、もう一度良く読んでみれ。
孫策の死因については何も言ってないぞ。
あくまで于吉が孫策に殺されたと言ってるだけで。
孫堅ってもし本当に玉璽見つけていたなら、何に使おうとしてたんだろう?
まさか袁術のごとく皇帝僭称なんてやらんだろうが、
ある程度勢力拡大して信望を得た時にここぞとばかりに取り出してなんか名分に使うとか
荊州取って北上して、
洛陽(宮廷)に入る大義名分として使うんじゃね?
だいぶ前も同じような話があった気がするけど。
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 23:47:53
漢王室に返却して、漢王室への忠烈心を世間に示す
だれだよ
玉璽井戸に捨てたのは
てか、一緒に身を投げたのは
そもそも井戸になんか捨てるはずねーじゃん
強奪したのを「井戸にあった」とウソついただけだろ
>>947 強姦されたくない宮中のやんごとなき女性が井戸に身を投げたんだよ…。
演義のこの洛陽でのくだりは長坂破でのビ夫人との対になってる。
演義よく読め(;´д`)
演義の話だったの? そもそもの元ネタは韋昭の「呉書」にある話で
そこには「井戸にあった」と書いてあるけど実際は…? っていう話じゃないの?
井戸の中ではなく、宮殿の梁の上に玉璽があったという説も存在する。
演義ばかりでなく、いろんな資料もよく読め(;´д`)
>>948 >演義よく読め(;´д`)
スレタイよく読め(;´д`)
遷都した跡になんで玉璽があるんだ?
あんなもん勝手にもちだしたり
孫堅軍が横領したりできるのか
怪しい話だと思うけどなあ
いくらあわてて遷都したからって、持って行き忘れていい物と悪い物があるだろうに
玉璽を紛失しましたなんて言ったら、皇帝の象徴うんぬん以前に
実務の方で大変だよ。勅令文書作れないんだから
あれは実務に使うものじゃないんじゃない?日本で言ったら三種の神器みたいなもんでしょ
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 14:06:52
実務に使う皇帝の六璽と伝国の璽は別物だよ
孫盛だかが誤解してたな
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 19:45:44
伝国の璽って始皇帝が作らせたやつの方でしょ?
そんなの実務に使えるほど耐久性ないんじゃない
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 19:58:59
でもずっと受け継がれたことになってるよ。
紙に判を押すくらいの作業なら、素材が金だから大丈夫だと思うよ。
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 20:32:39
伝国の璽の素材は玉だぞ
そして即位儀礼みたいな時しか持ち出されなかったらしい。
事務用に別の璽があったんだよ
あと当時の判の使用方だが、木簡を綴じて封印するときの封泥に押していた
間違い杉
板違い気味ながら質問
戦国時代の楚と三国の呉の領土って同じようなものですか?
実務に使う皇帝六璽と国伝璽は別物らしいよ
皇帝行璽:皇族、功臣を封じたり論功行賞を行うときに用いる
皇帝之璽:恩赦、聖旨を下すときに用いる
皇帝信璽:召集、動員の時に使う
天子信璽:対外動員、外夷召集に用いる
天子之璽:祭祀に用いる
天子行璽:外夷を封じ、賞を行うときに用いる
以上が皇帝六璽で実用品、対して国伝璽は
天子の位に正当に着いているというしるしで、もっているだけ
(秘本三国志から抜粋)
>>965 一口に戦国時代の楚って言われても・・・
最盛期は漢中の辺りまで行ってたみたいだし
呉と違ってそこまで南方へまでは進出してないから、結構違うもんだと思う。
楚は呉より北西まで領土がある代わりに南に狭いって感じでしょ
そういえば楚もなんか王族とかの自己主張強くて国内がまとまってないこと多いような・・・
南方人の特性なんだろうか?
コメ文化の特性だ。
水の多い地方は水利も集落単位だから、集落の独立性が強いのだ。
>>964 どうも
「呉が積極的な攻勢に出られなかったのは人口不足が原因」みたいなのを見て
その割には楚はやたらと積極的だったなぁと思ったもので
領土がそもそも違うんですね
戦国時代の楚は徐州も領してたな
>>967 まあ
>呉が積極的な攻勢に出られなかったのは人口不足が原因
これがそもそもおかしいような
秘本か何かの「蜀の人材不足、呉の人員不足」ってやつが元ネタか。
孫権が皇帝になった頃にはそれほど深刻な人員不足はなさそうだが。
創業期は笑っちゃうくらいの人員不足だけどな。
人口不足でないなら、何でわざわざ夷州まで人狩りに行くんだよw
三国時代で戦線が膠着して、
中原が戦乱に晒されることがなくなったから、
揚州方面に疎開してた人が帰ったり、
交州に逃げてったんだっけか。
呉は内部に異民族問題抱えてたからとかで。
次スレってもうたってるの?
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 12:22:41
孫権が掌握する人口が少ない≠呉の人口が少ない
980踏んだ人が次スレ立てれ
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 19:28:19
978
後漢の戸籍調査だと呉の領土になる場所の人口は結構少ないしね。
人口はやはり少なかったでしょ。
終了
後漢の戸籍調査はアテにならん