1 :
無名武将@お腹せっぷく:
【神】
劉備:宰相である諸葛亮に息子が役不足ならあなたが皇帝になってくれと言い残す
→諸葛亮は臣下である事を貫く
【凡人】
袁紹:美男子である三男袁尚を選んだ結果、長男が宿敵と組んだりして最終的に滅亡
曹操:最終的に次男に決定したものの以前から続いていた三男擁立派との争い引きづる
秀吉:宿敵の家康や政宗に息子の守り立てを頼んだ結果家康に裏切られ一族滅亡
【糞】
吉宗:嫡子が池沼なのに廃嫡せず無理矢理後を継がせた
劉備に関しては裏切らないための予防線を張ったという学者もいますが
一族より信頼できる部下を大切にするというニュアンスの故事を多く残す
劉備ですから一族以上に諸葛亮を信頼していたのが実態だというのが私見ですが。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 10:10:44
北条氏の場合は、あれだけ息子が多かったのだが、全て無能だったのだろうか。
尼子氏の場合、親父が急に死んだので、息子を育てる間が無かった。
今がわしの場合、氏真以外の人材はいなかったのか?
江戸時代の人間引っ張ってくんなよ
後継者問題なら上杉・武田にも言えることだな
袁紹は【糞】の部類だろ
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 12:44:36
孫権も糞だな
7 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 13:58:36
子脩と公徳の天下の覇を巡る戦いが見たかった。
無知ですまんが公徳って誰の事なの?
マンガの架空キャラな
スレ違いだ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 19:03:58
【糞】に最上義光入れとけ
伊達輝宗は神でしょうか?
斎藤道三なんか糞の極みだな
13 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 00:41:22
先見の妙があっただけでも普通以上でしょ>輝宗
孫パパ、策は神だろ
劉備は糞だと思うぞ
孫パパ?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 11:12:12
>>15 諸葛亮が皇帝にならなかったのは劉禅が皇帝たる器だったから。
・劉禅の失態といえば流言で一回呼び戻した事だが諸葛亮の過酷な刑罰が原因に
なっているので相殺
・諸葛亮に全権を任せ象徴的な存在に甘んじる度量
・臣下を憤死させているが待遇が不満で裏切ろうとした揚儀なのでガチ
・魏軍に追い詰められても無駄な悪あがきをして人民を犬死にさせず降伏した的確な判断力
よって諸葛亮は劉備シンパの反感を買ってまで皇帝にならずとも国家権力を自由に行使できたので
宰相の待遇になんの不満も無かったと考えるのが自然。
むしろ皇帝になってもいいよと選択肢を広めてくれた劉備は【ネ申】
19 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 11:23:08
>>15 孫堅は後継者について深刻になる前にあぼーんしたので対象外。
孫策は実質孫権しか選択肢が無かっただけ。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 11:31:40
袁紹のパターン
武田信玄:父信虎が弟ばかりを可愛がった為父親を追放して君主に
織田信長:父親が不器用で母が弟ばかり可愛がる。信長は弟が何度も地位を狙って
争おうとするのでやむを得ず殺す。
徳川家光:父秀忠が優柔不断で生母同士が争い家光自身は自殺も考えた。結果弟を殺す。
んで実は家康も秀吉と同じパターンで政宗によろしく頼むと言ってるんだが政宗が
律儀に裏切らなかったんだっけか?やろうと思えば出来たけど
21 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 11:36:50
>>20 伊達政宗は父親が捕虜になった時父親ごと銃殺して勝利をおさめたほど恐ろしい人物だったからなw
だから輝宗は神なんだろ
24 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 14:53:08
劉禅は無能だが無害
25 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 14:57:25
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 15:18:21
>>25 はあ?どこが?
正史にちゃんと記載されてるだろ。
蜀拠りの意見を何でも演義演義という池沼が多くて困るよ、三戦豚は。
劉禅が黄皓を遠ざけれなかったのは、−
28 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 16:24:49
>>27 黄皓に関しては姜維の北伐を抑制していたあたり費イの方針を継承しているという
見方もある。当時としても諸葛亮と違って政治理念の無いただの侵略に過ぎない
北伐に気勢を上げていたのは姜維ら将軍連中ばかりであり内政担当者らは国力回復の
追いつかない戦争の繰り返しを疑問視していたわけで。よって黄皓は彼らの支持を
得ていた可能性もあり抑え役の董允もいないのでかなりの権限を握っていたのでは
ないかという説もある。
つーか、蜀の滅亡自体がトウガイの奇襲を見抜けなかった姜維のヘマが原因だし。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 16:31:38
>>28 姜維が戦争起こしまくってたのは彼自身が魏の降将だから諸葛亮死後は肩身狭かったって説もあるぞ。
ってスレ違いだな。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 19:23:51
ようはあれか
劉禅は張魯と同じレベルか
劉禅が蜀を30年も保てたのは、司馬懿が滅ぼそうとしなかったのも一因かもな。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 20:59:21
>>31 滅ぼそうとしなかったんじゃなくて滅ぼせなかったんだろ。
曹叡が諸葛亮が死んだ途端やりたい放題やってあぼーんしたもんで
それを境に曹爽には権力奪われるわ公孫淵や諸葛誕が内乱起すわ呉と
戦争になるわで蜀どころじゃなかったの。
>>32 その考えもある。おれとしては、
仮に司馬懿の野望が諸葛亮生存時から持っていたとしたら、蜀を消せば一気に情勢
が傾くと思わないか?統一されたら自分が魏を乗っ取る隙も出来難くなるのでは?
たしかに曹叡がやりたい放題で動けなかったのも事実だが、司馬懿が何時から野望
を抱き始めたのかによってまったく違ってくる。
>>33 なんかずいぶん都合のいい考え方だな。
司馬懿は蜀を落とせなかっただけ。
まあムリに落とす必要もないと考えてはいただろうがな。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 21:16:20
劉備も実質
劉禅しか選択肢なかっただろう?
劉封が生きてたら後継者問題にもなってたか?劉備も劉禅が皇帝資質を持ってないとも感づいていたかもしれないのだから。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 21:26:44
日本語おかしい
38 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 21:33:58
>>33 クーデターってのは内側から潰してかないと背後を狙われる。
あそこで無理攻めしてたら誰かに讒言されて討伐隊や刺客送られてたかもよ。
司馬懿を警戒してる魏臣なんか山ほどいたからね。
>>38 無理攻めってどこを?蜀を無理攻めなら刺客送る理由がわからん。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 08:11:26
劉備は糞だろ
後継者争いが起きなかったら神って事だろ。
後継者争いで勢力減退が凡人。
一番下は余計だな。
親族から裏切り者が出て勢力消滅の袁紹は
44 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 13:10:08
劉備は選択肢ない
45 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 13:26:59
親が子供を贔屓して家督を決めることはありえない。もっと現実的。
極論すると、親ではなく家中が決める。
信玄:親父の反体勢力に担ぎ上げられ、親父追放。(後継者争いの濡れ衣をあえて被る)
信長:比較的父親のサポートが強い状態で家督相続したが、
後継者問題が起こったのは信長自身の問題(部下がついていけない...)
家光:徳川3代目。太平の象徴。どんなに無能でも絶対長男でなければならなかった
秀吉:選択肢が他に無いし..
46 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 15:27:11
>>45 秀忠は凄まじいサイノロだったろw
劉表みたいに豪族の元締め程度しかなかったわけじゃあるまいし。
春日局の必死の説得でようやく将軍にはなれたものの
家光に切腹を命じられるまで忠長が我侭だったろ。
後秀吉はもともと成人していた甥の秀次を嫡男としていて秀頼が生まれた途端に
廃嫡して殺してるんだぞ。何が選択肢がないだ(プ
知ったかは何でもうなずいてくれるキャバクラの姉ちゃんとしてろ
47 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 15:31:35
48 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 15:33:57
>>46 秀吉は秀次を関白にまでつけてたのに酷すぎたよなw
後継者に関して一番神は元就じゃねえの
息子三人とも優秀だし跡取り息子が自分の存命中にあぼ〜んしたけど
下の息子がアホ孫をしっかり補佐したし
元就の偉かったところは晩年生まれたガキを三兄弟+娘婿の宍戸に対して
取るに足らないものとして明確に格差を設けたことかな
それが出来んでぽしゃった香具師もいるし
あと決して仲のよくなかったというか悪かった三兄弟を三本の矢の故事のごとく
自分の没後まで協力体制維持させたのはすごい
50 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 16:38:18
それいったら真の神は家康だろ
51 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 16:39:02
グッドラックってどういう意味っすか?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 18:21:00
>>50 家康は十数人いた子供の殆どを養子や嫁に出して諸大名とコネ結んでたもんな。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 19:21:56
曹操も曹昂が生きていれば、何の問題もなかったのだがな。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 19:44:44
毛利は最終的に吉川と小早川揉めたろ
>>54 曹丕が長生きしてりゃ無問題
曹丕どころか曹叡まで早死にしたもんだから司馬氏にとってかわられたんだよなあ
57 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 11:26:54
>>45 知識の薄いところは理屈で誤魔化してたりして痛すぎ
チンギス汗とかどうだ
割合うまくいった感じだが
劉備は劉禅しか選択肢なかったが、そのまま劉禅が継いで国権を手にしても蜀の未来は無いと思ったんじゃない?
で、ああいう遺言にすれば劉禅がアホみたいに専横にならず孔明を重用し、その体制に周囲が納得するようにしたんじゃないかと。
つまり劉備の狙いは元々「皇帝劉禅、実権孔明」にしたかった。
本気で孔明に帝位を託すなら存命中に譲っとかないと、あとで孔明が交代を要求したって内乱必死だし。
でまぁ、劉備の願った体制で孔明存命中はもったんだから、まずまず劉備は後継者人事で良い部類に入ると思う。
劉禅は乱世じゃなくて平和な世の中なら名君だったかもな。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 15:50:58
秀吉が「秀頼に器が無かったら徳川殿が天下を獲ってくれ」とか言ってても駄目だったろうな。
ありゃ没落した原因が三成が朝鮮出兵の手柄報告を握りつぶしていたからだしな。
それに秀吉は家康を信頼してたわけでなく警戒してただけだからな。江戸に左遷したり。
実際要害に囲まれた。敵対勢力で内紛が相次いだという幸運があったにせよ
四十年間独立勢力の名目上とはいえ主をはっていたんだから劉禅はよくやったと思うよ
三国志の群雄の多くは四十年どころか十年も持たずに消えた奴がほとんどじゃん。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 19:26:36
劉備は劉禅しか選択肢が無かった?
劉備には複数の王子が居たのに選択肢が無かった?
ははは、妙な事言うね。
>>63 長男が継がなきゃ袁紹、劉表の二の舞じゃん。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 19:39:45
劉備の場合、長子の劉禅が17で、当事才能は未知数。
で、その他は10歳前後かそれ以下。
劉禅がよっぽど酷くなきゃ、当然の選択だな。
後継者争いなんかで家を傾けさせるなんて愚かだよね
∧ ∧
/ ヽ ./ ヽ
/ `、 / `、
∧ ∧ 信玄 ヽ ∧ ∧
/ ヽ ./ ヽ / ヽ / ヽ
/ `、 / `、-=・=- -=・=- / `、 / `、
∧ / ∧ 袁紹 、 :\__/ / 義光 ∧ヽ ∧
/ ヽ l:::::::::../ ヽ l::: \/ l:::: / ヽ | / ヽ
/ `、|::::::::::/ `、 -=・=- | |::: -=・=- / `、l / `、
./ 劉表 ヽ _/ | ..|:::::: \__./ 孫権 ヽ
l::::::::: l / ノ ヽ::::: \/l:: :::::::l
|::::::::: -=・=- -=・=- | |::: -=・=- -=・=- :::::::|
|::::::::::::: \__/ | ..|: \__/ :::::::::.|
ヽ::::::::::::::: \/ ノ ヽ \/ ::::::::::ノ
>>61 >ありゃ没落した原因が三成が朝鮮出兵の手柄報告を握りつぶしていたからだしな。
をいをい、その割には西軍の味方は多いな。
それも、朝鮮で働かせた外様大名多い。
問題は本来豊臣家の家臣だった大名がとち狂っただけだろう?
官僚吊るし上げるだけで、状況が改善するわけねえのに。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 20:44:28
>>56 正夫人の養子である曹昂が生きていれば、曹丕も曹植も単なる庶子として人生を送っていた。
だから、楊修他も死なずに済んだわけで…。
お家騒動が必ず起きるが劉封を跡取りしたらしょくはどうなってたんだろうか
70 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 20:53:07
>>67 とはいっても手柄上げても恩賞くれない奴を盟主だと仰ぐ大名は少ないよ。
西軍の味方なんて家康に内通してた奴や日和見決め込んでた奴ばっかりで
本気でついてたのは島とか大谷とかごく一部だけ。
>>68 曹昴は曹丕みたいな陰険さも無いし嫡子にふさわしいよ。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 20:56:29
>>69 劉封は実戦経験があるから北伐も自ら出陣する。
馬ショクあたりの参謀をつけておけば孔明は成都で政治に専念できる。
(゚Д゚)ウマー
72 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 21:01:53
>>71 そうなるよな、ああ劉封が養子じゃなかったらギといい勝負できたしたとえ燭が滅んでも名君として言い伝えらるんだろうな
73 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 21:10:27
>>63 当時何歳だったと思ってんだ?
曹操の長男って曹昂?
>>69 お家騒動を憂いて抹殺するなら劉封より思い切って劉禅の方が良かったかもね。
劉封は苦難時代の劉備を知ってるし苦労もしてるから、
禅よりも善政を敷いていたかも知れないね。
でも正史の封の人物像について調べた事ないや…。どんな人物だったのだろう?
劉封は才もやる気も中途半端にあるせいで早く国を滅ぼしそう。
劉禅がマターリしてたから意外にもったんだろう。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 22:11:03
>75
正史を読む限り、武辺。ちょっと考え足らずな人物。
一国の君主としてはどうだろ?
孟達が離反する原因もつくってるし。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 22:12:36
>>70 >>73 曹操の正夫人・丁氏には元々実子がおらず、生まれてすぐに母親を亡くした曹昂を丁氏自身で育てた。
ところが曹昂が死んだ時、曹操が息子を置いて逃げた事を知った丁氏は激怒して夫の元を去って離縁してしまいそのまま死去。
曹操はそこで改めて曹丕らの母である卡(ベン)氏を正夫人として曹丕らを嫡子扱いした。
だが、さすがに曹操もバツが悪かったのか死ぬ間際に「子脩に『私のお母さん(丁氏)はどこにいるのですか?』と聞かれたらどう答えればいいのか」と嘆息した。
以上は正史魏書后妃伝の中の注の「魏略」の記事。
(これを信じるならば)正夫人の事実上の養子である曹昂が生きていれば、丁氏は離縁することもなくそのまま曹操の正夫人でその唯一の嫡子扱いの曹昂が当然に後を継ぐ。
逆に卡(ベン)氏は一介の側室扱いなのでその所生の曹丕・曹植は当然庶子として扱われ、跡継ぎ候補にはなれなかった。
三国時代って割と簡単に義兄弟になったり養子取ったりするのに
血縁関係には拘るのな…
一番は曹沖だよ
81 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 01:27:12
>>79 簡単に?
簡単じゃないよ。
そいつと苦楽を共にして、「コイツなら信用出来る」と思った奴とやるとか、
一目見て才能を見抜き合い、認め合った奴としかしないとか。
演義みたいにそんなポンポンと義兄弟やら親子やらになってたら人類皆兄弟でんがな。
>>78 つまりは曹丕様が帝位につけたのは全て私のおかげということですな。
83 :
賈文和:05/02/01 08:42:08
名前入れようとしたら変なトリップがでてきましたぞ
84 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 12:56:36
>>79 儒教社会では長幼や嫡庶という要素が後継者選定に深く関わってくる。
謙信は糞だが上杉は超ラッキー
>とはいっても手柄上げても恩賞くれない奴を盟主だと仰ぐ大名は少ないよ。
意味が理解出来ない。
恩賞は三成自身が乱発している。
そもそも、天下奪取ではなく内戦だという建前を前提にすると、
家康も三成も恩賞を与える権限は無いんだが・・・。
>西軍の味方なんて家康に内通してた奴や日和見決め込んでた奴ばっかりで
東軍も西軍も寝返りしている連中は多いよ。
大物で本当の意味合いで裏切ったのは秀秋だけだな・・・。
>本気でついてたのは島とか大谷とかごく一部だけ。
言う事なし。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 06:32:02
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 07:19:01
>>86 後継者ネタに関係ないことで粘着するな
三成スレへ逝け
謙信って後継問題に関しちゃ一番無責任だよなあ
戦国時代においては
子供がある程度の年齢に達した時点で
早めに家督を譲り、後継を明確にしておくべき
家督を譲っても、実権は握れますし
信長も元就も存命中に家督は息子に譲ってたからな
本能寺のとき一緒にあぼ〜んしたり存命中に暗殺?されたりしたのは不幸だったが。
家督譲られてたから余計警戒されて殺されたんじゃ
94 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 15:44:19
>>1 >吉宗:嫡子が池沼なのに廃嫡せず無理矢理後を継がせた
これは英断とも取れますが。
有無を言わさない長男相続により、
家臣による「池沼や貧弱だからということにして廃嫡」→ロボットを
傀儡に立てて俺らの政権!
とか、
「兄のほうが池沼!」「いや次男のほうが池沼!」
という家中争いを避けることができる。
しんさんやるね
吉宗が賢いかはわからんが、94は賢いと思った。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 12:03:43
>>91 だが、南部晴政(娘婿を跡継ぎにした後実子誕生)や上総の真里谷信保(庶子を跡継ぎに決めた後で正室に息子誕生)はそれで失敗した。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 13:53:12
毛利隆元が暗殺されなければ毛利家は安泰だった?
むしろ暗殺されたから安泰だったかも
>>99 ありえそう。
操縦しやすい主君の下に有能な参謀付いてたほうが案外上手く行く。
ただ家康にだまされた毛利家参謀吉川は無能。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 07:13:46
agge
102 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 12:36:36
>>94 吉宗は孫の家治を買っていたからだという説もある。
息子がダメでもその息子に期待出来るなら中継ぎでバカ息子に一時的に継がせる例はある。
(近衛天皇の死去後、父親の鳥羽法皇は孫の守仁親王(後の二条天皇)に期待して敢えて無能視されていたその父親の後白河天皇を即位させた)
>>102 晋の恵帝にもそういうの聞いたこと有るな。
家康は違うの?
秀忠に将軍職譲った時にはまだ家光って生まれてなかったのでは
106 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 01:18:05
>>105 まだ2、3歳だったはず。。
秀忠の場合は、長幼の順からいって順当な結果だと思う。
次男秀康は秀吉の養子になった上に当時は結城家を継いでるし、
四男忠吉は東条松平家、五男信吉は武田家を継いでる。
家康が重臣に後継者を相談したという話はあるけど、
ちょっとできすぎてる感じでちょっと創作くさい。
ありうるとすればあらかじめ後継者を決めておいて、
重臣の腹を探るために聞いたのかもしれない。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 12:13:28
>>106 一応、秀康・秀忠とも庶出だから、筋書きは決まっていても家康の一存だけでは、家中全体の合意を得るのは難しかったからだろう。
そこで一応重臣の意見を訊くという手続きを経たという正統性をを付けた。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 13:44:14
>>108 本多正信や大久保忠隣か井伊直政辺りだろう。
家康はああ見えても、結構優柔不断なとこがあるからな。
>本多正信や大久保忠隣か井伊直政辺りだろう。
井伊直政は忠吉の後見人だからやっぱ説得するにもなんどか会見はしたかもな。
釣りか?井伊は将軍継承時には死んでるだろが
>>111 関ヶ原後、秀忠遅参なんかで後継問題でもめたと思われるが。
>>110 本多正信は、結城秀康を熱心に推したらしいが。
でも、大久保忠隣は秀忠を執拗に推薦した。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 11:41:31
>>109-112 確か話し合いは関が原の直後に行われたはず。
井伊もまだ元気で出席はしたけれど、忠吉の舅であることを理由に家康に一任すると言って議論には参加しなかった。
近年の研究では、豊臣政権において、秀忠を正式の後継として認定していたとされる。
これは徳川に限らず、後継者の認定は他の大名家に関しても行われている。これは、
中央政権としても世代交代に際して問題が起きることは望ましくなかったからだろう。
関が原の後の話し合いというのは、
「誰を後継者にするか」ではなくて、
「このまま後継者を秀忠のままにしていいものかどうか」
ということを諮ったんじゃないかね。
>>115 秀頼は無視なんですか?豊臣政権ってやつは。
あぁごめんごめん
脊髄反射しちゃった。
よくよんだらわかったよ。
てか豊臣政権ってのが秀忠を後継者に指名したところで、
秀吉の遺命を反故しまくってる家康がおとなしく従うわけなかろうが。
秀忠に問題が有ればあっさり別の人間が二代将軍になってただろうな。
>>118 結果論になるが、やはり信康の自殺が大きいだろうな。
だから将軍職の後継者巡りが複雑になったのだろう。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 17:13:04
一応唯一の嫡男だしな、一歩間違えたら家康も曹操の二の舞になったかも。
>>118 だから、関が原の遅延をみて、
「こいつを後継にして大丈夫か?」
と不安にかられて諮った、と言っているのでは。
一旦定めた後継者を変更するというのは様々に波紋を及ぼすものだから。
徳川に限らず他でもそうだが、豊臣時代に認められた後継を徳川時代になって変更
しようとして色々と問題を起している。
家康としてはそれは避けたかったから、家中の意志統一を狙った、とも考えられるかな。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 18:04:24
そもそも豊臣家配下の一大名家としての徳川家と天下人としての徳川家では当主に求められるものが違うだろう。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 04:29:55
有名戦国大名で、家督争いが無かったのは
後北条だけ?
125 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 11:31:10
>>124 嫡男が死んだ後、曹丕と曹植のどっちを立てるかで揉めたろうが。
曹操が迷っただけで、魏王国・王家が揉めたということは無いような。
ちなみに一人で「揉める」ことはできないね。
曹操は後継者選びで失敗したとは胃炎だろ。
迷いはしたが曹丕を選び、混乱もほとんど無いといっていいだろう。
袁紹あたりの例とはまるで違う。
曹操は失敗はしなかった。ただ、明らかに迷ったあとがあり、
それが後の兄弟相克のタネに残ってしまった。
ただ、兄弟の争いを政争に発展させなかったのはうまい。
ここから窺えるのは、迷いはしたが、決したあとの処置が優れていたといえるかな
曹操の場合は。
逆に、さんざん迷ったあげく政争と化して傷口を広げまくったのが孫権。
>>128 その兄弟相克が曹氏の力を弱めて司馬氏に乗っ取られる原因にはなってるけどね
130 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 22:18:05
別になってないって
相克よりむしろ曹丕、曹叡と早逝が続いたのが大きい。>魏
曹丕が健在なら司馬氏の専横はない気がする
>>128 > 決したあとの処置が優れていたといえるかな
無知ですまんけど曹操はどんな手を打ったんですか?
133 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 02:44:57
>>130 大いに関係してる。争いの結果として曹丕が兄弟一族を冷遇し封国しなかったために、
中央の実権を司馬氏が握ると曹氏一門はこれに対抗できずに乗っ取られた。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 02:46:27
ツッコミどころ多すぎてどこから手をつけたものか
つか出直してきて
135 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 02:58:01
兄弟一族を厚遇した司馬氏のなれの果てでも追って来いよ。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 03:05:22
曹丕は別に兄弟をことさら冷遇してはいない。
みんな王にしている。
しかも王への締め付けは漢以来の事で、魏だけではない。
曹操は失敗してないってことでよさそうだな。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 10:43:26
曹操から曹丕とか
曹丕から曹エイへの移譲は
普通に問題なくなされている。
ただ、曹エイからおかしくなった。
曹丕と曹叡が曹操並に長生きしてくれてたら
だいぶ変わっただろうよ。
芝居は、少なくとも曹丕在任中は簒奪の意志を持ってなかったように
思うし。
問題は、曹叡まで早死にした挙げ句に曹爽がつけ込まれそうな
アホ行為を続けたせい
142 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 14:09:29
丁儀兄弟の処刑は無視ですか?
143 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 14:38:05
曹叡の浪費は正史で諫言を聞き入れてるのに対して、
演義では逆に諌めた臣を処刑したとされてしまっていることから、
浪費癖があったにしても誇張されてる感じがする。
曹爽の行いにしても司馬氏の時代に著された歴史書によるものだから
どこまで信用できるか疑わしい。
正史は前王朝の最後の主を悪し様に書くことが多いから
曹氏最後の実力者である曹爽を不当に貶めて書かれているとも考えられる。
>>143 曹爽って演義の影響か稀代のアホだと思ってた・・
曹・夏侯一族でどうしようもないno1は夏侯楙でFAですね
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 14:54:49
>>144 夏侯楙は正史のほうが具体的な分、さらにボロクソ
曹熊
>>142 そいつらは速攻で処刑されたから関係ないだろ。
「丁兄弟が反乱を起こして鎮圧に3年はかかった」くらいの事実があるとすれば家中をまとめきれなかったと言えるが。
問題を大きく、長引かせないようにさっさと斬った、ともいえるしな
ソウソウの後継は可もなく不可もなく、普通ですな
衰退したのは
曹丕〜曹叡がなんか病んでるから。お家騒動とかで。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 14:27:52
後継者でもめていない戦国大名の方が珍しくないか?
相続のルールが決まっていなかったからね。よほど上手くやらないと(やっても)
問題が生じるのは避けられない。
正室かそれに近い室から長男が生まれて、そこそこ聡明で(父親に気に入られる)早死にしない、
などといい条件がいくつも重ならないと大抵後継騒動は起きるな。
騒動が大きくならないように鎮められるかどうかが主の最後の大仕事。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 02:46:44
伊達政宗は上手くやったような気がする
庶長子は分家にした
155 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 08:13:28
最上は長男を下手に廃して禍根を残したな。
政宗はこの辺をよく見ていたんだろうな。
>>153 そういうベストな条件を満たした後継者は、大抵早死にしている現実。
織田信忠は戦死だから入れないとしても、三好義興とか芦名とか毛利とか。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 05:51:35
孫登さえ生きていれば・・・
158 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 11:46:58
信親さえ生きていれば・・・
159 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 13:08:04
>>151 小田原の北条氏は上手くやったんじゃないか?
そうだね、後北条氏は継承で揉めた事も、一族で争ったこともない。
曹沖が生きていたらどうなってかな?
162 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 19:14:27
戦国時代には家督相続人を惣領・嫡子・家督・名代…等と言った。
当時の原則からすると、
・家督相続人は父親の一存で決定出来る。
・ただし、慣習法的には混乱を避けるために嫡出の長男を家督相続人に指名する事が社会的に望まれていた。
・ただし、親が死亡したとき家督相続人が幼少または女子の場合は成人(15歳前後)あるいは婿養子を迎えて武家としての活動が可能になるまで陣代・番代と呼ばれる後見人が置かれて新当主を補佐・代行をした。
また、家臣の相続に置いては分国法によって法の名の下に主家が相続に介入するのが一般的だった。(但し、上記の原則は基本的には維持される方が多かった)
163 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 14:10:42
曹沖に継がせようとしたら、曹操の老害と言われてただろうな
164 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 16:45:35
あげ
165 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 17:04:08
まじで後継争いが全く無かった大名家って北条以外浮かばないな。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 21:57:46
秀勝さえ生きていれば・・・
信忠さえ生きていれば‥
169 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 11:58:10
170 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 12:35:36
>>14 祖父は父親に追われ、自分も父親を隠居させて家督を継いだ。
だから、自分も政宗に当主の座を追われると思ったから先手を打っただけ。
浦上村宗は糞に分類されるな
政宗・宗景・国宗の三兄弟で争いまくりw
長男と三男が組んで次男に対抗、次男は三男を降伏させ長男に対しても優勢。
長男が死ぬと西播磨にも勢力を伸ばすが、下剋上で結局追放。
172 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 15:37:22
秀吉の碁盤や重文発見 奈良県警、元古物商ら逮捕
2004年4月、大徳寺塔頭から盗まれた豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる碁盤(共同)
奈良県警捜査一課などは3日までに、窃盗などの疑いで大阪市城東区、会社
員、福田信三容疑者(61)、韓国籍の大阪市西成区、元古物商、高成一容疑者
(57)ら5人を逮捕、京都市北区の大徳寺で盗まれた碁盤や火縄銃などを発見、
押収した。
奈良県吉野町の吉水神社で盗まれた室町時代の鉄製刀つば「鉄鍔(てつつば)」
(国の重要文化財)なども見つかった。福田容疑者らが盗んだ品は、高容疑者らが
転売したとみられ、捜査一課などはグループで貴重な文化財を狙って盗み、売りさ
ばいていたとみて調べている。
調べでは、福田容疑者は昨年4月、大徳寺塔頭(たっちゅう)龍源院の展示室
に侵入、碁盤や火縄銃など7点を盗むなどした疑い。
碁盤は側面に金粉で四季の風景を描き、豊臣秀吉と徳川家康が対局に使ったと
伝わる品。
吉水神社は昨年10月、展示していた鉄鍔や蒔絵(まきえ)箱など5点が盗まれ
ているのが分かり、その後さらに2点なくなっているのが判明した。(共同)
(03/03 13:49)
http://www.sankei.co.jp/news/050303/sha070.htm > 韓国籍の大阪市西成区、元古物商、高成一容疑者(57)
> 韓国籍の大阪市西成区、元古物商、高成一容疑者(57)
> 韓国籍の大阪市西成区、元古物商、高成一容疑者(57)
何でこのスレに貼ってんのか知らんがチョソコロは氏んでほしい
174 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 16:49:07
上杉謙信や長宗我部元親も酷いけどな。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 17:20:14
>>174 氏ね。
長宗我部はモリチカたんでいいんだよ
176 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 20:00:53
>>175 末子を立てて内紛を起こしたのは袁紹の仲間
177 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 19:20:51
三保ヶ関部屋は増健
178 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 17:38:06
age
179 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 12:39:02
二階崩れ
180 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 17:54:30
あげ
戦国時代の前ではあるが【糞】の筆頭は足利義政にゆるぎないでしょ。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 10:25:10
いや、むしろ義政こそが戦国乱世を生んだ元凶なのだから、戦国NO.1かもしれない。
では戦国期に入ってからなら、細川政元を挙げよう。
実子がいなかったはまあ個人のシュミということで仕方ないと弁護も出来るかも
しれないが、だからってなんだって養子を三人もとるかね。
後に三好長慶がある程度まとめるまで、畿内の争いはほとんどこの三人の争いが
源流となっている。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 08:25:20
age
>>165 朝倉はやってないんじゃない?
代わりに一門みんな結束力ないけどw
186 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 21:25:17
>>185 いや、義景の祖父の代に叔父と家督争いがあったらしい。
ダメポは唐の李淵だろ
自分の存命中に次男が長男の皇太子に対してクーデターを起こすのを指銜えて見てるだけ
188 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 21:21:55
逆に李憲は優れていた、自分は手柄がないからと弟の隆基(玄宗)に皇太子を譲った。
玄宗は兄が死ぬと諸臣の反対を押し切って皇帝として葬式を行った。
玄宗って最強の皇帝だよなw
名君のやることと暗君のやることを一通りこなしちゃってる
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 12:45:38
>>186 忠臣スレより
178 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/26(土) 00:18:22
朝倉宗適こそ真の忠臣だろう
79歳の高齢で加賀の一向一揆討伐の軍奉行として出陣してるし、
「犬畜生と言われようが武者は勝つことが第一」と名言残してるし。
179 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/31(木) 11:10:24
>178
ちなみに若い頃、義兄朝倉景豊の謀反の誘いに断りきれず出家して逃げようとした過去があったりする。
結局は当主貞景に通報して景豊は自害、宗滴はその功で敦賀郡司になった
本人は一乗谷初代孝景の正室の子で、朝倉宗家相続を願っていたがかなわなかった
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 07:09:04
公孫康は糞。何で後継ぎを作れないインポの弟を後継者にしたのか。
ま、結局われらが公孫淵様が殺して後継ぎになったけど
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 16:42:45
むしろ、長男の公孫晃を跡継ぎにしなかったことが問題>公孫康
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 20:16:04
age
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 05:03:36
あげ
195 :
蕎序:2005/05/05(木) 06:41:15
私は劉備が諸葛亮に劉禅を盛り立てて欲しいといったのはおそらく本意だったと思います。
劉備は、趙雲がチョウハンハで阿君を救った特に「子供はまた作ればよいが、君のような
家臣には二度と巡り合えないだろう。」と述べたことや、劉邦が楚で大敗北を喫して馬車で
逃げる際に馬車を軽くしようと子供を降ろしたところ、陳平が急いで連れ戻し、また劉邦が
降ろすと、また大急ぎで陳平が連れ戻す。これを何回か繰り返したところ、「子供はまた
生めば良いが私は一人だ。」と述べたようです。
劉備が後継者にわざわざ惰弱な劉禅の名前を言及したのは、孔明に専横を許し、もはや天
下を統一できるのは孔明しかいないと思ったのではないでしょうか。
日本人のわたしにはとても中国の思想は理解できないけれど、これはあくまでわたしの自論
なので・・・。
196 :
蕎序:2005/05/05(木) 06:52:15
嫡男の袁尚は袁紹の死に際に付き添えなくて弟の袁譚に遺書改ざんされたんじゃなかったっけ
197 :
蕎序:2005/05/05(木) 07:35:01
曹操にはかなり曹コウコンプレックスがあったでしょうな〜。幼少から聡明で
武術もそれなり。後継者問題では曹操は下手だけど詩が好きだから、当時の詩聖
といわれるほどの曹植の才能はうらやましかったのでしょう。かといって曹沖を
立てると乱心の思われるし・・・。
198 :
蕎序:2005/05/05(木) 07:51:09
五大老の中でも家康の官位は突出しすぎだ。一人だけ従三位の内大臣なんて
上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元は西軍についたが前田利長はうまく東軍に
ついた。結局関ヶ原は淀殿とおねの利害対立みたいなもんなのでいくら家康
が小早川秀秋の陣に鉄砲撃とうが、小早川秀秋は、おねが豊臣家の養子にし
てくれて、淀殿に追い出されたという経緯があるから間違いなく寝返ってい
たから、要するに秀吉は淀殿とその子をかわいがりすぎたために、かつての
正妻のおねに子孫を断絶させられたのだ。女は恐ろしい。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 18:16:42
近年ではむしろおね=三成支援説もあるのだが…。
300
>>199 日本語が不自由な奴の相手をするな
>>195なんて、何が言いたいのか、最初と最後が繋がらないし
>>196じゃ尚と譚が逆なってるし
>>197にいたっては、もうどこからつっこんでいいか……今時無双厨でもこんな間違いはしない
曹操が詩が経たって言ってるし、曹植が当時から詩聖と呼ばれてたなんて言い出すし、ってか曹昂に嫉妬?
>>198あたりで、コイツが最近司馬遼太郎でも読んだんだろうと一発で分かる
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 07:17:03
age
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 06:19:02
age
>>1 >劉備:宰相である諸葛亮に息子が役不足ならあなたが皇帝になってくれ
>と言い残す
なら、孫策も神じゃない?
>吉宗:嫡子が池沼なのに廃嫡せず無理矢理後を継がせた
孫の家治が聡明だったから家重に将軍職を譲ったのでは?もし、家重に
子がいなかったら、かなり危なかったと思う。
もっとも、近年では家重は言語障害があっただけで、頭脳の働きはけして暗君などでは
なかったとする説も出されているが。
実際、家重の失政って何がある?
家重は将棋の名手だったとかナントカ。決してただの阿呆ではなかったんだろうなぁ。
田沼意次に関しても最近は評価されつつあるし。
強いて言えば呑み過ぎか?
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/01(水) 19:35:06
家重は暗君ではない。功績田沼意次の登用。
さらに遺言で家治にも重用するように言っている。
『主殿はまつとうのひとなり。』
208 :
あんたら無責任やね!:2005/06/01(水) 20:16:10
上杉謙信、フリードリヒ四世
永楽帝も孫だよな。
嫡子で皇太子の朱高熾(後の仁宗洪熙帝)が病弱でデブチンだったからかえようかとも思ってたけど
皇太子の息子の朱瞻基(のちの宣宗宣徳帝)が英邁だったから廃嫡しなかった。
でも彼らの治世は仁宣の治と呼ばれて明の絶頂期だったから変えなくて良かった、と
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 09:18:12
徳川家斉。子供は多いが自分より早死に孫も少ない
つらいよ。徳川一門を自分の血でしめたが後継者なしが多い。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/07(火) 20:36:26
日本の後白河天皇もな。
父の鳥羽法皇ですら「バカ」扱いしていたが、息子の守仁(後の二条天皇)に期待したのと、「叔父子」崇徳の系統に行為を譲りたくないという理由で皇位に立てられた。
その「バカ」に40年近くも日本中が翻弄させられるとは、さすがの鳥羽法皇も思わなかっただろうが。
なんかデジャヴなレスだ
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 15:21:35
吉宗は別に糞じゃねーだろ。
もう天下太平の世だし、誰が継いでも徳川家が倒されることなんてあり得ない。
それより徳川家を支えている「全ての者は生まれた身分を守れ」という儒教的価値観を尊重したほうが徳川家の安泰の上では良いということで
優秀な次男田安宗武がいながら障害者でも長子家重を優先したんだろ。
きょうは何の日フッフーッ
1582年、清洲会議が行われた日
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/27(月) 21:19:50
既に信澄は消されたしな
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/27(月) 21:43:40
始皇帝もシッパイシッパイ(・_・ゞ-☆
2世で終わりかよ
扶蘇は優秀だったのに
蕎序をみてると、中途半端で訳知りに語ると恥をかく、ってことがよくわかる
それよりも三代の家光が暗君か名君かについて語ろうよ。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/28(火) 20:33:54
釣りか?
>>214 家重って優秀だったんだ、松平定信は暗君のままだが
>>206 将棋の名手は家治じゃない?
まあ家重もそうだったかもしらんが
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 05:55:50
あげ
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 08:07:58
天智天皇がこのスレに興味を持ちました。
226 :
大野治長 ◆fBamRtgf5M :2005/07/12(火) 08:20:39
むむむ。
>>195 陳平はそんなことしてないですよ
誰も突っ込んでないところが笑えるが・・・w
陳平のキャラからは大分遠いしな
何処で間違えたんだい?
誰もが読み飛ばした糞文をよく読んだな
曹操も問題アリの部類だと思う。
最終的には上手く収めたって意見も多いが、曹丕の立太子はやはり遅すぎ。
曹丕は兄弟を冷遇するっていう長期的な悪影響を残してる。
曹昂死後は事実上の長嫡子だったのでさっさと後継に決めておけば、
皇族冷遇という事はおきなかった可能性はある。
優秀な息子が多くて迷ったんだろうね
うん、実際曹植にも揺らめいたみたいだしな曹操
その後の曹丕の曹植の扱いを見ると、私的には曹植を帝にしてあげたい気がする
曹植(´・ω・)カワイソス
曹植自身は曹丕に対してそこまで嫌悪してなかったみたいだし
曹丕は曹丕で好きではあるがな
曹操は夭逝した息子に期待かけてたんじゃないか?その息子が死んだ時に悔やみを言った
曹丕に「この子が死んだことは私にとっては不幸だがお前らにとっては幸いだろ」
とか言ってるし
でも、曹操が目をかけていた息子も長子じゃないから多分皇帝になることは難しかったと思うけどね。曹丕と曹植で迷ったのもそのせいだし。
曹植の文才に惚れているが、普通だったら長子が継ぐのが当たり前・・・
曹丕を無視する訳にもいかないし。
曹ヒも無能じゃないしな
>>231 このスレの最初から読み直してくれ
>>233 曹丕が選ばれたのは長子であることよりも、その資質だろ
236 :
233:2005/07/15(金) 10:12:04
それくらい知ってる。
でも曹植と迷ったのも事実。
結局曹植に出来なかったのは長子じゃないのと、
仲間が皆死んでしまって素行が悪くなったからだろ。
曹操も曹植の事を外さざるを得なくなった。
いや別に曹植ファンじゃないんだけどな。
「迷った」という行為は、曹丕を後継に積極的にはしたくなかった
って言う事に取れると思うよ。
曹丕がボンクラだった、或いは曹植の才が図抜けていたっていうのなら別だが、
曹丕は二代目としては水準以上だし。
劉備から見れば贅沢な悩みかもね。
曹植なんざ丁兄弟みたいにネイ臣はべらせてるから
国を治める才能はほとんどないだろ
結論
曹丕でよかった
曹操の曹植に対するアレは一過性の入れ込みのような気がするな
あの時期の曹操は政治家の曹操じゃなかった
性格的に曹丕が嫌いだった、あるいは仲が悪かったのだろうか?
似たもの同士は憎しみ合う
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 23:57:22
確かに似てるなw
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:21:32
あげ
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:44:17
モンゴルじゃ末息子が家督を継ぐとかわけわからん習わしあったな
一番可愛いからか?
>>244 たしか親の面倒見るのが末子だったからだろ。
そういう習慣のはず。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:46:47
まあいいじゃん
曹叡は袁紹の孫なんだから
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:57:10
なんかモンゴルいいな
>>244 モンゴルは子供は成人すると自分の部族を作って独立してしまうため
結局手元に末子しか残こらないから
ちゃんと理由があるのですねえ
後継者といえば娘のァ千代に家督を譲った道雪もすごいな。
当時は男尊女卑の世界だし。
当時は男尊女卑なのか?
孫は子が男でも女でも血の50%だが息子の子と娘の子では家督を継がせるならば息子の子だろ
>>244 遊牧民だから母集団の人数が多くなると家畜を増やさなければならない。
家畜が一箇所で多くなりすぎると牧草を食い過ぎて次の年使えない&最悪砂漠化。
だから成人した息子から家畜をある程度渡して他の牧草地に行ってもらわないといけない。
こうやっていくと後を継ぐ=親の面倒を見るのは末息子になる。
必然的に末息子の相続分は他の兄弟よりも多くなる、とこんな感じね
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 19:06:52
>>1 >>204 チョウ雲のために阿斗投げたりしてるもんな
逆に息子が可哀相だよ
そんなこと言われたら劉邦の立場がないじゃん
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 02:10:50
劉邦の無計画っぷりのツケって呂后の大虐殺となって現れるんだよな。
呂后の大虐殺?はぁ?
はぁ?
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 21:19:46
劉邦が皇太子を劉如意に変えようとさえしなければ、
劉如意も戚姫も呂后に殺されずに済んだのに…
で?虐殺ドコー?チンチン(AA略
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/14(日) 10:22:39
>>259 当の劉邦も呂后が猫をかぶってる事を
見ぬけてなかったからね
蒋介石は子供の蒋国経を次の総統にしたが
色々問題あったにしても、この蒋国経が台湾民主化の道を切り開いたのは疑いない。
そういう意味では、いい後継者選びだったかも。
それに比べて金日成は・・・・。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/14(日) 16:34:56
信長の後継者選びについてはどう思う?
早くから信忠を後継者と決め家督を継がせ
次男信雄は北畠家へ、三男信考は神戸家へ養子にだし
君主信長の権限がかなり強かったため、
後継者の信忠と他の兄弟との差を明確につけたのは
家督争いを避けるためにはとても正しいやり方だったと思う。
だが結果は本能寺の変で信長と信忠は同時に死んでしまい、
信雄と信考の家督争いが起き、秀吉に天下を乗っ取られた。
織田家はあっというまに天下から消滅した。(厳密にいえば消滅してないけど)
流石の信長も自分と後継ぎが同時に死ぬとは思っていなかった。
これは明智光秀のクーデターの手腕が優れてたと言うべきなのかな?
>>263 後継者問題、についてのみ言うのなら、信長にはなんの問題もない。
>263
・信長が光秀の裏切りを予期しなかったor出来なかった
・裏切りを予期しない/出来ないに関わらず、自分周辺の軍事力を一瞬にせよ空白にしてしまった
・光秀がクーデターを起こす機(だけ)を完璧に掴んだ
これらは信長の人事面や軍政面での失点、或いは光秀の判断力への得点になるとは思うが、
信長の後継者問題に対しての失点にはなりえんだろう。
信長・信忠死後に後継者問題が勃発するのは、信忠に比肩あるいは次ぐとされる後継者が他の兄弟にいなかった、
つまり、後継者として信忠が完全に認められ、他はありえなかったことの証左な訳だし。
毛利の両川体制のように信忠の弟たちがその遺児を守り立ていってれば違ってたかもね
地方領主と天下人ではまた違うだろう
孫で未成年(だったよな?)とは言え元就生前から後継者とされていた輝元と、
未成年どころか赤子で後継者指名されていなかった三法師ではそりゃあ対応も
異なるだろう。
仮定の話だが、元就死亡時に輝元の存在がなかったり、輝元が数年で子供も
できずに早死にしたりしたら今度は隆景と元春の間で毛利本家の家督継承で
問題が生じただろうな。この場合、当人たちの兄弟仲は関係なく。
信忠、信澄、勝長と織田家の中で優秀な奴は纏めて本能寺のあおりでアポンしてるんだから
織田家の衰退はしょうがない
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 23:39:22
司馬炎は完全に糞だな。
暗愚な司馬衷を後継者にしたせいで皇后の専横やら、
八王の乱やら、永嘉の乱やらであっさり西晋滅亡したし。
似たような失敗を李世民もしてるわけだが
晋書改竄するくらいなのに、末路が同じとは流石に笑わせてくれるなw
司馬炎の場合、皇太子選びよか、皇太子妃選びに失敗したような感じもする。
司馬衷個人は無能だが周りがしっかりしてれば無害なような。
つまり劉禅か
実際まともなことも言ってるし。
「これは忠臣の血じゃぞ!何故着替えねばならぬか!!」
劉禅に続いて司馬衷の見直そう!スレでも立ててみようかな
そりゃ無理だ
性格が優しい事と政治的能力はまったく関係ない
いくら周りの人気が高くても、大災害が起きてるのに自衛隊動かさなかった首相はどうやったって見直せないのと一緒
古代の君主と現在の首相は比較できないと思うけど。
>>271と関連するレスだが、
劉禅と李治(唐の高宗)は確かに似ているな。
でも、ここの住人は劉禅の武断面を見落としているな。
劉禅は少なくとも、父の代からの古参で年老いたと思われる
劉琰と、亡父劉備と諸葛亮を誹謗した李邈を誅殺している。
劉禅が単に優しい性格だとは思われない。非情の面も持っていたらしい。
それ言ったら李治だって結構酷いことしてるぜ?
李治が具体的にひどいことは?
貯水量と町村向きを実質殺してるな
>>281 あぁ!わかった。
褚遂良と母方の伯父の長孫(鮮卑姓;賀若&賀跋)無忌ね。
どう見てもあれは武則天の主導権による処置でしょ?
李治は、ただ彼女に指示通りに傍観しただけ。
そういう意味では劉禅のほうが政治家の素質が勝れているが。
劉タンの誅殺は女がらみだから、李治とそんなに変わらない
っていうか、事例が二個しかないのは無いのと一緒だと思われ
逆に、不良が掃除したり捨て猫拾ったりすると、スゲーいい奴に見えるのと同じ原理がします
司馬衷だって、「これは忠臣の血だ」の逸話だけで「政治家としてはアレだが、いい人」みたいに扱われてるのがなんとも……
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:40:37
>>1 曹植は4男だろ。
1:曹昂 2:曹ヒ 3:曹彰 4:曹植
>>285 いや、卞氏の子としては曹植は三男が正解。
但し、曹操の子としては五男かと。
@曹昂A曹鑠B曹丕C曹彰D曹植…
概出と思うが、曹昂と曹鑠は劉氏の子で同母兄弟。
異母弟の曹丕とは5〜10年の年齢差があると思う。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 02:26:37
曹鑠がいたか。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 02:29:30
劉備の跡継ぎは劉禅しかいないわけだが、これは45歳くらいの時の子供だよな。
それが最初の子供なわけないよな?
やっぱり長坂で亡くしたのかな?
娘が曹純につかまったりしたらしいが・・・。
こういう捕虜ってどうなるの?
皆殺し?
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 03:57:08
阿斗なんて助けるべきではなかった
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 08:44:05
>>288 正史にはその後の記述なし。
処刑か、後見されたかだろう
ふむう
むむむ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:15:13
大名の子供や夫人は捕まればレイープ?
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 22:52:08
さあ・
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 09:29:42
そうなのか?
297
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 15:05:56
kire
そういう事例は、軍記物などの創作物には見られるが
実際はどうだろう?敗軍の姫を凌辱したなんて、あまり自慢できることじゃないだろうし
それに姫の実家の権力もあるし、丁寧に扱われた線は十分ある
301 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 17:45:00
戦国時代ではないが、日本軍は戦争で他国では強姦などをする輩ばかりなのに、日本軍はそんな事はなかったらしい。
自分の国に都合悪いことは隠すに言わないだろ
拉致問題とかね
かといって南京の人口増やしたり、ニダニダ言う国を全面的に信じることもできんが
303 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 15:45:18
捕虜と交換とかは?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 00:41:57
>>250 将来適当な婿を見つける事を条件に一時的に家督を継いで(幼君のケースと同様に)一族がこれを補佐する事は結構あった。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 16:11:07
つーか、なんで、家康って信康を殺したんだ?
もし殺してなかったらもっと天下とるの早かったんでは?
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/27(火) 23:58:26
>>306 あの状況で織田家に逆ったら天下とる以前に潰されたんじゃない?
そもそも信長は本来無関係で家康と信康の争いだったという説もあるし。
つーか、その説の方がかなり信憑性ある。
信忠は普通に優秀な部類に入る方だし、そもそもあまり信長は
息子らに対してあまり執着する方じゃない、(テキトーにつけた名前の件は有名)
自らの覇業に全精力を注いでいて、自分が死んだ後の織田家を気にしてる様子がない。
そんな信長が盟友徳川の息子の事などいきなり気にし始めるだろうか?
しかも自分の娘を嫁にやっていると言うのに。優秀なら余計喜ぶだけだと思う。
そして信康と言う人物を客観的に見た場合に、かなり暴君だったと言う説も聞く。
実際、家康の血を引く息子らは忠輝と言い秀康と言い割と荒くれ者が目立つ。
秀忠のようなおとなしく親の言う事を聞くタイプの方こそ珍しかった。
また母築山は今川以来の嫁であって、この時点では要するに利用価値は消えていた。
結局、信長の娘の五徳からの訴えにより、信康は自刃する事になったのは事実だが、
暴君ゆえに困らされた五徳が父に泣きついたのと、領民や配下の訴えから、
家康自ら処断したと言うのが自然な流れに思える。
同じく武田家でも嫡男、義信が今川に内通疑惑が出た似た事例があった。
これは、義信側にも充分に理があるし、結局処断でも自害でもなく病死だったわけだが、
それでも、重臣を失う&その後の勝頼と古参重臣との不仲など、結局家を揺るがす大事件だった。
でもその後の徳川家は何事もなかったかのように嫡子を定め、特に問題は起こってない。
東照大権現様を子殺しの悪人にしてはいけないという事からなんだろう。
織田家を気にしてる様子がない?
しっかり次男三男を織田家から廃してます
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 01:28:03
ki
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 16:07:20
>>309 あと、信康が家康を追放する事を企んだ説とかあるよ
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/10(月) 16:44:59
八王で信頼できるのは誰だ
八王って司馬氏の?
そりゃ司馬亮。人畜無害
同母弟の司馬伷は?
(東晋の祖)
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 04:15:28
age
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320 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 12:33:21
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保
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 18:34:48
劉禅は毛沢東だかに国民は劉禅になってはいかんとボロクソに言われた男だぜ
中国では劉禅は無能だと思われてる、劉禅を評価してるのは機知害蜀ヲタだけw
あーきみきみ、毛沢東は大の三国志『演戯』のファンなんだがね。
最近は大分軟化したがちょっと前までは
偉大なる毛主席の仰ることは歴史的事実より正しいと言うのがあの国。
毛さんは学がないから
っていうか、アイツの中国の歴代皇帝を評した詩は何度読んでも腹が立つ
「惜しいかな始皇帝・漢武帝は詩文を解せず
唐太祖・宋太祖も風雅に劣る
ジンギスカンにいたっては弓を射る事しか知らない
しかし皆過去の人物だ
文雅を解する人はやはり今日を看よ」
って奴だね。
しかし魏武又は魏文帝には触れていないところが
ミソというかほほえましい。
魏武は統一王朝の皇帝じゃないからだろ
むしろ、名文家であり、弓を射ることに長じ、風雅であった光武帝を入れてないあたりが……
統一王朝の皇帝って事になるとジンギスカンも違うのだが。
ま、何にせよ自分に都合の良い事はどんどん受け入れ
不都合なことは無視するか無かったことにするのがあの人のやり口だからね。
そういえば大の三国志好きの癖に水滸伝には大変批判的でだったそうだ。
普通に考えれば農民革命戦争を鼓舞する名著と褒めてもよさそうなものだが。
上の詩の中に劉邦や朱元璋も入ってないし
彼等も又そうであったように
農民から出ても、最終的には農民から搾取する士大夫層の人間になってしまうのがあの国の伝統なんだな
それからもう一回、農民至上主義に戻った朱元璋は異端だが
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 03:56:52
age
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 04:38:35
中国の歴史的にはあれだけ専制統治だったのを覆した孫文は凄いと思う
北洋軍閥やら共産党やら日本やらイギリスやら周り敵だらけでよくやったよ
中国には謝罪しなくていいけど孫文には謝罪すべきかもな
331 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 04:52:51
取りあえず息子を殺す父親は神どころか糞だね
いくら儒教国家でもね
孟達が裏切らないと殺されると言ったに関わらず成都に戻った劉封を
孔明の進言で処刑だよ
養子だったら余計大切に育てるのが人間ってもんだよ
聖人君子気取りなだけ
後継問題なんて親が決めなくとも結局一番なりたい奴が残るもんだよ
曹否みたいに
儒教国家だからでしょ
親は子を生めるが、子は親を生めないもん
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 15:04:13
そりゃ全然別の話だろ
作為的に殺してるのに
>>331 そこで曹丕を出すのは例として不適。
永楽帝とか出したほうが。
それに劉封はたとえ殺されなかったとしても立場は微妙。
劉備の跡は継げんしね。
結果的に永楽帝で良かったと思うけどな
宦官跋扈以外の点においては
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 13:30:11
袁紹の末裔=袁世凱
孫堅の末裔=孫文
毛カイの末裔=毛沢東
蒋エンの末裔=蒋介石
張魯の末裔=張作霖、学良
↑
マジかいな?
嘘に決まってんだろ
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 22:33:28
猿世凱は猿胤の子孫らしいよな。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 16:06:26
成龍←袁術の末裔
341 :
孔明 ◆U5R7o9iu7M :2005/12/05(月) 16:14:59
たしかに跡継ぎって大変ですよね。
私も結局姜維将軍に帝を継がせました。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 16:26:00
後継問題で一番酷いのは上杉謙信だろ
いねーんだもん
いや、いたよ>謙信
景勝と景虎
どっちをどう継がせるつもりだったかは今やハッキリせんけどな
結局内乱になったがきっちり後継決めといた家でさえ滅亡してんだから
まぁ一番酷いってこともないだろうよ
景虎が継いだら北条氏との強固な同盟関係になって最終的には取り込まれたりするんかいな?
内心景勝に継がせるつもりで準備してたんじゃないかと思うのだが…
通常、他家でも父親が息子に継がせるように、自分の官位を景勝に譲って
最大級の兵力を与えて関東侵攻を準備していた訳だし
景虎を養子にしたのはその何年も前、北条との同盟が成立した当時の和睦条件だよ
姪と結婚させて初名を与えはしたが、同盟は破れ、
その後、実質的に地位の補強してやったわけでもない
よく御館の乱では一族の有力者のほとんどが景虎に味方したとか言われることが多いが、
謙信が晩年に重用した重臣たち、子飼いの寵臣はむしろ景勝に味方してるのが多い
(もちろん単純に線引きできるわけじゃないし一番の寵臣の河田は中立を守ったが)
景勝の出身である上田長尾とその宿敵だった古志長尾との一族間の抗争
反北条と親北条の家臣団の抗争
謙信の後継者決定にはいろんな問題がぐりぐり絡んで容易に決められない深刻さがあったかと
で、内心どういうつもりでも表にできないまま、おトイレで血管ぶち切れ→アボンヌ
345訂正
官位→官途
>>345 上杉姓を与えたのは景虎の方が先、とか景虎は春日山の二の丸に景勝は三の丸に置いたとか
聞いたことがあるが。
だいたい、もし謙信が景勝を後継者としていたのなら謙信死去時のあのクーデターまがいの
行動は解せなくなる。
348 :
345:2005/12/07(水) 21:55:57
>>347 そう、上杉姓を与えられたのは景虎が先だよ
越相和睦で謙信の養子になった時だから1570年、景勝が上杉姓を与えられたのは1575年
が、もし謙信が景虎を後継者にしようと考えていたならば、
わざわざ新たに景勝に上杉姓を与えて自分の官途を譲るような真似をするだろうか
しかも景勝を「御中城様」と呼ばせ他の一族や養子(上杉政繁)より高い地位につけてる
「御中城様」は謙信が「御実城様」と呼ばれていたのとまるで対みたいな呼び方だし、
実城は春日山の本丸で、中城はそれに次ぐ大きな郭だったという説もあるよ
まぁ実際のところ謙信時代の二の丸や三の丸郭の詳細は明らかになってないらしいが
349 :
345:
(上のつづき)クーデターまがいというのもどうかな
景虎贔屓な人にとってはそう思えるかも知れんが、これも解釈次第じゃないかと
謙信が後継者を明示しないまま意識不明に陥った当時、345でも書いたように、
一族間の宿怨や景虎実家の北条氏に対する利害関係の絡み合いなんかが渦巻いてて、
謙信という求心力がなくなったら、家臣団の分裂がどうにも避けられないことは
上杉家の誰にもわかっていた状況だったと考えられる
(謙信の死の前年に、上杉家の重鎮がバタバタ死んだのも家臣団分裂の想定の一因)
ならば、その死が迫りつつあるあいだに、
巨大な北条氏からの後援を得て必ず相続の敵になるだろう景虎派の追い落としを
景勝派が準備し、謙信死後、機先を制して本丸と金蔵を占拠したことは有効な戦略だし、
実際それは大きくものをいった
そして景虎方がすぐ春日山を追い出されたわけでもなく、約2ヶ月は主に外交交渉の期間
その間、のちに景虎派の中核として働くことになる北条(きたじょう/景虎実家とは別)は
景勝のために関東の情勢を報告してるし、
同じく景虎派になる神余氏も「決して私曲しない」という城主の誓詞を景勝に提出してる
晩年の謙信のそばで働いていた奉行人たちも混乱なく景勝に味方してるし
クーデータとはとても思えない、という見方がじゅうぶん成立するのではと思う
結局、謙信はいろいろ中途にして唐突に死んじゃった…もう少し酒を控えておればな