武士道や忠節は近世以降に作られたまやかしか?

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1無名武将@お腹せっぷく
戦国時代における主君と臣下の関係は打算的であり、
鎌倉以降、武家が培ってきた領土を介した主従の役割がもっとも際立った時代
とされています。
そんな中軍記物に見える滅私奉公や武士道という模範的武士像の形成は、
あたかも江戸期以降平和な時代に作られた家臣統制のためのプロパガンダのように
言われていますが実際の戦国時代において武士はどのような価値観を持っていたのでしょうか。
2無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 15:19:10
2・・・いや3だ!
3無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 15:34:00
戦国期じゃないが、南北朝の頃なんかはコロコロ寝返るのが普通で
楠木正成みたいに義に殉じるタイプは珍しかったらしいね。
4無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 16:37:02
SINやCOSやTANみたいな曲線描きながら変化していったんじゃない?
地方によっても違うだろう。
京都付近で家臣団の統制が崩れても鎌倉の方ではまだ機能していたとか。

忠節と武士道(鎌倉、室町、戦国、江戸では基本はいっしょで違いは応用だろ)は同じではないと思う。
しかし、重なる部分や共鳴個所もある。

武士道の戦国となると明智光秀の

仏の嘘は方便、武士の嘘は武略という。土民・百姓はかわゆきことなり

がうまく表現していると思う。下克上の度合いだろうな。
個人的にだけど江戸と鎌倉は似た気質だと思うけどね、戦国と比べれば。
5無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 17:34:52
>>1
武士にとって忠義は普遍の美徳だよ。
6無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 17:35:33
まあ武士道ってよりは個人的なつながりだろうね。
主君との信頼関係で殉じたりした人もいただろうし。
7無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 17:37:44
>>5
それは江戸時代に入って、朱子学が広まってからの考え方。
8無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 17:40:40
>>7
忠臣蔵みたいなことあったしな
綱吉もかなり悩んだらしいし
9無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 02:47:31
>>7
じゃそれまではなかったの?
鎌倉武士の間でも忠義を美徳する話は腐るほどあるが。
10無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 20:28:22
まあ、珍しいから語り継がれるわけだ。
11無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 22:43:00
ご恩と奉公
12無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 22:45:57
他スレに下克上のような異常な状態を自然とほざいてた基地害がいたな。
13無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 23:32:40
鎌倉と江戸の武士は意識も本質も非常に違うと思うが・・
江戸の武士は禄を貰っていたが、鎌倉の武士は封地にくっついていた。
江戸の武士が現在の何に一番近いかというと市役所の職員、てのはある真実を
ついているだろう
14無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 03:43:13
そりゃ違うに決まってるが、武士道の本質である自死の思想は変わってない。
それは幕末の志士や神風特攻隊にまで連なっている。
15無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 13:10:04
承久の乱の際、北条政子が御家人集の前で啖呵きったときが一つの転機だったと思われ。
16無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 01:17:23
新渡戸稲造 武士道を読め
17無名武将@お腹せっぷく
明治以降の武士道は換骨奪胎だそうだ。