125 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 22:10:19
普通に考えろ
無理だわな。
死せる周瑜生ける魯粛を突っ走らす
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 12:23:01
魯粛は豪胆でカコイイよ
魯粛って歴代都督の中でも初代祖茂に次ぐ逸材だよな
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/17(火) 03:02:37
age
このスレおもすれー
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/18(水) 23:43:16
すぐ寂れるけどな
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 01:10:40
恋する気持ちは豚キムチ
>>129 三國志から久しく離れてたオレサマちゃんに初代祖茂の詳細キボンヌ。
二代目が居るの??
はい。現在は57代目です。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 12:56:39
第64代横綱。
諸葛謹つれてきたのは魯粛なんだっけ?
瑾は、孫権の叔母の夫かなんかに紹介してもらって仕えたんじゃなかったっけ?
それ以前から魯粛とつながりがあったかどうかは知らないけど。
歴代大都督
祖茂→美周郎→魯粛→阿蒙→陸遜→陸抗
祖茂は演義には登場しないが、周公が軍権を授かった際に「そなたと私は我が父と祖茂のような関係だ」「かつての祖公のように忠してくれ」等と言われている。
また、一般的に祖茂・程普・黄蓋・韓当の4人で孫堅四天王と言われているが実際は祖茂が残りの三人を指揮する立場にあったとある。
このことから孫呉の礎を作った者として孫権の時代に祖茂に銀の剣が送られた、これば中国では金の印に次ぐ証として大将軍の位の者に与えられる。
つまり孫堅に仕えた時点では都督というポジションこそなかったが、そのような役割を勤め死後に孫呉の初代大都督の位を授かったと推測される。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/20(金) 22:34:31
魯粛の先を見通す能力は、呉随一だったはず。
周喩や呂蒙よりも最初に、荊州と益州を呉が征服する「天下二分」を提言した。
しかも、初めて孫権と会見した時点で、すでに漢王朝復興は無理だと進言しており、
孫権に独立して皇帝となる様にとも言った。
惜しいのは、この時代に突出し過ぎた考えだった事か。
孫権も周喩も、魯粛の考えに追いつけなかったのだと思う。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 01:26:25
このスレを見ていると
蜀と仲良くしろと言ったのも
天下二分で荊州・益州をとれ(蜀を潰せって事?)と言ったのも
魯粛と書いてあるように見えるが・・・
どういう事なのかな。
>>139-140 魯粛に対する熱い思いはよくわかったから
孫堅四天王っつー呼称はやめとけw
>>141 周瑜と魯粛(+孫権)は実質セットなんだから細かいこと気にするなよ
魯粛が孫権に天下二分を説いたときは多分、官渡直後くらい
北は曹操が纏めはじめ、荊州に劉表、蜀には劉璋がいた頃
曹操の南下が予想よりも早かったんで劉備と組んだ
蜀+呉で長江流域を支配して魏と対峙っていう戦略に転換したってところじゃないか?
劉備の蜀入り後は南郡奪還は目論んでたっぽいけど蜀を獲る気があったとは思えない
劉備が相当大きな隙でも見せれば狙うつもりだったのかもしれないけど
魯粛→小泉
呂蒙→阿部
陸遜→亀井静香
いやあぁぁぁぁッ!!!111111
虞翻→龍角散
甘寧も荊州を押さえ、さらに益州も攻め天下に覇を唱えるという
「天下二分の計」ともいえる戦略を提言してますね。
けっこう猛将のイメージが強いですが戦略眼もあったのかもしれません。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 01:24:27
頭大丈夫?
でも天下二分の計って、計っていうより普通の戦略だよな。
孔明の三分の計のなぞらえて、後の人間が二分の計と言ってるだけで
そもそも2つしか国が無いと、片方の国の国力が片方を上回った時点で
パワーバランスが崩壊すると思うんだが
3つだからこそ、1つが抜けてきたら2つが組んで対抗する事によって
微妙なバランスが保たれる。結局蜀が崩壊する事によってバランスが崩れたわけだけど
過去の歴史で国2分状態で統治続いたってあまり例がないし、仮に呉が荊州と益州を手に入れてたら
そのまま魏と全面戦争になって、魏か呉のどっちかが歴史より速く天下統一してたと思われ
二分という言葉にはもう一つ、長江に拠って防衛するという意味が含まれていると思われ。
蜀漢もそうだけど、魏の曹操を一気に倒すことができないという国力評価が根底にあって
地勢を利用して生き延びるところから魏を打倒するところに繋げようとすればそうなると。
今の人から見ると普通というか自然な戦略だろうけど
敵味方の国力や地勢を理解していないと出てこないものだからね。
当時はそういうのを理解していること自体が重要な力量だったのでは。
魯粛は他の重臣の持っていない、独自の見聞やアンテナを持っていたのかも?
>>152 確かに過去では例がないが未来には南北朝時代があり南宋も二分した状態で長く続いた。
東晋は北が分裂していた時期も多かったがやはり続いた。
江南に都をもった国はパワーバランスが北に傾いていても長江の水際で撃退することが多い。
当然、南から北に攻めても撃退されることが多い。
天下二分といわれることが多くて天下三分と大して変わらないというイメージだけど根本的な部分で違う。
諸葛亮の天下三分は主が惰弱な土地を狙った戦略
魯粛の天下二分は長江を防衛ラインとして考えた戦略
漢じゃない国を作るってのが当時の人達の常識から外れててすげぇって事もある
>>152 防衛ラインとして山岳や大河が利用されるのは常套手段。
特に大河は視野も確保できる防御側には最高の地形。
天下二分は長江を天然の防壁として利用する構想。
国力差だけで突破するのは不可能とは言わないが難しいだろうな。
それと呉が滅んだのは蜀政権が滅びたこと以上に、長江以外の侵攻ルートを魏が確保したことの方が大きい。
157 :
134:2005/05/23(月) 23:05:35
>>139 おお、詳細なレス、ありがとう。
で、祖茂って演技に出てこない?赤ずきんかぶって華雄に斬られたのは
演技が出典だったとうろ覚え。
それから、挙げてくれた話は正史にあるの?あるなら、どこの伝にあるのか教えてください。
教えて君でスンマソ。
俺も
>>139は初めて知った
赤頭巾の話は正史にも出てきたと思うが、祖茂がいつ孫堅とこに来たのか、いつ死んだかすらわからん
出展キボン
ちくまには・・・無いぜ…(つД`)
>>160 プニュ( ´∀`)σ)Д`)
おまいは良い奴だな
で、魯粛について
誰それ?
ほら、三丁目の…
ああ、あのご隠居ね
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 17:47:12
ろしゅくをよろしゅく
魯粛オフするかw
周瑜の周遊券
顧雍の再雇用
周泰の集大成
ほとんどこのスレへばってるよな
でもたまに盛り上がる
そんな魯粛スレが好きです
今さら盛り上がるかよ。このバカ