何故家康から攻撃したの
2 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:46:11
伊達藤2郎政宗
斎藤道3
おしえてくだせえ
伊達藤5郎成実
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:02:14
山だらけで侵入しにくいから。
道路が整備されてなかったから。
じゃないの。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:03:55
家康を放っておけば、また北条と結んで駿河に攻め込まれる可能性があったからじゃないか?
8 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:09:05
信玄の本隊は三河から
秋山の別動隊は美濃から侵攻した
9 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:11:46
信長が美濃を占領してた時は足利義昭が居たから攻められなかった
と思う。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:13:45
細木数子に忠告されたんじゃない?
美濃を攻めたら地獄に落とすわよ!
兵を残せば美濃からでも攻めこめませんか
13 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:43:16
横に横にと延びていけば
謙信に分断された時に困るから。
だから謙信とカタが付くまでは遠山氏と友好を結ぶに止めていたわけだが
その間に信長の本拠になったわけで
南に家康を抱えて直行するには
やはり不安の残る場所になったから
でしょ
冬場は通行が困難になるからね
信長包囲網のときっすよ
17 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 11:39:48
>>15 仰るとおり。支配地域の雪での分断は痛すぎる。
美濃方面からの、大軍の進撃は、兵糧の確保が難しく、
長陣が困難、また袋小路で包囲の恐れあり、危険。
ゆえに美濃方面には、牽制の為に一軍しか送らなかった。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 17:42:50
駿河から海運でのサポートも使用したはず。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 02:26:27
中央道は不便
やはり東名のほうがいいね
21 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 02:36:25
「…海が…死ぬまでに海が見たいんだ…」
信玄こそがノッキン・オン・ヘブンズ・ドア
22 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 02:45:04
逮捕されたくせに
23 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 12:42:24
くそすれたてんな
24 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 12:43:48
一番9のが有力だと思われ
>>24 呼寄せたのは義昭なのに美濃に入れないってのは可笑しな話だけどな。
上洛して自分を補佐しろといって上洛するなって言うようなもんだろ。
信長って実際は藤原氏なんでしょ?
27 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 00:19:36
最近は忌部氏という説が有力らしいが。
織田剣神社つながりで。
>>1 サイトードー3が越後の龍・ウエスギケンシンをしのぐ強力な武将だったために
甲斐の虎・タケダシンゲンも恐れをなして美濃に攻め込むことができなかったのである
29 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:03:36
木曾義仲って美濃から攻めたんじゃないのか??
30 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:14:09
北陸じゃなかったっけ?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:22:21
>>28の意見に禿同
道三は戦上手で信玄と同格といってもいい
慎重な戦をする信玄がわざわざ強敵を増やす必要は無い
ま、
>>1は所詮信ヤボが戦国の全てだとでも思ってんだろ
32 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:47:31
33 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:48:18
家康叩けば、信長釣られて来ると思ったんだろうな。
地の利のある土地で戦いたかった、そんだけでねえか。
信長の野望だと美濃から信濃や飛騨まで簡単に行けるから
>>1みたいな奴が現れるんだ。
光栄の罪は重い
道三の能力云々の問題じゃないと思うけど
1556年に道三が死んだあとも大規模な侵攻をしてないわけだから
地理的補給上の問題が大きいんじゃない
拠点が甲斐だから甲斐から放射線状に勢力拡大していっただけ。
何でわざわざ美濃攻めなきゃいかん。
そもそも
信玄が美濃への侵攻路の木曾谷を支配下に入れたのが55年以降で
道三が死ぬのが56年
道三なんて関係ない
織田信忠が大軍で岩村街道通って侵攻してるんだから
地理的にどうという問題よりも
長尾景虎とカタが付く前に西にも進む馬鹿がいるか!ってことでしょ。
>>38 伊那から直接岩村方面に進めますから・・・・
>>39 後方に不安がまったくなく圧倒的軍勢なら地理的にきつくても侵攻できるだろ。
そう言ってるのではw
42 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 05:27:52
>>40 >後方に不安がまったくなく圧倒的軍勢なら地理的にきつくても侵攻できるだろ。
地理的にきついとこでは軍勢の数など意味がない。
戦力展開の難しい山間の道では各個撃破されるのがオチ。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 09:09:06
軍神上杉謙信と戦ってる時に斎藤も糞も無いだろ
そんな暇など無い
なぜ美濃からじゃないの?というのは、戦略的価値もあるのかな。
甲陽軍鑑だけど、後の勝頼が美濃に進攻して明智郡の18支城を攻め落とした時も、
重臣達は戦略的価値のない出陣だと言って苦虫噛み潰していたらしい。
対して、徳川が有する三河と遠江は石高も高いし、徳川は兵力の少ない弱敵。
要するに、信玄にとっては出来るか出来ないか分からない打倒信長が第1目標では
なかったんじゃないだろうか。
最終的に信長包囲網がどうなるか予想できないのだから、信長が窮地に陥っている時に
取れるのは何?と考えて、自分に一番得になることを考えたんだろうと。
それに地形的に切所が多いのも大きいかと。
信長自身が長篠のあと、部下が追撃を進言したのに、勝頼の追撃を掛けなかったのは
それが理由のようだ(信長公記だったか?)。
その点東海道沿いは大軍の行動に向いていたのではないかと。
けつろんが出たようだな
タケダシンゲンは美濃のマムシ・サイトードー3をとても恐れていたのだ
47 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 12:09:30
武田信玄がなぜ美濃から攻めなかったの理由だが
道三生前は戦上手の道三と敵対するのを信玄が嫌ったため。当時武田は北上して領土拡大を図った
道三死後は義龍が十分道三の血を引いており上杉との戦いが激化してきた為余裕がなかった
信長美濃支配後は信長の外交戦術にはまり開戦時期が著しく遅れた為信玄死亡
長篠合戦後は現状維持さえ出来ず侵攻は不可能
要するに上杉と戦い杉たわけ
48 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 12:40:42
でも、美濃を制圧出来れば上洛には有利だったよね
なんで道三にこだわる人が、こんなにいるわけ?
国取り物語が放送されてオタが増えたの?
道三生存中なんて北信濃問題もあったし美濃方面の西信濃も安定してなくて
どっちみち攻められなかったと思うけど
50 :
sage:05/01/08 13:53:28
よく分からんけど、道三と信玄は仲が良かったんじゃないだろうか。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 14:02:39
信長公が美濃に入ったのは’68年?
じゃあ、信玄さんはその頃なにしてたん?
61〜67あたりまでなにやってたんだっけ?信玄
西上野で上杉系土豪と小競り合いだろ
55 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 17:59:27
海が欲しかったんじゃないの?
弱小田舎大名が上洛を前提として戦略を立てるハズ無いだろ思い上がりも甚だしい。
中山道って整備されてたんじゃないの?
武田ヲタは特技が妄想の阿呆しかいないからな
ま、いずれにせよ信玄も謙信も肝心な時に病死してしまったからな。
運命というやつだよ。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 03:59:59
まあ、本当に上洛する気があったかどうかは上洛できっかよスレに任せるとして
木曽路は狭くて進むにも引くにも厄介、三河ををどのみち放置できない
荷駄の輸送は駿河から海経由のほうが荷駄隊の人員をかなり減らせる
などの理由だろう
っていうか本体を進めなかっただけで別働隊は美濃に攻めてるんだけどな
関ヶ原の時、秀忠の大軍が進んでるが、特に狭いと言うことはないんじゃないの?
62 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 07:03:13
>>57 極端な話、戦国の頃は東海道でも場所によっては
幅がせいぜい1〜2間だったりする。
>>61 東海道に比べりゃ険阻だけど
まあ困るほどじゃないだろうね。
というか、道三は戦上手ではないだろ。戦下手でもないが
64 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 08:28:38
信玄の進撃路って、塩尻峠を抜けて伊那盆地を抜けていく、
つまり現在の中央自動車道とまったく同じルートだろ?
東海道はあんま関係ないんじゃないの?
65 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 08:47:33
>>64 杖突峠越えて高遠経由で秋葉街道南下して遠江に出たかと。
甲斐から駿州街道南下して駿河に出てから東海道を西進するとなると
家康の勢力圏に対して正面から戦いを挑むわけで効率が悪い。
対して一旦信濃に出て秋葉街道を南下すれば遠江の犬居城は
既に味方勢力圏で橋頭堡になる上家康の勢力圏を分断する形で
進めるので戦略上都合が良い。
まあいずれにしろ南に出て家康を下し東海道を西進する
ルートである事は疑いないのでは。
>>1 美濃に責めてる間に上杉謙信に責められるのを恐れてたからみたいです。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 09:57:37
あのさぁ・・・
東海道に沿って攻めないと武田騎馬隊つかえなくない?
上洛できっかよスレでは織田が兵農分離、
このスレには武田の騎馬隊か・・・・・・
何回繰り返せば気がすむのか、
まあ、新規参加者が多いってことで歓迎すべきことかね?
>>68 日本の馬は山地適応型なので森の中などでなければ
問題ありません。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 10:31:43
謙信が信濃に侵攻したことあった?
>>72 その質問はいくらなんでも・・・・_| ̄|○
74 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 10:37:50
川中島
謙信が5回ぐらい攻めてるような
4回目は一番有名だな
村上氏の旧領を取り返す名目だから
「侵略」では無いって言いたいのかな。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 10:50:29
謙信に備えが必要なのは、
美濃方面でも遠江方面でも変わんない気がするんだけど。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 10:55:31
信玄が攻めてきてるわけでもない時に攻め込んで
橋頭堡築いたりするのは侵攻に間違いないな。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 11:18:16
あと、美濃方面は道が険しく補給が難しいというけど、
中継拠点の飯田からみると、
美濃方面の飯田街道も、遠江方面の秋葉街道も、
どっちらも進撃には難しい山岳地帯
濃尾平野と遠州の平野はどちらも出るまでの距離はさほど変わらない。
前線拠点である岩村城と犬居城との距離だけ見れば、
岩村城への距離は犬居城までの半分程度
そんなに遠州方面の方が補給楽だったのかな?
>>79 戦略的な問題でしょ。
もっとも大量の物資を西に運ぼうと考えた場合、
甲斐信濃から富士川や天竜川の水運で沿岸まで運んで
さらに大型船で運べば格段に楽だな。
陸路は米一石運ぶのに馬一頭。
馬一頭は一日に大豆一升を食べる。
川船でも一艘で20石積める。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 11:40:04
なるほど。水運というのはいままで出てなかったね。
富士川や天竜川の水運の規模ってどれくらいだったんだろう?
おい、水運の便ということだったら
木曽川つかって美濃入りした方が楽だろ。
木曽路から東濃へ大軍で攻め込むのは無駄。中津川村から土岐あたりまでは
少数で守りやすい砦が無数にある。大きな城が山城の岩村城しかないので
占領後の守りが困難。土岐、多治見まで勢力を拡大した後は四方八方から
攻められる。待ち伏せしやすい場所が多い(妻籠の木曽川越え、馬篭の谷、
恵那周辺、土岐川等)。それに木曾は武田の支配が浸透してなかったしね。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 13:58:00
>>82 地形や水深の関係で
木曽川水運で最も上流の川湊が黒瀬湊(岐阜県八百津町)なので
無理ですよw
雨降ったら使えない品。暴れ竜と言われるくらいだから。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 14:24:12
ようは
美濃方面、成功すれば織田方の息の根を一気に止められるがハイリスク
遠江方面、成功しても同盟者の脱落に留まるが、ローリスクで、
信玄は後者を選んだって事?
これが信長とかだったら、一気に的の中枢を突きそうだね。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 14:40:35
岐阜境の山道なんて篭城されたら時間かかってしょうがないぞ
中山道からだと岐阜に出てから南の敵軍が大挙して攻めてくる恐れあり
冬の間は孤軍だな
>>87 しかも不利になれば木曾は裏切るだろうしな
危険すぎ
それは遠江三河方面でも同じ気がするけど。
事実、一つの城をじっくり攻略してったわけだし、
その落とした城も甲府に引き上げるとすぐに徳川方へ。
占領後の防衛が困難なのも同じ。
補給線が長いのも同じ。補給路が冬移動困難になるのも同じ。
べたな結論で申し訳ないが、
やはり信玄はそもそも上洛を意図しておらず、
ただの領土拡張作戦だった気がする。
単なる領土拡張ならば、徳川から攻めるのは合理的
浜松城は?
北条からの支援でもあったんじゃね?
美濃方面からだけだと徳川をまるまる放置することになるからだろ
しかし、本当に信長を倒そうとしていたのなら、
近代戦的な考えかもしれないが、
やはり一気に中枢を突いてしまうのが合理的かと。
織田を崩壊させてしまえば、徳川単独では武田に抵抗する力はない。
逆に徳川にかまっていれば、遠江三河を完全に掌握するのに、
どれだけ時間がかかるかわからない。
内部ガタガタの駿河でさえ掌握に侵攻から3年近くかかっている。
5年たった1573年の時点でさえ、駿河衆はあまり戦力として期待されていない。
つまり、遠江三河を安定させてから織田と決戦となると、いつになるかわからない。
逆に安定させずに決戦となれば、徳川残党に後方を脅かされることになるのだから、
事態は徳川をスルーした場合とあまり変わらない。
徳川のデブダヌキ程度なら弱小田舎大名の武田でも何とかなったかもな
信長様に逆らったのが運の尽き
田舎者は山の中でぶどうでも食べてろよ
>>95 ぶどう食べ飽きたから東海道に出たんですけど・・・?
甲陽軍艦にも詳しく書かれてますよ。
ところでなんで信玄は、
美濃岩村方面、掛川方面、二俣方面の3方向からの進撃で、
東海道は使わなかったの?
駿河を策源地とするほど安定してなかったから?
結局信玄は海(ついでに金山)が欲しかったのでは?
それで北へ進んだが謙信がいたので南に方向転換したのだろう。
そうじゃなっかったら3国同盟維持して謙信さえなんとかすれば、美濃攻めの障害は少ない。
>>97 上のほうでも言われているが、
北から攻めたほうが徳川領を分断し易くて有利だから。
北三河には既に武田の調略の手が伸びていたしね。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 07:38:16
なんかとろけてるよね。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 09:14:10
>>98 その謙信が何とかならないでしょw
何とかしようとしたらどういう条件が出て来るか、
考えてみないとねえ。
それに甲斐信濃程度の国力では美濃に攻め込むのに
充分とは言い難いし。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 09:46:37
義元在世当時、国力(生産力、人口=動員兵力)は甲斐より駿河が上でした。
義元が亡くなって、今川家は政略の変更をします。武田との婚姻政策を破棄
して、上杉と結ぼうとしたのです。これにより、武田は南方の安全を脅かさ
れ結局、侵攻に踏み切るのです。
徳川とは、奥三河や遠江にかけて国境を接することになり、その際のいざこ
ざが三河侵攻の一因でしょう。
信玄の政略を落ち着いて見ると、上洛についてあまり考えてなかったと思わ
れます。足利将軍の謀略がなければ、信長と関わる機会もより少なかったの
ではないでしょうか?
落ち着いても何も、充分な実力の無い段階で
壮大な目標だけ打ち立てても「馬鹿」にしか見えんだろ・・・・
信長が那古屋城主時代に「天下布武」とか書いてたら
ちょっと引くぜよ。
尾張美濃を取った段階で周囲に並ぶ者の無い
大勢力になったからこそ現実的な目標として
打ち立てたに過ぎないわけだ。
さて落ちついて考えるとw、信玄の最終目標が何であれ
(そんなものは神のみぞ知るだ)、国力の拡大が
第一に来てそのために現実的な手段として
弱い所や敵対勢力から叩いていくというのは至極現実的。
その後で中央に目が行くのも至極当然の事だな。
当時の織田の機動兵力は2万
信玄の機動兵力は3万
そこまで壮大な目標とも思えないが。
>>104 当時っていつの話だよ、それ。
信長の尾張統一ごろの話か?
>>105 まあ、細けえことは気にすんな
禿げるぞ
天正元年当時、織田家は総兵力は10万を超えてたけど、
四方八方に敵を抱えていて、
機動兵力はかなり少なかったって結構有名な話じゃない?
実際、徳川への援軍はわずか3000、しかも方針は温存
2万という根拠がなんなのか知らないけど
>>101 実際に何とかできたから京に向かっただろ。
一向宗と北条を利用すれば駿河攻め前でもどうにかできると思われる。
越前の義昭を上洛を餌に呼ぶという手もある。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:44:41
実は
>>1が正しくて、信玄が馬鹿だったという可能性はない?
112 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 00:08:21
家康だって一万ぐらいは動かせるんだから
美濃から攻めるためには相当数の押さえを置かねばならず
結局信長に当てる兵が減る。
信長を戦略でもって縛り付けておいて
家康から降せば徳川軍を吸収して信長と戦うころには
兵が以前より増える。
絶対後者でしょ。
信玄の塩尻峠越えは、美濃に攻めこむと見せかけ、反転して遠江を狙う一大陽動作戦だったという説を聞いたことがあるような。
どこでだったっけ?
114 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 16:10:40
高遠に寄ってるし
杖突峠越えたんじゃないか?
ん〜・・・
いまいちピンとこないな
本多忠勝が欲しかったから
将星録か烈風伝をやればわかる。
>>117 将星録(PS版)なんて上洛戦出来るかよ
武蔵・相模からは北条の大軍
越後・上野からは上杉の大軍
美濃と三河からは織田と徳川がちょっかい出してくるし…
深志捨てて、駿府―甲斐―梅津で防衛線張ってやっと追い返し
気付いたら、攻め疲れた北条を追って関東に出てた……
↑なら上洛できんじゃん??
上洛なんてするもんじゃない。
関東の土地耕してる方がよっぽど国力上がる。
>>1 東海道を取るは、文字どおり海道を取る也
駿河を取った事により、それまでの陸路での輸送より、
海上輸送の方が遥かに楽ちんだと、痛感してたんだよ信玄は。。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 03:54:44
当時は一日ごとに寄港が主流だから
高天神とか放置しとくと湊で船が拿捕されるんじゃw
やっぱ海が欲しかったんじゃねーの?
真偽は別として荷止めの話があるくらいだし
124 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 09:41:03
FC不如帰は美濃への侵攻は信濃方面からも共にできないよ。
やっぱり当時の道事情は山越えなど現実的にできる技術や手段がなかったということだろう。
実際合戦になると、兵糧やらいろいろな資材・人材を持って移動しなければならない。
何万人分の大物資の輸送で山越えは当時は実現不可能なことだったのだろう。
ふむ。
確かに、山越えは辛いな(/o\)
美濃の場合は上記等でレスされてる通り道が狭い為
行軍するには細長く伸びてしまうため不利。
山道を行くよりは、海に出た方が海上輸送の面でも有利
美濃にて織田とぶつかるよりは当時弱小の徳川を討つ方が
戦略面においてもイイ
しかも、三河は土地も肥えている(?)…
しかし…色んな説があるからこの話しはまだまだ楽しめそうだ
>>124 甲斐(ゲームでは南信濃も含む)から美濃侵攻できるぞ。ウソ書くな。
>>125 同盟国の今川と美濃斎藤を比較したらどうだろうか?
どちらも先代が死んで弱体化してるのは同じだろ。
斎藤氏存続中なら美濃攻めも有効だと思うのだが。
信長と獲り合いになるかもしれんが、それは徳川との今川攻めでも同じことだし。
甲斐と駿河の間にも山はあるけどな。
結局北条が違約して甲斐進攻した場合、
木曽路から急行するより、東海道を東進する方が速いし、
その威力が北条の違約を未然に防ぐことになるからだろ。
北条にしてみりゃ甲斐進攻してるうちに、信玄入道に
箱根を越えられたら、そりゃあ恐ろしいぞ。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:00:54
信玄も信長が美濃攻略時にお義理程度の出兵はしている。
してない。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 19:31:52
塩だろ
>>129 北条の違約を防ぐために今川攻めしてたら本末転倒だろ。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 22:03:47
塩か。確かにね。海に出れば、魚貝類などたんぱく質も豊富にとれるしな。
上杉謙信が武田家に塩を送った逸話もあったな。
確か、今川家と北条家の3国同盟する前、兵糧攻めに合い、塩分が不足し
非常に困っていた時に、純粋な謙信が塩を送ったんだよんね。
そのことも太平洋側から攻めた理由だろう。
後、美濃地方・信濃地方は冬になると豪雪で身動きが取れなくなる。
比較的雪が少なく、雪解けを待たなくていい太平洋側から攻めるのは常識的だと思う。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 22:13:34
光栄のゲームでは、天候・環境・気候に余りにも左右されない為、
大規模な戦術面のみ取り上げられがち。
実際の合戦ではもっと行軍・外交・近隣勢力の関係・経済・文化・人間関係
など複雑に絡み合ってゲームのようにいかないだろう。
第一、相手がどのような国力兵力か、忍者を使えばすべて完全数値化されて出て来る
なんてないのだから。W
>>134 そのつもりだが、
>>133には話が通じなかったらしい。
というか、みんなずっとその時の話してんのに・・・。
なんで今川攻めの話だと思ったのか。
美濃攻めだと余力のある徳川への防備をある程度しなければいけない
甲斐や越後上野対策にある程度残存兵力を置いてるのに更に兵を置けば動員兵力は更に減る
それなら三河を潰した方が全然良い、美濃から織田が侵入する余裕は無いし
そして既出の海運、これによって荷駄隊の食料なんかもかなり浮く
上洛当時に関してはもう殆ど結論出てないか?
それもなんだかKOEIに毒されてる見解だな
駿河はそんなに国力ないのかな?
仮にも今川の本拠地だろ。
駿河の兵で徳川を相手できそうだが。
駿河勢に徳川まかせて美濃攻めれば、信玄の寿命が尽きる前に信長と一戦できたのでは?
それもなんだかKOEIに毒されてる見解だな
つーか信玄の作戦よりおまえらの方が優れてるんじゃね?
徳川には独力で武田を攻める力はない
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 07:06:51
>140
征服して僅か数年の国の兵士が自分の為に必死で働くかどうか・・。
徳川と一緒に攻めてくる事だって考えられるだろうし。
ちなみに私の勤めてる会社は去年吸収合併されました。生活の為にとりあえず
勤めていますが会社に対する忠誠心は今のところこれっぽっちもありません。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 08:20:07
東海道が便利になったのはつい最近の話
今でこそ東名が表街道で中央が裏街道になってるけど当時は逆
木曽川沿いに新道が開けていた中仙道ルートと違い、
東海道ルートは天竜川や大井川があって、
ただでさえ大軍の移動は不向きな上に、
雨などで増水したらまったく通行不可になる。
ちなみに中継拠点の飯田から出る距離は、
飯田街道→美濃ルートも、秋葉街道→遠江ルートも、
距離的には美濃に出るほうが近いくらい。
戦地に強固な拠点を築けなければ、
冬季に身動き取れなくなるのはどちらも同じ
天竜川の水運が発達したのは江戸期にはいってからだし、
遠江ルートがそこまで補給に有利だったとはちょっと思えないんだけど。
濃尾平野まで出てしまえば、
食料は思う存分現地調達できるしな
150 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 10:15:24
そりゃどこの水運も江戸期に比べりゃ盛んで無いことになるなw
はるか律令の時代より税輸送の目的で内陸と沿岸を結ぶ
河川水運は利用されていたのだから・・・・
もちろん富士川や天竜川も戦国時代にも利用はされていた。
だがまあ、家康の領土を東側から一個一個潰すってのは
面倒すぎて有り得ない選択だな。
家康対策の必要性→一旦南に出るという選択
遠江三河の効果的な分断戦略→信濃から南下するという選択
ってとこでしょ。
それもなんだかKOEIに毒されてる見解だな
153 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 11:33:47
案外
>>1が正しいに一票
当時の状況は、
信長は四方八方に敵を抱え兵力が拘束されていて、
もし美濃を直接攻められれば決戦に持ち込むべき機動兵力がない状態
しかし、一方で浅井朝倉は虫の息、浅井朝倉が降伏すれば兵力がぐんと浮く
まさに一手差で時間との戦いといってもいい状況
そんな状況でわざわざ三河遠江で時間を浪費するのは首をかしげる
信玄らしからぬ近視眼的な戦略に見える
>>153 リスク的な問題じゃないの?
一手差で時間との戦いといってもいい状況を敢てさけ堅実に戦うことに終止じゃないの
まず徳川と何とかしなきゃ
徳川がその機動兵力に成り得るわけだが・・・・
>>153 @織田は西部戦線や本拠地から離れて遠征するだけの余裕はなくとも、
相手が美濃まで来てくれるなら相当な兵力は集められる。
A武田本隊が美濃に行った後、徳川軍1万が攻めてきたら武田の本国の方が危なくなる。
よってリスクは大きく成功の目算は低い。戦略として最下策。
というか、そもそも信玄が信長との決戦を望んでいたなんてこと自体ないし。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 11:56:48
所詮信玄は中世代表の田舎大名、
決戦&敵の本拠地を一気に蹂躙って発想がそもそもないだろ
ではなんのための上洛だ
161 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:03:10
結局上洛じゃないんだよ。やっぱ。
単なる領土拡張戦争。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:04:54
>>158のような古典的発想がそもそもおかしいんだけど、
まあ無理に決戦とかする必要も無いんだよねえ。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:07:41
徳川対策は牽制兵力だけ残していれば十分だろ。
飯田や犬俣を抑えていた武田と違って、
徳川は攻勢拠点構築の為に城主の調略から始めなきゃならない。
その間に織田が崩壊したら、
徳川には単独で抵抗する力はない。
>>163 そりゃあただの兵力の分散だぞ。
信長の本拠地へ侵攻なんて25,000全軍でもきついのに、
さらに減らしてどうする。
まさかとは思うが、野戦なら必ず信玄が勝つとでも思っているわけではあるまいね?
165 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:20:11
>>154 一手差の状況って、徳川攻めてたらそれを回避したことにはならないよ。
信長にしてみれば、徳川が時間稼ぎしてくれれば万々歳でしょ。
実際、
天正元年内に義昭追放7月18日朝倉滅亡8月17日、浅井滅亡8月28日
と信長は一気に各個撃破に成功している。
本当に上洛を目指して信長を倒すつもりだったのなら、
徳川なんかにかまってる時間はなかったと思うけど。
>>165 それ全部信玄が死んだ後のことじゃない。
信玄が徳川攻めている時にそれができるほど西に兵力は割けないよ。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:27:24
本当に上洛&妥当織田を目指していたのなら、
一気に美濃に出るほうが戦略的リスクが高くても、
信長が息を吹き返したら元も子もないので、
最終的には低リスクだった。
しかし、単なる領土拡張が目的なんだったら、
徳川を相手にしたほうが極めて合理的常識的であった。
こんなところか?
168 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:29:58
>>166 一乗谷攻めって、東方防備の兵力を転用したの?
そんなことないと思うんだけど。
>>165 勝たなければ意味ないんだぞ?
徳川に兵を割いた上で相手の本拠地に突っ込んでどうすんだ、
それでも勝てると思ってるの?
リスクが高すぎるだろ。
徳川潰して後顧の憂いを断ってからの方が順当だ。
>>168 アホか、東から今まさに信玄が攻めてきているときに、
越前まで攻め込めるわけないだろ。
つーか、対信玄の守りの兵を残して一気に朝倉を滅ぼせるほどの兵力があったなら、
どの道信玄他反信長側に勝ち目ないだろうが。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:39:07
>>167 それもなんだかKOEIに毒されてる見解だな
単なる領土拡張が目的なんだったら、何であんな大軍勢で行くんだ?
三河を取るのに秋山の美濃別働隊はイラン
172 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:39:07
なんつーか、
ゲーム厨のkoei的に攻めやすいところからじっくり攻めよう的視点
VS
軍事ヲタのドイツの電撃戦のように、戦争は一気に行くべし的視点
だね。
>>167 あの情勢で美濃攻めなんて、
上洛目的でもリスク高すぎで話にならないよ。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:41:37
>>171 川中島も大勢で逝ってますが?
美濃別働隊は織田の援軍圧力の軽減という意味もあるでしょう。
>>171 あのくらいの兵力で行かなければ、
徳川領すら思うように切り取れないが。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:46:23
実際、信玄が美濃に攻めた場合、
信長はどれくらいの兵力を用意できたんだ?
それがないと話にならんだろ。
>>176 以前上洛できっかよスレでやった試算では、
他の戦線に最低限の守りの兵だけ残すなら3万ほどは余剰が出るはず、
ってことだった。
2万5千対3万、しかも信長が守り側なら、信長有利か
179 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 12:56:12
畿内の戦線を縮小すれば、在京の3万は用意できたと思われ。
ただし、その場合織田の力は大きく後退する。
畿内の戦線を維持しつつ、信玄に対抗するのは無理と思われ
>>179 信玄さえ屠ればいくらでも取り返せるよ。
信長としては、他にも敵がいる状況で大軍を三河まで動かすのは危険が大きい。
しかし、信玄の方から来てくれるなら、
思い切って最大限の兵力をかき集めてぶつけただろうから、その方が好都合だっただろう。
信玄を少しほっといてでも、自領における反信長派を再起不能にしとく、としたらどうだろうか
その隙に信玄は、
@一気に侵攻
A領土を少しずつ取っていく
Aなら、信長が信玄に兵を向けてくる時も、戦える準備が出来てるし、撤退もあり
しかし@なら、もし負けたときは武田は完全に再起不能かも
自領における敵対勢力を片付けるよりも、そっちをすこしほっといてでも、
信玄潰しに行ったほうが良いとは思うがな
信玄さえ帰らせれば、あとは順に倒していける
信長にとってみれば信玄程度はとるに足らない存在
184 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 13:48:58
>>181 そんな余裕があるなら家康の救援に行った方がw
それに史実で信玄が引き上げるまで岐阜を動かなかった
というのが事実なわけやし。
信玄が勝手に死んだんですけど
信玄が死ななかったら織田家は滅亡してたな
>>187 ”武田信玄は”なぜ美濃から攻めなかった
>>177-
>>179 その試算で、さらにこのスレタイどおりに美濃に一気に攻めていたら、徳川軍約一万
が無傷で残される。駿河に侵入されるか南信濃に侵入されるだけで武田は終わるな。
>>184 信長の狙いは、徳川に時間稼ぎさせつつ、尾張美濃まででばってきた信玄を撃退って
ところじゃないかね。
それから信長の援軍が三千しかなかったというが、徳川軍は合計で一万一千〜二千の
軍になった。これは野戦を考えればどうにもならないが、浜松篭城なら敵の約半分で
十分意味がある。
根本的に一気に美濃へ侵攻したらという話は、
野戦で激突すれば武田軍が勝つ、少なくともその公算が高い、
ってことが前提になっているように思うが、そこがまずナンセンス。
フィクション等で野戦になれば信玄が勝っていたという設定が多い為に、
そう錯覚してしまったのだろう。
実際には勝てる見込みは決して高くないし、
徳川の動きという大きなリスクを背負ってしまう。
現実的には全く話にならない問題外の考え以外の何者でもない。
信玄の戦いは敵より多数を揃えて数で勝つというもので、信長と変わらない。
(もちろんこれは、軍事的には全く正しいのだが)
しかし戦術の面をみると村上義清や上杉謙信など、野戦で自軍より少数の敵に
してやられたケースがみられる。相手が悪かった、といえばその通りだが、戦術なら
信長も相当の巧者。数でも互角か下回るとなれば、信玄が勝てるとは思えないよなあ。
クマ
織田軍の兵も
野戦で激突すれば武田軍が勝つ、少なくともその公算が高い
と思ってただろうな。
兵質の問題を持ち込まれるとさらに混乱していくだろうな。
>>195 よくフィクションでよくそういう風に描かれるからだと思うよ。
かく言う私も、小学生の頃「マンガ日本の歴史」で、
織田軍の兵士が武田を特別に恐れているのをみて、
そういうものだと思ったことがあるし。
>>192 信長も斎藤義龍にはついに勝てなかったし
長島では何度も無様な姿を晒したしなあw
>>198 信長と義龍は一度も戦ったことないよ(厳密には、道三死亡時の出兵があるが)。
道三死後は信長も義龍もそれぞれの国をまとめるのに忙しかったからね。
小説を根拠にしないでほしい。
長良川で撤退させられて以来戦ってないなら
やっぱり「ついには勝てなかった」ことにw
201 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 18:11:30
>>200 「ついには勝てなかった」という言葉からは、長年やり合っていたり、
何度も戦ったというような感じを受けるのが自然なので、不適当だといえる。
義龍が死んで信長が勝ったというより、内乱を治め、義元を下し、東の家康と結ぶことによりようやく信長は、
美濃に攻めていけるような足場ができたというのが本当のところ。
また、謀反直後の義龍側も統制がとりきれず、尾張に攻め込む余裕もなかった。
「義龍生存時は、互いにそれどころじゃなかった」というのが正解だろう
202 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 18:18:31
>>198 長島の戦い含め、信長対一向一揆の戦いって、
第二次大戦の日本(ここでは一向一揆)対アメリカ(ここでは信長軍)に似てると思うのは俺だけか
お前だけだ
204 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 18:26:46
202の補足
最初善戦→しかし大局的には効果薄く、その勝ちペースも所詮保てないというあたりが似てるかな、と
ただ米軍と信長の違うところは、最高権力者が戦に出張ってきたことだな
とはいっても、この戦の場合においては、最高権力者が死なないことが最重要なので、どの戦もさっさと信長は退いてるが
民主共和制のシビリアンと、中世武家の当主を同列において比較されても
206 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 20:24:26
戦に関しての話だけだろ
補足するだけ虚しいな。
戦争の過程が似てるだけなら、本朝唐天竺あらゆる戦争は「似ている」。
わざわざアメ公を比較に出す必要は皆無。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:16:06
つまり、本願寺側は、物量的にどうしようもなかったと言いたいだけだろ
209 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:37:10
岐阜城の天守閣登ったことあるけど、ほんとに濃尾平野一望できるな。
昔は尾張方面から織田軍が美濃に攻めても斉藤家の天守閣から丸分かりだったのでは
なかろうか。
竹中半兵衛が岐阜城は内から攻めなければ攻め落とせないとし、美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家ト全・安藤守就)
らを反目させ斉藤家を攻略した意味が良く分かった。
圧倒的な物量兵力でしかも機動力がなければあの城を直接攻撃で攻略するのは無理だ。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:39:43
大名たるものいつでも最低3千人くらいのお供はつけて行動すべきだな
当時天守閣ってないんじゃあ・・・
212 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:42:31
謙信と信玄って偶然隣国で生まれて
信長かなり助かってるよなぁ・・
>>212 山梨県と新潟県の位置関係、わかってる?
214 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:54:57
むしろ助かったのは信玄のほうだろ
謙信はどこでもあんま変わらんぽいが
215 :
すれ違いすまん:05/01/16 21:55:18
甲斐と越後って隣国なのかw
217 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 22:36:55
信長は山麓に御殿を築いて暮らしていたようだね。
>>218 山頂と山麓を行き来して過していたらしいことが『言継卿日記』にある。
山科言継が信長との面会を武井夕庵に依頼したら、
「山頂から戻ってきてまた上がるのは老体にはつらいから、山麓に下りてきた
ときを見計らって伝える」
と答えたとか。
さらに言えば山上の御殿に入れるのは
ごく近しい者だけだった。
山麓の御殿は公務の場でもあった。
信長は信玄を怖がったのであって武田の兵を怖がったわけではない。
震源の謀略も含めた戦の巧さを認めていたんだろ。
正面からせーので戦うなら怖いはずは無い。
震源の事だから本願寺やらなんやらと組むだろうし、一枚岩ではない
家臣の中にも裏切りものがでるかも?みたいな。
関が原では謀略を尽くした家康が勝ったし、補給路を確保するために
義元は本陣に十分な手勢を残さず、信長に討たれた。
逆に武勇はあったが謀略は使わない勝頼は怖くなかったさ。
>>221 怖がってなければ半分以下の武田軍に柵作って引きこもるわけないだろ。
>>222 陣城なんて、この時代普通に行われているものだがな
>>221 長躯遠征なんて出来ない武田軍も、やはり恐れてはいなかったろうね。
( ´,_ゝ`)プッ
226 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 01:32:05
あたまのよさそうな224がいるスレはここですか?
>>209 織田秀信が守ってるときに岐阜城落ちたのは何でだっけ?
普通に落とされた?開城した?
228 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 07:53:22
229 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 12:31:20
敵の本拠地を一気に突くという戦略が可能になるのは、
兵站の概念が確立した近世以降
地侍の寄せ集めみたいな武田には到底実行不可能な戦略
単なる三河平定に3万もの大軍を投入したのは分かる
しかし…その割りには、責めるのに時間が掛かりすぎてるような気ガスる。
だいたい、信玄の体調がおもわしくないのに三河平定に大軍で来る必要が
あったのだろうか?
結局、死んじゃってるし(o_ _)oバタッ
ちと、そこんところを少し詳しく教えてエロイ人(*´ェ`*)ノ
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 13:54:33
信長は信玄を怖がった・・・ んな訳ない。
信長自身が西(近畿・京)に目を向けるなか
たまたま東に一定勢力があった武田に注意しただけだろう。
恐れたのは、地盤が安定するまで
東西に戦線が伸びることぐらいだろうね。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 14:25:55
信玄だけが相手ならまだ怖くはないが、あの時期は四方八方敵ばかりだったからね。
浅井・朝倉連合軍・本願寺・海上は毛利氏・三好家残党・松永久秀の裏切り・足利義昭の反抗など
2正面作戦どころか同盟国が徳川家のみだったから兵力が分断されて武田騎馬軍団の機動力のある
軍団にすべての兵力を割くことができなかったから、恐ろしかったのでは。
武田家はその点、周辺国と同盟していたし上杉謙信の義理堅さ純粋さを見越し
決して本国に攻め込まれる心配がないので、信長と比べても数段有利。
武田騎馬軍団の機動力のある
軍団にすべての兵力を割くことができなかったから
234 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 14:45:40
上杉謙信の義理堅さ純粋さを見越し
決して本国に攻め込まれる心配がないので、信長と比べても数段有利。
>>227 普通に尾根伝いに突破された。
岐阜城は山上の城郭部分は規模小さいからね。
大軍で攻め込まれると最初は良いが疲れたところでアウト。
武田騎馬軍団とか義理堅い謙信とか、小説で語るのやめたらいいかげん
なあ、この時代に風船爆弾発明してたら
稲葉山も楽に攻略できたよな?
238 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 18:01:34
236
戦国の時代に生きていた訳ではないので、ほとんど推測なわけだが。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 20:03:34
239?
241 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 20:09:35
239
では何が正しいと?
歴史の捉え方など人其々、又その時代背景などから解釈の仕方など色々あるのだが?
またありがちな流れになってまいりました
243 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 20:26:35
241だけど、これで何を反論されてもスルーするので煽るなら勝手に煽ってくれ。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 20:55:43
正しいのは信長が勝って武田が負けたということ
245 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 21:46:40
で、その信長は家臣に寝首かかれて犬死と。
反論できなくて悔しいときはこれ貼ってね。
( ´,_ゝ`)プッ
信長をけなせばけなすほど、武田がどんどん落ちていくってことに
気付いていないのかなあ
248 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 22:51:49
247 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/01/17 22:34:35
信長をけなせばけなすほど、武田がどんどん落ちていくってことに
気付いていないのかなあ ( ´,_ゝ`)プッ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 23:35:02
なんか複雑な煽り合いだな
248は、246の言う、「反論できなくて悔しいときに張る物」を張ってるから、
247の発言に反論できなくて悔しいってこと?
でもぶっちゃけ自演だろ
なんだこの流れ?
それで風船爆弾は?
たった400年前のことを推測でしか語れないならわざわざここに来る必要なくないか?
252 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 08:06:58
05/01/18 02:58:18
乙w
事実を積み重ねた上で、推論をするならまあいいのだが、
前提の段階で推測というか想像というか妄想を加えるからなあ
確かに事実は、わからないかもしれん。
だが各種資料から事実に近い推測は出来る。
義理堅い上杉とか機動力の高い騎馬とか抜かしてる
一人の馬鹿が沸いてから変な流れだな。
( ´,_ゝ`)プッ
↑
何かコレって…恥ずかしいAAだなw
>>254 違うのか…上杉は義理堅くないの……か(/o\)
まぁ、それはそれで置いといて。
ちょっと美濃の件で
>>254の意見・考えを聞かせて欲しい
256 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 13:41:45
wとか使ってる奴はダメだなw
歩くより馬に乗ったほうが速いだろ。
一応レスしとくか
当時の馬は分速200m程度しかスピード出ない
足軽が走ったほうが速い
しかも騎馬の割合は全体の10〜15%しかいないし
馬だけの兵科もなかった
武田騎馬軍団とか騎馬隊の突撃とかは明治時代の創作
>>258 >当時の馬は分速200m程度しかスピード出ない
>足軽が走ったほうが速い
残念ながら違います。
違うなら答えを書けよ
しかし分200mはいくらなんでも遅すぎだろ
陸上選手で分600mくらいか
まあどの距離を割るかによるが
>>255 義理堅い一面もあったでしょう。ならば何故、一致時とはいえ
北条と盟を結び、関東の諸将の心を踏みにじるのかと とかになっちゃいます。
義理とか曖昧な言葉を断定しちゃうのは、どうかと
美濃の件って? 何故 武田が攻めなかったって話?
スレで言われてますようにリスクが高かったからだと思ってますよ。
本国から距離、美濃の地形、他の勢力の所在など様々な条件を
検討した結果、武田は美濃方面からの進攻は危険と判断して
陽動隊しか送らなかった。。。 ただそれだけ
別人だが、謙信についても。
初期の謙信の戦いは基本的に越後防衛。小笠原長時・村上義清や上杉憲政が亡命して
きたときも、彼がやったのは受け入れて世話しただけ。軍を出したのは武田や北条の
軍が越後にまで近づいてきてから、それ以上の進出を阻止するため。
(当時まだ統一されていなかったという国内事情も指摘されるが、その状況はずっと
後まで変化はない。謙信は不安定な国主権力のまま出兵をしている。)
そして武田の戦略が北進から南進に変わって余裕ができると、躊躇無く越中など北陸
方面の侵略を開始した。既存の権威を尊んだというのも嘘で、信長と義昭が対立した
時は対武田・一向宗から信長と同盟(謙信が権威に逆らえないのなら、将軍の命令通り
に武田と和睦して信長と戦っていただろう)。後に信長と敵対したのは、信長が越前か
ら加賀ニ郡を制圧して、北陸を進む上杉と利害がぶつかるようになったから。
つまり、謙信の外交は利害得失にのっとった真に健全なものであり、正義だのなんだの
という不純なものによるのではないのだ。
鎧来た筋骨隆々の武将を乗せるんだから
移動距離が長ければ長いほど馬の速度は落ちるだろうな
軽装の足軽の方が速い場合もあるかもしれない
264 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 20:18:09
>>263 ん?しかし「鎧来た筋骨隆々の武将」なら、自力で走るのも足軽より遅いよな。
なら馬に乗ってた方がまだ速いんじゃね?
265 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 20:22:58
あれ、この頃の足軽って、今の陸上のような走り方じゃなく、
スピードより持久力重視の走り方じゃなかったか?それと比べんの?
美濃 甲斐・信濃
1556長良川の戦い 1555木曽義康降伏
同第二次川中島
1557第三次川中島
1560田楽桶狭間 1561第四次川中島
1565 織田・武田同盟成立
美濃へ攻め入る余裕はなかった
>>265 持久>速度
同じことが馬にも言えると思わないかい?
268 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 22:21:15
昔、NHKの番組でそんな内容の特集をやっていたような?
武田の騎馬(補給)隊は当時最も恐れられていた。
やっぱり補給だろ。信玄の強さは。
因みに兵站の概念は孫子がすでに語ってるけどな。
馬が分速200mとかいってるやつがアホなだけ。
行軍するのに、ウマナリで進むわけないだろ。
言うまでもなく人が緩急を調整するんだよ。
時と場の条件も提示せずに速度はじきだして
足軽の方が速いと主張したって説得力ないな。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 23:16:17
信玄を美濃へどうしても攻めなければならない状況になるには、桶狭間で
信長が敗死して尾張が今川領になれば南進ができなくなるから美濃へ行く
しかない。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 23:27:36
甲陽軍艦によれば、武田騎馬軍団は最強だった。
やはり山本勘助の能力を恐れたのだと思う。
甲陽軍艦で武田騎馬軍団がフニャチンだったとは書けないだろ。
騎馬軍団を盲信するアフォ
これもウザイが、これに対し
やたらと真実をひけらかしたがるアフォ
これも相当ウザイ
275 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:02:15
276 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:03:53
武将風雲録の武田家なんて鬼だよな。
軍師多すぎ
>>274 文句だけで意見もいえないのかな?
だれも坊やの感想は聞いてないんだよ。
そういうことは日記に書くといい。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:07:31
武田信玄はチンギスハンの子孫だった。
ナポレオンは武田信玄の子孫。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:08:52
そうか信玄の強さの源流は義経にあったのか
280 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:12:27
277>
272.275.278のどこが間違っている?
100%間違いと言い切れるか?
272 :無名武将@お腹せっぷく :05/01/18 23:27:36
甲陽軍艦によれば、武田騎馬軍団は最強だった。
やはり山本勘助の能力を恐れたのだと思う。
甲陽軍“艦”なんて存在しないので100l間違い
275 名前:無名武将@お腹せっぷく :05/01/19 00:02:15
http://www.awave.or.jp/home/matsu/singen1.HTML 武田信玄と24将。
そして武田騎馬軍団!
あの時まだ山本勘助が生きていたら天下は武田氏のものだった。残念!
武田騎馬軍団で検索してら、やはり武田騎馬軍団は最強だと思った。
いろんな敵と戦っているんだなあ。関心してしまったよ。
山本“勘”介の実在しない
山本菅介なる人物の実在は確認
よって100l間違い
278 名前:無名武将@お腹せっぷく :05/01/19 00:07:31
武田信玄はチンギスハンの子孫だった。
ナポレオンは武田信玄の子孫。
チンギスハンの子孫という確証無し
ナポレオンが(ry
100l間違い
>>277 スレ趣旨に沿った意見は前に書いた
キミどっちかのアフォなんだろうな
こっちは特定の番号指定したわけじゃないんだけどさ
自己紹介乙
285 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:28:54
↑一番ウザイ↑
286 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 01:55:26
何事もなかったかのように再開
>>280 激しく笑った
意外とユーモアのあるやつだな
ちょっと注意されたりたしなめられたりすると
すぐムキになるからなぁ
289 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 07:28:58
|風|
|林|
|火| __________
|山| /
_∧ .∧(oノヘ| ̄ < 御旗楯無、ご照覧あれ!
(_・ |/(゚Д゚ )|\ \__________
|\Ю ⊂)_|√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
290 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 07:54:03
ナポレオン語録・名言より
禿げは遺伝する。
信玄の
>>289のセリフってどーゆー意味なの?
旗も鎧も見てくれ!って意味???
本当に最近は読解能力ないな
煽るだけかよ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 12:18:11
>>282 名前の当て字は当時として普通の行為であるからして
別人と強弁する必要は無い。
>>291 旗も鎧も見てくれ!というか
見守っていてくれという意味では?
>>258 NHKが「堂々日本史」で木曽馬に鎧着た人間乗せて
1kmの距離を3分弱で走ってたよ。
多分分速だと350mぐらいになったと思う。
同じく鎧着た人間が自分で走ったら5分以上かかってた。
ポニーじゃなく木曽馬での数値だから昔も似たようなもんだろう。
つか、日露の頃に重い鎧はもう着てなかったとは言え同じ馬で
戦ってたんだからな・・・・
>>263 軽装と言っても鎧初めこまごまとした装備全部合わせたら
相当重いぜよ・・・・
つか、長い距離を全力で走ったら馬も人間もスピードなんて
保てません。
分速350mだって何キロも走る事は想定しないスピードやし。
ましてや人間がw
>>294 甲陽軍鑑にある山本勘助と、実在する人物の山本管介が同一人物ならそうだろうが
甲陽軍鑑に書かれてある山本勘助の実績は事実とは全くかけ離れてる与太話であり
山本管介という人物をモデルにした山本勘助を作り出しただけ
よって別人であり、甲陽軍鑑に書かれてる山本勘助という人物は存在しない
299 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 18:46:04
300GET
296
旗は「風林火山」を読めってことじゃないか、それと家紋
うちの武田軍は強いから命を惜しむ輩はさっさと逃げろ
みたいな意味合いで
違うかな?
日露戦争当時には、陸軍はペルシャ産を数多く輸入調教してたんだぞ!
それ以前で日本馬のダメポさを十分曝け出されてしまった所為でね
知り合いが馬に乗って戦うメリットがわからないと言っているんですが
騎馬隊の正しい運用を教えてやってください。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:25:17
奇襲
305 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:27:00
突撃!
日本じゃ明治まで騎兵部隊はないから
307 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:42:57
>>1 理由は至極単純。
美濃→尾張と攻めると「身の終わり」ってなって縁起が悪いから。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:47:48
>>303 @追撃時や逃走時に有利
A疲れが少ない
309 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:50:33
310 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:56:40
長槍持った歩兵と騎馬兵1対1なら騎馬が有利ですよね。。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:57:48
313 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 21:58:24
もしや信長も、美濃尾張では縁起が悪いから、美濃ではなく岐阜と呼び出した、とか
んなわけねーな
314 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 22:19:58
315 :
斉藤:05/01/20 12:13:30
>>311 太平記では長刀持った僧兵のオッサンが
馬に乗って太刀持った騎馬武者をアッサリ完封勝利。
足を止めてしまうと馬上の方が死角が多いので有利とも言い切れない。
馬に乗る利点は機動戦にこそある。
一対一となると不確定要素が多すぎるな。
遠い位置で馬を刺突かれたら負けなくても大損だし。
源頼朝でさえ近頃は馬を狙う無粋な奴が増えたと嘆いたようだが
戦国の頃ともなれば馬乗ってる奴がいたらまず馬を槍で突け
というのが恒常化してしまって
機動力の生かせない場面で馬に乗ると馬が怪我したり死んだりして
馬は自腹なだけに大損してしまうというので
宣教師が日本では馬から降りてしまうと言ったり
甲州流で乱戦時の下馬戦闘を説いたりしたんじゃないかと考えるが・・・・
>>298 >甲陽軍鑑に書かれてある山本勘助の実績は事実とは全くかけ離れてる与太話であり
>山本管介という人物をモデルにした山本勘助を作り出しただけ
まず「事実」は「よくわからない」のであって何かが確定しているわけではない。
明治のアホ学者の極端な意見をそのまんま信じられる感性は素晴らしい・・・・
事実とは何ぞや?
つーかなんか勘違いしてないか?
騎馬兵も戦う時は馬からおりて戦うぞ
そもそも昔の騎馬武者は弓騎兵だよな
>>317 よくわからないではない
甲陽軍鑑に書かれてる山本勘助は実在しないというのは確定であり、事実なんだよ
何度も書くが、実在が確認されてる山本管介という人物は「よくわからない」
が、甲陽軍鑑に書かれてる山本勘助と言う人物は空想の人
なぜなら、甲陽軍鑑に書かれてるような山本勘助に関する所業は、全くデタラメであり
何一つ証明されておらず、逆に否定できるようなものしかない
上杉将士書上の宇佐美定行と宇佐美定満との違いだ
つか、おまいバカだろ?
山本管介≠山本勘助
>>318 その時点で、日本の騎馬武者は世界史や近世に出てくる騎兵隊ではない
ことが証明されてますね。
騎馬武者がてんでんバラバラに機動力をいくら上げても意味はないよ。
集団行動をとってこそ意味があるのだから。
>が、甲陽軍鑑に書かれてる山本勘助と言う人物は空想の人
>なぜなら、甲陽軍鑑に書かれてるような山本勘助に関する所業は、全くデタラメであり
>何一つ証明されておらず、逆に否定できるようなものしかない
信玄に進言wしてただけの役回りだからなー甲陽軍鑑でも。
信玄の側近程度の身分でも何の発言も出来ないわけじゃなし。
やっぱり「よくわからない」だよw
>>320 横から悪いけど、墓穴掘っちゃったんじゃねー?
>山本勘助は実在しないというのは確定であり、事実なんだよ
>山本管介という人物は「よくわからない」が、実在が確認されてる
一応俺
>>317じゃないこと断っとくわ。
「自演乙」で片付けてくれてもいいよ〜。腰抜けならね。
山本勘助は実在したんだ
僕達の心の中に・・・
〜完〜
山本勘助は実在したんだ
光栄のゲームの中に
〜続く〜
頭悪いなぁ、甲陽軍鑑に書かれてる勘助の実績は史実検証からありえない
ありえない事を実在の人物は実行できない
だから何度も「甲陽軍鑑に書かれてる山本勘助は存在しない」と書いてるだろ
山本勘助と山本管介は同一人物じゃねーの、山本勘助ってのは山本管介をモデルにした
架空の人物ってな
違うというなら、甲陽軍鑑末書に書かれてる山本勘助の事を
史実で証明してくれ
なんでバカは意味不明な事書いて、反論出来たと悦に入ってるんだろ?不思議
このやりとりも騎馬軍団と同じだな
兵農分離とか三段撃ちとかも
そのうち猿飛佐助が実在するとか言いだすんじゃないか?
>>327 何を言いたいのか知らんが
甲陽軍鑑や甲陽軍鑑末書に足軽大将山本勘助というのが登場して
どうやら山本菅介(読みが同じ)というのは
いたのだから何もムキになる事はないぞw
「甲陽軍鑑に書かれてる勘助の実績は史実検証からありえない」
「ありえない事を実在の人物は実行できない」
受け売りご苦労。
自分じゃ当の甲陽軍鑑すらマトモに読んだ事無いんだろうな。
ところでその実績って何があるの?
確か築城技術者だとかは聞いたことあるけど。
それどころか上野晴郎氏に至っては若神子城の近くで
山本勘介の屋敷跡やら位牌やら墓所やらを見つけたと
言っていたが
三州牢人は讃州牢人を相手が勝手に聞き間違えただけ。
実は西国の出身。
大内氏に仕えて矢原(山口県)に住んでいて子供もいた。
しかし家族を残し出奔して後に武田家に仕えた。
矢原にいた頃の子供の家系はその後も続き、
後に山本源兵衛という人物が山本勘介の子孫であると
書いた文書は『萩藩閥閲録』に収録。
>>330-333 これって反論のつもり?意味がわからんぞ
>甲陽軍鑑や甲陽軍鑑末書に足軽大将山本勘助というのが登場
こういう書き方した時点で、甲陽軍鑑を読んだ事ないの確定だな
甲陽軍鑑はね、軍法やら陣立やら書かれてて、その中で講談が書かれてるのが末書
ちなみに山本勘助の実績の話は末書にしか出てきておりまへんw
上野晴郎がいう勘助の墓って・・・検証の結果、江戸期のものだとわかったヤシか
山本家言伝之覚書?だっけか?あれは自己申告の捏造物もイイトコなんですが
内容も思いっきり甲陽軍鑑見て書きますたってなもんですw
読んだ事なさげなので、頑張って読んでから出直してね
あ、ちなみに足軽隊将なw>足軽大将山本勘助というのが登場
山本勘介と山本菅介ってのは、
史実の諸葛亮と演義その他の諸葛亮孔明みたいなもの。
山本菅介はなんとか実在が見て取れる。しかし確実にいえるのは存在しただろう、という
程度であり、軍鑑の勘介のような活躍をしたかどうかは不明。むしろ、研究すればするほど
否定的になっていく。
なんというか柳生十兵衛とか宮本武蔵みたいなもんだ。
存在は確認できるが何をなしたかというと詳細は不明。そのうちフィクションによって
クローズアップされ、実像より虚像の方が一人歩きしてしまった。
あ、いい例もう一つ思いついた。
史実の真田信繁と講談の真田幸村みたいなもの。
んもう
すぐムキになるんだから
だがそれがいい
ここは拙者にお任せ下さい
>>334 必 死 だ な
小幡景憲だって一時期は武田にいたのだから
全く根拠の無いデタラメを書くこともあるまいと思うのだが・・・・
自分の軍学を売り込むなら自分の親父とかを軍師にすりゃw
>>334 証明とか確定とか言う所を見ると中高年の歴史ヲタと見た!
書籍などで知識が豊富なのは大変スバラシイ
今後もその意見等を聞かせてくれぃ(・ω・)ノ
しかし、自分の意見が全て正しいとイイ切ってはイケナイ。
他の意見を真っ向否定するのではなく、
『こういう考えは出来ないだろうか?』などをして
確信に迫って行ければ、モマエの知識も更に豊かな物になっていく。
>>334はそういう奴であってホスィ〜な
>>338 >だがそれがいい
↑
そ…それは…その受け売りの独特の言い回しは……
甲陽軍艦読んで書いたら山本家言伝之覚はむしろ出てこないのでは・・・
そだ |------、`⌒ー--、
れが |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
が |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
い |ヽヽー、彡彡ノノノ} に
い |ヾヾヾヾヾヽ彡彡} や
!! /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ  ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄ lノ/l | |
ヾヾ " : : !、 ` lイノ l| |
>l゙、 ー、,'ソ /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ ー_ ‐-‐ァ' /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ 二" /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\ /::://:.:,':.:..:l:.:.
;.;.;.;.;;.:.:.:.\`ー-- '" //:.:.:;l:.:.:.:l:.:
夢と想像力は歴史学に多少は必要だよ。
たぶん
>>334って馬分速200mと信じていきがってたヌケ作だな。
甲陽軍艦だけ熟読してるだけで、特別豊富な知識があるわけじゃなさそうだw
なにしろ「検証の結果」が「事実」だと思ってるくらいだからな。プッ。
「史実で照明してみろ」だとさ、笑わせやがら!
「事実」のなんたるかを歴史から離れて考察したことのない証拠だな。
ん?理解できないかな?
上の方で親切にもお前を教化しようと書いてるやつもいるのに、
悉く「意味わからんこと言って、馬鹿じゃねーの」で済ませてるもんなぁ。
ちなみに、菅介と勘介の同一の是非の話をしてるわけじゃないので(それくらい
は理解できるだろうが)、青筋立てて「じゃ、じゃあ、事実を証明してみろよ〜」
って阿呆みたいに反復しないでね。お門違いだから。
武田坊は卒業して、視野を広げて出直してきたら?
まあ現時点で山本勘助を信玄の参謀にして重臣の一人、と
見なすには決め手が無さ過ぎるのは事実であるし、
証拠が無いものは存在しないと見るのは完全な誤りというわけではないよ。
当の軍鑑でも所領が最大で800貫というから武将としては手勢100人
といったところでしかないし。
スッカリ江戸時代になってから山県配下の足軽大将だなどと
言い出した山鹿素行になんら根拠があるとも思えぬが、
(ところで誰か「足軽"隊”将だ」とか言ってたが、軍鑑ならば
「足軽"大”将」で正しいはずだが)
山本「菅介」がモデルもしくはこれと同一人物だとするならば、
勘助の立場は信玄の旗本衆の一人で、まあ前線への伝言を
頼んでも内応したり寝返ったりしないだろうぐらいには信頼される
男だったんだろうという事ぐらいしか言えないんじゃないかい?
旗本と言っても名も無き一騎駆けの連中から
数百人を率いる立場までいるやん。
書状を託されるんだから信玄側近ではあるんだろうけど
身分的には断定し得る要素が無いな。
跡部勝資ですら太刀持ちやってた時期もあるぐらいで
領地も無い蔵米侍かもしれんし意外と大物かもしれないが、
でも大物だったとしても「意外と」でしかないだろう。
じゃあ「よくわからない」でその話はもう終わりにしといたら?
このスレは信玄がなぜ美濃から攻めなかったかを論ずるスレですよ!
川中島で死んじゃった奴は悪いけど議論の対象外でしょ!
>>348 このスレは元亀三年限定?
違うなら川中島で死んだからってスレ違いではないのだが。
>>349 その場合だと、信玄は何故中部信濃を抑えた後、木曾から美濃に向かわずに北信に
いったか?
ってことかね。
>>349 信玄が天下を狙っていたのなら、川中島など村上にとっとと返してしまって
美濃を目指すべきだったとは井沢元彦だったか。
こっちも一応ネタにはできるだろうね。
川中島ってのは善光寺をかかえ、古代から現代にいたるまで信濃の政治・経済の中心
の一つだった(もう一つは松本)。
すぐ目の前にそんな美味しい要地があるのに、なんだって木曾なんて攻め難い地に
いかねばならんのか。
ってところじゃない?
つまり、信玄は天下なんてことに興味なくてただ自勢力拡大が目的だったってことかな。
もちろん、当時の甲斐とせいぜい信濃半分を抑えたくらいの武田家が美濃を攻めて勝てるか
という問題もあるが。
>>353 天下だ何だと言い出せる人間は
既に充分な実力を備えた人間だけかと。
信長ですら公言したのは美濃取り後だ。
川中島は平安の頃より多くの荘園が開かれ
信濃の石高の4分の1が集中してる場所。
これを捨てて上杉と和睦して美濃に向かえという意見は
上杉と和睦するという事で北条や今川との関係も
崩れるし西上野への進出もできなくなるし
国力充実の可能性の一切を失ってしまって
むしろ何もできなくなる可能性が大きい。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 12:25:26
国を三つ取ったら天下は見えてきますか?
何かの本で読んだ話ですが、
信玄は始め甲斐をもっていたが、甲斐は石高が低く穀物しか採れなかった。
民衆の貧窮は領主への一揆につながるので、領地の安定化の為に信濃へ侵攻。
民衆の目を国内から国外へ向けた。
同盟国の諏訪を始め、小笠原、村上を謀略を駆使して撃破。
ここから私見
後に村上再興を掲げた上杉と対立、北信濃を奪われてはただでさえ少ない石高が激減するため対立を深める。
越後の肥沃な大地と港、そして佐渡金山
東海の肥沃な大地と港、そして駿府の金山
信玄は領国統治のための富を得るために今川・上杉を常に天秤にかけてたのではないかと思う。
そして力が付いてきて、中央から大義名分を貰ってしまえば上洛の欲も沸いてくる。そんな感じでは?
話変わるかもだけど信玄は慈悲深い人間かどうか
ちょっと気になります
355
たとえ九州の一国でも、官兵衛には天下がみえるようですよ
官兵衛は信長と秀吉を見たからな
>>356 北進と南進で天秤にかけたってのは基本的に同意。信玄の当初の目論見としては、
信濃からそのまま越後を落す心積もりだったのだが、謙信に阻まれているうちに
南の今川が弱体化したので方針転換したってことでしょう。
ただ一つ誤認としては、当時の上杉家は佐渡を支配していない。佐渡を支配するように
なったのは景勝の時代に。
ただ、当時の越後には銀があり、謙信はそれを財源の一つにしていた。
上田は上田長尾氏でしょ
>>362 井沢がいってることだからなんでもかんでもあやしい、と?
川中島って現在の長野市ですよ。
360
誤認っつーか
佐渡は謙信のものっていうことは一言も書いてないはずですが
越後を制すれば佐渡なんて目の前なんだから
でもレスありがとうございます。
ROM期間三日でコテハンカキコ人になったので書き込みに自信が無くて
嬉しいです
結局、信玄が美濃を攻める状況はなかったってことでおけ?
おけだね。
少なくとも甲斐一国に南信濃を少々取ったぐらいじゃ
大博打である事は確かだね。
上杉と北条と、両方と上手くやるって選択肢は
難しいし。
>>363 そっちの意味ではなく、
井沢は「目先の領土を優先し過ぎ」という旨の事を
書いていたと思う。
そして「天下を狙うなら川中島など放っておいて上杉と結び
美濃を目指せばよかった」となるわけだ。
周囲の勢力を見渡せば無理なのは明白だけどw
AGE
370 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 20:01:25
┏━━┓ ┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃ ┃掠疾┃
┃如如┃ ┃如如┃ ┃如如┃
┃火風┃ ┃火風┃ ┃火風┃
┃不徐┃ ┃不徐┃ ┃不徐┃
┃動如┃ ┃動如┃ ┃動如┃
┃如林┃ ┃如林┃ ┃如林┃
┃山侵┃ ┃山侵┃ ┃山侵┃
┣━━┛ ┣━━┛ ┣━━┛
┃ ┃ .┃
┃ ┃ .┃
川中島などって・・・
善光寺平は、信濃の経済の中枢で、一番豊かな場所なんですけどね・・・
室町期から、川中島には信濃守護所が置かれたりしているが。
>>371 >>372 どちらもそれぞれ善光寺平と松本平の中心地ではあるな。
しかしまあ、松本平が筑摩郡一郡であるのに対し
善光寺平と言えば三つないし四つの郡をまとめて呼ぶからな。
信濃の経済中枢がどこだろうと
美濃獲れたら惜しくもないんじゃねーの?
でもいろいろリスクはあるわな。
岐阜城落せるかな
遠征に出てる後ろを謙信に突かれたら挟撃されることになるし。
379 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/24 20:54:18
┏━━┓ ┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃ ┃掠疾┃
┃如如┃ ┃如如┃ ┃如如┃
┃火風┃ ┃火風┃ ┃火風┃
┃不徐┃ ┃不徐┃ ┃不徐┃
┃動如┃ ┃動如┃ ┃動如┃
┃如林┃ ┃如林┃ ┃如林┃
┃山侵┃ ┃山侵┃ ┃山侵┃
┣━━┛ ┣━━┛ ┣━━┛
┃ ┃ .┃
┃ ┃ .┃
380 :
狩野惟辰:05/01/24 20:57:37
>>380 謙信は普通にそういう事するし
それに上杉との和睦となれば北条が背後を襲う。
秋山
383 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 17:02:42
384 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 17:13:09
朝倉がうざいから。
終了
美濃を攻めなかったのは木曾の辺りの道が険路で
いざ退却って時に足をとられたら取り返しのつかない大敗を招くからだろう。
徳川軍が虎視眈々と駿河や奥三河の辺りを狙い、信濃を上杉謙信が狙い
北条軍が箕輪や信濃を狙ってるんだから、一個でも潰しながら進行すれば
いいって話じゃない?東海道からだったら本国の甲斐が近いんだし。
それに山県昌景なんかを中心とした東海道方面の軍団の用意もあるんだし。
また海が欲しかったってのもうなずける
飯田から美濃に岩村街道通っていきゃ近いわけで
木曽がどうこうなんて問題ではないだろうよ。
>>383 こりゃ丸見えだね〜
尾張が左側?なのかな
360度パノラマ映像だっていってんのに。
左側かと聞かれても・・・。
近いとか遠いとかの問題ではないだろうよ。
>>386 あれは貨車どころか馬すら通れないところもあったが・・・
恵那山周辺は険しいぞ。しかも街道じゃないしな。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 21:54:50
やはり、上洛を狙っていたか。
しかし、後に織田軍は同じルートで逆侵攻して武田を滅ぼしたんだよな。
二万だか五万だか知らないが、それだけの数を通したわけだ、木曾の協力
があったとはいえ。
>>391 >>393 平谷から岩村まで、今で言えば国道418号から257号へ抜けるルートが
例えば秋山信友が岩村を攻めたルートであり
その逆が信忠が美濃へ入ったルートでしょ。
木曽へは別働隊が入っただけで。
これ以外のルートだと太平街道があるよね。
うむ
396 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 15:25:14
383>
長良川を越えて近くに球場(長良川球場)が見えるがその方向が北・日本海側になる。
右の方へスクロールした場合、東濃(東美濃)・尾張北方面(犬山城が有る辺り)
西尾張(濃尾平野)西濃(関が原・琵琶湖方面)へとスクロールする。
どこまで見渡せているのかはよく分からない。
なんか織田と同盟を結んだのはまずかったよな
といっても、あの時期に急成長した大名を側面において同盟を結ばないというのも問題。
三国同盟がある以上、織田は本来なら武田の敵に回ってもおかしくない勢力なのだから。
ヘタに放置して上杉あたりが織田と接触したらやばい。
といいますと?
当時の武田はまだ上杉とドンパチやっていたのだから、側面に敵は増やせない
ってことでしょう。
織田と武田はそれまでは没交渉だったが、今川との関係を考えれば敵対関係に
なるのが通常の流れなのだし、織田が上杉と結んだりしたら大問題。
武田が織田と同盟する事の効果としてあと一つ、
今川―武田―織田―徳川というつながりが出来て
徳川が今川を攻めにくくなる。
ところが氏真ときたら武田と織田が同盟を聞くや否や
上杉謙信とコンタクトですから!
>>401 それで四国同盟(北条も加われば五国?)が成立していたらどうなっていただろうね?
織田:一番得をする。上洛に背後が完全に安全になる。
徳川:三河は保障される。ただ将来性がない。
今川:威信の低下は免れないが、それでもお家存続の保証が得られるメリットはあるか?
武田:よくも悪くも戦略正面が北にしかなくなる。軍事的には有利だが、政治的にはどうか?
北条:可も無く不可も無く。
┏━━┓ ┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃ ┃掠疾┃
┃如如┃ ┃如如┃ ┃如如┃
┃火風┃ ┃火風┃ ┃火風┃
┃不徐┃ ┃不徐┃ ┃不徐┃
┃動如┃ ┃動如┃ ┃動如┃
┃如林┃ ┃如林┃ ┃如林┃
┃山侵┃ ┃山侵┃ ┃山侵┃
┣━━┛ ┣━━┛ ┣━━┛
┃ ┃ .┃
┃ ┃ .┃
信玄が仮に信濃から美濃をとった後のことを考えてみる。
まず、兵力を維持するための兵站が確保できるかどうか。
特に冬は大変で、四季を通じて安定した供給ができないラインを使うってのは微妙。
何らかの形で(策源地=美濃。あまりこれも当てにならんが)解決できた場合、
次に作戦正面の面積が増えていることが問題になると思う。
美濃侵攻前は、極端にいえば岩付方面から木曽の間だけを考えていればよかったが、
美濃をとった場合、尾張方面からの侵攻を考えなければならない。
(近江方面は誰かが何とかしてくれるという甘い考え方でとりあえず進めます)
まあ、美濃攻略の時点で織田家がおわっとると考えれば
(美濃国内の残党を含めても)そんなに激しい抵抗を受けないと考えられるが、
その広くなった作戦正面面積をカバーする兵力を美濃から確保するのは難しい(最初の1、2年は)ので、
結局しばらくは甲斐、信濃からつれてきた兵力で何とかしないといけない。
(返り忠してきた国人を使う手もあるが、防衛を任せるほど信用できるかどうかは疑問)
この間、当然徳川との正面の面積は変わらないわけで、
徳川に横やりをつかれる可能性は以前のままであり、その場合また木曽を通って三河まで行くのは面倒です
で、ここからさらに徳川なり織田(尾張、伊勢)なりに攻め込むことになると思われるが、
それだったら、最初から徳川を攻めた方が手間はかからないし、
確保するための兵站維持のリスクや兵力は美濃をとったときよりも少なくなる
(三河、遠江をとった場合、兵站は最悪でも駿河方面から確保できるし、
兵力も駿河での対徳川用の戦力を転用する。たぶん木曽の対織田(?)用の兵力よりもずっと多い)
ということで攻め取った後に確保するのが楽な東海道方面をとったというのはどうでしょうか
私見入りまくりなので、つっこみあったらよろしくお願いします
>>404 長文御苦労なところこういっちゃあ何だが、文章構成下手だな。
ケンカ売るつもりはないが、ちょっと要点を掴みにくいんだよな。
要するに、駒をすすめる順序が問題だってことかな?
信長は一気に武田を滅ぼすつもりでいたから美濃から攻めた
武田はゆっくり上洛するつもりでいたから美濃を通らなかった
>>406 信長が美濃から武田攻めたのは当然だろ。
そこしか領地が接してないのだから。
徳川領通ったら万一家康が裏切ったら退路を絶たれる。
>>406 もともと病勝ちなうえ、病気で出陣延期までした身で、さらに畿内からは救援の要請
が矢のように訪れ、さらに地力では倍近い差。
これでゆっくり上洛しようとしたのか信玄は。ずいぶんとのんびり屋なんだな。
…状況を把握していない、としか思えないが。
言葉が違います
「慎重に」です
そんな慎重な信玄ではたしかにいきなり美濃に攻め込むなんて
ことは出来ないだろうな。
そして、いつまでたっても上洛なんて出来なかっただろうな。
実際出来なかったね
出来ないしする気もなかった
その気もない信玄をあてにして反信長包囲網の連中や義昭は戦ったのか
哀れよのう
牽制の意味はあっただろ。
家康を放置していては充分な兵力を織田に当てられないからだろ
と多分20回は出てる意見をカキコ。
>>408 病気が重くてゆっくりしか行軍できなかった可能性もあるが。
城攻めしてればその間、本陣固定で信玄は寝ててもいいわけだし。
少なくとも一代で終わらせる気はなかっただろうな
418 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 21:08:58
信玄が死を隠して上洛しろと言ったのにゆいごん無視して撤退した家臣たちにも原因がある。
将 外にあっては 君命に従わざるところあり
進軍して敵地で死亡の情報が流れて、ピンチになるよりはいいだろ
>>418 あんな遺言をどうしろと・・・・
「三年は軍事行動を起こさず力を蓄えよ」といいつつ
「明日は瀬田に我が旗を立てよ」なんて
矛盾しとるがな!
実際問題として勝頼の行動から事実だと認定できる遺言は
「三年間は我が死を隠せ!」というものだけ。
公式な葬儀を1576年にやったのは確かだから。
でも1575年に信玄の三回忌をやってから長篠に出陣したりしててw
真面目に隠すつもりではなかったっぽいけどね。
勝頼は陣代!とか信勝が16になったら家督!とかどれも
史実とは異なっているとしか言えないのね・・・・
信玄が死んでもそのまま勝頼を大将に美濃侵攻を続けたほうが
信玄の死を隠すには都合がいいのにね
命令書その他の問題がある。
バレる可能性が高まるだけかと。
>>407 浅井領を通って朝倉を攻めるよりかマシだろ
>>422 その場合、ごくごく上層部以外には家中においても
信玄の死を秘匿せねばならないが、無理だろうな。
所領安堵状は信玄個人の名において出されているので
代が替われば封建的主従契約も消滅します。
┏━━┓ ┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃ ┃掠疾┃
┃如如┃ ┃如如┃ ┃如如┃
┃火風┃ ┃火風┃ ┃火風┃
┃不徐┃ ┃不徐┃ ┃不徐┃
┃動如┃ ┃動如┃ ┃動如┃
┃如林┃ ┃如林┃ ┃如林┃
┃山侵┃ ┃山侵┃ ┃山侵┃
┣━━┛ ┣━━┛ ┣━━┛
┃ ┃ .┃
┃ ┃ .┃
404です
>>405 文章構成下手ですいません。何とか克服したいんですけどね。
要点的にはおっしゃられているとおりです。
駒を進める手順によって生まれる手間や労力が変わるということで一つ。
まあ、当たり前ですが。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 12:36:22
上洛戦じゃなく 三河制圧戦だから
429 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 12:49:07
美濃を仮に占領しても、他国から攻められたら木曽路を通って援軍を送るのは不可能。
徳川秀忠が上田攻めに手間取って、慌てて西に向かった時も木曽路越えに苦労して主戦場に着くどころか京の手前まで家康軍に追いつけなかったぞ。
>>429 諏訪あたりから美濃に着くまでには、
一週間とかかっていないがね。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 21:26:00
本拠移す発想がないとね〜
信長は異端だ
432 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 23:24:36
フツーに考えると、木曽路から美濃に入ったら
家康との挟み撃ちになんじゃないの?
木曽以外にも最低二つはルートがあるのに全部木曽路w
434 :
真田:05/02/02 10:27:31
┏━━┓ ┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃ ┃掠疾┃
┃如如┃ ┃如如┃ ┃如如┃
┃火風┃ ┃火風┃ ┃火風┃
┃不徐┃ ┃不徐┃ ┃不徐┃
┃動如┃ ┃動如┃ ┃動如┃
┃如林┃ ┃如林┃ ┃如林┃
┃山侵┃ ┃山侵┃ ┃山侵┃
┣━━┛ ┣━━┛ ┣━━┛
┃ ┃ .┃
┃ ┃ .┃
435 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 18:31:42
>>430 緊急時に一週間もかかったらシャレにならないよ。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 20:22:55
んだな・・
>>435 しかし、三河や遠江でもかかる時間は大して変わらないが。
438 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 23:57:54
>>435 前線の城ってのは味方が来るまで耐えられるだけの備えはするもんです。
軍勢を合流させながらだと甲府から諏訪まででも3日かかる。
岐阜から清洲とか清洲から岡崎とかなら1日だけどね。
甲斐だ信濃だといった国は国力が無いくせに広さだけあるから・・・・
439 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 02:25:49
信玄も死にそうなんだから軍事行動起こすなよな。
どーせ死ぬなら徳川滅ぼして撤退するとかのほうが良かったのか?
なぁ、信玄入道が上洛果たすとしてメリットあんのか?
京までの街道筋を版図に加えて領国拡大するための大義名分であれば
これ以上ない宣伝文句だと思うけどさ。
いざ義昭を奉戴してみたら、然るべく着飾らせなきゃならんし、
領国を要求されるかもしれんし、いずれ入道自信わずらわしくなるんじゃねーか?
逆にお歯黒様にしてみれば、その点信長との違って
入道なら従順だっつう確信があったんか?
叡山の坊主保護したり、家柄といい、室町的価値観に傾倒してるとしても、
甲斐から東海道、京までの国力持ってんだぞ?
何とかしようと思えば、何とかできちゃう威力だぞ?
本気で上洛する気は無いですから
上洛できたいいな。 できれば死ぬまでに行きたいな。
それが信玄スタイル。
>>440 義昭の後見として謙信を配下にすることができる。
これ以上の快感はないだろ。
謙信が関東管領である以上、幕府の命には逆らえまい。
>>443 それは謙信の美談を信じすぎ
ほんとに自分の権利が危うくなったら、そんな命令いくらでもほったらかすぞ→謙信
甲信駿遠参尾濃近山の兵力あれば、幕府の権威なくても
自力で越後進攻できんじゃね?
447 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 17:56:36
>>437 三河・遠江だったら、駿河から取り敢えず援軍を回して時間稼ぎが出来る。
>>447 理論では可能だが、史実では駿河の穴山が無能で・・・・・
将軍からの武田との和睦斡旋をけっているしね、謙信は
実父を追放するくらいだから
お歯黒の下風に立つような性分ではなさそう。
正直誰かに命令される立場になんか興味ないでしょ。
だな
信玄が上洛を果たしたとしても、将軍を立てるのは利用価値がある間だけだろう
不都合の方が多くなったらあっさり義昭を謀殺したりしそうだ
452 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 19:50:24
たぶんね 武田も正統な源氏だからね
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 19:54:16
まあ、怪しい源氏も多いしな。
ああいうのは迷惑だからなんとかして欲しいよ、徳川とか詐称で厳罰にしれ。
455 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 21:07:22
源氏であらずんば人にあらず
謀殺せんでも足利義昭の次の将軍が武田から出たとて
その頃には誰からも文句は出るまい。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 06:18:22
長篠の戦いで信玄が指揮して戦っていたら
信長の鉄砲隊なんてゴミ同様だったのに。
458 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 08:10:16
459 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 08:18:11
臆病ものの信玄のことだから、退却してるだろう
460 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 08:23:20
っつーかさ、戦始まったらトイレタイムなし?
461 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 09:09:26
一言だけ言わせてくれ。
コーザ・信虎
>>457 信玄が指揮してようがどうしようが、兵の数そのものが違いすぎるんだが
せいぜい、信玄に出来ることは早く切り上げることぐらいだ
そもそも信玄がいたら奥平は寝返らない。
長篠の戦いもなかった。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 11:59:12
↑その根拠は?
465 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 11:59:38
三河を取る為だけに、2万5千もの大軍で攻め込んだの?
信玄は西上野を取るためだけでも2万だぞ。
高天神を囲んで挑発するだけでも2万だぞ。
結局圧倒的多数の軍勢を率いてなきゃ勝てないのが信玄ってことだね
川中島でも武田軍の方が多かったし
もし同数で戦ってたら越後に信玄の首が晒されてたことだろうね
こりゃまた凄い極論だな
頭のほどがよくわかるw
小田原を10万で囲んで何も出来ない謙信w
2万で囲んで何も出来なかったけど釣り出して三増峠で撃破した信玄
あれ?
謙信は敵前で弁当食ったかお茶飲んだかはしたんだって聞いたぞ
三増峠は挟撃される前に戦ったから2万対1万2千で武田軍の方が多かった
信玄は自分より多勢の相手に勝った試しがない
なのに信玄なら織田に勝てたっていうほうがオカシイ
信玄が長篠の戦いの指揮を取っていたとしても惨敗を喫していただろう
結局信玄はいいときに死んだおかげで後世の評価が高いだけ
勝頼は貧乏クジを引かされただけ
474 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 20:39:19
多勢を持って小勢を討つのは兵法の基本じゃんか。
馬鹿に理屈は通じない
>>474 だからその基本が出来ない相手、つまり織田軍に
信玄ならなぜ勝てるっていう話になるのか? ってことがいいたいわけですよ
長篠まで信玄なら勝てたといってる人がいたからね
なにも信玄が好きな人を煽るのが目的で書いてるわけじゃないですよ
西上作戦時と長篠時の状況の差が信玄と勝頼の差を暗示してるじゃん。
信玄は自らが多数である状況を作るのが上手い。
ああいう形で長篠には引き込まれないよ。
まぁ勝てる戦を確実に勝つのは信玄の右に出るものはいないって感じはする
だからこそ兵力で劣る信長相手にどう出るか見てみたかったね
信玄ならながしので決戦しなかった
まあ仮に信玄が失敗して史実の長篠の状況に追いこまれたとするなら
勝つのは難しかったと思う。
ただ上手く逃げる方に全力を尽くすんじゃないかな。
色んな手を打って。
三方ケ原でも3倍の兵を用意してるからな
尾張のカスみたいな援軍入れても2倍以上か
482 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 21:14:12
勝負時に敵より多くの兵を用意できる。
やっぱ天才じゃん。
信玄が設楽が原指揮してたら馬場や山県は死んでないだろうな
これは間違いない
村上に2回も惨敗したように、敵より多勢を集めても敗北するような信玄が、
桶狭間で数倍の敵に勝利した信長に勝てるとは思えない。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 21:57:01
信長 覇道・奇策
信玄 王道・正攻法
って感じ。
勝負どころでは、信長は自分の思いつきにすべて託せる。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 22:09:34
>>484 信玄は若い時はそういう失敗がまずまずあったけど
年齢を経るに従って目に見えて老獪で失敗しない男になってる。
その比較じゃ後年凌ぎを削った頃の信長と信玄の優劣は語れないよ。
まあ52歳の脂の乗り切ったときに相手の2〜3倍の兵力で
31歳のイケイケの家康に勝ったことも情けないけど信玄の大事な自慢の1つだわな
脱糞するよりマシ
そういうお前の母ちゃんデベソ式の議論は意味ないよ。
まあ信玄好きとうんこ好きは小学生に共通に見られる特徴だからね
491 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 22:40:31
脱糞するよりマシ
492 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 22:45:44
おっ 武田厨は今度はこちらに移動ですか?
しばらく見ない間にスレのレベル下がりまくったな
長篠で鉄砲隊ですか
騎馬隊ですか
源氏称してるのに、信玄が王道なわけねーだろw
王道の意味わかってんのか?
塩尻峠なんかは教科書の如き奇襲戦だべさ。
桶狭間はw
蝦夷人見っけ
駿河侵攻も義元が死んで今川が弱体化してから
駿河を取れたのは信長が義元を倒してくれたおかげ
信長は信玄の大恩人
そして火事場泥棒のようにセコイ信玄
塩尻峠って奇襲だったか?
俺が見た限りではそうじゃなかったが
500 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 15:17:01
このスレの本題は秋山隊じゃなくて信玄本隊を美濃に進めるべきだった。ってことじゃないのか。
あきらかに違う
502 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 16:06:54
つまり家康を後回しにしろってことだ
503 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 16:15:09
504 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 16:20:08
秋山隊がいけるなら
信玄本隊もいけるはず。
三河への調略を確定さすためには
本隊投入は動かせないけどね
505 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 19:48:06
まず徳川を潰して織田を孤立無援にするためだろ
そうすりゃ絵に描いたような挟撃体制になる
はずだったんだが朝倉のバカが追撃を怠って包囲網が台無しになったけどな
>>505 信長本隊がいなくなったあと攻めているが撃退された。
そしてその後撤退、「怠った」わけではないな、
出来なかっただけだ。
>信長本隊がいなくなったあと攻めているが撃退された。
どこを?いつ?
>>507 虎御前山の砦(小谷城から2kmほどの地点)を、1572年11月に。
本気で戦いになっちゃったら帰る機を逸するからね。
冬の間は越前にいなきゃw
浅井にはカッコつけなきゃならんし
本心は帰りたいし大変だな。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 12:39:18
あと1歩で京へ上れたのに…(/o\)
若狭武田が上洛済み(とはいっても応仁の乱前後だけどw)なのでこの話題は
終了
織田厨は虎御前山砦の事を殊更大げさに書くが、信長公記見てもわかるように
単なる小競り合いもイイトコ
>>512 小競り合いなんて記述はどこにもないが?
というか、小競り合い程度ならなんで本格的に攻めなかった?
信長本隊がいなくなったのだから絶好のチャンスだろうに。
514 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 21:42:21
そうだ!
そうだ!!
515 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 22:12:36
21えもん
516 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 22:18:16
>>513 信長公記読んだら小競り合いって一目瞭然ですけど
つか
>信長本隊がいなくなったのだから絶好のチャンスだろうに。
何これ?信長公記読んでたら、こんな事書かないだろうに
せめて読んできてから出直せ
「その時歴史が動いた」では、信玄は塩(海)が欲しかった…と
だから間違って大土塁突破したりしたら
泥沼の戦争になって帰る機会を逸するって・・・・
>>516 9月16日、信長公は虎御前山の砦に羽柴秀吉を残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ馬を納めた。
すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、
虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。
先鋒は浅井七郎であった。
この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。
戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、
各々功名を挙げた。
どこに小競り合いと書いてあるね?
小競り合い云々してる人は、
「朝倉が本気だしてたら砦なんか簡単に落していたんだよ!」
と言いたいのだろうか?
>>519 それが小競り合い以外の何に読めるのかね?本格的に攻めてきたとでも?
浅井勢と思われる名前だけ出てるが、朝倉勢は一切動いてない(動けなかったと言うべきか?)
これを小競り合いと言わんで、何と表現する気か?
それと信長公記に書いてあるが、朝倉の出兵理由は江北の戦況が浅井有利と聞いたから
それが来て見ると、織田勢が十分な兵力で待ち構えてるわ、前波父子が内応するわで
やる気無しと書いてあるだろ、織田勢と正面きっての勝負は最初からする気ねーの>朝倉
する気だったら、前年の志賀の陣でも勝負してるっつーに
この時点で織田勢は優勢なんだから、書かれてる事を
そのまま言えば言いだけなのに、誇大にいうのは厨の証だ
>>521 >浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し
>虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。
「浅井・朝倉勢が」だぞ、先鋒が浅井七郎って名前だからと言って、
浅井軍だけとはなるまいよ。
それから、陣地破壊が目的だと小競り合いなのか?
この際小競り合いだったか、本格的な戦闘だったかはさほど問題はない。
話を最初に戻すなら、
いずれにしろ、この時点で浅井朝倉軍に「追撃」なんて不可能だったわけだ。
理解できた?
>>505
>>522 大づく山に登ってた朝倉勢が下って来たと?
先鋒が浅井七郎と書いてあり、それ以外の名前がない、後続もなし
陣地破壊が目的=小競り合いではなく、織田は先駆衆、浅井は浅井七郎率いる先鋒
これが戦っただけの記録
しかも壊そうとしてたのは、高さ一丈、長さ五十町の道沿いに作られた土塁であり
それも、どこか一部を壊そうとしてたとしか見受けられない
これ、小競り合いの何者でもないが?
>>524 あのさ、先鋒って後に続く部隊があるから「先鋒」なんじゃないのかい?
目的がなんであろうと、規模がどの程度だろうと、攻撃して跳ね返されたのが現実。
さらに小競り合い説でいけば、朝倉は援軍に来たのに浅井の軍事行動に協力していない。
できなかったのなら追撃する力が無かったのだろうし、しなかったのならヘタレ加減が
増強されるだけ。
どちらにせよ朝倉浅井を誉めたり弁護したりできる記事ではないな。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 09:35:33
>>519 その内容からすると、せいぜい数百人規模の戦いかな。
小競り合いかそうでないかは、全体の兵士数によりけりだから
この場合は小競り合いでいい気がする
529 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 12:24:46
果たしてそうかな?
>>528 つまり、せっかく織田の主力が消えたのに、小競り合い程度しか出来なかったんだね
朝倉は。
そして作戦(塀の破壊?)にも失敗。
朝倉はだらしないなあ、としか感想は出ないよ。
531 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 15:04:21
上手く突破できてれば、その後から徐々に部隊を投入する予定だったと思われ。
533 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 15:40:24
その時点で土塁を破壊できてもその後の展望がゼロだしな
534 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 16:12:15
1石で兵数いくらぐらいなの?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 16:42:48
信長が横山まで移動
↓
ちょっと仕掛けてみようかな〜
↓
秀吉出てくる
↓
やっぱヤメヤメ!
537 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 17:28:31
それは違う!
いやあまさにそんなもんでしょ
信玄の話ではなかったのか?
>>530 小競り合いは認めるんだ? 開き直り杉でワラタ
541 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 02:13:16
@徳川攻めには北条家の伊豆衆筆頭清水氏も加わってた。
美濃を攻めてたら、北条家の援軍は望めなかっただろうし、
最悪の場合、上杉と北条が再び組む可能性がある。
北条氏秀は、まだ上杉にいたので、信玄にとっては
氏政を信じきれなかったはず。
A徳川には今川氏真がいた。
B岐阜城がすぐに落ちるわけがない
こんなんでは理由にならない?
542 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 03:13:15
単に、織田と戦いたくないからじゃないかね。
元亀二年の信玄の出兵って、上洛ではなくて徳川領制圧が目的だろうし。
544 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 09:39:46
信長の野望の武将能力値をみれば一目瞭然。
軍事力80〜90の武将がごろごろいる。
武田騎馬軍団・山本勘助・武田24将ゆけゆけ武田騎馬軍団
545 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 10:11:39
>>544 軍事力80〜90の武将がごろごろいて、一地方政権に終わったんだね武田は。
人の使い方がヘタなのかな?
スレ違いです。しかるべきところへ行ってください。
>>526 おいおい、後続がいないのに先鋒って表現おかしいだろ。
名前の記述は先鋒を務めた者だけだって読むのが普通じゃないか?
526じゃねーが、「後続」のようなものはあっただろうな。
しかし、記録さえされてないということは、衝突したのが先鋒だけだったってとこだろ。
いずれにせよ、「小競り合い」だったことに違いはないな。
まあ本格的に戦って秀吉に追い返されるってこたないだろうな。
元々「しっかり土塁が作ってあるから秀吉だけで守れるはず」では
あっただろうけど、そこから出て行って戦って勝てるほどじゃないだろう。
むしろ「出てこないだろう」と思ってた所に突出攻撃を受けたんで
あたふたして逃げ帰ったのかもしれんな。
要は捏造か
551 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 15:13:57
義理で出兵しただけじゃないの。
なんで近江の話してんの?
信玄が美濃攻めるには朝倉との連携が欠かせないから
朝倉との連携が必要なのは三河でも同じなのでは?
555 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 21:59:04
山越えはリスクが高いからだろう。
>>553 小競り合いかどうかで盛んに言い争っているが、
小競り合いだったと主張している者も、
その程度しか出来なかった、あるいはする気がなかったからだ、
と言っているので、朝倉が頼りにならないという点では意見は一致している。
まあ1572年の秋の段階で本気出してもしょうがない。
1573年の春に本気出してくれりゃそれでいいw
「本気を出せば」何とかなる。
儚い望みだわな。
「本気を出せば、オレって凄いんだぜ」
ですか?
560 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 10:43:44
>>543 やっぱ徳川独立した後、今川と協力してすぐに徳川潰すべきだったね。
そうすれば織田にプレッシャー与えられるし、謀反起こされないし、北条との仲いいままだし。
今川氏真なんていつでも滅ぼせるさ。
三河取ったら今度は斉藤と組んで織田を包囲。
謙信出てきたら北条と組んで撃退のみを考える。
これが天下統一に一番近そう。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 10:57:28
ふ〜。
何たる単純な発想…ゲームのヤリスギじゃないか?
我々、後世の者は文献等で歴史を知ってるから
あ〜すれば…こ〜すれば…という発想になってしまう。
実際の戦国時代に生まれてたとしたら…
恐らく、上記の連携等をまとめるだけでも困難を極めるかと。
そもそも自国にだけ都合のイイ同盟が簡単に結べるのなら
天下統一等は簡単に出来てるよ。
あの時代を生き残る為に、各大名・家臣達は各自色んな可能性を
考えて動いていたハズ(そうしないと命を失ってしまう)
ココで語られるような意見・発想は、当然当時の人も考えていたと思う。
それでも結果がこうなってしまったんだ…
だから、簡単に同盟だの連携だのと言わんでくれ。
敵は身内にもいる時代なのだから軽々しく軍勢を動かせなかった事を
踏まえて話しを進めて行こう。
義景も勝頼も、最期は軍役拒否まで喰らったりするからな
564 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 12:33:57
うん
バカらしいな。
「我々、後世の者は文献等で歴史を知ってるから
あ〜すれば…こ〜すれば…という発想」
になって当然。我々の発想の根拠は文献でしかない。
むしろ、主体を当時において想像するなんてことの方が
よほど「ゲームのヤリスギ」。
ただ、
>>560が単純で、その発想も不快なことには同意。
566 :
確かにバカらしいな:05/02/12 15:56:36
>>565 >むしろ、主体を当時において想像するなんてことの方が
よほど「ゲームのヤリスギ」
意味わからんのゾ〜ゲームはゲームでしょうにw
文献と当時の時代を照らし合わせてながら考えなければいけないのでは?
甲陽軍鑑がキミの根拠の源なのかい?
>560が単純で、その発想も不快なことには同意。
単純で、その発想も不快?
>>560以降のレスを見てみると
>>565以外は誰もそんな事言ってないと思うが…
567 :
566:05/02/12 16:01:22
>>565 バカにしてレスした訳では無いので
気を悪くしてたらゴメンよ(*_*)
>
>>565以外は誰もそんな事言ってないと思うが…
よく読め。
結論でてない、このスレ?
はいなー
unti
572 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 09:42:51
内輪もめですかね?
結論から言うと美濃から進行するよりも
三河から進行した方が有利だからです。
573 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 12:32:14
>>561 家臣も同調していなかったしな>三河攻め
574 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 11:53:13
・・・。
何で?
つーか結局信玄は信長には勝てなかったの。
これが事実。
あと三年あったら・・・とかそんなifはかってに妄想でもしとけ
さあ、想像や推察が一切出来ないほどの馬鹿が登場しました!
577 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 11:30:56
m9(^Д^)プギャー
578 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 19:32:16
>>578 次元が違うからだろ
いくら頑張ってもクリリンじゃフリーザには勝てない
思うも何も事実だから。
信玄は確かに天才だけど、信長とは違う。信長は新しい天才なんだよ。
ただ信玄と信長がその後戦えば信玄が勝つね。検証すると
信長6万、家康1.1万
に対して
信玄2.5万だけど
家康は裏切って信玄側につくと思う
浅井0.9万と朝倉2万は信玄側だけど数だけで役に立たないだろう。
信長側の光秀、秀吉がこれに対するから信長側−1万
伊勢長嶋で一益が0.5万、京方面に長秀が1万
本願寺や三好残党など信玄側の要素はたくさんあるが・・・
ということで主力決戦は
信長側約4.0万 VS 信玄側約3.5万
これなら信玄の勝ちでしょ。
ただ信長は主力決戦だけに兵力集中する可能性もある
581 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 11:50:56
>思うも何も事実だから。
なにそれ?
織田と武田信玄が戦ったといえば三方が原合戦しか知らん。
どんな合戦で信玄は織田に負けたの?
さて、
占領して間も無い近畿あたりの新参武将が信長に忠誠尽くすとはとうてい思えないです。
織田方の状況が不利になればすぐに裏切ったのではないかな。
信玄が近づいてきた時、信長信長自身は別としても家臣団は皆浮き足立ってただろ。
信長が包囲されている状況で、両者の士気の高さと結束力を比べればどうみても
信玄が有利です。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 12:37:19
あ〜あ・・・
どんどん糞スレになって行く。
この際、2万5千スレと統合したらどうだろう?
あそこの方が詳しい人多いし頼りになるかと・・
なんかネタスレぽくなってんな
rf
585 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 22:38:24
AGE
587 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 09:56:25
やはり、美濃からの進行はリスクが高かったんだよ〜
588 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 12:50:30
確率1/2で三河ルートが選ばれたじゃね?
サイコロでも振ったかな、半で三河、丁で美濃とか
美濃から大軍は道路、兵站などの面から無理だろ。常識で考えたらわかるだろ。
織田信忠と信長が総勢6万とも10万ともいう兵力を
そのルートから通しただろ。散々既出。
家康をどうするかという極めて戦略的な問題だろ。
1、地形と気象
美濃方面の寒気積雪による行動の妨害を避けるため
2、駿河、遠江、三河における新占領地での兵力の使用便宜のため
10月中旬から二ヶ月ほどの遠江での駐留は
二俣城攻略の他に上洛の準備を整えていたと思われる
3、浅井朝倉に信長を拘束させ家康から各個撃破するため
そののちに孤立した信長を挟撃しようと考えた
さらに三河、尾張、美濃、伊勢方面の反信長勢力の決起も考えていたらしい
>>591 織田側みれば短期決戦確定の為に兵端を気にしなくていいし
(内応者の協力も得られたし)
勝利確実な為に退却を視野にいれずにいいし
当時の武田だと美濃ルートは、危険かと
戦略的な問題で問題で美濃ルートを選ばなかったのは同意ですが
594 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 12:57:08
だね
595 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 12:22:49
確かにそうだろう。
それに三河の土地も狙っていたと見受けられるな
急に意見が収束してきたな。これでこのスレの使命も果たし終了か
というより最初の10レスぐらいで結論出てたでしょ・・・
これにて一件落着
うむ。
どうやら、反論出来る輩はイナイようだな。
皆の者大義であった
これにて終了する
じゃあ誰か次のお題を提案してくれ
このまま沈めてしまった方がいいんじゃないか?w
とりあえず
ぬるぽ!
ガッ
604 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 14:25:17
605 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 21:08:58
トルネオ
ぬるぽ!
ぬるぽ成功!
ところで、ぬるぽに成功したら何かイイ事あるんかぇ?
ぬるぽって何だ?
609 :
仲本:05/02/28 17:14:33
なー
あんちゃん、あんちゃん!
ぬるぽって何だ?
610 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 19:03:00
611 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 20:46:57
プレス
612 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 23:24:28
613 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 06:55:02
ランドセル
ヘイヘーイ!
616 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 22:01:29
617 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 04:50:01
アンガールズ最高
618 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 21:33:55
最高!
619 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 06:25:00
アンガールズ最高
620 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 23:26:03
アンガールズ最高
621 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 03:02:29
アンガールズ最高
622 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:05:46
アンガールズ最高
623 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:08:58
アンガールズ最低
624 :
可児:05/03/05 21:20:37
625 :
可児:05/03/05 21:22:40
アンガールズ最低
低最ズルーガンア
627 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 22:06:56
まだ続いているのか、このスレ。
いい加減、木曽街道歩いてみれば分かるだろう。
それと地図見て甲斐からの街道の距離も良く図ってね。
織田、徳川の行軍を例に出すアホがいるけど、
伊那路など複数のルートを確保している状況と、
そうじゃない状況で、木曽路の兵站の安全性の意味は大きく変わってくるだろ。
信玄がどうこうじゃなくて、あなたなら木曽路を主力にするのですか?
どっちでもいいけど…、
細い山道の木曽路を少数の副隊で押さえ、
主力は野の多い東海道を押さえると言うのは間違ってはない。
木曽は間道も多いから三河方面からも挟撃される可能性もあります。
628 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 00:29:33
アンガールズ最高
>織田、徳川の行軍を例に出すアホがいるけど、
>伊那路など複数のルートを確保している状況と、
とりあえず織田軍は主力軍が伊那通ってるから。
今更的外れな事やらんといて。
それに武田が美濃に攻め込む場合にも
伊那からと木曽から両面から一気に東美濃に
雪崩れ込めるやん。
やっぱり徳川をどうするかという戦略的問題でしょ?
633 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:10:28
蜀がなぜ上庸方面から攻めなかったのかというのと同じ匂いがする
はっきりいって美濃に攻めるには道が狭すぎるし
漢水を下れる分蜀の上庸攻めの方がまだ現実味がある
そこで上げるか普通!?
635 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:33:11
おまいらプリキュアみた?
636 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 11:34:16
見た見た、かわいかった。
637 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 12:02:00
638 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 15:56:10
もう答えは出てるだろ!?
639 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 16:01:05
そうそう、
信玄は信長と戦いたくなかったんだよ。
負けるの目に見えてるからな。(w
640 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 16:27:03
じゃあ、それでいいよ♪
641 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 16:46:08
上洛に際して中山道を通れば、天下の要害岐阜城があるうえに
京までは山続きで待ち伏せを受けやすく、しかも補給線が襲われやすい。
味方もいない。
対して東海道なら目立った名城がなく
鈴鹿や笠置辺りの一部を除けば、起伏はあっても見通しが効き奇襲を受けにくい。
さらに武田の攻撃の主力である騎馬が使いやすい。
最大の難所となるであろう鈴鹿の近くの伊賀には
気脈を通じる六角氏がいて支援を期待できる。
つまり西村ひろゆき
この期に及んで凄い燃料投下されちゃった。
つーか、ものすごく豪快な一本釣りか。
少なくとも六つくらいは餌がつけられているか?
644 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 00:29:08
ぴえろっと
645 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 13:56:19
>>28 斉藤道三を攻める大義名分が無かったんだ。
まず信濃支配を固めねばならなかったからな。
勉強しろボケ
646 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 15:48:24
>>646 嫌韓厨乙 とでも言うと思ったか?氏ねやリアル在日が
マッチポンプしてんじゃねえ
まず信玄が上洛するって時点で1つとして・・。
上洛に際して中山道を通れば、天下の要害岐阜城があるうえに
京までは山続きで待ち伏せを受けやすく、しかも補給線が襲われやすい。
味方もいない。
対して「東海道なら目立った名城がなく」
鈴鹿や笠置辺りの一部を除けば、「起伏はあっても見通しが効き奇襲を受けにくい。」
さらに「武田の攻撃の主力である騎馬」が使いやすい。
最大の難所となるであろう鈴鹿の近くの伊賀には
「気脈を通じる六角氏がいて支援を期待できる。」
これくらい?
武田の攻撃の主力である騎馬
>>648 「天下の要害岐阜城があるうえに」
もある意味そうでしょう。なるほど確かに岐阜城はあるが、
東海道で行けば、無視していいなんて話になるはずがないから、
結局どちらでも同じこと。
>上洛に際して中山道を通れば、天下の要害岐阜城があるうえに
・・・・・・・・・・ゲーム厨?
もし岐阜城が「ある」事だけが問題なら、迂回して行軍しようよ。
濃尾平野なんてどこだって通れるよ?
652 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 04:26:28
ゲーム厨は可児
653 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 05:42:29
通るだけじゃだめ。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 06:44:01
誰か日本地図うpしてくれ〜い!
海釣りに挑戦してみたかったからだよ。
656 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 20:38:25
ちょいとスレ違いだが質問。
武田晴信が出家して徳栄軒信玄となったけど、
武田信廉→逍遙軒信綱
真田幸綱→一徳斎幸隆
穴山信君→梅雪斎不白
と、義理立てして出家してるようですが、
四名臣の皆さんやら他の皆さんは出家せんかったんでしょうか?
659 :
可児:05/03/11 14:21:44
あ?
660 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 15:59:41
661 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 18:43:21
662 :
可児 ◆aSDVKRrj9Y :05/03/11 18:47:38
さんざんガイシュツですまん!
>>1 ゲーム厨は逝ってよし!
663 :
高坂:05/03/12 23:04:52
どーも
別に武田は織田を滅ぼそうとしたわけでも上洛しようとしたわけでもなく
単に今川領を徳川と取り合いしてただけ
だから美濃を攻める必要は無い
665 :
高坂:05/03/12 23:36:42
その頃は今川は滅んでた
666 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 07:39:35
667 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 11:44:28
>>664 秋山信友に美濃を攻めらせたのか疑問が出てくる。
徳川とは今川領の分け前で揉めたという形で攻めたというなら織田とは全面
対決にはならないで済むし、信長が東美濃の回復で全力で攻撃したなら
秋山らは見殺しになる。後にそうなったが。
最後の遠征が上洛目的でないのは道潅
>>667 信玄も阿保ではないから布石くらい打つし
予防攻撃くらいするだろ?
あの調子で上洛するのは不可能だということ
669 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 16:12:47
シオン修道会に入っちまった!?キリストの子孫とか知っちまった!?どうしよう!?
670 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 19:35:24
むしろ東美濃進出は側面から信濃への攻撃を防ぐための防衛的な目的だろう。
671 :
可児:05/03/13 19:39:16
岩村まで出ると岐阜が射程圏に入る。
強行軍すりゃ一日で到達可能。
信長も家康を助けに行きにくいな。
攻防一体の優れた布石だな。
673 :
可児:05/03/14 10:52:33
>>664 信玄が倒れたのは美濃入り直後だと思ったけど、違ったっけ?
675 :
信玄:05/03/14 13:23:57
てか、わしの全てを狂わしたのは尾張のうつけじゃ。
そう、あの信長さえいなければ・・
あやつに今川殿が討たれたのが大きな痛手じゃな。
今川の息子はてんで話しにならん。
わしが侵攻すれば義をかかげる謙信が邪魔しにきおる・・。
おまけに西には家康とかいうバカもおるしな。
ひともみに潰してやりたいが・・織田がうるさいしな。
もう・・わしはどうすればいいんじゃ!!?
・・・ぐふ・・わしの天命は尽きるか・・・。
>>674 美濃入りは多分していない。
甲陽軍鑑だけじゃん・・・・
織田軍記とか美濃なんとか記にもあったはず。
678 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 16:04:19
また甲陽軍鑑かよWWWWWWWWWWWWWWW
一般的には野田城攻略後3月19日まで長篠城で療養に努めたが回復せず
ゆるゆると撤退し始めたが4月12日に駒場あたりで没するというのが
流れで、美濃に信玄が行ってる暇は無いのでは。
確かにそうかも。勝頼、信豊、信君が美濃に入ってるものの
信玄本人は療養に専念してたのかな?
681 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 18:04:52
ハゲだから
どうせ重税と動員過多に喘いでいた武田家に遠征を続ける余裕は無い
秋山隊以外の武田軍が三月末とかに美濃に
侵入していたとしたら、織田軍が三月二十五日に
岐阜を出て京に向かった動きは有り得なくないか?
岐阜その他を手薄にし過ぎやもん。
684 :
可馬児:05/03/14 21:43:52
甲陽軍鑑厨は無双厨の派生系だな
天正元年3月に先方隊東美濃に乱入
信長岩村まで後詰、とはあるね。
徳川家康がヒッキーかどうかを考察するスレ?
まぁ確かに、
幼いころには、万松寺に
幼年期から青年期にかけて、駿府城に
三方ヶ原では武田信玄が通りすぎるまで、浜松城に
小牧長久手では秀吉が動くまで、小牧城に
小牧長久手で結果的に負けてから、浜松城に
唐入りのときはなんだかんだと理由をつけて、江戸に
年老いてからは再び、駿府城に
引き篭っていたさ、確かに。
それってただ居た場所ってだけ・・・
いや、2番目以外は場所の後に「引き篭った」を続けて
ちゃんと通じるぞ。
うむ
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 12:57:38
知るかボケ!知るかボケ!!知るかボケ!!!
>>690 だって実際には引きこもっていたわけではないし・・・・
まあ、まともに言い返すのも無粋だとは思うが。
1.3.4.6は実際に引き篭もってると思うぞ
はあ、敵と対陣して、
陣地や城に篭るのが引きこもりなら戦国大名なんて全てヒッキーですな。
信玄は川中島の戦いの時謙信が動くまで海津城へ引きこもり、
信長は桶狭間の時義元が動くまで清洲城へ引きこもり。
さらに言うなら、人質時代も晩年も鷹狩りとかで出歩いているし、
唐入りの時も九州までいっている。
小牧城なんてのは隣国の同盟者の城、わざわざそこに出向いて伴に籠城している。
そんな、隣人に手伝いを頼まれて手助けに行って、
そいつの家に泊まっているような状況を引きこもりとか言われても・・・・
単なる状態を指すのか、
精神状態までも指すのか、
という種類の言葉遊び、ということよ。
誰も
>>687殿以外はみな、「ヒッキー」などという言葉は使うておらぬ。
>>695殿、
>>693殿を嫁。
失礼だが貴殿は無粋じゃ。
ということで、この話題は終了じゃて。
そういう意味では
>>692殿が最も空気を読んでいると言える。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 14:48:57
692の知るかボケ!ってこのスレに対して言ってるのか、今までの意見に対して
言ってるのかわからないのですが
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 16:57:34
>>1 てゆうか〜 普通に考えて家康す無視したら腹背つかれたり、本拠地奇襲されたらヤバイだろ
信玄って結構慎重な性格っぽくない? そんな危険をおかすか?
それに家康から攻めれば、あの時代って下克上だろ? 宇喜多直家みたいに
信玄の脅威に家康が裏切る可能性もあるだろ。
で、もうひとつ信濃の山道を大軍で移動すんのもいいが補給も大変だろ!
よって奇策はとらず常道をとっただけ。 以上
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 17:05:26
当たり前田ボケ!!それが当然なんだ予!!!
701 :
あ:2005/03/25(金) 20:37:48
702 :
あ:2005/03/25(金) 20:38:19
703 :
景任:2005/03/25(金) 20:40:20
誰か岐阜県民居ますか?
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 21:19:41
>>699 家康が一目おかれ始めたのは長篠以降じゃ。
まだあの時だったら上杉謙信や北条氏康、織田信長の方が脅威で
織田と同盟してる徳川が
よもや織田よりも強いはずがないだろうぐらいのイメージしかないのでは?
そもそも家康以上の場数も踏んでる武田信玄が
あの頃の徳川に対して臆することはまず無いと思う。
油断はしないだろうが
謙信や氏康のほうが警戒されてたはず。
臆することはないが、当然無視も出来ない。
だから先に攻めた。
至極当たり前のこと。
>>699 一つ言うなら、家康攻めるためにも信濃の山道通って攻めていますので。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 22:04:48
>>706 だからいってんじゃん!
今回は無理せず王道をとったんだって!
てゆうか本当に上洛目的だったのか?
歴史的考証とかあるの?
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 22:15:29
>>707 上洛というよりも
信長をヌッコロしにいこうとしたというほうが正しいかも。
浅井・朝倉のような反信長勢力と組んで挟撃しようと考えてた。
だから2万ぐらいで行った。
かもしれない。
ドサクサに紛れて三河遠江を取ろうとしただけだろ
可能性として考えられるのは
1.包囲網を利用してこの遠征で上洛を狙ってた
2.あくまで領土拡大。上洛など考えてない
3.長期的な戦略で上洛を考え、このときの遠征はその布石の一つ
一定の目的達成で撤退、再度上洛を試みる
ぐらいかなぁ
個人的には3と考えます
浜松を無視し西に進んでるのは上洛というより
信長の岐阜への帰還と朝倉の撤兵を受け
信長の徳川への後詰が予想されたための行動かと思います
ってなにげにどんどん上洛できっかよスレに話題がそっくりになってますな
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:07:16
ちなみに別働隊(秋山だっけ?)人数5千くらいだっけ?
どれくらい戦果あげたの?
信長少しは動揺したの?
>>711 東美濃で5千からの織田軍を破り、ついで岩村城を占拠
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 05:25:56
甲陽軍鑑によれば
徳川家康がどうしても降伏しない場合は
北条が一万を出して徳川を押さえ
武田軍は西進して長島一揆の出す船で木曽川を渡り伊勢に入り
伊賀甲賀を抜けて近江に進出し
京との連絡を切られてはたまらんとやってくる信長を
浅井朝倉と挟撃する。
さすがに小幡景憲による創作だと思うが
現代のヘタな架空戦記作家が考えるよりはるかにぶっ飛んだ計画なのが
素晴らしい。
714 :
遠山景任:2005/03/26(土) 13:03:41
元亀元年十二月、信玄は野望とする上洛を志し、
高遠城将秋山信友をして美濃国恵那郡東部に侵入させた。
恵那郡東部は信長の勢力圏であるが、家康の勢力圏奥三河と隣し、
信玄の伊那谷とも接する要衝の地であった。このため奥三河の土豪、
作手の奥平・田峯の菅沼・長篠足助の鈴木越後父子・武節の河手・名倉の戸田などと、
東美濃の土豪、岩村の遠山景任・明知の遠山景行・景玄父子・苗木の遠山勘太郎・小里の小里光忠・光明父子をはじめ、串原・妻木氏などが集結し、その数五千ばかりが秋山の軍二千と、
十二月二十九日上村において合戦した。
上村とは矢作川上流の上村川に木ノ実川・飯田洞川が合流する付近を中心とし、各川の源流部までを含む地域を指す。
美濃・三河連合軍は、秋山軍の劣勢を侮りその先鋒隊に総掛かりで突撃した。
これを見た秋山は自ら手兵を率いて連合軍の右に廻り側面から切り崩し、
本隊と挟撃して混乱するところを討ちに討った。
三河勢は支えきれず戦場から離脱、そのほとんどが敗走し、
残った美濃勢は五百近い戦死者を出して大敗した。
殊に侍大将の景任の負傷、景行父子の討死に続き、
小里内作光次・角野賦助・同角八・苗木の吉村源蔵などの外、
名だたる豪勇の士三十余騎を失った
715 :
遠山景任:2005/03/26(土) 13:04:27
遠山景任は、先の上村合戦での負傷が未だ癒えておらず、
直ちに一族を招集して防戦したが、精強な秋山軍に歯がたたず破れ、
岐阜の信長に救援を求めた。信長は時を移さず明智光秀を急派し、
秋山勢を美濃領から駆逐するように命じた。両軍は恵那郡山田子村で対陣、
三日間に渡り激戦の末、信友軍は破れて高遠に撤退した。元亀二年十二月三日、
景任が三十六歳の若さで戦病死すると、
信長は自分の六男御坊丸を送って嗣子とさせ、
景任の夫人であった「おつやの方」を城主とした。
おつやの方は信長の叔母であり、
信長が美濃の東辺国境の岩村城を重視しての政略結婚によるもので、
年齢も若く才色兼備の女性であった。武田方では遠山景任の死を知ると、
再び岩村城攻略を企図し、秋山信友を差し向け東美濃を攻めた。
しかし、天然の要害である岩村城は連日連夜の攻撃にも耐えて、
なかなか落ちず、女城主と侮っていた信友も手を焼いた。
そこで一策を考え、未亡人であるおつやの方に結婚を申し込むことにした。
結果、元亀三年三月二日、一夜にして織田方の岩村城は、
武田の前線基地となってしまったのである。
信友は岩村城へ入ると、おつやの方をそそのかし、
嗣子として来ていた信長の子御坊丸を人質として甲斐の信玄の元に送ったのであった。
716 :
遠山景任:2005/03/26(土) 13:22:26
美濃侵略の橋頭堡として岩村城を手中にした信玄は、
さらに勢力圏の拡大を図り信長に挑戦して戦力を試さんために、
元亀3年二月、勝頼を出陣させ、信長の東濃諸城を攻めさせた。
明知城は遠山三家の一つで遠山利景が居城し、岩村に次ぐ重要な拠点であったので、
勝頼はまず明知城を攻略しようと押し寄せた。
危急の報を受けた信長は直ちに救援の兵を差し向け、
明知城の西に相対する鶴岡山に布陣、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとしたが、
勝頼は山県三郎兵衛に六千余人を添え、鶴岡山の側面から攻めかけたので、
織田勢は驚き退却し、山県勢はすかさずこれを追撃した。
かくて孤立した利景は、ついに勝頼に降り臣従することとなった。
勝頼は次に飯羽間城を攻略し、城主織田右衛門尉信次(信長の父信秀の弟)を生け捕り、これも属城とした。
717 :
遠山景任:2005/03/26(土) 13:25:33
岩村城奪取に成功した武田信玄は、天正元年一月九日、五万の大軍を東美濃恵那地方へ進発させた。
しかし信長も早速二万余の軍勢を引きつれ東濃に急行し、
ここに武田信玄と織田信長とが最初にして最後の合戦となった。
信長は鶴ヶ城に本陣を置き、池田信輝・森長可・川尻鎮吉などの猛将を先鋒とし、
信玄は岩村城を本陣として宿将馬場信房・秋山信友らを先鋒として激突した。
だが容易に勝敗はつかず、十日ばかりの睨み合いの後、信玄・信長は軍を引いたが、
秋山信友は岩村城を拠点に東濃諸豪を次々と攻めて陥れ、恵那・土岐郡を勢力圏に組み入れた
ところが三河野田城を攻めていた信玄が病に倒れ伊那駒場で死没し、後を継いだ勝頼は天正三年五月二十一日、
長篠合戦で織田・徳川連合軍に惨敗を喫し、武田の威勢は転落し始めた。同年十一月、
信長は織田信忠を総大将とした二万の軍勢を岩村城奪還、武田勢一掃のため差し向け、
自らは一万の兵を率いて後詰として神箆城(鶴ヶ城)に着陣した。
このことによる武田勢の動揺から信忠は予想外の早さで東濃の大半を回復することができたので、
信長はひとまず岐阜へ戻った。信忠は岩村城が要害であるので無理押しを避け、
厳重な包囲網を配備して兵糧攻めに入ったため、城内に兵糧も尽き、
城兵も戦い疲れた岩村城は「城兵の助命」を条件に開城した。
しかし信長は岐阜に謝罪に来た秋山信友らを許すどころか磔にしたため、
これに怒った岩村城では再び戦いが始まったが、織田勢はこれを散々に討ち破った。
捕らえられたおつやの方は、間もなく信長の命により磔にされて果てたのであった。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 13:43:57
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 13:48:48
海に出たかったんじゃないの
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 14:49:17
y
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 22:27:18
>>715 まあ、信長の息子を武田の人質にした時点で、磔は不可避だにゃ
語尾に”だにゃ”を付けるようなやつは磔にしてやりたい
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 23:13:36
>>713-717 をみると美濃で武田勢大暴れジャン!
岩村城奪取に成功した武田信玄は、天正元年一月九日、五万の大軍を東美濃恵那地方へ進発させた。
しかし信長も早速二万余の軍勢を引きつれ東濃に急行し、
ここに武田信玄と織田信長とが最初にして最後の合戦となった。
信長は鶴ヶ城に本陣を置き、池田信輝・森長可・川尻鎮吉などの猛将を先鋒とし、
信玄は岩村城を本陣として宿将馬場信房・秋山信友らを先鋒として激突した。
↑
これホント? 合戦の名前は?
>>724 デマです。
そもそも、天正元年って信玄は前年十月から最期の遠征に二万五千の兵で出陣して
いるはずなのだが。いつのまにさらに五万の軍勢で美濃に行っているんだ?
明智城の落城も元亀三年ではないし、とことん間違いだらけ。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 09:45:31
>>725 乙! 「そんな事あったんだ!」って思うとこだった。
それにしても甲陽軍艦って・・ orz
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 11:02:10
安房トンネルできるまで長野方面から岐阜来るの
ホンット大変なんだから。
728 :
遠山景任:2005/03/27(日) 11:27:22
天正元年かはよくわかりませんが、
年代以外は全部あっています
729 :
遠山景任:2005/03/27(日) 11:32:00
岩村町歴史資料館
苗木遠山資料館
しろやま妻木公民館内展示室
にちゃんと資料があります。
730 :
遠山景任:2005/03/27(日) 11:36:13
上から
上村合戦
岩村城の戦い
明知城の戦い
岩村城の戦い
です
731 :
遠山景任:2005/03/27(日) 11:47:02
全部デマというのか・・・
こんな長い文、うそを書くために乗せると思うの?
おいおい、武田軍が5万なんて大法螺があってるわけねーだろ
733 :
遠山景任:2005/03/27(日) 11:48:36
じゃあ岩村町、中津川市に行って確かめてきてみ
735 :
遠山景任:2005/03/27(日) 12:03:54
資料館に行けって事よっ
736 :
遠山景任:2005/03/27(日) 12:05:18
というより
>>734さん
武田家に詳しそうなので
質問があるんですが。
当時の遠征のための動員の目安が1万石あたり250人とされる(異説は勿論あるし、防衛戦なら無理してもっと動員できるとされているが)
どんぶり感情で勝頼最盛期でも130万石だった武田家が5万動員できるわけがない
>>735 資料館の元ネタが甲陽軍鑑だったらどのみち意味ねーじゃん
今の厨房と当時の武田信玄を比べて、武田信玄が強いとは一概には
言えない。信玄はハンニバルやナポレオンやカエサル、アレキサンダー
東郷、ネルソン、ドレイク、フリードリッヒなんか知らないし、ミサ
イルや爆弾、戦車、飛行機、軍艦の知識もない。地震のメカニズムも
知らないだろうし、ビニールハウス、正条植もしらないだろうし、結核
糖尿病、ハンセン氏病に関する知識も少ないだろう。現代人の知識では
当時の人の判断ミスはとても不可解におもえるものもあるだろうが、あ
の時代の人には仕方ないこともあるだろう。
740 :
遠山景任:2005/03/27(日) 12:21:44
多田満頼の出身はどこなんですか?
>>737 数字は確かに信用できないわな。
しかし、信長上洛時の兵力も5万とか6万とか計算上ありえない不自然な兵力だし、
兵力がおかしいからといって、その出来事自体がなかったとは言い切れないと思うよ。
兵数なんて実数より誇張することもあるからな
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 14:40:18
>>741 信玄は一般的には3月19日まで長篠城で臥せっていた事になっているので
時期的にも有り得ない・・・・
甲陽軍鑑には信玄が1573年の3月始めに一時的に回復して
3月15日東美濃に進んでそこに信長が「1万ほどの」兵力で
やって来たが馬場美濃守の800ほどの兵に押さえられ云々とある。
(
>>717などとは時期的に全く合っていない。
>>714-747は甲陽軍鑑ではない!)
またこの時期に織田軍が動いた形跡も無い。
小幡景憲の創作かあるいは違う時期のものを編集ミスで
書いてしまったかなどだろう。
じゃ、誰かの長文創作?
迷惑な…
>>713 甲陽軍鑑によれば
三河から東美濃に北上するはずだが?
って、かぶった…
伊勢経由での海上上陸は「案があった」っていう程度じゃなかった?手元にないから確認できんが…>軍鑑
>>748 信玄の計画として三十九品などに書かれているね。
家康が降らなければ北条軍を呼び一門衆を監視に付けて
信玄は長島へ。
家康が降れば尾張美濃と進んでいくが、その場合は100日とかかるまい。
あとは一勝ごとに威勢は増し以前の敵も打ち破れば味方となるとか
なんとか。
実際には病気のためどちらにもならず、だが。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 16:09:30
もうこのすれあきた
>>750 品三十九にそんな記述あったっけ?
勝頼と信君、信豊が美濃へ兵を進めるとはあったが…
>>752 勝頼・信君・信豊がクジを引いて当たった奴が家康を押さえて
残りで吉田を攻めるのだという話は出て来るが
そんなのあったか?甲陽軍鑑に。
軍鑑は後世の創作が入り混じっててどれが高坂が口述させた部分かもわからんから
あんまりムキにならんほうがいいと思うよ
まあ内容に関してはその通りなのだが。
ある事ない事全部甲陽軍鑑にしてはカワイソウだw
756 :
754:2005/03/27(日) 16:47:42
日本語が変だorz
口述させた→口述して筆記させた
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 00:39:21
>口述筆記
熱にうなされた信玄の妄想を必死に筆記した高坂もご苦労さんだな w
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 01:11:25
緒方直人の信長で信玄上洛時に降伏しようとしてたけど
アレ歴史的事実??
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 01:38:20
ヲイヲイ、高坂弾正が口述したなんてのも小幡景憲が勝手に書いてるだけなんだが。
つか直に聞いてるなら、春日虎綱で、香坂昌信なんて書かなぇってーの。
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 01:45:28
信玄5万ありえねえ〜
しかしまあ「西条山」と言いながら「妻女山」のような説明をするあたり、
「原書」があったのは間違い無いと思う。
小幡景憲の年齢からしてもネタ本が無きゃ厳しい。
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 08:43:53
そうかな?
2chねらーが何を言おうと甲陽軍鑑はそれなりの史料価値のあるものと認められています。
だいたい2chねらーや小説家が創造した仮説より甲陽軍鑑選のほうがマシ。
それなりって具体的にどの程度?
7〜8割ぐらいかね。
正直、五割もない。
何故かといえば、記述の内容と一次史料から判明した事が相反しまくっているから。
「他にないから仕方ない」程度にしか見られていない軍艦を妄想で持ち上げられてもねえ。
何割という問題じゃない気がするわけで・・・・
>>767 その一次史料自体が甲陽軍艦の膨大な量に比べて乏しいから参考にならん。
その乏しい一次史料だけでも、甲陽軍艦の記述を否定しまくっているのだが
甲陽軍鑑は編纂自体は遅いから
年代の間違いなどはあるし
内容にも加筆創作と思われる部分も多いが
逆に他史料から確認できる事も随分あるし
だからみんな気をつけながらも使ってる。
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 15:25:32
ちなみに信玄が良好な健康状態だったら、野田城の後は尾張を目指すの?
それとも、家康にトドメをさす気だったの?
甲陽軍鑑は軍談・軍記物としか見られてませんが。
史料的価値と言えば、史実探求ではなく文化的価値が高いだけ。
つか軍鑑も末書やら色んな軍鑑がありますからね。
随分古いこと言う方ですね
三段目は同意、とはいえ写本は除外して考えれば問題ないかと。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 22:47:36
>>772 野田城のあと、尾張へ攻め込むならその前に岡崎城とか落としておかないといけない。
当然、軍勢は消耗する。
信濃に回って美濃に攻め込むなら、秋山隊と合流できるが、山道は大軍を動かすのに適さない。
当然、織田も全力で迎撃。
家康にとどめ・・・も、どうかな?
織田の援軍と合わせて1万が篭城すれば、落とすのは困難+長期化。
>>776 あの、野田城方面から直接美濃にいけますが。
現に何も攻めたりしてるし、
つーか、この時の秋山隊自体がそのルートで美濃を攻めているのですが。
>>777 秋山隊って信濃から美濃に入ったんじゃないの?
一度三河に入ってから、美濃に入ったの?
>>772 所詮は仮定の話だから何とも言えないが。
例えば甲陽軍鑑によれば信玄は次に吉田攻めの
指示を出していたという。
結局すぐに体調不良で引き返す事になったけどね。
戦略的に見れば浜松と岡崎を完全に分断する作戦やね。
>>781 1572年秋は秋山隊は信濃から直接美濃に入った。
織田信忠が美濃から信濃に攻め込んだルートの逆。
今で言えば国道418号線から257号線で平谷から岩村に
出るのをイメージすれば近い。
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 02:07:05
信長はその時いくら動員できて、どこで決戦するきだったの?
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 11:03:47
>>783 2月には上洛予定を書状で伝えて
2月には柴田ら四将を近江に派遣・将軍の命で反乱した石山・今堅田を落す
3月末には本当に上洛のために出発
ちなみに野田城落城は2月15日(諸説あり)
……迎撃する気なんかないな。問題外としているっぽい
上洛って良い事あるの?
>>783 2万前後、で侵攻してきたところを美濃で迎え撃つ。
>>784 上洛予定を書状で伝えたのは3月じゃなかろうか?
>2月には柴田ら四将を近江に派遣・将軍の命で反乱した石山・今堅田を落す
今堅田を責めたのはそこが織田の支配地だから
放置して湖西を切り崩されるわけにはいかない。
>>786 2月24日 織田信長、京都紫野大徳寺へ「青陽慶事」とし銀子10両を受けたことを謝し
近日の上洛予定を通知。〔「大徳寺文書」〕
信玄の病状悪化あるいは武田軍の兵站限界点を信長は察知してたのかな?
でなければ完全に武田軍が撤収する前の行動としては辻褄があわん
789 :
777:2005/03/30(水) 22:11:42
>>778 えー、もうさくっと否定されているので今更だが。
すまん、私の勘違いだった。いや、マジでスマンかった。
ただ、三河から美濃へは足助城から明智城へというルートがあるので、
野田城攻めの後、直接美濃へ攻め入るのは地理的には可能。
徳川の野戦能力が岡崎を無視してもいいほどになくなっていたなら、
信濃に戻って美濃を目指すよりは確実だっただろう。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 00:41:03
てゆうか信長にとって信玄は本当に脅威だったの?
このレスの流れみてると眼中にない!っぽくない?
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 07:14:04
信玄の上洛には古今の名将としての信玄アリの威光をしらしめるためでもあったから、単に上洛するより周辺国に武田軍の威圧感を見せつけておきたかったのでは?後の秀吉みたいにきらびやかではなかったが余裕を示したかったのだろう。
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 07:18:30
790 信玄の上洛が武田軍の威光を全国にしらしめるためのものでもあったから、信長はわざと威光に屈してないかのように無視しし続けていた。家康は挑発に乗ってしまい大敗して武田の威光に貢献してしまった。だから信長は家康に武田に手だしするなと言ってた
>>790 東美濃に関しては実際には美濃18郡のうち恵那郡の一部岩村を落としたのみ
恵那郡も岩村以外の明智城苗木城など他の城はすべて織田側、それらの城を落とすのは74年の勝頼の遠征
>>787 信長が動けたのは武田軍が1ヶ月以上長篠城に滞在して異常がみられたから
だいたい兵站線ってなんだよ?
兵站とか言ってるやつは馬鹿決定
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 11:43:58
だから2月にはもう信長さんは上洛する気でした
その時点で動かせた兵力も対武田さんじゃなくて近江畿内方面にとっととやっちゃいました
信玄なんて問題外だったのが現実
ただどうして問題外としたのか?がはっきりしない
病気あるいは武田軍の内部問題を探知していなければ、信長の行動は東を手薄にした危険な博打にすぎませんから
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 13:09:03
ネット上のサイト貼り付けて悦に入らない様にw
書状の出だしは「春陽慶事」だから‥
そもそも、青陽慶事って意味不明だぞ‥
巻も、三じゃなく一ですから。
801 :
799:2005/03/31(木) 13:28:46
>>800 いや、上の方々とは別人
ネットでざっと確認したらあったから
そちらのソースは?
>>798 >>800 俺には詳しいことはよく分からないが
>>799は一応説明を果たしたのだから今度はあなた方が説明をする番では?
あなた方の発言は何のソースも論理的説明も無くただ文句を言っているようにしか見えない。
ちなみにこれを無視したり開き直ったり自分で調べろなどと言って逃げたら、やはりあなた方の発言には信頼性が
無いと思われても仕方ないと思う
はいはい、別人という扱いにすればイイのですね
しかし‥大徳寺文書の内容が違うと言っているのに、意味不明すぎw
ソースは、大徳寺文書の巻一
書状の出だしは「春陽慶事」書状の日付は2月24日、ただし年は記述無し(天正2年〜4年の間)
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 14:25:36
なんで、そんなに偉そうなんだ?
知識がスゴイのはわかったから、もっと協調性をもとうね糞ガキ
>>804は見苦しいな。
これが厨といわれるゆえんか…
>>803 800だけじゃ説明不足だからじゃないの?2万5千スレとかだと内容が違うとか言っても口だけじゃ信じない
やつが多いし、ソース付きで詳しく説明してようやく理解される(まあそれはどのスレでも一緒かな?)
それと何でそんな喧嘩腰なんだ?
天正2年だと東美濃から帰った日が24日、天正4年だと上洛は4月であまり近日ではない
>>806 スマン
信長が信玄を軽視するとは考えにくいのに
わざわざ史料を都合よく解釈してまで貶める様な事を書いてあったので、つい‥
>>807 天正2年は3月12日に上洛
天正4年には
4月2日織田信長、山城国東山慈照寺へ近江国安土城への移徙祝儀として十六島海苔を贈呈されたことを謝し、
安土城普請が完成すれば上洛する予定を通知。〔「光源院文書」二〕
こんなのもある。
そういや古文の近日はあまりあてにならないな
もっとも三国志のそのころとか近年にといった時系列の言葉はもっと凄いが
年代が違う。巻が三じゃなくて一。
この根拠を挙げてもらわないとどうにも。
>>790 脅威で無いはずは無いな。
あまり家康を放置して寝返られたら最悪。
>>797 敵対する勢力は武田だけじゃなく近江にも大和にもいて
それぞれに守備を置いた上で信長が岐阜にいた。
近江の守備をしていた明智らが近江の敵対勢力に
一足先に攻撃を仕掛けた事とは分けるべき。
信長が武田を問題外と考えていたなら
信玄引き上げ後の3月25日まで動かなかったのは
おかしいのでは?
武田が三河に居る間は岐阜を動けば(すぐに助けにいける範囲
からいなくなれば)徳川が寝返る可能性はあったのでは。
わざわざ遠征して戦うのは不利だと考えていたとしても、
助けに行けるポーズを保つ必要があったのでしょう。
柴田・明智・丹羽は近江、山城在番だからおそらくそうなんだろうな。
多分、岐阜に集結させた軍勢から蜂屋を援軍として送って近江の蜂起に向かわせ、
自身はまだ京の義昭を気にしつつも東を睨んでいたってところかと。
そして、根拠は不明だが武田の撤退が確実と判断した時点で上洛開始。
問題は判断の根拠なんだよな。このスレで言われるように兵糧問題から攻勢限界点
を読んだか、あるいは信玄の健康状態も年明けから悪化したという記録もある
から、そのあたりを掴んだか。
二月の時点での「近日上洛」はそれを見越しての下準備か。
>>814 いい加減二月の時点での「近日上洛」とかいう妄想は病めたら?
引用したサイトが間違えたのか、わざと改竄したのかは知らんが。
兵糧問題とかいう無知な発言も君だけでしょ
>>813 3月25日の時点では信玄が兵を退くかはまだわからないと思うが、三河から美濃へ転進したようにもみえる
行軍だし
2月15日に野田城落としてから長篠城に後退し、
その後1ヶ月以上動きが見られなければ、よほどの馬鹿でなければ
明確な情報がなくても異常を感じとるだろう。
なんか脅威で無い説?をとってる人は恣意的解釈をしてる気がする。
信長が上洛したのは3月29日だしな
その間、2月17日?15?に野田城落としてからは
城の普請をしているくらいしか記録が無いし(吉田攻めもあるか?微妙‥)
819 :
高坂:黄天当立184/04/01(金) 23:21:36
上洛って良い事あるの?
天皇、将軍の名でなんでもしたほうが良いから<朝倉攻撃など
ところで、25日岐阜出立、29日逢坂到着ってのは日程としてはどうなの?
まったくもってごく普通だけど…
822 :
高坂:黄天当立184/04/02(土) 14:15:08
皆さん頭いいですね
何歳ですか
3さいでちゅ
>>813 > 信長が武田を問題外と考えていたなら
> 信玄引き上げ後の3月25日まで動かなかったのは
> おかしいのでは?
動かないのはおかしいと言うけど
武田は動かない、近江の挙兵は鎮圧した
これ以上、何処で何をしろと?
義昭に対処するため上洛しろというなら
近江の鎮圧から一月以内で行ってるのけど遅いんですかね
>>824 武田の動きが鈍り、脅威が感じられなくなったから信長は上洛したんだろ。
それに
>>813は
>>797に対するレスだから続けて読めばわかるんでない?
>>825 そうじゃなくて、武田の動向と関係なく
一月以内の上洛が遅いのですか?という意味ですが
一月以内の意味が全く不明‥
上洛そのものは3、4日あれば行けるが?
石山、長島の一向一揆、浅井、朝倉、、六角、三好
信長は敵だらけ、やることは沢山あるしな
直前の書き込みも読めないのか
近江での石山・堅田の鎮圧から一月以内だろ
厭きれたね・・・
一月以内の上洛というが
>>803によれば
>>799のソース自体間違っているらしいし、
それに仮に武田の動向関係なく上洛しようと思っていたなら信長はかなりの大ばか者に
なってしまうけど…
>>824 それこそ浅井長政でも朝倉義景でも長島一向一揆でも
松永久秀でも石山本願寺でも三好三人衆でも鎮圧に向かうべき
所はたくさんある。
岐阜に2〜3万もの兵を抱えたまま動かないでいた理由があるとしたら、
信玄の動向に注意していたという理由以外有り得ないのでは?
>>829 それ一揆鎮圧しただけでしょ‥
あと、堅田って何所?
大体が信長公記にも柴田・蜂屋・丹羽の三将は鎮圧した後わざわざ岐阜に戻ってるみたいですが
信玄の動きなんて気になってないのなら戻す必要もないのでは?
やむを得ず派遣したのではないのだろうか?
余裕があったというわけではないと思うぞ
余裕があったとは言わないが、早くて二月、遅くとも三月には武田陣中の異常事態を
察して侵攻限界を見極めていたってところじゃない?
野田城以降のおかしな動きを見れば事態を探るためのスパイも出すものだろうし。
ちなみに他所ででていたが、この年の七月に槙嶋城を攻撃したときの織田軍は近江の
守備に配されていたはずの秀吉まで従軍している。そしてその間に朝倉や浅井、六角と
いった近江の反織田勢力が動いた形跡はない。すでに放置しても問題ないくらいに
弱体化していたのでしょうな。
>>834 だから・・・石山砦攻略が2月24日、26日に降伏させ
今堅田が29日に攻略しその日のうちに陥落
で、その後明智光秀は坂本に入ってるが柴田・丹羽・蜂谷は岐阜まで
わざわざ帰ってるのよ(信長公記より)
少なくても2月に武田侵攻限界見極めてたなんて考えにくい
あと槙島のことなんだけど
六角に対しては4月に佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ
四方より囲んで付城を築かせてる(これも信長公記より)
後3月29日に上洛してずっと京都にいるわけじゃないよ?信長は
5月22日に佐和山に入って大船建造してると記述されてる
これは浅井・朝倉に対するけん制になってると思うし
警戒してるからわざわざやってることだと思いますが・・・
7月3日に足利義昭が挙兵、信長の元に知らせが来るのが5日
6日にこの大船で坂本に渡りそのまま7日に上洛してる
この速さゆえに対応できてなかったのだと考えますがね
まぁとりあえずいいたいことは信長公記読んでます?
私は武田擁護派ですが・・・参考にしてますがね
槙嶋城から近江まで一日掛からない
朝倉が越前から出て来るまで、準備が出来ていたとして行軍だけで一、二日
信長の出兵が16日で槙嶋城に篭る将軍が逃げ出したのが18日
秀吉が動いても何の心配もないし
放置しても問題ないくらいに弱体化していたわけでは無いでしょうな。
>>836 >秀吉が動いても何の心配もないし
つまり、抑えの兵を動かしても問題ないほと脅威ではなくなっていたということですね。
予め槙嶋城攻めにかかる時間を分かっていたわけではないだろうしね。
少なくとも一時的に押さえの兵を動かしても大丈夫と思うほど、
浅井・朝倉は弱っていたと見るべきでしょう。
松永も筒井にボロ負けして弱体化していたぞ。
三好も、一族で大分裂かまして争っていたし。
やはり、美濃からも進行するべきだったな。
秋山・馬場・小山田なんかを進行させれば
織田も兵を裂く事になるし有利に進められる。
徳川なんぞ・・相手にならんし
またループ?
500後半ぐらいで一旦結論出てるのに・・・もういい加減秋田
なぜそこまでして美濃方面にこだわるのかわからん
それに2万5千で十分とも言いがたいのに
なぜ分散?時間かけて徳川領攻略してるのもなるべく被害少なくするためでは
というか徳川が相手にならんとな?
なにを基準にそう判断しとるのか
842 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 18:08:18
信玄が本当に上洛しそうだったんなら、無理してでも謙信が信濃に侵入しないか?
謙信の抑えは一向衆だったっけ?
後、美濃から進入した場合、越中→飛騨→美濃で謙信が織田と同盟で信玄と対決なんて事ないの?
燃料投下!
ぶっちゃけ謙信はもはや信濃に興味ないし、ありえるなら関東でしょう。
しかし、その場合も武田としては十分やばくなるだろうけど。
簡単な問題として、行動時期から木曽路は有り得ないのでは?
雪でも降ろうものならね
まあ、それを言ったら伊那谷だって苦労は大して変わらないと思うがね。
伊奈路の方が明らかに平坦で広いが‥
848 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 19:48:48
謙信と信玄が美濃で激突!!
信長立場ねええ〜
美濃方面から進んだのでは行程が短くて
信玄の好きな名湯めぐりができないから。
>>847 伊那路って言っても信玄が実際に使ったのは遠江へ抜ける道だぞ?
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 04:56:26
というか、兵ろうの問題があるからなぁ‥
短期決戦もしくは長篠のような野戦を考えたんだろう?
岐阜決戦を考えても籠城で援軍の恐れがあるし武田には不利だろう。そのための謙信との同盟もあるしな。
岡崎(三河)をおとし織田と徳川を孤立させることが目的だろう。
>>850 三河に抜ける道も木曽路よりは良路だけど。
>岐阜決戦を考えても籠城で援軍の恐れがあるし
信長が篭城しているのにか、時空の挟間からやってくるのか?w
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 11:14:27
いやいや浅井、朝倉なんかと対峙している信長家臣たちや徳川のことだよ。
確かに浅井討伐にはその後かなりの時間をようしているがもともとかなりの人数を残してあるわけだし、織田領内で戦う利が武田にはないということを言いたいんだが・・
HEIろう
>>853 徳川は弱勢だから野田、足助城に篭れば大した事は出来ないだろ
まして信長家臣は・・羽柴、滝川は敵前逃亡でもせんと来れないし。
朝倉も再出兵で湖西を窺ってるから明智もいなくなれば
浅井、朝倉、六角残党、将軍家が近江をあらしまくるな
しかし普通に考えれば、
本国がヤバクなれば近江を放棄してでも岐阜救援を選ぶだろうな織田は。
そうなれば武田に勝ち目は薄くなる。となると、結果として浅井や六角は旧領を
回復して得するが、武田は織田の主力と正面から対決することになり、もし負ければ
兵の損害は大きく領土も手に入らない。
間違えてはいけない。信玄が出陣したのは自分の利益を得る為であって、自分が損を
してでも味方に得を与えようとしたのではない。
近江の失陥は単に領地を失うだけでなく京への連絡路、堺の支配権の喪失を
意味するのだが、そんな大損を信長が選択するかね?
近江捨てて織田家を維持できるわけあらんがな・・・
そんなことしたら土崩瓦解を自ら招くだけ。
この当時の織田家は、まだ主要な領土は美濃尾張。
本国と植民地どちらを選ぶかの問題だ。
もちろん近江を失うことは多大な損害だが、美濃尾張をまっとうできればまだ反撃も
できる。しかし本国を失えばそこを拠点としている部下達の領地も失うのだから。
近江を捨てても織田家は持つが、美濃尾張を失えば織田家は維持できない。
近江を捨てたら反響がやばいっての
それに、捨てても近江から美濃まで2日あれば進軍可能なんだが。
史実を見れば、近江を堅持しつつ武田に対処できるだけの兵力を岐阜に抱えていた
と考えられるけどね。(実際に、武田の遠征中に浅井や朝倉、六角は何もしていない)
岐阜で直接織田と戦うより、それよりは弱い徳川を相手にしたってことでしょ。
陣容は薄いし確実に勝てるだけの兵力ではないけどな。
近江を失えば畿内への影響は失い執権者の権威も損なうが、美濃本国が保てれば
戦力は残される(部下たちはそのまま)ので大大名の地位は保てる。
近江を残しても本国を失えば、自分を守ることも出来ないヤツということで畿内での
影響力も執権者としての権威も失い、ついでに本国を失うことで部下たちの離脱も
発生しかねない。
どっちを選ぶ?
「岐阜をなくしても京都があれば問題無し」なんてゲームじゃないんだから。
岐阜を選んで滅亡するか・・・
>>852 だから、三河じゃあなく遠江。
確かそっちの方が難路だったと思うが。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 22:18:51
浜松はスルーしただろう!
本国である岡崎を狙って後詰めの計を武田は狙ったんじゃないか?
そういう意味で三河が狙いだと言っているんだが‥
徳川を侮っているが織田と徳川で挟み撃ち、しかも相手の領地(砦あり)で戦うことは、武田信玄には利がないことぐらいわかっている。
徳川との分断をはかる三河が本当の狙いだよ
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 22:30:21
たしかに近江は重要だがこの時期の浅井は小谷に兵を置くことだけで対処できたはずだ!
佐和山などは織田領だし京や堺に至る道は伊勢や大和からでもいける。
それに謙信に武田の牽制(北条など厳しい部分もあるが‥)を依頼することも不可能ではないしな。
伊賀は通れないし、大和も松永が謀反。
しかも街道の険しさが段違いだよ
>>870 松永が謀反起してくれたおかげで、反松永である筒井を代表とする大和の豪族たちと
寺社勢力が信長についた。71年の辰市の戦いで筒井に大敗して以降は筒井に押されっぱなし。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 00:15:00
松永の謀反は年代が違うだろ!
>>872 松永久秀が信玄に書状を送って謀反と同盟を持ちかけたのが71年5月。
辰市の戦いは71年8月。
年代が違うって?
874 :
島津義久:2005/04/07(木) 01:43:41
いいじゃん年代なんて、どっちみち茶器とともに天守閣で爆発しちゃうのだからさ
875 :
872:2005/04/07(木) 01:49:07
素直にスマンm(__)m
誤爆した。
秋山信友も結婚したのが、信長の叔母というのが運の尽きというか
悪かったな。降伏しても信長の性格から斬首だろうし。
でも、結婚していなくても、結局は許されて織田の配下にならず死ぬか
それかそれを潔しとせず切腹するか・・・になるんだろうな。
>>876 信長は別に敵対したやつは皆殺し、なんてしていないぞ。
ただ、秋山の処刑に叔母との結婚を含む岩村落城の経緯が関わっているのは事実だと
思う。
さからうものは死けい!アハハ。いい気もちだ
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 19:58:26
信玄って生涯成績、勝率七割ぐらいだっけ?
>>876 信長を誤解しているようだが、信長は降ってきた敵に対しかなり寛容だよ。
秋山も叔母がからんでなければ許された可能性が高いと思う。
それも違うな。寛容だったのは政治的にそうせざるを得なかった時期。
信長の人生の終盤はあまり寛容とは言い難い。
それどころか配下に対してさえも。
>879
信玄は村上に二回負けただけであとは一応勝ってるよ。
だから勝率9割ぐらいかな。
>881
信長の人生の終盤は基地外になってた。
どっかの心理学者が安土城作った頃から精神に異常がみられるらしいよ。
確かに、自分を神として敬えとかいう法律だしてるからなぁ。
>>882 >だから勝率9割ぐらいかな。
どういう計算だよ?
引き分けも勝ちにしてるのか?
>>883 引き分けは除いての率じゃないの?
まさか、勝率=勝ち/全ての戦、とか言わないよな?
>>884 引き分けを除いて出した勝率に意味はあるのだろうか?
>>彼(信玄)の生涯戦績 72戦中49勝3敗20分
勝率は50%
ぎゃ、間違った。
68% ですた
888の脳内では
49勝3敗20分と49勝23敗は同等の価値とみなされる模様・・・
>>889 引き分けも戦略目標を達成しての引き分けか達成できずに引き分けで終わったか分けるべきだと思う
888ではないが、72戦して49勝だから68lで間違ってないと思うが
引き分けは除くって、野球の勝率と違うんだしさ
>>882 「精神医学者・心理学者の仕事は、精神異常者を作り出すこと」
この言葉を捧げます。
ちなみに謙信は自分を毘沙門天になぞらえて、信玄も自身を不動明王の化身をしています。
彼らも基地外ですかそうですか?
自称はしたかもしれんが、それを他人に押し付けた真性は信長だけ
日本の神は西洋とは違うからなー
西洋で神を自称したら真性だろうけど日本の文化なら神を自称した程度で精神異常とはならないだろうな
家康だって神になってるしそれを他者に押し付けてる(?)
家康は死後。死ねば人は皆神様仏様です。
>>895 それが東洋風だな
ところで皇帝と神だとだっちが上だろ?
そこで最近の新興宗教ですよ
神様いっぱい
>>896 西洋ならともかく東洋だとどうだろ?
神より仙人が上だったりもするし
>>892 しかし、自らを〜神の化身になぞらえるのと、
神そのものになろうとするのはだいぶ違うと思うよ。
日本の場合は自分を敬うように言うのとたいして変わらないんじゃないか
現代だと神というと絶対神を指すんだろうが当時の感覚ではちょっとえらい人程度なんじゃないの
よくて天皇と同格レベル
ひょっとして天皇制に取って代わる伏線だったとか?
>>900 その二つが「どう」異なるのかを具体的に説明しない限り、
あなた個人の現代人の価値観から導かれたたんなる感想にしかならない。
ヨーロッパ人が「思い上がった増長」としているのに対して、同時代の日本人は
この件にまったく論評していないのよね。近江の民衆なんて見物に押しかけているし。
それが日本人の宗教観、神というものへの考え方だろ
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 22:32:44
あれ?信玄って3敗だけだっけ?
村上に2敗、小笠原にも負けた事なかっけ? 川中島と箕輪城は?
戦略的に考えれば、第一次駿河攻撃って明らかに負け戦だよな。
川中島は攻略側の上杉軍が領地を拡大できなかったので、
戦略的には信玄の勝利でしょう。
>>905 箕輪城?
被害が拡大する前の撤退と負け戦を一緒にするとは素晴らしい!
>>906 意味不明乙w
(信玄)の生涯戦績 72戦中49勝3敗20分
これってけっこういい加減な勝敗のつけ方だからな
第一次駿河攻めは戦略的には負けであるが各戦闘では勝ったり引き分けたりして、戦術面で戦績を付けてるのに
川中島では第1回第2回第4回みたいに戦術的には負けてるのに結果は現状維持で戦略的には引き分けだからと
引き分けにしていたり
他信玄が率いずに家臣が勝った戦いはカウントして、家臣が攻めたけど負けた戦いはカウントしてなかったりする
また小さい城はカウントしたりカウントしなかったり、史実の怪しい戦いをカウントしたり
>>905 >箕輪城は?
一般に生涯で72戦と言われる場合、箕輪城を落とした時の戦いしか戦績に加えない
攻城戦の勝敗のつけ方はかなり恣意的だからなあ。
普通は落せれば勝ち、落せなければ負け(箕輪城は業正の代は負けだよな)でいいと
思うが、例えば高天神のように、見方によって「落す気だったけど出来なかった」と
「最初から落す気はなかった。示威行動だ」とできるからな。
912 :
909:2005/04/08(金) 23:19:28
910の続きで
だから箕輪攻めの失敗は引き分けや負けに入っていない
他
基本的に城を攻めて落とせなかった場合はすべて引き分けとなっているが、本気で攻めたかどうか怪しい城攻めも
引き分けになっている、例として三増峠前の小田原とか滝山など
合戦の勝ち負けをつけるのは難しい。
上田原の戦いでさえ、戦場から先に撤退しているのは村上軍だし、そのあと上田原は武田家の勢力下に入っている。
見方によっては勝ちとも言える。
914 :
909:2005/04/08(金) 23:31:36
また3敗の中身だが
上田原は別として
村上相手の砥石城
村上相手の小岩岳城
の二つは城攻めで落とすことができず被害が大きかった撤退時に一部被害を受けた、といった内容で
他の城攻めの失敗と明確な区別がつきにくい(特に後者)
戦略目標の達成不可といった観点から見れば他の城攻めの引き分けと一緒とも言える
あと武田の城が落とされた、後詰が失敗して城が落ちた、
後詰が間に合わなかったなども戦績にカウントされてない。
>>913 上田原を勢力に入れたのはちょい後だろ、合戦後(両軍が共に兵を退いた後)は佐久にまで攻めこまれてる
野戦だけを戦術的な観点だけで評価して戦績を付けてみれば
>>905のワケワカメなレスから奇妙な流れになってるな‥‥
>>909-914 …そのカウント方式だと、信長の場合は金ヶ崎も戦術的には勝ち戦になるし、74年の
明智城・高天神城の救援失敗もノーカンになるぞ。三方ヶ原や手取川も部下の戦だから
ノーカンなもちろん。
>金ヶ崎も戦術的には勝ち戦
三方ヶ原??
920 :
909:2005/04/09(土) 00:34:43
>>918 そうだよ、だから武田と織田の戦績の比較は中身が異なるから全然公平じゃないよ
織田には厳しく武田に甘い印象受けるから
基本的にあなたがあげてるのは敗戦にカウントされてるし、更に武田は城が自落や城主逃亡も勝ちに入れてるのに対し
織田は入っていなかったりする
921 :
909:2005/04/09(土) 00:45:25
>更に武田は城が自落や城主逃亡も勝ちに入れてるのに対し
>織田は入っていなかったりする
まあ武田にも入っていなかったりするし織田にも入っているのはあるけど、このことも入れる入れないで基準が
不明瞭だったりする
>あと武田の城が落とされた、後詰が失敗して城が落ちた、
>後詰が間に合わなかったなども戦績にカウントされてない。
だから負け戦が無い癖に、何度も同じ城を落としたりしてるわけだ
>>923 そりゃ918の内容だろ、織田に厳しく武田に甘いって
>基本的にあなたがあげてるのは敗戦にカウントされてるし、
>>更に武田は城が自落や城主逃亡も勝ちに入れてるのに対し、織田は入っていなかったりする
↑これのことじゃないの?
>>925 おおそっちのことか、それは921で逆の場合もあると言ってるから違うと思ったよ
まあ本人じゃなきゃ分からないだろうな、もう寝てるかもしれないが
>>902 旧来の神に自らをなぞらえるのは、
古くから存在する宗教的価値観に依存して自身を権威づけるもので、
ある意味保守的な方法である。
自分自身が生きたまま神になろうとするのはそれとは全く異なる。
たしかに信玄たちのやったことと信長のやったことは違うな。
しかし、当時の人間は信長の行為をまったく批判も否定もしていない。むしろ
そのまま受け入れている。つまり、当時に価値観からすれば異常なことではない
ということだ。
信長は、当時の価値観の範囲内で新たなことを行った。
それを現代人の価値観で「異常だ、基地外だ」なんて言うことになんの意味がある?
「現代の価値観でいえば、宮本武蔵は殺人狂の基地外」といっているようなものだ。
「心理学は医学ではなく文学」
現代の価値観から生まれた心理学、精神医学は現代人にしか適用できない。
現代の心理学で歴史上の人物をはかるなんてアホウもいいとこ。
>>928 というか、信長が自分を神となろうとしたという事自体
事実かどうかはっきりしないことだからな。
死後にそうなるならともかく、生前から実際にそんな事をしたとすれば、
先例のないことだし当然反発を食らっただろうが。
>928
価値観の違いについての意見だが、同感。
だが>当時の人間は信長の行為をまったく批判も否定もしていない
はどうかと思う。
確かに文献では批判などされてないのもあるだろうが、できなかったということも考えれはないだろうか。
批判するかしないかより、当時の人(現代のおれらもそうだが)信長を理解できなかったこともあると思う。
話はずれるかもしれんがそれが理解できた、すなわち信長に一番近かった男が光秀だと思う。
板違いスマソ
現代的価値観から考えれば、権力者が神を自称して自分を敬うように言ったところでだから何?
としか思えないんだが…俺の価値観がずれているのか?
中国の皇帝だって「天子」を称したしなあ。
権力の源泉として神などを持ち出すのはポピュラーではある。
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 01:45:40
信玄アンアン〜 ヘイアンアン〜
大きなお口で ヘイアンアン〜
>>931 ずれているというよりは、想像力に欠けているだけかと
普通は、ポカーン‥ とか、この人大丈夫か?
と、思うんじゃないかな。
935 :
遠山:2005/04/10(日) 23:17:31
死ね
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 02:21:16
美濃輪が怖かったんだろきっと
リアルプロレスラーだし
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 11:41:19
信玄香りクンクン〜♪
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 14:06:34
王権神授説とか神をバックに自分の権力の正当性を
唱える例はそれこそ古代エジプトのファラオから天皇から
枚挙に暇が無いし、
日本では死んだ後で神様として祀られる人は多いけど
それは肉体から離れた「魂」に神性を見出しているわけで
生きているうち「オレが神様である!」では怪しさ爆発だな・・・・
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 14:18:15
ファラオが生前から神と同一視されていたと言う説は結構有力だったと思うんだが。
あと、王権神授説時代の欧州では、
「(神の代行者である)国王に触れるとハンセン氏病などの病気が治る」という俗説を信じて、
国王に手をかざしてもらいに来る民衆が後を絶たなかった、という史料はわりと有名。
っていうかそもそも、
信長が、「自分が御神体だ」みたいなことを言った真意は闇の中で、
本当に自分=神だったのか、
政治的に自身を神格化しようとしたのか、
それまでの寺社勢力を否定するための方便だったのか、
朝廷の神性をも否定する方便だったのか、
その真意は、明らかではない。
予断だが、フランス革命直後の動乱期、宗教の否定の動きが一部フランス知識人の中にあったと言う。
信長が、あらゆる宗教勢力と対立しようとしていたのはあきらかだから、俺は「方便説」を支持する。
なるほど、信長は神の国から日本国に攻め込んだと。
そうおっしゃるのですな?
フロイト自身は石の御神体は実見してないそうだね。
確か、その頃は長崎辺りを訪問していたとか。
晩年の信長に対して批判的だったフロイトのでっち上げ説もあるそうだけど。
もし事実としたら、「石だって、権力者の俺が言えば神になるんだぞ」って言う皮肉でないかね。権力誇示って事でなく。
宗教に対する信長流の。
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 21:27:56
信玄は今川を滅ぼす時に遠江も領有できなかったの??
>>939 >信長が、あらゆる宗教勢力と対立しようとしていたのはあきらかだから
信長は織田剣神社に寄進したりしてるし
禅宗には相当に理解もあったりするのだが。
>>941 そりゃフロイトは見てないだろうなあ・・・・
つか、石を御神体にしてる神社もたくさんあるし・・・・
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 20:20:36
>>941 そりゃフロイトは見てないだろうなあ・・・・
^^^^^^^^^
潜在意識の研究を始めるのは、ずうっと後のことだし(w
嗚呼、ジグムント
>信長が、あらゆる宗教勢力と対立しようとしていたのはあきらかだから
信長ってあらゆる宗教勢力と対立した?
詳細よろ
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 22:08:39
信玄が3万5千の軍勢で美濃から岐阜城に向けて進軍中!!
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 22:36:45
宗教勢力が自分以上の権威を持ったり、 自分にとっては不都合な何かしらの権益を持ったりしたと感じたら
容赦なくつぶしていたようだよ。
ただし、弾圧と言うのは大げさだし、すべてと言い切るのも勇み足。
いずれにせよ、いわゆる宗教そのものへの弾圧じゃなくて、
己の施策の障害となるものは、相手が宗教勢力であろうと、容赦無かったと言うことだろう。
当時の宗教を上げて、信長の対処を検討してみると・・・
次へ
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 22:38:12
1:対一向宗、旧仏教
いわずもがな。なお、比叡山弾圧の陰に隠れて、結構忘れられがちなのが 、槇尾寺と高野山弾圧。
2:法華宗
フロイスは当初、信長が法華よりと思ったらしい。
調停と信長のパイプ役だった法華僧、朝山日乗がしきりに宣教師追放を訴えたにもかかわらず、
信長はこれを処断できなかった(調停の使者を当時の信長に斬れないのは当然なんだが)からだろう。
だが、天正七年の安土宗論は、信長の息のかかった因果居士が審判となり、法華側の敗北に終わる。
そののち、安土宗論に法華側で参加した代表はみな処断されている。
3:禅宗
信長が弾圧したような事実を著した史料は目にしたことが無い。
比較的多くの武家の保護を受けることはあっても、
禅宗僧の多くは自らが政治や経済に積極的に干渉しなかったがゆえに、
禅宗は信長の恨みを買いにくかったのだろう。
4:キリスト教
荒木村重の謀反の際、高槻城主のキリシタン大名高山右近も最初はこれに従ったが、後に信長に降伏して許された、というのは結構知られている。
その際の信長の降伏勧告は、「高山右近が降伏しない場合、宣教師とキリシタンを磔刑に処す」 、というものだった。
信長は南蛮贔屓で、仏教と比較するとキリスト教に好意的であった、と言う説もあるが、
もし、キリスト教が不利益になると感じたら、何をするかわからなかった、と言うことを示すエピソードを紹介。
そして、信長の時代、多くの宗教が、単に宗教界にとどまらず、
政治や経済にも影響力を持っていることのほうが多かった。
だから、「宗教と対立した」と言うとおかしいが、 「宗教の持つ既得権と対立した」とはいえる。
何らかの形で同様に「宗教の持つ既得権と対立した」戦国大名は結構いるしね。
>>949 正確には「宗教団体が持つ既得権と」だな。
それからいくつか。
1・本願寺と一向一揆は別物。それに全ての真宗派と敵対したわけではない。
比叡山については領地問題と朝倉浅井についたという政治的な対立。高野山は信長に
敵対して逃亡したものを匿い、その引渡しを拒みかつ信長の使者を殺したことに対する
報復。どちらにしても政治上の理由だね。
2・法華宗に対する裁判には否定論もあり。それはともかく、信長はこの宗論の後で
教団存続と引き換えに「強引な説法、勧誘はしない」という誓約をとりつけており、
これもやはり宗教自体の否定ではなく宗教団体のありように対する懲罰の意味合い
が強い。
3・いちおう挙げておくと、この時代の禅宗寺院はとても巨大で社会に対して様々な
利権を持っていた(その点を攻撃したのが一休)。武士からの尊崇を集め、武士の子弟
の教育や出家先にもなり、雪斎のように個人的な立場だが顧問役として幕府や大名の政治に
大きく関わる例は室町戦国に多く見られる。
つかさ。
興福寺僧兵隊長を兼ねる筒井順慶を武将として使ったし
根来寺に至ってはw
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 18:21:18
今夜のその時まであと3時間切ったよ!
絶対見ろよ!
さてと・・・
終わったわけだが・・・
>>925 木曽福島、林城、葛尾城
真田が落とした砥石城も勝ち戦に入ってるはず
織田は一連の遠征で複数の城落としても複数回戦闘があっても一つとカウントしたりすることが多い
武田は飛騨攻めや越中攻めがカウントされていない
でもとっくに戦績の話しは終わっていたみたいだね