2get!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 23:34:53
3
スレ立て乙
前スレの続きをするなら、
各勢力の目安となる兵数の求め方とその根拠、
及び各戦線への配置数の根拠となったレスを張っておきたいが、
どれも言い合いの中で何となく決まっていったから、これというレスを探すのが難しいな。
あらためてこれまでを整理してみますか?
まず勢力が
石高(万石)/1万石あたり250人の動員兵力 で
甲斐(22.8/5700)、信濃(40.8/10200)、飛騨(3.8/950)、越中(38.3/9500)、
上野(49.6/12400)、駿河(15/3750)、遠江(25.5/6375)、三河(29/7275)、
尾張(57.2/14300)、美濃(54/13500)、伊勢(56.7/14175)、志摩(1.8/450)、
近江(77.5/19375)、
次に武田
時期は1572年9月まで(山県昌景が9月29日、信玄は10月3日の出立)。計算の数字は>12
甲斐…100%(5700)
・異論はないでしょう。
信濃…100%(10200)
・これもないか。
上野…40%(4960)
・倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど山間部なのがネック。
駿河…80%(3750)
飛騨…10%(95)
・72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。
越中…?
・68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年には加賀まで攻め寄せているから、
その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
遠江…20%(1275)
・遠征前ならこんなものか?武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半以降(正式な復活は71年12月)。
三河…10%(727)
・やはりこんなものか。足助城などを落としているが、北部の山間部だからなあ。
美濃…10%(1350)
・秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。
総計28057
次に織田が。
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
・志摩…100%(450)
・近江…70%(13563)
伊香郡と高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しかのこっていない浅井。鯰江で
逼塞中の六角。野洲郡で、すぐに鎮圧されるけどいつ反乱起すか判らない一揆衆。
合計で30%
・伊勢70%(9923)
桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡し内部から乗っ取り進行
中の北畠を除いて。
総計50386
おまけ
徳川
三河…80%(5820)
遠江…80%(5100)
合計10920
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は
グンと下がっているだろう。
畿内の反織田勢力
浅井…領地の半分以上奪われ小谷城に篭城中。すぐ目の前に虎御前山砦あり。
朝倉…詳細不明。ただ、前年に陣中から寝返り者を何人も出したり、後年の景鏡の
言動をみると結構領地、軍の疲弊は進んでいたと見られる。
六角…無力化。
三好…もともと一枚岩ではない上に、長年争ってきた連中との抗争も続いているので
どれほどの事が出来るか。四国の方も不穏な情勢(篠原長房)。淡路の安宅氏が織田
についたとも。
松永…筒井と抗争中。
本願寺・長嶋…健在。ただし遠征能力はないので、戦力としてはどれほどのものか。
(もともと一揆というものは上からの支配を跳ね除けるために戦うのであり、土地を
離れて戦う性質はない)
この情勢をもとに、
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど。
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど。
美濃では岩村への抑えに三千ほど。
(基本的な任務は守備、現状維持)
後は全スレの最後の方で、織田は伊勢への抑えが、武田は上杉への抑えがどれほどかが
議論の対象だった。
忘れていた前提条件。
石高は太閤検地より。
「万石あたり250人」の動員率で出された兵…外征軍
「動員率をさらに上げることで出される兵」…各地の通常の守備軍
こんなものか?他にあったらよろしく。
織田厨のきぼーどーりですはい
そもそも武田信玄の内政自体、兵農分離ができてないのに動員数を云々するのは
ナンセンスだと思う。
三方が原の戦いはあくまで、対徳川のハナシなのだ。
どの道、信玄は農繁期になったら引っ込むしかないんだから
せいぜい三河、遠江の地盤を多少固めた程度で撤退っしょ
兵農分離はともかく、長期間国を離れて活動できる軍ではないことはたしかだな。
甲斐の石高は金山収入を含めると52万石、ということが最近の研究で発表された
駿河の金山、交易を含めた石高は44万石、信濃は56万石これは御存知の通り。
それに加えて上野の西部、遠江、三河の半分以上の地域
東、中、西のうち1/3にあたる東美濃、そして書状によると
飛騨衆、越中衆による間接支配はそれぞれ2/3、1/6に上ると見られている。
これらの総計から上洛時の武田領は220万石と計算された。
クマ出没注意報
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/07 11:07:49
駿河は100%でいいんじゃなかったっけ?
美濃は21郡中恵那郡の一部程度だから武田は10%無いと思う
どっちにつくか分からないような日和見連中がいるから、織田の動員は90%でいいと思うけど。
上野の武田は吾妻、碓氷、神楽、群馬郡ぐらいだと思うから30%程度では?
あと織田の三河領数%
駿河は100%でいいんじゃなかったっけ?→100%
美濃は21郡中恵那郡の一部程度だから武田は10%無いと思う→遠山氏の所領はもっと広い
どっちにつくか分からないような日和見連中がいるから、織田の動員は90%でいいと思うけど。→66%くらい
上野の武田は吾妻、碓氷、神楽、群馬郡ぐらいだと思うから30%程度では?→50%
あと織田の三河領数%→徳川付きで惨敗
どうやら、武田軍は55000程度の兵を動員できるようだね。
織田はどうかな
いっきにオカルトスレと化したなw
ぐわ、すいません間違えました。
>>8 の駿河…80%(3750) は 駿河…100%(3750) です。
兵数は直したのだが、パーセンテージを直すのを忘れていた。
三河の織田領も忘れていたな。
>>9 に、三河…10%(728) を追加。
ぐわ、すいません間違えました。
伊勢…65%(8600) は 伊勢…30%(4200) です。
越中の武田領を忘れていた
越中20%(2000)を追加せねば‥
>>28 一応つっこんでおくか。
越中の親武田だった椎名氏(もとは親上杉だったが、後に武田についた)は1571年には
富山城を落とされて降伏。その後謙信は72年から73年にかけて越中の一揆勢を攻撃して
加賀にまで攻め込んでいる。信玄の遠征開始時点ではないな。
もう一つ。飛騨の諸豪族(三木氏、江間氏など)は越中の対一揆勢のため上杉と誼を通じ
ている。だからこそ、信玄は72年7〜8月に飛騨諏訪城を落とした。(城主江間氏は逃亡)
遠征出立が72年10月1日であることを考えれば、まさに直前。
織田荒らしに武田虫が反応して、駄目だこりゃ‥
石高が大体決まったなら次ぎは行動の優先順位かな
例として
時期設定1573年2月頃
信長なら
@京と京までの通路の確保
A対武田と三河家康の救出
B国内一揆の掃討
C対外敵性勢力の掃討
@に関して山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯谷久次、明智光秀へ逆心。
足利義昭の内命により山岡景友、磯貝新右衛門、渡辺党ら近江国今堅田城で蜂起。
足利義昭、幕府御所の堀普請を命令。
新庄俊長、信長に降伏、これに怒った浅井長政に攻められて滅亡。
上記のように京方面がちょっときな臭くなったので早めに手を打ちたいが、Aを行うためには
少しでも兵を割きたくないところ、Bは@に関連したところ以外は放置、Cに関しても
Aの目処が立たなければ不可。
信玄なら
T吉田城攻略
U岡崎城攻略
V浜松城攻略
W信長と決戦
X帰国
VかWはTかUのいずれかまたは両方行って、(いきなり後ろから攻撃されないよう)
抵抗となる地域を確保してから、行いたいところ。Xはこのスレの存在意義が・・・
>>31 信玄は、一月には発病していたとする説があるが。信玄に活発に動いてもらうには
発病前から考えた方がいいかと。
ちなみに、前年九月にも病臥して出陣を延期したとも。すでに体ボロボロですね。
また妄想厨か
前スレの最後でやっていた話題はもういいのか?
ちなみに私はやはりそれなりの兵は残していったと考える。
武田の場合、上杉は無視できないこれまでの宿敵。いくら前面に強敵が控えている
とはいえ、海津城や箕輪城を手薄にして万が一奪われでもしたら長年の苦労が泡と
化す。高坂をわざわざ残していく意味もなくなるし(将だけ残して兵は無いなんて
ことはないだろう)。
織田も、滝川はやはり伊勢の抑えに残されただろう。ただ、もし決戦が尾張でとな
ったら、彼は召喚された可能性はあるが。
ついに騙りだしちゃったか
ついにというか、前から捏造しまくりだけどな
石高以外に経済の話入れたら、織田は凄い事になると思うが
畿内ですよ?尾張伊勢近江の水運に京etc…
人口もね
その意味では、織田不利な前提ではある。
実際、交易の利を上げたら凄いことになるだろうな。尾張半国も支配していなかった
信秀が、朝廷に四千貫(推定約6億円)寄付したり。下向してきた貴族をもてなすため
だけに豪華邸宅建てたり。
IDある板ならなぁ
IDは欲しいよな。
別にやましいことがないならあっても弊害なんて無いんだが・・・。
idあったら、このスレなんか
その1でオワっとる
ここは2ちゃんねる
IDがほしいのならヤフ掲示板にでもどうぞ
単純に石高だけなら伯仲してたのかな?
にしても寿命の差+存命してたとしても、後に差がつくっぽいから
信玄の勝ちは無いか。
まあ2万5千で信長を殺せば別だが。
ダウト
伯仲どころか、倍近い差がついているが。
>>7-10 に修正を加えた石高(万石)
武田が 112.22
織田が 204.64
徳川が 46.5
伯仲どころか、倍近い差がついているが。
>>19-23 に修正を加えた石高(万石)
武田が 220
織田が 140
徳川が 25
それだけの国力を持っていても織田、徳川、上杉、北条を倒せなかったのですね
それだけの国力を持っていても明智、羽柴、柴田、滝川にあっさり滅ぼされてしまう
戦国の世は大変だな
武田をなにがなんでも200万石以上にしたい連中って、なにか根拠があるのかね?
結果として、信玄を貶めることにしか繋がっていないのは判っているのかいないのか。
石高ってそんなあてになるのか?
桶狭間の信長は尾張半国で計算しても7千以上はいたはずなのに通説はご存知のとおり。
各地に兵を置いてたとしても辻褄が合わない。
前スレに石高なんてただの目安だろ?金山とかあるし。
ってあったなw
石高計算より少ない分には問題ないだろう。
多かった場合には、考察が必要になるが(別途に大きい収入があったのか、記録の誇張なのか)
動きがとまったな。
武田負けそうになると、止まるのは伝統
結局、戦術レベルでどうにかしないと武田には光明はないってことか?
その時点で負けパターンだがな。少数が大軍に勝つというのは、少数の努力も必要
だが、さらに大軍の方により大きな油断と錯誤と欠点がないと不可能。
一応、戦略レベルでどうにかしようとして、反信長連合を利用したんだろうけど、
他が不甲斐なさすぎ。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 15:24:52
信玄って、戦略と謀略(城攻めに重要)には優れているけど、戦術はどうか?ってイメージ
がある。
信玄の戦いって、よく見ていくと実は信長と変わらず敵より多数の兵でもって潰す、という
もの(もちろん、これは信玄の優秀さを示すものだけど)。それなりの勢力と決戦となると、
勝ち戦が余りない(どころか、上田原、川中島では自軍より少数の敵に翻弄されている)。
戦術では信玄より勝頼の方が優れている、なんて評価もあるし。
殿、燃料が湿気ておりますぞ
信玄も信長も基本的にはまず勝ちて、それから戦うタイプだからな。
>>56-57で結論でいい気がする。
>>59 勝ってはいないが負けてもいない。
兵は極力死なせず、自軍の被害は最小限に抑える。
その為には常に相手よりも大きな戦力で戦いを挑むのは至極当然。
あと勝ちの戦の数だけを参考に戦術が無いと評価するのはあまりにも短絡的。
味方の被害も甚大になるような戦なれば、
そんなの勝ち戦でも無意味に近い勝利でしょう?
人が無尽蔵に領地で沸くゲームとかじゃないんですよ。
無理な戦での勝利は望まない。
あくまでも信玄にとっての勝利とは
両者の被害を最小限に抑えて相手に勝つというのが大前提だったんですし。
相手の力を出来るだけ残したままそれを支配し
それをそのまま自国の力とするやり方。
ていうか信繁が家督つぐ予定であった武田家で
信玄自身に戦略的な要素なり優れた部分が無ければ
信虎追放に家臣も納得しなかっただろうて。
ふと思ったのだが、信長は結局たかだか二万程度の明智勢に完敗して
この世を去った、とすると武田軍は信玄が存命だったならば
一万五千も居れば完勝だった、ということになるのではなかろうか。
信長が光秀に襲われたとき、
手勢がどれくらいだったか考慮に入れないのか・・・?
>>63 それはないと思うが、明智の謀反に対しては
8000程度の軍勢を割く必要があるかと。
>>57 石高のみの比較でも、武田より多くの兵を動かせそうだものねえ。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 19:03:24
>>63 一見関係ありそうで、関係のない話を始める。
6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
「ところで、カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
だな
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 19:22:33
信玄と信長では政略レベルで信長が上をいくから
石高を絶対視出来ないのは当然として
信玄は一応、200万石相当の力はあったと考えていいんじゃない?
単に信長が畿内を制する事でそれをはるかに上回る力を手にしてただけで。
しかし晩年の信玄は合戦において負けしらずだし、織田勢は姉川で寡兵の
浅井勢に十三におよぶ陣段のうち十一も破られてるからね。
主力決戦の場合、信長の方が多勢であることは間違いないけど勝敗は
どうなるか分からないね。
>>69 プラス90万石近い収入って、どこからよ?
それで、信玄の最盛期から勝頼の時代(信玄より領土は増えていた)まで、3万を超える
軍勢を動かしたことが一度も無いのは何故?(誇張上等の甲陽軍鑑にすらないぞ)
金山を上げる人もいるが、あれは武田家の財布に入って補填されるだけ。
農業生産力があがらなければ人口は増えない。人口が増えなければ金があっても兵は増や
せない。
>>70 姉川の経過は、
徳川期に徳川勢の貢献を誇張するために歪曲された面がある。
織田軍の弱兵を語るなら他の戦を引き合いに出したほうが、
万人の支持を得られると思われ
むしろ120万石程度で天下に名を轟かせたばかりか
信長の対抗馬として見なされたってのが信玄の凄味だと思う。
結局は地の利も天の利(寿命)も信長が優位だったにせよ
>>72 「我々(徳川軍)のおかげで織田家は勝てた」→「信長公が天下人となれたのは、
我ら徳川が味方したからだ!」
という持ち上げですね。金ヶ崎退き口も、秀吉と家康の功が上げられているけれど、
実際は摂津守護池田氏や佐々、明智、簗田など他の諸将も参加していたそうですし。
個人的には、天下有数の強兵を率いて一地方政権に終わった信玄よりも、天下最弱と
まで言われる兵を率いて天下を握った信長の方に凄味を感じる。
私は武田厨を自認する者だが。
個人的に、戦術レベルでどうにかしないと、
まあ、要するに兵数で勝る織田軍を戦場で破らななければ光明はない。
ってことで納得できる。
というか、当時の状況で数的有利まで得ようというのはちょっと無茶だろうとは思う。
ところで何で信長側は大兵力なのに
縦深陣地なんだろうね<姉川
基本的に後の先?
>>74 >天下有数の強兵
これも徳川の威信を保つための歪曲だがね。
>>71 川中島の時点で武田は2万程度は動員してるからな。
200万あったかもわからん。
が、信長との比較において石高はあまり意味がない。
>>77 「天下第一は越後兵、ニには甲州、続いて三河兵」でしたっけ?
ようするに
天下を取った徳川<三方ヶ原で勝った武田<少数で互角に戦った上杉
ってことなんでしょうが。
小説などでは「武田の強さは日の本六十余州に鳴り響いていた」なんて書かれるけど、
実際は江戸時代になってから「神君家康公を負かした唯一の存在」としてクローズアップ
されたのだとか。(それと、後年に旧武田家臣が大量に徳川に仕えたり、甲州流軍法を家
康が採用したりしたため)
>>76 現在、姉川の戦いについては、正面決戦ではなかったとする説もあります。
簡単に言うと、織田軍が横山城を包囲している時に、信長は本陣を小谷城に近いあたり
に置いていた(敵情をすばやく知るために見通しのよい場所を選んだとも、自身を囮に
した罠だとも)。その後浅井・朝倉が動いたのだが、何故かこれを小谷城に撤退するもの
と誤認してしまったらしい(理由は不明)。その為信長本陣は浅井の攻撃を受け、徳川も
朝倉に拘束されてしまったが、時間とともに横山城包囲勢が駆けつけ浅井を攻撃。そのま
ま押し返していった―。
と言うものです。どちらが正しいのかは判りませんがね。
>>72 近代日本においても熊本の部隊は強いとか逆に大阪は弱いなどあったから
やはり戦国においても兵質というのはあったと思う。比較的都市部で裕福な
尾張の兵は弱い部類に入るのではと。ただそれをもって戦の決定的要因に
ならないけどね。
>>78 では、商工業で比較してみようか。
…武田は織田の足元に及ばなくなるがね。
>>82 商工業で織田が圧倒的過ぎるからこそ石高比較に意味が無いんだろ。
悪いなー。ハハハ
>>79 役に立たないモノを家康は継承した、と言いたいワケですね?
どうやら、石高はほぼ同じという事で結論が出た様ですね。
>86
これ、何番の法則だっけ?
詭弁にすらなってない
という事で、織田が対武田戦に投入できるのは
16000くらいではないかな。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 22:02:09
3000人くらいだろ?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 23:01:46
例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合
あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して否定論者が……
1、事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
2、ごくまれな反例をとりあげる
「だが、尻尾が2本ある犬が生まれることもある」
3、自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
4、主観で決め付ける
「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」
5、資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
6、一見関係ありそうで関係ない話を始める
「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」
7、陰謀であると力説する
「それは、犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
8、知能障害を起こす
「何、犬ごときにマジになってやんの、バーカバーカ」
9、自分の見解を述べずに人格批判をする
「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
10、ありえない解決策を図る
「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 23:07:34
11,レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
12,決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
13,勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
14,細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
15,新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「犬が哺乳類ではないと認めない限り生物学に進歩はない」
4,5,6,12の複合かな
つくづく信玄の意図がわからなくなった。
本気で上洛を目指していたというのなら、この圧倒的な戦力差をどうするつもりだった
のか(反信長包囲網をそんなに過大評価していたのか?)。敵の大軍は戦場で破ればい
い、なんて慎重居士の信玄らしくないし、そもそも軍略家信玄を貶めるものだ。
上洛ではなく遠江・三河の制圧を狙っていたのなら、何故浜松をそのままにして三河に入
ったのか。領国化を狙っていたのなら、野田城なんぞより他に落すべき城が他にもあるだ
ろうに。
>>95 家康を殺すよりも心理的圧迫→降伏を狙ったんじゃないか。
軍事的見地だけじゃなく政治的見地からということも。
織田厨の騙りは秋田
>95
監視、足止め、迂回、連絡線、支配地域
四面楚歌、国人、調略、街道、挟撃、防御施設
追撃、背後、空白地帯、切り取り、無力化
キーワードっポイのおいときますね(´・ω・`)
99 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 02:20:02
そんなことよりNHKで「信秀は2万5千で道三を攻めた」とか言ってたんだが
尾張ってそんなに力あったん?
義元と信玄も2万5千。
何かこの数字には魔力でもあるんかね
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 02:52:54
おれもそこ気になったな
尾張平定もしてない信秀に25000も動員能力ないと思うのだが
2500
信秀時代の動員力なら一万人を越えるはずがないと思われ
七千〜八千が精一杯じゃないか
七千〜八千だと
道三の二千の突撃も霞むな・・・・・・・・・
>>99 美濃の土岐氏が道三に追われたときだろ
この時は大垣を落としてるんだからそれなりの兵力はあると思う。
しかし、一応史料には2万5千と書いてあったと思うがやはり誇張だろう
>>95 野田城は要衝ですよ。
野田の後、吉田城を落とせば豊川のラインで徳川領をほぼ分断できるし
これは家康にとってかなりの致命傷になるのでは?
>>106 なるほど、確かに野田城、長篠城、そして吉田城と落せば三河と浜松の徳川主力軍
を分断できる。これなら織田との決戦ないし上洛を狙っていたのなら敵勢の分断に
もなる。消極的には、野田と長篠を抑えれば伊那方面へ信濃への連絡経路ともなる。
しかし、それではもともと相手と比較して少ない兵をさらに削ることにならないか?
打倒信長を掲げて、反信長同盟に牽制してもらいつつ
実は三河狙いだった気がする
実際そうかもな。
北に上杉を残したまま上洛ってのもな。
たしかに、講和や同盟を組んだわけでもない長年の宿敵を残したまま上洛なんて信玄
らしくはないか。信長だって、上洛時には背後の徳川、武田と同盟を組んで安全を確
保している。
三河は自力で抑え、遠江は徳川の政治的降伏を促す。すると、問題は信長が出張って
きた時に信玄がどう対応するかだな。
>>109 繰り返し言われていることではあるがね。
仮に他の包囲網の牽制が上手くいって、
信長の本隊がこなければ、徳川を潰して、或いは降して遠江・三河制圧。
信長が来れば、さっさと退散、
ただし、出来れば今回の出兵で得た地域の一部くらいは保持しておきたい。
と言ったところではあるまいか。
「出来れば今回の出兵で得た地域の一部くらいは保持しておきたい」ってのは、
いかにも手前勝手の都合の良い話だが、
信長も背後に敵が居るのだから、三河あたりに長居をするのも良くないし、
所詮徳川領なのだから、よほどの重要拠点ならともかく、
律儀に全部取り返してくれるとは思えない。
結果、武田家の領土は多少は拡大する可能性が高い。
まあ、当たれば結構大きいし、上手くいかなくても多少は利があるって感じで、
いかにも信玄らしい堅実な、悪く言えばセコイ戦略といえるのではあるまいか。
>>111 今川攻めた時も、北条を攻めた時も上杉とは講和なんかしていないから、
少なくとも三河・遠江あたりが目的なら不自然ではないんだけどね。
さすがにそのまま上洛というのはどうか?
史実のような「死んで撤退」ではなく、余力を残した上での撤退だと、また信玄がいつ
出てくるかわからないから東方へは絶えず注意(と兵力)を割かれることになる。
そうなれば信長も、史実の天正元年後半のような、反対勢力を一挙に殲滅、なんて事も
出来なかっただろうから、そのまま対峙状況のままで推移していったかも。
そのままじょじょに削っていって、最後は……かな?こうなると、病弱な信玄が、どこ
まで自分の体調を把握していたかだな。史実でも、己の死で中座してしまったこの何年
もかかる戦略を、勝頼に任せるつもりだったか?
削られてジリ貧になるのは、反信長同盟側の公算が高い。
全勢力合わせれば、反信長勢力の方が少し上かもしれんが
一糸乱れぬ連携は、無理 となると最大勢力(反信長)の
武田が戦術的勝利を収めぬ限り、勝利の目はない。
>>114 勝頼に後を託すってのはないのでは?
それだと、「三年喪を秘せ」だの「勝頼の息子が成長したら後継に、勝頼は代理に」
なんて遺言は残さないかと。
もっとも、信玄が勝頼を正式な跡取にと望んでも、そうすんなり収まらないと思うが。
>>115 とは言っても、信長の側にはこの時点で武田と決戦を求める理由はない。守って国
に引き上げるのを待てばよいのだから、戦術でどうこうできる可能性も低いなあ。
武田が上洛(織田を倒して天下を握る)するには、やはりIf戦記ばりの無茶苦茶な
反則設定を持ち込まなければ無理なのだろうか。
徳川潰したら、戦況次第で織田と再度同盟もありえると思う
で、上杉狙いに切り替える
>>118 さすがにその時点ではわざわざ越後を狙う理由はないのでは?
信玄にとって謙信はもう、相手にしたくない存在だったのでは。「うちに攻めてこな
ければそれでいい」ぐらいに。
>>119 実際には、謙信の方も同じように考えていた様にみえるしね。
>119
徳川潰したとして、その間に史実通り織田が、足利、浅井、朝倉を倒していたら
打倒織田より、打倒上杉または北条の方が現実味ない?
>>121 周辺勢力で最小(織田や北条に比べれば)を叩く、という意味では現実的ではあるが…
上洛となると長期遠征が必須になるしねえ。
長年の因縁である上杉を放置したまま、長期遠征・・・となると
慎重派の信玄がするか?って言うと考えにくい。
信玄にとっても、謙信にとっても、互いに相手にしたくない存在
だったと思うが、そんな事で引けるなら、何度も川中島でぶつからなかった
と言いたいわけで。
遠江・三河侵攻の件は、もしかすると関東攻めの橋頭堡だったりな。
狙いは信長をみせかけて、関東・越後併呑。
・・とかな
仮に徳川を潰し、そのまま武田が勢力を保持した場合
信長の死後、最大勢力になる可能性もあるわけで。
本来ならこんな想像は無いけど、このスレはスタート地点からして仮定だからな
武田は良くも悪くも自転車操業だからな・・・。
徳川を潰したとして、またどこかを攻めなくてはならない。
結局織田・上杉・北条の何処を攻めても武田包囲網がなる可能性が高い。
しかも反信長連合と違って、武田が最大勢力でないというのも痛い。
そうなると本能寺まで勢力を維持し続けるのは難しい感じがする。
そういうイフで話していいなら、
信玄の余命をどのぐらいに設定するかで
今後の展開が大きく変わる希ガス
そこまで手当たり次第に攻撃しまくっていると、全てを敵に回して結局のっぴきならない
状態に追い込まれてしまうぞ。
史実でも、今川領侵攻によって、家中に亀裂と火種は残すは、対外的にも織田以外の周辺
勢力全て(上杉、後北条、徳川)を敵に回して、信長に講和の斡旋や仲介を依頼している
のだから。
よく、Ifとして「あのとき信玄が死んでいなければ」とは言われますが、それならあの時点
で氏康が死なずに甲相同盟が復活しなかったどうなっていたことやら。
>>125 どう包囲網が出来あがるんだか
むしろそいつらを武田が攻めた時にそれぞれ包囲網を完成させてるけど
ていうか、自転車操業なのはどこも同じこと
>>126 まあ前提として信玄は寿命をのばさないと話にならないからな。
だんだん、「どうすれば信玄が上洛できたか」になってきたな
というか信玄の延命がこのスレの前提でしょ?
でなければ史実を見れば結果でてるし、なんの面白みもない。
>>125 73年の時点で北条は盟国で武田の遠征に2千の援軍をだしてるし、今後の展開次第でも
北条攻めはありえんだろう。
>>127 今川進攻時、徳川とは共闘してますよ。
確か大井川より以東が武田、以西が徳川の約定で。
信玄の誤算は北条による今川への徹底した支援ではなかろうか?
>>132 ついでに、欲張って協定違反した挙句、徳川も敵に回した。
それにしても、武田ってよく北条を敵に回すな。それも、北条への直接攻撃ではなく
同盟者への攻撃によって。
もう少し上手く立ち回れなかったのかね。婚姻関係がある、というだけなら北条-今川
も北条-武田も変わらないのだから。
>>133 遠江に進攻した際は家康の抗議を受けて秋山を撤退させてる。
本格的に敵対するのはもう少ししてから。
>>134 そう思う。北条も武田との敵対で今川を除く四方を敵対勢力に囲まれるわけだし、
(すぐに上杉と同盟したが)やり方次第では北条と敵対せずにすんだのではと思うよ。
それとも交渉をしたうえで決裂したのかな?
>>136 たしかに本格的に合戦をおこなうのはもう少し後になるが、この時の秋山軍の侵入と
見附占領、さらに交戦によって徳川が武田から離れ、掛川篭城中の今川氏真と単独講和
して北条とも誼を通じ、さらに後に上杉とも同盟を結んだのは事実。
北条とすでに開戦しているのだから余計なことをしなければ新たに敵を増やす事もなか
ったのに。よっぽど徳川を軽視していたのかと思われるが、これだけは信玄の否定でき
ないミスだ。約定を守っていればどうにもならなかった相手を敵においやっているのだ
から。
>>137 信玄が駿河に攻め入る前から両者の手切れは行われていたのだが、その間に北条と
特に交渉した形跡は見られない。水面下でしていたのかもしれないが。
それでも結果として北条は氏真救援で武田と戦うことを選択したのだから、信玄の
外交の失敗とみなすべきか、氏真の外交戦の勝利とみるべきか。
後知恵だが、かつて今川-北条の係争地点であった駿東郡あたりを餌に分割協定とか
結べなかったのかね。
どちらにつくか、北条が明確な態度を見せるまでには時間がかかる
それまでに今川は潰せるという判断だったんでしょ
結果的に北条は予想以上に迅速かつ明確に今川方についた
武田側の誤算、判断ミスとも言えるが、それ以上に北条の判断が間違っているかと
協定違反と上杉との同盟は関係ないと思うが、家康にしてみれば警戒に値するのは
事実ですね。ただ位置的に今川攻略後は必然的に敵対するのは間違いないのでこれをもって
徳川との敵対を非難できないと思います。
長駄文うざい
たんに、今川領を独り占めしたかっただけでは?
北条に一旦土地分割すると、取り返すのにどれほど労力がかかるかわからない。だ
から、妥協しない。
徳川は小国だから、後からどうにでもできる。遠江も暫らく預けるだけ、後日纏め
て取り返す。
武田から見れば徳川はどうしても潜在的に敵だと思うよ。
どれだけ表明的には友好でも
>>143 その判断はないと思う。
北条との敵対と駿東割譲では前者の方がリスクがありすぎる。
やはり信玄の誤算では?
まさか落ち目の今川への徹底した支援や、まして上杉と同盟してまで
自らと対立するとは考えないでしょ普通。
>>145 確かに、相越同盟は武田にとっては、独ソ不可侵条約並みの衝撃だっただろう。
実際の独ソ不可侵条約のときは日本の思い込みや読みの浅さがあったと言うが、
戦国時代の当時の状況で、この展開を読むのは至難の業であっただろうかと。
もちろん政治は結果が全てだから、結果的に信玄の判断ミスとは言わざるを得ないが。
そうだな。
特に上杉と同盟してまでって所がな。
今川支援しても旨味はない。
>>141>>144 位置的に、武田と徳川は敵対するしかないってのはその通りだと思います。ただ、たとえ
そうであっても、外交術策でもって開戦を遅らせることは不可能なことではないでしょう。
武田が徳川を敵にしたこと自体は非難の対象にはなりませんが、駿河を巡って北条と戦って
いる最中にわざわざ約定違反して家康に警戒心を植え付け、敵対してしまったのはやはり失
策でしょう。少なくとも、信玄からそんなことをしなければ徳川から攻撃してくる可能性は
当時の勢力差をみれば低かったのだから。
こうなると、信玄の誤算はやはり北条の出方を見誤ったことですね。
信玄の目算としては、上杉や関東諸将と敵対している北条がすぐに今川救援に出てくることは
ないだろう。ならばすばやく駿河を占領して、事後承諾で領有を認めさせる。事前に交渉する
と、味方に引き入れる為に分け前を出さなければならなくなるから、使者の派遣は事が成った
後でいい。それよりも、今川を挟撃するために徳川を引き入れたが、次のターゲットに力をつけ
させるわけにはいかないから、遠江にも楔をうっておこう…。
想像になったが、こんなもんでどうか。
>>146 「関東情勢ハ複雑怪奇…」
氏康の決断理由を想像してみると、同盟しているとはいえ、隣国をこれ以上強大化
させたくなかった、くらいしか思いつかない。
戦国の世で北条は何を思って今川を支援したのかな?
相越同盟とはいっても北条にとっては分の悪い同盟だし、
今川支援はなんの利益ももたらさない。その後、甲相共に時間的、戦力的に
消耗しあったことを考えれば武田贔屓の私としては氏康に怒りをおぼえるよ。
むしゃくしゃしてやった。
武田を困らせてやろうと思った。
今は反省している。
>>150 結果論、ではあるけどね。ただ、氏康の決断が武田、北条双方に時間とエネルギーの
浪費をもたらしたことも事実。その点では氏康も判断ミスを責められることになるが。
やはり想像になるが、北条としては現状維持をのぞんだのではなかろうか。背面が完全
に武田となるより、甲相駿三すくみでバランスがとれていたころが、もっとも理想的な
状態だったのではなかろうか?
無理があるかな
>>150 そりゃあ、事後承諾でいいだろうみたいな態度を取られては、
威信にかかわるし、明らかに蔑ろにされてことになっていろいろ示しがつかない。
それ以上に今後もこのようなことがあっては同盟者として、
今後信頼することが出来ないしね。
しかし、それにしても上杉と同盟というのは大胆すぎ、
受ける上杉も上杉だよ、関東管領職についてはもういいのかと。
まあ、実際そんな建前はもうどうでも良かったのだろうが・・・・・
>153
越相同盟については北条側が大きく妥協している。
まあ、そうは言っても上杉と北条が同盟なんてのは
戦国でも五本の指に入る珍事、武田の誤算は大きかったろう。
ただこの同盟は後々上杉にも誤算が生じる、
関東の反北条の諸侯が信用してくれなくなってしまった、と。
(武田の)誤算に始まり(上杉の)誤算に終わる、
・・・この時の北条のしたたかな事よ・・・。
>>154 さすがにそれも結果論ではあるが(笑)
それにしても、武田の今川侵攻って関わった全員に損害を与えているな。領土的には得
をした武田も、嫡男廃絶による家中亀裂、後日の火種を残すことになったし。
>>150 武田贔屓だから理解できないんですよ
北条だって領土拡張はしたいんです
亡命政府を支援して傀儡政権を樹立するなんて現代でもあるでしょ
この時代なら後から養子を送り込むことだって出来るしね
北条は武田の駿河領有を認められず、我が物にするべく出兵した(事実、一度は武田を
駿河から追い払っているのだから、判断ミスとは言えない)。
武田は駿河を諦められず、何度も出陣した。
どちらも弱体化した今川領を欲しての行動だ。不思議でもなんでもない。お互いが誤算
を重ねた(武田は、北条が出てくると思わなかった。北条は、一度駿河から追い出された
武田がこうも執拗に狙ってくるとは思わなかった。)だけだ。結果、どちらも抜き差しな
らない状況に陥り、長期戦になったということ。
また話が盛大に別方向にいってますな。
どうあれ、元亀三年の時点では武田と北条は一応友好関係を結んでいるのだから
それでいいのでは。
それにしても、信玄って獲り易い領土をひたすら狙って、結果敵を増やしているような。
「長期的視野」に疑問が生じてきたな。畿内の反信長包囲網が当てにならず、織田との
決戦もしがたいとなれば本当に講和して方向転換する可能性ありかも。(そしてまた敵
を増やす)
>>156>>157 しかし武田を一時追い出していながら領有化はもちろん傀儡化もしてませんね。
それに四方を敵だらけにしてまで得るものは少ないし、まぁどちらも誤算があったから
泥沼化していったというのは同意ですが一度追い出したら武田は諦めるだろうとの
認識は甘いのでは?
信玄の目を北に向けて、駿河を諦めさせるために越相同盟を結んだのでは?
さらに、今川も信玄侵攻前に上杉と同盟を組んでいたというから、新たな三
国同盟による武田包囲網ですな。さらに徳川も敵に回っているし。
>>158 >それにしても、信玄って獲り易い領土をひたすら狙って、結果敵を増やしているような。
信濃での小笠原や村上ともそんな感じだったからこの時がたまたまというわけではないだろうし
「長期的視野」に疑問が生じるのも無理は無いと思う。
>>160 そうでした。今川上杉同盟忘れてました。
そう考えると過度の介入も納得できました。ただ徳川はこの三国同盟とは関係なく
またこの時点では敵ではなく味方ですね。
>>161 私はそうは思いません。今川、北条と同盟し背後をかためた上で信濃進出は
間違ってないし、その後の対上杉では東西南と同盟しあたっていますし芦名とも
共同戦線をはっています。
たしかに今川進攻では北条との間で下手を打ちましたが佐竹、里見などと北条包囲網を築いて
ますから一応戦略というものはあったのでは。
ここまで孤独に耐えられるとは、ある意味凄いな。。。
信玄が典型的なマキャベリストだということでしょうね。もちろん、誉め言葉ですよ?
甲陽軍鑑に依拠しますが、信玄はかなり古くから西を狙っていたそうです。上洛目的では
なくて、単に領土拡大の方向性ですが。
美濃というのは斉藤氏のもとに一元支配されていたわけではなく、半独立勢力も多くて、信
玄はそのうちの一つ、岩村の遠山氏を狙い、協力者にしたそうで。ところが北で村上や上杉
との抗争が激しくなり、ひとます美濃方面はおいておいたうちに、信長がでてきたのでスト
ップしてしまった。次に同盟者今川から離脱した三河徳川氏を狙い、氏真に共同出兵を持ち
かけたが、氏真は織田と同盟し義信を廃嫡した信玄を信用せず、逆に上杉とも接触し始めた
ので、敵認定して侵攻目標となったのだとか。
氏真からすれば、受け入れ難い提案でもあることは確かだが。
石高とか状況とか具体的な話から一転
仮定の仮定や更にさかのぼった話。
見事なループっぷり大儀である。
というか、文体からみて、書き込みの9割は彼ですから。
重箱つつきみたいな石高の話より
なんぼか面白いけどね、読んでる方としては。
「武田に上洛は無理」って、結論出てるのでは。
少なくとも、戦場で奇跡がおきない限りは。
今日も今日とて活動的だなw
石高の話はほぼ決まった、のではなかったかな。最後は戦力配置の話で。
これ以上国力を議論するなら、武田は金山、織田は商業流通の話になるが、正直判らん。
詳しい人がいるならよろしく。
>>172 >詳しい人がいるならよろしく。
得意の捏造で勝手に話を進めておいてくれ。
そろそろスレッドタイトルを「2万5千でどうやって信玄を上洛せるか?」
にするといいな
2万5千に固執しないで何万なら可能かどうか検証しよう。
「5万なら上洛できるんじゃね〜の?」
兵の質にもよるが、五万ならいけそうだ。
補給をどうするかが問題だけどな。
一挙に二倍の負担がかかる、略奪しまくるかー。
よ〜しよしよしその調子だ、もっと書き込め!もっと自演しろ!もっと。
補給は現地調達が主じゃないですかね?
そういえば補給ってどうしてたんだ?
何日か分は兵士それぞれが自弁で用意したと聞くが、それ以上の場合。戦国も後期
になれば三ヶ月以上の出陣も珍しくなくなっていく。ある程度は現地の協力的な豪
族に供出させるとしても、軍の規模が大きくなればそれだけで賄えるはずもないし。
補給は現地調達が主じゃないですかね?
補給は本国からの輸送や現地調達が主では?
たしか駿河での武田北条戦で北条方は水軍を使って補給活動をしてますし、
82年の織田による武田進攻では補給が間に合わず、深志城の備蓄米を使って
急場をしのいでますからね。
孫子の言う現地調達は売買・ろ獲が主なんだが、
それでも金銭がかかるし、輸送も労力等で莫大な負担になる。
五万の大軍を維持しつつ遠征できる能力が武田に有るのかな?
備蓄
関が原の時は東海道筋の大名が味方についたおかげで
城に備蓄してある米を手にいれて(中でも清洲城に備蓄
してあった米は秀吉が対家康のために置いといた米は
20万石だったらしい)であんまり困らなかったとか。
買取
秀吉のように派手に買い占めを行って、城の備蓄米まで
買い取ったり、関が原の時は買い占めた米を家康へ
献上して点数を稼いだ大名もいましたね。
冬の陣では大坂が篭城の為に近辺の米を買い占めたために
家康が米の高騰で悩んだとか。
輸送
桶狭間の時の家康は前線の砦に米を運んだり、毛利軍は
本願寺へ兵糧を届けたりしてますね。
番外
秀吉と勝家の戦いの時に沿道の村から握り飯を用意させた。
自国の城や落とした城の備蓄を使ったり、現地で買い求めたり
略奪を行ったり、あらかじめ輜重隊を同行させたりで、本国から
追加で輸送隊を出すって言うのは稀じゃないかな?
このへんが後の日本軍に補給の感覚が抜けてるといわれる
所以かと。
日本の合戦じゃ、所詮は二、三日で本国まで帰れる広さだからな
物資に困るのは篭城中くらい、補給とか言ってる奴はあふぉ。
補給軽視って言うけど
朝鮮戦役での三成らの活動は高いレベルだったんじゃなかったっけ?
>>185 長期の、しかも大軍の遠征になると例え隣国でも補給はかかせないだろ。
米も矢種も火薬も沸いてくるわけではないのだから。
あと道も整っているわけではない、軍勢が一日に進める距離には限りがある。
秀吉は条件が整っていたからなんとかなった訳で、それはあくまで例外だしな。
西南戦争の時に、九州にはロクな道がない、と官軍からいわれたとか。
そのために、信長や信玄が道の整備を行ったのんだが。
そういえば北条の記録で矢玉を送るようにと
あったきがするが、戦国の戦は全体的に見て
領国からほんのちょっと出るようなもんだから
実質あっても国内輸送。そのための棒道だったり
街道整備だろうね。
基本は領土争いだからねえ。土地(城)を獲って進んで、また土地とって。
例外としては勢力が錯綜して、(他に比べれば)生産流通が整備されていた畿内かな。
三好長慶が四国から遠征してきたり、信長が元亀騒乱のときに本国から離れて活動
できたのは、舞台が畿内だったからかも。
>>187 相手が篭城している時は別にして、日本の合戦は1日で終わるから
矢箭も火薬も尽きる事は無いさね。
しかも、6時間行軍でも1日あれば余裕で隣国
たしか信玄は工作に工作を重ねて、織田の兵力を各地に分散させておいてから出発したんだよね?
たぶん信玄自身は信長が当面の間、自軍を大幅に上回る兵力を動員して決戦に臨むことは出来ないと踏んでいたんじゃないだろうか。
実際、信長は三方ヶ原へは徳川軍と合わせても武田軍を大幅に下回るだけの援軍しか送れなかった。
一般論で言えば2万5千での上洛は無茶だろうが、あの状況下ではそうとも言い切れない気がする。
>>191 しかし規模や状況にもよるが長期対陣などもあるわけで、
米などの消耗品に関しては一概に言えないのではないですか?
>>193 大概の消耗品は、消耗品だから農村で簡単に調達できるし
仮に運ぶとしても、九州や奥州でも無い限りそこそこの賦役で賄えるかと。
農村で調達できると言っても、万単位の人数分の物資が農村で調達しきれるかな?
まあ大勢力以外の大名はそれでも十分だろうけど。
>>191 決戦のためだけに出陣することは防衛戦以外では稀少かと。
軍を興したなら、最終的な城攻めを視野に入れてると思うのだが。
確かに決戦の日時が計りやすい後詰めなら、
補給のことはとりあえず考慮しなくても平気だと思うのは同意。
だが地形や天候、敵の出方や抵抗の度合いによっては
予期せぬ長期戦になる可能性のある攻撃側がそんなでは、万が一の時は大崩になるぞ。
大まかに言って、1ヶ月前後は賄える
それに、滞陣が伸びそうなら手配すればいいだけだし‥
1日2日の距離なんだから。
>予期せぬ長期戦になる可能性のある攻撃側がそんなでは、万が一の時は大崩になるぞ。
普通は、その前に撤退すると思うがw
>>196 普通は、そうならないように事前準備をするのだと思うが。
土地とるために色々やって(もちろんタダじゃない)、結果食料つきて撤退して
土地もなにも手に入らなかった、ではどうしようもないのだが。
とりあえず、信玄の最後の三河遠征は6ヶ月間以上、
謙信が小田原城を囲んだ関東攻めは10ヶ月間ほどかかっているね。
城攻めが目的ならともかく、遠征で敵地に長期間滞在するとなると補給路の確保はかなり大事だよ。
現地調達なんて必ずしも出来るとは限らないんだから。
少なくとも信玄はそういういきあたりばったりの思考はせず、隣国に攻め込む際には兵站をきちんと作ってから攻めるというのが戦略の基本だった。
というか、食料つきて撤退した事例ってほとんど無い様な
尼子の毛利攻めも食料尽きたワケじゃないし
山越え+大雪の特殊事例。
通常は、不味くなってから手配しても間に合ったんじゃないか、と思う。
むしろあらかじめ補給計画をきちんと立てていたと見るべきではないか?
ガキの使いじゃないんだからさ。
信玄は補給に関しては用意周到。
それが災いして駿河攻めのときは補給路作りの進み具合で北条に侵攻時期を読まれてしまったが。
まあいざとなったら甲州金で現地調達という手段があったけどな。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 06:05:00
age
204 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 11:26:38
もし織田信秀の嫡子が氏真で今川義元の嫡子が信長なら
おそらく信玄が天下を取っていただろうな
はぁ?それだったら義元の上洛で織田家滅亡
>>204 捏造はやめて妄想に切り替えた様だな、織田厨。 結構なことだ
>>206 >204 の妄想が、何故織田厨になるのかよく判らんのだが。
このスレには気にくわない意見を
織田厨
として片づけるおかしな人が居ます。
武田好きとしても恥ずかしい限りなので、
相手にしないようにしましょう。
と、織田厨が申しております。
如何なされますか?
210 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 21:09:54
やっぱり信玄と信長の分かれ道は第4次川中島から信長入洛までの6年間だと
思うよ
この間に信玄は西へいけなかったのかと・・
>>210 長尾家との速やかな和平と
今川の断行しつつ北条との関係維持
これが出来ないと怖くて南下は苦しいかと
>>210 西を狙っているよ信玄は。美濃の遠山氏に服属を働きかけたり。
しかし第四次以降も上杉との抗争が終わったわけではなく、北信のあとは関東(上野)
に舞台を移して戦いつづけ、さらに越中の神保 vs 椎名の戦いに介入して代理戦争の
様相を呈したり。
そうこうしているうちに織田の台頭して美濃に力を伸ばしてきたので、北と戦う間の側面
を守るために織田と結ぶことにした。(織田の敵である今川と結んでいる以上、美濃から
信濃へと侵入してくる可能性だってあった)
さらに今川との関係悪化により、西は諦めて北と南を相手にすることになった。
>>211 の言うように、上杉と同盟を結び、かつ北条、今川とも関係をくずさず(この時点で
かなり厳しい条件)に、織田に先んじて美濃に攻め込むことができていたら、歴史は大幅に
変わっただろうな。
後世の、結果を知っている人間によるIf戦記にしかならないけど。
>>212 そりゃあ、桶狭間の直後くらいで、まだ尾張一国をなんとか抑えたような勢力を、
「将来あいつは大勢力に成長して、うちは滅ぼされる」なんて予想して、長年の同
盟国を敵に回しかねない敵国との同盟を結ぶべし。
こんな予測が出来るのならオカルトだよ。
また、ゆんゆんか‥
後付けの知識が許されるなら
武田は義影のなかの人と謙信のなかの人を
入れ替えるのに全力を尽くすべきだったな。
小田原城や浜松城のときの様に武田の武威を見せつけるだけで
良かったので岐阜城を形だけ囲んでそのまま甲裴に帰る予定でした。
ふ〜ん、あっそ
>>213 >桶狭間の直後くらいで、まだ尾張一国をなんとか抑えたような
この時点で武田と互角とはいかなくてもそれに準じるぐらいの勢力なんだが
また、下らない釣りか‥
それとも、基本的な事が何も解って無い?
>>218 それなら、ますます信玄としては敵対したくない相手だろうね織田は。
新たな強国を敵に回すより、これまでの敵と戦いつづけた方がいい。
今川攻めの後、信玄は長期的にはどのような展望をもっていたのだろう?
最初から今川の後は徳川(遠江、三河)を攻めるつもりだったというが、その場合、
徳川の同盟者である織田を敵に回す可能性だってある。
史実では信長は浅井の離反に端を発した元亀争乱拘束されたために東へ向ける余裕は
なくなったが、もし浅井の寝返らなかったら、信玄にとって徳川を攻めることは、将軍
の保護者であり畿内の執権者ともなった織田を敵にしかねない行為となる。
かといって、武田の周囲はすでに同じくらい大勢力である北条、上杉が残るのみ。
222 :
になし:04/12/20 00:08:36
織田>武田
明智>織田
羽柴>明智
そして
徳川>羽柴
で
武田>徳川
うーんみごと
226 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/20 12:44:21
信玄が生き長らえていたら安藤守就あたりから武田に寝返っただろうね
まただろうね
228 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 15:51:36
いやいや 林と佐久間が寝返るだろう
安藤や林はまだ判るんだが、佐久間ってなにを根拠に言ってるんだ?
信盛って、最後まで信長と敵対したことのない重臣だろ?
水野
結局、IF戦記並みの設定を持ち出さないと武田は勝てないってことか
>>231 史実と違う話になるんだから当たり前だろ?
何を今更・・・・
IF戦記並はやばいだろ。本屋行ったことあるか?
むう、ぶっちゃけ全く読んだことないが、そんなに酷いのか?
酷い、織田厨の捏造と同くじくらい酷い
逆じゃね?
イフ戦記ってのは史実の勝ち組みを負かすために色々な設定(妄想)をつっこむモノ
だから。
武田や上杉が信長を滅ぼして天下を統一するために無茶苦茶な設定ばかり。
他には豊臣や徳川に勝つために伊達に無茶苦茶な設定ぶちこんだり。
秀吉が信長裏切って天下取るみたいなのもあった気がする。
自分が読んだのは、竹中半兵衛が実は生きていて、死んだことにして地下に潜伏して
本能寺の変(信長爆殺)をひきおこしたとかいうのだった
なんでもありだな
史実とは違うのだから、絶対的にファンタジーは必要だが。
まずこのスレでは、信玄なかなか死なないというファンタジーをひとつ起こさなくちゃならないし
2,3年じゃないの?
じゃあそれで良いよ
242 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 03:50:57
age
捏造多杉下げ
244 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 07:42:23
age
245 :
信玄厨:05/01/02 05:23:44
メリクリっ
247 :
になし:05/01/02 23:20:55
武田軍2万5千など織田軍が撃退するに決まり!!
にぎやかなスレだったけどずいぶん寂れたね
そもそもが武田って強いの?
百戦錬磨の織田のほうが強いと思うけど。
鉄砲の時代に馬はないだろ?
グラスワンダークラスの馬が揃うならともかくな
>>248 長いこのスレの歴史の中ではこういう時期も多々あります。
>>249 あんな足の弱い馬合戦では役に立ちませんヽ(`Д´)ノウワァン
組織化された騎馬隊なら、
火縄銃どころか機関銃が実用化されるまで、戦場で極めて有用な物だったんだけど、
武田家、というか当時の日本にまともな騎馬隊は存在しないからねえ。
「日本人は馬から降りて戦う」なんて外国人の記録にもありますしね
>>252 日本で騎兵隊が造られたのは明治になってから。
三国干渉でロシアが仮想敵国となった時に、満州でコサック騎兵に対抗するために
編成されたと聞いたことがあります。
たしかに、日本の山がちな地形じゃあ騎兵集団なんて使い辛いか。
>>254 山がちっていっても実際に合戦をするのは比較的開けた場所の時も多いし、
あれば使えないってはずはないんだけどね。
まあ、大陸よりは効率が悪いのかも知れない。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 01:26:56
出立時2万5千だった兵力が、三方が原合戦時には
3万〜3万5千になっていたというのを本で読んだことある。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 01:37:24
>>255 騎兵の利点は機動力を生かして戦場を選べることじゃないかな。
足軽についていって、
足軽に合わせて戦場を選んで、
そこがたまたま開けた場所だったとしても
本来の騎兵の運用とはいいにくい。
開けた大陸なら、騎兵の速度を生かして長躯進撃、
敵国の思わぬところに戦場を設定する戦略奇襲が可能ちゅーことだろ。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 01:37:57
「オーレー オーレー♪マツケンサンバ♪オーレー オーレー♪マツケンサンバ♪」
∧_∧ ∧_∧
( ・∀・) ( ´∀`)
⊂ つ⊂ つ
.人 Y 人 Y
し'(_) し'(_)
「あぁ 恋せよ アミーゴ♪踊ろう セニョリータ♪」
∧_∧ ∧_∧
(・∀・ ) (´∀` )
⊂、 つ⊂、 つ
Y 人 Y 人
(_)'J (_)'J
「眠りさえ忘れて 踊り明かそう♪サーンバ ビバ サーンバ♪」
∧_∧ ∧_∧
( ・∀・ ) ( ´∀` )
( つ⊂ ) ( つ⊂ )
ヽ ( ノ ヽ ( ノ
(_)し' (_)し'
「マ・ツ・ケ・ン サーンバー♪オレ♪」
∧_∧ ∧_∧
∩ ・∀・)∩∩ ´∀`)∩
〉 _ノ 〉 _ノ
ノ ノ ノ ノ ノ ノ
し´(_) し´(_)
【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。 そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
>>256 豪族の性質を考えればあり得ることではある。
>>257 それならなおさら日本でも騎馬隊は有用ですよ。
山がちな地形って言っても、
移動自体は馬を使った方が圧倒的に早い場合の方が多いですから。
それに戦術レベルの機動も騎馬隊の主要な役割の一部です。
むしろ、部隊の移動の段階で騎馬隊だけで先に出過ぎてしまうと、
歩兵と連携出来なくなって、逆に危険ですし。
馬は平原を早く走るために進化した動物、逆に言うと、傾斜段差には弱い。
実験では、30度くらいの傾斜で降ることができなくなったそうだ。
ただしこれは野生馬の話で。訓練をつんだ馬は40度くらいまでは平気だったそうだが。
あと、サラブレッドと在来種でもだいぶ違うだろうしな。
日本の馬って、ポニー並みに小型だったとか。
体力持久力も低いだろうし、やはり馬は戦場までの移動手段だったのかな。
木曽馬あたりはもっといけるんじゃあなかったっけ?
いずれにしろ日本だって普通の生活圏に限れば、
傾斜30度もないところの方が多いですからねえ。
>>262 サラブレッドの話?
だったら全く話が違いますよ。
あれは進化した動物じゃあなく、
そういう風に作り変えられてしまった動物ですから。
木曽馬はかなり体力があったような。
それはともかく、訓練されれば斜度40度っていうが
40度ってのは相当の坂だよな?
267 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 02:20:16
司馬遼の小説からの聞きかじりだから
笑って読み飛ばして欲しいのだが、
騎兵を歩兵と絡めて運用するってのはえらい難しいらしい。
騎兵の特質は速度と突進力。
それと防御力の弱さ。
貴重な騎兵を惜しんで歩兵と一緒に使うと速度を殺してしまう。
結果、追撃、偵察、連絡あたりしか使い道がなくなる。
まして、山や田んぼだらけの日本では
ほろしょった使い番レベルでOKってなことらしい。
日本には馬に乗った歩兵将校ばかりで
まともな騎兵がいなかったという評価もまんざらうそじゃないらしい。
268 :
になし:05/01/03 02:21:02
皆さん!!武田軍の馬では織田軍の馬には勝てません!!なぜなら織田軍の馬には餌が
きちんともらえますが、武田軍の馬は遠征期間が長くなって餌がとぼしくて不足なのですから。
>>267 えらい難しいって、世界史上は紀元前からバンバン使ってるけどね。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 02:31:17
馬に乗っている戦士 ≠ 騎兵という兵種
アレキサンダーの時代から明らかに騎兵として運用されてますから。
しかし日本ではうまく運用されなかったね。
ついでにいうと古代オリエント〜地中海の騎兵運用と
中世ヨーロッパのそれはぜんぜん違う。
>>272 マケドニアはスキタイ人とかとも交渉があったりして、
遊牧民族の影響もあったからね。ペルシャも無論そうだし、
ローマだってその騎兵隊の多くはヌミディア等の遊牧系の民族に負っていた。
中国で騎兵の運用が始まったのも、遊牧民との接触による。
遊牧民族との接触の機会がほとんどなかった日本では、
組織的な騎兵の運用が成立しなくても不思議はないですよ。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 02:54:08
三河方面で本隊が徳川勢と対峙。
武田騎兵隊(騎馬隊じゃないよ)が東美濃から長躯進入。
その快速を生かして尾張方面を移動中の織田勢に一撃を与える。
情報収集、移動、補給、恐ろしく難しい。
たとえ成功したとしても勝利と引き換えに騎兵も大損害をこうむる。
こんな戦略的運用こそ騎兵の本質という考え方もあるというだけの話。
275 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 02:54:10
武田騎馬軍団は騎馬兵だけで編成されていたよ
しかも馬はサラブレッドだからデカくて速かった
プ
>>274 そんな投機的な運用は決して本質ではありません。
というか、成功しても大損害なんてのは愚者の行いです。
ちょっときつい言い方になりますが、
馬鹿も休み休み言って下さい。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:03:57
実際に島津貴久はアラブ種馬を輸入、繁殖しようとしていたらしいよ
成功していれば日本の馬産の歴史が大きく変わっていただろうに
279 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:10:20
ふつーやらんわな。
だもんで騎兵を扱える天才は数えるほどしかいないというオチだった。
この辺のニュアンスを伝えるために、
秋山好古は素手でガラスをぶち破り、
血だらけの手を見せながら「騎兵の本質はこれだ」といったという
伝説があるらしい。
あと、成功しても大損害ちゅーのは認識が違う気がする。
騎兵と引き換えに敵に打撃を与え、
戦争に(戦闘にじゃないよ)勝つという考え方だった。
>>279 あのさあ、秋山さんの時代は日本の騎兵隊の黎明期ですからね、
その功績は大きく称えられます。
まして小説では過剰に演出するのは当然です。だから、あまり真に受けない方がいいですよ。
そんなおおげさに言わなくても、騎兵隊の運用は大陸では紀元前から普通にやってますので。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:22:14
ここで、日本に話をもどす。
日本には、大陸では紀元前から普通にやっていた騎兵隊の運用を行っていたか。
武田騎馬隊は騎兵隊か、それとも騎乗歩兵か。
>>274なんて、天才どころか間違った騎兵運用の見本みたいな物だが。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:32:46
うまくいきゃ天才よ。
義経だって鵯越でコケて首の骨折ってりゃ、
くそみそ言われていたはず。
常識人が騎兵を運用すると偵察、連絡、追撃用だが、
天才の手にかかると戦争の行方すら左右する決戦兵種となる、、、
ってなことを小説に書いてあった。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:34:11
>284は>282へのレスです。
>>284 だから天才以外だって決戦兵種として使ってるから。
いい加減小説真に受けて馬鹿なことを垂れ流すのは止めなさい。
というか、義経の戦略と
>>274なんて全く似ても似つかない別物ですよ。
成功しても大損害って段階で愚物の愚作に過ぎません。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:44:47
>>286 あまり熱くならないでくれ。
歴史小説の中にそういう考え方があったというだけの話だから。
うんで、結論としては、
「日本でも騎馬隊が居れば便利。大陸より使いにくいかもしれないけど。」
ちゅーことでよろしいか。
>>287 さっきから小説を真に受けない方がいいと言っているのに、
いつまでも拘ってるようだったのでね。
そこだけ理解してくれれば十分ですよ。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 03:56:34
やでやで、お休み。
>>287 そういう人とはあまりやり合わない方が良いよ。
だいたい話にもならないから。
長尾とはあまりやり合わない方が良いよ。
だいたい話にもならないから。
293 :
助っ人かも?:05/01/03 04:20:54
●当時の「名馬」の概念
馬という生き物は、基本的に坂が苦手です。競馬好きな人なら分かるでしょう(^^)しかし、
産まれつき山で育った馬というのは(環境に適応するというか)平地で育った馬と比べて、坂
に強いので、軍馬として重宝されます。荷駄隊として馬を利用すれば、1頭あたり人の3〜5
倍を搭載できるのです。
馬という生き物は、基本的に臆病です。深い水溜りなんかも嫌がります。軍馬に適用される馬
はそれなりに調教されますが、「突撃」などはあまり得意ではありません(てか、殆どしませ
ん)
ちなみに戦国の馬というのは、100%ポニーです。全速力で走っても、人が追いつけるスピ
ードしか出ません。それでも当時は「馬に乗れる=命綱」でもあり、また恩賞として下賜され
るなどの勲章でもあります。
●僕なりの「武田騎馬軍団」仮説
まず馬の扱いに長けていること。それは馬の育て方から含む、一種の技術者の集団であったと
思います。そして信州には(山ですから)名馬が沢山いたでしょう。彼らはそんな名馬にまた
がって戦場へと向かいます。当然、徒歩とはスタミナの消耗が違うはずです。戦場でも同じで
しょう。自分の足で疾駆するよりも、ずっと楽だと思います。そういう意味では騎馬戦術はと
ても有効な戦法だと思います。しかし戦国時代の後半になると、陣城による戦力の封じ込め(
=安全な場所からの射撃や、兵糧攻めなどの包囲戦)が主流になってきます。次第に騎馬戦術
の役に立つ機会が少なくなっていくのです。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 06:04:18
武田騎馬軍団の馬はサラブレッドだってば
その時代、サラブレッドなど世界中に一頭もいなかっただろ
最も古いバイアリータークで1680年生まれだし
>>293 ポニーってのは実は結構大きい馬だし、疾走すれば人が追いつけるスピードではないよ。
あと騎馬突撃は実際に行われてたよ。もっと文章資料を読みましょう。
当時の記録によれば戦国の馬の高さは四尺から五尺で平均140cm。
>>294 仮にあの時代にサラブレッドがいたとしても、だ。
サラブレッドなんて体重せいぜい50kg以上のジョッキーを乗せて2000〜4000m
走っただけで終わる、へたすればどこか故障する、軍馬荷馬としては駄馬だぞ。
武田軍団がサラブレッドなんて使っていたら、甲冑着込んだ武者を乗せて走った
だけで自壊しそうな脆い軍になっただろうな。
>>270 が言っているとおり。近代以前の日本に兵種としての騎兵隊なんてなかった。
そもそも、豪族国人がかき集めた集団のさらに寄せ集めな戦国大名の軍隊で、
どうやって騎馬武者だけを抽出して編成できるのやら。
>>299 もう!
無知は書きこむなよふんとに!!
上杉は兵種ごとの抽出してなかった?
302 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 09:42:44
>>300 >299とは別人ですが横レス。
戦国時代に騎兵運用の事例があるの?
あるなら教えて欲しいです。
303 :
助っ人かも??:05/01/03 09:44:14
騎馬突撃くらいは知ってるよ。
ただ、勘違いしてはいけないのは「突撃」というと(例えば)人に向かって
車かなんかで突っ込んでくるような破壊力を想像しがちだけど、戦国の騎馬
突撃はそんなもんじゃない。
基本的に、戦国の戦というのは遠戦志向なんです。兵は半農半兵、指揮する
騎馬武者は農民の親方。兵が死ぬっていうのはとても痛いんです。だから接
近して白兵戦挑む奴がいたら、すぐ腰がひける。馬なら尚更です。人より若
干、足が速くてしかもスタミナがある。いつまでも追い回してくるから、陣
形とか掻き回されて混乱状態になったりするんです。
304 :
助っ人かも??:05/01/03 09:49:18
あと、これは落ち着いて考えればわかると思うのですが、馬がもし競馬なみの
スピードで突っ込んでくるのなら、槍衾なんか役に立ちません(^^)騎馬武
者も大怪我するだろうけど、槍隊のほうだって弾き飛ばされてエライめにあう
よ!?てか、あんなスピードで突っ込んでこられたら普通、逃げると思うけど。
人が怖がることを配慮するのに、
馬が怖がることを配慮しない池沼が訪問するスレはここですか?
306 :
助っ人かも??:05/01/03 11:01:03
>>305 同感だな。軍馬は戦争用に調教される(近くで鉄砲の音聞かせ
たり、乗り回しの訓練や水泳などまで)とはいえ、ダメなやつは全くダ
メなんです。そういうのは輸送用として使われたりするんです。
「武田騎馬軍団」=「馬がうじゃうじゃやたらと多い集団」そういう発
想はできないもんですかねえ??
甲斐信濃上野を抑えた武田が、
他と比べて、馬の数(比率)が多かった、というのは判る。
その分、他にはない、武田独自の馬を使った軍法や利用法があっただろう、という
可能性も肯ける。
しかしだからといって武田に(当時の日本に)騎兵隊があったとは到底考えられません。
>>303 遠戦志向なんて事実はないがねそんなのは鎌倉時代までの話ですよ。
309 :
助っ人かも??:05/01/03 11:29:52
騎兵隊っていうシロモノじゃないよ。(例えば)他家では、10人に1人くらいが馬に
乗っている。でも武田は3人に1人くらいの割合で馬に乗っている。しかも荷駄用にも
馬がいっぱい…(@@)
そんな感じじゃないですか?騎乗武将と足軽はファミリーみたいな感じ(てか直属の上
司とその付き人=農民)だと思いますよ?
>>307 騎兵隊どころか、近代の軍隊の概念とは別モノですよ。
>>309 騎兵隊は、近代軍制どころか古代からあった兵科だが。
ただ、日本にはなかった、というだけで。
311 :
助っ人かも??:05/01/03 11:35:38
>>308 何をおっしゃるウサギさん?鎌倉〜南北朝〜戦国〜幕末通して、戦争の負傷者の
8割が弓、鉄砲、石礫によるものなんです。きちんとデータ出てますよ。
312 :
助っ人かも??:05/01/03 11:37:27
>>309 「3人に1人」つまり軍の三分の一は騎馬だというのはさすがにソースを尋ねたい。
うろ覚えですまないが、たしか1562年くらいの時期に武田の家臣団をまとめたとき、
騎乗の士、つまり騎馬武者が四千人だった。当時の武田の兵力からすれば18%くらいか?
時期はややずれるが、1581年の明智光秀の軍役が馬16%。
当時の日本に、騎兵隊つまり騎兵のみを編成した軍隊なんてなかった
という点では一致してるんでしょ?
>>311 鈴木眞哉氏の本ですな。
結構批判もあるそうですよ、根拠にした資料が偏ってるとか。
いずれにしろ最後は白兵戦になりますから。
>助っ人かも??
なんか凄い勢いで空回りしている感じ。
317 :
助っ人かも??:05/01/03 11:47:20
「3人に1人」てのはあくまで、たとえの話。騎馬軍団の概念を仮説してみただけぽ
助っ人かもってのはコテハン?
それともこのスレのどれかの意見に対して擁護する内容だってこと?
もし後者ならどのレスに対して「助っ人かも」なのか言ってくれないと、
何が言いたいのか良く分からんなあ。
>>317 とりあえず、今現在このスレでは当時の武田家に(或いは日本に)、
組織的な騎兵隊の運用があったと言っている者は一人もいないから、
それを否定したいのが目的ならそれは全く無駄だよ。
そもそも、否定する相手がいないから。
だから、
>>293みたいな想像だけの話を書き込むのは止めておいたほうがいいと思うよ。
>>301 兵種ごとの分けるようなことなら織田家とかもしてるけど(たぶん他でもしてると思う)、
いずれにしろ騎馬隊はなかったはず。
結局、武田の急成長の要因は信玄の調略の才(戦わずして降す)であって、野戦の
強さではないんだよなあ。
正面決戦での勝ち戦となると…三方ヶ原の戦いくらい?
これだって兵力比2:1だし。
小田井原の戦いや三増峠も入れてくれ。
あと、信州攻略においては上田原と砥石攻め以外ではぼかすか勝っているんだけど、
多分数的有利は確保していたと思う。
もちろん数的有利を確保して戦うのが戦の常道だから、
だからこそ「強い」という言い方も出来るんだが。
少数をもって大軍を撃破、みたいな我々が想像するような、
圧倒的強さを示す戦歴はなかったと思う。
>>322 戦術の上手さ、ではなくて、戦略の巧みさ、ってことですな。
信長も信玄も変わらない。
なのに、何で信玄と信長が戦えば信玄が勝つ、なんていわれるんだ?
戦略家としては同等、戦術家としては信長の方が上だと思うのだが。
というより、信玄のほうに、>323が言うように戦術の冴を思わせる事跡が思い浮かばない。
>>325 言われてませんから。少なくとも真面目な考察においてはね。
ただ、戦術の冴えって面では三増峠はそれなりの物だと思うよ、
引き上げるところを待ち伏せされるっていう戦略的には失策な状況を、
戦術で覆しているから。
近代型騎兵と中世型騎兵の区別ができないスレッドはここですか?
>>326 包囲挟撃される前に、薄い(少ない)部分を突破したのは大した手腕だよな。
これも戦術というよりは戦略な気もするが。
武田軍がそれほど強くない、また総帥の信玄が戦術レベルはたいしたことない
となると、評価が覆る武将がたくさんいそう
(武田軍の強さが)言われているような馬とかにあったのではない、というのでは?
それに、大名としての評価は、戦闘に強いことよりも、結果として国を富ませる事
にあるのだから、信玄の大名としての評価は変わらないだろう。
>>329 そんな事ないよ。
普通戦争が強いと言えば、戦略が巧みであることを言い。
その点で信玄は無論最強でなくても十分優秀な部類だから。
つーか抜群の戦術的能力を示すような事例が少ないといっても、
いきなり大した事ないって評価にはなりませんよ。
村上相手に二度ほど失態を演じているが、それ以外は取りこぼしなく勝ってますからね。
332 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 18:05:37
>>327 もしかしたら武田の騎馬隊も中世的基準では騎兵ってなるのかな。
よかったら近代型騎兵と中世型騎兵の違いについて語ってくれ。
あと老婆心だが、ヨーロッパ中世の重装騎兵の話は避けたほうがいいと思う。
あまりにも日本と違いすぎるし、荒れそうな気がする。
よろしく頼む。
333 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 18:12:40
オスマントルコの騎兵とか蒙古の騎兵は比べられないの?
あんまり難しく考えなくても蒙古が版図を広げられたのは
騎兵のおかげだろう?
蒙古で出来ていたことを戦国時代の日本で出来なかったはず無いと思うけどな
幾らなんでも状況違いすぎ。
気候からして絶対出来ない。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 18:30:52
蒙古で出来た騎兵戦術が日本で出来ない気候の違いとは何?
336 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 18:37:34
乾燥と湿潤。
すなわち草原と森林、山岳、田んぼの違いでは?
蒙古帝國は、陸続きだった南宋を滅ぼすのに偉く時間がかかってるよ。
>>333 社会制度の違い。
遊牧民と農耕定住民を同一視できるわけない。
個人的な馬術の達人は育成できても、それだけを召集し編成するには強力な
中央政府が必要。日本では明治まで無かった。
(日本と似通っている)中世ヨーロッパにおいても、あったのは個人が馬にのった
騎士の集まりであって、騎兵集団ではなかった。
モンゴルは人口の数倍の馬を抱えてるんだぞ。
乗り潰してもかわりがある。
皆騎兵も可能。
日本で軍馬になれる馬を育成するのは超ハイコスト。
まず数をそろえる時点で話にならない差がある。
しかも遊牧民の運用や育成に及べば話にならないな。
>>335 なにもかも全然違うだろうが、
日本でモンゴル並みの遊牧社会なんて出来ない。
マジで小学校レベルの常識だぞ。
新年早々凄いレベルの馬鹿が登場しました。
幸先悪いですね。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:06:16
日本の農耕馬でモンゴルやオスマントルコのような騎兵が出来るとでも!?
あー、明治政府が朝鮮・支那に進出するにあたって
一番力を入れたのが、外国産馬の導入養成だったんだよ
345 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:32:04
>>342 ひとつのレスを掴まえて三銭版のレベルと言う意味がわからない
お前のレスひとつ取って板のレベルなんてわからないように
>>333のレスひとつで板のレベルがわかるかよ?
この馬鹿
346 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:32:25
だから言ったろう!
無知は書きこむなよフントに!
347 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:46:07
>>337 宋は当時世界でも有数の先進大国だ
簡単に滅ぼせるわけないだろ
348 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:50:13
>>345 おお、>300。
三銭板のレベルの高さを見せ付けてやれ!
で、戦国時代の騎兵運用事例は?
349 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 20:55:44
ごめん。
>345じゃなくて、>346ですた。
>>348よ、
たった1レスで自分の無知さを表現しきるとは素晴らしいなw
351 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:00:54
出し惜しみするなよー
教えてつかーさい。
その運用事例と武田騎馬隊を突き合わせてみたら面白いぜー。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:05:42
源義経の一の谷の合戦がまず有名な騎兵運用事例だろうな
353 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:15:20
そうだよな
一の谷の合戦なんて騎兵の機動力がなければ成功できなかったもんな
日本に騎兵戦術が無かったなんて主張している馬鹿はひとつの説を盲信し過ぎの
低脳だろwww
354 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:21:28
おもいっきし戦国時代が外れている罠。
おまけに義経オンリー戦法という説もあるぞってーの。
>>340 >日本でモンゴル並みの遊牧社会なんて出来ない。
できないわけじゃないだろ、人口国力を10分の1以下にすれば遊牧でもやっていけると思うぞ
もっとも、それするメリットは無いだろうが
偵察 伝令 追撃等
357 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:24:50
>>355 遊牧でどれだけの人口が養えるかモンゴルなどに比べれば植物の生息に優れているけど日本は狭いから
人口200万ぐらいが限界なのでは?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:30:34
甲斐の馬は良馬
360 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:30:52
平安末期の義経がやっていた戦法なら誰かが引き継いでいておかしくないよな
もしかしたら奥州藤原氏の伝統的な戦術という可能性が高いよな
その方が義経が突然思いつき実行し、後世誰も真似しなかったオリジナルな
戦術と考えるよりも、←ほぼあり得ない事だろう?
完全オリジナルよりも後継するものがいた、または奥州などでは
一般的に駆使されていた戦術だった可能性が高いだろう
>>332 簡単にまとめると、
近代型騎兵=主に騎兵のみで編成
中世型騎兵=歩兵・騎兵混合。
モンゴルだろうが、匈奴だろうが、騎兵のみで編成していたわけではないぞ?
農業に適した土地も遊牧に充てるわけだ
そりゃ人口も10分の1以下にならないと難しいなw
363 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:34:46
>>355 人口10分の1に抑えれば、山岳地帯が平地になるか?
梅雨がなくなって森が草原に変わるか?
自然が食料生産を決め、食糧生産が文化を作り出す。
軍事だの政治だのはそのあとだ。
あほうめ。
364 :
高坂:05/01/03 21:34:47
武田の話ね
365 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:38:13
366 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:40:16
匈奴歩兵部隊って存在したのかと小一時間
367 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:42:25
まあ義経を無視するしかない
日本に騎馬戦術は無かった派は負け犬ってことで決定だよなw
>>360 ではその事例を挙げてくれ。「一般的に駆使されていた戦術だった可能性が高いだろう」
というのであれば、さしたる苦労もなく運用例の二つ三つくらい出てくるだろう?
あなたの意見を肯定するには、少なくともその戦法(騎兵の運用)が平安末期に
奥州で行われていた事、そして以後も奥州の武士には常態で使用されていた例を
挙げなければ、単なる想像にしかならない。
小説ならそれでも結構だけれどさ。
370 :
高坂:05/01/03 21:47:16
徳川は8000くらいしかいなかったから
371 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:49:31
義経一派が根絶やしにされたから騎馬戦術は後継する者がいなかった。
義経が平家滅亡後も普通に幕府のなかで生き残って所領と子孫を残していれば、
騎馬戦術はその後も使われていたかもな。
>>367 というか、騎馬の使用(戦術)は日本にもあっただろう。そのことを否定している
人はいなかったと思うが。
ただ、日本における騎馬というものは、世界にあった(遊牧民から発生した)軍集団
としての騎兵隊とは異なるものであった、と言っているだけだ。
373 :
高坂:05/01/03 21:50:57
戦国時代だーーーー
374 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:54:32
>>372 だから日本の騎馬の使用は
偵察 伝令 追撃等 であって
騎馬での突撃攻撃などされなかったという主張なんだろ?
しかし一の谷はその突撃攻撃であろう
375 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 21:58:57
>>372 馬に乗ってる椰子と騎兵は違うというのが共通点。
日本にあったのは騎馬隊。騎兵にあらず。
それが最大公約数だと思うが。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:04:09
義経が騎馬戦術ってのもなんだか毒されてるよねえ・・・・
戦国を語ろうとする連中は他がおろそかになるからいけないね。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:07:14
>>376 何が言いたいのかよくわからんが、
義経は間違いなく騎馬戦術を駆使して戦っていたよ
378 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:09:30
>377
喪前のいう騎馬戦術とは何を指すのか示せ。
>>366 は??
漢人捕虜とか遠くはローマ人捕虜が匈奴の歩兵として戦っていますが何か?
380 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:14:29
381 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:15:10
>>378 ずいぶん偉そうだなw
騎馬戦術ってのは、騎馬兵のみの集団を使っての戦闘の方法。
義経が一ノ谷、屋島で使った。
一説には対義仲のときも、騎馬隊で素早く退路を断ったために一戦で討ち死に追いこめたと言われている。
382 :
高坂:05/01/03 22:16:51
へえ
383 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:17:59
一ノ谷とされる所見たことあるけど、馬と人バラバラなら
降りられると思うけど
鎧着て馬に乗って駆け下りるのは無理だと思いました。
384 :
高坂:05/01/03 22:19:59
話題が違う
385 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:20:10
>>383 だれもがそう思うために平家もそちらへの防備は手薄だった。
しかし義経軍はそれをやって勝利した。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:21:34
>>385 人だけなら降りられるのであれば
その時点で「備えない」のはオカシイのだが。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:22:44
>381
機動力を生かした騎馬兵の集団運用。
すなわちそれが騎兵。
で、義経がやったのは怒まぐれか。
それとも確立した戦法としてか。
そこんとが、義経が騎馬戦術を駆使したかどーかに
かかわると思うがどうよ。
後継者がいたか、孤立した天才の偉業か。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:22:53
平家って水鳥が飛べば逃げるヘタレだからw
義経が指揮した軍は、「騎馬武者の集団」であって騎兵隊ではなかろう。
室町時代に足軽の動員が始まって騎馬武者の割合が大幅に低下し
相対的に歩兵主力へと移った後の事を義経と比べてもしょうがないのでは。
騎馬武者の割合が5割の時代と5分の時代では切り離した時の戦力低下が
違いすぎて比較できないでしょ。
しかも騎馬武者が持つ弓矢が主力兵器と認知されていた時代と
足軽の持つ弓矢・鉄砲・長柄などが重要な時代とでは。
義経の時代には騎馬武者を切り離しても兵数も戦力も減少は少なく
対して戦国時代には騎馬武者だけ切り離すのはほとんどの戦力を
放棄するのと同じ事になってしまう。
391 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:27:03
>>386 たとえ人が降りられようとも、
そこに源氏がいるはずなけりゃ無視だろ?
いるはずのないところに義経を出現せしめたのが、騎兵の機動力。
問題は義経が意識してやったかどうか。
もし狙ってやったなら義経は騎兵運用の天才。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:27:42
>>390 騎馬武者集団の突撃は10倍20倍の敵を容易に蹴散らす。間違いない。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:28:34
>>386 俺は
>>383でないから、人なら降りられるのかどうかはわからんが、
平家は急峻な崖だから備えを薄くしていた。
昔、海音寺潮五郎が義経=ジンギスカン説の否定論を挙げた時、その一つに
「義経が用いた騎馬の運用と、ジンギスカンなどの遊牧民の騎兵戦術は全く異なるものだ」
と言っておられたが、具体的にどう違うのか手元に本がないので判らない。
どなたかご存知の方いませんかね?
395 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:29:28
>>391 そこにいるはずかどうかが問題なら
歩いて隠密行動を取っても同じですね。
馬を連れ歩く方が発見されるリスク高いと思うけど。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:30:57
>>390 なんか変。
足軽の動員が始まる前の義経のころは、
騎馬武者の比率は高い。
対して戦国時代は騎馬武者を切り離しても
比較的戦力の減は少ないってことになるんじゃないか。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:31:51
>>387 その時点で考えたのは義経だから、
孤立した天才の偉業
っていうか、義経に子孫がいれば後に伝わってただろ。
義経が騎馬戦術を用いていたところで、
だから日本に騎兵隊(騎兵戦術)があった、とはならないのだが。
そういえば堂々日本史でスタッフが降りさせられていたな・・・・
でも船越がよく犯人追い詰めるガケみたいなとこじゃなくて
あくまでも急斜面って感じでスタッフも降りる事ができてた。
そんでもってこういう急な斜面を駆け下りる馬がいますよ〜と
御崎馬の紹介に移ると。
でもどうせならその御崎馬に人乗せてやってくれりゃよかったのに。
木曽馬に鎧武者乗っけて走らせる実験はやってくれたんだからさ。
しかし常識的な戦理論として考えて、ガケの上に陣取って
「そっちから登ってくるはずがない」ってのは多いけど
急斜面の下に陣取って「上から降りてくるはずがない」ってのは
飛び道具もある時代にゃちょっと油断し過ぎだとは思った。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:35:20
>>395 時間と速度を無視するな。
兵庫口で一年も対峙したあとなら
平家も対策をねっているだろうよ。
平家のふいをついた要素がなんだったのかという話。
>>396 騎馬戦術の存在を論じるのであればそれは逆。
あのねえ、一の谷の降った義経の騎馬隊なんてのは、
数十騎ていどの少数部隊なのよ。
その程度の騎兵を抽出することは当時も出来るし戦国時代も出来た、
しかし、そんな少数の部隊では戦況を変えることはほとんど出来ず、
普通は無駄死にするだけ、だから、そういう使われ方は使われなくなってしまったの。
で、義経が成功したのは相手が全く想像もしないような完全な奇襲を行えたからで、
これは義経個人の能力によるものであり、その後踏襲されることもなく、
というか、出来ずに消滅してしまったのよ。
だからあれは完全な義経個人レベルのものでその後は受け継がれなくなってしまった。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:37:28
・・・武田騎馬隊はどこいった。
404 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:40:04
馬に乗って斜面の上に移動して
馬から降りて馬を引いて斜面を駆け下り
馬に乗って戦えばいいじゃん。
>>396 逆、軍全体の規模が大きくなると、
義経がやったような極小規模の部隊による奇襲は、十分な効果が望めず、
危険はより増してしまうから、使いにくくなってしまうのよ。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:40:50
義経の戦術を学んだのが武田騎馬戦法だろ
408 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:41:20
>>402 騎馬隊と騎兵をごちゃまぜに使っているぞ。
409 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:42:24
>>404 かっこ悪い!
つうか時間かかり過ぎだろ
奇襲が成功する勢いが無いよね
>>379 モンゴル軍に歩兵隊もいたなんてことを言ってもしょうがないでしょ。
モンゴルの騎兵部隊が歩兵と混合していたというあなたの妄想が、
おかしいと言われているのだからね。
411 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:44:08
義経が使ってたんだから日本にも騎馬隊や騎馬戦術はあった。
義経という特異な天才しか使わなかったから戦法としては日本に存在しなかった。
単なる視点の違いだけでどっちも間違ってはいないだろう。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:44:27
>>409 斜面降りる時間はそんな変わらんと思う。
相手が備えて無かったなら通用すると思う。
>>408 いや、ごちゃまぜも何も義経だって整備された「騎馬隊」なんて使ってないよ。
その場で騎兵っていうか、騎馬武者を抽出して迂回奇襲部隊を即席で作っただけだから。
で短足胴長の農耕馬タイプの日本馬でどうしろって?
平家物語を真面目に論じてもしょうがないと思うけど……
416 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:48:39
>>412 奇襲というのは相手の心理的なものが大きいんだよ
そんなへたれなカッコ悪い敵が現れても驚かないし奇襲は成功しないよ
騎馬武者が逆落としに攻めかかってこそ、平家の兵もびっくりして敗走するってもんだろ
417 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:48:42
>>411 その場で騎兵だけ集めて即席で奇襲部隊を作るくらいでは、
普通「騎馬隊や騎馬戦術はあった」とは言わない。
420 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:52:13
>>418 隊があったとは言わないかもしれないが、戦術はあったとは言えるよ。
実際それを使って戦ってるんだから。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:53:47
だいたい急斜面を人間が徒歩で降りるよりも乗馬して降りた方が
降りやすいと思うよ
徒歩で急斜面を降りると前向きで降りるのは非常に難しい
どうしても後ろ向きで手は斜面を当てて降りることになる
馬の手綱など引いて降りられるものではない
422 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:55:42
>>421 正直、そんなとこを馬に乗ったまま降りられますか?
それぞれがバラバラに降りるより重心が上がるんですが。
>>422 それは君の馬術の腕が足りないからだ。
平家の侍のようにな。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:58:11
実際に降りたのは事実なんだから、降りられるかを論じてもしょうがない。
あれは全面的に事実と断定して宜しいのですね?
426 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:59:03
>>422 心配するな大丈夫だって
馬っていうのは騎乗している人がなるべく水平に近いように
後ろ脚を縮めて、降るものだから
騎乗している人にとっては乗馬している方が降りやすいよ
427 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 22:59:43
428 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:01:11
平家は馬を知らない奴ばかりだったのさ
源平の話はスレ違いだな
乗馬で弓矢という武士の「形式」はむしろ都から
広まったという考え方があるな。
武装農民というだけでは形式まで固まらない。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:02:32
スレ違いではないな
日本に騎馬戦術のあった確実な証拠だからな
義経が何かやったとして信玄と関係あるんすか?
>>420 まあそうだとしても、戦国時代には消滅していたわけだけどね。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:05:41
備えの薄い厚いはどうしても出てくる。
崖の前よりも平地の方の備えを厚くするのは当然。
崖の方の備えを厚くして正面からの敵に敗れたらそれこそ馬鹿。
>>431 戦国時代にはないんだから、スレ違いだよ。
海を背にして三方を固めるのが定石だな。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:07:52
平安時代末期にあったのに戦国時代にはなかったという証拠はないだろ
なんだここは?
騎馬兵法が存在したかどうかを争ってるのか、汎用戦術として定着したかどうかを争ってるのかどっちだ?
>>431 でもその後の日本には残らなかった。軍の制度としても、戦術としても。
これまでも何人かが言っているが、義経の(日本の)騎馬戦術と、騎兵隊と
その運用は別物。
そして、武田騎馬隊がどうこう言う人は、騎兵隊として言っているんだよな。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:12:07
義経のように騎馬戦術が使ったほうが効果的と思えば
戦国時代の武将でも騎馬戦術を使っただろう
戦国時代に騎馬戦術が残っていなかったというのは考え方が硬直し過ぎ
いわゆる馬鹿だなwwww
441 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:12:42
>>438 その両方をごっちゃにして争ってるんだよ
>>438 前者であれば間違い無く存在したし、後者なら間違い無く定着しなかった。
だよな。
これ以上、何の答えがあるんだってのw
>>437 根拠はあるよ。戦国時代の部隊編成の資料は結構あるが、
槍衾をつくる足軽とか鉄砲をまとまって撃つ部隊とかはあっても、
騎馬隊はない。
義経の事例も含めて、日本には騎馬戦術はあった。
しかし騎馬はあっても騎兵隊とその運用法はなかった。
故に戦国時代の武田の騎馬隊云々言おうとして義経を持ち出しても
なんの意味もない。
義経が行ったのは騎馬を用いた戦場への高速移動であって、
戦場で部隊として活用はされていないぞ。
なんだなんだ
今度は日本の騎馬兵と騎兵隊は違うから無いって話になってるのかよ
446 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:50:15
常時騎馬隊はあったかどうかは疑わしいが
義経のは即席の騎馬隊といえるだろう
戦国時代にも戦闘によっては即席の騎馬部隊が編成され
部隊として活用されていたと言い切っても過言ではないだろう
大久保忠教によると馬は追撃戦になるまで、最後尾に繋いで待機させておいたらしいよ
ルイスフロイスの残した文と一致するね
戦国時代に騎馬戦術が使われてたなら、訓練法や軍法が残ってたはずだろ
でもそんなものはまったく無いよ
武田流の軍法にだってやっぱり無い
>>446 だからその事例を挙げろ。
でなければ、妄想と大差ない。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 00:02:19
>>447 そんなの戦ごとに違うだろ?
戦なれした戦国武将たちが毎回同じ硬直した戦法を用いるか?
時には義経流の騎馬隊によるかく乱奇襲作戦が効果的と判断されたなら
そういう戦法を用いることもあっただろ
そう考えられんのか?
馬鹿には
義経を持ち出すのなら。この感動秘話ははずせまい
鎌倉武士の鑑・畠山重忠はその鵯越で馬を大事にして自分が馬を背負って崖をくだったそうだよ
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 00:19:31
オレの友達にもバイクが泥で汚れるのが嫌だといって
泥道をバイクを背負って通り過ぎたツワモノがいるよw
指揮官だけ集めて突っ込ませようなんてしたらみんな帰ってしまいそうだ
戦国時代の独立した騎馬兵といったら、伝令用の若手武者ぐらいだろうな
あとは家単位で動いてるから騎馬だけ抽出して部隊に、とはいかんだろう
信長が鉄砲足軽だけを引き抜いて集中させられたのも、彼らが軽輩だったからだ
456 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 00:33:06
他家では鉄砲は軽輩の得物であったが島津家では武将までもが鉄砲を持ち
習熟していたそうだ。
だとすると逆に軽輩の者でも騎馬に乗っていた家もあったかも知れんぞ
457 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 00:38:57
一の谷の義経の鵯越えの逆落としって距離45b勾配28度ぐらいだったらしい
下馬して下れば楽勝
下馬せずとも、斜めに下れば出来るな
平家のときは即席。
戦国のときは騎馬隊というよりは騎馬衆だろ。
強い奴が馬に乗るから騎馬は強いんじゃなくて馬が強いから騎馬は強い。
だから単純に馬の配当の多い家や馬の産地を抑えてるところなんかが騎馬衆みたいになる。
突撃をするときはその衆が突撃する。
いくら戦国時代で戦が本分といえど、みんながみんな馬の扱いに慣れてるわけじゃない。
そんな状態なのに隊伍が組めるかは謎。だから隊というより衆だと思うよ。
>>456 ごく低い可能性「だけ」ならな
軽輩まで乗馬が行き渡るほど豊かで、かつ騎兵戦術を理解するほど先駆的な家がどっかにあれば、ありえたかもしれんが
>>459 むしろ騎兵戦術を理解していたからこそ用いなかったとも言えるな。
>>460 当時の日本では実現不可能だし、仮に無理して騎兵隊を編成したとしても、
やっぱり山と川だらけの日本じゃあ活用困難な兵科だからねえ。
結局、個々の騎馬武者が時たまタイミングを計って「乗り入れ」「乗り崩し」をしかけたことならあっても
軍のシステムとして騎兵部隊を編成し密集突撃させたことはありえないわけだね
463 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 01:06:53
鉄砲と馬ならどっちが金銭的に高かったのだろうか?
時代によるだろう。
戦国末期なら鉄砲のほうが入手容易だったかもね
人気が減ったってこの間レスしたばかりなのにw
急に伸びてるな
蒼天録だと
鉄砲1:金4
馬1:金2
参考になったかなw
鉄砲と馬を比べるなら、製造(育成)期間とか管理のしやすさ・手間費用も比べないとな
468 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 01:19:58
そりゃあ鉄砲の方が高かっただろう
馬なんて放っておいても増えるけど
鉄砲は人間の手で作らなければ増えないからな
>>468 人間の手で作れるから増産も可能だし入手も計画的になるね
ところで放っておいた馬がそのまま騎馬に使えるとは思ってないよね?
470 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 02:17:41
半分は正しいけどな。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 02:49:58
平原で一列に並んだ鉄砲隊をかわすのは無理がありすぎるが、
相手の不意を付く遭遇戦なら圧倒的に騎馬が強い。
武田家は決戦的な戦いなどせずに、ばらければ織田徳川には負けなかっただろうね。
そこが信頼の親父との違いか。
>>469 なるほど、馬は家畜じゃないと言いたいのですね。
しかしなんでこんなに伸びてんの?大体、想像はつくけどww
>>461 条件的に存在しにくいから存在しなかっただけで、
あれば使えるよ間違いなく。
>>471 決戦を挑まなくても、勝てたとは思えないけどね。最後は長篠城攻略を諦めて撤退。
そして総力戦状態になれば、最後はやはり武田は負けただろう。余力が残っている
うちに講和(降伏)臣従して家名を残すことは出来たかもしれないが。
モンゴル軍に歩兵ないのか
日本襲来したとき、全部騎兵だったのか凄いなw
モンゴル軍が南宋攻めたとき、全て騎兵だったのか凄いなw
モンゴル軍が大越・大理落としたとき、全て騎兵だったのか凄いなw
モンゴル軍がアッバース朝を滅ぼしたとき、全て騎兵だったのか凄いなw
もう!
無知は書き込むなよフントに!!
>>478 お前もソースだせよ
ワールシュタットは騎兵だけで勝ったと思ってるんかね?
トルコ系の歩兵もいましたが。
言っておくが、蒙古襲来は南宋・高麗軍が主力なのは知っておるが
描かれてる人物は明らかに、蒙古系だろ。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 09:35:28
騎兵の定義をあげてみろ
話はそれからだ
481 :
になし:05/01/04 11:07:58
モンゴルに歩兵はいましたよ。そうでなければ、城攻めができませんよ。
大陸の歩兵集団戦法に鎌倉武士の一騎打ち前提突撃がまったく通じずボコにされたのは常識だろ
だいたい日本に攻め寄せた蒙古軍は高麗軍(歩兵編制)が主体だぞ
483 :
高坂:05/01/04 11:20:11
武田軍は3万5千位だったと思うけど
>>481 城なんて飛射とかで落とせるだろう。
三国志9とかやってみなよ、弓騎兵の強さがよくわかる。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 13:14:44
正月番組で日本古来の馬を晒してたがホント凄い。パリ万博で外人が馬に似た
動物と馬鹿にしたのが良く解る。因に人を乗せて走ってたがチャリには到底勝
てず、短距離なら人にも勝てない。もちろん訓練した騎馬と家畜の馬とでは違
いがあるがあのスピードは種の限界を感じるのに十分であった。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 13:25:50
本当にあんな馬が戦国時代使われてたのか本当に不思議なわけだ。私は
競馬場に良く行く、アラブ馬やサラブレッドは本当に迫力が有る。
平坦な更地であの馬達が何百も突っ込んでくると思うと戦国時代に萌える
のだが、日本にはアラブ馬とか居なかったの?ここは歴史に詳しい人が居
ると思うので教えてもらいたいです。
487 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 13:33:20
島津貴久や伊達政宗はアラブ馬(ペルシャ種)を輸入して在来種とかけ合わせて
改良していたそうだよ
488 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 13:37:02
あと蛎崎氏は代々モンゴル馬を輸入していたそうだ
ゼンノロブロイは強いんだかそうでもないんだかわからんね
491 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 13:57:53
島津家とか伊達家がやれることを
なぜ織田家とか豊臣家はやらなかったのかな?
島津、伊達が先進的過ぎるのか?
492 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:05:01
織田家、豊臣家、徳川家がそういうことやっていてくれれば
明治時代に日本は苦労しなかったのにね
493 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:12:50
アラブ馬と掛け合わせてもねぇ・・・
品種改良は何代も掛け合わせてからじゃなきゃ意味ないしなぁ
苦労して騎兵部隊を育成しても、日本じゃコストに見合う活躍は無理
槍衾や鉄砲・弓でボコ
ヨーロッパでも重騎兵はイギリスの長弓兵にいいようにやられてるし
495 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:25:53
素晴らしいね
島津貴久と伊達政宗は偉い!
彼らのどちらかが天下を取っていてくれたなら
日本の競馬界もとっくの昔に世界の頂点を極めていただろう
思えば外国産種牡馬をありがたがる風潮のせいで
血脈の途絶えてしまった日本の名馬のなんと多いことか
もしも何百年も前に外国産血統馬を繁殖させてしまえばそんな風潮も薄まっていただろうに
島津貴久や伊達政宗といった偉人に比べるとなんと織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった
人物がいかに小人であったかということが明確であることよ
日本馬の純血種なんて競馬界で走れば
ハルウララ並みの連敗記録作れるな
存在すればの話だが
競走馬と軍馬の区別もつかない電波が新年の恥かきにきてるスレはここでつね
498 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:32:43
島津貴久や伊達政宗が輸入したアラブ種で騎馬隊を編成したら
日本の戦国では相当の強さを発揮しただろうね
499 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:35:37
>>497 無知発見
馬というのは軍馬しかいなかったんだよ
競走馬なんてものは近代になってからできた分野
それまではすべての馬は軍馬、あるいは農耕馬だ
アホ!
発揮出来なかっただろうね
輜重の運送で、沼地や田畑を通り、山岳での上り下りを繰り返し
アラブ馬なら戦場に出る前に足首やってそうだ
それが出来るのはロバ並みの大きさで絶大な足腰の強靭さを持つ
日本馬だけ
502 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:39:30
>>501 アホ丸出しだね
軍馬でも農耕馬でも荷駄馬はいますが(プ
伝馬は軍馬?農耕馬?
南蛮人から見りゃどっちも農耕馬にしか見えんだろうけど
>>502 おや?
>それまではすべての馬は軍馬、あるいは農耕馬だ
>それまではすべての馬は軍馬、あるいは農耕馬だ
>それまではすべての馬は軍馬、あるいは農耕馬だ
じゃこれは間違いだってことでいいんだね?
505 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:43:20
>>500 アラブ種っていうのは弱いのかい?
オスマントルコの騎兵はずいぶん強かったそうだろ
ヨーロッパの竜騎兵なんてまるで敵わなかったそうだろ?
>>505 強い弱いというより適性の違いだ
平地戦の軍馬として素質があるか、山地湿地に適応しやすいか
507 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:45:09
>>504 おまえって本当にアホだな
軍馬の中にも荷駄を運ぶ役目を担った馬がいるってことだよ
忠告しておいてやるよ
一度その足りない頭の中を整理してから文章を書け
結局、明治にできた日本の騎兵部隊だって馬上突撃なんて滅多にやらずに
敵と戦うときは下馬して戦ってたからね
で、それでロシアのコサック騎兵に結果として打ち勝った
>>507 へえ〜。じゃあ街道の人足が引いてたのも軍馬だったのか(爆笑
510 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:49:54
>>509 分類上は農耕馬だろな
そういう重箱の端をつつくようなみっともない真似はするな、低脳
ここでいう馬の違いは
競走馬と軍馬の区別もつかないというお前の主張はそもそも間違いということだ
負け惜しみで重箱の端をつつくな低脳
>>510 お前が必死に勢いでの言い切りを取り繕おうとしてるようにしか見えんが
512 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:53:38
>>511 お前くらいの低脳ならそうとしか見えなくても不思議ではないかw
513 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 14:55:33
>無知発見
>馬というのは軍馬しかいなかったんだよ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>競走馬なんてものは近代になってからできた分野
>それまではすべての馬は軍馬、あるいは農耕馬だ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>アホ!
いい餌だなwww
日本に騎兵部隊が生まれなかったのは地勢からいって自然なことだったんだな
集団騎兵突撃が頻繁に使えるような広大な平地が少なく、さらに鉄砲や弓といった遠距離戦用飛び道具も普及してたから、やったとしても痛撃を食らうのは目に見えている
ヨーロッパで重装騎兵の騎士が全盛だったのは、宗教的理由から弓などが蔑まれていた時代だったお陰だしね
なんか勢いで言い切って、それを指摘されると強弁に走ってさらに恥かくって行動パターン
織田軍はなぜ強かったのかスレで見かけたのと同じw
516 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 15:46:00
>>514 ラストサムライの勝元は飛び道具は卑怯だといって鉄砲を使わなかったけど
弓は使っていたな
不思議な感覚だなw
517 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 15:47:11
明治時代に帝国陸軍が輸入した軍馬ってアラブ種じゃないの?
518 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 15:55:48
>>515 お前のレス
>競走馬と軍馬の区別もつかない電波が新年の恥かきにきてるスレはここでつね
これがそもそも無知だということは間違いない
戦国時代に競走馬なんていなかったんだよ、厨
もともと馬は軍馬として人間に飼われていた
その他農耕馬とかいるが、ほとんどは軍馬
競走馬なんて使われ方し出したのは近代になってから
自分の無知を棚に上げていろいろ揚げ足取って負け惜しみしている
お前のいじましい姿が醜すぎるね、この低脳
低脳ってーの!なんちて
軍馬でも荷駄でも良いけど
まあ、軽軽しく言い切った方の負けって事やね
日本の歴史で馬がシステムに関わる形で出てきたのは、6世紀末から7世紀にかけて整備された駅伝制においてだろうね
これによると、財源として田畑を特別に用意させて、駅ごとに駅馬を常駐させた(山陽道・20匹。東海・東山両道・10匹,他の4道5匹)
まず連絡用として馬は活用されたんだね
522 :
になし:05/01/04 16:08:36
>484
弓騎兵の攻撃で落ちた城なぞありませんよ。
ゲームとは違うのです。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 16:09:48
ヨーロッパの騎兵は、元々騎兵を使っていたイスラム世界との対峙の間に発展したもの
フランク王国のカール・マルテルが有名なトゥール=ポワティエ間の戦いにおいてイスラム騎兵と戦った後、対抗上騎兵育成を奨励したのが始まりとも言われている
日本の場合、騎兵を大規模に使う勢力との対峙は歴史上無かったしね
元軍だって日本に攻め寄せてきた時の編制は歩兵主体
525 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 16:19:43
なになに戦国時代に競走馬がいたなんて思っている怒厨房がいるスレはここでつかw?
平安時代の「馬くらべ」が日本競走馬の原型かな
西洋のように品種改良だのなんだのが入るのはもう明治以降まで待たなきゃいけないけどね
そういえば徳川吉宗だっけ?鎖国中にペルシア馬を輸入したのは
527 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 16:30:58
平安時代に行われた五月五日の近衛府の競馬(うまくらべ。けいばにあらずw)では
2頭ずつ順番に走らせて、その勝ち負けの総合点で競う団体競技の形だった
『古今著聞集』なんかには競争に負けた馬が悔しさのあまり死んでしまう…なんて話も載っている
馬くらべかぁ
大昔に競馬の原型みたいなものがあったなんて知らんかったな
530 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 16:36:49
本来競馬というのは軍馬育成奨励のために始めたようなものだからな
競走馬と軍馬と分けて考える意味がもともと無い
神社に奉納される「神馬」が日本最古の競走馬といえるかもしれないね
実質、祭りにおいて神前で走らせるためだけの馬だから(宗教的にはまた別だけど)
533 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 17:16:30
朝鮮出兵で日本の武士は騎兵部隊を持った明・朝鮮軍と対決したけど
結局、銃撃でそれを打ち負かしたからねぇ
碧蹄館とか、泗川じゃ圧倒的戦力差をひっくり返してるし
ざっと読んだが…。
「戦国時代にサラブレッドのような競走馬がいても軍馬としては役に立たない」
と言っているのが、なんだって返答が
「戦国時代に競走馬がいたとか言ってやがる、馬鹿じゃねーの」
となるんだか。
サラブレッドは軍馬になりにくいが
改良の原種にはなるらしい
それに競馬が発達すれば飼養管理・乗馬技術向上が図られるし、収益もでるから
戦前の競馬振興が軍を中心になされたのはそういうことらしい
>>534 どこを読んだらそういう解釈になるんだよ?ボケ
不用意に言い切ると恥を晒すっていう教訓の実例が見えるスレはここでつね
で、それを誤魔化そうと必死になればなるほどさらに恥を
すでに馬を語るスレになりつつあるな
でも嫌いじゃないw
つか、なんで武田上洛スレが馬議論になってるんだw
厨がたくさん釣れたょ。
いくら馬議論しても武田騎馬隊は存在してなかったしな
しかし島津ペルシャ馬軍団は存在していたのかも知れない
>>538 いや、必死になってる様には見えるぞよ?
そもそも戦国時代に競走馬(どんな定義かワカランけど)がいたなんて言ってる椰子なぞおらんし・・・
と言う事で仲良くしなさい
「武田軍の大将や役人は、一備え(千人程度)の中の七人か八人が馬に乗り、
残りはみな馬を後ろに曳かせ、槍をとって攻撃した」
(甲陽軍鑑・現代語訳)
59 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/02/02 00:07
>>55 軍役状に見る「騎馬率」
織田家……5%
武田家……8%
上杉家……12%
北条家……20%
武田家などはむしろ馬が少ない。だが「北条騎馬隊」なんて聞いたこともないぞ。
過去レスから拾ってきた。出典が知りたい
548 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 18:24:35
なんだ武田家って馬少ないじゃん
なんだ
武田騎馬軍団なんて飛ばしなのかよ
550 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 18:31:40
もともと武田騎馬軍団っていう言葉はどこから出てきたんだ?
>>550 江戸時代の講談じゃないの?
そもそも騎馬軍団って言葉自体が幕末に騎兵戦術を輸入するまでなかったっぽいが
確か、長篠合戦直前に家康が家来に当てた手紙に
「武田方は馬一筋で攻めてくるだろう云々〜」とあったらしいから
馬のことは意識してたみたいだよ。
553 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 18:48:46
近年の研究で長篠の合戦では武田方は騎馬武者が馬から降りて徒歩で
攻めかかってきたというのは何が出典なのかな?
家康の馬一筋って言葉からは騎馬武者が乗馬したまま攻めてくるイメージが
しっくり来る
>>553 実はそれ偽書の疑いがある『龍城文書』が元
長篠当日は雨のせいで地面がぬかるんでて、到底馬上突撃なんかできない状態だったらしい
555 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 19:07:48
>>553 偽書の疑いがある文書がソースで
騎馬武者が徒歩で攻撃したとなったの?
それとも家康が武田方は馬一筋で攻めてくると言ったとなったの?
どっちのソースかで百八十度違うのだが
「敵は馬一筋で突撃してくるぞ」みたいな内容の家臣への注意を家康がした、という記述があるのが「竜城神社文書」
ところがこれは書式が当時のものと食い違うため疑問視されている
また、長篠主戦場の地形は元が浅い谷の窪地。騎兵が実在してたとしても運用できるかかなり怪しい
>>476-477 モンゴル軍に歩兵がいないなんて誰も言っていないよ。
>>361が無知にもモンゴル軍が歩兵と騎兵の混合だ、などと言ったから馬鹿にされているだけ。
無論、モンゴル軍にも歩兵部隊はいたが、騎兵は騎兵の部隊として運用されていた、
もし歩兵部隊も騎兵部隊も存在する軍隊を称して、
中世型騎兵=歩兵・騎兵混合というなら、
一体何が「近代型騎兵=主に騎兵のみで編成」なんですか?って話。
今、モンゴル軍には歩兵もいたと言っている人は別人だと思うが、
もし、361がモンゴル軍にも歩兵部隊がいたということをもって、
このように発言したとするなら、彼は近代には歩兵部隊が存在しないとでも思っていたのだろうか?
>>514 一応言っときますが蔑まれていたとしても、
弓はごく普通に使われていますよ。
久しぶりに来たらわけのわからん流れになってるな
騎馬の話がしたけりゃ他のスレでやれよ
もの凄い勢いで空回りしてるデムパが若干一名いるな
相手にする奴もどうかと思うけど
え〜と。じゃあ話を元に戻そうか
で、どこまで戻す?
562 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 20:44:28
十分元に戻っているだろ?
>>560この馬鹿は何をいまさらって感じだろw
563 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/04 20:50:32
オレは しーんげん!! 風林火山だ 武田節!!
甲斐に信州 征服だ!! 歴史に轟く信玄公!!
って、言うじゃな〜い?
でも、あんた、上洛できませんでしたから! 残念!!
田舎大将、井の中の蛙 斬り!!
564 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 21:01:51
500以上に及ぶレスの応酬は一体なんだったんだ?
不毛だ・・・・
565 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 21:05:20
いや、けっこう知らなかった情報とか所々にあるし
漏れにとっては不毛でもないな
それに面白いし
長篠じゃ織田徳川方にだって6千の犠牲が出ている
激戦だったのは間違いないな
それにしても上田が原とか、川中島(第四回)とか、武田軍って大負けするとき指揮官クラスがぼろぼろやられちゃうことが多いね
指揮官陣頭でもやってたのかな
戦下手なんだよ
568 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 21:19:43
相手が強すぎせいだろ?
569 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 21:32:40
>568
何か気の利いたことを言ってるつもりか?
>>566 織田徳川に6千の被害って、長篠日記がソースなんだろうけど
あれって内容的にはかなり怪しいものらしいよ。
ここは2万五千で上洛できるかスレッドです。
>>570 三段撃ちのソースだからな
ただ、信長公記の「恙無く(ほとんど損害無く)」も怪しい
573 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 21:59:21
長篠では武将たちが勝頼にうんざりして半ば神風特攻隊の心境だったらしいよ
>>571 ふと思ったが、たしか上洛時の武田軍には北条からの援軍があったといわれているが、
本当なのか?
本当だとしたら、
武田軍二万五千 + 北条援軍α
武田軍 + 北条援軍 = 二万五千
どっちだ?
石高からの動員兵数を考慮すれば当然後者だろ
576 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 22:14:42
それしか動員できないはずないだろが?
>>573 小説に毒されすぎ。
本当に勝頼にうんざりしていたら、自分が死ぬことよりも勝頼に対して
クーデターを起すのが戦国武士。
実際、甲斐国人は過去にも行っている(信虎追放)。
他の戦はともかく、長篠で犠牲がでかくなるのは当然。退路は酒井隊プラス長篠勢にすでに扼されている
そもそも勝頼が陣城に突撃なんていういくらなんでも無茶な指示を出さざるを得なかったのはそのせい
開戦の時点で既に一種の殲滅戦だったわけだ
579 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 22:48:09
>>578 退路の方の酒井隊を攻撃、突破するわけにはいかないものだろうか?
>>579 すでに対峙している織田・徳川本隊に背を向けてか?
581 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 22:57:15
>>580 そう
どうせ織田・徳川軍は攻めてこないだろ?
出てくる気配が見えたら反転して攻撃すればいい
その方が陣城に突撃するよりも勝機があると思う
敵前で反転するのは難しい。
というか、戦闘自体は信長の方から仕掛けたんじゃなかったっけ。
(本隊は柵の向こうとしても)
敵に向かって陣形を保ったまま後ろ歩きで移動すれば良いとでも思ってるのか?
酒井隊攻撃って策は馬場美濃守が勝頼に進言したって話もあるね
ただし甲陽軍鑑の中でも一番信憑性が無い部分の話(軍議に参加してない武将が軍議にいたことになってたりとか)
実際問題、酒井隊なら一部部隊で阻止できても、酒井隊にかかってる最中に織田徳川軍が出てきたら一部じゃ阻止できない
結果、どうしても撤退を成功させるには織田徳川本軍を一時的にでも行動不能に追い込まないと
585 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:02:30
回れ右でいいじゃん。
回れ右で酒井隊に攻撃しに行って
物見から織田軍、陣城を出てまいりました〜って報告があれば
回れ右で織田軍に備える
586 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:06:41
>>584 酒井隊を攻撃、信長が動いたら一部部隊で酒井隊を封じて
残りは信長を迎え撃つ
挟み撃ちの形だけれど堅固な野戦築城に攻めかかるよりは
勝機もあったと思う
ゲームでさえ無理な話だって事が解らんのかねぇ
588 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:10:34
589 :
になし:05/01/04 23:13:51
>>574
たしか武田軍2万5千+北条援軍2千だと思います。
昔なんかの本に書かれていました。なんの本だったかは覚えていません。
ゲームと違うのは兵士の士気だよ
挟み撃ちにあえば、到底後ろが気になって前の敵に集中できるもんじゃない
まして、相手が大軍ならなおさら
挟み撃ちの形になって逆撃できた戦例なんていうのは世界戦史でも稀少
実際に歴史どおりの長篠ですら裏崩れ(直接戦ってない部隊が、士気崩壊のため逃げ出す)が起こっているし
591 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:15:12
>>587 論理的に教えられないので負け犬決定!バーカ
592 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:17:26
ゲームで士気はあるなあ
第4次川中島の合戦では上杉軍は挟み撃ちの形でも負けていないぞな
見事に突破しているぞ
>>592 川中島は、前半までは分散した武田に上杉の全軍が先手を取る形でぶつかったから、でしょ援軍が到着して挟撃されてからは、信玄本軍の敵前撤退を許してるじゃん
>>585 そうだねえ、それが出来ていたら勝てたかもしれないねえ。
でも行っていない。勝頼は戦術に関しては信玄より上とも言われるし、
配下武将は信玄以来の名将たち。
それでもこのような行動はとっていない。いや、とれなかった。
どうしてだと思う?
移動するには移動陣形(って言うか要するに縦列だが)に組替える必要がある。
敵の目の前で回れ右なんかしたらズタズタにされるぞ。
特に、兵数で相手が勝ってるような状況では…
596 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:42:52
長篠の合戦ではどれくらいの距離で対峙していたかによると思うけどね
最前線で川を挟んで300メートルくらいはあったでしょう?
陣城に篭るつもりの織田軍が反転する武田軍を襲うのはかなり時間がかかりそうだよね
タイミングによっては三方が原みたいなことが出来るかも知れないよね?
信長側は、別に篭りっきりってわけじゃなくて部隊を出してつついてるんだが。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 23:49:22
ゲームと違って上から戦局を把握出来ないしな
回れ右なんてしたら後方に控える御本尊様を崩されて終りだな
乱戦になるのは目に見えてるし、とても守り切れるもんじゃない
600 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:02:12
ご本尊様を中央に配した陣形ならいいじゃない?
>>600 前後同時対応可能・均等になんて高度な陣形を取れる軍隊なんて、近代以降でも苦しいぞ…
>>600 時間的余裕があって、しかも兵力が圧倒的に上回ってれば何とかなるかも知れない
それでも多分無理
酒井隊の奇襲を許した時点で、勝頼が信玄でもムリポじゃないか?
604 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:14:07
もう勝つ見込みは無いと?
ゼロですか?
陣を返せばゼロに近いんじゃないかね。
606 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:21:46
>>605 ならどうしたら勝てた?
またはもう少し損害を減らせて退却なりできたと思う?
>>606 そんなもん知らん
あったらそれを実行してるだろ
>>606 織田の援軍が来る前に城を落とせなかった段階で、さっさと撤退していれば。
609 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:30:07
落とせなかったんじゃなくて、落とす前に援軍が来たのだと思うけど
610 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:30:10
>>471 混成部隊が基本なのにそんな事を言っても。
>>482 兵力差の割には善戦して橋頭堡を確保させず
夜に船に引き返さざるを得ない状況にさせたのが
勝因だよ。
一騎討ちなんていきなり仕掛けるもんじゃござんせん。
>>487 その割には日露戦争で陸軍が買い付けた馬の中で
九州の馬は随分と小さい部類に入るようだが。
宮崎の御崎馬とかまんま和種だしな。
大した規模が無かったと見るべきだろうな。
挟み撃ちした一方は織田徳川の大軍
後ろに回ったのは4千程度とはいえ(それでも通説の武田軍の4分の1程度にはなる)家康軍の精鋭・東三河衆プラス信長馬廻りからも選抜された鉄砲衆五百ほど
どちらかを小部隊で食い止めてそのあいだにどちらかを全力で…という手もとれんなこれじゃ
612 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:33:56
>>500 世界にはアラブ馬と和種しか無いのかw
輓馬は西洋馬の方が遥かに大型で怪力だ。
日露の頃に大砲を曳くのに日本馬が8頭いるところを
その他列強では4頭で曳いていたからな。
>>517 そうだね。
つーか世界中で軍馬の改良にはアラブ種を入れている。
>>518 日本に馬が入ったきっかけは身分の高い人間用の乗馬だろうし
中世にうどちらの割合が多かったと言えば
明らかに農耕馬や荷馬など一般用だと思うけど。
人口の7割は農民なんだし・・・・
>>552 >>553 そりゃ三方ヶ原で追撃されまくったわけだし。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:35:25
>>581 長篠城は川の向こうだから攻めにくいでしょ。
橋とかかけてあっても押さえられたら小数相手でも膠着してしまう。
長篠で被害が拡大したのは
退路を押さえられていたからというよりも(そんな動きは見せていないと思う)
有海原は南は川で北は山という地形で
退路が谷筋の伊那街道一本しかなく非常に狭いため
全軍が速やかに後退することができず
有海原で渋滞を起こしてしまい
その背後を衝かれたためだと
思うわけだが。
614 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:37:04
>>606 1.信長が来る前に長篠城を落とす
2.信長の別働隊を読んで迎撃する
3.山県昌景の迂回戦術が成功する
615 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:38:06
まあでもこっちから陣城で迎え撃つ大軍に攻めるよりは
酒井軍に攻めかかり、後ろからやってくる織田軍を迎え撃つ方が
勝機はあっただろうな
織田軍は野戦築城しているから、なんとかそこに攻撃させるように
計画しているのだから無理矢理にでもその計画を崩さないといけないよな
616 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:42:15
そもそも寒狭川を渡って信長の面前に出たのが
不退転の決意だよな。
信長は前日の書状で「敵の備えは『節所』」と書いており
勝頼も堅固な構えを敷いた事がわかる。
強いて言えば、これは睨み合い時間稼ぎの布陣ではないかと
思うのだが。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 00:44:10
2万5千も引き連れていたのに上洛できなかったのか。
ダメな子ちゃんだな。
信長は今まで家康の後詰にきても、城が落ちるとさっさと帰ってたから
今回もにらみ合いやってる間に長篠が落ちれば逃げる、と思ってたんだろうか勝頼達は?
そうなるとますます酒井隊の奇襲がものをいったな
一端鳶の巣山が奪われると、これを奪回するには豊川を越えて攻撃せにゃならん
兵法では昔から渡河攻撃は難しいとされてるからなぁ…
>>606 信長の「金ヶ崎の退き口」をパクる。
信頼できる部隊に殿軍を任せ
旗本と小姓の十数騎のみを引き連れて
ひたすら逃げる!逃げに逃げる!
たとえ生きて帰っても
勝頼の評判はがた落ちするだろうけど。
あの時は近くに敵軍の姿はなかったし。
指呼の距離に織田徳川連合軍が陣を構えている長篠とは状況が全く違う。
そもそも、逃げ延びるだけなら史実でも成功してるし。
史実の展開を変えたかったら、なんとかして手勢に受けた壊滅的なダメージを回避しなくてはならない。
勝頼だけ生き残っても史実よりプラスにはならないよ。
親爺も息子も勝機なしか。
そりゃあ長篠の戦の状況になってしまえばね、
いかにしてそうならないようにするかが問題ですよ。
疲れて寝てるの? (・∀・ )ニヤニヤ├∀┤ニヤニヤ
625 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 12:41:31
そもそも勝頼が率いていた兵数が…
信玄が上洛戦を志した時に率いた2万5千といわれる兵数より、1万も少ないことになる
領土は信玄全盛期以上まで広げた勝頼が織田と雌雄を決するための戦力としては心細過ぎる気がする
対して織田が家康に送った援軍は、三方ヶ原時の10倍以上でしかも直率
武田側は決戦は本当は考えてなかった?
626 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 12:43:15
勝頼は戦し過ぎだからな
さすがに兵も集まり悪くなっていたのだろう
627 :
になし:05/01/05 12:53:13
>>646
信玄の戦し過ぎが原因です。2万5千も率いたため国力が落ちた
>>625 援軍が来る前に城を落してしまえばいいわけだからね。
決戦は考えてなかったんじゃない?
630 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 18:21:58
『三河国軍物語』によると、武田方も長篠で後方奇襲で持久体勢を取った敵をおびき出す手を取ろうとしたらしい
ただし、これは武田軍の抽出した奇襲部隊は僅か千程度だったため、織田方守備隊にあっさり蹴散らされたというそうだ
あんまり信憑性が高い話じゃないようだが
631 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 18:25:35
>>630 それって、つまり啄木鳥戦法みたいな感じなのかな?
>>631 そうだね。敵の後方を脅かして、慌てて出てきたところを待ち構えていた主力で痛撃する、というだいたいの狙いでは啄木鳥戦法と同じだろう
でも第四次川中島でもうまくいかなかったように、今回も武田方は(本当にやったのなら)また失敗したことになるね
武田信廉・武田信豊・一条信龍みたいな親類衆が真っ先に逃げちゃあねぇ…
穴山信君なんて無断退却したとまでいわれてるし
武田の親類衆はあてにならないな
634 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 19:02:04
何処の世界に敵の半分以下で攻めるバカがいるんだよ。
奇襲戦じゃねーんだからよ。
武田・・・1万2千。織田・徳川・・・3万8千。
たしか長篠のときの両軍の兵力ってこんなもんじゃなかったけ?
もしかして武田はおびき出されただけと違うか?
635 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 19:28:44
>>632 夜襲だったのかな?
もしも日中だとしたら、そんな作戦は万が一にも成功するはずないと思うが
本当に使ったのかな?
使ったとすれば武田方にはロクな武将がいないな
636 :
おちむしゃ:05/01/05 19:58:28
あの〜 あれだね!
つまり〜 どんなに訓練された馬でも大量の鉄砲の音にビビッちまう。
そういうことでしょ。。。
全然違います。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 20:08:17
後方からじゃなくて
前方からうまくおびき出して
島津家の釣り野伏せ戦法のように・・・
無理だろうね、おびき寄せようと近づいただけで全滅か
酒井隊の攻撃開始時間には二説あって
決戦前日の夜中とも、決戦開始二時間後ぐらいともいわれている
もし後者なら、両軍の意図と酒井隊奇襲の効果もまったく別のものになるけどね
>>638 それを戦略的に行ったのが織田側じゃないか?私も、出陣時の勝頼に織田と決戦の意図は
無かったと思う。精々家康との決戦くらい(これなら武田軍の数もわかる)。家康が出て
こなかったら、長篠城は落しておく。これくらい。
さらに戦術的にも。
信長公記だったか他の何の書物だったか思い出せないのだが、合戦の前日か前々日
くらいに、勝頼は進出してきた織田軍の先遣隊を撃破し、そのまま追撃して設楽ヶ原まで押し
出して織田軍本隊と対峙した、という記述がある。
これが意図的なのか偶然の産物なのかはわからないが、結果的に勝頼は決戦場に引きずり出さ
れてしまったことになる(この時点での敵前撤退は逆に損害を増やすだけ。勝頼が決戦を主張
したというのは、このことかもしれない)
641 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 00:58:55
>>625 そりゃそうだろうな。
甲陽軍鑑も上杉の備えに1万割いたためと書いているが
確かに謙信は勝頼の美濃攻めや高天神攻めの時とは違い
春日山に居座っているし
また相次ぐ遠征による中小国人領主の経済的負担は重くなっている。
兵数の割に有名どころの武将が多いのは
与力クラスを置いてきたからだろう。
これで一代決戦という感じではないよな・・・
>>633 どうでもいいが、そこら辺が逃げたとはマトモな史料にゃ
書かれてないと思うが。
穴山信君と武田信豊に腹切らせろと書いた甲陽軍鑑では
撤退の場面で武田信豊を褒めているぐらいでw
>>636 同じような馬でどうやって日露戦争が戦えたんだろうね?
>>640 >勝頼は進出してきた織田軍の先遣隊を撃破し
それは一部学者くずれの曲解。
蹉跌がないからなぁ
蹄鉄
ん?*学校は、まだだよね? (・∀・ )ニヤニヤ├∀┤ニヤニヤ
645 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 11:24:31
647 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 12:22:22
長篠で大負けしたけど、それでも勝頼はその後徳川軍の進攻への反撃に2万の兵を動かしているし、東国方面では尚も領土を拡大している
むしろ、長篠よりも御館の乱での外交ミスが致命的だったような
御館はむしろ北条
どうした?
651 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 14:58:10
>641 同じような馬でどうやって日露戦争が戦えたんだろうね?
あのさ〜 日露戦争時代のお馬さんは、大砲や鉄砲の対音訓練は出来てるよね。
それに比べ当時の武田くんは、大量の鉄砲なんか持ってないよね。
持ってないから訓練も出来ない。お馬さんが驚いて混乱するのは当然。
動物ちゃんも人間ちゃんも慣れが大事というわけだよ。
652 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 15:09:25
俺は3年経っても上司の臭いに慣れない・・・。
火縄銃や大筒の矢玉が切れるように
**が切れてピタと攻勢が止んだ、と思う。
>>652 俺なんか3年経っても2cnの雰囲気に慣れないよ・・・・。
655 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 16:52:27
656 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 16:55:28
またしょぼい西欧軍が撃退されたのか
>>651 武田の鉄砲の装備率は織田と比べて大して変わらないぞ。
子馬のころから鉄砲の音を聞かせて、慣らす調教をしたやつじゃないと軍馬として扱えない時代になったのが戦国時代
660 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 18:09:21
日露戦争でも何時の時代でも、大砲や鉄砲の対音訓練が出来てる馬なんていねーし
ヨーロッパの竜騎兵は騎乗したまま銃をぶっ放してたんだが…
662 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 18:25:52
で?
だったら馬の対音訓練とはどーいう行為なのか教えてくれ
長宗我部家家臣・那須外記が主君に献上した名馬は、鉄砲の音に驚かないから「鉄砲黒」と命名されたとかあったな
メンコとかの馬具が発達したんだろ
馬を縛り付けて、その耳元で毎日銃を撃って調教っていうかなり乱暴な訓練をやってたそうだ>竜騎兵
確か伊達氏も似たような訓練をしていたって史料があったはず(同時代史料じゃなかったはずだが)
大坂の陣の加賀前田家(伊達家ではない)の軍役の記録には「馬上鉄砲」が50騎とある
もっともこれだけじゃ「馬付きの鉄砲武者」なのか騎乗銃兵なのかは不明
667 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/06 18:58:08
戦場での主力が騎馬と思ってる人が、武田スレの主流で居るのが悲しい。
テレビや映画の影響で凛々しい騎馬部隊をイメージされるのかも知れないが
実際は人を乗せて時速12キロくらい、ポニー程度の大きさですから、残念。
武田軍=騎馬軍団ってのはもうそろそろ卒業しない?水戸黄門の漫遊記をマジ
で語るようなもんだ、武田軍で凄かったのは石投げ部隊じゃあ格好がつかない
のは解るが何時までも有りもしない話をするのは馬鹿らしい。
>>667 そんなのもうめったにいないし、
間違っても主流じゃないぞ?
レス読めば分かると思うが。
御館の乱の時、北条を敵に回さなければまだ武田はもったんじゃ?
はっきいりいって北条自身が景虎を見捨てたぐらいだから(援兵は僅か3千にみたず、しかもそれすら実際に景勝側と交戦していない)
うまく立ち回るチャンスはあったと思うが
つーか、戦場跡から発掘された馬の骨を見ると、結構デカかったという話を聞いたが
蒙古馬は、平均135センチ
日本の在来馬は130〜135センチほどと推定されている
軽騎兵戦術に使用するのなら決して劣ってはいなかっただろうが
甲冑プラス弓その他をもった重装弓兵ともいうべきものが日本古来の武士=騎兵だったわけだからなぁ
673 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 20:33:43
ラオウの馬は?
674 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 20:41:45
俺は友人の愚痴が大ッ嫌いだから、対音訓練しました。
わたしは父の説教がウザイので、対音訓練しました。
裸王が3Mくらいあるからな
戦国どころか江戸時代にすら馬への去勢が無かった
他の調教技術も未発達
幕末に来日した外国人は日本馬の扱いにくさに口を揃えている
>>669 御館の乱の時、氏政は下総、常陸方面に出兵対陣中で、越後に回す余裕がなかったから
勝頼に援軍依頼をしたのではなかったかな?見捨てたというよりは、助けられなかった
と見るべきでは。そもそも、武田への援軍要請など、援護の努力はしているのだし。
しかし結果論になるが、たしかに勝頼の判断は武田家にとっては致命的だった。
>>669 徹底的に景虎を支援すべきだったね。中途半端に和睦の仲介なんか
しなければ状況は大分違ってたと思うよ。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 21:17:48
武豊なら大丈夫!
680 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 21:26:47
武さまは、おなかが空いたら馬を食べたらしい。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 21:32:27
武さまって?
豊?信玄?鉄也?
だれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜?
当初は僅かな援軍しか送らなかった北条だが、最終的には四万ともいわれる軍を動員して救援を試みている
しかし、坂戸城を抜けずに立ち往生したところへ雪に見舞われ撤退を余儀なくされる
この不甲斐無さと自然への恨みが、半端な行動をとった勝頼への怒りに転化しちゃったのかも
いや、勝手に和睦してれば普通にキレるだろ。
仮に景勝−勝頼和睦後に景勝征討できたら、
そのまま勝頼とも戦い始めるかと。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 21:53:27
>>657 武田軍は3千挺の鉄砲を持ってたとしても、
馬の横で一斉射撃の練習をしてね〜だろ!
オツム ヨッワ〜〜〜!
3千挺ってw
686 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 22:01:50
いまの価値で、火縄銃っていくらよ?
>>686 2丁で二千両(一億円相当)。はじめにポルトガル人から買い取った時はね
それを、一領主が出して買ったということを考えると、高いのか安いのかよくわからん。
(いやもちろん、相場を考えればボッてるんでしょうが)
690 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 23:41:36
よく考えてみれば種子島時尭って人は尊敬に値するよな
そんな大金はたいて鉄砲2丁買って、研究の末に翌年には国産化に成功させているのだから
大金はたいて買った元は十分取っている
691 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/06 23:43:01
堂々巡りのつまらないスレだね。
ただ、鉄砲伝来のルートには異説があるね
1543年に初めて実物を手に入れて…だと、全国に普及する速度が速すぎるってことで
実際、武田氏は勿論奥羽諸大名も鉄砲を手にしていたぐらいだし
それは時代だからだろ
694 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 01:48:24
>>647 御館の乱なんてどちらについても悪い方向に行く可能性高すぎ。
北条がどこまで信用できるのか?つー問題に帰結するわけで、
信用し切って安心という相手じゃないと思うが。
>>651 鉄砲を持ってない・・・?
それだったらそれ以前の合戦でとっくに弱点として
露呈してるはずだが・・・・
東国にはそもそも鉄砲がなかったとか?w
>>659 江戸時代までの馬の育成ってのは「牧」に馬を野放しにしといて
年に一回程度「馬追い」をやって必要な馬を捕まえるようなもの・・・・
695 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 02:04:42
>>677 >>678 武田にとって一番痛いのは、
景虎を支援して越後にまで北条の支配が及ぶに至ったところで
北条が関東安堵などを条件に織田になびく事だよ。
家老の一人も寄こさない、完全人任せの氏政を信用し切るべきじゃないな。
そんなんのために単独で春日山城なんて攻めて兵を損耗するのはただの無駄だ。
和睦を取り持っても足りないというのは無理だろ。
8月には家康が小山城を攻めているわけで
勝頼の方がよほど余裕がない。
上杉領まで実質支配することになった場合の北条が、織田に靡くかな?
少なくとも織田に言われるままに武田に攻め込むケースは無くなったと思うが
そもそも既に講和どころでないところまで対立している織田徳川が既にいるわけで
戦略正面を増やす方向にいくのはいただけない
697 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 02:29:30
>>696 それこそ家老の一人も寄こさない丸投げ氏政のために
春日山を攻めたりするほどカラダ張る理由が無い。
「武田を疲弊させて織田徳川と挟み撃ちにするつもりではないか?」
となる。
上杉・武田・北条は結局鼎立だからこそ拮抗していたに過ぎないのだから。
そして北条が積極的に織田や徳川と争う理由も無い。
景虎支援の不熱心さや
直後の家康との同盟は
事前に話がついていなければ
まず不可能だと思うが。
>>697 北条氏照・氏邦を送ってるんだが…
堅城と天候を相手にして物理的に突破できなかっただけじゃないの?
699 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 02:41:55
>>698 勝頼が3ヶ月も越後にいたんだから
その間に合流せにゃ武田が積極的に動く理由にはならん。
坂戸城でつまづいたまま帰ってしまったのも
戦略があまりにも不明確。
少なくとも景虎の救援が第一の戦略ではない。
ただ越後で足場を固めるような動きで、しかも中途半端。
ダラダラやってたら普通に景虎殺されるわな。
>>699 そりゃ地理的な問題から武田のほうが動きやすいもん
雪で阻まれた城を強攻しろってほうがおかしい
だから北条は武田に救援頼んだんでしょ
北条の要請で出てきながら、調停すると言って実際は景勝側から金と領土を貰い、自分の妹を景勝室に押し込んだ
これは口実を与えてしまったも同然だからなぁ
両者拮抗のまま泥沼が一番武田にはよかったかも
702 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 03:00:40
>>700 救援頼まれたから和睦結んでやったんでしょw
景勝籠る春日山を「単独で」攻めろとか言い張るんなら
坂戸城も雪が降る前に落とせばいいんだよ。
「雪で阻まれた城を強攻しろ」とか言ってるんじゃないんだけどね・・・・
そもそも9月にやってきて9月中に帰ってるからね。
実際問題として景勝の救命が第一であったのなら
樺沢城は拠点として確保できていたのだし
いくらでもやりようはあるはずなんだが。
坂戸城自体は春日山方面に向かう際に必ず通るような
場所でもなく。
結局、北条家が機に乗じて越後に勢力を伸ばそうとして
やめたという程度の動きしかしていない。
>>702 片方から異様にでかい利益を受け取る『和睦』斡旋だがねぇ
北条が本腰で越後で戦う場合、兵站ルートを考えると攻め手は限定されるだろ
雪が降る前に〜とかはそれこそ天候が都合よく動いた場合の話じゃん
御館の乱のどさくさにまぎれて北陸方面で上杉の勢力圏を織田方は奪ってるし、
むしろ景虎に当主になってもらったほうが北条にも恩を売れるし対織田で共同戦線を
はれると思うのは浅はかですか?
>>669 ↑にもあったけど北条の主力は対陣中でまとまった援軍を送る余裕がなかったから
武田に要請したんでしょ。たしかに北条の対応もまずかったけど、それ以上に勝頼の
対応はまずかった。
×669
○699
>>703 そりゃ好条件でなければ和睦という形にはしないだろうな。
だが実際問題として先に春日山を押さえられて
武田が単独で何かしてやるという選択肢は有り得んだろうな。
~~~~~~
常陸やらに出陣していたという意見もあったが
氏照が小田城攻めたのも4月なら
氏政が下野に出陣したのも6月。
優先順位間違ってるとしか言い様がないな。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 03:17:50
>>704 勝頼に出陣を要請した時点では氏政はまだ出陣してない。
むしろ勝頼を出陣させといてから
自分は関東の経略に御執心。
めちゃめちゃ ぁ ゃ ι ぃ
>>707 だから自分が動かない代わりに弟を出してるじゃん
別に北条が勝頼と景勝の取引内容を確定したわけじゃないぞ?
709 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 03:23:12
>>708 勝頼の越後滞在は5月〜8月。
氏政の下野出陣は6〜7月。
氏邦氏照は9月。
勝頼に不信感を持たれるに充分な行動の遅さですが。
軍勢とまでいかずとも家老の一人でも送り込んでりゃねえ。
>>709 家老だけ送り込んで何するんだよw
自分とところは自分ところで大変だから武田の力を借りた。武田が偉く格差をつけた「和睦」かまして引っ込んだんで弟を送り込んだ
少なくとも同盟相手の要請を受けての出陣としては勝頼の態度は不義理杉
そりゃ北条景虎の支援という事なら
北条軍が主軍で武田はあくまで援軍という感覚で
北条から誰も来ないし勝手にやって帰ったのかもしれないが
どうせなら御館から景虎連れ帰れよと思うのは俺だけ?
それに連れ帰るだけなら北条軍が来た時点でもできたんじゃ?
712 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 03:29:35
>>710 不義理も何も部下ではないのだから
独力で春日山あたり攻め落として当主に祭り上げてやるような
義理は無いだろ。
あくまでも北条に対する援軍に過ぎん。
北条軍が来なければ動く義理は無い。主軍の無い援軍など有り得ん。
氏政はどう考えても兵を割く余裕がありながら他所に出陣している。
>>711 上杉景勝は明確に当主になる意志があったのだろうけど、
景虎ってどうなんだろうね?
まあ結果として北条に良い口実を与えてしまったのだから
結果として間違いだったとしか言い様が無いかな。
でもまあ上杉が上杉として残ったおかげで武田信清とか
多くの将が逃げられたとは言えるかもね。
越後も北条になっていたら・・・・
上杉が無くなってしまったら、北条が武田を支援し続ける理由って
無い気がする。織田と北条は直接の利害関係が無いし、
信長なら遠交近攻の原則通りに北条を誘うだろうし。
所詮は上杉がいたから敵の敵は味方だっただけの関係というか。
ま、今となっては意味の無い考えだが。
こんな感じでもう22スレ目もここまで来ました。
ループだけで来ちゃったような感じですけど、
まあ楽しいので良しとしましょう。
これからもこのスレが続きますように。
未来永劫武田ファンにとって良い酒の肴でありますように。
ナムナム。
>>712 部下ではないのだから、単独で春日山を攻める理由はない。
その通りなのだが、しかし例えば、北条ではなく武田単独で景勝を追い落とし
景虎を越後国主とすることで、北条ではなく武田が後見として越後直接だか間接
だかの支配を行う事だって出来た(そこまでいかなくても、景虎政権内に親武田
派を造って北条一辺倒にさせないことは出来た)
また一年以上続いた御館の乱によって北陸では上杉領のほとんどを織田に奪われる
のだが、武田が積極支援することで上杉が早期に決着して対織田に動いてくれれば、
上杉が勢力を減退させる事もなく、対織田の外交としては十分成功となる
信玄ならこれくらいの腹黒さをもって事に臨んだだろう、というのはひいきかねえ?
たしかに北条にも問題はあったが、それは戦術の話。同盟者に援軍要請し、自身の弟
を派遣するなど、内心はどうあれ、表向きは弟見殺しなんて姿勢は見せていない。
しかし勝頼がやったことは外交のミス。本来の対戦相手からの利益誘導で矛を収め、
本来の目的である景虎救援をロクに行わないのでは世間からは
「武田は同盟者を裏切り、救援相手を見捨てた」
とされても不思議はない。
なんらかの判断に基づき景勝に組することを決めたとしても、もう少し小狡い
というか上手く立ち回ることが出来なかったものか。
この一件は武田と結ぶ北条にとって、落ち目になった武田を切って織田に接近
する口実を与えてしまった。北条の非は非として、やはり勝頼の外交ミスは隠
しようがない。
北条の援軍、なんて従的な姿勢でいるからダメなんだよ。
北条が動かないのなら、この機会(敵国の分裂、介入勢力なし)に春日山を落して
景勝も景虎も倒して信玄以来の悲願越後支配を目指す!くらいに、自分の利益で動
かなくちゃあ。
学校始まった?
でも結果論で言えば北条は武田を敵に回しただけで何の利益も得ていない、むしろ常陸下野への勢力拡大は停滞して北条徳川が武田と
やりあってる間に最大勢力の織田はますます強大化、武田滅亡時も北条は何も得ていない、むしろ上野と武蔵の一部を失ってる。
武田景勝の和睦後も武田との同盟を維持して武田上杉を織田に対する壁として関東の勢力拡大に勤めていれば、織田に対抗する
勢力になれたかもしれないのに。
>>716 そんな武田にとって直接的な利益にならないことを武田の家臣が承知するとは思えないのだが・・・
景虎を越後国主にするのだって簡単にはいかないだろうし、もともと上杉家内では景勝のほうが有利なんだし
北条はやる気がないし、背後では徳川との戦闘状態
対織田の外交としては、勝頼は景勝景虎の和睦を計っている、景勝と武田の単独の和睦はその和睦の
破談後北条が援軍を送らないからだろ。
最初の和睦で景虎が上野に行って北条が越後から手を引けば、武田と上杉で織田に攻勢をかけられただろうに
特にこの時期78年別所荒木の離反で羽柴は播磨に孤立してその救援のため尾張美濃越前等の東国の最前線から
兵を引き抜いて西国に送ってる時期なのだから
54 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/10/08 00:25
勝頼は、武田領が北条にとっての織田に対する緩衝地域として不可欠であり、
関係が悪化しても修復は可能、と判断して優勢に見える景勝を支援して当面の
連携勢力である上杉の早期安定を優先したけれど、実際には武田と北条では織田に
対する認識の違いもあって、北条の出方を読み違えてしまったということも
あるかも知れない。
ごらっそー
>>720 >716 は、「武田が単独で景勝と戦っても益はない」という意見に対して、
「益はある」といったのでは。
事の可能性の大小ではないだろう。
78年の播磨遠征にはたしかに織田軍が信忠を総大将に大軍で向かっているが、
これは逆に武田、北条、上杉が揉めているから出来た事、ともいえるんだよな。
もう一つ、この遠征に越前衆、つまり柴田とか前田とか佐々とか従軍してたか?
アレだ、進軍速度が落ちている。
>>723 信忠軍は美濃尾張衆で構成されている
飛騨から金森長近。越前衆は出てないね
>>725 それだと、上杉にとって北陸方面の情勢は播磨がどうであれ変化ないな
これも後継ぎを決めず遠征直前にぽっくり逝った謙信が一番悪い。
謙信は武田が落ち目でも攻めなかったからねぇ…
>>727 景虎に決めていた、という説もあるそうだ。だから景勝がクーデターで春日山を
占領したと。
具体的な根拠は知らないし、それに対する反論がどんなものかも知らないが。
>>725 荒木攻めじゃなかったか前田と佐々が参加してるのは
柴田は当然参加してないが・・・ あと東美濃の森や川尻も参加してないはず
478 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:04/10/15 05:28:11
ちなみに上杉謙信の影響は別所が謀反を起こした時に謙信が死にお館の乱、上杉かげとらは武田に
援軍を求める、そのため織田家の東部戦線は兵力を中国に回す余裕があった、これが無ければ荒木を
封じ込めるだけで精一杯だったかもしれないのに、武田と上杉が攻勢に出て毛利も動けば織田家も滅んだかもしれん。
荒木が謀反を起こして滅ぶまでの一年、上杉は内乱中で何もできず、その内乱を和議で早期に解決しようとした
武田は結局調停に失敗して、更には北条家に逆恨みされて北条家と戦うことに。
勝頼としては76年の足利義昭が織田家に対抗するため結ばせた武田上杉北条の和議を守ろうとしただけなのに。
三戦の明智光秀スレにあったが武田上杉北条の和議って何?これって本当なの?
義昭主導で甲相越の和議話はあった、
ただ、それぞれの利害が一致しなかったためお流れになった。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 20:53:28
信玄にも方面軍制度はあったよ
上野方面軍・真田幸隆
越後方面軍・高坂弾正
美濃方面軍・秋山信友
駿河方面軍・馬場美濃守
734 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 22:36:52
決戦3の武田と上杉の強さ半端じゃねーな
むしろ直江山城守の手柄の一つとして語られるね、勝頼の講和斡旋は
勝頼に利を食わせて、結果として北条と武田がいがみ合うように仕向けて、自分達は対景虎そして対織田に専念できる戦略状況を作り出した、と
確かに結果的に見れば、大金はともかく北条に黙ってても取られる恐れが大きかった東国方面はくれてやっても惜しくはなかっただろう
>>716 実際問題として、単独で春日山城なんて攻められるとも
思えないけど。景勝派の中心は結局ここだから。
状況の苦しさなら北条より武田の方がはるかに苦しいわけで
外地で兵を損耗させるのは極力避けたいはずで。
でもって当主が北条家の人間であるという以上の影響力は無く
「武田派」なんて出来るかどうかアヤシイもんのために
北条軍も来ない中で何かやろうなんてのは無いでしょ。
信玄なら軍事力ではなく政治力で思うようにしようとしただろうし
むしろ北条の力が伸びるのは嫌ったんじゃなかろうか。
北条氏政は同盟者勝頼に援軍を頼むだけ頼んでおいて、
その後で自身が越後ではなく下野に出陣してしまっているのだから
態度悪すぎ。既に対陣中で動けないのではなく、勝頼を動かしてから
自分が別方面に向かったというのはマズイ。
氏邦氏照の派遣は時期的に遅すぎですぐ冬が来る事は馬鹿でも
理解できていたはずで、やはり不可解。
>>717 春日山なんて巨大山城を落とせるほどの兵力の余裕があったなら、
そもそも家康相手に困ったりしてないってw
>>727 まあ突然の脳卒中?らしいから
それはしょうがないっしょ。
>>728 まあ信玄死後に信長に手紙を書いて挟み撃ちにしようなんて
言っているが・・・・
一時的に同盟した時の北条からの人質と
上杉家の人間の血を引いている人間と
前者を跡継ぎにしたがる奴ってのはそういないんじゃないかな〜
>>737 そんな事をいったら、毛利両川を筆頭に有名戦国大名のほとんどが行っている、
一族を送り込んで乗っ取り、が全て不可能となる。ほとんどは力ずくで捻じ込んだ
ように思われるが、中には向こうからオファーがあった場合もあるのだから(家中
には賛成派も反対派もいた)。
他家と一族、というが、他家からの養子を後継にした例はいくらでもある。この時代
は家を残すことがまず第一だったのだから。
特に謙信の場合。謙信の出身である府中長尾氏と景勝の出身である板戸の長尾氏は父親
の代からなんてものでなく戦いつづけてきた相手。「一族だから」なんて一言で括れる
存在ではない。むしろ一族だからこそ様々な点で障害となる場合もある。
景勝と同じ立場である上条政繁だって、裏切っているしな。
話がどんどん拡がっていくなあ。
武田が関わっていることではあるが。
やはり武田氏の豪族連合体体制が致命的か
信玄は自身の実績とカリスマで強い指導権を発揮したが、それは制度化されたものではないから、信玄が死ねば元に戻った
長篠敗戦後、勝頼は新府城建設後家臣をその城下町に集中移住させようと計画したりと遅まきながら集権体制を目指したが、これは完全に遅すぎで却って敗戦で落ちた求心力をさらに落させる結果にしかならなかった
信虎の代はどうだったんだろう?
>>738 謙信自身が、血筋でなく上杉の名跡を継いだ養子だからな。
>>740 それは武田に限らない、戦国大名の問題だから原因というのは少し違うような。
ただ集権体制はほとんどの大名が狙っている(達成できたかどうかはともかく)。
武田も、信虎も信玄も行ったことは一族や国人の影響をじょじょに削ぎ、自分が
軽輩から取り立てた側近に権力を行使させることで大名権力の確立を目指している。
(信玄の代で言えば、馬場、内藤、高坂が当る)
勝頼も当然同じ道を目指しているが、対戦相手がその道をさらにエキセントリックに
突き進んだ信長だったため、比較されて相対的に古いとされてしまっただけ。
二行目は賛成。戦国大名にはカリスマを示すエピソードが豊富だが、逆に言えば
制度化されていない部分を個人のカリスマで補う必要があったということ。
>>740 戦国ごろに明確に他所と違った支配体制を持っていた大名なんて
おらんと思うわけだが。
信玄の頃には城下には有力武将たちは屋敷を構えて人質を置いていたし。
勝頼は本拠を移したから部下にも屋敷の移転を促すも
金がかかるから嫌がられたというだけやね・・・・
信長ですら、旗本のようなごくごく身近な部下を安土に移住させるために
彼らの尾張の屋敷に火を放つ始末。旗本ですら専業武士には程遠かった上に
旗本では身代が小さく奉行なども雇えぬから単身赴任するしかなかったわけだ。
外様クラスに至っては他との差異など無いに等しい。
どこの家にも蔵米侍だの扶持米侍だのとか呼ばれる
給料貰う専業武士もいたわけだが……
まあ武士としては一番格の低い層だけど。
出世イコール土地貰って地主化だから。
まだ金銭万能じゃないしね
滝川一益とかも居るけど。
>>733 方面軍、とされるようなものは領土が拡がった結果各地方の責任者を配置した、
というもので、別に信長独自というわけでなく他家でもあったものだがね。
毛利における、吉川・小早川。北条の氏照・氏邦ら弟たち。
ただ、上野は真田ではなく内藤ではないか?
滝川一益は蟹江城を任されたりしてるけど
超出世早いな。
一応甲賀の出とされているが
清洲織田家の文書では配下に滝川という家が
あった事もわかってたりする。
意外と古参じゃないかと踏んでるんだが
これはもうスレ違いだな。
清洲織田家の配下では、信長とは無関係でしょ。
一益の代に織田弾正忠家に仕えるようになったという点では結局新参者。
新参者たちの中では、古参に入るだろうが。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 03:57:38
武田勝頼が最強だと思います
強過ぎたゆえの無謀と言いましょうか
若気の至りですね
ところでコモドドラゴンって知ってる??
馬場信房でさえ信玄の命令を無視して勝手に陣払いしたこともある
織田軍でそういうことしたら秀吉のようにとんでもないことになる
でも目立ったお咎めは無し
やっぱ程度の違いでも大きいよこれは
特に、戦国後半の大規模勢力のぶつかり合いになった時代は
ごめん、間違い
馬場信房の命令違反は、「小田原攻めの時留守番を命じられた」のに、勝手に参陣したケースだったわ
無断退却と一概に一緒にできんわ
>>751 軍令(主命)違反という点では変わらないけどね。
配下武将にとっては、留守役よりも前線に出て手柄たてて恩賞もらう方がいい、
と考えるものだっているだろうし。
結果的に何も問題がおきなかったから不問になったけど、君主権の確立を目指す
立場からはやはり放置できることではないと思われ。まあたしかに、「主君の身を
案じて馳せ参じたのです」とか言われては咎めだても難しいだろうが。
>>684 馬の隣で一斉射撃の練習なんてどこもやってないだろ。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 12:36:06
軍令違反に厳しかったのは元就らしいけどね
>>737 脳卒中をおこすほど大酒を飲みに飲んだあげく厠で血管破裂させた
謙信がやはり一番悪い。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 14:42:52
外交下手の勝頼に有能な参謀がいなかったのが不運だな
参謀なら真田昌幸がいるじゃないか
御館の乱以前なら信玄四名臣も健在だし
758 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 15:42:45
>743
武田の侍ってのは地主なのかな?
759 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 15:46:33
小山田みたいなのが武田の中核だからなぁ
親族衆だっていざとなったら裏切り放題
家が滅びる時はどこだってそんなようなものだよ。
織田家なんて滅びてもないのに
信長時代の栄光はどこへやら・・・・
秀吉め!
勝家だって結局は三法師を立てるのに同意したじゃん
要するに、信長の遺児たちに実力がなかったのが問題
信雄は馬鹿だし、信孝は直轄兵にすら離散される二流武将
遺児の実力うんぬん以前の問題なんだがな・・・
遺児の実力うんぬんの問題なんだがな・・・
家臣>遺児という実力が主家の運命を決したという点では織田も武田も似たようなものだろう
この場合の実力は個人のものもさることながら、領地兵力を含む
信長と、嫡男信忠が一度に死んで、織田家の直轄領たる尾張、美濃、近江が一斉に
空白地帯となり、実力者に分散、蚕食されてしまったからな。
信雄と信孝は養子として織田家の外に出た身(この意味では勝頼と似ている)、それ
では難しいだろう。
ただ、当時すでに武将として身を立てていた勝頼と、幼児の三法師を並べて実力を
云々するのは無理があるような。
信長は嫡子(つまりは信忠)を他の息子に比べて差をつけて遇していた
家督相続の際に揉めないようにするための配慮として
故に通常時なら有効に機能する仕組みが、信忠が死んでしまった後の家督相続を
複雑にしてしまう結果になったんじゃないの?
信雄(もしくは信孝)が優秀だったとしても、相続できたとは限らないだろう
だいたい、信雄・信孝自身が尾州御館だの濃州御館だのと一応持ち上げられれば、家督を幼君に取られようが重臣に壟断されようが一応満足しちゃってるからな
むしろ信玄死後一時期とはいえ領土をさらに広げ、各地で戦勝してる勝頼のほうがまだ骨があった
継承に関して第二候補は造らない、というのは紛争回避に非常に有効なのだが、
唯一の決定権を持つ独裁者と唯一の認められた後継者が一度に消えれば、そりゃ
混乱も起きるだろう。裏目に出てしまったが、これを信長の責任にするのは無理
がありすぎる。
勝頼の場合は、つなぎ扱いとはいえ信玄より陣代として指名を受けている身。
それでも家中にしこりが残ったのは、やはり継承に関して信玄の処理に問題が
あったのだろう。
772 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 23:37:05
あと勝頼の人望の無さと一度進み出したら後ろに引けない性格も原因ね
信忠は本能寺の時、金ヶ崎戦時とか本願寺戦時の親父を見習って逃げればよかったのに
急な謀反だったから、光秀の手配はそれほど万全じゃなかったようだし
ちなみに信忠は剣術も達者(足利義輝と同じ一之太刀の使い手だったとか)で死ぬ時はかなり敵を斬りまくってから切腹したそうだね(『惟任謀反記』)
>>773 >光秀の手配はそれほど万全じゃなかったようだし
それが判るのは、後世の人間。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 00:53:43
>>753 そうだよ。
どこもやってないから馬は混乱したんだよ!
776 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 01:46:04
やっぱ織田家は西が弱かったのが武田との違い。
2国以上治めてる大名が毛利までいない。
武田は上杉・織田・北条に囲まれていた。
つか、武田信玄最後の遠征は上洛戦じゃないだろ
上洛するために邪魔な徳川を撃滅ないし、最低でも織田陣営から引っこ抜くためのもの
武田側もそれなりに危ない橋を渡りつつ、それを完遂させようというところで信玄寿命
これは運が無い
で、残された勝頼達は上洛病に取り付かれて、戦略的選択権を自ら狭めちまった
>>776 そうは言っても、信長が尾張一国を6年かけて統一した頃は
そこそこ強い西(伊勢の諸豪族&長島の一向宗)とかなり強い北(斉藤氏)と
どうにもならん位強い東(今川氏)に囲まれてたわけで。
779 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 02:47:15
ま、勝頼もまだ若かったからな。
信玄だって若い頃は結構無茶しただろ。
対村上戦で結構重臣を死なせちゃってるし。
ま、勝頼の場合は、一度の失敗が命取りになってしまったけれども。
***ただいま、就寝中です***
>>768 どう考えても織田家の人間が相続すべき領地を
有力家臣が堂々と分け合うという珍事だからな・・・・
滅亡しかけて次々叛かれるよりも怖い・・・・
>>769 その嫡男が死んだら他家を継いだ息子が旧姓に復して
後を継ぐってのは常識的措置やん・・・・
現代と違って簡単に病死するような時代やしね。
他所の養子に出すか出家させるかはどこの家もやってるわけで。
>>771 陣代説の根拠は甲陽軍鑑と真偽定かならぬ手紙一通。
勝頼の発給文書は勝頼が正当な家督である事を裏付けている。
そもそもの問題としてオヤジが急死してオヤジの子飼いと確執が
全く起きないというのはどこの家でも難しい。
時期的にマズかったというところでしょ。
>>778 義元をたまたま討ち取れた上に氏真はボンクラで
美濃も取るのに何年もかかったしね。
でも尾張に続いて美濃まで取ったら周囲に
信長に敵う奴は誰もいない。
信玄が信濃まで取ってもまだまだ今川にも北条にも
敵わないけど。
伊勢は願証寺が一揆を先導するまでは
別に脅威にはなっていないが・・・・
783 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 07:03:03
日本史板に武田板立てたら神!
誰も恐くて立てない…その点ここは気楽でいいよな〜おまいらいい椰子だよ!
居酒屋みたいで俺はここが気に入っている。
日本史板は博学・博識しかいないから…
前に、武田信玄が上洛できるワケないだろ(とってもうろ覚え)
とかいうスレを立ててボコボコにされてたのを見たことがあるな
もっとも、レス数だけは互角だったが。
今だって武田関連のスレはいくつかあるけど
まあ内容は似たり寄ったりだよw
向こうで打たれ強くなってから来てるのかw
787 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 07:33:50
>>786 向こうはロムるだけ、皆捻くれてるからレスしたくない!ここは楽でいいw
皆マジになったら日本史板住人を論破出来るんでしょうか?
論破って何?
少なくとも上洛ネタは妄想を楽しむためのものだと思うが。
信玄自筆の「おいら上洛しないよ〜ん」なんて書状があるなら別だが。
それどころか「5月には近江で決戦するから義景出て来い!」なんだし。
どちらにしろ決めては皆無。
789 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 07:53:01
信長が篭城とゲリラ戦をいどんできたら2万5千はおろか5万でも足りない。
政略によって織田方の武将を次々と寝返らすとかがないと実現不可能
790 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 07:56:07
おまいらに言いたいんだが、兵二万五千だろうが実際戦に出るのは4割なんだが…常識なんだが…
篭城とチョコチョコ攻められてる
城の近くまで出向くことを繰り返した
家康の領土がどうなっていたかは
わかるよね
篭城とゲリラ戦なんて戦は一度たりともしていないのに
信長が篭城とゲリラ戦とか言ってるのは、どいつだ?
793 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 08:13:50
>>791 遠江は領土にしてから日が浅いんだから寝返られるのは当然
三河はほとんど武田方にはならなかった
信玄が生きていたとしても信長が血迷って決戦に訴えたりしなければ
とても無理。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 08:18:58
>>790 全国的に同じ比率ならそれは問題にならないが?
言ってみたかっただけかな?
>>789 どこで籠城するのさ?
籠城って結局守りたいそのポイント以外は捨てても大丈夫、
そういう場合でないとあかんでしょ。
例えば岐阜城守れても京都との連絡を絶たれたら
信長の政治的優位性が崩れてジリ貧化しそうだけど。