1 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :
まってたぜw
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 20:07:02
むむむ
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 20:43:07
宇喜多秀家の頑張り次第。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 21:39:21
一文字秀虎、5000の軍勢で加勢に参上いたした。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 22:22:10
十分勝機はあったはず。
小早川と吉川さえ何らかの方法で抑えていれば・・・・
布陣だけの話をするなら西軍の圧倒的有利と言われているし。
せめて毛利輝元を戦場に引きずり出せていれば
特に吉川は覚悟を決めていたかもしれない。
逆にそのような状況であれば家康はあえて不利な関ヶ原に
布陣することなく、秀忠の本体の到着を待って持久戦にもと込ん
だだろうから、結局三成の不利は否めないかもしれないが。
8 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 00:59:33
そうなれば西軍だって立花や小野木も到着します。
と毎度ながら軽くレシーブ。
ヘイ!カマン!
仮に西軍が勝っても家康の勢力が絶えるとは思えない
遅延した秀忠隊と合流。東軍ついた豊臣恩恵派も豊臣戻るわけにもいかず
結局徳川入るか自国へ帰るだろう
それに秀秋とかを西軍につける為に交わした無茶苦茶な約束で政治が
混乱するし、東軍についた豊臣恩恵の穴も大きくてどのみちいずれ
第二次関が原でも起きて家康の天下がやってくる
10 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/12/05 07:01:55
宇喜多さぁ、やる気なくね?
もっと兵、集めて来いよ。
>>10 いや…むしろ秀ちゃんはがんばって集めた方なんじゃないかな。
合戦前に起こったお家騒動で、家中ボロボロのはずだし。
そう考えると明石はよく立て直したな、と思うわけで。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 13:44:29
本多正重は宇喜多軍だよね?徳川家中でも、大半は天下取りまで考えてなかったかも。
>>9 敗走中に捕まる可能性は無視か?
てか、西軍は三成以下捕まるわけだが…東軍は逃げ切りますか。
15 :
毘沙門天:04/12/05 19:51:25
保守
16 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/12/05 20:03:18
さて
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 21:30:58
むむむ
保守
小早川の陣所に隕石が直撃していれば良かったのでは?
20 :
名無し:04/12/06 12:19:10
メテオストライク!
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/07 21:36:35
うほっ
そうでもない。
たまにワイドショーのトピックスなんかでやってる、民家の屋根に突然落ちてきて穴開けたってやつ、
あんなのがピンポイントで小早川のボケ頭にヒットしてれば三成と隕石はヒーロー間違い無し。
24 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/12/08 12:44:28
おいら、秀秋のファンだよ。
そいつは悪かったな。
ま、ヒーローにやられる奴も重要なんだよ、うん。
やられ役 家康、秀秋。
な、凄いだろ。
26 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :04/12/08 18:54:10
トリップ変更しました。 前:#abd
おまえの好きな武将は秀秋か?
それは秀秋に失礼だろ。
いいかげんにせーよ。くそだるまよ。
保守
結局長束正家は何がしたかったの?
兵糧の勘定
32 :
ゆきだるま:04/12/11 10:04:54
つまり、勝ち組に付きたかったんじゃない?
その思いがあるから、彼は優柔不断な行動とったんじゃん?
33 :
毘沙門天:04/12/13 18:30:09
保守
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/13 20:40:21
なにが毘沙門天だ!
あげるのは、ゆきだるましかいねーだろ!
保守
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 00:57:39
上杉と佐竹がちゃんと連絡つけてケンカしていれば勝ちだったんじゃ?
無理
結局佐竹義宣は何がしたかったの?
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 12:22:48
天下統一
40 :
ゆきだるま:04/12/16 12:33:52
そうだね。だれも好き好んで秋田みたいな寒冷地にはいきたくないわな。
秋田県民には悪いが・・・
やっぱ親父が家康派で頭が上がんなかったのでは?
たしかに第三者的に観れば、佐竹は実に挟撃するには最高の地理・ポジションにいるね。
けど、そうはならなかった。やはり佐竹家もご多分に漏れず、両天秤にかけたんだろうな・・・
結局、せせこましい奴ばっか揃ってたから、
一番せこい家康に勝てんかったってこと?
佐竹は五十四万石の大大名と思われているが
常陸一国の兵力を挙げて戦ったことは一度もない。
親父の代の二十万石がもっとも信頼できる勢力であるが
その親父が親家康ときている。
義宣が自分の判断で動かせる戦力は数千もなかったんじゃないの。
そうでも無いらしい
むしろ、佐竹くんの秋田転封後の投げやりさ、ケッコー好き
もうなんかいっかなーって
家系とかそーゆーしがらみこのさい全部捨ててー
飯や酒は旨いしー
女はよいしー
佐竹って名前だけで地元の人はやさしーしー
秋田はまだまだ開発できるとこ沢山だしー
先祖代々の家臣なんてリストラ?
城なんて直さないよー
これで参勤交代がなければなーって感じ?
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 17:37:14
義宣は比内鳥とハタハタときりたんぽ食べ放題と家康に篭絡され、挟撃しなかったと、
三河風土記にある。
徳川方の史書なのであまり信用できないが、その後、秋田に転封されたことをみても、あたらずとも遠からずといったところか?
常陸といえば豪族割拠地帯だよ。軍勢引きつれておっとり遠征なんかしてたら、本国から火が出ちまう。
事情は上杉も似たようなもんだ。だから最上にしか攻められなかった。
上杉クンは秋田クンをはじめとした出羽な奴らが思うように動かなかったから…
>>45 >比内鳥とハタハタときりたんぽ食べ放題
ならしょうがないな
きりたんぽは飽きるなぁ……
あと高清水も飲み放題だな
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 21:11:24
はたはたときりたんぽで釣られる連中を頼りにした三成カワイソ〜〜〜
しょうがないじゃん
ハタハタときりたんぽだぜ?
ハタハタは波の神様なんだから
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 23:22:24
いや、高清水なんかではなく、当時は新政で籠絡されたと佐竹家の古文書にあったらしい。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 02:15:54
で、玉川温泉で密議、か・・・
「なまはげ」って三成の怨霊!?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 02:56:07
佐竹家の家訓は「地産地消」
以後、その家訓は秋田県農協に受け継がれたのは、はつと有名。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 10:59:55
♪もしも〜毛利輝元さんが〜〜豊臣家の名代ってことで〜〜金ひょうたん担いで〜関が原に〜〜〜やってきた〜〜ら〜〜〜? さあ〜♪どうなる〜〜ど〜うな〜〜る〜〜〜〜のっ?
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 11:01:28
>>55 福島なんかは戦闘を放棄したかもしれないね
じゃ加藤嘉明もね
甘いよ、天下安寧を第一に考えれば日の本を治める能力を失った無力な秀頼の豊臣よりも家康に付くのが当たり前
三成は自分自身のことと自分にとって利用価値のある豊臣家のことしか考えていなかった
それに比べて福島や加藤などの諸将は私情を捨て、天下万民のために徳川に味方したのだ
結果として二百数十年にもわたる太平の世をもたらすことに成功したのだ
同じことが三成に可能であろうか?
甘いよ、そんな釣りには今更釣られないのが当たり前
>>55 輝元が敵なのは以前から明白なんだから、そのことだけで影響はないよ。
問題はどの程度の兵を連れてくるかと吉川小早川をどれほど制御できるか。
秀頼出てこない限り無理
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/19 15:19:33
加藤清正はどうして九州で戦ったんだ?
九州にいたから
目先の事しか見えないような馬鹿だから、どこが戦場だか分からなかったんだろきっと。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 19:07:54
d
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 10:25:50
結局はどの意見も後世から見た視点だもんな。なんとでも言えるわな
67 :
じゃあ・・・:04/12/30 10:50:25
♪もしも〜利家さんのゾンビが〜〜豊臣家の名代ってことで〜〜金ひょうたん担いで〜関が原に〜〜〜やってきた〜〜〜ら〜
〜〜?さあ〜♪どうなる〜〜ど〜うな〜〜る〜〜〜〜のっ?
(福島さんとか加藤さんとかが、徳川シンパだって本気で思ってる人…の顔を一度見てみたい^^)
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 11:15:08
徳川につくかもしれんし、豊臣につくかもしれん。もしかしたら前田が徳川に真っ先に徳川つくかもしれん。
そんなの本人の考え次第だし、数百年後の戦を知らない現代人が、ifで考えたものをどうなるのと言われても答えられんだろ
利家さんのゾンビ
利家さんがバタリアンとして復活
ゾンビになってもバタリアンになっても優柔不断な利家
強きを助け弱きを挫く利家
73 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 20:43:09
d
74 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 01:57:45
>>67 加藤や福島も関ヶ原前にくたばってりゃこうやって
ご都合主義のIFを想像してもらえただろうにな。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 02:20:22
石田三成がどうしようもない低脳でFA
誰が味方につくか分からんなんて言うがそんなわけ無い
三成が自勢力の拡大を優先して奸臣ぶりを発揮し、軍閥派の発言権を
露骨に取り上げていったから官僚派と軍閥派が対立したわけだし。
少しでも豊臣政権全体を考えれば内部抗争なんか起こさないように努
力するもんだろーが。
昔からその大名の為なら腹を切ることも厭わない者を忠臣、自分の権
力拡張の為に働いて内部抗争を起こす羽目になるようなヤシを奸臣っ
て言う。日本国内もさることながら、中国・西欧でも権力欲に駆られ
たヴァカ奸臣が国を滅ぼした例がいくらだってあるだろ。
単純に「自勢力の拡大」と言ってしまうと符合しない点もままあると思う。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 05:07:39
豊臣政権確立後の軍縮はある程度の反発を覚悟しても
秀吉自身がやらにゃならんかったからなぁ・・・・
やはり秀吉も武闘派からの反発が直に自分に来るのを恐れてた節もあるし
そこに三成の独断が働く要因になったのでは?
関ケ原で日本の半分を潰さなきゃ土地与えられんでしょ
79 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 21:49:22
@@@@@ 徳川厨に質問! @@@@@
もしも小早川秀秋が裏切らなかったら、関ヶ原どうなってたと思う?
徳川厨ではないが
小早川が裏切らないなら、あの位置で停止する必要はないから関が原で決戦しないんじゃないか?
家康は経験でカバーこそしているが、本来は低脳だろw
どんなDQNだろうと奥さん手懐けるくらいの裁量持てよ。
築山御前遠ざけて火に油を注いで、築山御前のDQN行動が元で内部崩壊寸前
まで逝ってるくせに大器晩成型とはアフォかw
やはり毛利本体が、秀頼を担いで関ケ原に出てくる様なことがあれば、福島や加藤という連中も西軍にならざるを得ないでしょう。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 01:42:19
石田三成の2つの誤算
@ 織田秀信がわずか1日で岐阜城を落とされたこと。
A 小早川の裏切り
三成が無能…というより不運だと思います。人間関係で問題あったのは事実
ですが、この2つの誤算がなければ、歴史は大きく変わる可能性があったと
思います。
毛利輝元の不出馬に関しては、彼の裁量うんぬんというよりも「関ヶ原の戦
いがたった1日で終わる」とは考えてなかったからでしょう。これは彼ひと
りが思い込んでいたわけでなく、日本全国の共通認識だったと思います。
関ヶ原の本戦では、東軍は西軍の陣城(野戦築城)に取り付いて膠着してい
た、と最近の研究で言われています。長篠の武田と同じ状況になりかねなか
ったわけです。仮に小早川の裏切りがなくとも「もし家康なら」その状況を
何とかしたのかもしれません。とはいえ250万石を誇る家康が、20万石
の三成に追い込められた状況であったのは間違いありません。もし三成に2
つの誤算がなければ……。果たしてどんな結末が待っていたのでしょうか。
84 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/06 02:10:26
西軍は宇喜多1人で頑張っただけの気がする。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 02:34:58
>>83 大谷や島もなかなかでそ。
とはいえ、西軍は半分くらいしか兵隊が機能してなかったのは事実。それでも
東軍とは五分の戦況だったんですから、家康としては心底穏やかではいられな
い筈ですよね(爪噛んでたし)
86 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 02:43:21
>>80 家康は短期決戦を挑まざるを得ない状況に追い込まれていた。
のんびりしていたら毛利輝元も動いてくるし、そうなったら益々ヤバ
イ状況になる。関ヶ原の決戦エリアがずれる可能性はアリでしょう(
というより普通、そういうのは想定しているものだ。TVゲームじゃ
ないんだから)
87 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 07:13:40
三成が勝ってたら歴史はどう変わったの?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 07:40:14
わかんないよ(´・ω・`)そんなの。歴史ってたとえば、天気が違うだけでも
変わったりするじゃん?家康は死ななかったらまた挽回するかもしれないし、
でもそのときは、伊達、上杉、佐竹、毛利、黒田、島津なんか勢力大きくなっ
ていそうだし。少なくとも豊臣家内部が一枚岩なら、もっとすんなり天下取れ
そうだけどね。朝廷なんかも妙に絡んでくるのかな?
小説のネタにしたら色々な本が出来そうだな…
>>86 そうでもないでしょ、
さらなる家康の内応工作が成功するかも知れんよ。
勝手なボクの構想(^^)気分は小説家?
伊達と上杉が一応、同盟。その後伊達は北へ、上杉は越後へ勢力を伸ばす。
佐竹は中立を保っていたが「家康敗走!」の報が届くや否や、がらあきの
徳川領に進出。
その頃、中央では三成またも身内とケンカ。せっかく勝ったのに、豊臣家
ただいま迷走中…。
このシナリオだったら、今度は関東で一戦あると思うな。
徳川(本隊)vs 伊達・上杉・佐竹・真田(諸国連合)←かなり仲悪そ
うです
>>91 キモは伊達だな。いつ寝返るか、かなり不安要素多し。
オレが政宗なら、忠輝に5千〜1万程度兵を貸して徳川へ派遣させる。んで
自分は仙台で様子見。家康不利なら忠輝ごと潰しにいくかな?戦況が膠着す
るなら、家康につくと思う。
(以上、妄想モードでした^^♪)
94 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 10:00:58
>>90 じゃあ、逆をいえば家康は内応にすべて賭けてたってこと?そんなの
ありえない。そういうのは戦略として下の下だと思う。
ゲームの内応じゃ「はい、分かりました。寝返ります」てなるけど、実際は「
戦況次第で寝返りいたします」だと思うんだ。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 10:05:32
内応しなきゃ勝てない戦なんて、普通しないよ?
私利私欲で動くヤシのほうが世の中圧倒的に多い。
やつらはひよっこ三成よりも、貫禄たっぷり家康につくほうが
有利に決まってると考える。だからやつらは豊臣を捨てた。
結局そいつらが徳川に天下を取らせたんだろ
98 :
久しぶりだな、徳川厨さんよ?:05/01/06 10:43:09
前田・黒田・蜂須賀あたり
100 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 12:01:58
100
>>95 するもしないも上方で三成が兵を挙げてるんだぞ。
頭使えよw
>>94 全てを賭けていたなんていってないじゃん。
西軍も一枚岩なわけではない、むしろ東軍よりまとまりはなかった。
だから、長期戦になると西軍有利徳川は短期決戦を挑むしかなかった、
とは必ずしも言えないってこと。
>>83 どちらにせよ三成は家康には勝てないでしょ
104 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 10:30:28
西軍は1週間程、戦況を維持していれば良かった。長期戦という程のものじゃ
ない。つまり毛利輝元の出馬待ちってことだな(豊臣の名代として)
効果@ 東軍に属する豊臣系大名に対する影響
効果A 恩賞を期待する西軍の、精神的なバックボーンとして
効果B 毛利一族に対する影響
>>94 全て賭けてない?じゃあ、家康の勝算(目論見)はどこにあったんだ?言ってみな
105 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/07 12:09:02
毛利の出陣は秀秋よりあてにならないと思う。
結局毛利輝元は何がしたかったの?
107 :
藤巻:05/01/07 12:27:36
なぜそう思うの?秀秋は、はなっから東軍とガチであったが、
そこへゆくと、輝元はちがう。彼はほとんど身内の広家に篭絡されたと
言って過言ではない。
広家が輝元にあれだけ不出馬を働きかけなければ、輝元は動いていたかもしれないよ。
証拠?そうねえ、基本に戻れば、輝元がもし東軍勝利(家康派)であれば、西軍の総大将になっていないだろ。
それは広家の篭絡前に恵ケイに篭絡されたから、これを見てわかるように輝元には「定見」というものがない。
わたしは秀秋は家康に所領本復してもらったりしているから、秀秋は秀秋なりに恩を感じているとおもう。
つまり秀秋はガチ。輝元は利長、景勝が追い落とされ、危機感を感じていたはず。「倒さねば倒される」という
考えも一時頭をよぎっているはず。どや?だるまよ。
108 :
藤巻:05/01/07 12:31:19
結論書き忘れた。
とにかく
>毛利の出陣は秀秋よりあてにならないと思う。 ←全然ダメ
結論:ゆきだるまは秀秋よりあてにならないと思う。←◎
戦は
内容ではなく結果ですから
111 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/07 15:57:45
>>110それじゃ社会科学の必要性が無くなってしまうが。
結果をどう考察するのかも大切。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 16:08:25
大藩って、日和見できないからな。
輝元は本当は日和見したかったんとちがう?
戦国時代を知ったつもりでいたがここ見て驚いた
おまえらなんでも知ってるな
114 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/07 16:15:33
地理的に言って輝元を当てにはしないだろう。
たしかに決戦前夜となってはもはや、あてにはしていないだろうな。
しかし岐阜陥落もしくは家康本隊出現前までは輝元出馬は西軍の基本戦略だったろ?
合戦前夜だけとれば、ゆきだるまの言うとおり。
ゆきだるまってただの馬鹿のようにみえて馬鹿じゃないようにもみえる
でも馬鹿だよな
>>106 なんとなく西軍に担ぎ上げられ大坂城に入ったが
西軍があまりにも寄せ集めの軍勢だったので、あきれてそのまま大坂城へ引き篭もった。
118 :
藤巻:05/01/07 17:23:31
しかし
>>115で初めて奴の言うことを一部同意してしまった自分が悔しい。
>>104 いつ来るかもわからない、そもそも来るかどうかも微妙な輝元を
待ってる間に西軍が瓦解しそうなんですけど・・・・
史実でも三成の意向を無視して好き勝手にやってるし・・・
>>107 輝元はそうかもしれんが広家はガチだろ
輝元が広家を退けてまで出陣する所が想像できないよ
関ヶ原後の大減封の時の対応を見ても。
121 :
藤巻:05/01/07 23:24:27
たしかに。輝元は広家にブチ切れてもいいのに、広家のおかげでとり潰しをまぬがれたと善意的解釈してるしね。
やっぱ叔父には頭があがらないのかな?
122 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:06:21
イトコなんですけど・・・
123 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 01:09:14
ん?タカモト→輝元 吉春→ヒロイエ ん本当だ従兄弟だねどうも両線意識で輝元は後世代みたくみえるよな
124 :
藤巻:05/01/08 01:46:00
あっ、たしかに従兄でしたね。錯覚しました。すみません。
125 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/08 01:54:24
ぷげらうひょー!!
126 :
藤巻:05/01/08 09:20:21
あっ、ゆきだるまはんでっか?わい、こころを入れ替えましたんや。
今までの非礼の数々、あやまりますわ。ペコリ
こんごとも、よろしゅうたのんます。
ところでコモドドラゴンって知ってる??
>>104 来るか来ないか分からない輝元よりも、
先に秀忠が来て東軍は兵力で圧倒できるよ。
むしろ、大津城攻撃組みの合流の方が確実だ、
これが合流してから、秀忠が着くまでの間に、
攻勢をかけて東軍主力を撃破できれば良いんだがね。
もっともその場合は吉川小早川を背後に抱えた態勢になってしまうが。
宗茂さえ関ケ原に間に合えば、狸をはじめ並み居る東軍諸侯を片っ端から薙ぎ倒していったのに…
と妄想ってみる
というか、輝元が大坂を動かなかったのは、別に理由がないわけじゃあない。
東軍の場合は後世から見ればやらせの様なものにしか見えないが、
小山評定で一応参加大名の同意を得て家康が指揮を取っている。
それに対して西軍は関所で足どめしたり、大坂城の人質をとったりして、
強引に諸将を西軍に付かせておりまとまりがない。
その上大坂には、挙兵直後に家康に上方の情勢を報告している増田長盛や、
関ヶ原後家康により加増されている片桐且元など、家康に近い者もいた、
そういう情勢で、総大将が大坂を動けばどうなるか分からない。
つまり、西軍としては、
総大将が大坂を出て前線に来れるような情勢ではなかったと思われる。
>>129 宗茂がいなくとも、三成が義弘を怒らせなければ島津隊がやってくれたかも
と妄想ってみる
吉継さえいれば島津も立花もいらないよ
と三成ってみる
133 :
藤巻:05/01/08 15:40:49
つまり輝元が出陣した後、大阪城から火の手があがると?
もしくは西国の董卓的野心家が大阪城を占拠すると?
または淀が常真入道ばりに勝手に講和してしまうとか?
>>132 島津がちゃんと動けば金吾も吉継を攻撃しようなんて思わなかったかも
と脇坂ってみる
そもそも太閤様の子なのに裏切るなんて信じられないよ
金吾はカスだよ人間じゃねーよ
と秀家ってみる
>>131、134
もともと島津は東軍につくために関が原くんだりまで来ていた軍勢なわけで。
(城主の鳥居との口喧嘩の挙句、西軍に憑く事になってしまった)
毛利勢以上にどっちつかずの軍団だろう。
どうせ、1000足らずの軍勢だったし
夜襲案を採用しなかったのも、三成の無能さのほかに、島津がたいして信用されてなかったというのもある。
まぁ 島津義弘の方でも、清正や正則以上に三成を嫌っていただろうけど。
>>133 そこまで極端な話にならなくても、
当時の状況で大坂に入り多数の大名の人質を握って、
彼らをつなぎとめる役を輝元以外の誰に任せるかって話よ。
まあ、正直にいえば三成も輝元にはゆるゆると
出陣してもらう予定だったんだろ。
関ヶ原の松尾城に立て籠もる事ができて、家康軍の進行さえ
止められれば、補給線の短さから畿内軍の方が有利だからな。
139 :
藤巻:05/01/08 19:44:29
そうだね。補給線はたしかに重要なポイントだね。
世間一般ではあの大会戦が一日で決着したことを不思議がる向きがあるが、
家康に言わしてみれば、「なんの、短期で決着しなけりゃ、やらねーよ」って感じだったろうね。
背反定まらぬ東軍諸将率いての長期戦はリスクが大きすぎる。
>>139 だから、背反定まらないのはどちらかといえばむしろ西軍の方だっての。
やっぱ伴天連軍にはかなわないよ
>>136 何を根拠にそんな事言ってんの?
伏見城の兵が壊滅させられて鳥居なんかも総討ち死にしちゃったのをいい事に
そういう言い訳した島津の言い分だけじゃないんでしょ?
あれか?司馬の関ヶ原?
143 :
藤巻:05/01/08 21:50:00
たしかに背反定まらぬのは西軍だけど、やはり最終的に大坂に秀頼君を戴いているのはでかいよ。
長期化で先に組織が瓦解するのは東軍でしょ?
>>139 いや、家康も結果があそこまでうまくいくとは思っていなかったと思う
例えてみると野球で2−3まで追い込まれて、好球がきたんでふってみたら
柵越えした
>>143 三成逆臣説を取っているので、西軍にそのメリットはない
というか最終的には三成を戴いているのがマイナス面ででかい
島津は東軍だろ
伏見で寝返ったとされるのは生き残ったのでわ?
毛利も重要だけど、やっぱり前田家だよ・・・・・・関ヶ原の位置から言っても、
前田家が豊臣家を見捨てたのが一番痛かったと思う。
>>147 前田は人質とられているしな
前田攻めのとき、結局誰も救えなかった
前田は生き残るためには徳川につくしかないと思ったんだろ
利長は武将として器量はないと言われているので西軍についても毛利のような
働きしかできなかったんじゃないか
史実では東軍として動いたが結局大した働きはない
人質とられても、背いた例はいくらでもある。要は覚悟の問題だったと思うが、
漏れが不思議なのは、何を根拠に、家康からの本領安堵を信用したか
なのだ・・・・・・
根拠はないかも
戦っても勝てないし、人質大事
他の東軍大名だって、本領安堵かどうかわからない
けっきょく、三成の旗揚げした軍に参加しても、メリット無しと見たからか・・・・・・
毛利もそうだし、情報がきちんと入ってくれば、西軍危うしというのが客観的
にわかったのかなあ。参加したのは、豊臣家に忠節を誓ってるとか、それまでの
経緯や人脈から、三成の誘いを断るわけにはいかなかったとか、西軍が
不利でも、家康が大っ嫌いだったとか、そんなことなのかなあ。
西軍の日和見大名の多くは、無理矢理参加だしな
普通に見れば、家康の勝ち
まあ東軍についた小山の豊臣系大名がみんな西軍になれば
また展開が違ってくるが、うまいこと運んだよな
ただし家康は三成蜂起を予想して(正確には挑発してか)東に行ってるから、豊臣系大名がある程度
味方につくと考えていただろ
まあ絶対はないにせよ、勝てると見たからわざと東に行ったんだしな
ううむ・・・・・・誰がどう見ても、家康有利であることは間違いなかったという
わけだ。
となると、家康に誤算を生じさせる可能性があったのは、その東国において
ということになる。予想しない誰かがいきなり軍を上げれば・・・・・・っていっても、
残るは佐竹ぐらいしかないか。
佐竹は、親三成という噂があったから、予測の範囲内だな
伊達の寝返りがあれば、驚きだ
ただ伊達は上杉領内の旧領回復しようとしているのでその面からはなかなか難しい
となると、関ヶ原の段階では、西軍にとってはすでに時遅しという結論に
なってしまうなあ・・・・・・
だからこそ家康が立ち上がったわけだが・・・・・・寂しい結論だ。
156 :
藤巻:05/01/09 02:18:54
関ケ原の段階とは性格いつを指すのかな?
城を出て関ケ原におびき出された時点?
なら異論ないけど。
狭義の意味での関ヶ原。西軍が伏見城を攻めちゃった時かなあ・・・・・・
158 :
藤巻:05/01/09 02:38:43
ところで三成は挙兵後、各軍勢を集結させず、むしろ散開させ、各城を攻めさせた。
このことが結局は敗戦を招いたとする説(小野木、立花隊など城攻にてこずり、本戦に不参加等)があるが、
その三成の戦略眼は間違っていないと思う。まず先に挙兵したわけだから、その時間を利用し近隣の城の「清掃」は必要。
家康との大戦の前に、そんな小城のひとつ、ふたつと思うかも知れないが、それを実行するメリットはある。
一つは、味方に「戦えば勝つ」という常勝意識を植え付け、士気をあげる。
二つめは、日和見を決め込んでいる大名達に西軍の勢いのが強いことをアピール。プラス、プレッシャーを与える。
以上のことを考えたら、この時点の三成の方針(散開攻城作戦)は間違っていないと思います。
159 :
藤巻:05/01/09 02:44:02
>>157 なるほど家康の撒いた餌(伏見)に三成が食らい付いた時点でカレの負けですか・・・
>>158 もちろん三成にとってはそれしかなかったのかも知れないが、
それも家康は読んでいたわけで・・・・・・
秀頼さえ生まれなければ・・・・・・という気もする。
秀次か秀俊(小早川秀秋)が豊臣家の跡を継いでたら、だいぶ
展開が変わったんじゃないか?
順当に行けば秀次が二代目ということになるだろうが、そうなれば最上家の
駒姫を娶ったこともあり、最上義光も味方になった可能性があるだろうし。
そうすりゃ、最上は伊達を牽制。
上杉は心おきなく東征してきた家康と戦えたのではないだろうか。
そうなると、宇都宮とともに上杉とは良好な関係を続けてきた佐竹も立った
可能性も出てくるし・・・・・・
162 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 04:28:50
毛利家にもう少し卓見のある人物例えば隆影でも生きていれば家康の天下後には
決して毛利家のそのままの形での存続は許されないことは分かったはず。
いずれにせよ毛利は一族郎党覚悟を決めて、三成から西軍を乗っ取り、豊臣家も
骨抜きにして家康に決戦を挑むか将来の減封を覚悟の上でさっさと恭順するか
どちらかしかなかっただろう。どっちつかずの対応になったのが非常にまずい。
よく取り潰しに合わなかったもんだ
163 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/09 04:40:07
藤巻君、楽しんでますねぇ ^^
164 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 06:59:22
おまいらその程度の頭で日本史板で発言したら英雄!板なんか立てて日本史板住人を論破したら神!
その度胸がおまいらにありますか?
>>143 そんなことは一概に言えないよ。
というか、現に先に西軍が瓦解したでしょ。
>>158 同感
軍勢があるのに手をこまねいて傍観していることはない
家康だって、江戸からしばらく出て来れなかった品
>>162 同感
完全取りつぶしだと戦争になる可能性があるから、家康もあの程度で妥協したんじゃないか
安国寺あたりが輝元に西軍絶対優勢というのを吹き込んだと思う
もちろん三成からの働きかけもあるし
それから輝元には吉川からの働きかけもあったはずだ
吉川は大阪から動かなければ、自分が何とか取りなして本領安堵になるし
現に徳川重臣からの確約があるんで大丈夫だと言ったはずだ
もし大阪から出陣したら責任は取れないし、万一の場合家取りつぶしにあう
西軍が絶対優勢ならば、輝元が出陣しなくても勝てるはずだし
西軍が勝ってから、後で総大将ということで出陣しても良い
輝元にとっては、大阪滞陣が絶対の最良策と思われたのかもしれん
毛利家内でどういうやりとりがあったがわからないが
推測するとこういうことがあった可能性もある
安国寺の説得で輝元はしぶしぶ妥協するけれどとりあえず大坂城に来るだけで
充分だと
つまり輝元はそんなに乗り気ではなかったが妥協点として大坂城に入るということを承諾したわけだ
まあこんな妥協策をとること自体がどうかしていると思うが
毛利内部が東軍と西軍で分裂してしまっているので輝元としても
絶対にこうだと断言できなかったのだろう
もちろん輝元が果断な武将であれば、どちら一方を採用して意見を集約させたのであろうが
そこまでの器量はなかったということだな
責任は輝元にあるが全部の人間がそれだけの判断力があるわけではない
毛利も一枚岩ではないし、かつての主家の国人衆も国内には大勢
いるわけだしな・・・・・・幕末に藩主が「そうせい候」と呼ばれたわけだが、すでに
この頃から、そんな立場だったのかも。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 18:01:54
元就が天下を狙うなっていう教訓さえ残してなければなあ。
望まなくてもあれだけの領地と京からの近さを考えれば巻き込まれていくよ
金を持っていて、持ち主がアホだと狙われるよな
まして弱肉強食の時代
172 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 19:50:40
偉大な人の言葉でも死人には現状はわかるはずないのだから
遺言なんて、それほど重視する必要ない
という教訓だな
しかしまあ、西軍は幾度もチャンスを逃した末に必勝の布陣に引き込んで、
初め押し込みながら裏切りに破れた。
毛利、小早川、島津、どの部隊が動いてもどうなったかわからない戦況だっ
たわけで。
いかに西軍が有利だったかと言うことだな。後世の人間にすればなんであれ
ほど家康が慎重を期したのか不思議だが、光成を破るだけならともかく、それ
で天下を取りきるのはやはり大変だったんだろう。
>>173 毛利小早川はともかく、島津は大勢に影響はないのでは?
しかし、家康も土壇場で秀忠遅参という大誤算があったからね、
あれさえなければ余裕だったのだが。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 21:25:13
>>155 数百年後の人間をして匙を投げたくなる、関ヶ原前のこの惨状
三成に同情するよなぁ・・・・
176 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/09 21:29:21
保守
信長があれだけ熾烈な戦いを繰り広げたわけだし、秀吉がその後織田家から
権力をもぎ取ったと言っても、身内に大勢の織田の血筋を抱えている以上、
周囲の大名その他から、あまりいい目では見られてないわな。
しかも秀吉の朝鮮侵略といい、晩年の目もあてられないような振る舞いといい・・・・・・
さらには取り巻き連中の胡散臭さ・・・・・・
「これは家康どのが天下をとった方がマシ」
と考える大名が多くて当然だわな。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 23:44:43
この時代の侍の必須アイテムである武功と血筋の両方持ってないやつが
指揮したんだもんね。せめて三成にどっちかあれば展開も変わっていた
だろうなぁ。
人間論みたいになってしまうけど、ここまでのスレ読むと、
三成ってすごい度胸の持ち主だな…。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 00:04:28
うーん・・・端的に言えば
東軍:徳川家の大きい石高に基づいた兵力(数万)+反光成派の兵力
西軍:石田家の石高に基づいた兵力(数千)+反家康派の兵力
こうしてみると、東軍は徳川家直轄の部隊が多いから
土壇場(戦闘面)ではやはり有利だよね。
布陣するまで(戦略面)は光成もたいしたもんだが。
バカな発想だけど、西軍は、かつての三好連合に似ているような・・・
一枚岩に成りえない
181 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 00:08:18
多くの悪条件を克服して東軍と互角の兵力を集めた三成は大した策士なのは確かだよな
三成は評価するよ。あの状況で決起したってことだけでもすごいと思う。
>>180 が言ったように、確かに三好連合軍に似ているな。と、いうよりも、
畿内とか摂津とか近江とか山城その他、近畿地方は昔からてんでバラバラの
群雄割拠状態だからなあ・・・・・・まとまりがないし、連合したとしても、それぞれ
バラバラに戦う癖があるような気がしてならん。
一人一人は英雄豪傑がそろっているのに、どうもまとまらないというのは、
太平記の楠正成あたりから、そんなに変わってないような気がする。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 00:29:33
>>181 悪条件を克服できなかったから負けたわけだが
身代・領地・協力者・家臣団・信用・経験・自身の能力
総てにおいて家康に及びもしない三成が家康に挑んだのを
同時代の人間は愚かだと思ったんだろうが
秀吉が死に利家も死んだ時点でもう天下は家康の手に転がり込むことが
決まってたように思える、それを考えれば見切り発車の決起もやむをえなかっただろう
何の疑問も持たずに豊臣の天下が続くと思い込んでたらしい
福島正則なんかは三成の行動も奸臣の暴走ぐらいにしかおもわなかったんだろうなぁ
ちょっと違うと思われ。
確かに豊臣恩顧や子飼いの連中が家康に籠絡されかけてたのは事実だが、だからといって
秀吉の作ったスキームを覆すには至らなかった。そんな知恵も能力も無い連中が圧倒的多
数だったからね。信長の最大の理解者が秀吉だが、その後を継げるのは、秀長と三成しか
いなかった。
だから、三成の立場ならそれなりの形にはなったということ。ただ、そういった文官が司令官を
するという伝統が、日本では平安初期以降無かったので、三成もその動き片が極めて難しか
っただけの話。まあいずれにしても、よくやったのは確かだが。
家康は、そういった新行政組織の提示など無しに、腹芸だけで天下をとったわけで、司馬遼が
嫌うわけだが、やっぱり一番の問題は福島、加藤を筆頭に自分たちが秀吉の官僚機構を引き
継ぐ気概も力もないのに、全てを三成への憎悪に流し込んだことであり、自分たちのやってい
ることが秀吉への裏切り以外の何物でもないという自覚すらなかったということだろう。
そいつらアホ連中の全部が全部滅ぼされ、幕府もそういった裏切り者を出さないための朱子学
の導入だった。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 00:36:16
>身代・領地・協力者・家臣団・信用・経験・自身の能力
>総てにおいて家康に及びもしない三成が家康に挑んだのを
>同時代の人間は愚かだと思ったんだろう
うーん、全ての人が光成をそのように思ってたのならば
西軍はあんなに集まらなかったと思うんだが。
カタチだけでも東軍と互角の兵力を集めた点は評価すべきでは?
「家康が勝つのが当たり前」の論で言ってしまうと、
三成失脚→家康に権力集中→(もう一段階?)→家康天下
になってしまって関ヶ原なんて起こらないって事にもなりかねなくない?
東軍勝利が自明のことなら、誰も西軍には賭けず、勝利の分け前も減るからねえ。
>>185 全ての人がそうだとは言わないが
西軍には三成の人格・信念を信じて参戦した奴はいても
三成の能力に頼って参戦した奴はいない
家康がその人格・性格も知らない奴ですら追従者として
金魚の糞のように大量について回るのとくらべると
西軍諸将は勢いに流された奴か、勝ち負け無視で付いた奴か
自分の所の動きで合戦の帰趨を決められると思ってた奴で
当時の人間も、東軍か?西軍か?と聞かれれば悩むが
家康か?三成か?と聞かれれば答えは
史実の東軍・西軍以上の差が出ると思う
三成って忍城の失態で戦下手の烙印を押されてるけど、
賤ヶ岳の合戦や関ヶ原本戦で奮闘したのをスルーされまくってて不憫
総指揮官には向いてないが、一部隊としてなら中々のものだと思う
秀吉が関東を家康にあげちゃったときに、すべては終わってたんだよ・・・・・・
北条よりもっと手強い相手になることに、気がつかなかったんだろうか。
190 :
藤巻:05/01/10 09:05:49
>>189 関東国替えについては、
知ってのとおり、長年の地盤の三河や駿河、遠江、それと甲斐・信濃から一転、
京から程遠く、近畿より流通経済が発展していない関八州に押し込められたわけでしょ?
しかも東海道沿いは豊臣系大名でびっちり塞いで、「徳川家封印」をしたわけで。
いうなれば秀吉は「戦」という手段を用いずに、徳川家の戦力を半分削いだようなもんで、さすがは秀吉と思ってしまわない?
ここで家康が不服を言って関東入国を拒み、乱を起こそうものなら、待ってましたとばかりに秀吉は三河征伐に動いたかと。
つまり、秀吉にしてみれば「王手飛車取り」みたいなもんだね。
関東入国受諾→戦力半減
関東入国拒否→討伐
「そう簡単に家康が討てるか!」と思われる人の為に一応補足すると、
小田原城を落とし、名実ともに天下人になったこの時の秀吉は、もう家康など敵ではない。というか家康の協力者はもうこの時期いない。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 10:05:45
>>155 敗戦投手? 織田秀信 0勝1敗 防御率99.99 まさかこいつが1日で
岐阜落とされる、とは三成も思わんだろう。
三成の戦いのスローガンは「家康、豊臣家に背反」
家康のほうのスローガンは「関ヶ原は三成の私戦」
だから、豊臣の名代が西軍として出陣すれば影響甚大である。
吉川の輝元説得云々は客観的な資料、情報に書いてあったの?
だって仮に、輝元が関ヶ原来たら、吉川だって家康の首取り
に行くと思うけど。絶好のポジションだし。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 10:15:27
>>83 再度アピっときます(^^)三成フェチがんば〜〜〜〜〜
193 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 12:00:07
>>190 その秀吉の策が裏目に出た訳だが、天下人なら北条遺領を三分し、ひとつを家康に
もうひとつは家康が人質を解放、逆に家康が人質を出せば与え後のひとつを豊臣派で分け合う
それで乱を起こせば討伐、起こさなければ家康を政権に関与させず豊臣は一応安泰
徳川が邪魔になれば大阪の陣の家康並の謀略で消し去る
>>184 文官が総大将をするというのは原則間違っている
特に戦場ではね
福島らは、家康に騙された
騙された方が悪いとも言えるが、家康の演技力は大したものだったんだろうな
>>188 賤ヶ岳の合戦で奮闘したというのは初耳だが、どのような感じで?
三成の部隊は部隊としては相当強かったね<関ヶ原
大将は能力不足だったが
まあ頑張った方だと思うけど
>>190 いや、秀吉は関八州の富がどの程度のものか、きちんと把握して
いなかったという説を読んだことがあるぞ。小田原以東の地をチラッと見ただけで、
「ただの荒れ野」と思ったらしい。
秀吉は、田舎の関東より東海の方が豊かだと思ったんだろ
何より仮想敵国を遠くに追いやって、譜代を道に敷き詰めて、不敗大勢を築いた
はずだったが・・・・
結局朝鮮や中国に無理な色気出さずに関東封鎖して、家康を滅ぼしておけば良かったんだよ。
上杉、伊達、あるいは毛利や島津、勇将はいくらでもいるし、家康のような政治力もないからその連中に
関東くれてやっても大したこと無いし。
日本の歴史にとっても大きな分岐点だったよな。
遅レスだが・・・。
>>136 をいをい、島津ってもろに三成派だろ?
だから、家康は太閤崩御後に真っ先に島津を切り崩しに掛かった。
夜襲案にしても、決戦前の夜間移動を双方行う時に
やるのはドキュンすぎ。
作戦能力が高いけど小兵力の島津はそうしなくちゃ、
アピールできないからね。
つーか、夜襲は数日前にやって成功しているし。
ここでやるのははっきりって西軍全体でみると意味が無い。
確かに三成の島津の扱いが拙いけど、ちょっと島津持ち上げすぎ
じゃねーか?
>>190 石高にして100万石以上の加増。いくら長年の旧領からの転封といっても優遇しすぎ。
もし逆らうなら即討伐とまで覚悟を決めていたなら、もう少しは過酷な内容でも良かったはず。
むしろ、秀吉にとってはこの時期に徳川と対立することは望んでいなかったと見るべきでしょう。
もちろん、実際に戦になれば徳川に勝ち目はないが、
万が一長久手のときのように不覚を取ったり、長期戦になってしまったりしては、
再び天下が乱れる可能性もあり、そのリスクを秀吉は恐れたのだろう。
逆に、転封さえさせてしまえば、数字の上では大幅加増でも、
占領間もない旧敵領で、統治は難しく結果的に国力は落ちる。
もし一揆でも起こったなら、その不手際を理由に減封も出来る。
くらいに考えていたのだろうが、実際には家康は大過なく関東を統治してしまい、
国力は充実し、名実ともに最大最強の外様大名の地位を確立してしまった。
これを地盤に家康が政権を簒奪、豊臣家を滅ぼすのは周知の通り。
結果的に、この関東移封は家康の軍事的脅威を過大に、
内政能力を過小に評価してしまったことによる秀吉のミステイクと言える。
秀吉本人は上手い手だと思っていたかもしれないが、
後世の目から見てしまうと大失策だったとしか言いようがない。
長久手の恐怖が、秀吉の脳裏にこびりついてたという説も読んだことがある。
>>201 やっぱ現代人の目から見ると家康さえ抑えておけば
あとはどうにでもなった、と思えるが当時の秀吉にとっては
徳川との再戦で万が一長久手のような負け方をした場合
各地で徳川に呼応する奴が出ないとも限らない
って不安が大きかったんじゃないかなぁ
やはり秀吉は一度手に入れた天下を失うのが怖かったんじゃないかなぁ
205 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 16:51:08
長久手の時と違って天下人なんだから何十万率いて戦えばまさか負ける事はないだろ
池田恒興の死がそこまででかかったのか?
206 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 17:04:24
そう秀吉が家康を恐れるなんて事はあり得ない
家康さえ戦する気になってくれたら秀吉は大歓迎だっただろう
しかし家康の転封は加増が表向きの理由だから100万石加増も仕方が無い
天下人としてあまりにえげつないやり方で徳川を挑発するのも威厳にかかわる
関東は昔から独立心旺盛な土地柄で新領主がそうそう成功するとも思えない
数十年は徳川家は内政に追われて中央政界に関わる事は不可能だろうと思ったのだろう
前にも書いたけど、内部に抱え込んだ織田分子の動向も気になってた
はずだ。恨まれてたからな・・・・・・
織田信孝の辞世、
「昔より主を討つ身(内海)の野間なればむくいをまてや羽柴筑前」
なんてすごいと思わないか・・・・・・しかも信孝に死を迫った後、自分が
天下人になれると思っていた信雄も、そうした経緯などもあって、
豊臣の内部情報を家康に売っていたわけだし。
もちろん織田家だけじゃないけど、豊臣家はとても一枚岩ではなく、
欲を持った人間たちの集合体と言った方がいい。家康の家臣団とは
(もちろん皆欲はあるだろうが)、質が違うと思う。
まあ、
>>206の意見がいいところを突いていると思うが・・・・・・実際、織田信雄が
尾張を手放せと言われて拒否したとき、秀吉に所領を没収されてるからな。
家康はもっと遠いところにいるんだし、拒絶したら戦をしかけるつもりだったかも
知れない。もともと南部は北条、北部は上杉や佐竹の影響が強く、それぞれ
に味方した小大名が割拠していたわけだしな。
しかし、マジで、家康はどうしてそんなにうまく内政ができたんだろう。
関東なんか、お互いの足の引っ張り合いで、みんな大きくなれなかったんだぞ。
それぐらい、小競り合いが当たり前の土地柄だったのに。
まあそういうところが家康家臣団の強みだろうね。新しい制度の創出とか
そんなのはむりでも、目的がはっきりしていればもの凄い有能。
上杉と北条が一進一退、その上局地的な足の引っ張り合いや下克上も
数知れず・・・・・・家康に逆らう力の残ってた大名なんて、誰もいなかったんだろうな。
>>200 島津は家康に転んだと思うが
夜襲案は結構良い
西軍全体でやって戦果をあげるべき
>>201 敵から距離を置いたという効果はあると思うが
結果論だと意味がない行為だが、当時ではまあ良い策だったんじゃないか
100万石加増は、それによって自陣営に取り込む策だろう
ちょうど関ヶ原で加増があったように
>>208 家康の統治能力と合戦能力が突出していたためじゃないか
まあ何やかんや言っても、英雄の一人だな
秀吉は拡大思考だから、今更済んだことを蒸し返してゴタゴタする気はなかったんじゃないか
100%勝てる訳でもないし
国内のちんけな争いよりは中国を支配して・・・・
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 19:48:31
いや100パーセント勝てるだろうが
戦を起こす大義名分が無い
大坂の陣を起こすためにネチネチやった家康くらいの粘着性があれば
別だが、秀吉は家康ほどの粘着性が無かったのが災いしたな
大義名分ねえ
だったら、加増しないで関東てんぷうで良かったのでわ?
それでも家康怒らないかも知れないけど
で、その上、城普請や戦などの過大な負担を求めてはどうだろう
>>217 家康ならそれでも黙ってやるに決まっている。復讐心を内に秘めてな。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 20:14:58
>>217 そんなあからさまな嫌がせも正当性ないだろ
一応加増するから代わりに転封を命ずという
現代で言えば昇進命令なんだから
あからさまな左遷させるには何か正当な理由が必要だろ
>>218 そうなると家康の石高いくら?
150万石としても動員能力が相当落ちるね
せいぜい毛利クラスだし、上杉も120万石
比重は相当落ちる
それから軍役で疲弊して一揆多発となる可能性も
それでも関ヶ原で勝てるかも知れないが、連立内閣になるかもしれんし
すぐこけるかもよ
大阪の陣まで至らないかもしれない
相当やばい
>>219 潰すつもりなら正当な理由なんかいらない
空いたからでいいでしょ
どうしてもというなら1万石加増で
それから配置転換なら昇進なしだよ?
222 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 20:20:45
家康がどんなにアホな理由で潰したか知っているので?
ガキだなw
224 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 20:23:26
>>223 お前みたいな低脳ガキは
オナニーして寝ろ、猿ガキ
>>222 論破されたことが明白になるから、そのような表現はしない方が良いかと
227 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 20:27:42
低脳ガキのくせに一人前に論破とか言ってんじゃねーよ
片腹痛いわwwww
そもそもガス抜きのつもりなら、朝鮮出兵でもむしろ伊達や嫌康などの東国大名出すべき
だったと思うがな。
西が相対的に弱ったことも、関ヶ原敗北の遠因だし、文官と子分どもとぎくしゃくしたのは
直接の引き金になってしまったし。
やはり朝鮮出兵は大失敗だったな。
229 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 20:44:17
もしも台湾出兵だったら成功していたかな?
江戸時代に島津家は3000の兵でなんなく琉球占領をやっているし
台湾が未開の地だった理由は、疫病の巣窟だった事が最大の理由。
明治に日本が支配するまで文明人のすめる土地ではなかった。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 20:50:21
明治政府が出来るなら豊臣政権でも出来る・・・・とは限らないか?
蒸気船とかあればできるんじゃないの。
万単位の疫病罹患者は出るだろうがね
233 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 21:00:12
>>230 それって清国の差別がかなり入っているんじゃないかな?
それか日本が日清戦争で台湾の割譲を求めたときに割譲したくない
清国が台湾を貶して日本の意欲を無くす狙いだったとか
蝦夷地的な状況になるのではないの?
交易拠点の町・港とその周囲のみ支配。
台湾史はあんま知らんけど、分割・統一の支配形態があったのではないので、
支配というよりは入植に近い状況になるのではなかろうかと。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 21:18:42
台湾-フィリピンーニューギニアと南下していけば
日本に大航海時代が訪れていたのにね
秀吉なら極楽鳥の羽がついた兜を作っただろう
けど、秀吉の時代の日本の武力って、相当なものだったらしい。
秀吉の中国支配もあながち妄想ではなかったと、どっかで読んだ記憶がある。
実際、それが原因のひとつで、明の寿命が縮まったわけだし。
ただ、西軍だけが攻め込んで、東国大名は動員されなかったからな。
つか、漏れの最大の疑問は、家康を関東に転封するとか何とかより、
どうして家康を対朝鮮侵略軍の旗頭にしなかったかということだ。
家康の軍事力をぜんぶ朝鮮に向かわせれば、間違いなく大ダメージを
受けただろうに。そう思わん?
238 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 21:32:05
というか朝鮮に秀吉自身が渡って総指揮を取ったら勝てたと思うけどな
あの戦争で負けた原因は補給がうまくいかなかったせいだろ
石田三成みたいにそれ専門といっていいくらいの専門家が行っておきながら
情けない限りだけど
秀吉が渡っていたら、補給の重要性を即座に理解して伸びた戦線は縮小するなり
補給路を万全にするなりして態勢を整えたはずと思う
239 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 21:45:49
>>233 確かに当時の中国じゃ台湾を「化外の地」なんて呼ばれてて
疫病の巣なんて言われたけど、それほどじゃなく、
政府が一般人民を台湾へ渡航させないための殺し文句だったらしい。
当時の台湾は確かにコレラ?か何かあったらしいけど
琉球とほぼ同じ程度だから、併合は十分可能。
台湾は生産が乏しいので、兵力を消耗させるだけ。それは当時もわかっていたらしい。
それよりも、当初の予定通り東南アジアの貿易拠点支配を進めていれば、というのは
超現実的な話。なら遠からず産業革命の成果も享受できたし、鉄砲の開発力見ても、
相当近代化できた可能性がある。
外人のブレイン達に上手くそそのかされてシャムなどを断念し、弱体化している明を植
民地化しようとして、あげくに舟も貸して貰えなかったのが、直接の唐入りが朝鮮出兵
に転換した理由。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 23:22:46
どこまで勢力を広げた所で結局秀吉が死んだ時点で終わりそうな気がするんだが
文官と武断派の争いも無くなる訳じゃないし、家康の野心が消えるわけでもない
半島・台湾・東南アジアどこまで征服しても秀頼にそれが治められるわけもなし
三成がいても無理だろう
だから俺は信長に、家康を殺しとけと言っといたんだ・・・・・・
>>242 家康が生きてるとなにか都合の悪いことでもあんの?お前に。
うむ。よくぞ聞いてくれた。実は二荒山神社を、徳川家にのっとられたまま、
返してもらえないのだ・・・・・・
そら270年もヒッキーされてあげくに原爆アボーソだかんな
徳川軍団のローカル臭ときたら・・・・・
>>245 270年の鎖国と原爆の因果が全然わかりませぬ
247 :
藤巻:05/01/11 10:08:37
>>221 それは無理というものでは?そのようなことすれば、天下人秀吉の声望に傷がつきますよ。
「権力受容説」って知ってますか?
例えば、ある会社の社長が、A部下に罰として自宅謹慎を命じたとします。はたから観ると、社長は部下に権力を発動したわけですが、
社長の立場からすると、「こうでもしないと他の部下に示しがつかないし、納得してくれない」とあくまで周囲の反応をみて権力を行使しています。
つまり「権力」を発動するには周りがそれを「受容」する「正当な理由」がなければ、なかなか行使されない、または行使しようとも思わないとする説です。
話を戻しますと、もし加増なしで配置転換を命じた場合、そうするにあたっての周りの大名が納得する「正当な理由」はなんでしょうか?
日本、世界史かかわらず時の権力者達は様々な権力を行使してきました。しかし理由なき、受容されない権力を振るう例は実は極めて少ないのです。
つまり
>>222の「ガキくせー発想」という発言を補足すると、「王様がなんでも好き勝手に、我儘に権力を行使できると思ってるのは子供だけだ」ということを
>>221に言いたいのでしょう。
それを「ガキくせー」とあきれて一言で表現したにすぎないと思われます。また
>>221は、この論争で「論破」したと勘違いしているようですね。まあ、いいですけど。
まあ、あの信長でさえ、最初は将軍の、次は御門の後ろ盾というか、
大義名分を必要としたもんな。多少強引でも、周囲の人間が
無理にでも納得できる理由づけがないと、正義の戦争とか製作とは
みなされない。
しかし、幕末に至っても、大昔からと同じように御門をかつぎあげたわけで、
そういう意味じゃ、日本ってほとんど変わってないのな。今は別だけど。
>>223 夥しい浪人雇ってろう城すれば潰されて当然だろ。
アホどころかむしろ懸命な判断だろ。
>>249 そこまで追い込む家康の策略の話だろ。
家康も関ヶ原から思ったよりも長生きしたからな。
賢明なようでも、やっぱり年くってたのかもな。
>>245 徳川軍団をローカルなんて言ったら90%の他家軍団が空気になるぞ
>>245 原爆あぼーんは帝国主義化を測った薩摩と長州の所為だろ。
>>247 それにしたって、
せめて4・50万石くらいにしとくべきだったよ。
幾らなんでも一気に100万石以上の加増は極端すぎる。
ここまでやると周りからも秀吉は家康に一目置いているという印象を与えるから、
実力以上に権威付けさえ与えてしまったと言えるだろう。
実際、一目置いてるからな。
長久手で負けてるし。
やっぱり一番恐かったのは織田家中に手を突っ込まれることだったんだろうな。
秀吉自身新参の簒奪者でしかなく、一族郎党も少ないから自力では家康にかなわない。
実際には基盤はまだ脆弱だから、家康を懐柔して取り込むことでなんとか天下を取れた。
その家康を簡単に切るのは、小田原後の力関係としては簡単でも、あまりにも露骨すぎる。
家康が降った事自体が、
秀吉の格を一段押し上げたんだしな。
>>247 では家康の横暴についてはどのような説明をするので?
それから声望は既に傷ついてもいえるのでは?
秀吉が常に立派であったわけではない
むしろ問題行動が多いが
>>237 なぜか家康は優遇されているな
秀吉としては、一目置かざるを得なかったんだろう
また家康の天下人への取り入り方も年季の入った見事な技だったんではないか
危険人物とは思っても実力故に無視はできず取り込むべきという判断だ
家康は、俗に狸オヤジと言われている
狸というのは、やはり世の中の人間は節穴ばかりではないという証拠だ
もうすでにその時点で、秀吉は家康がヤバイということに気がついてたんだろう。
だから、関東に飛ばしたけれども、石高はかなり多い物にしないと、戦争に
なると思ったんじゃなかろうか。
そして朝鮮侵略は、家康の目を意識して、ほんとに勝って見せて、権威を示す
とともに、モノホンの実力をつけようと博打に出て、失敗したとかいう見方は・・・・・・
>>263 そこまで家康を意識していたとは思わないが、
明らかに遠慮というか、少なくとも部下としてあごで使うという対応ではないわな、
家康に対しては。
朝鮮にも行かせてないし。
>>263 朝鮮出兵に家康を行かせて、もし戦功があれば
いったい何を彼に与えればいいのか、という悩みもある。
もちろん、残して行くことも出来ず、行かせる事も出来ず
そういう状況だったのではないか。
切り取り次第ってかw
家康に、朝鮮出兵をしろと無理強いできない関係だったんじゃないか?
そのときすでに。
>>268 まあ、自分の母親人質に出してしまった段階でそんな感じかもね。
そこまで持ち上げてしまってから、
純粋にただの一家臣同様に扱っては秀吉自身の権威に傷がつきかね無いし。
しかし、そういう立場に甘えて傲慢になることなく、
自身は一家臣という立場に徹したのはさすがだよ。少なくとも秀吉が生きているうちは。
秀吉存命中から、傲慢な態度が少しでも鼻につくような者だったら、
福島・加藤あたりもあんなに露骨に家康に近づかなかっただろうと思う。
恐らく秀吉存命中は忠臣を演じていたはずだ
死に際にも秀頼を頼むと言っているしな
まあ裏切るなという意味だったのかもしれんが
関ヶ原で大勝するまでは、秀頼の忠臣を演じていたはずだ
謎なのは、秀頼が減封されていることだ
この謎解きを誰か推論プリーズ
>>270 そりゃ豊臣家の御為に、逆賊石田三成率いる反乱軍を征伐のために関ヶ原で奮闘した諸大名に対する恩賞なんだから
豊臣家の領地から与えるのは当然のことじゃないか
もうそのときから、外堀は埋められつつあったのか・・・・・・
>>271 なるほど、そういう理由なのか
取り潰した分じゃ足りないと言い張る家康、怖すぎ、横暴すぎ
その主張に対して、既に正則らは異議を挟めなかったのであれば
既に終わっているな
豊臣家の意思を決定することが出来るのは、
秀吉に正式に政務の代理者とされていた家康本人ですから、
建前の上では誰も文句は言えません。
こんな巨大な寄生虫飼っていちゃあそりゃあはらわた食い破られるっての。
福島あたりは、自分は純然たる豊臣の家臣で他の連中もそうだと思っていたから、
自分たちの領地が増える=豊臣家の領地が減る、とは思わなかったのだろうな。
しかし自分の敵を叩いた上で、さらに秀頼の領地までぶんどるとは
恐るべき発想だ
それで豊家のためだと言うのなら狂っている
この論理がありなら、合戦するたびに秀頼の領地は減るな
まあ関ヶ原で戦わされたのもどっちも豊臣の武将だしな。
秀吉が生前に家康をどうこう出来なかった時点でもう終わっていたのかも知れないな。
それにしても秀吉早死にしすぎ。
慶長 三 1598 62歳 8・18 午前二時頃、伏見城で没す。〔徳勝寺過去帳他〕
人間50年の時代だから、結構長生きだろ
確か、謙信信玄は50代で逝ったと思ったが
すべては秀吉だな・・・・・・自分の子供がかわいいなら、死力を尽くして
あらゆる方策を練るべきだった。
秀次に嫁いできた、と言っても、まだ来たばかりの最上の姫を殺したり、
敵作りすぎ。
司馬遼太郎が、天下を取った後の秀吉は絶対に書きたくないと言ってた
そうだが、晩年、どこか狂ってたんじゃないのか? それとも、豊臣家が
家康につぶされることを悟って自暴自棄になってたのか知らんが・・・・・・
もし秀吉が、家康を殺せと命じたら、そのときの西軍の軍事力は半端な
ものじゃなかっただろうに・・・・・・どうしてあんなに弱気になっちゃったんだ?残念!
どっかで読んだが
島津は時機を見て敵の側面をつく予備隊として用意されていたものではないだろうかという説がある。
(小西行長の隊もその可能性があるとも触れていた。)
結局は参戦する機を逸し、
西軍の多くが不戦のままの状況では僅かばかりの兵を突出させるのは無意味であった。
遂には小早川も裏切るわで、彼らの出る幕は無かったという説。
こう踏まえれば豊久の「この戦は各々の手柄次第にうんぬん」の口上も理解しやすい気もする。
>>280 まあ説としては面白いが、信憑性はちょっと
それにやはり1500ぽっちでは、そう大きな働きはできないだろう
1500が突破時には800程度に減っていたということなので
そうなると戦局をどうこうするというレベルの話はできない
ああごめん「彼ら」って小西もプラスしてのことね。
小西は4000〜6000だったらしいが。
小西は戦っていたよ
284 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 04:48:41
>>280 確かに予備隊はあっただろうね。
>>281同様、どこまで信憑性あるかは疑問だけど。
島津軍が1500、小西軍が4000、あと石田三成陣の後方に陣取った豊臣諸軍もいたし。
遊撃隊としての配備なら1500もあれば充分では?
まあ、島津がそんなつもりでいたかどうかはさすがに
ピンとこないけど。
仮に遊撃隊でも、となりの三成の危機に陥り、
本人が助けを求みに来ても無視してる段階で、
その役目をも放棄していたってものだろう。
天下取って、それだけで満足したんじゃないか?
卑しすぎる出自だし
自分が死んだ後はどうにでもなれ、みたいな
それは言いすぎか
秀吉が有無を言わさず将軍になってりゃ、
でなけりゃ将軍位そのものを廃止させてりゃこのスレなかったわけだ(w
義昭落とせなかった時点で政権乗っ取られるのはみえみえだし。
家康みたく時機と見れば非情に徹しないと、天下は取れないって。
横暴だろうが何だろうが、やったもん勝ち。
大義名分はあとから何とでもこじつけられる。(w
その意味では秀吉は甘かった
しかし敵性勢力を絶滅させられるかというと疑問
徳川だって相当叩き潰したけど外様が残っている
真の悪ならば外様を全滅させるとかね
そんな中でも加藤や福島は徹底的に男系根絶させられたよね
>>284 島津と小西は、戦わなかったとおもっているので?
>>290 男系?
彼らは、明らかに親秀頼だったしね
加藤福島の子孫はみんな腹切らされてるし
294 :
藤巻:05/01/12 13:17:45
まあ秀吉が「家政に関しては利家、政治向きに関しては家康」と遺言した時点でおやおや、秀吉ほどの男がどうして?と思ってしまう。
政治を家康に一任=家康の天下
になってしまうではないですか。そんなことを想像させない程、家康の臣従の「演技」が堂に入っていたのでしょうね。
では逆に家康に家政を一任させたらどうでしょうか?
実はこれも危険ですね。まさに三法師を戴いた少壮気鋭の頃の秀吉の如く、家康は秀頼を史実以上に利用しまくりますね。
そう考えると末期の秀吉もさすがに「秀頼君の傅人は家康には絶対させられない。奴は秀頼を利用する!」と自分のことを棚に上げて思ったんでしょう。
そんな感じで冒頭の遺言になった?
>>294 そんな遺言だったっけ?
五大老の合議制が少しは残っていたと思ったが
まあ戦乱後のグランドデザインとして、将軍になるか官位をとるかしかイメージできなかった
ということが大きいな。
信長みたいに天皇勢力を滅ぼすのが本筋だろうが、光秀の反乱もその影響だということで、
もともと脆弱な秀吉勢力には踏み切れなかったんだろうが、持ってきたのが太閤っていうの
も実は復古調で古くさすぎるし、かといって武門の頭領たる将軍も群雄割拠の柵封体制が
前提になるし。
こんなスレあったんだ・・・。
前々から思ってたんだけど、どうして秀吉は家康を殺さなかったのかな?
秀吉だったら自分の死後に家康が天下を狙うであろう事は分かっていたはず。
できない理由でもあったのか?
>>297 とりあえず、一通り読み返してみてはいかがか。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 18:37:18
秀吉は少なくとも家康を朝鮮出兵の総大将にでもして現地に行かせて
力をそぐぐらいのことをすべきだったな。
>>299 家康に戦闘経験積ませるほうが余程やばい
>>299 秀吉が諸大名の力を削ぐことを目的に大陸侵攻を考えたならその通りだが、
秀吉はマジで大陸制圧するつもりだったのではないかね?
力を削いではまずいような子飼の連中も出兵させてるし。
もしマジだったなら、この上家康に手柄でもたてられて、
これ以上権勢が上がってはたまらないから、総大将として渡海なんて、
仮に頼まれても認められないわな。
もっとも、家康にとっては渡海なんてとんでもないことだし、
それを命じられなかったのは願ったりだったのだろうが。
>>299 出兵初期は当然、勝つつもりでいたのだろうから、
その功績を家康に与えるなんて意味無し。
問題が起こった出兵中期から家康を送り込めば、
込んだで、うまくいけば家康の大功績、失敗したら
結局は自身のミス。
秀吉が朝鮮に家康を送り込む事で得られるメリットは無い。
つーか、朝鮮での戦況がおもわしくないので秀吉の代りに家康と利家が渡海し向こうで指揮を取る手はずだったんだけど、
秀吉が死んでしまったので結局渡海せずに済んだと聞いたがな。
>>299 つーか、家康が朝鮮へ渡海してたら毛利も島津もばりばりの東軍になっただろうにな。
家康が朝鮮へ行く、と申し出たという話は
たしかに聞いた事があるが、実際にはどうだったのかは
知らないんだよね。どうよ?
>>303 秀吉が自ら行くと言い出したので、
家康と利家が必死に止めたって話じゃあなかったかい?
家康は朝鮮征伐に行く気はなかったはず。
家臣の誰かが
「殿も渡海なされるので?」と聞いたら、
「やかましい、わしが渡海したら誰が箱根を守るのだ」
と言ったという話が残っている。
朝鮮征伐が秀吉の命取りになると判断したんだろうな。
で、秀吉が家康を殺さなかった理由を誰か教えてください。
>>306 そうそう、それで代りに家康と利家が渡海する話になって
さすがに秀吉も渡海を諦めたと西笑しょうたいの書簡に残ってるよね。
>>307 さすがに秀吉に利家と二人で渡海すると言った以上は行かざるおえないだろ。
>秀吉が家康を殺さなかった理由
マジレスだが、豊臣政権を支える最大の屋台骨だったから。
豊臣政権を滅ぼしたの支えたのも家康。これが現実。
>>307 そんなこと、確定的なことは無論言えないが可能性としては、
@自分の死後家康が豊臣を滅ぼすとは思っていなかった。
A家康に隙がなく、攻めるような口実を見つけられなかった。
ってことじゃないかね?
@は後世から考えれば甘すぎると思えるが、秀吉存命時の家康は、
「律儀な内府殿」そのものだし、疑わせるような要素はさほどなかったから、
まんざらありえないことではない。
Aはなんの口実もなく攻めたのでは、他の大名たちにいらぬ不安を与える、
他の大大名たちも秀吉に心服していたとは限らない状態だろうから、
ある程度は納得できる理由は必要だったと思う。
まあ、後に家康がやったようにねちねちと責めればまんざら不可能ではなかったと思うが。
結果的に、
@なら考えが甘すぎた、Aなら手段が甘すぎたって所でしょうがね。
>>307 秀吉が母親を人質にしてまで家康を降したのは、天下安泰が
目の前の大前提にあった為。自身の母を人質に出すという暴挙も
万民のための犠牲であるが故、許された。
その天下人たる秀吉が、まさに天下の為に降った第二の実力者で
ある家康を理由なく罰するような事になれば、秀吉の権威は失墜し、
彼のカリスマ一本でまとまっていた政権は崩壊する。
徳川は当然反乱。民情もすべて徳川側になびく。諸国も半分は中立、
もしくは反乱軍になってもおかしくはないし、お膝元の近畿でも、
民衆の反乱さえ考えられる。長い間、一向衆に苦しめられた秀吉が
民衆の力を軽視するワケはなし、そんな危険は犯せなかった
という所じゃないか。単純に。
民衆の反乱まではさすがにと思うが、
ともかく、天下が不安定になるのは間違いないだろうなあ。
314 :
307:05/01/12 20:27:40
返答ありがとうございます。
>>311 2の「諸大名に不安を与える」というのに納得しました。
下手に手を出した場合、反抗するのは徳川、伊達、島津かな。毛利は微妙。
つーか、秀吉死後の準備が甘かったというよりも
子飼い連中まで家康に靡いたが問題だろ?
つーか、利家死亡と同時に武闘派が三成追い落としにかかる
なんて厨房すぎで笑える。
池田輝政経由で、家康に操られたのがみえみえなんだよな〜。
三成おいおとしたら、奉行が腰砕けになるっつー事理解していない。
いや、理解出来ないのはまだしも、家康の笑える暴虐に対して
武闘派連中少しでも抗議したか?
武闘派なんていっても、お家大事の骨無しが豊家の柱。
結局、豊家は滅びるして滅びタンでしょう。
>>315 > 武闘派なんていっても、お家大事の骨無しが豊家の柱。
真面目な話、そこまで考えて計算していたかどうかさえ怪しい。
家康子飼いの武将連中は、槍担いで走り回ってるウチにいつのまにか
大身のお殿様になったような連中ばっかりだからね。
子供時代は人質としてあちこちを渡り、家に帰っては常に強力な勢力の
圧迫に耐え続けた家康の前ではやっぱりまだ子供だったんじゃないの?
正直、子供のケンカだよな、武断派vs三成
三成が好きだからかもしれないが、武断派連中は馬鹿揃いだったとしか思えない。
特に福島、加藤は酷い。
家康に加担すれば自分達も危なくなると考えなかったのかな? あほや。
>>312 母と妹を人質に出している
かなり屈辱的
太閤は人たらしで知られているから、家康も心服させたと思ったんじゃないか
>>318 屈辱的とは思わないなあ。秀吉自身がいってるように、
「前代未聞ではなく、秀吉がはじめて行った」奇跡的な手腕、
といってもいいと思う。
この手で家康が上洛しなければ、天下の笑い者になっていただろうし、
出てきても、すでに真っ向から対決などありえない。
家康はある意味、秀吉の手腕に舌を巻いていたのだと思う。
家康も秀吉も、一流の政治家として、ちゃんと「落とし処」を心得ていたんだと思うよ。
武断派VS奉行派だっていうけどさ、実際は武断派VS三成。
実際は、どっちかって言うと概ね清正VS行長。
武断派が三成に本格的にケチ付け始めるのって、秀吉死んでからなんだよね。
それも、話を蒸し返して粘着質に、おまけに集団でよってたかって・・・。
行長を吊るし上げるのは、理由はあるが三成を吊るし上げる理由ってあるのか?
正直、欲求不満で目に付く奴を吊るし上げようとしか見えん。
連中のやった事って、給料払いが悪いから財務の奴を囲んだって事だぜ?
>>320 理屈だけで世の中は治まらない
らしいぜ
>>321 情実では政権は維持できない。
らしいぜ。
ぶっちゃけ、官僚に情実要求する連中って
次回官僚が公正さを要求された時にケチつけるんだよね。
>>319 世間的には屈辱的というのが当然
前代未聞というのは、はじめておこなったという意味だが?
奇跡的屈辱行為と言ってもよい
別に条件を呑むかのまないかは家康次第
拒否することも出来た
ただ前代未聞なので相当驚いたとは思うが
324 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/12 22:29:52
ひでぶ〜
>>320 理由はあるだろ
直接的で大きいのは朝鮮がらみの奴だ
まあ難癖つけてるといえばそうだが
まあだいたい力はあるが頭は弱い連中はそういう行動に出るよな
>>323 文武に秀でた武将だぞ、恥も外聞もある。
あの条件で家康が拒否できる訳ないだろ。
>>326 何であの条件だと拒否できないので?
家康には恥はない
328 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:18:52
>>327 あの条件で断れば秀吉は家康を本気で攻められるだろう
徳川家はアボーンだよ
家康はお前ほどの愚か者ではなかったから潮時を知っていたということだよw
>>328 秀吉は本気で攻めていたが?
遊びだったと思っているのか?
おまえのようなアホではないが?
330 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:22:14
雑魚はすぐつれるなあwww
332 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:24:25
徳川厨って痛すぎるな
すぐに論破とかいって笑わしてくれるし
顔真っ赤にしてムキになって書き込んでいるが丸分かり
面白い動物だよなw
論破された場合に人格攻撃してはダメですよ
よく考えましょう
334 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:27:26
何を論破した気になっているのかな?
このお猿さんはw
335 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:28:56
世界史晩から遊びにきました。
>>332。
洩れの優越感満たしてくれてありがとう。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:30:34
青いなあ(プ!
クソスレなインターネットですな
論破されたあげく、口汚く罵っては己の愚かさを宣伝しているようなものです。
口惜しいのならば、理性的な発言をしてみましょう。
>>329 なんつーか、マジレスしてみる。
あの条件で家康が拒否してみたらどうなっただろう?
秀吉は天下の安泰、安寧の為に母をも犠牲にしようとした
傑物と褒めそやされ、母親も賢母と讃えられたのではないだろうか?
対して家康はどうか? 天下の事などなにも考えない了見の狭い男と
罵られ、そこまで秀吉が怖いかと嘲られたに違いない。
何しろ、このスレで(執拗に)バカよばわりされてる福島や加藤が一国一城
の主である時代なのだ。家康が出向いていく必要はない、と考えてくれる人
の方が少ないだろう。むしろ、猪武者的な武将は部下でも家康を腰抜けと
考えたかも知れない。
それに政治的にも問題がある。上洛をうながしているのは、秀吉ではなく、
帝(名目上は)なのだ。それを断り続けるのは、もともと無理がある。
家康だとて、いつまでも断る訳にはいかなかった。前にも書いたが、
秀吉からできるだけの妥協を引き出そうと、「落とし処」を探っていたのだ。
そこで秀吉がとった策が前記の策だった。家康の思惑を飛び越えて、
一気に自らに箔をつける秀吉の奇策。見事という他はない。
そして家康も上洛後、秀吉をしっかりと立てて、その奇策に色をつけて
やる事で、自分に箔をつけたのだ。だからこそ、両者とも一流の政治家と
コメントしてみた。こんなもんでいいかな。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:35:19
別に悔しくは無いなあ
ちょっとからかっているだけだ
ごめんね>お猿さん
341 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 23:37:01
>>339 世間に対してどうするかだが、後の両者の行動を見ると必ずしも世間体では
動いていない
ここだけ世間体を気にするということはない
帝の要請もそれが絶対的ではない
家康も永遠に戦争しようとは思っていなかっただろう
秀吉の屈辱的奇策に驚き、その肝や度胸に打たれたのではないか
お猿さんは煽りしかできないの?
>>342 う〜ん。
家康がこの時点で世間体を気にしたりしないで、
秀吉の肝や度胸に動かされて上洛したのだという
のなら、家康が天下を取ったのは偶然だったんだろうね。
いや、まあそういう訳でオレ的には前述の意見からは
変わらないなあ。悪いが。
んじゃ。
>>343 あと、 >340 の彼は自ら煽りを担当する事で
このスレに参加する人の統一をはかってるんだよ。
つまり、数正的な存在なんだ。
オレはわかってるよ。
346 :
藤巻:05/01/12 23:57:32
本当かどうかしらないですが小田原攻めの時でしたか、 家康が並み居る大名の前で秀吉の着ている鎧を所望した。秀吉はさすがに機嫌を損ね、「これはわしのじゃ」と言ったら、
家康は大声で「もはや殿下は戦場に立つ必要はありません、戦働きなどは拙者におまかせあれ」と言い、大いに秀吉を喜ばせたといいます。
このお追従のセリフのやりとりが事実だったら、これはもはや一部将クラスの発言ですね。
一部将に自分を落としめて、律儀者に徹したわけですから、やはり先ほど誰かが言ったようにまさか家康が天下を狙うなんて秀吉は思わなくなってきたんじゃないかな?小牧の家康のイメージを完全に忘れてしまうほど家康は「追従茶坊主」に徹しただろうと思う。
と、ここまで書いて新たな矛盾が・・・
遺言の私婚禁止ってありましたよね?
あれって早い話、「余の死後、勝手に内府と縁組すんなよ」ってメッセージがありありですよね?
だとしたら、死の間際まで家康を警戒してた?
347 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 00:00:07
348 :
藤巻:05/01/13 00:31:12
なんか自分が書いてる間にバトルがあったようですね。
>>339さんの持論に同意です。そういうことなんだろうと思います。
やはり「落としどころ」ですね。
上洛を拒否してるのは、一つは世間に対する面子。そしてふたつ目は敗者として上洛したくなかったからでしょう(小牧では勝っているが、ここは表現上・・・)。
ひょっこり行って沙汰言い渡されて「三河一国さし許す」とか、わけわかんないことになったら大変ですからね。
ところが大政所を人質に出してきたらどうでしょう?
母親差し出しておいて、厳しい沙汰下す奴はいないでしょう。ここで家康は初めて安堵する。
つまり母を差し出すことで、
秀吉→天下を早く統一できる。大物を臣従させて箔がつく。
家康→面子保てた。本領安堵できた。
まさに両者の利害一致。「落としどころ」という奴です。
まあ、そんな家康の気持ちを読んで、先に助け船?出した秀吉のほうが上手だったと思う。つーか大人ですね。
349 :
藤巻:05/01/13 00:34:10
ああ、陣羽織でしたか。
350 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 01:10:36
たびたび言われる武断派の軽挙だけど加藤・福島の三成憎しの暴走は
どの程度まで秀吉の責任なんだろ・・・・?
槍働きだけのアホ連中を大名にまで出世させたことで豊臣政権に
プラスになったことってなんかあった?
では結論は秀吉の、部下への政治教育の欠如ということで。
・・・いや、マジな話、ああも見事に寝返られると、あいつらってなんっだのかと。
関ヶ原で実際に戦ったのもどっちも秀吉の子分達だし。それでもやっとの勝利だから、
基本的に家康は単独では豊臣政権に弓を引くことは不可能だったんだよな。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 02:03:21
>>350 じゃ、徳川が政権を維持するために譜代をどうしたか、でシミュレーションつくだろ
井伊は彦根35万石に置いた後「尊重するが政権には直接参与させない」、酒井忠次には「厚遇するけど老中としては
一門の次席にするので深手は避ける」、と操った>>>つまり「敬遠策」。これができる前にとっちらかったのが敗因でしょ
じゃ、「本多忠純」vs「徳川家光の代理」があったら・・・ と仮定すればわかりやすいかも
353 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 02:08:58
本多忠純って誰?
正純=三成ってのはよく言われてるね
寝返るっつーか、関ヶ原当時の福島加藤等の認識では
家康に味方する方が自分達の為であり、豊臣家の為でもあったと考えたんでは?
356 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/13 02:23:52
モー娘。の話しようぜ。
357 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :05/01/13 02:31:55
輝元はさ、やっぱ三成と家康の対峙を見ててさ、思ったんじゃないかな。
ホトボリが冷めるまで中立を保つのが賢明だって。
何らかの理由(三成の劣勢を悟ったとか)で三成に付くのはやめたけど
合戦前に家康軍に付いては地理的に周り敵だらけだし。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 02:37:55
>>353 スマソ 「正純」だったか
うっかりしていた
>>355 それ以前に家康が豊臣家の土台をゆるがすような行動をしていて、
さらに、家康の行動を掣肘してきたのは三成であり、自分達は家康に煽られて
政権にとって不利益な・・・ぶっちゃけ反乱としかいいようがない
行動をしていたという自覚がないのが福島・加藤の福島・加藤たる所以だな。
でその結果、関ヶ原が発生したのに、他の連中と違って
東西両天稟掛ける事もせず、家康に取り入る事もせず。
何も考えずにとりあえず、筆頭老中に着くという戦国武将に
あるまじき怠惰な行動はどうよ?って感じだな。
361 :
藤巻:05/01/13 02:47:51
福島・加藤清正あたりは三成を排除した後で我らで政権を支えればいいと単純に考えてたのでは?
伊奈図書事件での正則の態度から、なんかそんな感じがします。
ところが事は清正達の思惑どおりに進まず、あっさり幕府を開かれてしまう。
「秀頼様、御為〜」と言っていた律儀な老人がいきなり、自分達の社長になってしまったわけだ。文句を言おうにも領土など「新恩」を授かっている以上、表だって異を唱えることも出来きない。
そして次第に心の中で「やはり幼い秀頼様では政務は無理だ。秀頼様には安寧に一大名に過ごして頂くのが豊臣家が生き残る最良の選択かもしれん」
と清正らは考え始めたのではないか?都合よくズルイが、彼らはそう考えることによって自らを納得させていたのではないだろうか?
そうして、月日は流れ、かつての武断派は保身&腑抜けになり、東西手切れの時なんか福島正則などは江戸に留め置かれることに。
この時、秀頼の為に秘密裏に大坂にあった米を差し出した(放棄)らしいが、そんなんでお茶を濁そうなんて姑息だなと思う。
腑抜ける前の正則なら、江戸から脱走してでも大坂に駆け付けただろうに(と信じたい)。
やはり守るべきものが増えると(領土や家臣)、人間、魅力を失うようです。
まあ、私がその立場でも江戸におとなしくいたでしょうがね。
カレにはそんなありきたりな行動とって欲しくなかった。勝手かな?
>>344 世間体なんか一々気にしないところが、大人物たる所以かと
一々世間を気にしていたとしたら、偶然で天下とったのでわ?
>>346 家康も含めて、全員禁止ということでは、建前は
でも一番警戒は家康らだろうね
>>361 9割方同意、福島の態度って関ヶ原直後と大坂の陣直前で変わりすぎだと思う
一時は自分が『家康に貸しをつくった』なんて自惚れすら
抱いてた節すらあるのに、大坂の陣での対応は弁解できるものではない
安芸一国を治める大名が軽挙はできなかったなんて擁護論もよく聞くが
そもそも、おとなしくしていれば自分だけは助かるなんてのが
自分が徳川にとってどういう存在か、まったく理解してない考えだ
豪胆・一途だけがとりえの男が小利巧ぶって地位も名声も失った。
>>350 当時はアホが出世する時代だった
今も同じか・・・・
今はアホ官僚ね
彼らはアホではない仕事をすればそれなりやってるくれる
ただ周りが見る能力が低いだけだ
>>361 脱走はそう簡単にできないと思う
できるとすれば切腹だが、もうそこまでする気力も意味もなかったんだろうな
もうだめぽという感じで・・・・
現役大名クラスはだれも味方していない
>>364 大阪では、もうどうしようもなかったかと
何かするとすれば関ヶ原だが・・・・
一番に家康の味方宣言
官僚のようなアホを誉める椰子もいるしね
人間誰でも保身するといえばそれまでだが
>>368 いや、大坂で参戦してほしかった時代の流転を無視して
一人で豊臣の正当性を豊臣恩顧の武将に力説してほしかった
もちろん誰も動かないだろうが、豊家滅亡に際して大名連中が
一人も味方しなかった最後は免れる
>>370 確かに、仮に福島正則がただ一人でも「豊臣恩顧」を叫んだり
または脱走するなり、切腹していれば、大阪の役の結果は変わらないが
後世の評価は大きく変わっていたかも知れない。
まぁ、自分は大坂にあった兵糧を豊臣方に明け渡した時点で
他の保身しか考えない大名とは違い、
やはり最期の豊臣恩顧大名だなっては思うんだけど。
(まぁ、これが福島家にとって後々の災いになるのだが)
>>371 >>自分は大坂にあった兵糧を豊臣方に明け渡した時点で
豊臣恩顧の筆頭としてはあまりにも消極的な行動、その程度のことで
主家への義理が果たせたと思ったのなら忘恩の輩と誹られてもしかたない
>>他の保身しか考えない大名とは違い
自分の家の保身を考えるのは一概に責められないだろ
結果論ではあるが大領を守りきった黒田・細川と改易された
加藤・福島では雲泥の差があると思う
>>346 別に家康のみを特に意識した遺言でもないでしょう。
黒田(父)、細川らはほかの猪武者と違って自分たちの行為の自覚ははっきりと持っていた。
立ち回りもうまく、それなりの必然性も装っていた。なにより、七本槍の連中などとは秀吉陣営への参加
の経緯からして全く違う。
それに対し、最も裏切ってはいけない、いわば中軍の旗本が、それも自覚無しに裏切ったことは、最もあり
得ないことのはずで、天下人としての秀吉には白旗を掲げ、その偉業を継承したという自覚を持っている家
康にすれば、もっとも残酷な形で処刑せねばならない連中であった。いわば、豊臣家滅亡の時のためにとっ
て置かれたアイテムであり、その象徴の福島が晒し者にされたのは当然。
まあいずれにせよ、黒田や細川、更に北政所や金吾中納言などに背かれ、秀次や利休を切った秀吉の責任
であり、自業自得と言えよう。最後の十年、秀吉は何をしていたのか。
>>374 あと、浅田長政だな〜。
まあ何にせよ、本来は中核人員であるはず加藤や福島は何考えているだと問い詰めたい。
自分達の立場を理解していなかったんだよね。
特に福島は清洲って位置どーみても家康の西進を食い止める位置ジャン。
東の上杉、北の真田はキッチリ仕事したのに・・・。
376 :
藤巻:05/01/13 11:34:49
>>370 同意です。
元長宗我部家の某が、大坂の役で盛親が立つや否や、即、山内家の家老?だかの地位を捨てて退転し、盛親の下に馳せ参じたといいます。
ひょっとしたら、某は山内家でひどい扱いを受けていたのかも知れませんが、たとえそうであったとしても、戦いの帰趨はすでにわかっていたはずで、退転という行為はよほどの決断です。
正則だって幕府の城の普請に続く普請で、かなり不満があったわけですから、某の気骨ぐらいは見せて欲しかった。
>>370さんが言うように、大坂の陣では秀吉恩顧の国持大名はひとっ子ひとりとして味方しなかった。見事なまでにね。
まあ関ケ原終了時点で「真の恩顧の武将」は死んだか、領土を失ったわけがですね。(小西、大谷、立花、宇喜多、毛利勝永の父?など)つまり忘恩の輩だけ生き残ったわけですから、誰も味方せんわな。
まあ個人的に許せない家は最大の恩を受けた前田家ですがね・・・
どの面下げて冬の陣で大坂城を寄せられるんだ!って感情的になってしまいます。
大坂の役勃発のかなり前の話だが、
前田利長は秀頼からの「太閤の恩を忘れずよろしく頼みたい」って手紙に対して、
「そんなの知らん。金がほしけりゃいくらでも貸してやる。」って返してたぐらいだからな
378 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 12:12:36
まるで数年前の鈴木宗男事件で、
記者に「あなたはムネムネ会のメンバーでしたよね?」と質問され、
「ムネムネ会など知らん!」と叫んだ某議員のようだなw
>>377 三成が関ヶ原時に立ったのは、その「太閤の恩」が
通用する時間的なギリギリの線だったからですな。
そうでなければ、あの時点でわざわざ年のいった
家康との戦いをする必要はなかった訳だし。
(・・・いや、結果的に家康はかなり長生きしたけど)
その意味でその当時の秀頼の手紙はあまりにも
時勢を知らぬといわざるを得ない。秀頼、というよりは
秀頼の側近らの無知さ、単純さがうかがい知れる逸話ですなあ。
徳川が開幕しちゃえば今度は将軍家への御恩が生まれちゃうわけだしね。
>>371 >372 氏の意見にほぼ同意。
福島がとった行動は、自らの自己満足に過ぎない。
もし、豊臣の恩にむくいる気持ちがあるのなら、全力をもって挑むべきだし、
そうでなければ逆に全力をもって家康に荷担すべき。それをこの時勢にな
ってさえできない福島は、やはり関ヶ原時点で・・・
「何も考えていなかった」
・・・という事になるだろう。豊臣諸将の中での大身の一人であり、反三成の
急先鋒であった彼の行動の影響力はあまりにも大きく、重大で、家康に
対しての益が大きすぎた。豊臣滅亡の幾多の原因の中で、彼の失態は
許されざるほどの無知さから出たものというのが、逆に滑稽である。
福島って最終的には参議にまで昇進してるんだね
383 :
藤巻:05/01/13 16:28:13
毛利家のあれ、なんだっけ?偽名で大坂城に入城させた話。
福島の米贈りのエピソードより危ない橋渡っているよね。
毛利家なんかそんな危ない橋渡ってまで義理立てすることもないのに。
なにか別の感情からかな?
一応大老だから。
もし毛利も豊臣につかないとなれば底が抜けてしまい、流石に風向きが変わり、アフォの子飼い連中も
考え直す可能性があるから、軽々に動かない方が得という勘定と家康からのお達し。
385 :
藤巻:05/01/13 16:40:02
>>384 すいません。くわしく教えてください。家康からのお達し?
386 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 17:20:44
直接輝元とのやりとりは一応無かったと言われてるけどなあ・・・。
吉川広家のこと言ってるのかな?
それにしても、輝元が総大将になった時点で家康にすれば大誤算だったし。
つうか、秀元が3万で後ろから逆落としに突っ込めばそれで勝負は簡単についたわけだし、
秀秋の裏切りも無かった。
結局関ヶ原って毛利の自作自演なんだよね。
388 :
藤巻:05/01/13 17:49:49
秀元坂落としは
義経の「ひよどり越えの坂落とし」の3倍、
街亭の馬謖の坂落としの実に1000倍の破壊力を有していただけにかえすがえすも残念でした。
ところでさっき書いた
>>383は大坂の陣の時の話なんですが・・・説明たりませんで済みません。
秀秋と書けば良いのに金吾中納言と知ったかするヴァカ
結局は豊臣への恩もお家の継続もやってのけた立花宗茂は見事ってこった
391 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 18:47:06
はなしが嫁ない。
>>390 そりゃま、戦国最大のアイドル立花道雪の息子だからね。
( ´,_ゝ`)プッ
今にはじまったことじゃないが、
わざと変なこと書いてる人がいるな
>>383 ああ、確か大阪冬の陣の時に
毛利家の家臣が豊臣側へ参戦しているんですよね。
「本家としては徳川家に逆らえないが、秀頼公が不憫である」と言って。
396 :
藤巻:05/01/14 01:02:23
>>395 そうです。輝元もあぶないことしますよね。
不憫である、と言ったのですか・・・輝元も泣かせるじゃあありませんか。
祖父や父や兄たち愛情をたくさん注がれて育ったのね、坊っちゃん・・・って感じでしょうか。
>>395 毛利本家の意向をうけて入城したといわれてるヤツだね。
佐野なんとか・・・うう、失念。
が、その言葉はホント?
信長の死後、織田の血筋に天下を取らせなかった時点で、豊臣も
必然的に一代限りという運命にあったのでしょう。
秀頼←お市の子の淀の子=織田の血筋
400 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 01:47:17
なんか清正が改易されたみたいな言い方してるけど
改易されたのはまだ若い2代目では?
>>397 入城したのは毛利家・宍戸元秀の次男で
内藤隆春の養子となり、その後一万石を領した内藤元盛。
毛利輝元から
>>395のように懇願したのは「毛利家文書」にも記されてますし
たぶん本当でしょう。
また輝元は内藤家と息子の内藤元珍への特別の配慮を約束してます。
ちなみに大坂入城の際に、「佐野道可」と偽名を名乗ります。
ちなみに敗戦後、徳川軍に捕縛され毛利家の家臣である事が発覚しますが
あくまでも個人的な判断での入城を貫き切腹しました。
しかしながら、徳川家はこれだけでは許さず、子の元珍をも自害せしめ
内藤家の所領を没収しています。
ちなみに徳川側やそれに準じる資料によりますと、
毛利輝元は仮に豊臣方が勝利した暁には「中国10国」を約束し、
その条件として内藤元盛(佐野道可)を派遣したと記されています。
その後、徳川家康の寛大な助命処分を無視し、佐野道可は切腹するのですが、
その発覚を恐れた吉川広家などが息子の元珍にも自害を迫り、謀殺したそうです。
毛利家の資料と徳川家の資料、それぞれ書き方によって随分変わりますね。
私は「毛利家文書」の方が信憑性が高いと思いますが。
>>399 信雄とか立てなきゃ織田の血筋を立てたとはいえないよ。
彼の行動は私的なものであり我が社とはなんら関係無い
広家必死だなw
こいつが変な動きさえしなければ関ヶ原で家康の首も有り得たし、更に領地倍増もあったのに。
406 :
なべおさみ:05/01/14 10:50:43
ヒロイエはむしろ動いていないぞw
407 :
藤巻:05/01/14 12:15:50
佐野道可は自分の一族の安泰を約束されたから行く気になったんでしょ?
でも結果は一族の領土は没収で息子は切腹ですか・・・
なんだか佐野道可がかわいそうですね。
道可か。ああ、そうそう。
森なんちゃらから、内藤家、んで入城時に
カモフラージュの為に改名だよね。
>>405 恵瓊乙w
福島が米贈りで、毛利が道可派遣か・・・・・。
で、島津は大坂の陣の時はなにしてたのよ?
幸村を誉めた
てか、島津はあれこれ理由をつけて出陣しなかったとか?
島津厨じゃないんで、あんま、わからんけど。
上杉なんか家臣数人が感状もらうぐらい頑張っちゃってるのに
出陣したのもかつての大老・景勝本人ですよ
ひどいっ!義を重んじる家風はどこにいったんだっ!
景勝氏ね!ヴォケ!
関ヶ原で西軍方についたのに存続させて
いただいてるじゃないか。豊臣に対する義は返した。
んで、家康に「義」有り。
あっ、そういう言い方もできるね。
しかし、会津征伐から東軍が大返しした後、上杉の行動は決してカッコいいとはいえないが?
>>415 そりゃたったの1日で壊滅した三成共が悪いだろ
あっ、そういう言い方もできるね。
石田隊、壊滅!!
418 :
藤巻:05/01/14 18:11:39
たしかに上杉にすれば秀康軍の数万(数は忘れた)を会津で釘づけしたわけだからこれだけでも功だろ?って思いですね。
追撃して関東を落とさないと無価値
後詰めとして秀忠を残すだけでは足りないので、家康本隊を当初の予定通り東海道で
挟撃できた。伊達が背後から・・・というが、そんなこと言ってる場合かよ!
それは上杉天下取りへの道ですか?
秀吉の養子であり、秀頼の義理の兄であった結城(松平)秀康が、
豊臣についていたらと妄想してしまう。
小山に着陣して上杉の押さえに回されたわけだが、ここで上杉と手を握り、
家康を攻撃していたら・・・・・・
実のオヤジを裏切るのか?
まだ後継者の目もゼロじゃないのに
423 :
ディオクレティアヌス:05/01/14 20:10:15
福島正則は理解できない永遠の謎だな。全くの馬鹿ならそもそも大名まで出世しないし
東軍の中では戦機を見る才能は関が原直前に大阪行きを主張したことでもあった方だろう
家康が当初の予定通り、大垣城を水攻めなんかしたら勝敗ははっきりしなかっただろう。
424 :
ディオクレティアヌス:05/01/14 20:18:26
それから毛利家のことだが冬の陣の際は戦況によっては大阪方に寝返る可能性も
十分あったと思われ。徳川家に対する恨みをずっと持ち続けるくらいだから
冬の陣も相当の接戦だっただけに伊達政宗の後背次第では大阪方にも十分勝機は
あったのに淀殿が我慢できなかった。兵力的にも20万対10万なら城は1年も2年
も持っただろうに
>>422 当時からして、完全に親から見放されてきたわけでしょ。もうその
時点では明らかだった。豊臣家に養子に出され、結城家に養子に出され・・・・・・
家康の子供差別は激しかった。
もし信康が家康との対面に奔走しなかったら、秀康は家康と会うことさえ
なかったかも知れないのだから。松平忠輝といい、悲劇の兄弟の筆頭だった。
顔が醜かったと言われているが、何が原因か、家康は秀康を愛していなかった。
秀康もそれは十分に感じ取っていたらしいが。
そこで「実のオヤジ」という感情が果たして出てくるものかどうか。
後継者の目は、ゼロだね。
>>424 10万人が1・2年も籠城する為に必要な、
兵糧や弾薬は並み尋常な物ではないが、確保できるのかい?
埼玉に来れば十万石饅頭があるから2つもあれば桶。
>>423 小早川秀秋なんか見てれば秀吉お気になら馬鹿でも大名になれそうだけどな。
上杉も大減封喰らって、かえってよかったのかも
いくら兼続がアレだからといって、直江30万石はちょっと異常だし
429 :
ディオクレティアヌス:05/01/14 21:39:21
>>426 食糧難で困るのはむしろ徳川方。実際にそのような記録もある
はっきり言って城攻め方が2倍程度の兵力差で力攻めするのは相当無理がある
もし総攻撃を冬の陣でかけていたら撃退された挙句、伊達や毛利の寝返りに合って
徳川の天下が引っくり返っただろうに
夏の陣で城を裸にされた挙句、3倍の兵力差となってはどうあがいても勝ち目はない
>>429 しかし、持久戦になれば城方は補給のあてはないし、時間の問題やで?
年単位で籠城はきつかろうよ。
ケツの穴氏の言うとおり。真田らが予想外に善戦して長期滞陣を余儀なくされそうな焦り
は徳川の方が大きくなっていった。もちろん資金も兵糧もたっぷりの当時世界最強の城塞・
大阪城は3年持つとも言われていた。
返す返すも淀豚の馬鹿が総大将だったことが悔やまれる。天守が大砲で壊れたところで
城の機能には何の障害も無いのに。関ヶ原だって秀頼が出陣していればそれで終わって
いたのに・・・・・orz
淀君がバカだったということで・・・・・・
かといって、実際に3年も篭城はできないだろうがな。
なんといっても食料の補給が効かないのが苦しい。
たとえ3年分の食料があっても、刈り取ってから
2年も3年も経った米なんて、臭くて食えたもんじゃない。
まずいものを食ってりゃ、当然士気が落ちる。
贅沢に慣れた大坂城の何千人もの女子供には、厳しかろう。
それに浪人たちも食い扶持が危うくなれば、逃走の可能性がある。
包囲側としても、持久戦で行く方針に決すれば、
船舶を使った食糧の海上輸送や、付け城(秀吉の一夜城のような)の構築など
いろいろな手段を考え出してくるだろうよ。
ただひとつ希望を見出せる点としては、家康の寿命か。
10万人が1年間食う為の食料ってどれくらいなんだろうか?
まず、大坂城という天下に隠れないだけの名城に見合っただけの籠城のプラン、下準備が必要じゃん
大野治長じゃむりぽ
えーと。現代の話だと思うが、
人一人で1年間に約一表(=約60キロ)ほど食べるというから、
およそ10万表あれば1年持つ計算になるだろうか?
>>370 なるほど
しかしそうなると福島の取り潰しになるな
取り潰しぐらいなんだと言われればそれまでだが
だが結局取り潰しにあっているな
大阪籠城中に家康が死亡すれば、勝てたかもしれん
ただし戦国乱世の復活ということになったと思うが
根拠は何もないが、
何となく、家康は大坂城が落ちるまで死なないような気がする。
もう4・5年くらいは。
441 :
藤巻:05/01/14 22:58:04
>>438 まあ「恩顧」とは言いすぎかな。
でも志賀親次や立花宗虎なんかは相当、秀吉に目をかけられたと思われ。
>>440 根拠は何もないが、
大坂城が籠城を一年がんばれば、
家康は伏見あたりに一度引き上げて、そこで病没しような予感。
>>440 まあ死ねないという根性で死ななかったかも知れない
あるいは戦陣が祟って早死という可能性も
いずれにせよ、ifとしては最も可能性が高い
実際には夏後すぐに死んでいるし
445 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 23:42:13
立花は恩顧
上杉はうんこ
相撲はちゃんこ
怖いのは貞子
447 :
藤巻:05/01/14 23:49:10
幸村や後藤あたりは「籠城策は援軍があってこそ意味を成す」と論じました。
なるほどその通り、と我々が思ってしまうのは所詮、結果を知っているからではないでしょうか?
当時の大坂方の感情にしてみれば、「かの治部少は15年前、家康相手に野戦で挑んだがため、やぶれた。あたら天下の名城があったのに」と思ったことでしょう。
無論、今回(大坂の陣)こそは「出戦」が良策だったのでしょうが、大坂方にしてみたら、関ケ原の凶例が頭を支配して、なかなか撃って出るという行動が取れなかったのでしょう。「15年前と同じ轍を踏むは愚かなり」とさえ考えていたかもしれません。
あとみんなが言ってるように「家康の寿命が尽きるまで守るが良策、わざわざ危険を侵すこともなかろう」という考えも加わったのでしょう。
いや我々は後知恵で、籠城こそ良策だと考えている
寿命については、希望的観測すぎた
それと家康は約束を守ると思ったのだろうが、甘すぎたな
返す返すも淀でなければといったところか
>>434 昔の人は1日5合食ってたそうだ。
1合=180ml=約150g(米の場合)
てことは、
0.15kg×10万(人)=15000kg
1日あたりの米の消費量は15000kg=15t
1年だと15t×365=5475t=約91,000俵
というわけで、
>>365の言うように10万俵あれば、まあ足りるだろう。
とまあ簡単に言うけど、10万表=6,000tって半端じゃない量だぞ。
10tトラックで600台分。それを全部収容するとすれば、
公立学校の体育館を想定して、5棟以上は余裕で必要だろう。
450 :
藤巻:05/01/15 00:02:52
>>444 すいません。自分もよくわからんのです・・・
(^―^;
>>449 戦国期の城攻めで、2〜3年以上かかったというものがあるはずだ
例えば鳥取ひぜめでも相当かかったのではないか
大坂方は籠城戦を予期していたので、それぐらいの用意はしていたとしても
不思議はない
また太閤もそれぐらいの想定やいざという時の準備計画はしていたはず
福島正則さんのお米もあるしね
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:14:05
大坂の陣で福島は8万石くれてやったらしいが、
一万石って何俵とれたの?教えて!三戦板では貴重な理数担当の
>>449様あ!
『三木合戦』は、別名「三木の干殺し」と呼ばれ、天正八年(1580)1月までの約1年8ヶ月、
羽柴秀吉は三木城を力攻めにせず兵糧攻めで三木城を攻撃しました。
1年8ヶ月だね
このような例が他にもあるのでわ
加賀百万石とか、直参旗本1,500石と言ったように、時代劇には「石」と言う単位が登場します。この石と言う単位、良く聞く割にはどの程度の量なのか、案外知られていないのではないでしょうか。
石と言う単位は、人間が1年間に食べる米の量を基準にして設定されたものです。キロに換算すると約150kgです。また、以下の関係があります。
1石=10斗=100升=1,000合
だれか計算してw
1万石は
150kgx10000(石)
トンにするには1000で割る
150x10トン=1500トン
1500トンx8(万石)=12,000トン
てことは、福島のだけで2年は持つね
457 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:25:42
なるほど!余裕じゃんw
449です。漏れは完璧な文型ですとです・・・。
1石は180リットル=約150kg(もちろん米の場合)
1俵は60kg。てことは、1石=約2.5俵。
80,000(石)×2.5(俵)=200,000(俵)
8万石だと約20万俵だね。
というわけで、
>>449を基にすれば福島正則は10万人×2年分の食糧を提供したわけですな。
とはいえ、大坂城には多数の女子供や雑役男がいただろうと予想されます。
それらも含めると、10万人どころじゃないでしょうなあ。
前に誰かが言ってたように、米は生鮮食品と一緒で放っておくと
悪くなるから、城内で耕作しないと、
到底数年単位での篭城には耐えられないでしょうなあ。
459 :
本多正純:05/01/15 00:31:07
だとしたら福島のとった行動は罪が重いな。
よーし!さっそく大御所様に報告じゃあ!
うちの祖父の家が農家なんだけど、
2年以上たった米なんて、ホントまずくて食えない。
まあ、舌が肥えた現代人の感覚ではあるけどさ。
2、3年なら持つのでわ?
3年たてば死ぬかも
史実では死んでいる
462 :
新潟県民:05/01/15 00:34:41
そこで煎餅ですよ!
つーか、諸国の軍勢、三年間もどうやって留めおくよ。
三年も籠城されたら、家康の権威もふっとび兼ねない。
しかし、相手は大坂城、しかも石山本願寺のあった場所だしなあ。
過去もかなり長く抵抗してのけてるって事実があるしなあ。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:43:01
たしかに間違いなく権威吹っ飛ぶな。
朝鮮征伐みたいに厭世気分が蔓延し、
諸侯も「そういえばなんで大坂攻めてんだろ、漏れたち・・・」てな具合になり、そんななか家康陣没みたいな。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:43:06
>>463 付け城築けば済む話。
家康は先達の模倣をするのが大得意だからな。
秀吉の小田原攻めを模倣するだろうな。
古米でも食えるのなら城は落ちない
淀が我慢できるのかというとそれは疑問だが
我慢しなければ死というのならば我慢するのではないか
ところで当時は1月もすれば、それ以前に生鮮品はなくなると思うが
よく1年以上も籠城できたもんだな
>>465 東軍は食糧事情が悪かったのを知っているので?
あとその間に家康が死んでも構わないので?
>>466 昔の人は米と塩と大豆さえあればなんとかなったんじゃないかな。
もちろん、緊急時に限られるだろうが。
そんな食事を長く続けてたら、当然病気になるわな。
もしかしたら、大坂城内には本当に畑が設けられていたのかもしれない。臨時に。
お米が日本人の主食になった理由のひとつは長く保存できることです。お米をもみのまま2℃の低温できちんと保管すれば10年間は食料ととして保存できると言われています。
精米した白米の保存期間の目安としては、精米後室内の涼しいところに保存していると1ヶ月間くらいはおいしく食べられます。
>>467 篭城作戦というのは、基本的には救援軍があってはじめて成立する戦法だよ。
包囲されて補給が無いということは、(何年先か知らんが)いずれ食糧は確実に尽きるわけで。
東軍は当然それは承知だろう。
大阪湾を完全に封鎖すれば、補給はあり得ないからな。
そして、東軍にとって最大のリスクは家康の寿命だと
前々から語られてるじゃないの。
かなり不確定な要素ではあるけどな。
大坂城に篭る将士にとっては、神頼みに近い願望だな。
冷蔵庫の無い時代、夏場にどうやって2℃で保存すんのさ。
カビはえるぞ。虫がわくぞ。
>>469
472 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:56:13
うちらがまずいと思っている古米を淀殿に食わしたら、( ゚Д゚)ウマー って言うかもしれませんぜ!だんな!
473 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:59:11
酒もそうかな
当時は蒸留酒じゃなくてにごり酒だったっけ
当時は近畿の豊かさは東国の比じゃないからな。
それに米倉ももの凄いでかさだったらしい。
多分わかってないと思うが、秀吉の大阪城のでかさは今の環状線の中全部に近い
規模だよw
>>466 淀の存在がネックだね…。
この人が篭城に耐えられるかはかなーり疑問。
篭城が一種のトラウマになってるかも知れんし、妹たちがいるから、
絶対殺されないと思い、開城。なんてこともありえるかもな。
外部協力があれば、物資は海上輸送で大阪城に持ち込めたかな?
大阪の地理に疎くて、当時は海が近かったと思ったのだが…
>>469 米が主食として重要視されるのは、その生産性と栄養価から。
米1粒と小麦1粒を土壌に植えたのを比べたとき、収穫量は米の方がはるかに多い。
また、栄養価も他の穀物に比べて米は抜きん出た数字を持っている。
東南アジア・東アジアの人口がヨーロッパと比べて格段に多い原因も、
主食が米と麦の違いによるところが多いとされている。
熊本城は籠城の為に畳も食べられるような素材でつくってたとか
聞いた事があるが・・・それがホントなら、古米も充分いけそうだな。
三年も籠もるような自体になれば、家康もなんか融和策を考えざるを
得ないだろうなあ。家康にとって、大坂の陣は秀吉にとっての北条攻め
みたいなもんだったハズ。諸将に自らの権威を誇示するだけのつもりが・・・
面目丸つぶれどころじゃない。
>>475 本願寺があった頃はたしか、
毛利水軍が兵糧を運び込んだんじゃなかったっけか?
479 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 01:06:45
皆さんの分析の結果、米が大丈夫となると・・・やっぱ不安なのは弾薬ですか?
弾薬はどうしようもないし、実際に枯渇間近だったのでは
後藤もそれを理由に講和には賛成してたはずだし
弾は十分足りるでしょう。
足りなくなったら、城内にある鉄でも鉛でも、
なんでも溶かして弾にすればいい。
とはいえ、火薬が無ければ弾は飛んでいかないので、
そこがネックかもしれない。
弾薬に関しては、包囲後ある程度の時期が過ぎて、
徳川方が強攻は無理だと判断すれば、その後は攻めてこないだろうから、
弾薬の温存は十分に可能だろうね。
米は大丈夫・・・というけれど、やはり問題は淀殿なわけで・・・。
緊迫した食生活に耐えられないであろう淀殿とその取り巻きが
講和に応ずることは十分に予想できることではある。
三ヶ月持つならその後は同じようなメニューしかでなかっただろうから、
淀が食料で音をあげるってのはなさそうだけどな。
正直、topが困窮するようじゃ、十万人の浪人なんて養えないよ。
484 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 01:21:58
やっぱ、多数の女衆が篭城に参加していたのもキツイなあ。
畳を食うなんて、男なら何とか耐えられても、
贅の限りを尽くした女たちには耐えられないだろうなあ。
大坂が本気で籠城するなら籠城するで、家康も気長に囲むだろ
秀吉自身が大坂城を落とすには堀を埋めるか、大軍で囲むしかないと言ってるんだし
>>485 だから、家康に気長に取り組むだけの時間があるか?
っていうのが、ここの主題なわけだ。
数々の戦場を経験してきた家康なんだから、
大坂城の篭城作戦に逐次対応してくるのは当たり前。
城攻めの名手秀吉の戦法だって踏襲してくるだろう。
問題は家康の死後どうなるか。
家康が、自己の死後も磐石な体制を築いておけるか否か、ですよ。
487 :
藤巻:05/01/15 01:36:08
>>483 そうですね、米さえあれば、浪人は逃げないね。
だって食い詰めでみんな入城したわけだし、城から脱走しても、道端で飢えて死ぬだけだからね。
身分が高ければ高いほど面が割れているわけだし、城から抜け出しても、お尋ね者として一生隠棲生活
が待っているわけだし・・・。
やっぱネックは淀ですか・・・
488 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 01:41:04
>>486 まあ無理無理、大坂が落ちない以上「御所柿は熟して落ちにけり(略)」ですがな。
秀忠の人望では大坂が存在する以上、天下は治まるまいよ。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 01:48:45
>>487 淀殿があの調子としても、活路を見出す方法はないものか・・・
しかしなぁ、大坂城責めに参加した以上、大名達も腹くくるしかないだろう
今更どの面下げて豊臣で味方しろというんだ
491 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 02:54:34
>大坂責め
まあ、いやらしい!
492 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 03:13:07
たわけもの!
>>473 日本酒(清酒)は今も昔も醸造酒だよ。ワインと同じ。
戦国時代はアルコール度の低いドブロクのような酒だったらしいね。
蒸留酒は焼酎。
まあ肝心の豊臣一族が、秀頼がばこばこしまくって20年は待たないと増えないような状態
だから、やっぱり立ち腐れるだろうが。天皇一人死んでも京都全体を眷属みたいにしてしま
った宮家のようにはいかない。
それにしても、小田原を遙かに超える、都市機能を包摂した巨大城塞都市だから、これを
おとすのは並大抵のことでは難しい。最初から籠城せずに打って出て、籠城を保険にして
野戦で消耗させ、拠点を確保してゲリラ戦を挑めば、もともと豊臣を滅ぼすことや徳川の
過酷さに忸怩たるものがある連中にすれば、相当厭戦気分が広がったことと思われる。野
戦で勝ってもあの大阪城があるのか (´・ω・`)
やはりネックは淀の存在だが、そもそも強力な指導者不在の元ではやむを得ない面もあっ
た。せめて北の政所のようにどっしり構えてくれたら、とは思うが。戦術にまでなんで口を
出すんだよばばあ。真田や後藤などの人材も持ち腐れじゃねえか。
>>470 基本的にはね
緊急時で有ればそれ以外もある
大坂のとき籠城すべきではなかったということか?
寿命が一番可能性が高い
それ以外に合戦で勝てるとでも?
>>475 水上輸送の可能性はある
ただ正規ルートというよりもゲリラ補給ルートになるが
>>485 秀吉は大軍ではダメだと言ったと思ったが
>>496 保管場所さえ考えれば、玄米のままでも常温で普通に1年くらいはもつよ。
ぶっちゃけうちは農家だが、稲刈りの直前は玄米でとっておいた前の年の米を食ってるし。
籾のままならもっと持つ。
というか、普通の販売店で売ってる米だって、
昨年の残りを混ぜて売っているんだから、皆さんだって普通に1年以上前の米を食べているんだが。
>>490 いや、だから、家康が死ねばってことだよ
>>500 持つよ
城の場合、いわゆる冷暗所に保管する
まあどれぐらいかはわからんが10年くらいは
現代では新米に古米を混ぜて売っているらしいなw
>>502 そうしないと古米がだぶついてしまって困るからね。
仕方ないよ。
>>503 仕方ないけど
新米(古米入り)と言って売るべきじゃないか
現在は詐欺商法かと
>>504 一昔前に問題になった「黒豚」表記と同じで、
日本の食料品の表示は案外いい加減だからね。
圧力団体のパワーによって左右されるよね
いい加減だ
根本は、家康のごり押しを止めることができなかったのと同じだw
507 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 13:03:39
■□ 1@CLIE ◆GodOnnFcO.運動 □■
電波板を代表する有名固定であり、2chのヒーロークリエを広め、
またグーグルのヒットを増やすためにこのレスを見かけたらコピペで広めてください。
1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO.
1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO.
1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO.
1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO.
1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO.
1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO.
1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO.
1●CLIE ◆GodOnnFcO. 1@CLIE ◆GodOnnFcO. 1●CLIE ◆GodOnnFcO.
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/denpa/1103032707 http://f52.aaa.livedoor.jp/~clie/pukiwiki.php http://cuddle.cc/clie/
>>471 読んで貰えばわかるが、籠城を否定してはいない。
それを担保にしながらの戦い方、という意味。
関ヶ原は遠すぎるので戦略上位置づけるのは難しい面があるが、信繁や又兵衛の主張した
伏見城などの要衝を厄す戦略は古今常に有効だった。確かに兵力は倍だが、徳川方はい
わば祭り状態で戦意が低い部隊も多く、既に戦国の風を継げない二代目も多かった。
瀬田、山崎を押さえて徳川方の進入路を伊勢路から信貴山の隘路に限定すれば大軍は通
過しずらい。一方大坂方は摂津・淀川をしっかりと確保して、進退を自由にしておく。
そうして京都方面と兵力を分散させて置いて不安定な包囲の敵に適宜城から撃って出れば、
信繁や又兵衛の企図したゲリラ戦に持ち込むことが出来、理想的な確固撃破が可能となった
だろう。不利になれば城に引っ込めばいい。勿論相当な連動性と臨機の軍事の才が必要だが、
そもそも圧倒的に不利なんだしw
実際には最初から籠城してしまったために、周辺の寺社や寺内町などの軍事拠点をことごとく
破壊されてしまった。既にその時点で大坂という城塞都市の外堀は埋められてしまったのであり、
実はこれが痛かったのである。
>>508 幸村・後藤の策を容れるということであれば同意
積極的に勝ちに行くので有れば、単純な籠城策でなく
そういった攻撃を検討すべき
幸村らの連動性だが、後日の戦いを見る以上は疑問だ
理想的には指揮権を幸村に一本化できればよかったんだが
ここでもネックは淀か
>>508 戦争をし、勝とうという点では実に基本でわかりやすい。が、大きな問題がある。
大坂方にそれを明確に意識していた人間がいなかった事である。
(意識し、意見しても通すだけの格がある人物が×)
徳川の軍勢を迎え撃ち、勝とうという戦略でなければ、大坂城を含めて他の
諸城、要衝を入れた考え方ができるものではない。大坂方の首脳部には
徳川を相手に勝とうという考えがあったのかどうか? というのが問題だと
思う。史実、籠城戦に出たのは、待って時間稼ぎ→→→後の展開を見たいと
いう単純にそれだけの考えしか見て取れない。
また、ifとして単純に野戦を視野に入れた戦闘も悪くはないが、やはりやや
理想的、博打的な感触は否めない。野戦で相手の出鼻を挫くのはこれまた
基本中の基本だが、一戦して逃げ込める場所があるという優位点がある反面、
もし、一度でも崩されれば敗北後の籠城という事もあり、籠城方の精神面は
はなはだ不利に傾く。烏合十万という大所帯故の問題点がここにもある。
その点を考えれば、籠城という選択は消極的ではあるが、大きな間違いで
あったというのも一概にはいえないか。「負けたくない」という意識なら、
やはり籠城は普通の思考であったかも知れない。
511 :
小幡勘兵衛:05/01/15 14:28:35
>>508 ははは、幸村殿!それで勝てますかな?!
古今より瀬田、宇治川を陣どって勝ったためしはありませんぞ!
ズバリ貴殿は経験が浅い!
なあに、この勘兵衛は諸国をまわり、「軍学」を身につけております!ぐ・ん・が・く・を!
ここは天下の大坂城に拠って、防ぐが一番!そうすれば諸大名もなびいて、お味方の勝利間違いござらん!
撃ってでるなど下の下策でござるそ!のう治長殿?
>>511 勘兵衛あたりなら本当にいったかも知れないな。
だが、お前がそういうのなら、その策は実は徳川がもっとも恐れる策と見た!w
>諸大名もなびいて
淀のばかなら本気で思ってそうで・・・orz
>>513 淀は信じてたと思うよ。
そうでなきゃ、籠城なんてできない。
おれの姓、関ヶ原参戦武将のあの人と一緒、イエーイ
信繁程度に指揮権を与えるなんてことできるわけがない
下の下の下だろ
結果を知ってればなんとでも言えるが
>>516 誰へのレスだよw
つーか、昌幸が存命であればね。
格、実績、奇抜さ、対徳川能力w、などなど。
一発逆転を狙う大坂方としては理想的な指揮官だったろう。
>>460 我が家はむかし、パールライスを食べたぞこのやろめ。
古々米がいっぱいまざってたぞばかやろこのやろめ。
だって淀君が講話を言い出さなければ、まだままた食料も弾薬もいっぱい
あったし、持ちこたえられたっていうじゃなーい。
521 :
藤巻:05/01/15 16:45:38
>>520 たしかに、しかし、精神上どうだったでしょう。
なんでも毎夜毎夜、鬨の越えを四方から浴びせ、城兵たちを不眠に追いこんだらしいじゃありませんか。
あれは実際こたえたとおもいます。
関ケ原スレなのに大坂の陣スレなってるな
しかし、大坂の総大将に成れる人材がいないな
真田は七光りだし
後藤・明石はまたもの
毛利は格不足
木村は若すぎる
大野は兄とうまくいってない
あとは…盛親か
524 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 17:13:09
そもそも現実的な篭城策があっても
有楽様その他大勢の横槍で実現不可能なんじゃないの?
525 :
ディオクレティアヌス:05/01/15 17:13:48
対陣が長くなれば救援軍は敵方から出てくる可能性もあるわけで
大内対尼子の月山富田城篭城戦では大内方から尼子方に鞍替えする人間が何人も出た
大阪冬の陣でも対陣が長引けば、伊達、毛利、上杉らは大阪城に突然入城する可能性
もあったはず。関が原の恨みで一癖もふた癖もある連中が集まっていただけに
冬の陣の東軍の結束力はいまいちだった
漏れも、籠城が長引けば、動いた大名はいると思う。
籠城戦で敵を囲んでるとき、背後を突かれるのが最も効くらしい。
直接戦闘しなくても、補給を断たれたら籠城側より始末に負えない。
大坂の総大将やるってことは、あの淀や治長の相手をして説得できる存在じゃないとまずい
出自、秀頼との信頼関係、傭兵大将達との親密を考えると木村重成が適任だと俺は思うが、
いかんせん若すぎる
漏れは昔歴史の先生に聞いたんだが、秀頼は伝えられているほど無能
じゃなかったと。すべては徳川側に作られた人物像でしかないと。
実は家康は、秀頼の成長してゆく姿に、信長を彷彿と思い描いてしまった
という説があり、自分の寿命が短いことを考えると、ここで秀頼を殺して
おかなければ、徳川の未来はないと、「恐怖心」から無理矢理戦争を
始めたというんだ。
ちょっと面白いなと思ったが、残念ながら学生時代あまり興味がなかった
こともあり、どういう典拠があるのか、聞かなかった・・・・・・
530 :
ディオクレティアヌス:05/01/15 17:34:35
要するに淀殿がもう少し戦争好きであったなら、あるいは政治家としての才能を
持っていれば冬の陣は大義名分からしても十分勝てる戦だったのに
外様の中でどんな戦況でも徳川方から動かないだろうと思われるのは島津くらい
なもので、親藩も松平忠輝なんか相当怪しい。
大阪方にも劣らないくらい烏合の衆といってもいい。
>>529 その通り。ただし偉丈夫な体格や風貌など、秀吉の実子なのかどうか怪しいが。
しかしながら、あのバカ母の命令を押しのけることが出来なかったのは、年齢からして
大したことはなかったのも事実。まあ徳川のスパイがどこまで潜り込んで秀頼を押さえ
つけたのかはよくわからないのだが。
>>531 そうそう。秀吉の実子かどうかの問題もある。
ともかく信長の再来と家康が恐れていたとしたら、面白いよなあ。
奇声を発するというのも、実は信長のように癇癪を起こしていただけという
見方もできるし。
ただやっぱり、大事に育てられて、祭り上げられていては、たとえ信長の
血が色濃く混じっていたとしても、おぼっちゃまだったであろうことは想像できる。
ただ満で12歳でしょ? 淀君や側近の意見をはねつけるのはとても無理
だったんじゃないか。ただ、20歳ぐらいになったらヤバイと家康が焦ったとか。
531さんは、秀頼が信長そっくりだったという説をどこで読みましたか?
そんな本があれば(歴史群像でもなんでもいいです)ぜひ読んでみたい。
533 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 18:39:32
やっぱ大坂方総大将は、現役国持ち大名で唯一、大坂方に寝返った古田織部で決まりでしょ?
>>525 対陣が長くなれば徳川方に色々な問題が出るくるだろうというのはわかる。
徳川が一枚岩でない、というのもわかる。
が、突然、毛利、伊達などの諸将が大坂城入りはあり得ないだろう。
負ければ十万だろうが、百万石だろうが、今まで築いてきたすべてが無くなる戦、
地元から遠く離れた地で、しかも家康の目の前で反旗を翻すなんてのはまさに
ゼロの可能性。もしありえるとすれば、それは徳川方の完全崩壊の瞬間であり、
その時は裏切りとか、そういうレベルではなくなっている。
対陣が長くなった場合の可能性は、史実通りの和平、もしくは各武将ごとに
病気などの理由を付けての暇乞いあたりが現実的ではないだろうか?
>>532 個人的には秀頼は「大変なおデブさんだった」という説が
それらしいなあ、と思ってます。
536 :
ディオクレテアヌス:05/01/15 19:00:35
うーんとなるとやはり大阪方の勝機は家康の死ぐらいしかないか
仮に家康が死ぬとなると秀忠は無理に大阪と完全決着をつけようとせず
多少、幕府の権威が弱くなっても豊臣家温存の政治決着を図った可能性が出てくる
その場合、江戸時代も天下泰平ではなくしばしば諸侯の反乱が相次ぐ不安定な時代に
なっただろう。後はスペインの介入くらいか。秀頼と淀殿が旧教徒になって
いれば可能性が無いとは言えんと思うが
>江戸時代も天下泰平ではなくしばしば諸侯の反乱が相次ぐ不安定な時代
これはどうだろ?秀忠はきっちり治める(幕府の権威も機構も)と思うが
毛利は築きあげたどころか4分の1に厳封食らったわけだが。
更に地獄のような税率にして一揆起こったしw
上杉なんて・・・・・。
上杉はうんこ
所詮長尾の流れ
540 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 20:28:56
>>537 幕藩体制を完全なるものにするために家康は大坂の陣を起こしたわけで。
自分亡き後、秀忠だけで天下を治められるようにするために大坂の陣を起こしたわけで。
>>538 つまり、毛利はすでに捨てるものがないということ?
>>536 >>537 正直いえば、家康亡き後、秀忠がどのような治世を行うか、
それにそれがどのように日本を変えていったかは
なんともいえない。乱世での秀忠の人物評がほとんど無いからだ。
が、治世という点では、秀忠とその新時代のブレーンは、充分に非凡な
能力を示した実例がある。大坂の陣で家康が没したとしても、徳川家の
軍事力に著しい低下でも無い限り、秀忠がその後をきっちりと治めた
可能性は充分にある。
ただ、豊臣が残る事になるとすれば、家康とは相容れなかった淀が、
次世代になったこの時点を境に、秀忠にある程度の譲歩をする事が
絶対に必要だと考える。淀が変わらなければ、秀忠は再度、豊臣征伐を
行わざるを得ない状況に追い込まれる可能性があり、二度目が
起こるならば、史実通り、今度こそ豊臣は滅ぼされるまで、徳川は
矛をおさめないだろう。
結局、徳川が天下を収めたことが、その後の日本(我々も含む)に
いい影響を与えたのか悪い影響を与えたのか、皆さんどう思います?
漏れ個人としては、島津と長州が幕末に天下をとったことで、日本が
軍事大国に進む道が開けてしまったという意味で、徳川の天下は、
それなりに良かったのではと思うのですが。
(いまでも徳川の天下が続いていたとしたら(外国の侵略がなかったとして)、
ほんとに意味での平和国家日本だったような妄想したりしてるんですが)
政治的に良いか悪いかはどうかわからんが、江戸での生活は
今よりはずっと仕事しなくても生きてられたって話だからね。
価値はあるんじゃないの。
>>545 それは病気がはやったら風邪や下痢レベルでもどんどん死ぬから
仕事のポジションのサイクルが今よりずっと早いというだけの話なんだが
>>544 まず、下から2行目の「外国の侵略がなかったとして」という前提があり得ない。
下の段落の1行目〜2行目も意味不明。
このことを論ずるときに必ず出てくるのが、鎖国について。
・鎖国してたから産業革命から取り残された。
・鎖国のおかげで、世界史上類を見ない長期的平和が保てた。
どっちも正しいんだよね。善悪二元論で語るのは無理がある。
いい影響もあったし、悪い影響もあった、としか言えない。
ただ江戸時代が現代日本のアイデンティティーの形成に、
大きな影響を与えているのは間違いない。
その現代日本のアイデンティティーが好きか嫌いか、好みの問題。
結局はここに集約されてくるのではないかな。
>>510 リスクを最小化するという点からは評価できよう
最善策かというと疑問だが
>>517 格は小大名
あの中で格が上なのは長曽我部でわ?
正則が入城していたら勝っていた
間違いない
>>544 外国の侵略がなければ、良かったかもね
でも民主主義じゃないよ
目安箱があるから大丈夫だよ。
目安箱で首相公選制になるので?
別に民主主義は万能じゃないしな。
今の日本みたいな間抜けた教育状況で民主主義とか抜かしてるとこの有り様。
556 :
ディオクレテアヌス:05/01/15 22:47:05
徳川家の天下は社会の活力を奪ったという点で平和という代償を得たとしても
非常に疑問が多い。平安末期から大阪夏の陣まで動乱期には社会の活力は保たれていた
かえるの子はかえるなんていつの時代の考えだよ。江戸幕府自体が時代錯誤の存在
民主主義反対なら、キムジョンイル主義でどうよ?
賛成なので?
明治期は軍拡の時代であっても、日本という国が輝かしい時期であったことは間違いない
日本の歴史に暗い影が差し出すのは日露戦争のあたりから
もっとも、明治を創ったのが薩摩という、この上なく身分制度が厳しい藩から生まれたせいで、色々内面的な問題を抱えていたが(特に女性軽視)
日露戦争は、輝かしい勝利であった
実情はぎりぎりだけど、それでもね
ここは鎖国の歴史的意義について語るスレになりますた
561 :
ディオクレテアヌス:05/01/15 23:02:32
日本の民は基本的には遅れていて、平安末期までは固定化された身分制度
を受け入れていた。階級の流動化が鎌倉時代の前後から始まり織豊政権まで
続いた。徳川家のやったことはいわば武家による公家社会の復活であって
反動以外の何者でもない。日本における暗黒の中世といえる
日本人は良かれ悪しかれ島国根性だ
>>561 確かにそうだが、信長が天皇制を破壊し得なかった為に、猖獗を極めた群雄割拠の戦乱を
終結させる原理としては、家康の立場としてはあのような形に転化するしかなかった。江戸
時代の平和などはたわごとであり、日々の生活を全て戦争状態にたたき込むものであった
としても。
朱子学の導入も、そういう意味があったわけで。ただそれも結果的に水戸学派から幕末の
尊皇派に繋がってしまう皮肉な事態を招いたが。
やはり国家論を正面から取り組んでこなかったツケは、どこかで払わされただろう。もちろん
20世紀中葉まで持ち越して国土を灰燼に帰したのは、必然的既帰結としては痛すぎるが。
>>561 そういうのは階級の流動化ではなくて、弱肉強食というんだよ。
江戸幕府が成立しなくても結局弱いものは虐げられるだけ、
混乱していればそれだけ寄り酷くなる。
優れた能力をもっている者にとってはともかく、
大多数の一般人にとっては、安定していただけ江戸時代の方が遥かにマシだ。
安定してても苦しいんじゃ意味がない
逆に秀吉という大成功者が居る以上、実力でのし上がりたいと思うのは資本主義の国に生まれた俺等からしてみて当然じゃないか?
>>567 内戦状態より遥かにマシだろ?
ただ、身分差別をされるか、
戦争という状況で身分差別をされるか、
どちらがよりマシかは考えるまでもないと思うが。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 23:43:20
たしかに中学に通ってそうwwww
しかし、まだまし。
許せないのは、鎖国の歴史的意義に語るなどとほざいた輩。
スレたてろや、ボケ!
戦国時代に日本がひとつの国であるとでも思っていた奴がいたのか?
当時の日本は美濃や尾張、駿河……っていう国の集合体が日本っていう定理だろ
>>565 灰燼になったが、国家論は未だ成立していないのでわ?
>>568 戦争でなければ、キム体制でもかまわない?
>>570 だったら、内戦ではなく戦争ということになるだけ。
状況が悲惨なのか変わらんよ。
もっとも、天皇や将軍って者がいたんだから、
最低限の教養があるものは大抵、ある意味でひとつの国と思っていたと思うよ。
もちろん、今の感覚とはずいぶん違うと思うが。
>>573 戦争時でキム体制よりはマシだろうってこと。
>>574 内戦と戦争じゃかなり違うよ
昔の戦争じゃ、勝てば利益がでるんだし
>>576 国民国家という意識が成立する前は全然変わりません。
では、秀頼はデブだった、でよろしいか?
戦国時代に身分差別がなかったわけではないし、
江戸時代は長い安定のおかげで、
少なくとも江戸・大坂あたりの庶民は比較的良い暮らしを送ることが出来た。
戦国時代が続いていてはそうはならなかっただろう。
ほんとは封建制から一気に民主制になれれば良かったが
日本人には無理だった・・・・
ぶっちゃけ近代的な意味での民主主義を成立させたのは、
ヨーロッパだけ。奴らの方が特殊なんだよ。
少なくとも今の価値観では。
>江戸・大坂あたりの庶民
つまりそれ以外は死ねと
>>582 死んでないし。
いや、実際戦国時代の方が死ぬ可能性高いだろ?
確かに江戸時代も飢饉とかは来るが戦国時代はそれプラス戦争だぞ。
なんか戦国時代に対して夢見すぎではあるまいか。
フィリピンは民主主義を実現したな
日本人にも不可能と言うことはないだろうが、少なくとも相当送れているな
ディオクレティアヌス氏の言う「階級の流動化」というのは、
>>566氏の言うようにまさに弱肉強食そのもの。
勝者と敗者とがはっきり別れる、貧富の差が大きい社会になることだろう。
江戸時代というのはパックス・トクガワーナによって
庶民の生活水準・文化水準が飛躍的に向上した時代。
寺子屋の普及は教育水準を引き揚げたし、化政文化の担い手は庶民であった。
戦国時代であれば、庶民はその日を生き抜くことに必死で、
美術だの文学だの、それどころではなかっただろう。
自由主義社会というのは、現代においてはまずまず上手く機能しているけど、
そのためには「機会均等・平等」の原則がなくてはいけない。
戦国時代以前の文化の担い手、つまり武士や貴族や僧や豪商と庶民との間には
大きな階級差がある。
こんな状況で自由競争社会の実現は、まず不可能。
成功する者はほとんど上流階級出身者(例外はあるだろうが)だろう。
先に言ったように、勝者と敗者とがはっきり分かれるというか、
勝者は最初から勝者であり、敗者は最初から敗者となる社会だ。
ディオクレティアヌス氏は階級の固定化を悪として述べているが、
未成熟な庶民に自由競争を強いることにより、逆に階級の固定化を
招いてしまうことになるわけだよ。
であれば、未成熟な庶民がいる以上、階級制は必然か?
現代でも未成熟な庶民がいる以上、階級制を導入すべきと言うことか?
自由なんて知ったから人間苦しむんだよと言ってみる
>寺子屋の普及は教育水準を引き揚げたし、化政文化の担い手は庶民であった。
ここってさ、江戸時代も後期も後期な訳だよな
一応、中国とかで当てはめると江戸時代は=明と考えて良いかな
庶民に文化が広まった(室町=宋)後の時代
でも明ってひとによっちや評価が180°違うな
>>589 くだらない極論に走るなよ。
自由主義・民主主義が成立出来るなら成立した方がいいよ。
現代日本だって曲りなりにも成り立っているのだからその方がいい。
しかし、戦国時代のままでは決して成立しないし、その兆候も全く見られない、
だったら、せめて安定していた方がマシだってこと。
>>591 明の時代に日本の化政文化に匹敵するほど、
「庶民が主役」といえる文化はなかったと思うが。
594 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 00:43:40
パックストクガワーナか。パックスロマーナと比べて随分質的に劣る
ローマ時代は奴隷さえも自分の子供の代なれば実力次第で元老院にさえなれる
システムを備えていた。しかも2000年前にだよ。
ヨーロッパが暗黒の中世で低迷している間にせっかく鎌倉から織豊政権まで続いた
階級の流動化によって文明的に追いつくとこまで来たのに徳川が全てをぶち壊した
そのつけを明治以来の無理な大国化で支払った挙句国を焦土にされ今でも
事実上アメリカの植民地のままだ。
>>594 戦争状態を継続すべきだったということか?
>>589 よく読んでね。
自由競争の実現のためには、「平等・機会均等」の原則が必要。
江戸時代以前にこんな思想があるか?
「未成熟な庶民」の意味も誤解している。
現代は国民全員が教育を受ける権利を享受しており、
最低水準の生活を維持するだけの社会保障制度もある。
日本の前近代において、これが実現できてたか?
明治に入り、競争が取り入れられてもやっていけたのは、
江戸時代に庶民の生活水準が成熟していったことが大きい。
いわば、江戸時代は自由主義社会への準備期間だったとも言える。
ちなみに、自由主義社会が貧富の階級を生んでしまうことは、
今現在実証されているよな。
平成の世は一億総中流から、勝ち組と負け組とが分かれる社会だ。
>>594 だから、全然違う物を混同しているぞ。
流動化じゃあなく弱い物を足蹴にしているだけ。
確かにローマはいろいろ優れていたと思うが、
戦国時代がそれに近づいていたなんて妄想もいいところ。
>>595 よく読んでくれよ、
脳みそくらいあるんだろ?
>>597 どうも矛盾しているが
明治の前に
国民全員が教育を受ける権利を享受しており、
最低水準の生活を維持するだけの社会保障制度
があったのか?
>しかし、戦国時代のままでは決して成立しないし、その兆候も全く見られない、
だったら、せめて安定していた方がマシだってこと。
むしろ諸勢力が初めてそれぞれ自分の足で立ちかけた時代なんだが?貿易自治都市なんて
当時は堺しか無かったし、宗教自治、農民の自治、更に農業、商業、工業、どれもルネッサン
スを起こしうる萌芽はあったんだよ。残念ながらキリスト的一神教がないのでヨーロッパ的個の
確立については期待できなかったかも知れないが、それも一向宗、法華宗、耶蘇教など、急速
な成長を見せていたし。
それらをブルドーザーでのしてしまったのが江戸時代。もちろん信長が天皇を滅ぼそうが秀吉
が東南アジア進出を果たそうが同じような過酷な身分制度は成立したかも知れないが、それで
も徳川のような停滞と固定化はなかっただろうね。
>>600 明治はそれを制度化した時代だし、諸外国という見本にすべきものもあった。
それに、既出のように、
江戸時代のおかげで庶民にまで教育等が比較的いきわたっていたのは間違いない。
それが有利にも働いた。
準備期間にしても長すぎた
そしてスレ違い、板違いにも
>>601 いや、マジで頼むよ。
自由主義・民主主義が成立出来るなら成立した方がいいと書いてあるのに、
何で階級制が善なんてことを言っていると思ってしまったんだ?
>>544 まだ終わってないの?
終わったらまた来る。
階級制は、江戸の末期にはすでに崩壊しつつあったと聞きますが・・・・・・
すでに財力的には町人の方がはるかに裕福だったし、買おうと思えば
武士の養子になって武家になることもできたと・・・・・・
いずれ幕藩体制はごっちゃごちゃになり、ある意味でブルジョア的民主主義
体制ができていたのでは・・・・・・
>>602 それは別に江戸幕府がやったのではなくて、
各自の戦国大名がやったことですが?
それも特に信長や秀吉といった進歩的な者がね、
大名による一元化支配っての。
>>600 あるわけない。
庶民の成熟というのは、生活や教育水準の向上ということ。
江戸期の安定した社会により、庶民の生活水準は向上したし、
江戸期の庶民の教育水準の高さは言うまでもないことだろう?
明治に入り、教育基本法の制定や四民平等の普及により
自由競争社会に入っていったが、
それは江戸期に下積みをつんでおいたことも影響しているよ、ということ。
アフリカとか東南アジアみたいに庶民の水準が低い国に
いきなり自由主義をおしつけると、大混乱を招くっていうのは
実証されてると思うぞ。
やっぱり、かなり矛盾も悪いところもあるけど、かってに琉球を従属させた
薩摩みたいのが日本支配階級になったことは悲劇でしかないと思う。
よしんば徳川を倒したとしても、土佐や長州が中心だったら、まだしも
侵略主義は少なかったのではないかと。
同意する
薩摩はダメポ
政治面では優秀な人材を輩出する土地だけど
612 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 01:09:08
>>598 ローマとて最初から優れた制度を持っていたわけではない。多くの制度は平民と貴族
の激しい戦いと妥協の末に生まれた産物だ。
日本の場合、民衆の抵抗運動は一揆の形を取って、室町時代から現れてくるのだが
これも戦争の一形態だ。最終的に民衆の階級否定の抵抗運動が徳川政権の成立によって
完全に敗北したことがその後の歴史を決定的にした。織豊政権は当時のヨーロッパ
と同様この矛盾を外国との戦争により解決しようとして失敗し、ヨーロッパは成功した
この差はやはりヨーロッパ人がギリシャ=ローマ時代の栄光を持っていた歴史の差だったか?
>>612 は?
一揆を叩き潰したのは各地の戦国大名、
特に織田と豊臣ですが?
産業革命以前においては、国力は人口にほぼ比例する。
江戸時代の安定により、飛躍的に人口が増大している。
国力が成長していったってこと。これは江戸幕府の功。
しかし、ピークに達した後はまったく成長しなかった。
これは江戸幕府の罪。
だから、江戸幕府が100パーセント善であるとか、
100パーセント悪であるとか言い切ることなんてできないんだよ。
国力って何?
>>612 一揆が階級否定の抵抗運動って・・・・
いまさら左翼思想にかぶれてる?
当時の農民がそんなこと考えてるわけないだろ。
618 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 01:20:43
>>613 織豊政権はまだ外国と戦争することによって身分制度から来る庶民の不満を
解決しようとしていたということ。帝国主義が成功すれば身分制度の固定を図る
こともなく支配者階級と民衆の妥協が成立していただろう。
それは実は日本人全体を貴族にし、支配国を奴隷にする恐るべき政策なのだが
ヨーロッパはこれに成功した
ヲイヲイ、水差すようで悪いんだが、脱線しすぎなんじゃねーか?
と言いながら。
>>614 実際あれがピークだろ?江戸時代になって飢饉が酷くなっている。
>>618 身分制度から来る庶民の不満?
どっから出てきた妄想よ?
>>619 おそらく江戸時代の農業技術では、あれ以上の農業収入を
得ることはできなかったんじゃないかな。
当時の日本列島で養える人口の許容量が、限界に達したって感じ。
気候がちょうど寒気に当たっていたことも大きい。
だから人口がピークに達した後に、さらに成長を続けようとするならば
鎖国をやめなければならなかったと思うよ。
ほんと、脱線するにもほどがあるね。もう寝る。
>>618 言ってること無茶苦茶だが、
西ヨーロッパ社会は海外植民地の獲得に成功したが、
それでも市民革命がおきてるぞ?
一方広大な領土を持った国でもトルコや中国やロシア等では、
民主主義なんて発生しなかった。結局それぞれの国で事情が全く異なるということ。
はっきり言って当時の日本の状況と西欧の近代を無理やり比することなぞ全くナンセンス。
アヌス君、バイアスのかかった目では歴史を評価することはできんぜ。
624 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 01:35:09
>>619 たとえ、庶民が生活の苦しさ故に支配者に反抗したとしても
それすら全くすることの無かった平安時代までとは随分違ってるだろう
加賀や山城で民衆が組織立った支配を一応成立させたところもあったし
個人としては秀吉や道三という例もあった。
当時の民度としてはヨーロッパと比較しても遜色はないと思うが
>>603 であれば比較の問題で、江戸時代でも構わなかっただろう
>>624 そんなこといったら、
中国は秦のころから民衆が生活の苦しさ故に立ち上がっていますが、
いっこうに階級社会は打破されず、民主主義も発生しませんでしたが?
要するに、場合によって状況は全然変わるのよ。
もうちょっと広い目で歴史を見るようにした方がいいよ。
で、とりあえず、スレ違いだし身を引いておきな。
まあ、今回のことを教訓にして適当なことは口走らないようにしたほうがいいよ。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 01:51:57
関ケ原前にミツナリ死ねばよかったんだよっ!
大坂の陣前に淀が死ねばよかったんだよ!!!!!
>>618 信長は外国と戦争しようとしていた?
そんな話あったか?
>>630 混乱云々以前に戦国時代じゃあ自由主義を「押し付ける」ことがそもそも不可能。
まだ、どこにも存在しなかったからね。
自文化の中から独自に反映させなければならない。
あたかも、江戸時代がなければそれに成功していたと言わんばかりのものがいるが、
誇大妄想以外の何物でもない。
>>633 相当難しいとは思うが、不可能ではない
というのは人類は生まれながらにして、様々な文化形態を持っていたわけではないからだ
少なくとも押しつけは十分可能
戦後日本だって押しつけられたんだしな
>>634 いや、自由民主主義が未だ存在もせず、誰もそれを知らなくては、
押し付けることも出来ないだろうってこと。
未来人でも来れば話は別だが。
>>634 日本は第二次大戦前から一応は自由主義経済が成り立っていましたが?
民度の低い国に自由主義を押し付けて失敗した例として、ミャンマーが挙げられますが?
>>632 戦国時代が続いていれば、
階級制度を克服した社会になったはずだ、みたいなことを言っているものがいたからさ。
確かに、江戸時代の途中、庶民がそれなりに力をつけ教育もある程度いきわたり、
何より他国で民主主義に近いものが成立し手本に出来るようになった段階で、
日本が少なくとも明治並みの社会を実現する準備は整ったとは言えると思う。
だから、それ以降の江戸時代の存続はある意味で無駄だったとも言える、
もちろん、そんなに急に体制の変換は出来ないから最も効率良くなんて出来るわけがないが。
しかし、戦国時代が続いていてはそれすら無理だし、
まして自力で階級社会を覆し新しい体制に移行するなぞ妄想以外の何物でもない。
結論
江戸前期 ○(民衆にとってようやく休める時代)
江戸後期 ×(ただし、前期の蓄積で化政文化)
明治維新 ×(薩摩がすごい駄目)
日露まで ○(日本頑張った)
WW2まで ×(暴走)
>>635 ということは人類には未だ民主主義がないということなのか?
それとも未来人が来たのか?
>>636 軍国主義でわ?
ミャンマーはどう失敗したので?
日本も軍事化したわけで失敗でわ?
>>639 何言ってるの?
近代に西ヨーロッパで発生したじゃん。
それが影響されるなり押し付けられるなりして普及したんじゃないか。
>>637 つまり内戦が続いては、体制の変革は難しかったということか?
>>638 維新は、一応旧体制を変化させたと言うことで評価できる
幕藩体制では、植民地化は避けられない
龍馬の構想した「列侯会議」が実現してれば、そうそう外人に侵略されは
しなかったはず。武力的には、インドだのタイだのベトナムだのと比べたら
雲泥の差で強かったはずだし。
やっぱり漏れは、薩摩というか、鹿児島県人の偏狭な国粋主義が
日本そして周辺各国の不幸を招いたと思う。
>>642 戦国時代が続く→民主的な社会が成立、
って図式が短絡的、というか意味不明ってこと。
>>637 >確かに、江戸時代の途中、庶民がそれなりに力をつけ教育もある程度いきわたり、
>何より他国で民主主義に近いものが成立し手本に出来るようになった段階で、
>日本が少なくとも明治並みの社会を実現する準備は整ったとは言えると思う。
この段階で日本に市民革命が起こっていれば、効率よく成長できたんだろうけどね。
でも革命なんて、きっかけなくしてそうそう起こるもんじゃない。
ペリー・ショックがなければ明治維新は数十年遅れただろうし。
日本国中が大飢饉に見舞われて、庶民の不満が高まれば起こったかもしれないが、
幸運にもというか不幸にもというか、江戸時代の日本は豊かで安定していた。
>>644 シーレーンというか海上ルートが破壊される
貿易もほぼ不全になる
>>651 いや、
>>635は戦国時代では、という話しなんだが。なんか誤解してる?
念のため言っとくが、戦国時代には、
まだ、ヨーロッパにも自由民主主義なんて成立してないよ。
>>640 戦前の日本を旧ソ連や北朝鮮みたいな国だと思ってんのか?
三井や三菱、住友は自由競争の中で台頭してきたのではないのか?
発展途上の国の大多数が無知な国民に、民主主義を与えても無秩序が生じるだけで、
行き着く先は軍事政権であるという典型的な例だろう<ミャンマー
また、日本が軍国主義に傾倒したのとミャンマーが軍事政権化したのとでは、
事情がまったく違う。比較にならん。
>>652 だからヨーロッパの前はどこに民主主義があったのか?
>>653 ミャンマーだって企業ぐらいあるだろ
日本だって結果的に軍国主義で灰燼に帰した
ミャンマーは灰燼に帰したのか?
ミャンマーの方がましじゃないか
656 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 02:44:14
日本は「外圧」によって変化を遂げる。これからも・・・ずっと、ずっと・・・。
>>653 無知な国民って言い方に引っ掛かりは憶えるが、
少なくとも戦前の日本に民主主義・自由主義的な概念が、
例え概念だけでも存在したのは疑いない。
大正デモクラシーとか。
明治期の変革に対して、江戸時代から農村部にまで寺子屋が普及し、
かなり識字率が高かったりしたことも良い影響を与えた。
そういう前提がないところにいきなり自由民主主義といっても、
混乱が助長されるのは想像に難くはない。
まだしも模範となるような前例があり参考に出来るなら、
ある程度可能性はあると思うが。
>>654 あえて言うなら古代ギリシャだがね。
というか、西ヨーロッパはそういう過去の影響もあってだが、
近代的自由民主主義を自力で成立させた唯一の地域。
経済的発展や科学的思考とかなら中東や中国・インド等でもある程度発展したが、
近代的自由民主主義が成立したのは西欧のみ、
はっきり言って偶然の要素も多きい。
西欧で成立したから、戦国時代の日本でも成立する、
なんてことにはならないってことよ。
>>653 民度の低い国には民主主義社会も自由主義経済も急には成立しがたい、
という話をしているんだろうが。
絶対に成立しないって言ってるんじゃないぞ。
成立の条件を整えるためには時間がかかるし、困難が伴うと言ってるんだからな。
その例としてミャンマーを挙げたんだ。
軍国主義が良いか悪いかの話をしてるんじゃない。
混乱と言うことで有れば、明治体制への移行期に相当な混乱が生じた
大正期には確かに民主主義であったかもしれないが結果的には軍国主義・反民主主義へと
至ってしまった
そもそも全体主義や統制経済でないのだから、ある程度の混乱は必然だ
現代の自由民主主義は混乱そのものである
既得権益層にとっては自由経済は基盤を揺るがす
ただし日本の場合民主化が偏っていて一部の謎の既得権益層と官僚階級に特権が
存在するようになってしまった
>>661 ギリシャはほぼ完全に独自だわな。
一応言っとくが古代ギリシャで発生したから、
戦国時代の日本でもなんて話にはならないよ。
古代ギリシャ・ローマだって古代の他のいかなる地域でも成立しなかった、
ものを成立させた特殊な例なんだから。
>>664 ならないとは言い切れないだろ
なぜギリシャだけならばギリシャだけがということになるがな
アトランティスには目安箱もあったらしい。
>>659 だから成立すると言うことでいいんじゃないか
そもそも民主主義は結構大変だよな
にほんの民主主義は怪しいものだ
特に米国の支配が大きい
植民地と言われるぐらいだからな
>>666 無論100%ならないとは言い切れないが、
普通そうなる根拠がなければとてもそんな主張は出来ないだろう。
それとも、戦国時代の日本と、古代ギリシャ或いは近代西欧との間に何か大きな類似点があるとでも?
しかし、何をどうすれば、
江戸時代がなければ日本で民主主義(少なくともそれに近い階級制度の打破)
が実現した。なんていう妄想にたどり着くのか。
全く持って意味不明。
>>669 考え方だけらしいよ。
その前はわからないけど、
地中海にはミケーネ帝国もあったらしい。
そこはかなり厳しい階級制度があったようだ。
でも、部下も上司もみんな顔をお腹に持ってきたり、
腕の先に付けたりと、全員改造するという平等意識も
もっていたらしい。
というかみんな、ケツの穴野郎に釣られすぎ。
翌朝ここをのぞいた連中から「何をスレ違いの議論を延々とやってんだ」と
嘲笑されること間違いなし。
……自分も含めて。
>>670 近代西欧と江戸時代は類似点があるだろ
その意味では発生してもおかしくはない
古代ギリシアと英国の類似点は?
そもそもギリシアで革命があったのか?
関ヶ原のネタがつきたからでわ?
欧米の民主主義というのは、その他の地域の植民地化あったればこそなんだけどね。
植民地人が社会構造のピラミッドの最低辺に組み込まれたことで、欧米社会における
最下層民の地位が相対的に高まり、相応の権利を享受することができるようになった。
欧米人が民主主義だと偉そうに振りかざしても、所詮奴隷化された人たちの犠牲の上で
成り立っていた幻想であるという事実は、十分に考慮しないといけないね。
いきなり飛躍するけど、13世紀チンギスハンの西征がポーランド止まりであったことが
非常に惜しまれるね。イベリア半島の端まで攻め込んで、モンゴル人と完全に混血すれば
良かったのに。
678 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 04:21:47
現代のEU>植民地の同化を計ったローマ>奴隷の犠牲の上で成立した近代民主主義
政治体制の上でギリシャ=ローマ時代に追いついたのが第2次大戦後だったのは
驚きだ。
679 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 04:26:11
>>677 日本もそのコースを織豊政権の帝国主義路線を継続していれば歩めた
可能性はあったというのが漏れの考えなのだが
ヨーロッパから近代民主主義思想を効率良く吸収できた可能性はあったと思う
豊臣家がキリスト教に帰依してたらな〜
681 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 07:38:16
返す返すも残念だったのは秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わったことだ
出兵先を台湾や東南アジアにしていれば巨大海洋帝国なれたかもしれないのに
徳川政権の是非は鎖国のプラス面とマイナス面のどちらが多かったかにつきる
漏れはヨーロッパが暗黒の中世から抜け出したばかり、明も末期という状況で
戦国時代を戦い抜いた日本の技術水準は世界でも屈指のものだっただろうから
それを生かさず引きこもってしまったことが残念でならない。
福島正則の墓を建てた天皇って、どうしてそれほど思い入れが
あったのだろう。
>>679 その考えが間違っているというだけ。
じゃあなんでモンゴルは同じ道が歩めなかったんだ?
トルコはペルシャは中国は?
大きな対外進出を果たした国は決して少なくないが、
全てが民主化したわけではない。
あなたは西ヨーロッパと日本しか目に入っていないから、
そういう変な思い込みをしてしまっているだけだ。
もういい加減馬鹿の相手をするのは止めとけ。
それもウザイ
685 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 08:25:22
>>683 モンゴルはそもそも近代民主主義思想に全く触れていないから仕方ない。
トルコはイスラム教の影響だと思われる。トルコが民主化したのは政教分離を徹底したから
俺が言っているのはあくまでも可能性であって実際に日本が帝国主義路線を
とった後民主化したかどうかは分からないとしか言いようが無い
もちろんトルコや中国のように列強との植民地競争に敗れて植民地または
半植民地になった可能性もある。まあ現在、明治以降の遅ればせの帝国主義戦争に敗れた
結果まさにそうなっているわけだが
>>685 戦国時代の日本も近代民主主義思想に全く触れていないから仕方ない。
ってことになるが?
まあ、要するにあなた視野が狭すぎ。お話にならない。
687 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 09:03:44
>>686 当時、近代民主主義思想なんてそもそも生まれていないか忘れ去られているか
どちらかだろ。ヨーロッパでさえその萌芽が現れているかどうかって時期
なんだから。
問題はヨーロッパが近代民主主義と産業革命で発展していた時期に
日本で同じことが不可能だったと言えるかどうかだ
私の言っていることが根拠薄弱というならあなたが言っている
日本は帝国主義の後民主主義にはならなかったと言い切れる根拠でもあるのかい?
688 :
ディオクレテアヌス:05/01/16 09:12:47
そもそも江戸時代の寺小屋による識字率の普及だって国内が平和なら
できるだろ。それは江戸幕府のように鎖国という犠牲を払わなければ
不可能だったのかどうかってことだ
俺が言ってるのは戦国時代は民意のレベルはどうでもいい。何故なら
世界でも民主主義思想なんてギリシャ=ローマの歴史に埋もれたままだったのだから
戦国が続く必要はないが国内を統一した上での帝国主義は可能だったはず
ということ。
>>687 はいはい、
出来ないという根拠がないなら出来るとでも?
典型的な詭弁のパターンにはまってますよ。
>>687 じゃあなんでモンゴル帝国は民主化しなかったんですかね?
まあ、もちろんモンゴルにも可能性はあったと思いますよ。
仮定の話に絶対ってことはありえないですからね。
当然、同じ程度の可能性は戦国時代の日本にもあったと思うが。
そんなかすかな可能性に基づいて語るなんて全くナンセンスですよ。
もう相手するのやめろや。
悔しくないんかお前ら。こんなアホに釣られ、スレを乗っ取られて。
みんな踊らされてることに気づけよ。外に出て頭を冷やせ。
そして三成タンと家康タンの話をしようじゃないの。
しかしまあ、こいつ。ディオクレティアヌスの名が泣いてるな
692 :
ディオクレテイアヌ:05/01/16 09:54:45
>>689 だから戦国時代のままで日本が民主化するなんて俺も言っていない
鎖国しなければ庶民の教育程度の向上は不可能なのか
江戸幕府の罪は鎖国を行ったことにあると言いたいだけだ
まだやってんのかよ。。。
だから、スレ違い。
2,3人が駄弁る程度ならご愛嬌だが、演説は何の意味もない。
そんな豊臣側が関が原の戦いで勝つってことは
福島正則に兵糧奉行をやらせて成果を挙げるようなものだよ。
だから、滅んで当然、負けて当然。
ようは三法師と秀秋のせい
ようは三成と家康のせい
・・・をを、漏れのみがこのスレで真実を言っている!
というか、妄想系朝鮮出兵すら意味が無い。
東南アジアの日本人町の数数えてみ。
・・・と煽ってみる。ついでに凄い勢いで無くなったのも。
>>695 東軍の兵站を支えていたのは福島正則。
朝鮮征伐でも後半に兵糧の奉行をしている。
>>692 最初は階級制度の克服とかでかいこといってたのにね。
まあ、スレ的には無駄だったが、
あなた自身は多少成長できたようだ。よかったね。
で、関ヶ原の話だけど、
前から少し気になっていたんだが、
尾張に東軍の先発部隊のみがいた時期に、
西軍から攻撃を仕掛けるってことは出来なかった物なのかね?
>>702 できなくはなかったと思う
ただし他の城が落ちていない状況で突出して攻めると逆襲を喰らって大損害となる
恐れもある
もちろん奪取できた場合は効果は大きい
西軍でも選択肢として検討されたはずだ
正則あたりも、家康は自分たちを捨て駒にする気なのか、
みたいなことを言ったらしいから、
当の先発隊にも本隊が来る前に攻められたら・・・
という不安はあったのだと思う。
しかし、実際には家康にはっぱかけられたら、
逆に岐阜城を落してしまうありさま。
西軍は前線への迅速な兵力の集中に失敗していたのかね。
西軍は畿内各地の城を攻めている
攻め落とした城も多数
作戦として足下を固めたもので、至極妥当な戦略だ
確かに戦略的には妥当だが、
敵が鼻っ面まで出てきて前線の城が落されるようでは、
結果的に足下を固めるのに時間かけすぎってことになる。
戦略的には間違いではないが、戦術レベルで失敗したということかと。
至極妥当な外線戦略だな。
岐阜城とか、伊勢とか、細川とかミスいっぱいあったけどね。
戦争ってミスが少ないほうが勝ちで、それって運と経験でしか
取得できない。
・・・東軍の勝利っていうよりのは家康の勝利って感じだな。
今更なんだが、福島正則って以外に無能という感じがする。
政治力・戦略的な部分は随分語られているんで割愛するけど、
肝心な戦闘も関ヶ原では弱体化した宇喜多家に散々に破られているし・・・。
所詮は出来星大名でおとり潰しも当然だったのかもな・・・。
>>708 相手は兵力3倍だからむしろよくもったと評価すべきでしょう。
>>708 破られてはいないのでわ?
激戦になったことは間違いないが、最後まで戦闘状態だった
だいたい攻める方が厳しい状態だしね
では、当日限定最強は石田隊でおk?
島津でわ?
福島対宇喜多は、山側に守備する宇喜多の陣に
福島が下から攻めかかるという構図。
当然守備側が有利なわけで、福島は3倍の相手に勇戦したが
打ち破ることができず、逆に押し返されつつあるところに
小早川の裏切りという感じだろう。
石田対黒田・細川etcは、石田方は笹尾山に構築した陣をバックに
数倍の兵力を相手に、攻撃をはね返し続けていたが、島左近の討ち死になどもあって
少しずつジリ貧状態に陥りかけていた。
その頃に大谷が崩れ、宇喜多も敗走。支えきれずとうとう石田も敗走という感じだろう。
小早川の裏切りがなければ、福島が先に崩れるか石田が先に崩れるか、
それに向けて両軍の大将がどういう指揮を取るか、
これが勝敗の別れ目になるんじゃないかな。
そう考えると、家康本隊3万が無傷で残っているのは大きい。
>>709、710
先陣で戦闘切ったのは良いけど、先陣の明石隊に追いまくられて、
戦闘開始ラインまで押し戻されるわ、名のある士30名は一撃で討ち取られるわ。
これってさんざんに討ち取られているっていわんか?
防御側の優位というよりも統制の取れた攻撃が最初できなかったという印象だね。
霧が出ていて接敵が比較的容易に出来た時点で防御側の優位は随分失われている。
結局初激は不用意な攻撃を仕掛けて蹴散らされただけだ。
問題は頭叩かれて中央部の主導権を握られたに等しいということ。
それどころか、加藤と筒井が一緒に戦線を形成しなければ、西軍最大の兵力を
持つ宇喜多隊が正面突破に成功して関ヶ原が西軍の勝利に終わった可能性も
あるんだぜ?
東西両軍共に陣形から、予備隊投入による正面突破か、両翼のよる包囲戦を
狙っていたんだけど、福島隊の早々の攻勢失敗により中央突破の目が無くなった。
関ヶ原の合戦みても家康も攻勢ではなく戦線維持として使っているし。
どっちかって言うと早々に右翼切り崩しに専念している。
そういや中央部と左翼にいた外様って右翼にいた外様よりもとり潰し率が高いよね。
限定でもない。島左近の勇名は作戦指揮能力にある。
福島は、総合力に優れた武人ではあるが、意外に戦術指揮は疑問がある。
まあいずれにしても、もし福島だけでも豊臣に残れば、あるいは前線で寝返れば
数百万石の大大名も可能だったのに。
いくら三成憎しとはいえ、その讒言を入れたのは太閤自身だ。三成に問題がある
のであれば自分たちの力で除くべきで、外様の家康に頼るなどバカの一言に尽き
る。
スレ違いの話題が続いているが、官僚組織という体をなした秀吉の組織、しかもそ
れは経済に依拠したものであること、内部に問題が生じたときに集団でどのような
解決策を採るのか、などについては現代日本の我々にも影響を与える大きな歴史
的事件であることは間違いない。
アヌス氏も、世界史板ではないので、古代ローマの民主主義についての考察は余
所でやって欲しいところではある。そんな単純な類推ではだめでしょうな。
家康って豊臣政権ではどんな立場なんでしょ?
三成とか文官派には危険因子で、武断派には叔父みたいなものなんですかね
きっと秀吉なんかは金ヶ崎での殿(シンガリ)の時のことなんか話しまくってただろうし
秀吉に降ってからの忠臣ぶりとかで、淀さんとか福島くんとかには【家康=外様】って意識が薄いんじゃないんですかね。
どうなんでしょ?
あと関ヶ原でのネネちゃんは福島くんや加藤くんに手紙とか書いたみたいですけど実際の効果はどのくらいだったのか。
詳しいことが知りたいです。初カキコでコテハンしてみるてすと
>>714 名のある士がというのは、どういったソースなのか?
両翼包囲を狙っていたというソースは?
>>716 家康=豊臣家最大の家臣
三成=逆臣
という意識だったんだろう
でも淀は本音では三成応援だったんじゃないか
>>718 北政所、淀、加藤福島、大野、長束増田等から総スカンくらっていた
と考えられるだろう。
宇喜多、上杉などの一部外様大名と親密だった。
>>719 淀からもだめだったの?
あのころの淀は影響力が弱いと思うが淀の支持もないのなら
負け戦だな
>>717 >名のある士がというのは、どういったソースなのか?
士30人っていうのは昔どっかで聞いた話レベルなんでソースは無い。
でも、ネットで見る限りでは概ね先鋒が壊乱したと記述されているし、
名のある士が死んだという記述も複数ある。
つーか、実際に指揮統制する下級指揮官レベルの大量戦死が無いと
戦闘開始線まで逃げるなんて事はねーぞ。
>両翼包囲を狙っていたというソースは?
ソース以前のセオリー。
というか当時の戦は両翼突き崩して相手に戦線を張れなくするか。
予備兵力の投入による戦線突破しか無い。
いやはっきりいって、現代線も戦線張った場合はそうなる。
つまり、福島は肝心の最初で単独で戦線を張ることはおろか、
戦闘開始線まで追いまくられているわけで、衝突力は損失している
予備兵力投入による戦線突破の衝突力を期待できない。
ちなみに、中央の付近だけ宇喜多VS福島と東軍が唯一
劣勢。両翼に兵力を分厚くして中央付近の兵力は劣勢・均衡した
状態にして予備兵力の投入によって均衡を崩すのがセオリー。
ちなみに、上記はソースは無い。
これは漏れの考え・・・つーか、軍事的常識のよる帰結だ。
>>721 ネットで見る限りって、
私は宇喜多対福島は一進一退の攻防、とか、
宇喜多隊に押されるが正則の奮戦で踏みとどまる、感じの記述を良く見かけるがね。
まあ、いずれにしろ福島隊は3倍の敵を相手に、
少なくとも会戦から3時間持ちこたえたというのが事実で、
普通散々に破られるってほどのものではないわな。
>>721 両翼包囲だが、戦場の地形を知った上で、両翼包囲しようとしていた
なんて言っているのか?
下級士官は双方とも死んだだろ
むしろ途中でも宇喜田の方が多いかも知れない
大坂に詰めていた三成は諸国の要人と接する機会が多かった。(上杉とか)
けど日本中の人間と会ってた三成に敵が多かったのは友達を選り好みしてた(持論です)からなんですかね
外様の友→直江・安国寺
身内の友→大谷
三成がもっと交友関係を良くしてれば豊臣の分裂が起きなくて、泰平になれたのかな
狸はそんなに甘くない?
>>723 >両翼包囲だが、戦場の地形を知った上で、両翼包囲しようとしていた
>なんて言っているのか?
両翼同時に崩そうなんて電波を言うつもりも無いし、
迂回包囲なんて言うつもり無い。
崩して相手の後ろに潜り込もうという普通の戦術動作位のつもりだった。
もし誤解したなら漏れの書き方が悪かったとしか言い様が無い。
謝罪はするけど賠償は簡便な。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 20:41:26
基本的には武断派と言われる人たちの三成に対する嫉妬が原因だろう
>>725 了解
地形的にも状勢的にも両翼包囲は不可能だ
特に西軍はやや優勢とは言え、予備兵力はないからな
>>724 三成は選り好みはしていない
自然とそうなってしまったというところだろう
頭はいいけれど、腹芸ができないといった人間の典型じゃないか
例えば急にみんなと仲良くしろと言われてもそうそうできるものじゃないし
性格的に難しい場合もある
それから家康の方で取り込みをしてるから
家康以上のカリスマを発揮して自分に引きつけなければならない
家康は最強最大の実力者だから、彼以上の魅力なり裏付けを示す
というのは困難だ
>>728 いや、選り好みしてるだろ。
一国の政治的中核をなすべき人間が、人に嫌われ、公然と命を狙われるなんて
いうのはまさに愚も極まる。それも一人や二人ではないわけで、そのおおもとに
なった原因はあきらかに彼が高い位にいる公人として、一部の人間に対しては
自己の正当化をする努力を怠った(避けた)からで、(できないほど無能だったと
はおもえない)それはもう、彼の付き合いの「選り好み」だというしかあるまい。
もちろん、現在の我々はそんな不器用な子供じみた正義感を貫き通した三成の
人間的魅力を楽しむ事ができるんだが、もし三成が豊臣政権の中枢で和を保つ
努力(芝居)をしていたらどうなっただろうか? などと想像してみると、なかなか
思うように政治を操れない家康の苦労する姿などが見れて楽しかったんではな
いかと。(^。^)
三成が、ほんとうに豊臣家のことを思っているんだったら、武断派るもっとへりく
だっても良かったと思わない?
朝鮮征伐の恩賞について恨まれていたのがいちばん大きいと聞くけど、
「あのときは自分が悪かった。だから貴方が総大将になってくれ」
と、加藤や福島に土下座してたら、武断派の中にもまとまりが出ていたかも
と残念に思う。
土下座するのは嫌だったのかなあ。
>>729 三成は自分を正当化する必要はないし
正当化できるものでもないだろう
そもそも正当化した上でうらまれているのだから
単にこのままじゃ自分の権力が弱まっていくという焦りから関ヶ原を起こしただけだろ
なんで三成だけがひたすら美化されて
三成が豊臣家のことを思ってたってことになるのかさっぱり解らん
>>730 殺そうとしていたぐらいだから、土下座ぐらいでは許されないかも
やってみる価値はあったと思うが
しかし悪くもないのに謝るというのは滅茶苦茶になる可能性があるな
>>730 へりくだるというか、プライドが高い連中の面子を
最初から立ててあげていればよかった。
三成って人物は、良く言えば自分を曲げない人。悪く言えば世渡りが下手な人。
>>733 ほんとうに豊臣家のことを思えば、死を賭してでもできたはず。
また、そこまでの覚悟でやってきた人間を殺すのは、難しいはず。特に、
武断派と呼ばれる男気一本の武将たちには、逆に殺しにくくなるだろうし、
当時の価値観からすれば、
「よっしゃ。わかった。後は何も言うな」
の単純なやり取りで、まとまったのではないかと妄想する。
>>734 まさにその通りだと思う。
果たして志が高かったのか、それとも自分の出世を願っただけなのか、
いまとなってはわからないが、善意に解釈すれば、やはり関ヶ原では
命を捨てる覚悟をしていたのではないか。
だとしたら、自分を殺そうとしている大名に頭を下げる選択もできたはず。
やはりおっしゃるとおり、プライドが高かったとしか思えない。
>>730 >朝鮮征伐の恩賞について恨まれていたのがいちばん大きいと聞くけど、
これ誤解されているんだけど、秀吉に対する報告が間違っていたら、
秀吉に対して訴えればよい。
というか、普通何々の功績に対して恩賞を与えるっていうわけだから、
もし報告が間違っていたら、その時点でアウトなんだけどな。
>>732 >単にこのままじゃ自分の権力が弱まっていくという焦りから関ヶ原を起こしただけだろ
奉行職とかれていたから権力はないよ?
>>735 ただそうなると関ヶ原を起こす人間は出ずに
やはり徳川の天下になっていたのではないか
秀吉さんが出世して城持ちになった頃、譜代の家臣がいなくて急いで拵えた家臣団達は、秀吉に意図的に競争させられたと聞いたことがあります。
武断派・文官派はその象徴で、小西行長vs福島・加藤の対立とか
それに細川・黒田(池田も?)が葉っぱかけて徳川に引き込んだように見えて仕方ないです。
朝鮮の役が具体的に敵対派閥を憎む理由になり、根源は秀吉さんの部下管理育成術にあるのでは
>>735 許すかも知れないが、その代わり永久追放ぐらいにはなるのではないか
少なくとも政治的影響力はなくなる
三成に心を寄せてる大名って殆ど外様
これって、ようは三成の仕事が公平だったから外様からすればイイヤツ
けど、豊臣恩顧や尾張、美濃などの連中からすれば「身内なんだから少しはまけてくれ」と言いたくなるわけで
そんな中起きた「豊臣の内戦」じゃ三成に味方はいない。
外様も自分の家があるから心情的には味方したくても、実際は出来ない
結果 三成友達すくねーなって状況
>>731 ちゃうちゃう。
偉くなったなら、上に立つものは下の者に対して自己を正当化する
必要があるんだよ。悪い事をするにはこういう理由が、彼を閉職に
追い込むにはこういう理由と。それができないモノはそれを理由に
蹴落とされていく。そして上の方で何人かがいってるけど、三成は
殺されるほど恨まれる前にそれをしなくちゃいけなかった。
それができなかった原因は三成の性格であり、能力ではない。
故に三成は公人としての人付き合いを選り好みしていたのである・・・訳だ。
>>736 奉行職はとかれていたけど、その中で関ヶ原を起こしている。
自分でも、一般でも彼の権力がなくなったとは当時の誰もが
思っていなかった証拠。
私見ですが三成は選り好みをしていてるが故に敵を作り、またそれ故に最高の仲間を得たんじゃないかな。演技してるような人間だったら和は保てたかもしれんが関ヶ原みたいな決戦で家康とまともに戦えなかったと思う。
でも秀頼がもっと成長して大将として家臣をうまくまとめればその裏で三成の暗躍もあったかも。
あと、三成は秀頼をホントに主君とみていたか疑問。
秀吉を師とみて【我こそは殿下の意志を継ぐもの】とか心の中で呟いてくれてた方が、頑張った忠臣の三成像よりもカックイイ
でもあくまで王佐の人であってほしいな
>>741 つまり何か事件が起こったらそれは能力ではなくて
性格の問題なのか?
下剋上されたら、性格に問題があったと?
性格が問題なら、選り好みではないが?
三成は、筋を通す人間であったからこそ、忠臣と見られ、かつある程度の支持を得られた
妥協していくような人間で有れば三成の地位はないので関ヶ原は発生しない
>>741 >>731 三成は自分を正当化する必要はないし
>正当化できるものでもないだろう
いつの時代、どの場所でも上の者は下の者に対する
説明責任があるといっているだけ。よく嫁。
>つまり何か事件が起こったらそれは能力ではなくて
>性格の問題なのか?
極論過ぎ。
ひと言で人間の心理や行動をすべて説明しろというのか。
>性格が問題なら、選り好みではないが?
人が選り好みするのはどういうシステムで行われてるのだ?
性格という言葉はそんなに不便な言葉なのか?
君は言葉の端々をつついてるだけだと思うぞ。
三成が多くの人間に嫌われた理由、好かれた理由を自分なりに
書いてみてくれ。それにならコメントできる。
ここはそういうスレだろ?
>>741 >偉くなったなら、上に立つものは下の者に対して自己を正当化する
偉くないよ、奉行職なだけだ。
>奉行職はとかれていたけど、その中で関ヶ原を起こしている。
>自分でも、一般でも彼の権力がなくなったとは当時の誰もが
>思っていなかった証拠。
はっきり言えば、三成に権力は無い。権力はあるのは五大老の方。
実務を行う人間と権力をもつ人間って別なんだが・・・。
というか、毛利や上杉が三成の権力に対して威を服した訳ではなく、
毛利や上杉が威を服していたのは豊臣家。
権力を持つ人間よりも、実務をやる人間の方が嫌われているんだよね。
権力が無いが故に自分の物でない権威に頼るから。
で、それに対する釈明をしなかったのが問題だといいたいわけだろうけど・・・。
で、官僚の問題について・・・講釈たれたくねえよ。
745さんは優しいに一票
>>745 信長なんかは説明責任を果たしているとは思えない
また日本帝国でもほとんどそんなものはないな
また三成と他は同格
性格論は極論だろ
極論でないのなら説明できるだろうし、例示でも構わないので
説明求む
好かれた理由:
妥協しない
筋を通す
有能
性格は大切ですよ。人間行動の判断基準は性格で歴史を作る要素の一部は行動のはずですから。
だから、もし三成が上手に豊臣勢を一枚岩にできれば関ヶ原も回避できたのではないか?と
要は三成がどんな行動すればもっとうまく言ったのかなぁってことです。
それにプラスαで実際の性格の検証に話が飛んでるんじゃないかな
三成と馬謖がかぶるのって漏れだけ?
やっぱり朝鮮の役での讒言はきついよ。ただでさえ意味不明のいくさで部下も一杯亡くして
苛立ってるのに。福島みたいな補給責任者なら余計にきつかっただろう。
だからといって肩を持つつもりは全くないが、結局幾ら三成が優秀でも、5大老という外様
組織と5奉行という官僚機構が並び立つことの矛盾がある限り、結局は小姓あがりが、と
ねたまれることになったろうね。
でも三成が頭が高いのも確かだとは思う。
>>747 >偉くないよ、奉行職なだけだ。
三成の地位が現代の官僚と同じ、よくても次官クラスだと
いいたいのだろうが、ちょっと違うと思う。それに政務担当=官僚と
いう認識は単純すぎる。彼は城持ちであり、武将であり、奉行だったのだから。
もし現代で近いというのなら、個人的にはアメリカの大統領補佐官というのは
どうかと思うが?
>はっきり言えば、三成に権力は無い。
それも言葉上の遊びみたいなものだ。奉行職の表面上の権力はどうで
あれ、彼は書状で恩賞を保証する事で「関ヶ原」の一方の軍を構成する
事ができたのだ。現代の我々はそれらの多くが空手形であったであろう、
と考える事ができるが、当時はそれがある程度の意味を持っていたのだ
から、権力がない、などというのはこの場合、当てはまらないだろう。
>権力を持つ人間よりも、実務をやる人間の方が嫌われているんだよね。
>権力が無いが故に自分の物でない権威に頼るから。
それはもっともだと思う。歴史上でも、もっと身近ならそこらの会社でも
社長よりも中間管理職が嫌われるものだ。
>で、それに対する釈明をしなかったのが問題だといいたいわけだろうけど・・・。
が、三成は上記で示したように権力を実際にもっていた。その上でそれに嫉妬
したり、それを認めない人間が多かった訳だ。そしてそれらの人々も三成を
害せるほどの位置にいた。彼らも豊臣政権下では重要な位置にいたのだ。
史実の三成は彼らと対決する道を選んだ訳だが、上では何人かがいっている通り、
三成が(本当に)死を賭して豊臣政権を残す事だけを考えたのなら、それを
もっと前に、もっとソフトな形で(これも上で誰かがいっていたが土下座でも、
相手にすべてを預けるでも・・・それがどういう結果になるかはわからないが)
実行するべきだった。個人的な意見は、それを三成は避けた、逃げた訳であり、
それこそが三成という人間の一面を表現している・・・と考える。
>>751 >朝鮮の役での讒言
具体的になんだっけ?
黒田如水と加藤清正に対する奴が有名だな。
小泉首相だが説明責任を果たしていないことが多々ある
NHK会長も果たしていない
彼は辞任することになったが
会社の社長でも説明責任を果たしていない椰子が一杯いる
いわゆる一流企業ではいないかもしれないが
だからみんな批判されてんじゃないの?
僕は、三成はプライドが高かったとか、えり好みが激しかったというより、
道徳的観念上の、
「潔癖性」
だったと思えて仕方がない。
正義というものを押し通し、それに合致しない人間には、妥協すらしなかった
ということなのではないだろうか。
>>756 こんな事をいってはなんだが、
ひと言だけで表せ、というならその通りだと思う。
個人的にはプライドでも、わがままでも、子供でも、
どれでも賛成(同じだろうという意味で)ではあるが。
どんなものだとしても、不器用なりのさわやかさがあったのでは
ないだろうか。人が望んでもなかなかできない生き方・・・だからこそ、
直江、大谷など当時、「人物」と評された人々の同意を得ていたの
だと思う。
>>750 三成がもし武断派をまとめられるような「性格」であったのならば
徳川の天下は相当難しくなっただろうな
>>751 三成がもし威張っていたとすれば
もっと西軍に荷担する人間がへったんじゃないか
形式的かも知れないが、自分は総大将にならないで
輝元を総大将に、秀家を副将にしている
たったの20万石なんだから、相当下手に出てお願いしたはずだ
ただし朝鮮のときは検査役だから下手にはでれない
警官や裁判官が情実で動くと腐敗するからだ
三成がもし武断派をまとめられるような「性格」であったのならば
今度は石田政権になってしまうな
こうめいみたいに忠臣であれば問題ないが
>>759 三成は理由がちゃんとあれば、問題なく頭を下げらたんじゃないかな?
毛利、宇喜多とも五大老だし、出兵兵力でも多い。
朝鮮役の監査としての役割も、「どんな相手にも公平、厳しい自分」を
派手好みの秀吉が寵愛していた事を知っていた故の演出と見える。
もちろん、それは天然系の演出なのだろうが。
それが他の人間の鼻についたのは史実が示す通り。
つまり、石田三成じゃなくて大谷吉継が五奉行になってれば
問題なかったというわけだ。
三成にもっと石高があればよかったんだよ
765 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 00:47:10
なら、家康に関東やらなければ良かったんだよ
そもそも関東なんて存在しなければよかったんだよ
三成は自分で大大名の領地を断ってしまったんだよ。
いつまでも秀吉の時代が続くとか甘い夢を見ていたんだろう。
秀吉も、自分の後継者と本当に考えたならば、無理矢理にでも領地を拝領させるべきだった。
加藤や福島、浅野、藤堂・・・。糞の役にも立たなかった連中の領地など取り上げてしまえば良かったんだよ。
こいつらなら誰からも文句も出ないし。
それにしても、秀吉は重要人物が同時期に死にすぎ。前田利家(役に立ってないけどw)、秀長、蒲生氏郷・・・。
蒲生氏郷は秀吉に敬遠されてたのでは?
関東に昇進転封♪
年末にやった「関ヶ原」見ているけど、やっぱり三成ヲタからの目で見ても
性格的欠点のある三成こそが魅力的なんだよなあ・・・
まあ、あれはお話だし実際にはもっと利で物を考えられる人間だったと思うが、
そのくせ大事なところで観念主義に走って自爆する人の気がする。
>>740 外様が三成に心を寄せているとするよりは、外様は豊臣の代表として
交渉相手となったり検地奉行として検地をする三成の機嫌を損ねると
自分の立場が悪くなるので、親密な関係を無理して築いたのでは?
>>761 「どんな相手にも公平、厳しい自分」
良くも悪くもこれが三成の個性であり性格であり気質だ
急にあれはすまなかったと言えないし、言ったとしても
じゃあなかったことにしてみんな仲良くしようとうまくいくか
その可能性は低いし、うまくいったとしても今度は狐じじいとかいった
評価になるだろう
融通効かないか、狐じじかの2択だが
>>767 いい案だが、それだとますます武断派が逆上するなw
既に逆上しているから同じかも知れないが
773 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 12:47:33
秀信が最初っから篭城しとけばよかったんだよ。
774 :
藤巻:05/01/17 12:47:40
「あの時、太閤様から100万石の百万石を拝領しておけばよかった、」
て三成が嘆いた逸話ですか・・・。
まあ、百万石あっても総大将になったかどうかはわからないですが、西軍諸隊が三成を
侮ることは少なくなるでしょうね。
福島らが逆上するのは間違いないが・・・別にいいんですよ、あいつらなんて一騎がけの大将と大差ないんですから、
逆上させておけば。
秀吉が漢楚の戦いの逸話でも(全身に百の刀傷を受けて戦った曹参より、後方マネジメントした蒋何の方が勲功第一だ。曹参の功は誰でもできる匹夫の功である、と。)
思い上がった糞ったれ荒小姓どもに聞かせてやりゃあいいんですよ。
100万石はないと思う
秀吉に勲功の説明責任を果たす能力があったなら
100万石あるいはそれ以上でも良い
しかし武断派との亀裂は決定的になるな
そうでなくても決定的だが
しかし大身になり過ぎると、今度は秀吉に疑われる罠。
蒋何もそれで随分苦労してたし〜
暗殺の可能性が高まるな
100万石分の護衛を常時つけておけばいいが
それから家康は、まず三成単体を目標にして、彼だけの弱体化を目指す
石高を20万石に減らして武断派に配る
その上で関ヶ原を仕掛ける
上杉景勝氏ね
百万石もらったら、左近は五十万石で召し抱えられるのかw
>>777 三成が百万石持ちになってたら、ドコかの家名を継がせて
大老入りしてたんじゃないかな? 秀吉が没する前に少しでも
頭がクリアになれば、そういう処置をしそうだ。
そうなれば家康も簡単には手を出せない。逆に三成は大老筆頭の
家康と一緒に国家の大計を計る事になり、そうなると今度は三成さえも
家康に取り込まれそうだなw
>>778 もう死んでますがな・・・
って・言っ・て・欲・し・か・っ・た・か・?
加藤・福島と三成との対立は、どっちかと言うと些末だったんじゃないかねぇ、と俺なんか思うんだが。
加藤・福島の忠誠心の行き所は、常識的に考えて、第一に育ての親である秀吉・北政所であり、
第二に秀頼ってとこか。特に北政所は人好きのする性格だったそうだし、慕われていたのではなかろうか。
つまり司馬他が言うように、秀吉の死後、北政所が家康についたのが決定打じゃないかなと。
これは現代人の感覚かもしれないが、継母の子(秀頼)よりは実母(北政所)を取るだろう。
加藤・福島は感情的で先見の明が無いとか、忠義においても中途半端とか言われているが
実は秀頼の事も考慮した上で、母(家康)を取ったんじゃないかなと。
しかし割り切れるほど冷酷でもなく、後々まで悩んだ。なんて観ると良い人達に思えたり。
>>781 正則や清正あたりの豊臣への忠義に関しては正直、
決して低いとは思わない。ぶっきらぼうかも知れないが、
当初はそれを持っていただろうと思う。
が、先見の明というのはどうか?
大政所が家康支持にまわった、家康は当代きっての英雄、
その言は正しいに違いない。
・・・その程度の考えしかなかったのではないかと思う。
襲撃され、家康の元に逃げ込んだ三成を追いかけながらも、
家康にいいように諭されて、目から鱗が落ちた、といわんば
かりの顔をしている若者の表情・・・そんな顔だけがリアルに
想像できてしまう・・・残念ながら。
が、そんな子供な部分こそが、豊家家臣たちの魅力的な
部分でもあるんだけどね。
>>779 いや家康は大老を叩いて、弱体化させている
100万石程度なら狙い目だ
>>781 北を取ったのなら、その後悩む必要はなかったな
もしそうなら、判断力が弱かった人間だな
>>783 家康以外はみんな百万石前後じゃねーかw
>>785 だからまず前田で次は上杉
その次は宇喜田で最後が毛利だろ
どっちが先かは微妙だが
てか、100万石の話はまじもんなのか。まじだとしたらどこらへんなの?
788 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 23:31:37
猿がボケぎみで気が落ち込んでた時期じゃない?
秀長が死んだ時期?
秀秋の旧領なので40万石弱。佐和山と合わせれば5,60万石ぐらいにはなるが、100万石は流石にあり得ない。
朝鮮でみんなが四苦八苦しているときに内地の三成が大大名になれば、武断派のみならずそれ以外の敵も更に
増やすこととなっただろう。
それに、領国整備などもあり、加藤清正を背後に抱えては、いかに九州方面軍司令官と言っても中央での動きに
即応して大兵をすぐに動かすことは難しかったと思われる。多分、中央で家康の動きに対して立ち後れて、下手を
すれば光秀追討軍を仕立てられていたかも知れない。
秀吉は、実のところ部下の猪武者を見下していたのではないだろうか。本質的に商売人であり、貧弱な体と武芸で
天下を取った秀吉には、福島なんて馬鹿に見えて仕方がなかっただろう。時代を超越した知性の持ち主としては、
自分の話をわかる人間が欲しい。近代的知性の持ち主・三成は、その孤独をいやしてくれる格好の相手だったのだ
ろう。実際ちゃんとした理を説いて諫言してくるヤシなど他には居なかった。猿だのハゲだの馬鹿にしてきた連中も
手のひらを返すように懼れ畏まっているばかり。信長が秀吉に見いだしたものは、秀吉にとっては三成以外には見
つけだすことが出来なかったのである。
ただ、三成は残念ながら針売りの修行も、狂人に仕えた経験もない。秀吉の最大の武器である人心収攬術には徹
底的に欠けていたのである。もしその気になれば、さじ加減一つで武断派の単細胞に恩を売ることぐらい幾らでもで
きたはずである。一言「これは黙っておきますよ」「これはこんな風に取りなしてみましょう」などと上手く立ち回ってい
れば・・・。それが出来る位置と能力があったのも実際光秀ぐらいなのだから。その意味では、結局豊臣政権の内紛
は三成に最大の責を負うと言ってもいいだろう。家康?あれは本能の赴くままに行動しただけで、しょうがないよwお家
第一だから。
幾ら官僚として優秀でも、後継者として現実の政治の世界を乗り切ることが出来なかった三成。王安石やロペスピエ
ールにはなれても、豊臣秀吉になるのは無理だったのである。
>光秀追討軍
三成追討軍です。スマソ
実際光秀とかぶるよな。いろいろと。
w
思えば正信は凄いな
日本指折りの人物の側近でありながら関ヶ原終結で2万2千石
武断派が恨もうにも恨めん
>>789 秀吉は三成を愛していたとは思うけど、それは人がペットを可愛いと感じるレベルと
変わらなかったと個人的には思う。彼は低い身分からの成り上がり。その原動力は
「欲する」所からだろう。自分にない能力や、体格、血筋などには嫉妬と羨望をない
交ぜにしたものをずっともっていたと思う。
そして、それらのすべてを超越してのし上がり、太閤になった彼は、その後はそれらの
すべてを軽く扱ったり、逆に重く見たり、自らのおもうがままに振る舞う事ができるように
なった。自分より上のものなどいない。晩年の秀吉の行動/言動の基本にはこれが
あったと思う。
そんな秀吉にとって「自由になる存在」はまったくの評価対象外。部下なんてのは
ホントにどうでもいい存在だったのではないか。それにはもちろん、三成も含まれて
いるだろう。自分の一挙手一投足に気をくばり、細かい所までやってのける三成は、
足下を駆け回る子犬のような存在であったのではないかと想像する。
そんな存在に秀吉が一目置いていたとは思えない。もし三成に秀吉とともに天下を
語るほどの能力があったのなら、嫉妬深い秀吉は三成をさっさと閉職に追い込んだ
のではないか? そんな例を彼はいくつももっている。
三成が秀吉の側近であり得たのは、彼が秀吉にとってある意味「間抜け」だったからで、
決してその心を分かち合えたからではない、と推察する。
秀吉の出世は、そういう本能的なものではないと思うよ。コンプレックスは確かに原動力になっただろうが。
やはり、信長同様尾張という経済先進地域の申し子として、はでなチャンバラよりも全体構想の方が上位概
念であることをいち早く見抜き、実践した。日本統一の目的として、農民だけでなく、商業のため、という原動
力もあったと思う。
確かに人も定量的思考の対象であったとは思うけど、あなたのいうような冷酷非情の痴呆老人ではなかった
と思う。秀吉の下手な字で書かれた手紙には人間の情が溢れている。
朝鮮侵略も、痴呆と狂気のなせる業と言われるけど、やはり冷徹な計算はあったと思う。当初はより純粋に、
貿易目的の東南アジア進出が武力侵略に変わったのも、国際政治力学を理解(過大評価?)し、下手にスペ
インやポルトガルと敵対してはまずい、それよりもより身近な弱っている明に足場を作っておかないと先を越さ
れると厄介だ、と考えたんだろう。伏見城、大阪城の都市計画としての位置づけも、明らかに外に向かったもの
だし。堺の自治を破壊して、新たに大坂に国家主導の商業の中核として取り込んだなどの内政と連動している。
ただし、秀吉の考えた国家経営を理解、実行できる人間は決して多くはなかったのは間違いない。前田利家な
んて所詮田舎侍だし、毛利輝元なんて馬鹿だし、黒田如水は危なすぎるしw だから文武を分離し、奉行に実
質的な政権運営を任せた。本当は五大老より上位に置きたかったと思う。その数少ない重商主義政策を理解し
ていたブレインのトップの千利休まで斬った辺りは、まあ痴呆も入ってたとは思うけど。
逆に言えば、性格に難のある三成でも、その頭脳を尊重して重用せざるを得なかったともいえる。それこそ加
藤や福島にそんな脳みそがあれがノープロブレム!だったんだろうが。
>>794 >秀吉の出世は、そういう本能的なものではないと思うよ。
本能的に出世とか書いたかな?・・・まあ、そういういうのとは違うんだけどね。
秀吉は出世の為に文字通り命懸けだった訳だし。秀吉は目先の事には優秀だと思う。
>やはり、信長同様尾張という経済先進地域の申し子として・・・
信長は高い知性と強い目的意識を持っていたと思うが、残念ながら秀吉はどうか?
正直、国家経営に関してどんな構想を持っていたのか、後世の今でもピンとこない。
朝鮮への拡張政策は国内での成長ができなくなったが故の単純な方針調整にしか
みえないし・・・秀吉が農民の為に全国統一をしようなどと思っていたかどうか
というのも、ちょっと理想主義者的なイメージすぎるかな。もちろん、戦争大好
きな性格破綻者だったとは思わんが。
>確かに人も定量的思考の対象であったとは思うけど、あなたのいうような冷酷非情の
>痴呆老人ではなかった と思う。秀吉の下手な字で書かれた手紙には人間の情が溢れている。
これはまったく意味なし。人間性のあくまで一面を書いただけで、秀吉に情がなかったなどとは
いってない。目の前で病気で苦しむ人を助ける為に自ら看病する人間が、裏で敵には容赦ないな
んてのは別に異常でもなんでもない。が、そんな前提があっても秀吉は目先の事には合理主義的な
冷徹さをもっていたのは間違いないといえるだろう。部下の登用は大胆でありながら、切り捨ても
早い。家康を上洛させる為に母親を人質にしたのもその一面。
もし、三成が失策を侵したとして孔明が「泣いて馬謖を斬る」ような関係が秀吉との間にあり
得たかどうか? きっと秀吉は三成をさっさと切り捨てたに違いないと思う。
>朝鮮侵略も・・・
これは前記に書いたように、拡張で広がってきた豊臣政権の勢いをそのまま海外にもとめた
だけだと思う。もちろん、ブレーンがいて、ある程度の利益が見込めたからではあろうが。
<続く>
<続き>
>ただし、秀吉の考えた国家経営を理解、実行できる人間は決して多くはなかったのは間違いない。
秀吉が武力より商業による国家経営に傾倒していたのは間違いない。そして、その為の人材を
良としていたのも。が、結局はそれだけ。そこに愛情があったのか? 尊敬があったのか?
といえばどうかなあ。やっぱり感じられない。利休を斬ったのを痴呆というのも何故?という
感じがあるね。利休こそ、秀吉の嫉妬心によって斬られた代表的な人物の一人だというのに。
>逆に言えば、性格に難のある三成でも、その頭脳を尊重して重用せざるを得なかったともいえる。
>それこそ加藤や福島にそんな脳みそがあれがノープロブレム!だったんだろうが。
これはまあ、その通りだと思う。
猜疑心の塊ともいえる秀吉は、自分への絶対的な忠誠心を示せる人間以外は信用できなかったし、
優秀すぎる者も安心できなかった。三成は能力としては問題なかったと思う。非凡であったろう。
そしてその性格も秀吉を安心させるほど極端、前記の言葉でいうなら「間抜け」であった。
正則、清正なども秀吉は愛していたに違いない。なにせ数少ない子飼いの武将・・・他の武将が
持っているにもかかわらず、彼が持てなかった「地盤」を示す存在だから。故に彼らは大身を得、
三成は権力を得た。が、それらはすべて秀吉の管理下、秀吉が見える範囲での事である。
こうやってダラダラとあげ足を取る長文ほどうざいものもない
お前みたい意味ないレスつけて満足してるヤツと話すんのがイヤで
三成は武断派と決裂したんだろうな。ワカリヤスイ
800 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 19:12:14
800
801 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 19:13:33
ちょっとズレるけど、信長と信忠が同時に葬られたわけだが、どうして後継者
が織田家から出なかったのか、いつも不思議でならない。もちろん、それぞれの
軍団が独立していたということだろうが、それらを束ねる支配体制ってそんなに
弱かったの? しかも軍団に従属させている兵隊は、近江だったり美濃だったり
その土地土地の国人衆だったわけでしょ? たとえば柴田や羽柴や明智と
いった軍団の長に、それほど忠誠心を持っていないように思えるのだが・・・・・・
そして実は、これは秀吉の死にもかかわる問題だと思ってるんだ。秀吉の場合も、
死んだ後の体制が弱いから、徳川に付け込まれたわけでしょ?
つまり信長も秀吉も、「成り上がり」に過ぎないから、代々の家臣は相対的に
少ないということで、求心力を持てなかったということなのかなーと。
>>802 不思議って、織田の後継者たちを秀吉が切腹させたり自殺においこんだだろ。
>>803 だから、それが不思議だと言ってるんだよ。なぜ秀吉にその力が
あったのか、織田家の血筋を引く人間がまったく見る影もないほど力が
なかったのか。
単にあんたの想像力が低すぎなだけじゃね?
つまり簡単に言うと馬鹿。
戦乱の時代にどんどん勢力拡大する過程で主力として働いた人間に
周囲が一目もニ目も置くのは当然じゃん。
「織田家」ってものが強いんじゃなくて、重臣が率いる軍団が強いんだからさ。
家督争いでは柴田も羽柴も互いに織田の血筋立てて争ったんだし、
そうして勝ち残っていく中で尚力を見せつけていけば、実質乗っ取れる
のは、後の家康でも同質なのだから別に珍しい事でもない。
んで名目主筋を「治世を乱す」等の非を鳴らして排除、信長の将軍の
扱いもこんなもんだしよくあるパターン。
人に聞く前に頭使おうね。
>>805 秀吉がことごとく戦闘に勝ったからじゃないの?
信雄、信孝、それぞれ組む相手を(その都度)
間違ったのが単純にマズかった。
つーか、普通に歴史の流れ以上に何かあるのか?
本能寺の変後、織田家臣団は各地で軍閥化したから。
この答えの方がいいかな?
>>806 それぞれの大名家の、内部支配システムの差はまったく考慮しないのか?
あんた頭使ってる割には、単純な思考だな。
てか織田自体戦国の成り上がり大名なわけだし。
松平も同じ。結局、秀吉と五十歩百歩だからな。
徳川家康だって、何代か遡ると素性のよくわからない
成り上がり大名が天下を乗っ取って日本全国に号令したわけで、
戦国時代ってのはそういう時代だったんだろう。
>>809 806じゃないが、あれじゃないかな?
例えば関ヶ原ん時、「秀頼様御為」という名目を
掲げたからという事じゃないかな?
>>811 うーん、でもなんか、近江なら近江、甲州なら甲州といったそれぞれの
地域に昔からの自治システムがあったわけだし、プラスその大名家独特の
支配システムもあっただろうし。地域的特性ももちろんあっただろう。
そうした屋台骨を支えるシステムの差が、全体のシステムに大きな差を
もたらした可能性を排除していいのだろうか?
806のように、単純に武家内部だけの問題で処理できるほど、浅い問題では
ないと思うのだが。
>>813 つまり、織田家の弱体化の理由が知りたい訳じゃなくて、
信長死後、軍団があっというまに軍閥化してしまうような
織田の家臣団システムについて語り、ついでに豊臣家や、
他の戦国武将たちの家臣団についても語りたいという事?
>>814 うん。なんだかそこに、秀吉が死んだ後の、残された秀頼軍団がなぜ
負けたかの一因もあるではと思うのだ。
システムの問題ではあるがそうでもない
現代人が誤りやすいと思われる点は、戦国時代は総大将の力量差が占める割合が非常に大きかった
という点だ
戦後しばらく社長は誰がやっても同じと言われたが、社長によって差がつくことは今や自明だ
それのもっと激しいバージョンが戦国と考えればよい
ただし実力だけでなくて家柄とかもろもろも関係してくるが
乱世というのは草莽崛起の人材がどんどん出てくるものだからな。
血筋にたいする忠誠が薄れていたんだろうな。
織田の本貫を継ぐ有資格者の序列としては、信忠>>>三法師>>信雄>>>信孝
何故こんなに低いかと言えば、誰あろう信長その人の評価が低かったから。
重臣連も、そこはよくわかっていた。信雄や信孝を立てては見たが、各々内心はやれや
れと思ってたでしょうね。
ボソ「信雄必死だなw でもおまいじゃむりむりむりーーー!・・・って、こんなヤシ立てるし
かねーのかよorz」って感じ。
それと、織田家中は、もともと裏切りの連鎖の上に成り立つ砂糖菓子のようなものだった。
信長は、その強烈な個性と指導力で束ねて見せたが、果たして信忠が生き残ったとして
同じ事が出来たかどうか。正直言ってどうなっていたかよくわかりませんね。
すぐ隣国の松平とは違いすぎ。そんな隷属的な主従関係がよもや日本全体のモデルに
なるとは・・・。
そう、その松平のシステムが、やはり優れていたからこそ、秀吉の死後の
実力差となって現れたのではという疑問があったのだ。
信長も秀吉も、いわば不世出の英雄。その英雄が死ねば、残りの人間で
全体をまとめきることは難しかった。
一方松平の方は、きちんと勉強してないからわからないのだが、一人一人の
力よりも、全体の総合力がきちんと集中できるシステムになっていたのでは
ないかと。
つまり、関ヶ原の戦いにおいて、どっちの武将がどっちについたとか、それだけでは
決められない根本的な違いがあったのではないかという疑問点があったのだ。
>>806 漏れの拙い説明でも、何人かは察して応答してくれたようだ。
君は漏れに、頭使おうねと言ったが、もっとも脳内が軽いのではないかと
思った。
>戦乱の時代にどんどん勢力拡大する過程で主力として働いた人間に
周囲が一目もニ目も置くのは当然じゃん。
悲しすぎる・・・・・・
いや、やはり家康も只者ではない
異論はあるだろうが、豊臣滅亡前に家康が死んだ場合
戦国乱世が復活しただろう
あるいは徳川は滅んでしまうかも知れない
伊達政宗が日の本を束ねていたに一票
全く関係ないが由比正雪のスレを立てたら伸びるであろうか...
組織のシステムはぁ
信長は、内では組織全体を直接支配する独裁、外では徳川とかを例外として直轄支配する体制。
兵農分離のシステムが正に象徴れじゃないかな。同盟国も、自分が帝になった時を想定して扱ってたのかな。
秀吉は内も外も金をばらまいて「利」で引きつける
羽柴・豊臣は今までの「やり方」みたいのがないから役職とかをどんどん作ってたし。関白って歴史を背負っても見事に豊臣を賜下してもらってるから。
豊臣はシステム構築が完成する前に秀吉が逝き、中途半端に五大老とかの制度ができた。
ホントは中国太守かなんかを秀次にあげるとか色々考えてたみたいですが。
んで家康は、家臣の独立性が高く容易に統制の取れないとこをなんとか統制してた。古くは三河一向一揆の様に以外と三河衆≠徳川
酒井忠次と家康の関係とかも微妙な主従関係みたいですし。
徳川は政権を握る前と後では大分改革をしてるから、戦国中期と幕府成立後じゃかなり違うんじゃないかな。
林羅山とか天海さん英出身者の三浦くん、極めつけは武田信玄とか参考にしてるから
結局、織田・豊臣は新しい道を模索して時間が足りなかった。徳川は幕府っていう旧制度の延長をやったから、比較的簡単に
組織機構の優劣はいかに部下の能力を引き出すか、で決まるなら信長・秀吉・家康は最強。ただ徳川の家風が少しだけ裏切りにくかっただけ、なのではないか
追文:駄文ばかり書いてることに今更気づきました。叩かれないだろうか、自分。
信忠が死ななかったら織田は滅びなかったろうなぁ
なんでそんな難しい話をするんだ?
下克上だから、で説明つくだろ?
釣りかも知れんが、下克上のひと言で物事が決まるなら、当時の武将も
苦労はしなかっただろう。
828 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 05:02:29
>>823 下克上のひと言で物事が決まるんじゃないか?
強い奴、優秀な奴がトップに立つ
↑
>>827の間違い
信長の次に優秀だったのが秀吉ってだけだと思う
ムリに煽らなくてもいいよ。
つーか、805の最初の質問自体がわかりにくいのもあるし。
そりゃ、家康は信長・秀吉の前例を教訓に出来たわけだからなあ
834 :
藤巻:05/01/19 12:29:36
すいません、全然関係ないのですが、
醍醐寺の「義演(ギエン)」はひどいとおもいます。
あれだけ秀吉に引き立ててもらいながら、冬の陣の折、天守砲撃の音を趣向として茶の湯
を開いていたというではないですか。
「ああ、皆さん聞きましたか?また撃ちましたなあ、ふぉっふぉふぉふぉふぉ!」てな感じで。
関ヶ原のときも町人が見物していたとか
まあわしらも湾岸戦争とかへばりついてみてるしなあ・・・・
最近では津波の被害に見入っているし
三成が勝利したとしても天皇制には手をつけられなかっただろうなあ・・・。
神聖ローマ皇帝とも違うし、そもそも自然神と祖霊神の総帥だから、存在し続ける限りは
多神教の段階から抜け出せず、近代的思想の萌芽は生まれにくい。
となれば結局は秀忠を征夷大将軍にして、260年後に今度は東軍の末裔に滅ぼされる、と。
実際鳥羽伏見なんか関ヶ原の再現みたいで笑えるもんな。
鳥羽伏見辺りの寝返りは笑えるね
天皇制をどうにかできたのは信長だろう
秀吉がとにかく中途半端だった。
後北条を見せしめにしただけで、東北征伐は終わり。
九州征伐もみんなが降伏した時点で撤兵。
青森から鹿児島まで、徹底的に叩いておけば良かったのに・・・・・・
信長だったら間違いなくやったな。
そしたら関ヶ原でも大きく情勢が変わっていただろう。
>となれば結局は秀忠を征夷大将軍にして
秀頼です・・・。
どうかな。実際信長も晩年は旧勢力に妥協しまくりで、天皇の傀儡化から廃止より、
将軍職を考えていたという説もあるし。信広の事を考えると、自分がやってきたような
急進的改革は難しいと判断したのかも知れない。経済政策も中途半端になってしま
ったし。
むしろ秀吉の方がより深く考えていたのではないかと言う気がする。聚楽第なんて、
わざわざ御所の隣にでかい城作って全国の武将に屋敷作らせたり。
ただその基盤が信長どころじゃない脆弱さだから、結局象徴として利用するに止め、
より現世的権威をもった実質的な日本国王になるという現実的政策に落ち着いたの
かも。それが聚楽第の破棄と、伏見築城だと。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 00:24:42
>>840 まるでノブヤボ的発想ですねwwwwwww
↑そうかも知れないけど、漏れはなぜ信長が晩年妥協的になってきたかと
いうと「朝廷の取り込み」が現実のものとなりつつあったから、たまたまその
ように見えるだけじゃないかと思ってる。
というのは、安土城に天皇を迎え入れて何をしようとしていたかというと、
平家のように、自分の血筋を天皇家に輿入れさせ、その子を天皇に据える
ことによって、実質的な朝廷支配をしようとしていたのではないかと考えていて、
そのためには、旧勢力に対して、しばらくは過激なことを控えようとしている
段階にあったのではと妄想しているから。
しかしそれが成功する段取りがついたら、こんどは朝廷の権威を借りて、
「朝敵征伐」の大義名分を得、再び全国の有力大名の討伐に向かった
ような気がするのだ。
なぜかというと、信長本人も、織田家の繁栄は、徹底的な武力戦争にしか
ないと思っていたのではと考えるから。もし自分が死ねば、織田家には危機が
訪れる。死ぬ前に、全国の有力大名を叩いておかなければと、知っていたのでは
と思うのでありまつ。
秀吉とはその辺りが違っていたんじゃないかな。
>>840 信長のスレに、
「ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長は日本統一後、
「中国を武力で征服し、日本は我が子たちに分かち与える」
と自らの構想を語っていたとのこと。
フロイスは直接信長と会見した人物なのだから、
この記述は信用してよい。
そしてフロイスは、信長のことを絶対君主と呼んでいた。」
という発言があったが、これもノブヤボ的発想なのか・・・・・・
まああっさりと無視していい話ではないよな。
子供の煽りにマジレスカコイイ
だって、まじめに論じたいんだもの。
ノブヤボ及び光栄武将ファイルは三戦板の1級史料ですよ!
そりゃすげえや!
>>849 あなたそれは邪推というものです。
2chに毒されすぎ。
煽りは食い付くとよけいレベル低くなるからスルーが吉だろうと。
毒された漏れは思ったのだった。
853 :
藤巻:05/01/20 17:43:01
>>840 >青森から鹿児島まで、徹底的に叩いておけば良かったのに・・・・・・
↑
残存勢力が反抗し続ければ、秀吉は実行したんじゃないでしょうか?
しかし、向こうの方から帰順したから、討伐する必要がなかったのでは?
ノブヤボの例が出たので、あえて言いますが、ノブヤボで99%統一して最後1大名残ったとします。
脅迫を実行したところ、「最後の一兵までたたかう!」と息巻かれたとします。
「いったい、こいつはこの期に及んでどういう心境でほざいているんだ?狂人か?」と思ったことはプレーした人なら経験があると思います。
つまり、なにが言いたいかというと、『九州征伐後若しくは小田原の北条氏が滅んだ時点』で反抗する大名はもはや上記の「狂人」
と大差がないとおもうんですが・・・。
もう諸大名が秀吉に独力で勝つ可能性はゼロ。中国の戦国時代の「合従連衡」策でも無理かと(まあ、できないでしょうが)・・・。
第一、
>>840さんのいうように、すべて武力討伐したら、豊臣家以外はすべて「亡国」なわけで当然、恨みが、復讐心が全国で蓄積されます。
たとえば、秦の始皇帝は戦国6カ国をすべて武力討伐することに成功しました。しかし彼が亡くなった途端にどうでしょう。
6カ国がことごとく復活したではありませんか。「亡国の恨み」という奴です。
統一し、且つその国家を存続させるには、ある程度のところで妥協が必要なのかもしれません。
島津や後北条の秀吉への反抗も中央では十分「狂人の所業」に類する事なんですが
>>835 すべてを討伐する必要があったと言うつもりは毛頭ないっす。
でもね、たとえば北畠家なんか、養子縁組をしてもその後謀殺されちゃったり
してるでしょ? 直接的な軍事行動じゃなくても、信長は子供も多いし、
養子縁組させて実質的支配を続けるんじゃないかなあと。
あと、もし信長だったら、まず間違いなく家康を朝鮮半島に送り込んだで
しょうねえ・・・・・・
やっぱりどれひとつとっても秀吉は中途半端だったような気がするんですよ。
相手が帰順してきたら、
「よっしゃよっしゃ」
と太っ腹を見せて、受け入れてしまう。しつこいようですが、信長だったら、
太っ腹を見せつつ、今後いかに相手の勢力を削ぎ、連枝衆を送り込むか
などを考え続けるんじゃないでしょうか。
比叡山の焼き討ちをやった男ですよ。秀吉じゃ絶対にやらなかったと思う。
石山本願寺11年戦争はやらなくてよかった戦い。
本願寺の協力を取り付けていれば
信長存命中の天下統一も夢ではなかったのにな。
確かに本願寺は、どうしてあそこまで摂津の寺の立ち退きにこだわったのか
疑問。
長島の一向一揆攻めも失敗の連続、連枝衆も大勢死んでるし・・・・・・
天下統一が成ってから、一向宗なんてどうにでもできたのに。
自分の死が早いことを、察していたような気もする。
まあ、ここは関ヶ原スレだから、あまりしつこく信長にこだわるわけじゃないんだけど、
秀吉が存命中にもうちょっと体制作りをしっかりし、せめて家康を朝鮮半島に
出兵させておけば、豊臣の寿命はもう少し長かったような気がするといいたかった。
>>842 信長は中道で倒れて、その政索は挫折させられたのだから中途半端ってのは結果論。
「目的半ばで中座した」ってんならともかく。
>>856 石山戦争は本願寺から仕掛けてきた戦ですよ?その後も、畿内の勢力が打倒されると
本願寺から講和を言ってきて→信長受けて→本願寺から講和を破って再開→戦況が
信長有利→また本願寺から講和打診→信長応じる→その隙に上杉や毛利と結んで包囲網
構築→再開。
つくづく信長は甘い!
>>858 えっ? 確か僕の記憶では、逆に本願寺の方が信長に
いろんな貢ぎ物するなど接近を謀ったけど、本願寺の立ち退きを
要求されて、それでこれはもうダメだと、全国の一向宗徒に、
信長殲滅の檄を飛ばしたように思ってたけど・・・・・・
ありゃ? もういちど本調べてみるわ。
860 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :05/01/20 21:56:33
トリップ変更。しゃきーん! 前:#aloe
>>859 この件については、顕如による決起文書にしかないのです史料的には。
「信長が立ち退きを要求してきたので戦うことにした。従わないやつは無間地獄に落ちるぞ」
ってやつ。
そしてそれ以外の、信長側、商人、寺社、公家朝廷の史料に無いのです。信長から使者派遣なり
があったのなら、どこかの日記に「信長が立ち退き要求をしたそうだ」くらいの記述があっても
よさそうなのに、それもない。
なんと本願寺側にすら、公式記録には立ち退き要求の記述はないのですな。
ここから導き出せるのは、顕如が信徒を戦いに駆り立てる為にウソついた。宣戦布告に士気向上
のために虚偽を入れるのは政治の常識。
ちなみに、信長が証拠隠滅したという主張は成り立たない。なぜなら、信長にとっては大義名分
になるから。(仮に、立ち退き要求があったとして)本願寺がこちらの命令に従わなかったという
のは強引であっても立派に名分はたつ。特にこの時期の信長は表向きは将軍を抱えていたのだから、
本願寺は将軍に逆らったとすることも出来る。信長には、宣伝に使えこそすれ、隠す理由はない。
ちなみに本願寺決起には天皇も勅使派遣して怒りを顕わにしている。
「このたびの(信長と義昭の)遠征は天下の太平のための戦なのに、武器もって妨害するとは
許し難い。ただちに矛を収めよ」
当時の情勢を考えれば、天皇自身の意志とみていいね。
>>853 まあ凶刃かもしれない
でも武門の意地というものがあるだろう
例えば敗北した場合、降伏すればいいと思うがほとんど自刃しているぞ
>>861 大いに疑問だ
信長は立ち退いてもらった方が楽だろう
確か結果的には立ち退いているよね
そうなると信長は力攻めにこだわったと言うことか?
で、できなくなって、立ち退きで妥協したと?
>>861 ほんとだ。いま資料読み返したら、本能寺側の檄文しかないみたいだ・・・・・・
なんか、実際に信長が立ち退き要求をしたんだと、勝手に思い込んでた。
すると顕如は、摂津の野田や福島に立てこもった三好三人衆らを攻撃した
信長に対し、勝手に「次は本願寺がやられる」と思い込んだわけ?
でも、それにはなにか大きな根拠となるものが必要だと思うんだけど。
>>864 隣が攻撃されたら、次に来るかもと思うのが自然だ
>>863 信長と本願寺が直接対決したのは天正四年以降の第三次から。
それ以前は長島とか近江とか越前とか周辺の一揆勢と戦っているが、本願寺に直接
はあたっていない。
そして第三次の戦いは一部を除いて基本的に包囲戦に終始した。
「力ぜめ」?信長がいつやった?
>>865 しかし、一向宗の命運を賭けた戦いを、しかも天皇までもが怒った
という戦いを、敢えてするだろうか。信長には将軍もついてるわけでしょ?
「次は自分だ」という憶測だけで、行動を起こすだろうか・・・・・・
やはりなにか顕如を決断させるだけのなにかがあったと考える方が
自然なような気がするけど・・・・・・
ああそか、天正元年には長島と戦ってるし、天正3年には越前の一向一揆
と戦ってるもんね。
疑心暗鬼になっても当然か・・・・・・
三好たちが決起したのを見て、いい機会だと思ったということか。
>>866 信長の弟らが死んでいるだろ
包囲戦で死んだのか?
ありゃ??
マジで混乱してた。ごめん。
元亀元年(1570)9月 本願寺、摂津にて信長を攻撃。
同11月 長島一向一揆、織田信興を敗死させる。
元亀2年(1571)5月 信長、長島を攻撃。敗戦。
天正元年(1573)10月 長島の一揆と戦う。
天正2年(1574)9月 長実一揆を殲滅。
天正3年(1575)4月 本願寺を攻撃。
8月 越前の一向一揆を攻撃。
10月 本願寺と講和。
天正4年(1576)4月〜本願寺攻撃。
天正8年(1580)3月 本願寺と和睦。顕如、大阪を退去。
ってことでいいんだよね。
上が正しいとなるとさ、やっぱりさっきも書いたように、
本願寺がただ疑心暗鬼になって、信長に決戦を挑む理由が、希薄な
ような気がするんだよな・・・・・・天皇も将軍も敵に回して。
>>872 退去要請の件だけど
これを見ると推定できるね
すでに戦争状態に入ったから、要請なんて無駄という判断か
長島が長実になってました。ごめん。
>>873 上を見たら明らかでは?
911でアフガンを叩くよりは理解しやすいかと
>>873 しかしだからと言って、本願寺にすら記録のない俗説を認めることは出来ないぞ
>>872 でしょう? 本能寺側にしか資料が残っていないといっても、
ではそれまで信長と仲良くしようとしていた本能寺が、いきなり手のひらを
返したように信長軍を奇襲するなんてことがあるかなと・・・・・・
立ち退き以外に理由があったのかも知れないけど、何らかの理由がないと、
やっぱり命運を賭けて戦争を挑むってのが納得できにくいんだよなあ。
宮家は伏魔殿だから、一番本当のところがわからないのも事実だけどな。
全方位外交、裏ででんする、なんて日常茶飯事だし。
本願寺って将軍に扇動されたんじゃなかったの?
どちらにせよ坊主にとったら信長は悪魔だしね
本願寺からすれば全面戦争の気はなかったのでは?
本願寺はこれまでも武家と戦いを行い、勝っても負けても通常の戦の範疇だった。
信長を攻撃したときも、これが天皇にも反対され信長とは全面戦争になととの覚悟で
おこなったは思えないのだが。
実際に何度も講和を結んでいるのは、逆説的にお互いが問題があれば戦を終わらせられる
と考えていたからだろう。
ちなみに、信長は本願寺や一向宗を潰そうとしたことはないよ。教団として、宗教としては
一度も否定した事は無い。
「信長は本願寺を潰せなかった、諦めた」ってのは宗教弾圧者なんて誤ったイメージから齎された
ものでしかない。
このスレに書いたの初めてだったんだけど
なんかみんなに燃料投下できたみたいでよかった
>>881 全面戦争のつもりはなかったと、いうことなのかなあ。
ここでちょっと、つけ上がってきた信長を叩いておこうか、ぐらいの
こと?
でもそれだったら、2ヶ月後に長島の一向一揆が、本願寺から派遣され
ていた武将を中心にして、信興を攻め殺すところまでやるかなあ?
本願寺は信長との戦争に参加しないやつは破門にするって言ったんだろ?
かなり本気だと思うが
885 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 00:23:39
スレタイから離れてるような。
これで信玄あたりが出てきたら、二万五千で上洛できっかよ!
まあ、確かに信長スレのようになってしまった。
でも盛り下がってるよりはマシだ。許しておくんなせえ。
燃料投下するなら関ヶ原ネタで
苦しいのはわかるが
乙
by期待ROM
関ヶ原に大雨が降っていたとしても、両軍に影響なし?
890 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 01:24:45
だめ!雨天決行です!あとには引けません!ずる休みもゆるしませんからねっ!
891 :
藤巻:05/01/21 01:35:16
ネタ?とっておきの関ケ原ネタありますよ。
なんか最近の研究でわかったことらしいんだけど、
吉川広家の陣が合戦布陣図にかかれている場所には布陣してなかったという証拠が見つかったらしい。
南宮山であることはまちがいないらしいが・・・
これによって、いままでの解釈よりだいぶ異なる部分もでてくるらしい。
なんかの本に書いてあったっす。最近といっても二年ぐらいに出版された本ですが、
この話聞いたことがある人います?
わたしも話の概要も結論も忘れますた。
もし知っている人いたら、教えてください。
すっげえ初耳。
それによって、なにが変わるんだろう。
893 :
藤巻:05/01/21 01:57:43
まあ、たしか南宮山の西に布陣が実は東だったとか、北の布陣が実は南だったとか、そんなレベルの話の内容でした。
私ももう一回その本明日から探してみます。
そのまえに誰か詳しい人が現れれば幸いですが。
その位置の誤差で戦局変わるのかなあ。
ところで、大阪の陣のころ、すでに豊臣家の
財力は底をつき始めていたという話と、いや、開戦直前に誰だったかが
目撃したところによると、金塊がうなるように積まれていたという話と、
両方聞いたことがあるのだが、どっちが正しいの?
896 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :05/01/21 02:18:01
スレタイを変えます。次スレのタイトルを考えてください。
小早川の動き易さが変るんではとかトーシロ発言してみる
ははあ・・・・・・
900 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :05/01/21 03:27:17
900!
>899
まったくスレ違いの会話になってるのに、
他の人間を責める機会には敏、さすが三成スレですね。
そういうもんなのか
904 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 05:33:07
もんのすごい基本に戻るべき。
東軍は秀忠の35000、西軍は毛利+「瓢箪の軍旗」が欠けた戦い
関が原で陣をしいたことがギリギリだぞ
陣形は完璧だけど、「守り」ならもっと近江盆地にひき込むなら粘れただろうが
大垣城から三成が誘い出されたんじゃないのとかトーシロ発言をもう一発してみる
>>895 落城した後の大坂城から莫大な金塊銀塊が発見された。
つうか尾張、三河の防衛ラインを築く前に徳川方が来てしまったのが第一の敗因。
といっても、秀吉が対家康用に蓄積した膨大な軍備や食糧を福島らがそのまま使ったから
できた余裕の進軍で、秀吉も全く酷い部下を持った物である。
一方の秀忠は途中で行軍資金も尽きていたので、当時の関東の経済力が偲ばれる。真田
に阻まれたと言うより金がなかったというのが実相で、もし豊臣方の備えを使えなかったら
東軍は本当に上杉、佐竹と挟撃されてアボーンだったと思われる。
秀吉ってホント凄かったんだね、人心掌握とかさ
義理人情に訴えてみたり、利を説いてみたり、嘘も方便だったりと、色々な方法でさ
三成もそういうとこ見習うべきだったのに
「秀吉様亡き今、ここまで引き立ててもらったご恩に報いるためにも、
豊臣政権の繁栄を自分がやらないで誰がやるんだ!」
と、ちょっぴり良い人なんだけど、目標に猛進するあまり
すれ違いを起こして、周りの反発を招いてしまった可哀想な人
家康が勝ったため、秀吉没後の印象が悪いことになってる?三成だけど
家康に付いた豊臣恩顧の武将からすれば三成のせいにしないと世間体が悪い
処刑後にありもしない悪いエピソードを捏造されてるかもしれない
歴史は勝者の都合の良い様にしか残らない・・・
なんか可哀想なんで、実は良い人だったと思うことにしている
分かり易く言うと三成は思い込み厨
三成って島津にひどいことしたんじゃなかったっけ?捏造?
逆に三成が勝ってたとすると、豊臣恩顧だった東軍武将は
悪逆非道の裏切り者として、現代に伝わってるかもしれない
そう思うとタイムマシーンが欲しくなったyp!
913 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 10:29:49
>>1 なにが次回スレタイ考えといてください、だよ。どうせ議論百出させといて結局、
【石田】8万で関ケ原、勝てっかよ【三成】その3にするつもりだろ?
914 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 10:39:50
タイムマシンがあったら、黒田長政を殺すね。
それで小山会議で福島をはじめ誰も発言できず、そこで田丸直正あたりがポツリと、
「あのぅ、帰っていいっすか?」と言って大勢が決するw
>>914 黒田はただの伝言係。他の人が代わりを務めるだけ。
どうせ殺すなら家康で
917 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 14:00:26
>>916
影武者がいるから意味ないよ
いねーよそんなもん
919 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 14:28:21
>>915 親友の黒田長政以外だれが説き伏せるんだよw
藤堂か?奴は清正と仲が悪いから正則もいい噂聞いてねえだろW
細川忠興か?
あの感情の起伏の激しい基地外に説得する技術あんのかよwww
嘉明?
あいつは正則同様、説得しなきゃいけない部類だろwwwwwwww
たしかに・・・・ただの「伝達係」に正則を説得することは荷が重いでしょうね。
なまじ親類なだけに秀吉も手がつけられなかったんだよな>馬鹿福島
>>921 別に福島だけがバカな訳じゃあるまい。
あそこら辺の二代目はみんなバカぼんぼんだよ。
そうじゃなきゃ、(関ヶ原前の)あんなマンガみたいな
展開になるまいて。
それにつきあってしまった三成もバカなんだけどな。
しかしその馬鹿と言われてる世代も、冬の陣の頃の世代に比べれば、断然マシなんだよな。
政宗がズルそうじゃなくて、格好良く見えるくらいだもんな。
俺は佐々成政
じゃあ今から雪山越えてくれ
一応ルートは富山から岐阜なんでよろしく
>>904 丹後の細川幽斎を攻めてた立花宗茂以下の軍をお忘れでは。
あうあう、佐々成政と書いた瞬間に電源飛びました。
こ、こわい・・・・・・何かの呪いか・・・・・・
俺は佐々成政ファンだから、いまひとつ秀吉が好きになれんのだが、
家康と成政が織田家をかついでつぶされずにいたら、また展開が違ってきたのだ
ろうかと妄想してしまう。
それを聞いてワラタ
>>925が
冷静になると、どう好意的に考えても電源が飛んだら書き込めない希ガス
やはり何かの呪いでしょう。
俺は織田裏臭い
>>911 捏造。
島津の財政立て直したのは三成。
三成と仲が良い外様って上杉と佐竹と島津。
伊集院やら関ヶ原前にごたごたを理由に
関ヶ原後関係無いよと島津が突っぱねたせいで、
そういう風に喧伝されている。
とにかく我々は、信長の残虐性だけに目を奪われ、
「家康が秀吉の死体を暴き、すべての装飾品をはぎとって瓶詰めにして
埋め直し、神社だの寺だのを破却しつくし、幼い国松丸を葬り去る」
などの徹底的な残虐行為をしたことだけは忘れちゃいかんよな。
むろん晩年に近い秀吉もやったことだが、どうも信長や秀吉の残虐行為
ばかり上げられ、家康がともすれば平和主義者であったような言われ方
をするのが気に入らない。