35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 05:57:29
33は宇佐美定祐・榊原政寿に訂正
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 03:01:05
高田為長1610?− 尾張徳川家臣 成瀬家に仕える 柳生利厳門下
紀伊徳川家臣
牧野長虎没年1652
田宮長勝1580−1645 元池田利隆家臣 田宮流居合い術の祖
木村友重1586?ー? 柳生宗矩の筆頭高弟 忠長に仕えたのち家臣
水野重良 ? 紀伊付家老 新宮藩(城)2代 重仲の子 弟は重央 子は3代重上
三浦為次(兄)・為時(弟・重臣) ? 三浦為春の子
正木為永 ? 光貞の家臣 父も紀伊家臣
三浦為隆1659−1732 紀伊家付家老 吉宗時代
吉見経武 江戸中期 紀州竹林派の弓の名人 後に出家して順正と名乗る
井沢為永 ? 紀伊藩主時代の吉宗の農政改革を担当
加納久通1563−1648 吉宗の傳役 政直の子
加納五郎左衛門政直 ? 吉宗の里親 久通の父
大岡忠高 ? 紀伊藩士 大岡忠相1677−1751の実父
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 03:18:17
紀伊徳川家臣つづき
有馬氏倫1668−1735 吉宗側近 後に伊勢四条初代藩主
有馬清兵衛 ? 紀伊藩士 氏倫の父
渡辺泰綱 ? 紀伊藩士 伊勢四条2代有馬氏久の実父
小笠原胤次1656−1718紀伊藩士 側用人
徳川頼宣は浪人を多く召抱え、一時期は由比正雪も食客としていたらしい
蒼天録でやったら津軽家が最強になったよ。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 05:58:28
毛利一族
毛利綱広1639−1689 毛利輝元嫡男・秀就の子 長門萩藩第2代 藩法典「万治制法」を制定し藩体制を確立
毛利吉就1668−1694 綱広の子 長門萩藩第3代 新堀川の開削や菩提寺東光寺の建立
毛利吉広(就勝)1673−1707 綱広の子吉就の嗣 長門萩4代 三田尻海浜の塩田開発・松本川の堤防修築架橋など
毛利吉元1677−1731 綱広の子吉広の嗣 萩藩5代 資性鋭敏で学を好み、厳しい倹約の督励の間にあっても文武を学ぶ心深く、藩校・明倫館創立 文教振興の面に尽力し、「人づくりの吉元」ともいわれた
熊之助・百助・元重・万吉・・・綱広の子
毛利元賢1670−1690 毛利輝元次男・就隆の子 周防徳山2代藩主
毛利元次1671−1719 就隆の子 徳山藩3代 文武に秀でるが、宗家萩藩との間に確執を生じ、改易されるが、次男・元堯1702−1720に家督を譲ることで再興される
毛利光広1616−1653 毛利秀元の子 長門長府2代 在位3年で没
毛利元知1631−1683 秀元の子 長門清末初代藩主
毛利綱元1650−1709 光広の子 長府藩3代 英明の誉れ高く、天和御法度・窮民救済の法の法を定める 「七石集」を残す 文武両道の気風を育てる
毛利元武1658−1677 元知の子 清末2代藩主
毛利国広(元平)1675−1729 元知の子 長府藩5代 元矩(綱元の子1704−1718)の嗣
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 21:27:27
御三家つづき
大道寺直英1552−1642 大道寺政繁養子 北条滅亡後、駿府に移り徳川義直に世話になり大阪の陣参戦し、1616年築城家を見込まれ津軽信牧の家老となる
有馬氏倫の父・有馬清兵衛は正木為永の子・義景で有馬吉政の嗣子
有馬吉政は徳川頼宣に仕え、有馬豊氏3男・頼次の甥で嗣子となる
田沼意行・・・意次の父 叔父・田代高近に養われた後吉宗に仕え、吉宗が将軍になると幕臣(御小姓)となる
田沼吉次・・・意行の曽祖父 徳川頼宣に召抱えられる 父・忠吉は武田に仕え、祖父・重次は忍城主成田氏に仕える
田沼吉重・・・吉次の子 意行の祖父 紀伊徳川に仕える
田沼義房・・・吉重の子 意行の父 意次の祖父 病弱で紀伊家を辞す
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 00:49:32
毛利一族
吉川広正1601−1666 広家の子 岩国藩(陪臣扱いで宗家は大名とは認めず、認められたのは明治)2代
吉川広嘉1621−1679 広正の子 岩国3代 錦帯橋創設 岩国の文化産業の高揚に貢献
毛利就頼(吉見政春)1607−1676 広家の次男 吉見広長の嗣子 1637秀就のとき改名し大野毛利の祖となる
毛利元鎮 ? 小早川秀包の子 吉敷毛利家を興す 長門吉敷邑主 子は元包
毛利元貞・小早川能久・・・ 小早川秀包の子たち
毛利元景・繁沢元貞・木原就重・繁沢就直・・・阿川毛利の祖・繁沢元氏(吉川元春次男)の子たち
毛利元倶 ? 元就7男・天野元政(右田毛利の祖)の子 右田邑主 子は元法 孫は就信
天野元以・阿曾沼元信・天野元雅・天野就員・毛利元嘉・・・天野元政の子たち
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 03:23:06
毛利一族・家臣
毛利元宣 ? 厚狭毛利の祖・末次元康(元就8男)の子 厚狭邑主 子は元勝
二宮就辰1546−1607 元就隠し子(家臣・二宮春久に払い下げた女の子ども) 輝元側近 穂田元清と広島城築城の普請奉行をする
富田(椙杜)元秋1552−1585 元就5男 椙杜隆康の養子になるが、後出雲月山富田城主となり尼子残党の反抗に奮戦
出羽元倶1555−1571 元就6男 出羽元祐の養子になるが早世
毛利就直 ? 吉敷毛利元包の嗣子 天野(右田毛利)元法の子
毛利(小早川)広規1657−1690 毛利就直の子 毛利広包?
椙杜元縁 ? 富田元秋の嗣子 志道元保(志道広良の孫)の次男 長府城番
椙杜就幸 ? 元縁の嗣子 志道元幸(元保の孫)の子 子は就保
椙杜元周 ? 元縁の子 子は広中・広周
宍戸隆家1518−1592 元就の娘婿 一門と同等の扱いをうける
宍戸元秀 ? 隆家の子 元続の父 内藤元盛の実父 ほかに子として元真がいる
宍戸元続1563−1631 隆家の孫 筆頭家老 朝鮮の役では渡海し一軍を率いる 萩城の普請役
宍戸広匡 ? 元続の子 三丘邑主 周防三尾1625石 子は就尚 弟に就俊・元高
内藤元盛(佐野道可)? 内藤隆春の嗣子 宍戸元秀の子
内藤元珍・志道元義・粟屋元豊・・・内藤元盛の子たち
志道元宣 ? 内藤元珍の子 子は隆昌
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 05:19:11
毛利家臣 <略歴詳しい人教えてください>
坂元貞 ? 志道広良の次男 坂広秀の嗣子
志道広長 ? 志道広良の嫡子 子に元保・良泰・通信
志道就良・元信・元親・・・志道広良の子
志道元規・椙杜元縁・志道元勝・・・志道元保の子
志道元幸・志道元貫・・・志道元規の子
坂元時 ?−1639 坂元貞の嗣子
坂就真1614−1679 元時の子
坂就之1626−1659 就真の嗣子 井上忠通の子 船木代官
坂時澄1656−1710 就之の子 都濃代官
口羽通良は志道広良の弟 桂・志道・光永は坂から分かれる
江戸時代萩藩の口羽は毛利一門につぐ家格「寄組」に3家存在 手廻り組・大組は1家づつ存在
口羽広通 ? 通良の子 子に通平 孫に元通
口羽春良 ? 通良嫡男 1575に国吉城主
口羽元可 ? 通良の子 子に元良 孫に就可・就通
口羽元良 ? 春良の子 子に元延 孫に就行
口羽元智 ? 春良の子 子に元衡(その子は就之)・元武(その子は通古)
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 06:12:40
毛利家臣 <略歴詳しい人教えてください>
桂就宣 ? 桂元澄(1500−1569)の弟・元忠の子 子は元綱 孫は元忠
桂元延 ? 桂元澄(1500−1569)の嫡子 子の元重は立花城代 孫は元相
桂元時・元澄(1585生−1638没 元時の嗣子)・元仍・・・桂元相の子たち
桂元綱1613−1637 桂元澄(1585−1638)の子 弟に就頼・就澄
桂就政1637−1668 元綱の子
桂元澄(1500−1569)の子供たち
元盛(桂元次の嗣)・元貞(仕吉川元春)・元親・景信(仕小早川隆景)・広繁・広時・香取就常
福原元俊 ? 貞俊1523−1593の子 妹は熊谷信直の室 子に広俊・元頼
福原広俊1567−1623 元俊の子 福原鈴尾城主 1601長門吉敷に 弟は元頼
福原元俊 ? 広俊1567−1623の子 宇部邑主 子は広俊 弟に元房・元則
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 08:11:31
毛利家臣 <略歴詳しい人教えてください>
益田広兼(早世)・景祥・就之・就景・・・永久家老・益田元祥(牛庵)1558−1640の子
益田元尭 ? 広兼の子 長門須佐邑主 子は就宣 孫は兼長
清水景治 ? 清水宗治の子 小早川隆景について四国攻め・朝鮮の役にも参戦 益田元祥の財政改革を手伝い、後に萩藩江戸家老 兄は宗之(1600没) 子は元貞
御郷康政 ? 大内家臣右田重政の子 三田尻御舟手組 江戸期毛利水軍の指揮官の一人
村上景親1557−1610 村上(能島)武吉の次男 小早川隆景・秀秋・毛利輝元の家臣 毛利家船手組の一人
村上元武 ? 武吉の長男・元吉(1600没)の子 毛利家御舟手組頭
村上吉充1534−1608 因島村上6代目棟梁 乃美宗勝の妹を妻にする 毛利家御舟手組の一人
村上亮康1534−1608 吉充の弟 因島水軍 毛利に頼った足利義昭の警護を勤めた
村上吉亮 ? −1596 亮康の3男 叔父・吉充の養子に入った長兄・景康が死去したため代わりに入り、因島村上7代目当主となる
村上元充 ? 吉亮の子 因島村上8代目 三田尻に居住 毛利家御舟手組番頭
村上吉直 ? 吉充の子 子は尚吉 孫は吉充
神保元胤(1582−1614)・元光・元徳(1581−1643)・就胤・・・元就・隆元・輝元3代に仕えた神保就俊の子
臼井就常 ? 神保元胤次男 臼井就房嗣子 大組士 子は直常で就房の嗣子 次男・元徳(大組士)
臼井就房1603−1660 神保元胤嫡男 毛利秀就に仕える
臼井就之1621−1660 臼井元徳の子 子は説重1647−1722 孫は義正1667−1703
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 10:00:52
毛利家臣 <略歴詳しい人教えてください>
山内広通 ? 尼子家臣・山内隆通の孫 父は元通 小田原・朝鮮・関が原参戦 萩に移り、寄組として藩政の枢機に預かった
山内元資・就時・・・広通の子たち
井原元以 ? 国元加判役 福原広俊とともに徳川との交渉役
熊谷直貞・元貞(直貞嗣子)・・・熊谷元直1555−1605の子 子孫は萩藩寄組
熊谷主膳正・・・元貞の子 熊谷元実・・・主膳正の嗣子・宍戸出雲守実子
吉川家種?ー 1600 経家の子 子は家喜 孫は正喜 ひ孫は正盛
乃美景綱・盛勝・景嘉・・・乃美宗勝1527−1592の子たち
乃美元種 ? 乃美景綱の子 景継の嗣
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 10:42:18
毛利家臣 <略歴詳しい人教えて下さい>
井上元盛1568−1629 父は元勝1538−1579 祖父は就正1516−1580で井上元兼1486−1550の末弟
井上元興・元忠・元信・・・井上元勝の子たち 元盛の弟たち
井上元勝1609−1672 元盛の子 子は就友1617−1688
井上信兼 ? 井上元信の嗣子 井上信兼(井上元盛1485−1550元兼の叔父)の子
児玉元良・春種・元輔(その子は元重)・・・児玉就忠1507−1562の子たち
児玉元兼・景唯・・・児玉就忠の嫡子・元良の子たち
児玉元忠・就光・・・児玉元兼の子たち
児玉就兼 ? 児玉元実の子 就忠の弟 就方1513−1586の兄
児玉就光・就安・就吉・・・児玉就兼の子たち
児玉元村 ? 児玉就兼の子・就光の嫡子 弟に元房 子は元光
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 11:17:54
毛利家臣 <略歴詳しい人教えて下さい>
国司元武・元貞・・・毛利隆元の傳役・国司元相1493−1591の子たち
国司元蔵 ? 国司元武の子 子に就正
国司広通 ? 国司元貞の嗣子 堅田就政の子
赤川元保1508−1567 毛利隆元の近侍 赤川房信の4男 毛利5奉行の一人
赤川元通・元之・・・赤川元保の養子たち 元保の兄・就秀の子たち
赤川元秀 ? 赤川房信3男・就秀嫡子 子に元房 孫に元恒
来原盛益 ? 来原盛種(仕毛利元就)の嗣子 佐々木対馬の子 子は盛行
来原盛信?−1674 来原盛行の子 子は盛由1643−1712
矢田就定?−1600 毛利弘元に仕えた矢田元通のひ孫 子に就政・就真
矢田就方 ? 矢田就真の子 郡奉行
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 02:24:23
自作シナリオのサイトってどこかにあるの?
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 20:00:13
天翔記だけじゃなくて、武将登録用に
史実を載せるスレがあってもいいね。
結城(松平)秀康の家臣団
石川成綱 石川数正の長男。猛将。
石川乙成 成綱の子。
太田資武 太田三楽の子。
本多富正 家老。
中村主水 鷹匠。奥山新陰流の達人で暗殺を得意としたというのは嘘で、
一介の鷹匠で50石を給されていた。
本阿彌光悦 芸術家。
松平忠頼(忠長の子だという説がある人)、豊臣延由(秀頼の子
だという言い伝えがある人)、石谷貞清、新井正済、
新井白石、山鹿素行、野中兼山、熊沢蕃山、幕屋大休、
服部康成、松山主水あたりのマニアックな武将?を入れていくと
マジで楽しいよね。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 22:42:32
不動金縛り(心の一方)の術で有名な松山主水大吉って、ドラマ「それからの武蔵」では武蔵のライバルの扱いで佐々木小次郎の弟子になってて、武蔵の命を陰から狙いつづけて、
細川の剣術指南役になっても武蔵を恨み、最後には武蔵の弟子で細川忠利の臣(都甲太兵衛?)に1対1の戦いで殺されてた。
松山主水?−1635 熊本藩鉄砲組頭 祖父は竹中半兵衛の家臣 剣は中条流などと並び称される古流で名は二階堂流兵法(小次郎の弟子ではない)
忠利と忠興が不仲のとき、忠興の家臣に不忠を働き、忠興家臣船手頭・荘林十兵衛(兄・隼人左は加藤清正の元で勇名をならした)が寝込みを襲い暗殺
流派は絶え、心の一方・奥義十文字の伝は伝わらず、八文字までは細川忠利・村上吉之丞に伝えられる
二階堂流‘兵”法ではなく‘平”法に訂正
太刀筋が平の字を解いて、一文字・八文字・十文字がある
>松山主水大吉
こいつって事績を読むと超能力者としか思えないんだけど、
あんなん全部嘘だったんでしょ?
さあ、そこまで言い切れるかどうかわかんねえな。
その当時生きてたわけじゃないからな。
実在の人物であることは確かなようだから、催眠術と考えればありでは
武蔵とのかかわりはどうだったのだろう? 全くの創作かな?
武蔵の弟子で奥義相伝者・寺尾信行が児小姓時代に忠利の八文字の伝授を主の身を案じてこっそり見ていたらしい
桃鉄99年みたいなスレですね
催眠術って、ハイ!って感じで簡単にかかるもんじゃないよ。
天翔記っていつカンストするんやら…
下手すると明治以後もやれそうな気がする
1708まででは
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 20:45:01
越前松平家(秀康系統)
松平忠昌1597−1645 結城秀康次男 1623忠直改易後名跡相続し、福井52万石藩主へ(1619越後高田藩主) 正室は浅野幸長娘・花
松平光長1616−1707 越後中将 松平忠直(秀康嫡男)と勝姫(秀忠の娘)の子 忠直とともに豊後に流されたが赦免され、1624忠昌に代わって高田藩主になり藩の盛期を迎えるが、越後騒動で改易され、伊予松山松平家預かりとなる
松平綱賢1633−1674 光長の嫡子 病死後、継嗣問題で越後騒動おこる
永見長頼1630−1667 忠直次男
永見長良1632−1701 忠直3男
64 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 21:07:22
島津氏はどう?
島津は史料・文献が豊富だから結構家臣団も記録が残ってるはず。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 21:55:35
越前松平家
松平光通1641−1674 忠昌の子 福井45万石藩主 正室に跡継ぎが生れず継嗣問題に悩み、正室国姫が自害したため、弟昌親の相続を遺言し自らも自害
松平昌勝1636−1693 忠昌の子 綱昌・吉邦の実父 松岡城主(藩主)
松平昌親1640−1711 忠昌の子 吉江城主(藩主)の後、福井47万5千石藩主になるも、2年で家督を綱昌に譲り、後見となる 綱昌改易後復帰(25万石)し、吉品と改名する 跡継ぎは勝昌弟の吉邦
松平綱昌1661−1699 昌勝の子 養父昌親と折り合いが悪く、1686乱心を理由に改易される 後に乱心は昌親の讒言と噂がたつ
松平直堅1657−1697 光通の次男 家臣の手で養育され、1677松平姓を許され、後に譜代に列し、子孫は越後糸魚川(清崎)に領地をえる
66 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 22:04:01
九州に住んでないので、島津家臣のかんたんな系図や一族の簡単な略歴しかわかりません。
それでよければ(今でも不定期だが)、越前松平家の後にレスします
67 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 23:15:51
越前松平家
喜佐・・・結城秀康の娘 毛利秀就正室で萩藩2代毛利綱広の生母 娘の土佐は松平光長の妻
松平直政1601−1666 秀康3男 出雲松江18万6千石藩主 若い頃は勇将と評価され、藩主となってからは名君と呼ばれる
松平綱隆1631−1675 直政嫡男 松江2代
松平綱通1659−1706 綱近とも言う 綱隆の子 松江3代 殖産興業策に力を注ぎ、財政再建に努める
松平近栄1632−1721 直政次男 出雲広瀬藩主 越後騒動に連座して(調停が悪かったとの理由)所領を半減されるが後に2度にわたって加増され元の3万石に復す
松平近時1659−1702 近栄えの子 広瀬2代
松平隆政1648−1673 直政3男 出雲母里1万石初代藩主
松平直丘1665−1712 直高とも言う 直政4男 隆政嗣子 母里2代藩主
68 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 23:56:08
越前松平家
吉松1604−1609 秀康4男 本多富正(本多重富の子で本多重次に養育された後に秀康の筆頭家臣になる)養子
松平直基1604−1688 秀康5男 結城の名跡を相続したが松平姓に復す 定着せず幾度も転封し、1648姫路15万石 和歌の名手
松平直矩1642−1695 直基の子 越後騒動に連座して減転封されるが、後に加増転封を重ねる 歌舞伎を愛好し、「大和守日記」を残す
松平直良1606−1678 秀康6男 越前大野藩主
松平直明1656−1721 直良の子 播磨明石6万石に加増転封し所領が定着する
69 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 00:51:52
越後(高田)騒動1679
発端:光長の義弟で家老の小栗美作が国政の中枢にあり、これを嫉妬する重臣層があり、美作派と反美作派が対立している折、1674嫡子綱賢病死し、継嗣問題が浮上する
陰謀:反美作派(光長の異母弟の永見大蔵・家老荻田主馬)は美作が子の掃部(かもん)を養子にしようとしてると風聞を立て美作打倒の挙にでる
美作打倒派(お為方)が美作邸に押し寄せたが衝突は避けられ、美作の隠居で一時の決着を見る
反転:大老酒井忠清は穏便に処置すべき旨をつたえ、美作の態度を神妙なりと評し、お為方の主要分子を反対に処罰する(美作は根回しして忠清の情誼を得ていた)
お為方はこの処罰を不公平と受け取り騒動はなおも続き、新将軍綱吉が老中堀田正俊に再吟味を命じる
結果:1681綱吉の直裁が下され、小栗美作・掃部父子は切腹、大蔵・荻田は八丈島配流の喧嘩両成敗の処断をし、御家を改易させ、光長は伊予松山松平家預かりとなり、信濃川中島1万石に格下げされる。その後光長の家系は美作津山10万石になる
70 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 18:05:32
松平光長家臣
小栗正高 ? 小栗美作の父 7大将筆頭(家老)
小栗正矩1626−1681 小栗美作 寛文の震災後の高田を復興させる 藩政改革を推進 妻は光長の妹・勘
永見市正は永見(松平)長頼のことで光長の弟、光長の養子になる綱国の父
永見大蔵は永見長良のことで光長・市正の弟で勘(1636−1665)の兄
松平宣富1680−1721 松平直矩の次男 美作津山初代藩主 光長の養子になり名跡を継ぐ
荻田主馬長繁(高田騒動の主馬と同人か不明たぶん同族)
越後で上杉景勝に仕え、上杉義春(上条政繁・畠山入庵のこと)組下で、御館の乱で北条景広に槍をつける 結城秀康家臣
71 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 22:56:37
永見貞愛1574−1604
結城秀康の双子の兄弟 生母於万の方の実家に預けられ歴史の表舞台に立つことは無く、於万の兄・永見右衛門貞親より鯉鮒神社の神職を譲り受ける
永見民部頼母と同一人物か不明(家康の子で生母は於万 秀康に寄食し、越後にて永見氏を名乗る 忠直の時代に大坂の陣に出陣し、1623越後高田にて死去)
本多成重1572−1647
鬼作左本多重次の嗣子 重富の子で富正とは兄弟 幕府直臣から福井藩より4万石を与えられ、丸岡城に入り、富正と若年の忠直を補佐する 忠直改易後は福井藩から独立(丸岡藩)
本多重能・・・成重の子 丸岡2代 子は3代重昭 4代重益で家臣間の争い(本多織部派と太田又八派)で1695改易される
本多重看(旗本3000石)重良(旗本3000石)重方(福井藩で3000石)・・・成重の子
72 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 22:16:13
生没年判明
本多重能1590−1651
本多重昭1634ー1676
本多重益1662−1733
本多富正1572−1649 家老 府中(現武生市)城主四万五千石
73 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 23:13:58
松平直政(出雲松江藩)家臣
朝日丹波重正
木曽義仲末裔と言われる 菅沼定利に仕え、1601秀康に仕える 谷伯耆(谷衛友の弟)と争い出奔、後に一時直政を養育した縁で、直政重臣として代々仕える
天方山城(首藤通綱もしくは通興)
掛川城主でその後天方を知行したため改称 故あり高野山蟄居の折秀康に召抱えられる 大坂の陣では直政の手に加わり御陣役を務める
乙部九郎兵衛
1603大久保忠常の肝いりで秀康に召抱えられる 直政が上総姉ヶ崎に領地を得たとき忠直から付けられ、代々松江松平に仕える 父・掃部は小早川秀秋に仕える
74 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 23:55:06
直政家臣
桜井武兵衛
元北条家臣 直政が松本から松江に転封されるとき福井藩から分与される
柳田縫殿助
結城一族で結城晴朝の隠居後に秀康に仕える 1602に10歳の直政に付けられ、代々松江松平の城代家老となる
伊藤長太夫不伝・・・剣術指南役 不伝流居合い
大石十太夫・・・剣術指南役 新当流
松本理左衛門定好・横田八左衛門実直・・・槍術指南役
寺田勘右衛門定安・・・柔術指南役
川瀬兵蔵・・・棒術指南
竜野新五左衛門・・・弓術指南 日置流
75 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:45:51
忠直(福井藩)家臣
安藤金助・・・安藤家次(安藤直次の伯父)の子
石川成綱・・・石川数正嫡子 徳川家康・信康に仕える 小田原征伐後、浪人し子・乙成と伴に1603秀康に仕える 親子で大坂の陣で奮戦
大井房仲・・・上杉景勝家臣で佐渡城主 その後秀康に仕え、大坂の陣に出陣 忠昌の代で道夢と号し御旗奉行を命ぜられる
岡部五郎兵衛・・・1612父五郎兵衛長教の家督を継ぐ 岡部元綱子孫で代々今川に仕える 父・長教は武田・北条・家康・秀康に仕える
76 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 17:15:37
忠直(福井藩)家臣
小栗備後守重勝?−1631
子の吉六とともに秀康家臣になる 土屋昌春(1580−1607)殉死後、大野城代に 大坂の陣でも活躍 光長が越後転封後は、高田城代
小栗正重?−1665
重勝の嫡男・吉六(五郎左衛門) 家康・秀康・忠直・光長に仕える 光長の家老
小栗市正・・・小栗重国の子 重勝の弟 秀康・忠直に仕える
落合主膳(美作)
忠直の勘気を蒙って堺に蟄居するが、徳川頼宣に召し出され落合主膳と名乗る 子の多左衛門勝重は皆川勝照(広照の子)の養子
加藤康寛
芦田信蕃の次男 小田原攻略で兄・康国と共に奮戦し、兄自害で家督相続 のち故あり蟄居し、1600宇都宮で秀康家臣になり、加藤四郎兵衛と号し、日光の警護を任される 越前では大野郡木之本に知行を得る 秀康死後は宗月と号し、大坂の陣では大野城代を務める
77 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 21:07:15
忠直(福井藩)家臣
笹治大膳正時
秀康・忠直・忠昌家臣 父は山県昌景の庶子の上村左兵衛 兄・山県内匠は大坂の陣で忠直の供をして真田幸村の備えに1番槍をつけるが、恩賞が無いのを不服とし、忠昌の代に暇を願い受理されたので内匠家は断絶
永見吉克<永見貞親との関係は不明 長勝院は永見貞英の子とも永見吉英の子、町医者・村田意竹の子ともいわれる>
大坂の陣に忠直に従って出陣 父は吉英で池鯉鮒城主 長勝院(秀康母)の兄
西尾宗次(西尾久作)?−1635
宮地久右衛門の子・宮地久作で後に浪人・西尾是尊の養子になる 高天神城の戦いなどの活躍で秀康に召出される 夏の陣で真田幸村を討ち、褒美を賜る
78 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 20:17:41
松平忠直・忠昌(福井藩)家臣
梶原政景1548−1623・太田資武1570−1643(太田資正の子)は天翔記に登場済み
太田資信・・・資武の嫡子 子は資親 孫は資栄 ひ孫は資将
太田正長・・・資武の子 福井藩士だったが、幕府の命で近江草津に移住
多賀谷村広・・・政広1537−1595の子 土浦城代後、越前に移る 大坂の陣では番頭 忠昌時代は忠昌の子・昌勝の傳役
多賀谷忠経?−1659 重経1558−1618の子で光経の弟 後に近江佐和山に移住
多賀谷泰経?−1616 重経の嫡子・光経の子 加賀坂井郡一円を知行 養子経政が家督を相続せず、経政の子・経栄が松平直基(秀康5男で上野前橋松平初代)に仕官
79 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 23:30:25
忠直家臣
久世騒動・・・久世但馬守の知行民が岡部自休の知行民を暗殺し、久世や本多冨正らが事件を揉み消した事が発端となった家臣間の争い
久世騒動1612関係者
久世但馬・・・家老 元佐々成政家臣 騒動で忠直の命をうけた本多冨正に攻められ自決
竹島周防守・・・家老 久世・本多方に属したが、騒動で無罪の裁定を下されるが、城内の牢に入れられ、江戸にいくときも檻にいれられたことを恥て自害
岡部自休斉・・・町奉行 牧野主殿助と家老の悪事を関東に訴えようとして、忠直に止められる
牧野主殿助易貞・・・幼少時、家康に秀忠と秀康のどちらに付きたいか聞かれ、秀康と答え付けられる 大坂の陣では先備を勤める 忠直配流後、忠昌の越前入部の出迎えをする
中川出雲守一茂・・・自休が今村・清水・林らに相談して、忠直に訴える事をお願いした相手(しかし、本多・竹島は上申しなかった) 信濃へ蟄居後、徳川忠長に仕える 子・直重は忠昌時代に越前に帰参
清水丹後守孝正・・・騒動で伊達家に預けられる 今村・林らと仲の悪い本多を貶めるため本多に久世を討つことを忠直に勧める
今村掃部助盛次・・・丸岡城主 騒動で改易 養子の今村正形は越後で忠昌に召抱えられ、越前に復帰
林伊賀守忠定1567−1628 幼少より家康に仕え、秀康に仕え一万石与えられ越前勝山城主となる 騒動で処罰され、真田信之に預けられ、後に許される
80 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 02:05:21
元真田昌幸家臣で松平忠直の家臣(秀康の越前入部の際召抱えられる)
原隼人貞胤・・・母衣衆700石 幸村の古い知り合いで、大坂の陣では忠直に許しをえて、幸村に別れの挨拶をする
赤垣甚左衛門・大串弁之助・・・御馬廻衆400石
高梨理内(清大夫)・藤岡彦太夫(七兵衛)・・・御番与衆200石
元真田昌幸家臣で秀康家臣(1612以降は忠直の分限帳にないため死亡か)
内田小(庄)八郎・・・伏見御供番衆100石
高梨理内(清大夫)(200石)・丸山権之丞(300石)・水科新助(200石)・・・御番与衆
82 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 00:05:48
落とす?
こっちはこっちの話題あるから良いのでは?
ただ、次スレは作らないで欲しい。
テンショウキに限らず他のシリーズでの限界プレイを書き込めば良いハズ!!
歴史読本3月号は徳川3百藩お家騒動特集なので新武将作成の参考になるよ