2 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/11/15 00:24:47
一等自営業阻止。
3
>>2 前スレの1000見たよ、
なんだか凄く納得できた。
5 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/11/15 00:31:32
秀秋のファンで何が悪い。
父
若くして狂死しないように気をつけろよ。
ついに勝頼再評価論者まで現れだしてるなw
勝頼は笑えた
どうぞ米トークに戻ってください
もう撤退出来ないお家事情のせいで笑い疲れたよ
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 00:40:02
誰も再評価なんてしてなかったろ
>>9 自分にしか見えない現実の中で生きている者は以外と多いですから。
前スレ
>>994 自転車操業ってのはまさにドンピシャな表現だと思います。ようするに武田家は、信玄の時代からひたすら外に打って出て領土を得ていかないと
やっていけない体質になっていたんでしょう。
特に信玄の最後の遠征は、まさに武田の全勢力を振り絞ったものであり、それが結果として遠江、三河の一部しか獲れなかったというのではまさに
「採算がとれない」ことこの上ない。
信玄自身は死んだことによって非難は受けずにすんだが、そのかわり豪族達の不満が勝頼に向けられて追い詰められることになった…。
いわば信玄の「負の遺産」を押付けられたわけだ。
新田次郎の小説『武田勝頼』は、そんな一族重臣に振り回されながら苦闘する勝頼が描かれている。ある意味かわいそうな人ではある。
米の話しはだいたいすんでいたから、あとは兵力の問題か?
ようするにそれぞれの範囲の問題
石高(万石)/1万石あたり250人の動員兵力 で
甲斐(22.8/5700)、信濃(40.8/10200)、飛騨(3.8/950)、越中(38.3/9500)、駿河(15/3750)、遠江(25.5/6375)、三河(29/7275)、
尾張(57.2/14300)、美濃(54/13500)、伊勢(56.7/14175)、志摩(1.8/450)、近江(77.5/19375)、
このうちどこまでを織田領、武田領だったと見るか(飛騨・越中の親武田勢をどこまで認めるか?またその扱いをどうするか。近江・伊勢の支配率は?
機内の親織田勢はどのくらいか?またその扱いは。)
これでいいかな?
ほんの数ヶ月の遠征で遠江を結構切り取ったので、採算はそんなに悪くないと思うぞ。
信玄はそんなもんで済ますつもりじゃあなかったんだろうけど。
>>12 質問ですが、西上(?)を開始した時点の武田の勢力範囲から言えば、
西上野は武田領と扱っていいと思われる希ガス。
それと、1万石辺り250人動員を基準にするのは止めようよ〜。
あれは豊臣政権での話だし、同じ豊臣時代には1万石辺り100〜600人とバラつきあるんだしさ〜。
>>14 おっと忘れていたすまん。追加だ。
上野(49.6/12400) これの比率の問題もあるか。
それと、250人動員というのはあくまで両者の勢力を比較するための目安です。それも石高オンリーで。別にこれだけで全てが決まるわけでなし。
金山とか商業都市掌握とか+アルファを考えるとまた話しが錯綜しかねないし。
そうだね、とりあえず両者の石高と、石高250役で兵数の指標だけでも出した方がいいかも。
上野は西上野一帯、つまり信濃国境から岩柩・箕輪近隣まで。
面積だけ見れば結構広そうだが山間部が多いことを考えると、
上野の全国高の1/4、10-15万石くらいかと。
小田原攻めの時と人数がたいして変わってないと考えると上野から大きく動員したとは思えない
織田の勢力圏として、大和は除くとしても、摂津・和泉・山城の大部分は、やっぱ除外かな?
というか石高のみでやれば、どーしても織田が不利になるね
機内の経済圏を押さえてたから、あの大規模な軍勢を、毎年、長期に渡って動員できてるんだし
北条と同盟が再開したとはいえ、北信濃−上野で上杉と国境を接しているからな。
これらの地域で大きく動員していたとは、確かに考えにくい。
オレ的には織田200万石、武田100万石でいいとおもうよ。
それよりも人口の話はさほど出てないね、もののほんに
拠ると人口比で5%以上の軍役を課すと国が傾くといわれてるから
万石250人がそのボーダーだとすると万石あたり5000人の
領民がいることになるから、信長は100万ぐらいとそのほかに都市部
を30万としていれれば130万人ぐらいか?
この計算でも1人2石生産してることになるから5公5民なら食べていける。
またよく言われる明智の軍法100石6人だと万石1万2千人。
270万ぐらい、1人の生産は0.8石とちょっと。4公6民でも、
農民に残るは0.5石。種籾を残して1年に必要な1石分
には倍足りないのでかなり逼迫した生活だったと思われる。
※現在品種改良で種籾1つで1200粒〜2000粒、戦国期は
半分以下と思われる
※戦国期の人口は2500万人程度、石高も2500万石といわれてる。
※農民が一生白米を食えずに朽ちていくイメージがあるのは時代劇
の影響で、多くは無いがごく稀に食べることが出来た。
疑問 2毛作を行ってるところは30万石を倍にした60万が表高?
石高は「実際の収穫量」ではなくて「この土地からどれほどの生産がみこめるか」というものだから、例で言えば表高は30万石になる…と思う。
しかし意表をつかれたなあ。これだと江戸時代の薩摩藩が公称70万石というのも説明ができる。(江戸時代の薩摩で二毛作が行われていたかどうか
は知りませんが)。新潟と違って今でも米の生産量はそんなにないし、シラス台地を土地開発してどれだけ増収が見込めるのやら。
……あ、琉球もプラスしてたのか?(そんなバカな)
しかしこうして比べてみると、織田領国の東海・機内と武田領国の甲信地方の開発差がわかる。前スレの計算みても、武田側最大有利にみても
一万の兵数差が出るし。
畠の二期作については、考慮されている所があったような・・・。
あと逼迫も何も、近代にはいるまで冬は餓死者多発。
>>21 薩摩藩は実際の収穫高以上の表高だったらしいぞ
なぜそんな損なことになったかは知らない。
そのため、収入以上の負担(参勤交代とか)を
強いられて苦しんだ、というようなことを見た。
どこだったかな・・・二本の銀杏だったかな・・・
だったら小説ベースですまぬ
>>12 信濃は寺社領が多い分、実高はもっと多い。
>>16 上野は北部が山間地、西と東じゃ大した差は出ないから1/2、25万くらいかと。
>>12 太閤検地は、旧織田領の石高だけ実高に近くならないか?
>>24 >>25 武田派か?
まぁどっちでもいいさ。太閤検地をベースに使うとして、
絶対視しなきゃいいだけだろ。
戦国以降江戸期にかけて数値が伸びた地域があるとして、
それが複雑な地権を整理した結果か、開拓の結果かを区別しなきゃ、
戦国期の国力を見間違うだろ。
信濃の動員力は40万石相当よりやや上だったかもしれない。
しかし数値に入れる必要は無い。
>>26 織田派?
寺社領は太閤検地には載らないのだから
公平に推測する気があるなら、数値に入れる必要がある。
それと上野の西部が山間地だという恣意的な処理はどうなんだ?
>>24>>27 仮に寺社領があったとしても、そこを武田家が支配(ここで言う支配とは税を納めたり兵役を負担させることで、直接統治しているかではない)
してないのなら結局武田家の戦力には入らない。
武田家の戦力を測ろうというのに、統治の外にあった土地を入れてどうする?
それに、寺社領だからといって全く治外法権大名権力の外にあったわけではない。
例えば尾張国熱田社大宮司、千秋氏の存在がある。千秋氏は熱田社社領を背景に武士化して、一時は知多郡羽豆崎城を居城に4〜5万石を領有したという。
十六世紀前半には千秋氏は織田家に服属。千秋季通は尾張に下向した山科言継の鞠道の門弟となって織田信秀の鞠会に参加している。(『言継卿記』)
さらに季通の孫季光は天文十三年信秀の稲場山城攻撃に参加、敗戦の途中で討ち取られる。その後は子の季忠が大宮司職を継ぎ、彼は永禄三年桶狭間合戦
で戦死。つまり、熱田大宮司千秋家は二代続けて織田家のために戦い討ち死にしてるわけだ。
信玄だって諏訪大祝職諏訪氏(本家は滅ぼされても、一族は残っている)を服属させて軍役を課している。
ようするに何が言いたいかというと、太閤検地の時点で大名権力の介入を拒否した程の寺社なら、信玄にも領地化は無理だったろう、ということです。
つまり、武田家の戦力計算の埒外であるから考慮する必要なし。
>>16 が恣意的かどうかはわからないが、実際に地図をみれば群馬県は東南部以外はほとんど山地だとわかる。
「10万石の国の半分、山地のみを支配しました。単純計算で5万石の収入があるね。」とは言えんだろう。
>>28 軍役を課してるなら、戦力としては国人と似た様なものだろ‥
>>28のやり方には作為を感じるね。
>>30 武田領内で寺社関係に軍役を課してた事ってあったっけ?
洩れは知らないが、具体例があればいいんだけど。
武田の寺社関係の政策で知ってる範囲で言えば、支配地域にある寺社に対して
宗派を変えたりしたり、寺社領安堵の朱印状だしたりぐらいかな?
軍役を課したのは記憶にないけど・・・。
それと、織田も熱田神宮の話は知ってたけど、寺社関係が強い伊勢・近江などの所領で
軍役課したことはあったっけ?
武田の諏訪大社や、織田の熱田神宮に対するものは、例外と考えた方が言いかと思うけどなぁ。
寺社領に軍役負担を課してないのなら、なおさら武田、織田の戦力推測に寺社領の存在を入れる必要はないんじゃないの?
太閤検地に寺社領が含まれていないというのなら、その方がよけいに都合がいい。
34 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/11/15 19:12:00
保守
信玄は自ら得度、還俗して寺社に
媚を売ってるから、融通が利くと思うが。
35の思い込みを聞いてるんじゃないんだが
>>27、
>>29 確かに群馬県の穀倉地帯は東毛区域に偏ってるんだが、
そこまで極端じゃない。武田の支配地域にもある程度平野部は含まれている。
半分とはいかなくても、3〜4割くらいは見てもいいんじゃないだろうか。
>36あたりになんで信玄が入道に
なったか聞きたいな。(もちろん思い込みじゃなく)
少なくと>35だけの思い込みじゃない
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 23:58:12
『武田領土の寺院は自発的な協力が義務』って言いたいの?
まるで現代日本じゃないか
都合がいい とか
融通が利く とか
思い込み とか
曖昧すぎて訳若布
幼児がウンコと覚えると、連発するのと同じ現象なんだよ
ゆとり教育有害だな
>33の場合は、「史料に余計なモン(軍役負担が出来ない寺社領)がついて無いから便利だ」って意味じゃないの?
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 00:35:31
>>35=
>>38は
信玄の得度から還俗が、「寺社に媚売ってる」から「融通が利く」というのを
しっかり証明するように。
武田信玄は、入道して徳栄軒信玄になったのだと思っていたが
そうじゃなくて、得度して完全に出家した後に還俗までしてたのか
では寺社領は含まれないということで武田領を測ってみましょう。
時期は1572年9月まで(山県昌景が9月29日、信玄は10月3日の出立)。計算の数字は>12
甲斐…100%(5700)
・異論はないでしょう。
信濃…100%(10200)
・これもないか。
上野…40%(4960)
・倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど山間部なのがネック。
駿河…80%(3000)
・駿東郡興国寺城などは北条領だった(駿東郡は早雲以来長く北条領だって経歴がある)
飛騨…10%(95)
・72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。
越中…?
・68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年には加賀まで攻め寄せているから、
その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
遠江…20%(1275)
・遠征前ならこんなものか?武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半以降(正式な復活は71年12月)。
三河…10%(727)
・やはりこんなものか。足助城などを落としているが、北部の山間部だからなあ。
美濃…10%(1350)
・秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。
総計27307
他の諸要因を除いて石高のみならこんなもんか?
悪意が見栄見栄で萎え萎えだな‥
そうか?結構武田よりな計算だと思うがな。
上野だって4割扱いになってるし。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 04:23:00
45氏に質問です
ブサイクが100枚写真撮って、一番写りの良いものに修正加えて、プロフィールにUPしてる奴がいたとしたら、どんな印象を受けますか?
45の説明では、武田領のl表記に納得しかねるのも事実
が、“悪意が見栄見栄”というならば、それなりに根拠をだして言うべき
じゃないと意見の押し付け合い
当たらずとも遠からず、じゃないかねぇ。
そうだね、根拠を出して否定するべきだろう。
例えば駿河を80%ではなくて100%だ、と主張するのなら、>45が根拠に挙げている駿東郡が「北条領ではなく武田領であった」
と示した上で。
他の国のパーセンテージもよろしく。
普通に妥当なところでしょう。
>>45の兵力って万石250人だよね、
なら多少無理すれば動員兵は上がる、
それを考えれば、信玄西上時の兵力2万5千から3万にもほぼ合致するし。
そうだね。
その論理でいって、織田方の兵力は6万+経済力が凄いらしいから+2万
畿内と近江、伊勢に合計2万置いて、残りが6万
その6万から徳川に3000の援兵の送って見殺しにしたと考えれば
大体妥当ですね。
>>45 あれ?武田は信濃を完全に平定していたの?
飯山城をはじめ、北奥部は御館の乱まで上杉領だとばかり思っていた。
>>52 そうだね、駿河を80%として、長島、桑名、尾張西部から伊勢北東部にかけての海賊が
制圧されていない伊勢は多く見積もって40%
近江と同じく、遠江は北部一帯浜松近くまで迫っているから40%
三河も少なく見積もって30%は堅いね。
伊勢?近江?何言ってんの?
駿河?信濃?何言ってんの?
駿河を80%伊勢、近江、遠江を40%三河を30%
どこの大名の話なん?
家康じゃないか?遠江を40%三河を30%
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 16:23:44
63 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 16:28:34
信玄なんざ10年かけて徳川領土の半分もとれてねーだろ。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 16:33:33
>>13 遠征期間だけなら信長は2ヶ月弱で甲州と信州をとったことになるなw
膠着すると、無駄に話を混ぜ帰す、無能釣り師が居るなw
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 17:37:43
おのれに都合の悪いレスを釣りと見なす池沼がいるな(苦笑
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 17:39:42
遠征期間のみで語る奴は相当な馬鹿なのには間違いないわな。
>55
1564年には野尻城を、68年には飯山城を落して越後勢を完全に駆逐してますね。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 17:48:29
まあ、甲斐なんて田舎からあそこまでやったんだから褒めてやるべき。
信長本隊と戦って討ち死にしなかったのは幸運だな
反証が出た途端に意味不明な発言で誤魔化すなんぞ
荒らしと同類。
>67
孫子の兵法はご存知か?
「軍事行動の期間は短ければ短いほどよい」ってのは二千年以上も前に名将の条件として挙げられているぞ。
>>54 武田側がやったように具体的に計算しなよ。
織田側
尾張(100%)14,300
美濃(90%) 12,150
近江(70%) 13,563
伊勢(60%) 8,505
志摩(100%) 450
合計 48,968
括弧内は支配地域の割合(推定)数字は
>>12を使用。
こんなものでどうだろうか。
まあ、近江と伊勢の支配域の割合が争点だと思うが。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 19:00:20
では織田でもやってみましょう。条件は>45のと同じで
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
・志摩…100%(450)
この三国は異論はない、と思う。
・近江…65〜80%(12594〜15500)
六角氏が甲賀を味方に鯰江城篭城。
浅井氏は高島郡の半分と伊香郡。それと浅井郡の小谷城、山本山城のみ。
問題は一向一揆の勢力。彼らは元亀元年から三年にかけて毎年金森、石山、三宅あたりで蜂起しては短期間で織田に鎮圧されるのを繰り返している
(信長はその度に許しているが、翌年にはまた蜂起している)。
もともと湖南平野は岐阜と京を結ぶルートであり、信長にとっては最優先で抑えておかねばならない重要地なのだからあたりまえなのだが。
一時とはいえ毎年反旗を翻しているので織田領国とも位置付け難いが、その範囲は野州郡一帯と非常に限られており大勢力とも見なし難い。
この一揆勢力をどうみるかでパーセンテージは多少の変動を起こすだろう。
続き
・伊勢70〜85%(9923〜12049)
永禄十一年の伊勢侵攻で、笠木郡に退いた北畠氏と桑名郡長島を除く伊勢のほとんどが織田領となったことは、正親町天皇が綸旨で伊勢平定を賀し、
皇室領の回復を命じていることからも判る。
その後の伊勢に関しては元亀元年十一月長島一向一揆蜂起。二年五月第一次長島攻撃。天正元年九月以降の北伊勢(桑名・三重郡)豪族討伐、
第二次長島攻撃があるが、それ以外の地域では北畠氏も含めて戦闘は見られない。
問題は桑名・三重郡の豪族蜂起がいつから始まったか?可能性は二つ。1.元亀元年の長島蜂起時に一緒に。2.天正元年の九月以前の近く。
2.は信玄死亡後、つまりここで扱っている期間の外になるのでどちらをとるかでパーセンテージの判断。ただ、どちらをとるにしても範囲は桑名・
三重ニ郡なので、それほと支配率が下がるとは思えない。(個人的な考えでは2. 、もし1.だとすると、信長は第一次のとき、周囲の反乱勢力を
全く無視して長島にのみ襲いかかったことになる。第二次の時は先に周囲を潰してから長島に掛かっている。)
・三河…10%(757)
三河の大族水野氏は、桶狭間以前から織田家に付いている。
機内の親織田派は同盟者みたいなものだから、領国には加えない。
合計50174〜55206
…これじゃさすがに織田有利すぎだな。結局、近江と伊勢をどこまで認めるか、か。
「反論」待ちます。
↑摂津や和泉、山城、丹波や大和の一部も支配地域だけど、武田と違って四面楚歌状態だし
近江や伊勢の兵は殆ど割けなかったと考えれば、織田有利とは言えないんじゃない?
おまけ
徳川
三河…80%(5820)
遠江…80%(5100)
合計10920
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率はグンと下がっているだろう。
武田の駿河駿東郡の事で質問
永禄12年の駿河再侵攻で、深沢・葛山・興国寺を武田が占拠してるけど、
その後この駿東郡は甲相同盟が成った際に、北条に返還されたの?
確か武田の曽我昌世が興国寺城主として入ってると思うけど。
どうも武田側と北条側の資料を比べると、この時期(1569〜70)にはお互い城をとったりとられたりで、同じ城を何度も両者が攻撃しては落してを繰り返していたらしい。
ただ、71年1月に武田が興国寺城を奇襲して失敗、敗退した記録があり、以降の武田の戦いが遠江と武蔵に向かったので、以後は興国寺城は北条方に残ったと思われる。
実際、『日本史歴史地図年表』その他をみても今川滅亡後の駿河東部は北条領とされているものがほとんどだ。
1590年の豊臣秀吉の北条征伐においても、駿河山中城、興国寺城は北条方の城として豊臣軍相手に篭城している。
少なくとも1572年の時点では北条領でいいと思う。
>>73 伊勢は長島、桑名、北畠領、尾張国境以外は押さえてるから70%みていいかと
逆に近江は、六角の残党がちょびっと、北部に浅井、朝倉、それに一向一揆が居るから
50%〜55%くらいだろう。
大体43000前後、甲陽軍鑑の武田32000と比べて妥当なところじゃないか
援軍を3000しか送らなかったのも、納得できる数字だ。
>81
そちらの主張を入れて(何故近江に朝倉領があるのか判らんが)計算すると伊勢70%(9923)、近江50〜55%(9688〜10656)。
他は>73で合計すると、>75>76が指摘している三河をいれなくても
46511〜47479
…ちゃんと計算してる?
とういか、比較の為の武田の数字を唐突に甲陽軍艦からもってくるし、いい加減武田に都合のいいように水増し改竄するのやめようよ。
はっきり言って不利になるだけだよ
真性のフリしてるだけだろ
>>82 勝手に資料を都合よく決めるのは織田厨だからな‥( 別にあなたの事では無いよ)
資料を持って来る度に、いい加減な難癖を付けられても困る‥
いい加減織田に都合のいいように水増し改竄するのやめようよ。
三河を入れるなら、いくつか国人が付いてる越中は武田領になってしまうしな。
太閤検地は自己申告だからね、後代の資料の方がはるかに信憑性がある
とか言うと織田派は不利になるのを嫌がって連続レスで流すしね‥
一方的に資料を決めておいて、この資料を使ってで反論して下さいとか
ワケわからん。
太閤検地の信濃408,358石、寛永の検地(自己申告)547,360石、江戸後期の実高778,219石
同じく尾張が太閤571,737石、寛永期520,000、江戸後期764,695石
信濃に関して、短期間で15万石も増えるとは思えないから
太閤検地では理由があって含まれなかったのだろう。
寛永の検地記録ならばイチャモンの付け様がないと思うので載せてみる。
>>80 甲相同盟の成立で武田方に引き渡されてますね。
1572年の段階では駿河は100%武田領と見て良いようです。
甲斐242,000石、信濃547,360石、駿河172,200石、上野496,800石
遠江280,000石、三河350,000石、飛騨83,236石、越中536,037石
尾張520,000石(何故か減ってる)太閤検地571,737石、美濃581,583石
近江832,120石、伊勢572,786石、志摩17,000石
>>82>>78の主張を入れて、武田領、上野を40%、遠江、三河を20%
飛騨、美濃を10%として
約135万石、1万石当たり軍役250人とすれば約34000で32000強の甲陽軍鑑の記述とほぼ一致する。
>>73>>75>>76の主張を入れて、織田領、美濃90%、伊勢60%、近江65%として
尾張から伊勢の沿海地域の離反は無視すると
約195万石、約49000、公平を期す様全て織田派の意見を尊重したため
±はあるかもしれないがほぼ妥当な数字と思われる。
飛騨はもうちょっと支配してるような気もするが、
所詮石高低いのでどっちでもいいや。
ttp://www.izumigou.net/suirisoshiki.htm で見れば興国寺城の隣城の戸倉城は北条領と見れる。
でも、今川時代から駿東を半独立状態で支配していた葛山氏が武田側に付き
葛山城や長久保・千福に葛山一族の御宿氏が入ってる事が確認出来るので
駿東郡は、ほぼ武田領と見ていいかと思われます。
何故、北条に近かった葛山氏が武田側に付いたのかは知りませんけど。
1572年当時の興国寺城の城主が誰か確認出来ませんでしたが、信玄生存中に
曽我氏が入ってるのを見れば、武田氏管轄ではないかと思いますが。
寛永検地は1625年、太閤検地は1582〜1598年。
ちなみに信濃は1590、91、95、98年に実施されてるので信用できると思うけどね。
>>91 直リンは止めませう。
>太閤検地は自己申告だからね
太閤検地は指出検地じゃないよ、一応奉行派遣して、その監視下で行ってますよ。
太閤検地に関する研究本や論文は、腐る程あるから読んで確認してください。
信濃に限らず、国別・地域限定の太閤検地の論文や研究本もあるしね。
寛永検地で信頼出来ないのは外様が治めている地域、これは検地してなく
太閤検地そのまんまのトコもあるから要注意。
強力な敵性勢力がいるのに兵力の供出をするのかな?
それができるのなら越中からからも可能になってしまう。
少なくとも織田でいえば自由に割り振れるのは美濃と尾張領
のみで他はそれぞれの戦線で使い切るのではないかとおもう。
まぁこれはそれぞれの兵力の算出が終わった後の話ですが。
太閤検地に関して言えば、一揆が起こるほどから、かなり
細かく調べられたと思うが、これも行政官次第か。
>88 江戸時代の資料であれ太閤検地であれ、「万石あたり250人」の動員率は変わらないわけですね。
しかし、「万石あたり250人」というのは平均、むしろやや軽めな軍役負担であり、もしこの動員率で3万を超える数字を出すとなると、
信玄は「無理をすればもっと兵を集められたのに、何故か限界よりはるかに低い数の軍で遠征した。」となってしまう。
…「乾坤一擲の大作戦」に全力を懸けなかった武田家? 余裕というより間抜けにしか思えないぞ。
信玄を貶めるのはやめてくれ。
戦国時代の話をするのに太閤検地を使わずに、さらに後代の江戸時代資料を使うというのが妥当だと?
太閤検地を自己申告なんて新説を唱えたり、太閤検地は信憑性が無いとか言ったり、これまで太閤検地を基に論ぜられてきた
戦国時代論文の全てを否定していることに気付いてるか?
ところで色々とレスは続いているが、>81の恣意的かミスかは知らんが明らかな計算間違いはどうするんだ?
それにしても、計算ミスしても必ず3万以上という甲陽軍艦の数字が出てくるのはどうしてなのかねえ?
>88を検算してみたが計算間違いはなかったぞ。
ただそれでも、江戸初期というのはものすごい開発ラッシュの時代だった(国替え転封された大名が、新たな領地を把握し国力を高める為)と
聞くので、はたしてこの資料が戦国期をみるのに適しているかという問題は残るが。
それと、寛永検地の記録には寺社領は記載されているのかいないのか?これをはっきりさせないと太閤検地(寺社領抜き)と単純比較は
出来ないだろう。
推測だけど、10年や20年で1.4倍に増えるのは不自然だし
隣国の越後は全ど石高が増加してない事を考えると
寛永検地では寺社領も記録に入ってるかと。
>10年や20年で1.4倍に増えるのは不自然だし
いや、そうでもないと思う。
人によっては川の流れを大幅に変えてまで開墾してるし、
それまで防衛・戦役で消費せざるを得なかったマンパワーを内政に注げるようになり、
また領地拡大がほぼ不可能になっていたので領国の隅々まで開拓せねばならない訳で。
毛利輝元なんかは三十云万石から実高七十万石近くまで増やしたらしいしな。
ただ、大規模な開墾は大大名ならともかく、
中小大名にはきついだろうね。
毛利はね、開墾事業だけで「実高70万石」じゃないよ。
厳しい検地やりまくって、無理矢理の70万石なんだよ。
なぜ、こんな事が可能かと言うと、寛永検地は幕府が譜代・外様・親藩の各領主に
検地しろって命じて、それを各藩が独自に行ったから。
なので、やった素振り見せて太閤検地そのままで出した所もあれば、毛利みたいに70万石近い
数字出してる(幕府に提出した際は、50数万石で出したが幕府が拒否、まんま36万石で受け取ったらしい…なぜ?)。
だから寛永検地は、各藩のやり方等を調べた方がいいよ。
太閤検地みたいに、近江縄使っての全国共通って訳じゃないからね。
>>94 国許の守りも必要だろ?
一向宗が抑えてくれるといっても上杉を完全に無視するのは不可能、
あるいはあまりにも無謀だ。
それを考えれば、万石250人という比較的ゆるい動員率で算出された兵力が、
外征に使われたとされる兵力とほぼ合致するのはむしろ自然なことだ。
つまり、「無理をすれば動員できる兵力」は国の守り用に残されたのだろう、
ってこと。
武田の冬季は守りなどほとんど残していないでしょ
武田が秋に攻めだしてもは上杉は雪に補給を絶たれる可能性が高いから、現地に協力者がいないと攻められないんだよ
積雪次第で退路がなくなる可能性だって秋の時点では拭いされないだろうしな
武田の西上の時には、10月初頭から行動開始したのに、北信濃や西上野の有力な国人・豪族は
参加させてないから、「守りは残してない」と考えるのは無理があると思うよ。
三方ヶ原も12月22日だったし、春までに確実に帰還できる保証や、予備兵力として後詰出来る部隊を
残さないと考える方が難しいと思うよ。
つーか、上杉は上野だったら規模か小さくても派兵できるけど、上洛作戦時、上野から動員しちゃって平気なの?
攻められたら中止確定だろ
>100
つまり普段は
余裕のある動員 <外征軍 + 留守居>
だったが、今回は
余裕のある動員=外征軍 + 無理をすれば動員可能兵力=留守居
にしたってことか?まあ論理的には間違ってないが。
ただし、それだと結局織田の兵力も増やす事は可能になる。余裕のある動員(これまで弾きだされてきた数字)を攻撃軍に回して、
各戦線の防備は無理をして動員した兵力に任せればいいのだから。
それと>100->103
どうも信じ難いことに、上杉は冬季に軍事行動を行ったらしい。
天正元年二月二十七日「本願寺顕如、上杉謙信の牽制のために、武田信玄に信濃出兵を要請。」
こういう記録がある。真偽はおくとして、実際に上杉軍が越中の一向一揆を攻撃していたことは事実らしい。
三河野田城が落ちたのが二月十五日。この時期にこの要請が本当にあったのなら、相当激しい攻撃を行っていたという事なるな。
>>106 上杉は普通に冬に軍事行動行ってますね。
関東で冬を越えてからと言うのが主ですが、春日山からの1〜2月中の出兵もありますね。
これは殆ど、関東の沼田経由なので、春日山から沼田までの雪越えルートを確保していたと考えられます。
>>106 まあ、楽勝出来る場合以外は大抵下のような感じの動員だったのでは?
と思うけどね。
動員兵についてはその通り、
特に織田の領内にまで入り込めば、織田側が動員できる兵力はさらに増しただろう。
少なくとも尾張くらいはより動員されたと思う、その地域が戦場になれば留守居も何もないからね。
ちなみに謙信は冬場でも普通に軍事行動してます。
いや、まあ、250って数字も全地域から一律って訳じゃあなく、
当然戦闘地域に近ければ高くなり他は低かっただろうから、
対武田戦になれば言うまでもなく尾張からの動員は増えたと思うが。
しかし、結果的に、平均万石あたり250と言う数字よりも多くなるだろうというのは、
充分ありえることだ。
特殊を認めると際限がなくなるから、今はやめておきません?
結局、兵力算出の基本資料として
・太閤検地(
>>45 +駿河への修正意見。
>>75>>76 +近江、伊勢の比率の問題)
・寛永検地(
>>88)
この二つのどちらが相応しいかってことで。
>>110 一般的に考えれば、太閤検地を基とすべきと思うけど、「太閤検地は自己申告」で使えない
という意見もあるようだし、とりあえず太閤検地がどう自己申告で使えないか説明待ってみるのがいいか
そうだな。太閤検地が差出(自己申告)というのは初耳だ。説明を心待ちにしている。
ちなみに奥州平定後、陸奥、奥羽、出羽の検地において、秀吉から浅野長政に下された指示は
「検地に反抗するものは国人、農民であろうとなで切りにせよ」というものだった。
差出だったら反抗する必要ないよなあ。
だな、太閤検地を基にして考えるでいいと思う。
同一の史料の下、武田・織田両陣営の動員兵力の目安が出せればとりあえずは桶でしょう。
>>114 112だけど、113は110じゃないのか?
つーか、いつも自演してるらしいけど、どれがそうなのか是非知りたいね
ところで太閤検地の時坊主に抗議されたのだけど、数字に寺社領が含まれていないってソース元ってなんだったの?
どうせ自分の意見が採用されないからいちゃもんつけているだけかと。
>>98 その時期に、信濃で大規模な治水事業をした記録なんて有ったか?
>>117 太閤検地に寺社領が入ってないのは、割とよく聞くが
ソースは何なんだろうな
武田家滅亡時に寺院の領地残されるなんておかしい
だって真宗系ばっかり
奮起しろと言ってる様なもので、領地召しあげしたのは目に見えるじゃん
太閤検地で寺社領の検地がなかったどうかは、様々な意見があるようで
例えば三河岡崎の田中吉政は、尾張清洲の秀次の代行統治してたけど、
その時に検地など行っていて、「尾州寺社領目録覚」なんてのを残してる。
また、九州征伐の後に薩摩・大隈・日向などを検地した際に、
秀吉は島津義久に寺社領を内検地せよと命じ、その後、島津氏の蔵入地が少ないのを見て
薩摩・大隈内の寺社領を蔵入地として接収するように命じてる。
なので、どうも寺社領は各領主の裁量に任せてたのではないかと思われる。
また内検地だけに済ませ、太閤検地には表記していないだけかも知れない。
詳細は調べてません。
>>121 支配者によって寺院は宗派変えられたりしてますし(例外無く武田もしている)、
織田の寺社領に対する仕置は、一旦召し上げの後に、所領を与えられた領主から
再び与えられるという形をとってるので、寺院領を全て召し上げて与えない事は有り得ないと思います。
漏れの言い方は鬼の様に焼き払って取り潰した様に聞こえるの?
お前は知識ひけらかしたいだけちゃうんかと!
ひとつ言っておくが統合させられて事実上取り潰しって事もあるからね
揚げ足取れなくて残念でした。
>>124 焼き払ったとも、揚げ足取るとか、そういうニュアンスでは書いてないですが。
まぁいいとして、信長の寺社政策では統合も取り潰しもありました。
しかし、これらを行ったのは紀伊の根来寺等の抵抗した寺社のみで
一般の寺社の多くに対しては、寺内町容認・座の安堵・新地寄進等行い、他の大名と
さほど変わらない保護をしていますよ。
武田滅亡後、武田領内で
>>121のような行為を織田が推し進めたんですか?
自演に見えるのか・・・
IDの無い板の悲しさだな
恵林寺の焼き討ちも、匿われていた六角義治の引渡しを拒んだから。
つまり政治的に抵抗したからだしな。
寺がわはアジールを護りたかったんだろうが、信長は認めなかったわけだ。
坊主かぶれなら寺の形式的な扱いにも詳しかろうが、領地を減らす代償として保護なり寄進なりしてフォローしてるのだろ
信長の場合、信仰心ではなく政治的にメリット、デメリットで態度が変わる
武田側の主張では領内の寺社の力が強いとの事だ
つまり平安期の荘園の様なものは、信長にとっては迷惑なのだから明らかにあれば排除しているはずである
田舎の時代遅れの荘園など中央政権にとってもなんら関係ない
寺社は必要だが過剰な権力はデメリットそのものだろ
それなりに保護したなら寂れた寺ばかり残らないだろうし
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 02:32:40
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
>領地を減らす代償として保護なり寄進なりしてフォローしてるのだろ
意味不明 根拠不明 減らして保護?なんだそりゃ?減らしたのか?
>つまり平安期の荘園の様なものは、信長にとっては迷惑なのだから明らかにあれば排除しているはずである
意味不明 根拠不明 荘園?何それ?
>田舎の時代遅れの荘園など中央政権にとってもなんら関係ない
中央の公家領、寺社領の回復してた信長、京押さえてるから当然だが
何が言いたいのか
何を根拠にしてるのか
さっぱりわからん、不可解な妄想電波レスはヤメテクレ
130 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/11/18 03:06:30
おいおい、こんなつまんねー話題で21スレも盛り上がってんの?
ぷげら。
なに?構ってほしいの?
A.断る
B.断る
どっちにしよう
C.放置
>129
>128の「平安期の荘園の様なものは〜」
寺というのは権力の介入を嫌う、しまたそれを拒む力ももっていた。
荘園にあっては朝廷・幕府の不介入であったこと。
また当時の堺にして大名に従属しない自治都市として栄えていたが、
これも意に沿わなければ信長は攻撃してる。
これらが意味と根拠であると推測されるが、このくらいもわかろうとしないで
「意味不明、わけわからん」とほざいて自分の頭の悪さを誇示しなくても
いいのにと思う。たびたびこういう見下そう、貶めようとするレスが出るけど
瞬間的に思考を停止させてレスを出すのは考察が必要な歴史においては
一利もないな。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 06:22:39
>>133 ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/syouen/syou-el1.html 小学生向けの荘園の説明だから、よーーーく読んどけ
荘園制度は、室町期に崩壊してるっつーの
つか、荘園制と寺社領は別物、アフォか、いつの時代の話してんだ
畿内の荘園領を回復して、公家の感謝を受けてた信長が
>平安期の荘園の様なものは、信長にとっては迷惑なのだから明らかにあれば排除している
>田舎の時代遅れの荘園など中央政権にとってもなんら関係ない
バカも休み休み言え
寺社が権力の介入を拒む?そりゃよっぽど強い寺社だけだ
信濃だったら諏訪大社や善光寺規模じゃないと無理
その諏訪大社だって、信玄がどうしたかぐらい知ってるよな?
多くの寺社は、自分の寺社領や座を維持するのに統治者の安堵状を欲し、
統治者は安堵状を出す代わりに、統治への協力をさせてた
おまえ、バカなのはわかったから、妄想や思いつきでレス書く前に
ちっとは調べとけ
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 09:51:18
>134
日本語がわかってない奴だな
誰も荘園制と寺社領が同一とは書いてないじゃないか
しかも信長のことなのに信玄うんぬんといいだすしやれやれ・・・
>>134は、煽り過ぎだが
>>135も
荘園制と寺社領の話をするのに、わざわざ信長と信玄を分ける理由がわからん
信長は革命的天才だぁ、とか思ってるのか?
すいませんが、128=133=135の人が何を説明し何に対してどのような解釈を持って
どのような結論を導き出そうとしているのかの意図が読めないのですが。
よくわからないが、織田信長は武田領内の寺社は強い(何が強いか具体的な事はさっぱりだけど)事に対して
寺社勢力を削ぎ落とす為、寺社の権益を奪おうとするから、武田領内の寺社勢力は
挙って武田の為に協力するって言いたいのでしょうか?
信長は命令逆らうならば強硬手段に出るが、
信玄は妥協点を見つけて折り合いをつけた。
(協力するように仕向けた?)
歴史的に合ってるかどうかは関知しないが、
こういう論旨じゃないのか?
合ってるのどのような協力があったのかを知りたいところだ。
>>138 信玄も命令逆らうならば強硬手段に出るし、
信長も妥協点を見つけて折り合いをつけた。
度合いの違いだけ、色々妄想しすぎ。
まあどれだけ叩きのめすかの程度の違いを、君主の性格として言うこともできるけどね
寺社が滅亡した武田の為に協力?
むしろ137のこんな解釈するまでの過程が知りたい
いや、俺もそう書いてると思った。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 14:46:27
横槍入れるが、
畿内のほうが寺社の勢力強かったんでないかい?だからこそ、信長は仏教勢力に強硬だったと思うんだが…
どうなのよ?
寺社勢力と仏教勢力と一向宗を混同するのは、どうかと。つーかアホ
145 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 14:59:35
別に混同してないが。
確かに寺社=仏教ととれるレスだった。すまんね。だが、信長は寺社を基本的に保護しつつ、強硬姿勢は崩してない。それは彼らの力が強く畿内に根付いてたからじゃないのか?
と言いたかった。一向は関係ないよ
>>143 最強は北陸っしょ。加賀に100年の間手が出せなかったんだからw
京じゃ山科本願寺は町衆(日蓮宗中心)に焼かれ
町衆も態度でかくなったら追い出された。
ある意味色んなのが普及していてバランスが取れとる・・・・
確かに畿内では強く根付いていたと思うが
他の地域でも寺社の強い所はあるから、どうこう言うモンでもない様な。
一連の論争は
>>121から始まったようだが、結局ここでは
「だから、寛永検地帳には寺社領が記載されているはずがない」ということでいいのかね。
しかしこれまでのレスでも指摘されている通り、信長は一向宗(比叡山、高野山、etc)が敵対してきたから戦ったのであって、
別の特定の宗派を信仰しているから弾圧したわけではない。当然の事だが、織田に従った宗派教団はいくらでもあり(むしろ
こちらの方が圧倒的)、彼らはそれぞれに既得権を認められている(法華経のような騒擾を起こす教団は、それを改めさせた上
で認めている)。
甲斐信濃に真宗派寺院が多数あったとしても、逆らわない限り信長に弾圧する理由は無いし、弾圧されないのなら寺院側に反抗
する理由はない。(そもそも甲信の真宗寺院って一向宗なのか?それにしては一向一揆は一度も起きていないが)
よくないのではないのかね。
信長がわざわざ弾圧したとは思えないが
そこから、太閤検地で記録せず⇒寛永検地でも記録せずには、話が繋がらない
むしろ信長が寺社領召し上げしていた方が、太閤検地→寛永で差がでないのだから。
ホラ話が資料の武田はソースなんかないもんな
ただ寛永ならホラ武田の時代じゃないから、それがどこの寺社の領地か分かるだろ
またオマエか‥
オマエさんが、いちいち細かく村やら寺社やらまで載ってる
太閤検地の記録から、寺社の領地を探し出してきてくれたまえヨ。
普通に考えれば、周辺国が最大2割の伸び率なのに対して
信濃だけ4割なのは、特殊な事情だと思うから。
それとも、何か別の理由でもあると言うのかね?
既にいろんなヤシがレスしてただろ
他人のレスはキャパの小さい脳には残らないのね
だから問題は寺社領から武田が動員できたかどうかじゃないのか?
>>152 う〜ん、
>>98しか見当たらないが‥
それも大規模治水工事、とかいう珍説‥
そもそも、そんな事業してたら記録に残ってるだろうし。
どうやら妄想した様ですな。
>>153 できるわけねーだろw
できても、お借りするってのがいいところだな
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 23:00:47
>>155 だろ〜
じゃあ太閤検地で問題ないじゃん
>>157 太閤検地で問題ないと思うが?
寛永厨が必死なだけw
どうしても信濃を過大評価したい方がいるようだな
信濃 確かに広いが当時は、ホントなんもねえ所だし。
反対派を自演扱いする心の狭さですからw
>154
他の国でなら、実際やった記録はありますよ最上とか。「江戸時代初期は開発の時代」というのは間違ってはいないでしょう。
ただ中小藩がひしめきあう信濃でどれほど行われたかは知りませんが。
松代の真田家が滅茶苦茶な重税を課していたというから、他も似たり寄ったりだったかも。
ちなみに使う資料は太閤検地だと思います。何故これを捨てて江戸時代資料を持ち出してくるのか不思議ですね。
148曰く
一向宗は一向一揆を起こさないとおかしい
農政改革=水増し検地
これ定説
信玄厨=寛永史料
結局、太閤検地ってことで。
で、
>>45をもとに武田領の話をすると、駿河は90%ではなくて100%ではないかという話が出ていたが
そのあたりはどうなの?
>>169 一応、70年当事で信玄の駿河振興は終わっている。
東部は興国寺城、伊豆の韮山城まで落としてるから、100%と
言っていいんじゃないか?
もっとも、信玄厨が良く使う論法で言うと、信玄が駿河を統治して2年で上洛
してるが、そんなに早く住民を掌握できるわけがない反乱が多いに決まってる!
国人衆も織田方に寝返るに決まってる!
といえば、100%でもない気もするが。
領土的には100%ってことで。
他の地域の割自体適当だし90%〜100%なら、おおむね100%でいいんでないの?
気になるなら最小を90%最大を100%にしておけばいい
>>164 寺社領が記載されてない国の、参考にはなるんでない?
それ以外は太閤検地と大差ないのに、わざわざ否定する理由が知りたい。
寺社領に関しては、太閤検地で記載してない事が多いのだから
その辺だけ寛永のやつを使えばいい。
>174
二つの資料の記述が大差ない、というのなら、より当時に近い方の記録を選択するのは当然だろう。
仮に寛永検地の一部の国が太閤検地を参考に記載されというなら、それは
一次資料・太閤検地
二次資料・寛永検地
ということだ。なんで一次資料を捨てて二次資料を選ばなければならないんだ?
そもそも、「寺社領に軍役は課せられてない」のだから、太閤検地と寛永検地を比べて信濃にどれほどの寺社領があったかを
調べるのなんて、このスレでは全く意味のない行為だぞ。
信玄の時代にどれほど寺社領があり、それが太閤検地に記載されてなかろうと、軍役負担してないのなら武田軍にとっては
無いも同然の土地なんだよ。
これまでに何度も繰り返されているじゃないか。
読んで無いのか?読んでも理解できないのか?故意に無視しているのか?
>>176 諏訪大社神長官領は検地の記録が残ってるし
寺社で軍役を負ってるところも有る。
それは織田領にだって同じ事がいえる(熱田神宮)。
両者の国力(兵力)比較の目安をつくるってのがこの議論の目的じゃないの。
>>178 織田領には土地があり、武田領にも土地がある
どっちにも土地があるのだから国力は同じだ。
とか言ってるのと、同じなんだけど‥
それじゃあ
>>45を修正して。
甲斐100%(5700)、信濃100%(10200)、上野40%(4960)、駿河100%(3750)、
飛騨10%(95)、遠江20%(1275)、三河10%(727)、美濃10%(1350)、
合計28057
推測。上野(4960)と北信濃(範囲は想像になるが、3000〜4000)を守備に残す。
差し引き2万弱。これに甲陽軍艦の数字(3万)を考慮すると、武田軍は通常の1.5倍
の動員をかけたことになる。
無理のない納得のいく数字だと思う。
じゃあ織田を↓
織田の場合は、近江と伊勢でもめそうだな
じゃあ織田領を↓
石高だけでどんだけ揉めてんねんと。
寺社領の存在を否定する動きが在ったのも事実です。
「太閤検地は自己申告でアテにならない」なんて珍説を唱えたやつに言ってくれ。
いい加減もう石高の話はよせよw
織田派と武田派の争いはいつもそうだが、水掛け論になってるじゃんか
>>186 蔵入地が無い所だと、差出検地に近い地域もあったから
そのことじゃないの?
結局、太閤検地の方の数字に『寺社領が入ってない』なんてスルーした結果
ちょいルール違反臭いが、道理は大体通ってるし、二重に寺社領土計上しようがしまいが、元々アバウトなんだし認めてやれ
ただ兵役を課す事が出来るか否かって理由なら、武田から上野没収されても、織田に水野加算されても辻褄が合う
寛永厨、自爆か?
あと石高ネタいつまでやるの?
米だけじゃなくおかずキボン
じゃああああ織ああ田あああああ領をああ↓あああああああ
>>189 文章の意味がよく分からん‥
二重計上?上野没収?水野加算?
もう大分整理してから、文を書いて欲しい。
反論異論がないのなら、織田領は
>>75>>76で結論が出ていることにならないか?
>>195 織田領は
>>73>>81でいいでしょう
尾張、美濃90%、志摩、近江50%、伊勢60%で44000〜46000と
あとは武田領の問題だな色々異論があって纏まらなさそうだが‥
>>183 これって両方とも太閤検地基準でやったんだろ?なんで比較できないんだ?
>>196 どうして、近江50%、伊勢60%になるのかを具体例を挙げて説明して下さい。
>>75-76のように。
でないととても説得力はありませんよ。
それと、計算間違いを指摘されてる
>>81を使う根拠も。
>>195 すまん、よく最初からスレ読んでなかった
単純な支配範囲→兵力なのね それなら比較にならなくはない
ただ、そういった類の比較なら何基準でもそりゃ織田の絶対有利でしょ
>>180みたいに対外要因によって割かれる兵力を計算してこそ拮抗・水掛・ループ
なこのスレに相応しいと思う
まあ、織田領におけるそれはこれからって流れなのかな
それもループなんだけど このスレだしね
>>199 大体同じ理由でパーセントが違うだけだと思うけど
>>180←この上野を全部貼り付ける、トンでも論には突っ込まないのね。
>>201 >>76の説明では、伊勢は笠木郡、桑名郡にもしかしたら三重郡も外れていたかも、といっているわけですが。
この条件でそちらは、伊勢十三郡中三郡が抜けて支配率4割減と判断したわけですか。
一国の半分近い数値の収入を三郡で賄っていたと言うわけですね。
木曾三川の合流点でデルタ地帯なことから水害だらけだった桑名郡と、ほとんど紀伊山地が占めている
笠木郡でどれほどの石高があったのか知りませんが。
桑名は交通の要衝で北勢の主要地域
水害だらけとか言われれば人が居ない印象だがw
交通の要衝?
陸路のことを言っているのなら大間違い。東海道は木曽川の手前で大きく北に迂回して
美濃南部をかすめて近江に入る。つまり、主要幹線から外れているのだ。
海路という点でなら繋がりはあるが、それは尾張津島、熱田と伊勢大湊の航路に組み込まれているもので、
やはり主要なものとはいえない(そして津島も大湊も信長の統治下にある)
地図くらい見てからいってくれ。
>>202 >>76の言う永禄十一年の侵攻は、南勢までは及んでいない
安濃津城攻めで梃子摺ってなんとか調略で支配下に置いて兵を収めている。
>>204 いつの時代の地図を見てるんだか。
桑名は、年貢米と木材等を運ぶ河川海上交通の中継地
主要なものでないのなら何所を使うのやら‥
ちなみに伊勢大湊衆は願証寺の影響下のはずですが?いつ支配したの?
海路?尾張西部国境の海沿は割と後の時代まで独立地域だけど。
永禄十一年ではね。翌十二年の講和によって、北畠氏は信長二男(信雄)を養嗣子としていれ、具教・
具房親子は本拠大河内城を開け渡して笠木郡に退去。大河内城には滝川一益、津田
一安をいれて治めている。
>>76は…多分間違いじゃないかね?
どちらにせよ武田とぶつかる三年前には織田の支配下に入っているわけであ南勢まで。
>>206 年貢米?どこに運ぶの?まさか大阪とは言わないよね。
それから大湊は北畠氏が織田に下って以降です。天正元年に長島、つまり願証寺
攻撃の時、大湊衆に大船の派遣を命じています。願証寺の影響下だったという根拠は?
尾張西部国境の海沿って…ようするに長島のことですか?たしかに桶狭間の時に、服部氏
が今川に呼応して熱田を攻撃していますが。
>>208 >天正元年に長島、つまり願証寺攻撃の時、大湊衆に大船の派遣を命じています。
その通り、そして断られてるw
大湊からの航路が津島、熱田とは初めて聞いた、遠江、駿河という文献は見たことあるが。
そのうち、今川と織田の石高は大して変わらないから
桶狭間は余裕勝ちだったとか言い兼ねないな。
そんな単純なことを言うくらいなら、
こんな面倒な議論にはならないっての。
わかんねーならスルーしとけよ
必死だねぇ
>大湊は北畠氏が織田に下って以降です。天正元年に長島、つまり願証寺
>攻撃の時、大湊衆に大船の派遣を命じています。願証寺の影響下だったという根拠は?
信長が吹っかけて、それを大湊衆は断った、そして一向宗徒側について制海権を確保してる。
この記述をどう読めば、織田側になるのか説明して欲しいもんだな。
今は石高の話をしているんでしょう?
だったら桑名がどれほど商業的に重要な土地であれ、(現時点の論争には)関係ないだろう。
そうだな、
とりあえず商業や産業は一旦放置して、
石高をだそうや。
それからでも遅くはない、というかごっちゃにするとまたループする。
石高は太閤検地準拠で一応決着なんじゃあないの?
そりゃあ納得できないものはいるだろうが、
完全に全員の同意を得るなんてもとより不可能だろうしさ。
1.長島攻撃時の大湊
調べてみたが、大湊が信長の命令に渋ったのは事実。ただし信長はその後隠居状態
あった北畠氏を通じて再度促している。これに対して大湊は出動したが結局間に合
わなかった、とする説と、最後まで抵抗した、という二説があるようです。
ただ、どちらであっても願証寺が大湊に深い影響力をもっていたという記録、論文は
見られなかった(大湊は歴史的に、北畠氏と深く繋がりがあった)。
2.
>>206「尾張西部国境の海沿は割と後の時代まで独立地域」
尾張西部(つまり伊勢・美濃国境沿い)
片腹一色城(橋本氏)、勝幡城(織田弾正忠家)、津島
南部海沿い
蟹江城(佐久間氏)、荒子城(前田氏)、熱田
知多半島
水野氏、佐脇氏、千秋氏
ことごとく親織田か織田被官しかみつからなかった。元亀まで独立常態だった豪族は
みつからないなあ。どこの何氏か挙げてもらえると調べるのにたすかるのだが。
それと、伊勢湾の海賊衆は九鬼嘉隆が志摩を抑えた時に統合された、という話を聞いた
ことがあるのだが、ソースがみつからない。ご存知のかたいます?
>>217 太閤検地決定はさすがにひっくりかえせないでしょう。
で、結局今は、近江と伊勢の割合をどうするかだっけ?
>>219 ああ、なるほど。
で、大まかに見るとどちらも40%から70%くらいでもめているような感じだけど、
中とって両方55%くらいじゃあ駄目か?
ぶっちゃけ、結局は参考値以上のものにはならないと思うし。
>>220 さすがに、それではどちらも肯かないのでは?
これまでの説明で出ていたのは、当時信長統治から外れていたのは精々桑名、三重
くらいだっていうし。それで半分というのはちょっと。
北畠氏は実質服属状態だし。
服属とは言っても軍役出したことは無かった様な
確認はしてないが。
>>219 差出で検地した地域はどうする?
それと、前にも出てるが基本的に寺社領は載ってないよ。
近江だと大体比叡山あたりから琵琶湖東岸の
小谷近くまでが織田領、その南側に六角。
小谷から琵琶湖西が浅井領?
野良田の時に江北の浅井が1万ー江南の六角が2万
ならば地形的人口的に南を押さえていた信長のほうが
割合は高くなると思えるが六角の支配権をどこまで
認めるか、または信長領を琵琶湖南岸の京都までの
道を保持してるだけと考えるべきか。
>>218 海部郡を完全支配したのは、信玄が死んだ翌年じゃん。
信興も討ち取られてるし
伊勢は飯高、飯野、多気、度会郡が北畠領で
桑名と三重、朝明の一部が本願寺系+離反国人やね
単純に考えると25万石を除外して、31〜32万石が織田領か。
織田厨必死だな、と。
>>228 しかし、その北畠領のほとんどは織田にひきわたされているわけで
(でなければ、大河内城が開け渡されて滝川一益が入るわけがない)
>>227 信興が討ち取られた小木江城は木曽川沿い、つまり長島の対岸すぐ目の前。
ところが長島の一揆衆は小木江城を落としたあともそこに居座って土地支配を行った
形跡はなし。第一次長島攻撃で尾張勢を率いた佐久間信盛が小木江から攻撃したこと
からも、一揆衆は小木江を落とした後さっさと引き上げたとみるべきでは。
信玄が死んだ翌年って何かソースがあるんですか?
一揆勢の目的は土地支配ではなく、大名が派遣した代官の追放。
つまり
>>232のように小木江に居座らなくても、城自体を破却して
再度信長の代官を迎えなければ、結局その地域は信長の支配下
に無いと言えるんじゃないのかな。
>>232 無ければ書かん罠‥
大軍を送り込んで、壊滅させた。つー記録があるよん。
>>231 一旦入城した後、返してる
天正3年の6月、大河内から田丸に城を移した、とあるしね。
>>234 返した?それは誤読でしょう。
大河内城を開け渡した北畠具教・具房親子は笠木に移りそのまま三瀬に館を構えて
半隠居状態。結局、旧北畠家臣の刺客によって皆殺しにされる(1576)までそこを
動いてませんよ。
1575年に本拠を大河内から田丸に移したのは信長二男信雄です。
信玄死後の翌年ってことは1574年か?
大軍ってことは結構大きい戦争なんだろうが…この年のこの地方の大きい戦いと言えば
第二次長島攻撃だが、北伊勢の三重・桑名郡攻撃は記録にあるが、海西郡攻撃はみあたらないな。
もちろんこちらが確認した資料だけが全てではないが、正直、信長公記に記載のない
「大軍送って壊滅させた」ってのはなあ。
信長主導ではなく、現地の豪族たちの小競り合いくらいなら判るが。
結局、伊勢も近江も70%くらいでいいのかね。
伊勢の北畠領はほとんど養子になった信雄の名義で抑えられたようだし。
近江の六角氏は、京に進撃中の織田軍をスルーして帰り道に攻撃くらう程
ヘタレてるし。
>>237 70%なわけねーだろ
なんで織田厨って必死なんだ?
現実と戦えよ。
釣りか??
伊勢十三郡中
北の豪族蜂起は桑名(長島)と三重にの二郡(あと朝明の一部?)。それも元亀三年前半
に蜂起してたかどうかは不明(まちがいなく活動していたのは夏以降)。
南は北畠五郡中多気郡以外のほとんどを織田に引き渡して隠居。
これでどうやったら半分になるんだ?
織田厨必死というが、武田厨がなるべく織田を過少評価しようとしているようにしか
思えない。
反論するなら根拠をもってしろよ。
間違えた。北の時期は元亀三年じゃなくて天正元年。
>>235 大河内は具教に預けてる、出家も大河内でやった。
>>239 半分なんて誰一人として書いていないと思うが‥
>南は北畠五郡中多気郡以外のほとんどを織田に引き渡して〜
ソースは?
多気を領有していて、渡会を渡していたとは思えないし
隠居といっても、信玄に上洛の折は兵と船を出すと使者送っているから
影響力が全くないワケじゃ無い、そもそも無力なら暗殺したりはしない。
諏訪頼重は無力だけど謀殺されちゃいました
>>239 仮に五郡中多気郡以外を織田に引き渡したとしても、
住民・豪族を掌握できてると思えない。
ゆえに、戦力に反映すると思えない。
>>242 確かに諏訪頼重は、出兵を要請されたこと無いな。
>>243 君の「思えない」というコメントは数多くあるが、史料的根拠が未だにないのは何故?
>>242 無力なわけないでしょうが、
諏訪を統治するのに邪魔だから殺したんだよ。
>>245 以前、思〜を連発したのは、多分俺だけど
>>243ではないよ。
推測をする以上は、「思う、思わない」を使うのは仕方ないと思うが。
そんなに根拠々々言うなら、とりあえず
>五郡中多気郡以外を織田に引き渡した
これの↑史料的根拠とやらを出してくれ。
推測 おしはか・る 4 【推(し)量る/推(し)測る】
ある事柄をもとにして他の事柄の見当をつける。推測する。推量する。
「相手の胸中を―・る」
[可能] おしはかれる
推測とは、根拠を基にしての見当
君のは
憶測 おくそく 0 【憶測/▼臆測】
確かな根拠もなくいいかげんに推測すること。
「彼の処遇についてさまざまに―されている」「―で物を言う」「単なる―にすぎない」
>>五郡中多気郡以外を織田に引き渡した
>これの↑史料的根拠とやらを出してくれ。
それは
>>239に聞くべき事では?
というか、思う思わないは自由だが、根拠説明もないのに一方的に「思う」と発言するのは
議論する場合は不要。
一次史料でも二次資料でもいいから、何か根拠は示すべきだよ。
歴史群像でも読本でもいいさ、何を読んでこう書いてあったから、そう思ってると言えば
思ってる理由が読む側にも判断でき、反論も説明を出来る訳だし。
それがなければ、自己の歴史認識の押し付け合いだしね。
それは
>>239にも言えるけど。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 20:16:13
このスレは
『知障のリハビリ』に
活用されております
お察し下さい
>>241 永禄十二年十月 大河内城を開け渡して笠木に退く。
元亀元年五月 出家。
元亀二年夏 娘と信雄が祝言。信雄は大河内に入る。具教は三瀬に館を築き移る。
最終的に北畠領が織田に譲られたのはこの時になるんでしょうね。
ただしこの後天正元年には信玄のもとに使者を送っているので、本人は復権を狙っていた
のでしょう。だからこそ信長は後に一族皆殺しにしたのでしょうが。
しかし、この時武田への使者になった鳥屋尾満栄は滝川一益に従って従軍しており、
北畠旧臣のほとんどが信長に従っていることをみると、一族で浮き上がっていたのかもしれない。
ちなみに永禄十二年には信長により伊勢国内の主な城の破却及び関所の撤廃が命じられ、
当代記には信雄によって検地が行われた記録(おそらく信雄の名は名義だろう)もあるので
南伊勢を織田領としてもよいかと。
>>250 天正2年の長島攻撃が初めての軍事活動で
それ以前に軍を動かした記述が無いので
この時期の南勢を織田領とするのは、ちょっと疑問。
>>251 天正二年の長島〜 というのは信雄のことですか?たしかに彼個人はそうですが、
実際には南勢には津田一安などが入って統治に関わっている(所領安堵などの文書
が残っている)ので、問題ないと思います。
つまり、信雄が直接に関わってくるのが天正二年以後で、それ以前は津田が代行していた。
永禄十二年、元亀二年の伊勢検地も、北畠養嗣子信雄の名のもとに、津田らが行ったと
みるべきでしょう。
>>252 確かに検地の記録は有りますが、軍を動かした記録は無いので微妙かと
北勢の国人や、伊勢領内での反乱鎮圧は記録がありますが。
>>253 つまり伊勢での反織田勢力の行動を押さえ、伊勢での織田領を維持することはできても他戦線に兵力を回すほどの
余裕は無いかもしれないということ?
>>253 滝川一益は木造、安濃津、渋見を預けられて、元亀以後は旧北畠家臣を引き連れて
機内戦線を回っているので、「軍を動かしてない」ことはないかと。
それと、>254も言っていますが、土地が織田の支配下にあったことは賛同を得られた
と見てよいですか?
(多分、名義は北畠で、北畠氏自体が織田に服属していたという形式なんでしょうが。
織田信雄が北畠姓を捨てて織田姓に戻るのは本能寺以後になるし。)
>>255 ということは、南部4郡が北畠統治で
木造、安濃津、渋見辺りまでが織田の直接支配だったのかな?
文書だけ見ると、74年頃までの南勢は名義信雄だけど
具教の方が影響力強い様な感じ‥
そもそも城下の盟とはいえ大河内を落としきれずに和睦したワケだから
影響力を排除する事は出来なかったんじゃないかと。
舌足らずではなくて脳足らずなんだろう
影響力は残っていたでしょうね。だからこそ大湊に対する要求を依頼されたり、
武田に使者を出したりしていたのでしょう。天正四年の熊野水軍蜂起に関しても
具教の関係を噂されたそうなので(真偽は不明)。だからこそ信長は皆殺しにした。
ただ、飯高や度会の土豪たちもこの時期には大河内から所領安堵を受けているので、
すでに実権は信雄(を戴く織田)に奪われていたと見てよいかと。
現実に三瀬に引き篭もった具教には動かせる兵力(土地豪族の支持)がなかったのだから。
名実の名の部分だけで語らないと武田に有利にならない
ここから始まった糞武田信者ネタだから、織田の数字にはいれられない
藻前の話はまっとうな議論の場では通用するが、糞テリトリー内では無力なんです
ご了承ください
武田に使者を出した時、軍船と兵を出すと約しているよ
具教が反乱の準備していた時に
兵3000程度なら動員できる云々(真偽は不明)もあるし。
織田直轄領でもないのに
飯高や度会、多気、飯野の実権が無いというのも考えにくい。
話が重箱の隅過ぎますよオマエラ
>>260 だから、北畠王国(便宜上、こう表現する)の中で、具教・具房親子が上に祭り上げられて
実権を失い(多少は残っていたかもしれないが)、本拠大河内を支配した信雄(と一緒に
送り込まれた津田たち)が実権を握って検地などを行い、土地豪族たちはそちらに従って
いったということでしょう。
ちなみにこの時の検地は差出ではなく竿入れだったそうなので、なおさら実権が三瀬(具教)
ではなく大河内(織田)にあった証拠でしょう。
>>263 次第に実権が移っていったのは間違いないでしょうが
家督継承以前は、検地くらいしか目立った記録が無いのに対して
継承後は、出兵や所領安堵の他、書状や指示が格段に増えているから
丁度この頃に、支配の確立がなされたんじゃないかな。
国人に反乱を起こされて、具房(これは飾り物だろうけど)が出馬して鎮圧とか〜
大湊衆の件で、2度目は具教が要請しているのに対して
1度目は信長が直接要請して断られていたりとか。
検地’くらい’って本気で言ってるのか。
しかも差出ではなく、竿入れで。
えーと結局これまでをまとめると。
・木造氏などの明確に織田に寝返った豪族を除いて、北畠領は温存はされた。
(おそらく多気、度会、飯高と一志の一部)
・しかしその北畠領では具教が大河内を追い出され、後に入った信雄とその補佐達が
領国支配(検地など)を進め、次第に実権を奪い、具教などの本来の北畠一族は干されて
いった。
・具体的に織田に反抗することは無かった(あるいは計画で終わった)が、実際に北畠領の
戦力が織田の戦力の一部となるのは信雄の家督継承後と思われる。
(裏で駆け引きなどが行われていたんでしょう)
こんな感じになるのか?
>>266 もっと分かりやすく。
実質織田は伊勢における支配率は何パーセントぐらいだったのか?
支配率ねえ…
信長の命令である検地、城の破却、関所の撤廃が北畠領にも適用されていることを
見れば、北畠領も織田の支配下と言えるわけで。
といっても、軍を動員したのは信雄が国司になって以降なワケだし。
関所の撤廃は畿内でもやってなかったっけ?
畿内の都市は、矢銭を出していたけど支配下とは言えないと思う
この時期の伊勢は、それと似た様なモノかと。
郡数でいえば
織田…員弁、朝明、鈴鹿、河曲、庵芸、安濃、飯野、一志、
(三重…土地豪族の反乱がいつから始まったかによる)
長島…桑名、(三重…同上)
北畠…多気、度会、飯高、(あと一志の一部)
こんなところか?北畠領を入れなくても、織田の支配率は60%は超えいるだろうな。
郡の数だけで言えば最低60%ってことか。
まあ、特に豊かな郡とかがなければの話だけど。
じょじょに更なる支配が進んでいたと言うことで、
とりあえず、全体の70%くらい支配と言うことで手を打たないか?
>>272 また武田派が噛みつく予感
〜〜延々伊勢・近江でループ〜〜
50〜80%ってことで
実際ヒヨリーな連中少なくないだろうし
>>273 というか、私も武田派なんだが。
とりあえず、私は概算として70%でいいと思うがどんなものよ?
織田派だが、70はいきすぎな気も…
チキンに65%くらいで
50〜80%ってことで
実際ヒヨリーな連中少なくないだろうし
結局、巡り巡って元の数字(70%)ってことかい。
次は近江か。これも揉めそうだなあ。とりあえず70%という数字が提示されているわけだが。
そんなつまんない数字より、摂政状態の北畠家から兵動員の可否を論じた方がよっぽど有意義
でも馬鹿がやると結果論になる罠
近江は支配地域という概念から言えば、70〜80%はありそう。
信長公記でも、元亀3年の3月には小谷と山本山の間を分断して、余呉や木之本を放火なんかして
志賀郡占拠したりしてるしね。
だけど、実際どこまで近江の支配地域から動員できるかとなると、カナーリ割引いて考えるべきかと。
そうでもないんじゃないか?
例えば近江に配置された宿将の下には
後藤、進藤、永原、蒲生、山岡、永田、青地と旧六角の主だった臣がほとんど従軍している。
姉川以後は浅井家中から掘、宮部、磯野らが織田に属して従軍してます。
他にも猪飼野氏を筆頭とした堅田衆や朽木、新庄などの西北方面の豪族も従属している。
十分支配地域から動員していると思う。
>>281 あぁ、そういう動員ではなく、このスレの主旨は信玄が上洛してくる云々なので
その時に対武田戦へ引っ張り出せるかどうかの動員って事です。
言葉足らずでした。
浅井・朝倉攻めなんかには、思いっきり旧六角勢力下の国人・豪族なんかは参加してますね。
久徳・堀なんかの旧浅井方は元亀元年辺りから、織田方として軍事活動に参加してるようで。
武田に対してどのくらい向けられるかはとりあえず後回しにして、
まずは総動員数の目安を想定するという話だと思う。
やっぱり70%以上は織田の支配地でいいんかね。
甲賀に逃げ込んだ六角氏と、最盛期の三分の二は失っている浅井氏くらいしか残っていない。
江南の一揆は範囲が狭い上、蜂起してはすぐに織田に潰され許されてを繰り返すだけだし。
オレも織田派なんだけど、土地はあっても兵を動員できるか、
住民を掌握してるかが重要なんじゃないか?
信玄はその手のには力を入れていたようだが。
その、住民(土地豪族、国人)を掌握しているのが7割だと言ってるんじゃないか?
そう言いたいみたいだが、動員できるとは思えないな
南勢はまだ統治していないし、北近江も掌握しているとも思えない
南伊勢と北近江は、寝返った一部の国人が軍役を負担するくらいでしょう。
また“思えない”、思えない根拠が全く不明。
武家名目抄・集古文書・信長公記・信長発行文書でも、元亀元年以降から小谷周辺の砦設置や
南近江の主要城の付城(砦と言うべきか)の解体、朽木や磯野に対しても軍役負担させてるのが見て取れる。
南伊勢は木造氏などが、積極的に動いていたようだが、多聞院日記の元亀2年の五月には、
伊勢の国人衆が近江での軍事行動に参加して「手負」になり、大和経由で帰国した事が書かれてる。
長野・藤方なども織田の軍事行動に名前が見れる。
いい加減、思えない理由をしっかり述べてくれんとなぁ。
>>288 >また“思えない”、思えない根拠が全く不明。
毎度々々、決め付け妄想厨乙
>伊勢の国人衆
>>287から話が繋がってないな、南勢は木造だけだろ?
>南近江の主要城の付城(砦と言うべきか)の解体、朽木や磯野に対しても軍役負担させてるのが見て取れる。
で、朽木や磯野が国人衆の全てなのかい?
いい加減、重箱の隅を突付いて、それが箱全体かの様な言い方をする詭弁はやめてくれ。
>>289 なら具体的に思えない根拠の提示よろ。
大和の中部の国人衆みたいに織田勢に同心しないという決議をしたとか、そういう具体的な物があれば
思えないと言うのもわかるが、君のは何もないが?
>南勢は木造だけだろ?
木造・藤方は立派な北畠一門ですが、その他の北畠一門は田丸城に軟禁状態で、
権限等はすでに奪われてる。木造・藤方・細野は伊勢侵攻時に織田に恭順、長野は細野に追われ、
当主具藤は三瀬館に隠棲し、実権は細野に奪われてる。
名前が挙がったのは全て南伊勢の有力国人ですが?
>朽木や磯野が国人衆の全てなのかい?
>>281-282で北近江の有力国人の名前が挙がってるが?これ、多くの史料で確認出来る事実なんだが。
これらを“寝返った一部の国人が軍役を負担するくらいでしょう。”と言うならば
その他の有力国人の名前を挙げて、しっかり反証して欲しいんだが。
と言う訳で、こっちが、いい加減、重箱の隅を突付いて、それが箱全体かの様な言い方をする詭弁はやめてくれと言いたい。
>>290訂正
細野が侵攻時に恭順は言いすぎた。翌年に信包を迎えるまでは争ってたんで。
細野氏が長野の実権掌握し、抗戦するも翌年に長野家の当主として信包を迎え、恭順と書いとく。
信包を迎えた後は、南伊勢の対北畠に参戦してる(元々北畠と対立してたからだが)。
細野藤敦が織田に反旗を翻すのは、田丸城で具藤が殺された後での話。
長野の血筋を絶やされたからだと思われる。
それと信雄が北畠に入った直後は、信雄は元服してなかった可能性が高いので(一般に、信忠等と元服したとあるが
信忠の元服は天正元年となってるので、これ以降と思われる。)、信雄自体の活動がないのは当然かと。
>>290 >その他の北畠一門は田丸城に軟禁状態で
軟禁状態に在ったという根拠の提示よろ。
藤方は恭順とは言えない
鳥屋尾、水谷、吉田、井上、大宮、芝山、家城、大嶋、奥山、山路、天花寺、服部
織田に敵対しただけでも、これだけ居ますよ?
こんなものをゴチャゴチャ論って何が楽しいんだか。
>>291 信雄自体の活動だけがないんじゃ無く
織田の活動記録の量が、元服の前後辺りを境に大分違う。
>>292-293 >軟禁状態に在ったという根拠の提示よろ。
波瀬・岩内・長野氏は田丸城に入れられてる、各々居城を持ちならにも関わらず。
その後、独自の活動記録無し。信雄の田丸での殺害までね。これを軟禁と言わず、何と呼ぶの?
鳥屋尾満栄:大湊文書では、信雄と共に大河内城に在城し、信雄の補佐をしているのが見れる。
これは長島征伐の際の話で、勢州軍記のような軍記物ではなく、書状ではっきり確認出来る。
よって、伊勢侵攻後も鳥屋尾氏が具教等と共に退いたという軍記物を根拠とする説には信憑性が疑われる。
織田方として行動してた可能性が十分高い。
>水谷、吉田、井上、大宮、芝山、家城、大嶋、奥山、山路、天花寺、服部
これらの人、北畠の重臣・国人だったりはわかりますが、殆ど活動記録すら残ってなく
井上に至っては、田丸城関連で名前が一度でたぐらいで、詳細は全く不明なんですけど。
どういう史料に敵対したのか、具体的な説明よろ。勢州軍記などの軍記物にしか名前がない人物も多々いますしね。
名前の並びで大体何を見て書いてるのか理解できましたが(笑
>織田の活動記録の量が、元服の前後辺りを境に大分違う。
津田・上に挙げた鳥屋尾・滝川・柘植の書状などはありまますが。
随分違うので、どのように違うのか具体的にどうぞ。
オレオレ織田派詐欺。
その実は信玄厨ってわけよ
その発給文書で、当時の国人と軍役の
すべてがわかればいいけど、むりだから
想像を補完して「思えない」としてるだろうに
あたかも見てきたようにうそつき呼ばわりする
ほうも悪いと思うんだが・・・
問題はそこからどれだけの兵力を他方面に
兵力を抽出できるかどうかであって、磯野とかが
軍役を負担してるのは自方面だから当然の
ことじゃないのかな?
反論するのなら、これだけの兵力を徴収できて
押さえにこれだけ回して、多方面にはこれだけ
移動できますといったレスのほうが、ありがたい。
うん?
「思えない」で根拠なく反論してくるから、「根拠をもって反論しろ!」といってるんじゃないの?
軍役あり、としているほうは一応資料名も出して根拠を提示しているが、軍役があったとは思えない、
といっている方は、根拠も示さずに、相手に「もっと別の根拠を出せ」と言っているんじゃないか。
カンチガイしているようだが根拠があれば「思う、思えない」って使っても誰も文句など言ってないだろ?
前スレで鉄砲の話で根拠に対して筋違いのソース要求しているのもいたが、今回の「思えない」には根拠を要求する道理があるよ
回答しなさいな
>>296 嘘吐きとは書いてないが?反論するなら根拠を出して反論してくれと主張してるのだけど。
それに最初に
>>287で何ら根拠を提示せず
>南勢はまだ統治していないし、北近江も掌握しているとも思えない
と書いてくるから、全貌はわからないにしろ、断片的にでも織田の南伊勢での権限を書いたし、
多聞院日記にも近江への伊勢国人衆の派遣の話も書いた。
だが、それすら何も根拠出さず否定してる君は一体何の根拠があるんだ?
想像するにも想像できる基があるだろうに、それは何なの?
>>292で挙げた国人の名前も怪しい名前があるし、説明よろと書いても何にも答えず
人には注文ばかり付ける。根拠不明なのに断定的に言う相手にこっちにどういう反論しろと?
たまにはこっちの質問にきちんと答えて欲しいものなんだが。
>>294 軟禁状態で、どうやって反乱の準備なぞするんだ?
だいたい、軟禁していたのなら殺害する理由が無い。
しょうもない憶測ではなく、根拠の提示よろ。
鳥屋尾満栄t@、もし織田方として行動していたのなら
武田信玄に送った書状は、どう説明するのか。
>名前の並びで大体何を見て書いてるのか理解できましたが(笑
こういう発言をするだろうと思い、わざわざ並べたんだけどね、で見事に(ry
>>300 あなたの書いた、南伊勢での権限とやらを見る限り
一部が従っていた程度にしか見えない。
オイオイ、自爆してますやん
>>301-302 >軟禁状態で、どうやって反乱の準備なぞするんだ?
反乱の準備?三瀬御所の北畠父子の事?それが田丸城に軟禁されてた長野などの一門衆も加担してたと?
初耳ですので詳細よろ。
>武田信玄に送った書状は、どう説明するのか
当然、この質問は来ると思ってましたよ。では、何故残ってて、信玄亡き後にこの書状の件が信長へ判明したのでしょうか?
大湊文書に残る鳥屋尾満栄の行動と考えても、天秤に架けてた節は十分に見受けられると思いますが。
>こういう発言をするだろうと思い、わざわざ並べたんだけどね、で見事に(ry
それで具体的な事は書かないのですか?元亀3年には戦死してた名前もありますけど。
>一部が従っていた程度にしか見えない。
だから、どう一部なのか自分の意見を肯定する根拠は(ry
整理すると、
287=289=292,293=296=301,302と
288=290,291=294=297=300=304が言い争ってる、と。
端から見る限り、287側の発言に説得力はないように感じる。
>297-299諸氏の言うように、根拠に基づいた反論が今後出ない限り、
>284,286の七割を採用して良いかと。
>>304 >木造・藤方は立派な北畠一門ですが、その他の北畠一門は田丸城に軟禁状態で、
>権限等はすでに奪われてる。木造・藤方・細野は伊勢侵攻時に織田に恭順、長野は細野に追われ、
>当主具藤は三瀬館に隠棲し、実権は細野に奪われてる。
>名前が挙がったのは全て南伊勢の有力国人ですが?
この有力国人が織田に付いたのは分かったから
他の国人衆が北畠に属している状況で
織田が北畠領の南伊勢4郡をも支配していたという根拠は?
>>304 >当然、この質問は来ると思ってましたよ。では、何故残ってて、信玄亡き後にこの書状の件が信長へ判明したのでしょうか?
>大湊文書に残る鳥屋尾満栄の行動と考えても、天秤に架けてた節は十分に見受けられると思いますが。
あなたの引用したサイトは、勢州軍記より信用できない(笑?
と 、 思 う が 。
>>306 支配率70%というのは、北畠領を除いた数字ではなかったかね。
>織田が北畠領の南伊勢4郡をも支配していたという根拠は?
北畠当主が三瀬にひっこんで、後に入った織田家の連中によって統治が行われていたから。
検地だの城の破却だのが行われているのだから。
要するに、小早川、吉川を乗っ取った毛利。あるいは関東の名家に養子を送りまくって
乗っ取りをすすめた北条と一緒だ。
>>306-307 >織田が北畠領の南伊勢4郡をも支配していたという根拠は?
四郡支配と書いてませんが。
ただその後の国人の反乱等見る限り、北畠の影響は四郡も無かったと自分は見ますけどね。
ま、それでも軍役等を考えれば南四郡は北畠で構いませんが。
>あなたの引用したサイトは、勢州軍記より信用できない(笑?と 、 思 う が 。
引用したサイト?よくわからないが、反論はそれだけですか(笑
反論に一切根拠提示がなく、具体的説明も皆無なので、伊勢の件は終了ですね。
重箱の隅を突付いて、それが箱全体かの様な言い方をする詭弁さえなければ(笑
なんでこう、ある程度の合意に達した後になってから口出してくるんだろうね。
しかも根拠なしに「思う」だけで。
>>309 ‥まあいいが、大湊文書なんて学者でもなければ見れないと思うけどね
それはともかく、↓これは信憑性が無い。(軍記等を読む限り、その手の記述は無い)
>大湊文書に残る鳥屋尾満栄の行動と考えても、天秤に架けてた節は十分に見受けられると思いますが。
>>308 >検地だの城の破却だのが行われているのだから。
そんな理屈が通るなら、秀吉も家康も日本全国を直接統治してる事になるから
豊臣の治世が覆ることも、徳川が大政奉還することも無かっただろうよ。
>>310 推測を断定口調で言えば根拠になると思ってるらしいね。
伊勢は70%でもういいよ。
反論が「思う」「思えない」だけしかないってことも分かったし。
次、近江、
やっぱ70%くらいか。
浅井は実質小谷城へ籠城状態だから、
それ以外の一揆勢の掌握地及びそれとの係争地がどのくらいあったかが争点だろうが。
>>311 それ明らかに、秀吉・家康の支配が全国に及んでいた根拠になりますが・・・
さらに、ある時点で支配が及んでいたことと、
それがその後も覆らないかどうかなんて何の関係もないよ?
>>313 言われてみればそうですね、前言撤回
ただ、秀吉・家康の場合は年貢が入るワケでないし
この場合は、ある期間まで軍役を課す事が出来ていない(一部除いて)
>>311 軍記物って勢州軍記ですな。
だからだよ、鳥屋尾が北畠に忠誠尽くして云々のイメージは軍記物でのイメージ。
実際に残ってる史料と行動から、鳥屋尾は少なくとも信雄を北畠家の当主として行動してる。
大湊文書てのは、伊勢市大湊支所保管文書の事で、大湊は太平洋側の貿易航路として重要な港だったんで
結構、研究本とかに記載があるんよ。
そこの鳥屋尾やら信雄の書状が結構残ってて、それでの話。
>>314 幕府には諸藩に軍役を課すことが出来ましたよ。
それはともかく、こちらは伊勢の織田支配率は北畠領の除いても70%と言っているのだから、
そちらの言っていることがまったく的外れだってことにいい加減気づいてください。
元亀二年
九月三日 一向一揆の拠点である金が森、苅田を攻撃。その日の内に陥落。
(十二日 叡山攻撃)
元亀三年
一月 六角と結んだ一揆が金が森、三宅に篭城。その月の内に佐久間、柴田によって陥落。
正直、たいした勢力とは思えない。範囲も野洲郡に限られているし。
>>316 ん?
13郡中5郡+一部が欠けると70%いかないけど?
>>317 野洲郡て随分と、ど真ん中だな‥
ごれがたいした勢力とは思えない、のは同意。
ちなみに、石高は太閤検地を採用、万石あたり250人動員として、
尾張100%、美濃90%、志摩100%に、
近江伊勢ともに70%として総動員数を計算すると。
総兵力50,385
仮に近江・伊勢をともに50%としてしまうと。
総兵力43,675
概算としてだが、
とりあえず、4万5千から5万くらいの範囲が総動員兵数としておいてはどうだろうか。
>13郡中5郡+一部が欠けると70%いかないけど?
振り出しに戻る
>>320 さすがに近江を50%とするのには反対だ。
70%で良いよ
どうせ1〜2月の時点の石高推測でしかない
この時点で双方が決戦したらどうなのかと武田側が提起した所で、レスの内容は想像に難くない
意味不明
ふむ、近江・伊勢70%を採用するとしたら、
単純な比較で武田:織田=およそ55.68:100か。
伊勢の支配率をもう少し下げたとしても、石高のみで倍近い差が。
武田のアドヴァンテージって金山くらい、とても覆そうにないなあ。
朝倉義景の撤退に激怒した理由もよくわかる。
兵力比が二倍前後の勢力を倒した例もあるわけだが。
毛利と陶はどうだ。
好条件が揃えば勝つ方法はあるだろう。
その条件をそろえる為に将軍や機内の反織田勢力と結んだわけでしょう。
ところがその中で一番勢力のあった朝倉が引き上げてしまったから
「これじゃ織田の主力軍がこっちに向いてきちゃうじゃないかよー!
お前ら武田の利益の為に囮になれよ!」
と激怒したんでないかい。
もっとも朝倉からすれば、
「武田が出てきたからしばらく織田の主力はこっちに来ないだろう。
ふーやれやれ、一息つけた。」
という程度だろうが。
天正元年に義昭は朝倉、浅井、六角、三好、松永らと組んで挙兵するわけだが、
三月に信長に責められて講和を結ぶまでこいつら誰一人として兵を出していないんだよね。
三好も朝倉も自身の出兵を約束しておきながら京へ進んで義昭を護る事も無く、主力が
出払った隙に後方を攻撃することもない。
こんなやつらをアテにして挙兵した義昭が哀れになってくるな。
とはいえ朝倉も毎度毎度信長の大軍相手して
しのぎを削ってあいだに、一方的に領土を
広げてる様を見ればバカらしくもなるけど。
朝倉の利益は一向一揆が減ったのと、
若狭が影響下に入ったぐらい?
仮説としては、家臣の何人かを偽装投降させ
情報操作しつつ、小谷から引きあげ、信長主力を
東方面に向かせて信玄に拘束してもらい、
朝倉軍は京方面に進出し京-南近江を席捲。
いざ決戦時には投降した家臣が寝返り、
混乱させたところを叩き信長を滅亡させる。
・・・ときたら小説だな。
>>315の言うとおり
正直、伊勢60%近江55%だろ。
むしろ、美濃90パーセントは不満。
岩村落とされただけで、10パーセントか?
>>327 そんな事いつたらきりがないと思うのだが。
少数で多数を打ち破った戦いはいくらでもある!
ゆえに、信長VS信玄の場合もありえなくはない。
って感じだろ?
>>331 岩村落とされただけなら、10%いかないでしょ
が、遠山氏の居城が岩村で、所領が(確か)土岐と恵那だから。
もう石高の話はいいよ
石高が2:1としても、当時織田は東方に5万も差し向けられないでしょ
そうだね、現実には4:3くらいだろうし
かなり大変な状況なのは、間違いなさげ
信長公記にある軍勢の記述さえ的もなら、言い争いせずに済むんだが‥
なんか資料ねえの?
またもな軍勢の記述って、なにをもってマトモと言うんだろー。
関ヶ原の各大名の兵数さえ、未だに石高からの逆算で真相は謎なのに。
島津が1500っつーのも島津の自己申告ッスから。
超排他的武田厨発言
武田に不利(織田に有利)な結論が出そうになると沸いてくるね。
「思う」とか「石高はもういい」とか。
武田厨の傾向
自論は根拠要らず、他論は根拠提示必須
自論は一部で全体を表現してる事になってる、他論はその逆
決定的なのは散々掻き回した後、何も結論出さずに「言い逃げ」し終わった後にケチ付ける
あら、ほらそこに武田厨が・・・
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/25 18:37:46
どっちもどっち
もっと仲良くケンカ汁
仲良くケンカする基準をつくっているわけだがな。
とりあえずこの期に及んでも根拠を上げない意見は無視するとして。
尾張100%(14300)、美濃90%(12150)、志摩100%(450)
伊勢60%(8505)〜70%(9923)
・北畠領を完全に排除するか、あるいはある程度従軍者もいた(織田の支配が進んでいた)とするかの差。
近江70%(13563)
・この数字に関してはほぼ異論なし。
三河10%(728)
・誰も異論反論はなかったようだが、一応。
合計49696〜51114
まあ、五万か。
武田は
>>180ってことで
二万八千。
次は…石高以外のプラスアルファとか、当時の両者の対外関係とか?
資料ペタペタ張り付ける厨も支離滅裂だしな
どちらの厨もイラネ
兵力はそんなものでいいと思うよ。
で、具体的な状況は、
史実では二月に義昭が挙兵、これは2〜3ヶ月で鎮圧される。
義昭が潰されては包囲網の大儀も瓦解するし、
西が治まって織田が全力を向けてくるようになっては武田にはほぼ勝ち目がないから、
何としてもこの事態は防がなくてはならない。
ちなみに、その間にいわゆる信長包囲網の面々からは有効な支援がなかった、
つまり、武田の力でどうにかしなければならないわけだが、
上記の兵力差を考慮の上で、果たして何か有効な手が打てるかどうか。
そこら辺が争点だと思う。
>>346 >義昭が潰されては包囲網の大儀も瓦解
そうでもないんでは?名目は公方(幕府)を蔑ろにする織田の打倒と、幕府権力の再建であって
義昭を攻撃した時点で、名目は保たれてるのでは?
信長は元亀3年の11月から翌年1月まで軍事行動起してない。朝倉が近江まで出ていた時にも
動いてない(12月初旬に撤収してしまうが)。
これは武田を警戒しての事だと思われる、武田が三方ヶ原以降、野田城攻略に1ヶ月もかけて
それ以降も動きが鈍いのを見たかのように、本格的な行動起すのは2月上旬からで、
それからは義昭の挙兵に対して鎮圧和睦し、近江や河内・山城で活発に軍事行動おこしてるから、
畿内鎮圧に兵を向けれたのは、武田の動きが鈍いと判断したからではないでしょうか?
石高は、そんなもんでいいと思うが、
動員兵力は、もうちょい差がでるとおもう。
商業、人口etcで
武田の動きに反応していたのは義昭公でしょ
そこまで武田に危機感感じていたなら東美濃の備えの薄さは矛盾と言える
なんで織田家が野田攻略中が動けなくて、攻略後なら動けるわけ?
普通と逆だよ。矛盾してる
>>344 三河の根拠になってる話は間違ってるよ。
>>350 ところが武田軍は野田城を落した後北へ帰り始めてしまうからね。
そうとも言えない。
まあ、信玄の病状が重くなったからなんだろうけど。
>>349 無論、義昭も武田の動きに合わせてのっと言いたいんですが、義昭と信長が戦闘無しで和睦したのが
2月26日辺り(はっきりした日は知りません)、和睦した際に人質交換したんですが
その織田方の人質を返還し、信長に対して軍事的に敵対行動とったのは3月6日。
対して信長が鎮圧に向かったのが3月25日。
武田は、野田城攻略が2月7日、そのまま長篠城に移って、3月9日まで滞在して、信濃へ撤収開始。
この動きを見る限り、義昭は武田に合わせるにしては動きが鈍すぎるし、
信長も武田の動きを警戒していないと言うには行動が遅い。
と言う事で、義昭はそこまで武田に合わせて行動してないのでは?と考える次第で。
逆に信長は、武田の動きに最大限警戒していたと考えますが。
岩村城陥落は11月14日で、あっさり落ちている事から備えが薄いと言われればそうですが
この時、江北で浅井・朝倉勢との戦闘があり、信長も江北にいたと思われる(9月に横山城にいたようで)
それを差し引いて考えれば、しょうがないかと。
>>350 ↑に書いた通り、武田が動かず最終的には引き返し始めたから本格的に動いたと考えてますですよ。
とりあえず包囲網のウチで、織田と戦える主戦力
部隊を張り付けておく必要のある戦力
敵対しているが放置可能?な戦力にワケてみるっぺさ。
↓適等なんでツッコミよろしく
大雑把に織田の全軍が46000〜50000、武田の全軍が32000
武田の上洛部隊が25000、対浅井に展開中、六角残党も多少
畿内の松永、三好はよく分からない‥
朝倉と長島は放置できそう?
あとはワカンネ
武田を増やすんだったら織田だって増やせるだろう。なんで織田は減ってるんだ?
>>355 減ってないべ?三河は織田配下で徳川付きだから除いたけど‥
武田も増えて無いぞ、極端な織田派が勝手に減らしただけ。
>>354 >大雑把に織田の全軍が46000〜50000、武田の全軍が32000
大雑把な計算のもとは何?
今までの石高計算から?
まじめに答えると
朝倉・浅井
元亀三年九月には信長は木下隊を残して江北から引き上げるわけだが、小谷に篭城した浅井
も援軍の朝倉も何もせずにただにらみ合っていただけ。そのうち朝倉は十二月には撤退。
正直、ヘタレ。
六角
鯰江に篭城していたが、京へ進撃する織田軍を攻撃するわけでなく、逆に岐阜帰国途上の
織田軍に行きがけの駄賃とばかりに攻撃される。
やっぱりヘタレ。
三好・松永
謎。記録には義昭が挙兵した時に兵二万でもって京へ進軍とあるが、最後まで姿をみせず。
義昭が挙兵してから信長が出てくるまで一月近くあったのだから、その間に京を抑える事
もなく織田軍の動きを傍観していたというのは信じられない(これが事実だったら、義昭は
見捨てられた訳だが)。信長の動き(四月七日 義昭と和睦。八日 岐阜へ帰国)を見ても、
京のすぐ傍に敵に大軍があったとは思えない。
この時期に三好家中で重大事でも起こったのかと調べてみたが、判らなかった。
篠原長房の死も六月以降らしいし。
あのさ、わざわざ武田本隊に対する東美濃の備えと言わないとワカラナイのかな?
なんでこの話の流れで秋山隊が降伏させた頃の備えがどうこうと・・・
>>359 では武田本隊に対して、備えがどうのように薄かったかどうぞ。
あの時点で最良の尾張侵攻ルートは選べない
南美濃、東美濃どちらに行くとしても岩村周辺は武田家にとって大事な拠点になりえるのに本気で取り戻そうとしていない
信長の判断は本格的には攻めてこないと考えたか攻めてきても対応が可能。このどちらかであったと言える
どちらかって事もないか、両方だな
>>358 朝倉が12月に越前に帰ったのは雪が降れば余呉が雪で通れなくなって
引き返す事が出来なくなるからだと思われ。
7月下旬から江北に出て、織田主力を引き付けて武田の遠江・三河侵攻の援護の役目は
十分果たしたと考えたんでは?
誰でも自分が一番危険な仕事をさせられるのは嫌がるもんだし、見返りが少なければ尚更ね。
それと浅井・朝倉は、11月半ばに虎御前山の秀吉を攻撃して撃退されてるから
何もしていない訳ではなさそうです。
六角は…近江の百済寺と連動してたようだけど、鯰江城に立て篭もり始めた時期がわかりません。
いつなんでしょう?
松永は元亀4年の1月8日に岐阜で信長に謁見して刀を送ってますね。
それ以外は名前が出てきません、何やってたんでしょうか?
三好勢は、元亀3年の12月に山城南部で三好康長と篠原自遁の名前で禁制出してるんですが
軍勢が入った様子もなく、本人達が来た様子も見れず、非常に謎です。
ただ同じ年の6月に、河内で畠山昭高と三好義継や松永久秀がトラブって信長が仲裁に入ってるような
形跡あるので、もしかしたらそちらで何かやってたかも。
頼みの綱の武田家が戦意がないのに義昭は降りない。
ならば兵を向けようと間接的にタイミングを左右はしただろうが、織田家が武田に驚異を与える距離にいない事を考えると武田家が足止めをしていたと考えるのはちょっと無理があると思える
>>363 「11月半ばに虎御前山の秀吉を攻撃して撃退されてるから」
それは知らなかった。しかしそれだとなおさらヘタレってことになるな。
しかも、織田軍主力をひきつける囮にもなっていない。
六角氏は上洛戦で観音寺城を追い出された後、おそらく甲賀を転々として元亀元年の
蜂起と同時に鯰江に入り、ここを拠点として活動しています。しかし攻勢は悉く失敗
し(というか、勝ち戦がない)、最後には何もできずに鯰江にいるだけとなったのでしょう。
松永の動きも知らなかった。油断させるつもりだったのかまだ両天秤かけていたのか…。
三好の動きは本当に謎。石成友通なんて山城勝龍城にいたはずなのに。
元亀三年だと、信長が柴田・明智・佐久間らを大和多聞山城と河内高屋城に派遣して松永久秀、
三好義継に威圧を加えたという記録はありますね。たしか四月くらい…
その理屈だと織田もヘタレじゃん
武田にロクな抵抗みせてないし
六角氏は観音寺騒動からヘタレロードまっしぐら
将軍補佐大名も落ちぶれますたね
>>367 先にくだらない論法持ち出した人に言ってくれ
その理屈でいくと、マジレス出来ないで陳腐な煽りした武田厨はヘタレw
最初に安直な論法でなおかつ「ヘタレ」とかいう陳腐な言葉持ち出した人に
いってくださいな
>>369 それとは関係ないけど、先に好きとか嫌いとか言い出したのは
誰なんだろうね。気になるよね?
>>372 すまん、好きとか嫌いとか何のことなのかよく分からない
武田が吉田なり岡崎なり囲んでも余裕ありーな信長は放置??
>>365 まぁ朝倉に関しては、岐阜⇔京を脅かし、武田への対応を出来なくさせただけでも
十分役割果たしたと考えたんでしょう、真実はわかりませんが。
浅井はどうなんでしょう?朝倉が引いた後でも軍事活動を行っていたんでしょうか?
その様子は見られないんですが。
六角は、殆ど放置されてますね…位置的には重要なルートにいたにも関わらずね。
周辺に攻勢かけた様子もないので、確かに鯰江にいただけなんでしょう。
いま少し調べたんですが、松永は元亀3年11月に筒井領を焼き払って、小競り合い起してるんですが
1月までには前述のように岐阜に行ってるので、どうも信長の仲裁に従ったのではないでしょうか?
岩成友通も、同年11月に岩成友通領内の寺領のトラブルを秀吉と塙直政に持ちかけられたのを
両者が岩成友通へ訴えをまわすようにとりなしているから、織田との関係はそれほど悪くないように思える。
ホント、何やってんでしょう?
吉田も岡崎も囲まれてないよーな
>>376 もちろん仮定の話だよ。
放置したんだから余裕ないでしょーがと主張したいわけでなくね。
武田の戦略として、素通り→上洛とかよりは現実味あると思うし。
まあ、信玄存命っていう最も現実味のない要素が大前提ではあるが。
うーむ、反信長包囲網とやらがどんどんと落ちていく。
たしかに三好義継や松永久秀は織田に組していた時期もあったが、まさか三人衆まで。
仲裁を受け入れいてるとは。
元亀年間の織田の戦いを調べてみたんですが、朝倉・浅井や一向一揆とは戦っていても、
三好の勢力とは直接にはほとんど干戈を交えていなんですよねえ。野田・福嶋の戦い以外は。
岡崎まで行くと簡単に兵糧カットされるだろうし、手前の吉田は三河でもかなりの堅城&天敵が守ってるからすぐには落ちないね
信玄健在なら頑張って吉田落として恒例の一時撤退を考えていたのではないかな
松永は岐阜に謝りにいった揆ガス
松永・三好は悪くとも日和見してたと考えるべきなのかな?
大仏焼いた癖に素直に謝っちゃう松永氏の思想は測りかねるw
爆死だし
>>379 と考えるから、織田は引き続き三河は放置ってことかな?
まあ、確かに義昭挙兵の鎮圧を再優先しそうではあるけど。
家康にしちゃたまったもんじゃないね。
ていうか、酒井って天敵なの?
調べれば調べるほど、当時の機内に織田を拘束しうる敵性戦力が無くなっていくな。
しいて言えば義昭くらいか。これは大義名分がついて回るから当然だが。
武田も上杉以外には大していないし、そのまま推移していけば両者の全力を懸けた
一大決戦が起こったかな?(信玄だとその前に撤退していそうだが)。
…だから信長はギリギリまで放置したのかね?戦力を分散させず岐阜に集結させて
おけば、いずれは退く、と見て。
徳川への援軍三千も、篭城の補強戦力とみれば肯けるか。
>>363 >松永は元亀4年の1月8日に岐阜で信長に謁見して刀を送ってますね。
これって信長公記からの記録だと思うけど、この部分は写し間違いで実際には1年後の天正2年の話しだと思う。
三好はこの時期 淡路の安宅氏が寝返ったため四国と近畿が分断されているのでは?
違うだろ、武田が来てない状態なら余裕の相手でも
武田と決戦になれば動き出されて、織田が破綻するのは目にみえてるから
必死こいて戦々恐々敵性戦力を削ってたんだよ。
思えない氏降臨
言葉変えても相変わらずだな
え〜と?馬脚が出ちゃった根拠氏?
思えない氏は、俺の他にもう一人居るから。
それにしても、武田と決戦になったら背後が敵だらけの信長は
苦悩で夜も眠れなかったとしか思えない。
腐ったら肉も魚も生ゴミと呼ぶし気にするな
>>387>>389 ・朝倉、浅井、六角
武田が出てきても本国(居城)に引き篭もり中。朝倉なんぞ、信玄からも顕如からも
出兵要請を受けていてなお動かず。
・三好、松永
この時期に軍事的な行動を起こした形跡(信憑性のある記録)なし。
武田が出陣してから半年経ってこの体たらく。どこに隙があったと?
生ゴミ氏は包囲網の面々が武田教門徒衆なのだと新説を説いておられるのです
お察し下さい
>>379 そうでもない、三河北部の山家三方衆は既に下っているし、
その北は信濃だから補給線はばっちりある。
野田城を落したらその次は岡崎城包囲というのは充分に現実的な案。
問題は吉田城の酒井にどれほどの兵力があったか。
ちなみに吉田城は野田城から岡崎までの途上にあるわけではないので、
その兵力によっては放置も可能。
>>344 この数字で、これまで語られた機内の状況をみると、四万くらいは武田にぶつけられそう
だなあ。岩村の武田軍相手に岐阜を空するわけにはいかないからもう少し下がるとしても。
これに破れたとはいえ徳川はまだ健在。信玄はいったどんな勝算を立てていたのだろう?
動員率上げればさらに増やせるしな。
この時の遠征では織田を相手にする気はなく、目的は徳川を屈服させるためかとも考えたが、
それでは色々と整合しないことが出てくるし。(岩村に手を出したこととか)
なにより、自分の身体を考えれば「また次がある」とは必ずしも思えないことだし。
>>395 これまた低レベルな釣りだな‥
>>391 馬鹿じゃないの?武田が徳川領にいる間は浅井、朝倉、一向宗徒
六角、三好、松永、(北畠)が行動を起こしても、信長は兵を送る余裕があるが
尾張に侵攻された状況では、必要最小限の処置しか出来ない
包囲網の主力と決戦するのに兵を割くアホは居ないからね。
各勢力に対してひたすら守勢を採るにしても、最低24000は必要だろうから
自国で戦うとは言っても、かなり不利だな。
>>397 その二万四千という根拠は?
例えば、朝倉・浅井は信長の留守中に虎御前山の木下隊に攻め寄せたが、単独で撃退されている。
六角も同様。三好、松永はそれぞれに敵を抱えて動けず。
これまでのレス読んでる?
>>398 >例えば、朝倉・浅井は信長の留守中に虎御前山の木下隊に攻め寄せたが、単独で撃退されている。
だから?
そのままの軍勢配置だと尾張美濃が空き家同然なんだが‥
それを言うと、武田も甲斐信濃がほとんどがら空きなんだが
401 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 04:25:36
秀吉は堅塁に拠っていたし相手も強引には攻めてこなかったから
撃退できたけれども。
信長があまり遠くに離れたら近江の西側を回ってくるんじゃ。
浅井朝倉、石山長島の本願寺と交戦状態
三好、松永や六角が不穏な動きをしている織田の情勢と
上杉と和睦、北条と同盟している武田の情勢を同一に扱って、オウム返しするのはどうかと。
その武田でも4000を領国に残し、あとの28000で上洛しているから
織田の場合はもっと軍勢を割いていたのではないかな。
現実に美濃に浅井朝倉と対峙した軍が3万超え位
(それとは別におさえとして8千を押さえとして残し、
解散させてなかったとしての仮定)手元にあったの
だから、信玄本隊にあたるよりは岩村城を奪回そのまま
信濃三河と進んで武田の補給と退路脅かすかのように動き
これに反応するなら岐阜へ戻る。信玄としては岩村を救出に
三河信濃経由で救援か尾張美濃経由で(アリエナイカ)信長の
背後にでて挟撃するかだが、上述のように信長は引くので
決戦は無く岐阜篭城と外部に残した野戦軍で信玄を逆包囲が
信長の最終手段であり、部隊が尾張ならば清洲あたりで
行われたか。
収支
信長
篭城 5000 野戦軍 20000
対浅井朝倉 8000 対近畿 10000
対浅井朝倉用は適宜野戦軍へ編入
不確定として三河家康 8000(浜松に少々残すとしたら7000か)
信玄 25000のうち対家康とその他落とした城に残置する兵
がいると多少減。20000くらいか?
どうせ攻めるなら諏訪方面に攻めろよw
>404
そんなことしたら今度は後ろ取られるんじゃ?
陽動に全力尽す馬鹿しかそんな疑問が浮かばないって
三万二千武田厨の話に乗っかると甲斐や諏訪は万石250を遥かに超えてるわけだ
岩村は近いから大軍でサクッと落として、そのまま守備の薄い南信に、五千も差し向けたら、破竹の快進撃が見られるね
信玄が戻ってくるまでに城焼き払って撤収すれば上出来だな
こんな頭の悪い兵動員する信玄じゃつまらん
信濃進入の防止のための秋山隊でしょ。
一ヶ月持てば信玄本隊がもどって後詰め
なり撤収を完了させるでしょうし、そもそも
信濃に侵入するほど信長に悠長なことが
出来たどうか?
大体、包囲網の面々が全てへたれに見えるのは、
信長が本隊を武田側に向けず総力をあげることが出来たからで、
本隊を東に向ければ史実と同じようにはならないよ。
それに、岩村城を落すだけならまだしも、そのまま木曾谷を行軍するのは無謀、
向こう側に内応者でもいなければ安全に動けない。
足止めする為、岩村城からノコノコ出てきてくれるの?
城兵もろとも皆殺しにされる機会が早まるね
小城でも数日で落とすと言うわけにはいかない。
落とそうとすれば少なくない兵力を拘束される。
実に秋山隊の派遣は効果的だね。
安全性?何が危険なの?
木曽は大軍が通るのに不便だが、奇襲部隊が通るなら問題ない
警戒されまくってるだろ。
どうやったら奇襲になるんだよ。
岩村城は武力を背景にした調略で落とされている。
まともに戦闘で奪回しようとしたら容易じゃないぞ。信忠だって苦労してるし。
警戒って何の話?
来ないって言ってるのに守ってるの?
無茶苦茶だな
兵数水増しするために馬鹿みたいに南信から兵引っ張って空にしたのは武田厨だからね
空なのか?
一時的に襲撃とか、規模が大きければ占領とかできるかもしれないけど、
ジェノサイドするわけじゃなければ意義薄いね。
それで本国がスカスカになってりゃ世話無いよ。
そういうのを兵力分散の愚、という。
城焼かれたら意義云々どころか決定的だろ
>>416 岩村城が落されても木曾方面を警戒しないとでも言うのかい?
つーかこの時代に少数の奇襲部隊で本国を荒らすって・・・
小説の読みすぎ?
敵中深くの城に対し小部隊による奇襲攻撃で焼き討ちとは。
ゲームのし過ぎでは。
水増ししないと勝てもしないと
自ら認めるヤシもいるのです
お察し下さい
>>397 > 尾張に侵攻された状況では、必要最小限の処置しか出来ない
> 包囲網の主力と決戦するのに兵を割くアホは居ないからね。
いつ尾張に侵攻したんだ?
信玄が生きていたと仮定しての話なら、何時たどり着く?
織田軍が押さえのために必要とする兵力を考えると、
まず、単独で12,000以上の動員力がある朝倉及び浅井の押さえに10,000くらい。
近江の一揆衆及び六角はそれほどの勢力はなかっただろうが、
義昭が攻勢に出る可能性も考慮してその押さえに6,000から7,000ほど。
それから、伊勢方面で長島一揆への押さえ、
及び完全に無視すると何かしでかすかも知れない北畠への監視も含めて8,000くらい。
総計で24,000から25,000くらいと思うがどうだろう。
かなり多めにそれぞれを計算したつもりだが。
仮にこの計算でいくと武田に割り振れる余剰兵力は25,000強。
美濃・尾張への守りの兵も計算するべきかも知れないが、
それは動員率を上げて対応ということで割愛。
これなら野戦兵力はほぼ互角、徳川が上手く動いてくれればその分織田有利という感じだろう。
このくらいの兵力差と考えるなら、
織田が軽々しく動かなかったという実際の情勢の説明もつくと思うが。
>>426 最低でも野田城を落とし、次に岡崎城を落してその後、だね。
ただ信長側は遠征じゃないから尾張での
戦いになれば強めの動員はできると思え
るよ(おっとここでは思えるは禁句か)
やっとまともな流れになってるな、若干1名変なの居るが
>>427 朝倉は1570の時、20000動員している
水増しがあるかもしれないが、関が原時点で越前大名の
軍勢が3人役で24000、石高から視ると(また荒れる?)この頃は62万石くらいで16000前後かな
それから石山を忘れてる、三好も。
>>430 動員を上げる上げる言ってるが
軍役に付かせるという事は、当分の期間は租税を免除軽減するという事だよ?
現実世界では、そうそう簡単にできるもんじゃない。
>>429 それでも尾張に侵攻できないでしょ
背後に徳川の勢力を残したまま決戦に臨むのは危険すぎるよ
尾張に行く振りして徳川がノコノコでてきたら今度こそ叩きのめすチャンスだな。
>>433 落とした城に少数の手勢を配置すれば
壊滅的な大敗を受けた家康に、何かが出来るとは「思えない」。
むしろ徳川が出て行く方が織田・徳川陣営にとって危険過ぎる。
家康が来ないだろうから守りは薄くて良い
これは孫子的に不適切だから信玄の発想ではなく、信玄厨の発想そのものです
木曽も同じくでしょうね
兵力の集中は孫子でも言われてると思うが。
別に家康が後方で動き出したからと言って瞬時に信玄が窮地に陥るわけじゃない。
むしろ城を出て隙を晒すのは家康の方だろう。
城から既に出てるよ
孫子は冒険的な一発逆転作戦には使えません。
勝てないときは大人しくしてろ、というのが主旨ですから。
>>437 まったく、その通りだな。しかし
>家康が来ないだろうから‥ ではなく、家康は出て来ない
何故なら、彼はいきなり木曾を襲撃したりw
同じ事を2度繰り返すほど無能では無いから。
>>439 出た結果ボコられたワケだが。
勝算は自ら作れと書いてあるじゃん
役に立たないのは孫子のせいじゃないぞ
>>438 織田との決戦に持ち込むんじゃなかったの?
織田の主力と対陣したときに背後で徳川が動いたらどうなりますかね
完全に同期することは当時の通信技術では不可能だし、
動き出したからと言って瞬時にして困った事態になるわけでもない。
また、少数の警戒兵力しかついてなくても家康の行動の自由はかなり抑制される。
家康が城に篭ってるからと言って信玄が家康を100%は無視できないのと一緒だな。
信玄なら撤退、信玄厨なら勝負
勝頼ならどうかなw
>>445 本気で言ってるの?
そうやって相手を侮って判断を遅らせたから
勝頼は長篠で惨敗したんですけど
だから判断を遅らせないようにするんだよ。
リスクを背負うのと相手を侮るのとは違う。
>>445 なるほど一理ある
当時の通信技術ではより距離を隔てた信長包囲網間の連携は不可能だな
取り繕いすると話が二転三転しだすな
武田厨は一貫した思考が出来ない病気なのか?
>432
滅亡がかかった戦を前に来年の収入は減るなぁ
と考えるだろうか、まぁ考えるだろうけど、それでも
国内戦ならば使えるものは使う方針でいくでしょう。
対徳川に関していえば放置すれば大火傷を負う
のは間違いないことだから、尾張侵略よりまず徳川
平定を先に行うでしょう。仮にこれを放置して尾張へ
と進めば家康は信玄本隊がいない遠江や奥三河
といった本国との連絡路を絶つように動くのは今までの
規定路線(武田が3落として家康が2取り返す)であるから
それを防ぐために、家康近くにそれなりの兵力を割き、
信長との決戦場でも後ろを意識した布陣にならざるを得ず
かなり投機的になるでしょう。
逆に信長としても西の状況次第では急戦を要する
かもしれないが、まだこちらのほうが若干分がある。
なんにしろ8千と言う兵力は小粒ながら決して
侮れるものじゃない。
と言うことで西上するにはあと2−3STEP必要ではないか。
信玄が家康の警戒のために部隊を残すとするよね。
別に包囲して攻め立てる必要はないので兵力は少な目でも良い。
そこで信玄が三河尾張方面に進んだとして、十分距離が離れたとしよう。
で、家康は信玄の後方遮断のために出撃できるか?
しかし浜松を留守にしてる間に武田の分遣隊に後方を遮断されてはかなわないので、
浜松との連絡線の維持に十分注意する必要がある。
下手すると、内応で城が落ちないとも限らない。
小規模な部隊を派遣しても武田の分遣隊に潰されるのが落ちだが、
大規模に出撃して浜松を空にするわけにも行かない。
まあ分遣隊を倒せればいいのだが注文通り野戦に引きずり込めるとは限らない。
推測するに家康は動くに動けなかったんじゃないかと。
どこの城に何人入れることがベターなのか
暫定数でも出さないならそれは空論のままだよ
>>431 朝倉の兵力が多少多かったとしても、
守りに徹するという条件下なら10,000を超える兵力は要らないと思う。
まあ、秀吉の手腕にも期待して。
それに、朝倉は現に出て来ている訳ではないしそれ以上の警戒は大げさすぎる。
三好その他の畿内勢への押さえは義昭へのものとまとめて考えている、
恐らくそれぞれの事情もあり大挙して押し寄せてくることはないだろうし、
仮に来ても10,000を大きく超えることはないと思うので、同じく守りに徹するなら、
6,000から7,000くらいで大丈夫だろうと。
>>433 もちろん、いきなり決戦に持ち込めるなら兵力で勝る織田有利。徳川を無視することも出来ないし。
武田としては、いつでも尾張に攻め込めるという態勢であることを示し、
織田が西へ全力を挙げられないようにするのが重要でしょう。
仮に岡崎が落ちれば充分にその目的は達せられる。
>>454の続き
というか、そうなったら織田も上記のように守りの兵力を残して、
武田へ兵を向けるしかないでしょう。
むしろ、岡崎城が包囲された段階でそのように動くと思う。
その時に吉田城が健在なら家康も浜松から迅速に移動でき、
7,000くらいは動員できると思われる。
そう仮定すると、岡崎城を包囲する武田軍25,000。
その後詰に織田徳川連合軍32,000ほどという、長篠の戦の時と、
籠城の規模と兵力差を変えたような状況になる。
もしそうなれば、恐らく信玄は引くだろう普通に考えて有利な状況ではない。
ただし、完全に撤退しては西に取って返した織田軍によって他の包囲網が壊滅させられるから、
信玄としては出来るだけ織田軍を拘束して起きたい。
信長としてはもちろんそういう状況なら一刻も早く勝負を決めてしまいたいところでしょう。
そこから先どうなるかは最早想像、と言うか妄想の世界の話だと思う。
ただ、一つだけ言えるのはそれでもなお局地的な兵力では織田有利ということ。
決戦はさけるでしょうね。信玄だから、という個人的なもの以外に、戦国大名の
軍隊とはそういう性質のものだから。損失を個人ではく国に受け持たせる近代国家
の軍のように「損害を省みず突撃、突撃!」なんて戦法は基本的に使えない。
だから、信玄の戦歴をみると、正面決戦がほとんどない。
上田原は負け戦だし、川中島は対峙戦。唯一激戦のあったとされる1561年も、実際
には霧中に行軍中の遭遇戦だったとされているし。三増峠も運動戦の一種。
逆に、正面決戦を強いて物量で押さえ込むのが信長。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 20:23:16
もし信玄が長生きして上洛って講談的で盛り上がるけど
今川義元の上洛説以下だよ。
長期戦決め込む織田方と消耗戦の上、岐阜を越えての近江攻めだよ。
長期遠征の上洛戦で北条に派兵要請せず、上杉と和解せずって無謀でしょ。
対北条で織田・徳川と盟を結び、上杉にも和解を求め
佐竹、芦名らと連合を組織し、共同で軍事行動をしたのに対し単独性すぎ。
幻の軍隊と、形骸した役職を夢見て
本願寺と義昭に踊らされ、毒饅頭食わされた感じだよ( ノ∀`)
北条とは同盟結んでるし、
少なくとも朝倉・浅井・義昭・一向宗と連合を組織しているのに、
単独性とは・・・・・?
信長の出方次第では上洛も視野に入れる、といった戦略じゃないの。
信玄とて何があっても絶対成功すると言うほどの確証は無かっただろう。
最悪の場合、遠江で勢力を拡大し信長の畿内掌握を掣肘する程度の成果にとどまるかもしれない、というつもりで。
寿命が尽きたせいで二番目の信長の邪魔すら十分果たせなかったが。
>>459 ずばり、それが主目的だったと思うけどね。
遠江・三河を制して、且織田の畿内制圧を阻むことが出来たら大成功。
実際そうなったらその戦争は武田軍の勝利だったと充分言える。
それだってかなり都合のいい話で、信長が手をこまねいているはずもないが。
あげって…スマソ。妄想、武田単独成功例って
遠江侵攻で三方ヶ原以上の戦果を挙げ、家康を降すか
討ち取り、三河衆が全面降伏し、東海地方を併合する。
空前絶後の大勝利に反織田の気運が高まり、名将朝倉義景が
分裂する家中をまとめ、浅井包囲網を破る事に成功する。
本願寺の号令の下、畿内一円で一揆勢が蜂起する。
武田方に寝返る者が続出し、瓦解する織田家に対し
三河勢が東海道を駆け上がり、尾張への猛攻を開始する。
信玄「一騎当千の武田の勇者よ。目を閉じ、耳を澄ませ。
今、都では女子供が嬲り殺され、僧が惨殺される地獄絵図じゃ。
阿鼻叫喚の悲鳴の中、我等の助けを求める声が聞こえるはず。
将軍様をないがしろにし、悪行の限りを尽くす織田を誅する時がきた。
御旗盾無よ御覧あれ!今こそ出陣の時ぞぉぉ!!」
つまり武田の作戦目的の優先順位は
1・遠江から三河にかけて勢力拡大。できれば徳川を屈服させて属国化。
2・織田主力軍を拘束させて機内の弱体化した反織田勢力を活性化させる。
3・条件が整えれば織田主力軍の無力化。(必ずしも決戦は意味しないが、
勝算ありとみればやったかも。)
4・さらに条件が整えられたら、上洛。(決戦で主力軍壊滅、信長戦死くらい
の戦果を得られれば不可能ではなくなるが。)
どのみち、信玄の健康状態からも武田軍の性質からも対外関係(春になれば上杉
が動く)からも、長期作戦は望めないだろうが。
》454
朝倉、三好松永の判定材料が結果論くさい気がする
朝倉家は織田家と数年に渡って互角に戦っていた
不可解な撤退をしたのは少し前の話
戦意がないと見極めるのはいささか早計である
三好、松永は将軍家の掌握が目的であろうから、信長と信玄が膠着するのを見計らって行動に出る可能性が高い
ただ彼等がその後も敵対を続けるかは謎
岡崎攻めなどは大筋同意なのだが、色も花も無い話してしまうと信玄厨の妄言が聞けなくなるよ
大人気無いこと反対!!
このスレはゴミ箱臭がステキなんだから
進行が早い〜
幻の軍隊ってのは、朝倉・浅井・義昭・一向宗ね。あんま戦力として期待できない。
単独性ってのは、せめて織田と競うなら氏康みたく4男あたりを人質交換して
できたら義昭に管領を斡旋して関東攻めを控えてもらうの。
北条にも御岳城返還だけじゃなく関東諸勢力と和睦を仲介し、
甲・相・越連合で北陸道を謙信。東海道を北条。東山道を武田が侵攻とか
出来れば、もっと勝機があると思うよ。
>>464 幻って現にどれもこれも兵力はありますが。
後述のプランの方がよほど幻では?
あの時代に甲越同盟結べるなら世界はもっと平和です
>>463 結果論と言われては確かにそれもあるけど、
どの戦線に対してもこれ以上の兵力を貼り付けるのは現実的ではないと思う。
なるほど、全ての戦線で反織田側が最大限の動員で攻勢をかければ、
大変なことになるだろうけど、正直その可能性はあまりないだろうし、
信長もそのくらいのリスクは背負うでしょう。
史実で言えば、上杉と北条は利害が明確ぶつかっており、同盟も成功しなかった。
北条は佐竹、里見など関東に敵を残しており背を向けるのは危険。
上杉も同様。さらに謙信は義昭と敵対している信長と同盟しているように、権威
に縛られる存在ではない。謙信が信長と敵対するのは、織田が越前から加賀へ進出
し、北陸を南下する上杉と利害がぶつかるようになってから。
>>462 謙信ちゃんは動く時には冬でも動いているから(現に関東へは何度も)、
春になれば動くとは言えない。
もちろん逆に言えば春になる前に動く可能性もあったわけだ。
ただ、この頃の謙信の動きを見ると信濃への関心は既に失せ、
越中・関東を主な目標にしているので、動くならそちらではあるまいか。
もっとも、越中の一向宗も関東の北条も同盟勢力だから、信玄も傍観は出来ないだろうが。
それから、2と3の間にはかなりの隔たりがあると思う。
1を成功させても2が失敗して西の反織田勢力が壊滅してしまっては、
差し引き反織田側の方が不利になってしまうので2の成功は必須事項。
3は無論出来ればそれに越したことはないが、
その前提になる直接対決は兵力差からして武田不利になる可能性が高いので、
出来れば避けたいと思う。
もちろん信長は簡単にそんなことを許さないと思うが。
>>465 うん。甲・相・越連合は自分でも無理だと思う。
だから、遠江侵攻は今川領併合政策の一環として行われ
無理して織田と争う必要はないんじゃない?
自分としては長生きして謙信と雌雄を決して欲しい。
>>469 謙信が冬に軍勢を動かしているように見えるのは、
雪で動けなくなる前に越後を出ている為。
信濃・北陸・関東への出兵の内、
北信濃は冬季には一切軍を動かしていないし、
関東や北陸への出兵もほとんどが(陰暦)十二月〜二月に軍を発しておらず、
その前に発して遠征地で越冬している。
謙信が国元で年を越していたのなら、出てこない公算が高い。
>>472 元亀三年から天正元年にかけて、謙信は越中の一揆勢を攻撃して越中西部から加賀まで
攻め込んでいます。織田との同盟の一環とみることもできますな。
この時の攻勢はよほど凄かったようで、顕如は天正元年二月には信玄宛てに越後攻撃の
要請を行っています。
謙信にとって、北信濃の占領は本国防衛の意味もあるので、信玄がそのまま東海に長く
居座ったら再び信濃へ出てくる可能性はありますな。
積雪、場所、時期、目的、規模でケースバイケースでしょ
平野部と山岳部でも積雪が違うからね
するとますます信玄は上洛なんて出来ないような。
謙信としては、信玄が信長に勝ちそうにならない限りは
直接アプローチで信濃に手を出すような真似は避けた方が賢明だな。
その隙にほかで勢力伸ばした方がいい。
戦略の継続性から言っても、既に信濃からは手を引いてる感じだったし。
岩村城から撤退する
とか奇行をしつつ岡崎を攻めてみるか
まあ、越中に攻勢をかけていた以上、
少なくともそっちが落ち着くまでは信濃には来ないと思うけど確実とはいえないし、
信玄も上杉来襲というリスクをかけていたわけだ。
>>その隙にほかで勢力伸ばした方がいい。
謙信がそんな器用な真似できるわけねーだろw
とりあえず、武田軍としては野田城が落ちれば吉田城と岡崎城への攻撃ルートが開ける。
このいずれかの城を奪取できれば徳川にかなり致命的なダメージを与えることが出来るが、
信玄としては徳川だけを相手に戦略を練るわけにはいかない。
信長が全力で西へ兵を向ければ、史実でそうだったように義昭は数ヶ月しか抵抗できないから、
信玄としては何としても織田の目を東にひきつけてこれを阻止しないとならない。
その点を考慮すると、吉田城を攻めた方が領土の拡大等の面でより確実だが、
織田へ与える圧力は弱くなり、岡崎城攻めならその逆。という感じ。
対して織田のとる策としては主に二つ。
まず一つは、武田以外の包囲網に対して守りの兵を割き、残りを集結して武田に向かい、
徳川の残存勢力と協力してこれを撃破、取って返して西の敵性勢力を叩くというもの。
この場合何も武田軍を完全に叩き潰す必要はない、とりあえず1年ほど動けなくすれば充分。
もう一つは、逆に武田に対して押さえの兵のみを残し、
先に西(主に義昭)を叩きその後総力をあげて武田にあたる。
ただし、この場合も最低限の援軍を送らないと徳川が降伏する可能性もあるので、
少なくとも5,000を超える兵はそれに割く必要があると思う、
その分西に回す兵力がへり、史実よりも若干長く義昭が持ちこたえる可能性がある。
武田軍が岡崎を攻めるなら前者で対応する可能性が高く、
吉田を攻めたなら、後者を選択する余地が出てくると考えられる。
ちなみに、前者を行った場合の概算的な予想は、
>>427-428及び
>>454-455といった感じ。
後者の場合はどちらが先に当面の目標を達成するかの競争。
信長が義昭を完全に屈服させる前に信玄が岡崎城を落し、さらに尾張に迫る構えを見せれば、
義昭はどうにか勢力を保つことは出来るだろうし。
逆に岡崎城が落ちる前に信長が西を片付けて総力をあげて来襲すれば、
信玄はすごすごと引き下がるしかなくなる。
>>479 謙信に対して何か幻想を抱いてはいないかい?
謙信は隙があればそれにつけこむ普通の戦国武将ですよ。
謙信が北信の領土化に目的が無かろうが、遠交近攻策の手段として北信に派兵をする可能性なら高い
ちなみに戦略の継続性って意味が分からない
>>484 単純に北信濃を攻撃目標から外していたのではないか、ってことでは?
そういえば、信玄の駿河侵攻のときや北条攻めの時は、
謙信はどうしたんだっけ。
確か北条攻めのときは北条氏と同盟まで結んでいたはずだが。
その時動いていたかどうかで今回の予想も立つのではあるまいか。
浜松へ援軍を送らせないようにするための
野田城攻めであり、その後に吉田城攻めとするが、
吉田攻囲中に5000程度が通行すれば捕捉殲滅
されてしまうのでその援軍は岡崎どまりかと。
そして浜松が落ちれば自然岡崎も降伏か、
信長の援軍は奪うか城兵と協力して対抗するか。
浜松は兵糧攻めか水手を絶って落とす方針に
なるだろうから準備に二ヶ月、効果が出るまで1ヶ月
として3ヶ月くらいか。ただ梅雨期に入れば、
もうちょっと延命できるかも。
その間に何らかのアクションをしないと
信長は忠実な同盟者を失ってしまう。
>>484 ゲームのやりすぎ、川中島以降は一度も侵攻してないのは何故か?
わざわざ強国の武田を相手にするより、北陸地域への進出の方が
危険が少なく見返りが大きいから。頭悪すぎ‥
エスパーかタイムトリッパーの様な先見性を持っている癖に、派兵の判断が最悪な大名の話でつか?
>>482 そもそも過小に見積もった想定を、自分で参考に使うとは凄いね。
朝倉が二万、浅井が四千、三好が二万?、石山の一向宗徒+雑賀衆二万八千
長島の一向宗徒二万、松永、北畠は無視、一応六角も二千?
家康の脅威を主張しているが、三方ヶ原で決定的打撃を受けた徳川の兵七千に対して
半分を押さえに置くとしたら、織田は三万六千も兵を割かないといけないなw
しかも織田の方は本軍から遠いときている。
とすれば、信長が美濃に入ったとき集めた軍勢は
動かす事の出来るほほ全部だったのではなかろうかw
結果論は意味がないよ
ゲーム厨ちゃん
>>489 数字が無茶苦茶、
もしそれが本当なら、その数だけで織田の総数を上回っているわけだが、
それほどの兵がありながら、史実では武田が引き上げた途端に、
石山本願寺以外が、織田に簡単に倒されてしまったのはなぜ?
結束してない上に彼等も織田だけが敵ってわけではないからね
数字だけの問題じゃないよ
試しに織田・武田の概数を出したのと同じ計算で数字を出してみると。
越前 12,475
近江30% 5,812
山城 5,625
摂津 8,900
河内 6,050
和泉 3,525
上三つはともかく、
他は全て三好が押さえていたわけでもないだろうし、
そもそも、三好勢が大挙して織田領に押し寄せるってのは普通ありえないと思うが。
近場に他の敵が居るだろう。
他は一向宗だが、こればかりは石高で計算するわけにはいかないだろう。
>>491 言掛かりを付けていないで、根拠を示してくれ。
>>493 実際二万で押し寄せてるじゃん。
越前は、関が原時点での越前に所領を持つ大名の合計が、65万石ですが?
>>495 その関ヶ原の時の大名って越前「だけ」に所領を持っていたの?
太閤検地の時の越前の石高は49.9万石、
もちろんその石高でも無理をすれば、2万はいけるが、
それを言い出したら武田も織田もさらに無理をすることは出来るから、
この場では大体の目安として一律万石あたり250人で計算するという話でしょう。
で、それで計算すると、
越前 12,475
近江30% 5,812
山城 5,625
合計で 27,687
ここに、三好が加勢したとしても4万までは行かないくらいだと思うがどうか?
というか、三好勢って織田領まで攻め込むような意思や余裕があったのか。
それに、一向宗って地元で蜂起はしても、
そのまま織田領内に攻め込むって行動はあまり取っていなかったと思うが?
>>496 反論するなら人に押し付けずに、自分で調べろよな〜口論厨
越前の所領に関する記録からなので、当然越前だけ。
>太閤検地の時の越前の石高は49.9万石、
>もちろんその石高でも無理をすれば、2万はいけるが
勝手に史実を捻じ曲げて、さも事実だったかの様に話すのはヤメテくれ
太閤検地は大抵寺社領が含まれてね〜の
で、軍役には寺社も含まれるの、そんだけの話。
>一向宗って地元で蜂起はしても、
>そのまま織田領内に攻め込むって行動はあまり取っていなかったと思うが?
野田・福島で攻撃に加わってる、長島の一向宗徒も尾張に侵攻して信興を討ち取ってる
織田軍が兵を引けば包囲網に加わっている以上、攻撃するに決まっていると思うが。
思い付きで書いてるにしても、アホ過ぎ。
守る側が敵と同等の兵数が必要って考えはコーエーの真骨頂
>>497 > 勝手に史実を捻じ曲げて、さも事実だったかの様に話すのはヤメテくれ
> 太閤検地は大抵寺社領が含まれてね〜の
> で、軍役には寺社も含まれるの、そんだけの話。
また寺社領か…
>>497 というか、すまん、計算間違えていた。
>>469は合計のところだけ、越前を65万石で計算していた。
ということで、仮に越前を65万石としてもそこから出される兵力は上記の通り。
そこに、一揆軍を2万として足しても、まあ最大5万といったところではないかい?
正直この時期に三好が近江まで兵を出すとも思えないし。
>>497 解説ありがとう。返信送れてスマソ
即レスで簡潔、明解とはすごいよ
自分も信玄の健康以前に、すでに袋小路入り。
長島の一向一揆は1570年に尾張を攻めたきりで、
その後攻勢に転じたことはなかったと思うがどうか。
濃尾攻めには@徳川及び東海方面
A上杉の向後の憂い
B信長らの出張組の足止め
C濃尾有力者の内応者が最低条件でしょ。
@は駿河割譲、旧今川領の領有に協力を約束してでも引きずりだすの。
武田単独だと信玄が長生きしても時間がかかるし
>>468の言う通り、佐竹らがいる限りAの上杉への足止めは期待できない。
謙信の関東出兵の一番の動機は関東管領って立場的なものだと思う(禁句?)けど
上杉がこちら付けばABが解決するけど、解決しないことには長期遠征は無理。
>>471、信長から絶縁されてんだよね…友好改善は上杉より可能性があるし
上洛戦の話で何故徳川、上杉戦は@が解消した後の行動だよ。よく読め。
信玄上洛派は、どうやって上洛する心算なんだろ?
>>497 一向一揆は地元を離れての活動はやってないよ。
そちらが提示してきた野田・福嶋にしたって寄せてきた織田軍を攻撃はしても、退却
する織田軍を追撃はしていない。
長島も同様。そもそも長島は木曾三川の河口の中洲だが、攻撃した小木江城は尾張の
木曽川岸にあった。つまり長島の対岸すぐ目の前。おまけに、一揆衆は小木江を落と
した後そのまま尾張国内に攻め寄せたりせず、そのまま長島に退いて篭もっている。
それから、軍役は本来検地から外れている寺社領にも課せられるという根拠を挙げて
から史実をどうこうといってくれ。そもそも太閤検地とはどれほどの軍役が課せられる
か(軍勢を集められるか)を知るためにおこなわれたものだ。矛盾してるぞ。
太閤検地の結果、越前において軍役を課せられる土地が49.9万石。なのに突然寺社領
を加えたり…、15万石も増えた理由を挙げてくれ。
大体なんで太閤検地のデータではなく、
関ヶ原の時の石高を出すのか、そっちの方が時期がずれているのだが。
ちなみに、越前49.9万石で数字を出すと、
越前・近江の残り30%及び山城で合計23,912。
義昭が山城を完全に掌握していたか多少疑問があるが、
この辺の数字は確実に反信長側の兵力としていいと思う。
他に加えてよさそうなものは六角の残党。
もちろん、一向宗が加えられるがこれの外征能力には疑問が残る。
信長以外に敵を持つ三好・松永あたりは加えていいか怪しいところ。
ざっとこんなところではないかな。
>>508 山城の革島氏に対して織田から本領安堵状が出され、さらに革島氏を与力とする細川氏
を詰る文書がだされてます。
また柴田、滝川の名前で河内の片岡氏などに対して出陣命令が出されていることなどから
この地域の義昭、三好の勢力はかなり穴があったと思いますね。
穴って言うか村井は京都守護職だよな
>>497 >太閤検地は大抵寺社領が含まれてね〜の
>で、軍役には寺社も含まれるの、そんだけの話。
ん?大抵とはどこを指す訳で?
軍役に寺社含む??
もうちっと詳しく解説頼めますか?
そもそも、この頃の三好家に、
信長と戦う為に近江あたりまで兵を出す気概や余裕、その意思すらあったのか?
というか、ぶっちゃけよく知らないのだが、
この時期の三好家の支配領域ってどんなものなんだ。
馬鹿正直に摂津・和泉・淡路・阿波・讃岐をそのままたすと石高だけでも、
武田をしのぐ包囲網最大勢力になりかねないが、その割にほとんど活躍が知れれていないのはなぜだ。
つーか、当主は誰だ?三好三人衆とやらは団結していたのか?
>>510 そこら辺はさすがに義昭と決裂すれば形骸的なものになってしまうのではあるまいか。
>>506 仮に東海地方を短期平定しても、国力、情勢から、
上洛より越後侵攻の方が、まだマシっていってんの。
おまえの頭の中は武田の騎馬隊や、井沢氏の一向宗への見解が
誇張、誤解してないか
朝倉は越前全土もっていたわけではないぞ?
若狭の武田氏もかなり不穏当だしな。
(若狭武田氏が朝倉に従順なら、当主を監禁なんてする必要はない。
武藤氏など若狭豪族の中には織田についている勢力もあるし。)
>>513 いや、単純に意味が分からなかっただけだから。
>>515 そこら辺は朝倉の影響が若狭にもあったってことでもあるし、
±0ということにしてはどうか。
というか、一応当主を監禁しているのだから、
むしろ若狭の、少なくとも一部は朝倉に数えてもいいのではないかとも思う。
義昭の勢力?
なにそれ?
天正元年に義昭が決起したときに、山城の豪族達がそれに同調したとかあるからそれ
じゃない?他にも近江の山岡氏の弟の坊主(名前忘れた)が同調してるし。
あと細川氏や三淵氏などの幕府奉公衆だっている。
もっともこいつらのほとんどは義昭が京都追放されるまでの過程で悉く降伏するか
裏切るかするのだが。
山城の守護権さえ譲渡しない事に端を発し関係が悪化したのに、義昭に頼まれて反旗を翻したのがいるから山城は織田側ではない。
みたいな事か。
細川は二条城に説得に行ってるが、これも反織田?
立場としては義昭の幕臣である以上反織田側にならざるをえない。
もっとも天正元年三月に信長が京へ出てきたときに荒木氏とともに出迎えてそのまま
従属しところを見ると、それ以前から親織田として信長と接触してたくさいが。
表立っては織田方としては行動してなかったけど、
水面下では接触を保ってたのかね。
ただし、義昭が公然と敵対したことで旗幟を鮮明にせざるを得なくなり、
信長が大軍を差し向けたことで義昭側に立つことが難しくなった、と言う[条件]が整って初めて
織田服属に踏み切ったわけで、状勢に関わらず織田方と見なして良いわけではないと思う。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 04:41:05
だからさ!
信玄が病気でなかったら、史実で武田が撤退する頃には、
徳川を降らせてたと考えても、贔屓のし過ぎでは無いと思うぞ。
最後の方は病気で何もかも行動が遅れたはずだし。
普通に考えても、急に病気になって死んだわけじゃないと思うし。
それともこのスレは信玄が病気のまま長生きしたらを考えるスレなのか?
>>523 それどころかもっと具体的な話になっているから、
今更そんな話に戻されても困る、もう一回レス読み直してきなさい。
>>523 信玄は若い頃から病気がちで、しょっちゅう臥せっていたから、その仮定は無理が
あると思う。それだと、かなり過去に遡って改変する必要が出るぞ。
信虎が信繁を後継ぎにしようとしたのも、信玄の病弱なところが嫌われたからだと
する説もあるし。
「信玄が病気のまま長生きしたらを考える」って方がまだ現実味があるだろう。
>普通に考えても、急に病気になって死んだわけじゃないと思うし。
そうだな。年がら年中病気で倒れてたからな。遠征中に病気になったんじゃなくて、
遠征前からずっと病気だったもんな。
だとすると、まず遠征ができるのかどうか(延期 or 中止)という可能性から考える
必要があるか。
病気じゃなかったらの純粋妄想スレは廃れて落ちたから
私怨で対織田に矛先向けてる奴は何が目的なのかさっぱりだ
「たられば、たられば、たらればどうこうだと思う」
徳川攻略のプロセス飛ばして、織田領土に攻撃
したられば
の話ですからこれが具体的だなんて勘違いしない方が賢明ですよ
おい504
要所が分かる頭があるのに、禿げしく文盲だな。もはや暗号w
@のは駿河割譲する代わりに徳川と組む腹なのか?
それともそれをオカズに開城させて謀殺すんのか?
家康が後者の類を疑いつつも、話に乗らざるを得ない状況ってどうやって作るんだ?
Aの問題は上杉の目が関東に向けば解消とあるが、甲相の盟約には関東攻めを受けた際の救済する事になっている。結局北信に入る事と同義なんだ
>>511 大抵は大抵、太閤検地に記録されてる寺社領はあまり多くない。
>>529 全ど戦闘能力が無くなり、月一ペースで主要な城が落城していた
徳川攻略は、大分完了してるヨ!
>>513 脳が腐ってるぞ、病院行け。
史実と違うんだから、たられば 話ばかりになるのは仕方ない
そしてその「たられば」を実現するのは本当に可能かを一つ一つ検証していくスレ
・・だよな?
>>532 違います。
織田厨と信玄厨の妄想いずれかが勝っているか、白黒付けるスレッドです。
検証?
印象と願望以外書いてないじゃん
>>533 白黒付けるのに、検証が必要。な、はずだからw
結局同じことジャマイカ?
信玄は上洛の青写真を描いていたのか?
多分これが本来の主旨だろ
いつしか武田厨がウンコにたかる蝿の様にまとわりついた。
蝿達は人知の及ばぬ勝敗を主観で検証しようとした。
新規に入ってくる蝿が猿真似していった
これが伝統化した。
そしてこんな便所に成り下がった。
と容易に予想出来る
パート1は案外良スレだったのかもな
このスレって何年前からあるのかね
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 16:12:26
以前同じようなこと書いたけど、ちょっといろいろなサイトから
拾い集めて新たに石高から見る人口を考察。
1町(=10反)あたり15束のイネの穀(こく)に相当しました。当時の栽培技術からすると、
イネ1束は穀で1斗5升に相当します。
当時の農民の耕作面積は二十三反から一町二十三反。
ここから考察〜
10反≒15束 23反≒345束≒345斗1725升
10合で1升、10升で1斗、10斗で1石とする
345斗=34.5石、1725升=172.5斗=17.25石
34.5+17.25=51.75石/農民
一石が一人の食べる量ならば半分取られてもなお20石以上あるから大家族制なら20人はいるのかな?
とすると百万石の人口は2万世帯×20人で40万人程度(京は10万人、小国に値するね)
1反31m四方なので23反だと22809.1m四方(約151m×151m)30世帯の村だと大体1km四方がその村の大きさか?
村の真中に家々があって隣村にいくのは1km以上か
家族構成がよくわからないので仮として長男以外は相続無いとするならばその家には
祖父祖母(2人) 父親母親(2人) 親父の兄弟夫婦(2人×?)
子供男三人女三人(6人)+親父の兄弟夫婦の子供(?)
取り合えず田舎者が京に上ったら驚くのがうなずけそうだ。
(1世帯20人計算だと村総出で600人、10ヶ村集まっても6千人、人口1万くらいの一乗谷や堺でも十分ですな)
それと意外に不作でなければ十分暮らせていけるという言葉もうなずける結果になった。(5分ならね・・・)
またいつの時代でも人口比5%程度が兵力にできる国力の限界(北朝鮮は5%程度を維持している)ならば
武田が120万石だとしたら人口48万の5%で2万4千人と言う数が出てくるんだが・・・・
ドウナンデスカネ?この仮説戦国の石高2千万石、人口1千万とほぼ合致はするんだけど、
武田とか織田の石高がはっきりしないからわからない。
「上洛」(=山城の制圧)というよりも
織田勢力の削減あるいは討滅を第一義にしたんじゃないのか?<信玄
戦略的に無理を重ねて、その後信長のように包囲網を組まれたら意味が無いと思うんだが。
仮に濃尾平野を支配下に置くことが出来れば
(結果的に織田勢力は崩壊するかそれに近い状況に追い込まれる)
武田家は国力から見て日本最大の大名になる。
>>531 浜松、高天神、吉田、岡崎、どれも落ちていないんだが?
掛川もだな
越後を侵略することが
国力的に見て東海より利益があるかどうか?
経済的(生産力・人口・商業繁栄)に見ても東海のほうが上そうだ。
それに最大勢力である織田を放置する危険はどうなんだろうね。
織田の伸張を許すのはゆくゆく首を絞めるだろう。
ついでに徳川との行きがかり上、次第に織田との利害関係は並び立たなくなりつつある。
信玄の遠征は、野望への挑戦であると同時に生き残りへの賭けでもあったと「思うね」。
>>541 仮に徳川を放置して尾張に侵攻するにしても
吉田と岡崎の攻略は必須だろうな
となると一城あたり三ヶ月で落とせたとしても半年
長い戦いになるな…
岩村がサクッと落ちるとか言ってたアフォといい勝負ですね
岩村サクッに大量に釣られるのがこのスレのレベルだろw
一部まともな織田派以外の織田厨のレスは、まるで潰走している尾張兵の様な有様ですな。
>>544 三方ヶ原で、大量の戦死傷者を出した徳川なら
兵二千五百も監視に置けば、放置して全く無問題だと思うが。
具体的にいえば武田軍の次の攻撃目標は、岡崎城か吉田城だ。
このいずれか(もちろん出来れば両方)を落せば、徳川にかなり致命的なダメージを与えられるし、
織田に対する圧力にもなる。
ただし、信長も黙ってそれを見過ごすはずはない、
背後に最低限の守りの兵を残し、それなりのリスクを背負ってでも対武田に兵を向けるだろう。
では実際に最低限の守りの兵とはどのくらい必要なのか、
その目安を出す為に、信玄以外の包囲網の面々の兵力を考えてみればいい。
昨日の段階でここまで話は進んでいたと思うが、その続きを考察してはどうか。
ちなみに、徳川をあえて捨て駒として、先に信玄以外を片付けるという戦略も、
ありえなくはないが、この可能性についてはとりあえず後に回して置く事にしたほうがいいと思う。
とりあえず、以前武田・織田の動員兵力の目安を出す時に使った、
太閤検地の石高を用い、1万石あたり250人動員するという基準を当てはめると、
朝倉:いろいろな説が出てきていたが一応越前一国(12,475人)
浅井その他の近江の諸勢力:近江のうち30%として(5,812人)
義昭:山城の80%これは正直適当な割合(4,500人)
ここまでの合計22,787人
他に三好勢だがこれについては正直よく知らない、御意見を求める。
後、一向宗だがこれはさすがに石高で兵力を計算できないと思うので保留、
ただし、外征能力については疑問あり。これについても意見をお聞きしたい。
とりあえず、こんなところだと思うがどんなものだろう。
>>505 軍役は、特殊な場合以外は寺社も負う。
>そもそも太閤検地とはどれほどの軍役が課せられる
>か(軍勢を集められるか)を知るためにおこなわれたものだ。矛盾してるぞ。
遠方は差出検地、寺社が入ってない理由は三成にでも聞いてくれ。
細川が反織田なら山城は100%義昭でいいんじゃないの
>>552 いや、細川は将軍を見限っただろう
よほど織田の旗色が悪くなれば、旗幟を変えるが
山城を100%にするなら5,625人
織田の間接支配地域は抜くルールでもあるんでしょ
細川を反織田と判定したのは漏れじゃないよ
畿内等における明らかな織田派等があるなら、
その数は「織田家の兵力」に直接加えるのはともかく、
織田側の勢力として計上してもよいと思う。
例えば、河内の畠山なんかは織田よりではなかっただろうか。
あと大和の筒井はこの時期どうだっけ?
松永久秀はちょうどこの頃に信長に太刀を贈ったりしていて、
確か旗幟が明らかではないんだよね。
557 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 23:37:39
信長公記だと1573年の正月に面会してるように書いてあるが、
実際は1574年の誤りである事がわかっている。
>>551 >軍役は、特殊な場合以外は寺社も負う。
?こんなの初耳ですけど。
少なくとも武田では、寺社が軍役負っていたのは諏訪大社の大祝だけでは?
>遠方は差出検地、寺社が入ってない理由は三成にでも聞いてくれ。
遠方とは?太閤検地は一回で済ませたのではないんですよ?
3〜4回はやってるんですよ?
寺社は含まれてる地域(畿内など)もあれば、含まれてない地域(尾張など。但し、寺社領の記録は残ってる)
頼むから、特殊な場合以外は寺社も負うを証明してくれ。
戦国研究の根底から覆るから。
松永久秀は反織田戦の真っ最中ですが。
松永のは次の年だ
天正二年
>>557 なるほど、だとすると、
当時は反織田派だったと見ていいのかな?
松永久秀が筒井と争ったのが見られるのは元亀3年11月辺り。
それ以降、大和での軍事行動は見られない。
これを、どうとらえるかだね。
少なくとも味方ではない。
何れにしろ、大和周辺での地固めが忙しくて、
どちらの陣営としても外には出てこないだろう。
結局は義景タン次第な希ガス
松永はもともと大和一国も支配していない。もともと寺社勢力が大きくそことも争って
いた上に、筒井が復活してからはそこともかかりっきり。
松永が完全に支配していたのは添下・平群・葛下くらい。三好三人衆に追い詰められて、上洛
してきた信長を頼ることで勢力を盛り返した立場だからね。
筒井は単独では小さいが、他に笹尾氏、越智氏、十市氏などが協力している。反松永の勢力
としては侮れない。
三好は正直よくわからない。
四国は阿波、讃岐がほぼ抑えられていたが、天正元年に篠原長房が細川真之・三好
長治・十河存保に攻められ死ぬと、一気に国人たちが反旗を翻し、そのため機内に
出ることもなくそのまま長宗我部の攻撃を受けることになる。
淡路の安宅氏は信長についた、そうだが、これについては私はよく知らない。事実
だったら四国と機内が分断されたことになるが。
機内。ここは三好宗家を嗣いだ義継と三人衆(これだって一枚岩ではない)、さらに
長慶とは別流の三好笑岩の勢力が混在していて、一元化されていたわけではない。
彼らは直前までお互いに争っていた。
さらに他勢力として、細川京兆家(藤孝とは別流)、畠山、摂津守護池田氏、新興
の荒木氏など、明らかに三好の勢力下にない存在がある。
正直、どこまでアテにできるか?
>>557>>560 資料に記載されていた事柄が違っていたとみなすということは、それを証拠づける
何らかの別な資料があるってことだよな。
そういった資料の見直しによってこれまで定説とされていた事が覆されるのはよく
あること(例、北条早雲の小田原城攻撃の年)だが、根拠がなければそうそう覆ら
ない。
ネットで調べた限りなのを断っておくが、松永久秀の岐阜謁見が1573年ではなく、
1574年に修正されている年表その他の類は見つからなかった。
できれば資料名でも、そういった主張なされておられる史学者の著作の題名だけで
いいから上げてもらえると助かる。
ネットで調べたらあっさり74年と書かれた年表が見つかるが・・・
史料は多聞院日記や大和記あたりと思う
まあ信長公記でも73年に謁見したと考えると松永の前後の行動がおかしく感じるが
定説って74年が定説だと思うが?少なくとも自分は73年に謁見したと主張する学者や小説を
知らない。
>>558 >少なくとも武田では、寺社が軍役負っていたのは諏訪大社の大祝だけでは?
どこの寺社領にも、普通に軍役衆が居た。
他の国でも寺社に対して検地、軍役を課してる大名は居る。
>遠方とは?太閤検地は一回で済ませたのではないんですよ?3〜4回はやってるんですよ?
>寺社は含まれてる地域(畿内など)もあれば、含まれてない地域(尾張など。
んあ〜って感じだな、東北や土佐等は申告しかやってねえ。尾張は寺社領込みじゃなかったっけ?
>頼むから、特殊な場合以外は寺社も負うを証明してくれ。戦国研究の根底から覆るから。
ほ〜凄いこと言うねw
>>568 >どこの寺社領にも、普通に軍役衆が居た。
>他の国でも寺社に対して検地、軍役を課してる大名は居る。
ほぉほぉ、証明してくださいよ〜。
1573年の時点で、検地、軍役課してる大名がいるとはねぇ、楽しみですよ。
僧兵を抱えていた畿内(特に京・大和)の寺社で与力として組み入れられた事例はあるが
それは軍役じゃないしねぇ。
この時代の一般的な寺社
神社:社領・座の安堵、神人・社の保護の代わりに、座役・神役(神事・祈祷)の負担を負う。
寺院:寺領・の保護の代わりに、領内の僧録を担い、座役・神役の負担を負う。
言い切ってるだけに、証明が楽しみだよ。
>東北や土佐等は申告しかやってねえ。尾張は寺社領込みじゃなかったっけ?
申告って何?意味がわからんなぁ。
陸奥は天正18年、文録3〜4年、出羽は天正18年、文録4年に検地してるが差出?
少なくとも文録3〜4年の検地は違うようだけどね。
土佐は天正13年、同16年、同18年に入ってるが、申告というので、何が申告なのか答えてね。
武田は恵林寺やら龍雲寺、妙法寺と研究誌や記録があっていくらでも調べつけれるしね。
>>569 >ほぉほぉ、証明してくださいよ〜。
>1573年の時点で、検地、軍役課してる大名がいるとはねぇ、楽しみですよ。
ほ〜ほ〜楽しいとは思えんが >今川、武田、北条が居るねえ
そもそも、寺社に特権をわざわざ与える理由がどこにも無いし。
申告が差出の意味だって分かってるくせにw
で、少なくとも土佐と出羽は差出じゃん。
>>568 東北の検地に関しては、秀吉から浅野長政宛に「検地に逆らうものは皆殺しにしろ」
と指令が下されるくらい厳しかったんだが。実際に、この検地に対する不満が重なって
大一揆が勃発するわけだが。
差出でそこまで反抗するかね?
現実に、そちらの主張はこれまでの戦国大名研究全て潰しかねないシロモノですがね。
>>568 実際、伊達は差出だけど。
「奥州は寒いから適当に検地して、さっさと帰って来ていいよ」とは言えないっしょ。
>現実に、そちらの主張はこれまでの戦国大名研究全て潰しかねないシロモノですがね。
どの辺りが?
>>565を読ませてもらう限りでは、
松永も三好も当てに出来ないように思うがどうだろうか?
少なくとも近江あたりまで兵を出す状況ではなさそうなので、
信長が守りに回るという条件なら考慮する必要はないような。
寺社に特権を与える理由がないのに、寄進で散財した挙句、
頭まで丸めた信玄は馬鹿野郎だと煽ってるの?
近江どころか、京へも出てきていないよ。
元亀元年から天正元年まで、京を脅かしたのは元亀元年に朝倉・浅井・一向衆の連合軍
が坂本から京郊外に進んで放火したくらい。信長が戻ってくると彼らは比叡山に篭った。
それから、反織田勢力が京の地を踏んだ事は一度もない(義昭自身が蜂起した例を除いて)
↑こんなモノをベタベタ貼っても、伊達は差出なワケだがw
岡崎や吉田の人数はどっちも多くて1000ってとこ?
三方ヶ原の兵力からみて、どっちもってより、多くても合わせて1000だろ。
>>579 そこら辺ははっきり言えないと思うけど。
少なくとも、浜松に八千はいたわけだから他は比較的手薄ではあっただろうかと。
短絡的過ぎだろ
>>580-581 それくらいだと寄せ手の10分の1どころじゃないし、
信長も結構早く動く必要で出てくるね
それか酒井が再度二連木で決死の時間稼ぎする間に家康が吉田や岡崎まで
駆けつけたりするのかな
>>582 しかし、他に判断の材料もないし仕方ないでしょう。
まあ、盛んに使っている1万石あたり250人って基準はあくまで目安で、
各勢力の全体的な兵力を相対的に見るためのものだから、
具体的にこの城には何人くらいいる、とかまではそこから直接判断しにくいんだよね。
ただ、浜松に兵力を集結させていたのは間違いなかろうし、
他は手薄だとは言えるだろう。しかし、それ以上はなんとも。
もっとも、浜松・吉田・岡崎の連絡線は途切れている訳ではないから、
浜松から他へ兵を移すこともまんざら不可能ではない。
ただし、武田軍に捕捉殲滅される危険を回避した上での話だが。
ところで、検地は差出だ、と言ってる人は結局何が言いたいんだ?
信濃は太閤検地では40万石でも本当は70万石あったんだ!と言ったところで、時の
支配者(武田家も含む)が認識していなければないも同然。40万石分の軍役負担しか
課せられないのだから。
それとも、30万石分を武田家は把握していたけれども、豊臣政権に対しては隠し通した
と主張するのだろうか。
真っ当な意見と見せかけ、実は詭弁で論点をはぐらかす輩が多々おります。
皆様も以下の「詭弁の特徴」を覚え、そういう輩を排除しましょう・・・
例:「信玄は上洛できるのかか」という議論をしている場合
あなたが「信玄の上洛は無理」と言ったのに対して否定論者が…
1.事実に対して仮定を持ち出す
「三河・尾張の境の水野家が武田家に寝返ったらどうだろうか?」
2.ごくまれな反例をとりあげる
「信長は雑賀衆と戦った時、圧倒的な兵をもってしても敗北した。」
3.自分に有利な将来像を予想する
「朝倉家浅井家が信玄に同調し、兵を出し、美濃三人衆・水野も寝返るに決まってる。」
4.主観で決め付ける
「信長は信玄に勝てるわけがない。」
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「信玄>(超えられない壁)信長なのは、歴史学者も認めている事実だ」
6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「ところで、秋山が美濃岩村城を陥落させたの知ってる?」
7.陰謀であると力説する
「信長公記は勝者の歴史捏造。」
8.知能障害を起こす
「織田厨必死だな。(プゲラ」
9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「信玄が上洛できないなんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
10.ありえない解決策を図る
「謙信と信玄が織田家を攻めればいいってことでしょ」
11.レッテル貼りをする
「織田信長が最強だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、石高なんてあくまで目安だろ?金山とかあるし」
13.勝利宣言をする
「信長が上洛阻止できるのか?という論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
また病院から抜け出してきたのか
>>588 「織田厨必死だな。(プゲラ」「ところで、石高なんてあくまで目安だろ?金山とかあるし」
といいつつ石高には、何故だか金山や商業収入も含まれていたと思ったが。
>>570 武田:寺社領での検地は本領での差出検地(甲斐の武田直轄地限定という意味、信濃はおろか甲斐小山田領等でも武田による検地実績無し)、
軍役はどの資料にも無し。『武田氏の研究』U武田領の権力構造1〜5、W武田領の宗教政策1〜3でも見なさいな。
特にUの1の東国における戦国期寺領の構造-永禄6年・甲斐恵林寺領について-と
Wの1の甲斐府中八幡宮の研究をね。
今川:今川氏の検地は、土地占有権・境界相論の時行われた、公事検地。なお寺社領には殆ど検地を行っていない。
検地を終え、その後、寺社領へ寄進された土地と上で挙げた理由でのみ行われてる。軍役は勿論無し。
『静岡県史研究 3号』の「戦国大名今川氏の年貢収取体制」『歴史評論』「戦国大名今川氏の貫文制」参照の事。
後は『今川氏の研究』のW今川氏検地研究を読むべし。
北条:確かに北条は厳しい検地を占領地でも行っていた稀な存在で、寺社領にも例外無くやってたね。
小田原衆所領役帳も延命寺文書の中の一つだしねぇ。でも、軍役課した事はないね、全く、全然。
『後北条氏の研究』W外交・文化の諸問題の2後北条氏と宗教-大徳寺関東龍泉派の成立とその展開-参考。
>寺社に特権をわざわざ与える理由
読めば、戦国時代の統治者が、寺社という宗教勢力に対して、いかに苦労しながら統制を図り
宗教権威を使って支配権・正当性を得ようとしてたがわかるから。
岡崎、吉田ガラガラ説を唱えたヤシ
端から野戦をする為に浜松に兵を集めていたと読んでいるのか?
>>578 奥州仕置の時(天正18年)は安堵された従来の在地大名領は(一部例外除き)差出、その他は竿入。
文禄時の検地は、伊達も例外無く竿入。
>>592 どんなつもりだったかはともかく、
現に1万1千以上が浜松に集まっていたのは事実でしょう。
それだけ集めて他の拠点にも充分な兵がいたとは想像し難い。
というか、石高から想定してもきついでしょ、いくら何でも。
十分な兵が残ってたとは考え難いが、野田城を見ての通り、守備をする為の最低限は残してたと考えられる。
岡崎や吉田は主要な城だしね。
なんとも具体性にかける話だが、
いずれにしろ岡崎・吉田が囲まれれば早急に救援を送る必要があるよ。
これらが落ちれば致命傷になりかねない。
もちろんそれは徳川にとってはという話で、
信長がどう判断するかは分からないが。
吉田・岡崎の兵数が合わせて千以下ってのも具体性にかける話じゃないのか
>>597 そりゃあそうでしょう。
であっても、いずれにしろ、少なくとも家康の主観では、
一刻も早く援軍が来てくれなければ困るという情勢ではあったはず、ってこと。
家康にとってはね
ただ信長からすれば義昭と和睦するまで時間を稼いでくれれば良いわけだから
まだしばらくは放置できるでしょうね
ちなみに史実で義昭と和睦するのは四月上旬なので残された時間は約二ヶ月ですね
二ヶ月は流石にもたないだろう
>>599 それはそうだ、
ただ、当たり前だが史実では吉田も岡崎も囲まれてはいない。
その条件で史実どおりに行動するか?というのが一つ。
もう一つは、史実では信玄が死んで、少なくとも武田軍が引き上げたのは明白なのに、
義昭はその後再度蜂起して、結局最終的に7月に京を逃れることになるっている。
そんな義昭が武田軍が三河で徳川の城を囲んでいるという状況で、
やすやすと和睦に応じるのか。
当時の通信技術で織田領を隔てて正確に情報を把握できるかは疑問ですね
それとも義昭が武田軍の事情を知っていながらあのタイミングで挙兵したとでも?
少なくとも野田城を囲んでいるという情報は上方に届いているよ。
本願寺顕如が朝倉義昭に武田軍が野田城を囲んでいる状況を伝えて、
出陣を促している。
野田城包囲が伝わってほかが伝わらない道理はあるまい。
逆に言うと当時の情報統制力で完全に敵の情報をシャットアウトすることは不可能、
互いに伝えたい情報はタイムラグはあっても伝わる公算の方が高い。
朝倉義昭って誰だよ・・・・
朝倉義景です・・・・。
>>603 >本願寺顕如が朝倉義昭に武田軍が野田城を囲んでいる状況を伝えて、出陣を促している。
これは何の史料で確認出来るかな?
顕如から武田への書状は元亀3年の8月まではあるけど、信玄出陣以降の存在は知らなかった。
特に元亀4年1月の野田城包囲の文書あった?
武田から浅井・朝倉、浅井・朝倉から武田は見つけられるから顕如との連絡は
取っていたと思うが、
>>603のような内容の書状が見つけられない…。
>>605だけど、
>元亀4年1月の野田城包囲の文書
顕如から朝倉としても見つけられない…。
ぜひ確認出来る史料を…。
>>605-606 スマン、ネットで拾った二次資料を鵜呑みにしていた物だから、
ぶっちゃけ文献は出せないマジデスマヌ。
ただ、連絡自体は取り合っていたということはいいわけだよね。
二次資料っていうか他人がそう言っていたってだけだな。
>>607 了解でふ。
武田は経過を、随時浅井・朝倉へ送っていたと思われる内容の書状が
浅井・朝倉から出てるので連絡を取り合ってたとは言い切れないけど
具体的な情報は、ある程度正確には把握出来ていたと見ていいかと。
これを踏まえれば、義昭にもそれなりの情報を送っていたんでしょうね。
問題はタイムラグと、武田の遠征がいつまで可能なのかでしょうね。
>>609 10月に出陣したはずだから、2月で5ヶ月目ですな。
正直かなりきついと思うが、実際に引き上げたのは4月で、
それは信玄の病気にともなうものだから、
元気ならもっと頑張るつもりだったかと。
大前提として史実とは違う仮定の話をしているのだから、史実どおりにいくとは限らない。
それも、信玄健在で吉田城か岡崎城を武田が囲んでいたら、
というかなり反織田側にとって都合のいい仮定なのだから、
史実より反織田側有利になる可能性が高い。つまり義昭が二ヶ月以上もつ可能性が高い。
また仮に二ヶ月で和睦になるとしても、その間確実に城が落ちないとも限らない、
いずれにしろ信長にとってはリスクが大きくなる。
正直、少し前に考察していた武田以外の反織田派の兵力、
特に外征に動員可能なそれを考慮するなら、信長としては、
そちらに最小限の守りの兵を残し、全力で武田にあたる方がより安全なのではあるまいか。
武田軍が城攻めをしている最中に、後詰に駆けつけられたならかなり有利だし。
そうでなくとも武田軍も疲労していただろうし。
少し元亀4年の足利義昭の行動で皆さんが誤解されてるようなので補足しときますと
義昭は2月半ばから、二条御所の堀普請したり鉄砲購入を始めてるので
この辺りから軍事的抵抗を始めようと行動を開始したと考えられ、
2月23日には義昭から7ヶ条の要求が信長へあり、それを信長が受諾し
信長も2月26日に12ヶ条の条件を提示して、幕府側も2月29日までには受諾(受諾したのは細川藤考)し、
表面上、一旦和解が成立してるんですよ。
明智光秀の与力としていた山岡等が、義昭の意を受けて挙兵したのが2月25日。
これは29日には柴田・丹羽・明智・蜂屋の攻撃を受けて鎮圧。
で、和解が成立した時に人質交換していたんですが、3月6日に義昭が人質を返還して再挙兵。
こういう流れです。>史実
>>610 信玄がどれくらい遠征出来るかは、上杉の動向と徳川の粘り次第かと。
少なくとも3月中には徳川を屈服させなければ、尾張・美濃へはとても侵攻出来ないかと。
また上杉が関東へ南下すれば、西上野から、最悪甲斐本国が荒らされる危険性も出て来ますので。
>>611 信長は信玄に対してどれくらい派兵出来るかは正直疑問。
4月超えれば、浅井・朝倉の南下も十分考えられ、万が一にでも京と美濃の間を封鎖、
もしくは湖西から京を突かれれば、それこそ政治的大儀を失い、畿内統治の名目を失いかねない。
どちらもかなりリスクが高いなぁ。
武田が本国にいないなら、関東諦めたりしないよ
一揆の温床を抱えるより、上杉にすぐ従う関東の方がオイシイ
>>615 関東は諦めてないだろうけど、北信濃奪還には興味なし
武田は本隊が東海道へ向かっているけど、西上野には箕輪中心に
守備兵力が残存、つついても簡単にものにはならないし、本隊を相手
にするハメになり損だから放置
これが本音だったんじゃないの?
実際この時期以降織田・徳川には武田叩こうぜとけしかけたり、その逆
の交渉があったりはしても自分は北陸中心の出兵、関東に南下してきても
武田とは大きな衝突はないまま逝ったと記憶してるが
謙信の一揆鎮圧に行く直前の行動知らないの?
論点がズレてるよ
おバカちゃん
>>613 当時の浅井にそんな力は残っていない。湖西はほとんど織田方のものになっていた。
当時の朝倉は疲弊しまくりで(でなければ対陣中に離脱者が大量にでるか?)、
京まで遠征することすらできたかどうか。元亀二年以降の朝倉は、浅井の救援くらい
にしか出兵していない。
そもそも、彼らに京まで出てくる力と意志があるのなら、信玄がまだ生存していて
義昭も挙兵した三月には動いている。
>612をみても、義昭が挙兵してから和睦するまで(途中で講和を挟んだとはいえ)
3ヶ月はあるのに、その間出兵要請が信玄、顕如から来ても黙殺しているのだから。
さらに、当人が書状で援軍を約していながら結局動かないでもいる。
淡路の安宅信康が三好三人衆側から離反したのは、1572年11月だけど、
一応降ったのは足利義昭に降っていて信長にも許されたという形を取っている、
実質は信長に降ったようなものだけど。
後に毛利側について81年に秀吉に攻められる。
まあ、現にその後7月には浅井救援に出てきているし、
少なくとも近江まで出てくる可能性はあるでしょう。
しかし、それにしたって兵1万もいれば十分押さえられるだろうから。
少なく見積もっても武田と同数以上の野戦軍は三河に向けられると思うが。
>>613 姉川、長篠が三万五千だから、そこから対浅井、朝倉の分と
武田上洛による反織田包囲網の活性化した分を引けば大体の目安にならないかな。
朝倉一万五千、浅井がこの時期四千?この押さえと、本隊が自由に動けない
畿内、伊勢の警戒分を割くと、二万五千前後残るかと。
>>615 武田が北条と和解した上に、北条の支配が安定してきた時期だから狙う価値ないだろ。
まるで織田家には城がない様だなw
>>591 寺社領にも軍役衆が居た記録はあるよん。
>>623 一万もいりませんよ。
元亀三年十一月には、浅井と救援の朝倉両軍が虎御前山に築かれた押さえの砦に
攻め寄せましたが、在番の木下隊のみで撃退されてます。
信長の用兵は抑えの城とそれを繋ぐ街道網の整備によって軍勢を迅速に動かし、
他戦線は防御施設によって最小の兵で抑え、その間に主戦線に大軍勢を集中して
攻撃するというものです。浅井・朝倉に対しては木下秀吉がはいった横山城、虎
御前山砦がこれにあたりますな。
武田の危険性>その他の包囲網の危険性
になるから武田に兵を向けるわけで、二万五千で後詰めに向かうって曖昧な判断じゃないの?
それともそれでギリギリまで無理してんのか?
>>627 その時の秀吉が率いていた兵力が分かれば参考になるんだけどね。
まあ、守るだけなら1万はいらないとは思うけど、
8千程度は見ておいた方がいいのではないかなとも思う。
>>629 城というものをなんだとおもっていますか?
当時の秀吉の所領と与力を考えれば、三千から最大でも五千未満(動員率アップ)がいいところ。
>>630 所領って?意味がよく分からんのだけど‥
ちんけな軍勢しか置かずに専守防衛は構わんが
西近江から京に出られたらどうすんだよ。
辞書引けw
当時、高島郡には磯野員昌が配置され配下に土地豪族の朽木氏などが与してます。
つまり、浅井は小谷城で木下隊に抑えられている間に、西からも攻められている
わけですね。
上の方でもいっていますが、浅井や朝倉は元亀ニ年以降は守勢に立たされており、
とても長躯遠征なんて出来ませんよ。現実に、信長が他の戦線に出向いている間に、
彼らは何もしていない。
これまで出てきた勢力をまとめると、織田家の機内方面の戦線は、
・江北 浅井と、援軍に来る朝倉。
・江南 鯰江の六角氏。
・湖西 京方面への抑え。
こんなモン?
あとは
・伊勢 長島への抑え。南の北畠は内部から乗っ取り進行中。
くらいかね。
三好や松永はそれぞれの敵を抱えていてどうにも出来ないし。
>>613 4月超えれば、浅井・朝倉の南下も十分考えられ、
まず無い。
>>630 おいおい、完全に秀吉の手勢だけしかいなかったと思ってるの?
朝倉・浅井は信長が引いた後秀吉の陣に攻めかかり撃退されているが、
それも、秀吉が己の手勢だけで成し遂げたとでもいうわけですか?
もし、それを示す資料でもあるなら別だけど、そうでないなら、
普通は秀吉だけで朝倉・浅井を撃退したといえば、
それが出来るだけの兵力を任されていたと判断するべきでしょう。
城っていっても虎御前山のは砦程度の規模で本格的な築城ではないしね。
例えば、浅井の支配領域が当時近江の1割しかなかったとしても、
例の万石250人という基準で計算すると朝倉・浅井であわせて、
1万4千くらいの兵力にはなる。
これに対して8千乃至は約半分で7千くらいを、守りに残すというのは妥当だと思うが。
それに、
>>633によると、西にも織田側の兵がいるようだし、
これも考えれば対朝倉・浅井に向けられた織田側の兵はさらに多いということになるが。
信玄含めて史実の包囲網は終ってる
一番元気なのが長島w
時勢が悪かったな
>>636 いなかったんだろうね。正確には、木下隊とその下につけられた近江坂田、浅井郡
の豪族達がいた。
元亀三年夏に信長は一説に五万という軍を率いて江北に出陣して浅井領各地を攻撃
したが、小谷城に篭った浅井軍と救援にきた朝倉軍は閉じこもるだけ。挑戦状も出
したがそれでも出てこないので信長は木下隊を残して撤退。(これが九月)
以後、信長配下の諸将は各地で活動が確認できるので、残されたのが木下隊のみ
だったのが判ります(湖西の磯野もいたが)。
そして浅井、朝倉は信長本隊が帰った後になって攻撃して撃退されているのだから
その弱体っぷりがよくわかる。
朝倉って、元亀三年には配下武将が多数織田に寝返るし、天正元年の最後の出陣
には朝倉景鏡に出陣拒否されてるし、すでに内実はボロボロだったんじゃないかね。
実際、信長は朝倉軍もいるのに「こんなやつら、木下隊残しておけば充分」って帰国
したんでしょ。そして現実に負けているし。
奇妙丸の初陣だっけ?
それだけ余裕があったって事だな
時期からして青田刈りでもして、城から引っ張り出したかったんだろう
>>635 当時の信長の立場ではないと判断出来ません。
だから近江には柴田や丹羽、明智・蜂屋が配置されてたんだが。
彼等は信玄が迫ってきても、ずっと近江から動いてません。
ちなみに虎御前山砦で木下隊が破ったのは浅井・朝倉の先鋒>信長公記
別に本格的に攻めたとはどこにも書いてないよ。
信長も江北出陣中、織田主力が江北に集まってる中、浅井・朝倉も決戦する必要はないらね。
信長が近江から岐阜へ戻ったのは、岩村城が落ちたからだし。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 22:42:41
信長の持つ戦力を考えたら、迂闊に打って出たらヤバイのは確かなわけで、
もはや浅井・朝倉の連合の力だけでは事態を打開できないのは明らかだ。
でも、信長が信玄と正面からぶつかり始めるなど、条件が整えば攻勢に出る力はまだあっただろう。
別に秀吉一人に手が出せなかったわけではなく、信長の後詰を警戒して積極策に出られなかっただけだろうから。
>>641 明智はともかく、柴田、佐久間らは岐阜にいたとされています。
おそらく、武田に備えて岐阜に集められる軍を集結させて様子をみていたら、武田が
野田城にかかりきりになったり長篠と往復したりわけわからない事をしている。その
うちに近江の方で義昭のシンパが蜂起したので柴田、佐久間、蜂屋たちを派遣(信長
はまだ岐阜に)。近江は軽く鎮圧したが、武田が三河で動かないうちに義昭がさらに
挑戦してきたので信長自身も京へ出張。
>>
641
先鋒だろうと全軍だろうと、結局砦を落せずに退いたのなら負けだ。
ようするに、朝倉・浅井は信長の留守中に小谷城包囲だけでも解いておこうと虎御前山
を攻めたが、失敗したということだ。
>>643 >>641で嘘書きますた、信長は9月に岐阜に帰っとります。
柴田は岐阜じゃありませんですよ。11月下旬の時点で山城の寺院に書状出してますが近江です。
というか、柴田勝家を何の為に観音寺に配したんでしょ?
柴田は城主でそ
>>644 負けたから退いたんじゃありませんが。
虎御前山砦攻撃は11月3日、朝倉が撤退したのが12月6日。
失敗したのは事実です、だから朝倉が南下して来ても大丈夫と?
元亀元年の朝倉への義昭使った和睦からまだ2年も経ってなく
その間に朝倉との大きな合戦ないんですよ?
>>645 対六角のためだろうが、この時期の六角はもうどうしようもないからな。
それでも、対江北ではないわけだ。柴田も佐久間も蜂屋も明智も。
>>648 江北の後詰でもあり、六角対策でもあり、一番大きな要因は京と岐阜のルートの確保。
あのね、行動と結果には色んな要因がある訳ですよ。
>>638 なるほど、そう説明されると説得力があるかな。
では、朝倉・浅井への抑えの兵は、
秀吉と磯野あわせて合計で相手の兵力の約半分7千程度と考えてはどうだろう。
>以後、信長配下の諸将は各地で活動が確認できるので、残されたのが木下隊のみ
>だったのが判ります(湖西の磯野もいたが)。
どの史料で確認出来るんでしょうか?
だからそうやって前線に七千人も張り付けないって
いや、守りを固めるならって話なんだから貼り付けなくてどうするよ?
問題はそれより七千人をどこから集めるの?
攻勢を撃退可能な兵力ぎりぎりを残して
あとを主戦場へ転戦させるための付け城だろ
あんま沢山残してたら城の意味がない
>>655 付け城って必ずしもそういうものでもないと思うが。
まあ、いずれにしろこの場合東西二方向から押さえ込んでいるのだから、
単純に7千を半分にしてもそれぞれに3千5百づつ、
せいぜい撃退できるギリギリの兵力ってものだろう。
では江北に東西あわせて七千(個人的には、もうちょい少なめでもいいと思いますが)としましょう。
あと近江で問題なのは京方面を睨む坂本・宇佐山を支配する明智と、
江南に残された六角残党を抑えるためにどの程度の軍を置いていたか(必要があるか)
ところで印象論なんだが、朝倉浅井って城攻めヘタなのか?元亀元年には宇佐山城を
攻めて、城外で森可成を討ち取ったが城そのものは持ちこたえているし。
元亀二年には秀吉の留守中に横山城を攻撃したが、攻め倦んでいるうちに秀吉の援軍
(実数は不明だが、少数だったらしい)が来て撃退されてるし。
元亀三年はこれだし。
>>656 >せいぜい撃退できるギリギリの兵力ってものだろう。
それで充分なのでは?そのための付城でしょう。実際に木下隊のみで撃退してるし。
そうすると、磯野隊は防衛よりも裏口からの攻撃部隊かな。
この砦には浅井郡に残された浅井方最後の拠点、小谷城と山本山城を分断すると
いう目的もあったそうだが。
そして山本山城の阿閉氏も天正元年には織田へ寝返る。
>>658 全軍挙げて攻めたワケでも無いく本隊も岐阜より近い位置に居た、状況が全然違う。
それでも木下隊のみで撃退できるというなら
志賀の陣で浅井、朝倉に苦戦した信長より、木下隊のみの方が戦闘力が上だろうから?
木下隊のみで武田に対応した方がいいと思うよ。
それこそ状況が全然違う。
一大決戦能力を保持していた往年の浅井・朝倉と
半死半生の浅井・朝倉を一緒に並べてどうするの?
それに木下・磯野両隊は必ずしも勝つ必要はなく、
撃退といっても完勝する必要はなく、追い払える位でいい。
最悪、信長本隊が来援するまで戦線を維持しきれれば十分及第。
それなら木下・磯野両隊あわせて7000もあれば足りるかと。
朝倉ってそんなに弱ってたか?この年に出兵してるはずだけど。
木下勢が8000程度でいい、というのは同意。磯野隊というのがよく分からんが‥
義景が武田vs織田の戦い邪魔するわけない
むしろどんどんヤッテくださいと思ってるよ
>木下勢が8000程度
いくらなんでも多いだろうそれは、多めに見積もっても4000ぐらいでは
あとこの年っていつ72、73?
また、わいてきたな‥
質問だが、木下に8000というのはどうやんの?
この当時の秀吉は横山城代で多く見ても1500程度ぐらいの兵を率いるぐらいの立場だったが
それを8000まで増やすとなると、誰を下につけるやら秀吉の所領を増やすやらしなきゃいけないんだが。
ゲームじゃないんだから、誰某にすぐに兵を増やすって出来ないんだけど。
そいつは所領の意味が分からない奴だから理解出来ないよ
同じこと何回かに分けて丁寧に説明されるまで分かろうともせずに煽り扱いにするだけ
>>665 上洛戦時の秀吉の兵力か姉川時の秀吉の兵力に与力として付けられた浅井郡坂田郡の兵力を足す
若しくは播磨侵入時、手取り川時75年の越前一向一揆討伐時の秀吉兵力から73年正月に秀吉の兵力となってない伊香郡浅井郡
の兵力を引く
これでおおよその兵力が出せれると思う
>>668 >上洛戦時の秀吉の兵力か姉川時の秀吉の兵力に与力として付けられた浅井郡坂田郡
上洛時の秀吉の兵力なんて1000もいるかどうかの怪しい数字なんですけど、
坂田郡の与力とは堀などでしょうが、彼等にしても全員でとても2000もいきません。
>播磨侵入時、手取り川時75年の越前一向一揆討伐時の秀吉兵力から
>73年正月に秀吉の兵力となってない伊香郡浅井郡の兵力を引く
これは成り立たない数字では?秀吉は北近江3郡与えられ、しかも播磨の豪族も加えられてます。
伊香郡と浅井郡引けば、それこそ坂田郡しか残っておらず、それも元亀2年に占領した地域で。
あと、磯野氏を含めたとしても、彼は高島郡丸々治めてたのではないですし。
良くても高島郡の半分程度。
両者合わせても近江2郡で過大に見積もっても五千いかないと思われますが。
さすがに秀吉の下に配されたのが堀氏だけとは限らないので、もう少しあってもいい
と思いますが、それでも三千いかないくらいでしょうねえ。
磯野だって、自分の手勢は信長に認められた上で高島郡に配置されたでしょうし、その
下にも朽木氏など豪族がいますので、三千に届かないくらいの軍勢はあったと見ても
それほど間違いはないのではないかと。
それでも、両者あわせて六千いかないでしょうが。
秀吉単体で八千ってのはさすがにありえないと思います。佐久間や柴田だってこの
時期にはそんな軍勢任されていないぞ。
つまり、末期の浅井朝倉は五千前後で抑えられていたってこと?
弱体化も極まったもんだ。
六角も手も足もでない状態だったようだし。
>>播磨侵入時、手取り川時75年の越前一向一揆討伐時の秀吉兵力から
>>73年正月に秀吉の兵力となってない伊香郡浅井郡の兵力を引く
>これは成り立たない数字では?秀吉は北近江3郡与えられ、しかも播磨の豪族も加えられてます。
>伊香郡と浅井郡引けば、それこそ坂田郡しか残っておらず、それも元亀2年に占領した地域で。
成り立ってるだろそれ、ただ播磨侵入時に近江から連れていった兵力はわかんないだろうから無理だと思うが
後、73年に坂田郡のすべてが織田の動員に応じたとは思えないから伊香郡浅井郡だけでなく坂田郡も引くほうが
正しいかと。
>秀吉の兵力となってない伊香郡浅井郡の兵力を引く
これ勘違いしてないか?
前後の文章の内容から伊香郡浅井郡のうち秀吉側の動員に応じない分を引くってことじゃないのか
ただ
>>672の言うように坂田郡も引いたほうがいいのでは?
とりあえず、北近江には総計で7千くらいでいいでしょうよ。
で、他の近江で蜂起した連中にはどのくらいの兵を向ける必要があるのかに、
話を進めてはどうかと思うが。
竹中や蜂須賀も与力だろ、それも含んでるの?
西美濃の誰かも秀吉と一緒に参加してるとかないの?
他ね…
六角氏は鯰江城で引き篭もり状態だし、一向一揆は史実ではこの時期おとなしかったし。
もともと一揆衆も地元に立て篭もるだけで蜂起してはすぐに鎮圧されて許されては
翌年にはまた蜂起して瞬殺の繰り返しで。
妄動を抑えるために三千〜五千も置いておけば充分じゃないか?
だから5千とか7千はどこから誰を動員しての数字なんだよ。
>>675 竹中は与力、蜂須賀は直臣か与力かは微妙。
だけど、当時の秀吉はその与力を含めて2000程度が関の山。
でもこの当時の織田家中で単独で2000も動かせるのは、結構地位は高い方。
佐久間や柴田でさえ、単独では3〜4千あるかないか。
>>677 近江の諸豪族だけで7千くらいいくだろ?
だいたい、なぜ単独でと限定しなければないらいのよ、
それとも秀吉の組下には誰も付けられず、
純粋に秀吉単独だったという根拠がどっかにあるの?
>>677 秀吉は横山城に入れられたときに、土地豪族の堀氏などを与力としています。
自身の兵に加えてそれらを加えれば、三千くらいはとどくのでは?
特に堀・樋口氏などは秀吉より動員兵力は多かったと言われるほどの大族だった
そうですし。
>>678 近江の諸豪族だけで7千って簡単に言うが、誰を動員すんの?
7千って結構な動員なんだよ?
柴田や丹羽、佐久間や中川、明智が近江を南近江中心に所領貰って配置されてるけど
そこから削るの?
それとも美濃や尾張衆を動員するの?
秀吉単独に拘ったのは、秀吉以外の名前が挙がってないからですよ。
それ以外の部将を連れて来るとすれば、誰?
>>680 お前、全部の動員を武将の名前を挙げて説明しなければ確認できないと思ってるのか?
それじゃあ確認できることなんて、ほとんどなくなってしまうぞ。
>>679 横山城代として秀吉入った時に、堀などが与力として付けられたのは知っています。
が、その堀や樋口氏がどれだけの動員出来たかと言えば、1〜300人ぐらいです。
過大に500人として見ても、いち国人としては、かなりの勢力だったと思います。
独自に1000人も動員出来るような豪族は、北近江では浅井除けば磯野や遠藤、赤尾ぐらいです。
それを考慮すれば、過大とはいかないが3千は多いかと。
ま、それでも戦時を考慮して最大3千ぐらいですか。
>>681 アホらしくて、答える気にもならんけど、答えんと話にならんので。
あのなぁ、簡単に「近江から7千」とゲームみたいにポンポン言うから
近江で7千人動員すると、そこに所領がある織田家に主力が半減するんだよ。
武田が西へ進んできてる時期に、秀吉は除くとしても、この当時の織田家の主力部将の2人は
近江へ残す事になるってなるんだよ?言ってる意味わかる?
>>683 いや、全然分からんわ、
多分単純なタイプミスがあるからだと思うが、
もう少し推敲してから書き込んでくれないか?
ちょっとまってくれ。
秀吉単体の軍事動員力を求めているの?
それとも、秀吉とその下に配された与力たちを含めて、江北に置かれた木下隊がどれ
ほどいたかを論じているの?
私は、後者で最大見積もって三千前後くらいと見ます。それに高島郡に置かれた磯野
がやはり二千以上で、対浅井朝倉に置かれた合計が五千以上六千未満。
当時の浅井を考えればこんなもんじゃないかな。
>>683 「織田家に主力が半減」
これは「織田家の主力が半減」ってことかもしれないが、
「武田が西へ進んできてる時期に、秀吉は除くとしても、この当時の織田家の主力部将の2人は
近江へ残す事になるってなるんだよ」
この文はその主旨が分からない。
だから何なの?
>>685 当然後者で、
より具体的には、仮に信長が対武田に向けて本隊を動かすなら、
どのくらいの兵を守りに残していく必要があるかというのが今の話。
仮に史実では当時がそのような態勢だったとしても、
それは当然信長本隊が美濃にいて何かあればすぐに動ける状態でのこと。
本隊が三河あたりまで行ってしまうなら、
そうとう期間手持ちの兵力だけで持ちこたえなければならないから、
そこへさらに増強する必要があると思うがいかがか。
>>684 わからんなら、わからんでいい。ゲームみたいに勝手に兵士連れてきて一人でやっててくれ。
>>685 自分は横山に置かれた木下隊の軍勢の話をしています。動員出来る兵数も騙りましたが。
磯野が2千も動かせたかは疑問です。高島郡に置かれたとはいえ、高島郡の半分程度でしか
領有権がないからです。
対浅井に5千以上は居たのでは?と言う事には、そうだと思います。
が、これは佐和山の丹羽、安土の中川など後詰を含めての数字ではないでしょうか?
>>686 織田家で軍勢を指揮する立場の人間は、伊勢に置かれた滝川と、後は江南に置かれたこの部将のみ。
今までの有力な現場指揮官を半減させる意味わかってるのかって言ってんの。
>>688 史実で、朝倉浅井は信長が(おそらく)岐阜にいたであろううちに虎御前山に襲い掛かって、
敗北してるぞ。
朝倉浅井は信長が近くにいても攻撃に出て、秀吉は他所から援軍なしで撃退した。
いくつもの仮定を重ねた上での話をしているから、
新規参加者が混乱しているのかな。
大前提が、仮に信長が主力を武田に向けて動かすなら、
どの程度の兵力を守りのために残していかなければならないか?という話だからね。
よってここで議論すべきは、当時実際にどのくらいの兵がいたかではなく、
織田軍主力が三河あたりまで行ったという条件下で、
浅井朝倉を押さえ込む為にはどのくらいの兵力が必要か?ということ。
>>691 それ信長公記の記述だが、内容知ってて書いてるの?
浅井・朝倉の手勢(公記では先鋒)で本格的な攻勢でもなんでもないんだよ?
小競り合い程度なんだが。
>>691 688ではないけど、その場合と信長が主力率いて武田主力と三河で対峙する場合
とではあまりに違いがあるかと
>>691 拠点に篭ってれば援軍が来る状況と
信長の本軍が決戦の準備してる段階では、同じ結果は望めないぞ
直々に動けないなら、要害をわざわざ攻撃する必要もないかと。
信長が三河まで出向いてすぐ戻ってこれなそう、となれば浅井朝倉も勢いづくかもしれない。
多分一揆勢の助勢もあるだろうから、あまりなめてると痛い目にあうかも。
とは言え、守ってるだけでいいのならそうたくさんの兵は要らないよな。
正直、信長は三河まで出向かないと思われ。
>>693 つまり、ただでさえ追い詰められているのに、余計な戦いを起こしてさらに兵を損なった
わけか浅井は。
>>694 たしかに違いはある。三河で対峙した場合は直ぐに援軍に駆けつけられないけれど、
>691の場合は信長本軍が短時間でやってくる。
そもそも、小競り合いとはいえ何だって浅井は出てきたんだ?下手をうてば、近くに
いた信長が出てくる可能性だってあるのに。(信長本人がこれなくとも、配下武将が
援軍に来たらどうするつもりだったのやら。小競り合いから本格的な戦いに移行した
例はいくらでもある。)
>>698 信長公記読んでない事確定。虎御前山から虎姫までの道に築かれた築地(砦とも言えない番所みたいなもの)
を壊そうとやって来ただけ。本当に小競り合い。
別に読んでなくてもいいじゃないの
>>701 あぁ、今で言う虎姫町って所ね。信長公記では確か宮部と書いてあった。
信長公記を読んで無いなら、教えてやればいい事じゃないか
俺も甲陽軍鑑は読んだけど、信長公記は読んで無いしw
というか、信長公記のその虎御前山を朝倉が攻撃した部分では、
梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門といった者たちが、
織田側で活躍したと書いてあるわけだが。
こいつらって信長の馬廻り衆や、朝倉から投降してきた者たちだよね?
宮部継潤も防衛線の一端を担っているし、
どこをどう読んで秀吉しかいないという話になったのやら。
もちろん、降伏者の兵力は従来の織田軍に加算されるべき物だが、
とりあえず、どう読んでも秀吉だけという話にはならないわな。
教えてもいいが、知らないなら
>史実で、朝倉浅井は信長が(おそらく)岐阜にいたであろううちに虎御前山に襲い掛かって、
>敗北してるぞ。
こんな書き方するなと。
とりあえず、資料を読みもせず、
想像だけで断言するのはよした方がいいわな。
まあ、確かに知ったかはイクナイ
ここは信長公記も甲陽軍艦すら読んだことない奴らが語ってるのか?
甲陽軍艦はないです
宮部氏は秀吉の下に配された与力じゃなかったか。
ところで、ここでは「所詮小競り合いだから、この戦いは考慮の対象にはならない」
と言っているのか?
>>710 資料も読まずに断言するような馬鹿とは話が出来ないと言っているだけですよ。
もう、北近江は7千くらいでいいだろうよ。
浅井・朝倉はあわせれば1万4・5千はいくだろうが、
直前に織田へ投降する者が出るような状況だし。
織田としては守るだけなら十分な数だろう。
しかしそれを言うと、朝倉が出てくるかどうかに疑問を感じるな。
朝倉は元亀二年以降、浅井が攻められれば援軍に来るが、それ以外には織田と戦って
いない。朝倉にとって浅井は盾だからその理由はわかるが。そこからさらに攻勢に出た
ことは無い。
信長が三河まで出向けば朝倉は動く、という主張はどんな根拠があるんだ?
これまでの義景の行動を見ていると、かなり疑問だ。
>>713 逆に動かないという根拠がなければ守りの兵くらいはいるだろう。
というか、信長が北近江の兵を極端に薄くしたならそのことが動く理由足りえる。
つまり
「あれは小競り合いだ、本気で責めていれば秀吉なんて一蹴できたんだ!」
と言いたいのか?
どんどん稚拙になってきたな
あの程度の小競り合いを
「秀吉一人で蹴散らせたから、浅井朝倉なんて秀吉一人おいときゃ十分」
とホザいてたバカに皆さん突っ込んでるですよw
だから近江に7千置くのはわかったから、誰をどこから配属するんだ?
>>712
>>718 美濃なり何なりから増派すればいいだろう。
その程度の柔軟性もないのか織田軍は。
悪いことは言わないからもう引っ込んでいた方がいいぞ。
戦の規模はともかく、現実に朝倉浅井は秀吉(とその配下)が護る虎御前山砦をそのまま
にしていたわけだが。
信長が帰国した後も、残った秀吉あいてににらみ合いに終始した。十分抑えとして
機能しているな。
>>719 簡単に言うなよ。柔軟性どころじゃねーんだよ。
なんで江南に有力な部将を配置したかは、京と美濃の連絡網の確保を絶対にしたかったから。
美濃や三河で武田と決戦するならしたきゃいい、だが、江南の信長直臣を決戦へ連れて行けば
江北の後詰がなくなり、それこそ浅井朝倉は南下しやすく、横山の秀吉も防戦のみしか出来なくなり、
湖西へ動かれても、追撃できなくなる。
では美濃や尾張衆でのみ武田に当るとなると、今まで織田軍の主軸だった将を欠いた状態での合戦となり
軍編成そのものからやり直さなければならなくなる。
織田も組織で動いてんだぞ?ゲームみたいにその場その場で兵率いて戦争してんじゃないんだが。
バカらしくて話にならんわ。
>>717 なんで朝倉・浅井は信長もいない木下隊のみの手薄な砦を落さなかったんだ?
落してしまえば小谷城も解放されるし、軍も自由に行動できるようになるし、逆
攻勢だってかけられるようになるだろうに。
なんで小競り合いに留めて帰国してしまったんだ朝倉は?(雪の到来の前に、攻勢
だってかけられただろうに)
>>722 美濃に信長がいては下手に全面攻勢なんてかけられないだろ?
信長が出てきたらどうするんだ。
>>720 それは信長が岐阜にいるケース
話し合われているケースとは違う
>>721 それじゃあ、信長は徳川が武田に攻められるのを黙ってみているしかないとでも?
信長・信忠が岐阜へ帰ったとは書いてあるが、軍主力が帰ったとはどこにも書いてない訳だが。
実際に柴田や丹羽はそのまま近江へ留まってるし、実際には相当数残存していたと考える方が自然。
元亀3年の10月以降で、美濃へ行っていたのは佐久間信盛は確認出来るが、その他は確認できん。
元亀4年の近江志賀の一揆でも、信長から討伐命令が出て、翌日には柴田・明智・丹羽・蜂屋が攻撃してるから
主力は以前近江に留まったと考えられる。
>>718 武田厨乙。
織田軍が7,000すら配置出来ないとでも思ってるのか?
当時の織田の兵力を考えたら何とかなる数だろう。
どこの誰が出すなんてことまでいちいち考察する必要はない。
この疲弊した浅井、朝倉がどうこう出来るなら、観音寺騒動前に六角はとっくに滅んでる
>727
配置出来んとは書いてねーぞ。
配置は出来るが、誰を出すかで全然違うだろってこった。
それすら理解出来んのか…頭痛いわ。
>>721 長篠の戦の時に、秀吉も柴田も佐久間も機内に所領があったが、兵を引き連れて三河
まで出張っている。わざわざ編成変えせずともそれくらいは出来るのでは?
ただ、それでも秀吉の下に七千もあったとは思えないが。
江南にこの当時の有力な部将を配置した意味わかってんのかいな?
武田より何より京にいる義昭を手放し、敵にしたくないからだろ。
岐阜と京の間の街道は絶対に死守しなきゃならんのに。
>>731 織田軍主力が死守しなければならないほどの強敵って誰だよ。
当時の近江でだぞ。
石高から計算すれば、
武田・朝倉・浅井を合わせたよりも、織田の動員力の方が多い。
その状況で織田が身動きが取れないなんて話があるわけがないと思うが。
>>730 あの、それとは事情も状況も異なる訳で…。
例えば佐久間は永原城で東尾張衆を与力としてるんだが、近江に佐久間残して(史実では尾張にいたっぽい)
信長が三河で信玄と決戦するとします、すると東尾張衆は信長の直属にでもするとしても
今まで出来ていた命令系統がガラリと変わってしまう為、大きく編成しなおさなきゃならない。
もしくは誰かの下につけるとしても、それこそ佐久間から剥ぐのかどうかで色々な問題が起きる。
決戦に連れて行けば、今度は江南の野州郡の抑えはどうするの?となり、京の義昭の行動の抑えが
さらに利かなくなり(光秀一人になってしまう)、これが湖西や江北にも影響出るわけです。
そんなところです。
>>721 既に秀吉と磯野の手勢だけで5千から6千はいるわけだろう、
そこにもう千か2千増援を送っただけで織田軍は機能不全になってしまうのか?
幾らなんでも織田を馬鹿にしすぎだろう。
>>732 ゲームじゃねーんだよ、一揆風情の行動でも京との連絡が絶たれれば、それこそ問題なんだよ。
織田が急激に畿内を制圧出来たのは、将軍という大儀があったからで、将軍との不和もあり
大和や江北、伊賀などの情勢不安を抑える為には、近江に主力残さざるを得ないんだよ。
>>737 >既に秀吉と磯野の手勢だけで5千から6千はいるわけだろう
だから、秀吉と磯野の手勢で5千もいない。
5千以上という数字は、後詰も含めての話。
>>739 既に秀吉と磯野の手勢に後詰を含めてで5千から6千はいるわけだろう、
そこにもう千か2千増援を送っただけで織田軍は機能不全になってしまうのか?
幾らなんでも織田を馬鹿にしすぎだろう。
こう言い直せばいいのかい?
とうとう、南近江の一揆勢だけで織田主力を拘束できる、
なんてことを言い出すものまで現れたか・・・・・
>>738 将軍が立て篭もっているのに、大儀もくそもねーだろw
上洛後は、将軍なんて関係ねーよw
あるなら、織田は副将軍か、管領職になっていたね。
>>741 織田主力が畿内〜美濃にいる状況と三河に救援に向かっている状況を
同一視するヤツもいるし、どっちもどっちかと
村井の存在忘れ杉
まあ京の連絡を保つ意味が
義昭をつなぎ止めておくことだけにあったとは思わないが・・・
そこまで大事きわまりない「玉」なら追放できない
よしんば追放しても次の将軍でも立てれば良かったんでは
いい加減、ゲームと同じ感覚で語るバカにつきあうのにウンザリだが
>>726で書いた通り、史実でも近江から主力動かしてる形跡無し。
>>740-741 5千以上で後詰と書いたのは、正確な数字はじき出せないから。
で
>>726で書いた通り、主力は近江に残してる。
君等は武田と決戦する為に、ここから戦力を削ぐと言ってるんだよ。
ここに主力残している意味は、京の義昭の動向、大和・伊賀の情勢不安、江北の浅井・朝倉、
何かあった時に即座に対応し、対応・鎮圧する為であったことは明白なんだよ。
史実の、志賀一揆や山岡等の今堅田城での謀反でそれが如実に証明されてる。
そりゃ武田だけ撃退したけりゃ、畿内放棄してとっとと主力を美濃へ戻した方がいいだろうが、
その後どうなる?武田撃退しました、でも義昭を反信長側に奪われましたでは
今後の畿内制圧が、この当時の信長の力では不可能になるんだよ。
…と書いてもわかんねーんだろうなぁ。
あ、最後の一文はわかりにくかったな
義昭の追放後、信長は後釜の将軍も立てなかった。
それは将軍を奉じる形式がもはや必須事項でなかったのではないか、
ってこと。
今だに信長が義昭を追放したとか言ってるし、
>>742みたいなバカも現れるし…
ふぅ
>>746 奪われましたも何も義昭自身が反織田側ですが?
正直、頭大丈夫?
>>749 義昭がどっちの体制でもいいんだよ、義昭自身の身柄なんだよ。
バカすぎて話にならん…。
>>743 状況はたいして変わらないのでは?
浅井単体では木下隊を破れないし、朝倉はこれまでの戦の疲労となにより雪により、
動こうにも動けない。六角は元亀二年以降直接の軍事行動も出来なくなった(一向
宗徒をそそのかすか織田に攻撃される時にしか名前は出てこない。)三好も松永も
地元で混乱中。
>>751 雪って、そろそろ春になってしまうのですが?
信長は、この時期には将軍を上回る権威として朝廷と結びついているので、将軍に
拘る必要はなくなったってことでしょう。
三好も朝倉も浅井も健在な時期に義昭を京より追い出して、その後の彼が三好を頼ろうと
毛利を頼ろうと身柄を抑えようなんてまったくしてないのだが。
>>751 主力がいるのといないのとでは状況は随分変わるかと。
確かに12月に朝倉は引き返しましたし、浅井単独では(木下のいる横山城を破れないかはわからないが)
これ以上の攻勢は無理ですし、六角は期待するだけ無駄かもしれません。
三好・松永は行動が謎めいて判断に苦しみますが、それぞれ単独では駄目でしょう。
ですが、主力が退いた後、些細な一揆でも謀反でも鎮圧出来なければ、連鎖的に織田を見放す豪族等が出てくる
危険性があります、畿内統治はそういう危うい基盤で成り立ってるのも事実なんです。
また、朝倉が年明けで江北に出て来なかった理由の一つに、信玄の侵攻具合の遅さ、
近江での織田主力の滞在が考えられ、その要因が無くなれば(実際に浅井の書状では年明けには江北へ出てくるはずだった)
南下も十分考えられます。
自分が後詰としての主力の存在に拘ったのは、こういう理由からです。
>>752 単独じゃ無理、だからこそ義昭の身柄を手放したくはなかったんですが?
>>754 滅茶苦茶拘ってますけど。ついでに信長は義昭を追放なんてしていません。
秀吉を迎えに行かせて義昭に逃げられたんです。
その後、毛利と身柄返還について頻繁に書状でやり取りしてます。
>>756 秀吉は義昭を三好の元へ護送したのでは?
毛利との交渉にしても、義昭を引き取って機内の争いに巻き込まれたくなかった毛利が
織田にもちかけて秀吉が窓口になった。
その後は義昭にたいして「どこへでも好きなところへ行けばいい」と放置しているし。
>>755 なんか、どちらも織田の矢面に立つのを避けて一方にぶつけようとしてないか?
機内諸将は織田主力軍が武田にむかった隙にどうにかしようとしている(と、考
えられる)し。武田は撤退した朝倉を非難して再出陣を求めている。これは要す
るに武田が動きやすいように織田主力軍をひきつけろということ。
ひょっとして、岐阜に軍を集めた結果、双方への牽制になったような。
どちらも、先に動いたら織田軍が向かってくるからおとなしくしていようと。
>>757 槙嶋城に篭って槙嶋陥落、子の義尋を人質に差し出して和睦(降伏なんだが)し、身柄を秀吉が預かり
京へ送るはずだったが、義昭逃亡。
顕如の斡旋で三好義継の河内若江城に入城という流れです。
また毛利から義昭の上洛斡旋があった時も、信長は無条件で受け入れを同意しましたが
結局、義昭が若江から堺に移動し、紀伊の上山?に移動。
その後、輝元を仲介して義昭から出された条件を信長は全て呑んでるが、義昭帰還せず、
結局、天正4年に鞆に移動。
放置はしてませんよ、義昭が信長統治下の京へ入りたがらなかったようです。
>>759 逃亡?正直、初めて聞きました。若江城に向かう途中、街道の住民から罵声を浴びせられた
話はしってますが。それも確か秀吉が護送していたと記憶しているが。
資料があるならよろしく。
交渉で、信長はたしかに義昭の帰京を認めていますが、義昭が身の安全に信長側から人質を
出せといいだして、秀吉が拒否。話が流れた。
つまり、何がなんでも義昭に帰ってきてもらいたかったわけではなかったということですね。
義昭の思惑としては、ここで信長の下に入るよりも、無理やり交渉をぶち壊していやがる
毛利の懐に入って信長への抗戦をつづけたかったのかもしれませんが。
(毛利自身はそれをいやがり、安芸への入国は義昭が望んでも最後まで認めなかったとか。)
そもそも、そんなに身柄を抑えたいのなら義昭が畿内をうろついているうちに力づくでどう
にかすればよかったのに。
>>758 >なんか、どちらも織田の矢面に立つのを避けて一方にぶつけようとしてないか?
まぁ何と言っても、当時最大勢力で、普通に動員しても武田にしろ、浅井朝倉にしろ
自軍を大きく上回る軍勢揃えられますから、主力を表立って迎え撃つ気にはならんでしょう。
一応、義昭の御内書で連合組んでるとはいえ、自分が一番の貧乏籤は引きたくないでしょうね。
ですが岐阜に集めると、江北と武田の牽制にはなっても、畿内の小勢力の牽制が不充分になってしまい
バラバラで動いてたのが、義昭担いで一つの勢力となられると厄介なのも事実で、
ましてや京を一時的にでも占領されると、政治的大儀や京を支配する正当性が失われます。
これでは朝廷・幕府の権威を利用出来なくなり、今後の行動の大義名分を失ってしまいます。
こういう危険性を避ける為に、近江から主力を移動出来なかったのではと考えます。
もし織田が武田を迎撃するなら、自分はやはり美濃か尾張に入った後ではないかと考えますが、
こればっかりはなんとも言えませんです。
自ら将軍の権威に泥を塗った三好、松永が大義云々吐かしても何の役にも立たない
>>760 街道筋の住民からの罵声云々と、秀吉護送は信長公記ですね。
兼見卿記では、義昭が槙嶋から山城枇杷庄へ退去しようとし、途中で一揆の略奪にあい、河内若江へ逃れたと
記載があります。
信長公記の記述が正しく、秀吉が護送したとしても、一揆の略奪に合うのはおかしいですし、その後の帰洛の件で
無条件で引受けようとし、義昭の出した条件を全て呑んで実行したという行動は矛盾しています。
また、秀吉が護送しているなら住民から容姿を見て馬鹿にされたという話もおかしいですしね。
これは信長公記で信長が非難受けないように、秀吉護送の話を作ったのではないかと思います。
>義昭が身の安全に信長側から人質を出せといいだして、秀吉が拒否。話が流れた。
これはおかしい、秀吉は拒否できる権限は持っておりません。
これ、いつの書状ですか?
畿内で身柄抑えると言っても、三好義継は同盟者(表面上だが)で、若江→堺→上山は石山本願寺が斡旋しております。
また元亀4年(天正元年)は、畿内の敵対勢力掃討と朝倉攻めでいっぱいいっぱいで余裕がなかったと思われますが。
ところで、そんなに大事な義昭の身柄を奪われて、交渉でも取り返せなかった秀吉に
なにか罰はくだされたの?
以前はともかく、天正元年以降の信長に義昭は必要とはしていない。
それまでは義昭の保護者という立場で畿内の諸将や幕府奉公衆を使っていたが、実力で
畿内まで支配すると、畿内の豪族たちは義昭を通してではなく直接織田家に仕えるよう
になり、必要としなくなった。義昭が三好につこうと本願寺が保護しようと毛利に組み
しようと、気にせず攻撃しているし、それで配下に動揺もみられない。
義昭に替わって、信長が禁裏の守護者(本来は足利将軍の役目だった)という立場にたった
からね。歴史家は、この時点を信長政権の発足とみる。
ところで話がズレまくっているな。
人には論拠求めるが、自分が提示しろと問われたら無視して逃げるのが多いスレだな、ここは。
>>765 身柄を奪われる?取り返す?意味がわかりません。
ここで問う前に予め基礎的な事ぐらい自分で調べましょう。
>>765 >実力で畿内まで支配すると、畿内の豪族たちは義昭を通してではなく
>直接織田家に仕えるようになり、必要としなくなった。
ダウト。
実力で畿内を支配する為に、元亀4年(7月28日天正に改元)の武田撤退以後は
まず山城の義昭についた幕府勢力の駆逐、岩成などの畿内の三好閥の徹底排除、浅井・朝倉攻め、北伊勢一揆、
越前一揆、武田の美濃侵攻、甲賀攻め、大和攻めと、これだけのを元亀4年の4月から翌年3月までやってる。
この間に畿内であった小規模な一揆は数多くあり、これは槙嶋攻撃以後に多く見られる。
義昭失って大義名分無しに強攻策で畿内制圧行った結果、小規模ながらも多くの一揆や反乱招き、
天正2年の4月に至って石山本願寺挙兵まで繋がる。
畿内が落ち着くのは天正3年に入ってから。それまでは毎月のように遠征しっぱなし。
特に大和は(松永以外の)国人の抵抗が多く、柴田派遣後にも信長自身が出陣したりしている。
天正5年に信長は主上・公家・武家の「再興」を表明している、ここで言う主上は天皇、武家とは?
必要としないならば、宣言する必要もないのでは?
この間の毛利への配慮や、味方の外様への対応からは
>気にせず攻撃している
なんてとても言えない、信長発給文書の研究で一目瞭然。
>歴史家は、この時点を信長政権の発足とみる。
これは
>>587-588の5に該当します、以後気をつけましょうw
京に戻る戻らないは義昭次第
それだけの話じゃん
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「信長が室町幕府を滅ぼしたんじゃない、義昭が勝手に逃げたんだ!
これは歴史学者も認めている事実だ」
義昭が逃げたのは史料には書いてあるけどねw
つーか、知ったかして勝手な憶測をさも事実のように語るのが多いねぇ
突っ込まれたらしばらく放置→話題を変えて、自論が認知されたかのように進めるパターンばっかやな
同じ人間でまわってるスレですので
江北の陣で5万出しそこから岐阜引き上げ時に、
虎御前に7-8千残して4万2-3千をどう振り向けるか
考えたほうが建設的じゃないのか。
もし武田がなお行動中ならば、上記の条件で
1万を京方面+小谷に残した兵の5-6千引き抜いて
充てれば十分、残った兵と更に動員をして遅くとも
3月頃に4万余りで武田に向かうではないかな。
京方面がそれまでに沈静化してれば、その兵力
も利用できれば総勢6万。
史実で敦賀まで出た朝倉勢が志賀方面救援に
間に合ったり、家康が信長来訪以前に降伏しなければ
信長に有利か。
どーしても自分の意に添うシナリオ描きたいらすぃ。
漏れなら信玄信長より上手くやるっ!!って意気込んでる厨が住んでるもんでw
なんだこのボキャブラリの貧困さは。前までは史実に基づいて推測しやうスレだったが一変して妄想押し付けるスレになったな。
>>767 全部鎮圧してるじゃないか、
結果必要なかったとしか言いようがない。
>>767 ここで言う武家というのは、義昭にかわって信長が武家政権の主(武門の棟梁)に
なるということでしょう。
現実に東北や九州の大名達は、中央と接触するときは信長を相手にしている。
まだ備後にいる義昭は無視。
>>777 そうだよな。全部、義昭の存在抜きに鎮圧しているのだから。
>>777 そうかそうか、一瞬で鎮圧し戦死傷者も居なかったのだな。
>>780 そうやってすぐ厨房みたいに極論を持ち出すな。
リアル厨房なら仕方ないが
>>781 極論では無いぞ、義昭が居れば時間と戦力の消耗は無かったのだから。
極論とは、
>>777の様なことをいう。
777のは結果論って呼ぶんだよ
オメーのは極論
どっちも無意味だから仲良くやれw
↓結果論なのかw
必要なかったんだよ!と、言い切っておきながら
各地で紛争の引き金になったのでは?と、問われると
>全部鎮圧してるじゃないか。
‥
そもそも、その蜂起って義昭追放に抗議するためのものだったのか?
抗議とは違うと思うが、一部を除くと義昭を擁立していれば不要の戦かと。
義昭抜きで織田の支配権を確立するためには、必要な戦いだったんじゃないかね?
信長が天下人を目指すのなら、いつかは義昭を切る(物理的にではなくて)必要が
ある。結局、その蜂起は時期がおそいか早いかの違いだけだ。
そして信長は全てを鎮圧しているのだから、織田にとっては支配をすすめる有意義な
戦いだったが、義昭にとっては自分のシンパを失っただけの戦だ。
>>782 一応、定説では「義昭は追放」になっているのかな。
実際、そんなに重要なのなら、信長は何をおいても取り戻しに力をそそいだろうに、
その形跡はないしなあ。
室町幕府滅亡、続いて鞆にて開府。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/03 20:35:15
>>788 全く同意。
信長がもし今後ずっと義昭の下に使えるつもりなら、
義昭の権威によって安定を維持するのもいいかも知れないが、
もしそうでないなら、
信長に対してではなく義昭の権威に対して従っている者はいずれ敵になる。
結局時期が早いか遅いかの違いに過ぎない。
まして、義昭が京を去った後の混乱で織田家の畿内支配が崩れた、
あるいは崩れる可能性が高かったと言うならともかく、
そんなこともなくあっさり鎮圧されている。
要するに義昭に何らかの利用価値があったとしても、
既にそれほど重要な物ではなくなっていたということだ。
>>746 全くありえない。
まず、義昭が奪われるってのは、畿内の反信長派が入京して、
義昭という神輿を担いでしまうということだよな。
だとすれば、この時点でありえない。
当時の畿内の反信長派、三好だの松永だのは地元での他勢力とのいざこざがあって、
とても、京まで兵を進められる状況ではない。
次に仮に彼らが京に上がっても、以前から散々いざこざや遺恨がある義昭・三好・松永が、
一致協力してことに当たるなどという可能性は極めて低い。
さらに、彼らが協力したとしても、最低でも5万の動員力がある信長が、
総力をあげて攻勢をかけてきたなら勝ち目は薄い。
少なくとも「当時の信長の力では不可能」なんてことはありえない。
つまり、あなたのそれは、三重の意味でありえない虚構の話に過ぎない。
盛んにゲームゲーム言っているが、
はっきり言ってあなたの発想はゲーム以下のものでしかない。
こんな時期に織田が後詰する可能性は皆無だが、
もしするならばw
30000後詰で守りが12000〜15000
万石250でこれくらいだったかな
近江の牽制部隊に伊勢から部隊をまわしてやれば、主力の質低下を多少抑えれる
てかまわさないと数が合わない
三河までの街道はしっかりしているし、岐阜から発しても2日で岡崎行けるだろう
ここで武田の撤退がないなら、水野や岡崎の兵も使って家康と狭撃を狙う
(同期の情報とやらがなくても)5日目には布陣出来るよな
武田が一番勝てそうな時期の後詰策w
なにが w なのかよくわからない
なにげにこれまでに出した兵力概算も無視してるし。
>1から読み直してくれ。
で、話を戻すと。
畿内方面に、最低どれくらいの兵を残す必要があるか?
だっけ?
そこまで難しくしなくても、姉川、長篠の三万五千から
対浅井朝倉と一向宗の押さえに残す兵を引けばいいんでない?
なんで三万五千からひかなきゃならんのよ。
あの時期、外征に動員した軍勢は大抵三万五千前後だから
諸方に部隊を配置すれば、大体そのくらいって事じゃないかなぁ、と。
あの時期といいますが、
三方ヶ原と姉川・長篠ではそれぞれ大分状況が違いますしね。
三好は隙があれば山城くらいは出てこれるだろ。
武田が三好の犠牲になるなら出てくるだろうね
>>803 石成友通は、山城国勝龍寺城にいたが、義昭の2月〜3月の蜂起時も、7月の最後の決起時
も傍観をつらぬいたがね。
隙、隙というが、すぐそばで将軍が決起したなんて重大事になにもしなかった(出来なか
った)奴らに何を期待しているんだ?
三好も朝倉も浅井もその他諸々も、信長が信玄と対決して
こけたら織田領侵入だろう。
それ以前は日和見かと。
矢面には立たないよ。
畿内諸将は織田武田の決戦の様子見。
武田は織田が畿内に向かっている隙を窺って様子見。
どっちもダメだな。
織田は5万以上の軍勢を動員できるんだろ。何かニ正面作戦も可能な気がしてきた。
勝たなくていい。守りに徹していれば、朝倉も三好も出てこないし、武田は長期遠征
は不可能なのだからいずれ撤退する。
その出てこさせないための兵力が5万であり、
これを分けると微妙になってしまうんでないかな
もちろん東西に5万づつおくれるのならそれに
越したことはないけど。
>>807 でもそれじゃあ、徳川は潰されてしまうぞ。
近江に二万おけば三好も浅井も動けない。
三河表に三万もだせば、徳川と協力(一人残らず死んだわけではないし)すれば
対峙には持ち込める(長期戦になれば不利は武田)
こんなこと書くと、ゲームと一緒にするなと言われそうだが。青写真としてはそう
不可能事でもないだろう。
100%不可能w
武田が長期戦を戦えないというのは、妄想
それに、美濃と伊勢が空っぽになってしまうぞ?
別に、五万が動員の限界ってわけでもないだろ。
武田だって、万石250人の動員では足りない数を動員しているのだから。
>>811 落ち着け
誰も長期戦が不可能など言ってないぞ
長引けば遠征してる側が不利なのは当たり前だろ
>>811 すいません
よくみたら一人いたようです
250って遠征している兵数だけ見てるわけで、総動員数とは全く別物
防御側の方が動員率を高くしても負担は少ないからな。
そう考えると、いかに武田といえども矢面に立って戦うのはきついな。
畿内でもっと活発に動いてくれる強力な同士が欲しいところだが・・・
動員率を高くして〜とか言ってる時点でゲームのやりすぎかと‥
当時、畿内の反織田勢力はボロボロだからね。本願寺と長嶋は遠征能力はないし。
あーはいはい、そうですね。
>>813 遠征している方といっても、三河北部は武田領ですよ。
武田が攻めているとはいっても境界線からはさほど出ていない、
武田が少し退けば事実上国境をはさんでのにらみ合いになる。
むしろ、同盟国内とはいえ本国から離れて遠征しているのは、
信長の方ということになる。
>>817 動員率の高低は普通にあったこと。豊臣政権下でも、諸大名への軍役率は差があった。
なんでゲームになるんだ?
>>820 武田領とはいっても、三河はこの遠征で占領した土地。それに、信玄は少しずつ土地を
拡げていく戦いをつづけてきた。川中島ですら、基本は防衛戦。
一方織田軍は、元亀年間に本国より離れての長期遠征を行っている(畿内各地への転戦)
これは畿内にある親織田派の援助を受けてのことだろうが、それなら三河は大部分が徳川
領だ。
武田軍はいきなり三河北部に沸き出したんだ!と言っているんです
>>821 いいえ、三河北部は二・三年前から武田領ですよ。
>>821 その時期の織田は背後に強力な敵がいなかったからね。
まあ、今回の場合は、
三好や朝倉、それに義昭の存在が「強力な敵」になり得るか否かが問題ですな。
ならないだろう。
むしろ、武田が出てきてようやく助かった連中ばかりだ。
>>825 そりゃあその通りだが、
信長が3万からの部隊引き連れて三河まで出て行ったなら、
どうなるかは分からんのでは?
>>525 遅レスだけど、いちおー
信虎追放は色々な説があるよね。
新府への本拠移転が有力視されてるみたいだけど、
上杉主戦派の信虎追放後、敵対していた今川・北条と同盟したり、
武田以外にも今川、織田と都合の良いお家騒動があったりで
太原雪斎陰謀説ってのも個人的には好き。スレ違いでワリィね。
>>543 う〜ん。賭けなら織田と全面対決より、
徳川とどっかで妥協して和解したほうが、安牌じゃない?
織田家への妨害も、駿河侵攻時の北条介入の二の舞を避ける様にも見えるし
直接争う気がどれだけあったかも疑問だし。
東海地方をどこで区切るかが問題かと
義昭の鎮圧の動いた信長方に対し、
朝倉軍は一応敦賀まで出向いているから
もし志賀郡の平定に手間取っていれば
その救援が間に合っていたかもしれず、
武田の行動が活発なら京方面へ信長
が十分な兵力を送ることが出来たか
と言うことが問題になってくる。
もし京方面を放置してれば日和見を
決め込んでた連中も同調するかもしれず
放置することが得策かどうか。
>>831 かもしれない、ばかりだな。
志賀郡って、義昭に応じて蜂起した連中のこと?それだったら信長が出てくる前に
柴田や明智に鎮圧されているんだが。三日ともたず。
>>829 大丈夫なんじゃない?
実際、浅井や六角や一揆衆は別に信長がいなくとも木下や柴田や佐久間や明智などに
破れているのだし。
もちろん、朝倉・浅井・六角・一揆衆・三好・松永といった勢力が統一された戦略構想に基づき
エゴを捨てて一致協力して同時蜂起し相互連絡を完璧にとりおこなえば、さすがに危ないだろうが。
そんな可能性ゼロだ。
>>833 結局、信長が勝てたのは、
物量の多寡もともかく、個々の敵の連絡と連携が悪かったことなんだよな。
まあ、当時の通信技術から言って、勢力の垣根を越えた
緊密な連携作戦なんてそうそうあり得ない。
>>805 傍観って言うか、守りを固めてたんだろ?
攻勢に転じるには信長に隙ができたり、強力な味方が現れなきゃ無理だ。
信長が優勢な戦力をぶつけてきてる時にわざわざやられに出て行ってどうする。
>>833 無理に決まってるだろ‥
木下や柴田や佐久間や明智などは、一人で撃退したワケじゃなし
配置する武将の数が少なければ危険。
それに、その兵力配置じゃ伊勢と美濃が空っぽ‥
もはや織田傘下なのに誰に攻められるんだよw
木下は攻めてきた浅井を撃退しているし、柴田・佐久間はやはり六角を何度も撃破している。
伊勢や美濃もどこが攻めてくるんだ?北畠は押さえ込んでいるし隣国大和は松永と
筒井で闘争中。伊賀・長嶋は遠征外には出てこない(信長の伊勢攻めの時に、伊賀の
仁木氏が加わったという記録もある)。
岩村はさすがに抑えの兵を割かねばならないだろうが。
それと、記録によって違いはあるが、信長は元亀年間にも五万以上の軍勢で攻撃すること
が何度もある。つまり、外征軍だけで五万動かせるってことじゃないかね?
一揆には遠征能力はないといっても、何の戦力もつけずに放置しとくわけにはいかないだろ。
>>840 その理由は?
「万石250人」の動員で5万は動かせるのだろう織田は。
そして、この動員率は平均よりも低めだ。
尾張国境で防衛戦なら動員率は跳ね上がるぞ
そのぶん、反対勢力の意気もあがる危険はあるが
>>838 馬鹿かオマエ?
誇張が前提の資料を持ち出して何を悦に入ってるのやら‥
>>841 実際に動員した軍勢は、そこまで達していないから‥
妄想をぶちまけるのはいい加減にしてくれ。
>>843 >>844 脇から失礼するが、何がどう「誇張が前提」であり
「妄想」なのか説明するべきだろう。
それをせずに馬鹿呼ばわりは議論する態度としてはなはだ不適切だ。
へぇへぇ、左様でごさいますな
武田との備えに一兵でも手元に残しておきたい時、
京に兵を送れたかどうかなんだが、信長公記でいえば
2月20日出立2月29日には石山、今堅田の蜂起を鎮圧
志賀をほぼ平定とあるから、行き来約2週間。
ただこれは結果論で「出来た」といえることだ。
可能性でいえば北伊勢で起こったように鎮圧しきれずに
敗退することもありえたわけだから、ここで参考できるのは
鎮圧に向かった将は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・
蜂屋頼隆であり、この兵が信長から離れたこと、
岐阜-京が往復1週間程度か。
武田が時間稼ぎ出来なければ何の意味もない
>>833 確かに、史実では、浅井・朝倉は木下に押さえられているし、
一揆衆は柴田や佐久間や明智に敗れている、
(ちなみにこの時丹羽も参加してる)
だが今の話は、仮に信長が三河へ武田の迎撃に出かけても大丈夫か?という仮定の話だ。
上に挙げられた連中を残して一体誰を連れて3万からの部隊を率いるの?
ちなみに滝川は伊勢の押さえをしているところ。
どう考えてもこれらの内二人か三人は連れて行かなければ話にならないし、
そもそも約三万という軍勢が組織できない。
出来ればもっと連れて行きたいところだろうが、
それでも大丈夫なのか?ってのが今の問題点だよ。
話にならないは言い過ぎたかな。
しかし、上で挙げた連中が織田の主力線なのは間違いないし、
その下についた兵も多かった。
こいつらを全員置いていくと言うのはちょっときついだろうかと。
>>843 では、『信長公記』よりもさらに誇張とフィクションと誤記の山で、
信憑性のない『甲陽軍艦』をもって「武田軍は二万五千(別働隊もいれれば三万)」
というのは妄想だよな。
史実では武田との決戦の素振りもないのだから仕方ないじゃん
それにそんな細かいこと、どうやって検証するんだ?
とりあえず、
万石250人という基準で出した武田の推定兵数約28,000の、
ほぼ全軍が外征に使われているのだから、
織田も同様の計算で出した約50,000を外征に使えると言うことでいいだろう。
それに、朝倉や畿内等への抑えの兵もこの50,000から引いているのだから、
この上さらに本国の守りの兵をここから出そうというのはおかしな話だろう。
>>849 たしかに近江には柴田、佐久間、明智、丹羽、木下らが配置されているが、彼らだけ
が将というわけではないだろう。
森、坂井は当主が戦死したとはいえ全滅したわけでもなく後継ぎはいる。
滝川が伊勢におかれたとしても、織田信広、川尻、池田、稲場、安藤、不破、林、その他
いくらでもいる。三万の軍が組織できない、なんていいすぎ。
信長は、近江諸将を外に配置しながら、自分の主力軍を編成していたのだから。
>>854 だがら言い過ぎたと言っているじゃないの。
つまり、近江への抑えに増援したとしても、武田に3万以上はぶつけられると。
やっぱ武田はダメだな。撤退するしかない。
何でそこで増援しても、何て話しになるんだい?
また、極端な人だな。
今までと同様の基準で計算すると、
近江の反信長勢力が全体で3割ほどという話で、
今まで仮に浅井を1割くらいとして計算していたから、それ以外を残りの2割として、
兵力は3,875。
ただしこいつらは蜂起した場所が場所だし、他の連中のように、
守りに徹するという対処は出来ない、積極的に攻勢に出て撃滅する必要がある。
よって最低でも同数4,000くらい、出来れば迅速に落したいから、
約倍の8,000くらいでどうだろうか?
このくらいいれば、比較的迅速に一揆等を鎮圧した上で、
畿内への抑えにも使えると思うが。
>>358 細かいことだが、その三割のなかにはまだ六角もあるんじゃないかね?
>>859 >>858宛てでいい?
大雑把だったかもしれないが、
六角も含めて考えてしまっても大して違わないかと思って。
>>860 そうです。間違いました。
たしかに違わないが、それでも反織田はさらに各勢力に分裂するわけだから、単個
の戦力はさらに小さくなり、対処する兵力もさらに少なくてすむ。
>>861 まあ、そうだけど、
南近江・西近江の制圧は急ぐ必要があるから、
各個に倍くらいをぶつける必要はあるかな?と思って。
本当なら城を枕に討ち死にの覚悟で籠れば、
3倍4倍くらいの兵が相手でも、簡単には落ちないなのだろうけど、
史実で2・3日で落された実績を見ると、これ以上の評価は出来まいかとも思う。
すると、上の方で木下・磯野で五千〜七千ってあったから、
近江には一万二千〜一万五千くらい?(もっとも、この中には本来守備軍の分も含まれて
いるだろうが)
>>863 5,000というのは信長が美濃にいる時点での話ってことだから、
まあ、7,000位に増強ってことでいいんじゃない?
後、8,000という数はとりあえず出しただけだから、
今までのパターンからしてすんなり受け入れられないかと。
>>782 ん?兼見卿記の記述がある事書いてるが?
義昭追放は信長公記の秀吉が若江城まで護送した事が元、でも元亀4年の4月の時点で
若江の三好義継と織田は情勢悪化してる(阿波の十河に若江の義継攻めたら、河内半国譲ると書状送ってる>信長)
勝手に定説とか持ち出すのは構わんが、「定説」と「通説」の違い、その根拠ぐらい知っとけ。
>>793 三好や松永等が一致団結は難しいだろう。けど、元亀4年の信玄が西上してる時点で京を失ってしまう
又は、京との街道を遮断されてしまう危険性を最大限避けていたのは事実なんだよ。
史実でギリギリまで近江に主力を残していた事実がそれを証明してるが?
五万動員出来たとしても、それを一方に集中出来ないから、信長自身の勢力圏の中央に位置する江南に主力残していたんだろ。
もう少し、武田撤退後の時系列を調べたらどうだろ?槙嶋の義昭包囲と同時に行った山城・近江での軍事行動をね。
それと、自分達の認識で語るのではなく、当時の事実を見て、それから信長は判断していたか考えるべき。
ちなみに、このスレの話では、
三方ヶ原のときに既に援軍として送られていた三千はどういう扱いだったっけ?
無論全滅したはずはないが、無傷ともいえないと思うし。
まあ、概算として考えるなら損失なしとして扱ってもいいと思うが。
というか史実ではこの援軍に送られた連中は三方ヶ原後どうしていたんだっけ?
家康と一緒に浜松へ籠城?それとも信長の元へ帰還したのか?
平手汎秀は戦死、佐久間信盛は尾張へ帰還(尾張で信盛が発給した書状が1月にある)
>>866 全員、ロクに戦わずにさっさと退却した。
水野はいち早く岡崎まで逃げて、武田に寝返ったと疑われたほど。
佐久間も同様。彼はその後天正元年二月には近江各地で戦っているのでさっさと
戻ってきたのでしょう。被害も大してないだろうな。
平手凡秀は戦死しているが、その場所を考えるとやっぱり逃げてる途中追撃をくらった
もよう。
浜松には誰一人もどっていない。
反乱が起こる事が前提になっているが何故だ?
この仮定では近江及び京に牽制する為に兵を留めている
本隊が三河に進軍するなら、反乱に対して神経質になるはずだ
少なくともこの地域で反乱が鎮圧不能に陥るって妄想の範疇
むしろ近江に二万も置いたら伊勢の反乱の可能性の方が深刻だろ
>>869 反乱って近江あたりのこと?
そりゃあ、1月の段階で既に蜂起しているんだから当たり前でしょう。
>>867-868 なるほど、
逃げ帰った佐久間がその後も直ぐに他での戦闘に参加しているなら、
損失分は考える必要なさそうですな。
まあ、三千のうち千まで討たれてはいないだろうから、
損失は精々数百。誤差の内としてしまっても大きな違いはないか。
>>869 だから、近江から主力を抜くような発言してたアホがいただろ。
近江に7千残して云々とか言ってたが、主力残してたから、一揆や今堅田はあれだけ迅速に片付いたと考えられんの?
近江から主力抜くのは、少なくとも武田が織田本領(尾張か美濃)に侵攻してくるか、その直前。
北伊勢の反乱は滝川が抑えに入ってたでしょ?だから滝川も動いてないはずだが。
既に近江が蜂起状態なら鎮圧してからか、その目処が立ってからだろ
信長が知障の前提なら話は別だろうが
目処が立つ?鎮圧してから?
いつ鎮圧したのか自分で調べてみろよ。
>>872 ところで北伊勢の反乱って?長嶋以外に?
この時期(元亀三年十月〜天正元年四月)に起こってたか?
>>872 主力っていうが、
南近江の蜂起した連中は、
柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人にわずか数日で鎮圧されている。
それぞれの組下及び配下の兵がどのくらいは詳しくは知らないが、1万は超えないだろう。
つまり、まあそのくらいの兵があれば南近江は十分ということ。
>>875 長島一揆は長島願証寺の一向一揆だけじゃないよ、付近の国人も含めた一揆。
で、北伊勢の国人は信長に従っていたのもあり、「北伊勢の反乱」と書いた訳。
特に天正元年9月の際の攻撃には、本願寺とは休戦状態にあったので長島願証寺を攻撃せずに
付近の反乱した国人鎮圧を主目的にしている。
信長が桑名に在陣した際に、多くの国人が信長に従って、人質を提出したと公記には記載あるよ。
信長公記の記述だと、近江南西部で蜂起した者たちに対しては、
柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四将が2月20日に軍を発し、
2月29日にはとりあえず鎮圧している。
その後、柴田・丹羽・蜂屋の三将は岐阜に帰陣し明智のみが残る。
そして改めて、3月25日に信長本人が京へ軍を向け、4月6日に一応和睦が成立。
史実では、この間武田軍は野田城攻略に手間取り、
一月以上かけて2月15日に野田城を落すも、その後進軍を進めることもなく、
撤退中の4月14日信玄死亡。撤退開始が正確にはいつ頃なのかはちょっと分からなかった。
仮に信玄が健在で武田の侵攻が激しく、放置できない事態になったならという仮定の元でなら、
恐らく南近江の鎮圧がなり、その部隊が帰陣した後、背後の守りを整備した上で、
3月上旬から中旬、遅くとも史実で京へ向け軍を発した、
3月25日までには出陣ということになるのではないだろうか。
>>876 名前見ても、主力とわからんの?
当時の発給文書から、その4人に佐久間・中川・滝川・木下(羽柴?)を入れた7人は
織田家の上位指揮官なんですが。
中川は当時の居場所は不明、滝川は北伊勢、佐久間は尾張、秀吉は書かずともわかるはず。
思いっきり主力残してる訳だが。
逆にいえば、今堅田・石山攻撃に際して、それだけの動員したと言う事は
それだけ江南・山城の動向に対して慎重かつ迅速な対応を求めていた事がわかるだろ。
そして細川藤孝宛の2月29日付けの書状には、信長が近日中に上洛すると書いてる。
君が何見ての認識判断か知らんけど、信長の京や畿内の重要性・敵対勢力への認識は君とは違うんだよ。
仮に
>>878の日程でよいとするなら、
既に蜂起した連中は潰れているし(残っているのは六角のみ)、
南近江へ残す部隊はさほど多くなくてもいいはず。
しかしまあ、信長がいなくなったことを期に、再起を図る者がいるかもしれないし、
最低でも5千位はいるだろう。
万が一三好・松永等が京に上がって、さらに近江を窺う可能性を考慮するなら、
もう少し欲しいところ。もっともこの可能性をリアルに考えるなら、
念のため1万くらい欲しいが、正直どの程度可能性があったことか?
誰も、「信長は京方面を軽視している」なんて言っていないと思うが。
畿内の敵が弱体化して、別方面から新たな敵が来たのならそちらに力を注ぐのは当然だろう。
>>878 野田城攻略は2月7〜10日だよ。
2月10日には長篠城へ入ってるから。
撤退時期は不明だけど、死んだ場所が(一応)信濃駒場なので3月上旬には信濃へ向けて移動してると思われ。
>>881 「信長は京方面を軽視している」とは書いてない、「君等が京方面と街道確保を軽視してる」とは書いた。
>>879 だが、その内3人は3月頭には岐阜に帰ってるよ?
それに、他に武将が居ないわけでもあるまいし、
上級指揮官とそれ以外の違いもそんなに明白だったとは思えないがなあ。
とりあえず。
>>854あたりの意見も聞きたいところ。
>>882 これはどうも、
正直、武田軍の動きについてはネット上のサイトとかを参照しただけなので、
信豹性は薄い・・・。
こういうことは予め言っておかないといかんね、シツレイシマスタ。
ソース出せとか言われて困るのは自分だしね。
>>880 仮定の話をするならば、信玄の病状がどれくらい悪化していたかはわからないが
野田城攻略に一ヶ月もかけたのかわからない、一ヶ月も固執するかもわからない。
なにせ、武田には時期的に時間がなかったわけだし。
ただ言えるのは、三方ヶ原以降、急激に侵攻速度が落ちている。
>>880 三好も松永も対外戦争より足元に火がついているから、まず無理。
二月に義昭が蜂起して、三月末に信長が出てくるまで何もしていない。
天正元年下半期(つまり武田の脅威が消えてから)に反織田勢力が悉く壊滅された
事をみれば、とてもそんな力が残されていたとは考えられない。
「それは信長が岐阜にいたからだ。三河まで出ていけば彼らも蜂起していたんだ!」
と主張する人もいるが、それってつまり、信長が遠くにいくまでは誰が蜂起しても見殺し
にするってことかい。そうやっているうちにどんどん反織田勢力は小さく弱くなっていく
のだが。
>>883 まあ、落ち着け。
史実で信長が京を重視していたことは誰でも承知している。
だが今は史実とは異なる仮定の話をしているんだ。
鎮圧部隊は近江に所領持ってたから選ばれただけだろ
明智は築城が目的だし
こいつらじゃないと鎮圧出来ないって、これこそ極論かつ結果論だろ
信長を倒せるのは明智光秀だけとほざくのと等しい
>>886 >それってつまり、信長が遠くにいくまでは誰が蜂起しても見殺しにするってことかい。
それはその通りでしょう。史実では正しくそうだったし。
だからこそ、信長が遠くへというか、三河まで行ったら・・・
という話をしているんだと思うが。
>>884 明白な違いがあるのですよ。信長に代わり畿内政務を行ったと言う違いです。
柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛・明智光秀・蜂屋頼隆・森可成・木下秀吉・坂井政尚。
この9人だけです(村井貞勝のような吏僚除く)。
それと北伊勢で信長の代行を務めてた滝川一益を含めたのが上級指揮官と言う訳で。
岐阜に帰った時期と武田の撤退時期調べてみませう。
>>884 >それに、他に武将が居ないわけでもあるまいし、
>上級指揮官とそれ以外の違いもそんなに明白だったとは思えないがなあ。
現代に置き換えたら、方面管区総監の代わりに
旅団長が指揮できるワケ無いでしょう?
>>890 武田が兵を引いたと推測されるころだね。
というか、今堅田を落した直後というか、
その段階で武田の侵攻が無視できない物になっていたら、
という仮定の元なら、その後その帰った者たちは対武田戦線へ、
というのが順当ではあるまいか。
>>886 義昭は2月に蜂起?
2月26日に双方人質入れて信長と和睦、3月6日に義昭が織田の人質返還し、再軍備。
3月8日に信長が島田秀満に義昭との和議を命令するも失敗。
同時に高山重友が和田惟長の摂津高津帰城を攻撃、山城の一乗寺城・静原山城で義昭に従った幕府方が蜂起。
3月25日に信長上洛の為、岐阜出陣。
4月5日、信長が京を放火した為、正親町天皇から義昭と信長の和睦を勅令し、和睦。
こんなトコ。
>>893 その「武田の侵攻が無視できないもの」ってのが曲者で
信玄が健在なら2月の時点でどれほど侵攻していただろう?ってのを無視して
話を進めるから、ややこしくなる訳で。
お察しくださいませ。
>>889 信長が岐阜にいてビビッて蜂起できない連中が
どうして三河まで行ったら蜂起すると思えるのか不思議だよ
両者が決戦するなら様子を見るのが妥当じゃないの?
信長が勝利して戻ってきたらどうするんだよ
>>895 その点に関する疑念はごもっともだけど、
あくまでもそれを前提にしてしまっての話だから、今更蒸し返されても・・・
>>896 岐阜に信長、江南に織田主力がいた時点で蜂起する方がおかしい。
すぐに来れない状況でこそ蜂起すると思う方が普通。
事実として武田撤退後にも畿内のあっちこっちで信長が掃討戦してるんだが。
武田が退くまで、彼等を信長自身の力で掃討する余裕がないから、十河や畠山らに書状出して
争わせたり、放置してたんだが…。
>>897 ごめん、その前提ってのはどういう状況なんでせうか?
>>896 いや、だがほっといたら滅ぼされるよ。
信長本隊が遠くまでいったなら最後のチャンスじゃあないか、
ここで立ち上がらなかったもう機会はない。
三好・松永あたりは必ずしもそうとはいえないから微妙だが、
浅井・朝倉は間違いなくそんな状況だ。
それが分からないほどのぼんくらだったなら(その可能性は正直高いと思うが・・・)、
信玄にもそんな連中と手を組んだことを悔やんで諦めてもらうしかないねw
ちなみに、三好・松永あたりも即座に滅ぼされまではしないと思っているだろうから、
自らの野心に従って、鬼のいぬまの何とやらに賭けるかも知れないし。
>>890 それらは確かにのちに軍団長にもなる人材たちですが、逆に言えば信長の下から
離れて軍事行動を行っているということです。彼らは元亀以降各地に散らばり、
それぞれに戦っている。
むしろ、信長主軍というよりも別働隊とみなす面々では。
>>899 武田軍がそのまま進軍を続け徳川を圧迫したら。
具体的には、岡崎城あたりを囲んだならって感じだったかと。
もちろん、その状況でも織田が対武田の動くとは限らないが、
その可能性は当然史実よりは高くなるし、
とりあえず、武田に向かうと仮定して
(そうしないという可能性と、その場合の状況は後で考えるとして)、
では、どの程度の軍を武田に回せるか?って話だった。
>>898 蜂起することが前提ならそうだけど
結果的には三好や松永は許されてるじゃん
その他の幕府方の面々も表立って敵対する必要はないでしょう
>>903 だからこそ、多くの者が、
三好・松永については微妙、仮に来たとしたら・・・
というスタンスでものを言っているのだと思われる。
でも、三好の連中とかはかつての栄光再びとか夢見てそうだし、
松永も野心家なのは間違いないから、隙が出来れば何かするかもよ。
いずれにしろ、信長としては何も起きないという確信は持てないから、
問答無用で信長は武田に向かうという前提での話なら、
何がしかの抑えの兵は置いておかなければならないだろう。
>>903 たしかに、松永や三好笑岩などは許されているのだから、起たなければ滅亡とは
限らないな。細川はともかく、完全に敵対した三淵も降伏後は許されて信長に従
っているし。
織田と武田の決戦を見極めてから行動しても遅くはないな。
で、どうなのよ、
北近江に約7千、南近江に約8千で、とりあえず守りの兵としては十分ってことでいいの?
南近江はもっと削れそうな気もするが。
だとすると後は伊勢方面だが?
うわぁわかりやすいw
三好松永は将軍家擁立なんて二の次で、義昭を盾にしている間に
畿内の奪還及び掌握が目的なんじゃないか?
いくらなんでも京に出てきたら、一応仲間の義昭だって疑心持たないはずもないw
>>906 大阪を放置プレイは拙々だろw
美濃も多少は居ないと。
>>910 石山本願寺?
連中が近江あたりまで来るくらいなら、
まだしも三好の方が可能性高くない?
美濃は秋山対策に2千くらいでどうだ?
ちなみに、今の計算では本国の守りの兵とかは計算しないことになってる。
なぜなら武田もそれは計算に入れてないから。
伊勢…通常の守備、つまり外征軍から割くことなかったのでは?
正直、長嶋の一揆衆しか敵はいないし、こいつら外には出てこないから城に監視の
兵をいれておくぐらいで十分でなはないかな。
でも、木曽川の対岸、尾張側に攻め込んできたこともあるし、
地理的に万が一のことがあると致命傷になりかねないよ。
>>913 元亀元年に尾張小木江城が襲われてから、信長がこの地方に特別に軍を置いて監視、
抑制したのって、天正元年に滝川一益が三重郡に置かれるまで、記録がないのよね。
これは第二次攻撃で周辺豪族を降伏させた後なんだが。それでも、この間に長嶋の
一揆勢が攻勢に出たことはない。
滝川は基本的に伊勢におかれたようだが、それでも畿内各地に出張しているし、長嶋
の見張りに常駐したわけではない。
滝川が三方が原に行ってたことは?
何故に信玄の最後の進行戦で高坂は留守番、秋山 山県は別行動上級指揮官が三人も抜けた信玄の本隊を
主力がいないと主張しないんだ?織田の主力は近江にいると言ってる連中。
まあ確かに美濃には信長の主力がいないと主張するなら、信玄の本隊も主力がいない状態で行動してると
いわないといけなくなるかもしれないな、例が極端だとは思うが
>>918 そこで信玄は主力を欠いても徳川を一蹴できるほど強いんだと主張してみる
>>921 途中からね
最初は三河方面に出向いてたからじゃない
どのみち、上級指揮官が何人か抜けたくらいで軍が編成できない勝てなくなる程薄くは
ないわけだ、武田も織田も。
そりゃあそうだ
日本屈指の大勢力同士の激突ですよ
武田は信玄ワンマン体制だから主力が抜けても平気
裏を返せば信玄だけが主力なのかな
信玄は信虎のワンマン体制への反抗から出発してるぞ
もちろん、その後権力強化の試みはなされたろうけど
義信の死後はさらに統制を強めたな。