皆さん偉そうに語って下さい。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 03:01:43
初の2
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 03:06:07
初の3
酉の市だね
泣いて馬食を斬る
↑吊布が下ヒ篭城のとき食うものに困り赤兎馬を食うために泣く泣く斬ったことの例え
三個の霊
劉備が諸葛亮を訪問してもなかなか会えないので
キレた劉備が霊を3体召喚して訪れた所、慌てて面会に応じたので
このように呼ばれる。現代でも煮え切らない相手に決断を迫る時使う。
袁紹「どれにしようかな」
袁術「まだ注文決まってないのお前だけだよ」
袁紹「ハンバーグステーキとうな重か…デザートはいちごパフェと
チョコパフェどっちにしようか」
顔良「早く決めて下さいよ〜大将」
袁紹「でもなー、ホント難しいんだよ」
袁術「早く決めないと3個の霊だぞ!」←ここで使う
袁紹「わ、わかったよ。おねえさん、ざるそば3つ〜」
袁術&顔良「ガ━━ΣΣ(゚Д゚;)━━ン」
かい・しょ
【楷書】
漢字の書体の一。隷書から転化したもので、点画をくずさない書き方。
魏(三国)の鐘遙(しょうよう)がこれをよくし大いに流行。真書。正書。真。
(広辞苑第五版)
孟宗竹(もうそうだけ・もうそうちく)の「孟宗」とは呉に仕えた人物の名前。
後世になって二十四孝の一人に数えられたほどの親孝行者だった孟宗は、
ある時母にタケノコを食べさせようと竹林に入るが、冬だったため、タケノコはどこにも生えていなかった。
孟宗がたまらず泣き出すと、たちどころに生えてきたのがこの孟宗竹であるという。
(以前、どこかのクイズ番組で「孟子に由来する」と言っていた気がするが、どの番組だったかは忘れた。)
為になるな〜
泣いて馬ショクを斬る
孔明は馬ショクを斬るときに泣いたのは、
馬ショクではなく、劉備のためだった
劉備は生きてるときに
馬ショクは口だけ大将だから重用するなといっていた
だけど孔明は使った、そしてガイ亭で見事に敗北
亡き劉備に申し訳なく思って、馬ショクを斬るときに泣いたんだって
漢の時代、書画は職人の仕事程度としか見られていなかったが、
後漢になると張芝(ちょうし)が草書で人々の尊敬を集め、
魏の鍾繇、東晋の王羲之(おうぎし)とその子王献之(おうけんし)に至って、
書道は最高度の芸術にまで高められ、
絵画では東晋の顧ト之(こがいし)がその妙技をうたわれた(描いた馬が飛び出したなど数々の逸話がある)。
顧ト之の代表作の一つに「洛神賦(らくしんふ)図」があり、王献之の代表作にも楷書「洛神賦十三行」がある。
洛神賦とは曹操の子曹植が作った抒情詩。
顧ト之《洛神賦図巻》 と曹植『洛神賦』
ttp://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/luoshenfu.html 王羲之の代表作に楷書「楽毅論(がくきろん)」がある。
楽毅論とは魏の夏侯尚の子夏侯玄(かこうげん)が、
戦国時代の燕の名将楽毅(諸葛亮も心酔していたという)について論じた人物評論。
正倉院には聖武天皇の皇后、光明(こうみょう)皇后が臨書(りんしょ)したといわれる楽毅論が収められている。
(臨書とは手本を見ながら書を書くこと。また、そうして書いた書。)
14 :
ロコ三郎 ◆6l0Hq6/z.w :04/11/09 12:08:23
へぇ
ここってマジスレ?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 02:40:32
いや、マジためになるわ。
空城の計…オラオラオラオラー
渭水の戦いの際、曹操に氷で城をつくれと助言した夢梅老人は
馬超が破れたのち傲慢な言動で曹操の怒りを買い処刑された。
夢梅老人は羅貫中「三国志演義」で夢梅居士(むばいこじ)こと婁子伯(ろうしはく)の名で登場。
演義での登場はこの場面のみだ(と思う)が、
魏書「崔琰(さいえん)伝」の注によると、子伯はあざなで本名は圭。つまり婁圭(ろうけい)が彼の姓名である。
婁圭ははじめ劉表と結んでいたが、のちに旧知の仲であった曹操に仕え、重用された。
馬超との戦いでも婁圭の功績は大であったといい、曹操の信頼は厚かった。
しかしそれに増長したのか、後年、他人に向かって曹操を軽んじるような発言をしたため、逮捕・処刑される。
許攸(きょゆう)・孔融(こうゆう)と並んで、才能は認められていながらも
その態度が曹操の憎むところであったために身を滅ぼした人物とされている。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 20:08:18
ほぅ
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 20:22:04
偽になるなあ
トリビア風にうんちく書くスレじゃないんですね?
7は最高につまらない
現代に伝わる「孫子」は、もともと八十二篇あったものを、曹操が十三篇に整理して注をつけたもの。
夏侯玄は曹爽派だったため、何晏(かあん)らとともに司馬一族に誅殺された。
何晏は後漢の大将軍何進の孫で、「論語」の注釈書で広く知られる。
また、夏侯玄や、「老子」に注をつけたことで有名な王弼(おうひつ)らと自由な哲学論争を繰り広げ、
魏末〜西晋へと続いていく清談の風潮をひらいた人物でもある。
西晋の杜預(とよ・どよ)は、司馬炎に「私は左伝狂です」と言ったといわれるほど「左伝」「春秋」への造詣が深く、
西晋滅亡後の南北朝時代になると、南朝では「春秋」の注釈書は杜預のものが採用されていたという。
ちなみに「易経」の注釈書には王弼のものが採用されていた。
南朝では魏晋時代に引き続いて「易経」「老子」「荘子」の研究考察がさかんに行われ、
唐代になると、楊貴妃を寵愛したことで知られる玄宗が「老子」「荘子」を『真経』と呼び、
荘子本人を『南華真人』と尊称した。演義で張角に太平要術の書を授ける南華老仙はこれがモデル。
一方、北朝では儒学の経書の注釈にはすべて後漢の鄭玄(じょうげん・ていげん)の注が採用された。
演義で車冑を殺害した劉備に、袁紹あての受け入れ仲介の手紙を書いてやるあの老人である。
鄭玄は後漢の大学者・馬融(ばゆう)のもとに学び、漢代の儒学を集大成した人物。
馬融の娘婿は袁隗(えんかい)といい、この甥が袁紹である。
公孫瓚、劉備の学問の師・盧植も馬融の門下で、鄭玄と並び称されるほどの優れた弟子だったという。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 19:13:41
>>24 >夏侯玄は曹爽派だったため、何晏(かあん)らとともに司馬一族に誅殺された。
嘘こくな。夏侯玄はクーデターの後は征西将軍の職を解任されて、軍権を剥奪されただけで済んだ。
その後5年間生きて大鴻臚、太常を歴任してる。
誅殺されたのは、李豊と張緝のクーデター未遂事件で、
新政権樹立後の政権首班に擬されていたため。
演義では首謀者扱いだが、実際は巻き込まれて連座しただけ。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 19:23:35
せっくすせっくす
すぼずぽぐじゅぐじょ
天下統一したのはあずみ
29 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 12:12:40
「ハクビ最も良し」
意味:着物の着付け教室にいくなら、ハクビがいいぞ、という例え。
カメラマンもさー、あんまり死体を映したいとは思わないんじゃ?
・・・
カメラマンもさー、あんまり死体を映したいとは思わないんじゃ?
・・・
俺が手本を見せてやろう。
死体をお慕いしたい
あ
35 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 15:42:44
無双レギュラーの黄月英の母は蔡[王冒]の姉。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 17:07:54
邪馬台国の王は卑弥呼
対立していたクナ国の王の名は卑弥弓呼(ひみきゅうこ)
水魚の交わり
甘夫人に飽きた劉備が孔明とやるとまるで生き返ったように孔明とやりまくった。
その腰使いは干からびかけた魚が水を得ると元気になるように例えられた。
現代で言う浮気のことである。
38 :
無名武将@お腹せっぷく: