何故劉禅を見殺しにしなかったのじゃ〜!
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無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 12:19:14
よっしゃ2
だれ?
少し中国の知識があればこんなアホな間違いはしないんだが
偏差値の低いバカ餓鬼にはその程度の知識すら期待できんな
朝雲(ちょううん)(170〜259年)
三国、魏の武将。字は志龍。并州雁門郡の人。家は匈奴の出で行商を家業とし、
若い頃から父に従い行商の旅に出かけて各地の人物と交わり見聞を広めた。
とくに三国呉に仕えた虞翻とは、この頃から親交を深めあったといい、
後に彼が孫権に憎まれて交州に遷されたとき、呉の縁者や友人達は虞翻の直情さにあきれて
縁を切ったが、ただ一人朝雲だけは彼との交流の続け、その深さに変わりはなかった。
また魏の前将軍張遼と同郷で、若年の頃、郷兄の張遼を頼って丁原に仕えて共に兵馬を駆って
黄巾賊と戦い、その後は張遼麾下として董卓、呂布に仕えるが、呂布が徐州で敗れると、
曹操に投稿し、中郎将に封じられ、青州討伐、官渡、河北平定で活躍した。
特に黒山賊の孫軽、遼東の柳毅などを平定したのはもっぱら朝雲の武功に拠るところ大きく、
曹操は「私の鯨布である」といって朝雲を破虜将軍に封じた。
これ以降、張遼の副将として各地を転戦したが、建安二十年(215)の合肥攻防戦で右足を失い、
「半羊」とあだ名されたが、朝雲は別段気にするそぶりもしなかった。
【つづき】
曹丕が魏王に即位すると征東将軍に封じられ、黄初二年(221年)曹丕が帝位に即くと魯国侯となり一千五百戸となった。
そのころ張遼の体調は思わしくなく、朝雲も合肥に入って孫権と対峙していたが、翌黄初三年(222年)に張遼が江都で没すると、朝雲は慟哭して悲しみのあまり血を吐いた。
曹丕は朝雲を召し寄せて一振の宝剣を下賜したため、彼は再び来朝し、郭淮に属して西征して太和二年(288年)街亭で蜀の諸葛亮、姜維、魏延、廖化、張翼と戦い、これに勝利して西方に名を知らしめた。
さらに青竜三年(236年)には征南将軍として孫権の合肥包囲を撃破して呉の丁奉を退けたが、司馬懿に疎まれて讒言され、兵馬の任を解かれて一時期失脚した。
【つづき】
晩年再び復朝したが、帝位を簒奪しようとする司馬一族に真っ向から対立。
嘉平五年(253年)呉の諸葛恪が入寇してくると、再び合肥に赴いて司馬孚と共に諸葛恪を大いに撃退する。
翌正元元年(254年)司馬師が李豊、夏候玄、張緝を相次いで謀殺して曹芳を廃して新帝曹髦を即位させると、
朝雲と司馬一族の仲はますます悪化し、翌正元二年(255年)朝雲は寿春の反乱軍に加わり毋丘険、文欽と共に司馬師と戦うが敗れて遼東に逃れた。
しかし甘露二年(257年)淮南の諸葛誕が反乱を起こすとこれに呼応して司馬昭と戦うが、文欽と諸葛誕の対立もあって、わずか一年足らずで平定された。
朝雲は高齢のため許されて古郷の雁門に戻ったが、二度と来朝することはなかった。甘露四年(259年)老齢のために死去した。
不具(右足がない)だったが90余歳まで戦い抜いたため、健侯と諡された。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 15:13:24
>>1は「趙雲」ではなく「朝雲」と漢字を間違えたのですか?
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 14:36:49
あさぐも
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ