蜀将討議スレッド9

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741無名武将@お腹せっぷく
流れを読まずにカキコ

廖化
字は元倹。元の名は淳。魏書では惇につくる。
襄陽郡の人で関羽の主簿を務めていたが、荊州が陥落すると呉に降った。
劉備が夷陵の戦役をおこすと老母を連れて呉を出奔し帰参、宜都太守に任じられ一軍を率いる。
劉備没後、丞相参軍に。
223年、茂才に推挙されたショウエンが劉ヨウ・陰化・ホウ延・廖化に譲ったという記述がある。
後に督広武(広武は陰平郡に所属)に任じられるとあり、魏書には陰平太守ともあるので兼務だったのかも知れない。
魏書の記述により少なくとも238年〜248年の間はそうであったようだ。
中途の詳細は不明な点も多いが、最終的には右車騎将軍・仮節・領ヘイ州刺史・中郷侯まで昇る。

同時に左車騎将軍となった張翼がその前は征西大将軍であったことを考えると廖化もそれ以前は四征四鎮将軍クラスの将軍位を持っていたかもしれない。
鎮西将軍が胡斉であったので王平の後の鎮北将軍あたりの。

苛烈な人物として知られるが姜維を諌めるなどの冷静な面も持ち合わせてる。

238年、魏の守善羌侯宕蕈(魏についてた羌族?)の陣営を攻撃。郭淮の派遣した武将を撃破する。
248年、羌族の反乱に乗じ姜維とともに魏領に侵攻、要害を守り郭淮に抵抗するも利有らず撤退。
263年、鐘会らが侵攻してくると姜維の援軍として沓中へ向かうも諸葛諸の侵攻の知らせを聞き陰平で防御のために留まる。
(この時は既に陰平太守・督広武からは外れて中央にいたと思われる)
一月後、ケ艾に撃破され退却してきた姜維と合流。
鐘会が関城を抜いたという知らせを聞くと漢寿まで引き返すと董厥・張翼らと合流し、さらに剣閣まで引き退き鐘会の大軍を防ぐがケ艾の進軍により成都が陥落した為降伏。
翌264年、洛陽に向かう途中病没。宗預伝によると261年には70歳を超えていたらしい。享年75歳前後。

演義では黄巾賊の生き残りとされてるがその可能性は低いと思われる。
経歴から見て事務処理能力も買われてるようで、単に私の認識不足だっただけかもしれないが、意外と士大夫層の出身だったのかも知れない。