>それとも本庄出撃とかじゃなくて政宗自身がそんな奥まで攻め込んだのか
上杉家では長く語り継がれたっていう話。実際包囲した時
はもちろん城の近く。国見山にいなかったしね。で、背後から須田が襲来。
少数しかいなかった国見山が落とされる。撤退はじめてしばらくして、
百戦錬磨の猛将本庄陣出たのかな?その時陣幕をとったということに
なってる。撤退っていう判断は流石に早かったと思うけど敗戦だね。
被害はどれだけ出たかは知らんけど。
ただ
>逆上して攻め込むが総崩れとなって危うく討ち取られそうになる
は俺は知らんかったな。
>375はめちゃくちゃになってて説明できてないんで、でも眠いんで、
他の人誰かよろしく。
>>373 まぁ、そうだな。コテじゃなくてもイイかぁ 。今はそんな不便じゃないし
でも50の時みたくなったらヨロシク
>>371-373 スマンな。どうも俺自分の考えを文章で伝えるのが苦手なんだ
でも、以下で意味は解ると思う
政宗は白石宗直を派遣してるんだ、一揆方面にね
和賀と白石で旧和賀領を奪取(もちろん一揆勢として)
それを白石隊が裏切り、何食わぬ顔で和賀忠親勢を鎮圧と
んで、この時旧和賀領は政宗が治めなくてもいい
何食わぬ顔して利直に返すの
そうすると次の天下様は政宗にご褒美を与えなくちゃならん 。上杉攻めの恩賞とは別にね
これを与えないと外様は離れるし、 そもそも与えなくてもいいようにする理由がない(と思うw)
つまり、家康が(本来上杉の押さえで与えるハズの) 50万石を何らかの理由で反故にしても、
一揆鎮圧の功に別の恩賞を与えなくちゃならんわけだ
そうすると・・・やっぱり政宗旧領が(一部)復活と、こうなるんじゃない?
勿論バレないことは大前提だけど 、まぁ、バレたら史実のように
和賀忠親殺して証拠隠滅謀ればいい 。もともと殺す予定の人間だもん
政宗の所領は徳川本領に近いし、豊臣家自体はまだある
家康もあまり派手な減封までは出来んわな 。上杉と組んで大暴れする可能性もあるし
ただ、バレる可能性はかなり低いハズだったんだよ 。まさか、江戸の旗本が現場にいるとはねぇw
それから、上の方で言ってると思うけど、 俺のスタートは
「政宗は始めから50万石を信じてなかった」
だから。その辺よろしくネ
てか、書いてるうちにこれ真相だろって思えてきたw
>>375 それ突っ込みどころありすぎ
まぁ眠いみたいなんで見逃すよw
ただ、もっとちゃんとしたレスが付かなかったら
突っ込むネw
380 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 06:26:47
>>375 >上杉家では長く語り継がれたっていう話。
福島城攻略=本庄繁長が圧勝ってのは、上杉方の言い分でしょ?
陣幕奪ったの何だの、威勢のいい話ばかりなのが胡散臭い。
ソースは「会津陣物語」なんかじゃないだろうねw
政宗は大局決定後の10/6に出陣しているが、1日で引き返しており、
一種の示威・隠蔽工作って説もある(和賀一揆の目をそらすため)。
まともに攻略してれば福島城など、一気に落城しただろう。
上杉方は関ヶ原の結果を知って以降、戦意喪失状態。最上義光にすら
庄内をいいように蹂躙・切り取られ放題にされているわけで。
381 :
341:04/11/01 07:12:34
(上記381に追加)
陣幕の件。上杉方が奪ったのか(拾ったのかw)分からないが、
政宗本陣のものじゃないよ。伊達成実隊辺りのものじゃね?
>>365 >秀吉時代に政宗仙台(岩出山)に減封されたでしょ?
あれって理由大崎・葛西一揆鎮圧による褒美なんだよ
本領の伊達・置賜・信夫・刈田を没収され、58万石へ減封
されたことがなぜ褒美だと?
名目上は褒美。しかし結局のところは旧領から遠ざけるため。
しかも上手い具合に減封。
福島城云々は、家康が勝ったし勢いに乗って俺も城とってやれ
というよりも、それまで上杉とナァナァしてたからやべぇってことで
ちょっとやったようにしてみるかってところじゃん?だってまさか
半日で関が原終わるなんて思ってなかったろう。
超俺の勝手な見解。
それと本庄が圧勝と言うには難しいと思う。
宮代の上杉前線と激突して破った上に追撃、繁長が
やめろというに息子が城外に飛び出して屋代勢に
蹴散らされて敗走。伊達勢は300人以上討ち取ってるはず。
おいちょっと待てw
俺が突っ込むの中止したとこ突っ込んだりすんなw
>>375 もう俺も突っ込んどくねw
突っ込むてか、それ否定しとくわ、もう
>>380 だね。国見山を攻めた須田勢の規模がいまいち判然としないが
福島城に襲来した伊達家は総勢2万でっせ?
最上方面に1万8千〜3万(3万はないと思うが)、
景勝は若松城でそこにも1万くらい?でしょ
そしたら、福島城じゃ野戦なんかに対抗出来んよ。絶対
そんな兵力がどこにあったん?
資料見たが、やはり本庄は政宗撤退後も
策があるかもしれないと考え、出撃はしてないようだ
それから、確か撤退が10/6のはず・・・
>>383 俺もその資料確認した
ただ、城に攻め寄せた可能性すらかなり低い
圧勝という以前に勝ちですらないでしょ
>>381 >>382が答えてる通り。あくまで名目上だよ
大崎・葛西一揆鎮圧の恩賞として減封された
>>366 直江兼続が本庄繁長に宛てた手紙では、
白石城の帰属は諦めていいから伊達と和睦してくれ
っていう風に書いてあるんだよ?
これはどう考えても上杉家から求めてるんじゃないの?
385 :
341:04/11/01 19:26:29
>>384 >大崎・葛西一揆鎮圧の恩賞として減封された
おいおい、天正18年9月末〜12月にかけて勃発した一揆だが、
この時点で、政宗は一揆勢を「鎮圧」はしていないよ。
秀吉に面会して詰問を受けたのは天正19年2月9日。名目は「木村吉
清・清久父子を救出した恩賞」だが、実際は厳しい詰問に終始した。
大体、救出の際の一揆の動きが怪しすぎ。11月24日佐沼城の一揆勢は戦わず
退却している。高清水城も同じく、伊達軍が近づくと一揆は無抵抗で開城。
以下岩手沢などの諸城の一揆も同じ。
これが、政宗は一揆と内々で出来レースをやっているとの疑惑を、氏郷や
秀吉側近にもたせた。「一揆鎮圧の恩賞として減封された」のではなく、懲罰
じゃねーの? どう見てもさ。
政宗が一揆を徹底殲滅・殺戮したのが、秀吉の裁定後の天正19年の6月〜7月。
宮崎城や、佐沼攻略は皆殺し・撫で切り状態の凄まじさ。これ、政宗の一揆煽動
の揉み消し工作とも読めるがね。
>>385 だから、実際は懲罰だってば。
名目上は恩賞での転封でね
秀吉は政宗に異心なしとして、無罪を言い渡してるんだから、
懲罰にかけることは出来んわな
ただ、秀吉は政宗に利用価値かなんかを見出して無罪に
しただけだから、政宗に対する戒めみたいな感じで減封したの
ok?
387 :
341:04/11/01 21:53:16
>>386 >名目上は恩賞での転封でね
それは別に否定も何もしてないってw 名目上、形式上、そうだったろうから。
領地替えの名目(=事実上左遷でも)など秀吉からすれば、別に何だって構わない
わけで。実際、政宗にとって、政治的・軍事的な重要拠点だった仙道五郡の
召上げ(=内諭として示唆)の代わりとされた葛西・大崎十二郡など、「恩賞」
どころの話ではないわな。(実際政宗は失意に沈んでいる。この際、新たな岩出山
城の縄張りを行ったのが家康で、この辺の恩の売り方が実に巧妙といえるが)
で、「一揆鎮圧の恩賞」の「鎮圧」。このフレーズが「?」って言ってるわけ。
ok?
>>378 でもバレるに決まってない?
南部だって馬鹿じゃないから絶対すぐわかるって
家康にチクったのも南部って聞いてたから江戸の旗本に話は是非聞きたい
それとあえて別説を書く
忠親は生きてたんじゃないか?
忠親の墓は2つあるらしいし、和賀という地名も
伊達南部の境界意外にもある
それに口封じとかいいつつ和賀義弘は生きてる
中央に忠親の首を送ったのは紛れもない事実なのか?
>>387 否定してるじゃん
>>385で>「一揆鎮圧の恩賞として減封された」のではなく、懲罰
って書いてあるんだもん。だから
>>386で反論したのよ
まぁ、ここはもういいや
確かに鎮圧ではなかったな。
木村親子救出だ。間違いだった。失敬。ok?
>>388 まぁ、バレるでしょうねw
実際に南部や最上から家康に通報されてるし
んで、現場に居合わせた江戸の旗本の名は大矢小右衛門
詳細は資料に載ってないので不明
忠親が生きていたかどうかは俺は判断できんよ
幸村が薩摩に落ち延びた説と同じようなもんだ
ただ、中央では死亡ってことになってるんじゃない?
「治家記録」では自殺
「真山記」「奥羽永慶軍記」では殺害(政宗による)
となっている
390 :
某スレの痛い1 ◆hLtPF.kGRM :04/11/02 18:21:22
>>388 ちょっとね、和賀家って資料によって微妙に違うのよ
小田原不参陣を理由に所領没収となったのは明らかみたいだけど
家臣が参陣していたとか、参陣しようとしたけど途中で引き返したとか
忠親は義忠の弟であったり、子であったり、甥であったり・・・
一族にもう一人忠親ってのがいて、それで混乱してるみたい
そして、俺には義弘ってのが誰かわからん
391 :
某スレの痛い1 ◆hLtPF.kGRM :04/11/02 18:58:55
さて、
>>378だが、あれは俺のオナニーみたいなもんだ。勘弁ねw
ホントはこうじゃないかと思う俺の仮説は以下
元々和賀家ってのは南部家と隣接関係にありながらも独立を保っていた家だった。
小田原の陣では当主義忠は参陣を決意していたが、
南部信直の策にかかり参陣を中止してしまった(実際にそういう説が存在する)
陣後、秀吉の沙汰により和賀家は領地没収。しかもその領地は南部家に与えられた
つまり和賀領を奪ったのは南部信直であり、南部家は和賀家から見れば仇敵である
(この辺も仮説だから誤解しないでね)
以上のことから、政宗は和賀家の旧領を御家再興の大義名分をもって
手中にしようと試みたことが推測可能になる
秀吉&信直によって不当に没収された領土を和賀忠親が奪還し、
その上で家康に当時の和賀家の事情を陳情して再興を認めさせようというものだ
これで和賀家旧領の復活が決定すると、そのまま大名家として
御家再興・・・とはならない。何故かというと忠親は政宗の家臣であるためだ
忠親もその辺りは了承しているだろう
こうして政宗は旧和賀領(稗貫も)を自領の一部に出来ることになる
家康としても秀吉に滅ぼされた家を復活させるのは悪い話じゃない
外様の心を射止める策としては上等だ
どう?
和賀義弘ってのは忠親の子供なんだけど
忠親共々一揆に参加してるはずだから本来なら
義弘も証拠隠滅の為というなら死んだ方がいいけど
何故か義弘は政宗に手厚く加護
されてるから不思議に思った
>>391 それじゃ南部が黙ってるはずないし外様の心は逆に離れていくと思うんだが。。
代わりをあげない限り南部は厳封同然だし
家康は当然 和賀<南部だし
和賀に正当性を与えるのはかなりきついな
実際それやらなかったじゃん
やっぱ無理があったからじゃない?
改めて気になったが何故に和賀忠親を殺す必要があった?
証拠隠滅なんてどうせばれるからなんの意味もないしさ
俺的には自害ってほうが納得がいくかも。。
和賀が無事再興されるときは西軍が勝ったとき限定
西軍が勝てば伊達はまず最上を討ってその後に和賀を使って南部も討てるし
まあ、これもただの想像なんだけどね
393 :
某スレの痛い1 ◆hLtPF.kGRM :04/11/02 22:39:01
>>392 減封もなにも元々南部が騙し取ったみたいな形であれば
(南部策謀説が正しければ)正義は和賀の方にあるわな
その事情を諸大名に公表することで
徳川体制は正義で、安心して家も任せられる
と思わせることができるでしょ
俺は政宗が和賀忠親を殺したと断定してるわけじゃないよ?
そこはokなのかな?
俺の最初の仮説では殺さなければならないだけの話でね
まぁホントに政宗が殺したんだとすれば
中央から和賀忠親の召喚要請があったからだろ
結局この時も大崎・葛西一揆の時みたいに
限りなく黒い灰色で決着してんだから、召喚はまずいよ。どう考えても。
政宗がやったことはバレてたけど、決定的な証拠はなかったんだ
中央で吟味されてたら、その決定的な証拠が露見して
50万石反故だけじゃなく減封だったかもね
な?殺す必要あるじゃん
なんで再興されるのは西軍勝利時限定なの?
上に書いたけど家康にだってメリットあるって。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 23:52:10
慶長6年5月24日。和賀忠親主従「八人」そろって、口封じのため、
国分尼寺で死んでいる。体のいい抹殺だ。しかも、この時忠親と共に
死んだ家臣の毒沢修理義森の孫娘にあたる勝女姫を、政宗はこともあ
ろうに側室にしている。よくやるよな(w)と思う。
ただでさえ和賀再興は無理。
393でいうとおり厳封したりするときには決定的な証拠がいるんだよ
南部が例え本当に策謀していてもその証拠を掴めなければ無理。
次にこれ秀吉が決めた事なんだよね。それを当時の家康が覆すのは非常に危険
次にこれ最大の理由、和賀は一揆をおこしたせいで南部は最上支援にいけなくなった。
これは大きい、だってこれはもう反逆じゃん、例え
和賀にその意思がなくても完全に西軍と見なされてるよ。
これだけやっといて再興なんてしたらもう和賀に褒美をやるようなもんじゃん?
まあ、100歩譲って決定的な証拠を掴みなお、秀吉が不当だったとして再興の
話があったとしてもその一揆で全て水の泡
第一もし伊達が忠親を殺さず中央で吟味して決定的証拠が見つかって伊達が
厳封されてるのに和賀家は再興ってのはあまりにも無茶ありすぎ
>>389 ま、いいけど。政宗は京都裁定の2ヶ月後に葛西・大崎領を「拝領」してるね。
実体は、一揆軍で騒然と化した地方への「討伐命令」なわけだが。
しかし和賀忠親のパターンは、天正18〜19年の第一時奥州仕置きにおける
葛西晴信の再興を図って(結局失敗した)、秀吉政権とトラブったシナリオと非常
に酷似してんな。葛西・大崎一揆の時、政宗は蒲生氏郷との間で5ヶ条の約束を交
わしているが、中に「一.葛西身上の事」という一節がある。
これは、葛西晴信の没収された旧領を政宗が後ろ盾になって保証し回復させ、最終的
には自領へ組み入れようとの狙いに他ならない。ところが、この辺の思惑を当時
の目付役の浅野長吉に勘ぐられて、一揆の黒幕の疑いありとして京都喚問され、政宗
の計画も消し飛んでしまう。(「伊達治家記録」巻之一九 浅野長吉への絶交状)
秀吉は朝鮮出兵が差し迫っていた状況、家康は関ヶ原に集中していた状況。この間隙を
ついた形での政宗の策謀は、成功した場合、してやったりな訳だが、逐一中央へ「通報」
されていることも皮肉な話だ。2回ともね。
いずれも小細工で切り抜けているとはいえ、「情報管理」という面では、脇が甘かった
んじゃないか?
草に常に徹底マーク。そんだけ。
というか良い盛り上がり具合だーね。楽しいよ。がんばれー。
>399
はぁ…お前は元のスレに帰れ………。
そして400ゲット
401 :
341:04/11/03 16:54:20
で、
>>1とは違い、葛西・大崎一揆における政宗の関与説は、俺の場合限り
なくクロだ。一例だが、天正18年10月24日、南部信直が江刺氏にあてた手紙
(「南部信直書状」)には、
伊達天下へ逆心候わば、是非に及ばず候
との一節が記されている。一揆勢が蜂起したのが10月16日(その約1週間後
の手紙ね)。当初から、政宗の豊臣政権へ対する「異心」「逆心」を南部等
の近隣大名や一揆勢までが、敏感に感じとっていた証拠だわな。
402 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 17:28:06
雑魚ヘボ政ショボイ
| Hit!!
|
|
ぱくっ|
/V\
/◎;;;,;,,,,ヽ
_ ム::::(,,゚Д゚)::| <政宗馬鹿にすんな
ヽツ.(ノ:::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
相手にするオマエモナー
406 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 13:34:07
新参の俺が「ひとりで」という部分が勘にさわります。
このスレが伸びれば、伸びるほど、あたかも
>>1が孤軍奮闘しているようかの印象を周囲に与えてや、しまいか?
まあ全部俺の自作自演だからどうでもいいんだけど
いいんじゃない?
実際「ひとり」で戦ってるようなもんだし。
名無しはそれに集まってヤジなり同意の声なりを飛ばしに来た観客だと思えば…
さぁ、いい感じだよ〜
>>1頑張れ〜
アンチも頑張れ〜
アンチって感じしないけどな。まぁ普通にお互い意見出してる感じ。
さーがんばれー
410 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 07:29:12
このスレの道場主さんは、どこへ行ったの?
ホスト規制でも喰らってるのかな?まぁ気長に待ってるが。
せっかくおもしろい意見言ってくれる名無しもいるのに。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 08:40:04
>>339 秀次事件は濡れ衣。
確かにボケ秀吉の言いがかり、濡れ衣なんだが、
ここね、もう一捻りあってもよいと思った。
秀次と共謀し連座した罪、粟野秀用を通じて秀次
の増収品を受け取ったことが「証拠」とされ「死罪」
宣告。罪一等免じるにしても、「政宗本人は流刑。
伊達家は秀宗に嗣がすべし」ってさ…?
「政宗コト天道尽キ果テ」と政宗、涙まで流したって
んだから、異常に過酷杉。
この事件は、何かもっと訳ありだったはず。
413 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/19 18:12:30
平蜘蛛age
保守
415 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 12:16:51
1よ早くかえってこい。
片倉付き政宗≧芦名止々斎>>津軽為信=最上義光>二階堂盛義>>>政宗単品
政宗は、眉目秀麗な景綱のこと、結構「ムフフ」という視線で眺めていた
かもな。「恋文」を思わせるような手紙も残っている。
「あまりにあまりに徒然に候まま、一筆進め候、明日は能にて
候の間、明後日の時分、鷹野へ出申すべく候
かしこ」
そんなことより 新参の俺が一人でアンチ公文と激しく戦うスレ 立てていい?
政宗は、死ぬちょっと前、宮城県河北町の尾崎山へ鹿狩りに行っている。
(そこで、家臣に、息子のことをよろしく頼むぞと言って涙ぐんだと記録
にある。)あの辺は実にいいところだ。長面海水浴場は綺麗だし、尾崎は
釣りもできる上、浅利や天然の岩ガキもごろごろ生息してる。
(以上、地元民より)