1 :
無名武将@お腹せっぷく:
あのべらぼうな強さはいけません。軍神とかつけて統率も常に100前後かそれ以上。
序盤・中盤で勝てっこねえよ。
本当にあれだけ強かったのか!?たまたまだろ?
3 :
abex:04/09/26 16:38:34
謙信だけじゃなくて家臣団も強いからね。
謙信単独での強さがどうだったかは疑問やね
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 16:41:58
ゲームだからなぁ。イメージ重視でしょ。
家臣に背かれ一度敗走しているものの、決定的な敗北がないことや
また信玄と五分に分けて、生きている間は信長も一目置いたことが大きいでしょう。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 17:39:20
∩___∩
| ノ ヽ/⌒) あばばばばばばばばば
/⌒) (゚) (゚) | .|
/ / ( _●_) ミ/ ∩―−、
.( ヽ |∪| / / (゚) 、_ `ヽ
\ ヽノ / / ( ● (゚) |つ
/ / | /(入__ノ ミ あばばっあびゃばびゃばば
| / 、 (_/ ノ
| /\ \ \___ ノ゙ ─ー
| / ) ) \ _
∪ ( \ \ \
>>3 家臣団って強いか?
柿崎とか2、3人くらいじゃないかまともに使える奴。
80代90代のオンパレードな信玄家臣団のほうが・・・・。
まあ、散々語りつくされているがね。
8 :
abex:04/09/26 17:52:13
武田家には甲陽軍艦があるから強すぎるイメージが残ってる。
やはり川中島の戦いでも引き分けているわけだから、家臣団も相当に統率がとれて強かったはず
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 17:53:52
>>8 在日か?日本語が変だぞ(ゲラ
あ、ただの池沼か(ゲラゲラ
最近のはまだまし。
昔のノブヤボなんか家臣いらずだったw
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 19:08:57
敵からも尊敬されてたわけだし。
単騎駆けとか神懸かってるよね。
あ、例のコピペか。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 21:56:07
>>12 たまにそういう書き込み見るんだけどさ、
在日って目が悪いの?
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 22:00:30
>>12 単に軍艦→軍鑑の違いを自慢気に指摘しているだけの池沼だろw
なんつうか、謙信はいろんな意味で強烈だから
重複か…仕方ない
19 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/14 12:44:24
そうでもないよ
謙信が強かった理由
@信玄も含めて他将は兵力を温存し領国経営に力を注いだが、謙信は本気で戦った
=敵が本気で戦うのを避けた。※永禄4年の川中島は信玄が本気で戦ったので引き分け。
A他の武将は家臣ごとの兵団(連合軍団)だったが、謙信は現場で陣立てをした。
有無を言わさず、家臣と兵が別れ別れになってもお構いなし。
=結果、槍兵主体の近代的編成ができた。後年の信長の編成に似ている。
B金持ちだった。金山と越後上布、港の冥加金。
C軍役帖を比較すると、槍兵が3分の2。白兵戦は槍が主体だから、他の武将の
編成よりも合理的。
D生涯に100回も戦った為景の時代から、越後兵が戦慣れしていた。
E信玄以外に強い敵がいなかった。北条軍本体は謙信と戦っていない。
織田軍も撤退するところをやられたわけで、戦ったとはいえない。
>>20 へえ、そうなのか
俺はあんまり謙信のこと知らないから勉強になったよ
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 11:40:02
>>20 まぁ、概吉的な命知らずということか
戦争が趣味の人間には勝てんよな
その代わり、所領の恩賞ないから家臣には裏切られ続け、
領国経営は金持ちのわりにおざなり
それと、火付け盗賊やってたらしい
攻城戦の名手といわれたらしいが、城下をすぐに燃やしちゃう
秀吉みたく水攻め兵糧攻めするような辛抱強さはなし
気が短いんだよな
そりゃ卒中で死んだってのもうなづける
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 21:00:43
謙信自身は足が悪く杖を使って歩いてるくらいでゲームのイメージとは全く違う。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 21:46:46
>>22 >秀吉みたく水攻め兵糧攻めするような辛抱強さはなし
晩年の秀吉は充分短気だとおもうが
>>25 まぁ、晩年はみんなひどいよ。
親戚の晩年見て、痛感した。
あんな聖人君子の様な人が、君子豹変しちゃってたから。
まあ地元民としては嬉しいんだがな
でも家臣が揃いも揃って馬鹿ばかりなのは
新潟県の偏差値が低いのを暗喩してるみたいで嫌だが
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 22:41:32
川中島の合戦もお互い損害大きいと稲の収穫に大打撃があるため
徹底的にやれなかっただけでは。謙信、信玄とも戦国最強といわれるが
金を持ってた戦上手ってとこではないでしょうか?
本当に強いのは長野業正あたりではないかと・・・
やっぱ世の中金だよ。金!!30近くなのに税込み年収300の俺・・・。
がんばっても長野業正だよ。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 23:01:39
>>26 ちなみに
「君子豹変」は
偉い人は悪いことを改めると言うほめ言葉だから。
外で言ったら恥かくよ
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 23:19:08
どうせ釣りだろ じゃないと恥ずかしすぎる
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 00:24:33
とはいえ、謙信の戦国最強(戦術)は揺るがず
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 00:29:13
謙信の乗ってる馬を狙って矢を射る
馬あぼーん
謙信たんは足が悪いから一気にあぼーん
となるんでない?
>>29 本来の意味は仰せのとおり(君子は豹の斑がなくなるように過ちを改めるだが、
俗語一般には君子が邪悪に変わるの謂い。中間解釈に、変化一般。
したがって、外で言う分には別に恥ずかしくなく、言語学者やしたり顔の教養人の前で
言うと、あとで「ものをわかってないなぁ」
と言われるかも。ちなみに、29のような教養人の前では言うなかれ。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 01:01:20
>>32 >馬あぼーん
それなら誰でも同じ結果じゃないか? もともと脚が悪いから
脚をいきなりやられて仰天する香具師より何ともないかもしれん。
でも、日本古馬は時速30`程度だから、落ちても怪我は少ないのかもな。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 01:06:47
>>34 落ちて怪我というよりも落ちて周りに囲まれて逃げられずにあぼーん
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 02:29:36
つーか足が悪い人間はまともに馬に乗れないよ。
確かにサラブレッドに比べれば全然小さいけど気性が荒ければ荒らい程に名馬な時代、扶助の基本の足使わないでまともに抑えられるわけない。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 02:39:18
仮にも上杉なんて大大名が落馬したくらいで敵に囲まれる状況にいるかい
>>37の言う事は正しい希ガス。
でも、敵陣に率先して突っ込んでいったといわれてるような香具師だからな。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 08:14:52
武勇話は大げさに語られるものだし
本隊が諸隊より前にでて戦えば謙信公が、真っ先に敵陣に切り込み
敵を追い散らしなさったと言われるでしょ
戦好きで前にでるのが好きだったのは本当かもしれんけど
司令官が前線で先頭に夢中になってたら戦勝てないと思う
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 08:16:00
烈風伝の上杉謙信見てて采配が高いのはわかるけど統一が高いってことは
謙信その者の武勇も結構あったのかな。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 08:35:32
信玄本陣に突っ込んだって伝説のある男だからなぁ
細かい武勇話なら一杯あるんじゃない?
バカなんですよ
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 09:36:03
バカじゃない。DQNなんですよ。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 15:46:17
コーエー板万歳
風雲録なんか攻撃したほうがダメージでかかったからなあ
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 20:33:34
武勇とゆうかひょろひょろして体悪くて杖持ってる人がまともに斬り合えるのか?
景勝も大坂の陣じゃ杖ついてたらしいしこの一族の腰は大丈夫なのか
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 21:11:34
杖を突いてる謙信萌え〜
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 23:43:38
可愛ければ許す。
性別換えられる天翔記ではいつも女。
将星録の謙信率いる部隊の固さ
烈風伝の春日山本丸引き篭もりは反則。
武将風雲録騎馬隊の突撃は爽快。
INTERNETではこいつ自身の石高が極端に高かったような。
最初から10万石もの知行。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 03:00:27
一番本人に近いと言われてる肖像画を見たらやつれた黒い頭巾を被った男で、それ見てから俺の謙信のイメージは戦争好きな如水なんだが。
>>50 ふむ、オレの持つイメージ像と近いな
悋気持ちで躁鬱持ちで普段は鬱が勝ってて戦と酒で鬱を発散する搦め手から攻めない如水
…自分で言ってなんだが、なんかもの凄く痛々しい人物像だな
>搦め手から攻めない
んなこたーない。
七尾城落とした時は内応誘って自滅させてるし、手取り川じゃ撤退する織田軍が
慣れない土地で夜間渡河中という絶妙のタイミングで夜襲かけてる。
大将なのに突っ込むタイプ
上杉謙信
蒲生氏郷
黒田長政
・・・金吾
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 16:11:07
謙信は戦の状況に合わせて、ひらめきで軍を動かす天才型。
信玄・信長は綿密な計画を遂行する秀才型。
20〜30番台にかけての書き込みで足が悪くて杖ついていた、というくだり
があるんだが、これって謙信が軍配代わりに使っていたという竹の棒のこと
だろか?景勝も謙信に心酔していたからマネして竹の棒を使っていて、
大阪の陣かなにかで指揮を採ったとき、昔の謙信を知っている周りの者は
その姿を見て思わずみとれた、なんていう記録が残っているらしい。
それに謙信って馬術の名手っていわれてるし、足悪かったのかなぁ。
烈風伝で謙信自ら騎馬突撃かけたんだが、「こ、こら あわてるでないっ」
って攻撃したほうが混乱したのはウケた・・・。
57 :
重要無名文化財:04/10/18 23:28:31
謙信たんは実は女。
しかももっと詳しく言うと、落合信子。
故に最強。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 23:49:50
謙信はゴッゴルだったから過剰評価されてるよな
>>57 いや、上戸彩だっ なぜなら謙信の肖像画をみると下膨れているからね
若い頃なら彩ちんのようなぷにょぷにょほっぺだったのだっ
マチ ガイ ナイッ!
>>55 後年足を悪くしてから青竹を軍配および杖代わりにしたと言われてるよね
太股の付け根に傷を負った説、性病説と諸説紛々では有るが
>>61 いや、関節炎だったらし。天正元年の吉江織部助景資夫妻宛の手紙に
「身のことは不達に候間、小島を頼み、引きずり返し、今に押し込め候」
とあるのは、私は身体が不自由なので、小島に命じて(若者たちを)引きずり返し、
押し込めております、の意。加賀の朝日要害を攻撃した時に
景資夫妻の息子与次たちが敵の鉄砲の前に出て戦おうとしたので、
小島に命じて退却させたというもの。
>>55 脚悪くても、馬には乗れるよ。片足しかない障害者、平気で乗ってる。
62ではないが、立花道雪と今川義元は足が短すぎて乗るのが嫌だったとさ。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 20:31:01
御輿武将
龍造寺隆信 デブ
今川義元 デブ&公家っぽい趣味から
立花道雪 下半身付随
大谷吉継 視力
幸村も・・
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 21:06:08
花の慶次の奥村助右衛門。
あれはただ負傷してただけか。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 22:03:39
遠山の金さん 痔
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 22:05:32
秀吉も家康も金玉が原因で御輿に乗ったと。謙信は右足を少々ひきづいて歩いてたぽいね
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 22:05:39
今川義元って本当に太ってたの?
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 02:44:23
>>62 そりゃ特別に調教された乗馬ならな。
戦国時代にそんな馬や馬具はないし、ましてや軍馬なんて滅相もない。
障害者乗馬勉強しろ。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 04:50:05
ただの農耕馬じゃあんまり速度でんでそ?
松風や百段は何処の馬かな?
74 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 07:34:54
謙信は戦の天才だってよく言うけど何でなの?
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 07:37:08
ごめん上のほう読んでなかった・・・
時速30キロだっけ?日本の短足馬は
77 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 10:31:58
戦国時代は調教なんて確立してない上に気性が荒い馬=良馬、戦国の絵巻みても馬が首巻いてるでしょ。
例えば気性の荒いポニーに乗ろうとしてみな、競馬の騎手でもふっ飛ばされるぞ。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 14:23:11
日本版ロデオか
79 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 15:08:56
だから障害者乗馬勉強しろって、例え小さな馬でも尻っぱねしたり急旋回、急停止したらどうすんだ?まさか障害者用にそれを禁止するよう調教された馬が戦国にいたなんて言わないよな?
ただでさえ障害者乗馬は神経使うのに戦争下でやるのはアフォかと。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 15:14:52
上杉謙信があまり体が強い方じゃなかったのは本当らしいね。
上の方で黒い頭巾の絵って言ってるけどその絵の通り足が悪く痩せてたってのがどうやら真実らしい。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 15:30:51
頼朝は落馬が原因でなくなったよね
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 17:17:32
やたら苛ついてる福祉関係者が紛れてるな
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 17:40:12
槍兵が多かったというのは意外といいポイントついてるかも。
鉄砲は技術力が必要だし白兵戦で徴用兵が戦うならやはり槍が一番合理的。
84 :
ひろゆき@どうやら管&rlo;& ◆WXxXXJsACw :04/10/20 17:42:20
1
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 18:36:00
>>52 手取川に関しては近年では無かった説が有力。
織田勢は七尾城陥落を聞いて得る所なく退却したのが「敗戦」として伝わった。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 18:41:36
手取り川の合戦の根拠ってなんじゃらほい
>>77 調教っつーか、去勢な。
日本は馬を去勢する発想が無かった。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 18:44:07
>>86 根拠なんてないよ。
ないから存在しなかったという説が有力になってる。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 19:40:13
>>87 乗馬が全て去勢されてると思ってる馬鹿ハケーンw
そりゃ元々速く走る為に気性を荒く改良したサラブレッドが乗馬になる場合はほぼするけどな。
謙信が女だったから、越後軍強かったという説どうよ?
敵の雑兵に捕まったら即レイープなのに、単騎駈けするもんで、
兵たちが懸命に戦ったとか。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 20:15:57
>88最初に誰もしくは、どの本が手取り川の合戦があると言ったの?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 20:24:03
>手取川の戦い
なんらかの形で(小競り合い程度でも)戦闘はあったと思うなぁ。
当時の戦のセオリーなんて知らないんで素人考えなんだが、いくら七尾城
がおちたからといって5万近くの軍勢がやすやすと退却するってのがよく
わからないんだよね。真っ先に引き返した秀吉は後で信長にこっぴどく
しかられてるんでしょ?
秀吉はなぜ引き返したんか気になってた
柴田が気にくわなかったのか
播磨をほっとけなかったのか・・・
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 23:17:30
>>93 しかし信長公記にも記述がないしなあ。
元々、戦意が薄かったんだろうね。謙信との直接対決を避けたんだと思うね。
実際、こういう行動は織田には良く見られる。対武田戦とかにね。
まあ謙信を恐れて退却したんだから広義の敗北と言えないこともない。
退却で増水した手取川の渡河で犠牲者が出たというのもありそう。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 23:25:13
>>91 本というよりも、謙信の手紙と勝家たちの手紙。
手取川の史料は「上杉年譜」に。
「……(織田軍)数万騎陣取り候ところに、両越、能の諸軍勢先勢として遣わし、
謙信ことも直馬のところに、信長、謙信後話を聞き届け候か、当月二十三日夜中
敗北せしめ候ところに、乗り押し付け、千余人討ち捕り、残る者どもことごとく
河へ追い込み候いける……」
謙信の書状をそのまま書き写したもので、謙信は信長が出馬していたと
思い込んでいたふしが伺える。ほかに、
「十八日、賀州湊川まで取り越し」
勝家たちの連署書状も確実な史料だから、裏づけになる。
七尾城の落城を知って、織田軍が引き上げているところを襲った、
のが実態では?
>>95 >信長公記にも記述がない
=負け戦で書けなかったのさッ☆
>>96 うーん、イイセン突いてるなぁ。よく政治的宣伝のために上杉が誇大に公表
した、何て話をよく聞くんだけど、むしろ逆で、織田が真相を隠す事に努めたんじゃ?
それとなかった派の根拠として戦跡が残っていないってのがあるけど、地形は
結構変わるしね。戦国時代、荒川は利根川に合流してたほどだし。跡なんて
残らないのが自然だよね。400数十年前だし。
手取川のあと関東攻めやろうとしていたそうだが、謙信が言うように
「織田は存外弱い様子・・・云々」っていうんじゃない限り、現在の
織田との競り合いを放置して北条攻めやろうとは思わないんじゃ?
ってことはやっぱ手取川はあって、織田は負けたんか。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 14:47:33
101 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 15:07:14
宿敵武田を滅ぼした織田を弱い呼ばわりしてさらに関東にも攻め入ろうとは・・・
戦術はすごくても戦略はあかんね
>>101 武田が滅んだのは1582年なのだがな
(ノ∀`)アチャー
天下なんて取ろうと思ってないもん。
大失態を演じた
>>101は向こう半年三戦板所払いとする
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/21 20:19:15
ついでに宿敵は信玄であって信長が滅ぼしたのは勝頼
そのカツは関東方面にメガくらみ…
勝頼と謙信って戦ってないよね。同盟は組んだのだろか?もしくは援護を頼んだの
だろか? 信玄の遺言に「イザというときは越後の謙信を頼れ」というのがあるが
勝頼時代の越後との関係はどうだったのだろう?あれだけ偉大であるオヤジが
推す謙信とわざわざ敵対したり、必要な時に仲良くしなかったり・・・ってのが
あったなら、これまでオヤジに従ってきた旧臣たちに不安を与えることでしょう。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 00:47:00
ちゃんと仲良くして下さいって手紙送ってる
上杉もそれに快く応えて
こんな事ならもっと早く手組んでおけば
信長なんぞに好き放題させなかったのにねと答えてる
>>107 かなり強い同盟状態になってるよ。
景勝も同盟を引き継いで、武田の血筋の者をかくまったし。
援軍を出そうともしたそうだ。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 01:22:01
武田と仲直り=元信州の豪族達を旧領に返すという義を反故?
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 03:00:15
武田と同盟結んで天下とったら信州か、それに代わる地に配属
天下とれなきゃ、んな約束履行してる余裕ない
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 00:11:10
そんなことより上杉の家臣に「じょう」がつく香具師が多いのはなぜ?
中条、上条、北条、本庄…。
>>107 思いっきり同盟してるよw信玄死後、勝頼が謙信を頼ったんだよね。
信玄存命中、謙信は信長と手を組んでいたが、弱者に頼られるとイヤと言えないのが謙信。
信長は信玄が死んだのだから同盟国の謙信はすぐに武田を攻めるだろうと思っていたが、
独特の男気を持った謙信は「すでに信玄が死んだのならその弱い子供なんて討てない」と言って
武田を攻めるどころか逆に勝頼に味方して強者である信長との同盟を破棄。
武田、毛利、本願寺と同盟を組んで反信長の中心的存在になる。
俺の記憶だとこんなとこだったかな。
結局は卒中で身罷って反信長同盟は弱体化、歴史にあるとおり信長の勝利になっちゃうんだけどね。
謙信は勝頼が長篠でボロ負けした後にも励ましのお便りを送っていたと思う
しかし信長と関係が良好な頃は
「勝頼は若い割に油断できない人物であり、お互い注意しましょう云々」
とか云う手紙なんかもやり取りしてる
手紙を書いている時はロマンチックな気分になるものさ
夜に書いた手紙は、朝に読み返すと破り捨てたくなる
119 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 16:01:56
当時の手紙とかの文面見ると
謙信って結構気さくな人らしいね。
そういう時もあれば違うときもある
気分屋
今日も謙信の突撃で、信長の脳天かち割ってやった。
天正4年(謙信47歳)武田と和議。
勝頼との同盟は、将軍義昭の画策。同時に北条とも和睦してる。
やっぱ、将軍に頼まれたからか。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 19:03:48
それよりも
上杉謙信の家臣に「じょう」のつく奴が多すぎる件について
上条の奇妙な冒険
>>123 荘園支配の名残が強い田舎だってこった。
烈風伝で謙信の騎馬突撃により、無名の足軽大将の部隊(兵科足軽)500人が
一撃死。いくらなんでも反則的に強いよ・・・。
上条城ってあるけど、「じょうじょうじょう」って読むの?
上条城だじょー
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/28 01:43:46
烈風伝は長槍隊で包囲すりゃなんとかなるが、将星録の謙信の突撃は極悪だった。
側面から仕掛けても1個小隊を壊滅する間もなく体勢を立て直され、突撃をくらって大混乱。
武田家の海津城なんか身分低いヤツしかいないからこいつ一人に陥落させられてたな。
かみじょうじょうじゃないの?
じょうじょうじょう・・・らしぃ。
上条政繁(じょうじょうまさしげ)って人いたよね。
そうそう、信野で普通後ろにいるはずの大名なのに、一人で攻めてくることがある
謙信ってなにもの??
単騎駈けしたらしいよ、実際。だから家臣と兵が必死になって戦わざるを得なかった
士気を鼓舞するために先頭で戦う事が有る武将
上杉謙信、蒲生氏郷、黒田官兵衛など
>>137 陣頭にちょくちょく立つのを竹中半兵衛に諫められたりしてる
まぁ、半兵衛との考え方の違いだろうね
>>138 あ、そりゃ知らなかった。
足悪くなってたから前線には出にくいイメージが出来てたな。話じゃそれ以前の時らしいが。
あと息子の方が印象あったので。
何か黒官って、しょっちゅう半兵衛に怒られてるイメージができてしまってる・・
>>139 輿に乗ってからも割と前の方にいたらしいよ、官兵衛。
息子のアレは親譲りって所もあるんだろう。
某SF小説のカリスマキャラと一緒にするわけではないが、自分だけは
後方の安全なところにいて、人に戦えと命令するより、自らが先頭に
立ってこそ兵の士気が上がるってのをよくわきまえていて実践する事が
できたからこそ上杉軍って強かったんかなぁ。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 17:55:22
謙信、女だったらしいな。そりゃ越後兵は必死で戦うよ。
もしも大将が捕らえられたら、具足を脱がされ即レイープ。
謙信が敵将の子でも孕まされた日にゃ、家ごと国ごと乗っ取られ。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 18:47:20
>>144 そう!
川沿いの湿地だったので、若い頃の直江兼綱らが
灌漑事業したそうです。雨が降ると川からの水が氾濫したらしい。
でもって、政景および宇佐美定満謀殺の証拠を埋めたわけです。
148 :
144:04/11/02 20:12:41
>>144 むかしは大きな池だったんだろな。
灌漑したということは、2つの池の間の土地が問題の場所か?
151 :
144:04/11/02 22:10:54
実は明日、三国峠越えて行ってみようかと。
>>151 どうせなら真冬まで待って、雪に埋もれた三国峠を徒歩で越える
感想などうかがいたく。(帰ってこられないかも知れんが・・・)
155 :
144:04/11/03 11:56:22
寝坊して行けなかった・・・。
謙信、三国峠までの直線ルート
春日山→浦川原→松之山→十日町→八箇峠→六日町→塩沢→湯沢→三国峠
R253やR17を走って見覚えのある地名。
直線距離でも72キロ、八箇峠では標高500メートル越す険しい道。
車ならスイスイ行けるけど
関東出兵のためこれを徒歩で10数回も
往復させられる軍兵はたまったもんじゃない。
海岸沿い平野部を迂回すると距離が滅茶増えそうだし。
その後、延々と続く湯沢の坂と標高1000メートル越す三国峠越え。
これ繰り返すだけで兵が鍛えられるな・・・。
越後勢最強説=越山で鍛えられた。
>>156 確かに高低差が激しいところは、強兵が多いね
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 08:09:27
そういえば、いつも不思議に思ってたんだけど、関東出兵の時ってどういうコースとってたの。
1570年代の状態だと、北上野を植えすぎ、西上野を武田、東上野を北条が領有してたハズだけど、
歴史上では、この状態でも謙信本隊が常陸で戦ったりしてるよね。
どうやって新潟から群馬を通らずに茨城に移動したの?
この状態に相当する蒼天録の信長包囲網のシナリオだと、上野国の簔輪城を武田が領有してるんで
史実みたいに謙信本隊で関東に出撃して小田氏を攻めたり、佐竹氏を助けに行ったりっていう遊びができないんだよね。
>158
沼田城、厩橋城に拠点があった。平井城も。
岩槻城の太田資正が謙信の味方。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 13:46:38
岩付城の大田はまだ1570年ごろがんばってたんだっけ?
でも、その北の忍城はもう北条氏の勢力しただよね。
結城氏もいるわけだから、1572年とかになったら挟撃される可能性もあって、
常陸出兵はずいぶん危険な行軍だよね。
ちょっとググってみた。
太田資正は1564年に岩槻から追い出されてたよ。
で、1569年には越相同盟が成立。
1574年に同盟破棄後、最初で最後の関東出兵があるけど常陸まで来てない様な。
基本的に謙信の関東越山は、応援を求められて
の出兵。味方(応援を求めた武将)がいない単独
の出兵は考えられない。結城、小田、佐野、佐竹
あたりも味方の時があったし。あと、北条のライバル里見か。
>>162 越相同盟中に佐野を攻めてるみたいだけど
これなんかは北条からの要請?
元亀元年の佐野攻めね?
単に佐野が反旗をひるがえしたから。
相越同盟は対武田。
そういうことじゃなくて
>味方(応援を求めた武将)がいない単独 の出兵は考えられない。
とあるから、じゃあこのときは誰が応援を求めたのか聞きたかった。
>>165 スマソ、シラソ・・・
佐野昌綱が誰かを苛めたんじゃ?
苛められた香具師の救援? 数日中に調べておく所存。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/07 11:28:56
>161
関東へは1560年代から生涯13回行ってまするよ。
たしか、1574年には常陸小田氏攻めにも行ってる。
で、このとき、城攻めに失敗したことと、関東諸氏とのすれ違いとで
この後の関東出兵はなくなってまふ。
佐野氏は何回も北条、上杉の間でゆれてる。
だから、唐沢山城に上杉方の色部勝長が目付として派遣されてたこともあるですよ。
このほかにも、謙信本隊が下野に行ったりと、敵中突破したのかと思うようなところで史実では戦ってる。
北上野までしか領有してなくて、東上野には武田が迫ってて、1569〜1571年以外の時期はずっと北条氏と敵対してるのに
どうやってそこまで行ったのか、すごく謎なんで知りたいでふ
北条の主力軍を動かして上杉軍と上野近辺で大規模戦闘した場合、
関東の反北条勢力だって黙っちゃ居ないだろうし
しばらく我慢してりゃ政情不安から越後に帰ること解ってるわけだし
上野の豪族辺りもかなりフラフラしてたしね
ただ七尾城ゲット後の関東攻略で謙信が生きてたらどうなったか解らんな
その頃まで行くと上杉家の組織改革が結構進んでるから
織田は謙信の敵じゃないっしょ。
謙信死後も、御館の乱がなければ勝頼を率いて
信長を滅ぼしてたかも。
>>170 勝頼云々はともかく。信長は暫くは上杉は放置してたろうね。
畿内の完全制圧を優先させて上杉は朝廷辺りを使って牽制か?
謙信が生きてたら、近衛前久なんかも使えただろ?
血判誓詞交わした間だし。
「北越軍談」「春日山日記」にある謙信の挑戦状ってどうよ?
信長は「とてもかないませんので、上洛のおりに京案内役をします」
「美濃尾張2国だけはお助けを」とか言ってるわけだが。
>>172 謙信びいきの書物だし、
うまく謙信がのせられてるようにも見えて、ちょっと恥ずかしいよなその文
>>172 たぶん捏造だろうが、じっさいに信長は最初は謙信に
媚びへつらってるね。信長が信濃出兵を違約した時の
謙信の詰問に、相当へりくだったお詫びを返してるし。
東国のことはすべて謙信にお伺いを立ててたが、
しだいに関東勢や北信濃勢に直接書状を
出す(謙信を無視)ようになっていくんだな。
で、数年後に手取り川でぶつかる。
>>167 161だけど、関東出兵が1回しかなかったという意味ではなくて
同盟破棄後に1回しかなかったという意味だから。
上杉謙信のやったことならググれば出てくるかと思ったけど
1574年は上野・武蔵の城攻めた話しか見つからなかったもので。
1564年の常陸小田氏攻めなら見つかったのですが。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/10 00:35:34
>175
あっ、すいません。そういう意味ですか。
実際はたぶん東上野→下野→常陸 って移動したのでしょうけど
自由な関東出兵をやってみたいです。蒼天録の場合、武田の簔輪城が邪魔ですw
かといって、葦名、宇都宮と同盟して道を作って、唐沢山城と春日山と転封するのも、なんかイヤです。
葦名がイヤです。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/10 06:22:06
>>176 初レスです。参戦板は久しぶりですが・・・。
蒼天録ですか!やった事はないのですが、天下創生でもそんな問題がいっぱい
ありますね。
信長の朝倉攻めが京からできない。また信玄の小田原攻めができないし、石山本願寺がズレている為秀吉の中国攻めができないし・・・。
元亀年間、中国地方は浦上家とか織田方なのに従属していない・・・。
因みに天下創生だと謙信が、沼田城から宇都宮城に攻める事ができますよ。
でも常陸のお城には攻め込めません。下総の古河城までです。
それと史実とされている関東侵攻は三国峠⇒岩櫃・中之条⇒沼田⇒厩橋(前橋)⇒武州松山⇒川越⇒小田原⇒鎌倉で
やりたがっている下総侵攻は三国峠⇒沼田⇒厩橋⇒金山(太田)⇒館林⇒古河⇒多賀谷⇒小田です。
それと上野の大半は上杉家版図になっていますので、実際では何も問題はなかったと考えられます。
また榛名山以南の西上野は大部分が武田家版図ですが、北条家の飛び地も同時に所々残ってます。
蒼天録はワカラナイのですが、どうして蘆名家がイヤなのですか?
178 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/10 06:56:32
>177
おおっ!
くわしいレスどうもありがとうございます。
そういう経路だったのですか。
やはり、練りこみ方が甘いのか、史実では行われた事が出来ない、なんてことがたくさんありますよね。
その点で言えば、烈風伝が一番自由に動けます。
葦名との同盟がイヤなのは、北越後衆の戦略目標だからです。
烈風伝は北海道から鹿児島まで目標を設定できたね、そういえば。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/10 09:27:02
1560年代の関東出兵の他に
それ以前に沼田城入り程度の三国峠越えって無かったでしたっけ?
それにしても山から山へと
○○大橋とつく橋をたくさん渡り次の高地へひとっ飛びの
ショートカットのありえない当時は
一旦、下まで降りてまた次の高地を登るみたいな苦労も多そう。
宍戸錠が上条氏に婿入りしたら、
上条錠
天下創世の謙信も強すぎる、同じく軍神持ってる道雪も幸村も鬼のように強いが
謙信の場合幸村と違って時代のど真ん中でしかも道雪と違って騎馬が得意、
幸村は遅い年代での登場、道雪は槍なので足が鈍いのが救い、
謙信はまさしく鬼、家臣団は武田のがやや上だが。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 12:28:18
武田は異常に家臣が優秀
覇王伝なんて戦闘智謀高い奴だらけ
184 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 15:49:36
味方の大事な武将のクビを、簡単に切り落とし杉。
え、誰が?
186 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 20:15:01
柿崎の他に誰?
187 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 20:50:21
あじかたの領主って誰だろう?
黒田秀忠?
>>184 従来説では柿崎親子殺され滅亡したらしいだが、
景家没後に柿崎氏が衰退しただけで、のちの史料に子孫の名前が
あり、軍記物の勝手な想像という説が有力。
黒田は2回も裏切って謙信の2人の兄殺してるから仕方ない。
北条高広とか本庄繁長、相当の謀反した香具師ら許してるし、
謙信の弱さは、むしろ裏切り家臣を斬れなかったことじゃ?
繁長なんか、長尾藤景殺してカナーリ抵抗したのに許されてる。
信玄だったら、勝沼信元なんか内応の密書だけを証拠に一族皆殺し
そうだな、謙信は「切り落としすぎ」なんじゃなくて「裏切られすぎ」
戦は好きで得意で強かったけど、心が優しい人だったんだと思うよ。
謙信女性説が根強いのもわかるような気が。
早いうちに兄弟とか実子とかで権力基盤固められたら良かったんだけどね
後年子飼いの将や養子をあちこちに配置して領内を纏める事が出来たけど
親父の葬式を鎧兜で行なったくらいの不安定な地域だったんだから
仕方ないとは言える。
角川映画「天と地と」でのオモチャみたいな鎧を思い出しました
>>193 赤と黒のね。角川のでしょ。あの映画は宣伝だけ派手で、あんまパッと
しなかったような・・・。戦国最強と言われる謙信の“凄味”があまり
感じられなかったんだよなぁ。川中島でも武田軍が鶴翼の陣をショーの
ように見せつけてたし。敵の前で陣形ショーを披露するかってーの、と
突っ込みたくなった・・・。
確か、敵の前で陣形を変えてはいないはず。
あんま天と地との悪口言うなや。
「天と地と」はBGMとして流しておくのが宵
下手にドラマ性がないから、美しい映画として
貴重な存在。ただ、謙信の心が弱そうでなぁ
そういえば「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」てな
シッタカなテロップが出てたな
198 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 04:46:43
さすがに敵の近くで陣形換えの練習はしないよなぁ。まあ、
真っ赤なのが整然と動くのはきれいだったけど。それよりも
真っ黒なお経行進のほうがイッちゃっててよかった。
age
200 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 13:50:46
まちがえた、age
201 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 06:04:34
上杉謙信が攻めてくるなんて聞いたら震え上がる。
信長は謙信との戦だけは極力避けていたしね
とにかく当時は最もヤバイ奴だったのだろう
映画天と地とといえば、当時PC98で
コナミかどっかがSLGだしてた気がする。
おもろくなかったが謙信公主役のSLGてあれだけかな
204 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 13:57:13
age
205 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 14:36:15
実際問題、謙信ってどうなのよ?なんであんなに強いの?何故に軍神?
島津や毛利なら納得できるんだが、未だに謙信の凄さがわからない…
206 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 14:41:59
信玄と謙信は元々過大評価されていた上に、江戸時代に入ってからも上杉家が唯一の誇りである謙信公の”伝説”を流布し続けた
影響が無いとは言えないだろうね。
ただ戦以外はこれと言った業績も無く、また戦で勝っても領地は奪われてばかりだったことを考えるとそっちのステータスは大幅に
下げて然るべきだと思う。
まさに戦国の呂布だな
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 15:20:08
しかもショタだし
209 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:01:56
信長は、信玄と謙信、どっちを本当に嫌がったのだろうか
どっちも外交で、「俺なんかとてもかないませんよー」と言って持ち上げ、
それでいて家臣達には「あいつマジで馬鹿だな」と笑っている
が、謙信相手のが、激しい演技のようなので、謙信かもしれん
信玄ならちゃんと計算しているだろうから、まず出てこないと踏んでいたのかもしれない
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:23:48
信玄の行動はある程度予測できるだろうけど謙信は変人だからいつ何時攻めてくるか分からない。
その分だけ謙信の方が怖かったんじゃないかな?
謙信が強いのは、実際戦で実績があるからいいや。
まあ、100とかいう数値でも。
しかし、信繁があそこまでつよいのがわからん。
毛利勝永に値を分けていいような。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:30:28
信玄、氏康、そして信長との大々的戦がないのは皆戦を避けたから
言わば、無双で使えそうな戦がない
あと、謙信は越後の領土経営しか興味が無い
信玄との戦いも北信濃の豪族のためだし、
関東での戦いも関東諸大名と管領の為だし、
上洛も将軍の為だし
しかし、領土経営能力は低いとは言えない。佐渡もあるし
213 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:30:57
後先を考えない謙信
損得重視で戦う信玄
損得のみで戦う信長
>>212 氏康には国府台の戦いがあるじゃないか!
ちょっと地味だけど・・・。
あ、あとは川越野戦もある!
あれは桶狭間なんか目じゃないくらいの兵力差をひっくり返した大合戦だぞ!
やっぱり地味だけど・・・。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:37:01
地味ってか、あんまし知られていない
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 18:45:05
北条自体が地味だからな。
今川、武田、関東諸大名が一斉に襲い掛かってきたのを外交と合戦で跳ね除けた氏康は戦国最強!
北条には引きこもりイメージがつきまとうから、あんまし強いとは思えないのかも
218 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 19:13:28
引き篭もっていて関東の覇者になれたら神!w
つっても最初から関東あたりだし
220 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/14 19:30:01
元は京ですが?
・・・
川越は戦そのものがあったかも疑問ですが
オレ川越在住だが、河越夜戦ってほんと地味で知られてないんだよな。
川越市民でも知っている人のほうが圧倒的に少ないよ。遺構など
喜多院の近くに河越夜戦跡、みたいなこと書いてある棒が一本立ってる
だけだし、氏康が布陣した跡も残っているらしいんだがどこにあるのかも
ようわからんし。
唐沢山城では3万5000もいて、たった30人の謙信に負けてるしな。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:11:42
>たった30人の謙信に負けてるしな。
謙信が30人いるかと思った。
謙信30人なら
そりゃ余裕だなwww
激しく仲間割れして戦どころではないと思うのだが>30人の謙信
KENSHINがあと10人いたら
アメリカは日本に負けていただろう
ナンバーワンの謙信を決めようと争いだす謙信
そして一人のみ生き残る謙信
230 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 00:16:01
ゲイが30人集まったら輪になってセックス始めそう
謙信が天才だと言われるのは、寺で坊さんの修行してて戦のイロハも
教わってないはずなのに、初陣で物凄い采配振るったからだよ
233 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 03:23:48
謙信は剣も天才
馬上から3回切りつけただけで、信玄の軍配七箇所に傷をつけ、かつ信玄自身にも二箇所ほど手傷を与えている(影武者の荒井伊豆守がやったという記録もあるが)
>>206 あと、家康が謙信ファンだったのも影響してるかもな。
ダメモトで対武田同盟を申し入れた時、特に条件もつけずにあっさりOKしてくれたのが
よほど嬉しかったらしい。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 12:23:55
家康→あの名将がワシと組んでくれるなんて!
謙信→信玄倒されるんなら誰でも良いや
>>234 それはあると思う。
謙信・信玄の活動期は家康はまだ若かったから、強烈に強く見えたかも名。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 13:13:08
238 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 15:30:55
太閤立志伝の北条でやってて、対武田への塩止めを謙信に断られたときに氏康が言った謙信評、
「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない。やっかいな御仁じゃ」
って台詞が笑えた。
謙信は子供の頃から体格が大きくて気性が激しく
武士の子弟のやる相撲や太刀打ちのような遊びでは常に年上を相手にしていたそうだ
仏門に入ってもその気質は変わらなかったみたいだね
240 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 15:52:46
>>233 それを裏付ける史書はどこにもないんだが…
>>240 甲陽軍鑑はともかく、上杉家御年譜まで無視するのか?
242 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 16:06:18
>>241 その史料の中の一騎討ちを裏付ける一文を載せてくれ
「武田軍の囲みを破った上杉の家臣、荒川伊豆守(あらかわいずのかみ)は信玄に迫り、馬上から一気に信玄に切りかかった。
信玄はその瞬間軍配で太刀を振り払った。その危機を見た武田の兵が伊豆守の馬を槍で突き、伊豆守は敗走。信玄はようやく危機を脱した」
(上杉家御年譜・現代語訳)
これはむしろ一騎打ち説否定の史料だろ。荒「川」伊豆守が、信玄に斬りかかったわけだから
「然ば、萌黄の胴肩衣きたる武者、白手巾にてつふりをつ〃み、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜き持て、信玄公の床机の上に御座候所へ、一文字に乗よせ、きつさきはづしに、三刀伐り奉る。
信玄公たって軍配団扇にてうけなさる。後見れば、うちわに八刀傷あり。(略)後きけば、其武者、輝虎なりと申候」
(「甲陽軍鑑」品第三十二)
こちらが甲陽軍鑑
245 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 16:28:48
川中島でいえば、謙信も武田家家臣の向井某に槍を付けられてるよ
もっともこちらは謙信が一太刀で返り討ちにしたそうだが
双方の大将が直接交戦した記録がある(信憑性はともかく)珍しい激戦だったんだね
246 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 17:05:52
>>244 甲陽軍艦って丸写ししたやつ売ってるの!?マジ情報キボン
247 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 18:49:45
からage
248 :
激しく名無し:05/01/16 19:44:18
249 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:28:12
250 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 01:40:31
一体何?
甲陽軍鑑の内容や現代語訳の本なら図書館行けば見つかるだろ?
>>238 なんか前にどっかでみた
2ちゃんねらーへの評価と同じで吹いた
253 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 02:00:01
一騎討ちを誰がやったかはともかく、仮にも総大将が一騎駆けで
相手の大将に斬りかかるなど、褒められたことでは無いと思うが。
俺だったら恥ずかしいから他の奴がやった事にするな。
「期せざる儀に候と雖も、自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」
(謙信宛関白近衛前久書状)
>>232 当時の寺、特に禅寺は学校でもあったんだよ
勿論、軍事や政治についても教える事が多かった
坊主の顧問、相談役が多いのもそれが理由だし
寺からの出戻り組で活躍する人間が割と多いのもそれが理由
256 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 04:43:03
>>251 おまいは図書館で調べたの?売ってるか知りたかったんだが…検索しても甲陽軍艦はない。
図書館でしか見れないのか〜盗んだら犯罪。コピーするの嫌だ…図書館に売ってもらえるのかな?
講談に突っ込むのは野暮ってもんですぜ。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 11:12:17
オーシャンズ11
今ならヤフオクに出品されてるよ
(現代人の古典) 甲陽軍艦 編訳:吉田豊
>>256 そりゃ仕方ないよ
だってここにいるのは信長の野暮をやった人ばかりですから!
ごめんなさい、許して
261 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 14:22:10
どの作品かは忘れたが
謙信が騎馬で突撃したら攻撃力が×2になるっていうふざけた設定されてたことなかったか?
いくらなんでもやりすぎだろう
262 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 14:29:36
266 :無名武将@お腹せっぷく :05/01/16 23:08:45
太田資正が北条長国答えた話
「謙信の十のうち二つは大悪人で、怒りにまかせて事をなすのは非道。
残り八つは大賢人で、猛勇、無欲、清潔、大器量、廉直で隠さず、明敏、
下には慈悲、忠諫をよく聞き入れ、乱世に得難い名将」
武田信玄でさえも勝頼に「謙信のような勇敢な男と干戈を交えてはならぬ。
彼を頼って甲斐の国を保つようにせよ」と遺言している。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 21:16:45
烈風伝の話だが、上杉でプレイすると家臣が出世しにくい。
どうしても謙信が先頭に立ってバリバリ戦っちゃうから(そのほうが
効率がいい)家臣は功績を挙げにくい・・・。
267 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 12:09:22
謙信が強いと伝えられる所以は、自身の領国よりも国力が上を相手に
負けなかったこと。家督も相続してない時期(14-18歳)に
戦経験豊かな強敵を、しかも兵力数倍の相手に連戦連勝。
特に馬術では
当時「一に謙信、二に(本庄)繁長、北条、桃井負けず劣らず」との落首があったほど
手取川の戦い(1577年 8〜9月 七尾城救援 防戦攻撃 野戦 )
織田4万8000余 上杉8000余(騎馬精鋭部隊)
では双方が共に進んで3日後に対峙する距離を上杉が一日で駆けつけ攻撃
信長は夜明け頃、残存の兵をまとめて対抗しようとするが、
その頃には夜通しかけてやって来た騎馬以外の上杉軍の兵士達もこの地に到着しており、
そのまま圧倒されて軍は崩壊。
手取川の戦いなんて無かった
>>269 明確な根拠は何?
日まで明記されてるようだから、
その時の織田の大軍が何処其処で合戦していたから、手取川は無いとか
上杉の大軍が北条攻めやっていたからあり得ないとか、なんかある?
>>270 そもそもあったという史料は?
確か謙信が、北条親子に送った手紙に一部記載があるだけでしょ?
>>271 一般論であったとされているから、無かったと言い張る根拠を示せと
しているのだが。清廉潔白で有名な謙信の手紙があるなら
無かったする根拠は何?
>>272 まず、秀吉の無断退陣のみが織田家で問題になったのみで、北陸方面軍は軍事行動を停滞させていない
謙信が精練潔白というイメージは後世のもので、畠山氏を降伏させるために嘘や内応を長氏に仕掛けているなど、十分汚い手も使っている
自賛の手紙一枚で他の証拠が全く無ければ無いとしかいいようが無いなら怪しいのは当然
そういえば手取川の合戦で討ち死にしたとされる武将は一人もいないな
せいぜい睨み合っている間に、内部分裂を起しかけた織田が撤退したのを大袈裟に謙信が書きたてただけじゃないか
無かったと断言できない。ということか。
あったとも断言できない。微妙だねぇ、当時の二大勢力が激突したにしては、史料がなさすぎるのもおかしいし
そもそも手取川周辺は当時湿地帯で合戦には不向きだったようだし
家臣の嫁を、馬で引きずりころした謙信が清廉とは認めがたい
>>277 資料教えて
それと、信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼした後、
長政ら3人のしゃれこうべに金箔を張って(薄濃=はくだみ)、
それで椀をつくって酒を飲むとともに、長政の母親をなぶり殺したらしいけど、
これホンとだろか?
上杉謙信って間違えて味方攻撃して、そのまま城主殺しちゃったことなかったっけ?
あと家臣に暴行して離反されたとか
本当ならもう大暴れのいくさ馬鹿だなw
信長が本当に生首をくりぬいたドクロに金を塗った杯で酒飲んだとしたら本当の基地だよ。
いくら信長でもそこまでやるかな?
って事実はいかに?
文献明かさないのは、信用に足りません。
参考文献ヨロシク
283 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 18:14:10
今更、謙信の能力低下なんて有り得ない。お前らも実は謙信好きだろう?
謙信の能力が 政治90武力87知力71教養74 とかに成っても嬉しいか?
どうせアイテムや官位でがんがんに武力上げちゃうんだろ?解ってんだからさ。
もうね謙信てば水戸黄門なんだよ。いじっちゃダメ!
284 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 18:48:06
格さん助さんほったらかして
自分で悪党たたきのめす黄門さまなんていやだ
信長公記によれば
信長が浅井親子・朝倉の頭蓋骨に金箔張って諸将に披露したのは本当の話らしい
杯にしたんじゃなくて、酒の席でそれを見せた
>>284 そのうえ助さん格さんが裏切りそうだしな
>>278 この件に関しての史料は信長公記しかない。その記述によると、
宴席で三人の頭蓋骨に金箔ぬったものを「肴」として出した。
諸将はそれをみて多いに盛り上がった。
とだけ。
敵の首を前に勝利の宴なんてこの時代のデフォだし、金箔も死に化粧の一種とみれば
やはりこの時代の異常ではない。
杯にして酒を呑んだ、というのは戦後の小説の類にしか出てこない。はっきりいって
フィクション。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 20:13:17
手取り川の真相は、撤退している織田軍にたまたま謙信が居合わせ、
「なんだあいつら、俺を見た途端逃げ出しやがった。ちょいとおっかけてやるか」
と、少数の兵を追撃したものの、ダメージとしてはほとんどなし。
しかし謙信側には、「あいつらこんな簡単に逃げ出すなんて。ほんとは織田軍て、戦が始まればみんな逃げてくような兵なのか?」と映り、
織田側には、「あれ?帰ってきてる最中に少し兵が減った?まあわざわざ報告するほどでもないか」と映ったため、双方の食い違いが起きたってのはどうだ?
ケンシンはオメコ断ちしてたって本当?
>>288 1577年の柴田軍の目的は上杉軍に包囲された能登七尾城救援。
しかし加賀で梃子摺っているうちに七尾城が陥落してしまったので目的を喪失した
柴田軍は撤退しようとしたが、それより早く急行した謙信に殿が捕捉され被害を出した。
こんなところだと思う。
手取川って(あったとしても)お互いが陣をそろえた決戦ではないのよね。
信長からすれば、出陣目的ははたせなかったが、本隊はまっとうして帰還したのだから
それでよしとしたのでは。(撤退戦において兵に損害が出るのは当然。秀吉も金が崎退口
で兵の半数を失ったが、本隊は無事逃がしたので成功とされた。むしろ、柴田勝家は敵地
で撤退中に追撃を受けてそれでも本隊をまっとうしたのだから、相当の戦巧者だと思う。)
当時の織田の兵力はよく知らないのだが、それにしても50000近くってのは
だいぶ重いな。そこまで兵力を動員して敵地へ入り込みながら武将間の不和、
秀吉は身勝手に軍を離れ、そんなことやってるうちに七尾城陥落、何も
しないまま撤退、というところに追撃かけられて兵を失う。
これじゃ一体何しに行ったの?ってことになり、
>>290の言うようにさすがの
信長も「よし」とはしないだろう。
仮にこの戦があったとして客観的に考えた場合、七尾城救援の目的も果たせず、
戦闘でもほぼ一方的に兵を失った、これでは完全に負け戦だ。
視点が違うんだろ。
謙信は、軍がぶつかって兵をたくさん殺したから勝ち。
信長は、目的をはたせなかったから勝ちではない(信長公記に記述なし)。しかし
結果として領土は失っていないし(実際、加賀の領地も失っていない)、軍は健在
だし(追撃を受けて雑兵が溺れ死んだ-謙信の手紙-くらい)、つまり現状は変わって
いないならばこのまま柴田に任せておいてもよかろう。って判断かと。
現実に、1577年以降に信長から勝家に対して何か叱責や懲罰やら行われた記録はない。
そして逆に、不和から無断撤退(軍令違反)した秀吉には大きな怒りを見せている。
1577年の織田家の北陸における軍事活動は失敗だった、それは否定しようのない。
ただ、信長からすれば重要な土地を失ったのでもなければ決戦で軍が壊滅したのでもない
のだから目くじら立てるほどではなかったってことかな、贔屓目でみると。
でも罰を受けたのは、無断帰還の秀吉だけだよ
>>287 >敵の首を前に勝利の宴なんてこの時代のデフォだし、金箔も死に化粧の一種とみれば
>やはりこの時代の異常ではない。
その時代であっても異常でしょう。
敵であっても、敵将の頭骸骨に金粉を塗って酒宴の肴にするなど、
落城して自害した人に対して屈辱もいいところ。最悪だよ。
>>294 ではどうして、宴席に出席した人たちは「大いに盛り上がった」のでしょう?
そして同時代の人間は、このことを異常事として記述したり非難したりしなかったのでしょう?
小説では「諸将は内心異常だと思っていたが、信長が怖かったので表向き騒いだ」なんて
描写する作家もいますが、これこそ「現代人の感覚」ってやつです。
どうしても非難したいのなら、同時代(せめて江戸初期)でこの件を非難している
史料を挙げてください。
盛り上がったんだっけ?
引きまくってたような記憶があるんだが。
正確な記述希望。
>>297 信長公記より
一、古今承り及ばざる珍奇の御肴出て候て、又御酒あり。
去年、北国にて討ちとらせられ候、
一、朝倉左京太夫義景首
一、浅井下野 首
一、浅井備前 首
已上、三ッ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。
各ゝ御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。
>>296 家臣が信長の機嫌を損ねることが怖かったのでは?
浅井・朝倉双方とも京の獄門で晒し首
十歳になる浅井長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。
ネット検索するとドクロで酒宴は
天正二年の元旦の酒宴の席らしいのですが、
原文記述がないので判断できません。
浅井朝倉を陥落したのは天正元年。あの時代でも晒し首で終わりでしょう。
翌年にはドクロに金粉を塗って酒宴の肴にするなど、異常としか考えられない。
>>297 逆に、ひきまくっていたとする根拠と正確な記述よろしく
>古今承り及ばざる珍奇の御肴
前代見聞の珍しく奇妙な肴。
普通じゃないね。
>>299 だから、その「異常としか考えられない」というのが貴方と現代人の感覚なんです。
私だって、現代にそんなことが行われたら猟奇で異常だと思いますよ。でも、彼らは
現代人ではないのです。そこを見極めないと、本当に信玄や謙信や信長という人物を
知ることは出来ませんよ。
>>301 >各ゝ御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり
普段と違うものが出て、みんな喜んだわけだ。
>>302 当時でも「古今承り及ばざる珍奇」なのでは?
自分たちが生首さらされてたかもしれない相手が髑髏になったんだからな
戦国武士の感覚なら、喜ぶだろう
先年まで殺し合いをしていて、織田方も苦しめられていた過去があるしな
気持ち悪いね。
>>305 では、「あの時は信長が怖かったからふりをしていたんだ」という当時の人間の
文書を出してください。
もう一度いいますが、信長のこの行為を非難した当時の記録はないのですから。
信長の敵対者や、中立にちかい寺社、貴族、朝廷の記録にもね。
オイラの中では信長の残忍なイメージさらに更新
晒し首にした後、その首で遊んだなんてこと他にもあるのかな?
信長って良くわからん人間だね
家臣(秀吉)の夫婦喧嘩にわざわざ手紙書いて宥めたり
常盤御前を殺した祟りに苦しめられているという乞食のために絹を出して労わってやったり
かと思えば苛烈だしねぇ
って謙信どこいったw
>>311 信長が優しいと思わせるほんの僅かなエピソードだね。
秀吉はそんなの多そうだけど。
近臣たちがへつらって「このように強大になるとも知らずに平手政秀が自害した(政秀は若い時の信長の素行を改めさせようと諫死した)のは短慮でした」というと、信長は顔色を変えて怒り、
「わしがこのように弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。
自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそだ。古今に比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」と言った。
信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。
信長と言えば、2万人焼き殺したとか
男女合わせて510人を家四軒に押し込めて周囲に乾き草を積んで焼き殺したとか
母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、
あるいは槍と長刀で刺殺して処刑したや
122人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、
見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった等々。
残忍な大量虐殺の印象が強すぎて。
僅かに見せる優しさならドイツの大量虐殺した独裁者にもあった。
戦国時代という特殊な時代としてもだ
日本で女・子供関係なく上記のような大量処刑は・・・他に例がある?
謙信ゲームスレなのに…
スレタイ変更
信長のイメージが上杉謙信より強すぎる件について
信長は資料が多いから突っ込みどころも多いのだよ。
ところで謙信はあくまで義戦にこだわって領土を広げようとせず元の領主に
土地を返したら後は口出ししなかったり、将軍や帝に挨拶しにわざわざ二度も
上洛して寄進してきたりと、現代の我々からしても清廉なイメージがあるって
のは、当時としちゃメチャクチャ異常だったんだろか?
清廉と思いきや裏切りにあって嫌になって領主の座を投げ出して出家するつもりで
家出しちゃったりとかね。別に失政をして失脚したわけでもないのに支配者の
地位を投げ出すなんて他に聞いた事ないんだが。
>>317 越中・能登では自分のものにしてます。返していないよ。
謙信が個人的には義理堅かったりするが、大名としての行動は他とたいして変わらない。
>>314 神田千里氏曰く
「虐殺にあった民衆は侵略者を憎むのではない、守れなかった領主を恨むのだ」
信長だって平和にくらしている民衆を虐殺したのではない。軍事行動をもって敵対
した勢力と同じく軍事力でぶつかっただけだ。たしかにあれだけ殺しまくったのは
信長がダントツだが、一向一揆と相対した畿内の勢力はみな同じことをしているよ。
規模の大小が違うだけだ。
それから、裏切られたら預かっている人質は殺す。これまたこの時代の常識であって
家康だろうと’清廉な’謙信だろうと’凡愚な’氏真だろうと同じ事をしている。
秀吉などは、織田信孝から預かった母親、つまり自分を引き立ててくれた恩人の女を
処刑して、非難も受けていない。
現代の価値観で信長は残虐だから嫌いと感じるのは人それぞれだが、だから
「信長は残虐な人間だった」
と評価するのは間違いだ。彼は当時の常識に則って人を殺したに過ぎないのだから。
(たまに逸脱する例もあるが、だからって見境無く殺していたわけではない。政治的
軍事的な理由があって行っていたのだから)
319 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 08:45:47
320 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 16:55:00
>>318 降伏を認めた一揆を焼き殺したのは、当時としても異常。
ただ、一揆は武装解除したわけではなかったので、非難を承知で根絶やしにしようとしたのではないかという。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 16:56:05
で、閑話休題。
武将風雲録の上杉謙信はべらぼうに強かったが、シリーズ最強の謙信は
どれだろう。
>>321 嵐世記だろ。
統率125で軍神・突撃は強すぎる
最弱は烈風伝
323 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 17:39:43
>>318,320
親鸞の歎異抄の一節を思い出す。
「わがこころのよくてころさぬにはあらず。
また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。」
のちに自分の教えに溺れた妄信者らがたくさん殺されるであろうことを想定して、
粛清者のための弁明を用意してくれていたのではなかろうか?
つくづく親鸞の見識の高さに頭が下がる思いだ。
親鸞の言葉に従うならば、信長の行為も大いに肯定すべきだと思う。
>>323 「王本為法」だっけ?
蓮如の教えにも反しているんだよねあいつら
謙信って逃げ帰った上杉憲政に腹を立てて、人質の憲政の子供を皆殺しにして気を晴らしたとか。
>>321 全国版や無印じゃね?
武将の戦闘力の概念がなかったから、どこも同じ。
最近だと蒼天録も強くないな
>>310 欧州のほうじゃ、敵将の首を蹴って遊んだという話しを聞いたことがある
その行為が後のフットボールの起源になったとかならなかったとか
ひょっとしたら、自称イングランドから渡ってくる前からカルチョ(フットボール)はあった、と言い張ってるイタリアの話しかも?
烈風伝でも他に比べりゃ十分強いんだが、せっかく陣形戦があるのに
車懸かりの陣がないのが不服だ。
信長は若い頃にはまだ人らしい部分もみえるようだが
に入ってからの残忍さは際立っている。
天下とったた天皇だって殺しかねない凶暴性がある。
>>326 何に書いてあったか教えてくれよ。
憲政に子供がいたのかよ?
図書館で調べても見つからなかった。
嘘じゃないなら、文献示せよ。
>>326 憲政の子供殺したのは北条氏康だろが。
間違うにしてもレベル低すぎ
331の
>図書館で調べても見つからなかった。 は
>>326 >謙信って逃げ帰った上杉憲政に腹を立てて、人質の憲政の子供を皆殺しにして気を晴らしたとか。
を探しても見つからなかった。の意味です。
事実誤認だから探しても見つからないわけだ。
甲陽軍艦に書いてあった。
笑いとりたきゃもう少し頑張れよ…
史実かどうか知らんが、岩明均の「雪の峠」って漫画に
>>326と似た話ならあったが。
ただ、気晴らしのためではなく家臣に対してけじめをつけるためやったことになっている。
殺されたのは松山城主の息子達ということまでしかわからん。
あのさ、小説って多分にドラマチックに脚色してある。
マンガは小説を元にして書いてない?
史実織り交ぜてはいるがフィクッション。
それと、謙信と戦った松山城主は上田朝直、謙信は大勝したが、上田を殺していない。
息子たちも健在で長男長則があとを継ぎ、没した後は次男憲定が継承している。
>>334 今では北条が憲政を殺したとなっている。
天文二十一(1552)上杉憲政の子竜若丸、小田原で斬られる
甲陽軍艦の原文ヨロシク。
>今では北条が憲政を殺したとなっている。
訂正
北条は捕らえていた上杉憲政の子竜若丸の子竜若丸とその家臣を殺害
340 :
336:05/01/22 16:40:34
341 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 16:42:49
甲陽軍艦を信じるんだ…
342 :
336:05/01/22 16:57:58
上杉憲勝って生没不詳で
出自には異説があり、山内上杉氏とも深谷上杉氏とも言われてる。
謎の人だよね。
>『相州兵乱記』『国府台合戦物語』などに描かれているが、そこに登場する人物名には誤りが多い。
講談のための創作の人物という線は?
>上杉憲勝【うえすぎ・のりかつ】 生没年不詳
新蔵人。定正の子。扇谷上杉氏。松山城主。はじめ奥州にいたが太田三楽斎に招かれ松山城に入り、上杉謙信の麾下に入る。永禄6年(1563)武田・北条連合軍に破れ氏康の家臣となり、300貫を与えられた。
憲勝ってこんな奴のようだから、
みんなで必死になって救援に行こうってのに、
自分だけしゃぁしゃぁと寝返ったうえに領地まで貰って
コンニャローってことじゃ、
家臣やら、駆り出された国人衆に、示しがつかんだろ。
なるほどね。
松山城は天蓋の要塞。
長期間篭城に適している。援軍が迫っているのに
北条の和議に応じて敵の軍門に下るような人なんだ。
348 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/30 19:58:07
でっ話しを戻して信長の野望等のゲームにおいて謙信が馬鹿強い評価を受けて
いる訳だが、謙信の軍歴を見ても軍神と思えるほどのことは無い。
日本で唯一軍神の異名を持てるのは島津義弘を置いて他には無いと思う。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 20:23:28
立花道雪ではだめか?
当時の評価で他に軍神って言われた人いたっけ?
352 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 23:39:50
鬼小島弥太郎を登用するために仕官拒否されても何度も解放して
ようやく仕官させるのに3年かかったな。
村上義清達の願いは結局かなわなかったか。武田滅亡時にすかさず
信濃に侵攻して占領してしまう・・・ということは多分謙信の性格じゃ
やらないか・・・。
本能寺の時の混乱時でも侵攻しないだろうね
越後は為景時代から一向一揆と激しく争っていたので謙信時代まで
騒乱が引っ張られたが、謙信自身は仏教家で一つの宗派にこだわる事は
なく、一向宗も突き詰めれば同じ仏教だからということで特別否定して
いなかったようだ。上洛中に本願寺へ寄進したりしている。