1 :
無名武将@お腹せっぷく:
曹操は男子だけで、子供が二十五人いたとか・・
2 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 09:59:48
2get
3
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 10:20:34
4様
うまやらしいな。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 10:43:28
男だけで、二十五人だから女子も含めたら三十人以上だな。
英雄もせっせと子作りか・・・
8 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 11:33:58
それに比べて劉備は
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 11:45:52
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 12:29:22
孫堅・孫権親子も多いな。
司馬懿の父の司馬防もがんばったな。
歴史見渡せば、それぐらいざらだろ
側室も持てて、それ以外の女もいくら手をだしてもいいんだから
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 12:55:32
司馬懿の孫の晋の武帝司馬炎も25人と凄いど!
ただ、淫乱が祟って56歳で他界したケドね。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 13:01:06
>>12 やり過ぎて逝ってしまうなんて、情けないな。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 13:08:57
>>14 漢の中山靖王の劉勝と同じ。(前113年に54歳で他界)
劉備はその血を引いてるのかな?
ラムセス2世は100人超えてたらしいが・・・・・・
当時としては神の領域(70歳位?)まで生きたようだぞ。
周の文王も百人の子供がいたな。
百人目は墓場で拾ったが。
>17
百人の子供は演義の創作
実際、いたとしてもどこからか引き取って育ててた子供が大半
19 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 13:36:42
>>18 実子は、せいぜい50人未満ってことでは?
アショーカ王の兄弟は百人以上いたらしいが
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:37:56
曹操って自分の子供の事どう思ってたんだ。
お気に入りは曹植・曹沖ぐらいなのか。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:47:07
>>21 曹昂もね!曹丕のことは嫌っていたらしいけど。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:52:43
おいおい
徳川家斉は47人の子供と22人の隠し子がいたんだぞ。
曹操なぞ、元首としては少ないほうだ。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:54:07
曹彰も可愛がってたよ。
後継者候補としては眼中にないという前提でだけど。
【乱世に】曹操は子供多すぎ【姦通】
のがよかった
つーか、オトコはべつにどうってことないでしょ。
オンナがそれだけ産むのは大変だろうけど、それでもギネスには載れない。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:59:44
>>13 というより劉備はすぐ妻子捨てて逃げちゃうからな
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:01:15
1人で25人産んだわけじゃないからね
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:01:40
曹丕は候補者争いでは曹植しか追い落としてないな。
他の弟たちは特に被害を被っていないことから、年齢差があると思われる。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:07:56
これだけたくさん子孫残して、しかも結構優秀な人間がいたのに、
呆気なく司馬一族に乗っ取られた曹家はマヌケ。
豊臣家なんて暗愚な秀頼1人しかいなかったのに、
周りが盛り立てて、そこそこ抵抗した。
やっぱり忠節の国は違うね。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:13:56
>>30 魏の失敗は一門を徹底的に朝政から排除したこともあるな。
曹爽なんかは一門だったけど、血は繋がってない。
燕王曹宇が大将軍として、権力を握りかけたが孫資・劉放に防止されたな。
>>30 魏が司馬氏に乗っ取られたのは、三国時代の後半の話
その頃には、有能な奴は殆ど死に。マトモだと思われる曹宇は野心がない
抵抗した曹髦、王凌、張シュウ、李豊、夏侯玄、諸葛誕、カンキュウケンらが
同時に乱を起こさなかったのが惜しい
むしろ豊臣の方が馬鹿と思える
たった一人の跡取りを暗愚にするとは、局眼がなさすぎる
しかも愚か者の治長を重用し、信繁を始めとする者の言う事を聞こうともしない
忠節と言うより一度徳川に刃向かった以上、後には引けなかった気がする
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:18:45
>>24 確かに“黄鬚”といって可愛がっていたらしい。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:33:48
>>33 一説には曹彰の死には曹丕のが絡んでいるとか・・・
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:35:16
>>32 暗愚でも自分の子供(ではないらしい。俺もそう思う)が産まれれば、
後継ぎにするのは自然だろ。
そもそも秀頼は秀吉が死んだ時、まだ6歳だぞ。
6歳で暗愚かどうか分かるか?
悪いのは大野と言うより淀だろ。
最近ではフェミファシズムの影響で、おかしな事になってるけどさ。
冬の陣でヒステリー起こして和睦を結んでしまったのは淀。
大野が権力ふるえたのも淀の後ろ盾があったからだろ。
淀はお市と浅井長政の娘であり、異常にプライドが高かった。
だから真田などを田舎侍と見下して重用しなかった。
真田なんて「信濃一国与える」と言われても拒絶して戦ってるぜ。
それに対して曹魏のために反乱起こした人間は少なすぎる。
反乱も小規模なものばかり。
>>35 32だが、秀頼は大野治長の子だったっけ
三成説もあるが、三成は朝鮮出兵で淀の近くにいなかったらしい
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:43:06
>>34 毒殺説ね。学者の間では
極めて有力だとか…。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:45:20
曹仁や惇、張遼に程日立
この時期に死んだのはみんな曹丕の仕業って聞いたことあるんだけど。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:48:37
>>37 曹丕にとっては武勇のあった曹彰が脅威だったのか。
曹丕には兄弟愛という言葉は無縁だな。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:49:26
>>38 それは無いと思う。曹丕自身が彼等を見舞ったから。
もし、そうなら真っ先に曹洪を毒殺するハズ。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 15:52:55
曹洪の最大のウィークポイントは
筋金入りの吝嗇漢であったこと。
曹丕でもなくとも怒る人はいたと
思うが。
>>30 為政者が駄目なら有能なものが取って代わる
それが出来ていないのは恥でしかないと思うのだが
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 16:07:08
ここまで曹丕が暗く、陰湿な人物にみえるは演義や小説のせいかな。
いちおう、「典論(?)」という書物を後世に残しているが・・・
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 16:11:18
曹操チビのくせにやるな
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 16:20:14
曹操の子供たちの身体的特徴は全然わからないな。
曹彰の黄鬚ぐらいかな。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 16:25:44
>>38 曹丕を徹底的に悪く描いたエッセイでも読んだのでは?
華陀曹操という映画を観たことがあるんだが、そこでも曹丕は陰険な人物にされてた。
曹沖の病気を知りながら、打算のために見殺しにする役。
生涯で30人程度って、避妊せずに女も選り取り状態なら
ごく普通の結果なんじゃないか
妊娠できる状態の女性365人に毎日別々に1年間種付けすれば
翌年365人の子が産まれるんだぞ
(不妊、流産、双子以上の場合を除けば)
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 16:52:26
>>50 男の体力が持たないだろ。
曹丕と他の兄弟に相当の年齢差があることから、下の弟たちは天子推戴から、
河北平定の期間に出来た子供と考えられるな。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 17:16:31
もしかして
>>1は姦雄の意味をエッチな奴と誤解していないか
>男の体力が持たないだろ
ものすごいマジレス加減にワラタ
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 17:20:49
>>52 1ですが、誤解しないで下さい。そこまで私は凡愚ではないです。
カン雄は
奸・姦どっちだ
凡愚めが
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 17:33:27
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 17:59:34
結局、魏国内の諸王国の存在価値ってあったの。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 18:27:18
59 :
abex:04/09/20 19:33:14
武田信玄にしても織田信長にしても曹操も結局は後継者を育成しなかったのが問題だ。
徳川家康、前田利家は成功してる
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 19:38:59
曹操の子の曹丕は別に暗君ではないが
曹丕は秀忠よりは優秀だと思うぞ。
信長は後継者信忠と一緒にあぼ〜ん
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:01:16
むしろ曹丕は優秀すぎるから曹操に気に入られなかったぐらいだろ
曹操に似て現実的で頭のキレがよくて可愛げがない
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:10:42
>>64 25人の子のうち親父に似ていたってとこね。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:10:54
後継者の育成で失敗したのは
劉備・袁ショウ・劉表
あと孫権(まあ、比較的優秀と思われる孫登は早死にしてしまったが)
戦国ではやはりブッチ切りで今川義元と後は、豊臣秀吉もかな。
秀頼自体の素質はあったかもしれんがいかんせん淀君が・・・。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:22:11
歴史上、英雄から英雄はなかなか生まれないが曹丕は後継者として十分な
人物だな。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:24:28
>>59 武田勝頼はそれほど暗君ではなかったような。
軍事に関しては信玄以上だったし、内政に関しては信玄が何十年もかけて
整備してくれたおかげでほとんどしなくて済んだ。
問題は信玄が後継者を指名しないで死んだため、
勝頼なのか、その子の信勝なのか分からなくなってしまったため
家臣団の結束が保てなかったのが一番の原因と思うが・・・。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:40:30
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:58:34
曹叡は曹丕の後継者として十分だったのか。
祖父の曹操は幼い孫の曹叡に期待していたようだが
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 21:05:47
英雄の息子はたけし
〜村田家〜
なんつーか、ギャグを理解しない輩っているよね。
>>52とか。
74 :
abex:04/09/20 21:45:41
後継者が優秀かどうかでなく、
自分の死後も、その次の代の体制まで作っているかどうか。
_,,. -‐‐‐‐‐‐‐- 、
lヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
l } | | | | |
l } | | | | |
|ニニ''" ̄ ̄○ ̄ ̄`|
/ //  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
/ // ヽ
l:::::::| |. |
|:::::::| |: (●) (●) |
|:::::::| |::::::: \___/ |
ヽ::::::| |::::::::::. \/ ノ
もうみんな必死だな。
76 :
abex:04/09/20 21:48:13
ただ後継者が優秀かどうかでなく、
自分の死後、次の代の体制まで作れたかどうかという問題。
>>76 そういう意味では曹丕は体制維持をすることができた君主だな。
劉禅なんかでは・・・
78 :
abex:04/09/20 22:01:19
どうしようもない
どの国も結局は衰退するが、国の基礎を固めた君主の器量によって体制を
長い期間、維持することができるな。それを考えると曹操は偉大だな。
曹丕ももうちょっと生きてればね。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 23:54:45
>>80 肺炎のために226年夏に他界したんでしょ?
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 08:17:52
>>81 ある人が若い頃の曹丕に向って「四十歳に難があるがそれを越えれば長寿する」
と言ったそうだ。結局、難を乗り越えられなくて亡くなったが。
とりあえずageとく。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 16:22:15
おい、人が来ないぞ。
レス100いくまでに難があるがそれを超えれば長寿する
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 16:27:39
すでにこのスレの命数は尽きようとしている!生暖かく看取ってやるべし
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 16:30:10
誰か名医が居ればここを救ってくれるはずだが・・・
助かるためには一度スレを停止する必要がある・・・さすればスレは自然と伸びよう
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 17:27:15
太祖曰く「やってしまってからでは遅い事もあるのだよ。」
>>89 なに、キリのいいところ・・・100程で止めておけば良かろう。
七日程待ってみれば自ずと結果が見えてこよう・・・。
待ちきれず書き込んでしまった者は・・・・・・
斬れっ!!
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 20:34:09
すけべだね
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 21:33:48
なんとか100までいくかどうか・・・
このスレも見捨てられたか?
94 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 21:47:24
長子・昴
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:01:50
次子・樂
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:02:21
三子・丕
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:02:55
文皇帝 曹丕
任城の威王 曹彰
陳の思王 曹植
蕭の懐王 曹熊
98 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:03:34
四子・彰
燕王曹宇
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:04:16
五子・植
101 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:04:49
六子・熊
100逝ったな
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:05:34
七子・彪
104 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:06:23
八子・沖
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:07:22
九子・宇(彭祖)
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:08:14
十子・林(沛王)
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:13:40
十一子・中山の恭王 曹コン
100越えに貢献できて嬉しく思うよ。では。
>>108 貴殿のお陰で100越えをすることができました。
感謝します。
てかさ、偏頭痛持ちの人間があんなに子供作れるもんかね。
頭痛きたら辛くてセクース出来ないぞ。。。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:55:44
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:59:12
先月の荒らしの代表格だった“氏郷スレ”が懐かしい。
極端に凄まじかったが…。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 23:05:31
114 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 23:28:53
115 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 23:34:12
別に焦ってないよ。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 00:07:53
というか若年の放蕩時代の落とし子がまだかなり居そうな気がするんだけど
袁紹とさらって捨てていった花嫁を、あとから一人で囲ってるイメージ。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 19:45:56
曹操は家来の妻を寝取ったりはしてないようだな。
そういえば、妾とかって家来が町とかで拾ってくるのかな。
>>110 偏頭痛は呂布討伐戦より後のことですよ。
それも、いつものことではないらしいし。
大体は医者の手当てで治まったとか。
慢性的な頭痛に苦しんだのは晩年のこと。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 20:49:08
>>119 だが、頭痛だけで、死に至るとは思えん。
脳腫瘍でもあったのかな。
>>120 脳腫瘍か何かがあったから頭痛がしていたとおもうが
122 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 21:29:15
脳腫瘍だったら、頭痛・吐き気・嘔吐の症状がでるそうだ。
考えるだけで苦しいな。
華陀でも直せるかどうか・・
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 21:46:16
関羽の首と再会してから六日後に死亡。
当時の人でなくてもびびるよな。
完全な突然死だった事は、曹ヒが曹操の元にいなかった事が証明している。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 21:50:49
>>123 曹操が洛陽で死去した時曹丕は鄴に居て、曹彰が長安に駐留してたようだ。
その他の子供は洛陽か?
話は変わるけど、曹操の次男の曹鑠(相懐王)って
エピソードが少ないね。
曹丕の庶兄で曹昂の同母弟なのに。
なによりも字が不明なのが未だに謎!!
126 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 21:57:06
>>125 曹鑠は若死にしてますわ。字が残ってないのは元服してない為。
字は元服した際、父親からもらいます。(父が死去してるときは一族の者や自分が付ける)
死期を覚悟はしていたが、自分の葬儀に関して、
要地に配した司令官クラスの連中が任地を離れることを固く禁じていた。
葬服も葬式も質素に行うようにと、やけに具体的な指示を出してあったし。
曹丕が葬式を指揮ることで、必要以上にアピールして不相応な権力を握ることを憂い、
予防線を張っておいたとも受け取れる。
ま、曹丕はトップに立っても質素な生活で真面目に仕事をしたから、
親父さんの心配は杞憂だったかもしれないけど。
>>126 でも、曹鑠は息子と孫はちゃんといるよ。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 22:09:46
>>128 これは謎ですな。懐王曹エンの跡継ぎはなく、養子を迎えてるようだが・・・
元服前に子供がいるとは思えんな。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 22:11:00
>>123 御神木を叩っ斬った祟りだよ。生首如きで
ひっくり返るような姦雄なものか。
何人もの人間を生首にしてきたんだし。
字は必ず付けるとは限らないけどな。
これだけの権勢家の子息が字を付けなかったとしたら、少々不自然かもな。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 22:15:35
いま、調べたけど、曹鑠伝と同じような記述があるのは曹熊伝・曹協伝ぐらいだ。
彼らも子供がいるのに字が伝わっていない。
いちおう皇帝一族なのに・・・
字があっても知名度が低く、
正史を編纂するときには判らなくなってしまった
ってことも想像できる
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 22:25:00
陳寿の時代には曹一門の生き残りとかっていなかったのかな。
存在してたら、いろいろ聞き出せたはず・・・無理か。
>>133 曹鑠の字は不詳だけど、
もし判明されたら異母弟の曹丕と
同じように“子”はつくだろうか?
もう一つ、曹植(五男)には二人の息子がいる噂が
あるそう…。
長男が妾の子の曹苗で、次男が正妻の子で陳王の太子
となった著名な曹志(允恭)らしい。
これは、あくまでも確定はされてないが…。
曹志は少子(末子)と陳思王伝にあるから、兄がいる事は確かでしょう。
今『晋書』ひっぱりだして曹志伝みてみたら「魏陳思王植之孼子(庶子)也」とあるから
正妻の子っては怪しいな。曹苗は『曹子建集』に見えるけど。
曹操は子供多いと言っても半数近くが早死にしてるな。
亡くなった子供達は諡号で王を貰ってるが中には公子もいる。
産みの親の身分によって違うのか。
>>122 片頭痛持ちなら分かると思うがただの片頭痛でも嘔吐はある。
酷い時はのたうちまわる。
今みたいにいい薬もない時代にあれは勘弁だな。
どうせそうひには勝てぬ
楚王の曹彪(七男・当時は白馬侯)は、生来文才があるらしく、
異母兄の曹植とは最も仲が良かったらしい。
そのために曹丕から危険視されたらしい。
こんなエピソードがある。
亡父・曹操の葬儀の帰途の際に曹彪は兄の曹植と一緒に同行しよう
としたが、三兄の曹丕がそれを妬んで、許可されなかったとか…。
息子の名前が途中から動物シリーズになってるのは曹操が名付けるのが面倒くさくなったのか?w
楚王 曹彪・朱虎
ものすごく強そうな名前だな。
>>143 司従王允の甥の大尉王凌の存在自体が、
曹彪の寿命を縮めた。
曹彪の太子の曹嘉は父親が自決した後、
司馬氏によって、封地を転々として、
晋の時代に国学博士になった偉人で、
苦労人。
そういえば、王国に封ぜられても王は任地にずっといる訳ではなさそうだな。
王といっても仕事なんかなさそうだし、暇そうだな。
>>146 本家の皇帝から目付役が宰相として派遣されたはず。
むしろ、皇族は王でありながら針の蓆だったはず。
皇族間の親交も一切禁じられたために、晋の司馬氏に
魏国を乗っ取られたのだから…。
でもその司馬氏のこと考えると身内遠ざけるのも
あながち間違ってるとは言えないよね。
司馬氏は魏王朝が身内を遠ざけすぎたと考え要所に軍を持った一門を置いたわけだ。
結局それが八王の乱を引き起こす結果となった。
要は身内は近づけず、遠ざけずだな。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 08:46:30
>>144 王凌は決して王允の甥というネームバリューで出世した訳ではなさそうだな。
この事件は相当な事だったんだな。
なにせ、時の太尉と才能のあった王が結託した事件なんだからな。
>>150 その大規模の謀叛を逆手に取った
司馬懿の爺様が一万両役者として
上手ってとこさ!
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 09:54:41
>>151 打倒曹爽のクーデターから王凌の一件は司馬懿が司馬氏の繁栄を確実にするため、
最後の気力を振り絞ったように見受けられる。
>>152 司馬懿曰く“これで儂は孔明とあの世で仲良くできるぞ”…とか(笑)
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 10:53:15
司馬懿は諸葛亮の才能は認めていたようだな。
だけど、同僚で評価している人はほとんどいないな。
ケ艾を見出してるけど、司馬氏の右腕のような存在が欲しかったからだと思う。
魏諷…沛の人。字は子京。自称・魏王豹(西魏王)の末孫。
彼奴は、宗教の教祖みたいに大衆をマインドコントロール
が巧みな男。オウム教の麻原彰晃みたいなやつ。
だが、219年に漢の関羽と内通して、魏に造反を企てたが、
同僚の陳緯が、太子の曹丕にチクって、逮捕され処刑された
魔性の男。くわばら、くわばら…。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 11:06:36
でも、劉禅って暗愚て亡国の君主って言われるけど、孔明死後もけっこう国を
維持したよな・・・。
ほんとの暗愚だったら、孔明の死後に羽目をはずして、ヒイやらショウエンや
らを粛清し、国を滅ぼしていそうなんだが。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 11:10:51
>>156 劉禅は猜疑心の無い君主だったからな。
平和な時に皇帝になってれば、適当に臣下が盛り立てて体制維持はできるだろうな。
>>157 肉欲におぼれ、諌臣を遠ざけ、奸臣をはべらせ、国を荒廃させ、
結局は国をも失う暗君は数多いのに、劉禅が代表格に位置付けら
れるのが哀れで。しかも蜀なんて地方国家やん。中華丸々と荒廃
させた暗君は多いだろうに・・・。って、スレ違いやね。
しかし魏諷のように曹操存命中に謀反を企てるのって勇気いるよなあ。
麻原曰く“俺は魏諷を尊敬してるんじゃ!だから国松警視長官の
狙撃などを部下に命令したんだ、わかるか!土民どもよ”
…とほざいたそうな。
あ〜さ〜ば〜ら♪
ぎ〜ふ〜う〜♪
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 11:25:07
>>158 なにしろ諸葛亮が有名すきたな。
かなり激しく言うと諸葛亮の国を劉禅がだめにしたというイメージが
後世の人たちに残ってしまったのでは。(演義っぽいな・・・)
魏諷の師匠格の鐘繇が“例”の大事件に連座されて、
司従から大尉に降格されたそうな…。
そして、故・王粲の息子の王与と王焉兄弟や張繍の一人
息子の張泉も、造反の頭目格だったために共に極刑(処刑)
をされてしまった…。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 16:47:49
考えると三国の中で反乱が一番少ないのは蜀だな。
元々人材が少ないからな。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 17:59:55
名スレあげ
>>163 トップの劉禅が優しい人柄で、部下を大事にしたおかげかと。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 18:12:22
>>165 でも、成都と漢中で内部分裂してたからな。よく諸葛亮死後、何十年も
持ちこたえたもんだ。
まあ、諸葛亮が漢中に開府しなければこんな事もなかったが・・・
劉備はずーっと借家住まいで子供も少ない。
ある意味しっかりしてたんだなと思う。
だってテレビでやってる大家族なんか見てると借家でD)ry
領軍将軍・夏候献曰く
「俺は魏の征西大将軍の夏候淵の孫で右将軍の夏候覇の息子だ!」
「俺は魏の宗室として司馬懿の爺いや師・昭のオッサンらの跋扈を
許すわけにはいかん!爽・肇(曹休の子)やろうぜ!」…と(笑)
レスの皆さん、これは推測なので、スマソ!
「東呉華亭の民兵さん」にはよくカキコしてもらってるけど、
最近おかしなカキコが多いですね。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 18:49:30
そういえば東呉華亭といえば、三国志サイトでは有名ですな。
先ほどは申し訳ない。
東呉華亭の民兵さんの降臨を願う。
>>171。サンクス。誤解が解けてなりよりです。
確かに王粲の息子や夏候献に関しては理解できない
部分があったのは、申し訳ないと思う。
夏候献に関しては正史でも単なる夏候一族しか記されてないし、
王粲の息子に関しては一部の文書でその名があったのでレスを
しますた。
173 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 19:59:46
話は変わるけど呉や蜀の諸王は魏の王族のように行動に制限があったのかな。
>>173 漢(蜀)は皇族の数が少ないので、魏ほど規模は大きくないと思ふ。
ただ、劉禅の異母弟の劉永(自称鬼っ子?)は曹植みたいな存在だ
ったといえる。
呉の場合は、孫皓が即位してから皇族の制限が表面化したかも
知れない。
そのわりには息子をゾロゾロ王にしてるけど。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 20:46:54
孫皓は暴君といっても暗愚では無い。もし暗愚だったら皇帝になんか推薦されない。
自分が皇帝になる際、孫休の皇子を差し置いたから足元をすくわれないように迫害したのでは。
よほど神経質とみられる。
>>176 暗君ではないところは隋の煬帝とクリソツかな?
特に神経質な所が…。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 21:00:23
>>177 今、思うのだが我々だけでこのスレを占有してよいものか。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 21:03:03
誰か来るといいが・・・
181 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 21:36:12
・・・来ないな・・・
182 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 21:42:14
しんで!
>>1 劉勝の子沢山をなじれる立場かおっさんって感じだなw
184 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 21:56:53
しばらくsage進行でいくか。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 22:26:34
このスレも、もうだめだな。
>>186 お待たせしました。
>>183の答えです。
中山国の靖王(劉勝)は、司馬遷の史記、班固(班超の同母兄)の後漢書によると、
同母兄の趙国の敬粛王(劉彭祖)が厭きれるほど、酒や美女に溢れた甘美の生活を
過して、それが祟って前113年に54歳で他界した。彼の妾の数は百人近くいたと
いわれ、孫も含めて120余人の大家族を成したという。彼の年長の子の一人で
ある劉貞は陸成侯(陸城亭侯)に封じられたが、祭祀の税金未納の過度で叔父の
武帝の逆鱗を触れて前112年に、爵位を没収された。劉備はその分家出身といわれる。
また劉貞の兄弟は大勢いたので、そういう意味で血筋の遠い親戚はいたと判断した。
ただ当の劉備から見たら、一応血だけの繋がりがある他人という感じで
あったと思うし、彼等になんの親しみが感じない存在で、それが劉備挙兵
で親戚がいないという本当の理由なのかも知れない。
…とこんな感じでいいですか?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 00:52:03
189 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 00:59:33
>>187 フツーに知ってる人も多そうな情報ですね
それよりも
>>183のレスだと曹操が劉勝をなじってると書いてあるが、そんな話をおれは聞いたことが無い。
そのことを説明してくれないか?<183さんか東呉華亭の民兵さん
>>188 ああ、スマソ!
前半の部分は司馬遷の“史記”の“五宗世家”から参照しますた。
因みに趙王と中山王の生母は賈夫人で、景帝の寵姫です。
中盤は班固の“後漢書”を少し参照しますた。
後半は、自分の劉備の実家に関する推測的な感想です。
それでも、
>>183の解答になってなかったら本当にスマソ!
>>190 そういうことでなく、曹操が劉勝の子沢山をなじったと言う話の出所とその詳しい理由のふたつ
>>183に答えがあるとすればそれが答えでしょ
>>183で質問されてるわけでもないし、劉勝の子沢山も劉貞の爵位の没収も有名な話だし
だからなぜそんなレスをしたのかが意味不明だということ。
>>191 そういえばケン月影氏が描いた“三国志”にそんな事項が
あったのを今、思い出しますた。
確か曹操が劉備を詰る時に、八つ当たりするように劉勝に
責任転嫁すべく自分に棚を上げて罵詈雑言していたみたい。
>だからなぜそんなレスをしたのかが意味不明だということ。
それは
>>1さんのリクエストに応えたのが理由でふ。
>>192訂正。
>ケン月影氏→とみ新蔵氏の誤りですた。スマソ。
何で趣味系板なのにネタをネタとして取れない連中ばっかなんだろうなw
195 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 16:32:50
結構、夜中に書き込みしてくれたようだな。
話変わるけど劉備の流浪時に従った家来はみんな劉備の人柄を慕って
従ってきたと考えると、特に「劉」のネームバリューはあまり意味が無さそうな
気がするな。「劉」の姓を継ぐ者として漢王朝再興を旗印にしたのは諸葛亮を
迎えた時からだと思う。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 20:38:51
とりあえずage
どうでもいいけど、夏候じゃなくて夏侯な
東呉華亭の民兵ってやつなんかキモいな。
>>198 コテハン叩きはほどほどに・・・
みんな仲良くしてもらうと有り難いです。
201 :
曹沖:04/09/24 21:29:32
_,,. -‐‐‐‐‐‐‐- 、
lヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
l } | | | | |
l } | | | | |
|ニニ''" ̄ ̄○ ̄ ̄`|
/ //  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
/ // ヽ
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|:::::::| |: (●) (●) |
|:::::::| |::::::: \___/ |
ヽ::::::| |::::::::::. \/ ノ
ケの哀王曹沖からもお祝いの言葉を述べますよ。
後漢書じゃなくて漢書
204 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 21:59:23
>どうでもいいけど、夏候じゃなくて夏侯な
>後漢書じゃなくて漢書
意味が判らないのは俺だけ?
候=気候、斥候
侯=諸侯、侯爵
棒一本とはいえ、別の字で意味も違います。
夏侯氏の「侯」は棒が少ない方が正しい。
「後漢書」は後漢(曹操が生きた時代)についての史書で、
班固が書いた前漢(劉邦とか武帝の時代)についての史書は「漢書」。
>>205.
レスお疲れさんでした。もっと勉強しまふ。
中途半端な知識を披露したいだけの人にみえるよ<東呉華亭の民兵さん
208 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 22:23:59
誰かがカキコをするまでage
ちょっと教えてくれ。
ちくまの正史しか読んだこと無いんだけど、同一人物っぽいのに
名前が二種類ある人ってどういうこと?
例えば『曹良・曹幹』とか『曹林・曹豹』みたいな。
始皇帝エイ成って何人ぐらい子供いたかだれかわかる?
胡亥と扶蘇以外は全然わからん。
阿房宮には三千人を超える美女を集めたというぐらいだがら相当な子供がいたと思うのだが
曹操の子供たち
曹昂、曹丕、曹彰、曹植、曹熊、曹鑠、曹沖、曹據、曹宇、曹林、
曹袞、曹[王玄]、曹峻、曹矩、曹幹、曹上、曹彪、曹勤、曹乗、曹整、
曹京、曹均、曹棘、曹徽、曹茂。
>>209 よく判りません。
>>209の言いたい事は例えば
曹○またの名を曹△みたいな感じですよね。
>>210 そう考えるとそうですね。居たとしたら秦の首都カン陽陥落時に
殺されたりしたのでは・・・
咸陽陥落のときに殺されたと考えるよりは胡亥の即位の時に大半が誅殺されたと考えるべき
>>211.失敬です。中途半端な知識人の東呉華亭の民兵です。
自分はこう推測しますが…。
曹操の子供達。
曹昂、曹鑠、曹丕、曹彰、曹植、曹熊、曹彪、曹沖、曹宇、曹林、曹袞、
曹據、曹玹、曹峻、曹矩、曹幹、曹上、曹勤、曹乗、曹整、曹京、曹均、
曹棘、曹徽、曹茂。
…の順序だと思うのですが。どうですか?
そうそう
>>214 ついでに字とわかってる分だけでもいいので女子の名前も出しといて
プ
>>219 いや、勉強しても記録に無いものは判らないかと。
曹操の娘は清河公主と献帝の后になった曹節しか知らんな。
>>219.
曹操の娘は清河公主とは、曹昂と曹鑠の同腹の妹ですな。
夫は夏侯惇の次子の夏侯楙ですな。
たしか面白いエピソードでは、丁儀に嫁ぐ予定だったが、
曹丕が「丁儀は男前だが、中途半端の知識人に過ぎない」
といって、婚約が破談しましたな。そのため丁儀は曹丕
に憎悪を抱いて、曹植サロンのリーダーとなりましたな。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 00:28:14
落ち着いてage
曹憲、曹節、曹華…三人とも献帝の后妃
安陽公主…夫は荀ウン(荀イクの長男)
金郷公主…夫は何晏(金郷公主は同母妹)
思い出したのはこれくらいかな…。
>>221 それって丁儀が…眇だったからじゃなかった?
>>225.
>それって丁儀が…眇だったからじゃなかった?
“眇”ってどういう意味ですか?初めて聞きます。
教えてくらさい。
あ…それから金郷公主って、沛王・曹林の同腹の妹ですな。
確か“何魏”という息子を産んだような気が…。
>>226 あんたちゃんと自分で正史読んでる?どっかのサイトや本の孫引きで語ってない?
陳思王伝の裴注に引かれた丁儀のエピソードは
>>221とは全然違う。
そこで曹操は丁儀を「眇」と言っているのに。
>>227.
これはその“事項”ですね。
…清河公主の婿選びには、確かに丁儀が関わっていた。
曹操が丁儀を清河公主の婿候補にしようとすると、
三子の曹丕が「女性は容貌を気にするもの、丁儀は眇目なので
気に召しますまい。夏侯楙を婿に選ぶのがよろしいでしょう」
と勧めたので、曹操はそれに従ったが、後に丁儀の才能を知り
後悔した、というエピソードがある。
この一件からも、やはり夏侯楙は容貌に関してはかなり優れていた
のだろう。因みにこのおかげで、丁儀・丁廣兄弟は曹植サロンに従いて
しまうわけだったが…
要するに、丁儀が“隻眼”みたいな可能性があったこと物語っている
わけですね。
>>227.
でも、それではイケメンの夏侯楙の父の夏侯惇の
気持ちはどうなるのでしょう?
なんか“矛盾”という気がしますが…。
ああ、ダメだこりゃ。話が通じないわ。
言っただけムダだった。
ROMってる俺だけど、全然話が噛みあってないな。
なんなんだ?コイツは・・・。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 14:05:10
認知されずに曹の姓を名乗れなっかたものとかいたんだろうか?
233 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 14:11:33
>>232 他家に養子に出された子供も居るかもな。
そういえば楽陵王の曹茂は曹操に嫌われて文帝の時やっと王になったそうだ。
彼も子供が多いとか・・・
235 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 16:04:01
>>228 やはり夏侯楙は容貌に関してはかなり優れていた
のだろう
ちょっと違う。彼の養父はかこうとんだから。
曹丕の話は「婿が片目はちょっと、親父が片目ならまだ我慢できる」
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 16:43:57
お前ら見たんか
238 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 17:20:28
皆さん突然聞きますが、丁儀とかの記述があるのは三国志の
どこら辺にありますか。
質問なんでいちようage
>>238.
確か、魏史の“陳思王植伝”でしょう。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 17:51:13
>>239 おお、ありがとう。しっかり見つけましたよ。
丁儀は「魏略」の注にありました。
「典略」と「魏略」が同系(うまく説明できない)の書物だと聞いたのですが
どうなんですかね。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 18:01:18
男色ではなかったわけだ
243 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 18:14:27
>>242 と、言う事は「典略」という書物の一部の項目に「魏略」というのが
あるわけですね。
長い年月が経ってるから詳しいことが判らなくなるのはしょうがないな。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 19:02:20
凡庸スレage
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 20:04:39
だ、誰か・・・書き込みせぬのか・・・!?
246 :
曹沖:04/09/25 21:59:10
_,,. -‐‐‐‐‐‐‐- 、
lヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
l } | | | | |
l } | | | | |
|ニニ''" ̄ ̄○ ̄ ̄`|
/ //  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
/ // ヽ
l:::::::| |. |
|:::::::| |: (●) (●) |
|:::::::| |::::::: \___/ |
ヽ::::::| |::::::::::. \/ ノ
暇だな・・・
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 08:56:47
うーん。誰も来てくれないな。
なんとか主力メンバーが降臨してもらいたいが・・・
2chってこんなもんだ
自分で言うのも変だが・・・1はつらいよ。
そんなこんなで、250。
>>247.
そうだと思います。
劉備が臨終の際に、孔明を呼んで
「馬謖は趙の趙括のような机上のみの知識人に過ぎない、
決して実戦では使うてはならん、実兄の馬良が生きておれ
ばのう…」と馬謖には例外の厳しい判断をしています。
そのことは、街亭の合戦で証明しています。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 12:01:56
>>251 拡大解釈すると、諸葛亮の側近文官より、
地元や荊州出身の武官(魏延とか)を戦場において重宝しろということにもなる。
>>252.
そこまで、詳しくはわかりませんが、
劉備が魏延の勇猛さや統率力を評価したのは
確かでしょう。
例えば、漢中郡の南鄭城の太守に張飛が任命される
人事の噂がありましたが、劉備は漢臣の期待を裏切る?
ように、寒門出身の魏延を抜擢しました。
その後、魏延は劉備の期待に応えて征西大将軍・南鄭侯
に封じられました。まさに孔明に次ぐ三公を凌ぐ存在と
なりました。
魏延が温厚で協調性のある御仁だったら、孔明死後の軍権は魏延のものに
なったな。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 13:07:13
age
>>254.
そうですね。楊儀が存在しなければの話ですが。
正史の蜀史の『魏延伝』によると、魏延は楊儀の
命を受けた平北将軍の馬岱によって、数人の息子達
(名は不詳)と共に殺害されたとありますが。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 14:40:46
>>256 馬岱って謎な人物だな。馬超の従兄弟という知名度と、
反逆者魏延を討ってるのに字も伝わってないなんて・・・
さっきまで三国志呉書読んでたけど、結構手抜きあるな。
顧雍とかの伝がないのに憤激なんだけど
君の呉書にはないのか?
>>257 顧雍伝普通にあるっつーの。呉書の7巻。
およよ・・・六巻しか読んでなかったな・・・
ふつーーーに伝が立てられてたな。 スマソ!!
>>262 孫邵は丞相になっていながら伝を立てられてない人だったよね?
そうです。
だから顧雍と孫邵を勘違いしたのかな・・・・と思ったんですが、
全然見当違いだったみたいで。
失礼しました。
初代丞相にもかかわらず、
呉書に伝が立っていないばかりに、
ゲームにも未登場なままの孫邵無念なり・・・。
なんで陳寿は伝を立てなかったんだろ?
陳寿は呉の人が書いた「呉書」を参考にしたとか・・・(というか、丸写し)
この「呉書」は呉末期に書かれたものだから書く際いろいろあったそうで・・
(さっきの孫邵の件とか・・・)
267 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 16:11:44
>>265 ゲームは別としてやはり陳寿の呉への過少評価が原因では
そこら辺どうですか
268 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 16:47:39
誰かが来てくれると信じてage
269 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 18:19:37
名スレage
270 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 18:48:06
>>195 当時は名門だからとか由緒正しい血筋だからっていうのは
単なる付加価値って見解が強いように思う
袁紹だって名門だから兵力集められたみたいに思われがちだけど
そうじゃないし
現職として皇帝に直に仕える身となったり、建国したりするとそういう事は問われるけどね
呉の孫権の例もあるし必ずしも絶対的なモノなんかじゃなかったんじゃないの
魏延のことですが、以前から個人的には前漢の斉の哀王・劉襄
の中尉であった魏勃の子孫と信じていますが、誤りでしょうか?
一応、魏勃のことを知らない人にも簡潔に説明します。
魏勃は父が名演奏家で始皇帝に召されました。
彼は、青年時代に斉に訪れて、宰相の曹参に
謁見し、気に入られて悼恵王・劉肥の郎中となりました。
彼はその後トントンと累進し、太子の劉襄の寵臣となり、
中尉となりました。歳月が流れ、前漢の呂后が死に、
それを目につけた魏勃は、郎中令の祝午らと共に打倒呂氏
を斉王に煽りました。その後、頴陰侯の灌嬰らと共に目的
を果しました。でもその後、魏勃は灌嬰に召喚され、免職
となり、元の平民となってしまいました。
長文となって申し訳ない。魏延が叩き上げ出身というのは、
そういう事項があったのではないかと。個人的には。
もし、誤りならスイマセン。
それは面白いかも知れないけど空想の域を出ないですよね
>>272.
実際は判断するのにはむつかしいですね。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 19:40:29
>>270 確かにそうですね。家柄だけを頼って滅びた群雄はいっぱいいるからね。
孫一族は孫堅・孫策の努力、献身的な臣下によって孫権の呉建国で日の目を
見た訳ですな。
で、劉備の「劉」姓が有効に役立ったのは益州に入ったときぐらいですかね。
(いちよう献帝からも同姓だったから信任されてたけど・・・)
275 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 21:00:56
age
>>271 なぜ叩き上げ出身とそれが関係するんだ?池沼か?
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 22:55:31
>>276 まあ、憶測なんだし問い詰めなくてもいいではないか。
憶測っつーかもはや妄想だろ。魏勃が義陽の出身だという資料があるならともかく。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 23:03:01
全然曹操と関係あらへんやないかい!
>>279 脇に逸れたなと思ったら今の状況になってました。
前漢で魏姓の有名人なんて、思いつくだけでも他に魏豹、魏無知、魏相とかいるんだが、その中から妄想対象として魏勃を選んだ理由が知りたい。
魏豹の子孫は魏諷が確かそう名乗ったとか聞いたことあるような・・・うろ覚え
「魏」「呉」「韓」「趙」「周」「斉」「秦」「陳」
いずれも国名でもあり、姓でもあるな。
他に何かあるか。
ほとんどの姓は地名だな
地名と姓で探る、三国志もまた一味ありそうだな。
でも姓が全て地名なのかな。「顔」「夏侯」「劉」とかって地名出身では
なさそうだが。
曹操の話しようよ。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 00:03:27
おう!・・・なんか話題を提示してくれ・・・
で、マジに身長は161cmだったの?
290 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 00:11:40
いろいろな注解で曹操は背が低いといわれている。
武帝記をしっかり読んではないが、陳寿が書いた本文には書いてなさそうだ。
なにせ、太祖武皇帝の欠点になってしまうからな。
背が小さいというより足が短いって話じゃなかったっけ?
まあ外見は凡庸としてて当時の英雄っぽい妖怪みたいな外見じゃなかったらしいけど
>>291 足が短いのは孫権だろ?
正史にバッチリ書かれてた筈。
まあ、曹操の背が低いのは本当なのでは。
使者を迎えるのに替え玉使ったりしてるしな。
曹操が自分の容姿の威厳がないのを気にして
代役を立てたというのは「世説新語」にある話だが、
別に背が低いとは書いてない。正史にも身長に関する
記述はない。
「三国志演義」での身長七尺(161cm)という記述が
一人歩きして、「曹操の背が低い」という観念が一般化したんだと思う。
身長七尺が正史の中の記述だと思っている人も結構多い。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 05:25:24
>293
嘘付けやい。《世説新語》のそのエピソードに付けられた
劉孝標の注に、曹操の体格の事がちゃんと書いてあるぞ。
-----------------------------------------
魏氏春秋曰:「武王姿貌短小,而神明英發。」
-----------------------------------------
《魏氏春秋》に言う。
「魏の武帝は身体こそ小かったが、
精神の英明さは際立っていた。」
-----------------------------------------
いつの間にか出来上がってた張飛の虎髭スタイルじゃ
ねぇんだから、いくら演義だって、曹操クラスの人物に
関して、ソースの無い書き散らしはそうはしないっての。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 16:30:47
当時の平均身長はどれぐらいなんだろう。
161cmが低くて諸葛亮の180cm後半が背が高いのは
今の感覚と同じかな。と、考えると170cmぐらいが平均か。
程cだっけ?身長高いの。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 16:57:46
>>296 彼は190cm以上だったっけな。
他には満寵なんかも180以上の長身だな。
南蛮に3メートルくらいの香具師いなかった?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 18:02:51
>>298 三国志演義に登場する烏戈国出身の兀突骨ですかね。
身長は一丈二尺(2.7メートル)の怪人で烏戈国では人々は穀物を食べずに
蛇や獣を主食とし、体には鱗が生えていて刀や矢を通さない。
まあ創作ですがね・・・
300 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 19:02:07
いまのうちに300ゲット!!
世説新語って眉唾っぽいの多いと思う。
魏氏春秋は裴松之が批判してるな。
表現ばかりを潤色して事実に反するとか何とか…
>>301 「献帝春秋」「献帝起居注」「山陽公載記」
いずれの書物も裴松之は良い評価はしてないな。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 20:51:50
age
>>301 曹操はハンカチ入れたちっこい袋ぶら下げて、食事中に爆笑して
頭を皿の中突っ込んだりした
ってのは世説新語だっけ?
あれは嘘っぽい
305 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 22:12:45
>>304 あれって曹まん伝だったような気がしたけど・・・
まぁ『世説』って噂とか逸話、風説程度の意味だしな。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 00:18:26
いくら信憑性の低い書物でも「一説には〜のような事もある。」みたいな
感じに記録していった裴松之はすごいな。
まあそれが仕事なんだが・・・
308 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 03:52:56
>>307 2chでの書き込みにマジレスし続けたみたいなもんか。そりゃ凄いわ
309 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 14:12:10
曹操の息子リストある?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 18:56:10
曹叡元仲の父は中国魏王朝の始祖曹丕子桓(諡号は文帝)である。
元仲という字は、魏公国の方言で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。
歴史書によると、曹叡が母、甄夫人の腹の中にいたとき、
まだ華北の覇者だった袁紹の幕営が、敵対する曹操軍によって襲撃された事件があった。
身重の母、甄夫人は曹丕によって拉致されたが、傾国の美と呼ばれる美貌のため曹丕の妻となる
曹丕の夫人として男子を生んだので、「旅客」を意味する元仲という字を与えられたのだという。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 20:16:44
>>312 それは「三国志」にはとても書けない記事だな。
どこの出典ですか。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 20:26:55
中国ですから、半分は手違いでしょう。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 20:29:53
>>314 三戦板の住人は三国時代当時の人たちは好きなんですよね。
テムジンとジュチのパクリだな。
318 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 21:42:32
裴松之が書いているね。曹丕の子ならどうむりしても35歳しか
ならないのに、陳寿が36歳で亡くなったと書いてあるのがあわ
ないって。
このスレの主人公の曹操は、少年時代には札付きの不良
だったので“沛のうつけ者”と呼ばれたのでは…??。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 21:47:44
やっぱり魏は諸王公の権力を削り過ぎたな。
司馬一族の台頭があったのもその為ではないか。
燕王の曹宇や楚王の曹彪なんかは司馬氏の対抗馬として十分な器だと思うが
321 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 22:27:41
>>319 なにかソースがあるのですか。それとも妄想ですか。
323 :
呂布:04/09/28 22:51:33
∧
| |∧
/\∧/\ <∂__/
| l∩l | / ∨/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ミ#゚Д゚ミ / <曹操許さねー!
處__|___|二⊃ \_______
∪||∨| | /
/ ┃┃\
/| |∨ \ \
(___) (___)
>>321.
織田信長がソース。信長は岐阜城主になった時に、
正史“三国志”を読んで“曹操が自分の手本”と
いう記述の書物があるらしい。
だめだこりゃ。
>>324 えっと、君が偉そうにコピペしてきてる知識は三戦板住人の(ほとんどにとっては常識なの
その常識に加えて君のレベルの低い妄想を書かれてもしょうがないだよ
書き込む時はもう少し考えてから、こりゃだめだって自重してくれ。
なんでこう日本語が通じないんだろう
コテハン叩きはほどほどにと言いたいが、東呉華亭の民兵さんの乱れぶりは
見逃せないな。
とにかく、あまり過剰にならないように語ってくれい。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 19:16:46
>>312 それを考えると、どう考えても曹丕は曹叡の事を快く思ってないな。
実際、曹叡の弟(異母弟)の曹礼に後を継いで欲しいと望んでいたとか
>>312 ジンギスカンとジュチみたいなもんだな
>>329 快く思ってるんだったらさっさと皇太子にしてるだろうしなあ。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 19:35:28
>>330 なんでも曹丕は彼を死の直前に皇太子のしたとか。
大魏帝国の為、私情を挟まない判断をしたのだから、まだ良君だな。
曹丕は個人としては性格に大問題があったけれど君主としては良君だよなあ。
333 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 20:15:48
曹丕は文学の地位向上に貢献したし、統治能力も悪くない。
さしずめ、文治の皇帝だな。それゆえ、父の曹操にも負けない武の力を誇示するため、
呉遠征に赴いたが成功せず、それが結果的には自分の死で失敗に終わってしまった。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 21:05:48
age
335 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 22:20:52
だ、誰か・・・誰か来ぬ・・・のか・・・!!
336 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 23:47:33
(´・ω・`)ショボーン
誰もいない・・・
へ ん じ が な い
た だ の ほ う ち す れ の よ う だ
338 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 08:35:06
>>301 魏氏春秋とか世説新語とかって事実を曲げているというが、
それらの書物は歴史書なのか。
なんとなく大衆受けを狙った風にも思えるが。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 09:17:24
確かに中国の文豪、郭沫若はかつて語った:
曹丕は君主として、唯一の欠点は短命だった。
彼が長生きさえすれば、司馬氏の反乱もあり得ない。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 09:22:33
>>339 曹丕が長生きるれば、曹操から受け継いだ魏の地盤を磐石にすることもできる。
ある程度の一門の政権からの切り離しはしかたがないが、司馬氏が一気に
台頭することもなく、運がよければ、呉征伐に勝利したかもな。
漢朝だって、皇帝が早死にしてまだ幼い子供が帝位についたりで
外戚や宦官が実権を握るようになったのが衰亡の一因だもんね。
大体の王朝って始まってから4,5代目の君主が隆盛を極めて、その後
必ず暴君・暗君が出現するな。
曹操は外戚の勢力に全く権力を握らせなかったな。漢の二の舞になってはならんと
思ったか。(というか実際、自分の目で漢の没落を見てるからな)
>>319 > ??。
年寄りの特徴的な書き方だな。
>>343 ん?あまり気にしてはいけませんよ。(その話題に触れると・・・)
>>341 皇帝の力を絶大にすると、皇帝に媚びる者が力を得て、臣下に権力を一極化させても
臣下が皇帝より権力を持つようになる。
結局は皇帝の器量か・・・
魏は上の方式(?)に当てはめると、どっちだ
346 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 12:16:55
>>339-340 仮に文帝曹丕が長生きできてたとしたら、
次を継ぐのはやはり燕王曹宇なのかね。
明帝曹叡が史実通り短命で、子が無いとして。
でも、曹操による能力本位人材登用主義に始まり、
曹丕・曹叡による身内・側近だけでの上層固めに至る、
いわば「早すぎた皇帝独裁制」は、司馬氏のクーデターに端を
発する「六朝豪族・貴族制」とは早晩衝突する運命にあると思う
から、仮に曹丕が長命でも、魏朝の崩壊は不可避だったかも・・・。
放っといても、劉放や孫資みたいなのが専横しだしたと思うし。
>>346 燕王の曹宇がすごい寵愛を受けたのは曹叡からだな。
二人は若い時から共に行動したというから同世代か。
曹叡は同時に劉放・孫資も重宝(二人うまく曹叡に取り入ったから)している。
寵愛と重宝で使い分けか。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 21:42:39
ageときます。
曹操に比べ秀吉は……
350 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 22:04:20
同じ英雄でも格が違うな。
>>1さん。
せっかくスレタイを立てたのだから、
あなたも自分の意見をカキコしたら
どうですか?曹操に関してですが。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 23:01:03
↑そうだそうだ!
↓宋だそうだ!
>>351-352 いやいや、失礼。書き込みしたりしてたのですが、「1」と入れ忘れたり
してしまって・・・
ご要望があるのならば、常に「1」と名乗らせてもらいますが
>>1.さん。
ご安心ください。あの東呉華亭の民兵の
ヤツは2hからアボーンしましたから。
やつは元の東呉華亭に逃亡しましたから!
東呉華亭の民兵が撤退した後に出陣するのもなんだが・・・
あ、それと質問があった場合はageといて下さい。
三国の皇帝で子供の数が一番多いのは曹操なのか?
>>357 男子に限ったら曹操がダントツでしょう。女子も含めても子供の数は一番多いと
思うが。
あと、孫堅・孫権親子も比較的多いですね。孫策も長生きしてれば、
10人ぐらいは子供ができたと思う。
実は曹植は曹操と夏侯惇(♀)の間に生まれた子。
孫堅はそんな多くないだろ 男子5人だろ。
孫権も男子は7人。孫和が4人?、孫皓がわからない
劉備が3人、劉禅が7人
夏侯淵も7人の男子 ショウ・覇・称・威・栄・恵・和
あの時代じゃ、5人以上は普通だね
>>360 劉備は長坂で娘二人を捕らえられたとか。
曹仁の弟の曹純の伝に載ってたけど。
荀ケの親父も男子は八人の兄弟で八竜と呼ばれた
馬氏の五常、司馬氏の八達、荀氏の八竜
やっぱり名士でも側室や妾がいるから、複数の女性と妻帯している場合は
五人以上は一般的と考えていいと思う。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 15:33:24
age
366 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 18:09:12
魏の一族に対する政策(冷遇・規制)は文帝が決めたのかな?
王公を規制するぐらいだったら、曹操も子供なんか25人も作らんだろ。
367 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 19:46:01
皆さん!
>>1.さんにどんどん質問しましょう。
このスレタイが盛り上がるよ!
レスアンカーの後に「.」がついてる奴は東呉華亭の民兵・・・?
>>368 無視しろ
といいたい所だが、ひとつだけ言わせてくれ、スレタイが盛り上がるってなに?
>>369 スレッドのタイトルが盛り上がる・・・!?
変ですね。変ですよ。
まあ、いろいろ語って盛り上がって下さい
371 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 21:07:21
で、誰か語ろう。
曹操の父の曹嵩だけど、なんで「三国志」では彼の出生を
明らかにできないのだ。
曹嵩がどういう人物かも分からないし、曹操の弟たちの事も一切触れてないな。
陳琳の檄文では乞食の子供を連れてきたことになってる。
曹操はそれを否定していないぞ。
ああ少し言葉不足だったな。
檄文では曹騰が乞食の子を養子にした、というようなことを言っている。
それとあわせて、曹嵩の実家と言われる夏侯氏も、惇・淵の親世代のことがまるで書かれていない。
曹仁たちの親は高官なのに。
>>373 曹嵩は宦官の曹騰の養子に入る前の姓は夏侯だったな。
陳舜臣著の「曹操」によると、夏侯家と曹家は縁戚関係だったから、
養子に迎えたとか。
でも、曹騰には兄が三人も居る。そこから養子を迎えれない理由があったからかもな。
曹仁・曹洪とかも兄の一族出身だったりして。
>>375 >曹仁・曹洪とかも兄の一族出身
いや実際そうだから
曹騰の兄の子孫
曹騰の兄たちの一族は揃って高位高官になっている
もちろん曹騰のコネ
377 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 22:53:22
>>377 ああ・・・私はここのスレ主ですよ。
誤解しないで下さい。
379 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 22:59:44
380 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 23:13:32
>>379 なんだこりゃ?
ウィルスじゃねぇのか?
PCが滅茶苦茶になったぞ!この野郎!!
382 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 23:17:19
画面が飛び散って、ロクに操作もできなかったぞ。
気をつけてくれよー!!
ふむ。2chの直リンは危険だな。
皆さんも気をつけて。
>>382 URLでわかるだろう。。
何でも気軽にクリックしちゃだめぽだよ
385 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 23:31:32
ひっかかるほうがわりぃんだよバーカ
曹操と関係ないけど劉禅って最初のほうはまともというか
孔明にとってやりやすかったと思うよ。
自分の才能のなさを理解して孔明に任せるってだけでもいい判断だと思う。
ただ後半宦官にやられたのが一番だめぽ
沢山の子持ちに貧乏が多いのは
やることないからSEXするって聞いたんだけど本当?
>>387 曹操の場合は「英雄、色を好む」で勘弁だな。
貧しい家の場合は子孫を残す為とかもあるよ。
>>387 田舎の人に早婚が多いのは遊ぶ場所が少ないから(ry
というのと似てるなw
ものすごい勢いで田舎が酷く言われてるな。
>>386 確かに諸葛亮に権力が一手に渡った事は孔明自身にとっては非常にやり易かったはずだ。
だが、孔明の肉体がその激務に耐えられなかったな。北伐を連年行ったことも
国家も孔明にも疲弊が早まった。さらに孔明が設置した漢中府の影響が彼の死後、
政権の二元化として蜀の団結力を奪った。もっと不幸なのは劉禅が温厚過ぎて宦官の黄皓に
朝政を握られたことだ。
結局は、漢王朝再興の為、孔明の権力を絶大にさせ、北伐したことが蜀の滅亡の
一因であることは間違いない。
名スレage
今日は人が全然来ないな。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 19:12:40
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 19:46:25
>>393 ∩曹∩
(´・(エ)・`) そんな事実言わないで…
(| |)
し―J
396 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 22:44:09
皆さん!なにか語りましょう。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 02:40:47
閨の秘術でも語っておくんなまし
バスタブの淵に男性が足を外に向けて腰を掛けて女性が上に乗る、これを『背水一戦』というのじゃよ
沸き立つ水蒸気がいい感じなんだそうだ
399 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 07:47:00
>>398 昔でも房中術とか媚術とかっていうのがあったそうだな。
昔の英雄はそれで快楽にふけったのか。
>>397-399 曹操の話をしてくれると嬉しいのだが・・・最近、このスレ盛り下がってるからな。
語ってくれる有志を求めます。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 16:04:04
いつの間にかスレタイと違う話してる気がする
>>401 スレタイは「曹操は子供多すぎ」だけど、曹操ネタでもいいし、三国の英雄の
子供にまつわる話ならいいですよ。
>398
>バスタブの淵
「バスタブのえん」って読んじまったじゃねーか!
フチは縁だろーが!
今は中国の人口大杉って事になってるけど
三国時代当時も日本の戦後みたく10人兄弟なんて珍しくない みたいな感じだったのかな?
当時の中国の人口ってどれくらい?
詳しい友達は一億もいなかったんじゃないかって言ってたけど
>>405 >詳しい友達は一億もいなかったんじゃないかって言ってたけど
私もそう聞いています。三国時代は戦乱や飢餓で人口が減少したともどこかで
聞いた事があります。
あの時代はまだ、江南地方はまだフロンティアみたいなもので、戦乱で中原から
逃れた人々もいたがまだ人口は少ない方だったのでは。
三国以降から「中原を制する者が全てを制す」ではなくなったのも人口が南方にも
増加したからでは。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/03 19:55:23
age
曹操はエンショーとどれくらい仲良かったんだろうね。
花嫁ドロとかやらかしてるから悪友って感じだったのかな。
でもエンショー側から見たら、やっぱ「宦官の孫と遊んでやってる」
みたいな見下しはあったんだろうか。
>>408 袁紹の出自を理解してない典型的な意見だな
曹操と袁紹が仲良かったのは同じ濁流派の人間だということがある
見下すことなんて有るわけあるまい
袁本家の嫡流筋に生まれながら妾腹であるために嫡子とは認められず、
後嗣の途絶えた叔父の家に養子に出された袁紹に劣等感こそあれ、
エリート意識なんてものがあるわけは無い
袁紹が濁流ってのがよく分からん。
宦官の引き立てで官職についた人を濁流というのではないの?
>>410 濁流派は宦官そのものや彼らに推挙された人物たちです。
宦官の曹騰の養子で曹操の父曹嵩が宦官とどれぐらいの仲かは分からないが、
祖父が濁流だったのは確か。
当時の官僚はなんらかの形で濁流派と交わるわけだが、袁一族は濁流と一定の距離は
あったと思う。
そもそも「袁紹が妾腹で叔父の家を継いだ」ってのも疑問視されてるところなんだけどな。
>>412 袁紹・袁術の対立も出生に問題があるらしいな。
どちらも家柄を信用し過ぎたのに敗北の理由があるのだが
>>411 官位を売り買いするのも濁流派
曹嵩も売官で大尉になったので濁流派になる
>>414 曹嵩は金で太尉になったけど、メリットなんかあったのかな。
曹騰から受け継いだ権威をより一層高める為だったのかな。それとも息子の
曹操の為?
>>409 でもそれで袁紹は本家の嫡子になったんだろ?
自分を濁流派だなんて全く思って無いと思うが。
>>416 養子で本流の家を継いだとは言え、なにか生みの母が妾腹だったりして、
なにかとあったたんだろう。で、同じ境遇に近い曹操と気が合ったのでは。
補足
袁紹が濁流派になる理由は梁翼と結んで権勢を高めた袁成の家を継いだことにある
袁安から始まる汝南袁氏の正統と目される袁湯の後嗣を継ぐのは本来は袁成であったが、(漢書には袁成の上に
早くに卒した長子平がいたとされる)袁成が早死にしたため、次男(三男?)袁逢が汝南袁氏の正統となったとされる
袁紹は袁成の実の子という説と袁逢の妾の子で袁成の家に養子に出された説がある
袁成は三公就任することなく卒しているが、 汝南では袁逢以上に支持されていたともいわれる
袁本家の後嗣を継いだはずの袁術がこれを嫉妬したと言われる
さらに最初に述べたように袁成は梁翼と関係していたといわれる
後漢の大宦官曹騰は梁翼と組み桓帝擁立に貢献した人物である
以上のことより、曹操との関係は明白なことである
袁氏には宦官もいたしね。
袁紹が外戚の大将軍何進に近づいたのも宦官を憎んだのも
梁翼をクーデターにより自殺に追い込み、権力を手に入れたのが中常侍だったことにもあるのでは
>>420 宦官という卑しい身分の人たちが権力を握るのを士大夫として許せなかっただろうし、
四代続いて三公をだしてる自信と誇りが打倒宦官に走らせたとみてもよい。
なんにせよ、肉屋上がりの何進に近づいたのは大将軍の権威がある彼を利用しただけのこと。
袁紹に士大夫としての誇りはないよ
高祖袁安が外戚にも宦官にも賄賂にすら頼らず、司徒にまで登り詰めたことを誇りにする生粋の清流派の家でありながら、
父袁成は外戚梁翼に近づき、自身も同じく外戚何進に近づいたことがなによりの証拠
特に宦官が台頭し始めたのが、たしか桓帝(それ以前より宦官の影響力はあったが)の時以来だ。
どうしても宦官勢力と付き合いをしなければならないけど、袁一族はあまり手段を選ばなかったようだな。
いや、汝南袁氏で直接、外戚や宦官と組したのは袁成と袁紹だけのようだ
そういうこともあるから袁術は袁紹のことを認めなかったんじゃないのか?
みんな汝南袁氏とかっていってるけど、なんなの?他の袁氏もいるのですか。
三国志には基本的には汝南袁氏しか出てない
四公三世の最初の一人である高祖袁安を端とする袁氏のこと
葛氏の内、諸県に移動した氏族を諸葛氏と呼ぶのと同じ
さらに言えば、古代の王族が封地の地名を姓にしたのと似たようなもの
ただ、姓が変わらないだけのこと
話変えて悪いけど、汝南と潁川の名士の実力はどっちが上なのかな。
>>427 個人差もあるし、所属グループにもよるだろ。漠然としすぎててなんとも言えん。
袁紹陣営の名士のグループが知りたいです。みんな汝南・潁川地方の
家臣が多いような気がするが。
>>428の追記
袁渙曜卿は陳國袁氏と呼ばれる氏族にあたる。袁安ももともとは陳國袁氏だったから同じといえば同じ
潁川の名士は荀氏(代表荀ケ)と陳氏(代表陳羣)
潁川と汝南の名士の優劣と言われても決めがたい
>>431 後漢から三国に至るにあたって群雄たちはこの潁川と汝南の名士を争って招いた
そうだな。荀ケ・郭嘉なんかは一度袁紹の元へ行きその後曹操に仕えてるな。
仕える君主の器まで見極めるとは流石だな。
>>433 確かにこんなに袁氏に詳しいサイトは始めて見ました。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 01:14:17
曹魏における司馬氏のクーデターは、
濁流vs清流の最終決着点と言えるのかも。
そして時代は権勢化した清流=六朝貴族へ。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 02:19:40
>>436 荀彧の悶死なんかも、結果的に
清流vs濁流の表出の一つだとも言うな。
だが、曹操は魏王朝の中からは濁流派を生まないように努力しただろ
結果的に簒奪なんてのは能力至上主義からいけば、その後の治世のがよくなるなら必要なことだしな
曹操は墨子的な考え方をした人間だったと思う
>>438 >魏王朝の中からは濁流派を生まないように努力
けど、司馬氏になびいた弘農楊氏や潁川荀氏は
魏末〜西晋初に思いっきり濁流化したけどな・・・。
>>437 清流・濁流というより、漢王朝再興を目指した士大夫としての限界を感じたのでは。
荀ケは曹操陣営に来た当初は「わが張良」と信頼されたが、賈詡・郭嘉の方が漢に執着が
なかったし、荀ケと曹操は漢王朝のあり方で揉めてたのでは。彼が表向きの尚書令に
なったのもその為だと思われる。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 18:44:31
>>439 いかにも司馬氏が悪玉みたいな扱いだな。
>437
そもそも清流・濁流てのは清流派から見た目線の話で、
王朝から見たら奴等はただの党人なんだけどね・・・。
結局、後漢から晋に至るまで、自分の属する派閥の利益のために
動いていたに過ぎない。
>>442 士大夫たる者、主に仕え地位と名誉がほしいだろう。
なかには世俗に背を向けどこにも仕えずそれだけで、名声を得る者もいるが
大半の士大夫は出世したいと思うだろう。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/04 20:12:20
age
445 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 13:33:22
保守しときます。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/24 21:19:19
みんな、曹操の事を語りたいならここで語ろう。
このまま、過去のスレとして放置して良いのか。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 20:30:02
保守andあげ
448 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 02:42:12
久しぶりにこの板覗いたんだけど、張清って誰?
449 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 07:25:35
董卓配下の張済?
>>449 違う 魏陣営らしい。
清→静だった
正史にも見当たらないし
451 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 15:10:39
う〜ん…聞いたこと無いな。彼の出典は何?
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 17:47:35
う〜ん…分からないな。
454 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 20:56:15
つーか、曹操子供多すぎだな。激務なのに・・・タフだな。
>>454 チビとか貧相とか偏頭痛持ちとかハンデ背負いつつ凄いよな
実は曹操3人くらいいそう
456 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 21:18:56
曹操が匈奴の使者と謁見する時、端正で偉丈夫な崔エンを影武者に起用した
そうだな。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 21:30:06
水滸伝にはいるけどなぁ>張清
水滸伝まだ読んだ事ないな・・・北方さんの水滸伝はおもしろいのかな?
末っ子の曹カンと曹丕ってどれくらい歳が離れてるんだろう・・・。
27、8才くらいか?
そしたら曹操死んだ時、ぎりぎり10代。曹丕が30代後半。
・・・父親間違えるのもしょうがない
462 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 08:07:02
曹丕の子供が生まれた頃に曹操の子供も生まれる事になったら、曹丕は息子と弟が同時にできるな。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 09:03:58
たしか、曹宇と曹叡って年が近いから仲が良かったらしいな。だから、大将軍にさせようとしたんだな。
>>462 同い年どころか年下の甥なんていくらでもいるだろうが
間違えた年下の叔父
魏における一族の冷遇は曹丕から(当然だが)だな。彼と仲の良い兄弟はいないのか?
467 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 13:45:58
>>466 彼は自分の立場を少しでも脅かす要素がある者ならば、親兄弟だろうが嫁だろうが容赦しませんが、
自分にとって無害な相手だと深い愛情を示す、ロシア人のような男です。
一族冷遇といっても、曹植や曹彰は前者に当たっただけで、
後者に当たった曹幹や曹真、曹純らは重用されています。(曹幹はよくワカランが・・・)
468 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 15:15:13
曹真・曹休・夏侯尚ら、親族と四友達は厚遇されてるな。
469 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 15:22:26
470 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/22 15:40:47
曹丕には寵愛している徐姫の子、秦王曹礼(後に、元城王)がいるから曹叡が居なかったら彼が帝位に就くだろうな。
曹叡の死後、燕王曹宇は鄴に帰り、政治とは関わりを持たなかったが、楚王の
曹彪が太尉王凌の謀略に連座して自殺した事を考えると平和だな。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 09:40:05
明帝曹叡とか少帝曹芳とかって君主としては良かったの?
473 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 16:00:44
>>472 明帝はなかなか君主としては良かったが、宮殿の増築などの土木建築などを
過度に行い、民衆を疲弊させてしまった。
曹芳は最初は曹爽に、後に司馬氏に利用され最後は廃されてしまった。
彼が直接政治を行った風には見えないから、君主としての器量は不明。
>>473 明帝はよく諸葛亮や郭皇太后が亡くなったせいか造営に突っ走ったとされて
いるが、王朗伝や陳羣伝などを見る限りでは即位したころから突っ走ってい
たと思われる。しかし、この行為(悪行)さえなければ名君で諸葛亮や孫権
の北伐をよく防いだと思う。恐らく母(甄氏)が皇太后で奥向きを取仕切っ
ていれば悪行を防いでいたかも?
475 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 16:05:18
母親と言うか、文帝がもっと長生きして、曹叡に皇帝とは何たるかを仕込んどけばある程度抑えられたかもしれん。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 19:43:31
>>474 >諸葛亮〜が亡くなったせい〜造営に突っ走ったとされている
コレって、《資治通鑑》で司馬光が、己のほぼ無意識的な孔明
マンセー観念から、良いように話の筋を組み替えちゃった事に
端を発するらしいね。
本来ならば孔明の生前に行われたはずの、明帝の大規模建築
に関する臣下の諫言の記事を、孔明没後に一括して記載しちゃ
ったりとか。
こう書かれてしまったことによって、あたかも孔明の死が奢侈の
最大要因かのように見えるという(もちろん、確かに孔明の死は
明帝の奢侈をある程度加速させはしたんだけど)。
これは、歴史的な「孔明神格化」に関するメルクマールの重要な
一つ・・・らしい。(宋代時点で既に神格化は完成されてたけど。)
>>475 魏朝の短命の原因は、従来言われてた「宗室イジメ」よりも、
文帝・明帝の二代連続夭折に負う所の方が大きいらしいね。
>>477 少なくとも文帝は皇帝として十分な気質があるな。冷酷だが、文学において重要な役割を
担っているし、政治はともかく軍事においては呉を征伐して存命中は長江を
渡れなかったが、呉の防衛ラインが長江まで引き下げたのは曹丕の功績だな。
若死にせず、もう何度か総力を挙げて攻めれば呉を降すことも夢では無かったはず。
蓋し文章は経国の大業不朽の盛事なり。
たしか、
>>478の文章は曹丕が記した「典論」の論文という箇所に記載されてるはずだ。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/25 08:03:24
曹操って娘も多いな。夏侯楙や荀イクの息子に嫁いだりたしか、何晏も同母妹と結婚してるな。獻帝にいたっては曹操の娘三人を妻にしてるから、すごいな。
481 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/25 12:34:56
>>475 文帝は曹叡が二代にするつもりは無いと思う(曹礼の件)ので仕込むとしても
無理があるような・・・
482 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/25 16:11:21
明帝は家来を疎んじる人じゃないな。宮殿の増築を諫めた高隆堂らの意見を却下しながらも、意見としては認めてるしね。
マルチうぜー
曹叡の建設事業は、ニューディール政策のように公共事業を賑わして、失業者を減らす目的という面があったと思ったが?
失敗したけど
誤爆してた。
>>482の高隆堂←×高堂隆←○
明帝紀の陳寿評では決断力が有り、君主して優れていた。
だが、中華統一の基礎を固めようとせず、始皇帝や漢の武帝と同じ事をやってしまった。
とある。(抜粋、編集)
曹丕が長期に亘って皇帝の地位に据わっていれば、三国鼎立後の状況の
少しは変化があったと思う。
488 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 12:48:29
文帝は郭氏を皇后に立てた事は大いに失敗であった。
文帝の軍事で何がまずいかって、呉を攻めるにあたって西部戦線に比重を
おいてしまったあたりになるんかね
まちがった、東部だね。揚州ってこと。
個人的に曹丕は孫権よりは優秀だと思うし長生きしてたら
面白かっただろうな、息子も優秀
文帝=甄氏:文帝長命
文帝=郭氏:文帝短命
は考えられないであろうか?
493 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 17:10:40
三度に渡る呉征伐の失敗による心労によるものではないか?妻が生死に関わるとは思えない。
明帝は母である甄皇后の一族をとりわけ気にかけていたようで一族の者たちを
実権の無い名誉職だが、次々と高官に取り立てていたな。
漢王朝と違って外戚が権力を握る事もなく、皇帝の関心次第で母方一族の地位は変わるな。
495 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 03:47:15
もし文帝が70歳ぐらいまで長生き出来てたら、もしかしたら
彼の代の内の天下統一も可能だったかもしれないのに・・・。
それが出来なくとも、その次の明帝の代で統一とか。
さらに明帝も長生きだったりしたら、運が良ければひょっとして、
曹魏は結構な安定政権に成り得たんじゃあなかろうか(明帝の
一番の悪癖たる大規模土木工事の連発で国力が疲弊して、逆
に西晋並みの短期政権になる可能性も無きにしも非ずだけど)。
文帝もしくは明帝の在位期間に三国統一できたとしても、国内に強制移住させた
羌族・氐族の懐柔や南匈奴などの異民族対策に追われる結果となるかもしれん。
それこそ、異民族が中原進出のきっかけにるような、内乱ら失政などが発生したら、
晋みたいな短期政権にならずとも、混乱する世の中になってしまう可能性もある。
曹丕は外交面で完全に孫権に食われてるから、彼の存命中に天下統一は無理じゃないかな?
長生きして内政面でがっちり体制整えて、次代の曹叡に繋いでいれば曹叡の代で天下統一は可能だったかもしれないとは思うけど。
孫権の晩年期は家臣団が分裂寸前だったから、そこの隙を狙って家臣を造反・離反などを
謀略を用いてできたかな。実際、孫権死後に多くの家臣(建国に活躍した者の子孫)が
魏に亡命してるな。
499 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 13:36:35
>>497 まぁ壮年期の孫権は外交面では神懸っていたから。
曹丕もスキを見せないように努力していたようだが、やっぱり役者が違ったな。
英主ではあったけど、曹操・孫権・劉備らに比べるとやはりワンランク落ちるかな。
文帝の評を読むと、逆に広大な度量な無く、公平な誠意が少なくかったとも
読み取れる。
>>499 でも劉禅に較べると百万倍くらいいい
後継者に一番恵まれたのは曹操かな
502 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 16:10:32
孫権も息子の孫登がいたけど、彼が若死にしてしまったからな。孫権の暴走が
顕著に表れたのが後継者争いだからな。彼が生きていれば家臣を二分する対立は
起きなかったはずだ。
>>501 司馬昭は諸葛亮や姜維がいても駄目だと言っているが、司馬昭の息子の司馬炎は
天下統一してるけど、八王の乱の遠因を作ってるから人の事なんかを言う暇なんか
無いと思うが・・・
店の入り口にある「盛り塩」の起こりは曹操とその愛人3000人に
まつわるエピソードに由来してるそうですよ。
司馬炎ですよ。
↑
そうかも・・・
三世紀の武帝って書いてあったから。武帝違い。
ごめん
でもそうやって書いてあった。
511 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 18:25:57
司馬炎は中国全土から一万人を超える美女を後宮に集め、
夜ごと美女達の部屋の前を羊の牽く車で通り、羊が止まった美女の部屋で
寝ていたらしい。女たちは羊が停まるよう部屋の入口に羊の好物である竹の葉を挿し、塩を盛っていた。
晋の実質的建国者は司馬懿であり、炎はその御膳立てで魏から禅譲を受けたのである。
三国統一も彼の力とは言えず、晋を建国した人物ではあるが英雄と評価できる人物ではなかった。
牛って書いてあったけど
おなじようなものか。
司馬牛は全然別人だろ!アホか!!
いやまて東晋王朝の祖、牛金将軍のことをいっているのかもしれん。
ちがう
羊じゃなくて牛だったということが言いたかった。
516 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 18:54:36
牛金じゃないよ、皇后に仕えていた小役人の牛氏だよ。
まあ牛金は「司馬氏の天下は牛氏が滅ぼす」という占い師の言葉を信じた司馬懿に
よって殺されたとの説もあるが
『晋書』后妃伝より
>時帝多内寵,平呉之後復納孫皓宮人數千,自此掖庭殆將萬人.而並寵者甚衆,帝莫知
>所適,常乘羊車,恣其所之,至便宴寢.宮人乃取竹葉插戸,以鹽汁灑地,而引帝車.
当時、帝(武帝司馬炎)には宮中に寵愛する者が多くあり、呉の平定の後にはまた孫皓の
宮女数千人を受け入れたため、これにより掖庭(後宮)の宮女はほとんど一万人にもならん
とし、並んで寵愛される者ははなはだ多かったので、帝は自分の行くところも分からず、
常に羊車に乗り、そのおもむくくままにさせ、着いた所で宴会を行い、寝た。宮女はそこで
竹の葉を取って戸口に挿し、塩水を地面に撒いて、帝の車を引き寄せようとした。
この板の住人の知識って・・・
司馬炎は孫皓の宮女がいきなり失業しないようにしたのかねえ。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 19:47:23
後宮に仕えているのだから、みんな美女揃いだろうな。美女を集めて奢侈に耽り
民衆を省みないと国が滅びるなんて事、過去を辿るとすぐ分かることなのに、
高位高官に就き権力を握ると駄目になってしまうものなのかな。
違う。司馬炎って前半名君、後半暗君がデフォだが、
それは統一後のビジョンを最初から持ち合わせていなかった。ただ統一すればいいと思っていた
だから最初から駄目駄目人間だった
522 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 21:08:17
司馬炎は強国の暗君、孫皓は亡国に暗君だと書いてある書物があったな。
孫皓は頭は切れるが圧倒的な晋への恐怖(?)で精神面が研ぎ澄まされ、暴走して
しまったと別の本には書いてあったな。
>>522 都に連行されてきた孫皓が、宴席上で司馬炎を
やり込める話が、確か『世説新語』に載ってたな。
524 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 21:13:03
曹操が忙しいのをいいことに
浮気しまくってた女いたことは、
つっこんじゃだめ?
曹操の夫人で浮気をしていた女性なんているのか?
526 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 21:57:39
>>521 司馬炎も駄目人間だが、息子の恵帝こと司馬衷は父以上に暗愚だな。
「米が無いならなぜ肉を食わぬのじゃ」の話で有名だしね。
恵帝の后の賈皇后も晋の内乱・滅亡を促すような事をしれかした悪女だな。
三代で築いた基盤もたった二代で水の泡だなんで先祖の苦労を台無しだな。
それでも唯一イイ話が残ってるのが救いだな>恵帝
「これは忠臣の血じゃぞ!何故着替えねばならぬか!!」って
528 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 23:34:27
恵帝が趙王司馬倫に譲位された後、皇帝経験者で始めて上皇の称号を
贈られたようだ。
>>527 ソースはどこにありますか?晋書の恵帝紀?
>>528 -------------------------------------------------------------
《晉書》〈卷八十九 列傳第五十九 忠義 嵆紹傳〉
-------------------------------------------------------------
兵交御輦,飛箭雨集,紹遂被害于帝側,血濺御服,天子深哀歎之。
及事定,左右欲浣衣,帝曰:「此嵆侍中血,勿去。」
-------------------------------------------------------------
-------------------------------------------------------------
《資治通鑑》〈卷八十五 晉紀七 孝惠皇帝中之下 永興元年〉
-------------------------------------------------------------
帝傷頬,中三矢,百官侍御皆散。嵆紹朝服,下馬登輦,
以身衞帝,兵人引紹於轅中斫之。帝曰:「忠臣也,勿殺!」
對曰:「奉太弟令,惟不犯陛下一人耳。」遂殺紹,血濺帝衣。
・・・(中略)・・・左右欲浣帝衣,帝曰:「嵆侍中血,勿浣也!」
-------------------------------------------------------------
530 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 00:02:51
>>529 恵帝にもこんな一面があるとは知らなかったな。
劉禅にもこんな逸話さえも無いからな・・・
劉禅にもあるじゃん
誰かが孔明を皇帝の座を狙ってるとか何とか言ったら、孔明は忠臣だと反論したとか
姜維の反乱の時に背負って連れ出して貰ったとかも、一応臣下に慕われてたという事になるのか
>>530 ちなみに《資治通鑑》の注釈者、元の胡三省は、
上で挙げた記事に続けてこのように記している。
「執謂帝為戇愚哉!」
(誰だ、恵帝が馬鹿だなんて言ったヤツは!)
ケイ紹って司馬氏に殺されたケイ康の子供だったっけ?
そう。『魏志』嵆康伝の注には嵆紹についての記載がある。
「嵆侍中の血」のエピソードはのって無いけど。
535 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 00:33:13
そー言えば、劉禅も洛陽に送還される途中、郤正が良く補佐してくれたので
認めるのが遅かったと後悔している。人を見る目は衰えて無い事が分かる。
よほど、黄皓はうまく劉禅に取り入ったんだな。
黄皓より組織運営力のある人間がいなかったからとかだったりな
宦官と言っても頭が悪いとは限らないからな。むしろ、謀略を巡らしたり
君主のお気に入りになる為に努力したるする訳でから、教養はしっかりと
あるのだな。蒋エンや董允の死後、陳シが成都で劉禅を補佐したが、彼が黄皓と
共に政治を行ったから、小黄門だった黄皓も中常侍までに官位が上がったんだな。
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 10:07:28
>>531 劉禅には暗愚で、劉備や諸葛亮の築き上げた国を滅ぼした暗君というイメージがあるが
具体的な失政はなく、董允生存中は諫めをよく聞いているし、丞相として北伐を行っていた
諸葛亮に対して疑いの目をかける事は無かったようだ。
どうも後世からの評価が悪く、成都にあった武侯祠に彼も祭られていたが宋代に益州の長官に
なった者に破壊されている。
539 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 20:15:19
age
540 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 15:26:49
曹操の夫人と妾の数は合計何人いるの?
夫人が13人?
542 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 20:35:57
>>540 子供を死産や流産してしまった妾や、お気に入りだけど子供ができなかった
場合などを考えると50人以上はいると思われる。
543 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 21:57:23
>>541 卞皇后・劉夫人・丁夫人・環夫人・杜夫人・秦夫人・尹夫人・王昭儀・孫姫
李姫・周姫・劉姫・宋姫・趙姫ぐらいかな。
他にいるかな?
545 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 09:52:28
何って言う姓は父方の姓じゃないの?
546 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 20:13:29
>>547 曹操と尹夫人との子供が金郷公主だから、何晏とは相当な年齢差があるな。
>>547 同母だけど、姓が異なる(何晏は何姓で金郷公主は曹姓)からいいのでは?
そういうことじゃなくて、金郷公主が何晏と同母・って話は、『魏志』曹爽伝(の附伝の何晏伝)
の裴松之注が引く『魏末伝』に記載されているのね。
で、裴松之は「同母・を娶るなんてまともな書物に載ってても信じられないのに、ましてや
下等な書物の載せることなんか信じられない」とコメントを付けている。
そして、その真実ではない論証として、
・『魏末伝』には、同時に金郷公主の母が沛王の太妃、つまり沛王の母であるとも記されて
いる。
↓
・ということは、何晏の母である尹夫人=沛王太妃となるはずである。
↓
・ところが『魏志』武文ゥ王公伝を見ると、沛王曹林の母は杜夫人であると記されている。
↓
・ということは何晏と母が同じではありえない。
と述べているわけ。
551 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 21:22:54
>>550 なるほど。
流石だな、裴松之。彼は歪曲した記述に対してはその書物と著者をこれでもかと言う程
叩きのめしているからな。読んでておもわず、苦笑してしまった。
諸葛誕伝の注では「臣松之以為魏末傳所言,率皆鄙陋.」(臣松之が思うに、『魏末伝』の
述べるところはおおむね皆あさはかである)と述べているからねえ。
三国志当時やその後に書かれた書物はどうも客観的な見解がなく、
「魏氏春秋」や「献帝伝」「山陽公載記」は特に歪曲な文章だと裴松之に
言われた物です。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 13:35:28
そういや劉備って兄弟居たの?一人っ子?
555 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 14:19:48
分からないけど、父親を早くに亡くしているから、兄弟は居ないと思う。ただ、郷里のタク郡内には、一族の者達は相当いたと考えられる。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 18:01:15
>>555 中山靖王の子孫はタク郡や常山郡に散ったようです。
しかも、劉備は中山靖王の末裔と名乗っているが、中山王の本流は常山地方に
まだ存在しており、劉備の先祖は分流。
ただ、時代も流れた為、タク郡内は劉姓の人々は多くいると思う。
558 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 18:48:50
>>557 >>556って「東呉の民兵」か?まあいいや。
魏の劉放はタク郡の人だが、中山靖王の血筋ではないようだな。
(劉放は西郷侯劉宏の子孫)
大体中山靖王の末裔って信憑性あんの?
俺は眉唾だと思ってるが
560 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 19:36:19
>>559 劉備が中山靖王の末裔(厳密に言うと陸城亭侯劉貞の子孫)というのは怪しい。
ただ、中山王の血を汲む劉氏はタク郡や常山に沢山居たのは確かな事らしい。
561 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 22:20:15
曹操の先祖って曹参なのか?
曹操一門以外にいる曹姓の方々はみんな曹参の血筋から出てるのか?
>>561 んなわけない
曹操は曹騰の家が曹参の末裔を名乗ってただけ
突き詰めると同一姓のものは同じ先祖を持つというのが中国の考えな訳だが
それはあくまで始祖が同じなだけで枝分かれした家の人間まで先祖な訳ないだろ
563 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 22:34:05
曹騰は曹節の末っ子で彼には三人の兄がいるな。
その兄の血統から曹仁・曹洪・曹休らが出ているのは確かなはずだ。
夏侯氏は惇・淵の伝で先祖の事が詳しく記載されてないから信憑性は
低いかもしれないな。
>>563 曹仁・曹洪・曹休らをひっくるめて曹操一門と呼んでる訳でその先祖が曹参なのかを聞いてるんですけど
曹節は温情高い人間だと「続漢書」に記述されてるけど、自分の末っ子の曹騰を
宦官にするとは矛盾するような。
士大夫の家から宦官を出す切羽詰った状況になった事を考えると、どうやら
相当没落していたとも考えられる。
566 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 23:10:25
>>564 例え先祖が曹参でも曹氏なんていうネームバリューはほとんど無いに
等しいからな。官職に就いて出世する際に有利にはならないだろうな。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/02 08:30:34
結局、夏侯氏・曹氏の先祖は分からないか…
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/02 20:50:20
age
569 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/03 14:37:23
呉の孫氏は孫堅の代までは何をやってたのか? 商人?
570 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/03 19:56:11
よく分からないけど、孫堅は青年期に役人の下っ端になっているから、
商人では無いと思う。
571 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/04 19:26:34
age
572 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 14:26:33
曹操って夏侯氏の血の方が濃いの?
573 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 14:35:46
曹操は曹参の末裔とか、夏侯氏の末裔とか言うけれど
そんな名家から宦官になるとは考えられないし、劉備が
劉勝の末裔って自称してたようなもんだと思う。
やっぱり家柄なんかが重要視されてた時代だから。
574 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 14:43:41
劉備は徒手空拳から出発したけど、曹操は一族や祖父・父の資金が
有った事が大きな違いだな。
575 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 16:04:04
当時の推挙制度とかも豪族の力が強くなると、彼らの子弟がどんどん推挙されて
官職に就いてしまうのだな。
漢王朝が健在だったら袁紹も曹操も高官に就いたかな?
久々に覘いてみてみたら、結構レスが続いているようで光栄です。
今後ともよろしく。
>>574 曹操は父のお陰で考廉に推挙されて、官僚の第一歩を踏み出した訳だな。
一方、劉備は祖父が役人だったけれども、位は低かったからな。
劉備は同郡の一族の者達と遊学に出ているが、これは代々行われているかな?
幽州の地元では劉一族はそれなりだったんでしょ?
劉備が皇帝になったとき、彼らはどうしてたん
魏の領土では劉備は逆賊だしなぁ
例え劉備の方に身内を遇する気があったとしても、触らぬ神に祟りなし
だったんじゃなかろうかと想像してみる
580 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 20:11:04
一族といっても、兄弟は居ないしなぁ〜
共に遊学に出た劉徳然とかも生きているか分からないし。
たぶん劉備は義勇兵を率いて村を出るときに故郷の人々とは
決別したのでは
>>573 お前は没落貴族という言葉を知らないのか
582 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 22:50:03
>>581 少なくても、曹・夏侯氏らは貴族だったが、
後漢期では既に曹・夏侯両氏とも、没落貴族だった訳だな。
その没落貴族から出された被害者は曹騰だった。
幸い彼は皇帝のお気に入りとなり、濁流と言われながらも曹家に潤い与えた
者だな。
583 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 17:11:27
曹騰はなんで養子を自分の兄たちの血統から貰えなかったの?
なにか問題でも有ったのかな?
584 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 17:12:06
曹騰はなんで養子を自分の兄たちの血統から貰えなかったの?
なにか問題でも有ったのかな?
>>584 連投せんでええよ。
曹騰は一度は家を出た身だから、官位が上がったとしても曹家からは
両手を挙げて迎えられる事は無かったと思う。なにせ、宦官だし。
というか夏侯氏と曹騰は少なからず血縁関係があって曹嵩を気に入ったから養子に迎えたんだろ
587 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 20:19:41
曹休の祖父とか、曹仁の祖父・曹洪の伯父等は曹騰の兄たちの血統出身だと
思われる。彼らも太守や尚書令などの官位に就いているが、これも曹騰のお陰かな?
588 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 20:20:39
曹休の祖父とか、曹仁の祖父・曹洪の伯父等は曹騰の兄たちの血統出身だと
思われる。彼らも太守や尚書令などの官位に就いているが、これも曹騰のお陰かな?
589 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 20:23:29
>>584 養女が曹氏の血統で、養女の家の血統を絶やさぬ為、
夏侯氏の婿養子を迎えたとか。
591 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/06 21:32:38
>>588 彼らは実力も含めて昇進したと思ってよい。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/07 17:00:18
ageときます。
>>573 袁家からも宦官でてるよ。袁赦とかいう人。
>>593 当時、宦官を送り込めるような所は、それなりの家柄だったんじゃないの?
清流派からは忌み嫌われたとは言え、社会の底辺に位置するようなモンじゃないと思う。
陳琳の檄文真に受けすぎ。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/08 17:27:46
出世できる宦官はいい方だよ。出世できなかった宦官は一度、失態や病気を起こしたならば、
王宮を追い出され、親族には受け入れてもらえず、野垂れ死の道しか無いのだから。
皇帝に気に入られて重宝される宦官はみんな、教養の有る宦官ばっかり。
宦官を育成するのにも金がかかるし、ある程度の名が無ければ出世は無理だな。
曹騰がその点うまかったんだろうな
梁冀による桓帝擁立に加担して出世
運よく梁冀の失脚前に死去して、一族に害が及ばなかったのも曹操にとっては僥倖だっただろうな
宦官の中で曹節ってのが居たと思うが、彼は曹騰とは関係ない?
>>598 曹節は南陽郡新野の人で、本籍は魏郡で二千石の官吏のようだ。
彼も大長秋になる他、尚書令にもなっており、相当な権力保持者だったようだ。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 13:15:27
中常侍・大長秋は尚書令とか、三公レベルよりも皇帝側近だから、実質権力があるかな?
皇帝の爾を管理してたり詔勅の代筆をするから改竄し放題
気に入られてれば、願いも叶えてくれる
十常侍って言うけど、張讓、趙忠、夏ツ、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典
で合計十二人なんだよね。
それは正史だろ
正史だともともと十常侍なんていわない
>>603 後漢書の宦者伝(張讓・趙忠伝)には十常侍って記載があるぞ。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 13:09:34
606 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 17:11:32
中常侍でも一応、侍中府所属だから、皇帝の補佐官に過ぎない。
だけど、当時の行政部は宦官を通さないと物事が処理されないような、
状態にまで悪化していたから、尚書関係などに関しては宦官一派が掌握していると
思う。
607 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/10 20:37:48
曹騰の逸話などは武帝記の注釈などに記されてるけど、曹嵩はあまり無い。
曹嵩は大した事のない人物だったのか?
そりゃ金で太尉の官を買ったような人だからねえ。
>>607 沈みかけた一流企業の管理職になる程度には有能で、
寝首をかかれる程度には無能だったんじゃないの?
曹嵩が殺された時、弟とかも殺されているな。
それが、徐州での民衆殺戮となにか関係があるのかな?
そもそも、なんで虐殺なんてしたんだ?
南京大虐殺捏造に関する答弁
・ 30万人分の遺骨を発掘し,公表しなさい。
→日本軍により隠されました
・ 殺されたとする人間の氏名と性別を公表しなさい。
→日本軍により資料が抹消されました
・ 当時の南京の人口を公表しなさい。
→日本軍により資料が書きかえられました
・ 南京に攻め込んだ日本軍の人数を公表しなさい。
→日本軍により以下略
・ 日本軍が利用した武器を公表しなさい。
→同上
・ 中国外務省の「動かぬ証拠」とやらを早急に提示しなさい。
→ちょっと無理とにかく日本が悪い
・ 調査するたびに殺害者数が変化している理由を述べなさい。
→確かにおかしいが日本軍が悪いに違いない。
・ 遺体は埋められたままなのに,なぜ殺害者数が分かったのか?理由を述べなさい。
→「30万」という数字は「沢山」という中国語です。 日帝が悪い。
・ 決定的な証拠が埋まっているにもかかわらず,それを掘り出さない理由を述べなさい。
→埋まっている場所を忘れた。 日帝のせいだ。
・ 僅か2ヶ月の間に30万人を殺害し,尚且つその遺体を埋める方法を述べなさい。
→上海とかに「今南京では肉食べ放題」という張り紙をすれば3日できれいにならないかな?
・ 30万人も殺されたのに,伝染病が流行らなかった理由を述べなさい。
→死体を食ったからじゃない?
・ 30万人も殺されたのに,諸外国が問題視しない理由を述べなさい。
→飢えた中国人を食わすための人道的な行いだったから。
>>612 う〜ん・・・興味を惹く事柄だが、徐州での民衆虐殺とは関係ないなぁ〜
614 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/11 16:19:28
魏が晋に禅譲した後、曹氏や夏侯氏はどうなったんだ?
曹志や夏侯湛の一族などは官位に就いているが、他の一族は爵位のみの継承か?
615 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 18:59:46
保守変わりに一つ
曹志 字は允恭。父の死後、済北王となる。司馬炎は彼を中撫軍に任命し、
魏の元帝(当時は常道郷公)を迎えに行かせた。
禅譲後、鄄城公となり、太守や博士を歴任し、散騎常侍となった。
一時、免官されたが、職に戻る。288に亡くなり、定公と諡号された。
夏侯湛 字は考若。父の夏侯荘は、晋の景陽皇后の姉の夫にあたり、一族は
官位に就き、羽振りを利かせた。
616 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 21:41:30
か・・・過疎だな・・・(´・ω・`)ショボーン
617 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 20:44:00
>>615 まぁ、とりあえず乙だな。だいぶ過疎気味になったようだが…
618 :
//:04/12/14 22:16:17
日本の将軍徳川家斉には子女55人〜59人いたぞ。
こッちのほうが凄い。
漢の景帝の八男 中山靖王劉勝は120人の子供がいましたがなにか?
620 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 22:47:36
義経は2000人以上の女を孕ませたぞ
621 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 22:48:40
正室の子ども以外ってどうなるの?
のたれじに?
>>619 第七子の間違いでは?
それに120人というのは孫も含めてだと思う。
>>622 劉勝は景帝の第八子でいいのでは?
中山王の直系を除くと、約二十人が侯に封ぜられているな。
>>618 曹操の時代と家斉の時代じゃ随分医学も進歩してると思いませんか?
>>623 ということは、武帝の劉徹は第十子になるのかな?
因みに、劉勝の同母兄の趙王の劉彭祖は第五子。
劉勝の兄の趙王(?)が「中山王は淫乱な奴だ」と批判していたような
気がしたな。
>>626 史記で、そのことはちゃんと記されてるよ。
また中山王も「兄貴は王なのに小役人のような輩だ」
と反論しているよ。
>>627 要は兄弟喧嘩だな。「器量足らず」と「淫乱奢侈男」どっちもどっちだが・・・
>>628 史記によると趙王は法律の崇拝者で、好んで盗賊狩りをやっていたそうだ。
また、前92〜91年頃に死去しているから多くの兄弟の中でもかなり長命かな?
>>629 だから「役人みたいに云々・・」と劉勝が言った訳だな。
劉勝は良い逸話は無いのか?唯の奢侈淫乱なのか!?
631 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 00:54:54
>>630 子供を沢山作って子孫を増やしたではないか。
その所為で三国時代にはタク県周辺に一万近い帝室の傍系の劉氏が存在したわけだがな
後漢の光武帝も前漢の景帝の傍流だな。先祖は王〜侯〜太守〜都尉〜県令てな
感じでどんどん身分が低くなっているな。
634 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 01:16:03
>>612 板違いけど、ソースは?
とりあえずほとんど今の公開されいている
中国の説明(説得力あるかどうかは別として)とは全然違う。
こんな見れば妄想で書いたものを作る暇があったら、否定派の本を一冊でも読んで来い。
っとまずレスしてしまった。
>>634 コピペ相手にマジレスかよ。在日くさいな。
ここは曹操スレなんだし、最近スレ違いな内容が多いけど(問題無いが)
とりあえず、語ろう。
第258回
>>634の文章能力が低すぎる件について会議
639 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 19:11:20
>>633 当時は王莽の新の時代だったから劉氏は警戒されて、没落するものが多かった。
劉秀は没落貴族の出身である。
当時、劉氏の宗室は10万いたが、名門でもなく出身の南陽劉氏の中で
血筋が良いということもなかった。
劉備みたいに莚を売って歩いている訳でも無いので、ひどく貧しい訳でも
ないようだ。
>>639 王莽以前から少しずつ、没落していったわけだがな
>>639 劉秀と言えば、挙兵の時に馬を調達できなかったから、
牛に乗ってきたらしいな。
挙兵したのは兄の劉エンだったが、兵が集まらなかったようだ。
劉秀が参加するに至って参加者が増えていったようだ。
それは胡散臭いな
>>642 後漢書の光武帝紀に記載されてなかったっけ?
>>643 権威付けのために捏造された可能性もあるがな
高祖劉邦にもいろんな捏造といわれてるエピソードは多いしな
正史に記載されてること=事実ですか?
おれはよーわからんけど
光武帝はヘタレだからこそいいんだよ
ついでいうと、十歳も年下の女をずっとストーキングしてたのに
三十になった彼女を皇后に立てて、ロリじゃなくて純愛なんだって思わせるところがいいんだよ
>>645 高祖劉邦に関しては眉唾な箇所が多いよ。高祖が身を隠していた時、遠くからでも
雲気で居場所が確認できたとか、白蛇を斬ったとか云々・・・
そんなこといったら宋太祖は竜退治しちゃうよ
北宋の太祖、趙匡胤の事か。
酔いつぶれて寝ている内にクーデターによって擁立されてしまった陳橋の変は
有名だな。
>>629 武帝期には『酷吏』という情緒よりも法を重んじる
王温舒などの冷酷残忍な官僚が、よく台頭した。
趙王の劉彭祖は皇族としてその手本となったのではないか?
武帝、内政下手くそじゃん
652 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 23:15:37
皇帝に即位した頃から匈奴を打倒し、泰山で封禅の儀式を行った時期までは
良かったけど、後年は財政悪化や後継者の問題で退廃への第一歩を進めたのは
確かだな。
>>652 父の景帝は太子指定者を誤ったのかな?
長兄の臨江王の劉栄は宗廟破壊の名目で、酷吏の郅都に裁かれて牢で自殺したけど…。
>>653 後継者を間違った訳では無いと思う。即位してからは一貫した武断政治を
行い、長年の悩みの種であった匈奴を駆逐した功績は大きい。
老年期の暴政は三国時代の孫権と同じようだ。
それがまた、後年の暴政や外戚の台頭に繋がる訳だな。
>>654 なるほど、晩年の孫権ね。
ところで、臨江閔王と戻太子の劉拠は伯父・甥でありながら、
共に長子で、悲惨な末路は似ていると思うが。
戻太子の孫が宣帝で、彼は先帝の昭帝(武帝の子)から続いて、漢の国力の
回復に努めた人物だな。
だが、息子の元帝の失政で、外戚勢力が強大化して結局、国を奪われる事に
なってしまった。
>>656 その間に昌邑王の劉賀(武帝の孫)が、一応亡き昭帝の養子と
して、即位しているけどね。まあ、すぐに廃されたけど。
>>657 特にそのことに触れない限り、省いて考えるのが通例だと思うが
それとも君だけが知ってる特別な知識と勘違いしちゃったのかな?
昌邑王劉賀って一様、長安に入って皇帝になっているようだな。
詳しくは分からないが、即位したと考えていいのでは。
だけど、在位27日で帝位を奪われ海昏侯に降格されたようだ。
明における建文帝みたいなもん
隠したい
でも隠し通せる訳がない
隠したいという話ではないと思うが
建文帝の位を奪ったのが、永楽帝だな。彼の時代に宦官の鄭和が七度に渡る
大航海の旅をした訳だな。彼は宦官の中でも出世とか金銭に貪欲じゃなくていいな。
蔡倫、張承業、高力士は出世や金銭に貪欲だと?
>>663 >>662の言い方でなぜそうとる?
宦官の中で唯一貪欲ではないと言ってるわけではないだろう
宦官は総じて貪欲な人間が目に付くが鄭和はその範疇に入らない一人だと言ってるだけだろ
665 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 10:51:33
>>663 高力士はけっこう貪欲
後の二人も清廉潔白だとは分からない
おいおい……張承業が清廉潔白でなくて何だと言うんだ
唐の忠臣、後唐の名臣だぞ?
それに宦官が総じて貪欲な人間が目に付くって……そりゃ、彼等が憎くて憎くて堪らない士大夫が史書を書いてるんだから当然
寧ろ、有能な連中が多いと思われ。家柄だけで高い位につくよりも、皇帝の側で寵愛を受けることがどれほど難しいか
一言、言っておく
清廉潔白な人間が名臣なわけでもないし、名臣が必ず清廉潔白なわけでもない
でも忠臣は得てして清廉潔白
だって忠義って能力じゃなくて美しさだから
忠臣って言えば、袁紹配下の審配なんかも曹操に忠臣と呼ばれたな。
でも、清廉潔白では無く、財産は膨大だったような。
揚げ足取りだな
終わんねぇ・・・
蔡倫・司馬遷・鄭和の三人ってのは宦官の中でも、いい意味で名が通っていて、
功績も有るな。
先に司馬遷、後に鄭和って宦官達は自分達を励ましたって言うからな
司馬遷はちょっと毛色が違うが
高力士や鄭和はもともとは南蛮の王族だから、そういうところも皇帝に気に入られたのかも
そして、だからなのか主君に対しては従順忠実だな
蔡倫は純粋な研究欲
張承業は…ときたまいるんだよな、ギブアンドテイクでもなんでもないのに全力で主君に尽くす奴
鄭和は代々イスラム教徒で色目人出身。元の時代には特権階級だったから
教養はあるな。色目人と言うから漢人ではないな。
哀しいけど張承業って誰って奴が大半だと思うぞ
>>674 俺も知らなかった。世界史の解説本にも載ってなかったな。
正反対の魏忠賢は有名なのにな
>>676 宦官と言えども、ここまで酷い事をしたのは魏忠賢ぐらいだな。
しかし、板が板なだけに、三戦での魏忠賢の知名度は……
三国志は知っていても、中国史全般が詳しい人は三戦板には少ないからなぁ〜
しょせんは趣味板ってことよ
>>680 この板に学術のみで来ている住人なんていないな。
こういう書き込みから興味を持てばいいだけじゃん
ネットですぐに調べられるんだしさ
しかし世界史板には居づらかったりする
三戦と史学系の板の中間の板が欲しいな(日本史板もイタいし)
鄭衆の名が挙がらないのね……
>>648 言われてから調べて初めて知ったよ。和帝の側近中の側近の宦官だな。
宦官は良い面でも悪い面でも歴史の表舞台に登場する連中はみんな頭が切れる
奴ばっかだな。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 17:53:52
曹操は宦官政策は徹底してるな。中常侍職を廃止して皇太后諸卿の地位を
低下させる事により、宦官は雑用役にまでさせてしまった。流石、姦雄だな。
一方、蜀は漢の制度をそのまま引き継ぐ形となった為、諸葛亮や彼の後継者たちが
世を去った時、宦官を制御する事ができなくなった。
補足
孫呉は魏と制度は近かったものの、孫皓の時代に入ると宦官達は徴用や税の徴収等を
行い、国が疲弊する原因となった。
結局、宦官を押さえ込む事ができたのは魏だけだった。
基本的で法家思想の元ガシガシ規律ある政治をやっている時は宦官は台頭しないんだよ
逆に儒家思想全開の時に限って宦官は湧く。皮肉だな
689 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 22:33:14
このスレって三戦の中でも難しい話してるな。
儒家思想とか法家思想とかってよく分からないよ。誰か教えてくれい。
>>689 自分で学ぶのも学習の内だと思いますが・・・
>>688 なんというか、宦官もそうだけど、外戚の弊害もあって、こちらを立てれば
あちらが立たず、って感じ……。
官僚・外戚・宦官の三種の人たちをどうやって制御するかが、統治者たる
歴代皇帝の器量を問われる最大の課題だろうな。
つまり朱元璋が最強という訳か
>>688 劉邦が建国した時にも、宦官はあまり台頭してないよな。
建国当初から宦官なんて起用してたら未来なんかないよ。
第一、劉邦は政治には疎いし、相国の蕭何や恵帝在位時の相国曹参が
しっかりしてたから、問題は無かったと思う。それより、前漢は外戚の専横を
止める事ができなかったのが、重大な汚点だな。
宣帝なども、霍氏を誅滅したまではよかったんだけどね……
宣帝も決して悪い人物じゃないな。むしろ名君だよ。外交では漢の力を取り戻し、
外戚勢力を排除し、親政を実施した事は素晴らしいが、宦官の政治に対する影響力を
付けてしまったのは否定できないな。
宣帝の治世が短く、43歳で逝去したのが本当に惜しまれるよな。
太子の劉奭(元帝)を儒者被れしたのが宣帝の唯一の落第点かな。
儒家思想で政治の舵を取ると理想が過ぎて何時も失敗してしまうな。
武帝以後、歴代皇帝は毎回外戚の排除に宦官を使い、宦官の排除に外戚を
利用するから皇帝自ら政治を見る事が少なくなっているな。
それに早逝が多い事と、それによる後嗣の不在もしくは新帝が幼い為に
おこる外戚の摂政と専断、あたりが酷いんじゃないかな。
武帝の崩御から宣帝まで、とか、和帝崩御の後、なんか、そんな気が。
皇帝レベルで必要な感覚というのはバランス感覚
政治、外交、戦争、派閥争い……そういったものの見極めや線引きが上手かったからこそ漢祖や光武は大業をなした
>>689 宣帝は晩年は道教に溺れ、金とかのんで堕落しはじめてる
多分、いい感じに死ねたんだと思う
>>699 むしろ武帝は親政してからが酷い。
武帝は言われるほど評価を受けるような人間、皇帝ではないだろう
なによりコイツが儒教を国教にしやがったんだし
702 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 23:30:55
丞相とか大将軍が国事を担うと、外戚がその要職に就いて専横を極め、
皇帝の権力を強化すると、外戚排除の為に宦官が使われ、いずれは台頭に繋がってしまう。
結局は、皇帝がしっかりしてないと・・・
なんだか、「儒家思想が国を滅ぼす」みたいな感じがするな。
>>702 >丞相とか大将軍が国事を担うと、外戚がその要職に就いて専横を極め、
その為に寒門という存在が後に現れたんだと思う
その背景に大きな基盤を持たない、純粋能力のみで上がってきた安心して皇帝が使える駒
>>703 まあ、宣帝がいうように「王道(需)と覇道(法)を半々で使うのが我が家(漢)の祖法なり」ってことでしょう
王道って「徳」により、覇道は「力」にとって天下を取る事ってなんかに
書いてあったな。
徳≒儒家思想 力≒法家思想
↑
こんな感じな訳?
そう
そして「王道以外認めない!」=孟子
「王道が無いなら覇道でもイイじゃないか。国を安めることこそ第一」=荀子
荀子の弟子の李斯や韓非子が法家を大成したのは自然の流れといえる
儒家思想も法家思想も極端だと結局は駄目なんだな。
そう言えば、曹操とかは実力主義だけど、法家思想の方なのかな?
三国に儒家はいないとみていい
曹操を筆頭に劉備、孔明、孫権みな法家
そして陸遜は道家らしい
荀ケを筆頭に名士層の多くは儒家だったと思うのだが・・・
極言すると曹操と諸葛亮になるんだがな
劉備は侠客だろうに
郷里で推挙される際、「考廉」「茂才」等々などランクづけされるが、
根底には儒教がある。
荀ケらは儒家思想だった。それが、曹操との軋轢の遠因の一つだと思われる。
儒家で合っても儒学政治をしないものを儒家と呼べるのかってコトですよ
それに士大夫=儒家みたいなもんだし
714 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/19 23:14:07
重くてなかなか書き込めなかったが・・・
劉備って儒家思想や法家思想などを確り学んでいたのかな?
遊学に出たとあるが、当時は何を学んでいたのかな?
狩猟、博打、酒、女
要は、遊んでいた訳だが・・・
ある程度の知識は身に付けていると思う。
宮城谷三国志の後書きみたいなので
「劉備は道家思想で、儒家思想は実は曹操なんです」
みたいなこと書いてた。
曹操のどこが儒家思想なんだ?孔融ら儒家を殺してるし・・・
儒家を名乗ってるが行動は儒じゃないってのが儒家の常だからな
曹操の理想は儒だったがそれは腐った儒ではないってことだろ
法で縛らずとも儒をまっとうできればよいがそうも行かなければ法で縛ることも厭わない
曹操も「考廉」で推挙されている以上、儒教は身に染みているはずだ。
>>719の言う様であれば、彼は儒のみでは解決できない事を法を以って事を
成したと思う。
それに禅譲と儒教の関係も切り離せない問題だし。
儒家は結果より素晴らしい理念に沿ったやり方を重んじすぎる帰来があったからな
過剰な理想主義が思わぬ罠になったりするからな。
儒は目的なのか方法なのか
目標だろうね
ただし日本人にとって儒学は害にしかなってないが
孔融への処分は食糧生産政策でバカアホな発言をしたから。
っか、不平家も度が過ぎたこと
荊州制圧に向けて、反曹派への威圧と炙り出し
荊州への威圧
曹沖の危篤状態による精神不安定等が主な理由だと思う
袁昭という最大の障害無き後、仕上げに向けて自分の基盤を整えるのは当然の行為だろうな
>>701 儒教が国教化されたのは、厳密にいえば後々では?
武帝も国内の安定を踏まえて儒者の登用を進めたけど、酷吏の重用、
商業者・財産所有者の告発、専売に代表される経済政策など、明らかに
儒教が現実に即しえないという認識はもってたようだし、実務に関しては
儒教も儒者もそれほど信用してないはず。
結局、孔子は凄かったけど、儒教は理想論で現実性が無かったでいいの?
精神的な模範にはなっても、政治に組み入れるのは無理
489 無名武将@お腹せっぷく sage 04/12/19 23:01:23
孔子なら単体での戦闘能力でも関羽以上だったかもしれないよ。
マジで
490 無名武将@お腹せっぷく sage 04/12/19 23:21:39
巨漢の力持ちが最強ならπ突骨こそが最強だな
関羽や孔丘なんて相手にならんね(・∀・)
494 489 sage 04/12/20 02:39:55
なんだ孔子が巨漢だったこと知ってるの俺だけじゃなかったんだ
中国史最強は誰?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1100242495/
儒教ってのは「民衆向け」な感じだな。
儒教における、「礼」「仁」などは三国の時代にしっかり浸透していた
と考えていいのかな?
>>729 本人は全然そのつもりないのに、周りが勝手に解釈するパターンは往々にしてある
ましてソレが皇帝なら尚のこと
あの武帝が「儒教が国教だ!」と言ったからにはみんな必死になって儒教を盛り上げるし
死んだ後も影響を残そうとした武帝、そして死んだ人間は自分の意志を伝えられないと。
儒教でも荀子や王陽明のは実践的で現実性があるのだが、評価されないんだよな
また、孟子や朱子くらいに洗練されれば又別だが、そうそう出るような人材でもない
儒者は理想を先に考えて現実をそれに合わせようとするから失敗する。その代表者は孔子。皮肉でしかない
なんでもかんでも理想の云々と言っている儒者に一般大衆は疑問や非難の声を
浴びせなかったのか?
それが常識になっていた以上ね……
まあ、儒学は士大夫の嗜みでもあるし
中国に置ける大衆の宗教は道教、仏教、儒教だから
太平道と五斗米道なんかは道教の源流になっていったらしいな。
五斗米道の張魯ら三代に渡る五斗米道の指導者は後に道教の始祖となったようだ。
>>738 ?
なったようだって三国志好きなら常識範囲の知識をただ披露されても…
それに関する自分なりの意見とか考察入れてくれんと無駄レス
738では無いが・・・
太平道ってのはそんなに結束力があったのか?
当時、頻発していた貧困や天災を反政府として煽ったからから?
>>740 張角が変なイカサマを使って民衆を纏め上げて、反政府運動を煽ったのは
確かな事だと思う。全国に信者が広まり、「方」という組織を作った時点で
打倒漢王朝の動きを始めたと考えてよい。
道家は武帝までの前漢の家教だが?
>>742 しったか乙
道家と道教を一緒に考えないこと
道家思想(老荘思想)はなんで、魏の明帝に嫌われたんだ?
何もするな。自然のままでいろ
ってのは為政者の存在否定になりかねないからねぇ…
老荘思想って最終的には自給自足の生活なんだよね?
当時の老荘思想はそんなに異端だったのか?
>>746 当時は君主制のもとで政治も成っていたのに、政治社会からの逃避や自然主義
を唱えているから冷たい視線を突きつけられるのは当然かと。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 15:21:14
三国の英雄達って偉丈夫やら髭や容姿が美しかった。という記述が多いのに
なんで、曹操は背が低いとはっきりと書かれたんだ?
流石に背が低いという記述は陳寿が記した三国志には書いてないよね?
749 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 20:17:31
>>748 俺は三国志蜀書しか持ってないけど、武帝紀には書いてないと思うよ。
>748
その記述があるのって『世説新語』じゃなかったっけ?
マイナス要素が書かれてても、それ以上に素晴らしい才能があったという文章表現だと思うが
逆に容姿端麗でも決断力が無いだの書かれちゃう人もいるわけで
数日間、夫人との情事は慎むように華陀にいわれたのに我慢できずにやってしまって、
その最中に死んでしまったなんて情けないエピソードの持ち主もいるな。
演義にも「七尺で〜」って書いてあるよね。
大人物=大柄のイメージがあった時代だから、
陥れたい奴なんでわざと小さくされたって説があるけどどうなんだろ
あの時代はまだ名門やら三公を輩出したとかって言う、ネームバリューが
有るけど、五胡十六国〜南北朝まではまさに混沌としたからな。
三国志に登場する人物って家柄が高い連中ほど没落するよな。
>>753 演義は脚色は凄いからなぁ〜。
劉備たちに味方する者は史実で悪い評価でも良く描かれるからな。
基本的に偉丈夫とか赤面の人物は義を重んじる者で云々という感じだな。
コンプレックス持ちの英雄ってのがいい
それがいい
曹操なんかコンプレックスの塊みたいなもんだな。
だが、それを弾みとした訳だな。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/23 10:31:35
>>752 方技伝の華陀の記述は笑いの宝庫だよ。マジで
魏延も顔の色が関羽と同じ棗色と言われているわけだが。
>>759 演義では劉備を襄陽城に招き入れようと画策したのは魏延だったはず。
諸葛亮と相性が合わなくても劉備には認められてたし。
まあ、そこでなんで赤ら顔かは不明だが・・・
演義の魏延は、小関羽みたいな感じだもんな。劉備一筋だし。
赤ら顔は忠義の表れ、白は美形か悪役(董卓等)、黒は善玉(水滸伝の宋江とか)
だったかな。
赤ら顔は、関羽≒魏延とすることで
魏延=悪役という一般の世論に
んじゃ関羽も悪役なんだよっていう一石を投じたもの
>>762 当時、神聖化されていた関羽に対して性格面などでは結局、魏延と同じと
言う事を示していたのでは?
赤ら顔は当時の人相学で、赤心=忠義者を意味してる。
演義の人物描写はこの人相学に基づいている・・・ってことは、
魏延=忠義者???
>>764 魏延は最後は謀叛人として殺されたが、劉備や蜀には忠義を示してたという事。
ただ、楊戯が嫌いだっただけだと思う。もし、本気で謀叛を考えていたら魏に降って後
蜀を攻めたと思う。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 09:16:54
>>765 言ってる事は理解したが、楊戯じゃなくて楊儀だよ。
楊儀は「季漢輔臣賛」の著者だな。
その中に魏延の記述として「・・・人との協調性がなく〜実際が彼の性格から
出たものである」
同じく関羽・張飛は「・・・人との交際・応対に礼儀がなく、共に凶事を将来する事と
なった・・・」
魏延・関羽ともに性格面では似たり寄ったりと言う訳だが、劉備への忠義面では
関羽が長年+裏切らないという点で勝る形になったと考える。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 09:28:05
言いたい事はわかるが、将来じゃなくて招来
768 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 10:09:22
>>767 多分、
>>766の参考資料は「ちくま訳三国志」だと思う。
ちくま訳って結構、誤字とか翻訳ミスが多いからなぁ
つうか丸写しの方が恥ずかしい
770 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 11:05:19
まぁ、
>>766を擁護する訳では無いが、参考資料を使って自分の意見を
言うのも悪くは無い。ただ、サイト等に掲示してある人の意見を丸写しはさらに良くない。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 13:42:29
>ちくま訳って結構、誤字とか翻訳ミスが多いからなぁ
この翻訳は「漢書」「後漢書」で国扱いしている国でも
井波律子は郡扱いしているのはなぜか?
>>773 でもちくま文庫版の稚拙な訳文を盲信してる人もいるわけで……。
なんにせよ、少しでもあやしいと思ったら原文を参照してみた方がいい。
訳文で表現が曖昧な部分とか、入朝不趨や劍履上殿、贊拝不名のような
語句をいちいち噛み砕いて訳してたり、けっこう粗は多い。
>>772 顧雍の歿年なんかは有名なミスかも。
>>771 そりゃ漢で劉氏の王が封ぜられて国となった郡と魏で曹氏の王が封ぜられて国となった
郡との違いってことではないのかね?
>>774 大学院生の頃の仕事としてみればおおむねよくできてると思うけどな。
>入朝不趨や劍履上殿、贊拝不名のような語句をいちいち噛み砕いて訳してたり
それは別に粗というほどではないと思うけど。
例
文昭甄皇后伝など
中華書局では中山無極としている。
筑摩書房では中山郡無極としている。
曹魏で中山が郡と封じられたとしても
生まれたときは国の時期なので
翻訳する際は国にしたほうが妥当では?
そもそも伝の冒頭の本籍表記はどのタイミングに拠って書かれているのかって問題があるわな。
生まれた時の郡県所属に従っているのか、それともその人物が活躍した王朝での郡県所属
に従っているのか、史書が書かれた時期での郡県所属に従っているのか。
活躍した王朝での郡県所属であるとしたって、タイミングによって県の所属する郡が変わったり
郡に王が封ぜられて国になったりするから、翻訳をどうするかもまた難しい。
自分ならここはさらっと「中山無極の人」とやっちゃうけどね。
そんな感じだったら、簡単に分かるけど、誤訳があったりすると原文を
参考にしないとな。原文があれば、自分風にアレンジ翻訳できるし。
>>775 >大学院生の頃の仕事としてみればおおむねよくできてると思うけどな。
訳した人間の事情なんてしらねぇよ。
〜としてはよくできてるものなんて本来売り物にならねぇんだよ
もうスレタイ関係ないな
でもちくま訳には細かい字の間違い、読みの間違いなんかはもう腐るほどあるけど、致命的な
誤訳って巷間言われてるほどない気がするなあ。
「ちくま訳にも誤訳が有る」って言っとけばいっぱしの顔ができるからみんな言ってるだけ
ちゃうんかと。
陸遜死亡のあたり
要は、「三国志」の原文に触れる機会の有無だな。
原文読まなきゃどこが間違ってるとも言えないからね。
原文しか見ないので間違ってるかどうか言われないとワカラン。
原文なら比較的信頼度の高い電子テキストなんぞもあるから、
ある意味では翻訳より手軽に触れられるとも言えるが。
大学生の習作レベルと認識しながらよりよいものを求めない775みたいな人もいるんだし、
無双の知識で満足してる人がいてもかまわんだろ
おいおい、勝手に決め付けるなよ。誰が満足してるって?
満足してたら暇にあかせて「三国志集解」読んだりしないよ。
>16
自分の娘も、側室にしたほどらしいからのう
>>788 とりあえず、陸遜死亡んとこは誤訳だよね?
及 太 子 有 不 安 之 議 , 遜 上 疏 陳 : 「 太 子 正 統 , 宜 有 盤 石 之 固 , 魯 王 藩 臣 , 當 使 寵 秩 有 差 , 彼 此 得 所 , 上 下 獲 安 . 謹 叩 頭 流 血 以 聞 . 」
書 三 四 上 , 及 求 詣 都 , 欲 口 論 適 庶 之 分 , 以 匡 得 失 . 既 不 聽 許 , 而 遜 外 生 顧 譚 ? 顧 承 ? 姚 信 , 並 以 親 附 太 子 , 枉 見 流 徙 .
太 子 太 傅 吾 粲 坐 數 與 遜 交 書 , 下 獄 死 . 權 累 遣 中 使 責 讓 遜 , 遜 憤 恚 致 卒 , 時 年 六 十 三 , 家 無 餘 財 .
メンドイから某所から
読みずらいな。コピペはV2.0からにしてくれ。
で、これがどう誤訳されてるの?今ちくまは手元で読めんのだ。
俺も手元にないけど陸遜が顧譚らと一緒に流されたことになってるんだったはず
違ってたらすまん
>>793一番下の箇所を簡単翻訳(適当)
太子太傅の吾粲は陸遜と文書のやり取りをしていた事に連座し、獄に落とされ獄死した。
孫権は問責の使者を何度も陸遜に遣わした。陸遜は憤激のあまりに死んだ。
時に63歳、家には財産は残っていなかった。
>>795 なるほど、ざっと読むと流罪になったのは顧譚・顧承・姚信の三人だけのようだね。
上書して都に参上して嫡庶を論じたいと言ったけれど聴許されず、それどころか関係者が
罪に問われた、って文章だね。
「枉見流徙」の主語に陸遜は入って来ない気がするんだが、ちくまはどうして陸遜も一緒に
流されたとしたんだろう?良くわからん。
ちくまの原文を読まないとダメだなこりゃ。
原文を読んでいくのにえらく時間がかかる三下の俺が見ても、
>>793から陸遜が流されたとは読めなかった。
文庫版の翻訳者はどこをどう間違ったんだろうか……
ところが世間ではどうも陸遜も流罪にされたことになってるらしい
無双厨・演義厨・小説厨に加え「ちくま厨」の出現だな。
人間にも失敗はあると言うが、ここまで酷いとなぁ〜
読者の大きな誤解を招くじゃないか!?
俺言い出しっぺだが
ちくま確認してないので誰か頼む
>>801 そんなものかと思って「陸遜 流罪」でぐぐったら誤訳の理由が書いてあった。
www.tpot2.com/~sunshi/ctk/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=689;id=
ちくまの原文は
「陸遜の甥にあたる顧譚・顧承・姚信らが、みな皇太子のふところ刀となっていると
いいがかりをつけられ、陸遜は流罪にされた。」
ちくま訳最大にして最悪の間違いではないかと
影響の大きさからして
>>806 激しく同意。
この二宮の変は呉の主流豪族と亜流豪族の対立だって某サイト(呉支援サイト)
にあったな。
>>807 孫和派と孫覇派のメンツを見れば一目だけどな・・・
というか曹操はどこ行っちゃったのよ?
そんじゃあ、話題提供を要請する。
曹操殺人
812 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/24 22:25:06
なんで父親の曹嵩が殺された時、大量の民衆を殺戮したんだ?
>>812 真面目に親父の仇を討つ為とか諸説あるが詳細は不明。
だが、彼の徐州征伐は彼の悪名を高めただけではなく、徐州の名士たちが
江南へ移住を開始し始めたきっかけにもなった。
>>812 青州兵投降直後の出来事だもんな。
窮すれば味方からも略奪するDQN部隊だから、
いったん戦争が始まりゃ意味が無くても人は死ぬ。
もっとも、大虐殺ってのも呉の宣伝っぽいけどね。
食料の欠乏が酷かったから、いつも以上に現地調達しただけとかじゃないの
青州兵が暴走したとしても、止めようとすれば制御できたはず。
もし、徐州における民衆虐殺が真実で青州兵がそれを行ったと考えると、
曹操は青州兵の動きを止めなかった事になる。
兵の略奪を完全にコントロールしきるのは難しい
特に数も多くもともと賊の類の輩だしな
>>816 止めきれなかったって結論になるならまだしも止めなかったって結論になうのは頭悪すぎ
青州兵の統率は誰が行ったんだ?やっぱり曹操が自ら指揮したのか?
>>808 スマン、後学までに、太子派と魯王派の主なメンツを挙げて
みてくれんか。いや実は、調べるのがちょっと億劫で・・・。(汗
>>818 宛城で敗北し、敗走途中の青州兵が略奪を行ってるのを于禁が処罰したな。
その青州兵たちは曹操に苦情を申し立てたから、青州兵は曹操配下だと思う。
曹操の配下なのは確かだろうが、指揮系統がどうなってたかって話
>>819 孫和派・・・陸遜・顧譚・顧承・吾粲・諸葛恪・施績など
孫覇派・・・孫魯班・全j・歩隲・呂岱など
>>820 その青州兵は夏侯惇配下じゃなかったっけ?
>>823 夏侯惇伝にも于禁伝にも誰が青州兵を率いたかは記載されてないな。
曹操が死んだあと、鼓を鳴らして去っていったとかいう記述がなかったっけ
青州平全てがとは言わないが、一部は曹操との個人的契約で戦ってたんだろ
>>825 この個人契約ってのが、前代未聞だよな。金とかで雇ってる私兵でも無いし。
そんな貴方に秘本三国志
>鼓を鳴らして去っていったとかいう記述
昔での「鼓を鳴らして隊を去る」ってのは今で言う名誉除隊みたいな感じか。
>>828 隊列作ってジャーンジャーンと横光みたいな音出して立ち去っていく青州兵を想像してたのは
俺だけじゃないと思いたい
ジャーンジャーン
被るとは
青州兵って降伏後も信教の自由があったんだよね?
どう考えても、一般の兵とは連携できなさそうだな。
833 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 18:04:30
兵士同士の連携を上手く繋ぎ、的確な動きを指示する為に指揮官が居るのだよ。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 18:20:29
>>833 まあ、その辺はスウィート三国志を読めば面白おかしく分かるけどね。
>>833 徐州ん時はその為の練兵が間に合わなかったのサ。
青州兵って青州出身だけど、流民化して兗州になだれ込んだの?
つーか、黒山・白波・青州兵が組んだら袁紹も曹操も結構、危なかっただろうな。
>>836 三者が同盟する事なんてあり得んよ。青州黄巾は食糧を求めて兗州に
入った訳だし。
>>837 黒山と合流するために移動したんじゃないのか?
黒山の于毒らが魏郡・東郡の東武陽を攻めた後、青州黄巾兵が任城国・東郡
に進軍した動きは関連性があったと考えていいな。
結局、黒山は敗走、黄巾は降伏する形となったが・・・
青州兵を傘下に収める以前の曹操軍の兵数ってどれ位なんだ?
徐栄に敗れた後、揚州に兵の募集に行っているが1、2万人が限度だと思うが・・・
>>840 そんなものかな?
揚州で4千かき集めて、反乱されて再度集めて3千。
その後袁紹に東郡太守に任ぜられてる。袁紹からの援助もあったでしょ。
なんだかんだ言って、黄布直後くらいでは官位=勢力でしょ
ま、そりゃ黄巾直後はな
官位もなく、私兵集めてたら反乱扱いか盗賊扱いされるし
>>841 袁紹からの兵の提供は無いだろ。袁紹の方だって公孫瓚との対峙で忙しいんだし。
対袁術戦を見据えて袁術の袁術〜陶謙〜公孫瓚に対抗して、
劉表〜曹操〜袁紹みたいな感じにしたかったのでは?
>>844 朱霊がどうやって袁紹陣営から曹操陣営に移ったか知ってる?
二行目からのは確かだが、そのために袁紹は兵や物資を送ることにやぶさかでなかった。
>>845 激しく誤解してた。最近、徐晃伝の中の朱霊に関する記述を読んでたのに
すっかり忘れてた。
朱霊って張遼らと並んで後将軍になってるのにも関わらず、独立した伝が
立てられなかったのが残念だな。しかも、曹操に嫌われてるし。
袁紹にも嫌われてたんじゃね
決して無能な人材では無いのに嫌われる連中は結構居るよな。
朱霊は嫌われ者ってな感じだけど、士卒には慕われたんだな。
曹操の元に残る時も士卒は彼につき従ったし。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 15:43:26
話を戻しちゃうけど、董卓征伐後〜青州兵吸収までの
曹操軍の兵数は5万以下なのか?
>>851 5万もあったら結構な大軍・・・当時の曹操軍にゃ養えないね。
青州黄巾を千で降伏させたというのは誇張だとしても、
せいぜい1、2万じゃないのかな?
東群太守→兌州牧で飛躍的に動員力増えたろ
ただ、乱で荒れ放題の兌州だが
一昨日のことだ。友達にグチってるときに
友達が「あー、そんなんじゃテンション夏候惇」と言った。
思わず「はぁ?!」って言ったら我に返ったらしく
「いや!違!下降するって言おうとしたのに!!」と焦っていた。
以来、友達は魏が好きなんだろうかと思ってやまない
>>853 兗州牧になった事で州を挙げての兵の動員も可能だし、特に天子推戴後なんかは
人材も兵も集まり易くなったと思う。
そういえば、曹操の唯一の親友の張邈も当時は曹操の
理解者の一人だったけな?
後に張邈が呂布と結んで曹操に謀叛を起こした
ことは曹操の増大に危惧したのかな?
弟が先走ったので仕方なくとかじゃないの
張邈の実弟の張超がアンチ曹操だったのは本当らしい。
また、それに以前曹操の参謀だった陳宮も出てきて、
どちらかというと優柔不断な所もあった張邈を呂布と引き合わせて、
うまく巻き込んだというのが真相らしいかも?
当然、曹操はたった一人の親友の謀叛にショックを受けただろう。
曹操が徐州征伐に行く際、「わしがもし帰って来なかったら、孟卓の元へ
身を寄せろ」と家族に言ったのを見る限りどれだけ曹操が張邈を
信頼していたか、よく分かる。
袁紹も友人の一人だったけれど、ある件で張邈とトラブルを
起こして、袁紹が曹操に「孟卓は儂を馬鹿にしておる、やつを
斬れ!」と大剣幕となった。だけど、曹操が袁紹を宥めて、事無き
を得たらしい。それ以来、曹操の恩義を感じた張邈は曹操との家族
ぐるみの付き合いをしたらしい。本当に惜しい感じがするが…。
張邈が曹操を裏切らなかったら、やっぱり右腕以上の存在になったのかな。
当時、張邈と曹操ってどういう関係だったのかな?身分上、陳留太守と兗州牧だから
曹操の方が上なのか?
答えになってるかわからないけれど、実は曹操が董卓に追われた時に、
親友の陳留郡太守の張邈を頼って、自分の構想を張邈に全て語り合い、
曹操の真意を理解した張邈が、自分の財宝を投じて、曹操の挙兵の
後見人になってくれたらしい。それは、友人でもある袁紹を盟主とする
反董卓連合軍の形成まで発展したらしい。
(原案人は東郡太守の喬瑁)
反董卓連合軍内の派閥は袁紹派・袁術派・(その他)・張邈派が構成されていたが、
曹操は張邈派に属してしたようだな。張邈は張超・鮑信なんかも参加していたとおもう。
張邈は東平郡寿張県の人で、若い頃から任侠に富んでいることで知られてたらしい。
間もなく張邈は孝廉に推挙されて、郎中となったらしい。また『八厨』の一人である
清流派の名士だったらしい。多分、人々を魅了する人物だったのだろう。
友人の袁紹とトラブルを起こしたのも、やたらと威張り散らす袁紹を張邈が、
烈しく諫めたことで、生じた問題だったのだろう。
曹操にとっても、反董卓連合以来の同志の張邈・鮑信や徐栄と滎陽で戦い戦死した
衛茲などを失ったのは痛手だったはずだ。
>>864 どこぞのサイトのコピペを中途半端にいじって貼るのやめな
>>865 後年、衛茲の子には厚く報いてるし、痛手でもあり、感謝の念もあったんだろうね。
そういえば、鮑信の実弟の鮑韜も汴水で徐栄軍と戦って壮烈な最期を
遂げたそうだ。多分、衛茲と運命を共にしたのだろう。
徐栄との戦いは曹操も一生、忘れられない戦いだっただろうな。
曹操が自身の身に恐怖を抱いた戦は汴水の戦いと宛城での張繍の裏切りぐらい
だろうな。
衛茲の息子は衛臻と言って、魏の司徒にまで昇っているな。実際に彼には
能力があり、実力で昇りあがった面もある。
なんだ?このコピペ厨は?東呉の民兵が名無しになってまだいついてるのか?
>>871 まぁ、コピペだけあって情報は確かだな。
もし、衛茲一族を手厚くするだけだったら、典偉の息子の典満のように、
適当に都尉にでも任命しとけばいいんだけどな。
コピペ知識でも構わないが、自分の意見や疑問もなくそれだけ貼られてもな
さすが博識とでも思ってもらいたいのか知れんが…
典韋はもともとは張バクの陣営だったと聞いたことあるけど、
平和的な異動だったのか、張バクが裏切ってから降伏したのか知ってる人いる?
ちょっと前にあった朱霊の件もそうだが、
一応は友好状態にあり、かつ本人の希望とは言え、
部下を持ってかれるのはいい気分しないだろうな
>>873 典偉伝には夏侯惇の配下に移ったと有るのみで詳細は不明だが、恐らく曹操陣営に
引き抜かれたと思われる。
仮に張邈の元を去って来たと考えてみると、それは無理な話。
典偉は第一、張邈配下の司馬の配下(そうするに一兵士)一兵士が、主君の
命令に逆らう事は無いと思う。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 11:51:47
>>873 そりゃあ、君主としては部下を引き抜かれるのは気分がいい物では無いな。
876 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 20:01:27
袁術が劉表に糧道を断たれた後に、陳留方面に出陣したけど、曹操は袁紹側に
付いて戦った訳だよね?そうすると、
>>844の言う様にあの構造で戦ったんだよね?
曹操も始めは袁紹の属将にすぎない
天子を推戴して許に都を置いた時を前後として両者に亀裂が生じた訳だな。
そもそも、曹操は袁紹側に付いていたのも戦略な訳だな。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 21:19:23
>>878 兵数や兗州という場所を考えて一時的だが、当時の最大勢力と手を結んでおく事は
曹操にとっても有益だし、袁紹陣営にとっても対袁術戦においての「駒」に
なるから、同盟は相互利益だった訳なんだよ。
袁紹も同期の友として敵対しないと思ってたかもしれんな
袁紹と曹操のエピソードで万一の事があったら、自分は河北に本拠を構えると
曹操に言い、曹操は袁紹に天下の賢者を集めれば問題ない。と言ったそうだ。
両者共にこの言葉通りに動いたな。
>>881 エピソードは歴史から逆算して作られるものだ。
エピ(後日)ソード(挿入)だもんな
884 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/28 17:50:55
三国志内に見える注解に用いられる書物の中でどれが一番、信憑性があるんだ?
良く意味が分からないんだけど、裴注が引用する書物の中で、っていうんだったら、裴松之
自身が引用書物の信憑性などについて注のあちこちでコメントしているから、
>>885の言う
とおり正史『三国志』を裴注込みで一通り読めば分かる。
陳寿評と裴松之の評価が明らかに違う事例があるな。特に賈詡に対する評価は
正反対だな。やっぱり、議論される時代によって評価も違う訳か。
結局、賈詡はいい奴なのか?
曲がりなりにも統一王朝の時代と南北朝時代の空気の差かもな。
カクは特に非難されるようなことないと思うけどな。
長安の乱を彼の責任として非難するのはちとやり過ぎの気が。
賈詡が李カクに献策したのが始まりだが、長安の荒廃は彼一人のせいでは無いし。
献策した時は、自身の保身目的もあっただろうな。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/28 22:54:10
>>889 >献策した時は、自身の保身目的もあっただろうな。
そりゃそうだろ。下手したら董卓政権に加担したと言う事で処刑されるかも
しれなかったんだから。苦し紛れにしては随分な策だが。
891 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 02:40:42
話が変わるけど、董卓を殺害した後、董卓配下の将を懐柔しなかったのか?
政権を握ったにも関わらず、あっという間に李カクらに董卓の復讐されてるし・・・
王允って性格にちょっと問題有りだったような。
蔡ヨウ殺してるし・・・
>>892 暗殺という神経を最大限にすり減らす計略に身を置いて、ストレスと人間不信でラリってしまったんだろうな
何進の時は宦官誅滅、董卓の時は董卓に協力したり暗殺したり。
王允はかなりえげつないことやってる。
もともととんでもないことやってる奴だったんだよ。
だから蔡ヨウに全部ありのまま書かれるのは嫌だった。
また蒼天か
李カクらの降伏を拒否してるんだよな。大赦は年に一度だからって。
どう考えても偏狭な器だよな。
精神疾患だったので無罪
荀ケ荀攸と賈詡を並べるのは俺も違うかなとは思うんだけどね
荀ケ荀攸陳羣伝とかの方がいいと思うんだけど。名門荀氏と陳氏ってことで
荀ケ・荀攸の活躍した時期が陳羣とは違うからなぁ〜。
裴松之も資料を引用して、陳羣・陳泰は父や祖父に劣ると酷評してるし。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 19:55:40
900get!!!
三国志は紀伝体を採用しているが、大体は同類の連中同士(語弊があるかも)
を纏めてるな。誰をどこに入れるかは著者の陳寿の考え一つだからな。
このスレも900越えたんだ。
903 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 01:05:46
董卓死後の王允側には名だたる武将は居なかったのか?
皇甫嵩や朱儁ら黄巾討伐に功があった者も兵権から暫く遠ざかっていたから
兵をうまく束ねられなかったのかな?
呂布がいるだろうが!
905 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 01:10:03
例え呂布がいても一人で抑えられる問題じゃないだろ。
名立たる武将がいなかったのか、との問に対して
人中の呂布とまで称された武将の名前を挙げたわけだ
それに対して「一人では抑えられない」とは一体どう言う意味だ?
ついでに言えば張遼、高順などの名将もいるわけだが
長安急襲が良く出来た作戦だったってことの証明なんじゃないのかね?
王允軍(仮称)と旧董卓軍は長安の何処で戦ったんだろう?
城内戦だったら、騎馬は自慢の機動性は使えないし。
旧董卓軍の方が後が無いから死力を尽くしたのか。
旧董卓軍が純粋に強かったんだろう。
なんにせよ一度は政権を取った軍閥なんだし。
皇甫嵩や朱儁といえども官軍では精強な涼州兵には
かなわないな。
董卓の暗殺も王允や士孫瑞らが呂布・李粛らを抱き込んだ身内だけだったから
成功したが、暗殺後の主導権争いの際には不利だよな。
>>906 張遼、高順がいかに後に名将と呼ばれる資質が
あったとしても、この時期ではおそらく一軍を率いることが
できる立場にはなかったから居てもあんまり意味なさそう。
高順・張遼共に董卓死後、呂布の配下となってるな。もし、李カクらと共に城外に
駐屯していたら彼等はどう行動したのかな?
>>911 危険を冒してまで李カクの元を去り、呂布側に奔るとは考えられない。
913 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 21:13:19
>>908 第一、当時の董卓軍=官軍だから、集められる兵も限度があるから敗戦は
濃厚だったはずだ。
>>911 ヘイ州の者が、涼州の者と共に行動するとは思えないな・・・
涼州の人間を憎んでいたようだから・・・
>>914 元丁原配下の士卒は呂布の配下に移ったのかな?だとしたら、呂布と李カクら
董卓軍閥はあまり仲は良くないだろうな。
916 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 13:34:05
呂布が丁原から董卓に仕えた際、丁原の士卒に反乱が見られないな。
丁原は士卒から嫌われてたのか?
やっと900越えしたのに相変わらず過疎気味だな・・・
918 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 18:38:12
それが三戦クオリティ
_____
/ ̄ ̄ ̄ ̄\,, /−、 −、 \
/_____ ヽ / | ・|・ | 、 \
| ─ 、 ─ 、 ヽ | | / / `-●−′ \ ヽ
| ・|・ |─ |___/ |/ ── | ── ヽ |
|` - c`─ ′ 6 l |. ── | ── | |
. ヽ (____ ,-′ | ── | ── | l
ヽ ___ /ヽ ヽ (__|____ / /
/ |/\/ l ^ヽ \ / /
| | | | l━━(t)━━━━┥
謹賀新年age
921 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/01 00:17:26
922 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 13:27:40
晋以降の時代に魏の曹氏の末裔が活躍する事は無かったのかな?
漢楚の戦い以来曹参の家系が活躍してよかったね
そういえば、曹氏ってのは周代のころの邦のひとつの曹の公族の末裔になるのか?
それともその前から曹氏はいたのか?
>>925 三国志武帝紀に見られるように陸終の子、晏安の子孫が名乗った曹姓の
他に周の武王の弟一族の子孫が封ぜられた国「曹」をとって氏とした
二通りあるようだ。
曹操の方は黄帝からの血筋(陸終の方)を取っているな。
そっちの方が一様、筋(?)が通ってるからな。信憑性は不明。
黄帝が五行の土だからじゃない?
>>927 言っておくが、中国の姓はみなわしの血筋だぞ
わしの孫の帝センギョクからさらに別れた血筋が曹姓のはじまりだ
血筋なんて怪しいもんだな。ましてや、三国の「曹」「劉」「孫」なんかの
先祖の信憑性なんて無いに等しいぞ。
劉備や孫堅みたいに乱世に乗じて沸いて出てきたような連中らが称している
先祖は眉唾ものが多いよな。
ずっと遡っていけば、最初の出自なんてみんな変わらん
むしろ戦乱の世で利用できる物を利用しない方がアホ、マヌケ、カス、死んじゃえ
曹操が曹参の子孫だとか夏侯嬰の子孫だとかよく言われるが、
そうだとしても曹操らがそのお陰で何かを得たりした形跡はない。
曹騰、曹嵩出すまではどうもあまり裕福でもない両家だったようだし。
孫氏も同じ。
かろうじて劉備はもしかすると宗室の優遇措置を受けた可能性があるので検討する意味があるけど。
そういう出自が利用できる代物だったとも思えない(劉氏除く)から、泊をつける程度の意味しかなかったと思うぞ。
つまり先祖が誰とか考えてもあまり意味はないってこと。
でも、たとえば汝南や潁川の名士の姻戚関係などは三国時代でも重要な意味を持ってくるので、こっちは検討する意味が大いにある。
汝南・潁川の士大夫の連中は三公九卿を輩出する事によって名声を高めたのか?
荀氏は八龍と言われる兄弟たちの数人が三公を歴任している大物を
輩出してるな。陳氏はあまり高官は多くなかったが、人物鑑定などで
名声をあげていたな。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 19:31:45
人物鑑定なんて鑑定士に賄賂でも払えばどんな事でも言ってくれるだろうな。
しかも、初対面の人間なんかどうやって鑑定するんだ?
これ嫁
つ『曹操〜曹家の人々〜』
陳瞬臣の「曹操」を読めば分かるけど人物鑑定士は事前に情報を得てる場合が多い。
勿論、賄賂を貰って過大評価するのも有り得る。
お互い今で言うところのセレブだし、会うのは初めてでも判断材料はいくらでもあるだろうな。
許邵の月旦評とかって有名だけど、具体的に誰を批評したかが、分からないから
曹操以外の人物評がよく分からんな。
941 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 20:57:10
孔融・禰衡ってのは一様、儒者なんだよね?
孔融なんか孔子の子孫だし。曹操って結構、儒者を殺してるな。
儒教が邪魔だったのかな?蒼天航路を読んでふと思うが・・・
曹操は漢寄りで自分たちの権力集中に邪魔な大臣を始末していっただけだよ。
儒とかにこだわったりはしていないと思う。
魏国が建国されると曹操配下の家来はみんな漢臣から魏臣に鞍替えしてるな。
賈詡とかは漢の臣下だったな。
結局、漢の臣下の者は魏の治世では台頭しなかったな。
944 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 23:52:02
>>943 えらく当たり前のことを
さすが東呉の民兵さんは博識だな
>>943 漢・魏の臣が曹丕に禅譲を迫る上奏などに列名されている者たちを
見れば分かるけど、殆どが魏臣だ。中には匈奴南単于の呼廚泉などの連署も
見られる。
夏侯惇が漢臣であったのに魏臣に移ったのは懸命な判断だと言える。
南匈奴の単于の呼廚泉の甥が漢(前趙)の初代皇帝の劉淵だったかな。
>>946 いや、呼廚泉の甥は劉豹で劉淵はその息子。
>>945 夏侯惇が魏臣になった頃って漢臣である方が名誉だったんじゃないの?
不臣の礼の話って作り話みたいなもんなのかい?
どっかのサイトで
>>945と全く同じ意見読んで、同じ事思ったけど・・・。
949 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 10:08:34
曹操の魏公就任を発議したのは、董昭だけど曹操自身は就任に積極的だったのか?それとも、曹操が裏で手を回したのかな?
積極的でなかったら握り潰すなりできたよ。
しかも、魏公に封ぜられる前に魏郡を広げるといった措置を行っている。これらにも曹操が絡んでいないとは思えない。
蒼天は漫画としては面白いが、あれを規準にするのは無理。当たり前だけど。
951 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 11:43:32
つか曹操は本当は自分が禅譲受ける予定だったんじゃないかと思う。
洛陽で急死しなかったら曹丕でなく自分が即位する手筈だったんじゃないかと。
952 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 13:39:36
曹操自身は「周の文王になる。」とかって、言ってたな。
953 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 17:46:18
周の文王つーことは、どっちみち子孫が天子になるのは既定路線てことだな。
曹操が帝位簒奪の基盤をしっかり築いたから曹丕は難なく帝位に就けたんだな。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 21:13:32
次スレどうすんの?
>>955 曹操について語るスレとかどうよ
曹一族でもいいけど
いっそ魏について徹底的に語り合うスレでもファンスレでも
957 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 21:51:08
【曹魏】曹操総合スレッド【一族】
↑
こんな感じか?
このまま現行スレが消化したら
>>956の題名で逝くか。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 22:26:40
漢の献帝と魏の元帝では禅譲後の待遇が違うとよく聞いたけど
どこら辺に待遇の違いがあるんだ?山陽公と陳留王の違いか?
961 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/09 23:55:43
曹操の息子(だったかな)で、
象の重さを量ったり
ネズミに米をかじられたのを誤魔化してあげたのって誰だっけ?
早くに病気で死んじゃってる
962 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 23:59:49
曹沖でないの。
ゲームで象兵を扱う能力があって不思議に思ってたんだけど
>象の重さを量ったり
なんて逸話があったのか・・・
964 :
961:05/01/10 00:24:49
>>963 それだ、曹沖 ありがとう
献上された象の重さを量るために
船に象を載せて、船に線をひく
象を降ろして、同じ線まで沈むまで小石を載せて
小石の重さを合計すれば、象の重さがわかる、という話
曹沖は曹操がもっとも期待していた子供ですね。
夭折した際に、曹丕や曹植に向かって
「俺にとってこれほどの不幸はないが、貴様らにはこの上ない幸運だ」と語ったとか。
そういや鼠にかじられた話もあったな
967 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 11:13:13
少しは自分で調べようって意識はないんかね
969 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 13:40:20
どれだけ、曹沖が優秀でも後継者としての器量は未知数だよな。若い曹沖より曹丕を後継者にする事は現実的だし。
曹植が本読みながら虱食べるの趣味って話
何に載ってるんだっけ?
突然気になったんだけど、調べてもわからん_| ̄|○
>>970 その話は初めて聞いたな。どの文献に記載されてんだ?
>>970 ググったらその話結構出てきたな
しかし何に載ってるかが分からん・・・
Googleで「曹植 虱」で検索したけど、サイトが見られなかった(´・ω・`)ショボーン
>>973 「曹植 シラミ」の方が微妙に多い、が文献などは見当たらない
「曹植は本読みながら虱食べる〜」みたいのは書いてあるが
>>973 お節介というか知っているかも試練が
そのサイトが消えていて「見られない」のならキャッシュをクリックで
割り込みで悪いが、次スレは980の方に立ててもらいます。
つーか虱って食えるほど大きいか?
虱・・・雌が約3ミリメートル、雄が約2ミリメートル
人の頭に寄生し、皮膚から吸血する。
頭皮から離れても2,3日は生存できる
ちょっと調べたらすぐに出てきた。
食えるのか?
>>978 う〜ん。趣味だけど、なかなか理解出来ない所があるな。
彼が本を読みながら虱を食べる事は今で言う、本を読みながらお茶を飲む
みたいな感覚なのかな。
違うだろ。自分の体に湧いた虱をとりながら本を読んでたんだろ
んで、潰すのも嫌だから犬や猫がやってるように食べて処理。
今日立てたばかりなので無理
↓スレ立てよろしく
ここは990氏に任せよう!!
>>980 ピンセットで虱を取って食べながら本を読むのは苦労するな。
早死にの原因はそれか?
つまり三国志時代の人間は、皇族のような人間であっても
虱がわいていた
とこうゆうことなのか???
結構定期的に風呂に入ったり、トイレ行く度に服を着替えたりして
清潔そうなイメージあったんだが・・・
>>985 お前、虱が湧かないで生活できるようになったのなんてここ最近のことだぞ
>>986 Σ(;´△`)エッ!?
そうなのか……無知ですまそ…
今度実家帰ったらばーちゃんに聞いてみる
当時の風呂ってどんな感じのものだったんだ?
髪の毛とかの手入れが面倒だろうな。
↓次スレ頼んだ!!!
↑世継ぎなど要らぬわ
次スレ立てないのか?
994 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 21:25:34
このスレに常駐住人が5人ぐらい居ると今後も助かるんだがな。
>>992 のスレ乗っ取ってきたよ(・∀・)
次からあっちでよろしく
まあ、そういう事になったので宜しく。
移動しマッシュ
999 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 22:26:24
1000ゲット
m9(堅・∀・)ビシッ!! 悪いが1000はこの孫文台がいただいたぞ!!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。