1 :
平氏 ◆jgTjT6dm9o :04/09/15 16:37:38
2 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 16:39:22
やんごとなき奴は板違い!
うん、たしかにそうだね。って終わりか。。
だが個人的には将門公は嫌いではない。
メガテンやったことある人間にとっては守護神とさえ思える
禍魂マサカドゥス、強すぎ、というか卑怯。
たしか万能以外は全て反射?
●『将門略記』冒頭部分
聞くところによれば、かの将門は昔の「天国押撥御宇(あめくにおしはるきあめのしたしろしめす)」
柏原(桓武)天皇五代の後裔であり、三世高望王の孫である。その父は陸奥鎮守府将軍・平朝臣良持(よしもち)である。
弟の下総介・平良兼朝臣は将門の伯父である。ところが、良兼は去る延長九年(931)に、少々女論(女性に関する紛争)
によって叔父(舅)・甥の間ですでに関係が悪化していた。
●『歴代皇紀』朱雀天皇条
将門合戦状にいわく、始め伯父・平良兼と将門と合戦し、次に平真樹に誘われて、
承平五年二月、平国香ならびに源護(みなもとのまもる)と合戦した。
●野本付近の合戦
裏等、野本□□□□(源)扶(みなもとのたすく=源護の子)らが陣を張って将門を待った。
遙かにその軍の様子を見ると、いわゆる兵具の神に向かって旗をなびかせ、鉦を撃っていた。
ここで将門は退こうと思っても退けず、進もうとしても進めなかった。しかし、身をふるいたたせて進み寄り、
刃を交えて合戦した。将門は幸いに順風を得て、矢を射れば流れるようであり、予想通りに矢が命中した。
扶らは励んだがついに負けた。このため亡くなった者は数多く、生存した者は少なかった。
その(承平五年二月)四日に、野本・石田・大串・取木などの住宅から初めて、扶の味方をした人々の小宅に至るまで、
皆ことごとく焼きめぐった。□□□□□□□□火を逃れて出た人は矢に驚いて帰り、火中に入って泣き叫ぶ。
□□□□□□□□の中、千年の貯えも一時の炎に焼失した。また筑波・真壁・新治の三郡の伴類の家が五百軒余り、
あるものすべて焼き払った。悲しいことに男女は火のために薪となり、珍しい財宝は他人に分配されてしまった。
三界の火宅(苦しみの多いこの世)の財産にはそもそも五人の持ち主があり、持ち主が変わって定まらない、というのは、
こういうことを言っているのだろうか。その日の火が燃え上がる音は雷鳴のようにすさまじく響き渡り、
その時の煙の色は、雲と争うかのように空を覆った。山王神社は煙の中で岩の影に焼け落ち、
人の家は灰のようになって風の前に散ってしまった。国衙の役人・一般人民はこれを見て悲しみ嘆き、
遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。矢に当たって死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、
楯を捨てて逃れた者は予期せず夫婦の生き別れとなってしまった。
●貞盛、去就に迷う
そのなかで平貞盛は朝廷に仕え、事件が起こる以前に花の都に参上し、
経めぐるうちに詳しくことのいきさつを京都で聞いた。そこで貞盛が
事情を考えてみるに、「自分はまさに常陸の前の大掾(三等官)・源護や
その子息とはみな同族であった。しかし、まだ自分から加勢したわけでもないのに、
その姻戚として縁があったがために、父・平国香の家はみなことごとく亡んでしまい、
本人も死去してしまった」と。遙かにこの事情を聞いて、心中に嘆いた。
財産については五人の主があるとかいうのだから憂い嘆くことはない。
しかし、哀れなのは、亡父がむなしくあの世への別れを告げ、
残された母一人が山野に迷っているという。朝には座ってこれを聞いては涙で顔を濡らし、
夕方には横になってこのことを思っては愁えて胸を焼いた。
貞盛は哀慕の思いに耐えられず、休暇を申し出て故郷に帰った。
ようやく私宅に着いて、亡父を煙の中に探し、母を岩の影に尋ねた。
幸いに司馬(左馬允)の位に至ったというのに、
帰郷してからは別鶴という曲のように嘆き悲しんだ。
そして、人の口伝えで偕老の妻を得ることができ、人づてに連理の妻を得た。
麻布の冠を髪につけ、菅の帯を藤の衣に結ぶという喪服姿とは悲しいことだ。
冬が去り、春が来て、ついに親孝行ができなくなり、年が変わり季節が改まって、
ようやく一周忌を済ますことができた。
貞盛がよくよく事情を調べてみると、将門は本来の敵ではなかった。
これは自分たちが源氏の姻戚に連なっていたがためのことである。
いやしくも貞盛は国家守護の職にある。都の官に戻って出世するべきである。
しかし、やもめの母が家におり、子である自分以外にだれが養えようか。
数々の田地は自分以外に誰が領有できようか。将門に和睦して、
よしみを都と田舎で通じ合って、親しさを世間に広めよう。だから、
このことを詳しく告げて、将門と親密にするのがよいだろう、
と考えたのであった。
●川曲村の合戦
こうして対面しようとしている一方で、故・上総介高望王の妾の子・平良正も、
また将門の次の伯父であった。それゆえ、下総介の良兼朝臣と良正とは兄弟であって、
二人ともあの常陸の前の掾である源護の姻戚であった。護はいつも、
息子の扶・隆(たかし)・繁(しげる)らが将門のために亡くなったことを嘆いていた。
しかし、下総介の良兼は上総国にいて、いまだこの事情を知らなかった。
良正一人が親類縁者のことを思い慕って、車のように常陸の国内を奔走する。
ここで良正は外戚・源護一家の不幸に同情する余り、
同じ平一族である将門との親族関係を忘れた。そこで干戈の計画を立て、
将門の身を滅ぼそうとした。ときに、良正の縁者(源護一族)がその威力の準備を見て、
いまだに勝負はわからないけれども、にっこり笑ってよろこんだ。
常道に従って楯を負い、状況に従って出立した。
将門はこのことを伝え聞いて、承平五年10月22日、常陸国の新治郡川曲
(かわわ)村に向かう。そこで良将(良正)は声を上げて予定通りに打ちあい、
命を捨てて互いに合戦した。しかし、将門に運あって勝利し、
良正は運がなくついに負けた。射取る者は60人余り、逃れ隠れた者は数もわからない。
こうしてその22日に将門は本拠地に帰った。ここで良正とその一族・一時的同盟者は、
兵の恥を他国でさらし、敵の名声を上げることになってしまった。
情けないことに静かで動かない雲のような心を動かして、
疾風の影を追いかけてしまったのである。
●反将門の軍兵が結集
しかし、会稽の恥をすすぐ思いが深いため、まだ敵対心を発する。
そのため兵力不足の由を記して長兄・下総介良兼に文書を奉った。
その文書には「雷電が響きを起こすのは、風雨の助けによるものであり、
おおとりが雲をしのいで飛ぶのは、その羽の力によるものです。
願わくば協力を仰いで、将門の乱悪を鎮めましょう。
そうすれば国内の騒ぎは自ずから鎮まり、上下の動きも必ず鎮まるでしょう」
とあった。
下総介良兼は口を開いて、「昔の悪王も父を殺害する罪を犯したのだ。
今の状況で、どうして甥の将門を強くするような過ちを我慢できようか。
弟の言うことはもっともだ。その理由は、姻戚の護の掾に近年愁えることがあったからだ。
いやしくも良兼はその姻戚の長である。どうして力を与える心がなかろうか。
早く武器を整え、密かに待つべきだ」と言った。良正は龍が水を得たように心が励まされ、
前漢の武将・李陵のように戦意を燃やす。
これを聞いて、先の(川曲村の)合戦で射られた者は、
傷を治してやってきたし、その戦で逃れた者は、楯を繕って集まった。
こうしているうちに、下総介良兼は兵を整えて陣を張り、
承平6年6月26日をもって、常陸国を指して雲のように兵が集まってきた。
上総・下総は禁圧を加えたけれども、親戚を訪ねるのだと称して集まる者が多く、
あちこちの関所を通らず、上総国武射郡の小道から、下総国香取郡の神崎にたどり着いた。
その渡しから常陸国信太郡[艸+奇]前(えさき)津に着き、その翌日の早朝、
同国水守(みもり)の営所に着いた。
●下野国庁付近の戦い
この夜明けに、良正が参上して将門の不審な点について述べる。
そのついでに、貞盛は昔なじみの思いから、下総介良兼に対面した。
介は、「聞いたとおりであれば、私に身を寄せている貞盛は将門と親密な関係である。
ということであれば、これは武士らしからぬ者である。
兵は名誉を第一とする。どうしていくらかの財物を奪い取って我がものとされ、
いくらかの親類を殺害されたからといって、その敵にこびへつらうことがあろうか。
今、ともに協力を得て、是非を定めるべきである」と言う。貞盛は人の言葉に乗せられやすいため、
本意ではなかったけれども、暗に同類となり、下毛野国を指して、
大地をとどろかせ、草木をなびかせ、一列に出発した。
ここに将門は緊急の知らせがあったので、それが本当かどうかを確かめるために、
ただ百余騎を率いて、同年10月26日(正しくは7月26日)に下毛野国の国境に向かった。
実状を見ると、例の敵は数千ほどある。おおよそ良兼方の陣の様子を見ると、
あえて敵対できそうにない。その理由はなぜかといえば、
下総介はいまだ戦いによって消耗しておらず、兵・馬はよく肥えていて、
武器もよく備わっているからである。将門はたびたび敵に痛めつけられていて、
武器はすでに乏しく、兵力も手薄である。敵はこれを見て、垣のように楯を築き、
切り込むように攻めてきた。将門はまだ敵軍が攻めてこないうちに先手を打って歩兵で急襲し、
だいたいの戦いの決着をつけさせて、射取った騎兵は80余りであった。
下総介は大いに驚き、おびえて、みな楯を引いて逃れていった。
●下野国庁付近の戦い (続)
将門は鞭を上げ、名乗りを上げて追討したが、そのとき、
敵はどうしようもなくなって、国府の中に籠城した。ここで将門が思うには、
「まことに毎晩の夢に見る敵であるといえども、血筋をたどれば遠くはなく、
家系をたどれば骨肉の親族である。夫婦は瓦が水を漏らさないように親密だが、
親戚は葦葺きが水を漏らすように疎遠であるというたとえもある。
もし思い切って殺害すれば、遠近から非難の声も起こるのではないか。
だからあの下総介一人の身を逃そう」と考えて、すぐに国庁西方の陣を開いて、
下総介を逃れさせたついでに、千人余りの兵がみな鷹の前の雉のように命を助けられ、
急に籠を出た鳥のように喜んだ。
その日、例の下総介の無道の合戦の事情を在地に触れ知らせるとともに、
国庁の記録に記しとどめた。その翌日、将門の本拠地に帰った。これ以降、
特別のことはなかった。
そうこうしているうち、前大掾・源護の訴状により、
その護と犯人・平将門と平真樹らを召し進めるべき由の官符、
去る承平5年12月29日の符が、同6年9月7日に到来したが、
これは左近衛の番長・正六位の上・英保純行(あなほのすみゆき)、
英保氏立、宇自加支興らを使者として、常陸・下野・下総などの国に派遣されたものである。
そのため将門は原告より先に同年10月17日急いで上京し、すぐに朝廷に参内して、つぶさに事のよしを奏上した。
幸いに天皇の判決をこうむり、検非違使に捕らえ調べられるうち、
理路整然と語ることには長けていなかったものの、神仏の感応があって、
ことを論ずるに理がかなっていた。天皇のお恵みがあった上に、
百官の恩顧があって、犯した罪も軽く、罪過も重くなかった。
かえって武勇の名声を畿内に広め、京中に面目を施した。
●将門、恩赦に遭う(続)
京都滞在中に天皇の大いなる徳にて詔が下され、暦が改められた。
〔承平八年を天慶元年としたことをいう〕ゆえに、
松の緑の色は千年もの恒久の繁栄をことほぐかのように輝きを増し、
蓮の糸は十種の善の蔓を結ぶ。今や、多くの人民の担った重い負担は、
大赦令によって軽減され、八つの重罪は、犯人から浅くされる。
将門は幸いにこの仁風に遭って、承平7年4月7日の恩赦によって、
罪に軽重なく、喜びのえくぼを春の花のように浮かべ、
郷里に帰ることを五月になって許された。かたじけなくも、
燕丹のように辞して、嶋子のように故郷に帰る〔昔、燕の王子・丹は
秦の始皇帝に人質となっていたが、長年過ごした後、燕は暇を請うて故郷に帰ろうとした。
始皇帝は、烏の首が白く、馬に角が生じたときには帰ることを認めよう、
と言った。燕丹が嘆いて天を仰ぐと、烏はこのために首が白くなり
、地に伏すと、馬はこのために角を生じた。始皇帝は大いに驚き、
帰るのを許した。また、嶋子(浦島太郎)は幸いに常楽の国に入ったけれども、
故郷の廃墟に帰った。それゆえ、この句がある〕。北方産の馬は北風が吹くといななき、
南方産の鳥は南向きの枝に巣を作るという。ましてや、
人間であれば信条として、どうして故郷を懐かしむ心がないはずがあろうか。
●子飼の渡の戦い
こうして同年5月11日をもって都を辞してみすぼらしい自宅に着く。
まだ旅の脚を休めず、まだ十日・一月を経ていないうちに、例の下総介良兼、
前々からの怨みを忘れておらず、やはり敗戦の恥をすすごうと思った。
ここ数年準備した軍備は、平常と違って優れていた。
そうして8月6日に常陸・下総両国の境にある子飼の渡を囲んできた。
その日の陣立ては、霊像を陣の前に張り飾った〔霊像というのは、
故・上総介・高茂王(将門の祖父・高望王)の形と、故・陸奥将軍・平良茂(将門の父・良持)
の形であった〕。精兵を整えて将門を襲い、攻めた。その日の明神には将門への怒りがあって、
将門は何もできなかった。従う兵が少ない上、準備もすべて劣っていて、
ただ楯を背負って帰る。このとき、下総介は、下総国豊田郡栗栖院常羽御厩
(くりすのいん いくはのみまや)や人民の家を焼き払った。このとき、
昼は人家の食事の火の始末をし終えたのにかかわらず、
奇怪な灰が家ごとに満ち、夜は民のかまどの煙が立ち上らず、
漆のように焼けこげた柱が家々に立ち並んでいた。煙ははるかに空を覆う雲のように広がり、
良兼軍のかがり火は地に星が散っているようであった。
同7日をもって、敵は勇猛の武名を将門から奪い取って、
いちはやく去っていき、将門は深い怨みを抱いたまましばらく潜伏した。
●堀越の渡の戦い
将門は、一つには武名を後代に残そうと望み、また合戦の状況を一両日のうちに変えようとして、
構えた鉾・楯は370枚、兵士は倍増させた。同月17日をもって、同郡下大方郷の堀越の渡しに人を固めて待った。
例の敵は予期したとおり、雲のように立ち現れて、雷のように響きを立てた。
その日、将門は急に脚の病になって、朦朧としてしまった。
まだそれほど合戦していないのに、伴類は算木がバラバラになるように打ち据えられて散ってしまった。
残った民家は、敵のためにみなことごとく焼けてしまった。
郡中の農耕作物、人馬ともに損害を被った。千人も駐屯するところには草木が繁茂しない、
というが、このことをいうのだろうか。
その時、将門は身の病をいたわるため、妻子を隠して、
ともに猿島郡葦津江の辺に宿った。非常事態の恐れがあるので、
妻子を船に乗せて広河の江に浮かべた。将門は山を伝って陸閉の岸におり、
一両日を経る間に、例の敵が18日には分散していった。
19日には敵の介が猿島の道をとって上総国に渡っていった。
その日、将門の妻は船に乗って彼方の岸に寄せている。
このとき、かの敵らが通報人の助けを得て例の船を訪ねていって取った。
7〜8隻のうちに掠奪された雑物・道具類は3000あまりになった。
妻子も同じく取られた。そうして20日に上総国に渡った。
ここにまさかどの妻は夫のもとから離れて抑留され、大いに怒り、怨んだ。
その身は生きているが、魂は死んだようだった。
旅の宿に慣れていないこともあるが、興奮して眠れず、仮眠しかできない。
なんの利益があろうか。妻妾は常に貞婦の心を持ち、韓朋とともに死にたいと願う
(中国戦国時代の宋の韓朋は、美人の妻を康王に奪われて悲しんで自殺した)。
夫は漢王(玄宗)のように、楊貴妃の魂を訪ね求めるかのごとくである。
謀議をめぐらすうちに数旬が経ってしまった。なお恋うているが、
会う機会がなかった。その間、将門の妻の弟らがはかりごとをして、
9月10日、ひそかに豊田郡に帰らせた。すでに親族たちに背いて、
夫のもとに帰ったのだった。たとえるならば、
遼東の女が夫に従って父の国を討ったという話のようなものだ。
●弓袋山の対陣
しかし、将門はやはり伯父と前世からの仇敵のごとく、互いに戦い続けた。
このとき、介の良兼は親類縁者がいるために常陸国にたどり着く。
将門はこのことを聞いて、また征伐しようと思った。備えた兵士1800余人、
草木ともになびかせ、(9月)19日に常陸国真壁郡に出発した。
そして、例の介のいる服織の宿から始めて、与力・伴類の家をある限り焼き払った。
一両日のあいだに例の敵を追い求めるが、みな高山に隠れて、
いることがわかっているのに会えなかった。
逗留するうちに、筑波山にいると聞き、(9月)23日に数をそろえて出発した。
実状を探ってみると、例の敵は弓袋の山の南の谷からはるかに千人あまりの声を聞いた。
山は響き、草は動いて、車のきしむ音、罪人を責める声がやかましく響き渡った。
将門は陣を固め、楯を築いて、書簡を送ったり、兵士を進め寄せたりした。
ときに暦でいう孟冬(陰暦十月)、時刻は黄昏ごろである。各々楯をひき、
陣の守りを固めた。昔から今に至るまで、敵を苦しめるには、
昼の間は矢をつがえて、その八が敵に当たるのを見極める。夜は弓を枕とし、
敵が心を励まして攻めてくるのを危ぶむ。風雨のときには、蓑笠を家とし、
露営の身には蚊や虻が仇である。しかし、両陣営とも敵を怨んでいるために、
寒さ暑さをかえりみずに合戦する。このたびの軍事行動は秋の収穫の名残があった。
稲束を深い泥に敷いて人馬をたやすく渡すことができた。
まぐさを食べ過ぎて死んだ牛は10頭、酒に酔って討たれた者も7人いた。
〔真樹の陣中の人は死んでいない〕悔しいことに数千の家を焼き、
悲しいことに何万もの稲を滅す。ついに敵に会うことなくむなしく本拠地に帰った。
●将門の駈使・子春丸、間諜となる
その後、同年11月5日、介の良兼・掾の源護ならびに
掾の平貞盛・公雅・公連・秦清文ら、
常陸国の敵たちを将門に追捕させるという官符が、
武蔵・安房・上総・常陸・下毛野などの国に下された。
ここに至って、将門は非常に意気を上げ、力づいた。
しかし、諸国の国司は官符を受けながら、実行しようとせず、
進んで探索しようとしなかった。そして、介の良兼はなおも忿怒の毒を含み、
いまだ殺害の気持ちを止めようとしなかった。ついでを求め、隙を狙って、
いずれ将門を討とうと欲した。
ときに将門の駈使(雑用に使われる者)丈部(はせつかべノ)
子春丸が縁あってしばしば常陸国石田庄の辺の田屋と往来していた。
そこで例の介が心中に思うには、「人を陥れようとして激しく言い立て、
たのみ乞い求めれば、岩をもうちやぶり、山を傾けるほどの強い力となる。
子春丸の注進を得て、将門らの身を殺害せねばならない」と。
そこで子春丸を召し取って、様子を聞いた。「大変よいことであります。
今こちらの農民一人を渡してください。連れて帰ってあちら側の様子を
見せさせましょう」云々と答える。介は喜び楽しむことがはなはだしく、
東絹1疋を賜って、「もし汝の情報によって将門を謀害することができれば、
汝の苦役をなくし、必ず乗馬の郎党に取り立てよう。
穀米を積んで勇気を鼓舞したり、衣服を与えて賞するよりもいいだろう」
と言った。子春丸は、駿馬の肉を食べれば身体を損なうということを
知らなかった。鴆毒の甘さによって喜んでいた。
そこで例の農民を連れて、私宅の豊田郡岡崎の村に帰った。その翌日早朝、
子春丸とその農民は、各々炭を背負って将門の石井(いわい)の営所に至った。
一両日宿直警備しているあいだに使者を招き入れて、その兵具の置き場所、
将門の夜の寝所、東西の馬場、南北の出入りをすべて見知らせた。
●石井の迎撃戦
この使者は帰っていって、くわしくこの事情を伝えた。
介の良兼は夜討ちの兵を整え、同年12月14日の夕方、石井の営所に派兵した。
その兵類は、一騎当千の者ばかり80余騎、すでに養由の弓を張り
〔漢書にいう、養由とは弓をとれば空の鳥が自ら落ち、
百発百中の弓の名手である〕、解烏の矢入れを背負い
〔淮南子にいう、夷ゲイという弓師が堯帝の時代にいた。
十個の太陽が現れたとき、この人が射て、九個の太陽を射落とした。
その太陽に金の烏がいた。そのため解烏と名付けたという。
上等の兵士のたとえである〕、駿馬の蹄を催し
〔晋代の詩人・郭璞は、駿馬は生まれて三日でその母を超え、
一日に百里を行く、という。ゆえに駿馬にたとえたのである〕、
李陵の鞭を揚げて、風のように疾駆していき、鳥のように飛びついた。
●石井の迎撃戦 (続)
亥の刻(午後十時)に結城郡法城寺(結城寺?)に突き当たる道に出て、
到着するころ、将門の一騎当千の兵が暗に夜討ちの気配を知った。
介の軍の後陣にまじってゆっくりと進んでいくと、一向にばれなかった。
そこで鵝鴨(かも)橋の上からひそかに先に進み出て、石井の宿に馳せ参じ、
つぶさに事情を述べた。主従ともに騒ぎ恐れて、男女ともに騒いだ。
ここに敵たちは卯の刻(午前6時)に包囲した。このとき、
将門の兵は10人にも満たなかった。声を上げて告げて言うには、
「昔聞くところによると、由弓〔人名〕は爪を楯として数万の敵に勝ち、
子柱〔人名〕は針を立てて千もの鉾を奪った、という。
まして私には猛将・李陵の心がある。
お前たちは決して顔を後ろに背けるようなことがあってはならない」と。
将門は眼を見開き、歯を食いしばり、進んで撃ちあった。このとき、
例の敵たちは楯を捨てて雲のように逃げ散ってしまった。
将門は馬に乗って風のように追い攻める。逃げる者は猫に出会った鼠が
穴を失ったようにあわてふためき、追う者は、雉を攻める鷹が鷹匠の
手袋を離れていくようであった。第一の矢で上兵・多治良利を射取り、
残った者は九牛の一毛ほどもいなかった。その日殺害された者は40人あまり、
生き残った者は天運に恵まれたがために逃れていったのだ。
〔ただし、密告者・子春丸は天罰あって事が露見し、
承平8年正月3日に捕らえ殺されてしまった〕
●信濃千曲川の戦い
この後、掾の貞盛が三度も自分のことを振り返って思うには、
「身を立てて徳を修めるには、朝廷に仕える以上のことはない。
名誉を損ない、実利を失うのは、悪いことをする以上のことはない。
清廉潔白であってもアワビの部屋に泊まれば、
生臭い臭気を同じように受けてしまう。しかし、本文に言うとおり、
前生の報いとして貧しいことは憂うことではなく、
後生に悪名が残るのを悲しむ、という。悪行の満ちる東国の地を
巡り歩いていれば、必ず不善の名声があることだろう。
イバラで作った門を出て花の都に上り、立身出世するのが一番いい。
それだけではなく、一生はほんの隙間のようなものである。
千年栄える者は誰もいない。正しい暮らしを進んでおこない、
ものを盗む行為をやめるべきだ。いやしくも貞盛は朝廷に仕え、
さいわいに司馬(左馬允)の列に加わることができた。
それなら朝廷に勤めて成績を重ね、朱紫(四位・五位)の衣をいただこう。
そのついでに、快く我が身の愁いなどを奏上することができよう」と。
承平8年春2月中旬に、東山道から上京した。
将門は詳しくこの言葉を聞いて、判類に行った。
「讒言するような人の行ないは、自分の上に忠節の人がいることを
憎むものである。邪悪の心は、富貴な者が自分の上にいることを
ねたむものである。これは、蘭の花が咲き誇ろうとしても、
秋風がさまたげ、賢人が英明の名を立てようとしても、
讒言する者がこれを隠す、というものである。今、例の貞盛は、
将門からの恥への復讐が遂げられず、報いようとして忘れることができない。
もし都に上京したならば、将門の身を讒言するだろう。
貞盛を追いとどめて、踏みにじるのが一番だ」と。そこで100騎あまりの兵を
率いて、緊急に追っていった。
2月29日、信濃国小県郡の国分寺のあたりに追いついた。
そこで千曲川を挟んで合戦する間に、勝負はつかなかった。
そのうち、敵方の上兵・他田(おさだ)真樹が矢に当たって死に、
味方の上兵・文屋{ふんや}好立は矢に当たったが生き延びた。
貞盛は幸いに天命があって、呂布の鏑を免れて、山の中に逃れ隠れた。
将門は何度も残念がって首をかき、むなしく本拠に戻った。
●貞盛の逃避行
ここで貞盛は千里の旅の糧食を一時に奪われてしまい、
旅空の涙を草にそそいで泣いた。疲れた馬は薄雪をなめつつ国境を越え、
飢えた従者は寒風にさらされて憂いつつ上京した。
しかし、生き延びる天運に恵まれて、なんとか京都に着いた。
そこでたびたびの愁いの内容を記して太政官に奏上し、
糾問すべきであるという天皇の裁許を、将門出身国(下総国)に賜った。
去る天慶元年(※2年)6月中旬に、京から在地に下って後、
官符をもって糺そうとしたけれども、例の将門はいよいよ悪逆の心を持って
、ますます暴悪をなした。そのうちに、介の良兼朝臣、
6月上旬に亡くなった。考え沈んでいるうちに、陸奥守平維扶(これすけ)
朝臣が同年冬10月に任国に就任しようとするついでに、
東山道から下野の国府にたどり着いた。貞盛はその太守と知り合いの間柄だったので、
ともに奥州に入ろうと思い、事情を話して聞かせたところ、
「わかった」ということであった。
●貞盛の逃避行 (続)
そこで出発しようとしていたうちに将門が隙をうかがって追ってきて、
前後の陣を固めて、山狩りをして潜伏している身を探し、
野を踏んで足跡を探した。貞盛は天運があって、風のようにすばやく通過し、
雲のようにすばやく身を隠す。太守は思い煩って、
ついに見捨てて任国に入っていってしまった。
その後、朝には山を家とし、夕には石を枕としなければならなかった。
凶悪な賊らのおそれはますます多くなり、非常の疑いも倍増した。
ぐずぐずとして国の周辺を離れず、ひそひそと逃げ隠れして山の中から外に
出ない。天を仰いで世間の不安な様子を嘆き、地に伏しては我が身一つ
持ちこたえられないありさまを嘆き悲しんだ。悲しみ、そして傷む。
身を厭うけれども捨てるわけにもいかない。鳥のうるさいのを聞けば、
例の敵がほえ立てているのかと疑い、草が動くのを見れば密告者が
来たのかと驚く。嘆きながら多くの月日を過ごし、憂えながら日々を送る。
しかし、このころは合戦の音もなく、ようやく朝から晩までの不安な心を慰めた。
●武蔵国国郡司の戦い
そんななか、去る承平8年2月中に、武蔵権守の興世王・介の源常基と、
足立郡の郡司判官・武蔵武芝とが互いに相手の政治が悪いということについて争った。
聞いたところによれば、「国司は無道を常のこととし、郡司は理にかなった正しい行いをして、
それを自分のよりどころとしていた。なぜならば、たとえば郡司武芝は公務を怠りなく励み勤めており、
誉れあってそしられることはない。いやしくも武芝の治郡の名声は広く武蔵国中に聞こえ、
民を慈しみ育てる方策は広く民衆に行き渡っていた。
代々の国司は、郡内からの納税が欠けているなどわざわざ求めようとはせず、
その時々の国司は納期の遅れについてどがめだてしなかった。
ところが、例の権守は、正式任命の国司がまだ着任しないうちにむりに国内の諸郡に入ろうとした」
という。
武芝が事情を調べたところ、「この国は前例として正式の着任以前に
権官が入ってくるということはない」という。
国司は郡司が無礼だと言って思うままに武力を行使し、押し入ってきた。
武芝は国司の公の権力を恐れたため、しばらく山野に隠れた。
思ったとおり武芝のところの屋敷や近くの民家を襲ってきて、
底をさらうように掠奪していき、残った家は封印して捨て去った。
例の守・介の行いを見るなら、主人は暴君として有名な仲和のような行ないをし
〔『華陽国志』にいう。仲和は太守として、課税を重くし、財を貪り、
国内から搾取した〕、従者は野蛮な心を抱いた。主は、箸で肉をつつくように、
申し合わせて、骨を破り、膏を取り出すようなくわだてをし、
従者は、アリのように、手を分けて財を盗み隠して運ぶ思いに専念した。
国内のしぼみ衰える様子を見るに、平民を消耗させてしまう。
さて、国の書記官らは、越後国の前例どおり、
新たに悔い改めることを求める書を一巻作り、役所の前に落としておいた。
これらのことはみなこの国・郡のあいだではよく知れ渡ったことであった。
武芝はすでに郡司の職についていたけれども、
もともと公のものを私物化したという噂もなく、
掠奪された私物を返し受けることを文書によって上申した。
ところが、これをただすような行政はなく、
国司はひたすら合戦しようという姿勢を見せたのである。
なんだただのレス数かせぎか
でも、読んだら面白かったよ。
なぜか途中で諦めてるけどw
海音寺の小説でハァハァしたことがあります。
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ミ っ 闘 ヽ、;;;;:::::゙ヽ、 | / □[二]兩_ヾ|| .┌┤ ||::::| |/
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36 :
若 ◆88NDKnKnUU :04/11/20 17:05:57
よいしょぉおおおおおおおおお!
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 19:05:30
将門公は正義の味方です。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 23:09:27
コーエーで将門出てくるゲームあったか?
なければ板違い
終了
帝都物語 加藤保憲の正体
懐かしい!我を崇めよ…。映画では嶋田久作が。