1 :
無名武将@お腹せっぷく:
衣服・食事・建築・製造・武器防具・文化 等
当時の生活を考えましょう
とりあえず、当時の衣服って色とか付いてたのかな?
防具とかも漫画だと色鮮やかだけど、実際は地味だよねきっと
2 :
打通さん ◆5xK5GBOzhk :04/09/13 23:25:58
興隆県が抗日戦争に勝利をおさめたことは、そうたやすいことではありません
でした。抗日戦争の中で中国側は3500万余人、興隆県の中でこの13年の間に5万人
くらいが殺されました。全中国の死者の700分の1です。県の統計資料によると、
興隆県で最後の4年間で15400人殺されました。興隆県公安局の1954年の7つの
区に対する不完全な統計によると、人圏の中の住民が疫病、凍死などで死んだ人
が11400余人いました。1941年日本軍の統計数字によると全県の人口は16万人
くらいいました。日本軍が投降後、全県の人口は10万人くらいになっていました。
6万人くらいが殺されたことになります。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/cont/sankotou.html 興隆県における日本軍無人区政策の実態
お、興味深いスレ発見。
衣服のことだが、単色での染物技術はあったらしいよ。
横光の漫画みたいに青や黒や赤が混じるとはいえないけど、
部分的に着色を施すような技術はあったらしい。
皇帝の衣服の場合だと、更に刺繍も施されるのでうんと高くなる。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 23:38:48
>>3 詳しいですね
自分は詳しくないので、勉強になります
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:04:17
>>3 ほんっと凄いよな。
タメになりまくリスティー
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:08:37
黄巾族って結構いたんだろうから黄色は割と多く使えたわけだ
何で染めてたんだろうな?
かの国では最近まで白衣がメインだったらしいが
染める技術無かったのかねw
>>6 多分、黄色い花か植物を原料にしたと思われ。
もちろん、よく漫画でみるようなまっきっきな色ではないがな。
多分白の下地に薄く黄色がかかっている程度
良スレの予感。ブクマしますた
三国時代の武器のことなんだが
既に後漢時代には鉄製の武器が開発されており、
匈奴の討伐に大いに役立ったと史書には書いてある
しかしながら、鉄製の剣といっても鉄板を叩いて延ばして研いでるような
ものだから、斬るというより、おもっいきり剣自体を重くして敵を叩き殺す
感じだったらしい。
ちなみに古代の刑罰の1つに斬首があるが、これは古代中国では首を斬るというより
もっぱら殺すという意味だったらしい。(斬首=首を斬る=首取られちゃ生きてられないことから)
当時の製鉄技術で人間の首を両断することは不可能ですし
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:28:25
>>9 キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!
中々読み応えがありますな
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:30:14
中国のドラマ『三国志』で諸葛亮を演じていた俳優さんが
なにかのインタビュでお酒の話がでていました。
当時のお酒は濁っていて、今のお酒に比べて薄かったとのことでした。
だから、今も習慣として残っている駆けつけ三杯が今より楽だっただろうと…。
これ読んだ当時、駆けつけ三杯って中国から伝わったの?と驚き今でも覚えています。
>>7 詳しいことはわからないのだが、古代中国の染色技術は相当ハイレベルだったらしい。
兵馬俑から削ぎ落とした塗料を分析したところ、
自然界には絶対に存在しない、すなわち人工的に化合させた結果としてのみ得られる藍の塗料が見つかったとか。
紀元前の秦の時代にさえそうだったところを見ると、
それから400年ほども経った三国時代にはさらに技術が進歩していたことが推測される。
従って、自然界にある植物から簡単に採取できるようなものだけでなく、
それらを複雑に組み合わせて作られた染料が用いられていた可能性もあると思う。
>>11 南方なんかではほとんど米の研ぎ汁みたいなものを飲んでいたらしいからね。
三国時代の城というと、一区並のでかさの正方形の城壁の中に
城があると思われがちだか、これも大きさが全然違うらしい。
現在杭州(だっけ?)のどこかに孫権が立てたといわれる城壁の跡が残っているが
人が四人分ぐらいの高さの城壁で、材質は表面が石で中は土塁の固まりだったらしい。
万里の長城があるが、あれは明の時代に大改修したもの(ほぼ全とっかえ)
始皇帝が立てた長城は小城をつなぎ合わせたような、砦だったらしい(長さは凄いが)
>>12 逆に衰退したということも考えられる。
殷の時代の青銅器は、有志以来最高の出来だったらしいが
周代になると質が著しく下がり、二度と殷を抜く技術は中国に現れなくなったそうな
>>14 人が四人分・・・というと、7メートルぐらいか。
小学生のころ、1尺はどこでも30センチだと思っていたので、
三国志に「身の丈8尺」なんて書いてあると、「うお、すげえ!」と感動していた。
しかしその後、どうやら三国時代には1尺は23センチらしいということがわかり、
8尺=184センチというやたらリアルな数字にまた感動した。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:44:13
俺が持ってる爆笑三国志1〜6、大半がアテにならん内容だけんども、たまに、タメになるコラムがあったりする(さすがコーエー出版)。
機会があったらレスしたいです☆
>>15 「質」というのは装飾性のこと?それとも鋳造技術のことかな?
銅より鉄の方が硬いので、加工はしやすい。
材料が銅からより丈夫な鉄へと移り変わる中で、「細工」の技術はやむをえず切り捨てられたのかもね。
時代が進めば技術も進むと単純には言いきれないことは認めるよ。
ごめん、訂正。
銅より鉄の方が硬いので、「加工はしにくい」だね。
失礼しますた。
越王コウセンの銅剣が現存しているらしいね
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:51:27
この時代の貨幣ってなにつかってのですか?貝殻あんてわけないですし、やっぱり銅銭なのですかね?
でも銅銭だと作る工房も必要になってきますし、領土の取り合いしてる中で、そういうのは建設してたんでしょうか?
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:53:48
銅の殺菌作用で腐敗しないで現存してるんだろうね
ふと疑問に思ったんだけど、古代中国の「銅」って貴金属だったの?
銅銭が使われていたのは、単に加工がしやすく大量に生産できたからなのか、
それとも銅そのものに価値が認められていたのか。
日本の江戸時代なんかと違って、金や銀の貨幣って聞いたことないんだけど・・・
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:56:39
銀銭とかって聞かない?
聞いたような、聞かないような
>>21 銅銭を作るための、金型が存在していたりする。
四角い箱状のものなんだかけど、一部に穴が空いていてそこに銅を
流し込んで箱を開けると銅銭の出来上がり。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:58:05
>>23 銅の質と重量によってお金の価値が決まっていたとのこと。
ということは貴重だったのでは?
>>26 ああ、それじゃあ金でできた大判・小判と同じ感覚だったんだ。
勉強になったよ。
>>23 資料の上ではあるよ>金貨
戦国時代の楚が金貨の鋳造を推奨していたらしい。
今でも出てこないのは、きっと更に改鋳してしまったり
流して金塊にしてしまったのでしょう
ちなみに銅が貨幣の材料になったのは、
戦時に溶かして武器にすることも可能だったから。
つまり銅=武器原料という流れが銅銭の価値となっているわけ。
>>29 じゃあ武器の原料が鉄に変わってからは、銅の価値は下がったのかな?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 01:08:02
>>14 意外と低いな
イメージでは15Mくらいはあると思っていたんだが
>>30 貨幣の価値が庶民に定着したというのもある。
貨幣の改鋳って凄いシビアな問題らしいね。
董卓政治の失敗は貨幣を無駄に改鋳したからとの説もある
中国に金鉱ってあるの?
貴金属とされているものを貨幣の材料にすると、
こっそり含有量を下げたときなんかに恐慌が起きて政権が信頼を失うんだよな。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 01:13:39
ためになるスレだ・・・
思うに後漢当時は、貨幣の価値が庶民に流通していなかったと思うな〜
はるか下って、唐代から貨幣が盛んに使われるようになったって聞くし。(日本で和同開珎が鋳造されるようになったのもこの頃)
物々交換とかだったんじゃないの?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 01:28:21
お食事のお話
当時食べられていた肉は牛が貴重品。羊と狗が次で庶民は鶏か豚。
ただし豚はかなり品種改良がすすんでいたらしい。
鳥肉は他にキジ・ガン・カモ・ツル・ウズラなども食べていたらしい。
魚はフナやコイなどの淡水魚がメインらしい。
海に近い所だと海水魚も食べていたと思うのだが資料なし。
洛陽や長安が内陸だからしょうがないか。
穀物は米や麦のほかアワ・ギビ・豆など
野菜はウリ・レンコン・イモ類たけのこ・ミョウガなど
果実はウメ・ナシ・ナツメなど
調味料は塩・醤油・糖・乾納豆・こうじ味噌など
狗やツルなど今の日本人が聞いたら驚くようなものもありますが、
意外と普通かな。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 01:40:45
>>37 狗肉ってのは豚とか鶏よりも上だったの?
「羊頭狗肉」なんて言葉があるから、ずいぶん卑しめられてたもんだとばかり。
>>39 私の資料だとそのようになっています。
でも地方によって違うかも。
呉に羊というイメージわかないから呉では羊が貴重だったとか。
>>20 呉王夫差の剣もあります。長さ29.5cm 幅5.7cm 銅製 紀元前5世紀製造
越王句践のものは、長さ55.7cm 幅4.6cm 表面全体にひし形の文様、刃は鋭く精巧
だそうです。
春秋・戦国時代には青銅の貨幣が流通し、呂不韋など商人の勢力が拡大。
鉄器は戦国時代に普及し、鉄製のすきを牛馬にひかせて田畑を耕していたそうです。
前漢の武帝(司馬遷の時代の皇帝)の代に五銖銭という銅貨が造られ、
董卓が廃止したのち曹丕が復活させ(てまたすぐ廃止し)ました。
五銖銭は全国共通の貨幣で、隋末まで使われていたそうです。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 02:01:54
中国にあるテーマパーク『三国城』では当時の衣装を着て記念撮影できるらしい。
なお水滸伝の『水滸城』ラストエンペラーの『唐城』もあるそうです。
行ってみて〜!
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 02:03:41
>>43 そんなのあるのか!
一緒に行こうぜ!
伊勢戦国時代村とは激しく違うんだろうな・・・・・・・・
>>44 中国のドラマ『三国志』を撮った時のセットの残りを壊さずに
テーマパークにしたそうです。
八卦陣(迷路)や空城の計のお城などはあるみたいです。
あと桃園結義などの舞台なども上演されるようです。
三国城と検索すると行った人たちの感想ページ、写真が見れます。
>>45 後宮は……残念。
やっぱ庶民の最下層は未だに竪穴式住居だったりするのかね。
他は石造りや土の塗り固めとかか?
林巳奈夫『漢代の文物』という本は、書物の記載と実際の出土遺物を照らし合わせていくような
「モノ」の解説で、衣食住関連のモノや武器・乗り物・楽器・農耕具・筆記具etcまで網羅してあって、
漢代全般とはいえかなりのお役立ち本。
が、現在入手するのは非常に困難かつ高値かと思われ、文系(特に東洋歴史学)の大学図書館などで
見ることができればラッキーかと。
1が衣服のことを言っているので、とりあえず手持ちのコピーから染め物に関する
部分の抜粋・まとめのような事をしてみた。
かなり省略(漢文の原文・出典等)してるけど、技法など興味深いかと思われる部分は
できるだけ残してます。
・引用部分だけカッコ書きしたりすると何が何だか分からなくなるので、
原文と付け足した俺の文が入り混じってます。また分かりやすく順を変えたりしている部分もあり。
・マカーなので、ひょっとしたらウインドウズでは文字化けする字があるかもしれんです。
以上の点はご了承してくれ。
『釋名』には色の名が列挙されている。織物に顔良で紋様を描く技法も行われたのだから、
染料によって出された色だけでなく顔良によるものも含まれている。
※以下順に 青(藍で染めた色)、赤(沈む太陽の色)、黄(日光の色)、白(氷の色)
の解説あり。今の各色とほぼ同じらしいので割愛
・黒
『淮南子』には「黒とは火でいぶしたときの色である」の後に「織物を染める者は、まず青に染めてから
黒に染めると良い」とあり、黒を染めるのに青の下染めをすることが知られていた。さらに続けて「染物
で出しにくい色だがこの色が出せると工(たくみ)だといわれる」とある。
・蒐
『説文』に「蒐は茅蒐、茹蘆で、人血から生じたもので、色を染めることができる」とあり、また「茜は
茅蒐なり」とある。アカネで染めた赤。
・[糸是]
黄色と赤の混じった色。『説文』では丹黄色。アカネでうまく真っ赤に染まらないと黄色を帯びた赤にな
るので、これもアカネで染めた色か。
※ここから中間色
・紫
『釋名』に「紫は疵ということで、正色ではなく、五色のきづのようなもので、人を惑わせる」とある。
『説文』に「紫とは…青と赤の間の色」であり、現在の紫と同じ。
・[糸相]
桑の葉の出たてのような色。黄緑色。
・緑
「荊泉の水を岸から見た緑色」。(※筆者は板ガラスを小口から見たような緑かと書いている。透明感の
ある緑、エメラルドグリーンに近い色か?)
・縹
「縹とは漂といったようなことで、漂漂として薄い青色。碧縹(トルコトワーズ色の縹)、天縹(そら色
の縹)、骨縹(やや黄色がかった縹)というのは各々その物の色で名付けた名である」つまり縹は空色の
ような薄い「あを」。
・水銀朱を使った赤・黒系統の色
朱をモチ粟と一緒に煮て、その汁に羽根を浸けて飾り羽根を染めた。
水銀朱に一回つけた赤は晋時代には「紅」と呼ばれた。三回つけると[糸薫]という色になり、また[糸薫]より
濃い赤が「朱」。また、[糸薫]から黒色の顔良に二回浸けると[糸取]、さらに二回浸けると「緇」の色になる。
「玄」は[糸取]と「緇」の色であるらしい。
つまり濃さの順は
赤系統:「紅(晋)」<[糸薫]または「緇」<「朱」
黒系統:[糸取]<「玄」<「緇」
ちなみに紅花が漢代に染物で使われたかは明らかでない。
※ここから染料を使った染め物。その原料など
赤に茜が、青に藍が用いられたことが馬王堆一号墓出土品によって確かめられている。
他に何で染めたか知られるものとして
・[早の上に´]
どんぐりの実の入っていた皮を使って染めた色。濃い紫味を帯びた黒。
・紺
青い中に赤色を含むもの。赤で下染めしてから藍で染めたものか。
・蒸栗
紺で一・二度染め、黄色になった所で止めたもの。蒸した栗の実の色。
・鬱金
黄色と白の間の色。色が半分程度しか出ず、完全には染まらない。現在で言うウコン色、カレーのターメリックの色。
・綟
[草かんむりの下に戻]という草を使って染めた織物。
[草かんむりの下に戻]は留黄色(黄緑色)を染めることができる植物。
漢代には織物の組織を利用して紋様を出す技術は大いに発達しているが、意外なことに織り上がった織物に染色で
紋様を染め出すことは一向行われていないようである。顔良を使った織物の染色に利用されたスタンプ(長沙馬王
堆より出土)も、染料による捺染には使われなかったらしく、また蝋や紋様の板によって白抜きの紋様を染め抜く
技法や絞りなども見いだされない。技法は不明だが藍で紋様を棲めた木綿が出土しており、これは稀な例である。
以上。長々とスマソ。でも当時少なくともこれだけの色で染め物が行われていたということで参考までに。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 10:55:48
乙華麗
ところで、紙を現在の形にしたのも漢代の話だよね?
とすると漢代の文化レベルは凄かったのだろうか……?
建物についての情報もキボンヌ
藁葺きの百姓屋みたいなのはなかったんですか?
。。
貨幣の話
後漢末〜三国時代に流通していた主な貨幣は、銅製の五銖銭。
形状はたぶん最も想像しやすい、中央に正方形の孔(あな)の開いた円形方孔銭。
銖というのは重さの単位で、1銖で0.67gほどだから、1円三枚強の重さだと思う。
西漢武帝の時代に鋳造が始まり、経済の盛衰やら、盗鋳やら、貨幣経済の廃止の
是非の問題などなど、紆余曲折もあったけど、基本的に流通されている主な貨幣は
五銖銭ということ。
で、董卓が小銭を鋳造した話は有名だと思うけど、これは社会混乱と経済の衰退を
鑑みて衰えた貨幣流通の促進を企図しようとしたものらしいけど、小銭自体の質が
悪いうえ既に質の悪い貨幣が出回ってたものだから、経済の混乱を助長させたとか
言われて、董卓の悪行・罪科のひとつとされてるね。
まぁ、これは黄巾の乱で社会が混乱しまくってて、貨幣経済をまともに回復するには
強力な中央政権が確立しない事にはどうにもならないんだろうと思うけど。
んで、魏の時代、曹丕というか文帝が貨幣から布帛に変更しようとしたけど、次代の
明帝期にはもとに戻ったみたい。
個人的に思う事なんだけど、西漢が鉄(と塩)を国の専売にしたけど、農具じゃなくて
貨幣の原料にしたら盗鋳を阻止できたのかな……ってあほな事を考えたりする。
現代と違って当時は盗鋳されまくって悪貨が出回ったけど、どうなんだろう。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 13:34:09
>>56 鐚銭のことだね。
鐚銭も普通に扱われたよ。
でも、本当は銭二枚で買えるところを、鐚銭だと銭五枚払わなくちゃいけないとか
鐚銭の変動相場制だったそうだが
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 13:39:08
質に価値がある銭は、鋳造してもあまり儲からないらしいよ。
質が悪いのは簡単にばれるし、結局本格的に贋金を作ると材料費で
儲からなくなってしまう。
現代は紙幣が一般的だから、大もうけだが。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 13:42:56
三国時代の造船技術について調べたんだが、どうも考古学的史料が
なさ過ぎてよくわからないみたいだね。
帆走技術はなかったと言われているが、例えば櫂船で東シナ海を横断して
日本と行き来することは可能だったんだろうか?
特に冬場は海面状況がかなり悪いし、
天気が悪いと夜間航行では方向すら定まらないような気がするんだが・・・。
>>59 230年に、呉帝・孫権が夷州と亶州の捜索に外洋へ派遣してるね。
他にも遼東の公孫淵との連絡で遼東半島へ派遣してるし、これも外洋航路
ということになるのかな。
どちらにしろ、本来は河川運用の船舶での事だから、かなり危険があるとは
思うけど。
>特に冬場は海面状況がかなり悪いし
>天気が悪いと夜間航行では方向すら定まらないような気がするんだが・・・。
洞口で呂範の艦隊が大損害を被ったのが、まさしくそれだと思う。
炬火を用いれば連絡はつけれそうだけど、どうなのかな……
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 18:05:17
夷州と亶州って精々台湾とかの辺りでしょ。
当時の技術で東シナ海を渡る事は不可能だと思う。
卑弥呼は半島経由で使者を送ったらしいし。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 18:12:15
>>50 多くの色を使えたんだねぇ
着ているものに関してはイメージどおりなんだね
俺が気になるのは戦や軍に関する考証
三国志では武将同士の一騎討ちや武将が前線で奮戦する描写がままあるけど、あれって実際のところはどうなの?
日本の戦国時代では飛び道具や槍衾が戦の中心で武将が前線に出る事は少なかったと聞くけど。
三国志の時代は武将が前に出て戦わないと兵の士気が奮わなかったんだろうか?
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 01:43:27
前線で常に戦っていて、何十年も生き長らえてるって結構凄いよな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 02:15:32
関羽とか生涯で何人くらいの敵を倒したんだろうね
1000人くらい行ってるのかな
>>63 一度でも当時の軍制や布陣図・陣立て等を見れば分かると思うけど、指揮官が
最前線で戦う事が危険で小説や漫画の描写が単なる演出に過ぎないのは
察せられると思う。
だいいち、指揮官に属する軍勢が全て兵卒であるわけないんだから。
基本的に指揮官の麾下には、一括管理などではなく複数の単位で構成されてる。
「校尉」とか、「牙門将」とか、「部曲」とか、聞いた事があると思う。
常時、前線を受け持つのはこういった面々。
たとえば戦国期の秦の軍制に、商怏による変法により「什」や「伍」といった単位が
生まれたけど、これらは後代に継承されて三国時代にも存在する。
「最前線で指揮官が戦えば士気が揚がる」、と主張する人間がいるけど、戦場で
兵卒の戦力を効果的に発揮させ機能させるのは、主に軍紀と組織的運用。
大軍ながら寄せ集めの烏合の衆が敗れる傾向にあるのはこのため。
指揮官ひとりの武勇で大勢が覆るんなら誰も苦労しない。
もちろん、奇襲や不測の状況下であれば、将軍クラスの武勇が発揮される場面も
あるけど、これは稀。
曹仁や張遼、関羽や張飛らの武勇が特記されるのはそのせいにある。
他にも高位の将軍ともなれば、参軍や監軍・(別部)司馬・軍師・長史・主簿といった
軍政にも携わる幕僚が属官として加わる。
軍勢を機能させるのは多くの優秀なスタッフに負うところが大きいと思うよ。
趙雲って演義ではやたらに高評価で正史では割と地味だけど
正史→演義の間に評価が劇的に上がった背景には何かあるのかな?
例えば趙雲を称えるような資料が出てきたりとかさ。
単に面白おかしくするためだけのために、こんなにも評価が上がるとは考えにくいんだよね
>>67 演義を描いた人間の個人的な考え
演義は正史のように歴史書でなくその名の通り演義なんだから脚色だらけ
だいたい、趙雲だけじゃないし、演義と正史が違うのは
蜀主役にしたんだから蜀の代表的武将趙雲の評価が高くなるのは当然。
さらに言えば蜀将は目立った武将が少ないから目立つとも言える。
>>68 なんつーかさ、蜀を中心に描くと張飛や関羽、諸葛亮辺りがやたらに高評価になるのは分かるけど
なんで趙雲がねぇ・・・と思うんよ。
演義では武力で関羽や張飛に劣らないし、武人としての高潔さではその二人以上な感じじゃん。
(張飛は失敗ばかりだし、関羽も傲慢なところがあるし)
そこまで評価を高める理由が何かあるのかなぁ・・・とね
趙雲以外にだれの評価を高めろと?
関・張・馬・黄・趙と正史で同じ伝に載ってるだけの理由で
五虎大将をでっち上げた演義になにを期待する?
演義は所詮、物語。
成立時期の大衆文化を知ることが出来ても実際の三国時代の歴史についてはなんにもわからない
現代の三国志に関する小説や漫画を歴史資料とするようなものだ。
一騎当千辺り見てあの武将は弱ったんだ、強かったんだ。なんていってみろ笑いものだぞ
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 04:09:00
上で衣の話が出てたけど住についてはどんな感じだったんでしょうか
庶民は竪穴式住居?
『漢代の文物』より
「漢代の農民、手工業者の住居趾の発掘例は現在僅かしか知られていない。
×図は遼陽三道壕の農村遺跡中の一戸である。数戸が発掘されているが、いづれも東西約30m、南北十数mの
黄土の土壇の上に猪圏、貯蔵用竪穴や爐跡が残り、瓦が大量に出ている。
瓦、草で葺いた木柱の家が建っていたと報告される。建物の形式の詳しいことは分からない。
・・・都市の住居も洛陽で一部発掘されているが、全容の知られる例はない。」
だそうな。大がかりな建築や、生活レベルの高い層の住居なんかは記録や絵画資料なんかもあるようだけど、
都市部以外の農民生活なんかはあまり資料がなさそう。
少なくとも上の例では竪穴式住居ではないけど。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 01:41:39
>61
そうなんだよね。
だけど、この時代に江南と日本列島との交流が盛んだったと主張する
日本古代史の専門家は、むしろ多数派のような気がする。
しかし東シナ海横断の困難さは、壱岐、対馬が利用できる半島航路の比ではない。
実際、遣唐使も前半は、渤海湾まで海岸線沿いに航行しているし、
東シナ海を横断した後半は、何度も難波している。
一度や二度の冒険ならともかく、交易なんてあったとは思えないんだが・・・。
>>74 それって「日本」とされる国が「台湾」だと全部問題解決するんだよね。
台湾までなら、当時の航海技術でもいけないでもないと思う
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 04:05:16
>75
そうだね。
そうすると、例えば三角縁神獣鏡の多くが呉で製造されたという仮説などは
ほとんど否定されるだろうし、古代史学者の3世紀頃の東シナ海に対する
イメージはかなり変わるんじゃないかな。
台湾から琉球列島を伝って九州までのルートというのは、
理論的には可能性はあるけど、
沖縄における文明の進捗を見る限り3世紀に利用されていたとは考えにくいし。
そういえば正史三国志、倭人伝には邪馬台国以外にも色々な国のことが
書いてあるけど、どこまでカバーしてんだろ?
もしかして関東の辺りの話も乗ってないか?
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 12:59:04
>>77 何かで読んだことあるけど。
邪馬台国までの距離と日数はかなりいい加減らしい。
正史だと魏のことを褒め称えるために、漢と比較しても遜色ないということを、
記載しなければならなかった。そこで選ばれたのが外国からの朝貢。
漢では中央アジアの国(大月氏?)からの朝貢があったので、魏では反対の方角の日本が選ばれた。
ところが、距離的に日本のほうが近いので漢より劣っていると思われてしまう。
そこで距離が同じになるように引き伸ばして書いたのが魏志倭人伝。
これが原因で邪馬台国の正確な場所がわからない(九州説と近畿説)と書いてありました。
魏志倭人伝の記載どおりに進んで行くと直線距離で太平洋の島々まで到達するそうです。
よって残念ながらどの地方のことが記載されているかわからないのが現状です。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 20:47:12
おふ
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 20:07:17
age
ええー当時の技術で近畿から大陸に渡るのは不可能だろう
ってーか近畿の人間に大陸って概念ないだろ
当時はまだ鐙って発明されてないよな。
無い、というよりはほとんど普及されてない。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 11:23:12
>>84 ほう、あるにはあったのか
普及しなかった理由はなんでかな
高いとか製造困難とかそんな理由かな?
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 12:33:49
後漢ころに鐙が出てきたが、それは片方にしかついていなかった。
つまり、馬に乗るときの足場としてつかっていたわけで、
まだ騎乗中に体を安定させるためのものではなかった。
最初は馬に乗りなれない人間が乗りやすくするために着けたんだってさ>鐙
自転車につける補助車みたいなもんか
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 05:08:14
保守
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 05:52:51
当時の時代は実は馬に乗る際、足を引っ掛ける鐙(あぶみ)が無かった・・・
馬の背というか腹を足で挟むしかないので騎乗での一騎討は難しそう。
つ〜か、ありえないらしいです。
換羽等、強い将軍というのは戦いでは
必ず身辺に強い取り巻きが沢山いたらしいっす。
日本の戦国時代でも上杉謙信の周りにはゴツイのが多いので
敵の兵隊が怯えてしまい、敵陣がまっぷたつに分かれたらしい。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 08:44:26
良スレだな。
シンプルなスレが良スレになる確立は案外高いのかもしれない。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 11:20:30
当時の軍人や政治家ってどうやって生計立ててたの?
まさか現金俸給じゃないよな?
領地もらって、そこから各自で取り立ててたの?