418 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 11:12:22
3ちゃんかわいいー
「上杉三郎景虎」が文庫落ちしたよ。
421 :
名無し@すめし:2005/03/23(水) 19:04:02
ぬるほ!
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 19:36:24
思うんだが上杉景勝が上杉景虎と男色関係になれば後のトラブルは防げたんじやないだろうか?
それで直江兼続は謙信のモノにしておけば良い。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 20:36:44
>>422 とてもよい考えだ。腐女子もさぞ喜ぶであろう。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 20:42:43
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 23:43:20
もう過ぎた事。
足利義輝が戦国大名みんなと男色関係をもったら足利の天下だよ。
>>425 性の伝道師松永の愛弟子・長慶に篭絡された時点で足利幕府終了。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 02:05:41
3ちゃんかわいいー
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 23:17:08
上杉景虎が男色関係により直江兼続を寝返らせれば御館の乱に勝利できた
可能性はないか。
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:37:01
しかし基本的に景虎方は腰が重いよね
最初優勢なはずなのになにやってたんだ?
あといつまでも御館に陣取ってんのもどうかと思う
そもそも小説みたいに史実でも兼続が御館で活躍したって
いう確かな史料ないし…
重臣の子でもないし(身分低い)まだ19〜20の奴が
他の重臣差し置いてそこまで発言力あるのだろうか
それに兼続の少年期って謎だよね。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 03:16:02
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 08:18:26
>>430 確か米沢市のHPの紹介では
直江兼続は上杉景勝の「ご学友」などと紹介されてた。
本当は寵童なんだろうけど、
それじや都合が悪いので「ご学友」なんて
紹介をしたんだろうね。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 11:57:45
とあるサイトだと樋口兼豊の養子になってるな
でも実子だとすると母親が直江の人なんで、そのつながりで近習になったんじゃないかな
樋口兼豊の長男じゃなくて養子なの?そのサイト、何がソースなんだろ。
母親が直江家出身というのは諸説あるらしく、泉氏の出という説もある。
直江と樋口では家格がまるで釣り合わず、
後年の兼続の名望から母の出身を粉飾したのではないかと考える人も結構いる。
あと、兼続少年を気に入って景勝の近習にしたのは仙桃院だと伝えられてるね。
16歳の時には景勝の親衛隊である五十騎組、または長柄組に所属。
御館の乱後、21歳で宛行状に署名。最高ブレーンに。
>>420 文庫になるとはなw
例の腐女子狙いバレバレな恥ずかしい表紙は変わらんのかね。
あの小説では景虎の側室が出てくるけどホントいたのかな。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 20:04:13
あの小説は大筋はいいんだけど(史実からとってるからw)
母親の生まれがどうの星回りだの平家だのとかいったガジェットが全然生きてないのが痛かった
かえって邪魔
景虎の母とか景虎の側室(釈)については、黒田基樹氏の系図史料を
元にした論文の解釈の影響が大きいのだろうね。
側室の存在、そして景虎と血縁関係にある可能性は高いみたいだし。
>434
ソースっていっていいのか分からないけど「名将言行録」に
謙信が代官の下司だった兼続を連れて帰って養子したって話あるよね。
あれから?
景虎には側室までいるのに景勝はなんで未婚だったんだろう。
一番血の繋がりが強い存在で身内少ないから出し惜しみしてたのかな。
近衛版小説はなんであそこまで何度も容姿を強調するのだろうと思った。
美しいのは分かったよもっと中身書いてくれよもういいよしつこいよって感じだ。
あなた普通の顔だったら誰も付いてこないんじゃ…みたいで。
せっかくの主人公なんだからもう少し個性出してあげても良かったのに。
高橋直樹の「影」は景勝視点なんだけど短編なのにすごい内容濃くて面白かったです。
三ちゃんかわいいー
>>437 長い割にはたいした話じゃないよな
御館の乱も負けまくりだから見せ場がないし
史実に忠実に書いてるから逆に面白みが無いのかもしれない。
史実派の人には受けるんじゃないかな。(あの話だと武田に養子に行ったりしてるけど)
この人IFモノでもあまり遊んだりしてないから。
でもこれって景勝、兼続好きにはどう思われてるんだろう。
あからさまに景勝の性格悪くしてるのが分かるからさ。
>434
まだ文庫版の表紙の方が買いやすいとは思う…
少しは。
>>440 >景勝、兼続好きにはどう思われてるんだろう
読んでませんwやはり悪く書かれていたのか…文庫もやめとこ。
景虎も好きなんだけどね。読後の評判読んでると読む気が起きんな。
顔だけの男、運命に振り回された可哀想な男のように書かれているみたいで。
同じ作者のIFの方の兼続は結構さわやか系なんだけどね。
ところで前にも出てた武田氏研究28号に載ってる論文って
どのくらい詳しい?
最近出た御館の乱の論文に関係あるみたいだから
読んでみたいんだけどレス見るとわざわざ取り寄せるほどじゃないのかな
三ちゃんかわいいー
444 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 01:43:49
3ちゃんかわいいー
三ちゃんかわいいー
三ちゃんかわいいー
447 :
442:2005/04/12(火) 19:58:35
特に取りよせなくても大丈夫だった。
その武田氏研究に関係あるのは弾正少弼冠途譲与が創作だって
いうところだけみたいで(多分)、その説は上越市史研究に載ってた論文で否定されてました。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 00:52:00
>弾正少弼冠途譲与が創作
何を根拠にしてそういうこと云い出したのかね。
ヲチ目的?で読んでみたいかも。
>448
筆跡鑑定だったよ
弾正少弼冠途譲与が創作ってのは
景勝が謙信から譲与されたのが創作だって主張なの?
うん、冠途譲与自体が創作だっていう主張。
創作だったいう主張する説は
・449の通り、冠途譲与の書状が景勝の筆跡(写真載ってたけど謙信の筆跡では無いと思う)
・天正3年以後も義昭や毛利側からの書状で謙信の
ことを「弾正少弼」「弾正少弼入道」と呼んでること
・景勝を弾正少弼とさす文書の初見は謙信が死んでから
それでそれに対する反論が
・「入道」ってあるなら明らかに弾正少弼じゃないよ
・義昭からの天正3年暮れの書状は謙信のことを「不織院(庵)」と書いてある。
だからその後来た書状の弾正少弼は景勝のことだよ
・謙信が死んでからっていうけどその初見は景虎が少弼って書いてる書状だよ
だった。借りて読んだだけなので他にも色々あったかもしれない。
読んだ人いたら補足よろしくです。
↑の文じゃ何か分かりづらいね、スマン。
上越市史研究とか弾正少弼冠途譲与、武田氏研究あたりの単語色々
組み合わせてぐぐると2つの論文まとめたサイト引っかかるかも。
>>451 >謙信が死んでからっていうけどその初見は景虎が少弼って書いてる書状だよ
上記の「景虎」って三郎景虎のことだよね?
だったら完璧に論破されたわけだ。>冠途譲与自体が創作
成る程、根拠としてはあまりにも弱すぎるね…
もう一度借りてきたので補足。
5月29日付けで芦名盛氏宛ての景虎書状、
「先般如申入候、少弼無曲擬故、去十三当館江相移備堅固候」
景虎後継者説や後継者2人説は多いけどこれは景勝後継者説だった。
「景勝への冠途譲与が創作」という論文の人が、
文書の筆跡鑑定から史料批判→主張しているなら
>>455の天正六年5月29日付けの書状は
歴代古案の上杉景虎書状写で現存しないのだろうから、
筆跡鑑定では否定できないね。
>>456 スマソ、よくわからんのだが、
つまり芦名氏宛の景虎書状は写しだから、
これまた景勝による偽作文書の可能性があるとおっしゃるのか?
458 :
457:2005/04/17(日) 20:13:11
景勝による偽作って書き方は変だね。
もとは「景勝無曲擬故」などと書かれていたものを、
後世編纂時に「少弼」に書き換えちゃったんではないか、と。
そういう可能性もあるよね。
それ以外の初見は6月12日付け武田信豊書状で
宛名が上杉弾正少弼殿になってるやつ。それ以外でも武田側の
書状は弾正少弼って書いてるの多い。本紙も残ってる。
それと御館の乱中の景勝は自分のことを少弼と呼んでるのは
ない。署名も景勝。謙信死後に冠途譲与されたのを主張したのなら
「弾正少弼」「少弼」って書いてもいいような気がするなあ。
あと冠途譲与書状の筆跡は元和7年(1620年)の景勝自筆書状と
同じ書状と同じ筆跡と同じらしい。これって自筆の遺言書のことなんだろうか?
ごめん遺言書じゃないね。遺言書だったら元和9年か。
>>458 編者の捏造とかはおいておくとして、書状写だから史料を
疑おうと思えば疑えると。
でもこの書状について信憑性はあるものとして、その部分に
ついて論文を書いた人は取り上げていると。
>>451 官途譲与の書状と景勝改名の書状もどちらも写しで
謙信が差出したものは残っておらず、
景勝が書写したものが残っているんだね。
>>459=
>>461さん?
>6月12日付け武田信豊書状で宛名が上杉弾正少弼殿になってるやつ
これも捏造・改竄の可能性が残っていると考える、ってことで?
う〜ん、あくまでその可能性は残るとしても、説としては牽強付会の感が拭えんような。
あっちも捏造こっちも捏造、歴古って他の一次史料との照合も済んでると思うんだけど、
そんなに信憑性の低い史料とされているものなの?
>謙信死後に冠途譲与されたのを主張したのなら「弾正少弼」「少弼」って書いてもいい
そうかなあ?
弾正少弼が上杉家後嗣として不可欠の官途であれば別だけど、
御館の乱時でも別にそれを署名しなくても特に不自然ではないんじゃない?
それに官途譲与とともに景勝の名乗りを与えられた年・天正3年の軍役帳に、
他の一門衆とは明確に区別して、景勝のみが「御中城様」と様づけで尊称されてるよね。
謙信が「御実城様」と呼ばれていたことと合わせて考えると、
何らかの形でこの頃、相当高い地位に引き上げられていたことに間違いないのでは。
謙信政権の重臣である吉江家の軍役も景勝が定めていた形跡があるらしいし。
長文になったな・・・
ということで、従来の井上氏の、山内上杉家と憲政の所領は景虎に、
越後上杉家と越後国は景勝に(能登もか?能登は義春?)
それぞれ継がせてやりたかったんじゃないか説をやっぱり支持かな。
てか話題になってる論文読んでないのにすまんですが。
463 :
459:2005/04/19(火) 02:10:10
>462
あ、>461さんは私ではないです。
>弾正少弼が上杉家後嗣として不可欠の官途であれば別だけど、
>御館の乱時でも別にそれを署名しなくても特に不自然ではないんじゃない?
えーと、景勝が冠途譲与されたのを創作を根拠にした景勝後継者否定説(武田氏研究)
に対して言いたかったんだ。分かりづらくてごめん。
あと書状を捏造するつもりだったら自分で書いたりするのかな。
冠途譲与は天正3年正月だけどこの時期に冠途を譲るって意味が大きいと思う。
前年の天正2年後半は北条に散々やられてる。その後謙信は12月に法印大和尚になってるし
何か心境の変化があったと考えてはだめ?
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 11:56:24
3ちゃんかわいいー
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 23:13:08
別にかわいくねー
466 :
無名武将@お腹せっぷく:
3ちゃんかわいいー