三雲成持の話題だけで1000を目指すスレ

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110新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:03:44
A)また、山中氏の経営については高利貸活動と寺社経営という点が指摘されることもある。
柏木の玉田寺の経営に山中氏が関わっていたことは、1355年の文書から知られている。
1479〜1484年の玉田寺年貢算用帳からは、玉田寺に収容された年貢の一部が山中氏に上納されていること、
玉田寺を介して山中氏が農民に米を貸し付け(出挙)五割の利息を取ってたことが読み取れる。
山中氏は所領の経営に玉田寺を仲介させていたことが伺われるのである。
111新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:04:31
寺社を介して所領を経営することのメリットしては、寺社の宗教的権威により年貢の収容・出挙米の返済が確実にできること、徳政(借銭の棒引き)の適用を免れうることが考えられる。
山中氏は天正期に至り、鈴鹿山中以外の所領を失って以後もかつての所領で高利貸しを営んでいたことが1591年の宇多村掟書案から知られる。
これらからは、高利貸をする「蔵本」としての山中氏の姿が浮かび上がる。
112新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:05:10
A三雲氏の場合
@)三雲氏についても同様の展開を考えることができる。
何より本拠である三雲の地は古代より甲賀郡の交通の中枢であった。
東海道が野洲川を渡る地点であり、野洲川支流である杣川が分岐する地点であり、東海道から伊賀道が分岐する地点でもある。
113新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:05:51
このような土地に南北朝期、山中氏が進出してきたことは前述のとおりである。
これには三雲氏が南朝方についたのに対し、山中氏が北朝方について勢力を拡大しえたことが影響していると思われる。
ただ、山中氏の進出によって、三雲氏が三雲の地の有していた流通機能への支配を失ったということは出来ない。
むしろ三雲氏は積極的に流通・商業活動に参加していったのではないかと考えられる。
114新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:06:46
蒲生郡志巻五では、三雲氏が1522年以前から日明貿易に関与していたことが指摘される。
三雲氏系図では天文年間(1532〜1555年)に三雲定持が日明貿易に関与していたことが記されている。
蒲生郡志では三雲氏が派遣した「従僕」が近江商人であると推測しているが、三雲同名中の構成員に商業に携わる者がいたことも考えられる。
豊臣政権下で聚楽周辺および伏見開発を行った三雲九左衛門を、同名中のうち商業活動を展開していた家と考えられないか。
115新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:07:28
1487年の六角高頼征伐以降の観音寺道(三雲道)の本格的整備を、
かつて南朝方にあった三雲氏等が六角氏権力と結びつくことで甲賀郡内での地位向上を図り、
山中氏の把握する流通経路に対抗する意図の下に理解することも考えられる。
116新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:08:13
A)寺社を使った所領経営についても、それが甲賀郡の土豪にとって一般的な現象であったと考えることが出来る。
三雲屋敷そばの永照院には、大旦那として三雲典膳の家臣三雲修理の名が残っている。
三雲同名中も永照院を介した所領経営を行っていたと考えられる。
117新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:08:45
B多面的な展開
このように、三雲氏についても山中氏と同様、農業経営者としての在地領主像を超え出る多面的な経営を営んでいたことが想像される。
118新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:09:29
@)農業経営者としての三雲氏の規模について三雲氏系図は、下甲賀、野洲、栗太等に九万石を領していたとする。
これが事実であれば相当な規模であるが誇張の可能性もある。
だが、山中氏が数千石を、信楽の多羅尾氏が一万数千石を領していたという記述も見られ、少なくとも三雲氏が数千石程度の所領を経営していたであろうことは推測できる。
また、三雲氏が山中氏等と同様に観音寺城の警護役を引き受け、合戦に際して一軍を率いる軍代として活動していることから、相応の動員力を支える基盤(所領)があったと考えてよい。
119新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:10:24
A)三雲氏の有していた経済力については興味深い事実がある。
1522年、三雲源内左衛門は室町幕府から白傘袋、赤毛氈鞍覆の使用を許可されているが、許可を得るために太刀一腰、馬一匹、青銅五千疋を献上している。
当時この許可を得た者は朝倉孝景、長尾為景、上杉謙信などであり、源内左衛門がこれら有力大名と同程度の献金をなしうる財力を有していたといえる。
三雲氏の一員であったと考えられる三雲九左衛門が、聚楽第周辺や伏見の開発を任される程度の有力商人であったことも、三雲氏の商業活動の規模を示唆するものではないか。
120新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:11:08
B)三雲氏の活動範囲が従来の在地領主像を超えるものであることは、公家施薬院氏との関わりにも現れている。
施薬院氏中興の祖である施薬院全宗は、下甲賀の出身であり、全宗の嗣子三雲施薬院宗伯は三雲三郎左衛門資隆の実子である。
資隆は1570年の野洲川原の戦いで戦死した三雲三郎左衛門と同一人物であると思われるが、惣領家の三雲定持の子ではない。
「資」の一字を持つことから、三雲同名中のうち伴姓の家の出身であると思われる。
三雲同名中は、それを構成する家が様々な分野に進出・関与し、総体として多面的でかつ土豪レベルを超えた展開を遂げたものと考えられる。
121新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:12:21
三、六角氏家臣としての三雲氏
1.六角氏権力の変遷(〜1568年)
(1)佐々木氏
六角氏は近江源氏佐々木氏の嫡流であり、近江国守護職を家職とした。
守護大名から戦国大名へと変貌を遂げえた数少ない大名家である。戦国期、約百年間観音寺城を根拠とし、南近江を支配した。
六角氏は京都に隣接する地理的状況、生産性の高い先進地域にあったことから、戦国期の政治史上重要な位置を占め、また家臣=国人・地侍の存在形態、編成に特色を持つ。
京都の政治情勢に関与しながら、北近江の勢力(京極氏、浅井氏)と近江の覇権を競い、かつ成長する国人・土豪層を懐柔、圧迫しながら家臣団として組織化するという課題を負って独特の支配構造を形成したのである。
122新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:13:25
(2)応仁の乱〜高頼時代
応仁・文明期(1467〜1487年)、幕府政治は将軍職をめぐる争乱があったが、六角氏内部では家督争い、京極氏との間で近江守護職を巡る争いがあり、近江国内は錯綜した政治情勢を生じていた。
こうした中で六角高頼は国人層の荘園侵略を後押ししつつ彼らを家臣団として組織することによって権力基盤を形成したが、
かえって幕府から攻撃を受けることとなった(1487年の将軍義尚の親征)。
高頼は国人層の支持を背景に幕府の二度にわたる攻撃に耐えたが、このことは六角氏権力を国人層に推戴された統治機関的なものとした。
123新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:14:14
(3)定頼、義賢
高頼によって戦国大名としての体裁を整えつつあった六角氏を引き継いだのは、高頼の三男定頼である。
定頼の時代、六角氏はその全盛期を迎え、幕府政治に大きな位置を占めた。
定頼は1527年以降将軍義晴を保護して1534年には入京させることに成功し、管領に準じる地位を得ている。
また、国内的には台頭する浅井氏を攻め、有力な国人である伊庭氏、蒲生氏に対して優位を保った。
この時期に六角氏の領国支配、家臣団編成は定着、安定している。
定頼の子義賢は、安定した六角氏の力を背景に京都、伊勢に出兵し、細川氏・三好氏、北畠氏と対戦している(1542・47・62年等、1540年)。
124新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:14:59
(4)義治〜滅亡
1563年六角義賢は家督を子の義治に譲り、法名承禎と名乗った。
ところが、若年の義治は、義賢時代からの重臣であり義治の施策に異を唱える後藤賢豊との間で対立し、ついにこれを謀殺した。
この行動は義治の立場からは六角氏当主の下への集権化を意味し、戦国大名としての六角氏を強化するためのものであった。
しかし、多くの有力家臣がこれに反発し、観音寺城に放火し浅井長政と通謀して六角氏に反旗を翻した(観音寺騒動)。
義治は有力家臣蒲生定秀を頼って日野へ逃れ、義賢は三雲へ逃れた。その後蒲生定秀の斡旋で家臣団は復帰したが、六角氏の勢力は衰退した。
125新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:16:05
観音寺騒動以後、六角氏は浅井氏との間での勢力争いに苦しむ。
1566年には重臣布施氏が浅井長政と通謀して居城で反乱した事から戦闘が断続的に続き、9月の合戦で六角氏は大敗を喫する。
1567年には家臣団が起草し六角氏が承認する形で六角氏式目が制定され、六角氏権力の立て直しが図られたが、家臣団の結束に手間取る間に織田信長の上洛により圧力を受けることとなる。
1568年織田信長は足利義昭を将軍位に就けるための上洛軍を起こし、六角氏に協力を要請した。
六角氏はその頃長年争ってきた三好氏と和睦し、足利義栄を将軍として認めていたこともあって織田氏の要請を断り、観音寺城での篭城を試みた。
しかし、織田氏の攻勢激しく観音寺城を支えきれないと判断して高頼以来のゲリラ戦に作戦を変更し、三雲へ退却した。この時点で六角氏は南近江の支配権を失った。
その後六角義賢、義治は、甲賀郡を根拠として織田軍と対峙し時には攻勢を示すが、数度の合戦に破れ1575年には織田氏に降伏する。
1261 ◆vHwv81D.XU :2005/04/11(月) 03:43:02
>新左衛門さん

最近、忙しいのであまり来れませんが
ちゃんと書き込みは全て読ませていただいてます。感謝&乙です。
山中氏との対比からの三雲氏の動向の推察とか
三雲氏の商業行動考察(明と貿易とか、大名と同クラスの経済力を保有?)とか、すごいなあ・・と思いました。

話ずれますが、ちょっと気になったこと。
・かなり古い時代から「三雲」という土地名はあったようですが、由来は何だったんでしょうねえ・・
個人的に「苗字の由来」とか興味あって書籍とかで調べた事があったんですが、「雲」ってあんまり苗字で
使うことって少ないですよね。
127無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 04:00:12
むむむ
128ネコ大好き:2005/04/11(月) 04:01:06
若槻が深夜テレビで手コキする映像だよ。
まだ売れていない時で深夜とは言え、これはちょっとやりすぎw

http://waraiameba.ameblo.jp/
129無名武将@お腹せっぷく:2005/04/27(水) 22:34:46
保持age
130無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 12:37:20
保持age
131無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 13:28:19
保持age
132無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 13:30:14
>>129-131
市ね
133無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 13:32:55
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134新左衛門:2005/05/22(日) 08:56:02
2.家臣団中の三雲氏の位置付け
六角氏権力における三雲氏の位置付けについては、六角高頼以前は不明である。
高頼の時代に、三雲新蔵人が鈎の陣に参加し戦功を挙げる。また、三雲典膳は高頼に命ぜられて三雲城を本格的に整備した。
高頼が甲賀郡を根拠として幕府軍の攻撃をしのぎ南近江に権力を確立した頃から、六角氏権力における甲賀の土豪の地位が向上していると考えられる。
135新左衛門:2005/05/22(日) 08:56:45
定頼の時代には、1525年、1531年、1538年(対浅井氏)、1526年、1530年、1542年、1547年(対細川・三好氏)の軍事行動に三雲氏の名が見られる。
三雲氏は甲賀郡の土豪のうちでも観音寺城の在番、軍代を勤める六氏に入っており、山中、望月、黒川氏らとともに重臣層に位置づけられるようになった。
136新左衛門:2005/05/22(日) 08:57:22
その後義賢、義治の時代にも、三雲定持、賢持、成持は重臣として六角氏に仕え、三雲三郎左衛門は軍事行動において六角氏に貢献している。
特に観音寺騒動以降、重臣層が離反を起こす中で三雲氏は六角氏を離れず、最末期の重臣として役割を果たした。
137新左衛門:2005/05/22(日) 08:58:03
淡海温故録は、「屋形高頼以来四代の間三雲一族出でずといふこと無し。」
「三雲一族一人も信長に降参せず義を重んじ三度の誓約を守る。
浪人蟄居すれども後孫時に応じ太閤の御代より御当代に至り家を失はず。
数代の主を捨てて誓約を軽んずる家は立身する有れど末続かず多くは断絶す」
と三雲氏の行動を顕彰している。
138新左衛門:2005/05/22(日) 08:58:39
四、三雲氏の衰退
1.対信長戦(1568〜1574年)
1568年に六角氏が観音寺城を捨てて甲賀に走ると、南近江の多くの国人は織田氏に服従するようになった。
その一方、甲賀郡の土豪達は六角氏を支援した。
しかし六角氏は、1570年守山の戦い(5月)、野洲川原の合戦(6月)、長光寺城の戦い(6月)、岡山の戦い(11月)で敗れ、1570年11月一旦和睦を余儀なくされる。
特に野洲川原の合戦では三雲定持、三雲三郎左衛門が戦死している。
139新左衛門:2005/05/22(日) 08:59:18
その後、六角義賢は1571年再び挙兵し、垣見の戦い、金ヶ森の戦い(9月)、1572年和邇の陣で織田軍に敗れている。
1573、74年には篭城戦である鯰江城の戦い(4〜9月)、石部城の戦いにも敗れて甲賀武士の支持を失い、六角氏は抵抗する力を失ったとされる。
三雲成持は、定持、三郎左衛門の死後も六角義賢と行動を共にし、1570年の和睦の際には織田信長への使者となり、その後も鯰江城の整備、菩提寺城での挙兵(1573年)などの貢献を見せるが、1574年三雲城で織田軍の佐久間信盛に降伏した。
140新左衛門:2005/05/22(日) 09:00:00
2.浪人時代、小牧長久手合戦(〜1585年)
織田軍に降伏した後三雲成持は浪人し、その後1584年まで成持の行動を示す資料は現れない。
六角氏が甲賀から退去して以後、甲賀郡の土豪たちは郡中惣、同名中の立て直しを図ったようである。
三雲氏も残された所領を把握し、同名中内の結束を図っていたのであろう。
141新左衛門:2005/05/22(日) 09:00:40
1583年になって三雲氏にとって重大事が起こる。
三雲氏が本拠としていた三雲村周辺を、豊臣秀吉が浅野長吉(長政)に知行として与えたのである。
これにより三雲氏は本拠における勢力をも失う危機に瀕した。
1584年に豊臣氏と徳川家康、織田信雄が対立し小牧長久手の戦いに発展した時、徳川家康は三雲氏に書状を送り徳川・織田方として行動するよう求めている。
これは三雲氏がいまだ在地勢力を失っていなかったことを示すと共に、先年の浅野長吉の知行により三雲氏が豊臣政権下で所領を失う危機にあり、反豊臣方として行動することが予想される状況にあったことを示している。
142新左衛門:2005/05/22(日) 09:01:16
この戦いでは甲賀郡は徳川・織田方に付き、三雲成持が約700人の甲賀武士を率いて瀧川利雄と共に伊勢松ヶ島城に篭城した。
これに対して豊臣秀吉は、徳川・織田との講和後に、甲賀武士が雑賀攻めにおいて失態を犯したとの名目で甲賀武士達を改易処分としている。
143新左衛門:2005/05/22(日) 09:01:53
3.蒲生氏郷、徳川家康、旗本へ(〜1615年)
小牧長久手合戦は、徳川・織田方と豊臣秀吉との間で講和が成立し、三雲成持は三雲の本拠を失った。
成持は小牧長久手合戦で戦功を上げたかつての同僚蒲生氏に仕官することになる。
蒲生氏に仕官した理由を三雲氏系図は、「(蒲生)氏郷は成持が妻の甥たればなり」とする。
144新左衛門:2005/05/22(日) 09:02:25
小田原征伐後の1590年、蒲生氏郷は会津四十二万石に封ぜられるが、このとき三雲氏は「三雲新左衛門四千石、三雲源太郎千石、三雲源次郎五百石」という扶持を得ている。
その後蒲生氏が没落すると、三雲氏は徳川家康に仕える。
1593年、成持の子成長は朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた徳川家康に出仕し、大番となる。
その後三雲氏は徳川氏の旗本として江戸時代に至った。
145新左衛門:2005/05/22(日) 09:03:22
五、人名
1.三雲氏の家系
三雲氏は同名中に様々な出自の家が参加して構成された(擬似)一族集団である。
従って、それぞれの文献に現れる三雲を名乗る人々は異なる姓を持つこともありうる。
異なる姓を持つ家が三雲同名中という大枠に従いながらそれぞれの活動を営み、三雲氏に多様性と活力を与えたことを理解しなければならない。
146新左衛門:2005/05/22(日) 09:03:57
2.新蔵人−1487年の鈎の陣に参加。丹波姓。
3.典膳−高頼のゲリラ戦において根拠となった三雲城を整備した。新蔵人と同時代の人だが姓は不明。
4.実乃−明応年中(1492〜1501年)に三雲に移住し三雲氏を称するようになる。藤原姓を名乗る(一説には源姓)。
5.行定−実乃の実子。源内左衛門。1522年、室町幕府から白傘袋、赤毛氈鞍覆の使用を許可されている。
一説には永正年間(1504〜1521年)に三雲へ移住し、典膳の婿養子になったとされる。元は小山田氏(源姓)を名乗っていたともいう。
147新左衛門:2005/05/22(日) 09:04:39
6.定持−行定の子。新左衛門。藤原姓。天文年間(1532〜1555年)に日明貿易に関与する。
六角氏式目の起草者の一人として署名する。1531年の箕浦合戦(対浅井氏)、1538年の国友川原の戦い(対浅井氏)、1570年野洲川原の合戦(対織田氏)に参加、野洲川原の合戦で敗死。
7.賢持−定持の長子。新左衛門。藤原姓。六角義賢の重臣。六角氏式目の起草者の一人。1566年の布施城攻めの大将。その後1566年9月の会戦で浅井長政に敗れ死亡。
148新左衛門:2005/05/22(日) 09:05:26
8.成持−定持の次子。豊左衛門。藤原姓。1566年兄賢持の死により新左衛門を名乗り家督を継ぐ。
六角氏式目に署名。1568年観音寺城篭城の時、三郎左衛門と共に三雲へ落延びることを提案する。以後六角氏の対織田戦に従う。1575年織田氏に降伏。
1584年小牧長久手の戦いに参加。後蒲生氏郷に仕える。
9.資胤−1530年六角定頼の京都出兵に参加。伴姓(?)。
10.三郎左衛門−定持の子とされることもあるが不明。施薬院系図にある三雲三郎左衛門資隆である可能性が高い。伴姓(?)。
1562年松永久秀との弓戦で活躍。1568年観音寺城に成持と共に篭城参加。1570年野洲川原の合戦で敗死。
149新左衛門:2005/05/22(日) 11:07:51
>>1さん

とりあえずここまでです。

三雲の地名の由来については良く分かりません。
ただ、古い文献では「日雲」という表記もあるようです(「日雲頓宮」など)。
私はそこから「日隈(ひくま)」という地名に関連づけられないかと思っています。

一方福岡の前原市にも「三雲」という地名があり、そこはかつての伊都国の中心だったようです。
近くには中世の山城と古代の朝鮮式山城(「雷山」)があり、少しばかり三雲と雰囲気が似ています。
琵琶湖と博多湾を重ね合わせると、近江の三雲と福岡の三雲は同じような位置関係にあります。

ただ、いずれもきちんと文献で確認できる推論にはなりそうにありません。
そういうわけで、私は中世の三雲までしか見ないことにしています。
150無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 19:46:06
まだあったのか、このスレ…とりあえずageないように
メール欄に「fujianasan」って打って書き込もうよ
151無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 14:39:03
保持
152無名武将@お腹せっぷく:2005/06/27(月) 01:59:15
保持
153無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 06:34:45
保守
154無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 08:33:16
保守
155無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:25:53
保持age
156無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:37:01
しかし厳しいねぇ
157無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 08:38:42
あと844かぁ・・・・
158無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 10:57:55
誰か三雲成持のAAでも作ってくれないかなあ・・
159無名武将@お腹せっぷく
そろそろブームに乗って漫画化してくれaeg