三雲成持の話題だけで1000を目指すスレ

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11 ◆vHwv81D.XU
まぁ、マターリいきましょう。
三雲成持の詳細については>>2-4辺り。
個人的に武将風雲録以来のお気に入りです。
(当時屈指の雑魚武将だった。今も大差ないけど・・)
通は「成持」を音読みして「ジョージ」と呼びます。
(俺だけだがな)
父親(三雲定持)も音読みすると「ジョージ」
21 ◆vHwv81D.XU :04/07/14 18:51
三雲成持(みくも しげもち) 1540〜1603
通称・新左衛門尉 豊左衛門尉
父:三雲定持 兄:三雲賢持 子:三雲成長
南近江・六角氏家臣。六角氏の執政を支えた「六角義賢・六宿老」の一人。
(後の五人は蒲生賢秀 後藤秀勝 進藤貞治 平井定武 目賀田綱清)
「六角式目」には父と共に連署している。
浅井長政との戦いで兄を失い、織田家(柴田勝家)との戦いで父を失った。兄の戦死後、家督相続。
家中において重きをなし、多くの文書を発給しており、内政を担当したと思われる。
また家中の利害調整にも務めるなど一部主君の業務を代行するほどの地位を占めていた。
信長の攻勢の前に次々家臣が寝返り、衰退してゆく主家(六角家)に最期まで忠義を尽くした。
主家滅亡後浪人するが、1584年に織田信雄、後に蒲生氏郷に仕えた。
31 ◆vHwv81D.XU :04/07/14 18:52
三雲城・・
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/mikumo.htm
http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/second_page/mikumojyou/mikumo.html
この城は、観音寺城の「奥の城」とも云える城で、六角氏は居城が危機を迎えると、必ずとこの城に逃げ込んでいる。
永禄11年、織田信長によって観音寺城を攻められた時も、六角義賢・義弼父子がこの城に逃れ再起を図った。

三雲館・・http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/second_page/mikumoyakata/yakata.html

三雲氏は甲賀五十三家(甲賀衆)のひとつ。
http://www.m-network.com/sengoku/ninja/ninja02.html
忍術も得意だった?

和田惟政とお手紙をやり取りする仲。
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m234.html
かつて和田惟政は六角氏に属しており、織田〜六角の和睦時に六角側の重臣である
三雲氏と文書の交換をしている。

三雲氏・・http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mikumo.html
(一部要略)
織田信雄と豊臣秀吉との間が手切れになった時、滝川雄利と伊勢国松賀島城に立て籠った。
その後、また雄利と共に浜田城を守備。これらの功により信雄より近江国の本領を元のごとく与えるとの書状を得、
家康からも「本領相違なし」との書をもらった。しかし、豊臣・織田の和議により、旧領復帰は成らなかった。
その後、蒲生氏郷のもとに身を寄せたが、三雲氏の再興はならず慶長八年(1605)十二月に死去した。
4黒膜 ◆.Kx1wt0.BM :04/07/14 18:56
すごいスレを立てたものだ。まずは乙です。
キーワード「忍者」くらいが取っ付きやすいですかね?
見事1000まで逝ったら次は垣屋氏の話題で
61 ◆vHwv81D.XU :04/07/14 19:12
過去のコーエー作品における三雲成持の能力値(一部未補完)

覇王伝・・
政治・45 戦闘・58 智謀・56 采配・61 野望・51

天翔記・・(政・戦・智のMAXは200)
政治・110 戦闘・116 智謀・112 魅力・61 野望・52 足軽・D 騎馬・D 鉄砲・E 水軍・E

将星録・・
政治・53 戦闘・52 智謀・59 足軽・D 騎馬・D 鉄砲・E 水軍・E 特技・商業

烈風伝・・
政治・52 戦闘・41 采配・47 智謀・54 威信・軽視 足軽・D 騎馬・D 鉄砲・D 水軍・E 特技・商業

蒼天録・・
政治・44 統率・47 知略・45 策戦>治療・修復 特技>威圧

天下創世・・
政治・40 統率・45 知略・43 教養・51 義理・61

太閤立志伝4・・
統率・47 武力・41 内政・62 外交・54 魅力・36 技能・・築城1、開墾1、鉱山1、算術1、礼法1、弁舌1。

太閤立志伝5・・
統率・47 武力・41 政務・62 智謀・54 魅力・36 技能・・築城1、開墾2、鉱山1、算術1、礼法1、弁舌2。

太閤4→5でちょっとだけ技能が上がってたりするけど、基本的にコーエーの人は彼に興味がないっぽい。


71 ◆vHwv81D.XU :04/07/14 19:30
>>3がちょっと改行ミスで見にくかったり誤字・脱字がありますが、ご愛嬌という事で。

父や兄に比べて武での活躍の記述(まぁ父兄も戦死した合戦の記録しかほとんど残ってないけど)は
あまり無いけど(織田信雄家臣時代にちょっと頑張ったくらいか)
内政・外交的な部分では結構活躍した人物だと思う。

六角義治が後藤賢豊を誅殺した
いわゆる「観音寺騒動」の後、後藤高治−六角義治の対立を調停したり
主君に代わり他家との外交も担当している事からも
内政・外交能力は結構あったに違いない。
最後に蒲生氏郷に拾われてるのも何か凄い。ただのボンクラではなかったはずだ。


81 ◆vHwv81D.XU :04/07/14 19:51
すまぬ。あと武将風雲録から〜って書きましたが
どうやら初登場は覇王伝っぽい。訂正します。
91 ◆vHwv81D.XU :04/07/14 19:53
度々すまぬ。
戦国群雄伝で初登場、武将風雲録では未登場、覇王伝で復帰、以後レギュラーが正解でした。
再び訂正。
>>1
コテ付けてググるの知識を貼り付けましたかそうですか。乙
>>10
わざわざそんなこと言いに平日の昼間からご苦労様。乙。
13:04/07/15 23:42
>>4
太閤立志伝とかではもうちょっと
忍者適正があってもいい気がするんですよね。
同じ六角配下で甲賀五十三家の山中俊好なんかは忍者能力あるし。
あと意外なところで中村一氏なんかも、この甲賀五十三家の関係者だったりします。

>>5
やってみたいところですが・・・

>>12
あら、それは失敬しました。データ不足ですみません・・
2getすらされない三雲スレ乙。>>1
151 ◆vHwv81D.XU :04/07/28 15:59
よし、仕方がないので
「三雲一族の話題だけで1000を目指すスレ」にしよう。
父・定持、兄・賢持、子、成長の話題も可。

あと主家の六角氏関連の話題も必然的に出てくると思うので
それも可にしましょう。

現在>>1は太閤立志伝Xで
三雲成持・六角義賢共に在野で始まるシナリオで
主人公・三雲でスタート。どこぞの大名に仕官して
配下を養える身分になったら六角親子を保護。
城主に任命されたらツールで自分と六角の身分を入れ替えて
六角氏の再興を図るという遊びを楽しんでいます。
16無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 15:40
保持
ウマイな。「やすもち」か
ミクモ
19無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 20:18
三雲age
>>1殿、乙です。

コーエーの評価では、父と兄と比べて、誰の評価が一番高いんですか?
211 ◆vHwv81D.XU :04/08/06 03:39
>>20
父は最近出てきませんね。能力はどっこいどっこいだったと思います。
兄・子に至っては登場経験すらないと思います。
史料的には多分、三雲成持が活動時期が長いので検証すべき部分は多いと思うのですが
やはりおざなりな扱いというか・・
「その他大勢」の扱いでしかないところが無念なところです。
太閤立志伝とかだったら、次回からもちょっと忍者特性とか弁舌・魅力とかが
増えてもいいんじゃないかなぁ・・と思ったりします。
22無名武将@お腹せっぷく:04/08/06 14:24
すげー雑魚武将じゃん
231 ◆vHwv81D.XU :04/08/06 17:33
>>22
少なくとも歴史に名を遺す人物は
>>1含め、そこいらの有象無象よりは遥かに優れていた人物だと思うのです。
ゲーム上では確かに雑魚武将の枠ですけどね・・
ちゃんと考証すれば中堅どこの内政要員くらいのレベルはあるはずなのに・・
24無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 14:55
維持
25無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 15:12
>>2
どうでもいいけど
浅井長政が最初に娶ったのって平井の姫だよね。
六宿老の家柄じゃそれなりに家格あったんだね。
26新左衛門:04/08/14 11:08
三雲氏は、甲賀五十三家、二十一家の一つとされる。古くから三雲の地を本拠として勢力を張っていたことが伺えるが、その出自については明らかではない。
伴氏系図には「設楽安芸守資乗−俊通(三雲伴四郎)」という記述があり、伴氏の庶流が三雲に定住し三雲氏を名乗ったことが分かる。
南北朝期には、南朝方として活動していたとされる三雲伊予房という人物が鈴鹿山守護役山中氏によって捕らえられたという記事(1335年)がある。
また、六角高頼征伐(1487年)の際には丹波姓の三雲新蔵人という人物がいたことが、同じく甲賀五十三家の一つである芥川氏の記録にある。
27新左衛門:04/08/14 11:11
蒲生郡志巻五では、三雲氏が1522年以前から日明貿易に関与していたことが指摘される。
三雲氏系図では天文年間(1532〜1555年)に三雲定持が日明貿易に関与していたことが記されている。
蒲生郡志では三雲氏が派遣した「従僕」が近江商人であると推測しているが、三雲同名中の構成員に商業に携わる者がいたことも考えられる。
ちなみに、豊臣政権下で聚楽周辺および伏見開発を行った三雲九左衛門は、同名中のうち商業活動を展開していた家であるとされる。
28新左衛門:04/08/14 11:12
三雲氏の有していた経済力については興味深い事実がある。
1522年、三雲源内左衛門は室町幕府から白傘袋、赤毛氈鞍覆の使用を許可されているが、許可を得るために太刀一腰、馬一匹、青銅五千疋を献上している。
当時この許可を得た者は朝倉孝景、長尾為景、上杉謙信などであり、源内左衛門がこれら有力大名と同程度の献金をなしうる財力を有していたといえる。
三雲氏の一員であったと考えられる三雲九左衛門が、聚楽第周辺や伏見の開発を任される程度の有力商人であったことも、三雲氏の商業活動の規模を示唆するものである。
29新左衛門:04/08/14 11:13
施薬院氏中興の祖である施薬院全宗は、下甲賀の出身であり、全宗の嗣子三雲施薬院宗伯は三雲三郎左衛門資隆の実子である。
資隆は1570年の野洲川原の戦いで戦死した三雲三郎左衛門と同一人物であると思われるが、惣領家の三雲定持の子ではない。
「資」の一字を持つことから、三雲同名中のうち伴姓の家の出身であると思われる。
三雲同名中は、それを構成する家が様々な分野に進出・関与し、総体として多面的でかつ土豪レベルを超えた展開を遂げたものと考えられる。
30新左衛門:04/08/14 11:14
六角氏権力における三雲氏の位置付けについては、六角高頼以前は不明である。
高頼の時代に、三雲新蔵人が鈎の陣に参加し戦功を挙げる。また、三雲典膳は高頼に命ぜられて三雲城を本格的に整備した。
高頼が甲賀郡を根拠として幕府軍の攻撃をしのぎ南近江に権力を確立した頃から、六角氏権力における甲賀の土豪の地位が向上していると考えられる。
31新左衛門:04/08/14 11:15
定頼の時代には、1525年、1531年、1538年(対浅井氏)、1526年、1530年、1542年、1547年(対細川・三好氏)の軍事行動に三雲氏の名が見られる。
三雲氏は甲賀郡の土豪のうちでも観音寺城の在番、軍代を勤める六氏に入っており、山中、望月、黒川氏らとともに重臣層に位置づけられるようになった。
32新左衛門:04/08/14 11:16
その後義賢、義治の時代にも、三雲定持、賢持、成持は重臣として六角氏に仕え、三雲三郎左衛門は軍事行動において六角氏に貢献している。
特に観音寺騒動以降、重臣層が離反を起こす中で三雲氏は六角氏を離れず、最末期の重臣として役割を果たした。
淡海温故録は、
「屋形高頼以来四代の間三雲一族出でずといふこと無し。」
「三雲一族一人も信長に降参せず義を重んじ三度の誓約を守る。
浪人蟄居すれども後孫時に応じ太閤の御代より御当代に至り家を失はず。
数代の主を捨てて誓約を軽んずる家は立身する有れど末続かず多くは断絶す」
と三雲氏の行動を顕彰している。
33新左衛門:04/08/14 11:17
四、三雲氏の衰退
1.対信長戦(1568〜1574年)
1568年に六角氏が観音寺城を捨てて甲賀に走ると、南近江の多くの国人は織田氏に服従するようになった。
その一方、甲賀郡の土豪達は六角氏を支援した。
しかし六角氏は、1570年守山の戦い(5月)、野洲川原の合戦(6月)、長光寺城の戦い(6月)、岡山の戦い(11月)で敗れ、1570年11月一旦和睦を余儀なくされる。
特に野洲川原の合戦では三雲定持、三雲三郎左衛門が戦死している。
34新左衛門:04/08/14 11:18
その後、六角義賢は1571年再び挙兵し、垣見の戦い、金ヶ森の戦い(9月)、1572年和邇の陣で織田軍に敗れている。
1573、74年には篭城戦である鯰江城の戦い(4〜9月)、石部城の戦いにも敗れて甲賀武士の支持を失い、六角氏は抵抗する力を失ったとされる。
三雲成持は、定持、三郎左衛門の死後も六角義賢と行動を共にし、1570年の和睦の際には織田信長への使者となり、
その後も鯰江城の整備、菩提寺城での挙兵(1573年)などの貢献を見せるが、1574年三雲城で織田軍の佐久間信盛に降伏した。
35新左衛門:04/08/14 11:20
2.浪人時代、小牧長久手合戦(〜1585年)
織田軍に降伏した後三雲成持は浪人し、その後1584年まで成持の行動を示す資料は現れない。
六角氏が甲賀から退去して以後、甲賀郡の土豪たちは郡中惣、同名中の立て直しを図ったようである。
三雲氏も残された所領を把握し、同名中内の結束を図っていたのであろう。
1583年になって三雲氏にとって重大事が起こる。三雲氏が本拠としていた三雲村周辺を、豊臣秀吉が浅野長吉(長政)に知行として与えたのである。
これにより三雲氏は本拠における勢力をも失う危機に瀕した。
36新左衛門:04/08/14 11:21
1584年に豊臣氏と徳川家康、織田信雄が対立し小牧長久手の戦いに発展した時、徳川家康は三雲氏に書状を送り徳川・織田方として行動するよう求めている。
これは三雲氏がいまだ在地勢力を失っていなかったことを示すと共に、先年の浅野長吉の知行により三雲氏が豊臣政権下で所領を失う危機にあり、反豊臣方として行動することが予想される状況にあったことを示している。
37新左衛門:04/08/14 11:22
この戦いでは甲賀郡は徳川・織田方に付き、三雲成持が約700人の甲賀武士を率いて服部正成、瀧川利雄と共に伊勢松ヶ島城に篭城した。
これに対して豊臣秀吉は、徳川・織田との講和後に、甲賀武士が雑賀攻めにおいて失態を犯したとの名目で甲賀武士達を改易処分としている。
38新左衛門:04/08/14 11:23
3.蒲生氏郷、徳川家康、旗本へ(〜1615年)
小牧長久手合戦は、徳川・織田方と豊臣秀吉との間で講和が成立し、三雲成持は三雲の本拠を失った。
成持は小牧長久手合戦で戦功を上げたかつての同僚蒲生氏に仕官することになる。
蒲生氏に仕官した理由を三雲氏系図は、「(蒲生)氏郷は成持が妻の甥たればなり」とする。
小田原征伐後の1590年、蒲生氏郷は会津四十二万石に封ぜられるが、このとき三雲氏は「三雲新左衛門四千石、三雲源太郎千石、三雲源次郎五百石」という扶持を得ている。
その後蒲生氏が没落すると、三雲氏は徳川家康に仕える。
1593年、成持の子成長は朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた徳川家康に出仕し、大番となる。
その後三雲氏は徳川氏の旗本として江戸時代に至った。
39新左衛門:04/08/14 11:24
五、人名
1.三雲氏の家系
三雲氏は同名中に様々な出自の家が参加して構成された(擬似)一族集団である。
従って、それぞれの文献に現れる三雲を名乗る人々は異なる姓を持つこともありうる。
異なる姓を持つ家が三雲同名中という大枠に従いながらそれぞれの活動を営み、三雲氏に多様性と活力を与えたことを理解しなければならない。
40新左衛門:04/08/14 11:25
2.新蔵人−1487年の鈎の陣に参加。丹波姓。
3.典膳−高頼のゲリラ戦において根拠となった三雲城を整備した。新蔵人と同時代の人だが姓は不明。
4.実乃−明応年中(1492〜1501年)に三雲に移住し三雲氏を称するようになる。藤原姓を名乗る(一説には源姓)。
5.行定−実乃の実子。源内左衛門。1522年、室町幕府から白傘袋、赤毛氈鞍覆の使用を許可されている。
一説には永正年間(1504〜1521年)に三雲へ移住し、典膳の婿養子になったとされる。元は小山田氏(源姓)を名乗っていたともいう。
41新左衛門:04/08/14 11:26
6.定持−行定の子。新左衛門。藤原姓。天文年間(1532〜1555年)に日明貿易に関与する。
六角氏式目の起草者の一人として署名する。
1531年の箕浦合戦(対浅井氏)、1538年の国友川原の戦い(対浅井氏)、1570年野洲川原の合戦(対織田氏)に参加、野洲川原の合戦で敗死。
7.賢持−定持の長子。新左衛門。藤原姓。六角義賢の重臣。六角氏式目の起草者の一人。
1566年の布施城攻めの大将。その後1566年9月の会戦で浅井長政に敗れ死亡。
42新左衛門:04/08/14 11:27
8.成持−定持の次子。豊左衛門。藤原姓。1566年兄賢持の死により新左衛門を名乗り家督を継ぐ。六角氏式目に署名。
1568年観音寺城篭城の時、三郎左衛門と共に三雲へ落延びることを提案する。以後六角氏の対織田戦に従う。
1575年織田氏に降伏。1584年小牧長久手の戦いに参加。後蒲生氏郷に仕える。
9.資胤−1530年六角定頼の京都出兵に参加。伴姓(?)。
10.三郎左衛門−定持の子とされることもあるが不明。施薬院系図にある三雲三郎左衛門資隆である可能性が高い。伴姓(?)。
1562年松永久秀との弓戦で活躍。
1568年観音寺城に成持と共に篭城参加。1570年野洲川原の合戦で敗死。
43新左衛門:04/08/14 11:29
とりあえず家に残っている言い伝えと俺が調べた資料によると、三雲ってのはこんな感じの人たちだったらしい。
ながながとスレ汚しスマソ
>ちゃんと考証すれば中堅どこの内政要員くらいのレベルはあるはずなのに・・
まあそれ言っちゃうとほぼ全ての武将が内政要因はたまた武勇の士になってしまう
>少なくとも歴史に名を遺す人物は
>>1含め、そこいらの有象無象よりは遥かに優れていた人物だと思うのです。
世襲やら血縁やらが重視された時代だから無能な権力者がいくらでもいるじゃん
じゃぁ>>1は自分が何処ぞの由緒正しい守護大名の嫡男に生まれても
ちぃっとも名が残らないと思う?
471 ◆vHwv81D.XU :04/08/14 21:19
>新左衛門さん
乙でした。
いやはや>>1の集めた情報など屁にもならない程の貴重な情報ありがとうございました。
>家に残っている言い伝えと俺が調べた資料・・
三雲氏の一族の方なのでしょうか?重ね重ねありがとうございました。

481 ◆vHwv81D.XU :04/08/14 21:22
>>44
まぁ、家老身分の部将なんかは大概そういうことになるんでしょうが(ゲームでは)
「〜家の家老、内政一般に携わった」程度の資料しか残ってない部将に比べれば
ちゃんと史実に残る功績を多少といえども残してるわけで差があると思います。
逆に大した実績がなくてもイメージだけで内政が80とかある部将もいるわけで・・

>>45
確かに無能な権力者はたくさんいますね。
でも、そういう人物はちゃんと「愚鈍な人物であった」という資料がありますよね。
(斎藤龍興とか一条兼定とか・・)
だから「無能な人」として名が残ってるわけですよね?(一部例外もありますが)
三雲氏は功績はあれど、そういった「無能な人」を象徴するお話は何も無いにも関わらず
あまりに低評価なのがどうなのかな・・?と思っただけです。
ま、「内政」ってカテゴリだけで部将の能力を表すのに限界があるんですけどね・・
「外交」ってカテゴリがあったら、そこそこ評価されたはずの部将だと思いまし
少なくとも三雲氏は「無能な権力者」では無いと思います。

>>46
そりゃ残るでしょうね。「名」だけは。
別に>>1は歴史に名が残れば無条件に凄いとは言って無いですよ。
ただ、長嶋茂雄と一茂の例を取るまでもなく
一般で評価が低く、「〜の子だから」ってだけで有名な人物でも
実際にある世界で名を残すというのは大変な事だって事です。
野球界から見れば「無能」に当たるかもしれない一茂とて
仮にもプロになって多少の活躍をした・・ってのは親の七光りだけでは難しいでしょうし
野球を観ているだけの我々から「無能」呼ばわりするのはいかがなものか・・という
感じのことです。
仮にもある程度の勢力を率いて、それを動かしていた人物を
一農民である百姓が駄目出しするようなもんだと。
491 ◆vHwv81D.XU :04/08/14 21:24
>>48訂正
×評価されたはずの部将だと思いまし
○評価されていたはずの部将だと思いますし
>>38  「(蒲生)氏郷は成持が妻の甥たればなり」


ということは、成持夫人は、蒲生賢秀の姉妹もしくは後藤賢豊の姉妹にあたるということですかね。
>>48
ゲームでも有能な武将と無能な武将の二通りしか存在しないわけじゃない
更に言うと三雲の能力でもそう酷いというものではない。
(例えば蒼天録では平均値は45だとされている)
まああまり深く考えない方が良い。
52新左衛門:04/08/20 22:56
oh!
こんなところまで落ちているとは。
とりあえず上げておこう。

>>47
母方が直系です。東京に住んでいます。
といっても何も残されていませんが。

>>50
それがよくわからんのです。
有名人に嫁いだ人以外は「女」としか残されないのでしょうかね。
53黒膜 ◆.Kx1wt0.BM :04/08/21 00:17
>>52
ということはあなたの母方はニュースキャスターが親族にいたりするわけだ。
54新左衛門:04/08/22 16:45
>>53
いえ、三雲孝江さんは関係ないと思いますね。
どこかで別れた家の人かもしれませんが。
55無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 00:56
もっと頑張れ>>1
後藤=進藤≧蒲生>三上=野寺=平井=布施=山崎>>>>>>>>>三雲
57無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 13:27
三雲成持みたいな評価する史料がなくて中途半端な能力になってる奴は腐るほどいるじゃん。
581 ◆vHwv81D.XU :04/08/23 15:19
>>51
そうします。
>>52
なるほど。直系ですか・・すごいですな・・
わざわざ資料を紐解いて頂いて感謝でした。
>>56
何を根拠に〜!
>>57
無い奴に比べればよっぽど資料あるよ。生没年もわかってるし。大体の生い立ちもわかる。
「〜合戦で○○に敗れて没落した」程度の資料しかない生没年もわからん奴とか
「○○家に仕えて奉行職だった」とかだけで細かい事跡が何もわからんのに政治70〜80とか
そんな奴に比べれば遥かに資料も実績もあるっちゅーの!

とりあえず次回から名無しに戻ります。
59黒膜 ◆.Kx1wt0.BM :04/08/23 20:55
>>58をみて思ったのだが、戦国シミュレーションでの六角氏の勢力は
人物能力では蒲生だけで国力は浅井と対等などというよく分からん評価になりがち
三雲親子も政治担当として評価してもよさそうではあるな
60新左衛門:04/08/23 22:29
三雲成持が取り上げられたことがうれしく、しばらく張り付いてしまっています。

>>1さん
三雲の人たちを取り上げて、擁護してくださってありがとうございます。
しかし負けは負けなのでしょう。現実は数値化できませんしね。
ただ、比較的きれいに負けたこと、
滅ぶまで戦う気概を見せたことは誇りに思っています。

>>59さん
「信長の野望」で三雲成持の特技が商業とされているのは
何らかの評価の結果と理解しています。
実際旗本の頃も、書替奉行という仕事してましたし。
事務処理能力は良かったんじゃないでしょうか。
私もその恩恵を多少受けている気がします。
「信長の野望」でも、政治の能力にもう少し色つけてくれるとうれしいですね。
61新左衛門:04/08/23 22:37
すいません。
書替奉行をしていたのは成持ではなく、その後の三雲の人たちですから。
大番−書院番(このころ諸家譜編纂に参加)−書替奉行
という風に仕事が事務方に移っていきました。
62無名武将@お腹せっぷく:04/08/30 17:16
くもっこ
ゲーム的には早々に主君を見限って
あちこちの勢力に仕えた細川親子や藤堂高虎が「時勢を見る目に長けた」と
評価されがちだけど
駄目主君を一生懸命支えながら没落してったり
戦場の露と消えてゆく武将ってのも
ある種評価されるべきだと思うよ。

信長は一番嫌いだろうけどね。そういうタイプ。
「義理高い無能」
http://www.inetmie.or.jp/~nakayama/dv/menu.shtml
ここで「三雲成持」ってキャラでプレイしてます。
誰か暇な人は仲間になっとくれ。めちゃ弱いけど。
65三雲 ◆yaqVGmts0A :04/09/06 20:08
66無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 08:18:18
マターリ保持
67黒膜 ◆.Kx1wt0.BM :04/09/16 13:42:29
鈴鹿から京都へ国道1号線で向かうと山中・三雲の地名を見かけるね
68無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 03:47:06
保持あげ
69無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 05:34:34
三雲って武将風雲録に出てたような。
隠しシナリオ3に出てませんでしたっけ?
70無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 12:37:25
良スレだ〜!
71無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 03:06:33
少なくとも歴史に名を遺す人物は
>>1含め、そこいらの有象無象よりは遥かに優れていた人物だと思うのです。
72無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 16:50:52
>>71
何故コピペ?
73無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 02:51:30
age
74無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 04:57:38
朝を目前に渋すぎる人物のスレへ記念カキコ
75無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 13:54:52
ネタもないのにageちゃう!
76無名武将@お腹せっぷく:04/10/17 23:05:30
保持
77無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 20:48:08
保持
78無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 19:26:10
三雲氏の肖像画とかってないんだろうか?銅像とか。
79無名武将@お腹せっぷく:04/11/28 19:45:34
保持
80無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 17:32:10
保守
81無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 19:20:40
1000スレなんてムリwwwwwゲピwwwwwwおkwwwwwwプゲラ
82無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 19:22:01
1000スレ乙
831 ◆vHwv81D.XU :04/12/07 18:23:15
すんません。ちょっと個人的にお伺いしたい事(三雲氏について)があるので
新左衛門さん、もしこのスレをまだ見てましたらレスをお願いしますです。
84三雲新左衛門:04/12/12 00:33:48
>>1さん
見てますよ。というか時々こっそり様子見に。
なんでしょうか。
851 ◆vHwv81D.XU :04/12/12 21:24:14
>>84
反応ありがとうございます。
んとですね、ちょっと今
HTML言語とかの勉強をしていてですね、
春先くらいに自分のHPを立ち上げようかなあ・・とか思ってまして。
それで、その中に三雲氏のコーナーを作れたらいいなあ・・とか思ってまして。
その際に個人的にいろいろ三雲氏の情報などを教えていただけたら
助かるなあ・・と思いまして。
時間に余裕がある時で構わないので
よかったら三雲氏の情報を教えていただないかな・・と。

個人的にもいろいろ調べてみようとは思うんですが
なにぶん情報が少ないもので・・
ちなみに三雲氏関連の郷土館とか資料館みたいなものって
地元にあったりするんですかね?
86新左衛門:04/12/17 02:06:50
なんかうれしい話ですね。
三雲の人たちのことをもっと多くの人に知ってもらう良い機会だと思います。
ただ,現在大変忙しい時期でして(弁護士はこの時期結構仕事が多いのです),もう少し待っていただけるとありがたいなと思います。

三雲氏関連の郷土資料館のたぐいはありません。
甲賀郡甲西町の人たちも,三雲氏のことは殆ど知らないようです。
かつて町役場で郷土史家を紹介してもらいましたが,あまり興味がなさそうでした。
871 ◆vHwv81D.XU :04/12/17 19:34:37
了解しました。というか弁護士さんだったのですね・・驚きました。
こちらもネットワーク構築関係の勉強が春先くらいまで続くので
機会がありましたら、こちらのスレでもまた覗いてみてください。

しかし地元にもあまり情報は残っていないのかぁ・・残念・・。
881 ◆vHwv81D.XU :05/01/01 00:17:31
あけおめでござる。
891 ◆BPXgDhLGHk :05/02/01 19:44:29
せめて100までは行きたいなあ・・

最近は太閤5で六角家・家老として一生を義賢の補佐に捧げるプレイを
個人的に書き留めてます。
今はまだ身分が低いので銀資金調達の過程で山賊や海賊に荷を奪われたりする日々・・・
90無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 12:37:59
保持age
91新左衛門:05/02/04 23:49:48
三雲氏概要

一、甲賀郡三雲
1.甲賀郡の位置
甲賀郡は近江の国(現滋賀県)南部に位置する。東部に鈴鹿山地、南部に信楽山地があり山がちな地形を持つ一方、野洲川流域に沖積平野が広がる。野洲川沿いには旧東海道が東西に伸びている。
古代から近江と伊賀・伊勢を結ぶ要所であり、また信楽山地を抜けて山城・大和に出ることもできるため早くから発展した。聖武天皇の信楽宮の存在や、700年代創建と伝える寺院が多いという事実が、当時の甲賀の地位や甲賀における権力主体の規模を示唆する。
中世においては交通・流通の発達と共に、東海道の重要性が認識された。例えば土豪山中氏が家職とした鈴鹿山守護役、伊勢神宮奉幣使や斎王・公卿勅使の警護役に関して、朝廷、幕府から多数の文書が出されている。
山中氏はその家職を背景として、東海道という流通経路を把握し甲賀において優越的地位を得たとされる。
92新左衛門:05/02/04 23:51:01
また、信楽山地の飯道山、阿星山は山岳信仰の拠点であり多くの山伏が所属し、特に飯道山は修験道界において重要な地位を占めた。
甲賀郡の、交通の要所でありかつ山がちな地形という特性は、政治の中心地において劣勢に立った者がここを拠点としてゲリラ戦を展開し、
反攻の隙をうかがうという形で利用された。
1338年の守良親王の南朝方での挙兵、1487年の六角高頼、1507年の細川澄元、1565年の足利義昭の潜伏、1568年〜の六角義賢、義治の割拠などの例がある。
近世には東海道の宿場町として土山、水口、石部などの宿場が置かれ、交通の要所として機能したものの、軍事的拠点としての甲賀郡の性格は失われた。
931 ◆BPXgDhLGHk :05/02/21 10:27:16
>>91-92
乙です。
94新左衛門:05/03/06 11:00:03
2.三雲という地名
三雲という地名は古代から使われていた。761年〜の石山寺増改築に関わる正倉院文書には、三雲山、三雲川津、三雲橋、三雲寺等の名が見える。石山寺の用材の供給・流通の拠点として機能したことがうかがわれる。
また、東海道から信楽に向う信楽道は三雲から東海道と分かれる。古代において三雲は甲賀郡の水陸交通の中枢であったといえる。
三雲の園養山古墳群が野洲川中流域最大の群集墳である事実は、このような流通機能を背景とした古墳時代の三雲の権力主体の規模を示すものといえる。
95新左衛門:05/03/06 11:01:08
中世には、三雲が古代のような交通の要所であったか不明である。
代わって軍事的拠点としての三雲の姿が伺える。三雲城と呼ばれる城は、六角高頼に対する足利義尚の将軍親征の際に六角方の本拠地となり、大規模な整備がなされた。
その後六角氏は争乱によりその拠点である観音寺城を維持できなくなると三雲へ退避する戦術をとった。
六角氏によって三雲城と同時期に整備されたと思われる観音寺道(三雲と観音寺城を結ぶ間道)は、一義的には六角氏の軍事活動を目的としたと考えられる。
しかし、東海道を通って草津へ出、そこから観音寺城下の市場へ向うルートに対して観音寺道はショートカットとなっており、流通経路として利用された可能性もある。
この場合、三雲の流通機能は失われていないと考える余地もある。
96新左衛門:05/03/06 11:01:42
二、甲賀における三雲氏1.甲賀武士、甲賀郡中惣
(1)将軍義尚の親征と五十三家・二十一家
甲賀における土豪が甲賀武士という一団として認識されるのは、足利将軍義尚・義稙による六角高頼征伐(1487〜92年)以降である。
六角高頼は近江守護六角家内部の抗争、近江守護職をめぐる同族京極氏との争いの中で地位を確立したが、その過程で多くの国人・土豪層を結集するため、荘園侵略を余儀なくされた。
寺社領や幕府近習・奉公衆の所領を押領し、家臣団に与えることで権力基盤を形成したのである。
97新左衛門:05/03/06 11:02:52
このため、高頼は幕府軍の攻撃を受けることになったが、いまだ確固とした勢力を持たないため近江平野部での戦いに敗れ、甲賀に潜伏しゲリラ戦を展開する作戦をとった。
甲賀の土豪層は高頼を支持し、山岳部の小城群に拠って攻撃目標を絞らせず、幕府軍陣地に夜襲をかけるなど善戦したため(鈎の陣)、幕府軍は一応押領された所領の回復は果たしたものの、高頼を降伏させることが出来ないまま撤退した。
この当時の甲賀郡の土豪を合わせて甲賀五十三家と呼び、その中で特に高頼征伐時に六角方として軍功があった土豪を合わせて甲賀二十一家という。
98新左衛門:05/03/06 11:03:45
2)甲賀郡中惣
五十三家、二十一家を構成する土豪の家は、それ自身も名字を同じくする人々により構成された集団であった。
中世には産業の発達と共に農民層の台頭が目覚しく、土豪達はより上位の階層に対して所領の押領、年貢の上納拒絶などで対抗し、
在地支配を進めると同時に、台頭する上層農民や彼らによって組織される惣(惣村)の権利主張(一揆)にも直面することとなった。
在地領主としての地位確立のため、彼らを権力に取り込んで行く必要があり、婚姻関係を結んだり、同じ名字を名乗らせたりすることも行われたようである。
その結果、土豪達は「同名中」という(擬似)一族集団を形成することになる。
99新左衛門:05/03/06 11:04:19
更に土豪たちは、連合し広域で活動するようになった惣(惣村)に対抗するため、「郡中惣」という郡単位での土豪連合を構築し、在地領主権力の安定を図った。
同名中内部での紛争は同名中内部で、惣同士の対立など同名中で処理しきれない紛争は郡中惣によって、調停・裁判されており、それぞれ「奉行」と呼ばれる機関を設けていたようである。
このように郡中惣・同名中は、内部に対しては領主権力の維持・確立を図る機能を持ち、外部に対しては甲賀郡の自立性を維持する自治組織として機能したのである。
100新左衛門:05/03/06 11:05:04
2.三雲氏の位置付け
(1)五十三家・二十一家の一
三雲氏は、甲賀五十三家、二十一家の一つとされる。
古くから三雲の地を本拠として勢力を張っていたことが伺えるが、その出自については明らかではない。
伴氏系図には「設楽安芸守資乗−俊通(三雲伴四郎)」という記述があり、伴氏の庶流が三雲に定住し三雲氏を名乗ったことが分かる。
南北朝期には、南朝方として活動していたとされる三雲伊予房という人物が鈴鹿山守護役山中氏によって捕らえられたという記事(1335年)がある。
また、六角高頼征伐(1487年)の際には丹波姓の三雲新蔵人という人物がいたことが、同じく甲賀五十三家の一つである芥川氏の記録にある。
101新左衛門:05/03/06 11:06:04
これらから、三雲に住し、三雲氏を名乗る人々が一定の勢力を展開していたことが伺えるが、彼らが同一の家の人々であったのかは不明である。
異なる出自を持つ家が三雲同名中に取り込まれたため、それぞれの時代において記録に残る人物達の間の関連がわかりにくくなっている可能性もある。
1021 ◆vHwv81D.XU :05/03/11 04:09:44
>>94-101
乙です。何の戦力にもなってない自分が恥かしい限り。
いやー個人的にはものすごく有難い情報です。感謝。
103無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 23:19:51
三雲支持
104無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 11:53:53
三雲保持
105無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/01(金) 23:33:55
三雲成持か…太閤立志伝ではよく辻斬りしてたな。
106新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 22:59:53
(2)三雲氏の勢力展開
三雲氏の甲賀郡における勢力展開を直接辿ることのできる資料は少なく、三雲氏に関する研究は見当たらない。三雲氏の宗家が織豊期に甲賀で勢力を失い、三雲を離れたことが影響していると考えられる。
しかし、同じく甲賀に勢力を張った山中氏については帰農したこともあって資料が残されており、山中家文書として研究対象とされている。山中氏に関する研究を参照し、甲賀郡における土豪の展開を確認した上で、残された資料を手がかりに三雲氏の展開を推察する可能性はある。
107新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:01:11
@甲賀武士の経営(在地領主、高利貸)
@) 山中氏の展開の特徴は、通常の在地領主であると同時に古くから鈴鹿の関という東海道の要所を支配し、流通経路の把握をしていたという点にある。
1194年、朝廷は山中氏を鈴鹿山守護職に補任するが、これは既に山中氏が鈴鹿の関を実力支配していた事実を背景とする。流通路の守護者としての地位は流通経済の発達と共に重要性を増し、
山中氏は甲賀郡における旗頭的な地位を手に入れると共に更なる流通支配の拡大強化に向かったとされる。
108新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:01:57
山中氏は、1357年頃には鈴鹿山から東海道を西に進んだ平野部、柏木・酒人の地(三雲の東隣)に本拠を移し、更に岩根(三雲から見て野洲川対岸)、杣庄柑子村などにも勢力を確保した。
これらはいずれも交通の要所であり、かつ当時南朝方として行動していたとされる伴・美濃部・三雲氏の勢力範囲に隣接していた。
おそらく南北朝対立を背景として、甲賀郡内で流通経路支配の争奪があったのであろう。
109新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:02:43
こうした状況については、「広義の生産手段であった流通路を支配することによって、山中氏はその在地支配を新しい場において補完しようとしたのであ」り、
「山中氏を典型とする甲賀武士は、…農奴的在地支配に立つ封建在地領主という文献的概念では捉えきれぬ性質を強く持っていた」との評価がある。
110新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:03:44
A)また、山中氏の経営については高利貸活動と寺社経営という点が指摘されることもある。
柏木の玉田寺の経営に山中氏が関わっていたことは、1355年の文書から知られている。
1479〜1484年の玉田寺年貢算用帳からは、玉田寺に収容された年貢の一部が山中氏に上納されていること、
玉田寺を介して山中氏が農民に米を貸し付け(出挙)五割の利息を取ってたことが読み取れる。
山中氏は所領の経営に玉田寺を仲介させていたことが伺われるのである。
111新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:04:31
寺社を介して所領を経営することのメリットしては、寺社の宗教的権威により年貢の収容・出挙米の返済が確実にできること、徳政(借銭の棒引き)の適用を免れうることが考えられる。
山中氏は天正期に至り、鈴鹿山中以外の所領を失って以後もかつての所領で高利貸しを営んでいたことが1591年の宇多村掟書案から知られる。
これらからは、高利貸をする「蔵本」としての山中氏の姿が浮かび上がる。
112新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:05:10
A三雲氏の場合
@)三雲氏についても同様の展開を考えることができる。
何より本拠である三雲の地は古代より甲賀郡の交通の中枢であった。
東海道が野洲川を渡る地点であり、野洲川支流である杣川が分岐する地点であり、東海道から伊賀道が分岐する地点でもある。
113新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:05:51
このような土地に南北朝期、山中氏が進出してきたことは前述のとおりである。
これには三雲氏が南朝方についたのに対し、山中氏が北朝方について勢力を拡大しえたことが影響していると思われる。
ただ、山中氏の進出によって、三雲氏が三雲の地の有していた流通機能への支配を失ったということは出来ない。
むしろ三雲氏は積極的に流通・商業活動に参加していったのではないかと考えられる。
114新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:06:46
蒲生郡志巻五では、三雲氏が1522年以前から日明貿易に関与していたことが指摘される。
三雲氏系図では天文年間(1532〜1555年)に三雲定持が日明貿易に関与していたことが記されている。
蒲生郡志では三雲氏が派遣した「従僕」が近江商人であると推測しているが、三雲同名中の構成員に商業に携わる者がいたことも考えられる。
豊臣政権下で聚楽周辺および伏見開発を行った三雲九左衛門を、同名中のうち商業活動を展開していた家と考えられないか。
115新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:07:28
1487年の六角高頼征伐以降の観音寺道(三雲道)の本格的整備を、
かつて南朝方にあった三雲氏等が六角氏権力と結びつくことで甲賀郡内での地位向上を図り、
山中氏の把握する流通経路に対抗する意図の下に理解することも考えられる。
116新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:08:13
A)寺社を使った所領経営についても、それが甲賀郡の土豪にとって一般的な現象であったと考えることが出来る。
三雲屋敷そばの永照院には、大旦那として三雲典膳の家臣三雲修理の名が残っている。
三雲同名中も永照院を介した所領経営を行っていたと考えられる。
117新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:08:45
B多面的な展開
このように、三雲氏についても山中氏と同様、農業経営者としての在地領主像を超え出る多面的な経営を営んでいたことが想像される。
118新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:09:29
@)農業経営者としての三雲氏の規模について三雲氏系図は、下甲賀、野洲、栗太等に九万石を領していたとする。
これが事実であれば相当な規模であるが誇張の可能性もある。
だが、山中氏が数千石を、信楽の多羅尾氏が一万数千石を領していたという記述も見られ、少なくとも三雲氏が数千石程度の所領を経営していたであろうことは推測できる。
また、三雲氏が山中氏等と同様に観音寺城の警護役を引き受け、合戦に際して一軍を率いる軍代として活動していることから、相応の動員力を支える基盤(所領)があったと考えてよい。
119新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:10:24
A)三雲氏の有していた経済力については興味深い事実がある。
1522年、三雲源内左衛門は室町幕府から白傘袋、赤毛氈鞍覆の使用を許可されているが、許可を得るために太刀一腰、馬一匹、青銅五千疋を献上している。
当時この許可を得た者は朝倉孝景、長尾為景、上杉謙信などであり、源内左衛門がこれら有力大名と同程度の献金をなしうる財力を有していたといえる。
三雲氏の一員であったと考えられる三雲九左衛門が、聚楽第周辺や伏見の開発を任される程度の有力商人であったことも、三雲氏の商業活動の規模を示唆するものではないか。
120新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:11:08
B)三雲氏の活動範囲が従来の在地領主像を超えるものであることは、公家施薬院氏との関わりにも現れている。
施薬院氏中興の祖である施薬院全宗は、下甲賀の出身であり、全宗の嗣子三雲施薬院宗伯は三雲三郎左衛門資隆の実子である。
資隆は1570年の野洲川原の戦いで戦死した三雲三郎左衛門と同一人物であると思われるが、惣領家の三雲定持の子ではない。
「資」の一字を持つことから、三雲同名中のうち伴姓の家の出身であると思われる。
三雲同名中は、それを構成する家が様々な分野に進出・関与し、総体として多面的でかつ土豪レベルを超えた展開を遂げたものと考えられる。
121新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:12:21
三、六角氏家臣としての三雲氏
1.六角氏権力の変遷(〜1568年)
(1)佐々木氏
六角氏は近江源氏佐々木氏の嫡流であり、近江国守護職を家職とした。
守護大名から戦国大名へと変貌を遂げえた数少ない大名家である。戦国期、約百年間観音寺城を根拠とし、南近江を支配した。
六角氏は京都に隣接する地理的状況、生産性の高い先進地域にあったことから、戦国期の政治史上重要な位置を占め、また家臣=国人・地侍の存在形態、編成に特色を持つ。
京都の政治情勢に関与しながら、北近江の勢力(京極氏、浅井氏)と近江の覇権を競い、かつ成長する国人・土豪層を懐柔、圧迫しながら家臣団として組織化するという課題を負って独特の支配構造を形成したのである。
122新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:13:25
(2)応仁の乱〜高頼時代
応仁・文明期(1467〜1487年)、幕府政治は将軍職をめぐる争乱があったが、六角氏内部では家督争い、京極氏との間で近江守護職を巡る争いがあり、近江国内は錯綜した政治情勢を生じていた。
こうした中で六角高頼は国人層の荘園侵略を後押ししつつ彼らを家臣団として組織することによって権力基盤を形成したが、
かえって幕府から攻撃を受けることとなった(1487年の将軍義尚の親征)。
高頼は国人層の支持を背景に幕府の二度にわたる攻撃に耐えたが、このことは六角氏権力を国人層に推戴された統治機関的なものとした。
123新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:14:14
(3)定頼、義賢
高頼によって戦国大名としての体裁を整えつつあった六角氏を引き継いだのは、高頼の三男定頼である。
定頼の時代、六角氏はその全盛期を迎え、幕府政治に大きな位置を占めた。
定頼は1527年以降将軍義晴を保護して1534年には入京させることに成功し、管領に準じる地位を得ている。
また、国内的には台頭する浅井氏を攻め、有力な国人である伊庭氏、蒲生氏に対して優位を保った。
この時期に六角氏の領国支配、家臣団編成は定着、安定している。
定頼の子義賢は、安定した六角氏の力を背景に京都、伊勢に出兵し、細川氏・三好氏、北畠氏と対戦している(1542・47・62年等、1540年)。
124新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:14:59
(4)義治〜滅亡
1563年六角義賢は家督を子の義治に譲り、法名承禎と名乗った。
ところが、若年の義治は、義賢時代からの重臣であり義治の施策に異を唱える後藤賢豊との間で対立し、ついにこれを謀殺した。
この行動は義治の立場からは六角氏当主の下への集権化を意味し、戦国大名としての六角氏を強化するためのものであった。
しかし、多くの有力家臣がこれに反発し、観音寺城に放火し浅井長政と通謀して六角氏に反旗を翻した(観音寺騒動)。
義治は有力家臣蒲生定秀を頼って日野へ逃れ、義賢は三雲へ逃れた。その後蒲生定秀の斡旋で家臣団は復帰したが、六角氏の勢力は衰退した。
125新左衛門:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:16:05
観音寺騒動以後、六角氏は浅井氏との間での勢力争いに苦しむ。
1566年には重臣布施氏が浅井長政と通謀して居城で反乱した事から戦闘が断続的に続き、9月の合戦で六角氏は大敗を喫する。
1567年には家臣団が起草し六角氏が承認する形で六角氏式目が制定され、六角氏権力の立て直しが図られたが、家臣団の結束に手間取る間に織田信長の上洛により圧力を受けることとなる。
1568年織田信長は足利義昭を将軍位に就けるための上洛軍を起こし、六角氏に協力を要請した。
六角氏はその頃長年争ってきた三好氏と和睦し、足利義栄を将軍として認めていたこともあって織田氏の要請を断り、観音寺城での篭城を試みた。
しかし、織田氏の攻勢激しく観音寺城を支えきれないと判断して高頼以来のゲリラ戦に作戦を変更し、三雲へ退却した。この時点で六角氏は南近江の支配権を失った。
その後六角義賢、義治は、甲賀郡を根拠として織田軍と対峙し時には攻勢を示すが、数度の合戦に破れ1575年には織田氏に降伏する。
1261 ◆vHwv81D.XU :2005/04/11(月) 03:43:02
>新左衛門さん

最近、忙しいのであまり来れませんが
ちゃんと書き込みは全て読ませていただいてます。感謝&乙です。
山中氏との対比からの三雲氏の動向の推察とか
三雲氏の商業行動考察(明と貿易とか、大名と同クラスの経済力を保有?)とか、すごいなあ・・と思いました。

話ずれますが、ちょっと気になったこと。
・かなり古い時代から「三雲」という土地名はあったようですが、由来は何だったんでしょうねえ・・
個人的に「苗字の由来」とか興味あって書籍とかで調べた事があったんですが、「雲」ってあんまり苗字で
使うことって少ないですよね。
127無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 04:00:12
むむむ
128ネコ大好き:2005/04/11(月) 04:01:06
若槻が深夜テレビで手コキする映像だよ。
まだ売れていない時で深夜とは言え、これはちょっとやりすぎw

http://waraiameba.ameblo.jp/
129無名武将@お腹せっぷく:2005/04/27(水) 22:34:46
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130無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 12:37:20
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131無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 13:28:19
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132無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 13:30:14
>>129-131
市ね
133無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 13:32:55
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134新左衛門:2005/05/22(日) 08:56:02
2.家臣団中の三雲氏の位置付け
六角氏権力における三雲氏の位置付けについては、六角高頼以前は不明である。
高頼の時代に、三雲新蔵人が鈎の陣に参加し戦功を挙げる。また、三雲典膳は高頼に命ぜられて三雲城を本格的に整備した。
高頼が甲賀郡を根拠として幕府軍の攻撃をしのぎ南近江に権力を確立した頃から、六角氏権力における甲賀の土豪の地位が向上していると考えられる。
135新左衛門:2005/05/22(日) 08:56:45
定頼の時代には、1525年、1531年、1538年(対浅井氏)、1526年、1530年、1542年、1547年(対細川・三好氏)の軍事行動に三雲氏の名が見られる。
三雲氏は甲賀郡の土豪のうちでも観音寺城の在番、軍代を勤める六氏に入っており、山中、望月、黒川氏らとともに重臣層に位置づけられるようになった。
136新左衛門:2005/05/22(日) 08:57:22
その後義賢、義治の時代にも、三雲定持、賢持、成持は重臣として六角氏に仕え、三雲三郎左衛門は軍事行動において六角氏に貢献している。
特に観音寺騒動以降、重臣層が離反を起こす中で三雲氏は六角氏を離れず、最末期の重臣として役割を果たした。
137新左衛門:2005/05/22(日) 08:58:03
淡海温故録は、「屋形高頼以来四代の間三雲一族出でずといふこと無し。」
「三雲一族一人も信長に降参せず義を重んじ三度の誓約を守る。
浪人蟄居すれども後孫時に応じ太閤の御代より御当代に至り家を失はず。
数代の主を捨てて誓約を軽んずる家は立身する有れど末続かず多くは断絶す」
と三雲氏の行動を顕彰している。
138新左衛門:2005/05/22(日) 08:58:39
四、三雲氏の衰退
1.対信長戦(1568〜1574年)
1568年に六角氏が観音寺城を捨てて甲賀に走ると、南近江の多くの国人は織田氏に服従するようになった。
その一方、甲賀郡の土豪達は六角氏を支援した。
しかし六角氏は、1570年守山の戦い(5月)、野洲川原の合戦(6月)、長光寺城の戦い(6月)、岡山の戦い(11月)で敗れ、1570年11月一旦和睦を余儀なくされる。
特に野洲川原の合戦では三雲定持、三雲三郎左衛門が戦死している。
139新左衛門:2005/05/22(日) 08:59:18
その後、六角義賢は1571年再び挙兵し、垣見の戦い、金ヶ森の戦い(9月)、1572年和邇の陣で織田軍に敗れている。
1573、74年には篭城戦である鯰江城の戦い(4〜9月)、石部城の戦いにも敗れて甲賀武士の支持を失い、六角氏は抵抗する力を失ったとされる。
三雲成持は、定持、三郎左衛門の死後も六角義賢と行動を共にし、1570年の和睦の際には織田信長への使者となり、その後も鯰江城の整備、菩提寺城での挙兵(1573年)などの貢献を見せるが、1574年三雲城で織田軍の佐久間信盛に降伏した。
140新左衛門:2005/05/22(日) 09:00:00
2.浪人時代、小牧長久手合戦(〜1585年)
織田軍に降伏した後三雲成持は浪人し、その後1584年まで成持の行動を示す資料は現れない。
六角氏が甲賀から退去して以後、甲賀郡の土豪たちは郡中惣、同名中の立て直しを図ったようである。
三雲氏も残された所領を把握し、同名中内の結束を図っていたのであろう。
141新左衛門:2005/05/22(日) 09:00:40
1583年になって三雲氏にとって重大事が起こる。
三雲氏が本拠としていた三雲村周辺を、豊臣秀吉が浅野長吉(長政)に知行として与えたのである。
これにより三雲氏は本拠における勢力をも失う危機に瀕した。
1584年に豊臣氏と徳川家康、織田信雄が対立し小牧長久手の戦いに発展した時、徳川家康は三雲氏に書状を送り徳川・織田方として行動するよう求めている。
これは三雲氏がいまだ在地勢力を失っていなかったことを示すと共に、先年の浅野長吉の知行により三雲氏が豊臣政権下で所領を失う危機にあり、反豊臣方として行動することが予想される状況にあったことを示している。
142新左衛門:2005/05/22(日) 09:01:16
この戦いでは甲賀郡は徳川・織田方に付き、三雲成持が約700人の甲賀武士を率いて瀧川利雄と共に伊勢松ヶ島城に篭城した。
これに対して豊臣秀吉は、徳川・織田との講和後に、甲賀武士が雑賀攻めにおいて失態を犯したとの名目で甲賀武士達を改易処分としている。
143新左衛門:2005/05/22(日) 09:01:53
3.蒲生氏郷、徳川家康、旗本へ(〜1615年)
小牧長久手合戦は、徳川・織田方と豊臣秀吉との間で講和が成立し、三雲成持は三雲の本拠を失った。
成持は小牧長久手合戦で戦功を上げたかつての同僚蒲生氏に仕官することになる。
蒲生氏に仕官した理由を三雲氏系図は、「(蒲生)氏郷は成持が妻の甥たればなり」とする。
144新左衛門:2005/05/22(日) 09:02:25
小田原征伐後の1590年、蒲生氏郷は会津四十二万石に封ぜられるが、このとき三雲氏は「三雲新左衛門四千石、三雲源太郎千石、三雲源次郎五百石」という扶持を得ている。
その後蒲生氏が没落すると、三雲氏は徳川家康に仕える。
1593年、成持の子成長は朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた徳川家康に出仕し、大番となる。
その後三雲氏は徳川氏の旗本として江戸時代に至った。
145新左衛門:2005/05/22(日) 09:03:22
五、人名
1.三雲氏の家系
三雲氏は同名中に様々な出自の家が参加して構成された(擬似)一族集団である。
従って、それぞれの文献に現れる三雲を名乗る人々は異なる姓を持つこともありうる。
異なる姓を持つ家が三雲同名中という大枠に従いながらそれぞれの活動を営み、三雲氏に多様性と活力を与えたことを理解しなければならない。
146新左衛門:2005/05/22(日) 09:03:57
2.新蔵人−1487年の鈎の陣に参加。丹波姓。
3.典膳−高頼のゲリラ戦において根拠となった三雲城を整備した。新蔵人と同時代の人だが姓は不明。
4.実乃−明応年中(1492〜1501年)に三雲に移住し三雲氏を称するようになる。藤原姓を名乗る(一説には源姓)。
5.行定−実乃の実子。源内左衛門。1522年、室町幕府から白傘袋、赤毛氈鞍覆の使用を許可されている。
一説には永正年間(1504〜1521年)に三雲へ移住し、典膳の婿養子になったとされる。元は小山田氏(源姓)を名乗っていたともいう。
147新左衛門:2005/05/22(日) 09:04:39
6.定持−行定の子。新左衛門。藤原姓。天文年間(1532〜1555年)に日明貿易に関与する。
六角氏式目の起草者の一人として署名する。1531年の箕浦合戦(対浅井氏)、1538年の国友川原の戦い(対浅井氏)、1570年野洲川原の合戦(対織田氏)に参加、野洲川原の合戦で敗死。
7.賢持−定持の長子。新左衛門。藤原姓。六角義賢の重臣。六角氏式目の起草者の一人。1566年の布施城攻めの大将。その後1566年9月の会戦で浅井長政に敗れ死亡。
148新左衛門:2005/05/22(日) 09:05:26
8.成持−定持の次子。豊左衛門。藤原姓。1566年兄賢持の死により新左衛門を名乗り家督を継ぐ。
六角氏式目に署名。1568年観音寺城篭城の時、三郎左衛門と共に三雲へ落延びることを提案する。以後六角氏の対織田戦に従う。1575年織田氏に降伏。
1584年小牧長久手の戦いに参加。後蒲生氏郷に仕える。
9.資胤−1530年六角定頼の京都出兵に参加。伴姓(?)。
10.三郎左衛門−定持の子とされることもあるが不明。施薬院系図にある三雲三郎左衛門資隆である可能性が高い。伴姓(?)。
1562年松永久秀との弓戦で活躍。1568年観音寺城に成持と共に篭城参加。1570年野洲川原の合戦で敗死。
149新左衛門:2005/05/22(日) 11:07:51
>>1さん

とりあえずここまでです。

三雲の地名の由来については良く分かりません。
ただ、古い文献では「日雲」という表記もあるようです(「日雲頓宮」など)。
私はそこから「日隈(ひくま)」という地名に関連づけられないかと思っています。

一方福岡の前原市にも「三雲」という地名があり、そこはかつての伊都国の中心だったようです。
近くには中世の山城と古代の朝鮮式山城(「雷山」)があり、少しばかり三雲と雰囲気が似ています。
琵琶湖と博多湾を重ね合わせると、近江の三雲と福岡の三雲は同じような位置関係にあります。

ただ、いずれもきちんと文献で確認できる推論にはなりそうにありません。
そういうわけで、私は中世の三雲までしか見ないことにしています。
150無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 19:46:06
まだあったのか、このスレ…とりあえずageないように
メール欄に「fujianasan」って打って書き込もうよ
151無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 14:39:03
保持
152無名武将@お腹せっぷく:2005/06/27(月) 01:59:15
保持
153無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 06:34:45
保守
154無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 08:33:16
保守
155無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:25:53
保持age
156無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:37:01
しかし厳しいねぇ
157無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 08:38:42
あと844かぁ・・・・
158無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 10:57:55
誰か三雲成持のAAでも作ってくれないかなあ・・
159無名武将@お腹せっぷく
そろそろブームに乗って漫画化してくれaeg