丹波でがんばってる漢たち〜波多野、赤井

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1 
光秀が来るまで何をしていたのかよくわかっていない…
そんな波多野、赤井を応援します。
丹波の土豪なども。
2無名武将@お腹せっぷく:04/06/27 13:24
たんぱでたんぱってる漢たち
3公孫& ◆ZZ3b9mYnVo :04/06/27 14:23
内藤は応援されないんですね
5無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 03:56
>4
丹波の土豪なんで、応援しましょう。
がんばれ内藤ジョアン。松永兄弟にいじめられても…
待て>>5。如庵はその松永弟の息子だぞ…。
青鬼モミーで腕組みプレイ
85:04/06/29 07:28
>6
おや?ジョアンは内藤国貞の子という意識があるのだが。
千勝丸のころ、長頼に家のっとられたんじゃなかったっけ。
ところで松永長頼てゲームにでてこないな…久秀よか強いのに。
なんででしょ。そこそこ有名なはずだが。
茶器自爆してないから
タンパデビルレイズ
11無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 15:16
波多野はいつも信長包囲網に加わってるイメージあるが、ホントか?
元ネタねえぞ…
>>8
天翔記にはいる
13無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 22:09
いたんだねえ〜しらんかったよ。
しかし久秀より弱い…
もうちっと強くしてくれ。
当時三好家で最も強かったといわれるのはSOGOUと長頼なんだから…
14無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 22:20
太閤5じゃ強そうな顔してたんだけどねー・・・
八上城跡、いった事ある?
16無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 23:05
いきてえ…
17無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 23:39
波多野秀治は従三位だ!
高い…室町将軍より高い。
もらったのは大正時代だが。
18無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 09:09
稲荷さまは一位ですよ?
19無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 09:16
稲荷てだれ?
20無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 09:17
赤井英和が赤井直正の末裔と聞いたとき、なんとなく納得した。
21無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 09:26
マジ?
かっこいいな〜
22無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 11:01
>>19
http://inari.jp/

正一位です。
23無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 18:02
波多野や赤井は丹波に住んでなかったらもうちとがんばれたかなあ。
なんせ国力が低い。ただの土豪ぐらいのイメージしかない。
実際は波多野は朝廷とつながりあったし、従四位下侍従に任官していた話が
ないでもない。赤井は毛利と婚姻関係あったし甲斐武田とも同盟。
土豪クラスで織田家(光秀)を困らせたやつは多くはないぞ。
もうちと評価されるべき。
24無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 20:22
>>20
マジかよ!!子孫いっぱいいるんだな!!!!!!!!!!!!!
八上城跡とその付近を見てもらえば思うが、山賊みたいなもんだったと思う
しかもその山の標高は東京タワーより高いぞ
とにかく波多野氏は率直に誇らしいです
26無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 22:05
四王天政孝を忘れないでくれ
27無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 00:37
「しおで」だったか?
よくわからん…
四天王とよんでしまう…
丹波攻めの際光秀につく。石山本願寺を攻めるため天王寺に出兵。
山崎にて戦死ぐらいしかしらない。
28無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 01:10
四王天政孝

丹波の国人。明智光秀の入国に伴ってこれに仕えた。
越前方面の合戦などに従軍し、福知山城を任されるまでに信頼される。
本能寺の変の際には二条城攻めに参加。負傷した明智光忠に代わって指揮を取り、織田信忠を討ち取った。
29無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 01:11
名前がかっこいい!!
30無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 01:21
波多野

つまり、秦氏の一族なわけで。


聖徳太子〜秦河勝まで繋がりますか?
31無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 03:05
波多野が秦氏とつながるとは?
元ネタ希望。
32美鳳 ◆Nmiko/6JSI :04/07/02 04:41
信長の野望・全国版で波多野で統一したことあるけど、
序盤ターン回って来る前に滅亡しまくりで結構苦労しました。
赤井悪右衛門って響きがかっこいい。
荻野姓はいつから名乗ったの?
>>31
越前や丹波の波多野って、神奈川の秦野の秦氏絡みでないの?
35無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 14:40
>32
波多野秀治でググったらいくつかでできた…
大変らしいな。
>33
赤井→荻野→赤井と思われる。
養子にだされたがその後復姓したようだ。
「悪」は荻野家の当主で叔父秋清を殺したから。あと強いって意味も
あるね。ホントに強いのでかっこよい。
>34
神奈川の秦野はもともと波多野荘だったとか。
藤原秀郷の子孫が、そこから姓をとって波多野氏になったとされている。
んで、分家が中国にいった(大内についていったか?)それが丹波に
きたらしい。越前はわからん。
秦氏がどうつながってるのかがわからん…
足利将軍家の評定衆に「波多野」っているが、関係者かな?
>>35
足利評定衆の波多野=丹波、では?

越前の波多野は、道元を越前に招いて永平寺造らせた
ぐらいの時代の豪族&一時は勢力があったらしいです。
37無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 23:37
>36
丹波波多野が評定衆である証拠がつかめんのよ…
越前波多野か、しらべてみよ〜。
>>37
すんません36です。
あちこちのスレに潜伏してる、朝倉スレの残党のひとりです。

越前は柴田以前の史料に事欠くのです・・・
いろいろあったもんで。
永平寺の開基あたりで調べてみてください。
39無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 14:17
>36
開基した波多野義重しかわからん…
この越前波多野氏、丹波とどう関係あるのかな?
40無名武将@お腹せっぷく:04/07/04 22:33
波多野や赤井はまだまだ無名だなあ…
八上城の跡地で信長の子孫と握手してもらえばいいのではw
42無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 01:57
せめてハナエリカにしてくれ。
放火犯の子孫と握手してもらうのか?
44無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 01:46

http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/akaoni.htm

赤井直正だってさ。
>>44
直正って病没じゃなかったか?
46無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 21:32
>43
残念ながらそれはうそ。
脇坂安治は、当時そんな身分ではない。
病死と思われるが、光秀が暗殺した可能性も。
調略しまくってるし、死んだ時期がドンピシャすぎる。
47無名武将@お腹せっぷく:04/07/09 00:52
うちでは、赤井直正は必ず一軍にいれている…
太閤2の赤井は最強クラスの扱いだったな
統率88 武力90 内政51 外交32 魅力78
軍学3/3 築城3/3
何故か他のゲームじゃ能力値ここまで高くないのに。
逆に顔グラのイメージはいつも同じ感じだし
49無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 21:18
>48
えらいつよいな…
光秀を倒した効果?
戦国群雄伝での戦闘力19には泣けたけどな
51無名武将@お腹せっぷく:04/07/12 03:20
波多野、赤井をもっと評価したい。
波多野、赤井がいなければ丹波はあっさり信長、光秀のものになり
天下統一事業はもっと早かったはず。
余力のある光秀は本願寺攻めに集中でき、もしかしたら荒木村重、松永久秀
も裏切らなかったかもしれない。
そうしたら光秀も本能寺の変を起こさなかったのだろうか?
丹波衆が関係している説もないではないからな。
52無名武将@お腹せっぷく:04/07/16 02:37
波多野は家系図もわからんからなあ…
赤井はわりとしっかりしているが。
53無名武将@お腹せっぷく:04/07/16 02:39
赤井か・・・やっと兜かぶったな・・・
54無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 10:06
うむ、ちとかっこいい。
光秀を困らせた男はすくないのだ。
評価されてよい。
降伏するのが秀吉だったら、助かったかも知れないのに。
残念。
56無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 23:33
包囲戦で結局腹切らされそうな気もする。
57無名武将@お腹せっぷく:04/07/18 23:31
赤井って兄貴の息子かなんかが幕臣になってなかったっけか
"漢"ということは中国人なのか?
59無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 00:21
漢ってのは拳で会話出来る人種のことだよ。
国家を超越した新人類。
60無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 01:46
赤井は子孫が藤堂につかえとる。
>>59
気功師?
6260:04/07/19 11:57
赤井の兄の子、赤井の兄弟が徳川旗本で
直正の子が藤堂に仕えている。
赤井の功績や家系図が残っているのはこのへんかな。
籾井って誰
64無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 11:22
籾井教業(もみいのりなり)
波多野の臣。赤井直正の赤鬼と対比して「青鬼」とよばれた。
波多野でゲームすると大抵いると思うが。
少し使える。
>>51
久秀って謙信に義理があったんじゃないのけ
謙信の上洛に応じてノブリンを裏切ったと思ったが
>>64
大体まぁまぁ良い能力で青鬼とかいう通称でいるけど、
こいつ直正と並べるほどの実績あるか?
6751:04/07/22 13:39
久秀に「義理」なんぞあるわけもなく…
謙信の上洛を利用したんじゃない?
ひとつの要素かと。
>64
たぶんない。
波多野の八上落城悲話があるので、だれかが講談でもかいたんだろ。
んで、比較してみたんじゃない?
光秀あいてにちょっとがんばったくらいだとおもう。
そうかんがえると波多野はそういう話をされるくらいの人気があった
とおもう。
暗君、暴君の擁護の話なんて聞かないしなあ。
モミーも史跡あるよ
つか、誰も行かないような旧跡が沢山残ってる
田舎だからナー
69無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 02:54
>>68
おしえてよー

俺らを萌え萌えさせてくれ。
70無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 03:58
籾井城?
あんのかな?
71無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 04:07
モミー>三田の駅前の金物屋か△食道なら何か知ってるはず。
72無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 16:47
えらいローカルだな…
>71よ少し調べてくれないか?
7371:04/07/27 04:03
と言うか片方は身内同然の付き合いしてる古くからの友人だからなあ。
逆に突っ込みずらいのよ・・・

間違いなく末裔ですわ・・・

赤井ないし荻野なら氷上に何人かいるからその辺りを探ってみそ?
74武市半平太:04/07/27 09:08
波多野=トゥルー・ラブストーリーの波多野さん
75無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 13:49
赤井直正はマジですごい
内藤宗勝が生きていたら三好政権も瓦解することは無かった
ある意味信長の天下布武を助けたといえる
76無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 16:44
なんとなく、良すれっぽいな!
77無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 02:21
>>75
>赤井直正
>内藤宗勝

萌えるように紹介希望
特に後者。
78無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 04:21
松永長頼
内藤宗勝(ないとうそうしょう)1516〜1565

元の名を松永長頼という。つまり久秀の弟。
実は三好長慶政権では先に出世したのは長頼のほう。
文武両道の名将で、長慶から「長」の一字拝領しているほど。
長慶が将軍義晴を追放したあと京都の統治を担い、
長頼の禁制触書が多数残っている。
その後は主に丹波方面を担当したが、長慶の河内遠征にも参加するなど重用された。
1553年に丹波の内藤国貞が死ぬと内藤氏を継ぎ蓬雲軒宗勝と名乗り、丹波守護代に。
ゲームでシナリオ1あたりの大名が波多野になっていることがほとんどだが、
内藤宗勝であるべきだと思う。
久秀が信貴山を築き大和攻略に乗り出すのが1559年だから、
数年間は兄弟で一国ずつ支配したことになる。
しかし、1565年赤井直正の黒井城を攻め討死。
すでに長慶亡き三好政権と久秀から丹波を奪う結果となり、
三人衆と久秀の対立と相まって内部崩壊が進んだ。
結果的には丹波一国すら完全には支配できず、討死したわけだが、
後年の織田信長が氏素性の無い軍団長たちに一国を任せつつ、
時に遠征に参加させたような支配モデルがすでに実現されていた。
あと、内藤如安は実子とも養子とも言われる。
個人的に、三好政権を通して最も活躍した武将ではないかと思う。
ゲームじゃ出てこないことが多いけど。

赤井のほうは叔父を殺して家を乗っ取り、
宗勝を殺して丹波を乗っ取ったわけだから悪右衛門と言われる訳だ。
宗勝亡き後の丹波は波多野ではなく、実質は赤井のものだったようだ。
80無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 14:12

>ゲームでシナリオ1あたりの大名が波多野になっていることがほとんどだが、
>内藤宗勝であるべきだと思う。

え・・・

じゃあその頃波多野は?
81無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 14:42
>80
残念ながら謎。
三好の支配下になったか、八上城下に逐電してるか、
赤井の世話になっていると思われる。
西波多野(波多野宗長の系列)のとこにいたかも。
なんにしてもよくわからん…
82赤松政秀:04/07/28 16:03
かかか!「播磨の鬼」と、うたわれた赤松政秀!
波多野領に侵入せり!
      ,ィ彡ヘ乂乂乂彡ミ`''
       , - '´      ``'‐ 、`
    /             ヽ、
   /‐'' ´  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `` 'ー-':;ヽ
  /     (_赤 鬼_)       ',
  l ,..、-―――――――‐-.、.,,__ .l
.  レ´,.'´_,,,,_        _,,,,,_  ヾ:::`:|
  i:::::l rツ- ニ'ュ、,_   _,、r;jニ-‐ヽ、 |:::::::|
 ,r.、:l.  ャt::j‐、`   '",r.t:::j'ァ  l::::::;r.、
 |l !::l.   ̄ ̄ .::: ::..  ̄ ̄    |:::::i'´!
. ',.',::!      .::::: :::;,        |:::::! .l
  ヽ.!:!      t.__  .__ヽ     |:::ノ /
.  `!:l      ,.-`‐.´-.、     l:::l-'   かかか!「赤鬼」と、うたわれた赤井直正!
.    l::!  / ,、-__.-、. \   lリ     赤松政秀を撃退せり!
    iヘ //´` t-j ´`''‐.、',  ./iハ
.   r'lヾヽ,     .八     .;ィi彡'1 lヽ
  / !.lヾミt;,,,ノ从ヽ  ,r彡イン ,' ,' ヽ、 _
~l   l ', ヾi从从从从从彡'  / /     l `
 l   ヽヽ ヾ从从从ゾ  ./ /     !
  !    ヽ.ヽ `'‐-‐'´  / ,.'     |
84 ◆vHwv81D.XU :04/07/28 16:34
赤井直正 あかいなおまさ 1529〜1578
丹波の国人。赤井時家の男。家清の弟。丹波黒井城主。一族である荻野氏に入っていたが、
兄の死により家督を継ぐ。1554年黒井城主であった叔父(伯父とも)荻野秋清を刺殺して同城主となる。
通称を悪右衛門といい、武勇に優れ、「赤鬼」と畏怖された。明智光秀の丹波侵攻に激しく抵抗し、
1575年の光秀の侵攻を退けた。信長勢の侵攻を二度まで退けた剛の者だが、
最後は戦死とも自害とも病死ともいい、定かでない。
光秀に降伏し、そのとき訪れた脇坂安治の態度を気に入って、赤井家の家宝である貂の毛皮(槍の鞘)を与え、
安治はこれを家宝にしたと脇坂氏は伝える。
通称にも冠せられた「悪」は「憎いほど強い」という意味があり、
平安末期父義朝死後京都に残って平清盛の命を狙った剛勇の士源義平も「悪源太」と畏敬されたから、
必ずしも悪称ではない。
85 ◆vHwv81D.XU :04/07/28 16:35
波多野秀治 はたのひではる ?〜1579
波多野晴通の男。一説には波多野清秀の男。官途は左衛門大夫。父が失った八上城を奪還し、勢力を扶植する。
1560年正親町天皇の即位式費用として金帛を献じ、12000の兵を率いて波多野宗高とともに上洛した。
一時信長政権にあったがやがて離反し、1577年より明智光秀の丹波侵攻を受けた。
秀治は家臣をまとめてよくこれを防いだがついに降伏。このとき明智光秀の母あるいは叔母が人質になったとゆう
俗説があるが、もとより信ずるに値しない(光秀が近在の老女を母にしたてたとゆうものもある)。
その死も諸説あり、安土慈恩寺で処刑、八上城で戦死、安土護送中に死去など、諸説紛々している。
滅んだ一族であり、さらに滅ぼした明智光秀も滅んでしまったから、記録に乏しいのはやむを得ない。
86 ◆vHwv81D.XU :04/07/28 16:38
籾井教業 もみいのりなり ?〜1576
波多野氏家臣。官途は越中守。丹波多紀郡籾井城主。勇猛で鳴り、赤井直正の「赤鬼」と並んで「青鬼」と称された。
1576年(1577年とも)に中国侵攻を進める秀吉軍と戦って戦死した。
87 ◆vHwv81D.XU :04/07/28 16:49
88一色義清(作戦目標、スレ壊滅):04/07/28 16:51
とーとと!丹後の勇将こと一色義清!!
ただ今より、波多野隊を攻撃せり!!
波多野と神保には謎がおおいな
お土産は黒豆でよろ
丹波だとそこらへんで青空市場して普通に売ってる

そして現地では篠山嬢と池田氏のが圧倒的な知名度
波多野氏の高城山、モミーの居住地跡、思いっきりひっそりしてた
細工所?荒木氏綱のだっけ、は行かんかった
しかし天笑気の波多野家は特に、どいつもこいつも使いでがあるな
92無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 20:53
なんか最近急にのびだしたなあ…
赤井直正と波多野秀治について補足修正。

直正は光秀だけでなく、三好軍(長慶本隊、上の内藤宗勝)をなんども
避けている。地方の武将としてはかなり優秀かと。
脇坂安治の話は俗書によるもので嘘です。
当時安治はそんな身分ではない。
また、黒井城下にどうも近衛家の別荘?があったらしく
近衛前久が尋ねて(避難して)きている。
前久の娘もしくは妹が直正の妻になっている。
9392:04/07/28 21:13
続き
直正の最期は病死のようだが、光秀が攻撃をしかける時期に
ピタリであるので光秀が暗殺した可能性アリ(調略うんぬんの書状がある)
また、毛利と同盟するような書状があったり、武田勝頼と信長包囲の
話をしている。
ただの土豪ではない。

秀治の官位の話、正親町天皇の話は嘘(史料、公卿補任にて確認)。
秀治はどうも波多野直系(晴通の子)ではないようだ。
信長上洛後一時的に好を通じるが後、足利義昭側につく。
所領問題があったようだ。
荒木村重、別所長治と協力していたふしがあるが(別所とは婚姻関係)
光秀や信長に各個撃破された。連絡を絶たれたようだ。
秀治の最期は、光秀の調略によって内応した八上城のものから
裏切られたのが真相。(信長公記)
また一族の生き残りがいるようで、篠山藩につかえた。
今でも子孫の方がいるようだ。
信長公記・・・
直正って赤井の家督継いでないと思うんだが。実質的な仕事はともかく。
あくまで忠家の後見じゃなかったか?
あと荻野から赤井に戻ったのは息子の代からじゃね?
96無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 12:11
>94
たしかに家督はついでない。あくまでも後見役で実権をにぎっていたようだ
荻野→赤井はいつからかわからんが、書状には赤井悪右衛門とあるので
後見役についたあたりで赤井にもどったんではなかろうか。
信長の野望では赤井直正は波多野の家臣だが、そういうことはない。
武将ファイルに「家臣」なんてしっかりかいてあるが、
コーエーはどうも歴史を捏造するくせがあるな…
実際の力からすると赤井>波多野なのか
98無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 17:04
モミーも紅も、波多野と関係ないっしょ?実は。
99無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 17:13
   ,,r::::::::::::〈:::::::::)    ィ::::::ヽ
      〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
    ,'::;'::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::::::::::::::
     l::::::::::::::::::l::::::::::●::::::::::::::●:::::ji
    |::::::::::::::::::、::::::::::::::( _●_)::::::,j:l  クマー!
    }::::::::::::::::::::ゝ、::::::::::|∪|_ノ::;!
.    {::::::::::::::::::::::::::::`='=::ヽノ:::::/     
    ';::::::::::::ト、::::::::::::::i^i::::::::::::/
      `ー--' ヽ:::::::::::l l;;;;::::ノ
【ラッキーレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
100鬼よっすぃー(鬼 O^〜^O):04/07/29 17:29
赤鬼、青鬼だからコーエーは武力が高いの?
納得いかないや。
じゃあ「鬼武蔵」こと森長可は60そこそこなんだー?
「鬼玄蕃」こと佐久間盛政でもやっと七十に届く程度だしょ?
コーエーは明らかに依怙贔屓だ!
正直、コーエーの製作陣は過去のゲームデータから能力や所属を
決めているだけで、ここの歴史ヲタより遥かに歴史知識に欠けていると思う。
ゲームシステム作るのに精一杯でろくに武将の詳細とか調べないで能力決めてるよ。絶対。
製作陣に2〜3人でも細かくこういうデータを調べる奴がいれば
ありえないんだけどな。
クレーマーヲタ乙
はっきりいうが誰もを納得させることなどはなから不可能
能力を数字で表すことが無茶なんだから

天下統一2の波多野も能力値が高いね
赤井16、モミー14、秀治13、荒木15
だったと思う(最大値で)
>>102
満足させるさせない以前に
どう考えてもまったく考証をしないで
適当に能力つけてる奴が多すぎる。(特に地方)
無駄に武将の数を増やせばユーザーが喜ぶと思ってるフシがあるから
数だけは毎回増やすけど、ろくに文献も読んでないのがみえみえ。
104無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 21:48
ゲーム的な戦闘力だと波多野<赤井だが
勢力の大きさは波多野>赤井。
直正が強いのは三好、織田と中央政権を二度も押し戻しているから。
まあ地形や、天下統一にはほど遠い中央政権が攻めてきた、てのはある。
丹波にいたから、ってのは否めない。
波多野は幕府や朝廷とも関係があって戦国大名といえる。
赤井はそこまでではないから、やっぱり土豪クラスかな。
>>104
いや、それが違うらしいよ
実際は赤いが丹波の主力で波多野は実態すらつかめないほど
朝廷やら幕府とのつながりは捏造の疑惑が高まってる
>無駄に武将の数を増やせばユーザーが喜ぶ
実際そうでしょ
不満があればエディタでいじればいいし
107無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 22:23
不満を募らせておいてPK発売
数値を変えたい奴は金を出すって寸法だ!
108無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 22:35
>105
まてまて、勢力的に波多野<赤井だった時期も会ったけど、上にもあるが
それは内藤宗勝を直正が倒した時期ぐらいだ。(1565年ぐらい)
このあたりは直正のおかげで八上城を奪還したんだろう。
その後史料がないが、どうも内藤を侵食できるぐらいの力が波多野氏
にあったようだ。桑田郡あたりまで勢力をのばしている。
波多野氏の官位任官は嘘っぽいが、朝廷に挨拶できるくらいの地位は
あった。稙通は義稙、晴通は義晴からの偏諱。
赤井は残念ながら直正だけというイメージがある。
実際、波多野が滅亡すると、直正のいない赤井氏はすぐ降伏した。
10971:04/07/30 00:57
要は信長の野望の城の数が戦国史ぐらいあれば解決する課題かもしれぬ。
一部同盟者を家臣であつかわねばならんのも仕方あるまい
>>102

モミー
秀治(天然水)
アラーキー

>波多野氏の官位任官は嘘っぽいが、朝廷に挨拶できるくらいの地位は
>あった。稙通は義稙、晴通は義晴からの偏諱。

これは1550年代以前の話と思う
秀治らが稙通、晴通との血縁が不透明だし
1560年代以降は事実が良くわからないんで
112無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 00:54
>111
そうだね。
波多野は系図すらよくわかってないからなあ…
秀治なんぞさっぱりだ…
113無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 02:54
丹波のてっちゃん!ここにありー!!!
謎多き一族也。
115無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 03:01
赤井直正の軍師らしき人物がいたがだれだったかな?
116無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 03:16
丹波・播磨の土豪たちは尊氏登場以降、室町時代を通してかなり活躍し中央政権を
揺るがす勢力だったのに、三好長慶政権の崩壊以降、歴史の舞台から消えて
マイナーな存在になっちゃったよなあ。
特に昨今の織豊時代にスキルが集中しちゃってる人たちには、しょぼい田舎勢力で
明智光秀と関連してしか思い浮かばないんだよなあ。
117無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 16:09
信長に大きく抵抗、ということでいいと思うよ丹波衆は。
斜陽の将軍家に義によって助太刀し、破壊の魔王と正面きって戦った。
それでいいじゃないか。
もう少し研究がすすんだらねえ。いろいろわかってくるんだが。
>>117
(`Д´)
じゃあ、そろそろ織豊・江戸時代の歴史書やゲームや小説は卒業して、
室町時代、特に応仁の乱前後のものでもミロや
応仁乱〜信長上洛前で一番頑張った丹波人は
柳本賢治に間違いないと思うが
光栄に義満の野望を作ってもらえばOK
丹波に関係ないはなしでスマソ
もちろんラストは帝位簒奪(ry
121無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 01:20
波多野と赤井、赤井のほうが勢力が大きかったのか?
と考える。赤井は毛利、義昭、勝頼、本願寺と連絡した形跡があるが
波多野はないな…
光秀がせめて来たとき、波多野はまず降伏し、赤井が最初から抵抗した
意味もよくわからん。いきあたりばったり?
122無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 15:30
園部にライトアップされるほどの城ってあったか?
>この地は荒木氏綱の薗部城があったのですが、天正六年(1578)、明智光秀が滝川一益、丹羽長秀らと丹波を攻めた時、水の手を切られ薗部城は落ちたと伝わっています。
>
>元和五年(1619)、兵庫県の但馬出石城主・小出吉親が国替えによって築城し、のち九代続いて版籍奉還を迎えています。
124122:04/08/15 16:45
ということは小出氏園部城のようだな。
いや、ちょっと通ったんだよ。
あと、亀岡インターの銅像はだれだ?
光秀?
125無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 20:32
>>121
>波多野と赤井、赤井のほうが勢力が大きかったのか?
丹波は
 ・口丹波(亀岡市を中心とする北、南桑田郡)
 ・中丹波(園部町、綾部、福知山の各市にかけての船井、何鹿、天田郡)
 ・西丹波(多紀、氷上郡)     
また、室町時代には氷上、天田、何鹿を併せて、奥丹波と呼ばれていた。
赤井氏の支配する「奥丹波三郡」は、氷上を除いて船井を入れた、いわゆる中丹波のことと考えられる。
そして西丹波の支配者が波多野氏。
多紀郡の八上城が波多野氏本家の城(秀治は分家出身で本家の伯父元秀の養子となって本家を相続)で
そこを中心に多紀郡を支配。
氷上郡には、氷上城の波多野宗長をはじめとする、波多野分家の一族がいた。
よって、赤井>波多野ではなく、ほぼ=である。

>波多野はないな…
永禄3年1月27日、正親町天皇即位式に際して費用を献上するように毛利元就を説いて、
自らは上京して即位式の警備役を務めた(丹波氷上郡志にある波多野秀治の事跡)。
中央政界に関わりが深く、朝廷ともつながりがあったので、即位式の費用集めのために
西国の大名と交渉する役を務めるなど、それなりに知名度・威勢のあった人物ですよ。

>いきあたりばったり?
豪族・国人は反覆常ならず、応仁の乱以来、あっちについたりこっちについたりして
ずっと家を保ってきた。
それは、後世の人間が「いきあたりばったり」とか見下して言って責めるべきものじゃない。
「いきあたりばったり」がダメなら、裏切りを繰り返した真田なんてクズになってしまうよ。

恐らくは最初は「その領地支配を認める」というような話があったので従ったが、
信長のやり方が急進的であり、そのやり方古くからの国人に対しその領地経営を
認めるものではないと分かったので、親しみのある足利義昭などの旧中央政権の
檄に応じて背いただけのこと。
>>121
>光秀がせめて来たとき、波多野はまず降伏し、
>赤井が最初から抵抗した

赤井直正は、信長に降伏したあと背いたので光秀が
攻めてきたわけだが・・?
元亀元年(1570)3月に、信長から赤井忠家が領地の
安堵状をもらってるよ。
>波多野と赤井、赤井のほうが勢力が大きかったのか?

江戸期の史料で申し訳ないが、筆者が備前岡山辺りで聞き書きした
史料を含む『常山紀談』には「赤井悪右衛門(中略)丹波半国を領す」と
有り、当時は波多野より勢力が大きいと思われていた可能性あり。
中丹波は現在でも丹波地方では一番人口の多い地域だし、
波多野を凌駕するように備前方面では思われていた可能性は
高い。

もっとも、江戸時代は赤井忠家の子孫と思われる赤井忠晶が
田沼意次配下として腕を振るったり、赤井悪右衛門から
テンの皮を譲られた(ことになっている)脇坂家が
幕府の重職を歴任した為、あの赤井様の御先祖、
あの脇坂様のご縁の家ということで妙に過大評価されていたフシもある。
『常山紀談』にはなんと波多野家が登場せず丹波国主はほぼ赤井と
いう感じになっている。

ちなみにテンの皮の話は脇坂家の正史に登場する話なので、虚構
ではあるが江戸時代には非常に有名であった。
128122:04/08/16 00:47
波多野・赤井は勢力は時期によってもややことなるが…
八上城取られるまでは波多野が上、その後は赤井が上、信長上洛時では
同じくらいか。

波多野は多紀郡より南東の桑田・船井郡、赤井は氷上郡近辺・但馬侵攻というように
方向性が決まってるな。
上記を見てもらえばわかるが、永禄三年の正親町天皇の件、
赤井と脇坂の話は嘘ね(資料にて確認)。
赤井は家が残ってるから書状で研究しやすいが波多野は…

波多野は幕府・朝廷と、赤井は反信長勢力と連絡していた観がある。
波多野も各勢力と連絡していたとは思うがその勢力側の資料がなぜかない。
(例:毛利、武田側に波多野の文書がない)
ただ、波多野は応仁の乱後から代々、赤井は直正のとき急激に
伸びたから地域支配力を考えると波多野のほうがやや上かもしれん。
官位ある(?資料未確認)しね。

波多野、赤井が信長に背いたのは領地問題で、丹波に荘園を持つ
公家、寺院側に信長がひいきしたから。
波多野、赤井は荘園を違乱しまくってるからなあ。
波多野、赤井の話は丹波の地方史を読めば概ねわかる。
良スレ哉
>>128
>上記を見てもらえばわかるが、永禄三年の正親町天皇の件、
>赤井と脇坂の話は嘘ね(資料にて確認)。
 「いかにも」といった感じの脇坂の話はともかく、>>125の「丹波氷上郡志」の
 正親町天皇の件が嘘だという根拠は?
 >>93は「俺が確認した、だから嘘」と書いているだけだと思われ。

 それに>>93は「秀治はどうも波多野直系(晴通の子)ではないようだ。」と
 曖昧なことを書いているように、そもそも波多野秀治について全く分かってないぞ?
 「ようだ」どころではなく、>>125が書いているように「秀治は分家出身で本家の
 伯父元秀の養子となって本家を相続」というのが正しい。

 「正親町の件で正四位・侍従の位をもらった」のかどうかについてはたしかに怪しいが、
 「波多野秀治が毛利に献金するように働きかけた」「上洛し警護役を務めた」は
 毛利家の史料にも残っており、実際に毛利公爵家が昭和になってから立てた
 波多野秀治の表忠碑にもその事跡が書かれている。
 位をもらったかどうかと、献金・上洛のことをひとまとめにして、
 「位をもらったというのが確認できない」=「全部嘘」というのはおかしい。
131130:04/08/17 06:02
って言うか、「>>122=128」=「>>92=93」?
132無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 08:36
「古文書」「小畠文書」によれば、織田信長・明智光秀は
丹波攻めの際、敵は丹波守護代の内藤氏や宇津氏を
想定していたそうだ。
天正3年3月21日、船井・桑田2郡の地侍支配を命じられた
長岡(細川)藤孝に内藤氏や宇津氏が従わなかったのが
丹波攻めのきっかけ。
でも、実際に丹波にはいってみると、それら国人衆を
扇動していたのは赤井氏。
光秀はたやすく赤井直正を撃破し、敗走した直正が
篭る丹波黒井城を包囲して一気に攻め落とす勢いだったが、
波多野氏がそむいたため敗れた。
つまり、赤井氏よりも波多野氏のほうが強敵だったわけだ。
133132:04/08/17 09:00
評判倒れで光秀に大敗し黒井城に引き篭もっていた赤井直正に対し、
国人の支持は波多野一族に移り、波多野氏はそれに応えて各地で国人を
率いて山国の地理的条件を生かしたゲリラ戦を行い、明智光秀を苦しめ、
そのため波多野氏の声名が上がった。
宗高・秀治は朝倉・毛利とも連携し反信長戦線で活躍しており、もっと
高く評価されてよいだろう。
宗高は、盟友の朝倉義景に「織田信長との戦いに軽挙するな」と諌めたが聞き入れられず、
止む終えず朝倉の近江侵攻に援軍として従軍し、朝倉勢は敗退によって刀根峠の戦いで
討ち死にしたが、秀治はその意志を継ぎ、秀尚・宗長・宗貞ら一族を率いて戦い続け
滅亡した。

後に、波多野氏の正親町天皇への忠勤などの勤皇の事跡が評価され、
明治維新後に波多野秀治に従三位が追贈された。
永禄3年の御大典の式では警護役・御殿の改築・献金募集などの忠勤によって
宗高と秀治に正四位・侍従が贈られ、桐の御紋、桐の旗を賜った件については
>>130>>128の論争があるが、勤皇大名としての事跡はたしかなものであり、
最終的には大正天皇により従三位もらっていることからも、正四位は実際に
あったことと考えてよいと思われる。
なんか必死で白ける
一部の文書で宗高をやたら誇大してる感があったが、
地元郷土史家たちの熱心な研究の末、否定されている。
朝倉とのつながりや、援軍云々も「無理」との結論だった。

そもそも宗高・宗長は波多野旗下じゃないんでは?
脇坂関連と同じく、俗説が多いように思う。>西波多野氏
>>134,135
このスレの波多野否定派は、「波多野秀治への大正天皇の従三位追贈」まで「俗説!」とか主張しているわけ?
>>136
??なんでそうなるの?
それと「波多野>赤井」は関連がないし、それを論議する
こと事態、変なんだけど。

むしろ波多野擁護のあまり、赤井を貶める意味がわからない。
誰かが盟主だったわけではなく、丹波自体が群雄割拠だったん
だから(しかも赤井−波多野は盟友関係だし)。

不毛なんで、新しい話題行きません…?
>>137
「追贈がなぜ『従三位』なのか」ってことだよ。
明治維新後に追贈された人物は、それぞれの活躍に応じていろいろな位を振られた。
秀治がなぜ『従三位』か・・・それは「生前に『正四位』だからこそ、1つ位を上げてもらえたのでは?」
という推測も十分に成り立つわけだ。
139122:04/08/18 02:41
1560年の毛利、波多野献金は毛利側の資料にあるのか?
知らんかった。公家側の日記のたぐいにはなかったんで。
何の資料か教えてくれ、調べてくる。
西波多野氏の宗高は存在しないことがほぼ判明。
赤井>波多野問題だが、船井郡・桑田郡は元々内藤氏の影響下だったが
地理的に考えて、赤井の影響より、波多野の影響のほうが強いはず。
元々波多野氏の領地、上村荘があるし。

>>秀治は分家出身で本家の伯父元秀の養子となって本家を相続
そういう説があるし、年代的に世代交代が早すぎるからたぶんホント
だろね。
波多野秀治の正四位は高すぎる気がする。
将軍、管領クラスに匹敵するぞ、毛利だってそんなに優遇されてないはず
(五位?)毛利にくわしいひと補足たのむ。

波多野氏の官位の話、宗高の話、落城悲話はどうも誰かが捏造した
気がするな。どんなもんだろう?裏を返せば波多野氏はそれくらいの
人気があったともいえる。
140無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 04:18
>>139
丹波人です。

八上城址にある「波多野秀治公」の碑には、毛利公爵家が建てたものだそうです。
ここまでしている点からも、波多野氏と毛利氏はそれなりつながりがありそう。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hatano_k.htmlに書かれているように
出自に関して石見の豪族吉見氏の一族という話もあり、吉見氏は毛利元就の家臣に
なっていることを考えると、いろいろ因縁ありげな感じがします。

なお、波多野秀治にうながされて献金した元就に陸奥守・従五位上、隆元に
大膳大夫・正五位上が送られているから、西国大名への献金取りまとめや
丹波国人衆を統括して上洛し、即位式の警護や御殿の建築・修理までやった
波多野秀治に正四位は大しておかしくないのでは?
即位式が開けないほど朝廷の権威が落ちている時代だから、位もわりと
出やすい状態だっただろうし。

ちなみに贈従三位は、大正4年11月10日のようです。
 http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/ikai.htm

須知元秀の動向も波多野氏や丹波の国人を知る上で見逃せないかも。
 http://www3.ocn.ne.jp/~hanaokas/page12.html
141140:04/08/18 04:23
播磨屋のサイトの内容には異説等もあるけど、この手のサイトとしては
一番詳しいので便利。
赤井氏の来歴と合わせて読むと分かりやすいかも。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akai_k.html
142140:04/08/18 04:38
吉見氏出自説がここにも。
 http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/hatano.html

まあ、とにかく波多野氏は柳本賢治というスターも出し、中央政界でも
一時代を築き大いに力を振るった一族だし、赤井とは婚姻を結んだり
争ったり共同したりしつつ、最後は共に戦った仲間。
あの当時は、中小の国人はいろいろ入り乱れて個人的な盛名で
地域の棟梁的立場に担ぎ出されたりするので、どっちが大きいとかは
あまり気にしなくともいいんじゃないでしょうか( ̄▽ ̄*;)。
中央政界でメジャーな波多野氏の名が残り、さらには「信長の野望」のような
信長登場以降のメジャー度に偏ったゲームのせいで、波多野氏の存在が
矮小化され、それよりマイナーな赤井氏・内藤氏はさらに酷い状況になった
ということなんでしょうねえ。
信長の野望に「応仁の乱」からずっとシナリオがあれば、波多野氏をはじめとする
丹波国人はたちまちメジャーリーガーになれますw
143無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 23:03
1560年あたりは朝廷がスーパー貧乏な時代だから官位をバーゲンセール
の如く売りまくるのはわかるな。
波多野氏以外にも大名なんかで四位になった人物がいれば確定なんだが…
まだちょっとはっきりしないな。
144無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 02:02
伊東義祐
hanbe takenaka.
146無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 04:06
>>144
伊東義祐は三位入道でしょ。
ちなみに松本清張が、伊東義祐の官職好きを皮肉って「三位入道」って小説書いてる。
官職好き仲間の大友宗麟が、正四位下で追贈従三位下だったかな。
大内政弘は従四位上(追贈従三位)、大内義興は従三位、大内義隆は従二位、
大内義長は従五位下。
尼子晴久は従五位下。
毛利元就従四位上、毛利隆元従四位下、毛利輝元従三位、毛利秀元正三位、
小早川隆景従三位、吉川元春従四位下、吉川元長正五位下、吉川広家従四位下。
まあ、毛利家は豊臣の代で昇進したが、それ以前から官職をもっていた者は多い。

また、丹波・丹後・讃岐・阿波などの中央政権に関わりの深い地域の国人にも、
それなりの官職を持っているものは多い。
武家一筋の東国人と違って、西国人はわりと朝廷とつながりがあるんだよねえ。
南北朝時代でも、西国には南朝方の武将が結構いたし。

こうして考えると、典型的な勤皇大名の波多野秀治の四位は大して不思議じゃない。
まあ、波多野も赤井も内藤も糞ってこった。
そんな武力も政治力もないマイナーな大名は、10ターン目ぐらいには
消えてしまい、ほかの大名の足軽になっているだろう。
ほうほう、その軍事力のない小豪族を
鎧袖一触できなかった織田軍は一体全体どういう扱いなんでしょうね、貴公の頭の中では。
149無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 22:04
波多野葵
赤井ほむら

どちらも勝気な性格です
>>147
「戦国時代=ゲーム」ですか・・・
ターンって何
152無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 01:30
波多野氏は四位でよろしいか?
>>152
このスレのこれまでの流れとしては、それをくつがえす決定的なものが出てくるまで、
「可能性が高い」として暫定で認めていいんじゃないの。

ちなみに、毛利公爵家がわざわざ波多野秀治の勤皇忠勤を表した記念碑を建てたのは
「毛利家が勤皇の家柄となるきっかけをつくってくれた(正親町天皇の即位式に
献金するように声をかけてくれたこと)から」と書いた維新関係の本を、かなり昔に
見たおぼえがあるのだが誰か書名知らない?
154無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 09:30
まてまて、毛利、大内などの大大名はわかるが、
丹波一国を完全に支配しきってない波多野が四位は高すぎる気がする。
そんなに朝廷に貢献したとは考えにくいんだよ。
丹波は山国だし生産量も低かろう。江戸時代初期でも丹波一国で
40万石未満だったはずだ。
秀治時代はそれほど勢力大きくないし、多く見積もっても10万石ぐらい?
代々の貢献ってことか?
しかし、波多野は天皇に直に会えるしな、この時代は昇殿は公卿とか
もう関係ないのか?
155無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 01:59
>>154
おまえは過去レスをちゃんと読んだのかと言いたい。
波多野秀治が評価されたのは
 ・波多野氏個人としての献金
 ・西国大名への献金呼びかけ(毛利氏などから献金を引き出すことに成功)
 ・丹波国人を取りまとめて上洛し、即位式の警護・下準備などを行う
 ・御殿の修理
などを行ったからだ。
個人献金の額が評価されたわけじゃねーだろ、ボケ!
>>154
丹波の「生産力」についてひとこと。
丹波は酒どころだし、労働力となる丹波牛を昔から提供してきたところ。
当時は工芸品も得意。
山国ながら、それなりに生産力が高いので、中央政権の登場役者たちの草刈場となってきた。
ちなみに、朝廷に献金していた大名で有名どころに織田信秀がいるが、信秀も
当時は尾張の一部を所有するに過ぎない下克上成り上がり者。
それでも豊かな通商の拠点・津島を押さえていたので、その運上金があった。
国の豊かさが米でしか計れないのなら、武田・島津などは小者ってことですなあ。
157無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 21:07
>>156
>>154は伊東義祐のようなレベルの大名でも、三位入道なのが分かってないと思われ
あおりじゃなく解説ヨロ
>154
ゲームと違って、戦国大名の官位は統治能力とは関係なしで
与えられる場合も結構有るからなあ。
土佐半国に過ぎない一条氏、飛騨統一に苦心した姉小路氏
(姉小路は公家を騙っていた出自不詳の田舎武家だが、何故か官位は
中納言【信長公記による、一説に大納言】と異常に高い)
など、実力と官位がつりあわない大名は相当多いよ。
家康と姉小路自綱が信長公記では同じ官位相当の武将として
扱われているくらいだから、支配領域が狭いから波多野家の
四位は有り得ない、とすることはできないだろう。
尚、江戸時代でも10万石の津軽家は猛烈な朝廷工作のお陰で
従四位という36万石毛利家クラスの官位昇進を成し遂げており、
波多野家がもし10万石クラスであれば、猛烈な朝廷工作を
すれば十分四位昇進は可能。

ちなみに毛利家の当時の官位は五位の左馬頭どまり。
160無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 04:43
>>159
>姉小路は公家を騙っていた出自不詳の田舎武家だが、何故か官位は
>中納言【信長公記による、一説に大納言】と異常に高い

このスレをいいものにするためにも、出来る限り正確に書こうよ。
飛騨姉小路家は、伊勢北畠、土佐一条とならぶ三国司の家柄。
だから位が高くて当然。
問題は姉小路を名乗っていたのが、越中に出奔した姉小路氏の名跡を継いだ三木(ミツギ)氏
という国人だということ。

「希代例也」と『公卿補任』に書かれつつも、貧乏であるがゆえに献金さえしてくれれば
あとはどうでもいい朝廷に正式に認められ、順調にランクアップ。
三木(姉小路)良頼は、飛騨守、右衛門督、参議。
中納言と伝える書もありますが、誤りであるという説が有力です。
三木自綱は左衛門佐、左京大夫、大和守、侍従、大宰大弐。
大納言・宰相と自称していますが、自称で正式に任官してはいない説が有力です。

良頼は、弘治4年(1558)1月15日に従五位下・飛騨守に叙任、永禄3年(1561)2月16日に
越階して従四位、永禄5年(1562)2月11日に従三位、永禄6年(1563)3月12日に参議。
この時期の将軍である従四位下・参議兼左中将を上回っています。
過去レスに「波多野氏に将軍・管領クラスの官位が与えられるわけがない!」
「波多野氏ごとき小大名にそんな官位が与えられるはずがない!」と言っている人が
いますが、それは「朝廷の官位・官職」を「武家としての格式」「実力」と混同しており、
朝廷の官位は別のルールであるものだという基本的なことを分かってないわけです。

ちなみ国司仲間はと言えば、北畠晴具は参議兼近衛中将、
北畠具教は美濃守・伊勢国司・従三位中納言で弘治3年(1557)には正三位に叙任、
具房は右近将監、左中将。
一条房冬が正二位左・近衛大将・権中納言、 一条房基が従三位・右近衛中将、
一条内政が従三位・左近衛中将。
161160:04/08/22 04:51
維新後に「中世や近世の大名で勤皇の事跡があった者」に官位が追贈されたが、
そのほとんどは幕末に官軍に参加した藩の藩祖に対するもの。

幕末に藩や有名な勤皇の志士の末裔を残していない戦国大名の中で追贈を受けた者としては
 贈正一位:豊臣秀吉 
 贈正三位:長宗我部元親
 贈従三位:大友義鎮、波多野秀治、武田晴信
がありますが、秀吉は関白で特殊な存在だったし、長宗我部元親は土佐藩郷士への考慮に近く、
残る大友宗麟と武田信玄も朝廷に献金はしたが、もともとメジャーな人物。
そんな中で「波多野秀治」だけが明らかに異色な存在であり、いかに勤皇大名として
朝廷(や毛利家で)深く語り継がれてきた人物であるかが非常によく分かる明確な証拠と言えます。

そして過去レスにあったとおり、「正四位の次の官位」といえば「従三位」。
こうした傍証も、波多野秀治が当時に正四位にあったことを推測させるのに十分なものと
言えるでしょう。
162160:04/08/22 04:55
(訂正)
この時期の将軍である従四位下・参議兼左中将を上回っています。
  ↓
この時期の将軍である足利義輝の従四位下・参議兼左中将を上回っています。
明智光秀が天下を取っていれば、丹波出身の大名がたくさん誕生しただろうになあ・・・
明智家臣団の丹波衆に、
明智伊勢千代丸、荒木行重、荒木重仲、宇野豊後守、梅若広長、尾石予三、荻野重基、
小畠国明、小畠左馬助、小畠助太夫、加治石見守、川勝継氏、河北一成、酒井孫左衛門、
四王天政孝、四王天政実、田中盛重、田中五内、中沢知綱、
並河掃部易家、並河八助、並河金右衛門、並河飛騨守、藤木権兵衛、藤田藤八、
波々伯部員次、本城惣右衛門、松田政近
などがいるけど、秀吉の代に大名として残ったのは川勝継氏-秀氏ぐらい?
秀吉の代の丹波福知山城主・小野木公郷も、丹波の福岡城主・小野木(兎ノ木)縫殿助
の同族と言われ、その縁から丹波に所領をもらったようだけど、関が原で滅びちゃったしな。
結城秀康・忠直に、四王天政実や荻野一族が仕えているが、これも小物。
応仁の乱から信長入京以前の丹波関係者の活躍を考えれば寂しい限りだな。
明智光秀が天下を取っていれば、荒木氏、並河氏、小畠氏、四王天氏は20〜50万石クラスで
秀吉政権における奉行・中老クラスにはなれただろうね。
>>156
確かに丹波は単なる山国じゃないんだよね。
ちなみに、赤井直正などの丹波国人衆は但馬の生野銀山の採掘権(採掘者への税)なども
もっていたので、そちらの収入もあって、それなりに裕福。
166無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 02:33
それは但馬の太田垣氏がもっているんだよ
>>166
おいおい。
鉱山師は特定の大名の部下ではないし、信玄のように直々に鉱山開発に乗り出している場合をのぞいて
鉱山所在地の大名だけに所属するわけじゃない。
いつその場所の所有権が変わるかもしれないので、近隣の強い勢力にそれなりの税を払うし、
それに丹波は京に続く通路としていたので、丹波国衆には通行税や用心棒代も支払われている。
堺や博多、津などの有力な商人が、直接の領主以外の近隣の大名にも税を払ったり、
油や酒・武器などの各種のギルド(座)もそういうやり方をしているのと同じ。
もちろん、直接その場所に関わる大名に最も沢山の税が入るのは当然だが、基本的にそれらの
業務にかかわる人々は「中立」な存在であり、その地をめぐっていかに大名・土豪たちが
争おうとも、それらの業務に支障をきたさないようになっているわけだ。

ちなみに、赤井党の勢力の裏づけとしてその資金力が挙げられており、その資金力の裏づけの
ひとつが生野銀山の採掘権(株)を持っていたことであるのは、いくつかの論文で指摘されているよ。
168無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 01:23
どちらにしろ2郡3郡支配してめいっぱいって感じだな。丹波国は今も昔も中途半端。
世の中、中途半端にさえなれない輩は多い、
それらに比べればよほど、まし。
170無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 07:33
>>168
その2郡3郡支配してめいっぱいな奴らが、尾張の田舎者が上洛するまでは
威勢は衰えたとはいえ、中央政界を動かしていた時代もあったんだけどね。

ちなみに大名=国持ちじゃないんだから、2郡3郡支配していれば十分だろ。
むかしの郡は今の郡より大きい。
信長と戦った浅井や六角、松永、三好義継だって郡レベルの支配者だ。
そして今川義元を討ち取ったころの信長だって、尾張半国(4郡)。
そこからブレイクスルーして国持ち大名になるほうが、圧倒的に少ない。
「信長の野望」しかしていない連中には、大名=国持ち大名に見えるのだろうが
あれは大小の土豪・国人を省略して、複数の大名・小名をくっつけているだけだべ。
171無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 14:27
しかも領地拡大する気もない
現状維持必死の都べったり大名
>>171
>しかも領地拡大する気もない
日本中の大名たちが必死にしのぎを削っているが、有名な大名や合戦の名前しか
知らない人には、自分が名前を知らない大名はみんな平和に暮らしていると
思っているのでしょうね ( ´,_ゝ`)プッ
大体の領主は自家(自領)存続が一番だからな。
仮に俺が5000石程度の領主だったら風見鶏だろうな。
>>173
もうちょっとだけ欲を出しても(・∀・)イイかもな。
周りに自分より小さな領主がいれば、圧力をかけて屈服させるとか。

とりあえず1万越えたら、俺も風見鶏になるだろうけどな。
>>174
その周りの領主たちもどこかの大勢力の属国なわけで
そう簡単にはいかん
176無名武将@お腹せっぷく:04/08/30 16:52
だから太田垣氏を攻めるんだよ
177無名武将@お腹せっぷく:04/08/30 21:17


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               /´      ̄`ヽ,
              / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ.
  皇          i  /´        リ}       秀
             |   〉.    -‐   '''ー {!
  居          |   |    ‐ー  くー |       治
             ヤヽリ  ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}
  ま      , 、   ヽ_」      ト‐=‐ァ' !        
         ヽ ヽ.     \   ` `二´' 丿
  で       }  >'´.-! r 、` '' ー--‐f´
          |    −!   \` ー一'´丿 \
  こ       ノ    ,二!\   \___/   /`丶、
         /\  /    \   /~ト、   /    l \
  い     / 、 `ソ!      \/l::::|ハ/     l-7 _ヽ
       /\  ,へi    ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、    |_厂 _゙:、
       ∧   ̄ ,ト|    >‐- ̄`    \.  | .r'´  ヽ、
      ,ヘ \_,. ' | |    丁二_     7\、|イ _/ ̄ \
      i   \   ハ       |::::|`''ー-、,_/  /\_  _/⌒ヽ
上洛の詔か!
そういえば、ヤングサンデーに連載中の白兵武者ってさいしょのころは
但馬・丹波あたりが部隊なので、太田垣とか登場していたよな
180無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 12:22
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   ,r'          /=ミ
  /           彡ll',''´
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 !-- .、    ,、、、、,,,   彡lノ
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. |`゙'' ./   `'゙'''"    .〉,l |       
 |.   ,'           //       波多野の降伏は許さん!!
. ',. ,'           , r'  
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   ゙、''゙ ,,、二''‐    ノ  l、        
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       / ̄/  | /`又´\|  |  ̄\
それまでの秀治のキャリアや、
そのことに基づいた秀治の人格を否定するような
動きがあったことも事実です
182無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 19:47
>>1はやる気あるんか?
183無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 02:50
波多秀タンバ  作詞:柳本賢治  作曲:香西元盛

1.
叩け陣太鼓 響けほら貝 踊れ西のいそべ神社例祭
誰も彼も 浮かれ騒ぎ 光る汗がはじけとぶ

熱い風に 体あずけ 心ゆくまで踊れば
波も歌うよ 愛のタンバを 胸にあふれるこのリズム


オーレオレ 波多秀タンバ オーレオレ 波多秀タンバ
あぁ 恋せよ お武家様 踊ろう 姫様
眠りさえ忘れて 踊り明かそう
タンバ ビバ タンバ ハ・タ・ヒ・デ タンバ オレ!

2.
叩け陣太鼓 響けほら貝 踊れ西の五台山まつり
夢のように 時は過ぎて はずむ西の恋の夜

灼けた素肌 肩を抱いて 愛をささやき踊れば
青い山並みに 恋も輝き 風に誘われ歌い出す


オレ!

※くりかえし
184無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 02:53
>>182
 >>1はこの人 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9300/index.html
 ・・・・・・・・・・だったら怖いな
185無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 16:43
>184
このひとの論文いくつかよんだわ〜。
勉強になった。
雑誌「丹波」はいい。
186無名武将@お腹せっぷく:04/09/06 00:21
揺れる丹波
187無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 03:25:47
今更だが、光秀VS丹波人の話あんまでないな…
188無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 21:57:01
なぜ、波多野の話をしているのに秀治の娘婿・別所長治の話が全然出ないのだ?
別所と波多野の蜂起に関連性はあるだろうに…。
189無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:20:17
丹波勢は後年、本能寺襲殺に加担してるが波多野旧臣や丹波の土豪も当然
明智に加担したのであろう。
190無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 23:58:06
191無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 00:29:55
信長も丹波平定の功績が大きいことを知悉していたからこそ、
佐久間親子の折檻状で秀吉や勝家よりも光秀の功績を一番に
持ってきたんだと思う。
192無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 01:31:27
思うんだが、荒木、別所の謀叛があったのに秀吉がわりと無事だったのも、
攻城戦にかなり時間をかけられるのも、光秀の援護あってこそでは
ないのか?実際なんどか但馬に出兵してるし…
上の佐久間折檻状の話もその辺信長が理解してたんじゃないの?
光秀>秀吉だと思うんだが、秀吉が情報操作してる気がする。
193無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 06:45:56
>>192
本能寺前後は確実に光秀>勝家>秀吉あたりでしょ。
みっちゃんは戦以外にも朝廷工作や他の地域への援軍に行ってたし。
敗者の歴史が語られないのは当たり前だ。
勝てば官軍負ければ逆賊!
194無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 23:30:28
各種太閤記や惟任退治記等の御用筆者の軍記物とかで、
秀吉のでっち上げ軍功が世間に浸透してしまったからね。
どうしても光秀や勝家は敵役としてジリ貧にされてしまう
傾向にある。
195無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 20:29:35
モミーとあかりんage
196無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 01:10:59
有馬郡方面へ進出した記録などはないんだろうか?
197無名武将@お腹せっぷく
>>192-193
一時的な戦時編成である秀吉を除いて、管轄地域と指揮権、その指揮下にある
軍勢・部将・国人のレベルで考えると

 勝家・一益→秀吉→光秀・長秀・信雄→信孝

直轄の所領(一族分を合わす)だと

 勝家→一益→光秀→秀吉・信雄→長秀→信孝
 
ぐらいじゃないか?