孔明死後の姜維の北伐は無駄だったのか?【第三次】

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339292
姜維も一度だけ狄道を手に入れた事があるんだよな。
李簡が降伏した時の事だが。

この時、狄道を陥落(と言うのも変だが)させた後、襄武まで侵攻し徐質を破ってる。
だが、その後は何故か住民を連れて帰還するだけ。

狄道が蜀の手に落ち、(恐らく陳泰の派遣した)徐質が敗れたにも関わらず、魏書にはこの事について載ってない。
斉王紀の注にある、「世語」、「魏氏春秋」に、司馬昭が姜維征伐の為に都まで呼び戻された事が載ってるだけ。

狄道のみでは維持が難しく、戦略的な価値が見出せないとした姜維は襄武へ侵攻。
陳泰は徐質を派遣し姜維に当たらせるがあっさり撃破される。
姜維はそのまま襄武を包囲するも、司馬昭の大軍が中央より派遣され、陳泰と合流して援軍に来る事を察知。
援軍到着までに襄武を陥落させる事が不可能であり、襄武を包囲しつつ援軍に対処するだけの兵力もないと判断した姜維は、
敵の来ない内に住民を連れて撤退。

こんな感じかな?
で、この遠征の経験が、翌年の狄道包囲戦での「敵は大軍の集結を待ってから来援する」
と言う判断に繋がったのではないだろうか?
>>339
まぁそんな感じなんだけどね、姜維の戦略は概ね点を巡っての戦いと確保に
過ぎなくて、面はおろか点と線を繋いでいく事すら等閑な感じなんだよね。
一足飛びに狄道まで進出しても、それでは軍事行動を継続するうえでの制約が
多過ぎて、僅かな綻びで簡単に作戦が破綻してしまう。
機動には兵站という桎梏がついてまわるから、魏の司令官連中にしてみても
姜維の行動・目的が俄然、読み易くなっちゃうんだろうけど。
>>340
姜維の対処については、堅固な要害に籠もり撤退を待てばそれで終わりだからなあ。
王経が敗れた時の陳泰の言葉が全てを物語ってる。

やはり、兵站も繋ぎやすく、分散と集中という基本原則が行いやすい中原辺りで戦わせたかった。
機動しようとすれば兵站が繋がらず、分散しても集中できない地形じゃ機動の効果がない。

魏の蜀征討戦、あれで姜維が大軍を擁し、且つ敵の作戦の概要を知ってれば結構面白かったかも。
案外、ナポレオンのガルダ湖畔の戦いのような結果になったりして。
342294:04/09/06 07:31
>292=338=339
250年の出兵が249年の出兵と関連性がある(つまり、連続性ね)とすれば、姜維の単独出兵だろうね。
無論、勝手に出兵した、とは言わないけど。郭准の隙を突く形での出兵だろう。
費禕の主力まで連動するのは>337で書いた通り、対応が難しいし、主力の行動の秘匿は難しいから。

狄道の件は概ね同意。
ただ、俺は狄道が手に入る様なので主出兵したら、確保出来たんで、さらに侵攻したけど、徐質を破ったところで魏の大軍の来攻で撤退しただけだと思うよ。
元々、李簡の降伏した棚ボタ的な出兵なんで、隴西諸県の住民を拉致した事でOKって事だったんじゃないかな。

343294:04/09/06 07:38
>340
中原でもどうかな。
そもそも分進・合撃ってのは山岳戦の対処方として発展して来たものだから。

>>姜維が大軍を擁し、且つ敵の作戦の概要を知ってれば結構面白かった
兵力と情報って言う二つの重要要素を持ってれば、よっぽどバカな将領じゃなきゃ、適切な対応をすると思うけど。
>>343
それは知ってる。ブルーセの時代の話だっけか?

ただ、漢中〜関中へ蜀が進軍する場合、数少ない街道を進軍するしかないし、その半分以上は桟道。
更に兵力が圧倒的に違うので、分進しても合流する手立てが無いから使えない。
桟道からの進撃さえ防げば背後連絡線が脅かされることもないし。
中原では広すぎて逆に適していないかもしれんが、ガザラの戦闘のロンメルのように展開できる可能性もある。
ただ、その場合は、姜維に巧妙な偽騙が出来るかどうかが問題になってくるが。

あと、概要と言っても、分進合撃だって事ぐらいで十分なんだけどね。
開戦当初、ケ艾軍の行動しか把握できてなかったってのがどうも。
漢中方面の情報収集能力が足りてないように思える。
345339=341:04/09/06 14:28
>>342
前後したが、狄道の件、概ね同意って事らしいが、自分の意見との違いがよく分からない。
援軍への対処が不可能だとかってのは考えてなかったって事?
346294:04/09/06 19:32
>344
確かに、漢中〜関中方面へは、どのルートも限られた桟道を使うしか無いから、分進・合撃は難しい。
ただ、武都・陰平方面から洮水・隴西だとどうだろう。
漢中〜関中の峻険な山々と比べれば街道は多いし、山並みも(比較的だが)穏やかだから、機動と言う点からは使えたんじゃないかな。
まぁ、どちらのルートを使っても兵站がネックになるのは確かだろうけど。
漢中〜関中はルートは短めだが、桟道が険しく長期の兵站の維持が難しい。
武都・陰平方面〜洮水方面は大軍の機動はしやすいが、兵站距離が長いので、分断されやすい。
347294:04/09/06 19:39
続き。
で、姜維は機動戦を指向したから、あえて、兵站を捨てて(羌族の支援をあてに)、洮水方面に軍を進めたんじゃないかな。
諸葛亮のキャンペーンとは全く逆だね。

>345
>>狄道のみでは維持が難しく、戦略的な価値が見出せないとした
そこまで、姜維が深く考えてたと思えないだよ。
李簡が降伏すると言うのでとりあえず出兵した。
上手いこと狄道を確保できた。しかも、狄道には思ったより物資が豊富だった。
で、もう少し戦ってみたけど、やっぱり無理(徐質は破ったが)だったんで、拉致に切り替えた。
くらいかな、と。