1 :
無名武将@お腹せっぷく:
常陸国
ここには名門貴族出身の源昌義と名も知れぬ卑賤の男がいた
時が流れ名門貴族は佐竹と名乗り卑賤の男は奥州に移り伊達と名乗った
そして皮肉にもその末裔、佐竹義重と伊達政宗は戦う事になるのである・・・
弐番槍頂戴致した
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 02:50
拙者は参番槍を・・・
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 02:54
じゃ四番槍ゲト
ひでえスレ。
乙。
でも結局,この名前で2スレ目立てたんだ。
まぁ,伊達スレは別にあることだし,このスレは佐竹スレってことでマターリできるといいな。
前スレへの回答
>992 無名武将@お腹せっぷく sage New! 04/06/14 01:07
>奥羽永慶軍記や佐竹家譜などが原作に出来るなら
>作れそうなもんだがな。
>小説となると常羽有情くらいしかないのか?
長いのはそれくらい。
他に「戦場の恋-佐竹秀義青春譜-」「佐竹風雲録」「宝暦の嵐-佐竹騒動-」「暴れ影法師」などの小説はあるが,時代がいいところとズレていたり,短かったり。
まぁ,「雪の峠」みたいに「佐竹氏物語」を原作にするって手もあるけど。
>996 無名武将@お腹せっぷく sage New! 04/06/14 01:38
>常羽有情って読んだ事無いんだけど、面白いの?
小説としては面白くはない。
他に佐竹関係の書籍を見たことがなければ,初めて聞く逸話とかがあって面白いかも。
1の文章って長野の小学生の文章並みにそのなんだ、アレだね…
というか佐竹スレなんだから佐竹関連のスレ名にすりゃ良かったのに
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 13:40
>>10 つーか、2ちゃんで見かけるキモい奴って実際に小中学生か、
あるいは小中学生並みの精神年齢な奴なんだろ。
1はどっちか知らんが。
まぁ佐竹が話せるならいいやとは思うけど、こいつが煽り
とかしそうでスレ荒れそうで嫌だな。前スレ後半みたいに。
三浦義意最強説を唱える奴はいないか?
スレタイは義宣VS政宗でよかったんじゃねーの
というか、佐竹スレなんだろ?そういってる奴が実際いるんだし。
【常陸】佐竹家を語れ【秋田】とかのがいいんじゃ。
前スレから言ってたのに全然酌んでないよなぁ。ふざけてる。
このスレも前スレと同じで、伊達アンチか、ただ荒れるのが見たいだけの奴が立てたんだろ。
まともな奴なら
>>1みたいな立て方しない
げぇ…。
アンチ佐竹にそんな香具師がいなくてヨカタ(´Д`;)
>>1にもあるし、前スレにもあったが、伊達が卑賤ってのはソースは何なんだ?
俺は伊達家は藤原氏山蔭流だと思ってたんだが。
はっきりとはしてないものの、一応自分も山蔭流なので、
山蔭流が下賤と言われるのは悲しい。
釣りスレか。
伊達家は藤原鎌足の流れから来ているという話があるが信憑性はあまり高くない。
血筋で比べるのは最終的に悲しい事になるからやめておけ。
義重に代替わりした直後の佐竹の敵は芦名と北条くらいか?
>>21 下野の那須氏、常陸南部の小田氏がいる。
北を見れば、白河結城氏とかか。
江戸や大掾もそうじゃない?
>>23 江戸は敵という程でもない。
天正年間の江戸・大掾間の争いでも、北条は大掾に、佐竹は江戸に加担したりしたしな。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 00:56
age
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 12:16
>>19 本当に藤原北家山蔭流なら卑賤ではないが
伊達家は山蔭流の常陸入道念西なる坊主が始祖「と言われる」だからね
しかも西念が伊達初代朝宗だとか西念の子供が朝宗だとか
そもそも西念が朝宗と関係があるという資料も全くないから
ようするに全く分からない
その上に仮に西念の子孫だったとしても
その西念の直系でもない
嫡男は常陸伊佐荘に伊佐姓を名乗って残っていたからね
更に言えば西念自体出自ははっきりしない
>>26 「安達泰盛の所領の出で、かつ苗字が安達だから、
自分は安達泰盛の子孫で藤原北家山蔭流」
と思ってる俺と似たようなもんなのか?
安達氏自体が山蔭流かどうかはっきりしてないってのも伊達と同じだし。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 12:34
義重が相続したころは久慈郡那珂郡の2郡ぐらいだよな
しかもその2郡も全て掌握していたわけじゃない
茨城行ったことある人なら分かると思うが久慈郡那珂郡は茨城北部の山岳地帯
半数ぐらいの市町村じゃ田がほとんど作られていなかった
義重相続時の石高は恐らく10万石前後
それで北条なんかと戦っていたのだから大したものだ
外交能力がなけりゃすぐ滅ぼされていただろう
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 12:36
佐竹家って親戚の足利家との交流ってどうだったの?
家格は
27=伊達家
ということですか
>>28 義舜、義篤、義昭の活躍で、南奥にもある程度の勢力を持ってたんじゃなかったか?
32 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/19 13:03
>>28 >>31 それ以前に佐竹の本拠 常陸奥七郡ですから、
多賀郡もお忘れなく。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 13:13
>>31 義篤の代に部垂〜依上保
義昭の代に矢祭、棚倉の辺りを手中に収めていたね
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 13:36
常陸奥七郡って多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西だけど
今で言うと那珂郡・久慈郡・多賀郡
多賀郡は日立市・高萩市あたりかな
今じゃ郡って言っても十王町しかないしw
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 13:43
山入氏の乱で佐竹は領地のほとんどを一時失ったからね
本拠の太田城さえ失ったわけだから
お陰で常陸奥七郡を取り戻し安定させるまで義舜、義篤、義昭の3代も費やした
反乱がなくこの3代が領地拡大を図っていれば佐竹は相当伸びただろう
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 14:31
>>35 その3代は皆早死になんだよな。
江戸家なんか佐竹の当主が変わるたびに楯突いてるし。
江戸とはそこまで仲悪くないと言うけど、佐竹が好意的だとしても
江戸はどうなん?
>>37 佐竹も好意的であったわけでは無いと思う。
江戸は佐竹と同盟関係を保ちつつ常陸南郡に勢力を伸ばしていた。
江戸は自身の勢力伸張の為、佐竹は北進の障害となる常陸の騒乱を治める為に
協力し合ってただけだと思う。
義舜、義篤、義昭の三代ともに名君で良かったよな。
彼らが凡人だったら、義重の誕生を待つまでも無く、
山入一揆から立ち直れずに佐竹本家は滅んでたかもしれんし。
ところで
「大河小説佐竹氏」という読み物(10ページ程度w)を見つけたんだが
この作者の松渕正興ってなにか佐竹氏の本とか書いている香具師か?
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/23 05:14
松渕正興
聞いたことねえな。詳細キボンノー山本ィア
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 15:27
蘆名、相馬、岩城は晴宗、義昭の時代まではどちらかというと伊達よりなのに、
政宗、義宣の時代には完全に佐竹に取り込まれてる。
輝宗ん時からじゃ
蘆名まで完全に取り込まれたのは政宗のとき
爺さんが出張りすぎたのが元の原因ってのが痛かったな
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 01:16
江戸氏は元々佐竹の郎党的立場だったが
佐竹は江戸氏を一族と同等の待遇を与えていた
だが江戸氏は隙をついては佐竹の領地を横領していったから
少なくても佐竹は江戸氏にいい感情は持っていなかったはずだよ
江戸氏は山入氏の乱の時は山入側について佐竹義舜の追放に協力したり
佐竹義昭の時代にも佐竹軍を打ち破ったりしてるものの
それ以上の侵攻はせずに南に勢力を伸ばしていたし
追放した義舜に臣下の礼をとっていた事からしても
江戸氏は敵対しながらも佐竹を盟主と思っていたようだ
>>1 なんでスレたてたんだよ、ボケ
もう不要だよ。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 03:59
>>46 確か江戸氏は元々は常陸守護代で
それが佐竹と山入の争いに乗じて領地横領して独立をしたんだっけか。
下克上だなぁ。
49 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/26 10:30
>>48 守護代?違うと思う。
江戸氏は秀郷流藤氏で那珂氏の後裔。
佐竹氏とは半従属の同盟関係 という感じでは。
山入一揆後は独自の勢力を伸ばし、佐竹氏からみれば
目障りな存在になったのでは
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 12:00
(´-`).。oO(なんでだろ?)
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 14:50
江戸忠通:天分期に佐竹義昭と争い、事実上降伏する。それ以来佐竹の合戦には
ほぼ毎回参加することになる。宇都宮の騒乱では忠通の母が芳賀氏であったため、
芳賀高定から佐竹の協力斡旋を依頼される。
江戸通政:忠通の子。生涯寝たきり状態で、宇都宮の合戦に参加した以外は
これといった事績はない。水戸城にさえ入ることが出来ないほど重病だったので
事実上家督は継いでいない。
江戸重通:通政の子。忠通から間接的に家督を継いだ。結城晴朝の妹を娶り、
天正期の佐竹と結城の協調路線に大きな役割を果たす。園部の帰順を巡って
大掾と争う。謀反した神生を匿う額田と争う。これらの戦いでも佐竹は終始江戸本宗
に味方している。天正四年八月四日、信長の奏請により従五位下但馬守叙任。
ちなみに義重は六月十日に従五位下常陸介叙任。
しかし何故か秀吉の小田原征伐には佐竹と同道せず、義宣に滅ぼされる。
江戸謎
江戸の最期は本当に謎だよな。
それまで、どちらかというと佐竹と協力し北条と対立していたのに、
秀吉の小田原征伐では北条の要請を受けて小田原不参陣。
江戸は、秀吉でも小田原城は落とせないとでも判断したのか?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 18:09
しかも江戸氏は北条と敵対してたよね
何考えてたんだか全く分からんね
案外佐竹の陰謀だったり・・・
>>54 常陸南部に勢力を広げるにあたり、常陸南部の連中が秀吉については邪魔になるからね。
奴らが悉く北条に組せば、秀吉の威光の下、悠々と支配を進められる。
でも小田原参陣の直前まで南奥で伊達と争ってたんだから、
実際は佐竹にそんな余裕なんか無いだろうな。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 18:16
江戸氏は水戸城や小幡城のような佐竹よりも大きい城郭を所有してたけど
どの程度の兵力があったんだろうね
事実上従属してたって事は佐竹よりは少ないんだろうけど
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 18:27
人取り橋の戦いの時江戸重通が太田を攻めたって言うけど
これは何だろう、またいつもの隙を見て掠め取る作戦だったのか?
当時は従属関係とはいえわりと友好的な関係だったと思うが
>>57 あれは、江戸と大掾の争いが再燃して、大掾方支援の為北条が北上したとか、
佐竹方の大将佐竹義政が殺されたとか、諸説あるからね。
江戸の太田奇襲の信憑性は低いと思う。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 18:52
>>58 だよな、状況的に江戸が敵対する事はまず無いと思う
その後も友好的だし。
敵対勢力が北上してきたとしたら北条か北条方の大掾や小田だろう
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 18:57
そもそも江戸氏が奇襲ってのが
伊達方の流言じゃないのか?
デマや偽情報は時代を問わず
効果大だぞ。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 18:59
>>60 それはないな
佐竹はすぐに引き上げたわけじゃないから
何かあったのは確かだ
63 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 19:12
その後江戸氏が佐竹氏から
報復を受けていないこともあるし
デマだろ?
江戸氏や宇都宮氏なんかも何だか動きがよく分からないな
敵とか味方とか言うようなものじゃないね
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 19:21
個人的には江戸氏より大掾や小田じゃないかと思うが
江戸氏の性格からいくと一慨には言えない
水戸城も小幡城も婚姻や同盟を結んでいたにも関わらず
突然襲いかかって奪ってるからね
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 21:41
>>51 江戸通政は寝たきり状態でも子供がいるってことは
チンコは勃ったんだな
>>63 な。不思議だ。ザザっとすぐに退却したのだからもちょっと佐竹文献
残して欲しかったけど、俺が知らんだけなのかな。
人取橋は義重が率いていたわけではなく、奴僕に殺された佐竹義政が大将だったなんて説もあるしな。
佐竹家譜では確かに大将は義政となってるんだけどね。
本当に謎の多い合戦だな。
何か文書出てこないかなといつも思うよ全く…
佐竹家って名門なのに文官が少なかったのか
そのあたりは伊達に完敗だね
71 :
フレッシェルホワイト軍曹:04/06/29 00:46
人取橋合戦はおそらく、『会津四家合考』の
1.佐竹大将小野崎義政出陣
2.その死(馬の世話係にブッコロされた)により撤退
が正しい。
義重は出陣せず。また里見江戸太田領進軍説はほぼ間違いなく秋田藩時代の妄説。
関東の地理、当時の情勢を知っているものなら、飛語にしてももっと上手い嘘をつく。
秋田藩は元禄期に家士の文書を採集して家蔵文書として纏めているが、
何故か小野崎本宗の文書が無い。おそらく散逸した。
『奥羽永慶軍記』には3.義重出陣 4.義宣が里見江戸太田進軍を義重に御注進
とあるが、この『奥羽(ry』が書かれた時期は家蔵文書の最初の採集の時期と一致する。
意地悪く考えれば、『奥羽(ry』を書いた秋田藩士戸部何某は証拠が無いのを
いいことにちょっと脚色しやがった。佐竹の恥にならないように。
さらにもっと言ってしまうと、ひょっとして小野崎本宗の文書も藩自体がゴニョゴニョゴニョ
ちなみに『会津四家合考』は会津松平藩士向井何某が編纂した。寛文二年完成。
立場から言えばこっちは比較的客観的に書かれているといっていい。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 00:50
寛文二年の史料が信頼に値するのか?
当事者誰も生き残ってないだろう。
さらに他所から来た他所もんにわかるのかね?
73 :
フレッシェルホワイト軍曹:04/06/29 01:22
>>72 わたしは
>>71絶対的に『会津四家合考』のほうが優れているといっているわけではない。
あくまで『奥羽永慶軍記』は『会津』に比べてかなり信憑性が低いといっている。
もう一度言うが、
『奥羽』は当事者の関係者である秋田藩士戸部が元禄期に書いた。
『会津』は当事者とはほとんど関係ない会津藩士向井某が寛文期に書いた。
『会津』以上に信憑性の高い史料があるなら、その説を認めるのも吝かではない。
付け加えるなら『佐竹家譜』も同様に、「義重が出陣しておらず、義政の横死に
よる撤退」説を取っていることも付け加えておこう。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 19:04
前から思ってたんだけど小野崎義政ってどんな人物なんだろう
総大将の小野崎義昌が急死したから速やかに撤退したってのは
一番納得しやすい撤退理由に感じる。
連合軍て指揮系統弱いね
連合軍アホだなー
レシーバー持ってけよ
78 :
今朝卵・朝藍:04/06/30 06:50
義政の事跡で大体事実と思われること。
1542 天文十一年 佐竹義篤四男中城三郎生。幼名乙寿丸。
忌み名昭通→義通→政幹→義政。
1560 永禄三年 山能小野崎成通の養嗣子となる。
1564 永禄七年 大掾慶幹の養嗣子となる。
が、慶幹庶子の三村?貞国が大掾を継ぐことになったので小野崎に戻る。
1568 永禄十一年 四月 義重、義政を先鋒に竜子山城の
岩城家臣大塚親成を攻めるが、抜くこと能わず兵を還す。
1571 元亀二年 五月 下妻城攻防戦(岩井合戦)。
義重、多賀谷政経を助け北条氏政と戦う。義政、東義久別働隊として太田より援兵。
1572 元亀三年 七月 寺山城の合戦。葦名盛氏、南郷に侵入。義政、寺山に後詰。
1576 天正四年 六月 高道祖原の合戦。北条氏政、多賀谷政経の死を衝く。
義重、多賀谷重経に請われ、下妻に義政を派遣する。
重経義政、北条氏政を撃退し、且つ天神、飯沼両城を落とす。。
1585 天正十三年 十一月十七日 奥州高倉陣にて下僕にヌッ殺される。
79 :
今朝卵・朝藍:04/06/30 06:59
ちなみに人取橋の連合軍と言ってはいるが、なんかそういう同盟みたいな取り決めが
あったわけではなくて、「おいおい、二本松をブッ殺すのまではやりすぎだろ!」と、
なんとなくみんなが適当に派遣したらあんな大軍勢になってしまったっぽい。
どうやら白河も岩城ももちろん芦名も当主が出陣していないようで、
だから義政がいなくなた時点で帰らざるを得なくなったらしい。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 07:13
「イラク正規軍」VS「連合軍/有志軍」(日本の自衛隊・オランダ軍・ポーランド軍)
といったところか? 本国のことばかり気になって、全員浮き足だってる
じゃねーか。
もしかして天正16年の政宗包囲網も、みんなが勝手に兵をだしたら
「おいおい、なんか包囲しちまったYO」みたいな感じだったの?
教えて、偉い人
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 16:25
川σ,_σ||<教えて厨「おいおい、なんか包茎臭いYO」みたいな〜
imimumei
>>81 あれは最上義光が企図したものだから、偶然では無いと思う。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 23:06
>>82 まさかこのスレで柴ヲタ見るとは思わなんだw
>>78 義昭の弟だったのか
これだけ活動してたのにかなり知名度が低いな
やはり不名誉の死により隠蔽されてたのだろうか
佐竹って質実剛健のイメージがあったけど義宣とかは案外派手好きなんだね
義重はあつがりと聞いて、ちょっと好きになりました
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 09:24
age
>>86 不名誉な死などなどよりも
佐竹の知名度の低さが原因かと。
常陸の王者と、常陸で食い詰めてトーホグに夜逃げした乞食を同列で語るという時点でこの
スレは終ってるな。
さすが源平合戦でハブられた常陸の王者は違うな
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/09 20:47
佐竹義重って、馬鹿じゃないの?
「人取り橋」はそのまま戦ってれば、完全に佐竹連合軍の勝利
に終わってたよ。伊達を壊滅させるチャンスを自ら放棄して、
陣所に火を放って撤退したというんだから、間抜けだよな。
91の糞レスからこのスレは糞スレになるそうです。氏ね。
相手にしないのが一番だぞ・・・
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/09 23:04
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 00:09
>>93 折角政宗が自分の判断ミスで連合軍結成の口実を作
ってくれたのに、機を活かさなかった義重は確かに阿
呆だな。
政宗を放っておけば、北条と結びつきを強めて、対
佐竹用遠交近攻を完成させ挟撃することは、誰の目に
も明らか。(実際そうなるところだった。)
よくもまぁ、江戸期に伊達の3分の1「も」残せたな。
ある意味政宗以上の世渡り上手かもな。
政宗が1567年に生まれて最も幸運だったのは佐竹家か
も知れんよ。政宗が5年早く生まれていれば、多分対佐
竹用遠交近攻は完遂されていたであろう。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 09:38
( @u@)ノシ「政宗もうちょっと早く生まれていたらすごかった説」がまたまた始まりましたよ。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 12:37
独眼竜ビームっ!!(@u@ .:;)ノシ
>>98 >政宗が5年早く生まれていれば、多分対佐竹用
遠交近攻は完遂されていたであろう。
こう言い換えてもいい。秀吉の北条征伐が1年遅れていれば、
多分対佐竹用遠交近攻は完遂されていたであろう。
政宗のプランは明確。北の大崎義隆を討ち、後顧の憂いを絶った後、
北条氏政と連携し、佐竹を討伐。関東進出を果たし、秀吉と対決する
(軍事衝突は避けただろうが)というものだ。
秀吉が1年くらいもたついていたら、佐竹はどうなっていたことやら。
なんで政宗厨ってのは、政宗に都合の良いifを持ち込んでまで政宗を大人物に見せようとするんだ?
何年早く生まれてたらだの、秀吉がもたついていたらだのと、何を言ってるのか。
そんなこと言ったら、人取橋で大将の小野崎義政が死ななかったらとか、
郡山で岩城や石川が親族の情けで和睦に動かなかったらとかもありになるぞ。
そうなれば遠交近攻だの言う前に、伊達家は佐竹に従属する羽目になってたかもしれん。
大崎は葦名が消えてすぐ傘下に入りましたよ
>>103 時系列、逆じゃないの?
1589年4月 大崎義隆、政宗に服属。
(北方の憂いが絶ったところで政宗の南下策スタート)
6月 摺上原の戦い。葦名滅亡。政宗黒川城へ入城。
余勢を駆って南奥州の中小大名を鎮圧。
翌90年 小田原参陣。
な、なんだってー!(AA略
大崎が傘下に下ったのは、前年に最上、大崎と和睦
(ママンが居座ったアレ)した後、最上義光の仲介による。
政宗の外交手腕というより鬼母のおかげ。
>北方の憂いが絶ったところで政宗の南下策スタート
ってあるけどさ、大崎が傘下に入る前も普通に南側攻めてないか?
>>107 家督相続をしてから4年間位は、政宗は「内憂外患」状態で、「奥州制覇」
どころでなく、成算なき戦い方ばかりしてる。
1585年、いきなり大内定綱にコケにされ裏切られたことで、頭に血がのぼった状態
で芦名攻めし、「小手森城での撫で切り」に及ぶ。この凶行が輝宗の拉致・客死につ
ながるが、これに逆ギレして報復に出たのが無謀な「二本松攻め」で、結果的に連合
軍の一大包囲を食らった(人取橋の戦い)。
1588年は「大崎」で痛い敗戦。同年「相馬」と小競り合いしてるが、これは舅の田村氏
の内紛が原因で派兵。どれもこれも19〜22歳頃までは、若さにまかせた戦いばかりで
「戦略」どころではない。ただし、これらの異常な戦い方が、逆に畏怖の感情をまわり
に与えたことも確か。
つまり、政宗がようやく自信をつけ、本格的に「南下策」を意識し、実行に移せたのは、
1589年(23歳)の摺上原の戦い前後ってこと。
>>106 義子(義姫)ってさ、どう考えてみても、兄・義光想いの
「ブラザーコンプレックス」だよな。「女」として天秤にか
けた時、「兄」「ダンナ」「息子」の中で一番愛していた男
は「兄・義光」だったと想像する。
>>108 どうして摺上原の戦い前後から自信をつけて
本格的に南下策を実行したって言えるのがよくわからん。
普通に考えたら摺上原も成算なき戦いの一つでは?
>>110 政宗の胸中には、「関東から中央へ進出する」(=南下策)って計画は、
妄想でも何でもなく、構想として早くからあった。芦名の「会津」は関東
への「入口」だから、何がなんでも攻め滅ぼす必要があった。
しかし、その見通し(実力)がついたのは大崎服属後の1589年4月時点頃。
初陣から3〜4年では、さすがに無理。それまでは、親父の弔い合戦やら
大崎攻略や最上との和睦に明け暮れてるわけで、南下どころの話じゃない。
芦名は、猪苗代がいい例だが、後継者問題でごたごたしており、家中が分裂、
そこを巧みにつけ込んだ。政宗は動員兵力でも上だったし、芦名の情報を握り、
ある程度の成算を見込んで、一気に摺上原で勝負に出たんだと思う。
>>109 まあ好きで結婚したわけでもないし、そもそも今の結婚観とは違う。
本当に輝宗の寝首をかきに来たという説があるくらいだから
「伊達家は敵、米沢城は敵地」と考えていたかもしれない。
それなら、兄>>(超えられない壁)>>ダンナは普通だろう。
息子も幼い頃に取り上げられているから「敵であるダンナの手先」だと考えられなくもない。
80日間居座りも穿った見方をすると、政宗自身を北に引き付けておいて
南の佐竹、葦名らに「お前ら、さっさと伊達家潰せや」
と鞭を入れるためにやったと取れなくも無いなぁ。
いざというとき、実家にさくっと帰れるように国境にいたとかw
>>111 関東進出は1585年の最上義光宛の手紙の中にあるな。
「関東中も手安く候」なんて言ってるが、実際は
手安くどころか4年もかかったわけだが。
政宗が5年早く生まれても芦名盛氏にぶっ殺されるだけ
佐竹と伊達が対立しだしたのっていつ位からなの?
義重の正室は伊達からもらっているのだから昔から悪かったってわけではないんでしょ。
南奥州の覇を争った葦名盛氏と佐竹義重の対立のとばっちりですよ
>>113 政宗が5年早く生まれてた場合、芦名盛氏の晩年(54歳)頃に当たる。
政宗の初陣をスライドさせると、1575年はちょうど息子の盛興が死んで、
悲嘆に暮れて消沈してる毎日。この辺から芦名家の衰退が始まってるから、
盛氏が残り5年の人生をかけて抗争するのは、かなりしんどい。
へたすると、政宗の弟・竺丸の芦名への養子化が実現した可能性もあり、
その場合、佐竹は背後に爆弾をかかえた状況になる。
5年スライド説って、政宗だけでなく輝宗を含む伊達家の家臣全員が
5年早く生まれたとしての仮定?
輝宗が生きていて、竺丸は予定どおりに生まれてきたとすると
家督を政宗に譲っていない可能性も大きい。
また、時期を芦名盛氏の晩年としているけど、当時伊達家は相馬と敵対関係だった。
天正12年に輝宗が和睦しているだが、これも5年前倒しで考えるのか?
佐竹と伊達は破局するまでには至っていない訳だが
佐竹側が外交手段を用いずに、黙って政宗(輝宗)のやることを
見物していなければならない理由もないぞ。
政宗が5年早く生まれていようといまいと関係ない。
義重が機を活かすということをせず、伊達と北条に挟ま
れる状態を許し続け、佐竹家を窮地に追いやっていたの
は事実。
別スレで、人取橋か郡山では義重夫人(伊達家から来
た)が夫の出陣を止めていたという書き込みを目にした
が、事実なら情に溺れて国策を曲げるという解釈が成立
し、義重が能力以前に人の上に立つ資格の無い人間であ
ることの証明になる。
政宗風に言えば、
「情に過ぐれば断を欠く」
といったところだな。
いいかげん早く生まれた云々は飽き飽きですよ
だが他にネタがない
ヘタレ話なら腐るほどあるが
>>118 義重の片腕の東があのときに限り判断を誤ったからそういう説が流れたんだったな。
そのスレでは話としては面白いけどあまり信憑性が無いという結論だったぞ。
義重が機を逸するというのは、人取り橋、郡山のことか?
人取り橋は義重は北条の動向のせいで出陣できず佐竹側の大将が失敗続きで
優勢にありながら結束できず撤退して結局伊達は侮れないという印象を与えてしまった。
でも郡山で強引に攻めなかったのは秀吉の方針を順守しただけで
もし強引に攻めたらそれを口実に秀吉に罰せられる可能性があったから間違いとはいえない。
>>114 多分芦名の後継者に伊達から養子をもらうか佐竹から養子をもらうかでもめて
結局から佐竹から養子をもらうように決定した直後あたりから。
政宗数年前生誕仮定にありがちな落とし穴。
・様々な因子を除外する。
数年前に生まれていたら、当然「現実」とは全く違う環境で
育っているわけであり、同じ人間に育つことはありえない。
「現実」と同じ条件がそろっていないのである。
・「数年前に生まれた」あとも、政宗にとって有利な仮定を連発。
例)10年前に生まれていても「現実」と同じように会津を取れる。
→会津を取れば100万石の大名になっているはずだから…云々。
・政宗にとって不利な仮定はほぼ無視する。
数年前に伊達が会津に進出していれば会津の地侍は
どう行動しただろうか?すくなくとも佐竹の例を見てみれば
好意的ではないが、こういったことさえも考慮されることはない。
・賢い人はこれを循環論法と呼んでいる。
こうした仮定を繰り返して説明するのは、政宗はチョースゴイということ
であり、そうすると今度は政宗はチョースゴイということを根拠として
この仮定が正しいと主張する。
・仮定が適用されるのは常に政宗だけ。
他の大名でも似たような条件を作ってやれば
いくらでも、例えば天下さえを取らせることも可能。
・話を何度もループさせる。
ログをきちんと読んでいないため、または理解できないため、
一度なされた話題を何度も繰り返す。
「詭弁の十ヶ条」に続く、新たなテンプレ?
>>122 >政宗にとって不利な仮定はほぼ無視する。
「不利な仮定」を別に無視してないと思うが?
あくまで可能性の話だし。
ちなみに「もし」(IF)、義重が「人取り橋」にあと3日
留まって総力戦に持ち込んでいたら、かなりの確率で政宗は
敗北しただろう、とも仮定できる。その場合、義重が奥州の
盟主となる。
しかし、義重は戦いの決定的瞬間に引き上げたために、政宗厨に、
いらぬ想像をかきたてられてしまうわけだ。
>>121 どこかのスレで「芦名の後継者に伊達から養子をもらう」
という話自体が、伊達家では治家記録以外に残っていない。
外交上重要な戦略が他の史料や手紙にも残っていない事から
治家記録を編纂した後世の伊達家家臣による捏造ではないか?
という話が出ていたが、芦名もしくは佐竹にこのあたりのソースとなる史料はあるのか?
>>124 このスレでも既出だが、人取橋に義重は出陣してないという説が濃厚だよ。
佐竹勢の大将であり、実質連合軍の総大将であった義政の死が撤退の原因だと思う。
そうなると、伊達政宗は義政の下僕に命を救われた事になるんだな。実に運が良い。
運の良さ=英雄の証
あと数年速く生まれていたら、というのは、要するに……
秀吉の「関東・奥両国惣無事令」邪魔じゃい。
蘆名が秀吉の部下になってて最悪。
という事だろ? 要するに。
天下取れるかどうかは別として。
>>128 政宗は惣無事令なんて無視してたんだから、邪魔とかいう問題じゃないと思うが。
むしろ、それに命を救われてないか?
>>129 郡山対陣ではたしかに政宗の和睦工作は惣無事令を利用してるな。
もし惣無事令がでてなかったら
無事に切り抜けられるかどうかはともかく別の手段を講じただろう。
芦名が伊達から養子をもらっていたら芦名に佐竹を押さえてもらっている間に
伊達が相馬や岩城などの佐竹の与力大名は滅ぼして併合できたかもね。
若輩の政宗の弟がどれだけ役に立つかどうかは未知数だけど。
家譜の記述だと、郡山対陣に先立って、伊達家を案じた義重の正室が、
東義久に義重を止めるよう懇願したんだよな。
で、それを引き受けた義久が、義重に出陣を見送るよう説得するが、
義重は頑として聞き入れずそのまま出陣。
それでも諦めない義久は、陣中でも再三義重を説得し続けた。
これが本当の事だとすると、義久は女にほだされすぎだな。
>>130 >若輩の政宗の弟がどれだけ役に立つかどうかは未知数だけど。
実家第一主義のママンに育てられているから、
最上とつるんで伊達に敵対するという可能性もあるな。
>>132 そこまで器用なことができるほど成長してないと思うぞ。
母親が付録で付いていけば別だが。
最上義光と義姫は、輝宗時代の伊達領を虎視眈々と
狙っていたのは事実だな。
内憂外患を抱えながら勢力を拡大した政宗と、
外患を外交で減らしつつもロクに勢力を拡大で
きなかった義重。
どちらが将として優れているか考えるまでも
無い。江戸期の伊達と佐竹の石高差=実力差だな。
>外患を外交で減らしつつも
>ロクに勢力を拡大できなかった義重。
確実に拡大していた訳だが。
伊達は秀吉のおかげで摺上原での大幅拡大以前に
まともな勢力拡大って何があったっけ?
親族にも離反されているイメージしかないが。
>>136 >伊達は秀吉のおかげで摺上原での大幅拡大
秀吉の「おかげ」で佐竹は54万石に躍進。伊達は一揆で騒然としていた北方
へと移封された。
佐竹は「後北条」「徳川」と、いわば超大国と接していた。大変な脅威だった
ことは事実だが、これと常に反目ばかりして、その地の利を生かし切れていない。
「北条」とは完全に敵対(このため南下策はストップ。北上策で伊達と激突)、
「徳川」からは石田と通じた曖昧な態度を疑われた(秋田へ転封)。
伊達家からみた場合、背後に敵をかかえた状態で北上してくるわけだから、
南の北条と組んで佐竹を挟撃する戦略を立てるのは当然のことで、その辺の
工作も匂わせていたのではないか。
人取り橋での突然の奇妙な撤退も、「北条の影」を気にした佐竹の心理を
表している、ともとれる。
関東制覇を目論む北条と隣り合わせていることが地の利か?
どう生かせと。
越後と同盟して北条を叩く戦略が正しかろう。
秀吉の惣無事令のために佐竹は存分に動くことができなかった。
そのおかげで芦名に勝って国土倍増。
しかしそれを生かすことができず,獲得領地没収。
佐竹は秀吉の力を良く読んでいたために常陸一国を得ることができただけだろ。
伊達には秀吉の力を読む力がなかったのは事実だ。
だいたい佐竹も好きで北条と敵対していたわけじゃないだろ
圧倒的に有利な北条が積年の目標である関東統一を諦めて佐竹と結ぶ事があるわけない
佐竹が独立国家を保つなら北条とは戦わざるを得ない。
当時の佐竹の置かれた状況から言えば北条の侵攻を防ぎ生き残る事ですらかなり難しい
その合間に北進をして領地拡張していたのだから義重は評価に値するのは間違いない。
佐竹が秋田転封になったのは決して悪い結果とは言えない
我が家は佐竹時代は足軽に毛の生えた程度だったが
徳川時代は水戸藩で上位に入り込めたからな ハハハ
>>138 その辺りは年齢の差だと思う。
若干は地の差もあるかもしれないが……
何しろ政宗はまだ若すぎる。
親父は殺されて荒れてるし、領土拡大の野心を抑え得る程年季が入ってない。
それでも、結果的には宿敵を滅ぼした上で領土は安泰だった。
年の差を考慮に入れれば、政宗は充分やれているのでは?
それと、佐竹にとっても『惣無事令』は有利に働いていたのでは?
惣無事令が有ればこそ、北条も過激な行動には出なかった筈。
北条攻めの口実も、結局北条は大規模行動ではなく小競り合いを起しただけだった。
現実的には惣無事令に従っていた佐竹は、間接的に秀吉に臣従、乃至味方となっていたのでは。
逸れに対して北条は秀吉と仲が悪かったように感じる。
>佐竹にとっても『惣無事令』は有利に働いていたのでは?
勿論,有利に働くように自重していた訳だから当然でしょう。
むしろ,伊達の芦名攻めに積極的に対応して伊達を殲滅したら,佐竹もどうなってたか判らないだろうし。
>>141 北部です。
鎌倉以前から佐竹に仕えていたが
身分が低かったせいか一族全員常陸に居残りました。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 02:41
年齢で言うなら義重なんかは政宗より若い16歳で家督を継いでるし
しかも相手は大国の北条だし政宗なんかとは比較にならないような厳しい状況だった。
て言うか若くから活躍した武将なんていくらでもいるし。
なんで伊達厨は政宗だけ特別扱いしたのかね・・・
>>145 そうは言うが、政宗も結構キツかろう。
周囲からがりがり攻められてて、周り殆ど敵だった訳だから。
むしろ当時の政宗と義重の年齢の話。
政宗20歳ちょっとに対して義重何歳だと?
てか伊達厨に限らず、厨は自分の神様を持ち上げる罠。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 02:52
>>144 一族自慢かよ。
地位が低かったんだろ。
前々から仕えてれば普通は付いていく。
政宗がキツくなかった,とは謂わないが,他の戦国大名に比べて政宗の状況が悪い訳ではない。
同じ年ごろの状況を考えれば,義重の方がよほど酷い状況に有ったのだから,政宗の年齢を持って擁護する理由にはならないだろう。
勿論,義重の状況だって,信長や秀吉に比べればよほど恵まれていたとは思うが。
政宗と直に対峙していたのは義昌や義久だから,義重との年齢差はあまり関係ないのでは?
義重って、もう義昌とかのやり方に口出ししなかったの?
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 03:04
>>146 年齢の問題じゃないだろ
義重が16の時北条氏康は47ぐらいだ
例の板東太郎の異名を取った下総での北条との戦いと時はやはり20代前半だったし
絶頂期の氏康に比べればヘボ義重がオッサンなのが政宗の不利になるのか?
>>147 スマン、ささやかな自慢です。
佐竹時代はどういう軍の編成だったか知らないけど
家臣5人連れて出陣したなんて記録があるから本当に下っ端だったと思う。
でも水戸藩時代は某家老に養子だしたりしてるだよ
なかなか出世したもんでしょw
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 03:15
伊達政宗は放っておいたら、京まで攻め上ってしまうんじゃないか(できるかどうかは別にして)というようなギラギラしたものがある。
ヨーロッパに人を送ったり、何と言うか気宇壮大。
佐竹義重はせいぜい常陸一国を治められれば満足しちゃう人。
北条や伊達みたいに自分の周辺で現状を転覆させる怖れのある勢力には立ち向かうけど、
自分から外に出ていって関東全土を掌握しようとか考えない。
一般的には政宗が優秀と考えられている。
でも佐竹をよく知っている人からすれば、そうではないかもしれない。
まあ、どっちも優秀なんでしょう。どっちが優秀な人なのかはわからない。
でも、あの手この手で野心を実現させようとする政宗の方が物語の人物としては面白い、ということになるのではないでしょうか?
以上、通りすがりの感想です。
口出すもなにも勝手に殺されちゃあ・・・
>>152
また大河厨ですか
>>152 歴史に無知なふりして煽ってるのか?
最近は煽りも手が込んできて本気なのか区別がつかん
>>150 ヘボ義重って……
義重を誉めてるのか貶してるのか、どっちなのかと。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 03:57
まぁ、野心や発想が常陸一国ってのはあるかもなー。
逆に言えば、常陸一国の発想をするからこそ確実な歩みを出来たとも。
政宗は発想が大きすぎてヘマをしそうな希ガス。
何言っても実現できなきゃただの法螺だからな
その点信長なんかはやはり英雄だな
義重は少なくとも北関東だけは室町時代のままにしておきたかったの。ただそれだけ。
良くも悪くも室町の臣かな?
ていうかお父ちゃんの義昭がちょっと長く生きて義重に戦国のノウハウを
教えてれば佐竹も普通の戦国大名になったかもしれないけどね。
義重は謙信のほうに憧れちゃったんだね。
別に常陸一国や北関東を取って終わりです、なんて分けないだろ
当面の目標ってだけで北関東制覇すれは次は奥州や南関東を制覇に乗り出すだけ
考えてる事は誰でも同じようなものだ
方法や過程が違うだけで
義重は北関東はおろか常陸さえ切り取ろうとは思ってなかったけどな。
義昭は順調に南にも勢力広げてた感じがするけど
その義昭が若死にして次の義重が若輩者のためか佐竹の勢力は後退。
しかし、あいかわらず外敵の北条は勢力をさらに拡大してたわけだから
生き残るには周りと争うよりも団結しなければと若くして感じたんじゃないのかな。
義重は室町の臣だから他の大名領主を滅ぼさなかった、てことだよな。
こういうタイプってあの時代ほかにいた?
しかし北条のやり方を見て戦国というものは知っていただろうに。
親子そろって義理堅いってことかしら。
>>165 北関東の諸豪族は北条のやり方に反発してたんだから、それと同じ事を佐竹がやれば
北関東の豪族と敵対する事になる。
そんな中では、北条の北進を防ぐどころか争ってる間に北条に飲み込まれるよ。
やはり義重のとった方法は正しいと思う。
>>161 >義重は謙信のほうに憧れちゃったんだね。
しかし領土欲がなく、越後から「義」の旗を掲げて風のように出たり
入ったりを繰り返す謙信との連携は、不安じゃなかったのかな?
というか、ぜんぜん当てにしてないような。
義重が家督ついでから数年後には、謙信は北条と同盟してるし。
>>168 謙信はある意味馬鹿だからな。
相手が『俺が改める』って言ったらコロリと信用する。
>>166 そこが佐竹の苦しい所だね
佐竹自体他の豪族と同じ程度の国力しかないのだから
諸豪族達に見放されたら単独じゃとてもじゃないが北条なんかと戦えない
生き残るには義重のやり方がベストだったよ
北条が滅んだ後秀吉のお墨付きが出たとたんに
息子は周りの有力者を謀殺して支配体制強化してるからな
息子を止めないあたり義重もできることなら北条みたいなシステムに変えたかったようだな。
172 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 06:32
日本一恥ずかしいヘタレ大名佐竹義重。
で、その恥ずかしいヘタレに負け続けたのが伊達
174 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 07:36
秋田に飛ばされたのが佐竹
175 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 13:22
>>174 それはただの事実で,煽りでもなんでもないぞ。
>>173 そのヘタレに負け続けるようなヤシの前に跪いて生き延びたのが白河。
白河なんて、南北朝の頃は伊達とタメだったのに恥ずかしいほど落ちぶれてるし。
福島中通りの香具師が必死に佐竹を叩いてるスレはここですか?
>>176 その白河に見切りをつけられたのが佐竹。
伊達に降った時点で白河や石川を攻め滅ぼせば良かったのになぜしなかったんだ?
人取橋では、敵前逃亡の佐竹(笑)
掃討戦をしないことを敵前逃亡とは普通の人は謂わない。
>>180 なるほど。すると
>>179によれば真珠湾の南雲中将も第一次ソロモン海戦の三川中将もル
ンガ沖海戦の田中少将も敵前逃亡ということでOK?
漏れは今までこれらを単なる「追撃不徹底」なだけかと思っていました。
眼から鱗がボロボロ落ちまくっている最中です。
まあ義重と政宗どちらが能力が上かなんてのは、結論でないだろうねえ。
我々は歴史でしか判断するしかないし、歴史なんてのは勝者の歴史でしかないし。
でもまあ、政宗の方が野望のスケールの大きさは感じるな。野望の大きさに能力が
追いついているかどうかは微妙だがw
一応62万石(実質石高はもっと上)で生き残ってるんだから、まあギリギリのと
ころで野望と能力のバランスが取れていたんだろう。
だが、仮に仕えるとしたら義重の方がいいなあ。政宗はいきあたりバッタリともと
られかねないお茶目な博打的行動が多すぎる。野心たらたらで周りにちょっかいだ
しすぎだな。きっと政宗の家臣はドキドキハラハラの連続で気の休まる暇がなかっ
ただろう。片倉小十郎あたりなんか各方面編への尻ぬぐい&お詫び行脚で胃がキリ
キリしていたんじゃないかな。野心とスケールの大きさは政宗がまさるが、安定性
や堅実性では義重の方が上のような気がする。内政や風流・教養は互角か。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 21:46
義重の書で重文クラスのものがあるのかね?
待て、お前ら、
政宗の相手は世代的に義宣だろ?
勝負になるかどうかはともかくとして。
>>182 安定性や堅実性の結果が、伊達以下の石高というわけか。
内政手腕は政宗の方が優れていると思うがね。
義重の風流・教養を示す逸話って聞いた事ないけど、何かある?
義宣は政宗よりさらに若いから、戦のことについては比べにくい。
政治面に関しては両者、負けず劣らずだと思う。
性格は似た感じだな。
ただ、政宗は野心を表に出して、義宣は内に秘めるって感じか。
義宣としては歳の近いこのいとこに良くも悪くも強く影響を受けたのだろう。
義宣なんて石田三成に肩入れして家名に泥を塗ったダメ人間だし
じゃあ、輝宗と義重だとどうだろう?
>>188 このスレで輝宗と義重を比較してどうするんだよ?
190 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 05:32
世代的には、
伊達政宗 1567〜1636
佐竹義宣 1570〜1633
最上義光 1546〜1614
佐竹義重 1547〜1612
「アンチ伊達」ということで、最上義光vs佐竹義重
の比較スレがあってもいいと思うが。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 12:13
>>181 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
192 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 14:05
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 21:22
佐竹って、源義光の嫡流で常陸源氏だと思うが
たしか室町期に、上杉から養子を向かえて
上杉の系統に入れ替わってなかったか?
>>194 確かそうだよ。
それ以外にも、江戸時代には相馬から養子を迎えてたと思う。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 21:38
佐竹って、常陸源氏っての誇ってた割には
そのへん、いい加減だったんだな...
たしか、武田信玄に対して俺たちのほうが本家って言ったんだろう?
まあ、そういえば、佐竹よりやや北の奥州の大名たちは
他家からの養子が多いよな...
相馬なら平氏だからまだいいじゃん
>>195 相馬からの養子は
一旦佐竹から来た人の子孫だよ
新皇の末裔>源氏の分家
つーか相馬は千葉の分家だろ
>>194 養子つっても婿養子だがな
>>196 いい加減で信玄に対して本家なんていえないだろ
信玄自信が後で誤ってるくらいだし
202 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 09:56
佐竹って「家柄」自慢しかできないのかな。
そんなことだから、肝心な時(関ヶ原)にも
右往左往してばかり。
>>190 あーこれだと、義重>>>義光だなぁ
なんか義光は無駄に人殺しすぎちゃった感じがする・・・
関ヶ原のときは完全に勝ち組み、負け組み決まったって思ったろうにねぇ
>>202 家柄自慢
>魚名流山陰中納言の後裔
肝心なときに右往左往
>小田原攻めのとき 秀吉なにするもの→十字架パフォーマンス
206 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 03:14
最上が東軍についた、というのは東北方面が先に戦渦に巻き込まれたからで
決断について佐竹と比べるには状況が違いすぎる。
佐竹の前提として、「家康は花房職秀から佐竹の挙兵はないと聞き出陣した」
という話から表立った西軍支持はありえない。
となると東軍支持。状況は東軍が優勢。地理面からも東軍支持が妥当。
だが当主の義宣はそれを許さなかった。彼は義を採るべしと考えた。
義か利かで家中は割れた。日和見以外に選択肢はなかった。
結果として転封。褒めれたものではない。しかし義宣を責めるのは筋違い。
それが彼の生き様だったわけで、その姿勢は大谷や幸村のそれと一緒さ。
(一日で勝負が着くとは考えなかっただけでの日和見、という話もあるが
「義理堅すぎるのも困る」という家康の言葉を信じたいぜよ)
渦中の佐竹家を昔のシャディのCMっぽくまとめてみました。訂正あれば
結果だけ見ると家康は最初から最上は取り潰し、佐竹は転封で存続って
決め手かかってたように見えるが、塞翁が馬ってやつなのか・・・
佐竹が関が原であの態度を取ったのは
三成、家康と両陣営の中心人物と親しかったから
日和見でも問題ないという確信めいたものが義宣にあったからじゃないかな。
現に関が原直後は家康も何もしないと約束しているわけだし。
「義理堅すぎるのも困る」というのはそんな言葉を信じた義宣への皮肉じゃないかな。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 06:39
>>206 >だが当主の義宣はそれを許さなかった。彼は義を採るべしと考えた。
この当時、実権はまだ義重が握っていたはず。義重は家康側につくことを
強く主張してる(当然の判断)。義宣は仕方なく、表向き父親に従い、
秀忠に忠誠を誓ったが、うじうじ迷い続けている。おまけに翌年の正月の
家康への挨拶までもすっぽかす(あてつけ?)など、外交術もヘタ。
奥羽戦線で「義」に従ったのは、頑固一徹な上杉家のみだと思うが。
佐竹ならかりに東軍についても関東のあの位置にそのまま外様を
置いとくわけにはいかなかっただろうな。
里見のようにいずれどこかへ飛ばされただろう。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 07:25
大掾一党を呼びつけて皆ブチ殺し、昔からの重臣も平気でサクサク殺した義宣が
そんなことでウジウジ迷う訳ない。義宣ははじめから様子見組。
むしろそんな姿を見ていてヤバイヨヤバイヨと出川状態だったのは義重。
義久にもお願いして家康につくように言ってもらったが義宣は拒否。
義久仕方なく自分の六万石から数百の兵を出して江戸参陣。
しかも家康に余計なお墨付きまでもらう始末。
テメー義久何勝手なことしてんだYOボケおめーイラネと義宣怒って義久も暗殺。
ちっとぐれー場所移動するくらいでごちゃごちゃ言うんじゃねーよ、糞家臣どもが、
と逆切れ状態で秋田へ移動。そして小五月蝿い家老をヌッ殺す。
こっちのほうが真相に近い。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 11:30
>>211 うーん賛成できんね。
義宣本人は三成シンパで西軍として出ようと思ったが
義重その他の反対でポシャッタだけだろうね。
なんせ史実はゲームみたいに当主の意志だけでどうこうできるわけじゃないから。
あと現代人だから義宣の行動は疑問が出るだろうけど、
当時はそこまで西軍必敗とわかりきってたわけじゃないしね。
実際、関ヶ原自体は戦術的に西軍の勝ちはあったし。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 13:33
>>212 >あと現代人だから義宣の行動は疑問が出るだろうけど、
東軍が勝か否かは、誰にもわからない。「家康につくか、三成につくか?」。
上杉とは違い、義宣の態度が曖昧そのものだったこと、それが問題なわけ。
義宣は一端棚倉へ出てから、8月には常陸太田へとさっさと帰って
しまった。一体、この男は何を考えているのか?これを家康の面前で
行った。この「行動」は家康にみならず、上杉方からも大きな不信感と
怒りを買ってしまった。結果的に、両者から呆れられた。
義宣は家康が嫌いだったのかもね。
三成と仲が良かった訳だし、後年は江戸で秀忠のお茶友達だし。
三成との親交という以上に家康を毛嫌いしていた可能性はある。
義宣ってどんな人間だったんだろうか。
常識のないあたりは天才の部類なのか、ただ単にわがままな凡愚なのか。
なんせ政宗の従兄弟だもんなあ。
>>207 どうでもいいことだが最上は取り潰されて無いぞ。
減封になったのも家康が死んで5年以上後経ってからだ。
ていうかな、
家康につけば土地柄から言ってもおそらく佐竹が先陣の一端を担わなければならない。
上杉についてもとんでもない消耗が強いられるのは明白。
佐竹はどっちについても損やねん。
上杉だって結局会津に帰ってしまう程度の義理しか石田に持ってないし、
義宣も兼続の提案(上杉と心中しろという)なんて勝手すぎると思っただろう。
この際はメンドクセーから棚倉へ出ておけばどっちにもなんとなくついたように見える
それでOKじゃん。しかも東北戦線は石田の蜂起でご破算になってしまうし、
後々どうなるかわからんのだからとりあえず様子見するのが一番賢い選択だよ。
黒田や伊達はまわりに小勢力や他方面攻めてる反徳川派ばっかりだったから
いきなり切り込んだりもしたが、佐竹の場合は徳川派しかいないからな。
まぁ義宣が優勢に見えた徳川に兵を出さなかったのは、もしかしたら
宇都宮が手に入るんじゃねえかと思ってたっぽいけどな。
たぶん兼続ともそんな密約があったかもな。
家康はそれを感ずいていて、義久に宇都宮与えようなどと義宣に厭味見せたりしたな。
しかもあとで佐竹に宇都宮5800石を加増してる。
217 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 06:19
「NHKに佐竹義宣を大河ドラマ化してもらう運動」
というのが、実在するそうだね。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 10:18
だから家の事を信長の野望みたいに何でもかんでも当主一人の判断で実行できるわけではないだろ。
家臣の反対もさる事ながら親父の義重が居たからなあ。
当時の佐竹にとって義宣と義重の存在は
徳川秀忠にとっての家康、織田信忠にとっての信長とまではいかないまでも
北条氏直にとっての氏政くらいの権威はあったと思う。なんせ鬼義重とまで言われた男だからね。
義宣がたとえ何がなんでも西軍として積極的に戦いたかったとしてもそれは不可能だろうよ。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 12:17
徳川秀忠にとっての家康→秀忠は家康の意向に「従った。」
佐竹義宣にとっての義重→義宣は義重の意向に「従わなかった。」
これいかに?
義重は呆けてたのか? 息子の判断ミスを諫めることもできず、
戦後は駿府まで出向いて、家康に謝罪してる始末。
「鬼」の面影はどこにもない。
義宣は中立というか日和見という形で
妥協したというとこだな。
自身は三成派ではあるが、
家内が割れていたので自分も譲歩せざるおえない
程度の権力しかなかったんだろう。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 13:16
でも結果論で言えば佐竹は東軍につかなくて良かった。
あんな江戸に近い常陸なんかにずっといたら、
里見と同じようにそのうち言いがかりをつけられて改易させられるだけだ。
まあ上杉とかも同じ事が言えるな。
毛利もそうだ。幕末に長州藩大活躍ってのもあるし。
前田は徳川にたいした事ないとなめられてるし、島津は日本最南端の僻地だ。
>>221 東軍についててもいずれ常陸から追い出されたのは間違いないだろうね。
よくて転封、下手すりゃ改易か。
>>218 >北条氏直にとっての氏政くらいの権威はあったと思う。なんせ鬼義重とまで言われた男だからね。
義重の発言力は義宣以上に強くはなかったし、その半分程度もあったとも思えない。
ましてや渾名が発言力に影響することなどありえない。
何故そういえるのか。↓
1.義宣は徳川方に軍勢を出していない。佐竹から数百が参陣したのは事実だが、
これは数から言っても状況から言っても義久の手勢のみなすのが妥当。
親徳川の義重の発言力が義宣並にあったというなら、佐竹本宗から
少なくとも数千は出るというのが納得できる状態である。
2.a義宣は慶長六年1601の大阪城の年頭参賀をすっぽかした。
bまた義宣は徳川方に組しなかったことの謝罪を家康にしなかった。
義重の発言力が強かったと言うなら、何故自分の息子である義宣にきちんとaとbを
行わせることが出来なかったのか。
つまり義重の発言力とは義宣を翻意させるほどは強くなかったのは明白であり、
佐竹の政治的動向の最終的な決定権は義宣にあったと言うことも同様である。
無論これは義宣が義重の意見を一切受け入れなかったと言っているわけではない。
さらにオイラは義宣は初めから徳川方石田方どちらにも組する気はなかったと見る。
先にも書いたが鹿島行方一党を暗殺という方法で皆殺しにし、江戸や大掾という
盟友と言っていい存在をローラーのようにすり潰し、一族の長倉氏を命令に
従わなかったと幽閉し、近習といざこざを起こした重臣をも暗殺させ、
世継ぎと決めていた義継を廃嫡して吉隆を引き立てたような
冷酷で決断の人間義宣が、何故関が原で石田三成の義に迷って優柔不断を
起こさなければならないのか理解できない。
即ち義宣は初めから最後まで意思を貫徹したと見たい。
もっともこれは実際にはよく言われるように迷ったかもしれないし、本当のところは謎である。
またこれはあまり証拠にはならないかも知れないが、上杉攻めの際宇都宮朝勝は
宇都宮で一揆を扇動している。朝勝は上杉と佐竹の密約を取り持ち、
事の起こった場合には宇都宮家の再興を画策していたと思われる。
義宣はこの計画のために兵力を温存していたのではないかと思う訳である。
以上、長文失敬恐恐謹厳。
義宣について、家臣が怖くて顔を見ることができなかったって言う話が残っているけど
これは義宣の家中での絶大な権力を現しているのかもしれないな。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 21:32
>>223 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
ここは思いこみや想像を書き散らして
みんなで突っ込んで楽しむとこじゃないの?
いいじゃん、
>>223 おれ、何となく義重が生きてた頃ってのは
義宣より発言力があったのかな?って思ってたけど
こんな見方もあるんだって思ったよ。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 05:38
佐竹義宣が「中立を一貫して守った」と言うのは、義宣の「言い分」であり、
政治的には完全な失敗だ。形の上はともかく、いくら「中立」と言い張ろう
が、内容的に(敵・味方双方から)「中立」たり得ていなければ意味がない。
なぜなら、家康側は「佐竹は上杉と内通し、寝返りがあり得る」ことを小山
から江戸へ転進する際(1600.7/24〜26)にも、完全に見透かしている。
7/25に白石城を攻略した伊達政宗も、奥羽戦線は上杉(+佐竹)との戦いと
見ており、当時「佐竹=西軍」は奥羽の諸将にとっても、暗黙の了解だった。
つまり、義宣が「中立」に上手に成功したとすれば、本領安堵という結果が
伴って初めて評価されること。義宣の「日和見」は「20万石への転落を招いた」
のは紛れもない事実で、駆け引き的には失敗だろう。(戦後、何とか家康にねじ
込んで、秋田移封を避けるとか。あの兼続ですら家康に早々と頭を下げているの
に、いくら何でも翌年の年賀のすっぽかしはないだろうよ(笑)
小田原征伐の際の、義重の老獪な立ち回りの巧さと比較すると、義宣の処世術の
下手さが際立って見えて仕方がない。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 09:48
>>227 > 小田原征伐の際の、義重の老獪な立ち回りの巧さと比較すると、義宣の処世術の
> 下手さが際立って見えて仕方がない。
家康だの秀忠に「律儀」と評されたのは、そのあたりに対する皮肉も混じってるんだろ。
家康自身どこまでが演技だったのかは知らんが秀吉が死ぬまでは一貫して「律儀」を通し
てきた人物だけにさ。
229 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 16:31
>>228 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
230 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 17:56
>>227 だなあ、誰もがかれもが佐竹は西軍だ三成シンパだと決めつけてたからね。
もし、そういうのを払拭したいのなら田中吉政くらい積極的に東軍で働かなくてはいけないのに
あんな不透明なフラフラした動きばかりしてるようでは上杉以上にムナクソ悪い奴だという印象しか与えん。
どちらにしろ佐竹義宣の行動はオツムの足りない最低のものだったという事だな。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 19:03
>>230 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
俺は義宣は西軍と決めていたと思うけどな。
しかし西軍として動くとすれば、どうすればよかったのか。
@江戸に攻め入る A上杉と連携する。
合戦が長引けば、どちらも佐竹には厳しいものになりそうだな。
例え西軍であっても佐竹は身動きがとれなかったんでは?
それと義久が生きているうちは転封なし、という話があるけど
家康がそれを聞き入れた理由は何だろう?
>>232 義久が兵を率いて東軍に参加しているからじゃないか?
そもそも五十四万石の総力をあげて戦ったことは一度もないから
「常陸一国」の佐竹の実力は未知数なんだよな。
四万も集めたけど、統率が取れなくてまったく動けなかったのかも知れん。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 07:00
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 07:16
佐竹・上杉が徳川と一戦やるとすれば、
上杉(36,000) 徳川家康(75,000)白河口
佐竹(16,300)仙道口 徳川秀忠(3,000) 白河口
伊達政宗(17,500)信夫口
最上義光(7,200) 米沢口
前田利長(25,000)津川口
この包囲体制の中で「中立策」を採る佐竹の意図が不明なわけだが。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 20:37
そこはそれ、三成と仲良かったらしいから・・・
宇都宮の改易に連座させられそうになった所をとりなしてくれたのも三成だしな。
つまり、これであっさり東軍なら、義宣は人でなしってことだな。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 19:28
>>239 でも、初めから人でなしの政宗よりはマシだよ。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 20:37
>>239 大恩人の三成を裏切った田中吉政の立場がないぞ。
三成が清正等に襲撃されたとき、義宣は真っ先に駆けつけてるな。
よほど恩義を感じていたのだろう。だったら、関ヶ原でも、完全に
「西軍」として行動しても良かったようにも思えてくる。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 20:45
>>242 佐竹の地理関係を思えばどうしようもない。
動きようがないと思う。
そもそも家内にも義重はじめ反対派がいるのだし。
どっちにしろ領内に引き篭って
秀康の大軍を釘づけにしておくのが
西軍としてやれる最大の貢献だったのでは?
245 :
不動院豪盛:04/08/13 10:07
西軍につけば対徳川の急先鋒、
東軍につけば戦後徳川の目の上のたんこぶ、
そりゃ悩むわ・・・、
246 :
無名武将@お腹せっぷく :04/08/13 11:52
東軍についても結局遠国に転封
常陸の民のことを考えれば 水戸徳川より佐竹の方が善政であったから
西軍が勝利するしか佐竹の常陸統治はなかったのか
ありえない話だが
真田のごとく
兄弟で東軍、西軍にわかれるのが
佐竹家百年の計
248 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 12:39
>>247 西軍についたほうは取りつぶし
東軍についたほうは常陸領存続のち改易
もしくは遠方で20万石程度
結局は西軍について日和見が最善の策だと思うぞ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 12:56
義宣「あ、俺?強いっすよ?なんなら東軍、西軍両方ぶち殺しましょうか?」
『いったいどうなってしまうのか!!』
安東氏の遺産がありながら後発の酒田や新潟に追い抜かれた秋田
252 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 14:40
>>245 いくらなんでもそこまでは考えてなかったろ。
>>246 西軍が勝つのがありえないという事はない。
でも秋田の大名と言えば佐竹。
安東って誰だよ?
秋田→宍戸→三春
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 07:14
直江のプラン(あくまで机上)は、「佐竹参加」で計画は練られていた。
@伊達・最上と和睦(背面の安全確保)
A白河口で徳川本体と決戦・撃破。
B逃亡する徳川を背後から佐竹が挟撃。
C関東討ち入り。
ところが、軍令違反に匹敵する、秋田実季の酒田城攻撃がすべてを
ぶちこわした。これに最上が反応、釣られる形で直江が軍を出した
ため、「山形の一局地戦」に終わってしまった。
戦後、佐竹と領地が入れ替わった秋田実季は、責任をとらされる形で
「20万石から5万石」へ減封された。
幕末でも、こっそり官軍に寝返って味方のふりして
列藩方を後ろから撃ったり、秋田氏は面白いな
>>255 実季は元々5万石だと思うが(蔵入地2万6千を除けば)。
20万石は秋田、戸沢、小野寺まで合わせた石高だろ。
>>257 関ヶ原後の論功行賞を見ると、秋田実季は、
出羽秋田19万石→常陸宍戸5万石(−14万石)
となっているな。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 08:07
260 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 01:13
>>259 >>255を踏まえると、それでも10万石はないと計算が合わない。
戸沢も小野寺も3〜4万石の小大名だし。
それとも、豊臣家の直轄地でも設定してあったのか。
秋田実季領 五万二千四百四十石
秋田領蔵入地 二万六千二百四十五石
戸沢政盛領 約四万石
小野寺義道領 約三万石
以上約十五万石
その他六郷領、ニガホ領、矢島領、打越領、浅利領等
こまごま合わせて十七万程度のはず。
ただし必ずしも近世秋田佐竹領と上の豊臣時代の出羽の石高、
または実高がぴったり一致する必要はない。
秋田の佐竹領二十万石は、その決められた経過からして
幕府の格付のほうがより大きな比重を占める。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 06:30
>>261 > その他六郷領、ニガホ領、矢島領、打越領、浅利領等
その辺って由利郡だよね?
だとすれば関ヶ原以降は最上領になっていたのでは?
最上家改易以降には岩城・生駒なんかがいたけど。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 06:31
伊達age
264 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 06:57
>>259 確かに秀吉は、天正18年、実季に「5.24万石」の領地を認めているな。
なお、秋田実季が佐竹と入れ替えで常陸へ領地替えされた背景には、
最上義光の讒言があった。義光は家康に対し、実季の軍事行動は「奥羽戦
線の大勢が決まった後のもので、火事場泥棒に等しい」という言いがかり
をつけており、これが元で慶長7年の転封へつながった。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 17:38
>>264 政宗の火事場泥棒言いつけたり、実季の火事場泥棒言いつけたり、おまいは学級委員の
つもりか? まさに、義光必死だな。(w
確かに、義光は、政宗の一揆煽動の件も、裏で家康にちくっている。
政宗最高
>>266 南部はただ一人、山形を救援に行った所を
政宗に火事場泥棒されかけたわけだから
義光には報告の義務があるだろ。
つーか、政宗はなんでよりによって義光にバレるような
火事場泥棒やってんだよ。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 00:19
信長の野望をやってて、最上義光くんの顔を見るたび
学級委員長の五文字が頭に浮かんで微妙に半笑い状態がとまりません
誰かここに「先生!」のAA入れてみそ?(w
当初は奥羽の兵力を山形に終結させる予定だった事から
また、家康に奥羽方面分の兵糧1万石を貸していたらしく
義光が奥羽方面の責任者だった事は間違い無いみたい。
その状況で火事場泥棒を働く政宗は…厨だな。
このスレのせいで戦国史の関ヶ原シナリオ佐竹で始めました。
豊臣家1047万2470石、徳川家579万4775万石、佐竹家300万9084石、毛利家115万0418石、伊達家64万0495石
1606年9月
豊臣家1062万5604石、徳川家580万3379万石、佐竹家315万8633石、毛利家116万0849石、島津家、伊達家51万3137石
1606年11月
豊臣家1036万6464石、徳川家527万2018万石、佐竹家343万4083石、毛利家103万4304石、島津家、伊達家49万7555石
1607年9月
豊臣家1069万2841石、徳川家496万0802万石、佐竹家373万9760石、毛利家103万9919石、島津家、伊達家51万7804石
1608年10月
ついでにこのシナリオ作った人の評価
伊達政宗、戦6、政7、智8
佐竹義重、戦7、政6、智7
佐竹義宣、戦5、政5、智6
最上義光、戦5、政7、智8
政宗の知謀と義重の政治はもうすこし低くてもいい気もするけど,
まぁ納得が行く数値だな。
逆に義宣の政治が低すぎだな。
義宣の政治手腕はかなりのもののはずだが。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 09:52
いずれにせよ、秋田実季は「秋田5.5万石」→「宍戸5万石」。
150年治めた地からの左遷扱いであり、マイナス5千石の減封だ。
しかし、早乙女貢まで「秋田実季19万石」と記しているな…
>>275 このレーティングなら、政宗はオール3でもいいくらいだな。
他の武将が判らんが,この四人でならそう間違いでもないだろ。
政宗はゲームでは有名属性で修正入るのがデフォルトだし。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 11:59
>>276 義宣の「政治手腕」がかなりのもの?(p
家康にロクな申し開きもできずに、秋田へ飛ばされた男に
政治力もないものだ。
5時までやってて今起きた。
豊臣家1026万1912石、徳川家470万2835万石、佐竹家448万2233石、毛利家97万5712石、島津家、伊達家52万9797石
1610年6月
豊臣家957万3491石、佐竹家518万7436石、徳川家454万4031万石、毛利家100万2701石、島津家、伊達家53万0000石
1612年6月
豊臣家912万0213石、佐竹家599万6969石、徳川家462万1954万石、毛利家98万6726石、島津家、伊達家53万0000石
1613年4月
豊臣家788万7983石、徳川家757万2698万石、上杉家、毛利家、前田家、佐竹家60万5000石、伊達家58万5000石
1600年8月←ゲーム開始
もっとコンパクトにならんのか
283 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 01:14:15
ほしゅあげ
>>273 政宗は、上杉と密約的に不戦同盟を結んでいた。
最上は味方、佐竹は親西軍だが、日和見。
南部くらいしか攻める場所無かったんだな、多分。
政宗若いし、恐らく戦国時代の夢を忘れられなかったんだろう。
むしろ、徳川との約束での100万石をそもそも充てにしてなかったのでは?
普通に考えてみても、約束をしっかり守ったって、100万石も持たせてくれる訳が無い。
関ケ原合戦後の戦後処理を見ても、それは明らか。
佐竹、長曾我部、上杉、毛利、大大名と言えるような大名は殆ど厳封。
それなのに、何故野心丸出しの爆弾みたいな政宗に100万石を許すのか。
となれば実力行使で、奪い取ったという既成事実を作るしかない。
更にはさっきも言ったように、多分政宗は焦っている。
多分、最後のチャンスだと思ったんだろう。
あと、義光相手だからこそ、火事場泥棒がばれたんじゃないか?
義光はそういった事は御手の物で心得てるだろうし。
285 :
259:04/09/13 23:57:22
r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ メモ帳にでも書いてろ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ , な!
>>284 :::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
:::::::::::::::::::::::::::::l ヽ;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ /
::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ /
>>284 >それなのに、何故野心丸出しの爆弾みたいな政宗に100万石を許すのか。
許すでしょ。自己厨で領土慾丸出しの加藤、福島、黒田らに大封を与えたんだから。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 05:18:51
>>284 >むしろ、徳川との約束での100万石をそもそも充てにしてなかったのでは?
そうだな。家康の約束手形ほど当てにならぬものはない。吉川広家のように完全に
反古にされる悲惨な例もある。実際、家康が与えたのは、拘束力のある知行宛行状
ではなく、「覚」にすぎない。またそれを信じるほど、政宗はおめでたい男でもない。
>>284 なんか政宗の怪電波をしっかり受信できる義光を想像してワロタ
南部も信直の代に大崎・葛西の一揆で迷惑を蒙った口だけど
利直なら証拠の書状が出てこないうちは
「なんでこんな時に一揆がッ!」くらいにしか思わなかったかもね。
>>287 で。渡された加藤や福島はどうなった?
黒田の長政はともかく。
>>288 こうか?
アヒャヒャ!! ( ●∀゚) ─wヘ√レv〜 (´<_`; ) ……
290 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 06:17:07
奥州東軍で、義光の罠にはめられ割を食ったのは秋田季実。政宗の場合は自業自得。
とにかく、最上義光は一々秋田・伊達の落ち度を家康に通告しており、結果的に
「庄内方面」のおいしいところを全部かっさらってしまった。
最上→「33万石」の大加増
伊達→加増2万石のみ
秋田→常陸へ左遷
(訂正)秋田季実→秋田実季
学級委員がちくり野郎でも内申点ボーナスがつくのと一緒ですよ
学級委員ではなく、ただのパシリだろ。
>>293 いや、「田舎者学級トーホグ」の学級委員長だったんだろ。
他の地方に行ったら、パシリ以下のクズだけどな。
九州の大友みたいなもんだろ?
相手が秀吉か家康かの違いはあるが。
つーか、最近佐竹の話題が出ないんですが…
もう廃れ始めてるからさ
日本史板の佐竹スレのが有意義
佐竹は関ヶ原の時は棚倉まで出兵したの?
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< 皆でジオンに入隊しよう!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< ジオンジオンジオン〜!
ジオンジオン! > ( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
誤爆スマソ。
摺上原には上杉兵も援軍にいるはずだったんだけど
ちょうど佐渡出兵で会津から引き上げてたんだよな
いまだにロフトごときに行列ができる地下街すらない貧相な駅前や、地方中核市並のアーケードで楽しくショッピング。
態度が横柄、殿様商売と定評がある仙台商人に不愉快な思いができるのは全国でも仙台だけ。
今なら東北三大祭りと銘打って、アーケードには単なる吹流しが飾ってあるのでとてもお得。
特に商店街を闊歩する世界三大ブス軍団と、歓楽街を覆い尽くすピンクちらしの山は必見。夜になれば珍走団の爆音
を心ゆくまで堪能できます。
ショッピングに飽きたら意味不明な経路を通る地下鉄に乗って郊外へ。合併を繰り返した水増し政令都市だけに郊外は
広大。山形県まで続いています。
田舎のニセ温泉に入って産地偽装牡蠣やBSE牛、マズーな冷し中華などを堪能。金をどれだけ出してもあくまでチープな
リターンの仙台観光をどうかお楽しみください。
煽るな
佐竹厨の品質が問われるぞ
伊達厨のジサクジエーンなんだろうが
304 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 09:41:25
天下統一の際に国内の反対勢力を虐殺した佐竹。
秀吉の権威を笠に着て内側では弱いものいじめ。
茨城県人の陰湿さがよく現れていますね。
そして日本三大ブス名産地という名誉をものにした水戸市は
サイタマについで暮らしにくい都市としても名声を得ている。
一説には美人を従軍慰安婦として秋田へ強制連行したとも言われているが、
そのような証拠もなく、やはり水戸は元々ブサイクしかいない土地だったのだろう。
しかし佐竹の残虐さが強制連行などという噂になったのは間違いない。
さらに茨城県にはまともな観光地といえるものは一切なく、
県外からお金を落としに来るような人々もほとんどいない。
せいぜい貧相な筑波山や汚い泡の浮く海くらいしかないのは
はたから見てもある意味非常にかわいそうである。
それでも健気にこの土地に住んでいる人々は頑張り屋さんなのだろう。
しかしその間抜けな頑張りは誰にも評価されることはない。佐竹のように。
俺の数少ない経験でいうと、ブスの産地は 黒磯〜白河 がNo.1。次が水戸。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 01:45:09
このコラムには大笑いした。
県が球場改築に金を出すことはないし、そんなことをやったら誰も税金を払わないし、浅野知事は革新知事としての履歴を汚してしまう。ライブドアが自力でやることはない。
そもそも、社長は仙台の現実を知らないのではないか。いま東京と仙台は新幹線で2時間かからない日帰り圏内に入った。バブル崩壊後の不景気から、大手企業は仙台支店を畳んで北海道や青森に移してしまった。
評議委員をやっている私立小学校から、子供が減って困っているという報告を受けている。地元のダルビッシュ獲得とはスポーツ新聞の喜びそうな話題だが、ダルビッシュは大阪の子供で仙台に愛着はない。
牛タンも狂牛病騒ぎで、ベガルタと一緒に2部落ち。本来の、静かでいい町になりつつある。
http://www.fujitv.co.jp/sports/column2/new.html
まあ浅野のおかげで宮城県民が伊達政宗以降
ずっと時流に乗るのが下手なチンカスだという事が分かってよかったんじゃないw
ダルビッシュはいなくとも、メガネッシュがいるじゃないか
ダルビッシュはイランの子供で日本に愛着はない。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 11:41:52
まぁ、こんなことやっても虚しいだけなのは解っているのだが、
名所:偕楽園<松島
工産業:鹿島・日立>仙台・白石
有名人:水戸黄門=伊達政宗
名物:納豆(ノーコンテスト)牛タン
県庁:水戸<仙台
人口:常陸>陸前
高校野球:木内監督>ダルビッシュ
Jリーグ:アントラーズ>ベカルタ(>ホーリーホック)
プロ野球:( )<ライブドア・楽天
休みだ!:大洗海岸=蔵王(山形じゃんつーツッコミは無しで)
温泉:大子(誰も知らねーよ)鬼首
後は任せた、
>>312 鉄道:特急<新幹線
知事:橋本<浅野
メディア:茨城放送<宮城テレビ・東北放送etc
漁獲高:大洗<石巻
…なんだイバ人もっとガンガレ
314 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 23:48:02
>>313 比べる対象が何だか・・・、
鉄道の総延長なら茨城の方が長いし、
知事はどっちも実績無いし(茨城も先代の竹内藤男、先々代の岩上二郎は優秀だったのに・・・)、
メディアなんて所詮関東キー局の傘下だし、
漁獲高に至っては単に大洗が少ないだけで県単位では茨城>宮城だろ、
そもそも産業比は帝国書院を調べれば出てるわけであって、一次二次主要18品目では
茨城:米・野菜・繭・乳用牛・豚・漁獲・鉄鋼・機械・化学・窯業・パルプ・食品・繊維
宮城:りんご・肉用牛・木材・出版印刷
引き分け:みかん
な、わけだけどこんなもん比べてもつまらないでしょ?どーせなら出身は分からないけど誰でも知ってるものを比べると良いと思うy。
プロ野球選手、格闘家、キャッチコピー、美人、2ch人口etc
みなさん野球けっこう詳しいのだね・・・
ってかダルビッシュ君だって、高校生の一番多感な時期を仙台で過ごした訳だし
それなりに愛着はあるだろうと思う
野球といえばイチローもうちょっとだな。
318 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 06:27:36
比べるんだったら秋田と仙台、もしくは常陸太田と米沢だろうがこのボンクラども。
これだから東北のチンコロどもは半キチ野郎だといわれんだよ。
ま、いくらあがいても土佐にはかなわないがなプゲプゲラ
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 07:24:57
ageてまで何やってんだ、こいつは?
糞スレ発見
323 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 10:41:46
佐竹義重ってそんなにすごい人物なの?
【鬼義重】とか【坂東太郎】って異名があるみたいだけど
そんなに評価される人物ってイメージがないなぁ
どう考えても伊達政宗のがドラマにもなっているし上って気がする。
誰かこの人の活躍を教えて下さい
黙りuze
自分で調べろ。もしくはロムれ。
つーか、
>>302は球界再編問題板でさんざん岡山人がコピペかましてるネタだが。
この景気で本当に完成するのかどうかわからないハヤシバラシティとやらにマンセーして
いる岡山人こそ仙台人よりも水戸人よりも秋田人よりも哀れ。
ていうか、みきたに社長とえーと、あの楽天の社長はどっちが
マトモ?
仙台をブスの3大産地っていってる香具師は伊達政宗を語る資格はないな。
なにせしょうもないブス説の根拠になってるのは政宗のおかげなんだから・・・
キレイなお姉さん多い仙台をブスっていうならいったいどこが美人の産地なんだろ?
まぁ、秋田、京都、博多
京都は顔はそんなんでもないが、スタイルがいいとのこと
東北は全体的に肌綺麗だけどね。羨ましかったな。
京都の女の子は雰囲気が良い。
>>327 いや、確かに美人が少ない気がする。信じがたいくらいに見かけない。
三大産地の話聞く前から首ひねってたからたぶん間違いないと思う。
たまにいても県外の子だったり。全くいないとは思いたくないけど…orz
今いる福岡は平均点が高いだけで飛び抜けたのはいない印象だけど、
間違いなく仙台よりずっと美人多い。何でなんだろうな…orz
県内か県外か見分けるとか神の領域だなw
中学の時の理科の先生が仙台はブスばっかりだって言ってた。
政宗が原因だったのか。
んなわけねぇだろ……とネタにマジレス(藁
実際美人が多いのはどこかね。京都に言った時は美人だぁ!
ってのはあんま見ないけど、東京の大学に通ってる京都の子は美人、かな。
大阪はあんま…ちょっとなぁ…。
それなりに新田開発などの仕事があるので、働かない美人より
働くブスを優先的に連れて行ったとか(根拠なし)
綱宗が懸想していた花魁を殺した(非事実)ことの祟りとか
美男子が多い(一応三大美男子都市)のでホモが横行して、
女性がやる気なくしたとかいろんな説がある。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/18 08:58:14
どっちもすきすき
336 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 10:16:42
どっちもクズクズ
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 22:40:03
政宗のか〜ち〜
糞スレageんな。
339 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/21 14:20:44
佐竹の治世は最高でした
廃墟
ドラマ大奥に政宗出てなかった。
家光「生まれながらの将軍じゃー」で期待したのに。
大奥に政宗出なかったのか…
観てなかったからホッとした。もしも出てたら大後悔だった…
伊達家て、魚名流藤原氏じゃないんだってな
345 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/29 16:10:19
人気無いか
土居輝雄先生マンセーーーーー!
347 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 08:10:46
伊達政宗と佐竹義宣は、生没年がほぼ重なっている。
しかし、そのイメージは、昔のレコードに例えれば、
A面「政宗」/B面「義宣」ほどの違いがあるな。
なんだよお前ら
やってることは一年中同じだな
思い込みです思い込みです思い込みです
糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ
思い込みです思い込みです思い込みです
糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ
思い込みです思い込みです思い込みです
糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ
思い込みです思い込みです思い込みです
糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ
思い込みです思い込みです思い込みです
糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ糞スレ
353 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 23:36:22
佐竹が義経の次の大河にノミネートされたと聞いた。
本決定かどうかは別として。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 23:40:24
・・・そして、現在の日本。
李舜臣の子孫はこの地で殷賑を極め、かっては江戸と呼ばれた地、六本木に進出するまでになる。
しかしそれはまた別の話、別のときに語るとしよう・・・
おー佐竹くるかくるか?たのすぃみだ
しかし義経はどんな感じになるんだ?頼朝が悪人みたいに描かれなきゃいいが…
>>355 義経の次は山内一豊の話だったはず。
佐竹はノミネートだけでしょう
357 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 23:56:13
次は、世界三大提督の一人、偉大なる李舜臣の話をすることにしようか・・・
358 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 16:13:13
よく覚えてないが俺も何かで見たy。
確か直江兼続・島津義久・佐竹義重・南総里見氏が候補で
島津に決まりかけたのに「国内に反発がある」とかで、再協議したら
利まつ二番煎じよろしく山内一豊になっちゃったとか・・・。
島津が何で反発されん?
ニダだろう
363 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 20:33:18
よーするに仲間由紀恵をメイン使いたかったんだろ?
その候補じゃ女の出番が少なそうだモンな。
しかし佐竹大河って一豊以上に地味にならないか?
脚本次第で相当化けるとは思うし、見てみたいけど。
>>361 琉球もな。だから無難に九州三国志にしろと…
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 00:29:31
李舜臣
武力 67
統率 92
政治 53
智謀 81
魅力 95
野望 63
特技 水戦、威風、奮戦、鼓舞、火矢
異名 世界三大提督の一人
朝鮮の至宝
列伝
いわずと知れた、朝鮮の誇り。
義弘、如水、清正らの参加した日本軍と抗戦し、撤退を強いた義将。
戦いの最中、落命するが、その威像は、今もソウルに泰然と聳えている。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 08:34:24
李舜臣
いわずと知れた、朝鮮の誇り。
その威像は、今もソウルのあちこちに渋谷の「ハチ公」
のように泰然と聳えている。その目はぐっと日本を睨んで
いるとも。しかし口元は、裏切り者の仲間・元均に対する
憎悪と怒りでわなわなと震えて見える。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 09:51:45
蒲生氏郷>上杉景勝>本庄繁長>伊達政宗>甘粕景継
368 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 09:58:49
(1601年)
蒲生氏郷(合掌)<甘粕景継<本庄繁長<上杉景勝<伊達政宗
369 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 10:58:07
李舜臣>>>蒲生氏郷>伊達政宗>上杉景勝>本庄繁長>甘粕景継
370 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 10:59:30
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
371 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 13:43:53
最上義光>>李舜臣>>>蒲生氏郷>伊達政宗>上杉景勝>本庄繁長>甘粕景継
うざいニダでも湧いたのか?
373 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 12:25:02
ここもオナ臭いスレですね
374 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 18:53:15
>>371 371よ、最上義光が出羽の暁将であることは認める。
しかし李舜臣は世界三大提督であり、朝鮮の至宝である。
したがって、
李舜臣>>>蒲生氏郷>最上義光≒伊達政宗>上杉景勝>本庄繁長>甘粕景継
が正しいのではなかろうか。
>>374 なぜドサクサ紛れに蒲生が二位に浮上してるの?
つーか「暁」将って何? 木曽義仲の「旭将軍」の同類?
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/15 22:21:57
>>375 レス、ダンケー。
氏郷公は颯爽とした名将のため、ご登場頂きました。
私は日本の武将では氏郷、中国の武将では仲謀が好きです。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 00:31:06
>>376 ネルソン≧ジョーンズ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>イ
イスンヨプ
>>377 ネルソン>ジョーンズ>>>ジョン・ポール・ジョーンズ>>>>>>>>>>>>>>李
ちゃんと読んでないからどういう流れで朝鮮人が出てきたのか知らんが
世界三大提督って初めて聞いたな。
いや、そんなんどうでもいいんだ。
水軍の将と陸を主戦場にする将を比べるなよ。
朝鮮人ってなんでこんな頭悪いんだ?
ID出ないからって調子乗んな。
で、自力で領土倍以上に増やしてる伊達政宗が最上義光に劣ることなんてありえない
まぁ、この法則でいくと
伊達政宗>蒲生氏郷>上杉景勝>最上義光>本庄繁長>甘粕景継
こんな感じになるな
まー伊達も最上も蒲生も名将だけどさー、
何を朝鮮人の釣りに嬉々としてのってるんだ?
だいたい最上は領土は増えてるし(すぐ減っちゃったけど)。
歴史人物は不等号で優劣つけられるような単純なもんじゃねーだろ。
と釣りにマジレス
>>381 釣り宣言とか来る前にそういうこと言うなよ。
つまらんじゃないか
>>382 朝鮮人の釣りはおもしろいと思うかぁ?
まぁモマイが面白くいじってやれるなら文句は言わんけど。
以下朝鮮人はスルーで。煽りに乗ったらそいつも朝鮮人。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 22:54:19
じゃあ、また佐竹大河を
本当にやるかもしれんかったのか?
386 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 23:03:08
李舜臣>>>蒲生氏郷>伊達政宗>上杉景勝>本庄繁長>甘粕景継
本庄は政宗に圧勝しているがなw
388 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 12:15:26
えっ?籠城って圧勝できる戦術なの?w
>>387のいう「本庄圧勝」は、福島県の地元作家の書いた上杉寄りの小説か、
『会津陣物語』か、古老ばなしの類に出てくる「圧勝」のことかと思われる。
390 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/20 16:50:27
「政宗、泣きながら敗走」とかだったら圧勝と呼べるんじゃねw
まずありえないけど
391 :
若 ◆88NDKnKnUU :04/11/20 16:53:27
篭城が戦術? 穴熊w穴熊w
政宗の穴熊姿には萌え萌えですがw
入れ食いです
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 16:26:31
ダテマサムネ
伊達政宗 曰く、
. . ●
|ニ|
|ニ|
|ニ|
. ー─--、
. 〉 /\__/ヽ`i
/ 〉 ||
|: /__ __|_
(^Y ━` i´'●| _.. ‐ァ=r‐''⌒゙二ニ二つ
ヽ_, 」 | _. -‐ '"´ l l r} } }l
/'ヽ ─ / __ . -‐ ' "´ l ヽ 、 ヽ_ノノ
/\.,,ヽ 、 -‐ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ーテヽJ
_.. -‐''フ|フヽr-‐ ''''フ. ̄「´ / / __.. -'-'"
. ‐ '7 く/|〉-rへ. / l l / . -‐ '"´
┌‐────┐
│ 政宗 .|
├───‐─┴────────────────────────
│
>>387本庄繁長よ。捏造のネタ元はばれておるぞ!見苦しい限りじゃ…
└─────────────────────────────‐
396 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/21 23:48:20
!!! 世界最初の飛行機は朝鮮で作られた !!!
!!! ライト兄弟より300年も前である !!!
世界最初の飛行機は朝鮮の飛車であった。
朝鮮の鄭平九(チョン・ピョング)という発明家が作った。
ライト兄弟の飛行機より300年も前に作ったのだ。
壬辰倭乱(訳注:文祿の役)の時、ある孤立した城で包囲された城主がこの飛車で救援されて30里(訳注:朝鮮10里≒日本1里)外に脱出したという。
このままじゃ法則が発動しそうだな・・・、
>>359-361 そもそも、韓国に配慮して文禄・慶長の役を描けないなんて誰がいいだしたんだ?
秀吉の唐入りは当時の大名だって殆んど支持せず
朝鮮併合のように朝鮮人がそれを望んだわけでもない
国内の支持すら得ていない秀吉が無駄な戦争をしただけ。
韓国への配慮なんかいらないだろ。配慮するとしたらむしろ
調子にのって非戦闘員を殺しまくった某大名や
敵を云万人殺したって吹聴してた某大名の子孫や地元への配慮だろう。
利まつの延暦寺焼討や一向門徒虐殺にしたって
信長や利家を悪く描きたくないんじゃなくて、延暦寺や浄土真宗への配慮じゃないか?
延暦寺焼討に時間を割けば、当時の延暦寺の腐敗、焼討された理由も描かざるをえない。
一向宗にしたって、政治介入や全国での門徒の蜂起、身分秩序を乱して守護を殺害したことや
伊勢長島の虐殺の前に信長の弟を殺している事、指揮官たる僧が門徒に殺害された内ゲバ
門徒数万人を戦に狩出して殺しておきながら、何の責任も取らずに余生をおくった顕如
いまや天皇家とも縁戚の真宗がこんなことに触れて欲しいとは思わないだろ。
ドラマの中でもしっかり実弟を殺している信長に、なんの配慮がいるんだよ。
朝鮮も沖縄も被害者にしてくれるなら大歓迎なんじゃないか。
つーわけで佐竹か里見がみたい。主役はリポピタンDの渡辺さん。
>>398 もうちっと現代を知ろうね。
ニダとチョンは理屈じゃなくかみついてくるのだよ。
>>398 釣りかと思ったが、本気で言っているようだな
佐竹の場合、関ヶ原で表向き「中立」を表明していたが、
当初から家康に上杉との共謀を疑われている。家康は
上杉と佐竹は、伊達・最上が気になって絶対に動けない
ことを見透かした上で悠々と小山から江戸へ帰っている。
佐竹ドラマでは、この辺をどう描くのか興味がある。
親子対決じゃない?
>>399 どういう主旨で噛み付いてくんの?
朝鮮は負けてないニダって言ってくんのか?それなら島津大河にはなんの差し障りもないな。
島津が半島や沖縄で大活躍した場面描いて、地元鹿児島が喜ぶとおもうか?
信長のドラマで信長に都合の悪い虐殺だけを取上げるわけにはいかない
ということは虐殺の対象も掘り下げなければならない。
戦国時代の延暦寺は女犯肉食が常だったので、浅井朝倉を口実に焼き討ちされました。
信長と一向宗の戦いは凄惨で数万の門徒が虐殺されました
しかし、伊勢・越前の門徒が掃討されると、門徒を焚き付けた顕如は降伏して大往生しました。
延暦寺や本願寺がこれをやってくれと思うか?
喪ち付け。一週間も前のことを蒸し返すな。スレが荒れる。
まぁ荒れるよか廃れてた方が良いわな
406 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 06:21:34
g
>>404 荒す気はないし、荒れるような話題でもないでしょうよ。
>>399か
>>400が、島津大河化の時に想像されうるニダとチョンの反応ってのを
教えてくれればいいわけよ
そしてそれが大河の製作に関わるのかどうかを知りたい。
名城を行く
久保田城・横手城
鹿児島は日本一在日ニダの数が少なく、力の弱い土地だから大河やっても大丈夫だろう。
うん。
朝鮮で明、朝鮮連合軍を爽快にぬっ殺しまくるしね。
前スレより
>394 :無名武将@お腹せっぷく :04/04/23 18:47
>圧倒的に佐竹が格上だろ。
>冷酷非情の政宗に殺されそうになった国分盛重は、佐竹に温かく迎えられたからな。
>盛重は大坂冬の陣で奮戦して翌年歿するが、秋田伊達家は幕末まで残ってる。
>もし、盛重に心残りがあるとしたら、政宗と対決して首を取れなかったことだろう。
秋田伊達家を継承したのは養子の伊達左門宣宗で実父は佐竹(東)義久。
伊達の名跡を乗っ取っただけだし。
国分盛重の実子達は仙台に残ってます。
長男は不詳だが出家して僧になったと伝わる。
次男の実永は持惠澤山龍寶寺住持で、玄性坊と称した。
三男の重広は着座古内家の養嗣子で、7000石余を領した。
庶子の重吉は開墾に勤しんだ。子孫は国分姓を憚り、馬場若しくは桂島を称し、子孫は仙台藩の平士。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 03:11:59
古内重廣の子は伊達騒動で活躍してますな
413 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 13:36:11
常陸介の佐竹氏と、常陸国伊佐荘及び下野国中村荘を管理していた伊達氏の先祖だったら、
支店長と営業所長くらいの差だな。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 19:03:36
比べるなら新羅三郎義光じゃないのかぁ?
415 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 23:56:29
佐竹は鎌倉時代に常陸介に叙任されてたのか?
比べる時代によると伊達が中納言な時代もあるわけだが。
416 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 02:45:05
佐竹氏
源平合戦の時代には源氏でありながら平氏についた。
南北朝動乱期には北朝方。
関ヶ原では偽源氏ではなく卑賤の男に組した。
伊達氏
源平合戦の時代には源頼朝にべったり。
南北朝動乱期には奥州伊達氏は南朝方、但馬伊達氏・駿河伊達氏などは北朝方
関ヶ原では偽源氏に組した。
時代の変革期における大きな戦でも殆ど敵方ですね(苦笑)
源平合戦って謂っても
単純に源氏と平氏の争いじゃないからねぇ
418 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 15:09:46
ああ、裏でメディチ家が糸引いてたからな
>>411 そして、その亡命時期については長い間仙台人の捏造が定説となっていたが、秋田在住の
作家土居輝雄氏によって小田原役の前年であることが立証された。
これからは、この説が定説となっていくことでしょう。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 14:50:56
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
422 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 07:24:25
>>420 国分盛重は小田原役のあとも伊達に在籍しておりますよ。
葛西・大崎一揆にも出陣しているし。
へーーー
伊達家の伝える系図が本当ならば、
藤原藤嗣従兄に平城天皇、嵯峨天皇がいて、
藤原中正の外孫に藤原道長がいて、
藤原為盛の外孫に平清盛
常陸入道念西の娘は源頼朝の側室で、
伊達氏宗の従兄に足利義満がいて、
伊達秀宗は豊臣秀吉の猷子で、
伊達政宗の娘婿は徳川家康の子(松平忠輝)で、
伊達光宗の従兄に徳川家光がいて、
伊達綱宗の従兄に後西天皇がいて、
伊達宗城の孫と伊達宗徳の子は旧皇族に入嗣している。
外戚関係だけは名門クラス
>>424 名門と姻戚を長く結べるのは名門だけ。。。
伊達秀宗の正室は井伊直政の娘
伊達宗城の次男は松代真田家の当主
西国で受け継がれる赤備の遺伝子
>>422 もうその話を持ち出してくるだけで仙台人の捏造にひっかかっているのがよくわかる。
藤村氏といい、仙台人は捏造の天才だからな。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/01 18:00:13
伊達政宗関連本で、横沢彦三郎が登場するものを探しております。
気がついたら、連絡くださいまし。
>>420>>427 >小田原役の前年であることが立証された
裏付けがあってそう断言してるわけだよね?
「立証」って何? 説明してくれる?
431 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 04:37:24
>>430 何だ仙台人って?ただの低脳のカスの煽りかw
432 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/02 05:17:55
こいつは「日本史版」の佐竹スレで論破されて、逃げ出してきたと思われる。
間違いなく同一人物だよ。佐竹ファンからも顰蹙を買い、恥呼ばわりされていたな。
アンチ佐竹の発言に対しては、「仙台人、必死だな」としか言えない。
またソースすら示せないから、相手にしないでスルーがベターだよ。
伊達ファンの人、佐竹ファンがこんなんばっかだって思わないでくれな……。
そんなこと思わないさ。佐竹の立場は良くわかる。
どう考えても佐竹のほうが有利だったにもかかわらず、伊達に何度も負けて
養子にやった芦名を滅亡させた上に佐竹自体まで危なかったんだもんね。
いいところが全くなかったから、卑屈になる気持ちもわかるよ。
源氏の名門だなんだといっても結局何もしなかったしね。
誇れるものが何にもないってのは哀れだよ。同情するよ。
・・・だから伊達厨は嫌われる
436 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 16:29:15
それなりに優秀な人材がどの世代に居たかとか、隣の勢力がどんな勢力だったかとか考えないとダメだろ。
義姫というブレーキがきく最上と、
追い詰められてブレーキがきかなくなってる北条と、
どちらが背後の敵として控えてるのが不利かを考えると、
佐竹が伊達に対して必ずしも優位に立って対決に臨んでいたとは言えない訳で。
また、秋田への減転は義宣の立ち回り方が政宗よりも劣っていただけで、義重の資質は関係ないし。
>また、秋田への減転は義宣の立ち回り方が政宗よりも劣っていただけで、義重の資質は関係ないし
ストップ
君は水戸なんていう江戸にモロ近い場所に外様の大藩を置くのかね?
立ち回りがうまければ遠いところにたくさんの領地を貰える
子孫は教科書にも載る賢君>佐竹
441 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 18:42:55
義宣の立ち回り方が巧かったら・・ってか、関ケ原で東軍についていたら、とりあえずは常陸に置いておいて、上杉領から少し加増。最上改易後に山形転封じゃないのかな?
或いは、上杉を改易して、会津か米沢あたりに加増転封かな?
少なくとも立ち回り方が巧かったら減転は無い。
>>436 佐竹にも宝寿院って言う伊達相手のブレーキが居るしな。
>関ケ原で東軍についていたら
関ヶ原自体、傍目には五分五分で、周りは「応仁の乱の再来か!?」ってくらい思っていたんだから
それはちょっと酷だろう
関ヶ原が長引けば、上杉と一緒に江戸強襲、五大老に……ってあり得るし、IFはきりがない
444 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/05 22:47:50
どのみち水戸には佐竹さんがいなくなる……淋しい……
佐竹さんはオラ達のもの
>>441 最上改易前に里見みたいにあっさり潰される可能性は否定できないけどね。
上杉は直江が生きているうちは難しかろう。可能性としては山形だな。
個人的には伊達改易で仙台キボンだが。(w
>>429 以前、この件について日本史スレで出た後佐竹厨が典拠にしている本の著者に問い合わ
せてみたことがある。
で、著者いわく
1.秋田県立図書館所蔵の文書に、正月家臣が登城した際の席順の記録があり、そこに
名前が載っているので確実だ。
2.この資料は今まで誰も見向きもしなかったので、著作で使用したのは私だけ。
3.ただし、何という名称の文書であるかと図書館の請求番号は忘れた。
とのことだ。
漏れは秋田の地元民じゃないので、とてもではないが時間的制約でこれで資料の検証を
行うことは無理だ。
地元在住の佐竹ファソで検証可能な方は、ぜひ検証してもらいたい。
小説とはいえ、著者のHPを見る限りでは地元では郷土史家として活動しているようなので
資料批判が行われて然るべきだと思う。
仙台の価値なんて政宗入府時点では米の生産量も低いし
米沢や会津と比べ物にならんほど低かったんすよ。
伊達氏が一族家臣に擬似参勤交代制をひいて領内の産物を
仙台に集めるようにしてからようやく現在の発展の礎ができた。
>>447 >ただし、何という名称の文書であるかと図書館の請求番号は忘れた。
どうも弱気な発言だな。普通、資料の引用の場合、必ずメモか何かとるでしょ?
図書館で見たものをうろ覚えで書いたなんて、常識以前に、作家としてはありえ
ないよ。しかも「何という文書」か忘れたが「名前が載っているから確実だ」
はないだろが(笑)。(本当なら歴史的発見だけどね)
次のレスでその「資料」の明示をよろしく。
葛西大崎一揆の歴史的事実は、以下の通り。
天正18年(1590)11/27 氏郷と政宗起請文を交わす。
12/17 浅野長政が二本松で政宗を詰問する。
伊達成実、国分盛重の二家老を人質として差し出す。
天正19年(1591)1/1 氏郷、名生城より撤退
天正末年まで、国分盛重は、伊達家に在籍していますね(やはり)。
>>449 いや、マジで土居氏にそう言われたんだよ。しかも自信満々な口調で。(w
個人的には資料を引用するのにどこの何という資料か記録しておかないなどということは
職業柄あってはいけないことだろうと思うのだが、最大限好意的に解釈すればお年のせい
で記憶力がだいぶ弱っておられる可能性があるし、最大限悪意で解釈すれば「奥羽山脈の
向こう側にも藤村氏(ry」ということになる。
つーか、当人曰く「『秋田藩蔵文書』にある」のことなんだが、これはその中に「○○家文書」
をいくつも含んでいるため、本来は『秋田藩蔵文書』の「○○家文書」の「(文書名)」と言わ
ないと目的の文書にたどりつけないのよ。
でも、第二階層から下は覚えてないと言われれば、秋田県在住ではない漏れがその文書が
見つかるまで滞在して通い詰めるのは物理的経済的に無理なのよ。
>>450 直接尋ねたのか…えらいね。
しかし学生じゃなくなると史料探しが本当にきついね…。
まあ、学生諸君はいつ必要になるかわからないから、これはと思ったら
そくコピーしとけよ。
>>450 土居さんに通報しますた。他所でぶっちゃけるなどマナー違反では?
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 00:12:05
>>452 マナー違反って・・・面白いヤツが沸いてるな
まぁ郷土史家なら本来あっちゃならんよな。忘れたーとか、何とか。
同業の人とかから鋭く突っ込まれればご自分で探して「ホラこれですよ」とか
言いそうなもんだ。どうだろうね。
茨城はヤンキーというかDQNの巣窟だから、民度低いんだろうなぁ
こんなスレ立ててオナニーして、井の中の蛙だよ。
>>455 ハイハイ。俺みたいのが釣れるよう、
このスレが盛り上がるように頑張ってるんだねボクちゃんは。
俺と同じく民度低いね〜。
>>454 とは言え、一昔前(戦前〜昭和40年代前半)の郷土史家なんぞそんなもんだ。
出典を明記しないくらいは日常茶飯事。考古系の人は出土品を普通に自宅に飾ってるし、
図書館で非常勤館長やってる文献系の人は平気で館蔵資料を自宅に持ち帰ったまま返却
しないうちに死去したりする。
で、遺族がDQNだとそれを返却するどころか古書店へ売り飛ばしたりする。
館蔵印が押してあるのに意に介さないことは言うまでもなし。
>>457 へぇ、そうなんだ。やばいね…。
今現在バリバリ活動してる人はそうでもない?
つーか本売り飛ばすなよ…。
>>458 今は埋文も図書館・博物館長も常勤の公務員がほとんどだからそこまで大胆な人はいない
けど、在野の長老にはまだその流れを汲む人がいるので油断できないです。
>>459 どうもサンクス。
結構大変な世界だな。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 02:06:26
山形って、最上改易からしばらくすると保科正之が入ったとこだぞ。
・正之が当時江戸で上詰状態だったから、後の会津の印象が強い
・後年「譜代の左遷地」に定着した>水野忠邦など
などで印象薄いけど
最上から同じく取上げた庄内には譜代の名門中の名門酒井がいった
今の山形県は元禄まで落ち着いてない、幕府にとっての危険地帯だったのにはほぼ間違いない
(保科のおかげで上杉が存続したのも事実だし・「伊達騒動」の始末も参考に)
家光時代に政宗妙に偉くなったことが政宗・仙台オタにはたまらん結果になっているけど
仙台なんてなんもないとを江戸みたいに再開発したとこだから、古豪ひしめく常陸・磐城・最上より結果オーライでしょ
どうせ佐竹と伊達は(上杉も含め)、「国持ち大名」として同格(席次では伊達のほうが偉いけど)なんだから、「痛みわけ」
最上・加藤みたいに潰されないだけ十分偉いでしょ。秋田市の格だけは高いことが明治政府にも認識されているし(日銀支店や高等裁判所支所が秋田にある)
IFなら「佐竹は徳川と伊達・最上と上杉逆攻撃」なぞいくらでもできる
>ありえただろうか?
戦国レースを完走したぶん良くやったって思うけどねぇ、彼ら。
しかし、明治維新じゃ地団駄を踏んだ秋田藩
>>450 詳細サンクスです。まあ、そう言い切られてしまえば仕方ないか。
(その『秋田藩蔵文書』の該当箇所が気になるな。こうやってあれこれ憶測を呼ぶから、
郷土史家の方々には、著作の巻末には是非参考資料を明示して欲しいよ)
どうせなら久保田県しろよ
佐竹より秋田のほうが可哀想だよー。
467 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/08 17:30:41
いいんや 佐竹なき常陸の方がかわいそうです
>>450 ま、おまいごときがいくらあがいても土居さんの牙城を崩すどころか針先でつついたほどの
ダメージも与えられないってこった。
久保田の地は秋田郡だし古代の秋田城もある
472 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 05:05:18
まあ同じ戦国ファンとして仲良くしようぜ
>>468 どうやら一般閲覧できそうだから、おまいが調べてきたら?
『秋田藩蔵文書』のどこに書いてあるか。ここで報告すれば片がつくだけ。
(万が一、土居氏の記憶違いだったら、目も当てられないことになるが…)
>>473 多分どのくらい読者がいるか知らないけど、土居氏に直接聞いたヤシがほとんどいなかっ
たんじゃないかなぁ?
だから善意に解釈すれば「思い出すのマンドクセ」、悪意に解釈すれば「ま、いっか。ほとぼり
が醒めるまでトボけちゃお」という状況でいられるんじゃないだろうか。
もっとも、石川英輔氏が著作で「よくわからないんで保留」状態にしていた地名について情
報提供したら「その話は初めて聞いた」ってくらいだったから今は読者が著者へ情報をフィ
ードバックすることが少ないのだろうか?
正式に秋田藩と名乗ったには明治か
三春藩とこんがらがるだろーが
476 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 10:02:08
>>474 おまいの失礼かつデムパな問い合わせに閉口してるだけと違うか?wwwww
477 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 12:22:42
ふむ
479 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 16:13:00
伊達の勝ちだな
>481
そのフレーズ、日本史で最近見かけないと思ったら、三戦に居たのか!w
483 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 00:49:19
いい加減聞き飽きちゃったよなぁ…
485 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 10:27:08
>485
そのフレーズ、日本史で最近見かけないと思ったら、三戦に居たのか!w
487 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 12:36:17
488 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 21:41:18
>>474 ぶっちゃけ、君を動かしているのは土居さんに対する嫉妬心だろ。
君にはそんな実力はないんだから仙台人の捏造の片棒担ぎなんか止めるこったな。(w
489 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 22:03:23
>>461 まあ、大坂が経済の中心地だった江戸時代は仙台→山形→酒田→日本海経由→大坂ルートがさかんだったから、山形のほうが大藩の仙台より栄えていたと言う説はあるな。
だからこそ、明治になって東京が首都になり経済的にも発展を遂げると仙台側が巻き返しをはかり、日本鉄道(私鉄)による東京〜仙台の鉄道交通の開通が大きく促進されたと言われている。
>>488 今晩も爽快な糞電波をありがとうございます。
日本史板で貴方を待ってる人がたくさんいるそうですよ。
491 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 09:12:32
>>488 その土居氏だが、佐竹家の俊秀・東義久が水戸で没した死因を、義宣が毒殺した断定してるな。
義宣にはこう言わせている。
「他言は無用ぞ。…薬を調達させてくれ。それも1月後に効き目のあるものじゃ」
「よいか、薬だぞ。薬だからな」
大膳はハッとした。
(毒薬だ。)
義久の死因は不明と記載されている資料もあったりするが、土居氏が「毒殺」と断定している
以上、間違いはなさそうだな。
傍目に見て、
可能性はまぁ高いとは思うが、間違いなさそうとは思わんな。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 11:03:33
>>489 仙台から先に鉄道を通したのは当然の選択。
福島から山形へは板谷峠がネックになるんだってば。
スイッチバック、知らんか?
>>491 小説内なら別になんでもいいだろ。
それと研究の結果の断定とは次元が違うだろ。
>>494 だろ? ところが、小説を史実だとかたくなに信じている電波君がいるんだよ。
>>420は「(国分盛重の)亡命時期については長い間仙台人の捏造が定説となっていたが、
秋田在住の作家土居輝雄氏によって小田原役の前年であることが立証された。」といって
いるが、そのソースは同じ小説の第2巻目に書いてあったことらしい(「常羽有情」)(苦笑)
496 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 12:32:38
もっと、マジメに語って下さい
佐竹厨m9(^д^)プギャー
>>489 大坂が経済の中心地だった江戸時代は仙台→山形→酒田→日本海経由→大坂ルートがさかんだったから、山形のほうが大藩の仙台より栄えていたと言う説はあるな。
仙台藩は太平洋側から直接江戸に米や物資を運べることにより利益を得ていたのだが。
大阪商人に中間搾取されること無しにね。
酒田が日本海側でも特に栄えた港だったのは確かだけど。
499 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 14:01:57
佐竹ファンです
500 :
佐竹ファン:05/02/12 14:02:48
500は佐竹ファンです
歴史館行きましょうよ
501 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 15:44:30
>>497 武田厨…ここにもいたかw
m9(^д^)プギャ゚ギャー
ていうか、ソースは小説だったのかよ!
自信満々な上に攻撃的だから何とも言い難くロムっていたが…
503 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 19:53:55
>>498 江戸は政治首都・消費都市ではあるが、経済システムは大坂中心で動いていたから市場の規模としては江戸<<<<大坂であり、換金だけでなく物資調達の面も考えると仙台藩(に限らず東北諸藩)の全ての産物を江戸で全て販売する事は不可能だった。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 23:23:17
>>502 しかし、地元では郷土史家として活動してるんだから小説とは言え盛重亡命事件にせよ東
義久の急死にせよ、どこかで種明かしはしておかないとフェアではないよな。
>>447が質問した時みたいに、曖昧な種明かしで自信満々に言われたのでは納得できない
なぁ。
それがたとえ
>>476の煽りみたいな尋ね方だったとしても、プロ作家がそれでいいのか?
505 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 00:30:02
506 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 06:57:22
事実に則して調べてみると、天正19年、政宗は一揆煽動の疑いで京都に召還されているが、この年の
6月、大々的な一揆討伐に出陣している。この時、国分盛重は、佐竹家中にいたかというと、そんな
事実は全くない。なぜなら、政宗の出陣していった米沢城の留守居役の任についていたのが、他なら
ぬ国分盛重その人だったから。
>>507 まさか『伊達治家記録』『氏郷記』浅野長吉関連の書状等は二次資料だから
ダメだよ、なんて言いださないよな?
>504
江戸廻米とか本穀米って知ってる?
太平洋側の塩釜港から江戸を素通りして大阪まで米を運んで
それをまた江戸まで運ぶメリットってナニ?
ゴメン。↑は>503ね。
『伊達治家記録』は間違いというか、けっこういい加減だよ。
義姫出奔の日時が3年くらい間違ってるし。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 03:11:34
>>508 単独で使うならダメだろ。一次資料で傍証が取れるならある程度信用できるだろ。
所詮は後世(四代綱村の時代)の編纂物だから細部に至るまで正確は保証し難い。
例えば、
>>511のケースだが、新発見された虎哉和尚が政宗の大叔父康甫和尚に宛てた
手紙によって保春院出奔時期が通説よりだいぶ繰り下がることが判ってるんだよ。
>>511>>522 国分盛重の所在については、実は伊達成実の『伊達日記』(成立1584〜1600年)
に出ている。蒲生氏郷の人質になった成実本人が、次のように記述している。
天正一九年正月一日に名生(名生城)へ、彦九郎(国分盛重)、六衛門(浅野正勝)、
我等(伊達成実)参り、氏郷へ御目にかかり
このスレで話題になっている国分盛重の出奔時期を小田原参陣前後(天正17〜18年)とする
ソースが出てこない以上、新説には具体性がないといわれても仕方ない。
国分彦九郎盛重は、青葉山の千代城に文禄元年まで居住している。
>>512 新発見された虎哉和尚が政宗の大叔父康甫和尚に宛てた手紙によって保春院出奔時期が通説より
だいぶ繰り下がることが判ってるんだよ
その辺を詳しく。義姫の件だが、大崎の地に居住していた可能性もあるよ(古川市の「風土記」)。
515 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 11:04:04
>>509 誤爆の上に、全量江戸に売っていたわけじゃないと書いてあるのにその反論はおかしくないか?
516 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 11:44:20
m9(^д^)プギャー
歴史話する時、可能性は今のところ○○の方が高いみたいな
感じで語られていくんだから、その○○がおかしいってんなら
違うソースが欲しいなぁ。そしたら○○対△△みたいな議論
できるし。
>>514 出先なんで今晩帰宅してから出典探すよ。
とりあえずこれかなと思って見た『伊達政宗の手紙』(新潮選書)ではなかったのは確かだが。
藤村氏3号(もしくは土居氏2号)にはなりたくないんで、時間がかかっても探し出す。
部屋がニューギニアの密林状態だけど。(w
余談だが、最近刊行された『病気が変えた日本の歴史』(生活人新書)で紹介されてる話だ
けど、伊達綱宗は脊湾症にかかっておりこれが伊達騒動の発端になったのだそうな。
廟所を再建する際に政宗の時と同様に遺骸が発掘調査され、骨格と肖像画を照合した結果
その結論となったと書かれている。
元ネタは名古屋の整形外科医室捷之氏の著作『一整形外科医が綴る 脊椎日本史18話』
だそうだが、どうも業界向けの本らしくネット系書店で検索しても出てこない。
多分国会図書館とかにはあるんだろうから、一度読んでみたい。
一見歴史と関係なさそうな分野の専門家とのコラボレーションで明るみに出る謎もまだまだ
あるんだろうな。
>>519 おぉ、楽しみに待ってます。
>一見歴史と関係なさそうな分野の専門家とのコラボレーションで明るみに出る謎もまだまだ
あるんだろうな。
そうですね。意外なところから検証できる可能性がたくさんありそげ。
おもしろそう。作『一整形外科医が綴る 脊椎日本史18話』は
初耳なので朗報サンクス子。
>>519 別に探さなさなくたっていいよ。どうせ妄想と思い込みのでっち上げなんだろうから。
いきなり『伊達治家記録』や『氏郷記』浅野長吉関連の書状等を二次資料だからダメ、だな
んて寝言を昼間から垂れ流してるヤシに期待すること自体が間違いだ。
>>514 元々、『木村宇右衛門覚書』には、保春院は「岩出山」から山形へ帰ったと書かれていたが、
昔は『治家記録』が絶対視されていた為に無視されていた。
最近は、
>>512の手紙のような他の史料から『木村宇右衛門覚書』の
史料価値も見直されているらしく、現代語訳が出た。
>>521 >いきなり『伊達治家記録』や『氏郷記』浅野長吉関連の書状等を二次資料だからダメ、だな
>んて寝言を昼間から垂れ流してるヤシ
まぁさすがにそれらの資料を二次資料で価値無しとか言う奴は電波だが、
資料探して話す姿勢見せる人にそういう攻撃はイクナイ。
何か粘着叩きされてるみたいなんで正直腰が引け気味ですが、見つかったので紹介します。
『仙台市博物館調査研究報告』(平成6年度)に掲載されている「伊達政宗の母・義姫の出
奔の時期について -新出の虎哉和尚の手紙から-」(佐藤憲一)でした。
書状そのものには11月27日とのみ記され年紀が入っていませんが、文中和尚が師の33回
忌を挙行したことが記されており、これが文禄3年であることからこの書状はその年のもの
と考えられます。
そして、追伸に「政宗の母堂が今月4日夜に最上に向かって出奔しました。お聞きですか。」
と添えられており、義姫の出奔が文禄3年11月4日夜であったことを示しています。
佐藤氏は以前より
>>514で紹介されている『木村宇右衛門(政宗の小姓)覚書』や『伊達秘
鑑』(明和年間の編纂資料)などが『治家記録』の記述と矛盾していること、その後文禄年間
にも母と普通に手紙のやりとりをしていることで定説に疑問を呈していたが、この資料が発
見されたことで疑問が氷解したと述べています。
>>514 『覚書』(新人物往来社版)は私も持っていました。これまで通り一遍しか読んでいなかった
ので勉強になりました。ありがとうございます。
解題を読むと、『治家記録』編纂時にこの覚書も資料として用いられはしたものの、編纂に
携わった田辺希賢・遊佐木斎や編纂を命じた四代藩主綱村はあまり『覚書』の記述に信を
置いていなかったためあまり内容に影響を与えないまま藩庫に死蔵されたこと、また逆に
七代藩主重村はこの資料を高く評価したことがわかります。
こうして見ると、同時代の資料を高く評価した重村の評価には現代歴史学の資料批判に通
じるところがあるようですね。
そういや「伊達政宗の母・義姫の出 奔の時期について
-新出の虎哉和尚の手紙から-」は以前どっかのスレでレスしてた
人がいたな。。
長文というほど長文で無いとな。
哲学板で慣れたせいかなと思ったが、日本史板でも普通の範囲。
長文というほど長文で無いとな。 ×
長文というほど長文ではないな。○
日本史板でも、自論の論拠をこれぐらい丁寧に説明し合ってくれると
議論にもなろうもんだけどねぇ
最近はもう、定説だ通説だって押し付け合いばっか
最近日本史板行ってないがそんな感じなのか…残念だ…。
>>525 義姫の出奔時期だが、通説では天正18年の4月11日。この新説では文禄3年11月か。
ふと疑問がわくが、文禄2年の朝鮮の役で、晋州城方面へ出陣した政宗に、義姫は詠書
を1首送っており、それに感激した政宗は何通か返書を送っている。毒殺事件のわだかま
りが消え、母子の関係は限りなく改善されてる。なぜこの時期の「出奔」なのか? 命の
危険があったからか? 心理的、政治的にも説明が欲しいところだな。
また、天正18年なら米沢から「夜逃げ」のような形で出奔できたろうが、文禄3年宮城の
仙北の岩出山城からどうやって抜け出せたのか? 仮に事実とすれば、政宗のメンツ丸つぶ
れとなり、激情家でかつ戦国屈指の手紙魔の政宗のこと、必ずや記録に残したことだろう。
「母上はやはり俺を嫌っていたのか…」とか何とか。また留守居の家臣は叱責どころではない
だろうな。
文禄2年の母子和解で、出奔する動機は失われていることも踏まえて、この新説で説明できる?
(訂正)
×天正18年 4月11日
○天正18年 4月7日夜(黒川城から出奔)
素敵な流れになってきたな。
535 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 11:29:27
うむ。
>>532 >>525に書くともっと長くなるので書きませんでしたが、文禄〜慶長前期(関ヶ原以前)当時
の伊達家はかなり揺れがあったようです。
『仙台市史』通史編(近世1)は早くも
>>512で紹介した説を踏まえて記述されていますが、
これによると、この時期は義姫出奔だけでなく
国分盛重が出奔する(また某氏の説と対立しますが)
政宗と対立して茂庭綱元が隠居させられる
伊達成実が出奔する
などの事件が起きているとされています。
また、ここでは取り上げられていませんし出先なので出典があるかどうか確認できません
が朝鮮から帰国直後には遠藤宗信も出奔しています。
ちょうどこの時期は政宗が上方に常駐状態で国許は屋代景頼らに実務を任せきりにせざ
るを得ない状態が続いていたので、家臣団内部の軋轢が一因と推測しているようです。
後に、成実が帰参して綱元が復権した後に屋代が追放されているのはその反動かも
しれません。
義姫については、政宗の留守をいいことに家臣団からいびり出されてしまったという推察
ではどうでしょうか?
>>530 あの他説への不寛容さは歴史学と言うより法律学の論争を思わせるものがあります。
理系も同じように白黒はっきり対立するが、実験で確認することができたりするので理論的
にありえないことを主張し続ける人は少ないはずです。
現在の日本史板はその他、
・自虐主観どっぷりの人が、ニュートラルな意見にすら「嫌韓厨」のレッテル貼り
・日本国内での特定地域への差別発言(特に「永遠の負け犬」東北地方)
・城スレで「日本でどうして中国式の城壁が流行しなかったか?」のみにこだわり、それ以外
の書き込みを荒らし呼ばわり
・自分の認めたくない意見への「思い込み」攻撃
から成り立っています。
そういや世界情勢板のとあるスレで嫌韓厨という単語の不自然さに
ついて議論があったw2ちゃんねらがつけた呼称とは考えにくい
とか何とか。読んでたらなるほどねぇって感じだったなぁ。
日本史板のその手の半島関連基地外さんは、案外アジア情勢板辺から
逃げてきたのかも(最近めっきり減ったw。
>>536 文禄3年に義姫が山形の実家へ帰ったということで、『伊達治家記録』の
記載が誤りだと即座に断定は出来ないな。ここから見えてくるのは、義姫
の出奔はどうやら2回あったらしいということだ。そもそも義姫は、文禄
2年「岩出山から」朝鮮滞在中の政宗に手紙を送っているわけで、文禄の
初期には間違いなく岩出山に居住している。つまり、一端小次郎事件で実
家に帰ったものの、岩出山城下の整備が整った時点で、伊達家に再度戻っ
て、文禄3年まで岩出山で暮らしていたらしいことが伺える。
『伊達治家記録』の編者は体裁を考え、2回目の出奔の記載はあえてスル
ーしたのではないだろうか。
>>539 > 記載が誤りだと即座に断定は出来ないな。ここから見えてくるのは、義姫
> の出奔はどうやら2回あったらしいということだ。
『治家記録』以外のソースは何ですか?
『治家記録』の説を補強するために 『治家記録』そのものを用いるのでは矛盾ですよ。
文禄説同様一次資料があればそれに越したことはないのでしょうが。
と言うか、誰かそういう説を立てている研究者の著述があれば読んでみたいのでご紹介く
ださい。
>>536 >義姫については、政宗の留守をいいことに家臣団からいびり出されてしまったという推察
ではどうでしょうか?
ならば、必ずその窮状(閉塞感なり人間関係のごたごたなり)を政宗に訴え出ているはず。
政宗は異常な量の自筆の書状を残した人間であり、両者間の手紙が存在しないのは変だ。
また政宗の何の相談もなく、いきなり出奔するという経緯も疑問符がつく。
>>541 > 政宗は異常な量の自筆の書状を残した人間であり、両者間の手紙が存在しないのは変だ。
「存在しない」ことと「伝来・残存しない」ことと「未発見である」ことは等質ではありません。
たとえ存在していても、現存してなかったり未発見だったりすれば活用することはできません。
現に虎哉和尚の書状も発見され、検証され、論文の材料として使われたのはそれほど昔
のことではないじゃないですか。
また、「記録に残されなかったこと」が常に「存在しなかったこと」と等質なわけではありません。
例えば、当時の人間にとって極当たり前なことはわざわざ記録されたりしません。
つまり、歴史研究と言うのはピースの総数も形も完成図も不明のジグソーパズルを組み立て
ることに似ています。
「Aという事項の資料がない」ことが「Aという事実はない」という結論に直結しないのです。
間に無数の資料による傍証がとられた上で、定説と言う形で結論が出ますがそれも仮のも
のであって、信用するに足る反証が発見されれば覆る程度のものでしかありません。
それとも、佐藤さんが藤村さんだったとでも?(w
もしそうなら、その書状が偽書であると言うことを証明しなければなりませんよ。がんばれ。
543 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 14:33:22
>>542 もう思い込みを垂れ流すのはやめてください。勝負は既についています。
負けは負けと素直に認めて許しと教えを請えば、
>>541さんも親切に導いてくれると思います。
これ以上の垂れ流しはもうお腹一杯ですから止めてください。お願いします。
政宗留守中の家臣団にいびり出されるか…あの義姫が。
朝鮮から帰ってすぐ色々やりとりあってもいいように思うけどなぁ。
保春院が亡くなる二年前以前に呼び戻してそう。
新説は面白いから色々論議してくださいって感じだけど、
発見されていない(もしくはない、残されてない)
書ってのを「見つかってないだけだ、無いなら無いことを証明しろ」
って言ったら、それ悪魔の証明ってやつじゃんそれ。
タブーだよね。
無い事を証明しろと言ってるわけではないか…。
しかし両方信憑性があったとしたなら
義姫は二度出奔してたのか。一度出奔した所から
また最上へ行ったってことで。逃げまくってんな。何でさ。
政宗と義姫手紙のやり取りまでしてるのに。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 17:34:49
>>545 それは
>>539さんが提示してくださるはずです。
定説でも新説でもない第三の説を出す以上、我々が揃って啓蒙されるような新しい資料の
発見があったに違いありません。
さあ! 皆さん。
>>539さんの次の書き込みをお待ちいたしましょう。
別に542に肩入れするわけではないけど
勝ち負け判断せんでいいだろうにと思う漏れ
>>543 それは置いといて、現在記録として見つかってない事を「見つかってない・残ってないだけ」と判断し
それで現在ある論の肯否定は出来ない訳で・・・
548 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:25:33
>>547 当事者間の書状が残ってなくても、『木村宇右衛門覚書』のように同時代の一次資料で傍
証できれば二度出奔説だってある程度は実証可能じゃね?
虎哉書状が出てくる前は小次郎誅殺直後の出奔だけが定説になっていて『木村覚書』は
事実誤認された記述だと断定されていたわけだからさ。
で、その書状だって捏造の産物でないという前提で言えば、急に生じたわけではなく当時か
らずっと存在していたわけでしょ? 研究者が発見できなかったもしくは価値がわからなか
っただけで。
そして、当時の書状・記録が全て今日残存するわけではない、ということもまた確かだし。
ようするに、歴史における定説などというものはその時その時限りのもので、新たな資料が
発見されれば常に覆る可能性があるということだ。(当然覆らない可能性も同じように存在
する)
結論:歴史の定説には「絶対」無し。無論合理的範囲でありえない説も存在するが。
『治家記録』は完全に誤りだとは言わないけれど、
伊達家にとって都合の悪い事は書かれていないから、
史料としての信憑性には疑問符が付きますね。
たとえば輝宗が拉致された時に「撃て」といって鉄砲隊が撃ったが、
政宗は鷹狩でその場にいなかったことになっているとか、
(会津旧事雑考や松府来歴金花抄では政宗はその場にいた事になっている)
天正17年の寺39個所焼き打ちとか、
小次郎の守役・小原縫殿助が小次郎と同じ日に上意討ちされた事になっているが
実は文禄元年2月に殉死しているとか…
他にもまだまだあると思う。
まぁ勝ち負けではないのでまだまだ盛り上げてください。
二度出奔ということなら、それはそれで義姫の周りの伊達、最上衆
などおもしろいところまでお話できそうだし。
楽しく拝見させてもらうよ。
二度出奔説で何ら問題はないと思うがな。出奔は文禄3年の1回きりだったとする佐藤氏の意見は
「仮説」レベルだろ、今のところ。別に茶化すわけではないが、
1回目は悲劇による亡命・「出奔」(天正18年「治家記録」)
2回目は愛想尽かしによる「里帰り」(文禄3年「虎哉書状」)
2回目は言葉の定義上、果たしてこれを「出奔」と呼んでいいものかどうか理解に苦しむところだ。
政宗側に残された書状もなく、しかも動機も不明ときている。
小次郎事件後、義姫が岩出山にいたらしいことを提示しているのは、何も佐藤氏ばかりではない。
同郷の郷土史家、紫桃氏などは佐藤氏以前に、義姫が山形−宮城を頻繁に往還していた可能性を指摘
している。岩出山どころか、名生(古川)の「御所館」に来住(居住)した形跡があり、名生「風土記」
の以下のような1文を例に挙げている。
母公保春院殿これに居る。東御方と称す。
>>551 > 2回目は言葉の定義上、果たしてこれを「出奔」と呼んでいいものかどうか理解に苦しむところだ。
事情を知る同時代人が「出奔」と理解している以上、後世の人間がそれにあえて異を唱える
のには理由が弱い気もするんですが。
天正18年4月って最上義守が死んでいるよな。
出奔ではなく、ただ急に里帰りしただけなのを
家臣が勝手に「出奔」したと勘違いしたんじゃないの?
>>544 > 政宗留守中の家臣団にいびり出されるか…あの義姫が。
義姫の性格に関する通説では容易には信じられない話だと思われ。
ただし、以下のケースなら在上方の政宗にも告げず出奔するかも。
1.屋代に代表される出頭人の勢力増大により、筋目の者が政宗の命を口実に失脚してい
く状況に憤って発作的に出奔した。
2.政宗を憚って表立っては口にしないが、家臣団の空気に不愉快なものを感じた。
「そう感じた」というだけの理由で、明確な根拠がないので政宗にも言えなかった。
(´-`).。oO(普通の里帰りを虎哉がちょっとひねってみようと思って出奔って言った)
>>555 で、回り回って結局一番最初の定説に戻る、と。
>519-520
結構前だから細かいことは忘れたけど2chネラが大嫌いな朝日に記事が出てたよ
廟所から発掘した綱宗遺骨の背骨の欠け方だか突起が、ある病気に特徴的な症例で
その病気に羅漢すると体が曲がるだかなんかして、馬にも乗れない。
これは綱宗の肖像画(猫背で左に傾いてんだっけ?)とも合致している。
どうやらこの病気で体の自由を失い、酒や女色に溺れて御家騒動を招いたんだろう、なかんじ。
>>557 それは違う。
2chネラーはみんな朝日新聞が大好きだよ。
綱宗の病気、かなりキモイ病気だね。
特発性側弯は、脊椎における異常な脊柱弯曲である。
10〜14歳のすべての小児の、およそ4%に発見可能な側弯が見られる。
すべての症例のおよそ60〜80%は女子に生じる。
思春期特発性側わん症はやせた女子に多い。
厳密に言えば、「側弯症」とは病気ではなく、「状態を表す言葉」です。
「側弯症」とは、背骨が側方向、つまり横方向に曲がる状態です。
しかし、ただ曲がるだけではなく、特有の「ねじれ(回旋:かいせん)」を伴って曲がります。
「ねじれ」とは、タオルを絞ったようなかんじです。酷いと背中がコブになります。
側弯症は残念ながら、一度なってしまったらなくなりません。一生付き合うことになります。
近年、突発性側弯症の子供が増加しているそうです。
外で遊ぶ時間よりも家の中でゲームなど長時間同じ姿勢を続けるケースが多い。
側弯症の手術は「脊柱融合手術(spinal fusion surgery)」ともいいます。
手術の最大の目的は、背骨を固定して、それ以上の進行を止め防ぐことです。
背骨は1つの大きな骨ではなく、たくさんの骨(「椎骨」といいます)が集まってできています。
椎骨と椎骨との間には、椎間板があります。
側わんの手術の基本的な考え方は、椎骨のうち、5〜6椎ほど、(多い人は10椎くらい)を1つの骨
にしてしまい、固めることです。
そのために椎と椎の間にある椎間板を抜き、そこに骨を砕いてパテのようにした
「ボーン・グラフト(bone graft)」を移植します。
手術後、時間がたつうちに、移植したボーングラフトがもとの骨と融合(fusion)して、1つの大きな骨になります。
そして、カーブを矯正するためにロッド(rod、金属棒)やネジ、ワイヤーなどのインプラント
(instrumentation)も用います。
背骨を一つにする?攻殻の義体じゃあるまいし、そんな嫁もらいたくないな。
>>552 義姫のケースの場合、国分盛重や伊達成実の「出奔」とは意味が違うので、あえて「里帰り」とさせて
もらった。なお「治家記録」は確かに誤謬もあるが、義姫が天正18年に出奔したことは間違いない。
では、なぜ岩出山居住(往来)の痕跡がでてくるのかといえば、キーになるのが小次郎の葬送および墓所
にある。岩出山の移封にともない、福島にあった小次郎の墓は、本吉郡横山(津山町)へ移されたが、こ
れは義姫の内命によって決定された。この横山の地は化粧料として政宗が義姫に下賜した場所でもある。
で、一端山形へ帰った義姫は、溺愛していた小次郎の面影忘れがたく、政宗に頼み込み何度か参墓に訪れた
のではないか。
天正19年〜文禄3年にかけて「岩出山町−名生(古川市)−津山町」の3つのルートに義姫の影が見られる
のがその証拠だ。この時の義姫の立場は何か織田有楽斉のような、あるいは食客のような比較的自由が効く
立場だったのでは。文禄3年11月、40過ぎの初老の女性が、警護を武力で突破したわけでもなく、簡単に
岩出山城を出て行ったことを考えれば。
「里帰り」(別に出奔でもいいが)の動機は、単に虫の居所が悪かったとか、意外にどうでもいい内容だっ
たのかもしれない。ところが翌文禄4年、秀次事件の際に兄義光の娘駒姫が処刑されたことにより、もとも
とブラザーコンプレックスの濃い義姫は、失意の義光を捨て置けず、そのまま山形住まいとなった。
そんなところではないかと漏れは思っている。
>>560 > なお「治家記録」は確かに誤謬もあるが、義姫が天正18年に出奔したことは間違いない。
って思いっきり断言されても、自ら誤謬があることを認めちゃってるわけだから他の一次資
料で傍証がない限り全面的に「はいそうですか」とは言えないだろ。
断言するくらいなら「誤謬はありません」と居直るくらいでないと。(w
つーか、IFを語る内容の仮説ではないのだから、出発点があやふやではたとえその後の展
開が傾聴すべき内容であっても推論にもならなくなってしまう。
それこそ「それは、全てあなたの思い込みです」とでも突っ込むより他に仕方がない。
>>561 何だ…。折角長文書いたのに、食いついてる箇所が(一番突っ込みやすかった?)上段の2行とはね。
とりあえず中段と下段について反駁の程を。それに何かやたらに「治家記録」の「一次資料」「一次資
料」と連呼してるが、
>>548氏の文章を、改めて再度熟読玩味することを薦めたい。(最上関連の「一次
資料」が発見されれば一発で解釈が転がることだろ?)また「治家記録」の誤謬云々と言ったのは、例えば
朝鮮渡海時の人数や、大坂の役での鉄砲装備率が、他資料と食い違っていることを念頭において発言したまで
のこと。
勘違いして欲しくないが、このスレのスタンス上、義姫の出奔を「治家記録」の立場に立って発言しているまで
のことだからね。なぜならスレをいくら読んでも文禄3年説は、義姫の出奔動機が不明のままだ。
おまいの言葉を借りれば、
虎哉和尚の「政宗の母堂が今月4日夜に最上に向かって出奔しました。お聞きですか。」
「って思いっきり断言されても、他の一次資料で傍証がない限り全面的に「はいそうですか」とは言えないだろ。」
というわけだ。 説明不足もいいところだな。
大体、虎哉和尚からして直接義姫から「出奔」の件を相談され、その場にたちあったわけ?
和尚はどこにいたの?岩出山城にいたの? 義姫は単に機嫌をそこねて実家に「里帰り」しただけ
かもしれないよ。それを和尚が勘違い・早とちりして「出奔」と報告した可能性もあるからね。
その場合、「それは、全て和尚の思い込みです」とでも突っ込むより他に仕方がない(w
>>560 >義姫が天正18年に出奔したことは間違いない。
こう断言する根拠は何?
文禄3年の出奔が、本人がどう考えたかはともかく
周囲からみたらどうでも良い理由だった、という可能性は大いにあると思うが。
>>563 だから、論点は「出奔」の件なの。争点(天正18年VS文禄3年)を際立たせるために、
こちらは、このスレ中で「治家記録」サイドに立って発言してると何度…(以下ry。
では、こう言っておこう。「根拠は「治家記録」にそう書いてあるから。以上に尽きる」と。
さて、どういうリアクションが返ってくるか。逆にそちらの方が興味が湧いてきた。
>>564 まったくおっしゃるとおり。「治家記録」は常に正しい。
文禄3年説論者は、和尚の思い込みに振り回されすぎ。
つまり、一次資料の「虎哉和尚の手紙」(但し又聞き・勘違いの可能性も)は、
状況証拠的なものでしかなく、後世編纂の「治家記録」すら論破できない、と。
義姫はどうでもいい理由で山形の実家へと帰った。その行動を廻りの家中もどう
でもいいと思っていた。和尚の手紙で「追伸」という形で扱われたように。
伊達家の編者は、正史の記録に残すべきでもないと判断し、完全無視した。
>>566 まったくおっしゃるとおり。「治家記録」は常に正しい。
文禄3年説論者は、和尚の思い込みに振り回されすぎ。
>>567 まるで壊れたCD状態だな(苦笑)。
なお、「「治家記録」は常に正しい」ではなく、「本筋をはずしていない」
と言い換えた方がいいよ。
:.,' . : : ; .::i'メ、,_ i.::l ';:.: l '、:.:::! l::! : :'、:i'、: : !, : : : : : :l:.'、: :
'! ,' . : i .;'l;' _,,ニ';、,iソ '; :l ,';.::! i:.! : '、!:';:. :!:. : : : :.; i : :'、:
i:.i、: :。:!.i.:',r'゙,rf"`'iミ,`'' ゙ ';.i `N,_i;i___,,_,'、-';‐l'i'':':':':‐!: i : : '、
i:.!:'、: :.:!l :'゙ i゙:;i{igil};:;l' ヾ! 'i : l',r',テr'‐ミ;‐ミ';i:'i::. : i i i : : :i
:!!゚:i.'、o:'、 ゙、::゙''".::ノ i゙:;:li,__,ノ;:'.、'、 :'i:::. i. !! : : !:
.' :,'. :゙>;::'、⊂‐ニ;;'´ '、';{|llll!: :;ノ ! : !::i. : : : : i :
: :,' /. :iヾ、 ` 、._. ミ;;--‐'´. /.:i;!o: : : :i :
: ; : ,' : : i.: <_ ` ' ' ``'‐⊃./. :,: : : O: i. :
: i ,'. . : :', 、,,_ ,.:': ,r'. : , : : !: : あやまれ!!
:,'/. : : . :;::'、 ゙|llllllllllllF':-.、 ,r';、r': . : :,i. : ;i : : 壊れたCDにあやまれ!!
i,': : : :.::;.'.:::;`、 |llllH". : : : :`、 ,rシイ...: : ; : :/:i : i:!::i:
;'. : :..:::;':::::;':::::`.、 |ソ/. : : : : : : ;,! ,/'゙. /.:::: :,:': :./',:!: j:;:i;!;
i. : .:::;:'i::::;':::::::::i::`:.、;゙、';‐ 、,;__;,/ノ . :,/.:::: :/. : :/.:::i. j:;;;;;;;;
l .:::;:'::;':::;':::::::::::i::::i::`:,`'-二'‐-‐''゙_,、-.':゙/.:::: ;ィ': : :/.:::::i: j、;;;;;;;
.:::;:':::;':::;'::::::::::::::i:::i:::::..`'‐、、、-<゙.::::::::/.::: ://. : /.:::::::i :j::.'、:;;;
だな、それを言うなら「壊れたスピーカー」だ
スピーカー部分が壊れたんなら、ただ聞こえなくなるだけで
同じ部分を繰り返すようにはならないだろ?
>>566 その推論を『仙台市史』編纂室か紀要出した博物館に送ってやれよ。
案外恐れ入っちゃって藤村絡みの考古編同様販売中止・回収になるかもしれないぞ。
>>566 では、政宗の側近だった木村宇右衛門の覚書は? これも木村の勘違いで片付けるの?
記述が一次資料2点対二次資料1点に分かれた時は、一次資料に信を置くのが歴史学の
セオリーなんだが。
それから、性山(輝宗)・貞山(政宗)二代の治家記録は「最上悪役主義」のバイアスがかか
っていることを見落としてはいけないと思うぞ。
>>574 その「木村宇右衛門の覚書」には、具体的にどう記述されてるの?(資料を持ってないので)
それから、山形へ帰った時期は、虎哉和尚の文禄3年11月とほぼ一致しているの?
通史では、天正18年伊達家を出奔し、西館(山形)に身を寄せたとされる義姫だが、18年以降
も「岩出山にいた」という理由をもって、天正18年説出奔を完全否定することはできないと思
うのは、
>>560の中段のような(紫桃氏の見解をふまえた)推察もなりたつから。
576 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 10:42:43
577 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 11:01:15
もう、内容的にスレ違いになってるから文禄厨は書き込みやめろよ。
結局は定説に戻ったんだからそれでいいだろ。
きっと、和尚は思い込みだし木村は惚けてたんだよ。
流石『治家記録』だ。びくともしないぜ。(AAry
>>576 いやさ、漏れは心配してんだよ。実際「
>>536>『仙台市史』通史編(近世1)は早くも
>>512で紹介した説を踏まえて記述」
って、もうこの新設を採用してる段階なわけだろ。やけに手回しが早いというか。で、たとえば仮に和尚の勘違いで「文禄3
年11月」でなく、実は「文禄4年11月」か何かだったらシャレにならんわな。
仙台市民は赤っ恥もいいところだ。ついでに最上家からも18年を立証する資料が出てきたりしたらどーすんだろうね。
訂正の用紙を添付するだけさ
あとお詫び会見も必要だな。
581 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 12:41:14
>>578 せっかくだから編纂室へ「回収・販売中止・お詫び会見・著者左遷」をしたら許してやるよ、
って小一時間問い詰めてやって土下座まで追い込んだらGJ!だな。
和尚の思い込みを「新発見!」とやらかしたS藤氏は譴責物かもな。
宮城の捏造犯は藤村・S藤とやたらと「藤」に縁があるな。(w
>ついでに最上家からも18年を立証する資料が出てきたりしたらどーすんだろうね。
話は戻るが、この調子では国分盛重の文禄年間出奔説も怪しくなってきたな。
案外土居氏の天正17年説が正解なんじゃないのか?
>>581 >話は戻るが
戻さなくていいっての。国分盛重天正17年出奔説は、大坂夏の陣は1600年9月だった
と言ってるようなもんだから。
583 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 14:07:31
>>582 太陰暦では8月は既に秋なので、「秋の陣」になっちまうじゃね?
584 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 12:49:31
ww
585 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 13:56:29
>>581 > せっかくだから編纂室へ「回収・販売中止・お詫び会見・著者左遷」をしたら許してやるよ、
> って小一時間問い詰めてやって土下座まで追い込んだらGJ!だな。
市史編纂中止まで行ったら、仙台市に対する三戦板の歴史的大勝利だな。
最上家から新資料が出てくることを熱望するよ。
>>582 > 戻さなくていいっての。国分盛重天正17年出奔説は、大坂夏の陣は1600年9月だった
> と言ってるようなもんだから。
でも、佐竹家に新資料があるっていうんだろ? 定説は常に覆されうるんだから。
ただし、「治家記録」だけは常にガチ。間違いない!
釣りばっかだ…
587 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 15:52:25
天正18年がやはり定説で、
和尚の手紙の文禄3 年11月説はまだ市史編纂する段階ではないのに、
もう編纂しますみたいになっっちゃってるの?
>>588 そのとおり。
仙台市はボケた和尚がチラシの裏に書いた落書きを発見して調子に乗って市史編纂に使
ってしまったの。
そしたら、仙台市と同じくらいにヴァカな
>>512が軽率にもここに書き込んでしまったの。
で、初めはみんな騙されて「新発見だ」って思ってたんだけど、ここで賢者
>>539さんがその
ずさんさに疑問を投げかけたら、次々に賢者が現れて
>>551さんが書き込んだところで厨
な説が木っ端微塵に粉砕されたところ。
で、現在はあきらめの悪い
>>512一派の残党狩り段階。
次の段階は考古編・考古資料編に続いて3冊目の発売中止・回収要求をどうやったら仙台
市が飲むかを考えることになるでしょう。
「治家記録」は永遠に不滅です! 和尚はボケ老人! 仙台市の担当者は税金の無駄遣い!
>>512は池沼!
>>539>>551とその仲間たちは神!
義姫は天正18年に小次郎事件で亡命、出奔したんだけど、その後
最上と岩出山あたりを行ったりきたりしていて、そのうちの
一つが文禄3年の里帰りでした。っていう編纂なら良いのか。
というかそれは編纂とは言わないかw
>>590 足して2で割る非常に役所的な見解でつね。
「治家録」否定派は、
>>549のように「伊達家にとって都合の悪いこと」は「治家記録」は記載しない
と言っている。ところが、その「治家記録」(「政宗言行録」も含む)が、義姫による政宗毒殺+小次
郎粛正+義姫出奔に関して、克明に記載しているのはなぜか。
政宗は、大の母親想いの武将であることは家中に知られていたわけで、この記載では(最上陰謀説を仮
に編者がバイアスをかけてでっちあげたと邪推したとしても)後世に、義姫は「淀君」「築山殿」に比
肩する息子毒殺の汚名をきた悪女・姦婦のイメージで伝わってしまうことになる。(これは政宗の本意
でないことは明らかだろ?)伊達家では、政宗の死後、遺言を気にして両目の木像や肖像を残している
ほどだから、母親=極悪のイメージこそ、捏造、抹殺しても良かったはずだ。が、そうしていない。
それは文字通り、伊達家を揺るがした捏造も何もどうしようもない大事件であり、天正18年の事実は
歴史的事実として記述せざるを得なかった証でもある。
常陸入道念西は宗村。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 15:58:58
595 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 17:07:22
>>592 > ところが、その「治家記録」(「政宗言行録」も含む)が、義姫による政宗毒殺+小次
> 郎粛正+義姫出奔に関して、克明に記載しているのはなぜか。
それとて、政宗自体が弟を殺害したことを正当な理由に基づくものとして後世に記録してお
くためのコストとしては、決して高価なものではないと思いますよ。
どのみち、編纂時は既に四代綱村が当主となっており(目的によっては)政宗本人の意思
を慮る必要はないと言えましょう。
もし、この件を記述する場合、保春院と政宗の役回りは1・2の何れかということになります。
1.藩祖の生母は実家の言いなりになって息子である藩祖を殺し、同腹の舎弟を擁立しよ
うとした悪女
2.藩祖本人は大した理由もないのに同母の舎弟を暗殺し(「治家記録」によれば)実母を
追放した冷酷漢
どちらが「治家記録」編纂時の藩主・家臣にとって不都合かは一目瞭然じゃないでしょうか。
大名家の修史事業の目的の一つにその封建領主としての正統性を顕彰することがあるの
を忘れてはならないと思います。
いくら藩祖の生母の名誉が損なわれる可能性があったとしても、藩祖本人の名誉が損な
われる事態には代え難いことは自明です。
長文自演は荒らしと同罪です
>>595 >もし、この件を記述する場合、保春院と政宗の役回りは1・2の何れか
3.家臣の大津右馬助、庄司某等の主導で起こった政宗の廃嫡及び同腹
の舎弟の擁立画策事件であり、義姫の事件性への関与はない。
「封建領主としての正統性」「藩祖本人の名誉」の美化・粉飾・顕彰を目的と
するのであれば、2者択一でなく、上記のように理由などいくらでも考えつく
ことができる。編纂時が既に四代綱村であれば尚更のこと。残念だったね(w
>>593-594 ○常陸入道念西=朝宗 (伊達家公式)
「永禄伊達系図」「伊達正統世次考」「寛政重修諸家譜」「当午山満勝寺の比丘知恩の文」・・等
○常陸入道念西=宗村 (歴史学者・研究者が支持)
「伊佐早本系図」「駿河伊達文書」「寛永諸家譜」「藤氏飯田系譜」・・等
○その他
「雲但伊達家系図」(常陸入道念西=為宗と記載も長男の名前も為宗となっており誤記か?)・・等
一応、双方に色々な史料あるから研究者が参考に挙げてるものだけ書いておくけど、そもそも三戦でやることじゃないだろw
>>597 あ〜、残念。これでやっぱり販売中止かなぁ・・・・・。改定版作る予算足らないんだよね。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 11:08:03
一市民としては、こんなふうに見えるんですが。(w
「治家記録」否定派・・・改定版を作る金がない&面倒くさい仙台市史編纂室や館長の原稿
内容を否定されて頭に来ている仙台市立博物館の工作員
「治家記録」肯定派・・・バカ高いから売れない在庫を抱えて、これ以上売上を落としたくない
宝○堂出版部の工作員
あえて言おう、どっちもカスであると。
>>600 それこそ妄想だと思うが(w
「カス」呼ばわりはいいから、
>>575の質問にさっさと答えて欲しい。
仙台の一市民さん。
>>601 私はどちらの工作員でもないから、知ったことではありませんよ。
今手元にはないんだけど木村宇右衛門覚書では義姫出奔のことは
「岩出山から山形へ帰った」としか書かれていなかったと思う。
あまりにもさらっとしか触れられてなくて、違和感を覚えるくらいだったよ。
毒殺未遂の事は結構キッチリ出ていて、メモをとってあるんだけど
・お東の方が既に死去した後
・場所は仙台
・政宗自身が語った
所によると、母に「異臭の漂う盃」を勧められ「母儀の給はる酒は、天命より授ける事なり。」
と思って飲んだら
「足元よろめくやうに、目の回る心地、ややもすれば度々なり。
とかくする程に、日暮れに俄に目もくらみ、心引きいる様になりて、血を吐く事しきり」
と危篤状態に陥って、8・9日程経って、やっと蒲団から身を起こせるぐらいにまでなった。
問題はこの後で、「輝宗公も思案あるべき物をとの給ふよし。」とある。
つまり、これが輝宗がまだ生きている頃に起こった事件だと、木村宇右衛門は書き残している。
これってどうよ?
と燃料を投下してみる。
政宗小次郎事件以外にも1,2回毒盛られてたっけか。
愛姫との婚約のときもあったとか言われてなかったっけ。
あるいは、
>>604の毒殺未遂事件の話に尾ひれがついて
治家記録編纂の年代になると、今の通説の方が有名になっていたのかもな。
>>606 それはあり得ない。なぜなら「治家記録」に書かれていないからだ。
毒殺事件は必ず天正18年でなければならない。
義姫出奔も必ず天正18年でなければならない。
なぜなら、「治家記録」にそう書かれているからだ。
それ以上の理由は必要ない。
609 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 06:59:34
義姫が関わったと噂される政宗殺害事件の動きは少なくとも3回ある。
(輝宗以前・藤次郎時代)殺人未遂事件が2回。寝ている藤次郎の首を絞めて殺害しようとしたこと、
最上の待女を使って殺害しようとしたこと(通史ではなく稗史に出てくる)
*輝宗は明らかに政宗廃嫡の動きを察し、弱冠18歳の政宗に生き急ぐように家督を譲り、小松城に隠居する(わずか41歳)。
(輝宗後・政宗時代)天正18年の毒殺未遂1回(1級資料の「治家記録」「政宗言行録」「木村宇右衛門覚書」に記載)。
つまり、どこをどう考えても、天正18年の政宗毒殺未遂・義姫出奔
の歴史的事実はくつがえらない。
>>604 >つまり、これが輝宗がまだ生きている頃に起こった事件だと、木村宇右衛門は書き残している。
つーか、政宗の言葉が天正18年の事件を語った「政宗言行録」そのままだろが(笑)。
これを正気で語ったとすれば、木村宇右衛門という人は和尚なみの事実混同のアルツハイマー
ということになる。
じゃ、その説をまとめて仙台市史編纂室へ送るのがいいよ。
こんな田舎相撲で連戦連勝したって、単なる自己満足で終わってしまいアカデミズムには
何の影響も与えないのだから。
彼らを土下座させて、記述を改めさせて初めて意味が出てくる。
仙台市史の当該部分を書いた東北大の渡辺教授は数年前亡くなっているので、渡辺氏本
人に土下座させるのは無理だけど、資料を探し出してきた博物館長はまだ生きてるんだか
ら彼をギュウギュウ言わせてやるがよかろう。
>>612 >2chでの仮説・居酒屋談義に、そう逆ギレする必要もないと思うが。しかも「三国・戦国板」で。
君の言う「アカデミズム」や「東北大の渡辺教授」といった権威やお墨付きに安易に頼ることが、
どんなに危険なことか。むしろ仙台市史編さん専門委員会が自ら反省していることだろうし。
最新の研究成果を叙述に反映させるという趣旨から、編さん時においては学界の一定の認知を
受けていた調査成果をもとに記述を行いましたが、結果的に、ねつ造された資料を用いて歴史
叙述を行ってしまったことを読者のみなさまに深くお詫び申し上げます。
(藤村新一元東北旧石器文化研究所副理事長による旧石器遺跡発掘ねつ造問題に関して(HP)
平成15年2月 仙台市史編さん専門委員会)
>>611 政宗言行録っていつの時代に編纂されたの?
同じ話題ばっかりね 佐竹スレじゃないわけ?
素朴な質問だが、この2冊は内容的にどう違うの?
「伊達政宗言行録 政宗公名語集」小倉博/編 高橋富雄/新訂、宝文堂
「伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書」伊達政宗/〔述〕 木村宇右衛門/〔原編〕
小井川百合子/編、新人物往来社
>>613 > 2chでの仮説・居酒屋談義に、そう逆ギレする必要もないと思うが。しかも「三国・戦国板」で。
今の日本史板に比べたら三戦板の方がマシな内容だよ。
日本史板は地域差別ネタと外国の工作員の書き込みで溢れ返ってるし、出典を出しての意見な
んてほとんど見られないから。
> 権威やお墨付きに安易に頼ることが、どんなに危険なことか。むしろ仙台市史編さん専門委員
> 会が自ら反省していることだろうし。
文責について明示しただけのことで、権威がどうこうというつもりではない。誤解を与えたのなら陳
謝する。とりあえず、あなたが権威に屈さない自存自立の人であるということは良くわかったよ。
> 読者のみなさまに深くお詫び申し上げます。
って謝っておいて、その後刊行した近世史でまたやらかしたってことはあなたのいうところの
反省が足りなかったんじゃね?(w 折角だからもう一回お詫びさせてやりなよ。
それとも、まさか公式の形で自論を市史編さん室にぶつけるのが怖いということではないよね?
ぬるぽ!
── =≡∧_∧ =
── =≡( ・∀・) ≡ ガッ ∧_∧
─ =≡○_ ⊂)_=_ \ 从/-=≡ r( )
── =≡ > __ ノ ))< > -= 〉# つ←
>>618 ─ =≡ ( / ≡ /VV\-=≡⊂ 、 ノ
── .=≡( ノ =≡ -= し'
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|
|
| 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>617 >今の日本史板に比べたら三戦板の方がマシな内容だよ。
まあ、「日本史版」はアホの巣窟だからねえ。実際「政宗」なんて書いた
途端に「会津人」にされかねんしなw
>まさか公式の形で自論を市史編さん室にぶつけるのが怖いということではないよね?
市史編さん室にぶつけるも何も、そもそも漏れの発言は厨房レベルの(と思うが)
疑問なわけで。。仙台市が好きでやってることに一々問い合わせする趣味もない。
ただ、「岩出山に義姫がいた事実」から、1.義姫の出奔が天正18年ではなく実は
文禄3年であった、2.義姫は毒殺未遂の首謀者ではなかったって断言されても、
今イチ納得いかんわな。もっともご当地の仙台でも仮説という感じじゃないの?
『仙台藩ものがたり』(河北新報社編集局編/平成14年6月刊行)でも、メモ欄で
小さく扱われてる段階のようだし。
>>620 文禄派が全く歯も立たず手もなくひねられるのを見る限り、あんたは厨レベルじゃないな。
その正否にかかわらず全く主張にぶれも迷いもないから、多分あんたなら市史編さん室も
恐れ入って土下座すると思う。
あんたの考えを覆すのは、主張がぶれたり迷ったりする我が能力では絶対に不可能だよ。
故に最強。
ただ、知った上であえて書かなかったのだろうが『仙台藩ものがたり』は新聞の連載記事を
合本にしたもので、その回のメインテーマ以外を懇切丁寧に記述する紙数はあまり多いと
はいえない。このメモ欄が付された時期の内容は朝鮮における政宗の足跡であって、その
他のことは余談として扱わないと内容が拡散してしまう。
また、ある学説が定説になっても教科書に反映するまでそれ以上の時間がかかる。そして
場合によっては教科書に反映した頃にはさらに新しい学説が出ることもある。
『仙台市史』と『仙台藩ものがたり』の記述の振れ幅は、書籍としての性格の違いや想定す
る読者層の違いも含めてそういったものの一つという考え方もできないことはない。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 13:27:54
もっと読みやすくかけ!
読む気のもならん・・
羅漢ラカンて強そうだな、罹患リカンの誤りです。
626 :
ター某:05/03/02 13:27:58
小説には小大納言が偽手紙送ったせいで兵を退いたとありましたが
ほんとれすかあ?
自分の思い通りにならなかったら
すぐにスレ潰しに走る低脳はどーにかならんか
>>628 悲しいけど、はげどー。
日本史板もそんな感じだしね…
>>629 日本史板と三戦板は、ちょっと違うぞ。
日本史板は田舎(特に東北)を叩きのめすところに特徴がある。
三戦板は二次資料で一次資料を否定するところに特徴がある。
>>630 なるほど。そう言われてみれば確かにw
…て笑い事じゃないなぁ…。
以前、どっかでも言われたけど
日本史板=粘着の住処
三戦板=厨房の住処
だからな
…笑えないよなぁ……
>>630 三戦板は二次資料で一次資料を否定するところに特徴がある。
そんな特徴はないだろw 仮に否定したところで、このスレの国分盛重のように、
返り討ちにあうだけだから。
>>633 > そんな特徴はないだろw 仮に否定したところで、このスレの国分盛重のように、
> 返り討ちにあうだけだから。
国分盛重の出奔は「治家記録」に書いてないから正直いつでも問題ないんだよw
>>634 >国分盛重の出奔は「治家記録」に書いてないから正直いつでも問題ないんだよw
なるほど。つまり、土居氏の天正17年は勘違いで、慶長4年ということで確定だとw
636 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 21:23:48
ええい!黙れ!!
>>635 いや、一次資料は否定されるのでこちらも定説どおり天正18年だ。
まぁおもしろかったからいいよ
>>637 >いや、一次資料は否定されるのでこちらも定説どおり天正18年だ。
おいおい、「天正18年が定説」って…?(呆)w 往生際が悪いよ。
(ちなみにその電波な説では、以下の史実2点すら崩せんわな)
1.国分盛重は、文禄4年時点でも、伊達家に在籍している。
秀次事件の際に、施薬院法院全宗等4名宛に、伊達家家臣19名が連判誓約書(起請文)
を提出(時期:文禄4年8月20日付)。誓約書の筆頭が石川義宗、2番目が伊達成実。
5番目に名を連ねているのが国分盛重。(この連判状は一次資料)
2.(諸説あるが)国分盛重の出奔時期の通説は慶長元年〜4年である。
慶長4年(1599)の一次資料のソースは「国分氏系図」。
二次資料の軍記物語「奥羽永慶軍記」ですら慶長4年と記載。
>>640 このスレでは一次資料に重きを置かないのかと思っていたよ。
それまでは二次資料を重視しておいて、今度はいきなり軽視するとはダブスタですな。
それとも反対のための反対なんでしょうかね。
>>641 それまでは二次資料を重視しておいて
何か大きな勘違いをしているようだが。そう思ったのはどのレスのどの部分?
>>640 詳しくないから適当なこと言うけど
伊達家に居ながら佐竹家臣ってのはありえないの?
>>643 絶対にありえんな。そもそも国分(伊達)盛重は、嗣子がなく断絶の危機に瀕していた
国分家に、伊達家が強制的に押し込んだ養子。(伊達家による国分家乗っ取り+傀儡化)
盛重の立場は「国分家に居ながら伊達家家臣」だから。
慶長3〜4年当時、盛重はいまの宮城県仙台市泉区の松森の松森城を拠点としてたし、
どう見ても佐竹との接点はないよ。
>>644 いや、佐竹には姉が嫁いでるから接点はあるはず、
隠そうとするなんて怪しい!
>>643 「治家記録」にそう書いていない以上、ありえない。
如来章、府中・江戸但馬守再乱案外之儀ニ候條、令出馬、号玉里地
近陣手繁及取扱、悉押詰候、落居案内之内ニ候、将亦安積堺中兎角之
由、無是非次第候、会津・当方無別儀所、定昭光可被及注進候歟、
委細猶中務太輔可申越候間、不能具候、恐々謹言
卯月七日 義重(花押影)
伊達殿
秋田藩家蔵文書9-15、国分盛重宛、佐竹義重の書状。
「府中・江戸但馬守再乱」というところから見るに、天正十六年の書。
比較的古くから佐竹と盛重の交際はあった模様。
土居氏は上記の文書を理由に、国分氏を(天正十六年の時点で)
佐竹家臣と誤認してしまったと思われる。
>>648 秋田の方? その資料よく発見できましたね。
天正16年といえば、国分盛重は国分家中をうまく治めることができず、治家
記録でも「国分彦九郎政重(盛重)政事宜しからず」とボロクソに叩かれて
いた時期。盛重はどうも伊達家では評判が今一つな武将なわけで。
しかし、これで、土居氏の旗色がどんどん悪くなってきましたな。
(小説の後書きで訂正が必要になる可能性も)
この文書は家蔵文書ではおそらく国分盛重に関する唯一もので
家蔵文書の中では比較的よく知られていると思われる。
土居氏の旗色が悪くなるも何も、
国分盛重の出奔時期が天正十何年とかでないことは
伊達家の文書から見ても自ずから明らか。
もともと土居氏の勘違いに過ぎない。ていうか小説だし。
つーかそもそも国分盛重なんつーデボチカヘッドなどどうでもいいのだワトソン君。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 19:47:53
>>650 >デボチカヘッド
なんだそりゃ(w 頭の悪そうなコテハンといい、どうにも底の浅いレスだな。
土居氏の説は天正17年。天正16年じゃないよ。
しかも
>>647の文書だけから、土居氏のソートは確定できないね。
ただの憶測はやめたまえ、ワトソン君w
俺、リアルに佐竹姓なんだけど、
ほんと、佐竹氏ってなんなんだろうね・・・
・地元は制圧した
・農地の運営が上手かった
・大博打せず生き残った
・名門
功績があるとすれば、米所を守り続けたことくらい?
家系的に白米が好きなんじゃね?
俺も好きよ。醤油かけただけで三杯食えるよ。
>>652 秋田の林業の礎を築いたのは佐竹だと思ったが
礎は秋田氏じゃろ
655 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 06:53:03
>>648 この程度の資料では誤認すらできないじゃろ。まして佐竹の家臣などとは。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 15:58:41
ぬるぽ!!!!!
658 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 18:16:34
>>657 ■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノ
>>659 日本史板の東北蔑視厨がスレ立てしそうな絶好の燃料だな。
今まで、トホホ人物伝で挙げられてる戦国武将は、家康(脱糞)、秀吉(エロオヤジ)、謙信(ホモ)政宗(マザコン)かな?
662 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 16:43:34
義姫がらみ(マザコン)だけでなく、
只野作十郎がらみ(衆道)もやってくれることを期待。
謙信に続いて、『政宗実は女の子説』かい!
>>663 まるで八切止夫だな。
もっとも、あれは毒殺事件までが愛姫=猛将政宗で、小田原以降が藤次郎=ヘタレ政宗
という説だったはずだが。
その他にも、江戸時代以降のいわゆる実録物からの引用が満載だったな。
あの番組の構成作家は日本史板の常連に違いないと思わせるほどの煽りっぷりだった。
666 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 09:54:29
最近の説では万治高尾は存在すら疑われているのに・・
○最近の説
・綱宗は吉原通いをしていたのは事実であろう。
・万治年間に三浦屋に高尾の名跡を持つ大夫は居なかった。
・綱宗が熱をあげていた相手は別の大夫(しかも三浦屋ではない)
・江戸時代の創作作品(実録物、演劇、読本等)で、歴代それぞれが最高の大夫と言われた三浦屋の高尾を綱宗の相手役として脚色した
まあ、この辺りまでは定説的に言われるようになってるな。
あとはそれぞれの研究者ごとに幕府陰謀説とか天皇と従兄弟だから云々とかって色々と新説、珍説、俗説の類が続くんだけど。
667 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 17:13:00
三戦板の常連かも知れんぞ
>>666 つーか、出典が押しなべていわゆる「実録物」な時点でダメだ。
せっかく前半で政宗の情けない部分だけを思い切り誇張して新説を作ってきたのに、後半が
昭和30年代前半までの俗説を引っ張ってきたのはいただけない。
バカ説・捏造話でもいいから、もっと新しい説を提示して欲しかった。
でも、全国で2000万人くらいはこの番組の内容を信用するんだろうな。(w
多分今頃仙台市博物館や瑞鳳殿は制作に協力したことを後悔しているはず。
俺はあの番組を見て伊達家にはアホが多いんだなと思った
>>669 そうしてみると、そんな伊達家に負けないまでも勝てなかった佐竹家も目糞鼻糞なんだなぁ。
こうしてみると、NHK『堂々日本史〜伊達政宗・母との葛藤を超えて』
辺りとは比較にもならないな。所詮TV東京。
673 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 14:03:44
もっとトホホネタあるんだからもう少し楽しめる内容にして欲しかったね。
多田氏勝女(側室)、只野作十郎(衆道相手)の「姉弟どんぶり」とか。
279 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:05/03/16 23:45:47
結構町中で発砲事件とか狙撃されてたりするよ。有名どころ
では、伊達政宗の孫とか。近藤勇とか。
江戸期は、意外だけど銃器はそんなに減ってません。戦争がなくなった
から民生品扱いでむしろ増えてる。兵器としては進歩してないんで
幕末あたりで雷管とか後装填とかの技術進歩のせいで無用の長物に
なったけど。江戸初期は農地開拓とかで西部劇ばりの銃社会。
人口が増えて過多な保った浪人がうろついて治安がいいってのは、
矛盾してます。実際は、治安最悪ですよ。取り締まらないから。
初期は浪人が増えまくり(藩潰すから)で大量浪人発生。中期は
流人が大都市に流入で治安悪化。後期は、世情不安と悪政で
体制自体が緩んで暴徒化。幕末の有名な英雄小栗は、地元
の領地で暴れた暴徒を容赦なく撃ち殺して恨みを買ったけど、大抵
の領主は、見て見ぬふりをして問題を矮小化して放置していた。
松前の放任による悪徳業者が原因の蝦夷反乱や関東の無法ぶり
などは、その典型。領地境を越えるとまったく無法状態。自分の
ところだけよければ的な封建制の悪しき点が凝縮している時代。
280 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:05/03/16 23:51:23
極論的だなあ。まあ意見の一つとして受け取っておく。
281 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:05/03/17 09:52:57
>>279 > 結構町中で発砲事件とか狙撃されてたりするよ。有名どころ
> では、伊達政宗の孫とか。
先日放映されたテレビ番組「以外の」ソースをキボン。
282 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:05/03/17 17:51:55
>>279 創作と事実の区別
メディアリテラシーに欠けている
勉強不足
283 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:05/03/19 22:27:46
>>282 事実だよ。伊達の殿様は、狙撃された後、強制的に隠居。
事実上幽閉された。もっともねらわれることなくかえって長生きしたらしい。
ただその余波で復権待望派と次代派で10年以上血なまぐさい粛清の嵐が
伊達家に吹き荒れた。三大お家騒動の一つとして有名。なんか一時期は、
四国かどっかの伊達家まで絡んでさらに複雑になった。四国の方が
伊達政宗直系なのでそういう話になったとか。幕末の四賢侯は、その末裔。
伊達綱宗は、完全に被害者なのだが・・ゴシップとしては面白かったらしく
歌舞伎の題材になっていたりするがこちらは創作。高尾太夫とか実在すら
怪しいが後年山本周五郎が題材に取ったために有名になった。高尾太夫
自体は存在するが、いわゆる源氏名なので時代もバラバラでこの時代に
同人物がいたかは不明。狙撃犯は、旗本との情報が当時からあったが
これは、幕府が伊達家の内紛に介入していたために起こった流説。実際の
犯人は捕まっていない。例によって無かったことにされてるが普通に
考えてお家騒動の敵対側だと思われる。他家の内紛には不干渉が基本。
もっと言えば喧嘩両成敗が武家の慣習なので綱宗が隠居させられたと
見るのが自然だろう。現代の感覚では被害者が咎められるのは変だと
思うかもしれないがそれが不文律だった。赤穂事件もこの理屈で裁決に
不満を持った浪人が元大名を惨殺するという事件を起こしている。
狙撃は伊達以外にも津軽の行列に撃ち込んだ相馬事件(自称南部家浪人)
とかも有名。浪人ってかなーり物騒な連中。そんなのがうじゃうじゃいます。
※小野家文書と支倉文書にも狙撃の事件が載ってる。もっともニュアンス的に
は江戸での変事で吉原などの地名は出てこない。死んだわけでもないので
それほど大事件扱いでもなかったようだ。伊達家は、狙撃で当主を失った
事例があるので不吉だとかそんな意味合いが書いてある。小野家などは、
神主の家系のようなので祈祷関係かもしれない。
>>676 四国の伊達家の方が直系なの?仙台の伊達家は直系じゃないの?
678 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/21 03:19:28
>>677 仙台藩を引き継いだ忠宗は次男だが正室の子なので嫡子。
宇和島藩祖となった秀宗は庶長子だが側室の子。
どっちが直系って言われても・・・ねぇ。直系は直系。
政宗の後継者たる地位にあるのは忠宗だが。
あれ、秀宗って山家公頼の件で義絶されたんだっけ?
>>678 やっぱり仙台の方が直系じゃないの?正室の子だし。まあ一応宇和島の秀宗も政宗の血を受け継いでいるから秀宗も直系と言えば直系だが・・・
宇和島は秀宗系が切れて仙台から養子もらってるんだが
コレが綱宗系だったので、綱宗系が切れた仙台に対してさらに
本流意識を増大させることになった
>>609 政宗って3回も母親に殺されそうになったのか・・・
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 14:09:03
age
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 17:13:36
楽天の応援歌を歌っていても伊達政宗を知らないモーニング娘。に乾杯!
モ娘って伊達政宗のこといたちまさむねって読みそうだな
age
688 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 01:26:51
age
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 09:49:10
>685-686
大河ドラマも18年前だからな。。
放送時に生まれてない娘。も居るんだよな(;´Д`)
伊達政宗って教科書に出てきたっけ?
出てるのもあるはず。
単に当時の勢力地図とかに載ってるぐらいだろうけど。
支倉の遣使とかその関係で出てきそうだが?
さっきハロモニ見たけどクイズで政宗の問題が出ていたけどやっぱりハロプロのメンバーはなかなか答えられなかった。小川は織田信玄って答えていたし
織田信玄・・・すげぇ強そうだ・・・
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 12:22:01
武田信長は実在したが、その子孫の真里谷氏で天下を取ったゲーマーの話は聞かない。
697 :
質問:2005/04/09(土) 12:34:15
国分盛重の出奔時期を議論している人たちに質問
伊達家と佐竹家周辺の複雑な血縁関係を考えれば、一度出奔した後に第三者(例:留守・石川・岩城なんか)の仲介で一旦は伊達家に戻ったけど、
やっぱり政宗と馬が合わなくて再度出奔した可能性は考慮に入らないのですか?
>>697 もしも、盛重が通説より前に出奔していたとすると、その時期は、天正18年4月、
義姫の出奔と同時期になるかもしれない。実は盛重は小次郎擁立+政宗毒殺事件に
関与していたのでは?と、政宗側から何か相当疑われている節がある。これが長年の
政宗のフラストレーションになって、慶長4年「盛重を成敗する」って話になったかも。
それに万が一、盛重が「政宗毒殺の陰謀犯」として伊達家に認識された場合、戻って
きた時点で盛重は政宗に確実にブチ殺されてるだろうなあ。
よって、一度出奔したとしても、怖くて伊達家には戻れないと思う。
でも、伊達成実は戻ってきてるよ。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 15:24:02
大内定綱が殺されたと言う話も聞かないが。
>>699>>700 二人とも高い代償を払った上で、「許されてる」ことに注目した方がいいよ。
大内は許されはしたが、恐るべき懲罰を受けてるだろ。小手森城の狂気に近い撫で
斬りでは、老若男女800人が無差別に皆殺しになった。牛や馬も含めて。
成実にしても「待遇に不満」との理由での出奔したが、留守を預かる成実の家臣は
屋代景頼の軍勢に女子供ともども冷酷に皆殺しにされている。伊達家の重臣成実にして
これだ。
これが愛する母を苦しめ、弟を自ら切らざるを得ない事態に、盛重がからんでいたら…?。
盛重としはガクぶる状態だわな。
>701
茂庭綱元や遠藤文七郎は?
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 02:11:04
>留守を預かる成実の家臣は
>屋代景頼の軍勢に女子供ともども冷酷に皆殺しにされている。
無い無い、あり得ない。
そんないわく付きの城を一門筆頭として迎えた石川昭光に与えるわけないですw
屋代景頼は抵抗する家臣約30人を角田城下の屋敷で
粛正した程度で、皆殺しなんかしていません。
そういや一門筆頭として迎えられた石川昭光も
佐竹に従って伊達にたてついてたなぁ。
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 07:32:14
>>703 >粛正した程度で、皆殺しなんかしていません。
どうゆうこと?「粛正した程度」で「皆殺しなんかしていません」って(笑)。
日本語の使い方、明らかにおかしいよな。実際数百人の屋代の軍勢に包囲されて、
銃撃された上、屋敷を放火されてるわけだよね、30人の家臣達は。
で、死んだのは羽田右馬助ら数人のみなの? なら「粛正」とは、これ如何に?
被害の状況等、もうすこし説明してもらおうか。
>>701の文章をすみずみまで、もう一度読んでごらん。「そんないわくつきの城」?
時系列でいえば、政宗は角田城を接収し、石川昭光に与えた後、屋代が角田城下
の成実の家臣を攻撃したんだろ? 別に「留守を預かる」と書いてあるだけで、
「角田城」に籠城した家臣を屋代が攻撃したなんてフレーズはどこにもない。
早合点は惨めだよ。文末に「w」まで入れてもね。
>>703
時系列でいえば、慶長2年伏見にて成実出奔を知った政宗は
角田城の召し上げを岩出山城代屋代勘解由へ伝令、
屋代が角田城下の成実の家臣を成敗、接収、
慶長5年白石城攻めのさなか成実帰参
慶長7年伊達成実は亘理城を与えられる
亘理城主片倉小十郎景綱は白石城へ
石川昭光は志田郡松山館より角田城へ移る
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 16:21:17
亀レスだが俺もPHPの佐竹義重買ったぜ。思ったんだがPHP
って小説というより参考資料として活用したほうが良い本が多くないか?
>>706 石川昭光が伊具郡角田城に移ったのは、慶長7年ではなく慶長3年だよ。
>707
参考資料としては足りない。
解説本ってところかな?
あら捜しすると結構見つかるし。
特に笑ったのは、「伊達宗城」で、先祖の伊達政宗の息子のことを書いてる部分で・・
三男宗勝
・・・って「おいおい!」って突っ込んじゃったよ。
まあ「伊達宗城」を書いた人がたまたまやっつけ仕事だっただけかもしれんが・・
参考資料としてはどうかな?って思うけど。
PHP文庫の佐竹義重の小説読んだけど血気盛んだが詰めが甘い、プチ謙信な人って印象。
あと政宗が出てきてから奥州の戦場も血生臭くなってくるね
今まで青田刈りや人身売買ぐらいだったのがいきなり虐殺
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 17:09:36
age
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 18:26:26
age
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 03:11:52
誰か語れる者はおらんのか!
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/26(火) 10:10:53
age
政宗「オレは天下を(とる)なんて全然、考えていない。まったく考えていない。一切、考えてない」
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/28(木) 12:20:26
というか実質的な米の生産高が死ぬほど低い
対馬の宗家の屋敷があるという時点で
蔵屋敷の実態が大体わかるじゃんw
実際問題堂島では先物取引が行われていたのだから
引き取り地が江戸に設定されていれば
別に現物が大阪に運ばれる必要はかけらもない。
残念ながら鬼の首をとったように提示する
資料じゃあないねw
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/28(木) 15:43:34
では、東北諸藩はいかなる手段をもって京・大坂の商人から融資を受け得たのかと言う問題も出てくるのだがな。
どちらにしてももはや板違いだろう
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/28(木) 16:14:18
>>719 対馬藩の蔵屋敷は朝鮮貿易で得た交易品を売りさばくためのものだろう。
蔵屋敷=米だと短絡的に考える方もどうかと思うが。
伊達と上杉ってなんで仲悪いの?
すっごく仲良いよ
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 11:43:07
時代によるんじゃないの?
越後上杉定実が伊達稙宗から養子を貰おうとしたのはそれだけの親密さゆえだろうし…。
>>723関ヶ原の戦いの直前あたりは結構仲悪いんじゃないの?
それは長尾だろ
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 21:36:57
純粋な上杉時代と長尾上杉時代では時代情勢も違うからな。
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 21:44:57
伊達成実が出奔している時に上杉景勝が迎えようとしたが
伊達成実は「家臣筋の家にいけるか!!」って断ったとか・・・
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 22:14:47
改易になった屋代景頼を、こういう
>>701過去がありながら領内に招いて息子を家臣にしたり
伊達成実ってマジ戦国一の漢じゃね?
政宗が佐竹や葦名と戦ってた頃、上杉と同盟してなかった?
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/30(土) 13:00:39
奥羽諸勢力と不可侵関係はあっても同盟は無いでしょ
731 :
:2005/04/30(土) 13:13:12
上杉伊達ともに大規模な戦は避けたいって感じだっただろうね。
関ヶ原んときは越後復帰したい上杉と伊達は家康が思うように
戦おうとしなかった
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/30(土) 18:38:26
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 06:43:15
人取橋の戦いで、優勢に戦いを進めていた連合軍が突然撤退したのは、
佐竹側の内部事情とされている論が多い。
しかしPHPの新刊では、伊達の調略・謀略によって、佐竹が内部崩壊
→連合軍瓦解・撤退、と断じているのは新味があった。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 09:39:23
PHPてwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
伊達にそんな調略や謀略する能力があったのなら
最初から人取橋なんて起こんねーよって感じだわなぁ。
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 19:50:02
まあ、あえて言えば政宗以前の代の婚姻・養子政策という謀略の成功の結果ではあるがw
同盟同盟と言いますが、
「国家間に真の友達など居ない」byビスマルク
のですよ。
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/02(月) 17:58:21
伊達まぬけ…佐竹カス最強なのは斉藤タツオキ
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/02(月) 18:28:53
>>737 つまり伊達公子とビスマルクは結ばれない運命だったと
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/03(火) 19:13:29
>>737 ド・ゴールも似たような事を言っていますな。
越後から会津に移ってから急速に関係が悪化したって感じ?
旧領の米沢・伊達・信夫はほとんどが上杉領土。
旧領回復を目指す伊達としては当然上杉がターゲットになる。
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 20:35:36
age
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/13(金) 20:29:24
ほう…
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/14(土) 00:26:13
むらさめ…
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 01:29:55
age
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/20(金) 21:50:43
父親の49日の間に禁を破って妻とやってしまう義重の軍配!!
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 23:53:33
のぶやぼの烈風伝の政宗の政治力95もあるけど高過ぎなんじゃない?86ぐらいでちょうどいいんじゃない?
パラメータの話題で戻ってきたんだが、政宗の政治力は75くらいで。
かわりに景綱80・綱元82くらいでカバーしてやってほしい。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/27(金) 10:28:52
政宗が政治力高いのは不思議でもなんでもない。
経緯はどうあれ、大藩を築き上げたんだし。
むしろ、島津一族の能力のほうが高過ぎだと思うね。
義久・義弘が優秀なのはある程度わかるけど、
貴久や日新斎の能力はもっと下げてほしい。
日新斎は評価してもいいと思うが・・・
>>742 関が原戦で、伊達・上杉が密外交していた節があるらすい。
752 :
:2005/05/27(金) 12:09:10
政宗は政治力が一番高い分野だと思うが。
領国経営wを見ると政治家としては相当でしょう。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 02:58:54
ほう…
政宗は謀略が一番苦手な分野だよね。
何をしても相手に発覚してるし。
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 23:46:46
東北は中央と違って戦国突入が遅く
戦争も本領安堵で和睦が多かったから
謀略が発達しなかったのでは?
一族で争ってるだけだったりするしなあ。
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 23:56:00
そもそも東北地方で下克上の成功例聞いたことないしね。
最上氏は微妙に下剋上ではないかなとこじつけてみる。
759 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/04(土) 23:59:21
でも、謀略ていやあ最上義光
大崎氏の傍流で被官化するはずが本家を超えて戦国大名化したってことで。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 00:08:41
最上は一族間の争いが激しかったが
一族間で力に差があったのかな?
義守と義光の親子間の争いを指してるなら
明らかに息子のほうが不利だったが。
義光は義守と講和後、仲介に入った伊達氏にも
速攻で攻めかけたりしてるから謀将呼ばわりされてるんだよな。
他に義光のエピソード知らない?
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 00:13:35
>>760 大崎氏と闘争の結果戦国大名化したわけじゃないからねぇ。
出羽地方に数代根付いて勢力伸張を図ってるし、下克上といえるか微妙だな。
それをいったら奥州探題の役職を室町末に横取りした伊達氏はどうなる?
>>754 >政宗は謀略が一番苦手な分野だよね。
何をしても相手に発覚してるし。
何も分かっていないな〜(笑)。「発覚」は単なる結果論だよ。
政宗ほど謀略を好んだ武将はいない。馬鹿正直な上杉や佐竹と
比較してみるまでもなく。政宗の場合、危ない橋を何度も渡って
いるが、失敗してどう転んでも破滅しないよう、2重3重の保険
を用意周到にかけている。相当したたかな謀略家だよ。
>>763 失敗したときの保険がいくら役に立ったって
肝心の成功という成果が得られてないんだから駄目だろ。
>>764 成果云々は関係ないだろ。ローリスク&ハイリターン主義の政宗にとっては
「失敗」など初めから折り込み済みのことなんだから。
おそらく「葛西大崎一揆」「和賀兵乱」を指しての意見だと思うが、表面上
は、かれら大崎等の遺臣や和賀は、政宗に一種の「観測気球」として利用され
た形になっている。で、大義名分は彼ら自身による「葛西家・大崎家・和賀家」
の再興だ。内乱が深まり、新参者木村の統治能力、また南部家の内政に中央が
問題有りとして、やはりここは伊達家に統治一任という形になれば、双方共に
願ったりかなったり。むろん実権は伊達が握るわけだw
それに一揆の煽動顛末の後、豊臣、徳川ともに逆に伊達家を警戒し、自らの陣営
に取り込もうと躍起になっており、軍事的、政治的プレゼンスはむしろ高まった
といえるだろう。皮肉な話だが。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 21:05:01
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 21:59:08
>>766 全然エピソードのってないじゃん。
くぐれば一番上にくるようなサイトリンクされてもねぇ。
今一、謀将というイメージがわいてこない。
これくらいならたいていの戦国大名と大差が無いように思われ。
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 22:03:46
最上のことは最上スレに言って聞けボケ
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 22:13:09
最初にこじつけて最上を持ち出してきたヤシに言え。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/07(火) 04:25:19
政宗が得意なのは、政治でも謀略でもなくてピエロだろ?
秀吉に慰み者にされ、家康には嬲られ、秀忠には軽んじられ、家光にはタメ張られる。
そして譜代大名には不信の目で見られ他の外様大名には笑い者。
縦読みwwwww??
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 18:23:19
>>772 馬鹿か、この低脳はw
秀吉が、政宗の一流の外交(サービス精神ともいうw)にまんまと乗せられていた
ことも知らないようだな。大体、奥羽仕置きで「道化役」を演じ、翻弄されていた
のは、他ならぬ豊臣政権の木村吉清父子、蒲生氏郷、浅野長吉の面々だし。
で、徳川との関係はとみると、慶長〜元和〜寛永と、見事に徳川3代の家康、秀忠、
家光の「顧問役」ぶりを発揮してる。信頼どころの話ではない。徳川の重鎮だな。
>他の外様大名には笑い者。
そんな事実はないがなあ(笑)。無論嫉妬とやっかみ位はあったかだろうが。
んで、その「外様大名」って誰なんだ? 島津家久は、なしな(笑)
まぁなんつうか、
772みたいな奴は釣りで言ってるのか本気で言ってるのか疑問に思うときがあるwww。
政宗の世間的な過大評価を否定したいあまりに、
バランスを欠いた電波な中傷するやつが多いよな。この板。
天下取れる器だった!とかほざくヤツいると俺もキレそうになるが。
政宗の面白いところは、相当なインテリ(和歌や漢詩を通じて後水尾天皇の厚遇を得、
五摂家の近衛、一条、烏丸らと深い親交を持っていた)なのに平気で馬鹿になれるとこ
ろだ。ベネチア金獅子賞をとりながら、親父のハゲずらをかぶってパンツ一丁で銀座の
表通りを走り回るたけちゃんみたいなことが、平気でできる。
こういう腹芸は、プライドの高さが邪魔をする佐竹義宣や上杉にはできないところだ。
なんつーかさ、宴で和歌をうまく歌いすぎると興ざめというか
(実際うまくても歌も雰囲気も魅力半減するよな)、そういう
こと言ってたから、かなり自分の和歌とか芸のポリシーみたいな
もんはしっかり持ってる人ってことだろ。まぁ芸術家はそういう
とこ持ってて当たり前だけどね。
文禄3年の吉野の花見は、政宗の二面性が遺憾なく表れているな。
『吉野懐紙』に収納された和歌の最強メンツが、徳川家康、前田利家、伊達政宗、
豊臣秀吉、豊臣秀次、中山親綱(権大納言)、菊亭春季。その中で図抜けて評価が
高いのが、政宗の5首の和歌だ。(花を散らさぬかぜ/はなの願い 等)
で、(例によってというか)仮装大会では秀吉を爆笑させるお茶目ぶりを発揮している。
仮装大会warosuwwww
まぁ政治的云々はちょっと置いといて、
パフォーマンスも表現活動の一つだしね
二面性っていうか、和歌だけみても、古典調のものも
詠い、他には洒落っ気あるもの、辞世の句みたいに
余分な装飾落としたものみたいなのとか、
場っていうもの心得てるんかね。マジ器用。
まあ、
>>772も見方によったらそう取れるからそんなに問題もない気がするんだけど
政宗が笑われたってのは神保の件でしょ、きっと。
>>782 そういうのを「穿った見方」って言うんだよw
それに神保の件だが、笑った云々の件については、書簡を書いた本人
すら目撃したわけでもない、単なる「風説」に過ぎないガセネタ(笑)。
ま、常識的に考えても、幕府軍艦や本田正純ですらビビッた政宗を笑い
飛ばせる中小大名はいないだろう。反論あるなら、せめて、藤堂高虎、
細川忠興、水野勝成辺りの資料くらい出してからだなw できますか?
>>778 なんつーかさ、プライドの高低よりも感性の違いだと思うよ。
一応東京五美大の一つに行ってたけど、そういうパフォーマンス
できるやつとかやっぱりいる(パフォーマンスに全てを注ぐような奴もw)。
で、俺は真似できない。
でも俺はプライドが高いから真似できないとは間違っても思わなかったぞ。
んなこと言ったら吊るし上げに合うってのもあるがw
なんつーか、普通に感性の違い。
重要なとこは表現したもののクオリティの高低だよ。
>>783 別スレで似たようなこと書いて自爆したヤシがまた懲りずに出てきたんだろ。
相当叩かれてたので余程悔しかったんでしょうな。(w
それはともかく、軍艦がビビるってのは釣りでつか?
>>785 スマン、軍艦→○軍監 ついでに×本田正純→○本多正純 の間違いだったわ。
例の書簡(風説)が発せられたちょうどその時期、政宗は正四位下、参議に叙任。
で、事件後、東軍側の有力大名で「公然」と政宗を批判した(=しえた)者がいた
とすれば、それは誰なのか?
そこが最大の急所なのに、アンチはまともに答えられないだよねw
>>784 「感性」というか「性格」の差も確かにあるだろうな。政宗と義宣では。
尤も政宗が演出したド派手なパフォーマンス(小田原役の死に装束、葛西
大崎一揆の黄金の磔柱、朝鮮の役の際の「伊達もの振り」)は、秀吉好み
に周到にアレンジし計算された「外交交渉」としての位置づけがあったろ
う。ついでに秀吉サイドも一枚からんだ「出来レース」だね、これらは。
小田原参陣では、前田利家、浅野長政らの詰問使らと裏交渉はすでに
終了しており、秀吉も政宗の弁明も無論承知。その上で、石垣山城で
わざわざ「白装束を着て」秀吉に謁見、諸大名の前で臣従させると
いう形をとる。これほど秀吉の気分がいい演出もないものだw
要は、政宗の発案に秀吉がのったシナリオ付き合作芝居といえる。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 08:29:30
>>786 脳内ソースの話でつか?
>それは誰なのか?
もっやいぶらずにさっさと書けや。
他県人に会って、伊達正宗のこと聞くと大概「卑怯者」「卑劣」って言われる・・・
>788
読解力ゼロかよ
他国人に会って、SQNY、PARESONIC、HONGDAのこと聞くと大概「卑怯者」「卑劣」って言われる・・・
>>789 へぇ、大学で他県人に聞いたけどそういうことは無かったな(藁
なんか一人必死に政宗を称えているな。
むしろ戦国期じゃ褒め言葉ととって結構なんじゃねーの
>>795 というよりも、過敏反応するほどのことでもないだろ(ww。
>>793
早慶よりか全然格下だね。中圏より上ではあるけど。
どちらにしても自慢なんてできねぇ部類(藁
中圏より上で早稲田とかより下で都内近郊なら限られてくるんじゃ…?
六大とか。
>>798 そんなことねぇし(多少は絞られるかもしれんが)、六大でも学部による。
何気にこの板たまにプロ混じってるからな、俺が見たのは三国志系だが…
中途半端なところで天狗みせると折られる(藁
早稲田といえば和田のスーフリ
………凄まじい脱線ぶりですね(;´Д`)
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 13:06:45
>>797-799 確かに東大京大の人間からしたら六大なんてって感じだよね。
京大生と話した時に、「あんま京大とか知らない人から見たら
立命館くらいと同じレベルに思われてんのかな。」とか不満そうに聞かれたしw
さすがにそんなことないですよって感じだったけど。立命館もいい学校だと思ってるけど。
あわわ…話戻りそうだったのにごめんなさい!
832 :無名武将@お腹せっぷく :2005/06/10(金) 00:04:36
兵農分離は織田家を中心に起こった現象で、
もともと、地方ほど兵農一体に近かったのだし、
地方の半兵半農を秀吉が無理やり分離したことで、
田舎では武士が異常に少なくなった上に、
それに矛盾する軍役がかけられただけの事でしょう。
837 :無名武将@お腹せっぷく :2005/06/10(金) 00:13:16
>>832 >田舎では武士が異常に少なくなった上に
勝手な事言ってからに・・・・
島津でも伊達でも戦闘要員に対して5〜10%程度の騎馬武者がいるので
他所より少ないわけじゃないのよん。
もともと総数の半分近くは陣夫というのは当たり前の事。
でそのまた1割馬がいれば馬の割合が多い方なのです。
秀吉の刀狩の基準からして、動員が極端に減るような性質のものではないわけだし。
実際関東以北はどんな感じだったんだろ?
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 17:41:25
うんこ
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 19:41:00
正解
日本史板で「中国式の城壁はなぜ日本で活用されなかったのか2」読んできたよ
自演しすぎ。いつも思うんだけど本人はばれてないつもりなのかな。
閑古鳥が鳴いてる日本史板で15分かそこらで10以上レスがつくかっての
しかもその後はぱったり止んで7時間後にやっとレスがつく。
ほんでこのスレでグチってたのは、叩いてた方と叩かれてた方とどっちですか?
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 22:02:47
信長の新作でたね。
俺、義久好きで
奴の能力が思った以上にアップしてたものだからつい買っちゃったよ。
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 22:18:12
>>805 兵農分離が進んだ中央だって庶民は普通に帯刀しているし、刀狩以後も抜け道をつかって帯刀していた庶民が多い。
17世紀後期(具体的な年代は忘却)の江戸町奉行所で扱った殺人事件の凶器は圧倒的に大小の刀類。
>>809 義久ってだけ書かれても分からん。
名字つけろや。
佐竹と伊達スレから東義久だとわかるだろ
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 09:44:03
なに、東幹久という武将がいたのか。しらなんだ。
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 00:38:57
お前のボケは腹が立つんじゃ!
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 07:02:37
それで佐竹義久の能力はどれくらいだったのだ。
風の噂では革新の能力は120maxだと聞いたぞ。
義久だけじゃよくわからんから比較対象として直江兼続と片倉景綱と使ってみた。
上が義久、真ん中が兼続、下が景綱
80 71 63 77(統率 武勇 知略 政治)
88 78 90 91
85 70 95 91
ちなみに前作(天下創世)は
65 66 51 54(政治 統率 知略 教養)
81 78 75 73
81 76 80 67
前々作(蒼天録)
65 64 51(政治 統率 知略)
81 80 73
81 76 80
前々前作(嵐世記)
52 28 52(政治 采配 智謀)
80 79 74
80 76 79
その前(烈風伝)
61 29 37 62(政治 戦闘 采配 智謀)
87 72 83 83
86 64 82 84
その前(天翔記)
130A *64C 118B (政才 戦才 智才)
170A 164A 154A
170A 146B 160A
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 11:29:35
>>816 おー、ありがとー。凄く強くなってるな。
義久の能力アップは結構2chのこういう佐竹関連スレなんかの影響もあるのかもな。
あるいは光栄に「もっと強くしろメール」を送ってる奴がいるんだろうか。
ただ強くなってるのが政治智謀じゃなくて統率戦闘系だというのが意外だ。
相対的には低いかなと思ってたが、そうでもないみたいね。
義久も結構強化されたんだな。でも、武勇よりは知略を高くした方が良いと思った。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 17:21:15
東義久が上杉家を奈落の底に落とした奴より低いとかあり得ねーよ
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 14:37:53 BE:69494483-##
<交通事故>東関東自動車道で一家3人死亡 千葉・佐原
26日午前2時ごろ、千葉県佐原市下小野の東関東自動車道上り線で、走行中の埼玉県川口市上青木4、
石川政行さん(32)が運転する普通乗用車が中央分離帯のガードロープに衝突した。
石川さんと長男の政宗君(3)が車外に出ていたところ、後続のワンボックスカーなど2台にはねられた。
2人と乗用車の後部座席にいた妻の理恵さん(28)の計3人がまもなく死亡した。
県警高速隊はワンボックスカーを運転していた東京都江戸川区春江町5の運転手、
阿部清治容疑者(66)を業務上過失致死容疑で現行犯逮捕した。(毎日新聞)
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/traffic_accident/?1119750111
義重も名将だったが、政宗には及ばない。
これ結論でいいよな!
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/27(月) 23:25:10
そういうことになるな。
佐竹がウンコで伊達のほうがイカスということは、全国的な知名度や
ゲームの中での能力にも如実に現れているわけだ。
つまり佐竹厨はキモくて、伊達>>>北条>>>上杉>>>結城>>>佐竹と言うことだな。死ね。
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/28(火) 15:39:01
どう考えてもそういう結論になるわな
義重も名将だったが、政宗には及ばない
政宗は名君だったが、義宣には及ばない
これ結論でいいよな
義宣の治績を挙げとくれ。
お家取り潰しを免れたつーのは無しで。
某芸術大学を出た政宗君と義宣君が個展を計画し、「戦国界のアラーキー」こと
秀吉教授を招待することにした。
・銀座の老舗の画廊で正統的な個展を開くのが義宣君。父義重関連の
「佐竹財閥」関係からの格式のある花束が玄関を飾っているのはい
うまでもない。義重の差し金で、その夜は、秀吉教授の大好きな銀座
のクラブの予約まで入っている。(潔白な義宣は知らない)
・なぜか小汚い「ラーメン屋」で個展を開く政宗君。しかし一歩店
に入ると、中は黒と金の色調で統一された粋な画廊であった。
美術評論家仲間がにやにやしながら、あっけにとられる秀吉教授
を迎えて言った。「また、してやられましたなw」
>>827 つーか、秀吉教授女も当然大好きだけど一発芸はもっと好きだから。
そもそも教授自身が・・・
大学のある市で一番老朽した市営住宅を一棟借り切って個展をするわけだが、外見はぼろっちいままにして
おいて、内部は純金箔の総仕上げの画廊に仕立てる。
しかもその間元の住人を自分のコネで超一流ホテルに宿泊させて会期終了後は作品だけ撤収して「剥がす
の面倒だからそのまま帰る。後はそのままにするなり剥がして換金するなり勝手にして」
・・・って人だから。
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 20:19:23
>>752 それでも90台は高過ぎると思う 80台ぐらいだろう そのかわりに戦闘力は70台ではなく80以上あっていいと思う
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/16(土) 20:21:16
いやあれだけの実績があれば政治力は90台妥当だろう。
能力のハナシしるとすぐ荒れるからなぁ
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 12:59:05
age
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 17:58:06
age
荒らすのは、アンチの香具師ら
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 00:05:45
age
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 01:31:55
age
政宗って快勝した事ないでしょ
いつもギリギリで勝ってるし
大敗した事も多々ある
政治能力はそれなりにあったろうが軍事に関しては誉められたもんじゃない
>>837 >大敗した事も多々ある
「多々」はありません。残念でした(笑)
>>837 軍事能力だけでもだめだろ。
天下人や大大名になってる香具師が
勝ち残れたのは政治力を持ち合わせていたからだろう。
政宗は秀吉に改易されてもおかしくなかった。
そこを切り抜けて大大名になったんだからやはりすごいよ。
伊達の敗戦は、大崎合戦の1回しかない。それも2軍メンバーが中心だから。
政宗が陣頭指揮に立って負けたのはゼロ回になる。
なるほど
本荘に本陣まで踏み込まれて逃げたのは負けじゃないのか
伊達家じゃそういうのも勝ちって言うんですね
↑日本史板から逃走してきたのかw
でもさ、伊達こそ佐竹を褒めたたえてメジャーにしなきゃいけないと思う
だって伊達が戦った大名は超が付くほどマイナーな田舎豪族ばかり
唯一戦った有力大名が上杉だが
停戦がなった後に大軍で襲い掛かって一武将に撃退されたし
とても公に言えたもんじゃない
そこで佐竹です
これは素性もいいし、一時は全国でも有数の大名だった
つまり佐竹を盛り上げれば伊達もイマイチぱっとしないイメーシを変えられるかもしれないと言う訳ですよ
>>843 一武将って直江だろ。当時日本一の陪臣じゃんか。
直江が名将だったってだけで伊達の恥にはならんだろ。
佐竹が全国有数の大名って本気で言ってるのか?
常陸の旗頭を許されたってだけで常陸全土が直轄領じゃなかったんだぞ。
政宗が敗れたのは本荘繁長との戦いだよ
豊臣政権時、佐竹は常陸一国認められて
行方、鹿島方面を平らげて約54万石になったが
一時期これは全国で10番以内に入る勢力だった
数百いる大小名の中で10本の指に入るのは有力大名と呼んで何の差し支えもあるまい
いやいや以前からの豪族には本領安堵してたから
直轄領は常陸全土ではないよ。
豪族たちは与力ってだけで主従関係でもなかったみたいだし。
徳川も関東移封時に同じ目にあってる。
関東八ヶ国といいながら直轄領は6ヶ国くらいだったとのこと。
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 02:34:17
直轄領、というのが何を意味しているかはわからんが、
旗下の武士に領地を与えているという意味なら、
それは佐竹だけでなくほかの大名でも同じことだ。
小田原以前は本領安堵をして国人連中をつなぎとめていたが、
以降はそれらの武士も佐竹の家臣という位置付けで問題ない。
佐竹はこれら国人の領地に対してより大きな権力を行使することが出来た。
文禄四年に大規模な知行替えが行われたことでもそれがわかる。
ちなみにこの時代でも佐竹は「常陸全土」の大名だったわけではない。
実際には結城(水谷)がちびっと西の端っこのほうを持ってた。
でもまあ常陸一国持ちといっても差し支えはそれほどない。
豊臣政権下の六大姓(六大将)と言えば、前田、徳川、毛利、上杉、島津、佐竹。
蒲生、宇喜田、伊達、小早川等は無視ですか。
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 10:14:42
どう考えても宇喜田、伊達、小早川>>>>>>>佐竹だろ
実力でいえば伊達=佐竹かもしれんが・・・・・・・
つーか秀吉的には長宗我部=佐竹くらいじゃないのか
前田、徳川、毛利、上杉、島津と同格ってのは・・・・・・・・・・・・・・家名だけなら伊達も相当良いわけだし
何の基準かわからん・・・・・・・・・・
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 10:31:33
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 ̄ ヽ:::::::::::∨ ̄ \/ ミノ:ノ ̄"
゛ー´`ー‐ -- ‐ ' "
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 10:33:29
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| ̄| ,'::::::::::::i゙ \ / i::::i 伊達殿ー!今首ちょんぱにするから待っててー!
(∃⊂ヽ !::::::::::::| ● ● l::::| / 〉
─── └┘\ !::::::::::::! !:::!/\/
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゙、 ヽ`、 | / レ' /
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/ 佐竹義重 |/
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853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 10:34:38
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/ .____/::ヽヘ;;;;;;;;;ノ__/ ./|:::ヽ| 戦死した上に天ぷらにされちゃった・・・・・・グスン
 ̄ ヽ:::::::::::∨ ̄ \/ ノ:ノ
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'、;: ...: ,:. :.、.:',.: .:: _;.;;..; :..‐'゙
>>840 大崎合戦
伊達軍は、中新田城を目指して桑折城・師山城の線を越えたが、大崎方からの攻撃はなく、雪の残る大崎原野を怒濤のように進撃した。
桑折城・師山城の大崎勢は伊達軍の先陣と後陣を分断する作戦をとっていたのであるが、伊達軍は「大崎勢は臆した」とみて中新田城への攻撃を開始した。
さすがに、歴戦の伊達軍の攻撃はすさまじく、中新田城は三の丸・二の丸が落され本丸を残すのみとなった。
城将の南条下総守は、兵を叱咤してよく伊達軍の攻撃を防いだ。伊達軍の猛攻にさらされながらも、下総守にはひとつの確信があった。それは、間もなく大雪が来るということであった。
大崎平野は雪の多い土地柄であり、雪が降れば籠城軍は俄然有利となる。伊達氏の侵攻に対して大崎方は、雪が降ることを計算して作戦を立てていたようでもある。そして、大雪はきた。
突然の天候の変化と急激な気温の低下は籠城軍にとって俄然有利となり、大雪を遮るものもない伊達軍は攻城を断念し兵を引き上げようとした。 これがきっかけとなって、伊達軍と大崎軍との攻防は
逆転した。伊達軍の撤退が始まると、桑折城で満を持していた大崎勢に月舟斎の出撃命令が下され、伊達の先陣は散々にたたかれて軍奉行の小山田筑前をはじめ多くの兵が大崎原野を血に染めて戦死した。
残った兵は命からがら新沼城に逃げ込むのが精一杯であった。一方、留守政景率いる後陣は大崎原野に取り残され、大崎方の攻撃にさらされるばかりとなっていた。政景は婿舅の関係を頼んで、
月舟斎に千石城へ帰ることの許しを乞うた。その願いを月舟斎が入れたことで辛うじて留守勢は虎口を脱することができた。
まさに、合戦は大崎方の会心の勝利に終わった。この「大崎合戦」は伊達政宗の輝かしい戦歴における唯一の汚点とも言われる戦いで、
大崎氏側は永年圧迫を受けていた伊達氏に一矢を報いた。しかし、この合戦における勝利も、大崎戦史の掉尾を飾るものに過ぎなかった。
●伊達氏に服属する
大崎表の敗戦と伊達軍の新沼籠城を知った政宗は、ただちに援軍を送り、その一部は松山城に入った。
しかし、強気に軍を進めて大崎方を刺激すれば、敵中で籠城している新沼城が危うくなり、
また、新沼籠城勢が大崎勢の包囲を突破して松山城に逃れるには、大きな犠牲がでることは必定であった。
また、大崎方面で伊達軍が敗れたことが、南奥の反伊達連合勢に伝われば、安達郡方面の情勢が険悪となり、最上方面も防備の手を抜けない状態にあった。
大崎方面に、大規模な軍を派遣することも、政宗みずからが出陣することもできなかった。
政宗にしてみれば、いかにして大崎における敗戦の傷を最小限に止めるかが急務となった。
このようなとき、大崎方から和議が申込まれたのである。大崎氏にしても伊達氏に勝利したとはいえ、それは伊達氏の正規軍ではなく、
伊達氏のつぎの攻撃を退けるだけの力もなかった。大崎氏は新沼城の泉田安芸と長江月監斎を人質に出せば、伊達勢の引き揚げを認めると連絡した。
この申し入れに泉田安芸と長江月監斎が人質となり、全員無事新沼城から出ることができた。その後、長江月監斎は許され、泉田安芸は最上に移された。
そして、最上義光の妹で、政宗の母にあたる保春院の仲介によって伊達氏と大崎・黒川・最上三氏との間に和議が成立したのである。
しかし、和議が成立したとはいえ伊達氏と大崎・黒川両氏との間はしっくりといかなかった。
義隆は氏家吉継を反逆者として切腹させようとし、身の危険を感じる吉継は政宗に援助を求めた。
政宗は葦名氏との決戦を企図しており、
大崎・黒川氏を完全に自己の勢力下に置くことで北方の憂いを断とうとした。
翌年、原田休拙斎を派遣して大崎地方の動静を探らせ、
泉田安芸に大崎方面への出動を準備するように命じている。
このような政宗の動きを知った最上義光は、伊達氏が大崎領を併呑すれば、
最上領は東と南の両面から圧迫されることになり、
保春院に依頼して大崎・伊達両氏の調停に努めこれに成功した。
政宗の無言の圧力が大崎氏をして屈服させたともいえよう。
こうして大崎氏は伊達氏の軍門に降り、氏家吉継の件も落着した。
こうして、北方の憂いを解消した政宗は天正十七年(1589)、摺上原で会津の葦名氏と戦い大勝して葦名氏を倒すと
会津黒川城に入城し、ついで二階堂氏を攻略し南奥州を支配下におさめた。
そして、いまだ勢力を保持している大崎氏を徹底的に武力討伐して、
大崎地方を領有しようと決心した。
>>845 >政宗が敗れたのは本荘繁長との戦いだよ
そんな事実はないよ。「ソース」あるの?不確定なことは言わないで欲しい。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 16:42:07
>>850 純粋に豊臣政権内での石高の多さだろ。
佐竹の場合は弟も支配下にあるとみなされただけだろ。
弟とやらが何万石もらってたか知ってんのか?
佐竹は与力含めると83万石近くの大所帯と言われております
これを佐竹厨に言わせると、五大老クラスと言う事になろうかと思われ
ま、清華家zにもなれない家だから無理だけど
>>861 >佐竹は与力含めると83万石近くの
その内訳きぼんぬ。
>>862 太閤検地での内訳
常陸佐竹氏 54万5800石
以下与力
平岩城氏(義宣弟) 12万石
中村相馬氏 6万石
下妻多賀谷氏(義宣弟) 6万石
江戸崎葦名氏(義宣弟) 4万5000石
合計 83万800石
ちなみに小田原征伐→奥州征伐で認められた佐竹の当初の所領は21万6758貫
江戸重通、大掾清幹、行方鹿島三十三館主、小野崎照通を排除して、太閤検地の数字となりましたとさ
ちなみに漏れは佐竹厨じゃないよ
83万石って蒲生、宇喜田、伊達、小早川、長宗我部より低いのか?
>>864 83万石自体は、あくまで与力含むだから
長宗我部は豊臣政権で一番扱い低い
蒲生は氏郷の代で言えば92万石
宇喜多は清華家、小早川も清華家
確実に上と言えるのは長宗我部ぐらい
伊達とは同程度の扱いやね
関が原前の石高で見ると
徳川、前田、上杉、毛利、島津、伊達、佐竹
の順位になる
全国7位でこの知名度の低さは謎だな
ちなみに長宗我部は24万石だから石高の順位としてはうんと低い
ハァ?岩城氏、相馬氏は佐竹の与力じゃないぞ。
いい加減なこと書くなよ。
与力といえそうなのは関ヶ原後佐竹氏から捨扶持もらってた
葦名ぐらいだろ。
>>867 いい加減も何も、ちゃんと豊臣政権で佐竹の指示下に入ってる訳だけど
ちなみに伊達は浅野長政の与力
>伊達は浅野長政の与力
それは金山関係の話か九戸征伐の話じゃないのか?
金山関係で伊達と浅野は義絶してる。
与力関係にあったら普通そんなことできないだろ。
浅野にしてみたら秀吉にチクリ入れりゃ済む訳だから。
秀吉からお咎めがなかったのは何でよ?
関ヶ原時に佐竹は中立→領地没収。
岩城は西軍→改易。
与力なら普通佐竹に従うのが筋だろ。
小田原以前から佐竹は岩城の親族(本家)という事で
岩城を扱ってたわけで別に与力として配属されたわけじゃないだろ。
まあ、岩城は与力というよりほぼ支藩的存在だな
>>854 >大崎平野は雪の多い土地柄であり
超豪雪地帯の米沢を本拠地にしている伊達勢が
大崎平野ていどの積雪で混乱するわけがねーwwwww
>>873 ぐぐってる?
答えかいてあるじゃん
こんな常識的な初歩の初歩も知らずに喚くだけの夏厨に
説明するメリットないし
つか、
>>869-870、
>>873は噛み付きたいだけのクレクレ厨にしか見えんしね
もう答えないから、どーぞ好きに煽ってください
議論のできん香具師だな。
他人のサイトをソースに示すだけで
お前の見解はねぇのか?
議論する気にもならないYO
どんどん煽ってYO
見解以前のレヴェルだYO
伊達厨は昔から煽ってるだけで何のソースも示さないのな
伊達は大量に資料あるのに何の話題もふらないし
やはり佐竹厨がスレ盛り上げるのに伊達厨になりすまして自演してるんじゃ…
>>874 大崎合戦は、2軍メンバーが主力だったからww
政宗がきたあとは展開逆転してる。
2軍メンバー送ったとすれば政宗の将才がないって言ってるようなもんだろ
人選ミス、戦略ミス、指示の不手際で武将としては最悪じゃないか
伊達による対葦名戦の時に佐竹は援軍を出していない。
出してりゃ快勝できたのに・・・
葦名滅亡&岩城、白河等離反。
佐竹の将才のなさは最悪じゃないか。
>>880 あんなアホな合戦に政宗も主力をつぎ込みたくも無かっただろうよ。
戦略ミスって・・・この合戦の発端知ってて言ってんの?
>>881 まずは伊達と佐竹と豊臣政権の歴史について勉強しよう
高い本買わなくてもぐぐれば結構勉強になるよ
惣無事令以後に佐竹は常陸南部の豪族をヌッ殺してるけどいいのか?
伊達は北条攻め以前は豊臣に臣従してなかったから惣無事令を守る必要がなかったんでしょ。
>>884 佐竹義宣は豊臣から許可を得てやってます
伊達は豊臣政権に従ってないので、惣無事令を無視しただけで
関白としての命令なので、守らなければならないとすれば、そうだし
守らなくても良いといえば守らずとも良いだけ
常陸一国を安堵ってだけでヌッ殺しても良いとは言われとらんぞ。
“佐竹”に常陸一国安堵で、大掾や江戸なぞは佐竹の配下じゃないから
>>886 惣無事令は私戦禁止で、秀吉に認められた所領を確保する為、反対勢力を一掃したんだよ
だから、何の問題もなかったんですよ
常陸国内では佐竹に従わないのは秀吉に従わないのと同じ
と言う名分がつくわけだ
常陸一国を安堵されたのは文禄四年の事で
小田原直後は常陸と下野の一部で21万石しか認められていない。
この5年間で三十三館の国人領主と揉めているが、
石田三成にとりなしてもらい処罰を免れている。
要するに石田の助力がなければ佐竹も危なかったって事。
その後、宇都宮改易に関する問題で佐竹にも累が及びそうになった時も
石田にとりなしてもらっている。
関ヶ原以前から佐竹義宣が三成派なのはそのときに恩義を感じたため。
秀吉にしてみたら安堵した所領内を治めきれないなら徳川への対抗上、
改易、除封して近臣を派遣するだろう。
佐竹が改易されなかったのは石田のおかげ。
佐竹が減封されたのは石田に組みしたため。
>>889 太閤検地以前の小田原征伐直後に、21万石しか認められなかったという、21万石の数字のソース求む
>>863で21万貫という貫高での数字はあるけどな
これは秀吉の朱印状である数字ね
「中新田の戦い」当時の留守家の処遇がイマイチ判らないんだよね。
家臣としてではなく、傘下の大名という扱いだったかも?
「中新田の戦い」は、伊達方の大将は、留守政景と泉田重光と
なっているけど、大将が2人という事に違和感を感じる。
伊達家の大将は重光であり、政景は援将とすると一応の納得は
できるかな。
そして留守家臣・八幡家のお家騒動で政景に追討された下間業継
が重光の庇護を受けていた事と、政景の岳父である黒川月舟斎が
伊達方から大崎方へ転じた事で政景と重光の仲は険悪になって
しまい、口論した上に兵力分散をしてしまった。
↓ここに詳しく書かれてますな。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/hatiman.html 伊達一門であり、政宗の信頼も厚かった政景の方が、重光よりも格上
なのに、重光が「自分が大将」であり、「政景は外様」と驕っていたの
ではないか?
そういう点では人選ミスだね。
とはいえ、政景より上位の重臣って、そう多くはなかったはず。
小田原後天正18年8月1日に認められたのは21万6758貫だね
>>891 別に大将を複数置くような戦いはめずらしかないし、
重光も政景も輝宗の代から武功を上げてる大将格だし、
結果的に重光と政景の口論が起こってしまった事が人選ミスとは思わん。
人選ミスを言うなら、そもそも黒川晴氏や長江勝景のような大崎に近く微妙な立場の
武将を多く使って攻めさせようとした辺りだろう、
兵力はあったんだからもっと主力を割けば充分に勝てる戦だった、
もちろん最上等の備えが無ければならんのと、何より母とのお家騒動がまだ治まってない状況なので、
政宗自身は出られんだろうが、小十郎なり藤五郎なりも少しは出してりゃ勝てたろうな。
もっともくだらん理由に発したいくさに
政宗自身あまり乗り気がしてなかったんじゃないかという気がしてならないが、
この辺りの政宗は随分消極的だった気がしてならない。
だが当然ここで政宗の評価はある程度マイナスされてるだろうが、自分で率いてない以上
大きなマイナスでもないと言う事なんだろう、(というか留守政景が代わりに引かれてるっぽい)
結構、貫高制と石高制を同列に扱ってる本もあるからね。
歴史○像シリーズとか。
実際21万貫って石高にしたらどれ位?
教えてエロイ人。
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 03:07:50
>>894 貫高と石高への換算レートは地域によって違うらしい。
だいたい当時の石高は貫高の4〜7倍の範囲に収まるらしいと聞く。
が、だいたい秀吉がそもそもどういう理由で佐竹を21万貫にしたのかわからない。
たぶん豊臣政権でもその頃は石高と貫高の明確な線引きは無くて、
おそらく文禄四年頃にほぼ石高制へとシフトしたと思われる。
小田原征伐の頃は、豊臣政権は佐竹の動員力、
田畑の収穫量については把握していなかったので(佐竹自体把握していなかったと思う)
佐竹の適当な自己申告で21万貫になってしまったんじゃまいか。
あるいは21万貫を4倍すると80万石になるので、常陸全体の実石高をさしているとも考えられる。
「佐竹に常陸の大都督を任じる」ということから察すると、三成あたりが
常陸全体の動員数などから適当に計算して21万貫という数字を出したのかもしれない。
俺が聞いたのは3倍くらいって話。
それだと約60万石になる。
常陸と下野の一部でそんなものかな、って。
ただ国人領主、義重や一族の所領も含むからね。
秀吉は島津氏等に大名の力を抑えるべく所領の多くを家臣や一族に割かせてた。
大名の独裁権が弱くなり、家臣や国人と紛争にでもなればシメシメってカンジだろう。
義宣は三成と親交があってよかったな。
地震で青葉城潰れました
留守氏の居城の岩切城とかは豪雪地帯でもなんでもないとこだし
泉田重光の居城岩沼城は宮城県内でもかなり暖かいとこだ。
この二勢が中心なら混乱もやむをえまい
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 19:50:53
age
900get
どこの地域でも冬の戦争は攻め側が不利だよ
東北地域だからって特別な装備があったわけじゃないし
雪じゃなくて雨がふっただけでも野営してたら致命的だ
近代戦でも変わらない
俺は詳しく知らないが何故冬に戦争に及んだのだろうか?
その時点で失敗してると思うのだが
>>901 冬だから失敗もクソもない。輝宗と一緒に戦った
伊具郡の金山・丸森城攻めなど、2月の上旬に平気
で敢行してるし。
ここに書いてる連中に質問
文献資料てどのくらいまで調べるもんなの?
論文から孫っぴきまで追いかけるもん?
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 10:27:48
>>903 翻刻された古文書(自治体史の史料編などに載ってる)までは追いかける。
本物の古文書は見ない。つーか見れないし見てもわかんね。
論文は基本的にほぼ全て目を通す。地方で出してるワケの分からん雑誌
(北方風土とかナントカ県史研究みたいなw)のも図書館でバリバリ借りまくって目を通す。
論文読んでも、著者の都合のいい解釈する為の、都合のいい抜粋なんてザラにあるから
活字化された史料・文書は当たり前のように目を通さないとね
本物の古文書なぞは、読めることは読めるが、人によって漢字の解読が異なったりするので
非常に難しい、活字化されたのを見るのが一番だね
図書館が一番いいのかもしれないね。先日古本屋で「伊達治家記録」
を見つけたが、1冊¥7,000もした。立ち読みしただけで購入はあき
らめた。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 11:05:03
図書館でコピーが一番。
1ページ10円で、一回につき本の半分以下しかコピー出来ないので
徐々にやるべし。
908 :
903:2005/08/23(火) 11:41:25
ふむふむぽん
ありがとう
郷土史料コーナーとか禁貸が多いからコピっちゃいますよねー。
活字化された古文書を基礎史料として論文、郷土史なんかを見るのは基本スタンス。
>>905が言うように論文中の史料引用だけでそれを受け売りの如く解釈すんのは危険なんすよね。
郷土研究が充実してるとこだと、そこにいけばそのテーマに関する殆どの論文や史料が
容易に閲覧出来るから、例えばAセンセがある地域で発表した論文に対して
Bセンセが別の地域の郷土雑誌で反論してるとしても簡単に探しだす事が出来る訳で。
あと、最新情報なんかは研究紀要とか○○編纂たよりなんかを見るといいかもっす。
正直、郷土史研究がさかんな自治体がうらやますいなぁ。。。
一回、大量の史料コピー(700枚越え)をした為、別室のコピー機使ってくれと
白い目で言われたことがある
関西以西に住んでる漏れが、上杉やら武田やらの文書見たくても、一週間もかかる
取り寄せてくれるのは嬉しいんだが、常連化した為、最近では顔パスみたいになって、なんか嫌だ
政宗が好きになるような爽快な話ししてください(せこいイメージしかない…)
中島宗求
独眼龍といわれる政宗だが、その行動は「狐」そのものだな。
出羽狐は最上義光の渾名だが、政宗の方がしっくりくる。
政宗の花押は豪放磊落で男性的だが、それに針の穴を入れておいたり。
まあ、その辺の妙な用心深さが「せこい」と言われる要因でもあるが。
最上の血を半分ひいてるから性格的に似てるんだろうね
徳川よりよっぽど源氏の血が濃いんだよね
徳川ていうか家康の家系は源氏の血なんて引いてないし
徳阿彌なんて自称新田源氏系ってだけで全く信憑性がない
東北じゃ大崎(最上)・南部なんかは家康に比べれば段違いに血筋はいい(源氏として)
ちなみに伊達の由来は松平と似てるな・・・
奥州征伐で一戦もせず降伏するなんてヘタレすぎる
それなら初めから大人しくしてりゃいいのに
戦費と将兵を犠牲にして会津とったのは無駄以外の何物でもない
中央勢力を全く知らず甘く見ていた氏政なんかと全く同じレベル
僻地だったのが幸いして生き延びたにすぎない
>>918 政宗ほど、若い頃から中央勢力の情報に通じ、それと巧みに結託してきた武将もいないよ。
小田原の陣では、参陣前にちゃっかり徳川、前田、浅野らとよしみを通じているし。
>>918 一戦してたら北条と同じ運命を辿るだろ。バカ。
>>920 島津、長曾我部は一戦交えても生き延びた
上杉も関ヶ原じゃ戦い抜いた
前田、毛利、伊達は大藩でありながら何もせず帰順したヘタレ組
>>921 長宗我部の場合は、その後九州を抑える必要があったので無用の損害を出したくなかった。
島津の場合は、その後関東を抑える必要があったので無用の損害を出したくなかった。
一方、北条と伊達の方は先に恭順した者は助かる可能性があったが、残った方は国内では最後の敵対的
大勢力になるので潰すことに躊躇がない。
で、史実では先に伊達が恭順したので北条が潰されたが、もし小田原の降伏時点で伊達が恭順していなか
った場合伊達が見せしめに潰されることになる。
この場合例えば北条を伊達の領地を与えて復活させると言う条件で先鋒に使うことも出来る。
また、上杉が残ったのはその時点では島津と佐竹の処分内容が決まっていなかったからだ。
ここで結城秀康を通じて降伏してきた上杉を厳罰に処すと、秀康の面子を潰すとともに島津・佐竹との交渉
が難しくなる。
それぞれ条件が違うのに、決め付けるのもどうかと思う。
でも、わざわざ総大将になっておいて戦わない毛利がヘタレだというのは同意だが。
本当に優れていたのなら最初から秀吉に従って
そのときの領地をすべて安堵されていると思う。
秀吉と戦うという姿勢を一度でもした時点で
もうそこには擁護の仕様がないものが発生していると感じるのだけど。
>>923 最初から従ってたら、葦名領や仙道全て以前のまま
秀吉に従わず葦名潰して、仙道の一部を確保してるよ
葦名領はすべて奪われたけど
>>921 前田:元々同僚なので除外
毛利:ほぼ所領安堵(後継問題で色々口出しされる)
長曾我部:ほぼ四国全土→土佐一国
島津:九州の大半→薩摩・大隈・日向の一部
秀吉の勢力が次第に強くなっていくにつれて処分が過酷になっていってる。
伊達が従わない場合、他の東北の領主と同様改易は間違いない。
葦名滅亡以前に秀吉に従っていても所領減にされる可能性もあった。
史実の結果は綱渡りながら結果オーライだと思うけどね。
>>924 > 最初から従ってたら、葦名領や仙道全て以前のまま
蘆名は既に秀吉に臣従している佐竹の支店なんだから、会津は取り上げないわけにはいかんだろ。
>>926 >>924がいう最初からってのは葦名を滅ぼす前のことだと思われ。
伊達は秀吉から葦名を摺上原で破る前の領土を安堵され、
葦名は会津を領有ってことだよ。
奥州征伐においては政宗も所詮田舎大名といわざるをえない
先見性のある武将なら芦名侵攻などするわけがない
膨大な戦費と人員を動員して奥州仕置きの口実を作ったにすぎないからね
中央勢力を甘く見ていた何よりもの証拠だろう
その後、道化を演じて許しを得たわけだが
これも別に政宗の器量云々ではない
僻地を治めるには全て討伐という手間をかけるより
小才が利いて御し易い人物をあてるのが統治の常套手段である
政宗が本当の器量人なら秀吉や家康も恐れて潰しただろう
存続できたのが恐れる程度の人物じゃなかった何よりもの証拠
秀吉はともかく家康は器量人じゃない奴にあんなでかい領土あげるわけない、
余ってる譜代に振り分けるだろ、ただでさえそれで苦悩してるのに。
簡単に取り上げられる相手なら取り上げてるよ。
>>928 >政宗が本当の器量人なら秀吉や家康も恐れて潰しただろう
存続できたのが恐れる程度の人物じゃなかった何よりもの証拠
「中央勢力の情報に疎いだの」「所詮田舎大名」などと言ってみたり。
煽りのつもりなんだろうが、まだまだアンチとしても底が浅い。
秀吉や家康は政宗の器量を十分認めており、恐れていた。政宗の封じ込め
を目的として送り込まれたのが蒲生氏郷90万石。さらには上杉景勝120万石。
葛西大崎一揆の謀略などは、ブラック度99%にもかかわらず、秀吉はその
「器量に免じて許した」次第だ。
>>928 蘆名を潰したから後で62万石の大名になれたんじゃないのか?
何を恐れるんだよw
秀吉や家康ならいとも簡単に伊達なんて潰せる
もっと強大な勢力を数々倒してきたんだからな
秀吉が恐れていたのは家康と官兵衛なのは誰でも知ってるだろうが
実際恐れるほどの働きを見せた
家康は死ぬまで西を気に病んでいた
福島、加藤の反乱危惧
そして毛利、島津
実力はあるし徳川に怨みもある
結局そういう結末になった
両政権で政宗は表面上しか警戒されてない
領地は遠国だし
政宗は馬鹿ではないから無茶はしない、ある意味わかりやすい
豊臣政権における家康じゃなくて前田の位置に近い
政宗はえらいんだお
ぎゅーたん作った人なんだお
>>932 >秀吉や家康ならいとも簡単に伊達なんて潰せる
無理無理w 秀吉などは正確には3度抹殺するチャンスが
あったが、結局滅ぼすことができなかっただろ?w 潰そうと思って
も簡単に潰せる相手ではない。真正面から秀吉へ軍事対決を選択してくる
ような単細胞なら、確かに抹殺されていただろうが。
例えば、秀次事件をみても、遠島か死罪の2者択一まで追い込んでおきながら
政宗に恫喝されて、振り上げた拳を振り下ろしている。秀吉は政宗の背後
にいる家康の影にびびってもいたことだろう。
ついでに秀吉は政宗を警戒し、恐れていた上に、教養面において伊達家の
華麗なる文化・教養面に、相当な「コンプレックス」さえ抱いていた
ことも一緒に付け加えておきたい。
>>928 >奥州仕置きの口実を作ったにすぎないからね
北条征伐までして奥州に手をつけないわけないだろう。
秀吉の目的は全国統一なんだから。
伊達が葦名を滅亡させようがさせまいが
北条征伐に不参加なら奥州の領主は改易されるって。
>>932 >領地は遠国だし
お前は九州や中国地方と仙台のどっちが遠いかもわからんのか?
家康が西を恐れていたのは豊臣家や豊臣恩顧の大名が多かったからだろ。
お前ら少しは佐竹も語ってあげてください
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 19:01:29
楽天の佐竹活躍してるね
格闘家の佐竹は今いずこ?
格ゲーのキャラと雑誌で戦ってたのだけ知ってる。
926の文盲っぷりにハゲワラ
あんまり笑わせんなよw
僻地の田舎大名恐れる天下人なんぞいるわけないだろw
>>942 秀吉の場合、伊達政宗に翻弄されつづけた
ヘタレ天下人だから仕方ないw
プギャーwwwww
教養とか文化とかもうアホかとwww
文化と教養は京・大阪に集まっていたのは言うまでもない
高名な文化人、僧、公家なんかが数多いる
奥州の土臭い文化なんぞ誰が恐れるんだよ
お前どこの田舎者だwww
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 12:32:23
と、百姓秀吉が顔を真っ赤にしております。
946 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 15:39:32
ていうか、反乱起こすかもしれないような奴がいたら普通警戒しないか
そう、警戒はしてたろうね
あくまで警戒の域を出なかったが
潰さないと危険だとまでは家康も秀吉も考えてない
政宗は愚将だと言ってるわけじゃない
三百諸侯の中でも上位の実力を持っていたが
天下を脅かすほどではなかった
それが現実でしょう
確かに、政宗は戦国の逸材といわれ、その
実力と器量を時の天下人に認められていたから、
安易に潰そうなどとは思われなかったのだろうね。
実際にはそんなこともできないし。
自らの打撃も多大なるものを考えれば、秀吉などは
腰がへなへなと引けてしまったのだろう。
そりゃあ、あの手この手でそのたびにおべっか使って、
必死に命乞いに来るの見れば、見世物くらいとして生かしておいてやるか、
という気にはなるかも知れないからね。
いやいや、遊ばれていたのは秀吉だろうねえ。政宗にとっての秀吉
という存在は、所詮教養のない下卑た「猿」でしかない。「天下様」と
煽てて、秀吉を悦ばせる辺りは、さすがに政宗が役者が上手だな。
用意周到な計算と演出が施されており、その大がかりな「猿芝居」で
「猿」が手もなく騙される姿は、こっけいそのもの。片倉景綱らとさぞ
爆笑していたことだろう。片倉曰く、「殿もお人が悪いですなw」
「騙されてやった」んだろ。
>>944 その田舎大名の教養に感心した公卿の何と多いことか。
石高、官位、閲歴や年齢からしたら出席できない歌会に何度政宗が呼ばれたと思う?
同レベルの石高、年齢で歌会などに呼ばれることがなかった人もいるからな。
教養では比べようがないだろ。
さすがにここまであからさまなネタはつまらん('A`)
天下人の秀吉と比べても差がありすぎて意味ないだろ
その為にわざわざ佐竹を引き合いに出したんだから
佐竹に食いつきなさい
と言ってももうネタがないんだよな…
>>953 誰に言ってんだ?
アンカーぐらいつけろよ。
伊達政宗
身長160cm弱
片目コンプレックスで対人恐怖症
小心者で引き篭もり
女子供を皆殺しにする残虐性
戦利品の馬や牛も皆殺しにする基地外っぷり
何もしていない弟を殺害する器量の小ささ
自分より力の強いものに絶対服従の情けなさ
下の二つなどは、信行を幾度と許し今川との対決に踏み切った信長と比べると政宗の人間の矮小さがにじみ出ています。
おそらくは弟に謀反を起こされた場合、秀吉に対抗した場合、誰も政宗にはついていかなかったのではないか?
政宗がいかに家臣に慕われていなかったが伺えますね。
>>955 北条攻めに遅参した原因だが、
片倉以外の重臣が北条に味方するよう主張していたんだぞ。
弟ヌッ殺した時も弟派の家臣は出奔せず
東の方だけが実家に帰った。
>>953のいうようにホントにネタが尽きた感じ・・・
もう少しなんとかならんのか。
佐竹系のネタがないのが原因か。
東の方が実家に帰ったのは、実はもうしばらく後かららすぃ
>>957 とっくに論破された妄想。おまい
>>512だろ。ほとぼりが冷めたころに冷えたピザ出してきたって通用せんよ。
政宗は時より陰湿な暗いものを感じるんだよね
やはり着飾っても子供の頃の性格は隠せないものだな
>>959 ちょっと日本語おかしくないか?
「政宗には時おり陰湿な・・・・」、って言いたいのか?
政宗、外交は一流なんだが
戦が二流な上、野心が分不相応だから
その優れた能力は全て尻拭いに使われている
…そんな感じ
政宗の危機回避能力は恐れられたかもW
政宗のいくさの能力は摺上原で事実上終わってるだけに
判断のしようがないと言うのが本音だ。
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 05:31:08
>>961 >戦が二流な上
たとえばどの戦いかなあ(笑)具体的な戦役名を書くと、こっぴどく
叩かれるから、腰がひけて書けないんだろが。
>>950 領地大幅削減の上、
根拠地すら放棄させられて国替えを強要されたりしたのに?
まあ、真面目にレスするようなネタではないと思うが。
戦の能力っていうけど戦略・戦術2つの面があるじゃんか。
個々の状況を戦略・戦術の2面から判断しないと判断できないだろ。
利休に茶の湯の教えを請うて、秀吉を上手く煽て上げてほくそ笑む政宗。
書、漢詩、和歌、能楽などすべてに卓越していた教養人政宗に、秀吉は
相当なコンプレックスを抱いていたのだろうなw
確かに猿に一泡ふかせて揶揄するのは、痛快でもあり、面白かったのだろう。
戦略戦術外交謀略全てに一流とは言い難い
結局は60万石程度で終わったし
政宗のそれは小手先の技だからな
2流のイメージ強い前田利家なんかの方が優れてるだろう
派手な事なんてしなくても100万石以上だからね
石高云々じゃなくても豊臣政権時は利家も人物的にかなり大きくなっていたしな
名族の大崎・葛西領では、やはり木村吉清親子のような
政治的な禁治産者(苦笑)では、治めるのやはり無理と判断。
秀吉もメンツをつぶされた上に大いに反省の上し、政宗に
全権委任を依頼したのだろうな。
>>968 いや、秀吉以上みたいなこと言っているのは問題外としても、
さすがに利家よりは上と評価してもよいのじゃあないかな?
まあ、何も基準に評価するかってことにもよるけど。
人生においてそのほとんどを人の下に仕えることで終えた利家と、
十代から当主として曲りなりにも自身の判断で行動し、
一時的にではあっても200万石とも言われる領地まで獲得した政宗とでは、
戦国大名、或いは戦国武将としては明らかに政宗の方が上だと思う。
政宗は、時期天下人は誰かと量りにかけた上、徳川家康と明快に
判断。水争いの時は、前田の陣に銃口を向けるなどして、利家を
悲嘆にくれさせたのは有名な話だ。この辺も「時代の風信器」(蘇峰)
たる政宗の目利き・臭覚の鋭さを示すエピソードではある。
つうか家康が次の天下取る事はほぼ全員予想してただろ…
当時なら子供でも分かるような事だ
否定してた人も(蒲生とか)家康が嫌いだから言ってただけで
>>972 なことはないな。石田らが風を切って歩いていた秀吉極盛期の
名護屋の陣中での話だし。利家も負け惜しみを言っている所を
見ると、相当なショックを受けたのだろう。
でも実際利家は天下を分けるだけの力を持っていた
家康と対峙する事になれば豊臣恩顧の大名はみんな利家についただろう
政宗みたいに小手先で稼いでいたのとは違って
長年の信義での行動で人望を集めていたからね
秀吉から100万石もらったのもそれによるものだ
関ヶ原も利家が旗頭になれば間違いなく西軍が勝っただろう
もっとも家康も利家が生きてるうちは動けなかったから
戦に及ぶ事はなかっただろうが…
そう言う大きい観点からだと利家の方が優れていたよ
政宗は間違ってもそういう立場にはなれない
利家はただの調整役だよ。あちこちの派閥を調整するのが上手な
田舎の村長レベル。毒にも薬にもならない善人だが、そういう意味
でなら「優れている」。ただし家康や政宗のような凄みには欠ける。
ま、自民党でいえば、竹下登や青木あたり「だわね」w
伊達と徳川の婚姻でも抗議するものの、二人とも「あ、忘れてたわw」
などと完全にとぼけて、裏で舌を出して笑っていた。
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 12:57:42
政宗の凄み?家康や秀吉に比べたら二枚も三枚も劣ると思うので同列に比較できないから
よくわからんな。
事例などいくらでも出てくるよ。まだまだ研究が足りないね。
蒲生氏郷なども、たかだか23歳の若造に鼻づらをひきずり
回されていた被害者だろう。雪の中、会津で伊達の攻撃を
警戒するあまり「後ろ向きに行軍」するなど、政宗を十分た
のしませてくれるに余りある光景ではあったろう。
ま、こんなエピソードなどどうでもいいが、
秀吉は家康と結託された政宗の存在が
不気味すぎるほど不気味だったわけだ。
そりゃ地理的に近いし>家康と政宗
ってか伊達の最高期って輝宗が築いた血縁外交網の頂点に立ってた時期では?
政宗ってかなり恵まれてるところからスタートしてる
学についても、政宗自身の学問文芸が優れていたことは認めるが、
加えて「奥州の田舎大名が、こんなに学もってるよー凄くね?」と思われてた可能性も無きにしもあらず
センスという点なら秀吉は当代一のセンスを持っていたしね
でも、まあ、色々小細工ろうしてみたら、睨まれて、小細工で切り抜ける政宗がオレは好きだが
少数派?
政宗はヘタレだからこそいいんだか
そして次スレどーする?
輝宗が築いた血縁外交網?
岩城も石川も最上も敵方について崩壊してたじゃんw