1 :
結論を求めない人:
4げっと
乙
スレの目的はベスト10を選ぶ討議ってことでイイノカ.
01.諸葛亮
02.関羽
03.魏延
04.張飛
05.ほう統
06.趙雲
07.張嶷
08.姜維
09.王平
10.黄忠
コンナモンダロ.
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 08:20
もうつまらねえよ、このスレ。減点法なんて始めたら提灯記事であふれかえる
魏書にくらべたら蜀の人材のしょぼいこと。曹操でさえ恐れた三国一の名将・
関羽と司馬一族に馬鹿にされまくった姜維ずれと同じ位置とかあほらしいし。
劉備だって名将と言うより呆雄といったほうが合うな。この時代の名将なんて
曹操と関羽ぐらいだろ。
曹操でさえ恐れ、文聘にさえ負ける漢
まさに、三国一の名将だな
前スレまでの流れ
1位劉備
2]]位孔明
3位4位 関羽・姜維 50音順w
5位魏延
6位張飛
むりに名将を十人、選ばないほうがよくないですか?
名将は劉備と孔明だけであとは、猛将と知将と功臣を
別々に選んだほうが、いろいろと議論がしやすくないですか?
ランキング結果には興味無いけど
このスレ結構面白い。
>>11 同意。
実際に順位とかつけることは不可能。
でも、面白いから続けるべきだと思う。
そういや、スレタイからして単なる「討議」になってるものね。
それなら蜀の将領を少しでも多く語った方が、これまで不遇・無名の
人物を語る余地があっていいかも。
正直言って、10人選抜する論議に疲れた………。
関羽vs姜維みたいな対立論議があったからこそ
このスレがここまで続いたワケで。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 10:59
漢中大守対決
王平VS魏延はどうだろう
>>15 王平は初め後典軍・安漢将軍で漢中太守を兼任。呉壱の副将として漢中に駐留。
三年後呉壱が死ぬと安漢侯となり漢中の軍事を司る。
翌年から5年間任地が変わるが前監軍・鎮北将軍に任じられて漢中を采配。
更に翌年魏の曹爽が攻めてきたので関城に篭城し費イの援軍到着まで守りきった。
4年後死去。
王平の漢中での足跡はこんなもんであってるか?
魏延は初め督漢中・鎮遠将軍・漢中太守。
蜀建国により鎮北将軍となる。
5年後都亭侯に封じられる。
更に4年後諸葛亮が漢中に駐屯すると督前部となり丞相司馬・涼州刺史を兼任。
この三年後魏を攻めて費瑤・郭淮を撃破。この功で前軍師・征西大将軍・仮節となり南鄭侯に封じられる。
4年後北伐中に諸葛亮の死後楊儀と争う敗死。
魏延のはこんなもんか。諸葛亮がきてからは太守じゃないから関係ないか?
どっちも10年程度の太守だが王平は攻めてきた敵を凌いでいるのに対して魏延は特記事項無しだからな。
王平の勝ちか。
>>16 > この三年後魏を攻めて費瑤・郭淮を撃破。
これは特記事項ではないのか?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 14:23
つまり攻勢に近い堅守だな これでかいよ魏延
>>17 漢中太守としての功績では無いって事だろ。
明確な記述がないのであくまで推測だが
後に曹ソウの侵攻などを撃退した防御システムは魏延が陣頭指揮で整備したものだという説がある
それに、大きな戦が防御戦でなかった=付け込む隙を与えなかった
ということで下手に戦うより大きいプラスだと思うけど
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 15:01
そんな説あったんだ。へぇー
あと漢中の守りとして劉備的に張飛より安定感を感じたと予想
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 15:02
漢中の防衛システム作ったのって劉備じゃなかった?
自分も漢中の防衛システムは劉備の指示によるものだと思うが。
建安24年5月に劉備は漢中を掌握
その二ヶ月後には成都に帰って漢中王即位・魏延太守就任
この短い間に劉備が防御施設やら非常時の防衛体制やらを確立できたかどうか
>>24 別に魏延の漢中太守就任前にやる必要はないんじゃないの?
それに、劉備自身で色々やらずとも、
諸陣営には充分な兵を置いておけっていう指示だけ出せば良いだろうし。
そういう地味な作業は史書には残らないから
未知数の話を加味したらまた荒れるから一旦おいておこう
魏延はとりあえず大過なく太守を務める器量はあったと
馬謖のダメ加減を見抜いていた劉備に評価された点も大きいと思う。
たしかに劉備の人物眼は凄いよな。名将かどうかは別にしても。
徒手空拳から皇帝になってしまったんだから、よほど魅力的な人物だったんだろうね。
あ、でもその生涯のほとんど陣中で暮らして、結果そうなったという意味では名と言っていいかも。
・・・でも劉邦だってだれも名将とはいわねえし・・・・・。
わかんね。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 16:31
対する王平はどんな感じ?
漢中守ってたときになんか具体的な防衛戦ってあったっけ?
過去ログ読まずに書き込んですまんが
李厳とかどうなんだろう
>>31 具体的な戦功は盗賊の馬秦・高勝らの軍勢数万を5千の兵で撃破した事だけだが、議論には値すると思う。
さすがは陸遜に匹敵する男だな。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 17:47
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【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
俺も貼ります
>>31 荊州でも益州でものし上がってたし、
なかなかのやり手だったんだろうと思われます。
>>35 張任とは違い、なかなか良い家柄だったのが大きいのでは?
このスレももうパート4か。
そろそろ真打・馬岱の話題が出てもいいんじゃないか?
魏延にしろ王平にしろ趙雲にしろ、魏書や呉書の方に記述が無いのが辛いよな。
蜀書だけじゃ内容が薄い。
正直蜀で特筆に値するのって孔明だけだろ?
彼がいなければ恐らく劉備は一生根無し草で終っていただろう。
彼が生きていれば蜀が終焉を迎える事はなかっただろう。
全ては彼次第。
>>40 諸葛亮を信奉するのは構わないが、「孔明以外語る価値無し」と切り捨ててしまってはつまらんだろ。
ところで、蜀で魏書や呉書に記述があるのは劉備と関張、あとは諸葛亮と姜維くらいか?
黄権
魏、呉に負けたり討ち取られたりした将達なら
比較的名前くらいなら記載されてるな。
有能だったことがわかるエピソード付の奴が
少ないのは確か。
孔明は孫権に同情されてたもんな。
魏延や楊儀みたいのしかいないんじゃ大変だろうって。
>>37 張任と比べれば。まぁ、張任がそうでもないだけなんだが。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 23:40
このスレももう4期目か
そろそろ真打ち周倉を避けて蜀は語れないといったところだな
伝説の男、ついに登場か・・・・・。
凄かったらしいな。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 00:00
ああ やつこそ本物の漢だぜ。。
そろそろ、周倉について語ることも無くなってきたな。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 00:04
もうちょっとひっぱってもよかったけどな。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 00:06
广龍羲と吉川三国志に出てくる彭義永年って同一人物なん?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 00:12
伝説の彼は、赤兎馬に乗っている関羽に付いてまわったんだから、物凄い俊足&スタミナ。
>>45 各人の出身階級って、非常に重要なポインツれすよね。
平民出のヤシは軍隊叩き上げで部隊長クラスに出世のパターン。
張任・周泰・甘寧ら、張飛もココで良いよね?
特例=徐庶:学問で評価されて最終的に魏で出世。
豪族出のヤシはスタートは地方官僚からスタート、昇進して権力中枢へ。
陸遜など。
出身階級&出身地方&名声が明確なヤシだと語りやすいかな?
益州の豪族出のヤシは?
>>51 別人。
>彭義永年
正しくは彭ヨウ(羊の下に永)永年。
容貌は立派だったが驕慢な人物で劉璋に使えたが後に囚人となった。
その後、吉川三国志に似た経緯でホウ統や法正に推挙されて
劉備につかえると高位についたが、
持ち前の驕慢さが災いして疎んじられ左遷された。
それが面白くなく馬超のところへ行き、
「あの老いぼれ(劉備)はもうだめだ。だから君が外を受け持ち、
私が内を受け持てば天下は思い通りになるのだが」
と、愚痴ったのを馬超に上奏されて処刑された。
最後にはそれが災いして処刑された。
>54
愚痴っただけだっけなのか?
実際馬超に誘い掛けしてたんだと思ってたよ。
その彭ヨウ(羊の下に永)の考えって
このスレ住人的に見て
ちょっとでも勝算あると思う?それとも無駄?
さすがに書く事ねーよ・・・もう関平でも語るか?
オヤジと一緒に戦場に出てたんだから、それなりには強かったんじゃないか?
もうちょっと長生きさせてみたかったな。
馬忠・高翔あたりは?
蜀のヤシら早死にしすぎ。
当時の平均寿命とかもあるけど、これはやっぱり蜀の気候が悪すぎ?
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 08:10
聞いた話だが周倉実在したとかいう説もあるらしい
花関索伝だったかな?
なんかそんなような名前の書物に記されてる周倉のモデルの人物
うろ覚えで確認取ってないけど・・
???
でも、花関索伝なんだろ?
まあこの花関索伝自体が異様にめちゃめちゃな話だったような気がするが
一つの資料としての価値はあるらしいな
そうなんだけどそれについての学者の意見がなんか実在がどうのこうのいってたw
>彭ヨウの勝算
わざわざ馬超のところへ行って話しているので
本人としては愚痴以上の気持ちもあったかも。
ただ、持ちかけた相手が馬超な段階でダメ。
新参者で派閥や地縁もない馬超が
絶頂期の劉備相手に反乱を起こしたところで
だれも付いてこないだろうし。
ただ、この一件、背後に諸葛亮の黒い影が…
あー、諸葛亮の横暴に対しての謀反計画だっけ。
たとえば、彭ヨウ以外にも益州人士が集まる可能性は無いかなぁ。
馬超にもちかけたのは、外様乗ってきそうな人物だったってのと、
お武家様でネームバリューもあるからかね。
当時の馬超にどの程度、独自権限で動かせる兵がいたんだろう
もろ「飼い殺し」されてるイメージしか無いんだけど…
関索自体が架空の人物と言うツッコミはないのか…
周倉って名前の人ならいたらしいね。
李儒なんかもいたらしいし。演義とはまるで別人だけど。
演義での李儒の役割はほとんど董卓が自分でやってたと思うと
(実際には他の幕僚の策も多々あるだろうけど)
やっぱりただのデブではないと、あースレ違いだな。
周倉の墓の中って何が入ってるんだろ
>>69 関羽好きの人たちの妄想が詰まっております
諸葛亮の横暴っていう見方もできるね、蜀の建国以後は。
ただ彼以外誰がやっても地盤のできてない蜀をあそこまで
作りあげる事は不可能だっただろう。
まして失敗に終ってるといえ北伐を生前に行った事により、
他2国に対し警戒心をもたせ、結果として彼の死後も
その影響下にあったわけだ。その意味からすると孔明の北伐は
それなりに評価していいと思う。直接的に国が衰退したこともないし。
ただ姜維のは全然駄目。悪戯に国力の低下をまねき、さらに負け戦ばかり。
なぜコイツを名将などと呼ぶのか理解に苦しむ。
姜維・関羽ともにマイナス要素が大きく、厳目にみれば名将とはいえないのはもう既出だが
廖立の関羽評、私情・偏見も交じってるだろうけど自分はそれなりに
的を射た評価に思う。
蜀で失点のある武将を低く評価するのは違うんじゃないかなあ?
弱小の蜀においては、関羽や姜維のように立場が大きい人ほど、大きな失点をする可能性が高くなる。
むしろ蜀では功績・貢献の部分に比重を置くべき。
魏のように巨大な国力・兵力なら、関羽や姜維ももっと思う存分戦功を立てることができたと思われ。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 18:26
>>73 たしかに廖立の批判は的を得てると思う。同じ陣内にいてこそ
わかるものもありそうだし。魏とかで関羽が名将だって言われてるのは
たんに他の蜀の人間を知らないだけ.蜀以外の外の勢力には欠点が
見えづらく名将に見えた.曹操がもてはやすから主に習って言ってるだけ.
みたいな感じがしてならん。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 18:32
無職の俺を養うために嫁さんがケンタッキーでレジを始めた。
そっと覗きにいくと、ケンタッキーの制服のスカートけっこう短いのな。
若い女の子向けのデザインなんだろうな。
30代後半の嫁さんが、短いスカートはきながら一生懸命接客している姿はなんだか痛々しくて、
心の底から申し訳ない、就職活動がんばろうと思った。
でも家に帰ると、久しぶりに1人なわけですよ。今まで嫁さんがいると、
昼間家にいるのを責めらてるような気がしてリラックスできなかった。
で、俺は久しぶりにオナニーしようと思った。しかも濃いやつ。
サラダオイルをチンコに垂らしてニュルニュルもんで、イキそうになったら手を止めて、
お尻の穴にもオイルぬってニンジンつっこんで、さすがにニンジンは痛かったけど、
レイプされてるような感じで興奮しますた。
すっかり女の気分になって「はああん、はあん」とあえぎながら、
1時間くらいチンコこすりつつニンジンをズコズコしてた。
んで「イクーっ」といって大量に射精した。そのとき俺は口内射精で飲んでみようと思って、
できるだけ上半身を前屈させ、口を激しく前に突き出した。
精液は勢いよく顔まで飛んできたわけですが、口の中には入らなかったので、顔に塗りたくって、
指をペロペロなめて、「ふー、良い仕事したなああ」と叫び、シャワー浴びようと後を振り返ったら、
嫁さんがケンタッキーの制服のまま台所に座って泣いていた。
まぁ名将というか、個人的資質のある武将に頼らなくても勝てる国や軍が理想なんだが
孔明はそのために法を以て軍隊強化したじゃん
装備の向上とかも
まぁ、魏も曹操がそれをやってるわけだが
廖立の関羽評と言うと、荊州失陥について言ったこれだな。
「これは関羽が剛勇の評判を恃んで、軍の作戦行動がでたらめで、
ただ気の向くままに突進したためであり、それゆえ前後にわたって
何度も軍勢を失ったのである」
確かにある程度は頷ける内容だな。
>>79 意訳するとそんな感じのはず。
不思議と、これまで誰も挙げてなかったと思う。
馬鹿だなあ、ほんとに藻前らは。
たいして面白味も無い小者についていつまでもだらだらと。
いくら正史に詳細な記述が無くても、史書は行間を読むことが重要。
たとえば馬岱は牛金に負けたことくらいしか戦歴が無くても、平北しょうぐ
んにまでなっているし、馬超の家督を継いでるわけ
だから、影響力は決して小さなものではなかっただろう。
いっぺん頭を切り替えて、その武将の地位や経歴から
すいそくして、記述の少ない将の能力について討議してみてはどうだろう。
きっと有意義なスレになると思うぞ。
!
廖立の評はかなり言い過ぎと思う。
でも、おおきな後詰めを持たずに一気に襄陽、樊城を落とすのはかなり難しい。
もともと襄陽は攻めるには一番難しい城だったわけだから、長期戦になったとき
の準備や適切な配置、それに落とせないときの撤退の仕方なども予めプログラ
ムしておくべきだった。
せめて蜀からの救援を急がせて、江陵に入れておいたら問題なかったんだが。
関羽も曹仁を樊に閉じ込めつつ、郟に別軍を派遣するなど色々やってはいたが、
後方への配慮に欠けていたのが問題だよな。
あと、あの時は宛の侯音が裏切って関羽についたりしたんだっけな。
名将ではあっただろうが、やはり欠点も目についてしまうな。
呉を信頼していたのでは?
>呉を信頼していたのでは?
信頼というより甘えでは?
領土問題を抱え、実際に交戦した相手なのに、その倉庫襲って完全決裂の口実を与えるんだから
この不用意さはちょっといただけない
あんな状態で呉を信頼してたとしたら、それこそ判断が甘すぎるな。
呉を信頼というか侮っていたんだろ
そうでもなきゃ、食料奪ったりしない
やっぱ、傲慢すぎ
食料の件は後出しの口実っぽいけどな。あと、婚姻の件も本当かなあ・・・。
劉備に断りもなく簡単に判断できることでもないし。
>>88 それはかなり関羽に好意的な解釈ばかりしてるように
思えるけど。
俺も
>>88に同意。関羽の独断と見るほうが無理がある。
基本的に蜀政府の意向を受けながら政策を実行していたんだろ。
関羽の北上は独断かやっぱり?
魏で内乱っぽいのが起こったから支配域を広げておこうという意図の
『魏の変事を待った上で漢中からも兵を出して挟み撃ち・さらに呉とも協力体制』という戦略からは外れてるし
少なくとも益州の劉備本軍からはテコ入れの動きも無かったわけだし
一応漢中攻めと呼応したんじゃなかったっけ。
で、援軍も送ろうとしたけど間に合わなかったと。
つうか、思うんだが、なんで劉備軍は漢水下らせなかったんだろうな。そのときは流域全体を制圧していた
はずだけど。孟達がさぼったのか?劉封もいたし。
漢中の支配を磐石にするまで魏を他に引き付けるための、陽動作戦だったという説もある
>>93 だとすれば完全に見込み違いだな。当面曹操は漢中を取る気はなかった。
それに陽動でいきなり襄陽をとろうというのも明らかにやりすぎ。
やはり漢水を通じて漢中とつながりたかったんだろう。きちんと連携して、挟み撃
ちにすれば当時の勢いなら奪取も可能だっただろうし、荊州南部を呉に返還する
ことも出来、曹操も許昌を捨てざるを得なかっただろう。それなら呉との連携も生
きるし、曹操も死にかけだから、本当に中原をとる事も可能だっただろうな。
どう考えても歴史が変わったよな。関羽のアンチが多いのもわかるよw
孟達・劉封は前に援軍を送ろうとしたら関羽が怒ったから支援しなかったって話があったな。あれは演義のみ?
>>94 なるほど、アンチの考え方がよくわかる文章だな。
関羽にはやたらと辛く、他の部分の目論みはやたらと甘いw
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 21:56
>>96 関羽姜維どちらも好きじゃない俺からみてると.関羽オタの
無理くりな弁護のほうが甘く見えるぞ。
アンチとかオタとか下らない話は他でやってくれ
>98
主に、名声がどうたら言ってた連中のことじゃない?
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 22:26
>>98 そういう自覚のない棚上げが関羽オタの説得力をさげている
>74
それは違うぞ!例えば魏なら1度や2度負けてもいくらでも挽回できる。
しかし元々少ない蜀に於いてそれは致命傷になるんだよ。
だからこそ失敗がない武将こそが最高の将と言える。
孔明が採った戦術はどれも全て撤退も含めて検討されているだろ?
だから戦う度に勢力を付けてとうとう蜀を作れたわけだ。
戦で勝つだけなら関羽と張飛だけでも勝っているが、未来絵図が
描ける人間がいなかったから呂布に追われたり根無し草生活が
続いたのだ。
>>102 ちゃんと例をだしてもらわないとわからないだろ
負けない・負けても被害を最小限に、という点からみると・・・
諸葛亮・王平・趙雲が蜀将三強?羅憲は蜀が滅亡してからだし
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 23:02
姜維も、目に見える被害を出したのは、段谷と麹山くらいなんだがな。
関羽・姜維 活躍期間が長く、功績もあるが、失敗が目立つ
趙雲 失敗はないが、功績が他に劣る
黄忠 失敗がなく、功績も十分だが、活躍期間が短い
張飛・魏延 失敗がなく、功績も十分、活躍期間も長いが、惨めな最後
王平 失敗がなく、功績もそこそこ、活躍期間も長い
王平すごいよ
すごいよ王平
>>110 目に見える被害よりも、国力を減退させたことが大きい
>110
おそらく蜀の全将の中で1番負けまくりだと思うが?
史書に残っている分で一番負けているのが劉備。
撤退を負けと考えるなら、後に諸葛亮、姜維と続く。その次くらいに関羽。
あとの人間は一敗して戦死してたり、記述が少なかったりしてよくわからない。
負けないという要素も重要だが、負けの数だけに固着するのも、無意味だ。
姜維は魏と戦った回数が1番多いんだから、負けが多いのも当然だと思うが。
更にその戦績の全てが、局地戦の指揮官ではなく、全軍の司令官としてだし。
まあ、
>>112の言う様に、国力の衰退は大きなマイナス要因だがな。
>>114 撤退を負けと考えると、諸葛亮より姜維のが多いんじゃない?
小規模なのを含めると10回以上出兵したんだから。
負けというか、被害なんじゃないの?
孔明なんか、兵の被害はたいしたことないようだし
>>116 そうなんだけど、俺が言いたかったのは
そう言うことじゃないのに・・・(´・ω・`)
>>117 街亭はどうだろう?
あれは結構な被害なんじゃないか?
>>119 あれは馬謖が・・・
とか言い出す奴がいそうだ。
ぶっちゃけ、その馬謖に要所を任せたのは総指揮官の責任もあるだろうからな。
街亭で魏延か呉壱を出していれば・・・
歴史が少しは変わったかも
孔明も、馬謖が自分の指示に従わないとは思ってなかったんだろうな。
>>120 それはどうなんだろうな
曹操も夏候淵に漢中任せてるし
もっとも漢中、夏候淵を失っても大勢に影響はないのだけど
漢王室の一族を名乗る劉備が、漢王朝発祥ともいえる漢中を抑えた政治的効果と、長安などの中枢地域に侵攻できる前線基地を得たのは凄いことじゃ?
結局ケイ州方面の崩れと、劉備の夷陵大敗で結果として生かせなかったが
劉備にとっては漢中は是が非でも欲しい土地だが、曹操には鶏肋ということでしょ
>>123 全く実績のない馬謖と比べられたら夏候淵がかわいそうだろう
街亭の人選に関しては孔明の責任と言われても仕方が無い
しかし、孔明の責任と言っても他に誰が使えただろう
馬謖は敵将にもあいつはアフォだって言われてたしな。
そんな香具師を使う側は責任重大だろう。
まあ孔明も馬謖の成長を願っての抜擢だったんだろうが…
王平と馬謖の関係が逆だったら上手く行ってたかも?!
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 07:02
火虎つかえば街亭は余裕だったろう
夏候淵も短兵急な性格を劉備に読まれてたんじゃないの
山岳地での守備には向いてないと
劉備は張コウを逃したことに
一番の大物を逃してどうするって文句言ってたしな
夏候淵をそれほど大きく見てはいなかったのかも
132 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 07:32
しかし魏にしてみても漢中重要じゃないというのは最悪の想定での
取捨選択であって漢中とられると長安も危ういし
大勢に影響ない、ということはないと思う。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 07:40
まあ結局のところ曹操ワンマンの魏陣営というのは
トップがいないととたんに弱いという
独裁型組織の弱点を漢中において劉備に見事に突かれた、
というところ
ところがなにげに劉備陣営もワンマンに近い体質があり
それが荊州の失敗につながったわけだが。
ワンマンでない政権といえば袁紹などが思いつくが
こちらは多方面作戦に強い分指揮系統が乱れやすいという弱点を
曹操に突かれたわけで。
>>127 普通に周りが推していた魏延や呉壱あたりのベテランを
使ってればよかったと思われ
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 07:55
孔明にしてみれば敗戦の責任を一人に押しつけることで
敗戦のショックを和らげようとした計算はあったと思うな
>>135 自分の寵愛していた愛弟子を斬って自分を格下げすることで
自分に対する世論の批判を回避+軍の士気を維持させたんだろうな。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 09:14
若手の育て方がなっとらん上に
責任押しつけるなんて孔明も冷酷。
学問ベースの人間に懲りた孔明はこのあと
姜維を重用するも(馬謖ほど可愛がった様子は史実には見られなかったりするが・・)
孔明が戦争の現場を知る人間としても軍人上がりではないところから
やはりその素質を見誤ってるわけでこのへんが孔明の弱点だな。
まあでも他に孔明に取って代われる人材が蜀にいたなら、
孔明も馬謖を斬らずに自らを失脚させただろうな。
でも自分がいなくなったら国としてやってけないのが分かってたから、
ああいう苦肉の策をしたんだろうし。
馬謖は一応優秀ではあったようだし、
あんなアホなポカをやらかすとも思えなかったんだろう。
と、少し孔明を庇ってみる。
人物眼じゃあ劉備が勝るな
>>138 まあ、法正あたりがいたら兵権は一手に任せたんだろうね。
ただ、その場合孔明の厳法主義のほころびとなって国事態は乱れる元だったかもしれない。
どんな人材でも飲込んで使いこなす劉備ってのが特殊だったんだろうねぇ。
諸葛亮の人物眼ってさ、馬謖の一事で悪く言われ過ぎてる感じ。
実戦経験が遅かったのが影響してなんだろうけど、内治に携わる官吏の
選抜や教唆では逆になかなかのものだよ。
蒋エンや費イ、董允、宗預、向寵、郭攸之、秦フク、李邵、馬勲あたりは
諸葛亮の抜擢した人材だったはず。
劉備は長い間を流浪して修羅場も潜ってきただろうから、馬謖の才能が
机上論に根付いたものだって事が感覚的に分かったんだろうし……。
諸葛亮がプッシュする人材を見る限り、
自分の計算外の行動を取る人間が嫌いみたいだね。
軍事でも自分の手足のように動くやつらしか使ってないし。
劉備なんかは配下の独自性に任せられるだけの度量があるけど、
関羽に荊州任せたりもしてたしなぁ…
もうずいぶん前に出てたけど、諸葛亮が重用するのは荊州の士。
人物眼以前の問題のような気がする。
>>143 まあ、結果が出る人材を出せばそれはそれでOKなんで。
文官を見る目に付いては、劉備陣営に無かった部分を十分に補ったと思う。
馬謖が斬られた理由って敗戦の責任を取らされただけじゃなくて
処罰を恐れて逃亡しようとしたからだっていう話が向郎伝にある
もし神妙にしていたら、庶人に落とされるぐらいで済んでたのかも
そうなると諺が一つ生まれなくなるわけだがw
146 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 11:25
泣いて王平を斬る。でしょ
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 11:31
泣いて庶民に落とす でもいいかなw
王平が馬謖を殴り倒してでも山登りをやめさせて
いればな…
上官にそれは無理だろ…
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 14:44
まあ馬謖が山の上に陣取ろうと下に陣取ろうと結果かわらなかったかも。
つまり孔明の戦略ミス。もしくは張コウのうまさ。
百戦錬磨の張コウ相手だもんな。
でも普通に命令通りにやってれば負けはしなかったような戦らしいけど。
馬謖に実戦を経験させて育てるつもりだったとかで。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 14:57
魏延って仮節だったか。
本当なら、王平より断然地位が上。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 15:06
まあいずれにせよ馬謖はダメダメ武将だな
うまくいけば育ったかどうかはわからんところだ。
だいたい山の上に陣を取れ云々の話自体が怪しいところで
全知全能孔明のミスを正当化する創作のような気がしないでもない。
もし創作だとしても馬謖は普通に張コウにしてやられたわけで
どっちにしてもイタイ武将だよ
>>150 王平は張コウに強いからどっちにしても同じって事は無いと思う。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 15:47
>>155 山上に布陣ってのが演義にばっちり書いてあるからじゃないかなぁ
演義やゲーム位しかしらない平凡な人が、正史に煩い人に叩かれまくったりしたら
演義は全部嘘ばかりで演義の尤もらしい記述が皆創作と思い込む事もありえるかと。
正史三国志への忠実度
羅貫中の三国志…9割
周大荒の三国志…8割
吉川英治三国志…7割
吉川は7割史実3割虚偽といわれまふ
>>157 まあ、吉川さんの場合。
当時の日本人感覚にあわせて書かないと受け入れてもらえなかったでしょうし。
現代の少年向け路線全開の三国志とかってどうなるか見てみたい気もするなぁ。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 16:15
孔明「馬謖よ どうして山に登ったのだ?」
馬謖「そこに山があるからです」
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 16:18
ていうか正史も疑ってかかろうよ
いや周大荒に突っ込もうぜ
あれ、山頂に布陣したのって正史に記述されてなかったっけ。
向朗伝にみる馬謖逃亡の記述には信憑性を少し感じる。
馬謖が山の上に陣取ったのは張コウ伝にもあるのでつまり
複数以上の異なる伝に記載されてる故信憑性が高い。
しかし孔明によって山頂に陣するなという指示があった
かどうかについてはなんか怪しさを感じるという。
話が出来すぎているのと、
陳寿は立場的に魏びいき 思想的に諸葛亮びいきな面が
あるとおもうので明確な根拠はないが
怪しさを感じている次第ですね
>>155
>>158 ちょっと待て。
> 周大荒の三国志…8割
これに対してのツッコミは無いのか!?
166 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 17:38
張郃伝によると、南山を下りた所に砦があったはずだよな。
普通に考えりゃそこに籠もるはず。
それに、山頂布陣が孔明の命令だとしたら、
王平は、実際したように、馬謖を何度も厳しく諫めただろうか?
168 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 20:02
横山三国志の馬謖は結構かわいい(萌
蒼天の馬謖はもっとかわいいデス!
時地の馬謖も可愛いぞ!
結論・馬謖はカワイイ系
…以降通常の話題に戻りましょう。
南蛮征伐は演義の創作で、実際は地方の反乱程度。まあそれでも蜀にとっては大きかったらしいが。
馬謖は、曹操軍団や劉備の古参の部下のように、黄巾族、袁昭や袁術、呂布、馬超、孫策、烏丸、周
瑜や陸遜・・・などのようなえぐい連中にちんちんにされた経験がない。多分張こう事もなめていたんだ
ろう。こんな実戦経験のない、将軍でもない白面郎に最も大事な舞台を任せたのはどうしようもないと
思う。仮に街道沿いに布陣していたとしても、奇策をもって撃破されたかもしれない。なぜ王平を指揮官
にして、馬謖を参謀にしておかなかったのだろうか。
やはり、陳寿の言うように、孔明は兵法の機微に疎かったのではないだろうか。
南征は叛乱規模よりも、現地住民の統治の困難さが問題だね。
諸葛亮も戦後の行政に対して相当に気をつかってる。
現に後々まで反乱は散発的に勃発するし、向寵のように戦死者もでているし。
それなりに後背地への懸念は軽減できたし、若干ながら兵員の補充にも
寄与してはいるけど。
>>172 当時の王平は、大軍を率いて先鋒を務める事が出来るような位にはいないと思うが。
馬謖の伝にもあるように、他候補は魏延と呉壱だろ。
>>174 王平の位階は忘れたけど、馬謖は参軍で司令官は無論、部隊長としての
地位にもないはず。
南中の平定は蜀に多大な利益をもたらしたがね
金は言うに及ばず、供出された兵は蜀の最精鋭兵五部に編成、
モウエンやフシュウといった高級官僚とか
諸葛亮が蜀の特産として産業の柱とすべく奨励した絹生産は
南中から東南アジアへのシルクロードを運ばれて輸出されたらしい
よって南中の騒乱は絹の安定供給を困難にする死活問題だったようだ
王平は街亭時は裨将軍?
王平伝には北伐開始時のはっきりした官位は乗ってない
>>178 街亭後に討寇将軍に昇進したんだから、それより低い将軍位であったのは間違いない。
街亭でも千人しか率いてなかったみたいだし、まだ裨将軍だったんじゃないの?
張休・李盛がもし敗戦責任だけじゃなくて、逃亡の責任も加味して初めて処刑になったのなら
一緒に処刑された張休・李盛はどうなるんだ?まさか3人一緒に逃亡?
やっぱり命令無視の挙句の敗戦で、馬謖がその主犯・張休、李盛は太鼓もちみたいに馬謖に阿ったので・・・みたいなほうが納得いくような
×張休・李盛がもし敗戦責任
○馬謖がもし敗戦責任
スマヌ。南征の話は、馬謖の実戦経験の話として出した。もちろん蜀の経済にとっては
大きかったし、中国文化を伝播する功績もあった。実際ミャオ族?かどっかでは、今
でも祭りの時に孔明灯っていう気球みたいなのを飛ばしたりするそうな。未だに語り
継がれているからには、やはり何らかの関係があったんでしょうな。
>172
当時すでにめぼしい人材がいない蜀において馬謖の様に
才能溢れる若者にチャンスを与えるのは決して悪い事じゃない。
ただ街亭の重要性を知り尽くしていた孔明は一縷の望みを
託したのだろう。魏延がもう少し信頼のおける人物であったなら
全権を預けて任せていたはず。
お前みたいに結果だけみて、「孔明は駄目だ」とか言ってるのは
馬鹿丸出しだよ。たまたま相手が悪かったと言うべきで、
兵法的には決して悪い陣取りではない。
例えば仲達だったらどうか?伏兵による挟撃を恐れて
山に近づきもしなかったかも知れない。
山から降りてくる敵と背後から挟まれたら全滅だからな。
俺は半分は張コウのラッキーが勝因だと考える。
司馬懿
「馬謖がどのような人物かは黄権殿から聞いておった
孔明は可愛がってるようだが、所詮は青二才
伏兵も何もない、ただ包囲して相手が朽ち果てるのを待てばよい」
歴史時期黄河中游的森林によれば、当時の隴山付近は鬱蒼と茂った森で、
人が切り開いた道以外に大軍の進軍は不可能とのこと
184=馬謖
「張コウは変幻術数の道を識り、軍陣経営の始末を善くし、
戦況地形を思料し、計略通りにならないことはなく、
諸葛亮以下、みな彼を恐れ憚っていた。」
馬謖が水路を断たれたのも納得。色気出して山頂に布陣しちゃ駄目だね。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 01:43
馬謖は山に追い立てられたのかもな
孔明「馬謖よ どうして山にのぼったのだ?」
馬謖「だって張コウこわいんだもーん」
山の麓に陣を敷いて、実践指揮を王平に任せて、寝てるだけで良かったのにな
191 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 01:51
多少才能があるがでたがりな性格。。
うーん現代にもいるなあ
そゆ人 目に浮かぶw
孔明「馬謖よ どうして山にのぼったのだ?」
馬謖「高みから敵を攻撃するのは兵法の常道だもん」
孔明「水が無くて苦しんだそうだが?」
馬謖「丞相みたいに祈って雨雲呼べばいいと思ったんだもん」
193 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 02:02
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 02:04
南蛮で才知発揮するも張コウにはかなわなかったというところか、、
戦術戦略 69ってところか。。
南中遠征でのことだって、出発前の戦略方針だけだからな
後方か本営で策を巡らして分には優秀だったんじゃない
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 02:39
202年 男が女にかわる事件。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 04:49
>お前みたいに結果だけみて、「孔明は駄目だ」とか言ってるのは
馬鹿丸出しだよ。たまたま相手が悪かったと言うべきで、 兵法的
には決して悪い陣取りではない
ほう。そんな風に読めるのか。じゃあ陳寿も馬鹿というわけだなw
とりあえずその布陣のいいところを書いてくれ。張コウという当時の魏随一といってもいい
名将相手に、自ら「絶地」に布陣するのがどういいのか。人を馬鹿扱いするからには、さぞ
や説得力あるんだろうな。期待しとくよ。
やはり諸葛亮の大失態といべきだな。
馬謖の抜擢に周囲は驚いたとあり、反対意見を押し切ったごり押し人事だったのだろう。
しかも馬謖は劉備に使えないといわれた男。
劉備は人を見る目があったというが単純なことで、実績を残したものは引き立てるが
へましたやつは使わない。これを徹底しただけ。
だから馬謖には劉備に見切りをつけられるような大ぽかがあるはず。
それがおそらく越雋郡の叛乱だろう。
越雋太守は何も出来ず、建為太守が乱を鎮圧している。
馬謖が越雋太守だった時期ははっきりしないが、
その後の事跡から見て乱の前後であることは間違いない。
鎮圧の功労者建為太守李厳と馬謖に対する劉備の対照的な評価は
この件が一因と考えられる。
偽黒檀御免
まぁ、張飛もかなりの大ポカやっちまってるけどな
劉備は、単に文官で口だけの馬謖が嫌いだったんだろ
201 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 07:20
一時の敗戦で、司令官以下、2名の将官を死罪にする、ってのは普通でないな。
重大な命令違反があったんだろう。敗戦後の処分を恐れて、拘留中に逃亡したとかじゃなければ。
仮定だが、実戦経験の無い馬謖に対して、諸葛亮が詳細な指示を与えていたんじゃないかな。
山麓の街道(砦)に拠って守備に徹するように、みたいな。無理に攻勢に出るな、と。
当事の状況は時間稼げばOKだった訳だから。それを無視して、大勝狙いで高所に布陣したとか。
やっぱり、劉備と諸葛亮の魏延と馬謖の評価(用い方)の差を見ると、
人物を評価する力とかではなく政権安定のための荊州の士の重用としか思えない。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 10:14
メジャー戦線デビューの馬謖ははりきって自分の兵法知識を生かそうと
山頂に布陣(このとき孔明からの具体的な指示はなし)
↓
司馬懿になめられた馬謖は普通に囲まれて敗戦
(もし魏にとって恐るるにたる武将であれば警戒して囲まれず違う結果になってたかも)
↓
王平はしんがりをキッチリ務めたのと蜀に必要と判断され責任はほぼ問われず
馬謖は劉備にだめ出しもされてたのでここでキッチリ結果出さなかったことで
自分の立場の危うさを察知
↓
馬謖、呉に逃亡!!(向朗喋んないでくれよby馬謖)
↓
馬謖、逃亡発覚!捕縛。。
↓
孔明は、途中までうまくいっていた遠征の敗因が、自分の戦略ミス、つまり
馬謖の責任というより重要拠点をもっと経験豊富な将に任せなかったことにより
敵につけ込ませた采配上のミスにあることを自覚しつつ、
その責任を馬謖にかぶせることで、自分の保身と周囲の動揺を和らげる計算から
泣いたフリをして馬謖を斬る決意に至り、死罪をいいわたす。
(しかし孔明が責任を取るわけにいかないのもまた事実)
↓
孔明と馬謖の師弟関係から、民衆はこれについて様々に想像力を巡らせて
孔明様々な蜀において現在の逸話が定着
↓
その話が陳寿に採用されるに至る
・・・と、うがちすぎな見方で妄想してみました。
馬謖逃亡の逸話が向朗伝にしかないのは何らかの意図的なものを感じます
そのへんが泣いて馬謖を斬るの逸話に創作があるのかなと思わせる根拠ですが
まあ妄想の域はでませんね。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 12:14
かつて毛沢東は自分の息子を朝鮮戦場に送ったのも、
彼に軍功を立てさせて、政府及び軍部内における威信を樹立させよう
という計算があった。実際、ホウ徳懐も彼を参謀にして司令部においた。
ただ、天命なのかアメリカの空爆によって死んだ。
恐らく、孔明が馬謖を前線に送ったのも、同じ考えを持っているのであろう。
自分の後継者に、手柄を立てるチャンスを与えた(実際、その任務は完成できるか
どうかは未定だが、任務内容自体は簡単)。誤算になったが。
或いは、馬謖は孔明の計算を読んでいたからこそ、かえって自分の能力を証明
したくなったかもしれない。
ガルマ
丞相の七光りとは言われたくないのだよ
そうだよな。仮にうまくいったとしても、やっぱり文官ぽい馬謖がすぐに偉そうには
出来ない。しそうだけどw
これではあんまり組織がうまくいかないんじゃないか。馬謖自身も孔明の七光りと
街亭の手柄だけで渡っていくのはしんどいだろう。
やっぱり、小さな功績を積み重ねさせるべきだったな。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 23:15
永きに渡って続いたこのネタもそろそろ終焉を
迎える時がきたか.........。
嵐のようにレスが伸びていた頃が懐かしい。
今じゃ関姜比較でも以前ほど伸びないだろうな。
まだだ!まだ終わらんよ!
まじあの一週間は何だったんだろうなw
まあかつての活気がこの三戦板にもどったようで漏れはうれしかったけど。
つうかなんであんなに姜維厨が増えたのに驚いたよ。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 00:00
仕事おっぽりだして関羽の弁護と姜維の悪口かきこんでました。。
今となってはいいおもひで。
>>212 同意
俺は元から姜維オタだったから、初代スレからずっと姜維について書き込んでたが、
姜維を推す人間なんて殆どいないだろうと思いながらやってた。
それが関姜の論争の時に、姜維を弁護する人間が予想以上に多くて驚いたよ。
ウェイトトレーニングより
綱引きが盛り上がるのは自明の理ですから…。
>つうかなんであんなに姜維厨が増えたのに驚いたよ
これってどう読むw
関羽嫌いなだけじゃないか?
ただの髭とか酷評しているサイトも見た事あるし。
俺には両者のアンチが罵倒しあっているような気がした。
ああ、俺にとってはあの二人は、蜀滅亡の二大要因と思っております。
能力は兎も角結果が最悪なもんで。
>>215 つまり、武将達を各個評価していくより、比較評価したほうが面白い、と。
自分も姜維オタ。
姜維ファンが意外にも多くて驚いたあの日。
じゃあこういうスレタイがよかったって言うことか。
【髭】蜀将の優劣を決めるスレ【戦争馬鹿】
221 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 00:25
>>202 別に諸葛亮の魏延評価は悪くないだろ。
丞相府の次席は問題なく魏延だったんだから。
丞相司馬で前軍師で仮節なんだから,扱いとしては蜀軍随一は魏延と諸葛亮も評価してたんではないのか。
俺は姜維は好きだけど、迷惑な奴だ派
なので、心意気は誉めても、能力まで誉める必要なし
……だったけど、話聞いてる内に、結構奴にも能力があったんだなと教わりました
関羽も好きじゃないんだけど、関羽厨はそれでも関羽が対した奴だと思わせるだけの議論が無かったよ
主要な人物以外は事績に乏しいからな。
盛り上がらなくなるのも必然だと思う。
あの二人は政治力が枯渇し、自分の足元しか見えていないという意味では同じ。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 00:47
姜維は演義以外で評価してる文献がないんだよね
だから姜維派=演義好きと思われても仕方ない
よく再考するとそれなりの能力は感じられる武将ではある。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 00:49
姦羽氏ね
それでも4スレ目ですよ
魏も呉もまだ1スレも消化してないのに…
演義の姜維は駄目だろう
全然出番ないし
姜維好きは正史派なんじゃないのか?
>>227 良くも悪くも、演義が三国志ファンを作っているって事ですよ。
俺もずっとROMってた。
関羽と姜維、どちらかと言うと、関羽好きだったんだけど
関羽派の弁ってのは、かなり「?」がついた。逆に姜維
に対する評価が、関羽VS姜維の討論を見ていてグッと上がったね。
まあ、皆、とても熱かった。GOOD FIGHT
>>228 俺は姜維好きだか、演義は小学生の頃図書館で借りたよくわからんやつを読んだきりで、
内容は殆ど覚えてない。
演義の姜維って全然出番無いのか?
232 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 01:18
俺は姜維派だったが北伐の責任にまともに向き合えて
姜維擁護出来てる奴がいなかったのが残念
まあ俺も出来ないんだがw
演義は五丈原以降は蛇足っぽい
>>232 まともに向き合えてってどうゆう意味なんだ?
北伐の責任を全て姜維に負わせた上で弁護しろって事?
>>221 そうだな。ただ己の後継者としては危うさを感じてたんだろうな。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 01:28
いや結構俺の大学の過去論読むと姜維についての功と罪
をはっきり挙げて姜維擁護してたからな。
兵権もっぱらにした罪認めた上で擁護してて、へぇーっておもえたのさ
>>234
237 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 01:30
俺はどっちもきらいだが出した結果で関羽が勝ってたように思えたぞ
同意。功績は大差ついてないか?
関羽の一番の功績は、実は入蜀の際の留守番を大過なく勤めたこと
>>235 デンパを飛ばしてみると,諸葛亮の魏延排切の遺言って,本当なのかね。
あれ聞いたのって,楊儀以下,魏延と争った連中しか聞いてないよな。
自己正当化のためのでっち上げってことは無いのか?
242 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 01:41
うーんつまり北伐による蜀の疲弊の罪をはっきり認めた上で
蜀の存在意義とそれに見合った戦略をいろんな根拠をあげて
説明してたような気がしたがはっきりとは覚えてないw
そういえば費イの悪口いっぱい書いてたなw
もっと最初から姜維に兵力与えるべきだったてね
>>238
>>242 北伐による蜀の疲弊を認めてないような奴はこのスレにいなかったと思うが。
最初から兵力を与えるべきってのはあったかもな。
小規模な出兵を繰り返したせいで魏を警戒させてしまったとも思えるし。
成算の薄い、博打じみた軍事行動を制限するのは国家首脳としては正常な思考だと思うが
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 02:00
>>243 いやいっぱいいたよ 防衛戦の戦略論に論点が終始して
結局蜀が滅んだのは防衛戦においての蜀自身の選択に理由がある
って論調だった。でもそれだと説得力がない。
費イが邪魔して中途半端な兵権しか与えなかったことに姜維が
無理しなければならなかった理由があるという方が納得がいくと思う
このスレで費イの悪口いった人はあまりいなかったように思える。
>>243
>>245 もまいのレスは非常に参考になるが、
ハイパーリンクは文頭に付けてくれ。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 02:05
眠いから 間違えたんだよw
>>245 それは疲弊を認めていないとは言えないんじゃないか?
あの時は、
「攻められた事に対する責任は姜維にあったが、
中央がしっかり動いていればあの時点での滅亡は無かっただろう」
って論調だったはずだが。
姜維が漢中の防衛ラインを下げることを具申したのは、北伐の兵力消耗の穴埋め
結果として大きな隙を作ったのに、その後始末の失敗をいきなり中央に飛ばしても
>>249 蜀征討戦についての検討もせずに、
姜維のせいで攻められた→滅亡した→全責任は姜維にある
とするのも短絡的だと思うんだが。
転がし始めたのは姜維だが、それを食い止めようとしなかった事への責任もあるんじゃないか?
姜維は少なくとも全力で食い止めようとはしてたよ。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 02:21
>>248つまり姜維の北伐による蜀自体の兵力の低下が蜀の滅亡を導いたことは認め
その上で無駄な兵力の低下さそったのが費イによる国論の
統一の妨害にあるという切り口のほうが納得がいくという話で。
どたんばで中央が動く以前(段谷以前)に状況打開の策をとれるはずだったのを
費イによって邪魔された。
つまり攻めらてからの滅亡までの流れに姜維に責任はないという論理は
反姜維派も同じでそこを擁護しても意味ないわけさ。
中央が姜維をコントロールしようとして、エン宇と交替させようとしたのは正しかった
費イが存命のうちは蜀も安泰だったわけで、さすがに孔明に託された
だけの事はあるね。演義では暗殺の辺は全く触れてないと思ったけど、
彼を失った事が蜀崩壊の直接の原因だと思う。
しかし気になるのは北伐が本当に必要だったのか?と言う事。
もし北の脅威があったなら費イにしてももっと兵力を投入する必要性を
読み取るだろうし、俺には姜維の勇み足としか思えないんだよね。
そもそも姜維の北伐の成算は(正史の伝によれば)
「自分は西方の風俗に詳しい。羌族を味方に引き入れて西域を支配すれば・・・」
というはなはだ楽観的なもの
こんなのに兵1万出しただけでも大杉
>>251 段谷までは「兵力」はそこまで低下したわけでもないと思うが。
「国力」はすり減らしただろうけどね。
費イ死後の大規模遠征以前は、姜維は勝てないと見ると被害が出ない内にさっさと撤退してる。
費イ時代では、被害が出たのは麹山の件くらいだと思うけど。
>>252 姜維のコントロールはいいけど、代わりに優秀な軍指揮官を失うことになる
桟道をすべて落として防衛するというなら、それもありだけど
257 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 02:38
恐らく蜀に限ることではないが、その時代に、三国とも
現状維持論を主張する人が大勢いると思う。後期になればなるほど、
自らの国を守るだけでいいという勢力が増長すると思う。
司馬氏が魏を晋に変えた時に、自らの大義名分を朝廷内外に示すために、
天下統一の道を再び切り開く必要性が出てきた。自分の正統性を証明する
ため、曹魏が出来なかったことをやり遂げるのは、一番の方法だと思う。
無論、それも晋だからこそできることで、蜀、呉なら無理。
>>253 というより北の脅威を演出する、もしくは敵を作る事により、
軍部の発言権を強化していったと見ることも出来るかもしれない。
ただこの場合彼は政治的には、最低になってしまう。
>>256 別に粛清しようってわけじゃないだろう
姜維が兵権を独占しないようにするだけだから
それに過剰反応して謀反にというケースはありえたかもしれないが
>>256 それは防衛じゃなくて「引き籠もり」だわなぁ。
「中原回復」が国是である以上、野戦軍が必要で、
この時代の蜀には姜維を凌ぐ野戦指揮官・事務官僚が
居なかったのはまちがいないからねぇ〜
もちろん、姜維に罪無し、と言う訳じゃない。
彼の度重なる出兵が蜀の国力を疲弊させたのは事実だろうし。
(兵員に損害が出なくても、無茶苦茶予算かかりそう)
ただ、この時代に蜀が採れる方策って、何かあるか?
もう戦略的には手詰まりになってしまっているような気がする。
蜀を地方軍事政権として延命させるだけなら、引き籠もればいいだけ。
ただ、これだと力を回復した中原王朝にいつかは併呑されてしまう。
>>259 そんな事で謀反するような男なら、蜀の再興を賭けたクーデターなんてやらないでしょ。
そうだから結局姜維は蜀の命運をかけて魏を討つ戦いをしなければならない宿命があった
でも費イがそれを中途半端にしかさせなかった。
この中途半端が蜀の疲弊につながったというのがおおまかな過去論のながれだった。
結局のところ、関羽による荊州亡失で、
中原王朝を二方面から締め上げ、呉と連携する外線戦略
が活かせなくなった時に、蜀の戦略的な選択肢は極端に狭められてしまった。
諸葛亮にしろ、姜維にしろ、
この戦略の不利を、作戦で、戦術で、補おうとした。
やっぱ、戦略の不備を、作戦や戦術の妙のみで挽回するのは難しいんだろうな。
中央政府としては、姜維の替わりに閻宇を漢中に送り、
姜維には益州刺史として成都に留まってもらうつもりだったんだろう。
それで魏に攻められた場合、姜維が前線にいないで敵の侵攻を察知できただろうか?
姜維の派遣が遅れて漢中が突破され、結局剣閣を守備する事になるような気がする。
エンウでは魏の侵攻でいいようにやられて、姜維復権な気がする
姜維は結局交替を拒否する形で前線駐屯を続けたことから、すでに政府のコントロールを振り切りかけていたような気がする
あと、閻宇は伝がないので戦歴が詳らかではないが、そんなに無能?
267 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 02:56
関羽と姜維を比べる上で関羽によって姜維のスタート地点が不利になったという論理はおかしいだろ。
スタート地点は関羽のが全然不利だったと思うが。だってただの塩の密売人だぜ?
無能ではないかもしれんが、姜維ですら歯が立たないケ艾の相手にはならないと思う
また盛り上がってきた感じ。俺の発言は少しはカンフル剤になったかな?
なんだかんだ言って.やっぱり両人の比較検証がこの板の「華」なのかな。
俺はこの熱さが結構好きだぞ。
>>266 当時の対蜀戦線にはケ艾がいたんだから、閻宇では攻めるのも無理だし、
攻められた時にケ艾を防げるとも思えない。
無能では無いだろうが、何せ相手はケ艾だから蜀を守りきるのは難しい。
閻宇って演義じゃ酷い扱いだね・・・
黄皓にへつらい、地位欲しさに姜維を陥れようとするが、いざケ艾がきそうだ、と聞くと怯えて出撃もしない
ひでぇw
>>265 魏が侵攻してきてしまっては、姜維が復権したとて手遅れだと思うが。
このスレは姜維か関羽の事でないと盛り上がれないのか?
274 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 03:04
うん
>>267 いや、そういうつもりで書いたんじゃない。
もっと言えば、荊州亡失は関羽「だけ」の責任じゃない支那。
呉の真意を読み損ねていた、劉備・法正の責任は重い。
どうも最近、法正が過大評価されているけど、荊州亡失の時点での
蜀の総参謀長的地位にいたのは法正。
だけど、荊州亡失で諸葛亮・姜維の戦略的な選択肢が狭まってしまったのは事実だ。
>>271 実際はそれなりに有能だし職務に熱心な人なのにな。
閻宇だって右大将軍にまで昇ってる
特別な引き立てがあるとは考えにくいし(演義ならともかく)
馬忠の後任を務めて、諸葛瞻・董厥も姜維と彼を交代させるよう言っている
案外、不世出の名将という可能性も・・・
とあまりに可哀相なので弁護を試みたり
益州に孤立してしまった時点で、取れる作戦は
・諸葛亮の様に桟道を越えて長安へ
・姜維の様に涼州へ侵攻
・蔣琬の企図した様に漢水を下って荊州へ
の三つくらいか?
>>275 俺は関羽派だが荊州失ったのは完全に関羽の責任だろ
関羽が呂布の娘だか妹だかがわすれられず孫権の縁談
断ったのがすべての原因と思ってるよ
>>277 馬忠に劣ると言われてた人が不世出の名将とは思えんよ。
ネタじゃなくマジで
282 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 03:12
俺は関羽派(姜維派)だから って頭につけるのは
この二人に限ってはやめてくれ>all
反対側の工作員にしか見えなくなっちまう。
瞻とかも屑じゃん
286 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 07:40
>283
張表は当事の名士で高尚な人物としては馬忠以上であり、閻宇は長年に渡って業績をあげ、職務に熱心だったが、どちらも馬忠に及ばなかったとさ。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 09:32
>>282 何気に引き篭もりは上策ではないかと思う。
益州の天嶮に拠って国内では善政を敷いて国力強化に務め、外部の変化を待つというのは?
まあ、戦略として完全に中原に対しては引きこもり(情報収集のみ行う)にして
南方を平定して中華の範囲を広げる大胆な戦略で国力を魏以上にするというプランは
全く無いわけじゃないが100年の計だわな。
自分の代では絶対に結論の出ない戦略を取れる人間が居たとも思えない。
「関羽によって姜維のスタート地点が不利になった」という発言はおかしいが、
魏呉蜀でただ一国だけ最前線がおかしな国が存在していたのは事実。
荊州に存在する各国随一の名将と勝負できなかったことは姜維の評価を難しくしている。
もちろん、荊州にいれば今より上の評価が出るとは限らない。はっきり、下になることもある。
あと、関羽のスタートが不利ということに関しては微妙。
劉備が不利だったのは確かだが、
劉備に最初期から従ったものまで不利だったとは必ずしも言えない。
さらに戦術に限ってみれば最初から一国持ってるより安全な状況で戦える場合もあり得る。
名将と評価されるのに不利とは言えない。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 10:15
>>288 蜀の置かれた状況(特に夷陵以降)を考えてみると、天下統一を目指すならそれしかないような気がする
まあ型にはめられた状況のほうが得意なタイプと、
無からはじめる方が得意なタイプがいると思うので、
289の意見にはおおよそ納得。
スタートはどうあれ最終的には何を成し遂げたかで決まると思う。
292 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 10:40
なぜ、劉禅の名前がでない_| ̄|○
はっきりいって、土着の益州人士にとってみれば北伐なんてどうでも
いいんです………現状維持・既得権益の確保が最優先。
>>292 劉備と違って戦場で無いから君主であっても、将ではないから。
荊州失陥は関羽の落ち度だし、それにより、蜀の中原回復が非常に困難になってしまったのは事実だが。
関羽だけの責任とは言えないよなあ。
新野で傭兵団率いていた客将程度が、僅か10年荊州益州をとり、さらに関中で魏に大勝してしまった。
そりゃ呉も恐れて魏より警戒するって。
関羽がどうであれ、いずれ敵対したのは間違いないと思う。
呉だって馬鹿じゃない、こんなチャンスは逃さないでしょう。
(だけど、荊州が陥落せずに、劉備、法正、黄権による北伐を見てみたかったね)
関羽の最大の落ち度は、益州までさっさと撤退しなかった事だと思う。
そうすりゃ、劉備もあんなに切れなかっただろうにね。
荊州失陥の最大要因は魯粛の死去とか言ってみる。
関羽は手柄を焦ってたんだと思う
それまで劉備軍で自他ともに認める武闘派トップだったのに
馬超の加入・黄忠魏延やらが入蜀戦で大活躍し、自分の立場の危うさを感じた
だから単独で攻撃を決断したんだと思うし、他の武将にも当り散らした
孟達・劉封との連絡ぐらいは確保しておくべきだったんだよ
それを事前の協力は拒否して、手遅れになってから泣きついても迷惑なだけ
良い意味にも悪い意味にも関羽ほどの人物が手柄を焦るかな?
魏が荊州に本格侵攻してきた場合、籠もったままでの防衛は非常に困難。
要害に囲まれて兵力も多い蜀本国でさえ、攻勢防衛の必要性があった。
関羽の北伐もその意味合いだと思うが。
ただ劉備の一番でありたかったんじゃないかな。
また関羽の人柄とか言い始めたよ…
馬超だって蜀将だよな?
蜀将討議スレなら語ってもいいじゃんよ〜
>>302 語ってもいいが、蜀に帰順した後の功績が少なすぎてランキングに絡めないというのが
このスレでの一般的な回答になってる。
純粋な能力での評価ができない以上、実績や対戦成績とかを元に測るしかないんだよね。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 15:24
>>299 主導権をとりつづけるための戦略はいいよ
問題はそれをする際に、友軍との連絡を自分から遮断し、同僚部下を管理できなかった関羽の態度と将の将としての能力
関羽の態度次第によって呉が攻めてこなかったとは考えにくいがな。
かりに婚姻関係にあっても攻めてきただろ。
関羽は確か、呉の湘関の食糧庫から勝手に食糧持ち出したんだよな。
それが呉に荊州攻めの口実を与えてしまった。
後で返せばいいやとでも思ったのかな?
位置関係的に無理だろ
呉のでっちあげ臭い
食料強奪って正史?
呉のデッチ上げだと俺も思う。
だから劉備もブチ切れたと。
>>305 思いっきり隙を見せたのは関羽
自分から守備兵力を引き抜きまくってるし
>>310 まあ、いちかばちかだったんだろうね。
黙って魏にやられるよりは、一応の同盟関係にある呉が攻めてこないことを願いつつ、魏と戦ったと。
でも蜀首脳の考えが解せない。
なぜ張飛なり趙雲なり孔明なり、有力で劉備に対する忠誠も厚い武将をもう一人くらい配置しなかったんだろう。
関羽一人で魏呉の圧力を受け続ける状況はきつすぎだろ。
誰の意向で始めたにせよ、関羽の北伐は正気の沙汰じゃないね。
劉備陣営は211年(だったと思う)に始まった入蜀戦から、かれこれ8年間、
ほとんど戦い続けていた事になる。
国内の統一や国力の整備・充実を鑑みても、関羽の攻勢に呼応も援助も
ほとんど不可能なんじゃないか?
そうなると劉備の意向とは考え難いし、関羽の独断だとしたら大局観の欠片も
無い無能もいいとこ。
仮に関羽がちゃんとした判断力を持っており、筋を通していたと仮定した場合。
事実関係がこうだったと考える事ができなくもない。
関羽は呉側とちゃんと協議して協力体制の同意をとった状態で魏への侵攻を開始した。
しかし、当時呉は形式上魏に下っていたので、表立って魏を攻める関羽を支援できない。
呉との協議については全て書類を残さず口頭の口約束のみだった。
呉とはちゃんと話が付いてるので、後方支援をおろそかにしても大丈夫だったし、
食料の借款も事後承諾ではなく、事前に借り受けの約束をつけており、呉側からの要請で
『呉が関羽を支援したのではなく、関羽が奪った』という形を取る事になっていた。
そういう状況で関羽が後方(呉側)の警戒を浅くして攻め、呉の食料を奪ったならば、
関羽が愚かだったのではなく、呉側の策略が周到で上手すぎる(信義的には非道)と言える
のかもしれない。
記録には残らないわけだし、正史を記した陳寿が孔明マンセーだというなら、その計略を
結果的に台無しにした関羽をこき下ろしたという解釈の仕方もできるんじゃないだろうか?
まあ、100%このとおりとは思わないが、呉への侮りだけで失敗したとも思えないし。呉側の
周到な罠の一環だったんじゃないかなぁ、食料強奪については。
>>313 >>305でも書いたが、
魏はそんなおとなしい相手じゃないよ。
大国魏が動けば荊州中に動揺が走る。
攻勢防衛はやらざるをえない。
関羽に諸葛亮をつけていれば…
話飛ぶけど、正史がメジャーになった時期(95年くらい?)って、演義の反動からなのか、蜀の人材は叩かれること多かったよね。
例えば諸葛亮は、「結果を出せなかったから軍事的には確実に無能。政治や外交手腕もそれなりでしかない」みたいな酷い評価されてたの覚えてる。
確かログインかなんかの連載だったと思うんだけど。
一方、夏候惇が名将みたいな評価されてて、ものすごい違和感覚えたよ・・・
スレ汚してごめん。
なんか最近、蜀で叩かれてた人材が再評価され始めてるからちょっと嬉しくてw
>>319 蜀を叩いてれば三国志通みたいな風潮があったよね。
>>318-319 俺もそれ気になってた。何がきっかけだったんだろう。
ログインの連載ってそんなに影響力あったのか?
>>319 特に、諸葛亮と姜維はそれが顕著だったと思う。
ロクに検証もしないで、正史棒読みで。
>>320 あの当時は、ネットもなかったしね。
結構影響力あったんじゃない?
正史を語るコラムなんか滅多になかったし。
でも、その当時正史基準の人物評ってほとんどなかったから、そういう意味では
パイオニアではあったと思う。
とにかく10年前の考察だし、今みたいに多くの人間が正史ベースで議論できてたわけじゃ
ないから、内容に不満点があるのは仕方ないけど。大体2ちゃんすらなかったしな。
あのタイミングで関羽が樊城・襄陽を攻めるのは間違っていただろうか?
漢中&上庸を奪取した直後だから、漢水流域の確保が目的ならば、攻めるタイミングは間違ってないと思うのだが。
戦争を知らない素人考え?
三国志IIとIIIの武将ファイル持ってるけど、
IIの方は完全に演義準拠で武将解説、IIIは正史と演義の併記
で、IIIの方の前書きにはIIの発売後、もっと史実を知りたいって反響が
多かったって書いてるな
あくまで光栄ゲーの中での話だが
それまで扱いが悲惨だった魏、呉が再評価された反動とも
言えるけどな < 蜀叩き
何事もバランス感覚が大切だ
>>325 諸葛亮を貶めるために魏延を、姜維を貶めるために費禕を持ち上げてる様に感じる。
単に諸葛亮と姜維が嫌いなだけだったりしてな。
魏ってそんな扱い酷かったかな?
呉の扱いが悪かったのは認めるけど…
329 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 19:08
呉は最近光栄が間違った方向に持ち上げている気がする。
魏は演義では曹操の親族武将は軒並み道化役
列伝十七の五将軍も張遼以外は扱い悪いしね
全体的に魏の評価は曹操と司馬イに集約されて、
他の将が評価されることは少なかったように思う
>>329 まぁ、仕方ないだろ
美周朗なんてニックネームがいかんのだよ
関羽の敗死を劉備勢全体の戦略展開から論じた方が面白そう。
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ関羽が一番じゃなきゃヤダ!
`ヽ_つ ⊂ノ
ジタバタ
初代スレの前半では関羽が一位になりかけたこともあった
なんか関羽の独断のような流れだが。
おまいら忘れるな。呉と南郡返還でもめて、武力衝突寸前まで行って半分返さざるを
得なかった事を。おそらくその頃から関羽と呉との軋轢も存在したと思う。小競り合い
とか。
ただ漢中攻めと呼応したんなら何も焦る必要はなかったが、呉の圧力に抗しきれなか
ったことが関羽の襄陽攻めの原因で、そう考えれば独断というのはあり得ない。まあ、
関羽の方から攻撃の奏上をしたのかもしれないが、許可をしたのはやはり最終的に
劉備しかあり得ない。劉備が激怒したのも、援軍の準備を怠った自分への怒りもあっ
ただろう。まあ、言われているような呉の小ずるい策略への怒りもあったかもしれない
が。なんといっても自分が孫権の義弟だというのに、ってね。
もちろん関羽にすれば、他の武将達の手柄で劉備が漢中王に上った事に対しての焦
りがあったのも間違いないだろう。
漏れとしては、
1、関羽の後方への備え
2、益州からの援軍
3、呉の裏切りに対して手を打てなかった参謀達
の三つが罪だったと思う。
北伐肯定してる人がいるのは驚きだが、ほんとにそう思うか?
孔明のは北への牽制とかじゃなくて、ただたんに劉備の遺言を
実行していただけだろう。おそらく10中8、9負けるのは承知の上での
出兵だろう。それだけに連戦連勝でもある程度攻めたらすぐ引いている。
それと姜維の北伐は意味合いが違う様に思う。
防衛というより個人的な私怨の気がする。誰が考えても1万や2万出兵しても
どうにもならない事くらいわかるはず。
せっかく蜀という天然の要塞にいながら、遠征して疲弊を招いた罪は重い。
兵士は直接生産力になり、平時は召集もしないのなら、
徹底的な富国策で100年やれば、魏をも打倒できるだろう
三国状態だからこそできる技だ
むしえショウエンの時は上手くおだてたり騙したりして結局姜維をおとなしくさせていたのに、
ヒイが中途半端に兵を与えたことの方が罪が大きいと思うが。・・・という陳寿自身の評価に
一票。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 21:50
このへんで
関羽 3位 なにげに名将3人(顔良、于禁、ホウ徳)討ち取った事あるのは三国志で関羽だけ
姜維 4位 トウ艾との互角の攻防
と爆弾投下してみるテスト
>トウ艾との互角の攻防
ここが怪しいw
http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/fancies.html の
「滅亡は姜維・黄皓の責にあらず」より抜粋
一般に言われるところでは、姜維が無謀な外征を繰り返し、黄皓が内政を壟断したため
蜀が滅んだのだという。しかし姜維は漢中府の意向を代表したに過ぎず、
黄皓もまた漢中府の暴走を押さえようと画策することはあれ、壟断と呼ばれるようなことは
していないのである。もともと漢中府の権力がここまで大きくなければ、このような状況には
ならなかったはずだ。では漢中府の暴走に成都政権を悩ませる原因を作ったのは
果たして誰なのか。それは他でもない丞相諸葛亮だったのではないか。
諸葛亮は丞相府を開き、また漢中駐屯を始めるにあたって、
ショウエン・費イ・馬忠・張裔・楊儀・馬謖らの人材を成都政権から吸い出し、
みな自分の支配下に組み込んでいった。そのため成都には董允・呂乂ら数えるほどの
人物しか残っていなかった。また多くの兵員・物資を漢中に持ち込み、そのうえ
国政の実権も漢中に移してしまった。こうして漢中府を肥大化させていった結果、
ショウエン・費イはその制御に苦しみ、姜維は意のままに振る舞うことができたのだ。
蜀が滅亡したのは諸葛亮の責任である。
>>338 姜維伝には、蔣琬の時代に「一軍を率いて何度となく西方に侵入した」とあるが。
君主権と軍権が分離しなければならなかったのが蜀の内部的弱みだな
成都と漢中双方にふんだんな兵力を用意できる国力などなく
劉禅は言われるほど暗君ではなかったとはいえ、軍事的には何もできないに等しい
漢中を握った武将が謀反を起こす恐れは常にあったわけだ
>姜維伝には、??の時代に「一軍を率いて何度となく西方に侵入した」とあるが
だからそれは両軍の主力が激突するいわゆる北伐ではなくて、局地戦で、小競り合い程度。
姜維を「涼州とか良く知ってるだろ?君しかいないからガンガレ!」って上手くおだてた。
345 :
蒼天読み過ぎ劉備:04/06/16 22:24
しかしよー そこで漢中強くさせすぎたのが孔明どんだったとしてもだよ
実力ある人間ての与えられたはなにかしら条件から打開するもんじゃないのかね?
ようはその状況を打開できない者に責任はあるだろ
費イと姜維がよくはなしあえばすむ話ぜよ!!
孔明が後世に禍根が残る権力構造作ったという論理は本末転倒だなーおい!
>>344 孔明死後専ら成都にいた費禕と違い、蔣琬は姜維と共に漢中にいたし、
蔣琬の涪への駐屯に先立って、姜維もまた涪に入ってる。
涼州攻めの上表でも、涼州侵攻の先鋒を姜維にさせようとしてたし、
この二人は互いに認め合ってて仲が良かったんじゃないのか?
自分は蔣琬時代の出兵は、姜維に経験を積ませる為のものだったと考えるが。
蜀という国家の体制を始めから作ったのが諸葛亮である以上
後世に禍根が残る権力構造作ったという非難は仕方ない。
しかも、後々ならまだしも次の代には影響が出ている。
諸葛亮ほど権力を持った人間の次の代で、
その権力体制を打開するなんていう行為はすでに政変だろう。
348 :
蒼天読み過ぎ劉備:04/06/16 22:56
政変になんかならないぜ
孔明が作ったといってももともと蜀はそれ以前の歴史の中で
独自の体制があった土地。
孔明の統治期間考えるとそんなに完全に根付いたとは考えにくいナー
300年続くような王朝においても名宰相たちは権力闘争の中果断に改革実行しているだろ?
姜維は降将だから難しいとしても費イから歩み寄れば解決は出来たはずだぜー
だから歩み寄ったからこその中途半端な出兵だって。中途半端が一番イクナイ
350 :
蒼天読み過ぎ劉備:04/06/16 23:13
歩み寄り方がまずかったわけさ。
つまり費イは蜀を長期的な視野でとらえる能力がなかったんだよ
一時的な平和や投資を恐れたそのへっぴりごし!
そうすると責任は孔明でも姜維でもなく費イにあるってことになるなあ!
>>348 ゲームやってて蜀の中ですぐ名前が出てくるようなヤツはたいがい荊州の士。
独自の体制が地方で見られる儒教に基づく地位と名声であったことを考えると、
中央に出ているのが荊州の士であると考えるべき。
ようするに、蜀とは言っても諸葛亮が実権を握ったため荊州の士が優位に立っている。
なんで、政変になると思うんだが?
352 :
蒼天読み過ぎ劉備:04/06/16 23:30
国の方針変えるときに政変が起こって国が転倒する可能性は
どこにおいても必ずある。
しかしその可能性だけを前面に出して「これやったら政変になるだろ」
と可能性を切り捨てると変革自体が成り立たないぞという論理になりかねんな!
俺的に見るに孔明信者たちによって構成されてる蜀において孔明派が一気に
実権を握ることがあっても孔明の意志をないがしろにしての政変は
他の孔明信者たちの賛同得られずつぶされるとおもうぜぇーー
>>350 逆だろ。もっとはっきり大きいおこちゃまに「だめなものはダメ!」ってぴしゃりと
はねつけるべきだった。言い方はともかくとして。漏れは、ショウエンの漢水下り計
画も実は壮大な釣りだと思う。
孔明の北伐は、言ってみれば孔明の権利みたいなもんで、孔明自身も連年の
出兵による疲弊はよくわかっていたはず。ショウエンは攻めると見せて、実は国力
が回復するまで守ることに主眼を置いていた。それが証拠に、そのときの魏の
警備体制はゆるゆる。
だから、もっと我慢して、魏の状態を見極めてから出兵しても遅くなかった。どち
らにしろ一度の決戦で決着が付くわけで無し、ならばベストのタイミングまでは魏
を油断させておけば良かった。姜維が本当に自他共に認める名将なら、陸遜み
たいに青二才の裏切り者で、アフォでつか?って宣伝して油断させておけばいい
だけの話。
354 :
蒼天読み過ぎ劉備:04/06/16 23:58
つまり国論統一できなかった姜維と費イふたりに蜀の滅びの責任がある。
姜維派、費イ派どっちかに国論統一することがとりあえず先決だったと思うぞ
353のように費イがその政策を全開にしてればあるいは違った局面があったかもしれないし
逆に姜維に最初からまともな兵力もたせとけばそれはそれで案外うまくいったかもしれん・・
戦乱の中国の方針が2分してることの弊害が蜀の頸動脈に
短剣突きつけてたわけだよなあっ!
あえて孔明に責を問うとすれば国を引っ張れるような人材を育てられなかったことにあるな!
これは直接の責任ではないけどな!
>>352 時と場合を考えないヤシは確実に転倒するわけだが
一時しのぎの政策で国威を回復させたものの、死後にやはりボロがでてしまったという点では、レーガンに似ているな。
ま、レーガンも「ボロ」の遠因ながら、その点については大して言及もされずに
「当時もっとも適切な処置を取った男」として記憶されているし、費イも当時としては最良の政治家だったのでは。
>>354 諸葛亮に魏延まで加えた陣容でダメだったのになぜ姜維に兵力与えたぐらいでうまくいくと思うのかねぇ
358 :
蒼天読み過ぎ劉備:04/06/17 00:19
俺はぶっちゃけ関羽厨だからこのスレで姜維弁護してもあれなんだが
やってみなけりゃわからんぞ?
戦下手とは思わんし、費イがうまく監督できれば、
案外いけたかもと24時間中3分ぐらい考える一日もある。
>>357
359 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 00:33
関羽が荊州失陥した時点で正攻法じゃ蜀に勝ち目はなくなったでしょ。
あるとすれば魏延の主張した長安急襲策か、魏の政変を利用した謀略策か。
っていうか、なんで司馬家のクーデター等の魏のゴタゴタを利用しなかったのか。
利用しようとしたけど失敗したのかな?
どっちにしろ弱者が強者に勝つには奇策を用いるしかなにのに、
それをしなかった諸葛亮はダメってことだな。
>354
無理。孔明に関羽、張飛レベルがついていればわからんが。
蜀漢になってからは致命的に人材不足だな。
元々戦力差があるのだから、大きな戦局をひっくり返すのは無理。
そうなると局地戦で確実に勝ち続けるより他はない。
魏延でも役不足だと思われる。
当然孔明ほどの者が勝てると思って北伐などやってるわけがない。
侵攻を防いで後世の為に盤石な基盤を作るのが1つと、
もう一つは最後の我が侭だったのかも知れない・・などと考える・・。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 00:42
>>359 奇策使おうとしてるだろ。
諸葛亮の本当の狙いは、魏地をわずかながら征服し蜀を煙たくすることで魏の
蜀征伐戦を誘発し、魏軍本体を蜀奥地まで引き込んだところで包囲殲滅、
魏の軍事力を大きく削ぐことにあったと考えられる。
連年の偶然の大雨で、曹真の蜀征伐軍は引き返してしまっているけどね。
>>361 孔明ってそんな漫画みたいな展開かんがえてたのか?
北伐の狙いは単純に擁、涼州に領土を広げることだと思うが
363 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 02:46
>>359 司馬一族のクーデターは鮮やかに決まったからな
乗じたくても準備ができなかったんだろう
北伐開始はその四年後だし
夏侯覇が蜀に逃げ込んできたぐらいがプラス面か?
むしろマイナス>夏候覇
俺が思うにここでなぜか1位に挙がってる劉備なんか駄目武将の
筆頭みたいな気もするんだが・・・?温和な性格の武将って
あまりピンとこない。例えば家康みたく表面上あたりは柔らかくても
腹の中はドス黒く渦巻いてるってタイプでもないしなぁ。
本来軍団のトップなら常に沈着冷静に、例え親兄弟が殺されても
慌ててはいけない。
100歩譲って夷陵の戦いをするにしても、国を挙げての総力戦なのに
なぜ孔明を連れていかなかったのか?まあ孔明の戦については
正史と演義で扱いが違い過ぎるから、話半分と考えても孔明が
相手と対等の戦力を用いれば負ける事は考えにくい。
万が一、負けたとしても壊滅状態に陥る様な事はなかったろう。
他の良い面と合わせても+−したら1位はないと思うのだが・・・
366 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 08:04
なんか久々に爽やかなカキコだな
関中を獲ったらやっとバランスが取れるし、呉との連携も意味を持つ。
そこまでは想定していただろう。
そこから先は流石に考えていなかったと思うが。
>>288 遅レスですまん
もし荊州失陥した時点で自ら桟道を焼き払って南方進出によって魏以上の国力をつけようとするとしてして、
どこに進出すべきナのか?
@チベット
Aベトナム
Bビルマからベンガル
当時のこの地域を余り知らないのでどこなら国力UPに繋がるのか妄想でも良いんで教えてくだしあ。
蜀の道はローマに通ず
李厳とか張嶷の話題が無いね…。
名将だと思うんだけどな
対外戦に華が少ないからね…
373 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:30
>>371 関羽か姜維のどちらかを比較し罵倒すればよい
>>365 タテヨミカイセキチュウ タテヨミカイセキチュウ
ゲンザイ 4レツメナリ
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:58
365は非常に巧妙な釣りだ
こんな高いIQ持ってる奴ははじめてみた、敗北感がぬぐえない
377 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 13:45
張嶷
南蛮平定した蜀の名将。
正史では大活躍なのに、演義では諸葛亮にイイとこ全部もってかれた悲劇の人。
李厳
劉備に後事を託された一人。
武勇では黄忠に引けを取らず、兵を率いれば陸遜にも匹敵すると言われた名将。
北伐においては、その政治能力を見込まれ三軍の補給を任された。
姜維の戦術ってのは夏侯淵のそれみたいだな。
圧倒的な機動力で敵を急襲し、撃破する。
魏の方が似合う男かもな。
本当なら北征に必ず参軍すると思われ
関羽も実質功績は曹操配下だしな。
やっぱり、蜀の圧倒的不利感は否めまい
そもそもまず人口が違い過ぎるしな。
人口=国力の時代だから、最初から勝負にもなってない。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:17
ただし人口だけで決まるもんでもあるまい
ジンギスカンは恐怖とスピードによって3万人の騎馬軍団で
近隣制圧後ヨーロッパまで支配した。
正直元々の兵力はジンギスカンも蜀もあまり変わらん
かえって時代的に戦い方が原始的だった分蜀のが有利かも。
それと孔明のように新兵器開発(もしくは開発推奨の気風を作ること)
によりあっと驚くような戦略的優位に立つ可能性はあったと思う。
なんかの間違いで火薬でも開発しちゃってごらんよ。
ひっくりがえるよ。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:30
穏和な性格の武将・・ってw
387 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:59
魏=docomo ドコモ
呉=au エーユー
蜀=vodafone ボーダフォン
【演義は蜀志中心ゆえvodafone・はじまりはじまりー】
「われらいにしえは国鉄の末裔で正統なるJR系企業、いまは末端の地方企業系列では
あるが、これよりケータイの乱世を統一せん!!」
東海デジタルホンは桃園で誓った。
【その後のあらすじ】
東海デジタルホンは落ち延びた先で伊藤忠系の販路(荊州)に落ち着き、Jフォンとなった。
多少の間は安全な時期が続く。しかし、漢中戦の失敗(ケータイ景気の沈静化、Jフォン優遇
措置を取る第一販路の光通信の失敗)により、荊州は失陥(伊藤忠系がauへ)した。
その後 益州=ボーダ系外資 との結びつきが確固となり国力も再度安定してきた。。
vodafoneは新らしい社名のもとで、新たなる北伐を決意する。
みんな忘れてるようだけど、桟道って漢中−関中ルートだけじゃなくて、
漢中−成都ルートにもあるんだぞ、しかもこっちのがより険しい
漢中に兵力を集中させるのは仕方ないことだろ
389 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 23:03
やっと俺も365の仕組みが分かった。
確かにある面天才的な奴かもしれない。
一時間もかかった俺がバカなだけか・・・・
390 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 23:38
1年は365日。
このへんが謎を解く鍵だな
391 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 00:10
>>365が気になって仕方ないんだが、誰か教えてくれよ
李恢は名将
>>391 大ヒント。
猿飛佐助
「る」を抜くと。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 01:17
>>393 ああなるほど!!
そういうことか!
やっとわかった。もう寝よっと
いかん、わからん。今夜は眠れそうにない・・・
396 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 14:04
おお!蜀にもかくれた名将がいたぞ!
\ DQNと言えば? /ナンダココハ コワイモナー ヒイィィィッ
\ ∧_∧ ∩蜀だろ! / ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
蜀が北伐だって \ ( ・∀・)ノ______ / ( ;・∀・) (; ´Д`) (´Д`; )
∧ ∧\ (入 ⌒\つ /|. / ⊂ ⊂ ) ( つ ⊂ ) ( ⊃ ⊃
(゚Д゚ )_\ ヾヽ /\⌒)/ |/ 〉 〉\\ 〉 〉 く く //( (
/ ̄ ̄∪ ∪ /| .\ || ⌒| ̄ ̄ ̄| / (__) (_) (_.)(_) (_) (__)
/∧_∧またですか・・・\ ∧∧∧∧ / 『DQN都市・蜀』
/ (;´∀` )_/ \ < ま > 劉備、関羽、張飛の三人のDQNが集まって建てた国。
|| ̄( つ ||/ \< 蜀 > 元々流刑地であり、罪人の血を引くDQNが大量に住む。
|| (_○___) || < た > この君主にしてこの国民あり(ワラ
――――――――――――――― .< >―――――――――――――――――――――
∧_∧ 唐辛子で < か > ∧_∧プッ ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ;´∀`)豆腐煮こんでる…∨∨∨ \ ( ´∀`) (´∀` )<蜀必死だな(藁
_____(つ_ と)___ ./ \ ( )__( ) \_______
. / \ ___ \アヒャ / ∧_∧ \∧_∧ ∧_∧  ̄ ̄ ̄/.//|
.<\※ \____.|i\___ヽ.アヒャ ./γ(⌒)・∀・ ) 蜀 \ ;) ( ;) / ┃| |
ヽ\ ※ ※ ※|i i|.====B|i.ヽ /(YYて)ノ ノ 人 \↑ ̄ ̄↑\)_/ |__|/
\`ー──-.|\.|___|__◎_|_.i‐>/ \  ̄ ̄ ̄ ̄\め \ 蜀人 | | ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄|. | ̄ ̄ ̄ ̄| / ||ヽ|| ̄ ̄ ̄ ̄|| ! ! \ .|_)
365がいまだに判らぬ俺は、人材不足の蜀に入っても
雑兵以下の存在に違い在るまいて……
400 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 16:39
>399
393を「る」抜きにすると、「さとびさすけ」
サ行を飛ばして読んでも訳判らん…
365日がヒントとか言われても判らない
きっと答えなんて無いんだ!そうに違いない
……………orz
実は縦読みなんてなかったんだ!
俺たちは釣られていたんだ!
・・・というオチ希望OTL
404 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 18:36
うん縦読みなんかなかったよ
もう忘れなよ♪
>404も判って無いっぽい
406 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 19:05
わからん
さとびさすけって?
ヘタレなんで回答
セボンヌ(´・ω・`)…。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 00:52
結構解読に苦労したと思うので
そう簡単に教えられないというのが
解読者達の気持ち。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 16:47
もう俺たちは語り尽くした。
語り尽くしちまったのさ。
>411
どうせ408も判ってないよ
たぶん意味なんてないんだよ。うん、きっとそうさ^^
費イって諸葛亮の参軍だったんだよね。
ってことは彼も軍事的な才能は高かったのかな?
そんなことよりちょっと聞いてくださいよ
こないだ劉備でやってたんです、劉備で
面はもちろん赤壁ですよ
孔明ゲッチュ→永安逃亡の策を使ったんですよ
その後は劉璋軍の3都市全部滅ぼして
漢中まで一気に抜いたんですね
気付いたら武将数が60超えてまして
反曹操連合の盟主にも選ばれ
これは天下を取ったな、と
で、曹操から返還要請が来たから信望上げるために返還したんですよ
「大役を果たせて肩の荷が降りました」
とか言って画面変わるじゃないですか
そしたら黒いまま動かないんですよ
ディスク出し入れしても、PC2蹴っても動かないんですよ
これが縦読みできない限り
>>365の縦読みなど無理だろう。
縦読みできないこと気づいていながら苦悩するスレはここですか?
>>415 費禕の軍事行動は曹爽の漢中侵攻の際に、軍を進めて敵を撤退させると共に、
その退路を断ったって事ぐらいか?
諸葛亮の参軍だったんだから、ある程度の軍才はあったろうが、
どの程度かは判断がつかないな。
419 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 03:52
365は縦読みなんかじゃないんだよ
いいかよくきけよヒントだぞ
まず365は狙って365にカキコしたわけだ
つまり一年は36・・う、うわーーーな、なにす・・
420 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 04:14
393のヒントはなんか意味あるの?
そろそろ言っといてやるが何も意味無いから安心しろ。
422 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 17:50
だとしたら解読したやつらはいったい何をみたんだ?
つまり解読できたとか言ってたやつの釣りってことか?
散々考えて、答え判ってるっぽい奴を挑発して
答えを教えてもらおうとしてた俺って………OTL
>>421 がアホの釣り。
ちゃんと意味はある。読めないからって勝手に意味をなくすな。
猿飛のヒントたるゆえんは「さ」でなく「3」
分かりにくいヒントだが。
言っとくが難しくないぞ。解読できた奴がこれだけいることからも分かるだろ。
もっとも、大した内容は書いてない。
難しくなくて、たいした内容書いて無いなら
さっさと教えれ、スレ違いがずっとつづいとる。
>>426 解きたい奴もいるだろうから教えるとしても三日後くらいと考えてる。
教えてくれという要望が多くなければ教えることもしないつもり。
スレ違いは俺のせいじゃない。あんたが新しい話題を提供すればいいだろ。
三戦はあまり見ないので、ごきげんよう。三日後にきます
俺も10分くらい前に簡単に解けたぞ。
教えろとか答えはないとか言ってる厨ウゼえ。
そうだな。普通に読んだが、何か他に意味あるのか?十分通じてるけど。
人も散って、いつの間にか魏将スレ人気だしw
やっべワカンネ・・・
縦読みなのか?
431 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 22:07
>>365すぐわかったよ。もっと安直に考えればいいんだよ 出てくるのは短文だけど・・・・・
three ナナメ
俺も分からん・・・
能軟化人生を歩み始めてるのか・・・
ああ、ようやくわかった
スッキリしたよ
434 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 23:41
まあようは小川最強ってこった
>>434 ノゲには勝てるかもな。
でもヒョーには無理だな。
ってマジレスしちゃったよ。ハッスルハッスル!!
436 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 20:36
五虎大将の関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超は、
正史で伝が一まとめにされているからだっけ。
漢中王の四方将軍は、関羽、黄忠、馬超、張飛。
長年仕えている趙雲が外れた理由はなんだろう?
やっぱ、軍司令官の経験が少ないからかな。
>>436 経験が少ないと言うか、司令官を務めた事は一度も無いと思うが。
もうこのスレも終わりか?
最期の望みは関羽か姜維の話題になる事だが、それも語り尽くされた感がある。
それに、関姜で盛り上がっても序列決定は一向に進まないしな。
優劣ではなく、蜀に対する貢献度を語ってはどうか
>>439 貢献度だと、関張と諸葛亮がぶっちぎって終わりじゃないか?
諸葛亮はともかく,劉備への貢献ではなく,蜀への貢献なら,関羽や張飛よりも法正や魏延の方が上じゃないか?
「蜀」という国家に対してなら、姜維・王平・黄忠も普通に入ってくるね。
劉備と蜀を切り離して話さないと、わかりづらいかもね >貢献度
443 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 13:02
で「蜀」という国家の成立は
1)劉ショウが降伏して劉備が益州の主になった時
2)劉備が漢中王になった時
3)劉備が蜀の皇帝になった時
のどこにするの?
俺的には、1)にしたいところだけど、この段階では「国家成立」とはいえなさそう
「蜀の成立に貢献する」のと
「蜀の繁栄に貢献する」のに部門くらいに分けてみたらどうだ
>>443 蜀政権・蜀軍閥という考えで言えば
劉エンの赴任に始まって、惰弱な劉ショウ政権から外様招聘で劉備が就いたと考える事もできる。
そうすると、益州閥の評価がかなり上がるんじゃないかな?
>>443 個人的には赤壁後から蜀入りの時期が一番妥当だと思う。
それ以前は根拠地を手にいれては有力どころに敗れ、また新たな根拠地を求めるというある種根無し草的な状況だったので劉備軍団の域から出ることができなかった。
しかし赤壁後、後に失うことになったとはいえ荊州を足がかりに勢力を拡大させ安定させたことを考えるとこの辺に劉備軍団と蜀政権のターニングポイントが求められると考えてもいいのでは?
>>443 国家の成立ってことなら2の段階かな
蜀を維持する為に必要な漢中を取り、曹操軍を追い返して
自信をつけたことで、ようやく独立国家としてやっていく目処がついた
それゆえ、この段階で王を名乗ったんだろう
>>447 それは、関羽に功らしい功を何も与えない策ですか?
漢中取りが終わるまで荊州を守ってきたも評価できないしね。
張飛も漢中取った時点で活躍終わってるし。
・
・
・
蜀の功臣・名将という一般イメージの人達が入らなくならないか?
一般のイメージなら演技読んでりゃいいんじゃないか?
>>448 「蜀という国家に対する貢献」を考える際に、蜀を一つの国家として見れるのは
何処からかって事を語ってただけだろう。
別に関羽がどうのってのは考えてなかったと思うぞ。
>>448 蜀の「国家としての成立」はいつか?って話にレスをつけただけ
黄忠や関羽、張飛は建国の臣として論じればいいし、別に他意はない
関羽叩きと結び付けられとは思いもしなかったが・・・何か気にさわったのならスマソ
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 20:22
俺は劉備放浪時代からすべてを含まないと
意味ないと思うな
てか国家の功臣語る時って普通そうじゃないの?
事実正史がそうじゃないか
関羽は放浪時代の功績と、
ケイ州失陥の責任とでチャラになりそうな予感
劉備軍の益州攻めの間、本拠地・荊州を守り通した関羽の功績は、攻めに加わった将たちより上だろ。
その後、漢中入りで『国』が形成されるまで保持している功績も大きい。
>>456 張飛や諸葛亮も益州に行ったのって何年だっけ?
458 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 22:22
214年のはず。
ちなみに関羽の死亡は219年
俺はそろそろ365の答えが知りたいんだが。
460 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/23 05:59
どうせまだ教えてくんないだろw
>>456 漏れは思う。それは、魯粛の功績ではないか、と
>>461 対呉は魯粛が親劉路線を守ったおかげと思うけど
江陵で矢面にたって魏に対抗してたのは、関羽ってことで間違ってないんじゃないかな?
荊州だけで三国鼎立状態があったから魏が仕掛けにくかった部分はあるだろうけど。
荊州問題というと敵は呉だけと錯覚しがちだけど、最大の敵は魏だからね。
やはり関羽の功績でしょ。
少なくとも関羽の功績であることは間違いない
それがどの程度凄いのか?ってのがよくわからん
特に演義ではその時期に魏が荊州に攻め込む様子がまるでないせいで、
正史でもその時期の関羽の働きがイメージしづらい
「攻め込んできたけど撃退」なら分かりやすい
「攻め込ませなかった」だと分かりづらい
予防に勝る治療なしってことで、
相手に手出しさせなかっただけでも相当な意味を持つ。
極端な捉え方だけど、
関羽いるし今攻めてもリスクが大きすぎるからやめとこうぜ
って思わせることができてたとでも脳内変換しとけ。
いや、確かに手出しさせないのが凄いってのは分かるけど、
関羽のおかげって感じがほとんどしないんですよ
単に魏の目が北西部および漢中に向いてただけなんじゃないかと
468 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/23 19:42
曹操VS馬超開始
↓
劉備、劉ショウの援軍として入蜀
↓
曹操VS馬超決着
↓
曹操VS孫権
↓
劉備VS劉ショウ開始
↓
馬超、漢中へ亡命
↓
劉ショウ降伏
↓
単刀付会
↓
曹操VS張ろ&遼来来
↓
ニンメンハオ
↓
定軍山
↓
関さん、北侵開始
歴史の流れは、こんな感じだっけ? 曹操が文字通り東奔西走だね
でも4年だか5年だか三国にまたがる国境線のある拠点を
守り続けたことを評価しないのは詭弁だな。
荊州は一番難しいところだよ。
評価はするが、過大評価しすぎなんじゃないかと思った
益州、および漢中制圧に貢献した武将のほうが貢献度が高いんじゃないだろうか
カンウの荊州防衛を評価するなら、
ギエンやキョーイの漢中防衛も評価しないとフェアじゃないな。
いくら魏という最大の勢力であっても、呉との連携を取られやすい場所である以上、
最前線であっても守りきれば攻める危険を冒す必要はないとの考えるのが普通では?
実際蜀の撤退以降はあの陸遜が守っていても、魏からの攻撃があったことも
その考えの裏付けとなるのではないだろうか?
あの時期、魏にとって荊州を攻めるのは
関羽を抜きにしても得策ではないしな
そこらへんも考えると、どの程度の評価を与えるべきなのか難しい
いや普通の評価でいいでしょ
関羽は荊州5年、魏と呉と隣り合わせながら守りました。でいいんじゃない?
まだ、多方面作戦取るだけの余力が魏にはなかっただけじゃねーの
>>475 でもそうすると関羽は荊州で平和な5年間を普通に暮らしました。
ってことになるわけ?
平和というわけでもないよ。
楽進と戦ったりしてる。負けたけど。
まあ確かにほっといても呉とは一触即発で、武力で南郡を取られてたかもわからねえけど・・・・・。
でも、それならそれで、本気で荊州北部を取りに行くためのシフトひくべきだったな。曹操だって、
死の直前まで親政しているし、前年に漢中取ったわけだからその足で一気に漢水沿いに下って、
関羽と呼応するとか、何か策はあったと思うが。
少なくとも荊州失陥を関羽一人のせいにするのはだめだろう。
どうせ小競り合い大げさに書いてるだけだろ
関羽伝にのってないささいな小競り合いだよ
拠点の奪い合いになるような戦いじゃないよ
なんか斥候とかを楽進がおっぱらったとかそういうんでしょ
>>479 それ言っちゃうと張コウに勝った張飛の功績が6割ダウン。
なんでも否定的になってはいかん。
481 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 00:12
>>478前年に漢中取ったわけだからその足で一気に漢水沿いに下って、
関羽と呼応するとか、何か策はあったと思うが。
孟達・劉封の上庸攻略はいちおうその前哨戦になるではないか。
上庸方面からの魏の圧力がなくなったので関羽は漢水両岸の
重要拠点である樊城&襄陽を攻めたと。
>>479 先主伝や楽進伝を見る限りとてもそうはいえない。
>>481 関羽の北上戦略の全てを否定はしないけれど、
あの時期の上庸が占領政策に手一杯で
支援が受けられそうにないのは明らかじゃないか?
もう少し成都や漢中、呉に根回ししてから行動を起こせなかったのものか。
一度、上庸の孟達だか劉封だかが
援軍を差し向けようと打診したことがあったけど、
関羽に出過ぎた真似をするなとか言われたんじゃなかったっけ?
>>484 そうなの?
それは知らなかった、勉強になりました。
しかしそれが本当なら、
功に焦って、自滅したと言われかねないな・・・。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 02:39
演義だと関羽が援軍出すなって怒ったことになってるが
正史の劉封伝だと占領地が不安定で援軍出せないって劉封・孟達側が拒否したと書かれているが
演義と混同してたかな。
すまんね。
488 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/24 03:51
劉封・孟達からの援軍が望めないとわかった時点で
名将なら引き上げるだろう。
劉封はともかく孟達みたいな日和見型が魏軍、呉軍うようよいるなか
援軍なんて出すわけ無いのを読めなかったわけではないだろう。
となると配置を決めた孔明に関羽排除の意志があった。
劉備政権においてのナンバー2争い。・・なわけないだろ。
>>488 情勢その他から、呉が協力を約束してる体制化なら不安定な上庸から兵を裂かなくても
勝てると判断したのかもしれない。
実質負けたのは、呉との問題だからね。
>>490 問題は本人が呉との関係をむやみに刺激した可能性が強いところだよなぁ
>>492 記録上不明確とか政治的な理由で書かれていないが、明確な策略で騙まし討ちだったかも知れないし。
魏討つべしが第一義だったら、呉が協力を確約してるなら警戒は解くでしょ。
関羽が騙されたのは失敗だと思うけど。正史に記載されている以上に呉の策謀が深く関羽が警戒を解く
のが自然だった可能性を主張したい。
まあでも関羽擁護する人も基本的には荊州失った責任は関羽にあるとしてるでしょ。
100%関羽の責任なのか50%ぐらいなのか。
問題は関羽の独断か否かで関羽の責任の割合が決まると思う。
俺は独断と見てるので関羽の責任の割合が高いね。95%ぐらいかな。
ちなみに自分は関羽3位(もう順位きめてないのかな?)推してますが。。
495 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 10:48
正史(ちくまの訳本ね)を読んでは見たけど、魏呉による荊州挟撃の策謀がどの時点から動き出したのか分からん?
関羽が樊城攻める前から事を動かしていたのか、于禁軍降伏後から動き出したのか。
関羽の荊州失陥にいたるまでの魏呉の挟撃策の進行具合を時系列で誰か教えて。
劉孫の両家の合意として、一緒に魏を攻めようってのはあった。
漢中が劉、揚州・徐州方面(合肥)が孫はいいとして、荊州はどっちってのが
荊州領有問題の争点になるんじゃないかな? 特に対魏によった劉陣営の認識では
で、その時期で考えると
合肥攻め取れなかった孫より、漢中とった劉が荊州から攻めるのに適してると
考えてもおかしくはない。
完全に劉孫の連携攻撃態勢で考えるなら、荊州の孫家勢力を集めて合肥攻めしつつ
荊州・益州から劉家が攻める方が説得力のある情勢だったろう。
魏を討つ>劉・孫の領有問題な関羽と、孫呉の発展>魏を討つな孫呉の価値観の差
関羽の政治的能力が決して高くなかったと思うが、順軍事的には孫呉の予想以上に
強すぎた故の悲劇だったりするのかも。
関羽が魏を攻めるから協力頼む>どうせ失敗するだろうけど関羽と魏が疲れた所で
漁夫の利を得ようと考えてOK。この時点では完全協力の合意が取れている。
その後、関羽勝ちまくり>関羽強いぞ、このままじゃ劉孫同盟のイニシアチブ取ら
れるし、荊州返せって言い難い情勢になっちまう。無警戒な今の内に騙まし討ちで
倒しちまえ。魏と挟撃すれば流石に勝てるだろ。
で、裏切り断行。大義名分の為に魏に降伏してるから食料支援できないんでもって
行ってね。>わぁい、討ちの倉庫襲ったって大義名分で攻撃しちゃえ。
関羽に甘さはあっても罪がない方向で最大限有利な情勢分析をしてみるとこうかな?
ま、流石に魏の名将が守る最前線の重要拠点を後の守りも図りながらでは落とせない
だろうし。少なくとも関羽が認識している範囲で呉とはきっちり話をつけて
攻めてると思うけどね。
>>495 箇条書きで纏めてみた。不足や誤解釈が有るやもしれんが、その時は訂正しとくれ
注)同じ番号の振られた出来事は順序不明
217年。魯粛アボーン
呂蒙、陸口に赴任。表向きは友好外交で内実、油断を誘う。
↓
218年。曹操の漢中征討中、魏諷の反乱が露見。
侯音、関羽を頼りに反乱する。
219年
正月。曹仁、侯音を斬る
劉備、漢中を防衛。関羽、節と鉞を受ける。
五月。曹操、漢中より引き上げ
↓
関羽北上
襄樊を囲む。以後、幾度となく劉封に救援を要請するもシカトされる
↓
呂蒙、荊州攻略を上疏。建業に帰還。途中、陸遜と関羽攻略の計略を図る
↓
続き
↓
七月。于禁派遣。
八月。関羽、于禁を虜にする。
↓
1・徐晃、樊の救援に向かう
1・陸遜、呂蒙の代わりに陸口に赴任。関羽に諂い油断させる。
↓
魏の陸渾などで反乱が起きる。関羽、賊に印綬を与える。中原震撼。
曹操、遷都を考えるも司馬懿ら策を用いる。
↓
十月。孫権、曹操に使者を出す
↓
下記は、十月もしくは閏十月の出来事。
2・孫権の手紙が董昭に策に利用される
2・関羽、于禁の軍を捕虜としたため兵糧不足に陥り呉の湘関から兵糧奪取
2・孫権、軍を動かす
2・曹操、軍を動かす
↓
呂蒙、公安、南郡を攻略
↓
3・徐晃、関羽を撃破。樊の包囲が解ける。
3・曹操、摩陂に駐留。
3・陸遜、別に宜都、夷道などを攻略
3・呂蒙、民を手厚く遇し関羽軍に動揺を与える
↓
関羽、麦城に籠城
関羽、降伏を装い逃亡
↓
十二月。関羽、潘璋に捕らえられる
500 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 13:52
どうもおふた方わかりやすくまとめて頂きまして。
おつかれ。ということでアゲ
501 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 15:01
>>497-
>>498 分かりやすいです。
この順序でことが運んで行ったとすると、
関羽北上
襄樊を囲む。以後、幾度となく劉封に救援を要請するもシカトされる
↓
呂蒙、荊州攻略を上疏。建業に帰還。途中、陸遜と関羽攻略の計略を図る
↓
七月。于禁派遣。
八月。関羽、于禁を虜にする。
の段階で既に荊州取りの腹を決めていたのね。孫権は。
より確実にするために魏(司馬懿)の策にのったわけだ
>>497-498みたいな状態になって魏呉共同攻撃を受ける事になった状態で戦術レベルで逆転できる武将
なんて、魏呉蜀通して誰も居ないんじゃないかな?
後方に不安がある状態で攻撃を仕掛けた事は戦略的に多少不味かったとは思うし、そんな状況にしてしまった
外交ベタは間違いないと思うが、大きな敗戦という意味で荊州失陥を関羽の戦術能力欠如にはできないと
思うな。勿論戦略眼・政治外交能力の欠如という観点では賛成するけど。
魏は結局呉が領有することになるのに魏呉の共同作戦で関羽を討とうとしたのはそれだけ危険視されてた証拠
といえるんじゃないかな。
その時点では、関羽>陸遜という魏の危険度評価だったんじゃないかな?
呉側も、関羽>曹仁という危険度認識をしてたんじゃないかな?
関羽の方が劣るなら魏呉いずれも共同で先に潰すよりは盾に取るとか利用する方が
ずっと良かった筈なんだから。
一軍の指揮官としては関羽の評価は最大級だったが、一方面の司令官としては不足
というのが三国時代の真っ当な評価だったと主張してみる。
>関羽の方が劣るなら魏呉いずれも共同で先に潰すよりは盾に取るとか利用する方が
>ずっと良かった筈なんだから。
贔屓目な気がするなぁ。
呉にしたら、魏が攻めてきたとして支援しても呉の利益にはならないが、
魏に取られると苦しい。魯粛がいなくなったんで荊州奪還を阻む声がなくなった。
だったら、一時的に魏に従う姿勢を見せ荊州を奪って国力増強を計るべき。
魏にしたら、蜀は作られた正当性のおかげで魏と協力することは
全くありえない絶対に従わない存在。
だったら、従う姿勢を見せる呉と接する方が安心
といったような、二国間の利害が一致しただけじゃないかと思う。
蜀も呉も南郡を魏に取られたら終わりだから。
両国にとって必死の土地だからこそ、
関羽では守りきれないとして呉が攻めたともとれる。
というか関羽伝での徐晃戦だけで戦争に対して
二流じゃないか。
こんな時間で被りましたね
徐晃が関羽を破った際の関羽の兵力は5千だったらしいが、
徐晃の方はどれだけの兵力で当たったんだろうな?
>>504 徐晃に負けたから二流って……
じゃあその関羽に樊城を囲まれて防戦一方だった曹仁は二流以下なのかという話にもなっちまうぞ?
その一戦においては徐晃>関羽なのは確かだが、それを全てに敷衍して関羽二流
というのは暴論過ぎ。
蜀記曰:羽與晃宿相愛,遙共語,但?平生,不及軍事.須臾,晃下馬宣令:「得關雲長頭,賞金千斤.」羽驚怖,謂晃曰:「大兄,是何言邪!」晃曰:「此國之事耳.」
>>509 すいません。現代語に訳すと概ねどういう感じの意味になるんですか?
原文で理解できるような人なら聞く必要もないと思うんですけど。
桓階伝には、徐晃を派遣したが包囲が解けなかったので曹操自ら征討しようとした、とある。
結局、曹操自身は摩陂まで出てきただけで、徐晃に援軍を送るようにしたみたいだね。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 18:34
徐晃に関羽がまけたというよりも呉に背後をとられた
その状況に関羽が負けたんだろ。
魏と呉にここまでさせなきゃならなかったってことで
これも関羽の名を落としてはいないと脳内変換しときますね
関羽は一世の武人であり、当世で有数の武将だったから討ち取るのは魏呉共同でも大変だった。
しかし、計の誤りで死地に陥り挽回できないような戦いを起こしてしまった事、本来味方である
筈の孫呉を敵にして後の禍根を作った点からして、政治手腕や天下の大略を引ける人間ではない
っていう事かなぁと。
最初っから、劉備の所にいたけど徐州入りして孔明を得るまで劉備には天下の計というものが
なかったんだから、関羽には大局の計を立てる能力はなったんだろう。
ただ策が良かったのかして、”あっさり”負けてるんだよね。
あの状態で戦術的に挽回するのは困難ということを踏まえても、
関羽が他に鮮やかな戦術を見せつけている記述は無い。
そこが、判断を難しくしている。
>>510 関羽と徐晃は元々仲がよく、(樊城の時も)遠くから世間話などしていたが、
しばらくすると徐晃は「関羽の首を取った者には千金を与える」と言った
関羽が驚いて何事かと問い返すと、「これはただ国家の事なのだ」と答えた
>>514 呉の侵攻がなければ徐晃に敗れ撤退したとしても荊州は守れてたんじゃないの?
だから
> 計の誤りで死地に陥り挽回できないような戦いを起こしてしまった事
っていうのは結果からの逆算に引きずられ過ぎだと思う。
ただ
> 政治手腕や天下の大略を引ける人間ではなかった
というのはまあそのとおりだと思う。
が、あえて関羽を擁護するとすれば天下の大略を引ける人間自体そうはいないだろうと言えなくもない。
「関羽討伐について…」のまとめのコピペになってる
>>517 うんそう思う。
孔明なら呉の裏切りに細心の注意を払い結果魏への攻撃はしなかったかなとは思うが
漢中で魏を破った直後のタイミングってのは攻め時としては正しかったと思ってる。
呉には、美周以降、魯粛、ちょっと疑問符つきで呂蒙、陸遜と大略を引ける臣が居たわけで
孔明位しか居なかった蜀に比べて羨ましい感じはある。
戦場の勇将という点では、華々しい勝ちが多い蜀は建国期までは恵まれてたと思うけどね。
魯粛がもう10年長生きしてれば魏を追い詰めて、東西で天下を二分し雌雄を決する流れが
作れたかもしれないのに。
呂蒙・陸遜の荊州取りは呉にとっても直後5年は良くても10年先を見据えたらマイナスだったろうに。
スレ違いだけど、魯粛が呉で一番優れた戦略家だったんじゃないかなぁやっぱり。病にさえならなきゃ
劉備・関羽・張飛らが死んで世代が変わってからでも呉は勝てた訳なんだし。
10年先を見た場合、劉備陣営は少々美味しい目に合わせてでも組んで曹操を討つ相手だったろうに。
間違えた。519の名前欄は514の間違いね。
>>519 魯粛は元々荊州を取るつもりだから
長生きしても同盟が守られるとは思えない。
それよりも、魯粛を警戒して関羽北上が
なかったかもしれない。
>>519 >劉備・関羽・張飛らが死んで世代が変わってからでも呉は勝てた訳なんだし。
それは蜀を馬鹿にしすぎ
いくら蜀が人材難だとしても、二州を保持すること数年も経てば
国力的に呉を上回るし、国力的不利を簡単に覆されるほど人材不足でもない
荊州を保持してる方が、呉蜀の間では圧倒的優位であることは歴史が証明するところ
世代が変わったからと言って、そう簡単に奪える物ではない
523 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 20:59
関羽擁護の意見はどうしてこんなに贔屓目な意見ばかり
なんだろう。憶測ばっかりで。そんな勝手な解釈がありなら
ほかの蜀将の名将候補がぐんと伸びてくるぞ?でも
関羽ファンは関羽以外の憶測的な意見は許さない。
そこが見てて嫌な感じ。
関羽の荊州守備は評価できるが、戦下手にはかわりないぞ
わざわざ煽らなくていいって。
>>525 論議されてる方に大してではなく一部の幻想に取り付かれてるやつに言った
言わなくてもよかったけど興奮してやった ゴメンナチャイ ハハハ
>呂蒙・陸遜の荊州取りは呉にとっても直後5年は良くても10年先を見据えたら
>マイナスだったろうに。
どういうマイナスになるのか理解に苦しむ。
蜀からの猛攻も大損害を受けたのは蜀の側。
その後、荊州から蜀が引いたことで、呉が魏から荊州を守るのが困難になったなど
具体的な結果は何も出ていないと思うが。
実際、地方の士と関羽の関係を考えても、
呉が荊州を放置しておけば魏につけ込まれる可能性は低くなく
荊州を魏に取られ、追いつめられる危険性の方が高くなるのではないかと思う。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 21:58
>517
荊州あっての呉なわけだが。
散々既出だが、呉の国是(孫権より)は江南での自立であって、天下云々ではない。
楽に全土平定できるチャンスがあったら、色気出しても良いかな?程度。
長江下流域の勢力が自立するためには湖南地方の確保は必須。
三国以降の南朝がそれを物語ってる。
529 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 04:33
ここ最近の関羽擁護の論はなるほどと思わせる部分もあるが
結局難しい状況にせよ荊州失った責はほとんど関羽にあるのではないか?
「機を見て北上しよう」という劉備との合意はあっても、
その後の水面下での外交や作戦の権限はすべて関羽にあったと思えるんだが。
しかし荊州からの北上失敗で言えることは
1 関羽の外交戦略の欠如(呉に騙されたのだとしたらこれはない)
2 同僚からの不人気
3 結果(荊州失う)の責任
の3点だけではないだろうか。
よくいわれる「徐晃に負けたから戦が弱い」という意見は状況分析無しの
無双光栄的意見としか思えないです。
魏と呉に挟み撃ちにされた状況での逆転は無双孔明のビーム乱射ぐらいしか方法無いですよ
530 :
529続き:04/06/25 05:22
それと関羽の戦の強さに関しては
1 曹操軍において顔良を討ち取る
袁紹本隊を他にひきつけておいての作戦は曹操によるもの。
しかし包囲されてた状況考えると必ずしも曹操に有利とは言えず、
不利を一気に逆転したその戦術実行においての強さは異様。
2 樊城攻めにおいて救援の于禁をとらえる
名将于禁にして水害の影響により自滅の線は考えがたく、例によって
魏におもんばかっての陳寿の于禁擁護の線が強いのでは?
もし水害の影響が大と仮定しても同じ状況における判断の差が明暗分けたわけで
地勢を考慮しての戦いに抜け目がないことの証明にもなるわけだが・・
3 さらに加勢のホウトクもまとめて討ち取る
状況的には浮き足だった魏の救援部隊にとどめを刺しただけではある。
しかし容赦ない。。
史実に残る名将を3人討ち取ったのは関羽しか存在せずコレを偶然というのは歴史学の否定では?
>>529 徐晃に負けたことに関しては呉は関係ないんじゃないか?
局地戦の用兵に関しては徐晃の方が上だったと見るが
532 :
529の続き:04/06/25 05:53
以上まとめると プラス評価 マイナス評価
関羽の能力面 戦は非常に強い(地勢も読める) 外交的センスに疑問符が付く
策に長けてる面もある(魏フウなど) 同僚からの不人気による性格的問題
関羽の功績面 1.建国の功臣である 1.北上失敗による荊州の喪失
2.三国にまたがる荊州を5年守り 難しい作戦ではあったが
蜀政権成立直後の安定に貢献 これにより蜀の戦略的な幅は半減
○功績において曹操陣営時の軍功は蜀の名将を考える上では考慮しない。
こんな感じでいいんでは?
533 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 06:53
>>531 219年10月に徐晃と関羽は対峙しているが
その直前に公安留守部隊隊長の傅士仁、南郡太守の糜芳らの
荊州の要所がすべて呉の手におちている
背後をとられて関羽がさらに北上するはずもなく
普通に南下して麦城に逃げ込んだというだけのこと。
それをもって徐晃伝には徐晃が関羽を破ったとあるが
その実背後を呉にとられて急いで南下しただけのこと。
まわりの拠点すべて失った状態で魏と呉に囲まれてれば
兵卒の動揺計り知れず、
どんな名将でもなすすべないと思われる。
>>533 徐晃伝には、徐晃が包囲陣から関羽をおびき寄せて
これを破り、そのまま包囲陣になだれ込んで崩壊させたとあるが、
どうして、
>その実背後を呉にとられて急いで南下しただけ
と言えるんだ?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 07:43
>>534 つまり関羽は魏と呉に囲まれた時点で樊城攻略も北上もすでに望めず
士気も激減した状態であったために軍自体に戦う必要性と意志がなく
徐晃の攻撃は関羽の南下のきっかけに過ぎず
その理由はやはり呉に背後をとられたことにあるといえる。
つまり力関係において
×徐晃が関羽を南に敗走させた
○荊州南部の情勢が関羽を南にある小さな拠点に逃げ込ませた。
という方が妥当といえるということです。
伝には当人の功績が一方的に(大げさに)記載されることが多いので鵜呑みは禁物
徐晃伝には呉による荊州侵攻は一切記載されてないことから
それはわかると思います。
個人的に気になるのはこれ
>魏におもんばかっての陳寿の于禁擁護の線が強いのでは?
魏という国が擁護してくれなかった人物を
魏贔屓の書物で擁護することが、有り得るだろうか?
熱いスレフカーツですね。やっぱり主役は関羽!
漏れは呉が嫌いである。そもそも荊州争奪戦で、呉の圧力はそれ以前からずっと激しくなってきていた。
この時点で、益州の手当があったのかなかったのか、記録からは判じがたいが、たとえばシャマカへの
工作なども、もっと早くしていれば、呉に対する牽制になっただろうし、漏れには益州本国からの策が乏
しかったと思う。いくら関羽が自分一人で守ると言い張っても、劉備からしっかり命令として援軍を派遣
していれば、あんなに一気の逆転は無かっただろう。ビホウもフシジンも有力武将なのに、降伏するか?
普通。
この戦いは、三国の命運を決した。もともと蜀の国是が魏を攻めることだから、その蜀の力を弱めること
は、当座の利益にはなっても、長期的には呉自身も魏に勝つ目は無くなってしまった。どうも孫権には、
小物感が否めない。このように、大国に挟撃されて持ちこたえられることが出来る武将などいない。
若き曹操でも無理だろう。
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 08:06
>>536 そこは根拠無く述べたので?をつけたつもりです。
ただ陳寿には依然として賄賂で伝を書きかえたなどの話もあり
陳寿が正史を編纂した場所的に魏の人物にはまあ賄賂とまでもいかなくとも
なんらかの力が作用していると考えられるので
その点常に考慮に入れるべきと考えています。
陳寿の話になると話は異様に長くなりますが、
1、蜀出身で孔明に傾倒ぎみであること
2、魏の人物に立場的にひいきがあること
をふまえるのは基本と思いますよ。
それと于禁は5将軍に名を連ねてるので擁護する動機は充分あると思いますよ
>>535 それはいくらなんでも苦しすぎ。
荊州南部を呉に奪取されたことを知った時点では、今後の行動を決めかねていた状態。
また徐晃が救援に来た時点でも関羽は撤退の意思をみせていない。
撤退のきっかけになったのはやはり徐晃に敗れたことにあると見るのが妥当。
>>537 アフォですか
沙摩柯は武陵の蛮族じゃ
当時、武陵は蜀の領土じゃろう
>もともと蜀の国是が魏を攻めることだから、
はぁ?どうして、こういう勘違い野郎が多いんだろう
蜀の国是は漢朝復興だろ
究極的には魏も呉も敵だろう
連続でスマソ
徐晃伝からその大まかな経緯を見ると
1.関羽、曹仁を樊に呂常を襄陽に囲む。
2.関羽、救援に来た于禁を捕縛。
3.徐晃、救援に派遣される。
4.徐晃、関羽の屯営のうち一つを攻撃。
5.関羽、自ら5000の歩兵騎兵を引き連れ救援に出撃するも敗れ退却。
6.関羽、さらに追撃を受け樊・襄陽から撤退。
といった流れ。
よって
> 士気も激減した状態であったために軍自体に戦う必要性と意志がなく
というのも成り立ちづらい。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 08:19
>>539 ×徐晃が関羽を南に敗走させた
○荊州南部の情勢が関羽を南にある小さな拠点に逃げ込ませた。
この議論をしたいところですが
会社逝きますw
543 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 08:21
>>541 依然として徐晃伝のみを根拠としてるところに無理があります
・・・・て会社逝かせてくださいw
>>543 じゃあ、
>>535の主張は何を根拠にしてるんだ?
関羽伝にも徐晃に勝てなかったから撤退したと書いてるし、
呂蒙伝にも呂蒙の動きは隠密で関羽は知らなかったと書いてるぞ
539の訂正。
関羽が荊州南部を呉に奪取されたのを知ったのは呉主伝や呂蒙伝を見る限り徐晃に敗れた後だね。
ただ呉主伝によると呉が荊州南部に侵攻するようだということは徐晃が救援に来る前に知っていたようだけどね。
>>543 ということで徐晃伝以外の根拠を挙げてみました。
相変わらず信憑性の薄い主観的根拠をならべて月旦して遊んでるのか?
お前ら1日は24時間しかないんだから早くオナニーして寝ろ。
>>545 その記述を見て思うのは、
戦のセンスがある人物なら、敵の侵攻を知ると速やかに撤退するなどして
中途半端な状態で二面で当たるようなことはしないという事実。
もし、侵攻を知っていてなお包囲し続けるなら、名将にあってはならない楽観。
知らずにいたのなら、徐晃に破れたという証拠。
となると思うのだが。
>>547 呉が荊州南部に侵攻してくるようだというのは曹仁の矢文によってもたらされた情報でその真偽の程も定かでなく、
また呉に何か動きがあればすぐわかるように結局呂蒙によって無効化されてしまったとはいえそれなりに配慮もしていたし、
樊・襄陽も囲み圧倒的優勢にあったわけだからその時点で撤退を決意するというのも難しいのではないか?と関羽の擁護もしてみる。
関羽のマイナスに、陸遜の手紙
>>509 徐晃戦の撤退の時期 士大夫に傲慢があるが
どれも名将や戦争にセンスがある人物ではないな。
要するに「心の動きを読み解け」ということですよ。
呉に背後が襲われた事が伝わってなかった状態で包囲していた。=現代情報化社会じゃないんだから情報は遅れる。
徐晃と戦って敗走した。=徐晃が有利に戦う為、背後が呉に襲われた事を伝え、兵が動揺しまともに戦えなかった。
徐晃との戦いから落ち延びる事に成功している。=士気が崩れてなお、指揮を維持した。
ってな解釈もできるんじゃないかな?
晋の記した史記である以上、三国志正史には三国の内正統なのは漢から禅譲された魏ですよ。
と同時に、禅譲された魏なんだけど建国の曹操(仲達の主だしね)以降だんだんダメになったから
司馬家が天下の為に交代したんですよ。
ってなトーンになるわけだから、魏初期は持ち上げ気味になるのが自然。
関羽については、諸葛亮好きな陳寿にしてみたら荊州失陥の戦犯として事実を可能な範囲で悪い方に
解釈して書いてる可能性だってあるわけだし。
>>550 >兵が動揺しまともに戦えなかった。
情報が真実かどうか分からないので
=関羽に統率力がないということになる。
>徐晃との戦いから落ち延びる事に成功している。
徐晃は曹仁たちの救出が目的で関羽を殺すことではない。
>荊州失陥の戦犯として事実を可能な範囲で悪い方に
解釈して書いてる可能性だってあるわけだし
だからなにが言いたいの?
>>551 正史をただ読んだ場合、実状より幾分悪目に書かれてるんじゃないかという話。
民間に伝わってきた伝承で、面白おかしくするという名目があったにせよあそこまで
持ち上げられる人間が、全然ダメということはないはずなんで。
欠陥はあったろうし、荊州失陥の責任が非常に大きいだろう事は認めるが、正史だけを
読んでそのとおりに悪く取ると、実際よりも幾分悪く取ってる可能性もあるんじゃないか
ってことだ。
人間の事実認識ってのは実像から一定のブレ幅で違って見える。
強い武将の存在があったとして、味方なら頼りになる豪傑だし、敵なら恐ろしい化け物だ。
そのブレ幅ってのは絶対になくならない以上、嘘にならない範囲で記録者の主観による歪みや
製作意図に伴う歪みが発生する。
それがプラス方向に働いてるケース(三国志なら曹操や魏の重臣で司馬一門と比較され難い者)は
持ち上げられ気味になるだろうし、晋の敵として討たれる必要があった連中は貶められる傾向にあ
るだろう。
勿論良くできた正史と言われる以上、全くのでたらめが書いてるとは思わないが、記述には持上げ
気味な人物、貶め気味な人物があるだろうということ。
で、関羽の場合貶め気味に書かれてるんじゃないかって事だ。
みんなに質問したい。
1.蜀にとって荊州は決して手放してはいけない生命線だよな?
2.関羽はその荊州の防衛という超重要任務の責任者だよな?
3.その責任者が自ら先頭に立って他国に攻め込むのは軽薄すぎないか?
最悪の事態を想定して動いていない時点で、一国の重鎮としては失格だと思うのだが。
>>553 だからそこで、呉の謀略説ですよ。
敵が魏だけの状況を確信的に作ったなら魏との正面に大将が打って出て後方は
後方担当官にまかせても問題ない。
呉は協力して魏を討つのにちゃんと合意して約定を交わしておきながら、突然
裏切りをかけたという。ま、正史の記載より幾分呉を悪くいう結果になると思
うが、そういう可能性があったんじゃないかな。
>>552 魏書では結構名将あつかいだし
陳寿にしても、兵にはやさしかったとか
書いてあるし。関羽はどちらかと言うと
持上げ気味な人物のほうだと思うが。
>>552 結局、関羽が徐晃に負けたのは実力じゃないと言いたいだけか?
>>553 1.yes
2.yes
3.no
> 最悪の事態を想定して動いていない
一応北上時には呉に対する備えはちゃんとしてた。
もっともその後呉の計略にはまって備えの軍を襄陽にまわしてしまい呉に対する備えを薄くしてしまうのだが。
ただこれも劉封や孟達が関羽の要求にしたがって軍兵を出していればそのような事態は回避できていたかもしれない。
558 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 11:17
>>553 関羽自身が出陣しないと攻略できない難敵と戦うと判断したんでしょう。
相手は曹操軍でも屈指の名将曹仁だからね。
それに司令官が直接出張ると士気が上がるでしょう。
一応そうゆう時代だし。
>>556 落としてはいけない最前線で、
主力と言えるほどでもない量の兵を最前線の守備責任者が動かすのはどうかと思うが。
どこまでの結果を求めていたのか全く理解できない出兵としか言えない。
関羽派の主張は陳寿は「魏を持ち上げてるはずだ」っていう
どうとでも取れる所に論拠をはってるようだな
>>559 憶測でしかないがとりあえず樊・襄陽の奪取じゃないのかな?
その先のことはその後でくらいの考えかと。
ここから先は思いっきり関羽にとって都合のいい仮定かもしれないが、
もし劉封・孟達らが援軍を送るか麋芳・士仁らが呉にあっさりと寝返らなかったら
→樊・襄陽を早めに落とせていたかもしれない。
→呉への備えの軍を樊・襄陽攻めに回すことはしなくてもすんだかもしれない。
→呉の侵攻があっても早めにその情報を得ることができ樊・襄陽からとっとと撤退して荊州を守りきることができたかもしれない。
ということでそこまでひどい結果にならなかったかもしれない。
と思うがどうだろう?
>→樊・襄陽を早めに落とせていたかもしれない。
荊州の守備兵を使って落とせなかったから
これは無理じゃないかな。
>→呉への備えの軍を樊・襄陽攻めに回すことはしなくてもすんだかもしれない。
これは陸遜の手紙に関羽が踊らされたから麋芳・士仁とは繋がらない。
>→呉の侵攻があっても早めにその情報を得ることができ樊・襄陽からとっとと撤退
>して荊州を守りきることができたかもしれない。
これはたぶんできると思う。
流石に関羽でも二ヶ国から同時に攻められれば退却するでしょ。
返答ありがとう。
>>554 もし仮に謀略で嵌められたのだとすれば、
関羽は謀略に嵌められてしまう程度の人間にすぎなかったのかな?
>>556 >>最悪の事態を想定して動いていない
>一応北上時には呉に対する備えはちゃんとしてた。
荊州にとって最悪の事態とは、単に呉が攻めてくることではなく、
責任者である関羽が遠征先から戻れない状況に陥ったときでは?
ちょっと質問なんだけど、関羽は自分が留守のあいだ、
自分と同等の権限をもった責任者代理って置いていたっけ?
>>558 >関羽自身が出陣しないと攻略できない難敵と戦うと判断したんでしょう。
それは当時の荊州は関羽以外にろくな人材がいなかったという意味?
だとすれば、尚さら、そんなヘボな陣容で攻勢に回るのは無謀だったのでは?
564 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 12:10
>>561 確かに樊・襄陽の奪取後のことまでは考えてなさそうw
だけど、ここまでとりあえず確保できれば御の字でしょう。
荊州の人口密集地である南陽郡を攻める足がかりができるわけだし。
まあ、蜀荊州軍の中から編成した攻撃部隊で落ちない。
守備部隊を攻撃軍に加えても落ちない。
きっとイライラして、大声で喚いたんだよ。関羽は。
「麋芳、士仁、劉封、孟達の馬鹿」って
「関羽討伐について…」のスレでもそうだけど
関羽派は関羽が名将という前提でしか議論しないから
正史を否定したり、根拠のない説でしかレスをしないから
会話になりにくい。
陳寿が蜀を持ち上げてるのははっきり分かるんだが、
魏を持ち上げてるとはあまり感じない
晋は持ち上げてるだろうけどさ・・・
正史は常に公平無私になりきれているものではなく、世相や書き手の個人的干渉による
事実のブレがあるが正史無視になると言い出すのは正史を神聖視しすぎでしょ。
関羽に落ち度がなかったと言い切れば正史無視だろうけど、関羽に落ち度はあったが正史
はそれを誇大な描き方をし、功績については伏せてあるは、歴史の上で当たり前にある扱いが
正史の関羽伝においてマイナスに働いてると言ってるだけだし。
100%公正無私な史書はありえないは、常識でしょ?
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 13:05
注 正史を疑ってかかるのは歴史検証における常識です。
先主マンセー、諸葛亮マンセーですな
>>567 > 関羽に落ち度はあったが正史はそれを誇大な描き方をし、功績については伏せてある
根拠は?
>>570 民間の口伝での持上げられ方に比して扱いが悪すぎ。が1つだな。
別に可能性はないかと言っただけだし。
劉備がもてはやされ、当時の評価から張飛>関羽が定評(民間の意識)だったら
演義でも張飛が凄い奴で、関羽は間抜けに書かれてもおかしくない。
正史の記述に忠実なら、知勇兼備の勇将張飛と張飛以上の暴れん坊の関羽という
演義のかかれ方をしててもおかしくないんじゃない?
程度は誇張されているのが民間伝承の常だろう。が、方向性まで全く違うって事は
ないんじゃないか? 多くの人の共通認識であるものは、一握りの認識に沿った物
程恣意的には変えられない。
勘違いして欲しくないのは、張飛と関羽の役回りの問題であって、劉備陣営がもて
はやされるの自体は願望による事実との相違点である事は踏まえた上での話だ。
なんか関羽の記述には負のバイアスがかかっていると
始めっから決め付けて議論したがるから問題なんだよ。
関羽の戦功→関羽の能力
関羽の敗戦→史書の誇張
そんなのでまともな議論になるわけがない。
>>570 張飛は馬鹿で単純な好漢という分かりやすいキャラだから人気があったんだが?
劉備の入蜀時、荊州の留守を預かっていた関羽が楽進に敗れたことが関羽伝に載ってないことから考えても特に関羽に対してマイナスイメージを植えつける方向に記述されてるとは思えない。
むしろあなたの方に変なフィルターがかかってるようにしか思えないのだが?
まあ紀伝体だから本人よりも他人の伝に載ってる分量が結構多いのもあるがな
>>571 民間の口伝を信じたら、あの時代の中国は仙人さまが最強になっちまうよ…。
お前、本当にそれでいいのか?
演義でも張飛は知勇兼備の勇将だぞ。
ただし正史と同じで酒にだらしないだけで。
関羽にしても黄忠と馬超の暴言は演義にもあるし。
口伝派か・・
久々に三戦板でみたな。
研究家には意外と多いんだけどね
ガンガレ
>>571 民間伝承のほうがヤバイよ。
民間伝承だと関羽が孫権を怒らせたことになってるじゃん。
関羽がヤブヘビ突いて噛まれて死んだバカになっちまう。
てか、「関羽討伐について」のスレでやれば?
内容もかぶってるしループしてるし
蜀将は関羽だけじゃないっしょ…
関羽の話題がなくなったと同時にココの話題が冷え込んだことをみると。
『名』将として議論されるべき将が乏しいのはたしかなようだが。
いぶし銀の有能な将ってんじゃ、名将と呼べる華々しさがない。
名将にはやっぱ、能力も必要だが華々しい功績があり、名が知られてる事も重要だ。
俺たちはまだ翼徳の兄貴について熱く語り合ってない気がするZE!!
関羽に比べて張飛は地味だ
>>583 関羽・姜維の下で魏延とどっちが上? とかいう話が微妙にあった気がするがな。
黄忠は一発屋だしなぁ
口伝派の意見というのは常に新しい風をもたらすが
口伝尊重に偏りすぎるといわゆる三国志の時代が
無数の豪族が和解して割拠している豪族による中間的平和の時代に過ぎない
ということになり、三国志自体の否定につながる。
あるいは事実はそうなのかもしれない。
しかし夢なさすぎ。
588 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 15:08
なんか南郡全部返せって呉の圧力を忘れてるよなあ・・・。
いや、関羽の油断とか言ってるんじゃなくて、もし本格的に魏と呉が手を結んだら、って話。
蜀の首脳部がそれを想定していたのなら、守備に援軍を出していたはずだけど、それが無
かった時点で関羽の責任は相当軽減されるだろう。
確かに守るべき時に攻めるなら問題だが、むしろ呉のプレッシャーでやむなく北部を取りに
行ったのではないだろうか。
だれも忘れてないよ。
忘れているは関羽厨のほう。
呂蒙を警戒して関羽は荊州に守備兵を
置いていたのに陸遜の計略で自分で空に
している。
むしろ呉のプレッシャーが無くなったと思い込んで
大敗している。
590 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 15:41
蜀の名将は関羽だけとかやっぱり主役は関羽!とか
関羽厨痛すぎ。
>>586 一発屋でも十分な実績だぞ、他の蜀将と比べたら。
蜀将って本当に層が薄いな…(ノД`)
>>590 言いたいことは分かるが、わざわざ煽る必要もないだろう。
嫌なら生暖かい目でスルー。
長文のレスばっかりだけどお前らどんだけ暇なんだ?
無職か?
蜀将の層が薄いんじゃなくて
関羽以外語る気がないだけでねぇの。
お前ら必死すぎ
平日の昼間に何やってんだか
…自分もか
もっとロショク大先生について熱く語ろうZE!!
きっとパイメイみたいな人に違いない、うん、そうにちがいない!
>>594 関羽を否定するしか話する気がないんじゃないの?
別に関羽が凄い好きって訳じゃないが、そんなに悪くいわれるほど他は実績を残したのか?
関羽の代わりに荊州を守れたと間違いなく断言できる武将がいたのか?
関羽に荊州を任せた判断をした劉備や諸葛亮の責任は関羽以上に重くないのか?
って話を無視して関羽は演義でもてはやされてるだけで名将じゃないって言えば格好よいと
思ってるなら大間違いなんじゃないか?
演義では出番のない正史で語られる名将を紹介したいなら。実績を上げてこれは確実に○○より
上だろうという証拠を見せればいいじゃん。
正史まで読むほどコアじゃない人間を馬鹿にするのが楽しくて、演義てもてはやされる武将を悪く
言いたいだけじゃないの?
そういわせないだけの説得力のある、他の名将を上げてくれよ。
関羽養護する人は実は
>>597みたいな人がほとんどじゃないか?
別に好きでもなんでもないが他よりはましという・・
だれか関羽以外の名将あげて立証してくれ。
>>597 まっ昼間から必死な関羽厨さん
ごくろうさまです^^
俺は関羽の荊州失陥の責任の是非よりも、
それ以前の荊州防衛の功績の是非を問いたい。
果たしてそれほど凄い働きだったのか?
まあ煽りはおいといて・・
関羽養護する人は実は
>>597みたいな人がほとんどじゃないか?
別に好きでもなんでもないが他よりはましという・・
だれか関羽以外の名将あげて立証してくれ。
俺は漢中を防衛し続けた王平は関羽より将としては上だと思っている。
>>601 マジレスしてもいいかな?
潘濬がいる。
異民族討伐して軍事的才能もあるし、
政治手腕もトップクラス、呂壱の乱では
忠義も見せている。俺は関羽が殺された事よりも
荊州を取られたことよりも潘濬が取られたことが
非常に蜀にとってマイナスだと思っている。
王平ならまだわかるが潘濬って・・w
蜀より呉に貢献してるような・・w
貢献した原因が関羽だから
魏呉蜀黄巾以外の名将スレででてた方法論だが。
自分が君主の時、配下に迎えたい武将は誰か
自分が将の時、同僚にしたい武将は誰か
自分が将の時、敵に回したくない武将は誰か
自分が兵卒の時、指揮して欲しい武将は誰か
っていう評価方法が出ていたな。
こういうのってどうよ。
自分が君主の時、配下に迎えたい武将は誰か 趙雲 素直そうで扱いやすそう
自分が将の時、同僚にしたい武将は誰か 関羽 威張りそう
自分が将の時、敵に回したくない武将は誰か 孔明 手堅い
自分が兵卒の時、指揮して欲しい武将は誰か 関羽 優しそう ついて行ってもいいかなと思える
キョーイ こっちを燃えさせそう やる気になりそう
>>606 王平は前スレぐらいででてるよ。
潘濬はスレちがいになるから気にすることはないよ。
ただあの当時、関羽の下に関羽よりも名将がいただけだから。
北斗劉家拳を使う武将が蜀一の名将
劉備に天を握る資格ありと証明しているわけだから
まあ潘濬は論外としても・・
なんか一気にだれたな
前スレみてよ
というのが王平推す根拠かw
関羽厨はなんで自分で調べようとしないの?
189 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:04/06/05 21:49
王平
巴西出身。
曹操の漢中征伐に従軍したが、劉備に降伏する。
いわゆる第一次北伐で馬謖の先鋒隊に所属した。馬謖の指示の繁雑さや
陣を諌めたが聞き入れられなかった。
街亭の大敗時、指揮下の1000名を取り纏めて陣太鼓を打ち鳴らして踏み堪えたため、
張?は伏兵を警戒して追撃しなかった。各隊の残兵を収容して帰還するという
見事な殿を務める。
第五次北伐において、諸将に突き上げられて戦いを挑んできた司馬懿軍に対し、
一陣を守って、張?の攻撃を凌ぎ、諸葛亮勝利の助けとした。
魏延の叛乱の際に「一度の戦いでうち破ったのは王平の手柄である」
諸葛亮死後は漢中太守、のちに漢中方面の総指揮を取る。
曹爽が10万を率いて襲来した時、三万に満たない守兵ながら積極的な
防戦を指揮して魏軍に根拠地を与えず、撤退させることに成功する。
戦場で育ったために字が書けなかったが、人に読ませた「史記」「漢書」
に通じた。規則を遵守してきちんとした生活を送ったが、一方で疑い深く
軽はずみだったとも言われる。
前監軍・鎮北将軍(?)
俺は602ではないけど王平は十分名将だとおもうよ。
むしろ関羽のほうこそ名将としての資格なしだし。
ただ、猛将と呼ぶ分には蜀将一だとはおもうけどね。
名前が売れてるというのは重要な要素だ。
その点で関羽は貴重な存在だし、その名前での貢献度も
もちろん蜀随一であったのは疑いない。
だが、名前が売れてるからそれに付随して他の将よりも
能力的にも優れているはず、と論ずるのはおかしい。
なんかスレ見てると
勇名がある&重役に就いた→有能に違いない→正史の記述は誤りだ
みたいに考える人もいるし、よくわからん。
関羽は本国の体制が整うまで余計なことをせず準備を整えていればよかったんだよ。
それなのに自分から深追いして、荊州陥落という致命的な被害を出したわけで。
やらなくてもいい余計なことをしてみんなに迷惑をかけた点で関羽と馬謖は同レベル。
どんなに古参で勇猛でも“名将”とは呼べない。
というか・・王平こそ名将というんなら功績やら失敗やら
論拠を説明するのが普通では?
そして出てきた説明は王平伝そのもの。
613にいたっては根拠の説明ゼロ。
まあ暑いから仕方ないかw
617 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 17:54
いや王平には説明はいらないでしょ
漢中守りました。終了。
でも関羽伝読んでも、関羽は名将とは思えません。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 17:56
何この永久ループしてるスレ
つーか関羽が三人も潰したから名将とかそんなん言っとりますがそれ以上に負けもあるんだよね
「戦果を大きくする能があったかもしれない」ならまだ話はわかるが
621 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 17:59
1位王平
2位王平
3位王平
4位王平
5位王平
6位王平
7位王平
8位王平
9位小川
10位王平 もうこれでいいんじゃないかな 暑いし
>>612 まあそこそこに凄いと思う。
が曹爽が来たのは、諸葛亮が死んだし蜀は降伏するんじゃないか?
ってので突っついてみたら意外としぶとかったから、やっぱり鶏肋は犬が居なくなってから
拾えばいいや的なニュアンスでの撤退だったんだろうし。
それなり以上に戦える武将なら誰が守っても撤退した類じゃないかなとは思う。
失敗は確かにないと思うし立派な人物とは思うけど、名将だと騒ぐほどの華はないように思う。
名将って言うのには、100の功と120の失策がある将が10の功しかない失策0の将に勝ると思う。
失敗はあっても大きな成功している方が結局歴史に名を残しやすいのが世の常だし。
良将とか優れた将という基準は功罪の和だろうけど、名将は他人で着ない凄い事をどれだけやったか
って実績が第一義じゃないかな?
失敗の大きさだけ比べれば、関羽の荊州失陥より劉備のイリョウの大敗の方が失った物は大きかったはずだし。
でも劉備は一位なんでしょ?
地味な実績じゃ名将には遠い。
お願いだから関羽厨は、「関羽討伐について」のスレに行ってください。
正史以上の根拠があるのか?
関羽厨は関羽以外語る気も自分で調べる気も無し。
根拠の無い憶測や仮定で無理のある擁護を展開するのは
関羽厨の得意技…
625 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 18:05
まあもう関羽についてはいいでしょ ループだし
王平についてでいいんじゃないの?
>名将って言うのには、100の功と120の失策がある将が10の功しかない失策0の将に勝ると思う。
どっちも名将ではない。
魏将スレ行けば嫌というほど思い知らされる。
魏将スレでの于禁やケ艾の扱いなんて悲惨の極みだよな。
120の失策どころか、20程度の失策がどうしようもない汚点になっている。
仮に関羽が蜀将の中で上位についたとしても、
それは蜀の人材不足の象徴に他ならない。
20の失策どころか、最後が悪いというおよそ将軍として関係ない部分まで評価対象になってるからな
そうしないと順位を決めるのは不可能なんて事態
まさに人材の宝庫を地でいってる
629 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 18:15
>>624 いや正史やその他の資料のどこを根拠にどのようにとらえてこういうわけで
王平こそ名将です と説明するのが今までの流れなわけで・・
みな王平を知らない人はいないわけで
王平自身の説明よりなぜに王平が名将にふさわしいかを根拠あげて説明するもんでは?
それとも暑さにやられて説明する気力無いのかな、
観戦者としてはどっちも名将じゃないと思うんだが
漢中を守った王平と荊州を守れなかった関羽じゃないの?
632 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 18:22
1位王平
2位王平
3位王平
4位王平
5位王平
6位王平
7位王平
8位王平
9位小川
10位王平 異論なければこれで決定しますがよろしいでしょうか。
>>623-624 何でもかんでも関羽厨呼ばわりしてないで、ちゃんとそれ以外の名将を実証できるように語ればいいだろ?
嫌関厨は関羽以外叩く気も自分で名将を上げる気も無し。
って返さなくちゃならなくなる。
なんなら、蜀には名将は1人も居ないって結論でもいいんだけどな。
俺は名将なら華が必要だと、任命した人間にも相応の責任があるとは行ったけど。
なんなら劉備や孔明が1位、2位に相応しいのかから語っても良いんじゃない?
劉備は一武将としてはともかく、総司令としての人選ミスが多いよな。
徐州の守備を張飛に任せて落としてるし、荊州を関羽に任せて失ってるし
こんなミスの多い奴は一位に相応しくないだろ。
まとめると、
1.関羽は決して名将の器ではない。
2.しかし人材難の蜀では彼すらも欠かすことができない
蜀には良将・功将・豪傑はいたけど名将はいなかった、
という結論でいいんでない?
635 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 18:29
>>634 関羽を擁護してきたのは他に誰もいないからなんで、
俺もそれでいいと思う
でも孔明は名将ともいえるでしょ
あと劉備が微妙だが・・
というか関羽名将説に熱心に反対している自分としては、
関羽は蜀の夏候惇だと思う。
結論が出たようなので次のお題。
寡兵で活躍した部将を語ろう。
俺は羅憲が好きです。
蜀書からそれなりに武功がある人材を何人かピックアップしてみた
卓鷹
蜀入り時、黄忠と共に先陣を任された。
呉班
夷陵の戦いの時、馮習と共に呉将の李異らを打ち破る。
北伐時、司馬懿らの攻撃を魏延・高翔らと共に防御に当たりこれを破る。
馮習
夷陵の戦いの時、呉班と共に呉将の李異らを打ち破るも、その後戦死。
陳忽
夷陵の敗戦を受けて挙兵した漢嘉太守黄元の反乱を鄭綽と共に平定する。
陳式
諸葛亮に武都・陰平に派遣され二郡を平定。
向寵
夷陵の敗戦時、軍営を無傷で守った。
漢嘉郡の蛮族征伐の折、戦死。
李恢
入蜀時、馬超を味方に引き入れる功あり。
先主死後に起こった高定らの反乱討伐時、2倍以上の軍勢に囲まれるも策略を用いこれを大いに打ち破る。
再び起こった南蛮の反乱を自ら討伐に赴きこれを平定。
劉封
蜀入り時、諸葛亮らと共に西上し功を上げる。
孟達と共に上庸に侵攻、太守の申耽を降伏させる。
魏に寝返った孟達が夏侯尚・徐晃と共に上庸へ侵攻、抵抗するも申耽が反旗を翻したために敗走。
李厳
馬秦・高勝らの数万の反乱を5000の兵で鎮圧。
越スイの蛮族高定の軍勢に包囲された新道県の救援に向かいその軍勢を打ち破る。
霍弋
永昌郡のリョウ族を討伐し、これを平定。
蜀滅亡時、一地方を保ち魏に帰服。
その後の話になるが交阯・日南・九真の三郡を平定するという功績があり。
羅憲
成都が落ちたという噂で混乱する永安城の民衆を落ち着かせる。
蜀の滅亡を受け侵攻してきた呉の歩協の軍勢を打ち破る。
さらに派遣されてきた陸抗の軍を救援の軍が来るまで防ぎきる。
その後の話になるが呉の巫城を奪取するという功績がある。
他にも何人かいるが疲れたのでとりあえずこんだけ。
関羽に負け戦が多いってのは、当時一流の将帥と見られていたからこそ
その人物を讃える為に「あの関羽に勝った」って記述が多くなるのでは?
へぼぴーに勝っても自慢にならない訳で…。
蜀に史官が置かれていれば、詳細な「関羽伝」に載るような
勝ち戦が結構あったんではなかろうか?
漏れは孔明ヲタだけど、ある種、街亭の敗北より大きな
孔明の失敗だと思ってしまう。
>>640 じゃあ例えば関羽は他に誰に勝った可能性があると踏んでいるんだね?
書かれてない書かれてないじゃ話にもならんから、魏諷の乱のような何か可能性を挙げてみてくれ
642 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 18:47
もういいでしょ 関羽は
■■■■■■■■■■蜀に名将は孔明のみ■■■■■■■■■■
ーー大円団ーー
関羽って呂布や馬超とかぶるね。
勇名高く周囲に恐れられているが、負け戦が結構多いあたりが。
やはり武人・猛将ではあっても名将には分類されづらいといったところかな。
>>635 孔明は武将とは言いづらい。
劉備は40になっても本拠地が持てず、晩年にも致命的な失敗をしているので、
名将ではない。名将じゃないからこそ苦労の人として魅力的なんじゃないかな。
>>640 関羽にどんなに隠れた功績があったとしても覆せないほど荊州陥落は痛い。
関羽という一武将の死であるばかりか、国是である漢朝復興が事実上不可能に
なってしまったからね。
>>640 だからどうしてそういうふうに都合よく考える?
>>その人物を讃える為に「あの関羽に勝った」って記述が多くなるのでは?
呉蘭に勝とうが、高翔に勝とうが、その勝った人物の記録にはちゃんと残っている。
なんで他の人物の伝に負けた記録が多く書かれてあるというだけで、
そこまで発想を膨らませられるんだ?
646 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 18:50
■■■■■■■■■■蜀に名将は小川のみ■■■■■■■■■■
ーー大円団ーー
孔明は名将にしたいなぁ。
撤退戦の巧さは見事だと思うけど。
>>645 敗戦が多くそれが当人の能力不足に由来するなら誰も任用しないだろ。
ただ劉備に従ってきただけの人間なら名もない奴が二桁くらいはいたんじゃないか?
名将ではなかろうが、少なくともそれなり以上の軍功がある将なんじゃないの?
劉備の部将としての功かも知れないけど。
関羽が出ると負けのヘボなら、たとえ股肱の臣でも将帥としては採用しないでしょ。
>>648 過剰に反応しすぎ。
関羽を出ると負けのヘボとまで言ってる奴はいないだろ?
名将かどうかって事を論じてるにすぎない
>>644 > 関羽にどんなに隠れた功績があったとしても覆せないほど荊州陥落は痛い。
それは確かにそうだが、そのために必要以上に関羽の能力を低く評価されているような気がしてならない。
やはりそれぞれの背景とする国力や外交関係をかんがみれば蜀が荊州を保持し続けるのはかなり厳しかったように思える。
652 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 19:02
孔明は名政治家であって名将でしょ
軍率いての戦争何度もしてるし
北伐では拠点も奪取してそれなりの成果を上げてる。
軍人ぽくないというのはあてはまらないと思うなあ。
諸葛亮は政治も軍事もこなす万能型の首相。
彼を名将としないならば、曹操も、陸遜も名将じゃなくなる。
関羽は謀将と猛将の二つの面がある。
これは三国志の登場人物でも特殊なタイプで
名将とまちがえやすいとおもいます。
安成の呉?・袁龍のことだと思う。
>>655 様々な劉備への軍師的献策と
袁紹陣営がコウソンサン攻めたときに異民族や周辺勢力の
呼応誘ったような策をそこそこ使える武将と思いますね
それが魏フウであり侯音であり、
これらはそれなりの効果のある策でした。自分の影響力をフルに生かす策。
これは逆に仇となりましたがね
呉が警戒心を強めたから。
それでいて猛将というかわったタイプの人と思います。
>>651 >それは確かにそうだが、そのために必要以上に関羽の能力を低く評価されている
>ような気がしてならない。
このスレの関羽の評価は妥当なものだと思う。
具体的にどこが低評価なのか指摘してくれよ。指摘できないなら本当に気のせいだ。
>やはりそれぞれの背景とする国力や外交関係をかんがみれば
>蜀が荊州を保持し続けるのはかなり厳しかったように思える。
他人から見て厳しいことをやり遂げるのが名将だろうが。
並みの武将にできることしかできない奴は名将とは呼ばん。
もう関羽はお腹一杯だよ。
べつの話をしようよ。
660 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 19:25
■■■■■■■■蜀に名将は周倉のみ■■■■■■■■
ーー大円団ーー
王平は名将だろ
逆境に強く、街亭にしろ第四次北伐時にしろ漢中防衛にしろ、敵に比べて過少な兵力で味方の損害を抑えたり敵攻撃を耐えたりしてるんだから
それとも張遼・甘寧のように派手な奇襲がないと名将と認められない?
662 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 19:28
だれもキョーイって言わなくなったなそういえば
そして365の謎は解けたの?
いや別に張遼・甘寧は名将ではないだろ。
王平は名将というより良将だな。
>>638-639 の話でもするか。
呉班は夷陵で生き残り、北伐で活躍してる。
陳式は諸葛亮の指示通りに働いて領土獲得に貢献している。
李厳は記述の少ない蜀陣営の中では、その面々の中ではまあ実績のある方かな。
この三人はベスト10から15くらいに入ってくる気がする。
それにしても蜀の人の少なさは・・・
>>663 まあ、魏呉は彼らを名将10選に加えなくても入る人材には困らないしな。
>>662 万人が納得するような論理で姜維を名将と論じるのは無理だと悟ったからね。
今だって、蜀においては劉備、孔明に次ぐ実力を持った将だと思ってはいるが。
人が少ないのもあるけど、蜀は魏や呉と
比べて戦争が少ないからね。
魏よりは確実に少ないのは分かるけど、呉と比べてもそんなに少ない?
>>669 10人しぼり出すだけでも苦労するのは蜀だけ
呉は異民族戦がかなり多い。
それと国も長生きしたから。
673 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 19:47
ここはキョーイ派、関羽派が手を組んで
無難派を論破するという作戦もある・・
>>671 異民族戦で苦労してたって話は聞いた事あるけど。異民族政策は下手だったのかな?
正直確かに蜀で名将と呼べるのは孔明だけだけど、
魏も呉も名将と呼べるのは五人もいないよ。
孔明も名将とは思わない
てことで蜀には名将はいなかったということで終了
677 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 19:52
>>675 それはたしかに言えてる
実はみなそれに気付きながらの議論だったと思います
でも魏と呉は余裕でいるでしょ
名将ランキングじゃなくて
武将ランキングの方がよかった?
スレタイ的にはすでに名将という縛りは無くなっているんだがな
680 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 19:59
老将ランキングはどうかな?
正直、魏の名将の多さは凄いな。
呉は・・たしかに大勝したりするんでぱっと見すごいけど
勝って勝ってかち続けたって感じはしないな。
晩年の孔明は手堅い用兵はしていたみたいだし
兵の士気を高めていたらしいけど。
ちっとも勝利らしい勝利はないね。
堅実すぎて成果が上がらなかった部分もあるんだろうけど。
味方数百騎でもって敵陣に突撃して撃破する孔明なんて見たくねえな。
>>658 例えば夏侯淵あたりは漢中を失陥、自らも戦死したが名将の部類に上げられてる。
それと比べて関羽は著しく劣るとか言えるかどうかということ。
魏で名将として上げられている部将などは勿論自身の有能さもあるだろうが背景となってる魏の国力という点も結果に加味されてると考えるのはあまりにも蜀贔屓かな?
劉備>呂蒙>関羽>夏侯惇
ってことだな
うんうん
dじゃなくて¥だった
>>681 まあ、勝ち組だから全体的な勝ちが多いわな。
戦場の勝敗だけなら、漢中戦とかで蜀が勝ってるから、決して人材の質だけで
負けていた訳じゃないとは思うけどねぇ。
そもそもの国力や政治力、ある時点で誰と戦い誰と結ぶという政治・戦略レベル
において魏や呉が優位だったことが多い事が、結果的に勝ちの多い将が魏に多い
って事に繋がってるんじゃないかな?
結局、政治・戦略レベルで不利だから負け戦を一杯やらなきゃいけなくて。
少数で良く耐えたとかそういう評価の記録が多くなる。
草創期から華々しい武功を挙げ、局地戦においては他国より少ない戦力で
戦わないといけない場合もあったことを考えれば、あまり減点にもならんような。
最初から強かったわけではないし、強固にするのに貢献したからこそ
武勲も多い。
それは名将夏侯淵を討ち取った劉備が凄いだけだと思うが。
>>684 魏将スレでは夏侯淵の評価そんなに高くないぞ。
一地方政権なんだからそんなに名将がいるのも変だろう。
魏に比べて少ないのも、戦の数、戦争規模からして違うのだから
仕方がない。だから無理やり名将認定をしなくてもいいよ。
他国スレから来たけど、なんだか自虐的なスレだなあ。いつもこんな?
兎にも角にも蜀の中でのランキングでもやってけばいいのに。
名将かどうかは保留で。
>>691 そうか?たいてい10位以内にはあげられてるぞ?
あきらめろ夏侯淵と関羽じゃそもそも戦功の数と質が違う。
両者から最後をマイナスにしたとて結果は見えてる。
>>695 漢中は蜀にとって生命線、その敵にとっての要地を渡してしまったことはかなり重大な過失と言えるぞ。
ただ蜀にとっての荊州と魏における漢中の重要度の違いがその評価を左右してる部分が皆無とはいえない。
>>694 魏将スレでは1〜7位と8〜10位に超えられない壁がある。
順位よりも内容を見ないと。
姜維は名将。
でもココで関羽派とやり合うのはもうお腹いっぱい。
名将じゃなくて一般の将も語ろうぜ。
なんのために討議スレッドって名前になってるんだよ。
>>698 細かいのじゃない大きな勝ちは?
関羽の上かどうかはともかく名将と呼ぶのは辛そう。
蜀将スレは足のひっぱりあい、落とし込みばかりで
最終結論として「蜀に名将はいない」で落ちつきましたw
>>693 >なんだか自虐的なスレだなあ。いつもこんな?
それはない。このスレを1から読んでいくといいよ。
どういう経緯でこういう展開になったか納得できると思う。
張翼とか馬忠とか向寵とか
ぶっちゃけ大きな勝利を収められる国力も人材も後期蜀には無い
でも魏で同じ条件なら夏侯淵クラスの活躍はできたと思う
そういう仮定こそホントに意味がない。
>>704は姜維の事で
大量に戦やってんだから、並の将ならもっと派手な負けが込んでるはず
ぶっちゃけ、ここより魏スレのほうがはるかに姜維の評価は高い
こ の ス レ で や っ て い る こ と の す べ て が 無 意 味 。
自 分 の 意 見 を 他 人 に 押 し 付 け あ っ て る だ け 。
いや魏スレでもそんなに・・・
つーかここはなんだか貶めすぎなんじゃないかね
おまえら蜀好きじゃねーのか!?
好きだからこそ盲信的なマンセーはしたくない
>ぶっちゃけ、ここより魏スレのほうがはるかに姜維の評価は高い
どさくさにまぎれてデタラメ言うなよ…
712 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 20:52
いや今日は特に暑くてやる気無かったんだよ みんな
論点がダルーな感じだった、、
盲目的マンセーもどうかと思うが
この自虐ムードもなんだかなぁ…
自虐?
そんなことはないと思うぞ。
名将が極端に少ないという結論が出ただけで、
良将とか豪傑とかのランキングはまだこれからだし。
>>708,
>>711 少なくとも劉備と孔明しか名将はいないなんて結論はでないわな
ケ艾他の後期魏将評価で持ち上げられて、姜維も一角の名将で定着しているよ
貶めるだけ貶めて放置なんてのはここだけだ
ケ艾は寡兵で蜀を滅ぼした功績があるから姜維とは比較にならない。
そんなケ艾ですら末路を根拠に魏将スレでは7位が有力な状況なんだぞ。
>>716 いや定着してないよ
ていうかばりばり魏スレかきこんでるが
ケ艾の評価を難しくさせてる原因になってるよ 笑
それは魏にとって仇敵であり、蜀にとっても仇をなすから
戦争に強ければ名将ではないからです。
姜維は賛否両論あるだろ、関羽と並んで
一発屋(黄忠)や飼い殺し(馬超)が旗揚げ時からの古参(関・張)と
同じ扱いされていることが蜀が人材不足な象徴かもしれないね
まあ論拠なくやじるだけの人が増えすぎたのが
この貶めて放置につながってるだろうな
みんなやる気なくしてしまった、、
前の方で蜀に名将はいないだのとか書かれてたけどさ、
劉備、孔明、関羽、張飛、趙雲、魏延、黄忠、王平、張嶷、姜維
あたりは名将だろーが。なんか落としめ合いから、おかしな方向に流れてるぞ。
今までだって、蜀将について盛り上がっていたというより
関羽vs姜維の信者争いで盛り上がっていただけだからな。。。
異民族統治云々だけで名将になるなら
神様クラスの信仰めいた信頼を受けた張ギョクは名将だな
>>724 いや信者は一部しかいないんだよ
あとはアンチが多いって事でね
姜維も関羽もアンチが多いんだよ
アンチからすれば、荒らすだけ荒らして放置も勝ちだからな。
粘着された信者に勝ち目は無い。
今の落とし込み合戦の流れだと
「蜀のこいつは名将じゃない」というスレタイの方が合ってるね
もっと認めあえないの?
「蜀に名将はいない」なんて結論づけられていいのかよ…
名案ひらめいた。
他の連中の順位が決まるまで、姜維も関羽は保留扱いにしておかないか?
そうすればけっこうスムーズに決まると思うんだけど。
だから根拠のない落としにはスルーという
暗黙の了解を決めないと。
じゃあいよいよ本題に移ろう
馬岱は名将なのか?
名将とまではいかないけど良将
それと名将の条件を完全には満たさなくとも
それに近い将ということで議論進めれば
いたずらに「名将とはいえない」的な
安易な結論にはならないと思うんだがどうだろう?
孔明と関羽、姜維を同列に置けないから名将が
いないという結論がでたんだけど。
>>735 演義準拠だったんですか。。
じゃあ離脱しますw
>>737 それを言い出すと、「名将って何?」という議論になる
関羽と姜維は良将か?
使える将ではあったと思う。
自分から行動をおこすと迷惑だったが。
>>739 そこから始めてもいいんでない?
名将の定義が曖昧だと魏スレ1のケ艾みたいに揉める。
ここに来て最初からか・・
スレ1からちょくちょく参加してる俺の立場は。。
>743 スレ1〜3でなにか得られたものはありましたか?
>使える将ではあったと思う。
>自分から行動をおこすと迷惑だったが。
そういう部将を名将と呼ぶの?
少なくとも1-3では無難な将より使える将のが順位が上だったな
なんか無難なのが上位にくる定義だとつまらなくなるな
だからさ、関羽も姜維も名将なんだって。
当時、同じ時代を生きていた魏の将たちから、二人とも名将と認められているんだから。
二人とも名将。
747さんは関羽と姜維は良将だと思いますか?
当然。
カンヌもキョーイも良将ではあるよな。
上がしっかり制御できればだけど。
では、良将の定義はどうします。
蜀の武将の中では十分良将だよな
俺は良将とはおもわないな 関羽と姜維(特に姜維)
しかし二人とも有能な将ではある
国家レベルで見ると、カンヌやキョーイの暴走は上がずさんだったから。
適材適所の曹操が上なら暴走するような将ではないよ。故に俺的良将ではある。
問題は名将・良将の定義だ。
俺は君主や政治家との差別化で、局地的戦略・戦術面で有能なら名将でいいと思うがな。
中には政治・大規模戦略面での有能さを求める人もいる。
>>754 >局地的戦略・戦術面で有能なら
これはどちらかというと猛将の部類になるのでは。
>>754 俺もそう思う。関羽にしろ姜維にしろ置かれてる状況がむちゃくちゃ。
信頼できる同僚もいない孤立の状態で、三国志中でも最も厳しい状況に置かれている。
二人を補助できる有能で信頼のおける将がいれば、結果も変わっていたはず。
>>755 名将は猛将を内包すると思うんだがどうか?
強いて分けるなら、大規模部隊の中の少数の兵で強いのが猛将、
少数の兵単体でも強いか数千〜数万規模でも強いのが名将。
>>754 それは暴走をしても関羽と姜維は良将なんですか?
>>757 それだと蜀に名将がいなくなってしまいます。
>>758 良将なのに上が使いこなせなかっただけだと言っているのですが。
>>759 数万はともかく、数千規模の総大将は結構いるのでは?
>>759 劉備、孔明、関羽、張飛、魏延、王平、姜維は?
>>756 >二人を補助できる有能で信頼のおける将がいれば、結果も変わっていたはず。
優秀な補助役がいないと頼りにならないんじゃ、名将とは呼べない…。
>>760 また関羽厨の悪いところが出たな。今度は劉備に責任転嫁か。
>>763 周瑜には魯粛がいたし、呂蒙には陸遜がいた。
一人で何でもできた人なんていたか?
みんな信頼できる有能な補佐役がいたよ。
孔明は名将だけど張飛、魏延、王平は数万規模の兵を
持ったことあったけ?
姜維の補佐役は向充、来忠らか。
彼らはどの程度の優秀さだったのだろうか?
関羽には潘濬がいたじゃん。
>>764 魯粛も陸遜も優秀な補佐役だったけど、
彼らがいなくても周瑜や呂蒙は立派に役目を果たした気がするな。
でもなんでここで呉将でたとえるんだよ。
蜀将でたとえろ。
>>767 『信頼』
あと、潘濬って政治家としては有能だけど、それだけだろ。関羽の補佐役としては役不足。
信頼を得ようとしなかったのは関羽のほうなんですけど。
あと潘濬は力不足ではない。
4スレも消費して、やっと関羽の評価がおちついた感じ。
潘濬も過大評価されすぎじゃないのか
関羽とともに潘濬の評価も問うべきだ
>>768 いや、あそこまでの成果は挙げれなかったと思うよ。
>>769 分かりやすい例として挙げただけ。
鳳統や法正が生きていれば、孔明はもっとやりやすかったろうね。
>>763 関羽という個人で見なければ、蜀の環境が悪すぎるということです。
適材適所ができてない事と名将かどうかは別問題だと思われます。
>>765 王平は、興勢の役の時に漢中守備隊約3万の総指揮を執ったはず。
魏延、張飛は1万を大きく超えるほどの兵は指揮していないと思うが。
陽谿でも数万という程の大軍は率いていないと思うし。
すまない。遅レスだとわかってる流れが読めてないのもわかってる。
だから、言わせてくれ。
>>704 お前、妙才の神速に並べるヤツが本当に蜀にも、というより普通にいると思ってるのか?
>>771 果たして新参の潘濬にそこまでの信頼を置けるかな?
あと、人間関係は一方的なものではない。
>信頼を得ようとしなかったのは関羽の方
と言い切るのは間違い。
>>776 ここは蜀将だけを比較するスレなんだから、全員同じ条件だろ。
蜀の環境がどんなに良くても悪くても、蜀将の序列には関係ない。
潘濬は新参ではないし呉に捕まったときも
蜀に対して忠義をもっていた。
>>779 ならば、彼らが名将でないと貶めるより
彼らに匹敵する功績を持つ蜀将を挙げるべきです。
三国時代における名将だという事と、名将としての格は別問題です。
>>777 夏侯淵と並べるほどかは分からんが、山がちな涼州で機動戦を展開しようとし、
魏の蜀侵攻作戦では陰平・益州で抜群の機動力を見せた将はいるよ。
別にしたらだめだろ。
なんか一部のアンチの手で葬られる関羽も可哀想だよな。
人材難の蜀に、それ以上の名将なんていないのにな。
関羽だからこそ、魏も呉も掟破りの和解策を選んだというのに。
まあ2千年後まで愛される関羽と、死んだら忘れられる可哀想なアンチとでは
比較にもならないがなw
今、良将と名将の定義を議論しているのに
名将としての格は別問題です。といわれても
でも魏と呉はそれ以前に和解というか休戦してるよ。
理由もなく関羽を否定してる奴などほとんどいない。
色々考えて、それでもちょっと違うだろ、と思って苦言を吐いてんだ。
アンチで一括りにするな。
>>787 私は三国全体に影響する名将良将の定義を議論するのに
蜀のみで語れという理由の方が分かりませんが。
>>790 >蜀の環境が悪すぎるということです。
>適材適所ができてない事と名将かどうかは別問題だと思われます。
に対して
>ここは蜀将だけを比較するスレなんだから、全員同じ条件だろ。
>蜀の環境がどんなに良くても悪くても、蜀将の序列には関係ない。
で
>三国時代における名将だという事と、名将としての格は別問題です。
になったからまず名将の定義が無い状態で名将と名将の格を
別問題にしてはいけないと。
あと別に779さんは彼らが名将でないと貶めてないし
>>791 別問題にしてはいけない理由も聞いているのですが。
まずは名将の定義を決めてから蜀の名将の順位を決めるものでしょう?
「蜀将の序列には関係ない」という意見自体が場違いな意見だと思われます。
個人的には名将と呼ぶレベルにまでいくには
歴史の流れにそれなりに影響を与え、かつそれが自陣営に有利な方向に働かせた、ぐらいはほしいが
そうなると、それこそ建国者・国家元首クラスしかいなくなるよな・・・
なんで順位を決めるの?
名将の定義を決めているんだから
いるかいないかでしょ。
>>794 その定義なら、劉備、関羽、張飛、孔明、曹操、孫権、司馬懿だけですな。
>>795 だから、名将の定義及び蜀将に名将はいるかを議論するのに
蜀将の序列を持ち出すこと自体が間違いだということです。
名将は蜀だけのものではありませんし、まして蜀にいるかとなればなおさらです。
名将の定義に格が入る場合もあるから。
自分で
>蜀の名将の順位を決めるものでしょう?
てっ言ってるよ?
>>798 ならば、「格」が何であり、どういう理由で格が関係あるかを提示すべきでは?
意見のみを一言だけでは煽りにしかならないと思います。
つーか格って何よ
蜀でに限れば孔明しか残らない。
補佐など元々いないし建国後は尚の事1人で全て行い
全てを作った。まあ名将という呼び名は全然似合わないが。
日本で言えば全大臣兼務という感じ。
関羽の最大の見せ場(?)は個人武勇としては顔良撃破時(このシーンは後々の中国史上の猛将達の憧れになっている。南朝のショウマカ(漢字が・・・)の逸話にも関わりがあるし)
軍人としての見せ場はやはりあの曹操をして、遷都を考えさせるほど攻め立てたことか?徐晃という最後の予備に撃破されたのが痛いが
孫権に関羽親子処刑を勧めた呉の高官が上げたのも「曹操は昔関羽を生かしておいたせいで遷都まで考えるハメになったんですよ」だったらしいから(蜀記による)
>>799 元々No1決定及びランク付けのスレだったからです。
名将の定義を決めてそれで終わりということではないでしょう?
>>800に反論をなされるなら
>ここは蜀将だけを比較するスレなんだから、全員同じ条件だろ。
>蜀の環境がどんなに良くても悪くても、蜀将の序列には関係ない。
私への反論文を読んだ上で、名将の定義に蜀将の序列がどう関係あるかをお願いします。
格だの華だの名声だのに固執するのも困りものだ。
魏スレでも「華がない」ってだけで徐晃の評価を下げてるやつがいるしな。
>元々No1決定及びランク付けのスレだったからです。
>名将の定義を決めてそれで終わりということではないでしょう?
これは今のところ孔明しかいないから。
>>ここは蜀将だけを比較するスレなんだから、全員同じ条件だろ。
>>蜀の環境がどんなに良くても悪くても、蜀将の序列には関係ない。
>私への反論文を読んだ上で、名将の定義に蜀将の序列がどう関係あるかをお願いします。
こっちは問題が蜀将の序列には関係ない。ではなくて蜀の環境がどんなに良くても悪くても
こっちのほう。名将の定義の議論で環境や適材適所なんて言ったからでしょ。
>>806 50以上レスを遡らないといけなくて何がなんだか分からん。
あんたの考えてること、もう1度まとめて分かり易く書いてくれ。
>>806 こっちのほう、の意味がわかりませんが。
三国全体における「名将」とは何かを議論するのに蜀のみで語らねばならないというのはおかしいでしょう。
適材適所も蜀が魏や前期の呉に比べて適材適所ができておらず、過程を無視して最終結果だけを評価できないと言ったまでで。
俺は
>>779さんではないが
>>775さんが名将の定義に環境や適材適所と言う事を
言ったから蜀将の序列には関係ない。てっ言ったんでしょう。
この場合の序列は「関羽という個人で見なければ」
この意見に文句を言ったんじゃないかな。
>三国全体における「名将」とは何かを議論するのに蜀のみで語らねばならないというのはおかしいでしょう。
ここは蜀将スレだぞ。お前、勝手に話を広げるな。
>>807 私の意見は
1.関羽や姜維は戦術面において結果を残せる将であり名将である。
2.人材不足の蜀は彼らを適した場所に配置したり、必要な後援を行える人間が乏しい。
3.なので魏将や呉将と単純比較はできず、最終結果だけでは判断できない。
4.名将の定義を決めるのに、蜀内の序列は関係ない。三国全体で判断すべき。
主な反論は
1.暴走しても良将なのですか?(>上が使いこなせなかっただけだと反論)
2.また関羽厨の悪いところが出たな。今度は劉備に責任転嫁か。(>関羽という個人で見なければ〜)
3.ここは蜀将だけを比較するスレなんだから〜蜀将の序列には関係ない。
(>三国時代における名将だという事と、名将としての格は別問題)
いまいち格野郎の言いたいことがわからない
ていうか格って何かその定義を聞かせてくれ
775さん適材適所というけど古今の名将や良将は
非常に困難な状態で努力してきた人たちですよ。
関羽と姜維が否定される原因に自分で困難な状況に
してしまったから。
>>814 少なくとも三国時代においての名将の定義は、そこまで厳しいとは思いませんが。
それなりに実績があり名を残せる将なら名将なのでは?
俺的には荊州守備の任は関羽よりも.趙雲に任せておいた方が
上手くいっていたと思う。こういう事いうと趙雲には華がないとか
大きな功績がなんたらとか誰かが言い出すんだろうけど、俺はこの
説を推す。このスレでは関羽より格下扱いされてる趙雲だが.華とか
名声なんかの飾りを取り払った時の個人の能力では関羽より趙雲のが
上だと思う。
大体805の言う通り.名将の定義がおかしくないか?名将の意味を調べても
華がある.大きな軍勢を率いた.名声がある.なんて何処にも載って無いぞ?
趙雲は華よりも小さくともどの粒も甘い実のつまった名将だと思う。
>>812 ちょっと待て。関羽も姜維も武将としては最高といっていい立場にいたんだぞ。
それが適材適所じゃないというのは、将として小物といってるのと同意義では?
名将って一人でなんとかできるとかそういう奴と違うのか
誰かに支えられなきゃ何もできない時点で名将じゃないんじゃないのか
さらに言うなら関羽の場合ハンシュンだけじゃなく大勢の支えてくれる人材を自分の驕慢で減らしたわけだが
むしろ諸葛亮や姜維などの蜀末期の話だろそれ
>>816 いーや俺はそうは思わん
終生司令官として軍を率いた経験のない趙雲じゃ心許ない
関羽+誰かにする方が良い
ここはやはり諸葛亮か
いや待て、関羽と張飛を残したらどうなる?
>>817 小物ですよ?
小規模戦略・戦術・兵法しか取り柄のない小物が最高位をやらねばならないのが論外なんです。
>>818 少なくとも、辞書の定義では名将:<戦略・兵術のすぐれている(ことで有名な)武将・将軍。>であり
その点において優秀なことを知られていた姜維・関羽は名将であると思われます。
良将の定義に
1、自分の立場を理解し暴走しない。
2、引き際を間違えない。
3、大勝はないが、自軍をあまり損傷させない。
私はこのくらいあって良将と呼びたいですが。
正直、関羽と姜維は猛将の区分だと思います。
関羽と姜維は引き際を理解してないから
戦略・兵術のすぐれているとは思えません。
>>820の主張に沿うと「姜維と関羽は小物だけど名将」という結論になるな。
本当にそれでいいのかよ…。
姜維は引き際を理解してるだろ。
姜維は撤退に失敗して大きな被害を受けた事は無いし。
私は
>>821を踏まえたうえで「良将+猛将=名将」説を押したいけど、
皆さんどうでしょうか?
戦術の話か
ただ関羽について常に疑問符がついてしまうのがなぁ
顔良戦→曹操の用兵?手ずからヌッ殺したのは「武人」として評価できるかもしれんが
曹仁戦→猛攻 しかし徐晃に敗北
ウキン戦→洪水 陣地選択には評価できる「かも」(ただし、損傷無し・水軍を使ってる時点で予見していた可能性が強い)
まあ確定ではないが、戦術の上ではなかなか
しかし敗北もまた多い
楽進には負けるしブンペイには船まで焼かれるし
>>823 問題ありません。
国家運営は適材適所で、政治外交に長けた人間が全てとは思いませんし。
>>825 <戦略・兵術のすぐれている(ことで有名な)武将・将軍。>
私はこの辞書定義で十分だと思われます。
無理に規制を複雑にするのは資格議論を困難にするだけであり
また世間一般(少なくとも辞書定義)における名将と違がってくると思われます。
>>825 それをされると孔明が名将にならないから困る。
>>827 有名な、は別にいらんと思う
最低限は必要かもしれんが
>>829 確かに。
他国に名の知れていない良将も多いでしょうし、彼らも名将に含めて良いと思います。
ではなにをもって「戦略・兵術のすぐれている」とするか?
少なからず関羽は戦略がすぐれているとはいえないので、
脱落ですか?
戦略=長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
関羽にはないな。
だからやっぱ別々にすべきだよ
戦術と戦略
それに総合でいいじゃん
別に十人いなくてもいいじゃん
>>826 まあ魏は粒揃いだからな
負けても仕方ないとは思うが
なんとなく「なかなかやる」って感じ
一流ではないが、一流と張れるってトコか
別格 名将、孔明
良将 王平、趙雲
猛将 関羽、張飛、魏延
こんなんでいいじゃん。
名将、劉備 孔明 姜維
良将 張飛、魏延 、王平、趙雲、黄忠、張嶷
猛将 関羽
猛将=強い大将若しくは選手だったので武人と同義かと
魯粛・呂蒙と互角に渡り合っていた関羽に戦略眼が無いとは笑止。
釣りかよ
関羽は個人的武勇の評判で欠点をカバーするほど自分をでかくみせていたんだよ
>>840 でもそれってすごく有効なことだよな。
何度も言うようだけど、個人的武勇が戦場を越えて効力を
発揮してるのは評価に値する。
同じこと繰り返し書きたくなかったんだけど、
名将と呼ばれる人には信頼できる有能な同僚や補佐役がいて、
そういう人たちとの協力があって初めて大きな仕事ができる。
その意味で、関羽、姜維には大きなハンデがあった。
だれも関羽、姜維を無能と言っている訳ではないよ。
ただ名将、良将と呼ばれる人たちは色々な大きなハンデを
乗り越えているからこそ称えられているからね。
>>843 三国志に限れば、あの二人ほど状況が厳しかった人はいないよ。
そんななかで敵から名将と讃えられている二人は、文句なしに名将。
それに匹敵するほど状況が厳しかった中で成功をおさめたのは
官渡の曹操、そして赤壁の周瑜くらいだ。
あと陸抗も追加。
>>844 曹操は?陸抗は?周瑜は?陸遜は?
張遼は?曹仁は?羅憲は?王平は?
全部無視ですか?
曹操には優秀な補佐役が何人もいたし、周瑜にも魯粛がいたし同盟軍の劉備軍もあった。
やはり一人というのはつらい。
状況って、局地的な戦闘での状況を言ってるのか?
それとも、圧倒的な国力差などの事を言ってるのか?
関羽にはフシジン、ビホウ
姜維には張翼、リョウカがいるじゃん
>>848 陸抗に関してはそれは通用しないな。
むしろ関羽、姜維より状況は悲惨だったろう。
>>847 曹操・周瑜は先程書いたとおり。
それ以外の人は、関羽・姜維ほど厳しい状況には置かれてません。
強大な国力を背景にしていたり、天剣の要害を守備したりといった方々です。
西陵の戦いは芸術といってもいいぐらいだな。
俺は関羽・姜維を名将だと思うが
もっとも名将を頂点連中だけの称号じゃないとした場合だが
じゃあ姜維は外れるぞ。
>>849 国力・所在地・人材などの総合的な状況。
>>854 まあ、陸抗はたいしたものですね。ただ、長江の利があったし、相手の力量にやや疑問符がつくところもありますが。
>>852 勝手に厳しい状況に身を置いただけじゃん。
わざわざ大量の仕事つめて「俺って大変だよな」とか言ってるようなもん。
しかも成功をおさめたならともかく失敗してるし。単なる自爆。
補佐役云々以前に関羽はアウトだよ。
本国の準備が整うまで防衛に重点を置くべきなのは
誰の目から見ても明らかなのに、
余計なことして自滅したわけだし。
>>857 地の利は全部向こうが持ってた。読んでないだろ?
なんで関羽一人で荊州を守ってるの理解ができません。
>曹操には優秀な補佐役が何人もいたし、周瑜にも魯粛がいたし同盟軍の劉備軍もあった。
やはり一人というのはつらい。
関羽一人っきりで闘ってたのかよ?補佐役ぐらいいたに決まってるだろ。
ただ名案だしても関羽の一声で却下されてたんじゃないの?関羽が上手く
さばききれて無かっただけだろ?怠慢な性格だから。(援軍を断ってるくらいだし)
正史に記述がないだけで.関羽一人で闘いました〜ってのは
飛躍しすぎじゃないか?もし仮に関羽一人しかいなくて.関羽オタの言うように
関羽に戦略的才能が備わってる名将なら自分から使える人材を.本国なりに
頼んで招聘するだろ。
姜維も駄目だ。
度重なる北伐で国力が低下している。
相手よりも自分のほうが疲弊が激しいんじゃ意味がない…。
865 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 02:08
いや、ここ三日ばかり正史を分析したが、
やはり姜維はかなりの将であり、その資質、功績の総合において
関羽にはかならず凌駕しているという確信を得た。
今は一体何を議論してるんだ?
序列なのか?名将か否かなのか?
関羽の荊州失陥は、ロシュクの死の直接的な結果であり
関羽は政治的責任はもちろんあるが、
こうした客観的評価において考慮すべき直接の要素では一切ないと考える。
潘濬て、スゲエな
もし蜀に残っていれば孔明もどれだけ楽だったか。
蜀の東部方面では、関羽がダントツのナンバーワンで、あとはナンバースリー以下程度で到底相談役とかになれる人物がいなかったんじゃないの?能力はともかく職責などの関係で
どこまで凄い人間だったか知らんが
自分の力の及ぶ限界を悟っていなかったようだな、関羽は。
序列の話はなし。名将、良将の定義を議論しているの。
関羽も姜維も「自分の力の過信」という短所は共通して持っているように
思われるから、この二人の比較においてはむしろそれは短所になりえない。
名将ってのは魅力ある将のことだよ。
人々に夢と希望を与えられる将。
だれも二人の比較はしてないよ。
二人とも名将の資格がないだけ。
一人というのは、信頼に足る有能な同僚や補佐役がいなかったということ。
潘濬は呉では才能を発揮したようだが、
蜀では上司とうまくやることもできず、呉が攻めてきても何ら有効な手を打つことができなかった。
上手くやれるようにするのはどっちかというと上司の責任のような
名将から夢と希望を受ける人というのは、その時代の人ではなくて
後世の我々だと思う。
ぼくは姜維からたくさんの夢と希望を与えられた。姜維伝も何度も読んだ。
姜維は絶対に名将です。
少なくとも、自分にとっての名将です。
蜀の扱いは潘濬にとっては役不足ですな。
関羽擁護派は大きな勘違いをしている。
荊州が陥落したこと事態は大した問題じゃないんだ。
どんな名将だって負けることはある。
敗北イコール汚点とはならない。
関羽が問題なのは、最重要拠点の防衛責任者なのに、
軽々しく自ら前線に出向いてしまったことだ。
総大将がさっさとやられちゃ、お話にならないよ。
>>877 大勢が裏切ってる時点で関羽の方の人間性に問題があると見るのが妥当
あれ?
呉が攻めてきても何ら有効な手を打つことが
できなかったのは関羽が守備兵を使ったからじゃないか。
役不足があればホウ統のように自分から道を切り開けばよい。
才能が発揮できないということも潘濬の限界。名将とはとてもいえない。
たとえば姜維などは、後世の評価の程度の差はあっても誰に仕えても
一定の評価は受けたと思う。
切り開くということも名将の要素。
と思う、かよどうしてそこまで言い切れるのかがよくわからん。
切り開く系の能力が一番高いのは劉備じゃないか。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 02:29
黄忠と同列に処された時「なんで俺が.あんな老いぼれと同列なんだ!」と
怒った関羽←傲慢な性格がよく出てる。自分は建国以前から劉備に付き従ってる
という自負もあり名将には必要無い奢った自尊心があり.また周りもそういった
状況を黙認していたので関羽への抑えが聞かない=関羽の独断行動
のちに孔明からなだめの手紙(黄忠より関羽将軍の方が上ですという内容)を
受け取り上機嫌←単なる頭悪い坊主みたいに見えるのは俺だけ?
これで名将(ほかの落度なんかもあるけど既出だから書かない)と
呼べるんだから関羽オタは都合の悪い事には巧みにスルーだな。
非を認める発言もあるが.認めてるフリだけで「でも」「だが」〜「の功績は
大きい」などで締めて一向に方向性が変わらない。大体今まで名将候補で
名前が挙がった中で関羽に双肩する落度の痛いのは張飛ぐらいだぞ。
なのになんで王平.趙雲.張嶷には名将の資格無し!みたいな烙印おされてるんだ?
劉備は
忠義や道徳にこだわらない当代随一のリアリストで、
局所戦術能力、撤退能力、継戦能力の鬼
自己表現の仕方を徹底的にわきまえてる役者。曹操はじめみんなだまされた
これらは名将の要素なのだろうか。
>>882 例えば孔明は関羽を持ち上げた手紙を書いたりして良好な関係を築いた。
結局潘濬はそういった努力を怠ったということ。
同僚同士の不仲に、どっちに責任があるというのは論外。関羽と潘濬、両方に責任がある。
張飛も別に関羽ほどの落度はないよ。
>>891 それでいいよ。蜀では関羽と潘濬両方に名将の資格なし。
全員が全員、関羽の太鼓持ちやる人間でもないしな。
>>888 旗揚げ以来仕えてきて、新参と同列にされれば怒って当然。
むしろ、説得されて納得したあたりは、充分出来た人間だよ。
君の関羽嫌い丸出しの文章のほうが、頭の悪い坊主に見える。
>>891 だからさ
周りにあれだけ一斉に裏切られた人間が、人徳あると思うか?
誰からも嫌われてる人間との関係が悪いからといって、両方の責任だとか言うのはどうか
普通、関羽にその理由があると見るのが妥当だろう
そもそも孔明みたいな器用さがディフォルトなどと考える方が異常もいいとこ
>>897 所詮は私事と公事を混同してる まあそれが普通だが、別に出来てるわけでもない
国家・主の為なら・・・と我慢できる人間が出来た人間
趙雲が良い例
>>888 まず怒って、やはり新参といえる孔明の説得で納得する、という関羽の
行動に、かえって関羽の深謀遠慮を感じられないのか。
頭の悪い坊主はオマエだ
関羽の取り柄は曹操の下で活躍させてもらったネームバリューと、とりあえず水準の戦術指揮能力ぐらいだな
>>895 お前は何かにつけて高圧的で自分の意見をガンガン黙殺する上司と仲良くやりたいか?
904 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 02:47
>>902 自分の問題じゃない。自分に引きなおして同情する作業がしたいなら別スレへ行け。
それういう上司とやっていきなおかつ功績を上げるのも名将の資質。
そもそもなんで潘濬が名将かどうかの方を必死に論議しとるんだ?
>>906 ハァ?
何を勘違いしているかしらんが、部下の管理は上司の仕事なわけだが?
>>907 彼が名将の資質があると関羽擁護に困るから
潘濬は呉に伝が立ってるんだから、このスレで論じるべき人間でも無いと思うが。
ここで個性持ち出してくるのは笑えた
趙雲ほど「滅私奉公」の言葉が似合う男も少ない
>>906 それういう上司が功績も上げずに国を取られて死んだら
名将の資質なしだろ。
>>908 部下を管理するのは上司の目的遂行の過程であって、管理そのものは最終目的ではない。
管理されている部下が功績を上げるかどうかは、やはり部下自身の資質だろうが。
>>898 あの三人に裏切られたとはいえ、
劉備・張飛・孔明とは親しかったし、兵卒にやさしかったという記述もあるし、魏の将達とも良好な関係を築いている。
うまくいかなかったのは、関羽と潘濬・ビホウ・フシジン、それぞれに責任がある。
まあ仕事仲間が上手くやるには、普通は上司7割部下3割かね。
よくて6:4。無論例外だってあろうが。
こんな話してても仕方ないだろうに。
>>915 ?ハァ?
いや話をすり替えるなや
人間関係の話だろがyo
>>918 すり替えてないだろ。どこすりかえたか指摘しろや。
てか在日かお前は言語不明瞭なんだよ。
しっかり喋れ!!しっかり喋らないなら黙れ!!
まぁ落ち着けハナクソども
関羽厨は潘濬のせいにしないと
名将を扱えなかった無能になってしまうからです。
ずっと見てるけど関羽擁護してる方のほうがなんか抽象的な要素が多いと思うけど。
深謀遠慮だの、個性だの、資質だの、姜維などは誰の下でも活躍できただの。
>>916 劉備・張飛と親しいのは当然。
孔明の場合は関羽の性格を考えて、関羽を立てる方向に動いたので
関羽は孔明が自分に逆らわない格下であると判断して、
とりあえずなんとかやっていけたのだと思う。
関羽は難しい性格だな。
序列を気にしたり、新入りより自分が上でないと気がすまなかったり。
へりくだる奴には優しくするが、目下が自分に逆らうと機嫌を損ねるんだろ。
あ、やっぱこの人魏延に似てるよ。
張遼みたいに人当たりが悪くても
うまく他武将と協調したケースがあるもんねぇ
でもこれはどちらかといえば李典・楽進側の功績かな?
関羽厨は「関羽討伐について…」にいってください。
>>924 李典は、私怨公門に入らずってのをよくわきまえてたからな。
>>919 だから、
まずおまいは関羽・潘濬間の人間関係について、両方の責任と言った
で、俺が周囲の反応をみる限り、関羽に問題があるんじゃないかと
するとおまいは「名将と言うのは上司とも上手くやるもんだ!」と
で俺が部下の管理は上司の仕事
そうしたら今度は潘濬自身の功績を上げるのはどうたら、と
人間関係の話なのになんで潘濬の功績の話が出てくるんだ?
ああ、それから下卑た煽りをするなら出て行け
ここはそういう場所じゃない
とりあえず 張飛>関羽 は確定だな
張飛はキチガイの謀反にやられただけだし
>>928 普通かもしれんが、幾らかそれが強すぎる感じがするな
張飛は割と他のスレでも好印象だったけど。
武名の他にも、かなりの野戦指揮官とかで。
名将 孔明
良将 張飛、魏延 、王平、趙雲、黄忠、張嶷
猛将 関羽、姜維
ここまで決まった。
>>928 そういうことにこだわらず自ら慎む人間は結構いた。
関羽はそういう人間ではなかった、それだけ。
>>932 関羽と姜維は名将だって。魏の認めてるんだから。
関羽を押してる人らって、何を根拠にそういってるの?
いや話が見えないので聞いてるだけなんだが。
また口伝とか出ますよ
口伝なら、イエス野心家説とかどうなるのかね
>>932 姜維は猛将なのか?
それに、名将、良将、猛将の具体的な違いって何だ?
名将 別格
良将
>>821を参考にした。
猛将 戦争の強い人
名声で能力が増減するなら今頃イエスはガンダム並の強さはありますよ
名も高き名将・成績が良い良将・猛々しい猛将
ではそろそろ呉壱が名将かどうかに移ろうか
擁護派否定派双方に変な虫が湧いてきたな
ちなみに将にとっては名声は大事な能力
これで敵も味方も能力を加算してくれる
猛将の定義=腕っ節が強い
名将の定義=戦術・戦略に長ける
良将の定義=優れた将軍
やっぱ猛将=関羽、名将=劉備 孔明 姜維、良将=その他功労者だな
いや、大事なのは名声を利用した人材配置する奴だろ
そもそもこのスレの趣旨は名声やら何やらをできるだけとっぱらって真に優れた将を見つけるってものじゃないのか?
凄そうだから凄いなんて妄想なら演技読んでればいいじゃん
論理的に語るのでなければ、それは自分の意見の押し付けそのもの
そもそも関羽の功績とやらが曖昧なとこなんじゃなかったか
猛将=関羽 張飛 姜維
名将=劉備 孔明 張飛
良将=王平 張嶷
ってとこだな
訂正
猛将=関羽 張飛 姜維
名将=劉備 張飛
良将=王平 張嶷
ってとこだな
張飛は単に腕っ節だけじゃないからね。
趙雲は名将じゃないのか・・・
まぁ仕方が無いな
すまん
猛将=関羽 張飛 姜維
名将=劉備 孔明
良将=王平 張嶷
関羽の功績についてはずっと前に語り尽くして飽きた。
ていうか、否定派に聞きたい。功績ないと思うのか?
>>952 戦略級には関らないが戦術のみならトップクラスかな。
>>951 やはり王平 張嶷は良将ですか。
孔明はどこに入れるんですか?
そろそろ次スレの準備が必要じゃないか?
960 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 03:39
>>900 まず怒って、やはり新参といえる孔明の説得で納得する、という関羽の
行動に、かえって関羽の深謀遠慮を感じられないのか。頭の悪い坊主はオマエだ
新参の黄忠に切れて.新参の孔明に説得されて一体何がしたいんだよ?
もしあんたが考えてるように何か含みがあるにせよ、同じ新参なのに
黄忠だけを見下して無いか?
899が言うように公私を私心をすて分けれる人間が名将だろ?
そういう所が仲間に裏切られる要因になったんじゃないのか?
>>かえって関羽の深謀遠慮を感じられないのか。
なんで関羽オタはなんでも脳内変換して功績に早変わりさせるんだよ?
はっきりいって姜維オタのが全然まっとうな議論できる。
>>897.900
同じ煽りしなくていいよ
関羽の名声は実力で勝ち得たもの。
顔良を斬り、さらに魏の将達との交流のなかで作り上げられたものである。
ヘタレならヘタレ、馬鹿なら馬鹿という評価が下されていただろう。
実際に交流した人間による評価は充分に価値がある。
わざと激怒したり、家臣の言に乗るというのは、徳川家康のような人では深謀遠慮とも言われるな
関羽は武勇があり、威厳があった。だから名声があった。
戦略、戦術に優れていたことの評価ではない。
>>962 関羽の場合はマイナスに作用しているから深謀遠慮なんてもんじゃないだろ。
単に地の自分が出ただけ。
関羽は劉備直率軍の突撃隊長で一生を終えれば幸せだったのかもな
関帝廟の原点である関羽崇拝、もしくは恐れは、
関羽死亡直後から民間において自然発生していたと聞くので、
なんだか凄いな
969 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 03:52
>>965 同人物ってことじゃなくって同じ関羽オタが二人して.同じ煽り
しなくていいよって意味だ。
>>それ以前に煽ったのは君だよ。
俺はあんたらみたいに名指しで「頭の悪い坊主はお前だろ」なんて
あさましい煽りなどしてないぞ?一緒にしないでくれ。
とりあえず反対派が多くいるってのは考慮せにゃならんぞ、関羽擁護派も。
魏スレとかでは、議論が分かれればそれなりに順位落したりしてるというのに。
関羽が武神になったのは劉備が祭ったからだろ。
孔明なんか蜀滅亡前くらいに民衆が普通に祭ろうとしてたというけど、
関羽のは演義が流布してからとかじゃないの?
>>969 俺ももう一人の人も、君の「頭の悪い坊主」という煽りを、そのまま返しただけだと思うが。
てか、煽りはもうやめろよ。
>>971-972 祀る理由は大昔は崇拝だけじゃなくて、恐れが必要だからな
天神様のようなもんだ
劉備が祀ったとか、孔明を祀ろうとしたのって、また違うだろ
もちろんどこまで本当かは知らないが
祭られた人物と言ったら張嶷だな。
異民族からの慕われっぷりは凄まじいものがある。
関羽って他の別時代の武将とワンセットで北宋あたりが戦争に負けそうになったから慌てて祀ったんじゃなかったっけ?
それ以前から民間信仰の対象になってたんだろうか
977 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:02
>>968 関帝廟の原点である関羽崇拝、もしくは恐れは、
関羽死亡直後から民間において自然発生していたと聞くので、なんだか凄いな
いや.自然発生じゃなくって中国人の当時の気質の問題だろ?関羽の故郷は
塩商人が多数いて.塩商人は多大な権力を有していた。中国人は郷土の誇りが
人一倍強いため.同じ郷土出身の関羽を商売で回る全国に流布して回った。
取り引き先の人間も.塩商人の権力に対し心象をよくするため関羽を
祭りはじめた。それが関羽神格化の経緯なんだけど?大体普通に考えて
あまたの人物の中で.なぜ関羽だけが神格化しているかってことに疑問持たなかった
わけ?まさか神格化されるほど飛び抜けた才能があったなんてこと言わないよね?
>>977 それは関帝廟が全国に回った説の一つだろ
それじゃなくて祀った原点と理由の話し
死後、民衆がすすんで祭ったのが、黄蓋、諸葛亮、倉慈、張嶷。
神格化されたのは忠義に篤い人物だからだろ。
曹操に恩返しをしてから、旧主劉備の元へ帰ったエピソードが大きい。
そんなことやった奴は他にいない。
982 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:18
>>978 それは関帝廟が全国に回った説の一つだろ
それじゃなくて祀った原点と理由の話し
当時の取り引きなどは口約束なため.保証や誓約書などなく
かつ中国人は約束を反故にする人間が多いため「義に厚く.裏切らない」
という理由が関羽を祭り始めた要員。だから商売の神とも言われる。
要は商人に担がれただけで.名将うんぬんの要素は関係ない。
だから関羽神格化はこのスレにおいては不要な事蹟。
>>982 商人や商売、または関帝廟の話はずっと新しいつーの
984 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/26 04:25
>>973 >俺ももう一人の人も、君の「頭の悪い坊主」という煽りを、
そのまま返しただけだと思うが。
あのさ.....ちゃんと読んでる?俺は関羽に向けて言ってるんであって
あんたにいってるんじゃないのよ。なのになんであんたは俺を名指しで
煽ってくるんだ?悔しかったら下賤な煽りしないで関羽の功績で
反論したらいいだろ?なにが「てか、煽りはもうやめろよ。」だよ?
煽るだけ煽っといて部外者面すんなよ。
985 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:26
「義に厚く、裏切らない」
関羽はまさに漢のなかの漢だな
>>986 商売云々なんぞは、あとの話しだぞ
今だって天神様(紀貫之)成立を、学問など現世利益の為なのか、
と思う奴はあんまりいないだろ
ただ、諸葛亮と張嶷とちがって民衆がすすんで祭ったのではないから
「兵卒にやさしかった」にも疑問が付くんだよね。
>>988 ん?
関帝廟成立の伝説は、思いっきり民衆先行だよ
劉備が祀ったとかは関係ないと思う。それなら張飛も信仰されなならん。
がしかし、その民衆の理由も多分に恐れ(畏れ)なので、
やはり「兵卒にやさしかった」とも関係はないが・・・
991 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:38
なんにせよ、義に厚く裏切らなかった、という事実があって初めて成り立つ話だからな。
単に後世に作り上げられただけのものではない。
ちなみに俺が見たのは(いくつか似たようなのがあったが)、
関羽死後しばらくしてどこかの村に不気味なことが続いて、
誰かが「関羽だ!」と言い出したので祀ってみたら、収まった。
収まっただけではなく良いこともあったので、そのままずっと祀った。
という程度のもの。
ちなみに、その不気味さが「ああ、関羽様の無念だ、死んでも忠義だ・・・」程度の尊敬は持ってたと思う。
まぁどうせ伝説の類だから、あんまり気にもしてないが。
関羽=祟り神
995 :
無名武将@お腹せっぷく :04/06/26 04:43
>>993 そこで「関羽だ!」と叫んだヤツが.噂の塩商人ってことで
解決?
996 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:44
関羽がいなかったら三国志は味気ないものになっていたぜ
失礼、993でなく992だった。
ああ、1000だ!関羽様のおかげだ・・・
俺は劉備が夷陵の戦い前に呉と荊州の民に恨みをこめて
武神として祀ったと読んだ。
恨みはコワイ
みんな仲良く
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。