★☆★☆魏延の名誉回復スレ☆★☆★

このエントリーをはてなブックマークに追加
1魏延 文長
ゴルァおまいら!
俺様をもっと評価しろ!
確かに義理は低いかも知れんけどな。
反骨の相がナンぼのもんじゃい!!
趙雲亡き後の蜀を背負った武将なんだぞ!!
あのヘタレ軍師と相性が合わなかっただけだっての!
子午谷から攻め込んでたら
もしかしたら成功してたかもしれんだろうが。
俺様を擁護してくれる諸兄の書き込みを求む。
もちろん批判もOKだ。俺様はあのヘタレ軍師と違って度量が大きいからな。
2
どうしようもない武将だが、

ティムポの大きさだけは随一だよな。
2ゲト
4魏延 文長:04/06/08 11:36
しまった、キメ台詞をいうのを忘れていた。
・・・・・・ウホン!!
「俺を殺せるやつがあるかあ!!」
5馬岱:04/06/08 13:33
ここにいるz
6馬援:04/06/09 03:23
ここにもいるぞ!
関連スレ:
魏延が好きな人いますか?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1052673589/

蜀将討議スレッド3
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1086376565/
蜀将討議スレッド3より。

718 :643 :04/06/08 02:09
>704
ここは蜀スレでしょ?基本的に趙雲の行動には、孔明の指示が
あったわけで。軍師たる孔明の作戦で動いてたのが殆どでしょ?
だとすれば関羽も張飛もそれほど作戦に関しての才能はいらない。
すると重要なのはその作戦を100%こなすのが1番でしょう。
ただ関羽は単独で荊州をまかされたりしてるから、そこの評価が含まれる。
しかしそれ以外の場合、実行力が全てだと思う訳。
蜀漢になっても趙雲の役割は変わらない。やるべき事を完璧にこなした
彼がなんで「名将」でないのか?そっちの方がむしろわからん。
関羽や姜維は任務をまっとうしてない。そこは大きくマイナス。
名を挙げるのも名将足り得るが名より実という名将の方が価値がある。


723 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 04:31
そうなると、魏延の評価はもっと高くていいよな。
政争で敗れただけで、軍事行動では諸葛亮の命を確実にこなしてたし、
関中太守もこなしてた。

ところで、諸葛亮死亡後って北伐軍で一番偉かったのは魏延なの?ヨウギなの?
それによって、魏延の死についても評価が変わると思う。


724 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 04:39
上官を「怯」と罵るような人間は、やっぱ軍人としては拙い気がする。
誤解している人が多いけど、別に諸葛亮は魏延を冷遇などしていない。
むしろ、気を遣って揉め事とかあれば肩を持ってるくらいだし。
こういう我が儘で自分勝手なところがなければ・・・
「勇猛人に過ぐ」だから、抜群の勇将なんだけどなぁ〜
9無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:21
725 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 04:52
>>724
>上官を「怯」と罵るような人間は、やっぱ軍人としては拙い気がする
確かに。軍人としてというか、人としてちょっと困り者って感じ。
ただ、それだけ言ってても、命令には完全服従してたわけで、軍人としては感情と任務を混同しない優れた人だったと思うのです。
本当にステレオタイプの軍人だったのではないのかな。

それでも諸葛亮に重用されてたってのは、軍人として傑出していたからだと思うのですよ。

で、魏延の減点って諸葛亮死後の政争に負けたことでしょ。
この時の諸葛亮に次ぐ指揮官が魏延なら減点も少ない気がするし(続行か撤退かを決めれる立場だから)、ヨウギなら命令不服従ってことで減点大で良いと思う。
その辺が良く判らないので教えてエロイ人。


726 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:00
あと、魏延にはもう一つ減点材料があります。
部下にさえあまり好かれていなかった点。
これは史書でも確認できる
「延士衆知曲在延、莫為用命、軍皆散」
(魏延の部下達は、命令違反を犯した魏延に非があると感じた
 そのため、魏延の命令に服属せずに、軍勢はみな逃げ散ってしまった)

たとえば、魏の諸葛誕らと対照的だと思う。
正直、部下からもあまり好かれていなかったような気がする。
・・・関羽の最期に通じるものがありますな>兵卒にも見捨てられる
10無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:23
727 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:22
>>延士衆知曲在延
だから、不思議なのです。

この時点で魏延が最高責任者なら、王平の言葉のほうがおかしい訳で。
諸葛亮死後で混乱しているところに、そんな流言蜚語が飛び交えば兵卒も動揺するのは当り前で。
流言蜚語を流したのが指揮官ではない楊儀なら、利敵行為でしかない。
逆に本当に魏延が指揮官ではなかったのなら、真っ当な意見だったろうし。


728 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:26
いや、だから仮に魏延が最高指揮官なら、子飼いの兵卒達があっさり見捨てるか?



729 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:31
仮に魏延が諸葛亮にとってかわる正当性があるなら、誰彼かは賛同しそうなもの。
しかし、現実として誰も賛同していないし、誰も処罰されていない
(魏延の一族は三族皆殺し)
魏延vs楊儀の嫌われ者同士の権力闘争であったことは間違いないが、
ほとんどの士人、特に正義感の強い董允が楊儀を指示していることからも
魏延の行為が越権行為にあたるものだった可能性が高いと考えられる。
11無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:23
730 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:32
いや、だから最高責任者の不在時の指揮権の移動について、兵卒が理解していないだろうって話。
当時だと、それほど民度は高くなかったろうし。
諸葛亮が偉大な指揮官だったことは兵も知っていた。そこに魏延が指揮官だと言って、更に楊儀も指揮官だと言ったら、兵も混乱するでしょう。
そこにもって流言が飛び交えば動揺して逃げ出す兵がいてもおかしくない。

だから、それが原因で負けたこと自体にはそれほど問題はないと思うのです。
計略という観点で楊儀(か王平)に負けたってだけで。
ただ、魏延の最大の減点は汚名なワケだから、その汚名が本当かどうかで評価が変わると思うのですよ。



731 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:40
董允やショウエンについては、現地の情報じゃないから。
判断を誤ってもしょうがないと思うのです。

処罰についても、逆に魏延の一門しか処罰されていないからこそ、指揮権の正当性を疑えると思いますが。
12無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:26
732 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:44
>>730
 確かにそうかも知れん。
ただ、諸葛誕の場合を引き合いに出すと、明かな反逆行為であっても
兵卒は自分の直属の大将について行くものだと思う。
当時は近代的な師団制とかないから、大将と兵卒の関係は非常に
ウェットなものだったと考えられる訳。
いくら流言が流れていようが、あっさり見捨てられる魏延はやはり人望が
あまりなかった、と言わざるをえない気がする。

あと、やはり魏延を弁護する者が居なかったのも傍証になる。
上にも書いたけど、正義感の強い董允にまで見放されていたんだから、
やはり、魏延の行為(楊儀の軍を待ち伏せ・桟道破却)は越権行為だったのだろう。

・・・これさえ無ければ、
あるいは、これの直前くらいに病気で死んでれば・・・
「最高の蜀将」って呼ばれていたかも知れない逸材なんだけどね。


733 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:51
>魏延の行為(楊儀の軍を待ち伏せ・桟道破却)は
>越権行為だったのだろう
これには同意。
いくらなんでも,故諸葛亮直属の軍に攻撃しかけるのはやりすぎだと思います。
この辺が、魏延を一番の将と押せない理由ではあるのですが。

ただ、兵の離散については、北伐軍は諸葛亮の影響が強いだろうから、その死を伝えられた兵が魏延を見捨てるのはしょうがない気がします。

あと、気になったのは、兵たちが「曲在延」と言っているのは、命令違反についてなのでしょうか。
それとも、偉大なる司令官諸葛亮の喪に服さないで軍を進めようとしたことなのでしょうか。
「曲」の訳が良くわからないので、教えてエロイ人。
13無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:26
734 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 05:52
>>731
 言われてみればそうかも知れん。
てか、「魏延伝」にも
諸葛亮が死亡直前に「密」に楊儀・姜維等を招集した、
とあり、魏延が撤退命令に服属しない可能性を考慮して、
もし命令に従わなければ置いてきぼりにしろ、とまで指示している。
ひょっとしたら、軍の指揮権は魏延に委譲されて然るべきだったのかも。

ただ、やはりそれなら魏延はこのことをもっと声高に主張するだろうし、
そもそも魏延が命令を聞きそうにないのは、別に彼に指揮権があったからではなくて
単純に彼の性向の問題、とも言えないことはない。
(魏延は才覚を恃んで、他人のことを見下す性格)
ただ、この「魏延伝」は魏延を「叛将」として記録しよう、としている訳で
魏延に不利に書かれている可能性がある。

結論:俺にはよくわからん


735 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 06:03
>単純に彼の性向の問題、とも言えないことはない。
諸葛亮の幕僚として、命令に完全に服していたところを考えると、
軍人としてのTPOはわきまえていたと思います。

>「魏延伝」は魏延を「叛将」として記録しよう、としている
これはそうですね。
楊儀伝でも王平伝でも叛乱と書かれてますものね。
事実はどうあれ、後世「魏延は叛乱を起こした」と伝わっているのは明らかですね。

なら、このスレ的には名将の定義の一つとして「名声」がある以上、魏延の評価も5位でやむをえないってことですね。
なんとなく納得しました。
朝っぱらからお付き合いいただきありがとうございます。
14無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:27
736 :無名武将@お腹せっぷく :04/06/08 09:17
魏延が諸葛亮死後に軍権を専断しようとしたのは、自分が諸葛亮の後を継ぐのは当然と思った、
つまり軍事のナンバー2だという自負が、漢中軍の次の司令官に任命されるのは自分だという
思い込みに繋がったように思える。
だがそれは慢心であって、正式に任命されたわけではなく、撤退は諸葛亮の遺言もあるので
将兵の支持を得られなかったと。
権力闘争ではあっても、闘争相手の方に利がある以上、やはり叛乱になってしまうだろう。



以上。
よって叛乱
15無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 16:48
邢道栄「ここにもおるぞ」
16無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 17:03
KDA キタ━━(・∀・)━━ !!!
17無名武将@お腹せっぷく
やった!先生が来た!まんせー