北海道の戦国時代ってどうだったの?

このエントリーをはてなブックマークに追加
1無名武将@お腹せっぷく
姉妹スレ

沖縄の戦国時代ってどうだったの?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1059582664/
2無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 20:55
2
3無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 20:55
>>1
アイヌと安東氏が喧嘩してました



終了
4無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 20:56
>>3
安東氏じゃなくて蠣崎氏じゃないの?
5無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 20:57
蛎崎氏がアイヌと争って和睦したのは知ってるけど
アイヌ民族にも戦国時代のようなものはあったのかな?
文献がないんだからどうしようもあるめえ
7もとぷら ◆77705aa9AA :04/06/02 21:00
シャクシャインの戦いなんてのがあったと思うが、江戸時代に入るよなたしか。
武田光広
コシャマインて奴もいたよな。15世紀だけど。
10無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 21:33
コシャマインの戦いは凄まじかったぞ。
和人館の九割方がコシャマイン方に占領された。
11もとぷら ◆77705aa9AA :04/06/02 21:45
アイヌの民謡は文字のないアイヌの歴史や系譜を表しているとか。
社会党の議員が昔インタビューで言ってた。
>>4
豊臣政権時代までは、事実上は安東氏の傘下にあったみたい。
たしか秀吉から朱印状を発行されてなかった?
>>11
萱野茂氏でしょうか。
参院比例区で次点だったものの、本多勝一が「誰か辞職して萱野さんに議席譲れ」とわめく中、
松本英一氏の死去にともない繰り上げ当選。
アイヌの議員は萱野で正解だよ。
朝日系よりも金曜日組のが特にうるさかった時期だな。
確か萱野氏は比例11位で、この順位で当選するなど今では考えられませんな。
息子の志朗氏は、北海道地方区で出てましたっけ。
16無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 20:51
関係ないけど、1560年代にあの『すみれ』開店したんだって。
>>11
>>13-15
板違いの話題をするな、ボケ
18無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 21:55
帯広城に始めて天守閣ができました
19ゲト
稚内城sage
留萌砦萎え
22無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 08:45
柿崎
コロポックル
24無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 00:52
ナウマン象隊ってのがあったって聞いた。
25無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 00:55
北海道って梅雨がないって言うけど、
青森にはあるのか?
函館にはないのか?
26無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 06:34
竜飛岬にはある
松前にはない

ブランキストン線があるため
ウソつくな!
28無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 02:05
北海道にも朝廷があったそうだ。
中心はもちろん札幌御所。
北海道の朝廷(北朝)は、権威があったみたい。
朝廷主催の祭祀とかで使われた雪で出来た偶像が、今の雪だるまの起源らしい。
29もとぷら ◆77705aa9AA :04/06/12 02:08
>>17
オレのレスがどのように板違いなのか教えていただきたいのだが。
ふむ。
俺の知り合いに蠣崎藩の血筋ってヤシいる
>>28
民明ですね。
33無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 20:38
北海道って和人とアイヌ以外に何がいたの?
>>33
クマ
>>33
エゾシカはクマに押されっぱなし

戦国時代の勢力圏
クマ>アイヌ>エゾシカ>和人
ちなみに奈良時代までさかのぼると
エゾシカ>(越えられない壁)>クマ>アイヌ
(和人はまだいない)
36もとぷら ◆udCC9cHvps :04/06/17 20:46
>>33
両者の混血っぽい連中。
トンデモ説では高麗人とアイヌの混血ってのもある。
37無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:44
ツキノワグマはいない

ブラキストン線があるから
38無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:57
>>36
トンデモ説?
そりゃ一人くらいはいてもおかしくないと思うが・・・
どっちも北日本海の貿易圏に含まれるし
39無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 03:30
熊が馬の代わり
和人は500戸だと
5人家族として2500人しかいなかったのだな
41無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:54
豊臣秀頼が猿飛佐助らの手引きでアイヌの少年リコマップと釣りに行っていたな
42無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 10:58
アイヌ版元寇。アイヌ勢は負けて元に形式上服属したらしい
って、このアイヌは蝦夷の連中とは別者か
>>42
え?確か元側についた民族とアイヌが戦って
アイヌが勝ったんじゃなかったっけ?
江戸時代のシャクシャインは松前藩に謀殺されたんだよな。
ところで、激しく板違いですが
おまいらはサムスピのナコルルについてどう思いますか?
44無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 10:04
和人地の歴史の概略(戦国時代に入るまで)は、このサイトが詳しい。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/donan-chusei.html

蠣崎氏及びその家臣団の来歴についてはここを参照。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-2.htm

コシャマインの乱からアイヌと和人がまっ二つに分かれて争ってばかりいた
わけじゃないようだ。和人同士の争いにアイヌの力を借りた形跡があるので、
その逆もあったかもしれない。
1550年代に蠣崎氏とアイヌ「東部」「西部」の間で和平がなり、「夷役」という
名前の運上金を蠣崎氏から「東部」「西部」に支払うことで和平が成る。
以後、17世紀のシャクシャインの乱までは関係は比較的安定していた。
45無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 13:31
時計台(゚听)イラネ
日本三大ガッカリの一角だな >時計台
47無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 05:06
戦国的には面白くないB>時計台

48無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 09:03
蠣崎氏と南部氏や北畠氏なんかとの関係はどうだったの?安東氏に属して
いるくせに、北畠氏にも人質を出していたという記事をどっかで読んだ記憶が
あるんだが。
49無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 20:21
ジンギスカン
50無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 23:59
蠣崎=若狭武田と言いますけれど

実際、安東氏あたりは若狭と繋がりが深かったそうで。
安部なにがし寄進の・・・とか、安東なにがし勧進の・・・とかが
若狭地方には多数見受けられます。
ヒグマと戦ってたから強いよ。
自分は当時の中国の台湾のようなイメージがあるんだけど。
海賊商人どもがそれぞれ勝手にアイヌと交易してる密貿易の地。
産物はアイヌが獲ってくれて、日本に持っていって大儲け。
日本とは商売の仕方から違う。違うのかな?
武田信広なんてそこから伸し上がってきたから、
武略もあれば商売の知識もある
>>52
まだ和人とアイヌが先鋭的に対立してなかった頃、15世紀中葉まで
はそんな感じだったと思う。実際、そのころの和人の交易拠点は江戸
時代の和人地よりずっと奥地にまで広がっていた。松前藩の藩史
『新羅之記録』によると、「(後志の)余市から(日高の)鵡川まで」
和人が住んでいたとあるし、実際余市大川遺跡からは陶器などの
和人の生活用品が大量に出土してる。

ただ全くの無統制ではなかったろう。
「蝦夷の沙汰」に関わる権利を鎌倉・室町幕府から与えられていたと
される安東氏が、津軽から一定の統制を及ぼしてたんじゃないか。
まあどんな種類の統制なのかはよく分からないけどね。
そんな中、1432年に安東宗家が南部氏に負けて津軽を追われ、
蝦夷地に逃げてから、大地殻変動が始まるんだな。ここからが蝦夷
地の戦国時代w
安東氏ってどうして、蝦夷に本拠を置かなかったんだろう?
当時の秋田って蝦夷に比べて住みやすい理由があったのかな。
>>44のサイトによると
康正2(1456)年、秋田に移った年とコシャマインの戦いのきっかけが同じ年だ。
・・・もしかして、逃げた?
>>54
コシャマイン戦争のきっかけになった志濃里の鍛冶屋村でのアイヌ少年殺害
事件は、『新羅之記録』では康正2年春になっている。安東政季の小鹿嶋
(秋田県男鹿半島)への渡海については、同年とあるだけで季節や月の記載は
ないが、海の時化のことを考えると春以降と考えるのが自然だろう。
時系列的に考えて、逃げたと取られてもおかしくはないが、まあよくわからない
としておいた方がいいんじゃないか。

というのは、政季は男鹿半島に渡ると、湊(現秋田市)の分家の力を借りて
河北郡(現能代市・山本郡。檜山郡とも呼んだ)にすぐさま拠点を築き、間髪を
置かずに津軽に攻め入っているから。秋田への渡海は、津軽奪回のための
根拠地作り−それも、地続きで、すぐ攻め入ることができる根拠地−という
側面が強かったのではないかと考えられる。
だとすると、初めから蝦夷地は仮住まいという考えだったことになるしね。
>>55
>すぐさま拠点を築き、間髪を置かずに津軽に攻め入っている
すぐではないわな。康正2年は1456年、河北郡から津軽藤崎に攻め
入ったのは文明2年(1470年)。14年もかかってるぞ。
57無名武将@お腹せっぷく:04/07/13 17:06
>>48
亀だが、浪岡北畠氏は大浜湊(現青森市油川)を所領としていた。大浜湊は
白河から続く「奥大道」の終着点で、鎌倉期からかなり栄えた港だった。十三湊
が衰退した後、この湊は蝦夷地から見て重要度が高いと思われる。よって、
蠣崎氏は北畠氏と友好関係を維持する動機があったんじゃないだろうか。
人質の件は手持ち史料では確認できなかったが、ありそうな話だと思う。

姉妹スレ 沖縄の戦国時代ってどうだったの?
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1059582664/
58無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 03:25
うに丼
げ 沖縄戦国スレとリンクしたから変なのが流れてきたじゃん

いくら丼
豚丼(帯広が発祥)

北畠氏に人質?(松前)蠣崎慶広自身が永禄3年に行ってるだろ。
「新(羅)三郎民部大輔慶広朝臣者、依為三男、令結属津軽浪岡之御所」(新羅之記録)
61無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 04:59
ホワイトチョコ♪
621/4:04/07/15 11:50
思い切り簡略化した北海道の戦国史

1432年以前
アイヌ文化が13世紀頃成立、全道に広がる。和人(的な人々)は
主に道南(函館市から上ノ国町辺りまで)に居住し、アイヌ(的な
人々)との交易や漁労(主に鮭と昆布)、鍛冶(アイヌ的な人々への
販売用)などに従事していた。武士風の生活を送る者もいたようだ
(威信財としての青磁などが出土)。交易拠点は日本海側は余市、
太平洋側は鵡川まで点々と設置されて、少数ながら和人(的な人々)
も居住していた形跡がある。
和人(的な人々)は、津軽十三湊に在住し、「蝦夷管領」安東氏に
よる緩やかな統制を受けていたと思われる。
632/4:04/07/15 11:50
1432年〜1514年
詳細は>>44のサイトを参照のこと。
この時代に、雑居していた和人的な人々とアイヌ的な人々が別れて
住むようになり、双方の「和人意識」「アイヌ意識」が強固なものになっ
たと思われる。
643/4:04/07/15 11:50
1514年〜1550年
蠣崎氏3代光広は、松前大館に居を構え、蝦夷地の和人たちを統括
することについて、安東氏の正式な承諾を得ようとし、交易利潤の
過半を安東氏に納めることを約束することによって目的を果たした。
名実ともに蝦夷地の第一勢力となった蠣崎氏は、アイヌとの戦いを
続ける。和議の席で相手の首長を騙し討ちにするという(コシャマイン
の時と同じ)手口で急場をしのいだりしたが、全体的にはじりじりと
押されて、和人の居住区はかつての十二館の支配領域からすると
半分近い面積まで縮小する。ただし交易そのものは続けていた。
1548年、上ノ国の守護(上ノ国地域の統括者)、蠣崎一族の基広が
4代季広と争い誅伐された。
654/4:04/07/15 11:51
1550年〜1599年
1550年、蠣崎季広がアイヌと講和。瀬棚の長ハシタインを「西夷の
尹」、知内のチコモタインを「東夷の尹」として交易を統括してもらう
ことになった。翌年からは、交易船から徴収した運上金の一定部分を
「夷役」として両者に与えることとなった。一見和人側劣位の条約に
見えるが、交易行為自体では和人側に有利な取引が続いていたと
思われる。以後約100年間平和が保たれる。
同年、出羽檜山から安東舜季が来道(東公の嶋渡)、蠣崎氏の権益
を追認。その後、蝦夷地での騒乱が収まったためか、本州における
安東氏の戦いに動員されることが多くなった。当主自らしばしば渡海
し、南部氏や戸沢氏等との戦いに従軍している。
一方、季広は娘を北奥の諸勢力に嫁がせたり、1578年には一族
正広を遣わして織田信長に目通りするなど、独立に向けた布石を
打ち始めている。
1591年、5代慶広は豊臣秀吉に謁見し、安東氏の支配下から独立し
た大名として承認される。99年には松前氏と改姓、徳川家康から
黒印状を入手し、蝦夷島主として再承認を受けた。
乙!
こういった書き込みは嬉しいな
67無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 14:18
良スレ保守
68無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 22:37
>>44のリンクとか見てると、函館の館主に河野政通・季通っているよな。
こいつら何者だ?伊予河野氏の系統か?ご丁寧に名前に「通」の字まで付けてるが。
無関係というのは考えにくいな
そういえば誰か若狭武田の末裔を自称してる香具師がいなかったっけ
日本海交易で成り立っている所だから、海関係の香具師はつながりがある鴨
自民党の河野氏も伊予河野氏の流れだったはず。
72無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 13:15
能登畠山家臣に、河野氏がいる。伊予河野氏の子孫を称していたらしいが、
「加賀右衛門」を名乗っていた政通・季通父子と関係ないだろうか。
能登と加賀は隣国だが・・・
ttp://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/souran/souran1.html

なお、この能登河野氏は、畠山氏滅亡後かつての同僚である長氏に仕えたが
(長氏は加賀前田家に仕えた)、その子孫は加賀藩で天文方などをやっていた。
名前に「通」の字がついてる。
ttp://www.tsm.toyama.toyama.jp/curators/aroom/edo/jinmei/kono.htm
73無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 17:10
戦国期の蝦夷と琉球戦ったらどっちかつ?
戦力的には蝦夷でしょ。
関係ないかもしれんが、
韓国だったか北朝鮮だったかの学者が、
「北海道は、『道』なんだから、ウリナラの領土ニダ!」
といったらしいな。

(※「道」…南北朝鮮の行政区分。日本で言うと「県」みたいなもん)
>>73
蝦夷人が大砲にビビって混乱して終わり
>>75
そぉすだせ
78無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 04:04
>>73-74
島津と蠣崎を比較してみよう
79無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 07:33
>>76
蝦夷兵は基本的に
・ゲリラ
・奇声、鯨面、髭面
・毒矢

だぞ?
こわいぞー
>>75
日本もトンデモ学者は沢山いるよ。それで飯を食っている。
だいたい義経伝説だってモンゴル人にしてみりゃ>>75並にトンデモ説だしな。
82無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 15:59
昔、蝦夷地方に景山光忠とかいう領主がいたな
83無名武将@お腹せっぷく:04/08/02 09:01
ちなみに松前家が若狭武田という説はやや怪しい。
よくありがちな自称と思われる。

あと、あまり関係ないが北海道のヒグマは千島や樺太と同じ種類なのに体は一回り小さい。
人間が河口付近で海から戻ってきた鮭をほとんど取ってしまうからだ。
それゆえ植物食中心のクマたちの体は小ぶりになってしまうわけだ。
84無名武将@お腹せっぷく:04/08/02 09:03
>>33 >>36
他に北海道に付属している歯舞・色丹には四千人ほどのロシア人が・・・
85無名武将@お腹せっぷく:04/08/02 09:19
江戸時代には「クナシリの乱」とかいうアイヌ人反乱事件もあったな。

他に幕末には択捉の幕府施設がロシア船に襲撃される事件があった。
わずか軍艦一隻と数十名のロシア兵によって松前、津軽、南部などから派遣された
五百人もの守備隊は混乱して先を争って逃走したそうで、
ロシアから「日本恐れるに足らず」の印象を与えたという。
薩摩が英国艦隊と果敢に闘い、英国に「薩摩あなどりがたし」の印象を与えたのとは正反対。
ロシア人将校が南樺太の日本軍事拠点を見て、こんなの二百人程度のロシア部隊がいれば占領できると豪語し
実際、そんなもので簡単に樺太はロシアの撹乱工作の前に奪われ、不利な千島・樺太交換条約を結ばされた。
日露戦争で一旦は南樺太を奪い返したものの
太平洋戦争では敗戦処理の甘さから全千島+歯舞・色丹までとられる始末か。
クナシリの乱 の検索結果 1 件中 1 - 1 件目 (0.23 秒)
>>85
薩摩藩は郷土防衛の気概があっただろうが、奥羽諸藩の北辺防備は
幕府に言われて仕方なくやっただけ。兵力も気合も比較にならないし、
時代も60年以上離れてるから洋式武器の保有量が全然違う。
比べるのは酷ってもんだ。
クナシリ・メナシの戦いもフヴォストフ事件も18世紀の出来事だからスレ
違いだが、まあアイヌから見れば、日露で領土を取った取られたなんての
は片腹痛い話なんだろうな。

松前家の先祖・武田信広の出自については、諸文献にある若狭守護家説
以外にも、南部家の分家説(南部も源氏)、下北蠣崎(地名)の土豪説、
東北・北陸のどこかから来た家格の低い浪人説、ただの武装昆布商人説
など諸説紛々。
89無名武将@お腹せっぷく:04/08/02 14:19
>>82
ぐぐってもヒットしないぞ。面白そうだから詳細キボンヌ
90無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 00:22
アイヌがんばれ
>>83
ヒグマ馬鹿にすんな
赤兜の親衛隊なんだぞ
アイヌの叛乱を日本が過剰な対応で弾圧したって非難する人がいるけど、
それはアイヌを裏で清やロシアなどの諸外国が味方をしていたからだよ。
国土防衛上仕方のなかったことなんだからそんなに幕府を責めるなよ。
ネタだよな?
もし本気で言ってるんなら
郵便ポストが赤いのも
みんな米軍の陰謀に思えたりするタイプだろ。お前
>>68
蝦夷地は西国武士の流刑地だったから。
承久の変に河野氏が参加して、通信は奥羽平泉に
流されたというから、その子孫なのかも。

ほとんどの所領没収されたから、
食うに困って?坊さんになった人もいるし、
海に出た人もいるんじゃないかな。

>>93
確かにロシアがアイヌの蜂起を直接支援した証拠は見つかっていないが、
ロシア人がアイヌと交易を行い、友好関係を築こうとしていたのは事実。
また、幕府が18世紀末には「ロシアがアイヌを味方につけようとしている」と
認識していたことは、最上徳内や近藤重蔵等の報告の取り扱いから見て
間違いない。
まあ、クナシリ・メナシの戦いの背景にロシアがいるという風聞が実際にこの
時期に流れていたんだが、事実かどうかは不明にせよ、幕府はかなり真剣に
この問題について吟味を行って、その後の北方政策に大きな影響を与えた。
少し長いがこれを読んでくれ。

ttp://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/bunkashi.htm#_edn36
ttp://cccpcamera.myhome.cx/RussianCamera/Kaisetsu/Link/TOPICS/Hoppounenpyou.htm

さらに、クナシリの惣乙名であるツキノエは、ロシア商人との取引について
わざと和人に教え、和人との交易以外にも交易手段があることを誇示していた
という情報もある。
板違いスマソ
>>68
松前小館に住んでいた村上政儀・季儀って親子もいたんだが、瀬戸内の村上
水軍と関係ないかな?
儀=よし=吉(瀬戸内村上氏の名前の通字)とすると、・・・な?匂うだろ?
てゆうか今までの流れでなぜ話題に出ないのか全く不思議なんだが
『東日流外三郡誌』を見てみたらどうだ?
>>46以降の住人達(>>68>>96)が幻視してる
安東水軍を中心とする中世海洋帝国がまさに描かれてるぞ

もっとも、まともな学者でこの本の記述を信じてるヤシはいないがな
外三郡誌はひどいデンパで信用ならん
上の流れは、瀬戸内の水軍関係者が何らかの理由で蝦夷地に流れて土着したんじゃないかという考察。
さすがに安東や蠣崎が瀬戸内まで支配してたとは思っていないのでは
99無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 07:57
〜戦国時代の最中、松前一帯を統治していた相原周防守季胤は、海神の怒り
 を鎮めるためアイヌの娘10余人を捕らえ、人身御供として海に沈めました。
 娘たちを殺されたアイヌの人々は激怒し、決死の覚悟で季胤の軍勢を攻め、
 ついに本拠地大館を陥落。季胤は、2人の娘と共に大沼の湖畔まで追いつめ
 られました。
 2人の娘は湖に身を投じ自決、深手を負った季胤も覚悟を決め、愛馬の手綱
 を引き寄せると湖心の小島に駆け上がりました。そして鞍を解き、背を撫で
 静かに「急ぎあの峰に逃れるのだ」と言い残し、合掌をすると自ら湖底へと身
 を沈めました。じっと見守っていた馬は、ひときわ高くいななき、主人が指した
 方角へ向け湖を渡ると、一気に峰を駆け上がり姿を消しました。
 永世9年(1512年)7月3日のことでした。
 以来、7月3日なると、山に悲しげな馬のいななきが響き、大沼からの形容が
 馬首を西にとり湖畔に伏す姿にも見えることからいつしか山は、駒ケ岳と
 呼ばれるようになったそうです。 〜

蝦夷駒ケ岳近辺に伝わる伝承。アイヌではなく蠣崎氏が松前大館を攻めたと
する一本もある。

語り手が伝えたいのは英雄の悲劇的な死だからな
彼を死に追いやった「なにやら野蛮な連中」が
蠣崎氏だろうがアイヌだろうがこの際どーでもいいんだろ
101無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 14:29
>>100
1512年の松前大館の失陥については、
1.アイヌが攻めた
2.蠣崎氏が攻めた。あるいは、蠣崎氏とアイヌの共同作戦だった。
  しかし、それだと「和人の守護者としての蠣崎氏」という1514年以降の看板
  に傷か付く。
  そこで後世松前藩の手により主要な記録が書き換えられ、アイヌが単独で
  やったことにした。なお、書き換えが徹底されなかったため、『松前累系』や
  『上磯亀田郡各村沿革史』所収伝承などに蠣崎氏実施説が残っている。
の2つの説があるが、最近の学者は第2説、つまり松前藩による隠蔽説を唱え
る人が多い。
伝承については、アイヌ攻撃説をとるものは「アイヌの娘の人身御供」と「季胤+
2人の娘の入水自殺」が対になっていて、話として形が奇麗過ぎる。民衆の
願望がそうさせただけでなく、誰かストーリーメーカーの存在が想定できる。
蠣崎氏(あるいは『松前伊豆守』)攻撃説をとるものは、話が素朴でより原型に
近いような気がするがな。
アイヌ史関係の本を読んでいたら、「『松前累系』は松前氏=蠣崎氏に都合の悪いことを平気で乗せている。松前氏に恨みでも抱いた人物が記したかのようだ」と書いていた。
恨みっていうか、これまで主に取り上げられてきた『新羅之記録』『福山秘府』が松前藩関係者の執筆したものだったから、露骨に松前氏=蠣崎氏マンセーで記録されてるのと比較すると、そう見えるってだけなんだろう。
『松前旧記』にも蠣崎氏犯行説をほのめかす記述があるそうだ。
104無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 17:48:15
>>96
政儀・季儀は、北信濃の村上一族の出身だという伝承が残っているらしいよ。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/kokubun-tate.html
105無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 16:37:09
最近蠣崎スレに人が流れてるような・・・
でも戦国時代の夷嶋の話題って、ほとんど全てに蠣崎氏が絡んじゃうから
仕方ないのかな。
106無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 03:24:37
夷嶋以外の話しようぜ
107無名武将@お腹せっぷく
じゃあ千島列島の話とか樺太の話とかするのか?

『福山秘府』ほかいくつかの史料に、文明17年(1485年)、樺太アイヌの酋長が
銅雀台の瓦硯を献上した、という記事が記されている。
この硯には彫刻の銘があり、それによればこの硯は魏王曹操が造営した離宮
「銅雀台」の古瓦によって作られたもので、洪武辛未(1391)の制作年が記さ
れていた。
この硯は大正初年頃までは松前家に現存していて、写真も残ってるが、今は
なぜかないみたい。戦災で失われたのか?
本当に銅雀台の瓦だったのか、もう検証できないのが残念。