単騎のスレでは盛り上がりに欠けるので、まとめてはどうじゃ?
可愛い甥である信長の優秀な部下たちを、おおいに語って下され。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 15:15
米五郎左が2GET!
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 15:26
3げとー
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 16:16
4
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 16:19
>>1 秀敏て言ったら、桶狭間で討ち死にした人ですよね。
信長が家督を継いだ頃の一族の長老ですね(信長の御爺ちゃんの弟?)
信長の事を心配して道三に手紙を書いて
「まだ若いし、暖かく見守りましょう」とか何とか言われて慰められたり。
いい御爺ちゃんだったんだろうなあ。
桶狭間では鷲津城で最後まで頑張って(ほぼ全滅だったらしい)、信長に殉じたし。
平手とか道三とか、いい御爺ちゃんに好かれてよかったね。
今でも感謝してるだぎゃ
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 16:39
武井夕庵にも顔が上がらなかった所を見ると
レターロング公のウィーク点は爺か!
>>7 信長が入京した時とかは70歳代だったんだよなあ。
あの信長に度々諫言なんかしてし、それに信長も夕庵の諫言を聞き入れたり
してるし。ホントにお爺好きだったのかもw
平手政秀の死後も供養の為にお寺まで作ってるよね。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 22:20
うつけ物と呼ばれて変なカッコして、平気で街中を練り歩いてた時代の
遊び友達(て言うか一応家臣かw)の中で、有名になった人ているの?
前田利家とかそうなのかな?
家臣とは関係無いけど「うつけ者」時代の信長て、いつも仲間にもたれかかったり、
肩にぶら下がったりしてて、まともな歩き方をした事がなかった。って書いてある
のを読んだんだけど、凄いよね。人ってわかんないていうか・・・
まあ、そおいう所を含めて凄く魅力的だけど。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 04:17
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 15:27
前田利家、池田恒興、丹羽長秀、の3人は信長と殆ど歳が一緒で、3人とも
確か15歳前後で信長に仕えていたと思います。
みんなでつるんで遊んでたんでしょうねw
去て備後殿は国中憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、
又翌月は三川の国へ御出勢。或時九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ
美濃国へ御乱入。在々所々放火候て、九月廿二日、
斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推詰焼払ひ、町口まで取寄、
既に晩日申刻に及び御人数引退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、
山城道三噇と南へ向て切りかゝり、相支候といへども、
多人数くづれ立の間守備事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・
織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・毛利十郎・
おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎初めとして
歴々五千ばかり討死なり。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/17 19:48
>>9 母衣衆に任じられた人たちとかそうだったんじゃないのかな。
初期の赤母衣衆は、小姓の中から選ばれた家臣が多かったみたいだし(利家とか)。
>>15
母衣衆には結構おじさんな人もいます。
>>16 あ、そうなんですか、少し勉強になりました。どうもです。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 03:13
最初にして最後の腹心、平手中務
19 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 16:35
平手ヒロ
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 18:42
>>18 政秀の死後も、平手の一族は織田家に忠節を尽くしてるよね。
直系は戦死(三方ヶ原で?)して絶えちゃったけど、甥の何とか
ていう人がずっと信雄に遣えてたと思う。
平手汎秀(ひらて・ひろひで)
平手政秀の嫡男、三方ヶ原で戦死
政秀の子は三人いるんじゃなかった?
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 22:19
織田家筆頭家老・林通勝(秀貞)
この人を好きな人って誰かいる?
凄い地味な感じなんだんけど(終り方も)
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 22:49
本能寺の黒幕は佐久間と林だと信じてます
25 :
信長公記 首巻(九)より:04/05/22 00:45
一、平手中務丞子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて兄弟三人これあり。
総領の平手五郎右衛門能駿馬を所持候。三郎信長公御所望の処、にくふりを申し、
某は武者を仕候間、御免候へと申候て進上申さず候。信長公御遺恨浅からず。
度々思食あたらせられ、主従不和となるなり。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/23 10:49
>>25 政秀の死に関しては、一般的に言われている信長に対しての諫言という説と、
その信長公記に出てくる息子の無礼を詫びる為に、責任をとったって説とあるね。
政秀も晩年には、信長に対して匙を投げて諦めてたとも言われるし。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 16:48
坪内利定について熱く語れや
前野長康のオヤジだったっけな。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/28 10:27
前野長康って、秀次と連座して切腹した
イメージしかないんだけど
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/28 11:25
生駒家、信長の側室、吉野方の一族。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/28 11:36
ああ、そう言えば『武功夜話』に
そんなことが書いてあったような記憶がある。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/29 21:53
>>27 土地別に分けると、美濃衆って尾張衆の次ぐらいに影響力とかあったの?
ま、そんな単純なもんでも無いのかな。
坪内利定については美濃攻略時に、織田方に降った(調略で)位しかしりま
せん。
>>24 林はともかく佐久間は1580年に死んだぞ
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/04 16:32
山口左馬助は?
信秀の家臣だけど、信長の家臣ではないか・・・
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/07 22:15
そういえば山口「左馬助」は
山口「典厩」って呼ばれないね
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/07 22:41
佐久間大学ですが、何か?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 00:54
内藤勝介は?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 21:36
なぜか勝介
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 21:42
だから勝介
永禄年間の織田家臣に山田っている?
大和守家でも何でもいいんだが
山田三左衛門
山田半兵衛
山田弥右衛門
山田弥太郎
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 19:13
>>33 佐久間信盛て記録を読むとホントに良く働いてるなぁ、て印象なんだけどね。
安土城築城中は信長も信盛の屋敷に泊まってたみたいだし、信長タンも何故
心変わりしちゃたんだろうなぁ。
でも追放のおりに信盛に宛てた書状を読むと「やる気があるのであれば、一発
奮起してみよ」ていう意味の文もあるし、完全に愛想をつかした訳じゃ無いと
思うけど。
信盛が健在の頃は柴田勝家と並んで「織田の両翼」て呼ばれてたみたいだけど、
佐久間信盛と柴田勝家はどちらが家中での力は上だったんでしょう?
内藤勝介はいつ死んだの?
大河ドラマの「信長」だったら、桶狭間で討ち死にしたけど・・・
>>42 追放されなかったら
佐久間、柴田、丹羽、羽柴に
清州四宿老がなったかもしれないな
坂井右近尉政尚が佐々成政の兄
ってのはホントなの?
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 04:53
>>43 誰も分からないんじゃ無いかと・・・
資料にもいつ死んだという記述は全く無いみたいですので。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 17:23
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 18:25
毛利新介などという雑兵に殺された今川にナ〜ム〜。
>>48 毛利新介秀高。(またの名を秀頼)。服部采女助小平太と今川義元を討ち取った功により信長の馬廻り衆に。後に信忠の奉行となるも本能寺の変の折、二条城で討ち死にした。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 20:23
あ〜、毛利新介って毛利秀頼の事だったのか。
信長の野望烈風伝で別々に出てきたから別人だと思ってた
桶狭間で一躍その名を知られた毛利が、本能寺の変で戦死したのは
何かしらの運命を感じますね。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 21:33
烈風伝に出てくる毛利秀頼っていうのは毛利長秀のことでは?
豊臣時代に大名になってるから毛利新介ではないと思われ
斯波の一門かなんかじゃなかったかな
信長が生涯、大事にしてた家臣て誰だろ。やはり巨乳兄弟の池田恒興だろうか。
前田利家も優遇してやってるよね。やはり竹馬の友はどこまでもトゥギャザーってことか。
死後はどっちも裏切り者だな
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 15:48
諜報要員の簗田政綱は
桶狭間合戦以後そうなったの?
>>55 秀高=良勝?
良勝は稲葉姓にもいる。(ちなみに新介=秀高=秀頼は角川刊「本能寺」と小説「時空の旅人」より)
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 09:24
>>57 新介は黒母衣衆で秀頼は赤母衣衆の待ったく別の武将
てか、小説をソースにするのは辞めてくれ。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 17:55
>>10 発明王のエジソンも子供の頃は馬鹿だと思われていて、学校を退学になったり
してるけど。
やっぱ天才ていうのは常人とは違うんだろうね。
・・・でも信長のその行動はどうみても「変」だけどねw
周りの年長の家臣が心配したのもよく分かる。
>>53 信長の生涯というか、本人の活躍期間が短すぎるけど、万見重元なんかは
気に入りだったと思う。
彼が戦死せず、信長が横死しなければ、ゆくゆくは織田政権下でかなりの
位置に立ったかも。
>>63 万見の一族はその後すがたを消してるな。
同じ討ち死にでも森家は一族が取立てられているところから
重元の待遇って実際はあまり高くなかったかもな
>>63 へえ、三天王のほかにも入れ込んでる奴いたのか。
信長の気に入りは自分に忠実で忠誠を尽くす奴だろうね。柴田勝家に当てた
手紙の中で「この信長を神と思い、こちらに足を向けて寝るような事がないように」
とかいう一文があったように思うが、ちょとワラう位に信長って自分、神。
>>63 待遇といっても小姓から馬廻り(とはっきりしていないけど)の身分で
死んでるけど、信長の寵臣だったのは間違いないと思うよ。
普通、小姓は重臣の子弟から選抜される例が多いけど、万見重元は
まず出自が定かでないし(一説には織田信光の系列とかいうけど眉唾)。
活躍期間は三年くらいしけないけど、その間の検使や饗応といえば
必ずといっていいほど万見の名が出てくるし、信長の名物披露に際して
万見の邸宅が宛がわれてもいる。
彼の戦死を契機に近習の再編と邸宅の移動があったらしく、どうやら
堀秀政や長谷川秀一よりも上位に扱われていたみていい。
宣教師の記述にも彼の能吏ぶりが記されているみたい。
死後に一族の名が出てこないのも、彼が二十歳を少し過ぎた程度で
死んだ事で後嗣がいなかったか、他に男子がいなかったのかもね。
一体 毛利「秀高」は何者?
「新介良勝」それとも「河内秀頼」?
>>66 ありがd、2CHはやっぱ知識広いね。早速ググッて調べてみるし。
戦国ごく●さんとこで訊いてみたら?多分林秀貞とかと同じで間違って名前が伝わったという
部類に思えるが。どう調べても毛利新介=秀高というのはないぞ。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/27 11:29
実力重視で家臣を用いていた信長の元で、仕えて以来終始家中でもトップクラス
の地位を維持していた柴田勝家はやっぱり実力があったって事だよね。
・・・ま、いまさら言うまでもない事かも知れないけど。
そうかな。実力というか、常に信長に忠実でハッスル男であったからだろう。
戦上手という家臣の位置付けよりも猛将という感じ。
明智や秀吉に比べると智将の部分が足りないというか。勢いの男じゃない?
でも、実力至上主義の信長が「忠義」というだけで重用するかな?
忠義があってそこそこの手柄を立てる、というのが織田家中で生き残る秘訣。
常に戦では何かやって信長の耳に名前が入るようにしておく。森可成は友人の前田利家の
帰参の為に信長の前で彼の手柄を話してやったそう。家臣の若い者が武田攻めで
突っ走った時、信長は「ワシの目にとまろうと必死になっているのだろう」と2回もかいてる。
常に皆競って信長の前でいいとこみせようとしてたみたいだ。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 16:51
現在でも飛び出世したきゃそうするしかない。
柴田勝家は普通に優秀だろ。
戦上手は言うまでもないし、一向一揆の首謀者を講和に呼んでおいて皆殺しとか、謀略だって苦手じゃない。
そりゃ秀吉、光秀と比べれば劣る部分もあるだろうが、その二人は家康、信長と比べられるクラスのやつらだから仕方ない。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 01:19
勝家って信秀の代から織田家の筆頭だったよな。
20そこそこで織田家の重鎮になれるなんて、かなり実力があったってことじゃないの?
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 01:35
>>77 信秀の代なら、筆頭は佐久間か林では?
戦国大名のような軍事政権色の濃い政権では、発言力と軍事力はほぼ
比例するので、ただ先祖代々の大領主というだけで重臣にはなれる。
そこで活躍できるかどうかはまた別問題だが。
佐久間は少なくとも尾張の大領主だったな。
>>72 足を向けるなとか言われてるし、忠義の面ではあまり信用されてなかったっぽい。
>>79 信長は執念深いからね、かつて信行に加担してたことを
ずっと根に持ってたのかも(w
まあ林が30年してから昔信行(信勝)に加担した罪で
追放されてるからな。
こんなのみたら、柴田もヒヤヒヤだな。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 18:54
佐久間も追放されてるし、使えるか使えないかでしか見てないよ。
信長は。
うう・・・っ
わしの名を忘れとる。滝川、柴田、丹羽、羽柴。これら4人合わせて織田四天王。
能力表
秀吉
政治90〜100 統率80 知略90 教養55
勝家
政治60〜70 統率95 知略50 教養40
信盛
政治50 統率50 知略30 教養50?
一益
政治40〜50 統率80〜90 知略80〜85 教養55
長秀
政治80〜85 統率60〜65 知略65 教養70?
秀貞(通勝)
政治65〜70 統率25 知略70 教養60?
84 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 21:19
マジレスすると活躍時期とかも考慮した上での織田四天王は佐久間・柴田・明智・羽柴だ。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 02:10
>>82 塙直政の一族追放とか、結構武将たちにすりゃ恐怖政治だよ。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 02:23
考えるのは信長の仕事
あとは全部駒
87 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 02:55
佐久間は活躍してるよなあ・・・・
使える使えないなら「使える」だと思うんだけど。
ま、態度はでかいけどね。
信長はもっとシンプルに、好きか嫌いか。
使えない奴は嫌い。
佐久間は使えるかもしれないけど、嫌い。
佐久間は権限が大きくなりすぎたからだと思う。
領地代えとか仕事内容の変更を頻繁に行う事で、
家臣と君主の関係を厳しく示そうとする信長が佐久間をそのままにしておくわけがない。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 01:58
武士の出世は広い領土を大きな権限を手に入れる事。
出世すればするほど追放の危機になってしまうな。
名スレage
で、森可成を皆忘れていると…
イカくさい奴から追放されたに10CC
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 14:38
林秀貞は本能寺の変の時も生きてたようだけど
そうなると、かなり若い時に筆頭家老になったということだよね
弟は武に優れたらしいけど
秀貞はもともと尾張の実力者だったのか
それとも実力で筆頭になれたのか
そこら辺の詳しい人教えてください
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 20:18
>>93 ああ、そんなのいたねェ・・・
個人的には好きだけど。後皆さん、川尻秀隆、佐々成政、原田直政
蜂屋頼隆、堀秀政 なんかもいますよ。
やっぱ
平手正秀
>>97 やっぱりとか言っといて間違えんなよ(w
平手の刑に処す。
じゃあ、俺は無知打ちで
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 14:08
池田は?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 14:16
のぶやぼに登場する範囲内ぐらいで、家臣がどいういうような
序列になっていたのか知りたいのですが。
林、佐久間がまだいた頃で。
>>101 日本史板にそういうことを話していたスレが以前あったが。
今あるのかどうかはわからん。
それだと同じ穴から生まれた〜の意味合いに取れるな
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 07:10
>>101 そのころだと丹羽は意外に低くて、川尻がけっこう上で、
前田はザコだったと思う
滝川、池田のポジションがどの辺なのかは気になる
織田家四宿老ってだれだれよ
age
意外に名スレだね、ここ
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 04:47:19
age
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 22:13:50
池田一党・・・ 信長の乳兄弟と言うだけで池田一族は権勢におごっていたが
その後信長にピシャいわされる。その後何故か池田一党はシーンと静まり返る。
まだ尾張ローカル時代の事である。
林一党も信長に対し軍令違反をし兵をまとめてさっさと帰ってしまっている。
信長というと命令厳格な雰囲気があるが、得てして結構甘い男である。秀吉軍離脱の件や
林、佐久間追放の件にしてもただの追放で終わっている。しかし殺さずに敗者復活の道はちゃんと残してあるのだ。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 01:45:36
>>106 滝川雄利、津川義冬、岡田重孝、浅井田宮丸
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 04:20:51
>>101 林、佐久間が健在の初期の家臣団なら、歴史群像の「激闘 織田軍団」より
(稲葉山攻略以前の正に初期)
家老・・・林 秀貞(通勝)
武将・・・佐久間信盛、柴田勝家
メジャー所の家臣ではこういう序列で良いんじゃないの?
あとの人達はそれ以下て事で。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 04:33:41
序列て事で考えると、村井貞勝とかはどうなるんだろうね?
ああいう仕事の人って家中での力はどこまであるのか・・・
丹羽っつーと尾張には丹羽郡があるから、意外と大地主級で大物だったり?
115 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 05:15:19
>>114 丹羽家は丹羽郡に住んでたけど(長秀は丹羽郡の児玉村て所で生まれたらしい
)、そんなにたいした家でもなかった筈。
やっぱり長秀が信長に仕えてから力をつけたって所だと思う。
前野長康って、秀次と連座して切腹した
イメージしかないんだけど
117 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 02:25:38
>>116 遠藤周作の書いた小説で「男の一生」て作品があるけど、前野長康が
主人公ですw(なんて地味な人をーて感じだけど)。興味があれば読んで
みては?
随分昔に読んだんで、俺は内容あんまり覚えて無いけど。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 02:35:16
>>110 池田一党といってもツネオキ以外に一族はいないけどね。
保守
120 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 21:49:58
>>101,
>>105,
>>112、,
>>113 信長初期政権は四家老制。
席次は林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介の順番。
が、次第に実権を失って使者の接待役となり、実権は侍大将・足軽大将クラスに移る。
その下に実務に優れた佐久間信盛、対今川戦で死んだ佐久間盛重、柴田がいて、
次に丹羽長秀、滝川一益、蜂屋頼隆、坂井政尚、中川重政、
森可成に、新参の明智光秀や成りあがりの木下藤吉が加わる。
国衆の筆頭レベルの土豪も、信長が上洛するまではこのクラスとほぼ同等。
稲葉一鉄などの美濃三人衆や、尾張の水野信元などがいる。
また、身内の織田信広や信包などもこのクラスと同等。
その下に母衣衆や馬周りで、小〜中部隊の兵を率いる力量があった者に原田直政、
梁田広正、佐々成政、毛利長秀、中条家忠、川尻秀隆、野々村正成、福富秀勝、
前田利家ら多士済々。
官僚として、家老・侍大将クラスに松井友閑、武井夕庵がおり、その下に村井貞勝、
その下に秘書だけど信長側近という立場で勝家・秀吉・光秀らを恐れさせた堀秀政、
万見重元、森成利、齋藤家から移ってきた猪子高就
>>113 丹羽長秀が大地主なのではなく、尾張に有力土豪として丹羽氏がたくさんいた。
例えば、丹羽氏清-氏勝-氏次の一族のほうが、長秀の一族よりは有力。
ちなみに長秀の父・長政は尾張守護斯波氏の臣で、斯波氏の直臣の織田氏のそのまた
臣であった陪臣の織田氏の家系の信秀よりは、実力は負けても格式だけなら上。
>>118 恒興には子の元助、輝政
一族に池田勝之介、池田信勝がいるじゃん
(@゜▽゜)_且~~ おつかれ
>>120 こうしてみると、「信長の野望」なんて小説に出てくる武将レベルしか出ていない or 出ていても評価が
メジャー度に左右されるというのがよくわかるね。
史書の現代語訳すら読んでいない感じ。
一番好きな「天翔記」なんてパワーアップキット付けても、松井友閑、武井夕庵のような重臣が抜け落ちている。
野望はパワーバランス大変だからな
織田家武将これ以上多くすると・・他の武将少ない(それなりの武将という意味で)家との差がもっと広がってしまう
まあ太閤立志伝5あたりでは、武将数の差など気にしておらず、武将出しまくってるけどな
松井も武井もいるし・・
そのうえ、本因坊なんて戦国に関係ないのまで出しててワラタ
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/08 01:27:05
へ〜・・・・
太閤はもうすでに、戦国を舞台にしたライフゲームだからな・・
このまま行けばそのうち、芸術家(鍛冶屋や茶人はもう出てきてるしな)、碁打ち、
坊主、南蛮坊主、公家、料理人あたり出来そうな悪寒
すれ違いにつきsage
125 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 12:51:07
「信長政権 初期〜上洛前」をまとめると、こんな感じかな
1.家老クラス
林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介
2.侍大将・足軽大将クラス
(上)佐久間信盛、佐久間盛重、柴田勝家、・・・
(中)丹羽長秀、滝川一益、坂井政尚、明智光秀、木下藤吉、・・・
(下)森可成、蜂屋頼隆、・・・・
3.与力(寄騎)、馬廻り、母衣衆等
(上)原田直政、梁田広正、佐々成政、毛利長秀、川尻秀隆、斉藤新五郎、・・・
(中)織田信房、野々村正成、池田恒興、井戸将元、福富秀勝、前田利家、金森長近、
塚本小大膳、戸田勝隆、丹羽氏勝、林新次郎、日根野弘就、・・・
(下)赤座永兼、中条家忠、生駒親正、生駒家長、岡田重善、岡本良勝、
佐々長秋、高木左吉、竹中重治、竹中久作、蜂須賀正勝、前野長康、坪内惣衛門、
谷衛好、道家清十郎、戸田勝成、中野一安、兼松正吉、長谷川与次、服部一忠、
原長頼、平甚右衛門、・・・・
4.官僚・文官
(家老級)松井友閑、武井夕庵、・・・
(大将級)村井貞勝、島田秀満、坂井利貞、・・・
(側近)堀秀政、長谷川秀一、万見重元、森成利、菅谷長頼、木下祐久、猪子高就、
団忠正、武田左吉、太田牛一、大津長昌、矢部家定・・・
5.それなりの自治権をもった国衆
(美濃)稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就、市橋長利、不破光治、西尾光教、大沢正秀、
遠山氏、遠藤氏・・・・
(尾張)水野信元、佐治為平、千秋季忠、高木清秀、・・・
6.身内衆
(上)織田信広、織田信包、飯尾定宗、織田刑部大輔、織田信張、・・・
(中)中川重政、織田秀敏、織田秀俊、織田信興、織田信治、織田広良、織田信次、
織田信成、・・・
(下)織田左近将監、織田勝左衛門、織田信直、織田秀成、津田盛月、木下雅楽助、
柘植与一、・・・
※2<−>3、3<−>4は一部異動あり
>>125 誰だよ、ノブヤボに出てない奴ばっかりじゃん
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 15:07:11
>>125 おぉっ、島田秀満!
村井貞勝ばかりが知られてるけど、彼と並んで京を預かってた能吏だね。
何故か唐突に史料から名が消えるけど……
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 16:41:29
>>
> (側近)堀秀政、長谷川秀一、万見重元、森成利、菅谷長頼、木下祐久、猪子高就、
> 団忠正、武田左吉、太田牛一、大津長昌、矢部家定・・・
堀と菅谷は部隊指揮官(武官)でもいいんじゃないでしょうか?
矢部は微妙ですが。
あと、団や斉藤新五郎は信忠所属かも。
でも越中乱入は信長の指図かなぁ・・・。
・・・とか考えると、万見は「上洛前?」とかいう感じでかなり
新旧入り乱れてるとは思いますが、
これだけ列挙したことはすごい!
織田造酒は・・・
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 19:44:39
>>129 堀は側近として勤務し、ときどき使者や監軍的立場で現場に出るので
>>125さんの分類でよいのでは。
その辺を考慮して、
>>125さんも
最後に注として「※2<−>3、3<−>4は一部異動あり」と書いて
おられることだし。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 19:51:25
なんかすごい落差のあるスレだね。
>>1-119まではかなりレベルの低い会話なのに
>>120以降は突然スキルが上がって
>>126のような「信長の野望」とその攻略本とIF戦国史ぐらいしか読まない厨房が
ついていけなくなってるw
>>131 レベル?
厨房か?
あっキッチンていう意味じゃないよ。
基地外ってことね。
>>125 ちょっといいか?
俺的には坂井政尚は柴田、佐久間と同列だと思うのだが。
あと織田信光はざっと見て名前が無かったのだが(あったらゴメン)どのあたりだろうか?
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 00:23:20
「レベル」といわずに「レヴェル」と書くと
なんだか文学者っぽいかもね。
>>135 >>125じゃないけどコメント。
>俺的には坂井政尚は柴田、佐久間と同列だと思うのだが。
まず自分がそう思う根拠を示してから、疑問や誤りの指摘をすべきでは?
坂井政尚が事跡に現れるのは上洛以降。
佐久間・柴田が軍団長の上位にあったのは常識だし、上洛以降の完全実力制に
なるまでは、柴田以降に丹羽、滝川の順で続き、成りあがりの秀吉と新参の光秀が
その後に来るとするのが一般的。
坂井政尚については、森などと同じ斉藤氏→信長の転職組とするのが有力な説だし、
上洛前に事跡がほとんどない坂井が柴田と「同等」なのは明らかにおかしい。
上洛直後の京における織田家臣団構成が、佐久間または柴田を筆頭とする蜂屋・森・
坂井のAチームと、丹羽を筆頭とする木下・中川・明智のBチームに分かれていた
事実を考えても、坂井政尚は柴田と同格ではありえない。
>あと織田信光はざっと見て名前が無かったのだが
下克上の世においては一族と言えども、いろいろある。
織田信光は、父・信秀にとっては家臣でも、信長にとっては同盟者であって家臣じゃない。
>>125が敵兼同盟者であった信清や、ライバルであった信勝(信行)を入れていないのも、
そういった織田氏の事情をふまえてでしょ。
信光の子で、信長の指揮下に入った信成はちゃんと入れてあるじゃん。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 04:34:56
だから上洛以降とか考えると、
万見とかおかしなものも含まれてるわけで・・・
前田いねーな・・・
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 04:42:02
前田さんは越前で柴田の目付けになるまでただの馬廻では
>>138 >だから上洛以降とか考えると、万見とかおかしなものも含まれてるわけで・・・
他人にイチャモンつけるだけなら簡単。
>>125がかなりの労作であることを考えれば、「万見とか」みたいな曖昧な言い方をせずに
これがよいものになるように、ちゃんと理由をあげてあっさり書いてあげれば?
| 万見重元:文書における初見が天正3年であることや、「仙千代」という童名で呼ばれ
| 続けたことから「上洛前」はおかしい。
ってな、感じで。
それに、そもそも「上洛以前」でしょ。
自分も書き間違えてるじゃん。
>>138 >前田いねーな・・・
ちゃんと3−(中)の馬廻にいるじゃん。
親父の利昌は林秀貞の与力なので信長の直臣じゃないから、利家のことを
指して言っているんだよね?
玄以なら確かにいないが、上洛以前はマイナーな存在だから「、・・・」の
中でもおかしくない。
>>129 >織田造酒は・・・
出てるじゃん、織田信房として。
信房の家系は主君から織田姓をもらっただけで身内じゃない。
>125は、それをちゃんと区別して書いているってことだろ。
>>137 んな目くじら立てたようなレスやめろよ。
俺は悪気があって言ったんじゃねーんだしよ
125のが素晴らしいから援助?の意味も兼ねて穏便にこの武将は抜けてないか?間違ってないか?と言っただけのつもりだったのだが。
まあ
>>137の言うことで合点が言ったよ。ありがとう
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 23:53:29
日根野弘就って長島が落ちるまで敵対してなかった?
誰か
>>125を保守してテンプレ化してほしい
ついでに「桶狭間前」「尾張統一」「美濃ゲット」などの時期ごとに分割
してくれないかなあ・・・・(´・ω・`)
俺の祖先の山田治部左衛門もいれてねー。
信秀・信長の家臣で侍大将として活躍し、信長の家督相続争いで信長側について
戦い、柴田勝家に首をとられました。
俺の祖先の石川五右衛門も入れてね。
>>146 ホントに五右衛門先祖?
同じ石川でも数正とかじゃない?
そっちのが良いか
148 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 22:43:11
良スレage
>>125 へコメント
>4.官僚・文官
> (家老級)松井友閑、武井夕庵、・・・
> (大将級)村井貞勝、島田秀満、坂井利貞、・・・
とありますが、私はこの家老級の松井、武井と大将級の村井、島田は逆にした方が良いのではないかと思います。
というのも、この二人(さらに明院良政を加えた三人)の信長の初期から元亀年間までの活躍を見ると、単に近侍、吏僚に留まらないからです。
村井、島田の二人が信秀の時代に活躍した記録は見あたらないので、信長によって抜擢されたものと思われ。以後側近として活躍しますが、他と異なるのは
弘治二年 弟信勝が謀反を起こして稲生の戦いで敗れた後、母土田御前より講和の仲介を依頼される。
永禄十一年 足利義昭を越前より美濃に迎え入れる使者を勤める。
この後の上洛戦では明院が活躍。彼は信長本体に先んじて細川藤孝と共に禁裏北門まで赴き朝廷と連絡、
その後近江の陣中に朝廷より派遣された大納言万小路惟房と折衝。
信長帰国後は佐久間、木下、丹羽、村井、明院に五千の兵を預けて駐留させる(明院の記録は以後消える)。
永禄十二年 将軍御所建設に村井、島田が大工奉行に任命。
永禄十三年(元亀元年) 皇居の修理開始。朝山日乗と村井が任命。
元亀四年(天正元年) 島田、信長の使者として上洛。将軍義昭と折衝。
この間にも両名は様々な仕事に関わっていますが、他者と明確に異なるのは、
この二人が主君の目上の存在(母、幕府、朝廷)との折衝に当たっているということでしょう。
当然のことですが、そんなことが出来るのは、家中でも主君の代理としてたてられるほど重んじられている者のみでしょう。
上には挙げませんでしたが、村井は清洲同盟締結後、信長から家康の元へ返礼の使者が送られたとき、
林秀貞と共同で赴いたり、織田信広が朝廷への使者へ立ったときも組んでいます。
「いちのおとな」林秀貞や連枝衆筆頭・庶兄信広と同列と見なされていたことを考えれば、
やはり村井とその同僚島田、明院の優位性は明らかだと思います。
天正以降となると、おそらく年齢から島田、明院の引退や村井の京都所司代として転出、
また側近としては若手が台頭してきているのでなんともいえませんが。
>>149 明院良政は「めいいんよしまさ」でいいの?
小説やドラマに出てこない名前なので、ありがたいです。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 00:21:34
>150
『織田信長家臣人名辞典』その他では「みょういん・りょうせい」とあります。
…なんでだろ、出家でもしてたのだろうか?
彼は出身不明、生没年不明でごく限られた一時期に活躍して(しかし武功ではない)すぐに姿を消した人物なので、
マイナーなのでしょうね。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 01:19:59
>>151 サンクス。
その読みだと坊主みたいな感じがありますね。
普通、信長の重臣クラスだと、一族の者がいたりすると思うし。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 10:28:55
秀吉って最初に名前が出るのは内政関連だよね?
いつから武将になったんだろうか。
信長公記では近江に出た時にはすでに武将だった・・・・
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 17:27:43
テンプレ作った奴が批判に猛反論スレはここですか?
テンプレったって谷口さんの辞典から引き写しただけだろ。
あれも間違いが多いんだけどな。いい辞典なんだけど。
まぁ古文書ひとつで通説がひっくり返る世界ですから。
歴史学なんて〜のは。
>>5 つか、捨石じゃねえの
普通、一族の重鎮を前線の砦に配置するかなと思う
そこらへんどう? 詳しい人教えて
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/29 01:36:20
信長は、丸根、鷲津の砦に死守せよとは命じていない。
だから、丸根の佐久間大学は全滅したが、鷲津の織田玄蕃(?)は陥落前に脱出した、、
と何かで読んだが。
道三の返事は、
(織田家内に反信長の動きがあることに対して)、放置しないで調停をしなさい」だったと思う。
>>一族の重鎮
を捨石に・・・・・・煙たかったのかな(w
159 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 20:17:40
age
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 18:32:00
>>160 3.与力(寄騎)、馬廻り、母衣衆等
の(下)に入ってるじゃん
162 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 19:00:46
>>157 捨て石かどうかは知らんが重要な城に置かれた弟たち。
信興 長島一向一揆の抑え
信治 浅井、朝倉の抑え
信治の場合、さらに京の守備、岐阜〜京間のルートの確保も入ってるからな。
ちょっぽり甚右衛門って一体何者なんですか?
165 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/25 20:04:57
>>162 捨石ってゆうよりも、普通に、弟だから信頼して重要拠点を任せたてことだろうなぁ。
織田玄蕃も信頼してただろうし、
佐久間大学も、信行との戦争の時信長についたんだから信頼されていたんだろう。
信長ってなんだかんだ言って一族に甘いよな。信広も信勝も反逆しても許されているわけだし。
一族ってか、敵に対してもけっこう優しいよ
本願寺みたいに徹底的に反抗してきたら仕方ないって感じだ
どっかに限界があったんだろうけど、今となっちゃ分からない
169 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/27 21:13:16
信長って、つくづく誤解を受けやすい人となりだったんだな。
本人は気にしてなかったのかもしれんが。
なにげに信長が非常な処置をした勢力は少ないもんな
>>158 寄せ手の力量の差じゃないの?
朝比奈の詰めが甘かった、と
保守
173 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/02 13:23:57
織田刑部大輔って誰?
174 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 18:57:56
何で信忠の側室に摂津の一土豪から娘を迎えたの?
釣り合わなくね?
175 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/11 18:59:29
好みだったから
ごんめ
176 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 20:51:32
>>174 たぶん、できちゃった棔だろう。 側室だし
内藤勝介!
幼小の信長のお世話がかりで小豆坂七本槍の一人。
家老格だったとも。
こんな人が忽然と消える。
大河信長では、桶狭間で、家老でありながら今川義元に単身で向かい、投槍して果てた猪武者ぶりを披露してくれたナイス爺だ!!
そろそろ保守
180 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 00:21:21
これだけノブヤボやってるだけでは分からない、織田家上層部の厚い壁というものがあるのに
無一文の浪人上がりから割って入って
最後には頂点に上り詰めちまったんだから、それこそ漫画の世界だ。
秀吉はマジですごすぎ。今よりももっと世界史的に一目置かれてもいいんじゃないかとまで思う。
東アジアの戦争史上でも、ゆうに1000年ぶりに日本からの大陸進攻にまで
及ばせたんだから大したものだ。
元寇の仇を返したというんで右翼的には大マンセーだろう。
織田信長家臣団人名辞典に俺の先祖が出ててびっくりしました
大陸に侵攻してません、半島までです
184 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 19:51:35
加藤清正とかが満州国境まで進撃してる
185 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 19:55:30
進撃してませーーーーん
満州国もまだありませーーーーん
186 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 20:00:34
アンチ必死だなw
187 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 20:04:26
清正公は満州国境沿いまで進撃された模様w
188 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 20:43:29
長秀好きの俺様が来ましたよ。
長秀の正室って名前わかってないんだな。オリでつくっていいのだろうか。
信広の娘ってことを表記していれば
189 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 02:04:21
池田元助って名前、前々から変だと思ってたんだがこれ本名なの?
父恒興(信輝)、弟輝政と並べると妙に浮いてる気がするんだけど。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 10:12:28
堀秀政って扱い小さくねーか!?
信長在世当時は側近(馬廻)として活躍する。ポジション的には前田利家に近い。
ただし両者を比較すると、本能寺の変の時点で…
・前田利家…金沢城主で、柴田勝家の目付け
・堀秀政……佐和山城主で、信長直属。信長薨去後は三法師の傅役を務める
彼が秀吉派だったことが、その後の時局に大きく作用したと言われています。
38才の若さで亡くなりますが、もしも長生きをしていたら家康に代わって
関八州の太守に任じられていただろう。という説もあります。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 10:15:09
まんしゅう?(^,_^)ププッ
193 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/10 10:38:04
↑揚げ足取りしかできないヤツの例
名人久太郎って異名がなんかエロいんですがw
堀秀政って、本能寺ん時、軍監で秀吉軍にいたんじゃなかったっけ?
>>174 側室なら身体が丈夫で安産型なら出自は何でもいいだろ。
外戚が子どもたち担いで勢力争いする可能性を考えればむしろ出自が低い方が好都合。
故に無名の一族のしかも後家ばかり漁っていた家康の側室選びは合理的。
もっとも、家康の場合は正室で懲りただけかもしれないが。(w
村上義明って何者?
197
堀秀治の与力大名
ちょっとスレ違いなんですが信長関連に詳しい方がたくさん
いそうなので質問させて下さい。有名な『是非に及ばず』
なんですが、信長公記での実際の表記はなんと書いてある
のでしょうか?是非も無しとかもあるので。長々すいません!
200 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 00:14:22
>>195 前田利家が柴田勝家の目付けとして派遣する際、越前府中に所領を
あてがわれます。堀秀政の場合、こうした動きの見られないことから、たまた
ま何らかの役割で、秀吉のところへ行っていた。と思われます。
ちなみに秀吉の「中国大返し」を最初に打ち明けた人物は、黒田官兵衛ではな
く堀秀政だったらしいです。黒田と堀、両者の身分を考えれば至当かと思われ
ます。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 01:27:34
>>196 側室選ぶなら、やっぱ顔だろ!!!あとエロさも重要
202 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 02:13:52
>>197 >>198 って簡単に言い切れないんですよね、彼
・村上義清の継承者
・でも上杉にも村上(山浦)国清ってのいるし
・義清の甥、とも言われているけど
・戸田武蔵守氏繁の子で、義清の甥の養子になった、とも
・そもそも戸田武蔵守は「勝成」、氏繁は「勝隆」
この2人は兄弟で別人・・・。
・丹羽長秀家臣、 村上頼明の養子、とも言うし
・その村上頼明は最初(スレで話題の)堀秀政の子を
養子に貰ったけど早世、のち戸田武蔵氏繁から養子を・・・と
謎多し。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 02:19:36
>>191 世代が違うから<前田・堀
信長の近臣としての世代・キャリアが違う。
そのうち出世したかもしれないけど、それはIFでしかないし、
関八州というけどそれもIFでしかない。
>>194 「名人」というのは軍功よりも
「政治交渉や人付き合い・治世・人材管理・事務処理といったことが上手い」
という意味でつけられたっぽいですね、堀秀政の場合は。
>>200 厨臭い言い方で文官武官などと使うなら、堀くんは(才能ともかく)
文官よりに使われてたみたいですね。軍事官僚とでもいいますか。
大谷吉継も、豊臣政権での活動は官僚として。軍を率いての武功はほとんど無い。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 00:31:56
秀吉が凄い?
寝惚けるな、ヴァカが。
俺が戦国の世に生を受けていたら、きっとひとかどの人物になったであろうな。
これはあおりではなく、本気で言っている。
ただ今の世には心を燃やすものがないため、浪人しながら平成の世を送っている。
母さんは俺の良き理解者で、援助を惜しまない。
今度、北朝鮮に直接行き、このまなこで真実を見極めて来るのだ。
せこせこ働いている雑魚のおまえらには真似できませぬな。
>205
君が凄いのは解った
がスレ違い ノシ
207 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 21:40:03
信長公記の解説本ってあるんですか?あと前田利家について
くわしく紹介している書物などあったら教えて下さい。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 22:03:19
>>205 俺は地村さんの行方不明看板を見て育った福丼人なので
>今度、北朝鮮に直接行き、このまなこで真実を見極めて来るのだ。
ああ、ぜひともお願いしたい。
半端な気持ちで書いてるんじゃないだろ?
俺ら拉致の地元では、北朝鮮を語るときは冗談で受け取らんぞ。
80万しかいない福丼県民、マジでお前に期待してるぞ。
ってか「若狭衆」って地味ですね。織田信長家臣団として。
丹羽長秀の下についたからな若狭衆は。そして、丹羽勢自体が信長の戦いで活躍
してないからなあ。
本能寺がなくて、四国遠征が行われていたら若狭衆も丹羽長秀に従って渡海して
活躍したのだろうか。
>>201 そういう普通の人間が考えそうなことは考えず、ひたすら子作りの道具としての実用性に
徹したところが家康の良く言えば偉い、普通に言えば変人、悪く言えば女性蔑視(と言うか
田嶋先生的視点か?)なところなのでしょう。
ま、個人的には顔は平均点で良いのでエロさ重視ですが。(w
たまには信行の事も語ってくだされ
212 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 23:57:28
一時期でも、明確に家臣だったことあるっけ?<信行
立場的にいえば、家臣である、とは言えるな。
信長が後を継いだ頃は信行も信長の命令に従っていた。
214 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 07:47:00
二年程前、タイを旅行中に寄った日本定食屋においてあった文庫なんですが、
内容が本能寺の変で自害したはずの信長が生きていて、天下統一した秀吉と
徳川家康と三人が争うというもので、作者と題名は覚えてないのですが、心
あたりがある人は教えてください。当時は料理がでてくるまでの時間つぶし
でパラパラと見ていただけなのですが、今更ものすごくよみたくなったので
す。
マルチポストするな。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 11:43:38
池田恒興って柴田、丹羽、利家、秀吉の影に隠れてるけど、
もっと評価していいと思う
217 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 11:57:06
合戦で討ち死にって珍しい間抜けな武将だしな>恒興
ふつう討ち取られるまえに自害するよ
退場がアホすぎる。
大名家が残って、勝ち馬に乗ったし
賢明だったのではあるが
レスがアフォすぎるな
乳兄弟ってそんなに偉いンか?
偉いって何やね
乳兄弟てなんやねんww
223 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 20:25:05
>>217 自害してる暇があったら敵を斬れ。もしくは撤退せよ。
私は、佐久間信盛をもっと評価してほしいな。信長の尾張統一時代から一度も
裏切ることなく従いつづけ、元亀年間の畿内でもっとも軍事政治に活躍し、天正期
からは織田家最大の軍団を任され、信長が岐阜から安土に引っ越すときはその
屋敷に世話になるほど。叡山焼き討ちの諫言や朝倉追撃時の抗弁も、勝家のよう
なイエスマンや、秀吉のような幇間もちではなかった証左だろう。
信盛と滝川一益は、信長に対する忠誠でも、軍事政治に活躍した能力でも能力
でもダントツなのに、最期が悪くて酷い扱い。その配下も含めて、同じ歴史の
敗者でも明智光秀や柴田勝家は再評価されているけど、この二人はまだまだ。
ところで、さすがに池田恒興はどう高評価していいかわからない。信長生存中は
前田利家のように一国を預けられたわけでもなく、軍団長でもない。元亀・天正期
の激戦区に派遣されて活躍したという記録もないし、領地は本願寺の明け渡しで
平穏になった摂津。
私が知らないだけで、「ジツはこんな活躍をしていたんだ!」というようなエピ
ソードってなにかありますかね?
226 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 22:28:32
安藤守就とか佐久間信盛が追放されたのって、信長が死ぬ数年前だったよな
このころ信長荒れてたって言うか神経質になってたからな。
そんな時たまたま本願寺攻めが長引いてしまった・・・
以前の信長なら追放までには至らなかったと思うけど運が悪かったな・・
守就はなんで追放されたんだっけ?
>>226 安藤の理由はイマイチ不明。武田に内通しようとした疑いがあったそうだが
佐久間の場合、追放理由(正確には、死ぬ気で手柄上げるか出て行くか選べ、と言ってるんだが)が書状で残ってるけど
224 ですが、佐久間の場合は追放とは少し違うと思うのです。
有名な折檻状ですが、たしかに本願寺攻囲に関してはいいがかりに近いものが
ありますが、よくよく読むと、明智・羽柴の活躍をひいた上で「それに比べて
お前ななんだ、やる気がないなら隠居してしまえ」と、むしろ発奮を促している
ように見えます。まあこれは私贔屓目もあるんでしょうけど、少なくとも、佐久間
に関しては林・安藤と違って明確に追放を命令されたのではないんですよね
(少なくとも折檻状にそのような文言はない)。
ちなみに安藤は、永禄年間に信長が伊勢に出陣している隙に信玄に通じたと
される事を理由にされている、そうですが、正直本当にあったことなのかどうか
不明です。
まあ安藤のポジションなら内通して保険を掛けとくぐらいのことはやってたかもしれん
230 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 06:09:43
信長の生涯って、よーく考えると綱渡りみたいなもんだしねぇ。
俺が家臣なら内通しないか(保身に走らないか)と考えると・・・
最低でも「思わなかったことはない」と思う(笑)
×最低でも「思わなかったことはない」と思う(笑)
○最低でも「思わなかったこともない」と思う(笑)
ネタレスで失敗。吊る。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 11:10:24
蜂屋頼隆は愚将だと思う。結局丹羽、秀吉の取り巻きというポジションで生涯を終えたし
これといった功績、軍功もなし。信長死去後は秀吉側についただけで敦賀城貰ってるし
おまけに官位まで貰ってやがる。そこまでの人材か?
佐々成政が、黒母衣衆に蜂屋のような愚か者が入ると
他の者まで愚か者と思われてしまうので迷惑だ、と信長に
苦情をいったところ、「おまいらのような武辺者ばかりだと、
物見に出た時戦闘になったら報告そっちのけで戦闘に熱中して
しまうだろう。しかし蜂屋のような愚直者を入れておけば、
ちゃんと帰って来て報告するだろうからこれでいいのだ」
と言ったという逸話があるが、実際蜂屋は官吏として
重用されていたようなので愚か者というのは後世の
作り話だろう。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 11:28:23
織田家1の愚将って誰だと思う?
愚将かどうかはともかく、金森長近ってなんの功績があって飛騨を拝領したんですか?
武田攻めのときは一手を率いて北信に侵入しているけど。
>>234 定義によるんじゃないかな?例えば明智光秀なんかは、私は愚将とは思わないが、
最期の判断で愚かと言われても無理はないことをやっているわけだし。
(注 判断ミスを言っているのであって、無能だったとか言っているわけではない)
そもそも信長って、功績を上げたものを出世させているのだし。
>>235 目立たないけど馬廻り・部隊指揮官として美濃攻略時代から堅実に戦ってるし
織田家の代表的家臣として連署したりしてるから、信長直下の武将として活動してたんじゃない?
あと鳶の巣山奇襲にも参加して酒井勢とともに大勝している
愚将…やはり池田恒興かと。
信長の乳兄弟という以外に出世した理由が思いつかない。
逆に言えば、それだけ有利な状況にありながらついに一国の支配者にもなれなかった。
(かつての同僚だった丹羽長秀、前田利家との大きな差)
それでいて長久手の戦いでの大敗。いいところが思いつかない。
確かに。信長は忠誠心のある身内には弱かったのかもしれないな。
乳兄弟の池田は、若年の信長にとって腹心のようなものだっただろうし。
つーか、羽柴・明智の出頭速度が物凄かっただけで佐久間あたりは「なんで俺が」という印象だったのかもしれない。
佐久間信盛追放時、家臣団は動揺した?
与力武将だけを酷使したって譴責が本当なら、評判が悪かったから跳ねたんじゃ?
何しろ織田武将の何割かは、配下に入って間もない外部の連中だからね
中川清秀は愚将だな・・・
いいところが見当たらない
「池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間を浪費せずに攻略し、天下に名誉を施した」
と佐久間への折檻状にあるから。少なくとも代表的功労者に上げられるぐらいの活躍は当時してたんじゃないの?
愚将とか勇将とか知将とか
春だね。
川尻秀隆あたりは?
蘭丸って佞臣の素質在りソウ。
>>241 でも中川家は勝ち組
織田家臣というか羽柴家臣というか微妙なとこだが
247 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 18:45:22
中公新書から谷口克広の「信長軍の指令官」という本がでている、この板の住人にぴったりだと思います
>>244 川尻秀隆は信長初期に主に活躍した武将だな。黒母衣衆の一員
功績としてまず挙げられるのは信長と敵対していた信長の弟、信行を信長の命で
殺害したことか。その後も目立った功はないが各地を転戦したわけである。
派手さはないが渋い働きを見せる、忠臣だったのではないだろうか。
武田家滅亡後は甲斐を預けられるが、旧武田家の残存勢力の抵抗にあっていたようだ。
本能寺の変の時は領国におり、武田家の旧臣三井弥一郎に殺されたとされているが
これには家康が深く関与していたという説がある。子の秀長は秀吉に仕え、
関ヶ原では西軍に属して伏見城攻めに参加したとされるが、討死もしくは斬首されたとされている
結論として秀隆は信長がうつけといわれていた頃からの忠臣であり、
決して愚将ではない。信行擁立論が高まる家中で信長に付き従った武将としてむしろ評価するべきではないか。
秀吉は何年くらいに勝家と対等(といったら語弊があるが)の立場になったの?
川尻秀隆って、父信秀の時代からの家来。真偽は疑わしいが、小豆坂七本槍に数え
られているところなどから、その頃から活躍していたんでしょう。
信長が岐阜を信忠に譲ったあとは、信忠つきの後見みたいな立場にたっている。
つまり、信忠の対武田から畿内、西国までの征戦の補佐役を務めたわけだ。
つくづく家康が憎い。
小説で申し訳ないんだが、川尻秀隆って勘定奉行みたいな事していた
という記述があったんだがどうなの?
>>249 本能寺の変後、光秀を討ったあたりでようやく同格、じゃないの?
信長存命中は、同じ一方の実質の司令官だったけど
自前の領地は勝家が越前50万石だったのに対し、秀吉は近江のうちの12万石程度
>>252 でも大名の仲間入りしたのは秀吉の方が先だったりするけどね。
三七なんか瀬戸内に沈めて七兵衛を四国責めの大将にすればよかったのに。
七兵衛はまずいだろ。
いくら有能だといっても、親父が親父だ。
信長の目の届く範囲ならともかく、四国なんかに放り込んだ日には
逆賊に担がれて背きかねない。
尾張からの家臣はやっぱ尾張弁で「みゃーみゃー」言ってたのかな。
そりゃそうだろう。
尾張・三河出身の大名が統治したことで
言葉ににゃにゅにょといった尾張弁が混ざった地域なんてごまんとある。
マジレスすると、当時からあのような方言だったわけはない
>>260 備後福山の出身で、ここの殿様は刈谷出身の水野家から阿部家に代わったんだが
宮家や杉原家のころの言葉と現在の言葉は全然違う。
だって福山は在日のほうが多い町ですから・・・
なぜいきなり在日の話に・・・?
在日が密航等で流れ込んだのは日韓併合前後の時期から
全然関係ない
何でも在日と朝鮮の話にもって行きたがる
>>263萌え。
267 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 15:20:50
どこでも韓国と在日を叩きたくてしょうがない嫌韓厨>263がいるのはここですか?
福山コリアンがファビョってるスレはここですけどね。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 23:22:44
織田の家臣がなんだのかんだのを読もうと思ってきてみたら、
なんでいきなり在日の話になってるんだ?
そもそも朝鮮の連中が日本に来る、なんて戦国時代関係ないし。
在日という言葉をいきなり使い始めた
>>263にしたところで、その前レス
>>262に繋がらず、
単に「福山」という地名に反射的に反応したように思える。
ネタが無くなったから、在日と厨房がうんぬんになったように見えますねナムナム
>>269 「福山が在日の街」になぜそこまで拘る?
事実なら別にいいじゃん。
>宮家や杉原家のころの言葉と現在の言葉は全然違う。
じゃしょうがないよね。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 12:05:38
さて、ここらで「森可成」を評価し直してみよう!!!
これが嫌われ者の嫌韓厨ですか?
韓国も在日もうざいが脈略なしにその話題に持ち込む奴はもっとうざい
福山や岡山の奴が書き込んだ時点で在日ネタになるのはしょうがない。
セオリー通り福山コリアンがファビョってるし。
さて、ここらで「森長可」を評価し直してみよう!!!
岡山弁の女の子ってイイよね
263必死だな
またキムチ臭がしてきました
って書けばいいのか?
釣りに即座に掛かる馬鹿よ
>>278
それにしても、本当に福山にどんな恨みがあったんだろう。
福山っつーと北と南に一つずつあるけど、
>>262は備後の福山か。
そこの水野は一応、織田の家臣といえないこともない・・・かな?
信元の代で織田に鞍替えしたんだっけ。
>>280 ざっと初代の福山藩主、水野勝成の来歴を読んでみたが、すごいなこいつ。
実際放浪時代のことははっきりいえばよくわからないが、
高天神から島原まで生涯現役だっただの、イグサの生産や上水道に着手するだの
奈良に放火しかけて家康に激怒されただの、わかる逸話にも事欠かないなあ。
子や孫もアレだしな
いや3男の成貞、その子の十郎左衛門。
ただのDQNとも言うが。
白柄組の旗本奴の水野十郎左衛門と親父ね。幡随院長兵衛とやりあって死罪にされた。
あの時代まで下ると「徳川将軍の家臣団を語るスレ」になっちまうけど。
結局武辺を売り物にしても戦はない、鍛えたところで腕の見せ場はない。
目端の利く官僚武士が出世していく、となれば武辺の一家がぐれるのはあたりまえというか。
熨斗つけて台湾にでも放り出せば、案外オランダ軍や清軍なんかとドンパチできて幸せだったかも知れん。
臭い
本人は朝鮮なんて興味もなかっただろうに
勝手に嫌韓厨に嫌われて、勝成公も迷惑なこった。
999 :李舜臣:05/03/01 22:26:31
李舜臣「999!!!」
朝鮮義民「世界三大提督の一人!」
朝鮮義民「朝鮮の至宝!」
天の声「倭賊よ、きちんと過去の過ちを認め、誠意ある謝罪をしなさい」
嗚呼、朝鮮。
神々の住まう半島。
〜〜〜 完 〜〜〜
上誤爆ね。失敬
思い切り誤爆に見えない、このタイミングをこそをかしける。
水野話が続いてるところでふと思ったんだが、
信長の治世が長続きしたら、勝成のような槍一筋の男って出世できなかっただろうな。
黒田や小西にはものすごい勢いで恨まれてるし。
水野の頃の家なんかほとんど残ってませんよ。
>>288 そのコピペ貼ってるのお前?関が原スレや信玄のネタスレでも貼ってたな。
キムチ悪いんですけど
確かに「偉大なる将軍様」という貧乏神か死神が住んでる罠w
295 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 01:24:22
埴原植安って人知ってる?
信州から巡礼でやってきて家臣になったってやつ
いますね、詳細は不明だけど流浪の身から信長にとりたてられた人。
信忠が尾張美濃を譲られたあとは清洲の城代になって、後に信雄に、信雄改易後は
ごとく姫(信長長女)に仕えて終生織田家から離れなかったとか。
どっかの猿面冠者に爪の垢でものませてやりてえ。
よく知ってるなぁ、そんなマイナーさん。
どこからかわからないけどやってきた馬術の達人で、
畿内一番馬術の達人!と称されて。
本能寺にもいたんだけど
「お前は仕官して浅いんだし、逃げれ」
と明智方に言われたのに
プゲラ
と一言放って、壮烈に死んでる奴もいますよね。
そういう流浪の侍でも忠節を尽くすことが許容される、というのが
織田家の一番の強みだったのかもしれないなあ。
徳川をはじめ、他の大名家ではやっぱり土着豪族の力が強いのに。
筆頭家老柴田でさえ元・謀反人だし(まあ、これは他の大名家でもあったけども)
出頭人の明智・羽柴・滝川にしても重代の家臣でもないし。
織田・豊臣とその路線(個人能力優先主義)できたのに、
徳川が数百年間の封建時代に叩き込んじゃうんだよね・・・
時代背景に合わせてるだけだよ
>>299 富山人は「自分とこ由来」と持っていく論法が大好き
なので確証は・・・
またチョソの話題にすり替わりそうな悪寒
306 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 23:06:13
>>301 徳川は、特に初期は譜代の忠節だけで保ってきたような家だからしょうがない面もある。
織田家辺りだったら、多分たった一人の当主が異国へ抑留された日にはあっさり家臣は自立してただろうよ。
清康も広忠もまともな死に方をしていない割りに、家康への(一向一揆時代を除く)家臣の忠節はかなりだったし。
なおかつ、信長の死後譜代も外様もごっちゃになって、織田の家臣が織田家の旧領を切り分けているのを見て
悟るところがあったんじゃなかろうか。
>>307 徳川、というか岡崎松平氏も内訌は続いているよ。
清康の死後、家臣及び一族の争いにより広忠は幼少の身で岡崎を捨てて亡命。
後に今川の後ろ盾で復帰。
家康も同様。広忠の死後、進駐した今川によって岡崎は抑えられ家康の家督が
保障された(今川からすれば、内乱分裂されるよりも家康の元で一つに纏まって
居た方が支配には都合がいい)。
広忠や家康が幼少にも関わらず家臣の下克上に遭わなかったのは松平家の実力でも
配下の忠誠でもなく、その上位(今川)の保障があったからにすぎない。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 01:23:50
しかし、信広はよく生き残れたね。単独で斉藤家と通じて信長に反抗
しようとするも、実行直前で発覚して、許されてその後は信長のもとで
外交面で活躍。その後、長島で一向一揆との戦いで戦死したんだよね。
しかし、長島で何人の信長の一族と家臣が戦死したやら。美濃三人衆の
一人、氏家も戦死しているし。
林と佐久間はリストラのような気がする。それと原田直政戦死後に家族が
追放ってことは直政に何か原因があったのかもね。
追放っちゅーか、信長って
・個人の才能以外に用はない
・当然”個人”が死んだら遺族に用はない
・でも遺族に”使える奴”がいたらそれはそれで採用
・ただし、近しい身内(一族)は別。なにをやっても信ちゃん許しちゃう。
だと思う。
>>301 大坂の陣の豊臣家を見ると
個人能力優先主義なんて微塵も感じられないわけだが
関が原後の豊臣家は別の話・・・
いくら織田の一族とはいえ、女ごときが実権を握ってたからな。
あくまで、あの当時のろくな勉学も戦もしない女「ごとき」だが。
>>314 戦国時代の女が勉強も戦もしないと、本気で言ってるのか?
316 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 09:22:25
戦か・・・
富田の妻とか・・・あれは局地戦か。
来島の鎧は、鎧しか残ってないし・・・
一軍を率いて戦った女性っていたっけ?
(謙信は女性だった!説を除く)
秩父のほうにいたよね。
剛勇の旦那なんだけど、大酒飲みでよく酔いつぶれてて、
そのときはしょうがないから妻が代わりに軍を率いて剛勇を(笑)
って人。まぁ局地戦ですけど。
317 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 17:02:44
豊臣家は譜代作りたいってことで徳川より身内マンセー主義になってるよな
318 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 21:33:39
徳川の身内を「松平」まで広げたらうじゃうじゃいるから・・・
・あくまで”家康の”、”権現神君”の血を引く親族
・プラス、厳選した松平
・プラス、せめて家康の兄弟
この程度に絞り込んだのでしょうね。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 22:26:24
>>316 あれも一応部下がいるからね…>諏訪部定勝の妻
320 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 02:47:02
家臣とは微妙に違うが、
信長の11男(長次)って関が原で戦死してるのね
ちょっと意外
俺の中で一番の謎は織田信張(遠い一族?)だな
蜂屋と同じく岸和田城を治めて
小規模ながらも紀伊方面担当の軍団長だった
彼の前半生とか誰か知ってる?
本能寺の後は早くに死去らしいけど
322 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 05:31:38
秀次の巻き添えで逝ったのいるね
>>321 織田太郎左衛門信張。 左兵衛佐。 寛廉。 信純。
於台(小田井)城主・織田藤左衛門寛故の子。
織田藤左衛門家は織田弾正忠家(信長の家系)・織田因幡守家とあわせ尾張下四郡守護代織田大和守家の三奉行であった。
織田藤左衛門家は信秀の代に相争った時期もあったがのち和睦。
国内外の戦が続くうち藤左衛門家の当主寛維や因幡守家当主らが戦死。
弾正忠家の信秀がより強い実権を握ったのであろう。
また信張の妻は信秀の弟・信康の娘。
従って信長とは義理の従兄弟にあたる。
弘治二年(1556)七月、『信長公記』に信長が「おどりを御張行」とある。
その中に信張の家来衆が地蔵に扮したとあるから、このころは既に信長の配下となっていたのではないかと思われる。
近江浅井攻め・比叡山の焼き討ちなどに従軍。
天正五年(1577)紀州の雑賀攻めに従軍して以降は、主に紀伊方面の押さえ役となった。
岸和田城へ入城。
一般に言われる柴田勝家や明智光秀などを将とした方面軍には属さず、信長直轄の遊軍的な存在でもあった。
本能寺の変の直後の動向はよくわからない。
のち尾張に戻り信雄に仕え1100貫文の知行を与えられた。
佐々成政が肥後の地での失政により切腹を命じられた後、秀吉より八代城を与えられたが固辞したという。
文禄三年(1594)近江大津で没す。
>>323 サンクス
よく知ってるなぁと関心します
尾張内訌の頃に信長と争ってたのかぁ
全然知らなかったです
紀伊を平定後は織田一族として与えられただろうね
光秀も中国か九州に飛ばされると思うし、小領主は信長直臣化
近畿はほぼ織田直属政権になるだろうね
325 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 14:37:41
>おどりを御張行
おどりの御奉行って読んじゃった。
>>313 豊臣・・・というか秀吉政権の末期に既にその理念は失われてたと思うが
327 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 02:56:52
戦に生きる漢、佐々成政の初期の身分が気になります。
生まれ年は1516年、1536年、1539年と諸説あり、また信長が家督を継いだ当時の彼の身分も
『春日井柏井三郷3千5百貫の信長所領をあずかる代官』とあったり、『信長直属の黒母衣衆』とあったり。。。
これは佐々内蔵助という人が複数いたとさえ思えるのですが、実際どうなんでしょう。
佐々成政は佐々家の三男坊に過ぎません。
信長が家督を継ぐまでに次兄孫介が戦死し、
桶狭間で長兄隼人正が戦死して初めて佐々家の
後継者となり、その後黒母衣衆に抜擢
されたと思われます。元々馬廻りだったようですが。
生年は1536年説が最も妥当かと思います。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 20:21:53
>>327 ・代々(兄弟)で「内蔵助」襲名
・兄が死んだので佐々家がやってた仕事を(若輩ながら)引き継いだ。
とかね。
富山城にいたのはほんの数ヶ月なのにご当地大名面してるのがなんとも
数ヶ月?
越中には天正9年から同15年まで領有していましたが。
富山城にいたのは13年までだが。
>>330 むしろ、御当地の人が持ち上げてるんじゃないか?
治水に力を入れて、佐々堤と呼ばれる堤防があるぐらいだし、
その他にも成政の善政を伝える伝説は多い。
粗暴のイメージが強い成政だが、
実際はこの時代の武人としては、珍しく儒学を愛好し、
その理念に沿った政治を行ったらしい。
それでいて、中央でも知名度の高く、
悲劇の最後を迎えた大名だったから、
数年しか君臨しなかった成政が、
御当地大名扱いされてるんじゃないかと思うよ。
家臣とは違うけどさ・・・水野信元ってどうして信長に殺されちゃったの?
ずっと親織田路線で戦ってきたのに。武田と内通するなんて、あり得ない気がするんだが。
>>334 信長に「わしは水野を冷遇しておる。きっと水野は謀反の気持ちを持つに違いない」と、
勝手に思い込まれて、疑心暗鬼で殺されたんじゃないかなあ?
実際、信元は忠誠を尽くしてきたし、功績も多いのに、全然見返りをもらってない。
新しい領地(畿内の肥沃な土地、あるいはどこかの国を切り取り放題)とか、
織田家中での高い地位(部将を指揮、京畿の行政に参与…)とか、
もっと優遇されても良いはずの人物なんだが。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 00:00:09
家康が怪しい
>>336 信元の後を継いだ忠重の系統は、忠重の子の勝成の代に重用され、
大阪の陣では戦国生き残りの老臣に代わって先鋒大将を務め、
最終的には10万石の大身まで昇っている。
謀略で追い落とした一族を、ここまで引き立てるとは思えない。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 22:41:04
>>333 越中(富山)はその後の江戸時代、ずっと加賀(金沢)の隷属的支配下になって
しまったため、富山県民はなにかというと石川県と張り合いたがるのです。
「金沢より富山は○○!」「石川県の○○より富山県の○○!」と。
(そんな富山県を石川側は無視)
前田利家や加賀百万石というキャッチコピーに対して、
佐々成政を
”郷土の英雄!前田なんかよりすごかった!惜しかった!
あの時IFがあれば富山百万石のはずだ!”
という感じに宣伝して対抗するんです。
そういう自慢は神保でやれよ、やってみろよ、と(笑)
>>332 支配権を確立する時間があったばっかりに、神保なんか佐々配下に
組み込まれ、失脚時に同時に失脚・・・。
おまけに肥後入りに一緒についてって・・・。
そして失職・・・。
肥後国人一揆で佐々が苦しんでいる時、お殿様を助けよう!と
越中人が徒党を組んで肥後を目指した!という微笑ましい逸話があります。
さすが米騒動&珍走団の発祥の地。
ただし、前述の越中人の佐々マンセー話の上でしか聞いたことがありませ
んので、事実かどうかはしりません。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 22:43:13
>>337 信元ひとりを切れば、あとは水野軍団(家中)として
利用価値あったんでないですか?
信長でいえば、信行→信澄のように。
越中富山の話題になるとここぞとばかりにお国自慢板住人が沸いてきますね
嫌韓厨と共通する部分が多くて見てて面白いです
「利家とまつ」の頃、対抗して一生懸命佐々持ち上げたりする
情けない郷土自慢の我が県を嘆かわしく思ってました orz
家康が三河統一に励んでいた時期に出された書状で、
「家康が出した安堵状に、信元がそのことを保障した副状」があるそうです。
信元は家康からは独立した存在で信長に属すので、これをもって家康が信長の下に
あった(清洲同盟は対等ではなかった)とする説がありますが、これによると信元
は同じ信長を上位者とする対等関係、場合によっては信長との仲介を持っており、
家康を上回ることもあったみることもできる。
そういう存在を疎ましくなった家康が……という説はありえる話だと思う。
>>318 蜂須賀みたいに松平の姓を下賜した大名もいるしねえ。
>>343 信元が嫌疑をかけられた1575年時点で、水野は徳川につけられた織田の与力というか
家臣のようで家臣でない、実に微妙な相手だったみたいだしね。三河で散々ドンパチしあった伯父だし
叔父といっても年代の近い忠重なんかとは又違った面倒さがあったんでしょう。
家康としても、東海道を抑えた自分に対して、昔の岡崎の松平の頃から何かと小うるさい目上格は目障りだったでしょうね。
考えてみれば、弟の忠重は佐久間・信忠といった重臣に仕えて、
本能寺の変では妙覚寺の信忠のもとに侍っていた、という風説が生まれたほどだったのに
兄の信元は、桶狭間以前というかなり初期から織田に従い、忠節を尽くしたにもかかわらず
自分の直轄ではなくずっと家康付きの織田部将という不思議な立場におき、
また自分の手下なら自分が処断するのが当たり前なのに彼の処刑は他家である家康に任された。
ちょっと不思議な話。
まるで信長にとって信元は徳川の家臣だったかのような扱いだ。
>>346 むしろ、徳川も織田の家臣と考えた方が良い。
織田家臣団の序列表に、ちゃんと組み込まれてるしな。
柴田・羽柴より上、信忠、信雄と同位と言うとんでもなく高い地位だが。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 02:13:48
水野信元は、所領は三河の西端あたりですよね?
織田が徳川につけた監視役ですか?
>>348 水野は徳川よりずっと先に、織田に従ってる。
だが、信頼は家康>(超えられない壁)>信元だったらしいので、
徳川の監視役どころか、家康が信元の監視役をやってたとすら感じる。
ただ、信元の後を継いだ忠重は、信忠に属し、家康の監視役も担当してる。
柴田における土肥、明智における細川と同じように
信長幕下・徳川家康軍団における与力扱いだったのか?
とすれば組下の信元の処分を、いわば軍団長である家康が差配したのも納得がいくが。
>>348 元々は小川城に拠点を構えていたけど、松平や織田といった勢力と小競り合いを繰り返し、
また織田に従い今川についた近隣豪族を打ち平らげ、信元の代で一説には27万石(多分嘘だけど)を領したそうな。
尾張から三河にかけて所領を持っていたそうだよ。
でも信元の刑死で全てがパア。弟・忠重は尾張刈谷3万石になってしまいましたとさ。
>>334 武田の内通で切られたのが安藤とかいるね
言いがかりといえばそれまでなんで
証拠とかはないんだよね
むしろ、なんでいいがかりをつけたのかってことのほうが疑問なんだが。
信長に、安藤であれ信元であれ処罰する理由があるのならそれを表に出して処罰
すればいい。本当に特に落ち度もないのに私的感情や言いがかり処分したのなら、
そのほうが家中に与える悪影響などが大きいと思うのだが。
353 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 20:23:05
水野信元の謀殺って、
築山殿と信康を殺したのと同時期じゃあなかったですか?
武田への内通の疑惑も同じ。
関連があるのかな?
三河内紛期だからね、その辺。
粛清でしょ。
>>352 佐久間たんも理解不能な追放だし
光秀が疑心暗鬼であーぼんw
>>355 佐久間の場合は、「やる気がないなら高野山に隠居しちまえ」というもので、
厳密には追放命令ではなかったとも言えるが。
>>356 後世から見ると佐久間はなんて情けないヤツだ、と見えたりするが、
佐久間本人にしてみれば「やってられるかコンチクショー」で高野山に行ったのかもしれないなw
358 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 03:48:52
>>356 確か佐久間は、この上は一軍を引き入って敵に攻めるか高野山に蟄居するか
だったかなw
敵に攻めろも特攻しろみたいなイメージだし
追放と考えるYO
佐久間は,また仕官されると思ってたのかな
高野山の人に織田家に帰参したら,厚遇するとか書いた書状が残ってる
佐久間・・・
>>358 佐久間ぐらいの功績があれば、
「一時の勘気に過ぎぬ。お怒りが解けたら、また用いられるに違いない」と思っても、
不思議じゃない罠。
信長が無能者を何十年も使うとは思いがたいから、
佐久間は相当能力と自負がある人物だったんだろう。
>>358 あれだけ酷い仕打ちを受けてもまだ織田家に対する忠義の心が残っていた、
という風に考えれば切ないエピソードでもある
信長の折檻状にはいくつも佐久間の問題点が列挙されてるけど
与力武将を酷使したっていうのが一番大きいかも
信長に苦情が訴えられたのかもね
それと、茶の湯にふけって云々というのもあると思う。
これが事実なら、当時織田家最大規模の軍団を任されていながらその体たらくでは
他に示しがつかないし、激闘を重ねる他の軍団長達も納得できないくなるだろう。
だからこそ、折檻状に柴田や明智羽柴の軍功を挙げたのだと思う。
大企業の重役が何もしないで遊び惚けていたらやっぱいい気分にはなれないでしょ
同格でも下っ端でも。
むしろ、石山攻めの責任取りじゃないの?
5年たっても攻め落とせず、周辺勢力と糾合させて織田家自体が危険になる直接の原因を作っておきながら
本人は与力に働かせ茶の湯に能とのほほんとしてたら
信長自身も癇に障るだろうし各方面で必死に他家と力闘している他の武将もムカつくだろうよ。
一気呵成に殺さず、「働くか武将を辞めるか」という勧告にとどめたのは
信長の冷たさというよりも自分を支えた老臣への温情のつもりだったのかもな。
佐久間にしては、主君より年長だし織田の重臣としての自負もあるだろうし、強気に出たらいずれ信長が許すと思っていたのかもね。
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 15:29:42
>高野山の人に織田家に帰参したら,厚遇するとか書いた書状が残ってる
帰参の可能性があるとか、忠義心が残っているというよりも、
他人には、そう思わせておいたほうが、何かと得だ。
いずれ織田家に帰参する人だと思えば、おろそかには扱えないからなー。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 17:06:55
話は変わるけど、秀吉さんって信長にどう思われていたのかな?
>>365 美濃・近江攻めの功績と恩賞考えられば、
ばりばり仕事する課長という感じじゃない?
播磨の頃は新規事業を手がける最年少部長ッツー感じかな?
>>365 禿鼠はよう頑張っとる。使える椰子。嫁も可愛げがある。
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 21:24:42
自分に忠誠を尽くすし頭もよければ要領もいいし、勘も鋭くて自分の思考についてこれるし
兵士は殺さず戦は手早く勝ってしまう。
無難に役に立つ男、というのが一番の評価じゃないかな。
たとえば戦上手と軍を率いさせ競わせるには力不足でも
砦を立てて外交をしてというレベルにまで行動範囲を広げさせれば危なげがない。
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 15:43:10
佐久間の息子は帰参を許されているな。
禄高は大幅ダウンだろうが。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 21:50:29
万見仙千代って、どんな人だったの?
それがわかれば苦労はしない。
でも
・元々官僚コース
・1年ほど大活躍
・の絶頂期に、たまたま出かけた軍監の仕事先ではしゃいで戦死
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 22:51:11
そっか…
やっぱり、それ以上の事は判らないんですね
こないだ安土に行った時に、結構デカい屋敷構えてたので
どんな人だったのかなぁと思いまして
ただ、有能な官僚だったくらいしかわからないな。
彼の一族で、江戸時代までに登用された人っていたっけ?
万見家で、同名の仙千代って人が天正9年に知行を受けているけど、子供かな?
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 01:00:40
万見仙千代重元とか森乱丸成利とか、元服してないのにイミナあるんだね
これはどういう仕組みになってんの?
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 01:38:00
どっちにしても普段は呼んでないからね
死んでからつけた場合もありそう
武田信玄の三男も一ケタで死んでるのに「信之」ってついてるし
>>371>>373 出自が明らかではないけど、一説には織田氏の傍流の縁者ともいわれてます。
主に検使や饗応での活躍が多く、当時の記述にはほとんど彼の名がみえます。
>こないだ安土に行った時に、結構デカい屋敷構えてたので
信長が名物披露を行うに際して彼の邸宅が使われた事もあるくらいです。
席次でいっても堀秀政や長谷川秀一らよりも上位に位置していたと思われます。
荒木村重の叛乱鎮定の最中に有岡城攻めで戦死しますが、彼の戦死を契機に
信長は近習の再編を行っているようなので、相当の能吏であり、信長の気に入り
でもあったという事だと思えます。
彼の戦死と信長の横死がなければ、行く行くは織田政権の重鎮に昇格する人物
だったかもしれません。
原田といい万見といい、信長の幹部候補生は結構戦死率が高いような
本能寺組はともかくもね。
ただ、荒木の謀反→各方面軍が独立で行動するようになると
信長と彼の直率は各地の総予備的な扱いになっているので
その過程で死ぬ人間も増えたんだろう。
>>378 原田は幹部候補生じゃなくて、堂々たる最高幹部なんだが。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 01:26:26
森蘭丸の親父で、森三左衛門可成っていたでしょう。
可成、なんて読むですか?
誰か教えて。
>>375 元服はしてるけど、月代剃らないままだから
元服前の名前で通ってたって話を聞いた事はある
信憑性は聞かないでくれ・・・
>>373 あの屋敷は今でいう「官僚宿舎」「大臣官邸」みたいなもんで、
彼の所有物ではないし、他人との謁見や職務事務の場所でも
あった半公共建築物なので、仕事量に応じて必然的に屋敷が
でかいだけかと思われます。
万見死亡後は、即座にその屋敷に後任が、
開いた屋敷に後任が、
と玉突き引越しが行われていますし。
重用されてた、重要な官僚だった証でもあるんだけどね。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 09:48:35
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 14:36:27
信長死後、信忠の兄である織田信正が世に出てこなかったのはなぜでしょうか?
信長の兄である信広の娘を娶っているんですよね。
>>387 信広と同じ大隈守を名乗っていることから、信広の家を継いだと見る説があります。
そしてその時点で、直系ではなく連枝の一人に数えられるようになった、とも。
信広にせよ信正当人にせよ庶子の出だから、やはり直系とは違うと見られていたかも。
>>387 信長の生前からずっと無視されてて、
古渡城を与えられた後は、ずっと放置状態だったらしい。
しかも、庶子であるので、浮上しようも無かった。
いかに年長であろうと一城の城主に過ぎず、何の役割も与えられてなかった兄と、
広大な領土と大勢の与力を持つ弟なら、誰でも後者を担ぎたくなる罠。
しかも、その弟が二人もいるんだからな。
信忠の庶兄であるという血統だけが、跡継ぎになれる条件ではないと思う
要は、家臣が担ぎあげて得をするかしないかが、一番重要
信正は担ぎあげても、軍事的政治的にも旨味にはならなかったのでは?
たしかに、清洲会議で後継候補に上がった信孝だって庶子と言えば庶子だしな。
むしろ、信雄のように才能実績から論外とされていたのでは。
信行の息子信澄だって出世のチャンスがあったんだから
やはり能力的な問題だったんだろう。
織田の一門衆って、どうもぱっとしない人が多いなあ。
でも家康の隠し子なんか一町人?で終わってるやついるよな
あと生涯蟄居だった弟とか
どっちも伝説レベルだけど
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 02:59:46
血を見るのが嫌いで、戦争が怖かった。
かといって、坊主になる気もないし。
小さな城の主として平穏に暮らすことが望みだった
・・・・・てところでは?
ところで、信正の生母は誰?
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 03:15:41
原田直政の妹とか何とか
>>395 原田直政が本能寺まで生きてたら、擁立されたかも。
織田家屈指の重臣が外戚になるからな。
そこが正室と側室のもどかしさ。
本能寺の変ごろの諸勢力が掴んだ情報
「明智光秀、津田信澄、柴田勝家らが相計って挙兵した」(毛利家情報)
↑
「津田信澄、明智光秀ら七人の主だったものが謀反した」(上杉家情報)
↑
・・・柴田からすれば「元主人・信行の子息」
>>394 信正は、たしか1584年には出家して、その後江戸時代まで生きてます。
小説的な想像をすると、当人はそれこそ武士でいたくはなかったが、親爺が
許さなくて仕方なく領国内部の安全な場所で過ごしていたとか。
84年の出家は「織田家の家督には関わりません」という彼なりの秀吉へのメッセージだとして
能力的には、どうだったんだろう。
にしても古渡城でぐぐっても、信長が元服した後廃棄された城か
桜川の丹羽氏の居城しか出てこない件について。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:15:34
うーん、その出家は、周囲の強制臭いですな。
信正の能力については、わからんけど、
信長は、自分が父の死後、家督を継ぐ際に、
家臣の一部が弟・信行を担いだため、織田家が分裂する危機を経験したので、
嫡男・信忠とほかの息子ははじめから差をつけて育てたという。
信忠の兄である信正に対しては特に、
能力を発揮して家臣の信望を集めないように心配りをしたのかもしれない。
(あくまでも推測だが)
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:28:35
84年ごろだと信雄の家臣になっちゃってたのかな?
流石に独立独歩で新織田家を作り上げるほどの才覚はなかったんじゃない?
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 22:58:21
信正が頭角を表さなかったのは
1…本人にやる気がなかった
2…能力がなかった
3…担ぐ家臣が居なかった(政治的に無力)
のどれかですね
まぁ…どうでもいいっつうたらどうでもいいけど…
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 23:01:52
まあ、信忠よりは劣ると、幼少時に判断されたから、嫡男になれなかったんだろう。
信忠も側室腹だから、決める前は同等だったんじゃないか。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 01:29:38
というよりも、
信正の母が、重臣・原田直政の妹、という点で、
信長が、後々外戚の力が強くなることを警戒したのかもしれない。
信忠の母の実家の生駒氏は、重臣になれなかったし。
何で、信長は武田の遺臣を取り込まなかったんだろう?
家康は命令に背いて、多数の元武田の家臣を取り込んでいたのに。
使える武将だっていたと思うんだが。
>>407 甲斐・信濃の土地を、信忠配下の尾張・美濃衆に丸々くれてやるつもりだったんじゃない?
だから、武田家の侍や、地侍を取り込む気は無かったと。
>>407 信長にとってみれば武田は長年頭を悩ましてきた敵だからな。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 06:57:45
信長は猜疑心が強いから武田の家臣が自ら頭を下げてくるのを待ってたんじゃないかな?でももし実際に頭を下げてきたら『武田に育ててもらいながらこの恩を知らない裏切り者め』ってなってたかも。世継については単に顔の良し悪しで決めてそう。
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 10:55:35
>>405 三歳しか差がないから器量とかで決めたんじゃなさそうだが…
はなっから信広へ養子にやっちゃったから家臣扱いだったってとこじゃない?
>407
武田の一族や重臣を直接殺してるのは司令官の信忠なんじゃないの?
甲斐侵攻は完全に信忠一人の手で行われたもんだし。武田の旧領が信忠の物になるのはほぼ確定だから、戦後の武田領で信忠の家臣が権力振るいやすくするように、とか
信長が直接命令を下して殺したのは小山田信茂、長坂釣閑みたいな重臣筆頭ぐらいだと思うんだが…
>>411 そして、城主以上になれるほど抜きん出た功績をあげたわけでもない、と。
家康が遺臣をそれなりの数で拾えたんだから本当に遺臣狩りしたか怪しい。
武田が滅んだ、直後といってもいい時期に織田家も実質滅んだし
あれ以降何事もなければゆっくり登用していくつもりだったのかもね。
それらもすべて、三州公の手の中と。
すると、武田遺臣虐殺(ものによっては織田が所領安堵で騙して殺した、なんてのも)
も徳川顕彰のプロパガンダか?
417 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 13:14:27
>>416 それはあるだろうな
「信長は武田遺臣を皆殺しにする」
というある種のデマを流し、徳川に引き入れる策があったかも
まぁデマが通る様な下地はあったけどね
418 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/01(金) 23:47:50
信州上州ではやってないし(信豊除く)
甲斐で死んだ(戦死除く・自刃含む)のは上の二人と信廉、龍宝、信龍(or信就)、信貞、信堯、
あと
山県昌満、秋山摂津守、朝比奈信置、小山田行村、曾根上野入道親子、日向大和守とか
全体の比率からいけばそれほどでもない感じ
小山田や秋山は土壇場で裏切り→信長怒るというよくあるパターンなんで別だな
信廉や信豊、その他は皆武田の一族。明確に寝返りをうったのでもなければ生かしては
おかないだろうな。これは通常の戦後処置のレベル。
それ以外で処刑されたメンツは小山田と長坂を除くと激減。
なんだ、普通の戦後処置しかしてないじゃないか信忠。
信長っていつの時代だろうと良くも悪くもイメージが先行されすぎ。
421 :
六角義治:黄天当立184/04/02(土) 02:01:26
快泉和尚の件はどうでおじゃるか?
>>421 六角義治や武田の一族をかくまって、引渡しを拒否したので焼き討ちにされた。
快泉和尚からすればアジールの行使のつもりだったのだろうが、信長からすれば
政治的な敵対行為に他ならなかったということだな。
比叡山や高野山に対して行われたこととと同じことだ。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 04:31:11
信州の戦後処理において、織田家のおこなった事は
極々、普通だった
しかし
「織田は武田遺臣を皆殺しにする」というイメージ…というか通説は、徳川の策って事でFA?
424 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 11:17:43
デマは家康というより信長に怨みのある本願寺勢力によるものかもよ。武田と本願寺て仲良しだし、当時の家康がそんなデマ流せるほど賢かったとは思えないよ。信長を恐れて自然に家康についたって感じがする。
秋山信友なんて名将で使えそうだが、叔母の件があるので信長は
当然、斬首するだろうしな。
小幡信貞が滝川一益の指揮下に加わったというから、必ずしも全員
斬首というわけではなさそうだな。穴山梅雪は武田滅亡後の1年後に
襲われて死亡したけど。
そういえば、武田一族の中で長篠で死んだのっていないんじゃ・・・
信実
>>424 甲斐の平定・北条の撃滅という時点で
徳川が織田に本格的に臣従するか、それとも謀反するかの瀬戸際に立たされるわけだし
謀反するなら言うも更、臣従するにしても信長を瞠目させるだけの力は得ておかねばならなかったろう。
今川に続き、武田の遺臣団獲得は、家康にとっても大きな賭けだったんじゃないのかね。
家康って、信長生存中から武田遺臣を積極的に取り立てていたのか?
もしそんなことをしていたら、
>>422 のように信長から咎められると思うが。
遺臣虐殺がプロパガンダというのは賛成だが、それはあくまで江戸時代以降に家康
を顕彰するためのものであって、武田滅亡当時に行われたものだとは思えないが。
だよな
本能寺以後だろう
信長死後に甲斐信濃の武田旧領を手に入れるために、武田遺臣を徳川にひきつける
ための策。
こう考えればいいかな。徳川には穴山家というツテがあるし。信君が死んだのも
好都合だったろう。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 21:38:15
徳川家は織田家に対し臣下礼をとっているわけではないから信長卿に「武田遺臣ヲ与シズル事之能ワズ」と命じられてもそりゃ内政干渉というものであろう。
信長が徳川家に対し政治強制した件はせいぜい上洛完了後の足利十五代公方に挨拶にこいよ、ぐらいだろう。休題、信康処断令なぞもっての他である。
武田征伐で駿河もらったのは臣下になったってことじゃないの?
433 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 22:02:31
小牧・長久手合戦時における徳川家の立場は織田家との軍事同盟者の立場を明確にしているので臣下とは言えぬであろう。ま、今のアメリカと日本みたいなものか・・・
例え臣従していなかったとしても、信長の敵である武田の遺臣を、信長の意向に
逆らって大量に抱えたりしたらそれは「織田への敵対の表明」とも受け取られかねない。
さらにいってしまえば、甲斐信濃は織田のものであり、そこの住民に対しても生殺与奪
の全権を織田が握ることになる。そういう連中を徳川が召抱えるというのは、逆に徳川
による織田領への内政干渉になってしまうぞ。(甲斐から逃げ出して浪人になった旧武田
遺臣を召抱えたというのならともかく-もっとも、この例も、信長の処刑から逃げ出して
きた人物なのだとしたら、やはり信長に対する敵対行動になるが)
信長の生存中に家康が武田遺臣を大量に召抱えたのなら、それは織田の許可のもとに行わ
れたとみるしかない。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 22:26:26
ならば羽柴は重大な軍令違反をしてますぞ。柴田軍離脱の件、叡山殺生見逃しの件など。
徳川家は織田家の為に存続危機すら招いた。ゆえに武田家討伐後に一国もらったとしても内心当然と思ったはず。
織田と徳川はプレゼントのやり取りを結構やってるぞ。信長から砂金プレゼントがあったし家康の金の延べ棒返しという事もあった。
文献に載ってないプレゼント交換だっていっぱいあったはず。徳川家を完全支配下に置くなんてこの時の信長は考えていなかったであろう。
信長による天下統一ほぼ完成した時点で自然に家康は臣従をせざるを得ない状況になったであろう。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 22:28:18
強敵だった武田家が滅んだ今、信長は徳川家を潰す口実を求めている
はずだ・・・と、家康は思っていただろうから、
信長から難癖をつけられかねないようなことをするわけはない。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 22:38:20
徳川を潰す!? 潰した後を考えると織田連と諸豪連だけではとてもとても。
徳川がいない織田なんてブラックコーヒーに砂糖だけという奴だわ。
織田と徳川は同盟関係にあたるが、信長個人はこの時点で天下の執政者、つまり天下人
となっていた。そのため、信長と家康は対等にはなれない。
家康からすれば、信長が不完全(全国制覇の成し遂げていない)でも立場としては天下人
となった以上、逆らわないのなら臣従するしか道はない。
豊臣政権だって江戸幕府だって、服従する大名をいちいち理由もなく取り潰したりはしていない。
家康が我々は対等だなんて言い出したら討伐の理由にもなるが、そうでなく頭を下げている
のなら積極的に潰すこともないだろう。
コーヒー豆とお湯は言いすぎか
ところでスレ違いな話だが某所より
「津軽藩は関ヶ原で東軍に与しましたが、明治維新の時まで弘前城を守る館神として秀吉の木造を安置していたという非常に恐れ知らずな藩なのです。
おまけに合戦後、石田三成の次男・重成を勝手に連れ帰ったうえに正規の藩士として召し抱えたという敵対行為スレスレのことまでやっています。
よくもまぁ、それで藩命が途絶えなかったものだと苦笑するしかありません。
大阪城こそ残しましたが、太閤を祭ることができなかった大阪民国とは年期も気合いも違います」
すげえな津軽。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 22:49:24
やっぱ今のアメリカ(織田)と日本(徳川)の関係というのがわかりやすい。
>>440 三成の息子の子孫って、津軽家の家老になってなかった?
>>441 むしろ、NATOのアメリカとヨーロッパ諸国の方が相応しいかと。
軍事同盟であり、アメリカ軍に対する上位の指揮権が確立されているが、だからと
いって完全に組み入れられているわけでもなく、内政に干渉権もない。
津軽はキリシタンもかくまってたし、九戸の乱のときの縁者もかくまってた
もう最強
445 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 00:49:49
よく知らないが、真田がその抹殺に当てはまらないのはなぜ?
>>445 1抹殺自体がなかった。
2真田は勝頼政権において殺しておかねばならないほどの重要人物ではなかった。
3木曾や穴山のように、事前に誼を通じて安堵を受けていた。
イメージ
信長-いかりや長介
秀吉-加藤茶
家康-高木ブー
光秀-仲本工事
勝家-荒井注
久秀-すわしんじ
>>438 織田と徳川は最初から同盟ではなく、徳川が織田の従う形
同盟なら家康が清洲まで出向きません
正確にいうと、対等な関係ではなく、上下関係の同盟ということだな。
それも、武田征伐のころまでには臣従関係に(表向きはともかく、実質上は)なるが。
そういや、宇喜多って扱いはどうなるんだ?
被官というか、子飼いの大名、といったところじゃない?
内政干渉云々と上の人が言ってたが、条約もないあの時代、同盟なんて力の差があれば干渉も糞もないし。
強ければ自由ってことだ。
そういう意味では、宇喜多は織田・豊臣をうまく使ってのし上がった家だろう。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 09:52:15
>451
どうしても徳川家を織田家の支配下にしたいみたいだね。
信長が武田家討伐後に徳川家康と穴山梅雪に対し安土において甘美なる極上接待をした事績がある。
そして信長が「徳川氏・穴山氏を丁重接待しなければならないので街道を整備し宿泊地ごとに国持・群持大名が出来る限りの手を尽くし接待せよ」(この待遇はものすごい事だぞ)
と一級のお触れをだしている。接待役は嫡子信忠、織田家重臣の丹羽氏だぞ。これだけ見ても徳川氏に対してただの被官とか子飼い大名という言葉は当てはまらぬ。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 10:42:23
>>452 断定はよくない
まぁあれだろ
本音(実質)…織田>徳川
建前(表向)…織田=徳川
《織田》木曾《武田》
《織田》宇喜田《毛利》
今川滅亡後
《織田》徳川《北条》
武田滅亡後
《織田》真田《上杉・北条》
大勢力に囲まれた小さな領主が生き残るには、色々大変だと言うこった
徳川の織田家に対する貢献を考えてみれば、その位の接待は至極当然
織田が対等に見てたと言うよりも、徳川が対等に見せていたと言うかだな
454 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 11:02:47
ならばいくら客人とて上席にの左側に座らせるかの?
左は当時同等かそれ以上という意味である。
客人だから左なんだよ
現在でも下請け業者の慰安宴会とかで上座に座ってもらう時もあるし
織田家が天下統一寸前までいったのも
徳川の存在は決して小さくない
しかし実質的には武田に対する防波堤にしか過ぎないと思う
本能寺がなかったとして、あのまま、
武田滅亡後、北条まで織田家の勢力下におかれて行ったら
政治的に徳川は、織田家被官化の道を辿るか
粛正に合うかのどちらかだろう
456 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 11:41:24
徳川が織田家の組織下に組み入れられるのは時の趨勢や原理だから仕方ないのは分かってるのです、そんな事は。
客人を上賓扱いし左扱いして当然と言っているが当時の常識儀礼とか礼法とかのを勉強したことはおありか?
武家が武家を招く時は総じて四通りのパターンがあったそうです。とても細かいし会議も一杯しました。奥が深くて頭おかしくなるくらい煩雑で難しいのです。
信長宴席会で上賓でも右扱いの客将はいっぱいおります。しかし信長の中で徳川はかなり別格だったという事を言いたかったわけであります。
でも織田徳川が決してべたべたした関係ではなく信長は家康に対し三方原合戦後「あの体たらくな陣立ては何事でしょうか?私は少しく失望しました」と手紙を書いてるし
有海原大合戦時、織田援軍がなかなか来ないのを見て家康も「いままで迅速機敏な卿がこれほど遅速では長篠の要害も持ちますまい」とも言いました。
織田・徳川同盟もvs武田の辺りは危ない状況に陥っていた、という事も付け加えておきます。
>信長宴席会で上賓でも右扱いの客将はいっぱいおります。
って誰
無駄な話しなくても、徳川側から織田側への書状とかの内容みれば
徳川は織田家を主と見なしていたし、織田家は徳川家を外様の一門衆のような扱いをしていた
家忠日記を見てみれば、家康の呼称と信長の呼称で大きな差があって面白いよ
460 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 18:35:17
>徳川側から織田側への書状とかの内容
どの次期でどんな内容かお教え頂ければありがたいです。
461 :
455:黄天当立184年,2005/04/03(日) 22:45:45
>>456 織田にとって、徳川が別格ってのは判ってるが…つうか常識でしょ
一応《家臣団》スレだから、徳川もいつかはそうなるだろう…と話を降っただけで
政治的軍事的に格下になってしまった徳川を上賓に据える
というのは、比較的同格であった尾張時代からの慣習からかもしれないね
単に、お互いの後方防御のための同盟で
織田が強力になりすぎたからといって
急に家臣扱いも出来ないし…といった所か?
書状関係は、読んだ事あるよ
たしか吉川弘文館のやつで
家康も言うときゃ言うな
完璧なイメージある信長の後手に回った戦略は、かえって安心するw
>徳川が織田家の組織下に組み入れられるのは時の趨勢や原理だから仕方ないのは分かってるのです、そんな事は。
わかってるなら噛み付く必要ないじゃん。
清洲の昔ならいざ知らず、天下を取った織田と東海道を守った家康、名目上は対等でも、実質の格差は十分。
別格だったからなんなんだ?今川の旧領土を併呑し、優れた家臣団を揃えた徳川、また世間に広まった家康の風評、実績、
それらを考えてみれば、自分の家臣やそこらの小大名と一緒くたにはできない存在ではあったろう。少なくとも名目上は。
名将同士の信義に満ちた盟約という虚と、実際はただの織田のガードマンにしか過ぎない現実を
無理にすり合わせる必要などないな。
家康は、「家来としては別格」の扱いだよな
限りなく配下に近い同盟相手、って事でしょ。
実力の差が開いたから配下扱いじゃ、摩擦が大きいから、上賓の礼をとって大事にしてた、と。
徳川家が「同格の同盟だ!!」って言って、織田家の要望に対して是々非々の対応だったら、実力が開いた段階でなんらかの処断があったかもしれんけどな。
それが、大体織田に忠実だったから、無理に織田家に組み込む必要が無かったんでしょう。
徳川家が基本的に織田家に忠実なら自領も同然だし。
とはいっても、武田氏滅亡後の信長が帰路を東海道(徳川領)にとるけど、
そのときの家康の接待というか心配りって涙ぐましいものがある。
同盟といってもほとんど従属なんだなあと実感させられる。
このまま織田が天下とったら
豊臣政権下の前田みたいな感じになったっつうことで
467 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 11:48:40
家康が聞いたら怒るぞ。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 11:53:12
配下? 家来? ハァ?
469 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 12:36:44
>>465 まさに狡兎死して走狗煮らるという状態寸前だったと言ってもいいからな
三方が原や高天神のころ強気に出られたのは武田あってのものだし
470 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 13:17:00
織田と徳川の関係って武田と小山田、穴山みたいなもんかね?
あれで甲斐を信忠が押さえ、伊豆、相模の北条を下せば
徳川にとっての隣国は織田のみになる。
そして、わざわざ残しておくには、東海道は豊か過ぎる。
秀吉はそういう意味で家康を関東に封じたが、信長ならどうするだろうね。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 18:36:11
用済みでポイ。
蝦夷地に追いやるとか海外遠征で使い潰すとか。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 19:39:45
奥州探題に任命して昔の事をほじくりだして追放だな。
同盟というのは利益を得る為の政治行為。
同盟を存続させたかったら、同盟相手にとっての自分の価値(手を組んでいた方が
得)を高める努力が必要になる。
織田にとっての徳川の価値は東への盾ということ。東からの脅威(武田)があるうちは
織田にとっても必要な存在だから重視したが、武田が滅亡した直後は両者の利害関係が
白紙になってしまった隙間のような期間。徳川としては、なんとしてもこの間に関係の
再構築をさせたかったんだろうな。
ところで、織田と徳川、武田の関係をアメリカと韓国、中国(北朝鮮)とするのはさすが
に家康に悪いだろうか。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 20:51:29
まず武田に悪いよw
北条が存続しているうちは、北条への盾(としても微妙だが)として同盟も存続可能、
しかし北条以後は?ってことになる。
それこそ関東に封じて奥羽の盾にするか、臣従か族滅かを選ばせるか。
どっちにせよ、信長生存の場合でも、家康がのんびり東海を治めていられる可能性は低いね。
それこそ、本能寺での信長死亡、柴田・明智・羽柴・滝川の織田家同士の内乱は
家康にとってはまさしく天佑だったわけだ。
478 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/05(火) 00:56:41
徳川の家臣が信長を上様と呼んでるのに、武田滅亡以後に同盟でもなかろう。
本能寺で三河に戻った家康君は、光秀討伐を名目に尾張美濃の織田家臣へ
通りたいから同心してって頼んでるが、すべからく断られてる。
ここが外様だと思わせるところかな。
徳川との対等の同盟者としての織田家当主は、76年以降信忠だし。
「上様」としての信長は当時の意識からしても家康とは対等ではなかったんだろう。
フロイスの記述なんで精度はわからないが
本能寺にかり出された明智兵は
当初徳川を討ちに行くのだと信じていたらしい
なんとなく当時の徳川の立場を想像できる
そりゃフロイスじゃなくて城惣右衛門覚書だろ
>>480
>>475 せめてイギリスとソ連ぐらいにしといてください
城惣右衛門覚書
↓
本城惣右衛門覚書
>>481 いや、「回想の織田信長」
フロイスだよ
あのまま行った場合、徳川家が織田家の家臣になるという形ではなくて、
幕府か何か、何らかの公的機関の長に織田家の当主が就いて、
その機関の管理下に徳川家も入るという形になったんじゃないかな。
「家臣」というのは、「家の臣」と書くくらいだから、
ある意味(例えば朝廷から見れば)私的な関係でしょ。
その場合臣下だろうな
やっぱり信長の目論見は幕府か、あるいはそれに代わりうる組織の創設だったんだろうか。
普通に幕府を作っただけでは遠からず瓦解するということは、足利を見て知ってただろうし
(といっても、足利が滅んだのは代々大名に甘かったからでもあるけど)
これから、という時期に信忠に家督を譲ったのも少しわかりにくい。
同じ問題の家康なりの答えが、鎌倉をモデルにした幕府だったわけだが。
>>484 回想の信長というから、少し悩んだがフロイスの日本史のことね
ごめん、やっぱ君が言う記述ないぞ
本能寺では誰も謀反を疑ってなかったので、明智の兵が信長の側まで誰にも見咎められずに行けたとか、
そこで信長が洗面していて、手拭いで拭いてるのを発見され、背中に矢を受けるも
矢を抜いて薙刀で応戦し、腕に弾創を受けたところで置くに引っ込み、火を放ったとか書いてはあるが
>>487 これからって時だからこそ家督譲ったんじゃないのかな
武田にも劣らず戦には長けてたわけだし
早めに隠居しとけば、相続問題の解決はおろか、長い間影で支えてやれるし、
スパンが長い分だけ家臣をまとめやすいだろうし
自分は死んでも、後切れ・内乱の憂いなくしときたかったんだろう
ただ、よもやまとめて自刃に追い込まれるとは思いもよらなかっただろうな
目論見だが、こればっかり…というか、信長だけはビジョンがよくはっきり伝わってこないのは確か
俺ら凡人には到底理解しがいたい思想を持っていたに違いない
490 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 12:18:22
>>487 「織田家督」と「天下人の座」は別でしょ。
持ち株グループ会社と考えればわかりやすいんでないの?
グループ総帥が信長
兼務してた総本社CEOを信忠に任せて後継者宣言
あと関連会社がいっぱい。
全国の大名をまとめる「上様」として信長が君臨し、
その中の一大名としての織田家は信忠が率いる、と。
まあ将来的には徳川家のように、織田家当主=天下人とさせたかったのかもしれないが。
信長隠居の時点では天下人と織田家当主は分かたれていたわけだ。
実際、どっかの仮想戦記のように、超大名的組織を作ろうとしていたとまでは想像するも陳腐だけど。
信忠だけでも生きていれば、あるいは信忠ではなく信孝信雄が二条城にいれば、また違ったのかもしれないが
信忠は逃げを打たずに、わずかな手勢で明智に突っ込んでしまったのが悔やまれる。
492 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 16:13:17
>>490 なるほどね
判りやすいな、それ
信長直属の家臣はどうなるんだろ?
織田家所属?
それともまた、別の存在?
>>488 えーっと、久しぶりに押入から引っぱり出してみた。
ネタ元は中公新書「回想の織田信長(フロイス『日本史』より)」第三版(S52刊)
P148。
「それはすでに述べたように1582年6月20日、水曜日のことであった。
兵士たちはかような動きがいったい何のためであるのか、
いぶかり始め、おそらくは明智は信長の命により、
その義弟である三河の国主を殺すつもりであろうと考えた」
たしかに、ある。
おれは本城惣右衛門覚書はネットで知ったんだが
これ見たとき、フロイスの資料って少なくとも宗教がらみ以外では
なかなか信憑性あるんだなって見直した記憶がある。
なるほど、そういえばそうだ。
おれの打ち込みミスかと思ったが
本文にはたしかに1582年6月20日水曜日になっているな。
>>494 和暦と西洋暦の違いじゃない?
いや詳しくは知らないけど、フロイスの史料って基本的に本国に報告するためのもの
でしょう?だったら和暦で記述なんてありえないと思うが(読ませる対象はあくまで
ヨーロッパ人)。
暦でいうなら太陽暦の西暦と太陰暦の京暦では、月自体が違うよ
フロイスは本能寺の変当時は京に居なかった(この時の報告はカリヤン)で
彼が早朝に洗顔してると、時の声が上がって本能寺の変を知ったそうな
日付が違うのは面白いね、詳しく調べても損はないね
>>492 総帥の直下社員。”グループ持ち株会社”社員。<直属
なので子会社(秀吉や勝家)から「総帥によろしく」と付け届けが来るwww
「社長秘書にもお土産買っていかなきゃ・・・」という感じ。ああなんか哀愁・・・
そのうち関連会社(子会社)や臨時プロジェクト用会社に出向配属
>>491 つーわけで他の大名連と織田家総領はやっぱし格がちがうっつーか
>>493 中公新書の人の間違いってオチじゃないよな?>日付
500とったら高野山へ追放
織田信長と足利義教って最期が似てるよな
両方とも富士遊山をした直後に家臣に殺されてるし
独断専行なとこも似てる
逆説の日本史では織田信長と足利義教は政治思想や概念、行動力といい瓜二つだってさ
それじゃオレも
おまえはただの瓜じゃ
能ある鷹は瓜隠す
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 15:08:14
保守
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 16:50:20
林は最後追放されてるが、息子の林光時は信長に贔屓されてた。
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 22:08:11
信長の直臣の給料は、どうやって出てたの?
盗み
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 17:45:59
柴田勝政って最後どうなったの?
賎ヶ岳の合戦で部隊が壊滅した、というところまではよくでてくるけど、
結局死んだの?
信長の野望やwikiだと生き残って秀吉に仕えたことになってるが、
盛政は刑死、安政はとことん反抗してるのにおとなしく家臣になったりするんだろうか
ボウズ…
そ、そんくらい自分でお調べよ…
…?
いったん金森長近さんのとこにいたことしか知らない
勝政か・・・
討死だったよーな、命を永らえてたよーな
>>515 そんくらいと言うなら知ってるんだろうな
>>518 メル欄見れ。
ぐぐっても出てくるし。
でもぐぐった記事では脇坂に討たれたとかあるね。
北庄城で…は、権六では?
権六はつかまって切られたんじゃなかった?
その後全然登場しないことを考えると死んだんじゃないかと思うが、>勝政
従五位下もらったって話もあるけど、ちょっとした大名クラスだよねこれ
勝政、1592年正月に豊臣姓を授けられた、とか。
柴田にしても滝川にしても明智にしても、嫡子の印象が
ほんと薄すぎるな。
本能寺の変のとき、20代の息子がいれば、
今後の展開も大きく変わったかもしれない。
柴田は確か養子だし、明智滝川は・・・。
織田の重臣の中でまともに嫡子を残したのは丹羽池田くらいのもんじゃない?
丹羽だって15ぐらいでしょ?
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/28(木) 14:37:20
丹羽は光重という優秀なお孫さんがいるな。
輝政は長久手で兄貴が死んだおかげでツキが回ってきた感じだな
それ言うなら佐々成政もな
826 日本@名無史さん 2005/03/28(月) 18:14:30
厳密に言うと大名ではないんですけど・・・
柴田勝定
柴田佐渡とも呼ばれる。
柴田勝家家中で、血縁の有無は定かではないが
(従兄弟説、またはまったく別人・丹波の土豪説あり)、
北の庄城代を勤めるぐらいのポジションにあった。
本能寺の頃は柴田家を離れ、明智家に所属。
山崎では中央先陣を采配。その後殿を務めたらしい(ここで死亡説もある)
その後、堀秀政に仕え、賤ヶ岳で勝家と激突。
小田原攻めでも堀家先陣を采配。のち一城を任される。
その後、福島家に仕え3000石。厚遇と言ってもいいけど改易。
そして最後に加藤忠広に仕え・・・
どうやらとても有能の人だったらしいですね。
なのに、かなり不幸の星の元に・・・w
530 :
織田秀敏:2005/05/11(水) 15:44:14
忙しくて2ちゃん全くみれなかった。
今チェックしてみたがワシが最後にレスしたのは12月かぁ・・・
まだこのスレが地味に残ってて感謝です。
スレの内容は充実してるし、他家からの侵略(荒らし)
も殆どないようですな。信長に成り代わりお礼を申し上げまする。
最後のレスは11月だった・・・
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 02:38:20
5・12は信長の誕生日あげ
533 :
織田信長:2005/05/12(木) 11:13:04
おまいら、盆山参りを忘れんなよ
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 23:30:36
生駒一正って信長のいとこなのな
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/14(土) 01:02:32
お前ら知ってるか。織田信長は、明らかに室町幕府将軍の足利義教と斉藤道三の2人を模範としていた。そして天皇を排斥しようとして殺された。間違いない。彼が生きていれば今頃日本は、ジンシナやチマチョゴどもにとやかく言われるような社会ではなかったはずなのに。
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 00:57:20
>彼が生きていれば今頃日本は、
信長、長生きだな。
文脈嫁よ
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 09:14:48
堀秀政が好きだな
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 13:54:00
どう好きなのか書けよ
長秀 秀長 秀吉 秀政 秀貞
信長のおやじから一字もらったのって誰?
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:34:14
丹羽家って長秀以降どうなってんの?
(・)3・)
林や佐久間とともに西美濃三人衆の1人、安藤守就も武田との内通疑惑を
疑われ、領地を没収されて隠棲させらたのか。本能寺の変の後、挙兵した
時はすでに80歳ぐらいだったと言うが。
あと、磯野員昌の出奔も謎が多いね・・・。
>545
勘気受けて追放じゃなかった?
追放ではなく、出奔つまり磯野の意思によるものだったはず。
そして理由もわからずその後歴史に全く登場しない。大名でもない一介の降将が
一群支配を任されるほど重用されたのにね。
磯野は猛将で…しかも信澄を養子にして将来的に期待されてたのにな
突然消えて信長の方がショックだったりしてな
うつ病だったんじゃないの?
んなこたぁない
残された磯野家は、信澄が継承したんですかね?
>>551 いや、どうだろ。磯野と名乗った書状があるかな?
ないような気がする
北畠信雄 神辺はちゃんと名乗ってるんだけどね
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/28(土) 17:11:56
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 23:22:32
保守
555 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/01(水) 22:46:56
>>551 信澄は津田氏じゃなかったっけ?
信行(信勝)の子でしょ?人違いならスマソ。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/01(水) 22:57:02 BE:11582922-#
おいお前ら!
明日は何の日?
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/01(水) 23:14:13
天安門事件
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/01(水) 23:27:02
み、光秀が動き出しましたぞ、殿!
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/04(土) 13:40:35
結局、織田家臣の最終的な勝ち組は
前田・池田・細川の順でよさそうだな。
首相出した細川が今のところトップ
ん?血統的には池田がトップでは?
細川は摂家とだが、池田は今上天皇と親類
竹中半兵衛は大腸癌だったのか?
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 01:12:43
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 09:52:19
ああ
ガラシャがいたんでしたな
スマソ
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 11:19:02
>>562 岡山池田も鳥取池田も幕末、血筋的に徳川に乗っ取られてないか?
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 12:28:59
>556
信長の命日は六月二日であるが新暦(グレゴリオ暦)に直すと七月一日となる。
一日になったら本能寺跡と建勲神社へ行くべし
おそらく561と562は話が噛み合ってない。
それを562に説明してあげた564の言っていることを、565は理解できてない。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 17:46:23
大筋では通じてる
うん
蒲生氏郷はどうだったんでしょうか?
人質に自分の娘を嫁がせるぐらいだから、よほど聡明だったのか…。
>>566 岡山池田は徳川の縁続きじゃ不味いので、人吉相良から
分家鴨方藩に養子に来ていた章政と代わってるよ
章政の曽祖父は岡山藩から人吉相良への養子だから血筋的には
恒興−輝政−光政の血は引いている
丹羽長秀って、信長最後の切り札だったのでは?
軍事、内政、調略何でもこなせるし。
軍団長に就任しなかったのも、信長が手元に置きたかったからと推測。
そして、天下統一目前で油断して長秀を離したら、本能寺発生…!
四国攻めの軍団長じゃん
↑え?
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 09:13:34
四国攻めは信孝だよ
信孝の副将で補佐役だわな。
あ?
俺様んときは軍団長にしたぞ
信孝の補佐(実質軍団長)で四国出陣しようとして信長から
離れたら本能寺ってこと。
つまり長秀さえいれば、本能寺は発生しなかったんだよ!
一瞬の空白を突いた光秀がなかなかやるじゃんってことで
>>578 四国攻めの主将が実質上丹羽と言うのはウソ。
信孝が名実共に主将で、丹羽・津田信澄・蜂谷頼隆が三人同列で副将。
軍団長にこだわるような感じの信長にしては珍しいよね。
中国には秀吉、光秀の策略家ツートップを山陰陽から当てて、上杉には家中一の猛者権六、
関東には進退上手の一益。
なにゆえ四国は信孝なんだろう。順当に丹羽だろうと思う。
倅の優遇?武田に当てた信忠の例からイケると思ったのかな?
丹羽長秀って、天正期に入ってからはあまり軍事的な活躍が見られないのよね。
安土城建築に関わったあたり、信長からの信頼はあったのだろうけど、軍事面では
若狭を与えられてからは余り戦場に出ていない。遊撃隊として東西に合戦に派遣された
滝川とそこが違うんだよな。おかげで所領はほとんど増えていない。
蜂屋も元亀年間には活躍したが、天正からは泣かず飛ばず。信孝は、信長に認め
られての抜擢だろうが逆に言うと領土的には小さい。
四国軍って、そのまま寄せ集めなんだよな。北陸軍や中国軍のように、主将が
一番軍勢を持っていて核になっていたのではない。
四国遠征は三好康長の援軍という形取ってるから
康長の養子(予定?もう入ってた?)の信孝を四国に派遣し、信長が後方で遅れて待機
はっきり言って、信忠の甲斐侵攻と同じ形式
北陸やと比べて核がないというが
秀吉や光秀は、小身から切り取り次第で勢力拡大してるんだし
勝家だけだな、始めから越前与えられての軍なんてのは
もっとも加賀は梁田が失敗してから勝家に加賀侵攻任されたんだけど
信長軍を会社にたとえると、信長が社長で、
柴田や秀吉は支社長だという言い方をよくされるが、
丹羽は秘書室長って感じだな。
秘書は長井じゃない?
丹羽は便利屋かなあ
そうだね、秘書というのなら初期の村井や武井、松井から若手の万見、堀といった側近たちだろう。
丹羽は…なにかで「総務部長」といわれていたな。
長井で村井って読み取ってくれたお前に感謝
長井って誰だハズカシー
.┌━┐ ┌━┐
┃┌╋──╋┐┃
└╋┘ └╋┘
┃ ・ ・ ┃ ┌━━┐
●━╋┐ ┌╂━━━━╂┐ ┃
└━┷┴━━╂┘ └╋━┘
同じスレにはコピペ ┌╋┐ ┌╋┐
できるけど、違う ┃└╋╋━━╋╋┘┃
スレにはコピペでき ┃ ┃┃ ┃┃ ┃
ない不思議コピペ ┃ ┃┃ ┃┃ ┃
└━┘┘ └└━┘
丹羽長秀の仇名って「米五郎左」だよね?
どっかで「鬼五郎左」ていうのも見た気がするんだけど。
まあとにかく、織田家にとっての丹羽長秀がいかに必要不可欠な
存在だったか良く分かる仇名だと思うわけ。
秀吉の石田三成、浅井長政みたいなもんかな
.┌━┐ ┌━┐
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同じスレにはコピペ ┌╋┐ ┌╋┐
できるけど、違う ┃└╋╋━━╋╋┘┃
スレにはコピペでき ┃ ┃┃ ┃┃ ┃
ない不思議コピペ ┃ ┃┃ ┃┃ ┃
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>>591 鬼と米の両方あり。
丹羽は武将としてもかなり勇敢なので、
鬼五郎佐でも違和感は無い。
>>592 言われてみると、浅野長政と近いポジションだな。
丹羽よりは浅野のほうが有能そうだが。
ベゴロザの方が語呂いいな
それはそうと、
長政って多いよねって話を持ち出さずにいられない気になった、なぜか。
黒田もそうだなー。
>594
いくらなんでも、浅野より丹羽の方が有能だろう?
>>596 浅野は全国規模の行政組織のトップの一人。
中央集権化を推進した能吏にして、秀吉軍団最古参の勇将。
仕事のスケールでは、丹羽より浅野のほうが大きい。
封土も一番活躍してた時期の丹羽は若狭八万石に留まったが、
浅野は甲斐二十二万石に封じられてる。
甲斐二十二万石に封じられたのは息子の方な
>597
秀吉政権下でのそもそもの立場が違うんだから、仕事のスケールとか
一概に比較できないのではなかろうか?
んでも、織田家臣団はやっぱ過大評価されてるよな
過大評価っていうか、
あの上洛後数年のあの支配規模で中核担ってた人間は、
他の勢力家臣とは比べ物にならないほどの執務政務おこなってたわけだから。
過大評価っていうのは、
小さい勢力でそれなりの仕事で上記の人間と同格の評価されること。
井の蛙をもって海を語るべからずに近い。
過大評価というのなら徳川家臣団だと思うがな。
織田家臣団は文字通り自分の力で領地を征服拡大していったのだが、徳川の領地拡大
の過程は…。
織田家臣団も豊臣家臣団も徳川家臣団も萌える
伊達家臣団ってなんであんなに過大評価されてんの?
>604
俺もそう思う。というか政宗が一番過大評価のような気が。
スレ違いスマン。
長秀の死は、勝家の祟りではないかという説もあるんだね。
織田家の宿老でありながら、柴田勝家を支持しなかったことが原因だ
そうだが・・・。
秀吉は宿老とは呼べないのかな?
まあ祟りなんてものを説とか呼ぶのはどうかと思うが
丹羽も秀吉も宿老とは言えまい
宿老とは累代仕えた重臣を言うのが通常だし
柴田や林、佐久間は織田家で累代で重きをなしてたが、丹羽に関しては
重きをなしてたとはいえない様だし
そこで池田恒興ですよ
>>608 丹羽長秀は丹羽氏の中では傍流で、
もともと小領主だったから、織田家の宿老とは言いがたいな。
柴田勝家の父勝義の地位はそんなに高くなく、
勝家の代になってから急速に力を伸ばし、重臣に連なった。
丹羽も柴田も「信長の宿将」とは言えるが、
「織田家の宿老」とは言いがたいな。
織田家自体が新興勢力だったんでしょ?
というか、柴田勝家も本人一代の実力で成り上がった武将だよ。
勝家の父親も判らない。一族係累も不明。尾張時代に大所領を持っていたわけでもない。
フィクションではエリート風をきかせた勝家が成り上がりの秀吉を蔑むという構図だが、
実際には(本当に勝家が秀吉を嫌っていたのなら)自分と同じ実力でのし上がってきた
後発の者に対する危機感みたいなものだったんじゃないかな。
同じ身分が低いところからのし上がった身だからこそ、「あいつより俺の方が上だ」と。
織田の累代宿老というと、やはり林、佐久間、平手あたりかね。他はほとんど信長との
関係で取り立てられた。
一応信秀の下でも働いていたんじゃないの?
勝家が信秀の代から仕えていたのは間違いないところなのですが、どのような活躍を
したのかが不明なのでなんとも。
まあたいした活躍がなかったというのなら信勝につけられるとも思えませんが(ただし、
見方を変えれば、織田家の嫡流ではなく分派に付けられたことが勝家の立場を物語って
いるとも言える)。
稲生の戦いでは一説に柴田勝家が千、林美作が七百を率いたとあるが、この兵数、林が
自前の戦力であるのに対して柴田の場合は末森衆を信勝に代わって率いたとされている。
君主に代わって大将を務めたのはたいしたもののように思えるが、では柴田家自前の兵力
はというと。
信長の有力家臣、親族が本願寺戦、特に伊勢長島一向一揆攻めでかなり
戦死しているな。兄の信広、弟の信興、西美濃三人衆の氏家とか。
信長や勝家の負傷、原田直政の戦死も含めていい気が。
信長の一族は戦死率高いよ。
信興の戦死ってやたら小説やドラマで取り上げられるけど、
信長お気に入りの弟だったのかね。
信長って冷酷な武将という印象が強いぶん、
所々に見られる家族とのエピソードが何か良いな。
信長は親族にはメッチャ甘いでしょ。
信勝ですら1度(2度だっけか?)許してるし、美濃に通じた庶兄の信広も許してる。
親族以外にも甘いよ信長ちゃんは
大抵一度の裏切りは許してる
あの松永弾正にですら甘かったよな
ぶちギレ状態の信長を想像してたら、権六・林など許したのも考えられんし、
林・佐久間親子の追放も少し遅いくらいに感じる
義弟・長政には容赦なかったが
そういえば親族以外でも一度の裏切りは許してるな。
二度目以降は容赦ないけど。
長政の裏切りは真剣にピンチだったからな
>>621 まぁ、後に許そうとして大和半国与えるから降伏しろとか言ったけど……
その時は久政が悪いとか何とか言わなかったけ?
けど、そんな甘い人をマジギレさせると……ガクガク
荒木村重にたいしても「不満があるから聞くから」なんていって、何人もの
使者を派遣している。
荒木謀反に関しては人質を京で処刑した信長の残酷さを示すエピソードとして
あげられるが、本来は逆。信長は、謀反を起こされて一年以上たっても人質を
殺していなかったのだ(普通は謀反を起こした時点で処刑する)。
さらに「村重が降伏すれば城兵も人質も助命する」とまで。
結果は村重が拒否したので全員処刑になったが、冷酷だ残酷だと責めるのなら
信長ではなくて村重の方だろう。
家臣じゃないが比叡山も?
>>626 一応、事前交渉はしている。
「こちらに味方するなら横領されている山門領を返還する。朝倉は檀那故それは
できないというのなら中立を保ってくれ。あくまで敵対するというのなら山門悉く
を焼き尽くす」
信長は、別に仏教嫌いでもなければ宗教とみれば分別なく弾圧しまくったわけでは
ないよ。政治的に敵対したから、政治的に(軍隊と戦争で)対応したと。
叡山にはかなり書状を送っただろ
そら、信長さんは賢いからな。
信長って結構イイ奴だよな
>630
道灌
行動は苛烈だが、感情は甘いってことかな。
うん。よく人間離れと評されるけど、
とても人間味ある人物だと思う。
秀吉も同様に。
実の弟を殺した
義理の弟も殺した
僧侶を焼き殺した
仇敵の骸骨で杯を作った
将軍を追放した
重臣を追放した
結果だけ見ると冷酷に見えなくも無い
禿げしくスレ違いだが
比叡山高校OBです
宗教の時間に、『我が比叡山には開山以来絶やした事が無い不滅の法灯と呼ばれる灯明がある』と先生(僧侶)が言ったので、
『先生、信長公の焼き討ちの時にはさすがに途絶えたんちゃいますか?』と質問したら
『途絶えた事が無いって事になっとる!』と怒られますた…
早崎先生、お元気ですか?
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 09:51:45
骸骨はフィクションだよ
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 17:27:38
みんなが裏切るから信長が人間不信になったのだ。
本当はやさしいいい子
比叡山焼き討ちっつっても、比叡山の本山焼いた訳ではないからなあl
麓の坂本とか焼いただけだし
意外と途絶えてないかも
>>635
最後までいい子だったよ
明智たんを信用しきってて裏切られての言葉が「しょうがないやテヘヘ」だもん
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 19:05:17
是非に及ばす=しょうがないやテヘヘ
なのか?
・是非に及ばず(ぜひにおよばず)[=叶(かな)わず]
善し悪しや方法をあれこれ論議する必要がない状況。
最早そういう段階でない状態である。どうしようもない。
是非も無し
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 20:53:17
>>639 >>比叡山焼き討ちっつっても、比叡山の本山焼いた訳ではないからなあl
>>麓の坂本とか焼いただけだし
比叡山もだが、麓の坂本の地層から、その当時の大規模な火災の痕跡は発見されていないそうだ。
つまり、焼け焦げた木材や瓦の破片などが埋まっているはずだが、見つかっていない。
地元の研究機関が25年調査しているが見つからないと新聞に載っていた。
このことから、信長の延暦寺焼き討ちはなかった、と将来結論付けられるかもしれない。
火災は起きたとしても、2・3の僧坊が失火で燃えた程度だったのか?
僧兵、高僧、女、子供、見境なく殺戮した、も否定されるかもな。
殺戮がほんとなら、大量の白骨がどこかに埋まっているはずだからな。
まあ、当時の文書に、どう書いてあるのかは、漏れは知らないけど。
比叡山焼き討ちはなかった。
信長により、延暦寺天台宗は、比叡山・坂本いったいから強制退去させられた。
との結論になると面白いと思ふのだった。
延暦寺焼き討ちに関する記述は信長公記の除くと興福寺の坊主の日記になるが、
その内容は伝聞になるからな。つまり、うわさとして「焼き討ち」の話を人づて
に聞いたと。
そういや朝廷や公家の日記にもあるらしいが、これも伝聞を書き留めたものだし。
三万人殺した原城だと今でも骨が出てくるな。
まあコロされた範囲が違うけど。
>>644 勉強になった。
焼けた木材を再利用したりはしてないよな、流石の信長でも。
しかもソースがそんなに少ないとはね。
伊勢・長島の大虐殺は?
あれも眉唾っぽい
柴係りの秀吉が炭として再利用
炭としては使えないと思う
墨ってただ単に木燃やすだけじゃないぞ
そんなマジレスされるとは思わなかった
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 11:36:46
信長公記には、山上の僧坊「一宇も残すことなく」焼き払われた、と書いてある。
老若男女を、日吉大社奥宮に追い込んで殺戮したとも。
もし、物的証拠が出てこないのなら、「第一級史料」の信憑性が大きく失われるだろう。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 03:21:41
>>634 >>仇敵の骸骨で杯を作った
信憑性の薄い第一級史料である信長公記によると、薄濃(漆で固めて金等で彩色したもの)であったらしい。
これを白木の台に据えて飾って、宴会は大いに盛り上がったそうだ。
よくドラマで、金の骸骨を見せられて、秀吉や勝家たちが、恐怖におののく場面があるが、
宴会は盛り上がったってのが本当らしい。
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 03:47:30
まぁあの時代の人は現代の我々に比べると、生首すら普通に見慣れてるだろうからな
>>654 何かの本で、仇敵の骸骨を杯にして祝い酒ってのは
中国の戦国時代の風習、とか書かれてたんだけど、マジ?
信長のオリジナルじゃないの?
まあ恐怖におののくことはないよなー。
日常的に首とって持ち帰ったりしてるんだし。
>>656 古代中国に、仇敵の頭蓋骨を杯にしたというエピソードはある(別の説によると、
杯ではなくて便器にしたとか)。しかし風習とまで根付いていたことなのかは不明。
遊牧民族、古代のスキタイ人などには人間の体(骨、皮)で何かを作るというのは
やっていたそいうだが。
信長に関しては、このエピソードは信長公記にしか記述がなく、しかもそこでは
「宴会の肴」として出したとしかなく、杯にして酒飲んで部下にも強要したなんて
一文字もない。この手の記述が出てくるのは、基本的に戦後になってしかも小説の
類のみ。信憑性のないこと夥しい。
>>656 春秋時代末期、晋の智ヨウの専横から生じた戦争で三年もの篭城を強いられた
趙撫恤が、勝利後に智ヨウの頭蓋を便器にした、という話しからきているのかと。
いくさに出ない女の人だって、
取ってきた首を綺麗に洗ってお化粧するという役目を普通にこなす時代だ
見慣れてるなんてもんじゃない
まして綺麗に固めて彩色した首じゃ、怖いなんてこと全然なかったでしょうな
たしかに、頭蓋骨を杯にするって中国の文化っぽいな
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 10:11:21
本能寺の変が起こるのわかっていたんだろ?
金箔はって飾るなんて、死に化粧みたいなもんか
あの時代、生首は見慣れているだろうし、
別に珍しいものではない。
もしかしたら、敵将の首を肴に宴会を盛り上げるのは、どこの大名・武将もやっていたのかもしれん。
(普通だから、特に文献に残らない、、とか)
で、金漆で固めた首を持ち出したから、さすがに信長様のやることは絢爛豪華だ!ということで、盛り上がったのかな?
ただ、俺が疑問なのは、
金漆で固めても、生の首なら、腐敗するはずだ、ということ。
朝倉・浅井の滅亡は、前年の8月・9月。
この宴は正月だから、生なら確実に腐ってるはずだよ。
やっぱり、髑髏だったんじゃないかなー?
安土城とともに燃え尽きて、現物が残っていないのが残念だ。
敵前に首級を陳列して兵気の喪失をはかったりはするけど、
首実検ではどの家も粗末には扱わない。
首を肴に宴会、というのはどうなんだろう……。
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 07:20:03
首実検おわればだいたい要らないのが首
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 08:59:54
1000
までたどりつけるわけがない( ^∀^)ゲラゲラ
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/15(金) 10:35:50
秀吉さん謀反なさいませ
>>665 首実検が終わった首は返還されるのが普通。
要らない、といえなくもないけど、何も多くが粗末に扱われるわけでも
ないと思うんですが。
>>669 義元の首は、今川に返還したようだけど…。
滅ぼしてしまった、浅井・朝倉の首は、誰に返還したらよいのか?
てゆうか、
岐阜城下に、何日か晒すんじゃないのかな。
この通り、浅井・朝倉を滅亡させましたって、告知するために。
晒し首のさらしは、晒しでいいの?
晒し首が罰になるってことは、普段は丁重に扱うってことだ
よね?
武田勝頼の首は、安土城下に晒されたらしい。
何とかゆう僧が、菩提をともらうために引渡しされた、とどこかのスレに書いてあった。
たぶん、浅井・朝倉、その他謀反人、凶悪犯などは晒し首でそ。
刑罰というよりも、見せしめ・周知の意味が強いと思う。
勝頼は典厩ともども六条河原でも晒されてますが
そういや沖田畷で討たれた竜造寺隆信の首は「不吉だからいらない」と突っ返されたとか。
基本は用事がすんだら遺族に返却なのかな。
ただ、戦で討たれた場合と罪人として処刑された場合はまた違うだろうが。
晒し首は、倒した事をはっきり証明して。
生存説を利用しての反乱や内乱等の動きを封じる為
と言ってみる。
>>676 そーだろね、じゃないと本能寺の時に光秀が必死に探し、秀吉が信長生存と書状に書かないもんね
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 23:11:02
>>663 戦勝祝いの宴で、獲った敵将の首を肴にするのは、普通にやっていそうな気がするが、、
そうゆうことを書いた文献て、無いのかな?
首実検とかは結構厳粛に行われたんじゃないのかな。
いくら見慣れてても人の死体だし。
そういや平安貴族は、通勤途中の道端に魚の死体があっても
「死穢に触れた」って家に引っ返してたと聞くけど、
武士に「死の穢れ」っていう思想はあったのかな。
平安貴族ほどひどくなかっただけで、全く持ち合わせていなかったことはないだろう。
ただ、日常的に殺生(狩りも)をおこなう武士には「死の穢れ」がそこまで強くあって
は生活できなくなるがな。
まとめると、戦でとった首は、
1)首実検で、誰の首か確かめ、論功行賞する
2)戦勝祝いの肴として、宴を盛り上げる
3)城下に3日ほど晒す
4)縁者または僧から要請があれば、返還する
4−2)例外的に金漆で固めて保存する場合もある
こんな感じでいいでつか?
ふむ
一端まとまったところで家臣団の話に戻したいのだけど
マイナー家臣の面白い話を誰か知らないかな・・・
兼松正吉だっけ、足半を家宝にしたとかいう人。(うろ覚え)
そういう微笑ましい武士はおらんかね
使者に出されたものの、口上の内容をすっかり忘れて、
服を脱いで傷だらけの体を指して、
「これにて五千石」と言った家康家臣ってだれだっけ?
>>682 関ヶ原の津田藤十郎との一騎打ちは本当なのかねえ。
他には、家康の信を得た市橋長勝とか。
水野勝成は信長んとこに身を寄せてた時期あったかな?彼も面白い人。
三好三人衆襲来で摂津から急行して、「六条表の花槍」と評された坂井直政なんかもいい。
あと名前失念したけど、戦の時に兜が見つからなくて、笠で出陣したっていう人もいたねえ。
>戦の時に兜が見つからなくて、笠で出陣したっていう人
「編笠清蔵」こと、伊東長久。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 19:19:44
今夜の「その時、歴史が動いた」は九鬼水軍だぞ!
マイナーといえば、中川重政について詳しい人いませんかね?
京の行政に関わったり、元亀の江南への宿将配置にも安土城、というかもと六角氏の居城
観音寺城に配備されたりと結構重要な役割を担っているはずなのに、その前後に全く出てこない。
どんな経歴の人なんでしょうか?
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 23:08:48
中川重政は織田一族です。黒母衣衆の出身です。
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 23:14:29
>>686 見逃した_| ̄|○|||
再放送って明日?
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 11:49:50
>>681 いくらなんでも、
>>2)戦勝祝いの肴として、宴を盛り上げる
は、ないんじゃないかな?
織田家随一の猛将ってやっぱり勝家?
>>686 「九鬼水軍」という言葉は使われてなかったね
「織田水軍と九鬼嘉隆」って表現が随所にみられた
九鬼は水軍を率いた家臣で、水軍の名義は織田信長と主張してたのかな
>>692 猛将の定義によると思う
けど、勝家でないかな
佐久間信盛も猛将
>>687 なんかの事件で失脚したんじゃなかったっけ?
>>687 中川重政は改姓後の名で、もとは織田忠政といい、織田氏の出身。
系図では信長の叔父・信次の孫とされるけど、これは誤りらしい。
永禄初頭の黒母衣衆に名を連ね、要は馬廻であったのが、二度目の
信長上洛の際に、それまで畿内の行政に携わっていた、柴田・森・佐久間・
坂井・蜂屋から刷新された丹羽・明智・木下の中に加わる人事をうけて吏僚
として家中での地位を急速に上げる。
禁裏や周辺の国人との折衝などが主な任務。
その後、越前遠征が失敗して近江の情勢が緊迫し、柴田や佐久間、森らと
ともに江南の要衝に置かれる。
これは姉川合戦などを経て江南情勢が泥沼化した中でも続き、蒲生郡に
所領を宛がわれる。
ただ元亀三年に、蒲生郡に同じく所領を宛がわれていた柴田勝家と刃傷
沙汰におよぶ所領争いを起こし、所領を没収されて失脚したとか。
後に帰参を許されたらしいけど、歿年も定かではないみたい。
けっこうてきとうに書いたんで、詳しい人が補足してくれると助かります。
>>639 そうだよな。猛将っての定義によるけど
柴田、佐久間、明智、羽柴は十分猛将になりえるし
森可成とか佐久間大学とかも猛将の名に相応しいと思うな
一般的なイメージの猛将だったら、やはり佐久間盛政かね。
猪武者なら
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 00:07:09
>>696 秀吉、光秀とかは智将イメージが強いけど
当時の宣教師はとても戦に強い猛将と称えているよな
確かに言われて見れば織田軍の苛烈な前線に立って
度々勝利を重ねる彼らは家中きっての猛将
何気に荒波を越えて日本へやって来た宣教師も猛将
しかし、フロイスの「日本」とか、
客観的(キリスト教マンセーではあるけど)に日本を見た人の
記録は面白いな。
信長なんて容貌まで描写されてるし。
家臣にはこんな事出来ないよね。
氏郷って「軽き大将」って言われてたらしいが、正確がアレだったのだろうか。
あれ?先陣きって大将自らブッ込んでくからでねーの?
>>701は性格が「軽い」と言いたかったのだろうかw
氏郷は自ら突っ込んで、大した怪我もせず帰ってくるからすごかったな。
性格が軽かったら信長の娘貰えないだろうw
軽かったら、人質のまま過ごして坊さんにでもなりさそうだ。
ただ、秀吉に言わせればやはり「大将としては軽薄」なんだろうな。
ο丁児は良コテだと思うよ
聞いてないか
軽き大将ってのは軽率って意味だ
なんだよ、軽薄とか軽快とか
夏の到来を感じさせるな
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/31(日) 11:57:16
>>691 戦でとった首は集められて、女性が洗って、口紅とか化粧をしてきれいにする。
誰がとったとか、論功行賞のためなら、そこまでする必要ないだろう。
やっぱり、戦勝祝いの宴を盛り上げるために、陳列するためと思われる。
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 23:18:04
討ち取ってから状況終了後に首を水で洗う。簡単な従軍僧による呪封の儀式(この儀式は形式な事がおおい)。
その後勝軍主将・幕僚による首実検(氏名を書いた葉、或いは紙を口にはさむ)をする。違場所で展覧する場合は汚露が滴るのでさらに水洗い。
長期保存の為首桶に塩を入れ塩漬けにするのが古来からのやり方。(敵重要武将の首の場合)
首返還は勝将の性格による?しかし大国首領を攻殺した場合返す人がおおい。その時代の世間体で。
時によってけわいを施すばあいもある。
佐久間 川尻 池田 林 蜂屋だったら誰が一番有能だったんだ?
まあ佐久間じゃね
大学?
そうそう
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 00:24:01
>>711 晒し首は、何日くらい晒すんですか?
烏などに齧られないように対策とかするんですか?
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 20:40:21
晒し首といっても敵将を討ったみしるしの場合と罪人の晒し首では意味合いにおいてまず違うね。
戦国期は期間が約百年あって地方によって取り扱いがかなり違うみたいだ。敵将の恨み具合なども多きに関係してくるだろう。
何せ文献が少なすぎて一概に言えない。事情によってバラバラ。晒しっぱなしもあっただろうしキチンと日数をカウントあるいはヌエの食散具合で処理したかもしれん。
晒し場に守衛兵がついているとヌエもこないだろうし・・・
江戸期の罪人の晒し首については東京なら鈴ヶ森の脇にある寺で実際に調べるか小塚原で検索しては?
名古屋なら栄国寺か土器野で。
本能寺後、秀次処分、関ヶ原で
大名から脱落したのけっこうあるな。
脱落前は結構優秀だったのにね
>>718 レス、サンクス。
何日晒すかの決まりはないってことですね。
長政らの首については、討ったのが8月9月だから、晒したあと土に埋めて、 肉が腐って落ちたものを洗って、
金漆を塗ったものだろうと想像します。ぎりぎり正月に間に合うくらい。
つまり生首の金箔ではなくて、しゃれこうべの金箔でしょう、たぶん。
しゃれこうべで盃を作った
って話になってることもあるもんね
しゃれこうべ金漆なら別にこわくないな
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 18:50:06
多分頭蓋骨の上蓋骨の一部分のはくだみ仕上げ、と思う。
西洋にもあるからねぇ。
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 13:05:32
義景、滅亡時の首を飾り物に、
義景10歳のときの首を杯に。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 00:17:15
age
川尻の死って自業自得だとか言われているけどどうも胡散臭さを感じるなあ・・・
暴政を行ったと言うのは後付だという気がしてならない
>>725 そりゃ、家康による甲斐侵略を糊塗するためには、川尻秀隆を悪者に仕立て上げなくてはならないからな。
どちらにしろ一揆で殺されたのは間違いないんだろ?
その一揆を使走したのが家康という説も。
なにしろ、甲斐国人に対して家康から安堵状が出ているのだから。
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 11:03:11
age
>>726 領民の一揆を抑えられなかったことも
家康の策謀を見抜けなかったことも落ち度には違いない
まぁ都合よく悪役に仕立て上げられちゃう程度の人物だったとしか
佐々は黒百合やらで蔑まれているものの、佐々堤などの善政も伝わる。
川尻はそういうのが伝わらない。
まあ、統治して数ヶ月だったことも影響しているとは思うが、
そう捉えられても仕方がないことか。
川尻に似たパターンで簗田もいるな
河尻は信忠軍団の副将を長く務め、
あの信長から一国を与えられるほど、
高く評価された武将なのにな。
終わりを全うしなかったせいで、
構成の評価が暴落しているな。
やっぱ一揆に討たれたって印象悪すぎ
上からの指示が無けりゃ動けない人物だと思われてもしょうがない
まぁ織田家臣団はほとんどそうだったわけだが
信長が信忠に「秀隆を父と思って、何事も相談せよ」と言うほど、
信頼されてたんだがなあ。
秀隆は上の指示が無ければ動けないどころか、
上から相談されるような人物。
一揆に討たれたのは、本能寺後の混乱のせいだろう。
滝川一益や森長可のように本領まで逃げ切れば、
また後世に与える印象も変わったかもしれないが。
信秀時代からの歴戦の武将なのは間違い無いからな
川尻は佐久間の劣化版
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 19:42:14
一揆とはいえ武器弾薬を備えた旧武田武士の武装集団。江戸時代の完全百姓ではない。
この当時、半農半士ではあるが。
追放される前の佐久間氏のことを知りたいんだが
どなたか詳細をきぼん
>>741 佐久間右衛門尉信盛、柴田勝家と並ぶ織田家の有力家臣。
一族には織田信秀に仕え、信行(信勝)付きの家老となった佐久間大学助(盛重?)
がいたが、信長と信行が対立した時期に信行を見限り一族で信長に臣従したようである。
桶狭間の合戦では佐久間大学は丸根砦にて今川軍の攻撃により討死し、信盛もこの時、
善照寺砦を守り今川勢と戦っている。この後、信盛が佐久間一族の惣領となったようで
ある?
永禄年間の信長上洛戦では木下秀吉・丹羽長秀らと六角氏の箕作城を攻略。
上洛後は畿内を転戦し、京の奉行を務めたりしている。元亀年間には宇佐山の森可成、
安土の中川重政、長光寺の柴田勝家等とともに、永原にあって近江野洲・栗太郡を支
配し、六角氏の追討、近江平定に活躍している。姉川の合戦、叡山焼き討ちにも従軍、
徳川応援での三方ケ原での武田と合戦ではさっさと逃げたりしている。
その後も天正年間には小谷浅野攻め・一乗谷朝倉攻め、長島一向一揆の殲滅、長篠の
合戦、越前一向一揆の殲滅と主な合戦に従軍しており、天正四年には石山本願寺攻め
に従軍し、天王寺城に据え置かれて、子の信栄を補佐に本願寺攻めの大将となった。
従来からの三河・尾張・近江の与力に加えて、大和・河内・和泉・紀伊の与力も参加
する7ヶ国からなる大軍による一大包囲戦を任されることとなった。
この間、本願寺攻めを担当しながら、雑賀攻め、信貴山城攻め、播磨援軍などにも従
軍している。
天正八年、朝廷を通じて和議を結び、本願寺が石山より退去した後に信長の譴責を受
け追放となる。本願寺攻めの怠慢の他に譴責状には色々と父子の非が述べられている。
一旦は高野山に隠くれるも、そこも追われた信盛は翌年、熊野の十津川で没した。
余談になるけど
「退き佐久間」なんて有名な異名もあるし、信長が安土築城中には信盛の家に
やっかいになったり、長篠の戦で偽書状を送って武田軍を油断させたり
馬場隊の猛攻にピンチだった前田隊を助けたりと何気に地味だけど
重要な働きをしてるね
信長の戦いの一つで、三千の兵で一万五千の本願寺軍を破ったとされる天王寺合戦が
あるんだが、この時信長は先陣に佐久間を当てている。
なにしろ五倍の敵に正面から突撃をかけるという戦い。この時の信長の佐久間に対する
信頼は抜群だったんだろうな、忠誠面でも軍事能力でも。
>>744 信長が負傷した戦いだったな。
そのニ、三日前に原田直政が戦死したあの激戦。
そんな寡兵で戦ってるとは知らなかった。
>>744 その戦いって、最初は荒木村重に要請して断られたんだっけ?
>>746 津本陽の小説ではそんなストーリーになってたけど、実際はどうだったんだろう。
ちなみに記録では
第一陣 佐久間信盛、細川藤孝、松永久秀
第二陣 滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀
第三陣 信長直卒の馬廻部隊
位置的に荒木が不参加というのが謎。もしかしたら対本願寺の別方面を受け持って
いて不参加だったのかもしれないが。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 12:22:31
ほす
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 14:57:09
>>447 いやいや、光秀はどう見ても志村でしょう
新参なのに目だってしかもハゲw
工事は丹羽かな
コントでもいかりやに対する反骨っぽい役なのもそれっぽいとおもた
>>746 不参加ではなく先鋒を断ったと記憶しているが・・
出陣拒否だお
梁田出羽守・梁田広正親子ってなんで信長様の信頼があったのかなあ?
梁田出羽守なんて桶狭間の論功行賞で沓掛3000貫で1番だったし
広正なんて別喜(賜姓)右近大夫(官位)もらってるし・・加賀も切
り取り自由で任されたし・・詳しいひといます?
↑加賀一国切り取り自由任されたが、失敗したので閑職にまわされますた
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 22:16:42
佐久間信盛は信長親派だったから信長も一目置いていたのだろう。
軍・政の実務能力も人並み以上にあったんじゃないのかね。
ただ、信長に意見したでしょ?信長の面目まるつぶれの。
それからだね、信長の佐久間氏を見る目が相当変わったのは。信長自身も年をとって性格がいやらしくなっていったのだろう。
つまり邪魔な大木の根切りをしたわけだ。
それくらいで寝切りされちゃあ光秀も安心して仕えてられんわなあ・・・
信長が生きていれば、権六も根切りされたんだろうなぁ。。。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 18:30:29
政局が安定してくれば有能者の粛清は必定。
>>742 >>741です。亀レスですが、742をはじめ、皆さんのカキコために
なりました。ありがとうございます。
やはり、見た感じでも軍事などでも実力を発揮した人材だったと思いました。
それを「20年間無奉公」でかたづけるのは、信長もきつすぎるかな、と。
佐久間信盛っていえば、朝倉攻めだったかで信長に皮肉めいた意見を吐いたり
した話を聞いた事があるんだけど、どんな話だったかな?
それとも講談レベルの話?
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/24(月) 23:34:06
信長家臣団データファイルでは武藤舜秀はえらく高評価だったけど。皆さんは武藤舜秀について、どう考えていますか。
>>760 皮肉とは違うと思うが
内容は
信長が「夜には山頂に陣取った朝倉軍が陣を放棄して退却するから、そのとき
直ちに追撃しろ」と諸将に命じたが、皆半信半疑でいざ朝倉軍が退却を始めて
も誰も動かなかったので信長は仕方なしに自ら馬廻を率いて追撃した。
それを知った諸将があわてて主君を追いかけるという失態。
ようやく追いついた諸将に信長が「おめーらみてーな無能な部下は他にねーな!」
と激怒して誰も何も言えずにいたところ、信盛が「そんなこと言わないで下さい、
我々ほどの部下は他にはいませんよ」と発言。ちなみにこの諸将の中には柴田
も秀吉も含まれる。
この話はたしか信長公記にあった。
信長の怒りも部下の失態を考えれば当然だが、信盛を弁護すれば彼はこの時
家臣団の代表としてみなの弁護をかってでたと思われる。
>>762 あぁそれだ!
わざわざ丁寧にありがと。
「信長公記」にあったんね。
目にしたのかなり昔で、記憶があやふやだったよ。
ところで
>>755 の
>信長に意見したでしょ?信長の面目まるつぶれの
がわからん。少なくとも朝倉攻めのときは意見はしたが面子を潰したとは
いえないものだし、他に信長に意見した話というと叡山焼き討ちに諫言
したという話もあるが(ちなみにこの時光秀は反対していない)。
信長の面子を潰したって、どんな意見だったんだ?
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/25(火) 01:37:41
信盛が信長に言ったことが、すべて記録されているわけではないから、
我々の知らないことを、何か言ったのかもしれない。が
信長の、信盛に対する怒りは、石山本願寺との戦争に10年もかかったことだろう。
本能寺前後に没落
秀次粛清で没落
関ヶ原で没落
ふるいにかけられていく
秀次で落ちぶれた人は、それまでは重要な事してても
評価低いし。いなかった扱いにされてる人おおい
>>765 それは佐久間だけのせいじゃないし
そもそも信長が本願寺を過小評価していた
>>765 いつ本願寺攻めの大将にされたかはあやふやでよく覚えてないのだが
少なくとも有名所では78年まで上記の天王寺→木津川口なんかを信長が
直々に指揮してたから(それまでも近畿を中心に信盛は各地を転戦してたし)
2年足らずの話で無働きってのはちょっと酷いと思うな。
もっともその間これと言った働きってのも聞かないのは確かにあるけど
つうか荒木村重寝返らなければもっと早く片付いてたはず
御狂ありて・・・
>>762 その話だけ聞くと空気読めない馬鹿みたいだな・・・
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 21:39:15
林氏・佐久間氏追放の波及は明智を含む諸将に相当ショックを与えたに違いない。
羽柴氏は自己保身と次代・信忠内閣の重要ポストに就かんがためライバル切り落とし工作をした節がある。
四国討伐戦がそれくさい。長曽我部氏の友好大使でもあった明智の勢力を衰退させるために秀吉は宙ぶらりんの三好氏の立場を理由に
信長卿に四国討伐ふっかけた。あせる明智、抗弁するも信長の意は固く四国攻めスタンバイ状態へ。
ほくそ笑む秀吉。しかし事態は思わぬ方向へ! 明智が挙兵し主君をしい逆してしまった。羽柴もだいぶびびったであろう。
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 21:40:58
織田家臣といえば原田直政
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 20:25:36
信盛追放はあくまで俺の推測だけど本願寺という一揆衆相手に
苦戦したということの対外的な責任をとらされたのではないだろうか。
つまり、天下統一を目指した遠征の前に一揆衆に苦戦したのは信長軍が
弱いのではなくあくまでも司令官の無能が原因だと日本各地に知らしめる
ためではなかろうか。
こっそり息子は赦免されてるしね。
別に一揆衆だからって農民ばっかりだったわけじゃないし
その手強さは同時代の人なら誰でも知ってたはずだろ
信盛は信長が家督を継いだ頃(ゴタゴタしてた頃)から、ずっと信長支持だったから、他の人間では発言出来ないような場面でも意見をはいてたんでないかな。
比叡山の時や朝倉追撃の時みたいに。他の連中は黙ってんだけど、信盛は「俺なら言っても良いだろ」って感じで。
信長は信盛の能力や忠誠心は高く評価してたろうけど、信盛のデカイ態度が、ずっと以前から我慢ならなかったのではないかな。
特に独裁的に権力集中を図る際、いちいち意見する家臣がいるんじゃ示しがつかんだろうし。
>>775 そうかな。
東北や九州は分かりにくかったんじゃないか。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 21:24:22
対外的な責任なんて有り得るのか
一揆勢の強さは内実認めていても、圧倒的有利な条項にせよ一揆勢と講和せにゃならなかった、ってのはマイナスって部分もあったんでないかな。
信長自身、信盛への折檻条で「長袖が相手だから、いずれ信長の威光で・・云々」ってある。
表向き、一揆勢は所詮一揆勢と言うスタンスだったんじゃないかな。
浅井朝倉を滅ぼして日の出の勢いの信長軍が本願寺に苦戦してた時
京都とか反信長の傾向が強いところでは
百姓・坊主に負けてやんのm9(^Д^)プギャー って感じだったんだろう。
それはあるかもなー
にしても処分が酷いが
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 22:40:27
信盛の茶の湯がいかん、茶の湯が。
ってゆーか信盛ももっちょい長生きすりゃ放免されてたんじゃないか?
柴田勝家くらいの実績と能力があるんだしまあ理由としては
>>774のが一番自然だと思う
それにいちいち意見する家臣の一人くらいは居たほうがいい気がするし
信長も黙認してたと思う
信盛の場合、追放ったって、一応まだチャンスはあったからなあ・・
多くの権限をやってるのに、いまいち動かずに、そのポストで安心しきってる信盛に、
期待していただけに頭にきたんじゃないかな
安藤守就も追放されたし
いちいち庶民の評判とか気にしないだろ
堺脅したり容赦なく上京に放火したりするし
信盛りの家臣たちはどうなったんだろうか
織田家の家臣の誰かに再仕官出来たのか、それとも旧主同様追放されたのか
それによって答えが見えてくるかもしれん
>786
信盛の家臣と言っても、先祖代々の尾張国衆だろうから、信盛傘下から信忠辺りに配置換え程度では?
無論、追放された人間もいただろうけど。
>>787 信盛には近江衆とか大和衆などもつけられていたはず。
折檻状にも出てきてたはず。
>788
近江衆等は与力でしょ。
与力なら、よけい他の誰かの配属で済むはず。
与力と家臣は違うでしょ。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 20:14:14
京都東福寺駅の近くにある丹羽米穀店は既出か?
791 :
武将:2005/11/08(火) 21:13:21
佐々成政はどうですか。
地元の富山では、信長に最後まで忠誠を尽くした
武将として、となりの前田利家みたいに秀吉に
味方して、生き残ったのとちがい、己の信念を
貫いたとして、人気が高いですよ
>791
でも、最後は降伏した挙句、新領の統治に失敗して詰腹切らされた訳だが。
佐々の後が清正だったっけ?
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 22:42:22
個人的に滝川一益が好きなのだが・・・
晩年、秀吉に請われ少数で尾張蟹江城を攻撃奪取した様はさすが一益だと思った。あっけなく取り返されちゃったけど・・・
しかし信長に信頼されていただけの戦闘能力は衰えず、と思った。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 16:48:47
佐々成政に山田半兵衛がだまされて失脚した聞いた
のですが本当ですか?
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/10(木) 18:05:31
>俺の祖先の山田治部左衛門もいれてねー。
お家の家紋おしえてくれ
797 :
武将:2005/11/11(金) 12:37:53
佐々成政の降伏は仕方がないよ。
越中に秀吉が11万で攻め込んできた。
前田利家が積極的に協力したし、それでも配下の武将は阿尾城の菊池しか
裏切らなかったから、家来は成政に信服していた証拠だよ。
領民を思い、降伏したと地元では通説になっている。
あと、肥後の統治は あの国では難しいから 強引に検地を
導入しようとした 非はあるが、だれが治めても 反乱は
起きたと思うよ。>成政びいきの富山県人より
それを清正が成功したからなぁ・・・
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 14:16:55
前に祭りに鵜坂地区に行った事があるけど沢瀉紋が多いね。
なんでなのかなぁ
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 15:21:45
スレ違いだとは思うが質問させてください。
織田家と北条家って軍事衝突したことはありますか?
確か滝川一益が関東の方へ行っていたと思うのですが…
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 19:05:28
>>800 本能寺以前にはないな。
信玄の西上軍に北条の援軍二千もあったというが、
武田の援軍であって、織田家対北条家というものではないし。
もちろん、本能寺がなければ、将来的にぶつかった可能性はあるが。
むしろ、変で反故となったが、織田・北条の縁組の話もあった。
武田滅亡の際、織田側だったしね。(日和見っぽくて、織田方の不審をかったようだが)
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/12(土) 17:18:18
利家とまつ
これをみたら利家大好きになってしまうよね。
尾張のがきが家康と一時でも並びたつなんてなぁ
しかしノブヤボでの利家ののうりょくの低さにはがっかりだね。
まあ実際あんなもんなのかもしれないけどさ。
信長娘婿で一番有能なのは誰だろうか
>>743 「木綿木下 米五郎左 かかれ柴田に退き佐久間」だっけ?
退き佐久間は退き滝川じゃね?
秀吉も娘婿だよな一応
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 00:20:06
個人的に滝川を応援したい。秀吉、光秀は優秀と言われるが、滝川も軍政実務能力も高かったはず。
でなければ関東総監にはなれないと思う。旅団長みたいな事もやっているし何をやらせても不都合ない人じゃないかな。
信長の野望ではイマイチ評価だが戦闘・政治能力をもう少し上げてほしい。顔もカッコよく。
天下創世ではかなりカッコイイと思う。
家臣団とか領地(知行?)はいくらだったのか 考えれば考えるほど
分けわかんなくなる。
普通に織田軍の軍団長クラス、
つまり信忠、柴田、佐久間、羽柴、明智、丹羽、滝川
の面々は全般的にかなり優秀だと思うよ
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 20:05:09
忍者頭目ってほんと?滝川一益。
忍者を使って敵を攻めた、なんて文献ないもんね。
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 21:17:40
たった10人の甲賀忍者で伊賀上野城攻略したこと知らないのかよ あほたん
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/13(日) 22:05:44
それは悪質資料を鵜呑み。
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 13:32:26
818 :
無名武将@お腹せっぷく:
織田家臣団 姓名判断シリーズ その1.丹羽長秀
☆姓名判断(旧画数:霊数あり) [丹(4)羽(6) 長(8)秀(7)] さん
総運 25画 総合 英敏運:○資性英敏にして発展奏功幸福を享く
天運 10画 先祖運 不遇運:×事故遭難波乱の凶相、病難悲運の凶数
地運 15画 個性 徳望運:◎福寿円満上位の引立てあり有徳富栄の吉運
人運 14画 社会性 不如意運:×破調あり家族縁薄く孤独不和逆境の相
外運 11画 環境運 陽春運:◎順調の発展、温和篤実一家子孫繁栄す
総運+人運 14 天運+地運+外運 9.5 得点 23.5