1 :
無名武将@お腹せっぷく:
ルール
嘘を書かない
2
公明ですよ!
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/19 23:58
夜間、船で赤壁のそばによると荊州水軍んも亡霊が出る。
北条氏康…
AGEてみる
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 17:32
北条氏政・・・辛党
魏延
五虎将亡き後、北伐を支えた名将。
孔明から常に重役を与えられた。
孔明の死後、軍内部の騒乱で裏切りに会い、後を追うように死亡。
武田信虎
甲斐を統一し、今川軍一万超の大軍を撃退した智将、
外交努力にも敏腕でその今川との同盟を成立させた。
だが早々に息子に位を譲ると今川家に居候し、静かな
老後を送った。その穏やかな生活のおかげか長生きした。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 18:45
なにも誤解できない
まんま史実っぽい
司馬の発達
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 19:14
于禁
sex:♀
石田三成
秀吉に媚び諂う武将。北条征伐では忍城攻略を任され、
「秀吉に倣う」として水攻めを行うも失敗し、諸将の嘲笑
を買う。しかし秀吉の意向を汲むことに長けていたため
奉行として近くに侍る事を許された。権力を握るにつれ
三成は諸将に対して傲慢になり、朝鮮出兵では対立した
加藤清正を讒言し、一時謹慎処分にさせるなど好き勝手
な振舞いが目立つようになる。
秀吉が死ぬと弾劾され奉行職を失い佐和山に蟄居する。
大名勢力を引き入れて権力を取り戻そうと画策するが
徳川家康に敗れて六条河原で斬首された。享年41歳。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 19:25
韓信
その武力から「国士無双」と称される漢の三傑の一人
猛将なのに頭も切れに切れた
先方で有名なのは「背水の陣」「四面楚歌」
誤解も何もまんま
>>11の前スレあたりであったネタ(うろおぼえ)
・天下の名城を居城としている
・隣の半島に攻め込んだが征服できなかった
・息子は天下人の軍勢に滅ぼされた
北条氏康
>>17 なるほど上手い。
しかし、三国志戦国時代の人物限定で勘違いさせるってのは難度高過ぎでは
源氏の流れを汲む名門の当主で、諸国を放浪したともいう。
彼は塚原卜伝に剣術を学んでいる。彼が剣を振るう小説もある。
内政にも一定の功績があり、文芸にも秀でていたが、
いかんせん戦国時代はあまりにも過酷であった。
伝統と格式を誇っていた彼の居館は、
いかにも戦国らしい有名な武将の攻撃を受けて炎上するのである。
今川氏真
彼は稀代の悪雄と言えよう。
主家を裏切り、仏教勢力と敵対すれば貴重な文化財もろとも寺を焼き、
更には将軍にまでその毒牙は及んだ。
しかしその悪行が祟ってか最期は自害に果てる。
織田信長
近江国坂田郡、小谷城――
天下にその名を知られた堅固な山城。
城を去る彼女の目に、その城はどのように映ったのだろうか。
戦国時代、政略結婚は数多い。
男たちの野望や意地や義理で翻弄される戦国の女たち。
結婚によって約束されたはずの両家の同盟が破綻したとき、
彼女たちはどのような悲しみを甘受すればいいのだろう。
湖は悲劇を静かに語っている。
平井氏(長政の最初の妻)
■諸葛亮■
字を孔明、瑯邪郡陽都県の人。漢の司隷校尉諸葛豊の子孫。
戦乱を避けて荊州に移住。劉表に仕官するも試験に失格。
仕方なく、劉備の元で重用されるようになった旧友徐庶の
縁故を頼って仕官のくちを世話してもらう。劉備の陪臣と
して徐庶のもとで軍略を学びながら行政に携わる。
徐庶のもとで地味な処務に追われていては出世が困難と判断し、
曹操軍が迫ると、「徐庶が曹操に通じている」と劉備に誣告し
おとしいれる。謀略は功を奏し、徐庶を追放した劉備から信用を得る。
以後陳震のもとで税の徴収に勤める。
劉備勢力が荊州から追われると、側近の馬良を通して劉備に要請し、
孫呉への援軍要請の使者に志願する。要請が容れられると
急遽江水を下り呉に入る。周瑜や魯粛等の武断派与党によって会
戦を決断した孫権から援軍要請の承諾を得る。
疫病で死亡した兵らの大規模な火葬を終え南郡に退却する
曹操軍を急襲した呉軍が、荊州攻略に手間取っている間隙をつき、
手薄になった南方四郡を併合した劉備によって軍師中郎将に任命される。
益州攻略戦では劉璋の謀臣法正から内通をとりつけ、連絡を取り合う。
趙雲の参軍として成都城を包囲。劉璋の降伏で成都開城すると、
統の戦死が幸いし、軍師将軍・左将軍府事に任じられる。
以後成都の留守を任され、各郡県に重税を課し国庫を豊潤にすると、
益々劉備の信任厚くなり荊州派与党の筆頭格にのし上がる。
劉備が漢中王に即位すると、席次第一位の法正による益州派
の勢力拡大を危惧した荊州派家臣と謀略を練り、法正に刺客を差し向ける。
暗殺は成功、益州派の発言力は縮小し荊州派が政権を掌握する。
真相は闇に葬られ見事筆頭軍師となる。劉備が帝位に就くと主席宰相に任命される。
関羽張飛らの死亡にしたがって尚書、司隷校尉を兼任、次第に権力を
一手に掌握するようになる。
死の床にある劉備に武郷侯に封じられると、董卓と同様に幼帝を
奉戴し国家を運営する。
その後、北伐を繰り返すがすべて失敗し、国力を疲弊させたあげく、
失意の内に陣中没した。忠武侯と諡される。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 03:52
知識とユーモアの二つが必要とされる参戦板最高レベルのスレッドですね
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 03:56
劉備玄徳
221年に蜀を建国し、昭烈皇帝となるが
戦いのさなか、呉の裏切りによって弟の関羽と張飛を失う
そのまんまじゃないかというツッコミは禁止ですか?
主君の今際の際に息子を託され、幼き当主を守り立てようと粉骨砕身働く
本来は政治家であり、軍略は苦手と称されながらも勇猛な配下を率い強大な敵国と戦う
先主に絶大な評価をされた知略を持つが、志半ばにして死去
私欲なく、最後まで忠義を貫いた義の人であった
石田三成
その男、非常なる覇王の血を身体に宿す。
人間離れした手耳を持ち、稀に民が差し出す人肉をむさぼり食う。
幾多の漢を惑わせ、己の野望の為に使役し最終的には破滅に追い込む魔性。
後世の権力者にも「農民の夢」と評される、百姓から一国の皇帝に成り上がった乱世の英雄。
大耳野郎
彼の父と兄は有名な武将だが、彼自身は40歳になるまで功績が全く無い。
風采も上がらず、「年よりも老けて見られます。歯があちこち抜けているので困ります」と自分で友人に
述懐したほどで、城に入る時に門番に馬鹿にされるほどだったという。
戦の時も出城を一つ任されただけで、最後には進言を退けられ少数の兵士で敵の本陣に斬り込んだ。
生涯たった一度の激戦。彼は縦横無尽に戦った。
この戦いであえなく討ち死にしたとも、幼い主君を連れて逃げ延びたともいう。
真田信繁(一説に名は幸村)
天下の名門、袁紹から招聘されたが、捨てて
劣勢明らかな曹操に仕官する。
智謀に優れ、さまざまな策を献じ、
官渡の勝利も、彼の功績によるところが大きかった。
ただ、品行に問題があったのが玉に瑕といったところだろうか。
しかし、彼は官渡の後五年と経たず、荊州征伐の前に世を去ることになる。
許攸
幕府の実権を奪い私利私欲に走る主家の三好氏を打ち倒し、
乱世を治める力のない将軍足利義輝を失脚させ、
仏門にそむき狼藉を働く奈良東大寺の僧侶達を粛清し、
幕府・朝廷をないがしろにする織田信長と互角に渡り合い、
戦国の武士としてふさわしい最期を飾る
松永弾正久秀
いち早く鉄砲の導入を進め、上洛し、日本全国を武家のもとに統制しようとした。
周辺の有力大名らを敵に回し、包囲網を敷かれるなど、いくどか危機的状況を迎えたこともあったが、
そのたびに外交交渉や、彼の同盟者や家臣たちの軍事的な働きによって、その危機をはねのけた。
家臣の謀反によって彼の子供ともども京都で絶命するまで、畿内での統治はおよそ十数年に及んだ。
その晩年には、旧来の有力家臣があいついで粛正されるなどの事件もあり、
もしかしたら、この謀反には、このときの粛正が関係しているのではないか、
と言うものもいるが、その謀反の背景については依然、日本史の謎の一つである。
また鉄砲の普及にともない、それまでの木の柵と土塁からなる城に、
あらたに石を多用するなどした新時代の築城術を模索したことでも知られる。
城下には鉄砲鍛冶をあつめ、キリシタンの教会までもその領内にはあったという。
たびたび仏教界と衝突しながらも、
その存命中はキリシタンを保護し続けたことでも有名であり、
金銀を豪奢に用いた彼の宮殿は、彼の死とともに、完全に焼失したが、
その内部の様子については、彼の庇護を受けたフロイスら宣教師が、
その著書や書簡に詳しく書き残していることなどから、うかがい知ることができる。
美術面においては、新進の絵師、狩野永徳を重用した。
おそらくは焼失した彼の宮殿も、
永徳の手になる様々な絵画で飾られていたのではなかろうか。
最近の学説においては否定する人々もいるが、
上杉謙信に、この永徳の手になる洛中洛外図を贈ったのは、彼であるともいう。
えーと織田信長じゃなくて、足利義輝。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 22:21
>31
上手い!良く引っ張った!
隣国の大名と同盟し、一時は覇を唱えた戦国武将。
若き日は諸国を放浪するなど辛酸をなめたが、
弟とのお家騒動に打ち勝ってから、頭角を現し近隣の大勢力を撃破。
中年になってから押しも押されもせぬ大勢力となり、各地に巨大な城郭を構築。
一説には20万ともいわれる大軍勢を抱え、諸大名から恐れられた。
晩年に腹心の裏切りで窮地に陥ったものの、逆に腹心を追放して地盤を磐石にした。
子供を諸大名と上手く縁組させ、子孫の領地を合計すると10万石以上になるという。
本願寺蓮如
呂布 奉先
并州五原郡の生まれ。
養父・丁原に従い入朝した。丁原は強力な騎馬軍を持っており、董卓に目をつけられた。
仕官の誘いを断ったことを恨まれ、ついには董卓の刺客に殺害されてしまう。
呂布は仇討ちを狙うため董卓のもとに軍を率いて投降した。
董卓は連合軍との交戦後、長安への遷都を強行する。呂布はこの時の怨嗟の声を聞いて涙したと言う。
呂布は、董卓が長安入城した瞬間を狙い斬り殺した。
董卓の腹心である王允、李粛、李カクらは懐柔していたので大規模な反乱は起きなかった。
郭が一人抵抗を続けていた。知者賈クが郭のもとへ奔ったという誤報が流れたため、賈クに従う者が続出。
李カク・張済の裏切りにあい脱出を余儀なくされた。
スマソ・・・誰か続けてくれ。
次男坊であり、本来は跡継ぎではなかったが、
長男の死後、苦節を重ね王朝の基を築き、皇帝を名乗った。
善政を敷き、王朝の全盛期を築いた。
だが、晩年は後の争いの基も作ってしまっている。
李世民
漢末の名臣。
仕えていた主が裏切りにあって殺された際には仇を報ずる策を巡らし、それに成功しても功を誇らず、政権の中枢として活躍する。
その後、政権が崩壊した後も人望と能力ゆえに軍閥間で厚くもてなされた。
最終的には漢の皇帝の元に戻り、再び活躍する。
漢が曹氏に禅譲した後、曹氏もまた彼の実力を認め、彼を三公とした。
カク
人望厚き人で、一芸に秀でた人物が集まりその数三千人を軽く超える
その中にならず者や犯罪者が混じっていたりもする
人数が膨れ上がりすぎて困難に陥ることもしばしば
様々な危機に面するも、優秀な腹心やその大勢の中の一部の人間の働きにより逃れる
ひろゆき
大国に立ち向かうべく雌伏の日々を送っていた人物から
厚い礼をもって迎え入れられると、自ら他国との同盟を成功させ、
主君の長年の宿敵を相手に見事大勝利を収める。
その後もさらに勢力を拡大。それも全て彼の卓越した軍略によるものであった。
やがて主君がこの世を去り、凡庸な息子が跡を継ぐ。
この凡君は外征を続ける彼に対し、謀叛を企んでいるのではと邪推して
彼を召喚しようとするなど、将兵らの士気や歩調を大いに乱した。
この主のために、結局彼は先君の悲願を成就させるには至らなかった。
彼が主君にあてた書簡には、亡き先君の大恩に報いんとした
厚い忠義の心が綴られており、後世の多くの賞賛と敬慕を集めた。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 19:52
>>27 高祖(劉邦)ならまだわかるけど
覇王(項羽)の血?
長江以南という辺境に住んでいた野人。
昔のエライ策略家の姓を騙り、しかし彼自身は川賊を倒すといったような話ばかりの脳みそが筋肉だけの男をまず主君とした。
その後、揚州で散々暴れ回ったこの主君の息子に付き従ってはいたが、
この息子が死んで、穏健な弟に政権の座が移ると、厄介者として長江以南のさらに南。超辺境で山賊退治をさせられる。
しかし、北の進んだ文明国が攻めて長江以南の支配が揺らいでくると、この野人ですら戦線へと立たされる。
その戦のさなか、この野人は鞭に打たれるというマゾティスティックな趣味をし、高揚した肉体でどうやったのか、
火を体に纏いながら、北の文明国に突撃。北の文明国はこの野蛮な攻撃を予想できず、敗北する。
つまり未開の地への進出をあきらめたのだ。
炎の特攻が終わった後の彼は、ずっと我慢していたうん○をするため、トイレに駆け込んだ。
そして、勢いよく閉めすぎたのかトイレに閉じこめられ、その大戦が終わるまで必死に友の名を呼んでいたという。
黄蓋 公覆
>>40 答えはメール欄に書いておきました。一言添えるべきでしたね。申し訳ありません。
ご指摘のとおり、孔明と誤解されるような書き方をしましたが、内容は全て事実です。
東海に生まれ、語学を修める。
齢四十にして、戯書を著し、絶賛される。
十三年後には、職を辞して執筆に専念する。
歴史を扱うことにも強い興味を持ち、幅広い年代を舞台にした作品を数々発表。
その題材選び、人物配置は絶妙とされ、
彼の書は、歴史愛好家の広く蔵するところとなる。
心筋梗塞で67歳にして世を去ったとき、動揺せぬ者はいなかった。
彼のライフワークである「呉・三国志」は、いまも読み継がれている。。。
伴野 朗
参考スレ
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1077946661/
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 00:05
良スレ保守age
強敵を征伐するため当に軍を鍛錬していた英雄を心惑わせ
ために軍が失うものは多かったといわれる、魔性の女。
えーと、雛氏・・・じゃなくて、キンゾクチュウ
作者によるオリジナルキャラクターを狂言回しとして
登場させ、さらに作者自身による解説を適所に挿入。
史書に散見される神仙や宗教の類を敷衍させることにより
物語を立たせることに性交。また、五丈原における
孔明と司馬懿の胎児は、打算的な司馬懿による八百長の要素が
あったという説を採り、これまでの三国志小説では類を見ない
筋書きに仕立て上げられた、三国志小説の白眉を完成させた。
陳舜臣…じゃなくて伴野朗。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 16:20
誤解を与えるようなage
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/25 19:00
・父親を当主の座から引き摺り下ろした
・戦いで弟を失った
・対立した長男を排除した
最上義光
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 00:20
若いころは夾にあこがれ、仲間と各地を放浪した。
各地の英雄と交友をかさね、その豪快さを賞賛された。
何かと蜀に関係のある人物で、その地に伝承が伝わる。
酒をこよなく愛し、それでなんどか危うい目にあっている。
白い服にこだわりをもっていた。
張飛じゃなくて 詩仙の李白
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 00:24
猫ひげ。「美しい!!」
チョウコウ
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 00:39
何進
漢の大将軍。もとは肉屋の主人であったが、漢朝復興の志を胸にたちあがる。
時の皇帝霊帝に重用され、その右腕となり活躍した。黄巾の乱の際は後方でよく指揮をとり都を守り抜いた。
また、妹が霊帝の后になり、ますます信頼されるにいたったが、霊帝の死後相続争いに巻き込まれ、非業の死を遂げた。
名将袁紹も彼の氏に慟哭したという。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 02:16
>>27 覇王=項羽なんですが
一国の皇帝の部分を天下人とかに変えておくと
秀吉と紛らわしくていいかも
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 10:27
「誤解を与える」だからその人物の特徴的な業績を逆に解釈するのがいいんでない?
こんな感じか?
織田信長
尾張の戦国大名。信心深い性格で、総見寺を建立するなど仏教を篤く信仰し
た。また流浪の身となった15代将軍足利義昭を見過ごせず、将軍を上洛
させるために立ち上がった「義の人」でもある。臣下への心配りも細やかで
有力武将である羽柴秀吉の妻であるねね宛に夫婦喧嘩を仲裁する書状を送っ
たことは有名である。
しかしながら軍事的な才能は乏しかったようで、妹のお市を浅井家に嫁がせ
たのを初めとして、娘や息子を松平、武田、北畠、神戸などの有力大名の元
に養子や妻女として送り、融和政策をとっている。また後の長篠の合戦に
おいても、当時最強といわれた武田騎馬軍団を恐れ、馬防柵の内に籠もり、
鉄砲を撃ちかけるという消極的な戦術に終始している。1582年、その
柔弱ぶりに業を煮やした配下の武将明智光秀の下克上により本能寺で最後を
とげた。
諸葛孔明
子供の頃より各地をさまよい荊州の地でブサイクな嫁を貰う。
赤壁ではお祈りして風を呼び勝利に貢献、
手紙を書くと周瑜・曹真が死に、彼に出会うと王朗が死んだ
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 11:29
豊臣秀吉
尾張中中村の百姓出身。幼少のころより武を好み、海道一の弓取りといわれた今川義元や、川並衆の蜂須賀家に仕えた。
のちに織田家に仕え、諸所の合戦に参陣した。しかし、生涯においてほとんど怪我という怪我をしなかったという。
百姓にも優れた人間はいるものである。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 15:14
>>56秀吉ならこんな感じでどう?
豊臣秀吉
尾張の戦国大名織田信長配下の武将、のちの太閤。母が太陽を飲み込み夢を
見て身ごもった「太陽の子」としての高貴な出自を誇る。剛勇で知られ、
金ヶ崎退き陣の際に寡兵で浅井朝倉連合軍を退けた働きは、古の豪傑「張飛」
を彷彿とさせる。当時の人々は美丈夫で敗れない秀吉を、「丈夫で破れない」
木綿に例え、「木綿藤吉(藤吉郎は秀吉の別名)」と呼んだ。
また、一方で生涯で1人しか子を成さず、多数の養子を我が子同然に育んだ
事実から女性に対して誠実で、博愛精神に満ちた人柄がうかがえる。
主君信長の死後、遺志を継いで天下を統一を果たした後は、世界探訪に関心
を示し、インドに渡航することを熱望するなど、日本における冒険家の先駆
けといえる存在でもあった。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 17:02
>一方で生涯で1人しか子を成さず、多数の養子を我が子同然に育んだ
>事実から女性に対して誠実で、博愛精神に満ちた人柄がうかがえる。
2行目前半が余分ではないか?
2行目は読み手の感想として在ってほしいものだろ?
自分で言ったら意味無いじゃないか。
事実の羅列で誤解させるのであって、
自らの誘導的過ぎる感想は極力省かなきゃ駄目だろうな。
漏れは知識が足りなくて、まったく書けなくてすまんけど。
その人物の人格を誤解させるのも、
その人物を違う人物と誤解させるのも面白いね。
>>60 なるほど。しかし、事実の羅列だけだとなかなか難しいぞ。
>59の人物紹介にしても事実だけだと
尾張の戦国大名織田信長配下の武将、のちの太閤。母が太陽を飲み込み夢を
見て身ごもったことで知られる。金ヶ崎退き陣の際に寡兵で浅井朝倉連合軍
を退けた。当時の人々は秀吉を、木綿に例え、「木綿藤吉(藤吉郎は秀吉の
別名)」と呼んだ。
また、一方で生涯で1人しか子を成さず、多数の養子を迎えた。
主君信長の死後、遺志を継いで天下を統一を果たした後は、インドに侵略する
ことを熱望した。
となってしまって「そのまんまじゃないか」とつっこまれてしまいそうだし。
事実は曲げないけど、その事実の解釈はある程度フリーにしないとキツイもの
がある。まぁなるべく頑張ってみるよ。
別に、嘘を書かずに誤解させられるんなら、どう書いても良いんじゃね?
あ、でも「やった事は本当でも、考えてた事は嘘」ってのはどうなんだろ?
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 17:35
子供にやさしいのは良いんだが、女性に誠実というのが嘘っぽく聞こえるわけよ。
あえて誠実と書くなら、それこそ当時では考えられないようなエピソードでもないとな。
何も書けないくせに偉そうなこと言ってごめんぽ。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 17:37
>>63 >「やった事は本当でも、考えてた事は嘘」
主語キボンヌ。
まあ、考えてたことなんて本人以外判らないわけだし。
でも、事実と照らし合わせて、ある程度納得できる解釈でないとダメかな。
事実の羅列だけで書く場合は、
>>55みたいに業績のほんの一部だけを書くといいみたい。生涯を紹介すると無理が出る。
>>65 このスレに書く人物伝の内容。
例えば、信長が足利義昭を奉じたのは、
恐らくは利用しようとしたためであるのに、
それを情けによるものと言ったりする事。
>>67 確かに
>>55の書き方が一番上手いかもね。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 18:08
>>68ただちょっと紹介文が単純になっちゃうんだよね。
14歳の時に初めて人を殺し、別の殺戮現場では自らの目玉をえぐり出して
喰らった。以降も軍閥の手先として殺戮を繰り返し、最後は女性の亡霊に
怯えて死んだといわれる。
夏候惇
こんな感じで。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 18:39
>>68 なるほど、そういうことね。
超有名人と見せ掛けて実は別人、みたいなのがおもしろい
信長と義輝でやったのが巧かったとおもう
昔話の語り出しふうに。
むかしむかし、海のむこうのお話です。
その国は三人の王様が治めていました。一人は甲高い声のチビの王様、もう一人は
耳が大きく手の長さがひざまである王様、最後の一人は目が青く口が大きい王様です。
↑いちおう曹操、劉備、孫権ね。
趙雲
劉備・諸葛亮に愛された将。(無双攻略本より)
…誤解与えすぎ。確信犯か?
17歳 ひどいマラリアにかかる
19歳 天然痘・肋膜炎にかかる
20歳 再度肋膜炎にかかる
23歳 悪性のインフルエンザにかかる
25歳 赤痢にかかる
35歳 再度赤痢にかかる
45歳 徐々に歯を虫歯で失っていたが、この年に歯を全て失う
ジョージ・ワシントン って三戦関係ねえや
無双攻略本の
月英:「一般には醜女だったと伝えられているが
実は美女であることを世間に隠していたという説もあり
真相はわからない」
とかいうのは、詐欺以外の何者でもないな。
つうか美女であることを隠してたって説は
どこから出てきたんだ
不細工を描きたくなかったからでっち上げただけ
>>76 そんな内容の小説があったなぁ
コーエー出版から出てたヤツかな
さてはこのスレを立てたのは光栄の手先だな。
>>77 三国志外伝という書物に載っているそうです。
諸葛亮が黄承彦を訪ねると、そこにはカラクリ人形が至るところで動いていてびっくり。
誰が作ったのですかと尋ねると、すべて自分のブサイク娘が作ったものだと聞いてまたびっくり。
諸葛亮「先生、発明好きの賢い人間にブサイクがいるはずないでしょう。」
黄承彦「いやいや、とてつもないブスなのじゃ。その証拠にいまだ未婚じゃ。」
諸葛亮「とてつもないブスでも結構です。先生、いや、お父さん!お嬢さんを僕に下さい!」
こうして諸葛亮は黄承彦の娘と結婚する。そして諸葛亮の予想どおり、
娘はとても美しい女性であった。黄承彦がわざとブサイクと言って、諸葛亮を試したのだった。
こんな話です。自分は「三国志演義大事典」という本の付録で見ました。
↓こちらもご覧くだされ。ただしこの本にこの話が載っているかどうかは、持っていないので分かりません。
ttp://www2.plala.or.jp/Lian/bookindex/rekishi/sangoku.htm#gaiden
上まあ三国志外伝に収録されている民話には
黄夫人がカラクリ人形を作ったり孔明に兵法を教えたり
嫁迎えに木牛水馬を作らせたり、
求婚者が門前市をなすほど集まってたりするが(苦笑
矢張り中華の民衆には京劇の黄金蝉が親しみやすいということだろうか
まあその程度の話を「〜という説」として紹介するのもどうかと思うな
劉備元徳
後漢末期に中国全土を震撼させた大盗賊団の大頭領。
出生を中山靖王の末裔と偽り、巧みな話術と神出鬼没の戦術により
様々な権力者から金品宝物、さらには国土そのものを盗んだ。
若い頃は草鞋を売り歩いて生計を立てるなど辛く貧しい生活の中で育った。
その生活から脱却する為に劉備の盗賊としての人生が始まる。
まずは金持ちの親戚をカモに遊学の為の資金を騙し取るが、遊び三昧の果てに金を使い果たす。
帰郷して大商人を騙し金品を巻き上げ、それを資金に幼馴染の関羽や張飛と共に盗賊団を結成。
名目上は黄巾討伐を謳いながら巧みに学友の公孫讃に取り入り、とりあえずの食い扶持とした。
そこでも趙雲という武将を誑かし、後に自分の窃盗団に加入させた。
公孫讃の旗色が悪くなると窮地にあった陶謙を救援するという名目で徐州に身を寄せたが、
そのまま奪い取ってしまった。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 00:11
>>84 誤解でもなんでもなく、それが事実だろ。 ^^;
>>85 まあ、嘘を書いていないということで大目に見てあげなよ。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 23:57
天下人に請われてその養子となり、若くして中納言に昇進。
第2次朝鮮征伐では総大将を務め、蔚山の戦いでは部下を救出するために
自ら陣頭に立ち首級を多数挙げる働きを見せた。
関ヶ原における天下分け目の戦いでは東軍の勝利を決定付ける。
戦後は大封を得るも、程なく病死。享年21歳。
小早川秀秋
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 00:16
このスレ本当おもろい、笑点を越えておる・・・しかし、たまに、まんまが出てくるのが残念。ムズカシーのは、わかるけどねー。
劉備玄徳
浪人と肉屋と三人で義兄弟の契りを結ぶ。
元肉屋の弟のせいで城を失う。
荊州を支配するが元浪人の弟のせいで州を失った。
後年、弟達が死霊になって出てきたので煩悶して死去した。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 12:10
呂布奉先
三国時代の武将。初め同郷の丁原を義父と仰ぎその配下となったが、大将軍何進
暗殺にともなう混乱から献帝救い出した董卓と義父丁原が対立するや、親子の情
に流されることなく、献帝を支える董卓に毅然として与し、丁原を斬った。
その後、董卓にその人品骨柄を見込まれて義子となり、丞相に就任した董卓に
楯突く飢狼のごとき軍閥連合を相手に一歩も引かぬ戦いぶりを見せ「漢室に呂布
あり」と名を轟かせた。
しかし董卓が長安遷都を強行するなど、献帝をないがしろにする態度を見せると
決然と袂を分かって王允らとともに董卓を討ちとり、長安の民衆を歓喜させた。
その後も、献帝を傀儡とする曹操と対決して何度もこれを打ち破るなど勇名を
はせたが、建安3年、ついに奸雄曹操のため徐州で散った。その死に際し、部下
の勇将高順と知将陳宮は曹操の勧めを断り、呂布のあとを追ったという。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 14:32
あんげ
守護代の一族に当たる豪族。国内の覇を競い一族間の抗争を続けた。
1555年、勇猛で知られた叔父の孫三郎と謀り、守護代・大和守を討った。
しかし、その直後にこの孫三郎は不審死。一説に彼の関与が疑われている。
別の叔父・孫十郎に彼の弟・秀孝が殺害されたり、
また異母兄にも謀反の動きを見せるなど、
国内統一の過程で一族の血で血を洗う悲惨なドラマがあった。
きわめつけは同母弟の謀反であろう。一度は許すものの、
のちに居城に呼び出して殺害している。
1559年、隣国の大名と結んで彼と争った一族の伊勢守を滅ぼし、さらに
1564年、従兄弟で妹婿でもありながら彼に背いた十郎左衛門の居城を落として
ようやく国内統一を完成させた。
織田信長
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 10:32
>>92 イメージそのままなのでは・・・・。
慈悲深いとか清廉な武将が、実は一族を皆殺しにしていたとかなら面白いんだけど。
背が低めで
目が大きくて
色白で
ちょっと我が侭
曹操
子供の頃から天下取りを夢見てたくせに
なぜか京に向かわず北へ北へと向かっていったオチャメさん☆
関ヶ原で家康の「100万石あげるよ」の口車にあっさり乗っかり、
東軍につくも結局もらえずショボーンになってしまったお人良しさん☆
あまりにブサイクすぎて生母からも殺されかかっちゃったくらいのブサイクさん☆
伊達政宗
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 23:44
98 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 10:28
中途半端な戦いで、負け戦ばかり
結局、野外で骸を晒す。
諸葛亮孔明
99 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 10:30
中途半端な戦いで、負け戦ばかり
結局、野外で骸を晒す。
諸葛亮孔明
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 15:06
呉の将軍、政治家。名族の出身で、若くして肉親を殺された後、呉に仕え、その
深謀で主君の信頼を得た。呉の荊州方面への勢力拡大に多大な功績があり、彼が
いなければ、呉が一方の覇者となる事はなかったかもしれない。
その後も重職に身を置き、呉国のために主君に諫言することも厭わなかったが、
老いて疑り深くなった主君は、彼と対立する佞臣の讒訴を信じてしまい、その
ために彼は死に至った。
彼の死後、呉は次第に衰退し滅亡の憂き目をみることとなった。
陸遜・・・・じゃなくて伍子胥
身分の低い家に生まれたが、明晰な頭脳と巧みな弁舌によって
人望を得る。
また学問・兵法・土木・風流にも通じていたといわれる。
だが悲しいことに、彼がついた主人はことごとく小人であったが、
その凡愚な主人をよく補佐し、京の都を守った。
戦国の乱世の時代、日本の都であり天皇の住まうところである京都が
戦渦に包まれることなく繁栄を保てたのは、
ひとえにこの男のおかげといっても過言ではない。
松永久秀
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 11:00
「甲斐の虎」武田信玄の宿敵ともいわれる戦国大名。漢字一字の軍旗を用いた。
信玄に追い落とされた信濃の敗将を迎え入れ、北信濃の地をめぐって信玄と数度
にわたって激戦を繰り広げた。信玄を信濃から駆逐することはかなわなかったが
その軍略で武田家譜代の臣を多数討ち取り、天下に勇名をはせた。
「人は石垣、人は城」として家臣を上手くまとめた信玄とは対照的に、配下の
反逆を数多く経験しており、その政治力は信玄に及ばないと見る向きが多いが、
滅亡の憂き目にあった武田家と異なり、子孫は上杉一門の名跡を近代にまで残し
ている。
なお、塩不足に陥った武田領に塩を送ったという事実はない。
上杉謙信・・・・・じゃなくて村上義清
104 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 11:26
印刷業で名を為すも
少女に手を出し身の破滅を招く
カリオストロ伯爵
〃
《
┃,.´ / 鬼ヽヽ
┃! i iノノリ)) 〉
┃i l l.´ヮ`ノリ ←立花道雪
ワショーイ ⊂ く/_只ヽ
/■\ ̄/■\道雪┐/■\
( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`) ワショーイ
⊂ ._つ⊂ ._つ ̄ ̄⊂ ._つ
人 Y 人 Y Y 人 Y
し'(_) し'(_)'(_) し'(_)
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 11:02
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 11:03
・武に長け知に疎い
・信義を軽く見る性格で臣下の儀を全うする事をよしとせず幾度も主君を変えている
・その際に彼に見捨てられた主君は全て惨殺されている
・戦場では鬼神のごとき働きにより敵味方問わず恐れられた
呂・・・じゃなかった張遼
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 12:59
>>109 やった!がんばって一生懸命書いた自分のネタが入ってる♪
しばらくご無沙汰していましたが、これを機にまたもっといいネタ書きます。うれしいな。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 21:13
漫画などでは立派に書かれるが小柄で醜悪な容姿といわれる。
都を牛耳り、まつりごとを私する暴虐な独裁者を倒すために挙兵する。
軍略に秀でており数々の戦を勝利した天才だが、非戦闘員をも組織的に
殺したため一部からは大いに憎まれる事となる。
混乱する都を収めて天子を擁してからはますます勢いを増して勢力を伸ばす
が、一大決戦となった水軍戦で自らはただひたすら逃げ回るという醜態を晒す。
以後、大きな外征は行わず彼自身は結局最高位に昇る事無く亡くなったが、
彼の一族は政権を握る事になる。しかし、その政権は数代で家臣に乗っ取られた。
曹・・・でなくて源義経
>>112 ウマイ!
特に>非戦闘員をも組織的に殺したため
のトコ
■■■■■■■■■■■■■■■終了■■■■■■■■■■■■■■■
>>112 良いね!よくここまで上手く結びつけることが
できるなと、素直に感服してしまったよw
116は俺なので違う。
実際よくできてると思うぞ
113もそれがしなので違うぞ。と言っても証明しようがないが。
地方の小名より身を起こし、圧倒的な力を持つ大勢力を知略をもって
打ち破りその勇名を馳せた。
また父祖の代より朝廷に献金、土塀を作るなどしてその権威を地方統一の
足がかりとしている。隣国の同盟をもって背後をかため上洛をはたした。
15代将軍足利義昭を保護、旧勢力を駆逐し近畿に勢力を拡大していった。
しかし平定を目前にしながら家臣の裏切りによりあえない最後をとげた。
波多野秀治
■■■■■■■■■■■■■■■終了■■■■■■■■■■■■■■■
122 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/28 13:24
>>120もなかなか。最後の行、どこを平定目前か書いてないトコがみそだな。
…二日来てなかったら、少々嫌なことが…
証明する方法はないけど、俺も自演じゃないぞ。
てか、
>>112を読めば大抵の人は上手いと思うかと。
…話を蒸し返してスマンですが、ただ、感想言った人が自分以外は
全員自演を否定していたので、自分も言わねばと思ったんで…
…以降は気にせず進行して下さい↓
…首吊って来ます…
喪前らそんな事どうでも良いからネタ書けや。
空気悪くするような下らんレスすんな
128 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 13:38
まあ、ネタの批評するのはいいとして自演決めつけは控えようか。
つまらないならツマランと書くと言うことで。その方がネタ書いた人も励みに
なるだろうし。
ただ
>>126が言うように
>>94-95は良作には入れづらいな。「誤解を与える」文章
になっていない気がするんで。更なる精進を求ム!
自作きぼんぬ
>>129 これまでにもいくつか作ってるけどね。今、仕事中なんで帰ったら考えてみる。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 22:52
風流を愛するいくさ人。妻子を捨てて自由気ままに生きた。
信長、秀吉に大きく関係する大名の一族でもある。
当時の教養人と多く交わった。武勇、膂力は衆に優れ、数々の武功をたて、
家中でその名を知らぬものはなかった。天下人秀吉とも面識があり、家臣に
欲しがるほどの男ぶりだったという。
彼は一箇のもののふであり、教養のある人であった。決して歴史上において
名高くはないが、その生き方には深く感銘をうけ、共感するものも少なくは
ない。
荒木村重
>>131 ウマイムウマイム、謀反という語を使わず村重を表現できるとこがイイね
あとすっとぼけた号を名乗ったあたりも似てるな。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 00:20
ひょっとこ、とうんちだったら、うんちがいい!
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 00:37
うんち????
号?何それ?
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 00:44
戦国の世に生まれながらその容姿は細く、弱弱しかったという。
しかし、一夜にして城を手に入れた話は有名である。
秀吉はこの人物を手に入れるため、なんども通ったという話があるが
これは後世の創作であろう。
この人物の頭からわきでる策は彼に大きく影響をあたえた。
しかし残念ながら子は凡庸であったようだ。
戦国史上名高く、魅力あふれる人物である。
浅井茶々
137 :
天下の会長 ◆l29LnsahSw :04/06/30 00:46
>>135 「号」というのは、出家や世捨て人になった人の名乗りの事だ。
信玄や謙信 っていうのも「号」です。「法号」っていうのが一般的
かもしれないけど大体会話の中では「号」と略される。
で、村重は晩年(謀反の後ね)「道薫」って名乗ってるわけですよ。
まちがってたらすまない。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 13:34
だからうんちね。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 13:45
戦国一の出世頭。尾張の低い身分から身を起こし、織田信長にひきたてられ
た。数々の合戦を経験し、とんとん拍子で出世。本能寺の変にて信長が横死
した後運命が大きく変わる。応仁の乱後、誰もがなしえなかった天下を手中
にすることに成功。朝廷から高位をあたえられた。配偶者の協力が大きかった
という。
豊臣ねね
>数々の合戦を経験し、とんとん拍子で出世。
ねねは合戦を経験してないし、出世もしてないと思う。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 20:13
誤解というわけではないが、演義の人物紹介のせいで、呂布が最強という
イメージをみんな持ってしまっているのが悲しい…。
正史の話題でも平然と『断然呂布最強!』なんて言う香具師もいるし。
演義なんか存在してなかったら、『俺は呂布が最強だと思う』と言う人は
そう多くなかっただろうに…。
まあ現実には「呂布最強」なんて言う奴は厨房だけど、
演義がなければ渋い好みの奴が「呂布最強」とか言うのかもな。
まあ演義はそれまでにあった劇なんかの影響を結構受けれるから
やはり呂布が人気あるのはかわり無かったかもしれんが。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 20:32
>>142 そうか?呂布の人気なんてないと思うが…?
結論を言うと、2chでなんの理由も無く呂布が最強だなんていってるのは無双
厨だろ?
無双の呂布の態度というか性格は子供が好きになりそうだからな。
一部の子供だろ?呂布最強説唱えてるのは?
俺は呂布好きだけどな、無双やったことないけど。
どこが好きか聞かれたら、あの好き放題に生きた人生そのものが羨ましい。
俺は絶対真似できない。周りの目を気にせず生きるなんてできない。
何にも縛られず、当時の儒教的思想なんて糞喰らえと言わんばかりのあの生き様。
強さしか取り得が無いとか言うけど、俺にとってはそれだけで充分魅力的だ。
誰にも負けないくらいの「何か」を一つでも持ってる奴がどれだけいると言うんだろう。
裏切りを重ねたとか、見苦しく命乞いしたとか言うけれど、それこそ人間臭くて俺は好きだ。
自由気侭、我侭し放題で、自分をあそこまでとことん使い切った人生もそう無いと思う。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 21:01
戦国時代の武将。
自分で歩くこともできないようなやさおとこであったが、一門であったためか主君の信任が厚く、名家の養子に入り込む。
臆病者で非常に雷を恐れたという。
立花道雪
・たびたび酒と女に溺れる主君を諌めた
・その主君の父の代から仕えている
・家臣団筆頭
・軍事内政の両面に才能を発揮
・その名声は海をも越えた
・彼の一声で部下は奮い立った
・最後は陣没
・彼の死後主家は滅んでった
諸葛亮じゃなくて
〃
《
┃,.´ / 鬼ヽヽ
┃! i iノノリ)) 〉
┃i l l.´ヮ`ノリ われらがベッキ―
ワショーイ ⊂ く/_只ヽ
/■\ ̄/■\道雪┐/■\
( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`) ワショーイ
⊂ ._つ⊂ ._つ ̄ ̄⊂ ._つ
人 Y 人 Y Y 人 Y
し'(_) し'(_)'(_) し'(_)
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 23:24
劉禅
生まれながらに陣中で育つ。長坂の戦いでは、幼いながらも健闘し、趙雲もたすけもあり見事に退却に成功した。
劉備死後は皇帝となった。しかし、幼きころの勇猛さはなくなり、すかっり脆弱ま君主になってしまった。
しかし、諸葛亮を重用するなど評価すべき点も多い。名君か暗君か意見の分かれる人物である。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 23:47
陸遜
呉の丞相。もともと揚州の有力豪族であったという。
荊州の関羽を討つ際は、荊州都督であったが凡愚を装い、関羽を欺いた。
その後、関羽の弔い合戦に大軍で攻めてきた劉備を、夷陵で大いに破った。
しかし、晩年は皇帝の後継者問題に首を突っ込み、結果自ら死期を早めた。
老害をしめす好例となってしまった人物だが、その戦略眼は高い評価を受けている。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 23:48
陸遜
呉の丞相。もともと揚州の有力豪族であったという。
荊州の関羽を討つ際は、荊州都督であったが凡愚を装い、関羽を欺いた。
その後、関羽の弔い合戦に大軍で攻めてきた劉備を、夷陵で大いに破った。
しかし、晩年は皇帝の後継者問題に首を突っ込み、結果自ら死期を早めた。
老害をしめす好例となってしまった人物だが、その戦略眼は高い評価を受けている。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 23:49
スマソ。2回シチマタ・・
(タイミングを逃した感じだけれども、94と95の人に謝りたい…
スッキリしていて個人的には好みだったモンでつい。
イイ!というのは軽く褒めたつもりだったので、手放しで讃えるものではなかったんです…
良いと思った所も書くべきでした。反省します。
自演って決めつけられても証明するものがないのでROMってましたが、
「スレの発展を阻害する」とまで言われる筋合いは無いと思い、こうして長文を投下するに至りました。
不快に思われた方、本当にすみません)
固有名詞を使わずに書くと、より誤解されやすい文章になるな。
具体的なことをあまり書かず、匂わせることで誤解を招く、というのがうまい書き方のようだ。
容姿端麗であったが、その容姿に比べ、兄達とは違って武勲等は殆ど聞かれない。
尾張の織田信長の小姓に選出され、主君へ堅い忠誠を誓った。
しかし主君への忠誠は次第にエスカレートし、忠誠の域を遥かに越え、
主君が切った爪の数を数えるというストーカー的行為にまで発展していた。
最後は数名と共に寺へ泊り込んだ際に、主君の部下に攻め殺される。
森蘭丸。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 00:11
太史慈
呉の武将。劉ヨウに仕えていたが、のち遜策に降る。
また、その前は孔融に仕えていた。
また『大丈夫(漢)たるもの、生を受けたからには、七尺の剣を帯びて、皇帝となるべく戦うべきだと言うのに、私はこんな所で死んでしまうのか!!!』と言ったという記録もあり、野心家だったようである。
彼は節操のない人物で後世の評価は低い。しかし、その武勇はなかなかのものだったという。
>>151 良作とはいえないものをただ褒めるだけだったら、
それ以降何の発展も見込めないだろ?
そのせいで作者はその程度のものに満足してしまい、
成長が望めない
結果スレの発展は阻害される
一部の職人クラスだけでは限界もある
職人の境地に到っていないものを育てるんだ
珍しく良スレなんだ
だから発展させるんだ
一度呉の孫権へ仕官を申し出るが、呉で最高の軍師、周兪との才を比べてみよと言われ、
何の躊躇いも無く、その才能を『瓦と珠で御座います』と酷評する。
孫権の怒りを買って呉を追い出され、暫くして劉備の元へ仕官し、地方長官へ任命される。
しかし、何時まで経っても酒を飲みつづけてろくに仕事もせず、中央からの視察が来てやっと仕事を始める。
だが、それでも本来一ヶ月掛かる筈の仕事を、たった一日も仕事を続けないで終わりにしてしまった。
しかる後劉備の軍師として抜擢を受けるものの、素行にたいした変化は見られない。
劉備が酒宴を開いて勝利を祝うと、主君である筈の劉備をこき下ろし、
更には、君命に背いて劉備の義兄弟の契りを結んだ相手を殺害しようと暴走する。
蜀攻撃への強硬論を唱えつづけ、最後は主君である劉備を、自分が乗っていた扱い難い暴れ馬に乗せておいて、
自分は劉備の白馬に乗って移動するが、劉備と勘違いされて全身に矢が刺さり、無残な異体となって死んだ。
鳳雛。ホウトウ。
夏侯惇
曹操外出の折には常に同じ車に乗せられ、
曹操の寝室から出てくる姿もたびたび目撃された。
153と156がスレの趣旨を誤解している。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 10:00
奈良の人。立身出世を望み諸国を放浪した。
顔は大きく、一重で眉なし、耳は肉厚で大鼻をつけ
声は大きく常に怒っているようであったという。
短気ですぐ腹を立てたので皆が恐れた。
武勇にすぐれ、辻斬りにあっても怪我ひとつせず、逆に相手の刀をうばう
ほどであり信長の褒められたという。
無類の酒好きで家はかなり裕福であった。
里村紹巴
こんなのでいいの?
・江東の雄。
・超名門の友がいる。
・仇討ちにより命を落とす。
・猛将甘寧を従えていた。
黄祖
162 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 11:26
豊臣秀吉
元は農民だったが、天皇の落とし胤だったため
太閤、関白といった位に着いた
うろ覚えなので
>>155 で、自演と決め付けることがこのスレの発展に役立つのだと?
つまらんならつまらんと書けばいい
自演決め付けなんて決め付けられた人が不愉快になるくらいで
ほかに何もいいことがない
なんつーか、自演決め付けを正当化するのはどうかと思ったので
黄忠
字は漢升。
劉備入燭の時には既に齢六十をこえる老将であったが、精気に溢れ関羽と引き分ける程であり、
老いて尚お盛んだったと言う。
「精気に溢れ」に盛んではなく「お盛ん」としてみたをですけど、
やっぱりまだ捻りが足りなかったかな。
96は役立たずと自認したんだなw
まずお前の96での発言が発展を阻害したのは間違いない
ジエン乙は結果的とはいえ、お前を糾弾するに到った
はるかに貢献してるだろ
ジエンと決め付けられたのはお前の責任だろ
IDがでなければ前後の文、時間などから判断するしかない
お前が迂闊だっただけ
まあ、お前がジエン厨じゃないなんて証明できねーけど
確実に言えることは、お前が荒らしだってことw
>>97 いつまで粘着しているんだ。この荒らしは。
スレが伸びてるから何かと思えば・・・
170 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 14:00
董卓
後漢の相国。
華雄が暗殺された後、流浪の身であった後の献帝を保護した。
よく文武の士を愛し、呂布や李儒など涼州の人材を多く抜擢した。
また、物財を多く配下の兵士に分け与えた。側近の呂布に赤兎馬を与えた話は有名である。
しかし、王允との政争に破れ、謀略により無念の死を遂げた。
その後、多くの家臣たちが敵討ちに参加したことからその人望が伺える。
だが、彼は長安に遷都したことがあり、それによって後世の評価があまりよくない。が最近はその業績が見直され始めている節がある。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 14:02
>>170 固有名詞は外して、他の人物との誤解を招く方向で書いたほうがベターだと思われ
自演決め付けは何の発展性も無くヒトを不快にさせるだけ。
アオリストかキティちゃんか知らんけど
>>97はスルー汁。
このスレには、2つのタイプの「誤解」が存在していると見た。
一つは、
悪い人→良い人(逆もそう)の誤解を招こうとしている文章。
二つ目は、
人物紹介だけ見ると「あの人」を思い浮かべるが、
本当は違う人、という文章。
このスレの元ネタは後者の方だが。
人物を誤解させるのは知識量と言い換えの問題だけど、
人柄を誤解させるのは難しいな。
関羽 雲長
職業不祥。殺人事件を起こして役人から追われるようになるが、社会混乱を
利用して皇族を名乗るペテン師を担いで野軍を造り、事実上逮捕不能になった。
その後、賊の討伐と称して虐殺を繰り広げ商人から財貨を奪い、各地の太守や
将軍にユスリタカリを繰り返した。一応賊退治の功績があるということでペテン師
劉備が県令に任じられるが、都から来た役人が気に食わなかったので義兄弟三人で
ボコボコにリンチした。
一時期義兄弟を裏切って宮仕えをして曹操から大量の賄賂を受け取る。
またある時は彼を説得しようとした顔良を耳も貸さずに一刀両断にした。
宮仕えに飽きると曹操から貰った愛人を全て置き去りにし、さらに関所の
役人をことごとく惨殺して、中央の勢力圏から脱出した。
>>175 上手いね。
ただ
>その後、賊の討伐と称して虐殺を繰り広げ商人から財貨を奪い、各地の太守や
は
商人から財貨を巻き上げとした方が嘘が少ないと思う。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 17:55
>175
業績はたしかにそうだな…
うーんイメージが…
諸葛孔明
27歳で無職引きこもり、趣味は戦略シミュレーションと放火。
元ヤクザの友人の温情で、社長自らが勧誘に来るも居留守を使い面会を拒絶。
しぶしぶ就職するや、社長の愛顧をかさに着て諸先輩に威張り散らす。
外敵に襲われると都市に放火し、数多くの市民を路頭に迷わす。
人事部長を任された時は、威勢のいい新人を頭の形が気に入らないという理由で落とそうとするも、
社長の鶴の一声で取りやめ、以降はネチネチと陰湿ないじめを繰り返す。
ライバルは皆、謎の退職・殉職を繰り返し、瞬く間に副社長の地位に上り詰め、
社長の死に際には、重役たちの面前で時期社長にするとの遺言を残させる。
社長の死後は零細企業の社長を七度拉致し、無理矢理子会社になる約束をさせる、見返りは饅頭。
その後、ライバル大手のエリート社員を引き抜き、古株たちを差し置いて子飼いとして重用するも、
無理な経営方針がたたり、倒産の時期を早めた。
>>180 自らの失脚の際には腹心の部下達にいじめていた社員を追放するためのマニュアルを手渡した。
部下達は忠実に実行し、見事社員は辞めさせられた。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 19:13
中国の武将。若くして父を亡くしたが、父の遺臣達の支えと強力な水軍力
を基盤として勢力を拡大し、一方の雄として天下に名を轟かせた。
宿敵との決戦においてもその水軍力は遺憾なく発揮され、火計を用いて相手
の船を焼き払い勝利をおさめている。しかし、どちらかと言えば攻勢よりも
守勢を旨とする気質から、一大決戦を挑むことは少なく、物語の中での人気
はライバル達と比べ一歩劣る感がある。
孫権仲謀・・・・・じゃなくて毛利輝元
2日ぶりにのぞいたらもの凄くスレが進んでてビックリした。とりあえず
軽いネタをあげておきました。
>>175人柄を誤解させるためには、ネタとなる人物の評価がある程度極端
でないと難しいからね。評価が分かれる人物だと「そのまんま」とつっこま
れる恐れがあるし。スレが進むたびに取り上げるべき人物が減ってくる。
161と182がオレ的にいい感じ
185 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 19:36
>>182 上手い。
影が薄い親父さんを良く活かしたね
>>182 グッドジョブ。
上手くやれば、長男が早世したとかも加えられたんではないかと。元就さん長男じゃないですよね。
188 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 02:30
猛達
元劉璋の配下。後に劉備や曹否に仕える。
蜀が五斗米道という邪教にからの侵略に晒された時、彼は蜀の民衆を守る為には、暗愚な劉璋では蜀を守れないと判断。
彼は友人数名と協力して劉璋を主君の座から退け、名声を歌われていた劉備を蜀の王へ迎え入れた。
その機転と功績によって劉備の養子、劉封の参謀役にまで抜擢されるという大出世を果たす。
地味ながらも着実に功績を上げるが、彼の活躍は煌びやかな将軍達の影に隠れ気味であった。
劉備の義兄弟である関羽が、自らの慢心とミスによって敵の大軍に取り囲まれ、劉封達の部隊へ援軍を頼んだ時、
劉封は叔父である関羽をを助け出す為に兵を出そうとするが、猛達はコレを強く諌めた。
彼らが占領した地は、占領してからまだ日が浅い為に民心が納まっておらず非常に不安定であった為であった。
彼はその情に流されず、民衆を守る為、劉封を諌めて出兵を取り止めさせた。
将軍一人とその少数の兵よりも、新たな統治の不安に怯える民衆のを守る決断を下したのである。
数多くの無力な民を守った彼であったが、敵軍によって関羽は斬首に処された。
彼の行動は義兄弟を失った劉備に一切理解されず、彼への風当たりは日増しに辛くなっていった。
最終的に、劉備は彼を処罰する事を決定。彼を捉えんと計略を張り巡らせた。
だが、彼の友人の一人が、彼の身を守る為に反乱を決意する。
結果的に友人の反乱は失敗に終わるが、猛達は彼の友人の身を張った行動によって危機を察知した。
彼は無理解で狭量な劉備に幻滅し、単身魏へと降ったのだ。
劉封は、冷酷にもかつての参謀を冷情け容赦無く撃つ為に進軍を開始。
だが猛達はかつての上司であった劉封と戦うのは忍びなく、劉封へと降伏の密書を認めた。
劉封は猛達の心遣いに耳一つ貸さず、結果として猛達に散々に敗北して撤退する。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 02:31
魏に下った彼の機略や人格を見、当時の魏の皇帝は彼を格別に厚遇する。
彼は魏において如何なくその才能を発揮するが、彼に理解を示した皇帝の息子は、彼の人格を理解出来なかった。
新たな皇帝の巨大な土木工事等に魏の民衆は苦しむ。
再び辛い境遇の中へ置かれる彼。だが、蜀の諸葛亮孔明が魏を討伐する為の北伐を繰り返していた。
彼は、彼自身の夢を託した魏へ幻滅し、孔明と共同で魏を討とうと画策する。
孔明は魏の民衆など放っておいて城を出、即座に進撃を開始せよと密書を送ったが、彼は動かなかった。
彼の謀反により部下や民衆は動揺、城内には不安が広がっており、今彼が出撃すれば、この民衆たち誰も守る事は出来ない。
その事に心を痛めた彼は出撃を先送りし、再び民衆の為に城へと残った。
その彼の元へ、部下の事も構わず強行軍を続けた司馬イが現れる。
彼は死力を尽くして戦ったが、多勢に無勢。彼は徹底抗戦は民衆や兵を苦しめるだけだと判断。
最後は敵軍からの攻撃をわざと体に浴び、彼自身の信念によって人生を終えた。
詩を愛し、義の何たるかを知り、友人も多かったが、中々他人に理解されず、運命に翻弄され続けた人生であった。
どうでしょうか?
長いばかりで自信が無いけれど・・・
175がうまい
>>188 力作だと思う。
でも元々が不当に貶められている感のある人物だから「実際そんな所だろ」って
思えてしまうのが残念
>>188-189 特徴のあるところをピックアップしてコンパクトにまとめるとよかったかも。
しかし孟達とは難しいトコを選んだな。万人のイメージが共通してないから
誤解させるのはかなり難しいぞ。
三国志時代の始まる前衰退した漢王朝を見かね、自分から世を変えねばならぬと二人
の弟と共に立ち上がった漢。
数々の激戦を、彼を心から慕う農民から出た部下達、そして神を最後まで信じ抜いた
信仰家でもある。
しかし夜中に奇襲(しかも火で大軍に見せかける)、背後から攻め込むなど卑劣な手段
を受け二人の弟を亡くし、本人も部下に看取られるなか心半ばで病死する。
偉大な父親の死後、同腹の兄と国の後継をめぐって争う。
聡明で部下からの信頼厚く、後継に期待されていたが、兄に敗れる。
曹植じゃなくて、織田信勝
>>195 おお!やりますな。似たとこ結構ありますね。
ただ、「神を最後まで信じ抜いた信仰家でもあ
る。」ってところが誤解しそうな人物の方には
当てはまらないのでは…。
>>196 うまい!
……でも、他の人のように、一画面では見えない
下のほうに
「曹植じゃなくて、織田信勝」って答えを入れた
方が味があると思いますです。
>>196 うーん、そんな感じで良いんだけどさ・・・
その文章だけじゃ当てはまる人は曹植と信勝どころか無数に居そう。
より精進を求む。
・後漢末の人で、当時の比類なき名門の出身。古くから彼を語る際には「優柔不断」「薄志弱行」などの
言葉が主に用いられてきたが、近年では戦国の世をしたたかに生き抜いた人物との評価も有力である。
・国難を打開すべく、他州から有力豪族を呼び寄せる――このあまりに無謀な提案が、もしなかったとしたら、
彼や、彼を取り巻く人間の運命がここまで千々に乱れることはなかったであろう。この事件以後、彼は
いつ終わるとも知れぬ血なまぐさい闘争の真っ只中へと突き進んでいくことになるのである。
・のちに謀臣の献策に従い、ある土地を乗っ取る。事前に計画を見抜いた腹心が彼の襲撃を企てたが、
失敗して殺された。以後、数年にわたってこの地を中心とした熾烈な争いが繰り広げられた。
・この争いにおける三国志演義での名場面としては、
天下に名高かった白馬の軍に弓兵による待ち伏せ攻撃を行い、指揮官を討ち取った戦い
一方の総大将が敵方の勇将に追いつめられ、絶体絶命のところを、突如現れた謎の猛者によって窮地を脱する場面
などが挙げられる。
・緒戦は劣勢であったものの、しだいに戦局は地力に勝る彼の軍の一方的な展開となっていき、
相手方は天嶮の要害に立てこもり、持久戦をとった。しかし小競り合いを続けるうち城兵の士気は次第に衰え、
ついには内部の造反がもとで落城。この戦いの勝利で彼は事実上この地一帯を掌握し、
天下に覇を唱える一方の雄となった。
・しかしその栄華も長くは続かず、まもなく股肱の臣というべき二人の豪傑を相次いで失い、裏切り者も現われた。
・その後に臨んだ乾坤一擲の戦いでも、参謀の意見に耳を貸さず、
敵の火計による奇襲がもとで全軍は瓦解。天下を望むという彼の野望はここに儚くも潰えさった。
・余談だが、この敗戦の際、進退極まった彼の家臣の一人がやむなく曹氏に降伏している。
この家臣は事前に作戦の問題点を指摘していたが、聞き入れられなかったといわれる。
結局、以後死ぬまで魏に仕えた。
彼の下にはその名声を慕って数多くの逸材が集まったが、彼はあくまでそれらの逸材にのみ頼り、
積極的に活用する術を知らなかったと評されている。この家臣に起こった悲劇は、その評の
顕著な例のひとつと言えるであろう。
・彼は大敗の衝撃から立ち直れぬまま病に倒れ、失意のうちに息を引き取った。
ひとつの時代の終わりを告げる象徴的な出来事であった。
彼には三人の息子があったが、死の直前まで後継ぎについて悩んでいたとされる。
最期に脳裏に浮かんだものは、ただ無念の情のみであったろうか。
あるいは自分に先立って死んでいった弟の姿だったのかも知れない。
・・・御見事!
長っ!
いかにコンパクトにまとめて旨味を出すかというのも腕じゃないかい?
>>202 漏れは上手いと思う。
無駄で意味のない事ばかりダラダラ続けてるなら腕が無いって事だが、
>>199-200の場合、全部思い込ませるのに有力な情報になっている。
まあ部分的に苦しい所も有るけど、このスレの中でも白眉のレスだ。
>>199-200 確かに上手いと思う。でもオレの場合、最初から袁紹の事だと思って読んでしまった
ので劉備と誤解させていたことに気付くのに時間がかかってしまった。
>>204 俺は最初袁紹だと思ってたが、後半で実は劉備と解釈したんだが・・・・
結局どっちが正解なんだ、それともどちらの解釈でもいいんか?
199のメル欄読む限り劉備の事だろ?
・人徳者
・牧になった経験あり
・漢王朝の一族
・皇帝に擁立されたが一度辞退
・負けて死去
どうでしょうか。
正解。
やっぱりもうちょっと工夫しないとだめか。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 13:39
・なんども北に攻め込み、魏を苦しめた
・三国鼎立には欠かせない人物だった
・多彩な才能を持っていたが、その本懐は戦ではなく、外交・内政に発揮された
・その親族は呉に仕えた者が多かった
・三国志の著者陳寿に高い評価をうける
孔明じゃなくて孫権
彼は呂布の直属の配下である。
董卓から呂布、呂布が死ぬと曹操へと主を変えたことで知られる。
しかし彼自身には下心や野望があったわけではなく、呂布のように「叛服常無し」などと蔑まれることはなかった。
三国志の中でも屈指の英傑といわれ、彼のために命を落としたものは数知れない。その力は呉に対しても存分に発揮された。
また、関羽の大の親友であり、関羽の千里行の時にも登場した。関羽が呉によって処刑された時大いに落胆し、食事も喉を通らないほどだったという。
中華の人々はそんな彼を讃えてこう言う
「馬中の赤兎」と。
>>211 >関羽が呉によって処刑された時大いに落胆し、食事も喉を通らないほどだったという。
ここワロタ、ナイス
劉備の義弟であり、古くから兄を支え続けてきた将軍である。
弓馬の術に優れていたといわれ、正史の普及した最近では「意外と頭も切れるやつ」という評価が定着している。
荊州を守っていた兄弟が失態を犯して領地を呂蒙や陸遜らに陥れられると、
彼は憤るあまりに結局無残な死を遂げてしまう。
劉備は、荊州陥落の報を受けて悲憤に暮れる彼をことのほか心配していたが、
それでもその死を止めることが出来なかった。
この後劉備も陸遜に大敗し、諸葛亮統治下の蜀は人材難に悩まされることとなるが、
古参で人望も厚く、なによりも武勇に優れた彼がいたならばと思われてならない。
麋竺ですけどね。
>>213 うーん、読めた。劉備陣営で「憤死」した有名どころは麋竺しかいないからなぁ。
趙雲 子龍
初めは袁紹に仕えていたが、待遇が気に入らず、
放浪する。そして手当たり次第に袁紹の配下を襲う。
そして強いのと戦って困ってたところを公孫サンに助けて
もらう。その後また気に喰わない袁紹を卑怯な手を使って倒そうと
するが、袁紹の援軍が来たため敵前逃亡した。
その後また公孫サンが気に喰わなかったので、劉備と密約を交わした。
そして曹操が陶謙を攻めると、陶謙の援軍に趙雲と共に赴いた。
そして、気に喰わない公孫サンを見捨てたため、公孫サンは滅亡した。
そして劉備の味方にからんでいって殺した。
さらに劉備の味方を殺そうとするが、心変わりして劉備の
配下になった。
劉備が樊城から曹操軍に追われて長坂まで敗走した時は、
劉備の家族の警護を命じられる。
そして真面目にやってなかったために、家族とはぐれてしまう。
劉備に怒られることを恐れた趙雲は、必死になって探し出す。
しかし腹いせに糜夫人を見捨てた。
そして自分が夫人を殺したことについて有利な証言をさせる
ため、糜竺・簡雍を助けた。
そして、夏侯恩を殺して、持ち物を根こそぎ奪い取った。
そして曹操はあまりの夏侯恩を殺して持ち物を奪った
貪欲さに哀れに思い、、「矢を射掛けてはならぬ。必ず生捕りとせよ」
と言った。
そして二人の部将に大苦戦するが、なんとか撃破する。
さらに文聘がくると、面倒なので目上の張飛と戦わせた。
そして劉備のところに行くと劉備は阿斗を投げ出し、
「大事な大将を失うところだった」
と言わせ、見事に劉備を騙せたことに趙雲は感激
した。
赤壁の戦いではまた卑怯な手を使って曹操をリンチしようと
目論見、成功させた。
そして劉備の夫人孫夫人を気に喰わなかったので虐めた。
そして孫夫人が呉に帰って孫権に伝えようとすると、
虐めがばれるのを恐れた趙雲は、張飛と結託して、
孫夫人の口封じに成功した。
劉備が蜀の遠征に行く時趙雲は領地でサボっていた。
そしてホウ統が死ぬと、一応、趙雲は救援に行ったが、
相変わらずサボっていた。
劉備入蜀後、翊軍将軍という下の方の将軍位に命じられる。
漢中の攻防では黄忠の手柄を横取りした。
曹操が自ら進撃してくると、降伏しようとして、城外に
でるが、曹操は疑って攻めてこなかった。
そして劉備は見事騙され、「子龍は一身これ全て胆なり」
と賞賛した。
そして前からそれを見抜いていた諸葛亮はおとり
というくだらない仕事しか与えなかった。
街亭で馬謖が敗退すると蜀軍は全軍退却することになった。
攻撃してきた曹真の軍が多数であったため敗退したが、
趙雲は自ら後詰めし、軍需品をそこなわず乱れることなく
見事に撤退したが、これも兵卒が奮起した賜物である。
その時趙雲が持ち帰った軍需品の絹をあたえようとしたが、
兵卒を嫌ってたため拒否した。
第二次北伐が始まろうとした建興七年(229)、逝去した。
長文すいません。
評価はどうでしょうか。
ただのひねりも無い趙雲の紹介されてもな
219 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 19:16
ひょっとこ斎でぇーす
事実に対して「サボっていた」とか「気に喰わない」って付けただけじゃね…
しかもageてるし
もうちょっと頑張らないとだめみたいですね。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 20:14
この板に来る人で知らない人はほとんどいないという思われる有名人。
若いころから不思議なカリスマ性で多くの人物に慕われる。
年をとってからは、有能な在野の士を直接訪問して配下にするなど人材収集にも熱心だった。
また、自分の部下のある人物を「顔が悪い」という理由で重用しなかったことがある。
一般には「お人好し」といったイメージがあるが、よく調べると腹黒く狡猾なところもあり、その実像は謎に包まれている。
大昔は圧倒的な人気だったが、最近では上記のギャップから彼のことを嫌いになる人も少なくはない。
近年では、何を考えているのかよくわからないという人柄もあって、ネタ・お笑いキャラとしての人気もでている。
長嶋茂雄
223 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 22:39
若き頃から気前が良く、自分なりの正義感に溢れていた。
しかし、名門出ということもあり、他人を信用しすぎ失敗することも多かった。
ある戦の前哨戦、仲間の将が大勝し敵を甘く見て後先考えずに攻め入っていたとき
彼は必死になってその将を止め、なんとか引き返させたが手柄を邪魔されたと思った将は
彼の部下を殺し、国に帰ってしまう。
数年後、危惧した通り無理な戦の途中小さい息子を残し死んでしまうが、手厚く保護した。
運命とは皮肉である、中国全土に名を知られていた彼は各地の野心をもった主君に恨まれて、
国に四方から敵が攻め入り部下たちが次々に戦死や捕らえられていった。
さすがにこれ以上は迷惑かけれないと思った彼は、国を出て少数の軍勢とともに北に向かっていったが
途中で賊と手を結んだ、各地を裏切り続けている男たちの襲撃をうけ散り散りになってしまう。
賊からうまく逃げ切れた配下のためにひたすら北に向かったが、その途中病死。
一説には民家の住人は敵の回し者だったらしい
袁術
>>222 うまいむ
>>223 人物を誤解させようとしているのか人柄を誤解させようとしているのか
よく分からない。どっちにしろイマイチ。
演義自体が劉備の人柄を誤解させるような書き方をしてるな。
「奇妙な冒険」スレでもそうだが、何の捻りも無い長文は読むのが苦痛だぞ
・権力を傘に着た暴力三昧。
・他人の家臣を勝手にお手打ち。
・相手がボコボコになるまで降伏を許さないサディスティックな無法者。
・酒色にふけり日本人で初めてラーメンを食べる。
みとこーもん
三国志における彼の生き様は、我々に深くその姿を印象付けた。
彼の人生の中で一つのポイントとなったのは、劉備の言葉である。
曰く、「彼は口ばかりで当てにならない」
しかし、諸葛亮は、それを聞いてさえ、彼に重任を与えてしまった。
その結果は散々たるものであった。彼は諸葛亮の命令を無視して、
計略にはまり大敗を喫したため、自軍を敗退に導いてしまったのだ。
その結末として、彼は斬られ、その生涯を終えることとなった。
演義にしか登場しない「彼」は ケイドウエイ
参考文献は吉川三国志
cadeway?
徳川家康に見出され、女性ながらその知を遺憾なく発揮する。
結婚歴があり子供も儲けていたが夫と別れてしまう。
彼女の注目すべき業績は、権力者の母親代わりとなり、誠心誠意尽くした事であろう。
後に位人臣を極める。
春日局
ではなく阿茶局
稀代の英雄、いやカン雄と言える人物。
もともと名門ではあったが国内が混乱する中、彼の勢力は一族と僅かな
手勢のみになってしまう。
しかし、軍才に優れた彼は諸勢力を打ち破ってはその兵力を吸収し強大化
した。
その為彼の部下には元は敵だった者が多い。
かつては友でもあった宿敵と国の主導権を賭けた天下分け目の合戦に
勝利し、その後華北ほぼ全土を支配下においた。
武勇だけでなく政治的駆け引きにも優れ、南方の大勢力にわざと無礼
な使者を送って斬らせ、開戦理由にしたと言われる。
また、天然の要害に築かれた宗教勢力を弾圧せずに降伏させた。
一方で感情的な面もあり、肉親が殺された為に一般住民を女子供まで
虐殺した。この虐殺については合理的に計算づくでやったとする説も
あるが疑わしい。
長男が早死したこともあって後継者についてはもめたが、次男と四男が
有力候補だった。
●血気盛んな若かりし頃、己の信じる道を貫かんとするあまり、後先も考えずに大胆な行動に出たことがある。
※これは正史のみの記述。演義では(特定の人物像を植えつけようとする著者の意図から)この挿話は
彼の演じる役回りには相応しくないと判断されたようである。
●天下に蜂の如く起こった賊を相手に、配下の二豪傑を指揮してすさまじい戦いぶりを発揮した。
●他家の後継者問題に意見を述べたことがきっかけで暗殺されそうになったことがあったが、馬のおかげで逃げられた。
●彼の持つ馬は有名。ある人に、禍を転じて福と為すにはその馬を他人に譲れと言われ、激怒したことがある。
●彼が見出し、生涯頼りとした人は、とある有名な人物と同じ年に生まれ、同じ年に亡くなった。
●荊州刺史の死を契機に、その子を陣営に迎え入れ、地盤を確固たるものとした。
●曹操の猛攻のまえに、大勢の民衆を引き連れながら懸命に逃げた。
この危機を一世の豪傑の奮戦と、稀代の名参謀の機転とで乗り切り、曹操軍を見事に追い払った。
●このほか、彼の幕下にいた優秀な人材としては、
鎖の計略で知られ、曹操を窮地に追い込むきっかけをつくった謀臣
西涼から長安へと攻め上がり、数日でこれを陥落させた将軍
などが有名。
●西の地へと移り、ここに首都をおいて君臨した。
●目も当てられぬほどの醜態を晒した養子にあきれ果て、ためらいながらもその処刑を決断した。
●死の直前まで漢の皇帝を思いながら、志半ばで死んだ。
●彼の後継者は、巫女の言葉を盲信する愚人であったという。
●いつしか身体についてしまった脂肪の逸話は有名だが、故事成語までにはなっていない。
※申し訳ありません。削りに削ってこの文量です。あれもこれもと書くからいけないのでしょうか…。
●彼が見出し、生涯頼りとした人は、とある有名な人物と同じ年に生まれ、同じ年に亡くなった。
●荊州刺史の死を契機に、その子を陣営に迎え入れ、地盤を確固たるものとした。
●西の地へと移り、ここに首都をおいて君臨した。
●彼の後継者は、巫女の言葉を盲信する愚人であったという。
●いつしか身体についてしまった脂肪の逸話は有名だが、故事成語までにはなっていない。
この項目要らない
まだ半分に削れる
●いつしか身体についてしまった脂肪の逸話は有名だが、故事成語までにはなっていない。
これはあってもいいと思う。まあ何にせよ上手いね。
面白く紹介するスレなのか誤解させるスレなのか、が混同されている
三国で「脂肪」といえば董卓を措いて他に無いだろ
・彼は兵法に長けており、その方面でかなり有名だった人物である。
・もともと荊州で職についていた。
・敵の城に向かって進撃中、待ち伏せしていた敵の矢を受けてあえなく死亡。37の時であった。
なお、彼が死亡する直前、不吉な兆候が起こったと伝えられている。
・ただ、歴史的評価が諸葛孔明より低いのは残念なところである。
龐統
じゃなくて孫堅
241 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 00:23
三国志を読んだことのある人で彼を知らないものはまずいないだろう。
●天子を擁して天下に覇をとなえた
●その勢力は中原一帯に及んでいた
●強大な軍事力を持っていたが、長江以南の土地を手に入れることはできなかった
●最期まで臣下の礼を貫き、天子に信頼された
●彼の死後も中国最大の強国であり続けた
曹操じゃなくて
晋の文公
243 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 02:48
日本にて「女王」を名のった人物。
その位置にはもともと男性が就いていたのだが、激しい跡継ぎ争いが起こり、
常人ではとてもまとめる事ができなかったため彼女が継ぐこととなった。
彼女は奇術を得意とし、それにより人々の支持を集めていたという。
海を渡り歴史的な外交を行ったということは、もちろんご存知であろう。
プリンセス天功
244 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 02:52
彼は有名な武将の養子である。 刑死した。 戦場で「親父を出せ」と言われた事がある。 劉封ではなく関平
>>241 >三国志を〜云々
そうでもあるまい。
敢えて厳しく評価すれば北朝の宰相や有力軍閥を上げれば大抵その文章
にあてはまりそう。レベルが低くないだけに残念。
>>243 うまい!
完全に不意打ちされた。
>>244 こっちが頭の中で人物を特定する前に答えが出てしまったorz
246 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 15:19
彼の弟は使者として訪れたが逆に殺された。 その後彼自身その相手に滅ぼされる。 三文字の将軍である。 公遜サンではなく、厳白虎
>>346 最初から厳白虎と思ってた俺の立場は・・・
248 :
ひょっとこ斎:04/07/05 16:24
ひょっとこ斎でぇーす
趙雲 子龍
袁紹を裏切った。
公孫王賛から何度も寝返ろうとした挙句見殺しにした。
手違いで仲間を殺した。
長坂では自分の部下を全滅させ、主君の婦人を見殺しにした。
そのわりに思わず捨てたくなるような要らない物だけ拾ってきた。
かつての同僚を殺し(もしくは半殺し)た。
女を紹介してくれた奴になぜかブチ切れした。
孫夫人から夫の子を奪った。
蜀に行ってからは大きな戦には一回しか出してもらえなかった。
その一回だけ出してもらった北伐は負け戦だった。
●三国の一国、呉に仕えた人物。
●赤壁の戦いの際に協力しあった諸葛亮孔明と何かと比べられ、引き立て役に
なりがちだが、将軍まで出世したほどの実力の持ち主。
●劉備が荊州を手に入れた折には、かの地を取り戻そうと劉備を言葉巧みに
責めたてるが、諸葛亮に妨害され失敗に終わる。
●孫権から絶大な信頼を置かれ、最後まで呉に尽くした。
周瑜
ではなく、諸葛謹
大手メーカーの造る歴史シミュレーションゲームの最高峰。
最近はグラフィックや音楽に凝っているので高いPCスペックを要求される。
既出のソフトに機能やシナリオを付け加える追加ソフトの販売をする。
ネット対戦版がある。
象兵や匈奴らしき人物が登場したりもする。
勢力の発展具合によって使用できる兵科や施設が増えるようになった。
守護代家の生まれで、勇将として知られる父の死後、兄弟間の相克を制して家督を得る。
小大名ながら大勢力の侵攻を破り、それ以降大いに勢力を拡大していった。
いち早く戦場に鉄砲を取り入れるなど先見に優れ、その一方で幕府など、旧権力を積極的に
利用していたフシも。極めて合理的頭脳の持ち主と言えよう。
気性は時に激しく、代表的な例として、意に反した寺院に対する破却・焼討ちが知られる。
まさに「風雲児」と呼ぶにふさわしい人物であるが、惜しむらくは合理的すぎるゆえか、人心掌握に
疎かったことだろう。
彼の覇業は、突然の家臣の叛乱によってあっけない幕切れを迎える事となる。
時は天正、長年悩まされた宿敵と和睦にこぎつけ、まさにこれからという時期であった――
以上、浦上宗景の紹介でした(JAROすれすれ)
●酒好きが災いして不覚をとる。
●常に手にしていた強力な武器をこっそり盗まれたことで、ほぼ天命が尽きた。
●曹操のために、門の前で大暴れした。
●もし、敵軍にあの絶世の美女がいなければ、彼の運命はまったく違ったものになっていたのかもしれない。
●曹操は長男・曹昂を失ったにも関わらず、彼だけでも死なずにいてくれれば…と考えたほどであった。
●知謀の人、賈クが、このような人間がごく身近にいることに脅威を感じて、主君に忠告したのも当然のことと言えよう。
●業績面で、彼とよく似た歴史的評価を受けている人物が、同じ曹操陣営にもう一人いる。
●十歩もあれば、瞬時に命を絶つことができた。
●姓名の日本語読み(ふりがな)は基本的には3文字だが、5文字読みも広く普及している。
・中央を支配した
・彼の死後後継者争いが起こった
・彼は弟と争った
・朝廷の高官に就任した
・長男・次男・三男に別の
所を治めさせる。
・離反したものを平定
解答はメール欄をみてください。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 15:46
>>254 すんまそん
誰と勘違いさせようとしたんすか?
袁紹ですよ。
>>253 > ●姓名の日本語読み(ふりがな)は基本的には3文字だが、5文字読みも広く普及している。
最後のこれがわからん。おそらく典韋と思わせてのパターンだと思うのだが、「てんい」以外の読み方って何?
いえ、これは曹植についての人物紹介です。典韋のことではありません。
典韋と思われたのでしたら、それが誤解ということです。
すみません、もう一言だけ。
最後のあの一文がなければ、典韋にも曹植にもそのまま当てはまってしまい、
メール欄に片方だけの名前を正解として書いても意味がないのです。
どこかに、誤解させた人物(ここでは典韋)とは決定的に違う紹介を入れなければなりません。
はじめはてっきり典韋のことだろうと読む人に思わせておいて、
最後だけ、それにあてはまらない紹介をし、「あれっ?」と思いながらメール欄を見てもらい、はじめて
「なーんだ」と納得してもらう。これが私の狙いだったのですが。
>>253 最後はいらないね。
「あれ?」と思わせる必要は無い。
>●十歩もあれば、瞬時に命を絶つことができた。
これにはワロタけど。
>>260 > 最後のあの一文がなければ、典韋にも曹植にもそのまま当てはまってしまい、
> メール欄に片方だけの名前を正解として書いても意味がないのです。
> どこかに、誤解させた人物(ここでは典韋)とは決定的に違う紹介を入れなければなりません。
意図は了解したが、それじゃあメル欄に正解を書いた意味が薄れるような……?
ここまでのこのパターンの場合、最後のものまで誤解させるというパターンが多いので258のようなレスになった。
君主からの信頼が厚く、第一の臣として他人からも認められていた。
また、民衆からも畏敬の対象として仰がれたが、同僚と衝突することもあったらしい。
常に傍らに得物を持ち、その得物を扱わせると天下一品の腕だったという。
「髭が立派」という意味のあだ名があり、そちらで呼ばれることもあった。
関羽
でなくて耶律楚材
ちなみに、得物というのは琴ね。ちょっと苦しかったか。
君主の座についた頃は賢愚が定かではなかったが
ある大戦をきっかけに中華にその名を認めさせた。
また、臣下には譜代新参を問わず名臣が揃い
その人が君主の時が正に国の最盛期といって良いであろう。
江南の雄として君臨し、度々中原に進出して中原を騒がせたが
結局は江南の一雄で終わった。
その時代の統治者としては五指に入るほどの名君だが
その中から一人を選べといわれると、選に漏れる事が多い。
やはり、天子を奉戴しなかった(又は、しようとしなかった)事が原因であろうか。
孫権
…でなくて、楚の荘王(春秋時代)
・松平家と争った小身の武士。兵力は他の武士に比べて
圧倒的に少なく、近隣の武士は皆あなどっていた。
・少ない兵力を高い機動性と戦闘力で補い、大いに武名を挙げた。
・当主は策謀に富んだ人物で、中央の政治家から嫌悪されたが、
民衆から絶大な人気を得ていた。
・スパイを駆使したといわれ、後世に伝説化された。
・池波正太郎が小説化した。
・小説を元に丹波哲郎がこの人物を演じた時代劇は名作として名高く、
現在も再放送が行われている。
真田昌幸…ではなく、長谷川平蔵
その時代の為政者として、後世からも非常に高い評価を得ている。
中華を得るに必要な人材として同時代の人間から非常に高く評価されていた。
友人などに推挙され、君主に仕えて中華に覇をとなえさせたが、統一は出来なかった。
彼の死後は、彼に代わる人材がいないために、国家は混迷した。
彼とある人の交遊については非常に有名で「○○の交わり」といった格言で現代に
生きている。
諸葛亮
…でなくて、管夷吾(管仲)
三河の出身で、徳川家につかえた人物。
前半生はほとんどよくわかっていないが、仏教を熱心に
信仰していたことは事実であり、彼が建立に尽力した
寺院が東京都内に今も残る。
智謀に優れ、能力を買われて徳川家に仕官。
徳川家当主の無二の親友といわれ、知恵袋的な存在であり、
政治の中枢に居て権力を握った。
反面、徳川家臣団からの受けは非常に悪く、
70歳を越して江戸城に出勤する彼を罵倒する者が
非常に多かったと記録に有り、その為、大名としては
最小の1万石程度の禄高と最低の官位(国守)に甘んじた。
本多佐渡守正信…ではなく、大岡越前守忠相。
(大岡は禅宗の信者として寺を建立している)
・3往復の末に主君に仕え、右腕となる
・無謀な遠征をした主君が死ぬ間際に遺児を託される
・本来は大政治家であるが、大軍を率いて強大な敵と戦う
・結局敵に勝てずに死亡
孔明ではなく石田三成
269 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 23:55
・世界史レベルで見ても彼は十分に偉人といえるだろう。
・身長が低かったことでもよく知られている。
・正妻と別れている。
・孫子を愛読していた。
・大勢力に発展した後、更なる拡大のため河を渡り大遠征を行ったが失敗に終わる。
曹操
ではなくナポレオン 初歩的すぎましたスマソ
美〇〇と呼ばれた 知勇兼備の武将である。 君主とは義兄弟である。 関羽ではなく周ユ
周ユって美尻穴なんて呼ばれてたっけ?
>>269 初歩的なんてとんでもない。秀逸。
もともとそうだったけど、最近さらにレベル上がったな。
何のひねりもないそのまんまのネタがなくなった。
そのおかげで逆に
>>270のようなネタが少し物足りなく思えてきた気が。
毒矢を受けて骨を削る荒療治を受けた 荊州の名将に苦しめられた
あたりを加えてみたらどうだろう(偉そうでゴメン)
>>272 主君と義兄弟だった
ってのもアリだね。
って、書いてあるじゃん。俺の眼は節穴ですた。
・主君からの信頼が厚かった。
・豪傑を相手に数人で一騎打ちを挑んだが、勝負はつかなかったことがある。
・肉屋と呼ばれ侮辱されたことがある。
・5人の将軍の1人に選ばれる。
・関羽とは親しい友人であったが、彼に刃を向けたことがある。
・自らの失策で守っていた城を敵に奪われたことがある。
・ある戦いの際に悪口合戦をしかけられたことがある。
・自分の言い出した事に反発した部下を厳しく責めたてたため裏切りを招いた。
張飛翼徳………ではない、徐晃公明
270です。確かにまだまだ修行が足りないですね。頑張ります。
暗愚な君主と言われている。 成都が本拠地。 最後は降伏し、命は助かっている。 彼の父には名将関羽、張飛もつかえていた。 劉ゼンではなく劉ショウ
実在した戦国大名家。
北条家・上杉家・武田家といった有力大名と同盟したり抗争したりした
が、徳川家の圧倒的な力の前に滅ぼされ、悲劇的な終焉を迎えた。
だが、どちらかというとフィクションの方で有名かもしれない。
フィクションは、超人的な術や技をつかう複数の勇士たちの物語である。
講談風の派手な物語は、戦前からひろく人気を博してきた。
たびたび映画化や小説化されており、NHKで映像化もされている。
真田家……ではなく里見家。
抗争相手は上総武田家。
>>279 うまい。オレ的にはこのくらいの長さのやつが◎だな
箇条書きもいいんだが流れがあるほうが紹介文っぽく思う。
父を賊に殺されたがそのかたきを討ち、
優秀な一族と強力な戦闘集団を配下に持ち勢力を拡大する。
かつての幼なじみがライバルとして対峙するがこれを退け、
北伐を行って異民族を討った。
軍の指揮に優れ広大な地域を征服したが、
敵対勢力との決戦に敗れ天下統一は果たせなかった。
一方で皇帝を擁立して数々の政治改革を断行し、
中でも土地制度を見直して収入の増大を図ったことは歴史上でも有名である。
その功績は絶大でいずれ帝位を簒奪するのではともっぱらの評判だったが
自身が帝位に就くことはなく、
かつて殺した人物の亡霊を見て病を悪化させ世を去った。
その後、彼の子が禅譲を受けて皇帝となった。
東晋の桓温
>>281 途中まで孔明のことかと思わせておいて実は曹操のことを書いてると思わせておいてそれか!
正直、うまいと思った。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/09 21:20
>>229 ケイドウエイ
レイリョウの猛将。デカイ斧を使い、結局はチョウヒと超雲2人相手にした
ため流石に撤退しようとした所罠にかかって捕まるがそれまでは蜀軍を苦戦さ
せた。
そこで蜀に「味方を裏切れ」と言われ開放されるが彼は味方を裏切るような
真似はせずに最後まで上司につき蜀と戦い、そして戦死した…………
そう、彼は強く、何より味方を裏切ったりしない漢だったのだ……安らかに
眠れ………ケイドウエイ………
284 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 03:44
>>280 確かに。
文章の流れというか語り口の魅力はあるよね。
>>279 ごめん、すぐ分かった。
世の中じゃたぶん「真田十勇士」より「南総里見八犬伝」のほうが有名。
>>285 八犬伝は知ってたけど、
それと戦国大名が結びつかなかった・・・
・長生き
・裏切り者
・忠義者
・巨根
セキトバ
東アジアの王朝。日本の室町時代にあたる時代に成立した。
中国に朝貢して平和と安定を得、中華文明の傘の下で儒教道徳を守る国であることを誇りとしていた。
また、中世日本とも通商交易の関係にあった。
かつては「辺境」に向かって戦争をしかけたこともあったが、
日本の戦国時代に当たるころの王朝の軍事力は弱かった。
戦国乱世で鍛え上げられた日本の大名の軍勢が攻め寄せると、
首都はあっという間に陥落させられてしまった。
ただしその後も王朝自体は存続する。最終的には近代日本帝国に併呑されてしまう。
琉球・第二尚氏王朝
曹豹
陶謙配下。
曹操が徐州住民を大虐殺しながら進軍してきたとき、
陶謙に断固として曹操に抵抗することを訴えた。
陶謙が出陣を決意すると、自身も曹操の一番の
重鎮、夏侯惇と一騎打ちを行い、惜しくも引き分ける。
娘を呂布の妻とすることで、呂布との関係を取り持ったりもした。
その後劉備配下となり、劉備出陣の際はよく留守を守った。
が、張飛は彼に酒を強要し、断ると鞭で叩き、最後は背後から襲いかかり、
曹豹は斬り殺された。
夏侯 惇
敵に射られた自分の目玉を、「もったいない」と食べてしまった人物。
諸葛均
兄が25歳をすぎても仕官しないで、田舎に籠もり、
晴耕雨読の生活を送っていたのを支えた。
兄が27歳の時、ついに仕官した際、彼の言いつけで今まで通り、家を守り続ける。
後々、兄の勢力へ仕官するも、均の存在感は今までと変わらなかった。
支えた兄の影に隠れ、字、生没年も残っていない。
>>291 誤解もなにも、まんまそんなイメージなんだが
大体、紹介文で「均」とか言っちゃってるからな・・・。
曹操に初期から付き従っていた将。
幼少の頃師匠の仇を切り殺し破門とされた事がある。
呂布との合戦の際、敵方に居られた左目を
「親の精を粗末にしてなるものか」と喰らい、射た将を突き殺した。
曹操に唯一寝室の立ち入り許可をもらう等、最も信頼された将であり、
また曹操は彼を将の位でない官位につけようとしたが、彼が異議を唱えたので
曹操は彼にやむなく大将軍位を与えた。
正解はメール欄
295 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 13:32
女の子なのーーー。生理の日は戦できないのー。でも一騎打ちしちゃったのー怖いおじさんとー
そのおじさんにお塩送ったりしたのーー。略奪とかまじ最高だよねー。
でも雪とかまじうぜーーーー。奪ったもんはちゃんと返せつーの。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 15:32
稀代の智将。
幼い頃からご近所では評判の秀才坊やで、長じては漢の皇帝の末裔に仕え、
その才を遺憾なく発揮する。
一方で猛将的な面を持ち合わせ、水を確保せずに登山をするという体力自慢でもあった。
持ち前の軍才で、多くの兵を葬り去ったが(味方の兵)、文盲の愚将による誹謗を受け、
若くして斬首される。
彼が蜀の軍権を握ったいたら、10年は早く中原は統一されていたであろう。
嗚呼、馬謖
三戦の人物は、もともと幾説もあるような人たちばっかりだから、
真面目に書いても一つの解釈か悪意のある皮肉にしか見えないな。
もっと牽強付会なやり方しないと。
自分じゃ書けそうにないけど、
>>297の
>一方で猛将的な面を持ち合わせ、水を確保せずに登山をするという体力自慢でもあった。
みたいな、あからさまにこじつけたやり方が上手いな。
自演
>10年は早く中原は統一されていたであろう。
統一するのが蜀とは限らないんだな。
曹操に仕えた人物であるが、それまでに2度も主君を変えている。
軍歴は長いが曹操に仕えたあと歴史の表舞台に登場するのは20年近く先であり、
またその際にも任務は果たせずに終わるなどはかばかしいとは言えない。
その後、敵の一将を破るなどの戦功を上げるが、これも経験の浅い武将が
相手でしかも取り逃がしている。
また、その閲歴にも関わらず、総司令官として軍陣に臨むことがなかった点は
主家からも信頼されていなかった証拠かもしれず、その最期も敵の罠に掛かって
戦死。列伝においても、敵に降伏した人物と同等に扱われるなど、後の評価も
高いとは言いがたいのではないか。
張合β
302 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 13:20
次々と主人を変えていく不義の人。
戦場で敵将を突き殺し、その死体から宝剣を盗み出したり、
君主の妻の死体を井戸に放っておいたり、挙句、主君が将来の為に
殺そうとしたアホっ子を、ノコノコ連れ帰ったりと、誠にもってしょうもない武将。
ある国を占領した時、君主が部下のために財宝をわけてあげようという親切な提案に対して、
民衆ごときに財を分け与えろと言ったり、君主の義弟が殺され、仇をとろうという義侠心にも
異を唱える、不忠不義の士でもあった。
趙子竜
303 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 17:35
誤解を与えるようなage
304 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 17:37
夏期休暇でアメリカに行った際の出来事
LAで信号待ちをしていると、気の良さそうな2人組のお兄さんが
「おまえは 日本人か?」と気さくに聞いてきました。
「そうだ」と答えると
「漢字のタトゥー(刺青)を彫ったんだけど、どういう意味か教えろよ」と言われ、
差し出された腕を見ると『武蔵』と彫ってありました。
「日本で最も有名なラーメン屋だよ」と教えてやると、彼は満面の笑みを浮かべていました。
続いてもう一人が腕を差し出すとそこには『韓国』と大きく彫ってありました。
「キムチだよ」と教えてあげた後の彼の悲しそうな顔が忘れられません。
>>301 誤解を与えるような書き込みではなく、藻前が誤解している。
張合βは青州方面でも漢中でも活躍している。
熱くなってスマ楚
306 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/18 02:06
合戦における生涯戦績 0勝2敗
両合戦ともに、
主家の重心という立場を利用し、
権勢を笠に着て、主家の名の下に大軍を動かす。
結果、自身は刑死。一族は滅亡。
主家を衰退に追い込む。
石田三成
あれ?
息子か誰かが生き残らなかったか?
人質時代の松平竹千代(徳川家康)と関係のあった人物。
父は戦国の英主の一人。祖母は「女戦国大名」として知られる。
軍事面での活躍はあまり知られていないが、内政・外交に手腕を発揮した。
「バカ殿」などというのは的外れな評価である。
戦国大名として御家は滅んだが、彼の末裔は徳川家に仕え、戦国の名門の流れを伝えている。
北条氏規
>>308 誤解しようが無いんだが?
最初と最後の説明で決定的になっちゃってるよ。
>>309 氏真と誤解させようとしたんじゃねえの?
○○○○じゃなくて・・・・・を忘れずに
関東制覇を目指す後北条家と、関東管領として何度も矛を交えた。
なんどか、北条家を追い詰めるも常に止めがさせず、ある程度の戦果しか挙げられなかった。
これからというところで、悲劇的な最期を遂げた。その後、養子が跡を継いだ。
上杉謙信じゃなくて・・・・・
上杉憲政
スマ楚。
>>その後、養子が跡を継いだ。
その後じゃないですね。書き換えます
関東制覇を目指す後北条家と、関東管領として何度も矛を交えた。
なんどか、北条家を追い詰めるも常に止めがさせず、ある程度の戦果しか挙げられなかった。
これからというところで、悲劇的な最期を遂げた。余談だが、上杉家は彼の養子が跡を継いだ
上杉謙信じゃなくて・・・・・
上杉憲政
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 23:16
age
皇帝の息子として生まれ、成人し、皇帝になった後は、戦を極力
避けようとし、民を戦火から守った。
勝手に北伐をし、民を恐怖と混乱に陥れていた諸葛孔明の死後も、
無駄な戦はせず、要害にいる兵まで皆慰安していた
劉禅
317 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 00:40
・三国の皇帝の一人
・袁紹の陣営にいた。
・呂布と何度か戦った。
・漢中をすさまじい勢いで制圧した。
・荊州で呉の火攻めに苦戦し大敗戦を喫する。
・味方の裏切りになんどもあう。
君と余だ
318 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 01:20
劉備は構想三、刀剣、両夫、炎症、流氷、隆昌の場所へと
居座ったが、全て居座られた君主は滅亡している
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 21:51
>>319 曹操だけだな、劉備の不思議な毒気にあてられて滅亡しなかったの。
>>319 漏れ的にはそんな誤字をするおまいを誤解してしまいそうだ。
>>317 片一方は皇帝になっていないと思うが・・・
その人物は天に選ばれたといっていい。
自らの権力の確立のため逆らう者は容赦せず、
ついには比叡山に火を放つ暴挙にでる。
だがその行いに恐怖した者の手により殺害される。
彼がもう少し長生きしていれば日本の混乱を収める事が出来たかもしれない。
織田・・・・もとい足利義教
>>322 贈り名もらってるから死後皇帝になったって事か?
漢王朝の血筋を引くことを自認し、衰退した漢を復興させることを夢見た。
彼には人を引きつける不思議な魅力があるらしく、多くの人が彼の元に馳せ参じ、そして命を捧げてきた。
あの関羽も彼の元、功績を挙げ、その美髭と武勇をほめられている。
名を言うまでもなく有名な丞相が配下にいた。その丞相は人気が高く、三国志の主役と言える。
ついには皇帝となるも、国の実質的な運営は丞相が取り仕切っていた。
曹操を打倒することを目指したが、結局は失敗に終わる。
兄弟を殺され、彼も悲嘆のうちに人生を閉じたと伝えられている。
贈り名を献帝。後漢最後の皇帝、劉協である。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 12:03
献帝を擁立して国政を牛耳った。
彼が行った数々の非道は今もなお批判されている。
外見的にも何かと話題に上る人物。
ある豪傑に都の近くまで進軍され、遷都を画策した。
腹心ともいえる部下に謀られ、呂布に襲われた。
それは藻前だ
332 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 00:02
誤解を受けるようなあげ
333 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 18:22
楽しみ♪ >335
(・ω・)/ ドテー
\(.\ ノ
・当初からその内容を大いに期待された(と思う)
・本人もカキコした当初、「これはウケる」と自負していた(と思う)
・実際そこそこ、いやかなり、見ている2チャンネラをわくわくさせた(と思う)
・ずっと楽しみにしている人も多いし、本人もいつ自分がネタを出してやろうか、
と思ったに相違ない(と思う)
・その実体は!?
>>335の俺……じゃなくて
>>1さん(だと思う)
外したかな。期待外れだったらごめん!ホントごめんよ!
、、、 , , _
,. -┬i^i、._ ィ`,、,、,、,、,.、'、
. / | | .|=ゞ=、 __l/\ v~/!|
l. l l l \\{f‖ミゞ, ,ィ≪:lf^i もういい…!
/ヽ. ノ「,ト、「.lヘ‐iヾ|rー~r〉〉,こlレ'
/ `ヽ//| ト、ヽlイ| |/|{王王王王}ト、
| レニ| lニゝ冫! l!L_, , ,ー, , , ,_」シ’、 もういいから…
ヽ __|ーL|┴^ーヽ>'^ヾ二三シ´\\
,ゝ,/ .}二二二二二二二二二lヽ. ヽ \ 休めっ…!
l/ |ト、./´\ ||. レ'´ ̄`ヽ
|| ! 、\ ||. / :|
|| |.l l゙!.|i |ヽ) |l/ / 休めっ…!
|| `ヘ)U'J /-─ ,イ.|
|| _ /-─ / ヽ|
>>335っ…!
|| r‐-゙=っ`ヽ,.--r-ー ''"´ ̄`ヽ / }
||. {三二 | │ / /
||. ヾ=--一'`ーゝ _,. く ノ|
ガ板の前スレ良作から転載
11 名前:水先案名無い人 投稿日:04/08/02 13:54 ID:WKtUhpf2
戦場を所狭しと駆け巡る3人の英雄・豪傑である。
この3人は生まれた年月は違えども、
まるで兄弟のように仲が良かった。
しかしながら史実では、
桃園で義兄弟の契りを結んだという事実は
ないようである。
うち、1人は非常に立派な髭を生やしていた。
また、1人は右目の辺りに大きな傷があった。
序盤は、戦場でも一直線に突っ込んでいく
戦い方が多く、かなりの戦果を上げたが、
後に謀り事を得意とするタイプの将と組むこととなる。
戦場でまず最初に命を落としたのは、
2番目の者であった。
その仇を討たんとするも、
続いて3番目の者、そして最後には
先頭に起つべき者も死んでいった。
【黒い三連星】
っていうかモデルだし
気性の荒い男で、戦に関しては最強の将軍。
しかし、身の処し方に少々問題があり、
彼を恐れる者たちの謀略によって何度も主を変えることとなる。
自身の結婚に関する問題で主君を裏切ったこともあった。
最後は思いやりの無い法律で仲間の恨みを買い、
武略を発揮することもできず哀れな死を迎えた。
若い時から花形として注目され
大いなる期待を受けて招聘されたが
その後はなぜか栄光のキャリアに似つかわしくない
組織の縁の下の力持ちの役割を淡々とこなし続ける。
幻惑戦法を得意とし、細身ながら、年に何十回もの現場に駆り出されて
なお使い減りせず、時々の支配者に重宝される存在であった。
現在は使いどころをわきまえない支配者の下にあって
目ぼしい働きはできていないようではあるが、
これまでにない大封をあてがわれ、暮らし向きは
良くなったようである。
糜芳 (字:子方)
徐州刺史・陶謙の幕僚を務める糜竺の弟で、地元の有力氏族の出。
初平3(193)年、『乱世の奸雄』曹操が父の報復と称し徐州に入寇、破壊の限りを尽くす。
すると何を思ったのか兄・糜竺は、事もあろうに自らを『皇統に連なる者』と自称する劉備を迎え入れ、徐州の主に据えてしまう。
この結果、紆余曲折を経るものの、最終的に徐州は中央政府高官が直々に指揮する大軍の前に陥落。糜兄弟も徐州を離れざるをえなくなる。
その後糜芳は、中国各地を放浪、世の混乱を目の当たりにする。
長坂では、曹操率いる80万の大軍に追われる無辜の民の誘導に協力。
この乱戦で彼は、不幸にして妹を失うものの、自らに課した任を全うする事ができた。
(なお余談だが、この民衆の大逃避行の中には兄・糜竺の姿も有った。
彼はその時、曹操軍に捕らえられていたが、たまたま通りかかった糜芳の知己・趙雲に救い出され、一命を取り留める。
しかし彼は糜竺には一顧だにせず、糜芳の妹を探し求め、曹操軍80万の中に単身切り込み、その最期を看取っている。)
のち、南郡太守の栄誉に俗すも、上官・関羽と対立。
関羽は糜芳に対して、嫌がらせとしか思えない莫大な兵糧供出を厳命。「遅配すればその罪を問う!」と公言して憚らなかった。
兵糧は民の苦労の賜物、軽々しく用意できるハズがない。
ここに来て糜芳は、同僚の勧めもあり、かつて陸口太守を勤めていた呂蒙を迎え入れる事にした。
呂蒙は瞬く間に江陵・公安の治安を回復すると同時に、前線から戻ってきた敗将・関羽の首をはね、荊州にとっての禍根を絶った。
しかし関羽の義兄は、“あの”劉備玄徳!!
黄初2(221)年、帝位を侵した僭称者・劉備は、自ら大軍を率いて荊州に乱入する。
この戦いで糜芳は、なんとか劉備の翻意を促そうと彼の陣地に赴くものの、そこで若手一将校の凶刃により命を落とす事となった。
中央政府高官=司空の曹操なんだが、ほかの箇所も多分間違ってない・・・よな? 演義準拠で
元直と字した彼は、幼少の
折から才子として聞こえていた。
次代の皇帝候補の参謀として、
大いに将来を嘱望されていた。
そして、曹氏の陣営でその生涯を終えた。
徐庶
……ではなく、周不疑。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 14:07
みんなが巧いと思っててもさ、俺にはよくわからない
ミスリードを促す文章とはいえ、正解の人物との相違点が必要だろ
相違点無いから、答えはどっちともとれる
しかし、答えはマイナーな方
これでは巧いとは言えないと思うんだが
いま、353がいいこといった
予知能力者出現!?
しんと戦い、漢を興した。
劉姓とはいっても、名門とはいえない家柄の出だったという。
スマソ。絞れなかったッス
、、、、
ミ・д・ミ<ほっしゅ
""""
349 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 22:42
幾百年続いた王朝の末期、北方に生を受け、長じて、精強軍団を率い、戦場を駆け巡った。
カリスマ的指導者に率いられた農民一揆を鎮圧するなど、
王朝のために尽力するも、奮闘虚しく、王朝復興かなわず、
元同僚でもあった姦雄のために、王朝の終焉は速まってしまう。
局地的には無類の強さを発揮するも、大局的には大きな戦果はあげられず、
自身による天下統一も、姦雄たる好敵手のために成す事はできなかった。
そんな彼の名を我々は・・・
「袁紹」と勘違いするかもしれないが、
この人物は、「袁紹」のような惰弱・優柔不断とは程遠い。
彼の軍の軍装を見ただけで、敵軍はおびえて戦いを避けたともいわれる程の猛将であり、
更に、彼の特徴を語る上で忘れてはいけないことは、隻眼であった、ということである。
隻眼の猛将・・・そう聞いただけで、
名前以上に有名な異名を思い出す人も多いかもしれない。
そう、彼の名・異名は、「盲夏候・夏候惇」
・・・ではなく、
「独眼竜・伊達政宗」
・・・でもなく、
「独眼竜・李克用」その人である。
長くなって、スマソ。
しかも、ageてしまった・・・。
修行が足りないので、
黄巣から塩ぶんどって、
朱全忠の陣に突っ込んできます。
生きてたらまた書き込みます〜。
>>349 夏侯惇、伊達政宗にはちょっと無理がない?
それぞれ部分的には合ってるけど。
>>343 「・・・ではなくて」パターンが定型化してるけど、
例えばなにも知らない外人や子供に語って聞かせたら
「へーそんなひとなんだ」となんか微妙な誤解を与えそうな
人物紹介ってのが最初のパターンだったと思う。
「まぁ、そういわれれば確かにそうなんだけどさぁ・・・」って感じの。
「ヒトラーに相当する、日本の歴史上最悪の民衆弾圧・大量虐殺者 織田信長」
とか、
>>26と
>>306とか
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 12:11
>>353 (゚д゚)ハァ?
パターンの話して何になるのさ?
パターンって二つあるよね、みたいな話はかなり前にしてるわけだが
レスの意図がさっぱりわからん
頭大丈夫?
355 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 13:11
356 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 23:39
・身長2m以上
・毒の沼も平気
ゴットツコツ?リザードマンですよ
関東に拠点を構えた有名な武将の息子である。だが父との間は不仲で、他の家に養子に行った。その後後継者争いで殺される。結城秀康ではなく上杉景虎。
呂布
天下のビビリ屋。
味方であるはずの涼州兵にビビり、酷く扱って恨まれる。
義父董卓の行動にビビリ、猜疑心から殺してしまう。
董卓の部下達にビビリ、さっさと逃亡。
一つところに落ち着かず、散々放浪した挙句に曹操に敗北し、
惨めに命乞いし、部下にもあきれられた。
>>359 劉備の徐州を乗っ取ったのもちゃんとビビリが理由って書かないと
>>360 あれはビビリかなぁ。
どっかのサイトでは劉備に首根っこつかまれて
身動き取れなくなってて悶々としてたところに
袁術が助け舟出したんで兵を挙げたって説があったけど。
基本的な呂布の行動理念がビビリってことはまあ一貫してるけど。
孫策
破廉恥な恩知らず。
父、孫堅が朝廷に反逆したときに彼の身元を引き受けてくれた恩人の
袁術に仕えるが、若造の身で分を弁えず太守の地位を要求。
儒学に敬意を抱かない危険思想の持ち主であった。
それでも袁術は彼に多大な期待を寄せ、太子である自分の息子よりも
孫策が上だとも公言するほど。
やがて彼は袁術より将軍の位を授けられ、江東制覇の全権を任されるほどに
信任されるが、それを利用して遠征先で独立してしまう。
後の袁術の暴挙には信頼していたものに裏切られたショックが
大いに関係していると思われる。
彼はその後、母を自殺未遂に追い込んだりと暴虐な振る舞いを続け、
至極当然のことに名も知られぬ刺客の刃によって命を絶たれた。
・・・・・・すみません、。あんまり誤解になってないかも。
善政を敷いた地方太守
その都市の伝統だった「秦の始皇帝を祝う祭り」を中止させ、戦わずして逃れたものを匿った点から、人徳があったように思われる
漢の臣下を次々と破る軍勢にある武将は降伏を進言したが
「わしは漢の忠臣なのだから、sの敵に立ち向かわねばならぬ」
と漢室への忠誠を貫いた。
王朗でした。 駄文でスマソ
・異民族討伐で名を馳せる
・天下の猛将を手に入れるのだが最終的には見放される
・皇族を殺すという暴挙に出ている
・一度兵を率いて洛陽に入城している。
・彼の弟も遅かれ早かれ彼の仇敵に殺されている。
董卓
ではなく白馬将軍
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/03 17:00
、、、、
ミ・д・ミ<ほっしゅage
""""
地方の豪族大名問わず、領土併呑の野望や下克上の恐怖に誰もが苛まれた戦国時代。
彼等の中にはその野心の強さ故、成就されない悶々とした夢や野望を
倒錯の世界に昇華させた者が多かったという・・・夜な夜な多数の大人たちが
まだ年端も行かぬ幼いつぼみを寄って多寡って毒牙に掛けたのである。
その倒錯した蛮行に涙せぬ親は無かったと云う。
青田刈り
人物じゃなくてゴメン
367 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 00:41:24
彼が仕えた家は、主が戦死してしまい、跡を継いだ息子も若くして死亡してしまい、
その隙を狙った強力な勢力に攻め滅ぼされようとしていた。
そんな主家を救おうと知恵を振り絞る彼の姿は後世でも語り継がれている。
だが、天はあまりにも彼に非情であった。若くして病に倒れその生涯に幕を閉じた。
彼のその才は、かの諸葛孔明に匹敵するものだったと言われる。
周瑜
ではなく、竹中半兵衛
368 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 19:25:39
半兵衛って斎藤家から出ていったよな?
3行目は乗っ取りのことだろ
まぁあながち間違ってもないんでねーの?
それでも見るに見かねて出奔してしまった…でなかったか
370 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 12:30:58
●呉公を称す
●周辺の群雄を平らげ江南を平定
●南京を本拠とする
●北方の大国と対立
●樹林をするなど、内政に力をいれる
●晩年、名臣を殺してしまう
孫権
ではなく朱元璋
371 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 02:14:45
兄「おい、もっと開けよ。よく見えないだろ」
妹「これ以上はダメ。恥ずかしいもん」
兄「小学生のころはよく見せ合いっこしたろ」
妹「あのころはまだ子供だったから・・・。私もう中学生なんだよ」
兄「親父には見せたんだろ、オレにはダメだっていうのかよ!」
妹「だってパパは・・・」
兄「じれったいな。オレが開いてやるよ!」
妹「ダメ、お兄ちゃん、ああ・・・」
兄「すげぇ、小学生のときとは全然ちがう」
妹「やめて、そんなに開いたら全部見えちゃうよ・・・」
兄「なんか複雑になってる」
妹「あたりまえでしょ、中学生になって科目も増えてるんだから」
妹の通信簿を無理矢理見ようとする兄。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 00:26:35
>>371 一行目で展開読めたけど(*´Д`)ハァハァ
頑張って挑戦します
およそ戦国の世に興味のある者ならば、一度は彼の名を聞いたことがあるだろう。主君には「猿」とも形容されるような小柄な身体ながら、彼の輝かしい功績を示す逸話は一つや二つではない。まだ若く無名だった頃でさえ、同輩と並んで主君に忠義を立てていたとも言われている。
また彼には、まつわる伝説が多いことでも知られている。特にその出自については虚偽の創作があったとする意見が一般的なようだ。
彼も、そして彼の主君も、結局天下の政権が安定するのを見届けないまま死んでいったのだが、もし主君らがもっと生きていたなら、政権安定を図る一派にとっては非常に脅威になったに違いないであろう。
豊臣秀吉と誤解させたかったのですが……
猿飛佐助で……(駄目ですか?すいません(汗))
いや、なかなかいいんでね?
まあ佐助まるまる創作の塊の気がするけど…
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 19:08:48
>>374 乙
十勇士はアレだけど、次回作期待してるよ
がんがれ!
377 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 19:10:52
出っ歯武将?
379 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/07 23:36:40
無類の検断好きでそれがあまりに露骨だったため多くの人の反感を買ってしまった人物。
よく言えば正義感が強い、悪くいえば頭の固い人物として評価もされている。
自ら大勢力へと立ち向かおうとしたが、人望の無さが災いして破れてしまう。
しかし、最後の最後まで彼は諦めることはしなかった。
石田三成
じゃなくて
>>97
源氏の名門の家に生まれるが、嫡男でなかった為寺に入れられる。
しかし家を継いでいた兄が若くして死んだことにより(紆余曲折あったが)家督を継ぐことになる。
彼は持ち前の優れた政治力を駆使して活躍するが、そんな彼の前に立ちふさがったのは
自分より「下」の存在であった筈の男、「織田信長」であった。
今川義元
違った、足利義昭
先に足利義昭の名前が出てきたぞ
今川義元とでも足利義昭とでも取れる内容だからな。
意外性がなく、勘違いの起こりようがない。
383 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/25 08:38:52
久しぶりにネタ投下。ちょと長いけど読んでみて下さい。
戦国時代を代表する戦国大名。甲斐・信濃を平定し、四天王をはじめとする
屈強な家臣団を率いて天下に名を馳せた。
嫡男に生まれたものの、当主であった父は彼への愛情薄く、若い頃は辛酸を
なめることが多かったが、当主となってからはその戦術の妙で順調に勢力を
拡大していった。
もっとも、上杉謙信の様に「戦い一本槍」ではなく、今川家や北条家等と同盟
を結んで自領の安定を図るなど政治面でも一流であった。(嫡男が反逆で自刃
している点はマイナスだが・・・。)
甲斐・信濃を平定した後は、傀儡を擁する中央政権と戦い、緒戦で勝利を収めた
が完全決着には至らなかった(息子の代に滅亡し最終決着)。
強さをもって知られた戦国大名は「龍」と呼ばれた上杉謙信や「熊」と呼ばれた
龍造寺隆信のように野獣の名を冠して呼ばれることも多いが、彼もまた同様で、
その存在感は戦国屈指と言っても過言ではない。彼の死期が5年違っていたら、
その後の日本の歴史は大きく異なっていたかもしれない。
「甲斐の虎」こと武田信玄
ではなくて「タヌキ」こと徳川家康
>>383 惜しい!四天王でわかっちゃった。武田は二十四将だもんなぁ
でもなかなかよかったよ。乙です!
>>385 ありがとう。武田四天王(山県、高坂、内藤、馬場)が連想されるかと思った
んだけど徳川四天王の方が有名だよなぁ。
俺も徳川家康を連想したが、なかなか上手いと思わされた、GJ
>>386 上手いんだが、武田は「四名臣」なんだ。
>>388 あっ!そうか四名臣だったか・・・。スマン。
今後はちゃんと確認することにします。
ほしゅ
391 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/16 12:35:30
随分下がっちゃってるんでage並びにネタ投下
戦国期の近畿を代表する武将、大名。「裏切り」といえばこの人を連想する人も
多いだろう。名門にはほど遠い家柄ながら、主家を傀儡とし、当主に成り代わって
勢力を広げ、一時は京を制圧して天下に号した。
信長の上洛に際してその勢力下に収まったかに見えたが、元亀年間、甲斐の武田
信玄上洛に呼応して反信長の兵を挙げるなど、その気質は覆いきれず、結局信長に
攻め滅ぼされている。
その最期の壮絶さは今も語り草となっているが、信長最大の危機であった朽木越え
を成功させてしまい、信長を無事京に帰還させたことを後悔しながらの最期だった
のではないだろうか。
松永久秀
ではなくて浅井長政
392 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/08 01:24:32
家督を継ぎ、積極的な軍事行動を開始。
近隣の豪族や城を攻め落とし、彼に滅ぼされた人物も決して少なくは無い。
配下に智謀豊かな参謀的な武将を従え、その武将は秀吉に大いに絶賛された。
しかし、同時に彼は、信頼していた部下の裏切りも経験している。
彼の名を、こう呼んだ……政宗、と。
ただし浦上政宗。
亀レスだが、
>>136うまいな・・・。そうくるとは思わなかった。
特に「一夜で城を取った」ってところが後から考えて笑えたよ。
信長
戦国時代の武将。
永禄年間に上洛を果たした。
その後、重臣の反乱により命を落とす。
しかしその反乱には黒幕の影が見え隠れする。
つまり、本当の黒幕は三戸南部晴政であり、晴政が八戸南部家の重臣・新田行政を操って
八戸信長を追い落としたのではないか、ということである。