佐竹義重vs伊達政宗

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1無名武将@お腹せっぷく
いずれが勝るか   
  
2無名武将@謀反王:04/04/17 15:26
普通に考えて政宗
伊達政宗の実力は如何に?
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1075020944/

↑の次スレとして認定されますた。
4無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 15:28
常識的に考えれば義重だね
微妙な主旨のスレだね。
本庄繁長vs伊達政宗


結果:本庄繁長の勝利!
7無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 16:18
なんとも言い難いな   
確か 関が原の合戦の折 佐竹側から隠密に上杉方の配下になった
車なんとかという将が伊達軍を打ち破って敗走させている
よって佐竹
9無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 16:39
>8が知ってる時点で全然隠密じゃない
よって政宗
最後まで生き残ったほうが勝ち。そゆもんだしょ。
伊達。
佐竹生き残ったじゃん
12無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 16:54
>>8
車丹波守斯忠
慶長五年に佐竹家を出奔して兵300百を引き連れて上杉家に仕えた
表向きは出奔だけど実際援軍なのはバレバレだけどね   
>>10
どっちも生き残ってるが・・・
>10
釣りすんじゃねぇよ馬鹿
>>6
それだ
16無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 16:58
佐竹も伊達も同郷・親類なんだから仲良くやりゃいいのにね
17無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 16:58
家格から言えば伊達なんてゴミみたいなもんです
>>17
東北で大名扱いなのは葦名と伊達だけだったよ…
19無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 17:06
>>18
大名在国衆は要は足利家に貢献してるかどうかって事でしょ   
20無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 17:06
政宗は「優れた人」ではなくて
「面白い人」だよ

いかりや長介がそこらの大学教授より頭がいい!
とかそんな馬鹿なこと力説する奴がいるか?
どうも根底からして政宗という人間を取り違えているように見える
南部の一揆を扇動せず、秀吉の命令によく従い、イスパニアなどとは交渉せず、
秀吉の小田原攻めのときは関東・南東北圏中でただ一家、本気で援軍を用意なんてもちろんせず。
とにかく手堅く手堅く手堅く、有能に国をまとめお家存続。
そんな政宗にはなにも魅力がない。有能であることなどむしろ彼の魅力を語るうえでは害だ。
21無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 17:08
伊達は常陸出身って本当なの?
22無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 17:14
政宗って最上とは戦わなかったのか?   
伸びないな。
タイトルの一発ネタスレはなぁ。
>>21
本当。
>>12
車丹波は、佐竹の秋田転封後に水戸城奪回の一揆を起こしてるよな。
佐竹の援軍だったのかもしれんが、こいつは個人的に徳川が大嫌いだったんだろう。
佐竹義重>>>相馬義胤>>超えられない壁>>>白河義親>>>ダメ政宗
坂東太郎と独眼龍か。
取り合えず派手さでは伊達の勝ちだな。
28無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 10:38
>>27
なんの派手さ?
どうでもいいパフォーマンスは伊達派手だけど
合戦や謀略は佐竹の方が派手だよ
>>28
伊達の派手さと言ったらパフォーマンスの派手さに決まってると思うが。
30無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 10:42
ほう。と、いいますと?
伊達氏は俺の故郷茨城県下館市出身です
32無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 10:56
合戦の規模は常に佐竹の方が大きかった
謀略にかけても一揆煽動なんて生温いもんじゃなく
佐竹は行方三十三館主の虐殺みたいに当事でも汚すぎるって言われたぐらい
派手に謀略をつかってる
33無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 10:58
>>31
下館か〜
常陸って有名な一族がいっぱいいるよね
34無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 11:20
>>22
そこで義姫が両軍の間に1ヶ月鎮座し続けた話ですよ
とりあえず両者の実績出して合ってみれば?
政宗と義重は戦争したことあったっけ?芦名の援軍とかではなく、
伊達家vs佐竹家のような形で。 
>>35
人取橋、郡山、摺上原と三回対陣したが、どれも葦名の要請を受けての出陣。
佐竹義重は葦名盛氏に2度負けてる
>>36
その戦いには義重は出陣していたのかな?
人取橋→数に勝る連合軍が伊達軍と戦い、押し気味になるが
    北条が佐竹をねらうような動きを見せたことで佐竹は撤退、
    他の連合軍も撤退。
    数的優位に立ちながら攻めきれなかったので引き分け?

郡山→よく知らない

摺上原→芦名軍は猪苗代方面に向かい、佐竹の援軍は田村領に向かう。
    それによって伊達家の軍勢を二つに分けようとしたのかもしれないが、
    政宗は田村領に向かうそぶりを見せながら主力を摺上原に移動させて、
    芦名の主力を壊滅させる。
    この戦い前後の用兵や戦術は政宗が優れていた。

という印象だ。摺上原は政宗の完勝という感じだけど、
義重が佐竹側の総大将として出てきたわけではないなら、
この戦いでは義重が政宗に負けたとは言い切れないな。
  
政宗のすごさは若さだからな、20代前半の未成熟な精神、
経験不足での摺上原の合戦の勝利、豊臣、徳川政権を生き抜いているからな。
これと同じような年齢で動いたやつは謙信と信玄くらい。
佐竹はどうなんだろ?
>>39
動いたの意味がよく分からんが、義重も20代前半で色々な合戦を経験してる。
南奥での戦はもちろん、那須攻め、手這坂合戦、
元亀二年には北条の軍勢2万を辛うじてだが防いでるしな。
41無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:14
>>39
この時代の有名な武将は全員若年から活躍してる
義重は政宗より若い15歳で家督を継いで大国北条相手に何度か勝利をおさめてる
18歳の時には足利義昭から援助要請がきたぐらいだから
すでにかなり名は知られていたみたい
北条相手に勇猛さを発揮して坂東太郎と恐れられたのが24歳の時   
>>41
坂東太郎の異名は>>39の元気二年の戦の時に、
北条方の補給基地に少数の兵で夜襲をかけた時についたものだな。
>>41
全員というのは言い過ぎだと思うが同感。
年取ってから勢力を急速に拡大していった元就も、
若い頃に大内、尼子の間をうまく渡り歩いて家を守っているし、
尼子の猛攻を防いでもいる。
家康も方針を一大転換して織田家と同盟を結んで、
本能寺の変の目前では大大名になっている。

局地戦や防衛戦では義重の能力は相当優れていたと思うよ。
44無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:25
>>39
若い頃は、ド貧民の小者で苦労しながらから成り上がった秀吉はどうなるんだ?
若くして人質生活で苦労した家康は?
島津、大友、毛利、長宗我部、足利などなど、戦国を彩った人々は若い頃は
何にもしていなかったとでも言ってるのか?
45無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:32
>>44
足利をその中で挙げるのはどうかと思うが。
>>42
そう、下妻だか下館だかのあたり
>>44
秀吉は若い頃から手腕を発揮してただろ
普通の百姓が侍になるってだけで異常な出世だ
48無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:35

 伊達政宗は田舎のチンケな策士。
 田舎者同士の戦いには勝てても、洗練された中央政権の武将相手には全く通用せず、
 秀吉や家康たちからは、その小細工ぶりを笑いものにされ、
 あの前田利家ごときには「二股膏薬」と冷笑され、
 徳川政権においては道化を務めた。
4947:04/04/18 15:35
>>44
スマン、なんか勘違いした
>>44
若いときにわかりやすい形で華々しい実績を上げた、
という意味だろ。
もちろん39が、
例えば元就が若い頃に周囲とコネを作ったり名前を売ったりしたことが礎になって、
毛利の躍進があったというのや、
政宗を補佐した有能な家臣達を発掘、重用したのが主に輝宗だったのを
意識しているかどうかしらんけど。
51無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:36
>>48
そこまで言っちゃ可哀相だよ・・・
確かに結果的に見ると北のほうで必死あがいてただけで
道化めいてるけどさ
>>46
古先御戦聞書っていう佐竹方の記録によると、岩井らしい。
53無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:37
政宗が家督継いだ時点での伊達家の国力ってどのくらい?
石高、動員力などさ
>>52
どっちも違ってたかw
55無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:41
>>48
そういえば、伊達政宗の戦略・政略が中央政権に対して効果があった例を見たことないねw
しょせん田舎者は都会人には通用しない。
信長に「鳥なき島の蝙蝠」とバカにされた長宗我部元親をはじめ、九州では無敵でも
秀吉にはあっさり叩き潰された島津、井の中の蛙の北条氏政(当時の関東はド田舎)など
「田舎の英雄」は「洗練された中央政権の武将」には勝てない運命。
>>48
秀吉や家康たちからは、その小細工ぶりを笑いものにされ、
徳川政権においては道化を務めた。

秀吉も家康もそんな無駄な事するのかな?そんなことするよりも改易するなりなんなりすると思うが。
関ヶ原後もでかい大名はいくつか取りつぶされるし政宗を役に立たないと思ってたのなら、
何らかの処置してるだろ。
57無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:44
やっぱ眼帯と鎧と知名補正は強烈だな
>>55
秀忠、家光の代で外様の中で補佐役(アドバイザー?)として
その意見を取りいれられたりもするんだが、
そういうのは中央政権にたいして効果があったとはいわないのか?
59無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:46
佐竹は凄いと思うよ
古来から名の知れた名家だから地盤が固まってたような気がするけど
実際はほんの小勢力にすぎない
関東でも僻地の山岳地帯を数郡もってたにすぎない
よくあれで北条、伊達を敵に回して戦えたと関心する
外交・謀略が余程優れていなければあっという間に潰れてるよ   
60無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:46
>>56
バカにされ笑い者にされることと、役に立つ・立たないは別でしょ
伊達氏の血縁や氏素性が、反復常なき東夷をたばね安定させるには役に立つから
秀吉たちも所領を削ったうえで手のひらの上で遊ばせておいただけ。
少し気になったが佐竹と伊達が敵対関係になったのは、
芦名の後継者争いで佐竹の血縁が後継者になったときあたりなのかな?
芦名と佐竹も政宗の代になる前は敵対していた気がしたのだが。
62無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:52
>>56
逆にいいように利用されてた
信長、秀吉、家康なんかは全く伊達なんて恐れてなかった
僻地の小利口者ぐらいにしか見てなかったんだろ
そうじゃなきゃ北条や武田みたいに潰しにかかったはず
所詮中央を脅かすほどの存在じゃなかったんだよ
それより上手く手なずけて地方の均衡を保たせるのに使う方が得策と見たんだろ
>>60
別に家康は伊達家の所領を削ったりはしてないぞ。
有能な道化ってわかりづらいな。
前スレで、有能なバカ、という表現はあったが、
それもこことはニュアンスが違ったし。
64無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:54
>>58
それは秀忠・家光の「飾り」だろ。

昔の征夷大将軍たちも、鎮圧された東北の蝦夷の酋長・武将を都に連れ帰って
自分の武勇・権力の飾りとして使った。
都の人々も、それら敗れた者たちを「勇敢な敵」として称えることによって、
それを破った中央政権の武将や兵士たちの強さを誇りにした。

ご意見番扱いされても、実際に政権を動かす者の中に入れてもらえたわけでなく、
しょせんはゲスト。
むしろ政宗は徳川政権の旗本ごときにも恥辱を与えられた。
結局、中央政権の武将たちの戦歴・権力を称え、彼らを満足させるための「飾り」「道化」「戦利品」に
過ぎない。
>>61
以前から伊達とは仲悪かったみたいけど
直接衝突するようになったのは芦名の後継者問題の時からであってると思うよ
66無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:54
>>63
削ってはないけど、百万石のお墨付きはパーにしましたね
67無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:57
>>64
そんなにあからさまな真実を言ったら、政宗厨の人が可哀想だよ・・・
もっと婉曲に諭してあげなくちゃw
68無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:57
むしろ削られなかったのは伊達にとって恥辱だと思うが
政宗ごとき60万石やそこら持ってても何の事もないって馬鹿にされてるようなもの
>>62
信長は言い過ぎだろ。政宗が家督を継いだときは死んでるんだし。
秀吉の場合は、すでに他に大大名がいくつもいたのだから、
芦名領返還後は政権を脅かす存在とは思ってなかったぽいね。
家康はむしろ評価していたと思うが。
僻地の小利口者風情と思ってたなら、
外様大名なんだし将軍の後見役の人間の一人と認めないだろ。
>>61
とすると義重と政宗が直接ぶつかり合う戦闘は発生しなかったのかな?
摺上原だけとると伊達家vs佐竹家(政宗vs義重ではない)という観点では、
伊達の完勝のようだけど。
秀吉の介入が遅れていたら、
摺上原直後は北条と伊達に隣接することになった佐竹の情勢は相当危険だっただろうな。
71無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:09
>>69
外様を後見人にするのは古来からの常套手段だろ
頼朝も尊氏も秀吉もそうだし
だいたい天下を奪われない自信があるからこそ付けるわけだし
だから言い様によってはナメられてるわけで
72無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:10
>>64
そういえば確かに都で人気者になった蝦夷の武将と伊達政宗の立場は
そっくりですな。

>>69
政宗厨、涙目になって反論中?
よくわからんのだが政宗をけなしてる書き込みは、
政宗は有能なやつじゃない!派手好きなだけの道化だ!
といいたいのか。それとも
有能な面もあるが天下とれるほどのやつじゃないだろ、
といいたいのか。

>>64
むしろ政宗は徳川政権の旗本ごときにも恥辱を与えられた。

これってどういうこと?
74無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:16
>>64の言うとおり、中央の権力者の「飾り物」として「田舎の英雄」は価値がある。
政宗があれだけ受けたのは、共通語が不自由な島津やネクラな長宗我部元親よりは
「キャラ的にイジリやすい」というのが伊達政宗の売りだよね!

ようするに権力者に媚びへつらってみせる道化やお笑い芸人みたいなものだな!
>>71
秀頼の後見役って前田利家と徳川家康のどっちかだっけ?
秀吉が、死後に家康に天下をとられないと思っていたとは思えないんだが。
76無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:16
>>70
義重と政宗が直接ぶつかったことは一度もなかったみたい
常に他勢力の援護って形
人取り橋の戦いではだいぶ佐竹と伊達も激戦をくりかえして
誰だったか忘れたけど佐竹の将に危うく討ち取られはぐった話しもある
77無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:17
>>73
俺は後者の方だな
政宗は全国でも屈指の名将だったとは思うけど
伊達厨はあまりに妄想しすぎ
>>76
直接ぶつかりあってないなら戦争に関しては、
どちらが上というのは答えが出ないんだな。
なら後は有事のときの身の処し方とか政治や外交の手腕で比べるしかないか。
79無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:20
>>75
秀吉は家康をなんとか手なずけようとしたけど
最後まで不安だったから利家も後見人にして家康の抑えにした
政宗はどっちかと言うと利家の立場に近い
家康は最後まで毛利と島津に不安を感じてたから   
80無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:21
>>73
光栄の攻略本やIF戦国史で政宗厨になった香具師は、政宗が旗本に
扇子で叩かれ「無礼者」と言われて、泣く泣くガマンし後で負け惜しみを言った
故事も知らない・・・
政宗厨の知的レベルをよく示すカキコだね
>>77
このスレでは誇大妄想的な書き込みはまだほとんどないのだが、
やたら叩かれてるね。
前スレでの家康が死んだときなら天下を物にできたという書き込みは笑えたけど。
82無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:24
>>79
>政宗はどっちかと言うと利家の立場に近い
違うでしょ。
しょせんは田舎小僧とバカにされていただけ。
島津と毛利を警戒し、福島正則や豊臣秀頼は滅ぼされたのに比べ、
たいした実力はないと見くびられた前田利長と同じ。

83無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:25
>>78
直接といっても佐竹だけと伊達だけって戦闘がなかったってだけで
合戦自体は何度もやっているよ
戦術にかけては義重>政宗だと思う
いつも戦闘では伊達が押されてる気があるから
戦略は政宗>義重だと思う
いつも佐竹は有利に戦闘を進めるのに
ゴタゴタがおきて引き上げてるから
あと運に関しては政宗>>>>>>>義重だねw
84無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:26
>>82
じゃあ利長でもいいよw
85無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:27
たたかれまくってるなー、政宗ファン(^_^;)

美化しすぎるのが、ほかの人から見ると癇に障るんだろうね


>>79
政宗の位置からいって押さえの役目を果たすのは難しと思う。
島津、毛利とは所在も離れていたし、接点も多くなかったし。

家康が毛利を恐れてたのはなんでだろ?
所領削られたのに家臣をリストラしないで藩政改革してしのいで、
家臣団の質と量を保ったという姿勢に反徳川の執念を感じたからかな。
87無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:35
>>86
政治的な押さえの事

毛利は物凄い恨みを徳川にもっていたし
(毛利家の西枕の習慣は徳川に足を向ける意味から始まったと言う話しがあるくらい)
厳封されたとはいえ、まだまだ周辺にたいする影響力は大きかったしね

島津家は言わずと知れた最強軍団の一つだし
やはり関が原で徳川に恨みを持っていたし
全国2位の大国でもある
8878:04/04/18 16:36
>>83
おおむね同意。
伊達vs連合軍で伊達が数的優位を保ったことはあまりなかったが、
苦しいときにも外交で周りから介入させて引き分けに持ち込む手腕は政宗の特徴。
政宗は最初から芦名の主力を滅ぼすことを考えていたみたいだけど、
その政宗の方針を佐竹が(主導権は芦名が握っていたかもしれないが)読み切れなかった。

そういえば政宗が家督を継いでから義重が家督を譲るまでってそんなに長くなかったような。
89無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:38
政宗はなまじ頭が切れすぎたから家康に利用されたんだよ
政宗ほどの人が無理押しして天下狙うような事はないからね
その点福島や加藤、島津あたりは単細胞だから何しでかすか分からんし
毛利も恨みから天下とるより徳川倒そうとする可能性があるから   
>>83
そんな感じだろうな。
ただ政宗が家督を継いだ頃は、佐竹は殆ど秀吉旗下の大名みたいになってたから、
戦略の幅は狭まってたように思える。
天正年間後期は積極的に動いてなかったみたいだし。
91無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:39
実際は政宗vs義宣という構図
表向きね   
92無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:40
>3人は解放直後、興奮状態もあって、国内で噴出していた「自己責任」について自覚にまったく欠けていたようだ。
>カタールの衛星テレビ局アルジャジーラに映った3人は、「(写真を)撮るのが仕事なんだよ、おれは」(郡山さん)、
>「(活動は)続けます」(高遠さん)、「やめてくれよ、もう限界」(今井さん)と発言した。
>政府関係者の話だと、解放場所のモスク(イスラム礼拝所)から在バグダッド日本大使館内に移った後も、
>「イラク人は悪くない。悪いのは自衛隊だ」と、イラクからの陸上自衛隊撤退を求めたという。
>国際テロ緊急展開チームのメンバーが、大使館内にいたことについても、「どうして警察の人がいるのか」と
>不快感を示していた。
http://www.zakzak.co.jp/top/2004_04/t2004041717.html
>>88
義重の隠居には、天正17年と14年の二つの説があるらしいが、どっちなんだろうな?
94無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:43
>>92
誤爆なのか、「政宗は天下がとれた。運が悪かっただけ」と主張する政宗厨と
この大馬鹿3人組をダブらせたのか・・・
10年早く生まれていたら、
天下とれるかどうかはともかくとして色々と派手なことをしていただろうな。
家督を継いで体制が整ったときにはもう中央の情勢はほぼ定まっているし手の打ちようもなかったのは確か。
天下をとることを目標にするなら確かに運が悪かったけど、
もっと早く生まれていたら天下が取れていたかどうかなんてわかりっこないよ。
96無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:50
>>90
そこが難しいところだね
義重贔屓に見れば
すでに天下は秀吉に治まったのを見ていて
惣無事令を守り豊臣政権下で勢力を伸ばす方が得策と思い
伊達との戦闘も消極的だった可能性があるとも思える
逆に政宗はやはり田舎者で
秀吉がいくら権勢ふるってるといってもこっちまでは来れないだろ
やっちまえ〜って程度で芦名を攻め滅ぼしたとも思える
結局会津は取り上げられてしまったのだから
軍事費、人員の損害から見ると決して頭のいいやりかたじゃなかったと思ってしまう
本当の名将ならわざわざ金かけてまで秀吉に討伐の理由を与えるような事はしないだろ
97無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:53
佐竹厨の俺は義重が政宗より優れた武将だとは思っても
義重が天下とれる可能性は皆無だと思ってる
そこが伊達厨のおかしい所   
>>96
でも実際に、佐竹は秀吉が台頭してきた頃からは、
南下する伊達、北上する北条を抑える為の出兵しかしてない。
息子を葦名に入れたり、政略のほうはやってたみたいだが。
99無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 17:06
>>98
そうなんだよね
秀吉の政権が落ち着いてきたあたりから
佐竹の動きは大幅に縮小されてるんだよね
北条に限っては全面戦争ってのは全くなかった
伊達はたびたび南下を繰り返してきたから迎え撃っていたけど
佐竹側からの侵攻ってのは一度もないよね
だからどうしても伊達が芦名を滅ぼしたってよりは
佐竹が見殺しにしたように見えてしまう   
>>99
だから摺上原での動きを佐竹の判断ミスだって言う奴もいれば、
秀吉との密約や圧力があっての行動だっていう奴も出てくるんだな。
101無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 17:31
戦国期の「佐竹」は、実際には常陸の小規模な豪族の連合体で、佐竹はその旗頭に過ぎない。
それを佐竹という大名を「作り出し」、それに従わない豪族抹殺を許したのは豊臣政権。
はやくから、中央の動向を見ていた佐竹は勝ち組、伊達は負け組ですね。
>>55
>「洗練された中央政権の武将」ってだれ?

どんな名前だしても矛盾することになるぞ。
なんか痛い佐竹厨が伊達を貶めるスレになってないか?
そもそもこのスレ自体
佐竹領地の住民が建てたてようで、どうしようもないのです。
俺は佐竹厨だが政宗は有能だと思ってる。
必要以上に伊達を貶めてるのは、佐竹厨じゃなく単なるアンチ伊達じゃないのか?
俺は政宗厨だが義重は有能だと思ってる。
あと、ざーとログ読んだけど、
火に油を注ぐけど、義重ファンは一部ね、全然資料読んでないなと思った。
それで会話が成立しているところをみると、ちょっと不思議だった。
というか政宗厨の俺のほうが佐竹家を知ってるのにきづいた。
まぁ、どの武将語っても
半端な知識で横槍入れたがる厨はいるから
有名な武将なら尚更のこと
俺も全部の史料に目を通した事は無いからなあ。
そういう意味では>>107の言う厨の一人なんだろうな。

>>106
佐竹についても詳しいみたいだから、少し語ってくれないか?
義重VS政宗だったら直接対決のあった郡山の合戦ははずせないな。
インターネットに詳細な資料なさそうなんで俺が書いてやる。

1588年6月17日
宮森城を出陣した伊達政宗(22)が、郡山に陣を構え、
安積郡に侵攻してきた佐竹義重(42)・芦名義広〔14)の連合軍と戦闘に入った。
連合軍4000に対して、伊達氏は大崎・最上氏との境にも軍勢を配備しなくてはならなかったため、
わずか600の劣勢だった。
郡山の合戦とよばれるこの戦いは、田村清アキ死後の田村家をめぐる政宗と相馬義胤の抗争が原因で、
義胤を側面から援助するために義重、義広の連合軍が北上してきたのである。
政宗は郡山城と窪田城を死守し、7月16日に岩城氏と石川氏の調停によって講和が成立する。
8月5日、田村氏の本城三春城に入った政宗は、滞在40日の間に、田村家中の相馬派を排除し、
政宗を頼る田村宗アキを三春城主にすえる。

ほぼ一年後磨上原の合戦。
>>108
関が原の合戦後、秋田へ転封。
>>109
逢瀬川を南北に挟んで対陣したんだよな。
政宗は窪田に堀を掘って、更に郡山城にも兵を入れて佐竹方を牽制。
佐竹方も郡山窪田間に堀を掘らせ、砦を設けて対陣した。
7月4日の伊達成美と新国頼基の衝突をきっかけに戦闘が開始され、
その後、岩城常隆・石川昭光の調停で和睦。
成美て
成実たんのPVおっぱい揺れまくり
114111:04/04/18 21:00
誤字だ。スマソ
「しげざね」じゃ一発変換できないから「なるみ」でやってるんだよ。
そういや、みんな辞書登録とかしてるのか?
「なみ」「まにゅう」で辞書登録
佐竹義重って愛州元香斎から剣術を習ってたんだな。
どの程度の腕前だったんだ?
あと田村清アキじゃなくて田村清顕ね
でもお互い四代続けて名君とまでは言わなくても暗君を輩出しなかったのは凄いよ
稙宗−晴宗−輝宗−政宗
義篤−義昭−義重−義宣
>>118
うむ。

それにしても佐竹も伊達もかなり好きな人物の一人の俺としては
ここの佐竹厨と伊達厨は好感w

>>118
義篤の父、佐竹義舜も、山入氏討伐や佐竹家法二十三条の制定などを行った人物で、
佐竹中興の祖とか言われてるらしいな。
伊達家の方は、伊達稙宗の前はどうなんだろう?
藤原鎌足の子孫が伊達姓を名乗り政宗は17代目だったかな。
稙宗の前の君主がどういった実績を残したのかは知らないけど、
9代目の政宗は中興の祖と讃えられた人物で、
政宗の名乗りもそこから採ったらしい。
御棟役の日記とか御段銭古張?も稙宗ん時だよな
123無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 14:58
13世伊達尚宗は嫡男稙宗若しくは父成宗と争ったと伝わる。永正年間には将軍足利義澄を迎えようとし、これを擁護しようとしたと伝わる。
12世伊達成宗はバサラ大名を思わせるいでたちで上洛し、将軍家に膨大な量の進献贈呈をしたと伝わる。
9世政宗、11世持宗は幾度も鎌倉府や稲川・篠川両御所に反旗を翻しています。
8世宗遠の時に出羽に進出。7世行朝は南朝方で活躍。
室町時代の奥州伊達家は歴代傑物揃いだったようです。
唯一、10世氏宗のみ実績が残っていませんが・・
124無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 14:59
>>116
凄腕
俺は鬼義重のほうが一枚上手だと思うが・・・
125無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 15:16
そりゃ片目じゃ距離感つかめないしね。
126無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 15:44
結果論で言うと今の仙台市の繁栄と秋田市のしょぼさを比較すればよい
127無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 15:46
>>126
それは言いすぎだ。
128無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 15:47
結果論でいうと、やほーで、2つ桁が違う


伊達政宗で検索した結果  ページ:約14900件
佐竹義重で検索した結果  ページ:約398件
129無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:00
>>128
それは本人の実力と強い相関関係があるといえない。
130無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:02
>>128
織田信長28件
131無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:03
島津義久1030件
132無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:18
>>130
28ってなによ?
133無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:22
佐竹義篤で検索した結果  ページ:約88件
佐竹義昭で検索した結果  ページ:約126件
佐竹義重で検索した結果  ページ:約398件
佐竹義宣で検索した結果  ページ:約987件

伊達稙宗で検索した結果  ページ:約189件
伊達晴宗で検索した結果  ページ:約198件
伊達輝宗で検索した結果  ページ:約374件
伊達政宗で検索した結果  ページ:約14900件

片倉小十郎で検索した結果  ページ:約661件
伊達成実で検索した結果  ページ:約332件

真田幸村で検索した結果  ページ:約8510件
藤堂高虎で検索した結果  ページ:約3210件
134無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:23
>>129
悪いが相手にならぬ
135無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:26
まあ、正直言って政宗なんて2秒だろうね。
136無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:32
大した事無い奴だから100万石ももらったんだろ。

あ、ひょっとしてFA?
137無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:33
138無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:39
佐竹が主役の大河ドラマってやれるか?
誰も興味ないと思う
佐竹自体話題にならないし
139無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:42
>>138
玄人好みの名将・・・それが鬼義重だ。
140無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:43
佐竹とかってマニアしか知らないだろ
水戸や秋田にも嫌われてるし
石田光成に伊達が攻めてくるからって
命乞いする奴が強いわけないだろ
弱い頃の伊達には勝てそうだけどなW
141無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:44
命乞いは別に恥ずかしいことではないと思うが。
結果として生き残れれば。
142無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:44
>>139
勝手にいってろ、ブス専みたいな少数民族なんだから
大体小説にも取り上げられないヘボ大名が
伊達にたてつくとは片腹いたいわ!!
143無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:45
>>141
だったら、伊達と佐竹の石高で倍以上あるから
伊達の勝ちじゃねーか!
144無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:47
143よ秋田人苛めるな
偽新幹線ごときで喜んでる奴らだから
ここぐらい勝たせてやろうよ
それにしても秋田のフォーラス仙台の半分くらいだなP
145無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:48
かわいそうだから佐竹の勝ちでいいよ
おまいら、俺の地元の大内なんて滅んでるだぞ。まだマシだろ
147無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:48
俺は兵庫県だが佐竹を応援しているよ。
源氏の名門だからな
148無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:49
バカだなぁ
義重にはシュワルツランツェンレイターがあるじゃないか。
伊達の騎砲隊など瞬殺間違いなし。
149無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:50
佐竹と伊達を比べるというより
伊達は巷で言うほど名将でもなく佐竹も鬼というほどすごくないと
言いたいだけだろ?
150無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:53
>>149
伊達政宗は名将だよ。江戸初期に流通した米30万石が仙台藩領で取れたもの
今の東京の基礎を作ったのも仙台藩があるからといっても過言ではない
151無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 16:55
名将だから大河ドラマや小説になる+魅力的だから
佐竹じゃ30分も持たない
武蔵・利家とまつ・葵などにも伊達は出てくるが佐竹は出てこない
出てこないほど、歴史に華を添えてない
152無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 18:11
葛西晴信
この板で魅力だけで語られても
>>140
水戸では嫌われているわけじゃなく、水戸黄門の知名度の高さゆえに知られてないだけ。
>>124
奥義も伝授されたらしいね。
鬼真壁は霞流の開祖だし、主従ともに凄腕の剣術家だったわけだ。
>>153
自演ぽい釣りレスは相手にしないに限る
佐竹いいねぇ、伊達もそりゃいいねぇ。
だけどここの煽り馬鹿だけはいただけないねぇ。
なんかいっきに殺伐としてきたね。
69で、政宗が道化だのなんだのとかいう書き込みに軽く反論しただけで、
政宗厨扱いされたときにはアンチ政宗な人間の必死さに苦笑したけど、
両方のアンチがそろうと議論が成立しないよ。

政宗はどういう風に中央に進出していこうか戦略を立てていたみたいだけど、
義重は秀吉に臣従して惣無事令がでる前は北条が攻めてきてもそれを撃退し続けていた、
くらいしか知らないけどその前はどうだったんだろう?
局地戦の強さは実績から義重>政宗、戦略構想や外交は政宗>義重という印象。

>>158
義重は北関東の諸将や謙信と協力して北条を抑えながら、
南奥や下野、常陸南部への出兵も繰り返し、地道に勢力を伸張し続けた。
信長や秀吉などとは早くから親交を結んだが、自身が中央に進出する気はなかったろう。
中央で台頭した織田や羽柴の力を背景にし、仙道口へ勢力を伸ばそうとしてたと思われる。
前スレにもあったが、佐竹の戦略は昔から仙道への進出だからな。
>>159
芦名に子どもを送り込んで親佐竹にしたのはそのための布石かな。
惣無事令が出てからは進出よりも、
芦名を後押しして伊達の押さえ込みをするというふうに
防衛を主体にするように方針を変えたようだけど。

ところで1580〜1590にかけてのあのあたりの大名の関係って
佐竹→北条が宿敵、上杉が同盟者、芦名が敵〜同盟者、伊達が敵〜宿敵
伊達→北条が対佐竹での協力者、上杉とは別に仲は悪くない??、芦名が敵〜宿敵、佐竹が敵〜宿敵
という感じだったっけか。
>>160
義広を送り込む前、天正六年あたりから葦名との関係は改善し、親密になってる。
義広入嗣で葦名家中での発言力が高まったのは良いが、
後嗣争いで伊達竺丸を推した富田や平田らと、義広を推した金上や白河らの間で対立が引き起こされ、
そこを政宗に突かれる形で摺上原→葦名滅亡となったからなあ。
>>161
摺上原→葦名滅亡の時だけど、
一連の対伊達との合戦で、
年齢から芦名義広(15)が主導権を握っていたとは考えにくいなぁ。

義重が主導権握っていたのか芦名の重臣が主導権握っていたのかはわからないけど、
郡山の戦いで優勢に立ちながら伊達の力をそぐこともなく和睦に応じてるし、
義重(芦名家も?)は惣無事令発布後はこれに徹底的に従う方針を貫いてるのか。

北条降伏後に切り取った土地の所有は秀吉に認められているのだから、
秀吉臣従と惣無事令の順守は堅実に成功した戦略だったのかも。
>>162
常陸一国のお墨付き、常陸江戸崎に義広の領地、更に岩城常隆の後嗣に義重三男を入れる事と、
奥州の滑津と南郷が佐竹領である事を認められたが、葦名滅亡の代償に見合っていたかは分からないな。

お墨付きを貰った後、水戸城を僅か1日で攻め落とし、翌日には江戸氏支城十三館も悉く落城せしめ、
さらに2日後には府中城を落としてしまうあたり、義重の局地戦の強さが伺えるな。
伊達種宗=佐竹義重だな。
種を撒き散らすところがそっくりだ。
違いは息子との仲の良さ
義重は、寝る時には敷布団は敷かずに掛け布団だけで寝てたらしい。
秋田に行った時に、雪国は寒いだろうと、義宣から夜着と布団一式を贈られ、
喜んで使ってみたは良いが、暑くて眠れず、今まで通り敷布団を敷かずに寝たそうだが。

まあ、確かに親子仲は良さそうだな。
政宗も母親には嫌われていたが父親は良き理解者だったようだ。
もし父親が生きていたら政宗の派手な振る舞いと戦略はもっとおとなしめになったかもね。
>>163
北条に隣接しているし北条征伐の時には重要な位置を占めているし、
芦名が滅びる前にある程度の待遇は保証されていただろうなあ。

佐竹→芦名と合流せず二手に分かれる→摺上原で伊達が勝利。
惣無事令がでているのだから二手に分かれて不利な状況を作ってやれば、
伊達は博打に出たりせず撤退すると思ってたんだろう。
義重にとっては摺上原で政宗が正面決戦したのはやはり計算違いだったと思うよ。
>>150
君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない

>>151
大河ドラマ前は、扱いに大差なかった。だから佐竹でも大河は作れる。
ただ、滑稽さには欠けると思うが。(w
主役以外で出てくる伊達は、単なる道化だろ。特にとしまつのは。
なんかむしょうにアイスがくいたいんだが。
170無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 02:52
義重が政宗よりマイナーなのは資料が少ない、とうか皆無に等しい
ただそれだけ
佐竹家の記録はほとんど義宣以降のものしかない
義重と政宗とどっちが優れてるとかじゃなくて
ドラマとか小説にしたら義重の方が面白いと思うよ
関東の方が規模が大きいから
わずか15歳で家督をついで以来圧倒的な戦力差のある北条と戦い始め
謙信と手を結んで北条を攻めたり
北条の北上を阻止するために宇都宮・皆川・壬生・那須・茂木・多賀谷・白河・岩城・石川あたりの豪族を従わせて
攻防を続けて
更には東北で力をつけ始めた伊達が南下してくるのを
謀略で蘆名を勢力下に組み入れて阻止したりして
佐竹はわずか2、30万石程度だったのに万単位で戦をすることが多かった
それだけでも義重の能力の高さが分かる
強敵を前後に控えて少しでも判断が狂えば一瞬で滅ぼされるギリギリの状態で
謀略、外交、合戦を巧みにこなして着実に勢力を伸ばしていく様は
戦国好きには堪らないだろ?   
171無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 02:59
>>151
何を言う
佐竹の事を少しは勉強してからそう言う事を言って欲しいね
「佐竹家」の歴史でいったら相当のもんだぞ
平安以来だからな
しかも頼朝と戦ったりエピソードもいっぱいあるし
大河でやったらとても1年や2年じゃ終わらない
山入氏の乱だけで1年はいけるねw   
172無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 03:12
でも結局は義重の方が上手だったんじゃないの?
政宗は秀吉に会津とりあげられたけど
義重は54万石のお墨付き貰ったわけだし
戦するには莫大な出費あるんだから領地が全く増えなかった政宗は大損害だよ
逆に義重は20万石ぐらい手に入れたでしょ
そもそも小田原の例があるのに惣無事令を無視して秀吉にいい口実を作ってしまう辺りは
政宗らしからぬと思う
安易に目先の欲に捕らわれたようにしか見えない
なんかまた政宗叩きみたいになっちゃったけど
実際不思議で仕方ない   
>>170
視聴者の主な層は戦国マニアじゃなくてじーさんばーさんでしょ?
戦国マニアに受けるかもしれんけど面白いと感じてくれる一般人は少ないでしょ
俺は面白そうだなと思うけどね

>>171
問題はそんなマニアックな事を視聴者が望むかという事でしょ
大河の最低視聴率更新する事間違い無しでしょ
>>172
芦名滅ぼしたのは小田原出兵前。
だから北条氏の末路を知っていながら芦名領を占領した訳じゃあない。

摺上原の合戦が無駄だったかというとそう単純でもない。
占領地は一部認められたらしく芦名領返還後80万石は所有していたらしい。
またその後の秀吉との折衝も含めて政宗の名前が全国的に有名になったのも確か。
これは外交を進める上で相当有利になる材料だろう。
仮に芦名の後継者を養子で貰うときに政宗に摺上原直後くらいの評判があったら、
芦名内部の親伊達勢力はもっと多かっただろう。
ということは政宗も氏政レベルか・・・
176無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 04:04
>>174
じゃあ18万石はどこに?
家康に減らされたんだっけ?
177無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 04:06
話し違うけど
政宗って最上義光とは戦ったことないの?   
とっちが上とか下とか決められるか。
等号不等号なんてあてにならん。馬鹿げてる。
>>170
佐竹の大河があったら俺も観るとは思うけど、
関東の方が規模が大きいからなんて理由でドラマ作れるな
んて無理あるだーよ。1年引っ張るには大変なんでしょうよ。
まぁ大河の話なんてのはどうでもいいけど。
180無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 10:21
>>179
義重だけで余裕で一年いけるでしょ・・・
腐るほどネタあるし
大河なんて赤穂浪士で無理やり一年引っ張ったりするんだから
181無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 10:25
2人が対立した頃はまだ、政宗は単なるイケイケのガキだからな。
政宗が真に力を表したのは江戸時代における、処世、保身と治世。
戦国大名としては多少は経験の差もあるだろうが義重の方が各上。
義重最大の汚点は息子の育て方を間違った事じゃないかな?
どうせ大河なんて歴史好きしか見ないんだから
思いっきりマニアックなの作ればいいのにね
最近は大衆ウケを狙いすぎてボロボロ
歴史好きな人は痛くて見てらんないだろ?
元就、利家、武蔵とか酷い有様だったなw   
183無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 10:29
>>181
義宣も馬鹿殿ってほどじゃないけどわけわからんね
行方三十三館主虐殺したりするわりには
なぜか義理のために関が原じゃ西軍につこうとしたりして
家康に「義理堅い」なんて評価されてもね・・・
そういや伊達って2代目から既に影薄いね
実は未だに名前知りません
江戸時代の歴代藩主はどうだったんだろ
>>177
戦おうとしたらママンが国境で80日も居座って妨害しました。
186無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 10:58
佐竹は伊達より重要な位置を占めてたでしょ
伊達は天下人を脅かすような事は一度もなかったけど
佐竹は頼朝に警戒されて討伐うけたし
関が原でも江戸を突く可能性があるんじゃないかと危惧された
関が原以前も三成かくまったりしたし
ちなみに尊氏の時代にも尊氏と共に各地で転戦し常陸守護職受けるほど
活躍した
常に重要な局面にでてくる
187無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 11:00
なにより出自がはっきりした大名で続いたのは佐竹が一番古いんじゃ?
188無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 11:01
>>185
最上と伊達って仲悪いのに
全然合戦の話しがないから不思議だった
>>188
政宗からすれば母親が自分を嫌っていたとしても、
母親の実家と事を構えたくなかったんじゃないか。
最上がつぶれた後に自分を捨てて何十年も最上に居続けた母親を引き取っているんだし。
最上領は政宗がなんかする上で占領しておかなければいけない、
というほど重要な位置ではなかったからなのかもしれないけど。

>>174
芦名領返還後に東北で起きた一揆に政宗が荷担した疑いがあったので、
多分それを理由に仙台の方に転封されて表高50万石になった。
その後関ヶ原で上杉を東北に釘付けにした働きで家康から10万石の加増を受ける。
また徳川三代の将軍に仕えた実績からちょこちょこ加増されて最終的に62万石に。

また加増といえるか微妙だけど大阪冬の陣の後に、
家康は政宗の長庶子の秀宗に伊予で10万石の土地が与えられている。
>>186
お前の言いたい事は分からんでもないが
その書き方だと
「佐竹の領土の方が関東の中心(つまり幕府の所在地)に近かったから警戒されただけ」
で説明できてしまうんだが。
191無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 12:32
>>189
最上側でも伊達に多少調略は仕掛けてたみたいだけど
攻めこむまではしてないよね
案外不仲ってほどでもなかったのかな
戦略的にはさほど重要じゃないだろうけど
最上領も石高たかいから放置しとくのはもったいないような・・・
もっともそれだけ簡単には攻め取れないけど   
192無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 12:35
>>190
関東に何十藩あると思ってるんだ
それなりの国力と武将の実力がなければ警戒されない
>>191
輝宗の代に、義光の家督相続時の争いに乗じて攻め込んだんだけど、
やっぱり義姫が出てきて和睦しちゃったんだよね。
別に最上領なんてどうでもいいや、と思っていた訳じゃなくて、
単にあの鬼姫が怖かったんだろう。
義姫恐るべし・・・
義光も政宗も逆らえないなんて
東北最強武将だなw   
195無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 14:01
>>181
戦国大名としては200万石近くを切り従えた政宗のほうが上じゃないか?
義重の最大石高がどのくらいかは知らないが。
(゚Д゚)ハァ?
>戦国大名としては200万石近くを切り従えた

内訳をよろしくおながいします
>>195
政宗ってせいぜい70万石ぐらいだろ
これだから伊達厨は・・・
200無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 14:33
第一に葦名領って多く見積もっても40万石ぐらいだろ
当時(1580年代)の南陸奥全体の石高が41万8900石ぐらいだし
もっとも俺は葦名に関して詳しくないからどの程度の範囲もっていたのか分からないが
北陸奥までは及んでいまい   
201無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 14:39
北陸奥32万8200石(1582年当時
南陸奥41万8900石
前範囲占領しても100万石に足りませんが・・・
政宗は戦国大名って感じじゃないな。
でも現代も続く米どころ宮城の基礎を作った
内政の手腕は評価できると思う。
203無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 15:01
政宗最大領土は奥羽30郡114万石。その後秀吉に減封されて72万石。
本屋か図書館に行けばわかるよ。ぐぐってもわかる。
204無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 15:33
佐竹は
義宣(義重)直轄54万5800石
岩城貞隆10万石
多賀谷宣隆6万石
相馬義胤8万石
宇都宮国綱18万7613石
大まかなのでこれくらい(その他佐竹支配の小豪族・親類の石高は不明だから未記入)
あとは葦名盛重領を入れれば
佐竹の最大版図は100万石を裕に越す   
205無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 15:43
義重タソ素敵(>_<)   
石高厨にいっとくけど
佐竹(小田原征伐後〜出羽転封)も伊達(摺上原後〜小田原征伐まで)も最盛期はそんなに長く続いてないから
あんま自慢気に言うなw
摺上原直後に、
芦品領全域+占領または服従した岩城などの領地+最上家の領地
などを加算すればあるいは200万になるかもしれんが、
一時影響力を200万石の大きさに広げたとは言えても、
200万石の領土を手にいれたわけではないよ。
秀吉の小田原攻めが数年遅かったら本当に手に入れたかもしれんが、
史実では元々の伊達領+占領した各大名小名の領土の一部+芦品領の大半だから、
最大でも150万石未満だろう。
政宗が旧葛西・大崎領に転封された時の「表高五十万石」って
実高はどれくらいなんだろう
おれは高校でオタ先生に伊達は実質100万石って習ったぞ。
すぐ開発できる農地があったんだったか、
未検地の田があったんだったか、
幕府試算の石高と伊達家の石高に違いがあったんだったか、
ま、なんかの理由があってそれを知ってた徳川が実質100石という形であたえたとかいってたな。
まあ、東北一肥沃な仙台平野と大崎平野があれば100万石なんかすぐいくはな。
米ウマー、日本人に生まれてよかった
211無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 18:42
政宗が転封された領土の表高→現時点で開墾された耕地面積から試算。
              しかしまだ開発の余地があり耕地に転用可能な土地(湿地など)を
              開墾すれば+数十万?次の検地まではばれない

こんな感じか。江戸に米を何十万石も運び込んでいたのだから、
関ヶ原以後に実質の石高は表高を上回っていてもおかしくはないか。

そういえば家康が関東に転封されたときは、
戦乱であれていたせいもあり石高の予測は250万石よりも小さかったという話だが。
>>209
そういう先生いいな。いなかったよそんな教師…。「織田信長はホモだったんだぞー」
と笑って言ってたのしか覚えてない………。

話の腰折ってスマソ
>>158
>>政宗はどういう風に中央に進出していこうか戦略を立てていたみたいだけど、
どんな風に進出しようとしてたんだ?
はっきり言って、あそこまで天下が定まった状態では中央に進出なんて無理に思えるが。
早い話、このスレの住人は伊達と佐竹、
どっちかに味方しなきゃいけないと言われたらどっち選ぶのよ。
漏れは鬼義重についてって片目の首を狙ってやるぞ。
ノブヤボの
伊達はもう少し采配下げてもいいような気が・・・(どうせあがるし
佐竹はちょうどいいと思うよ。
>>214
何が早い話なのかよくわからん。
>>216
結局、伊達厨には勝てないってことでFAなのか。
>>217
だからなにが。
まぁ俺は伊達が凄く好きですが、佐竹好きは佐竹マンセーでいいんだよ。
何が勝ち負けなのかさっぱりわからんわ。

>>218
伊達と佐竹、どっちが好きなのか単純に語り合いたいと思っただけだが。
世間とこのスレ見れば伊達厨のアリのような多さと佐竹厨の天然記念物ぶりが(涙
>>218
あぁ…そういうことですか。
自分はこのスレ見てて触発されて佐竹に興味持ったから、
頑張って布教してください。
声を大にして言わんが三国志でモロ地味で正史2行半で
語られる、「地味」がステータスになってるような人物
が俺は物凄い好きだから気持ちはわからんでもない。
それを例に出してみて正直佐竹に悪いなと思うほどだけど。
ごめん佐竹。ごめん佐竹ファン。



221無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 20:07
変わった雰囲気のスレですね
伊達佐竹連合で毛利厨をたたくべきだと思います。
>>213
郡山戦で伊達に有利な結果を引き出せたので、
そこから芦名を一気に滅ぼして東北の主導権を握った後に、
秀吉が北条征伐に動き出す前に北条と共闘して佐竹を滅ぼしておいて
その後は秀吉と交渉して(臣従+北条攻め協力?)良い待遇をゲット。
毛利、徳川などのように中央政治の中枢に近づける立場になっておいて
秀吉の死後に主導権をねらうだったかな。
小説や大河ドラマ、NHKのドキュメントで一応資料の解説(曲解?)で
紹介された構想(制作者の創作といえなくもないが)がこんな感じだった。

秀吉の九州征伐が2ヶ月かからずに終わってしまった上に1590年には、
北条攻めが決定的になったので佐竹と戦うどころか満足に折衝する暇もなく、
結果は芦名領返還で占領地の一部を認められる位に終わったけどね。
>>223
郡山の後に考えたとしたら、やはり無謀だと思う。
秀吉は天正13年に義重に、14年には景勝に関東出馬の意向を伝えてるし、
惣無事令も発動してる。
葦名どころか佐竹すら滅ぼしておいて、北条攻めを協力したくらいで許されるとも思えないし、
北条攻めまでの時間も短い。
>>209
実質100石とはまた酷い扱いですな
俺は義重と政宗にならケツ掘られていいぜ!
どっちも好きだ
本気で天下狙うとしたら無謀なことやるしかなかったんだろうな。
政宗は関ヶ原以後も自身の影響力の浸透を測っていたみたいだし、
何もせずに父から受け継いだ40〜50万石の大名じゃあ、
ろくに発言権すらもらえなかっただろうしさ。

ただ佐竹を滅ぼして伊達がそこで頑張ったら北条を包囲するのがやりにくくなるので、
秀吉にとっては伊達を敵にまわすのは面白くない事態ではあったと思うよ。
それで許されるか許されないかをどう計算していたのかはわからないけど。
228無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 20:32
実高は江戸中期には250万石くらいだったらしいな。
>>227
仮に佐竹を滅ぼしたとしても、佐竹攻めに協力した北条を、
あっさりと、しかもすぐに裏切るような男じゃ、
例え許されても、伊達を信用しようというやつはいなくなるんじゃないか?
やれるとこぎりぎりまでやってやるってのが伊達
の一つの魅力だからなぁ。方向転換もうまくやるけど。
まぁ普通に考えれば224の言うとおりだけどな。北条攻めは展開早えーし。

>>228
だれの実高が?
>>227
伊達って佐竹滅ぼせるほど強かったっけ?
スカスカの末期の芦名とは違うはずだぜ?
佐竹厨で悪かったな。
別に佐竹厨で悪い事は何もないけどw
>>231
摺上原直後の石高で考えると、
100万石超えてる伊達と、
同盟者の芦名を失っている上に背後で虎視眈々と佐竹領を狙っているので、
北にばかり戦力を集中することができない北条がいる佐竹では、
佐竹の不利は否めない。もちろん秀吉が黙っていたらの話だけど。
>>231
当時の情勢なら無理だろうな。
義重のバックには秀吉がいるし、佐竹と上杉との関係も良好。
関東進出を本気で考えてたとしたら、あまりにも楽観的すぎるような。

政宗はそんなに焦ってたのか?
235233:04/04/21 20:50
すまん。文章が変だった。
>>同盟者の芦名を失っている上に背後で虎視眈々と佐竹領を狙っているので、
北にばかり戦力を集中することができない北条がいる佐竹では、
               ↓
同盟者の芦名を失っている上に北条が背後で虎視眈々と佐竹領を狙っているので、
北にばかり戦力を集中することができない佐竹では、

単独じゃあれだけど、秀吉いっからな。
>>234
焦ってたっていうか時間はなかろうて。
佐竹って結構大変なんですね…。
>>236
いや、葦名を滅ぼすだけならまだしも、
「佐竹を滅ぼして勢力拡大→豊臣政権下の有力大名に」
なんて無謀で現実味の薄い計画をたてるほど政宗は無能じゃないと思うんだよな。
いくら時間が無かろうともさ。
虎の威を借る狐
>239
意味不明
関東進出を本気で考えてたっていうか、いや構想としてはあったんだ
ろうけど本気で実行しようとは思ってたんかね。
もしチャンスがあったらやっちゃおうって勢いがいいな、個人的に(w。
有能無能はおいといて、そんな事考えるあたり野望だけは凄いよなあ。
政宗の中に堅実という言葉は無かったのか?
政宗は現代に生まれていたら
処世術を駆使して管理職に上り詰めてそう。敵も多そうだが。
>>242
あるやろ。徳川政権下でがんばってん。

だから義重は凄いって言ってるんだ
佐竹はいつもギリギリの状況だった
伊達とか北条は少しばっかりヘマやっても一気に滅ぶような状況じゃないけど
佐竹は相手が相手だから一瞬で滅亡だよ
南北両側敵にまわして勢力伸ばすのは神業的

    ま 左  /   ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、    ,r';;r"           _ノ
  お か 様  L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/             )   恐 政
  ぬ .り な  //;;/´         `' 、;;;;;;;;,,l;;'          /ヽ   る  宗
  し と. こ  /.,';/             ヽ;;;;,l;L_      .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i   に も
  だ お と l |;|┌--‐フ  ┌----、、   |;ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く  足 義
  け る が i  |l ~~__´ 、   ``'__''''┘  |;;;;;l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;厶,り 重
  じ の   l _|. <,,O,> 〉   <,,O,,>    |;;;;;| `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;ヽず も
  ゃ は   ._ゝ'|.    /   、       |; ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
  ぞ    「 | |    (    )       .ソ l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ
     ヽヽ |    _,ニ ニ,,,,,_        ', ゞ,' '"'` '"       i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄  `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、     '' .', i、-----.、       `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ!  . ',   :i゙''''''''''`l'  ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\       ,'  ト、,
ダ ダ  /     ヽ   L__」   「 二 次 Lヽ ヽ〈    i|         Vi゙、
ミ  ミ  {.      ヽ.  -、、、、 '  ノ  階 の 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,'     ,   // ヽ
ア ア   ヽ.    ハ        )  堂 大  |  ',.' ,  ̄ , '    ノ  //    ヽ,
| |    >  /|ヽヽ、___,,,,、 'く  じ 河  > ヽ.  ̄´   / ,、 ' /     / \
ン ン   /  ノ. | ヽ       フ  ゃ は  /  ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙     /
247無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 23:12
正直なところ佐竹は伊達より北条の勢いに飲まれてた
秀吉が北条潰さなかったら佐竹は北条に潰された可能性が極めて高い
佐竹厨には痛いところですが北条に押されてジリ貧でした
>>243
キモメン呼ばわりされてショックを受け、モテない男性板に引き篭もる
249無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 23:15
水戸の江戸氏はどうか知らんけど
土浦まで小田原の勢力圏内だからな
常陸の半分まで北条が入りこんでいた
250無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 23:16
でも北条と伊達相手に死に物狂いで攻防を繰り返す方が
端から見てる分には面白そう
>>247
沼尻合戦を引き分けて以降は小競り合いが続いてただけで、
特に脅かされていたようには思えないが。
全面対決も無かったし、どちらかというと南奥の対応におわれてたような感じがするが。
〜天正年間前期まではピンチもあったが。
252無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 23:58
>>251
1590年までに北条は6カ国以上に勢力を伸ばして兵力も7万にまで達していた
武田、上杉の動きが相次いで止まったお陰で北条は本格的に常陸攻略にも
力を入れ始めていた
直接対決は行っていなかったが常陸周辺の豪族の切り崩しを行っていたから
恐らくその後で大規模な攻勢に出る予定だったと思われる
土浦市周辺にはいくつもの巨大な城郭を次々と築城してたところから見ても
北条は常陸南部に着実に佐竹攻略への足掛かりを作っていた事を見てとれる
俺は茨城在住だからよく分かるけど
土浦、石岡あたりと水戸、太田あたりは目と鼻の先だよ
だから佐竹にとってはかなりの脅威だったと思う(ずっと平野だし)
会津なんかは太田からだと300キロぐらい離れてるから
何か現実感がない
佐竹は大子(茨城北部)なんか本拠の太田から見て山越えて裏側なのに
僻地扱いで長い間放置していたぐらい北は進出の不便さもあって
あまり関心を持っていなかった
義重の葦名への読み違いもそういう感心の薄さも関わってるんじゃないかと思う   
253無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 00:03
>>248
自己紹介乙
>>252
上総や常陸まで北条の勢力が及んでたのは分かる。
だが、常陸南部の辺りはそれこそ義重が家督を継いだ時から親北条が多かったような。
それに、家康と同盟し背後を固めた上で八万もの軍勢で攻め寄せた沼尻合戦でも
勝ちきれなかった上、秀吉が関東出馬の意向を示していたあの時期に、
それほど簡単には佐竹は滅ぼせないと思うが。

あと、北への関心が薄いってのはありえないと思う。
義重は若い頃から何度も南奥に出兵してるんだし。
255無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 00:27
>>254
南と北を比べたら北の方が関心薄いって事
南部の広大な水田地帯は誰が見ても垂涎物だよ
北は会津まで行っちゃえば別だけどそれまでの道のりが大変
今でも不便なんだから昔はもっと大変だったはず
茨城から福島みるのはちょうど宮城から岩手や青森見る感覚と同じ
256無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 00:29
>>254
北条の8万もの大軍で倒せないなら
伊達じゃ全く話しにならんじゃないか   
>>255
北より南のほうが得るものが大きいのは分かる。
でも天正八年に勝頼から北条討伐への協力を求められた時は、
仙道への出陣依頼のほうを優先し、対北条戦の展開は翌年になったりしたが。
>>256
伊達の場合は位置的に北条と挟撃できるのでより有利に進められる。
摺上原直後の北条もしかり。
佐竹は芦名が滅ぼされて秀吉の介入があった(当然介入があるのは計算してただろうけど)から難を逃れた。
ただ摺上原直後はもう秀吉の北条征伐はほぼ決定的だったから佐竹からしてみればピンチとは思ってなかったかもしれない。
259無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 00:44
佐竹って常に多方面作戦ばっかり
資料読んでると義重の忙しさにこっちまで疲れてくるw
>>256
あの戦では、佐竹方には北関東だけでなく南奥の諸将も参戦したし、
佐竹方は8千挺もの鉄砲を用意したとも言われる。
いくら兵力で勝っていてもなかなか勝ちきれないだろう。
261無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 00:45
東義久って政宗に買収されてたんじゃないのか?
それとも宝寿院とできてたとか   
しかも沼尻合戦の時は政宗とも交戦中だった
伊達と戦いながら更に大軍の北条と交戦するなんて
義重は凄いよ   
東がトチ狂わなければ
摺上原で滅んでいたのは伊達だったはず   
ネットで見かけた沼尻合戦の資料のコピペ

佐竹氏はその当時南奥州の地において伊達政宗と交戦中だったが、
兵を二手に分けて佐竹義重自らが参戦。
北関東の武将を総動員し4万の兵力をもって北条氏に立ち向かった。
この戦場は下野藤岡で渡良瀬川を挟んで行われた。


この時の佐竹勢の鉄砲の数は8千挺以上といわれている。
この戦いも両軍が対峙したままにらみ合いが続き勝敗を決することがなかった。互角の勢力だったのだろう。
佐竹側からは東義久、北条氏からは北条氏照が交渉人となり、佐竹、北条両氏の間に無条件講和が成立。

この講和の成立以降北条氏は北関東に攻め入ることはなかった。

>>264
天正16年に、北条方の大掾清幹と佐竹方の江戸重通が争った時、
義重は重通の要請を受けて出陣し大掾方の田余城を攻め落とし、
それを見た北条氏直は江戸崎まで出陣、多賀谷や小田を攻めてる。
すぐに和睦して北に向かったけどね。
天正16年と言えば窪田の戦いもあるね
267無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 10:54
佐竹は資料少なすぎ
茨城でも皆無に等しいし
秋田には結構あるけど義宣以降だからつまらん   
佐竹について調べたけど、関が原の後頑張る義重に好感。
息子は何で…。
269無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:07
佐竹が二正面作戦に忙殺されてなかったら、伊達滅亡。
どうして上杉−武田−織田の三者のように思い切りよく一時的和睦ができなかった
ものか。
政宗を斬首するまで北条とは争うべきでなかった。
むしろ、南奥州を制圧してから雌雄を決するべきだった。
そうすれば、奥州の弱兵を城の貼り付け部隊として使い潰して常陸の精鋭を機動打
撃部隊として使うことができたのに。
271無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:18
佐竹は義重より前から北条と敵対してた
だから順序的には北条が先だけど北条倒すってのは無理がある・・・
それに伊達と和睦も無理だろうし
結局両面作戦をとるしかない
272無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:22
北条の動きを抑える手だてがあれば
伊達を滅ぼす事は可能だったろうけど
武田・上杉が使い物にならなくなった以上北条を牽制する手だてがない
273無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:43
関東管領職を断った時点で佐竹は凋落する運命だったのだよ
別に凋落なんかしてねえだろw
伊達と正面決戦するならその前に芦名倒さなければいけないだろ。
義広が後継者になるまでは佐竹と芦名は同盟者ではなかったんだから。
義重自身は惣無事令に従う方針固めてたんだし郡山ではさっさと引き上げてるし、
そもそも伊達を倒そうとも倒せるとも考えてなかったと思うが。
276無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:51
関東管領なんて糞の役にも立たないもの引き受けてなんになるんだよ
憲政らの面倒も見なくちゃならんし源氏じゃなくなっちまう
しかもすぐに室町幕府潰れて管領職なんて消滅したしな
佐竹は関東管領なんてものなくてももっと上の将軍になれる家柄   
277無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:54
>>275
葦名を勢力下においた後伊達との全面戦争に踏みきれば
佐竹が勝つに決まってる

背後になにもいなければね・・・   
278無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 14:58
葦名や伊達の南下によって佐竹も押さえの為に北上してたけど
やはり本命は北条打倒でしょ
佐竹にとって奥州なんて全く戦略的価値ないよ・・・
伊達が会津や関東無視して南部や蛎崎に必死に戦い挑むようなものじゃないか   
279無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 15:03
>>278
>伊達が会津や関東無視して南部や蛎崎に必死に戦い挑むようなものじゃないか

その場合は、政宗を討ち取る相手が佐竹から南部に変わるだけだがな。(w
>>279
君は伊達vs最上スレにもいるでしょ?
よほど政宗が嫌いなみたいだな   
>>277
背後の問題を無しにしたら、
人取橋で政宗は負けていた可能性が極めて高いし戦死する可能性も低くない。
逆に摺上原後は佐竹が伊達と北条に前後から攻め立てられて滅亡と言うのもありえる。

実際には大名は当然周囲の状況を読んで情報を集めて戦略を決めていたのだろう。
北条征伐の直前とその後の戦後処理も含めるとこんな感じか。
    ↓
北条⇒秀吉の力を見誤り対立して滅亡する。
佐竹⇒早くから秀吉に臣従して秀吉の方針にも従っていたのでいたので北条滅亡後かなりの利益を得る。
   しかし芦名の復活はなかったので有力な同盟者を失う。
伊達⇒天下を諦めず北条征伐直前まで秀吉に臣従せず惣無事令にも違反するが、
   外交や処世術を発揮して本領安堵+芦名領以外の占領地の併合を認められる。
   これによって奥羽の中では最大の大名となるが、
   摺上原前後の一連の戦いでかなりの戦費や人的損害も費やす。
>>280
まあアンチ政宗なヤシは、
郡山で政宗が捕まっただの全国の大名からは笑いものにされていた道化だったのだの、
珍妙な説を披露して自らが道化になってくれるから、
笑いものにして放置するのが吉
>>282
郡山で捕まった?それは確かに…イタい説だな…。
フォローのしようがない。しようとも思わんが。
284無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 15:23
>>281
結局どっちが優れてるとは言いきれないな
義重、政宗>氏政
だけはハッキリしてるけどw
関ヶ原後の佐竹と言えば
寄生獣の作家の岩明 均が「雪の峠/剣の舞」で取り上げている。
結構面白かったよ。
地元の人間の俺としては北条は好きなのだが何ともいえない・゚・(ノД`)・゚・
政宗は秀吉を見誤った所では氏政と同等だ
その点義重の方が優れていたとも言える
しかし結果的に言えば、なんとかうまく泳ぎまわって
佐竹より多くの領地を安堵されたから政宗が義重に劣るとは言えない
まあ、必死に言い逃れしたって点はちょっと政宗もみっともないが   
288無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 15:29
>>286
早雲、氏綱、氏康は名君だったのに残念でしたね
>>285
へぇ、あの漫画家なら安心して読めそうだ。
久保田城のしょぼさを語ろうぜ
久保田城ってどんなんですか?
292無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 18:16
土塁回しただけの小城
天守どころか石垣、水掘りすらない
20万石以上あったのにこの程度の城しか作らなかったところに
佐竹の凄さが伺える
ちなみに佐竹が数百年居城をおいてきた太田城も土塁程度しかない
信玄と同様に城というか館程度に住んでいた
さすがって感じだ   
信玄は人の輪を重視し〜とかで構えを簡潔にしたっていうけど、
佐竹はそれとは違うと思うが…。そんな考え持ってる節はあったっけ。
>>293
名将ってのは常に外に出て戦うから城なんて無くてもいいんだよ
それは極端なのでは…
296無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 18:45
>>293
幕府への配慮から石垣も天守も作らなかったって言われてるけど
実際は無駄金使わないように作らなかったんだと思う
佐竹は昔から城に金かけなかったから   
>>294
北条・・・
城にはあんまり重要性を持たない人物だったんか
>>297
北条だって好きで篭城してたわけじゃないw
300無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 18:52
>>298
義重なんかは篭城戦って一回もしてないと思う
常に外で戦っていたから城には金かけたくなかったんだよ
佐竹支配下にはマトモな城って一個もないよ
みんな土塁回しただけの粗末な城ばかり   
平城とかってかなり不便なはずなんだけどなぁ。
城は領内の政治、経済、交通常の要地に構えられるべきであって…。
でも軍事をおろそかにできないよね、乱世の時代は。
>>301
そこで小高い丘とかに建てたりするのさ。
>>301そういうジレンマの解決っていうかな。
>302の言うように小高い丘にとか、あと平地の中にある山の一角とかに
築くっていうのは。
で、下に家臣住まわせたりね。町形成したり。
そう思うと北条の城は凄いな
伊達は小高いどころじゃないところに城作りやがった。
とても高い所に作ったね。
そこで天守閣の代わりになるから万事OKなわけなのですよ
要するに佐竹の築城術って中世のまま止まってるのね
まぁそれで好意的にとれば292のような感じなのだろう。
清々しい。
>>307
築城術云々じゃなくて作らなかったんだって
310無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 19:45
そもそも篭城考えるようじゃ終わってる
城なんて所詮飾り
小田原城ですら結局落城したし
小田原評定なんて汚名を残すのに役だったにすぎない   
311無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 19:52
佐竹はやっぱり名将・名君だな
年貢が安いのにあれだけ戦ばっかりしてたんだから
築城は莫大な労働力と資金が必要だから
なくて済むなら無い方がいいもんな
領民だってその分楽になる
江戸時代になってからは皆見栄張って壮麗な城など作ったけど
佐竹などは20万石あってのあんなボロ城のままでいたのは凄い
皮肉なのはかつて佐竹の本拠地だった常陸の水戸家が
見栄の為に重税をとって領民を苦しめてたって事だな
互角な戦いしているなら籠城も良いが、
援軍が期待できないで相手が長期間包囲できる物資を用意しているんだったら、
そのまま負けだろうな。
籠城失敗例→斉藤氏の稲葉山城の籠城→援軍が期待できず有名武将が龍興に愛想を尽かしたこともあり内部崩壊。
籠城成功例→毛利の郡山城の籠城→尼子は郡山城を長期攻略する準備をしておらず(短期でけりをつけるつもりだった?)
      また毛利方は大内の援軍が期待できた。
篭城は絶対にやるべきじゃない
士気は萎えるし、例え撃退できても
城下は荒らされて再建するには相当な労力と資金を費やさなければならない
314無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 20:28
城は篭城するためだけにあるもんじゃないだろうに・・・
なんなんですか、この低脳なマンセーぶりはw
またアホな煽りクンがでましたよ   
いや、いいよ。見てて面白いし。
っていうか日本の城は攻撃性要素のほうが高いとかいう説も
あるよね。それは信玄の例を出される場合が多い。
でも
>平城とかってかなり不便なはずなんだけどなぁ。
>城は領内の政治、経済、交通常の要地に構えられるべきであって…。
はその通りだと思う。
このスレの278とか最上VS伊達スレの27とかと同一人物という気すらしてきた。
煽りはみな似たような事を書くのかな。
>>317
政治、経済、交通の要地。部下住まわせたり、城下町の形成とか(楽市楽座が始まってから
特に顕著)。だから城を高めのとこにしたほうが構成するのに良いんだよね。
そういう意味で城は篭城のためだけじゃないってのはうなずけるよ。
立派な城がそのまま墓になったヤツは数知れない

武田がいい例だね
信玄の代では躑躅ヶ崎の館にいたのに
勝頼は新府城.作ったけどあっと言う間に滅んだ
城を厳重にするって事はそれだけ外敵に対して不安があるって事だ   
余裕と自信がなきゃボロ城なんかにオチオチ住んでいられない
>>320
城下やその周辺の作り方によっては、そうとも言い切れないと思うが。
佐竹は城作りよりも野外で戦の方に重点置いてたんだろう。
>>319
それは城の位置の問題だろ
なんで経済や交通の為に天守や石垣、水掘りが必要なんだ?
そんな無駄金使うなら佐竹式に簡単な城作って町や農村に投資した方がいいだろ   

立派な城を造り兵士がたくさん駐在。
城の周辺の治安が良くなる。
商売人達が安心できる場所として人が集まる。
城下町が発達する。
経済が発達して現金収入が増えてウマー。

他には立派な城なら攻め落とすのが難しい。
周りの大名がそこまで押し寄せてくるのをためらう。
その城の周囲は比較的安全。

もしかしたらこんな効果があったかもしれない
>>321
だから佐竹はその周辺に力を入れてたんだよ
佐竹の内政が優れてる事はあまりに有名じゃないか
>>323
佐竹も武田も城らしい城がなくても
全部その条件を満たしていますが
別に立派な城作るのはいいじゃんw
城下町もあわせて、城作りだろ。
327無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 21:04
ここは飢餓で娘を売る東北人が必死なスレですね
>>324
特に鉱山開発の技術が凄いよな。
佐竹がいたころの常陸は全国有数の金産地だったし、
国替え後に秋田でも金山を開発して、今度は秋田が有数の金産地になった。
佐竹義重は武田信玄に匹敵する
佐竹義重は姫路城を築くよりもよっぽど凄いことをやってのけてる
のがわかるな。
佐竹の場合、戦略拠点としての城がないから
領土拡大が捗らなかったと言えるんじゃない?
信玄を例に挙げると、別に本拠地に壮大な城がなくても
拠点には必ず堅城を築いてるし
外に攻めると言ったって闇雲に攻め続けるだけじゃ
謙信といっしょだろ?
332信玄:04/04/22 21:15
堅城は必要ですよ!
なんかいきなりすごい勢いで佐竹義重の持ち上げがはじまってるな。
立派な城を築かなかったことに義重の戦略や戦術の特徴や凄さが表れているという意見には賛成だが、
持ち上げたって過去レスで言われてきた結果が変わるわけでもないだろうに。
334無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 21:30
普通に姫路城築くのだって凄い事だと思うよ〜
まあ立派な城をたくさん造ったのに
重税を課さなかった
北条のほうが数倍名君ってこった
結局滅んだだろう
滅んでねぇっつーの
佐竹だって結局転封されただろ
小田原城は秀吉が参考にするくらいの城だよ。
大阪城だって外掘り埋めなきゃ難攻不落だったんだよね。
マンセーの嵐はアンチを呼び込むための策略だったのか・・・?
やった北条関連城話キタ(・∀・)ーー!
籠城だけじゃカツのはきつそうだがな・・・
小田原城はどのくらい増築したんだろう
343無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 21:40
大坂城だけは ガ チ
>>339
いや自分は普通にマンセーしてただけ。
都合悪い事ないし・・
345285:04/04/22 21:46
このスレらしく佐竹と伊達の城作りについてだれか語ってくれないかな。
俺は伊達好きな人間だが、寄生獣の作家の岩明 均が書いた「雪の峠/剣の舞」をよんで
伊達よりもむしろ佐竹の関ヶ原後の城作りの構想の方が詳しくなったかもしれん。(もうあまり覚えていないけど)
あの漫画で一番格好良く感じたのは何故か義重だったが。
そもそも佐竹と伊達を何故にVSにしてこのスレ立てたんだろ…。
347無名武将@お腹せっぷく:04/04/22 21:57
>>346
荒れるのを見たいからだろ…。そういうの好む奴はこの手のスレ
よく立てるから。そういう場合どっちかのアンチってのが多いけどな。
ここは知らん。
>>347
でもここは比較的荒れずに進行してるよな。
荒れるのが見たくてスレを立てたなら当てが外れたな。
佐竹義重は陰流の使い手だったり、戦場で武勇を発揮した逸話が残ってるが、
政宗には何か無いのか?知ってたら教えて欲しい。

佐竹の事しか書いてない自分が言うのもなんだが、スレが佐竹の事ばっかりなんで。
俺は伊達についてはそんなに知らないから、伊達の事の方を知りたい。
>>348
比較的両者ともお互い有能だと認めてるからじゃないかね。
義宣は政宗のこと嫌いだったぽいね
歳も近いし まぁ何となくだけど
政宗に関しては戦場で武勇を発揮したという逸話は特にない。
まあ当たり前といえば当たり前で、いちいち総大将が前面に出て戦う
なんてことは滅多にありはせん。人取橋で辛うじて槍を持って戦った
記録は出てくるかもしれんが。
>>352
やはり無いのか。
確かにそういう逸話が残ってる義重の方が特異だからな。

人取橋は本陣近くまで迫られたから、政宗自身が槍を持つ必要に迫られただろうが。
確か、臑当て、腹、肩の三ヶ所に鉄砲傷、兜に矢傷が二ヶ所だっけか。
よく生き残れたよな。
>>351
ふたりはいとこ
そういえば佐竹は上杉の神指城築城に人手を貸してたな。
>>352
芦名を滅ぼした政宗と大坂で味方撃ちした政宗は別人だからな。
やっぱり本物は人取橋で死んだのか
最初の方に粘着がしつこく政宗叩いていたので、
佐竹ファンがそれ見て真摯になってくれた気がする。
こちらはほとんど知らなかった義重のことについて少し詳しくなったんで
佐竹ファンのこの対応はうれしいよ。

んじゃ、少し政宗について書くわ。おかしかったら突っ込んでくれ。
1567年に生まれる。父は輝宗、母は義姫(叔父は最上義光)
1577年に元服して政宗を名乗る。
1579年に田村清顕の娘と結婚。
1582年に初陣。相馬と戦い伊具郡丸森城、金山城を攻略。
1584年、家督を継いで17代伊達家の当主になる。
1585年、輝宗、畠山に拉致され伊達家の追っ手は輝宗ごと拉致した畠山勢を射殺する。
    父親の仇討ちのため政宗自ら7000の兵を率いて出陣するが佐竹・芦名・岩城・石川・白川・相馬・二階堂の連合軍が、
    30000万の兵で迎撃。(人取橋の合戦)
    連合軍がやや優勢になるが北条の動きが気になった佐竹が兵を引いたのがきっかけになって連合軍は撤退。
    決着のつかないまま両者撤退した。この戦いで鬼馬良直戦死。        
どうでもいいけど、武田信玄って城作りまくってるよな。
かなり前の話題だけど。
1586年 田村清顕が死亡しその後継者を巡って、
    佐竹・二階堂・石川・芦名・白川の連合軍4000とわずか兵600で対峙。
    相馬の和睦により両者撤退。

1588年 郡山で芦名・佐竹の大軍と対陣(郡山対陣?)。岩城の調停で停戦。
1589年 摺上原で芦名を破り黒川城占領。岩城、白川、二階堂ら降伏。
    政宗は秀吉に使者を送り芦名征伐の弁明をする。
1590年 母と弟が毒殺を企てていることを知り弟の小次郎を斬る。
    小田原に参陣し、その後芦名領を返還。
1591年 木村領で起きた一揆に荷担した疑いを花押の目の穴で弁明するが、岩手沢の50万石の新領に転封を命じられる。
1594年 秀次事件に荷担した疑いで取り調べを受けるがお咎めなし。
1600年 関ヶ原の前に100万石のお墨付きを条件に家康側につくが南部の一揆に荷担しているのがばれ10万石の加増にとどまる。
    最上に援軍を送り侵入していた直江兼続を撤退させる。
1601年 仙台城を建造。
1606年 長女と徳川忠輝が結婚。長男忠宗と徳川市姫婚約。
1611年 イスパニア領メキシコの使者ヴィスカイノと会う。
1613年 イスパニア風の洋船を建造し支倉常長をローマ法王、イスパニア国王あての親書を持たせて派遣。(親書には日本に軍艦を派遣してくれと書いてあったとも言われる)
1614年 大阪冬の陣参戦。長庶子の秀宗が家康により伊予宇和島10万石に封じられる。
1615年 大阪冬の陣参戦。味方の神保勢ごと敵を攻撃するが(神保勢は全滅)後藤又兵衛を討ち取った功もありお咎めなし。
1616年 忠輝が素行不良で改易。政宗は後見役的な立場であったがお咎めなし。

これ以後は秀忠、家光に仕え幕府の支配制度確立に貢献。
秀忠、家光からは外様の元老としての待遇を受ける。

1631年 秀忠の死後家光による諸大名引見の際に進んで忠節を誓う。(各大名もそれにならう)
1636年 死去。
1987年 山岡荘八原作 「独眼竜政宗」、NHK大河ドラマの放映
なんか義重って孔明みたいだな
いつも有利に戦をすすめているのに
あと一歩って所で引き上げなくてはならなくなる
運が無い
義重に英雄の条件として欠けてるのは運だ
いまさら城話で申し訳ないが
「義宣家譜」に
「秋田地下人は勿論、諸士と雖も常陸譜代の者として
石垣普請等は一切不案内たるの間」とある。

要するに常陸の譜代にも新領地の秋田にも
石垣の作り方を知ってる人間はいなかった。
佐竹はあえて石垣つくりをしなかったのではなく
作りたくても作り方がわからなかった、というのが正しい。
365無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 11:10
>>364
作り方が分からないなんて事があるわけないだろw
縄張りは大抵プロがやるわけだし
造りたきゃ他から人雇えばいいだけだろ
別に当時石垣が珍しかったわけじゃあるまいしw   
366無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 11:15
だいたい義宣は伏見城築城に3万5000人も動員してるんだぞ
他家の石垣は積めても自家の石垣の積み方は分からんのかいw   
367無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 11:29
伊達も秀吉にはあまり印象よくなかったね
やはり小田原の影響かな   
>>365
じゃあなんで
「秋田地下人は勿論、諸士と雖も常陸譜代の者として
石垣普請等は一切不案内たるの間」
なんてわざわざ書いたの?
石材の産地が近くに無いとか領民の負担を考えたとか書けばいいじゃない。
勿論本当に石垣を作ろうと思ったら人を雇っただろうけど、
それだけの余裕が転封後はなかったとは思う。

石垣は珍しくなくても工法は当時の機密情報。
工事の間幕を張って隠したとか完成した後職人を殺したなんて話がたくさんある。
見たことがあるから作り方を知ってるわけじゃない。
石垣以外にも堀を掘ったり土を盛ることも普請。
手元の資料では伏見城の石垣を作ったか解らないけど
3万5000人動員した=石垣を作ったとはならないよ。
現に天下普請では東国大名は基本的に土の工事がほとんど。
佐竹が大規模な石垣を作ったことがあるんだったら教えて下さい。
>>367
秀吉から見たら
佐竹義重⇒早くから秀吉に臣従して秀吉の方針を守る有能で忠義な大名。
伊達政宗⇒惣無事令破って芦名滅ぼしたり中々臣従を誓わなかったり
     臣従した後も一揆の煽動したりするなど有能ではあるが、
     隙を見せたら謀叛を起こすかもしれない油断のならない奴。
という印象だろう。
これなら佐竹義重の方が秀吉の覚えが良くなるのは当然といえば当然か。
浅野と絶縁する頃にはもう秀吉とは取次ぎ無しで謁見できてたからなぁ。
まぁ政宗は家康さんとの方が仲良いけどさ。


>>359
信玄は各所各所に堅城築いてる。甲斐の地理的特徴から城を
築かずとも守れるっていう利点もあるようだし。でもそれだけじゃ
駄目だから要所には城作りまくってる。もちろん軍も強かったんだろうけど。
信玄は内政も良かったらしいけど、最後のほうは戦で遠くに離れる
こと多かったから息子の時にはだいぶ人心はなれてたみたいだね。
信玄が城を築かなかったのは今言ったような事は前から言われてるけど、
佐竹の場合はどうなんだ?関東じゃそんな地理的特徴もそんな
無いだろうし、義重の本拠だけじゃなくて部下の城もそうだって
言ってたから良くわからないのだが。
つうか転封された後にまた天守作ったり石垣作ったりなんて、せっかく
重義が二条城とか往復してとりなしたのに目をつけられるようなこと
せんよ。
>>364-365
作り方もそうかもしれないけど、どっちかっていうと材木とか石材とか
の調達とかに問題ありそう。

常陸にの時は知らんけど
373無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 14:01
信玄の場合とはちょっと異なるようですね
>>358
7000人で3億の敵と引き分けに持ち込んだのか。すごいね。
>>368
考えてみりゃ分かるだろ
ワザワザ「我が家中は物知らずです」ってな事書く馬鹿いない
幕府への警戒の為に簡素な城を築いたのに
それ書いちゃったら意味ないw   
376無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 17:18
信玄は「人は城・・・」とか偉そうな事言ってる割には実践できてなかった
むしろそれを実践してたのは義重
義重は堅固な城なんて一つも作った事ないけど敵の領内への侵攻を許さなかった
敵がどんな大軍でも常に外にでて野戦でケリをつけている   
>敵の領内への侵攻を許さなかった

馬鹿発見w
マンセーしたいならもうちょっと調べてから書くようにw
佐竹ファンから見ても痛々しいw
378無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 17:33
>>370
関東は地理的には守るに不便だよ
常陸なんかは佐竹の本拠太田から遥か東京湾まで平地が続いている
常陸南部は山一つしかないし
居城の太田城があの程度だから
当然家臣の城は大したものはない
と言うか城って言ってるけど実際はほとんど館なんだけどね
その状況で数に勝る北条なんかの侵入を許さなかったのは佐竹の強さを
物語る一つだと言える

そういや常陸に山城ってのはないような気がする   
>>377
具体例を挙げろよ
お前の稚拙な煽りの方が余程痛いw
380無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 17:41
佐竹の奧7郡の侵攻に成功したのは頼朝依頼あるのか?
山入氏も太田を落としてるけどあれは内乱だしな
>>380
少なくとも義重は奥七郡に侵攻を許したことは無いな。
恐らく>>377は、佐竹旗下の国人の領地に侵攻された事を言ってるか、
ただ煽りたいだけだろうな。
382ともチャン:04/04/23 17:53
佐竹が石垣を持つ城の作り方を知らなかったのは事実だよ。
伏見城かどこかを立てるのに動員されたときに
義宣自身がそう言っている書状がある。

あと佐竹義昭は1562年に相馬盛胤に日立付近まで
侵入されたのに気づかなかったことがある。

義重が城をまともに築かなかったのは領土拡張とかそういうことを
しようとしなかったから。
上杉と同じで室町幕府、関東府による秩序回復を目指していたからね。
>>376
状況が全然違うのに、信玄と比べるのはどうかと思うがね。佐竹はvs北条にしても伊達にしても同盟勢力の後詰みたいな感じで出兵してるから
>>敵がどんな大軍でも常に外にでて野戦でケリをつけている
というのはあたりまえ。
他に大規模な合戦で他国に進出した例ってあったっけ?
>>382
相馬は多賀郡大沼に布陣して、義昭は石名坂で迎え撃ったんだったな。
佐竹の奇襲が成功して、相馬は散々にやられて撤退したはず。
385無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 17:59
まあ信玄も敵に領内への侵攻を許したことはないんですけどね
>>382
これは突っ込むべきなのか
そっとしておくべきなのか・・・   
387無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 18:05
突っ込みどころを教えて欲しいんだが?
388ともチャン:04/04/23 18:05
つっこんでいただいて結構ですよ。
>>383
じゃあ篭城してる連中の存在はなんなのさ
当たり前って言われても
その当たり前ができた武将が全国に何人いる
>>389
・・・後詰の意味わかってる?
>>390
後詰っても主力だろ
下らない事イチイチ言わせるな
大内は山口に築山館と近くの寺に石壁はあったが
城が無いから高嶺城作ろうとしたら遅かったな・・・

やっぱ武田の要害山みたく後ろに城は必要だよね。
一応。

城を作らなくてはならない状況になったことが問題かと
394無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 18:47
圧倒的に佐竹が格上だろ。
冷酷非情の政宗に殺されそうになった国分盛重は、佐竹に温かく迎えられたからな。
盛重は大坂冬の陣で奮戦して翌年歿するが、秋田伊達家は幕末まで残ってる。
もし、盛重に心残りがあるとしたら、政宗と対決して首を取れなかったことだろう。
395無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 18:57
>>394
その理論でいくと、織田信長も武田信玄も毛利元就も、佐竹より格下ですな。
まあ中堅名門としてのこれたからいいだろうな
397無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 19:15
城を造らなかったらエライんかい!馬鹿も休み休み言え!!
>>395
武田はともかく織田毛利みたいなのが佐竹より格上なわけあるまい
399無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 19:51
>>397
というか城を必要としなかったのが偉い   
400無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 20:04
>>398
織田を毛利如きヘタレと一緒にすんな
401無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 20:12
もちつけ、荒れ気味だぞ。
>>391
芦名の後詰めの時は佐竹は主力じゃない。
>>394
>>395
政宗も義重も邪魔者を謀殺するようなエピソードは残っているけど
そういうのがない有名武将の方がまれなんだから
別にどちらも冷酷非道というわけではないだろうさ。
ここんとこの流れは佐竹を持ち上げすぎていてウソ臭く感じる。
>>402
義重の防衛戦を局地的な野戦でけりをつけるという方針を改めて評価しているんだろう。
特徴的なやり方だしそれで所領を伸ばして生き残っているんだし優れた方法であるとは思うぞ。
北条氏の籠城戦術も1550〜70年代後半までは周囲の状況に合った適切な戦術だったからやはり優れている。
80年代になって状況が劇的に変わったのに
以前のやり方が通じると思っていた氏整・氏直が判断を誤ったというのは否定できないけどね。
404403:04/04/23 20:37
氏政の漢字間違ってるよ。馬鹿か漏れは。
>>375
じゃあなんでわざわざ書いたの?
資料なんか関係なくて、幕府の警戒感を解くために石垣を作らなかったというのが
狂信的佐竹マンセー派の言い分みたいだけど。

島津の鶴丸城(1602築城)や毛利の萩城(1604築城)は大規模に石垣を作っている。
萩城に至っては五階建ての天守まで作ってるし、幕府に喧嘩売ってたってことになる。
ちなみに佐竹の久保田城は1603年築城。
でもそれじゃ島津や毛利は潰すなら受けてたつ!という覚悟を築城で示したのに、
佐竹は領地を減らされ、東北に追いやられた上に、
城は石垣の無い貧弱なものにしましたのでなにとぞお助けを…
という、情けないことになる。

作れなかったんじゃなく、作ろうと思えば作れたけど作らなかったということはこういうことだよね。
そもそも幕府に恭順の意を示すなら、久保田城みたいな防御しやすい工夫された城じゃなくて、
慶長二条城や鶴丸城のような中世地方領主の単郭館みたいなものを
作ったほうがアピールできていいんじゃないの?
敵がどんな大軍でも常に外にでて野戦でケリをつけるらしいし。
信長の野望の能力値。
政宗。
全部将中、上位5位に入るくらいの能力。
佐竹義重。
中の上。
知名度は佐竹オタ以外には皆無。
てか人気、実力ともに戦国屈指の伊達政宗と変なおっさん比較するな茨城の田舎もんが。
水戸人は納豆でも作ってろw
68 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:04/04/24(土) 01:23
山形人必死だなw
まぁ憧れるのはいいけど、おしんの国の人間があんま調子乗らないようにw
最上?誰それ?
↑これが一般的なイメージだよ。


たぶん同一人物
65 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/04/24 01:21
ま、所詮日本のほとんどの人は佐竹なんて戦国大名知らない。
佐竹といえば…誰?みたいなw

これもじゃね?
409無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 08:13
>>399
甲斐本国は別として、占領地(信濃、駿河、遠江)では、城をいっぱい築いていると思うのですが。
410ともチャン:04/04/24 08:22
義重があまりに持ち上げられすぎているので、貶めようかな。
義重が自領内へ敵を入れさせなかったという事実はそのとおり。
しかしそれは義重がすごかったのではなくて、地理上そうなっただけ。
佐竹領の周囲は北条や伊達との緩衝領国ばっかりだったから。
言うまでもなく宇都宮、小山、結城、多賀谷、梶原とかのこと。
北条は当然ここから攻めてくるので、「南衆がきたぞー」と聞けば
義重はエンヤコラと半纏を羽織って撃退しに行く。ただそれだけの話。
だから城なんて築かなくていいし、野戦になるのは当然。
まあこれはこれで賢い方法ではある。
しかしたまにうまくいかなくて小山関宿は完全に氏照の所領になった。

普通だったらこういう緩衝領主は地域統一政権が攻め滅ぼして
自分の所領にしてしまったりするけど、佐竹はそうしなかった。
なんでかっつーと、一つには戦国化を推し進める北条に対抗するために
あえてそういう守護大名的政策を継続したということ。
つまり室町的な坂東の秩序回復を目指していたから。
つまり義重は上杉謙信のあとを継いだのね。その頃謙信まだ生きてたけど。
もう一つはやっぱりそういうノウハウが無かったということ。
これは佐竹を始め鎌倉以来の古い伝統的な大名ばっかりだったことや、
郎党間の争い(山入一揆)が中途半端なかたちで終わってしまったことと
関係があると思う。
コテは馬鹿ばっかりだが
こいつも例外ではないな
412無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 10:25
>>410
お前本当に馬鹿だな
チャンバラだけが戦だと思ってるのか?
敵を自領に寄せ付けない為に周辺の大名・豪族を佐竹の勢力下に引き入れていったんじゃないか
元々佐竹にくっついていたわけじゃない、むしろ敵対していた連中もいる
北条の方が圧倒的に力を持っているのだから北条に付くのが普通だが
それを佐竹の勢力に取り込んで行くってだけでも大変な事だ
謀略や外交を駆使して下地を作ってるから出来る芸当なんだよ
413無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 10:26
70 名前:日本@名無史さん 投稿日:04/04/22 21:07
伊達政宗は父輝宗の築いた勢力を単に引き継いだだけ。
長宗我部元親も父国親の跡を継いだのだがその勢力には雲泥の差がある。
伊達政宗は初陣で1万の軍勢を動員できた。
長宗我部元親は初陣で200騎の兵しか居なかった。
簡単にいえば資本金1千万の会社を引き継いだ若社長と
資本金20万程度の会社を引き継いだ若社長ということになる。
しかも、長宗我部元親の場合は、長宗我部氏より有力な豪族が
跋扈し、しかもそいつらがよってたかって長宗我部氏を敵視して
攻撃していたいう背景がある。四面楚歌の状況でしかも少ない元手で
大大名に成長した長宗我部元親はただ者ではない。



71 名前:日本@名無史さん 投稿日:04/04/22 22:48
>>70
むしろ、それ程の勢力を引き継ぎながらペコペコで終ってしまった政宗がヘタレ。


何故か長宗我部厨も政宗を引き合いに出すのなw
414無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 10:32
山形と言えば最上です
米沢と言えば上杉です   
415ともチャン:04/04/24 10:42
>>412
何でいきなりキレててそんなに敵対的なんでしょうか。
周辺の勢力を佐竹が取り込んでいったということは全くそのとおりで、
そうじゃないなんてことは言ってないと思うけど…?
しかしそれが全て純粋な義重の政策でもって成ったかというと疑問。
経緯として北条対上杉の構図があり、上杉方である佐竹、宇都宮、
小山、多賀谷、といった連中はもともと反北条ということで一致していた。
そこへ越相一和ということで反北条連盟に上杉への不信感が表面に出て、
それじゃ上杉の次に軍事力があるのはどこかといったら佐竹だったということ。
本来なら上杉の名を継ぐのは佐竹だったかもしれないということもある。
そして佐竹にとってラッキーだったのは関東では北条から
最も離れた位置に所領を持っていたこと。
416ともチャン:04/04/24 10:49
>>412
ていうか>>412であなたの言っていることは
よく考えると>>410の2段落目に書いてあるよね…。
何がいいたいのか分からん
>>406
水戸じゃ佐竹知ってる人なんてほとんどいません
文句あるなら太田人か金砂郷人に言うべきでしょう
419無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 11:05
福島と言えば板倉です。
米沢と言えば上杉です。
岩出山と言えば氏家です。
仙台と言えば国分です。
ところで、伊達って誰?(w
伊達と言えば公子です
佐竹厨ってどうしても佐竹の欠点を認められないのなw
ひいきの引き倒しって言葉がピッタリ
伊達厨って妄想と稚拙な煽りしかできないんだね
具体例あげて反論したこともないし
何かいったかと思うとただの妄想だし
伊達が好きとかいいながら何も知らなかったりしてw   
424無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 12:41
なんだかんだ言ってこのスレ佐竹の話題ばっかりだな
やたらと詳しいし
お前ら実は全員佐竹ファン なんだろ?w   
誰か佐竹と那須について話してくれ
いつごろ戦ってたのか知らんけど
義重相手に勝ってるってのは凄い
那須氏ってどの程度の力があったのだろう
那須七党って言っても2,3万石程度の豪族の集まりのような気が・・・
あ、3万石でも7党なら21万石か
十分に匹敵できるじゃないか
自己完結してしまった・・・   
>>394
秋田伊達って伊達左門の家でしょ?
国分盛重の跡を継いだ伊達左門宣宗は佐竹(東)義久の子。
国分盛重の実子、実永は僧籍(持惠澤山龍寶寺住持)に入ったが、
国分盛重の実子、古内主膳重広は仙台藩の家臣で奉行職まで勤めている。

それに戦国時代の土豪、領主、名家の家名を庇護し残しているのはむしろ秋田佐竹よりも仙台伊達の方が多いだろ??
>>425
義重の那須攻めは永禄九年が最初。
那須資胤と大関高増の争いに介入し、大関側に東政義を陣代とした援兵を送った。
更に直前に味方に引き入れていた茂木や、宇都宮とともに総勢三千で那須攻めを行い、
千本城や森田城を落としながら烏山に迫ったが、千二百の那須勢の奮戦を見て、
東政義は敵を大軍と見誤り降伏、佐竹方の敗北となった。
翌年、長倉義尚を陣代として再び那須へ援軍を送るも、那須勢のの奇襲によりまたも敗北。

更に翌年の永禄十一年、那須と大関の和睦が成立したため、義重は烏山北方の松野に築城、
これを那須攻めの拠点とし、二年後の元亀元年に義重自ら出陣、那須郡の大山田城を落城させ
烏山に圧力をかけた。
この戦いにによって、佐竹の那須の間に和睦が成立、資胤の娘と義宣の間に婚約が成立。
更に那須武茂郷と芳賀郡茂木郷が義重に割譲された。
428無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 14:01
義重は意外と北条や伊達じゃなく那須に一番梃子摺った
2度ぐらい大敗している
さすが那須与一を出した家系ってところかなw

>>427
東政義って佐竹(東)義堅の親だよね
義堅は高瀬で戦って破れて治部内山で降伏したけど
政義が降伏したってのはそれのことかな?
親子で出陣してたのか
それとも別の話しかな?   
429無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 14:42
∠( ゚д゚)/【わっかという名の糞コテ】∠( ゚д゚)/
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/intro/1082488335/
>>383
たぶん信玄が話題に出てきたのは>>329のお茶目なレスからだと思うよ。
冗談ととっていいとは思うけど。

てか毛利も織田も武田も良さはそれぞれあるからさ。どっちが上とか
言うと不毛な言い合いになるさー。
そして加藤清正は城作りはうまいらしいな。石垣積みがすごいらしいけど。
つうか煽り(両アンチとも)は一人でやってるのが多いから
ほっとけ。
「伊達政宗」
カテゴリ:1件 登録サイト:9件 ページ:約15400件

「佐竹義重」ページ:約421件

いんだよ、佐竹は一部の熱烈なファンがいるんだから。
伊達にもいるけど。
ってかこれも釣りか。ごめん住人の人。
>>428
同じ話。その、敵を大軍と勘違いして降伏したのが冶部内山での事だから。
>>435
ところで義堅親子はどうなったの?   
437ともチャン:04/04/24 19:56
治部内山の戦いに出陣したのは東義堅。
関八州古戦録や名将言行録には佐竹義久や佐竹義堅が
東政義という名前で出ている。
軍記物では佐竹東家は何故か勘違いされて政義で膾炙している模様。

佐竹政義は1534年に死んでいるので治部内山に出陣するというのはありえない。
自分で佐竹厨とか言ってるくせに、佐竹を叩いているやつがいるな。
こいつが伊達も叩いているんだろうけど。
佐竹氏の血ってまだ続いているのかな?
政宗厨、佐竹厨からみてもキモイ人物がいるな。
>>439
たぶん続いているとは思うが…
つーかともチョンはさっさと史板帰れよ
マジキモい
日本史板から流れて来た史厨の中で一番の糞コテだ
流れ読めなさ杉
?gobaku?
>>419
梁川は伊達>松前(w
何でだ?
ともチャンの話は間違いなのか?

ともチャンかもーん!
446無名武将@お腹せっぷく:04/04/25 01:26
ライトな俺にはともチャンが一番まともに見えるがw
すんませんねえキモくて。
ヒッキーで暇なので佐竹に関する質問答えるぜボケども。

  ,'   ,'´ ,ィ ,ィ ,' ,   `ヽ',  ',-<
    ,'   .i  /|. /.| { i,  i,  }.  }_,,))         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ! |  ! .,'-.{ ! !|; |`、.}゙!.! |.  ! ヽ.       /何?このキモオタどもは。
   ', ', |Vァ=、゙、 `゙、!-_:ト,リ', l ! |   ゙',     / 武将はおめーらのオナペットじゃねーんだよ。
    ヽ、', l:!Kノ}.     f:_.)i゙i: リ ! l ル'  /  早く死ねよ。何が義に厚い武将だ。
     | l!iヾ- ' ,   .!__:ノ ゙ ,リ l リ'´  <    悪いところなんか記録する訳ねーだろ。
.     ',|!!、    r‐┐   ` ノ' /,イ     \  常識で考えろよ。あぁ?無理?存在価値ねーな。
      'i!゙、ヽ、 ゙ー'  _, ィ,:',:''´          \ 少しは社会に出て世の中の仕組み勉強しろよ。
      ゙:、ィ、jヾー::: 'iヘ ノ',リ              \今日も飽きずに武勇伝でオナニーなんだろ?
   ,、- '´ ヽ、゙、   { `>"、     .     .     \____________________
そんな変なキャラクターつかってキモオタとか言っても説得力ないなあ・・。

佐竹や伊達に関する中立的な本でお勧めなモノはないですか?
戦国セレクションの伊達政宗とかは多分べた褒めだろうから。
普通に郷土史関連漁ることを薦める。

まあ、もっとも。
物事を冷静かつ客観的に見る視点があれば
戦国セレクションの伊達政宗とかでも十分といえば十分。

美化バリバリとアンチ伊達から不評の独眼竜政宗からして
伊達家の監修が入ってるから、演出上やむをえない点を除いて
それほど乖離はしてない。
>>450
> 美化バリバリとアンチ伊達から不評の独眼竜政宗からして
> 伊達家の監修が入ってるから、演出上やむをえない点を除いて
> それほど乖離はしてない。

そうか? 「徳川家康」の辰之助(先代)や「葵三代」のすまけいですら美化バリバリだと思う
んだが。一番政宗らしいDQNでヘタレな感じが出ているのは、意外にもその他がダメダメで
評判の「としまつ」だったりする罠。
452でぶオタ眼鏡ヒッキー流れ読めなさ杉マジキモともチャン:04/04/26 13:00
佐竹を汁上で有用な書物。

・佐竹家譜
上中下と分冊。佐竹家の事跡が当主年代別に書かれている。
佐竹家の書ながら家名を飾るような言説は少なく、比較的冷静。
ただし過去に遡るほど参照する史料が少なくなり、たしか中編の
半分以降はすべて義宣の家譜に当てられている。
絶版。古本市場では一冊二万から三万円だったと思う。

・佐竹義重
福島正義著。義重の事跡を丹念に調べてある。
ほぼ全ての事象に史料名が付されているので、追って調べるに便利。
著者の目は冷静で非常に客観的に書かれた良書。
絶版。古本価格は不明。一万円後半から二万数千円程度か。

・中世東国大名常陸国佐竹氏
江原忠昭著。佐竹の太祖から義宣までの事跡について書かれている。
ただしそれぞれの佐竹当主の記述量はそれほど多くは無い。
著者は自治体史の編纂等にもかかわっており、記述は客観的。
また史料も明示してある。佐竹氏の全体を把握するには有用な書。
絶版。古本市場では二万円前後。

・常陸佐竹新太平記
関谷亀寿著。佐竹史の転換期をスポットでとらえている。
ただし客観的とは言いがたく主観が強い。
現在でも買えると思う。

・佐竹史探訪
土居輝雄著。戦国時代付近を人物、家別に記述している。
やや主観が強いが、佐竹家臣団について知るにはかなり良い。
現在も発売中。
453でぶオタ眼鏡ヒッキー流れ読めなさ杉マジキモともチャン:04/04/26 13:01
・佐竹読本
高橋茂著。佐竹史についてスポット的に一問一答式で記述。
しかしかなり主観は強い。
現在発売中であるが、個人出版であり
水戸近辺でしか手に入らないかもしれない。

・茨城県史 茨城県史料 中世編
本当に自分で調べたいなら購入すべき。
全部で七冊だが五、六万円くらいで買えるはず。
茨城県史料館で通信販売で買える。

・中世のなかに生まれた近世
山室恭子著。これは佐竹に関する記述だけではないが、
戦国という時代を知るのに非常に重要な書籍なので挙げる。
各家に伝わる文書を時代内容印判別等によって分け、
その時々の大名の状態をダイナミックに読み取っている。
各大名の具体的事跡には触れないが、そんなものは一切必要ない
ほどの事実を垣間見せてくれる。
はっきりいって、これを見ずして戦国時代を語ることは有り得ない。
非常に優れた研究成果である。現在発売中。

以上。伊達に関しては非常に沢山の書籍が出ているが、それだけに
事実とか何とかという点に於いてはどれも似たり寄ったりだと思う。
むしろ論文や論文集を探して読んだほうが
より根本的な場所からの理解が得られると思う。
試しに「東北大名の研究」あたりから読んでみるといい。
これは古本市場で一万円程度。
>451
それは完全なアンチの目線だな。
葵のすまけいが妥当な線だと思う。
家光の「生まれながらにして将軍」の逸話そのものが後世の創作臭いから、政宗が前に進み出て云々は美化と言えるかもしれないけど・・
>>454
それは、全てあなたの思い込みです。
>>455
日本史板からわざわざ出張ご苦労w
誰か奥羽永慶軍記読んだやつはおらんか
458でぶオタ眼鏡ヒッキー流れ読めなさ杉マジキモともチャン:04/04/26 19:00
>>457
一応読んだけど。
459無名武将@お腹せっぷく:04/04/26 20:23
少なくとも政宗が名将であることは間違いなわけで、
そのうえで義重とどっちが優れているかを比べているのが、このスレですので。
ヘタレとか言ってるアンチは邪魔なので出てこないように。
>>459
そうか・・・
>>459
政宗が凡将だとは全く思わないけど、
軍才よりも政治や外交の手腕においてよりすぐれているという意見が
前スレから結構あったな。漏れも同感。
軍事の才能の優劣はつけにくいけど実績なら年齢差で義重かな。
政宗と義重の軍事的な才能の優劣については10年早く生まれていれば判明したかもな。
>少なくとも政宗が名将であることは間違いなわけで
                      ~~~~~~~~~

さてと、どう取るべきか
463無名武将@お腹せっぷく:04/04/26 21:26
いや、それは間違いないだろ
464無名武将@お腹せっぷく:04/04/26 21:29
まあ愚将であることは間違いないな
465無名武将@お腹せっぷく:04/04/26 21:35
アンチは頭が悪くておもしろいな
466無名武将@お腹せっぷく:04/04/26 22:08
信者は頭が悪くておもしろいな
また来たのか…ホント呆れるな……(藁

>むしろ論文や論文集を探して読んだほうが
>より根本的な場所からの理解が得られると思う。
同意。これは確かにそうなんだよな。当たり前っちゃそうかもだがな。



468無名武将@お腹せっぷく:04/04/26 22:37
人取橋で連合軍の猛攻に恐れをなして糞を垂れ流しながら本宮城に逃げ込んだ政宗
「これは尻味噌じゃ」と弁解するも宿将左月を失った伊達家臣の目は白々としていた

政宗捕縛説の次は脱糞説か…
電波は最悪だな。
>>461
某ゲームでもそういう評価だしいんでねの?
最近の作じゃ年取った奴が強くなるシステムだから政宗より義重のが能力高いこと多い
んだから佐竹厨達は満足してるもんだとばっかり思っていたんだがねぇ
>>470
ゲームを基準にして騙るんじゃねぇよ。(w
じゃ、おまいは政宗がビーム出すのも本当だと思ってるんじゃないのか?
ビームは勘弁して欲しかった…な…。まぁゲームだから
しょうがないんだけど。
ゲームははここではどうでもいいよマジで
特に無双なんかさ・・
474無名武将@お腹せっぷく:04/04/27 15:12
脱糞きたか!
徳川家康にも似たような逸話あるよね?

証拠がない逸話で煽るよりも、自筆の書簡が残ってる衆道で煽る方がいいぞ。
衆道なんて燃料にもならんだろ…普通なんだから。
>>471
ここ三戦板でしょ?
マトモな話なら日本史板ですればいいじゃないの
>>476
日本史板で伊達の話題出ると>>455がくるからなw
日本史板だと>>455が東北のこともバカにする
東北に流された佐竹も負け組みだってさ
コイツのおかげでまともな話にならない。




( ゚д゚)ヽペッ>>455
今は伊達スレの方に顔出してんな。
今のうちにこっちで佐竹の話をしようぜ!
ほとんどキモい人に嫌気がさしてしまったようだね。
>>480
一気に人がいなくなってしまいましたからな…
アンチなんかも、多少はスレの賑わいだけど、度を越すとスレの毒だな。
最初の頃からこのスレにいるけどタイトルに関する話題は
結構出たからなぁ。俺は政宗好きだけど義重について結構詳しい話も出たし
正直話題が見あたらん。
まともな議論の結果両者の優劣はつけがたいってなことになったし。
今まであまり話題にならなかった
義重が佐竹の当主になってから芦名盛氏が死ぬまでの話題とか誰かだしてくれんかな。
>>483
> まともな議論の結果両者の優劣はつけがたいってなことになったし。

ネタでつか?(w
485無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 00:48
このスレにも他の政宗関連スレにも出没する例のアンチでないならカキコは全部読め。
個別の能力の優劣はともかく総合的な評価できちんとした根拠で両者の優劣を語っているカキコは無いぞ。
両者とも別々のやり方でそれぞれの家の所領を増やして後継者に引き継がせているし、
間接的な戦いの結果はやや政宗>義重だが戦略的に見れば義重≧政宗だろ。
世代が違うよ
>>484
優劣つけがたいでしょ どう優劣がついたのよ?
>485
抽象的
489無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 06:00
>>488
書き込みを全部読んでくれ。
義重vs政宗の間接的な戦いは
芦名vs伊達の戦いに芦名の援軍として佐竹勢が加わった人取橋の合戦、郡山対陣、摺上原の合戦のこと。
戦略で義重≧政宗としたのは
早くから秀吉に臣従して惣無事令にも違反しないようにしていた義重が小田原後にかなりの好待遇を受けたのに比べて
政宗は人と金を費やして占領した領土を大半は返還しなければいけなかった事(それでも遠征前に比べれば所領は増加している)
政宗と比較できるのは佐竹ごときレベルじゃない。
佐竹は里見とでもやりあってろw
臣従した時点で負け
徳川家康、前田利家、浅野長政や今井宗薫ら
豊臣家中枢と通じて惣無事令を公然と破れた伊達と
ただただ秀吉に諂う佐竹。。。
世代がずれてる。
伊達政宗は20年早く産まれてれば・・・
佐竹義重って何年産まれ?
>>494
義重は天文16年(1547年)生まれ。
信長や秀吉より10歳ほど若く、武田勝頼と一つ違い。
最上義光とも一つ違い
伊達輝宗とは三つ違い
真田真幸と同い年
何だかんだ言って、今更ですが実は義重好きなわけで…伊達厨ですが…。
佐竹義重は周辺勢力の所領化を推し進める事は無く、
室町的な支配体制で勢力を伸ばしていったが、これは正しい方法だったと思う。

もし佐竹が北条のように戦国大名然としてやっていたら、周辺の豪族の反発は目に見えてるし、
北関東の反北条勢力の結束も薄れ、逆に北条に追い詰められていたのではなかろうか?
499無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 07:19
>>492
中央政権の実力を見る目がなかっただけでしょ。
その結果、伊達は所領を削られ、逆に佐竹は北関東の諸大名の旗頭に過ぎなかったのが
大領を与えられて一気に諸領内の小大名をまとめて暗殺し常陸の独裁者になることを
許された。
500無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 07:34
政宗が隻眼でなければ本来のパワーが出せたのに!

501無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 07:34
このスレは最上厨が伊達か佐竹どっちかを貶して満足するスレってことで

FA?
502無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 12:21
義重は慎重すぎたんだよ
多少のリスクは犯しても攻めれば人取橋でも郡山でも摺上原でも
間違いなく伊達を潰せたのにいつも北条らの動きに過敏すぎて攻め切れなかった
もっともその慎重さがあったからこそ佐竹は生き延びてきたのだが・・   
>>502
その話は既出。
義重が慎重というか消極的だったのは北条の動きを気にしていたと同時に
秀吉の惣無事令を意識して領土の防衛でないこれらの戦いには積極的にならなかったのだろう。
その姿勢が小田原後の好待遇につながっている。
504無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 12:45
>>503
まあ、読み違いは無かったのは間違いないけどね
関ヶ原でも義重は家康に加担させようとしたし
読みの鋭さはさすがだと思う

例えば摺上原なんかで無理押しして伊達を滅せても
佐竹の勢力は大きくなりすぎて
どうせ秀吉に討伐されないまでも転封や減封を食らったことは間違いないだろうから
合法的に数十万石もらったのは成功と言えるかも知れない   
505無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 12:47
合法的?
法律で貰ったのかよw
507無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 12:56
秀吉の惣無事令遵守して公に領地の支配権もらったんだから
合法的だろ
逆に正宗は違法行為だから罰金とられたようなもんだなw
508無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:00
東義久のボケが変な事しなきゃ正宗も死んでたかもしれん
>>505
秀吉の承認の下に小田原後に所領を拡大したこと。
>>504
義重にも摺上原の時は誤算はあったと思われ。
摺上原のの前の時は佐竹と芦名は二手に分かれて進軍していったけど
義重にしてみればこちらに有利な状況を作れば惣無事令が出ている以上
伊達が乾坤一擲の勝負を仕掛けてくる事はないだろうと考えていたと思う。
けれど政宗は主力の一部を田村の防衛に割く様なそぶりを見せてから
一気に主力のほぼ全てを芦名軍に向けて進撃させて数的優勢を築き、
摺上原で芦名軍を壊滅させて事実上芦名を壊滅に追いやった。
この政宗の野望や大胆さあるいは無謀さを義重は読み違えたというのが個人的な感想。
佐竹はその後所領や支配力を大幅に拡大していったけど同盟者でもあり防波堤でもあった芦名の復活はならず
東北における佐竹の影響力は大幅に低下したしこの一連の戦いにおいては、
合戦では政宗が芦名・佐竹を圧倒して全国的に名を売り東北での影響力を増すという結果になった。
510無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:05
政宗を正宗と書いてあるし文体は似ている・・・・・・
俺も前スレで政宗のことを正宗と書いてしまったんだけど
どうも理由があって政宗を正宗と書くのはあり得るらしい。
時間帯と文体と単語がアレだ言われてもしょうがないね。
まぁ、こっちは話はしてんだし……。
513無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:21
>>509
田村氏の大平城攻撃作戦を立てたのは東義久だよ
514無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:23
というか俺今まで正宗だと思ってたw
正宗は刀か酒の方だなw
義久は家中随一の知恵者だったはずなんだがなあ。
516無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:29
>>515
そう、だから義重も義久の作戦を許したんだけど
全く見当違いだったな
義重は一気に会津まで進軍して芦名と伊達が戦ってる所を急襲しようと
決めたのだが、義久が何故か強固に反対した
作戦まかせるくらいだから義久に相当評価されてたんだろうね。
実際知恵モノなんだし。
作戦練る人間登用に見込み違いがあったのは上の人間の義久としては
かなり手痛かったろうね。
使ってやってこその大将なのだがな。しかし
強固に反対したというならそれは何故だろう。
519無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:36
外交面ではかなりの功績あげてるから
義久を責めるわけにもいかんか・・・
520ともチャン:04/04/30 13:37
作戦の最終決定は義重がしたので、
なんだかんだいって義重に責任がある。
もともと義重自体あんまり博打を好まなかったのは言うまでもない。
例えば北条との栃木での大対陣のときには
義久を始めその他の大隊長クラスが決戦案を主張したが、
義重は何故か真壁の持久案を受け入れたという話もある。

ちなみに『那須記』では、大平城攻めを献策したのは
戸村十太夫ということになっている。
521無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:38
>>518
それには逸話があるんだけど
また伊達厨が騒ぎそうだから自分で探してみてください
最終的な判断は義重がすんだから義久に全て問題あるっていうのは乱暴だと思うんだけど
>>519
義久がいなかったら、秀吉と緊密な関係を築く事はできなかったかもしれんしな。
>>520
沼尻は8万対2万だろ?
いくら鉄砲が多くても決戦は難しく思える。
525無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 13:43
>>523
実際義久の外交のお陰で小田原の遅参も逆に常陸支配のお墨付き貰う
というようになったわけだし
徳川とも親密な外交を行っていた
だから関ヶ原後も義久が死ぬまでなかなか佐竹の処置が決まらなかった
とある政宗好きです。摺上原前の東義久の意見についてとあるサイトの資料をコピペしました。

>>義広が芦名を継いでから4人の付け家老送られましたが、
 譜代家老たちとことごとく意見が対立したと言われています。
 政宗は黒川城内の混乱に乗じて芦名氏の支城である猪苗代城主、
 猪苗代盛國を寝返らせ無血で城を奪い取りました。
 そしてついに摺上原で芦名対伊達の戦いが始まりました。
 この時の人数は芦名勢1万6千騎、伊達勢2万3千騎だそうです。

 このころ水戸城内では内紛が発生していました。
 義重はこちらからも要請を受けましたので両面作戦を行ったのです。
 そのため安積への出陣が遅れてしまいました。
 このため義宣は、伊達の拠点本宮城を攻撃するべきだ、との意見を父義重が到着していないとの理由で退けてしまったのです。

 義重は歴代の家臣の中でも最も優れていたと言われる東義久を従えて奥州へ向かいました。
 この時義重の妻の宝寿院は東義久に政宗を殺さないように命じたと言われています。

 義重の作戦は一気に会津に侵入し、摺上原で伊達勢を佐竹、芦名の両軍で挟み撃ちにし、一挙に壊滅させる作戦だったと言われています。
 ところがこの作戦に軍師である東義久が強く反対し、伊達氏の与力大名三春の田村氏の支城である郡山の大平城を攻撃すれば政宗は会津攻めを中止するはずと主張しました。
 義久は義重の作戦通りに政宗を攻めれば宝寿院の命に反して政宗を討ち取ることになると考えたのでしょうか。

 義重はやむなく義久の作戦を取り入れ(東義久の洞察力には定評があった)
 安積(郡山)の田村氏の支城大平城を攻略しました。
 しかし、この戦いは伊達家に対しては効果的な圧力には成りませんでした。

527526:04/04/30 13:55
>>東義久は常陸国鹿島郡6万国を与えられた佐竹家の中でも最高の人材と言われています。
 織田信長の後継者が秀吉であると進言したり、徳川家康も東義久存命中は佐竹の移封をしないと約束したほどの人物なのですが、
 この時の行動はいかに宝寿院から厳命をうけたとは言え理解に苦しみます。
 この一戦における判断の誤りが会津80万石を失い、
 更に与力大名の白河、二階堂、石川、岩城、相馬などの諸氏を佐竹傘下から伊達氏の元へ走らせてしまった事になりました。

かなり主観が入った資料だな。義重を庇おうという姿勢がもろに出ている。
>>義重はやむなく義久の作戦を取り入れ
やむなくだろうがなんだろうが義久の意見を採用する決定したのは義重なんだから義重の責任は重いぞ。
>>この時義重の妻の宝寿院は東義久に政宗を殺さないように命じたと言われています。
これは初耳。誰かソースを知ってる人いないかな?
>>会津80万石を失い、
芦名領って80万石もあったのか。当時の佐竹領の倍以上じゃないか。
>>527
そりゃ義重の責任が大きいことは確かだ。
だが、「秀吉からも家康からも慧眼非凡と目されていた程の男が何故?」
って思うのも仕方ない事だと思う。
529無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 14:49
佐竹の情報がたくさんあっていいな。
良スレアゲ
530無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 16:26
>>527
>>>この時義重の妻の宝寿院は東義久に政宗を殺さないように命じたと言われています。
>これは初耳。誰かソースを知ってる人いないかな?

義重夫人は伊達輝宗の姉か妹だから、嫁ぎ先と実家が全面戦争するのを防ぎたかった
だけだろ?
人情と関係ない話で言えば、政略結婚で嫁いできた嫁は元々そうすることを期待され
ているというだけの話。
信長に朝倉・浅井の挟撃を知らせたお市の方の言い伝えとかもその例。
531ともチャン:04/04/30 21:57
宝寿院のことは『佐竹家譜』に載ってるよ。
佐竹の小説を書いた土居輝雄なんかがこの説を支持してる。

だいたい伊達は南奥全体の騒擾の中心みたいなところがあって
守護(種宗)探題(晴宗)のころからかなり無茶してた。
んで政宗が出てきたときにも「ま た 伊 達 か」みたいな雰囲気が
奥州にはあったと思う。
義光が伊達を米沢に押し込めておこうとして佐竹を始め
伊達攻囲陣みたいなのをつくったのもそういう理由で、
そんな風潮に義重の台所は、ちょっとやばくない?と感じたんだろう。

宝寿院=伊達御台は例の久保の娘なのでたぶん結構美人だったんじゃないかな。
そいで義久は彼女に憧れていた(佐竹家譜)。
それを知ってか知らずか御台は義久に。あんまり伊達をいじめないで、
なんとか八方丸く収まるようにして、と頼み、義久も了承した。
ちなみに小野崎義政も同じことを頼まれたが、こっちはすっぱりと拒否したらしい。
本宮の対陣で義久がとっ捕まえた政宗を逃がしたのもそんな理由からだと思う。
もっとも政宗自体そんなことを聴く人間じゃなかったと思うけど。

以上は『佐竹家譜』に詳しいのでみてみるといい。
お話としては非常に面白いと思う。本当かどうかは知らんけど。

一方常陸でも江戸VS額田の戦いが起こっていて、
義重はそっちも気になっていたというのは本当。
江戸の家老の狩野何某が江戸の息子か誰かを殺したのを額田が匿った。
それを江戸が返せといい、江戸の意向を受けた佐竹も返せといったが、
額田はねっからの東国武士だったので拒否した。
>>531
佐竹家譜か。
それが引用されてる本は読んだが、実物はまだ読んでないんだよな。

今度県立図書館に行ってみる。
>>511
>>514
1.九世政宗を憚って「正宗」を使用、九世政宗との区別で「正宗」を使用
2.文字の混同、単純なケアレスミス
のケースがあるらしい。
例えば伊達綱村が書いた文書の中に「正宗」の表記が見受けられますが、これが1.のケースで、
豊臣秀吉が伊達政宗に出した書簡にも「正宗」の表記が見受けられますが、これは2.のケースでしょう。

後世の創作で「正宗」と使用されているケースについてはよくわかりませんが・・
映画のタイトルだと、伊達正宗(1915 日活京都 主演:2代目尾上松之助)で見受けられるだけで
他は全て「政宗」の表記になってます。
が、脇役として出てくる時の役名としては「正宗」の表記もしばしば見受けられます。
東ってそこまでの人物だったとは知らんかったよ。
片腕どころじゃないね。
>>534
佐竹に興味が無い人には、その存在すら知られて無いだろうからな。
知らなくても無理ない
>徳川家康も東義久存命中は佐竹の移封をしないと約束したほどの人物なのですが、

佐竹の外交面は東が担ってたのか。才腕発揮しまくったんだろうけど、
佐竹も良い人材に恵まれてたんだな。有能な働き者ってのはいいね。
次スレは「【常陸】佐竹について語ろう!【名将】」で是非。
>>536
水戸城攻略の作戦立案も、沼尻合戦で無条件講和を成立させたのも義久。
東義久の能力はかなりのものだよ。

ノブヤボでの評価の低さが、佐竹好きには信じられん。
大将とかより参謀とか片腕に惹かれる自分にとってはちょっと興味
出てきちまいました。もともと伊達好きでも佐竹好きでもなくフラッと
このスレ来ちゃったくちなんですが。
スレ読んでて両方とも好感持った(もとが無知なだけに)。
これから調べよう…時間が足りないなぁ。
横山先生死去で三戦板にきたんですけどね。すいませんねロムります。
義久は、家康に国替えをしないよう懇願しに行った時、
家康から「宇都宮12万石を下賜しよう」と言われたが、
「主君が国替えされては宇都宮を貰っても仕方が無い」と言って断った。
更にこの時、家康に口約束ではなく、国替えをしないという誓書まで書かせてる。

有能で、しかも忠義の臣である事が分かるな。
家康って・・・
>542
いつものことだ
544ともチャン:04/05/01 06:46
政宗と正宗の表記の違いは、そんなに気にすることでもないんじゃないかな。
昔の人は音さえ合っていれば文字は気にしなかったから。
軍記物とか読むと凄いし。
『正』という字自体『政』の簡略形だから。

例)
岡見(本当の表記)>尾上(関八州古戦録)
佐竹義宣(本当の表記)>佐竹義信(秀吉の朱印状)
八槻(本当の表記)>野ツヽキ(東州雑記)
545無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 11:48
要するに、義久が宝寿院の願いを聞いたことにして実際に捕まえた時に「手違い」
の名目で殺しちゃえば良かったわけだ。
で、足軽を2、3人(別に本物ではなく捕らえた伊達方の足軽や死体でもいい)斬
首して首を持参してお詫びしておけばOK。
その後は、伊達は小次郎が継ぐから最上や佐竹の傀儡として芦名同様思うが侭。
ついでに政宗派の成実や小十郎も切腹させれば完璧。

>>544
政宗でも正宗でもいいや。むしろペコ宗かDQN宗だな。(w
だから政宗捕縛説盲信してるやつはソース出せよ。
関ヶ原までは家督は譲っても発言力は義重が一番有ったみたいだけど、
秋田に国替えしてからは義宣が主導権握ったのかな?
しかし某漫画にも出ていたように国替えされた時の佐竹の家中は相当複雑な思いだったろうな。
三成に味方していれば取りつぶされていた可能性が高かったが、
ほぼ中立を守ったのに前田は本領安堵で逆らった島津もほぼお咎め無し。
東義久の誓書も「義久が生きている間は」国替えしない、という風に解釈できるような文面にされたのか。
>>546
ほっとくといい。こいつは人の書き込みを理解する能力がない可哀相な香具師だ。
他の政宗関連スレにもアンチ政宗な書き込みしているが、
こちらからの問にたいしてまともな答を書いたことはない。

もし敵の大名に捕まったら、
殺されないまでもこちらにとって相当不利な条件をのんだ上でないと
解放されないはずということすら思いつかんのだし。
>>547
誓書の内容は、「家康一代、中務一代、国替の儀あるべからず」
だから、義久が死んで、更に家康が隠居してしまっては約束も消滅してしまう。
550547:04/05/01 12:18
なるほど巧妙だな。これだとどんなに引き延ばしても
家康が死んだら誓書の効力は切れるようになってんだし。
これだと誓書の効力が切れないうちに
第2第3の策で国替えを回避しなければいけなかったのか。
国替え後の石高の大小はともかく
地理的にみると常陸は江戸からの距離もそう離れてはいないし、
親徳川でない大名を配置するのは危険だと判断されたのだろうけど。
>>550
義宣は、伏見に上洛する途上で、帰還途中の秀忠に挨拶し、
佐竹への対応を善処するよう懇願したんだが、この時の秀忠の態度は好意的だったらしい。

だから、家康が死ぬまで何とか引き伸ばせてればまた違ったかもしれん。
源氏の子孫とか称してる外様を近くに置くわけもなく・・・
佐竹?誰それ。
なにした人?
何も歴史に名を残すようなことしてないだろw
茨城人必死だなw
いばらきでもいばらぎでも変換できる適当な県のオタは逝ってよし!
>>550
佐竹の国替えが決まった時、伏見では「佐竹勢蜂起す」の流言が広まったらしい。
上杉攻めでも、討伐軍の間には佐竹が背後を衝くとの風説が流れてたみたいだし。
それほどまでに危険視されてたんだから、常陸に留まるのは難しかったろうな。
555ともチャン:04/05/01 20:09
>>531でも書いたけど義久が政宗を捕まえたといのは
佐竹家譜に載っている。
信じるも信じないもあなたの自由。
ほぼ間違いなく史実にはなりえないことだけど
昔の話なんてそんなものばっかりなんだしね。

古老伝えて、この時岩城の上遠野と云者、正宗物見に出たるを見知りて、
窺いて是を生け捕りにして義久に告ぐ。義久密かに放ち返すと云う。
或いは云、常隆昭光種々懇望し、義久も亦義重の妻に深く憑けける故に、
懇に執して是を放ち返さしむと。然れども確拠たるものなし。
蓋、誤れり。政宗を生け捕りにする程ならば、何ぞ是を放ち返さんや。
たとひ放ちて本領を安堵せしむとも、政宗侵し奪う所の会津分領をば
堅く約して返さしむべし。何ぞ故なくうかうかと放ち遣さんや。
是亦佐竹方にも人あつて、成実自記と称して政宗の弓矢を
かざれるが如く、亦佐竹の弓をかざれる妄言ならん。
最も信ずるに足らず。

家譜がわざわざこの話を出して有り得ないと否定するってことは
ある程度佐竹領内では広く噂になってたことなのかも。
土居輝雄の『佐竹義宣 その時代』では上遠野秀宗の配下の者
が捕まえたと詳しく出ているので、ひょっとしたら
別にもソースがあるのかもしれない。
佐竹家譜は秋田8代藩主佐竹義厚までの歴代伝記だぞ。
取り上げられてたにせよ"200年以上前のことについて現在
流布されてる噂"を"こんなのありえない"と取り上げただけの
話ってことだろ…現在で言ったらほとんど竜馬×慎太郎の
カップリングを同人女が妄想するようなもんだぞ…
相当のヨタ話ってことじゃねえか・・・
家譜の編纂は元禄からだっけか?
信憑性は薄いだろうし、恐らく史実ではないだろうが、
同人女と同列に語るもんでもないと思うが。
大坂冬の陣では、佐竹は今福に回されて後藤又兵衛・木村重成と激戦を繰り広げたが、
こんな重要な戦場を任されるぐらいだから、この頃はそれなりに信頼されてたのか?
俺は常陸太田市民だが、
太田城はそんなにでかくないが立地いいと思う。
北は山地の窪みで細道二つ。
東西に阿武隈山地の南端が張り出し、
内に里川、源氏川が流れている。
すぐ南には久慈、山田の川が二重に流れ、
城は縦長の鯨ヶ丘の深くに位置してる。
要害とは言えないが立地としては良いかと。

ニワカの妄言失礼しました
>>559
あれは唐沢山城、金山城と並び、関東三名城の一つに数えられてる。
川に囲まれた丘陵に位置し、低地には沼沢や湿地帯が広がってるし、
十分守りやすい城だと思う。
561559:04/05/01 23:03
>>560
三名城の一つなんですか(;´д`)
地元民のくせに不勉強でした。

まあうちなんか無駄に歴史長いうえに、
秋田転封時の地元残置組だから……
>>68オソレスだが、北上川を治水して開拓した土地が
どのくらい有ったのか知っている?
伊達の領地は実質すごいものだったんだよ。
>>555
土居氏も結構思い込み多いみたいだからな。脳内ソースかもしれんぞ。(w
前に誰かがネタにしていた国分盛重の佐竹亡命を天正17年だと書いてるし。
反証としては、『宮城県史』の資料編に収録されている秀次事件の後始末に家臣一同が
秀吉に宛てて書いた起請文だ。家臣に免じて許してもらうなんて、大名としては真に情けな
い限りだが、「もし政宗がよからぬことを考えたら家臣一同諫言します」というような内容だ。
この起請文は文禄年間のものだが、盛重も連署していることになってる。
もし土居氏の本を書くのに使ったソースが正しければ、こちらの文書が捏造ということにな
る。とは言え、これも二次史料に全文掲載してあったものだから全幅の信頼は置けないが。
政宗似を捕まえたんじゃないの?
伊達家の具足、兜の三日月は偉くなるほど長くなる、
つまり伊達政宗以外にも三日月兜をかぶった連中がわんさかいるわけで、
長め三日月兜がいたから政宗かと思って捕まえてみたらちょっと偉い伊達家臣だった、
ちゅーおちじゃないのか?
>>563
いや、2ちゃんで暴虐の限りを尽くしてる仙台人は全く信用できないので土居氏の説を支持する。
>>565
でもそんな仙台人が萩の月作ったよ。うまいよ。
>>564
有名な三日月兜と黒漆五枚胴具足は、小田原周辺の鎧工の作だという説が
有力で当時、政宗が黒漆五枚胴具足を着ていた可能性はかなり少ない。
まあ、たまたま居た片目の農民かなにかを斥候の疑いで捕らえたが
結局違ったので逃がしたって感じじゃないの。
>>566
それは、萩の月を作ることに存在意義を求めて日本人に仲間入りさせてもらおうと言う仙台
人の罠だ。乗せられてはいけない。
スレ違い。菓子板にでも逝ってな
>>567
政宗所用伝の全く同じ形の子供サイズ黒漆五枚胴具足が現存してるんだがw
>>570
どこに現存してんだよ。
>>571
ttp://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/syuuzou/shuu03a.html
本物かどうかは分からんが、一応仙台市博物館にあるらしいぞ。
>>572
>>570が言ってるのは本物の事じゃなくて、
時々、新聞の広告で載ってる
端午の節句用の鎧兜の事じゃないのか?
>>567
トーホグのド田舎にはまともな甲冑師がいなかったことは、それだけで自明だ。
ところで靖国神社の近くで「佐竹家・絵師がどうたら展示会」みたいなの
が6日だか8日だかからあるみたいだが(通りかかっただけでよく覚えとらん)、
どこの佐竹家だろ。
ここで言われる佐竹家ゆかりの品か?
>>575
ttp://www.senshu-bunko.or.jp/
「佐竹家 狩野派絵師たち」、これの事だろ?
ここで話されてる佐竹の事だよ。
>>570
仙台市博物館にある子供サイズのやつかね
それは子供用のプレイスポットにあるレプリカのことではないかね。
俺が子供の頃は予約しておけば着せてもらえたような気がするな。
仙台に旅行した際の、お子様の記念撮影にどうぞ。
ここの佐竹好きは観に行くのかね?>狩野派絵師たち

博物館にある黒漆五枚胴具足と同形の具足が副葬品でも発見されてるっけ。
>>578
多分観に行く。夏までやってるみたいだし。
俺はここ見てから好感持つようになったんで佐竹フリークwでは
ないんだけど、近いから行こうかな。近いって言っても1時間く
らいだけど。皇居周りも散歩には良いし、近くに古本屋街あるし。
良い物見て目を肥やすのも悪くない。
ここは良スレだな。
うらやましいと武田スレ住人の一人が思った。
佐竹の水軍を取り仕切ってた真崎氏の実力ってのはどの程度なんだ?
朝鮮出兵の時に、渡海する船団の護衛をした事ぐらいしか知らんのだが。
584ともチャン:04/05/04 03:51
真崎の実力ってのは良くわからんが、少なくとも普通に存続していた。

真崎駿河義直:義昭と同年代くらい。
真崎下総義保:義直の長子。義重と同年代くらい。南摩の合戦で討死。
真崎雲居亮重宗:義保の弟。兄が討たれるのを見てすぐにその敵を
 討ち返し兄の首を取り返した。真崎の惣領を継ぐが芦名との合戦で討死。
真崎駿河宣広:重宗の子。朝鮮渡海のときの惣領。

真崎は東海村あたりの領主で、おそらくその辺の港も治めていたっぽい。
しかし船で何かしたという話は聞かない。
戦国時代佐竹氏族の中でのランクは比較的低いほうだと思う。
方角家は例外として
山能>大山=小場>石塚>戸村=今宮>長倉=真崎>古内>酒出>宇留野
という感じかな。適当だけど。
585ともチャン:04/05/04 04:07
基本的に戦国時代の船は沿岸にしか居れないので、
湾や内海のような静かな海で、陸地を海でショートカットできるような
ところでしか発達し得ないんじゃないかな。
能島とかは瀬戸内海だし、里見は東京湾、九鬼は伊勢というふうに。
そういうわけで陸路で十分動ける地勢の常陸では発達しなかっただろうね。
霞ヶ浦は比較的往来激しかったらしいけど。
586583:04/05/04 13:24
>>585
義宣の時代になって、真崎850石から那珂湊2100石に加増されたし、
氏族の中でのランクは分からんが、それなりに信頼も寄せられてたんじゃないか?

真崎は南北朝時代に各地を転戦して活躍したらしいが、これは海上での活躍じゃないしな。
瀬戸内海や伊勢湾にいた奴らに比べれば、水軍としては実力不足か。
>>586
というよりも大がかりな水軍をあまり必要としてなかったんだろ。
義重は攻めるにしろ守るにしろ陸上の野戦がほとんどだったんだし。
特に敵対勢力だった芦名、北条、伊達と戦うにしろ海を使う必要性がないと思うしね。
小舟を使って川を下って前線に兵士と物資を送り込むという使い方ならやりそうだけど。
位置関係上中国、四国の方が水軍を組織する必要性が高そうだな。
太田城ってどんなんだったのかな
今じゃ何もないから想像もつかない
でもあの広さから行くと大した事なさそうだけど・・・
太田に限らず佐竹関連の城ってどこも跡形もないね
水戸藩が佐竹の痕跡を徹底的に消したせいで
茨城じゃ佐竹の面影を残すようなものは一切ない
茨城人の8割ぐらいは佐竹氏の事知らないよ
589無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 23:23
佐竹が常陸に残ってれば
水戸も54万石の城下として賑わったろうし
政治もいいから良い国になっただろう
徳川のショボイ水戸藩になんかなったために
腐れ納豆県になってしまった   
>>589
水戸藩は悪政を敷いていたからなあ。
光圀は大日本史なんて金の掛かる事業始めるし、で財政が苦しくなると増税だからな。
光圀も名君なんて呼ばれてるが、正直、名君と呼べるのは斉昭くらいなもんだと思う。

自分は水戸の人間だが、佐竹に残って欲しかったと思ってる。
>>590
どこぞの解釈では
光圀がそういう物を編集して尊皇思想を重んじたのが受け継がれて
斉昭、慶喜の時に数々の歴史的な行動やら決断を下す素地になったと言われていたが。
スレチガイ スマソ

ところで漏れとしてはワンマンな印象が強い政宗だが配下の家臣には恵まれてる。
片倉、政景、成実、鈴木、白石、原田等々。
小田原参陣の前後のゴタゴタや一揆荷担の花押の目による言い逃れ、
秀次事件荷担の詮議や関ヶ原の時のポカなど
政宗には連続して取り潰しにつながるような事件が起きているが
それでも重臣のほとんどは政宗を排除するような動きがなかったのは
伊達家の結束の堅さなのか政宗に心酔していたのか。
>>591
弟を担ぐ連中はいたみたいだけどな。
>>591
必ずしも結束してるってわけじゃないな
成実は一度出奔してるし、一族の家臣はゴタゴタ起こすし
>>588
太田城は今ではほとんど面影が薄れてるが、戦国時代は屈指の要害だった。

義重は基本的にこの内陸にあって守りやすい戦向きの城を居城としたが、
義宣は戦よりも政を重視する性格だったため水府の水戸城を居城とした。

面白いことに秋田移封後もこの2人の性格の違いが現れている。
義重は当初内陸の米が豊富で要害がある横手を府城とするよう進言したが
義宣は秋田の南北の中間にあって、土崎湊の近い久保田に府城を築いた。
成実は秀吉死後の徳川・上杉の内情を探りに出たのですよ
成実の一族(一家だったか?)が政宗によって討伐され
それが原因で成実は出奔し高野山に向かったとか書いてあったような・・・
597無名武将@お腹せっぷく:04/05/06 04:42
そういえば佐竹ゆかりの品って大分前に金ほしさに
当時の佐竹家長男がものすごい勢いで売ってしまったそうだ。
長男は親族から破門されたらしい。
この話をしてくれた人物は長男の妹の息子で
血は相当佐竹家からは薄くなっているが
家にはまだ少しだけ佐竹の物が残っていたよ。
>596
逆じゃい
伊達の場合ほとんどが仙台市博物館に所蔵されておるが
あれはどういうことなのかね。博物館が借りているのか?
600政宗ゲット
>>591
いや、光圀の大日本史編纂事業が水戸学の礎になったのは分かるんだ。
だがそんな金の掛かる事業を行うなら、財政面も考えないと民を苦しめるだけだと思う。
寛永年間に行われた検地では、領内を隅々まで調べ上げ、
隠田があれば死罪、年貢率も引き上げ、更に雑穀にまで年貢を掛ける有様。

まあ、新たに作られた藩で、家臣団も寄せ集めで統制も取れなかったらしいから、
藩主に全責任を押し付けるわけにはいかないんだけどね。
水戸藩の藩主は江戸に常駐しとかなきゃいけなかったんじゃなかったっけ?
それも財政悪化の一因だって聞いた。それと慢性的な派閥争いもあったらしいな
>>602
そう。江戸の常駐が義務付けられてたはず。

自分は、歴代水戸藩主で最も優れていたのは烈公、斉昭だと思う。
優秀な学者を登用し、農村再建や教育、海防に力を入れ、藩政の立て直しを図った人。
百姓を愛し、食事の前には飯を農人形に供えてから食べたらしい。
民の健康を考え、医療にも手を染めていた。

あと、最近知ったんだが、偕楽園は軍事基地の役割も持ってたらしいね。
604591:04/05/06 20:45
>>592
小次郎を担いで暗殺計画があったのは知られているんだけど
それで小次郎は死んだけど他に連座して処分された重臣の話は聞いたことがないなぁ。
母親が関与してたんなら最上家からの付け家老とかは当然陰謀に加担していたんだろうけど。
政宗の指揮で摺上原で大勝利をおさめた直後だったから摺
上原で活躍した連中は政宗を殺すのに荷担する可能性は低そうだと思う。

>>596
成実が出奔して成実の家臣や親類が成実不在で怪しい動きを見せたんで
政宗が軍勢を率いてとりあえず城を接収した。
その後成実が帰参した直後に始まった関ヶ原の戦いで
成実は伊達軍の侍大将として上杉と戦っている。
政宗が出奔した成実を処罰もせずにすぐに上杉攻めの将として起用していることから
成実が出奔したのは出奔に見せかけて各地で情報収集していたのではないかという説もある。
これの真偽はともかく政宗は成実を疑わず帰参直後に従来と変わらず重臣として重用し続けた。
他の政宗の代の伊達一門のゴタゴタについては
秀宗が三年間政宗から絶交されたことくらいしか知らない。

ところで別スレで少し話題になっていたことだけど
水戸藩主が代々副将軍を勤めていたというのは事実なのかな。
武家諸法度に副将軍について言及があったような気もするけど。
>>604
幕府に副将軍なんて役職は存在しなかったはずだが。
自分は、副将軍という呼び名は、水戸藩主が江戸に常駐してた事から来てると思ってる。
副将軍という名称は家康の構想した幕府初期の体勢から来ている。
当初家康の構想した御三家とは将軍家、尾張、紀伊の3家を指し、
水戸はこれらを後見する立場として、将軍にはならず副将軍という立場で
もし将軍家に適した人物がいない場合には尾張、紀伊から適した人物を
抜擢する立場としようとしていた。
結局はそうはならなかったわけだけど、まだ光圀の時代にはこの構想の
名残くらいはあったと思われるので天下の副将軍という名称がなんとなく
使われていた。
幕末には全くこんな構想などかけらも残ってなかったけどね。
北条の関東植民地化から諸国人を解放するために身命を賭し、惣無事令に倣って専守防衛した佐竹は日本
火事場泥棒で下先三寸、カッコだけの伊達は中韓

佐竹=日本=ファイトマネーでドヤ街を発展させ、近所の子供たちにも暖かい手を差し延べた矢吹丈
伊達=中韓=丈のファイトマネーに寄生した、業界の嫌われ者でアル中のメッカチ親父
義重がもう少し長生きしてくれれば大坂の陣で活躍する姿が見れたかもしれないのにな。
いくら後藤や木村と言えど、経験豊富な義重ならあそこまで苦戦する事もなかったろうに。

まあ、老齢の上隠居の身だから、生きてても大坂に行かなかったかもしれんが。
609591:04/05/06 21:46
つまり機能していれば綱吉の死後の将軍選定の時などは
選定の主導権は水戸が握っていたのか。
水戸の役目は将軍の後見兼後継ぎ選定の見定めってことだったとしても
たしかにそれはろくに機能してないな。光圀の時から幕府から疎んじられてたって事かな。
水戸家からは将軍が選ばれない事は結局最後まで機能したけど。

ところで関ヶ原直前の佐竹の勢力は常陸54万石に加えて相馬、岩城などを合わせると70万石を超えていた。
もし佐竹が東軍の味方についていたら80万石クラスになって九州に転封されてたかもね。
その場合は島津がつぶされるのかな。
>>609
義久とかは家康とも懇意にしてたし、あんな曖昧な態度ではなく
東軍に協力するという立場をはっきりしていたら、
加増された上で遠国へ転封というのもあったかもしれない。
常陸に留まるのは難しいけど。

義宣が律儀すぎたせいか。
>>610
>加増された上で遠国へ転封というのもあったかもしれない。

どさくさ紛れに味方の大名領で一揆を起こさせて下手打った某DQN大名を取り潰し、
その跡に3万石程度の加増で陸奥岩出山に転封ということで一つよろしこ。
義宣は、東義久が家康に付くよう進言したときに、
「其剛憶を分ち、其雌雄を窺い、弱きを捨て、強きに属し、衰えるを軽んじ、
盛んなるに従うは我いやしくも心に是を欲せず。世已に乱れ、浮説交起り、
未だ義兵の真偽を決せず。是に於て何れをか敵とし、何れをか味方とせん。
暫く義兵の真偽を窺い、我は豊臣氏の社稷を全うする者に与せん。汝ら宜しく是を思え」
とか言ったらしいが、やはり石田の恩義を思って揺れていたのか?

いずれにせよ惜しいな。どちらに付くかはっきりしていればと思ってしまう。
>>612
それはしかたがないよ。
生き残ることを第一に考えていた戦国大名だった義重と義重時代からの重臣は
秀吉すら勝てなかった家康が勝つだろうと思っていたし
北条・伊達の猛攻をしのいで常陸を切り取った義重達の影響力は大きすぎる。
もし義重が死んでたならあるいは完全に西軍について佐竹は取りつぶされていたかもしれないし
義重が家督を譲らずに関ヶ原で東軍についていたら
加増して遠国(九州か、広島か四国か、津軽あたりだろうな)に転封だったかもしれない。

当主の顔も立て義重の意見も取り入れる折衷案は、西軍につくも東軍と敵対せず、しかなかった。
義に生きるというのは一人の人間としては格好が良いが
大勢の家来のことを考えるなら勝つほうにつくのは当主として当然の義務。
まあ単にどちらが勝つか判断できなかったので日和見的な態度を取っただけかもしれないけど。
家康についた外様大名の中では最上義光、伊達政宗、吉川広家あたりが家康が勝つと判断していたようだ。
>>613
重臣の中でも、車丹波なんかは石田方に付くように主張してたらしいな。
「武士は信義を重んじる事こそ肝要なり」ってね。
義重や東義久も家康が勝つって言ってたんだし、家康が勝つ事は義宣も何となく分ってただろう。
それでも踏み切れなかったのは、石田からの恩に報いたいという考えを持ってたからだと思う。
家康には付きたくないが、無理に石田に付けば家中もおかしくなるし。
やはり仕方ない事だな。
義宣は後年本多正純が来たときも
自分が意見を言わなければ領地の4分の3は残せたろうに
とか言われても
義宣は笑ってしかたないとか言ってるらしいし
なんかこうあれなんだよな。

結局正純はやたら佐竹に徳川の情報しゃべったりするから
またどっかにうつされたし。

義宣というのはそういうのことを
話されやすいひとなのだろうか・・・
>>611
佐竹62万石か?
そしたら幕末に右往左往して領地半分にされるのは佐竹ということになるかならないか。
617ともチャン:04/05/08 17:58
ひとこといわせてくれ!
まあこれは感想なんだけれども、

あんまり関係ないけど、後世の人間は関が原の合戦が一日で
終わったことを知っているから徳川か石田かという話になるけど、当時
としてはたぶんあの乱はしばらく続くという意見が多数だったんじゃないかな。
黒田や伊達や上杉は明らかにそういう判断だったし、島津や毛利も
実はそう思っていたっぽい。同じく義宣もそう思っていたと思う。
だからわざわざどっちかに味方してどうのというよりは、
とりあえず様子を見ておこうと。
それに対して義重義久はいずれにしろ徳川が優勢なのだから
保険という意味で徳川へ援助しておけと、そういうことだったと思う。

そいで義とかなんとかっていうのはたぶん後世のあとづけで
自分たちの行動を正当化するための口八丁じゃないかな。
昔の話だとそういう義理人情なんてのが出てくるけど、
そういうのはたいていでまかせだよ。
やっぱり今と変わらずほとんど政治的な判断で動いていたと思うよ。

あと車なんかは戦争できればなんでもいいんで、まぁ上杉と戦うよりは
徳川とやるほうが面白そうだから、って感じだと思うけどな。
義宣は、ある意味信長並にサバサバした奴なので
多分関が原についてはほとんど後悔していなかったな。
>>617
おまえうざい。
619ともチャン:04/05/08 18:23
あとこれもどうでもいいけど、車丹波はおもろい奴だな。
こいつは多分義重と同い年だから文禄年間は岩城で隠居してた。
戦がなくてつまんねーナーと鼻でもほじってたんだろう。
ところが石田が蜂起したと聴いていてもたってもいらんなくて、
頼まれてもいないのに棚倉まで出てくる。
義宣は、いやなんでおまえがここにいるんだYO!と思っただろうな。
んで義宣が東西どちらにも兵を出す気もないのに、オマメの身分の丹波が
小煩く一発やんべ一発やんべとせがむので、じゃあやるならやるで
かまわんけどその代わり破門な、ひとりでやれよな、といわれる始末。
そのまま上杉へいって伊達と戦うがいまいち気に入らん。
帰ってきたら今度は佐竹も岩城も国替えだと言われ、
またいくさをする口実を見つける。んで蜂起。
伏見だか大坂にいた義宣は、丹波の野郎、またかYO!
どうしようもねぇ馬鹿だな、と思ったに違いない。
俺は当時の義宣の行動は義心からであったと信じたいがね。

関係ないが、義宣は梅毒にかかってた割には長生きだよな。
若くして死んだ結城秀康とはえらい違いだ。
義宣はチェリーちゃんなんだって、みんなが言ってた
>>621
正室が自害した理由はそれか!
>>619
それは、全てあなたの思い込みです。
伊達政宗は北上川の治水とか、仙台藩政で評価が高いが、
佐竹義宣ももっと評価されて良いんじゃないか?
秋田の鉱山開発や街道整備、林業など色々成果を上げてると思う。
>>624
佐竹義宣が岩出山に転封されていたら、もっと顕著な治績を上げていたと思われ。
>>625
根拠は?内政の手腕だけに限れば政宗>義宣とでもいいたいのか?
ちなみに伊達家には数十万石クラスの内政に関するノウハウが蓄積されいて
遠藤や鈴木など内政に関する能吏がいたので政宗が領国にいないときでも
内政は乱れなかった。
政宗と義宣の比較はともかく急激に大きくなったり減封された佐竹家よりも
ノウハウが蓄積されていた伊達家の方が総合的に内政に関しては優れていると思うが。
佐竹義宣じゃ川村孫兵衛をスカウト出来やしないよw
>>626
> 急激に大きくなったり減封された佐竹家よりも

それについては伊達家も大差ないと思われ。
義宣の臣で能吏と言うと渋江政光や梅津政景か。
大坂の陣で渋江が死んだのは痛いな
義宣は向宣政をスカウトした。
>>628
いや、輝宗の代は伊達家は数十万石だった。
政宗の代に少しずつ領土を拡張していって芦名家を打倒して
与力大名を含めれば150万石以上の勢力になったが
すぐに秀吉によって75万石くらいになり、
その後岩出山に50数万石に転封されてる。
最終的な禄高は62万石だがこれはぐらいの規模はの領土の内政は
稙宗の代からやっていたのである程度のノウハウは蓄積していただろう。(簡単な法律も公布している)
結局伊達家の領土は政宗の遠征による短期間の急膨張を除けば
稙宗の代から50万石〜70万石後半くらいで推移している。
>>631
それなら佐竹も秀吉の時代を除いて20万石ほどで推移してたんだから変わらないんじゃ?
>>631
輝宗の代は30万石以上あったんじゃねーの?
江戸初期に上杉が有した長井、伊達、信夫各郡が合わせてそうだったから。
佐竹は伊達に比べると領土を拡張した時期が長かったんで
減封に伴うゴタゴタが大きかったと思うぞ。
久保田城の築城を担当した渋江内膳の抜擢に不満をもつ家老達が
暗殺される事件も起きているし。
635631:04/05/09 00:39
>>633
輝宗の代に30万石未満だったと言ったつもりはなかったけど書き方が悪かったか。
輝宗の代は人材は登用で充実したけど相馬などから侵略されて結局所領は減っていた。
政宗が家督を継いだとき相馬に半ば侵略されていた場所も含めると
形式的には所領は50万石クラスだったと思う。
>>634
あれは減封の上、戦国大名から近世大名への転化が迫られてた頃だから仕方ない事だと思う。
まあ、それにしたって、川井らに対する義宣の処断は厳しすぎるかもしれんが。
637634:04/05/09 01:35
>>636
別にそれに関して義宣が悪いとかいうつもりは毛頭無いよ。
ただ、秀吉の小田原征伐終了までは佐竹は豪族の連合体の旗頭で、
その後は義宣の代になってすぐ52万石の戦国大名になり
更に関ヶ原後に減封されて近世大名として大幅な方針転換や家臣の刷新をしている。
これに関して当然ゴタゴタも起きただろうというだけ。
元々義宣の代の佐竹の内政が伊達家のそれに比べるとどうなのかが気になっただけだし。

戦国大名から近世大名への転化は政宗がかなり鮮やかにやっている。
家康が死ぬまではしぶとく心底では天下を狙っていた節もあったが
その後は幕府の重臣として貢献して同時に藩政もうまくやっている。(留守居役の手腕が良かったからでもあるけど)
佐竹義宣の時代の内政か。
阿仁金山などの鉱山開発、雄物川の治水、
森林資源開発、羽州街道整備と色々やってたみたいだな。
政宗と比べてどうのこうのと言うつもりはないが、十分名君だと思うぞ。
佐竹が戦国大名だった期間て、ありましたっけ?
640ともチャン:04/05/09 06:32
義宣の治世時代にはたいした乱れはないな。
義重→義宣への権力移行もスムーズ。
常陸一統もサクサク進めて、知行替えも問題なし。
唐津出張の際も国許に乱れ無し。
関が原では二党派に分かれたものの目立った障害が現れることもなく、
丹波がアホしただけで転封の際もみんな無事に出羽へ着いた。
出羽の一揆も禍根なく鎮圧し、蜂起しそうな家臣はきちんと殺して
久保田での新しい体制を確立した。
後継ぎもお馬鹿な弟を廃嫡してきちんと貞隆の賢い子に継がせている。
>渋江内膳の抜擢に不満をもつ家老達が暗殺される事件も起きているし。
家老が暗殺されたんですか?渋江内膳てどんな方?
>>641
若くして家老に抜擢された人。
ぐぐれば業績がいろいろ出てくると思うよ。
「雪の峠・剣の舞」っていう内膳を主役に据えた漫画も講談社から出てる。
>>641
渋江内膳は、元は小山氏の家臣で、秀吉の小田原征伐後に義宣に仕えた人。
秋田へ移封されると、梅津兄弟と共に藩政の中核を担った。
その後、大坂冬の陣、今福において先鋒を務め奮戦するも戦死した。

渋江は新参だっだので、義宣が彼を重用する事に不満を持つ人も出てきた。
渋江の家老昇格の話が持ち上がる事で彼らの不満が爆発、家老川井忠遠らがこれに反対、
渋江の暗殺まで企図するが、発覚し義宣に誅殺された。
対幕府関係の円滑化に神経を使っていた佐竹義宣公は藩のとっていた冬季伐採、
搬出の原則を無視して夏山での伐採、搬出を強行させました。また藩のもう一つの柱
である鉱山が最盛期を迎えるにつれ、鉱山を中心とする山の木も切り尽くさ
れ、乱伐による領内の山々は荒廃するばかりでした。家老「渋江内膳政光」が言った
「・・・山の衰えは即、国の衰えなり」が現実となって佐竹義宣公の身にふりかかってきました。
他領への移出、鉱山の開発が進むにつれ「天然秋田杉」をはじめとする森林の
荒廃ぶりが激しさを増していましたが、藩財政を賄う為に切り倒されていく木々
をむなしい思いで見つめるしかありませんでした。藩政が義宣から二代目義隆に
変わってもこの傾向は続きました。

色々と大変ですな…。
>>642-643
即レスありがとうございます。教えて頂戴レスにまさかレスがもらえるとは
思っておらなんだ。ぐぐるぐらいですが調べてみます。
646無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 16:45
某所のコピペ

本多正信
佐竹の秋田転封時に出羽一国となるところを,
正純とともに「半国でよし」と進言したという。

梅津政景(主馬)
「川井事件」で,首謀者である川井忠遠に止どめを刺したのは彼であるという。
佐竹家中では,主に財政面の事務を受け持った。
彼が記した「梅津政景日記」は秋田佐竹氏初期の貴重な資料として今に伝わる。

上杉謙信
越後の戦国大名。長尾景虎。軍神の異名を持つ義将。関東管領。
自国の外に領土的野心を持たなかった唯一の戦国大名。それがゆえに,人物としての信頼が集まり,見返りが少ない戦いに家臣たちはついてきた。
関東戦略で佐竹義重と同盟し,この同盟関係は謙信の死まで途絶えることはなかった。

梶原美濃守
太田資正の次男。佐竹氏では,柿岡城や小田城,岩城窪田城の城主として活躍した。
豊臣秀吉の朝鮮侵略にも従軍している。
秋田久保田城に築城を推したのは,窪田城主時代を懐かしんだ梶原政景であるとの説もある。
上杉謙信に信頼が集まった?見返りが少ない戦いに家臣たちはついてきた?
電波強すぎ。某所で叩かれまくってるんだろうな。
648無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 20:30
>>647
漏れも謙信と佐竹家の関係についてはあまり詳しくないんだが
詳細キボンヌ。
>>見返りが少ない戦いに家臣たちはついてきた
侵略戦争を起こさないことについて家臣が見限って出奔するよう事がなかった
というのを拡大解釈したんじゃない?
>>648
謙信と佐竹が接触を持ったのは、恐らく謙信の北条攻めが最初。
反北条という事で一致していたので、越山の度に佐竹は協力したし、
北条の北上をみて佐竹が謙信に越山を頼む事もあった。
それなりに友好的な関係であったはず。

ただ、永禄13年に謙信が義重や三楽の反対を押し切り越相同盟を成立させた時は、
両家の仲は険悪になったと思われる。
元亀2年11月には、北条の要請を受けて、関東に佐竹討伐をしに来たくらいだから。

氏康死後に甲相同盟が再び成立すると、謙信も佐竹と和睦し、元の関係に戻ったようだが。
どなたか向宣政について教えて下さい。
関ヶ原の時に最上の救援にいった留守政景は直江兼嗣と互角の戦いをしたんだけ?
成実や片倉小十郎は戦上手というのはわかっているけど
留守は大崎攻めでは大敗したりとあまり合戦が得意というイメージがないんだけどな。
>>651
最上救援にいった留守つーか伊達軍は上杉と交戦してないし最上と合流もしてない。
傍観しに来ただけ。
留守政景が大敗?
あの戦いは、雪の中大崎方の黒川晴氏の計略にまんまとはまった泉田重光が敵地深く侵入し
大崎軍に挟み撃ちされ人質になり、のち和睦したのであって、政景に落ち度は無いですよ。
>>652
さすがに牽制の役目ぐらいはしたと思うが。
政宗が上杉領に攻め込んだのも上杉の足止めと
最上領への攻勢を鈍らすための牽制と考えれば
最低限の仕事は果たしていると言えるのか。

>>653
総大将だったらそいつを起用した責任はあるだろ。
参戦しなくても政宗にはトップとして責任があるし
摺上原に佐竹が合流しなかった責任は義重にもあるのと同様だよ。
>>653
黒川の計略っつうか、寝返っただけなんだけどね(黒川が)。
…余計ダメージでかいな。
しかも嫁の父親だからなw
>>654
いや、最上にとっては単なる役立たず。いない方がまだマシなくらい。
伊達の押し付け援軍さえ来なければ、最上勢は兼続を生きて米沢に帰さなかった。
>>657
斬新な仮説を述べるのも良いけど根拠を書いてね。
652のカキコは君の説の否定材料にしかならないし。
>>657
なら義康がわざわざ援軍要請に来ることはないだろーに。
660ともチャン:04/05/14 04:42
>>650
向宣政、一名を小鷹利政宗。または光政、光綱か。
義宣の一字を拝領し宣政と名乗る。
藤原流姉小路済継の次男小鷹利高綱の子であると思われる。
もっとも戦国期の小鷹利城は家臣の牛丸氏が乗っ取っていた。

『佐竹氏探訪』には三木真頼の次男とあるがたぶん間違い。
そもそも三木真頼が誰なのかよくわからない。
姉小路自綱の二代前が大和守直頼という名なので
これと間違えたか、あるいはこの大和守の庶子の系統か。

宣政が小鷹利城を出奔したのは金森の飛騨攻めと
牛丸の謀反というふたつの説があるようで、
常陸に逃れたのは宣政の母が常陸の出身だったからだという。

こういった系統からか佐竹では義宣に比較的好意的に用いられ、
出羽転封の後は家老職についたらしい。
>>657
留守政景は関ヶ原での東軍勝利の報が届いてからの追撃戦には参加しているよ。

最上勢はとりあえず追撃してみたものの、
あまり真剣に追撃しなかったか、追撃する余力が無かっただけではないかと。
駒姫死亡以降、義光は軍備そっちのけで寺ばっかり作っていたし、
後の庄内攻略の為に兵力温存したかったというのもあるだろう。
662無名武将@お腹せっぷく:04/05/14 11:31
銅像にハナを手向ける・・・どうぞ〜

http://www5c.biglobe.ne.jp/~amazon66/icons/item/hana_dozo.jpg
>>660
丁寧な解説有難うございます。
664無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 01:27
内政に限っては佐竹は全国でも1番ぐらいだろ
税率の低さから言っても分かるし
江戸時代に入ってからも名君と言えば上杉治憲、佐竹義和、細川重賢が
真っ先にあげられる
一番は言いすぎたな・・・
さすがに信長なんかとは比べられん   
佐竹の秋田での内政が非常に優れていたというのはよく言われているな。
政宗も仙台を発展させる基礎を築いたというので評価は高いが
これは留守居役の鈴木の功績もでかいだろう。
政宗は他の大名に比べて江戸で幕政に携わる機会が多かっただろうから
これで藩政も幕政も両方とも部下任せにせず積極的に仕切ってこなしていたらある意味超人だ。
佐竹は独りでやったのか
>>666
> 政宗は他の大名に比べて江戸で幕政に携わる機会が多かっただろうから

機会なんか最初からねーよ。もう一度中学校の教科書から出直してみろや。
思い込みも大概にしろよ。
もしやおめー遠江守家中じゃねぇの?(w
669無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 18:18
江戸幕府が外様に幕政を携わせることなどない。常識。
>>668
それは、全てあなたの思い込みです。
>>667
いやそれはさすがにw。
佐竹は秋田杉がどうたらと前のほうのレスで読んだんで、
秋田杉まとめてあるサイト見てみたんだが
外様大名ってどこも大変だなぁと思ったな。
>>669
幕政を仕切るのが将軍と譜代から選ばれた家老などの重臣だけになったのは家光以降。
秀忠の代までは外様の影響力も大きかったし幕府の統治の形式や官僚機構もそこまで成熟してなかった。
外様はおろか親藩大名すら幕政にほとんど関与しなくなったのは家光の治世の後半あたりから。常識。
>>672
君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
その一行レス意味ないよ…。
君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない


その一行レス完璧なりよ…。
キャラ立ち度
梅津兄>>>>>>>(超えられない石垣)>>>>鈴木
石垣かw
679無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 01:34
佐竹は古い家だから商業に関する意識は薄かったんじゃないかな?
農政についてはかなりのものだと思うが。
秋田市、太田市、水戸市の三箇所に住んだ事あるんだが
どこもイマイチぱっとしない街だ
戦国、江戸期はどうだったか知らんが   
>>679
佐竹氏時代の水戸は、定期市の開催や、町衆による商人統制、
職人の統制、那珂川の水運統制など色々やってた事は確か。

自分は水戸の人間だが、ぱっとしないというのは否定しない。
ただ、水戸の地形が大都市として発展しづらいのも確かなことだとは思う。
681無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 02:06
>>680   
水戸は狭すぎるよね
城を作るにはよい地形だけど大都市を形成するには良くない
水戸がぱっとしないのは佐竹よりも徳川の影響だな
太田に限ってはどうしようもない
682無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 10:30
地形を言うなら長崎なんて無理やり作ったもいいとこだ。
でも当世屈指の大都市になったわけだからな。
まあ江戸時代以前と以後、一介の城下町と唯一の貿易都市では状況が違いすぎるけど。
683無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 12:36
佐竹は金山があったから金に困ってなかったのかな?
>>682
行った事ないから分からんのだが、長崎って当世屈指の大都市と呼べるほど発展してたのか?
観光名所というイメージはあるが、大都市というイメージは無いんだが。

何にせよ、水戸のぱっとしない理由を佐竹に求めるのは無理だな。
佐竹の統治なんて11年しかないし、400年も前の事だからな。
685無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:29
>>683
佐竹の八溝金山の産出量は全国でも越後、佐渡に続いて3番目ぐらいだったから
全く金には困っていなかった
さらに八溝以外にも金沢、洞坂、栃原、大久保、瀬谷、部垂、南郷、保内、助川、武茂など
他にも山ほど金山所有してたから相当なものだったはず
686無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:31
水戸徳川があまりに悪政ばっかりしてたから
水戸に限らず常陸は全く発展しなかった・・・
687無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:33
秋田に行ってからも佐竹は金山を多く開発してる
佐竹の鉱山技術はたいしたものだな   
義宣は、民政家としては義重を超えてるよな。

このスレは義重vs政宗ってなってるが、比べる相手は義宣でも良いんじゃないか?
世代的にも近いし、実力もそうは変わらないと思う。
689無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:51
秋田市
人口316,808
世帯126,294
面積460.10Km2
水戸市
人口248,979
世帯100,378
面積175.90

ちなみに茨城県の人口は2990941人、秋田県は1160861人
水戸藩の石高350,000石、久保田藩の石高205,800石
これだけの差がありながら水戸のショボサと言ったら・・・
茨城は佐竹がいなくなってダメになったって語り継がれているけど
本当にそう思える
>>688
実際はそうなんだけど
佐竹ファンとしては義重をあげたいんだろ
義宣は義重と比べて劣るように言われがちだけど
さほど劣るような部分は見当たらないように思える
もっとも政宗が輝宗の築いた地盤を受け継いだように
義宣も義重の跡を受けたからと言うのもあるが
691無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:59
>>684
うる覚えだが、確か長崎は江戸時代には日本で4番目か5番目に人口が多い都市だったかと。
江戸・京・大坂に次ぐのが堺か金沢あたりかな、そのへんと同じくらいだったと思う。
というか大正〜昭和初期ぐらいの国勢調査でもまだ日本で7番目くらいの人口があったんじゃなかったかな。
692688:04/05/19 20:00
>>690
俺は佐竹ファンだが、義宣も父に劣らず凄いと思う。
ただ、戦国時代の佐竹家当主と言われて、真っ先に思い浮かべるのはやはり義重だよな。

伊達はやっぱ政宗だろうし、その辺から考えるとこのスレのテーマもしょうがないか。
693691:04/05/19 20:20
つまり長崎はもともと地形的には大都市に向かなかったのが(江戸以前は寒村だったと思う)、
天領となったことで半ば人工的に(当時の)大都市へと発展したってことになると思う。

で、地理的地形的な問題もあって、近現代は急速に衰退している、と。
調べたけど、現在の長崎は人口およそ41万で、市としては全国で38番目だね。

まあ、こういう例もあると。でも挙げるにはあまりに特殊な例だったかもね、スレ違いスマソ。
>>693
逆に長崎は地形がよかったから発展したんじゃないか
貿易港として当時の色々な条件に一番ぴったりだったから
あえてそんな寒村が選ばれて発展したんだから
地形によって発展した最もたる所でしょう   
695691:04/05/19 20:55
>>694
狭い上に急斜面に囲まれており、本来は住むには適さないが発展した、ってことでつ。
「水戸は狭すぎる」という意見を見て連想したので。
しかし前述したとおり長崎は例として適切ではありませんでしたね、すいません。
水戸の城下ってもしかして長崎より狭いんじゃないの?w
今でも駅前のメインって2`ぐらいしかないよね。
太田に限っては幅、長さ数百bしかない・・・
あれじゃとても国持ちの城にはならんわな
常陸は平野だらけなんだからもっと便利な土地にでて平城にするべきだ
>>696
水戸城とその城下町は、南北を川に挟まれた狭い台地の上にあるからね。
防衛を考えるなら、水戸城の立地は要害を押さえてて十分良いんだがなあ。
698無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 21:35
>>697
確かに要害としては申し分ないが
いっそ台地全てを城郭にして千羽湖対岸や、那珂川対岸、常澄方面など周辺に
広大な城下を作って欲しかった
関ヶ原後に築城を考えるなら平城の方が城下町の発展にも向いていそうだが
戦国時代なら守りやすさが基準だろうから水戸城は悪くないだろ。
関ヶ原後だと別の所に城を建てようと思っても幕府が禁止したからなぁ。

義宣の事を考えるといつ義重が口を出さなくなったかが問題だな。
関ヶ原の時義重と重臣が何人か徳川につくように主張したのにそうならなかったから
その時の主導権は義宣が握っていたようだが。
>>699
東は切り立った崖、南北は川と湖、西には五重の堀を配置した構成だからね。
守るにはかなり適してたはず。
>>689
水戸藩は江戸常勤とか、御三家としての体裁を保つ為とか、
他の大名と比べて出費が激しく多いので、石高から単純比較するのはどうだろう?
お前の言っている35万石だって見栄を張るためにそう公称しているのであって、
実際の石高はもっと低かったんだし。

現在の水戸がショボイというのは激しく同意だが。
>>701
参勤交代より常勤の方が経費は安くつくかと・・・
703無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 19:48
>>701
水戸藩の実高は酷い時は20万石以下
でもそれは水戸藩が荒廃させたんだよ
逆に久保田藩の実高は約40万石
これだけ見ても政治の善し悪しがはっきりしてる
というか普通表高が実高より高いなんて事ありえないw
どこの藩も必死に低くして国を富ませようとしたのに
水戸藩の馬鹿さ加減は呆れるばかりだ・・・
こんなんで町や農村が発展するわけがない   
1889年での人口は水戸と秋田ともに30,000人弱だったし
久保田藩は実質30万石以上あったから水戸藩が悪いわけじゃないだろ。
30,000人程度だから狭いとも感じなかったろうしね。
それに水戸は街道の終点だから拠点性がなくて発展できなかったと思うよ。
>>704
水戸藩の素晴らしい政治を知らないのかね?
知れば知るほど佐竹好きになります
水戸藩はなあ。
上の方にも出てるが、お世辞にも善政を敷いたとは言えないよな。
むしろ悪政だったような。
個人的恨みだけどね
俺の地元(水戸藩北部)じゃ税率8割もとられてたんだぞ?
光圀の時代にね。
6割越しても一揆起きるって言うのに8割は取りすぎ
でも実際はそんな生ぬるいもんじゃなくて
10割に達する勢いだった
何制度って言うのか忘れたけど
一度作物は全て藩で買い上げて、それを領民に払い下げるって制度があったんだけど
買い上げた金額より払い下げる金額の方が高いという無茶な話
年貢8割もとった上にそこまでするか
708無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 20:32
生瀬騒動も凄いしね
大日本史は藩財政をどれくらい圧迫したんだろうな?
>>709
結構なものだと思うよ
全国に人をやって何十年もかけて編纂したんだし
ついでに珍しい食い物とかも集めさせてたらしい
領民が草食って飢えを凌いでるのにラーメンとか食って優雅なものだね   
>>710
何十年じゃないぞ。
250年間も編纂し続けたんだから、あれが完成したのは明治入ってから
>>711
250年も無駄金を・・・
酷いもんだね
>>712
水戸学の礎になったとも言われるから、全くの無駄では無かったろうが、割には合わないよな
てことは水戸黄門は民を泣かせて搾り取った藩の金で旅を続けて
自分の藩の民に重税を課すなど悪政をしいて
そのことを忘れ去ったかのように自分と似た様な事をしている連中を
印籠を使って権力で弾劾しているのか。
水戸黄門は事実ではないけど水戸藩の治世のまずさは事実だから
あの時代劇のバックボーンは随分と汚いんだな、
715704:04/05/21 21:07

>>714
ネタだとは思うが一応つっこんどく

光圀は諸国を漫遊なんてしてない
>>716
事実じゃないのはわかってる。
水戸光圀が民を苦しませた藩主だったという事実があるのに
テレビで勧善懲悪で民を救う主人公に据えたのは
かなりブラックな構図だなと思っただけ。
718716:04/05/21 21:23
>>717
事実じゃないって>>714で言ってたね。よく見てなかった、スマソ。

水戸黄門は、光圀の実像を知ると確かに滑稽だよな
719704:04/05/21 21:27
↑うっかりクリック スマソ

水戸藩が悪政だったとは知らんかったよ。
地元住民とは肌が合わなかったのかね。実際言葉が通じたのかも疑問。
うちは江戸家に仕えてて滅亡後は農民になったらしいから
ご先祖もえらい目にあってたのかもしれない。
720716:04/05/21 21:39
>>719
このスレの上の方にもあるが、水戸藩は新設された藩であって、藩主も若く家臣団も寄せ集め。
初期の頃は、上手く藩政を執る事は難しかったかと。

その上、大日本史編纂などの巨大な事業や、御三家としての格式の維持、
きびしい藩財政も当然だったと思う。
721ともチャン:04/05/22 06:36
朱子学水戸学が社会にどれだけ貢献したかはともかく、
学問として見るべきところはほとんどない。
そして『大日本史』がその後役に立ったことも全くない。

ほかに光圀は神道と仏教その他が融合しているのはおかしいと考え、
廃仏毀釈という文化大革命を成し遂げた。
さらによせばいいのに斉昭も同じ事をして水戸領の社寺にとどめをさした。

あと若い頃おもしろ仲間とつるんで乞食を斬って楽しんだり(ry
722無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 10:46
南部藩とかでも聞くけど、実際年貢8割なんてありえるの?非現実的だと思うのだが
それともネタ?

草や木の皮等を食べたとか言う話も聞くがせいぜい飢饉の時ぐらいじゃないの
定期的にそんなものを食べつづけて生きていけるとは思えない

年貢8割で農民が生きていけるとしたら一家族4人として残りの2割で4石は必要とすると
一家族で20石生産するということになるが当時の農業技術でそれは可能なの?
723熊谷天皇:04/05/22 11:05
>>721
いや、大日本史は後世に役に立ってるでしょ
というか、どちらかというと弊害まきちらした
っと言うべきか
南部藩の場合、閉伊とかの、もともと南部領でない場所を中心に年貢八割だったと思ったが。
725無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 13:17
佐竹義宣をほめる意見が多いけど、
この男は関ヶ原で三成に対する恩義から
本気で西軍につこうとしたのを
親父や家臣の圧力(というかほとんど命令)で
やむなく中立にした男だぞ。

さらにのちに家康に三成につこうとしたのを
詰問された時も
堂々と自分は三成殿の味方だと発言した逸話まである。
726無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 13:19
>>772
そのカラクリは実高と表高の違い。
表向きの石高と実際の石高は相当な開きがある。
それで表高に対して8割とか無茶な税率でも農民は生きていける。
>>725
中立は義宣にとっての最大限の譲歩だろう。
あの時佐竹家中の意見は二つに割れていて、義宣自身や車なんかは西軍寄り、
東義久や義重らは東軍寄り。
「無理に石田に付けば家中の混乱を招く、決着だってそう簡単にはつかないだろうから今は様子を見よう」
という義宣の判断はそう間違ったものじゃないと思うが。

そのことが義宣を貶める材料になるとは思わない。
728無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 14:05
>>726
しかし、問題の水戸藩は表高より実高が低いということだ。
729ともチャン:04/05/22 14:39
>>725
状況証拠だけでいえば
おそらく義宣は自分の判断で中立を選んだ。
多分義宣は火事場泥棒をやるつもりだった。
ところが関が原が一日で終わってしまったのでその辺はうやむやに。
家康はこのことに気づいていてあとで非常にいやらしいことをやっている。
そして義宣はそのことで東義久を恨むことになった。
東をうらまんでも良いだろうにな。自分の立場で選んだなら。
てか火事場泥棒やるならどんな感じになったろうか?
関が原の時の火事場泥棒なら政宗と如水がやろうとしてたな。
政宗は大失敗したわけだが。

政宗も火事場泥棒以外はそれなりにいい働きしてたのに
火事場泥棒がばれて100万石がなくなった(40万石の損?)。

佐竹が火事場泥棒たくらんでたなら
たしかに転封になっても仕方ないかもな。
でも消極的にしろ敵対関係にあったのに
期限付きとはいえ本領安堵を勝ち取ったのに東の功績。
その期限の間に他の手をうって本領安堵を永続させられることができなかったのは
義宣達の責任。これだけだと恨むのは筋違いに見えるが
何か他にも東が恨まれる理由でもあるのか?
どちらにしても後々理由つけて100万石くれなさそうな家康マンセー。
東についたとしても地元の支持が強い手強い大名は飛ばしそうな家康マンセー。
このスレは徳川マンセーいてもいいですか。
晩年の孫権と陸遜を見ているようだ>義宣と東
佐竹は火事場泥棒なんて考えもしなかっただろ
だいたい関東じゃ徳川領が近すぎてドサクサに紛れて・・・ってのは絶対無理
東に付けば徳川のお膝元で何もできないし、西につけば伊達と徳川に挟まれて
徹底抗戦は余儀なくされるし、地形的に絶対無理だな
実際は義理半分期待半分だったんだろう
豊臣時代には三成からかなりの便宜をはかってもらったから
本心で恩義を感じていたのは間違いない
それと西で三成らが蜂起して、上杉が北から
それに真田と佐竹が江戸を突く
考えとしては面白いし連携が上手くいけば徳川を覆滅できる勝算は十分にある
計画時点では西軍の方が数でもかなり上回っていたわけだし
もしかしたら・・・って期待も義宣にはあったと思う
736無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 18:29
>>722
ネタじゃないよ
年貢の台帳みたいなのが現存してるし
茨城の郷土史まとめた資料で見たのだが
水戸藩北部じゃ畑8割、田2割ぐらいの比率の村から
畑8割8分、田7割とかの年貢とってたりする
畑の比率の方が圧倒的に多いのに畑の年貢率を高くとってるのが凄い
しかも、稗、粟、蕎麦、麦とかの雑穀まで税として徴収されていた
ちなみに普段は「ふりかけ飯」っていうのを明治のころまで食っていた
ご飯にふりかけだけってならまだ笑えるけど
その名のとおり飯をふりかけて食っていた
稗、粟、麦などの雑穀を煮たものに米を一つまみぐらい振りかけて食べる
米がおかず。
薩摩や土佐も芋ばっかり食ってたらしいから水戸藩が特別じゃないだろうけど
名君とか言ってる殿様がいる藩にしては・・・しかも米所で   
名君って、農民にとっての名君じゃないんだよ多分。
財政を立て直したとか言う実績も、むしろ農民に対しては苛斂誅求だったってことじゃない?
739無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 19:01
果たしてそれを財政建て直しと言えるのだろうか・・・
ちなみに水戸藩じゃ約14年間で実高が4万石減少してます
4万石って言ったら下手な大名より多いよ
なんか微妙に良スレになってきたな
誤爆
このスレって方向性が面白いね
400あたりまでで義重と政宗の比較論とか二人が絡んだ出来事については
だいぶ話されたからな。今はスレ違いの話題になったのはしょうがない。
義重と政宗が対決していたのは1584〜90年くらいまでだが
義宣と政宗は時代が変わったこともあって比べにくいんだよな。
関が原後の藩政で佐竹、伊達、毛利あたりの評価がいいのは聞く。

そういや宇和島藩の伊達秀宗の話って聞かないな。
少年時代は器量に優れていたらしいが藩主としてはどうだったんだろう。
>>743
秀宗はお世辞にもよい殿様とは言えない
忠宗の方が優れていたのは間違いないと思う。
山家を上意討ちしてのちのちまで禍根を残したし
なにより宗純に分知したのはまさにタワケ者
これのお陰で宇和島藩がどれだけ揉めた事か・・・
江戸期に入ってからは佐竹の方が優れていたね
というより伊達の方が政宗以降はどんどん凡庸な藩に成り果ててしまった感じだ
前田と同じようにただデカイだけの存在に・・・   
結局このスレでは、義重と政宗の比較については結論を出さない方向でいくのか?
>>738
斉昭の行った天保検地では、縄目を緩めての検地だったから農民の負担は軽減したよ。
雑穀への税も撤廃したしね。
寺を敵に回したり、門閥派との政争に敗れたりした事以外は特に失敗は無いと思う。
年貢8割だとすると農民の取り分は表高の35万石の2割で約7万石

とういうことは他に食うものが無ければ水戸藩の農民は7万人?
最も米一石と等価の雑穀や野菜でどれくらいの人間が養えるかでまた違うんだろうけど
畑は米の3分の1と評価されるんだっけ?
たしか当時の90%は農民だったんだよな?
年貢八割でさらに財政難って一体。。。
>>749
その厳しすぎる年貢率も財政難の一端を担ってると思う。
事実、水戸藩ではその苛政によって農民の流出が相次いでたから。
年貢として収められた米の80%を人々がそのまま食べるのではなく
日本酒など米を素材とする製品に変えていたと考えれば、年貢8割でも
計算が合うなw
イバラギスゲーナ
水戸藩じゃ一時41万8300石って幕府に届け出をしていた
さすがにそれは無茶だろって幕府に取り下げられた
斉昭の検地で、それまでより10万石ほど減って26万石だっけか?
これくらいが丁度いい石高だよな。35万なんてやりすぎだ。
ましてや>>753の41万8300石なんてのはな。
水戸藩の人口何万人だったか忘れたけど
江戸初期頃と中期頃をみたら人口が半分ぐらいになっていて驚いた覚えがある
築城の話に戻るけど水戸城って石垣あったよな?
佐竹は石垣を作れなかったって話あったけど、そこらへんどうなんだろう
>>756
水戸城は空堀と土塁による連郭式の城郭で、石垣は無いはず。
自分は水戸の人間で、水戸城付近に住んでるが、遺構にも石垣は無いよ。

梅津政景日記の、佐竹が江戸城普請の助役を命じられた時の記述には、
「常陸者は石垣普請不案内故、土普請を請うべし」ってある。
石垣が全く作れなかったかどうかは知らないが、
巨大な近世城郭を作れる程の技術力は無かったと思う。
佐竹義重と伊達政宗を比べて圧倒的に違うのは知名度だよな。
やはり大河の力は大きいのか?
佐竹も大河になってくれれば知名度も増すんだろうが、無理だよな。
義重、義宣だけじゃなく、義舜とかもドラマにすると面白いと思うんだけどな。
知名度があるから大河でやるわけだが?
>>759
比較的知名度が高いのは、
若いころからいろいろやらかしながら、
最後まで潰されずに長生きしたのが要因かな。
その分エピソードが多いと。
佐竹義重も隠居後の佐竹家のことも入れれば色々エピソードがあると思うが
何度も大博打をうってきた政宗に比べると知名度では劣るからな。
タイプは違えども両者はその実績から優劣はつけがたいのだが。
>>759
しかし、「山河燃ゆ」とか「いのち」とか知名度云々が関係ない物も大河でやってるんだよな。
>>762
そういや「琉球の風」も知名度はないようなものだったしね。
奥州藤原家の始祖の話とか阿部氏の乱も知名度はそんなに高くないだろうし。
佐竹大河やるなら見てみたいけどね。
おもろい小説とかいくつかとりあげてもらえれば脚本家選んで
十分作れることは作れるよ。忠臣蔵で一年ひっぱるくらいだし。
伊達はドラマ映えすっから食いつきやすいな。
義舜から義宣までの佐竹五代記とかやってくんないかな
今のところ3代にわたる話は2つ見たことあるけどさ。
それだと流石に一人あたりの密度が薄くなるんじゃないか。
一人あたり10話構成だぞ。(多少配分は変わるだろうけど)

おれも佐竹家の立場から北条家や芦名盛氏、伊達政宗との攻防とか
関ヶ原の時の決断とか見てみたいけどさ。
>>766
そうなると、やるとしても精々義昭から義宣の三代か。
義舜が放浪の末に山入氏を討ち果たすところとか見てみたかったんだがな。
大河にするなら
太平記と絡めて師義も面白そう

いっそのこと新羅三郎義光をやるとか
前九年・後三年の役すか
しかし新羅三郎じゃ佐竹の知名度アップには繋がらんよな
義光は大河ドラマやらなかったけか。
前九年が第一部、後三年が第二部、平家物語が第三部で。
義光が主人公じゃなかったけど、佐竹のさの字も出てこなかったぞ。
佐竹やるならその前に長曾我部だろ。
夢ばっか見てる佐竹厨と伊達厨は氏ね。
773が夢見すぎ
>>772
そりゃあ、佐竹を名乗るのは義光の孫の昌義からだからな。
出てくるわけが無い
大衆向けの佐竹と言ったら義重なんだろうな。
本人の知名度だけでなく周りにも超有名人がそろっているし
話を作りやすそうなエピソードがいっぱいだ。
構図としては「利家と松」に近い物になりそうだが。
>>776
義重って大河を作れるほど資料が残っているのか?
結果から見れば凄い大名だったのは判るが
ドラマに出来るほどのエピソードって伝わってない気がするが
戦争にしても北条を除けば那須とか白河とかがメインにならん?

むしろ義宣メインの方が細かいエピソードを入れれていいのでは
義宣が生まれた以降でも対北条や対伊達の戦いはあるし
778無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 07:01
長宗我部?
ああ、「鳥無き島のウジ蟲」の長宗我部元男やね。
島津4兄弟だな。
薩摩統一。伊東氏敗走。
肥後進出。耳川の戦い。
竜造寺隆信討死。九州征伐。朝鮮出兵。
クライマックスは、関が原の戦い。

>>779
長宗我部の馬鹿息子が銃殺されるところもしっかりと描いてやれよ。
>>773が悲しむだろ?ゲラゲラ
>>780
信親は馬鹿じゃないだろ。
むしろ馬鹿なのは、仙石秀久。
元親は今年の正月にやってた大友宗麟みたいな一時間ぐらいの
ドラマにするならいい題材だと思う、四国統一から信親戦死を経て
狂気に陥ってゆく元親をうまく描いてほしい
英雄が衰えてゆく話って個人的に好きだ
島津でやるなら秀吉の九州征伐後兄弟の仲に
亀裂が生じてく所が見せ所だと思う
>>781
秀久は馬鹿じゃないよ。
馬鹿な奴があれだけ出世するわけ無いし、
一度失脚した後にもう一度大名として復帰できるわけ無いだろ。
>>782
「夏草の賦」という作品があるが、あれなんかいいかも。
>>783
そういう意味では馬鹿ではないかもしれんが、
戦場においては残念だが・・・利口な奴とは思えない。
>>780
お前のほうがバカ。
>>782
そうだね、大河で一年かけてやるよりもその方が間延びしなくて良さ毛
もまえら
ここは佐竹と伊達を語るスレですよ
他の武将のことは他でやってくらさい

でさ
おれは戦雲の夢の方がすきなんだけど
こっちは大河向きじゃないな
>>787
うるせぇ!
このスレは長宗我部が乗っ取った。ウンコ伊達佐竹こそ消えろ!
長宗我部元親 → まがりなりにも四国統一。

伊達政宗 → 陸奥の半分さえも支配できてない(プゲプゲラ

佐竹義重 → そもそも戦国大名でさえない(ゲロゲーロ
長宗我部厨がここまで酷いとは…
>>789
伊達はご指摘の通りだが、佐竹についてはそれは全て君の思い込みだ。
このスレでは、伊達を貶すことは許されても佐竹を貶すことは許されない。
それを認識した上で、参加していただきたい。
>>791
君は君でだいぶ痛い
長宗我部厨とか関係なくてここを荒らしたいだけぇ〜ばぁかw

って感じだな、クソレス加減が。イタい厨房も湧くし…
>>791
佐竹が戦国大名化しておらず,封建大名だったのは事実だろう。
その上で,戦国時代を生き残ったのが凄い訳だが。
でも四国統一しても太閤検地では約77万石という事実はどうするのだろう?
796無名武将@お腹せっぷく:04/06/01 22:48
長宗我部元親 →まがいなりに四国統一だけ プ

伊達政宗 → 陸奥の半分さえも支配できてない(プゲプゲラ

佐竹義重 → そもそも戦国大名でさえない(ゲロゲーロ

姉小路  → 飛騨をほぼ制圧

姉 小 路 が 最 強
長宗我部元親 →まがいなりに四国統一だけ プ

伊達政宗 → 陸奥の半分さえも支配できてない(プゲプゲラ

佐竹義重 → そもそも戦国大名でさえない(ゲロゲーロ

姉小路  → 飛騨をほぼ制圧

ダイエー杉内 → ベンチでブチギレ両手を骨折(オナれないじゃんwwww

ダ イ エ ー 杉 内 が 最 強
とりあえず少しでもまともな頭があるなら
長宗我部元親が5年で四国を統一できたがどうかを考えてみろ。
そもそも毛利元就や島津家と違い長宗我部元親は強豪扱いされていた
連中を滅ぼしたわけではないんだが。
>>まがいなり
誤字に気付かず使い続けているのか
長宗我部元親の支配範囲では四国を完全に統一したとは言えないから
「本物」ではなく「まがいなりに」統一したと言いたいのか判断に苦しむな。
つーか長宗我部はスレ違い
長宗我部の限界は信長や秀吉に恭順しなかったことだな
秀吉にすぐに降伏しなかったのは天下の情勢が見えていなかった証拠
「鳥無き島の・・・」といわれても仕方ない
いや なんか理由があったんなら話は別だけどよ