北条氏
北条氏尭
政治 67
統率 62
知力 65
1522-1590
北条氏康の末弟。1550年頃から里見家との合戦で活躍。また伊達氏との外
交交渉にも当たり、氏康、氏政を陰から支えた。小田原の陣の前に病没。
佐竹氏
小野崎義政
政治48戦闘63采配71智謀53CCDE建設騎突
生年月日1542威信無視
佐竹義篤の五男。義昭の弟。山尾小野崎氏の養子となる。義重の陣代として
北条伊達と戦い、佐竹の権力拡大に寄与した。天正十三年の奥州高倉合戦で
総大将を務め、伊達政宗を決死のところまで追い詰めたが戦死した。
小場義宗
政治30戦闘59采配47智謀40CCDE農業生年月日1552威信軽視
佐竹義昭の三男。義重の弟。佐竹庶流小場家の養子となる。
同じ佐竹庶流の大山氏とは度々争ったが、義重の仲介で和睦している。
佐竹の出羽移封には義宣に従って秋田へ移った。
赤坂朝光
政治60戦闘72采配67智謀65CBDE商業建設騎突
相性18生年月日1555威信軽視
奥州赤坂城主。父宮内大輔政光の代に佐竹に臣従し、東義久麾下に属して
北に南に各地を転戦した。智勇兼備の武将で義重義久によく信頼された。
慶長七年義宣に従って秋田へ移った。
里見氏
里見利輝(さとみ としてる 1614〜1644)
忠義の遺児。江戸幕府は忠義死後、子孫がないとして里見家を正式に
(それ以前に安房館山から伯耆倉吉へ実質改易の減封を受けていた)
取りつぶしたが、実際には男子が二人、女子が三人いたという。
越前国鯖江藩(間部氏)に仕え、その地で没した。子孫は鯖江藩に
代々仕えた。
www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/6shou/6shou_1/6shou_1.html
統率 35 知略19
戦闘 41 教養55
政治 37 魅力74 野望16
安西実元 あんざいさねもと(?〜1564?)
里見義弘家臣。第二次国府台の戦いで馬を射られ徒歩立ちとなった里見義弘を自分の
馬に乗せ、無事上総に送り届けたとも、義弘を逃がした後「我こそは里見の大将義弘なり」
と叫んで敵陣に突撃して討死したとも言われる。
板倉昌察 いたくらまさあき(?〜?)
里見家臣。義頼・義康・忠義の三代に仕え、主に地方関係を担当した。天正18年
(1590)に増田長盛による検地に際し、里見氏側として立ち会った。
忠義の代には家老堀江頼忠らと並んで老臣として重きをなした。
政治:52
戦闘:14
采配:28
知謀:56
誕生:1547
兵科(足/騎/鉄/水):CDED
内政特技:農商
戦闘特技:−
職業:−
印東房一 いんとうふさかず(?〜?)
里見家臣。采女佐と称す。印東氏は安房の豪族。忠義の幼少の頃からの近習だった
ともいわれる。
慶長3年(1598)書状の差出人として板倉昌察と並んでその名が見える。
慶長11年には寺社奉行兼武具奉行を務めている。
忠義に乱行を勧め、改易の原因となった奸臣と言われるが、誤り。
岡本(随縁斎)安泰 おかもと(ずいえんさい)あんたい(生没年不詳)
里見家臣。岡本左京亮の子。岡本城を拠点として里見水軍の一翼を担った。
対北条氏の拠点とするため、里見義弘が岡本城の修築・明け渡しを要求した
際も快諾し、以降は里見義頼の家老となった。
岡本頼元 おかもとよりもと(生没年不詳)
岡本随縁斎(安泰)の子。父同様、里見水軍で重要な地位を占める。
また、里見義頼の重臣として上総内乱の鎮定にも尽力した。
天正16、7年頃、岡本城で出火があった際、責任を問われ出仕を停止させられている。
岡本頼重 おかもとよりしげ(?〜1611)
岡本頼元の嫡男。慶長16年(1611)6月13日、館山より急用にて知行
所の保田に向かう途中、主君里見忠義の手の者たる乱波二十余人と不慮の事件を
起こし、討ち死にしたという。
岡本元悦 おかもとげんえつ(?〜1585)
実名は不詳。兵部少輔・但馬守と称す。晩年は入道した。
里見義弘・義頼に仕え、里見家を代表して大田三楽斎・梶原政景らと連絡を
している。
また天正8年(1580)の里見義頼・梅王丸との抗争事件の際には、梅王丸
のこもる佐貫城を開城に導くことに活躍した。
天正13年(1585)下野佐野城攻略戦で戦死したともされるが、それは誤り
で天正20年(1592)8月に死亡したらしい。
政治:59 戦闘36 采配54 智謀71
誕生:1534
兵科(足/騎/鉄/水):CDDD
内政特技:建外
戦闘特技:−
職業:僧
岡本氏元 おかもとうじもと(?〜?)
岡本元悦の子。兵部少輔と称す。義弘・義頼に仕え、主に外交関係を担当した。
天正8年(1580)の正木憲時の乱に参戦し、その時の様子を梶原政景に
くわしく伝えている。
里見淳泰 さとみじゅんたい(?〜1622)
義弘と足利晴氏の娘の子。梅王丸。父義弘の死後、家臣に支えられ一度は
家督を継承するが、対立する義頼との係争に破れ出家。里見家改易後まで
生きた。
※ 淳泰は出家後の法号。実名を義重とする資料もあるが不詳。
政治53 戦闘42 采配51 智謀37
誕生:1562
兵科(足/騎/鉄/水):CCDB
内政特技:商登
戦闘特技:焙
職業:僧
実父:里見義弘
加藤信景 かとうのぶかげ(?〜?)
里見家臣。義弘の子梅王丸の後ろ盾となってその家督継承に力を注いだ。
天正の内乱後は義頼に属し、戦乱後の梅王丸の旧領の治安維持を任された。
政治63 戦闘47 采配52 智謀69
誕生:1536
兵科(足/騎/鉄/水):CDED
内政特技:農建
戦闘特技:−
職業:−
正木憲時 まさきのりとき(?〜1581)
里見氏家臣。大膳亮と称す。時茂の死後大多喜城主となる。1574年の文書が初見。
1578年に里見義弘が没すると遺児梅王丸と義頼の間に継嗣争いが起き、義頼は
梅王丸を出家させて家督を継いだが、憲時はこれに不満をもって1580年に挙兵、
安房に侵攻して義頼軍と戦ったが敗れた。
翌年本拠大多喜城を攻められ、憲時は家臣に刺殺されて城は落ちた。
世に「正木憲時の乱」というが、実際は里見正統を守ろうとする義戦であり、敗れた
とはいえ端的に叛臣の烙印を押すのは誤りである。