23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/25 10:54
李厳→李平
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/25 11:09
伊勢新九郎長氏→伊勢宗瑞→北条早雲
蜀
何平→王平(何姓は母方の姓らしい,後に元に戻す)
孤篤→馬忠(孤姓は母方の姓らしい,後に元に戻す)
呉
施然→朱然(朱治の姉の子。朱治の養子となり朱姓を嗣ぐ)
施績→朱績(朱然の子。次男だっけ??)
<施績について>
なぜ施姓の表記があるかは不明。可能性例を考えてみた
@区別するために一般的に呼ばれていただけで本人はずっと朱姓だった
A本来の施姓を名乗っていたが,施家を継ぐ者が別に現れ,朱然の子(長男??)が絶えた
B朱治の孫の世代が絶えた(もしくは廃嫡されて)朱然の後を嗣ぎ,施姓を捨てた
(ちなみに某サイトによると,朱治には4人の子がいて(才・字は君業、紀、緯、万歳),
朱才には朱琬という子供がいる)彼等についての詳細は追って報告する(ファー・イースト・リサーチ風)
↑
関羽を捕らえた部将の名が「馬忠」だったので
劉備は「孤篤」と呼び続けたとの説も。転載許可しまつ
>>26 施績→朱績
は逆ですぜ。
朱績→施績
が正しい。父朱然の喪が明けてから父の本姓、施氏に戻そうとしたが孫権の許可が出ず、五鳳年間にやっと戻したとなっとる。
それまでは「朱績」、最終的には「施績」と名乗っていた事になる。
だから施績と表記されるし、朱績という表記も残るし間違いではない。
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー
マジっでさんくす。知らなかったYO
あうう・・転載許可とか(ファー・イースト・リサーチ風)とか恥かすぃ(´Д`;)
厨とか言われるかもしれんが陸議→陸遜・・・。
張飛翼徳→張飛益徳
文鴦→文俶
元信→元康→家康
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/25 23:17
呉懿の改名後の名前ってなんだっけ
>>34 “呉壱”のこと?
あれはあくまで史料での表記上の改名だけどね。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 10:40
李平→李厳間違いだったらすいません
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 10:54
虎千代⇒景虎⇒政虎⇒輝虎⇒不職庵謙信
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 16:12
福田秀文→立川ワシントン→ジョニー三ノ介→(旧)桂三ノ介→桂サンQ
→立川談とん(二つ目)→立川カメレオン→立川レーガン→立川丹波守
→英国屋志笑→立川レフチェンコ→立川世之介→立川小錦→快楽亭セックス
→快楽亭マーガレット→立川平成→二代目快楽亭ブラック
茶筅→具豊→信意→信勝→信雄→常真
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/06 21:24
晴嗣→前嗣→前久→龍山
武将じゃなくてスマソ
メジャーな所では
陸議→陸遜
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 01:37
別次鑑連→立花鑑連→立花道雪
大友義鎮→大友宗麟
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 03:15
お玉→細川ガラシャ
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 04:16
山中鹿之助の「自称・ライバル」がいたよね。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 14:17
聶遼→張遼
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 21:32
>>47 それそれ。
なんだっけ?ニラレバじゃなくて・・・
>>49 タラノキでんがな(w
しかも「狼之助」て。
とことん「鹿」に勝つ縁起を担いだのにねえ…
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 23:47
長政が浅井賢政と名乗ってた頃は
朝倉と六角、どっちへの帰属意識の方が
強かったのかな?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/04 10:40
当然六角だろ
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 22:33
桂田長俊
安居景健
土橋景鏡
教来石民部
春日弾丞
鹿はタラノキをどうこうして角を落とす、狼は鹿に強い、(山中)幸盛に勝つ、で
たらのき狼之介勝盛
だったっけ?
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 11:58
土橋信鏡だろ?
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 18:59
>>54 それそれ。ニラレバじゃなくてそれ。
そして一騎打ちを申し込んで、あっさり死亡、だっけ?
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 19:00
閻行→閻豔
岩ノ森章太郎改め山止たつひこ→山止たつひこ→秋本治→SagaX
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 12:16
羽柴長秀→秀長
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 12:54
>>53
工藤→内藤 も忘れないように
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 20:50
毛利の元春・隆景は養子として入り込んだ
吉川や小早川姓の印象が強いけど
北条の氏照・氏邦は大石や藤田姓ではなく
北条姓の印象が強い。
織田の信雄・信孝、それと弟の信包も。
のっとるだけのっとってあくまでも
北条・織田の人間って意識?
それと勝長って養子として岩村城に入ったんだっけ?
だとしたら岩村城に何事も無く長ずれば遠山勝長?
(勝って武田人質時代の偏きだったかも)
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 01:01
上杉景虎
北条三郎氏清→上杉景虎→〃政虎
上杉輝虎入道謙信と同様に上杉景虎も政虎を称していたと思われる
烏帽子親は兄北条氏政か?
臼杵艦速
臼杵艦景四郎左衛門尉→〃艦速→〃宗勢
>>25 伊勢新九郎盛時→〃早雲庵宗瑞
伊勢宗瑞は終始伊勢姓で、北条姓は氏綱の代に始まる
北条早雲は後世の俗称
>>44 大友義鎮→〃宗麟→〃宗滴→〃休庵→〃円斎→〃玄斎→〃三玄斎→〃三非斎
>>61 氏照、氏邦の場合はのちに北条姓に復帰している
まだ家門や家名が重んじられていた地域では、領国支配を正当化するため
国人、土豪層が受け入れる方針を打ち立てる必要があった
小田原北条氏の伊勢姓から北条姓への改姓もその一例である
織田勝長の場合、信長公記には津田源三郎とも書かれているが
遠山姓については一切触れていない
また、勝長は武田勝頼の偏諱とも言われているが、武田氏を離れたのち
元服して源三郎勝長を称しているため定かではない
兄羽柴秀勝の偏諱か?
>>8 でも白河義親を白河不説斎にしても誰も知らないだろうし、
マニアには嬉しいかもしれんが、マイナーなところまで全部調べるときりがないと思うぞ。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 19:27
>>64 朝倉経景を祖とする一族は「安居殿」で尊称されていたが、
朝倉景健、景鏡の場合は、朝倉氏に対する決別の意思を示す目的で
改称したものであり、上記の場合とは異なるものと思われる
ちなみに、土橋は大野郡土橋に由来か?
>兄、それも”羽柴の養子の秀勝”の偏諱を名乗る理由がない
すみません、前言取り消します
織田勝長の場合は、甲斐侵攻の総大将に織田信忠、
平定後は、滝川一益が関東管領職に任命されたことから
甲斐侵攻の正当化を改名で補ったとは考えにくい
人質関係にあった武田氏に対する尊意か?
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 22:12
新之助→エビゾウ
とかだったらマジでへこむね。
新之助って若侍のようなさわやかなイメージがあるが、
エビゾウはかなり姑息な老人のようだ。
>>62 氏邦は北條に復姓してたっけ?
藤田姓しか確認できてないと思うんだけど。
>>65 当然、ある程度の尊敬はあると思います。
信長って、完全に見捨てるまでは勝頼にかな〜り優しい懐柔
してますよね?
武田攻めは信忠が確かに総大将で、信忠配下の将卒で
ほぼ完遂しているのですが、その信忠の配下に件の
「織田勝長」くんが混ざってます。
どうも道案内をしていたらしいですが、
上州平定戦あたりでは実際そこそこ活躍してるみたいです。
それと、人質ではありますが養子。何故か養子。
養子人質先から送り返されて即元服&織田の大事な犬山城主。
そして直後に武田侵攻。規模はわかりませんがある程度の軍勢率いて。
信忠上洛にも寄り添うようにつけ置かれ、おかげで二条城で・・・
わたしは、信玄も信長も一目置く、将来有望な大層な人物だったの
ではないか、と妄想をプラスします。
「秋田城介」信忠が、織田政権の東国担当だったことを考えれば、
今後「武田信玄養子であった勝長」は、多少なりとも有効な駒かと。
やっぱし勝長は武田から一字・・・とわたしは考えますがいかに?
そして出典忘れましたし、あくまで噂ですが・・・
上洛時の織田勝長軍(手勢)は
赤 備 え
だったらしいです〜。うひょ〜〜。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 02:19
ああ、だから
・武田への尊敬&それを逆に利用
ってことです。
朝倉のほうですが・・・
朝倉政権時から「安居○○」と署名した書状があったような・・・
渦中来ないかなぁ。彼ならきっと・・・
ちなみに安居=「アゴ」です。
わたしなら・・・なんかいやです・・・(笑
>ちなみに、土橋は大野郡土橋に由来か?
おーなるほど。
飛騨の姉さん家の名前がわからん。こんな感じ?
三木良頼→姉小路嗣頼 (飛騨国司を称す)
三木光頼→三木自綱→姉小路頼綱
三木顕綱→鍋山顕綱 (養子先乗っ取り)
一宮国綱→三木国綱 (頼綱の妹婿で三木氏を称す)
改名によって運勢とかもかわったんだろうなあ
72 :
無名武将@お腹せっぷく:
「偏諱」の場合は何らかの形で主君に認められた、ってことだから
運勢上向きになったやつもいただろうね。
一方で、大友晴英→大内義長なんかは転落一直線な感じだが。