乱世の雄・伊賀国人衆について語るスレッドです。
2げっと?
伊賀惣国一揆といった方が正しいかもな
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 12:43
浄雲は忍者じゃなくて国人の1人なんだけどね
なんで出自が忍者になってるの?
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 14:54
信長の野望で言えば、伊賀の戦国大名は仁木氏の方が相応しいと思う
んだが・・・支配権がほとんど及ばないにしても一応、守護だったわけで。
そのうえで国人衆に浄雲、忍者衆に服部、百地、藤林がくれば、実際の
形に近くなるんじゃないの?
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 16:03
服部と言えば・・・
http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-030717-0018.html >香取慎吾が「忍者ハットリくん」実写映画
>SMAP香取慎吾(26)がハットリくんに変身! 人気アニメ「忍者ハットリくん」の
>初の実写映画で主人公ハットリくんを演じることが17日、発表された。
>来年スタートのNHK大河ドラマ「新選組!」で主演の近藤勇役を演じるが、こちら
>の映画ではコミカルで愛らしいキャラクターに挑戦する。「忍者ハットリくん」は、藤
>子不二雄A氏が64年に月刊誌で連載をスタートさせ、81年から89年までの間に、
>5度にわたってアニメ化され、4回も映画化された人気作品。実写映画化は初めて
>となる。
>「頑張っている大人には子供時代を思い出してもらい、子供たちには新しいヒーロ
>ーとして、家族で楽しめる映画をつくりたい」という製作側の意図に、幅広い人気を
>持つ香取がぴったりとしてキャスティングされた。香取は「うれしいです! 楽しい
>です! 感動です!」と大はしゃぎ。
>子供時代から大ファンで「僕の中のイメージと、新しいハットリくんをうまく混ぜ合わ
>せ、今のハットリくんを作り上げたい」。また「痛快で見終わった後にアクションをま
>ねしたくなるような作品にしたい」と意気込んでいるという。
>忍者修行のために伊賀の里から東京に出てきたハットリくんと、ケンイチ少年の友
>情と冒険を特撮を交えて描く。撮影は7月中旬スタート。
>演出は鈴木雅之監督。製作は電通、フジテレビなど。東宝配給で、来夏公開予定。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 16:07
,.――――-、
ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
| | (・)。(・)|
| |@_,.--、_,> 蚊取メンバーには荷が重いでござるよ。
ヽヽ___ノ
. . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
また香取かよ・・・
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 16:28
ルパン3世で、五右衛門が百地三太夫の末裔と因縁の対決をするという
話があるんだが、初代五右衛門と百地三太夫って何か関係あるのか?
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 16:45
>>9 百地三太夫(=百地丹波?)と石川五右衛門は上忍と下忍の間柄にあったとされるが、
三太夫は最愛の後妻を石川五右衛門に寝取られてしまったらしいw
それが発端となって五右衛門は伊賀を去り、京で盗賊になったとか・・・ホントかどうか
知らないけどね
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 16:46
伊賀の国人はやはりただの国人なのであって、忍者などではない・・・
>>11 だからスレタイも「国人衆」と括ってるだろが
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 17:09
>>10 へえ
モンキーパンチはそういう因縁を持ち出すのが上手いな
上忍家とされる服部、百地、藤林氏も結局のところは土豪(地侍)だしね。
上忍と下忍たちの関係は地主と小作人のようなもので、この下忍たちが能力
を買われて各地の大名家に雇われる構造になっていわけでしょ。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 17:17
百地三大夫って本当にいたの?
>>14 雇われてたっけ?
蒼天録では浄雲さんのほかに、植田光次、滝野吉政など豪族連合のメンバーが
登場してきて「それらしく」なってたな。
とはいえ、足利家臣のうえに出自は相変わらず「忍者」・・・
偏見だろ、ここまでくると・・・
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 18:11
大館義実は違うだろ……
豊臣時代に伊賀に所領を宛がわれたってだけじゃなかったか?
>>15 俺は「三太夫という人間は実在したが、丹波とは全くの別人で江戸時代の人物」
と聞いたことがある。
丹波の名前って正西でいいのか?
丹波の孫を三太夫とする説もあるんだよね・・・ホント、謎めいた人物・・・
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 19:23
>>17 ということは、嵐世記なら百地や藤林を仕官させ、浄雲と共に武将
として伊賀の経営に当たらせる方が正しいということになるな。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 21:40
結局、戦国期は伊賀は誰の支配下だったんだ
もちろん天正伊賀の乱よりも前で
六角
25 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 04:13
>>23 応仁の乱の段階での伊賀国守護は仁木氏。
しかし、その支配力はごく限られたものに過ぎず、応仁の乱以降は国人衆が仁木派、
六角派、北畠派、独立派に分かれて割拠する状態が続いていた。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 05:51
そもそも平安〜鎌倉期には、伊賀はその大半が東大寺などの荘園によって占めら
れており、守護・地頭などの支配が及ぶ地域はごく僅かだった。
したがって伊賀の地侍たちは中央政権の支配を受けず、鎌倉期以後は「悪党」とし
てこれらの荘園を侵略していったため、国内には多数の独立勢力が割拠する状態
となっていた。
戦国期には守護・仁木氏を追ったものの、伊賀1国を支配する勢力が現れることは
なく、それぞれの一族が一党を形成し、党同士による自治組織「伊賀惣国一揆」が
構成され、惣国一揆衆の中から「伊賀十二人衆」と呼ばれる評定衆が選ばれ、国
政を担うことになった。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 15:44
家康の伊賀越えのときには「服部半蔵が伊賀衆200名を集めた」と言われ
てるけど、実際には彼らの妻子を人質に取ったり、茶屋四郎次郎(清延)が
行く先々で惜しみなく金銀をバラ撒いたおかげらしいね。
それに道案内をしたのは半蔵ではなく、第二次天正伊賀の乱で織田軍に
通じた柘植党だったという説もある。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 17:13
仁木ゴルフ
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 17:15
伊賀越えは徳川の創作だで。
>>29 じゃあ、どうやって家康は堺から岡崎に逃れたんだ?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 17:37
堺>南海電鉄⇒関西国際空港>国内線東京行
⇒東京>新幹線⇒名古屋>徒歩⇒岡崎
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 17:43
>>23 信長が後ろ盾になって守護に据えた仁木義視(友梅)は、国人衆の抵抗により
1578年に伊賀を追放されているな。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 19:31
空想の人物に子孫がいるのか?
>>35 まあ、架空の人物だけに物は言いようなのかも知れんね
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 22:17
三太夫どころか百地丹波と藤林長門が同一人物という説すらある。
さすが上忍家・・・素性が定かじゃない方がそれっぽくていいね。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 00:04
そもそも上忍の3家は服部氏とその分流と言われている。
3家は余野郷において千賀地と名乗ったこともある服部保長、北伊賀の鞆田郷を拠点
とする藤林長門、南伊賀の大和との国境付近に勢力をもつ百地丹波。
しかし、服部保長は享禄年間に伊賀を去り、将軍足利義晴に仕えているので、実質的
には北伊賀は藤林長門が、南伊賀、中伊賀は百地丹波が中忍30〜40家、下忍200
〜300人を従えていたと。
したがって藤林長門と百地丹波が同一人物であるとするのは・・・ちょっと無理がある話
かも知れない。
伊賀12人衆の植田光次(阿山郡の土豪)は、第2次天正伊賀の乱のときに
伊賀を逃れて三河に落ち延びたというが、やはり服部保長−正成を頼っての
ことなのかな?
光次自身は後に豊臣家の家臣になるわけだが・・・
どっかで聞いた話。
服部保長と服部正成は親子ではないらしい。
ソース、何だろ?
>>40 『速水家譜』では正成の父を正種としており、保長の記載がないのに対して、『寛永伝』
では保長の子について保正、保俊の記載はあるが、正成の記載がないという指摘じゃ
ないかな?
この点から正種と保長を別人と仮定した場合、正種━正成、保長━保正・保俊という2
系統が存在するという説だよね、確か。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 03:58
>>38 その保長と200名の伊賀者を召し抱えようというのだから
松平清康なる人物、なかなか先見の明があったのかな
>>41 保長系はどうなったんだろう?
そして俺は何でこんな時間に書き込んでるんだろう?
>>43 『干城録』(『寛政譜』の補正版)では「保長と正種は同一人物」と結論づけている
ので何とも言えないが・・・
保長の子・保俊、保正の子孫はいずれも旗本になっている。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 05:32
何か上忍家を語るスレになりつつあるな……
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 16:08
>>26 確か「伊賀惣国一揆」自体は信長の上洛戦が発端になってるよね。
遠からず信長が伊賀に侵攻することが予想できたわけで、それに対処するために
国内の土豪たちが共同戦線を構成したと。
まあ、最終的には2度の侵攻によって伊賀は壊滅するわけだけど・・・
>>10 「忍びの者」でもそんな感じだったな。
三太夫の策略で五右衛門の方が誘われてたけど
>>46 そして奴等は本能寺後、また蜂起しやがった(らしい)
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 21:14
>>48 そりゃあ、伊賀衆にとって信長は仇敵だからね。
その信長が斃れれば、信長が据えた領主や、信長に内通した勢力を排撃しようと
するのは当然のこと。
第三次天正伊賀の乱が起こったことで、信長に通じていた福地伊予や柘植党など
は三河に逃れることになったしね。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 21:27
伊賀の有力国人ってどんな顔ぶれなんだ?
百地丹波守、藤林長門守、森田浄雲入道、滝野吉政、下山甲斐守、植田光次、町井貞信、
そのほかに福地伊予守、柘植某といったところまではわかるんだが・・・
51 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 23:36
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 02:00
浄雲「入道」ということは…あの顔グラじゃマズくないか?
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 02:57
嵐世記の服部保長の顔グラが、蒼天録で滝野吉政に転用されてたのは・・・
やはり伊賀つながりということか?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 00:46
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 05:01
伊賀衆の特技に「迎撃」が多いのは、やはり天正伊賀の乱に因んでのことなんだろうが、
この特技がまたスーサイド・アタックのような性質を帯びてるのも…
やはり天正伊賀の乱の結果を踏まえてのことか…???
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 18:00
徳川家康が伊賀者を多く召抱えて、服部半蔵がそれを束ねていたというのは
本当ですか
伊賀は徳川家の領地から遠く離れていたにもかかわらず、徳川家だけのために
働いていたのですか
それとも、伊賀はあちこちの大名に人員を派遣していたのかな
>>56 影働きじゃ出世できないから槍働きで出世しようと
伊賀を出たのが半蔵の父親。
で、半蔵は槍の名手として名をあげたが、結局忍者の頭領にされちまったとさ。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 00:50
いや別に忍者の頭領じゃないぞ。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 00:52
,.――――-、
ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
| | (・)。(・)|
| |@_,.--、_,> ニンニン
ヽヽ___ノ
>>56-58 確かに彼自身が城攻めの際に伊賀者を使ったという話はあるようだけどね。
でも、彼のポジションは伊賀者の監督者というだけで、彼自身に忍術の心得が
あったわけではない。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 01:00
>>56 伊賀の勢力図からすると六角、北畠、仁木などに与する勢力と、独立
勢力に大別され、大名家に人材を提供していたのは後者らしい。
山岡鉄舟は甲賀忍者?
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 01:33
>>56 松平清康の時代に服部保長(はじめ足利義晴に仕える)とその一党が召し抱えられて
いるとすれば、その親戚縁者が伊賀に残っているということも考えられるから、天正伊
賀の乱で伊賀を追われた者たちが徳川領に逃れてきたというのは、そういう繋がり合
いがあったからなんだろうけどね。
とは言いつつ、徳川を織田の同盟者と考える残存勢力もあったわけで、伊賀者が必ず
しも親徳川だったわけではない。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 02:11
>>60 いや別に伊賀者だからって忍術使えるわけじゃないぞ・・・
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 02:33
>>65 じゃあ、諜報活動やゲリラ戦法を得意とした伊賀衆は一体何者なんだ?
現存する忍びの道具の数々は一体何の目的で作られたんだ?
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 02:38
>>66 諜報活動は伊賀者というよりも修験者たちの得意としたもの。
別に忍術を使うんもんじゃないし。
ゲリラ戦は野武士の類は大抵得意。伊賀でも甲賀でも川並衆でも風間党でも。
忍びの道具なるものは江戸時代に興りし武術「忍術」の所産。
明治期には活躍の場(江戸期にもほとんどなかったが)を失った伊賀者たちが、
その技能を生かして薬業や花火師などに転じたという話もある。
下地になるような技術は当然、伊賀者に培われていたんじゃないのか?
しかし、何で伊賀の国人衆を語り始めると必ず「忍者」の話に
なるんだ?
伊賀の国人の大半は普通に単なる地侍。
修験の盛んな土地柄故にそういった連中とつながりのあるのも一部いた。
そこで全国を行脚する修験者たちが持ち帰る情報を流してもらったり
また彼らの知識を習い覚えたりしている者もいた。
ま、その程度なんだな。
別に忍術を使ったとか忍者だったというわけじゃあない。
「忍術」なんてのはほとんどが江戸時代にもっともらしく創作されたものだよ。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 02:55
>>70 ほう、そういう話が詳しく紹介されてる本って何かあるの?
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 03:26
雑賀衆みたいに傭兵活動してたんじゃないの?
雑賀衆というと鉄砲みたいに思われがちだけど、それ以前から「槍働き」
を以って各地で活躍したらしい。
伊賀や甲賀も方々出向いて金を稼いでいたんじゃない?
戦国時代に自治を守ろうとすれば、そうやって自分たちの力を
広めておくのはかなりいい方法だと思うんだけど。
ただ雑賀みたいに船でどこでも行くというわけにはいかないから、
少人数で情報収集とか放火をやったんでしょう。
伊賀甲賀の連中は放火や夜襲が得意だったようだから。
もっとも、こういう連中は北条の風魔党(風間党)みたいに
あちこちの野武士連中がやっていたようだけど。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 03:38
>>70 藤林長門の子孫、藤林保武が編纂した『萬川集海』に収録されている楯岡道順の
話なんかも創作でいいのか?
万川集海は自称1676年の執筆だけど、現存するのは
1789年に幕府に献上されたものだからなあ・・・
いずれにしろ一次史料と呼ぶには新しすぎるんだよな・・・
ペリー来航の時に幕命により黒船を探索したのは藤堂藩士の澤村甚三郎
だったよな。
確かに「伊賀衆がみな忍術を駆使する忍者だった」なんて話はあるわけないし、
その素性は地侍と見て間違いないだろな。
しかし、伊賀には南北朝以来の悪党、さらには鈴鹿山系の山賊、山岳密教とし
ての修験道などから「山岳兵法」が派生するような地理的土壌があったこと、さ
らには火の扱いに長けた鉄器製造の技術者である渡来人たちが在住していた
こと、京からほど近いため畿内における情報収集が自らの生存権を左右する重
要な要素だったことなどから薬術、火術、謀術に長けた者が多かったということ
はあるだろ。
まあ、現在の人間がイメージするような忍者像とはほど遠いとは思うが。
その論法で行くと畿内が忍者だらけになりかねないんだけどなw
そもそも忍者自体江戸時代まで存在しなかったと。
情報収集にあたるような連中は、有名どころの大名はみんな抱えていた。
武田の透波、北条の乱波、上杉の軒猿、伊達の黒脛組。
まあ忍術は使えなかっただろうけど、こういうのが所謂「忍者」と
呼べそうなところじゃないかね。
「忍者」という語句自体は、江戸時代までその使用例がないんだけどね。
>>73 正しくは伊賀崎孫兵太兵衛といい、号を道順。出生の地・阿山郡楯岡に因んで「楯岡の
道順」と呼ばれていたようだが、彼の名は菊岡如幻の『伊乱記』、さらには『伊賀国司系
図並侍附帳』(天正10年成立、延宝4年写本)にもその名が登場している。
道順は六角承禎の要請により、伊賀出身の忍び44名、甲賀出身の忍び4名を率いて佐
和山城に潜入し、火を放って六角軍の攻撃を容易ならしめたと言われている。
まあ、このスレ的には創作ということになるんだろうが。
>>77 畿内全域が修験道の行者で埋め尽くされていたw
>>78 忍びの術なるものも基礎になる技術がなけりゃあ成り立たんでしょ
>>80 ま、実在の人物でも尾ひれがつくなんてこた多いからね。
真柄直隆なんて時代が下ったら身長2メートル超・体重300キロの
バケモノになってたからな・・・
84 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 04:41
>>79 >武田の透波、北条の乱波、上杉の軒猿、伊達の黒脛組
こういった連中は、大名が組織したそのための専門集団なわけで。
伊賀衆だの甲賀衆だのは、あくまでも地域単位の集団だからねえ。
『信長公記』だと長島から撤退する織田軍を雨の中弓矢でさんざん
攻撃したのが伊賀甲賀の連中だな・・・
至って普通の地侍の戦い方なんだよな・・・
太田牛一も一つ「伊賀甲賀の者どもの使う妖術の前に・・・」とか
書けば良かったのにw
>>82 万川集海など読む限りでは、孫子だのあちこちの軍学だの
はては陰陽道などまで幅広くパクッているようだね。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 04:49
結 論 : 忍 者 な ど 存 在 し な か っ た
パクるのは、忍者の得意技
1 名前:無名武将@お腹せっぷく 04/02/02 06:32
乱世の雄・伊賀国人衆について語るスレッドです。
の結論が「忍者など存在しなかった」かよw
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 04:53
>>1の主旨に沿って書くなら、
長島で織田軍を追撃し大損害を与えた。
織田軍を一度は撃退した。
うむ。乱世の雄っぽいな。
江戸幕府や藤堂藩は何で伊賀者なんか登用したんだ?
自前の諜報組織を作れない家なら伊賀者を雇う気になるかも。
そういう活動をしてたのも少しはいたんだろうし。
幕府は・・・諜報活動は別に隠密とか作ってやらせてたよね・・・
で、伊賀衆の仕事は城内の警備とか・・・
やっぱり家康が世話になったという話は本当だったのだろうか。
>>89 >織田軍を一度は撃退した。
一度目は相手があのお坊ちゃまだからな・・・
そして二度目には圧倒的な兵力差でネジ伏せられ・・・
>>91 伊賀越えを信じている香具師がいるとはw
・・・それも後世の創作ってことにしておけや
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 05:05
服部保長が伊賀者を率いて足利義晴に仕官したときも、役回り的には将軍の
身辺警護じゃなかったか?
しかし、当時の将軍家に保長が望む所領1千貫を与える財力などなく、そこを
松平清康にスカウトされたと。
伊賀甲賀ネタは虚実定かならぬ情報が氾濫してだいたい有耶無耶に
終わるというのがこれまでのパターンだな。
六角高頼に援軍にいったのは、ただの伊賀の地侍。それとも忍者
>>96 スマンがここは「伊賀国人衆を語る」というスレなんだが・・・
>>97 六角が佐和山城を攻めたちゅう時の話だっけ?
それならまず、その事が書かれた一次史料を探さないとな・・・
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 05:17
つーことは信長の野望で諸勢力として登場してくる「忍者衆」「忍びの里」なんて
あからさまな嘘っぱちってことじゃんw
まあ、そのあたりはKoeiだし、ゲームだからいいか・・・
>>102 まあ待て。例えば『甲陽軍鑑』には武田信玄が「すっぱ侍」を雇って
部下に預け、諜報活動に当たらせたとか書いてあるわけよ。
そういう奴らだと思っとけばいいんだよ。
>>102 そいつらがやたらネガティブ・キャンペーンやってプレイヤーを痛めつける
のも・・・
Koeiだし、ゲームだからw
こ、甲陽軍鑑……
とりあえず『萬川集海』みたいにホイホイ城内に侵入して放火して回る
ような奴がいたら、戦国合戦の7割は無駄な努力をしたことになるな・・・
>>106 少なくとも江戸のごく初期には成立している、
武田家の内部情報を知るには欠かせない史料であるぞ。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 05:24
>>105 そう言えば「足利義尚を討ち取ったのは甲賀衆だった」とか抜かす説
があるよな
だから本能寺から信長の遺体を持ち去ったのは伊賀衆だっつーの。
>>107 逆に忍び対策術を売り歩くような忍びもいたんじゃないか?
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 05:31
>>108 成立時期よりも重大な欠陥が潜んでそうな書物ですが・・・
>>113 これ以外に無いので慎重に使う方向で、といった所だな。
年代の表記にミスのあることと
勝頼・跡部・長坂あたりをやたらと非難していることを
除けばまあ使えんでもない。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 05:44
>>105 永禄4年(1561年)に浅井賢政が斎藤氏と交戦している間に、六角義賢が沢山(佐和山)城
を急襲して、百々盛実が討ち取られたときのことじゃないの?
>>110 持ち去ったってさあ・・・明智軍の重囲をどうやって突破したんだ?
せめて得意の火術を駆使して跡形も無く燃やしたとかさ・・・
>>116 明智光秀の了解を得て引き渡されたに決まってるだろ。
お互い信長には恨みのある者同士だからな。
人間を「跡形も無く」燃やすのは相当難しい。
それこそ明知軍の重囲を突破して信長の死体を焼き払いに行くのも
難しいと思うわけで・・・
120 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 06:04
>>50 遅レスだが・・・
町井氏は新田氏流で、もとは伊賀国木興荘の地頭職の家柄。
貞信は木興城に拠り、国人衆の中心人物として元亀2年(1571)に守護・仁木義視を
迎え入れるが、天正6年(1578)には義視を追放している。
第1次天正伊賀の乱では副大将格として北畠(織田)信雄軍を撃破したが、第2次天
正伊賀の乱において木興城に籠城、戦死している。
町井氏はこれにより伊賀の地を離れたが、その後、天和2年(1681)に現在の上野市
枅川に帰農して庄屋となっている。
延享元年(1744)に建てられた入母屋造りの主屋と書院は、指定文化財として現存し
ている。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 11:09
松尾芭蕉の先祖も伊賀国人だったのが。
松尾芭蕉は忍者ではなく、幕府隠密。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 15:31
>>121 芭蕉の生家は藤堂藩の無足人。
藤堂高虎は伊賀者を統率するうえで余計な摩擦を避けるため、服部半蔵の
血族にあたる保田元則に藤堂姓を与えて家老に据え、さらに伊賀国人の中
で家格の高い者を士分に、それに次ぐ家格の者を無足人として苗字帯刀を
許可していた。
なお、芭蕉の父は松尾与左衛門。母の実家は百地丹波の一党に属してい
たという。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 23:58
>>122 旅枕なる隠密用の小道具が発見されて・・・という話だったね
125 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 01:39
あれだけの旅にかかる費用を門人や同好の士からの喜捨だけで賄えた
とは思えんし、その凄まじい健脚ぶりもタダ者ではないよな
やはり何らかのバックボーンは存在したんじゃない???
旅枕って・・・荷物を増やしたくない旅行者には必須のものでは。
>>125 費用の事はなんとも言えないけど、明治以前には健脚の人間なんて
掃いて捨てるほどいたと思われ。
明治になっても半日で人力車に客乗せて東京から日光まで行く奴が
いたぐらいで・・・
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 03:02
>>126 「旅枕」に関する稲富流砲術宗家・沢田平氏の鑑定によると、
「上の袋の部分には干飯、下の木台には三段の隠れ引き出しがあり、
小型の算盤と漢方薬、鍼灸に用いる三稜針、遠眼鏡、弾の飛び出す
煙管、ミニ手裏剣や小判などが隠されている」そうな・・・
まあ、芭蕉が公儀隠密だったなんて信じ難い話だけどね
128 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 03:16
>ミニ手裏剣
(・∀・)カクイイ!!
手裏剣って投げたときに音がするので、それほど実用性のある
武器じゃなかったという話もあるよね。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 03:50
>>55 天正伊賀の乱(第2次)における最後の激戦地、柏原城では滝野吉政が大将、百地
丹波守が参謀長という布陣で織田軍を迎え撃ったが、多勢に無勢で無条件降伏し、
吉政が筒井順慶に城を明け渡している。
丹波守はこの戦いで戦死したとも言われているが、吉政は人質として差し出すことに
なった子の亀之助のほか、丹波守たちを伴って信雄の陣を訪れたというから、どうや
ら戦死してはいないようだ。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 15:03
島原の乱に従軍した甲賀衆は・・・
鵜飼勘佐衛門……54歳
望月兵太夫………63歳
望月与右衛門……33歳
芥川清右衛門……60歳
芥川七郎兵衛……25歳
岩根勘右衛門……54歳
岩根勘佐衛門……56歳
伴五兵衛…………53歳
夏目角介…………41歳
山中十太夫………24歳
の10名。原城に潜入し、城内の様子を探索したという。
それにしても平均年齢46.3歳とは凄いなw
実戦経験者優先かな?
一揆勢に変装して潜入したまでは良かったが、
九州の方言が全く分からずほとんど役に立たなかったのが実情w
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 23:54
>>133 しかも一揆勢の投石で何人か負傷してたなw
米を数俵盗んでいたな。当時一揆勢は完全に兵糧が枯渇しており、
数日分の兵糧を盗まれたのは致命的だったのでは。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 23:58
忍者がそもそもビビって役に立たなかったって話聞いたことある>島原
138 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 00:04
>>134 落とし穴に落ち、石礫を打ちつけられて望月与右衛門と芥川七郎兵衛が
重傷を負ったらしいね。
天草四郎が使うバテレンの魔法の威力です。
>>137 肥後・細川藩の忍びじゃないかな?
城内に潜入したのに報告がないので、後をつけて探しに行ったら
城内に潜入できず、竹束の陰に隠れてブルブル震えてたとw
魔術VS忍術・剣術
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 00:12
島原の乱後、甲賀衆には恩賞や扶持が与えられたという話もなく、完全な骨折り損
だったようだね。
一人あたり二表ぐらいの米を担いで出てきたのかな。あの険しい原城
から米俵担いで敵の追撃を振り切って脱出してくるなんて、さすがに
忍者は凄いな。
確か城中に潜入したのは負傷した望月与右衛門と芥川七郎兵衛のほか、夏見角介、
伴五兵衛、山中十太夫の5名だったはず。
>>144 一人二俵は無理だろ。
五斗俵としても二つ持てば150キロだ・・・
盗むより駄目にしたほうが・・・>米俵
五人で潜入して十三俵。負傷者二人は一俵ずつとして無傷の人間
一人あたり三俵から四俵。忍者は化け物だ!
149 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 01:49
>>145 望月、芥川が負傷したときには一揆衆に撃退されたわけで、兵糧米を盗んだのは
後日の話でしょ。
とすると、無傷の8名全員が参加したのかも知れないし、まあ、不可能な話ではな
いかもね。
>>132 望月兵太夫と芥川清右衛門は、伏見城籠城戦に参加した甲賀衆の生き残り。
負傷した荒川と望月が、伏見の生き残りと親子だったら面白いな。
伏見城で、甲賀衆って何したんだっけ?
153 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 03:04
>>152 関ヶ原の前哨戦のひとつ。
徳川家臣の鳥居元忠以下1800余名が伏見城に籠城して西軍と交戦したが、これに
甲賀衆が50〜60名ほど加わっており、名古屋丸や松丸の守備にあたっていた。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 03:07
裏切ったんだよね
それで落城した
伏見城における甲賀衆の中心人物は甲賀作左衛門、岩間兵庫頭、深尾清十郎
など。
甲賀と岩間の率いる一隊は名古屋丸を、深尾の率いる一隊は松丸を守備してい
たが、西軍の長束正家の軍にも甲賀衆がおり、深尾に内応を呼びかけたが、深
尾はこれに応じるつもりはなかった。
しかし、長束は籠城中の甲賀衆の家族を連行し、磔刑に処す素振りを見せたた
め、これに怖気づいた深尾配下の永原十内、山口宗助ほか手勢30〜40名が内
応して松丸に放火、これに乗じて西軍は総攻撃を仕掛け、伏見城は落城するこ
とになった。
それって別に甲賀衆だから出来た攻撃とかじゃないよね・・・
城内に知り合いがいれば誰でも良かったんじゃ・・・
>>156 そうでもないだろう。伏見が永く持ちこたえたのは甲賀衆の働きが
大きいだろう。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 14:20
また思い込みか
島原の乱の時に、どこぞの密偵が偵察に行ったけど
「城内に知り合いがいないから無理ぽ」と隠れてガクブルしてたって
話があったけど、甲賀衆も予め敵味方両方に身内を送り込んで
諜報活動したってことかね。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 16:20
>>158 しかし、西軍が名古屋丸、松丸の甲賀衆に手を焼いたことは事実だろ。
「そこで」人質作戦やることにしたわけだから。
>>159 そうそう。
事前に手引きをする忍びが潜入してなかったから、情報収集がエラい
困難なものになったというよな。
城内の仕掛けについて全く情報がないまま潜入せにゃならんわけで、
2名の重傷者を出して失敗したわけだし。
>>160 まあ、それ以外は人質の取りようがない徳川勢だしな
162 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 17:13
戦後、伏見城で戦死した甲賀武士の子孫たちは甲賀百人衆として山岡道阿弥に預けられて
いるよね。
>>160 そういうカラクリばかりでは、誰も甲賀衆を雇わなくなるだろうけどw
>>163 事前情報が何もない偵察行だぞ
んなモン、いくら軽業が利く忍びの連中だって困難だろ
>>164 忍び?( ´,_ゝ`)プッ
そもそもそう簡単に城内が探れりゃ苦労しないよ。
ホイホイ潜入したり放火したりなんて出来ることじゃない。
たまたま攻守両方に甲賀衆が分かれていた時に
内応・放火をやったってんで甲賀衆が持ち上げられてるだけだろ。
>>162 山岡道阿弥(景友)に甲賀衆を預けた理由は?
むしろ簡単に内応するような奴らだから甲賀衆は江戸時代も
貧乏で栄えず、万川集海なんていう書物を幕府に献上して
自分たちをアピールしてみたけどせいぜい一時金が貰えただけで
何の解決にもならないんだよなw
>>167 家康は関ヶ原の役に先立ち、山岡道阿弥に甲賀衆を召集して伏見城に入城させるように
要請していた。道阿弥は家康の要請に応じ、最終的には300名前後の甲賀衆が伏見城
に入城している。
>>155にもあるように、甲賀衆の一部が西軍に内通したことが切っ掛けとなり伏見城は落
城したが、この際に道阿弥の弟・景光を含む甲賀衆の多くが討死している。
この伏見城での功績?により道阿弥に甲賀百人衆が預けられ、道阿弥には9千石の知行
(うち4千石が甲賀衆の知行)が与えられた。
>>168 「萬川集海」は伊賀国人の藤林長門の子孫・保武が編纂した
ものなんだが・・・
>>170 それは徳川家に仕官しなかった甲賀在住の帰農した連中だな
幕府に窮状を訴え、慰労金を受け取っていたが、幕府の財政が悪化すると
その嘆願も無視されるようになり、幕末になって天保義民一揆を起こした
わけだろ
>>170 自称そういう事になってるけど、幕府に献上したのは甲賀衆。
現存してるのもこれだし。
>>169 家康の伊賀越えを支援した伊賀衆たちのほとんどが同心だったのに対して、甲賀百人衆
は与力格10人(200石)にそれぞれ同心10人(20石)が付属するという形で召し抱えら
れている。
>>171 一応、困窮する甲賀衆を見るに見かねて?家康は尾張徳川家や岸和田藩
あたりに仕官を斡旋してるな
尾張の場合には鉄砲指南役、岸和田藩の場合にも鉄砲隊として採用になって
いる
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:08
>>175 在郷のまま年に1回だけ殿様に武芸を披露するっていう、家臣だか
何だか分からん香具師のことだろ?
177 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:42
>>169 ということは、家康は伊賀越えでの伊賀衆の功績よりも、伏見城籠城戦での
甲賀衆の功績の方を重視していたことになるな
形のうえでは・・・だが
178 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 22:00
足利義尚は鈎の陣で甲賀武士に襲撃されてあぼーんしたのか?
>>177 伊賀者と甲賀衆って細作と傭兵くらいの違いがあるだろ
六角征伐の時は六角を救援すべく、伊賀衆200が援軍に駆けつけてい
るが、鈎陣屋襲撃には参加していないな。
>>179 だが歴史上はどちらもせいぜい傭兵としてしか活躍してないだろ。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 23:27
傭兵として活躍できれば十分のような気もするが?
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 23:32
家康が甲賀衆に伏見入城を要請したのも傭兵として評価したからだろ?
逆に伊賀者にはそういう場面はあまりないな・・・
184 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 23:38
>>180 鈎の陣を奇襲したのは甲賀衆じゃないの?
>>183 雑賀衆が石山本願寺に入ったように、
伊賀衆は長島一向一揆を助けておる。
あと伊賀は信長によって伊賀衆としての独自の活動にトドメを
さされているからね。
甲賀衆は早々に信長になびいて六角を見捨てたけど、
おかげである程度の自立性を確保できたとも言える。
逆に最後まで六角を助けた伊賀衆は信長に嫌われただろうな・・・
近江国甲賀郡は織田家に組み込まれた後、軍事的には誰の指揮下に入ったの?
信長の死後は?
関ヶ原の頃は?
>>185 ああ、長島から撤退する織田軍を追撃して大損害を負わせたという話ね
>>186 自分たちの生存権さえ保障されれば、六角氏だろうが織田氏だろうがあまり関係がなかった
んだろな、甲賀衆にしてみれば。
>>184 鈎の陣を奇襲したのは甲賀衆を先鋒とする1600余の六角軍。
甲賀衆は夜陰に紛れて接近し、狼煙をあげて義尚の居館を覆いつくした後、
曲輪や物見櫓などを焼き払い、続いて義尚の寝所を襲っているが、あと一歩
のところで駆けつけた幕府方の軍勢に撃退されたようだ。
義尚は酒淫に耽るあまり肝炎?で死亡したとされるので、鈎の陣で負傷し
ていたとしても、それが直接原因で死亡したわけではないらしい。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 01:12
傭兵としての活躍を挙げれば、加賀の富樫政親などは長享2年に尾山城に籠城
した際に甲賀衆を傭兵として招いたという記録がある。
上郷城攻めの徳川家康は二百八十人の甲賀衆の大軍だけで、鵜殿氏を
滅亡させた。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 11:22
>>190 室町初期には既に甲賀衆は自衛のための「同名惣」や「郡中惣」を組織しており、
甲賀郡を支配した佐々木(六角)泰綱、あるいは一時的に同郡を支配した佐々木
(京極)道誉なども惣制度を認めていたが、一方で六角氏に軍事的に協力するこ
とが両者間で取り決められていたという。
軍事的従属を約束する代わりに、
地域内自治の維持を約束させる。
ま、雑賀衆も信長に従った時はそうだったな。
>>192 滅亡しとらんしとらん・・・
197 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 23:10
何かこのところ甲賀ネタの方が多いな…
>>198 確かに上ノ郷城主の鵜殿長照は討ち取られたが、人質交換された長照の子・氏長
は後に二俣城主となり、徳川家と再び交戦して降伏し、家臣となっている。
氏長は関東転封後に1700石を領している。
また、長照の弟・長忠(柏原城主)や、同族の長龍(下ノ郷城主)も上ノ郷落城から
時を経ずして徳川家に降っている。
長忠は養女を伴って岡崎城で家康に恭順の意を示したが、このときの養女が後の
西郡の局である。
このような状況は果たして「鵜殿家滅亡」と言えるものなのだろうか・・・
201 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 01:06
秀吉は甲賀武士が嫌いだったようで、雑賀攻めの際、滝川一益に命じて
甲賀武士を招集させて紀伊川の修復を命じたが、「工期が延びたために
凱旋の期を逸した」と言い掛かりをつけ、一益と甲賀武士の所領を没収
している。
伊賀衆の活躍はないんかいな・・・
ちなみに
>>84にあった長島一揆戦での伊賀、甲賀地侍の奮闘だが、あれは雨で鉄砲が
使えないために弓を多用したという話だったな、確か。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 02:40
>>202 詳述すると…天正元年(1573年)9月末に信長軍は北伊勢に侵攻。
信長軍は柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、蜂屋頼
隆といった第一線級の武将を揃えて北伊勢一帯を制圧、長島一揆勢の戦力
を大幅に殺いでいる。
信長は一揆勢に対する抑えとして滝川一益を配置し、10月25日に本隊を退
却させようとしたが、この際、一揆勢が地の利を生かして追撃してきた。
一揆勢は弓、鉄砲で武装し、不案内の信長軍を相手に山々を伝うようにゲリ
ラ戦を展開。この日は豪雨のため両軍ともに鉄砲が使用できず、伊賀、甲賀
から参じた弓の名手たちが行く手を阻み、浮き足立つ信長軍に矢の雨を降ら
せて大損害を与えている。
この戦いでは殿軍を務めた林新次郎(林秀貞の嫡男?)とその手勢が全滅
するなど、信長軍は予想外の損害を被ることになった。
204 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:32
>>201 確かこの時に甲賀の名門?・山中氏などが所領没収の憂き目に遭ってる
205 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:40
>>203 伊賀の土豪の中には、伊勢の北畠家に与する者もいたわけで、伊勢の国人勢力とも
それなりに関係していたのかな?
まあ、伊賀の土豪の場合は徹底して反信長ということで利害が一致してたからな。
将軍用避難シェルターとしては、甲賀伊賀と朽木ではどちらの方が
信頼度が高いのだろう。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 22:23
>>206 将軍家で近江に逃亡したのは義晴、義輝、義昭の3人か。
義晴は伊賀、甲賀には避難してないし、義輝は細川晴元と近江坂本に逃れた後、各所
を転々とし、2度目に近江に逃れたときは朽木谷で5年余りを過ごしている。
義昭(当時、一条院覚慶)は大和に幽閉された後、伊賀経由で甲賀の和田惟政の許に
逃げ込んでいるが・・・朽木谷に入ったという記録はないな。
朽木氏には偏諱を受けた者も多いし、御供衆にも列しているが、甲賀の諸氏ではそこま
での者はいないし・・・総合的には朽木谷なんじゃないか?
208 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 23:42
>>204 秀吉は土着勢力には辛いよね……極めつけは太閤検地
>>207 足利義澄も朽木谷に逃れてるな。
永正5年(1508)に大内義興に擁立された足利義稙が京都に迫ると、義澄を
擁立していた細川澄元、三好之長が細川高国によって甲賀に追われ、義澄
もまた朽木谷に逃亡、次いで九里氏の岡山城に逃れている。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 01:21
>>209 となると、避難シェルターとしてはやはり朽木谷が最上位か
211 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 04:49
無知で申し訳無いのだが、
何故朽木谷はそれほど重要な土地だったんだ?
朽木氏と将軍家の特別な関係は??
213 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 05:05
京と若狭を結ぶ鯖街道の要衝でもある
>>211 朽木荘の地頭だった朽木氏が、足利義政に所領を安堵してもらう見返りに、
朽木荘を幕府の御料所とし、年に100貫を収めるようになったのが始まり
じゃないかな?
その結果、朽木氏は幕府の奉公衆になっている。
足利義昭の頃は、朽木氏ってのはどうしてたの?
高島郡には、磯野員昌が置かれてて、次いで津田なんたらが
高島城主になったよね?その指揮下?それとも?
>>215 義昭が三好に殺されかけたとき、京都に突入して義昭を救出した。
朽木元綱、生涯最大の晴れ舞台。
さすがに信長か義昭かという局面になったら
信長を選んだようだけどねw
218 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 06:02
>>215 元亀2年(1571年)に信長は元綱に近江須戸荘の年貢米を安堵し、さらに
「磯野員昌を通して知行地の宛行を約束」すると共に、高島郡に隣接する
山城久多荘の代官に任じている。
したがって指揮系統的に言えば、朽木谷にあって新庄の磯野員昌の指揮
下に入っていたことになる。
ちなみに当時の朽木氏の居館は朽木岩神館で、詰城を西山城としていた
のではなかったかな?
>>216 朽木元綱というと・・・やはり晴れ舞台は関ヶ原での寝返りなんじゃない?
その次が金ヶ崎の退き口になるんじゃないかな?
220 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 09:37
奉公衆に任じられてたぐらいでここまで将軍家に忠節を尽くすというのは
理解出来んな
それとも辺ぴな土地住人特有の純朴さが残ってたとか
221 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 10:05
>>220 ここは昔から京都周辺の摂関家や大寺社の荘園として木材等の供給基地になっていた。
だから、供給先である京都の政情に無関心ではいられないわけで…。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 11:26
>>221 だからこそ形骸化した将軍家に肩入れする拘りが理解出来ん。
政情に明るかったらこの時代、家の厄災になりかねない将軍保護などしない様な。
メリットが幕府の役に就けるだけじゃ割りに合わないしな・・・。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 11:32
>>222 でも、ポスト室町体制的なモノが出てこない以上、将軍の利用価値はあるだろう。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 22:35
>>222 形骸化したとはいえ将軍家は将軍家なんだよね。
「朽木荘は将軍家より安堵された知行」「朽木荘は将軍家の御料所」という
確固たる事実が朽木氏の存在価値を保っていたわけでね。
やはり将軍家を足蹴にはできないし、群雄割拠といっても、依然として中世
の政治秩序の中で割拠していたという現実がそこにある。
信長への臣従も、当初は義昭&信長政権の範疇での歩み寄りだしね。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 23:06
>>224 >「朽木荘は将軍家より安堵された知行」「朽木荘は将軍家の御料所」
足利義政のときの話だよね。
足利義澄が近江に逃れたのも六角氏を頼ってのことで、六角氏の縁故で朽木谷に
避難したんじゃなかったかな?
朽木氏は六角氏の被官だし。
>>222 最後は将軍が京都を追われても黙って見てたじゃんw
細川だの三好だのに比べて、既に信長の実力が絶大だと認識したんだろう。
1573年になってやっと。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 00:36
>>226 いや、金ヶ崎の時点で恭順の意を示し、翌年にはその功労により知行や代官地を
与えられて被官化しつつあったからね。
それを言うなら「元亀2年(1571年)になってやっと」だろうな。
>>218を以って元綱は信長に臣従しており、幕府御供衆の家柄ではあり
ながら、信長の軍事指揮系統に与していたと見るのが妥当。
仮にそうでなくても、朽木谷は京と若狭を結ぶ交通の要衝だけに、義昭
と信長の確執についても客観的な判断が下しやすい状況にあった可能
性が高い。
明智光秀は確か、1573年までは信長と義昭の両方から知行を
受けていたね。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 01:05
>>229 ・・・・・・・・・・・・・・・・だから???
231 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 01:52
朽木は浅井と同盟関係にあったからね。
となると、表向きは「朽木⇔浅井⇔織田」という関係性を持っていたことになる。
まあ、あくまで間接的だけど。
金ヶ崎の退き口は、この浅井との同盟破棄を意味していたわけで、となると
>>226にあるように
「元亀2年(1571年)になってやっと」というのが正しいかもね。
それに織田と浅井の関係が良好であった時代には、織田に敵対する必要性もなかったわけだし、
幕府の被官として朽木荘を治めていれば良かったわけで、義昭に楯突く必然もない。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 02:36
普段は波風を立てずに、波が来たら乗りこなすという感じ?
いつの間にやら
【朽木】近江国人衆を語ろう【元綱】
になってるねw
まあ、そのびみょ〜っぷりが面白いからいいけど。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 05:05
でもそれがいい!
235 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 19:56
俺もそうだけどみんな朽木氏が気になってたんじゃないか?
地味な真田氏って感じでw
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 16:23
大勢力の滅亡と小勢力の逞しさには心を惹かれるものがあるからな
237 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 18:53
同盟関係に基づけば、長政の動向が元綱の耳に入れば、元綱は朽木街道を封鎖し
て信長一行を迎撃することもできたはず。
しかし、それ以前から元綱が水面下において信長に歩み寄っていたとする説もある
ので、この時点での元綱は、信長方の申し出に対して「聞く耳を持つ」状況にあった
可能性がある。
とはいえ、はじめ元綱は兵を率い、甲冑に身を包んで信長を出迎える腹積もりだっ
たようで、松永久秀に忠告され、単衣広袖の装束で信長に拝謁したという。
久秀が元綱をどのように言い含めたかは定かではないが、1570年の時点で元綱
が長政との同盟を一方的に破棄してまで信長に降ることを決めたのは事実。
信長の実力を認めていなければできない所業だよね。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 18:53
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,'"~`ヽllllllllll!' ==、:;;;/;;;;;;;;;;;;;::.:. j すいませんね。
!.l"`,, |llllll!' :.:.:::;,,,___`ヾ、;;;;;;;;::;、rィ゙ ここで朽木元綱を説得しなきゃならないので
', ',>、|lll'' .:.::`'''゙メ`';;;:::::;;イェュ┤ ちょっと説得させてもらいますよ・・・
,゙、゙'- .!l' :..:..:.:.::;r'"´;;;:::..:.: :.l; :.:.:. |
r'゙|::ゝ-┐ .:./:.:.:.::::::::;;..:.:.:. l;. ,'
;;l l::::. :.'. .:' :.:.:.:.:,;;∠;;;ゝ=‐'゙;.:.. /
;;゙、゙、:::. .:.;. ..:.:.:.'''''''''ニ,,,,,,,,__ヾツ
;;;;ヽヽ:. :.:\:.:.:.::::.:.:...、,,,,,,,,,, .. /
;;;;;;;ヽヽ:.:.::.:.:.:\:.:.:.:.:.:.::::.:.. .,.'
;;;;;;;;;;ヽヽ:.:::.:.:.:.:::` :、,:.:.;;;;;;;;;/;;;`;-,、
;;;;;;;;;;;;;;\\::::::::.:.:.::::`゙゙゙゙゙";;;;;;;;;;;;;;;`;-,、
239 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 19:03
足利家(織田家の傀儡政権ながら)の家臣の立場を取るか、浅井家との
同盟を取るかだけど、浅井家との同盟を解消した場合の安全保障を織田
家に求めたという見方もできるよね
>>235 そのうえ僻地ではなく、都から程近い近江の地で生き残ったというのが興味をそそる
鎌倉以来残った名族としては、
島津、大村、松浦、相良、伊東、毛利、山名、細川、今川、朽木
畠山、南部、伊達、佐竹、秋田
などがあるが、僻地の松浦、大村以外で名字の地を明治まで維持
できたのは朽木しかいないのが凄いと思ってしまう。
242 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 19:44
一度も転封されないまま明治期まで続いたというのが凄い
まあ、分知なんかで所領は減ってるけどね
維新後には子爵だっけ?
そのあたりも朽木らしいねw
京都を取った勢力に、必ず従っていたのならまだ生き残れる確率は
高いが、足利将軍を匿って堂々と盾突いて生き残っている。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 20:03
>>244 主家筋の六角氏が健在だったという背景もあるよね
>>244 世紀の一戦でも豊家を裏切って歴史に名を刻んでいるしなw
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 20:26
>>244 朽木が匿ったのは義澄―義晴―義輝までじゃないの?
248 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 22:59
>>243 それは福知山藩(32,000石)の朽木家の方だね
元綱の庶子・稙綱の系譜。ちなみに扱いとしては「譜代」になっているところが
いかにも朽木家らしいw
生き残りだけを目指すなら、朽木がいる方へ付いていれば間違いない。
ということかな。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 23:14
朽木稙綱の庶子たちが義昭に仕えてるね。
藤綱……義輝・義昭の御部屋衆。
成綱……義昭の詰衆番衆。
輝孝……義輝には御部屋衆、義昭には奉公衆として仕えた。
なお、義昭が信長に追放されて以後は、藤綱、成綱、輝孝の3人は
朽木谷へ戻り、惣領家である元綱に仕えたという。
朽木家を整理していくと・・・
朽木宣綱……元綱の嫡男。元綱の遺領のうち6千石を相続し、旗本となる。
朽木友綱……元綱の二男。元綱の遺領より2千5百石を分知され、旗本となる。
朽木稙綱……元綱の三男。将軍家光に仕え、累進して常陸国土浦にて3万石の大名となる。
朽木則綱……稙綱の二男。稙綱の遺領のうち3千石を分知され、旗本となる。
朽木稙治……稙昌(稙綱の嫡男)の二男。稙昌の遺領のうち3千石を分知され、旗本となる。
といった具合に分知を繰り返して大名家、旗本家が複数枝分かれしている。
朽木宣綱は1662年に起こった高島郡を中心とする大地震で死んだらしいね。
このときには彦根城なども傾いたとか。
朽木一族、全て足しても四万六千石にしかならない。
しかしそれも朽木らしい。
>>252 一人死んだくらいでは滅亡までほど遠い。
朽木の真骨頂?
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 23:52
なんか朽木モエー
独立スレッド立てても結構のびそう〜
家康は朽木を「草の靡き」と酷評したが、「雑草」の方が似合いそう。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 00:09
秀吉の時代には朽木氏の所領は2.5万石前後だったというから、関ヶ原の役
の後の0.95万石というのは減封処分だね。
ただ、その後に惣領家(朽木谷)以外に3.2万石の譜代大名家(福知山藩)な
ども起こっているから、元を取ることはできたんじゃないかな?
258 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 00:15
>>255 とりあえず間借りしながらマターリするのがいいんじゃない?
伊賀を隠れ蓑に・・・笑えるな
260 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 00:26
表向きは
【森田】伊賀国人衆を語ろう【浄雲】
だけど、これを隠れ蓑に
【草の】朽木一族を語ろう【靡き】
になっているところがいい
西近江市への参加を拒否していた朽木村も合併に変更してしまった
らしいね。水口町も甲賀市に、浅井郡は長浜市になるし。
由緒ある地名が殆ど消えていってしまうのは寂しいね。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 00:39
>>261 つーことは朽木の名も地図上から消えるということかい?
264 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 01:23
206 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 19:15
将軍用避難シェルターとしては、甲賀伊賀と朽木ではどちらの方が
信頼度が高いのだろう。
ど〜もこのあたりから朽木ネタが花咲いたようだな
確か足利一門スレから「感染」したんじゃなかったかな?
265 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 03:39
朽木宣綱の二男・高通は京極高知の養子となり、将軍秀忠の小姓を経て、丹後峯山藩主
として1万3千石を領しているね。
京極家は高知の没後、遺命により高広(宮津藩)、高三(田辺藩)、高通(峯山藩)に所領
を分知しているが、宮津藩はほどなく改易、田辺藩は但馬豊岡に転封となり、峯山藩のみ
が丹後国内に残った。
足利スレッドは消えちゃった。
スレッドが立っていないのに朽木の方が残っている。
これも朽木らしい(w
267 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 06:18
関ヶ原では戦前から密約を交わしていたわけではなく、合戦の最中に書状を
送って寝返りの意思を示したらしいね
そのあたりが改易された小川や赤座との分岐点になったのでは?
268 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 07:52
>>267 脇坂あたりは戦前から東軍と密約交わしてたのかねぇ?
裏切り組では唯一加増されてるし。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 09:16
>>255 別スレと立てるほどのネタはもうないんじゃない?
敢えて立てるとしたら、
【朽木】近江国人衆を語る【元綱】
とか
【土壇場で】脇坂・朽木・小川・赤座スレッド【寝返り】
みたいな感じで、ネタに幅を持たせられるようにしないと
いかんかもね。
もはや伊賀の「い」の字も出なくなったなw
271 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 09:59
272 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 17:19
最終的には分知が進んで5千石切ってたみたいね、惣領家。
>>257 朽木の関ヶ原前の所領って2万石前後でしょ。
但し、山林がもたらす経済力があったから、石高以上に懐は潤ってた
んじゃないかな?
>>273 塩と鯖売って、しこたま稼いでいたのでしょう。
275 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 19:04
276 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:22
お仲間の小川祐忠もけっこう寝返り人生だな・・・
祐忠ははじめは浅井家臣だったが、織田信長に侵攻されると降伏して直属の旗本に。
本能寺の変の直後には明智光秀に属するが、山崎の戦いで光秀が敗れると羽柴秀吉
に降伏。以後は柴田勝豊に仕えて家老職を務めるが、賤ヶ岳の戦いでは秀吉軍に加わ
り、戦後、伊予府中に7万石を与えられる。
関ヶ原の戦いには西軍から東軍に寝返るが、認められず改易。
正直、時流の読めない香具師だったのかな・・・
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 08:07
>>276 助命されたり、いきなり家老職に就くぐらいだからそれなりの人物だった可能性は高い
最終的に常に勝ち組に従おうとする姑息な態度が仇となった典型例。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 08:10
http://www.ruralnet.or.jp/rekishi_roman/12/kutugi/kutugi_01.html より引用
>● 歴史と文化が交差した「鯖街道」
>
>若狭の国・福井県、小浜城下から京の出町柳辺りまで、約80kmの街道は古くから「鯖街道」と
>呼ばれてきました。これは13世紀の初期にできた若狭街道のことで、戦国時代から江戸時代
>にかけ、若狭の海でとれたサバがこの道を通って京へ運ばれたことから、「鯖街道」の名で呼ば
>れるようになりました。
>渓流魚の佃煮、鯖のなれずし、栃餅など朽木の自然の中から生まれた品々がこの街道筋で売
>られました。また、奈良時代、朽木谷から「朽木の杣」、材木を東大寺の建築用材として筏で搬
>出した記録や、貝原益軒の『諸国めぐり』に、朽木を材木の名所として記されていることなど、朽
>木は木工品の産地としても昔から知られ、塗物の椀や盆などもこの道を通っていきました。
>このように鯖街道は、京都をはじめ各地へ朽木の産物が流通し、同時に都の文化・技術も行き
>来した歴史と文化の交差点だったのです。
佃煮、鯖のなれずし、栃餅、材木、木工品……
何か地場産業が発達してますなぁ……
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 15:07
しかし・・・一瞬とはいえ地味にブレイクしたねw
>>278 雪が多く山深い土地なので、日常の必需品は自給できなければ不便
だからね。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 17:49
南北朝の頃には、諸国に知行地を持っていたらしいけど、室町期に入る頃
には朽木荘以外の知行地は失われたようだね
>>280 自給自足で何百年も持ち堪える朽木氏と朽木荘の人々・・・なんか萌えw
282 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 22:53
朽木荘を流れる安曇川とその支流が作り出す水系が琵琶湖
へと注いでいたから、水運業もそれなりに発達してたかも知れ
ないな。
これに朽木街道(鯖街道)を押さえていたから、地頭としては
かなり懐が潤っていたんじゃないか?
鉄も採れた
>>283 マジで?
何か資源の宝庫だな、朽木荘w
先日、夜中にドライブしていたら鹿がいた。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 00:24
287 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 07:50
>>282 朽木ビジネスとしては鯖街道と安曇川水運、森林資源以外に荘内の農民を相手に
高利貸業を営んでいたことが知られている。
これは「出挙米」などの名目で、農民に籾や金銭を貸し与え、抵当として土地を取り
上げるというもの。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 07:51
何しろ近江商人発祥の地である高島の、高島七頭の一員なのだから。
佐々木一門?ということであれば鴻池(山中新六)や三越(三井越後守)
と同族。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 16:12
高島七頭って高島、平井、田中、横山、山崎のほかって誰?
291 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 22:47
>>290 おいおい……朽木を忘れるなよ……
高島七頭は「高島」「朽木」「永田」「平井」「田中」「横山」「山崎」の七家。
292 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 00:39
>>289 朽木氏は宇多源氏佐々木氏流。
佐々木信綱の二男・高信が高島郡を領して高島氏を称し、高信の孫・五郎義綱
が朽木荘の地頭として朽木氏を称するようになった。
七頭のうち、義綱の兄・三郎頼信が横山荘を与えられて横山氏、四郎氏綱が田
中荘を与えられて田中氏を称している。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 02:27
朽木金融道ワロタ!!!
294 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 07:10
経済的に余裕があるから将軍庇護とか出来たんだね。
いつの時代でも、金持ちは精神的な余裕があるってか・・・
朽木は地理的な条件は恵まれていたよな。
朽木じたいは農業生産力が低くても、近江の生産力はとても高いので
金さえあれば食料を購入できるのだし流通や金融で食べていける。
これが地方の大名だと常に農業生産に力を入れていなければ食べてい
けない。朽木の背後には海産物の豊富な小浜と、北国からの物資の
集積所である敦賀が控えている。眼前には一大消費地の京都があり、
琵琶湖の対岸には六角氏が開いた多数の楽市があり、全国の商人が
産物を持って集まってくる。他の戦国大名が、ひたすら土地を増や
して国力をつけることしか選択肢がないのに、農業以外に依存した
生き方を選べる。おまけに情報も素早く入ってくるし時流を読む力
にも優れていたのだろう。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:12
農民を相手にした金融活動は、利ザヤもさることながら土地の集積という点でメリットが
大きい。最終的には朽木氏自体が富農のような立場になるわけで。
それと朽木氏は朽木荘以外に、将軍義尚の供菜料所の代官を務めているよね。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:41
>>295 確かに地理的には恵まれていたよね。
大規模な戦闘が領内で行われたわけではないし、政治的な見極めを
するに必要な情報も入ってくる。
関ヶ原のときは若干、家康とのルートの弱さが露呈したけどね。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:54
>>296 近江にある義尚の供菜料所を年貢5000疋で預けられてもいる
299 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 22:41
何か徐々に悪代官化してるな・・・朽木
300 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 22:42
300!!!
301 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 23:32
>>299 代官ネタで思い出したが……
元綱は秀吉政権下において、文禄4年(1595)8月に高島郡内にある蔵入地9200石
の代官に任じられ、さらに慶長3年(1598)には検地総奉行・長束正家の下で検地奉
行に任じられている。
戦場での槍働きではそれほど目立った活躍はないようだが、さすがは地頭職の家系
だけに街道や水運などを掌握しての特殊権益の確保、領内での金融・商業活動、年
貢徴収を代行しての利ザヤ確保、そして検地といろいろと芸が細かいね。
何か最近、足利、新田氏流のスレッドが盛況?のようなので、こちらも対抗して
「宇多源氏佐々木氏流」でスレッド立ててみるか?
>>302 松永弾正スレッドも盛況なのでそれにも対抗し、また畠山も盛況なので
それにも対抗して
【戦国の梟雄朽木】名門宇多源氏佐々木氏流【四職京極】
でどうよ。
>>303 タイトルが長すぎないか?
おそらく
【六角】宇多源氏佐々木氏流スレッド【京極・朽木】
くらいに短縮しないとダメだと思う。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 01:17
>>302-304 ちょっと時機を逸したかもね
まあ、近江国内の佐々木源氏を中心にその興亡を語るのであれば
面白いかも知れないけど。
序盤は朽木ネタ
>>200-300くらいの洗い直しになるだろうけどね。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 03:51
確かに佐々木源氏(=宇多源氏佐々木氏流)総合なら、高島七頭のみならず
近江全域で語れるからな
朽木家にクローズアップし過ぎな気がしないでもない
309 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 17:22
310 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 18:25
俺も地頭になりてぇーーーーーーーーっ!!!
312 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 01:59
>>311 じゃあ、【宇多】佐々木源氏総合スレッド【源氏】あたりで良いかな?
313 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 06:38
嵐世記の桶狭間シナリオで現在1565年・・・未だに実戦経験ゼロ・・・
314 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 06:38
言い忘れたけど朽木プレイ
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 10:26
湖畔の居館でマターリとお茶でも飲みながら戦を観戦するのも
たまにはいいんじゃない?
317 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 15:47
織田信澄の家臣には高島七頭のうち永田氏、朽木氏などの名が出てくるね。
でも、信澄家臣の「朽木民部」って何者かな?稙綱の庶子の系統かな?
ちなみに稙綱は民部少輔だが、元綱は信濃守、河内守で民部少輔には叙さ
れていない。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 02:00
朽木稙綱の庶子・藤綱(刑部少輔)は足利義輝の死後、宗家に仕えたとされているが、
後に九条家の雑掌となっている。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 10:06
おいおい・・・伊賀国人衆はどうなったんだ?
話が江北に行きっ放しになっとる・・・
321 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 11:06
322 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 11:21
森田浄雲、朽木元綱・・・いずれも信長の野望で引き籠りプレイしたくなる
武将だよな
やっぱり山が好き!
324 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/26 16:53
やはり山々に囲まれた盆地がいいねw
325 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 05:07
海辺の城もいいけどね
326 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 09:52
>>325 海ないからな……伊賀も近江も……
せいぜい湖止まりだし……
朽木鯉九郎は朽木稙綱の二男・藤綱or四男・輝孝と言われているけど、
>>319にあるように
藤綱が九条家に仕えたとすると、輝孝のことかも知れないな。
ちなみに鯉九郎(輝孝?)は松永久秀・三好三人衆らに攻められた際に義輝と共に討死して
いる。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 17:24
信長の野望では、松永久秀(大名/本拠地:大和国)−朽木元綱(近江国支配)&
森田浄雲(伊賀国支配)&鈴木佐太夫(紀伊国支配)というのが基本だな
329 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/28 06:04
>>327 輝孝は義昭の許で奉公衆を務めているから、義輝と一緒に二条御所
で死んだということはあり得ないな
330 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/28 08:34
>>328 PS版(嵐世記)で4者の相性を見ていくと
松永久秀……相性:93
鈴木佐大夫…相性:57
朽木元綱……相性:61
森田浄雲……相性:43
となっているから、久秀とそれほど相性がいいわけじゃないし、
むしろ「やや悪」「悪」「最悪」の集まりだったりするんだよね。
まあ、PKでイジれば問題ないんだけど。
朽木鯉九郎・・・何か萌えてくる名前だなw
332 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/01 06:15
>>331 『剣豪将軍義輝』(徳間書店)では、義輝の剣術の師匠として登場するな
彼と出会って持てる才能に目覚めた義輝が、塚原朴伝にさらなる剣術の
極意を教わり、世に「剣聖将軍」と呼ばれるという筋書き。
しかし、実在の人物なのか?
333 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/02 08:41
足利義輝・義昭に仕えた成綱(晴綱、藤綱の弟?)は、元亀2年(1571)以後、
公式な記録には登場しなくなるが、慶長2年(1597)の足利義昭の四十九日
法要に姿を現したという記録があるので、その頃まで藤綱や輝孝と共に惣領
家(元綱)に仕えていたのかも知れないな。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 17:07
>>329 輝孝は後に近衛家の家礼をしていたらしい
藤綱、成綱、輝孝以外にも直綱という庶子がいて義輝の申次役を務めていたというから、義輝
と共に死んだ鯉九郎は直綱かも知れない。
何かやけにいろいろ出てくるなぁ・・・朽木
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:45
おかげで登録武将が劇的に増えたよ>朽木プレイ
338 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:46
伊賀って落すのが凄く簡単だった気が・・・
>>338 浄雲さんと伊賀国人衆しかいないしね、基本的には。
俺はエディタで出自を「忍者」に変更して百地、藤林をスカウト
してるから、寄せ手をけっこう手こずらせるよ。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 23:18
>>339 へぇ〜
ぶっちゃけ、プレイしたことがなかったので、そんなにバックに居るんですね(忍者が)
まぁ、伊賀忍は有名だけど・・・
>>340 確か、あそこで城建てると結構防御が高いものが作れたんで、さっさと落として居城に・・・
バックも何も忍びの里から家臣に誘ってるだけやん
それに浄雲は本来「国人」だってのw
まあ、蒼天録では最初から「忍者」だけどね
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 23:35
イベント組んでおくと友好度が下がらなくて済むよね
344 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 23:49
>>339 百地、藤林に服部(保長)が加わったら上忍御三家の揃い踏みじゃんw
345 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 18:34
浄雲さんの跡継ぎはどうするんだ?忍者村から婿殿を貰うとか?
>>345 逆に国人衆の要人・仁木義親を登用して、仁木家再興プレイという線もあるかも
知れない
朽木から養子
>>347 じゃあ、朽木元綱の子孫を登録せにゃいかんね。
ちなみに俺は宣綱(元綱嫡子)や稙綱(元綱庶子)のほか、宣綱の子・友綱と高通
(京極姓)、それに稙綱の子・稙昌あたりまで登録してる。
伊賀に大軍を置いておくと、山城、大和、近江、伊勢の4カ国に
援軍を送れるから何かと都合がいいよね。
ゲームネタなのでsageだが・・・
350 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 23:11
朽木宣綱の正室は京極高吉の娘なんだね。
ということは、宣綱は京極高知の義弟ということになるわけで、その縁で
二男の高通を高知の養子に入れることになったわけだ。
http://www.kyoto.catholic.jp/christan/iseki/isekibb.html >26.マグダレナの墓
>滋賀県高島郡朽木村 興聖寺
>
>京極高吉・マリアの三女、朽木宣綱室の墓。1606年、マグダレナは若くして
>他界した。夫は仏式の葬儀を営もうとしたが、実母マリアはキリスト教の葬
>儀を主張して譲らず、結局は、京都四条に新しく完成したイエズス会の聖堂
>で、器楽の合奏隊をつけた盛大な葬儀を挙行して話題を呼んだ。墓の台石
>には「秀隣寺殿」と刻まれ、また寺の過去帳には、「慶長十一丙午年三月二
>十日秀隣寺殿桃巌永悟大禅定尼」と記載されている。
朽木マグダレナ・・・凄いパワフルな名前だなw
早速、ノブヤボに登録しようっと。
安曇川町立図書館か、滋賀県立図書館にでも行って資料を捜してみるよ
1605年、朽木宣綱と結婚していたマグダレナの葬式をきっかけとして、徳川家康はマリアを京都から追放した。丹後の国で領地を所有していた息子高知のもとへ退き、そこで祈りの生活を送り、1618年76才で亡くなった。
>>355 高通はマグダレナの実子なのかな?
とするとマリア追放との絡みで京極家に入ったということになるね。
357 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 18:44
>>355 朽木家に害が及ぶことはなかったわけね
さすがは世渡り上手w
358 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 19:05
京極高知には嫡子の高広(1599〜1677年)がいるので、わざわざ高通(1603〜1665年)を
養子に迎える理由はなさそうなものだけどね。
>>356 生没年で言えば高通はマグダレナの子ということになりそうだな。
しかも、高知が養子に招くのだから間違いないとは思うが。
なんとなくサッカー上手そうな名前だよな。>朽木マグダレナ
よく考えると「マグダラの朽木」。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 03:12
京極マリアは浅井久政の娘だよな。
秀吉の側室になった竜子を除き、夫・高吉や子女全員が洗礼を受けていたという
からかなりの筋金入り。
しかし、細川ガラシャもそうだけど、頼るべき実家を失った女性ほど信仰に凝りや
すい傾向があるのかな?
女なんてそんなもん
365 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 03:49
宣綱にしてみればたまらんよな……
連坐して先祖代々守ってきた朽木荘を失う危険性もあったわけだから。
>>365 その時こそ、朽木の真髄を見せつけるチャンス。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 12:48
切支丹ってマジ厚かましいっていうか、余計なお世話っていうか・・・
多分、宣綱はそう思ったろうなw
368 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 13:21
宣綱って地震で崩れた建物の下敷きになって圧死したんでしょ?
369 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 19:09
>>368 陣屋が崩れようが、当主が圧死しようが、それでも基盤は揺るがないのが朽木家
370 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/15 04:09
守護の仁木氏って伊賀での本拠はどこにあったの?
371 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 13:28
仁木氏の支配権が及ぶ地域というのは、北部くらいのものだったんじゃないかな?
仁木義視が信長の支援を受けて伊賀守護になったのは元亀2年(1571年)だよね。
しかし、伊賀は反信長を掲げる伊賀惣国一揆が実効支配していたため、義視は伊賀
全土を支配する以前に、自身の限られた勢力圏内ですら年貢徴収も侭ならない状態
だったとか。
天正6年(1578年)だから、一応、7年ほど在国したことになるわけだけど・・・居館跡
みたいなものは残ってないようだね。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 15:10
仁木義政じゃないの?
374 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 15:13
信長の野望に登場するのは仁木義親w
375 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 15:35
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:25
>>370 仁木氏の本拠地は平楽寺でしょ。
本能寺の変後、伊賀残党が平楽寺にいた仁木友梅(=義視?長政?)を攻撃
しているので、第二次天正伊賀の乱で惣国一揆が討伐されたことで旧領に復
帰したのかも知れない。
ちなみに織田信雄の指揮下にあった伊賀衆には仁木長政の名前がある。
しかし……いろんな香具師が出てきたな>仁木
378 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 03:38
仁木長政と榊原長政の関係は?
榊原氏は自称仁木流だけど…
379 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 03:43
>>378 そもそも榊原の仁木流説はかなりあやしいんじゃないの?
>>378-379 播磨屋さんによると藤原秀郷の末裔・佐藤氏の系譜という説もあるようだね。
h**p://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakakiba.html
仮に仁木氏の一族が榊原を称したとしても、仁木長政とは凄まじい遠縁(=限りなく
アカの他人)なんじゃないの。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 10:50
プ
382 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 13:37
>>370 『伊乱記』によれば、仁木氏の居館は上野村平楽寺の西側にあったようで、
居館は平楽寺と同様、第二次天正伊賀の乱で消失している。
なお、その平楽寺の跡地に筒井定次が築城したのが伊賀上野城。
なんて読むの?>仁木
「にき」でいいのかな?
なんか全国色んなところにいるようなイメージなんですけど。
戦国期の歴史書物とか見ると必ずどこかにちょこっと名前が出てくるけど、
ゲームにはほとんど登場しないような…w
384 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 15:44
>>383 嵐世記では伊賀国人衆の要人として仁木義親なる人物が登場するよ。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 17:36
>>385 浄雲さんの出自を国人に変更してよく仕官させてる>仁木義親
使いどころがあまりないけど、名族・仁木氏の末裔さん?なので女婿に
迎えて仁木氏再興プレイなども良い
ちなみに仁木氏再興が成った際には、家紋も「足利二つ引両」に変更。
足利家の「二つ引両」と少し色具合の違うタイプがあるので、それを使用
する。ちなみに跡継ぎは同じ仁木姓の国人衆要人を採用。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 15:52
仁木の野望は・・・伊賀一国平定(ん?最初から平定状態か)で尽きそうな感じがするw
俺なら似非同族の榊原康政あたりをスカウトして、常に先鋒を任せたいところだな
しかし、仁木って百地三太夫あたりとは終生相容れなそう・・・
朽木ネタが枯渇してきたと思ったら仁木ネタ・・・びみょ〜な人材に事欠かないねw
390 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 21:05
確か阿波の細川真之の子・畠山之照の生母が仁木伊賀守の娘だったよね。
んでもって養育したのが同族の仁木左衛門だったとか。
あまり資料が残ってる武将じゃないので詳細は分からないけど。
仁木氏って伊賀だけなの?
ほかの地域にも分家はある?
392 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 00:33
>>391 丹波にも勢力圏を持っていたけど、サッサと追われたよね
>>390にあるように阿波細川家に仕えたのは確か丹波仁木氏の系譜だったはず
そのあたりは「仁木城址」でググッてみればヒットすると思うよ
393 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 03:49
仁木氏って本家は没落しているから守護としてはかろうじて伊賀が残っているのみ。
しかし奉公衆その他幕府の役人としてはいろいろ残っているはず。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 14:46
最も怪しく、最も有名な分家?は榊原家w
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 16:39
伊賀の仁木長政と仁木義視の間に血縁関係はあるんか?
396 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 12:17
永禄12年(1569年)7月、長政は信長の北畠攻めの直前に滝川一益を
介して信長に与しているので、それ以後、織田家臣団に組み込まれたと
いうことだろ。
義視が伊賀守護に擁立されたのが天正2年(1571年)だから、長政−義
視という血縁関係になるのか?
398 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 15:51
早々に没落した分、資料が少ないよね>仁木氏
柳生厳勝の室は仁木氏の出身だよね。
詳細は不明なところが多いけど、厳勝との間に兵庫介利厳(尾張柳生の祖)
をもうけている。
確か「武蔵」にも登場してたな。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 02:53
>>396 ということは、仁木長政は信長軍が伊勢に侵攻する以前に
伊賀国内に独立勢力として存在していたということか?
享禄元年(1528)に細川高国は近江国より伊賀国へ赴き仁木義広を頼っているけど、
この義広と長政、義就の関係がよくわからないね。
『伊乱記』には
「南北朝以来238年もの間、伊賀には正式な守護がいなく・・・」
とあるよね。
国人衆たちが認める守護がいなかったのか、それとも正式な手続き
を踏んだ守護がいなかったのか・・・どうなる仁木氏???
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 16:47
>>392 播磨屋によると・・・
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/niki_k.html >足利義兼の弟、義清の孫実国を祖とし、本家足利氏の三河守護在任に
>ともなって下野から三河額田郡仁木に本拠を移し、仁木氏を称した。
>実国五代の孫にあたる仁木頼章・義長兄弟の活躍によって、足利一門
>の末流から一躍幕府の中枢に登用されることとなった。
>頼章は山陰道方面の軍事を任され、丹後守護に、義長は九州・畿内で
>活動ののち、遠江・伊勢・志摩・伊賀などの守護を歴任した。
>その後直義方のために分国すべてを奪われたが、観応の擾乱にさいし
>尊氏方として戦功をあげ、擾乱後は一族で九ケ国を支配するという全盛
>期を迎えた。
>しかし尊氏の死とともに衰運に傾き、頼章が没すると丹後以外の分国を
>失い、義長は政敵細川清氏のために幕府の追討を受ける身となり、結局
>仁木氏はすべての分国を失った。
>以後、紆余曲折はあったものの世襲分国の形成に至らず、応仁の乱中
>にようやく伊賀一国を回復したが、戦国期の動静は不明。
とりあえず義長の頃には一時、丹後に勢力を保持していた時期があったわけね。
404 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 17:12
義長以後の動向はよく分からんよね
405 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 23:26
>>373 一乗院覚慶を護衛して近江に入った家臣の中に「仁木伊賀守」という人物の名前が
ある。おそらくこの伊賀守が仁木義政のことだろう。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 15:43
>>401-402 『柘植家譜』には大永年間(1521〜1528)に足利義稙が仁木兵部少輔なる人物を不在
状態だった伊賀国守護職に任じたが、伊賀国人の柘植氏がこれを討ったとあり、また、
反攻に転じた兵部少輔の子某とも戦っているとか。
なお、管領・細川高国が永正5年(1508)には伊賀の仁木高長を頼り、享禄元年(1528)
には仁木義広を頼っているという点と照らし合わせると、時系列的に兵部少輔と義広が
繋がってくるようにも思えるのだが……
とすると
高長…(守護不在)…兵部少輔―義広…(略)…長政?義視?
こんな感じか?
>>400-402 1574年に伊賀・高倉神社の本殿及び八幡社、春日社を建立したのは
「伊賀国守護・仁木長政」だったという
これは春日社の棟札にも記載されているし、複数の資料にも登場して
いるので間違いないと思うけどね
408 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 16:51
>>407 なら、なぜ義視を入国させなきゃならならんの?
409 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 17:41
410 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 21:00
>>409 そういう状態って室町期にあったか?
和泉のように半国守護が存在したケースはあるけどな
411 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 02:01
412 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/24 02:17
永禄12年(1569年)7月、滝川一益を介して伊賀国の仁木長政が信長方についており、
この際、信長は長政に対して忠節 に励めば疎略にしない旨を通達するとともに、伊賀
国内の状況報告を命令している。
これに対して仁木義就の入国は天正2年(1571年)のことだから、長政と義就が同一
人物ということはあり得ないのではないか。
ここからは憶測になるが、義就はかつての伊賀守護・仁木氏の嫡流に近い人物であり、
信長の伊勢侵攻後に伊賀国人衆と合意のうえで擁立されたのに対して、長政は在地
勢力の1つとなっていた仁木氏の庶流で、正式ではないにしても伊賀守護の末流を称
し、義就入国後も自領内ではそれを継続していたとすると、義就と長政の同時期の並
存について納得がいくのだが・・・
>>412 その「かつての伊賀守護・仁木氏の嫡流」が誰なんじゃい?という
話になるわけだが……
415 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/24 04:10
仁木義政=仁木長政
ということはないの?
例えば「長」は信長から貰ったとか。
>>415 ちなみに義政が伊賀守護だったとする資料ってあるの?
官途名が伊賀守なのは分かるんだけど
419 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 03:57
義政=長政=義視=友梅
かも。
だいたい信長によって伊賀守護に補されたという仁木氏の実名って正しいのか?
420 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 16:04
>>419 義昭の家臣として近江〜越前に同行してる香具師(義政)が、3〜4年後には
伊賀の土着勢力(長政)になってるなんて無理ないか?
義昭の近臣を擁立するなら、わざわざ滝川一益が「味方につける」
ために画策する必要はないわな
422 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 17:49
>>419 義政は義昭の家臣として北陸を流浪していたわけで、伊勢に侵攻する信長軍に協力できるほどの
基盤を伊賀国内に持っているとは考えにくい
義政と長政を切り離して考える方が無難じゃないのか?
>>419 ちなみに義政が伊賀に在国した記録はあるのか?
424 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 22:53
>>412 嫡流に近いというか、伊賀惣国一揆の了承を得られる人物という見方も
できるんじゃないの?
在地領主の長政では国人間の利害関係もあって話がまとまらないけど、
外から持ってくるならということで国人間の利害関係が一致したとかさ
425 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 04:44
>>422 永禄11年3月、義昭と共に朝倉義景に遊宴に招かれた義政は
「永日も覚す暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜かな」
なんて詠んでます。
伊賀惣国一揆ってどのくらいの数の土豪たちが参加してたんだ?
427 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 10:37
>>426 評定に参加する代表者だけで12名いたよな、確か。
>>427 6人ずつに意見分かれたらどうするんだ?
何か予め多数派工作しそうなイメージないしな、伊賀国人衆は
429 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 22:54
>>406 信憑性はちょっと置いておくけど・・・高長までは系図的に繋がる。
実國−義俊−義継−師義−義勝−義長−満長−満将−教将−貞長−高長
しかし、高長以後が確認できず、
>>406の言うところの「足利義稙が仁木兵部
少輔なる人物を不在状態だった伊賀国守護職に任じた」という点と一応符合し
てくる。
応仁の乱の際、山名宗全軍に属した武将の中に「仁木右馬助教将」の名が出
てくるのに対して、細川勝元軍に属した武将の中に「仁木兵部少輔成長」(頼章系)
の名が出てくる。
とすると、高長で潰えた伊賀守護の座に、伊賀兵部少輔なる人物を据えたとす
れば、それは成長の子孫である可能性が高い。
ちなみに系図上では成長―政光・広長と繋がってくるので、細川高国が頼った
とする義広は兵部少輔とは直接繋がらないのかも知れない。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 18:23
>>430 確か義広の官途名は「伊賀守」だったはず
とすると義昭に仕えた伊賀守義政と関係があるのかも知れんな
そもそも、元亀2年の段階で信長の支援を受けて伊賀に入国できる
人物となると、義政に所縁のある人物の可能性が高いわけで、こう
なると義広と義政、友梅が繋がって来るようにも思えるんだが・・・
細川真之に仕えた香具師も「仁木伊賀守」じゃなかったかな?
どうもこちらは丹波から流れて、阿波細川家の被官になったらしいが。
>>432 永禄11年3月まで義昭と行動を共にしていたのであれば、義昭が信長の庇護を受ける
ようになった時点で、義政もこれに従った可能性はあるな。
となると信長の被官ではないが、信長の伊勢攻略に利用されたという線が色濃くなる。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 19:30
義政=義視か?
436 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 00:57
断片情報からよくそこまで想像するなw
正しいかどうかは別にして・・・
437 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 07:53
438 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 16:54
>>437 改名する根拠がわかる人物がいったい何人いると思うの?
>>438 それは確かだが、根拠が分からんのも確かだな
440 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 22:02
>>439 それは確かだが、根拠がわかる人物がいったい何人いるか分からんのも確かだな
441 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 00:30
442 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 02:56
443 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 05:22
足利兄弟みたいだけど
仁木氏の場合、義政、義視ともに不確かな実名でしょ。
>>433 その仁木伊賀守は阿波・上大野城主。
ちなみに天正4年(1576年)、細川持隆の子・真之が勝瑞城を脱出し、福良連経
の居館に身を寄せた際、これに同行している。
余談になるが、阿波・仁木氏は伊賀守のみならず細川家に忠節を尽くしており、
同族の「英城主・仁木(日向守)高将」は、天文22年(1553年)に芝原城主・久米
義広に協力し、持隆を殺害した三好義賢に対して蜂起している。
この戦いでは数に勝る三好・安宅軍の前に久米勢が壊滅し、義広は自害してお
り、おそらく高将も戦死したものと思われる。
真偽のほどは定かではないが、真之の子・畠山之照(畠山高政養子)の生母は
仁木伊賀守の女といわれている。
之照は伊賀守の弟・左衛門に養育され、はじめ仁木六郎を称したという。
なお、之照は天正10年(1582年)に長宗我部軍に襲われ、仁木伊賀守が城主
だった上大野城において戦死している。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 06:20
>>443 「義政」とされる人物は、足利義昭の近臣仁木伊賀守のことだよね。
仁木伊賀守の足取りについては、永禄11年3月に朝倉義景が亡命中
の義昭一行を遊宴に招いた際、一行の中にその存在が確認できる。
一方、「友梅」と号した人物が伊賀国守護の座にあり、天正6年に近江
国信楽に追放されたことも間違いない。
状況的には2人が同一人物である可能性もあるし、そうでない可能性
もあるということだよね。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 06:45
義政=義視=友梅≠長政
という感じだな
449 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 11:44
>>447 伊賀衆が仁木義視を国主に迎えた背景には六角氏が絡んでいるらしいな
甲賀に逃れていた仁木友梅が再び伊賀入りしたのは第2次天正伊賀の乱の直後
のこと。
友梅は平楽寺館(平楽寺城)に入っているが、翌年、本能寺の変で信長が横死し
たため、それに乗じて蜂起した伊賀国人衆残党により居城を攻囲されている。
織田信雄は友梅たち伊賀衆を救援するために出兵せねばならず、本能寺の変後
の対応に初動の段階から躓くことになった。
451 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 00:19
義視がいたとされる居館(上野市小田町)の他に仁木氏の館がもう1つ
あるんだよね
上野市三田というから2〜3qくらい離れてる
452 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 01:01
>>451 今の上野城のある場所は、伊賀衆が評定を行った平楽寺の跡。
『伊乱記』によれば、伊賀衆はその西方に守護・友梅の居館を設けたとある
ので、地理的には上野市小田町のそれが一致する。
なお、高倉神社の場所は上野市西高倉なので、地理的には三田の居館の
方が近い。
長政が三田の居館を中心に基盤を持っていたとすれば、高倉神社春日社
の建立に力を注いだのも頷ける。
>>449 義視が入国した時点では、六角承禎は甲賀郡に潜伏していた
はずだよな
それでもなお、伊賀国内の六角派に影響力を持っていたと?
454 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 09:02
仁木主水正って何者?
ちなみに主水正は義長の流れを汲んでるらしいけど
456 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/31 22:54
>>448 義昭に同行した仁木伊賀守を「義将」とする資料もあるね
まあ、義政=義将であることは確実なんだけど
458 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/01 04:14
>>457 永禄11年5月17日、足利義昭の還俗(元服)を祝うため、朝倉義景は義昭を自邸に
招いて祝宴を催している。
このとき、常御殿の座敷に着座したのが義昭、義景と京より招かれた二条晴良、そ
れに仁木義政(=義将)の4人だったというから、義昭一行の中での義政の位置関
係が窺い知れる。
とすると、義昭が織田信長の庇護を受けるようになってからも、義政は義昭に供奉し
ていただろうから、元亀2年の段階で、信長が義政本人あるいは義政所縁の人物を
伊賀守護に据えた可能性もあり得るのでは?
459 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/02 11:17
義将は、細川高国党に属した義広の子孫なのか、それとも丹波に勢力を
持っていた仁木氏の子孫なのか、何がなんやら・・・
丹波系には本拠・仁木城主として「兵部少輔入道」なる人物がいるし、義稙系に
属する仁木兵部少輔の系譜が、義晴系の義昭に仕えているというのもどうなの
かな?
むしろ高国党に属した伊賀守義広の方がそれっぽい気がする。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 05:19
丹波の仁木氏は没落後、阿波で守護細川家の被官になってるな
462 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 11:51
永日も覚す暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜かな(仁木義政)
新居の地は、伊賀統治の目的で用いられた「土符」が出土している
こともあり、仁木氏の居館があったとも言われている
地理的に見ると、平楽寺の居館とはちょっと離れているので、義視
の入国以前に伊賀守護を称していた仁木氏の居館があったという
ことかも知れない
464 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 13:37
天正伊賀の乱(第一次)で織田信雄軍に内通した名張郡の土豪、下山甲斐守の最期
はかなり悲惨だな。
信雄は天正7年9月に甲斐守の進言を受けて南部の名張口、北部の馬野口から伊賀
に侵攻したが、地の利を知り尽くした伊賀国人衆に撃破されてしまう。
激怒した信雄は甲斐守が罠に嵌めたと判断し、甲斐守を捕縛して退却するよう指示を
出し、長野左京亮が甲斐守を捕縛して退いた。
このため名張口では甲斐守を奪回しようとする国人衆の追撃を受け、殿の澤源但馬、
秋山右近将監がこれを撃退した。
また、馬野口の殿も追撃を受けながら、日置大膳亮、柘植三郎左衛門尉が防戦にあ
たったが、三郎左衛門尉は酒気のため思うように動けず?鬼瘤の難所で討死してし
まう。
信雄は捕縛した甲斐守を監禁すると共に、秋山右近将監は家臣上津江新坊を「甲斐
守の女婿である」という理由で殺害している。
甲斐守は獄中で一切食を取らず、監禁から28日を経過してなお死なずにいたが、つ
いに自ら舌を噛み切って死んだという。
>>464 秋山右近将監って一説には森田浄雲入道を討ち取った人物とされてるな
466 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 06:52
>>463 北畠軍が進出していたのは南伊賀の名張郡と阿賀郡のみ。したがって北伊賀については
仁木氏派、六角氏派の勢力が分布していたと見ていいだろう。
とすると、高倉神社春日社への寄進にあたり、仁木氏の勢力が新居〜高倉付近に及んで
いたというのは、事実関係と符号してくる。
467 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/06 15:20
>>464 >酒気のため思うように動けず?
酒飲み過ぎて討ち取られちゃマズいだろ・・・いくらなんでも>柘植
469 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/07 10:02
>>463 守護・仁木氏が伊賀を追われた後、伊賀4郡の土豪、地侍60余名が誓紙
を交わして、平楽寺での評定により協同して伊賀国を治める旨を確認し合
っている。
誓紙には柘植氏、服部氏、森田氏、下山氏などの諸士に加え、「仁木氏」
も名を連ねており、おそらく守護・仁木氏とは別系統にあたる、土着勢力と
しての仁木氏が伊賀国内に存在していたことは確実であり、それが長政
の一党だったと見て良いのではないか。
>>469 となると北畠家臣帳に記載された「仁木主水正」が長政である
確率が高そうだな
471 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/07 12:01
472 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 11:15
>>469 同じ仁木氏でも頼章系、義長系など伊賀守護を務めた家系は
複数あるから、いずれかの末流が在地領主化していたのであ
れば話としては無理がないよね
474 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 14:37
長政の一派を味方につけたが、惣国一揆自体は反信長の国人衆が多数派を占めて
いたわけでしょ。そもそも惣国一揆の成り立ち自体が、上洛戦に入った信長を警戒し
てのものなのだから。
それゆえ国人衆の中には長島一向一揆軍に加勢し、退却する信長軍を追撃して大
損害を与えた者もいたし、信長の推した仁木友梅を排撃するような者もいた。
しかし、外圧に対しては共同で難事にあたる惣国一揆も、国内では依然、国人衆同
士の敵対関係が存在したわけで、第1次天正伊賀の乱での下山甲斐(比奈知城主)
や、第2次天正伊賀の乱での福地伊予守(柘植城主)や耳須弥次郎(河合・玉滝郷
地頭)など、織田による武力介入の手引きをする者たちが現れたのもその結果でしょ。
彼らの場合、織田方による計略の結果というよりは、むしろ率先して自ら伺候してき
たところがあるしね。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 16:38
476 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 08:44
福地伊予、柘植三之丞などは信長時代から家康との脈を持っていたね。
柘植は家康に「家臣にしてくれ」と頼んだけど、家康は「三河に来るなら」と条件
を出したことがある。
柘植にどれだけの技能集団がいたのか分からないが、伊賀者をよく知る家康が
見込んだのだから、それなりの人材が柘植党にいたということか。
>>476 天正伊賀の乱の時点の話だから、家康にしても織田との同盟関係上、
伊賀国人を易々と召し抱えるわけにもいかないだろ
>>477 信長との同盟関係のおかげで、伊賀越えのときには国衆の残党から襲撃されたようだし、
巷間言われているような協力ぶりとは程遠い内容だったようだ。
まあ、信長によって多くの伊賀国衆が根絶やしにされたり、国を捨てているから、当然と
言えば当然のことなんだが。
479 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 16:45
服部半蔵より柘植党の方が役に立ったという話もあるしな
そもそも服部に本当に伊賀の豪族とのコネがあったのかどうか
481 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 07:08
>>480 まあ、あるとすれば伊賀に残った親父さんの縁者頼みだろね
482 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 08:52
やはりど〜考えても最強は楯岡道順だろ
483 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/10 13:15
正しくは「楯岡の道順」じゃないの?
484 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 11:26
485 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 14:29
487 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 16:17
>>485 伊賀崎道順=楯岡の道順
そもそも楯岡とは、道順の出生地であり砦のあった阿山郡楯岡に由来しており、
号の道順と合わせて通称「楯岡の道順」と呼ばれていた。
なお、『萬川集海』『伊乱記』でも「楯岡の道順」と記載されている。
488 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 22:48
みなさん詳しいですね。ネタ本はなんですか?
490 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 23:49
492 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 11:36
493 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 19:03
楯岡の道順と言えば、佐和山城攻略・・・だっけ?
494 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 23:03
六角承禎の要請を受け、伊賀から44名、甲賀から4名の忍びの術に長けた
者を選び、佐和山(沢山)城に潜入して火を放ったという話だな。
『萬川集海』には
「妖者という術を以て、沢山城ヘ忍び入り、内より火を放ちければ、承禎外よ
り急に攻め入りけり、百々の勢ども、火を消さんとすれば敵乱れ入り、敵を防
がんとすれば、火いよいよ盛んになり、かなわずして終に敗北しけると也」
とある。
まあ、どこまで信じていいのか分からんけどね。
>>494 やっぱり甲賀同様、六角氏との結びつきが強いわけね
甲賀衆の場合は守護六角氏に軍事的に協力する代わりに、国人連合として郡内の自治権
を認めさせていたけど、伊賀衆の場合には共通の敵(=信長)に対する共同戦線であって、
国内的には互いに対立の構図を持っていたからな。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/14 15:06
>>495 北伊賀の国人衆には親六角派が多かったしな
498 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 18:57
『萬川集海』の著者って藤林長門の子孫冨治林保武だろ?
しかも、年代的には延宝4年(1676年)に完成したものだし、果たして資料的価値って
のはどんなものなんだろね?
それなりの技術的ノウハウが蓄積させてなけりゃ書けん内容だろな
500 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 22:08
>>496 但し、地理的に近いこともあって甲賀郡中惣と伊賀惣国一揆は横の
連携があったよね。
501 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 22:12
イラクの人質救出の裏には、どうやら密命を受けた伊賀者の活躍があったらしい
>>501 確かに戦国期の伊賀は、サラヤ・ムジャヒディンのような武装集団が割拠していたような
イメージがあるな。
信長軍(はじめは信雄軍だが)を米軍に例えると、天正伊賀の乱でレジスタンス的に抵
抗したあたりも似てるように思えてくる。
ん?
504 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 16:20
>>498 それを言い出したら『伊乱記』などは・・・
イラン記?
507 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/19 13:30
>>506 天正伊賀の乱を扱った『伊乱記』だっての!!!
「伊乱記」の著者である歴史家・菊岡如幻は、伊賀国阿山郡の土豪・菊岡氏
の末裔。
なお、「菊岡家家譜」によれば、天正期の当主は市郎左衛門行重であり、如
幻は市郎左衛門の二男・丹波行任の子孫にあたるという。
如幻により「伊乱記」稿本が執筆されたのは、第一次天正伊賀の乱から100
年後の延宝7年(1679年)のこと。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 15:26
柘植城主・福地伊予(宗隆)の所領はおよそ1000石程度だった
と言うから、兵力的にはそれほどの動員能力はないんだろな
510 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/20 21:57
信雄の家臣柘植三郎左衛門の実名ってわからないの?
保重
512 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/21 14:45
>>509 その割には柘植城の遺構はけっこう立派だよね。
>>509 本能寺の変後、伊賀に居づらくなって三河に出奔したんだっけ?>福地
514 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 00:33
515 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 01:03
>>511 柘植三郎左衛門保重?
出典はなんでつか?
517 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 01:25
>>516 だって武将のイミナなんて殆ど信用出来ないもんだからね
>>517 それを言い出したら「三郎左衛門」「三郎左衛門尉」のどっちが正しいの?・・・
というのもちょっと気になるわな
519 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 02:06
>>513-514 福地伊予は織田軍の道案内を買って出た張本人だからね。
河合の地頭・耳須弥次郎と共に安土城に出向いて、同じ平氏出身ということで信長を
ヨイショしまくったらしい。
なお、第2次天正伊賀の乱では『信長公記』に「柘植の福地御赦免なされ、人質執固
め、其上、不破彦三御警固として当城に入置かる」とある。
結局、本能寺の変後、伊賀国人衆の残党から攻撃を受けるのは当然のことで、加太
に逃げ込むことになる。しかし、家康一行の加太越えに協力した功績から、後に駿河
への移住が認められている。
一方、耳須弥次郎の方は第2次天正伊賀の乱の際、蒲生氏郷軍を先導中に討ち死
にしている。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 02:18
>>519 福地伊予守(宗隆?)と柘植三郎左衛門って親子とも兄弟とも言うよな
521 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 10:23
蓑笠之助
ももともとは柘植氏だっけ?
522 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 14:13
柘植三郎左衛門の実名はじめて知った
どの本にもこいつだけ実名書いてないから不明なのかと思ってた
>>522 それもちょっと「?」なところあるけどね
>>518 「左衛門尉」が正しいだろ。「左衛門」なんて官、あったっけ?
525 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 20:33
どうせ文書の裏付けがない軍記物等に出ている名前でしょ?>保重
526 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 01:37
527 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 01:53
529 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 16:23
>>521 確か家康側室の西郷局に通じてなかったか?血縁的に
530 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 20:19
531 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/25 03:01
西郷局の実父は戸塚忠春。
しかし、忠春が戦死したため、西郷局の母・貞宗尼(西郷正勝女)は伊賀者の服部平蔵
の嫡子・平太夫(蓑笠之助)に再嫁したという。
したがって、平太夫と西郷局は養父・養女の間柄ということになる。
なお、平太夫は能役者(or猿楽師)だったようだが、母(青山忠教女)又は妻・貞宗尼の
縁故からか徳川家に仕えるようになったらしい。
西郷局ははじめ、従兄弟にあたる西郷義勝に嫁したが、義勝が戦死したため平太夫の
許に戻っていたところ、屋敷に立ち寄った家康に見初められたという。
532 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/27 03:04
蓑笠之助の何人かは名代官で有名だけど、何代続いたのかな?
正高は何代目?
533 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/28 13:50
>>532 蓑家は大久保長安事件に連坐して、一時、姓を巳野に改めているよね。
そして幕府により統制されていた能役者4座(観世、金春、宝生、金剛)のうち宝生座に
置かれている。
後に赦免され、姓を蓑に復し、農政家・田中丘隅の女婿となっていた笠之助(6代目)が
大岡越前に見出されて、田中休蔵(丘隅の子)、上坂安右衛門と共に「大岡三代官」と
称された。
笠之助(6代目)の著書としては『農家貫行』がある。
534 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 00:42
>>530 服部は服部でも、家康一行を討ち取ろうとした服部出羽守という
香具師もいるな
535 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 23:00
出羽守が一行を謀殺しようと使者をよこして来たのを見抜いた笠之助が、使者を適当にあしらって
難を逃れたという話でしょ?
537 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 12:33
>>533 笠之助の陣屋跡だそうです。
http://www.h7.dion.ne.jp/~hicomal/satoyama/v23ajisai/ >幕府代官蓑笠之助の陣屋跡
>享保17年(1732)から延享3年(1746)まで14年間、ここ上島
>の地に陣屋(役所)を置いた蓑笠之助は、足柄上・下郡のうち
>3万3千石の土地を支配して、すぐれた政治を行いました。
>酒匂川の治水工事、サツマイモなどの殖産事業、玄倉銅山の
>開発や吉田島銭座などでの銅銭の鋳造、このほか農民教諭
>書「農家貫行」などの著述も行っています。彼は、文命提の築
>造で知られる田中丘隅の娘婿で、また名奉行であった大岡忠
>助の配下でした。
>陣屋跡の一隅に残る大庭稲荷祠は、蓑が大岡氏ゆかりの堤
>村(茅ヶ崎市)から勧請したものと伝えられています。
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/30 19:18
539 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 02:07
全国各地の忍者研究家たちが集まり、それぞれの忍者・忍術論を展開する
「全国忍者サミットin伊賀上野」が二十九日、上野市内の紺屋町集議所で
開かれた。
今月一日から五月五日まで市内各地で開催中の、忍者を題材にした観光行事
「伊賀上野NINJAフェスタ」の一環。今年で三回目。
今回のテーマは「忍者・忍術とは何か」。伊賀流や甲賀流、北条流など全国の
忍者研究家八人が、忍者姿で車座になり意見発表をした。
滋賀県甲南町の甲南忍術研究会長の渡辺俊経さんは、伊賀流や甲賀流などの
忍者は、戦国時代の情報産業の担い手であり、情報を入手して敵地から生きて
帰還するためのみに武術を使用したとし「忍者はスーパーマンではなく、ごく
普通の人たちだった」と独自の忍者像を披露した。
会場には観光客ら約二十人が詰めかけ、各研究者の発表に興味深そうに耳を
傾けていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040430-00000005-cnc-l24
>>539 町中忍者ルックにしてた時期あったよね、上野市
541 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 20:43
>>539 情報収集を生業にする地侍といった感じじゃないの、実像は
>>541 周辺大名に雇われていたのは、国内でも比較的独立色が強い土豪・地侍だろね。
多分、既出だとは思うけど。
543 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 23:38
『梟の城』やってるね。
五右衛門に間違えられた上川隆也(五兵衛だっけ?)が天麩羅にされてた。
のぶやぼで忍者借りたら、エディタで「重蔵」に名前変更してる
>>545 任務放棄する上に勝手に出奔しちゃうわヒキコモリするわで大変だよ
重蔵たちを監視してた服部半蔵(根津甚八)って・・・2代目?
ちなみに山本學扮する下柘植次郎左衛門はけっこう良かったな
548 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 00:29
家康=中尾彬というのは意外にハマッているような気もする
549 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 00:49
>>547 確かに時代考証的には正成じゃないだろな>半蔵
木さる・・・(;´Д`)ハァハァ
水軍娘
555 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 01:36
摩利支天洞玄だっけ?甲賀衆で妖術使うの
確か木さるたちを殺したのは洞玄だよな
ふくろうかてんぷらか
>>555 摩利支天って忍びに信仰されてたらしいね。
http://www02.so-net.ne.jp/~guhouji/marisi.html >摩利支天は「陽炎」又は「威光」と訳され、摩利支天を祈る者は、人に害されること
>なく、だまされず、財を取られることもなく、罰せられることも怨まれることもない、と
>いうご利益があります。陽炎のように目に見えなくとも、常に身近にいて下さって、
>障害になるものを除いてくれ、ご利益を施してくださるので、だれいうともなく「かげ
>ろうのような神さま」といわれるようになったのです。
それを名乗るってことは……けっこう大胆っていうか何ていうか……
>>555 そのわりにはあっさり重蔵に仕留められたろ>洞玄
半蔵正成は慶長元年(1596年)には死んでるし、年齢的にも根津甚八のそれじゃ若すぎる。
物語的には秀吉が死ぬまで葛篭重蔵たちを監視してたことになってるからな・・・
あり得ねぇ・・・
>>553のレスで思い出したけど、時宣で6月から『武田信玄』(中井貴一主演)の再放送をやるな。
一応、中井貴一主演作繋がりということで・・・
561 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 07:48
梟の城おもしろかった
562 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 11:39
臨! 兵! 闘 ! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
563 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 11:41
閣 僚 退 散 !
>>562 黒阿弥が摩利支天洞玄と甲賀衆に討たれるときに、
「伊賀者は年寄りばかりじゃ・・・」
と、信長に屈服した甲賀を皮肉る場面が良かったな。
なんて説明的な感想だ
566 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 12:08
>>564 天正伊賀の乱以降の「失われた10年」が強調されてましたな
その間、甲賀は若手の育成に余念がなかったと
567 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 12:23
信長の野望・嵐世記の忍者顔グラに似てるのあるよね>葛籠重蔵
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 12:54
つうか原作には服部半蔵出て来ない
監督は篠田正浩だっけ?
571 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:15
>>570 もう忍者と言えばあの世代
甲賀&伊賀&服部半蔵なんだよ
小萩って原作じゃ石田三成の間者で
実質、六角義賢の遺児だったわけだけど
はっきり否定されたね。つうか
「よしかた」を「よしたか」って
発音してるように聞こえた
572 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:24
>>571 確かに「ささきよしたか」と聞こえたな
重蔵は「よしたかに子孫などいない」と断言してたけどね
>>571 服部半蔵は忍者じゃないだろ……
まあ、物語の上ではどういう設定でも構わんが
574 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:32
>>573 しっかり三河宇土城に伊賀忍者70名を率いて
城に潜入撹乱してますよ。それに大名になれなかったのは
隠密働きゆえだったと伝えられてますが
575 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:38
>>574 伊賀者を「預けられて」統率したことと、半蔵自身が忍者であるか否かは別問題だろ。
半蔵は槍働き専門だったわけだしな。
確かこのスレの前半で散々語られてたように思うが?
576 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:44
篠田正浩ははっきりいって糞。
「スパイ・ゾルゲ」も糞つまらんかったし。
578 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:49
>>575 親父の遺言で「鎗働きで勲功を稼げ」とあったが
それを守らず結局乱破の裁量をしていたから大名になれなかったと言われる
また家康の嫡男信康の介錯を命じられるあたり刀法にも通じており
(当時の武将はあまり剣術に重きを置いていない)からやはり
一般的な戦国武将ではなかった事は間違い無い
三河宇土城攻めでは弱冠16歳の半蔵自ら忍び入った。
どちらかと言うと父保長は一武人だったが息子の方は時勢もあって
諜報に仕事の重きを置かざるえない状況だったらしい
無論、戦場では鎗の上手であった事も事実
579 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:50
まぁ服部家が純然たる武家として
残ってない事が全てを物語る
580 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:51
>>576 中井貴一の重蔵は飄々とした感じがけっこう良かったけどね
忍者活劇に厳密な設定求めちゃったか。
ならあの格好からどうにかしないとなw
>>579 服部家改易は半蔵正就の不始末が原因じゃないのか?
583 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:57
そもそも服部くんのお祖父さんあたりが都に出稼ぎしてたが極貧で
パパの代になって徳川に流れ着いたらしい。その頃すでに伊賀とは
縁が切れてたらしいが徳川家が三河の外へ対外的に運動を開始し始めた頃
伊賀と復縁したらしい。その復縁したのがパパ上とハンゾウ君の代らしいよ
584 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 13:58
587 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 14:09
>>583 服部保長が郎党を率いて足利家に仕えることになったけど、結局、足利家が必要な
経済力を有していなかったんじゃなかったか?
ちなみに服部党は伊賀に一族を残しているから、地縁自体は切れてないだろ?
589 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 15:19
>>586 そもそも伊賀同心は正成に預かられたとはいえ、服部家の家臣という認識
には立ってなかったようだね。
正就は同心たちを下僕のように扱い、邸宅の改修の際には壁を塗らせたり、
材木を切らせるなど労役を課し、課役に従わないと俸禄米を与えなかったり
したようで、伊賀同心たちとの関係は険悪なものになってしまった。
590 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 15:20
>>589 生まれながらのボンボンで同族意識がなかったんだろなぁ
(
>>589の続き)
憤慨した同心たちは奉行所に正就の行状を訴え、200名ばかりが近隣の
寺院に立て籠もるという叛乱事件に及んでしまう。
結局、事件は首謀者10名の処刑ということで解決するかに見えたが、中
には逃亡したものもおり、妻子を人質に取って執拗に探索を続けた。
そして、正就が逃亡した首謀者2名と誤認して、伊奈忠次の家臣を惨殺し
てしまったことで、正就の改易が決したと。
>>590 >同族意識
正就くらいになるともはや三河武士だもんなぁ・・・
593 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 16:07
伊奈忠次って福島正則に難癖付けられて切腹した香具師?
594 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 16:12
伊奈の家臣が佐久間をボコボコにしたんだろ
>>593 違うよ。
それは伊奈図書(昭綱)だね。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 19:45
正就の最期って大坂の陣であぼーんだっけ?
>>589 山岡道阿弥に預けられた甲賀衆と似てるんじゃないか?
山岡景友も元々は園城寺光浄院の僧侶・暹慶だからね。
関ヶ原の役で近江水口城を攻略した後、甲賀衆を預けられたけど、彼も忍びの
心得があったわけじゃないよね。
山岡景光は?
600 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 14:48
>>598 道阿弥の場合は彼自身の知行に加えて、あらかじめ甲賀衆のための
知行が与えられていたよね
601 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 15:09
道阿弥って足利家臣時代には法体のまま、山城半国の守護を務めたこともあるし、巧いこと
時流に乗って信長、秀吉、家康と主を替えて生き残ったよな
諜報部隊としての甲賀忍びを預かるには適材だったんじゃないか?
602 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 15:31
僧侶出身の武将ってけっこう面白い人材多いよね
603 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 21:18
前田玄以
604 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 21:24
板倉勝重
金地院崇伝
606 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 21:52
宮部継潤とか長寿院盛敦とかも僧侶出身だったかな。
宮部継潤
609 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 23:46
>>603 『梟の城』では意外と重要な役回りだったね>玄以
最後は保身に走って風間五平をサッサと見捨てたわけだけど
>>609 葛籠重蔵を捕縛するためとはいえ、伏見城に忍びを入れたことがバレたら、かえって玄以に
マイナスに作用するだろうしな。
そりゃあ「知りません」と答える方が賢明だし、さすがは僧侶出身の玄以という感じ。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 13:43
見るからに信用のおけない玄以だったなw
613 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 14:39
筒井氏なんて僧兵がそのまま戦国大名化したものだし…。
614 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 15:27
>>613 興福寺宗徒(僧兵)の棟梁的な地位から身を起こしたんだろ?
615 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 15:45
>>609-611 玄以タン原作では最初から葛籠重蔵を捕縛するって事には執着してない
もし葛籠重蔵を捕縛する事によって今井宗久(徳川家康)に不興を被る
ようだったら放置するって感じで、結局、風間五平の勇み足で哀れですらある
>>615 2回くらい見ないと訳分からない映画だよね、「梟の城」って。
筒井明秀と筒井順慶は関連があるのかな。
>>617 ここは筒井を語るスレではないのであしからず・・・
620 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 05:23
>>619 1 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 06:32
乱世の雄・伊賀国人衆について語るスレッドです。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 13:14
>>619 んじゃあ、次スレは「伊賀・近江国人衆を語ろう」にするか?
623 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 14:17
>>520 福地氏は日置氏、松尾氏と共に「柘植三方」と呼ばれた土豪だよな。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 16:30
>>476 柘植三之丞は後に鉄砲足軽20人を預かって関が原の戦いに参戦し、戦後、甲賀郡に300石
を与えられており、大坂冬の陣にも鉄砲足軽を率いて参戦している。
興福寺絡みで言うと果心居士とかw
ちなみに果心居士ってホントに秀吉に殺されたんか?
627 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 17:24
>>625 柘植三之丞(清広)って鉄砲の名人だったんだろ?
鉄砲術に柘植流というのがあるくらいだし
628 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 17:53
>>626 鼠に化けたとか・・・んなわけねえだろって感じだよな>果心
629 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 18:21
>628
江戸まで茶人として生きていたという文献があるけどどうかねえ?
ネタ元は芥川の短編だからチト怪しいが、
スレチガイ御粗末。
>>623 んじゃあ、次スレは「近江-伊賀-大和-南山城=三重幾央地域(新首都)
国人衆を語ろう」にするか?
632 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 21:12
>>630 【畿内】戦国期の国人一揆を語ろう【限定】
あたりで良さそうなものだが?
633 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 23:45
634 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 23:48
>>627 『柘植家譜』には
「昔伊賀国に領主なきため、大永年間柘植総左衛門宗家の時、将軍源義稙は
仁木兵部少輔をして伊賀国の守護職に任じた。
しかし柘植一族はその守護職に従わず、屡々反抗の戦を挑み、遂に仁木兵部
を討ち滅ぼしてしまった。その後仁木兵部の子らは流浪の上、家臣ら相集い再
び柘植一党に報復挑戦してきた。宗家らよくこれを迎え撃ったが宗家は遠州原
野屋に於いて卒した」
とある。
この宗家の二男が三之丞清広。
>>633 【伊賀】戦国期の国人一揆を語ろう【甲賀】
637 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/06 17:50
638 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/06 18:50
シコリ酢と
639 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/06 23:13
640 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 00:17
『梟の城』もいいけど、俺はやっぱり『影の軍団』の方が好き
641 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 18:04
服部半蔵は忍者ではないと言う人がいるけど
どこまでが忍者ですか?
武将として表舞台に出た時点で忍者ではないのか
しかし伊賀郷士を手配できる立場だったから忍者と言えるのか
そこら辺どうなのよ
>>641 ホントに郷士を手配したんか?
まあ、服部半三の倅だからそれなりに顔は利いたかも知れんが
643 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 03:06
644 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 16:15
>>643 服部半蔵の子孫という設定なのに、多羅尾姓とはこれ如何に???
柘植新八
646 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 16:53
お前ら〜、年がばれるぞ!
649 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 22:20
650 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 22:37
幕末編で終わったんだっけ?
651 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/09 01:59
映画化したろ?最近
652 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/09 15:14
サニ千葉
653 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 02:03
志保美悦子
654 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 09:19
井伊直弼=成田三樹夫
が秀逸だったな
655 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 15:56
黒崎は今何やってるの?
樹木希林でしょ
風呂屋の女主人だっけ?>幕末編
657 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/12 01:15
いつの間にか「影の軍団」スレに・・・
>>656 「半ちゃん!」とか言いながら半蔵を追っかけまわしてた。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/13 23:27
>>642 最近では福地・柘植などが道案内したという説の方が有力じゃないの?
加えて茶屋四郎次郎が金をばらまいて、穏便のうちに事を運んだと。
660 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/14 02:14
>>659 その後、半蔵を頼って伊賀同心が組織されたんだろ
661 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/15 08:32
662 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 23:16
>>662 頼って来たのもいるんでしょ。
天正伊賀の乱の後なんて伊賀に居られる状態じゃなかったわけだし。
664 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 01:03
預けられたというのが正しいんじゃないの?
665 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 07:01
>>662 頼るってのをどう解釈してるのか?
つてを頼る程度でも頼ってきてるってのに間違い無い
>>664 服部くんを頼って来たのと預けられたってのはどう違うんだw
預けられたって家康から預けられたって事?服部君を通さずに
いきなり任官活動したって事?ちょっと考え難いな
666 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 07:05
そもそも忍者なんて下人扱いなんでわざわざ家康が感知してるわけない。
「伊賀郷士が伊賀から仕官して来た場合は服部の権限で飼って良し」ぐらいの
裁量権をもらっていて、家康からの要請があればそれを活用した。
ぐらいが自然だ。
667 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 15:59
>>666 半蔵の倅は、伊賀郷士を下人同然に扱って叛逆されたよな?
従来の主従関係とは少々趣を異にする関係だったわけだろ?
668 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 18:36
>>667 伊賀郷士の側から考えれば、親類みたいな気持ちでやってきてたん
だろうな・・・家康から見たらまぁ下人だったんだろうけど、
でその辺、苦労人の半蔵親父は慰労もしてたんだろうけど、
二代目的には根っからの徳川武士気分で下人扱いだったんだろな
>>668 正就には自分が伊賀者であるなんて認識ないでしょ?
670 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 19:18
671 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 22:11
672 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 22:13
伊賀出身の元郷士たちは別に服部家の家臣ではないからね
674 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/19 22:29
>>673 ありゃ?
ってなんでこのスレで突っ込んでんの?w
>>674 まあ、あまり詳しくない香具師が立てたんでしょ?向こうは。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 02:21
服部半三保長・・・
678 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 03:29
>>672 そのあたりは山岡道阿弥なんかと似てるな
679 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 23:10
家臣じゃないのに家臣以下に扱う・・・ホント、お坊ちゃんだな、正就は
680 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 05:41
>>679 しかし、あの半蔵の倅が大阪の陣であぼーんってのはちょっと残念。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/22 17:16
正就の弟正重も大久保長安事件に連坐したんだっけ?
藤林保正
683 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/23 16:21
684 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 01:11
685 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 01:15
てか伊賀の話しろボンクラ共
>>685 服部半三の末裔の話をしてるんだから構わんだろが。
文句を言うなら貴様がネタを振るべき。
687 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 01:22
てか伊賀って地味だね
689 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 01:26
なんか訳わからん方向になってるね
691 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 01:31
結論、森田ジョウウンの事を一般人は知らない
692 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 02:18
伊賀の一国人領主が一般的に知られてる方がむしろ変じゃないか?
ある意味、彼を伊賀の大名(or軍団長)にしたkoei側の選考基準を聞いてみたい。
俺なら……
大 名:仁木義政or義視
国人衆:福地宗隆/森田浄雲/柘植清広
忍者衆:百地三太夫
とかにするけどね。
植田光次(蒼天録)って何者?
695 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 10:26
696 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 21:23
夜叉王丸は鬼若は!?じゃじゃ丸くんは!?
>696
某NHKの二足歩行のリンクスみたいな名前が混じってますね
ちょうど、昨日の水戸黄門が伊賀の忍者話だったな。
長老は柘植だった。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 06:23
>>699 嵐世記の服部保長の顔グラが流用されてたね>滝野吉政
701 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 05:12
鬼若・・・何か萎えるな
702 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 11:13
>>701 鬼若に付いてくるガキ娘何とかならんか?
一気に萎えるんだが……
703 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/27 23:53
>>702 あれほど制作側の意図が分からんキャラもいないな・・・
ちなみに飛猿の復活はもうないのだろうか・・・
黄門スレか?
705 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/28 18:16
>>700 伊賀の武将の出自が全員「忍者」・・・何かkoeiって感じっすね
706 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 07:27
忍者じゃねえって・・・単なる地侍だって・・・
707 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 12:51
>>700 滝野が織田信雄に差し出した人質ってどうなったんだろな?
その後の滝野の動向も良く分からんし
708 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 10:43
710 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 14:16
>>707 吉政の居城・柏原城は天正伊賀の乱最後の激戦地だね。
人質になったのは吉政の子・亀之助だけど、その後のことはよく分からないな……
なお、吉政は1602年に没している。
それと吉政の娘・千手姫の「千手滝の伝説」というのがあるね。
711 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 19:22
712 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 23:10
713 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 09:33
714 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/04 09:29
715 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/04 23:59
>>712 http://www.mydo.or.jp/ikuno/akame-sen.html >今から400年ほど昔の天正9年、赤目渓谷の近くにあった柏原城は、織田
>信長の軍に攻められ包囲されました。城主の滝野十郎吉政は奮戦も虚しく
>城を明け渡さざるをえなくなり、その娘千手姫は恋人の本間草之助と共に、
>赤目渓谷へと落ちのびました。しかし、織田勢の追撃は激しく、草之助もそ
>れに応戦しながらの逃避行だったので、いつの間にかふたりは離れ離れに
>なってしまいました。ひとりになった姫は赤目の山中に逃げ込み、一軒の草
>屋に助けを求めました。そこにはひとりの老婆が住んでおり、わけを聞くと快
>くかくまってくれたのでした。その草屋にも追手の武士がやって来ましたが、
>老婆の機転でやっと難をまぬがれ、ほっとひと息ついていた時です。「千手
>姫、千手姫」と外から呼ぶ声がするので姫が夢中で外に出ると、そこには手
>傷を負った草之助が立っていました。ふたりは再開を喜びましたが、いつま
>でもそこにいるわけにはいかず、更に山奥に逃げ込むことにしました。実は、
>姫をかくまってくれた老婆は草之助の母親だったのですが、少年のころ武士
>として身をたてたいと母が止めるのも聞かず家を出た草之助は、顔をあわせ
>ることはできなかったのです。互いにかばいあいながら、さらに山中へと逃げ
>たふたりでしたが、ついに追手に見つかってしまいます。そして、滝のそばで
>追い詰められたふたりは「生きて敵の手に落ちるよりも・・・」と手を取り合って
>滝壺に身を沈めてしまったのでした。
という話だそうな
716 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 18:56
717 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 22:31
幕臣に仁木甚五兵衛という香具師がいるね
しぶといな・・・細々と
720 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 14:44
>>717 幕臣仁木家の発祥は伊勢国、家紋は「丸に二つ引」「五三の桐」なので、
清和源氏仁木氏の末裔としての扱いを受けていたことは確かだろう。
ちなみに所領は下野に1,500石、館林藩臣から幕臣に取り立てられたと
言われている。
>>720 どのあたりから持ってきたんだろね?仁木氏
722 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 13:01
723 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 15:04
偽造だろ。とりあえず、適当だろ。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 16:00
>>723 傍系のそのまた傍系みたいな香具師じゃないのか?
725 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 16:04
726 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 23:16
仁木景勝とか?
>>723 偽造するにも「それらしさ」ってのがあるでしょ?
728 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 12:43
>>722 ひょっとして仁木友梅あたりと関係あるのかな?
第三次天正伊賀の乱で没落後、コネで徳川家に仕えるようになったとかさ
730 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 15:10
http://www.club-ec.com/kintoki/i/jodan14.html >いつも私を大相撲の砂かぶりに招待して下さる大切なご贔気の仁木さん。
>この方は巣鴨で印刷業を営んでおいでになりますがこの方の御先祖は徳川の
>お旗本なのです。しかも二千石という大身旗本で、何でも関ヶ原の合戦で大変
>な戦功を上げたのだそうで御仏壇の御位牌なども長く大きく三、四十cmはあろ
>うという位牌なのです。
>戦前までは武具、刀、槍、兜、みんな残っていたそうですが、みんな空襲で焼
>けてしまったとのこと、実に残念です。ただ、そのお顔はやはりチョンマゲの似
>合いそうな風格のある旗本顔で、血というのはすごいもんです。
なるほど。
子孫の方はちゃんといらっしゃるわけね。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 19:18
732 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 20:06
>>720 館林藩士から幕臣ってことは榊原の一門じゃないの?
>>732 榊原氏も遡っていけば自称・仁木氏だものな
分家を立てるときに仁木姓を称した可能性は否定できないだろ
734 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/11 23:28
735 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 03:24
なるほど
736 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 11:23
『寛政譜』に載ってるだろ。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/12 23:41
738 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 13:49
>>730 仁木家って1500石じゃないんか?
加増されたんか?
確か本国は伊勢だよな?>仁木
740 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 16:54
>>736 榊原の仁木氏族ってのもどの程度信憑性があるのやら・・・
零落した一族だけに捏造するなら如何様にでもって感じだけどな。
741 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 21:54
仁木長政との繋がりは?
・・・多分無いと思うけど
742 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 00:29
743 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 16:21
倍率ドン、さらに倍
745 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 16:48
>>743 その穀物、将軍様に献上するのか?
まさに朝貢外交w
746 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 20:50
強引に結び付けてそうだなw
まあ、繋がるとは思えないな
747 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/16 21:19
>>741 そう言えば、仁木長政って最後はどうなったんだ?
748 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 11:12
>>745 つーか忍者使って暗殺したいよな、将軍様。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 23:48
752 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 17:46
753 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 23:09
待つより動け
756 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 21:59
待つより動け
758 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 07:02
嵐世記で仁木プレイ始めてみたけど、義親の特技が「回復」のみ・・・
伊賀の独立を維持するだけで精一杯の状況。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 23:55
>>758 現実には伊賀一国すら統治できなかったわけで、意外と史実に
忠実かもよw
ついつい榊原を一門に組み込みたくなる。
一応、榊原家は嘘かホントか仁木氏族を名乗ってるわけだし。
762 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 16:32
浄雲って平氏?それとも藤原氏?
763 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 20:10
765 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/29 22:17
766 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 01:13
http://www.baycity.ne.jp/~kmi760/framefudaraku2.htm >高倉神社
>
>祭神 高倉下命 神武天皇東征の功神にして倉庫守護・延命長寿
>の霊験あり。7代の孫、倭得玉彦命この地に移り住んで祖神を祀る
>を最初とする。東・西高倉地区の氏神なり。
>創建は古く垂仁天皇の頃と伝え、貞観3年(861)従五位下の神階
>をうけ、国史見在社であります。
>現社殿は、天正2年(1574)に伊賀国守護仁木長政の造営、一間
>社流造りで桧皮葺の本殿を中央に右に八幡社、左に春日社と三社
>信仰を今に伝える古社。日本最古の廃補陀落寺町石の補陀落寺は、
>当社の別当寺であります。
時期的に見て、仁木長政=義視(友梅)と考えていいのか?
767 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 17:28
768 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 17:43
>>767 確かにそうだね。
407 :無名武将@お腹せっぷく :04/03/22 16:36
>>400-402 1574年に伊賀・高倉神社の本殿及び八幡社、春日社を建立したのは
「伊賀国守護・仁木長政」だったという
これは春日社の棟札にも記載されているし、複数の資料にも登場して
いるので間違いないと思うけどね
>>767-768 結局、結論は出てないな
まあ、仁木氏自体、応仁の乱後の系譜ってよく分からんところあるし
770 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 00:47
http://www.ict.ne.jp/rekishi/uenojo.html > 誕生
>山に囲まれた四方9里の小さな盆地である伊賀の国。
>この伊賀全土を焦土と化した「天正伊賀の乱」が起こった直後、国替えにより
>天正13年(1585)伊賀に入国したのが、大和郡山城主筒井定次である。
>定次は乱によって焼け壊れた平楽城に城郭を築き、三層の天守を構え殿門
>も整えた。
>この城こそ上野城誕生の姿なのである。
平楽城が焼け落ちたってことは、友梅は惣国一揆の軍勢に討たれちゃったわけか。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 07:03
>>763 浄雲さんって一度信長の軍門に降り、その際に一之宮城に封されたんだね
773 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/07 17:21
>>771-772 70歳を過ぎていたのに敵将と斬り合いを演じてあぼーん・・・漢ですなぁ・・・
774 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 03:25
>>773 まあ、離反したんじゃ戦うしかないでしょ
降伏したって相手が信長だからね
775 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/09 23:46
天正伊賀の乱前後の動きを見ていると、滝川雄利って能力的にはそんなに
高くないように思えてくるな。
伊賀の地侍たちに城普請を命じたものの、結果的には彼らのプライドを傷つ
けるようなことをして叛乱を起こされてるし。
777 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 15:10
>>776 賃金を払わなかったり、口汚く罵ったり……そりゃ伊賀衆だって怒るだろうに
778 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 17:21
779 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 19:32
http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/koz_kuri.html より引用
>戦国時代に入ると、木造氏は木造城の北西に戸木城や川北城などを築城し、
>宗家とともに長野氏などの国人と戦っている。しかし、当主が北畠具教の弟の
>木造具政になったときに織田信長の伊勢侵攻が開始されるのである。具政は
>北畠家の馬揃え祭の際に、馬番が田丸・河内・坂内の三大将の後という事に
不満を示し、さらに信長に通じた源浄院の僧(滝川雄利)と柘植三郎左衛門ら
>にそそのかされて織田信長に通じ、宗家に謀反を起こした。宗家北畠軍は木
>造城を攻めるが、木造方の屈強な防衛と織田軍の援軍により苦戦し、信長の
>本隊が現われると撤退していった。
>信長は木造城に入り、軍議を行った。結果、北畠具房の養子に織田信長の子
>信雄が入ると木造家はその与力家臣となる。
780 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 19:33
>>779の続き
>三郎兵衛は具康が三男とも、具康の娘が家臣の柘植三郎兵衛に嫁して生んだ
>男子ともいう。また一説には、具政の三男とも伝える。星合系図には雄利につく
>っている。滝川一益没落のあとは織田信雄に仕えて、雄利の名乗りは信雄から
>遍諱を賜ったものである。秀吉と家康との和議を整える使者としてしばしば浜松
>に下り、和議が成立して秀吉の妹朝日姫が家康に輿入したときもそれに付き添
>った。天正十八年(1590)、信雄没落のあとは豊臣秀吉に仕えた。秀吉から羽柴
>氏を授けられ羽柴下総守とも号した。
>伊勢神戸城を賜り、二万石を領した。慶長五年(1600)関ヶ原の役に際しては、
>石田三成方に与して神戸城に籠り、戦後封地を収められた。その後、召されて
>秀忠に近士し、常陸国新治郡のうちに二万石を賜って大名に返り咲いた。
>嫡子正利は、元和元年の大坂の陣に出陣し、戦功を立てたが、寛永二年(1625)
>多病にして勤仕にたえずと所領を返し奉る事を乞うた。結果、一万八千石を収め
>られ、残された二千石が子孫に残され、封を継いで明治維新に至った。滝川氏
>の紋は一益家滝川氏と同じく「丸に竪木瓜」であったが、より特色があったのが
>「竪木瓜に二つ引両」であった。ほかに「五七の桐」も用いられた。これは、伊勢
>国司家の一族ならではの紋であろう。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/10 19:56
http://f2.aaacafe.ne.jp/~kshine/1kitabatake%20clan.htm >滝川雄利 たきがわかつとし 1543〜1610
>織田信雄家臣。木造具政の男。木造長政の弟。通称滝川三郎兵衛。
>別名は一盛・勝雅・雄親・雅利だが、「雅」は「雄」の誤字とも考えられる。
>官途は従五位下下総守・兵部少輔・刑部卿。羽柴下総守・滝川刑部卿法印などと称す。
>初め源浄院にあって主玄と号したが、のち還俗、滝川一益の女婿に迎えられて滝川姓を
>与えられた。信雄の家老を務め、1576年の三瀬の変では北畠具教を殺害し、北畠党に
>よる一揆鎮定に活躍。1581年の伊賀攻めでは一手の大将を務めた。本能寺の変後も
>信雄に仕え、1583年の北畠具親による一揆も鎮定。信雄と秀吉の対立でも信雄に味方
>して松ヶ島城に籠城、秀吉の攻囲を受けて開城するが、その後も秀吉方に抵抗し続けた。
>信雄・秀吉の和議成立後は伊勢神戸城主となる。信雄を通じて家康と親交でもあったの
>か、秀吉と家康の交渉にも登場し、家康の上洛を促す使者として家康のもとに土方雄久
>らとともに2度派遣されたほか、秀吉の妹朝日姫の三河下向の際にはこれを供奉。「織田
>信雄分限帳」では三万八千三百七十貫とゆう大封を得ている。九州征伐・小田原の役に
>も従軍。同年信雄が転封を拒否して改易されると秀吉の直臣となり、伊勢神戸二万石を
>領す。1592年には肥前名護屋の守備を担当し、1594年の伏見城普請を分担、1595
>年伊勢員弁郡五千石を加増されたが、同年の秀次事件に連座されて除封。御咄衆とな
>り三万石を給されて再び大名に列するが、関ケ原では西軍について伊勢口を守備し、改
>易された。しかし1601年家康に召出されて常陸片野二万石を領し、御咄衆として仕え
>た。享年68歳にて死去。出自については具政の養父である具康の男とも。そうすると、
>兄(義理の兄だが)は具政とゆうことになる。
783 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 07:54
柘植三郎左衛門の子という説もある>雄利
784 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/11 22:58
>>783 しかし、信雄改易後の扱いは名門・北畠一族のそれじゃないの?
785 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/11 23:49
北畠具教の殺害にも与してたろ?
主家をサッサと裏切るような香具師だけに、信雄の許からもサッサと離れて
豊臣家の直臣になったわけだろ?
そのくせ豊臣家から厚遇されたせいか、関ヶ原では判断を誤ったと。
786 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/12 03:03
滝川三郎兵衛は雄親と雄利のみ書状で確認できるとおもったけど
>>785 確か具教の首を持った家臣某が馬に乗ったまま身投げしたって話だっけ?
一方では足利義輝ばりに寄せ手の10数名を斬り捨てたって話もあったような気がする
790 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/13 03:29
何か伊勢に話が飛んでないか???
まあ、隣国だから関わり合いがあるのは事実なんだが。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 01:14
792 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 19:39
北伊賀は仁木氏の勢力圏?
>>792 権力なき勢力圏……そりゃ、勢力って言わんか……
794 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/14 23:25
>>786 一益と雄利の間ってどんな感じだったんだろな?
出自的には絶対肌が合わなそうな感じがするんだけどな
795 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 03:09
796 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/16 09:07
>>794 のぶやぼでは同じ滝川姓名乗ってるくせにアカの他人状態だけどね。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/17 02:06
800が近づいてきたので、そろそろ次スレ案なども募集しますか?
800 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/18 19:04
甲賀まで飛び火させてもらいたいなぁ・・・
801 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 12:34
>>800 一応言っておくが、ここは「忍者スレ」じゃないからね
忍者どこじゃ?
804 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 18:42
>>802 そもそもは「伊賀国人衆を語ろう」という流れだったよな
境界線が曖昧なだけで
805 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 01:44
>>804 近江を加えればいいんじゃないか?
当然、甲賀も含まれてくる。
【国人?】伊賀・近江国人衆を語ろう【忍者?】
ではどう???
806 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 15:00
>>805 このスレでもけっこう近江ネタは取り上げているからな・・・
もう少し検討の余地ありって気もするな
>>805 そうすれば序盤の朽木ネタもスレ違いではなかったということに
808 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 16:39
>>807 このスレでは実はスレ違いだったわけねw
>>807 しかし、伊賀と朽木ってどういう関係があるんだ???
810 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 20:13
>>809 どうもこのあたりから朽木が登場してきたようだね
205 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 17:40
>>203 伊賀の土豪の中には、伊勢の北畠家に与する者もいたわけで、伊勢の国人勢力とも
それなりに関係していたのかな?
まあ、伊賀の土豪の場合は徹底して反信長ということで利害が一致してたからな。
206 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 19:15
将軍用避難シェルターとしては、甲賀伊賀と朽木ではどちらの方が
信頼度が高いのだろう。
207 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 22:23
>>206 将軍家で近江に逃亡したのは義晴、義輝、義昭の3人か。
義晴は伊賀、甲賀には避難してないし、義輝は細川晴元と近江坂本に逃れた後、各所
を転々とし、2度目に近江に逃れたときは朽木谷で5年余りを過ごしている。
義昭(当時、一条院覚慶)は大和に幽閉された後、伊賀経由で甲賀の和田惟政の許に
逃げ込んでいるが・・・朽木谷に入ったという記録はないな。
朽木氏には偏諱を受けた者も多いし、御供衆にも列しているが、甲賀の諸氏ではそこま
での者はいないし・・・総合的には朽木谷なんじゃないか?
811 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 23:18
伊賀って「信長の野望」では足利家の領地になってたりするけど、あれってどういう根拠
でそうなってるのかな?
813 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/22 13:16
>>812 違うっしょ。寺領や荘園は多かったようだけど。
814 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 03:15
815 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 14:46
まあ、趣旨はちょっと違うと思うけどね
817 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 04:24
>>810 そう言えば、和田惟政の出自が「忍者」になってたな。
確か嵐世記だったと思うが...
和田惟政は甲賀五十三家の一つだから忍者でも構わないのでは?
>>818 「甲賀五十三家」って甲賀に在住した土豪・地侍のことでしょ?
それって忍者と言い切っていいものなのかな?
ちなみに和田氏は、五十三家の中でも六角氏より感状を与えられた「甲賀二十一家」
に含まれていた名門ではあるけど・・・
820 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 06:38
伊賀・甲賀出身者の出自が-忍者-なのはkoeiルールだしw
821 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 16:05
>>819 とは言いながら、六角承禎の対信長ゲリラ戦に協力した甲賀衆はごく僅かだよね。
823 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 12:57
そこで杉谷善住坊の出番ですよ!
824 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 15:47
>>823 確か杉谷家って甲賀五十三家の1つだよね。
善住坊の処刑があったからか知らんけど、杉谷家はいつの間にか五十三家の中からも姿を
消しているけどね。
>>824 そりゃ、あの時代には生き残れんだろ?
信長狙撃犯の一族なんだから
826 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 05:43
鋸挽きにされたんだっけ?善住坊
>>826 ちょっとずつ切り刻んでいくやつだろ?
浅井の母ちゃんがやられたのと同じようなやり口だったはず。
>>827 (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル
>>827 家康もやらなかったか?大賀弥四郎を処刑したときに
830 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 16:48
漫画『半蔵の門』では母娘食いして、白昼オ○ニーまでしてましたね>善住坊
831 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 22:02
832 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 07:38
>>830 母娘を守るために賊と戦って隻眼になった。
おかげで親子丼状態で、母娘の2人が装填作業をやってくれるというチームワーク
を発揮してたな。確か隻眼ゆえに鉄砲の照準が容易だったという設定だったね。
>>829 あれは首だけ出して、道行く人にちょっとずつ鋸で首を挽かせたって話
だから、善住坊のそれとはちょっと違うのでは?
バカ…おれじゃないるれ
835 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 09:52
836 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 22:30
実際には25メートルくらいの至近距離から狙撃したんだっけ?善住坊
837 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 05:20
>>836 蚊に目元を食われて(刺されて)手元が狂ったとか聞いたことあるな
838 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 12:49
>>837 弾丸は信長の衣の袖を貫通したんだよな?
またもや甲賀ネタ・・
840 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 23:04
>>839 そのヒットマン・善住坊を送り込んだのは伊賀に潜伏中の六角承禎だから
セーフでしょ。
>>840 気がつくと近江国人衆になってる六角承禎・・・_| ̄|○
842 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 00:35
>>841 城を改修したり、耕作してると手伝ってくれる気のいいオジサン
843 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 04:25
>>841-843 森田プレイの時には必ず家臣に迎えるように画策するけどな>六角義賢
ちなみに息子は門前払いだけど。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/03 19:36
>>841 伊賀国人衆はどんなに引っこ抜いても「仁木○○」・・・_| ̄|○
845 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 09:53
>>840 御家騒動で影響力が下がったとは言いながら、六角氏はかつて甲賀衆に自治権を
認める代わりに、軍事力を提供させていたわけでしょ?
>>845 後藤を斬ったことで甲賀の土豪・地侍が離れてしまったところはあるね。
だから伊賀のそれと違い、早い時期に信長の軍門に降ってしまったと。
たまには藤林についても語りましょう・・
848 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 00:10
藤林と百地は同一人物らしい
百地正西って何て読むんだ
リアルウエスト
851 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 21:16
852 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 01:01
>>848 墓碑に刻まれた戒名が一字しか違わなかったのが同一人物説の根拠
らしいけどね
百地と藤林じゃ勢力圏が若干違わない?
854 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 03:21
>>853 藤林氏の本拠地は伊賀北東部の東湯舟郷、これに対して百地氏のそれは
伊賀南部の名張と東部の喰代郷だしな。
855 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 17:33
藤林ってそもそも服部の支流だろ?
856 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 19:20
『藤林家由緒書』によれば、藤林保豊は今川家臣時代の山本勘助に忍術を授けたって
説があるらしいね。
真偽の程はよく分からないけど。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/08 22:41
>>857 石川五右衛門と百地三太夫みたいなモンか?
かなり眉唾な話ではあるが。
860 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 09:36
>>848 藤林長門の戒名が「本覚深誓信士」、百地三太夫の戒名が「本覚了誓禅門」と
酷似していること、伊賀には「影墓」という独自の風習があったことなどが根拠に
なっているようだね。
ちなみに「影墓」とは、養子に出した者が死んだ場合に実家の方でも墓を建て、
その際に養子先に遠慮して戒名を一文字だけ変える風習のこと。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 20:05
>>860 じゃあ、百地(or藤林)はその都度、居館を行き来してたわけ?
862 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 04:21
確か『伊乱記』には藤林に関する記載が極端に少なかったはず。
となると・・・
>>859 全て眉唾れす。
藤林家( ´,_ゝ`)プッ
864 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 19:09
藤林は百地のダミーです。
865 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 04:49
百地は藤林のダミーです。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 02:26
自身の存在をベールに包んでおいた方が商売し易かったんじゃないか?
商売も何もなあ・・・・ただの傭兵援軍だし
869 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 02:31
謎の人材派遣会社社長、百地三太夫・・・
871 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 07:55
>>870 もう一枚の名刺には「藤林長門」と書いてあったわけだな
>>869 いや、ベールに包むほどの意味があったのだろうかと。
確実な記録で追える限り、甲賀衆は傭兵として援軍に行きこそすれ、
忍者を派遣してたわけじゃないわけで。
873 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 04:52
>>872 甲賀衆?
伊賀の上忍たちのネタじゃないの?
874 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 06:55
>>872 甲賀衆なんて六角氏に軍事協力してた単なる地侍集団。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 12:29
>>874 そこに「忍びの里」を置いてしまったkoei・・・
876 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 18:51
伊賀だって似たようなもの。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 01:21
>>875 それは別にコーエイの罪じゃないでしょ。
甲賀の人間自身が江戸時代に怪しげな書物など書いては自分たちは
忍者でしたよーって江戸幕府にアピールしてたんだからw
878 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 01:40
>>877 それが食い詰めた郷士たちの所業ってのがね(w
880 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 04:21
>>875 宣伝屋としては極めて優秀だな……まあ、それだけってのもあるが……
881 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 14:16
882 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/16 23:46
>>876 独立性を放棄したか、維持しようとしたかの違いでは?
まあ、後者は悉く粉砕されたわけだが。
秀吉は忍者嫌いだったね
884 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 02:52
いやだから忍者ってのは・・・・
886 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 03:41
>>884 どうもこのあたりで語られてますね。
201 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 01:06
秀吉は甲賀武士が嫌いだったようで、雑賀攻めの際、滝川一益に命じて
甲賀武士を招集させて紀伊川の修復を命じたが、「工期が延びたために
凱旋の期を逸した」と言い掛かりをつけ、一益と甲賀武士の所領を没収
している。
204 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 17:32
>>201 確かこの時に甲賀の名門?・山中氏などが所領没収の憂き目に遭ってる
208 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 23:42
>>204 秀吉は土着勢力には辛いよね……極めつけは太閤検地
888 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 06:24
>>887 確かこの時点での滝川一益は数千石まで減封されてたよね。
889 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 08:37
いかにも秀吉っぽい陰険なやり方だな
890 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 10:28
普通に一益が嫌いなんじゃねーの
892 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 08:18
その頃、伊賀の里では・・・
893 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 18:00
894 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 22:12
>>877 それに光栄以前に「甲賀忍者」の小説・講談類は数多く出たわけだし…。
で、江戸時代に万川集海とか書いて忍者だ忍者だーと宣伝してたからには、
甲賀武士はみんな忍者で、忍術で戦ったということでFA?
896 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 02:42
897 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 04:20
>>895 過去のレスくらい目を通そうよ。
66 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 02:33
>>65 じゃあ、諜報活動やゲリラ戦法を得意とした伊賀衆は一体何者なんだ?
現存する忍びの道具の数々は一体何の目的で作られたんだ?
67 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 02:38
>>66 諜報活動は伊賀者というよりも修験者たちの得意としたもの。
別に忍術を使うんもんじゃないし。
ゲリラ戦は野武士の類は大抵得意。伊賀でも甲賀でも川並衆でも風間党でも。
忍びの道具なるものは江戸時代に興りし武術「忍術」の所産。
70 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 02:51
伊賀の国人の大半は普通に単なる地侍。
修験の盛んな土地柄故にそういった連中とつながりのあるのも一部いた。
そこで全国を行脚する修験者たちが持ち帰る情報を流してもらったり
また彼らの知識を習い覚えたりしている者もいた。
ま、その程度なんだな。
別に忍術を使ったとか忍者だったというわけじゃあない。
「忍術」なんてのはほとんどが江戸時代にもっともらしく創作されたものだよ。
73 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:38
>>70 藤林長門の子孫、藤林保武が編纂した『萬川集海』に収録されている楯岡道順の
話なんかも創作でいいのか?
74 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:48
万川集海は自称1676年の執筆だけど、現存するのは
1789年に幕府に献上されたものだからなあ・・・
いずれにしろ一次史料と呼ぶには新しすぎるんだよな・・・
84 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 04:41
>>79 >武田の透波、北条の乱波、上杉の軒猿、伊達の黒脛組
こういった連中は、大名が組織したそのための専門集団なわけで。
伊賀衆だの甲賀衆だのは、あくまでも地域単位の集団だからねえ。
『信長公記』だと長島から撤退する織田軍を雨の中弓矢でさんざん
攻撃したのが伊賀甲賀の連中だな・・・
至って普通の地侍の戦い方なんだよな・・・
太田牛一も一つ「伊賀甲賀の者どもの使う妖術の前に・・・」とか
書けば良かったのにw
85 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 04:43
>>82 万川集海など読む限りでは、孫子だのあちこちの軍学だの
はては陰陽道などまで幅広くパクッているようだね。
107 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 05:22
とりあえず『萬川集海』みたいにホイホイ城内に侵入して放火して回る
ような奴がいたら、戦国合戦の7割は無駄な努力をしたことになるな・・・
901 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 06:59
甲賀衆で言えば、島原の乱に従軍した香具師らがいるだろ?
大して役に立たなかったようだが、そのあたりが実情なんじゃないか?
903 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 18:13
904 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:06
>>902-903 http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1075671167/131-133 131 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/10 15:03
島原の乱に従軍した甲賀衆は・・・
鵜飼勘佐衛門……54歳
望月兵太夫………63歳
望月与右衛門……33歳
芥川清右衛門……60歳
芥川七郎兵衛……25歳
岩根勘右衛門……54歳
岩根勘佐衛門……56歳
伴五兵衛…………53歳
夏目角介…………41歳
山中十太夫………24歳
の10名。原城に潜入し、城内の様子を探索したという。
それにしても平均年齢46.3歳とは凄いなw
132 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/10 18:55
実戦経験者優先かな?
133 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/10 19:13
一揆勢に変装して潜入したまでは良かったが、
九州の方言が全く分からずほとんど役に立たなかったのが実情w
905 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:08
906 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:10
907 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:12
908 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:15
909 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:17
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1075671167/145-148 145 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/11 00:20
確か城中に潜入したのは負傷した望月与右衛門と芥川七郎兵衛のほか、夏見角介、
伴五兵衛、山中十太夫の5名だったはず。
146 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/11 00:51
>>144 一人二俵は無理だろ。
五斗俵としても二つ持てば150キロだ・・・
147 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/11 01:05
盗むより駄目にしたほうが・・・>米俵
148 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/11 01:07
五人で潜入して十三俵。負傷者二人は一俵ずつとして無傷の人間
一人あたり三俵から四俵。忍者は化け物だ!
910 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 07:18
>>909 燃やしても城内には百姓たちが大勢いるから、火勢が強まる前に
消されちゃうんじゃないか?
912 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 13:53
>>910 伏見の時には、甲賀衆は両軍に分かれていたからな。
傭兵に仁義を期待しちゃいけない。
913 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 05:42
>>912 その両軍に分かれるってのがポイントよ。
あらかじめ両軍に分かれておいて、お互いに情報を流しあう。
で、さも「調べてきました!」って顔をする。
で、最後は勝ちそうな方に味方する、と。
関ヶ原では読みを誤った。だから江戸時代には負け組人生さw
914 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 07:47
>>913 ん?
伏見籠城戦で戦死した香具師の子孫は、小禄とはいえ幕臣に
取り立てられなかったっけ?
915 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 07:49
>>914 西軍に与した方は、もう大変さ・・・・
まあそんな裏事情徳川家は知らないから、伏見城に籠った方は
ラッキーだったな!
916 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 13:30
帰農したけど困窮しまくり・・・
917 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 08:00
>>916 最後は幕府も「ええ加減にせいや...」状態だったね
918 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 16:27
>>913 関ヶ原では、一族で敵味方に分かれた香具師が、西軍の敗色が濃厚になった途端、
東軍に紛れ込んだなんてことはザラだったしな。
919 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 16:44
黒装束で夜間に忍び込んで城門破壊したんじゃないの?
921 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 09:04
>>919 そんな容易に事が進むなら...万単位の大軍はまるで無意味だろ。
それのぶやぼの策戦であったな
924 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 11:13
925 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 17:48
暗殺も請け負いますw
しかし、実際にそんなことあったんかねえ?
『バキ』によれば、「毒手」を習得した今川の忍者による
北条家の死者は数十人にもおよぶらしい。
927 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 11:24
928 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 19:40
>>926 『バキ』か……
傷口から毒が回るってやつな……
>>926 そんな容易に事が進むなら...万単位の大軍はまるで無意味だろ。
現代でいえば、ゲリラ戦を得意とする特殊部隊と大規模な正規戦を担当する陸軍部隊の違いだね。
水軍は海軍兼海兵隊ってとこか。
931 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/26 23:16
特殊部隊ほど特殊じゃないよ。だってただの土着の武士だし。
せいぜいアフガンゲリラだろ。
932 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 02:01
伊賀も甲賀も一部の人間は、将軍家に取り立てて
もらっているから、もうちょい上だろ。
ただ時代が時代なだけに給料が、
すずめの涙くらいしかもらってないがな。
933 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 05:28
一部過ぎるよ・・・・
しょうがないから忍術書書いちゃうぞ!
>>933 『信長の野望』の家宝に「忍術書」が欲しいな
烈風伝汁
936 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 12:39
>>934 いきなり出自が「忍者」になるとか?
おいおい、転職の書じゃないんだからさぁ…
>>936 出自「朝廷」の香具師が「忍者」になったら・・・
938 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 15:23
940 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 18:16
>>932 貧困に耐えかねて幕府に金せびったり、仕官を願い出たりしてたわけだろ。
といって、幕臣に取り立てられたと言っても与力・同心止まりだわな。
941 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 22:39
>>940 最低でも30俵3人扶持くらいだろ?
郷士よかマシだべ・・
942 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 00:51
>>941 伊賀者やらを雇っていた御庭番の給料は3石。
江戸の大工の方がずっと稼ぎがいいよ。
少なくとも耕した分は自分の収入になる郷士の方がマシじゃね?
943 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 11:42
公務員はいつの世でも安定してますw
944 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 14:28
>>930 どこが特殊部隊なんだよ……ただの民兵隊だろが
>>942 そのためにみんな内職してたよね。
傘張りやったり組紐やったり。
伊賀の忍者ショーに出てた女の子は、どこかの直系の子孫だと
説明されていた…誰だったかなー
ちょっと丸顔で、童顔気味なのに技のキレがものすごかった。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 15:33
948 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 15:49
そろそろ次スレの話を…
949 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 16:32
>>948 【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう【郷士】
でいいんじゃない?
6ヶ月で950。次スレは980でよくないか?
闘龍門のイメージガールのももちあずさは、百地氏の子孫らしい。
でも、伊賀忍者村にいたあの子とはなんか体つきが違うし、
今は東京にいるらしいからあの子はあの子で別な子孫なんだと思う。
952 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 21:09
953 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/29 23:13
伊賀忍者・百地三大夫の子孫!とか自分で言える奴は、
本物の子孫では無いと思う。
先祖が本当に講談や劇画に出てくるような忍者だったとか、
子孫が本当に思うもんだろうか?
955 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/30 09:54
>>954 百地屋敷に住んでる香具師が子孫ってわけでもないしな
956 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 01:06
957 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/31 02:14
皆殺しにしたのはいつまでも従わないからだろう?
あとは信雄タンのミスを隠滅するためとか。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 11:05
畿内に空白地帯があるってのは天下人として許せんものがあるでしょ
961 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 13:32
>>960 都に近いうえに、織田家のバカ息子の惨敗劇だけに、けっこう伝搬して世の嘲笑を浴びた
んじゃないの?
「負けた」とか「大負けした」事は伝わっても、
伊賀の人間を皆殺しにすれば「どうやって負けた」かは秘密にできるな。
963 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/03 15:43
>>961 国人たち自身も大いに喧伝しただろうし、伊賀に出入りする商人たちが
情報を広めたんじゃない?
964 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/03 23:08
伊賀って引き籠れるほど生産性の高い土地なんか???
965 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 06:13
966 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 18:11
>>964 都と近いんだし、焼物とか組紐とか地場産業なかったか?
それに東大寺などの荘園があったんだから。
>>962 期待に反して「どうやって負けたか」が漏れ伝わっているわけだが・・・
968 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 07:15
>>967 そりゃ負けた時の織田軍将兵もいるだろうし、生き残った伊賀衆もいる。
完全な隠蔽ってのは無理だろうな。
969 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 07:23
まあ隠蔽は無理だろうけど、信長の場合、一度でも負けた相手に対しては
ものすごく執念深く戦うからね。
伊賀の頃は、天下も目前で誰に遠慮する事も無かったし。
970 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/05 15:28
信長のおかげで伊賀に粽を食わないという習慣が根付いた。
972 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/06 00:15
973 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/06 04:35
>>972 確か天正伊賀の乱で全土が血の海を化したことが契機になってるとか
後に「もう大丈夫だろ」とチマキを食べた香具師が、急病になって血を吐いて死んだ
という話もあるらしい・・・恐ろしや・・・
974 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 20:03
975 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 23:02
「血」にまつわる話は多いね
>>966 地場産業となったのは明治期に入ってからじゃなかったか?
977 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/08 22:52
>>954 そもそも実在したか「?」なのに「子孫です」と名乗ること自体眉唾でしょw
978 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 00:26
>>977 上忍は存在自体をオブラートに包もうとしたってことはないのかな?
どこかの本で読んだのは「世に名が知られているのは実は中忍、下忍に過ぎない」と。
つか、ただの国人領主を勝手に中忍だ下忍だと呼ぶのはちょっと・・・・
980 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 05:01
>>979 違うでしょ。
百々氏の沢山城攻撃などに傭兵として参戦して名を残した連中とかのことじゃないの?
楯岡の道順とかさ。
981 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 06:08
>>980 俺の記憶では、その「楯岡ノ道順」の話は出典が『万川集海』だったような。
982 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 03:46
まあ、ガイシュツの島原の乱での甲賀衆が実像に近いんでねーの?
983 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 04:19
>>964 伊賀だけで食ってけないから他国へ出るんだろ
よく忍者の情報収集とか言うけど、特殊部隊みたいなことしてたわけじゃなくて
こういう先に出てって住み着いてる奴のネットワークで聞き込んでくるんだろうな
>>983 坊さんや修験者、行商人、技芸者などに化けて情報収集にあたったとか
言うけど、それなら大名家の家臣でも可能なんじゃね?と思う
>>984 伊賀や甲賀は戦国の当時は修験の盛んな土地だ。
知りたい事があれば伊賀や甲賀の地侍が変装する必要は全く無く、
現役で諸国を巡る修験者たちに「教えてちょーだい!」と言えば良いのだよ。
もっとも、伊賀や甲賀に情報収集の依頼をしたなどという
確たる史料は見たことも聞いたこともないが。
傭兵としてのものならまだしも。
986 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 16:54:35
ねぇねぇ、ならば家康はどうして城攻めに甲賀衆使ったの?
永禄5年3月に鵜殿長持の守る上郷城を攻撃した時に、伴与七郎と甲賀衆80名ほど
を雇って放火・攪乱させてるよね?
これも後世のフィクション???
次スレは
>>990を踏んだ香具師が立てることになっていますので宜しく。