【激渋】紀伊の鉄砲男児・雑賀孫市を語る【無双】

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刀が主流の戦国時代に鉄砲の達人、それだけで(;´Д`)ハァハァ
戦国無双の孫市も期待を裏切らず、夏侯惇を超えるほどの激渋っぷり。
コーエーとω−forceさんに敬礼!

ttp://www.gamecity.ne.jp/sengoku/top/charactor/chara09.htm
ttp://xxx.iuu.jp/saika/
2
3郭攸4:04/01/28 00:37
フライング郭攸4
惇の方がシブイよ。
>>1
無双スレ乙
孫市って桃山時代だっけ?
7郭攸4:04/01/28 00:43
郭攸之時代
秀吉刀狩り令必死だね、っと…
9無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 00:48
>>3 >>7
演長うぜぇ
10無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 00:49
>>1
もう孫市同盟なんて出来てるのか。
幸村か政宗辺りが最初に出来るかと思ったが・・・。
腐女子のパワーは凄まじい
たしかに戦国無双の中でもマトモそうではあるな。
13無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 01:41
孫市タンのエロ画像きぼんぬ
>>12
マトモっていうか他がアレすぎなんだよ・・・w
いや、自分も期待してるけど。

どうでもいいが光秀は美形受けを狙って完全にはずしてしまったなw
解釈の問題だ。
16無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 04:49
紀伊の雑賀衆出身。信長が一揆衆の本拠・伊勢長島を攻めたとき、一揆衆に味方したのが雑賀衆である。
鉄砲隊を組織し、織田軍をいったんは敗退に追い込んだほどであった。鈴木重秀とも重朝とも説があるが、不詳。
重秀は、石山合戦で100人規模の鉄砲隊を率いて織田軍を苦しめた。
本願寺との間に立って山崎の戦いで活躍、後に秀吉の紀州攻略にも参陣。
重朝は関ヶ原西軍で伏見城攻略に功あるも、政宗に身を寄せ、後に家康・頼房臣下。
>>16
わざわざ無双公式から無断転載しなくていいから。
18無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 05:22
一般に「鈴木孫一」なる人間は「鈴木孫一重秀」であろう。
『湯川家文書』
永禄五年(一五六二)ごろ九月二十九日付け湯河宗慶宛て連署起請文「十ヶ郷 孫一」
『本願寺文書』
天正八年(一五八〇)三月二十日付け下間頼廉宛て連署起請文「鈴木孫一重秀」
四月八日付け下間頼廉宛て起請文に「鈴木孫一」

まあ「孫市」ちゅうのは後世に誤って伝えられた名前なわけで。
ここは転載するスレか・・・
にわかでも三戦板に出入りする人間なら抑えている情報のコピペは
見苦しいだけだぞ。
21佐々木:04/01/28 06:46
また無双スレか!
長島に雑賀衆は出入りしていたっけ?
梅から納豆へ
24無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 14:45
秀吉の刀狩の方が後だよな?
なんのためにやったんだか…
じゃー鈴木左太夫は何者なの?
>>26
鈴木重意



ところで重意=重秀説ってなかったっけ?
やたー雑賀衆のスレ久し振りに立たーと思ったら…無双スレなのココ?
雑賀孫市無双にも出てるんだ…知らなかった…あーあ

>>26
司馬遼太郎の『尻啖え孫市』では佐太夫=義意だった。原典はわからん!
でも、佐太夫も孫一(孫一郎)って呼ばれてるんだよね!
まあ、孫市が誰か、というより、雑賀一族の世間ウケのいい通り名みたいなものだったんじゃ
ないかな「孫市」の名称は。

>>27
そうそう、重秀の弟とされてる重朝との年の差が、親子ほど離れてるから
らしい。ゲームでは重朝は重秀の子になってるしね。
あと、重秀の兄弟、鈴木重兼(重方?)と鈴木孫六なんかの記述があいまい
なのも、この重意=重秀説を混乱させてる原因の一つらしい。

オレ的には

重意(佐太夫)の子=重兼(長男)・重秀(次男)・孫六(三男)

という解釈がすっきりしてていいと思うんだけどどうかな?
他にも重宗とか重幸とかいろいろいるらしいんだが、よくわからん。
「孫市」と呼ばれた人物は重兼で、重秀は「孫一」と呼ばれていたってコーエーの武将ファイルに書いてあったよ。
まぁ所詮は武将ファイルだし。
孫市が称号と同義なら良かったのに
32無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 22:35
なんで古谷一行ソクーリなんだ?
というか古畑に似てるw
34無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 12:30
正直いうと、信長をやってこういう人がいるって、初めて知ったよ。
ある意味上杉謙信や島津義弘よりもすごいかも!
実際にも、こんな反則ぎりぎりの強さだったのかな・・
たぶん多少は誇張されてるとは思うけどね
破竹の勢いの信長軍を、苦しめたので、コーエーの能力が糞高い。
だから下間頼廉も高い。
3628:04/01/29 14:40
>>34
雑賀孫市、そして雑賀衆に纏わる伝説は、不可思議で個性的。
封建・荘園制度が主流の戦国時代で、ここまで発展した共和・傭兵制度を保った惣国は
おそらくこの雑賀衆だけだと思う。

ルイス・フロイスの『日本史』では「サイカの地は、二方を海に囲まれ、他方は水量豊かな川と
険峻な山岳が聳えた難攻不落の共和国であり、その住民は、ヨーロッパ風に言うなら富裕な農民
だった」と驚きを以て紹介され、大田牛一の『信長公記』では、10年にも及ぶ石山合戦において、
信長の強敵として、また中央政権への反骨漢として、恐るべき鉄砲傭兵集団を指揮して信長を窮地に
追いやり、岡本仙助の『石山軍記』では一向宗に対する忠誠心と信長に対する奮戦ぶりを
顕如上人と下間刑部(頼廉)に絶賛されて「一向門徒の象徴」とも目された。
さらに、海洋貿易を中心とした経済制度を推進した雑賀衆は、東アジアの海洋系民族(倭寇など)や
ポルトガル、オランダなどの交易によって様々な情報と巨万の富を得た。その情報と富がもたらした
最大の産物が雑賀出身の根来衆、津田監物がいち早く種子島で購入した鉄砲だった。
(雑賀と根来は旧来より近縁関係の間柄だったが、時には組みし、時には戦った)
鉄砲の伝来が一般的に天文12年(1543年)8月25日、そして津田監物が紀州に鉄砲を伝播したのが
天文13(1544)年3月15日なので、この情報の早さと迅速な行動力が『惣国』(民が治める国)
として立ち回った雑賀衆の原動力だったことが伺える。
3728:04/01/29 14:41
【続き】

これをきっかけに、畿内や堺などで鉄砲の国産化が細々と進むのだが、雑賀では驚くべき事に1550年代
にはすでに2000〜3000挺の鉄砲を保有していて、三好実休(義賢)を討ち取った永禄五年(1562年)
の久米田合戦ではすでに巨大化した合戦のシステムに順応した鉄砲隊による集団戦法が完成されていた。
三好一党との戦い、一向一揆への助勢、畿内の大名達の招聘、石山合戦など数々の戦いに投じていった
雑賀衆の勢力は全盛期(おそらく1570年代後半)には傭兵2万、鉄砲8000挺という恐るべき勢力へと
変貌していった。しかし、時の流れには逆らえず、しだいに雑賀衆内でも紛争が相次ぎ、天正十三年
(1585年)の秀吉の雑賀攻めでこの共和システムは崩壊したが、戦国時代に一陣の強風の如く吹きあれ、
そしてはかなく消えていった雑賀衆の夢物語は、後年多くの人々に共感を与え、明治時代には立川文庫の
軍記物で雑賀は脚光をあび、その後裔は司馬遼太郎の『尻啖え孫市』が確実に流れを組んでいる。

その雑賀衆の象徴的人物が雑賀孫市(鈴木重秀)だ。
3828:04/01/29 14:49
ほかにも、信長が本能寺で死んだときに、孫市(重秀)の弟孫六が
嬉しさのあまりにおどったという『ちんば踊り』の話や、孫市直系の
最後の人物・雑賀孫助の逸話など、雑賀衆は実に独特の話題に満ちている。
39無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 17:43
射程距離とかどうなるんだろうな・・・
『ちんば踊り』ってのは大河ドラマで竹中直人が踊ってたあれ?
前雑賀家の生き残りだって人が名乗りでてたんだよな。
前っつても結構昔の話だけど。
もう雑賀孫市総合スレにしちまおーぜ
>42
端からそのつもりだ
>>41
家系図とかよく知らんが、雑賀鈴木家は江戸時代は水戸藩家老だった訳だし
調べれば分かりそうな気もする。いや調べないけど。
44無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 12:48
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 レレ    レ        レ               し'(__)
無双スレっぽくない無双スレだ
46無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 15:19
>>1
あれのどこが激渋なんだ??
4746:04/02/05 15:20
あ、ごめん無双厨か
48無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 16:09
激渋サワコウ
49遼太郎:04/02/05 16:15
1に尻啖え孫市を読ませたい
烈風伝では三段特技を身につけ騎馬鉄砲隊なら間違いなく最強。PKなら謙信騎馬隊でも雑魚同然。
誰でも三段特技を身につけ騎馬鉄砲隊なら間違いなく最強。
>51
孫市と伊達政宗だけが騎突の前に鉄砲を撃つ。他の武将は只、突撃するだけ。三段特技があれば
政宗は2回撃って突撃、孫市は3回撃って突撃するんだよ。謙信の騎馬突撃はPKで修正されてる。
そもそも実在するのか?
54無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 23:06
>>53
鈴木孫一は実在する。
>>53
騎馬鉄砲のことなら実在せんかもな。
だいたい馬の耳元で昔の銃なんか撃ったらビビッて暴れだす
>>56
軍馬を銃声に慣らすのは当然の訓練だが。
西洋にはピストル騎兵や銃騎兵が普通にいたし
日本でも馬上鉄砲を編成した家はあった。大坂の陣の頃の前田家とかね。
ま、こちらは儀礼的・形式的なごく少数のものなんだけど。
日本の軍制に照らせば、馬上鉄砲という兵科があまり意味が無い
というのは確かだね。伊達家には無かったようだし。
関が原の合戦後、しばらく伊達家で重朝を匿ったんだよ。
その時に重朝から伝授されたとも言われてる。>>57

ちなみに佐大夫の長男が孫一重秀、次男が孫市郎義兼(平井孫市)、
三男が孫三郎重朝。
長男は雑賀孫一を、三男が孫市を名乗ってたみたい。
水戸徳川家で家老を務めたのは三男の重朝。

59無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 15:50
やばい、無双の孫市カコイイ…
>>58
伝授されていても、現実的に伊達家にそのような部隊が無いのだから
しょうがない。
61山崎 渉:04/02/13 04:22

             /⌒\
            /     |
          /.    ^ ^ )    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          /       /   <  これからも僕を応援して下さいね(^^)
         /   ,    /     \______________
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   Lぷ    Lぷ
62sage:04/02/15 17:07
「八丁念仏串団子」とかいう彼の愛刀ってすごいのか。
斬ったのに八丁も歩かれるのは、逆に恥ずかしい事だと
思うのだが。
63tfh:04/02/16 11:07
あれは孫一ではなく、アインだ!!
といっても、CVは南央水(見?)さんではない、アインだ!!
64無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 11:15
>>1
>刀が主流の戦国時代
戦国時代の時期にもよるが、少なくとも安土桃山時代には
刀は主流の武器じゃなくなってるぞ。
65無名武将@お腹せっぷく
>>63
南央美ね。
つか板違いだろ。