1 :
無名武将@お腹せっぷく:
桶狭間についてとにかく議論せよ!
終了
公孫3が3ゲット、と。
∧越∧
∧3.∧ (´<_` ) 必死だな、兄者。
( ´_ゝ`) / ⌒i
/ \ | |
/ / ̄ ̄ ̄ ̄/ |
__(__ニつ/白馬義従/ .| .|____
\/____/ (u ⊃
4 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 13:19
桶狭間だぎゃ〜
5 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 13:20
桶狭間
でも戦いは別の所でやられたらしいね
桶狭間の戦いなんて嘘っぱちの話なんでないのヶ?(゚Å゚)
7 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 14:10
桶狭間寛平
8 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 14:13
桶狭間というより田楽狭間で戦ったはず
じゃあ、なんで後世には「桶狭間の戦い」で伝わってんのか説明しろよ!
10 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 14:17
>>9 多分、戦いそのものは田楽狭間。
それで信長が奇襲したのが桶狭間じゃないの?
まぁ、聞いたことがあるだけだから、はっきりした理由はわかりませんが
11 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 14:29
桶狭間と田楽狭間の場所がわかるんだ
へー
へー
どこか聞かせてもらいたいものだ
わかるというか、それらの地名は文献上でも違うということでしょ
14 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 17:17
奇襲とか言ってると、小学生にも笑われる世の中だよな
奇襲じゃないと今川方の驚きや混乱が説明できない
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 17:42
桶狭間って山だったんだ・・・・・。
名古屋市緑区桶狭間
>>15 佐々隼人と千秋四郎が本戦の前に突っ込んで玉砕してるんだから。
それに両軍向かい合って隊列を整えた状態から始まったんだろぅ?これは奇襲か?
>>20 その二将のは信長本隊とは別だし、
義元も信長本隊を認めていないから奇襲になるのだが。
たしかに戦闘は信長は一気に向かい合って押し進んだのだが、
肝心の今川方がそれに驚くのは、今川方にとっては予想外(奇襲)だからだろ。
「うわっ!あいつら突っ込んできたよ!ありえねぇ!バカじゃねぇの?信じらんねぇよ!」
って事?
「なんだ小部隊が挑んできたな(ププ)、さっさと蹴散らしてどっこいしょっと(休憩)」
数刻後
「ぬお!また出た!しかもかなり多い!織田か織田なのか!?」
↓(そのまま前線部隊崩壊、今川直属隊にも危機迫る)
「やられたーありえねー」
って感じじゃないの?
ん〜なるほど。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 19:17
26 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 19:18
藤本正行の本ではミッドウェイ海戦のアナロジーで説明してたね。
第一目標・効果小と第二目標・効果大が同時に戦場に存在する場合ってやつ。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 17:34
age
29 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 18:17
ここも藤本正行ネタの流れか。
あぼーん
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 11:38
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 17:13
大大名への奇襲により天下への足掛かりを得た信長自身も
奇襲によりその命を落とすことになるわけだ。
桶狭間は奇襲じゃないよ。
藤本キタ━━━━(Д゚(○=(゚∀゚)=○)Д゚)━━━━━!!!
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 04:11
中島砦に向かってた味方が負けて逃げてきた所に、信長が
突っ込んできた。
味方を撃つわけにいかないので、飛び道具による迎撃ができないまま
白兵戦に雪崩れ込んだ。
これが今川の敗因。
初めから白兵戦に活路を見出していた信長と、
飛び道具の時点でほぼ優劣が決する普通の戦いを想定していたのに
それが出来ずに、覚悟未完了のまま白兵戦に入ってしまった今川と。
ちなみに14年後、信長も長島で同じミスをして多数の死傷者を
出している。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 09:39
田楽狭間は江戸時代ごろからの地名で
永禄3年当時は使われていなかった。
また、信長記や太閤記などの軍記物に窪地で休んでいる今川軍への
奇襲と書かれたため、近年になるまで奇襲扱いされていた。
永禄三年五月十八日、義元は尾張の沓掛城に入城し、そこで軍議を開いた。
義元は松平元康に織田の丸根砦の攻撃を命じ、
重臣の朝比奈泰朝には鷲津砦の攻略を命じ、
両砦は十九日の午前八時頃に陥落し、義元は午前九時に沓掛城から大高城に向けて出発した。
大高城への道中、正午になった事に気がついた義元は
桶狭間山の上に本陣をおいて、兵士達に昼食を食べさせ、
北西の方角の守りを固めて、見張りをたてた。
そして自分は先ほど討ち取った織田の武将・佐々政次、千秋季忠らの首実検をした。
同じ頃、織田信長は善照寺砦から全軍約二千を率いて、中島砦に移っていた。
そしてそのまま現在の国道一号に沿うように直進し、
午後一時頃には義元の本陣がある桶狭間山の麓までたどり着いていた。
雨がやんだ後、信長は全軍に今川軍への攻撃命令を出し、
一斉に桶狭間山を駆け上がり、義元の本陣に攻撃をかけた。
この織田の襲撃を受けた時、義元をはじめとする今川の兵士が鎧を
はずして酒を飲んでいたというのは、誤りであり、
義元自身は胸白の鎧に八竜を打った五枚兜を装着していた。
この攻撃の時、信長は今川本陣の真っ正面から攻めかかっており、
今川本陣の兵力は約五千であり、
織田二千と今川五千なら兵力差もかなり縮まっている。
義元の本陣を守る今川の精鋭と信長の軍勢が激突し、
義元は大高城に退却する事を命じて馬に乗って引きあげようとしたが、
服部小平太、毛利新助に討ち取られた。
このスレの目標?にあってないな
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 00:35
>37
・田楽ハザマは当時田楽坪。現在ヒロツボ。泥田地帯。空き地。享保の頃地名改修。
・桶狭間山の上は当時雑木林、密林地帯。義元本陣はありえない。また、幕山等の諸陣からは遠すぎる。
人馬休息、水手・排泄には山頂では無理だ。そして何より塗輿では交通が不便だ。正しくはもうちょっと下にある平坦地の旧刈谷街道の沿いが適切。
(現在は住宅地。削ったりして面影なし。)
桶狭間山・・・はっきりした山ではない。曖昧にして茫洋。突出した山でもない。(標高50m程度)正しくは桶狭間の山が正解。(豊明市とまたがり、当時も広い地帯としてとらえている。
・信長隊は義元本陣を正面から攻撃したのではなく今川軍北西縦長”イ”の字型布陣の容からみれば正面ごうそは無理。
従って義元本陣は人間で言うと右斜めわき腹をいきなり殴られた感じである。又、信長主力ははえ山、武路方面から進軍した。
桶狭間の山際から推定義元本陣までが1キロちょっと。山を駆け上るというよりはゆるやかな坂を交通した。無論、当時は開削地ではないが・・・
桶狭間山については、『信長の戦争』文庫版あとがきで、
読者に、義元が「桶狭間山」という山の山頂に陣取っていたと誤読している者が多くて困る、とか書いてたな。
長篠の「千丁計」についても、千丁しか持ってきてなかったと思ってる読者が……とか書いてたけど、
それはお前の書き方が悪いんだろうが、と思ったり。
わしか?わしがわるいんか?・゚・(ノД`)・゚・
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 02:08
>>39 中島砦から進軍してくるのは丸見えのはずで、変な議論だ。
心理的奇襲だったのは確かだろう
おそらく織田を舐めきって、今川将兵は必死で戦うことを忘れていたに違いない
でなければ信長直率部隊が突っ込んだ際の最小兵力差でも三千をつけてたくせに負けるって・・・
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 11:28
>42
>39ですが、桶狭間の戦いは実際自分も良くわかりません。不明な事が結構あるので
・・・
何故織田氏が勝ったのか、どのような行程で義元本陣まで行く事ができたのか丸でわ
かりません。
牛一氏の信長公記でさえ中島砦からいきなり桶狭間の山際(約二キロ半)ですからど
の道路を使ったのかも書いてません。
(おそらく旧鎌倉街道しもて道を交通。後の東海道、現在の国一より100mほど北
側)
そしてご指摘される丸見え・・・
で、小生、地形効果を考えるが必要と思い江戸期の土地改修の古地図等を色々調べま
した。
で出た結論が39です。ま、私見なので真実ではありません。不足もありますのでご容
赦を。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 11:30
>44の続き
桶狭間の戦い・・・私なりに思うことは織田軍戦法は剣道で言う面・面・胴攻撃。
で、胴で致命傷ということでしょうか。
千秋・佐々の一次隊が大高緑地方面よりイの字型布陣の今川軍に正面攻撃するが、
玉砕。
イの字型布陣のノの部分に結陣(高根山・幕山・巻山)する松井、井伊氏、瀬名氏か
ら
見える鳴海方面はさぞかし”丸見え”であったことでしょう。中島砦からも見えたで
しょうから。
次に前田氏、毛利氏を含む二次隊が現在の国一号桶狭間交差点付近から高根山・松井
氏陣に鎧襲交戦。
が、奮戦するもほぼ全滅にもかかわらず退却。
信長は自身を含む織田主力隊による第三次攻撃部隊企図。出陣を発令。
一方、今川軍前衛部隊は織田軍第一次、第二次攻撃を阻止、ひとまず任務達成という
ところか。
義元本陣に戦闘詳報を検首・報告。今川主将・幕僚は彼我の優劣を検討、今川優勢と
見るや、
休陣等の手配、つまり昼時期、食事。
中島砦から桶狭間山山際まで直距で約二キロ半。当時の鎌倉街道下手道は街道両側
が雑森が多かったらしいので
幸いにして敵から見えづらい!(らしい)*推測です。
信長軍は現在の国道一号線信号交差点、大将ケ根付近より静かに行軍。イの字布陣の
lの部分、まさにのど元
近くまで接近した。この時、豪雨降雨。雨止になり攻撃指令。先の一次、二次攻撃の
時を陽動戦とみるならば
直球、直球とみるならば今が正に変化球で勝負どころ、といったところか・・・
信長軍は守備薄き本陣右翼隊を集中攻撃、崩壊至。午後二時前、義元本陣確認、東方
に軍方向転換。
後は知ってのとおり。午後二時半現在の桶狭間古戦場公園付近で義元死亡確認。長福
寺にて首実験。
後、撤収、清洲帰陣。終わり。間違ってたらすいません。
そもそも「イの字の布陣」ってなんじゃいな。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 00:07
>46
説明不足で誤解を与えすみません。
義元本陣から北西に今川軍布陣状況を鳥瞰するとカタカナの”イ”あるいは
漢字の”丁”の型に見えるので私見で名付けだけです。
ちなみに丁の字の上の部分は”一”ですよね。ここが高根山・幕山・巻山と見ますと織田軍に対し
防波堤の役割とブルドーザーの排土板の役割にもなるわけです。
で、丁の字の下の”T”の部分が桶狭間山義元本陣。横からの攻撃には弱いですよね。
正確なことはわかりませんが信長は高根・幕山・巻山に布陣する今川軍に一次、二次攻撃部隊を当て
今川軍の注視・注力をひきつけたのではないかと私は考えます。
で、信長主力部隊を意外にも天下の往来を直接通行。攻者三倍原則の理論をもって本陣に当てた、と。
よく、今川軍は東海道(当時は鎌倉街道しもての道)をメインに見据え布陣したと思われがちですが(これはこれで戦闘指揮者が戦略上重要見と見るのは当然)
今川布陣状況を改めて考察するに今川軍は現在の大高緑地公園エリア一帯をバトルフィールドと想定し布陣したのではないかと思うのです。
で、信長はさっさと東海道行軍し、(大高緑地エリアを主戦場とみるならば迂回のかたち)兵をを大将ケ根付近に終結、桶狭間山義元本陣直接攻撃を取る作戦に出たのではないかと、こう考えるのです。
(ある意味奇襲にちかい)
現在、古戦場跡は二箇所あります。名古屋市緑区と隣接の豊明市です。
私は緑区古戦場説を支持します。豊明市の義元本陣跡は江戸初期からの迂回奇襲説が
定着した頃に作られたようです。東海道に近く、江戸時代中期に信長ブームが沸き起こり
大名諸侯が往来の際、立ち寄りやすかったのでしょうね。緑区へ行くには湿田地帯を通り抜けなければ
ならないので、めんどくさいですものネ。
私見ですのでご容赦を。
大河信長の内藤勝介の
投槍特攻は素晴らしい。
数年前まで武路に住んでいたのだが。
緑区の旧道としてはこの当時鎌倉街道と東海道の原型とがあったわけだが、
東海道はこの当時浜辺に近いまさに「海道」。
暗さに乗じての奇襲が正しいのであれば、古戦場としては豊明市武侍を挙げておきたい。
高徳院にも程近く、3000くらいの兵が陣取るには程よい地形があるのは
実際に歩いてみれば分かるだろうが、この辺りくらいしか見当たらないんだよな。
当時の海岸線地図を持っている人は見てほしい。中島−鳴海−大高は川でなく
海に隔てられている土地だということに気づくと思う。
>>49 当時の海岸線地図を見ろとは言うが
永禄年間の海部郡〜知多郡の地図など現存しないと思うが
ソース出してくれんか?
あと荒れるから名無しでたのむ
最後の行が何より重要だな
>>50 それは失礼。
中央公論社「日本の歴史10・戦国大名」あたりでどうだろう。
現在の扇川河口周辺を照合するとわかりやすいかも。
アトラスで見る現在の地名も「潮見」「浦里」「汐田」「星崎」など、
海岸線を示す地名が目に付くと思うよ。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 01:45
ディアゴスティーニCMじゃ
「桶狭間の戦いは奇襲じゃなかったんだ」とか言ってるから奇襲じゃなかったの?
とか思っちゃいます!
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 19:14
>53
この本、二〜三年前も発売してたよね。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:24
>54
あれって売り続けてたのかな。
CMが2〜3年前のと同じなんで、まるでまた歴史を最初からやるかのような印象を受ける。
また桶狭間から同じ内容で出すのかなーと
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 00:23
なんかオマケ付けないとね。ああいう本は。
ディアゴスティーニは悪徳。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 19:42
関係ないけど桶狭間の近くに短大があって 若い女の子がいまではイパーィいます。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 20:05
>59
信長は今川義元ではなくめいたんへ奇襲攻撃をかけた!!
毛利新介って義元の首とって出番終了かと思ってたら
本能寺であぼーんしてたんだな
利松見て初めて知った
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 20:21
服部子平太はどうなった?
>>59 いっぱいいるけど飲み屋とかないんだよな。
高徳院の脇には葬儀場とかできたし、裏には朝○学校はあるし、
若い女の子たちはモスバーガー以外いくところなくてかわいそう。
>>45 それと似たような解釈の本見たかも
詳しく覚えていないが、小部隊ぶつけて、前方に注意ひきつけて横長にさせたとか
それをすべて計算ずくで狙ったのだとすると、この時の信長は恐ろしく冴えてるな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:22
>>63 中京競馬場前の駅にヘルスほしいよな
そしたらバイトで短大の女の子が店員になるとおもうしさ。
ヘルスじゃなくてもスナックとかでもいいや。
本当に何もなくてかわいそうだよね。 つぶれかかった商店街だもんなぁ
奇襲否定派なんてまだいたのか・・・ある意味驚き。
http://tv3.2ch.net/test/read.cgi/sfx/1058186379/ 143 :MAC野郎 :03/12/29 23:22 ID:pjUIIfXV
おおとりは最終的にブラックスターまで破壊してるしな。
全滅したチームが必ずしも弱いわけではない。
MACがシルバーブルーメにやられたのは
誕生会の最中に奇襲かけられたからであって
万全の状態で戦えば、まず負けなかった!
思えば、シルバーブルーメとは奇襲用の円盤生物だったのではないかと思う。
レーダーに反応があってから
わずか15秒後くらいには基地に突っ込んで来たのだから。
多分、同じシチュエーションで全滅しない防衛隊はないと思う。
153 :名無しより愛をこめて :03/12/30 14:55 ID:22n5c1sD
>>143の改造コピペを作ってみる。
討ちとられた武将が必ずしも弱いわけではない。
今川義元が織田信長にやられたのは
桶狭間で酒盛りの最中に奇襲かけられたからであって
万全の状態で戦えば、まず負けなかった!
思えば、織田信長とは奇襲用の円盤生物だったのではないかと思う。
敵襲!の声があってから
わずか15秒後くらいには本陣に突っ込んで来たのだから。
多分、同じシチュエーションで討ち取られない武将はいないと思う。
154 :名無しより愛をこめて :03/12/30 17:45 ID:kyxWy5LI
>思えば、織田信長とは奇襲用の円盤生物だったのではないかと思う。
怖いよ!どんな人間だw
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 23:53
今川有力武将、瀬名氏俊が配陣した桶狭間。あの世で義元にボコボコ。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 23:56
>>62 確か秀次事件に連坐して処罰受けたように思うが?
>>67 最高に笑った。そういえば、野戦で討ち取られた大名は今川義元と竜造寺隆信だけだとか聞いたが、
モロボシダンもまた、怪獣に討ち取られた唯一の隊長となるか……。
ウルトラ以外では、SSIの大郷とかも死んでるが。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:00
>69
えっ! 桶狭間の英雄も何ともはや・・・
>>68 仲良く「婿」の家康を生暖かく見守る神になったことでしょう。
>>65 風俗というか、東海道は有松〜鳴海の宿場間はちょっとした色街だった。
今でも一号線や旧道沿いに名残が残っているが辛うじて稼動してるのは鳴海宿だけだね。
興味ないから行ったことないけどな。
>>72 三戦板発・桶狭間オフでもかますか?名短に奇襲とかいってw
それは犯罪に直結しそうで拙くないか?
いっそ名短のグランド借り切って桶狭間再現オフとかならまだ分かるけど。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/30 01:41
意外に知られてないのが、桶狭間の戦いの2年前に
信長はデスアダー惑星の戦いで下半身失ってキャタピラに変えてるんだよね。
機動力が違うよやっぱ。
普通、下に位置する少数の兵が上にいる大軍に真正面から突撃
するなど馬鹿なことするわけはない。と思っていたら実際にや
っちゃって、それが奇襲効果を発揮した?
77 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/30 02:09
単に尾張兵が駿河・三河・遠江の兵士より強かっただけだろ
前田慶次漫画バージョンクラスがごろごろいたならこの戦果も不思議じゃない
>>76 中島砦に向かった部隊が敗れて本隊の元に逃げ帰って来ていた。
敗残兵の収容中に便乗して織田軍が攻めてきたため、
今川軍は飛び道具で迎撃できなかった。
つまりイキナリ白兵戦に。
白兵戦を制するのに必要なのは、数はもちろんだが何よりも覚悟。
この頃の兵というのは、白兵戦をするのはせいぜい明らかに劣勢の
敵を蹴散らし追いたてして首を獲り手柄を確保する時ぐらいで、
日頃から闘志満々というわけにはいかなかった。
そのため肚を決めて白兵戦を挑んでくる相手には、不覚を取り
逃げ惑う事も多々あった。
織田軍にしても、長島でたかだか7、800の一揆勢相手に
信長の親類衆が多数討死という醜態を晒したことさえあるのだ。
それがちょうどこの時の今側軍にも起こったのだ。
戦の前段階、すなわち飛び道具の撃ち合いの部分がスッポリ抜けた
ために、今川軍は覚悟を決められぬまま白兵戦に突入させられて
しまった。
対する織田軍はわずか数騎で駆け出していった信長を自らの意思で
追いかけてきた、精鋭中の精鋭である。
もし事前に飛び道具の応酬でもあったなら、圧倒的優位は今川軍
にあり、信長の突撃は苦し紛れだと思って奮戦できただろう。
しかしそれが出来なかったために、兵の大半は状況不利と考えて
逃げ散ってしまった。
最後まで義元を守ったのは、わずか300騎の旗本のみであった。
今川軍300騎 対 織田軍2000
これでは勝負は見えているのだ。
レオニダスは三百の親衛隊でペルシャを翻弄したのだから、
旗本三百はかなり強力な戦力になると思われるが。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 00:22
まあ 演出家だったんだろうな 信長は。
熱田神宮で軍勢が整うのを待って神宮の中に鎧を着込んだ武士を仕込んでおいて
神までもがわが軍に参列したぞと豪語したっていうエピソードはぐっとくるものがあるね。
他の武将にはまねできないっていうか。
なにより本人にとっては一か八かの勝負であったことに間違いはない。
桶狭間の戦い以降 敵よりも少ない兵で戦いを挑むことは二度とすることはなかったんだから
戦いはやはり頭数であると認識していたに違いない。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 00:42
>78
中島砦に誰が向かったの?
開戦の方法は何も弓・鉄砲の類が最初という訳ではない。彼我軍装のいくさ立てによって陣展開・部隊配置が決まるのでは?
当時の桶狭間地区から西側は弓鉄砲が効果的に使用できた地形とはいいにくい。結構ジャングルっぽい。(慶長・享保検地図からの推察)
今川義元御一行は桶狭間地区で織田と総力をあげて決戦するつもりで布陣したわけではなく大高城に入城するために大部隊をとどめ置いた程度のもの。
何せ大部隊ですから一挙に入城というわけにはいかんので休憩を兼ねてどっこいしょ、だったのでしょう。
しかし電光石火の如く突如として現われ出でた織田本隊の強襲・・・
前衛部隊は本陣で何が起こっているか見当もつかない状態だったでしょう。なにせ自分ら織田本隊と戦っていると思っているのですから。
(実は第二次攻撃部隊と織田本隊は同一で信長は頃合を見計らって途中で分離、残留部隊にゲリラ戦を命じ、今川前衛の目を引き付けた)
桶狭間山際まで密行した本隊二千は大将ケ根付近より桶狭間山義元本陣を目指す。
信長は長篠の戦いに行くときも熱田神宮で銭占いをして決めているよね
どうせコインを二枚張り合わせてあったのでしょうが。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 00:48
>>79 信長の周囲の2000も旗本クラスでしょ?
>>83 本隊で2000だから
旗本はもっと少ないだろう。
そういえば信長は寺社勢力は焼き討ちをしばしばやったが、神社勢力にそういうことしたって話は聞かないな
>>85 比叡山。
寺を焼いたと認識している人が多いが、主に焼かれたのは
日吉大社の方
87 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 07:06
>>81 電光石火どころか丸見えだろ。信長の家臣が信長が中島砦に移ろうとするのを
丸見えだからと止めようとしたぐらいで。
あと何のために丘陵上に布陣するのか考えようね。
それと「密行」だのゲリラだのなんてどこから出てきたネタだね?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 07:45
>87
丸見え? 確かに鳴海方面は、ネ。
ふふふ。地形効果は絡んでくるね、どうしても。
そうだな、もっと時間がかかるかナ、桶狭間合戦の真の姿が分かってくるよ。
迂回奇襲説ではなく、直距離奇襲説が広まる、広まる。
某所の信長公記の現代語訳を鵜呑みにしてる可能性が高いな<密行
原文ではもちろんそんなこと言ってませんが。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 19:09
>89
原文・・・
読んだことあんの? 訳すことできんの、あんた?
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 20:48
>>89 出来もしない見栄張ってるなんじゃねーぞ、厨が(プゲラ
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 21:08
豊明側の沓掛城って丘陵地に囲まれた平城なんだね
今ではホタルの出る公園で地元で有名らしいが・・・
>>92 あのあたりは小高い山がおおいよ。
2千程度の軍勢なら隠しながら進軍できる。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 00:11
>>94 お?だったら原文訳して見せろや
誰かの訳文写すなよw
96 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 06:02
原文って漢文調で難しいのに
>>89は凄いなあw
文庫本で書き下し文のはあるけど、密行は出てこないなあ・・・
原文から書き下す間に何があったんだ!?w
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 10:41
つーか桶狭間は一帯は昼間でも夜のように暗い森が生い茂っていたというから
逆に寡兵で慎重に進めば敵に知られずに本隊までちかづくことが可能であったと思う。
また義元のほうは地元民の歓迎を受けてしこたま酒を飲んでいたとの事でもあるし
かなり油断していたため斥侯も出さずにいたのかもしれない。
確かに東海道が整備される前を想像すると「桶狭間」の周囲は鬱蒼とした
山道が想定される。現在に残る地形でも起伏が激しく、刈谷〜館〜鳴海間は
この「狭間」と境川によって国境あるいは支配圏の線引きが成立しているようにも見える。
本当に木の鬱蒼と茂る丘だったらそもそも今川軍数千が布陣できん。
>>97 『信長公記』によれば信長が善照寺砦まで来たのを見て義元に
300ほどでつっかけた連中があえなく返り討ちにあっておる。
まして2000で気付かれないというのは無理だろ。
あと『武功夜話』の信頼性ゼロのネタはカンベンな。
義元だって名将なのだ、そうむざむざと奇襲を簡単に許すわけはない。
豊明や大高の辺りは小高い山が連なった地形だ。
結構開けてきた現在でも所々深い林が散見できる。
あんなところに入り込んだら何処から伏兵が出てくるかわからんよ。実際の話。
300程度の兵力ならば返り討ちに出来ても2000となればどうだろうか。
>>99 万単位の軍と考えれば布陣はしにくいと思うが、今川勢は某スレにもあったが
在地領主の集合体であったので、義元本隊が布陣するにはそれほど広い土地が
必要ではなかったと思われる。現在でも起伏は激しいこの地では、義元本隊を
見おろす位置に密かに集い逆落しを食らわせることは確率は低くても不可能では
ないと思う。
何を以て奇襲という定義になるのかは判らないが、桶狭間は奇異な成功例のひとつといえる
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 18:31
104 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 23:04
>>101 現在森林であるというのはあてにはならんのだけどね。
例えば武田と北条が戦った三増峠なぞは当時は禿山だったのだが
江戸時代になるなり植林されてしまった。
>>102 見下ろされるような場所を避けておけはざま「山」に布陣したんだろ。
『三河物語』なんぞは山を駆け上って攻めたことになってるぞ。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 23:20
名古屋市緑区桶狭間古戦場跡公園が義元公討ち死にの場所です。
義元公戦死の地碑で義元公は討ち死になされました。
公園の東側約100mぐらいのところが推定義元公本陣です。
また、その東側200mから300mの丘陵地帯が”桶狭間の山”です。
一番高いところは現在宅地あるいは、小規模工場等があり、当時をしのぶものは
何もありません。鞍流川という川が当時あり、昭和になって埋め立てをした際、
桶狭間古戦場の碑が見つかったそうです。 信長が見下ろせそうな場所ではありません。
豊明市義元本陣跡(迂回奇襲説)は信憑性が低いと思われます。しかし、沓掛城へ逃亡する
義元有力武将が戦死したかもしれませんね。
>>105 石碑のあるところは盆地に近いと思うのだが。
清水山、武侍、大将ヶ根からならば攻め下ろせる低地に当たらないか?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 08:36
>106
無理と思われます。古地図(慶長・享保検地)には後背の丘陵地帯(おけはざまやま)は密林に近く
とても攻め降す地形ではありません。義元公は古戦場公園の東方約100mぐらいの小高い地域に本陣を置きました。
攻め下ろす状況ではなかったということですね。107氏のおかげで一つは解決したかも。
明日にでもアトラス片手に現地に行ってみます。古地図ってうpできますか?
>>106 それだと信長隊がどの方角から攻め込んだのかを特定できませんよ。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 17:51
俺はあのへんの太子小学校を卒業した
「太子ヶ根山」の太子
>>109 中島砦から鎌倉街道を通ったならば太子は通過点になるかも。
今も住んでいるならば
>>108氏はご近所さんかも。案内してあげたら?
近所じゃないですけどね。行ってきました。
大きな人工池やスーパー・団地などが近くにあってやや興醒めでしたけれど...
桶狭間「山」に布陣したこと、107氏の言われる地形とをすり合わせると
小高い大地の上が義元公本陣にあたるようです。山というほど高くはないですね。
豊明・緑区の本当に境目にあたるため歩いていてもよくわかりませんでした。
現在の道で言えば、信長勢は桶狭間交差点〜古戦場公園のルートで
進軍したというのが一番自然なような気がします。
高徳院が葬儀場と隣り合わせ(同敷地内?)にあり、檻付の病院はあるわ
工場や学校が建ち、戦国の雰囲気を感じられるものではありませんでしたね。
残念。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 14:00
前から疑問に思っていたんだけど信長は桶狭間の後、他の大名から一歩抜け出した
のはなぜですか?確かに奇跡的に勝ってすごいとは思うけど、戦力ってそこまで整
うものなんですかね?新人がやっとメジャーになっただけでどうしてそこまで力が
ついたのか不思議です。
詳しい方、教えてくだされ。
今川を倒した実績と名声を信頼して、人がついてくる。
>>112 そんなことはない。その後の信長は急に膨張したわけじゃなくて、今川領への侵攻があまりはかばかしくなく、仕方ないので松平元康と同盟を結び、美濃に旋回して五年かけてようやく落して、そこから雄飛してる
評価は大分上がったが、実際に一歩抜け出すのは大分時間経って苦労してから
115 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 20:16
>111
桶狭間、歩かれていかがでしたか?当時をしのぶものは何もないですよね。
義元本陣は公園から東の細い道を70mほどの高地ではないか、といわれています。(後背の山頂では当時雑森ばかりで本陣を置くにはちょっと・・・)
今川義元は決戦覚悟で布陣したわけではないので本陣は決して山頂ではならぬ、と言うことではなかったようです。
休陣も兼ねての駐屯でしたから総力を挙げて桶狭間山頂の森林伐開の必要もなかったのでしょう。
人工池?とありましたが大池という池でして桶狭間合戦当時もあった池です。
その池を囲むように瀬名藪(義元を迎える準備と織田軍監視の番所)、長福寺(義元首実検の場所)、戦評の松(瀬名氏俊が諸将を集めミーティングした場所)
等があります。長福寺では今川義元公像が安置されており、教科書等で出てくるおなじみの木像があります。
桶狭間合戦時、織田信長軍の進軍行路は1.中島砦より大高緑地方面より真正面攻撃説 2.旧東海道(当時は鎌倉街道下手道)迂回攻撃ルート説がありますが
ま、実際はどのルートを通ったかわかりませんよネ。私は個人的に中島砦→鎌倉街道下手道→大将ヶ根→生山→武路→桶狭間古戦場公園エリアと思っています。
私見ですのでご容赦を。
>112
114さんもおっしゃっておられるのが正しいと思います。
大河ドラマや小説では桶狭間〜美濃攻略が短期間で語られてしまうためあっという間の感がありますが
実際、信長自身、メジャーデビューするまで紆余曲折、負け戦も当然ありました。しかし近隣諸国には
有名人でしたから結構プレッシャーもあったと思います。ま、新興企業のカリスマ社長といったところでしょうか・・・
116 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 21:36
桶狭間だぎゃー
ビービービービービー
118 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 00:59
天才クイズに桶狭間小学校が出場していた。
かっこいい名前の小学校だ。
尾張の弱兵っていうが、どの説をとっても倍以上の敵兵を蹴散らして大将首をとったわけだからすさまじかったんだなこのときは
今川の兵も弱兵だったと聞くが
>>120 今川兵は強いぞ。徳川が武田を滅ぼすとき、最も頑強に抵抗したのは
駿河の兵だし、徳川幕府でも駿河の兵は三河兵並みに優遇されている。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 04:44
信長の家督相続から13年で尾張統一
家督ついでから死ぬまでの半分ぐらいが尾張美濃での戦い
それなのに小説ドラマではほとんどでてこない
>>122 尾張、美濃での戦いは、高校野球に喩えると県予選であり、それ以降
が甲子園だから、放送に差が出るのは仕方がないだろう。
>123
けど、信長の人生の大半は尾張統一に力を入れている。
信行との抗争をもっと深く描いていれば、大河の「信長」も面白かっただろうに…。
何度ループすれば気が済むんだろう?
126 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 19:14
>>121 >徳川が武田を滅ぼすとき、最も頑強に抵抗したのは駿河の兵だし、
朝比奈を除けばあっというまに服従してますがw
>徳川幕府でも駿河の兵は三河兵並みに優遇されている。
駿府に家康がいたからだろー
今川を滅ぼす時、の間違いじゃ?
なんのかんのいって馬鹿殿氏真の下で徳川武田に挟撃くらうまで粘ったわけだし
歴史読本に書いてましたが、大高城を囲む砦があと三つ
あったんですねえ。
信長公記には何かの理由で書けなかったんでしょう。
そういえば信長公記って何次史料に当たるんでしょうかね。
贋作との呼び声も高いし。
解説本でも読んでください。
>129
一応一次資料でしょう。
ただ豊臣時代に起稿し、徳川時代の完成ですから・・・・
特に徳川氏に都合の悪いことは書けなかったでしょう。
現に信康事件は削除されてます。
>>131 信長家臣とは言え、近江で代官やってたオッサン。
そもそも知らんかっただけの事も相当にあるはずで。
書いて無いから削除したと考えるのは疑いすぎというものだ。
徳川方の史料を見ても、信康事件は信長の娘婿にあたる信康を
処断することに同意を求めただけで信長の指示などではない。
信長が具体的に何をしたという事件でも無いわけでね。
むしろ第二次雑賀攻めなどの大規模な作戦の書かれていない事の方を
疑問視するべきではないかと思うわけで。
>>131 >ただ豊臣時代に起稿し、徳川時代の完成ですから・・・・
>特に徳川氏に都合の悪いことは書けなかったでしょう。
この部分がいつも1〜3次史料として論争になってますな。
甲陽軍鑑とは較べる必要もないが、「一次」の上に「準」が付くくらいでしょうか。
134 :
もうひとつの桶狭間:04/02/12 00:17
桶狭間合戦の真実は我々の想像を超えた
ところにあると思います。
かぎをにぎっているのは家康でしょう。
この後、駿府には戻りませんでしたが、
戻れなかったといったほうが当たってるでしょうね。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 00:21
信長公記は太田牛一がいくつかの覚書から抜粋して編纂したもので、宮中公卿の戦記物として長い間、日の目を見ることが
なかったらしいです。太田牛一はメモ魔だったらしいので編纂時、割愛した覚書も多数存在したはずです。
齢、八十をすぎてからの起稿だから学者から見ればボケ老人のたわごととして重視されなかったようです。
しかし、牛一自身が信長公記編纂にあたって次のように述べてます。
名古屋の蓬左文庫に「太田和泉守記」と称する「太田牛一」の
自筆本がある。その一節に「この一冊について書きます。私は尾張の
国春日井郡山田庄安食の出身です。
80歳を過ぎ老齢も極まって衰えた眼を拭きながら、心に浮かん
だことを書きました。私が日記を書いたついでに書き留めたものが
自然に集まって本になったものであるから、勝手な創作ではありま
せん。あったことは省いていませんし、無かったことは載せてあり
ません。一つでも偽りを書いたら天道は如何にみるでしょうか。私
は信長公、秀吉公の臣下を経て、現在は秀頼公の臣下です。この御
三方に家康公と、秀次公を加え、五代の軍記を世間の笑い種にとま
とめました。」「9月11日(慶長12年)1607太田牛一花押」
>>徳川方の史料を見ても、信康事件は信長の娘婿にあたる信康を
処断することに同意を求めただけで信長の指示などではない
秀吉時代の原書には上のような事が書かれてましたね。
完成版にはないわけです。
132,133
レベルの高いつっこみですね。
びびってきます。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 00:39
>136
さしてレベルの高いつっこみではない。
参州仕置乃次第、二巨頭体制になりつつあった松平家を家康が参州筆頭の頭目信康とそれに組する松平支族及び
豪族連合を処罰しただけの話。織田氏には了解程度。信長には軍事行動と見られるし
何より内紛は当時としても好ましくない。勃興新勢力織田氏には後背があやういと大変な事に・・・
>>137 なるほど、信長への通報が遅れれば逆に娘婿の信康が家康を追い落とすことは
意外と容易いことかもしれんね。家康も焦って結構な賭けに出たとも見える。
この合戦のキーポイントは、
三つの幻の砦でしょう。
義元を危険な桶狭間(田楽狭間?)まで
おびきよせるのに重要な役割を果たしたはずです。
水野信元などは何をしていたんでしょうかね?
釣り
仮にも太田牛一のコテハンを使うなら田楽狭間なぞカッコ書きでも
使うもんじゃないな。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 07:33
>139
幻の三つの砦?
何? どっから出てきた話だ? 歴史読本? 義元をおびき寄せる?
義元っておびき寄せられたのではなく、大高城救援作戦のためとvs織田軍の軍事行動がしやすい
場所と思って布陣したのでは? 思いついて桶狭間エリアに布陣したのではなく遅くても沓掛城入城時には
決定していたのでは? 瀬名氏俊が先発隊として義元着陣三日前には仮陣地構築と入軍の準備をしているぞ。
幻の砦については2002年の何月号だったか忘れましたが、
歴史読本に転載されてました。
大高城を囲む鳴海、鷲頭両砦の図面上では左側にさらに三つ
あったわけです。
砦の名前も忘れてしまいました。
氷山何とか?
信長友の会にその詳しい投稿がありましたが、閉鎖されてしまった
ようです。
大高城包囲の総大将は、水野信元ではなかったかと
推論されてました。
また、佐々、千秋両将もそれぞれの砦の主将ではなかったかと
書かれてました。
田楽狭間云々は、迂回奇襲説もまだまだ捨て切れないもんでして、
あしからず。
いずれにしろ、この合戦はテレビや小説の世界とはかなり
かけ離れたものではないかと思いますね。
>>143 その根拠となる史料が重要なわけだが。
図面にはさらに3つの砦とな?
江戸時代の古図面をもとに現地調査をしたみたいです。
詳しくは歴史読本を。
図書館で見れるでしょう。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 22:04
桶狭間だぎゃー
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 11:51
信長の野望 風雲録だと桶狭間のイベントが信長でプレーしていると
おきるんだが、そのとき篭城か野戦か選択するアイコンが出るんだが
どちらを選んでも勝てるんだよな。
実際 史実で篭城を信長が選択したらどうなったか考えてみないか?
最近の調べだと今川はこのとき信長を殲滅させるつもりは毛頭なかったとのことだが。
これで武功夜話の絵図とかだったら目も当てられないが・・・
風雲録って文字だけで終わって行きますよね
>>115さん
遅レス失礼です
有松駅近くに車を置いて、旧道(東海道?)から南に歩いて行きました
スーパーを通り過ぎて農協があるあたりだったと思いますが、公園がありました
看板があって、桶狭間古戦場とのことでしたので散策しているうちに迷ってしまい
豊明市に移動 ここで高徳院ともう一つの古戦場跡地を発見
もう訳がわかりません 史跡の捏造かと疑うばかり
怪しげな学校や病院を背に、迷っているうちに駐車場に戻っていました
桶狭間”山”を一周していたことに、地図を見ていて後日気づきました
来週あたり、もう一度行ってみます 詳しい方がおいででしたら何か情報ください