なして島津の大河ドラマが無い!2 【半島問題】

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>>255
>戦国からそういった大名が庶民に親しまれ語り継がれたってのは、結構違和感を感じるんだが本当かい?
>>250ではないが、民間伝承の場合、口伝がメイン。
当時はメディアが発達していないので、口頭で民話・神話・各種の歴史・英雄の事跡などが伝えられました。
特に娯楽の少ない地方の庶民にとって、戦国時代の英雄の事跡・武勇談は数少ない楽しみでもあったわけです。
「信玄堤やxxxは信玄公のおかげだよ」「xx公はxxxxな人でxxxをやったんじゃ」という形で
地元の人々によって、夜語りなどの形で代々伝えられ、その過程で現実の生活の辛さなどに対する反動として、
「昔は良かった」式に次第に英雄化・神格化されていくわけです。
加藤清正などがその典型で、清正および加藤家が肥後を統治したのはわずかな期間でありながら、その武勇と
善政ゆえに、朝鮮の役で多くの兵を失い領国を疲弊させたにも関わらず、英雄化・神格化され、加藤家の後に
入った細川家も熊本入城の際には民衆の心を得るために清正の位牌を捧げて入らざるを得ず、長期にわたって
肥後を統治し他にもかかわらず、幕末・明治期に入っても民衆にとって「清正公」は、代々の細川の殿様より
上位にありました。
また、武田・上杉・毛利・伊達などの地方の英雄は少なからず中央政権に敗れ、領国の縮小とともに武士階級の
一部が農民などへ降り、そうした人々も話を伝える一役を担いました。
また秀吉などは、太閤記が江戸期に絵本や浄瑠璃、歌舞伎などによって広まり、庶民の人気ものとして、未だに
「太閤さん」という呼び方をされるほど身近な英雄として大阪や京都の人々の心に残りました。
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逆に島津は、中央政権に敗れ領国は縮小したものの、没収されたのは経営期間が短い占領地であり、むしろ
略奪・暴行の負のイメージが残っていただけでした。また、それらの領国縮小に伴って武士から帰農したのも、
島津に敗北して降った者たちで、当然ながら島津をたたえる話を子や孫に残したりしません。さらに関ガ原敗戦
でも領国は減らず、武士階級が定着してしまいました。
そのうえ、過酷な税制をひき農民を奴隷化したので、「島津の名君・名将」について武士階級の間で語られる
ことはあっても、庶民に親しみを持って語られることはありませんでした。また、薩摩は国を閉鎖していたので、
近隣の諸国に島津についての悪評は出ても好意的な話が伝わることはありませんでした。
そのうえ、その武士階級の間ですら、城下士(上士)と郷士(下士)の間に強烈な差別意識・階級制度があり、
虐げられた郷士の城下士に対する憎悪が西南戦争の一因にもなったぐらいですが、これら郷士階級には「上の
者が言うことについてとやかく言わずに従う、主家のやることについてあれこれ批評しない」という風習が
あったため、ほかの土地のように「今の殿様に比べて維新公はよかったよなあ」ということを討論することも
ありませんでした。西南戦争は主に城下士階級が賊軍に回り、差別もあって軍にいれてもらえず警察官に
なった郷士階級は主に官軍についたので、当然残ったのは郷士階級のほうが多い状態でした。
それもまた、島津忠良・貴久・義久・義弘という戦国期の当主の印象をあまり強く残さなかった原因のひとつかと
思われます。