1 :
無名武将@お腹せっぷく:
奴は天才だ。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 22:03
レス。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 22:41
レス
7 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 22:49
本名 真田信繁
真田幸村の主な合戦を教えてくれ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 23:47
レス。
>>9 違います。 真田幸村のこと良く知らんので。
なんでも幸村、若い頃女に負けちゃったらしい。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 23:58
2回の上田城の戦い。(これは昌幸。)徳川軍を蹴散らした!
あとは、大阪城の冬・夏の陣だね!
家康が一番恐れた男だよ!
「真田の軍日本一の兵(つわもの)」って言わしめた男だよ!
武蔵でも観とれ
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 07:55
あぐり・なほ・阿菖蒲がでてたな
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 08:41
真田十融資
17 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:13
神川合戦の指揮は昌幸だし、
大阪の陣での瀬田方面への出撃の案も昌幸のじゃなかったか?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:14
真田十勇士も尼子十勇士のパクリだし。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:15
>>13 一回目の上田城の戦いは確かに史実だけど(ただし家康はこの戦いに出陣してない)、
関ヶ原の戦いの時の二回目の上田城の戦いはほとんど史実ではないです。
この時は徳川と真田の間に本格的な戦闘はなく、
秀忠軍が遅参した本当の原因は悪天候と準備不足によるものであって、
真田と小競り合いしたのはむしろ「何もしないわけにはいかなかった」という理由です。
それと、家康が最も(かどうかは疑問ですが)恐れたのは幸村ではなく「昌幸」であって、
例の大阪城に真田が入ったと聞いて家康が震えた話しも、
昌幸はすでに死んでいて大阪城に入ったのが幸村の方だと聞いて「安心」した話しもあります。
あと、大阪城冬の陣夏の陣での幸村の奮戦は見事でしたが、
徳川方の将兵が十分な領地を得て何不自由なく暮らしていたようなお坊ちゃん集団となって弱体化していたのに対して、
豊臣方は冬の陣では関ヶ原などで領地を失い落ちぶれた浪人たちが再起をかけ、
夏の陣では行き場を失った浪人たちが死に場所を求めて闘ったわけで士気や練度が大きく違っていた点も大きいです。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:16
真田幸村が指揮取ったのなんて大阪の陣の特攻だけじゃないの?
21 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:18
そういや秀忠遅参の件だが大雨で碓氷峠のあたりが、ぬかるんでて
後から続くはずの小荷駄隊が遅れてたような気が・・・。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:19
>>1 ちなみにスレタイの事だけどレスじゃなくてスレだろ。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:37
真田丸にしたって、最初にあそこに着目して丸を築こうとしてたのは後藤又兵衛だからなあ。
真田はその案を拝借しただけ。
大阪の件の後藤と真田の関係はいろいろ言われていて、
後藤又兵衛討ち死にの件も後藤との確執があった幸村が意図的に遅参したという説もある。
なんにせよ、この件で幸村から名将の冠は完全取れてしまったと思うが。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 09:43
何だか幸村マンセーのスレの筈なのに
出鼻からして批判続出だな。
>>19 悪天候はまだしも、準備不足ってことはないだろ。
ずっと前から上杉の押さえとして出陣していたし、
そもそも家康隊は旗本衆を集めた臨時部隊みたいなものに対して、
秀忠隊は大名クラスが正規に組み込まれた正規部隊と言える。
それに家康隊よりも先に出されている。
真田の引きつけがどれほど役に立ったかは知らないが、
悪天候や準備不足というのは秀忠隊の言い訳くさいぞ。
>>24 史上最強とスレタイ名を付けた時点での必然的な結果
30 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 15:23
>>26 悪天候遅参説についてはもはや定説じゃないかな。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 15:34
中村正俊はぶっちゃけ信之なイメージだね。
幸村ってーと、、、誰だ? 武蔵のお話。
中村半次郎カコイイ
33 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 16:26
>>31 主役を食うだろうけど、やはり渡辺の謙さま
34 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 18:02
喰うね・・・。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 18:38
>>26 秀忠隊の関ヶ原遅参については
藩幹譜
折節、川の水出候て、何共参られず
慶長年中ト斎記
打ちつづきての雨に道悪しくなり、壁土をこねたるごとく道を、ゆるき土の中を一足づつ渡り候
と豊富な史書が当時の中山道が悪天候で泥ねい化してた事を裏付けてるんだよね。
あと準備不足説についても軍資金が途中で尽きて立ち往生したという事らしいね。
秀忠隊は本当は一度江戸にかえって軍資を整えたかったけど、宇都宮から赤城山麓を経て直接、中山道に至るような
無茶な行軍が仇になったらしい。
やはり、あんまり真田の遅延工作とやらは関係なかったようで・・・
渡辺謙は伊達政宗と相場が
雅俊のトローンとした感じが肖像画に近くていいかもな。
草刈・辺見パパの幸村は男前過ぎだがや。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 23:07
>>37 なるほど。俺の感じでは、
そのトローンが違うなって具合なの。
逆に鋭さが足りなくないか?って。
仮に真田の遅延工作が功を奏したとしても讃えるべきは昌幸であり幸村ではない。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 00:55
大阪の陣の時の彼はヨボヨボの爺さんだったという
まだ50ほどだったのに
>>35 いや、そんなのは聞いてはいたが、
7月25日 小山評定
8月24日 宇都宮を出発
9月01日 信濃大門,そして2日に小諸に到着 交渉後に5〜8日真田攻撃
9月09日 家康からの書状到達と前後して美濃に向けて再出発
9月15日 関ヶ原の頃は木曾らへん
という日時に変化はないんだろう?
で、「9月09日 家康からの書状到達」自体が悪天候で遅れたもので、秀忠は驚いたそうだが、
つまり書状も遅れるくらいの悪天候は秀忠隊にも前後して起きているもので、
それにもかかわらず悪天候のせいにするのは、真田に構ったことを誤魔化すためとしか思えん。
軍資金が尽きた(西上準備が不十分だった)というのは同情の余地はあるが・・・
(出発までの一ヶ月もの余裕の間に、西上の内定はもらはなかったのだろうか?)
ついでに言うと、出発から9日間ほどで上田、上田から7日間ほどで木曾というのも、
行進スピードとしては後者のほうが優れているか、同じ程度と思う。
途中から突然の悪天候で速度が鈍ったようでもなく、
「どう頑張っても元から間に合うものではなかった」というのはわからなくもないが、
その場合はその場合で、ちょっとでも真田に手を出そうとしたのは失敗だろう。
>>41 >>42 その真田攻撃とやらがほとんど戦らしい戦が行われた様子が無いんだよね。
強いて言えば先に真田が撤退していた上田城の支城の伊勢崎砦を無血で秀忠隊が奪ったくらいで、
徳川と真田の間に言われているような戦闘はほとんどなかったんだよね。
つまり真田の遅延工作というのはほとんどありえないと思われる。
何にせよ徳川の不手際と不運で遅参したんだろうね。
>>43 その数日間は、秀忠隊は寝てすごしてたんか?
とにかく、20日くらいには関ヶ原についてるんだから、
9月3日〜7日くらいの無駄をなくせば、
関ヶ原にも間に合ってもいたかもしれない。
悪天候というのは事実だろうが、その影響はそれ以前から見られるものだし、
その後も行進速度は十分保たれたわけで(著しい難所もあったようだが)、
真田に構ってしまったことへの言い訳にはならんだろ。
よくみると、結局は真田に構ってしまったことが、
遅参の第一要因ということになると思うよ。
秀忠「真田がのらりくらりと態度を曖昧にして・・・別に真田の抵抗が激しかったわけではないのですが・・・」
検事「つまり真田の遅延工作に引っかかっていたということですね。」
秀忠「大殿からの西進督促状自体が悪天候のせいで届くのが数日以上遅れて・・・その後急いだのですが・・・」
検事「つまり悪天候は地域全体に前後するもので、秀忠隊だけ良かったり悪かったりではないのですね。」
秀忠「特に木曽川が氾濫して渡れなかったのが重大で・・・」
検事「あなたは実際に木曾から5日後には近江で家康と合流している。その5日間分をどこで浪費したかだ。」
秀忠「私は悪くない!真田もどうってことはなかった!裁判長!!」
検事「裁判長。被告は明らかにミスを重ねており、またミスを認めようとせず、更正も期待できません。」
裁判長「すべては過去のこと。今後の平時には秀忠が相応しく、後継者の座は秀忠のままとする」
検事「忠隣裁判長!!あなたはきっと後悔する!」
47 :
花咲か名無しさん:03/10/21 12:50
九度山に流された幸村のお歳暮に鮭を送ってもらったことに対する礼状
九度山での生活は相変わらずだが、当冬は万不自由で
ひとしおうそざぶくこんな状態なので今後ともよろしく一度会って色々と話したい。
極月晦日 信繁花押
なかなか面白カタ
49 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 14:09
>>45 >>46 秀忠隊が後半になればなる程、わずかだがスピードアップしたのは、
はじめのうちは常識的な行軍をしてても、
このままではまずいとあせった秀忠が昼夜兼行(つまり不眠不休って事)の
無茶苦茶な行軍を将兵に強要したからだけどね。
別にスピードアップしたからといって道が良くなったとは限らない、
というか昼夜兼行の無理な行軍にも関わらず
ほんの少ししかペースが上がってないのがいかに中山道が荒れてたかの証拠になると思うがな。
真田の遅延行為(というか単なる秀忠の判断ミス)で数日失ったのも結果的には一因程度はあるかもしれないが、
それが主因といったら嘘になるな。
結局、秀忠がアホだったんじゃないかな?
仮に真田昌幸が何をしようとも秀忠は無視して行軍すれば良かったんだし。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 14:21
まあ、関ヶ原の秀忠遅参の件の真田の関わりは
世間で言われているような大軍を持って上田城を攻めよせる秀忠隊を昌幸が智謀、用兵の限りを尽くして撃退し続けた。
とかいうような派手なものではなく、
秀忠が勝手に軽くちょっかいを出して数日のタイムロスをしたというだけの非常に地味なものだったみたいね。
なんかもう戦国史演戯と正史に分けてもよさげやね
>>49 だから、その荒れている中山道ってのは、真田に関わる前から見られることなので、
それでも真田に関わってしまったことが秀忠のミスであり、
それでも悪天候のせいにするってのは言い訳だってことだよ。
つうか秀忠でさえそんな言い訳はしないと思う。
悪天候遅延説というのは、実際に悪天候で通常よりも日時がかかったことだけを注目して、
それでおしまいってする、無責任というか、責任の所在をはっきりさせない日本人らしい言い草だ。
結局、真田に2日間程度で見切りをつけ西に急いでいたら間に合っていたかも知れず、
その見切りが遅れたのが一番悪い。
しかも真田対策の間に、真田に特に手を出していないってのは、無為無策の極みだ。
秀忠アホ説・・・でもよいが、あの隊は譜代が多く参加してるので、一緒にされたくないだろうな。
昌幸超高性能説や、秀忠隊温存説などというのは、むしろ秀忠側が撒いたんじゃないかな?
特に手も出さずに翻弄されてたり、
体験中と思われる悪天候(木曽川氾濫は予想外かもしれないが)を計算できなかったとかだと、
どうしようもないアホ集団と言われかねないからな。
で、現代人は面白い方を取捨選択すると
じゃあ俺は秀忠三成共謀説に一票
57 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 09:06
しかしさあ。
現代人は川の氾濫というものを甘く見すぎだと思うよ。
川が大雨で氾濫するという事がどんな事なのか全然わかっていない。
俺の県の一番大きな川なんて大雨の時、凄いよ。
とにかく口で説明するのが不可能なくらい凄い。それぐらいすざまじいものなんだな。
しかも現代の川の整地されダムである程度、調節されてるものにすぎないのに、
昔の川なんて大雨だと手がつけられなかっただろうね。
むしろ、秀忠が何故、氾濫していた大河を渡れたかの方がよっぽど不思議だ。
少しは水が引くのを待ってたんじゃないだろうか?
58 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 09:59
川が氾濫しても橋がないんだから新たに架けなきゃいけない。
結構時間ロスするし。江戸から運んでくる軍資金や兵糧も遅れてる。
まさか略奪するわけにもいかないでしょ。
略奪なんか義に熱い例の家でもやってるよ
勝手に稲刈ったり村焼いたり だから人は法を求めた
60 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:26
>>23 それって司馬の「軍師二人」のマンマの話じゃん。
根拠は何?ソースは?
小説ネタをさも最もらしく語るなよな。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 22:56
実際には河川の氾濫で到着が遅れたとしても、当時の人々が石田方の真田の妨害で遅れたんだろう、って思ってしまえば、それが事実でないとしても広く流布しちゃうからねぇ。
今なら、報道関係とかが事後検証とかするだろうから、それなりの客観的事実が判明するだろうけど。
当時は噂が最大のソースだもんね。
史上最強の戦国武将ってのはアレだな。
世界最強の日本チャンピオンみたいな感じ。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 01:50
正直。幸村は失敗しなかっただけに過ぎない。
最後に輝いて滅んだ。
真田丸は強かった、日本一の兵で手強かったと家康に宣伝されつつな。
つまりそれを破った家康が最強。
そんだけ。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 01:54
不思議なのは真田幸村に従って敗北必至な大坂夏の陣を戦った兵たちだな
浪人兵がほとんだだで真田幸村に恩も義もない金目当ての者たちだろうに
特攻突撃で命を捨てるなんて信じられない
幸村自身はもう後がないからほとんど自殺だろうけど、浪人たちは何に突き動かされたんだろう?
>>64 途中からなら簡単には逃げられないからな
どうせ死ぬなら、立派に死にたい
>>64 真田隊約二千の兵隊は信濃衆といって幸村を慕ってきた集まりw
いちどでも甲信越地方に住んで、長野県民や新潟県民の気性を知ってる人なら
何故、彼らが、ほとんど自殺な行為ができるのかが、なんとなくわかるよ。
>>64 一種の洗脳
念仏唱えながら突撃してたかもよ
68 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 14:29
>>64 たしかに謎だ。
>>65 簡単に逃げられる。生命欲の前にそんなキレイ事を考える者はほとんど
いないだろう。
>>66 オレは長野県民で地元モンだが、気性?と言われてもわからん。
そもそも幸村ゆかりの者で大坂に入った者はせいぜい100人程だろう。
千人単位はチト考えずらいね。
>>66 当時何もせんで2千集められるようなカリスマ持った奴なら
大阪方での発言力は相当なものだと思うが
その割には秀頼出馬失敗してるよな
>>68 簡単に逃げられる?
そりゃあ軍組織をなめてるってもんだ。
そんなスカスカなら逆に簡単に敵に入られる。
だいたい敵がぐるりと取り巻いている城を出てきて
「俺もうやめます。帰ります」って言っても、許されるわけないだろう?
敵の間者発見って殺されて、手柄とされるだけ。
そのために合言葉や軍役帳・人別帳などで管理されるんだろが。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 18:42
>>68 浪人たちは得体の知れない連中ではなく、それなりに元の立場とか住所とかあったんだよね。
なんて言うか彼らとてカスミを食べて生きていたわけではなく、大阪の陣までの生活の基盤があったし、
仮に大阪城から逃れられても彼らの帰る場所なんてなかった。
特に徳川体制から脱して参加した将兵は立場上どうしようもなかったろうね。
ヤケクソで突撃する以外にはね。
それにあと、峻烈を極めた徳川の大阪の落ち武者狩りってのも、豊臣方として最後まで戦った者のみが対象でもなかっただろう。
あの・・・真田丸って、砦?それとも城?
74 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 01:30
>>70 大坂方の組織制などさほど拘束力などなかったろう。雇い主の安泰が前提
に無い限り、たかが知れていたってもんだ。
もらうモノだけもらって城を囲まれる前に逃亡した者は実際かなりいる。
夏の陣の大坂方の投入兵力は諸説あるが全て激減した数字になっている。
事を語るのに時と場合を考えろって事だな。
>>71 そう言える境遇の者はごくごく一部に過ぎない。実際戦闘に参加した者も
兵卒クラスならその大半が途中で逃げているだろう。生命欲と言う本能に
のっとって。
近代戦と違い当時戦場での死傷率は高くなく、全員玉砕と言う例はほとんど
ない。命あっての物種と思うがやはり大半だっただろう。
にも関わらず、幸村はじめ毛利・後藤と言った私兵をさほど持ってなかっ
た軍勢が組織的抵抗を見せられた事が俺には謎なんだよね。
>>74 おいおい、今度は勝手に「城を囲まれる前」限定ですか。
逃げるときってのは、だいたいは追い詰められた時、実際に戦いだしたときに
やっぱり死にたくないと思ってのもの。そうじゃないと最初から参加しない。
で、その段階になると、逃げることも難しい。
まず自軍もきちんと管理されている。自分ひとり気ままに逃げるってのはまず無理。
しかも逃げたら敵につかまらないようにしないといけない。
しかも郷土では村抜けなどの犯罪者になっており、徳川の追及がなくても、村の制裁もある。
つまり財産もろくにないようなものこそ、逃げてもどうしようもない。
そういう者は戦う。戦うと死兵だから強い。これは背水の陣と同じ作用。
また、戦国時代には陣中などでも賭博が盛んで、
いくら注意してもおさまっていない。
全財産を賭ける者も多い。
これは、死んだら自分には関係ないということと
(実際には軍役を含む諸権利は血縁者などが受け継ぐ)、
戦で勝てば簡単に取り戻せるという心理からだ。
こういう者は、博打は駄目なことだが、実に強いと北条か誰かが書き残している。
真田幸村も、別に豊臣への忠義だけで死力を尽くしたんじゃないだろ。
特に夏の陣は、冬の陣での苦い思いもあって、不満も大きかったと思う。
それがなぜ最後まで死力を尽くし、自殺的な突撃を敢行するのか。
もちろん自分が死んでも味方が勝てば諸々と良い。家が栄える。
つまり死んでも、味方勝つ(または引き分ける)かもと思えば、最後まで死力を尽くすもの。
それに逃げてもどうしようもない。元の貧乏生活が、より悪くなって繰り返されるだけ。
こう思うものは途中までは逃げない。
で、途中から逃げようと思っても、逃げる条件(集団脱走など)が揃わないと逃げられない。
逃げられないまま突撃命令が出されたら、もう終り。特に兵は、もうだめぽ。
そのくせ死んでも、手柄があれば、往々にして家には+という、イバラ道のシステムがある。
だから死ぬと分かっていても、逃げたくなっても、死力で突撃ということにもなってしまう。。
>>74 >近代戦と違い当時戦場での死傷率は高くなく、全員玉砕と言う例はほとんどない。
それは合戦での話。
あの優しいと有名な秀吉だって、敵の城を落としたあとに皆殺しとかしてる。
優しいと有名なのか?秀吉はw
80 :
こういう話しがあります:03/10/28 10:26
>>74 第二次世界大戦でナチスドイツ崩壊寸前の時に
最終戦闘とも言えるベルリン攻防戦でベルリンに攻め込むソビエト兵は全くたかをくくってました。
ドイツ人将兵はもはや敗北を悟りほとんど戦意なく、次々と投降しているような状態だからです。
しかし意外にもベルリン攻防戦は難航を極めました。
ベルリンを守るナチスドイツの兵士たちは士気も高く頑強に抵抗し、ほとんど全滅するまで戦いました。
そのベルリンを守る兵士たちは実はドイツ人などでなかったのです。
その兵士たちの正体はナチスドイツに協力していたスラブ人部隊、ノルウェー人部隊などの外国人部隊ばかりだったのです。
ドイツ人兵士にとっては戦争に負けても自分が生き残れば敗残のドイツで生きる事ができますが、
ナチスドイツに協力した外国人部隊はたとえ投降しても祖国にしょっぴかれて厳罰(処刑の可能性高し)に処されるのみ。
彼らが生きるにはナチスドイツが存続する以外になかったわけです。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 11:26
>>74 つーか
>>74があまりにも強情なだけなんじゃないのか?
皆、反徳川として戦った連中には明日が無いからヤケになったという事で納得してるぞ。
こんなわからず屋ほっとけよ。
結論
幸村とその兵たちは、豊臣への愛を貫くために戦い抜いた
84 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 12:19
名前を残す為じゃないのか?
カッコイイ!
さすがだ
「古今に比類なき大手柄」(細川家)とか「真田日本一の兵」(島津家)
みたいに幸村を激賞してるのは外様の大名家なんだよね。
外様大名家としては、表向きは徳川家に臣従しながらも、内心は快く思ってなかったら、
幸村を実際以上に激賞したんじゃないの?「徳川家ざまみろ、やられてやんの」みたいな感じで。
だから、後世の幸村評はちょっと割り引いて考えないといけないと思う。
アンチ巨人がにわか阪神ファンになるようなもんだと
>>81 明日が無いからってやけになった人が組織的に抵抗できるか?
だいたいそんな奴が戦うかって。
みんな幸村を慕っていたんだよ。この人の為なら死ねるって思ったんだよ。
カリスマだね
90 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 14:38
>>88 おいおい、結局それが言いたいのかい。
幸村信者く〜ん(笑)
幸村より昌幸のほうがうえだろ
そりゃそうだ
94 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 22:35
>>81 皆って、一人三役名無しのオマエだけだろ。
なんで幸村信者は「幸村は家康に負けた」って事実から目をそらして
「戦国最強!」とか言いますか
敵総大将に突貫して力及ばず・・・なんて武将は他にいくらでもいるのに
>>95 違う。
幸村は最強。
これですべての者は幸村以下となる。
そこで、それを破ったという家康が活きてくる。
最強を破った者は、強さなどをも超越する神。
つまり
家康(強弱など超越する神)>>>幸村(強さという次元では戦国最強)>>>その他の一般武将
となり、家康を打ち負かした信玄や、家康を従わせた信長・秀吉などを無視することが出来る。
これは徳川贔屓の深謀遠慮なり。
しかも幸村贔屓は戦国最強というお墨付きまでもらえて、それなりに満足。
ちまり両派による夜郎自大の自作自演。
Ω ΩΩ <な、なんだってー
98 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/29 18:53
夏の陣での幸村の活躍は、戦国時代最後の大花火だったんで評価されたんだろうね。
当時は、戦国時代を生き抜いた大名も多かっただろうから、感慨深かったんだろうな。
幸村とか元大名・高祿貰いクラスの奴らはどっちが勝っても家存続って理由もあったんだろな
100 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/29 20:47
幸村はたいしたことないと思う。
昌幸も言われている程の人物だろうか?
小粒でもピリリと辛いという程度だろう。
そもそも小グループの指揮に優れた人物が
大グループの指揮に向いているという証拠はない。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/29 21:22
>>100 そりゃそうだ
まぁ何にせよ真田は歴史に名を残したと
いいスレ!
>>98 そうだね。徳川についていた大名達の中にはお家の為とはいえ心ならずも従っている
者も多かったはずだからね。
しかも勝敗明らかな戦で大軍を率いた訳でもないのに家康の本陣を突き崩した幸村を
賞賛したのは決して家康への当てつけだけではないのは明らかだし。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/30 13:15
大河ドラマの幸村は武蔵に脱出させてもらうだけの役か?
幸村・・・
やっぱり、オレの先祖はカッコエエです
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 13:19
>>105 オマエが後藤から真田丸の案を盗んで手柄を簒奪しかつ見殺しにした男の子孫か!
お前のような奴は一生濃霧の中で迷ってろ!
108 :
恩田某分家:03/10/31 15:16
>>105 あ〜ん信繁公の子孫だと?でどこの家系の輩だ?本家実家の所在を述べよ。
それで解かる。ちなみに野球の真田は百歩譲って傍流中の傍流だ。信繁公
との縁は無いに等しい。
信繁公の名を陳腐な宣伝に使ってる段階で品性のないマガイ物だ。情けない
俺は旧松代藩士の家系だが、御本家の許可なく勝手に子孫を名乗るな。
確かに幸村は実はあんまたいしたことやってないんだよな。
真田丸は後藤又兵衛の案ってのは有名だし、他の戦も昌幸の力。
確かに夏の陣の特攻は意外中の意外。一説では4万だか5万だかの越前勢の中を突き抜けてって
本陣に突入したんだっけ?けど最終的には家康は殺せなかった。いや、殺せても戦の大勢は変わらなかったのかもしれない。
実際、既に家康は形だけでも隠居してたし、いつでも実権を秀忠に渡せるようにしてた。
…とは言ってもあそこで家康死んだら確実に混乱は起こるか。家康は(お漏らししちゃったけど)偉大だ。
関が原での失敗がある秀忠じゃ混乱が起きてもおかしくない。つーか秀忠夏の陣に来てたっけ?
それにほぼ勝ち戦だったし、まさかあの軍勢の中敵兵が突入してくるなんて思いもつかなかっただろう。
「絶対の勝ち戦」で起こした幸村の特攻は確かにマンセーされてもおかしくない。
あ、自分競馬ではダイタクヘリオス&ヤマトが好きです。
後、幸村の話って本当にかっこいいな。
再三にわたって家康を追い掛け回した後、疲れて木の下で休む幸村。
「お命頂戴」と現れ、槍を突き刺す西尾某。
「家康を倒すことはできなかったか…無念…」と天を仰ぎ、吐血し眼を瞑る幸村。
どこの本だか忘れたが、そんな感じの文で震えたね。神々しさも感じた。
俺の結論「幸村は戦国最強…と思いたい。」
ああ、後厨房の頃読んだ本にこういう話もあったな。
大阪冬の陣での伊達政宗の合戦。伊達はまず鉄砲隊で敵を牽制して、
そして騎馬隊で畳み掛けると言う荒々しい戦法。しかし強力。
だが、鉄砲隊対し真田の赤備えは伏せ、山のように動かない。
鉄砲の音が止んだ頃、一斉に攻撃をしかけたのは伊達ではなく真田だった。
その攻撃に伊達はあえなく潰走…と。
当時厨房だった漏れはその話を読んで感動した覚えがある。
大人になって色々知ってチョト悲しくなった。クスン
112 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 23:20
>>110 真田丸がそもそも後藤案だったと言う話は知らなかった。有名と言うが
出典先を教えてくれ。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 23:33
策謀能力は親父の方が上だろ。もっと大軍の指揮が出来たかは疑問だけどね。
幸村は、当時から親の七光りの域を出ていない気がするよ。
昌幸は守りの知将
幸村は攻めの知将
時代が遅すぎたために攻めの知将たる幸村には出番が来なかった
或る意味政宗より遅すぎた英雄。
幸村ってほんと大阪攻めだけだよね
116 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 00:43
>>114 その攻めの知将という看板が本物に思えないんだよな。
政宗は幾多の戦いを潜り抜けた実績があるけど、幸村は実績が少ないのに祭り上げられた感が強い。
政宗だとて鬼神の如き強さではない。
むしろ彼はなまじ戦をしたぶん
負け戦の際の情けなさが露呈してしまっている。
戦闘経験が無い身分で何層にも守られた敵本陣までいけたというその一点のみが
彼の戦闘能力の高さを保証している。
そこ以外に彼を語る物無く、それ以外に彼を貶める物も無し。
故にそれが素晴らしいが故に彼は素晴らしい。
スレ違いだけど、オレは上杉謙信の末裔にあたります。
一応、母方なので直系ではないのだが・・・
コレって、自慢して良い事なのでしょうか?
ちなみに、墓は米沢市にありんす
大丈夫。幸村もジャンプで「花の慶次」みたいな連載をしてもらえれば
一躍最強になるから。
SAMURAI DEEPER KYO
121 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 19:19
家康の本陣を追いつめた武将はみんな英雄になってるよ。
そりゃしょうがないよな、天下様になったあとに作られたお話だし。
あの神君を追いつめたんだからさぞかし鬼神のごとき戦いザマだったのだろう
てことで民衆の支持得やすかったわけだし
・・・・・戯作家がね。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 19:31
>>118 おいおい、今時、男系主義はないだろう・・・
つーか、系図というのは家のつながりであって血縁の繋がりではない。
別に血が繋がってなくても構わないのだが。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 19:35
なにをー!
うちなんか、平家の末裔で木曽義仲から逃げ回って
壇ノ浦で負けて追討の追っ手から逃げ回って、
その後護良親王と一緒に逃げ回った由緒正しい一族だぞ!
なさけなや
124 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 22:04
まぁ落ちぶれた漏れも何かに特攻したい気分
125 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 21:27
126 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 01:43
>>117 だから、それは徳川の連中が良い身分になって弱体化してたからだろ?
彼らはすでにかつての命知らずの三河武士とはまったく違う。天下の徳川家に使える旗本だ。
今更、こんな戦で命をかけて戦わなくても関東に生きて帰れば女も抱き放題、うまい物も食い放題。
ヤケクソになった連中がが命を捨てて突っ込んできたらオビエテ逃げ回るよね。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 19:05
長渕で、大河やれ。
オラ!オラ!
128 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 19:09
長渕はもう使えないよ。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 10:02
真田信繁
そういや、幸村って名前はどこから出てきたものなの?
どうして、信繁じゃなくてそっちの名前が定着しちゃったの?
131 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/06 13:04
幸村がどうかは知らないけど、忌名を名乗るようになったのは
明治維新からだよ。おそらく、信繁をその名前で呼んだ人なんて
片手で余るくらいしか居なかったはずだ。下手すると居なかったかもしれない。
そういう名前だから、何がどう正しいのかっていうのは意外とわからないのだ。
五月七日早天に真田左衛門、茶臼山に赤幟を立て備え赤一色にてつつじの咲きたるが如し
真田日の本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候
真田左衛門、千載人口に遺る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵すつ事数回、
一度も不覚の名を得ず。徳川の毒虫なりと世に沙汰せり。当世の英雄、真田左衛門非ずして
誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女童もその名を聞きてその美を知る。
彼処に現れ、此処に隠れ、火を散じて戦ひけり。聚合離散の形勢、前にあるかと見れば忽焉、後にあり
真田左衛門、合戦場において討ち死、古今これなき大手柄
五月七日真田が御所様御陣に真一文字に打ちこむ。御馬印臥さする事、異国はいざ知らず、
日の本に例し少なき勇士なり。ふしぎの弓取りなり。
先手首に毛利豊前と真田左衛門あり。列を乱さず波状をなして順に進み来る。
御本陣混乱を極め、内府様腹をめされると二度のたまわれ
真田左衛門の首は越前殿鉄砲頭が取り申し候。真田下知を守りたる者、天下に是なし
( ´,_ゝ`)
>>130 幸村という名前は既に江戸時代の真田三代記から出てきていますが、
幸村の姉、村松殿の村と、真田家に縁故の深い幸の字を組み合わせることによって
幸村になったという話を聞いた事があります。何故わざわざそうしたのかは知りませんが。
もっとも、真田の字として幸が重んじられたのは恐らく昌幸の代のみで、
それ以前は綱(真田幸隆=真田幸綱、長男の名前が真田信綱など)、
そして信幸が信之に改名し、幸の字を捨ててからは
信の字が重んじられている印象がありますが。
仙台真田家でも信繁に幸の字がないせいか、信の字が重んじられている感じですね。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 19:47
>134
一つには、この手の話を書くに当たって、公儀をはばかるという事があったのかもしれない。
大石内蔵助が大星由良助になっているように。
まぁ、その事情はよくわからない。
案外、単に作者が通称しか知らなかったのかもしれないし。
幸村のイメージ
1打数0安打(ただしホームランぎりぎりのファール)
こんな感じであってる?
しかしみんな匹夫が好きなんだな
しかもサヨナラのチャンス
138 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 23:51
まーな
ピッチャー家康、バッター幸村
一球目、家康のなめきったストレート、幸村様子見でストライク
二球目、家康のチェンジアップ、ストライク
三球目、家康のなめになめきったど真ん中スローボール、幸村強振、
あわやホームランというところでレフトがキャッチ、幸村アウト
こんな感じ
そんな感じだ
141 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 20:24
カナフレックスの淀&幸村CMはどうかと・・・あれはアリ?
142 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 21:01
>>137 サヨナラのチャンスでも何でもない。
仮に家康が死んでもさして状況が好転するとも思えん。
影武者を立てる手もある。
まあ実際そういう異説もあるんだが。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/10 11:43
>141
どんなCM?
>134
「信」の一字は信玄から貰ったんじゃないかと・・・?
信繁って名は武田信繁を昌幸が尊敬してたから
って説をどっかで見たような・・・
>>143 下水道を淀殿と幸村が進んでいって
最後淀が家康覚悟!と言ってナギナタ振る
ハゲワラタ
148 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 01:11
>146
まんだひさことかその手の女優じゃなかったっけ?
149 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 02:55
>>139 いや、実況がひとりで絶叫しているわりにはフェンスの5mくらい手前
で外野手がキャッチしてた、という感じ。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 06:44
>>145 逆じゃないのか武田信繁が何で13歳年下のガキ同然だった昌幸を尊敬しなくてはならないのか?
あ、悪い俺の読み違いだ
ふむ・・・
大した事ジャないね〜
>>135 同時代に既に通称として存在してたのか?
それは初めて聞いたな。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 17:14
>154
さえもんのじょう
島津>>>>>>>織田>>(越えられない壁)>>真田
なんだ急に
159 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 19:24
最近島津が流行ってるね(・∀・)
161 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 19:38
真田丸は真田信繁の案ではなく後藤又兵衛基次の案のパクリ
しかも、その後藤又兵衛基次を遅刻して殺している。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 19:41
>161
後藤さんの関係者さん?
>>139 ワタタ
史上最強の戦国武将?
長野業正だろ?
164 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 06:39
>>145 信繁って名は武田信繁を昌幸が尊敬してたから
って説を僕も読みました。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 06:46
信繁って名は武田信繁が昌幸を尊敬してたからって説を僕も読みました。
うむ!
ワシも、聞いた事がある!!
167 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/12 13:00
典厩子典厩孫典厩
168 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 03:56
>>165
逆じゃないですか?
昌幸が武田信繁を尊敬してたから。ですよね?
武田信繁って名は信繁が僕を尊敬してたからって説を昌幸も読みました。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 11:25
とりあえず、予定通りに
悲劇の名将として死ぬことが出来てよかったね。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 11:47
今日も武蔵に出るのだろうか武蔵に
172 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 19:15
何故伊達政宗が梅の嫁入りを面倒みたのか知ってます?
敵同士なのに仲良かったんでしょうか?
173 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 19:22
レス。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 20:17
age
175 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:35
俺は 高校の頃、上田や九度山に行ってみて幸村公の偉大さを凄く感じた。
今の大阪城は実際の場所と違うんですよね?
去年、大阪城から安居神社まで歩いたんですが後からそう聞きました。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:38
>175
感受性強すぎて使い物にならないタイプかも。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:44
178 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 22:51
>177
つられないよん
>>177 honobonoっと分かる時点でOUT
180 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 17:05
age
まあ要するに
又兵衛タン萌え
ヒヒヒ・・・
183 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 14:03
大阪夏の陣での全隊朱色に飾った家康本隊への突撃は本当に美しく、
潔く、武士としての誇りと意地と美意識に満ちている。突撃は三回に渡って
行われ家康の馬印を倒し、家康を24キロ(?)後退させたのはご存知の
通り、あまりに有名だ。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 14:36
186 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 16:13
史実だと思うけど、巷間いわれる内容のどこまでが史実かは不明。
>>185 24キロは講談。突撃3回も同時代史料にはなく、後世の創作と思われている。
ただ、家康本陣への突撃自体は本当のことだよ。
188 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 17:03
>>187 あーそうなのか。教えてくれてありがとう。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/22 11:51
ぼーっと鼻くそほじってるところに
鬼の形相して奇声を発したやつが走ってきたら
とりあえず逃げるよな?
そんな感じじゃないの?マジで!
190 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/24 21:52
191 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 03:09
後藤基次ヲタキモ過ぎる。笑
>>191 つまんねーレスをあちこちで貼り付けてるのはお前か?
寒いんだよクズ
193 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 06:34
194 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 06:45
195 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 06:47
>>192脳みそがただれているキモヲタは、もう来るな!!!!
196 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 06:56
>>193>>194>>195 >>192は、犬猫の糞を拾って帰り自分の糞と一緒に「天ぷら」や「から揚げ」にして
おかずとして三食きちんとたべている「 地球にやさしいエコ生物 」だから
いじめちゃだめだよ
197 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 06:58
しかし「家康が幸村の突撃に切腹を覚悟した」とかいう逸話もスンゲー大げさに誇張されてるんだろうなあ。
実際は「家康は万が一逃げ切れなかったら切腹もありうるという考えがチラと頭をかすめた」
程度の話しだったんだろう。
それが伝言ゲームのように大げさに伝わっていったと。
198 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 12:12
大阪の陣の大阪方のその他の方々は幸村と比べるとやっぱだいぶショボイんですかね?
199 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 13:18
>>198 大名は1人もいなくて浪人ばっかりだったからショボイでしょう。
後藤基次とか後藤基次とか後藤基次とか後藤基次とか後藤基次とか
後藤も含め七将星?とかいう連中がいましたよね
ちょうそかべの倅が入ってたな。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:17
>>198 そんな事はない。
後藤又兵衛、明石全登、長曽我部盛親、毛利勝永、バン団右衛門、薄田兼相、木村重成、大野三兄弟
といった有名武将が参加してる。
ショボイのも多いな・・・
204 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:19
ちょうそかべっかむ
205 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:20
>>203 塙団右衛門って戦場で名刺ばらまくのが好きなおいちゃんだよな?
個人的には冑に香を焚き染めていたという若き勇将木村重成に一票だ。
>>203 前半と後半で矛盾してるぞ・・・(つд`)
207 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:23
>>202 盛親ね。
詳しくは「戦雲の夢」(司馬遼太郎)をどうぞ。
どうでもいいが、司馬遼太郎のペンネームは、「司馬遷に遼かに及ばない」という意味らしい。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:24
209 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:25
しかし後藤又兵衛って
幸村の遅参のおかげで死んだんだよな。
幸村もさぞや悔やんだ事だろう。
その悔やみや申し訳なさが
案外、最後の突撃を決意させたのかもな。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 18:32
六文旗勇翻して
血風戦野を貫く
いざ行かん内府葵の陣
真田日本一の兵
211 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 22:23
あのバカブッシュですら前線に赴く
秀頼はブッシュ以下か・・・
212 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 22:31
淀殿が必死こいて止めたというのは作り話かね。
>209
そうか?俺は「軍師二人」派だ。
つまり「わざと遅参」説だ。
214 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 22:37
今気付いたが、タイトルは「レス」じゃなく「スレ」なんじゃ?
215 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 22:40
>>215 俺もちょい気になった。
見たことないんだが・・・・・・
217 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 22:46
218 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 22:58
>217
司馬遼太郎の短編小説。講談社文庫
>>218 サンクス。
で、そこに幸村はわざと遅参したと書いてあるわけだ。
ちなみに210の文章の出典とかはわかる?質問ばっかで悪いけど。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 00:58
>>213 えっ「わざと遅参説」は「城塞」では?
「軍師二人」にはそうゆう書き方はされてなかったような。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 02:36
「城塞」では秀頼を守る加藤清正がカコイイ
222 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 04:18
四千五百ほどに増強された大和口迎撃軍先鋒の後藤勢は、霧の中で四分五裂。
基次の直属の後藤隊は霧で道を誤ることなく、予定通り未明のうちに道明寺の集落に到着した。
しかし、後続の諸隊は大きく二つの集団に分かれてしまう。
薄田隼人ら四部隊一千百は単に遅れただけのようだが、北川宣勝ら六百は道を間違えて南に
遠回りしたらしい。道明寺村は最後の集結地点で、ここをすぎれば戦闘区域に入ることになる。
目標の国分まではわずか二キロほどしかない。
後藤勢の全部隊がここで集結することは必須だった。
しかし自身の統率力の高さゆえに孤立した基次は、ここでさらに後続部隊の遅れを過小評価した。
基次は自隊がほとんど遅滞なく到着したことから、後続の遅れはさほど大きなものではないと判断し、
単独での国分進出を決意した。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 07:09
>213
いまパラパラと読んでみたが「城塞」は作戦上最初から真田の出撃はない。
「軍師二人」は一応必死で濃霧の中を進んでいるが、最後のページでわざと遅参説。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 07:11
225 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 23:54
すんません、急にマジメなこと言い出してすんません。
幸村の長女・阿菊が、大坂の陣前後何してたのか知ってる人いません?
たぶん九度山にも行ってないと思うんですけど。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 23:57
援助交際
227 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 00:16
>>225 日本史行って探してみれば?
ただし探すだけがいい
向こうはレベル高いから教えて君はシカトで終わるかもしれん
230 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 22:09
ゲーヲタしかいないからなこの板は。。。
光栄のゲームの数値と、脳内の思い込みで偏見持った奴が多すぎる。
三好政康も忘れるな
>>230 だから何?
日本史板いけば?もしかして、知識たれながしたい?(プ
232 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 11:30
どんな死に方したの?
233 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 11:31
>>225 阿菊は長窪宿の土豪・石合重定に嫁いでいますが、
恐らく、これは九度山に行った前の話でしょうね。
天命を全うし、1642年没、とのことです。
あ、失礼、別の本にもっと詳しく書いてあった。
以下その本から引用。↓
すへ(阿菊)
母は家臣堀田作兵衛興重の妹。
恐らく、この人が幸村の最初の妻で、政略結婚で大谷氏と結婚したので別れてしまった
のであろう。すへは作兵衛の養女となり、小県郡長窪宿(長門町)本陣石合十蔵重定妻
となった。堀田作兵衛は幸村に従って大阪に入城し戦死。
その子又兵衛は石合家に厄介になっている。
幸村は慶長二十年二月十日、つまり冬の陣と夏の陣の間の和睦期間に
石合十蔵からの手紙に答えて、
「すへのこと、心にかなわぬ者であっても、御見捨てなきようお願いいたします。」
と言っている。
この女子が「すへ」という名であり、幸村は最後までその子の将来を案じていた
ことがわかる。この娘は九度山には来ず、堀田作兵衛の養女として上田に
残っており、のち石合家に嫁いだのである。子孫は長久保に現存。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 12:16
大阪の陣での大助の活躍は有名なんだが、大八はどこで何をしとったんだ?
>>236 片倉大八守信。梅と一緒に戦前に片倉重長に預けられた。
ついでに保守age
238 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 12:40
真田家に関する小説で、あなたのオススメの作品は?
俺は、まだ読んだことがないので、参考にしたいなと。
とりあえず美青年という勘違いは止めてくれ
小太りのオッサンだったはずだぞ?
太ってはいなかったような
歯抜けだが
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 00:36
あぼーん
あぼーん
244 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 15:47
秀吉にかわいがられていたのは本当?
245 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 16:26
>>244 豊臣の姓を名乗る事が許されてたから多分本当
246 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 18:29
けっ、オレと竹田栄翁に全権くれてりゃあの戦は勝ちだったんだよう!
どマイナー田舎大名の次男坊なんか重用しないで
漏れら譜代に指揮権よこしゃあ勝てたのに、
くそ、長宗我部と真田が足を引っ張らなければ・・・。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 23:48
天下人が徳川家康じゃなかったなら真田親子は豊臣見限って勝ち組についてたのかな
249 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 00:14
>>248 真田晶幸が西軍についたのは東軍についても周りが東軍方ばかりで
さしたる加増が見込めないのに対して西軍なら信濃、上野、甲斐などがガッポリ貰える大加増が見込めたからだ。
彼は損得で動いただけの話し、それだけの話しであって義理とか相性とか関係ない。
まさに戦国大名だな。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 00:26
昌幸はその能力にもかかわらず相応ではない小領主で生涯いるよりは
保険を掛けた上で思い切って大領主になるためのイチかバチかの大ギャンブルをしてみたのだな。
実際、真田家全体が徳川についた所でせいぜいがあと数万石、余分に貰えただけだろうし、
それに比べれば西軍について勝った時の利益は計りしれない。
信繁はともかくとして昌幸は生き残りのために武田滅亡寸前の時には織田と北条に連絡を取ったり、
その後も都合にあわせてあちこち属したりした男。義理とか関係ないだろう。
秀吉に「表裏比興の者」と称せられた程だしな。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 00:37
打算とか野望というよりは「ロマン」かもしれないな。
九度山に送られた後も昌幸は
「いずれ徳川と豊臣がまた戦う日が来る、その時は我に策がある。
先手を打って京都を抑え朝廷を掌握し瀬田で持久防御することにより日本を東西に分断し
西日本の豊臣恩顧の大名を味方につける」
というようなことを言ってたからね。
もはや、こういうのって徳川への恨みとか豊臣への義理ではなく自分のためのロマンだよね。
まあ関ヶ原の時の黒田管兵衛と同じく天下取りのロマンにかけてみたという感じだな。
徳川への恨みといえば家康のほうも恨んでそうだな
家康はともかく、
真田父子が家康を恨んでるとは思いにくいのだが。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 01:13
家康も恨んでるとすれば真田昌幸という一人の男のみで
幸村ごとき若造や真田家を別に恨んでたとも思えんが。
信之と仲悪くなさそうだし
257 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 08:07
何か、サムライって不潔そう・・・・・・・
258 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 15:54
>>257 当時は公家とか武士が最も衛生的
風呂さえろくに入れない上に肉体労働者の農民や野武士が一番臭いだろ
ところでここのスレは松平忠直タンについて一言も出てないのですが・・・
一応3750の首級もあげていることだし。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 21:21
ようするに、へいわなじだいがやって来ているのに
せんそうを大きくして、じぶんだけ、名まえをあげたりしたい、
じぶんかってな人だったんですね。
そんなのよくないと思います。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 21:23
過大評価されてるだけの三流武将について語るスレはここでつか?
263 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 21:37
真田幸村直系の子孫の方知ってます。ガキの頃あそびに行きました。
スゴイお金持ちでしたよ。当時は某テレビ局にお勤めでした
幸村の子孫て日本に何千人いるのやらw
幸村の子孫で真田姓っていないと思うけどどう?
>>265 もう30数年前だけど当時の何代目かの直系当主の方で真田姓でした。東京にお宅が有りました。
ガキだったのですごい優しそうな方だったのと当時は貴重な苺ケーキをご馳走になった
事しか覚えてません。親父の会社の同僚でした
267 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:12
信幸の方は直系が江戸時代で途絶えて養子もらってるね。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:25
幸村のらいむって強いの?
269 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:29
270 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 00:19
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 01:59
>>265 幸村の死後側室が生んだ男子がいて、その子は最初母方の姓を名乗ったのれすが
許されて真田姓になったそうです。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 02:14
>>271 幸村の子、大八を仙台藩片倉小十郎が引き取り以後片倉を名乗る
その息子の代に真田姓に戻る
だと思ったが
三好左馬之介幸信=真田幸信だな
>>262 死んでから、
10年と経たずに誰の記憶にも残っていないであろうオマエよかマシ とマジレス
275 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 02:19
去年生まれた、我が愚息に
恐れ多くも、「信繁」と命名してしまいました。
恐らく、2003年名付け番付にないかも。
あっても、数千番代かな。1人だけとか。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 02:37
すばらすい。日本男児の名前はそうであるべき。蓮だの海斗だのつけて
個性的な名前だと思ったらクラスに2、3人いてがっかりするだろうな。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 02:45
>>276 今は漫画のキャラみたいな名前が普通に「名前ランク上位」だもんな。
毎年どこかの保険会社が調べているらしいんだが、結果が載ってる新聞読んでげっそりした。
どうせだったらパタリロとかつけてみさらせw
子供の名前に「しょうへい」とつけた奴がいて(知り合いじゃないけど)
プロレスファンかな?と思ったら
漢字で
「翔平」
だった
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 03:14
>>276 ありがとうございます。
いくら好きでも、流石に「幸村」とは名付けられませんでした。
「信繁」が本当の名なのだから、より恐れ多いのだけれど、「幸村」は
あまりにも有名過ぎて。「信繁」なら、世の中知らない人もいるかもと。
あと、もともと昌幸が次男、源次郎にもらった勇将の名、信玄の弟、
武田典厩信繁にもあやからさせて頂きました。
愚息よ、名前だけはすごいからな、頑張れよな。(9ヶ月です。)
ええ話なんだがただの親馬鹿じゃねーか( ´∀`)
俺の姉の子は参伍郎って名前だよ
長男なのに・・・
282 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 13:50
生後9ヶ月の子供を愚息という親をもった子が可哀相
>>281 それを聞いたメリケンさんが「こいつ35人も子供作ったのかyp!」とビックラこくわけですな
284 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 15:15
>>282 へりくだった丁寧なお父さん(またはお母さん)なのでわ。
279の内容から「へりくだった丁寧なお父さん(またはお母さん)」という解釈は不可能
286 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 01:29
信之の方が魅力的。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 13:22
信之も、現代人に普通にいそうだ。真田信之からとったかどうかは別として。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 01:21
あれ?
幸村が天下とったんじゃないんですか?
教科書に載ってましたが・・・
幸村はクソとか言う奴は道明寺方面誉田村での伊達政宗との戦いを考えろ!
圧倒的不利な数で在ったにも拘らず互角に戦い、敗残兵を纏めて大坂城に撤退したろ。
此戦いで伊達と互角に戦ったからこそ、翌日の天王寺で家康本陣の突撃に部下が着いて来たと思う。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:04
幸村はクソ
291はクソにも劣る
>>247 鴫野で半数の上杉景勝に負けやがった癖に・・・。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:09
語るレス
295 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:10
真田幸村なんていない。
毛 利 勝 永 最 強
296 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:26
嫁 ブサイクネ
幸村って結婚相手が病気でひどい顔になったのにそれを承知で娶ったってホント?
承知もなにもそういうフェチ
299 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:36
>>297 病気でひどい顔になったのは嫁の父だろ。昔はあの病気は遺伝することに
なっていたから娘も同じ病気という設定の小説もあったが、今なら大問題。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:58
>>290 伊達政宗は強くないどころか、めちゃくちゃ弱いということを忘れてはいけない。
>>300 ならその伊達勢にボコられた奥州諸勢力や朝鮮軍は一体・・・?
同じ兵数なら真田幸村と立花宗茂、どっちが強い?
303 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 23:19
304 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 23:30
>>301 幼稚園児は小学生より弱い、ということです(藁
伊達軍は朝鮮出兵や大阪の陣を除いて他地域の兵備が違う相手と本格戦闘したことないからな
あれ?
幸村は夏の陣の戦功で60万石を安堵されたんじゃないんですか?
教科書に載ってましたが・・・
しかしさ、安堵って・・・
>>290 幸村と戦ったのは片倉重綱隊1000ですよ・・・
>>306 戦国無双は攻略本どころかソフト自体まだ発売されてませんよ
あれ?
幸村は夏の陣のあと、淀君と結婚したんじゃないんですか?
教科書に載ってましたが・・・
>>308 そうか片倉重長隊1000か・・・。
だが、幸村の方が多かったとはいえ勇猛で鳴らした片倉重長率いる部隊と互角に戦ったのだから、
矢張幸村は強いと言う可きであろう。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 20:55
幸村より大野主馬のほうが活躍してないか?
将軍の本陣かく乱したんだから。
あれ?
幸村の息子は大目付になったんじゃないんですか?
教科書に載ってましたが・・・
片倉隊だけが真田と戦ったわけじゃないんだが
片倉隊が無事後退できたのも、味方部隊と入れ替われたお蔭だし
やはり数に勝る伊達勢を相手に優勢に戦ったと見るのが妥当
関ヶ原時上田城の戦いはオヤジの勲功だし、幸村の軍功っていえば
冬夏の陣くらいしかないよな。まあそれが凄いんだけど。
真田が、すごい活躍をしたのはわかるがやっぱ
毛 利 勝 永 最 強
おいおい、伊達、つーか東北勢は精強だったと思うぞ?
普段から農業で足腰鍛えられているし、雪国で体力も並じゃない。
第2次大戦時、日本陸軍最強と言われたのは仙台の第二師団だったし。
ま、大阪の役で片倉重綱が徒歩で騎馬武者4、5人討ち取ったのはさすがだけど。
なんだかんだ言って名将揃いではある
やはり大坂城で死んだ香具師らはもったいない
しかし大阪の陣以降名将がいても働き場所のない日本になるわけで
必要とされるのは官僚政治家たちだからなぁ・・・
あれ?
幸村の好きな体位は騎上位じゃないんですか?
試験に出ると先生が言ってましたが・・・
324 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/17 00:48
えっ!?真田幸村って実在するの?
>>323 無理しないで寝ちまえ。みじめになるだけだぞ
劣勢の中奮戦した武将って、他に欠点があるとわかっててもかっこいいと思う
逆に勝ち組の武将だと多少凄くても魅力感じません
東北兵も九州兵も弱い。
>>327 そこが変なとこだよな
リアルドキュソが子犬を助けると超いい人に見える法則
>329
ブラック滝沢?
あれ?
幸村はコサック中隊を破ったんじゃないんですか?
センター試験に出ましたが・・・
>>332 よく知ってるね。日露戦争中奉天会戦の支戦として行われた一号作戦で日本の第11独立騎兵小隊(乙騎兵)の幸村孝次郎少佐が三倍のコサック騎兵を蹴散らしたんだよ
>>333 その幸村少佐と乙騎兵、中佐に昇進後の日中戦争でも大暴れだったらしいね
336 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 01:32
昌幸スレは落ちたのか?
>>334 高齢にも関わらず最後まで第一線部隊と、時代遅れの騎兵にこだわりつづけたんだよね
でも単なる頑固者じゃなくて、馬賊に化けて米式最新兵器の集積場を焼き払うなど、工夫を重ね乙騎兵を最後まで活躍させた名指揮官
338 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 12:02
レス。
あれ?
幸村は年棒30万石で徳川軍の秀忠とトレードされたんじゃないんですか?
戦国武将年鑑に載ってましたが・・・
年俸は十万石。三十万石は三年契約。
出来高50万石はほとんど夢のような話だなw
二代将軍徳川信繁誕生
もう無敵
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 18:24
大坂の陣で最強は誰か
毛利勝永>後藤基次>真田信繁>長宗我部盛親>明石全登>
大野主馬も秀忠本陣をかきまわしたんだから強いと思うが?
あれ?
幸村は毛利勝永との一騎打ちに勝利したんじゃないんですか?
自伝に書いていましたが・・・
一騎打ちに勝ったから最強だとしたらなんにもしてない武蔵が
最強になってしまうわけだが。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 21:22
まぁここを死場と決めて必死なって奮戦すれば、生き残って太平の世で生きていきたいって
思う関東勢を蹴散らせるのは当然の事で…
世代交代進み、関ヶ原以外に戦闘経験ない兵士、未経験の若武者多い関東と、
戦闘経験豊富で、必死な浪人との最前線での戦いはどっちが有利かは明らかなわけで。
敵本陣に突っ込んだから最強っていうのはね。
上杉謙信や武田信玄とかと比べると信繁は落ちるでしょ。
まぁ最後に大阪方について、敵大将まであと少しって展開になれば人気出て
過大評価して、弱者のヒーローに夢を重ねて見るのが庶民であって。
実際よりも大きく描かれてるだろね。
真田幸村、身長163センチ、A型。
あれ?
幸村は世界一の力持ちじゃないんですか?
ギネスブックに載ってましたが・・・
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 00:08
世界一はきみだよ。
353 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 00:19
大坂の陣当時の信繁は歯抜けの腰の曲がった弱々しい老人だったんだがな。
「腰が曲がった」といってもまだ50すぎだが、すでに病んでいたらしい。
一騎打ちだのできないだろう。
福島正則さえ生きていれば。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 01:04
幸村がたいした事ないって言ってる奴の意見は分かった
じゃあ何故こんな強そうに伝わってるのかを知りたい
定説を覆そうとすることで玄人ぶってるだけ。
たいしたことないとか、なんだかんだ言っても何百年も人気があるわけで。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 10:36
幸村が強いとその幸村に勝った徳川はもっと強いってことになるからっしょ
360 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 10:58
大阪の陣で負けたのは淀とその取り巻きのせいであり
幸村は別に弱くないわ。真田丸作って冬の陣では困らせてたじゃない
それに信州にいたときは徳川を何回もやっつけてるわよ。
家康だって最後に突撃してきた幸村にびっくりして逃げちゃったじゃない。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 10:59
まー、10万対20万で戦って、勝ったから強いといわれてもね。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 11:03
というわけでフェアじゃない戦いに勝ったからって最強とはいえないということさ
363 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 12:17
364 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 12:20
長渕みたいな顔した武将だな?
道明寺、天王寺の戦いを見る限りでは、大軍を率いる指揮官としては
失格のようだが、一部隊を指揮する中堅の指揮官としては最強だと
思う。
義弘、幸村、慶次
過大評価トリオ
豊臣方に参加して義理を貫き、徳川方に対してあと1歩まで迫り、壮絶に散ったと
なれば話題性は十分。
貧しい人々にはヒーローに見えて、嫌でも人気出るだろ。
雑誌や紙芝居になって何百年も伝わっていったんだろうし。
過大評価トリオ
上杉謙信、伊達政宗、島津義弘
過小評価トリオ
大谷吉継、福島正則、蒲生氏郷
第二次上田城攻防戦はオヤジ昌幸の戦い。しかも全面衝突は無く
調略で遅らせただけ(まあそれが凄いんだが)
大坂の陣もどっちかっつうと東軍側に問題があると思う。
“最強”というのはあまりにも実績不足だな。
しかし真田幸村、福島正守、大谷吉久の五千人で
伊達政宗の一万二千人を撃破したのは確か。
それで、伊達方にどれ程の損害が出たのか?
>>371 前衛の片倉重綱勢1000人を退却させて、なお前進したところ、政宗の旗本の鉄砲隊の猛射で
ようやく引き上げた。片倉勢は陣に逃げ込む、ってはず。
実際は12000人と戦ったんじゃなく、白兵戦では1000人と戦っただけだから、
さほど伊達勢は討ち死はいなかったと思う。多くて2〜300人くらいか?
>>368 歴史知らずとも知ってる軍神・毘沙門天、義を重んじる実に男気ある謙信、
徳川幕府がもっとも警戒した”天下の副将軍”、猛将でありながら、
スペインに徳川幕府転覆同盟を提唱した策略家でもある政宗、
九州を席巻した西国最強の島津家随一の猛将、義弘を過大評価とは言えないのでは?
謙信が義を重んじるってのはあきらかに嘘だし、手取り川の戦いも
ないと言われているし、信玄、氏康と戦って得た領地はほとんど無
いという謙信はあきらかに過大評価されてると思うが・・・
大義なき戦を仕掛けず、信玄死去の際には勧められても動かなかったんだっけ?
けっこうなんじゃね?
ま、ホモだったろうけどw
>>375 ホモってのは信玄も信長もだろ。
つか戦国時代ってほとんどホモだろ。
あと大儀無き戦争はしないって越中方面侵略してるし、関東で略奪してるだろ。
あれ?
幸村は秀吉が明を征服した時の戦功で、朝鮮南部を貰ったんじゃないんですか?
教科書の載ってましたが・・・
つうかさ、大阪の陣最強!なら問題ないよね?
で、その大阪の陣はいつ起こるんだい?
大阪はノックの代わりにアホの坂田出せばよかったのに。
真田日本一之兵古ヨリ之物語モ是無キ由
最低でも島津より強いのは確かだ
政宗やら島津やらヘタレばかりで
戦国最強を語る基準にならん、まあその程度だから仕方ないが
政宗は大阪の陣で、当時最強と言われた旗本隊を持ってましたが何か?
ただでさえ精強な漆黒の騎馬武者に鉄砲持たせ、敵部隊と衝突寸前に鉄砲撃ち、
敵兵撃ち殺し、敵の士気も下げる当時奇抜な発想だった騎馬鉄砲隊、
3000丁以上の鉄砲部隊、で前衛部隊率いていたのは知略はないが、
その分父にはない武勇を備えていた若い猛将片倉重綱。
島津だって実質九州制覇し、一門には優れた武将多く、
関ヶ原での決死の退却、さらには朝鮮の役では海戦で敵の鉄甲船を打ち破った義弘
、秀吉も賞賛した名主、義久もいるし、太平の徳川幕府になってからは
外様としては前田につぐ大大名で、真田よりもよっぽど名門だと思うけど?
あれ?
幸村はトラック運転手を首になったんじゃないんですか?
職安で見かけましたが・・・
実際に戦ったらどうかとか発言の背景とかはともかく、島津自身が「日本一」と認めちゃったんだからしょうがない
局地戦に勝ってもねえ・・・
徳川方からしたら
自軍の兵力を消耗したくないし
そりゃ、すぐに退却するでしょうに
徳川方の勝利の結果は眼に見えてるのに
あたら無駄に兵力を損ずることは無い
島津って九州平定戦はともかく朝鮮関ヶ原ってたいしたことないような
朝鮮で日本軍が苦戦するなか、唯一相手に恐怖をあたえた鬼島津。
関ヶ原ではわずかな兵でも逃げおおせた。
嘘か誠か
毛利勝永を自棄に絶賛しまくりマンセーサイトがあったんだがどこだったけな。
毛利勝永って耳んとこがでかい兜してるイメージがある。
>>388 徳川が自軍の損失を押さえるために家康を見捨てるのか?
>388
無様な戦いをしたらなめられちゃうよ。
アカデミー過大評価将にノミネートされますた
過大評価っていう香具師からすれば、実績少ないもんね。
大阪の陣、上田城の戦いとかしかないだろうし。
謎も多いと思う。真田十勇士とかって後世になって誰かが味付けしたような
ヒーローの仲間達が加わったり。
過小評価は真田日本一の兵なりって言われるくらい強烈な戦をしてるし、
家康を討ち取る寸前までいった武将って思えばやっぱ批判は納得できないだろうね。
あれ?
幸村は戦国チャンピョンじゃなかったんですか?
ベルトを持ってましたが・・・
402 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 19:56
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 20:02
真田十融資
404 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 20:55
信繁が多くの戦に参加していたらかえって無名に終わっていたと思う
かたや討ち取るための突撃で相手の肝を冷やし、
かたや主戦闘には参加せず大勢が決まってから
自国へしっぽを巻いて逃げた、この差が現在の
物語の多さや名声につながっている。
義弘もいい歳だったんだから見事玉砕していれば
ヒーローになれたのに。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 22:52
>>400 >家康を討ち取る寸前までいった
だからあ、それは話しが大げさに伝わっただけ。
家康が「切腹の覚悟をした」なんてのも、メチャ大げさ。
頭にチラリと「いざとなれば切腹」という言葉が家康の頭をかすめた程度だろう。
>>407 本陣が崩れてる以上危険性は十分あっただろうが
409 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:07
>>408 どうかねえ。現に逃げおおせてるしね。
そもそも大阪の陣の時の徳川兵なんて、かつての「命知らず三河武士」とはまったく違う。
関東の実家に帰ったら徳川の旗本のお坊ちゃんで、何不自由ない未来が約束され、
女も抱き放題、美味しい物も食い放題の連中だからね。そりゃ「命かけて闘え」と言われても無理でしょ。
明日なき真田の兵が決死でつっこんできたら、そりゃ混乱して逃げまどうだろうね。
島津の「真田の兵日本一」の賞賛は「真田幸村」が日本一って事じゃなくて「真田の兵」が日本一って事かもね。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:15
>>407 見てきたかのような言いぐさだね。
>>409 「真田の兵日本一」ではない。「真田日本一の兵」が原文。
常識で考えてそんなもんでしょうが。
アカデミー過大評価将は他に誰がノミネートされてるん?
>>409 >そもそも大阪の陣の時の徳川兵なんて、かつての「命知らず三河武士」とはまったく違う。
だからやばかったんだろうが・・・実際越前勢が混乱を回復したお蔭で命拾いしたが、もしそれがなければ桶狭間の再現になってたんじゃないか?
414 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:39
>>412 加藤清正 生涯、強者相手にはろくに闘ってないのに名将とされる、築城術と内政には優れる。
前田慶次 人気先行のさいたる人物
直江兼続 単なる失地王、内政だけは見るべきものがある。
長宗我部元親 鳥無き島のコウモリ
島津義久 実は単なる世間知らずっぽい、弟や甥や地理的位置に助けられる
真田家の人物 小粒でもピリリと辛い程度、小勢力の指揮に優れてたといって大勢力の指揮に優れている証拠なし
佐々成正 越中富山の英雄だが政治面に優れてるとは思えず
下間頼廉 光栄ゲームでは異常な高評価
415 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:45
>>413 だねえ。家康もかつての命知らずの三河兵に守られているノリでどっしり構えて指揮したんだろうね。
家康は大阪夏の陣ではあえて歴戦の将兵ではなく若い世代の将兵を連れて参陣したという。
理由は「この戦いを最後に日本には戦というものが無くなるであろうから若輩の世代に戦争の辛酸をなめさせておくため」
だったとか。見込みが甘かったみたいだな。
家康と言えど案外ボケてたのかもね。
本多のとっつぁんさえ居れば
>>416 確かにいてほしかった・・・。
そして幸村と対決してほしかった・・・・。
つか忠勝は関が原で幸村の助命を進言してんだから
家康が追い詰められたのは忠勝のせいとも言えるような・・・・。
418 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 00:10
>>409 そんな簡単に徳川が弱体化するとは思えん。
現実に幕府は三百年も持ったんだし、
徳川は最後まで凄く強かったと思うよ。
それを苦しめた真田も激強といっていいだろ。
420 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 00:17
>>418 そんなドリ〜マ〜な事言われてもねぇ。
ちと話しを一つ。
事態は全然は違うんだが
幕末に徳川慶喜が将軍(何かの責任者になった時だったかも)になった時、
最初、彼は幕府存続にやる気まんまんだったらしいの。
それで「幕府に仇なす西国大名どもなど武力でねじ伏せてくれる。
大名どもなんかに頼らずとも徳川家には頼りになる精鋭の旗本八万旗がいる」
と彼らに召集をかけたの。
ところが集った彼らを見ると不思議なことに乳幼児も含む年端もいかぬ子供たちばかり。
調べてみると旗本たちは戦に行くのを嫌がり、軍役は当主しかないのを利用して、
まだ全然若い連中も含めて隠居して自分の子供たちに家督を譲ってしまったとか。
この事件で全身の力が抜けてしまった慶喜は以後、幕府の平和的幕引きを考えるようなったという。
何故、こんな話しをしたかというと所詮、精鋭はいつまでも精鋭じゃないって事を言いたかったの。
恵まれてしまえば勝手に弱体化してしまうもんなんだよな。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 00:22
戦争する気がない奴が戦争に強いわけがない
戦争する気にさせない指導者が優れているわけがない
>>414 コイツラは違うでしょ。
>加藤清正 生涯、強者相手にはろくに闘ってないのに名将とされる、築城術と内政には優れる。
朝鮮で大活躍しました。
>前田慶次 人気先行のさいたる人物
対最上戦はガチ
>真田家の人物 小粒でもピリリと辛い程度、小勢力の指揮に優れてたといって大勢力の指揮に優れている証拠なし
小勢力の運用で大勢力に対抗できる時点で凄いだろ。
後の人物はくわしく知りません。
>>423 俺は414ではないが、加藤は朝鮮征伐で活躍はしていないだろう。
小早川、立花、島津、福島などの武将に比べて目立った戦闘での
勝利は皆無。
清正の武功で目立ったのは漢城奪取と蔚山城篭城ぐらいか?
あるいは朝鮮の王子2人を丁寧に扱ったことが単なる武辺者じゃないということになるかもしれんが
なおその当時朝鮮から日本側に寝返った武将・兵・民衆はたくさんいた。
が、日本が撤兵するとなぜかみんな「抗日義兵」したことに(藁
この辺の行動パターンは昔からのようで・・・
あれ?
幸村は歌舞伎町には詳しいんじゃないんですか?
風俗界の帝王が言ってましたが・・・
427 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 19:28
>真田家の人物
幸隆、昌幸only
徳川の兵が弱かったから真田は甘い評価されていると言っ
てるやついるが意味わからんな。
それじゃあ貴族化した平氏を倒した源義経も、公家の南朝
勢力を倒した北朝も、姉川の戦いで織田兵を散々に打ち破
った浅井もなーんてことは無いってことになるじゃないか。
敵の兵が弱かろうがなんだろうが、そこも含めて勝負だろ。
忘れてるかもしれませんが
結局幸村は負けましたよ
なぜ姉川合戦で徳川が横槍入れるまで三倍の織田軍を蹴散らし続けた浅井朝倉は評価されないんだろう?
幸村と同じじゃん
姉川の戦いがそこまで重要なものだからじゃないからじゃないか?
戦国無双のムービーの
大阪の陣のシーンで真田が
「今こそ、秀頼様が陣頭に立たねば、死んでいったものたちが報われぬ戦になるッ!!」
とか言ってるけど
司馬の『城塞』まんまだね
大阪の陣で伊達政宗が大阪方に裏切って、松平忠輝も一緒に大阪方に
なってたら面白そう
>>432 別に司馬以外にも普通にそう描いてると思うが・・・
幸村は最優秀将は無理です、過大評価将は鉄板、敢闘将ぐらいならなんとか
アカデミー賞引き合いに出してるやつ、若干一名
つまらないです
あれ?
幸村はバニーガールが好きなんじゃないんですか?
この前ハアハアしていましたが・・・
一戦で歴史に名を残したのはやっぱり運も才幹も伊達じゃないと思う
441 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 03:58
今川氏真は伊達じゃない、と。
伊達以外は伊達じゃない
伊達は最低という意味の、代名詞になったのか。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 10:35
真田幸村なんてたいしたこと無い。
毛利勝永なんてたいしたこと無い
あれ?
幸村は真性包茎じゃないんですか?
大谷さんとこの娘さんが言ってましたが・・・
>>440 何を根拠に貴様はそんなことをいえるので?
せめて先日発売されたDVDの大河ドラマ全話見てから出直しておいでw
まあ、みんな伊達扱いはされたくないってことで。
あのアムロも名言「νガンダムは伊達じゃない」をいってるぐらいだし。
助演男優将
451 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 21:16
スレ違いだが教えて頂きたい。
昌幸って戦でこっぴどく敗退した事ある?
家康の三方ヶ原しかり一度は大敗した事はあると思うのだが。
長篠
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 21:25
長篠の時は真田家の家督は継いでなかったよね。
兄二人が長篠で戦死して三男の昌幸が家督継いだんじゃなかったっけ?
真田の強さは外様大名だけでなく、当時の宣教師たちの記録からも窺える。
部下の兵が強かったのは、冬の陣前は父昌幸の名から慕ったのだろうし
冬の陣後は幸村への絶大な信頼が生まれ、あのような強い部隊になったのだろう。
もともと当時の信濃の国は戦国時代作の人国記で武士の風、天下一。勇猛果敢。
粘り強いと絶賛されていた。ロシアでいうコサック兵か。
まー確かに他にも強い武将はいただろうけど、舞台は幸村が恵まれていただろうね。
滅びようとする主家、愚かな主君とその母、滅ぼそうとする悪賢い古狸。役者が
そろってもいたしね。
私が幸村がいいなと思うのは、その残した文にとても人間くささが感じられる
ことです。吉田松陰のようなさわやかさもある。
吉田松陰はキチガイ
真田子飼いの部下ってそんなに幸村についてきたっけ?
100人くらいかな。上田あとは寄せ集めかな。
真田の軍法は武田氏の影響を強く受け(というか信玄の下で実施してた)、一方の家康も甲州流に軍法を改めた
ある意味同門対決だったわけだ
>>451 沼田城奪取寸前で小松殿にこっぴどく追い返された。
真田昌幸は長篠で武田が敗戦を喫したので、戦い方を武田風から
改めたのではないか。頑丈な陣城など地形を利用した鉄砲戦術に。
真田の強さの秘密は武田流からの脱却だと思う。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 21:42
>>428 >>430 近年の研究では姉川の戦いでの織田軍の苦戦は徳川のねつ造という説の方が有力です。
徳川が弱い織田を危機一髪で助けて勝利させたという事実を作りたかったらしいです。
徳川が横槍を入れなくても美濃三人衆の横槍で織田は勝ってたでしょうし、
浅井の攻勢は遅かれ早かれいずれ息切れしたでしょう。真田と同様に。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 21:57
真田といい浅井といい、
そんなにちょっと攻め込んだだけで、そんなに凄いと言えるのかな?
相撲で言えば幕内下位の力士が横綱相手に果敢に攻めまくったものの、結局は負けたみたいなもんでしょ。
つまり、真田も浅井も攻めまくったものの攻勢的限界点がきて結局は負けただけでしょうが。
数的優位な側が攻めまくってる相手に守備的姿勢で耐え、相手が疲れた所を一気に反撃するという作戦もありなんだけどね。
攻めまくった奴が偉いんじゃなくて、最後に勝った奴が偉いんだと思うけどな。
>>463 喩えて言うと沢村栄治が草薙球場で大リーグ選抜に敗北したようなもの
>>463 考えろ馬鹿。
なんで勝ったら偉いんだよ、しかもお前守備的姿勢で勝てるっていう
根拠があんのか?
第一にあの作戦は敵の出鼻(集結前)に叩いて敵が体制整える前に
本陣突入→混乱みたいな作戦なんだよ。
勝ったら偉いなんて価値観いかれてるな
あそこまでの徹底的格差の中では
一発逆転にかけるしかないだろ、守備に持ってったら敵が疲れる前に
こっちが疲れるだろ、数的にも。いくらそれで撃破しても
次の隊次の隊って後詰があんだから
負けたほうが強いってのは基地外だよなあw
当時の陣地図みると真田が家康の本陣に突入したってのは講談だろうがな
負けたほうが強いってのは基地外だよなあ
強いとは誰も言ってないんじゃない?
だがあれだけの不利な状況であそこまでできたのは凄いってこと。
463は偉いの使い方間違ってるだろ
>>469 真田の話は何処まで確かなのかね?ほとんど講談なんじゃないの?
471 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:18
>>466 しかし、結果は家康が身の危険を感じて後ろに退いただけの話しだったんだが。
まあ、幸村の前向き姿勢は評価するが、
だからといって「あと一歩で勝てた」とかいう
過剰評価はどうかと思うんだな。
せいぜいが「一矢を報いた」「一泡ふかせた」という
次元での善戦だと思うが。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:20
1.真田厨
2.前田慶次厨
3.伊達厨
>>468 おいおいw陣形図でなんでも判断するなよ、他のはしかとかよ
>>473 陣地みればわかるよ。
幸村の家康本陣突入は不可能だな。
>>471 要するに記録ではなく記憶に残る選手だったんだよ・・・。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:24
naze sokomade sanada wo yougo suruno?
477 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:26
実際見たわけでもないのにな。
478 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:26
>>474 当然、突撃する真田とて、弓・鉄砲はあっただろうし、
弓・鉄砲が届く範囲くらいまでは突入したという事かもね。
それで家康は万が一の危険のために退いたんだろ。
>>474 そうかなぁ?
小笠原や酒井あたりの家康守備軍?右翼は毛利が完封だべ?
んで守備軍?左翼はほぼ伊達、越前兵しかいないじゃん。
481 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:31
>>480 真田の位置から家康本陣はまるきり対角線上の反対側
井伊や秀忠の陣のさらに奥にあるじゃない。
本陣突入が可能だったとは思えんな。
>>481 今更そんな聞き飽きたようなもの持ってこられてもな。
>>482 それはたぶん戦闘開始直後の布陣図じゃないかな?さがせば開戦後のも
見つかると思う
たしかに秀忠に突入はどう考えても無理だけど(誰もそんなこといってないが)
大御所本体は開戦後仙石隊等の真後ろまで前進してきてるよ。
>>482 家康は関ヶ原でも大坂でも前進しているよ。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:43
>>484 大野は前田の横をすり抜けて秀忠本陣へ突入。
>>487 いや、治房のことは知ってるけど、
今は真田のことについて議論しているから。
真田の位置からは無理なんじゃない?っていうかする気なかったと思う
といいたかっただけどす
過大評価だけど、戦国敢闘賞くらいはノミネートされそうかな。
最優秀賞は信長?
492 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 23:31
家康の旗奉行が戦死してるからどう贔屓目に見ても真田(もしくは毛利豊前)
勢が本陣に突入してるのは間違いない。彦左衛門もそれは述べてる。
講談で人気の出た武将のファンは思い入れが違うね、宗教がかってるというか
徳川本陣が壊乱したのは事実
大久保彦左衛門が家康の旗印を拾って後々軍議で申し述べた
ことは本人の日記にかかれている。
彼は徳川方。徳川の負けップリに怒っていた。
疑いようのない事実を、疑うのはやめてもらいたい
まあゆきりんだけのお手柄じゃないけどね。
真田十勇士とか存在する時点で漫画用のキャラだな。
こいつが上杉謙信やいわば主人・武田家の、武田信玄より
凄いわけないし。
まぁ兵士が経験不足な若者多い、これ終われば泰平の世だから死にたくない
って思う1615年にいくら活躍しても説得力ないよね。
しかも手薄なときは本陣まで攻めれたけど、すぐに真田勢に
突っ込まれた前田らが本陣で真田に追いつくと散々に打ち破られ敗走。
信繁も討ち死。
やっぱ勢いで敵本陣に突っ込んで敵が追いつくまで活躍できただけで、
あとは駄目だったでしょ。
徳川方の旗本隊だけなら死ぬ気の勢いの真田が押して当然だし。
>>496 長篠で惨敗した武田の戦法を見限って、新しい戦法を取り入れて
真田は強くなったのだろう。おそらく武田信玄の方針に逆らった
新府城築城も、真田の新しい戦法に基づいたものかもしれない。
>>458 家康と信玄の戦い方なんて似ても似つかんだろ。
>>494 大阪の陣のとき旗持ちは武田の旧臣だったらしいがかなりのへたれだったようだね
500げっと
恥ずかしすぎ
あれ?
幸村は口内炎がひどくて学校やめたんじゃないんですか?
先生が言ってましたが・・・
長篠の惨敗は異説がけっこうある(重臣自殺説は流石に信じられんが)から置くとして、
徳川が石川数正の寝返りを機会に軍制を旧武田氏流に改めたのは事実
武田軍学の特徴は、今で言う諸兵科連合と、陣形および陣形を組んでの機動の重視だったが、ぶっちゃけ小牧長久手の一戦以来徳川本隊が本格野戦してないからなぁ・・・
>>423 小勢力の運用で大勢力に対抗できだ時点で
真田昌幸が徳川に対抗できたのはあくまで豊臣や上杉が後ろだてにあっての話し。
あと小競り合い程度の第二次はおいておくとして
第一次上田城の戦いにしても、家康は出陣してなかったし、
城というのは本来いかなる攻撃を受けても数ヶ月は持つのが普通なんだよ。
確かに織田秀信の稲葉山城や仁科盛信の高遠城のように簡単に落ちたものはあるが、それは守備側がボンクラだったの。
必要以上の過剰評価はどうかと思うよ。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 20:48
>>505 ( ・∀・)っ,,∩ヘェヘェヘェ
仁科盛信はむしろ名将だと思っていたよ
508 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 21:51
>>507 高遠城が半日で落とされてしまった以上、
名将とは言いがたいね。
名高い高遠城の奮戦もたった半日の攻防でしかなかった。
幸村同様にただの匹夫と。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 21:54
史上最大の過大評価!真田☆幸村を語るレス
岐阜城の件は福島正則が強すぎた。
仁科盛信は相手が悪すぎる
長篠城とか、岩屋城のケースを見ると鉄砲装備率と、射撃戦を考えた構造が大軍を支える重要な要素となっている(あと後詰足りえる部隊の存在も)
ところが高遠城はあくまで「一世代前の戦での堅城」で、さらに鉄砲戦の質量において織田軍は当時屈指
この情勢下で大田牛一が特筆する奮戦を短い間でもやっただけで上等だろ
内政とか、家臣団への人望とかもあった武将なんだがね
一世代前の堅城=武田式の最新=武田は時代遅れ
武田は鉄砲使用を野戦の露払いぐらいから進化させてなかったんじゃ?
一応数は揃えてたみたいだが
高遠城が改修されたのって織田侵攻よりずっと前じゃなかったっけ?
確か山本勘助が(実在なら)指揮したっていう
高遠などよけいな守備隊を置かず、全軍新府に結集して本土決戦
を行うべきだった。迫り来る織田の大軍に鉄砲の集中射撃を浴びせ
長篠のお返しを。
最新の縄張りは新府城だろう。真田昌幸が指揮した城
もっとも真価を発揮せず火をかけられ、再建した徳川勢が北条と戦って初めてその造りのよさを示したという
>>517 そこまで攻め込まれたらやっぱり国人衆を初めとして離反が相次ぐような
昔から痔と幸村ファンは無理に刺激するなっていうけどホントだねえ
おやおや、もう論理的な反論ができなくなって人格攻撃ですか
幸村ヲタに論理なぞないだろ。
>>523 で、キミに論理があるという証明は?
「ないだろ」ってカキコするだけならリア厨にもできるが
525 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 14:32
兵隊さんの中で日本一
親父のほうが優秀ヽ(´ー`)ノマンセー
527 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 16:19
親父さんは優秀な将
自滅組み
529 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 16:59
じいちゃんモナー
530 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 17:39
で、幸村は優秀な兵。
つーか優秀な噛ませ犬ね。。。
>>523-524 信者にもアンチにも何言っても無駄。お互い理屈じゃなくて感情で物喋るから
互いにスルーしとけ
>>513 いつの最新だよ、
築城時期を考えろよ。
>>505 一次上田城の戦いを単純な籠城戦だと思っているのか・・・
>>533 武田の技術としては最新だ。
信濃は武田の新領土だから。
536 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 23:37
>>535 いや、だから武田流のおおがかりな改築が行われたのは第四次川中島以前だし
おめええええええええええええええら!
俺が質問してるのに無視ばっかすんじゃない!
あれ?
あれ?
あれ?
幸村は俺じゃないんですか????・
俺ですよ〜〜〜〜〜
島津義弘「ファイモン!ファイモウ!ファイモオオ!オイガタニマイルルアヒタデゴワスー(開門!開門!開門!御味方に参りました!)」
鳥居元忠「なんだ、あやつらは?何を喋っておる?」
島津義弘「ナズェミデルンディス!!ハアク、アギェヅデゴワスー!(何故みてるんです?早く門を開けて下さい!)」
鳥居元忠「おい、あの目障りな敵を鉄砲で追い払えッ!!」
島津義弘「オンドゥルルラギッタンディゴワスカー!!(何をなさるのですか!!)」
鳥居元忠「ええい!うるさい奴らめ!もっと撃て!さっさと立ち去れ!!」
島津義弘「アンダドーゥレハ!アカテェ゙ゴワス!クオゲキハ、イアメ(あなたと俺は仲間です!攻撃は止め・・)」
鳥居元忠「撃てェ―!撃て、撃てぇ――ッ!」
島津義弘「ンナヅェダァ!ンナヅェダァ!ナヅェダァ!(何故だ!何故だ!何故だー!)」
島津が西軍についた理由は義久が本国にいたので、
通訳が不在だったためか。
warata
幸村戦死の地が阿倍野にある。五月八日は幸村祭って何やるんやろ?
つか既出?
542 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 06:42
>>538 元ネタ何?
それともマジでそんな方言なの?
538って現代の九州弁とたいして変わらないね
元ネタは仮面ライダーブレイド。本日8:00よりTV朝日系列
でも
>>543を信じるならマジでそんな方言と言うことになるな
毛 利 勝 永 最 強
幸村く〜んがやってきた♪
お〜い、幸村く〜ん、お母さんが呼んでいるよ〜♪
な〜に、山手ママが呼んでいる?♪
行ってしゃぶってねんねのねん♪
ツカマツッテござる!
>>496 戦機を見極め本陣まで突っ込んで家康の旗印を倒した奴が弱い訳ない。
戦慣れしている歴戦の将兵から認められるんだからすごい戦いだったことは容易に想像できる。
>>505 豊臣と上杉が後ろ盾してくれるように動いたのは誰だよwそれも戦略だろ。
大体、当時10万石あったかどうかの超田舎大名が次期天下人の秀吉と双璧を成す家康の侵攻を
防ぐ、しかも撃退したんだから過剰評価なんて言えないね。
上田攻めは快事だったけれど、
徳川も本気じゃなかったからねぇ。
沼田の矢沢薩摩vs北条の方が
すざまじかったのは話題にならないねぇ。
つか織田、豊臣、徳川のどれかと絡めば話題になる
織田とあれだけ絡み、
豊臣とも関わった長曽我部は・・・
鹿児島弁(ただし怪しげ)をしゃべる珍しいエロゲキャラに萌えて燃えた覚えが・・・
佐平次、ついてまいれ〜
おや、ここはどこじゃ?
なに〜大河ドラマに拙者が!!??
幸村役はおすぎだと??
許さんぞお〜
>553
長曽我部スレにも来てないよ。
安心しる。
漫画「風雲児たち」では3コマ程度で討ち死にしてましたね>幸村
まあ講談を全部鵜呑みにしても歴史的意義のある活躍はしてないからなぁ・・、幸村
昌幸「源二郎!どこにおる、源二郎!」
幸村「なんだ、親父」
昌幸「明日、わしの会社の社長がお見えになるぞ!」
幸村「はあ、それで俺にどうしろと?」
昌幸「殺せ」
幸村「え?」
昌幸「殺せと申しているのじゃ!」
幸村「いや・・・何でだよ?」
昌幸「社長を殺して、わしが豊臣製作株式会社の社長になる・・・」
幸村「何で俺がやらなきゃなんないんだ?」
昌幸「だまれい!口が過ぎるぞ、源二郎!」
幸村「ははっ!申し訳ございませぬ」
昌幸「うむ・・・明日は頼むぞ・・・」
幸村「お任せあれ・・・ふふふ・・・」
意味不明
561 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 21:50
信繁はなぜ幸村と言われるんでつか?
大石内蔵助=大星由良之助
これと同じです。
大阪の陣で生き乗った人は豊後日出藩に召抱えられたらしい。
秀吉「昌幸殿!まいったぞ!」
昌幸「これは、これは社長。お忙しい所を申し訳ありません。これ、山手、社長に挨拶せんか!」
秀吉「はは、かまわん、かまわん。して、何か用があるとか申しておったな」
昌幸「はっ。しかし、その話は食事を食べながら・・・粗末ながらご用意しました」
秀吉「おお、それはありがたい。おぬしの妻の手料理はうまいからのう」
昌幸「もったいのうございます。それでは、食堂の方へ・・・」
秀吉「・・・おお!なんと豪華な。うまそうじゃのう・・・」
昌幸「ささ、まあ、一杯・・・」
秀吉「うむ・・・む、旨い酒じゃ・・・昌幸殿は飲まぬのか?」
昌幸「下戸でございますれば・・・」
秀吉「そうか・・・む・・・むむむ・・・く、苦し・・・・ぐばはあ!!」
昌幸「社長!どうしました!・・・くくく、死んだようだな・・・源二郎め、うまくやりおったな」
---------------続く--------------------------------------------
565 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 12:29
何だか面白く感じてきたのは漏れだけですか?
>565
うん。
今日のところは幸村は俺が抱いておく。
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 12:34
明日は俺の番だ。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 12:42
信繁殿ご謀反!
570 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 12:45
>>538-539 義弘は九州弁を改めようとしてた
それを家臣にも薦めていた。
だからこのようなことはありえない。
しかし義久は九州弁を改めようとはしていなかった。
ダディヴァナザーン!!
ファイモン!ファイモン!