>>864 上の呂壹事件の話の続きですが、
呂壹事件は以上のように孫権の命令、意向であったことは明らかなのです。
そして、尚書曁艶といい、呂壹といい、政敵がいずれも豪族系大臣が中心である事などを
考えると、曁艶、呂壹そしてその背後の孫権は、豪族系大臣を主な対象として
曁・呂のしたような官僚の評価、弾劾等を行ったのではないかと思います。
(事実上豪族連合政権である呉では、豪族の発言力は大きく、
そこで皇帝孫権の権力を拡大させていくには、
ある程度は豪族の頭を叩いていく事も必要だったと思います)
そして、こういった孫権の二人の側近による事件を経て先鋭化した孫権と豪族系大臣の
対立が、皇太子問題という場で衝突したのが二宮事件である、
というとらえ方もできるのではないでしょうか。
怨霊氏 レスありがとうございます。
呂壱の官職から推測も可能なんですね。
そういえば、二宮事件でも孫覇派の孫弘が中書令ですね。
ここにも孫権の影が・・・。
正妻に較べて、妾に対する扱いは現代人の感覚でみても酷いように思えます。
『礼記』はそのあたりに詳しいですが、かの孔子でさえ、離縁した妻の服喪を
除かない子に、長すぎるとたしなめてますし、孔子とは関係ない話でも、とある
嫡男が母の葬儀に際して費用の工面がつかないところへ、ひとつの提案として
「庶弟の母を売っては?」とあったりするようで、随分と格差をつけられていた
んでしょう。
>>852 こちらこそ。
>>867 そうなんです。
中書ってだけで全て孫権の命令、とまでは言えないかもしれませんが、
少なくとも「中書が実行者ということは孫権がOKを出したんだな」、
と当時の人は解釈したと思います。
二宮の方で出てくる中書令孫弘や、陸遜を追求したという「中使」なども、
それぞれ皇帝孫権の側近や使者であり、
こういった者たちがどう動いていたかというのを見れば、
当時の人々は孫権がどういう立場(どの陣営)だったのか察したと思います。
>>868 やはりそういう感じですか。
礼記の記事の紹介ありがとうございます。
これは少々妄想気味で根拠も薄弱なので話半分に聞いて下さい。
古代中国の観念として、天と地、陰と陽、といった二元論が大元にあったようです。
そこでいうと男に対して女(妻)があるという事になるでしょうけど、
陰と陽と同じ1対1であり、他の女性はそこではノーカウント。
陰と陽のつりあいを重視するので、女性=陰だけ多いのは困るのです。
というように正妻だけが祭祀などの公的(?)な場面では問題になるわけで、
それ以外の女性=側室は下働き=奴婢=「妾」、としか扱われないのではないでしょうか。
まあ、実際の家というものを考えても、正妻との区別をハッキリしないと混乱の元、
という現実的な側面とかもあったとは思いますけど。
さて、ここいらで某先生に敬意(&弔意)を表して閑話休題。
そろそろ500KBですね。
前スレは確か795で500KBでしたが、今回は900行くか行かないかで500KBでしょう。
とにかく続けるなら次スレの時期。
特に反論や提案が無ければ、近日中に新スレ立てます。
今度のスレタイはどうしましょうね。
(案)
【思想や】 三国時代に関する制度や政治や文物を語る 【事件も】
「漢」をスレタイから外して、三国時代に絡むこと全体を語る事にしてみました。
もちろん漢の事も三国時代との関係の中で語ります。
問題はスレタイの文字数。大丈夫なのかな?
うん、次も行きましょう。
孔明は軍師か!?みたいな事で罵りあってるようなスレより
こういった当時の背景を語る方が勉強になるしね。
質問するばかりで申し訳ないのですが
次スレもよろしくです。
>>871 識者によれば、SETTING.TXT曰く、
BBS_SUBJECT_COUNT=48
とのこと。
おそらくではありますが、全角文字ならば24文字で抑えなければならないようですね。
なかなかこのスレに書き込めるほどの知識も疑問もありませんが、常日頃より楽しませていただいております。
>>872 ありがとう。次スレできたらまたよろしく。
>>873 そうでしたか。どうやら案では文字数が多すぎるようですねえ。
今後もお付き合いいただければ幸いです。
ではもう一度(案)
【政治】 三国志の制度や文物等を語る 【事件】
「等」を入れてみました。
正妻と側室ですが…日本の話で恐縮ですが、正妻だけがいわゆる「妻」で、側室というのは
子供を産むための単なる使用人であった…というのを読んだことがあります。で、側室が
生んだ子も正妻の「実子」(実の子という意味ではなく、その「家」の正式な子)になるらしいです。
次スレ楽しみです。
私は正史読んでるだけってレベルなもので、
ディープな内容は読むだけになってしまいがちですが、
次スレも良いスレになるといいですね。
改名改姓に関しての質問だけど何か手続きとか必要だったの?
あれ?
側室と妾は同じモノなの?
側室はまがりなりにも妻という地位を得た人だと思ってたんだけど
改姓といえば朱然が、養父である朱治の喪があけたとき、
もとの姓である施氏にもどりたいと孫権に願い出たけど許されなかった。
のちに朱然の子朱積が上表して元の施姓に戻っているから君主の許可が必要だったのかな?
改姓って他に誰がしましたっけ?(養子と改姓はべつものかもしれませんが)
奚→ケイ[ケイ康] 耿→簡[簡雍] 聶→張[張遼] 氏→是[是儀]
880氏どうもです。張遼は先祖が匈奴に恨まれていたから改姓したんですよね。
ほかにも孫権の弟の孫朗が罪を得て丁姓を名乗らされたり、
晋に亡命した孫秀を孫皓が孫秀の姓を獅ニ呼ぶようにさせたように、
罰で改姓させた場合もあるようですね。
>>875 そのへんは古代中国と似ているような。
側室(正妻以外)が産んだ子も正妻の子として扱う、
ってのは三国志の時代にもその形跡がありますね。
有名どころでは曹昂とか。
彼は当時の曹操の正室丁氏から、本人の子であるかのように扱われています。
>>878 それは私は正直言って厳密に区別しないで使っていました。
間違い等あったらすいません。
なお、漢文では前漢からすでに「側室」なる語はあったようですが、
特におっしゃるような意味合いではないようです(大漢和辞典より)。
一方、少なくとも古代では「妻」は夫に対して同時には一名のみ、
という原則があったようです(
>>858)。
>>876 そのようにおっしゃていただければ幸い。
疑問について色々と議論できるスレにしたいものです。
>一方、少なくとも古代では「妻」は夫に対して同時には一名のみ、という原則があったようです
舜とか妻二人ぐらいいなかったっけ?
>>877 戸籍を有する者であれば、最低限その戸籍の書き換えをする必要はあったでしょう。
どのように、とかそういうのは流石に分からないんですが。
>>879の言う朱然、施績の例のように皇帝の許可が必要だった実例がありますが、
これは何かそれなりの理由があったのではないでしょうか。
旧姓(本姓)に復するってのは、
彼らの場合は朱氏からの決別宣言に等しいのかもしれませんし。
>>880,881氏の言う以外の改姓の例では曹嵩とか、
馬忠、王平、陳矯、劉封・・・
当時は母方の家を継ぐ為に改姓することがあったようですね。
>>883 確かにそうですね(史記五帝本紀)。
等しい存在って意味はあっても1対1とは限らないのかもしれないですね。
(神話みたいなものでしょうから、
すぐ一般の士にも当てはまるかどうかはまた議論が必要かもしれませんが)
失礼しました。ご指摘ありがとう。
さて、現在488KBということで、そろそろ次を立てましょうか。
前は本当にギリギリでしたし。
さて、残りは何を語り合いましょうか。
鮮卑の事にしようかとも思ったんですが、
長くなるかもしれないので後回し。
ところで小ネタですが・・・。
太原王氏の王リョウ(反乱したヤツ)と令狐愚はおじおいの関係ですが、
王氏と令狐氏って、後漢初期から仲が良かったようです。
後漢書列女伝、太原王霸の妻の条によると、
王霸の友人に同じ郡(太原)出身の令狐子伯というのがいたそうです。
王リョウと令狐愚は、そんな200年の付き合いの家同士だったんですね。
改姓はいくつもあるけど改名は令孤愚ぐらい?
>>890 思いついたところでは、「範」と付けたら親戚とかぶっていたので改名したケ艾、
姓ともども変えて原形を留めなくなった馬忠(蜀の)、
なんてのが。
あと有名どころでは李厳から李平とか、陸議から陸遜とか?
他に、「一名」がある者も結構いるようですね。
どういう場合に「一名」があるのかわかりませんけど。
「一名」の方で記録されていると誰だか分からなくなるので困るんですけどね。
例
尹礼、一名「盧児」
(三国志臧覇伝)
→「魏将尹盧」(三国志呉主伝、黄武元年)
この尹盧は臧覇とともに出てきており、尹礼と同一人物の可能性が高いと思いますが・・・。
確証も無いのが残念です。
>>891・892
即レス多謝。
あと廖化(淳)、曹奐(コウ)なんてのもいたね。
パッとは思い浮かばないもんだ。。。
>>893 意外といるもんです。曹奐の場合は皇帝で特殊ですね。
諱として臣下全員が避けなくてはいけませんから、
改名はある意味仕方ないというか慈悲と言うか。
孫休って、皇子の名前の漢字を勝手に作って避けやすくしたのに、
自分は「休」なんて避けにくそうな名前を変えてないですよね。
なんだそりゃ。
大した話ではないんですが、
曹操の子、燕王宇の子が曹奐、魏の元帝です。
で、燕王宇は曹奐が即位した時健在でした。
傀儡とはいえ皇帝の父が健在ということで、
儀礼などについて朝廷でも議論があったようです。
結果、燕王に対しては「不臣の礼」を執る事となり、
吏・民すべて燕王の諱(宇)を避けることになりました。
この点についてだけいえば、燕王は皇帝と同等の扱いになったのです。
そんな燕王ですが、どうも魏の世を生きぬいたらしく、
(三国志本伝に死亡の記事が無い)
おそらく魏晋禅譲の際に他の諸侯王と同様に県侯に降格されたのでしょう。
(晋書武帝紀より)
皇帝の弟から皇帝の父、そして県侯と、
本人に特別な事績はないんですが波乱の人生です。
ところでさっき晋書見てて見つけたんですが、
晋の武帝の泰始2年2月に、「除漢宗室禁錮」という一文がありました。
これは、漢の宗室=劉氏の禁錮を解除した、という意味だと思うのですが、
ということはそれまでは禁錮されていたんですね。
禁錮したのは魏でしょうね。
更に、泰始元年12月には「除魏宗室禁錮」という文も。
この泰始元年12月ってのは禅譲を受けた時なので、
禁錮したのは晋ではないでしょう。
魏は魏の宗室を禁錮していたのですね。司馬氏がしたのだとは思いますが。
司馬懿がやった、魏の諸侯王を軟禁した措置の事でしょうか。
劉禅や孫皓の扱いはどうだったんでしょうか?
挿話は結構あるみたいだけど。
>>897 晋は曹奐、劉禅、孫皓、そして曹芳を始末せず、一応礼遇したようです。
曹奐は禅譲後に陳留王に封ぜられ、38年後に死亡しました。
そこで漢の献帝の例に倣い元皇帝と諡されています。
劉禅はケ艾に降伏すると、まずケ艾の独断で驃騎将軍にされ、
おそらく名目上はその命令として蜀臣の降伏を促したようです。
その後洛陽へ移住させられ、有名ですが「安楽県公」に封ぜられます。
食邑1万戸だそうです。泰始7年に死亡、諡は思公。
例の司馬昭にからかわれた話は三国志後主伝注に引かれています。
なお、劉禅の正室張氏(張飛の娘)は劉禅とともに移住しましたが、
側室の李昭儀は蜀の後宮の者が諸将に妻として与えられると聞き、自殺しました。
(昭儀は前漢では皇帝の夫人としては皇后に次ぐ位。
魏では県侯レベル。いずれにしても高位の夫人です)
なお劉備の直系子孫で生き残ったのは甘陵王劉永(劉備の子)の子孫だそうです。
劉禅の子は永嘉の乱で全滅。
劉永の孫、劉玄は李氏の立てた蜀へ逃げ、李雄によって「安楽公」とされました。
かの孫盛は東晋が李氏政権を討ったときにその劉玄に出会った、とされています。
(三国志後主太子エイ伝)
>>898 最後、「されている」というか孫盛本人がそう言っているんですね。訂正。
孫皓は降伏後、洛陽に遷され「帰命侯」とされました。
五年後死亡。諡は伝わっていないようです。
また孫皓の太子孫瑾を中郎、その他孫皓の皇子で王になっていた者を郎中にしたそうです。
孫皓の場合、易で占わせたら、「洛陽に孫皓の車が入る」という結果が出て喜んだら、
降伏して洛陽に連れられるというオチだった、という話が三国志孫皓伝注に。
孫皓が「侯」で劉禅が「公」と扱いが違うのは、
理由は幾つか考えられますが、
劉禅の方が降伏が早かったとか、孫皓の評判が悪かったとか、
そんなところなのでしょうか。
そして曹芳も実はしぶとく生き残っており、
廃位後に斉王とされ河内に幽閉されていたようですが、
晋が禅譲を受けるとショウ(召β)陵県公とされ、泰始10年43歳で死亡。
詞と諡されました。
考えてみれば父母の正確な記録も残らず、
最初から最後まで誰かに見張られたような傀儡皇帝でしたが、
一応は非業の死を遂げずに済んだのですね。
もう流石にラストが近付いてきたので、
ちょっと前に紹介しようと思いつつやめていた人物について。
石苞
すこしだけ前に書きましたが、彼は少年時代にあのケ艾と友人だったようですが、
ケ艾といえば典農部民、即ち屯田民として農業に従事していましたので、
石苞も多分同じ屯田民だったのでしょう。
ただ、ケ艾ともども非凡な才能を持っていたらしく、
共に抜擢を受けました。
彼は司馬師の中護軍司馬となりましたが、
どうも「好色薄行」とされるようなところがあったそうで、
司馬懿にダメ出しされています。しかし司馬師はそれを庇い、その後は
業βの典農中郎将、太守、徐州刺史などを歴任。
彼は雍州方面に付いたケ艾と対照的に青州方面を任されるようになり、
諸葛誕の乱や対呉戦線で活躍。
司馬昭の死に際しても葬礼を定め、更に禅譲を魏帝に勧めるなど活躍。
司馬炎の元で大司馬となります。
と、このように石苞は晋建国の功臣の中でも優れた者の一人と言って良く、
出自を考えると破格の出世というやつなのでしょう。
そして、その末っ子が石崇です。
実は石崇を紹介したかった。
石崇はそんな父や、それなりに高位に昇った兄達に負けない人物ではありました。
父が生前に遺産分与しようとした際、石崇に分け前が無いのに対し、父の石苞は言いました。
「こいつは大きくなったら自分で稼ぐぞ」と。
20歳程度で県令となり、その後太守となり、対呉戦で功を立て郷侯になります。
晋の武帝にもその才ゆえに目をかけられました。
その後、荊州刺史、領南蛮校尉などになり、その後征虜将軍、仮節、監徐州諸軍事に。
彼を紹介したかったのはその贅沢比べの逸話の数々です。
他の貴族、王トが四十里にも及ぶ長さの錦を作ったと聞けば五十里のものを作り、
武帝が高さ二尺の珊瑚樹を王トに下賜したと聞けば、
石崇は見せてもらうとそれをぶち壊し、弁償とばかりに三、四尺のものを渡すという具合。
成り上がりの家系故にことさらに贅沢自慢したのかどうかは知りませんが、
とにかくものすごい財力だということは間違い無さそうです。
これがたまにとんでもない贅沢の代名詞として使われる事もある石崇です。
怨霊とか言う固定が、自分の知識を自慢するオナニースレはここですか?
905 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 22:22
>>903 たぶん違うでしょうが、あなたのような知識も見識も理性もない方が
入るべきスレッドではないことは間違いありません。
怨霊氏、続きドゾー
>>905 怨 霊 必 死 だ な (藁
オナニーは夢板でどうぞ( ´,_ゝ`)
彡川川川三三三ミ〜
>>1 川|川/ \|〜 プゥ〜ン
‖|‖ ◎---◎|〜 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
川川‖ 3 ヽ〜 < 僕のスレが荒らされてる〜。
川川 ∴)д(∴)〜
川川 〜 /〜 カタカタカタ
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
/ \__| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
| | ̄
909 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 22:27
率直な疑問なんですが、石崇はどうしてそんなに贅沢できたんでしょうね。
よほど大規模な荘園でももっていたのでしょうか。
それとも役得で儲けたのでしょうか。
>>909 父からは財産を貰わなかったけど、
官にあるときにはきわどい事もしつつ財産を築いたそうです。
まず役得で儲けて、それを荘園経営にあてたのでしょう、きっと。
際どいことってどんなこと?
なんでも、無理に商客を遠くに遣らせた、とか。
権力を笠に着て商売したのか?
急に荒れてきましたね。
sageで
もうすぐ500KBのようですね。
前はすぐ落ちましたが・・・