【政治や】 漢の制度や文物を語る 【思想も】

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なるほど。
時間がある時で構わないので二宮の変についての解釈もお願いします
636怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/25 11:39
曹丕が即位後に外戚の輔政や厚遇を制限、否定したのも、
「外戚」丁氏が自分の地位を脅かしたという経験からだったのかもしれません。
丁氏は三国志本文ではほとんど見えず、
曹操の妻丁氏と母(?)丁氏と丁兄弟と丁斐・丁謐などの関係はよく分からないのですが、
全部一本の線上にあるとすれば、外戚であった一族全部の存在を抹消したも同然であり、
曹丕の丁氏への態度はよほど厳しかった(記録さえ残させなかった?)
と思われます。
637怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/26 08:28
>>635
ではこの曹氏のケースとの比較ということで「二宮の変」について多少。
それほど読み込んでいない状態なので異論や補足がありましたら随時よろしく。

ご存知の方が多いでしょうが、
「二宮の変」とは呉の孫権の後継者問題に端を発した事件です。
長男で皇太子となった孫登の死後、孫権は孫和を皇太子に立てましたが、
一方でその弟魯王孫覇を寵愛し、二人をほとんど同等に扱ったといいます。
そのためか大臣たちが皇太子派と魯王派に分かれて後継者争いをし、
最終的には皇太子の廃嫡、魯王の賜死、陸遜ら大臣の粛清と、
呉を揺るがす大事件に発展したものです。

曹操の例を見ると、もっと穏やかな結末は迎えられなかったのか、
そもそも後継者争いなんて起こさずに済ませられなかったのか、と思うのですが、
そのあたりとその裏にある当時の事情について考えてみたいと思います。
638怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/27 00:36
孫和が皇太子に立てられたのが赤烏5年(242年、魏は斉王芳の正始3年)正月で、
同年8月に孫覇が魯王に立てられています。
これは前年に皇太子孫登が死んだ事による措置であり、
当然ながら孫登が死んでいなければ孫和・孫覇の出る幕はありません。
そして翌年丞相顧雍が死亡、その翌年(7年)に陸遜が後任になります。
時に蜀の動きに敏感になり、司馬懿と蜀に攻められるのではと心配していた頃。
その翌年、陸遜が死亡します。
これは皇太子派の粛清の一環であり、ここで一旦は魯王派が勢いを得た事になるでしょう。

陸遜は皇太子と魯王の待遇に差を設けよ、と主張しましたが入れられず、
太子太傅吾サンが下獄死(陸遜と文書を通じていたため)、太常顧譚が交州への流刑など、
魯王派の讒言に遭って太子派が排除される中、
陸遜も皇帝孫権の詰問の使者(宦官?)に厳しく取り調べられ、
憤激のあまり死亡した、とされます。
この「憤恚」で死ぬ、というのは自殺を示唆するものと思われ、
それだけ屈辱的な尋問だったのではないかと思われます。
639怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/27 08:11
しかし、魯王派が勝利した赤烏9年から4年後の同13年、
皇太子孫和を廃位すると共に魯王孫覇に死を賜いました。
そこで新たに孫亮を皇太子に立てます。
いわば喧嘩両成敗であり、魯王派の全寄、呉安、孫奇、楊竺らも処刑されました。
また、孫和を廃して孫亮を立てる時にも一悶着あって、諫言した者を処刑したりしています。



640怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/27 08:34
では、どういった面々がどの派閥でどういう末路を辿ったでしょうか。
皇太子和派
陸遜(丞相)
 詰問を受け憤死(自殺?)。
吾サン(太子太傅)
 陸遜との手紙のやりとりを理由に下獄死。
顧譚(太常、平尚書事:元、太子孫登の「四友」)
 寿春征伐での功績争いに端を発して全氏と反目、讒言されて交州へ配流。2年後死亡。
顧承(奮威将軍:顧譚の弟)
 兄と同じく全氏の讒言で交州に配流。
張休(揚武将軍:元、太子孫登の「四友」)
 顧譚らと同じ件に連座し交州に配流、中書令孫弘の讒言で死を賜う。
諸葛恪(威北将軍:元、太子孫登の「四友」)
 陸遜死後に大将軍となり荊州を領する。
朱拠(驃騎将軍)
皇太子廃位に反対、百杖を喰らった上で新都郡丞に左遷、中書令孫弘の讒言で死を賜う。

続く。
641無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:38
確か、孫権の長女(?)だかで、全氏に嫁いでた娘も魯王派だったかな?
642怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/27 23:02
>>641
全公主こと魯班(字大虎)ですね。むしろ彼女が元凶かと思わせるほどです。
いやそれは言いすぎでしょうが。


まずは皇太子派続き。
上に挙げた以外の皇太子派。
縢胤(会稽太守:妻は公主)
おとがめなし?
施(朱)績(偏将軍、大都督:朱然の子)
おとがめなし?諸葛恪と仲悪し。

こうして見ると、名士や豪族、あるいはそういった者と交流している者が多いと言えるでしょう。
陸遜前後には一旦呉の上層部がまるっと入れ替わっており、
政治的姿勢そのものが180度変わるような政変だったかもしれません。
全jより全公主の方が重要人物
644怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/28 00:37
>>643
そうかも。
でもまずは魯王派の概観。

魯王派と目される人物。
歩シツ(驃騎将軍:全公主の母歩夫人と同族)
陸遜死後に丞相に。
呂岱(鎮南将軍、交州牧)
陸遜死後に上大将軍に。
全ソウ(衛将軍、左護軍、徐州牧:全公主の夫、全寄の父)
陸遜死後に右大司馬、左軍師に。
呂拠(越騎校尉?左将軍?:呂範の子)
この時の状況は不明。
孫弘(中書令)
この時の状況は不明。

はっきり言って陸遜が死んだ後の赤烏9年人事はこの魯王派が軒並み昇進した人事です。
こちらはなんと言っても全公主を通して丞相歩シツと全ソウが結びつくのが特徴的。
また中書令という皇帝孫権の側近中の側近と思われる者がいる事も重要でしょう。
外戚と側近という、皇帝に「近い」連中がこっち側に固まっているような印象があります。
645怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/28 08:32
赤烏9年の人事ですが、
昇進自体は年功序列という面もあるので一概には言えないかもしれませんが、
どちらにしてもその昇進が生まれた理由は丞相陸遜の普通でない死であり、
後任が魯王派の歩シツですから、
やはり尋常の昇進人事とは言えない面が強いでしょう。

また、処分された皇太子派にも、原因となった事件が複数あることが目に付きます。
陸遜と吾サンは基本的に同じ件ですが、
顧譚・承、張休は芍陂の戦いにおける全ソウらとの功績争いから発したもので、
理由も「典軍が張休らと通じて功績を水増しした」というものでした。
また朱拠の左遷は、その後に孫権が孫和を幽閉した際にその解除を強く求め、
また孫和を廃して「孫亮を」立てようとしたのを諫言した事によるもので、
これは陸遜の事件より後の事です。

こうしてみると、この事件には幾つかの段階があったと思われます。
第一段階としては皇太子派と魯王派の争いと、皇太子派の大物陸遜の死、
魯王派の勝利まで。
第二段階として皇太子孫和の幽閉とそれへの反対。
第三段階として孫和の廃位と魯王の賜死、孫亮の立太子。
魯王派は第一段階で勝利したと思われるのに魯王は遂に太子に立っていません。
また、朱拠の命取りになったのは魯王との関係ではなく、
「孫亮を」太子に代える事を諫言した事です。
孫亮は全氏を妃としており、
全公主はどこかの段階で魯王を捨てて孫亮に乗り換えたようです。
つまり、魯王でなくてはならない理由は実は無かった。
孫権にしろ魯王派にしろ、
魯王の才能だとか彼への愛情だとかはあまり重要な要素ではなかった。
そう考えられます。
646怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/29 08:20
もっとはっきり言えば、
二宮の変は「孫権が魯王を是非皇太子にしたいから」という理由で始まったのではなく、
「魯王を皇太子にした方が自分達にとって好ましい」と考える者たちによって始まった、
ということだと思います。
もちろん、孫権自身も魯王を寵愛していましたが、同格の二宮を作るなどの事態は、
むしろ上記のような魯王を担ぐ者たちの意向で生まれていったのではないかと思うのです。

もし孫権が魯王を寵愛するあまり、この事件を主体的に引き起こしたのではれば、
魯王派が勝利したと思われる赤烏9年以降に、
早い段階で魯王を皇太子に立ててしかるべきでしょう。
むしろ、廃太子・立太子を引き伸ばせば余計に混乱が広がりかねません。
(実際に広がったと見ていいでしょう。)
それをしなかったということは、
孫権は赤烏9年には魯王を皇太子に立てようという意欲が無かった、という事になります。
647怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/29 08:34
そして「魯王を皇太子にした方が自分達にとって好ましい」連中ですが、
これは結局は全公主がらみになってきます。

全公主は孫和の母、琅邪の王夫人が皇后に立てられそうであるとの情勢に対し、
元より仲が悪く、そこから王夫人・孫和への攻撃が始まったとも言われます。
(三国志孫和伝)
また、公主からすれば母歩氏がないがしろにされるのではという恐れや、
自分の影響力低下を危惧した、という面もあるでしょう。
そのあたりの実情は正直断言できませんが、
全公主が夫全ソウと驃騎将軍歩シツ(全公主の母歩氏の一族)の関係を取り結び、
表の政治の面からも、また自分で王氏・孫和を孫権に讒言して裏からも、
皇太子孫和そして王氏の追い落としを狙ったのは確かでしょう。
648怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/30 08:32
言い換えると、
「魯王を皇太子にすること」は魯王派のほとんどにとって目的ではなかった。
「魯王を担いで現皇太子孫和、その母王氏、その一派を追い落とす」のが目的で、
魯王擁立は手段に過ぎなかったのだと思います。
だから陸遜らの死後もすぐに魯王を皇太子にする動きはなく、
(これは皇太子派がまだ多かったため、という面もあるでしょうけど、
 丞相陸遜まで死に追いやるほどなのだから、
 魯王を本気で擁立する気なら多少の反対は気にせず強引にやりそうなものです)
それどころか、より全公主と関係の深いと思われる孫亮を擁立するようになったのではないでしょうか。

では、何故皇太子孫和は排除されなければならなかったのでしょう。
三国志孫和伝によれば、孫和は「有司頗る條書を以って事を問う」
(役人が箇条書きの文書で政治などについて質問する)と言う際に、
孫権を諫言してそういった「有司」の排除を勧めています。
これは中書呂壹の典校と同じようなものと思われ、
(あるいは呂壹の事件?年代を確認中・・・)
官僚に対する綱紀粛正、言い換えると締め付けでしょう。
そしてそれを推進したのは孫権であり、
反対したのは事実上は孫和のバックにいる豪族・名士系の大臣というところ。
(孫和の妃張氏は張休・諸葛恪の姪=張昭・諸葛瑾の孫、張承と諸葛瑾の娘の子)

つまり、貴族・名士系大臣に対する締め付けを厳しくし専制的に振る舞う孫権に対し、
それら大臣は皇太子をいわば代理に立てて抵抗した、という図式になるのではないでしょうか。
そして、それ故に皇帝孫権にとって皇太子はそのままにできなくなり、
そこに孫権が皇太子を代えよう、皇太子派大臣に打撃を与えよう、
と考える理由が発生します。
積極的に皇太子派を追い落としたのは全公主や魯王派の大臣だとしても、
孫権も少なくとも黙認したように見えるのは、こういった理由からではないでしょうか。
司馬遷は薛で不愉快な経験をしたそうですが
どんな目にあったんですか?
650怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/30 22:46
>>649
それはスレ違いなので少しだけ。
史記太史公自序の「番・薛に厄困す」ですが、
これは実は孟子尽心の「孟子曰君子之厄於陳蔡之間、無上下之交也」
を下敷きにしたものと思われます。で、孟子のいう「君子」は孔子の事で、
孔子は魯を出て放浪の旅の間に陳あたりで反対勢力に囲まれ、食べ物に困ったそうです。
(史記孔子世家)
というわけで、司馬遷が実際に出会った危機の正体は不明ですが、典拠から考えると、
「孔子のように飢え死にしそうだった」というニュアンスを含んでいたと思われます。
詳しくは世界史か古文漢文の板の方がいいでしょう。
651怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/01/31 23:14
では二宮の変をまとめっぽく。

まず起こった原因。
これは孫権の偏愛などではなく、全公主に代表されるような、
「今の皇太子を引き摺り下ろしたい」という勢力の強いプッシュ。
それに孫権自身が自分に逆らう豪族・名士派大臣への攻撃・粛清のために乗った。
はっきりいって魯王は「その目的にとって適任」だっただけ。

皇太子派というのは主に孫権が若い頃からある意味で戦ってきた名士や豪族系の大臣達。
(張昭みたいな)
一方で魯王派は外戚や孫権の側近が多い。
この点では、後漢の党錮関係や魏の曹爽VS司馬懿にも通じる。

で。結果としては本当に得したのは孫権かもしれない。
どちらも最終的には勝利できなかったわけで、
一見するとどっちつかずだった孫権こそ得している。
なるほど・・・ありがとうございます。

個人的に魏王太子闘争に関しては、中立を保った人物が多いのに
二宮の変ではほとんどの人物がいずれかの派閥に属しているのが不思議でした。
ありがとうございます。
653怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/01 14:10
昨夜は多少アルコール入っていたので少し文体が違うけれど、
内容はそのとおりと思っています。

>>652
魏のそれと違って、皇帝自らが一方に乗っちゃってるし、
両方とも既に大物同士が婚姻やらかつての同僚やらご学友やら秘密の交際やらと、
二重三重のしがらみで結びついているので、
なかなか中立的態度を取りにくいという面もあったのかもしれません。

これは最近気付いた小ネタ。
諸葛恪と朱拠は一般に皇太子派になってるんですが、
(三国志孫和伝注引通語など)
この二人は赤烏9年人事(>>645で言うところの第一段階)では処分どころか出世しています。
 諸葛恪:威北将軍→大将軍
 朱拠:左将軍→驃騎将軍
これは、諸葛恪の場合は実は(息子が)魯王派と通じていたという二股膏薬であり、
朱拠は妻が公主(全公主の同母妹、魯育)であったことによるのでしょう。
この二人は二宮の変第一段階では事実上魯王派だったのです。

それが皇太子派に目されるのは、
諸葛恪はその息子(長子諸葛綽)に(おそらく)罪を被せて始末してしまったことと、
皇太子孫休の妃の縁者だというあたりから一応は皇太子派と思われていたからでしょうか。
朱拠は、第二段階に入ってから孫和幽閉や廃位(と孫亮立太子)には強硬に反対し、
死に追いやられたという事情からでしょう。
この時点では確かに皇太子派なんですが、
陸遜らがやられた赤烏9年には出世しているのです。
654怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/01 17:16
あ、653の皇太子は孫休じゃなく孫和だった。訂正。
今月のナショナルジオグラフィック(日本版)の特集が漢帝国ですな。
内容に新味はありませんが、西洋人からみた漢ってのがちょっとおもしろかったり。
656怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/02 00:27
>>655
情報ありがとう。今度見てみましょう、見つかったら。
西洋人、漢について何か知識あるのだろうか。
司馬遷とか知ってるのかな?
657怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/02 08:32
二宮関係で補足もツッコミも意見も無くて寂しい。

西洋から連想して西羌でも語ろうか。

羌は西方の異民族で、いわゆる遊牧民です。
涼州の西側あたりが主な居住地でしょう。
戦死を吉とし病死を不祥とたり、風雪を避けることが無い、など、
かなり勇猛・剛健な民です。
羌の名は殷・周から出てきているハズで、殷では生贄とされていたとか。
そういった事に反抗する意図があったのか、周が殷を討つ際には羌も周に付き従いました。
どうも「羌」と「姜」姓は無関係では無いらしく、
(その辺詳しくはないので・・・)
姜姓の太公望もこの羌と関係あるかもしれません。
「羌」や「戎」(隴西、北地などに居た)は秦によって次第に征服、駆逐されていきましたが、
一方で羌もまた盛んになっていきました。
彼らは主に秦に服属しましたが、匈奴の冒頓単于の時には冒頓単于に従ったようです。
怨霊タン、イツモアリガトウネ
ツッコメナクテゴメンヨ
コレカラモガンバッテネ
659無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 22:12
怨霊さん、初めまして。
お話はいつも楽しく拝見しております。
そのお話の腰を折るようで恐縮ですが、
ご教授いただきたいことがあるのです。よろしいでしょうか?
660怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/02 22:27
>>659
もちろんどうぞ。
ご期待に添えるかどうかは保証できないッスけど。
661659:04/02/02 23:29
さっそくのお返事、ありがとうございます。
こんなに早くお返事いただけるとは。

さて、小生も漢〜三国時代という動乱の世界に魅入られた者ですが、
知識不足から理解しがたい点があります。ご教授いただければ幸いです。

武人の官位に「校尉」というものがあります。それに関してうかがいます。

まず私の認識を述べさせていただきます。
指揮系統で将軍>校尉>司馬という風に思ってます、今風ですと陸軍の連隊長、大佐くらいでしょうか。
五営、西園八校尉は近衛軍ゆえに校尉の上に立派な称号(例:屯騎、越騎…)とつくのは分かります。
異民族烏丸を管理する烏丸校尉、首都圏を預かる司隷校尉という特殊な校尉も称号がつくのが分かります。

ただ、ここで理解できないのがあります。
孫策がつけられた懐義校尉、孫権は奉義校尉という立派な名称の割には意味がよく分からないのです。(´д`;)。
他にも破賊校尉、武衛校尉などもありますが
これらは「将軍ほどじゃないけどさ、ただの校尉より偉いんだよ」的な意味合いなのでしょうか。

校尉ではなく、司馬ですが劉焉が張魯を督義司馬に任命して漢中を攻撃させています、
これも常設ではなくただの泊付けと理解していいのでしょうか?。

討虜校尉、賛軍校尉(魯粛)、軍議校尉(法正)、儒林校尉(周羣)などありますが
これらは参謀格に与えられる単なる肩書きなのでしょうか。
私は浅学ですので妙な誤解などあるかも知れませんがよろしくお願いします。
662 ◆Kwu0p51cCg :04/02/03 00:01
階級的には将軍>校尉>司馬だけど
指揮系統はこの三者にはほぼ無い
全員が個別の軍規模、家柄別の司令官職
この時代に中隊は発明されていないから。
663怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/03 00:29
>>661
これはまず>>662氏の言にあるように、
将軍と校尉は位階では基本的に将軍>校尉ですが、
指揮系統は必ずしも上下関係ではないと考えた方がいいでしょう。
おのおの独立したものです。すくなくとも本来の意味では。

逆に司馬は将軍の属官(下士官?)にも、城門校尉など一部の校尉の属官にもあり、
「司馬」は「長官(将軍も校尉も)の下に付く部隊長」的なものとして考えればいいかもしれません。

また、司隷校尉、城門校尉、護烏丸校尉などの「校尉」に付く名は
「職務内容」を記したもので、実態を反映しています。
一方、例に挙げている討虜校尉、賛軍校尉などはおそらくご指摘のように「肩書き」に近く、
それは将軍位に実態をあまり反映していない雑号将軍があるようなものだと思います。
勝手に名付けると「雑号校尉」です(こんな用語はないですが)。
実態はケースバイケースでしょうが、
「独立部隊の長だけど将軍位にはまだ早い」、
みたいな時に使われたのではないかと推測されます。

ここからは推測というか妄想ですが、将軍と校尉の違いについてはこう考えます。
将軍はその名のとおり「軍を将いる」官で、
かつては一旦軍を任されると幕府の中では目的のためには皇帝の命令さえ聞かなくていい、
真に独立した軍を統率します。
それに対し、校尉は司隷校尉、城門校尉や五営、西園八校尉など、
あくまでもイメージですが「皇帝に直属する」という印象があります。
校尉の「校」はおそらく点検、締め付けなどを意味し、
皇帝の命令の元で兵を監督する、というのが本来の意味だったんじゃないでしょうか。
将軍と違い、皇帝から独立していない、という事です。(むしろ皇帝に直属する)

上は推測の域を出ないのですが、
将軍と校尉は命令系統や存在意義という点で本質から異なっていると思うのです。
私の考えも、推測の域を出ませんが
司隷校尉(秘密警察)、護烏丸校尉(異民族の管理)、司塩校尉(塩田や、塩の売買の管理)など
現代では、それぞれの事を担当する職業があるでしょうが
当時では兵士がいなければ、とても務まる役割ではありません
校尉と言うのは、戦争行為以外で兵卒を使役する役割に従事する官吏の事ではないでしょうか
唐代には各校尉を散官扱いにしていたようなので、
「校尉」そのものが「常任する職務の無い官」であった可能性は、やはり高いのかもね。
666怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/03 08:16
>>664
なるほど。そうかもしれません。
確かに特定の(戦争以外の)職務を持っていたことになりますので、
その方が将軍との違いも含めてうまく説明できそうです。

>>665
唐では校尉に限らず、漢・三国頃には実態のあった官が散官化している筈ですので、
この点で参考にするのは難しいのではないかと。
「校尉」が実際の職務の無い称号になっていくのは、多分>>661で挙げられている
「名称だけで実態不明の校尉」が頻出する後漢末以降でしょうね。
将軍位同様、インフレして価値が下がったのでしょう。
それ以前は司隷校尉や護烏丸校尉なんかのように、
現に名前の通りの職務を果たしていました。
(司隷校尉は元々刑徒・奴隷を率いていた)
667怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/03 08:33
>>658
遅くなったけどありがとう。
今も二宮関係のご指摘等お待ちしてます。

羌続き。
羌は漢初は匈奴に従っていましたが、景帝の時に「研種」
(「種」は羌の部族の単位。秦孝公の時に「研」という名の族長がいて、その子孫の「種」)
の留何なる者が漢に降伏し、
漢は彼らを隴西郡に住まわせました。
これは漢の勢力が強くなってきた事を示すものでしょう。

その後、漢の武帝が河西回廊から西域方面の侵略・開拓を進めると、
羌もその圧迫を受け、「先零羌」などの羌が大同団結して匈奴と結んで漢に反抗しましたが、
漢はそれを破り、「護羌校尉」を置いて服属した羌を統率・監視させました。
羌はこの後西海などへと移住(駆逐された)し、
人のいなくなったその地を開拓・移民させました。
涼州の奥の方に漢人が住むようになったのです。
668659:04/02/03 19:32
怨霊さん、662さん、664さん、665さん、ありがとうございました。
これで一層、漢〜三国時代を楽しめそうです。
また疑問がありましたらうかがわせていただきますので、
ぜひよろしくお願いします。

669怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/04 00:27
>>668
そう言っていただけると光栄です。
こちらこそ良いネタ振りでしたのでまたお願いします。

羌続き。

その後、宣帝の時に先零羌と移住問題で揉め、羌が仲直りして大同団結し、
匈奴と結んで漢に背く動きを見せました。
それに対して当時羌との外交を受け持ったらしい光禄大夫義渠安国(姓義渠、名安国)は
先零羌の族長連中30人を集めて殺しました。
この暴挙に怒った生き残りは遂に漢に背きました。
その際、宣帝は老将趙充国に鎮圧軍の総大将を誰にするか聞いたところ、
自分が一番と言い放ちます。
余談ですが、いぶかる宣帝に対して言ったのが「百聞は一見に如かず」という言葉でした。
この老将はその自信に違わず羌を打ち破ります。

その後も元帝の時に彡姐羌などの種が隴西を攻撃したりということもありましたが、
漢は難なく下しています。
以後、王莽まで羌は大人しくしていました。
670怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/04 08:31
羌続き。

羌の活動が活発化するのは王莽末期。匈奴はじめ他の異民族同様に漢を攻撃し、
金城、隴西あたりにしばしば手を出したようです。
その地を治めた群雄、隗囂は羌を討つ力は無く、
懐柔して漢(光武帝)に対抗する兵力にしました。
隗囂死後、光武帝は班彪の進言に従い護羌校尉を置いて羌の慰撫と監視を再開しましたが、
翌年には先零羌の反乱が起こっています。
後、来キュウ、馬援らが鎮圧、彼らを天水、隴西、扶風に強制移住させました。

なお、この頃に勃興したのが焼当羌の首領、テン良(シ真 良)です。
彼は宣帝頃の首領の一人、焼当の玄孫で、それまで弱体だった自分の種を率い、
反乱等で弱体化したと思われる先零羌などを討って羌の覇者となりました。
テン良の子、テン吾も羌の反乱を率い、このあたりから次第に漢の旗色が悪くなってきます。
しかし明帝の時に竇固らによって破られたテン吾らは最終的には漢に降伏しました。

もっともこれで全て治まった訳ではなく、テン良の一族らの中には漢に反抗するものもあり、
漢は連年羌の反乱、略奪に悩まされています。
671怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/05 00:38
羌続き。

焼当羌のテン吾、その子、東吾らは漢に従いましたが、
その一族、迷吾はしばしば漢に反抗したようです。
漢の役人による羌の人妻略奪に端を発する反乱が起こり、
迷吾は羌のリーダーとして活躍したようです。
その地では有名だったらしい護羌校尉傅育も戦死しました。
迷吾は後に漢に降り、時の護羌校尉のだまし討ちで死んでいますが、
結局だまし討ち(降伏を受け入れた後の宴会で毒を盛り、族長達を皆殺しにした)
に羌も怒り、迷吾の子、迷唐らがまた反乱します。

とにかく羌は反乱を繰り返しており、護羌校尉は何度も入れ替わっています。
羌は違う種が団結して大勢力になっても、漢に金で誘われると離反が始まり、
もともとそれぞれの種は仇同士ということもあってすぐにバラけてしまうようです。
しかし漢は漢で決め手に欠け、結局完全に黙らせる事もできず、
降伏してはまた反乱、という繰り返しだったと言っていいでしょう。
そしてその度に羌は手強くなっていきます。
別スレで

924 名前: [sage] 投稿日:04/02/02 11:58
蜀では四鎮・四征より前後左右の四方将軍が上のままだった
(つまり、漢と一緒)という学説が有力だよ。蜀書を読んでると
「あれ?」と思う場面が色々あるんだけど、そっちで考えると納得できる。

925 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:04/02/03 03:18
途中から四征>四方に変わったけどね。

というのがあったんですが、どういう意味なのか良く分かりません。
お暇な時にでも解説いただけないでしょうか。
673怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/05 09:18
>>673
魏、もしくはそれ以降の官品では、四征将軍(征東将軍など、東西南北)の方が、
四方将軍(前将軍など、前後左右)より上でした。
宋書百官志なんかでは、大将軍、驃騎、車騎、衛の各将軍のあと、
征東(西南北)、鎮東(西南北)、中軍将軍、安東(西南北)、平東(西南北)と来て、
その次に前後左右将軍(四方)が来ています。

しかし、蜀ではどうやら四征将軍などよりも四方将軍の方が格上らしいのです。
あまり事例を挙げられませんが、例えば呉壹は左将軍から車騎将軍になっていますし、
三国志に収録されている楊戯の季漢輔臣賛によれば、
輔匡は鎮南将軍から右将軍になっています。

蜀成立前ですが、夏侯淵を斬った黄忠は討虜将軍から征西将軍、
そして劉備の漢中王時代に後将軍になっています。
つまり後漢では四征(や四鎮以下)より四方の方が格上だったことになり、
蜀はそのまま同じ序列だったのではないかと思われるのです。
(なお、漢書百官表、続漢書百官志などを見る限り、
 将軍の順序は大、驃騎、車騎、衛、四方将軍となっています。
 四征将軍などの方が後から出てきた歴史の浅い将軍位であり、
 それらより下の将軍だったと思われるのです)

途中から変わったかどうかは、私は今はちょっとその論拠を見つけられませんでした。
ただ、「四征大将軍」なら四方将軍より上だったようです(三国志宗預伝)。
但しこちらは「大」が付いているので、「大」無しの四征将軍とは同列に出来ないでしょう。

最終的な四征将軍と四方将軍の関係はちょっとわかりませんが、
すくなくともどこかの段階までは四方将軍の方が
四征、四鎮などより上だったように思われます。
674怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/06 00:41
羌続き。

羌の反乱を一々記しませんが、
安帝の頃には先零羌の別種、「シ真零」や「鍾羌」などが反乱。
その時、羌にはもはやまともな武具が無かったのですが、竹ヤリの類
(厳密には槍ではないですが)や木の板(盾の代わり)で武装し、
さらには銅鏡(あの三角縁神獣鏡みたいなの)を持って武器を持った振りをしたりしたそうですが、
当時の郡県はそれでも怖気づき、羌を抑えられません。
漢の弱体化は甚だしく、
「天子」を自称さえした「シ真零」を前にして遂に郡の縮小(治所の移転?)までしています。

後に羌のリーダー格が死んで一旦は反乱は治まりましたが、
その間の戦乱で消費した物的、人的損失はいずれも莫大で、
結局この地の荒廃がさらに羌の勢力を相対的に強めることにつながるのでしょう。
悪循環です。
そいや、犬ジュウとかテキ(けものへんに火)とかっていつのまに
見えなくなったが、三国時代や後漢でもいるんですか?
676怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/06 08:32
>>675
狄(テキ)は、匈奴などの総称として使われるらしく、
秦漢以前に「狄」と呼ばれていた異民族は、
匈奴もしくはその前身だと考えていいと思います。
(漢書匈奴伝、晋書北狄伝など)
犬戎は隴西方面が本拠地だそうで、どうやらこっちは羌の前身のようです。
(後漢書西羌伝)

羌続き。
はっきり言って、連年の反乱を全部紹介してられませんが、
目に付くのは、何度も護羌校尉が免職、交代を繰り返す点でしょう。
漢は、それだけ対羌政策に苦しんでいたのです。
また、しばしば巴郡の板楯蛮が討伐に駆り出されています。
これは中国の伝統的な手法「夷を以って夷を制す」というヤツだと思いますが、
これの乱発は結局その使役される方の異民族の不満、さらには反乱を招きます。
(烏丸や匈奴でありました)
これも正しく悪循環です。

これは私見ですが、後漢の羌に対する苦戦は、
後漢という政権そのものの問題に原因があるように感じます。
次第に支配力が低下していたとはいえある程度の民衆把握、支配が出来ていた前漢と違い、
後漢は最初から民衆支配の敵である豪族を地盤に成立したため、
前漢以上に民衆把握が困難になり、豪族勢力の伸張を許す事になります。
民衆把握が困難になれば税収も、徴兵できる数も減り、それだけ軍事力は弱体化します。
軍事力が弱体化すれば羌のような反抗的異民族の反抗を許してしまいます。
そして軍事力が弱体なのでその反抗に対して有効な対策(鎮圧)を処方できないのです。
(それがわかっているから余計に反抗・反乱が増える)
677672:04/02/07 02:59
怨霊様、ありがとうございます。
ネットに入れなかったので御礼が遅くなってしまいました。
申し訳ありません。

さらに質問なのですが、上軍大将軍とかの
○○大将軍とは何なのでしょうか?
位階的にはどの辺りに位置するのですか?
そして、個々の○○大将軍の間に序列はあるのでしょうか?

質問ばかりで恐縮です。お暇な時にでもお願いします。
ゲームなどで鎮東将軍とかの役職があるけど
あれは大将軍の序列の一つです。

正しくは鎮東大将軍

戦時は役職の濫発が必要なのでこんな感じになる
679怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/07 11:35
>>677,678
晋書職官志、宋書百官志によると、
「大」の付かない四征将軍(諸征将軍)などの諸将軍と、「大」の付く諸大将軍は別物です。

宋書百官志における官品はこうなっています。

大将軍 一品
驃騎、車騎、衛将軍、諸大将軍 二品
諸征以下の諸将軍 三品

これはあくまでも宋(南朝)での九品官人法におけるものでの序列ですが、
「大」の有無が序列、格の違いを表していたのは三国時代でもおそらく同様でしょう。
これを敢えて不等号であらわすと、こうなります。

大将軍
  >>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>諸大将軍(四征大将軍など)
                             >>四征将軍以下

何も付かない大将軍が最高で、その下に驃騎将軍等、
そして「征東大将軍」のような「大」付きの各種将軍。
で、さらに下に「大」無しの各種将軍、という順番なのです。
鎮東大将軍>鎮東将軍
681怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/08 12:34
羌続き。

三国時代が近付いてくると、対羌戦線の将も聞いた名前が出てきます。
皇甫規、段潁(正しくは「水」でなく「火」だけど出ないので)、張奐、董卓、皇甫嵩など・・・。
また黄巾の乱が起こると、北地郡の降伏した先零羌が湟中羌、
湟中義従(月氏)胡(北宮伯玉ら)と反乱しました。
これは韓遂の反乱人生がスタートする乱(北宮伯玉の乱を事実上乗っ取った)ですので、
ご存知の方も多いでしょう。
韓遂らは10万の兵を擁して隴西を囲んだといいますが、内紛により分裂、沈静化します。
ただ、直接兵力を粉砕したわけではないので、
後に曹操らが平定するまで関中・涼州の混乱と軍閥割拠は続きます。

韓遂、馬超らが反抗を繰り返すのは、今まで見たような羌の反抗の延長線上にあり、
その地盤も羌にあったと言ってよいでしょう。
(馬騰の父は貧しく、羌の女性を娶って馬騰を生んでいます。
 また曹操に敗れた韓遂は最後に金城郡の羌に逃げ込み、そこで死んでいます。)
馬超が曹操に敗れた後に涼州で再起し冀県を占領した時も、
「諸戎」を率いたとなっています。これも大方は羌種なのでしょう。
(余談ですが冀県の出身である姜維は、父を羌の反乱で失っています)
682怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/09 08:23
羌続き。

羌は隴西だけではなく、蜀、漢中の外側(西側)まで広がっています。
こちらは隴西の羌と比べると大人しいようですが、
辺境を騒がせる事も無かった訳ではないようです。

また、湟中義従(月氏)胡ですが、これはかつて匈奴と戦い駆逐された月氏の末裔です。
月氏のほとんどはずっと西に逃げたのですが、
西に逃げることの出来なかった弱い者が取り残され、羌と合流して生き延びたのだそうです。
で、漢武帝の時に漢の進出に伴い降伏。湟中(金城郡)で漢人と雑居しました。
もとからなのか、羌と住むようになったからなのか、その習俗は羌とほとんど同じだそうです。

「義従」「帰義」などという号は、「漢に帰属した異民族」という意味合いです。
「帰義王」「帰義侯」などの称号が散見されます。
彼らは軍役がある代わりにその他は基本的には自分の習俗で暮らす事を許されていたようで、
漢が異民族を徴発する場合はこういった「帰義蛮夷」がほとんどだったと思われます。
683怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/09 08:33
その後も羌がしばしば反乱した事は、三国志でも出てくるのでご存知でしょう。
蜀は北伐の際に羌を煽動したようです。
(特に姜維の得意技)

また、余談ですが羌は五胡十六国の時代にも当然存在し、
姚氏が後秦を立てています。
馬超が羌の血縁という話をどこかで聞いた覚えがあるのですが、
漢民族との同化はどのくらい進んでいたのでしょうか?文化面含めて。
685怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/09 22:52
>>684
どうなんでしょうね。
馬超と羌の関係は、とりあえず>>681にあるように馬騰の母(=馬超の祖母)が羌だった、
というところしか分かりませんね。
実のところ、馬騰、馬超と羌の関係は、西南夷における孟獲に近いのかもしれません。
当地の漢人、異民族双方の信望を集めていたようですので。

羌はどこまで漢化しているのか、正直良く分かりません。
晋書載記の姚弋仲の条によると、匈奴の劉氏ほど漢化して無さそうにも思えますが、
永嘉の乱の時には漢人も彼に付いて東へ移住しているようですので、
ある程度は漢化していたでしょうね(そもそも姓名が漢人風になっているし)。
それでも、彼は「異民族から天子になったヤツはいないから、俺が死んでも晋に従うんだぞ」
と言い、自らを蛮夷と認識していたようなのです。
(その子の代に皇帝になりますが)

漢化していない方が手強い傾向があるので、
終始後漢を悩ませつづけた羌は漢に虐げられる事はあっても、
このあたりの時代では同化はあまりしていないような気もしますね。
これは印象ですが・・・。
686怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/10 00:24
ただ、漢化していなくても羌と漢人の間にある種の交流があったのは間違いないですね。
董卓の若き日のエピソード(羌の族長連中と親交があった)が有名ですね。
また、馬騰の嫁取り話から察するに、漢人では金銭面、あるいは家柄で問題のある者が、
羌では歓迎されたような部分があったのでしょうか。
羌自体は決して裕福ではなかったようですし、
社会の序列(階級)的には羌は下層に置かれていたのでしょうね。
>686
歓迎というか、金銭面や家柄に恵まれている人は
わざわざ羌から嫁はもらわないと思う。
人種差別なんで良くない話だけれど、
当時の中国を考えたらそんなもんでしょ。
歓迎というか、そうなっちゃったんだろね。

馬騰の場合は政治的な配慮からってのも
考えられませんか?
688怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/10 08:19
>>687
まあ、はっきり言えばおっしゃるように人種差別的な部分なんでしょうね。
馬騰の父は元は県尉だったそうですが、後に官を失い、羌と共に住むようになったそうです。
(三国志馬超伝)
貧しかったので妻を得られず、羌を娶ったとのこと。
また、馬騰の家が貧しかったのは、馬騰自身も木を切って町へ売りに行って生活していた、
というところからも分かります。
田畑、家畜などの「産業」(なりわい)となるものを有しなかったのです。

それでも羌の中で暮らせたというのは、
もしかすると羌の側で漢の知識なり技術なりを受容するために
漢人を積極的に受け入れていたのかもしれません。
(その割には羌はまだあまり漢化していないとも思いますが、
 馬騰が生まれた羌は漢の郡県に近い所でしょうし、
 羌としては比較的進んだ部族だったのかも)

また、山越では漢人の豪族、吏などと結託していた例があるそうなので、
羌も漢人の豪族や吏と結託していた面があったかもしれません。
そうだとすれば、姜維が羌の事に詳しいと言う理由が分かります。
(姜維は冀県の豪族と思われますので、羌と交流・使役などの関係があったのでしょう)
馬騰の父もあるいは県尉だった時に羌と癒着していたのかも。
馬騰の父に有力な親戚はいなかったんでしょうか。
漢の役人をクビになってしかもその後漢人と一緒に住めないというのは
なんか随分悪いことをやったんじゃないかとも思う(邪推ですが)
馬騰はその後めでたく漢族に復帰したけど、他にもそういう
元漢人の流れ者が漢服を脱いで住み着いていたんじゃないかとも思います。
690無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 12:27
馬融なんかは?


166年に亡くなってるね。
692怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/11 22:13
>>689,690,691
確かに馬騰は扶風茂陵の馬氏ということになっていて、
かの後漢初の将にして明帝の皇后の父、馬援の子孫とされています。
一方、盧植の師である大学者馬融もまた馬援の兄の孫であり、
馬騰と馬融は一族という事になります。
確かにただの免官であれば馬騰の父も彼ら馬氏を頼る事も出来そうですので、
(馬融は死んでも彼の族孫である馬日テイが居ます)
羌と雑居する貧困生活をしたという事は、馬氏を頼れないような状態だった、
という可能性が高いように思います。
(もう一つの可能性は「馬騰は馬援の一族とは実は関係無い」)

要するに689氏のおっしゃるように、
まともな生活に戻れないような何かをやらかしたんじゃないか、と。
馬ジュンでしたっけ? 北伐で出てくる天水の人。あれも縁者ですか?
694怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/12 08:24
>>693
三国志姜維伝注に見える天水太守馬遵は、
出身等が書いていないので扶風茂陵の馬氏かどうかわかりませんね。
無関係とも言い切れませんが。
これは馬玩も同じですね。
馬玩の方は馬騰らの縁者の可能性が高いとは思いますけど。
695無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 16:55
馬何羅age
696無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:23
キモイ
>696
誰がだよ。まさか怨霊さんじゃないだろうな。そうだよな。俺だよな。俺がキモイ。一番キモイのは俺。
てことで怨霊さん気にせず続けてください
>>697
スレストッパー乙
699怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/13 23:55
>>695
馬何羅ですか。
馬援、そして馬騰に続く馬氏の一族ですね。
この馬何羅の弟である馬通が馬援の曽祖父ということになってます。
そして馬何羅は漢の武帝を暗殺しようとした人物であり、馬通も連座して処刑されています。
そういった訳ありだったんですが、馬援や馬皇后になってまた世に顕れ、
班固は漢書の中で「馬何羅」を「莽何羅」と書き換えることで馬氏に配慮したと言います。

馬何羅の武帝暗殺はそれだけで色々語れる事(霍光らが暗殺を阻止したとか)
がありますが、スレ違いなので別の機会にでも。
700怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/13 23:56
700ですね。ネタ募集中。
またはこれまでに出た話の質疑応答など・・・
馬超とかと張魯って繋がりあったんですか?
毋丘倹は名将だったんですか?
歴史に残るのは「あほう」か「名将」のみ
党錮の禁はガイシュツですか?
>>701-702
怨霊氏に問うまでもなく個人で解決できるような事を訊くなよ。

>>700
過去の未消化の質問を優先した方がいいのでは?
>>705
藻前みたいのが一番うざいな。
君は怨霊氏でつか?
707怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/14 19:33
>>701
馬超の息子の馬秋を張魯がぶち殺したということくらいしかわかりません。
それ以前の関係は見つかりませんでした。

>>702
名将かどうかはそれぞれの判断でしょう。この経歴や実績から判断してください。

父:毋丘興(武威太守として反乱を抑える。高陽郷侯、将作大匠)
本人の官
平原侯(王?)文学
(「ご学友」のようなもの。「平原侯」は明帝の筈だが、それなら平原王が正しいと思う)
→尚書郎→羽林監(羽林軍の軍監)→洛陽典農→荊州刺史
→幽州刺史、度遼将軍(対北辺の将)、使持節(独断での処刑等をする権限)、護烏丸校尉
(遼東の公孫淵を討ち、途中で烏丸を降伏させる。公孫淵は長雨のため討てなかったが、
 翌年司馬懿と共に平定)
→安邑侯(食邑3900戸)→高句麗征伐
→左将軍、仮節監豫州諸軍事、領豫州刺史
→鎮南将軍(、仮節監豫州諸軍事、領豫州刺史?)
→鎮東将軍、都督揚州→反乱
708怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/14 19:35
>>704
党錮の禁はまだですね。ではそのあたりを・・・。

>>705
それもそうですね。過去の未消化の質問にどんなのがあったのかを見てみます。

>>706
違いますよ。
今日はちょっと前まで熱出して寝込んでました。
709 :04/02/14 22:24
君ら濃いなぁ・・・
710そういえば:04/02/14 22:27
王莽って戦死した後に死体を寄ってたかって食われたって読んだが
どうよ?
丞相とか大将軍クラスはぶっちゃけどれくらい給料貰ってたんですか?
あと食邑ってのは与えられる戸数に基準みたいのはなくて功績に従って
君主の裁量で戸数が決められるんですかね?なんか軍人の方が多く
貰ってるみたいですけどそれは勘違い?
712怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/15 09:49
>>710
漢書王莽伝によると、王莽は殺されて首を取られた後、
軍人達に身体を千切りにされたと記録されていますが、喰われたとは書いていないようです。
どうやら項羽の時と同様、
軍人達は死体を持ち帰って恩賞に与ろうとしたのではないかと思われます。
むしろ、その「死体を寄ってたかって食われた」と書いている記事を教えて欲しいです。

>>711
後漢の制度では、三公は一万石だそうで、多分大将軍なども同等だと思います。
(もしかすると将軍の場合はまた違うかもしれませんけど。
 本来将軍は臨時の官なので、俸給の額が定められていない可能性があります)
一万石というのは、実際には毎月穀物350斛(1斛=約20リットル)を受け取るらしいです。
但し、実際には半銭半穀といい、半分ほどはお金で貰ったようです。
前スレ65にどなたかが俸給の額を引用していますので、一部引かせてもらいます。
(カッコ内は私が付け足しました)

三公は萬石と号し、月俸それぞれ350斛穀。
中二千石は180斛、(実際は銭9000・米72斛)
  二千石は120斛、(実際は銭6500・米36斛)
比二千石は100斛、(実際は銭5000・米34斛)
(以下略)

食邑は、本来特に功績・大功があった者への褒賞の一種なので、
普通は軍人(将帥)の方がもらう機会が多いでしょう。
戸数については、おそらくある程度の指標はあるのでしょうが、
降伏者などへの優遇として多くする(例:張繍)などの裁量はあったようです。
713無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 11:52
>>701
高句麗を制圧したのは立派だと思うが。隋の煬帝や唐の太宗にすら出来なかった。
>>713
高句麗制圧っても、滅びたわけじゃあ。


715怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/15 18:26
>>713,714
時代などが違うので単純な比較は出来ないですね。
ただ、幽州のそのまた東北に踏み入って作戦成功させたのだから、
立派とは言えそうです。
また兵力で見ると、
毋丘倹は「歩騎万人」、一方高句麗王は「歩騎二万人」で迎え撃ったそうで、
数の上では倍の兵を破った事になります。
装備などの面で優勢だったのかもしれませんが、この点も評価できるかもしれません。


党錮について。

まず、党錮というかいわゆる清流と濁流(宦官)の争いについて簡単に。
後漢の朝廷で幅を利かせた宦官やそれに連なる連中に対し、
各地の名士は派閥的なものを形成し、またお互いに人物評価をし合って、
それに合わない者をそこから締め出す、と言う形で各地で勢力を付けていました。
かの劉表も含まれる「八及」などはそういった背景の元で生まれたと思われます。

皇帝⇔臣下
宦官⇔名士
濁流⇔清流
中央⇔地方

少々乱暴な分け方をすると、上のようになるのではないでしょうか。
716 :04/02/16 00:26
低句麗age
717怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/16 00:28
党錮続き。

ここまで宦官と名士が対立するのは、
宦官が皇帝の厚い信任の元で権力を振るっていたという事情があったと言えるでしょう。
そして宦官が皇帝の信任を得たのは、
直接的には桓帝が宦官達と血盟を結んでかの梁冀を誅殺することに成功したからです。
桓帝は宦官への恩を忘れず、また同時に重要な側近として、宦官を重用したのです。
単超、侯覧、曹節あたりが有名でしょうか。
(宦官の重用自体はそれ以前からの傾向でしたが)

党錮は、皇帝の周りがそういった事情から宦官で固められていたような状況で起こります。
718無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 00:58
>717、怨霊氏。
徳川幕府に例えるなら、三公以下の朝臣が老中で、宦官が側用人と言ったところでしょうか。
王朝創業時には皇帝と重臣(朝臣)達の間に強い信頼関係があり、お互いの目指すモノが一致しており、重臣=側近であったものが、数代を経て信頼関係も薄くなりそれぞれが別々の立場になった。
そんな中で皇帝が自分の意思を主張するために宦官を重用した、って感じでしょうかね。
ttp://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=seisikei
このサイト良いぞ。その宦官やら清流やらの事を判り易く書いてる。
720怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/16 08:35
>>718
そうですね。徳川幕府における側用人は、中国における宦官に近いと思います。
おそらく、似たような事例は時代や場所を問わずに現れるのではないかと思います。
現代でも、立法を皇帝、行政を重臣と捉えれば、
立法の側が行政を牽制・支配しようとすると言う点では似ているとさえ思うのです。

>>719
確かによくまとまっているようですね。参考にできると思います。
私はその解説とは多少異なる切り口から述べてゆくことになるでしょう。

党錮続き。

党錮の事の起こりは、桓帝を輩出した甘陵国で、
後の桓帝の師となった縁で尚書となった周福と、既に河南尹になっていた同じ郡の房植とが、
お互いに故郷で党派を形成したというのに始まると言います。
この党派が汝南、南陽といった当時の先進地域に飛び火し、
それらの地域出身が多かったであろう太学(大学のようなもの)の学生にまで影響してゆきます。
具体的には、郡内や太学における人物評価をしたらしく、
権門さえも憚らずダメ出しする者も少なくなかったようです。
そのため大臣クラスでもこの人物評価で悪く言われる事を恐れたといいます。

これによってダメージを受けるのが宦官の親族です。
宦官の親族は多くが官僚になっているのですが、ほとんどは学も無く、
人物評価をするような名士との交流も無く(したくても断られるかもしれませんが)、
コネそのもので太守などになっている身ですから、人物評価でいい点が付くわけがありません。
いやむしろ評価の対象にさえしてもらえなかったのかもしれません。
(曹仁、曹洪、曹休の父・祖父等が官僚だったのは宦官曹騰のコネです)

こういった人物評価と、地域や評価を元にした党派の結成は、
それ自体は違法でも有害でもないとしても、
間接的に宦官側の利権を脅かす側面があったのです。
(但し、伝統的に私党の結成自体が犯罪的に見られる側面も実際にありました。たぶん後述)
721無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 20:43
書き込めねえ
中領軍とは一体???
>>722
前スレで解説されてるよ。
……っつうか、自分が質問した件だったりする。
724怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/17 08:32
>>721
書き込めてますよ。

>>722
中領軍については前スレの112から118を参照です。
723氏、誘導ありがとう。

党錮について。

実のところ、名士側がお互いに人物評価をし合い、
そういったものに基いて仲間付き合いをするというのは、
儒教的精神に乖離すると批判されても不思議ではないものでした。
論語為政篇に「子曰く、君子は周して比せず、小人は比して周せず」、
論語子路篇に「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とあります。
上は吉川幸次郎氏の訳では
「君子は友情に富むが、仲間ぼめはしない。
小人はその反対に、仲間ぼめはするが、真の友情をもたない」
などとなっています。
そう、名士の人物評価は見方を変えれば「仲間ぼめ」であり、
孔子が批判した「小人」の行いなのです。

要するに、名士たちが「党」を作り人物評価しているのは、
こういった部分で孔子の教えに反すると言われても仕方の無い面があったのです。
名士の「党」に対して極めて厳しい処分(弾圧)がなされる裏には、
名士の側も儒教の理念から見て少々怪しい存在だった、という部分があるように思います。

余談ですが他の時代でも、
政治的な派閥についてしばしば「君子」の友情なのか「小人」の党なのか、
議論になる事がありました。
725怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/18 00:43
前レスは何が言いたいかというと、名士の側も弾圧の口実になりうる部分を内包しており、
党錮がただ「悪い宦官が一方的に清流派の士大夫を弾圧した」というだけでは
計りきれないところがあると思うのです。

最初の「党錮」は桓帝の延熹9年に起こります。
直接的には名士、潁川の李ヨウが司隷校尉として宦官の親族の悪事の摘発などを
行っていたことがおそらく宦官の反発を生み、
宦官の息のかかった人物を通して誣告させるという形で彼らに「党」の嫌疑をかけました。
容疑とされるのは、
「学生などを私的に養って手駒とし、郡の人物とも結び、「党」を作って朝廷を誹謗した」
という点です。これに皇帝は激怒し(党錮列伝では「震怒」と表現されています)、
「党」との嫌疑のかかる人物を逮捕させ、天下にこのことを布告します。

皇帝が激怒するのは、
前レスで言ったように「党」形成自体が真の儒者の行いではない、と言う点と、
下の者が派閥・党を形成して世論を醸成するという行為が、
皇帝の権威と権力を揺るがしかねない問題だったからです。
それ故に、皇帝はきつい処分に出たのです。

続く。
726怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/18 08:25
党錮続き。

この最初(第1次)党錮(延熹9年)は李ヨウのほか、
彼と付き合いのあった陳寔ら200人以上に及ぶものでした。
あるいは展開次第ではもっと厳しい罰が下される可能性もあったのでしょうが、
外戚の竇武らの上書によって、郷里に帰した上で「禁錮」となりました。

なお、「錮」とは「金属を溶かして隙間をふさぐ」ことで、
おそらくここでは門について行っているのでしょう。つまり門を固めてしまう、
という意味と思われます。
もちろん実際には出入りできるようにはなっているのでしょうが、
全く外部との交流が出来なくなるものと思われるのです。

続く。
幕府とは?
>>おそらくここでは門について

官途への道を閉ざされるって事ですから実際の門はあまり関係無いんじゃないですか?
729怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/18 22:40
>>728
これは私の表現が悪かったです。すいません。
言いたかったのは、「禁錮」特に「錮」の「本来の」字義は「金属を溶かして隙間をふさぐ」で、
そこから「禁錮」で「門をふさいで(まさに「蟄居閉門」にして)仕官できなくする」
という意味になったんだ、ということです。
少なくとも漢では門を実際にふさいではいなかったかもしれませんが、
あえて「かねへん」の「錮」を使っているところを見ると、
本来は実際に門をふさいだんじゃないでしょうか。

>>727
「幕府」はその名のとおり「軍幕内の府」、将軍の府です。
将軍の下には必ず多数の軍吏がおり、
それだけで一つの独立した行政組織として成り立っています。
それら軍吏の活動の場が「幕府」と思えばいいでしょう。
これは本質的には日本の「江戸幕府」なども同じだと思います。
江戸幕府は天皇に命ぜられた征夷大将軍の「府」なのです。

但し、将軍にもピンからキリまででてくるようになると、
幕府を開く事(開府)の出来る将軍のランクが設けられるようになるようです。
晋書職官志によれば驃騎将軍以下の将軍は「開府」出来ない場合があったようです。
730怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/19 00:28
党錮続き。

終身「禁錮」とされた者たちの名は公府に記録されました。
誤って再任用などしないようにしたのでしょう。

しかし、実は「党」の活動が活発化するのはその後でした。
名士の間では、「正直」が罰せられ「邪枉」が盛んな様子に対抗するが如く、
人物評価などをますます盛んに行いました。
「三君」「八俊」「八顧」「八及」「八廚」などといったトップグループも
そういった中で生まれました。
特に「三君」は当時の(党人内序列での)最高位だったようで、
先の第1次で党人に同情的だった外戚の竇武、
劉氏で五経に通じた劉淑、
汝南の硬骨漢陳蕃の三人でした。
外戚、宗室、それ以外の名士の三者から一人ずつというのは、
「宦官に対抗するためにこの三者が手を組んだ」との意思表示と言ってもいいでしょう。
また「三」というのは三公を連想させるもので、
「本当ならこういう人物が三公にいるべきだ」という名士側の暗黙の政府批判とも受け取れます。
(なお李ヨウも「八俊」に入っています)

いずれにせよ、名士はこういった序列によってグループ交際をしていました。
また高い序列にあった人物の何人かは仕官して栄達しており、
おそらくはこの党人グループの繋がりで世に出たような者も居たでしょう。

そして中央では、桓帝の死と霊帝の即位によって新たな局面が生じていました。

続く。
731怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/19 08:26
党錮続き。

霊帝は桓帝の実子ではありません。
桓帝に子が無かったために傍流から迎えられたもので、
その際にはかの竇武が皇太后の父として大きな働きをしたようです。
なお、どうやら桓帝は死亡した年に大赦を行っており、党錮も解除されたようです。

霊帝の下では、
竇武が大将軍、陳蕃が太傅という「三君」を頂点とする体制が実現し、
党錮解除と合わせて党人に巻き返しを期待させたことでしょう。
長楽少府としてあの李ヨウも復活しており、党人体制が構築されつつあったと思われます。
竇武・陳蕃は党人の頂点として宦官排除を狙いました。
彼らは皇太后(竇武の娘)に宦官誅殺を進言し、
まずは管覇、蘇康を殺す事に成功しました。
しかし巨魁である曹節については皇太后も躊躇します。
結局、これが命取りでした。

続く。
曹節と曹騰って同族ですか?
クーデター起こした曹節なら違うと思われ。
曹節は南陽新野の人で、本は魏郡の人というから。
734怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/20 00:08
>>732
宦官曹節は南陽新野の人、曹操の祖父である曹騰は沛国ショウの人ですから、
同族ではないですね。

党錮続き。

竇武らは宦官の一人鄭リツ(風立)を捕らえ、
そこから曹節、王甫らの悪事を暴くという形で宦官捕殺を目論みました。
しかしあと一歩と言う時、竇武が宿衛から将軍府の方に戻った時に上奏文を盗み見られ、
そこから宦官捕殺の計画が宦官側に発覚します。
宦官は陳蕃、竇武が皇帝廃立を企んでいると称し、
皇帝を押し立て尚書を脅して詔を出させ、禁門を閉鎖して反撃に出ました。
竇武らにはもちろん逮捕の使者が出ますが竇武は使者を殺し、
北軍の兵を率いて宦官を討とうとしました。
宦官は護匈奴中郎将張奐や王甫に近衛兵らを率いさせ、竇武に対抗します。
結局のところ皇帝を擁する宦官側が有利であり、北軍の兵も宦官に投降する者が多く、
竇武の挙兵は失敗、自殺。

陳蕃は官属、諸生を率いてほとんど破れかぶれの挙兵をしましたがもちろん失敗し、
王甫によって捕らえられ死亡。

竇武、陳蕃による宦官誅殺計画は失敗に終りました。
お気づきのようにこれは何進、袁紹、王允らによる宦官誅殺の先例であり、
何進の時の計画は実のところ竇武の果たせなかった計画の復讐戦だったのです。

続く。
735怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/20 00:08
>>733
被ってしまいました。
答えていただきありがとう。
736怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/20 08:25
党錮続き。

竇武らの事件の翌年に、第二次党錮というべき事件が起こります。
後漢書の竇武伝・陳蕃伝と党錮列伝ではまるで別個の事件のように書かれているのですが、
この二つの事件は因果関係にあると思われます。
第二次党錮は党人側が竇武という後ろ盾を失った事により起こった、
竇武派残党の掃討という意味合いの事件だと思われるのです。

事件は党人のランキングで「八及」筆頭の張倹に仲間外れにされたという
同郷人朱並なる人物が、宦官の意を受けて、
張倹らが徒党を組んで社稷を危うくしようと企んでいると讒訴した事に始まります。
国家転覆計画は事実とは思えませんが、公的な官位などとは別のランキングを私製し、
徒党を組んでいたのは事実でしょう。
張倹から他の党人にも波及し、前三公の虞放、太僕杜密、長楽少府李ヨウ、
司隷校尉朱寓、潁川太守巴粛、沛国相荀翌、河内太守魏焉A山陽太守テキ超など、
要職にある者など100人以上が逮捕、獄死しました。
(なお、張倹自身は逃亡しました)
なお上に挙げた人物の何人かは竇武、陳蕃によって引き立てられた人物であり、
竇武事件とこの事件の関係性を窺わせます。

霊帝と宦官は党人を許さず、弁護したものさえ獄に送るほどの徹底ぶり。
党人の妻子は流刑、最終的には門生故吏や父子兄弟も免官・禁錮となりました。

続く。
737怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/21 18:19
党錮続き。

その後、党錮が解かれるのは黄巾の乱が勃発してから。
党人が怨恨から黄巾と合流したらヤバイ、という意見が出たためです。
実際のところそういった事例があったかどうかはともかく、
党人が黄巾の頭脳として働くようになるのは極めて憂慮すべき事態であることは明らかで、
霊帝は慌てて党錮を解除します。

三国志に関係する党錮関係者としては、
劉表(ちなみに張倹事件の時に逃亡)が有名ですが、
他にも何ギョウ(袁紹の奔走の友)、張バクなどがおり、
何進の下に在ったり、その後の反董同盟などで活動したりという者も含まれています。
738怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/21 21:52
ところで、霊帝の売官ってのはもしかすると党錮によって公卿になるべき人物が
ごっそり抜けたことと関係あるんじゃないですかね。
一方では公卿にするべき人物が不在なために、
基準として「財力」を置いて新たに選別しようとした。
それともう一方では単純に皇帝の私財を増やそうとした。

だれを公卿にしたらいいか分からないから、
「財力」がある者=ある種の才能がある者ということで選んでいった、と。
739怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/21 23:34
最近、このスレも役目を終えたのかな、と思う事があります。
次スレは立てないほうがいいのかもしれませんね。
そう?
仕方がないのかもしれないけれど
軍事、政治に偏っているように思えます。
例えば商業なんて題材はどうですか?
関羽と塩って線でいけないかな。
当時の貨幣経済ってどのくらい浸透してたんだろう?
後漢末、「官位」というあらたな「商品」の登場によって、
社会が必要とする通貨の量は、飛躍的に増大したのではないか。

つまり、富裕な豪族は官位を購入するために、必要な額がたまるまで貨幣を死蔵し、
これによって、市場における貨幣の流通量は、急速に減少しだしたのではないか。

そしてこれを補うために中央政府は、墓をあばき、銅製品をいつぶしてまで、
新たに大量の貨幣を急造する必要が生じたのではないか。

しかし全国的な戦乱の悪化によって中央政府の影響力が弱まり、
官位は貨幣で購入するものではなく武力で奪い取る世の中になったことで、
各地の豪族が、だいじに死蔵していた貨幣は、
ある時をさかいに一挙に市場に流出しだしたのではないか。

さらにいえば、官位とならんで、もう一つの主要な「商品」であったとおもわれる「食料」も、
この時期、戦乱や凶作のために、極度に不足したのではないか。

食料の絶対量が減少すれば、通貨の相対的な価値は低下する。
そしてもちろん、この時期に急造された粗悪な品質の大量の貨幣もあいまって、
いよいよ貨幣の価値は、この時代、一時的に完全に消滅したのではないか。
と、董卓たんの貨幣改鋳も、あえて無視して、
妄想を書きつづってはみたけれど、
実際には、大量の銅銭が発掘されているから、
それを考慮すると、漢代には貨幣経済は、あるていど浸透していて、
すでに、大量の貨幣が流通していそうな雰囲気。

ということは、売官制度によって新たに必要とされる貨幣の量も、
比率的には少なさそう。

あ、五銖銭で検索をかけると、おもしろいページがいっぱい。

初心者の為の古文銭
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/
古銭のページ
http://www.aa.aeonnet.ne.jp/~k.iida/kazuo/coin/index.html
中国古銭
http://www.geocities.jp/hiranocolt/page008.html
744怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/22 08:25
>>740
次スレは実際にこのスレを消費した頃にまた考える事にします。

では、今後740,741氏の言う経済的な面を多少。

>>742,743
どうも。
売官についてですが、私はむしろ逆の発想をしました。
つまり、豪族が貨幣を退蔵するようになり、貨幣が減少しつつあった。
売官は、それを意図していたかどうかはともかく、
結果としては退蔵されていた貨幣を世に出すことになった、と。
もちろん現実には貨幣経済は後漢末には衰退し、
魏では遂に現物による徴税を行うまでに至っているのですが、
売官はそういった時代の流れに抵抗する意味合いもあったのではないか、
と考える事ができるかもしれません。

貨幣経済自体は前漢で相当な発展を見ています。
当時の人頭税である「算賦」などの税は銭で徴収していたと思われますし、
官吏の俸給も半銭半穀、即ち半分は現金(銭)で支給されていました。
その裏には蜀や呉の地にあった銅山での活発な銅生産や、
銅銭私鋳の容認などの諸事情がありましたが、
おそらく後漢末の時点では銅山も枯渇したようですし、
後漢王朝自体の支配力低下と相まって、
富の豪族への集積が銭の退蔵と貨幣流通の停滞をもたらしたと思われます。

豪族(貴族)は荘園で自給的に生活する分には貨幣を必要とせず、
一旦手に入れた銭を使用する機会が少ないのです。
もしかすると、売官とは退蔵(死蔵)される一方の銭を豪族から吐き出させようとする
意図を持った政策だったのかもしれませんね。
745怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/23 08:20
晋書食貨志には、後漢末、魏における農業生産関係の事跡が纏められています。
それによると、董卓の乱以後に1石(26.7kg)の穀物は50万銭にも及んだといい、
王忠や程cの話に見えるように人食せざるを得ない状況も多々あったようです。
この時に屯田を建議したのが羽林監である潁川の棗祇。
この屯田は、兵士に田作させる「軍屯」ではなく、
「良民」を許に呼び寄せて田作させる「民屯」でした。
「良民」といっても土地を持つ者ならわざわざやってくる訳が無く、
ほとんどは流民だったのでしょう。
ここでの成功を元に各地で屯田が行われ、大いに成果を上げたといいます。

この政策は要するに流民対策で、流民を帰農させるものであったと言えるでしょう。
ほっとくと流民は暴徒・盗賊化するか、死ぬか、豪族や他の軍閥などの傘下に入るか、
いずれにしても社会不安を招き、政権にとっても農業生産の足しになりません。
これらの問題点を解決したという意味で、この屯田は大きな意味を持っていました。
また、それまでは曹操にしても、袁紹なんかにしても、
かなり食には悩まされていたようなのです。
746怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/23 08:32
また、建安初め、関中は董卓や李・郭の失政、
そしてその後の軍閥割拠という状況から荊州方面へ避難する者が多かったといいます。
そこで曹操は衛覬の建議に基き、塩官を再建し、それによる利益で牛を買い、
生産手段を失った流民・避難民に供給(貸与)したのです。
これにより関中に人が戻ったと言います。

正直、こういった事跡には多少の誇張などはあるのでしょうが、
屯田や牛の供給(当時、牛を農耕に使用していた)が
破壊された農業生産を復興させる役目を果たしたのは間違いないでしょう。

そして、そういった手段が必要なほど当時の農業生産は荒廃しており、
おそらくそれほど被害を受けていない益州や荊州は
それに応じて経済的に(相対的に)強い地位を持ったのです。
しかし中原が復興すればするほど、特に開発の余地が少ない益州は
相対的な価値が低下してゆく運命だったのです。
>>739
たしかにレスは少ないけど、こまめにみてる住民は確実にいると
思われます(自分もそのひとりだし)
反応が少ないのはたしかにつらいかもしれないけど、次スレへ
続くように期待してます。
多少は話題がループしてもかまわんし、がんばって。
>>744 怨霊 ◆NRtIkON8C2 たん。
売官制度のその効用には考えがおよびませんでした。さすがですね。
ではこれによって豪族の退蔵していた貨幣が政府へと還流し、
そして軍費などのついえとして、世に流出したと考えてみましょうか。

>>745
このときの献帝の話が、私は好きです。

食糧価格は高騰し、長安は餓死者であふれたため、
献帝は、倉をひらき貧民に食糧を配給するよう命じた。
しかし役人がその食糧を横領するのか、餓死者はいっこうに減らない。
業をにやした献帝は、ついに自ら食糧を配給した。

と、この食貨志にも記録されていたとおもいます。
晉書 食貨志に記録された、貨幣と物価の関係では、
漢の章帝の時代の尚書、張林の上申した、
「いま物価が高騰しているのは、通貨の流通量が多すぎるためだ。
通貨を制限するような政策をとってはどうか」や、

桓帝の時代の「人々は、貨幣が軽く銭が薄いゆえに貧困にあえいでいる。
これを改鋳して、よりサイズの大きなものにかえてはどうか」という上申書も、
おもしろいとおもいます。

これなども通貨の流通量を少なくしようという
政策だと考えることができるかとおもいます。

しかしじっさいには、この改鋳は実現せず、このあと時代は、
西園に万金堂がつくられ売官の制度がいよいよ盛んになる、
霊帝の混乱期へと移っていくわけですが―――。


>>747たん。
私も同感であります。
750怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/23 19:45
>>747,749
ありがとう。
見ている人、このスレに価値を見出してくれる人が居るのであれば私は続けます。

>>748
献帝の話は李・郭時代の長安の惨状を表したものですね。
この時の三輔の荒廃にはかなりのものがあったようですね。
董卓が遷都した時点ではむしろ栄えていたようなのですが。

>>749
銭については、前漢末から既に「亀貝を銭の代わりに貨幣にしよう」という建議があったと
伝えられており、儒者を中心に銭の制限や不要論は存在していたようです。
桓帝の時の方の改鋳論は三国呉、蜀における大銭と同じ発想なのでしょうか。

いずれにせよ、改鋳やら制限やらが出てくる背景には、
当時の算賦、口銭などの人頭税が銭納で、
銭が無いと民は税を納入出来ない、という本質的な問題があったように思います。
そして現実の五銖銭は粗悪なものが増加していたようですし。
後漢において、秦から前漢において発展整備された貨幣経済の曲がり角が訪れていたのでしょうね。
751怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/23 22:33
食貨(「食」篇)続き

その後も魏では復興に向けて能吏達の活躍がありました。
晋書に記されているのは、
 揚州刺史劉馥の治水、屯田、
 豫州刺史賈逵の治水(賈侯渠)、
 京兆太守顔斐の牛・車購入政策、
 (民に豚を買わせ、高いときに売ってその利潤で牛を買わせた。
  また農閑期に車を作らせた)
 沛郡太守鄭渾の治水、
 涼州刺史徐バクの武威・酒泉での塩池整備や開墾、
 敦煌太守皇甫隆の牛耕教示、
といったものがあります。
他にも司馬懿の京兆、天水等の塩池整備、
ケ艾の「済河論」などがありました。
752怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/23 23:20
まあ、魏というか中原は元々栄えていた地域だったので、
一からの開拓とはまた違い、今までの技術的な蓄積、ノウハウというヤツがあったのでしょう。
むしろその意味で難しかったのが呉の方だと思います。
江東、荊州は山越や五渓蛮の反乱を抑えつつ開発しなければならなかった訳で、
なかなか記録を追えないんですがその努力と成果は評価すべきではないでしょうか。

蜀?蜀って開拓とかの余地あったんでしょうかね?
土地よりも人間が調達できなかったのではないかと
754怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/24 08:32
>>753
かもしれませんね。
どちらにしても、蜀はほっとくと他の二国との差が離れていく一方だったってことです。
もともと辺境近くの一州にすぎないから当然といえば当然ですけど。

食貨(「貨」篇)続き

後漢での貨幣関係は>>749などを参照。
当時は鋳銭をしなかった(できなかった?)ために銭の供給は増えず、
いわば銭不足という問題が生じていたようです。
董卓の小銭はそれに対応しようとしたのでしょうが、やりすぎでした。
食を中心とする物資不足と相まって超インフレ化したようです。

しかし曹操の時代に多少経済的に安定化すると逆転し、
銭は増えないのに金持ち(豪族)は銭を退蔵しがちになる、という状況から、
穀物価格の下落傾向が続いたそうです。
そこで魏文帝曹丕は遂に五銖銭使用を止め、穀と帛で商取引させるようにしました。
物々交換です。
しかし明帝の時に五銖銭は復活。
取引の際に穀物を湿らせて重くするような不正が横行したのだそうです。
儒者の一部などには伝統的に銭自体の不要論を掲げる者がいたようですが、
もうそういった事が通用する時代ではなかったのでしょう。
しかし、一時期とはいえそれが可能になるというのは、
それだけ貨幣経済が停滞した時代だったという事だと思われます。
755 :04/02/24 08:33
別に蜀は全域が山ってわけじゃないよw
>>755
成都平原って日本の四国ぐらいの面積があったような
いや、それより狭いとしても、生産力は相当なものであったはず…
まさか、漢末にもなって未だ流刑地とかってことはないだろうし

ワグナー「中国農書」によれば、成都平原の水田地帯の等高線は
等しい高さに揃えられていたとかで、その農業土木技術の高さを表す話が載っておった
清末での話ではあるが、やはりそれを差っ引いてもかなりの肥沃な地域だったと思う

問題は稲作がそこまで高い水準に達していたかどうか
発掘された陶器とか遺構見ても、荘園的な大規模土地所有は見られるんだが
イマイチこの時代の稲作の様子が掴めない
どこかで読んだんだが、四川盆地の年間の日照時間は、中原と比較しても
少ないとあった気がする。
後漢末から三国時代の蜀に限っていえば、農産業に限らず、やはりあらゆる
面で厳しかったんじゃないかな。 典拠不明ですまんのだけど……。
四川料理とかあるし、野菜の類は豊富に取れるんでねぇの?

ま、穀物のように持ち運ぶわけにゃイカンけどな。
759無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:08
沃野千里、天府の地とも呼ばれてたようだが。
760無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:13
馴れ合い糞固定、怨霊は早く、出て行け!
池沼め!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
761無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:17
馴れ合い糞固定、怨霊は早く、出て行け!
池沼め!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
762無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:27
馴れ合い糞固定、怨霊は早く、出て行け!
池沼め!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>760〜762
話について行けないからって、ひがむなよ。
よっぽどお前の方が・・・。
>>763
放置を推奨
765怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/24 21:23
>>755
いやあ、流石にそこまでとは思ってなかったですが、
少々言い過ぎましたかね、752で。

>>756
蜀では早い段階で水田作ってたみたいですね。
林巳奈夫「中国古代の生活史」によれば蜀で水田の模型が出土しているとか。

そして>>759氏が言うように漢書地理志では蜀は
「土地肥美、有江水沃野山林竹木疏食果実之饒」と表現されていたり、
>>758氏の言う通り、当時から野菜の類=「疏食」が多かったらしい)
「亡凶年憂」と、凶作知らずだったとか。
こういったあたりが「天府」と呼ばれる理由なのでしょう。

>>757氏の言う日照時間は私も裏を取っていないですが、
もしかすると水田での耕作が日照時間の少なさを補えたのかもしれませんね。
上海と江南 (揚州)
亜熱帯気候に属し、年間を通じて温暖な気候。6月ごろ(初夏)には梅雨がある。
1年を通じてほとんど東京と同じくらい。服装は基本的に日本の四季にあわせておけばよい。

長江沿岸 (荊州・益州東部)
内陸部に位置するこのあたりは、中亜熱帯性気候。湿度が高く、「霧の都」と呼ばれる重慶(三国志では巴郡)
その周辺では冬から春にかけて濃霧がよく出る。また夏は蒸し暑く、重慶・武漢(三国志では夏口)は特に暑い。
冬は冷え込むので、簡単な防寒具を用意したい。

四川 (益州)
高温多湿な気候で、成都付近の四川盆地は1年を通じて晴れる日が少なく、曇りの日が多い。
春は雨が多いので、雨具の用意を。

るるぶ 上海・蘇州・桂林 より引用 (カッコ)書きは補足
767怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/25 00:12
食貨(「塩鉄」篇)続き

さて、ここで少し目先を変えて塩鉄について説明します。
塩と鉄は、この時代において生活に欠かす事の出来ない物資です。
塩が無いと人間は生命維持にも支障をきたしますし、
鉄は農具として当時の民の大多数を占める農民には欠かせません。

はっきり言えばこの両者に目を付け、国家権力が管理販売(専売)して利益を得るのです。
好況不況に関係なく必要とするものなので、売れないということはありません。
(現代日本における専売公社はこの名残であると言えるでしょう)
この、後々まで中国の王朝の財政を支える事になる重要な発明は
漢の武帝の時に成されました。
武帝が度重なる遠征などで財政面での不安を抱えていたのに対し、
塩製造業者で漢の経済大臣的なポジションにスカウトされていた東郭咸陽と、
同じく鋳鉄業者孔僅が進言しました。
「鉄器鋳造と塩製造を国家の専売とし、勝手に作ったら犯罪としなさい」と。
この建言は取り上げられ、この二人が責任者となって実行に移されました。

この時、どうやら塩、鉄は当時の豪民(豪族)、商人がその財力に物を言わせて作っており、
どうやら生活必需品であることをいい事に値を吊り上げるという事も少なくなかったようです。
つまるところ、漢はこういった手法に倣ったのです。
(そういった豪民や商人は、呂、文、景帝時代の自由放任時代に力を付けたと思われます)
後には酒もこれに加わったようです。
768怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/25 00:17
>>766
なるほど。天候ってのもなかなか興味深いですね。
揚州は東京に近い?
当時の北方人には高温でも、慣れれば平気でしょう。
益州は高温多湿で日照時間は少ないようですね。
農業にとってどうなのかは門外漢なもので詳しくないですが、
上に挙げた(「天府」などと)ように言われているので水耕には悪くなかったのでしょうか。
769るるぶ:04/02/25 00:26
そこで李氷の出番じゃないかと。
都江堰やね
天府の国,四川盆地
 長江上流の四川省東部に位置し、周囲を高山に囲まれ、面積は20万平方qである。
盆地の中央部は平野(7%)、低山(41%)、丘陵(52%)で占められている。
 成都平野は、古来秦代の都江堰の水利工事にはじまる灌漑農地の発達によって、
豊かな穀倉地帯をなし、低山、丘陵地帯には棚畑や段々畑が築かれ、稲のほかにも
豊富な亜熱帯作物を産し、物産豊富な天府の国といわれてきた。
 四川盆地の気候は、周辺は高山寒冷帯であるにもかかわらず、盆地内部は温暖、
湿潤である。北に秦嶺、大巴山が北方からの冷気を遮り、冬でもかなり温暖である。
逆に夏は酷暑で、重慶は「三大火炉」の一つである(他は南京・武漢)。
 また四川盆地は鉱物資源も豊富で(以下略

…以上「中国百科・改訂版」より引用…
三国志の頃って小氷河期じゃなかったっけ?
益州の生産力も落ちていたと思う。
高地だし冷害とかきつそうな感じ。
773771:04/02/25 02:11
ちなみに中原を広く覆っている「黄土」は農業に向かないらしいよ。
理由は↓
土質が極めて細かく、粘着性が弱い。分散しやすくて鉱物性肥料の含有量も低く、
強い酸性反応を示す。
中原とは事情が、ことなるかも知れませんが、
三国時代になると、呉や蜀が、あいついで高額貨幣を発行したのも、
そもそもは三国鼎立によって全国的に銅が不足していたことが
背景にあるのかもしれません。

たとえば呉の孫権は、一枚で銭五百枚分の価値がある貨幣をつくり、
さらに後には銭千枚分の価値がある貨幣をつくりました。

呂蒙が荊州を平定したときには、彼への恩賞として、
一億銭が与えられたそうですが、晋書の食貨志によると、
こういった目的にも、この高額貨幣は使用されたようです。

ただ、これらの貨幣はさすがに無理があったのか、
それとも、もはや流通目的というよりも功績のあった家臣への
勲章のようなものであったためか、あまり普及はせず、
孫権自身も、のちには、これらをいつぶして、銅製品に作り替えてしまいました。

(この背景には、中国南方の風俗として
銅の鼓が珍重されていたことも、原因にあるのかもしれませんが)


黄土や農耕については、ここがおすすめ。
http://www.rku.ac.jp/~hara/03tokushutoppage.htm
http://www.rku.ac.jp/~hara/02chotto2.pdf
775怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/25 08:20
>>769‐773
農業生産や地理的な部分は詳しくないので勉強になります。
氷河期といっても、もともと温暖な蜀では多少(十分な影響かもしれないけど)気温が低下
しただけで、北方での深刻な影響と比べればまだ大した事はなかったと思います。
黄土は突き固めて乾燥させればレンガのような硬い「版築」になるのですが、
それだけに(?)農業には適していなかったのですね。
蜀は黄土ではないのかな?

>>774
大銭は漢の武帝と王莽によって試みられて失敗しているので、
中原ではそもそも導入に慎重論が強かったのだと思います。
(蜀や呉はある意味別世界、フロンティアですから)
銅不足は前漢半ば以降からずっと続く傾向で、
前漢の儒者貢禹、師丹から三国魏の文帝による銭廃止まで、
「もう銭自体をやめちゃおうよ」という主張がしばしば唱えられるほどでした。

紹介しているところはなかなか面白いですね。
個人的には趙過の代田法について説明されているのが嬉しい。
代田法は当時の農法として科学的にも理にかなっていたようですね。
>>773
ちょっと違う

華北平原は黄土の洪積、または沖積で厚く覆われており、その厚さは10数mから数十m、数百mにも及ぶ。
黄土はリヒトーホーフェンの説では、中央アジアの乾燥平原で生成されたものが風に運ばれて華北平原に洪積したものと言われ、
物理的には顕著な劈開性(結晶がある特定の方向に沿って割れたり、はがれたりして、平滑な面を現す性質)と
毛管構造と加水凝結性が特徴的であり、科学的には亜乾燥土壌の未洗脱による強アルカリ性が特徴である。

その洪積が深厚であるため地表水と地下水は断絶して繋がらず、
中間層はくり抜けば洞穴住居として利用も出来るほどの乾燥した土壌である。
また毛管構造の発達のため雨水は地中に浸透して数m深に達すると、逆に土壌の毛管構造に吊り上げられて上昇し、
蒸発して雨になるという循環を繰り返す。
西山武一『アジア的農法と農業社会』より

畑作には向いている土壌だよ
華北ではアルカリ性が強すぎて稲作が出来ないけど
出来るのは、水が綺麗な所かオアシス都市ぐらい(天津や甘粛方面)
>>775
趙過の代田法か
天野元之助先生が既にやっちゃってるからなあ、そこら辺は

まあ、大躍進政策の時代に、日中双方の農学者たちが代田法をリアルに再現しようとして
大失敗したのは、やっぱ隠したい過去なんだろうな
欧米の農業生産力の増大は、機械化と化学肥料に助けられているところが大きかったからね
ノーフォーク輪栽式による「農業革命」なんかよりも、化学窒素は偉大だったわけだ
趙過代田法は優れた農業理論だが、やはり時代に合わなさ過ぎた

ただの代田法は休閑農法のことだが
戦乱で土地が荒れると、結局趙過代田法に法って畝作りするのが困難になるため
休閑農法に戻すしかなかったりするし
778773:04/02/25 12:43
>>776
訂正、多謝。

771で引用した本には↓ってなってた。
「華北大平野」
 黄河を主とし、海河と淮河の沖積作用によって形成された。面積は31万平方q。中国第2の大平野である。
 黄河の沖積作用によって黄土の堆積が多く見られるが、海河や淮河の沖積泥砂もその生成を助けている。
 従って、華北大平野の土壌は「黄色い大地」の一部である。小麦・トウモロコシなどの畑作を主とし、1年1作
ないし2年3作である。

>>775
>蜀は黄土ではないのかな?

蜀は「赤色土」。亜熱帯ゆえに熱量も十分で、雨水も多く、蒸し暑いので、
土壌の有機質の分解や蓄積も速やかで、食糧作物は多毛作が可能。
工芸作物や特産品の種類も極めて多い。と、これも同じ本からね。
779773:04/02/25 12:55
貨幣の問題は山田勝芳著「貨幣の中国古代史」って本が詳しいよ。
魏・蜀・呉のそれぞれの貨幣問題を取り上げた箇所もある(短いけど)
いつ見てもこのすれはディープですねえ。
勉強になります。

貨幣の話が出ているのですが、この当時の「流通」はどうだったのでしょうか。
また、金融はどうだったのでしょうか。
たとえば、蜀から魏への移民が、手持ちの蜀の通貨を魏の通貨に両替する為替の制度や、
交換のレート、など気になるところです。

781怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/25 23:03
>>776
そうでしたか。畑作には適していた、と。
失礼しました。
黄土地帯ではこの時代はアワ、後には麦を畑作していたのでしたかね。

>>777
趙過代田法を実行するにはなかなか労力がかかりそうですが、
不思議と漢書食貨志では「用力少なくして穀を得ること多し」とされています。
このあたり実態はどうだったのでしょうか。
そしてこの農法はいつまで続けられたんでしょうか。
誰か教えて。

>>778
蜀は黄土とはまた違うんですね。
土壌からして農業に適していたという事ですか。

>>779
ああ、私の恩師(とこっちが勝手に思っている)の一人、山田先生の著書ですね。
これは手に入りやすく尚且つ読みやすい名著だと思うので、
興味ある人は探して見るといいでしょう。

>>780
貨幣の交換という概念そのものが無いです。
魏、呉、蜀とも通用する貨幣は「五銖銭」です。
呉、蜀の大銭は広く流通したものではないようです。
五銖銭は漢の武帝の時以来の漢におけるほぼ唯一の通貨で、
銭と言えば(この時代では)普通はこれを指します。

金融というか高利貸しは、前漢では相当に羽振りが良かったようです。
その後の時代にも無くなったとは思えず、
各地で商人などが貸金業を営んでいたと思われます。
(出土史料(木簡とか)にはそういった事情がわかるものが結構あったような記憶が)
782怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/26 00:12
食貨(「塩鉄」篇)続き

塩と鉄、そして酒の専売ですが、
後に漢の昭帝の時代になって塩鉄論議の結果、酒だけは専売から外しました。
また、漢の元帝は一旦専売を廃止したそうですが、3年で元に戻しています。
この時代、既に漢の財政上専売は欠かせない存在だったのです。
王莽も専売をやめるどころか、酒の専売を復活させています。
(この時の詔に出てくるのが「酒は百薬の長」なる言葉)
余談ですが、酒の専売は現代日本でも酒税法と言う形でその名残を見ることが出来ます。

さて、関羽は商人の神と後世言われる訳ですが、
これは上に書いた「塩専売」と関係があると言われています。
これは、三国時代ではなく唐の話ですが、唐の大乱「黄巣の乱」などに象徴されるように、
唐では塩と茶の専売による利益が国家財政を文字通り支えていましたが、
それだけに民間でより安く塩、茶を売って利益を得ようという動きも多かったようです。
もちろん専売なのでこれは取り締まりの対象なのですが、
それだけに私塩(国家に認められない塩商人)はいわば庶民の味方
(より安い塩を売ってくれるので)として扱われていったようです。

そして関羽ですが、彼が私塩商人だった、などという記述は三国志には無いですが、
彼の本籍地「解」といえば解池の塩で有名な場所で、
「解→塩→亡命→私塩商人→庶民の味方」
という連想が唐以降の時代の人間にとっては成り立ったのでしょう。
三国志を読む限りでは関羽は商人であるなどということは無いのですが、
唐以降の民間では以上のような連想から彼は
「官憲に反抗して民のために安く塩を売る英雄的塩商人」、
ということになったのでしょう。
・・・多分。
783777:04/02/26 00:28
>>781
今じゃ、畝づくりなんぞ普通のことになっていますが
当時としては画期的なことだったんですよ
これによって、間引きや中耕除草作業の労苦が圧倒的に軽減され
なおかつ、いちいち耕地を休閑させて地力回復をやらなくて済むようになったからです
なお、東晋期以降は更に保水効果を狙ったブラッシュ・ハロー作業がこれに加わるようになり
「畝立て」から「平畔仕立て」へと形態が進展していきます
なお、この過程で畜力中耕機や播種機がヨーロッパに先駆けて実用化されていったのは特筆すべきことです
その差1000年以上なのですから(しかし、技術的にはこれ以後ほとんど進化しなかったのは残念)

ところが、当時(前漢)においても未だ休閑農法を採らざるを得ない作物がひとつありました
(すいません、実はひとつじゃないかもしれませんが、有名どころとして)
それは、淮泗間における水稲栽培でして、俗に直播歳易農法と呼ばれる水稲作です
なぜ、休閑するか?
それは、華北に比べて若干降水量の潤沢な華中地域に近い淮水において
夏場の高温多湿な時期(華北では雨季はわずかに気温が和らぐ)、水田では雑草が繁茂します
その年の水稲栽培を終えると、田圃はあたり一面雑草だらけで翌年の農作業に多大な障害を来たすのです
翌年は仕方なく、雑草を刈り取って刈敷(緑肥)として鋤き込まざるを得ませんでした

この形態、甚だ遅れている?農法(オーストロジア系の原住民直伝という説も)ではありましたが、
おそらくは隋唐に至るまで、淮水流域ではこの手段で水稲栽培が行われていたと考えられています
育苗・田植えの形態は、まだ未完成だったわけです(すなわち、中耕除草が未展開となる)
…日本に稲作が伝わったのは、果たして江南ルートが正解かと言うと、ちょっと怪しくなってきました(多分つづく)
つまり淮水流域の稲作は2年に一作ということ?
ほんなら中国の米麦の二毛作はいつから始まったの?
>782
関羽は義理堅いから商売の神様になったと聞いたよ。

三国志雑学スレって感じですが
なんか盛り上がってきましたねぇ。
786777:04/02/26 02:32
>>784
米麦二毛作は、インディカ米の導入なんかも関係してたと思うんで
宋代に江南で本格的に開始されたと自分は考えていましたが
ちょっとこれは裏取ってないんで、断言できません
(麦について語ると、ちょっと長くなるんで後述)

水(陂沢)と土地(豪族私有地)がある程度確保できる淮水流域では
二年一毛作の歳易直播法が採られていましたが、華北ではそうはいきません
水は大抵は強アルカリ性、水田にするような農地はわずか(河川の屈折点などに限られる)
周代の稲作は陂沢、河川の上流の水清き箇所で行われていましたが
大規模な灌漑水や湧き水といった、貴重な水源を水稲作にそんなにかけていられるか
水田だって、乾燥している「高田」がほとんどの華北ではなかなか確保しにくい
(まあ、何より歳易直播法を実行できるだけのノウハウがあったかどうかも微妙だったようで)
そこで後漢に入って、かの高名な崔寔が新たな水稲栽培法を提示します
(別に彼が編み出したわけではないと思います)

稲秧移植法と呼ばれる、苗代を塗って田植えを行う、つまり現在の水稲栽培の原型です
まあ、これによって雑草の除去が、苗代段階における除草と田植え前の本田ではなるべく繁殖阻止
の二段階で迎え撃つことができるようになったので、土地を休ませてまで雑草除去に勤しむ
必要が無くなったのです(しかし、手間ヒマは従来の歳易直播法よりも一層煩雑)
また、田植えをすることによって、条播以上に畝間の除草作業が効率化され
(条播ではやはり、間引きや雑草との栄養分の競合と言う点で中耕作業は困難である)
後に、これが水田においても中耕作業を奨励するきっかけにもなっていくのです
……昔の農民は田の草取りのしすぎで腰が折れ曲がっていたわけですが

一見、稲秧移植法の方が土地を効率的に使えて、有利なようにも見えますが
これって、「限られた水田利用から来る已むを得ざる煩労として出発した農法」なんです
つまり、華中・華南でその後も歳易直播法が行われていたのには、そっちの方が楽だから
という現実的な理由が存在していたから……まあ、当然と言えば当然
787784:04/02/26 03:07
えー。ご説明ありがとうございます。詳しい人は居るもんだね。
初めて聞く用語が多いので
歳易直播法(2年一毛作、1年は草取りなど地力回復に充てる農法)
稲秧移植法(後漢で採用? 現在の稲作に近い形、しかし当時としては煩瑣であった)
てな理解でいいのかな。

※米麦二毛作は宋の時代(AD1000年頃)以降?ジャポニカ早稲種の発見もその辺り?
なので三国時代には二毛作はなかったと。

当時を思えば、灌漑施設が整っていてもやっぱり洪水はあったろうし、
逆に旱魃に弱い所はとことん弱かったろうし。
そういう所から(生産力とか)蜀の命数が割り出せれば面白そうですね。
788怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/26 08:18
>>783,786
なるほど。趙過代田法の評価が良く分かりました。
やはり当時としては大変優れた農法だったということですね。

ところで、これは特に根拠はないのですが、
農法の進歩と社会形態の変化はおそらく軌を一にしているのではないでしょうか。
前漢あたりは県の周囲だけが畑であり、
(城郭に囲まれた「邑」に住んでいる以上、あまり遠くを耕地にはできない)
なおかつ中小自立農民が多かった。
即ち、農作業の集約性という点では県令の指導くらいしかないわけです。
(趙過代田法も県令などが指導していたらしい)
一方、三国から魏晋以降は豪族が多数の隷民を従えている状態が多く見られ、
なおかつ城邑から離れたところに住むようになった(これが「村」)。
城壁と農地が切り離され、また豪族の下で労働力を集約した作業がしやすくなったという
面があったのではないでしょうか。
そしてそれが新たな農法の進歩を生み、生産力を増大させてゆく・・・のではないかと。
この辺どうでしょう?

>>785
義理堅さももちろん商人の神様になる一要素だったとは思います。
しかし義理堅いというだけなら三国志にも他の時代にも何人もいたと思うのですが、
関羽が選ばれたという理由としては、
彼の出身などが商人(特に塩商人)を連想させるものだった、
と言う面もあったのではないかと思うのです。
789怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/26 08:28
>>787
蜀は他の二国と違い、社会の大変動時代から免れていた
(完全にではないですが、深刻な影響を受けなかったという意味で)
ようですので、その「安定した自給自足的環境」が強みだったのではないかと思います。
蜀で大きな洪水などの災害被害があったか記憶ないですが、
少なくとも深刻なのは聞かないような気もします。
蜀の生産力は変わらないが魏や呉の生産力は増大していく、
というあたりが蜀の命数を決めていたと思うのです。
元々は中原の生産力低下が蜀の経済的地位を高めていたわけですから。
790777:04/02/26 12:21
>>788
大体、それが定説のようです
大規模な畜力利用や手労働の大量の投下は、明らかに大規模土地所有者たちの成長と
平行して進展していきましたから

稲作について、最後の補足
呉併合後に杜預が耕地の荒廃っぷりを見て「もうアカン」となってしまいまして
「こりゃ流民とか呼び寄せて、一時的にですけど『火耕水耨』で農業やるしかありませんわ」
と提案…で、火耕水耨ってのは最も古い稲作の形態らしいんですが
これは原生輪換方式(早い話が焼畑)による、農地の開発方法であったと考えられています
ところが、この農法は当時の農業専門家から見ても「(古すぎて)意味が分かりません」
といった捉え方をされてたみたいで、なぜあの杜預がこんな提案したんだか、と問題になってたりします
そこで、考えられているひとつの理由として
リアルに江南の農業が原始状態に近い部分が多かった、という説があります
さすがに言いすぎな観もありますが…晋代の江南での叛乱の頻発と無関係ではなさそうですし
「斉民要術」が江南農業に触れていてくれたら、もっと詳しく分かったかもしれません

ここで大事なのが、江南の豪族階級はそこまでダメージを受けていなかったことです
周氏や沈氏、顧氏の東晋初期の軍事行動は、明らかに荘園の生産力を背景として行われているからです
大規模土地所有者たちの隆盛が、国家の公地や公民を侵食していくのは中世荘園経済のサガでしょうけど
それにしても、呉、六朝においてはそれが極端すぎたと言えると思います
これに拍車をかけたのが華北からの亡命貴族たちだったりして……戸籍ぐらい作ればいいのに
まあ、この税金泥棒たちにも光と影の面が存在してはいたわけですが
水田が理解できなかったんじゃない?>杜預
792怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/26 22:17
>>790
定説でしたか。不勉強でスミマセン。

ところで、水耕火耨しかねーよ!流民集めれ!って言ったのは、
東晋になってからの後軍将軍応・じゃないッスか?晋書食貨志によれば。
杜預の上書は呉を征服する前みたいだし。
間違ってたらゴメン。

どちらにしろ、東晋あたりでは江南方面では豪族は富み栄え、
そうでない良民の農地は荒廃していた、という感じだったようで。
そんな中、晋書顧栄伝には、北がメタメタになった時に
「孫呉時代の夢をもう一度!」(要するにドサクサに紛れて江南を自立させる)
などと彼ら江南豪族が考えていたらしい事が記録されています。
このあたり、当時の江南豪族の持つ実力と、孫呉政権の性格について、
重要な示唆を与えているように思うのですがどうでしょう。
793怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/27 00:06
もう一度、>>780氏その他、銭について知りたい方も居るかもしれないのでそのあたりを。

食貨(「銭」篇)続き

三国志の時代の「銭」といえば「五銖銭」です。
先に述べた蜀、呉の大銭のようなものもありますが、
あくまでも五銖銭が基準となる貨幣です。

五銖銭とはその名の通り「五銖」(=3.35g程度)の重さの銅銭です。
今見ることが出来る出土物の五銖銭は錆びついて面影ありませんが、
出来たばかりの時はピカピカだったようです。
形状は方孔円銭、即ち、円形で中央に正方形の孔が空いています。
そして銭には「五銖」と銘文が入っています。
孔には紐なり木なりを通して纏めておく用途があったようですが、
円形=天、方孔=地をそれぞれ象徴させる意味合いもあったように思われます。
(前方後円墳と同じ)

直接の起源は漢の武帝に遡り、
それまでは秦の半両銭(半両=12銖=約8g)や、
漢になってから作られた「半両」の銘を持つ四銖銭などがありましたが、
それを統一したのが五銖銭だったのです。
五銖銭は王莽による大改鋳時代以外は一貫して漢の通貨とされ、
魏、呉、蜀それぞれでも使用されました。
(魏の物々交換時代は除く)
『火耕水耨』って、ただの焼畑農法に見える…
795777:04/02/27 07:26
>>792
あ、ちょっとそこら辺、昔晋書斜め読みした記憶だけで書いたので
間違えててすいません…訂正ありがとうございます

>>794
昔から、いろいろ議論はありますが
火で前年の雑草を焼いて肥料とし、その後稲やヒエを播き
更に雑草が伸びてきたら、そこで水を田に入れて灌水させ
若い雑草を枯死させ、その後水を抜いて田を乾かす…ってのが基本的な見解だったような
まあ、焼畑の延長線上にある農法であるのは確かです

怨霊さん、今度出来たらでいいんですが
光武帝の後援となった、南陽の豪族について語ってもらえないでしょうか?
796怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/27 08:32
>>795
では、南陽豪族については少々お時間を頂いてからとさせていただきます。
すごく簡単に言っておくと、ケ氏のように、後漢末期あたりまで名が見える者もあり、
後漢全体に渡って光武帝支持者の地盤だった南陽とその豪族は重要な存在だったようです。
もっとも後半には潁川、汝南の方が優勢な気はしますけど。

食貨(「銭」篇)続き

蜀や呉で、一枚で五銖銭百枚などの大銭が作られたのは前述しましたが、
こういった名目貨幣はこれら両国で初めて考えられたものではなく、
漢武帝の時の「赤側五銖」(フチが赤く、五倍の名目価値を持つ)、
王莽の「大泉五十」(その名の通り50枚分、五銖銭1枚相当の貨幣は「小泉直一」)など、
前漢にはすでに名目貨幣に分類できるものがありました。
但しどちらも成功したとは言い難く、結局は思想の進歩に現実がついていっていない、
という感じかもしれません。
呉の大銭も後に使用を取りやめています。
前スレ1から熟読しました。トータル1日半くらいかかった気が。ふー。
すごい勉強になったし楽しかったです。

近レスの話題と全然関係ないことで気になったことがあるんですけど、
おたずねしてもよろしゅうございますか?
798ニセクロ:04/02/27 22:27
はじめましての方ははじめまして。そうでない方にはあけおめことよろ。
ホントは何度か書込みたかったんですが、時間がなくてできませんでした。
だもんでこの書込みはかなり時期外れなのでスルー推奨です。

■董卓政権189年12月、中平6年へ年号戻した意図
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.112.201.html
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.114.101.html#反董卓連合の成立と瓦解:それぞ
宮城谷三国志でどう扱われるか大変興味あったのですが、
それほど突っ込みもなくなんとなくスルーされてたような。
それでがっかりしてたところ、怨霊さんが同じような見解を述べてくれて
(上のリンク参照)ちょー嬉しかった。
上の奴は1999年秋にアップされてずぅーっとネットの中で
孤独を囲っていた見解だったのでそれだけなおさらなんか
「おおっ!同志!」なんて思いました。
799ニセクロ:04/02/27 22:28
■非主流派は皇太子(後継者)に寄り沿う
二宮の変のあたりのやりとりを見てレスしようとしてたもの。
(いつのレスだよ)
非主流派(?)が皇太子(後継者)を盾にするのは蜀漢でもありました。
蜀書などを読んでいると、職が替わったのに
「依然として皇太子に近侍していた」なんて描かれる連中が
ショウ周を筆頭にごろごろ出てくる。
彼らは非主流派で「守勢派」VS「外征派」の現状に対するアンチ、
「もっとちゃんと政治しようよ派」でした。
と言うのは今んとこ俺だけが唱えてる珍説ですが。
とにかく、蜀漢では、費イ没後、陳祗が黄晧を利用して権力を握る
過程で現状を憂える皇弟劉永を劉禅から遠ざけ(失脚させ)皇帝への
影響力を失わせたあと(費イの死の直後と考えられる)、
先細りの状況を打開する恃みの綱は皇太子(普通、失脚させようがない)
とその側近だけと言う状態になります。
学者列伝のように見える蜀書の列伝十二は、先主から後主へ、
そして滅亡への流れの背景を学者列伝に仮託して陳寿が示そうとした
ように見えてなりません。
800ニセクロ:04/02/27 22:29
もう一つ面白いのが劉表-劉キのライン。
劉キが諸葛亮に自分の進退を尋ねたのも、恐らくこの
「その段階での非主流派(で、将来主流派になろうと狙っているグループ)は
皇太子(後継者)を盾にする」の原則に従っていたものじゃないかと。
後に劉備の下に集まってゆく所謂「襄陽グループ」って
本当は将来劉表の後を劉キが嗣いだ時に政権を担ってゆこうとしていた
人材群だったんじゃなかろうか。
(自分のサイトより先にここに書いちゃった)

あと他にも書込みたいことあったのに忘れてしまった。
それでは皆さん、3カ月後くらいにまた遭いましょう。
よい三国志ライフを。
801ニセクロ:04/02/27 22:37
あ。
そうそう。
袁紹没後の袁譚VS袁尚の争いも、
この劉表の時と同じ意味があったんだろうと考えています。
というかそう言う視点も交えて見ると面白いと思う。
その時権力を握っていたグループはそのまま権力を握りたいために
後継者派を排除して(長幼を無視して)弟を立てると。
802怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/27 23:03
>>797
もちろん、このスレ(の趣旨)に関する事なら、喜んで。
私の出来る範囲内で。

>>798
おお、お久し振りです。
年号(中平6年)についてですが、
この時代の元号と皇帝即位の間に
「即位『翌年に』改元する。即位しても翌年までは前の皇帝の元号を使う」
という関係があることを理解する事が、少帝と宦官、献帝と王允と董卓といった連中の意図
などを考察する上で大変重要だと思います。

どういうことかというと、生後百日余で即位し、半年ほどで死亡した後漢の殤帝は、
一応諡を贈られ、皇帝として葬られました。
しかし、同じく幼少で立てられた少帝、北郷侯懿はやはり即位から半年ほどで死ぬのですが、
彼は即位年内に死亡し、諡は貰えませんでした。
殤帝と北郷侯懿の待遇の差は、主に即位から年を越したかどうか、にあったと思われるのです。
即位から年を越し、改元して初めて一人前の皇帝なのです。
(唯一の例外は禅譲の場合)

そして逆に言うと、即位直後の改元は「年を越す」というステップを省略するものであり、
よほど一人前の皇帝にするのを焦ったか、という事と同時に、
前皇帝の元号を否定し、ひいては前皇帝自体を否定するといっても過言ではない
暴挙だったのです。
多分、中平6年問題は最後の「今までの元号を全て廃して元に戻す」
という措置は実は冷静な判断だったのです。
803怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/27 23:14
>>799
皇太子と非主流派というのは、少なくとも中国では時代を越えた問題です。
実のところ、専制君主にとっては皇太子はライバルになり得る存在です。
(秦始皇帝と扶楚、漢の武帝と戻太子などが有名ですが、
 北宋などでも両者間の軋轢などはあったようです)
この問題とその対策が突き詰められたところに、清の皇太子密建
(皇帝が次の皇帝の名前を書いた紙を隠しておき、
 死んだ時に見て書いてある者が皇帝になる。宮崎市定大先生「雍正帝」参照)
制度があるのです。

それと同様に、劉禅の場合も、孫権の場合も、袁紹や劉表などの軍閥でも、
後継者問題の理由は絶対に「君主の愛情や気の迷い」などでは片付かないのです。
具体的には、ニセクロ氏が考察するように
「君主に冷や飯くわされ気味な連中が次は見てろよとばかりに後継者に近付く」
とでも言う面が共通して見えるように思われるのです。
804ニセクロ:04/02/28 00:14
>>802うーん。
そうすると189年12月に翌月の関東諸侯の蜂起を待たずに
曹操と鮑信が挙兵した意図が分からなくなったなぁ…。
この年号差し戻しに関係するんじゃないかと思ってたのですが。
当時、劉弁を「少帝」と呼んだ諸侯はいなかったと言うことですか?
「弘農王」と発言している人たちはいっぱいいるみたいだけど。
それでは一体どの辺から少帝と呼ばれるようになったのかなぁ?
(なんか激しく無知を晒してますね)

もう一つ分からないのは、
どうして12月になってから今更のように年号を戻したかなんですが。
董卓が洛陽を制圧した時のブレーンが単にモノを知らなかっただけなのかな?
805ニセクロ:04/02/28 00:16
>>803そうだった思いだした。
孫権の二宮の変の件ですが、
彼が恰も二人の皇太子を立てたような状況にしたのは、
彼のパーソナリティーに由来する(彼自身は名案だと思ってやった)
判断ではないかと思ったりしてます。

赤壁の戦いの時の周瑜・程普の二人司令官といい、
その赤壁の時、曹操迎撃軍(周瑜&程普)と合肥侵攻軍(孫権&張昭)に
分けたことといい、
更に関羽を敗死させる作戦の時にも二人司令官にしようとして呂蒙に
泣いて止められてることといい、
孫権は、いつも重大な局面でリスクを分散しようとして二股をかける
と言う悪癖があるのです。
本人は選択肢が増えるんだからそれでリスク分散が出来た積もり
だろうけれど、別のリスクを積上げてるだけだったりするのです。
この二宮の変の時も、太子孫登の死がよほど堪えたと見えて、
もう二度とこんなことは繰返さない、2人皇太子にすればいいじゃん?
俺ってなんてナイス判断! 皆が言うところのGJってヤツじゃん?
と思ってたような気がしてちょっと眩暈を覚えつつ呉書を見てたり。
806ニセクロ:04/02/28 00:35
あ。そうか。
少帝を廃したことを黙認してしまうことになるからでいいんだ。>>804
自問自答レススマソ。
>殤帝と北郷侯懿の待遇の差は、主に即位から年を越したかどうか、にあったと思われるのです。
>即位から年を越し、改元して初めて一人前の皇帝なのです。

待遇の差の原因は即位期間の長短じゃなくて、擁立した勢力の浮沈がからんでるんじゃないかね?
殤帝はトウ太后が擁立してその死後もトウ氏が臨朝称制する体制は変わらんかったけど
北郷侯は閻氏に擁立されて、死後は孫程達が閻氏を倒して順帝が即位したって形だったろ、たしか。

あと「少帝」ってのは、廃され諡号のない元皇帝を便宜的にそう呼ぶだけで実際に「少帝」と呼ばれるわけではないだろ。
808怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/28 00:54
>>805
なるほど、孫権は確かに二頭体制的な状態が多かったようですね。
ただ、これが孫権の意思だったのか、本当はやむを得ずトップクラスを増やしたのか、
と言う点は少々考察の余地があるかもしれませんね。
色んな勢力にそれぞれイイ顔するには、妥協や玉虫色の決着と言うヤツも
必要なのかもしれないなあ、とか思うのです。
孫権としては、軍人あがりだけをトップにすれば豪族即ちスポンサーがイイ顔しないし、
豪族の巨魁をトップに据えれば叩き上げの軍人は嫌がる、
おいおいどうすればいいんだよ、となるわけで、
仕方なくどっちも一応は納得できそうな人事をするとトップが二人、となってしまう。

そういえば呉はやたらと大将軍だの大司馬だの仰々しい官位がインフレ気味ですが、
これも同じ意味合いじゃないかと思うんですよ。
誰か一人だけ大将軍とか丞相とかにすると、
別の豪族だの大臣だの将軍だのが「なんで俺はアイツより低いんだよ!」ってなる。
で、みんなに同じくらいの高位を与える事になってしまう、と。
809ニセクロ:04/02/28 01:06
>>807
なるほど。少帝のことサンクスです。
今まで「殤帝」と言われるほどでは無いけど未成年で死んだ皇帝の諡を
「少帝」って言うんだろーなーと思ってたので。

>>808
末期蜀がまさにそれだと思うけど、孫権がいたころのは権力をハンドリング
しやすくするためのリスクヘッジだと思うわけです。
尤もここらへんは未だちゃんとやってないので印象論の域をでないんですが。

ちょっと長く居すぎたようです。それではマジで再来月あたりまで。
810怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/28 01:14
>>807
確かに殤帝と北郷侯懿では擁立した勢力などの関係も違いますし、
その末路も異なっていますが、問題は即位期間ではなく、
即位してから正月を迎えたかどうか、です。
おそらく、北郷侯の死が翌年正月以降になり、改元まで済ませていれば、
死後にクーデターがあっても諡は与えられたのではないでしょうか。

でもこの話は根拠があったかどうかあやふやなのでもう一度研究してきます。

あと少帝というのはおっしゃるように諡の無い皇帝(廃位や弑逆による)の
便宜上の呼び名ですね。
余談ですが漢では少帝と呼ばれることのある皇帝として、
恵帝の子である少帝(廃位)、同じく少帝弘(殺害)、北郷侯懿(病死)、弘農王弁(廃位)
がいます。
811807:04/02/28 03:28
>>810
>孝安皇帝聖コ明茂,早●天下.陛下正統,當奉宗廟,而姦臣交搆,
>遂令陛下龍潛蕃國,僚遠近莫不失望.天命有常,北郷不永

↑は順帝紀の冒頭の部分の引用
字面を見るだけで北郷侯に諡号がないのが、年を越せなかったからとか
そういう穏やかな理由じゃないのはあきらかじゃないか?
明の泰昌帝も年を越せずに死んでるけどちゃんと諡号はもらってるよ。
812797:04/02/28 09:42
ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして。

前スレの最後の方で、張コウの官位将軍位のお話がありましたが
張遼のそれはどんな感じだったのでしょうか。
同じ降将でも黄権や夏侯覇ほど高位ではないのが気になります。
2人の活躍は華々しいのに曹操が与えたのは四方将軍でしたよね。
魏では四征四鎮より下位という書き込みも見かけたものですから。
やはりどこかで警戒されていたのでしょうか。

あと、失礼ですがもうひとつお願いします。
将軍クラスの人物が敵方に降るってどれほどの意味があったと思われますか?
中にはボロクソに書かれる人もいますし、それほどでもない人もいますよね。
たとえば于禁なんかは酷い扱いで不憫な気がします。
当人は抵抗ゼロなわけないでしょうけど、
周囲も含めてどういう意識で見られていたのでしょうか。
813怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/28 10:15
>>811
この件については、正直言うと私も自信は無く、うろ覚えの域を出ないので、
おっしゃるとおりで私の誤り、誤解(考えすぎ)かもしれません。
だとしたらすいません。

で、一応少し調べてみると、
百虎通巻1に、「縁終始之義、一年不可有二君」といった文があり、
天子は前任者の死後、年を越えて初めて即位改元し、
それまでは「王」と称しても王ではない、というような微妙な状態だと認識されていた、
ということらしいのです(春秋時代あたりの話ですけど)。
漢も、春秋学におけるこのような学説に基き、
「年を越さず、改元もしていない以上、北郷侯は真に皇帝になっていたという扱いはできない」
という判断がなされた可能性はあるのではないでしょうか。
(実際には北郷侯即位を否定的に扱う口実みたいなものでしょうけど)

明の光宗(泰昌帝)の場合、おっしゃるように即位年に死亡していますが、
死亡後に改元した上で諡を奉っているようですね。
(明でも普通は越年改元)
百虎通に見える春秋の学説のうち、「改元して初めて一人前」という意識は
残っていたのではないでしょうか。
814怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/28 10:47
あ、813補。
この話は言い出した者としても、もう少し調べてみます。
他の方もご意見や知識等ありましたらお待ちしています。

>>812
張遼の官位をまず整理してみましょう。

(曹操に下って以降)中郎将、関内侯→
裨将軍→行中堅将軍→盪寇将軍→盪寇将軍、都亭侯→
盪寇将軍、仮節(、増邑)→征東将軍→前将軍(、帛千匹、穀万斛)→
前将軍、都郷侯→前将軍、晋陽侯(二千六百戸)→死亡(剛侯)

問題になるのは征東将軍(合肥の後から曹丕の魏王襲位まで)と、
曹丕が魏王になった時に前将軍に移ったことでしょう。
これはこの時が正しく四方将軍<四征将軍になった時という解釈があったはずで、
それが一番ありそうな気がします。
(張遼の場合はほぼ同格の将軍位に移ったと考えられる。
 彼が征東将軍だった時は前将軍が格上で、
 前将軍になった時に征東将軍が上という事になった。
 昇進にならなかった代わりに帛穀を貰った)

個人的には張遼は別に降将ということで冷遇された形跡は無いように思います。
そもそも、彼(張[合β]やら臧覇やらも同じ)らは、
名目上は漢の叛臣である呂布やら袁紹やらに従っていたというだけの事で、
降伏は降伏でしょうが帰順であり、実力(個人の能力、コネ、兵、財力等)があれば
取り上げられるだけのことです。

一方、黄権や夏侯覇は状況が全く違います。
彼らは、降伏先から見ると、「偽帝に従っていたが正道に目覚めた」と言える訳で、
降伏者を慰安するためにも、他の降伏者(帰順者)を誘うためにも、
実力や元の官位以上の高位に就けてやるという事を国策として行うのです。
815怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/28 11:06
>>812
後半の質問ですが、
これも状況次第という面はあるのでしょう。
降伏にしても、切羽詰った場合もあれば利に誘われたような場合もあるでしょうし。
一番この手の話があるのは虞翻で、彼は于禁や糜芳をさんざんにこきおろしています。
彼のような、忠義や名分にうるさいヤツは当時ではもしかすると珍しいのかもしれませんが、
曹丕と張繍の話に見えるように、
一度は敵対していた場合はどちらかが恨みを含んでいる可能性もあります。

また昌キのように、降伏しても法に照らして斬られるという可能性もあった訳ですから、
降伏する者は「降伏すれば大丈夫」と軽い気持ちで降伏していたわけではない、
という点も重要かもしれません。

どのように見られたか、というのも結局は場合場合によって違う、としか言えないですね。
ただ、主君への忠誠を尽くした上での降伏、
とみなされた方が周囲の見方もいいのは当然といえば当然です。
口を挟むようで申し訳ないけど、張遼らは曹一族以外の将領としては最高位の将領と言うべき官位を授かったと見るべきでは?
両者共、曹操の勢力確立前(河北掌握or魏国建国)に帰順した事から、ほとんど宿将と言っても大げさではないでしょうし。

黄権や夏侯覇は国家が確立後の降伏であって、宣伝的な意味も大きいから三公格の位階を与えられたのでしょう。
逆に言えば、曹氏の勢力確立後に降伏したのであれば、黄権らと同等の位階が与えられたかも。権限はともかくね。
その事は黄権らにも言える。勢力が混沌としている最中に所属を変えていれば彼らも、才能に似合った位階で終わったかもしれません。
>>812
于禁は昌キの降伏のときは「包囲されて降伏した者は赦さない」とか言っておいて
自分が関羽に包囲されたときは降伏しちゃうのがなんだかな〜て感じだな。

そこらへんが当時からの評判の低さにつながってる気がする。
818怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/29 16:02
>>816
確かにそうですね。
同時期に張遼以上の将軍位を与えられたのはほとんどが曹、夏侯氏などのようですから。
そうなると、やはり張遼らは降将ということでの差別的待遇はされていなかった、
と考えられそうです。

>>817
于禁の昌キの時の話と、自分の降伏の話は、
多分そういうオチとして元々書かれていると思います。
左伝や史記でよく見るのですが、「自分のかつての所業があとで自分に返ってくる」
という構造です。どうも古代の中国では特にこういう因果応報的な話が好きなようです。
「囲まれて降伏した者は赦さない→殺す」
「自分が似たような状況に陥った時に降伏する→赦される」
「周りは「なんだアイツ、自分であんな事言っといて赦されてやがる」と思う」
こういう話の展開にするため、陳寿が昌キの話をあえて于禁伝でクローズアップしたという
側面もあったかもしれません。
考えすぎかもしれないけど。
819怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/29 16:16
さて、光武帝の時の南陽豪族というか、まず当時の豪族全体の概要を。

豪族とは、基本的には私有財産を豊富に持ち、
その財産で他の自由民やその土地を買い取り、
あるいは財産によって集めた私兵などに物を言わせて実力で奪ったり、
官僚と結託して行政に寄生したり、
といった手段でより力を付け、財産(=土地と隷民)をさらに増やしていくという連中と
言っていいでしょう。
ある意味では企業が巨大化するプロセスにも似ているでしょうし、
またある意味では暴力団的な存在になるのです。

行政との結託は違法行為ですが、少なくとも私財で他の自由民の私財を買い取ったり、
破産状態になったりその他の理由から自由身分を失った民を奴婢として受け入れるのは、
必ずしも違法ではありません。
当時そこまでの思想、意識は無いにしろ、
自由競争の結果というわけで、政府も全く認めないということが難しい。
それだけに、政府としても取締りが難しいという面もあるのです。

何故政府は彼らを取り締まるかというと、
こういった私的な力で隷属民を増やしていくと、
最終的にはそこはもはや一個の独立国になります。
どんなに人はいても、「ココから先は俺の私有地だ」
といわれれば、税金も取れないし、その中で政府転覆を図っていても捕まえられない。
政府が税金や徴兵の対象に出来ない豪族の隷民が増えれば、
それだけ政府の実力は弱まります。
ましてその豪族の隷民が私有軍として編成されれば、
政府にあだなす存在にもなりかねない。

かくして、政府の側は豪族を可能な限りの手段で取り締まり、叩いてきました。
820怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/29 21:39
続き。

漢の政府と豪族の関係が端的に現れているのが、
漢書の酷吏伝と循吏伝です。
「酷吏」とは、単に「残酷な官吏」という意味ではありません(そういう意味も含んでますが)。
主に前漢の景帝、武帝頃に活躍した酷吏とは、
法を遵守し、特に上述したような豪族を抑え、時には弾圧した連中です。
逆に言えば、当時他の一般的な官僚(太守など)は、
多くが豪族と妥協し、場合によっては結託していたということです。

実のところ、それは前漢恵帝、呂后、文帝、景帝のあたりに流行した
「黄老」思想に基く無為自然の政治において見られたと思われます。
あまり厳しく取り締まらない、という態度は、
豪族にとって極めて好都合だった筈なのです。
酷吏の活躍は、数十年にわたる無為自然の政治によって力を付けた豪族の跋扈を抑える、
という意味合いもあったのでしょう。
821怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/29 21:57
続き。

一方、循吏とは、酷吏が法治主義的というならこっちは徳治主義的とでもいうか、
寛大な政治で住民の心をつかみ、郡が富み栄える、という太守です。
一見これは大いに好ましい事のようですが、
実のところ、これは先の黄老主義に近く、現状すなわちその地で支配的な豪族などと
妥協、結託し、言ってしまえばナアナアで上手くやっていく、ということです。
この循吏は武帝の後、特に宣帝あたりの時代になって見られるようになるもので、
要するにこのあたりの時代から、
漢の政府は豪族に対して強硬な手段を取って抑えてゆくのを諦めたのです。

漢の豪族は武帝頃の酷吏による弾圧にもめげずに力を付け、
前漢後半にはその勢力を抑える事が出来なくなり、
現状を認めた上でこれ以上の跳梁を抑えると言う方向に政策をシフトさせてゆきます。
漢の側にも哀帝の限田法など政策がありましたが結局は上手くはいかず、
大まかに言えば、こういった状況のなかで王莽の簒奪とその後の反乱続発があったのです。
822797(812):04/02/29 23:21
みなさまありがとうございます。
血族とかお飾り将軍とか功臣とかいていろいろ複雑なのですね。
あと于禁の話、すごい納得しました。
魏の臣たちにとって一番嬉しいご褒美は何だったんでしょうね。
曹操タソにほめられること、だったりして。
823怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/02/29 23:53
>>822
褒美は、嬉しいかどうかは各個人の主観になってしまいますが、
一般的に褒美といえるのは金品と封邑でしょう。

金品はこの時代は帛、穀という現物支給も金(銭)もどちらもありました。
封邑は、「○○侯、○○戸」という戸数で表記され、
その分の上がり(税金)を貰えるものです。
こっちは取り上げられるまでずっと(本人が死んでも息子が受け継ぐ)貰えるので、
褒美としてはこっちの方が格上だし、普通はより喜ばれるものだったと思います。
>>817
確かにそのエピソードはショボい。
825怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/01 08:30
豪族続き

上述のように次第に勢力を拡大していった豪族は、
官界へも手を伸ばし始めます。
結局のところ、当時において官僚にとって必須の基礎知識としての学問には、
相応の金と時間が必要であり、財力を持ち、しかも仕事は隷民にやらせればいい豪族は
学問をするにも良い環境が揃っているということです。
学問をし官界へ入っていくことで、豪族の発展は新たな段階に入っていきます。
つまり、政府との対立から協調へ、
言い換えれば権力の側に人を送り込んで豪族抑制策を抑え、
更には権力を利用して勢力拡大を図るのです。
前漢の末期あたりから後漢、そして三国時代というのは、こういう時代だったと言えるでしょう。

後漢の南陽豪族ですが、彼らもこういった背景を持つ連中だったと言えるでしょう。
そもそも光武帝劉秀自身が南陽豪族の一員だったと言えます。
彼の家は太守、県令クラスの官僚を輩出していたようですが、
彼自身は農業に従事し、同時に学問(書経)もしていたと言います。
そして兄の劉伯升(糸寅)は任侠的な事を好み、賓客を養っていたといいます。
暴力団の一歩手前なのです。
農業、学問、官界、暴力、という当時の豪族のキーワードが見事に揃っているのがわかるでしょう。
826怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/02 00:21
豪族続き

さて、光武帝が挙兵する際、あるいは挙兵以降に力となった南陽豪族としては、
ケ氏や李氏などがいます。
ケ氏はケ晨、ケ禹を輩出した南陽新野の豪族で、
光武帝とは親戚です(ケ晨の妻は光武帝の姉)。
また光武帝の皇后となる陰氏(新野)とも親戚関係があり、
光武帝の一族と、ケ氏、陰氏は姻戚関係でおそらく二重三重に結びついていたと思われます。
豪族同士で通婚し、いわば協力関係を結んでいたのではないでしょうか。
ケ氏や陰氏は後になっても皇后を出したりしているのですが、
彼らの関係は光武帝が挙兵する前からの歴史を持っていたのです。

南陽宛県の李氏は李通を出しました。李氏は貨殖をもって「著姓」だったとされ、
まさに豪族的存在だったと思われます。
そして李通は天文などを学び王莽の元で官僚になりました。
王莽の失政以後の混乱の中、劉伯升と光武帝を担いで挙兵しようとしたのが李通でした。
おそらく、主に経済的なバックボーンとして劉氏を助けたのでしょう。
この宛の李氏は光武帝のみならず、更始帝などと戦った者(李松)などもおり、
各勢力に従ったかなりの大勢力であったことを窺わせます。
「部曲」ってどんなもんなんでしょう?
828怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/02 08:27
>>827
「部曲」は、本来は単に部隊、というような意味だったようですが、
三国時代以降の用法では、「私兵の部隊」という意味合いで言われる場合があります。
おそらくそこから転じて、唐あたりの用法では、
豪族の私有民そのものを「部曲」と言ったそうです。

魏延は「部曲を以って先主に随い蜀に入り」(三国志魏延伝)とされていますが、
彼は殺された後に楊儀に「庸奴」と罵倒されています。
おそらく魏延は劉備もしくは他の者の「私兵」としての「部曲」の所属兵だったのでしょう。
私兵というのは普通は豪族や軍閥に囲い込まれた元流民、盗賊などであり、
自由民としての身分、戸籍を失っています。
自由民ではない、即ち奴婢と同等であり、
豪族か軍閥に金で身柄を買われたようなものと思われるのです。
それゆえ、彼はそれなりの家柄、身分だったと思われる楊儀に言わせれば「庸奴」
と言われてしまうような出自だった、と言えるのです。
これなどは「部曲」が私兵の意味合いを持っている一例ではないでしょうか。
>>828
豪族や有力な人物などが私財で養っている兵隊という理解でいいのでしょうか?
「食客」という感じなのですか?

そして、規模・人数としてはどの程度だったんでしょうか?


質問ばかりですいません。
>>828
>庸奴
 「他の者の『私兵』としての『部曲』の所属兵」と考えるのが自然だとは思いますが、
「軍人は雇われただけに過ぎない」という意味には採れないでしょうか?
もしくは「そう深い意味は無い」とも採れないでしょうか。

 また、魏延伝の「庸奴…」と全く同じ文が、晋書 劉聡載記に現れています。
劉聡が王沈の養女を左皇后としようとしたとき、それを批判して処刑されることになった王鑒。
彼が刑に服す直前、王沈が彼に向けて罵った言葉がそれです。
 諸事を統べる尚書令にまで登りつめた王鑒が過去、
他者の私兵などであった可能性は低いと思いますけど…
831怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/03 00:27
>>829
おおよそそういうことでいいと思います。
ただ、「食客」と違い、半奴隷のような状態です。
力関係が違うのです。
食客なら、「メシ食わせてくれたから恩を返す」と言う感じでしょうが、
(愛想尽かしたりすれば食客の方から出て行くでしょう)
部曲の私兵というのは、「メシ食わせてやるから戦え。イヤなら出てってくれ」と
豪族に言われてしまうであろう存在です。
でも当時なんかは特に何の庇護も無い民が生きていける世の中ではないので、
奴隷同然だろうが付いていくのでしょう。

規模は正直なところはっきり分かりません。
ただ、一応の参考として、例えば三国志李典伝によれば李典の「部曲宗族万三千口」などと
記録があります。ただしこれはかなりの大口じゃないでしょうか(だからこそ記録に残る)。
832怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/03 00:43
>>830
実のところ、魏延伝については確かに「ここまで言えるか」という疑問は我ながら感じます。
少々言い過ぎたかもしれません。
なので、これはあくまでも私の解釈として考えてください。間違っている可能性も少なくないでしょう。

確かに所詮は罵倒の言葉であって、真実を述べる必要は無いですね。
ただ、関連する意味を含んでいた方が罵倒は効果的でしょう。
官僚を罵倒するなら「木っ端役人」、と言うように。
罵倒の言葉でも官僚に「水呑み百姓」と言っても「違うよ」と言われて終わりです。
王鑒の例にしても、どこかしら「庸奴」と関連付けられる何かが王鑒にはあったのではないでしょうか。

話は代わりますが王鑒のその話、劉聡の時のですよね。
当時の官僚(王鑒)って、漢人の名士だったんでしょうか?
匈奴系だとすると、「庸奴」はそのものズバリの事を言っていたかもしれません。
三国時代から西晋あたりの匈奴の中には貧しく、農奴のような状態の者も少なくなかった
ということのようですから(石勒などのように)。
尚書令とはいえ、彼が太原王氏でもない限り「庸奴」であった可能性も否定できない、
ということです。
833怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/03 00:56
でも「庸奴」の「庸」は「並みの」「凡人」の意味もあるそうで。
そうなると今までの私の解釈は怪しくなってくるんですよね。
ということで、私の間違いならゴメンなさい。

でも、どちらにしろ「奴」という字が入っているんですよ。
私兵だからというより、私兵にしろ農奴にしろ、豪族に従う(というか使役される)者は
「奴」と大して変わらないんだ、という意識があったのではないだろうか、
と思うのです。
>>833
「奴」には単に侮蔑的なニュアンスの二人称という意味もあったはずだが。
835怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/03 08:32
豪族続き

光武帝の創業を支えたのは、上に述べたケ氏や李氏のような南陽豪族、
それと各地の豪族や名門などでした。
このあたりが前漢の創業とは違う点だといえると思います。
前漢では必ずしも豪族などと言えるような勢力家とは限らない連中が
高祖の創業を支えています。
豪族の経済的、社会的な勢力拡大がその変化を生んだのでしょう。

秦末では、まだ自前の勢力を持たない者にも機会があった訳ですが、
それは多分、当時は後の豪族のように強大な経済力等を持つ者が無く、みな同等であり、
同等なので個人の才覚がものを言う時代だったと思うのです。
それが後漢の時には、創業の功臣達の多くは豪族や名門の中で運と能力に恵まれた者でした。
この傾向は三国志の時代には更に顕著と言えるでしょう。
豪族や官界などの地盤を持たずに出世した者は、
前線で戦う将軍以外にはかなり少ないように思います。
持つ者の時代だったのです。
836怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/03 08:34
>>834
時間が無いので今は調べられませんが、三国時代以前からの用法でしょうか?
できればそのあたりを教えてください。
私も後で調べてみます。
「匈奴」の「奴」は?
838830:04/03/03 20:03
>>832
彼を弁護した西河の王延は、列伝五十八に立伝されてるんで恐らく漢人だったと思いますけど。
ともあれ、なるほど判りました。ありがとうございます。
>>837
普通に蔑称だろ。
840怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/04 00:13
「奴」について

賤称として「奴」という用法は、確かにあったようですね。大漢和辞典しか見てないですが。
「庸奴」の「奴」がそれかどうかはわからないですけど。
あと匈奴の「奴」は、蔑称半分、あと半分は音訳でしょう。
「奴」にあたる音だったので、
漢字に起こす時に丁度いい蔑称だった「奴」を当てたのではないかと。


正直、魏延伝の「庸奴」については私が先に述べた説に自信が無くなって来ました。
830氏その他みなさんゴメンなさい。修行が足りんです。

あと別の話ですが王鑒はどうなんでしょうね。
匈奴劉氏は太原王氏と交流があったそうなので、太原王氏の可能性もあるんでしょうか。
841怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/04 08:32
魏延について

前に魏延は部曲の兵出身だろう、と書きました。
当該部分の原文は「以部曲随先主入蜀、数有戦功、遷牙門将軍」。
ここだけなら、部曲を魏延が率いている、という可能性もある、とも思えます。
しかし、例えば三国志霍峻伝によると、「部曲数百人」を有していたらしい霍峻は、
荊州で劉備に従った時点で中郎将になっています。
もし魏延が部曲のリーダーだったとしたら、
この霍峻のように扱われている筈ではないでしょうか。
しかし実際には魏延は戦功を立てて初めて牙門将軍になっています。
要するに、部曲のリーダーとしてしかるべき扱いを受けておらず、
部曲の兵から抜擢されたと考えた方がいい、ということです。

豪族、名士が幅を利かせる時代ではありますが、
こういった大抜擢を受けた人物はいないわけでもありません。
例としてはケ艾と石苞がそれで、彼らは揃って典農部民、即ち屯田民でした。
楊儀と魏延、鍾会とケ艾の関係がしっくり行っていなかったらしいのも、
彼らの出自を考えれば仕方が無かったのかもしれません。
くどい
確かに、バックグラウンドがしっかりしているかしていないかは
重要な要素だけど、出世の仕方は人それぞれだと思うんだが。
霍峻がそうだったからといって、ちょっと早計すぎやしませんか。
一番異例の出世は劉備本人だしなw
>843
それでも、魏延のその後の経歴からすると、兵卒上がりだったような感じだけどね。
ほとんど軍務しか努めてないから。
それなりのバックグランウンドがあれば、あれだけ軍務に隔たるような事は無いと思うけど。
846怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/04 23:50
>>842
確かにそうでしたね。

>>843
同じく、これは論証などになりませんね。
粗いことをしてしまいました。
今回の件については根拠もあやふやなことを適当にダラダラ書き連ねてしまい、
スレ汚し失礼しました。
この話については、私はより詳しい方々に教えてもらう事を期待することにします。
モノの輸送なんてどうなっていたんだろ?
海運ってか河運がメインだよね?
ウソウみたいな食料補完地みたいのは
あちらこちらにあったのかな?
漢城のような籠城戦は無かったのだろうか?
泗水と沂水に挟まれた下邳は海運で栄えたんだろうか。
呂布を水攻めにしたところだけれども。
849怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/05 08:32
>>847,848
正直、私も詳しくはないのですが・・・。
秦、漢は巨大な食料貯蔵地「敖倉」が河内郡にあり、
ここが争奪の対象になりました。
(司馬遼太郎「項羽と劉邦」などでご存知の方も多いかもしれませんが)
しかし、続漢書の郡国志では河内郡にあるのは「敖亭」と、「倉」ではなくなっており、
もしかすると後漢あたりで敖倉は縮小・廃止されてしまったのかもしれません。

三国志の時代は、長い間なにしろ深刻な食糧不足でしたから、
長期的な篭城戦というのが成り立ちにくいという面があったように思います。
董卓の作った「眉β塢」は、三国志董卓伝(と注)によると30年分もの穀や、
数万斤もの金銀、数え切れない財宝があったといいますが、
これはその後どうなったのでしょうか。
どちらにしてもこれは特殊な例だと思いますけど。

カヒについては、そこが当時の水運の要衝だったのかどうか調べがついていませんが、
水が合流するところなら確かに水運に便があるように思えます。
詳しい方教えて欲しいです。
>>847-848
物資の集積・輸送について、拙いながらも自分の知ってる限りで。
(史料は多くが「正史」によってしまいますが……)

軍事活動を行うに際して、食糧の確保・輸送は死活問題であるけど、
食糧・物資の集積地や輸送路の完備は、曹操の屯田政策によって
食糧供給が安定するようになってから、より顕著になったと思われます。

食糧などの軍需物資の集積・保管を目的とした施設を「邸閣」といい、
資材は北方では主として石材、南方では木材で造られていたらしく、
これはおそらく風土など保存環境の差が影響していると思います。
この邸閣群は軍事拠点近郊などに設置され、ここから各前線に輸送や
支給が行われていったものと思われます。
大規模な軍事活動が行われる際には、それに備えて侵攻口や前線に
新たに設けられたり、戦時にいたってはこの邸閣群の焼討や奪取・争奪の
成否が戦局に大きな影響をあたえるようにみうけられます。

邸閣の規模・集積量については自分はよく知らないのですが、たとえば
呉の赤烏年間、夷陵近郊・雄父の邸閣には三十万石の食糧が集積されて
いたらしく、これは単純計算で十万の軍勢が優に一ヶ月以上の軍事行動を
可能にする量だと思えます。
この邸閣は、王昶と王基による侵攻によって魏に奪取されています。
また、毋丘倹と文欽の叛乱に際しても、南頓の邸閣を重視した魏軍が奪取し、
戦局を有利に導いてます。
他にも官渡の戦役や諸葛亮の北伐、魏呉の抗争など、事例はありますが、
兎に角、戦争時は無論、平時においても食糧の安定供給がいかに重要視
されていたかは言を俟たないと思います。

また、ここまでに述べた事項は、屯田政策や灌漑整備による食糧の確保や
水陸の輸送路の整備などと密接な関わりがあるのも当然なんでしょう。
有名どころでは曹操の屯田でしょうが、他にも魏や呉は大規模な水路を幾つも
設けていて、洛陽やギョウ、建業など首都近郊には輸送を主目的とした運河が
造られていたみたいです。
これに反して陸路を用いた輸送は、物資のみならず運送用の人員や家畜と
それらを維持するための食料も余計に負担となる分、効率・輸送量ともに水路
に比較して悪かったんでしょうけど、これは蜀の桟道の例からみても、わかり
やすいかと。
ほんとは屯田も説明できればいいんでしょうけど……と、長々とすんませんす。
852怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/05 22:12
>>850,851
おお、詳細な説明ありがとうございます。勉強になりました。
長々というほどではないと思います。今後もよろしく。

ところで、水運関係であとから思い出したんですが・・・。
黄河についてですが、秦、漢の発展と黄河は切っても切り離せない関係でした。
当然といえば当然で、農業生産と、生産物の輸送、双方に黄河の水が欠かせないからです。
漢以前では(これは黄河ではないですが)魏の西門豹、秦の鄭国(鄭邦?)の
事業が有名です。彼らは灌漑によって農地に水を引き、生産力拡大を果たしたのです。

そして、漢では黄河について大事件が起こります。
漢武帝の初期、黄河が決壊し、河道自体が南に移動してしまったのです。
新たな河道は淮水、泗水とつながり、東郡、山陽方面の鉅野沢に注ぎました。
これは言うまでも無く重大な影響を与え、
20年後に梁、楚での不作はおそらくこのせいでしょう。

これもご存知の方も多いかもしれませんが、黄河は移動するのです。
カヒのあたりで輸送といえば、サク融が横領して寺建てたって話を思い出すな。
物流にも制度はあったよね?
855怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/06 13:08
>>853
そういえばサク融が「浮屠寺」を作った財源は、
広陵、カヒ、彭城の食糧輸送を横領して得たものでしたね。
その辺の記述(後漢書陶謙伝)だけでは、水運かどうかはっきりしませんが、
多分水運も含めての輸送でしょうね。
サク融についての記述からすると、広陵に物資が集められていたらしく、
広陵は多分水運で物資の集積地になっていたようです。
長江を利用できますし。
(広陵は後の時代でも軍事的要地の一つ。東晋の北府はここと対岸の京口が拠点だった)

>>854
もちろんそうでしょうけど、私はなかなかその関係の記述などを見つけられないでいます。
三国時代関係では、典農中郎将任峻が官渡の戦いの時に使用した
輸送隊の防衛方法なんてのはありますけど。

「賊」に奪われないように、千乗(馬車一両=一乗)ごとに一「部」(部隊)とし、
「十道」から行かせて(分散して出発し、奪われる場合のリスクを軽減?)、
更に二重に護衛の隊列を組んだとか。
(三国志任峻伝より。説明が間違っていたらゴメン)
とにかく厳重で、奪われない事を重視した方法だったようです。
実際には曹操は官渡で兵糧不足に悩んでいたので、
「もっと早くよこせ」という考えもあったのかもしれませんが、
輸送する物資も無尽蔵ではないので、
当時は「少しくらい奪われてもいいから残りを速やかに届ける」
という方法は取れなかったのではないでしょうか。大本の物資が少なかったということで。
唐突な質問だけど
三国時代の夫人と妾の違いは明確に違うものなの?
『呉書』陳武伝に陳武の妾腹の子陳表が、正妻の言い付けを聴かなくなった自分の母親をいましめている話がありますね。
858怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/06 22:45
>>856,857
正妻と側室の関係という意味だと思いますが、
(この辺も特に詳しい訳ではありませんが)
これは明確に違う、と言ってもいいと思います。
857氏が引いている三国志陳表伝では、
彼の兄陳脩死後、庶子である陳表の母が嫡母に対してデカイ顔をし始め、
それを息子陳表が諭して嫡母に仕えるようにさせる、という話です。
これは父の死後の事ではありますが、
「嫡」とそれ以外の関係はよく分かるのではないかと思います。

字の本来の意味からいくと、「妻」は「己と等しい者」という意味で、
それに対して「妾」は「罪ある女で、君に接する者」だそうで。
(「説文解字」より)
こういった点などに見えるように、古代中国の観念として、
正妻は一家の主と同等で、それ以外は「妾」として奴隷に近いような存在、
という考え方があったのではないでしょうか。
臣妾・奴婢だね。
860怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/07 01:01
>>859
臣妾といえば、漢の上奏文の形式では、
自称は「臣」なんですが、女性の場合は「妾」を使用するようです。
(漢書外戚伝、成帝許皇后伝で許皇后が使用している)
どちらも天子に対する奴隷、とへりくだる意味合いなんでしょうか。

そして、その「妾」という字が「側室」を意味する言葉になっている訳で、
「主と同等」を意味するという「妻」=正妻に対して、「妾」=奴婢、召使という意識だった、
ということになるのでしょうか。
(もちろんこれは本来の意味では、ということで、
 三国時代にも全く同じだったとは言いませんが)
861怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/07 01:39
黄河の治水について

これは上の水運とはまた違う話題ですが、一応関連して。
雑談みたいなものだと思って下さい。

漢書溝洫志などを読むと、当時の黄河の氾濫対策は
それなりに洗練されていたように思われます。
地下に水路を通す「井渠」、浚渫、遊水地、河水の分散化などの技術が確認できます。
むしろ財政問題等による対策の遅れ等の人災によって黄河の水害が拡大化した面が
強いようにも思われます。
専門家でないのでなんとも言い難いですが、技術という意味では流石といえるのでしょうか。

黄河は武帝のあと、成帝のときにも東郡等で氾濫し、大きな被害を出したようです。
そもそも黄河は黄土が下流に堆積するので、こまめな浚渫などによらなければ
いずれ氾濫する運命なのです。
武帝の時の黄河の河道が変わった事件も、黄土の堆積が行くところまで行ってしまい、
海まで流れなくなって水の逃げ場が無くなったための現象と思われ、
確か後の時代にも起こっているはずです。
(関係無いかもしれないけど北宋の首都として栄えた開封は大部分が水没しているそうで)

成帝の時にはなかなか対策に苦慮しており、
黄河対策が上手くいかなかった事は、
もしかすると皇帝の権威失墜と、財政・民政面でのダメージという両面から
前漢の王朝に悪影響を及ぼし、新天子待望論が生まれる下地を作ったのかもしれませんね。
>>860
故・宮崎市定が『東洋的古代』で述べられてます。

 古来、(家内) 奴隷の男女は其々臣妾と呼ばれていた。
 例えば、左伝僖公十七年の「男為人臣.女為人妾」、越王句踐世家の「句踐請為臣,妻為妾」がそれである。
 だが、時代の移りと共に、家来が自らを臣と卑下して呼ぶようになり、それが通例化された。
 しかし、実際の奴隷が消えたわけでもなく、紛らわしいことから、新たな名称がつけられた。
 名称には『僕妾』、『奴婢』などあり、結局、『奴婢』が定着した。
伝説の聖帝の頃から黄河の治水は
国家の運命を左右していましたね。

物流の話は情報量が少ないみたいで
苦しめてしまったようで申し訳ない。

こういった脇の話を知ると
三国志の時代をイメージしやすくなるんで
続けて欲しいです。
展開無視で申し訳ないのですが、
呂壱事件って孫権が裏で糸を引いていたってことないですかね?
キエン事件といい、二宮の変といい呉の四姓狙い撃ちという気が
するのですが?妄想しすぎですかね。
865怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/07 14:05
>>862
おお、宮崎大先生ですか。そこまでチェックしてませんでした。
関係無い雑談ですが、宮崎全集は今にして思えば買っておくべきだったと後悔してます。

>>863
禹王とかの話ですね。
黄河の治水については、前漢あたりでは実は儒者が専門家として意見を述べています。
なぜかというと、尚書(書経)には黄河の治水などを述べる一編があり、
これを研究している尚書学者は
当時においては治水理論の学者と見られる存在だったのです。
(成帝の時の許商など)

物流関係については、宿題ということで。不勉強で申し訳ないですが。
もしくは詳しい方々をお待ちすると。

>>864
三国志歩隲伝には「中書呂壹」とあるように、
呂壹は中書だったようです。
多分呉の中書は非宦官の士人でないかとは思いますが、
いずれにしても皇帝の側近中の側近、秘書的な職務だった筈です。
つまり、現代日本の政治家が言う「秘書が勝手にやった事」と同じで、
呂壹がやった事も事実上孫権がやった事なのです。
(現に呉主伝では呂壹事件後に孫権は自分の罪を反省する、というポーズを取っている。
 丞相とか将軍とは違い、「信じて任せたのに信頼を裏切った」ということでは済まない。
 中書がやった事の命令を直接出したのは孫権なのだから)

裏どころか、表向きにも孫権の意向であると当時から考えられていたと思います。
866怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/07 14:21
>>864
上の呂壹事件の話の続きですが、
呂壹事件は以上のように孫権の命令、意向であったことは明らかなのです。
そして、尚書曁艶といい、呂壹といい、政敵がいずれも豪族系大臣が中心である事などを
考えると、曁艶、呂壹そしてその背後の孫権は、豪族系大臣を主な対象として
曁・呂のしたような官僚の評価、弾劾等を行ったのではないかと思います。
(事実上豪族連合政権である呉では、豪族の発言力は大きく、
 そこで皇帝孫権の権力を拡大させていくには、
 ある程度は豪族の頭を叩いていく事も必要だったと思います)

そして、こういった孫権の二人の側近による事件を経て先鋭化した孫権と豪族系大臣の
対立が、皇太子問題という場で衝突したのが二宮事件である、
というとらえ方もできるのではないでしょうか。
867864:04/03/07 15:36
怨霊氏 レスありがとうございます。
呂壱の官職から推測も可能なんですね。
そういえば、二宮事件でも孫覇派の孫弘が中書令ですね。
ここにも孫権の影が・・・。
正妻に較べて、妾に対する扱いは現代人の感覚でみても酷いように思えます。

『礼記』はそのあたりに詳しいですが、かの孔子でさえ、離縁した妻の服喪を
除かない子に、長すぎるとたしなめてますし、孔子とは関係ない話でも、とある
嫡男が母の葬儀に際して費用の工面がつかないところへ、ひとつの提案として
「庶弟の母を売っては?」とあったりするようで、随分と格差をつけられていた
んでしょう。

>>852
こちらこそ。
869怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/07 16:32
>>867
そうなんです。
中書ってだけで全て孫権の命令、とまでは言えないかもしれませんが、
少なくとも「中書が実行者ということは孫権がOKを出したんだな」、
と当時の人は解釈したと思います。

二宮の方で出てくる中書令孫弘や、陸遜を追求したという「中使」なども、
それぞれ皇帝孫権の側近や使者であり、
こういった者たちがどう動いていたかというのを見れば、
当時の人々は孫権がどういう立場(どの陣営)だったのか察したと思います。
870怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/07 16:43
>>868
やはりそういう感じですか。
礼記の記事の紹介ありがとうございます。

これは少々妄想気味で根拠も薄弱なので話半分に聞いて下さい。
古代中国の観念として、天と地、陰と陽、といった二元論が大元にあったようです。
そこでいうと男に対して女(妻)があるという事になるでしょうけど、
陰と陽と同じ1対1であり、他の女性はそこではノーカウント。
陰と陽のつりあいを重視するので、女性=陰だけ多いのは困るのです。
というように正妻だけが祭祀などの公的(?)な場面では問題になるわけで、
それ以外の女性=側室は下働き=奴婢=「妾」、としか扱われないのではないでしょうか。

まあ、実際の家というものを考えても、正妻との区別をハッキリしないと混乱の元、
という現実的な側面とかもあったとは思いますけど。
871怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 00:09
さて、ここいらで某先生に敬意(&弔意)を表して閑話休題。

そろそろ500KBですね。
前スレは確か795で500KBでしたが、今回は900行くか行かないかで500KBでしょう。
とにかく続けるなら次スレの時期。
特に反論や提案が無ければ、近日中に新スレ立てます。

今度のスレタイはどうしましょうね。
(案)
【思想や】 三国時代に関する制度や政治や文物を語る 【事件も】
 「漢」をスレタイから外して、三国時代に絡むこと全体を語る事にしてみました。
 もちろん漢の事も三国時代との関係の中で語ります。
 問題はスレタイの文字数。大丈夫なのかな?
うん、次も行きましょう。

孔明は軍師か!?みたいな事で罵りあってるようなスレより
こういった当時の背景を語る方が勉強になるしね。
質問するばかりで申し訳ないのですが
次スレもよろしくです。
873高田忠孝 ◆LxHN8jwVxI :04/03/08 04:49
>>871
識者によれば、SETTING.TXT曰く、
BBS_SUBJECT_COUNT=48
とのこと。

おそらくではありますが、全角文字ならば24文字で抑えなければならないようですね。

なかなかこのスレに書き込めるほどの知識も疑問もありませんが、常日頃より楽しませていただいております。
874怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 08:11
>>872
ありがとう。次スレできたらまたよろしく。

>>873
そうでしたか。どうやら案では文字数が多すぎるようですねえ。
今後もお付き合いいただければ幸いです。

ではもう一度(案)
【政治】 三国志の制度や文物等を語る 【事件】
「等」を入れてみました。
正妻と側室ですが…日本の話で恐縮ですが、正妻だけがいわゆる「妻」で、側室というのは
子供を産むための単なる使用人であった…というのを読んだことがあります。で、側室が
生んだ子も正妻の「実子」(実の子という意味ではなく、その「家」の正式な子)になるらしいです。
876864:04/03/08 17:24
次スレ楽しみです。
私は正史読んでるだけってレベルなもので、
ディープな内容は読むだけになってしまいがちですが、
次スレも良いスレになるといいですね。
改名改姓に関しての質問だけど何か手続きとか必要だったの?
878856:04/03/08 18:51
あれ?
側室と妾は同じモノなの?
側室はまがりなりにも妻という地位を得た人だと思ってたんだけど
改姓といえば朱然が、養父である朱治の喪があけたとき、
もとの姓である施氏にもどりたいと孫権に願い出たけど許されなかった。
のちに朱然の子朱積が上表して元の施姓に戻っているから君主の許可が必要だったのかな?

改姓って他に誰がしましたっけ?(養子と改姓はべつものかもしれませんが)
奚→ケイ[ケイ康] 耿→簡[簡雍] 聶→張[張遼] 氏→是[是儀]
881879:04/03/08 21:30
880氏どうもです。張遼は先祖が匈奴に恨まれていたから改姓したんですよね。
ほかにも孫権の弟の孫朗が罪を得て丁姓を名乗らされたり、
晋に亡命した孫秀を孫皓が孫秀の姓を獅ニ呼ぶようにさせたように、
罰で改姓させた場合もあるようですね。
882怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 22:08
>>875
そのへんは古代中国と似ているような。
側室(正妻以外)が産んだ子も正妻の子として扱う、
ってのは三国志の時代にもその形跡がありますね。
有名どころでは曹昂とか。
彼は当時の曹操の正室丁氏から、本人の子であるかのように扱われています。

>>878
それは私は正直言って厳密に区別しないで使っていました。
間違い等あったらすいません。
なお、漢文では前漢からすでに「側室」なる語はあったようですが、
特におっしゃるような意味合いではないようです(大漢和辞典より)。
一方、少なくとも古代では「妻」は夫に対して同時には一名のみ、
という原則があったようです(>>858)。

>>876
そのようにおっしゃていただければ幸い。
疑問について色々と議論できるスレにしたいものです。
>一方、少なくとも古代では「妻」は夫に対して同時には一名のみ、という原則があったようです

舜とか妻二人ぐらいいなかったっけ?
884怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 22:19
>>877
戸籍を有する者であれば、最低限その戸籍の書き換えをする必要はあったでしょう。
どのように、とかそういうのは流石に分からないんですが。
>>879の言う朱然、施績の例のように皇帝の許可が必要だった実例がありますが、
これは何かそれなりの理由があったのではないでしょうか。
旧姓(本姓)に復するってのは、
彼らの場合は朱氏からの決別宣言に等しいのかもしれませんし。

>>880,881氏の言う以外の改姓の例では曹嵩とか、
馬忠、王平、陳矯、劉封・・・
当時は母方の家を継ぐ為に改姓することがあったようですね。
885怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 22:34
>>883
確かにそうですね(史記五帝本紀)。
等しい存在って意味はあっても1対1とは限らないのかもしれないですね。
(神話みたいなものでしょうから、
 すぐ一般の士にも当てはまるかどうかはまた議論が必要かもしれませんが)
失礼しました。ご指摘ありがとう。
886怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 22:49
さて、現在488KBということで、そろそろ次を立てましょうか。
前は本当にギリギリでしたし。
887怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 22:53
テンプレート


今度は「漢」だけではなく「三国志」全体ということにしました。
漢だけだとさすがにネタ切れ気味なので。

前スレ
【政治や】 漢の制度や文物を語る 【思想も】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1065193864/
前々スレ
【官職】 漢の制度を語る 【政治】
http://hobby.2ch.net/warhis/kako/1056/10567/1056795960.html

初心者の質問歓迎。
専門知識持った人の解説歓迎。
仲良くやっぺ、ってことで。

演義も制度とかを知ってから読むと印象が変わりますよ。
・・・多分。
888怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 22:55
立てました。

【政治】 三国志の制度や文物等を語る 【事件】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1078754103/
889怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 23:41
さて、残りは何を語り合いましょうか。
鮮卑の事にしようかとも思ったんですが、
長くなるかもしれないので後回し。

ところで小ネタですが・・・。
太原王氏の王リョウ(反乱したヤツ)と令狐愚はおじおいの関係ですが、
王氏と令狐氏って、後漢初期から仲が良かったようです。
後漢書列女伝、太原王霸の妻の条によると、
王霸の友人に同じ郡(太原)出身の令狐子伯というのがいたそうです。
王リョウと令狐愚は、そんな200年の付き合いの家同士だったんですね。
改姓はいくつもあるけど改名は令孤愚ぐらい?
891怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/08 23:52
>>890
思いついたところでは、「範」と付けたら親戚とかぶっていたので改名したケ艾、
姓ともども変えて原形を留めなくなった馬忠(蜀の)、
なんてのが。
892怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 00:11
あと有名どころでは李厳から李平とか、陸議から陸遜とか?

他に、「一名」がある者も結構いるようですね。
どういう場合に「一名」があるのかわかりませんけど。
「一名」の方で記録されていると誰だか分からなくなるので困るんですけどね。


尹礼、一名「盧児」
(三国志臧覇伝)
→「魏将尹盧」(三国志呉主伝、黄武元年)
この尹盧は臧覇とともに出てきており、尹礼と同一人物の可能性が高いと思いますが・・・。
確証も無いのが残念です。
>>891・892
即レス多謝。
あと廖化(淳)、曹奐(コウ)なんてのもいたね。
パッとは思い浮かばないもんだ。。。
894怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 00:35
>>893
意外といるもんです。曹奐の場合は皇帝で特殊ですね。
諱として臣下全員が避けなくてはいけませんから、
改名はある意味仕方ないというか慈悲と言うか。

孫休って、皇子の名前の漢字を勝手に作って避けやすくしたのに、
自分は「休」なんて避けにくそうな名前を変えてないですよね。
なんだそりゃ。
895怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 08:27
大した話ではないんですが、
曹操の子、燕王宇の子が曹奐、魏の元帝です。
で、燕王宇は曹奐が即位した時健在でした。
傀儡とはいえ皇帝の父が健在ということで、
儀礼などについて朝廷でも議論があったようです。
結果、燕王に対しては「不臣の礼」を執る事となり、
吏・民すべて燕王の諱(宇)を避けることになりました。
この点についてだけいえば、燕王は皇帝と同等の扱いになったのです。

そんな燕王ですが、どうも魏の世を生きぬいたらしく、
(三国志本伝に死亡の記事が無い)
おそらく魏晋禅譲の際に他の諸侯王と同様に県侯に降格されたのでしょう。
(晋書武帝紀より)
皇帝の弟から皇帝の父、そして県侯と、
本人に特別な事績はないんですが波乱の人生です。
896怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 08:33
ところでさっき晋書見てて見つけたんですが、
晋の武帝の泰始2年2月に、「除漢宗室禁錮」という一文がありました。
これは、漢の宗室=劉氏の禁錮を解除した、という意味だと思うのですが、
ということはそれまでは禁錮されていたんですね。
禁錮したのは魏でしょうね。

更に、泰始元年12月には「除魏宗室禁錮」という文も。
この泰始元年12月ってのは禅譲を受けた時なので、
禁錮したのは晋ではないでしょう。
魏は魏の宗室を禁錮していたのですね。司馬氏がしたのだとは思いますが。
司馬懿がやった、魏の諸侯王を軟禁した措置の事でしょうか。
劉禅や孫皓の扱いはどうだったんでしょうか?
挿話は結構あるみたいだけど。
898怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 21:15
>>897
晋は曹奐、劉禅、孫皓、そして曹芳を始末せず、一応礼遇したようです。

曹奐は禅譲後に陳留王に封ぜられ、38年後に死亡しました。
そこで漢の献帝の例に倣い元皇帝と諡されています。

劉禅はケ艾に降伏すると、まずケ艾の独断で驃騎将軍にされ、
おそらく名目上はその命令として蜀臣の降伏を促したようです。
その後洛陽へ移住させられ、有名ですが「安楽県公」に封ぜられます。
食邑1万戸だそうです。泰始7年に死亡、諡は思公。
例の司馬昭にからかわれた話は三国志後主伝注に引かれています。

なお、劉禅の正室張氏(張飛の娘)は劉禅とともに移住しましたが、
側室の李昭儀は蜀の後宮の者が諸将に妻として与えられると聞き、自殺しました。
(昭儀は前漢では皇帝の夫人としては皇后に次ぐ位。
 魏では県侯レベル。いずれにしても高位の夫人です)

なお劉備の直系子孫で生き残ったのは甘陵王劉永(劉備の子)の子孫だそうです。
劉禅の子は永嘉の乱で全滅。
劉永の孫、劉玄は李氏の立てた蜀へ逃げ、李雄によって「安楽公」とされました。
かの孫盛は東晋が李氏政権を討ったときにその劉玄に出会った、とされています。
(三国志後主太子エイ伝)
899怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 21:25
>>898
最後、「されている」というか孫盛本人がそう言っているんですね。訂正。

孫皓は降伏後、洛陽に遷され「帰命侯」とされました。
五年後死亡。諡は伝わっていないようです。
また孫皓の太子孫瑾を中郎、その他孫皓の皇子で王になっていた者を郎中にしたそうです。

孫皓の場合、易で占わせたら、「洛陽に孫皓の車が入る」という結果が出て喜んだら、
降伏して洛陽に連れられるというオチだった、という話が三国志孫皓伝注に。

孫皓が「侯」で劉禅が「公」と扱いが違うのは、
理由は幾つか考えられますが、
劉禅の方が降伏が早かったとか、孫皓の評判が悪かったとか、
そんなところなのでしょうか。
900怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 21:32
そして曹芳も実はしぶとく生き残っており、
廃位後に斉王とされ河内に幽閉されていたようですが、
晋が禅譲を受けるとショウ(召β)陵県公とされ、泰始10年43歳で死亡。
詞と諡されました。

考えてみれば父母の正確な記録も残らず、
最初から最後まで誰かに見張られたような傀儡皇帝でしたが、
一応は非業の死を遂げずに済んだのですね。
901怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 21:53
もう流石にラストが近付いてきたので、
ちょっと前に紹介しようと思いつつやめていた人物について。

石苞
すこしだけ前に書きましたが、彼は少年時代にあのケ艾と友人だったようですが、
ケ艾といえば典農部民、即ち屯田民として農業に従事していましたので、
石苞も多分同じ屯田民だったのでしょう。

ただ、ケ艾ともども非凡な才能を持っていたらしく、
共に抜擢を受けました。
彼は司馬師の中護軍司馬となりましたが、
どうも「好色薄行」とされるようなところがあったそうで、
司馬懿にダメ出しされています。しかし司馬師はそれを庇い、その後は
業βの典農中郎将、太守、徐州刺史などを歴任。

彼は雍州方面に付いたケ艾と対照的に青州方面を任されるようになり、
諸葛誕の乱や対呉戦線で活躍。
司馬昭の死に際しても葬礼を定め、更に禅譲を魏帝に勧めるなど活躍。
司馬炎の元で大司馬となります。

と、このように石苞は晋建国の功臣の中でも優れた者の一人と言って良く、
出自を考えると破格の出世というやつなのでしょう。
そして、その末っ子が石崇です。
902怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 22:12
実は石崇を紹介したかった。

石崇はそんな父や、それなりに高位に昇った兄達に負けない人物ではありました。
父が生前に遺産分与しようとした際、石崇に分け前が無いのに対し、父の石苞は言いました。
「こいつは大きくなったら自分で稼ぐぞ」と。
20歳程度で県令となり、その後太守となり、対呉戦で功を立て郷侯になります。
晋の武帝にもその才ゆえに目をかけられました。
その後、荊州刺史、領南蛮校尉などになり、その後征虜将軍、仮節、監徐州諸軍事に。

彼を紹介したかったのはその贅沢比べの逸話の数々です。
他の貴族、王トが四十里にも及ぶ長さの錦を作ったと聞けば五十里のものを作り、
武帝が高さ二尺の珊瑚樹を王トに下賜したと聞けば、
石崇は見せてもらうとそれをぶち壊し、弁償とばかりに三、四尺のものを渡すという具合。
成り上がりの家系故にことさらに贅沢自慢したのかどうかは知りませんが、
とにかくものすごい財力だということは間違い無さそうです。

これがたまにとんでもない贅沢の代名詞として使われる事もある石崇です。
怨霊とか言う固定が、自分の知識を自慢するオナニースレはここですか?
>>903
そうですよ(^^)
905無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 22:22
>>903
たぶん違うでしょうが、あなたのような知識も見識も理性もない方が
入るべきスレッドではないことは間違いありません。
怨霊氏、続きドゾー
>>905

      怨 霊 必 死 だ な (藁


オナニーは夢板でどうぞ( ´,_ゝ`)
   彡川川川三三三ミ〜 >>1
   川|川/  \|〜 プゥ〜ン
  ‖|‖ ◎---◎|〜        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  川川‖    3  ヽ〜      < 僕のスレが荒らされてる〜。
  川川   ∴)д(∴)〜          
  川川      〜 /〜 カタカタカタ
  川川‖    〜 /‖ _____
 川川川川___/‖  |  | ̄ ̄\ \
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909無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 22:27
率直な疑問なんですが、石崇はどうしてそんなに贅沢できたんでしょうね。
よほど大規模な荘園でももっていたのでしょうか。
それとも役得で儲けたのでしょうか。
>>909
ハッテン場で稼いでいたんですよ
911怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 22:29
>>909
父からは財産を貰わなかったけど、
官にあるときにはきわどい事もしつつ財産を築いたそうです。
まず役得で儲けて、それを荘園経営にあてたのでしょう、きっと。
際どいことってどんなこと?
913怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/09 22:32
なんでも、無理に商客を遠くに遣らせた、とか。
権力を笠に着て商売したのか?
急に荒れてきましたね。
sageで
915怨霊 ◆NRtIkON8C2
もうすぐ500KBのようですね。
前はすぐ落ちましたが・・・