3
3.14
前スレの災異と三公の関係について一言。
三公が災異に対して責任を負っていたのが、魏でその役割から解放されたのですが、
これは実は三公の形骸化や無力化を表すものと言えると思っています。
天に対する責任が無くなったということは、むしろ地位の上では弱体化です。
いままでは
天→(責任)→天子+三公
だったのが
天→(責任)→天子のみ
なった、と。
言い換えれば、三公は責任能力が無いと考えられるようになっていた。
責任能力がなくなったから無力化したのか
無力化したから責任を問われなくなったのか
勤め人的に言うと、
日食とかはクレーマー。「責任者出せ!」とか言うの。
で、後漢なら三公が出て行って怒られるんだけど、
それ以降は三公が出てっても「お前じゃ話にならない!」と言われる、と。
>>7 で、三公が「話にならん」と言われる頃と尚書の権力拡大が軌を一にしてる訳ですよ。
天子の側近から発達した尚書が三公の代わりになる、と。
実は尚書が宰相化すると今度は新しい側近として中書が復活するのですが。
仕組みが良く分からないけど、一定時間の間に一定のレスないと落ちるって聞いた気が。
なので独り言してます。どれくらいしとけばいいの?
それともほっといていいのかな?
二週間に一度くらい。山崎荒らしが現れた場合のみ、なるべく早くレス。それだけ。
>>6 どちらかというと後者ではないかと。
名目上に近いとはいえ、「お前のせいだ!」と言われるうちはまだ期待されているワケで。
本当にダメなら初めから相手にされないでしょう。
制度でも政治でも思想でもないが、
なんで献帝の字は伯和なんだろう。元服前に死んだ兄貴はいなかったことになったのかな?
>>13 >兄貴はいなかったことになった
そうかもしれませんね。
特に彼らの場合は「即位の正統性」という問題が絡んでいるので、
字一つにもそういった微妙な意味合いがあったかもしれませんね。
ところで皇帝には字が必要ないのではないかと思う今日この頃。
禅譲後につけられた(名乗った)のではないかと妄想してみる。
名前といえば、王莽による「二字名の禁止」は何で後漢の時代になっても続いたのかな。
「二字名の禁止」という制度自体は新朝滅亡後も支持されていたってことなんだよね・・・?
>>16 献帝についてはおっしゃる通り禅譲後に使用したのでしょうね。
皇帝は「皇帝」または「天子」であって、タダ一人なので諱や字で呼ぶ必要がないです。
よって、前漢後漢とも字の伝わらない皇帝が多い。
宣帝とか字があるけど、宣帝はもともと皇位を継ぐべき存在ではなかったので、
若い頃のものでしょう。
>>17 そいつについては前スレでも述べた記憶がありますが、私の見解としては、
「当時の人々が二字名の禁を支持していた」でいいと思います。
王莽オリジナルなキチガイじみた禁令ではなく、
当時の儒者とかが支持する、当時の思想の一端だったのではないかと。
>>17 禁止は続いていないだろう。習慣としては続いたみたいだけどね。
後漢書に立伝された人物にも、蘇不韋、謝夷吾、樊志張、費長房などがいるよ。
春秋は二名を譏る。って説の出所は公羊伝だっけ?
酒は百薬の長。って言葉も王莽だよね、たしか。
>>21 そのようですね。
少なくとも、漢ではかなりの勢力を誇っていた春秋公羊学派はそれを知っていた訳で、
王莽敗亡後は制度としてはやめたとしても、
「二名はよろしくない」という意識は当時の知識人を中心に続いていたのでしょう。
>>22 漢書食貨志下
「(王莽)復た詔を下して曰く、夫れ塩は食肴の将なり。酒は百薬の長・嘉会の好なり。
鉄は田農の本なり。・・・」
これは、民間での流通による価格の釣り上げを防ぐ事を名目に塩・鉄・酒等を専売化し、
民間での生産を厳しく禁止する命令の前文です。
塩・鉄の専売はとっくの昔になされていましたが、酒の専売はこの時からです。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/04 12:56
保守
糞スレの中に光る良スレが一つ。
まさに玉石混交だな、日本史板でやったほうがいいんじゃね?
世界史板から出張してきました。なんか正史スレに張ってあったです。
>勤め人的に言うと、
日食とかはクレーマー。「責任者出せ!」とか言うの。
良く分かるたとえですねw
丙吉(漢の宣帝の相)は、天の観測だけしかしていなかった(ホント?)・・と顧頡剛は書いてますが
これだとクレーマー専門の官職みたいですね。苦情処理係なのか?
>三公が災異に対して責任を負っていたのが、魏でその役割から解放されたのですが、
顧頡剛は「丞相は巫者と同じ」とまで言ってますねぇ。三公と災異の関係は相当大きかったのでしょう。
私見ですが、曹操が丞相になったときはじめて災異と丞相とを切り離したように思えます。後漢王朝の中でも
曹操は災異との関係が薄いという点では、大変特異な丞相だったと思うのですね。
ところで、漢→魏の変革期には思想も変化しており、古文派が今文派に勝利しますね。
この時、鄭玄が公羊学を批判し、杜預の春秋左氏伝集解序において
古文派は災異説に止めを指しているわけですが、これが三公と災異の関係との関係に大きく影響しているのではないでしょうか?
>>25 もしかして世界史板のことでしょか?
まあ、ここは「三国志」をより理解する上での制度やら何やらを解説・考察しちゃおう、
って趣旨なもので、三戦板でないとあまり意味無いかもしれませんので。
確かに多少その趣旨から外れ気味な時もあるかもしれませんが、
できる限りこの趣旨に沿っているつもりです。
今後ともヨロシク。
>>27 どうも。そういや以前にあそこで前スレが出されてましたな。
>丙吉(漢の宣帝の相)は、天の観測だけしかしていなかった
これは、少なくとも私の理解では言い過ぎです。
丙吉の「人のケンカはほっといて牛が倒れている(災異)のには反応した」ってエピソードを
拡大解釈したものじゃないかと。
その前後、丞相は名実ともに宰相として政治を取り仕切ってますよ。
自分の領地の境界確定で不正をしたということで罷免された丞相もいました。
(匡衡だったかな?)
これなどは丞相が実際に境界確定の仕事に携わっていないと出来ない訳です。
天に対するクレーム処理(?)的な役割もあったでしょうが、
これは「実際に丞相が責任者なので怒られる」のだと思います。
>古文派が今文派に勝利
なるほど、
今文派(春秋公羊伝)=災異による三公罷免を支持
古文派(春秋左氏伝)=災異と三公の関係を否定
ということですかね。
実際の思想がどうだったのかは詳しくないですが、曹丕は今文派に与したって事ですね。
>これは、少なくとも私の理解では言い過ぎです。
丙吉の「人のケンカはほっといて牛が倒れている(災異)のには反応した」ってエピソードを
拡大解釈したものじゃないかと。
回答ありがとうございました。やっぱり言いすぎですか。
顧頡剛は偉い学者ですが、時々極端に断定的な物言いをしてしまうので不安だったのです。
やはり、詳しい方に聞いてよかった。
>今文派(春秋公羊伝)=災異による三公罷免を支持
古文派(春秋左氏伝)=災異と三公の関係を否定
ということですかね。
そういうことだとおもいます。
所で、公羊学の災異説ばかりではなく、二字の禁にも鄭玄は反対していたフシがあります。
鄭玄の子は益恩、孫は小同(益恩没後の子で、漢晉春秋によれば名付け親は鄭玄)と、
いずれも二字です。やはり公羊学に対する対抗意識になせる業でしょうか?
>>30 少し前までの制度研究史では、
「領尚書事霍光の登場以来丞相の職務が形骸化し、
災異の時に責任を取らされるだけのものになってしまった」
という説が唱えられていたようです。
(むしろ顧頡剛あたりが言い出しっぺか)
私の知る範囲内でもこれは否定的になっていたと思いますが、
実際前漢では丞相の職務と責任は非常に重いものでした。
前漢末期頃にも、あの外戚王氏を追い落とした丞相翟方進、
あるいは皇太后の詔を下に送らずに突っ返した丞相王嘉などがいます。
ところで
>>29で私一箇所間違えてました。
曹丕は「古文派」ってことになりますね。
>二字の禁にも鄭玄は反対していた
これは知りませんでした。面白いですね。
名前一つにも当時の思想とかが現れてますね。
前スレではすげく勉強になりますた。
郭嘉の就いた軍祭酒など、思い付きで自分サイトに文章のっけたのが恥ずかしいなぁ。
ところで前スレから数えて数百レスほど遅いのですが。
黄巾賊による争乱前は左中郎将などそのまま左将軍と読み替えても可笑しくなかった
くらいなのに、どうしてこうまで中郎将は価値が下がってしまったのだろう。
やはり李カク・郭シ政権のやたら将軍職を任命したつけなんだろうか。
袁術がやたらと中郎将を量産したことがあるんだろうか。
答えが霊帝の時、外征する将軍の下に中郎将をつけたところにあるとかだったらやだなぁ。
ということをレスがあって以来つらつら思いました。流れ切ってごめんね。
ではまた再来月あたりでも(おぃ)
将軍や校尉の価値は下がらなかったの?
正規の将軍と雑号将軍とではやはり違うのでは?
>>32 軍祭酒については私も憶測に近いので、今後も調べてみます。
中郎将といい、将軍といい、明らかに価値は下落していますね。
かろうじて大将軍クラスがほぼ現状維持なくらい。
献帝前後に雑号将軍等が各地で乱発されていること、
また中郎将があたかも将軍の下位クラスか何かのようにこれまた乱発されている事が
それぞれの価値の下落を生んだのでしょうね。インフレですな。
霊帝期、黄巾らの討伐に出た中郎将は、
むしろ禁軍を派遣するといった意味合いがあったように思っていますが、
例えば荊州で黄忠だの諸葛亮だのがなっていたのはそういう意味は無さそうですし。
結局ほとんどの官位は、
時代と共に価値の下落または変質が起こり、新たな官位が出現して取って代わる、
という繰り返しですから。
(例:皇帝の側近官の歴史
御史→尚書→中書)
現在の軍隊の階級に当てはめると将軍=将官・中朗将=佐官・校尉=尉官ってとこ?
それとも組織形態が全然違うのかな。
武官・文官といった明確な線引きはないけど、後漢では
将軍=大・驃騎・車騎・衛・前・後・左・右の8将軍のみ。
中郎将=郎(朝廷の下っ端役人)を統率する。
校尉=多分純粋な武官。中央軍である五校尉がある。
+
対異民族軍を率いる匈奴中郎将・烏丸校尉・度遼将軍ら諸々が辺境に常駐。
地方反乱のときに応じて任官するのが主だったのが、
後漢末の混乱とともに将軍・中郎将・校尉らが量産された。
面白いのが曹操の屯田官にも中郎将・校尉の名前がつけられてる。
そういや張飛って、曹操から中郎将に任命されたことあるよね。
>>36 本来はそれぞれ別の命令系統を持っており、
いずれも皇帝直属ですね。
(但し、大将軍の率いる兵は5つ中隊に分かれ、
それぞれの中隊長として部校尉が置かれています。これは大将軍直属)
とはいえ後漢末(三国時代)では事実上中郎将が将軍の指揮下にあったり、
将軍がより上位の将軍(「督諸軍事」などと付く)の指揮下にあったりしていたようです。
基本的な構成は
>>37のような感じですね。
ただ、中郎将が統率する「郎」というのは一応宮殿の護衛兵みたいなものです。
官僚制度全体から見れば下っ端には違いありませんが、
地方の小役人とか兵卒とはまた違う存在(雲の上の存在か?)ですね。
>>38 なってますね。
劉備の部下だった事を考えれば大した出世と言えるかもしれません。
>>36 >現在の軍隊の階級に当てはめると将軍=将官・中朗将=佐官・校尉=尉官ってとこ?
後漢末の軍職を有していた軍権、就任人物の官歴などから類推して、
近代軍の階級に当てはめると、こんな感じになります。
大将軍 元帥 (国軍総司令官・統合参謀本部議長格)
上軍校尉 元帥 (国軍総司令官・統合参謀本部議長格)
驃騎将軍 元帥 (軍集団司令官格)
車騎将軍 元帥 (軍集団司令官格)
衛将軍 元帥 (軍集団司令官格)
前将軍 大将 (方面軍司令官格)
後将軍 大将 (方面軍司令官格)
左将軍 大将 (方面軍司令官格)
右将軍 大将 (方面軍司令官格)
度遼将軍 中将 (方面軍司令官格)
雑号将軍A 中将 (方面軍司令官・軍司令官格)
雑号将軍B 少将 (師団長格)
匈奴中郎将 少将 (師団長格)
護羌校尉 少将 (師団長格)
烏桓校尉 少将 (師団長格)
右中郎将 准将 (旅団長格)
左中郎将 准将 (旅団長格)
羽林中郎将 准将 (旅団長格)
虎賁中郎将 准将 (旅団長格)
西園八校尉 准将 (上軍校尉除く。旅団長格)
北軍五校尉 准将 (旅団長格)
中郎将 准将 (旅団長格)
雑号校尉 大佐 (連隊長格)
校尉 大佐 (連隊長格)
司馬 大佐・中佐・少佐 (場合により変動。連隊長・大隊長格)
なお、黄巾討伐時の右中郎将・左中郎将・北中郎将・東中郎将は、
准将ではなく、軍司令官・方面軍司令官の中将格と思われます。
この四中郎将はいずれも節を有し、数万の兵を率いており、
通常の中郎将を凌ぐ大きな軍権を有していたと類推されるからです。
特に北中郎将となった盧植の伝記には、
「護烏桓中郎将宗員を副将とし、北軍五校尉の兵を率い、
天下の諸郡の兵を徴発して、遠征に赴いた」とあり、
黄巾討伐に派遣された4人の中郎将の軍権の大きさを伺わせるには十分なものがあります。
>>40 四将軍より下位なら
度遼将軍と四征将軍クラスが頭一つ抜けてるわけね。
青キタ━━━━(Д゚(○=(゚∀゚)=○)Д゚)━━━━━!!!
>>40,41
おお、お久し振りです。
私はこのところ見かけてなかったんですがお元気でしたか。
黄巾討伐の時の中郎将は特殊ですね。
なぜ将軍でないのか少々不思議です。
民衆叛乱に焦って将軍増員すると、王朝の危機みたいに思われてアレなんじゃない。
>>45 なるほど。分かる気がしますね。
実態は臨戦状態でも、「災害派遣」とか言っておかないと周囲の動揺がコワイ、と。
遅レスだが、東洋文庫の中国民衆叛乱史って本の注釈の「祭酒」の部分には
>本来は会合や宴会の前に酒を神々に祭る儀式をとり行なう年長者をいう。
>一般に同列中の長老や首席をさす尊称であり、漢代では官名にも用いられた。
とあります。
>>47 情報アリガトっす。
祭酒については、「主」に対する「賓客」だという点がミソだと思います。
「主」にとってはもてなすべき存在なのです。
(その注釈では「尊称」と表現してますね)
だから郭嘉のなった軍祭酒も、曹操の敬意がこもった参謀職だと解釈しました。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/06 04:36
質問です。
前スレからいろいろ拝見して勉強になります。
ところで、漢の一番偉い「天子」は主に何をしていたのでしょうか?
その中の一つに、「祭祀」をしたという供述が稀に見るんですけど、これは一体どういうことなのでしょうか?
ちょっと漠然な質問で申し訳ないんですけどよろしくお願いします。
「鶏肋」喰らう可能性があるから、良スレは
無闇にageちゃダメだよ。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/06 04:57
その通りだ。
>>49 天子の仕事は、一般には詔を出すことと祭祀を行う事でしょう。
詔は現代でいえば憲法のように最高の命令で、基本的に他の命令に優先しますし、
律令自体もこの詔として出されます。
で、祭祀というのは二つに分かれます。
1 天、地、その他の神々を祭る
2 自分の祖先(宗廟)を祭る
この当時は、大雑把に言えば神々の祟りや天譴が大いに恐れられる時代であり、
例えば大地の神(社稷)を怒らせれば作物が取れなくなり、
黄河の神を怒らせれば黄河が氾濫する、と信じられていました。
そういった神々を、中国に住む人間を代表して祭り、鎮める責任者が天子という感じでしょう。
また自分の祖先は死後の世界である種の神になるというのが彼らの思想だったので、
祖先たちが怒らないように祭り、お供えを欠かさないようにしなければなりません。
天子の祖先神を怒らせたら天子が大変な事になり、
ひいては中国全体が大変な事になるので、
天子の祖先神も一種の国家的行事として祭るのです。
祭祀とかその裏にある思想的な面は正直自信ないですが、こんな感じでしょうか?
そういえば宗廟の事は今まで出てなかったかも。
宗廟とは祖先を祭る廟の事です。
廟の中には祖先の位牌(のようなもの)があり、お供え物を置くのです。
祖先一人に一廟ですが、
ずっと作っているとキリが無いので天子の場合でも廟は七つで打ち止めです。
これを天子七廟といいます。
では八つ目になったらどうするのかというと、
確か初代(=太祖)以外で一番古い廟の位牌を太祖廟に置いて、
廟そのものは取り壊し、さらに一つずつ廟の順番を繰り上げて新たな廟を作るのです。
しかし例外があり、特に優れた天子の祭祀を絶やさないようにと、
特別に廟号を立ててその廟は何代経っても壊さないようにしました。
その例外の廟号が「太祖」(初代)「太宗」「世宗」などです。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>怨霊さん
ご返答ありがとうございます。
引き続き天子の質問についてよろしいでしょうか?
天子が崩御した時に諡号が送られるじゃないですか?
「高祖」とか、「武帝」とか「献帝」とかいうアレですね。
あれって、どういう基準で送られるんでしょうか?
「武帝」とか「文帝」は分かります。
「武帝」なんかは外征や軍事的なことを指揮したイメージがあります。
「文帝」も政治にうまく携わったイメージもあります。
「恵帝」や、「少帝」なんかも理解はできます。
「恵帝」は本人はともかく、国家にとって都合の良い「軽い神輿」だったんではないかと。
「少帝」なんかは、若いミソラで亡くなっちゃった感じかと思うのです。
でも「質帝」とか「霊帝」あたりになると、なんでこんな諡号になったんだろうかと疑問に思うのです。
諡号はどんな基準で送られるのか教えていただけませんでしょうか?
できれば前漢〜西晋あたりまでの、それぞれの皇帝の場合を挙げてくれると嬉しいです。
教えてクンですいません。よろしくお願いします。
霊帝は「乱れはしたが、自分の代で国を滅ぼすほどではなかった」
というような意味らしいです。
『逸周書・諡法解』に詳しく載ってますよ。
あと、どこかに字と諡を解説したスレがあったはず。
dat落ちしてたかな?
tp://www.toride.com/~fengchu/sigou/jiten.html
↑
ここ読めばだいたいわかるよ>諡号
>>57 少帝(劉弁)てのは便宜的にそう呼んでるだけで正式に贈られた諡号じゃないんじゃないかな。
史書では退位後の位で弘農王となってる。
基本的に帝位のまま死なない場合は帝位を贈られなくて、
後は献帝のように政治的理由の絡む場合は贈られるんだと思う。
>>49 60です。連続スマソ。
祭祀や封禅については「秦漢帝国」という本に結構詳しく載っている。
三公など主要官職が前漢〜後漢までにどういう変遷で登場したのかとかも載ってる。
>>57 一つ一つについては
>>58、
>>59を参照して下さい。
あと、もしかすると誤解している人もいるでしょうが、
>>60のとおり、「少帝」ってのは諡ではなく通称ですね。
(ミヤギタニー氏の三国志での記述はそこを理解してるか怪しかったような・・・)
アンド、漢の場合でいうなら「高祖」も諡ではないです。
廟号でもないです。
劉邦は諡「高皇帝」、廟号「太祖」。
「高祖」は諡と廟号を合体させた通称です。
少帝は、若くして廃位されたりして諡での呼び名が無い場合などに使われるようですね。
また廃位等になった皇帝の呼び方にはもう一つ、
即位前の称号や廃位後の称号を使う場合もあります。
(三国志の三少帝紀の三人は全員これですね)
諡法解には「少」の字は無いな。
劉辨の諡は弘農懐王だね
あれ弘農は余分か・・・
「諡」には「王」も余分だと思われ。
で、称するときに「王」などを付して「懐王」と為り、
また封国を頭につけて「任城威王」などとも呼ばれる、かと。
>>57 「柔質慈民曰恵」
「乱而不損曰霊」
「名実不爽曰質」(諡法解)
>>66 まあ厳密に言えばそうなりますね。
ちなみに漢の皇帝の諡は劉邦以外は二文字です。
「孝文」「孝献」など「孝」が付きます(「光武」以外)。
この「孝」は親孝行の「孝」。
父祖の祭祀を守った孝行者、みたいな意味合いでしょうかね。
(だから初代の劉邦と実質初代の光武には無い)
また、「諡法解」などに見える意味の他に、
言外に別の意味が込められている場合もあるようです。
例えば献帝の「献」は諡法解での意味とは別に「帝位献上」の意味でしょうし、
前漢の昭帝は最後までずっと霍光に実権を握られていました。
霍「光」と「昭」帝。どっちも似た意味・・・?
ついでに劉備の「昭烈」は「昭」=「光」、「烈」=「武」で、「光武」を意味しているんだとか。
「劉備は2代目光武帝。中興の祖」って意味が込められてるんですね。
>>61 講談社学術文庫の「秦漢帝国」西嶋定生のことかな?
少々厚くて高いけど、今でも普通に入手可能だった筈だしオススメ。
もちろん最新の内容ばかりではないですけどね。
あの時代の概説書としては良いものでしょう。
なお著者は秦漢の二十等爵研究で一時代を築いた大先生。
ところで、前スレよりずいぶん人口増えて進みも早い気がするなぁ。
いや、良い事なんですけどね。
何が理由かなぁ、と。
個人的には、漢や三国時代の制度なんかは
宮崎市定「九品官人法の研究」中公新書
西嶋定生「秦漢帝国」講談社学術文庫
の二点をチェックするのが良さそうと思います。
どっちも中国史研究史上にその名を残す大物で、
初心者向けにそれなりに分かりやすく書かれています。
また文庫なので(どっちも1500円くらいしますが)
それなりに安価ですし、まだ絶版ではなかったと思いますし。
>>68-69 そうそうそれです。手元になかったのでうろ覚えに書いてしまった。
「九品官人法の研究」も面白いね。これらとちくま三国志の官職表があれば官制はかなり理解できるのでは?
俺は値段は2000円きるのに内容はかなり詰め込んでると思う。
諡号にある「王」やら「侯」やらいうのは生前の封爵に沿ってる?
ちょっとスレ違いかもしれんのですが
字(あざな)についてちょっと質問です。
親しい人同士は字で呼び合い
形式的な場などでは
姓+官位、爵位で呼ぶって事でいいんですよね?
ニックネームみたいなもんと考えればいいのかな?
字が無い人とかかは、どうやって呼ばれてたりしたんですかね?
今はわかっていないだけで当時はきちんとあっただろ
字があるのは士大夫階級以上ですよぅ。
あざなは成人者をあらわし、また尊卑を明らかにするなどの役割をもち云々
ニックネームよりは重々しいものだったんじゃないかね。
まずごめん。
>>69の宮崎市定「九品官人法の研究」は中公文庫だ。
万が一新書を探してたひと居たらゴメンなさい。
>>71 大体そんな感じでしょうかね。
なお上奏文なんかでは
「臣」+(姓)+諱
だったり。
字は、諱は「忌み名」としてお互いにむやみに口にするのを憚るので、
それに代わるものとして存在すると思われます。
確かにニックネームよりは重い意味合いですね。
字は言霊信仰からきたものだとなんかで読んだ。
つまり本当の名を使って災厄が起きることを防ぐためにつけられた仮の名前。
>字があるのは士大夫階級以上ですよぅ。
士大夫というのは微妙な言い回しだな。劉備とか比較的下層出身者にもあったところを見ると
下流豪族やその親戚縁者レベルならついてたってことかな?
>言霊信仰
三国時代の人も信じてたんだろうか?
言霊信仰というか、
「諱はむやみに口に出すもんじゃねぇ」
ってのは浸透していたでしょうね。
基本的な教養として。
破ったら災厄が起こるぅぅ・・・みたいなのは流石に感じていたかどうか・・・。
ただ、無礼な行為だという意識があったから字が使われつづけたのでしょうし、
皇帝の諱に至っては犯すと犯罪でしたから、タブーとしては認識してたでしょう。
ただ、漢の宣帝は父の諱を平然と口にしていたので、
どこまで真剣に守られていたのかは不明?
>>76 士大夫階級っていったのはその辺の下級豪族なんかを含めた
グループを指すつもりで言ったのですが…かえって
解りづらかったですかね。
ちなみに、実際の「士大夫階級」はたしか5世紀前後に現れてきます。
余談。劉備の字「玄徳」はおそらく老子から。老子の書に「玄徳」という言葉がある。
曹操の字は荀子『勧学編』に「徳操」という言葉があって、これを
名と字にわけたものと思われる。
字一つにもそれぞれの思想のようなものが現れてますな。
>>70 諡の「王」とか「侯」は、普通は生前の爵位ですが、
死んでからの追贈というのもあります。
曹操の「魏武帝」なんてのがそれです。
>諡の「王」とか「侯」
というか、
諡が付く爵位の「王」とか「侯」
とすべきだったかな。訂正。
>>78 名を口にすることがどれだけの意味をもつかについては、
比較的有名なところでは、司馬朗の伝などもそうでしょうか?
あと思ったのですが、諱だと既に死んだ人間の名になりませんか?
生前の場合は、名でよかったとも思ったのですが……
まぁ、うろ覚えなんで、どこまで確かかはわからんです。
>>82 ふむ。司馬朗伝の記事は
「(司馬朗)九歳にして、人其の父の字を道う者有り。
朗曰く、人の親を慢る者は、其の親を敬わわざる者なり。客之を謝す」
ですね。
ここの「字」って、「あざな」(=司馬防のあざな「建公」)なんでしょうか。
それとも「諱に使われている文字」(司馬防の「防」)なんでしょうか。
正直解釈に苦しみますね。
「あざな」だとすると、かるがるしく「あざな」で呼ぶのも無礼だったことになりますね。
ある程度の仲で無いと「あざな」で呼ぶのも憚られていた?
あと、確かに本来は(周までの制度では)確かに諱は死後の名前の事らしいですが、
前漢宣帝は自分の名前を変える時に自ら「諱」と称しており、
この時点で既に生きている時の名前を「諱」と言っていたようですね。
類似した内容の常林伝では「伯先在りや否や?」となってるんで、あざなで間違いないのでは?
八達とか、いかにも狙ってるようなあざなって親が付けてたんじゃないかと思うんですがどうでしょう?
>>84 ありがとう。確かに似た話だね。
息子に向かって父を字で呼ぶのも好ましくないんだね。
ましてや諱なら・・・
>>85 字は自分で付ける場合と他の人が付ける場合があったのかな。
何度も宣帝ばかり出しますが、
漢宣帝は孫、後の成帝に「太孫」という字を付けたそうです。
三国時代では「誰かが命名した」というケースはあったのでしょうか。
実例は知らないので補足か反論プリーズ。
王昶伝に「兄の子およびわが子に名と字をつけてやる場合、すべて謙虚と質実をそなえたものを選び〜〜」
とあるね。
>>87 ありがとう。
この話からすると、
むしろ親や一族内の年長者あたりが子供に諱と字を同時に付けていたのが
普通だったのかな?
逆にトウ艾伝だと陳寔を称する碑文を読んで自分の名と字を決めたりしてるけどね。
おお。
じゃあ自分で付ける、親とかが付ける、両方あった、が正解?
ケース・バイ・ケースだろうね。家によって考え方も違うだろうし
>>88 司馬・夏侯氏なんかの順序(伯・仲・叔など)+同じ文字(権・達)
なんかは統一されてるので親や族父が付けたんだと思う。
あと曹真なんかは曹操の子供達によく付けられてる「子」の字があるから
曹操が一族にしたときに付けたのかと。「子」という字を使う例が多いのでそうとも限らないか。
命名とかの事はよく知らなかったので勉強になるなぁ。
ケ艾は12歳で諱「範」、字「士則」を名乗っているのですが・・・
(後に親戚とかぶっていたので「艾」「士載」に改名)
それまでは小字とかで呼ばれていたのでしょうかね?
それまで諱もなかったんでしょうか。
彼は農民だったようなんで、上流階級の人とはまた違うかもしれませんが。
司馬氏…伯仲叔季顕恵雅幼
夏侯氏…?仲叔季幼稚義
馬氏…???季幼
荀氏…伯仲叔光孟明恵幼
孫氏…伯仲叔季(孫静の子も同じ)
思いつくのがこれくらいだった。大体が季までは同じみたい。
生母とか分かればもっと詳しく分かるだろうけどそこまでは…。
字の順番文字(?)て何か出典とかあるんだろうか?
規制が・・・。
伯仲叔季については、
例えば論語微子篇の
「周に八士あり。伯達、伯カツ(ぎょうにんべん+舌)、仲突、仲忽、叔夜、叔夏、季随、季驕」
などに順番になっているように、古代より使われている兄弟順です。
(なおこの八士は4組の双子兄弟だという説がありますが正体不明)
劉邦の兄弟も(叔は無いですが)この順番で字を付けています。
幼、稚は兄弟順が遅い子供(上の兄弟から見れば幼いですから)の意味でしょう。
また孟は白虎通姓名篇に「適長は伯と称す」「庶長は孟と称す」とあり、
庶子の最年長を孟と言ったようです。
なお、白虎通は後漢の班固らが勅命で編集した、
五経の異同をチェックしたある種の百科事典的な書。
そういえば曹操は字「孟徳」ですね。
曹操自身は庶子だったのでしょうか?
曹嵩の妻は丁氏(文帝紀より)だそうですが、
もしかして曹操の生母は他にいたのでしょうか?
但し、「母は子が尊くなればあわせて尊くなる」という考え方があり、
曹操の生母は曹操(と曹丕)の存在によって曹嵩の正夫人に格上げされても
不思議ではないのですが・・・。
そういや曹昂の母も曹操の正夫人丁氏ではありませんでしたね。
この辺、誰かご存知の方いましたら教えて下さい。
今気付いたけど前スレ落ちてたのね。
安らかに眠れ前スレ。
単純に、嵩が養子だから、併せて曹操も庶子扱いになったのでは?
そんな簡単な話ではないのかな。
話がズレるかもしれませんが、
曹操は父の本姓、実母の正体、どっちも厳密には不明ですね。
父曹嵩の本姓が夏侯氏だというのも注で引かれているだけですし、
曹嵩の妻丁氏が曹操を産んだ事が明記されている記事が見つかりません。
(私が見つけられないだけかもしれませんが)
曹嵩については、例の陳琳の檄文(三国志袁紹伝注引)によると
「父嵩、乞カイ(亡+勹)携養」
などと書かれていますね。
意味は「父曹嵩は(曹騰)が乞食を連れて行って育てたもので・・・」って感じでしょうか。
このように曹嵩は身分・経済状況が相当低い者を曹騰が養子にしたものだ、
という認識が少なくとも当時のいわゆる士大夫の一部にはあったと思われます。
そんな彼が夏侯氏だったとすると、
夏侯惇・淵らの家も乞食扱いされるような家だったのでしょうか。
三国志では夏侯惇らと曹仁らは同じ巻に立伝されていますが、
曹仁や曹洪の父祖や近親に高位高官の者がいる(大宦官曹騰の親族ですから)一方、
夏侯惇らは父祖の事跡が伝わっていません。
夏侯氏と曹嵩の出自は魏にとって隠しておきたい暗部だったのでしょうか?
制度とか関係無いですが、気になります。
惇や淵は夏侯嬰の後裔ではないの?
>>99-100 夏侯惇らの先祖とされる夏侯嬰は汝陰侯(汝南郡に属する)で、その子孫も爵位を受け継いでたけど
子孫が父親の愛人と姦通したので封地が没収。宣帝の頃に再び汝陰侯に返り咲いたみたい。
で、汝陰侯がこの後夏侯氏で通したのかどうか不明だけど、王莽が諸侯を廃したときに空位となったのか
汝南劉氏の一人(劉秀の族子にあたるのかな?)劉信という者が汝陰王になって後に侯に降格している。
夏侯惇の本籍が曹氏と同じ沛国なので戦乱に巻き込まれたか、没落したかで
汝南郡から本籍を移したと見るのがいいのかな?
そもそも夏侯氏でも「先祖が夏侯嬰」とは限りません。
沛人なので全くの無関係でもないでしょうが、
「夏侯嬰と夏侯惇たちの先祖が遠い親戚だった」くらいの関係程度かもしれません。
(「曹氏の先祖曹参」にも言えます)
漢書高恵高后文功臣表によると、
宣帝元康4年に長安に住む「大夫」信が復除(税役免除)の恩典を受けていますね。
しかしこの「大夫」ってのは漢の爵位でも低い方で、
夏侯嬰の一族の没落を感じずにはいられません。
その上、平帝元始2年の功臣の子孫へ関内侯プレゼント祭りでも、
あって良さそうなものなのに夏侯嬰の子孫に関内侯が与えられた形跡がありません。
まともな子孫が見つからなかったのかもしれませんね。
要するに、夏侯嬰の子孫だとしても、前漢末で既にこのありさまですから、
立派な家柄だったという保証にはなりませんし、
そもそも夏侯嬰の400年後の子孫なんて証明できない状態じゃないのか、
と思われるのです。
ついでに、漢書夏侯嬰伝によると、
夏侯嬰の末裔は「孫氏」を名乗ったという記録があったりします。
この時点で、夏侯惇らは夏侯嬰の子孫だとしても分家筋だということになりますね。
長々と書きましたが、言いたいのは
「夏侯嬰の子孫だなんてフカシだから」
という点に尽きます。
代々列侯位を守ってきたか、代々高級官僚として名を残した一族でもない限り、
到底信用できる家系図にならないという事です。
魏晋南北朝時代あたりでは仰々しく何代も前の先祖達を書き連ねていたりするようですが、
これはおそらく自己申告による貴族達の家系図の受け売りであり、
漢あたりまではデタラメが多いと思った方がいいです。
>>103 101を書いたものです。
ちょっと強引に繋げてしまいましたね。すみません。
>>104 いや、批判や攻撃のつもりは無かったです。
私の文が批判っぽくなってたようで、こちらこそ失礼しました。
ただ、後漢以降によく出てくる「誰の後裔だ」なんてのは、
真偽について疑ってかかるべきだと思います。
もちろんこの夏侯惇らのケースでも、もしかすると本当に夏侯嬰の子孫かもしれませんが、
「夏侯惇たちが自称している」という域を出ないのです。
他の証拠が無いですから。
名族と言われるような連中が、
争うように歴史上の同姓の有名人を自分の先祖に仕立て上げていったのが、
おそらく後漢から三国時代あたり以降じゃないでしょうか。
夏侯氏の事例は、その一つのサンプルかもしれません。
>>105 いやいや、自分も疑ってはいたのですが最後の2行はノリで書いてました。
>>101はあくまで夏侯嬰の封爵である汝陰侯の流れだけのスレと見てください。
>ただ、後漢以降によく出てくる「誰の後裔だ」なんてのは、
>真偽について疑ってかかるべきだと思います。
「張良の子孫だ」なんてのは何人もいるし、劉備・孫堅の場合は言うに及ばず、ですしね。
>>106 書いてました→書いてしまいました
の間違いです。
>>106 >劉備・孫堅の場合は言うに及ばず
そういうことです。
孫氏など、本人達が「俺は孫武の子孫だどー」
とかマジメな顔で言っていたら当時でも失笑されるだけだったんじゃないでしょうか。
曹・劉・孫どのケースも、家柄の箔付けと
「俺は身分の低いヤツじゃないんだい!」という言い訳で自称したのが真相では?
ところで汝陰侯が漢の宣帝の時に復活したってのは何処に書いてありました?
私は探せなかったので良かったら教えて下さい。
孔融は本物の血筋?
>>108 >汝陰侯が漢の宣帝の時に復活した
これは自分の勘違いミスでした。重ね重ねすみません。
>>109 多分本当。
孔氏については、私が言ったところの
「代々列侯位を守ってきたか、代々高級官僚として名を残した一族」
に該当すると思います。
(孔氏直系は褒成侯だし、孔融の父も官僚だった。ウソ経歴書いたらすぐバレるでしょう)
>>110 それならいいのです。ありがとう。
何か別資料があったのかなと思いまして。
>>112 その辺の家系図関係のいい資料てないですかね?
まがい物とか多そうですけど。
荀子の子孫(潁川荀氏)てのも多分本当ですね。
>>113 漢文ですが、「新唐書」宰相世系表なんてのがありますね。
穎川荀氏が荀子の子孫ってのは、孫堅が孫子の子孫ってのと同レベルですね。
孔子の子孫は、孔子の教団がある程度固まっており、
孔子死後も子孫は子思など孔子教団の教祖的な存在だったらしく、
史記孔子世家に子孫の名が残っているので信頼性はありますが、
荀子はどうでしょうね。
荀子本人は趙人で、葬られたのは蘭陵。穎川との接点も少ないような。
>「新唐書宰相世系表」
いい資料・・・ か?(´,_ゝ`)
孔子の系図は今も続いているらしいですね。
>>115 ほかに思いつかなかったもので。
後漢、三国以来ずっと続いている名族たちの「自称」系譜がまとまってるんで、
真偽はともかくそんな名族たちが誰の子孫と自称したか、
とか分かり易いかと思ったんですよ。
いい資料とは言えないかもしれませんね。
誰か113氏と私に教えて下さい。
>>116 孔子の直系は代々封建されていましたから、時代を越えてえんえんと続いたのです。
>>114 真偽はともかくとして、面白そうですねその本。
荀子>
あ、そうなんですか。
そういえば三国志の荀ケ伝や荀攸伝には記載がありませんでしたね。
後漢書のあやしさを再確認しました。
>>118 後漢書は編者が六朝時代、宋の范曄です。
この時代は貴族全盛の時代であり、
貴族たちはみなしかるべき人物を先祖に仕立て上げていました。
范曄が後漢書編纂の参考にした資料の中には、
そういった家系図やなんかも含まれていたでしょう。
こうして後漢の当時は存在しなかったかもしれないような家系図の内容が、
范曄の手によって逆輸入されたのだと思います。
とはいえこれは范曄が悪いとばかりは言えないでしょう。
当時は「貴族の先祖はエライ人」が常識だったのでしょうから。
119を自分でもうすこし解説するとこういう事です。
晋の楊駿は弘農郡華陰の人。
また弘農郡華陰ってのは後漢の楊震から楊修までの楊氏の出身地です。
で、楊駿以降の楊氏は自分と先祖たる弘農郡華陰の楊氏に箔をつけるため、
「楊氏の先祖は楊敞(前漢丞相)」
「楊氏の先祖は楊喜(項羽の死体持ち帰り)」
といった先祖捏造を図ったことでしょう。
そうすると同じ弘農郡華陰楊氏たる楊震らも同じ先祖だった事になりますから、
この捏造先祖が公式化した宋の范曄にとって、楊震の先祖は楊敞・楊喜なのです。
権力持った人が系図を捏造したことにより、
本来の子孫が迷惑をこうむったりすることってあったのかしら?
それとも自分たちもエライ人の子孫だなんて
知らない人が殆どなのかな?
時代が下っちゃうと。
>>121 具体的な例はちょっと覚えが無いですね。
ただ、家督だとか正当な後継者とかいったものを争う訳ではないですから、
そんなに深刻な問題にはならないかも。
また、誰が本当の子孫か分からないという問題もありますね。
みんな「自称子孫」だってことで。
なお、系図を捏造したハシリは孔子と司馬遷だと言って良いでしょう。
孔子または孔子の使徒達は孔子が殷湯王の子孫だと言い、
また司馬遷は自分のはるかな昔の先祖も史家だったんだと言っています。
「捏造」と言い切ってしまうのは問題ないですか?
問題ないだろう。それが罪だとも言ってないし。
いや、実際に子孫だった可能性も0%ではないだろうと思ってさ。
>>123 確かに捏造でない場合もあったでしょうし、
例えば曹操なんかも本貫は確かに曹参・夏侯嬰を輩出した沛ですから、
それぞれずっとたどる事が出来ればどこかで関係が見つかったかもしれません。
ただ、すくなくとも六朝貴族のケースでは明らかに誤った系図を作っていたりするので、
意図的な粉飾が入っていないほうが珍しいと思います。
>>120で挙げた弘農郡華陰の楊氏がイイ例でしょう。
>「楊氏の先祖は楊敞(前漢丞相)」
>「楊氏の先祖は楊喜(項羽の死体持ち帰り)」
楊敞、楊喜はそれぞれ前漢で列侯になって漢書に名を残す人物ですが、
(余談ですが楊敞の子供が司馬遷の外孫、楊ツ)
楊敞の伝のどこにも楊喜との血縁関係を記していません。
弘農郡華陰の楊氏が、楊敞と楊喜という大物を先祖に仕立て上げるために
勝手に両者を血縁関係にしたとしか思えないのです。
「意図的な粉飾が入っていないほうが珍しい」というよりも、
「明らかな捏造を多く作ってしまった」といった方が、この場合は説得力がある。
蛇足ですが、前漢末には既に家系粉飾の風潮が見られます。
漢書張湯伝に、張湯(漢武帝の時の酷吏)と張良は先祖が同じだという説がある、
と言っていますが、班固は司馬遷はそんなこと言っていないので自分も取らなかった、
としているのです。
司馬遷も班固も、(自分の家以外の)家系図は怪しいシロモノだと認識していたのでしょう。
ちなみに、
司馬遷・班固は他人の列伝ではこういった厳しい目で資料批判するくせに、
自分の先祖は由緒正しい周の史官だったとか、
(「司馬」という姓からすればむしろ軍人の可能性の方が高いと思うけど)
楚の令尹子文だったとか、
(班氏は代方面の人です)
けっこうムチャを言っています。
馮商の説に司馬遷がふれてないことや、班固がそれに倣ったというのは
>厳しい目で資料批判
には当たらないのでは?
>>94 亀レスですが、補足・・・
董氏…孟仲叔(董卓)
馬氏…孟??(馬超)
張氏…孟?(張バク)
>>130 よく考えてみればそうですな。班固は司馬遷に従っただけか。
漢書は王莽政権下にいた人物の事を隠蔽したりといった問題もなきにしもあらずな
史書だったりもするんですよね。
あと関係無いけど、司馬遷は宮刑、班固は獄死、范曄は誅殺されてるんですよね。
>>131 「孟」が庶子というのは古制の話なので、
もしかすると三国頃は庶子・嫡子あまり関係なかった可能性もあるのかもしれませんね。
後ろの字との音やリズムで選んだ、って程度かもしれないし。
書き忘れましたが班固も孟・仲でしたね
>>133 ちゃんと調べてないですが、班固と班超は同い年だと聞きました。
班固は非嫡出で、班超と別の母から同年に生まれたんですかね。
>>132 馬超の場合、父・馬騰には兄がいませんでした?
馬岱はその兄の子だったような…
孫策の場合も、同様な疑問があるけど…
正直、「伯」と「孟」の使い方については私は良く分からないというのが正直なところです。
知っている人、教えて下さい。
さて、何かネタを探すか・・・
137 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 21:05
笑うとかわいいよ
>>137 ありがとう
さて、ここいらで漢の諸侯王でも語りましょうか。
諸侯王ってのは「中山王」とか「陳留王」とか言うヤツです。
身分的には皇帝の次と言えます(もちろん皇帝との間には越えられない壁がありますが)。
例えば劉備の先祖とされる「中山靖王」は前漢の中山王で、諡「靖」です。
諸侯王は「王」であり、領域内における君主です。
戦国時代の七国が由来で、漢は直轄領以外の征服地にそれぞれ諸侯を封建しました。
(直轄領が「郡」です)
例えば韓信は斉(後に楚)王、彭越は梁王、黥布は淮南王。
最初は上のように半独立勢力を封建するという形で
ゆるやかな従属体制を敷いていましたが、
漢は濡れ衣着せて捕まえたり、反乱を鎮圧したりして空位になった諸侯王の代わりに
劉氏の一族を置きました。
半独立的存在なのは同じですが、よりコントロールしやすいようにしたのです。
続き。
また、ほぼ同時に諸侯王の領域が分割されていきました。
これは呂后時代に積極的に進められました。
特に斉は高祖の長男劉肥が封建されていましたが、
領内が呂氏側に侵食されていきました。
で、呂氏が倒れ文帝が即位した事で元に戻るかと思いきやむしろ分割が進められました。
呂氏を滅ぼすのに功績のあった朱虚侯劉章、東牟侯興居などが、
「旧斉領内に」新たな諸侯王として封建されたのが代表例でしょう。
続き。
漢は文帝、景帝と隙あらば諸侯王の分割や削弱を進め、
やがて来る諸侯王勢力との決戦に備えました。
斉は七国、趙は六国、梁は五国に分割されたと言います。
具体的には、王太子以外の子を、その王の領内の分家として王にする事を認めたり、
一旦主が居なくなった国を遺児数人で分割させたり、といった風です。
分割すれば、それだけまとまりにくくなり相対的に漢が有利になるのです。
かくして、いわゆる「呉楚七国の乱」が起こるも漢が勝利。
諸侯王の独立的な性格はこれ以後弱まり、
諸侯相・傅や刺史の目を気にしながら生きる存在になってしまいました。
もちろん、それ以後も窮屈な生活の中でも皇帝への呪詛をエンジョイしたり、
諸侯相らの弱みを握って好き勝手やってみたり、
子供を120人作ってみたり、
自ら盗賊稼業を楽しんでみたり、
鼎を持ち上げるほどの怪力だったり、
元皇帝で、現皇帝に暗殺されるのを極度に恐れていたり、
色々な王が居ましたが、
もはや最後まで王朝の存続に関わるような事件を起こすようなことは無くなりました。
と同時に、皇帝の側も諸侯王を厳しく締め付け、力を削いでいったのです。
>戦国時代の七国が由来
周のに由来するんじゃないのか?
>>142 ありがとう
続き。
さて、漢の諸侯王は王太子へ相続されるのですが、
太子が居なかった場合、基本的に弟などへの相続を認めていなかったようです。
太子以外への相続が認められるのは皇帝の恩典という例外の形を取っています。
このため、よく「後(後継者)亡し、国除かれる」という事態となります。
なお、正妻を「后」、妾を「姫」といい、母は「王太后」です。
諸侯王は一つの国なので、元は一つの国として完結する機構を備えていました。
相=漢の丞相、政治を統轄
(内史=三輔(京兆、扶風、馮翊)、領内の統治):前漢末廃止
中尉=執金吾、領内の警察、防衛
郎中令=光禄勲、宮殿の警護
僕=太僕、馬・馬車等の管理
といった、漢の中央政府と対応する官制を備えていました。
なお、これは呉楚七国の乱後のもので、
それ以前は御史大夫や廷尉、少府、宗正まで備えていました。
完全に独立していた事になり、
その機構のままで漢から離れても問題無くやっていけたのです。
>>143 諸侯を封建する制度という意味ではそうですね。
ここでは直接の由来というか、
領域など全般的な意味合いで、
漢の諸侯王の前身となるのは七国(六国か?秦は入らないから)だと表現しました。
とはいえ多少曖昧でしたね。失礼しました。
で、少し三国志っぽい話題。
曹操がなった済南相は上に挙げた諸侯王の宰相、「相」の事です。
劉備の平原相も同じ。
また曹操、劉備ともに魏公、漢中王になるときに
「漢初諸侯王」の制度を用いる事が記されています。
これは、漢末の諸侯王の制度
(相、中尉、郎中令、僕)
ではなく、丞相、御史大夫、九卿を備えた呉楚七国の乱以前の制度を用いる、
という意味です。
(ただし、魏国では敢えて漢とは違う官名を用いています。
例えば廷尉は魏国では「大理」です)
諸侯王国は諸侯王に罪があるたびに削られたりするので、
漢末には一郡よりも小さくなっていました。
そのため、諸侯王の相は仕事としては郡太守と同様ですが、
格としては郡太守より一段落ちます。
事実上王国はこの「相」が統治しました。
諸侯王は入朝する時以外は王国におり、政治はほとんど相が行うため大してやる事も無く、
かといって中央に仕官する事なども出来ません。
魏はこういった漢の諸侯王に対する厳しい姿勢を受け継いだようです。
余談ながら諸侯王以外の宗室でも、
仕官しても就任できる官に制限がかかっていたりしたらしく、
漢が相当に宗室を警戒していた事が分かります。
(劉キンが「宗室は三河太守にしてはいけない」という旧典のため配置換えされています。
三河(河南等)の郡は要地だからのようです)
秦
|廷尉
景帝中六年
|大理
建元四年(武帝)
|廷尉
元寿二年(哀帝)
|大理
後漢初
|廷尉
>>148 補足ありがとう。
魏国での「大理」は景帝期等に使われていた官名です。
漢も魏も「廷尉」ではどっちか分からなくなるので「大理」にしたのでしょう。
魏の諸侯王が特に締め付けられていたというのは有名ですが、
具体的には三国志陳王植伝に見える「監国使者」が、
一挙手一投足に至るまで監視していたという事のようです。
またそこまで監視された理由ですが、
任城王彰が「璽綬」のありかを尋ねたため、
謀反の気ありとして始末された事、
また陳王植が曹操時代に文帝と後継を争った事と無関係では無さそうです。
万全の体制で後継者になれたわけでもない文帝としては自分の地位を脅かす二王、
ひいては兄弟ら諸王を特に監視しておかなければ安心できなかったのでしょう。
ところで、よく晋が皇族を優遇し、諸侯王に軍権等を与えたのは、
魏が皇族を冷遇したために
司馬氏の簒奪に対してなすすべなく滅んだのを反面教師としたのだ、
などと言われるようです。
しかし、皇族(諸侯王)を冷遇したのは漢も殆ど同じです。
魏の方が「監国使者」の分だけ余計に厳しかったかもしれませんが、
軍権を与えたりせず、警戒を解かなかったのは漢、魏に共通しています。
そうなると、晋は魏の数十年の失敗を是正したのではなく、
全部で500年くらい続いた統治戦略を放棄した事になるのではないでしょうか。
そうだとすれば、晋はなかなかチャレンジャーです。
もしかすると、皇帝が貴族政治に対抗するためには、
皇族くらいしか頼れる者が居なかったという事情があったのでしょう。
今までの歴史から見ると皇族への大権授与は危険と認識されていたようですから、
そんな諸刃の剣を使わなければならないほど、
貴族の力が強まっていたとも言えるかもしれません。
>魏の諸侯王が特に締め付けられていた
監国使者の他にも長史の任命権がなかったり、出仕できなかったりしたんじゃなかったっけ?
>150
春秋の晋と魏に読み違えて混乱してしまった(w
>>151 そのあたりは典拠を見つけてませんが、
前漢末には諸侯王はもはや王国の政治に関与する事が殆ど無くなっていたらしく、
そのころから人事権はおおかた失っていたと思います。
また漢では諸侯王が漢の官僚として出仕したケースはまず無かったと思います。
(曹操とか例外はいますが)
魏もそのあたりは踏襲していたようで、
燕王宇が結局は明帝臨終時に斉王芳の輔政になれなかった事も、
そのあたりと関係あるように思われます。
>諸侯王が漢の官僚として出仕したケースはまず無かった
東平王・驃騎将軍の劉蒼とか
あと東海王祗の子のエンが平原の国相に任命されたりしてるような。
ついでに陳王寵の輔漢大将軍
ちょっと調べただけだから間違ってるかもしれん
よく考えると、みんな官僚ってわけではないな↑。。。
>>151 >長史の任命権がなかったり
これ間違い。晋の諸侯王が自分で長史を選べたって記事を
勝手に「魏」に限っては選べなかったと解釈してしまっていた。
>>154 確かに東平王蒼は明帝に信頼され、明帝即位時に驃騎将軍になっていますね。
ただ、東海王祗の子エン自身は諸侯王ではないですし、
陳王寵は後漢末に輔漢大将軍を「自称」しているので、
出仕した、あるいは任官されたというのとは違うような。
あと、後漢の話ですが、
章帝の子、清河王慶は特に「中尉、内史を置く」のを許された、
という話が残っています。
彼以外は中尉クラスを諸侯王が選んで置く事は許されていなかった、
ということですね。
諸侯王は(政治をしなくても)その国に行く事が要求されていたので、
その点でも中央の官に就任することは無理がありました。
これが魏の司馬懿によって逆に就国が禁止され、都で邸に軟禁されるようになるのですが。
あと、「長史」だと丞相・将軍等の副官の事になりますね。
もしかして「長吏」(漢書景帝紀によれば「600石以上の官」全体を指す)のことでしょうか。
>>157 >「長吏」のことでしょうか。
あっ!それだった。。。
あんな短い文章で二つも間違うとは(´・ω・`)ショボーン
>魏の諸帝は骨肉を疏忌し、諸王国は皆寄地空名にして、その食する所、一県に過ぎず、刻削遷徙し、
>殊に寧日無し。かつ禁防甚だ厳にして、国を出づるを許さず。悉く宗室を錮して、仕進の路を断つ。
>故に権大臣に帰し、もって国祚を移すに至る。晋の武帝その弊を矯めんと欲し、大いに宗室を封じ、
>授けるに職任をもってし、かつその自ら国中の長吏を選ぶを許す。藩国の強きこと、稍々漢の初めに似たり。
151のソースはこれだろ。宗室と諸侯王をごっちゃにしてるから話が難しくなるんだYO
>>158 多少の間違いはキニシナイ!
>>159 それは誰の文でしょう?劉昭の封建論ではなさそうですが。
あと、少なくとも「寄地空名」は必ずしもその通りではないと思います。
任城王彰は実際に封建された任地に就国しているようなので(伝注所引魏略)。
また楚王彪もエン州刺史令狐愚・太尉王リョウの乱の時に担がれますが、
これも彼らの反乱した淮南(楚)に実際に赴任していたためではないかと思うのです。
「その食する所、一県に過ぎず」は、陳王植伝で
「陳の四県を以って植を封じて陳王と為す、邑三千五百戸」となっているのを見ると、
少々オーバーですが間違いとはいえないでしょうね。
「刻削遷徙」も、陳王植が
ケン城王→雍丘王→浚儀王→雍丘王→東阿王→陳王
と配置換えを繰り返しているようなので、これは確かにその通りでしょう。
>誰の文でしょう?
那珂通世の「支那通史」やで
>>161 ありがとう。そうでしたか。
「悉く宗室を錮して、仕進の路を断つ。 故に権大臣に帰し、もって国祚を移すに至る。」
ですが、これはどうでしょうか。
魏では曹操直系の皇子たちは確かに上述のような状態だったようですが、
それは漢とそれほど違いがあったように思えません。
逆に、曹操直系でない宗室(曹仁など、曹騰と繋がる家系)は
かなり重用されているように思われます。
これはむしろ漢よりも宗室を用いているとさえ言えるのではないでしょうか。
それに、「権大臣に帰し」の「大臣」は最後は司馬懿ですが、
その司馬懿の前の「大臣」といえば曹爽です。
本姓は違っていたとはいえ宗室です。
という事で、魏の宗室には2つの層があったと思います。
1
曹操直系→王に封建される。官に就くこともなく、制限も多い。
2
非曹操直系(「族子」、夏侯氏等)→王には封建されない。要職を占める。
こうしてみると、妄想に近い仮説ですが、
晋の宗室は上の1と2を統合した、とは言えないでしょうか。
言い換えれば、晋は魏の逆をしたのではなく、
魏の制を発展させたと考える事ができるのではないでしょうか。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 19:23
魏は簒奪の可能性の少ない宗室を重用した、って事かな。
曹爽は簒奪を企てた、って理由であぼーんだけども。
>>164 ありがとう。兄弟順、「伯」「孟」の話についてですね。
162についてですが、
漢では明帝に特に信頼されたという前述の東平王蒼くらいしか、
諸侯王にして将軍やら三公やらになったヤツがいないし、
宗室全体も冷遇されてなくても実はそんなに優遇されてもいないです。
仕官しても普通に昇進してますし、宗室だからっていきなり高官にはなれませんでした。
晋だけではなく魏も漢とは違っています。
で、その辺について考察(妄想)すると、
魏が宗室を重用したのは、魏が外戚重用をしなかった事と関係があるように思います。
魏での夏侯氏や曹氏(曹操直系以外)は、
特に兵権を有する官に就いていた事が多かったようですが、
これは漢では多くの場合外戚が占めていました。
魏で外戚の影が薄いのは何故なのか、が気になりますが。
そういや、曹操・丕・叡の皇后も身分の低い出身が多かったような。
記憶が曖昧ですけど、曹叡の元の奥さんの虞氏も「曹家は身分の低い女が好き」だとか言ってましたよね。
孫盛も「礼に従わず、個人の愛情で選んだ魏が脆かったのも当然」みたいなことを言ってたような気がします。
>>166 ただ、漢の皇后や皇太后にも決して身分・勢力のある家とはいえない者も居ましたが、
その場合でもその一族は中央政界に入ることが多かったようです。
有名どころでは衛青、何進、他にも宣帝の母王氏の一族なんかもそうですね。
逆に、元から勢力ある者の娘を皇后・皇太后にしてしまうと、
その実家があまりにも強大な勢力を持ってしまう事になりかねません。
後漢はその傾向があったように思われます。
そこで、敢えて勢力ある者たちとのしがらみが少ない=身分の低い者を寵愛し、
皇后に立てたという可能性はあるかと思います。
ただ、名士にあらずんば人に非ず的な世の中になっているせいか、
その身分の低い皇后・皇太后の一族が外戚として一定の権力を有し、皇帝を補佐する
という体制を構築できなかったのが魏の短命に繋がったふしはあるかもしれません。
晋は積極的に名士(貴族)層との婚姻を進めましたが、
賈氏の件を見るとこれも問題があったようですが。
さて、唐突ですが凄く適当な官職の系統を図にしてみました。
ずれまくるかもしれませんが。
皇帝
┃
三公
┃
九卿━┻━太守・相
┃
県令・長
少しズレましたけど分かりますね。
皇帝から出された詔はまず司空に送られ、それから司徒、太尉に送られます。
それから司徒は中央の諸官庁(九卿)と、
地方(太守・相)へその詔を送ります。
太守等はその詔を受け、支配下の県全てに送ります。
こうして皇帝の命令は実行されてゆくのです。
曹操の時は丞相・御史大夫が復活していたので、169を
司空→御史大夫
司徒→丞相
と読み替えてください。
また、曹操の元での丞相府について、大まかに図にしてみました。
丞相━┓
┃ ┃
┃ 司直
┃
┃―(参軍事、軍祭酒等)
┃
長史
┃
掾・史
ずれてるかな?
字をつける習慣はいつごろ始まり、いつごろ無くなったのでしょうか。
>>171 始まりは周代と思われます。
周の制度では、20歳になると字を付けたそうです。
また少なくとも知識人の間では清以降でも字はあったようです。
魯迅(本名周樹人)にも「予才」という字があったそうですし。
(魯迅はペンネーム)
なので、無くなったのはおそらくは清末以降でしょう。
正直詳しくないので、間違い等あったらゴメンなさい。
もう少し調べてみます。
>>170の丞相府について。
丞相府は長官が丞相で、副官として長史がいます。
そして実際の担当として掾・史その他の属官がいました。
「曹」という、現代で言えば局とか部とかに当たるような部局に分かれ、
縦割りで行政を行っていたのです。
例えば「東曹」は人事担当だったらしく、
丞相府内での、そしてひいては当時の漢全体にとっての要職だったようです。
参軍事などが離れているのは、これらが丞相の顧問的な存在で、
縦割り行政の中で決定を下したり命令を受けたりする関係に無いと思われるためです。
つまり、参謀や政策顧問として、
丞相曹操が何らかの決定を下す際に助言や手伝いをするのです。
そして司直という別系統の官がありますが、これについては特殊な性格で、
準九卿クラス(比2000石)の格で、中央官僚を監察する職務だったのです。
>いつごろ無くなった
たしか五四運動以降、「封建的伝統」と見なされてなくなっていったらしいYO。
現在では名前のことを「名字(ミンズ)」というそうな。
>>174 ありがとう。そういうことですか。
ところで173の司直ですが、司隷校尉と似通った職掌を持っていたようです。
そして実際に司隷校尉と同格に扱われていました。
これは前漢の制度の復活で、当初は丞相制度以前に置かれ(建安8年)、
司徒の下には置かれない独立した官だったのですが(続漢書百官志注)、
有名な司直韋晃の乱の時には「丞相司直」と記載(後漢書孝献帝紀)されており、
曹操の時に前漢と同じように丞相の属官扱いになったようです。
司直が丞相の属官ということは、
丞相は直接他の九卿などを監督・監察する権限を得たということで、
曹操の権力の強大さを示していると言えるでしょう。
司隷校尉などは名目上は皇帝直属であって丞相の部下ではありませんが、
司直は丞相の部下ですから、丞相の思い通りに使えるのです。
それだけに、直属の部下司直韋晃の乱は曹操政権に大きな衝撃を与えたと思われます。
丞相の属官としては、軍師もありましたね。
丞相軍師。
これも丞相の参謀でしょうが、華キンが尚書令から遷って来るような官ですから、
要職と認識されるようなものだったのでしょう。
それまでなら、華キンは尚書令のあとはおそらく九卿などを歴任するところでしょうが、
その時代においては丞相府の官がそれと同じくらいの要職だったということのようです。
つまり、当時の丞相府はそれだけ巨大な官庁になっていたのではないか、
と思われるのです。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 21:33
>176
九卿クラスの人材を属官に任命できるほどの丞相・曹操の権威が高かった、って事ですよね。
>>177 そうですね。
と同時に、丞相府だけでそれまでの九卿全部と同等の仕事をしていた、
ということでもあるかも。
あの時代には権力を集中しないと効率的な復興が出来なかったんでしょうが、
丞相への極端なまでの一極集中が簒奪への道を開いたような気がしないでもありません。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 23:34
>178=怨霊氏
丞相府に有能な人材をそろえる、って言う実務面の他に、
九卿クラスの華キンらですら、曹操の一幕僚に過ぎないんだぞ、みたいな宣伝的な部分も強いようですね。
皆様のお話に割り込んでしまってすみません。怨霊さん>古代中国の官僚制度(官位?)を勉強したいのですが、某のような初心者が読むにはどんな本がいいでしょうか?
>>179 なるほど、それが大きかったかもしれませんね。
丞相長史には古株の実務家王必を置いていただけに、
高級幕僚に格の高い連中を置いてハクをつけた、ということかな?
>>180 まずは私としては既出ながらこれらを勧めます。
宮崎市定「九品官人法の研究」中公新書
西嶋定生「秦漢帝国」講談社学術文庫
初心者といってもこのあたりの歴史に興味があれば理解できる内容かと思います。
最初は興味あるところから読んでいけばいいんですし。
あ、しまった。またやった。
>宮崎市定「九品官人法の研究」
中公「文庫」です。失礼。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 07:24
九品官人法は創設の趣旨と実態が、あっという間にかけ離れてしまいましたねぇ。
>>183 九品官人法は、おそらくは最初の意図は
曹操の「求賢令」とそれまでの郷挙里選を統合したようなものだったのでしょうが、
(能力主義を進めようとした)
結局のところ中正官という人間の判断によって品を決定する以上、
真に「中正」な評価なんてできなかった、といったところでしょう。
すでに官僚として力を持ち、
しかも当地でも有力な貴族が有利になるのは当然の流れでした。
ただ、郷挙里選が党派・門閥、あるいは賄賂等の温床となったのと比べれば、
(推挙した長官と推挙された者の間に私的な恩が生まれるので)
それよりは門閥等の発生をを抑えて皇帝が官僚を統御しやすくなった、
とは言えるかもしれません。
皇帝にとっては、能力主義かどうかというよりは
官僚を自分の思い通りに動かせるかどうかが問題だったと思うのです。
その流れで、同じ宮崎先生の「科挙」(中公新書)を読むと
おもしろい。三国志からは外れますが。
制度的に、官僚機構そのものが政治的腐敗の温床なのですな。
門閥っていうと、魏晋以降も留まることを知らないけど
>>186 私の門閥という表現は妥当ではなかったかもしれませんね。
党派というか、推挙・被推挙(故吏)による関係が、
官僚間に縦横の私的な連携を生む、
そういったものを減らしてゆくのに九品官人法が有効だったかも、という主旨です。
で、
>>185氏が言うように、
皇帝は今度は(ずっと先の話ですが)
科挙によって皇帝自身が挙主になることで他の者による故吏関係を無くし、
逆に皇帝と各官僚間に故吏関係を作り出そうとしたのだと思います。
ところで、今まであまり出ていなかったような気がするので
当時の皇后とかについて語ってみようかなぁと思います。
後漢では大体皇后や寵姫は「選」によって後宮や東宮に入っているようです。
この「選」は大体が官僚(名士)の娘など、それなりの身分の者から選ばれています。
(少なくとも、皇后になるような女性はほとんど代々官僚や功臣の家の出)
しかし、そういった身分でない者からも「選」んでいたことは。
霊帝の何皇后の例から明らかです。
後漢書(何皇后紀)と注から推測すると、
毎年八月の人頭税納付の際に女性の「選」も行われ、
そこで外見や人品など特筆すべき者を召し上げていた、という感じのようです。
何氏はそこで賄賂を使って「選」に入った、とされていますが、
ともかくも一般人に対しても門戸が開かれていた事には違いはないでしょう。
と思ったら、まんまの記事が後漢書皇后紀にありましたね。
それによれば、後漢では前述のとおり八月に洛陽で
中大夫、掖庭丞(後宮)、相工(人相見)が「良家の童女」13〜20歳を見て、
容姿端麗&良い相をしている者を選んだのだそうです。
もっとも、何皇后は宛の人なので、選ぶための官僚が地方へも出向いたのか、
それとも希望者が洛陽まで行って見てもらったのか、どちらかでしょう。
後宮にも階級があったみたいですね。
後漢の後宮女官は皇后、貴人と美人、宮人、采女があったそうです。
前漢はもっと色々(昭儀とか)ありましたが、後漢では簡略化したようですね。
これらも官の一種で、たとえば貴人は金印紫綬の印綬を持っていました。
魏になると前漢の制度の方に近い形で整備されました。
皇后、貴嬪、夫人、淑妃といった順で偉かったようです。
>189
そこら辺の事は、後宮小説が詳しい・・・
ファンタジーだけれどね。
>>192 あれは参考にしている時代も違うので、さすがにそのままとは思いませんが、
確かにイメージはつかめるかもしれませんね。
今まで挙げた以外にも、魏明帝郭皇后は反乱に連座して後宮に入れられたらしく、
こういった強制的な入宮もあったようです。
また晋武帝は全国に結婚を一時禁止し、
その間に宦官を使者として全国に派遣して良家の娘を選ばせて召し上げ、
楊皇后に面接させて後宮に入れる女子を選びました。
また時代が違いますが、
前漢では定例の「選」に関係なく気に入った女子を召し上げるという事が多かったようです。
俺が皇帝になったら後宮の平均年齢は一桁だな。
それは後宮とはいわん。
遅くなって申し訳ございません。しかもガイシュツだったのですね。お手数をおかけしました。
ありがとうございます。その本、探してみますねw
>>196 あと、
「魏晋南北朝」川勝義雄、講談社学術文庫
なんてのもあります。
こっちはそれぞれの官職について詳しく説明などしていないですが、
後漢あたりから隋唐に至るまでの時代の流れを掴めるので、
前述のあたりを読んでみて興味があったらどうぞ。
また、それぞれの巻末には参考文献リストがあります。
当然いずれも学説史上重要なもの、定評のあるものばかりですので、
これも参考になるかもしれません。
>>194,195
そういえば前漢の昭帝の皇后上官氏は皇后になった時6歳でした。
また、王莽の娘で平帝の皇后になった女子も皇后になった時はまだ10歳前後だった筈。
特にこの王皇后は史書に初潮がしっかり記録されるというなかなか珍しい経歴の持ち主です。
こんな時代なら、後宮の平均年齢は本当に一桁だったかもしれません。
ここのスレ主って、研究者か大学教授?
>>198 いや、平均一桁はありえないだろ。平均は。
ついでに200げっと
>>199 いえ、かつて研究室に少し在籍してただけで、今はただの人です。
>>200 平均一桁は冗談ですが、
皇帝が幼ければそれに合わせて女子も集められていたかもしれませんね。
後宮では皇帝がセクースすることを「御」と呼んでいました。
あるいは皇帝のお手つきになることを「幸」とも。
皇帝のセクースは基本的に記録されていたらしいです。
そうしないと本当に皇帝の子供かどうか分かりませんから。
皇帝も人の子、寵愛する姫が居てもきまぐれに身分の低い女官を「御」することもあり、
またお目当ての姫が生理休暇だったりしてその姫の侍者が代わりを務めたりすることもあり、
それが一発着床してちょっとした波乱を起こす、なんて事もありました。
皇帝は基本的には「産めよ殖やせよ」なので、
荒淫と言われるほどでなければ多数との房事はむしろ推奨されます。
皇帝の子供でもよく死亡しており、
今とは乳児死亡率が段違いなので「数撃ちゃ当たる」なのです。
逆に、特定の者しか寵愛しないことの方が諌められたりしました。
子供ができる可能性が低くなり、人数も少ないわけですから。
また必ずしも未通女と決まっていたわけでもなく、
「妊娠・出産経験があるほうが子供が出来やすくていいんじゃない?」
なんて意見も出ていたようです。
>「数撃ちゃ当たる」
これは「回数」ではなく、「子供の数」のことです、念のため。
例えば前漢成帝の場合、
記録によれば少なくとも男子が四人と女子一人が生まれているのですが、
結局全員乳児の時に死んでいます。
(うち男子二人は殺害されたのですが・・・)
自然死に絞っても3/5ですから、半分以上が死んでいる訳です。
しっかり典医がついている筈の皇帝の子供でさえそうなのです。
>202
逆に後宮の方が危なかった可能性もあるような・・・
穿ちすぎ?
>>203 謀殺の可能性もありうるとは思いますが、
自然死の可能性も今よりは高かった事でしょう。
成帝の例にしても内二人は皇后の子供です。
当時リスクを犯してまでその子を殺して得をする者はあまりいないような・・・
(殺害された二人は趙飛燕が皇后の時に下位の者が妊娠しており、
趙飛燕としては子供が生まれると困る)
また、漢の宣帝の許皇后が暗殺される際に、
「女性の分娩は十人死んで一人生き延びるほどの大事だ」
という言葉が見えており、
(許皇后は分娩時にトリカブトを盛られて死亡した)
1/11ってのはオーバーだとしても母体の方も現代よりはるかに危険が高かったのでしょう。
漢書なんかを読むと、やけに「後母」(=継母、父の再婚相手)が出てきます。
これは、ある程度の地位や財産を持つ家の女性でも寿命が短く、
夫に先んじて死亡する場合が多かった事を示していると思われます。
そしてその理由は、
妊娠から出産までに命を落とす可能性が現代よりもずっと高かった、
という事なのでしょう。
平均寿命自体も、おそらく低かったのでは?
諸葛亮 53歳
馬超 47歳
法正 45歳
李典 36歳
郭嘉 38歳
司馬師 48歳
魯粛 46歳
周ユ 36歳
太史慈 41歳
この辺て、実は普通の寿命で、劉関張、曹操、孫権なんかは
割と長生きしたほうで、司馬孚の93歳なんてのは、化け物
みたいなものだったのでは?
などと考えてみたり。江南なんて病気の温床ですし。
それから、どういうジンクスがあるのかわからないけど、
中国の歴代皇帝は、初代以外短命なのが多い。
でも『礼記』にしたがえば、引退は七十歳なわけで…
不惑そこそこで死んでる、ってのは、その時期が多忙であった
せいなのかもしれない。
その時期を無難に過ごした人物が長寿を得られたのかも。
>>205 決して高かったとは思わないが
そいつらは例外じゃあないか?
208 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 23:34
劉備が劉禅への遺言で「人間、50ともなれば若死にとはいわず、もう60余りなのだから恨むところもなく、またみずから悲しむこともないが・・云々」
って書いてるから、平均的には60歳前後なんじゃないのかな。
とりあえず郭嘉は「不幸短命」と言われていますな。
30代後半で死亡は早死にのようです。
劉備の言葉にあるように(
>>208)、40代までで死亡すると早死に、
50以上なら普通、という感じみたいですね。
漢では80歳以上になると「王杖」というのを贈呈されて特権を受けられたそうで、
そこから考えると80歳は「長寿」かどうかの分かれ目なんでしょうね。
あと、初代で短命な皇帝・・・曹丕
呂岱96歳
論語の有名な
「子曰、十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、
七十而従心所欲不踰矩」(為政)
からすると、五十、六十になってやっと人格的に円熟するといったような認識のようです。
この言は孔子の体験かもしれませんが、
当時の知識人にとっては孔子の言葉自体が共通認識だったでしょうから。
そうとういい年になっても他の官僚と揉め事起こした程cなんてのもいますが。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 23:03
>211
論語の認識は、孔子の体験もあるでしょうけど、人間の成長としての「理想型」と言う意味もあるのでは?
「この年齢になったら、こんな人間になるべきだ」みたいな。
孔子が理想とした周公って何歳ぐらいで死んだっけ?
>>212 そッスね。
少なくとも、「この年齢になったら、こんな人間になるべきだ」
または「こんな人間になるはずだ」と三国時代の人に思われていたんじゃないかと。
だから、40代くらいで死ぬと、自らの天命も知らずに死んだ事になるので、
「夭」(早死に)なんていわれたのではないかと。
そして、人格が完成する70代以降はいわば「賢人」として尊重されるのでしょう。
その年齢に到達する人が少ない(=長寿)だけに、なおのこと。
そういえば前漢の話ですが、
前に発言したことを忘れて、後で逆の事を発言した老宰相がいましたっけ。
年取ってればいいってもんでもないという事です。当然ですが。
>>213 周公旦の享年は分かりません。知っている人教えて下さい。
五十歳未満での死を「夭」、五十から六十にかけての死を「正」、
七十を「福」、八十は「寿」、九十は「祥」、で百歳で死ぬと「大慶」
ちなみに女性の場合は
十歳未満が「夭」、二十歳が「正」、三十歳が「甚」、四十歳が「変」、五十歳は「殃」、
六十歳は「魅」、七十歳は「妖」、八十歳は「怪」、というらしい。
少し話が戻りますが
皇帝が後継者を決めずに亡くなった場合
どのようにして後継者を決めたのでしょうか?
そのような場合の法律などはあったのでしょうか?
>>215 それ、いつの時代のやつかわからないですが面白いですね。
なんだか女性の方の扱いがメチャクチャな感じですけど。
できればその原資料とか教えて欲しいッス。
>>217 まず、皇帝が後継者を決めずに死亡するという事態を極力避けます。
具体的には、最悪でも崩御公表前に皇太子を立てる詔を出します。
万一に備えていつでもそういった詔を出せるようにしていたかもしれませんし、
最悪皇帝にその能力が無くても側近が書いちゃえばいいんです。
これは秦の始皇帝が死んでからの話を見れば分かるのではないかと思います。
三国時代では、魏文帝から明帝、明帝から斉王芳と、
どちらも皇帝の病状が悪化してから皇太子に立てられています。
またそれすら出来なかった、またはクーデターなどの場合は、
皇太后が臣下に後継者を相談するように命令→
大臣らで相談、決定→皇太后が裁可
といった感じで決めます。
これは魏の高貴郷公髦、元帝のケースです。
法律とは違いますが、皇帝を決める事が出来るのは前の皇帝か、
皇太后しかありえないので今挙げたような方法しか無いです。
>>218 >その原資料
汪士鐸の「乙丙日記」だよ、時代的には清朝末期。
エッセイに引用されてたのを読んだだけで直接読んだわけじゃないけどね。
>>219 ありがとう。清末ですか。
実際、漢あたりでは女性の地位は庶民間でも王朝においても、思ったより高かったようです。
これは、少なくとも庶民レベルでは、
当時は女性が労働力として果たすべき部分が大きかったためのようです。
(出土資料から女性にも徭役の義務や、
もしかすると兵役義務もあったかも、という研究があったはず)
また、今度は最高位ですが、皇太后の地位というのも極めて高いです。
皇太后は帝母として皇帝の後見人たるべき存在で、皇帝と同等。
彼女の出す文書は「詔」です。
ちなみにこれが変わってゆくのが魏からなのですが・・・。
>>218 よく分かりました。ありがとうございます。
儒教の広まりと共に男尊女卑が確立していった、という説は有名だね。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 07:27
魏の場合、斉王芳の出自が「宮中秘事」ってのは何なんでしょうねぇ。
なんで、出自を明確にしなかったのでしょうか?
文帝−明帝系統でなくても、曹操の子孫であれば秘密にしなくても問題が無いように思えるんですけど。
>>223 たぶん存在自体がスキャンダルな子供だったからじゃ。
出自を公表するのがはばかられるほど身分の低い女性が母親だったと想像。
(奴隷クラスとか)
>>223 明確にすると困ることがあるのです。
それは何かというと、「父母」が2組出来てしまうということ。
伝えられているように任城王の子だとすると、
明帝の子として即位し、明帝を父として祀り、郭皇后を皇太后としなければならないのに、
任城王を皇帝の父(=太上皇)とし、
実母をも皇帝の母(=皇太后)として尊ぶことになってしまう危険性があります。
皇帝(この場合斉王芳)としては、
育ての親である明帝たちより実の父母の方が大事に思えてくるのが人情でしょう。
最後には実父を皇帝と同格にしたり、実母を皇太后にしたり、
ということになりかねないのです。
こうなると皇統が大きく乱れるのみならず、本来一人しかいない筈の皇太后が二人になり、
政治的にも大変問題です。
そういった事を避けるには、父母を明かさずにおく方が良かったのでしょう。
なお、元帝は実父が生存していながら即位していますが、
この場合は実権が既に皇帝の元には無く、司馬氏のコントロール下にあったので、
実父母を尊重したいなどというワガママを皇帝に言わせない自信が
司馬昭にはあったのでしょう。
もちろん、
>>224の言うような理由だったかもしれません。
母の身分などに問題があれば、これも隠さないと後々災いの種になります。
皇帝の母は皇太后として権力を振るう可能性のある立場ですから、
出自などに問題があるのは困るのです。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 23:48
>224氏
母親の出自が低いのを隠すってのもアリなんでしょうけど、でもそういうのは前例もあるだろうし、糊塗するコトも出来るような気がするんですよねぇ。
形だけ名門の養女にするとか。
>225、怨霊氏
実母の存在が問題になるとしても、礼秩序上、前皇后を母とせにゃいかんでしょうから、そんなに問題にならんのでは?
後世、確か北宋でしたっけ、同様な問題が持ち上がりましたけど。
どうしても、文帝−明帝系統から皇統を継がせたければ、最初から高貴郷侯にすれば良かったんじゃないかな、と。
なぜ、混乱を招く可能性のある、斉王芳を持って来たのかが不思議なんですよ。
しかも、魏の政情は斉王即位にあたって、混乱を起こしてないのもまた不思議です。
>>226 宋のは「濮議」として有名な話ですね。
漢でも実際にそういう事が起こってるんですよ。
漢の哀帝がそれで、紆余曲折はありましたが遂に皇太后と太皇太后が両立し、
しかも実父も皇帝と同格に追尊されるという事態に。
礼秩序に「母は子を以って尊し」というのもあるもんだから、
実母を皇太后にする動きが出るのが必定なんですよ。
で、斉王芳の場合は「実父母不明」なのがミソで、
実父母またはその家族が権力を握ったりするのを避けようとしたのではないかと。
「これは曹氏、俺の子として扱え。実の父は詮索すんな」ってとこで。
明帝の弟から取ってこなかったのは、逆に混乱の種になるからかもしれません。
文帝の頃から考えれば、明帝にとって弟はライバル。
近い関係だからこそ避けられたのかも。
当時の政情については、
最初の予定では燕王宇、後に司馬懿と曹爽による強力な護送船団が組まれた事と、
混乱すれば蜀・呉の思う壺だった事で結束を固めさせたという点があるのではないかと
思います。
しかしこの体制が魏の皇帝にとっては命取りだったのですが・・・。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 07:17
>227、怨霊氏
なるほど、漢でもありましたか。だとすると魏もその例を参考にしたのかもしれませんね。
しかし、実の親が不明の後継者ってのは、孫権晩年の後継者争いより、混乱してもおかしくないですよねぇ。
それでも、すんなり継承してると言うのは、本当に一部の重臣しか斉王芳に関する真実を知らず、一般廷臣、人民は明帝の実子と信じこんでた、ってコトですかね。
司馬氏政権に移行するに当たって、斉王芳に関する秘事を徐々に流布し、自政権の正当性を高めた、って感じでしょうか。
結局、全部はあきらかにしなかったんでしょうが。でなきゃ、陳寿も真実を詳細に書いただろし。
>>228 >本当に一部の重臣しか斉王芳に関する真実を知らず、
>一般廷臣、人民は明帝の実子と信じこんでた
そうですね、そんな感じじゃないかと思います。
ところで明帝は太和2年に、
「諸侯王から入って帝位を継いだ場合に実父母を皇帝扱いで追尊することを禁じる」
詔を出しています。
こんな詔が出されるということは、逆に言えば傍系から入った場合に
実の父母を義理の父母(皇帝・皇后)と同等またはそれ以上に扱おうとする、
と当時も認識されていたのでしょう。
また、これ自体は今まで書いてきたようなことを避けるためには有効な措置ですが、
なんで明帝は即位直後に出すのだろう、と思ってしまいます。
まるで魏の将来を予見していたかのようです。
ところで、魏の明帝には一つ大きな謎というか疑惑があります。
「真の父親は誰か」
彼の没年は景初3年で享年36。そこから36年前は建安9年の筈なのですが・・・。
この年の8月に業βが陥落しています(8月)。
母甄氏は業βで文帝に見初められた(というか捕まった)のですから、
この時じゃないかと思うのですが、そうなると明帝出生と計算が合いません。
真実はともかく、当時の人も当然その可能性に気付いていたでしょうから、
明帝は血統の疑惑の渦中にありつつ即位した事になるのではないでしょうか。
父母不明の後継ぎ、即位直後に出した傍系即位に対する措置、
このあたりは明帝の「秘事」と関係あるように思えてなりません。
妄想ですが・・・。
参考
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1066046780/279
文帝と明帝が狩りに出かけたときに、親子づれの
鹿を発見して、文帝が母鹿を射止め、叡に
小鹿を討つよう勧めた、という逸話があるらしいですな。
これは甄氏(母鹿)を文帝が殺し、その子である叡に
自害を勧める暗喩であったと取る事もできますね。
明帝は泣いて「母を失った小鹿をどうして射止めましょう」と
許しを請うて、それが後継者となる決め手だったとも聞きます。
あとからの創作っぽい逸話ですよね。
晋が魏から帝位を簒奪したことを正統化するような
意志が随所に見え隠れしているような。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 20:30
>229、怨霊氏
出生年月日の件、聞き知ってました。
一般的には記録上のミス、書き写す際の誤りだと思われてるようですが。
何かの本に(荒唐無稽なんで忘れましたが)、「袁家は秀麗な容姿の者が多く、当時支配者は秀麗な方が尊崇されやすいので、明帝が後継者とされた」
なんて書いてありました(笑)。確かに2千年近く前のコトだからありえるのかもしれませんが・・・。
詔に関しては、文帝系統の血統が少ないコト、明帝自身に子供がいなかったコトから、念のために出した詔だったのではないでしょうか。
あるいは、即位直後の明帝の意思と言うより、当時の有力重臣連中が文帝が早世し、明帝自身の健康を危ぶんで考えたのかもしれませんね。
>230氏
なるほど、深読みするとそんな感じですね。何かジュンイクの空弁当みたいな感じですが。
明帝の出生〜斉王芳「秘事」、高貴郷侯殺害、元帝からの禅譲ってのは簒奪正当化の流れの中にあるのかもしれません。
明帝の出生にからみ、斉王芳の即位が異例だとすると、高貴郷侯への皇帝挿げ替えを正当化できますし、高貴郷侯殺害→元帝へってのも明帝自身が正統じゃないからと言う理屈が成り立ちます。
で、正統の皇帝たる元帝からの禅譲であれば司馬家も正統だと。
まぁ、妄想なんですが(笑)。
鹿の話を忘れてました。
鹿の話からは文帝も明帝の廃嫡を考えていたことが分かります。
三国志明帝紀注、魏略と魏末伝を照らし合わせると、
郭皇后にその子として育てられていながら(曹操、丁夫人、曹昂の関係と似てます)、
母の死とは別に文帝は廃嫡を考えていたように見受けられます。
また、注の世語、魏書によると明帝は最初群臣の前になかなか姿を現さなかったようで、
これも穿った見方をすれば「文帝に似てねーな」とか言われたくなかった、
とも考えられます。
明帝の年齢は、裴松之は正朔を改めたために発生したズレ、と言っているようですが、
少々苦しい(そんな間違いをするか?)ような気はします。
>>231 スンマセン。書き込まれてるの見ないで書いてたもので。
袁家の話は知らないですが、オモシロイ話ではあります。
年齢については記録のミス等の可能性もありますが、
確かに司馬氏等の思惑で「わざと疑惑を呼ぶように」36歳と明記された、
なんて妄想も出来ますね。
魏の皇位継承は、
高貴郷侯の時も元帝の時も波乱(というかクーデター)が起きているので、
詮索や妄想し出したら止まらないですね。
三国志本文のみでは高貴郷侯死亡の時に何があったのか良く分からないですし。
いきなり「卒す」ですから・・・。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/04 20:56
>233、怨霊氏
いえいえ、お気になさらず。
荒唐無稽でしたが、面白い本でしたよ。結構新しかったかな(多分、4,5年前)。
袁家の話以外に、諸葛亮・清貧だけど無能説とか卑弥呼と日食についてとか。
ただ、正史を使ったり、否定したりで無理がある考察でしたけど(笑)。
文帝は確かに明帝を嫌ってたような感じですよね。ただ、文帝自身が親族に冷淡なイメージも強いんですよねぇ。
曹操が確か「俺の次の次はお前!!」みたいなコトを明帝に語ってたのが事実なら出生の秘密も噂の範囲なんでしょうけど。
曹操って賢い子どもが好きだったんじゃあないの
曹叡も幼くして死んだ曹沖にどこか似ていたんじゃあないかなぁ
だから、可愛がっていつも側においていたのでは
ひょっとして、曹丕も曹叡がなんとなく曹沖に似ていると感じたから
嫌っていたのでは?
さらに、曹操の、俺の次の次はお前! という発言が事実で、
しかも自分の子じゃあないという可能性があるんだったら
どう考えても好きにはならないし、殺意を抱いたのかもしれない
まあ、妄想ですがね
>>234 >>235 文帝というとどうも陰湿なイメージがありますし、
実際そんなエピソードも多いのですねぇ。
とはいえ、明帝への対応や弟たちの処遇は、
皇帝として王朝の存続と士民の安寧を考えなければいけない立場なので、
そのあたりも踏まえて評価すべきでしょう。
あとから「この皇帝は曹氏ではない!」と言われて王朝が動揺したり、
野心ある弟が帝位を狙って同じく王朝が動揺したりするのを避けるには、
兄弟妻子と仲良くしたい、という感情を捨ててでも
冷徹な措置をしなければいけない時もあるでしょうから。
それが成功しているかどうかは別ですけどね。
関係無いけど、魏の諸侯王は死にまくってて不気味。
初代皇帝としては実は穏便なほう?
238 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 07:19
>235氏
曹叡と曹沖は歳の差が3,4歳くらいですかね、確か。だとするとかぶっちゃうかもしれませんな。
曹叡が優秀だったのは確かだし。まぁ経済感覚は?ですが(笑)。
>236、怨霊氏
初代皇帝としては難しい立場でしょうね。
我々は曹家の2代目って感じで捉えてしまいますからねぇ。
どのような王朝であれ、初代ってのは粛清を行わなきゃならん場合も多いですが、文帝の場合、多分に私情が混ざってると感じられるんですよね。
自分の私情を王朝の正義の名の元に晴らした、って感じが・・・・。
>237
漢の高祖、明の太祖に比べると穏便かもしれませんが、逆に高祖・太祖が滅茶苦茶だと言う感じもします。
236、怨霊氏が指摘されてる通り、陰湿さが目立つんですよ(笑)。
>>237,238
文帝は穏便な方ですね、238氏の言う漢高祖なんかと比べれば。
璽綬のありかを尋ねたとかいう曹彰だって誅殺はしていないし、
(暗殺の可能性は大ですが)
曹植だって干していても殺さなかった。
功臣粛清もほとんどしてませんよね。
この差は魏の余裕の無さと皇帝としての権力の弱さから来てるのでしょう。
漢高祖・明太祖は滅茶苦茶というよりは、
彼らがそれだけ強力な権力を持っていたということです。
文帝丕としては彼らのような大胆な手法は取れないので、
穏便に、言い換えれば陰湿に粛清等を進めなければならなかった。
ところで当時の王などが暗殺されるなんて本当にあったのか、
と疑問に思うかもしれません。
実例を紹介しましょう。
時代が下りますが東晋最後の皇帝、恭帝司馬徳文。
彼は簒奪されたあと、常に后と一緒におり、后の手料理しか口にしなかったそうです。
愛妻(?)弁当以外は毒入りかもしれないという事です。
また、今度は逆に遡りますが、前漢で昭帝の後に即位してすぐ廃位された昌邑王賀。
彼は後に宣帝の暗殺を恐れて屋敷の門を閉じ、吏に毎日食べ物を買いに行かせ、
それ以外は人を入れず、出ても行かないという生活をしていたそうです。
(宣帝はそのガクブルっぷりを知って安心したといいます)
この二例からは、彼らが毒殺や刺殺などを警戒していたのが良く分かります。
疑ったらきりが無いとはいえ、都に上った曹彰が急死したり、
明帝の頃も諸侯王がバタバタ死んでいるのも怪しく見えてくるというものです。
>>239 高祖の子の、趙王・如意って暗殺されてませんでした?
……自分の勘違い…かな?
>>240 それは高祖の死後、恵帝の代ではなかったっけ?
>>240 漢高祖の子である趙王如意は酖殺されています。
また、同じく斉王肥も酖殺されそうになるのを恵帝に助けられています。
酖とは鴆(チン)という鳥の羽根を酒に浸して作った毒酒です。
鴆は黒い体に赤い目をした鳥で、毒蛇を喰らうそうです。
その羽根で酒をかき混ぜると酒は猛毒となります。
鴆毒に汚染された酒を「酖」と言います。
鴆はなんでも犀角以外では解毒できないとか、
銀の箸と銀の容器で取り扱わないといけないとか、
糞尿も強酸性の猛毒だとか(この辺はうろ覚え)、
とんでもない生態が伝わっている伝説の鳥です。
西洋のバシリスクに似ているかも。
こんな鳥がそのまま存在しているとは思えませんが、
もしかすると強い毒を持つ鳥ならかつて中国にいたのかもしれません。
もちろん酖は暗殺に使用されました。
三国時代でも暗殺等に使用されたかもしれません。
実例はちょっと知らないですが。
鴆のオシッコは石でもたちどころに溶かしたらしいですね
毒を持つ鳥類はいない、と生物の教師から聞いたことがあるが
中国にはいるのだろうか。
今ググルーしてきたんですが、
私の記憶違いではなかったようです。
ピトフーイとかいう毒を持つ鳥がニューギニアで最近発見されたそうです。
新聞で見た時「鴆じゃねーか!」と思った憶えがあります。
もちろんそいつ=鴆とは言いませんが、
どうやら毒鳥というのもありえるらしい。
それともピトフーイは鼻行類みたいなネタですか?
>>247 ありがとう。
他にはトリカブト(附子)も毒として使われた例があります。
(前漢ですが宣帝の許皇后が附子で殺された)
実行犯が見えないこと、場合によっては「病死」として処理できること等から、
毒殺の方が(毒を盛ることの出来る立場にあれば)
刺客による殺害よりも有効だったと思われます。
さて、暗殺の次は自殺。
自殺にも色々とやり方とランク(?)があるのです。
どういうことかというと、肉体を傷つける事を好まない思想があるので、
肉体を傷つけない死に方が好まれるのです。
そのため、それができる余裕があれば自分で毒(酖など)を飲んだり、
首を吊ったりするのです。
珍しいところでは、孫堅に追い詰められた荊州刺史王叡は金を飲んで死にました。
金を削り、それをがばっと飲んで(多分)窒息死するのでしょう。
金持ち、高位高官でないと出来ないわけで、高貴な死に方なのでしょう。
戦場など、そんな余裕が無ければ自刎、自剄です。
剣で自分の首を切って死にます。
上に書いたように、肉体が傷つく分他の死に方よりも
(当時の感覚では)よい死に方ではなかったようです。
このスレ1/4消費。
で、前のレスを見返して思ったのですが、
もしかしたら前スレなどで既に触れている事を書いたり、
既出の件について質問が出たりという事が、
今まであったかもしれないし今後もあるかもしれません。
個人的にはそういった場合でもあまり気にせずにレスする方向で行こうと思ってます。
(もちろん同スレにあるのが分かればその話題の場所へ誘導します)
前スレはなかなか読めないでしょうし、
このスレだって携帯など前のレスを見るのが大変な人もいるでしょうから。
私自身前に書いているのを忘れている事もあると思うので。
もちろん、数レス前に出たような話を蒸し返すようなのは別ですが・・・。
いや、上の自殺とかの話を書いたような気がして・・・。
曹操は鴆毒入りの酒が多少飲めたっていうけど、いったい何の為に飲んだんだろ。。。
度胸試しか?
三国志武帝紀最後の方の注ですね。
曹操が方術、薬にも通じていたという記述に続いて書かれているので、
「方術による肉体改造(?)で、鴆毒に耐性が出来ていた」
という意味合いでしょうか。
鴆毒は飲むとたちどころに死ぬ、と言われている猛毒なので、
普通に飲むと耐性つける前に死んじゃいますので。
まあ、どちらかというと「曹操の化け物っぷりを示すエピソード」
という気もします。
さて、暗殺や自殺の次は漢の皇帝の喪礼を紹介しましょう。
続漢書礼儀志より。
皇帝が病気になると、太医令が医者を連れて宮中に入ります。
薬を処方すると「嘗薬監」や中常侍ら近臣が薬を毒見するそうです。
大臣は皇帝の病状を問いただし、太尉は南郊、司徒・司空は宗廟その他に回復を祈願。
で、くたばると皇后が三公に葬式挙行命令の詔を下します。
臣下は全て白い服を着用。喪服です。城門は閉じられます。
続き。
皇帝の近臣は武器を持ち、虎賁・羽林・郎中といった親衛隊も厳重警備。
北軍五候が宮殿を守り、黄門令、尚書、御史、謁者のような皇帝の側近が昼夜警戒します。
その間皇后や皇太子は夫や父を失った者として「哭」礼を執り行います。
皇帝の遺体は、玉製の小さな板を金糸でいくつもつなぎ合わせたもので覆われます。
確か漢の中山靖王勝の墓が発見され、中からこれが出てきたはずです。
ついでに遺体の口には玉が含まされます。
また防腐処理の一環として凌室の氷が敷き詰められます。
群臣は殿の下で「哭」。
続く。
続き。
その日夜には各地の太守、諸侯王へも皇帝の崩御が伝えられ、
それを知った郡国でも「哭」礼をします。
皇帝の遺体は棺に入れられ、親衛隊が殿を守る中で葬儀と即位儀式が始まります。
西側に諸侯王、南側に三公、九卿、列侯ら。
そして皇后、公主ら女性が西、皇太子や皇子が東に位置し、みんなで「哭」礼をします。
そのあと、三公が殿の階段(臣下はその下、皇帝はその上にいる)を登って
副葬品を柩に入れていき、太常らが太牢のお供え物をささげます。
続く。
面白くないかも知れないけど、皇帝の代替わりがどうやって行われるのかの例なので、
もしかしたら興味深い点があるかもしれませんので、もう少し続けます。
可能であれば、皇帝が死んだときの
民衆の反応、義務なんかもよろしく。
昭和天皇崩御の時みたいに
ネオン街も早じまい?
>>257 最後まで行けば出てくるのでそこでもう少し詳しく書くと思いますが、
一般人、各地の官僚、ともに喪が発せられると喪服を着用し、
「哭」礼を執らなければいけませんでした。
陵へ葬られるまでは結婚や祭祀など禁止されたそうですから、
その他華やかな事も禁止または自粛されたのでしょう。
一般人は葬られた時点で喪が明けるようです。
官僚は36日。
続き。
三公が尚書(書経)顧命篇を引用し、皇太子の即位と皇后を皇太后とすることを奏上します。
顧命篇は周の成王が大臣に後はヨロシクと遺言したもので、
ここでは三公が先帝から後を託されて皇太子の面倒を見る、
といった形式になっているのでしょう。
もちろんこれはその場で裁可され、群臣が一旦退出して喪服から普通の服に着替えます。
太尉がまた殿の階段を登って先帝の柩に向かって即位の策を読み、
それが終ると「伝国玉璽」を皇太子に捧げ、皇太子が皇帝位に就きます。
また中黄門は玉具、随侯の珠、そして「斬蛇宝剣」を太尉に渡します。
これらは皇帝のいわば「神器」ですが、
その中でもお馴染み「伝国玉璽」が重要なのがわかるでしょう。
なお「斬蛇宝剣」は漢の高祖が白帝の子である蛇を斬った、という伝説の剣です。
そして群臣は万歳を称し、一般にはここで大赦が行われます。
継いで城門等を空け、屯兵を解散するよう詔が出されます。
群臣はここで退出し、また喪服に着替えます。
続く。
続き。
その後、都の群臣は五日に一回集まって「哭」する決まりだったようです。
また喪が発布されてから三日、天下の吏・民ともに「哭」したようです。
埋葬後、民は喪を解除され、結婚や祭祀の禁止が解かれます。
どちらも吉礼として皇帝以外でも喪中はしないのが礼儀だったのでしょう。
喪服にはその後段階的に解除され、段々と普通の服に近付いていきます。
「大紅」という服を15日、「小紅」14日、「繊」7日、全部で36日です。
これらは漢文帝が遺詔で決めたもので、
3年(36月)の喪を36日に簡略化したものと言われます。
続く。
続き。
先帝の遺体は、即位翌年には作り始めるという帝陵に葬られます。
太史が占って決めた日に太僕が運転する大駕に載せられ、
「天子之柩」と書かれた旗を立てて行きます。
その際、皇帝と群臣が集合し、そこで太尉が諡を書いた策書を読み上げ、
また「哭」礼を執ります。
先帝の柩は車に載せられ、陵でも明器(副葬品)を入れ、
玉珪などを皇帝自ら穴に投げ入れ、最後は司空の指揮の元埋めなおして終わり。
その後、皇帝・皇后はそれまでの喪服(粗服)から「大紅」に着替え、
宮に戻ります。
続く。
続き。というか補足。
宮に戻る皇帝ですが、「廬」に帰るそうなので、喪に服する時の「廬」に入るようですね。
この「廬」は粗末な小屋で、喪に服する時はあえてこの粗末な小屋で生活するのです。
以上、適当な解説なのではしょった、または分からないのでお茶を濁した部分もありますが、
皇帝の崩御と代がわりについて紹介してみました。
代替わり特赦とか民衆に関係ありそうなのはないの?
大赦なら
>>259にあるように、大抵は即位と共に出されるようです。
また民衆も喪に服したのは
>>260の通りです。
なお余談ですが、改元は翌年に行われます。
後漢など即位直後に改元してる例もありますが、
これは実際は異常事態で、
先帝あるいは前の権力者を否定する意味合いがあると思われます。
皇帝の即位儀式でも出てきた「伝国玉璽」、いわゆる玉璽、伝国の璽。
これはもともと秦のもので、伝承によれば字は李斯の手により、
劉邦が秦を下した時に秦王子嬰が献上したものです。
劉邦は即位以後それを所持し、代々受け継いだものです。
これを受け継ぐ事こそが即位の証だったらしく、
平帝死後に王莽後見の元で孺子嬰が後継者となった際には、
「まだ皇帝に即位していないから」と太皇太后王氏が保管していた事が記録されています。
また王莽自身が皇帝に即位する際も、
その王太后保管の「伝国玉璽」を王太后から半ば強奪しています。
(その際に王太后は怒って「伝国玉璽」を投げつけ、一部欠けたという)
補足。
孺子嬰は平帝の後継者に選ばれましたが、
幼少のため成長するまで皇帝には即位せず、
王莽が代わって皇帝の政務を代行する、ということになっていました。
「孺子」(赤ちゃん、子供)という呼び名はそういった微妙な立場のために付けられたのです。
(実際には権力者王莽を正当化するための存在でしかないのですが)
他にネタも出ないようなので玉璽について少々。
上に述べたいわゆる玉璽は、前漢においては皇帝が所持していました。
なお玉璽は皇帝が詔を封印するのに使用する璽とは別の物です。
業務上使用するのは六璽といい、用途により六種類あって印の文面等が違っていました。
玉璽はそういった用途には使用しない、純然たる「皇帝の証」だったようです。
哀帝が死亡した時、哀帝は大司馬董賢に玉璽を託しました。
「他のヤツに渡すな」と命じて。
今まで見たように、後継者不在のまま皇帝が死んだあと、
後継者を迎えて即位させる時にこの玉璽が必要になります。
これを持っていれば、後継者選びのイニシアチブを取れるでしょう。
逆に言えば、これを奪われたら後ろ盾の無くなった哀帝の寵臣董賢は終わりです。
それに対し、太皇太后王氏は急遽未央宮へ向かい、甥の王コウに玉璽を奪還させました。
王コウは剣を持って皇帝崩御直後の宮殿に入り、董賢から玉璽を奪還しました。
王太后は評判の良い甥王莽を用い、彼を中心に平帝が擁立されました。
董賢が実際に後継者擁立に動く前の電光石火の早業というべきで、
これにより王氏の世が再び訪れたのです。
という話が示すように、皇帝擁立といった際に決め手になるのは玉璽でした。
敢えて言うなら日本の「三種の神器」と同様のものかもしれません。
上のはスレ違いと言われればそうなんですが・・・、
まあ三国志に出てくる玉璽の話ってことで。
玉璽はその後王莽の手に渡り、
その王莽が敗死すると討ち取った反乱者公賓就らによって更始帝劉玄に送られ、
更始帝からさらに赤眉の劉盆子の手に渡ります。
そして光武帝が劉盆子を下して光武帝が玉璽を手中にし、
その後また代々皇帝の物となりました。
そして後漢末、三国志注引呉書によれば孫堅が洛陽の井戸で玉璽を発見。
宦官張譲らが少帝弁を連れて袁紹らから逃げて脱出する際に井戸に隠したとの事です。
同じく注引山陽公佐載記によれば孫堅死後、
孫堅夫人の持っていた玉璽を僭称したがっていた袁術が奪ったとの事。
玉璽の行方ですが、
三国志注や後漢書によると袁術が所持したことになり、
袁術はそれをもって帝位僭称したようです。
そして袁術敗北後、袁術に拘留されていた徐キュウが袁術の璽を漢へ持っていった、
と三国志武帝紀注引先賢行状にあり、
この璽は前出の説を取れば玉璽ということになるのでしょう。
その後は、王莽の時と同じく漢から魏への禅譲の際に新皇帝曹丕に渡され、
そして魏から晋への禅譲で同じく新皇帝司馬炎へ渡されます。
ネタが思いつかないや。
小ネタ
侍中はもともと皇帝のオマルや痰壺の管理係だった。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 22:25
玉璽の話に戻すと、呉・蜀は玉璽を偽造したんですかね?
張嘉っていう漁民が漁の際に網にかかってた玉璽を諸葛亮に献上。
これを帝位に就くの吉兆としたのは演義の話?
273 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:06
>272
正史に載ってる。
劉備の即位を促す諸葛亮以下の上奏文の中に「張嘉と王休が玉璽を献納してきた」ってある。
諸葛亮に献上したかは不明。
って言うか、張嘉と王休の話事態、即位するための嘘っぽい。
サンクスコ
>>271 呉の方はどうしたのか見つかりません。
蜀は「玉璽が襄陽から出た!」と言ってます(下参照)。
>>272 三国志先主伝、劉備に即位を勧める(「勧進」といいます)上書に出てきます。
それによると関羽が襄陽を囲んでいた時に
そこの人間張嘉、王休が漢水に沈んでいた玉璽を発見して関羽に献上したとの事。
「襄陽で発見」というのは、
前の占有者が孫堅、袁術だったとされている事を踏まえているのですかね?
あ、ゴメンかぶった。
リロードしなかった・・・
277 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 23:28
>275=276、怨霊氏。
>>前の占有者が孫堅、袁術だったとされている事を踏まえているのですかね?
これって、当時の蜀で知ってたのって劉備くらいじゃないですかね?
劉備「そう言えば、玉璽って碧眼児のオヤジが見つけて、袁術が持ってたよなぁ・・。」
諸葛亮「確か孫堅は襄陽で戦死してますね。関羽が襄陽包囲してた頃に漢水で見つけた、って事にします?」
劉備「そうだな、30年も前の話だし、どうせ行方不明だから大丈夫だろ」
諸葛亮「じゃ、そういうことで。」
って感じでしょうか(笑)。
>>277 そんな感じじゃないでしょうか。
もっとも、三国志注の通りなら袁術から回収されている可能性もあるんですが、
そのあたりは無視したのか知らなかったのか。
当時は孫堅か袁術の死後に行方不明という噂でもあったのかもしれませんね。
発見者「張嘉」「王休」はウソクサイですね、名前からして。
ポピュラーな姓である張、王に名前はどっちも「よい、めでたい」という意味ですから。
こんばんは。話の腰折るようでアレなんですけど、
三国時代は養子・養女を取るって結構ポピュラーだったんでしょうか。
劉備は実子いるのに劉封をもらっちゃったりしてますよね。
曹操みたいに親戚いっぱいいる場合は無縁な話なのですか?
曹操の父が養子なのは有名ですね。
そして曹真も養子。彼は本姓「秦」氏で、
父を無くした時縁のあった曹操が一族として養ったらしいです。
そのほか、孫河、陳矯、王平、蜀の馬忠など、
本姓でない姓を名乗るようになる事はこの時代ではよくあったようです。
親戚の数よりも、むしろ勢力ある家の方が例としては少なそうです。
また、曹操の親戚は一見多いですが、
挙兵当初とかは必ずしも多くも無かったような気もします。
夏侯氏は身分・財産がそれほどじゃない家だったようですし、
曹氏自体も曹騰以前は貧乏人だったらしいのです。
>怨霊氏
勉強になります。ありがとうございます。
養子な人々ってそんなにいたんですか。
一方で女性の記録が少ないからか養女ってお目にかかれませんね。
残念なことです。
>>278 曹丕が生まれた年に「黄龍」が出たのが確認されたという話もかなり眉唾ですね。
その手の捏造話は皇帝周辺にはかなりあると思われます。
>>281 この頃の女性って他家との姻戚を結ぶための道具としてしか扱われてないから、
それこそ演義の貂蝉のように美人局のために養女をとったという話ならありそうですね。
それで質問ですけど
女性は男性のように親の封領を継ぐことが出来たのでしょうか?
「公主」というのは「侯」などとはまったくの別物で、一代限りなんでしょうか。
>>281 養女があったとしても、おっしゃるように記録自体が少ないですからね・・・。
>>282 生まれた年では無いようですが、確かにそういう話がありますね。
漢あたりも含め、
「本来帝位に就くべきではないはずなのに即位した」皇帝近辺には
その手の話が多く出てくる傾向にあります。
足りない正統性を、瑞祥の類で補強しようとしているのでしょう。
(その最たるものは前漢宣帝なんですが、
禅譲して帝位に就く曹丕も瑞祥の類で飾り立てる必要性があったのだと思います)
この時代、女性が封土、爵位を継承することは無かったようですね。
実は前漢初期には息子や夫の封爵を継承した例があるのですが・・・。
後漢書皇后紀によれば、皇帝の娘は県公主、諸王の娘は郷、亭公主だとか。
皇帝の姉妹は「長公主」。
公主は封邑の地名を付けて呼ばれ(「館陶公主」など)、
大抵列侯級の者に尚(降嫁)します。
後漢書皇后紀によれば産まれた子供が母の邑を継承して列侯になるとのこと。
称号としては一代限りですが、領地は相続する、というところですね。
公主の属官として「家令」「傅」などがいるようです。
また公主の封邑となる県を行政上は「邑」といいます。
さて、需要があるかどうかしりませんが、
曹操の一族について少々。
なお、石井仁先生の「曹操」をかなり参考にしますのでご了承ください。
曹操の父は曹嵩。彼が宦官曹騰の養子なのは有名ですが、
どうも身分、経済力の無い家から連れて来たようです。
有名な陳琳の檄文の中で、曹嵩は「乞食の子」とされているのです。
もちろん陳琳による誇張があるかもしれませんが、
少なくとも立派な家から養子を迎えた、というようなものではなかったのでしょう。
それは、曹嵩の実家と言われる夏侯氏を見ると分かります。
曹操に従って歴史に名を残す夏侯氏には惇、淵、尚の三系統がありますが、
いずれも親世代の事について一切記録が残っていません。
同じように曹操に従った曹仁、曹洪ら曹氏には立派な官歴の親世代がいるので、
それと比べるとハッキリします。
夏侯淵は挙兵前のエピソードとして、
飢餓の際に自分の子を捨てて死んだ弟の娘を育てた、という話があります(注引魏略)。
このあたり、代々官僚を輩出する家柄、あるいはその地で勢力を持つ豪族、
といった家ではなかなかありえない話ではないでしょうか。
貧民とまでは行かなくとも、
曹操にくっついて挙兵するまでの夏侯氏は権力も財力も無かったと思われます。
一方の曹氏は、大宦官曹騰の血族であり、
曹騰の出世に合わせて官界へ進出したようです。
曹仁、純の祖父は太守、父は侍中ですし、
曹洪の伯父は尚書令、曹休も祖父が太守だそうです。
曹純は父の財産を相続し、100人を超える奴婢を抱える資産家で、
18歳にして黄門侍郎になっています(曹操の挙兵前)。
曹洪も同様に尚書令の伯父のお陰で県長にしてもらってます。
曹仁にしても1000人もの私兵を養う財力があったようです。
このように彼ら曹操の同世代の曹氏は、
曹騰とその一族のお陰で財力と官界での地位をある程度確保していたと思われます。
もっとも、曹氏も曹騰去勢以前は大した家ではなかったようです。
専ら曹騰の力でここまでなったと言えるでしょう。
元をたどれば、曹氏も夏侯氏も、曹操から2、3代以上前は大した家では無かったのです。
曹氏が養子を取ったり、本来男系血族のはずの夏侯氏と通婚したりいった、
当時の名士には眉をひそめられそうな事をしばしば行っているのは、
もともとの家柄、身分の低さと関係ありそうな気がしてなりません。
要するに、そういったことをタブー視しない=名士では無い世界から入ってきたばかりの、
名士の世界では山猿扱いの成り上がり者じゃないだろうか、という事です。
それは言い過ぎにしても、曹操の一族は追っていくとなかなか面白い事が出てきます。
例えば曹操の従妹の夫、宋奇。
彼はおそらく霊帝の皇后宋氏の縁者で、
彼も宋皇后廃位とその父獄死の時に一緒に誅殺されたようです。
曹氏は時の皇后の一族と通婚していたのです。
しかし一番謎めいているのは正夫人だった丁氏との関係ではないでしょうか。
女将軍はあり?
>>284 乱世到来以前の夏侯氏の身分を推測させる資料については、
夏侯惇が師について学問を学んだという話ぐらいしかありません。
曹騰の出世で恩恵を蒙った形跡もありませんので、
乱世以前の夏侯氏は子弟にある程度の教育を施せるが、
歴史書に記述できるほどの官に付くことは出来ない家柄。
出仕してもせいぜい州郡や県の属官止まりの寒門だったと思われます。
なお、夏侯淵が子供を捨てて姪を育てた話は「兗、豫大乱」の時だったそうです。
黄巾の乱の時か、牛輔軍の関東遠征の時か、青州黄巾侵攻や兗州大反乱の時なのかはっきりしません。
しかし、故郷を離れて避難しているか、基盤が固まるまでの困窮した曹操軍の陣中にいる時の話なら、
いかな名士大族と言えども困窮する可能性はありますので、あまり参考にはなりません。
>>287 三国・後漢の時代には、正規軍所属の女性の将軍の記録は残っていません。
孫権配下の将軍徐琨の母のように軍事的識見に優れた女性の記録も残っていますし、
魏書周宣伝には賊の頭目だった鄭某、姜某という女性の記述がありますが、
これは例外中の例外と考えるべきでしょう。
>>288 お久し振りです。
夏侯氏については、おっしゃるような家柄だったのでしょう。
ただ、三国志で曹嵩の出自を不明とし、陳琳が乞食の子と中傷しているように、
曹操の側としては出自をあまり出したくないような事情があったようですから、
経済的にも家柄という面でも恵まれていない方だったのではないかと推測します。
夏侯淵の話は、確かに名族といえども困窮する可能性のある時代でしょうが、
ここまで切実な二者択一を迫られるのは、
それほど経済的に余裕が無かったためではないかと思った次第です。
正夫人丁氏が曹操と離縁したのは有名ですが、
三国志卞皇后伝注引魏略では、
曹昂を失った後に曹操が丁夫人を実家に帰したけれど、
後から曹操が会いに行ったが丁夫人は戻ろうとしなかった、という話を伝えています。
丁夫人と曹操の関係は、卞夫人以下その他の夫人とは違っていたようです。
そこで気になるのは、曹操の父曹嵩の夫人も丁氏であったこと。
曹操の母が丁氏かどうか不明なのは不思議ですが、
二代続けて丁氏は曹氏に嫁いでいるのです。
で、丁氏といえば沛郡の人、丁沖が初期の曹操を支えた功臣だったらしく、
(「宿与太祖親善」といい、許への遷都後に司隷校尉になっている)
またその子丁儀についても曹操は娘を嫁がせようとしています。
丁儀らは曹植を支持しており、後に曹丕によって誅殺されているのですが、
この丁氏も曹操と特別に親しい事を考えると、
曹操の外戚だったのではないでしょうか。
つまり丁夫人の実家とはこの沛郡丁氏ではないかということです。
それなのにまるで事跡が伝わらないのは不思議な事です。
(この辺は特に石井先生の「曹操」に拠っています)
永遠の青って三戦にもきてたのか
>>290 前スレとかにも来てましたよ。
沛郡丁氏については、晋書陳寿伝に陳寿が丁儀の子らに
「米くれたら父のいい列伝作ったる」と言った、という噂を収録しています。
ここからは、丁儀らが三国志本伝に収録されても不思議ではない人物だと
当時の人々に認識されていたことが分かります。
真に無名な人物であれば、たとえ陳寿が節操ない人物だったにしても
立伝する気にはならないでしょう。
そして丁氏が立伝されないのが不思議がられていたということは、
やはり丁氏は曹氏にとって重要な一族だったということではないでしょうか。
今記録に残る丁氏はいずれも曹氏に密着しています。
他の丁氏として、曹操に愛されたという丁斐、
そしてその子、曹爽与党の丁謐がいます。
これまた曹氏と密接な関係という訳です。
それが痕跡程度だけ残して三国志から消え去っているのは、
おそらく曹丕のせいでしょう。
思うに、本来世子(世継ぎ)にならないはずだった曹丕としては、
死んだとはいえ正夫人丁氏の子と同等な嫡子曹昂よりも
自分の方が世継ぎとして優れていた事を示さないと地位がぐらつく。
丁氏は曹丕にとって曹昂ともども目障りです。
その上、ライバル曹植に丁氏が肩入れしている(丁儀ら)。
これは曹氏に対し影響力を持つらしい丁氏が曹植を選んだという事で、
ますます丁氏は目障りでしょう。
ご存知のように世継ぎ問題の暗闘に勝ったのは曹丕でしたが、
その時に丁氏が一緒に誅殺されたらしいのは示唆的です。
もしかすると、丁氏を追い落としたお陰で曹植から後ろ盾を奪って
世継ぎの地位を得られたのかもしれません。
曹操の母族(かもしれない)、そして妻の一族でもある丁氏と曹丕は
両立できない運命だったのでしょうか。
そういうわけで、丁氏が三国志でやけに目立たないのは、
曹丕が故意に記録を抹消・改竄したのか、
もしくは単に曹丕によって迫害されたために活躍が少なく、記録も少なかったのか、
どちらかではないかと思うのです。
三国志(演義なんかでも同じだと思いますが)を読むと、曹操の血族、親戚、外戚が
実は少ない事に気付きます。
身一つで出世した劉備はともかく、孫氏や袁氏なんかとは大きく違います。
乱世では弟やら親戚、あるいは母方の親戚などが総出で当主を盛り立てそうなもので、
実際に孫氏はそれで成功した面もあると思うのですが、
上に書いた外戚丁氏以外では、曹操初期の親族と言えば
夏侯惇、淵、尚
曹仁・純、洪
くらいしか曹操に従っていないと思います。
(曹真、曹休は後からの参加)
これは、曹氏と夏侯氏双方とも、
例えば袁氏や荀氏のように色々な家と婚姻等で結びついた、
代を重ねた豪族・貴族では無い、という事による部分があるのではないでしょうか。
言い換えれば、もともと裕福とはいえない層から出てきた曹氏にとっては、
古くからの親戚がいたとしても似たような(裕福ではない)家柄な訳で、
頼りになる親戚が少なかったのではないかと思うのです。
なお、当時の名士というか知識人の間では、
同姓不婚を破った者は白い目で見られたようです。
三国志陳矯伝注によれば、陳矯は元々劉氏で、母方の陳氏を継いだのだけれど、
父方の劉氏と婚姻したとのこと。
で、それについては指弾の対象だったそうです。
曹操は彼をかばいましたが、当時そのことは道義的に問題だと認識されていた事になります。
実は曹氏と夏侯氏の間でも、これに近い状態になっていたと思われるのですが・・・。
また、名士間では「宦官一族との婚姻」も避けられたようです。
あの荀ケは宦官唐衡の娘と結婚しています(後漢書荀ケ伝)。
「荀ケは若くして才能を知られていたので、そのことを悪く言われずに済んだ」
とされており、清流をもって任じる名士にとってマイナスイメージだったのは確かなようです。
これまた曹氏は結婚どころか先祖が宦官・・・。
曹操、あるいは曹氏は、そういった面ではむしろ白眼視されても
仕方の無い存在だったように思われます。
そんな彼を早くから支持した荀ケもその点でスネに傷持つ身だったというのは運命でしょうか?
(まあ、袁紹の一族にも宦官が居たりするのでその辺は微妙なところですが・・・)
曹操は曹真(本姓秦)や、連れ子何晏、秦朗を自分の子のように育てたといいます。
これも、曹操本人の気持ちとは別に、
曹氏にとって親戚としての働きを期待して受け入れた面もあったのではないかと思います。
(実際、曹真・曹爽は言うに及ばず、何晏は後に曹爽とともに斉王芳後見に参画しましたし、
秦朗も明帝の側近となりました)
魏では、結局のところ広い意味での親戚よりは、
むしろ名士、清流派士大夫の側が力を握る事となりました。
これには主に曹丕が親戚よりも名士層を重視したという面が大きかったと思います。
また、魏の世論を二分するような政争の際、
親戚の側は決まって負け組みになったという側面もあります。
(曹丕、曹植の後継者争いの時は植に肩入れした丁氏が力を失った。
曹爽と司馬懿の争いの時も曹爽、何晏の他、夏侯氏も巻き添えになった)
これは魏王朝にとっては不幸なことで、宗室曹氏のみならず、
曹氏との運命共同体として曹氏を守るべき親戚一同の力が失われ、
名士の支持を得た司馬氏の簒奪を許す要因になったのではないでしょうか。
曹氏が衰えたのは二代続けての若死にだと思うが?
>>297 そうかなぁ、一番大きな要因だと思うが
他の時代を見ても、二代続けて若死に君主だと
国がガタガタになって貴族が台頭するという
パターンはたくさんありますよ
功臣粛清ができなかったのが大きな要因としてあるかも。
荀氏の排除までが精一杯な状況だったんだろうねぇ。
対外的にというか。
世界史板での怨霊は話しかけづらい雰囲気がある
確かに曹丕、曹叡がともに長生きなら、あんな早く簒奪されたりしなかったと思います。
しかし、曹氏の衰えについては、
上に述べたように曹氏の親戚が皇帝早死後の幼帝を助け、守るべきだったと思うのです。
少なくとも漢はずっとそうでした。
時代が違いますが、現に劉邦死後の難局を呂太后と呂氏が乗り切り、
劉氏の天下を維持しました。
(最後には暴走しましたが、それまではむしろ諸侯王や功臣をよく抑えたと言えるでしょう)
で、曹氏とその親戚は、その家の歴史の薄さや宦官の家という特殊条件故に、
数、質に恵まれていなかったのかもしれません。
しかも、本来ならその点で大きな力となるべき外戚丁氏を冷遇・排除したため、
最終的には統帥権など、漢では滅多に外戚以外には渡さなかった大権を
貴族層に委ねなければならなくなったのではないでしょうか。
曹真や何晏・秦朗は、曹氏が少しでも親戚同然に信頼できる者を増やそうとして
受け入れたのではないでしょうか。
なお、同じ親戚でも諸侯王冷遇はまた別の問題です。
皇帝の兄弟等の諸侯王に力を持たせる事、
諸侯王の地方割拠を許す事の危険性は漢以来認識されていたものです。
こちらは皇帝、主家の護持よりは乱を呼ぶ方に熱心になるので頼りに出来ません。
補足。
諸侯王については、危険なだけ、とまではいえないかもしれないですね。
ただ、魏の冷遇は厳しすぎる面もあったかもしれませんが、
後漢における諸侯王も全体的には影響力の無さでは大きく変わらないように思うので、
魏の衰亡の要因に諸侯王冷遇、弱体化を挙げるのは違うのではないでしょうか。
>>300 そうですか?まあ、多少堅い感じになってるかもしれませんが。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 06:56
>302,怨霊氏。
>>魏の衰亡の要因に諸侯王冷遇、弱体化を挙げるのは違うのではないでしょうか。
↑を反面教師にした晋朝は、魏の逆方向に暴走した、って感じですね。
>>303 魏の諸侯王冷遇は漢からの流れの上にあり、
晋の諸侯王への手厚さ、気前の良さは尋常ではありません。
晋は漢、魏を反面教師とした面もあるとは思いますが、
そればかりでもないのではないかと思うのです。
はっきりと理由を述べるほど詳しくもないのですが、
例えば貴族層の隆盛に対抗するため、地方分権化に対応するため、
といったあたりでしょうか。
>曹氏の親戚が皇帝早死後の幼帝を助け、守るべきだったと思うのです。
>少なくとも漢はずっとそうでした。
そうか?
人事異動から、呂氏は別に「劉氏の天下」を持続させようとしたとは思えないし、
外戚などで大権を握った多くの人物も「劉氏の天下」を念頭に置いていたとは思えないな。
常に臣下の立場を保ちながら、「劉氏の天下」の存続を願った可能性があるのは、
せいぜい、霍光くらいだろう。劉氏では朱虚侯・劉章ってところか。
朱虚侯・劉章の場合、兄の斉王を帝位に即けたかったんかね?
漢の皇帝の親戚、というか主に外戚は、
漢初以来一貫して皇帝を補佐し、兵権を握る存在でした。
それは、当時の「軍中では皇帝の詔より将軍の命令が優先する」という制に見られるように、
当時の将軍の権力の強大さ故に、
滅多な者には中央軍などを任せる訳にはいかないという事情があったと思います。
外戚は、皇帝との血縁や婚姻で結ばれた親密さがあり、
皇帝から離れることが父母からの離反とほぼ同一になるが故に、
皇帝にとっては裏切られる可能性の低い存在です。
それ故に、漢の高祖や恵帝にとっての呂氏、
文帝、景帝にとっての薄氏、竇氏、
武帝にとっての田氏、衛氏・・・
といったように歴代の皇帝は大将軍や車騎将軍、衛将軍といった
中央の精鋭を率いる総大将(総司令)には多くの場合外戚を用いてきました。
後漢においても同様でした。
確かに外戚は兵権や摂政としての権力を持つ場合があるため、
しばしば朝廷を牛耳り権力を縦にしましたが、
それでもなお外戚による領兵、摂政が漢末まで無くならなかったのは、
そういった危険性を考慮してもなお、そのようにする必要があったからだと思われます。
何故なら、皇帝と特別な恩顧が無い者が朝臣の絶大な支持と強力な兵権を得たらどうなるか、
漢では分かっていたのです。
外戚が兵を有しても、外戚故に他の官僚の支持は得にくい。
逆に官僚政治家が他の官僚から支持されても、兵権が外戚の手にあれば乱を鎮圧できる。
この対立構造を利用し、幼少で弱体な皇帝から皇帝の座と権力が他の者の所に移るのを
きわどいながらも守ってきたと思います。
>>305 で、霍光は昭帝即位時において外戚と呼んでいいのか微妙ですが、
確かに外戚としての働きをしました。
ただ、霍光だけがそうだった訳ではなく、
他の外戚たちも皇帝を補佐してきたという点では変わりません。
少なくとも諸侯王やら姦臣やらの反乱等に対する抑止力になっていた筈です。
一方、朱虚侯、後の城陽景王章(曹操が祀っていた祠を廃した)は、
>>306氏の言うようにその真の目的は兄、斉王襄の即位です。
当初は朱虚侯は趙全土の王になる密約があったらしいのですが、
その時に兄である斉王はそれ以上の位に就いている筈ということです。
つまり皇帝位と引き換えに長安の功臣(陳平、周勃ら)は
斉王、朱虚侯の協力を得たと思われます。
というわけで、魏は漢で重要な役割を果たしてきた外戚があまり用いられませんでした。
これは魏の特色と言って良いと思います。
これは、後漢における外戚の跳梁跋扈を魏では問題視したという面があるでしょう。
また、それと同時に勃興・隆盛した名士、貴族層が
外戚が皇帝との縁戚だけで(能力も連綿と続く家柄もないのに)
取り立てられる事を嫌ったような面もあったのかもしれません。
当時の名士の代表格袁紹らによる宦官誅滅は皇帝の手足となるべき宦官を弱体化させました。
またその上に皇帝を補佐するべき外戚もまた名士らに嫌われたのだとすると、
皇帝が支配権を確立し独裁権力を振るう上での重要なコマ二種類を
名士・貴族によって取られた状態から、
魏の皇帝は支配を始めなければならなかったという事になります。
これでは、血縁、縁戚や門生故吏関係で縦横無尽に繋がるネットワークを形成する貴族層を
掌握支配するのは相当困難だったのではないでしょうか。
いや、「というわけ」はどういう訳かイマイチ判らないんだが・・・
>>308 たった一言に対し、丁寧に答えていただけて感謝する。
趙王の件だけは知らなかった。
でも、もし斉王・襄が帝位に即き、劉章が趙王となってたら、
景帝と梁王・武のような感じになってたんでしょうか?
それと、斉王が帝位に即きそこねたのって、先代の斉王・肥の
岳父だったかの駟鈞の一族が皇帝の外戚となるのを懼れたため、
っていう認識でいいんでしょうか?
うろ憶えで訊いてばっかりですまんのですけど……
>>310 読み返してみるとそうですね。適当書いてしまったかも。失礼しました。
一応まとめ&補足しておくと、
漢
外戚を重要視(皇帝の補佐、摂政)
→幼帝などを守る
魏
外戚は朝廷で以前より力を持った名士(貴族、清流派)に支持されない
→幼帝を守るのも名士(司馬氏)→忠誠心の薄さ→簒奪へ
>>305ですが、呂氏その他、外戚がそれぞれ実際に劉氏を本気で守ろうとしたかどうかは、
あまり問題にならないような気がします。
外戚が兵を有しても、外戚故に他の官僚の支持は得にくい。
逆に官僚政治家が他の官僚から支持されても、兵権が外戚の手にあれば乱を鎮圧できる。
このお互いに睨みあうような体制を作り出して、
冷戦状態のような安定の中で皇帝の成長を待つのです。
外戚でありながら一般の官僚から広い支持を得た時、
そして広く支持される官僚が兵権も有していた時、
それぞれ漢の支配体制は崩壊しています。
書いておいてなんですが、外戚などについてはあくまで私見なのでご了解を。
>>311 城陽景王章と斉哀王襄の関係は、そのようなものでしょう。
なお、この二人は文帝即位後、即ち呂氏誅滅のクーデターのすぐ後に次々死んでいます。
斉王が皇帝になれなかったのは、
おっしゃるように斉王の外戚駟氏が嫌われたとされています。
ただ、斉王は琅邪王澤(劉邦の遠い親戚、劉澤)を騙してその兵を奪い身柄を拘束しており、
皇帝選びの際に楚王交と並ぶ長老格だった彼が斉王を支持しなかっただろう、
という事情があります。
同じく、斉王の進軍を押しとどめた灌嬰は、
斉王が斉の丞相を殺して勝手に兵を挙げた事について近臣を叱責しており、
どうも斉王とその近臣らを、クーデターを実行した高祖の功臣たちは
外戚うんぬん以前に支持しなかったようなのです。
多分、功臣らは斉王とその近臣が自分たちと対立するのを嫌ったのでしょう。
さて、ふと思いついたので匈奴について。
匈奴は中国の北方、長城の北側に居た人たちです。
漢初には中国よりも強力で、項羽を破った後の高祖を7日間包囲した事もありました。
いわゆる遊牧民で、馬・牛・羊を飼い、草のある所を移動して生活します。
文書が無く(多分文字自体が)、もちろん中国のような邑を作って耕作することもありません。
騎馬と弓に巧みで、戦時には強力な戦士となります。
その首長を「単于」といいます。
正確には(正確といっても、匈奴の言葉の音を写しただけですが)
「撐犂孤塗単于」といい、
「撐犂」=天、「孤塗」=子、「単于」=大
といった意味だそうです。要するに「大天子」といったところ。
単于の下には
左賢王、右賢王
左谷蠡王、右谷蠡王
といった王がおり、そのうち中国で言うところの皇太子は左賢王に当たります。
王にはその他にも昆邪王、休屠王、日逐王など幾つかあったようです。
おそらく、系統の違う部族などをその部族ごとにまとめ、その首領が王なのでしょう。
右とは西、左が東の事です。
さて、漢高祖は匈奴と戦って敗北し、屈辱的な和約を結びました。
毎年匈奴に貢物をし、外交上の関係もどうやら匈奴が上だったようです。
しかし武帝の頃から攻勢に転じ、
匈奴にも負けない強力な騎兵とそれを指揮する衛青、霍去病らを得て、
匈奴に大きな打撃を与えます。
武帝末期頃には、匈奴の国力は著しく低下しており、
今度は匈奴側から漢へ和親を求めるようになりました。
匈奴は更に、漢がその後西域へも勢力を拡大し、
さらにはライバル烏孫が漢と共に匈奴を撃つなどの脅威にさらされました。
>>315 >右とは西、左が東の事です。
そういえば、日本でも皇太子のコトを東宮と呼称していましたな
これも黄門とか金吾と同様中国の官制の輸入なんでしょうが
天子は南面するから
皇太子を東宮と呼ぶのは、易から来ているのだとか。
春秋時代から使われている用法。
ここから来てるんでしょうね。
余談ですが、漢では実は「東宮」は皇太后を指しているそうです。
皇太后の宮殿が東にあったから。
匈奴ですが、いよいよ弱体化した匈奴は、内訌などもあり、
遂に呼韓邪単于の時に漢に対し「臣」を称して入朝することとなりました。
降伏して事実上の属国化することを意味します。
匈奴は漢から黄金璽を賜る関係となりました。
単于自らも何度か入朝しており、かつての敵国(対等な関係の国)の面影はありません。
(なお、何故か単于が入朝すると皇帝が死ぬというジンクスがありました)
有名な王昭君の話もこの頃の事です。
以後、王莽時代まではその関係が続きます。
王莽は「匈奴単于璽」というそれまでの印文を「新匈奴単于章」に変えました。
これが外交問題に発展、また匈奴との関係が悪化しました。
何故印の文面が問題かと言うと、
最初の文面は贈る者の名が入っていない=贈られる匈奴の主権を(体面上は)認める、
というのに対し、
「新」と贈る側の国名が入る事で、「新の属国である」という事を示しているためです。
また「璽」は漢の制度では皇帝や諸侯王等にしか使われていない呼び名で、
「章」と呼ぶのは降格(少なくとも単于はそう思った)なのです。
遊牧騎馬民族が文字を持つのは、6世紀頃の
突厥からだとか。突厥碑文が有名ですな。
「騎馬民族国家」江上波夫・著 中公新書
良著ではありませんが遊牧騎馬民族について
わりと詳しく書かれています。
>>318 後漢書では皇太子を指して東宮と呼んだりと使い分けられてないですね。
通典でも太子の属官を東宮官としてますし、広く皇太子の別称として用いられたんでしょうね。
匈奴の官位ってアチラの発音に当て字を使ってるんでしょうけど、
左賢王(=東方)が皇太子というのは偶然の一致ではないと思います。
>>320 独自の文字は突厥からでしたか。
匈奴は独自の文字は持ってないですが、
漢人中行説が中国語での記述を教えたとされてますし、
それ以前も外交文書は出しているのでそういったものは中国語で書いていたんでしょうね。
>>321 前々から匈奴と中国との関係、交流はありましたから、
東=皇太子というのも中国から伝わったか、
もしくは東=日の出=次の世代、みたいな連想が文化を問わずされていたのか、
というところでしょうかね?これはただの憶測ですけど。
中国では後漢成立の頃、匈奴は中国側の混乱に乗じた形でしばしば辺境略奪等をしました。
しかし、異常気象と蝗害、そしてまたお決まりの内訌から分裂。
単于が南北両立する事態となりました。
南単于はいち早く漢へ臣従して北単于を撃ちます。
その後、南単于率いる南匈奴は北匈奴の反攻を避ける形で、
後漢の指示の元で并州西河郡と近辺の郡へと南徙。
漢は使匈奴中郎将を置いて監視しつつ辺境経営を再開しました。
その後、北匈奴は和親や攻撃などを繰り返しつつも勢力を落としてゆき、
遂には鮮卑に大敗し、その後南単于と後漢の追い討ちで更に混乱。
その後も匈奴内の反乱や鮮卑の勃興などで北辺はしばしば戦場となりましたが、
次第に単于が漢の一将に廃立されたり、
匈奴が鮮卑に対抗するため辺境防衛システム修復を求めるなど、
匈奴の威は地に落ちたというべきでしょう。
それでも万単位の騎兵を出すことが出来るのは漢にとっては貴重でした。
そして後漢末。烏桓と張純らの反乱を平定するために、
朝廷は南匈奴の兵を徴発し、幽州牧劉虞の指揮に組み込まれます。
しかしこの出兵には反対者が多かったらしく反乱が勃発。
時の単于が殺されます。
その子が於扶羅です。
於扶羅はそれ以前より黄巾討伐にも従軍しており、父単于が殺された時も漢に留まり、
そこで単于として自立したようです。
董卓政権の頃には河内に駐屯、太原や河東を寇掠もしたとのこと。
(曹操に敗れています)
また袁術と力を合わせたりもしています。
一方、本国も白波賊と一緒になって河東を攻めたりしたそうですが、
こちらはうまくいかなかったようです。
おそらくですが、このあたりで二つの匈奴軍は
単于於扶羅の掌握するところになったのではないでしょうか。
その後、献帝の長安脱出の際に白波賊と共に匈奴の右賢王去卑が
共に献帝を迎え李・郭軍を迎撃しています。
その頃は単于は弟の呼廚泉になっていました。
献帝が許に移ると単于らは帰国しましたが、その後(建安21年)に入朝。
そこで単于呼廚泉は業βに留められ、国は去卑が代理統治することとなりました。
そして、この建安21年と前後して行われたのではないかと思われるのが、
匈奴の五部帥制です。
これは匈奴の民を五部に分けて帥によって統治させるようにしたものです。
漢(魏)による分割統治を図ると共に、騎兵として徴発する際に便利なようにしたのでしょう。
で、その左部帥となったのが於扶羅の子で左賢王だった劉豹です。
その後匈奴は太原に移され、今まで以上に漢化が進んだようです。
劉豹という漢人名がそれを何よりも物語っていますが、
その子劉淵に至っては名士太原王氏とも交際があり、
左伝や孫呉兵法を好んだと言います。
この劉淵とその一族こそが五胡十六国の筆頭である漢を立てることになります。
>>318 五行で東=春からだと思ってた。参考までに
春宮で「とうぐう」と読む
東本で「はるもと」とういう姓がある
なども散見されるね、
>>325 今の龍狼伝はそのあたりですね
詳しく知らなかったんでアレンジが多いのかと思ってたら
意外にそのまんまですな
>>326 詳しくないですが、詩経で既に東宮=太子と用いられているそうです。
また、易の八卦の内で「震」は季節で言えば春、家族で言えば長男を象徴します。
>>327 作者名ですね。
>>328 龍狼伝はよく知らないですが、
さっきちらっとコンビニで立ち読んだ限りでは確かに結構よく調べられている感じ。
南匈奴は三国志では微妙に良く分からない部分のはずで、
「臣従している異民族その他大勢」の一つとしてしか認められていなかったのかも
しれませんね、三国志成立の頃までは。
反覆常無かったりして大変なのは烏桓とかの方で。
また、北匈奴はその後中国側の記録から姿を消しているはずで、
一説にはヨーロッパを恐怖のズンドコに叩き落したという「フン」こそが
流れてきた北匈奴の末裔だともいいます。
怨霊氏の知識ってすげえよなあ…
東宮
1、太子の住む宮。ここから、太子そのものを指す。晋の李密「陳情表」に「猥以微賎、当侍東宮」とある。
2、太后或いは諸侯の妾女が住む宮。「漢書・劉向伝」に
「依東宮之尊。仮舅甥之親、以為威重。后因称妃嬪為’東宮’’西宮’」とある。
3、複姓
こんなん出ましたけど。
万里の長城が出来た
↓
匈奴は西に移動
↓
西域の住民が更に西に移動
↓
ゲルマン民族大移動
世界史は繋がっているんだよって、世界史習っているときに聞いたことがある。
>>330 お褒め頂いて光栄ですが、そんなことはないですよ。
>>331,332
東宮=太子については詩経、衛風、碩人に「東宮之妹」とあり、
注によれば「東宮、斉太子也」となっています。
これは春秋時代、衛荘公の事だそうで、少なくとも春秋時代以来の用法のようですね。
あと、細かい事ですが漢書劉向伝は「依東宮之尊。仮舅甥之親、以為威重。」まで、
と一応分けておきましょう。
ここで劉向が述べている「東宮」は未央宮から東にあったらしい長楽宮に住む皇太后王氏。
長城が出来た事そのもので匈奴が西遷したかと言われると微妙な気もしますが、
秦が匈奴を攻撃すると一旦匈奴は北へ移動していますので、
中国の対北政策が西域やさらに西側へも影響を与えているのは確かでしょう。
また、秦・漢の長城は物理的な防壁としてはあまり役立たなかったといいます。
(今残っていて有名なのは明のもの。漢のはもっと低いらしい)
馬や家畜の侵入を防ぐ事で足止めして時間を稼ぎ、
その間にかなり洗練されていたらしい烽火などの通信システムを駆使して
本隊を呼び寄せるのだとか。
バリアーというよりはアラームという感じでしょうか?
>>333 東宮=太子に関して、『呂氏春秋』や『春秋左氏伝』をみても同様の
解釈ができますね。
『春秋左氏伝』には、
>>333にある衛荘公の件のほかに、君主夫人の
起居する地、という意味でも書かれてますけど。
ところで今読んでて知りましたが、
五胡十六国の赫連勃勃は
>>324の右賢王去卑の子孫ということになってるんですね。
匈奴系とは知ってましたが。
さて、特に要望等が無ければ、
少し前に話題になったので「易」について分かる範囲で解説してみようと思います。
易は、六つの「爻」(コウ)によって占いの結果を示すものです。
易経はそのそれぞれの意味について説明するものです。
太古の占卜もそうですが、
天地陰陽の示す暗示などを正しく読み取るのは古代では大変重要な事でした。
漢、魏あたりでもそういった感覚はなくなっておらず、
儒家の経典として研究対象になっていました。
(前漢の京房など、大マジメに易を政治に活用しようとしています)
「爻」は二種類、「陰」と「陽」があります。
間が空いたり空いてなかったりする横棒が6本縦に重なった変な記号を見た事があるかもしれません。
(大韓民国の国旗についてます)
この横棒が「爻」で、それが3本重なって出来るのが「卦」(八卦)です。
「━ ━」と間が空くのが「陰」、「━━━」と間が空いてないのは「陽」です。
この陰と陽の組み合わせで「八卦」が出来ています。
例えば、下から陽、陽、陽と陽だけ3つ重なっているのは「乾」です。
全部陰なのは「坤」です。
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
これが「坤」、これが「乾」です。
で、これらを上下に重ね、全部で横棒6本にしたのが六十四卦の「卦」です。
正式にはこれで占います。
例えば
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━ ━ ━━━
━━━ ━ ━
━━━ ━ ━
━━━ ━ ━
これが「泰」、これが「否」です。
「泰」は64の卦の中でも最も好ましいと思われる卦の一つです。
そして、占ってこの「卦」を表すために「筮竹」が使われます。
正しいやり方は知らないので説明出来ないんですが、
何度か筮竹を取っていって最後に残った本数で陰か陽かを決めるんだったと思いました。
なお、コイン投げで決めていく簡略なやり方もあります。
六つの「爻」を決め、「卦」が確定したら易経のそれに対応する説明を読みます。
例えば「乾」の説明の最初は「元亨利貞」となっています。
「おおいにとおる。ただしきにりあり」と読みます。
「希望している事は上手くいくよ、正しい動機ならね」
という感じ。
実際はもっと文も続くし色々と決まり事があるのですが、
すごく簡略に言うとこんな感じでしょうか。
詳しい方補足お願いします。
で、この易が分からないとどうにも読みようがないのが三国志虞翻伝でしょう。
「関羽既に敗れ、(孫)権(虞)翻をして之を筮せしめ、「兌」下「坎」上、「節」、
五爻変じて「臨」に之くを得る。翻曰く、二日を出でずして、必ず当に頭を断つべしと。
果たして翻の言の如し。」
「兌」は↓ 「坎」は↓ です。
━ ━ ━ ━
━━━ ━━━
━━━ ━ ━
合わせて「節」になります。
━ ━
━━━
━ ━
━ ━
━━━
━━━
節制、節度を示し、基本的には願い事が叶う良い卦です。
で、五爻変じて「臨」に之く、とは
下から五番目(上から二番目)の━━━が━ ━に変わりそうだ、ということです。変わると
━ ━
━ ━
━ ━
━ ━
━━━
━━━
という「臨」の卦になるのです。この場合にはまた別の占断があり、この場合は特に吉で、
積極的に行動すれば手柄がある、と解釈されるそうです。
虞翻はこの卦を得たので、
「呂蒙は積極的に行動(攻撃)しているので近い内に手柄(関羽の首)があるだろう」
と解釈したのでしょう。
関帝廟でおみくじひいたぞ、以前。
まず関帝さまに三キ九叩頭して、
住所氏名年齢誕生日電話番号出身地などの個人情報を念じてご挨拶。
そして、願い事をお尋ねする。「〜〜しようと思うんですが」と。
日本にあるおみくじのをじゃらじゃらふっていると1本だけにょきにょき出てきて、
その番号のお札をもらうんだけど、その番号で正しいかどうか木製の駒みたいなのを
振ってもう一回関帝さまに問い合わせる。
結構時間かかったなあ。一回500円。かいてあることはこれまた日本のおみくじと
違って
重 い こ と が 書 い て あ っ た よ ・・・
話がそれはじめっちゃったね。ごめんね。
>>340 それはやった事ないのではっきり言えませんが、
何度も引かされて時間がかかったんだとすると、
おみくじで
>>338の筮竹の代わりにして易で占ったのかもしれませんね。
何度もひかされて、っていうよりも、
最後に「これが今の私を占った結果でいいんですか?」を念じながら駒振って、
表ならOK裏ならやり直し、っていうのがあったんです。
まあそれ以前に日本の神社みたいにじゃらじゃらっと簡単にひけるおみくじじゃ
なかったってのもあって時間がえらくかかったような気がします。
同行者を待たせちゃったような感じですね。
なんだか次のネタとか質問とか無いみたいなので、
最重要な武器について語りましょう。
それは弩。
漢では確実に最重要な武器です。
匈奴さえ駆逐し、西域を荒らし回った漢の兵士の標準装備の一つだったと思われる弩。
ご存知の方も多いでしょうが、弩はクロスボウ、ボウガンと基本構造は同じ。
大学の体育の授業で弓道したんですが、文弱の徒である私は全然飛ばなかったり、
そう遠くも無い的に全然当たらなかったりしたものです。
で、それに対して弩は照準は現代の銃と似たようなものですし、
(本当は違うのかもしれないですが素人なので。詳しい人訂正ヨロシク)
弦さえ引ければ私にも使えそうです。
(そこらの中学生でもボウガンなら簡単に猫とか以下略)
と、これは余談でしたが、漢で弩を重要視していたのは明らかです。
出土資料からは、漢では定期的に弩の射的大会(競技会?)が行われており、
その成績が良いとボーナス(休暇とか)が貰えたそうなのです。
兵士たるもの弩が使えなきゃダメじゃん的な感じでしょうか。
漢の兵士は原則として徴兵制の「耕戦の士」で、
戦闘を専門技能としている古の貴族としての士でも、
匈奴のように弓が生活に密着している訳でもありません。
要するに弓を訓練し使いこなすのは不可能で、必然的に弩が使われることになるのです。
当時の弩にも手で弦を引くもの、
足で踏んで弦を引くもの、
腰にベルトを付けて思い切り引っ張るもの、
連弩、
といった弦の強さと大きさ等によって種類があったようです。
実のところ、武帝末期頃には弩を使いこなす漢の歩兵たちは
匈奴の騎兵にさえ負けない戦いを見せました。
有名なのは李陵の抵抗です。
前衛は戟と盾、後衛は弩の一斉射で、李陵は数で勝る匈奴に大きな被害を与えたと言います。
そしてまた、いよいよ降伏寸前の李陵はこう言いました。
「あと矢が数十本あれば脱出できるのに。もう武器が無いから明日には捕まっちまう」
なお、専ら剣などで戦う(ハメになる)事を当時の記録では「短兵接戦」などと言い、
接近戦武器をあえて「短兵」と区別しています。
これは、矢などを使って「なるべく敵を遠くから攻撃する」ことが
当時の戦い方の基本であった事を物語っているように思います。
剣と剣で斬り合うのは、私闘以外の戦場では珍しい事態だったようなのです。
(この辺は日本の戦国時代なんかも同様だそうですね)
三国志でも、戦場で命を落とした、または戦傷を受けた者の多くが、
矢によるものだったのではないでしょうか。
(捕らえられて「斬」ではなく、戦闘中に即死または戦傷の場合)
具体的には孫堅・策親子や周瑜が有名どころですね。
ん?
>>343 ボウガンもシルクロードを越えて中国から欧州に伝わったんじゃなかったっけ?
>>345 そうでしたか。私はその辺よく知らなかったもので。
何かご存知でしたら語っていただけると嬉しいです。
なお、「僕射」という官名がありますが、
これはその名が示すように本来は射撃に関係する官(監督や評価をする)だそうで、
官名からして武を重んじ射撃を重んじる気風が成立時には強かったのです。
>>344 >当時の弩にも手で弦を引くもの、
>足で踏んで弦を引くもの、
それぞれ、「擘張」、「蹶張」といったかと思います。
劉邦に仕えた、漢の功臣・申屠嘉は蹶張の士として有名なのでは
ないでしょうか? しかも、後年は丞相にまで登りつめてますし。
武帝期の匈奴遠征で李広が、十倍の匈奴兵に包囲された際、自ら
”大黄”とかいう弩を用いたという話は有名なんじゃないですかね?
漢代の弩は出土した物から大きさや威力も大方わかってるようで、
平均的なところでは、擘張弩で150m以上、蹶張弩では300m近くも
射距離があったというから驚く。
武器の話は好きなんで、長々となってしまってすんませんす。
詳しくは知らないけど儒教の君主においても
射撃は必修科目
そこからの官じゃなかろうか?
ところで、法家の定義って何?
儒家→孔子の教え
法家→老荘の教え
っぽくないですか?
儒家は「(生きる)思想」に近く、法家は「(統治)技術」に近い印象がある。
>>347 ありがとう。良かったらもっと当時の武器について語って下さい。
破壊力、射程距離ともに弓、弩は私たちの想像以上に強力なようですね。
(私の想像はRPGで出てくる武器としての弓ですが)
>>348 周代には「郷射礼」というのがあり、中央に推薦される人材は弓の試射をして、
それが評価の一つになっていたようです。
儒者というよりは当時の一定以上の身分(士)にとっては弓術は必須科目だったのでしょう。
これが秦漢では、兵士や吏全体に弩を訓練、奨励していた訳で、
貴族(士)のための武器=弓
一般の兵士(平民)の武器=弩
といった図式があったように思います。
純粋に武器としては弓の方が優れた点が多いのではないかと思うのですが、
前に書いたように訓練時間などの面で弩の方が好ましかったのでしょう。
法家の定義というのは、私は専門家ではないので明確には出来ないです。
漢や三国時代以降は、誰は法家、誰は兵家
と区別するのが難しいのではないかと思います。
異質に見える者も、儒家の影響は確実に受けていますし、
その一方で官僚、為政者は秦、漢から受け継がれる法家の影響を受けたであろう統治法を
仕官して体得している筈です。
どちらか一方だけではないと思うのです。
法家→老荘の教え
ってとこだけね
あと、
>>350氏の言うような思想としての質の違いというか(どちらが上とか言うのではなく)、
目指す方向の違いというのはあるのかもしれません。
ただ、漢あたりでは儒家もまた統治技術に生かされるべきものという考えも
強かったと思われます。
怨霊氏が”RPG”とか書くと、なんだか急に身近な存在に思える。
>>353 法家の代表が韓非子なら、先生は筍子だから
どっちかといえば儒家系じゃなかろうか?
今のところの曖昧な理解だと
350さんの考えに近く
儒家=浪花節経営(松下幸之助)
法家=カルロス・ゴーン
って感じ
>>355 違うところから来ると、ココの怨霊さんの姿には
軽いカルチャーショックを受けるな
だから、タケノコじゃないってばよ
>>355 私はFCのドラクエ1やディスク版ゼルダや赤箱D&Dで育った世代ですから。
>>356 法家ってのも微妙で、儒家から出ている部分とそうでない部分があるように思います。
手元に韓非子の訳本ないので断言できませんが、道家の影響も受けているんだとか。
現実には、トンでもない大リストラやるのは儒家の影響によるものが大だったりするような
気もしますけどね。
後漢の崔寔が著した「政論」という著作は、
後に後漢末の仲長統に「凡そ人主為れば、宜しく一通を写して之を坐側に置くべし」
と絶賛されるような政治論集のようなものだったらしいのですが、
隋書経籍志によれば「法家」に分類されています。
しかしながらその一方で彼は儒者たちと共に五経校訂などに参加したようで、
崔寔自身は儒家なのか法家なのか、という事になります。
実際のところは、当時の士大夫はあくまでも儒が基礎にあり、
その上で法家や兵家や道家に分類されるような諸分野に手を出す場合があった、
ということだと思います。
で、儒家がそういった基礎的学問となる背景には、
儒家にとっての経典、特に五経が経世に関する各分野をカバーしていたという点があると思います。
あくまでも私見ですが。
五経は
詩=政治批判、政治称揚等の詩集=どんな政治をすべきかを知る
書(尚書)=周公旦などの公式文書集、治水・地理(禹貢篇など)=統治技術、治水論など
春秋=歴史=過去の知恵と反面教師として政治に生かす
易=天地陰陽の理=陰陽の乱れから天の意思を知り、政治への譴責を感知する
礼(儀礼)=周の儀礼マニュアル=公式な場面でのマニュアル
と、いずれも古代においてはそのまま学んだ事が
官僚、政治家としての活動に生かせるようになっているのです。
だからこそ、思想的には時代遅れになったとしても基礎的学問として
これらの経典は生き長らえる事ができたのではないかと思います。
そして、五経からは一段落ちる形で、
論語や孝経などが政治思想を論じるのです。
道家なんかも優れた政治思想の体系を持っていましたが、
実学としての面が薄かった事が実学としての儒家との差となったとは考えられないでしょうか。
で、法家の定義と言う点では、こんな感じかな、と思います。
春秋時代は法家の師匠から弟子へと受け継がれ、
正に「法家」という一つの流派が存在していたのだと思います。
でも漢あたりからは、まず儒家ありきで、
法家の思想、手法を取り入れたとしても基本は儒家だと思うのです。
例えると、
「昔は柔道(柔術)が各々一流を作ってそれぞれに違う技を伝えていた。
けど明治時代以降は講道館柔道が支配的になり、柔道といえば講道館だけになった。
古流柔術の技を取り入れて大会で連勝する選手が出たとしても、
その選手の流派は古流を取り入れているだけで古流の柔術そのものではなく、
あくまでも講道館である」
・・・わかりにくくなったかも。
漢以降、儒家はその例えにおける講道館のような存在なので、
よっぽど異質な者でない限りは多少他の思想等を取り入れても儒家には変わりないのでは
ないかと思うのです。
前回の例えが悪かったか、少々寂しい。
儒家とか法家とかは特に意見とかなければまた。
今度は当時の食いもんを語りましょう。
今回のネタもとは主に「中国古代の生活史」林巳奈夫、吉川弘文館。
当時の主食、穀物は「五穀」。
黍(キビ)、稷(アワ)、麦、豆、稲
だそうです。アワとかが一般的だったみたいですが、
次第に北では麦食が広まっていき、南(呉とか)は稲という感じでしょうか。
食べ方は色々で、土器で蒸したり、炊いたりするほか、
粥(漢では70歳以上の老人には粥が国から支給されました)、
餅(漢の宣帝が餅を買っていたという話があります)
などもありました。
オカズとしては肉、野菜、魚など様々。
肉は「膾」=なます、生食と、
「炙」=あぶり肉という調理法がありました。
合わせて「膾炙」、「人口に膾炙する」の膾炙です。
また「羮」(あつもの)=スープ。
「脯」=干し肉、など。
余談ながら羊羹とは本来「羊肉のあつもの」という意味です。
魚も同様に食べられていたようです。
陳登が生魚膾を食べたのが有名ですね。
なお、肉、魚とも膾には「薑」(はじかみ)=そえもの(ワサビなど)を添え、
「醤」=ソース類を付けていたようです。
意外ですが、論語で孔子がそのあたりにヤケにうるさいのです(論語郷党篇)。
飲み物としては何といっても酒。
甘酒、どぶろくといったものや、日本酒のように濃い酒もあったそうです。
常温、または温酒として飲むほか、当時から氷室(凌室)に氷を貯えていたので、
冷酒も飲まれていました。
また、葡萄酒も前漢武帝の時に大宛で飲まれている事が記録(史記大宛列伝)されており、
遅くともこの時には葡萄酒が中国にも入ったと思われます。
それ以前も西域商人からもたらされていたかもしれませんが。
その他にも酒の一種として馬乳からも酒(酪)を作っていたり
(太僕の下にそれ専門の官がある)しています。
余談ですが王莽の時、飢餓対策として「木の実を煮て『酪』を作る」方法を民に教えた、
という話があります。
一体どんなシロモノなのか、飲めたもんじゃなかったらしいですが。
肉としては、豚、羊、牛のいわゆる「太牢」の他、
兎、犬、鶏、鶴、鴨、雉など色々と食べていたそうです。
(出土資料等から確認できる)
上に出した「炙」は串焼きにするのが一般的だったらしく、
トライデントのような三叉の串なんてものもあったようです。
干し肉にはある意味を持つ場合がありました。
それは「束脩」(「脩」には「にくづき」が字の中に入っています)といい、
干し肉一束が春秋時代に何処かの私塾に弟子入りする時の謝礼だったというのです。
(ただし、一番安い謝礼。
孔子は「そんなちびっとの謝礼でもちゃんと持ってきたら教えてあげるYO」と言ってる)
大宛といえば武帝が馬欲しさに国家的略奪を行ったわけだが、
葡萄のタネも小麦を粉にして食べるのもこの時中国に入ってきたと言われてますね。
だから孔明が饅頭を発明したという話も、時代だけは合ってる。
葡萄は、皇帝のデザートとして以後栽培されたようですが、葡萄酒の生産はできず、
その製法は唐が高昌国を滅ぼした時に伝わったようです。
質問なんですけど、
>>255で、漢の中山靖王勝の墓が発見されたとありますが、
劉備が自分の先祖だといっている劉勝の墓のことなんですか?
>>364 唐で初めて製法が西方から伝わった、と。知りませんでした。
漢の対大宛戦などは、乱暴極まりない感じです。
西域の幾つかの国にとっては漢は「悪の帝国」だったんでしょうねぇ。
>>365 その通りです。
まだ諸侯王が羽振りよかったらしく、結構豪華だったようですね。
そういえば景帝の墓だかも発掘されていて、木製ながら兵馬俑が出土していた筈。
この辺うろ覚えですので間違いならすんません。
曹操が禁酒令とかやってたけど、そういうのってごく普通に行われていたものなのかね。
曹操のほか、劉備が天候不順による穀物不足を理由に禁酒を命令していたようですし、
ほかにもあるかもしれませんが、
ごく普通とは言えないとは思います。
王莽は豪族による利益独占を排除するという目的で酒を専売化し、
官製以外は排除したようですが、豪族等による犯禁は絶えなかったようです。
こちらの目的は専売化なので厳密には曹操らのものとは違いますが、
王莽の例や、現在の麻薬、覚醒剤の類がそうであるように、
曹操の場合にも地下に潜って流通させる輩が居なかったとは思えません。
ただ、曹操の時代が物凄い食糧難だったのは間違いなく、
例えば挙兵前の夏侯淵は食糧不足から我が子を棄てています。
この時代は確か世界規模で気温が低温化していたはずで、
食糧難もそれと関係が深いと思われます。
温暖な益州、荊州、揚州方面への移住(難民)が多かったのもそれを物語っています。
北方に住む匈奴らにはもっと深刻で(匈奴が中国内地へ移動しているように)、
この低温化が中国大陸における「民族大移動」をもたらした、と言われているようです。
基本的に土地、地位、金を持つ連中が三国志の物語の中心なので分かりにくいですが、
庶民にとってはまるで北斗の拳の世界のような殺伐とした生き地獄の時代だった、
と思います。
>>368 王忠の件などをみるかぎり、曹丕ってそのあたりの苦労を
知らなかったんですかね?
父母の生い立ちや苦労を思えば、生まれながらの貴顕の出、
って意識からは遠いと思うんですけどね……
曹丕だったら知っててもいじめるかもな
遅レス
>>171 毛沢東にも、潤之という字があったそうな。
>>371 そうでしたか。情報ありがとう。
沢と潤で、名と字が関連してますね。
>>369,370
曹丕は、幼いときに流浪の人生を送ったわけではないようですし、
生まれたときは嫡男でこそ無いですが既に新進気鋭の切れ者曹操の息子ですから、
従軍経験やら後継者争いなどではシビアな体験もあったでしょうが、
餓えのあまり人肉に手を付けた王忠の苦衷などは理解しなかったかもしれませんね。
言いすぎかな・・・。
曹操にしても、先祖とか家柄はともかく地位は確かにありましたし、
経済的には不自由無い人生を送ってきていると思います。
父の苦労自体が、死の危険とは常に隣り合わせでも、
人肉を喰らうかどうか葛藤するような種のものではなかったんじゃないかな、とも思います。
さて、今度は何をしましょうねぇ。
特に話題が無ければ、三国志演義の董卓のあたりで出てくる
「伊尹、霍光」とかについて説明しましょうか。
明日以降。
他に話題等あれば宜しく。
>373
南蛮がいいな。
では南蛮を。
南蛮にも色々あるので、まずは後漢書南蛮西南夷伝を中心に一つづつ説明しましょう。
といっても詳しくないので、知っている方は教えてください。
まずは荊州の長沙・零陵・武陵蛮。
これは周以来の「蛮」で、しばしば記録に現れるようです。
田作と賈販を生業としており、租税等は取られていなかったようで、
主に布を中央に献上することとなっていました。
この武陵蛮が活発化するのは後漢から。
各地に集落があったようで、それらごとに反乱と服従を繰り返していたという感じのようです。
後漢では光武帝以来反乱に悩まされており、何度も反乱を鎮圧しています。
順帝の時に一度漢人と同等に租税を取ろうとしたのですが失敗し、
結局元通り。
三国志の時代においては劉備が対呉戦で徴発した五谿蛮夷がその関係でしょう。
荊州の長沙・零陵・武陵あたりは、こういった南蛮の多く住む土地だったのです。
なお、現在も地図を見ると「○○族自治県」とかがこのあたりには幾つかあるようで、
当時の「武陵蛮」が漢化せずに残っていたのでしょう。
>>375 武陵蛮といえば、かの伏波将軍・馬援も討伐に赴いていたかと思います。
馬援は交趾での叛乱も討伐していたと思うのですが、この時の叛乱の
首魁が姉妹だったと聞いてます。
よろしければ御説明願えんものでせうか……。
>>375 その後は宦官について是非。
宦官の定義があやふやでよくわからないのでお願いしたい。
宦官は皇帝の私的な使用人との説明があるが公的な役職を持つものもいるようだしその辺があやふやでよくわからない。
また求刑をくらったいわば元罪人をなぜ裏向きの人間としてであっても使用しようとするのか?
などなど。
>>377 了解。といっても私も自信ないですが。
>>376 交趾、今のベトナム、ハノイ方面ですね。
なお「交趾」という言葉は、男女が一緒に水浴びする、と言うところから来ているとか。
エロイ意味ですなぁ。
漢の武帝は今の香港などを含む地を支配していた南越を滅ぼすと、
この地を交趾郡、九真郡、日南郡として郡をおいて支配しました。
今のベトナム全体に当たります。
で、姉妹というのは光武帝の時に反乱した徴側、徴貳の姉妹。
時の交趾太守に反抗し、ベトナム方面全土を覆う反乱となり、徴側が王となったそうです。
これには太守、刺史も守るのが精一杯で、
朝廷から馬援らの征討軍が来るのを待つのみでした。
馬援はその反乱を鎮圧、姉妹は斬られています。
その後も交趾方面は反乱がしばしばあったようです。
三国志の時代においては、士一族がこの地に君臨していたのはご存知の方も多いでしょう。
中原からもはるばる避難してきた士大夫も結構いたらしいです。
さて、演義における「南蛮」ですが、
実はこれ南蛮じゃないです。漢書、後漢書では「西南夷」と呼ばれる、
蜀からさらに西南方面、現雲南省あたりの異民族です。
このあたりと中国の関係は周代に遡ります。
楚の威王が将軍を遣わし、長江を遡らせて巴を攻めさせました。
その将軍は更に西へと長江を登り、ついには「シ真」(テン)にたどり着きました。
将軍はその地を征服しましたが、折りしも秦が南下して巴を奪った頃。
将軍は戻る事ができず、その地に居着いてその風俗に同化して王となりました。
また、他にはエβ都(キョウト)、スイなど種々の西南夷が蜀の西側に住み、
蜀とは険しい山等で隔たれて暮らしていました。
それを破ったのはまたしても漢の武帝でした。
漢の武帝は越方面へ介入する中で、
対越戦への徴発を見越して西南夷の一つ「夜郎」へ接触します。
そう、「夜郎自大」の語源になった国です。
夜郎は漢が攻め寄せてこれないだろうと踏んで漢への臣従と郡県化を承認。
漢はその地を「牛建 為」(ケンイ)郡とし、同時に道を整備しました。
その後、一旦匈奴へ力を傾けるためにこの西南経略を中断しましたが、
張騫が対匈奴に同盟できそうな相手、「大夏」へ
蜀から西南夷の地を通って身毒国を経由したほうが西域ルートよりも楽、
という情報を得ると、再び西南夷経略が始まります。
使者が身毒を目指して西南夷へと送られ、途中で彼らは先に説明した「シ真」に着きました。
しかしその西にいた「昆明」が通してくれず、使者は「シ真」との接触情報を手土産に帰りました。
その後の南越の反乱の時に漢は西南夷も一緒に平定、
入朝した夜郎の君主、竹氏は夜郎王として認められました。
継いで「シ真」もまた臣従し、その地は益州郡となりました。
余談ですが、司馬遷は出仕してほどなくして西南夷への使者となったことがあります。
ビルマには龍がお茶の種を
くれたという話があるらしい。
中華皇帝と関係あるのかな?
>>381 それは知りませんでしたが、龍と言われると皇帝を連想しますね。
お茶の原産地とか分からないのでその辺は正直なんとも言えないんですが。
で、西南夷ですが、
後漢に入っても他の異民族と同様にしばしば反乱を起こしては鎮圧される、
というのを繰り返しています。
三国時代にはご存知諸葛亮が討伐へ行っています。
諸葛亮は「夷、漢」両方に支持されていたらしい孟獲を「七縦七禽」で屈服させていますが、
この時諸葛亮は「シ真」に至っています。
で、この時の話から、当時のそのあたりには夷、漢人両方が住んでいたことが分かり、
それなりに郡県として機能していたと思われます。
孟獲は匈奴における劉淵のような漢化した夷なのか、
あるいは夷に信望のあった漢人なのか、どちらかでしょう。
(どちらか分かりません。詳しい人教えてください)
また、呂凱は元々「シ真」の更に向こう側、永昌郡不韋県の人です。
ここは漢が植民できた限界点で、不韋県とは蜀に強制移住させられたかの呂不韋の一族が
漢になってここに植民する際に強制的に再移住させられたものです。
(「呂」氏なので彼はその呂不韋の一族の末裔でしょう)
彼がこの地で反乱した雍ガイを防げたのは、
彼がこの地では大族であろう呂氏であったことが大きいのかもしれません。
>>378 >で、姉妹というのは光武帝の時に反乱した徴側、徴貳の姉妹
あぁ、それです、その名前。御丁寧にすいませんです。
>>382 雍ガイが秦末の折の雍歯の末裔と聞いたのですが、真相はどの
あたりになるんでしょうか?
384 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/04 23:54
>>383 雍ガイと雍歯については、三国演義第87回に末裔だと出てきていますね。
でもその典拠については私は知りません。情報求ム。
雍ガイは益州郡の大姓だそうで、地元民じゃないかと思います。
雍歯は漢で什方侯となりましたが、この什方は蜀(綿竹関のあたり)にあるので、
近所ということで(本当はそうでもない)雍歯の子孫にしたのでしょうか。
それとも何か根拠となる記述が別にあるのでしょうか?
あと南蛮関係に追加。
今まで紹介した他にも、南蛮関係としては
巴郡の「板楯蛮」、同じく巴郡、南郡の「蛮」などが居ます。
荊州には全体的に「蛮」が多くいたらしく、
後漢では従わない「蛮」の征討などが繰り返されています。
三国時代以降に荊州が重要になってゆく裏には、こういった地道な活動があったのかも。
(余談ですが、かの陸康も廬江太守として江夏蛮を討っています)
什方侯の名称自体がいい加減なものだよ。
方(よそもの)を什(したがえ)る意味だしね。
>>387 関係無いですが什方県は漢書では「汁方」なんて書かれたりすることもあります。
まあ、漢書とかではヘンが違っていても同じ意味だったりとか言う事が多いので大した事ではないですが。
さて、
>>377氏のお題について。
宦官は基本的に皆役人だと言ってよいと思います。
少なくともこの時代では。
「皇帝の私的な使用人」=役人、官僚です。
皇帝の側に侍する者はいずれも一種の官僚なのです。
(皇后以下の妻妾も女官)
官僚である以上、宰相や将軍などに「昇進」しても理屈の上ではおかしくないのです。
もちろん実際には「宦官専門の官」が多数用意されていて、
宦官は普通それらの中だけで異動します。
また確かに元罪人なのですが、誰でも宮刑にされるわけではなかったのではないかと思います。
これは推測で間違っているかもしれませんが、
宮刑にされる可能性があるのは官吏等が主だったように思われるのです。
これは、宮刑にしても皇帝の側仕えとして役立たないようでは生かしておくだけ無駄、
という事になるので、最初から役に立つ人材となると官吏しかありません。
宮刑によって罰を受けてしまうと、
当時の感覚ではもはやまともな人間とみなされなくなってしまうわけで、
そのままほっといてはむしろ元罪人が路頭に迷います。
彼らを官吏として使うのは、その救済という意味合いもあるでしょう。
しかし一番大きいのは、皇帝が宦官を必要としていたという事情があるからです。
後宮の管理者、事務員として、そして皇帝に直属するスタッフとして、
宦官が必要とされていたのです。
むしろ宮刑自体が宦官供給のために存在していたと言うべきなのかもしれません。
宦官は皇帝のことを「大家」、皇帝に対する自分のことを「奴才」と言っていたことから
皇帝の私的な使用人ということがわかりますね。
あと漢の頃にも自宮宦官はいたんですか?
什…10を一つの単位とするときに使う。10を指すこともある。また、「雑」という意味にも使われる。
汁…液体。
漢書でへんが違っていても同じ意味で用いているのは、もしかしたら書式・書体のせいで
混同されてしまった、という可能性もあるね。鍾繇が書道のえらい人で、彼によって
今使われている楷書が整理された、ということから、その前後の時代の文字の書き方ってのが
似てる文字が混同されてもしょうがなかったということはありえるだろうし。
そうすると、汁だったのかもしれないし、什が従うの意味で用いられたのかもしれないし、
冒頭に上げたように「雑」ととれば「その他の地方」みたいに読むことも可能。
久しぶりに書込ませて頂きます。クリスマスなんて死んじゃえ!
意味不明な出だしの上に話の腰をベキバキにへし折るような遅レスです。
>>254あたりから
後漢書献帝紀の最後に続漢書からの引用で葬式の記述があったと思いますが、
怨霊氏のところ(続漢書礼儀志)とは別の箇所からの引用でしょうか。
方相氏の黄金四目姿が見当たらないので。
後漢書献帝紀の引用にある続漢書からの引用された葬儀の部分を読んでくと、
三公が古代(祭礼一致の頃)、どういう役割だったかの痕跡が
皇帝の葬儀の中に残されているように見えて大変興味深かったです。
>>286あたりから出ている曹氏と丁氏の関係
前から思ってたんですが、これって氏族社会で見られる平行イトコ婚を
奨励する、婚姻を通じた互恵関係の実例っぽいですよね?
娘は丁氏→曹氏→夏侯氏→丁氏で一順してるんじゃないでしょうか?
曹氏→夏侯氏の娘移動や夏侯氏→丁氏の娘移動は知らないんですが、
逆の事例、曹嵩のように、男子が夏侯氏→曹氏と移ってるんだから
女子は曹氏→夏侯氏と移ってるんじゃないかなと思って。
そうだったら、曹氏、丁氏、夏侯氏のトライアングルが一番小さなサークルに
なるなぁと思ったわけです。
同じようなのに潁川の荀氏と鍾氏や、呉郡の四姓などのように、
代々通婚関係があったと描かれているような氏族は平行イトコ婚による通婚関係で
結びついていたんじゃないかなぁと思うのですが、証拠…ないよなぁ。
久しぶりすぎてsageの使い方さえ忘れてる。アホかオレ。
宦官について質問。
順帝のころから宦官が養子をとってもよくなった、といいますが
どういう流れでOKになったのでしょうか。あと、宮刑にされる前に
自刎する人とかはいなかったのでしょうか?
>>389 後漢書では「刑人」とも表現されているんで、普通は宮刑によるものなのでしょうね。
宦官になった理由
自宮についてはこの名スレを参照のこと。この人の方が詳しそうですし。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069751271/89 >>390 もっと混乱される事を書くと、「汁防」とも書かれたりする(漢書高恵高后文功臣表)。
この時代、「つくり」が一致していれば意味の本質も発音もほぼ一緒という事になり、
意味似たようなもんだからどっちでもいいか、というところだったのでしょう。
全く関係無いけど益州郡には邪龍県なんてカッコイイ県名がありますよ。
>>391 お久し振りです。めーr(ry
ああ、方相氏とかははしょったところですね。適当にやっちゃったものでゴメンなさい。
曹氏と丁氏と夏侯氏についてですが、曹氏自体が新興で、何代も続けて、
という段階ではなかったようですし、はっきりとは言いにくい所です。
あと、夏侯淵の妻は曹操の内妹=妻の妹=丁氏(?)のようですね。
>>393 順帝は一度皇太子に立てられながら廃位され、
父安帝の死後は皇太后閻氏が北郷侯を擁立。
しかし少帝北郷侯がすぐに死ぬと、宦官孫程ら19人が決起。
閻氏派を破り順帝を即位させたのです。
そこで孫程らは皆列侯となりました。
孫程が臨終の際、彼は弟に侯国を伝えることを懇願。
順帝はそれを許すと共に、国の半分を孫程の養子、寿に与えました。
それ以後、宦官の養子が国を継承するのが許されるようになりました。
ただし、それ以前にも宦官鄭衆が養子に爵位を継承させており、
孫程が初めてではないようです。
定制となったのが孫程以降のようです。
390読み返してみたらわけわからんかった。
楷書が整理される頃の時代のことだから、くずしたり代字を用いたり
地域によっても異なってたりするだろうなあ、ってことです。
大家といえば今では「みんな」の意味でつかうんですけどね。
一青窈の曲名でも有名。
しまった朝っぱらから空気が全く読めてなかった・・・
字のことで言うと、
漢書地理志あたりでは汝陰県が「女陰」と書いてあったりして、
サンズイとかのヘンがあるかないかはそれほど重要じゃないんじゃないか、
と思わせることがしばしば。
次のお題はないかな?
>>397 軍事施設や拠点、河水の渡河点である「津」なんかについて、広く語って
はいただけませんか?
抽象的ですいませんが、当時の建築とか、気になったので……
女陰とはなんだね。
そのように呼ばれる何かがあったのかな?
>>398 ぶっちゃけて言うと、「津」については広く語るほど知識がないッス。
ということでまずは調べてみますので、気を長くしてお待ちいただきたい。
もしくは詳しい人が来る事を一緒に祈りましょう。
お詫びに?水関係の小ネタ。
「水をわたる」という意味の漢字にも幾つかあって、
少なくとも古代では使い分けています。
渉る=歩いてわたる(漢字に「歩」が入ってる)
済る、渡る=船でわたる(歩きの場合も使うことがある)
あと、漢文で「水上」というと「水のほとり」を言います。
>>399 漢書では字の上で「汝」=「女」なのです。
「なんじ」の意味で「女」と良く使われています。
で、汝陰は「汝水の陰(川の南側)」(地図上はそうでもないのが謎ですが)
という意味と思われ、「汝陰」=「女陰」と、「汝」字が「女」字にすりかわるのです。
>>400 では山越を。まとめる自信は無いですが。
山越って、どうもまとまった伝などが見つからないんですが(見落としなら不勉強スマン)、
とりあえずまとめてみましょう。
越は大元をたどればその名が示すように周の越でしょう。
禹の子孫として会稽に封建されたという伝説を持つ越。
越はかの有名な句踐の呉王夫差との死闘などを経て、
楚に敗れて統一を失いました(紀元前323年とのこと)。
分派した越の遺民の各集団は大体は楚に服属していたようです。
今の香港などのある方は南越、
会稽から今の福建省の方にいるのが東越、
というところでしょうか。
秦を楚が滅ぼす際、その越の一派「ビン」(閩←出るか?)の君主ビン君揺、
また同じく越王無諸が番君呉ゼイに従って秦打倒に参加しました。
漢の高祖は、この越王無諸をビン越王にしてビン中(福建方面)に封建しました。
またビン君揺もまた恵帝の時に東海王として東甌(会稽と福建の間)の地に封建され、
「東甌王」とも呼ばれるようになりました。
津は渡し場の意味。そこからまあいろんな意味の派生はあるね。
んで、津=渡し場で、そこが重要な軍事拠点になるってことは、「津」以外の
ところからじゃあ川は越えることが出来なかったってことかなあ。
軍事的にみても、物流的にみても。
>372
今更つまらないつっこみをさせていただきますが、
>曹丕は、幼いときに流浪の人生を送ったわけではないようですし、
「典論・自叙」に五歳から八歳のころにかけて
「当時は、難の多き時代であり、そのため征戦あるごと、私はいつも従軍した」
とあります。曹丕五歳は、曹操が黄巾の賊を破った初平三年(一九二)年ですので、
物心付いた頃は混乱の世でそれを実感していたと思います。
「自叙」は「初平元年、董卓、主を殺し」で始まっていますし。
彼は当時の社会情勢をこうしめくくっています。
「郷邑では烟火のたちのぼる影をみるや、人々は奔って逃げ出し、城郭では、
砂塵のまきあがるのをみるや、われがちに潰走した。百姓はつぎつぎと殺戮され、
死体は奔るが如くたちまち骸骨となって曝されていった」
確かに苦労はしなかったのかもしれませんが、まったく知らなかったとは思えません。
遅レスで失礼しました。
>>403 マジで詳しくないし、中国行ったりしたことないんでこういうコメントもなんですが、
黄河はほとんど海みたいなもんだって言いますし。
ここ抑えられるとろくに水運出来ない(というか攻め込めない)っつーことで、
官渡が主戦場になったんですね。
>>404 いや、ツッコミ大歓迎。ありがとうございます。
不勉強ながら典論は全く見てないんで、勉強になります。
なるほど、そんな時から従軍ですか。
確かに苦労は知っていたでしょうね。
ただ、やっぱ「支配者としての視点からの苦労」なのかな〜、とは思ってしまいます。
仕方の無いことですが。現に支配者なんだから。
いや、曹丕はある意味いい味出してるので嫌いじゃないですが。
どこか士と庶の断層みたいのを感じるというか・・・。
感覚の問題なので言い出したらキリないか。
東越ですが、以下の点に注意でしょう。
・楚にやられて以来バラバラの小集団が各地にあったらしい
・幾つかの集団は楚、漢といった勢力に従い、保護下にあった
ビン越、東甌は後に呉楚七国の呉王と修好したようですが、乱時には東甌だけが従い従軍。
しかし呉が負けると逆に東甌が呉王の首を漢に献上し、
ビン越が呉王太子の亡命を受け入れます。
漢武帝の頃、ビン越は呉王太子の勧め(恨み)で東甌を攻撃、東甌は漢の助けを得ました。
ここで東甌は中国への移住を要請したとのことで、淮水と長江の間に移住しました。
ビン越は今度は南越をも攻撃。今度は遂に漢が攻め寄せ、
ビン越を滅ぼした上で越繇王を封じてビン越の祭祀を継承させ、
またビン越王の弟で親漢派であったらしい余善を東越王にしました。
しかし東越王は漢に反抗的で、
南越を破りこの近辺を圧倒しつつある漢に背いた揚句に滅ぼされました。
漢は東越(ビン越)をこれまた淮水と長江の間に移住へと移住させ、
東越の地から越は居なくなります。
もっとも、完全に居なくなったとは思われず、
強制移住にかからなかった小さな集団や逃げ出した者なども居た事でしょう。
おそらくですが、そういった集団が呉の山越へと繋がっていったのではないでしょうか。
越としては、他に南越があります。
これは州で言えば交州、今の香港方面なので呉の山越とはまた別と思われますが、
これは秦の支配崩壊のドサクサに自立した役人、漢人(趙人)趙佗が立てたものです。
南越武王(帝)を称し、近隣の越族(百越と呼ばれる種々の「越」)を従えました。
漢も武帝までは南越を漢に従うものとして認め、時に僭上の沙汰がありながらも、
大きな衝突はありませんでした。
しかしこれまた漢武帝の時、南越の内部抗争に乗じる形で漢が侵攻、
攻め滅ぼしてしまいます。
南越は秦の役人が立てたので、どうやら支配体制も秦のものを流用していたようです。
おそらく、そう言った地盤があるので、
漢はそれを引き継いで支配を継続したのではないでしょうか。
その後の越ですが、淮南移住の連中はあまり話を聞かないような気もするので、
漢化したか、あるいは結局は江南に行ったのか、どちらかというところでしょうか。
知っている人情報求む。
なお、漢の中央軍には「越騎」というのがあったらしく、
これが越族かどうか不明な部分もないでもないですが、
もしかするとこの「越騎」などのように軍事力として吸い上げられたかもしれません。
さて、三国時代、呉の山越については諸葛恪伝の記事がまとまっています。
それによると、山越は丹陽を中心とする呉の山中などに居り、
城邑(城壁で囲まれた都市、集落)に住まないので攻めれば逃げ出し、
かと思えば隙を見て攻撃、略奪する。
しかも銅、鉄を作り(呉には前漢以来銅山がありました)武具を整え、
尚武の気風がある。
同じく賀斉伝によると、暴力団まがいの豪族が山越と結託している例があるようです。
豪族はおそらく自らの経済力などを守り、あるいは影響力を強めるため、
同じように支配者からは敵視される山越を利用していたのでしょう。
豪族は山越に経済的な援助を与え、山越は豪族に従い武力となる。
諸葛恪伝にあるような野蛮故の手ごわさと、
賀斉伝にあるような当時の社会の中で力をつけつつあった豪族との結託。
おそらく、この二つが山越の強さを支えていたのでしょう。
ということは、山越を討伐するという事は即ち豪族の勢力を削ぐ事に繋がり、
呉主の支配力を増大させることになるのです。
・・・多分。
>>409 朱桓や陸遜ら豪族も、その戦歴の初期において山越を討伐し捕虜を兵に加えているようです
賀斉が山越対策に当たっていた頃は
孫氏の権力も弱く山越は不服従な豪族と連んでたこともあったのでしょうね
その後、孫氏が権力を強め呉が安定し出すと
山越は、常に呉の内部を脅かす反面、討伐すれば屈強の兵と、開拓民を得ることが出来
実利を生み出すようにもなったのではないでしょうか
また呉将の戦歴の初期には山越討伐があることが多く
武将の適性試験のような物だったのかもしれませんね
411 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 02:58
あい
そういえば
>>393ですが、
司馬遷の例を見ると、「俺はまだやってないことがあったから自殺しなかったんだYO!」
と任安に言っており、「刑は大夫に上せず」という通念通り、
獄で恥辱を受ける前、または刑を受ける前に自殺するというのも選択肢だったのは
間違いないでしょう。
前漢では、皇帝に厳しく叱責された大臣、あるいは逮捕されたり、
逮捕されそうになったりした大臣はしばしば自殺しています。
さて、特に他の話題が無ければ、ここいらで
>>373のヤツでも少し語りますかね。
霍光は特に、三国時代にしばしばあった皇帝廃立の典拠ともなる大事件と関係あるので。
伊尹は殷の湯の臣下で「阿衡」と呼ばれました。
彼は湯亡き後に湯の子を君主として仕えていましたが、
三人目の君、帝太甲は「暴虐」であり、伊尹はその太甲を放逐し、
自ら君主(帝)の政務を代行しました。
なお、その太甲は後に改心し、伊尹はそれを知ると太甲を君主に戻しています。
まあ、これは事実上伝説であり、
どういった手続きで皇帝を廃位したり、新に即位させたらいいのかは分かりません。
実際、よく引き合いに出される(三国演義でも、例えば董卓が言ってます)
「伊尹、霍光」の霍光の方こそが、
三国時代においても手本となる廃立の立役者でした。
続く。
霍光は前漢武帝死後、幼帝劉弗陵(昭帝)即位とほぼ同時に
大司馬、大将軍、領尚書事となって皇帝を輔政した人物です。
ここでは語りませんが、武帝の年長の皇子燕王を差し置いて末子が立ち、
武帝の側近だった彼と友人の上官桀、金日テイが
揃って領尚書事として摂政のような立場となった事は周囲の動揺を引き起こしました。
霍光はそれを制し、同僚上官桀との政争にも勝利し、
最終的には一人で昭帝を輔政するようになりました。
しかし、昭帝は若くして死亡。子はいませんでした。
大臣らの議の結果、霍光の推した武帝の孫、昌邑王賀が後継者として選ばれました。
しかし、即位した昌邑王は
史書の記すところによれば即位27日にして「淫乱」の行いが止まなかったといいます。
実際にはこの新皇帝は霍光排除を狙っていたのではないかとも思われますが、
ともかくも霍光は新皇帝が相応しくないと考えます。
そこで彼とその一党は伊尹と帝太甲の例を持ち出し、
丞相以下の大臣、将軍、博士等を招集。
「昌邑王は淫乱の行いがあって国を危うくしそうだけど、どうする?」
と問い掛けます。ここでは「廃立」を明言していないのが狡猾です。
色を失う群臣。
そこで霍光の側近、田延年が剣に手をかけつつ、
「とっとと賛成しないとぶった切る」(意訳)
と脅迫します。大臣はここに至っては賛成するを得ず、
霍光と共に皇太后の元を訪れました。
皇帝を廃位出来るとすれば、それは名義上は皇帝の母となる皇太后だけなのです。
続く。
皇太后の了解を取り付けた霍光(皇太后は霍光の外孫)らは、
皇太后の詔によって昌邑王を側近から引き離し、
昌邑王を皇太后と群臣の前に引っ立て、尚書令が皇帝の罪状を読み上げます。
皇帝=昌邑王の「淫乱」なる行いの数々が読み上げられた後、
「宗廟は君より重し」
と断じて丞相、霍光以下の大臣連名によって廃位が皇太后に提案されます。
皇太后が制可し、あっけなく皇帝は位を失いました。
さて、今度は新帝の擁立です。
新皇帝の選定も大将軍霍光や丞相以下大臣達によってなされました。
この時、武帝の子として広陵王が残っていましたが、
彼は人柄が悪いという事で既に一度(昌邑王即位の際に)却下されており、
別の者を探す必要がありました。
広陵王を即位させたら前回彼を選ばなかった大臣達を怨むのは明らかなので、
選ぶ訳にはいかないのです。
それに代わり、霍光の同盟者であった車騎将軍張安世(張湯の子)の兄が保護していた
武帝の長男衛太子(反乱して敗死)の孫、民間に居た劉病已が選ばれました。
霍光、丞相らは皇太后にその事を上奏、制可されます。
宗室の名簿管理等を掌る宗正が劉病已の元に遣わされ、
皇帝の御者をはじめとする馬関係を掌る太僕が御する車に乗って宗正府へ連れられます。
それから未央宮で皇太后に謁見、まずは「陽武侯」に封建されました。
(なお、皇太后といっても劉病已の方が年上です)
無位無官ではカッコがつかない、という事らしいです。
それから霍光によって皇帝の璽が渡され、高祖の廟に拝謁し、皇帝になりました。
皇帝廃立はこういった形で行われました。
董卓による少帝廃位と献帝擁立、司馬師による斉王芳廃位と高貴郷公擁立なども
似たような形で行われています。
そういや孫亮も廃位されてたね。呉でもやってることは同じ?
実は呉の孫亮廃立は他と重大な相違点があります。
皇太后不在のため、皇太后の詔によって即位を命じられるという形式にならなかったのです。
三国志孫休伝、孫綝伝を見ると、
まず光禄勲孟宗(孝子として有名な人)に宗廟に廃位を告げさせ、
大臣を召して廃位を相談。ここでも孫綝を恐れて大臣は従わざるを得ず、
中書郎に皇帝孫亮から皇帝の璽綬を奪わせます。
で、孫亮の罪状を列記して大臣みんなの署名で頒布。
一方孫休を宗正らに呼び寄せさせ、彼に璽綬を奉じて即位を請います。
孫休は三回辞退、その度に大臣もまた請います。
で、「仕方なく」というスタンスで即位しました。
皇帝が決めたとか、皇太后が決めたとかいう強制力がないので、
孫休側も謙譲しているのでしょう。
一度目で即位したらがっついているように思われるということかな。
なお、これはおそらく同じ漢でも宣帝擁立ではなく
呂氏誅滅後の文帝擁立を参考にしたと思われます。
南蛮、山越ときたら刑道栄(<字が違うかも)も語ってくれ。
刑道栄って演義しかでないじゃん
もっとも荊州南部四郡あたりにも南蛮とよばれる人はいたらしいが
黄巾の乱とか赤壁の戦いでも語ってみたら?
>>419,420
何故ケイドウエイなのかは分かりませんが、
荊州は南部というか南郡、武陵、零陵、長沙、桂陽など
大部分に「蛮」と呼ばれる人たちがいました。
夷陵の戦いで馬良が使者として行った「五谿蛮」なんかが有名ですね。
なので、その辺を支配するのはなかなか大変だったんじゃないかと思います。
劉備が赤壁後にその辺を支配した時、諸葛亮が零陵、長沙、桂陽を督して
その地から賦税を取って軍に給したという話があるのですが、
そういった点を考えると、
諸葛亮のこの任務は結構大変なものだったんじゃないかとも思います。
>>421 赤壁なんかはちと大変そうですが、興味はありますね。
さて、じゃあ赤壁関係を一度まとめてみましょう。
もっとも、この辺はこれまで色んな本だったりHPだったりで語り尽くされたんじゃないか、
とも思いますので、何か新しい発見なり仮説なりを導くためにも、
皆さんツッコミやご意見いただければ幸いです。
何より、わたしゃここは「みんなで漢の事を語る」スレだと思ってますので。
いわゆる赤壁の戦いは、
三国志では「何があったのか」がその有名さの割に良く分からない事で知られていると思います。
そこで、まずは三国志を初めとする史書に見える赤壁戦関係の記述を拾ってみます。
まず後漢書献帝紀から。
建安13年7月に曹操は劉表を征伐へ出ます。
同8月、孔融処刑と前後して劉ソウ(王宗)が降伏。
同10月、「曹操以舟師伐孫権、(孫)権将周瑜敗之於烏林・赤壁」
そして14年には10月に荊州で地震、としか記録無し。
そもそも赤壁って正史での取り扱いが小さいんだよね。
>>424 どうもそのようですね。
まあ、もしかしたら実際おおいくさではなかったのかもしれません。
この時代にとって大きな意義があったのは事実でしょうけど。
次に三国志武帝紀。
建安13年、まず正月に曹操は「玄武池」で「舟師」を訓練。
(なお同6月に献帝紀ともども丞相就任が入ります)
同7月に劉表征伐。
同8月に劉ソウが継ぎ襄陽に駐屯、劉備は樊に駐屯。
同9月、曹操は新野に到達。劉ソウ降伏。劉備は夏口へ退却。
曹操は更に江陵へ進軍。ここで荊州に特赦と荊州降伏の論功行賞を行います。
劉ソウの将文聘を江夏太守にし、当地の名士を登用。
また、劉ショウ(王章)が兵(300を)曹操に給しています。
一応は益州牧として朝廷に従う態度を示したのでしょう。
同12月、孫権が劉備のために合肥を攻撃。
曹操は劉備攻撃のため江陵から巴丘へ、ここで合肥を救うため張憙を派遣。
孫権はそこで退却。
曹操は赤壁に至り、ここで劉備と戦い、劣勢に。
その頃に「大疫」があり、「吏士多死者」との理由から軍を退いています。
そこで劉備が「荊州江南諸郡」を領有するようになりました。
翌年3月、軍はショウ(言焦)に至りここで「軽舟」を作り水軍を再編成。
では三国志先主伝。
曹操が南征すると、丁度劉表死亡。
劉ソウは降伏。
劉備は樊にいて曹操が来ている事を知らず、曹操が宛へ来て初めて知ったとの事。
(劉ソウ側により故意に情報を止められていたとも・・・)
こりゃヤバイとばかりに南下。
途中、襄陽で諸葛亮は劉ソウ攻めちゃえと言われるが却下。
しかし劉ソウの左右(即ち属官でしょう)、荊州の人達が多く劉備に従います。
彼らが目指すは要地江陵。しかし10万の人を抱え(しかも多くが非戦闘員)、
行軍はカタツムリ並の進度。
一部を切り離して関羽に率いさせて船で行かせたのも、
そのあたりの苦境を物語っているかもしれません。
「とっとと江陵行こうよ!(非戦闘員とかおいてけよ!)」という進言があったのも当然でしょう。
それでもそのまま進む劉備。
続く。
劉備が江陵に急行しなかったのは、曹操が普通の進軍をすればなんとか先に着くだろう、
という計算もあったのかもしれません。
しかし、曹操はここで江陵を劉備に抑えられるのを恐れ、輜重を置いて襄陽へ強行軍。
劉備が既に襄陽を通過していると知ると、(曹純らの)騎兵5000を派遣して追撃させます。
(考えてみると、襄陽を攻撃、占拠しなかったのは
劉備が生き延びる上では正解だったのかもしれません。
下手をすれば陥落前に強行軍の曹操が到着していたことになりますし、
篭城してその時は追い払っても、その後の展望は望めなかったかもしれません。
つまり、襄陽を取らないのは仁義みたいなことより、
曹操からもっと遠く離れたいという劉備の考えのためかもしれないということ。)
かくして追いつかれる劉備は、ここで妻子さえ捨て、江陵を諦め東側へ馬に乗って逃げます。
ついていった人たちはあらかた捕らえられたようです。
で丁度関羽と合流、さらに劉表の長子、江夏太守劉gとその兵1万ほどと合流。
夏口へ到着しました。
ここで劉備は諸葛亮を孫権へ派遣。
孫権は周瑜、程普率いる水軍数万を発し、劉備と合力して曹操と赤壁で戦い大勝。
舟を焼きました。
劉備と呉の水軍は南郡へ向かい、「疾疫」で兵が多く死んでいたらしいこともあって
曹操は退却します。
その後、劉備は劉gに荊州刺史として推薦され、荊州南部の接収に向かいました。
ごめん、427一箇所逆。
「劉備が」「劉gを」荊州刺史にしたんだった。
三国志呉主伝。
建安13年、孫権は黄祖を破り、賀斉による山越討伐が行われたあと。
劉表の死により、魯粛がその弔問を理由に荊州へ行き、
実際には荊州の動向を見て計をめぐらすために出発。
しかし到着前に曹操が攻め寄せ劉ソウ降伏、劉備が南へ行こうとしていると知ります。
そこで魯粛は劉備に会い、孫権の意向と今後の計略を伝えました。
(これがどんな意向なのか、が問題ですね)
その後劉備は夏口へ行き、諸葛亮を孫権の元へ派遣。
孫権は周瑜・程普を遣わします。
この時、形勢圧倒的優位な曹操に降ろうという意見が
孫権政権内で大勢を占めていたようで、周瑜と魯粛だけが反対しており、
それが孫権の意向に合致していたと言います。
周瑜・程普は左・右督となって兵1万ずつを領し、劉備と共に進軍。
赤壁で曹操を大破します。
曹操は残った船を焼いて退却。
時に「士卒飢疫、死者大半」とのこと。
劉備・周瑜は南郡へ向かい、曹操は遂に北へ。
江陵に曹仁・徐晃を残し、楽進に襄陽を守らせました。
甘寧は夷陵で曹仁に囲まれますが呂蒙によって助けられ、
一方孫権は合肥を攻撃、張昭も当塗(九江郡)を攻撃。
1月を超える攻城戦のあと、曹操が派遣した張喜が騎兵を率いて合肥に救援。
孫権は退却しました。
まずは上に挙げた本紀と、本紀形式の列伝とを前提にして、
赤壁戦とその前後について幾つか語ってみようかと思います。
他の方々も、もし何かあればどしどし語って欲しいところです。
まず荊州について。
三国志、後漢書の劉表伝や三国志先主伝などからは、
劉表(とその左右)と劉備、劉表と劉gの間の微妙な関係が見えるように思います。
荊州の属官は官渡前後から曹操に対して和するよう勧める者が多く、
(曹操―献帝は荊州牧にとって上司なのだから本来は当然のことを言ったまでですが)
劉ソウ降伏もその線に沿ったものだといえるかもしれません。
それに対し、劉備は曹操不在を狙えと進言したように(三国志先主伝注)、
対曹操強硬派ということになります。
劉ソウ降伏の際、曹操が宛に到達するまで劉備には降伏の意思が告げられませんでした。
これは強硬派の武人という危険な存在である劉備の暴発を恐れたものであり、
また降伏をスムーズに出来るよう劉備を切り捨てたものと言えるのではないかと思います。
孫権の場合にも同様の様子が見えるのですが、
荊州では曹操への態度を巡って国が割れ気味だったと言えるでしょう。
国が割れると言えば、荊州では劉gの動向がなかなか興味あります。
演義やら漫画やらでは、なんだか弱々しいイメージを持ってしまうかもしれませんが、
(ワタシもそうですが)
彼は黄祖がやられた後の江夏太守であり、対孫権の重要人物には違いありません。
彼は弟劉ソウに後継ぎの座を取られそうになったために諸葛亮に相談し、
諸葛亮は「晋の文公をパクれ」と助言。あえて外任(江夏)に出たのです。
(ちなみに晋の文公は「本国から離れていたお陰で本国の乱に遇わずに済んだ」
のであり、よく考えると荊州にとっては不吉な話です。
諸葛亮は荊州の戦乱を予測していたのでしょうか?)
劉gは劉表臨終の際に父を見舞おうとして劉ソウ派に止められ、結局は劉ソウが後継者に。
劉ソウが父の侯印を兄に渡しますが、
(列侯の爵位は長男が継承します。しかし官職は本来世襲ではないので別)
劉gはその印を投げ捨てました。
兄弟関係は決裂。正しく袁譚と袁尚の反目の再現でした。
このうち、劉ソウ派は明らかに曹操降伏派です。
では劉gはどういったスタンスだったのでしょうか。
劉備と接触した諸葛亮に相談したこと、その後に劉備と合流していることなどを考えると、
彼は荊州における対曹操強硬派に近い存在だったのでしょう。
もしかすると、強硬派であったからこそ劉表の後継者になれなかったのかもしれません。
また、荊州において対曹操強硬派って本当にいたのか、という点について少々。
既に劉表の属官等となっている連中は多く曹操帰順を支持しています。
これは孫権の事例と同じで、降伏後にむしろ出世でき、
利権やら何やらを降伏した方が守れるためでしょう。
一方、強硬派は諸葛亮や徐庶のように、荊州で知名度はあっても地盤が無かったり、
入るべき州郡の属官が既に占領されている、いわば現状に不満のある連中でしょう。
彼らは密かに劉g、そして劉備を支持し、
既存の州属官を蹴落としてその既得権を奪おうとしたのでしょう。
既得権を有する蔡冒や傅巽のような者と、現時点で有しない諸葛亮や徐庶。
こういった当地の名士等の間での新旧対立が、
荊州の政情そして劉備の帰趨にまで影を落としている。
そんな印象です。
いや、考えすぎ、または見当外れかもしれませんけどね。次は魯粛伝かな?
あんまり細かなことは解らないんだけれど、
荊州に本拠を持つ者達も入蜀してるんでしょ?
そこまで単純に分けて良いのかな?
>>434 確かに、きれいに二分できるものではなかったでしょうね。
ただ、劉表の元で重用されていたのは既に中央で官位を持っていたり有名だったりする者
(カイ越、韓嵩など)が多く、
新進の豪族や流遇の士はなかなか上に行けない状態だったのではないかと思うのです。
また三国志劉巴伝に、「先主江南に奔るや、荊楚羣士之に従うこと雲の如し」という表現もあり、
理由はどうあれ劉表死亡後に
劉ソウではなく劉備に従った荊州の士も少なくなかったようなのです。
少し見た限りでは、霍峻や向朗、伊籍などがそうですね。
これらの者たちは、劉表、劉ソウとその重臣の企画する曹操に従う路線から外れていたからこそ
劉備について行った、または劉備について行くしか権力を得る道が無かったのではないでしょうか。
蜀入りについては、蜀を奪う時点では荊州は劉備の支配下ですから、
荊州人が蜀入りしている事はそれほど不思議は無いと思います。
荊州に住む諸葛亮は現に荊州と蜀を併せ持つのを前提に「天下三分」を説いています。
前レスで論じた事を一応補足します。
荊州の人については、もちろん全員が曹操に従うか曹操と戦うか、
真っ二つになっていたということはないでしょう。
大多数は無関心か、流されるままという感じだったと思います。
ただ、劉ソウ降伏後曲がりなりにも軍を維持し、赤壁戦まで生き延びた劉備・劉gの背後に、
当地の豪族やら名士やらの姿が見えていたのではないか、という推測です。
話は変わって魯粛。
彼は劉表の死を聞くと孫権に進言します。
「荊州はいいとこだよ!ここを取れば帝王にもなれるさー!
今荊州では主の劉表が死んで、子ども二人は仲良くなくて国は真っ二つさー。
しかも劉備が流れてきたけど、劉表はヤツを警戒してて重く用いる事ができなかったみたいだ。
劉備がみんなと仲良くして荊州が一身同体になったら同盟しましょう。
もしだめだったら、別の手を考えますわ。
とにかく弔問に行って様子見てきますわ俺。
んで荊州の実力者とかに渡りつけて、
あと劉備のやつをそそのかして劉表の勢力を吸収させて、
一身同体にして曹操とぶつかりましょー。
劉備のヤツもうちの言う事聞きますわキット。
そうすりゃ天下はワシらのモンだす。
さっさと行かないと曹操のヤツが攻めてきますよー」
孫権はかくして彼を派遣しますが、時既に遅し。
途上で曹操が荊州へ向かっていると知ります。
強行軍で荊州へ向かう魯粛。
続く。
>>437 情報ありがとう。500KBかあ。書いた書いた。これでまだ795レスだったんだわ。
できればむしろ多くの人に割り込んで欲しいとこ。有益な情報や議論を切望。
魯粛は、上に書いた進言で孫権に荊州領有を勧めて、
その具体策をも挙げています。
つまり、魯粛の見立てでは劉表の死によって荊州分裂は必至であり、
劉備がそれをまとめられるかどうかが問題となっている。
孫権は、劉表の遺臣を劉備に糾合させた上で劉備を味方につける(臣従させる)ことで、
やがて来るだろう曹操を破り、荊州を手にすることができる。
魯粛は劉備の知名度と能力を認めた上で利用し、取り込むことを意図したようです。
しかしそのためには劉備支持と曹操撃退が必須ですから、曹操が荊州に攻め入り、
劉ソウの降伏も間近とあっては急がざるを得ません。
彼は劉ソウ降伏と劉備の南下を知ると劉備を追い、
長坂にて劉備と会います。曹操の騎兵にさんざんにやられる前でしょうか、後でしょうか。
ここで彼は劉備に主孫権との合力を説きますが、
実態はむしろ孫権軍閥傘下に入るよう説得したようなものでしょう。
劉備としては、徐州を追われた時には袁紹傘下に入った訳ですから、
その時と同じようなものです。渡りに舟、だったのではないでしょうか。
孫権との合力を決めた劉備は、
夏口にたどり着いたところで諸葛亮を孫権の元へ派遣します。
おそらく魯粛と同行したのでしょう。
孫権側から誘ってきたのだから、諸葛亮伝でいうような孫権説得は不要な気もしますが、
返礼と細部のすり合わせなども必要でしょうし、
孫権軍閥内の動向も確認しておくつもりだったのでしょう。
諸葛亮伝ではさらに諸葛亮が孫権を出兵へと説得したように書かれていますが、
この時孫権は既に江夏郡に近い柴桑まで出ており、
魯粛を派遣している以上、諸葛亮の言葉が無くても曹操と事を構える気はあったでしょう。
ただあえてこの件を評価するなら、
それなりに名を知られていたらしい「荊州の」名士諸葛亮が反曹操と孫権との合力を表明した、
という点が重要だったかもしれません。
孫権とその属僚は、これによって自分達が荊州の住人に支持されるという感触を得たのでしょう。
その意味では、これは確かに諸葛亮にしか出来ない事です。
とはいえ、孫権軍閥内では降伏論の方が優勢だったのは演義などに描写されている通りです。
これについては、魯粛が看破したように、
中央にも通じる名声または自前の土地や部曲を有する属僚や将は
曹操の元でも地位を安堵されるでしょうが、
孫権はそれまでの地盤等を失い、飼い殺しにされるのがオチ。
魯粛によって皇帝の座への野望を吹き込まれている孫権には耐えがたい事だったでしょう。
しかし孫権は属僚・将を説得しきれず、周瑜を呼び寄せます。
続く。
ここは怨霊が1人で話つづけるスレですね。
そうとも云う
>>441,442
そうなってますね。そうなってほしくないんですが・・・。
何かネタ振りでも感想でも下さい。
話を少し戻します。
諸葛亮は孫権に「生き残った兵と関羽の水軍1万!劉gの江夏の兵が1万!」
と言ってます。
これならなかなかまとまった兵力ではないでしょうか。
劉備は命からがら長坂を逃げ延びた筈なのに、これはどういうことでしょう。
もちろんハッタリ込みという可能性もあるでしょうが、
さすがに全くの創作ではないと思います。
思うに、劉備は兵力の多くを関羽の水軍の方に分け、
自分達の方にはあまり残さなかったのではないでしょうか。
足手まといとも言える避難民を抱えた本隊は、オトリの役割を果たしたことになります。
結果、劉備の殲滅のため強行軍をし、騎兵5000をも動員しながら、
曹操は劉備やその他劉備軍団の要人、そして主力の兵、どれも取り逃しています。
もしこれが「難民をオトリ&肉の壁とし、主力の兵を温存して逃げ延びる」劉備の策だとしたら、
とんでもない話ですが曹操を完全に騙したことになります。
なにしろ、諸葛亮は孫権に
「アルェー 曹操は遠くからやってきて、しかも騎兵に強行軍までさせて、もう勢いはないYO!」
とか言ってます。
劉備を捕捉するために無理をしながら失敗した事が
ボディーブローのように効いている、というのです。
逃避行で徐庶が(母親が捕まったから)曹操軍に投降してるけどね
>>433 >>既に劉表の属官等となっている連中は多く曹操帰順を支持しています
こんな状態では仮に劉備が諸葛亮の進言に従って劉表死後に劉ソウからの
荊州乗っ取りを実行したとしても内部分裂は必至だ。
その上曹操の大軍が南征してくるんだから、その後の荊州維持なおさら絶望的。
諸葛亮にしてはあまり良くない作戦ですな。
それとも何か別の意図でもあったんでしょーか。
ネタが切れたら二宮の変を語ってホスィ
447 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 23:37
>445
二通り考えられると思うよ。
1.さすがの諸葛亮も仕官したばかりで経験も浅く、目先の利益にとらわれて混乱してる荊州奪取を目論んだ。
後世の我々は各勢力の情勢を客観的に
>>445 荊州乗っ取りを実行したとしても内部分裂は必至だ。その上曹操の大軍が南征してくるんだから、その後の荊州維持なおさら絶望的。
って分析できるけど、混乱している状況だった当事の人間だと安直に考えちゃう可能性もある。
そんでも、その後の対呉交渉の冷静さを思うと違うと思うが。
2.劉備の「劉表には世話になったんで、そんな事できん!!」って発言を引き出すため(あるいは、その発言のインパクトを強めるため)。
>>445の言う通り、当事の情勢では荊州確保は難しいため、劉備の人徳の厚さを知らしめ、荊州人士の衆望を集めて、荊州退陣後の勢力確保を狙い、演技した。って考えられる。
まl宣伝って事かな。実際、劉備の荊州退去の際、相当数の荊州人士が付き従っているのは怨霊氏がおっしゃる通りなので、こっちの可能性の方が高いなぁ、と感じる。
い、いや、だからってナナシに戻ることはないぞ
>>446 そうですね。この辺も詳しくは無いですが研究してみます。
>>445,447
確かに諸葛亮のここでの進言は冴えてないです。
もしかすると「襄陽乗っ取り」は成功させる方策があったかもしれません。
例えば城内の反降伏派との協力が得られるとか。
妄想に過ぎないですが・・・。
ただ、襄陽を取り、荊州を支配しても、逆に曹操にひねり潰されるだけだったと思います。
曹操を赤壁で破ったのは、
孫権軍閥=呉と劉備が共同して当たった
長江で呉の水軍を有効に使えた
曹操が遠征の上に劉備追撃等に手間取って精鋭を(予定外に)疲弊させていた
曹操が荊州の将兵を把握しきれていなかった
といった理由がうまく重なったからだと思うので、
荊州を取ったとしても劉備が単独で撃退できたとはとても思えません。
まして曹操がそばに迫っており、しかも混乱している状況では。
これは今までしたたかに生き抜いた劉備の判断が正しいです。
447氏の言う2のように、ある種の演技というのもありえるでしょうね。
ただ、まだ若い諸葛亮は劉備のような現実に即した判断を下せなかっただけ、
というのも捨てがたいですね。戦況を分析するような能力が、
少なくともこの時点では欠けていたのでしょう。
孫権に対しての発言は、落ち着いて全体を見渡して考えた上でのものでしょうから、
また評価も変わってきます。
>>448 戻りませんよ。
>>445 呉と同盟する際の、相手の警戒を緩めるための作り話かも知れない。
諸葛亮が荊州の乗っ取りを勧めたのに劉備は断った→土地への野心はない
ならば、荊州残党をまとめるのは劉備に任せても問題ない→(゚Д゚)ウマー
これで呂粛は騙された、と。
ところで、数万もの人間を連れて去るってのは立派な泥棒じゃなかろうか。
魯粛でした。ごめん
>>450 なるほど。そんなことまで考える余裕あったのか、とも思いますが、
戦後処理やそれ以降に与えた影響もあるかもしれませんね。
人間を連れ去った事より、
結果的には人間の壁同然にしかならなかった事の方が問題だと思ってしまいますね。
さて、孫権は本人は独立を望み、参謀魯粛の荊州奪取策に賛同しており、
荊州を奪うには曹操を追い払うしかない以上、兵を送り曹操と戦うのは必須です。
しかし彼は独力では属僚等が曹操へ服従するのを支持するのを変える事が出来ません。
周瑜が呼ばれるのは、彼が当時の孫権軍閥の中心人物であり、
同時に魯粛同様に曹操打倒を主張する人物だったからです。
長江が曹操を今まで阻んできたが、今では荊州で水軍を得たから、
もう曹操の大軍にかなわないという降伏論者に対し、周瑜は言います。
「今は曹操には馬超・韓遂ら関中の反乱者などの後顧の憂いがあるし、
もともと曹操の率いる兵は舟に慣れていない。
今は冬で馬に食わせる草も無いし、北の者にとっては風土も違う。
今に疫病が発生する。曹操にはこれだけ不安要素があるのだ。
今が曹操を捕らえる千載一遇の機会だ」と。
周瑜の見立ては全くそのとおりになる訳ですが、
そうなるとなんで曹操はこんなに不安を抱えたまま長江を下ったのか、という疑問を感じます。
荊州を守る事に徹する事は出来なかったのでしょうか?
これについて少し述べておくと、
推測ですが、曹操は荊州の残存する敵対勢力=劉備・劉gの排除を主目的としていて、
孫権についてはこの時は照準に入っていなかったのではないでしょうか。
そして、属僚などの論調から、少なくとも邪魔される事はないと踏んでいたのではないでしょうか。
曹操は孫権の野心の大きさを測り誤ったのです。
まさか、攻め込まれそうな状況から
一気に荊州奪取までひっくり返そうと狙ってくるとは思わなかったのではないでしょうか。
また、曹操は劉備のしたたかな判断にも惑わされています。
さんざんに打ち破ったようにも見えますが、
結果的には劉備追撃は曹操の大失敗だったと言えます。
劉備は兵を温存して助力を得られる夏口へ逃げ込み、
曹操は荊州の民望を劉備にさらわれ、
そして残ったのは強行軍で疲れた兵。
劉備が狙ったかどうかはともかく、赤壁前の荊州はこういった情勢だったと思います。
>>432 ちょいと遅いレスですが、
>諸葛亮は荊州の戦乱を予測していたのでしょうか?
戦国の世に中立を唱えている国がお家騒動で割れているなら、
「具眼の士」はその国の末路を大筋で予測できると思いますよ。
諸葛亮に限らず、そういう人たちの共通認識だったのでは。
曹操の一連の行動は、これもあくまで推測、妄想ですが、
荊州の平定までが目的ではないかと思います。
孫権の屈服、征服まで入っていたのか疑問です。
(これは蒼天航路などで指摘されていた気もしますが)
で、荊州平定の仕上げとして劉備を討とうとしたら、
(劉備くらいなら現状の戦力で倒せると思ったのでしょう)
攻めてきたり出来ないと思っていた孫権が荊州奪取の野心と共に急遽到来、
一気に破られた・・・。
こうして見ると、荊州での曹操は「兵は神速を尊ぶ」とばかりに
迅速な進軍や果断な処置などを見せていますが、
ある意味肝心な劉備に逃げられていますし、
荊州の士、民も十分慰撫できたとは言い難い状態でした。
正直、冴えが無いような気がします。
その上に孫権の動向を見誤り、
周瑜、諸葛亮に看破されているような不十分な状態での
思いがけない相手(孫権)との戦闘を余儀なくされました。
これでは(赤壁のみならず、その後の江陵陥落まで含めての)敗北も
当然というべきかもしれません。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 00:48
>455、怨霊氏。
曹操(と言うか曹操陣営)は荊州を奪取し、安定的に経営出来れば、と言う考えではないでしょうかね。
対劉備戦は残敵掃討くらいな感じだったんじゃないかな。
そんでも、精鋭を向かわせたのは、劉備に対する警戒心だったような気がします。生き残らせると厄介だと。
孫権に対しては、長江中流域の荊州を確保出来れば、下流域の孫呉は自ずと従ってくるんじゃないかと考えていたのでは?
従って来なくても、自壊する(孫権の属僚の世論等から)だろうし、攻略も容易いと。
>>454 そうですね。確かに国の二分は不可避だと、
諸葛亮が予測したというより当時の荊州の有識者の多くが思っていたのかもしれませんね。
だとすると劉gに外に出るよう勧めるのは荊州分裂に手を貸したと言えない事も無い訳で、
諸葛亮の発言は分裂を不可避と認めた上で敢えて荒れる方を進言したと言う事でしょうか。
だとすれば、劉g外任はやはり反曹操、あるいは荊州独立を志向する豪族・名士・属僚らの
意思ということでしょうかね。
親曹操路線に不満が無ければ劉gを切り捨てた方が荒れなくて済むと考えるでしょうから。
>>456 私は、曹操は劉ソウ降伏を受けた時点では孫権を本気で攻める気は無かったと思います。
>長江中流域の荊州を確保出来れば、
>下流域の孫呉は自ずと従ってくるんじゃないかと考えていたのでは?
とおっしゃるように、荊州さえ固めれば後からでもどうにでもなるだろう、位の気持ちで。
また、孫権が属僚等をまとめきれず、兵力等の面でも強力とはいえない点等を考慮し、
迅速に荊州に手を伸ばしたり救援したりすることは無理だと計算した上で。
対孫権は無いと思っていたから劉備には全力を出せた、というところではないかと。
劉備を仕留めないと(最低でも荊州から放逐しないと)
荊州支配もおぼつかないということで。
で、曹操の誤算は
・全力で攻めたにもかかわらず劉備は生き延びて荊州の片隅に逃れた
・孫権は曹操が考えた以上に荊州取りを本気で考えていた
(孫権は本気だからこそ早い段階で荊州を伺っており、
諸葛亮が行く時には既に臨戦体勢だった)
という二点が大きいかな、と思います。
全力投球の劉備追撃に失敗したために兵馬を疲れさせてしまいました。
(長坂に投入したという騎兵5000は曹操にとっても虎の子だったと思います。
官渡で曹操が率いた5000も騎兵と歩兵双方でした。
長坂ではそれ以上の騎兵が投入されたのです)
孫権は本気だったからこそ曹操以上の迅速さで兵を荊州に向けることが出来ました。
劉備捕捉に全力を尽くそうとしたのであれば、烏林には行かないでしょ。
烏林のある東南に大軍を派遣するのであれば、孫権との無用な軋轢を生むのは必定。
孫権と劉備の連合を防ぐためにも、奪った江陵から直接江南に渡るのが無難な発想だろう。
逆に、そうせず東南に大軍を傾けたことを考えれば、
孫劉連合の可能性を了承したうえで、本気で江南の制圧に取り掛かったのだと思う。
ちなみに制圧とは、討伐と脅迫による降伏の両面を含みますが。
>>459 レスどうも。
曹操は江陵から長江を下って赤壁(烏林)まで行っているようですね。
これが、その先の夏口(鄂県)の方にいる劉備を目標にしたのか、
更に先(柴桑)の孫権を目標としたのか、が問題ということでしょうか。
劉備はどの道長江流域(江夏郡)にいるので、
どっちを目標にしても長江を下るのには変わりない、という認識でよろしいでしょうか?
孫権を目標にしたにしては、周瑜が言うように曹操に不安要素が多いのが気になるんですよ。
実際には赤壁でも周瑜楽勝とは行きませんでしたが、
あんなに失策を数え上げられる進軍というのは・・・。
曹操はこのときに限って凡庸な将だったのでしょうか?
「この時は曹操は孫権と事を構える気が無かった」とすれば、
そのあたりがわかりやすい気がするんです。
もちろん、中立、あるいは降伏を促す工作はするでしょうが、
曹操としては荊州の江夏郡さえ取れれば今回は終わり、と。
孫権が脅威を感じたとしても、軍中をまとめていない、降伏論が台頭している、
という観測があったので動きナシと曹操は読んだ。
孫権との戦いがないとすれば、逃げ延びたばかりの連中(劉備)くらい一蹴、と思い進軍・・・。
当然、私の説には各所に無理があるでしょう。
私自身、これが正解だとは思ってません。
こういった推測や議論から新事実みたいのが出てきたらいいなぁ、と思いますので、
皆さんご意見等お願いします。
曹操が孫権の参戦を読めなかったのか、という疑問はありますが、
これは孫権が参戦したこと自体が当時の情勢からすると偉業だったと思います。
隣州の曹操にもガクブルしている連中が、実はその隣州を奪おうと本気で画策してるとは・・・、
ということです。
ジャイアンがのび太をいじめている時に、
今まで手出ししなかった(できなかった)スネ夫がいきなりのび太に加勢し、
背後からいきなりナイフで刺した・・・
位の衝撃。
その時、ジャイアンはスネ夫が自分を殺ろうとしているなんて、考えもしていなかったでしょう。
またおかしな例えですが、趣旨を汲み取っていただけると幸いデス。
ここいらで赤壁戦の方を紹介します。
三国志周瑜伝注の江表伝で周瑜の語るところでは、
曹操が北から率いてきた兵が15,6万。
劉表の率いていたのを吸収したのが7,8万。
合わせると22〜24万ということになります。
一方、孫権は周瑜、程普に合わせて3万(各1万ともいう)を与えていますが、
周瑜は5万を要求しており、実は周瑜が必要とする兵数には足りなかった事になります。
この他、同盟相手(あるいは傘下?)の劉g1万、劉備1万。
単純計算では20万強対5万、4対1という大差です。
但し、周瑜本伝で言われるように曹操主力には
水戦自体への不慣れ、
遠征軍ということでの疲労、
慣れない風土による疫病、
といった問題点があり、同じく諸葛亮伝で諸葛亮はさらに
強行軍による疲労、
荊州の兵の信頼性の低さ、
といった事も指摘されています。
一方の周瑜率いる兵は3万でも呉の精兵。
この差は数の不利を覆すに足りるものだったと言えます。
是非感想を・・という事だったので実名レスを。
無名でなんどか投稿した事はあったのですが(汗。
怨霊様、ご苦労様です。一人で語り続けているなどと言われておりますが、
その実、ロム派は非常に多いはずです。がんばってください♪
さて、赤壁についてですが、怨霊様のおっしゃるように、孫権の参戦を曹操が
読んでいたのか?いなかったのか?で意味合いがかなり変わってくるように思われます。
江表伝の記述を信用するならば、一気に江東まで制圧するつもりだったという
事になりますし、賈[言羽]伝にも、「ほっとけば江東は頭を下げてくるから
何も東進しなくても良いのでは?」というニュアンスの進言が書かれてますから、難しい所です。
しかし、普通に物を考えるなら、荊州を制圧しに来た訳ですから、江夏に劉備一党
を残した段階で許に戻るってのはあり得ませんよね(汗。劉備を抹殺して初めて
荊州制圧が完成する訳ですから、結局の所、208年の赤壁の戦いは曹操による
荊州制圧戦の一環と見て良いのかも。その荊州制圧戦に、劉表とは犬猿の仲だ
った孫権が参戦してくる可能性っていくら曹操でも予見不可能な範疇なのかな?
と思わない事もないです。
もしかしたら賈[言羽]の「無理に東進しなくても・・」ってのは、烏林滞在中
の事かもしれません。だとしたら「もう無理すんな」ってのは分かるような??
呉の精兵とは言うが
精兵が3万も作れるほどバックボーンがあったんだろうか?
呉の軍制度を考えると精鋭を作れる環境にあるようには思えないけど
>>463 レスありがとうございます。
このあたりの話なら私なんかより詳しい方に来ていただき光栄です。
ああ、そういやカクはそういう事を言ってましたね。
忘れてました・・・。
でもカク伝でも「曹操が孫権を征服しようとした」とは明言されていないですね。
そのあたり微妙かな?
>劉備を抹殺して初めて荊州制圧が完成する
>208年の赤壁の戦いは曹操による荊州制圧戦の一環
ってのが私も感じるところで、逆に言うと「曹操による孫権制圧戦」ではない、
と思うのです。
もちろん本当にそうかどうかはわかりませんけど。
ただ、劉ソウ降伏から長坂あたりまでの様子を見ると、劉備が荊州でかなり人心を得、
一帯に強い影響力を持っていたのが読み取れます。
荊州に残しておけば、曹操にとっては後の禍根になるのが明らかです。
対してカクの分析を信じれば、荊州を抑えれば江東=孫権はどうにかなる、
反対に言えば荊州をしっかり支配する事が江東平定に必須ということです。
曹操は十分に支配したと言いがたい荊州を背にし、
疲労した水に慣れない北方の兵を率いて、
孫権の本拠地に殴りこもうとしたのでしょうか?
そうは思えない、というのが現在の私の推論です。
曹操長江くだりは、あくまでも荊州攻めであり、
少なくとも揚州側にまで行こうとは思わなかった、という事です。
史書に江東、呉を攻めたかのように記されるのは、
後世の誤解、または劉備が孫権傘下になった事で
事実上「劉備攻め=孫権攻め」になってしまっていた事によるのではないか、と妄想してます。
ちょっと真面目に考えてみた。前回(
>>459)のは大幅に訂正しますんで、出来れば忘れてくださいw
まず、曹操の南下作戦の目的は、兎にも角にも劉備の捕捉だ。
しかし、劉備の捕捉を目前の目標とするのであれば、江夏に直接出向くのはハッキリ言って短慮に過ぎる。
江陵を既に奪った彼が劉備を容易に捕捉しようと考えたのであれば、
劉備の逃げ場を出来る限り少なくし、逃げられる方向をより狭めなければならない。
また、周辺諸勢力への無用な刺激も避けるべきだろう。
とすれば、彼の向かう先は江夏ではない。
江陵から江水を渡って宜都や孱陵などの平定に、まず力を注ぐべきだろう。
まっすぐ江夏に向かっては、孫権を刺激することは無論のこと、劉備を取り逃がす可能性も非常に高い。
江南への意欲という点で言えば、韓玄を長沙太守に、黄忠を裨将軍に任命したり、北へ撤退した後に桓階を
三郡太守に任じようとするなど、僅かながら彼も見せてはいるが、これではあまりにも心許なかっただろう。
彼自身は江北に留まったとしても、別将を派遣し、江南の橋頭堡を確保するくらいはすべきだったと思う。
では、何故彼はそうしなかったのか。
最も考えられるのは、孫権の意思を確認したかったから、だろう。
同様のことは袁尚逃亡や馬超蜂起のときにも当て嵌まる。劉備が袁尚・馬超に、孫権が公孫康・張魯に相当するわけだ。
彼は敢えて、敵になる可能性のある勢力の近くに存在する勢力に矛を向ける。実際にはどれも進軍止まりで、
侵攻はしていないのだが、そうすることで誰が自分に刃向かうのか服従するのか、自分と天下に知らしめようとしたのだろう。
他に考えられる理由は、孫権への威圧、江夏制圧、孫権領内への侵攻などだろうが、どれも決め手に欠けると思う。
彼の甘さはこういったことにも見えると思う。
事態が灰色のまま安全策を取っていけばいいはずなのに、敵味方の識別を第一に求めてしまう。
生い立ちが原因なのか、それが戦乱の掟と考えていたのかは判らないが・・・
>とすれば、彼の向かう先は江夏ではない。
江陵から江水を渡って宜都や孱陵などの平定に、まず力を注ぐべきだろう。
・・・と言うのが、おそらく賈[言羽]の言わんとした所ではないか?と。
江夏に劉備が逃げたとしても、すでに上流の江陵を押さえている訳だから無理をする
必要性は薄い。じっくりと荊州基盤を取り込んで、劉備とそれに同調した孫権
をじわじわと締めていくのが王道ではありますよね。
>最も考えられるのは、孫権の意思を確認したかったから、だろう。
そんな気がします。ただ、それを持って曹操は甘いとするか、
【戦わずして勝つ】という兵法の王道を目指した物が結果として裏目に出た
と見るかは、評価する人次第でしょうかね。
>史書に江東、呉を攻めたかのように記されるのは、
後世の誤解、または劉備が孫権傘下になった事で
事実上「劉備攻め=孫権攻め」になってしまっていた事によるのではないか、と妄想してます。
実際、赤壁で曹操を破ったと大いに書いているのは呉書だけで、曹操伝も劉備伝も
一環して【劉備を攻めた】とあるんですよね。後世の誤解と言っても差し支えない
ように思います。
あのさ、ホント水差すんだがスレ違いもいいところなんだが。
「漢の制度や文物を語る」スレなわけだが。
とりあえず、事実上のスレ主の意見は
>>423なワケだが。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 20:56
472 :
怨霊(規制中):03/12/23 22:47
今の話題の中でも、制度などいろいろと語る余地はある、
と思いまして。
もし赤壁はスレ違いなら、代わりになにかネタ振りなどおねがいします。
規制から免れたかな?
>>464 呉の軍制といえば、将が各々兵を領し、孫権がその兵を養うための「封邑」を与える、
という感じでしたかね。
精鋭(原文「精兵」)というのは、それぞれの将が養う一種の私兵のことなのでしょう。
で、赤壁での周瑜・程普はその「督」であり、
そういった私兵を有する将を更に指揮する立場だったと思われます。
孫権直属の精鋭と言う意味ではなく、
各将が蓄え磨いたであろう兵達を指して「精兵」と言ったのでしょう。
もしかすると鎌倉幕府の将軍と御家人の関係に近いのか?
>>466 確かに江夏は後回しにすべきだったのかもしれませんね。
ただ、荊州の江南に曹操が出向く必要があったのか?というのもあるかもしれません。
一応は劉ソウの降伏を受け、漢の丞相の名の元に荊州南部について処置しているようですが、
荊州南部はそれで十分で、わざわざ出向いたりするほどの事がなかったんではないでしょうか。
それに対し、劉備は降伏後の襄陽を通り過ぎただけで士・民が多くついていくほどで、
その影響力等を考えると江夏に放置しておきたくないと考えたと思うのです。
どちらにしろ、曹操はどうして慎重になれなかったのか、と思ってしまいますね。
確認のつもりで一気に荊州まで奪われたんだとしたら、
勝敗は兵家の常とはいえ流石に恥ずかしい敗戦です。
>>468 そうですね。三国志武帝紀では
赤壁で「劉備と」戦い、不利で、疫病があって、
退却し、「劉備が」荊州の江南諸郡を領有した、
という書き方です。
これだけでは周瑜が破った事どころか孫権が軍を出した事も良くわからないんですよ。
曹操の側で、赤壁は劉備との戦いの一環だ、という認識があったからこそ、
そんな表現になるのではないかと思うのです。
>>475 確かに魏書における赤壁の記述は少ないですけど
これは紀伝において当人の汚点は簡潔に記し、美点は誇張して記すという
史記以来の伝統のようにも思えます
ですから魏書、呉書の記述ともに額面通りに見ることは出来ないと思います
>>476 赤壁の逆の例もあるんですよ。
222年の洞口の戦いでは魏書は呂範を大いに破ったとあり、
呂範伝では暴風のために船が転覆したため退却したとあります。
こういう場合、どっちが正しいか?なんて五里霧中ですから、
結局、双方の記述を足して二で割るという折衷案しか採りようがない。
というわけで、赤壁も
周瑜が烏林で焼き討ちを行って軍船を焼き、疫病で苦しんでいた曹操軍は
それもあって退却したってな感じで捉えられている事が多いですね。
>>476,477
確かに実態については魏書、蜀書、呉書いずれか一つだけに基く事は
出来ないでしょうね、こういった件では。
ここでは「当事者がどう思っていたか」が問題だと思います。
曹操が孫権をも併呑しようとして抵抗されたのか、
曹操は孫権まで攻める気はなかったのに攻撃されたのか、
それによって赤壁の捉え方も変わってくると思うのです。
>>462の続き。
周瑜らは長江を上り、赤壁で曹操と遭遇します。
周瑜伝によればそのとき既に曹操軍内では病気が出ていたとのことですが、
とにかく緒戦で周瑜の軍は曹操を破り、曹操は退いて長江の北岸に停泊しました。
周瑜は長江を挟んで南岸に留まります。
ここで周瑜の側は、「持久戦では不利」と判断。
数は上でも、遠征の上に疫病まで発生している曹操も持久戦はキツイ気がするのですが・・・。
もしかすると、周瑜の軍の主目的が「荊州征服」であるため、
「こんなところでぼやぼやしていられない、消耗していられない」
という事だったのでしょうか?
周瑜は指揮下の将、黄蓋に降伏と偽らせての火計を成功させ、
その時の強風にも煽られて岸に作られていた軍営までも焼きました。
曹操軍は焼死、溺死多数。退却して南郡まで戻りました。
城攻めが苦手なのを考えると
呉は本当に兵力消耗を嫌っているように思う
本格的に慢性的な兵力不足なんだろう。
曹操軍は火攻めだろうとなんだろうと
徹底的に相手を損耗させるという戦術を採らなかったのは
呉戦力を把握していなかったのか
予想以上に何かで長期的陣営を築けない事態に陥っていたのか
そう考えると曹操の伝のが正しいように思う。
疫病などで損害が多いので一時退却したと。
呉との戦闘は一戦場地域だろうにと思う。
その後の情報戦術の巧みさで勝ったようにしたのでは?
>>473 このスレに常駐する方々には悉知の事なのでしょうが、いわゆる
「世兵制」と「奉邑」の件ですね。
といっても、孫権が呉王に封じられた222年以降、この「奉邑」の
制度の方は廃されたようですね。
ということは、少しは以前よりは集権制の色合いを深めたという事に
なるのでしょうか。
もっとも、各々私兵を有したまま将が世襲していく事は継続された
ようですが……おかげで有力な人物の投降や叛乱なんかが勃発
すると、被る打撃も大きかったんでしょうけど……
>>480 とりあえず
>>473で「封邑」と書いてますが
「奉邑」が正しいですね。
失礼いたしました。
この兵制が呉の特色だそうで。
思うに
>>479氏の言う
>城攻めが苦手なのを考えると
>呉は本当に兵力消耗を嫌っているように思う
>本格的に慢性的な兵力不足なんだろう
という印象も、この世兵制と関係あるかもしれません。
兵が原則として将ごとに付随する形だとすれば、
将は自分の兵を減らしたくないと思うのが人情というものでしょうから。
>>478続き。
赤壁(烏林)で敗北した曹操は、
三国志武帝紀注によれば舟が焼かれたために歩いて江陵まで帰ったとのこと。
その途上、華陽道では劉備の追撃(待ち伏せ)が無かった事を喜んだとあり、
なかなか辛い帰路だったように思われます。
曹操は江陵に曹仁らを残して自らは帰還。
軍内に疫病が発生していた事も早期の帰還につながったかもしれません。
周瑜らは南郡に入り江陵攻略にかかります。
甘寧の夷陵攻めやら、周瑜の負傷やら、曹仁による牛金救出と事件はありましたが、
結局は曹仁も敗退。
かくして周瑜が江陵即ち南郡を手にしました。
孫権としては、最低でもここは手に入れないと曹操と戦った意味がないでしょうから、
まずは当初の目標を達成したと言えるでしょう。
そして、おそらくそれと同時進行で劉備は荊州の江南、長沙郡など4郡を占領。
こちらも無難に成功させたようです。
ちと補足。
赤本で「世兵制」という言葉が使われているため、豪族が私兵を有したまま
将が世襲していく制度の事を「世兵制」と呼んでいる事が多いようですが、
どうもこれは三国志サイト内だけの呼び方かも知れません。
世兵制と軍制で言った場合、普通は、「徴兵制ではなく、兵士の家(兵戸)
が世襲して兵となる制度の事」のようです。
つまり、兵を得る方法としては
1.国民皆兵制度(有事になると民が兵に早変わり)
2.徴兵制(戸籍の中から一定の方法で兵を選出する。期間が終われば民に戻る)
3.世兵制(兵農を分離して兵戸は世襲して兵となる。)
くらいしか方法がないワケです。1は遊牧民のような少数部族なら有効ですが
人口が多い中国ではちとあり得ない。2は租庸調制度などのように税の一種と
して、一定期間兵役に貸す方法なワケですが、流民が増えて戸籍が激減した
三国時代はこの徴兵制はかなり問題があったよう。つまり、三国時代は魏も
呉も蜀も兵士レベルでは、どの国も「世兵制」だったようです。
>>483 そのあたりの用語についてはそれほど気にしていなかったです。
説明どうも。
呉の、将が兵を相続する「世兵制」というのは学術用語のはずです。
少なくとも、川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫ではその意味
(呉の制度)で使われています。
当時の兵はおっしゃるように徴兵制がほとんど崩壊した中で、
豪族なり将軍なりが自分で私兵をかき集めるか、
山越のような異民族を征服、服属させて使役するか、
もしくは「兵戸」として事実上身分を固定して代々兵卒として戦場に駆りだすか、
といった方法で兵が集められていたようです。
これは三国とも同様だったと思われます。
その中でも、呉では将に兵を与え、
その将が死んだらその兵(兵戸を、というべきなのか?)を爵位と共にその子が継承する、
という制度だったと言われ、それが「世兵制」と称されているようですね。
なお、上述の川勝義雄『魏晋南北朝』によれば、
呉は孫権即位後には奉邑制をやめて、兵を養う方法を屯田(自給自足)に切り替えた、
となっています。
この典拠となる記述はまだ探してないですが、参考までに。
その辺りについて、もう少し話しをお願いします。
軍制も研究者によって言い方が違っていたりするからややこしいですわ。
川勝義雄『魏晋南北朝』は持っていないので分からないのですが、赤本の
解説を読むと兵戸制と呼んでいるみたいです。用語を統一した方が良いと思う
ので世襲兵を兵戸制、将が兵を相続する事を世兵制とします。
魏は兵戸制(世襲兵)と屯田制を基礎とし、呉は世兵制(将が兵を相続する)
、蜀は呉と同様ではなかったか?とあります。
この解説は、一応防衛大学教授が書いていて、本人の意図は【兵戸制は三国
共通】で、魏は屯田制、呉・蜀では世兵制が特徴であると書きたかったのだ
と思われます。
ですが、編集の仕方が悪いのか?かなーり、兵戸制が魏の特徴で、呉・蜀は
兵戸制ではないと思われているフシが。
ここからは想像で。
流民が増え、戸籍が激減した状態では、徴兵制は衰えます。そんな事を国家規模
でやるとさらに戸籍が減りますからね。
徴兵制を実施しない(したとしても小規模)とすれば、兵を集めるには募兵か
強制徴集(異民族を討伐して兵に編入したり)しかないワケで、曹操・孫堅・劉備
だけでなく、豪族レベルでも同様の事が行われていたのではないか?と。
で、募兵・強制徴集で集めた兵を民に戻すというのは普通あり得ないので、そう
やって集められた兵は兵戸として私兵化する。その私兵化した豪族集団の割拠が
三国時代初期の様相である・・・と、すごく大まかに言うとそうなるかと。
疑問なのは、世襲兵だったのは三国共通だとすれば、その兵戸をいかにして
養うか?というのが国家規模の懸案になるわけで、最終的に国家が兵を統率
して行くには、兵戸に一定の居住地を与え生活を保証させていく必要がある。
その兵戸が首都にあれば、中軍(中央軍)になるし、各州にあれば外軍(地方兵)
となるワケです。
しかし、世兵制と言った場合・・・諸将が兵を相続するわけですから、兵戸
を国家が管理するのではなく、諸将が管理した事になります。そうすると、諸将は
その兵戸を養うためには、基盤となる土地が必要で、その方策が奉邑制という
事になるんですが、これを国家規模でやっていたとなると、兵戸はそれぞれの
諸将の奉邑に分散されて配属されている事になり・・・、中軍(中央軍)の設置はない
、あるいは中軍は非常に少ないという事に。
でも、すでに孫亮時代に孫チンが領中外諸軍事に任命されており、この頃には
孫呉も中軍・外軍の区別があったと思われるんですね。とすると、孫権後期
にはすでに、兵戸の移住がされていたと考えるのが筋ではないか?と思われるんです。
では、世兵制・奉邑制というのは、【制度】だったのかなぁ?と。
軍制は難しいです。
>>487 はっきりした確証をもっていえませんが、呉は孫権自身の出征(親征)が
荊州の諸軍とは別個に展開している場合があることなどからみても、
中央軍が少なかったとはいえない気がします。
また呉には、敢死、無難、解煩、などの固有名を冠された近衛部隊が
いくつも存在するようですし、それほど微弱ではないかと。
また山越に代表される異民族を征伐しては、民・兵戸へと編入している
ことからみても、このあたりが呉の中央軍を形成する大きな土壌だった
のではないでしょうか。
まぁ、ここの住民には言うまでもない事なのでしょうけど。
軍制は難しいけど面白いです。
呉の中央軍ってのは考えようによっては、
孫権(皇帝)が直接の主となる「世兵」なのかもしれないですね。
私も推測、妄想の類ですが・・・。
呉は他の二国と比べて「豪族連合政権」的性格が強いように思われますが、
そういった中で皇帝が権力を掌握する過程では、
一歩間違えば軍閥化しかねない豪族や将を抑えつけ、
頼りきりにならないで済むだけの直属軍の掌握は不可欠でしょう。
呉はその点で
>>489氏のいう近衛部隊の編成など、ある程度上手くやったのかもしれません。
三国時代は、中国で兵士が被差別的存在になる契機だったように思います。
漢はいわゆる徴兵制でした。
丞相の息子でも徴兵からは逃れられないと言われ、
それだけに兵士の地位は高かったと思われるのです。
(もちろん、皆が好んで徴兵されたわけではないでしょうけれど)
それが、後漢からこの時期頃にかけて様相が変わってくるようです。
徴兵制度は戸籍あってのものですが、その戸籍が逃亡や流民化によって有名無実化。
逃亡した者は主に豪族の下に。
流民は時に盗賊、反乱軍となって治安を悪化させます。
そんな中では徴兵制は崩壊せざるを得ず、
それだけ政府軍の力は弱体化します。
黄巾や白波、あるいは異民族を抑えきれないのは、そういった事情があったと思われます。
そして徴兵制が機能しなくなると、政府の側、あるいは牧、太守、将軍などの地方軍閥は、
代わりを探す事になります。
それが一つには異民族、
また流民や元反乱軍、
あるいは豪族の保護下にあった私兵。
三国時代はこういった新たな兵士の時代ですが、
そういった出自である兵士たちは、士大夫にとっては異民族や自分の所の農奴であり、
士大夫からは賎視されることとなったのでしょう。
(もちろん中国での武より文を重視する伝統的な価値観なども影響しているでしょうが)
赤壁の方を話します。
>>478と
>>482の続き。
かくして曹操は荊州から退却し、曹仁も逃げた事で南郡(江陵)以南を失います。
劉gが荊州刺史となり、周瑜が南郡太守、程普が(劉gの後任として)江夏太守となります。
劉表健在の時にはありえない組み合わせです。
これで孫権は荊州への進出を果たしました。
劉備・劉gもまた壊滅の危機を脱し、荊州の失地回復をある程度果たしたと言えます。
得をしたのはなんと言っても劉備ですが、
孫権も皇帝としての支配を見据えた荊州進出という目的を果たしています。
曹操が占領する前から荊州進出を魯粛が進言しているように、
これは孫権としては火事場泥棒ではなく出兵の時からの本来の目的と思われます。
演義でのように、孫権や周瑜、魯粛が劉備(諸葛亮)に利用されたのではなく、
孫権の方が劉備と劉gを荊州進出に利用したのです。
さて、それでは
>>421氏が言っていた黄巾の乱について少々。
(赤壁や、その他新しい話題もお持ちしてます)
といっても、全ての「黄巾」と称される連中を語り尽くすのは辛いですが。
発端は言うまでもないでしょうが張角。
鉅鹿で「大賢良師」と自称したとされています。
彼は「黄老道」を奉じて弟子を抱え、
「符水呪説」によって病を治したため信奉者が多かったといいます。
では、まず「黄老道」とはなんでしょうか?
これと同じ名前で呼ばれるものに、前漢前半期に官僚等の間で流行した「黄老」があります。
(「黄」は黄帝、「老」は老子)
これは大まかに言えば無為自然を体現した統治法で、
上に立つ者が「清静」を重んじていれば下の者は自然と治まる、というものでした。
高祖の功臣曹参がそれを採用した事で有名で、時流に合致していたため流行したようです。
それは、「礼」などを細かく言う儒家、「法」の厳格な運用を求める法家と違い、
自分さえしっかりしていれば専門知識が必要ないという点、
(専門知識のない建国の功臣にはありがたい)
そして法家の色彩の強かった秦が否定された後であった点などの影響が強かったのでしょう。
しかしながら一方では豪族による非公式的な支配、収奪をも黙認し、
取り締まるという事の無いという面もあったようです。
下の者にのびのびとやらせて信任する一方で、
いわば信任すべきでない者にも信任してしまうという感じでしょうか。
この態度は最終的には皇帝による支配を脅かしかねないものであり、
酷吏を積極的に起用した漢の武帝の頃に廃れてしまいました。
但し、皇帝は仕事を臣下に任せておけばいいんだ、
それが理想の姿だ、という考え方自体はそれ以降も残ったように思われます。
こういった思想的な側面は詳しくないので、間違い等指摘いただければ幸いです。
で、張角の「黄老道」が上に挙げた前漢の「黄老」だとすると、
この無為自然を体現したような政治思想の復活であり、
それは弛緩と腐敗の傾向が強まっていたと言われる当時の政治に対する
一種のアンチテーゼというやつだったのでしょう。
この面で、ある程度は知識人、官僚層を取り込むことが出来たのかもしれません。
しかし、それでは「符水呪説」が説明できません。
そこで漢書芸文志を見ると、「黄帝」の名を冠する書が、先に挙げた「黄老」即ち道家以外に、
陰陽、天文、五行、占、医、神仙など、色々な方面に散らばっているのを見ることが出来ます。
ここで挙げた分野は、どちらかというと呪術や神秘思想などと結びつくような傾向のあるところで、
(医にしても、三国志で華佗が管輅と同じ伝に立てられているように、
一般人からみればある種の神秘的な特殊技能には変わりなかったのではないでしょうか)
「黄帝」は非常に守備範囲が広かったのです。
おそらくは政治思想としての「黄老」も、
何らかの形で陰陽や医や神仙を説く「黄帝」と関わっていたのでしょう。
「黄老」を奉じるという事は、これらの思想体系全体を信奉するという事になります。
「符水呪説」といったモノも、
「黄老」の思想体系の中に陰陽、神仙、医といった形で内在していたと思われます。
当時の政情に対するアンチテーゼとなる思想と誘い水となりうるご利益。
現状に不満がある者や何らかの利益を求める者が次々と信奉するようになるのも
不思議ではないと思います。
言語についても語っていただけないでしょうか。
中国語といっても北京語、広東語などいろいろあるようですけど、
吉川や横山、演義ではみんな普通に会話しているのでいまいち
そこのあたりの感覚がわかりません。戦場で口上を述べるときも
いちいち通訳を介していたのですか?
>>495 言語ですかー。
これも詳しいとは言えないのですが、
異民族以外では通訳は付けていなかったように思われます。
但し方言的なものが存在していたのも確かです。
一つだけ知っているのが三国志簡雍伝注に、「幽州人の語、耿を謂いて簡と為す」とあるもの。
少なくとも、当時の知識人の間では通訳等ナシでも最低限の意思疎通は出来たと思います。
これは、官僚は同じ言語で無いと仕事にならないだろうという点、
それと、五経だのといった経典の勉強の中で、
嫌でも一定の文法、発音等の素養が身についただろうと思われるからです。
現代の北京や広東など、確かに別言語の如く発音から何から違ってるようですが、
(北京のしか勉強した事無いから詳しくない・・・)
これは思うに南北朝、金・元と南宋といった支配民族を異にする南北分断があった事が
大きく影響していたりするんじゃないでしょうか。
いやこれは勝手な想像ですが。
レスありがとうございます。
たしかに騎馬民族の言葉に影響を受けているというのは
かなりありそうですね。1800年もたてば言葉も変わって当然かも。
>>497 日本語における漢字の読みには「呉音」「漢音」「唐音」とありますが、
「呉音」は三国呉から南朝にかけての江東での発音であり、
一方「漢音」は隋・唐以降の長安での発音だそうです。
この両者は明らかに違う発音で、
ここまでくると同じ言語でもお互いに通じないんじゃないかとも思うのですが、
三国時代では496で書いたような理由から、
少なくとも知識人なんかの間では同じような言葉で話していたと思うのです。
すると、教養のない王平は投降したあと困った…ということにw
もしかして筆談?
河北と江南では文化的にもかなり違っていたようですが、
漢字を使用するという共通点があったという理解でいいのでしょうか。
話の流れとは違う質問なんですが、
曹嵩って、曹騰の養子へ行きましたよね?
曹嵩の一族丸ごと曹氏を名乗っている気がしますが、当時はそーゆシステムだったん
ですか?
それと、孫堅が荊州にして死亡した際に孫策は丹陽の呉景に拠りましたが
孫堅の弟の孫静が兵を纏めなかったのはなぜ?
>>499 王平は元々巴の人だから、蜀では言葉の問題は無かったでしょうね。
むしろ漢(曹操)の元での方が問題。
どっちにしろ、筆談が困難な王平でもそれで困ったという話が伝わっていないので、
多分大丈夫だったのでしょう。
>>500 話の流れは気になさらず。
曹嵩の一族とは夏侯氏の事となりますが、
少なくとも三国志を見る限りでは曹嵩以外の夏侯氏の人々は曹氏を名乗っていないと思います。
もしかして、曹仁や曹洪の事を言っているのなら、
彼らは曹騰の兄弟の子孫と思われますので、
実は曹操と血のつながりは無いという事になります。
孫堅死後に兵を纏めたのは、孫堅の兄、孫羌の子である孫賁です。
彼は孫堅の兵を率いて袁術に従い、豫州刺史に就けられています。
孫静は孫堅のそばにはいなかったんじゃないでしょうか。
彼は孫策が劉ヨウを破った時に孫策と合流したようなので、
そもそも兵を纏めるような場所、地位になかったようです。
孫静はもしかすると実家を守るような役目を果たしていたのかもしれません。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 12:22
>500氏、怨霊氏
孫羌の子孫は、目立たないですが、その後も顕職に就いてますね。
荊州を得る以前は中央軍の司令官のような地位ですし、荊州獲得後は中継地点の夏口・武昌あたりの都督のようです。
地味で、マイナーですが、彼らは呉の主力部隊の指揮官として、相当な地位に居たと考えて良いのでしょうか?
>>怨霊氏
どうもっす。
曹嵩の弟に曹鼎?ってのがいませんでしたっけ?
孫ヒ(フン?)が予州刺史になった後、主導が孫策に移ったのはなぜ?
シロウトくさい質問ばかりで申し訳ないっす。
それと、孫キョウは妾腹な兄なんですか?
弟が兄を従えてるのは珍しいので。
>>503 >孫ヒ(フン?)が予州刺史になった後、主導が孫策に移ったのはなぜ?
>シロウトくさい質問ばかりで申し訳ないっす。
孫策の年齢の問題かな?と。
本来、孫堅が戦死した時点で孫策が引き継ぐのが普通です。
しかし孫堅戦死時、孫策は従軍していませんでした。
よって、軍の中で最も直系に近い孫賁が引き継いだ。
暫定的な物だったのかな?と。
>>503 その曹鼎というのはまだ見つけてないです。スンマセン。
ただ、その弟がいたとしても、それはまた別の家からの養子かもしれないですね。
曹嵩と血縁があったとは限らないかと。
(もちろん、血縁関係だと書いてあれば別ですが・・・)
孫羌は「(孫)堅の同産兄」と書いてあるので、同じ父母から生まれていますね。
劉邦も兄がいる中で挙兵し、兄を従えていますから、珍しいとばかりも言い切れないかも。
ただ、孫羌は早死にしているので、世代的には孫堅の方が上だったということでしょう。
で、孫堅死亡後は同世代の弟孫静がいなかったので、
次の世代で既に従軍していた孫賁におはちが回ってきた、と。
基本的には
>>504氏の言うように孫賁の領兵は暫定的だったんでしょうね。
おそらく有力者の呉氏の血を引く子である孫策が最終的には継承する手はずだったでしょう。
>ただ、孫羌は早死にしているので、世代的には孫堅の方が上だった
以降の補足
孫羌は早死にしているので、孫賁が嫡子とはいえ、
その子孫賁等より世代的に上の孫堅の方が指導的な立場になるということでしょう。
また孫堅死後については、孫堅と同世代の孫静は従軍していないようだったので、
従軍していてなおかつ孫堅に近い存在だったのが孫賁だったということではないかと。
孫策との関係では、近辺での有力者である呉氏の血をも引く孫策の方が、
同じ世代でしかも年長で嫡統だとしても、
孫賁より上に立つべき存在として認識されたのではないでしょうか。
孫氏関係については、某呉書見聞の方が詳しいのでは・・・。
私などその場その場で三国志見てるのがほとんどですし。
などと言ってみるテスト
黄巾について。
「黄老道」を奉じ、弟子を集め、「符水呪説」で病を治したという張角。
彼は信奉され、弟子8人を四方に派遣して布教に努めました。
十数年後、信奉者は「青、徐、幽、冀、荊、揚、エン、豫」州で数十万を数えたといいます。
益州、涼州、司州なんかは入ってませんね。
大きくなった張角の「教団」は信徒を組織的に編成し始めます。
36の「方」を置き、一つの「方」は1万〜数千の信徒で形成され、
「渠帥」が将軍のようにそれを指揮したようです。
また、「蒼天已死、黄天当立」なる言を流行らせ、
都や州郡の役所の壁に「甲子」という字を書かせました。
少なくとも、「方」の編成や「蒼天已死、黄天当立」を言い出した頃からは、
漢の転覆を謀っていたと思われます。
>>508 ありがとう。わかりました。
曹鼎とは三国志曹洪伝注に、曹洪の伯父として出てくる尚書令曹鼎ですね。
しかし、上に引かれている系譜は所々疑問がありますね。
曹仁も曹洪も「太祖の従弟」なのですが、曹仁の祖父は曹騰ではなく穎川太守曹褒です。
つまりすくなくとも三国志での「従弟」は、「祖父を同じくする」とは「限らない」のです。
現代日本語で言う「イトコ」では無いのです。
そうなると、曹洪の伯父もまた、曹騰の息子=曹嵩の兄弟とは限らなくなってきます。
曹騰には兄弟が三人いましたので、曹仁・純の一族、曹洪の一族、曹休の一族、
すべてこの曹騰の兄弟から出てきた可能性が高いのではないでしょうか。
(曹褒が曹騰の兄弟と思われる)
なお、これら曹一族は揃って高位高官にあった事が分かります。
なお、
>>284以降で曹氏と夏侯氏について多少考察しております。
>>怨霊氏
劉邦はそうですが、劉備もカクも「長子が後を継ぐのが当たり前」
みたいな事を言っていたので、当時は兄が弟を従えるのが当たり前なのかな・・と。
孫権って夷州へ徴兵しにいきましたよね?
呉はそれほど人口少なかったんですか?それとも、別に何か目的が?
サゲ忘れました(汗)
申し訳ない。
>>511 劉備の興した物は劉備の長子が、曹操が興した物は曹操の長子が
同じように孫堅が興した物は、長子の孫策が受け継いだのだと思われます
もし孫堅の世代以前から孫家に引き継がれる物があったならば、
それは、きっと孫羌の家が受け継いだのではないでしょうか
>孫権って夷州へ徴兵しにいきましたよね?
呉はそれほど人口少なかったんですか?それとも、別に何か目的が?
確かに魏と比べれば人口は少ない…少なすぎる
とは言え、孫権の頃の呉は、山越等の異民族対策が上手くいっていたので、
二匹目の泥鰌を狙ったのかもしれません
ただ、この頃の孫権は、先の遼東の事といい色んな意味で距離感を失っていたようです
まあ、夷州の事も、孫権の数多い老醜の一つでしょうね
>>510 ありがとう。こちらの方は先に私が言ったのと同じですね。
>>511 一点目については
>>513の言う通りでしょう。
あくまで創業者は孫堅ですから。
また、手前味噌ですが前に私が言ったように、
母方や妻方の家柄、発言力なども関係していたかもしれません。
祖先の祭祀については孫羌―孫賁が継いだ(孫堅系は孫堅を一代目とする)
のかもしれませんが、家系が分かれてからの財産その他ですから。
孫堅死亡時の処置はあくまで臨時的措置でしょう。
孫権の夷州征伐ですが、
呉の人口というか、「孫権の思いのままになる(兵、徴税等)人口」が少ないからではないでしょうか。
つまり、豪族やらの私有民、ヒモ付きではない、孫権が誰にも口出しされず支配できる民。
これが欲しかったけれど、もはや中国内ではそう簡単には手に入らない。
そこで新天地に・・・と考えた、なんてところではないかな、と思うのですが、どうでしょう。
確かに無残なほど失敗しましたし、老醜という面もあるでしょうが、
「豪族に推戴されている神輿」としての孫権の自立のための抵抗、とでも言うべき
とらえ方もあるのではないでしょうか。
あけましておめでとう。って元日過ぎてら。
黄巾について少々。
>>494と
>>507参照。
「蒼天已死、黄天当立」の八字についてですが、
これは良く五行思想で解釈されていますが、私個人としては疑問を感じています。
黄巾が「黄」色の巾を付けたのは、五行思想に基いたとは思えません。
張角の教団のバックボーンとなったのが「黄老道」であり、
おそらくは黄帝が特に信奉(信仰)されていたことによると思います。
そして、「黄老道」の信奉も五行に基いて漢の転覆を狙って
「黄色だから」と採用したものではありません。
前漢で流行した「黄老」の思想のリバイバルであり、
漢に対する思想的なアンチテーゼが「黄老」の思想だったからです。色は関係ありません。
そして例のスローガンも、
五行思想に精通していたとは思えない層にこそアピールすべき性質を持っていたでしょうから、
「蒼天」=天=天子=漢、「黄天」=黄帝(=張角)と
単純に考えていいのではないかと思うのです。
例の如く、あくまでも私見ですが・・・
続き&補足。
張角の教団が漢転覆と天下取りを本気で意識した時には、
当然五行説による「徳」の説明を付けようと考えたことでしょう。
黄帝の名を冠する思想には五行説も含まれています。むしろ得意かもしれません。
そして、その時には自らを「土徳」(黄色)になぞらえたかもしれませんが、
例のスローガンにそれが全て反映されているとは限らない、ということです。
その一方、スローガン後半では「甲子」の年と事実上犯行予告しているのですが、
この「甲子」とは十干十二支による記年における最初の年で、
(甲乙丙・・・の「甲」と、子牛寅・・・の「子」です)
「最初」であることはおそらくですが五行説よりも広範囲の階層で
容易に理解できると思います。
こちらは五行説やら何やらを持ち出すまでもなく、「最初の年」という意識が非知識人にも
「ああ、新しい時代が来るんだなぁー」という
現実逃避にも似た期待感を持たせる効果があったと思うのです。
(現代日本で2000年や2001年の年末年始などに
「今年(来年)はいつもの年とは違う節目の年だ」なんて言ったのと同じだと思います)
官用語があって、それが出来なければ出世もままならない、というのは聞いたことがあります。
とはいえ、南方の言語は普通に文法や使用する単語・漢字も異なりますので、これは南方の
言語文化をもつ統一王朝である明よりも以降の話なのか定かではありませんが。
たとえ話で参考になるかどうか分かりませんが。
江戸時代、参勤交代のシステムが完成し、地方の武士が江戸へきても、御国訛りで
通じにくいので、「武士共用の言葉」として「〜〜で御座る」「〜〜でそうろう」という
文語体で喋ったとか。
>>499 王平は教養の無い人物とされますが、字が「子均」といい、名前の平と関連付けが
されています。また、字は士大夫階級以上が持つとされてもいますので、
一概に無教養、文盲といってもどのレベルだったか私は多少なりとも疑ってかかるべきかと
思ってます。
「蒼天已死、黄夫当立」とされる文章があります。比較的新しい文章では黄色い夫としています。
これは、唐詩の世界では、
「特に短い詩では同じ文字を2度使うようなことはご法度」という
お約束があります。
この情報が頭にあるばあい、対句といえど文字は変えるべきだと連想しますので、
蒼天の対=黄夫 と考えがちになるでしょう。ですがここは黄夫とすべきという見方は
もっともっと後世の情報が頭にあるからそうなってしまったのではないかと考えています。
かなり見難いけど干支の一覧。上の段は十干、下の段は十二支。
上の段は、木・火・土・金・水の5行相生+え・との順に読みます。
つまり、木のえ(きのえ)⇒木のと(きのと)⇒火のえ(ひのえ)⇒火のと(ひのと)……
の順の読み方を覚えるといいでしょう。下段は有名なね・うし・とら…の進行です。
ちなみに今年は21番目の甲申(きのえさる)です。
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳
010203040506070809101112131415161718192021222324252627282930
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳
313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960
流れを読まずに書き込みまくってしまいました。
正月ボケスマソ
>>517 西洋ではラテン語が言語の統一に使われたそうで。
明治の日本では軍隊用語と花魁言葉は田舎モノが多かったので、
あえてどこの言葉とも違う言葉を使う事で言語の統一を図ったとか。
そういったものの典拠は知らないのですが、
当時の中国でも似たようなモノがあったかもしれませんね。
王平については、その字は出世後に付けたかもしれないので微妙。
三国志の人物で明らかに下層出身なのが臧覇や孫観たちです。
臧覇は一名「奴寇」、孫観は「嬰子」、呉敦は「黯奴」、尹礼は「盧児」。
いずれも奴婢を髣髴とさせる名前ですが、
後にがっちり名「覇」字「宣高」なんて風に名乗ってますので。
>>518 私は後漢書(中華書局)を引き写しただけですが、
「黄夫」にはなっていません。
そもそも詩じゃないですしね、これ。
正月早々、馬鹿が紛れこんでいるようで
>>520 いえ、ありがとうございます。
>>519など、説明するのメンドかったので助かりました。
臧覇は亡命(戸籍から逃亡)しているので、
そこで農奴か豪族の半奴隷のような存在に落ちたのでしょうか。
呉敦も似たようなものでしょうね。
孫観と尹礼は子供をあらわす字が入っているので、
流民の子か孤児で幼くして人買いにでもさらわれて売買されたのでしょう。
(信憑性は無いですが、劉禅が奴隷として売られたという異説が伝わってますので、
そういった人買いの類が存在したのは間違いないです)
おっと補足。
臧覇は家自体は父が一応役人という事になってるので、
彼自身も無教養とは言い切れません。
ただ、「嬰子」こと孫観にも「仲台」なんて字がありますので、
王平ともども身分や教養の有無を字だけで測るのは難しいと思います。
ところで臧覇やその子、孫観やその子、みんな青州刺史になっていますね。
おそらくは青州黄巾の指揮または抑えのためでしょう。
というより彼ら自身が黄巾出身なのかな?
>>519 下半分を修正。この60年で一周。なので60歳で「還暦」。
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳
010203040506070809101112131415161718192021222324252627282930
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960
黄巾の続き。
三国志張魯伝注によれば、張角は「太平道」を教えた、と言います。
また、武帝紀の曹操と青州黄巾の戦いの際の注には、
黄巾が曹操に宛てたという文が残されています。
「(曹操が)昔済南で(城陽景王の)民間信仰をやめさせたのは、「中黄太乙」と同じ道である」
と述べるその文からは、彼らの信仰の中心に「中黄太乙」なるものがあったように思われます。
「太平道」とは何か、またこの「中黄太乙」と黄帝の関係は何か、
という点が黄巾を理解する上で問題になると思います。
「中黄太乙」とは、「中黄」と「太乙」で切り離して解釈できます。
「中黄」とは五行思想的な面が強い「黄帝」そのものでしょう。
後漢書で張角が「黄老道」を信奉したという記述は、この「中黄」を指すと思います。
では「太乙」は何かと言うと、「太」=泰、「乙」=一、で、「泰一」の事だと思われます。
「泰一」とは、史記封禅書、漢書郊祀志に出てくる「天神の貴なる者」と言われる神格で、
「天一」「地一」「泰一」という「三一」の一つです。
こちらはその名が示すように、陰陽思想との関係が深そうです。
(泰とは天地=陰陽が和合した理想状態のこと)
また「泰一」の補佐に「五帝」があるそうですから、
「黄帝」は「泰一」の下にあることになるようです。
何が言いたいかというと、「中黄太乙」は「黄帝」と「泰一」という別の存在が
合わさった名称だと言う事です。
語弊があるかもしれませんが、「泰一」はヤーヴェ、「中黄」はイエスのような関係として
彼らには認識されていたかもしれません。
そして、「中黄太乙」という名称(自称)の意味からは、
「太平道」という名称の意味も見えてきそうです。
こちらにも「太」の字が出てくるように、
彼らが信仰する神格「泰一」を示した名称と思われます。
なお、泰山こそ「泰一」の神山であったらしく、
前漢段階では黄帝だけが泰山で封禅を行った、とされていたようです。
「泰一」と「黄帝」と「泰山」の間には、密接な関係があったのです。
この二つの神が合体して(?)信仰される裏には、こういった関係があったようです。
「太乙」=「泰一」についての補足を一応
太と泰はほぼ同じ意味と音、つまり太=泰。
乙と一も同様。
なので、「太乙」=「泰一」なのです。
ネタ求む・・・
方向性変えて民衆と制度なんてどう?
村とかはどうやって治められていたのかな?
なるほど。では。
まず、漢代では城壁に囲まれた町、都市に居住するのが普通でした。
県というのは普通この城壁都市の事です。
その中で、さらに区画毎に「郷」が置かれ、
そしてさらにそれを幾つかの「里」に分けていました。
「里」はおよそ百戸で形成されているらしく、
行政上の措置はこの「里」単位で行われたようです。
「郷」には「三老」というものが置かれました。
(県単位でも「三老」が置かれたそうです)
一応漢の行政に組み込まれる存在で、長老、相談役のようなものらしいです。
同じく「郷」には「嗇夫」というのも置かれ、これは世話役、町内会長のようなものでしょうか。
これらは「里」という一種の共同体における長老、リーダーのようなもので、
漢はそれを行政に取り込んで支配を円滑にしていたのでしょう。
これは現代日本でも、市町村が町内会と連携し、
市町村側が町内会にある種の便宜を図る一方で、
雑用的な事などは町内会に任せる、といった構図に近いかもしれません。
そして、後漢末から三国時代という正に三国志の時代こそが、
上に書いた城壁都市の時代から変質してゆく時代でした。
具体的には、賦役や兵役、税金、借金その他の理由から城壁都市から逃亡する者の増加、
戦乱による都市自体の破壊、荒廃、
戦乱や飢えのために難民となって流民化する者、
といった理由から城壁都市単位での民衆支配は破綻していったのです。
そして把握できなくなった民は、
郊外に屋敷、農地、奴婢等を揃えた豪族などに庇護を求めて入ったり(農奴あるいは私兵化)、
あるいは盗賊となって討たれたり権力側に降伏して職業軍人(兵戸)となったり、
同じく権力側に庇護を求めたり(屯田民)しましたが、
破綻してしまった都市支配はもはや再生しなかったと言っていいでしょう。
もちろん一部は都市に残ったし、
首都や軍事的な要地などでは守られているが故に都市の実質が残ったでしょうが、
全体的に見れば城壁都市の時代ではなくなったのです。
>529
小ネタ。
范曄は親父の名が泰なので、後漢書を書くにあたって「泰」字を避けて
「太」に書き換えている。郭泰→郭太とか。
こと泰山に関してもほとんど「太山」に書き換えているが、
実は明帝本紀と趙憙伝に一カ所ずつ直し忘れで「泰山」があったりする。
>>533 そうでしたなあ。
こんな字が避諱されているぞ!
三国志
司馬懿の「懿」→呉懿とか
後漢書
范泰の「泰」→太山
漢書
劉秀の「秀」→秀才が茂才に
劉荘の「荘」→荘助が厳助など、荘が厳になってる
史記(漢書もだが)
劉邦の「邦」→相邦が相国
劉恒の「恒」→恒山が常山(趙雲の出身地)
オマケ
晋書
李淵の「淵」
李世民の「世」「民」
警察機関みたいなものはあったの?
>>535 あえて言うなら、県に置かれている県尉(曹操が就任した洛陽北部尉など)が
それに当たるのでしょう。
県の行政機関は県令(長)の下に副官の「丞」、そして警察的存在の「尉」がありました。
またかの有名な「亭長」が「亭」ごとに置かれ、盗賊を禁ずるという役目を果たしたそうです。
また、「郷」には前に書いた「三老」のほか、
「有秩」「游徼」「嗇夫」「郷佐」「属郷」といったものが置かれています。
「三老」=教化を掌るとあり、名前のとおり長老的な相談役でしょう。
「有秩」「嗇夫」は特定の職というよりは世話役、町内会長的存在。
「游徼」は見回り役&警官みたいな感じ。
「郷佐」「属郷」は税金や賦役の徴収等を担当するようです。
また「里」はもっと小さい単位ですが、「里」百戸ごとのリーダー的な「里魁」があり、
また「什伍」の制がありました。
「什伍」はまんま五人組。5家、10家ごとに相互監視させるものです。
かなり自主性に任せた統治みたいですね。
>>537 そう言っていいと思います。
自主性が高いという事の裏には、任せられるだけ共同体が機能していたということがあり、
また逆に言うと国家権力の側がそこまで手が回らなかったということでもあります。
県の前身である都市国家が独立していた時代の遺産という事でしょうか。
そして、そういった支配体制が三国志の時代になると激変するのです。
536で書いたような「里」「郷」単位での自立的な中小農民を支配する体制は崩れ、
国家権力の手が全く及ばない、豪族に支配される農奴のような状態の者と、
豪族と同じように権力側によって農奴にも似た状態で支配される者(屯田民)、
といったものが出現します。
漢代でも収奪、搾取の類はありましたし、富の集中といったものは進んでいましたが、
三国志の時代は戦乱等の影響でそれが一気に進展した時代であり、
「大多数の自立的小農民を支配する体制」から、
「より自由や権利を制限された農民(農奴)を豪族と権力が分け合って搾取する体制」
へと変わったと言ってよいのではないでしょうか。
言い換えると、貧富の差の拡大、身分の分化と固定化が進んだ時代だったのです。
>>534 >こんな字が避諱されているぞ!
>三国志
> 司馬懿の「懿」→呉懿とか
この「→」で何が変わったのかよく分からない・・・どちらも同じ「懿」という漢字に見えるのだけど・・・
それとも、蜀漢の武将で「司馬懿」というやつがいたんだけど、後の西晋の武帝の祖父と同姓同名であった為、
三國志上では彼のことを「呉懿」と記すようになったって事でいいの?
懿が付く人物は全部壱なわけ?
孫壱って人物がいるが、やっぱそいつも孫懿?
>>539 >それとも、蜀漢の武将で「司馬懿」というやつがいたんだけど、後の
>西晋の武帝の祖父と同姓同名であった為、 三國志上では彼のことを
>「呉懿」と記すようになったって事でいいの?
いや、だから呉壱と記すようになった。
たとえば、呉書を編纂した韋昭って人物がいるけど、彼もまた、司馬昭
の存在によって韋曜と改められてる。
>>539 これに関しては私が不明瞭、不適切な表現をしてしまいました。
申し訳ありません。
詳しくは
>>541氏の言う通り、「呉懿」は「司馬懿」の「懿」と同じ名のため、
三国志では「呉壹」などと書かれています。
>>540 実は三国志での避諱はよく分からない点があります。
韋昭を韋曜に書き換えたのだとしたら、何故張昭はそのままなのか。
蜀の元号「炎興」がそのまま記録されているのはどうなのか。
正直よくわかりません。
「懿」についても、これが避諱だとすれば「孫壱」も「孫懿」が正しいと思いますが、
本当に避けられていたのか?という疑問もなきにしもあらず。
あと晋書では「虎」という字なども避諱されていますので、
見るときは注意。
諱の避け方
史書等に記載する時には上に出ているように、
「音が近い、意味が近い」などの字に書き換えるのが多いでしょうか。
また、最初からその字を使わず、
名が皇帝や父の諱を犯すような場合には終始字で記載する、という場合も。
(晋書はそんな感じ。公孫淵は晋書では公孫文懿と書かれている)
この時代ではどうか分かりませんが、後の時代では皇帝の諱の字をあらわす場合に、
その字の一部を敢えて書かずにおき、字を完成させないとか、
その字を空白にしておくことなどもありました。
三国志などでも、原書の版が清代作成だったりすると、
清皇帝の諱を避けていたりするので注意が必要です。
引っ張った原書によって書き方が区々って罠も多そう
>>545 三国志に限らず、史書の類を扱う時には「字の異同」がしばしば問題になります。
三国志でいうと、かの有名な傅士仁。
この「傅士仁」は三国志関羽伝でのみ記載されていますが、
他の所では全て「士仁」なのです。
そこで「傅士仁」の「傅」は誤って混入した字で、「士仁」が正しい事が分かる訳です。
この混入がいつどこから始まったかを知るすべは無いですが、
このようにどこかで誤った字が入ったり、伝写の過程で変わってしまったり、
という事は良く起こったのです。
史書では特に一字の異同が意味を正反対にしてしまうような場合もあるので、
同じ史書でも色々な系統の本を揃えて全て参照し、
正しい字を確定する作業が必要になるのです。
三国志の現在一般的なものといえる中華書局の三国志はこういった校訂作業をしており、
正直私自身なかなか実感しないですが、
その校訂のお陰で問題無く読み進めることができるのです。
どんな時に字の異同が起こるか。
・伝写の誤り
昔は手で伝写するのだけが複製を作る方法でしたから。
疲れて書き間違えたり、同じ字を二度書いたり、飛ばしたり・・・
・錯簡
錯簡とは、木簡の順番が狂ってしまうこと。
今で言えば、ページが入れ替わってしまうようなものです。
・注釈が本文に混入
注釈を本文の該当部分のすぐ後ろに書いたりすると、
伝写の時などにその注釈まで本文だと誤解されてしまう事が。
・意図的な書き換え
当時の皇帝の諱を避けたりして、
本文が最初に書かれた当時とは別の字に書き換えられてしまうかも。
・似た字を見間違える
例えば漢代の「十」と「七」という漢字は似ています。
これも伝写時などに似ていたために誤解されてしまうという訳です。
ちなみに、史記は有名なチョ先生の補の他にも、
前漢末(王莽の時代)や後漢初期の文もこっそり混じっており、
マジな話どこからどこまで司馬遷の書いた地の文なのか・・・、
という状態だったりする。
そして、史記の場合そんな混入した文もけっこう興味深い内容を含んでます。
この「傅士仁」は三国志関羽伝でのみ記載されていますが、
他の所では全て「士仁」なのです。
そこで「傅士仁」の「傅」は誤って混入した字で、「士仁」が正しい事が分かる訳です。
逆は有り得ないんですか?
つまり、実は関羽伝の「傅士仁」の方が正しかった。
>>549 「士仁」なる名は三国志+注中に少なくとも5箇所出現し、
「傅士仁」は関羽伝1箇所のみ。
また、関羽伝の記述によれば彼は名が「仁」である事は間違いなく、
(「芳・仁供給軍資」(芳は糜芳)という文があり、名が「仁」であることは間違いない)
「「傅士」なる姓は(ありえないとは言い切れないでしょうけど)
今のところ存在は確認されていないです。
姓「傅」名「士仁」という組み合わせはありえないし、
姓「「傅士」名「仁」というのも可能性が低い。
そして他の記述では全て「士仁」であり、
呂蒙伝注によれば姓「士」名「仁」である。
以上の点を考慮すると、「傅」が衍字(混入した余計な字)である可能性が一番高い、
ということになるのです。
三国演義はここに関しては関羽伝を不注意に引き写したと言わざるを得ず、
そんなありえない名前が現代まで受け継がれているのだから面白いものです。
>>姓「傅」名「士仁」という組み合わせはありえないし
ありえるだろ。
2字名は無いって言ってる?
だったら間違え。「郭攸之 (字は演長)」って2字名だYO!出師の表では
『至りてはすなわち、攸之、イ(費イ)、允の任なり』って記述があるよ。
金旋、字は元機。金日テイの後裔(武帝紀)とある。
金日テイの子孫が、金旋なわけだから、金日と言う姓でないことが分かる。
すると、金が姓で日テイが名だな。
金(姓)日テイ(字)も考えられるが、
馬日テイ。 馬日テイは字は翁叔。つまり、日テイは字に用いる言葉ではない事が
わかる。
(確か記憶では、馬日テイは馬融の子孫。ここでも2字姓でない事もわかる。)
他は、劉元起かな。字は子度だったか、子敬だったか。孟達が劉備の叔父と同じ字
なので変名したとある。尤も劉備の叔父が劉元起以外にいたかも知れませんが。
劉徳然と言う息子がいると考えると、やはり劉・元起と考えた方がしっくり来ます。
もっと時代を戻すと、管仲も2字名でした。管(姓) 夷吾(名) 仲(字)って感じで。
2字名は無いと聞こえたので、ちょっとレスしてみました。
(結構ちまたでは言われてるようなんで)
そーゆ意味で言ってるのではないとしたら、放置してください。
>>551 怨霊氏ではないけど…
よく
>>550を読んであげてほしい
>また、関羽伝の記述によれば彼は名が「仁」である事は間違いなく、
(「芳・仁供給軍資」(芳は糜芳)という文があり、名が「仁」であることは間違いない)
このように怨霊氏は書いておられる
つまり、名が「仁」であるから
姓が「傅」、名が「士仁」はあり得ないと言うことなんだよ
551は「2字名は有り得る!」と言いたかっただけのようだな。
>>551 怨霊氏はその程度のことは君の10000倍ぐらい詳しいよ。
世界史板でも漢代前後の知識で、彼の右に出る者はほとんどいない。
>>551,553
この時代でも二字名についてはありえますね。
これはこのスレの初めの方で話題になりました。
後漢ですが
>>20、
>>30あたりに。
私の
>>550の件については、
>>552氏のとおりです。
>>554 それは言い過ぎです。
まあ、一時期毎日死ぬほど漢書を読んでいたので、
その遺産で食いつないでいるようなものです。
直接関係無いですが、
金旋の金氏は前漢の金日テイやその弟の子孫として前漢で栄えましたが、
(張湯の子孫の張氏やこの金氏、韓王信の子孫、丞相韋賢・韋玄成の子孫は
前漢では数代に渡って栄えた権門として有名)
金日テイ自身は匈奴休屠王の子で厩番に落ちた純粋の匈奴人でした。
そういえば韋氏と金氏は共に曹操に背いていますね。
>>怨霊氏・552,554
2字名はあり得ると言いたかっただけなので。
説明が「姓「傅」名「士仁」という組み合わせはありえないし」とあったので。
そーきこえたのですよ。
失礼しました。
>>556 私こそまたも文意が不明瞭で、
しかも放置してとか言われてたのに結局放置できなくてスイマセン。
今後もよろしく。
韋氏は唐に至るまで続く家柄と言われていますね。本当かどうかはともかく。
なお前漢の丞相韋賢、その子で同じく丞相となった韋玄成は、
「親子で宰相(丞相)になった」ことで有名です。
このことで後の時代でも引き合いに出されたりすることもあるちょっとした有名人ですね。
不明瞭だったか? 嘘をついてまで謙遜することもないと思うけど。
いや、550の第2段1行目の前に何か入れとけば誤解されなかったかと思いまして。
謙遜とかではなく、不特定多数に何かを伝えることの難しさみたいなのを感じました。
上の話はここまで。
特にネタとか無ければ
>>538の続きにしよう。明日以降。
傅がなんではいっちゃったのかと思って原文を読んでみたけど、
又南郡太守糜芳在江陵、将軍(傅)士仁屯公安、素皆嫌羽(自)軽己。
ここか。
このあとは、その引用した文章の「羽」で「関羽」を示すように、
「芳」「仁」となってた。
>>561 そうです。現行の三国志ではここ以外に「傅」が入っているのは見えません。
あと、三国志に限らず一般に人名は最初以外は「名」だけで記述されるのが普通です。
(人のセリフなどは別)
しかしこの「傅」はなんで入ったんでしょうか。
官職に諸侯王の「傅」というのはありますが、ここで入るのは不自然ですし、
(どの王の「傅」なのか分からないし、また対応する王自体が居ない。
書くとすれば「平原王傅」のようになるはず)
あまり関係無いですが、糜芳の南郡太守って、赤壁後に周瑜が着任した要職ですよね。
糜芳が劉備に(忠誠心、能力両方で)信頼されていたということでしょうね。
彼は徐州での劉備のスポンサー&妻の一人の兄弟であると同時に、
曹操から彭城相に就けられる地元の名士でした。
おそらく劉備軍閥の中でも、相当の重要人物だったでしょう。
>>562 の「傅」ですが、以上のようにこの字が入る合理的な理由がわかりませんので、
やはり単なる衍字と思ってよいのでしょうか。
三国志の時代について
>>538の続きのつもりで。
この時代は、何度も出てきましたが流民、飢餓、戦乱、群盗といったものが頻発する、
財も力も持たない者にとっては(持っている者にとっても大変ですが)
本当に悲惨な時代だったと思われます。
子供が親とはぐれれば奴隷商人に捕まり売られていき、
(三国志後主(劉禅)伝注参照)
飢えのあまり人肉に手をつけたり、我が子の養育を諦め棄てたり。
そしてその向こう側では三国志に名を残すような豪族、名士の類は、
権力と財力でもってそういった人々を収容し、農奴や私兵として支配しました。
政権側も屯田など流民の保護に努めましたが、
実は屯田の税率は豪族の荘園におけるそれと同等だったらしく、
実態は「政権による荘園」だったとも思われます。
食いつなぐために兵となった者も悲惨です。
命を張っていたという点もさることながら、
「兵戸」として兄弟子孫も兵になることを義務付けられ、
どうやら後の時代の証言から考えると、イレズミを入れられた事もあったようです。
彼らは奴隷と大差ない被差別民だったのです。
三国時代はまだ兵戸制度の初期ですが、
おそらくそういったものが始まりつつあったでしょう。
564 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 19:53
>>555 韋晃って名門だったんですね。
耿紀も、耿[合廾]の弟の子孫にあたるはず。
耿氏は代々軍事を司ってきた一族なので
3者が組んだというのは意外と大きいのかも。
扶風の韋氏は昭帝の時の丞相韋賢に始まる家系です。
その子が四人いて、末っ子の韋玄成は宣帝の時に丞相になっています。
韋賢の子孫達は高位高官に上りました。
特に韋賢の孫に当たる韋賞は後の哀帝に詩経を教え、
その縁で哀帝の時に大司馬車騎将軍になりました(数日後死亡しましたが)。
前漢にこの韋氏から十余人の二千石(太守クラス)が出たといい、
後漢でも韋賞の孫、韋彪が名儒として名高く、
その他にも韋氏は儒者、官僚として活躍しています。
韋晃がこの韋氏という記述が見つからないのですが、
韋氏に限らず官僚の子弟がまた官僚になる時代ですから、
その可能性は高いでしょう。
前漢では任子という二千石の官僚が子弟を郎として官僚予備軍に推薦する制度があり、
一人二千石がいれば家族一人を官僚に推薦でき、そのもう一人が二千石になれば
また一人を推薦、とずっと続くようになっていたのです。
この韋氏などはこうして数多くの官僚を輩出したのです。
後漢では基本はこの制度ではないですが、
茂才、孝廉もまた官僚どうしの付き合いがあるなど現役官僚の子弟が有利ですから、
結局官僚の子は官僚になるのです。
建安23年の反曹操クーデター事件ですが、
この時韋晃は丞相司直でした。
この司直はこの時はおそらく丞相直属となっていた監察官で、
中央政府の諸官を監察していたと思われます。
韋晃はその監察権限を用いて反乱しようとしたのではないでしょうか。
(他の官僚に対する威圧、命令など)
また、丞相の属官で要職であったと思われる司直が、
丞相掾から曹操の信頼を受けて侍中、守少府となっていた耿紀らと共に反乱したという事実は、
曹操の幕府内にさえある程度組織的な不満分子がいた事を示しています。
その後の魏国内での反乱事件(魏諷の乱)と合わせ、
意外と曹操の足元は磐石でもなかったのではないかと思わせるものがあります。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 12:58
どうもありがとうございます。
乱後、郭玄信が処分されていますが、山陽公載記によると漢臣を皆殺し
しています。これを信じるとなると、すごいことするな〜と。
魏諷の乱に関しては、処刑されている人物が、宋忠・王粲の子や、劉偉
等といって、荊州に関係していた人物なので、荊州人の中に曹操にたい
する不満があったんじゃないかと思います。
>>567 なるほど。魏諷の乱で殺されたと言えば張繍の子、張泉もいましたね。
彼も父の来歴を考えると荊州人脈と関係あったのかもしれませんね。
荊州はご存知のように曹操、劉備、孫権の三者が取り合う地ですし、
どこの勢力でも微妙な位置にあったのかもしれません。
また、穎川系人脈との対抗なんて線もあるかもしれませんし。
曹操の死とその後について
曹操は建安25年正月、洛陽で死亡しました。
三国志武帝紀などではそのときの状況がはっきりしませんが、
三国志賈逵伝(と注)によるとなかなか大変な状況だったことがわかります。
まず、業βでも許でもなく、遠征中の洛陽だったという点。
朝廷とも離れ、魏国の都業βとも離れ、しかも遠征中。
この時に喪事を取り仕切ったのが賈逵でした。
具体的にどんなことがあったか。
・士民が労役に苦しみ、しかも疫病が発生。軍中は不穏な状態だった
曹操の幕臣たちは、曹操の死を公表しない方がいいんじゃないかと考えたそうですが、
賈逵はあえて公表して騒動を抑えたそうです。
一歩間違えれば軍中の騒乱、または始皇帝の時のような遺詔偽造などの変事があっても
不思議ではありませんでした。
・青州軍の離反
曹操が死ぬと青州黄巾兵は「天下は乱れるゾー」と言い、
太鼓を叩いて勝手に軍を離れてしまいました。これは臧覇伝注からも確認できます。
曹丕はこれを臧覇が軍を勝手にさせたせいだと疑っていたようで、
後々まであとを引く問題だったという事のようです。
これについては逃げた連中を殺せという意見もあったようですが、
賈逵はむしろ食料の支給など、慰撫することで暴発を防ぎました。
・長安にいた曹彰が急遽駆けつけ、魏王その他の璽綬の在り処を尋ねる
駆けつけただけなら「孝行息子」で済むのですが、
「璽綬の在り処を尋ねる」とは、それが欲しいという事に他なりません。
なお、魏太子曹丕は業βを軽々しく離れる事も出来ない状態です。
魏諷事件は前年の事ですから。
後の曹彰の不審な死は、これが深く関わっていたと見てよいでしょう。
なお賈逵は魏ではまるで魏の守り神のような扱いを受けていたようで、
それはこの時の件が重要だったと思います。
逆に言えばそれだけ大変な状態だったのです。
なお、その後曹操の遺体は業βに戻り、葬儀や曹丕の襲位を済ませますが、
今度は朝廷が不穏な動きを見せます。
同年3月、「延康」に改元するのです。
直接の理由は前月の日食かもしれませんが、実際の理由は曹操の死亡でしょう。
これが「曹操を皇帝扱いしたもの」と思うなら間違いです。
皇帝は普通に代替わりしたなら改元は即位の翌年です。
年中の急な改元は、むしろ最高権力者の平和裏ではない交代などの変事があったため
と考えたほうがいいです。
今回は曹操死亡直後であり、むしろ、
「曹操死んだバンザーイ」ではないかという疑いがあります。
真意は「曹操から曹丕への代替わり」なのか、「曹操から皇帝への権力奉還」なのか、
なのか、という点が問題です。
つまり、朝廷はこの機を狙って曹氏政権を世襲化させないための布石を打った、
のかもしれないのです。
曹操の死であんなに動揺していた曹操政権を受け継いだばかりの曹丕が、
短期間の内に禅譲を済ませなければならなかったのは、
漢が息を吹き返すのを恐れたからかもしれません。
(この辺は、宮崎市定氏が「九品官人法の研究」で指摘した点です)
571 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 23:56
朝廷は禅譲に対して、意外と抵抗をしていたんですね。
そういえば、董遇伝によると建安22年には漢臣達による
曹操の暗殺をはかるという事件もあったんでした。
>>571 董遇の伝(三国志王粛伝注)に見えるものですか?
これは、吉本、韋晃らの乱が23年正月であり、
反乱の計画は22年であったであろう点からすると、
おそらくこの韋晃らの乱の事でしょうね、多分。
考えてみると、23年には韋晃の乱のあと、
烏丸が反乱し、宛で侯音の反乱があり南陽太守東里コンが捕まり、
24年には漢中で夏侯淵が斬られ、業βでは魏諷の乱が発覚しています。
25年正月の曹操死亡まで、
実は緊張の糸が切れたように曹操政権と、曹操によって立て直された筈の秩序に
ほころびが見え始めたという評価も出来るかもしれません。
元号と改元
改元は、天変地異など変事があった場合、
何かめでたい事があった場合、などに行われるようですが、
霊帝の中平6年(189年)は何度も改元した年として有名ですね。
この年は霊帝が死んだ年です。で、
同年4月に霊帝崩御して少帝弁即位。
そして同時に「光熹」に改元。これがまずおかしい。
普通は「踰年改元」、その年が終ってから初めて改元するのが正しいのです。
即日改元するのは、およそまともな政情では無かった事を意味します。
で、8月に例の宦官誅殺事件があり、少帝が保護されるとすぐに「昭寧」に改元。
数ヶ月での改元というのもまた尋常ではなく、
ここでは「宦官の政権が終了したゼ!」と天下に知らしめる意味を持っていたと思います。
更に、9月には董卓が陳留王協を擁立。
ここでまた「永漢」というストレートな元号に改元。
これももちろん尋常でない政権交代を意味する訳です。
そして面白いのは、最後12月になると「3つの元号はナシ。今はまだ中平6年だよ」
という詔が出た事。
つまり、「今まで混乱なんて無かったから。全部忘れろ。
いつものように霊帝が崩御して後継者の協皇子が即位したから。
来年になったらいつものように改元するよん」
と表明したのです。
本来の即位後踰年改元の形式に戻す事で、即位直後に改元した少帝の存在を抹消し、
「最初から霊帝の後継者は協皇子(献帝)でした。朝廷は混乱してませんよ」
と事実を捻じ曲げようとしたのだと思います。
この改元の道のりを見ると、なんとなく当時の権力交代とかが見えてきそうなきなさそうな。
このスレで関所について質問してもいいですか?
>>574 勿論です。というかこのスレは質問常時受付中ですよ。
漢代の関所(「関」)ですが、有名なのは「函谷関」「武関」「玉門関」などでしょうか。
関は文字通り関所のことで、前漢では「関都尉」が置かれていましたが、
後漢では廃止されたそうです。
関は門を閉じて軍勢の通行を阻む他、平時でも通行人を誰何し、
許可証を持たない者は通行させなかったようです。
許可証は「符」「伝」「契」「繻」といったものがあり、「わりふ」形式が主でした。
出土資料からもそういったものが確認できます。
こういった「わりふ」が無いと合法的には旅行出来なかったらしく、
当時の人々は自由に旅行出来たわけではないようなのです。
役人または商人など、特定の目的を持って移動する以外の(関を越える)旅行は、
おそらく不可能ではなかったでしょうが、
許可を受けて「わりふ」の交付を受けないといけなかったのです。
>575
ありがとうございます。ではお言葉に甘えて質問します。
1 函谷関は三国志に登場しないみたいなんですがなぜですか?壊れて使い物にならなくなっていたんでしょうか。
2 関中とは函谷関、散関、武関、蕭関に囲まれた地域を指すそうですが、蕭関というのはどこにあったのでしょうか。
1
無くなってはいないと思います。
前後の時代にも存在しつづけているようですし。
ただ、三国志の時代は、函谷関以東での戦乱ばかりで、
一方関中の騒乱は関中で独立しており、
あまり相互の往来が無かったような印象があります。
そのため、たまたま記事にならなかったのではないでしょうか。
実際、後漢書董卓伝を見ると孫堅は函谷関まで兵を出していますし。
間違いがあったらゴメンなさい。
もし当時の函谷関について詳しい方が居たらフォローお願いします。
2
ご存知の部分もあるでしょうが、
函谷関 洛陽から少し西、新安県近く
武関 京兆尹と荊州南陽郡の境界あたり
散関 右扶風と涼州武都郡の境界あたり
蕭関 涼州、安定郡のあたり
のようですね。
余談ですが、項羽と劉邦は秦を討つ際に、
項羽は函谷関から攻めるルート、
劉邦は武関から攻めるルートでした。
なんか、中国語の「天府新聞」とかいうのを見てみた限りでは、
例の「張飛が夏侯氏の娘を妻にした」という件を言ってるだけに見えるんですが・・・。
あと何か後ろのほうでは演義の虚構がどうとか。
よーするに「三国演義では言及されてなかったけど
史書の三国志ではこんな話があるんだよ!」って言ってるだけじゃないだろか?
だとすると現代中国での「三国志」理解ってのがどういうもんかが分かって、
それはそれでオモロイ。
史書としてはまるで知らないけど、「演義」としての三国志はそれなりに知られてる、
ってとこでしょうか?
すいません579を読み込まずに書き込んでしまった。
>>579 中国の本場の研究者が今更、そんな事について発表するか?
って思ったりもしますが。
演義にも確か、劉禅が夏侯覇と面会する件で、「親族」みたいな
感じにいっていた記憶もあるが。
そう考えるとやっぱ、別の史料とか説とかでてきたんじゃないかな?
日本語の見出しを付けた爺通信のチョンボじゃないの?
「三国志演義」学会(プ
というか、この話題がヤフートピックスのトップに来るってのがすごい・・・
この件については
>>584氏の言が正しいのかもしれません・・・。
はっきり言って、その新聞のコラムかなんかだったんじゃないでしょうか。
確かに冒頭では「20年の研究の末に発見したぜ!」とか書いてありますけどね。
我々に置き換えれば、
トリビアとかで出てくる話は専門家や好事家の類には常識だったりするというのと同じでしょう。
それと同じで、少々誇大広告気味ですが一般向けなんでしょう。多分。
>>585 あのZAKZAKの記事でさえヤフートピックスのトップを飾る事があるのだからたいしたこと無いだろ。
今日、たまたまトリビア見てたら、
「秀吉は"はげねずみ"と呼ばれたこともあった」なんてネタがあった。
戦国ヲタにとっては常識なんだが、一般ではトリビアになるみたいだね。
一般人はこの程度で喜べるんだ、という改めて実感したよ。
古代オリンピックは全裸で競技、とかね。
あれは再現画像が全てだったけど。
>>580等の記事もそういう事でしょう。
>577
ありがとうございます!
長年の謎がやっと解けました。
三国志に登場する地名をフォローできるいい資料をご存知でしたらお教え願います。
>>590 地名をフォローする資料ですか・・・。
漢書地理志、続漢書郡国志、晋書地理志といったものや、
近現代のものでは「中国歴史地図集」第2冊、第3冊でしょうか。
私も第3冊(三国時代)は持って無いんですけどね。
あと、世界史板での情報では「中国歴史地図集」は一部絶版という噂もある一方、
横浜中華街だかでも買えたと聞いた気もします。
まずは東方書店、琳琅閣などの中国書専門の書店へあたりをつけてみてはどうでしょう。
(東京では神田神保町にその手の書店が集まってるので、
近所に住んでいましたら行ってみるのもいいかも)
実のところ私は以上のモノしか所持、使用していないのです。
あまり力になれなかったかもしれませんね。
ところで、昨日の
>>580の記事ですが、
「略奪ではなく張飛と夏侯氏の合意に基く結婚だというのが新発見だ」
という言説をさきほど見かけたのですが、
580を見ても、私の貧弱な語学力ではそういう意味を読み取れませんでした。
誰か中国語が得意な人、どっちが正しいか教えてください。
ぬっ速+での話だね。
張飛がさらったとされるのは建安5年。
この年は劉備が反乱した年であり、もし夏侯氏の娘をかっさらったのであれば
反乱後の「略奪」みたいなものだったのかもしれない・・・。
>591
ありがとうございます。早速中華街と神田へ行ってまいります。
>>594 自分で言っておいてなんですが、中華街の方は未確定情報なので、
まずは東方書店あたりからどうぞ。
興味があれば面白いですよ、中華書局の後漢書や三国志や晋書が並んでたり。
あと、見つからなかったら不十分な情報ってことで申し訳ない。
なにせ2年以上行ってないんです、神田。
>>593 劉備の反乱は4年だった。
さて、ヒマだから「尚書」を語ろう。
漢の尚書は、今までも何度か言った記憶がありますが、
本来は皇帝の文書記録や文房具などの管理、
あるいは詔の清書などを行うところだったらしいのです。
つまり、皇帝の意思決定にはあまり関与しなかった。
要職ではあったと思われますが、政権を左右するようなものとは言えないでしょう。
しかし、皇帝の側近として力を持っていた「中書」廃止に従い、
それに代わるものとして尚書が組織再編されます。(前漢成帝の時)それによって、
常侍曹(公卿の事)
二千石曹(郡国の事)
民曹(官吏、民間の上奏文の事)
客曹(外国の事)
三公曹(裁判の事)
の五曹体制となったらしい。で、それぞれカッコ内の件について分担して
詔の起草、上奏文の審査、諸事件についての調査や判断といった事を
行っていたと思われます。
正しく皇帝の「官房」とでも言う存在です。
皇帝の勅任官の審査も事実上尚書が行うことになるため
「選部尚書」といったものも出てくるのでしょう。
その後、この五曹体制はいくらか改編があったようですが、
大枠はこういったものと考えて差し支えないでしょう。なお後漢では六曹でした。
三公曹が消え、二千石・客曹がそれぞれ二つに分かれたようです。
尚書侍郎というのはそれら各曹尚書に付く職員です。
で、尚書6人(侍郎36人)を左右の尚書僕射と尚書令が統率する事になります。
尚書僕射は次官、令は長官という所でしょう。
後漢の尚書曹は、晋書職官志によると
三公曹(考課=勤務評定を扱う)
吏部曹(選挙、祭祀を扱う)
民曹(塩沢や皇帝の庭園などを扱う)
客曹(羌胡の事を扱う)
二千石曹(裁判、訴訟を扱う)
中都官曹(火事・洪水・盗賊などの治安を扱う)
という六曹だといいます。前レスの続漢書等のものと違う部分も結構あります。
そのあたりはどこかで誤って伝わったのか、もしくは制度改変を重ねていたために
分からなくなっていたのか、と言うところでしょう。
後の時代(少なくとも霊帝の時)には選部という選挙関係の尚書が存在しています。
また、尚書各員について左右丞が付いています。
尚書の変遷は私にはなんだか良くわからない事が多いのですが、
大筋としては、
「丞相や九卿が企画立案、あるいは処理した案件を皇帝はそのままサインするだけ」
という状況から、
「皇帝が主導的に企画立案して各官庁を命令指導したり、
各官庁の出してきた企画にしっかり目を通して場合によってはイチャモンや修正を加える」
という皇帝主導の政治体制へと変化してゆく過程が尚書に現れていると見るべきでしょう。
三輔の成り立ち
京兆尹、左馮翊、右扶風
の三輔とは、やることは郡太守とほぼ同じなのですが、
前漢においては九卿に準じる中央官僚という側面もある官でした。
現代日本でいえば
「地方自治体であって地方自治体ではない」東京都(特に特別区)でしょう。
元は秦における「内史」で、秦の本来の支配地の民政官という感じ。
おそらくは君主の秘書官の一人(史)であり、
邑内の民政担当という位置付けだったのでしょう。
秦の始皇帝、漢とこの制度は継承されましたが、
漢の景帝の時に「左右」に分かれます。左内史と右内史ということです。
そして、この左右内史と「主爵中尉(都尉)」を合わせて再編成したのが「三輔」です。
元の内史の統治領域を三分して統治しました。
三国志でも官僚などでしばしば三輔出身者が出てくるのですが、
これは前漢にあった「陵県」への移住制度と関係があります。
皇帝は即位するとすぐに自分の皇帝陵(墓)を三輔内に作り、その墓守になるようにと、
二千石以上の官僚を強制的にこの「陵県」に移住させていたのです。
そのため、高級官僚は自然と三輔の「陵県」出身となり、
前に書いたように任子制などでその子孫も官僚となり、家が続いてゆくのです。
少し前に挙げた韋氏、金氏などが代表例でしょう。
ヒマだから考えてみた。
妄想なので、無いとは思うけど鵜呑みにしないように。
夏侯淵の姪を張飛がひっとらえて(?)妻にした。三国志夏侯淵伝注引魏略より。
その娘が劉禅の皇后で、夏侯覇はその張飛の妻から見ればイトコ。
これは信憑性が低い記事だ、ともよく言われます。そうかもしれない。
ただ、それならどうしてそういった記事が生まれたのか?という疑問があります。
また、たとえ噂やでっち上げの類だとしても、
何らかの接点のようなものがないとまったく信用ならないヨタ話に過ぎないでしょう。
「張飛の妻が夏侯淵の姪」という噂が当時において多少でも信憑性を持ったとすれば、
「張飛の妻が夏侯氏」であったということではないでしょうか。
三国志武帝紀には、建安5年に曹操が劉備を討った時に劉備の将「夏侯博」が
曹操に捕らえられています。
当時の劉備の元には「夏侯氏」がいたのです。
これは不思議ではなく、劉備は一応豫州牧。
夏侯氏の地元沛はその支配下です。
劉備は地元に残る夏侯氏を辟召して属官にしていたのでしょう。
反乱した頃に劉備らが居たのは沛であって、夏侯氏の地元「言焦」ではありません。
しかし、夏侯氏を属官として駐屯地沛に連れて来ていたとすれば、
その家族である少女だって一緒に沛に居てもそれほど不思議ではないのではないでしょうか。
張飛が見初めた少女は、
劉備の将夏侯博に付いてきたと考えることも不可能ではないかもしれません。
もちろん夏侯博と夏侯淵や曹操との関係は不明ですが、
例の噂が生まれた背景にはそういった事情があったという妄想ができます。
妄想続き。
では、張飛の妻と夏侯淵の関係はどうなのでしょう?
父を殺された恨みがある筈の蜀に逃げた夏侯覇は、
蜀で車騎将軍になっています。
これは張飛や呉懿のような外戚系の人物が就いていた事のある大官であり、
降将が仕え初めて数年で得る官職にしては高位ではないでしょうか?
しかしこれが「皇后の縁戚」だとすれば、その出世(と就任した位)も
不思議ではない、ということになります。
勿論真相は闇の中というものでしょうが、
張飛の妻と夏侯淵の親族関係は、
全くのウソと断定するのもためらわれる噂のように思います。
余談ですが、夏侯淵はかつて飢餓に見舞われた際に我が子を棄てて姪を養育したそうです。
そしてそれも夏侯淵伝注引「魏略」に見えるのです。
もしかして、本来「魏略」では
「夏侯淵が我が子を棄てて養育した姪が張飛の妻になり張皇后を生み、
夏侯淵の子夏侯覇は降伏後にその縁で出世した」
というストーリーになっていたのではないでしょうか?
以上、妄想終わり。
なんか寂しいので烏丸について。
烏丸は烏桓とも書かれ(三国志では烏丸、後漢書では烏桓)、
元の「東胡」だそうです。
「東胡」は漢以前の匈奴のライバルとして名の見える勢力でしたが
冒頓単于が滅ぼし、残党が「烏桓山」で生き延びた、という事だそうです。
騎射に長け、弋・猟(弋とは矢に糸を付けて鳥を撃つ「いぐるみ」のこと)を行い鳥獣を取り、
水と草のある場所に移って放牧(遊牧)します。
住処はテント、肉や乳を飲食し、毛皮を着ます。
ほかにも若者を尊び老人を賤しむなど、匈奴とよく似た生活をしていたようです。
烏丸は匈奴にやられた後は匈奴に服従していました。
その後前漢の霍去病が匈奴を攻め、その際に烏丸は上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の
塞外に移され、漢に従属して匈奴の情勢を窺うことになりました。
護烏丸校尉が置かれ、匈奴との連絡を監視しました。
その後、漢の昭帝の時に匈奴に攻められた烏丸を助けに行ったはずの
度遼将軍范明友は烏丸を攻撃。それ以後烏丸は漢に反抗するようになったようですが、
以後は次第にまた漢に従うようになったようです。
発言はしないけど怨霊さんのレスを心待ちにしてる人はきっとたくさんいる
取り巻きがウザイんで、発言しない人もきっとたくさんいる
質問させていただきますが、「門+虫」(ビン)ってのは
山越とは違うんでしょうか?
なんか反応がないと話が続かないんすよ。
>>604 「門+虫」(ビン)は漢あたりの時代では越の一種、
あるいは「蛮」の別種として考えられていた種族のようです。
その名が歴史上に実際に現れるものとしては越の一種である「ビン越」があります。
ビン越については
>>402以降を参照です。
秦始皇帝の時にそのビン越の地(福建省)は「ビン中郡」とされていましたから、
越の一種としてそのあたりに住んでいたのでしょう。
その意味で山越とはほぼ同種と言えます。
>>601の烏丸続き。
前漢後半では烏丸は比較的大人しかったようです。
これは漢の強い支配力と、
漢が匈奴を服属させた事で烏丸だけ反抗するというのが不可能だっただろう、
という事でしょう。
しかし王莽時代、璽の文字や西域関係などの外交問題から反抗した匈奴を討とうと、
王莽は烏丸や丁令(匈奴に服属する一種族らしい。Turkの祖かも?)の家族を
人質に取って彼らを駆り出します。しかし烏丸はそれを嫌がり、
王莽に直訴しましたが聞き入れられず、ついに反抗しました。
人質は殺され、烏丸は匈奴に付いて王莽と敵対します。
それ以降匈奴とともに辺境を荒らしましたが、光武帝による漢再建の後、
匈奴の内訌の機に乗じて匈奴を撃ちました。おそらく漢が裏で手引きしたのでしょう。
以後、基本的には烏丸はまた漢に従属し、
反覆常無き匈奴や鮮卑にたいする偵察と軍事力として使われました。
護烏丸校尉もここで再び置かれました。
その後は時に匈奴の一部や鮮卑と組んで漢に反抗することもあり、
その度に漢の将帥が追討する、という繰り返しでした。
既出でしたか。どうもっす。
>600
>599の方が説得力あると思う。
夏侯覇が優遇されたのは、魏にいる他の不満分子も
取り込みたかったからでしょう。
>>608 降伏した敵対国の要人を厚遇するのは南北朝時代などでもよく見られる措置なので、
(特に北魏は南朝の制度を取り入れるため重用したそうな)
夏侯覇もそういった措置の可能性が高いとは思います。
ただ、それにしても車騎将軍とはずいぶん厚遇だな、と感じたのです。
この辺は魏・呉・蜀それぞれの降伏者の処遇を検討してみないとなんとも言えないですが。
(特に夏侯覇は魏の準皇族ですから特別かもしれませんけど)
逆に夏侯覇の厚遇が「張飛の妻は夏侯淵の姪だから」
という風聞を生んだのかもしれませんね。
烏丸続き。
後漢霊帝の頃は、
上谷の難楼や遼西の丘力居、遼東の蘇僕延、右北平の烏延といった者が
王を称していました。
中平4年の張純の乱の際には、張純は丘力居の集落の中で「彌天安定王」を名乗り、
烏丸の「元帥」となって中国を荒らし回りました。
(張純は幽州牧劉虞の掛けた賞金のため討たれます)
かの有名なトウトンは丘力居の甥で、
丘力居の実子楼班が若年のため代わりに支配者となった者です。
彼は対烏丸強硬派であったらしい公孫サンと対立する袁紹に通じ、
公孫サンを攻撃しています。
袁紹はトウトンや難楼、蘇僕延、烏延らに「単于」の印綬を与えました。
与えたといっても「矯制」、皇帝の命と偽っての事ですが。
ここで「単于」という匈奴における帝号を与えた事に注意すべきでしょう。
匈奴単于の弱体化、そして烏丸勢力の相対的な強大化を示しており、
もはや烏丸は匈奴の支配を受ける存在ではなくなったと中国側が認めたということです。
611 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 21:00
>609
呉の皇族の孫ナントカも晋に降伏した後にかなり偉くなってますな。結局、陸抗に斬られたようですが。
有名なトコだと、黄権も出世した方かもしれません。蜀漢の時に益州治中従事・鎮北将軍だったのが、魏に降伏して鎮南将軍から車騎将軍・儀同三刺(?)。
あとは、蜀から呉に降伏したカクフとかも呉の九卿まで昇ってます。
やっぱり降伏者は優遇されるようですね、実権はともかく。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 21:23
この時代の交州はいちおう漢の支配下に入っていたと思うんだが、
呉が南へ支配地域を広げる過程で出てくる異民族山越というのは
三国時代の前には漢の支配下に入っていたのかなあ?
そいういえば孟獲は正史にも登場したが何者なんだろう?
どっちも漢王朝の力が強いときは傘下に入ってたが
王朝が弱くなったから独立状態になったような感じなんだろうか?
613 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 21:34
>612
>>どっちも漢王朝の力が強いときは傘下に入ってたが
王朝が弱くなったから独立状態になったような感じなんだろうか?
その通りだと思うよ。どちらも、漢代から郡府が置かれてる訳だし。
ただ、中央の郡府の統治よりも自治色が強かった傾向はあるかも。
孟獲は蜀漢南方の少数異民族の大姓。部族のリーダーの1人ですね。
ご存知でしょうけど蜀漢に降伏後、中央に入って御史中丞にまで昇ってます。
もう1人マイナーだけど、朱堤の人で孟エンって人も抜擢されて、歩兵隊長から輔漢将軍まで昇進してます。
>>611 孫壹(孫静の孫)が魏の車騎将軍、儀同三司、
孫秀(孫匡の孫)が晋の驃騎将軍、儀同三司ですか。
なるほど、降伏者はそれ位の位を得ても不思議ではないのですね。
先に誰かが言ってましたが、降伏者は次の降伏者を誘うという意味があるので、
ある種国策として厚遇するというのが定石のようです。
>>612,613
越については
>>402以降、
>>407,408,409等にあるように、
漢(武帝)が国を滅ぼして強制移住させました。
山越はそれ以前から山などに隠れ住んでいたか、その時に移住せずに逃げ出したか、
その後移住先から逃げ出したか、といった事情で山中に住むようになった
「越」の遺民なのでしょう。
孟獲というか西南夷(南蛮ではない)は
>>382で言及しましたが、
彼が漢民族か夷かは三国志注だけでは分かりません。
一番可能性が高いのは「漢化した(漢の知識等を持った)夷の有力者」でしょう。
基本的にはおっしゃるように漢(蜀)の支配力低下によって反抗するようになったということです。
詳しくは
>>613氏を参照。
呂凱などは彼らが居たらしい「シ真」より更に西側の出身ですので、
孟獲もそのあたりに居たにしても漢民族の可能性もあるのかもしれません。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 22:15
>>613 蜀漢に降伏後、中央に入って御史中丞にまで昇ってます。
もう1人マイナーだけど、朱堤の人で孟エンって人も抜擢されて、歩兵隊長から輔漢将軍まで昇進してます。
これは知らなかったよ、サンクス。
越の詳しい歴史も初めて知りました。
劉邦の時代から三国時代までの間の漢の歴史は
ほとんど知らなかったもので。
>孟獲、孟琰
華陽国志だね。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 22:57
>616
そうそう、華陽国志。
あれの、全文和訳ないのかねぇ。
聞いたこと無いねぇ。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 23:01
>618
出てれば、かなりの面白いと思うのだけど。
中林先生のは、一部だけでもったいないね。
>>617 晋書とかもそうですが、
採算取れるかどうか怪しいので出版は無理っぽいのではないでしょうか。
HPで公開している方などもいるようですが、全訳まで行っていないようですね。
(もしあったらスイマセン)
621 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 23:06
>620
あ〜、HPみましたよ。なかなか進捗が難しいようですが。
学術関係の本は採算面がありましたな・・・・。
そういった部分に国あたりから財政的な支援があるとありがたいですね。
>>621 国の援助等はますます期待できない情勢です。
独立行政法人化等、ある意味「喰うか喰われるか」を人文科学に持ち込もうというのが
現在の国の方針のようです。
つまり「金にならない、金を産まない、金を食う」学問は淘汰されるかもしれないのです。
実学はともかく、
(一時は身を置いていたからこそ言いますが)基本的には世間の役に立たない史学や文学は
今後もっと辛い時代になりそうな雰囲気のようです。
と、あまり関係無いことを書いてしまった。
622は「三国志(というより史学全般か)研究とかの当世の事情を語った」って事で勘弁。
>>610の続き。
烏丸が公孫サンに敵対して袁紹についたのは、
もともと公孫サンが烏丸を征伐していたことや、
(烏丸は公孫サンを恐れ、彼をかたどった人形で騎射の練習をした)
袁紹が政治的には一応は劉虞の側に近かったということが関係しているのでしょう。
劉虞が烏丸、鮮卑などを威と恩で手懐けていたので、
袁紹はその路線を引き継いだのかもしれません。
(当時のこの地の政治的影響力には、
袁術=公孫サンのラインと、袁紹=劉虞のラインがあると思えばいいでしょう)
烏丸続き。
その後烏丸の難楼、蘇僕延は丘力居の子、楼班を奉じて単于とし、
トウトンはその下の王となって烏丸のために計を巡らせました。
話しは変わりますが、その頃の烏丸と鮮卑の信望を集めていたのが燕(広陽)の人、閻柔です。
彼はおそらく烏丸か鮮卑の攻撃で彼らに囚われましたが、
何があったのか彼らに信用されるようになりました。
閻柔はついに鮮卑の力を借り、烏丸校尉ケイ挙を殺してその地位を奪います。
袁紹はこれを認め、北辺安定を彼に託しました。
後に曹操が河北平定をした際に閻柔は鮮卑・烏丸を率いて曹操に下り、
そのまま烏丸校尉として彼らを治めることとなりました。
袁氏が敗れた後、袁尚や幽・冀州の人間は烏丸(トウトン)に逃げ、烏丸も協力します。
そこで曹操は烏丸討伐に向かい、柳城で烏丸の小さな動揺を突いて攻撃、大破します。
捕虜・殺害合わせて20万人以上。
袁尚や楼班らは遼東太守公孫康の元に逃げますが公孫康は彼らを斬って曹操に送りました。
かくして平定された烏丸の残党(閻柔の下にあった者)は悉く中国に強制移住させられ、
騎兵として曹操らの戦に従軍することとなります。
もちろん多少は移住しなかった(または逃げたままの)烏丸も居たようですが、
大方はこのように中国内地へ移住したのです。
烏丸続き
その後、烏丸は騎兵として使われ、魏や晋においても使われていたらしいです。
三国志によれば「天下名騎」だそうですから、
強力な騎兵の供給源として重宝したことでしょう。
また、幽州刺史毋丘倹が遼東を攻めた際に袁尚と共に逃げていた烏丸の部族が
新たに降伏しているそうですので、烏丸全てが強制移住させられていた訳でもないようです。
また鮮卑と共に反乱したりと、完全に従属し切ったという訳でもなさそう。
以上です。誰か烏丸に詳しい人など居ましたら突っ込みや補足をしてください。
そもそも烏丸って何系?
>>626 おそらく元は匈奴と同系統ではないかと。
匈奴とそっくりな風習みたいです(
>>601参照)。
早い段階で分派したんじゃないですかね。
なお、閻柔は劉虞が公孫サンに殺された際に、
劉虞の遺臣鮮于輔らとともに烏丸・鮮卑を率いて公孫サンへの報復に参加しています。
また彼は曹操に
「俺は君を我が子のように思ってる。君も俺を父親のように思って欲しい」
と言わしめるほど愛されたそうです。
最終的に度遼将軍に出世しています。
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< 遼来来!遼来来!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< 遼来来!遼来来!
遼来来〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
怨霊かわいいよ怨霊
怨霊氏、毎回お疲れ様です。
割り込みしてるうえ既出だったら申し訳ないんですが曹丕と曹植の権力闘争について聞かせてもらえますか〜
>>631 曹丕と曹植というと魏王太子を争った件ですね。
まずこの件で先に考慮すべきは、
曹丕は既に(建安16年、魏公封建よりも前)「五官中郎将」として丞相の副となり、
あたかも本拠を離れる曹操の留守居役のような存在だったという点です。
つまり、曹操も周囲も比較的早い段階で曹丕を政治的な補佐、後継者として意識していた
と思われるのです。
言い換えれば、ほぼ同格に扱われていた二人の子の間でどちらにするか悩んだ、
というものではないのです。
それでも曹植を積極支持したのが、
のちに子孫が陳寿に伝を書くよう掛け合ったという丁兄弟や、
K6で有名な楊脩です。
この両者の支持というのが、曹植を推す動きの中心だったのでしょう。
石井先生が説いており、私もそれを元に以前言及した事がありましたが、
この丁兄弟は曹操の妻や母の丁氏と同族ではないか、
と思われます。
離縁した妻の方はともかく、もし曹操の母(と思われる)曹嵩の妻丁氏と同族なら、
丁兄弟は曹操の外戚なのです。
思うに丁氏は曹操妻の離縁等によって曹操政権内での発言力を低下させていたのでしょう。
そこで、いわば丁氏の復権のためにあえて非主流派の曹植を推す、
という側面があったのかもしれません。
主流派である曹丕を支持しても、曹丕は特別に恩を感じる事はないし、
親族関係でいえば実母卞氏が重んじられるであろう事は明らかです。
そこで同じ卞氏の子でも、後継者という面では望み薄な曹植をあえて推すことで、
曹植が恩義を感じ重んじる事を期待したのかもしれません。
そして、おそらく外戚として曹操の他の妻子、側近などの「搦め手」から
曹操に後継者問題について色々と吹き込んでいったのでしょう。
このあたり、孫権の「二宮」問題も似ているのかもしれません。
そしてもう一人の楊脩、
彼は「漢の臣」という色が強い人物として捉えることができるのではないでしょうか。
袁氏とのつながり、孔融とのつながり、楊氏の経歴などがそれを示しています。
本人は曹操に才能を認められた人物ですが、
彼の背景には曹操の政権を快く思っていない漢の臣の姿があったのかもしれません。
そんな連中が曹植を支持するメリットは、推測ですが将来的な曹操からの権力奪取、
ではないでしょうか。
既に曹操政権の中枢の最も重要な地位を占めているといっても過言ではない曹丕が
安泰のまま全てを継承してしまうと、もう漢には手出しができません。
曹操の政策を引き継いで漢の権力を奪ってゆく事が目に見えています。
その曹丕を排除し、自分達の息のかかった曹植を後継者とすることで、
急には曹操政権を解体できなくとも漢臣側が主導権を握れるという訳です。
または内部分裂を起こさせて内側からの崩壊を企んだとも妄想できるかもしれません。
それ以外の大臣、士大夫は、この件については一部を除いては基本的には
曹丕支持、または中立的態度だったと思われます。
曹植の妻の親族である崔エンが曹丕支持だったという点が多くを物語っています。
曹植の才能以前に、疎外されつつあった外戚と消え入る寸前の漢臣が企画したという時点で、
まともな将来が開けている連中にとっては曹植支持は危険な賭けだったのではないでしょうか。
とはいえ、「危険な賭け」といっても肝心の決定者曹操が強く曹植を希望すれば
風向きも変わってくるでしょう。
そのあたりを考えると、中立的な者が多くなるのが当然といえば当然です。
積極的にどちらかを支持するのは、
どちらもリスキーです。
これはカクの対応を見れば分かるのではないでしょうか。
彼は曹丕からの質問には「自分の行いを立派にしておくしかないッス」と
ある意味では当然の事しか答えず、
曹操からの人払いしての質問にも「イヤァ袁紹・劉表の事を思い出しましたよ」
と、支持を明言しないで曹操の注意を喚起しました。
(袁・劉は末子を可愛がって国を割った、と言われるので、
一般的な解釈は「長男に継がせろ」なんでしょうけど、
「どっちつかずの態度はやめ、長男を始末して末子を正式に後継ぎに決めろ」
とひねくれた解釈も可能です。
カクは曹操の真意次第でどっちにも解釈できるように答えたのではないでしょうか?)
カクが支持を公けには明らかにしなかったように、
多分他の臣下も裏では色々工作しても表面上は中立的な場合が多かったかもしれません。
はっきりと曹丕支持を曹操に意思表示したのは崔エンがいますが、
他にはあまり居ないような気もしますがどうでしょう。
そして、非主流派である曹植はが付け入る隙もそこにあったのでしょう。
彼らには曹操との血のつながりという別のアドバンテージがありましたから、
そこから攻める事が出来たのです。
なるほど。
時間がある時で構わないので二宮の変についての解釈もお願いします
曹丕が即位後に外戚の輔政や厚遇を制限、否定したのも、
「外戚」丁氏が自分の地位を脅かしたという経験からだったのかもしれません。
丁氏は三国志本文ではほとんど見えず、
曹操の妻丁氏と母(?)丁氏と丁兄弟と丁斐・丁謐などの関係はよく分からないのですが、
全部一本の線上にあるとすれば、外戚であった一族全部の存在を抹消したも同然であり、
曹丕の丁氏への態度はよほど厳しかった(記録さえ残させなかった?)
と思われます。
>>635 ではこの曹氏のケースとの比較ということで「二宮の変」について多少。
それほど読み込んでいない状態なので異論や補足がありましたら随時よろしく。
ご存知の方が多いでしょうが、
「二宮の変」とは呉の孫権の後継者問題に端を発した事件です。
長男で皇太子となった孫登の死後、孫権は孫和を皇太子に立てましたが、
一方でその弟魯王孫覇を寵愛し、二人をほとんど同等に扱ったといいます。
そのためか大臣たちが皇太子派と魯王派に分かれて後継者争いをし、
最終的には皇太子の廃嫡、魯王の賜死、陸遜ら大臣の粛清と、
呉を揺るがす大事件に発展したものです。
曹操の例を見ると、もっと穏やかな結末は迎えられなかったのか、
そもそも後継者争いなんて起こさずに済ませられなかったのか、と思うのですが、
そのあたりとその裏にある当時の事情について考えてみたいと思います。
孫和が皇太子に立てられたのが赤烏5年(242年、魏は斉王芳の正始3年)正月で、
同年8月に孫覇が魯王に立てられています。
これは前年に皇太子孫登が死んだ事による措置であり、
当然ながら孫登が死んでいなければ孫和・孫覇の出る幕はありません。
そして翌年丞相顧雍が死亡、その翌年(7年)に陸遜が後任になります。
時に蜀の動きに敏感になり、司馬懿と蜀に攻められるのではと心配していた頃。
その翌年、陸遜が死亡します。
これは皇太子派の粛清の一環であり、ここで一旦は魯王派が勢いを得た事になるでしょう。
陸遜は皇太子と魯王の待遇に差を設けよ、と主張しましたが入れられず、
太子太傅吾サンが下獄死(陸遜と文書を通じていたため)、太常顧譚が交州への流刑など、
魯王派の讒言に遭って太子派が排除される中、
陸遜も皇帝孫権の詰問の使者(宦官?)に厳しく取り調べられ、
憤激のあまり死亡した、とされます。
この「憤恚」で死ぬ、というのは自殺を示唆するものと思われ、
それだけ屈辱的な尋問だったのではないかと思われます。
しかし、魯王派が勝利した赤烏9年から4年後の同13年、
皇太子孫和を廃位すると共に魯王孫覇に死を賜いました。
そこで新たに孫亮を皇太子に立てます。
いわば喧嘩両成敗であり、魯王派の全寄、呉安、孫奇、楊竺らも処刑されました。
また、孫和を廃して孫亮を立てる時にも一悶着あって、諫言した者を処刑したりしています。
では、どういった面々がどの派閥でどういう末路を辿ったでしょうか。
皇太子和派
陸遜(丞相)
詰問を受け憤死(自殺?)。
吾サン(太子太傅)
陸遜との手紙のやりとりを理由に下獄死。
顧譚(太常、平尚書事:元、太子孫登の「四友」)
寿春征伐での功績争いに端を発して全氏と反目、讒言されて交州へ配流。2年後死亡。
顧承(奮威将軍:顧譚の弟)
兄と同じく全氏の讒言で交州に配流。
張休(揚武将軍:元、太子孫登の「四友」)
顧譚らと同じ件に連座し交州に配流、中書令孫弘の讒言で死を賜う。
諸葛恪(威北将軍:元、太子孫登の「四友」)
陸遜死後に大将軍となり荊州を領する。
朱拠(驃騎将軍)
皇太子廃位に反対、百杖を喰らった上で新都郡丞に左遷、中書令孫弘の讒言で死を賜う。
続く。
641 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 22:38
確か、孫権の長女(?)だかで、全氏に嫁いでた娘も魯王派だったかな?
>>641 全公主こと魯班(字大虎)ですね。むしろ彼女が元凶かと思わせるほどです。
いやそれは言いすぎでしょうが。
まずは皇太子派続き。
上に挙げた以外の皇太子派。
縢胤(会稽太守:妻は公主)
おとがめなし?
施(朱)績(偏将軍、大都督:朱然の子)
おとがめなし?諸葛恪と仲悪し。
こうして見ると、名士や豪族、あるいはそういった者と交流している者が多いと言えるでしょう。
陸遜前後には一旦呉の上層部がまるっと入れ替わっており、
政治的姿勢そのものが180度変わるような政変だったかもしれません。
全jより全公主の方が重要人物
>>643 そうかも。
でもまずは魯王派の概観。
魯王派と目される人物。
歩シツ(驃騎将軍:全公主の母歩夫人と同族)
陸遜死後に丞相に。
呂岱(鎮南将軍、交州牧)
陸遜死後に上大将軍に。
全ソウ(衛将軍、左護軍、徐州牧:全公主の夫、全寄の父)
陸遜死後に右大司馬、左軍師に。
呂拠(越騎校尉?左将軍?:呂範の子)
この時の状況は不明。
孫弘(中書令)
この時の状況は不明。
はっきり言って陸遜が死んだ後の赤烏9年人事はこの魯王派が軒並み昇進した人事です。
こちらはなんと言っても全公主を通して丞相歩シツと全ソウが結びつくのが特徴的。
また中書令という皇帝孫権の側近中の側近と思われる者がいる事も重要でしょう。
外戚と側近という、皇帝に「近い」連中がこっち側に固まっているような印象があります。
赤烏9年の人事ですが、
昇進自体は年功序列という面もあるので一概には言えないかもしれませんが、
どちらにしてもその昇進が生まれた理由は丞相陸遜の普通でない死であり、
後任が魯王派の歩シツですから、
やはり尋常の昇進人事とは言えない面が強いでしょう。
また、処分された皇太子派にも、原因となった事件が複数あることが目に付きます。
陸遜と吾サンは基本的に同じ件ですが、
顧譚・承、張休は芍陂の戦いにおける全ソウらとの功績争いから発したもので、
理由も「典軍が張休らと通じて功績を水増しした」というものでした。
また朱拠の左遷は、その後に孫権が孫和を幽閉した際にその解除を強く求め、
また孫和を廃して「孫亮を」立てようとしたのを諫言した事によるもので、
これは陸遜の事件より後の事です。
こうしてみると、この事件には幾つかの段階があったと思われます。
第一段階としては皇太子派と魯王派の争いと、皇太子派の大物陸遜の死、
魯王派の勝利まで。
第二段階として皇太子孫和の幽閉とそれへの反対。
第三段階として孫和の廃位と魯王の賜死、孫亮の立太子。
魯王派は第一段階で勝利したと思われるのに魯王は遂に太子に立っていません。
また、朱拠の命取りになったのは魯王との関係ではなく、
「孫亮を」太子に代える事を諫言した事です。
孫亮は全氏を妃としており、
全公主はどこかの段階で魯王を捨てて孫亮に乗り換えたようです。
つまり、魯王でなくてはならない理由は実は無かった。
孫権にしろ魯王派にしろ、
魯王の才能だとか彼への愛情だとかはあまり重要な要素ではなかった。
そう考えられます。
もっとはっきり言えば、
二宮の変は「孫権が魯王を是非皇太子にしたいから」という理由で始まったのではなく、
「魯王を皇太子にした方が自分達にとって好ましい」と考える者たちによって始まった、
ということだと思います。
もちろん、孫権自身も魯王を寵愛していましたが、同格の二宮を作るなどの事態は、
むしろ上記のような魯王を担ぐ者たちの意向で生まれていったのではないかと思うのです。
もし孫権が魯王を寵愛するあまり、この事件を主体的に引き起こしたのではれば、
魯王派が勝利したと思われる赤烏9年以降に、
早い段階で魯王を皇太子に立ててしかるべきでしょう。
むしろ、廃太子・立太子を引き伸ばせば余計に混乱が広がりかねません。
(実際に広がったと見ていいでしょう。)
それをしなかったということは、
孫権は赤烏9年には魯王を皇太子に立てようという意欲が無かった、という事になります。
そして「魯王を皇太子にした方が自分達にとって好ましい」連中ですが、
これは結局は全公主がらみになってきます。
全公主は孫和の母、琅邪の王夫人が皇后に立てられそうであるとの情勢に対し、
元より仲が悪く、そこから王夫人・孫和への攻撃が始まったとも言われます。
(三国志孫和伝)
また、公主からすれば母歩氏がないがしろにされるのではという恐れや、
自分の影響力低下を危惧した、という面もあるでしょう。
そのあたりの実情は正直断言できませんが、
全公主が夫全ソウと驃騎将軍歩シツ(全公主の母歩氏の一族)の関係を取り結び、
表の政治の面からも、また自分で王氏・孫和を孫権に讒言して裏からも、
皇太子孫和そして王氏の追い落としを狙ったのは確かでしょう。
言い換えると、
「魯王を皇太子にすること」は魯王派のほとんどにとって目的ではなかった。
「魯王を担いで現皇太子孫和、その母王氏、その一派を追い落とす」のが目的で、
魯王擁立は手段に過ぎなかったのだと思います。
だから陸遜らの死後もすぐに魯王を皇太子にする動きはなく、
(これは皇太子派がまだ多かったため、という面もあるでしょうけど、
丞相陸遜まで死に追いやるほどなのだから、
魯王を本気で擁立する気なら多少の反対は気にせず強引にやりそうなものです)
それどころか、より全公主と関係の深いと思われる孫亮を擁立するようになったのではないでしょうか。
では、何故皇太子孫和は排除されなければならなかったのでしょう。
三国志孫和伝によれば、孫和は「有司頗る條書を以って事を問う」
(役人が箇条書きの文書で政治などについて質問する)と言う際に、
孫権を諫言してそういった「有司」の排除を勧めています。
これは中書呂壹の典校と同じようなものと思われ、
(あるいは呂壹の事件?年代を確認中・・・)
官僚に対する綱紀粛正、言い換えると締め付けでしょう。
そしてそれを推進したのは孫権であり、
反対したのは事実上は孫和のバックにいる豪族・名士系の大臣というところ。
(孫和の妃張氏は張休・諸葛恪の姪=張昭・諸葛瑾の孫、張承と諸葛瑾の娘の子)
つまり、貴族・名士系大臣に対する締め付けを厳しくし専制的に振る舞う孫権に対し、
それら大臣は皇太子をいわば代理に立てて抵抗した、という図式になるのではないでしょうか。
そして、それ故に皇帝孫権にとって皇太子はそのままにできなくなり、
そこに孫権が皇太子を代えよう、皇太子派大臣に打撃を与えよう、
と考える理由が発生します。
積極的に皇太子派を追い落としたのは全公主や魯王派の大臣だとしても、
孫権も少なくとも黙認したように見えるのは、こういった理由からではないでしょうか。
司馬遷は薛で不愉快な経験をしたそうですが
どんな目にあったんですか?
>>649 それはスレ違いなので少しだけ。
史記太史公自序の「番・薛に厄困す」ですが、
これは実は孟子尽心の「孟子曰君子之厄於陳蔡之間、無上下之交也」
を下敷きにしたものと思われます。で、孟子のいう「君子」は孔子の事で、
孔子は魯を出て放浪の旅の間に陳あたりで反対勢力に囲まれ、食べ物に困ったそうです。
(史記孔子世家)
というわけで、司馬遷が実際に出会った危機の正体は不明ですが、典拠から考えると、
「孔子のように飢え死にしそうだった」というニュアンスを含んでいたと思われます。
詳しくは世界史か古文漢文の板の方がいいでしょう。
では二宮の変をまとめっぽく。
まず起こった原因。
これは孫権の偏愛などではなく、全公主に代表されるような、
「今の皇太子を引き摺り下ろしたい」という勢力の強いプッシュ。
それに孫権自身が自分に逆らう豪族・名士派大臣への攻撃・粛清のために乗った。
はっきりいって魯王は「その目的にとって適任」だっただけ。
皇太子派というのは主に孫権が若い頃からある意味で戦ってきた名士や豪族系の大臣達。
(張昭みたいな)
一方で魯王派は外戚や孫権の側近が多い。
この点では、後漢の党錮関係や魏の曹爽VS司馬懿にも通じる。
で。結果としては本当に得したのは孫権かもしれない。
どちらも最終的には勝利できなかったわけで、
一見するとどっちつかずだった孫権こそ得している。
なるほど・・・ありがとうございます。
個人的に魏王太子闘争に関しては、中立を保った人物が多いのに
二宮の変ではほとんどの人物がいずれかの派閥に属しているのが不思議でした。
ありがとうございます。
昨夜は多少アルコール入っていたので少し文体が違うけれど、
内容はそのとおりと思っています。
>>652 魏のそれと違って、皇帝自らが一方に乗っちゃってるし、
両方とも既に大物同士が婚姻やらかつての同僚やらご学友やら秘密の交際やらと、
二重三重のしがらみで結びついているので、
なかなか中立的態度を取りにくいという面もあったのかもしれません。
これは最近気付いた小ネタ。
諸葛恪と朱拠は一般に皇太子派になってるんですが、
(三国志孫和伝注引通語など)
この二人は赤烏9年人事(
>>645で言うところの第一段階)では処分どころか出世しています。
諸葛恪:威北将軍→大将軍
朱拠:左将軍→驃騎将軍
これは、諸葛恪の場合は実は(息子が)魯王派と通じていたという二股膏薬であり、
朱拠は妻が公主(全公主の同母妹、魯育)であったことによるのでしょう。
この二人は二宮の変第一段階では事実上魯王派だったのです。
それが皇太子派に目されるのは、
諸葛恪はその息子(長子諸葛綽)に(おそらく)罪を被せて始末してしまったことと、
皇太子孫休の妃の縁者だというあたりから一応は皇太子派と思われていたからでしょうか。
朱拠は、第二段階に入ってから孫和幽閉や廃位(と孫亮立太子)には強硬に反対し、
死に追いやられたという事情からでしょう。
この時点では確かに皇太子派なんですが、
陸遜らがやられた赤烏9年には出世しているのです。
あ、653の皇太子は孫休じゃなく孫和だった。訂正。
今月のナショナルジオグラフィック(日本版)の特集が漢帝国ですな。
内容に新味はありませんが、西洋人からみた漢ってのがちょっとおもしろかったり。
>>655 情報ありがとう。今度見てみましょう、見つかったら。
西洋人、漢について何か知識あるのだろうか。
司馬遷とか知ってるのかな?
二宮関係で補足もツッコミも意見も無くて寂しい。
西洋から連想して西羌でも語ろうか。
羌は西方の異民族で、いわゆる遊牧民です。
涼州の西側あたりが主な居住地でしょう。
戦死を吉とし病死を不祥とたり、風雪を避けることが無い、など、
かなり勇猛・剛健な民です。
羌の名は殷・周から出てきているハズで、殷では生贄とされていたとか。
そういった事に反抗する意図があったのか、周が殷を討つ際には羌も周に付き従いました。
どうも「羌」と「姜」姓は無関係では無いらしく、
(その辺詳しくはないので・・・)
姜姓の太公望もこの羌と関係あるかもしれません。
「羌」や「戎」(隴西、北地などに居た)は秦によって次第に征服、駆逐されていきましたが、
一方で羌もまた盛んになっていきました。
彼らは主に秦に服属しましたが、匈奴の冒頓単于の時には冒頓単于に従ったようです。
怨霊タン、イツモアリガトウネ
ツッコメナクテゴメンヨ
コレカラモガンバッテネ
659 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 22:12
怨霊さん、初めまして。
お話はいつも楽しく拝見しております。
そのお話の腰を折るようで恐縮ですが、
ご教授いただきたいことがあるのです。よろしいでしょうか?
>>659 もちろんどうぞ。
ご期待に添えるかどうかは保証できないッスけど。
さっそくのお返事、ありがとうございます。
こんなに早くお返事いただけるとは。
さて、小生も漢〜三国時代という動乱の世界に魅入られた者ですが、
知識不足から理解しがたい点があります。ご教授いただければ幸いです。
武人の官位に「校尉」というものがあります。それに関してうかがいます。
まず私の認識を述べさせていただきます。
指揮系統で将軍>校尉>司馬という風に思ってます、今風ですと陸軍の連隊長、大佐くらいでしょうか。
五営、西園八校尉は近衛軍ゆえに校尉の上に立派な称号(例:屯騎、越騎…)とつくのは分かります。
異民族烏丸を管理する烏丸校尉、首都圏を預かる司隷校尉という特殊な校尉も称号がつくのが分かります。
ただ、ここで理解できないのがあります。
孫策がつけられた懐義校尉、孫権は奉義校尉という立派な名称の割には意味がよく分からないのです。(´д`;)。
他にも破賊校尉、武衛校尉などもありますが
これらは「将軍ほどじゃないけどさ、ただの校尉より偉いんだよ」的な意味合いなのでしょうか。
校尉ではなく、司馬ですが劉焉が張魯を督義司馬に任命して漢中を攻撃させています、
これも常設ではなくただの泊付けと理解していいのでしょうか?。
討虜校尉、賛軍校尉(魯粛)、軍議校尉(法正)、儒林校尉(周羣)などありますが
これらは参謀格に与えられる単なる肩書きなのでしょうか。
私は浅学ですので妙な誤解などあるかも知れませんがよろしくお願いします。
階級的には将軍>校尉>司馬だけど
指揮系統はこの三者にはほぼ無い
全員が個別の軍規模、家柄別の司令官職
この時代に中隊は発明されていないから。
>>661 これはまず
>>662氏の言にあるように、
将軍と校尉は位階では基本的に将軍>校尉ですが、
指揮系統は必ずしも上下関係ではないと考えた方がいいでしょう。
おのおの独立したものです。すくなくとも本来の意味では。
逆に司馬は将軍の属官(下士官?)にも、城門校尉など一部の校尉の属官にもあり、
「司馬」は「長官(将軍も校尉も)の下に付く部隊長」的なものとして考えればいいかもしれません。
また、司隷校尉、城門校尉、護烏丸校尉などの「校尉」に付く名は
「職務内容」を記したもので、実態を反映しています。
一方、例に挙げている討虜校尉、賛軍校尉などはおそらくご指摘のように「肩書き」に近く、
それは将軍位に実態をあまり反映していない雑号将軍があるようなものだと思います。
勝手に名付けると「雑号校尉」です(こんな用語はないですが)。
実態はケースバイケースでしょうが、
「独立部隊の長だけど将軍位にはまだ早い」、
みたいな時に使われたのではないかと推測されます。
ここからは推測というか妄想ですが、将軍と校尉の違いについてはこう考えます。
将軍はその名のとおり「軍を将いる」官で、
かつては一旦軍を任されると幕府の中では目的のためには皇帝の命令さえ聞かなくていい、
真に独立した軍を統率します。
それに対し、校尉は司隷校尉、城門校尉や五営、西園八校尉など、
あくまでもイメージですが「皇帝に直属する」という印象があります。
校尉の「校」はおそらく点検、締め付けなどを意味し、
皇帝の命令の元で兵を監督する、というのが本来の意味だったんじゃないでしょうか。
将軍と違い、皇帝から独立していない、という事です。(むしろ皇帝に直属する)
上は推測の域を出ないのですが、
将軍と校尉は命令系統や存在意義という点で本質から異なっていると思うのです。
私の考えも、推測の域を出ませんが
司隷校尉(秘密警察)、護烏丸校尉(異民族の管理)、司塩校尉(塩田や、塩の売買の管理)など
現代では、それぞれの事を担当する職業があるでしょうが
当時では兵士がいなければ、とても務まる役割ではありません
校尉と言うのは、戦争行為以外で兵卒を使役する役割に従事する官吏の事ではないでしょうか
唐代には各校尉を散官扱いにしていたようなので、
「校尉」そのものが「常任する職務の無い官」であった可能性は、やはり高いのかもね。
>>664 なるほど。そうかもしれません。
確かに特定の(戦争以外の)職務を持っていたことになりますので、
その方が将軍との違いも含めてうまく説明できそうです。
>>665 唐では校尉に限らず、漢・三国頃には実態のあった官が散官化している筈ですので、
この点で参考にするのは難しいのではないかと。
「校尉」が実際の職務の無い称号になっていくのは、多分
>>661で挙げられている
「名称だけで実態不明の校尉」が頻出する後漢末以降でしょうね。
将軍位同様、インフレして価値が下がったのでしょう。
それ以前は司隷校尉や護烏丸校尉なんかのように、
現に名前の通りの職務を果たしていました。
(司隷校尉は元々刑徒・奴隷を率いていた)
>>658 遅くなったけどありがとう。
今も二宮関係のご指摘等お待ちしてます。
羌続き。
羌は漢初は匈奴に従っていましたが、景帝の時に「研種」
(「種」は羌の部族の単位。秦孝公の時に「研」という名の族長がいて、その子孫の「種」)
の留何なる者が漢に降伏し、
漢は彼らを隴西郡に住まわせました。
これは漢の勢力が強くなってきた事を示すものでしょう。
その後、漢の武帝が河西回廊から西域方面の侵略・開拓を進めると、
羌もその圧迫を受け、「先零羌」などの羌が大同団結して匈奴と結んで漢に反抗しましたが、
漢はそれを破り、「護羌校尉」を置いて服属した羌を統率・監視させました。
羌はこの後西海などへと移住(駆逐された)し、
人のいなくなったその地を開拓・移民させました。
涼州の奥の方に漢人が住むようになったのです。
怨霊さん、662さん、664さん、665さん、ありがとうございました。
これで一層、漢〜三国時代を楽しめそうです。
また疑問がありましたらうかがわせていただきますので、
ぜひよろしくお願いします。
>>668 そう言っていただけると光栄です。
こちらこそ良いネタ振りでしたのでまたお願いします。
羌続き。
その後、宣帝の時に先零羌と移住問題で揉め、羌が仲直りして大同団結し、
匈奴と結んで漢に背く動きを見せました。
それに対して当時羌との外交を受け持ったらしい光禄大夫義渠安国(姓義渠、名安国)は
先零羌の族長連中30人を集めて殺しました。
この暴挙に怒った生き残りは遂に漢に背きました。
その際、宣帝は老将趙充国に鎮圧軍の総大将を誰にするか聞いたところ、
自分が一番と言い放ちます。
余談ですが、いぶかる宣帝に対して言ったのが「百聞は一見に如かず」という言葉でした。
この老将はその自信に違わず羌を打ち破ります。
その後も元帝の時に彡姐羌などの種が隴西を攻撃したりということもありましたが、
漢は難なく下しています。
以後、王莽まで羌は大人しくしていました。
羌続き。
羌の活動が活発化するのは王莽末期。匈奴はじめ他の異民族同様に漢を攻撃し、
金城、隴西あたりにしばしば手を出したようです。
その地を治めた群雄、隗囂は羌を討つ力は無く、
懐柔して漢(光武帝)に対抗する兵力にしました。
隗囂死後、光武帝は班彪の進言に従い護羌校尉を置いて羌の慰撫と監視を再開しましたが、
翌年には先零羌の反乱が起こっています。
後、来キュウ、馬援らが鎮圧、彼らを天水、隴西、扶風に強制移住させました。
なお、この頃に勃興したのが焼当羌の首領、テン良(シ真 良)です。
彼は宣帝頃の首領の一人、焼当の玄孫で、それまで弱体だった自分の種を率い、
反乱等で弱体化したと思われる先零羌などを討って羌の覇者となりました。
テン良の子、テン吾も羌の反乱を率い、このあたりから次第に漢の旗色が悪くなってきます。
しかし明帝の時に竇固らによって破られたテン吾らは最終的には漢に降伏しました。
もっともこれで全て治まった訳ではなく、テン良の一族らの中には漢に反抗するものもあり、
漢は連年羌の反乱、略奪に悩まされています。
羌続き。
焼当羌のテン吾、その子、東吾らは漢に従いましたが、
その一族、迷吾はしばしば漢に反抗したようです。
漢の役人による羌の人妻略奪に端を発する反乱が起こり、
迷吾は羌のリーダーとして活躍したようです。
その地では有名だったらしい護羌校尉傅育も戦死しました。
迷吾は後に漢に降り、時の護羌校尉のだまし討ちで死んでいますが、
結局だまし討ち(降伏を受け入れた後の宴会で毒を盛り、族長達を皆殺しにした)
に羌も怒り、迷吾の子、迷唐らがまた反乱します。
とにかく羌は反乱を繰り返しており、護羌校尉は何度も入れ替わっています。
羌は違う種が団結して大勢力になっても、漢に金で誘われると離反が始まり、
もともとそれぞれの種は仇同士ということもあってすぐにバラけてしまうようです。
しかし漢は漢で決め手に欠け、結局完全に黙らせる事もできず、
降伏してはまた反乱、という繰り返しだったと言っていいでしょう。
そしてその度に羌は手強くなっていきます。
別スレで
924 名前: [sage] 投稿日:04/02/02 11:58
蜀では四鎮・四征より前後左右の四方将軍が上のままだった
(つまり、漢と一緒)という学説が有力だよ。蜀書を読んでると
「あれ?」と思う場面が色々あるんだけど、そっちで考えると納得できる。
925 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:04/02/03 03:18
途中から四征>四方に変わったけどね。
というのがあったんですが、どういう意味なのか良く分かりません。
お暇な時にでも解説いただけないでしょうか。
>>673 魏、もしくはそれ以降の官品では、四征将軍(征東将軍など、東西南北)の方が、
四方将軍(前将軍など、前後左右)より上でした。
宋書百官志なんかでは、大将軍、驃騎、車騎、衛の各将軍のあと、
征東(西南北)、鎮東(西南北)、中軍将軍、安東(西南北)、平東(西南北)と来て、
その次に前後左右将軍(四方)が来ています。
しかし、蜀ではどうやら四征将軍などよりも四方将軍の方が格上らしいのです。
あまり事例を挙げられませんが、例えば呉壹は左将軍から車騎将軍になっていますし、
三国志に収録されている楊戯の季漢輔臣賛によれば、
輔匡は鎮南将軍から右将軍になっています。
蜀成立前ですが、夏侯淵を斬った黄忠は討虜将軍から征西将軍、
そして劉備の漢中王時代に後将軍になっています。
つまり後漢では四征(や四鎮以下)より四方の方が格上だったことになり、
蜀はそのまま同じ序列だったのではないかと思われるのです。
(なお、漢書百官表、続漢書百官志などを見る限り、
将軍の順序は大、驃騎、車騎、衛、四方将軍となっています。
四征将軍などの方が後から出てきた歴史の浅い将軍位であり、
それらより下の将軍だったと思われるのです)
途中から変わったかどうかは、私は今はちょっとその論拠を見つけられませんでした。
ただ、「四征大将軍」なら四方将軍より上だったようです(三国志宗預伝)。
但しこちらは「大」が付いているので、「大」無しの四征将軍とは同列に出来ないでしょう。
最終的な四征将軍と四方将軍の関係はちょっとわかりませんが、
すくなくともどこかの段階までは四方将軍の方が
四征、四鎮などより上だったように思われます。
羌続き。
羌の反乱を一々記しませんが、
安帝の頃には先零羌の別種、「シ真零」や「鍾羌」などが反乱。
その時、羌にはもはやまともな武具が無かったのですが、竹ヤリの類
(厳密には槍ではないですが)や木の板(盾の代わり)で武装し、
さらには銅鏡(あの三角縁神獣鏡みたいなの)を持って武器を持った振りをしたりしたそうですが、
当時の郡県はそれでも怖気づき、羌を抑えられません。
漢の弱体化は甚だしく、
「天子」を自称さえした「シ真零」を前にして遂に郡の縮小(治所の移転?)までしています。
後に羌のリーダー格が死んで一旦は反乱は治まりましたが、
その間の戦乱で消費した物的、人的損失はいずれも莫大で、
結局この地の荒廃がさらに羌の勢力を相対的に強めることにつながるのでしょう。
悪循環です。
そいや、犬ジュウとかテキ(けものへんに火)とかっていつのまに
見えなくなったが、三国時代や後漢でもいるんですか?
>>675 狄(テキ)は、匈奴などの総称として使われるらしく、
秦漢以前に「狄」と呼ばれていた異民族は、
匈奴もしくはその前身だと考えていいと思います。
(漢書匈奴伝、晋書北狄伝など)
犬戎は隴西方面が本拠地だそうで、どうやらこっちは羌の前身のようです。
(後漢書西羌伝)
羌続き。
はっきり言って、連年の反乱を全部紹介してられませんが、
目に付くのは、何度も護羌校尉が免職、交代を繰り返す点でしょう。
漢は、それだけ対羌政策に苦しんでいたのです。
また、しばしば巴郡の板楯蛮が討伐に駆り出されています。
これは中国の伝統的な手法「夷を以って夷を制す」というヤツだと思いますが、
これの乱発は結局その使役される方の異民族の不満、さらには反乱を招きます。
(烏丸や匈奴でありました)
これも正しく悪循環です。
これは私見ですが、後漢の羌に対する苦戦は、
後漢という政権そのものの問題に原因があるように感じます。
次第に支配力が低下していたとはいえある程度の民衆把握、支配が出来ていた前漢と違い、
後漢は最初から民衆支配の敵である豪族を地盤に成立したため、
前漢以上に民衆把握が困難になり、豪族勢力の伸張を許す事になります。
民衆把握が困難になれば税収も、徴兵できる数も減り、それだけ軍事力は弱体化します。
軍事力が弱体化すれば羌のような反抗的異民族の反抗を許してしまいます。
そして軍事力が弱体なのでその反抗に対して有効な対策(鎮圧)を処方できないのです。
(それがわかっているから余計に反抗・反乱が増える)
怨霊様、ありがとうございます。
ネットに入れなかったので御礼が遅くなってしまいました。
申し訳ありません。
さらに質問なのですが、上軍大将軍とかの
○○大将軍とは何なのでしょうか?
位階的にはどの辺りに位置するのですか?
そして、個々の○○大将軍の間に序列はあるのでしょうか?
質問ばかりで恐縮です。お暇な時にでもお願いします。
ゲームなどで鎮東将軍とかの役職があるけど
あれは大将軍の序列の一つです。
正しくは鎮東大将軍
戦時は役職の濫発が必要なのでこんな感じになる
>>677,678
晋書職官志、宋書百官志によると、
「大」の付かない四征将軍(諸征将軍)などの諸将軍と、「大」の付く諸大将軍は別物です。
宋書百官志における官品はこうなっています。
大将軍 一品
驃騎、車騎、衛将軍、諸大将軍 二品
諸征以下の諸将軍 三品
これはあくまでも宋(南朝)での九品官人法におけるものでの序列ですが、
「大」の有無が序列、格の違いを表していたのは三国時代でもおそらく同様でしょう。
これを敢えて不等号であらわすと、こうなります。
大将軍
>>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>諸大将軍(四征大将軍など)
>>四征将軍以下
何も付かない大将軍が最高で、その下に驃騎将軍等、
そして「征東大将軍」のような「大」付きの各種将軍。
で、さらに下に「大」無しの各種将軍、という順番なのです。
鎮東大将軍>鎮東将軍
羌続き。
三国時代が近付いてくると、対羌戦線の将も聞いた名前が出てきます。
皇甫規、段潁(正しくは「水」でなく「火」だけど出ないので)、張奐、董卓、皇甫嵩など・・・。
また黄巾の乱が起こると、北地郡の降伏した先零羌が湟中羌、
湟中義従(月氏)胡(北宮伯玉ら)と反乱しました。
これは韓遂の反乱人生がスタートする乱(北宮伯玉の乱を事実上乗っ取った)ですので、
ご存知の方も多いでしょう。
韓遂らは10万の兵を擁して隴西を囲んだといいますが、内紛により分裂、沈静化します。
ただ、直接兵力を粉砕したわけではないので、
後に曹操らが平定するまで関中・涼州の混乱と軍閥割拠は続きます。
韓遂、馬超らが反抗を繰り返すのは、今まで見たような羌の反抗の延長線上にあり、
その地盤も羌にあったと言ってよいでしょう。
(馬騰の父は貧しく、羌の女性を娶って馬騰を生んでいます。
また曹操に敗れた韓遂は最後に金城郡の羌に逃げ込み、そこで死んでいます。)
馬超が曹操に敗れた後に涼州で再起し冀県を占領した時も、
「諸戎」を率いたとなっています。これも大方は羌種なのでしょう。
(余談ですが冀県の出身である姜維は、父を羌の反乱で失っています)
羌続き。
羌は隴西だけではなく、蜀、漢中の外側(西側)まで広がっています。
こちらは隴西の羌と比べると大人しいようですが、
辺境を騒がせる事も無かった訳ではないようです。
また、湟中義従(月氏)胡ですが、これはかつて匈奴と戦い駆逐された月氏の末裔です。
月氏のほとんどはずっと西に逃げたのですが、
西に逃げることの出来なかった弱い者が取り残され、羌と合流して生き延びたのだそうです。
で、漢武帝の時に漢の進出に伴い降伏。湟中(金城郡)で漢人と雑居しました。
もとからなのか、羌と住むようになったからなのか、その習俗は羌とほとんど同じだそうです。
「義従」「帰義」などという号は、「漢に帰属した異民族」という意味合いです。
「帰義王」「帰義侯」などの称号が散見されます。
彼らは軍役がある代わりにその他は基本的には自分の習俗で暮らす事を許されていたようで、
漢が異民族を徴発する場合はこういった「帰義蛮夷」がほとんどだったと思われます。
その後も羌がしばしば反乱した事は、三国志でも出てくるのでご存知でしょう。
蜀は北伐の際に羌を煽動したようです。
(特に姜維の得意技)
また、余談ですが羌は五胡十六国の時代にも当然存在し、
姚氏が後秦を立てています。
馬超が羌の血縁という話をどこかで聞いた覚えがあるのですが、
漢民族との同化はどのくらい進んでいたのでしょうか?文化面含めて。
>>684 どうなんでしょうね。
馬超と羌の関係は、とりあえず
>>681にあるように馬騰の母(=馬超の祖母)が羌だった、
というところしか分かりませんね。
実のところ、馬騰、馬超と羌の関係は、西南夷における孟獲に近いのかもしれません。
当地の漢人、異民族双方の信望を集めていたようですので。
羌はどこまで漢化しているのか、正直良く分かりません。
晋書載記の姚弋仲の条によると、匈奴の劉氏ほど漢化して無さそうにも思えますが、
永嘉の乱の時には漢人も彼に付いて東へ移住しているようですので、
ある程度は漢化していたでしょうね(そもそも姓名が漢人風になっているし)。
それでも、彼は「異民族から天子になったヤツはいないから、俺が死んでも晋に従うんだぞ」
と言い、自らを蛮夷と認識していたようなのです。
(その子の代に皇帝になりますが)
漢化していない方が手強い傾向があるので、
終始後漢を悩ませつづけた羌は漢に虐げられる事はあっても、
このあたりの時代では同化はあまりしていないような気もしますね。
これは印象ですが・・・。
ただ、漢化していなくても羌と漢人の間にある種の交流があったのは間違いないですね。
董卓の若き日のエピソード(羌の族長連中と親交があった)が有名ですね。
また、馬騰の嫁取り話から察するに、漢人では金銭面、あるいは家柄で問題のある者が、
羌では歓迎されたような部分があったのでしょうか。
羌自体は決して裕福ではなかったようですし、
社会の序列(階級)的には羌は下層に置かれていたのでしょうね。
>686
歓迎というか、金銭面や家柄に恵まれている人は
わざわざ羌から嫁はもらわないと思う。
人種差別なんで良くない話だけれど、
当時の中国を考えたらそんなもんでしょ。
歓迎というか、そうなっちゃったんだろね。
馬騰の場合は政治的な配慮からってのも
考えられませんか?
>>687 まあ、はっきり言えばおっしゃるように人種差別的な部分なんでしょうね。
馬騰の父は元は県尉だったそうですが、後に官を失い、羌と共に住むようになったそうです。
(三国志馬超伝)
貧しかったので妻を得られず、羌を娶ったとのこと。
また、馬騰の家が貧しかったのは、馬騰自身も木を切って町へ売りに行って生活していた、
というところからも分かります。
田畑、家畜などの「産業」(なりわい)となるものを有しなかったのです。
それでも羌の中で暮らせたというのは、
もしかすると羌の側で漢の知識なり技術なりを受容するために
漢人を積極的に受け入れていたのかもしれません。
(その割には羌はまだあまり漢化していないとも思いますが、
馬騰が生まれた羌は漢の郡県に近い所でしょうし、
羌としては比較的進んだ部族だったのかも)
また、山越では漢人の豪族、吏などと結託していた例があるそうなので、
羌も漢人の豪族や吏と結託していた面があったかもしれません。
そうだとすれば、姜維が羌の事に詳しいと言う理由が分かります。
(姜維は冀県の豪族と思われますので、羌と交流・使役などの関係があったのでしょう)
馬騰の父もあるいは県尉だった時に羌と癒着していたのかも。
馬騰の父に有力な親戚はいなかったんでしょうか。
漢の役人をクビになってしかもその後漢人と一緒に住めないというのは
なんか随分悪いことをやったんじゃないかとも思う(邪推ですが)
馬騰はその後めでたく漢族に復帰したけど、他にもそういう
元漢人の流れ者が漢服を脱いで住み着いていたんじゃないかとも思います。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 12:27
馬融なんかは?
166年に亡くなってるね。
>>689,690,691
確かに馬騰は扶風茂陵の馬氏ということになっていて、
かの後漢初の将にして明帝の皇后の父、馬援の子孫とされています。
一方、盧植の師である大学者馬融もまた馬援の兄の孫であり、
馬騰と馬融は一族という事になります。
確かにただの免官であれば馬騰の父も彼ら馬氏を頼る事も出来そうですので、
(馬融は死んでも彼の族孫である馬日テイが居ます)
羌と雑居する貧困生活をしたという事は、馬氏を頼れないような状態だった、
という可能性が高いように思います。
(もう一つの可能性は「馬騰は馬援の一族とは実は関係無い」)
要するに689氏のおっしゃるように、
まともな生活に戻れないような何かをやらかしたんじゃないか、と。
馬ジュンでしたっけ? 北伐で出てくる天水の人。あれも縁者ですか?
>>693 三国志姜維伝注に見える天水太守馬遵は、
出身等が書いていないので扶風茂陵の馬氏かどうかわかりませんね。
無関係とも言い切れませんが。
これは馬玩も同じですね。
馬玩の方は馬騰らの縁者の可能性が高いとは思いますけど。
695 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 16:55
馬何羅age
696 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:23
キモイ
>696
誰がだよ。まさか怨霊さんじゃないだろうな。そうだよな。俺だよな。俺がキモイ。一番キモイのは俺。
てことで怨霊さん気にせず続けてください
>>695 馬何羅ですか。
馬援、そして馬騰に続く馬氏の一族ですね。
この馬何羅の弟である馬通が馬援の曽祖父ということになってます。
そして馬何羅は漢の武帝を暗殺しようとした人物であり、馬通も連座して処刑されています。
そういった訳ありだったんですが、馬援や馬皇后になってまた世に顕れ、
班固は漢書の中で「馬何羅」を「莽何羅」と書き換えることで馬氏に配慮したと言います。
馬何羅の武帝暗殺はそれだけで色々語れる事(霍光らが暗殺を阻止したとか)
がありますが、スレ違いなので別の機会にでも。
700ですね。ネタ募集中。
またはこれまでに出た話の質疑応答など・・・
馬超とかと張魯って繋がりあったんですか?
毋丘倹は名将だったんですか?
歴史に残るのは「あほう」か「名将」のみ
党錮の禁はガイシュツですか?
>>705 藻前みたいのが一番うざいな。
君は怨霊氏でつか?
>>701 馬超の息子の馬秋を張魯がぶち殺したということくらいしかわかりません。
それ以前の関係は見つかりませんでした。
>>702 名将かどうかはそれぞれの判断でしょう。この経歴や実績から判断してください。
父:毋丘興(武威太守として反乱を抑える。高陽郷侯、将作大匠)
本人の官
平原侯(王?)文学
(「ご学友」のようなもの。「平原侯」は明帝の筈だが、それなら平原王が正しいと思う)
→尚書郎→羽林監(羽林軍の軍監)→洛陽典農→荊州刺史
→幽州刺史、度遼将軍(対北辺の将)、使持節(独断での処刑等をする権限)、護烏丸校尉
(遼東の公孫淵を討ち、途中で烏丸を降伏させる。公孫淵は長雨のため討てなかったが、
翌年司馬懿と共に平定)
→安邑侯(食邑3900戸)→高句麗征伐
→左将軍、仮節監豫州諸軍事、領豫州刺史
→鎮南将軍(、仮節監豫州諸軍事、領豫州刺史?)
→鎮東将軍、都督揚州→反乱
>>704 党錮の禁はまだですね。ではそのあたりを・・・。
>>705 それもそうですね。過去の未消化の質問にどんなのがあったのかを見てみます。
>>706 違いますよ。
今日はちょっと前まで熱出して寝込んでました。
君ら濃いなぁ・・・
王莽って戦死した後に死体を寄ってたかって食われたって読んだが
どうよ?
丞相とか大将軍クラスはぶっちゃけどれくらい給料貰ってたんですか?
あと食邑ってのは与えられる戸数に基準みたいのはなくて功績に従って
君主の裁量で戸数が決められるんですかね?なんか軍人の方が多く
貰ってるみたいですけどそれは勘違い?
>>710 漢書王莽伝によると、王莽は殺されて首を取られた後、
軍人達に身体を千切りにされたと記録されていますが、喰われたとは書いていないようです。
どうやら項羽の時と同様、
軍人達は死体を持ち帰って恩賞に与ろうとしたのではないかと思われます。
むしろ、その「死体を寄ってたかって食われた」と書いている記事を教えて欲しいです。
>>711 後漢の制度では、三公は一万石だそうで、多分大将軍なども同等だと思います。
(もしかすると将軍の場合はまた違うかもしれませんけど。
本来将軍は臨時の官なので、俸給の額が定められていない可能性があります)
一万石というのは、実際には毎月穀物350斛(1斛=約20リットル)を受け取るらしいです。
但し、実際には半銭半穀といい、半分ほどはお金で貰ったようです。
前スレ65にどなたかが俸給の額を引用していますので、一部引かせてもらいます。
(カッコ内は私が付け足しました)
三公は萬石と号し、月俸それぞれ350斛穀。
中二千石は180斛、(実際は銭9000・米72斛)
二千石は120斛、(実際は銭6500・米36斛)
比二千石は100斛、(実際は銭5000・米34斛)
(以下略)
食邑は、本来特に功績・大功があった者への褒賞の一種なので、
普通は軍人(将帥)の方がもらう機会が多いでしょう。
戸数については、おそらくある程度の指標はあるのでしょうが、
降伏者などへの優遇として多くする(例:張繍)などの裁量はあったようです。
713 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 11:52
>>701 高句麗を制圧したのは立派だと思うが。隋の煬帝や唐の太宗にすら出来なかった。
>>713,714
時代などが違うので単純な比較は出来ないですね。
ただ、幽州のそのまた東北に踏み入って作戦成功させたのだから、
立派とは言えそうです。
また兵力で見ると、
毋丘倹は「歩騎万人」、一方高句麗王は「歩騎二万人」で迎え撃ったそうで、
数の上では倍の兵を破った事になります。
装備などの面で優勢だったのかもしれませんが、この点も評価できるかもしれません。
党錮について。
まず、党錮というかいわゆる清流と濁流(宦官)の争いについて簡単に。
後漢の朝廷で幅を利かせた宦官やそれに連なる連中に対し、
各地の名士は派閥的なものを形成し、またお互いに人物評価をし合って、
それに合わない者をそこから締め出す、と言う形で各地で勢力を付けていました。
かの劉表も含まれる「八及」などはそういった背景の元で生まれたと思われます。
皇帝⇔臣下
宦官⇔名士
濁流⇔清流
中央⇔地方
少々乱暴な分け方をすると、上のようになるのではないでしょうか。
低句麗age
党錮続き。
ここまで宦官と名士が対立するのは、
宦官が皇帝の厚い信任の元で権力を振るっていたという事情があったと言えるでしょう。
そして宦官が皇帝の信任を得たのは、
直接的には桓帝が宦官達と血盟を結んでかの梁冀を誅殺することに成功したからです。
桓帝は宦官への恩を忘れず、また同時に重要な側近として、宦官を重用したのです。
単超、侯覧、曹節あたりが有名でしょうか。
(宦官の重用自体はそれ以前からの傾向でしたが)
党錮は、皇帝の周りがそういった事情から宦官で固められていたような状況で起こります。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 00:58
>717、怨霊氏。
徳川幕府に例えるなら、三公以下の朝臣が老中で、宦官が側用人と言ったところでしょうか。
王朝創業時には皇帝と重臣(朝臣)達の間に強い信頼関係があり、お互いの目指すモノが一致しており、重臣=側近であったものが、数代を経て信頼関係も薄くなりそれぞれが別々の立場になった。
そんな中で皇帝が自分の意思を主張するために宦官を重用した、って感じでしょうかね。
>>718 そうですね。徳川幕府における側用人は、中国における宦官に近いと思います。
おそらく、似たような事例は時代や場所を問わずに現れるのではないかと思います。
現代でも、立法を皇帝、行政を重臣と捉えれば、
立法の側が行政を牽制・支配しようとすると言う点では似ているとさえ思うのです。
>>719 確かによくまとまっているようですね。参考にできると思います。
私はその解説とは多少異なる切り口から述べてゆくことになるでしょう。
党錮続き。
党錮の事の起こりは、桓帝を輩出した甘陵国で、
後の桓帝の師となった縁で尚書となった周福と、既に河南尹になっていた同じ郡の房植とが、
お互いに故郷で党派を形成したというのに始まると言います。
この党派が汝南、南陽といった当時の先進地域に飛び火し、
それらの地域出身が多かったであろう太学(大学のようなもの)の学生にまで影響してゆきます。
具体的には、郡内や太学における人物評価をしたらしく、
権門さえも憚らずダメ出しする者も少なくなかったようです。
そのため大臣クラスでもこの人物評価で悪く言われる事を恐れたといいます。
これによってダメージを受けるのが宦官の親族です。
宦官の親族は多くが官僚になっているのですが、ほとんどは学も無く、
人物評価をするような名士との交流も無く(したくても断られるかもしれませんが)、
コネそのもので太守などになっている身ですから、人物評価でいい点が付くわけがありません。
いやむしろ評価の対象にさえしてもらえなかったのかもしれません。
(曹仁、曹洪、曹休の父・祖父等が官僚だったのは宦官曹騰のコネです)
こういった人物評価と、地域や評価を元にした党派の結成は、
それ自体は違法でも有害でもないとしても、
間接的に宦官側の利権を脅かす側面があったのです。
(但し、伝統的に私党の結成自体が犯罪的に見られる側面も実際にありました。たぶん後述)
721 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 20:43
書き込めねえ
中領軍とは一体???
>>722 前スレで解説されてるよ。
……っつうか、自分が質問した件だったりする。
>>721 書き込めてますよ。
>>722 中領軍については前スレの112から118を参照です。
723氏、誘導ありがとう。
党錮について。
実のところ、名士側がお互いに人物評価をし合い、
そういったものに基いて仲間付き合いをするというのは、
儒教的精神に乖離すると批判されても不思議ではないものでした。
論語為政篇に「子曰く、君子は周して比せず、小人は比して周せず」、
論語子路篇に「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とあります。
上は吉川幸次郎氏の訳では
「君子は友情に富むが、仲間ぼめはしない。
小人はその反対に、仲間ぼめはするが、真の友情をもたない」
などとなっています。
そう、名士の人物評価は見方を変えれば「仲間ぼめ」であり、
孔子が批判した「小人」の行いなのです。
要するに、名士たちが「党」を作り人物評価しているのは、
こういった部分で孔子の教えに反すると言われても仕方の無い面があったのです。
名士の「党」に対して極めて厳しい処分(弾圧)がなされる裏には、
名士の側も儒教の理念から見て少々怪しい存在だった、という部分があるように思います。
余談ですが他の時代でも、
政治的な派閥についてしばしば「君子」の友情なのか「小人」の党なのか、
議論になる事がありました。
前レスは何が言いたいかというと、名士の側も弾圧の口実になりうる部分を内包しており、
党錮がただ「悪い宦官が一方的に清流派の士大夫を弾圧した」というだけでは
計りきれないところがあると思うのです。
最初の「党錮」は桓帝の延熹9年に起こります。
直接的には名士、潁川の李ヨウが司隷校尉として宦官の親族の悪事の摘発などを
行っていたことがおそらく宦官の反発を生み、
宦官の息のかかった人物を通して誣告させるという形で彼らに「党」の嫌疑をかけました。
容疑とされるのは、
「学生などを私的に養って手駒とし、郡の人物とも結び、「党」を作って朝廷を誹謗した」
という点です。これに皇帝は激怒し(党錮列伝では「震怒」と表現されています)、
「党」との嫌疑のかかる人物を逮捕させ、天下にこのことを布告します。
皇帝が激怒するのは、
前レスで言ったように「党」形成自体が真の儒者の行いではない、と言う点と、
下の者が派閥・党を形成して世論を醸成するという行為が、
皇帝の権威と権力を揺るがしかねない問題だったからです。
それ故に、皇帝はきつい処分に出たのです。
続く。
党錮続き。
この最初(第1次)党錮(延熹9年)は李ヨウのほか、
彼と付き合いのあった陳寔ら200人以上に及ぶものでした。
あるいは展開次第ではもっと厳しい罰が下される可能性もあったのでしょうが、
外戚の竇武らの上書によって、郷里に帰した上で「禁錮」となりました。
なお、「錮」とは「金属を溶かして隙間をふさぐ」ことで、
おそらくここでは門について行っているのでしょう。つまり門を固めてしまう、
という意味と思われます。
もちろん実際には出入りできるようにはなっているのでしょうが、
全く外部との交流が出来なくなるものと思われるのです。
続く。
幕府とは?
>>おそらくここでは門について
官途への道を閉ざされるって事ですから実際の門はあまり関係無いんじゃないですか?
>>728 これは私の表現が悪かったです。すいません。
言いたかったのは、「禁錮」特に「錮」の「本来の」字義は「金属を溶かして隙間をふさぐ」で、
そこから「禁錮」で「門をふさいで(まさに「蟄居閉門」にして)仕官できなくする」
という意味になったんだ、ということです。
少なくとも漢では門を実際にふさいではいなかったかもしれませんが、
あえて「かねへん」の「錮」を使っているところを見ると、
本来は実際に門をふさいだんじゃないでしょうか。
>>727 「幕府」はその名のとおり「軍幕内の府」、将軍の府です。
将軍の下には必ず多数の軍吏がおり、
それだけで一つの独立した行政組織として成り立っています。
それら軍吏の活動の場が「幕府」と思えばいいでしょう。
これは本質的には日本の「江戸幕府」なども同じだと思います。
江戸幕府は天皇に命ぜられた征夷大将軍の「府」なのです。
但し、将軍にもピンからキリまででてくるようになると、
幕府を開く事(開府)の出来る将軍のランクが設けられるようになるようです。
晋書職官志によれば驃騎将軍以下の将軍は「開府」出来ない場合があったようです。
党錮続き。
終身「禁錮」とされた者たちの名は公府に記録されました。
誤って再任用などしないようにしたのでしょう。
しかし、実は「党」の活動が活発化するのはその後でした。
名士の間では、「正直」が罰せられ「邪枉」が盛んな様子に対抗するが如く、
人物評価などをますます盛んに行いました。
「三君」「八俊」「八顧」「八及」「八廚」などといったトップグループも
そういった中で生まれました。
特に「三君」は当時の(党人内序列での)最高位だったようで、
先の第1次で党人に同情的だった外戚の竇武、
劉氏で五経に通じた劉淑、
汝南の硬骨漢陳蕃の三人でした。
外戚、宗室、それ以外の名士の三者から一人ずつというのは、
「宦官に対抗するためにこの三者が手を組んだ」との意思表示と言ってもいいでしょう。
また「三」というのは三公を連想させるもので、
「本当ならこういう人物が三公にいるべきだ」という名士側の暗黙の政府批判とも受け取れます。
(なお李ヨウも「八俊」に入っています)
いずれにせよ、名士はこういった序列によってグループ交際をしていました。
また高い序列にあった人物の何人かは仕官して栄達しており、
おそらくはこの党人グループの繋がりで世に出たような者も居たでしょう。
そして中央では、桓帝の死と霊帝の即位によって新たな局面が生じていました。
続く。
党錮続き。
霊帝は桓帝の実子ではありません。
桓帝に子が無かったために傍流から迎えられたもので、
その際にはかの竇武が皇太后の父として大きな働きをしたようです。
なお、どうやら桓帝は死亡した年に大赦を行っており、党錮も解除されたようです。
霊帝の下では、
竇武が大将軍、陳蕃が太傅という「三君」を頂点とする体制が実現し、
党錮解除と合わせて党人に巻き返しを期待させたことでしょう。
長楽少府としてあの李ヨウも復活しており、党人体制が構築されつつあったと思われます。
竇武・陳蕃は党人の頂点として宦官排除を狙いました。
彼らは皇太后(竇武の娘)に宦官誅殺を進言し、
まずは管覇、蘇康を殺す事に成功しました。
しかし巨魁である曹節については皇太后も躊躇します。
結局、これが命取りでした。
続く。
曹節と曹騰って同族ですか?
クーデター起こした曹節なら違うと思われ。
曹節は南陽新野の人で、本は魏郡の人というから。
>>732 宦官曹節は南陽新野の人、曹操の祖父である曹騰は沛国ショウの人ですから、
同族ではないですね。
党錮続き。
竇武らは宦官の一人鄭リツ(風立)を捕らえ、
そこから曹節、王甫らの悪事を暴くという形で宦官捕殺を目論みました。
しかしあと一歩と言う時、竇武が宿衛から将軍府の方に戻った時に上奏文を盗み見られ、
そこから宦官捕殺の計画が宦官側に発覚します。
宦官は陳蕃、竇武が皇帝廃立を企んでいると称し、
皇帝を押し立て尚書を脅して詔を出させ、禁門を閉鎖して反撃に出ました。
竇武らにはもちろん逮捕の使者が出ますが竇武は使者を殺し、
北軍の兵を率いて宦官を討とうとしました。
宦官は護匈奴中郎将張奐や王甫に近衛兵らを率いさせ、竇武に対抗します。
結局のところ皇帝を擁する宦官側が有利であり、北軍の兵も宦官に投降する者が多く、
竇武の挙兵は失敗、自殺。
陳蕃は官属、諸生を率いてほとんど破れかぶれの挙兵をしましたがもちろん失敗し、
王甫によって捕らえられ死亡。
竇武、陳蕃による宦官誅殺計画は失敗に終りました。
お気づきのようにこれは何進、袁紹、王允らによる宦官誅殺の先例であり、
何進の時の計画は実のところ竇武の果たせなかった計画の復讐戦だったのです。
続く。
>>733 被ってしまいました。
答えていただきありがとう。
党錮続き。
竇武らの事件の翌年に、第二次党錮というべき事件が起こります。
後漢書の竇武伝・陳蕃伝と党錮列伝ではまるで別個の事件のように書かれているのですが、
この二つの事件は因果関係にあると思われます。
第二次党錮は党人側が竇武という後ろ盾を失った事により起こった、
竇武派残党の掃討という意味合いの事件だと思われるのです。
事件は党人のランキングで「八及」筆頭の張倹に仲間外れにされたという
同郷人朱並なる人物が、宦官の意を受けて、
張倹らが徒党を組んで社稷を危うくしようと企んでいると讒訴した事に始まります。
国家転覆計画は事実とは思えませんが、公的な官位などとは別のランキングを私製し、
徒党を組んでいたのは事実でしょう。
張倹から他の党人にも波及し、前三公の虞放、太僕杜密、長楽少府李ヨウ、
司隷校尉朱寓、潁川太守巴粛、沛国相荀翌、河内太守魏焉A山陽太守テキ超など、
要職にある者など100人以上が逮捕、獄死しました。
(なお、張倹自身は逃亡しました)
なお上に挙げた人物の何人かは竇武、陳蕃によって引き立てられた人物であり、
竇武事件とこの事件の関係性を窺わせます。
霊帝と宦官は党人を許さず、弁護したものさえ獄に送るほどの徹底ぶり。
党人の妻子は流刑、最終的には門生故吏や父子兄弟も免官・禁錮となりました。
続く。
党錮続き。
その後、党錮が解かれるのは黄巾の乱が勃発してから。
党人が怨恨から黄巾と合流したらヤバイ、という意見が出たためです。
実際のところそういった事例があったかどうかはともかく、
党人が黄巾の頭脳として働くようになるのは極めて憂慮すべき事態であることは明らかで、
霊帝は慌てて党錮を解除します。
三国志に関係する党錮関係者としては、
劉表(ちなみに張倹事件の時に逃亡)が有名ですが、
他にも何ギョウ(袁紹の奔走の友)、張バクなどがおり、
何進の下に在ったり、その後の反董同盟などで活動したりという者も含まれています。
ところで、霊帝の売官ってのはもしかすると党錮によって公卿になるべき人物が
ごっそり抜けたことと関係あるんじゃないですかね。
一方では公卿にするべき人物が不在なために、
基準として「財力」を置いて新たに選別しようとした。
それともう一方では単純に皇帝の私財を増やそうとした。
だれを公卿にしたらいいか分からないから、
「財力」がある者=ある種の才能がある者ということで選んでいった、と。
最近、このスレも役目を終えたのかな、と思う事があります。
次スレは立てないほうがいいのかもしれませんね。
そう?
仕方がないのかもしれないけれど
軍事、政治に偏っているように思えます。
例えば商業なんて題材はどうですか?
関羽と塩って線でいけないかな。
当時の貨幣経済ってどのくらい浸透してたんだろう?
後漢末、「官位」というあらたな「商品」の登場によって、
社会が必要とする通貨の量は、飛躍的に増大したのではないか。
つまり、富裕な豪族は官位を購入するために、必要な額がたまるまで貨幣を死蔵し、
これによって、市場における貨幣の流通量は、急速に減少しだしたのではないか。
そしてこれを補うために中央政府は、墓をあばき、銅製品をいつぶしてまで、
新たに大量の貨幣を急造する必要が生じたのではないか。
しかし全国的な戦乱の悪化によって中央政府の影響力が弱まり、
官位は貨幣で購入するものではなく武力で奪い取る世の中になったことで、
各地の豪族が、だいじに死蔵していた貨幣は、
ある時をさかいに一挙に市場に流出しだしたのではないか。
さらにいえば、官位とならんで、もう一つの主要な「商品」であったとおもわれる「食料」も、
この時期、戦乱や凶作のために、極度に不足したのではないか。
食料の絶対量が減少すれば、通貨の相対的な価値は低下する。
そしてもちろん、この時期に急造された粗悪な品質の大量の貨幣もあいまって、
いよいよ貨幣の価値は、この時代、一時的に完全に消滅したのではないか。
>>740 次スレは実際にこのスレを消費した頃にまた考える事にします。
では、今後740,741氏の言う経済的な面を多少。
>>742,743
どうも。
売官についてですが、私はむしろ逆の発想をしました。
つまり、豪族が貨幣を退蔵するようになり、貨幣が減少しつつあった。
売官は、それを意図していたかどうかはともかく、
結果としては退蔵されていた貨幣を世に出すことになった、と。
もちろん現実には貨幣経済は後漢末には衰退し、
魏では遂に現物による徴税を行うまでに至っているのですが、
売官はそういった時代の流れに抵抗する意味合いもあったのではないか、
と考える事ができるかもしれません。
貨幣経済自体は前漢で相当な発展を見ています。
当時の人頭税である「算賦」などの税は銭で徴収していたと思われますし、
官吏の俸給も半銭半穀、即ち半分は現金(銭)で支給されていました。
その裏には蜀や呉の地にあった銅山での活発な銅生産や、
銅銭私鋳の容認などの諸事情がありましたが、
おそらく後漢末の時点では銅山も枯渇したようですし、
後漢王朝自体の支配力低下と相まって、
富の豪族への集積が銭の退蔵と貨幣流通の停滞をもたらしたと思われます。
豪族(貴族)は荘園で自給的に生活する分には貨幣を必要とせず、
一旦手に入れた銭を使用する機会が少ないのです。
もしかすると、売官とは退蔵(死蔵)される一方の銭を豪族から吐き出させようとする
意図を持った政策だったのかもしれませんね。
晋書食貨志には、後漢末、魏における農業生産関係の事跡が纏められています。
それによると、董卓の乱以後に1石(26.7kg)の穀物は50万銭にも及んだといい、
王忠や程cの話に見えるように人食せざるを得ない状況も多々あったようです。
この時に屯田を建議したのが羽林監である潁川の棗祇。
この屯田は、兵士に田作させる「軍屯」ではなく、
「良民」を許に呼び寄せて田作させる「民屯」でした。
「良民」といっても土地を持つ者ならわざわざやってくる訳が無く、
ほとんどは流民だったのでしょう。
ここでの成功を元に各地で屯田が行われ、大いに成果を上げたといいます。
この政策は要するに流民対策で、流民を帰農させるものであったと言えるでしょう。
ほっとくと流民は暴徒・盗賊化するか、死ぬか、豪族や他の軍閥などの傘下に入るか、
いずれにしても社会不安を招き、政権にとっても農業生産の足しになりません。
これらの問題点を解決したという意味で、この屯田は大きな意味を持っていました。
また、それまでは曹操にしても、袁紹なんかにしても、
かなり食には悩まされていたようなのです。
また、建安初め、関中は董卓や李・郭の失政、
そしてその後の軍閥割拠という状況から荊州方面へ避難する者が多かったといいます。
そこで曹操は衛覬の建議に基き、塩官を再建し、それによる利益で牛を買い、
生産手段を失った流民・避難民に供給(貸与)したのです。
これにより関中に人が戻ったと言います。
正直、こういった事跡には多少の誇張などはあるのでしょうが、
屯田や牛の供給(当時、牛を農耕に使用していた)が
破壊された農業生産を復興させる役目を果たしたのは間違いないでしょう。
そして、そういった手段が必要なほど当時の農業生産は荒廃しており、
おそらくそれほど被害を受けていない益州や荊州は
それに応じて経済的に(相対的に)強い地位を持ったのです。
しかし中原が復興すればするほど、特に開発の余地が少ない益州は
相対的な価値が低下してゆく運命だったのです。
>>739 たしかにレスは少ないけど、こまめにみてる住民は確実にいると
思われます(自分もそのひとりだし)
反応が少ないのはたしかにつらいかもしれないけど、次スレへ
続くように期待してます。
多少は話題がループしてもかまわんし、がんばって。
>>744 怨霊 ◆NRtIkON8C2 たん。
売官制度のその効用には考えがおよびませんでした。さすがですね。
ではこれによって豪族の退蔵していた貨幣が政府へと還流し、
そして軍費などのついえとして、世に流出したと考えてみましょうか。
>>745 このときの献帝の話が、私は好きです。
食糧価格は高騰し、長安は餓死者であふれたため、
献帝は、倉をひらき貧民に食糧を配給するよう命じた。
しかし役人がその食糧を横領するのか、餓死者はいっこうに減らない。
業をにやした献帝は、ついに自ら食糧を配給した。
と、この食貨志にも記録されていたとおもいます。
晉書 食貨志に記録された、貨幣と物価の関係では、
漢の章帝の時代の尚書、張林の上申した、
「いま物価が高騰しているのは、通貨の流通量が多すぎるためだ。
通貨を制限するような政策をとってはどうか」や、
桓帝の時代の「人々は、貨幣が軽く銭が薄いゆえに貧困にあえいでいる。
これを改鋳して、よりサイズの大きなものにかえてはどうか」という上申書も、
おもしろいとおもいます。
これなども通貨の流通量を少なくしようという
政策だと考えることができるかとおもいます。
しかしじっさいには、この改鋳は実現せず、このあと時代は、
西園に万金堂がつくられ売官の制度がいよいよ盛んになる、
霊帝の混乱期へと移っていくわけですが―――。
>>747たん。
私も同感であります。
>>747,749
ありがとう。
見ている人、このスレに価値を見出してくれる人が居るのであれば私は続けます。
>>748 献帝の話は李・郭時代の長安の惨状を表したものですね。
この時の三輔の荒廃にはかなりのものがあったようですね。
董卓が遷都した時点ではむしろ栄えていたようなのですが。
>>749 銭については、前漢末から既に「亀貝を銭の代わりに貨幣にしよう」という建議があったと
伝えられており、儒者を中心に銭の制限や不要論は存在していたようです。
桓帝の時の方の改鋳論は三国呉、蜀における大銭と同じ発想なのでしょうか。
いずれにせよ、改鋳やら制限やらが出てくる背景には、
当時の算賦、口銭などの人頭税が銭納で、
銭が無いと民は税を納入出来ない、という本質的な問題があったように思います。
そして現実の五銖銭は粗悪なものが増加していたようですし。
後漢において、秦から前漢において発展整備された貨幣経済の曲がり角が訪れていたのでしょうね。
食貨(「食」篇)続き
その後も魏では復興に向けて能吏達の活躍がありました。
晋書に記されているのは、
揚州刺史劉馥の治水、屯田、
豫州刺史賈逵の治水(賈侯渠)、
京兆太守顔斐の牛・車購入政策、
(民に豚を買わせ、高いときに売ってその利潤で牛を買わせた。
また農閑期に車を作らせた)
沛郡太守鄭渾の治水、
涼州刺史徐バクの武威・酒泉での塩池整備や開墾、
敦煌太守皇甫隆の牛耕教示、
といったものがあります。
他にも司馬懿の京兆、天水等の塩池整備、
ケ艾の「済河論」などがありました。
まあ、魏というか中原は元々栄えていた地域だったので、
一からの開拓とはまた違い、今までの技術的な蓄積、ノウハウというヤツがあったのでしょう。
むしろその意味で難しかったのが呉の方だと思います。
江東、荊州は山越や五渓蛮の反乱を抑えつつ開発しなければならなかった訳で、
なかなか記録を追えないんですがその努力と成果は評価すべきではないでしょうか。
蜀?蜀って開拓とかの余地あったんでしょうかね?
土地よりも人間が調達できなかったのではないかと
>>753 かもしれませんね。
どちらにしても、蜀はほっとくと他の二国との差が離れていく一方だったってことです。
もともと辺境近くの一州にすぎないから当然といえば当然ですけど。
食貨(「貨」篇)続き
後漢での貨幣関係は
>>749などを参照。
当時は鋳銭をしなかった(できなかった?)ために銭の供給は増えず、
いわば銭不足という問題が生じていたようです。
董卓の小銭はそれに対応しようとしたのでしょうが、やりすぎでした。
食を中心とする物資不足と相まって超インフレ化したようです。
しかし曹操の時代に多少経済的に安定化すると逆転し、
銭は増えないのに金持ち(豪族)は銭を退蔵しがちになる、という状況から、
穀物価格の下落傾向が続いたそうです。
そこで魏文帝曹丕は遂に五銖銭使用を止め、穀と帛で商取引させるようにしました。
物々交換です。
しかし明帝の時に五銖銭は復活。
取引の際に穀物を湿らせて重くするような不正が横行したのだそうです。
儒者の一部などには伝統的に銭自体の不要論を掲げる者がいたようですが、
もうそういった事が通用する時代ではなかったのでしょう。
しかし、一時期とはいえそれが可能になるというのは、
それだけ貨幣経済が停滞した時代だったという事だと思われます。
別に蜀は全域が山ってわけじゃないよw
>>755 成都平原って日本の四国ぐらいの面積があったような
いや、それより狭いとしても、生産力は相当なものであったはず…
まさか、漢末にもなって未だ流刑地とかってことはないだろうし
ワグナー「中国農書」によれば、成都平原の水田地帯の等高線は
等しい高さに揃えられていたとかで、その農業土木技術の高さを表す話が載っておった
清末での話ではあるが、やはりそれを差っ引いてもかなりの肥沃な地域だったと思う
問題は稲作がそこまで高い水準に達していたかどうか
発掘された陶器とか遺構見ても、荘園的な大規模土地所有は見られるんだが
イマイチこの時代の稲作の様子が掴めない
どこかで読んだんだが、四川盆地の年間の日照時間は、中原と比較しても
少ないとあった気がする。
後漢末から三国時代の蜀に限っていえば、農産業に限らず、やはりあらゆる
面で厳しかったんじゃないかな。 典拠不明ですまんのだけど……。
四川料理とかあるし、野菜の類は豊富に取れるんでねぇの?
ま、穀物のように持ち運ぶわけにゃイカンけどな。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:08
沃野千里、天府の地とも呼ばれてたようだが。
760 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:13
馴れ合い糞固定、怨霊は早く、出て行け!
池沼め!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
761 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:17
馴れ合い糞固定、怨霊は早く、出て行け!
池沼め!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
762 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 20:27
馴れ合い糞固定、怨霊は早く、出て行け!
池沼め!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>760〜762
話について行けないからって、ひがむなよ。
よっぽどお前の方が・・・。
>>755 いやあ、流石にそこまでとは思ってなかったですが、
少々言い過ぎましたかね、752で。
>>756 蜀では早い段階で水田作ってたみたいですね。
林巳奈夫「中国古代の生活史」によれば蜀で水田の模型が出土しているとか。
そして
>>759氏が言うように漢書地理志では蜀は
「土地肥美、有江水沃野山林竹木疏食果実之饒」と表現されていたり、
(
>>758氏の言う通り、当時から野菜の類=「疏食」が多かったらしい)
「亡凶年憂」と、凶作知らずだったとか。
こういったあたりが「天府」と呼ばれる理由なのでしょう。
>>757氏の言う日照時間は私も裏を取っていないですが、
もしかすると水田での耕作が日照時間の少なさを補えたのかもしれませんね。
上海と江南 (揚州)
亜熱帯気候に属し、年間を通じて温暖な気候。6月ごろ(初夏)には梅雨がある。
1年を通じてほとんど東京と同じくらい。服装は基本的に日本の四季にあわせておけばよい。
長江沿岸 (荊州・益州東部)
内陸部に位置するこのあたりは、中亜熱帯性気候。湿度が高く、「霧の都」と呼ばれる重慶(三国志では巴郡)
その周辺では冬から春にかけて濃霧がよく出る。また夏は蒸し暑く、重慶・武漢(三国志では夏口)は特に暑い。
冬は冷え込むので、簡単な防寒具を用意したい。
四川 (益州)
高温多湿な気候で、成都付近の四川盆地は1年を通じて晴れる日が少なく、曇りの日が多い。
春は雨が多いので、雨具の用意を。
るるぶ 上海・蘇州・桂林 より引用 (カッコ)書きは補足
食貨(「塩鉄」篇)続き
さて、ここで少し目先を変えて塩鉄について説明します。
塩と鉄は、この時代において生活に欠かす事の出来ない物資です。
塩が無いと人間は生命維持にも支障をきたしますし、
鉄は農具として当時の民の大多数を占める農民には欠かせません。
はっきり言えばこの両者に目を付け、国家権力が管理販売(専売)して利益を得るのです。
好況不況に関係なく必要とするものなので、売れないということはありません。
(現代日本における専売公社はこの名残であると言えるでしょう)
この、後々まで中国の王朝の財政を支える事になる重要な発明は
漢の武帝の時に成されました。
武帝が度重なる遠征などで財政面での不安を抱えていたのに対し、
塩製造業者で漢の経済大臣的なポジションにスカウトされていた東郭咸陽と、
同じく鋳鉄業者孔僅が進言しました。
「鉄器鋳造と塩製造を国家の専売とし、勝手に作ったら犯罪としなさい」と。
この建言は取り上げられ、この二人が責任者となって実行に移されました。
この時、どうやら塩、鉄は当時の豪民(豪族)、商人がその財力に物を言わせて作っており、
どうやら生活必需品であることをいい事に値を吊り上げるという事も少なくなかったようです。
つまるところ、漢はこういった手法に倣ったのです。
(そういった豪民や商人は、呂、文、景帝時代の自由放任時代に力を付けたと思われます)
後には酒もこれに加わったようです。
>>766 なるほど。天候ってのもなかなか興味深いですね。
揚州は東京に近い?
当時の北方人には高温でも、慣れれば平気でしょう。
益州は高温多湿で日照時間は少ないようですね。
農業にとってどうなのかは門外漢なもので詳しくないですが、
上に挙げた(「天府」などと)ように言われているので水耕には悪くなかったのでしょうか。
そこで李氷の出番じゃないかと。
都江堰やね
天府の国,四川盆地
長江上流の四川省東部に位置し、周囲を高山に囲まれ、面積は20万平方qである。
盆地の中央部は平野(7%)、低山(41%)、丘陵(52%)で占められている。
成都平野は、古来秦代の都江堰の水利工事にはじまる灌漑農地の発達によって、
豊かな穀倉地帯をなし、低山、丘陵地帯には棚畑や段々畑が築かれ、稲のほかにも
豊富な亜熱帯作物を産し、物産豊富な天府の国といわれてきた。
四川盆地の気候は、周辺は高山寒冷帯であるにもかかわらず、盆地内部は温暖、
湿潤である。北に秦嶺、大巴山が北方からの冷気を遮り、冬でもかなり温暖である。
逆に夏は酷暑で、重慶は「三大火炉」の一つである(他は南京・武漢)。
また四川盆地は鉱物資源も豊富で(以下略
…以上「中国百科・改訂版」より引用…
三国志の頃って小氷河期じゃなかったっけ?
益州の生産力も落ちていたと思う。
高地だし冷害とかきつそうな感じ。
ちなみに中原を広く覆っている「黄土」は農業に向かないらしいよ。
理由は↓
土質が極めて細かく、粘着性が弱い。分散しやすくて鉱物性肥料の含有量も低く、
強い酸性反応を示す。
中原とは事情が、ことなるかも知れませんが、
三国時代になると、呉や蜀が、あいついで高額貨幣を発行したのも、
そもそもは三国鼎立によって全国的に銅が不足していたことが
背景にあるのかもしれません。
たとえば呉の孫権は、一枚で銭五百枚分の価値がある貨幣をつくり、
さらに後には銭千枚分の価値がある貨幣をつくりました。
呂蒙が荊州を平定したときには、彼への恩賞として、
一億銭が与えられたそうですが、晋書の食貨志によると、
こういった目的にも、この高額貨幣は使用されたようです。
ただ、これらの貨幣はさすがに無理があったのか、
それとも、もはや流通目的というよりも功績のあった家臣への
勲章のようなものであったためか、あまり普及はせず、
孫権自身も、のちには、これらをいつぶして、銅製品に作り替えてしまいました。
(この背景には、中国南方の風俗として
銅の鼓が珍重されていたことも、原因にあるのかもしれませんが)
黄土や農耕については、ここがおすすめ。
http://www.rku.ac.jp/~hara/03tokushutoppage.htm http://www.rku.ac.jp/~hara/02chotto2.pdf
>>769‐773
農業生産や地理的な部分は詳しくないので勉強になります。
氷河期といっても、もともと温暖な蜀では多少(十分な影響かもしれないけど)気温が低下
しただけで、北方での深刻な影響と比べればまだ大した事はなかったと思います。
黄土は突き固めて乾燥させればレンガのような硬い「版築」になるのですが、
それだけに(?)農業には適していなかったのですね。
蜀は黄土ではないのかな?
>>774 大銭は漢の武帝と王莽によって試みられて失敗しているので、
中原ではそもそも導入に慎重論が強かったのだと思います。
(蜀や呉はある意味別世界、フロンティアですから)
銅不足は前漢半ば以降からずっと続く傾向で、
前漢の儒者貢禹、師丹から三国魏の文帝による銭廃止まで、
「もう銭自体をやめちゃおうよ」という主張がしばしば唱えられるほどでした。
紹介しているところはなかなか面白いですね。
個人的には趙過の代田法について説明されているのが嬉しい。
代田法は当時の農法として科学的にも理にかなっていたようですね。
>>773 ちょっと違う
華北平原は黄土の洪積、または沖積で厚く覆われており、その厚さは10数mから数十m、数百mにも及ぶ。
黄土はリヒトーホーフェンの説では、中央アジアの乾燥平原で生成されたものが風に運ばれて華北平原に洪積したものと言われ、
物理的には顕著な劈開性(結晶がある特定の方向に沿って割れたり、はがれたりして、平滑な面を現す性質)と
毛管構造と加水凝結性が特徴的であり、科学的には亜乾燥土壌の未洗脱による強アルカリ性が特徴である。
その洪積が深厚であるため地表水と地下水は断絶して繋がらず、
中間層はくり抜けば洞穴住居として利用も出来るほどの乾燥した土壌である。
また毛管構造の発達のため雨水は地中に浸透して数m深に達すると、逆に土壌の毛管構造に吊り上げられて上昇し、
蒸発して雨になるという循環を繰り返す。
西山武一『アジア的農法と農業社会』より
畑作には向いている土壌だよ
華北ではアルカリ性が強すぎて稲作が出来ないけど
出来るのは、水が綺麗な所かオアシス都市ぐらい(天津や甘粛方面)
>>775 趙過の代田法か
天野元之助先生が既にやっちゃってるからなあ、そこら辺は
まあ、大躍進政策の時代に、日中双方の農学者たちが代田法をリアルに再現しようとして
大失敗したのは、やっぱ隠したい過去なんだろうな
欧米の農業生産力の増大は、機械化と化学肥料に助けられているところが大きかったからね
ノーフォーク輪栽式による「農業革命」なんかよりも、化学窒素は偉大だったわけだ
趙過代田法は優れた農業理論だが、やはり時代に合わなさ過ぎた
ただの代田法は休閑農法のことだが
戦乱で土地が荒れると、結局趙過代田法に法って畝作りするのが困難になるため
休閑農法に戻すしかなかったりするし
>>776 訂正、多謝。
771で引用した本には↓ってなってた。
「華北大平野」
黄河を主とし、海河と淮河の沖積作用によって形成された。面積は31万平方q。中国第2の大平野である。
黄河の沖積作用によって黄土の堆積が多く見られるが、海河や淮河の沖積泥砂もその生成を助けている。
従って、華北大平野の土壌は「黄色い大地」の一部である。小麦・トウモロコシなどの畑作を主とし、1年1作
ないし2年3作である。
>>775 >蜀は黄土ではないのかな?
蜀は「赤色土」。亜熱帯ゆえに熱量も十分で、雨水も多く、蒸し暑いので、
土壌の有機質の分解や蓄積も速やかで、食糧作物は多毛作が可能。
工芸作物や特産品の種類も極めて多い。と、これも同じ本からね。
貨幣の問題は山田勝芳著「貨幣の中国古代史」って本が詳しいよ。
魏・蜀・呉のそれぞれの貨幣問題を取り上げた箇所もある(短いけど)
いつ見てもこのすれはディープですねえ。
勉強になります。
貨幣の話が出ているのですが、この当時の「流通」はどうだったのでしょうか。
また、金融はどうだったのでしょうか。
たとえば、蜀から魏への移民が、手持ちの蜀の通貨を魏の通貨に両替する為替の制度や、
交換のレート、など気になるところです。
>>776 そうでしたか。畑作には適していた、と。
失礼しました。
黄土地帯ではこの時代はアワ、後には麦を畑作していたのでしたかね。
>>777 趙過代田法を実行するにはなかなか労力がかかりそうですが、
不思議と漢書食貨志では「用力少なくして穀を得ること多し」とされています。
このあたり実態はどうだったのでしょうか。
そしてこの農法はいつまで続けられたんでしょうか。
誰か教えて。
>>778 蜀は黄土とはまた違うんですね。
土壌からして農業に適していたという事ですか。
>>779 ああ、私の恩師(とこっちが勝手に思っている)の一人、山田先生の著書ですね。
これは手に入りやすく尚且つ読みやすい名著だと思うので、
興味ある人は探して見るといいでしょう。
>>780 貨幣の交換という概念そのものが無いです。
魏、呉、蜀とも通用する貨幣は「五銖銭」です。
呉、蜀の大銭は広く流通したものではないようです。
五銖銭は漢の武帝の時以来の漢におけるほぼ唯一の通貨で、
銭と言えば(この時代では)普通はこれを指します。
金融というか高利貸しは、前漢では相当に羽振りが良かったようです。
その後の時代にも無くなったとは思えず、
各地で商人などが貸金業を営んでいたと思われます。
(出土史料(木簡とか)にはそういった事情がわかるものが結構あったような記憶が)
食貨(「塩鉄」篇)続き
塩と鉄、そして酒の専売ですが、
後に漢の昭帝の時代になって塩鉄論議の結果、酒だけは専売から外しました。
また、漢の元帝は一旦専売を廃止したそうですが、3年で元に戻しています。
この時代、既に漢の財政上専売は欠かせない存在だったのです。
王莽も専売をやめるどころか、酒の専売を復活させています。
(この時の詔に出てくるのが「酒は百薬の長」なる言葉)
余談ですが、酒の専売は現代日本でも酒税法と言う形でその名残を見ることが出来ます。
さて、関羽は商人の神と後世言われる訳ですが、
これは上に書いた「塩専売」と関係があると言われています。
これは、三国時代ではなく唐の話ですが、唐の大乱「黄巣の乱」などに象徴されるように、
唐では塩と茶の専売による利益が国家財政を文字通り支えていましたが、
それだけに民間でより安く塩、茶を売って利益を得ようという動きも多かったようです。
もちろん専売なのでこれは取り締まりの対象なのですが、
それだけに私塩(国家に認められない塩商人)はいわば庶民の味方
(より安い塩を売ってくれるので)として扱われていったようです。
そして関羽ですが、彼が私塩商人だった、などという記述は三国志には無いですが、
彼の本籍地「解」といえば解池の塩で有名な場所で、
「解→塩→亡命→私塩商人→庶民の味方」
という連想が唐以降の時代の人間にとっては成り立ったのでしょう。
三国志を読む限りでは関羽は商人であるなどということは無いのですが、
唐以降の民間では以上のような連想から彼は
「官憲に反抗して民のために安く塩を売る英雄的塩商人」、
ということになったのでしょう。
・・・多分。
>>781 今じゃ、畝づくりなんぞ普通のことになっていますが
当時としては画期的なことだったんですよ
これによって、間引きや中耕除草作業の労苦が圧倒的に軽減され
なおかつ、いちいち耕地を休閑させて地力回復をやらなくて済むようになったからです
なお、東晋期以降は更に保水効果を狙ったブラッシュ・ハロー作業がこれに加わるようになり
「畝立て」から「平畔仕立て」へと形態が進展していきます
なお、この過程で畜力中耕機や播種機がヨーロッパに先駆けて実用化されていったのは特筆すべきことです
その差1000年以上なのですから(しかし、技術的にはこれ以後ほとんど進化しなかったのは残念)
ところが、当時(前漢)においても未だ休閑農法を採らざるを得ない作物がひとつありました
(すいません、実はひとつじゃないかもしれませんが、有名どころとして)
それは、淮泗間における水稲栽培でして、俗に直播歳易農法と呼ばれる水稲作です
なぜ、休閑するか?
それは、華北に比べて若干降水量の潤沢な華中地域に近い淮水において
夏場の高温多湿な時期(華北では雨季はわずかに気温が和らぐ)、水田では雑草が繁茂します
その年の水稲栽培を終えると、田圃はあたり一面雑草だらけで翌年の農作業に多大な障害を来たすのです
翌年は仕方なく、雑草を刈り取って刈敷(緑肥)として鋤き込まざるを得ませんでした
この形態、甚だ遅れている?農法(オーストロジア系の原住民直伝という説も)ではありましたが、
おそらくは隋唐に至るまで、淮水流域ではこの手段で水稲栽培が行われていたと考えられています
育苗・田植えの形態は、まだ未完成だったわけです(すなわち、中耕除草が未展開となる)
…日本に稲作が伝わったのは、果たして江南ルートが正解かと言うと、ちょっと怪しくなってきました(多分つづく)
つまり淮水流域の稲作は2年に一作ということ?
ほんなら中国の米麦の二毛作はいつから始まったの?
>782
関羽は義理堅いから商売の神様になったと聞いたよ。
三国志雑学スレって感じですが
なんか盛り上がってきましたねぇ。
>>784 米麦二毛作は、インディカ米の導入なんかも関係してたと思うんで
宋代に江南で本格的に開始されたと自分は考えていましたが
ちょっとこれは裏取ってないんで、断言できません
(麦について語ると、ちょっと長くなるんで後述)
水(陂沢)と土地(豪族私有地)がある程度確保できる淮水流域では
二年一毛作の歳易直播法が採られていましたが、華北ではそうはいきません
水は大抵は強アルカリ性、水田にするような農地はわずか(河川の屈折点などに限られる)
周代の稲作は陂沢、河川の上流の水清き箇所で行われていましたが
大規模な灌漑水や湧き水といった、貴重な水源を水稲作にそんなにかけていられるか
水田だって、乾燥している「高田」がほとんどの華北ではなかなか確保しにくい
(まあ、何より歳易直播法を実行できるだけのノウハウがあったかどうかも微妙だったようで)
そこで後漢に入って、かの高名な崔寔が新たな水稲栽培法を提示します
(別に彼が編み出したわけではないと思います)
稲秧移植法と呼ばれる、苗代を塗って田植えを行う、つまり現在の水稲栽培の原型です
まあ、これによって雑草の除去が、苗代段階における除草と田植え前の本田ではなるべく繁殖阻止
の二段階で迎え撃つことができるようになったので、土地を休ませてまで雑草除去に勤しむ
必要が無くなったのです(しかし、手間ヒマは従来の歳易直播法よりも一層煩雑)
また、田植えをすることによって、条播以上に畝間の除草作業が効率化され
(条播ではやはり、間引きや雑草との栄養分の競合と言う点で中耕作業は困難である)
後に、これが水田においても中耕作業を奨励するきっかけにもなっていくのです
……昔の農民は田の草取りのしすぎで腰が折れ曲がっていたわけですが
一見、稲秧移植法の方が土地を効率的に使えて、有利なようにも見えますが
これって、「限られた水田利用から来る已むを得ざる煩労として出発した農法」なんです
つまり、華中・華南でその後も歳易直播法が行われていたのには、そっちの方が楽だから
という現実的な理由が存在していたから……まあ、当然と言えば当然
えー。ご説明ありがとうございます。詳しい人は居るもんだね。
初めて聞く用語が多いので
歳易直播法(2年一毛作、1年は草取りなど地力回復に充てる農法)
稲秧移植法(後漢で採用? 現在の稲作に近い形、しかし当時としては煩瑣であった)
てな理解でいいのかな。
※米麦二毛作は宋の時代(AD1000年頃)以降?ジャポニカ早稲種の発見もその辺り?
なので三国時代には二毛作はなかったと。
当時を思えば、灌漑施設が整っていてもやっぱり洪水はあったろうし、
逆に旱魃に弱い所はとことん弱かったろうし。
そういう所から(生産力とか)蜀の命数が割り出せれば面白そうですね。
>>783,786
なるほど。趙過代田法の評価が良く分かりました。
やはり当時としては大変優れた農法だったということですね。
ところで、これは特に根拠はないのですが、
農法の進歩と社会形態の変化はおそらく軌を一にしているのではないでしょうか。
前漢あたりは県の周囲だけが畑であり、
(城郭に囲まれた「邑」に住んでいる以上、あまり遠くを耕地にはできない)
なおかつ中小自立農民が多かった。
即ち、農作業の集約性という点では県令の指導くらいしかないわけです。
(趙過代田法も県令などが指導していたらしい)
一方、三国から魏晋以降は豪族が多数の隷民を従えている状態が多く見られ、
なおかつ城邑から離れたところに住むようになった(これが「村」)。
城壁と農地が切り離され、また豪族の下で労働力を集約した作業がしやすくなったという
面があったのではないでしょうか。
そしてそれが新たな農法の進歩を生み、生産力を増大させてゆく・・・のではないかと。
この辺どうでしょう?
>>785 義理堅さももちろん商人の神様になる一要素だったとは思います。
しかし義理堅いというだけなら三国志にも他の時代にも何人もいたと思うのですが、
関羽が選ばれたという理由としては、
彼の出身などが商人(特に塩商人)を連想させるものだった、
と言う面もあったのではないかと思うのです。
>>787 蜀は他の二国と違い、社会の大変動時代から免れていた
(完全にではないですが、深刻な影響を受けなかったという意味で)
ようですので、その「安定した自給自足的環境」が強みだったのではないかと思います。
蜀で大きな洪水などの災害被害があったか記憶ないですが、
少なくとも深刻なのは聞かないような気もします。
蜀の生産力は変わらないが魏や呉の生産力は増大していく、
というあたりが蜀の命数を決めていたと思うのです。
元々は中原の生産力低下が蜀の経済的地位を高めていたわけですから。
>>788 大体、それが定説のようです
大規模な畜力利用や手労働の大量の投下は、明らかに大規模土地所有者たちの成長と
平行して進展していきましたから
稲作について、最後の補足
呉併合後に杜預が耕地の荒廃っぷりを見て「もうアカン」となってしまいまして
「こりゃ流民とか呼び寄せて、一時的にですけど『火耕水耨』で農業やるしかありませんわ」
と提案…で、火耕水耨ってのは最も古い稲作の形態らしいんですが
これは原生輪換方式(早い話が焼畑)による、農地の開発方法であったと考えられています
ところが、この農法は当時の農業専門家から見ても「(古すぎて)意味が分かりません」
といった捉え方をされてたみたいで、なぜあの杜預がこんな提案したんだか、と問題になってたりします
そこで、考えられているひとつの理由として
リアルに江南の農業が原始状態に近い部分が多かった、という説があります
さすがに言いすぎな観もありますが…晋代の江南での叛乱の頻発と無関係ではなさそうですし
「斉民要術」が江南農業に触れていてくれたら、もっと詳しく分かったかもしれません
ここで大事なのが、江南の豪族階級はそこまでダメージを受けていなかったことです
周氏や沈氏、顧氏の東晋初期の軍事行動は、明らかに荘園の生産力を背景として行われているからです
大規模土地所有者たちの隆盛が、国家の公地や公民を侵食していくのは中世荘園経済のサガでしょうけど
それにしても、呉、六朝においてはそれが極端すぎたと言えると思います
これに拍車をかけたのが華北からの亡命貴族たちだったりして……戸籍ぐらい作ればいいのに
まあ、この税金泥棒たちにも光と影の面が存在してはいたわけですが
水田が理解できなかったんじゃない?>杜預
>>790 定説でしたか。不勉強でスミマセン。
ところで、水耕火耨しかねーよ!流民集めれ!って言ったのは、
東晋になってからの後軍将軍応・じゃないッスか?晋書食貨志によれば。
杜預の上書は呉を征服する前みたいだし。
間違ってたらゴメン。
どちらにしろ、東晋あたりでは江南方面では豪族は富み栄え、
そうでない良民の農地は荒廃していた、という感じだったようで。
そんな中、晋書顧栄伝には、北がメタメタになった時に
「孫呉時代の夢をもう一度!」(要するにドサクサに紛れて江南を自立させる)
などと彼ら江南豪族が考えていたらしい事が記録されています。
このあたり、当時の江南豪族の持つ実力と、孫呉政権の性格について、
重要な示唆を与えているように思うのですがどうでしょう。
もう一度、
>>780氏その他、銭について知りたい方も居るかもしれないのでそのあたりを。
食貨(「銭」篇)続き
三国志の時代の「銭」といえば「五銖銭」です。
先に述べた蜀、呉の大銭のようなものもありますが、
あくまでも五銖銭が基準となる貨幣です。
五銖銭とはその名の通り「五銖」(=3.35g程度)の重さの銅銭です。
今見ることが出来る出土物の五銖銭は錆びついて面影ありませんが、
出来たばかりの時はピカピカだったようです。
形状は方孔円銭、即ち、円形で中央に正方形の孔が空いています。
そして銭には「五銖」と銘文が入っています。
孔には紐なり木なりを通して纏めておく用途があったようですが、
円形=天、方孔=地をそれぞれ象徴させる意味合いもあったように思われます。
(前方後円墳と同じ)
直接の起源は漢の武帝に遡り、
それまでは秦の半両銭(半両=12銖=約8g)や、
漢になってから作られた「半両」の銘を持つ四銖銭などがありましたが、
それを統一したのが五銖銭だったのです。
五銖銭は王莽による大改鋳時代以外は一貫して漢の通貨とされ、
魏、呉、蜀それぞれでも使用されました。
(魏の物々交換時代は除く)
『火耕水耨』って、ただの焼畑農法に見える…
>>792 あ、ちょっとそこら辺、昔晋書斜め読みした記憶だけで書いたので
間違えててすいません…訂正ありがとうございます
>>794 昔から、いろいろ議論はありますが
火で前年の雑草を焼いて肥料とし、その後稲やヒエを播き
更に雑草が伸びてきたら、そこで水を田に入れて灌水させ
若い雑草を枯死させ、その後水を抜いて田を乾かす…ってのが基本的な見解だったような
まあ、焼畑の延長線上にある農法であるのは確かです
怨霊さん、今度出来たらでいいんですが
光武帝の後援となった、南陽の豪族について語ってもらえないでしょうか?
>>795 では、南陽豪族については少々お時間を頂いてからとさせていただきます。
すごく簡単に言っておくと、ケ氏のように、後漢末期あたりまで名が見える者もあり、
後漢全体に渡って光武帝支持者の地盤だった南陽とその豪族は重要な存在だったようです。
もっとも後半には潁川、汝南の方が優勢な気はしますけど。
食貨(「銭」篇)続き
蜀や呉で、一枚で五銖銭百枚などの大銭が作られたのは前述しましたが、
こういった名目貨幣はこれら両国で初めて考えられたものではなく、
漢武帝の時の「赤側五銖」(フチが赤く、五倍の名目価値を持つ)、
王莽の「大泉五十」(その名の通り50枚分、五銖銭1枚相当の貨幣は「小泉直一」)など、
前漢にはすでに名目貨幣に分類できるものがありました。
但しどちらも成功したとは言い難く、結局は思想の進歩に現実がついていっていない、
という感じかもしれません。
呉の大銭も後に使用を取りやめています。
前スレ1から熟読しました。トータル1日半くらいかかった気が。ふー。
すごい勉強になったし楽しかったです。
近レスの話題と全然関係ないことで気になったことがあるんですけど、
おたずねしてもよろしゅうございますか?
■非主流派は皇太子(後継者)に寄り沿う
二宮の変のあたりのやりとりを見てレスしようとしてたもの。
(いつのレスだよ)
非主流派(?)が皇太子(後継者)を盾にするのは蜀漢でもありました。
蜀書などを読んでいると、職が替わったのに
「依然として皇太子に近侍していた」なんて描かれる連中が
ショウ周を筆頭にごろごろ出てくる。
彼らは非主流派で「守勢派」VS「外征派」の現状に対するアンチ、
「もっとちゃんと政治しようよ派」でした。
と言うのは今んとこ俺だけが唱えてる珍説ですが。
とにかく、蜀漢では、費イ没後、陳祗が黄晧を利用して権力を握る
過程で現状を憂える皇弟劉永を劉禅から遠ざけ(失脚させ)皇帝への
影響力を失わせたあと(費イの死の直後と考えられる)、
先細りの状況を打開する恃みの綱は皇太子(普通、失脚させようがない)
とその側近だけと言う状態になります。
学者列伝のように見える蜀書の列伝十二は、先主から後主へ、
そして滅亡への流れの背景を学者列伝に仮託して陳寿が示そうとした
ように見えてなりません。
もう一つ面白いのが劉表-劉キのライン。
劉キが諸葛亮に自分の進退を尋ねたのも、恐らくこの
「その段階での非主流派(で、将来主流派になろうと狙っているグループ)は
皇太子(後継者)を盾にする」の原則に従っていたものじゃないかと。
後に劉備の下に集まってゆく所謂「襄陽グループ」って
本当は将来劉表の後を劉キが嗣いだ時に政権を担ってゆこうとしていた
人材群だったんじゃなかろうか。
(自分のサイトより先にここに書いちゃった)
あと他にも書込みたいことあったのに忘れてしまった。
それでは皆さん、3カ月後くらいにまた遭いましょう。
よい三国志ライフを。
あ。
そうそう。
袁紹没後の袁譚VS袁尚の争いも、
この劉表の時と同じ意味があったんだろうと考えています。
というかそう言う視点も交えて見ると面白いと思う。
その時権力を握っていたグループはそのまま権力を握りたいために
後継者派を排除して(長幼を無視して)弟を立てると。
>>797 もちろん、このスレ(の趣旨)に関する事なら、喜んで。
私の出来る範囲内で。
>>798 おお、お久し振りです。
年号(中平6年)についてですが、
この時代の元号と皇帝即位の間に
「即位『翌年に』改元する。即位しても翌年までは前の皇帝の元号を使う」
という関係があることを理解する事が、少帝と宦官、献帝と王允と董卓といった連中の意図
などを考察する上で大変重要だと思います。
どういうことかというと、生後百日余で即位し、半年ほどで死亡した後漢の殤帝は、
一応諡を贈られ、皇帝として葬られました。
しかし、同じく幼少で立てられた少帝、北郷侯懿はやはり即位から半年ほどで死ぬのですが、
彼は即位年内に死亡し、諡は貰えませんでした。
殤帝と北郷侯懿の待遇の差は、主に即位から年を越したかどうか、にあったと思われるのです。
即位から年を越し、改元して初めて一人前の皇帝なのです。
(唯一の例外は禅譲の場合)
そして逆に言うと、即位直後の改元は「年を越す」というステップを省略するものであり、
よほど一人前の皇帝にするのを焦ったか、という事と同時に、
前皇帝の元号を否定し、ひいては前皇帝自体を否定するといっても過言ではない
暴挙だったのです。
多分、中平6年問題は最後の「今までの元号を全て廃して元に戻す」
という措置は実は冷静な判断だったのです。
>>799 皇太子と非主流派というのは、少なくとも中国では時代を越えた問題です。
実のところ、専制君主にとっては皇太子はライバルになり得る存在です。
(秦始皇帝と扶楚、漢の武帝と戻太子などが有名ですが、
北宋などでも両者間の軋轢などはあったようです)
この問題とその対策が突き詰められたところに、清の皇太子密建
(皇帝が次の皇帝の名前を書いた紙を隠しておき、
死んだ時に見て書いてある者が皇帝になる。宮崎市定大先生「雍正帝」参照)
制度があるのです。
それと同様に、劉禅の場合も、孫権の場合も、袁紹や劉表などの軍閥でも、
後継者問題の理由は絶対に「君主の愛情や気の迷い」などでは片付かないのです。
具体的には、ニセクロ氏が考察するように
「君主に冷や飯くわされ気味な連中が次は見てろよとばかりに後継者に近付く」
とでも言う面が共通して見えるように思われるのです。
>>802うーん。
そうすると189年12月に翌月の関東諸侯の蜂起を待たずに
曹操と鮑信が挙兵した意図が分からなくなったなぁ…。
この年号差し戻しに関係するんじゃないかと思ってたのですが。
当時、劉弁を「少帝」と呼んだ諸侯はいなかったと言うことですか?
「弘農王」と発言している人たちはいっぱいいるみたいだけど。
それでは一体どの辺から少帝と呼ばれるようになったのかなぁ?
(なんか激しく無知を晒してますね)
もう一つ分からないのは、
どうして12月になってから今更のように年号を戻したかなんですが。
董卓が洛陽を制圧した時のブレーンが単にモノを知らなかっただけなのかな?
>>803そうだった思いだした。
孫権の二宮の変の件ですが、
彼が恰も二人の皇太子を立てたような状況にしたのは、
彼のパーソナリティーに由来する(彼自身は名案だと思ってやった)
判断ではないかと思ったりしてます。
赤壁の戦いの時の周瑜・程普の二人司令官といい、
その赤壁の時、曹操迎撃軍(周瑜&程普)と合肥侵攻軍(孫権&張昭)に
分けたことといい、
更に関羽を敗死させる作戦の時にも二人司令官にしようとして呂蒙に
泣いて止められてることといい、
孫権は、いつも重大な局面でリスクを分散しようとして二股をかける
と言う悪癖があるのです。
本人は選択肢が増えるんだからそれでリスク分散が出来た積もり
だろうけれど、別のリスクを積上げてるだけだったりするのです。
この二宮の変の時も、太子孫登の死がよほど堪えたと見えて、
もう二度とこんなことは繰返さない、2人皇太子にすればいいじゃん?
俺ってなんてナイス判断! 皆が言うところのGJってヤツじゃん?
と思ってたような気がしてちょっと眩暈を覚えつつ呉書を見てたり。
あ。そうか。
少帝を廃したことを黙認してしまうことになるからでいいんだ。
>>804 自問自答レススマソ。
>殤帝と北郷侯懿の待遇の差は、主に即位から年を越したかどうか、にあったと思われるのです。
>即位から年を越し、改元して初めて一人前の皇帝なのです。
待遇の差の原因は即位期間の長短じゃなくて、擁立した勢力の浮沈がからんでるんじゃないかね?
殤帝はトウ太后が擁立してその死後もトウ氏が臨朝称制する体制は変わらんかったけど
北郷侯は閻氏に擁立されて、死後は孫程達が閻氏を倒して順帝が即位したって形だったろ、たしか。
あと「少帝」ってのは、廃され諡号のない元皇帝を便宜的にそう呼ぶだけで実際に「少帝」と呼ばれるわけではないだろ。
>>805 なるほど、孫権は確かに二頭体制的な状態が多かったようですね。
ただ、これが孫権の意思だったのか、本当はやむを得ずトップクラスを増やしたのか、
と言う点は少々考察の余地があるかもしれませんね。
色んな勢力にそれぞれイイ顔するには、妥協や玉虫色の決着と言うヤツも
必要なのかもしれないなあ、とか思うのです。
孫権としては、軍人あがりだけをトップにすれば豪族即ちスポンサーがイイ顔しないし、
豪族の巨魁をトップに据えれば叩き上げの軍人は嫌がる、
おいおいどうすればいいんだよ、となるわけで、
仕方なくどっちも一応は納得できそうな人事をするとトップが二人、となってしまう。
そういえば呉はやたらと大将軍だの大司馬だの仰々しい官位がインフレ気味ですが、
これも同じ意味合いじゃないかと思うんですよ。
誰か一人だけ大将軍とか丞相とかにすると、
別の豪族だの大臣だの将軍だのが「なんで俺はアイツより低いんだよ!」ってなる。
で、みんなに同じくらいの高位を与える事になってしまう、と。
>>807 なるほど。少帝のことサンクスです。
今まで「殤帝」と言われるほどでは無いけど未成年で死んだ皇帝の諡を
「少帝」って言うんだろーなーと思ってたので。
>>808 末期蜀がまさにそれだと思うけど、孫権がいたころのは権力をハンドリング
しやすくするためのリスクヘッジだと思うわけです。
尤もここらへんは未だちゃんとやってないので印象論の域をでないんですが。
ちょっと長く居すぎたようです。それではマジで再来月あたりまで。
>>807 確かに殤帝と北郷侯懿では擁立した勢力などの関係も違いますし、
その末路も異なっていますが、問題は即位期間ではなく、
即位してから正月を迎えたかどうか、です。
おそらく、北郷侯の死が翌年正月以降になり、改元まで済ませていれば、
死後にクーデターがあっても諡は与えられたのではないでしょうか。
でもこの話は根拠があったかどうかあやふやなのでもう一度研究してきます。
あと少帝というのはおっしゃるように諡の無い皇帝(廃位や弑逆による)の
便宜上の呼び名ですね。
余談ですが漢では少帝と呼ばれることのある皇帝として、
恵帝の子である少帝(廃位)、同じく少帝弘(殺害)、北郷侯懿(病死)、弘農王弁(廃位)
がいます。
>>810 >孝安皇帝聖コ明茂,早●天下.陛下正統,當奉宗廟,而姦臣交搆,
>遂令陛下龍潛蕃國,僚遠近莫不失望.天命有常,北郷不永
↑は順帝紀の冒頭の部分の引用
字面を見るだけで北郷侯に諡号がないのが、年を越せなかったからとか
そういう穏やかな理由じゃないのはあきらかじゃないか?
明の泰昌帝も年を越せずに死んでるけどちゃんと諡号はもらってるよ。
ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして。
前スレの最後の方で、張コウの官位将軍位のお話がありましたが
張遼のそれはどんな感じだったのでしょうか。
同じ降将でも黄権や夏侯覇ほど高位ではないのが気になります。
2人の活躍は華々しいのに曹操が与えたのは四方将軍でしたよね。
魏では四征四鎮より下位という書き込みも見かけたものですから。
やはりどこかで警戒されていたのでしょうか。
あと、失礼ですがもうひとつお願いします。
将軍クラスの人物が敵方に降るってどれほどの意味があったと思われますか?
中にはボロクソに書かれる人もいますし、それほどでもない人もいますよね。
たとえば于禁なんかは酷い扱いで不憫な気がします。
当人は抵抗ゼロなわけないでしょうけど、
周囲も含めてどういう意識で見られていたのでしょうか。
>>811 この件については、正直言うと私も自信は無く、うろ覚えの域を出ないので、
おっしゃるとおりで私の誤り、誤解(考えすぎ)かもしれません。
だとしたらすいません。
で、一応少し調べてみると、
百虎通巻1に、「縁終始之義、一年不可有二君」といった文があり、
天子は前任者の死後、年を越えて初めて即位改元し、
それまでは「王」と称しても王ではない、というような微妙な状態だと認識されていた、
ということらしいのです(春秋時代あたりの話ですけど)。
漢も、春秋学におけるこのような学説に基き、
「年を越さず、改元もしていない以上、北郷侯は真に皇帝になっていたという扱いはできない」
という判断がなされた可能性はあるのではないでしょうか。
(実際には北郷侯即位を否定的に扱う口実みたいなものでしょうけど)
明の光宗(泰昌帝)の場合、おっしゃるように即位年に死亡していますが、
死亡後に改元した上で諡を奉っているようですね。
(明でも普通は越年改元)
百虎通に見える春秋の学説のうち、「改元して初めて一人前」という意識は
残っていたのではないでしょうか。
あ、813補。
この話は言い出した者としても、もう少し調べてみます。
他の方もご意見や知識等ありましたらお待ちしています。
>>812 張遼の官位をまず整理してみましょう。
(曹操に下って以降)中郎将、関内侯→
裨将軍→行中堅将軍→盪寇将軍→盪寇将軍、都亭侯→
盪寇将軍、仮節(、増邑)→征東将軍→前将軍(、帛千匹、穀万斛)→
前将軍、都郷侯→前将軍、晋陽侯(二千六百戸)→死亡(剛侯)
問題になるのは征東将軍(合肥の後から曹丕の魏王襲位まで)と、
曹丕が魏王になった時に前将軍に移ったことでしょう。
これはこの時が正しく四方将軍<四征将軍になった時という解釈があったはずで、
それが一番ありそうな気がします。
(張遼の場合はほぼ同格の将軍位に移ったと考えられる。
彼が征東将軍だった時は前将軍が格上で、
前将軍になった時に征東将軍が上という事になった。
昇進にならなかった代わりに帛穀を貰った)
個人的には張遼は別に降将ということで冷遇された形跡は無いように思います。
そもそも、彼(張[合β]やら臧覇やらも同じ)らは、
名目上は漢の叛臣である呂布やら袁紹やらに従っていたというだけの事で、
降伏は降伏でしょうが帰順であり、実力(個人の能力、コネ、兵、財力等)があれば
取り上げられるだけのことです。
一方、黄権や夏侯覇は状況が全く違います。
彼らは、降伏先から見ると、「偽帝に従っていたが正道に目覚めた」と言える訳で、
降伏者を慰安するためにも、他の降伏者(帰順者)を誘うためにも、
実力や元の官位以上の高位に就けてやるという事を国策として行うのです。
>>812 後半の質問ですが、
これも状況次第という面はあるのでしょう。
降伏にしても、切羽詰った場合もあれば利に誘われたような場合もあるでしょうし。
一番この手の話があるのは虞翻で、彼は于禁や糜芳をさんざんにこきおろしています。
彼のような、忠義や名分にうるさいヤツは当時ではもしかすると珍しいのかもしれませんが、
曹丕と張繍の話に見えるように、
一度は敵対していた場合はどちらかが恨みを含んでいる可能性もあります。
また昌キのように、降伏しても法に照らして斬られるという可能性もあった訳ですから、
降伏する者は「降伏すれば大丈夫」と軽い気持ちで降伏していたわけではない、
という点も重要かもしれません。
どのように見られたか、というのも結局は場合場合によって違う、としか言えないですね。
ただ、主君への忠誠を尽くした上での降伏、
とみなされた方が周囲の見方もいいのは当然といえば当然です。
口を挟むようで申し訳ないけど、張遼らは曹一族以外の将領としては最高位の将領と言うべき官位を授かったと見るべきでは?
両者共、曹操の勢力確立前(河北掌握or魏国建国)に帰順した事から、ほとんど宿将と言っても大げさではないでしょうし。
黄権や夏侯覇は国家が確立後の降伏であって、宣伝的な意味も大きいから三公格の位階を与えられたのでしょう。
逆に言えば、曹氏の勢力確立後に降伏したのであれば、黄権らと同等の位階が与えられたかも。権限はともかくね。
その事は黄権らにも言える。勢力が混沌としている最中に所属を変えていれば彼らも、才能に似合った位階で終わったかもしれません。
>>812 于禁は昌キの降伏のときは「包囲されて降伏した者は赦さない」とか言っておいて
自分が関羽に包囲されたときは降伏しちゃうのがなんだかな〜て感じだな。
そこらへんが当時からの評判の低さにつながってる気がする。
>>816 確かにそうですね。
同時期に張遼以上の将軍位を与えられたのはほとんどが曹、夏侯氏などのようですから。
そうなると、やはり張遼らは降将ということでの差別的待遇はされていなかった、
と考えられそうです。
>>817 于禁の昌キの時の話と、自分の降伏の話は、
多分そういうオチとして元々書かれていると思います。
左伝や史記でよく見るのですが、「自分のかつての所業があとで自分に返ってくる」
という構造です。どうも古代の中国では特にこういう因果応報的な話が好きなようです。
「囲まれて降伏した者は赦さない→殺す」
「自分が似たような状況に陥った時に降伏する→赦される」
「周りは「なんだアイツ、自分であんな事言っといて赦されてやがる」と思う」
こういう話の展開にするため、陳寿が昌キの話をあえて于禁伝でクローズアップしたという
側面もあったかもしれません。
考えすぎかもしれないけど。
さて、光武帝の時の南陽豪族というか、まず当時の豪族全体の概要を。
豪族とは、基本的には私有財産を豊富に持ち、
その財産で他の自由民やその土地を買い取り、
あるいは財産によって集めた私兵などに物を言わせて実力で奪ったり、
官僚と結託して行政に寄生したり、
といった手段でより力を付け、財産(=土地と隷民)をさらに増やしていくという連中と
言っていいでしょう。
ある意味では企業が巨大化するプロセスにも似ているでしょうし、
またある意味では暴力団的な存在になるのです。
行政との結託は違法行為ですが、少なくとも私財で他の自由民の私財を買い取ったり、
破産状態になったりその他の理由から自由身分を失った民を奴婢として受け入れるのは、
必ずしも違法ではありません。
当時そこまでの思想、意識は無いにしろ、
自由競争の結果というわけで、政府も全く認めないということが難しい。
それだけに、政府としても取締りが難しいという面もあるのです。
何故政府は彼らを取り締まるかというと、
こういった私的な力で隷属民を増やしていくと、
最終的にはそこはもはや一個の独立国になります。
どんなに人はいても、「ココから先は俺の私有地だ」
といわれれば、税金も取れないし、その中で政府転覆を図っていても捕まえられない。
政府が税金や徴兵の対象に出来ない豪族の隷民が増えれば、
それだけ政府の実力は弱まります。
ましてその豪族の隷民が私有軍として編成されれば、
政府にあだなす存在にもなりかねない。
かくして、政府の側は豪族を可能な限りの手段で取り締まり、叩いてきました。
続き。
漢の政府と豪族の関係が端的に現れているのが、
漢書の酷吏伝と循吏伝です。
「酷吏」とは、単に「残酷な官吏」という意味ではありません(そういう意味も含んでますが)。
主に前漢の景帝、武帝頃に活躍した酷吏とは、
法を遵守し、特に上述したような豪族を抑え、時には弾圧した連中です。
逆に言えば、当時他の一般的な官僚(太守など)は、
多くが豪族と妥協し、場合によっては結託していたということです。
実のところ、それは前漢恵帝、呂后、文帝、景帝のあたりに流行した
「黄老」思想に基く無為自然の政治において見られたと思われます。
あまり厳しく取り締まらない、という態度は、
豪族にとって極めて好都合だった筈なのです。
酷吏の活躍は、数十年にわたる無為自然の政治によって力を付けた豪族の跋扈を抑える、
という意味合いもあったのでしょう。
続き。
一方、循吏とは、酷吏が法治主義的というならこっちは徳治主義的とでもいうか、
寛大な政治で住民の心をつかみ、郡が富み栄える、という太守です。
一見これは大いに好ましい事のようですが、
実のところ、これは先の黄老主義に近く、現状すなわちその地で支配的な豪族などと
妥協、結託し、言ってしまえばナアナアで上手くやっていく、ということです。
この循吏は武帝の後、特に宣帝あたりの時代になって見られるようになるもので、
要するにこのあたりの時代から、
漢の政府は豪族に対して強硬な手段を取って抑えてゆくのを諦めたのです。
漢の豪族は武帝頃の酷吏による弾圧にもめげずに力を付け、
前漢後半にはその勢力を抑える事が出来なくなり、
現状を認めた上でこれ以上の跳梁を抑えると言う方向に政策をシフトさせてゆきます。
漢の側にも哀帝の限田法など政策がありましたが結局は上手くはいかず、
大まかに言えば、こういった状況のなかで王莽の簒奪とその後の反乱続発があったのです。
みなさまありがとうございます。
血族とかお飾り将軍とか功臣とかいていろいろ複雑なのですね。
あと于禁の話、すごい納得しました。
魏の臣たちにとって一番嬉しいご褒美は何だったんでしょうね。
曹操タソにほめられること、だったりして。
>>822 褒美は、嬉しいかどうかは各個人の主観になってしまいますが、
一般的に褒美といえるのは金品と封邑でしょう。
金品はこの時代は帛、穀という現物支給も金(銭)もどちらもありました。
封邑は、「○○侯、○○戸」という戸数で表記され、
その分の上がり(税金)を貰えるものです。
こっちは取り上げられるまでずっと(本人が死んでも息子が受け継ぐ)貰えるので、
褒美としてはこっちの方が格上だし、普通はより喜ばれるものだったと思います。
豪族続き
上述のように次第に勢力を拡大していった豪族は、
官界へも手を伸ばし始めます。
結局のところ、当時において官僚にとって必須の基礎知識としての学問には、
相応の金と時間が必要であり、財力を持ち、しかも仕事は隷民にやらせればいい豪族は
学問をするにも良い環境が揃っているということです。
学問をし官界へ入っていくことで、豪族の発展は新たな段階に入っていきます。
つまり、政府との対立から協調へ、
言い換えれば権力の側に人を送り込んで豪族抑制策を抑え、
更には権力を利用して勢力拡大を図るのです。
前漢の末期あたりから後漢、そして三国時代というのは、こういう時代だったと言えるでしょう。
後漢の南陽豪族ですが、彼らもこういった背景を持つ連中だったと言えるでしょう。
そもそも光武帝劉秀自身が南陽豪族の一員だったと言えます。
彼の家は太守、県令クラスの官僚を輩出していたようですが、
彼自身は農業に従事し、同時に学問(書経)もしていたと言います。
そして兄の劉伯升(糸寅)は任侠的な事を好み、賓客を養っていたといいます。
暴力団の一歩手前なのです。
農業、学問、官界、暴力、という当時の豪族のキーワードが見事に揃っているのがわかるでしょう。
豪族続き
さて、光武帝が挙兵する際、あるいは挙兵以降に力となった南陽豪族としては、
ケ氏や李氏などがいます。
ケ氏はケ晨、ケ禹を輩出した南陽新野の豪族で、
光武帝とは親戚です(ケ晨の妻は光武帝の姉)。
また光武帝の皇后となる陰氏(新野)とも親戚関係があり、
光武帝の一族と、ケ氏、陰氏は姻戚関係でおそらく二重三重に結びついていたと思われます。
豪族同士で通婚し、いわば協力関係を結んでいたのではないでしょうか。
ケ氏や陰氏は後になっても皇后を出したりしているのですが、
彼らの関係は光武帝が挙兵する前からの歴史を持っていたのです。
南陽宛県の李氏は李通を出しました。李氏は貨殖をもって「著姓」だったとされ、
まさに豪族的存在だったと思われます。
そして李通は天文などを学び王莽の元で官僚になりました。
王莽の失政以後の混乱の中、劉伯升と光武帝を担いで挙兵しようとしたのが李通でした。
おそらく、主に経済的なバックボーンとして劉氏を助けたのでしょう。
この宛の李氏は光武帝のみならず、更始帝などと戦った者(李松)などもおり、
各勢力に従ったかなりの大勢力であったことを窺わせます。
「部曲」ってどんなもんなんでしょう?
>>827 「部曲」は、本来は単に部隊、というような意味だったようですが、
三国時代以降の用法では、「私兵の部隊」という意味合いで言われる場合があります。
おそらくそこから転じて、唐あたりの用法では、
豪族の私有民そのものを「部曲」と言ったそうです。
魏延は「部曲を以って先主に随い蜀に入り」(三国志魏延伝)とされていますが、
彼は殺された後に楊儀に「庸奴」と罵倒されています。
おそらく魏延は劉備もしくは他の者の「私兵」としての「部曲」の所属兵だったのでしょう。
私兵というのは普通は豪族や軍閥に囲い込まれた元流民、盗賊などであり、
自由民としての身分、戸籍を失っています。
自由民ではない、即ち奴婢と同等であり、
豪族か軍閥に金で身柄を買われたようなものと思われるのです。
それゆえ、彼はそれなりの家柄、身分だったと思われる楊儀に言わせれば「庸奴」
と言われてしまうような出自だった、と言えるのです。
これなどは「部曲」が私兵の意味合いを持っている一例ではないでしょうか。
>>828 豪族や有力な人物などが私財で養っている兵隊という理解でいいのでしょうか?
「食客」という感じなのですか?
そして、規模・人数としてはどの程度だったんでしょうか?
質問ばかりですいません。
>>828 >庸奴
「他の者の『私兵』としての『部曲』の所属兵」と考えるのが自然だとは思いますが、
「軍人は雇われただけに過ぎない」という意味には採れないでしょうか?
もしくは「そう深い意味は無い」とも採れないでしょうか。
また、魏延伝の「庸奴…」と全く同じ文が、晋書 劉聡載記に現れています。
劉聡が王沈の養女を左皇后としようとしたとき、それを批判して処刑されることになった王鑒。
彼が刑に服す直前、王沈が彼に向けて罵った言葉がそれです。
諸事を統べる尚書令にまで登りつめた王鑒が過去、
他者の私兵などであった可能性は低いと思いますけど…
>>829 おおよそそういうことでいいと思います。
ただ、「食客」と違い、半奴隷のような状態です。
力関係が違うのです。
食客なら、「メシ食わせてくれたから恩を返す」と言う感じでしょうが、
(愛想尽かしたりすれば食客の方から出て行くでしょう)
部曲の私兵というのは、「メシ食わせてやるから戦え。イヤなら出てってくれ」と
豪族に言われてしまうであろう存在です。
でも当時なんかは特に何の庇護も無い民が生きていける世の中ではないので、
奴隷同然だろうが付いていくのでしょう。
規模は正直なところはっきり分かりません。
ただ、一応の参考として、例えば三国志李典伝によれば李典の「部曲宗族万三千口」などと
記録があります。ただしこれはかなりの大口じゃないでしょうか(だからこそ記録に残る)。
>>830 実のところ、魏延伝については確かに「ここまで言えるか」という疑問は我ながら感じます。
少々言い過ぎたかもしれません。
なので、これはあくまでも私の解釈として考えてください。間違っている可能性も少なくないでしょう。
確かに所詮は罵倒の言葉であって、真実を述べる必要は無いですね。
ただ、関連する意味を含んでいた方が罵倒は効果的でしょう。
官僚を罵倒するなら「木っ端役人」、と言うように。
罵倒の言葉でも官僚に「水呑み百姓」と言っても「違うよ」と言われて終わりです。
王鑒の例にしても、どこかしら「庸奴」と関連付けられる何かが王鑒にはあったのではないでしょうか。
話は代わりますが王鑒のその話、劉聡の時のですよね。
当時の官僚(王鑒)って、漢人の名士だったんでしょうか?
匈奴系だとすると、「庸奴」はそのものズバリの事を言っていたかもしれません。
三国時代から西晋あたりの匈奴の中には貧しく、農奴のような状態の者も少なくなかった
ということのようですから(石勒などのように)。
尚書令とはいえ、彼が太原王氏でもない限り「庸奴」であった可能性も否定できない、
ということです。
でも「庸奴」の「庸」は「並みの」「凡人」の意味もあるそうで。
そうなると今までの私の解釈は怪しくなってくるんですよね。
ということで、私の間違いならゴメンなさい。
でも、どちらにしろ「奴」という字が入っているんですよ。
私兵だからというより、私兵にしろ農奴にしろ、豪族に従う(というか使役される)者は
「奴」と大して変わらないんだ、という意識があったのではないだろうか、
と思うのです。
>>833 「奴」には単に侮蔑的なニュアンスの二人称という意味もあったはずだが。
豪族続き
光武帝の創業を支えたのは、上に述べたケ氏や李氏のような南陽豪族、
それと各地の豪族や名門などでした。
このあたりが前漢の創業とは違う点だといえると思います。
前漢では必ずしも豪族などと言えるような勢力家とは限らない連中が
高祖の創業を支えています。
豪族の経済的、社会的な勢力拡大がその変化を生んだのでしょう。
秦末では、まだ自前の勢力を持たない者にも機会があった訳ですが、
それは多分、当時は後の豪族のように強大な経済力等を持つ者が無く、みな同等であり、
同等なので個人の才覚がものを言う時代だったと思うのです。
それが後漢の時には、創業の功臣達の多くは豪族や名門の中で運と能力に恵まれた者でした。
この傾向は三国志の時代には更に顕著と言えるでしょう。
豪族や官界などの地盤を持たずに出世した者は、
前線で戦う将軍以外にはかなり少ないように思います。
持つ者の時代だったのです。
>>834 時間が無いので今は調べられませんが、三国時代以前からの用法でしょうか?
できればそのあたりを教えてください。
私も後で調べてみます。
「匈奴」の「奴」は?
>>832 彼を弁護した西河の王延は、列伝五十八に立伝されてるんで恐らく漢人だったと思いますけど。
ともあれ、なるほど判りました。ありがとうございます。
「奴」について
賤称として「奴」という用法は、確かにあったようですね。大漢和辞典しか見てないですが。
「庸奴」の「奴」がそれかどうかはわからないですけど。
あと匈奴の「奴」は、蔑称半分、あと半分は音訳でしょう。
「奴」にあたる音だったので、
漢字に起こす時に丁度いい蔑称だった「奴」を当てたのではないかと。
正直、魏延伝の「庸奴」については私が先に述べた説に自信が無くなって来ました。
830氏その他みなさんゴメンなさい。修行が足りんです。
あと別の話ですが王鑒はどうなんでしょうね。
匈奴劉氏は太原王氏と交流があったそうなので、太原王氏の可能性もあるんでしょうか。
魏延について
前に魏延は部曲の兵出身だろう、と書きました。
当該部分の原文は「以部曲随先主入蜀、数有戦功、遷牙門将軍」。
ここだけなら、部曲を魏延が率いている、という可能性もある、とも思えます。
しかし、例えば三国志霍峻伝によると、「部曲数百人」を有していたらしい霍峻は、
荊州で劉備に従った時点で中郎将になっています。
もし魏延が部曲のリーダーだったとしたら、
この霍峻のように扱われている筈ではないでしょうか。
しかし実際には魏延は戦功を立てて初めて牙門将軍になっています。
要するに、部曲のリーダーとしてしかるべき扱いを受けておらず、
部曲の兵から抜擢されたと考えた方がいい、ということです。
豪族、名士が幅を利かせる時代ではありますが、
こういった大抜擢を受けた人物はいないわけでもありません。
例としてはケ艾と石苞がそれで、彼らは揃って典農部民、即ち屯田民でした。
楊儀と魏延、鍾会とケ艾の関係がしっくり行っていなかったらしいのも、
彼らの出自を考えれば仕方が無かったのかもしれません。
くどい
確かに、バックグラウンドがしっかりしているかしていないかは
重要な要素だけど、出世の仕方は人それぞれだと思うんだが。
霍峻がそうだったからといって、ちょっと早計すぎやしませんか。
一番異例の出世は劉備本人だしなw
>843
それでも、魏延のその後の経歴からすると、兵卒上がりだったような感じだけどね。
ほとんど軍務しか努めてないから。
それなりのバックグランウンドがあれば、あれだけ軍務に隔たるような事は無いと思うけど。
>>842 確かにそうでしたね。
>>843 同じく、これは論証などになりませんね。
粗いことをしてしまいました。
今回の件については根拠もあやふやなことを適当にダラダラ書き連ねてしまい、
スレ汚し失礼しました。
この話については、私はより詳しい方々に教えてもらう事を期待することにします。
モノの輸送なんてどうなっていたんだろ?
海運ってか河運がメインだよね?
ウソウみたいな食料補完地みたいのは
あちらこちらにあったのかな?
漢城のような籠城戦は無かったのだろうか?
泗水と沂水に挟まれた下邳は海運で栄えたんだろうか。
呂布を水攻めにしたところだけれども。
>>847,848
正直、私も詳しくはないのですが・・・。
秦、漢は巨大な食料貯蔵地「敖倉」が河内郡にあり、
ここが争奪の対象になりました。
(司馬遼太郎「項羽と劉邦」などでご存知の方も多いかもしれませんが)
しかし、続漢書の郡国志では河内郡にあるのは「敖亭」と、「倉」ではなくなっており、
もしかすると後漢あたりで敖倉は縮小・廃止されてしまったのかもしれません。
三国志の時代は、長い間なにしろ深刻な食糧不足でしたから、
長期的な篭城戦というのが成り立ちにくいという面があったように思います。
董卓の作った「眉β塢」は、三国志董卓伝(と注)によると30年分もの穀や、
数万斤もの金銀、数え切れない財宝があったといいますが、
これはその後どうなったのでしょうか。
どちらにしてもこれは特殊な例だと思いますけど。
カヒについては、そこが当時の水運の要衝だったのかどうか調べがついていませんが、
水が合流するところなら確かに水運に便があるように思えます。
詳しい方教えて欲しいです。
>>847-848 物資の集積・輸送について、拙いながらも自分の知ってる限りで。
(史料は多くが「正史」によってしまいますが……)
軍事活動を行うに際して、食糧の確保・輸送は死活問題であるけど、
食糧・物資の集積地や輸送路の完備は、曹操の屯田政策によって
食糧供給が安定するようになってから、より顕著になったと思われます。
食糧などの軍需物資の集積・保管を目的とした施設を「邸閣」といい、
資材は北方では主として石材、南方では木材で造られていたらしく、
これはおそらく風土など保存環境の差が影響していると思います。
この邸閣群は軍事拠点近郊などに設置され、ここから各前線に輸送や
支給が行われていったものと思われます。
大規模な軍事活動が行われる際には、それに備えて侵攻口や前線に
新たに設けられたり、戦時にいたってはこの邸閣群の焼討や奪取・争奪の
成否が戦局に大きな影響をあたえるようにみうけられます。
邸閣の規模・集積量については自分はよく知らないのですが、たとえば
呉の赤烏年間、夷陵近郊・雄父の邸閣には三十万石の食糧が集積されて
いたらしく、これは単純計算で十万の軍勢が優に一ヶ月以上の軍事行動を
可能にする量だと思えます。
この邸閣は、王昶と王基による侵攻によって魏に奪取されています。
また、毋丘倹と文欽の叛乱に際しても、南頓の邸閣を重視した魏軍が奪取し、
戦局を有利に導いてます。
他にも官渡の戦役や諸葛亮の北伐、魏呉の抗争など、事例はありますが、
兎に角、戦争時は無論、平時においても食糧の安定供給がいかに重要視
されていたかは言を俟たないと思います。
また、ここまでに述べた事項は、屯田政策や灌漑整備による食糧の確保や
水陸の輸送路の整備などと密接な関わりがあるのも当然なんでしょう。
有名どころでは曹操の屯田でしょうが、他にも魏や呉は大規模な水路を幾つも
設けていて、洛陽やギョウ、建業など首都近郊には輸送を主目的とした運河が
造られていたみたいです。
これに反して陸路を用いた輸送は、物資のみならず運送用の人員や家畜と
それらを維持するための食料も余計に負担となる分、効率・輸送量ともに水路
に比較して悪かったんでしょうけど、これは蜀の桟道の例からみても、わかり
やすいかと。
ほんとは屯田も説明できればいいんでしょうけど……と、長々とすんませんす。
>>850,851
おお、詳細な説明ありがとうございます。勉強になりました。
長々というほどではないと思います。今後もよろしく。
ところで、水運関係であとから思い出したんですが・・・。
黄河についてですが、秦、漢の発展と黄河は切っても切り離せない関係でした。
当然といえば当然で、農業生産と、生産物の輸送、双方に黄河の水が欠かせないからです。
漢以前では(これは黄河ではないですが)魏の西門豹、秦の鄭国(鄭邦?)の
事業が有名です。彼らは灌漑によって農地に水を引き、生産力拡大を果たしたのです。
そして、漢では黄河について大事件が起こります。
漢武帝の初期、黄河が決壊し、河道自体が南に移動してしまったのです。
新たな河道は淮水、泗水とつながり、東郡、山陽方面の鉅野沢に注ぎました。
これは言うまでも無く重大な影響を与え、
20年後に梁、楚での不作はおそらくこのせいでしょう。
これもご存知の方も多いかもしれませんが、黄河は移動するのです。
カヒのあたりで輸送といえば、サク融が横領して寺建てたって話を思い出すな。
物流にも制度はあったよね?
>>853 そういえばサク融が「浮屠寺」を作った財源は、
広陵、カヒ、彭城の食糧輸送を横領して得たものでしたね。
その辺の記述(後漢書陶謙伝)だけでは、水運かどうかはっきりしませんが、
多分水運も含めての輸送でしょうね。
サク融についての記述からすると、広陵に物資が集められていたらしく、
広陵は多分水運で物資の集積地になっていたようです。
長江を利用できますし。
(広陵は後の時代でも軍事的要地の一つ。東晋の北府はここと対岸の京口が拠点だった)
>>854 もちろんそうでしょうけど、私はなかなかその関係の記述などを見つけられないでいます。
三国時代関係では、典農中郎将任峻が官渡の戦いの時に使用した
輸送隊の防衛方法なんてのはありますけど。
「賊」に奪われないように、千乗(馬車一両=一乗)ごとに一「部」(部隊)とし、
「十道」から行かせて(分散して出発し、奪われる場合のリスクを軽減?)、
更に二重に護衛の隊列を組んだとか。
(三国志任峻伝より。説明が間違っていたらゴメン)
とにかく厳重で、奪われない事を重視した方法だったようです。
実際には曹操は官渡で兵糧不足に悩んでいたので、
「もっと早くよこせ」という考えもあったのかもしれませんが、
輸送する物資も無尽蔵ではないので、
当時は「少しくらい奪われてもいいから残りを速やかに届ける」
という方法は取れなかったのではないでしょうか。大本の物資が少なかったということで。
唐突な質問だけど
三国時代の夫人と妾の違いは明確に違うものなの?
『呉書』陳武伝に陳武の妾腹の子陳表が、正妻の言い付けを聴かなくなった自分の母親をいましめている話がありますね。
>>856,857
正妻と側室の関係という意味だと思いますが、
(この辺も特に詳しい訳ではありませんが)
これは明確に違う、と言ってもいいと思います。
857氏が引いている三国志陳表伝では、
彼の兄陳脩死後、庶子である陳表の母が嫡母に対してデカイ顔をし始め、
それを息子陳表が諭して嫡母に仕えるようにさせる、という話です。
これは父の死後の事ではありますが、
「嫡」とそれ以外の関係はよく分かるのではないかと思います。
字の本来の意味からいくと、「妻」は「己と等しい者」という意味で、
それに対して「妾」は「罪ある女で、君に接する者」だそうで。
(「説文解字」より)
こういった点などに見えるように、古代中国の観念として、
正妻は一家の主と同等で、それ以外は「妾」として奴隷に近いような存在、
という考え方があったのではないでしょうか。
臣妾・奴婢だね。
>>859 臣妾といえば、漢の上奏文の形式では、
自称は「臣」なんですが、女性の場合は「妾」を使用するようです。
(漢書外戚伝、成帝許皇后伝で許皇后が使用している)
どちらも天子に対する奴隷、とへりくだる意味合いなんでしょうか。
そして、その「妾」という字が「側室」を意味する言葉になっている訳で、
「主と同等」を意味するという「妻」=正妻に対して、「妾」=奴婢、召使という意識だった、
ということになるのでしょうか。
(もちろんこれは本来の意味では、ということで、
三国時代にも全く同じだったとは言いませんが)
黄河の治水について
これは上の水運とはまた違う話題ですが、一応関連して。
雑談みたいなものだと思って下さい。
漢書溝洫志などを読むと、当時の黄河の氾濫対策は
それなりに洗練されていたように思われます。
地下に水路を通す「井渠」、浚渫、遊水地、河水の分散化などの技術が確認できます。
むしろ財政問題等による対策の遅れ等の人災によって黄河の水害が拡大化した面が
強いようにも思われます。
専門家でないのでなんとも言い難いですが、技術という意味では流石といえるのでしょうか。
黄河は武帝のあと、成帝のときにも東郡等で氾濫し、大きな被害を出したようです。
そもそも黄河は黄土が下流に堆積するので、こまめな浚渫などによらなければ
いずれ氾濫する運命なのです。
武帝の時の黄河の河道が変わった事件も、黄土の堆積が行くところまで行ってしまい、
海まで流れなくなって水の逃げ場が無くなったための現象と思われ、
確か後の時代にも起こっているはずです。
(関係無いかもしれないけど北宋の首都として栄えた開封は大部分が水没しているそうで)
成帝の時にはなかなか対策に苦慮しており、
黄河対策が上手くいかなかった事は、
もしかすると皇帝の権威失墜と、財政・民政面でのダメージという両面から
前漢の王朝に悪影響を及ぼし、新天子待望論が生まれる下地を作ったのかもしれませんね。
>>860 故・宮崎市定が『東洋的古代』で述べられてます。
古来、(家内) 奴隷の男女は其々臣妾と呼ばれていた。
例えば、左伝僖公十七年の「男為人臣.女為人妾」、越王句踐世家の「句踐請為臣,妻為妾」がそれである。
だが、時代の移りと共に、家来が自らを臣と卑下して呼ぶようになり、それが通例化された。
しかし、実際の奴隷が消えたわけでもなく、紛らわしいことから、新たな名称がつけられた。
名称には『僕妾』、『奴婢』などあり、結局、『奴婢』が定着した。
伝説の聖帝の頃から黄河の治水は
国家の運命を左右していましたね。
物流の話は情報量が少ないみたいで
苦しめてしまったようで申し訳ない。
こういった脇の話を知ると
三国志の時代をイメージしやすくなるんで
続けて欲しいです。
展開無視で申し訳ないのですが、
呂壱事件って孫権が裏で糸を引いていたってことないですかね?
キエン事件といい、二宮の変といい呉の四姓狙い撃ちという気が
するのですが?妄想しすぎですかね。
>>862 おお、宮崎大先生ですか。そこまでチェックしてませんでした。
関係無い雑談ですが、宮崎全集は今にして思えば買っておくべきだったと後悔してます。
>>863 禹王とかの話ですね。
黄河の治水については、前漢あたりでは実は儒者が専門家として意見を述べています。
なぜかというと、尚書(書経)には黄河の治水などを述べる一編があり、
これを研究している尚書学者は
当時においては治水理論の学者と見られる存在だったのです。
(成帝の時の許商など)
物流関係については、宿題ということで。不勉強で申し訳ないですが。
もしくは詳しい方々をお待ちすると。
>>864 三国志歩隲伝には「中書呂壹」とあるように、
呂壹は中書だったようです。
多分呉の中書は非宦官の士人でないかとは思いますが、
いずれにしても皇帝の側近中の側近、秘書的な職務だった筈です。
つまり、現代日本の政治家が言う「秘書が勝手にやった事」と同じで、
呂壹がやった事も事実上孫権がやった事なのです。
(現に呉主伝では呂壹事件後に孫権は自分の罪を反省する、というポーズを取っている。
丞相とか将軍とは違い、「信じて任せたのに信頼を裏切った」ということでは済まない。
中書がやった事の命令を直接出したのは孫権なのだから)
裏どころか、表向きにも孫権の意向であると当時から考えられていたと思います。
>>864 上の呂壹事件の話の続きですが、
呂壹事件は以上のように孫権の命令、意向であったことは明らかなのです。
そして、尚書曁艶といい、呂壹といい、政敵がいずれも豪族系大臣が中心である事などを
考えると、曁艶、呂壹そしてその背後の孫権は、豪族系大臣を主な対象として
曁・呂のしたような官僚の評価、弾劾等を行ったのではないかと思います。
(事実上豪族連合政権である呉では、豪族の発言力は大きく、
そこで皇帝孫権の権力を拡大させていくには、
ある程度は豪族の頭を叩いていく事も必要だったと思います)
そして、こういった孫権の二人の側近による事件を経て先鋭化した孫権と豪族系大臣の
対立が、皇太子問題という場で衝突したのが二宮事件である、
というとらえ方もできるのではないでしょうか。
怨霊氏 レスありがとうございます。
呂壱の官職から推測も可能なんですね。
そういえば、二宮事件でも孫覇派の孫弘が中書令ですね。
ここにも孫権の影が・・・。
正妻に較べて、妾に対する扱いは現代人の感覚でみても酷いように思えます。
『礼記』はそのあたりに詳しいですが、かの孔子でさえ、離縁した妻の服喪を
除かない子に、長すぎるとたしなめてますし、孔子とは関係ない話でも、とある
嫡男が母の葬儀に際して費用の工面がつかないところへ、ひとつの提案として
「庶弟の母を売っては?」とあったりするようで、随分と格差をつけられていた
んでしょう。
>>852 こちらこそ。
>>867 そうなんです。
中書ってだけで全て孫権の命令、とまでは言えないかもしれませんが、
少なくとも「中書が実行者ということは孫権がOKを出したんだな」、
と当時の人は解釈したと思います。
二宮の方で出てくる中書令孫弘や、陸遜を追求したという「中使」なども、
それぞれ皇帝孫権の側近や使者であり、
こういった者たちがどう動いていたかというのを見れば、
当時の人々は孫権がどういう立場(どの陣営)だったのか察したと思います。
>>868 やはりそういう感じですか。
礼記の記事の紹介ありがとうございます。
これは少々妄想気味で根拠も薄弱なので話半分に聞いて下さい。
古代中国の観念として、天と地、陰と陽、といった二元論が大元にあったようです。
そこでいうと男に対して女(妻)があるという事になるでしょうけど、
陰と陽と同じ1対1であり、他の女性はそこではノーカウント。
陰と陽のつりあいを重視するので、女性=陰だけ多いのは困るのです。
というように正妻だけが祭祀などの公的(?)な場面では問題になるわけで、
それ以外の女性=側室は下働き=奴婢=「妾」、としか扱われないのではないでしょうか。
まあ、実際の家というものを考えても、正妻との区別をハッキリしないと混乱の元、
という現実的な側面とかもあったとは思いますけど。
さて、ここいらで某先生に敬意(&弔意)を表して閑話休題。
そろそろ500KBですね。
前スレは確か795で500KBでしたが、今回は900行くか行かないかで500KBでしょう。
とにかく続けるなら次スレの時期。
特に反論や提案が無ければ、近日中に新スレ立てます。
今度のスレタイはどうしましょうね。
(案)
【思想や】 三国時代に関する制度や政治や文物を語る 【事件も】
「漢」をスレタイから外して、三国時代に絡むこと全体を語る事にしてみました。
もちろん漢の事も三国時代との関係の中で語ります。
問題はスレタイの文字数。大丈夫なのかな?
うん、次も行きましょう。
孔明は軍師か!?みたいな事で罵りあってるようなスレより
こういった当時の背景を語る方が勉強になるしね。
質問するばかりで申し訳ないのですが
次スレもよろしくです。
>>871 識者によれば、SETTING.TXT曰く、
BBS_SUBJECT_COUNT=48
とのこと。
おそらくではありますが、全角文字ならば24文字で抑えなければならないようですね。
なかなかこのスレに書き込めるほどの知識も疑問もありませんが、常日頃より楽しませていただいております。
>>872 ありがとう。次スレできたらまたよろしく。
>>873 そうでしたか。どうやら案では文字数が多すぎるようですねえ。
今後もお付き合いいただければ幸いです。
ではもう一度(案)
【政治】 三国志の制度や文物等を語る 【事件】
「等」を入れてみました。
正妻と側室ですが…日本の話で恐縮ですが、正妻だけがいわゆる「妻」で、側室というのは
子供を産むための単なる使用人であった…というのを読んだことがあります。で、側室が
生んだ子も正妻の「実子」(実の子という意味ではなく、その「家」の正式な子)になるらしいです。
次スレ楽しみです。
私は正史読んでるだけってレベルなもので、
ディープな内容は読むだけになってしまいがちですが、
次スレも良いスレになるといいですね。
改名改姓に関しての質問だけど何か手続きとか必要だったの?
あれ?
側室と妾は同じモノなの?
側室はまがりなりにも妻という地位を得た人だと思ってたんだけど
改姓といえば朱然が、養父である朱治の喪があけたとき、
もとの姓である施氏にもどりたいと孫権に願い出たけど許されなかった。
のちに朱然の子朱積が上表して元の施姓に戻っているから君主の許可が必要だったのかな?
改姓って他に誰がしましたっけ?(養子と改姓はべつものかもしれませんが)
奚→ケイ[ケイ康] 耿→簡[簡雍] 聶→張[張遼] 氏→是[是儀]
880氏どうもです。張遼は先祖が匈奴に恨まれていたから改姓したんですよね。
ほかにも孫権の弟の孫朗が罪を得て丁姓を名乗らされたり、
晋に亡命した孫秀を孫皓が孫秀の姓を獅ニ呼ぶようにさせたように、
罰で改姓させた場合もあるようですね。
>>875 そのへんは古代中国と似ているような。
側室(正妻以外)が産んだ子も正妻の子として扱う、
ってのは三国志の時代にもその形跡がありますね。
有名どころでは曹昂とか。
彼は当時の曹操の正室丁氏から、本人の子であるかのように扱われています。
>>878 それは私は正直言って厳密に区別しないで使っていました。
間違い等あったらすいません。
なお、漢文では前漢からすでに「側室」なる語はあったようですが、
特におっしゃるような意味合いではないようです(大漢和辞典より)。
一方、少なくとも古代では「妻」は夫に対して同時には一名のみ、
という原則があったようです(
>>858)。
>>876 そのようにおっしゃていただければ幸い。
疑問について色々と議論できるスレにしたいものです。
>一方、少なくとも古代では「妻」は夫に対して同時には一名のみ、という原則があったようです
舜とか妻二人ぐらいいなかったっけ?
>>877 戸籍を有する者であれば、最低限その戸籍の書き換えをする必要はあったでしょう。
どのように、とかそういうのは流石に分からないんですが。
>>879の言う朱然、施績の例のように皇帝の許可が必要だった実例がありますが、
これは何かそれなりの理由があったのではないでしょうか。
旧姓(本姓)に復するってのは、
彼らの場合は朱氏からの決別宣言に等しいのかもしれませんし。
>>880,881氏の言う以外の改姓の例では曹嵩とか、
馬忠、王平、陳矯、劉封・・・
当時は母方の家を継ぐ為に改姓することがあったようですね。
>>883 確かにそうですね(史記五帝本紀)。
等しい存在って意味はあっても1対1とは限らないのかもしれないですね。
(神話みたいなものでしょうから、
すぐ一般の士にも当てはまるかどうかはまた議論が必要かもしれませんが)
失礼しました。ご指摘ありがとう。
さて、現在488KBということで、そろそろ次を立てましょうか。
前は本当にギリギリでしたし。
さて、残りは何を語り合いましょうか。
鮮卑の事にしようかとも思ったんですが、
長くなるかもしれないので後回し。
ところで小ネタですが・・・。
太原王氏の王リョウ(反乱したヤツ)と令狐愚はおじおいの関係ですが、
王氏と令狐氏って、後漢初期から仲が良かったようです。
後漢書列女伝、太原王霸の妻の条によると、
王霸の友人に同じ郡(太原)出身の令狐子伯というのがいたそうです。
王リョウと令狐愚は、そんな200年の付き合いの家同士だったんですね。
改姓はいくつもあるけど改名は令孤愚ぐらい?
>>890 思いついたところでは、「範」と付けたら親戚とかぶっていたので改名したケ艾、
姓ともども変えて原形を留めなくなった馬忠(蜀の)、
なんてのが。
あと有名どころでは李厳から李平とか、陸議から陸遜とか?
他に、「一名」がある者も結構いるようですね。
どういう場合に「一名」があるのかわかりませんけど。
「一名」の方で記録されていると誰だか分からなくなるので困るんですけどね。
例
尹礼、一名「盧児」
(三国志臧覇伝)
→「魏将尹盧」(三国志呉主伝、黄武元年)
この尹盧は臧覇とともに出てきており、尹礼と同一人物の可能性が高いと思いますが・・・。
確証も無いのが残念です。
>>891・892
即レス多謝。
あと廖化(淳)、曹奐(コウ)なんてのもいたね。
パッとは思い浮かばないもんだ。。。
>>893 意外といるもんです。曹奐の場合は皇帝で特殊ですね。
諱として臣下全員が避けなくてはいけませんから、
改名はある意味仕方ないというか慈悲と言うか。
孫休って、皇子の名前の漢字を勝手に作って避けやすくしたのに、
自分は「休」なんて避けにくそうな名前を変えてないですよね。
なんだそりゃ。
大した話ではないんですが、
曹操の子、燕王宇の子が曹奐、魏の元帝です。
で、燕王宇は曹奐が即位した時健在でした。
傀儡とはいえ皇帝の父が健在ということで、
儀礼などについて朝廷でも議論があったようです。
結果、燕王に対しては「不臣の礼」を執る事となり、
吏・民すべて燕王の諱(宇)を避けることになりました。
この点についてだけいえば、燕王は皇帝と同等の扱いになったのです。
そんな燕王ですが、どうも魏の世を生きぬいたらしく、
(三国志本伝に死亡の記事が無い)
おそらく魏晋禅譲の際に他の諸侯王と同様に県侯に降格されたのでしょう。
(晋書武帝紀より)
皇帝の弟から皇帝の父、そして県侯と、
本人に特別な事績はないんですが波乱の人生です。
ところでさっき晋書見てて見つけたんですが、
晋の武帝の泰始2年2月に、「除漢宗室禁錮」という一文がありました。
これは、漢の宗室=劉氏の禁錮を解除した、という意味だと思うのですが、
ということはそれまでは禁錮されていたんですね。
禁錮したのは魏でしょうね。
更に、泰始元年12月には「除魏宗室禁錮」という文も。
この泰始元年12月ってのは禅譲を受けた時なので、
禁錮したのは晋ではないでしょう。
魏は魏の宗室を禁錮していたのですね。司馬氏がしたのだとは思いますが。
司馬懿がやった、魏の諸侯王を軟禁した措置の事でしょうか。
劉禅や孫皓の扱いはどうだったんでしょうか?
挿話は結構あるみたいだけど。
>>897 晋は曹奐、劉禅、孫皓、そして曹芳を始末せず、一応礼遇したようです。
曹奐は禅譲後に陳留王に封ぜられ、38年後に死亡しました。
そこで漢の献帝の例に倣い元皇帝と諡されています。
劉禅はケ艾に降伏すると、まずケ艾の独断で驃騎将軍にされ、
おそらく名目上はその命令として蜀臣の降伏を促したようです。
その後洛陽へ移住させられ、有名ですが「安楽県公」に封ぜられます。
食邑1万戸だそうです。泰始7年に死亡、諡は思公。
例の司馬昭にからかわれた話は三国志後主伝注に引かれています。
なお、劉禅の正室張氏(張飛の娘)は劉禅とともに移住しましたが、
側室の李昭儀は蜀の後宮の者が諸将に妻として与えられると聞き、自殺しました。
(昭儀は前漢では皇帝の夫人としては皇后に次ぐ位。
魏では県侯レベル。いずれにしても高位の夫人です)
なお劉備の直系子孫で生き残ったのは甘陵王劉永(劉備の子)の子孫だそうです。
劉禅の子は永嘉の乱で全滅。
劉永の孫、劉玄は李氏の立てた蜀へ逃げ、李雄によって「安楽公」とされました。
かの孫盛は東晋が李氏政権を討ったときにその劉玄に出会った、とされています。
(三国志後主太子エイ伝)
>>898 最後、「されている」というか孫盛本人がそう言っているんですね。訂正。
孫皓は降伏後、洛陽に遷され「帰命侯」とされました。
五年後死亡。諡は伝わっていないようです。
また孫皓の太子孫瑾を中郎、その他孫皓の皇子で王になっていた者を郎中にしたそうです。
孫皓の場合、易で占わせたら、「洛陽に孫皓の車が入る」という結果が出て喜んだら、
降伏して洛陽に連れられるというオチだった、という話が三国志孫皓伝注に。
孫皓が「侯」で劉禅が「公」と扱いが違うのは、
理由は幾つか考えられますが、
劉禅の方が降伏が早かったとか、孫皓の評判が悪かったとか、
そんなところなのでしょうか。
そして曹芳も実はしぶとく生き残っており、
廃位後に斉王とされ河内に幽閉されていたようですが、
晋が禅譲を受けるとショウ(召β)陵県公とされ、泰始10年43歳で死亡。
詞と諡されました。
考えてみれば父母の正確な記録も残らず、
最初から最後まで誰かに見張られたような傀儡皇帝でしたが、
一応は非業の死を遂げずに済んだのですね。
もう流石にラストが近付いてきたので、
ちょっと前に紹介しようと思いつつやめていた人物について。
石苞
すこしだけ前に書きましたが、彼は少年時代にあのケ艾と友人だったようですが、
ケ艾といえば典農部民、即ち屯田民として農業に従事していましたので、
石苞も多分同じ屯田民だったのでしょう。
ただ、ケ艾ともども非凡な才能を持っていたらしく、
共に抜擢を受けました。
彼は司馬師の中護軍司馬となりましたが、
どうも「好色薄行」とされるようなところがあったそうで、
司馬懿にダメ出しされています。しかし司馬師はそれを庇い、その後は
業βの典農中郎将、太守、徐州刺史などを歴任。
彼は雍州方面に付いたケ艾と対照的に青州方面を任されるようになり、
諸葛誕の乱や対呉戦線で活躍。
司馬昭の死に際しても葬礼を定め、更に禅譲を魏帝に勧めるなど活躍。
司馬炎の元で大司馬となります。
と、このように石苞は晋建国の功臣の中でも優れた者の一人と言って良く、
出自を考えると破格の出世というやつなのでしょう。
そして、その末っ子が石崇です。
実は石崇を紹介したかった。
石崇はそんな父や、それなりに高位に昇った兄達に負けない人物ではありました。
父が生前に遺産分与しようとした際、石崇に分け前が無いのに対し、父の石苞は言いました。
「こいつは大きくなったら自分で稼ぐぞ」と。
20歳程度で県令となり、その後太守となり、対呉戦で功を立て郷侯になります。
晋の武帝にもその才ゆえに目をかけられました。
その後、荊州刺史、領南蛮校尉などになり、その後征虜将軍、仮節、監徐州諸軍事に。
彼を紹介したかったのはその贅沢比べの逸話の数々です。
他の貴族、王トが四十里にも及ぶ長さの錦を作ったと聞けば五十里のものを作り、
武帝が高さ二尺の珊瑚樹を王トに下賜したと聞けば、
石崇は見せてもらうとそれをぶち壊し、弁償とばかりに三、四尺のものを渡すという具合。
成り上がりの家系故にことさらに贅沢自慢したのかどうかは知りませんが、
とにかくものすごい財力だということは間違い無さそうです。
これがたまにとんでもない贅沢の代名詞として使われる事もある石崇です。
怨霊とか言う固定が、自分の知識を自慢するオナニースレはここですか?
905 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 22:22
>>903 たぶん違うでしょうが、あなたのような知識も見識も理性もない方が
入るべきスレッドではないことは間違いありません。
怨霊氏、続きドゾー
>>905 怨 霊 必 死 だ な (藁
オナニーは夢板でどうぞ( ´,_ゝ`)
彡川川川三三三ミ〜
>>1 川|川/ \|〜 プゥ〜ン
‖|‖ ◎---◎|〜 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
川川‖ 3 ヽ〜 < 僕のスレが荒らされてる〜。
川川 ∴)д(∴)〜
川川 〜 /〜 カタカタカタ
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
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909 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 22:27
率直な疑問なんですが、石崇はどうしてそんなに贅沢できたんでしょうね。
よほど大規模な荘園でももっていたのでしょうか。
それとも役得で儲けたのでしょうか。
>>909 父からは財産を貰わなかったけど、
官にあるときにはきわどい事もしつつ財産を築いたそうです。
まず役得で儲けて、それを荘園経営にあてたのでしょう、きっと。
際どいことってどんなこと?
なんでも、無理に商客を遠くに遣らせた、とか。
権力を笠に着て商売したのか?
急に荒れてきましたね。
sageで
もうすぐ500KBのようですね。
前はすぐ落ちましたが・・・