松平長親から松平元康までのことを語ろう
2 :
756 ◆q.E.rgU3Fs :03/09/02 19:16
3 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 19:19
松平定知について語ろう
日本史板でやれよ。ここは厨板だぞ。
松平元康は家康だから問題無いと思われ
徳川家康のことだろ?
三代目の信光がすごいよね。
清康が、あんなアホな殺され方しなければ…。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 22:44
ketsudaira man
容保もこの家系ですか?
13 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 22:52
>>12 養子に入ってなければそう
会津の松平家は秀忠の隠し子の子孫の家
14 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 23:01
不公 平
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 23:02
人類が滅亡した翌日、私は散歩に出かけた。
もう冬だというのに木は青々としている。
動物たちの表情は希望と活気に満ち、植物の葉に溜まった水が太陽光を反射していた。
「人間が自然を壊す時代は終わったのだな」
昨日まである家で飼われていたポチが、ほっとしたように私に言った。
「ええ、これからは動物と植物が支え合う時代なんですよ」
普段は滅多に話に加わらないサルのジョニーが、ポチの肩に手を置いて優しく言った。
「太陽を御覧なさい。いつもより満々と輝いているではありませんか。」
通りがかりのカラスがそう言って微笑んだ。
血統書付きの猫は長年使ってきた証明書を食い破り、黒光りする首輪を川へ投げ捨てた。
「人間への愛想はもう不要だ。これからは世界中に大自然の恵みを届けよう」
一仕事終えた表情で猫は言った。
青空のなかををツバメが横切っていった。
松平長七郎のことも語っていいの?
>>16よ、
>>1を見よ。。。
松平長七郎は江戸時代初期の人だから範囲外、のはず(w
19 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/03 06:57
1から語らんことには始まらんぞ。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/07 14:48
まっぴらだね。
たて逃げかよ
たて逃げならば、せっかくなので引き取ってみよう。
とはいえ知識系コテではなく単なる空気なので、知識不足については多少の
容赦を願いたい。
松平といえばやはり元康の周辺が気になるわけでして。
特に気になるのは祖父清康です。
守山崩れがなかったら松平家は違う道筋を通ったと思うんですが……
今川の西進を阻む場所にいるので、尾張(織田信秀の台頭っていつ頃だっけ?)
と同盟して今川・武田と争うことになるんでしょうか?
で、さすがに妄想だけではアレなんでぐぐってみてたところ……
清康、織田とやりあう気満々じゃん。
東はどうやって抑える心算だったんだろう……
東三河は吉良氏の名残があり、戸田氏や牧野氏の勢力もあり穏健だったのでは?
少なくとも清康期はいきなり今川勢が攻略できる状況にはなさそうです。
>>24 なるほど。
しかも更にちょっとぐぐってみたところ、守山崩れの頃の今川って後北条とガチで
やり始めた頃なんですね……
(駿・甲・相三国同盟は1554年)
そうすると清康が存命ならば東に集中して戦えるわけか。
清康VS織田信秀って見ごたえありそうですね。
26 :
無名武将@お腹せっぷく :03/09/11 01:06
松平春獄参上!
清康は家督を得た時から広忠が跡をとるまで長親・信忠が健在ですね。
長親に至ってはかの伊勢新九郎を退けた軍略の実績もあります。
性格破綻者とされる信忠もあわせて、清康の後方援護は意外に心強い
状況であったのではありませんか?
28 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 08:10
>>1へ
ここは三國志。戦国ミーハー板なんだよ。別名コーエー板。
つまり、ここは信長の野望とか光栄三國志から三国志や戦国に興味を持ったファンが集う板だよ。
こういうマニアックで知識を要求される板は日本史板に立てた方が良いぞ。
ここは誰も家康以前の松平がどうとかいうことには興味がない。
ゲームにも活かせる話だよ。変な誘導も少し待ったら?
>>27 言われて軽くぐぐってたんですけど……、ちょっとした疑問が湧いてきました。
桜井の信定が清康の子広忠を岡崎から追い出した事件での長親の態度はどっちなんだろう?
1.長親は広忠についていたが、影響力が足りなかった。
2.長親は信定についた。
>>28 私がこのスレを引き取った時には、既に1氏はこのスレを放棄されていたようですよ?
1氏に話があるのなら他をあたった方が宜しいかと。
老婆心ながら。
>>31 道閲入道長親(で良かったですよね?)は、どうであれ、松平連枝をまとめていた
清康の系統が実質的な宗家として認識されています。傍系の信定がどう抵抗しようと
清康の配下として宇津大久保・本多・酒井・阿部などの諸氏が成長していて
庶子のボンボンが乗っ取れるような甘い家臣団ではなかったと思いたいですな。
私は1の説に乗りたいです。
保守。高田氏の降臨待ちのため。
>>32 ふむふむ。
2の説を思いついたのは、長親が信忠よりも信定を愛したとどっかのページで見かけたからなのです。
でも、流石に無理ありすぎか。
信定は一時岡崎をとったものの、宗家を乗っ取る、もしくは自立するには至らずに巻き返しを喰らい、
岡崎はふたたび松平宗家広忠の元に戻った、という感じですね。
この間、2年足らず。
信定は何がしたかったんでしょう……
>>34 信定は清康と不仲ですね。松平氏の尾張北東部(現在の尾張旭市、西加茂郡)
支配を進めていたのに、一族不仲で画餅に帰した、と。
信定の転戦先は渥美半島から尾張まで、当時の松平家からすればかなりの
広範囲に及びます。きっと猛将で売った人物ではないかと。
ドラマティックに妄想するなら、東海道一の弓取り=清康に張り合って、
猛将同士相容れなかった、とも解釈できそうです。
さて、高田氏もいなくなってしまいましたか。
自治ヲチばかりでは本当にぷらっと氏にされてしまうので、ね。
松平氏は清康・広忠を除き、結構長寿の家系です。
親忠71歳、長親72歳、家康75歳などはこの一例。長親に至っては、玄孫の
家康が生まれたときに高祖父として生存。(曽祖父・祖父はすでに死亡)
逆に短命の当主も多く、信忠41歳、清康25歳、広忠23歳。よくまあ家康に家督が回ったものです。
現在の感覚から見ると、自分(家康)、父親(広忠)はともかく、
「ひいひいじいさん」
だけが生存しているというのはいかにもどうかと。
この不思議なルジラについては、もう少し考察を続けます。
いや、いてるんですが。
>>35 ドラマチック妄想にのりましょう。
若き俊秀・清康と叩き上げの戦巧者・信定……
手を取り合って三河を平定した二人に相克が生じ、己の意地のために
清康を除く決意をする信定、といったところで。
>>36 若い時分に討たれなければ長生きできる、と。
そうやって考えると、家系自体が長寿を誇る家系に見えますね。
質雑スレで命名されたみたいなんで、これでコテケテーイ。
>>36 松平氏には「狂疾素」があるらしく、この初代にあたるのが信忠です。
松平忠輝・越前忠直・大納言忠長など、家康の子孫で「狂疾」を理由に改易された
人物が複数いることが前提になる、という前提を見て下さい。
信忠は「粗暴・残忍」のため父長親に忌避され、「麒麟児」清康が元服即家督になります。
長親からすれば桜井信定が贔屓目になっても不自然ではないでしょう。
家康の父・広忠にしても岩松八弥に暗殺された理由が「狂疾・粗暴」だったといいます。
権力者に対する後世の評価は悪意が必ず含まれてしまうものですが、松平の家系は
粗暴・狂疾の雰囲気が強く感じられますね。で、戦時であれば勇猛果敢と評され、
平時であれば...いわずもがな、です。
うろ覚えですが、大河「徳川三代」で家光が秀忠に向かい、
「[忠]の字は不祥にござる」と言っていたシーンがありました。
信忠・広忠・忠長・忠直・忠輝というあたりが「狂疾」であり、
忠吉などは「勇猛」でしょうか。生きながらえた場合、家光の脅威に
なったかもしれません。
ホントに誰もいなくなってしまいました。ぷらっと氏の呪いでもあるのかなと思う今日この頃です。
質雑でやって叱られたコテハン独評もやっていきますかね。
ぷらっと という言葉、固定として一人歩きしてるように見受けられます。彼が自称「出張を機に引退」し、
その後に自演にしては文体がバラバラな「ぷらっと乙」が連日出てきました。
本当に嵐なら放置すればいいわけですが、まるで叩かれることを楽しむかのように登場してくる名無しぷらっと氏。
私はかつてぷらっと#100を騙り厨っぷりを一晩楽しみましたが、ひょっとして同じような名無しの方が他にもいたのでしょうか。
本物は既に固定として定着しているか、誰かの複ハンだったのか。あるいはすでに共コテなのか。
妄想でしょうか。奇人であることは間違いなさそうですが(褒め言葉ですよ!)
これこれ。
ウィークデーはそれなりに忙しいのだ。
信忠・広忠は既出ですのでおきまして。
忠長……駿河大納言、秀忠の次男。
忠直……越前少将、家康の次男結城宰相秀康の嫡子。
忠輝……越後少将、家康の六男。
(えーと、信康、秀康、秀忠、忠吉、信吉、忠輝、松千代、義直、頼宣、頼房……あら、あと一人は誰だっけ?)
で、合ってましたっけ?
微妙にスレ違いではありますが、いずれも改易の憂き目にあってますね(と記憶している)。
たしかに家光の頃をとってみれば、不祥というのもうなづけます。
ただ、実は松平家全体では忠の字を使ってるのは結構ぼろぼろとおりますね。
しかし、長親から家康までっていうこのスレの呪縛はしんどいですな。
いっそ三河松平家総合スレにしてしまうか。
>>41 これはこれはお帰りなさいまし。勝手なことをして恐縮の極みなり。
総合スレにするとまた誘導荒らしが来ますよ。国人時期は板的にOKでしょうし
家康に今更触れずとも清康一人でスレ回してもいいんじゃないすかね。
忠輝、松千代 の間に 仙千代 がいないんでしょうな。
土井利勝はどう扱えばよいものやら...
43 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 14:41
十八松平の家系を教えて下さい。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/27 21:07
>>43 素直にぐぐる方が早いと思うんだが……ってわけで、ぐぐってみた。
七松平、十四松平、十八松平とあるわけですが、
竹谷松平家:松平宗家の信光の長男・守家
形原松平家:信光の四男・興副
岡崎(大草)松平家:信光の五男・光重
五井松平家:信光の七男・忠景
深溝松平家:五井松平家の始祖忠景の二男・忠定
能見松平家:信光の八男・光親
長沢松平家:信光の子とされる親則
===ここまで七松平
大給松平家:松平宗家の親忠の二男・乗元
滝脇松平家:親忠の九男・乗清
福釜松平家:松平宗家の長親の二男・親盛
桜井松平家:長親の三男・信定
青野(東条)松平家:長親の四男・義春
藤井松平家:長親の五男・利長
三木松平家:松平宗家の信忠の二男・信孝
===ここまで十四松平
西福釜松平家:
安祥松平家:松平宗家の信忠の長男・清康
宮石松平家:
鵜殿松平家:松平宗家の信忠の三男・康孝
===ここまで十八松平
数え方には諸説あるようだ、というところまではわかったのですが、十六松平だけわかりませんでした。
どなたか、御存知ですか?
……失礼。
十八松平の始祖を調べていて、手元のメモ状態でコピペしてしまったが。
西福釜、安祥、宮石、鵜殿の始祖は抜けてたりアレだったりですいません。
十八松平
松平徳川氏3代益親の子孫に始まる。
実質は土豪の惣領程度の規模にすぎないが、吉良氏の三河支配を徐々に席捲。
竹谷・形原・大草・御油・能見・長沢・深溝・岩津・大給
西福釜・滝脇・福釜・桜井・東条・藤井・三木・鵜殿の17庶子と
家康の異父弟の久松松平、あるいは松平太郎左衛門系をくわえて十八松平と称す。
と、系図集を眺めて文体っぽくレスしてみました。長親に絡むのは福釜以降と
大給系くらいでしょうか。大河内や奥平系を入れる説もあり、実体は曖昧な定義のようです。
現在の豊田市。挙母町を三河湾まで貫流するのが矢作川である。
この川を睨むが如く並流するのが足助川。
松平郷はそんな山間の盆地に発生した、山の民をゆるやかに束ねる名主格であった。
寛正6年(1465)五月、足利家執事・伊勢貞親は己の被官である松平信光・戸田宗光に対し
幡豆郡の吉良氏牢人の討伐を命じている。
松平太郎左衛門信光は現在の安城市に駐屯し西三河を、戸田宗光は東三河を監督する伊勢氏の被官であった。
三河の名族吉良氏は「副将軍」の称号さえ持ち、駿遠の強豪今川氏の本家筋である。
現在の幡豆郡吉良町に本拠を持つものの、同じく三河に発祥した足利一族の細川氏の
威に屈し、三河守護にはなり得なかった。
三河守護細川氏は鎌倉期より、有力な足利氏の支族であった。足利氏が源氏の嫡統として
鎌倉期を乗り越えるには東海の斯波・細川と北関東および南東北をおさえた畠山、
のちの三管領家の与力なくしては成立できない事業であったといえよう。
細川氏は室町期に中央に進出し、三河への支配力はかなり弱かったと云わねばならない。
元来地形は山険しく、盆地が多く、山の民・海の民と例えられるがごとき鄙びた地域であった。
細川支配が弱まろうと、名族吉良氏が勢力伸張を図るにも経済的利点が薄いように考えられていた。
この貧しい国・三河にも栄えた土地がないわけではない。海に面した街道沿い。
東海道に面しているために、人口は少なくても交流には不可欠とされた三河国。
小坂井・刈谷・安祥・池鯉鮒といった「市」が発生した土地である。
松平氏は「はたらき者」を束ねる在地領主であった。
街道や市が貨幣経済の発達とともに整備され、宿場街が形成されていく。
ここに必要となる「木材」生成から運搬までを取り仕切る領袖であったと考えられる。
徳川家康が源氏の末裔を名乗る前の松平氏は、各種の書面から「加茂氏」を称していたことが
確認できる。織田氏の発祥が越前の織田剣神社の神官であったという例に似ている。九州の
阿蘇氏や信濃の諏訪氏のように、神官が武装集団に直結した例も多く見られる。
松平氏が古代の大族加茂氏の一族である可能性は、少なくとも源氏のそれよりは高い。
山間部とは言いながらも、実際の松平郷はそこそこ裕福だったと考えられる。
現在の国道153号すなわち信州飯田から尾張熱田を結ぶ三河街道(飯田街道)の
中継点に近い。現在ならば国道近くの木材市場にあたろうか。
さて、信光から家康までの7代がいかにして三河を抑えていったのか。
俗に言う十八松平の分封という説には実に簡単な陥穽がある。
「三河はそれまで誰も支配するものがいない土地であったか」
ということ。信光が松平郷から安祥に進出しいきなり吉良氏と抗争している。
ましてや鈴木・三宅・中条・阿部といった加茂郡・碧海郡の土豪との抗争もあった。
「十八松平」が、少なくとも信忠期以降の後世の付会であることは疑いない。
山間部に発祥した山間の一土豪が三河の大半を抑えられたのは、人口流通にすぐれた
東海道の要・安祥をおさえた信光の功績だと言える。
十八松平が後付けと言ってしまう理由はもうひとつある。
安祥に拠点を構えた長親流は決して松平本家ではないからである。
松平氏の惣領は「太郎左衛門」を名乗る。親忠・長親流は「次郎三郎」が家康まで受け継がれた
有力な分家にすぎない。親忠の父信光は本宗を親忠の長男親忠に譲り岩津城を、次男乗元に大給館に
封じている。長親自身は安祥城を譲られたのみであった。
信光が85才で亡くなった1488年時点で長親の立場は一変する。加茂郡の土豪鈴木氏を母に持って生まれた
長親は西三河北部からの脅威を配下にしたことで碧海郡・幡豆郡を攻略し西三河のほとんどを父親忠の
存命中に手中におさめ実力で松平本家になっていく。このころ既に家督は長子信忠にゆずり、入道して
道閲と名乗ったものの惣領は依然長親であり、父親忠が亡くなるころには家臣団の形成も見られてくる。
酒井・本多・内藤・宇津(のちの大久保)・鳥居・成瀬・渡辺といった現在にも知られる諸氏である。
西三河の旗頭はこののち松平家にとって初の危機を迎える。
ほす
駿遠太守今川家、そろそろ出す?
DOQN氏(如何なものかとも思うけど、メンドイのでこれで。呼称の自己申告はアリで)、乙。
正直、学識も足りない中でスレを引き取っただけに、こういう概略はありがたいです。
おお、ご光臨ですね。ご不在の間は概略を勝手に進めてます。
コテは仰せを有難くいただきますが、馴れ合いっぽくなるのも拙い。煽りあいには実がない。
「特定固定の占有」になってしまうのも怖い。というわけで間違いがあったり
冷静な異論反論があればどなたでもレスを入れてください。考証のうえ改めます。
地理か経済か、切り口があいまいで読みにくい。
>>60 通史っぽくやってみたんですが、どちらかと言えば地理メインで。
今川氏は東海道一の弓取りで知られる名家である。説明すらいらないだろう。
松平信忠が当主であった1500年前後、今川氏親が家督であった。
今川氏が三河を侵しはじめたのは氏親の代である。本家にあたる吉良氏を降し、
東三河の国人領主戸田氏・牧野氏・田原氏を攻略し従属させた。
>>61 「従属」は適切ではなかったので訂正。
今川氏が三河を侵しはじめたのは氏親の代である。本家にあたる吉良氏を降し、
東三河の国人領主戸田氏・牧野氏・田原氏を攻略し屈服させている。
西三河では明応2年に碧海郡の阿部氏・加茂郡の三宅・鈴木・中条諸氏を岡崎で撃退し、
旗頭にのし上がる。ただし勢力はあくまでも一土豪が戦国大名化していく「課程」の
程度であり、加茂・額田両郡とその周辺をおさえているにすぎない。
今川氏の先兵は氏親の伯父・伊勢長氏。
公方家・関東管領家が分裂しており、箱根を越えて進出する必要がなかった。
東山道は山深い甲斐・信濃。今川氏は西進する以外の選択肢は永正3年(1506)時点では取りえなかった。
>>58 馬鹿だな。そんな注文の多い料理店にするくらいならコテを捨てれば?
見苦しい。
>>63 トリは文責を担うために付けています。今のように過疎状態でも読んでいただければ。
何らかの修正なり感想なりをいただきたいですし、三戦板でやれるだけやってみたいので。
>>2 のようなレスがあったり、史板に誘導されたりというのはいかにも淋しいと感じました。
バカはバカなりのスタンスで続けていきます。何卒お赦しください。
今川氏は現在の愛知県刈谷市今川町を本貫とする吉良氏の一族である。吉良氏が弱体化し
守護細川氏の影響力が皆無であれば、三河を制圧する名分は立っていたのだろう。
今川側から三河を睨んでみよう。吉良氏は同族であり東条に籠って動かないものとして中立。
戸田氏などは吉良氏の緩やかな影響下にある国人領主。つまり日和見の信用できない勢力である。
今川軍の大将・伊勢長氏は4000の兵のうち1500を三河吉田に置き、西進を始めた。
狙うは松平親忠の末弟、親則が寓居する長沢。額田郡の入り口にあたる要所である。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 08:01
67 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 06:27
三河ってずっと細川?
>>67 ぐぐると引っかかってくるんですが、細川の姓は三河国額田郡細川に起因します。
将軍家の家宰・細川頼之が幕府を切り盛りした軍事力は三河勢が大半を占めていたそうです。
しかし嘉吉の変や応仁の乱で疲弊した細川氏は、中央に固執したために本貫三河を捨ててしまいました。
「執事となるは家の恥」といわれた足利幕府の執事(管領)になった細川氏。その名族ゆえに
三河では足利本家により近い吉良氏一党に駆逐された形になります。
現在の国道1号線、ほとんどが江戸時代の東海道に並行して走っている。
東京から箱根の険を越えればほとんどが緩やかな平地が続く。
京洛に至るまでには鈴鹿峠以外に大きな難所はないといわれる。
しかし軍を進めるとなれば盆地の連なる三河は難関であった。
現在の豊橋〜岡崎〜知立〜安城はかなり山間部を通らないと抜けられない。
長親は長氏とは正面切って戦う手段をとらなかった。
今川軍は宝飯郡を抜き、御油・長沢松平氏を襲うが、岡崎・岩津よりの北勢、
形原・竹谷の南制によるゲリラ戦を受けて八名郡まで押戻される。
現在の地理に例えれば、今川勢は国道1号線を西進し、松平一族は国道248号線や
其の他の主要県道を南北から交互に奇襲した、と言えるだろう。多目・笠原といった
伊勢氏の重臣までもが負傷し、現在の豊川市まで撤退せざるを得なくなってしまった。
松平氏は前述の通り「山の民」である。鬱蒼と繁る山林を擁する三河北部に発祥した。
林道を活用しての山岳戦はお手のものだったのだろう。
松平一党は今川勢と戦う前には、加茂郡内での覇権を圧倒的劣勢のなか、山岳戦で勝ち残っている。
加茂郡全域が設楽郡と連なる山林地帯であり、自然に鍛えられた三河武士の原点を見出せるといえよう。
三河は念仏の根強い土地である。松平氏も浄土宗に帰依し、親忠の菩提名跡の大樹寺は
親忠差配で建立されている。
山の民である三河人にとって、寺社のもつ影響は大きい。野武士と農民、工人の身分が
曖昧であり、当時としては未開の国であったといえる。
長親は若くして長子信忠に家督を譲るが、宗教勢力を抑える実権だけは死ぬまで手放さなかった。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/30 06:12
松平定友はー?
75 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/30 15:58
わけあって、三河の山奥、松平の郷に2週間ほど滞在したことがある。
・・・かなり辺境地帯だった。
地図上では、平野部まですぐじゃん、と思えるんだけど、
ああ、これなら松=山の民とか言い出す気持ちもわからんではない、
と思ったぐらい「山」な感じですよ。
思い出しレスでした。
>>74 松平といっても久松系ですので、松平を名乗るにはタクシーの運転手を蹴らない程度の
節度を望みたいものです。
>>75 辺境。地図帳があったら見ていただきたいのですが、南関東にはこれだけの大きい高低差の
ある盆地はないんです。
トヨタのイメージがあるために拓けている様相があるのでしょうが、戦前は
加茂郡挙母町
です。田舎なんです。
松平信忠は「三河物語」あたりでは頗る評価が低い。父長親が念仏宗、浄土宗に寛大で
あったのに対し、信心が薄かったと評された点が誇張されたのか。
あるいは嫡子清康の引き立て役と表現されたのだろうか。
信忠は勇猛な将だった。次弟信定はまた劣らずに苛烈かつ才気奔る兄弟であった。
信忠は嫡子とはいえ、長親が次子信定の才気を寵愛したこともあり権力を持たされない家督であった。
一種の性格破綻者だったのだろうか。(私は松平の「忠」の狂的資質と呼んでいる)
安祥家は当主を捨て内膳信定を立てる一門と、あくまでも当主につき従うものの有力家臣とに割れつつあった。
長親の側近、酒井将監忠勝(松平初代・親氏の曾孫)は主の意を受け、一門老臣の評定を行った。
一門であり家臣である酒井家はこういう事態には適任だったのだろう。
信忠・信定どちらも立てない形での裁定は、
「信忠嫡子・清康を当主とし、信定が補佐する」というものであった。
信忠は隠居、信定は家督権喪失。あくまで平等な裁定に見えた。
ここまで記した中で不自然な点の補足。
松平氏は信忠期までは大名とはとてもいえない土豪である。
大きい勢力を持つ土豪ではあるが、戦国大名などといえない理由としては
1.惣領家が無力。
2.実力者の長親系と庶家との関係は主従関係にない。
3.家臣団が形成されてはいるが、領主クラスの家臣が少ない。
など。
>>78の追記
松平信光や親忠は惣領であり一族内で実力があった。しかし安祥系の長親は
実力はあるが惣領ではなかった。一族を糾合するためには政治力を必要とする。
(
>>54には矛盾だらけでどうもすみません)
寺社への寄進にしても、太郎左衛門家を筆頭とした一族横並びの連名で行っている。
急な一族編成を避けた長親は、隠居し信忠を惣領とし、院政よろしく惣領の上位者として
組織編制を自然な流れで形成しようとしたのだろう。
信忠廃嫡は本人の無能ではなく無力な盟主の失脚だったともいえようか。
13歳の松平清康に、指導力を求めるのは難題であった。祖父長親、父信忠、そして
常に難題を突き付けることになる叔父・信定。そして枝葉に至る松平諸氏はこのころ
「十四松平」を形成するに至る。
一字拝領・偏諱は松平氏の場合「忠」が多い。
宇津大久保・酒井・鳥居・本多など、「忠」を通し字とした一族は、信忠〜清康期に
従属した家臣団とみてよいだろう。この諸氏が松平の一門衆と肩を並べるのが
清康の代である。
>◆DOQNIC1RWY 氏
頑張ってますね。
戦国はあまり分からないのですが、
楽しく読ませて頂いてます。
>>82 ご来訪ありがとうございます。勉強しながらの進行で解釈もあやふやなまま
続けている自慰的スレでお恥ずかしいです。ひと区切りついたら、「校正編」
や「物語風」なんていうアレンジもしてみようかなと思っております。
末永く生温かい目でお付き合いいただければ幸甚です。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/15 20:02
落ち過ぎage
13歳で跡を継いでからの清康。
手始めに額田郡山中城の岡崎松平信貞を「一族の和を乱すもの」として攻撃。
信貞にしてみれば、一族の惣領とはいえ初陣である清康を甘く見ていたのだろう。
清康は夜陰に乗じて猛攻をくわえ、信貞を降して家臣とした。
このことは政治的な意味を帯びている。
・長親の代までは「一族の代表」である分家にすぎない安祥松平氏が実力で本家を称したこと。
・一族を糾合する当主として、他の分家はすべて清康の「家臣」であるという不文律の成立。
・元服間もない若輩が、いきなり西三河の土豪を小大名に昇華させた、というカリスマ性の流布。
大永5年(1525/14歳)北進して加茂郡足助の鈴木重政(母方の叔父である)を降す。
享禄2年(1529/18歳)春、東進して八名郡・渥美郡を攻略。戸田氏・西尾氏を降す。
享禄2年(1529/18歳)秋、尾張春日井郡に侵入。品野城と愛知郡岩崎城を攻略。
享禄3年(1530/19歳)秋、東三河に転戦。宇利城の地頭熊谷氏を討ち、東三河をおさえる。
享禄3年(1530/19歳)冬、加茂郡伊香保城を攻略。
天文2年(1533/22歳)加茂郡の残存勢力三宅氏と鈴木氏に岩津城を攻略されるが
城外で迎撃。猿投神社を炎上させ、両者を殲滅。
十年かけずに三河の主要部を手にした「海道一の弓取り」。
戦国大名化した松平氏の支配構造は、清康の卓越した軍事能力に依るところが大きい。
(当主が先頭を切って敵陣を目指す絵などはいかにも物語的ではあるが。)
清康期の松平氏が過去と違う点は、山岳を縫ってのゲリラ戦を行うことがほとんどなかった。
挙母盆地の国人衆や東三河制圧、北尾張侵攻にいたるほとんどの戦いは平城の攻城戦である。
清康の連戦を可能だった理由としては、祖父道閲入道(長親)の存在も大きかっただろう。
後方で安祥の留守居役を引き受ける。松平一門の押さえとしては充分に頼れたのか。
しかし一族の糾合があまりに急すぎた為か、松平氏の発展はわずかな綻びから瓦解してしまう。
森山崩れである。
清康が台頭していく時期、隣国尾張では守護斯波氏の勢力がおとろえつつあった。
守護代織田氏の三奉行、後に信長を輩出する弾正忠家はこのころ織田信定の代。海部郡・知多郡を押さえ
木曽川流通を充分に利用して港町津島を発展させている。
東海道の急成長株である松平氏に接近すべく、長親の次男、桜井松平信定に娘を娶わせ誼を通じていた。
碧海郡に居を構える桜井信定は三河湾の入口を握る領主。
刈谷城の水野氏は半独立の豪族であり、尾張と三河の国境を領していた。吉良氏・斯波氏の間に立たされ
織田氏・松平氏の戦乱に揉まれていたためだろう、常に臣従と離反を繰り返す家風があったようだ。
織田弾正忠家が海運を通じて海部郡・知多郡から愛智郡を支配下におさめるころ、水野氏は織田氏に臣従した。
桜井松平信定は清康の後見役。北へ東へと連戦する甥・清康の後方支援や従軍のため自領が疲弊していた。
他の松平庶家も同じような状況ではあっただろうが、不満分子としての信定の存在は火種として燻り続けていた。
かつては家督までもう一歩。現在は甥の家風に立たされる境遇。忠孝の意識が希薄であり下剋上も頻発する
時勢において、信定はいかにも追い込まされすぎていた。
某荒らし固定に、このスレを削除すると脅迫されています。どうしたらよいでしょうか?
気にするな。三戦のコテごときにスレ削除などできない。
ま、がんがってくれ。
>>88 お疲れ様です。
いよいよ守山崩れですね。
信定領が疲弊していた、とありますが、それを示す資料などはありますでしょうか?
もちろん、戦続きで疲弊していたであろうという推論はできるのですが、何がしかの
資料があるのかな?と興味を持った次第。
>>89については、気にしないことです。
しかし、どのような用件で削除依頼を出す心算なのかは興味あるところではありますw
>>91 お久しぶりです。
>戦続きで疲弊していたであろうと言う推論
確かに推論になってしまいますが...
高月院や六所明神などへの寄進を長親は信忠期には自署でもって寄進を続けているのですが、寺社への勧進記録が
清康期になると記録が激減する現象が見られるわけです。また後方にあたる桜井・三木といった近親者が
清康出陣に随行しないあたりが「綻び」という表現です。
>>89については
「スレッドの占有」にあたるそうです。定期的に意見や指摘を書き込んでください。
>>92 雑談などで占有しているわけでなく、なにより内容が板主旨にあってますから
実効力がある依頼になるとも思えませんが、書くだけでも意義ありそうなんで、
興味深く読ませてもらってますよー、と存在表明。
>>92 なるほど、勧進記録の激減ですか。
それは確かに推論を裏付ける事項ですね。
これで領内の疲弊、織田との姻戚関係と裏付けはできてきましたが、
甥の下風に立つ不満、 には何かはありました?
まぁ、人情等鑑みれば納得いくところですが、こちらは単純に興味本位w
自分でもちょっとネットで探ってみようと思います。
ロムってるけどカキコはしてない。
スレの占有? 趣旨は十分と思う。
桜井・長沢・東条などの碧海郡に居を構えた松平庶家は、岩津時代の庶家とは性格を異にする。
加茂郡から分布しそれぞれが勢力圏を開拓していった後者に対し、前者のそれは惣領長親を背景にした
分封に近い。良く言えば安全に、悪く言えば甘く軟弱に領土を手にしていた。
この碧海勢を束ねるのが桜井信定。碧海勢は長親の舎弟庶子一党でもある。
碧海郡の阿部氏は親忠の代に従属した。阿部定吉の代には清康に仕え、その務めるさまは甲斐甲斐しく、
忠節並ぶ者なしという評判であり、本多・鳥居・石川・宇津らとならぶ老職を担っていた。
しかしかつては領土をめぐり争った仲の碧海勢、とりわけ桜井信定とは折り合いが良くなかった。
清康が加茂郡の土豪を殲滅し、三河の大半を手に入れた天文3年(1534年)あたりから、碧海勢の
従軍記録が欠落する様が見られる。後方守護の名目。桜井信定はこの休養時に阿部氏の排斥を謀っていた。
阿部定吉に織田家内通の噂を流し、その子弥七郎正豊には清康と定吉の不仲を吹き込む。
姻戚でもある織田信定から定吉への偽書を送らせる、父長親にも同様等々。
甘い庶子の火遊びは功を奏した。阿部定吉内通の噂が清康の陣を駆け巡る。形成されたばかりの家臣団で
構成された軍である。その一角が内通したとあって、松平勢は一気に浮き足立った。しかしながら
阿部定吉は処分を免れていた。普段の忠勤のさまが、周囲に「まさか」と思わせ踏みとどまったのか。
戦意をくじかれ撤退を余儀なくされた清康は丹羽郡攻略を一旦諦め、森山城に入城した。
疑心暗鬼のなかの翌12月5日早朝、たまたま厩から飛び出した馬が暴れ、本陣は大騒ぎになった。
このとき清康は寝装束のまま本陣にあらわれ、自ら収集を図ろうとしたことが命取りになった。
疑心暗鬼に駆られた阿部弥七郎はかねてより父の暗殺を最も怖れていたため、混乱した挙句に
清康を発見し、そのまま右の脇腹を後方から衝動的に刺した。そして清康の従者によって斬り捨てられた。
二人はほぼ同時に息を引き取ったという。
爆撃回避。
清康の快進撃には周辺諸国の事情も複雑に絡み合っていた。
西隣尾張では守護斯波義達が大永元年(1521年)に亡くなり、守護代両織田氏の反目が始まっていた。
三河の古豪吉良氏は一度は遠江まで支配したものの、領土が東西に伸びすぎて衰退。
今川氏は名君氏親が大永6年(1526年)になくなり、嫡子氏輝は母の補佐で国政を執っている有様。
ありきたりではあるが、周囲がすべてお家騒動で三河どころではなかった、といえる。
清康の評価は後世すこぶる高い。しかしこれは三次資料にあたる「三河物語」をはじめとする
江戸時代の評価であって、「東海道一の弓取り」が名君であったか否かの評価資料は少ない。
前述の池鯉鮒、安祥、岡崎、本宿などの城下町の整備は後方にあった長親の差配であり、
実際の清康は当主でありながら領土を統治していたとは言えないのではないだろうか。
若い将帥が領土を切取り、老練な統治者が均して行くという分業制だったといえば勘繰りすぎだろうか。
碧海勢を除く松平一門を適所に配して従属させていたために、森山崩れのあとも支配圏は加茂郡の大半を
守り通していた。また東方の抑えも牧野・戸田両氏に配慮するかたちでかろうじて崩壊は免れていた。
松平氏の没落は清康頓死から起こったのではない。
桜井信定は南織田三奉行の一人、織田信定の娘婿でもある。清康が頓死して広忠が跡を継ぐとすぐに
このころ織田支配下に属した水野氏を介して碧海勢とともに織田家に通じた。かつて信忠と信定を
仲裁した酒井忠勝の嫡子さえ碧海勢に同調した。10才の子供ではいかにも頼りないという風潮が
この分裂を呼んだようだ。
清康が亡くなる以前より、父長親と距離をおくようになった。信定は兄との後継争いに敗れた後も
未だに家督を諦めていなかった。周辺の国で起こる下剋上の噂を自身でも望んでいたのだろうか。
清康が亡くなった年、突如信定は軍勢を引き連れ岡崎に急行し、岡崎城を制圧した。父長親を軟禁したうえで
松平の家督を宣言した。幸い幼い広忠は老臣阿部定吉に守られて、三河湾から伊勢に逃れたので
命は落とさずに済んだ。このときの逃走路は家臣化された松平一門によって確保されている。
つまり長親が編成した一門が広忠の与党であり、長親の子弟は旧態どおりに切り取り勝手の意識が
捨てきれていなかったのだろう。清康が12月5日に没して、その年のうちに広忠が追放されるあたり、
信定は計画的に清康の暗殺を謀ったと疑われても仕方がない。
信定の、家督にこだわった見通しの甘さが松平氏の没落のきっかけであった。
落ちそうだったのでage
有意義なスレなので問題なし
阿部定吉は海路を通じて今川氏に助力を求めた。吉良氏を追い落とし浜松に復帰した今川氏の当主は
今川義元。副将軍の自負をもって三河に介入したい今川氏には、まさに渡りに舟といったところか。
岡崎を落とした碧海勢にも難題があった。長老長親の軟禁が周知になってしまい、織田氏の傀儡になる
ことを畏れた岡崎譜代の家臣が暗躍を始めた。
清康の弟・三木松平蔵人信孝らが信定の正統性を認めずにいることに目をつけ、鳥居忠吉・酒井正親が
これを味方に引き込むことに成功。加茂郡の本家松平太郎左衛門(岩津松平)からも詰問状を出させ、
信定の孤立化をすすめた。
阿部定吉の依頼をうけた今川家はこのときに三河に侵入し岡崎城を目指した。背反常ない戸田・西尾氏は
もちろんこれを通過させ、東三河の唯一の信定支持であった長沢松平を降した。兵力4500、主将は太原雪斎。
岡崎の信定は義兄織田信秀に援軍を求め小豆坂で戦闘となった。織田勢2000、主将は織田信秀。
地の利を抑えた松平諸氏の大半は今川方についたため、挟撃につぐ挟撃に織田勢は総崩れとなり刈谷まで
押し戻されて安祥城を奪回された。
信定自身は戦いらしい戦いもせずに捉えられたが、父長親の存在もあって死罪を免れる。実権を失った
信定はこの翌年に失意のまま没する。
曽祖父長親のもと三河に復帰した広忠だが、一連の騒動の前とは状況が変わっている。
清康期には小さいながらも戦国大名としての松平家であったが、この時点では今川氏の「三河先方衆」として
今川家の「外様大名」に成り下がっている点である。極論をいえば今川家中では朝比奈・庵原・飯尾・鵜殿ら
大領主層の一角に編入されたかたちとなった。
もちろん主家の状況を良しとしない一派もあり、前述の蔵人信孝や酒井氏などは織田家に通じたために
碧海郡は織田・今川の小競り合いの地となってしまった。
長親流松平は東三河までおさえてはいるものの、実質は加茂郡・額田郡を領するのみの一領主に転落していた。
広忠が今川に属した、とはいえまだ11才の幼年当主である。父清康が13才より戦場を駆け巡っていたことは
例外としても、そのような勢いはすでに松平家には残っていなかった。
織田今川間の小競り合いが続くなか、広忠に縁談があった。もちろん政略結婚である。
刈谷城主水野清重の長女である。この女性は松平長親の曾孫にあたり、広忠から見るとまたいとこにあたる。
さらに母親の東郷氏は長親の外孫。水野清重と離縁後に清康の後妻となっていた。
広忠本人はこの縁談に乗り気ではなかったらしく、すぐに大給松平氏から側室を取っている。
背腹常ない水野氏への警戒感もあっただろうが、「妹を娶るは禽獣にも劣る」と難色を示したといわれる。
義母として岡崎城にいる東郷氏と本来「嫁姑」である2人が実の親子という状態に辟易していたのか。
この婚姻は水野清重の苦しい立場を表わしてもいる。織田方にあって刈谷城を領しているなか、今川一門の
鵜殿長持に尾張南部の要所大高城を落とされ、鳴海城主山口教継とは折り合いが悪かった。今川領に面した
小領主にもかかわらず周囲が非常に不安定であった。そこで長親の血を引く、松平氏にとって非常に縁の濃い
娘を嫁に差し出した。殺される危険も少ない、織田氏にも今川氏にも名分の立つ妙手だったと言える。
幼すぎる婚姻が成立してから6年、松平長親は天文十年(1541年)冬、病に倒れた。領内の激変に配慮し、
広忠を立てるかたちで床に伏しつつもなお広忠の後見をしていた。歳が明けて正月、広忠と水野氏の間に
待望の嫡男が誕生する。余命を悟りつつも長親はこの玄孫を起き上がって抱きしめ、自分や清康が名乗った
幼名を名づけた。
「竹千代」である。
もとは分家から立ち上がり、名高い北条早雲・今川氏親をも退けた長親。
飛躍的に松平の家名を押し上げた「東海道一の弓取り」清康。
余命わずかな長親は今一度の家名再興の望みをこの生まれたばかりの玄孫に託し、天文十三年八月に世を去った。
享年72歳。
織田氏が南尾張を統一するに及んで、碧海郡はまたもや風雲急を告げる。苅谷の水野氏では清重が亡くなり
長男の信元が家督になるとすぐに織田方に臣従した。尾張大高城の鵜殿長持はかつての水野清重と同じように、
攻守入れ替わるかたちで孤立することになってしまった。広忠も妻水野氏と離別し尾張との対決姿勢をとる。
今川の尖兵として最短距離にいる松平氏に大高救援の命が舞い込むことが頻繁となる。
しかしこのときの松平家は、勝ったからといっても救援戦であり負ければ消耗するだけの一領主である。
小豆坂の敗戦などで消耗し、今川家に援軍を仰ぐ必要が発生した。○○○年(1546年)のことである。
竹千代が人質に出されたのはこのときである。しかも被官であったはずの戸田康光が織田方に内通、豊橋から
海路を経て清洲の織田信秀のもとに拉致された。広忠が竹千代を捨てても信義を通すのは周知のとおり。
頑迷か義将か。評価は現代では下せないものだろう。
この2年後に広忠は落命する。狂疾あって狼藉の振舞い多く、苦にした近臣・岩松八弥に刺殺されたという。
大名家の松平氏は広忠の代で滅んでいた、というのは極論ではないといえる。
「粘り強さの三河武士」「三河兵一人に尾張兵三人」などという喧伝は江戸時代「三河物語」やそれを
もとにした勝者への迎合でもあろうが、連戦を厭わない三河兵は確かに屈強だった。
頑固、寡黙、忍従、果敢として語られる原点は清康−広忠の代でお国気質として空気が固まり、のちに家康が
その力に大いに助けられることになる。
岡崎帰還後、すぐに駿府に出立することになった竹千代だが、彼の立場は織田家にあったときとは違うと思う。
岡崎城主を人質に取る、ということが今川氏にとってなんのメリットもないからである。竹千代の身を害せば
今川氏は三河を失いかねない。頑迷な三河武士が反発すれば、西進の目的が画餅に帰してしまう。
後に築山殿となる関口氏が義元の養女として竹千代と婚約している点から見ても、あるいは太原雪斎を
師に付けたことを考えても、一介の人質には厚遇に過ぎる。少なくとも同年輩の北条氏規が同様の処遇を
受けていたかといえば、寡聞にして聞かない。
義元は竹千代を「婿」として一門に迎えることで、三河を本貫とする今川家の一翼を担う将を育てようと
したのである。元服して次郎三郎元信、元康を名乗っても岡崎に帰還することが叶わなかったのは、すでに
今川家の一門として屋敷を構えていたためであり、すくなくとも人質として抑留されていたわけではない。
屈強な三河武士を動員できる唯一の家臣が元康であったので、掌中の珠のごとく厚遇したと考えてよい。
これを尖兵に義元は尾張を狙い進軍をはじめる。
1560年夏のことである。
どこでキリをつけたらいいのかわからなくなってしまいました...
>>107 桶狭間の寸前まで参りましたね。
とりあえずは一段落、というところですか。
あとはお気のむくまま、でよろしいかと。
巷では竹千代は今川で冷遇されていたとされておりますが、こう考えると厚遇とも見れますね。
当の竹千代がどう思っていたかはともかく。
日頃は「竹千代は冷遇されていた」という図式を特に疑問も持たずに受け入れていたので、
ちょっと興味が出て参りました。
>>108 純然な人質ではない、といえる理由をもう一度まとめると、
1.幼少であっても当主を人質にとるのは不自然。
2.太原雪斎を師に付けた件。禅僧などを師に付けるのは本来親が嫡男のために
行う行為です。まして雪斎は義元にとっても師にあたる。これは厚遇に過ぎます。
3.「元信」の一字拝領と「元康」への改名。主たる義元からもらった名前を僅かな間に
変えることができました。この時代に主を変えない限り、改名をする例は少なく、
通常の一家臣では畏れ多いことです。
4.今川家の支配機構の脆さ。朝比奈、飯尾、岡部らを筆頭とする連合政権的な今川家には
有力な一族連枝が関口氏くらいしかいませんでした。西三河の大族を一門に取り込み
家としての支配力を強化しようとしているようにも見えます。
なお「連合政権的」である理由に、桶狭間で義元一人が横死しただけで老臣たちはめいめいに
帰国しています。これらの軍勢はほとんど無傷で23000程度の兵力があったはずです。信長に
追撃の余裕があるはずもない。嫡子が凡庸であったために瓦解する勢力は
先代一代のカリスマ性と政治手腕に負うところが大きく、逆に支配機構は脆弱だったと言えます。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 02:58
三河の田舎侍
元はね
山入系の松平氏もここでいいの?
>>112 いいですよ。詳しくないので教えて下さい。ちょうど展開に困ってたトコですし。
三河は足利家の第二のふるさと
ググってみると、清和源氏とか佐竹氏とか出てきました。
もう少し探索してきます。
待ち
>>109 改めて見直したけど、
義元が養子か、それに近い立場を元信(家康)に与えていたようですね。
養女を与えていたわけだし、太原崇孚の一件にしても。
>>117 そのように考察しました。跡を継ぐほどのことはないでしょうが、花倉以降の
今川氏には有力な一門、すなわち与党にあたる勢力が見当たらないわけです。
拡大戦略を採りたい最中、松平氏や孕石氏、鵜殿氏などを舎弟分として取り込みたかったのでは、
という背景も考えられます。
家康自身が遠江の井伊直政を取り立てたようなものかもね。
義元−家康よりグレードは劣るけど。
山入系の史料が乏しい...
あけましておめでとうございます。
もうネタ切れ?十八松平とかに攻めて行けばいいのに。
本流を書き終えたらやること見失ってしまいまして。
十八とかは日本史板にあるわけで、興味を引く内容にはする自信がないんです。
需要がなさそうですので落とします。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:21
>>119 井伊直政と築山殿が親戚だったという説もある。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 20:16
松平健は芸名で、本当の名字は松平ではなく鈴木
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 21:08
そしてそのときがやってきました。
殿ご乱心。
雲助をお手うち。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 21:13
>>127 井伊直盛の娘を今川氏親が養女として、関口家に嫁がせた説だね。
イマイチ、メジャーじゃないね。
珍しく上がってるな。騙り君、帰って来てくれればいいが。
松平健、本名は鈴木末七。
そうじゃないだろ!燃料消化もしてくれよ。
直盛の妻が氏親の妹と言う説はある。築山殿と井伊直政はいとこ同士かも。
今川や井伊は徳川のコヤシ、という印象は否めない勝者の論理。
>>133 今川一門・織田舎弟・豊臣舎弟と続いている点で、ご指摘は正しいようです。
大賀弥四郎は信康粛清時の人物では?
本姓は大岡。大岡越前の身内だったとどこかで見たが。
カップラーメンを松平
どういう保守の仕方ですか。笑わせてもらいました。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 20:17
/;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::ヘ 駿河守護・今川刑部大輔氏真が2getしちゃうよ。
/,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ
L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ__
>>1ま川氏豊 叔父さんとは気が合いそうだね!連歌しようよ!
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l 北条氏ま
>>3 ご飯に汁を思い切ってかけるのが名将なんだって!
|l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::... ...:::::::;;;;;;|l 武田
>>4ん玄 叔父さん、家族は仲良くするのが一番いいよ!
〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
>>5郎 ってボクの幼名じゃないか!
/j/ ヾ、 第
>>6天魔王 ボクが教えてあげるから、一緒に蹴鞠しようよ!
l::||:::: |l 岡部正つ
>>7 信玄おじさんに仕えた方が大活躍できるよ、きっと!
|::||:::::::.. (●) (●) || 朝比奈
>>8す朝 じゃ、あとはがんばってね!
|::||::::::::::::: \___/ ||
>>9英承菊 崇孚!お願いだからもうちょっと長生きしてよ!
ヽ\:::::::::::::::. \/ ,ノ
>>10桂尼 おばあちゃん!今川焼きちょうだい!
__/\ ̄`ー―---oo-――'"ヽ__
「 \\ ヽ ハ // / | 竹
>>1000代 天下を汝に!
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 11:50
後に徳川家康
>>141 . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
御屋形様、全然2getしてないじゃん。。。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:
糞鬱糞鬱