関羽討伐について四考

このエントリーをはてなブックマークに追加
1無名武将@お腹せっぷく

一考
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1031/10318/1031890019.html

二考
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1053499626/l50

関連スレ?

【関羽撃破】呂蒙を語るスレ【刮目】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1045787445/

蜀が滅んだのは誰のせいか?
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1060515298/

演義厨は、とにかく正史読め
蜀厨も呉厨も魏厨も理性的に議論しましょう
2無名武将@お腹せっぷく:03/08/18 22:42
忘れてた

関羽討伐について三考
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1056510642/
3無名武将@お腹せっぷく:03/08/18 22:43
鍾離昧


4弱策:03/08/18 22:58
('c`)
前スレで白熱してるところをヨソにスマンが、関羽が徐晃に敗れたのは
・遠征軍(包囲してるから糧道を襲われた可能性もある)
・大雨
・于禁が降兵して捕虜が増えた
・後方を呉軍が落とした(これは期間が短いのであまり関係ないかも)
ていう悪条件が重なった兵糧難からじゃないのか?
>>5
それがあったとしても、全て関羽の判断ミスでは?
>>5
関羽は南郡が陥落したことを知らなかったとする方が自然
と言うのも、呂蒙伝に
関羽は呉軍の行動を知ることが出来なかった、とある
その上、註に引く呉書で
士仁が、斥候が役に立たず烽火が用をなさなかった、と述べている
これらの事で、後方の事が関羽に伝わったとは考えにくい
>>6
>それがあったとしても、全て関羽の判断ミスでは?
それは、後方が大変なことになってるのに長々と包囲を続けたこと?
それとも呉に喧嘩を売った(恐らく関羽本人は自覚なし)こと?

結果的にはどっちもミスなんだけどね。
91:03/08/19 01:35
まさか、今日中に前スレを使い切るとは…新スレ立てた漏れも思わなんだw
>>8
「遠征したから敗れた」というのであれば、遠征したのが悪かった事になる。
「大雨だから敗れた」「捕虜が増えたから敗れた」というのであれば、それでも軍を退かなかったのが悪かった事になる。
「後方を呉軍が落としたから敗れた」というのであれば…貴方の言うとおりでつ。
>>7
確かに。関羽伝だと撤退した頃には士仁・麋芳らは降伏してるし、
呂蒙伝だと占領後に(関羽が)事態を知ったとある。
占領後に呂蒙がわざと漏らしたんだろうな。

>>10
包囲中に糧道確保するの難しいだろうなーと思って理由を挙げただけ。
>>5
大雨が終わって水が引き始めてから徐晃と関羽がたたかったんじゃなかった?
そうすると、大雨は敗因にはならない…とゆうかウ禁に勝った原因だったはず。
>>5
> 前スレで白熱してるところをヨソにスマンが、関羽が徐晃に敗れたのは
> ・遠征軍(包囲してるから糧道を襲われた可能性もある)
> ・大雨
> ・于禁が降兵して捕虜が増えた
> ・後方を呉軍が落とした(これは期間が短いのであまり関係ないかも)
> ていう悪条件が重なった兵糧難からじゃないのか?

その洞察はなかなか面白いものがあると思うね。
徐晃の進軍ルートは通説では漢水沿いの糧道の方面ではなく漢水の北側
から南下したものだといわれている。
関羽の撤退ルートは漢水方面を放棄して山間の道を南下しており、これに追随する形で
徐晃が南下するといういうものになっている。
北伐が漢水沿いであったことを考えても糧道を放棄したのは確かだろう。
>>12
いや、だから兵糧が足りないと士気が下がるでしょ。
関羽と徐晃の能力差云々よりも、そういう遠因があったのでは?と言ってるの。

>>13
進軍・退却ルートまでは調べてなかったが、かなり大規模な水害だったみたいだから
退却に川沿いルートは避けるべきだろうな。
15郭図公則 ◆2getuRmEIU :03/08/19 10:19
おはよう
おはよう
ちょっと突っ込み。

>>13
>徐晃の進軍ルートは漢水沿いの糧道の方面ではなく漢水の北側から南下したもの
>関羽の撤退ルートは漢水方面を放棄して山間の道を南下
>  これに追随する形で徐晃が南下
>北伐が漢水沿いであったことを考えても糧道を放棄したのは確か

話の流れと全然関係ないね。
知ってて自慢できる程のものでもないが、
敢えて書いたのは自慢したかったからなのだろうか?

>>12
>関羽と徐晃の能力差云々よりも、そういう遠因があったのでは?

同盟国の信頼と敵城の包囲を秤にかければ、普通は信頼を優先するね。
信頼も何も、呉は蜀に攻め込んでるじゃん。
で、圧力に屈した劉備が荊州の一部を割譲してる。
それよりもお前は自分しか知らないソースで他人が納得すると思うな、
それでは日本軍将兵を多数無駄死にさせた辻参謀にすら及ばないぞ。
ソースも何も、蜀は呉の領民に煽動仕込んでるじゃん。
で、煽動に応じた袁龍らが荊州の一部で叛乱を起こしてる。
それよりもお前は自分が知らないからって他人を非難するな、
それでは日本軍将兵を多数無駄死にさせた辻参謀にすら及ばないぞ。
1917:03/08/19 11:17
>>18
それくらい知ってるつーに。
俺が言ってるのは昨日から行間空けて電波飛ばしてる奴。
韓玄の墓があるだの烽火がどーのと言っておいてソースが無い、あってもただの学説。
>>17
>信頼も何も、呉は蜀に攻め込んでるじゃん。
215年のことね。でもありゃ劉備の応対に問題があると思うが。
それと、16は13にツッコミいれてるので別人だと思うぞ。16に対しての発言じゃなかったらスマソ。

>>16
>同盟国の信頼と敵城の包囲を秤にかければ、普通は信頼を優先するね。
なんか俺の書き込みに対するツッコミじゃないような気もするが…
俺は関羽vs徐晃戦の時点では、関羽は呉の侵攻を知らなかったんじゃないかと思う。
んで徐晃に敗れ、敗北の要因の一つである兵糧不足が元で退却し、その途中で呉軍侵攻を知ったんじゃないかと。

>>5>>8>>11>>14が俺ね
手紙でぶっ殺すと言いながら逆に攻められてびっくりしてる関羽タン
22無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 12:38
昨日の電波って
>>16ではなく>>13なんじゃないの?
圧力に屈したんじゃないでしょ
曹操が漢中に侵攻したから
仕方なく引き上げただけじゃん
しかも講和条件も呉が譲歩してるし
思えばあのあたりから完全に呉がキレ始めたな
新スレにはまだ電波男は現れてないんだからレス付けるなよ。 内容も呂蒙スレでの持論を蒸し返してるだけだし。
26このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね:03/08/19 14:13

522 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/14 00:30
>>514
このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね。
三戦板だと知識自慢できるから天狗になって自説が正しいと勘違いしてるヤシがほとんど。


687 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/16 20:01

まぁ確かに、蜀か呉に偏ってる厨ばっかだな・・・。
客観的な分析ができてるマトモな意見がほとんどない。
早速、コピペ、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
そういや、二考はまだ生きてたんだな。三考がヲチそうだというのに・・・
29無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 15:42
みんなの関羽に対する評価が完全に違ってるな・・・
関羽が無能だと思ってるヤツいる?
30無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 15:44
関羽が荊州を任されてる事からしても相当信頼されてたんだろ。
なかなか無能とは思えん。
>>29
関羽は凄い奴だよ
額に矢を受けても死なないんだから
新スレにはまだ電波男は現れてないんだからレス付けるなよ。
内容も呂蒙スレでの持論を蒸し返してるだけだし。
はいはい、そうやって電波認定してれば論破されずに逃げる事できるモンねw
34無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 16:04
統率力があって、魏と呉に(牽制にもなりそうな)名前が知られていないと、荊州は任されないな・・・
35無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 16:07
>34
ちょっと文の内容が分かりにくいぞ・・・
36無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 18:03
蜀呉双方にとって最悪だったのは、適任者として任された香具師が関羽だったこと。
37無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 18:15
関羽が無能だったら、劉備の主力部隊が益州に集中していたときに、あっさり荊州を取られてるだろ。
関羽有能でしょ。ただ任侠魂が抜け切れなかっただけ。
その意味では・・・
関羽に必要なのは政治センスだよなあ、1太守レベルの。
40無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 18:37
関羽は政治に関しては並以下っぽいね
41無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 19:12
おまえらなんだかんだいっても閻宇のことが大好きなんだろ?
42無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 19:26
関羽が独断の権限とか持ってたの?
どう考えてもお前等みたいなクズに比べれば有能な人間なんだから、
関羽に対してエラそうな事ほざくなよ、ゴミ溜めどもよ。
>>42
劉備が漢中王になったとき、関羽は前将軍と節と鉞を仮されていました。
この権限があったため、
中原で不服住民の陸渾らが謀叛を起こした際、関羽は彼らに印綬を与えました。
陸渾らの勢力は決して大きいものではありませんでしたが。
45無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 19:52
しかし政治は並以下というのは分からんな。
正確には外交面でという事だろうが
荊州が三国の勢力がちょうどぶつかる地域に位置していることから
その荊州をもっている蜀に対し魏と呉が連携するのは当然のようにも思える。
46無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 22:27
昨日は祭りだったのに…
政治力もないでしょ
荊州の士大夫とはお互い憎みあい
同僚からの人望もない
しかし魏の叛乱分子に印綬を与えて
いろいろと調略してたから知力はまあまあ
あるのではないだろうか(廖立にはアホ扱いされたが
>>37
実際に荊州取られてるし…
知略は春秋左史伝を丸暗記できる程度。
外交センスは無いと思われる。
用兵はまずまずだが、大局が見えないので部隊長クラス。司令官向きではない。
>荊州の士大夫とはお互い憎みあい
>同僚からの人望もない
この辺がよろしくない。
>>48
付け加えるなら「あっさり」と・・・
>>50
極論すれば、「瞬殺」
>>44
>中原で不服住民の陸渾らが謀叛を起こした際、関羽は彼らに印綬を与えました。
>陸渾らの勢力は決して大きいものではありませんでしたが。

じつはあんま知らないんだが、この陸渾って地名?人名?
ちくま和訳の関羽伝を読んだ時は人名かと思ったけど、
胡昭孔明が陸渾山に住んでたらしいので、地名のような気も。
生粋の軍人だな。武勇も統率力もあった。
民政も悪くないだろ。
ただ国家的な政治力・外交力が無かった。
でもこれを関羽に求めるのは酷だろ。
魏の方面軍司令官の夏候淵や張遼に国家的な政治力があったと思えん。
下にしっかりした文官がついていたはずだし、中央からの指令も行き届いてたはず。
人材が蜀に集中していて、荊州の層が薄すぎた。
まあ蜀を収めて間もないのに、漢中も領土化して大変だったろうが。


無能どころじゃすまないネ!
>>53
統率力が無いんだって、関羽の場合。
それに張遼も夏侯淵も外交の権限までもらってない。
民政って北方か?
561-16:03/08/19 23:57
政治3
外交1
謀略6
采配10
武勇15
人徳9
荊州で実際に民政やってたのは藩シュンあたりかな?
その潘濬が呉で重臣として名をはせた皮肉。
>>53
武勇があったことは分かる
しかし、統率力と民政というのは何を根拠にしてんだか?
>>53
関羽伝を読んでも関羽の行政に関しては良く解らないのだが。
治中従事に潘濬が付いていて、荊州の層が薄すぎた、ってのは言えんな。
己を誇って同僚との関係を悪化させたのがいかんよ。
兵に対する統率はあっても、士人に対する統率力は無し。
・・・ここまで書いてみたら、まるっきり劉邦の逆のパターンだな。
劉邦は自分や兵が駄目でも周りがしっかりしてるが、関羽はそもそも部下を
統率しきれないからなあ・・・・
>>61
さすがに劉邦と比べるのは酷かと。

個人的に関羽は、義理堅い呂布というイメージだな(ただし、呂布ほど騎兵統率が凄かったとも思わないけど)。
>>52
古代、「陸渾之戎」という異民族が存在したという。
すなわち、その異民族の呼称が「陸渾」。

関羽は「陸渾」なる異民族の反乱に際し、劉備の名の元に「帰義蛮夷」の印綬を与えたのでしょうな。
薄くねぇ? 民政は出来ても外交を助言できる部下いないし。
他スレによるとその民政が得意な奴と仲が悪いんだそうだ
>>63
なるほど、サンクス。
>>62
関羽は歩兵統率・・・・だとか
>>63
ヘルプ、サンクス。
正直、人名と地名とどっちか迷ってたもので。
ソースは史記秦本紀でしょうか。有難うございます。
さらに調べてみたら、春秋左氏にもあったんですね。僖公の22年。
関羽伝に登場する陸渾と梁コウは盗賊だった筈
盗賊というか、原文では「群盗」なので、人名か地名かは判断しかねるんですよ。
つまり、「梁コウ、陸渾にいる群盗」、「梁コウ、陸渾という名の賊」のどちらとも採れる。

今まで決めかねてたけど、史記と春秋の記事を読むと前者を取りたくなってきました。
>>71
陸渾県は『後漢書』郡国志によれば弘農郡に所属。
『魏書』管寧伝に付属する胡昭伝に218年に陸渾で
県長の張固が漢中へ人を送るために成人男性を強制徴発
しようとしたことに反発して反乱を起こした平民の孫狼たちが
関羽に服属して官印や武器の支給を受けたという記述がある。
「陸渾の群盗」は孫狼らのことで間違いないと思われ。
梁コウも恐らくは地名。
「梁」、「コウ」と分けて読むのでは?
>>72
コウって、秦の章邯がケ説を討たせた土地のこと?
7472:03/08/20 03:11
>>73
漏れは楚漢戦争前後のことは
サパーリ知らないので分からないが、
そういう地名が章邯の頃に出てくるのならそうなんじゃないかな。
7573:03/08/20 03:22
>>72
実のところ、自分も自信がない…
コウと言う地名で、思いついたのが章邯だった
76名無し募集中。。。 :03/08/20 03:48
光栄風にすると、関羽はこんなもんかなあ・・・

政治40
外交10
知略68
采配80
武力95
魅力80
ヴァカは光栄スレに逝けば?
一番ウザイのは魏厨だろ。
どう考えても。
正史の記述における信頼度
呉>>>>>>>>>>蜀>>>>>∞>>>>>魏
(; ´Д`)
信頼できるかどうかは国ではなく陳寿が元にした書物や裴松之注釈の書物ごとに
わけたほうがいいと思われ
82無名武将@お腹せっぷく:03/08/20 14:11
>81
確かに・・・
「献帝春秋」なんか終わってるし・・・
書くところがなかったからここに書くけど、
徐庶の「庶」には「正妻でない女性が生んだ子」って意味があるね。
だから何と言われても困るが
だから何
85このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね:03/08/20 20:01

522 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/14 00:30
>>514
このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね。
三戦板だと知識自慢できるから天狗になって自説が正しいと勘違いしてるヤシがほとんど。


687 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/16 20:01

まぁ確かに、蜀か呉に偏ってる厨ばっかだな・・・。
客観的な分析ができてるマトモな意見がほとんどない。
だから何
>>83
それは「嫡子」に対して「庶子」って言葉がある時点で
大抵の香具師が知ってることと思われ。

というか激しくスレ違い。
雑談スレに書け。そういうのは。
>>87
お前が逝けよゴミ野郎
とりあえず、江表伝は良い部類に入ると思われ。
比較的、なら良い部類だと思う
91無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 13:58
魏の荊州方面からの侵攻が無くなったわけだから
蜀にとって関羽討伐は非常に有意義だったといえる。
92無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 14:04
>>91よく意味が分からんのですが
関羽が魏に攻めていくこと、でいいのかな?
94無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 14:31
うむ。つまり益州は天峡の地といえど、荊州方面からの侵攻に対しては
絶対とは言い難いことは劉備自身が証明している。
蜀を侵攻するにあたって荊州ルートを選択できなかったのは
江陵をはじめ、荊州に駐屯する呉軍の為。
つまり関羽がひとりで守っていた対魏方面の守備を
呉が国家をあげてやってくれたのだから、結果として大成功だろう。

95無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 14:39
アホか、逆に中央へ出る機会を失ったうえに
領土も失ってさらに呉に大敗を喫したことが大成功な訳ねーだろ。
厨房のパラノイアは認識不足から来る妄想に過ぎない。
結局のところ連合すべき二国が絶対に戦争を回避できない地勢に・・・・
97このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね:03/08/21 18:39

522 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/14 00:30
>>514
このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね。
三戦板だと知識自慢できるから天狗になって自説が正しいと勘違いしてるヤシがほとんど。


687 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/16 20:01

まぁ確かに、蜀か呉に偏ってる厨ばっかだな・・・。
客観的な分析ができてるマトモな意見がほとんどない。


98無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 18:40
2回目のセックス。
途中腹痛に見舞われますが慣れているのか我慢しながらのフェラ。
この女はかなりスタイルが良くて締まりも抜群なのでしょう。
援交女バリバリです。
無料ムービーはこちら
http://members.j-girlmovie.com/main.html
99無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 19:53
関羽は、6・7年もの間、荊州を任されている。
しかも魏・呉の名将達と対峙していた。
(魏の場合、曹仁が戻ってくるまで誰だったのか判らないが。)
その間、民衆の反乱が1つも起こしていないのは、
行政をしっかりやっていた為だろう。
関羽が行政も担当していれば、その通りだろうな。
101無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 19:57
まぁ三国でもっとも弱い蜀で、
たいした支援もなく数年間支え、
それどころか魏の脅威となったことは
おおいに評価できる点である。
>>101
いざ攻められたとき役に立たなかったのだから
大して評価すべき事ではないと思われ
103無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 20:17
同盟があったとはいえ、あれだけの外交的な衝突があっては意味無し。
魏・呉の両国にとっての戦略的要地を数年間守ったというのはデカい。
実際に兵を動かす段階では、これ以上ない入念な準備がなされていたうえ
徐晃に破れた経緯も不明ながら、おそらくは相当に不利な状況。 
それだけ当時の人間には関羽の勇名が高かったということ。
魏が本気で荊州攻めたこと自体なかったような。
で、蜀から仕掛けたら軍は壊滅し帰ってみれば既に荊州も・・・
105無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 20:20
>>103
呉が最初に攻めて来たとき結局何もしてなかったような。
>>105
「何もしなかった」こと自体は正解だよ。
積極的に動いた場合、呉蜀の関係を完全に破壊しかねない状況だったから。
最悪だけは免れてると言っていいんじゃないかな。
>>106
「何もしなかった」わけではないよ。何も出来なかった
関羽は魯粛に何も言い返せず、その上、軍事行動は甘寧に阻まれた
その間に、呂蒙が南部三郡を帰順させた
はっきり言って、この時の関羽は良いとこなし
後、付け加えて置くなら、この後の蜀呉の講和は、魏が漢中を奪い蜀を窺ったため
108無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 20:57
しかし三つ巴は面白いな。
蜀のピンチは呉のピンチでもあり、チャンスでもあり。
うむむ
>>107
結果のことだよ。「〜をしたかったが」とは書いていないって。
で、いざ何かをしたら呉が横から攻撃しなくても荊州を魏に奪われることがほぼ確実の
大打撃を受けて軍が壊滅。何かをすれば失敗し、何もしなくても失敗する。
何をするかによる。
魏を攻撃するだけしか択べない一択問題であれば、その通り。
その何をするかの選択が致命的にまずいから失敗するんじゃないか
113無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:22
あの時期の荊州は誰が守っても獲られると思われ
114無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:24
取られるのを著しく早めたような気もするが・・・
>>113
麋芳、士仁に裏切られ
劉封、孟達の援護を得られない
こんな状況は関羽だからこそと思うのですが?
>>115
劉封、孟達は仕方がないのでは?
117無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:36
http://plaza.rakuten.co.jp/itoumasaki ツマンナイ三国志サイトw     
118無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:43
関羽将軍は他の二国と異なり、地形的にも孤立しているからな。
猛逹の援護なぞ微力に過ぎン
119無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:48
魏と呉の挟撃なんだよ?
益州の本隊とは遠く離れてるし
曹操や陸遜が守ったとしても守りきれないだろう
まず戦略に問題があり、それは関羽のせいでは無い
120無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:49
関羽は守るんではなく自分から仕掛けて自爆したんですが
121無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 21:53
魏の討滅は蜀の方針ですが何か?
122無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 22:05
まぁ劉備たちが漢中取ったから関羽もそれに呼応して進撃しちゃったんだろうな・・・
123無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 22:10
124無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 22:10
それにしたってつくづく自分から仕掛けたってのは阿保だな・・
たかだか三万で何が出来ると思ったんだろうな。
おとなしく篭ってりゃあ一年くらい持つだろうに。
125無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 22:13
関羽は自尊心が強すぎるし、今のうちに功績をあげておかないとヤバイと思ったのかも?
でも、攻め込む前に呉をなんとかしとかないと・・・
魏討伐に向かった関羽は人の目に美しいを感じられたでしょう。
全ての戦術を駆使し、偶然天の利も重なり李典を撃破した。
それで充分だったはず。守りを固めるべきだった。
挟み撃ちにしようとする呂蒙を逆に捕虜にでも出来たら最高の舞台。
李典と呂蒙の首の塩漬けを送ったら魏も呉も怒ったろうね?ぎゃはは
一時でも呉に降ろうとした縻芳他は真っ二つでしょうね。ぎひひ!
ついに壊れたか
李典?
規制解除キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
ああ、ストレス溜まった。

>>119
その二人なら守りきるかもしれないよ。
仮に守れなかったとしても、
曹操>大敗しても、敵に捕まらず何とか逃げ延びる。
陸遜>ヤバイっ!と思ったら将兵を全うしてサクっと退却。
だろうな。
130郭図公則 ◆2getuRmEIU :03/08/21 22:35
何処がきせいされたの?
131無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 22:36
曹操は進撃も凄いけど、同時に撤退も凄いよね。これが一流の理由!!
>>130
plala(w
広告全鯖投下の元だったらすぃ・・・
133無名武将@お腹せっぷく :03/08/21 22:45
諸葛亮も何気に撤退戦うまいよね。張郤殺してるし。
撤退に関しては諸葛亮と陸遜は一流だね。
曹操はなにげにピンチに陥ることが多いな。でも何とかなってるけど。本人だけは。
135郭図公則 ◆2getuRmEIU :03/08/21 22:56
>>132
そりゃ大変だ、俺もこの前規制された時は・・・
136無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 22:57
漢中での攻防戦でも「鶏肋」ですばやく撤退したから、樊城戦に徐晃や趙儼を派遣できたし。
うむ、撤退の決断時期を間違えないという意味では優秀であるな。
赤壁以外は。
138無名武将@お腹せっぷく:03/08/21 23:06
あ〜、やっぱり関羽を抑える人が1人でも欲しかったな〜。ホウ統あたり・・・
でも、もし(歴史には禁句だけど)ホウ統が生きてたら、ホウ統は漢中の方に飛ばされたかな。
呉との友好関係考えたら諸葛亮が荊州にくるかも。
>>138
誰であろうが抑えられないんじゃないかな・・・それこそ劉備以外は・・・
ホウ統が抑えられるんなら、潘濬だって抑えられただろうし。
そのネタ飽きた、その時ホウ統や諸葛亮に何が出来るのか具体的に教えてくれ。
そういう時は、関羽は何が出来なかったのか具体的に教えないと。
魯粛との会見で論破することが出来なかった
呉に対する反乱を扇動することをやめられなかった
呉の拠点から略奪するのを思いとどまらなかった
部下との不仲を解消しようとしなかった
勝ち目の無い戦力で魏に侵攻するのをやめられなかった

こんなところか
だがホウ統よりはるかに潘濬のほうが有能だと思うのは俺だけ?
>>142
陸遜の手紙に舞い上がって守備兵まで前線に投入するのを思いとどまらなかった。

漏れもホウ統よりも潘濬のほうが有能だと思うな。
で、
>>140になるわけだな。
>>99
>しかも魏・呉の名将達と対峙していた。
>(魏の場合、曹仁が戻ってくるまで誰だったのか判らないが。)
>その間、民衆の反乱が1つも起こしていないのは、行政をしっかりやっていた為だろう。

当時、荊州に駐屯してた魏将はたぶん楽進。
劉備の言によると、青泥という地で楽進と関羽は戦い、関羽が大敗しそうだったという(楽進伝では関羽・蘇非を敗走させたとあるが、これのことか?)。

さらに関羽の支配地である南郡から、異民族が楽進のもとに降伏した(逃げてきたのか?)。
とりあえず、関羽の異民族に対する政策は上手くいかなかったのかもしれない。
>>137
赤壁もろくに資料ないからな、実際疫病でかなりやられただけじゃない?
>>145
なんか時期が混ざってないか?
楽進が末期に駐屯していたのは合肥で、しかも218年に既に死去していた。

楽進が荊州にいたのは赤壁の時で、襄陽に駐屯。
この際、文聘と共に関羽らを尋口で攻撃し、敗走させている。
また、同時期に徐晃と満寵も漢津で関羽を攻撃したことがあった。
>>146
それって、どういうこと
呉書の周瑜伝や黄蓋伝は資料として価値がないって意味なの?
>>148
いや、呉が大勝したんなら魏書と蜀書にもうちょっと記述があってもいいんじゃないかと
>>147
いんや、212年に劉備が劉ショウに送った手紙の中に
「楽進が青泥にあって関羽とにらみあっております。いま関羽を救援に行かなければ楽進はきっと大勝し〜」とある。
この頃、曹仁は関中諸将討伐に出ていたと思われるので、その留守を楽進が預かっていた可能性は充分にある。

実際に楽進VS関羽の戦争があったかどうかはわからないが、楽進が赤壁以降の数年間、襄陽に駐屯してたのは確かだろうと思う。
さらに言うと、楽進は臨ショやセイ陽にいる劉備の部下を打ち破っているが、これらの地を赤壁以前に劉備の部下が統治いたとは考え難いので、
やはり楽進は、劉備が南郡を得た後まで襄陽に駐屯していたと考えられる。
赤壁というか、烏林の役って感じでちゃんとのってるな
主力はほとんど後方にいたんで、被害としてはすくないだろう
この時の引き際はちゃんとしてたと思うが。。。

にしても、漢中の「鶏肋」はただのネタだと思うが
裴松之もマメだねぇ
>>150
そっちか。それも>>99の言いたいこととは関係ないと思うが。
特に、>>145最初の「当時」に疑問。
153145:03/08/22 01:08
>>152

>魏の場合、曹仁が戻ってくるまで誰だったのか判らないが。

→当時、荊州に駐屯してた魏将はたぶん楽進。

>その間、民衆の反乱が1つも起こしていないのは、行政をしっかりやっていた為だろう。

→とりあえず、関羽の異民族に対する政策は上手くいかなかったのかもしれない。
関羽は資料に残ってる負け戦が多いな。
蜀の重鎮として、同じく魏の重鎮である夏侯惇となんか似てる。
>>154
似てるといえば似てるね。夏侯惇は勝ち星無いけど。
けど、性格は惇のが良さそう。
人望も夏侯惇の方がある
また太守としても夏侯惇の方が上
しかし…
息子達が最悪
たしかにあの馬鹿っぷりは…劉禅と違ってフォローのしようもないし…
>>156
内政面ではけっこうよさげだよね。

夏侯惇のことね
>>158
内政?
>>160
うん、なんていうか現場指揮官みたいな感じ。
自分で土かついで働いたり。
>>161
それをいうなら、地方レベルの行政・統治、ってあたりが適切。
内政じゃ、ゲーム、っぽいよ。
>>162
実は剣の柄に入っていた。
164無名武将@お腹せっぷく:03/08/22 20:41
>>153
楽進が荊州方面の司令官だったということで、
その後、張遼の下についたのは、左遷させられたか、
関羽はたいした事がないと考えたためか。
楽進の後では、刺史が一番えらかったのかな。
165凡愚:03/08/22 21:10
unko
>>164
楽進は張遼の下についたわけじゃないぞ…
楽進は合肥に赴任する少し前に軍の指揮権を貰ってるから、張遼の上についたとも考えられる。
999…
168無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 01:29
ってか、張遼と楽進は同僚なんじゃないの?上司はショウに駐屯してて南東方面の総司令官だった夏侯惇じゃないかな。
まぁ、戦闘時に同格が二人いると指揮系統上混乱するから、年齢、閲歴が上である張遼が先任ってことで協議した上で指揮したかもしれんが。
そんでも、あくまで「命令」じゃなくて「要請」だったとかさ。
ま、楽進とか李典とかは関羽とかと違って人間出来てるから上手く機能したんだろうけど。
169無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 07:42
関羽の下が、士仁達のかわりに、楽進と李典だったら
裏切りそうもない。
>>169
逆だ。士仁達の上司が関羽の代わりに楽進とかだったら裏切りそうに(ry
171無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 09:33
>170
あ〜、そうだね。
楽進や李典が上司だったら蜀が天下統一したかもなw
くだらん事いうなアフォ。
楽進や李典は張遼と不仲だったんでしょ?
それでも国の為と協力は惜しまなかった。

関羽は私情が出すぎなんだよな…。
張遼との不仲ってやっぱり濮陽の件が原因だったん?
思ったんだけどさ、劉備勢力が荊州を保てなかったのって赤壁直後の呉と同じ理由だったんじゃ?
手を広げすぎると荊州を保てないのが解ってたから自分が魏の矢面に立つという好条件を与えてまで荊州のかなりの部分を譲渡したんじゃ
劉備が蜀入りする事が計算外だったのかどうかは知らないけど呉に荊州を保つだけの力ができたのならその時点で奪ったと思うよ
だから魯粛生きてても攻めこんだかと
>>175
少し違う
劉備勢力が荊州を保てなかったのは完全に呉への同盟軽視
それと呉が保てないから荊州を譲渡しようとしたという考えはない
曹操への防波堤効果を狙っていたのは確かだが
違うと思う。孫権は劉備を他の豪族と同じく自分の配下に置こうという思惑があったんだよ。
だからまずは荊州を貸し与えて自分の度量を見せておこうとした。
がしかし、いつのまにか劉備は益州征伐に出かけてしまい、蜀を乗っ取ってしまった。
孫権の思惑は外れ、このままでは荊州は貸し損になってしまう。そこで荊州の返還を求めた。
史書に明確な荊州に対する契約が記されてないのは、こういう経緯があるからだろう。

前に、荊州が「死活問題」と大袈裟な事を書いてるヤシがいたけど、やっぱり違うと思う。
孫権が荊州に拘ったのは自分の犯した過ちを清算する為のケジメだったんじゃないか?
だから最初は私情を挟まず戦争を避ける為に関羽との縁談を持ちかけたのでは?
結果は関羽が酷い無礼を見せたので荊州奪還に踏み切った。
>>177
後の南北朝を知っていたら
荊州が呉にとって死活でない、などとは、とても言えないだろう
>>177
周瑜が劉備を呉に留める策を進言した時
孫権が反対した理由にどんなことをしても
劉備は必ず自分の元を離れると考え進言を
取り上げなかったぐらいなのに
急にわざわざ荊州を貸し与えることで
劉備を他の豪族みたいに配下にしようとすると思う?
>>178
逆に何故そう言えるのか聞きたい。
では、南北朝時代の三国時代の荊州あたりの動向を
比較できる形で事例をいくつか挙げてみてくれ。
>>179
>周瑜が劉備を呉に留める策を進言した時

ん?周瑜が一番反対していたのに?
どこにそんな記述がるんだ?
>>180
比較も何も、南朝のほとんどの国が江陵を一大軍事拠点とし副都と言っても良い状態だった
南朝の陳は、江陵を確保しておらず隋によって呆気なく滅んでしまった
陳の後主は遊び人として有名で、彼は陳の滅亡を予期していたが為、遊び人であったとの説があるほどで
陳朝の頃には、滅亡は時間の問題と思われていた
その最大の要因が、江陵を確保できなかったことなのである
また六朝ではないが、有名な南宋は襄陽の地を軍事拠点としていて
孟キョウもこの地を対モンゴルの拠点とし進行をくい止めた
同じく南宋の呂文煥も襄陽の地に依ってモンゴルを防いだが
中央での立場が悪くなり、さらに樊城が陥落するに到り、元に降伏した
この6年後に南宋が滅んでいる
一方、三国時代の呉も、武昌を副都に江陵、西陵に都督をおいてかなり重視している
孫権の頃には、太子孫登が武昌にあって上大将軍の陸遜、太常の潘濬が補佐していた
また陸遜、歩隲は丞相となった後も荊州に留まっていた
これらのことは、呉が如何に荊州を重視していたかを示す良い事例であります
>>181
179ではないが、
何か勘違いしてないか?
周瑜が反対したのは「劉備に荊州を貸し与えること」
周瑜伝に載ってる179の言う周瑜の進言の内容は
「劉備を呉(呉郡)に留め置くこと」

別に179の言ってる事は矛盾しないと思うんだが。
>>181
>周瑜が劉備を呉に留める策を進言した
この事は、周瑜伝に記述があり、またホウ統伝の註の江表伝にも記述がありますよ
          ,,..--―-、       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         /, -----、.ヽ,     /  世界、糞スレ発見!
         |  i_,,,,_  __゙l |    |    >>1はボッシュート!
         ,!、i'゙-‐-: '-、|/   /  __________
        /'') ..., '‐-‐、.j     ̄ ̄
        / ,‐!::...`'''''''`ノ
      _,,,l ;! ::|ヽ、二 イ
   , -‐'゙゛ i::..  | .ヽ/;ヽj!`‐-、_
   l     ノ::. .:|、 .ヽ,:ヽ|  <゛~ヽ、
  ,:''`` ''"゙.|;;:‐''゙|.ヽ、 ヽ;::|  /  .|゙l
  ,:     ヽ::il;;!  ヽ、ヽ| /   | :|
  i    o゚ :`;''゙     ヽ| /   | .|
  i   ..:::::,:::'::::: .      |゚    |,,;:->、
  `.、__;;/:::::::::: :     |    !''"  |
     i  ::.:::: :       |    |   .|  
     |          |゚   /     |



       ⌒ ⌒ ⌒ シュルルル
     __⌒ ⌒ ⌒__
    /::::::::::Λ_Λ::::::::::::::::::/
    /::::::::::(∩;´Д`)∩:::::::/  チャラッチャラッチャーン
   /::::::::::::(  >>1  /:::::/
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
186無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 22:26
江東、江南地域の安定の為には長江中流域である、荊州・湖南地方の確保は絶対的条件。
劉備に貸したのは単に荊州を確保するほどの力量が無かったから。
荊州統治には荊州人士の協力が不可欠な訳だけど、そう言う人材のほとんどが劉備のトコにいるって状況じゃ、荊州を貸すって以外に選択肢は無かったかも。
劉備の益州入りに伴い、益州統治の中核的存在として荊州人士が益州入りし、残った関羽と荊州人士である藩濬以下が反目した時、呉に取って荊州奪取の好機だったのだろう。
一時的に同盟国である蜀との関係が悪化してでも荊州は確保したかったんだよ。
蜀って国はアンチ曹魏が国是だから魏と結ぶ可能性はほぼ零。2面で戦う国力は到底無いので呉とは絶対に同盟したい。
呉は魏と結べば国力差から言って、魏上位になるのは明らかなので、基本的には蜀と結ぶ方向。ただ状況によっては魏でもOK。
こういう両国の状況だから、呉としては一時的に蜀と関係悪化しても、いずれは蜀側が折れる、って想定できる。
で、実際そうなった訳だし。
呉にとってもっとも重要なのは自国の安定的自立であるから、荊州を確保して三国時代の趨勢を決定付けた荊州奪取は大成功ってコトになる。

で、最終的に関羽を殺そうと決めた人と実際に手を下したのは誰?
体勢に影響ない関羽をどうしても殺さなければならなかったのか?
劉備と張飛に義理の兄弟を知りながら、わかった上で殺したのか?

誰かこの夏厨にわかりやすく教えてください。
188無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 23:23
要するに孫権は最初から荊州は取るつもりだったんだね
最初から蜀と同盟も糞も関係なく呉の都合だけしか考えてなかったんだね
挙句の果てに魏に臣下の礼までとってるし
189無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 23:25
>187
え〜と、正史を読むと、呉の藩璋だね。まぁ、藩璋の部下だろうけど。
孫権が藩璋を差し向け、あらかじめ関羽の退路を断っておき、関羽がやってくると、すぐさま斬り殺した、だってさ。
>>188
坊や、それが乱世ってもんよ。
191無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 23:30
>188
蜀厨か?
呉が呉の都合だけで動くのは当たり前じゃないかい?
まぁ、呉だって蜀との同盟が基本だよ。ただどっちがより有利な状況か、ってコトだね。
呉としか結べない蜀、魏とも結べる呉。
蜀が足元見られちゃうのは仕方がないね。
192187:03/08/24 23:34
>>188〜190
諸先生達、優しい御回答感謝致します。
>>187
孫権が朱然と潘璋を遣わして関羽の退路を断った、とあるね。
で、潘璋の部下の馬忠が関羽を捕まえて、その場で斬った、と。あでも斬ったのは馬忠じゃ
なくて、処刑執行人のような人だと思うよ。
関羽は孫権を相当怒らせてたからね、大勢に影響あろうがなかろうが斬っちゃったと思うよ。
194無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 23:37
>187,193
その辺りはもしかして、正史も演義もやや一緒かな?
195187:03/08/24 23:39
>>191
ありがとうございました。
僕は関羽の首を取って欲しくなかった。何故?こればかりです。
呉も魏も関羽が劉備にとってどんな存在なのか知ってるはずと思ったからです。
結局、呉の思惑通りいったのでしょうが、、下策に思えて苦しいです。
196193:03/08/24 23:40
>>194
演義だと関羽を孫権の前に引きずりだして、
「関羽味方にできねぇかなぁ?」
「無理だと思うよ、曹操も痛い目にあってるし」
とかって会話があったはずだよ。
>>195
ゲームじゃないんだからよほどのことがない限り捕らえた敵将を無条件で
解放するようなまねはしないと思うよ。
関羽自身が荊州失陥を恥じて死を望み、呉陣営としては関羽を捕虜として
蜀との外交交渉に使うこともできたのだろうが、
関羽の勇名、忠義心などを鑑み、情けをかけて死を与えたんではないかと。

好意的解釈。
捕虜にしようが、無条件に解放しようが、殺そうが、
劉備というか蜀は荊州取り戻しに攻めて来ると思うけどな。

荊州まで全部返すなら別かもしれないが、それでは呉は戦った意味が無い。
>>198
ん?意味が解らん。
関羽討伐から先は読んでないのかな?
200187:03/08/24 23:49
>>197
そうですか、、
あの(関羽の)死が今日まで彼を「神」と言わせたのでしょうね。
その「神」を創造した一貫には呉の心配りもあったのだといまさらながら
深く考えさせられました。
夏厨房(正史ちょっぴり、演義半分、〜伝は好きな武将だけ)の素朴な問いに
一生懸命答えてくださり、感謝の言葉が浮かびませんが、ありがとうございました。
そんなに畏まらんでも…
>>187
がんがれ。期待してるぞー
203187:03/08/25 00:20
>>201
>>202
今度御会いする時は「正史」は把握しときます。また、創造力も鍛えてきます。
こんなに議論されているのに「三国志」は深い、、
一つでもいいから僕なりの見解を披露できるようになりたいです。
(追いこしたい!って気持ちがかなりあります、杞憂前にまず努力します!)
別に劉備が関羽の敵討ちのために呉をせめたなんて記述はなかったよな。
ただ単に配下の顔ぶれから攻めるしかなかっただけで
>>197
>関羽自身が荊州失陥を恥じて死を望み

この程度で死を望むんなら、下ヒを曹操に奪われた時に死を望んでると思うが。
>>203
関羽はお前が思ってるようないい奴じゃないってことだけは覚えておけ。
207このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね:03/08/25 00:33

522 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/14 00:30
>>514
このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね。
三戦板だと知識自慢できるから天狗になって自説が正しいと勘違いしてるヤシがほとんど。


687 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/16 20:01

まぁ確かに、蜀か呉に偏ってる厨ばっかだな・・・。
客観的な分析ができてるマトモな意見がほとんどない。
208187:03/08/25 00:51
>>207
いいみたい、たぶんみんな一緒「三国志が大好きでいっぱい語りたい」ってこと。
新しい「三国志」を引き出すのは難しいと思いますが、なるべく史実に忠実で、
なおかつ、考察なんかを入れたりして、これ以上の楽しみが「三国志」以外から
得ることが出来るでしょうか?
あの時代の人間と人間とのやりとりは「演義」が何故出来たのかまで想像力は
どんどん大きくなる。
僕は正史が全てとは思ってませんよ?でも、そこを踏まえてさ、三国志のロマンを
もっともっと語りたいんだ、だめでしょうか?
コピペにマジレスする事も大切なんだ。
210無名武将@お腹せっぷく:03/08/25 07:11
>187
夏厨房って言っても、知識得ようってんなら、良いことだと思うぞ。
俺は三国志読み出して(まぁ、色々な書籍があるが。)、20年になるけど、何回も読んでいくと、
けっこう分かって来る部分って多い。「読書百篇、自ずからあらわる」ってのはあながち嘘ではないよ。
>>208
だったら『史記』や『春秋左氏伝』などに代表される春秋・戦国時代にも
ふれてみるといい。
『正史』には上奏文や会話内、評などの多くの箇所で、古代の偉業や
人物を比較対象としてもちだしてるし。
爽やかさの勝利だな
213187:03/08/25 21:35
重ね重ねありがとうございます。
時間の合間をみて粛々と文献を漁っていこうと思ってます。
色々の時代の人物を知る事で三国志の登場人物の評価が変わるかもしれません。
大きなヒントに感謝です。
その前にお前は正史を読め
書き込む前にお前は二行目を読んでやれ
216187:03/08/25 22:52
どれだけ時間が経つかわかりませんが、
歴史書に夢を乗せて再びここにカキコ出来る日を祈って。
たぶん三国志大好きだから、きっと戻って来ます、さようなら。
がんがれ。








でも、そろそろレス止めといた方が身のためだぞw
あと、ガンダムも見とけよ。参考資料になるからな。
一切ならねぇw
>>219
死ね
>>145
>劉備の言によると、青泥という地で楽進と関羽は戦い、関羽が大敗しそうだったという(楽進伝では関羽・蘇非を敗走させたとあるが、これのことか?)。

蘇非は呉の将じゃない?
劉備は大敗しそうだから劉璋に万の兵をよこせと言ってるだけ。
しかし許されたのはたった四千。
敗走させたというより交戦せずして逃げたと思われ。
当時の南郡太守は張飛のはずだけど。
異民族の反乱なんかしょっちゅうあったでしょ。
呉も苦慮してたみたいだけど…。

>>146
当時の荊州は疫病が流行だったみたいだね。
張飛が武陵(現在の湖南)を攻めた時も、大軍が疫病(瘟疫)に悩まされ、
とて も戦える状態ではなかったらしい。
しかし、張飛が軍を厳格に取り締まった為、軍隊は 地元の人に被害を加える事が全くなかったとの事。
そして地元の名医が門外不出の処方を張飛に献上したらすぃ。
>>221

>蘇非は呉の将じゃない?
蘇飛と混同してる?

>敗走させたというより交戦せずして逃げたと思われ。
それも敗走の一種。

>当時の南郡太守は張飛のはずだけど。
張飛は宜都郡の太守。

>異民族の反乱なんかしょっちゅうあったでしょ。
荊州北部〜南郡ではほとんど無い。

で、後半の五行はなんて小説からの引用?
>>221
三国志全人名辞典によると
蘇非は蜀将で関羽と一緒に荊州を守ったとある。

>張飛が武陵(現在の湖南)を攻めた時も
そりゃ何年の話だ?
>>222
>荊州北部〜南郡ではほとんど無い。
そんな事はない。
黄蓋なんかは武陵蛮や長沙郡と何度も交戦してる。
>>224
横槍スマンが、武陵も長沙も「荊州北部〜南郡」には入らないぞ?
「南郡」を「南部」と勘違いしてないか?
>>225
荊州南郡4郡
武陵・長沙・桂陽・零陵
>>226
どっからそんな自信が出てくるのか知らんが…

「南郡」は独立した一個の郡。江陵が郡治。
また、武陵以下を纏めて「南部四郡」と呼ぶこともある。

「南郡」と「南部四郡」は荊州という点以外、関連性は無かった。
ちょっと訂正

×武陵以下
○武陵郡以下の四郡
後漢の荊州は7郡(南陽、江夏、南郡、武陵、長沙、桂陽、零陵)
一般的に長江で分けた前記3郡を北部(荊北)後記4郡を南部(荊南)と呼ぶ。
上に出てた宜都郡は南郡から分置された…んだと思うがいつごろだろう?
>>227
なるほど。
襄陽太守に任じられて
長江北岸に駐屯してたときに楽進と交戦したのかな?
劉備は入職してるよね。
張飛が南群太守に任じられたのは益州平定後か。
×入職⇒入蜀
>>229
宜都が南郡から分けたのは劉備らしい(晋書より)。
初任官者が張飛だろうね。
一応補足。
荊北が二十四史に初めて現れるのは三国志註、
荊南が二十四史に初めて現れるのは後漢書ですた。

余談だけど、
「荊南」は多くヒットする割に、「荊北」は三件しかヒットしないね。
一般的に使用されていたのか... 補足きぼん
>>233
多分、後漢末〜三国時代なら長江以南は異民族が
数多く住むという一般イメージが漢人にはあるので主に荊州北部を含めば荊州、
荊州南部だけを指すなら湘南(湘水が由来)とか楚とかいうのが多いな。
>>221>>224>>226
ちょっと恥ずかしいでつね。
>>235
何が恥かしい?
普通に紛らわしくて分かりにくい部分だろう。
大敗の意味がおかしいから訂正しただけだ。
手紙の中で劉備が大敗しそうだとハッパをかけただけだ。
後半部分も事実だ。
簡単に煽りに煽られるなよ…
>>236
( ´,_ゝ`)プッ
>>236
>後半部分も事実だ。
( ´,_ゝ`)
周瑜が南郡を攻めてる隙に劉備が荊南四郡かっさらった後
武陵太守になったのって誰だ?金旋はすぐに病死したらしいが。
調べたら蜀の中で武陵太守となったヤツって記載されてないな、資料自体ないかも。
どんな資料をあたった?
>>230
張飛は南郡太守になったことは無い。
南郡太守はビホウ。
某スレで、蜀厨(関羽オタ)と思わしき香具師が暴れていたようだな…
このスレで前に荒らしてた香具師と同一人物なのだろうか?
>>221と同じく、張飛が武陵を落としたと妄言を吐いてる香具師もいたなぁ
関羽討伐とは関係ないが、顔良を討ったのは純粋に凄いことだ。
普通、身分のある大将は4頭立ての馬車に乗って後方にいる。
それを、兵を潜り抜け、後方までたどり着き、ついには顔良を討つわけだから、
武勇としては最高級といっても良い。魏や呉が危険視するのも頷ける。
245無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 03:55
age
素晴らしい煽り方だ
247無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 04:07
お腹が痛い
>>239
http://www.tea-jp.com/tea/teacake/leicha/

張飛伝より
劉備は赤壁戦勝ののち〔張飛を武陵郡攻撃に当たらせて〕荊州南四郡を攻略し、張飛を宜都太守・征虜将軍に任じ、新亭侯に封じた。
のち南郡太守に栄転する。
249このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね:03/08/31 07:38

522 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/14 00:30
>>514
このスレの連中の言う事はアテにならないから鵜呑みにしないようにね。
三戦板だと知識自慢できるから天狗になって自説が正しいと勘違いしてるヤシがほとんど。


687 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:03/08/16 20:01

まぁ確かに、蜀か呉に偏ってる厨ばっかだな・・・。
客観的な分析ができてるマトモな意見がほとんどない。

>>241
正史。メンドイので漢籍電子文献で探った。
劉備の征蜀のときには関羽が襄陽太守、張飛が南郡太守みたいだな。

>>248
宜都太守→南郡太守は別に栄転でもなかろうが。
張飛伝には「張飛を武陵郡攻撃に当たらせて」という文句はないが。
民間伝承の類だろう。
251無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 21:06
age
252戦しゅん:03/08/31 22:23
「壮繆公」
関羽が亡くなった時にもらった
あだ名(?)だそうですが…
なんて読むのですか?
///
>>252
「そうびゅうこう」かな?IMEとかででも調べれるよ。
>>252
……。
「あだな」ではなく、諡(おくりな)、もしくは諡号(しごう)。

「壮繆公」は「そうびゅうこう」とよむが、「繆」は「穆(ぼく)」にも通じるので
「壮穆公」ともいえるのではないかと思われ。
「そうぼくこう」だったと思うが。
太守とは言っても名目上だけで実質的な支配権があったとは到底思えないがな。
関羽の場合は下ヒの時のように前線に居残りで駐屯させられてただけだろう。
>>257
単なる一駐屯軍の司令官ではない。
仮節は与えれてるし、軍事権は掌握してる。
行政面に関して、どれだけ影響力を有していたかは、詳らかではないのかも
しれんけど…。
>>258
それこそが一駐屯軍の司令官だと思うが…
魏だと楽進クラスとかも節を貰ってるし。
>>259
楽進クラス、とはいうけど、楽進を低くみてない?
>>257
劉備不在の時に当時の劉備陣営で関羽以外に統治できるヤツなんていないだろ?
各郡で分割統治なんてもっての外。
>>250から考えるに一応関羽が対魏、張飛が対呉を担当していたと思われるが、
それでも全体責任者は関羽だろう。
>>261
関羽は襄陽太守になったとはいえ、襄陽は魏が支配してる。
名前だけの太守だろうからあまり意味は無いと思う。
実際に関羽は江陵にいたのか?
>>262
一応、先主伝註の献帝春秋にはそう書いてあるね。
264戦しゅん:03/09/01 23:27
「壮繆公」の質問をしたものです。
返答ありがとうございました。
ついでといってはなんですが「壮繆公」の
意味も知りたいのです。
もし、暇でしたらレスください。
今ゲームの三国志やってますが、
趙雲がそれなりの策師を連れて守ったら「完璧」でした。
正史厨も一遍やってみな?手が震えて出来ないか?あっはっは〜!
関羽は劉封と孟達と合流して破竹の勢いで魏を追い詰めてくれます。
あとは諸葛らの到着を待つばかりです。孫権力もしぶしぶ兵隊を出してます。
>>265
そりゃゲームは荊州の人口が異常に多いからな
あと、コーエーのゲームは演義準拠だから、趙雲の能力値が異様に高いしな。
268無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 00:55
>>265
お前、おもろいw
少しリプレイして書いてみろよ
>>265
そうそう、ゲームとはそういうことをする為にあるんだよ。
>>265
バカかお前?正史厨も演義厨もそんな事いわねえよ。無双厨レベル。
コーエーゲーなら趙雲は能力高めに設定されているから、そりゃ攻防ともに活躍できるだろ。
貴様みたいなのがゲーム脳になっているんだろうな。
>>270
大人げない野郎だな。空気嫁。
ギャグネタにマジギレかよ...
>>264
>>255でレスした者だが、知ってる限りで書かせてもらう。
(典拠は『逸周書』の「諡法解」より)

まず「壮繆公」のうち、「壮」は「莊(荘)」に通じ、おおまかにいえば
”兵馬、武威をもって事績を残した”人物に贈られる諡号。
関羽の場合、襄、樊二城をめぐる戦役における事績を主としているのだと
思われ。
次に「繆」だが、これは「謬」に通じ、端的にいうと、”名はあれど実に瑕(きず)
あり”、といったあたりで、(美、平、悪に大別される)諡号のなかでも悪諡に
相当する。
これは周知のとおり、荊州失陥の一因でもある、関羽の性格を諷しているの
だと思われる。

ただし、この「謬(繆)」という諡号は特殊で、同じ読みをもつ「穆」にも通じる
一面がある。
この「穆」の場合は美諡であり、”徳義を専らとした”人物や、”挙措進退の一貫
した”人物に贈られる。

「謬(繆)」をとるか、「穆」でもあるのかはわからないが、「壮繆公」というのは
関羽に相応しい諡号ではないかと考える。           長くてすまん。
274戦しゅん:03/09/02 19:22
>>273
わかりやすい説明ほんとうに
ありがとうございました。
かなり三国志に詳しい方ですね。
>>248
それって、どんな史書に載ってるのか書いてないじゃん…
孔明が饅頭を発明したというのと同レベルの単なる民間伝承だろうな。