1 :
無名武将@お腹せっぷく:
どうだったん?
なんでここで聞くんだ?
沖縄と日本は時代区分が違います
4 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/31 01:39
慶次郎達が王宮に乗り込みます
5 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/31 02:57
尚巴志で終了
三山が争ったけど戦国時代にはすでに統一されてます。
陳舜臣の琉球の風がこのころを扱ってたと思うが。
8 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/31 23:34
北海道の戦国時代はどうだったんだろう?
10 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/01 00:49
>1
バカ、ひょんな事から琉球王国へタイムスリップしたごく普通の高校生が
ニヒルな相棒、巨乳の魔法使い、怪力デブとすばしっこいチビと仲間になり
悪い奴等をやっつけて琉球王国の戦乱に終止符を打つっていう感動の一大
ファンタジーを知らんのか?
夏だねぇ
夏ですね
あぼーん
14 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/03 05:48
琉球の甲冑って、やっぱ中国風なのか?
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/03 12:24
中国風の鎧ってどんなの?
ヒラヒラした感じの?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/03 17:40
歩人甲ってやつ?
けど沖縄であの重装甲は蒸れそうだが(w
日本でいう腹巻みたいな糸でおどした防具だった様な気が
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/10 18:45
共産主義になった翌日、私は妻とともに散歩に出かけた。
もう冬だというのに木は青々としている。
人々の表情は希望と活気に満ち、額から流れる労働者の汗が太陽光を反射していた。
「人間が憎しみあう時代は終わったのだな」
昨日までとある一流企業に勤めていた斎藤さんが、ほっとしたように私たち夫婦に言った。
「ええ、これからは人が人を支え合う時代なんですよ」
普段は滅多に話に加わらない妻の靖子が、斎藤さんの肩に手を置いて優しく言った。
「人という字を御覧なさい。二本の線がお互いを支え合っているじゃないですか」
通りがかりの髪の長い中年男がそう言って微笑んだ。
ロックンローラーは長年使ってきたギターを質に入れ、黒光りする鍬を購入した。
「ロックはもう不要だ。これからは日本中に鍬の音を響かせよう」
一仕事終えた農夫の表情で男は言った。
青空のなかををツバメが横切っていった。
あぼーん
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 22:53
亀井琉球守
21 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/23 17:30
age
22 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/23 17:40
そういえば沖縄の歴史って全く知らないな。
1970年に返還されたってとこだけ。
元々日本とされるようになったのは薩摩に侵略されたんだっけ?
ヲイヲイ
三山の前には英祖とかいう国?みたいなのもあったような。
三山時代の沖縄の戦は、どれくらい人数でやったのだろ?
万単位は無理として1000〜500人くらいかな。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/02 22:54
人類が滅亡した翌日、私は散歩に出かけた。
もう冬だというのに木は青々としている。
動物たちの表情は希望と活気に満ち、植物の葉に溜まった水が太陽光を反射していた。
「人間が自然を壊す時代は終わったのだな」
昨日まである家で飼われていたポチが、ほっとしたように私に言った。
「ええ、これからは動物と植物が支え合う時代なんですよ」
普段は滅多に話に加わらないサルのジョニーが、ポチの肩に手を置いて優しく言った。
「太陽を御覧なさい。いつもより満々と輝いているではありませんか。」
通りがかりのカラスがそう言って微笑んだ。
血統書付きの猫は長年使ってきた証明書を食い破り、黒光りする首輪を川へ投げ捨てた。
「人間への愛想はもう不要だ。これからは世界中に大自然の恵みを届けよう」
一仕事終えた表情で猫は言った。
青空のなかををツバメが横切っていった。
沖縄の歴史教科書を読んだ事あるけど内容がこっちと全然違ったから、
読んでて結構面白かったよ。蔡温とか知らなかったし。
島津はやっぱり悪く書かれてたね。
>>10 滝沢馬琴『椿説弓張月』がそんな内容だったような。
>>22 大東亜戦争で本土決戦の場所になった哀しい歴史があるだろ
\ (((こ)))
/ (从从))
/三√リ゚−゚)リ
>>926 遺物遺物と言うような香具師は・・・
/三/| ゚U゚|\
U (:::田:::)
//三/|三|\
∪ ∪
/\___/ヽ ヽ
≡/ (((こ)) / ::::::::::::::::\ つ
≡/ (从从)) こうじゃ | ,,-‐‐ ‐‐-、 .:::| わ
≡/三√リ´∀`)リ ドシュッ | 、_(o)_,: _(o)_, :::|ぁぁ
≡━━つ━つ━━━━━━=| ::< .::|あぁ
≡ //(:::田:::)\ \ /( [三] )ヽ ::/ああ
≡ し'(_) /`ー‐--‐‐―´\ぁあ
/\___/ヽ ヽ
≡/ (((こ)) / ::::::::::::::::\ つ
≡/ (从从)) こうじゃ | ,,-‐‐ ‐‐-、 .:::| わ
≡/三√リ´∀`)リ ドシュッ | 、_(o)_,: _(o)_, :::|ぁぁ
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≡ し'(_) /`ー‐--‐‐―´\ぁあ
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≡/ (从从)) こうじゃ | ,,-‐‐ ‐‐-、 .:::| わ
≡/三√リ´∀`)リ ドシュッ | 、_(o)_,: _(o)_, :::|ぁぁ
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≡ し'(_) /`ー‐--‐‐―´\ぁあ
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≡/ (从从)) こうじゃ | ,,-‐‐ ‐‐-、 .:::| わ
≡/三√リ´∀`)リ ドシュッ | 、_(o)_,: _(o)_, :::|ぁぁ
≡━━つ━つ━━━━━━=| ::< .::|あぁ
≡ //三/田 \ /( [三] )ヽ ::/ああ
≡ し'(_) /`ー‐--‐‐―´\ぁあ
35 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/16 00:32
age
花の慶次でも読んでろ。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 15:31
(・∀・)ガンジューイ?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/19 15:45
>>14 >琉球の甲冑って、やっぱ中国風なのか?
よく三山時代の組踊りとか郷土劇場とかの出てくる武装した侍(サムレー)
の姿は、鎌倉〜室町期の日本の兜に広東系の中国のなめし皮の鎧を身につけて、
その上に陣羽織を羽織って日本刀を獲物にしてる。
で、侍の士従達は中国の大刀や日本の薙刀を獲物にしていることが多い。
でも一番人気あった武器は日本刀みたい。中山に最後まで抵抗した
北山の三代王樊安知(はにじ)の今帰仁城や、第二王統の忠臣・護佐丸を討ち取った
勝連の阿麻和利(あまわり)の勝連城など王統に反抗する勢力には特に日本刀の需要が
高かったらしい。
>>24 >三山の前には英祖とかいう国?みたいなのもあったような。
大雑把だけどこんなかんじ(本や資料によって年代や名称が違うんで、適当にまとめた)
【天孫氏25代】(期間:?〜1000年頃?:25代?年)
伝説では浦添按司・利勇が天孫氏を殺害して「世の主」を名乗り、それに反発した按司が
各地で乱立したとされている。
現在、各地のグスク調査によると、九州ルートの人々(没落した平家)や
広東ルート(北宋からの亡命者)等から人々の流入が有ったことが分かっている。
外部からの文化の伝来によって、沖縄風土に各土地独特のアイデンティティが芽生え、
有力な按司及びグスク、間切が各地に形成されたと予測される。
【舜天王統】(期間:1170頃?〜1260年:三代約90年)
系統:舜天−舜馬順煕−義本
舜天を源為朝の後裔とする説話があるが、これは『中山世鑑』(1650年編纂)
の編者・向象賢の日琉同祖論における創作で、後年の曲亭馬琴の『椿説弓張月』に
影響を与えた事が知られている。浦添(浦襲)を拠点とし、沖縄に初めての王統を
開闢する。
【英祖王統】(期間:1260〜1350年:五代90年)
系統:英祖−大成−英慈−玉城−西威
1260年に舜天王統最後の王義本から王位を禅譲されたのが浦添按司恵祖の子・英祖。
生母が夢に日輪を見たため、“日子”(てだの子)と神号が送られたという。
初代英祖王は久米島・慶良間島・奄美大島からの入貢によって、琉球文化圏の源泉とも
言える独自の国家認識を構築した最初の王である。
また、元の軍勢を退けた王でもあり「元史」等の史書にも記録が残る実在の王統でも
ある。しかし、英祖王死語、各地の按司が勢力を増すようになり、玉城王(4代)の
とき北と南に新たな王が現れて三山が対立し、5代西威王の時に英祖王統は南山に
滅ぼされた。
三山時代(1350年頃〜1429年)
【察度王統(中山)】(期間:1350〜1422年:二代72年)
系統:察度−武寧
奥間大観と天女との間に生まれた子とされる察度は、鉄を以て財を成し、浦添按司の
地位まで登りつめ、やがて人々の信望を集めて1350年、滅亡した中山王の王位に
ついた。この時代には宮古・八重山地域からも入貢があり中山王の勢力は高まったが、
その子武寧が不明であったため王統は2代で終わった。その後は佐敷の尚巴志が中山王
の意志を継ぎ、三山統一を果たす。
【北山】(期間:1322?〜1416:三代92年)
系統:怕尼芝−民(王扁に民)−攀安知
中山に敗れた「世の主」の為、その実体は明らかではないが、『球陽』等の文献によると、
羽地、名護、国頭、金武(きん)、伊江島、伊平屋島・伊是名島が北山の勢力圏という。
出自は定かではないが、九州から下ってた平家系の有力者という説話も存在する。
北山は今帰仁城(北山城)を拠点に沖縄本島北部に勢力を広げ、初代怕尼芝(はにじ)は
明との朝頁で冊封され、よく国をおさめたが、三代王攀安知は武勇はあるが無道の性質で
あったため、北山末期には羽地、国頭、名護按司の北山の有力な三按司が中山へ寝返った。
三山時代は戦ばかりが続いた時代と思われていたが、最近の研究では中山と北山の国力差は
相当あったようで、中山との戦は三代王攀安知(はんあんち)の頃まで本格的な抗争は
無かったようだ。1416年、中山の尚巴志が率いる2000の軍勢が今帰仁城を急襲し、
腹心本部大原(もとぶてーはら)の裏切りもあって敗北、攀安知は本部大原を斬り、
さらに拝んでいた霊石に罵声を浴びせて真っ二つに斬った後、宝刀千代金丸を谷へ
投げ入れ、憤死した。
【南山】(期間:1350年頃〜1429:三代約70年?)
系統:承察度−汪応祖−他魯毎
『球陽』によると兼城、真壁、喜屋武、摩文仁(以上は現在の糸満市)、 東風平、豊見城、具志頭、
玉城、知念、佐敷、東大里が南山の勢力圏という。北山、中山と同じく朝頁貿易によって明に冊封
を受け、国力を増幅していたが、内乱が激しく、不安定な地方政権だった。
汪応祖の父・汪英紫が初代王承察度を毒殺あるいは追放(1403年)したり、二代南山王汪応祖が
実兄達勃期(たるぶち)を殺害し家臣との抗争を起こしたり(1414年)と、南山の情勢は時代に
よって激変した。汪応祖の子で三代王他魯毎(たるまい)は政治を疎んじて道楽三昧のために
民心はしだいに離れていき、1429年、中山の尚巴志と戦ったが敗れて南山は滅ぼされた。
第一尚氏王統、第二尚氏王統は難儀だから誰か書いて…w
42 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 22:42
(・∀・)ガンジューイ?
43 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :03/09/21 00:16
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
天皇は、米軍が沖縄の軍事占領を続けることを希望している。
それは、日本がソ連の影響を被ることを防ぎ、日米両国に有益で、
この占領は、日本の主権を残存させた状態で
25〜50年の長期貸与の形がよいと、天皇は言っている。
そうすれば、アメリカが日本に領土的野心をもっていないことを国民も納得するし、
周辺の中国ソ連などの要求を断る理由にもなると天皇は考えている。
昭和22年
昭和天皇がGHQに伝えた見解
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓※〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
44 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 14:54
age
45 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/05 15:03
\`
, ‐'´ _ ヽ | ー十
∠ -‐,'´‐' ´ i レ ⊂ト
, ‐'´ _ , l
∠ -‐'/,.ィ /|. 、 |
| ー十 /// /|/::::l !ヽ. ト、 、 | / !!
レ ⊂ト /" / ./ , /| /、!_::u:ヽ|_,,ゝ!-ヤヽ. | \
! /l ./l /`l/ 、..」 l|_,,. -‐' ´\l、 |
l/ i./ l/ ====、 __ :====:::::| |⌒i ヽ ・
/ !! / lヽ、.__。,/;: ゙゙ 、。_ ,ノ::::::| .|ニ!.!. ヽ
\ l ::/;:::::::v / j:::| ト_l | `ゝ ・
l /;::::::::::__::) _, ‐'´ ::::|.L_ノ `‐、 鶏肋鶏肋
・ i`ニ---──── '7:::::|| ト、._ ヽ、
,.へ〈~ ; ヽ______,.ノ:::/:! |. T  ̄``''‐ 、.
・ , -‐- 、.._ ヾ、ミヽ〜′___ ::::/:: !. 、! |``''‐ 、. ``''‐ 、
,.‐'⌒'''‐- 、 )/ヾど! ヽv ̄ ̄::::::::/::: | | ! ``''‐ 、
/ ̄`''‐、.._,ノi"⌒i. |. ヽ:::::::::::/::: l 、!. |
{,.'⌒'''‐- 、 ノ .l: ! |. l ヽ/ |::: U l ,! .|. |
/ ,、._,.イ__,ノ:: / ! | .| ト、. | ,ィ / |. |
. / ,ノ::::::::::::/::::: i. / レ'W | |,','`,ー-‐,レ' W,| | |
46 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 20:59
などてすめらぎはヒトとなりたまひし
48 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 07:47
age
49 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 23:00
age
51 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 07:39
age
age
53 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 22:15
age
54 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 22:11
age
55 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 01:54
その頃って他の島はどうしてたのかな?
三つに分かれて争っている間に奄美や宮古の島主が…
なんてなかったのかな?
56 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 11:20
那覇と首里の関係は
本州の江戸と京都くらい凄まじいものだったそうな
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 17:43
age
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 18:26
島津が来襲し、女は陵辱、見た目がかわいい子供は稚児として薩摩へ送られ、
金品や食べ物は略奪され、以後は薩摩に年貢を支払う奴隷として属領化。
>>58 ソースプリーズ
特に
>見た目がかわいい子供は稚児として薩摩へ送られ、
の部分についてよろしく
>>56 那覇の中に首里城があるんじゃないの?(´・ω・`)
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 20:25
まあ、やまとんちゅが沖縄に対して誠意をもって謝罪し、
過去の悪行を懺悔することからはじめないと駄目だな。
62 :
紫龍 ◆E5DSHIRYUU :04/01/01 21:50
どうも〜スマブクロづす〜朝ぐはんいただきにまいりますた〜
>>60 うん、そうだけど、昔から那覇では首里と那覇って分けて考えられてるよ。
今もそんな感じ。あと首里出身の人は「首里人(しゅりんちゅ)」って
呼ばれてて、これにはちょっとした蔑称も含まれている。
これはもともと首里という土地が官僚や高官、武士などのいわゆる
支配階級が集中して居住していたためで、それが首里人=高慢・高飛車
といったイメージにつながっていったと思われます。
今はさすがにそういう考え方は古いんだけど、昔の人(おじーとか)
の中には時々そういう発言する人いますね。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 08:51
戦国時代の沖縄本島の人口規模・動員兵力がわからないと、いまいちイメージしにくいな
たぶん三国あわせても人口は五万人以上十万人・未満、最大の戦争でも、中山国が動員
できたのは千人にみたなかった(五百人くらい)、だと思ふのでつが
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 08:53
>>60 >>63 つうか、もともと那覇と首里は別の行政区だったのだが、日本政府の市町村合併政策により
合併して、今では首里は那覇の一地域みたいになってるんだよ。
那覇市は近隣の市町村と次々と合併して、今のようなものになったんだな。
沖縄県民の俺なんかよりずっと詳しくてみなさん素敵ですね
そういや首里城なんか一度も行ったことないや・・・
那覇の発展
1879年に那覇間切と泊間切が合併して那覇区
大正10年に那覇区から那覇市に
昭和29年に那覇市と首里市、小禄村が合併
昭和32年に真和志市と合併して現在に至る。
>>55 宮古の方は城辺の領主が中山に入貢している
奄美の方は沖永良部と与論は北山の支配下なのはわかっている。
山北(北山)に関しては英祖王の次男、湧川王子の子孫の説もあるな。
証拠がおもろさうしだけだからなんともいえないが。
この湧川王子が起こした王朝を仲昔北山(中期北山)と言うそうだが
詳しいことはわかっていない。
ただ、丘春の子の時代に一族の怕尼芝(はにじ)に城を奪われた。
そして、怕尼芝が起こした王朝を今北山(後期北山)という。
余談になるが、読谷の護佐丸は怕尼芝に城を追われた王の子孫と称している。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 12:19
>>59 傷跡に塩を塗りこむ悪行はゆるされない。
罪人は許しを請う立場だ
言い訳はするな!
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 12:27
ま、土人の争いに毛が生えたようなもんかと。
ニューギニアの人喰い人種の部族抗争と五十歩百歩
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 13:00
沖縄ってもともと日本とは違う国だったから
室町幕府の権威が衰えて各地で戦国大名が現れた戦国時代とは
まったく違う流れの歴史があったと思われ
みんな詳しいなあ。ウチナーンチュも勉強しないと。
>>64 だいたいそんくらいです。最大動員の北山城攻めが1500〜2000人位。
通常は百人単位くらいの衝突ではないかと。
でもそんなに頻繁に戦ってはいないと思います。そのための冊封や貿易だから。
>>66 俺も首里城には土方しに行ったくらいしかないw
休みの日の朝早くに守礼門の前に立ってるとトラックが来て大人も学生も
かまわず連れて行く。いい小遣い稼ぎだったな。今もやってんのかな?
>>67 宮古・八重山は間切同士の争いが12,3世紀まで活発だったみたい。
有力な神女が一時期宮古を治めてたみたいだけど・・・詳しいことはよくわかんないや。
小禄も首里と同じように地域意識高い。「なーふぁあらん」みたいな感じ。
>>68 怕尼芝は奄美から下ってきた内地の落武者っていう伝説もあるよ。
昔、今帰仁の郷土史みたいので読んだことあります。
あんな辺鄙な山原で中央集権的集落を形成する力は島人には無いんじゃないかと
思う。そんな俺も今帰仁の人ですw
沖縄の戦国時代から思いっきり離れますが(滝汗)
>俺も首里城には土方しに行ったくらいしかないw
>休みの日の朝早くに守礼門の前に立ってるとトラックが来て大人も学生も
>かまわず連れて行く。いい小遣い稼ぎだったな。
大阪の西成で景気の良いときに見られた光景が
世界遺産の前で再現されていたのですかっ?!(驚愕)
>>74 まだ首里城も整備される前だったし、観光客も今ほど多くなかったし。
今の30代前後の世代までは割とメジャーなバイトでした。僕らが最後の世代かな。
昔ながらの大らかさが、まだ沖縄にあった時代の話です。
ごめんね、戦国時代の話続けてください。
>怕尼芝は奄美から下ってきた内地の落武者っていう伝説もあるよ。
怕尼芝(はにじ)の出生に関しては諸説あるよね。
名前から見ると羽地がなまったものと思えるのだが、
王になる前は羽地按司だったのではと、思っている。
>あんな辺鄙な山原で中央集権的集落を形成する力は島人には無いんじゃないかと思う。
やんばるでも羽地は北部の台所として発展していた。
国頭も木材の生産地だし、今帰仁も耕作地は広く土地も豊かだし、良質な石灰岩が取れるから
中心的な集落を形成は可能だったと思うよ。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 16:01
内地にしろ、琉球にしろ、三国にしろ、障害者が生き地獄だったことには変わりない。
これは戦国時代に限ったことではなく、現代でもそうだがな。
誰がそんな話しろつったよ
正月休みに今帰仁城跡行ってきました。
>>76 >名前から見ると羽地がなまったものと思えるのだが、
やっぱりそっちのほうが可能性高そうね。羽地按司のルーツとか
系統とか分かればいいんだけど…資料なさすぎよね、今の沖縄。
>中心的な集落を形成は可能だったと思うよ
なるほど。
>羽地按司のルーツとか系統とか分かればいいんだけど
有力なのは仲昔北山の王になった湧川の一族。
この湧川の出生も諸説あるな。
英祖王の次男、義本王の子、今帰仁の豪族など
>資料なさすぎよね、今の沖縄。
まあ、三山より前の時代は中山側から見た資料と、中国の資料、
元が口伝のおもろさうし、しかないからな。
実質的におもろさうし頼みに近い状況だけど。
山南(南山)も謎だらけだが、
こちらは北山とは異なって系図に関しては詳しいことがわかっている。
あと、承察度王の時は山南の西側は汪英紫の支配下だったみたいで
承察度の山南王位は飾りに近いものだったと思われる。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 21:36
age
83 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/01/16 18:57
84 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 20:20
与那国島は
身長3mの巨漢で大剣を操り強い呪術を持つ「サンアイ・イソバ」という女傑が治めていた。
彼女は島に攻めてきた琉球王国の侵略軍に4人の弟と共に巧みなゲリラ戦術などで対抗し、
他の宮古、八重山の島々があっさり制圧され降伏したのとは違って、
与那国島だけは琉球王国とついに対等に近い条約を結べたという。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 10:11
>>85 ちょっとやってみたけれど、参考になるのは人物名とグスクの配置だけだね。
○○家みたいなのがあまりにも多すぎ。
実際グスク持ちだけなら、これぐらいだろうな。
北部では、
国頭按司が国頭
山北王家が羽地、今帰仁、伊江
名護按司が名護
金武間切に関しては領主不明
中部なら
読谷山按司が読谷山(山田グスク)
勝連按司が勝連
中山王家が北谷、越来、具志川、中城、浦添、那覇、首里
南部は
島添大里が大里、東風平、玉城、具志頭
島尻大里が豊見城、兼城、赤嶺、真壁、喜屋武、摩文仁
佐敷按司(尚氏)が佐敷といったところだな。
すれ違いスマソ
88 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/01/20 06:07
現在言語で大別すると、
<奄美・琉球系>
@奄美
奄美大島語
喜界語
徳之島語
沖永良部語
与論語
A琉球
今帰仁語
那覇語=対外武力侵略と併合で共通語の地位を獲得。現在「沖縄語」「琉球語」とか称されている。
<宮古・八重山系>
B宮古
宮古語
伊良部語
多良間語
C八重山
石垣語
竹富語
小浜語
新城語
波照間語
西表語
鳩間語
黒島語
〜〜〜〜〜〜
D与那国語
沖識名
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 00:51
モノレールにもうのれ〜る
沖永良部と与論に関しては今帰仁と大して変わらん。
と、いうより同じ。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 23:36
age
94 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 07:25
age
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 13:37
age
厨な質問ですまん
基本的な用語についてなんだが、琉球の支配体制の役職?
王、擦司、国頭などの定義って何?自称なのか公称なのか?日本でいうと何にあたるのか?
教えて!エロい人!
王=中山王、北山王、南山王 日本でたとえるなら天皇
按司=たくさんいるので割愛 日本でたとえるなら都道府県知事
国頭は今の国頭村、大宜味村北部のこと
98 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 08:04
age
島津来襲の時に刀狩りされていて素手で戦うしかなく、
それが唐手(空手)だと何かの本で読んだが本当だろうか?
38さんが日本刀が普及していたと書いてるけど・・・
>>99 だいぶ前の「世界ふしぎ発見」でいってたネタですね。
実際は大砲とか持ってて刀狩りはその後のようだけど。
こんなレスで100ゲッツ(汗)
島津来襲時は
日本刀や大砲、鉄砲は首里と今帰仁、三重城にしかおいてなかったみたいだが
民間にはそんなに普及はしていなかったし、むしろ中国や東南アジア向けの商品だったからな
>>100,
>>101 なるほど。戦国時代の沖縄もおもしろいですね。
検索しても大半が太平洋戦争で
島津来襲を詳しくやっているサイトがあまり無いのが残念。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 23:12
age
104 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 23:22
らくしてゴンゴンだったよ
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 22:05
age
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 08:53
花は咲き乱れ 空はすみわたり
日差しは風に揺れ 大地は生きていた。
何も無いけど 悩みも見当たらなくて
着の身着のまま どうにかなってたらしい。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 00:16
age
ペリーが中城城の建築構造に驚嘆したそうじゃない
沖縄の建築技術もなかなかやるな
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 20:41
age
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/02 00:37
沖縄の歴史全体の本ってなかなか見つからないんだよな。
探しても沖縄戦のことについて書かれた本しか出てこない。
三山だけ知ってりゃ受験には充分
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 22:42
age
久しぶりに来たよ。このスレ残ってて結構うれしいなぁ
>>102 僕が知ってることでよければ、戦の初戦の話しでも。
薩摩と中山が最初に戦かった場所は今帰仁村の運天港で1609年3月25日の出来事。
島津勢は三千、総大将は樺山権左右衛門久高と平田太郎左衛門宗増。
中山勢は記録が曖昧なのでこれは予想だけど、多分今帰仁城(北山城)に
常駐していた中山の武士とその周りの部落の民兵だと思う。
兵力は100〜200人、多く見積もっても500人は越えないでしょう。
この運天港の戦いは薩摩の一方的な勝利で終わり、
島津勢は首里を目指して進撃する訳だけど、
首里城落城が4月5日だから、10日ちょっとで制圧されたことになるね。
実は現在も運天港に、この時戦死した中山勢の墓が西側の岸壁の洞窟にあって、
おじーに『近づいたらダメ』っていっつも怒られてたw
あ、でも今はその洞窟ふさがれてたな。
運天港は源為朝が漂着したとされる海岸線デス。
>>110 沖縄にはいっぱいあるんだけどなー三山時代の本とか。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 07:14
名無しさん 〜君の性差〜 :04/04/18 10:17 ID:KpL2OEAP
共産主義になった翌日、私は近所に住む田中君とともに学校に向かった。
もう冬だというのに木は青々としている。
子供たちの表情は希望と活気に満ち、広場で遊ぶ女の子の額から流れる汗が太陽光を反射していた。
「人間が憎しみあう時代は終わったのだな」
昨日までとある私立中学に通っていた斎藤君が、ほっとしたように僕たち二人に言った。
「そうだ、これからは人が人を支え合う時代なんだよ」
普段は滅多に話に加わらない田中君が、斎藤君の肩に手を置いて優しく言った。
「人という字を思い浮かべて見ましょう。二本の線がお互いを支え合っているでしょう」
ちょうど出勤してきたばかりの髪の長い中年教師がそう言って微笑んだ。
小学校高学年の子は長年使ってきた参考書をブックオフに売り、真新しいサッカーボールを購入した。
「詰め込み教育はもう不要だ。これからは日本中に元気な声を響かせよう」
少年らしい生き生きとした表情で男の子は言った。
青空のなかををツバメが横切っていった。
age
間切ごとの按司など朝臣の名前とかがある程度判明すれば、信長〜みたいなSLGに形作ることは
できるのでしょうが・・・
保守
>>116 三山時代(15世紀前半)でわかるのは
東風平按司 達勃期(タフチ) 弟の南山王、汪応祖(オウオウソ)を殺害するも、甥の他魯毎(タロミイ)に殺害される
豊見城按司 他魯毎(タロミイ) 最後の南山王であり、汪応祖(オウオウソ)の長子。達勃期(タフチ)を殺害し、南山王となる
具志頭按司 函寧志(カネシ) 南山王、承察度の弟。
山田按司 護佐丸(ゴサマル) 後に北山監守、読谷山按司、中城按司と要職を務めるも、尚泰久に謀反を疑われ自害。
勝連按司 茂知付(モチヅキ) 圧政を敷いたため、阿麻和利(アマワリ)率いる一揆軍に殺害される
沖永良部按司 千代松金(チヨマツカネ) 最後の北山王、拳安知(ハンアンチ)の次男。
与論按司 王舅(オウシャン) 最後の北山王、拳安知(ハンアンチ)の三男。
他に有名な家臣は本部大原(モトブオオハラ)、懐機(カイキ)ぐらいか
あ、あと尚巴志は佐敷按司だし、
それと、護佐丸(ゴサマル)の実の兄、安里大親(アサトウフヤ)もいるな。
> 67さん
わざわざありがとうございます。一瞬、尚さんかとおもいました(w。
北山王、結構奄美諸島方面に王子を送るぐらいに力入れてたとは
しりませんでした。
あるゲームの改造でシナリオを作り、琉球三国志状態‘らしく’見せ
ることはできるのではなかろうかと思っているのですが、如何せん
武将が少ないと厳しいですもんね。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/10 23:40
age
おお!まだあった!!と、驚きつつカキコ。
>>113さん、解説ありがとうございます。
歴史と思い出がリンクしているって素敵ですね。
自分のじいちゃんを思い出します。
ほほぅ、こんなヌレがあったとは。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/24 00:32
age
125 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 20:19
ごーやーちゃんぷるー
そーみんちゃんぷるー
ふうちゃんぷるー
126 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/06 19:26
祝 2006年の大河ドラマ「尚巴志」決定!
お約束の ソース は?!
俺はいかりや ソースはイカリ
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/10 22:21
わしたしまうちなー
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 21:16
ちんすこう
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 21:21
うるさいなーもう
132 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 06:33
さーたーあんだぎー
133 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/14 21:31
さーたーあんだぎー
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/15 04:12
さーたーあんだぎー
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 03:51
りゅうきゅう→龍球
つまり(ry
136 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 04:55
おきなわ→大きな倭
つまり(ry
137 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 16:32
種子島
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 22:24
140 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 03:31
ゴーヤチャンプルで戦力アップ
141 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 04:52
ソーミンチャンプルで精力アップ
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 18:45
フウチャンプルで実践力アップ
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/01 04:47
祝 2006年の大河ドラマ「尚巴志」決定!
>>143 だからそのネタは前に出てるからソースかしょうゆ出せといってるだろが
それに対してちんすこうとかちゃんぷるーとか食べ物しかネタがないのか、このスレの愚民どもは
しかたないから
ゆしどうふ
とでもかいておくか。
新しい情報が無いからなんとも・・・
146 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 04:57
豆腐よう
147 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 20:21
そーきそば
148 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 19:06
てびち
学研から出版された琉球三国志、なかなか本屋で見ない・・・
そこそこおもしろかったけどね。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/04 10:08
尚宣威様が王位につかれました
>>113 亀レス失礼。
>島津勢は三千、総大将は樺山権左右衛門久高と平田太郎左衛門宗増。
この平田太郎左衛門とやらは薩摩義士で有名な平田靱負の先祖?
久しぶりにまともなレスが書いてある〜
平田増宗(
>>113では「宗増」と書いてあるが、誤字。)と長良川の改修で有名な平田靱負は
先祖子孫関係ではない。一族であることは確からしいが。
ちなみに増宗はその後謀反の疑いにより、島津家久(義弘の息子の方)の命で暗殺された。
増宗の兄弟妻子も殺害されたため、この系統は全滅した。
この謀反というのは根も葉もない噂で、島津家の家督相続に絡む騒動に巻き込まれたのではないかという説が有力。
>>152 早速の返信ありがとうございました。
樺山久高はゲームにも登場するなどして比較的知名度はありますが、
平田増宗という人物についてはまったくの無知なので、
当時からの重臣の家柄の流れで平田靱負という人物が出たのかと思いました。
増宗系統の家系はそういった経緯で断絶してしまったのですか。
伊達の原田甲斐じゃありませんが、どこの藩もそういったドロドロはあるものですね。
いい勉強になった事に、改めて御礼申し上げます。
なんか食品の名前が出まくったので
知っている限り、いくつかの食品の歴史について語ってみる
ソーキそば
これは沖縄そばの定番メニューだが、結構歴史は浅い
沖縄戦前後に作られ始めた
元祖は名護市我部祖河の我部祖河そばといわれている
○○チャンプルー
これは作られ始めたのが15世紀〜16世紀ごろ
チャンプルーとは混ぜ物という意味(確かジャワ語だった気がする)
あの、長崎のちゃんぽんと語源は同じ
ゴーヤー、もやし(沖縄ではマミナー)、昆布(クーブ)等はかなり昔からある
チキアギー
揚げかまぼこのこと、中国や東南アジアから伝わったとも、独自の料理とも言われる
ごぼうのチキアギーや島にんじん(黄色いにんじん)のチキアギーは昔からある
島津斉彬が弘化3年(1846年)に琉球を介してフランスとの軍艦購入交渉に来たとき
味と食感に感動して薩摩に持ち帰った。これが薩摩揚げの由来となる
さつま揚げみたいな料理は東南アジア一帯でよく見られる。
東南アジアの料理は中華に起源を発する物も多いから、中華料理に起源があるのかもしれん。
沖縄の香具師来ボンヌ
ノ
既存のゲーム作成ツールで琉球三国志みたいなものが作れたらいいのですがね。
戦国史でやってみたらいかがか。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/13 17:07
>159
どうしても武将(登場人物)全てが実名が判明しにくい状態だと思うので、〜按司、〜親方、〜里之子など
と言う表記のみになるとすれば、敢えて実名に拘らず、いくつかの姓と名前のパターンを組み合わせて架
空武将を作るしかないでしょうね。
今でも沖縄は名字の傾向が本土と違うけど、この時代の名前はどうなんだろう?
攀安知、他魯毎みたいな当て字っぽい名前もあれば、
尚氏みたいに中華風の名前を名乗っているところもあった。
架空の名前を作るにしても、複数のパターンを用意したほうが良さげ。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 04:54
羽地朝秀
ぐしちゃん文若
おもろそうし
天に鳴響(とよ)む大主
明けもどろの花の
咲い渡り
あれよ 見れよ
清らやよ
地天鳴響む大主
(おもろさうし巻一三・八五一)
大意
太陽よ、曙の旭光が花のように咲き渡り、おお見よ、なんと美しいことだろう。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 12:53
うこんちゃ
そうそう、沖縄独特のお茶の飲み方に
「ぶくぶく茶」(ぼてぼて茶だっけ?)
というのがあるじゃないですか。
沖縄ってお茶も生産していたの?
台湾がお茶の名産地だから緯度で見る限りは不可能ではないと思うが、余り結びつかなくて。
僕の親戚は沖縄でお茶栽培してますよ。
>167
それはそうと、沖縄料理で多用される昆布は
当然ながら沖縄近海では採れるようなもんじゃないぞ、と。
>162
もし、某野望のようにシナリオ設定をするとして何年(例えば桶狭間の戦い・1560年)として選択可能人物を
どう設定するのがまとまりつく選択でしょうか?あと能力設定も基本的なもの(武力・軍略・策謀・政治・魅力)
あたり決めても悪くはないでしょうね。
>>170 ステータスの場合
それぞれの分野が100の人間から決めるほうがいいのだろうか?
武力:拳安知
軍略:護佐丸
策謀:尚巴志
政治:懐機
魅力:尚泰久
こんなものかな?
172 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 04:39
良スレ保守
173 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/31 10:59
>>162 上江田さん=上田とか、富名腰さん=船越というように、同じ読みでも三文字苗字
になっているのが特徴ですよね。これは島津が攻めて来てからだと聞いたけど。
元々本土と一緒だったのを、無理矢理改名させられたとか。内地の人間(ヤマトンチュー)
と無理矢理区別する狙いがあったそうです。
なお、戦後本土復帰後は嘗ての苗字に戻そうという動きもあったが、今でも三文字
苗字にしてる人も多い。
ウチナンチューの方補足よろ
>>173 >>118で書いた勝連按司の茂知付もほんとは望月らしいからね
代表例はこんな感じかな
上→上江 (例 上江田、上江州、上江地)
徳→渡久 (例 渡久田、渡久山、渡久地、渡久川)
中→名嘉、仲 (例 名嘉、仲間、仲地、名嘉山、仲村)
富→豊見 (例 豊見山、豊見里)
前→真栄 (例 真栄平、真栄里)
東→比嘉 (例 比嘉)
久しぶりにきました。
わりと島津系の姓も沖縄に残ってます。
ただどういうゆかり(あるいは血縁)があるのかはよくわかりませんが。
川上
山田
横田
伊集(伊集院からかな?)
あと、那覇の地名に若狭ってとこが有るんだけど、
これって旧国名の若狭となんか関連があるのかな?
若狭通るたびにずっと疑問に思ってます。
>>162 沖縄は今でも門中(一族みたいな意味?)に唐名がついてます。
ちなみに僕の家は孟氏。今はほとんど、っつーか全く使ってないけどね。
屋号はいなかーいくとよく使いますが。
>>175 川上は島津系だね。
山田、横田、伊集(イジュ)は沖縄系もいる
山田と伊集は地名にもあるからね。
横→輿古、与古(例 輿古田、与古田)
2文字のヨコタは本土からの移住者が多いね、
3文字は華僑(久米36姓)系かウチナーンチュ
川田は?
>>174 サンクス
比嘉さんが東さんだとは気付きませんでした
>>178 川田は本土系もいればウチナーンチュもいるし、台湾系もいるという
かなり範囲が広い
台湾から戦後、沖縄にきた台湾人の中でも陳さんは
田川や川田などに変えている
ガレッジセールの川ちゃんはウチナーンチュ系だとおもう
>>181 そのHP知っているけど、
自分の門中が載っていない・・・
高いけど、那覇出版から出ている門中大辞典でも買いたい今日この頃。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/01 12:52
肥後も薩摩系
陳と言う漢字の右側は東になるんだけど、
その東を分解すると、十と田と川になる。
そのうち、川と田は縁起がいいので川田や田川にしたそうです。
>>185 なるほど、「十」は縁起が悪いのかw
ありがd
>>186 いや、十は決して縁起が悪いわけではないけど
この三つの漢字の組み合わせの中で一番縁起がいいのが川と田
んッ?琉球史は見当たらない様ですが・・・。でもこのシステムで地図を琉球弧にして
作れば出来るってことでしょうか?
>>189 シナリオ「琉球戦国史」(1395年スタート)なら、戦国史本体に同梱されてる。(
>>85-86参照)
ただ、城配置がちと実際と違ったりするけど。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 07:15
琉球大はDQNの巣窟
間切をまず設定しろってことかな・・・。城がある訳じゃないけど。
間切なら三山開始当時はこんな感じ
北山(山北)王国、首都:今帰仁間切
永良部間切、与論間切、伊平屋間切、国頭間切、羽地間切、今帰仁間切
名護間切、金武間切、伊江間切
中山王国、首都:浦添間切
読谷山間切、北谷間切、越来間切、美里間切、具志川間切、勝連間切
中城間切、浦添間切、泊間切、那覇間切、首里三平等間切
南山王国、首都:島添大里間切
豊見城間切、島尻大里間切、喜屋武間切、摩文仁間切、東風平間切、具志頭間切
玉城間切、島添大里間切、佐敷間切、知念間切
___
「_ 」
( ´∀`)
/  ̄ ̄| 67殿、いつも適切な解説は勉強になります。
/ | |_」 世界板から宛て無き旅に出立、やっと安住の
|__| | 地に辿り着けました。
|_____| 奄美列島の間切もある点が三山時代を感じさせますね。
(_)(_)
御主加那志
>>195 めんそーれ
史板から出て、結局この板にもちつく人多いな。漏れもだがw
あい、うしゅがなしめーさん!てぃだぬうふぬし、うーとーと、うーとーとー…
尚さんも、来れれると更にGOOなんだけど・・・
オヤケアカハチ
製作=東京発声映画製作所 配給=東宝映画
1937.06.01
2,224m 81分 白黒
監督 ................ 重宗務 豊田四郎
脚本 ................ 八田尚之
原作 ................ 伊波南哲
撮影 ................ 小倉金弥
音楽 ................ 大村能章
美術 ................ 河野鷹思
録音 ................ 奥津武
出演 ................ 藤井貢 三井秀男 市川春代 山口勇
これって、八重山で反乱を起こした人の映画?
後々入貢する奄美や宮古・八重山って三国時代に、名前が残っている
按司や長的立場の人物っていましたでしょうか?
1390年、察度のもとに宮古の与那覇勢頭豊見親(ヤナハセドトゥユミヤ)が入貢
し、宮古・八重山が首里王府に帰属したことになっている。豊見親は首長の
尊称で14世紀半ばに最初に宮古島を統一した目黒盛豊見親が使用。目黒盛
と争って敗れた与那覇原の一員で首里に渡り察度に仕えたのが与那覇勢頭
豊見親になる。1474年、尚円王に宮古の首長に任じられたのが仲宗根豊見親、
1500年に石垣島を中心とした「オヤケアカハチの乱」の「平定」に首里王府の
先鋒として活躍。宮古・八重山は完全に掌握されることになる。波照間島出身
と伝えられ八重山最大の英雄とも言えるオヤケアカハチ、実はホンガワラと
いうもう一人の人物がいたという説もあるが、八重山地方は失敗に終わるこの
反乱で伝説を超え歴史に登場。敗因としては、同じ出身で石垣島統一を目指す
政敵の有力首長で反乱後に西表**の頭職「古見大首里大屋子」に任じられる
長田大翁主(ナータウフシュ)が従わず宮古島勢力と首里王府に加担したこと
も挙げられるが、王府自体が全盛期の尚真王時代だった点も大きい。その後
王府支配は強化され宮古島でも1530年、豊見親の称号は廃止され大首里
大屋子となる。
ttp://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/5181/mochizuki0402.html
203 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :04/09/11 01:35:21
軍事経済のリスクは雪達磨式に膨らみ、既に米国の国債赤字を発行限度額にまで押し上げている。
戦争はもともとハイリスク・ノーリターンなのである。
それにも関わらず米軍主導の経済運営を一体どこの国が望んでいるのかである。
表向き米軍に逆らわないのは単に米軍が世界最大の軍事国家であり、資本主義経済の利権を独占しているからであり、ひとたび世界に目を向ければそれこそ奴隷文明のハイリスクが渦巻いているのである。
軍事経済はそのリスクの切れ端に過ぎない。
実に狭い価値観の中で我々は背後から突き動かされているに過ぎないのである。
米国が我々のアイデンティティーを弾圧し、軍事経済を正当化してきたのなら、そこに最初から正義などあろうはずもなかったのである。
【米国主導の奴隷文明、すべてのリスクは弱者から被る】沖縄・琉球民族
http://homepage3.nifty.com/darkelf/
>>201 宮古・八重山における反乱の流れはそのようになっていたのですね。
ありがとうございます。
「豊見親」と言う独自の尊称を名乗るあたりでも、王府と一線を画して
いたことがわかりますね。ただ、絶対的に人口や文化その他で遅れ
をとっていた点から、その地域で独立した政体(王国)を名乗るまでに
は到っていなかったのでしょう。
そろそろ、琉球の風でも読むとするか・・・
琉球はゴエモンのテリトリーだろ。
大砲で建物壊しまくり。
ゴエモン?
インパクト
(・3・) アギジェー いみくじわからんYO
あるなら「外交」とかってコマンドはひつようなのでしょうね。朝貢により一気に
経済力と人望がアップのように。
本土の戦国時代(だいたい1550〜1615年くらい)で琉球に
有名な官吏とか武将の記録とかないんですかね?
213 :
67:04/10/23 19:33:59
>>212氏は太閤立志伝5でもやっておられるのかな?
知っているのは
野国 総官 (生没年不詳) 唐芋(現在のサツマイモ)を琉球にはじめて持ち込んできた人。
琉球産業の三大恩人の一人。
謝名 利山 (1548〜1611) 謝名親方、三司官の一人(1606〜1611)。唐名は鄭洞
薩摩が侵略して来たときに那覇港を死守するも、
尚寧王の降伏によって捕虜となる。薩摩から掟15か条の署名を強要されたとき
唯一人拒む。その結果、薩摩で斬刑に処された。
城間 親方 (????〜1609) 三司官の一人(????〜1609)。薩摩が侵略してきた際に首里で抗戦するも戦死。
儀間 真常 (1557〜1644) 儀間親方。唐芋、製糖法、木綿を琉球中に広め、薩摩の侵略以後の琉球の復興を助ける。
琉球産業の三大恩人の一人。
王族を抜いたらこんなものかな?
「総官」とか「親方」というのは官位名?
実に素人質問でスイマソン
215 :
67:04/10/23 20:17:44
総官はよくわからないけど、
外交官のなかで一番偉い人だったかな?
親方は大抵は尊称だけど、按司に次いで間切の中では偉い人。
実質的な間切の統治者。
即答感謝
設定する時は、官職名ではなく実名にしたいけど、全員がわかる訳では
なさそうですよね。
218 :
67:04/10/28 20:52:17
城間親方に関してはたしか本名は、城間盛久だったかな?
もりひさ?せいきゅう?
220 :
67:
城間親方に関していくつかわかったので報告。
本名 城間 盛久(ぐすくま せいきゅう) (1542〜1609)
父は国頭親方(国頭間切の親方)で、名は盛順
尚永王(第2尚氏6代目の王)の頃からの家臣で、親和派。
尚寧王のときに三司官になるも、謝名利山の親明派の圧力を受け引退。
その後、三司官に復帰する。
薩摩侵入の際に首里末吉宮前の戦いにおいて指揮を執るも狙撃にあって戦死したはずなのだが、
中山世観によると1612年まで生きていたらしい。