関ヶ原の戦い 西軍敗北の戦犯は増田長盛だった!!

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で、増田長盛の郡山領はどの範囲なんだろう。また関ヶ原後はどのように
分割されたのだろうか。
所司代逃走w
>>439
それは三成の都合だけでいれたんじゃないのかな
449無名武将@お腹せっぷく:03/08/10 21:50
つか、ちょっと前まで
北政所の影響力の大きさや反三成の姿勢が「常識」になっていたのは、
別に日本史の研究じゃなくてあきらかに司馬小説の影響だろ。
司馬自体がどれだけ勉強してたかはともかくとして。
橋田寿賀子の影響も大きいのでは。
451向田邦子:03/08/10 21:55
私は関係ないからね
452山田邦子:03/08/10 21:56
私も関係ないわよ?
 小早川秀秋や浅野家が北政所の親族だから、
何となく東軍よりで納得されてきたのだろうけど、
実は西軍にも地味ながら北政所の縁者がいたから、
単純に北政所は東軍よりとも言い切れなくなってきた、
というところだろう。
 穿った見方をすれば、北政所はどちらに転んでも、
困りはしない立場にいたとも言える。
地味かよ、木下の家の者の大多数が西軍
執事の一族が西軍

交流で見ると、石田らとのつながりの方が圧倒的に多い
関ヶ原前の北政所の動き、北政所を訪れた者の種、数・・・

9月18日。北政所が、秀吉の遺品である太刀、装束などを、豊国社に急いで運び込んでいる。
これが意味することは、何だと思うか?(梵舜日記)
>>454
京都になだれ込んでくるであろう毛利、立花などの西軍残党の暴動や報復を恐れ
たため。しかし実際は東軍の福島正則などが素早く京都に急行して治安を維持し
たため、西軍残党による混乱は発生せず、取り越し苦労に終わった。
456無名武将@お腹せっぷく:03/08/11 12:18
>>455
もし福島が京都に急行していなかったら、彼らが京都で暴挙を
行っていたとでも?
>>456
落ち武者は自暴自棄になって、何を仕出かすかわからない。
>>455
もう一度考えてみろ
説明してやってもいいが、それじゃお前のためにならん
自暴自棄の落ち武者
よーし、こうなったら、
大坂に入って一戦でもなくて、領国に戻るわけでもなくて、
先のことを考えているであろう主君(大名)から離れて行動して、
最も警備厳重であろう京に入って、中でも豊家のもっとも大切な人のいる寺を、襲ってやるーー。
と考えるわけだな。なるほど、勉強にナリマスタ。
それは確かに自暴自棄だ。

東軍と敵対する行動を取っていたから、東軍勝利の知らせで慌てたとは考えられないのだな。
敗兵が京の高台寺で狼藉か。うん、よくある話だね。

西軍敗退で、兵が京都で、豊家ゆかりの寺で乱暴か。
厨房の想像力とは、計り知れんものがあるな。
461無名武将@お腹せっぷく:03/08/13 02:20
>>460
厨房の想像力と言うか、たった一人想像力の豊かな方がいらっしゃるだけですけどね。
455一人だけか、そういえば。
>>1
少なくとも、戦犯の一人であることは間違いない。

これでいいか。じゃ、終了ーーーーー
464無名武将@お腹せっぷく:03/08/14 11:37
京極高知だってば。
465無名武将@お腹せっぷく:03/08/14 12:58
俺がもし石田三成だった西軍が勝っていた、などとは言えないが
俺がもし増田長盛ならもう少しましな立ち回りができたかもしれない。
そして俺がもし小早川秀秋なら、確実に西軍が勝っていた。
465が小早川秀秋だったなら、秀秋は朝鮮で死んでたなw
466が小早川秀秋だったら、秀秋は長久手で死んでいたに20元
468無名武将@お腹せっぷく:03/08/14 22:20
466が秀秋だった、死産だったろうな。
469無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 02:14
465が必死だな(クールワラ
470無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 16:24
469は小早川秀秋。
470は小早川秀包(ホットシ**トワラ
472無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 16:33
だから京極高知だっつってんだろ!
473無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 19:02
470は秀秋でおじゃる!
474あぼーん:あぼーん
あぼーん
475無名武将@お腹せっぷく:03/08/16 21:47
資本主義になった翌日、私は妻とともにキューバへ向かおうとした。
天候の良い10月だというのに、成田空港は閑散としている。
職員は卑屈な作り笑いを浮かべ、持たされた携帯電話がまるで
牛の鼻輪のように太陽光を反射していた。

「労働者が休暇を楽しめる時代は終わったんだよ」
昨日まで国営企業である日本航空に勤めていた斎藤さんが、吐き捨てるように
私たち夫婦に言った。
「ええ、でも私たちは人民旅行証明書を持ってるんですよ」
普段は滅多に話に加わらない妻の靖子が、党が勤労者のために発行した証明書
兼クーポン券を振りながら優しく言った。

「証明書の判子を御覧なさい。共産党千葉県委員会はもうありませんよ」
通りがかりの髪の長い中年男がそう言ってほくそ笑んだ。

職員たちは私たちの証明書を一瞥し、軽蔑の眼差しを向けた。
「あんたらそれで飛行機に乗るつもり?」
職員はすぐに向こうから来たブルジョワらしき男に卑しい作り笑いを浮かべて
応対を始め、私達は取り残された。

青空のなかをアメリカ帝国主義の軍用機が横切っていった。
476無名武将@お腹せっぷく:03/08/20 20:56
あげ
477無名武将@お腹せっぷく:03/08/23 22:56
黒田長政が一番の戦犯
478無名武将@お腹せっぷく:03/08/23 23:04
二十万石、6000人の戦力と侍大将に渡辺勘兵衛を持つ・・・
と考えると、すごくもったいない・・・。
479無名武将@お腹せっぷく:03/08/23 23:22
>>478
6000丸々関が原に布陣してたら、ちょっとは歴史が変わったかもな。
480無名武将@お腹せっぷく:03/08/24 19:38
age
481無名武将@お腹せっぷく:03/08/26 15:51
大坂城のお留守番を長束あたりと替わってれば良かったかも・・・
482京都所司代:03/08/26 23:43
久々に様子見にきた、あんまり盛り上がってないね
途中でソースクレクレ厨がきてからおかしくなった。
俺は最近一番の戦犯は宇喜多秀家じゃないかと思いはじめたよ
だって大老の身でアリながら三成のバカな作戦に賛同しちゃったんだから
スレタイと違うけど許してちょんまげw
敗北の原因を語るのではないのか?
戦をすることそのものの原因は、別の問題だろ。
スレタイと違うことが理解できていて、なおそれを書くアホさには驚くよ。
484無名武将@お腹せっぷく:03/08/27 15:46
age
485無名武将@お腹せっぷく:03/08/28 09:44
>>482
大老の身でありながら「戦場でかたをつけようとした」若さよ。

おまいこそは大坂にいろ、と。
でも1万の軍勢持ってるし、、、(弱体化してたけど)
毛利輝元が出てこないし。。。
487京都所司代:03/08/30 22:24
保守
488無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 21:57
増田長盛について、いくつか。

1,増田の読み方について 
  当時の文書(天正年中大名帳など)には「真下」とも書いてあるので「ました」と読むらしい。

2,長盛の領地について
  一般的には大和で20万石といわれているが、豊臣秀保の旧領(70万石)など、
  多くの秀吉直轄領の代官を努めていたので、100万石クラスの経済力があったと思われる。
  また、彼の家臣には、合戦の名人として知られた渡辺了(勘兵衛)がおり、
  軍事力も決して低くなかったと思われる。

3,増田盛次(長盛の子)について
  大阪の陣で盛次を討ち取ったのは、藤堂家臣の磯野平三郎だった。
  彼は関ヶ原では三成の側近で、伊吹山で最後まで付き従った1人。
489無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 21:58
>>488の続き

4,長盛の役割について
  三成から長盛への書状の内容を見ると、三成は前線指揮官、
  長盛は大本営参謀長といった印象を受ける。
  西軍の事実上の総大将は三成ではなく、長盛だったのではないか。

5,長盛の内通について
  彼が家康側近に宛てた書状は石田・大谷について「雑説」があるというもので、
  挙兵密告というほどの情報提供ではないと思われる。
  ただ、この書状のコピーを大量に配布して「長盛は味方だ」と宣伝した家康は
  さすがと言うほかない。

6,長盛の助命について
  西軍の中心人物であるにもかかわらず助命されたのは、前田玄以もそうだが、
  伏見城や関ヶ原に出兵せず、自らの手を汚さなかったためと思われる。
  ただ、家康は長盛を仇敵と憎んでいたらしく、大阪落城の直後に自殺させている。
  前田玄以の孫3人も同じ頃自殺させられており、家康の執念深さはすさまじい。
490無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 23:35
>>489の続き

7,三奉行の保身について
  内府ちかひの条々に連署した3人だが、
  長束正家は自殺、長盛は所領没収、玄以は所領安堵と処分が異なった。
  長盛は伏見城や大津城の攻撃に家臣を代理として派遣しており、
  玄以は豊国廟守護と病気を口実にして、軍事行動に参加せず逃げ切ったことが
  明暗を分けたと思われる。
>>488-490
煽りとかじゃなく、純粋に貴方の論説の根拠を教えていただけないでしょうか?
どういう史料をどう解釈してそのような論説になったのか是非聞きたいです

これは論破とかが目的ではなく、純粋にどういう観点からそのような推論に持っていったのか
すごく興味があったので、お願いします
492無名武将@お腹せっぷく:03/09/01 21:33
>>488-490です。
では、4について、補足します。
有名な三成の長盛あて文書ですが、その中で、
「松尾山や佐和山に毛利軍を入れて欲しい」とか、
「田辺城攻撃軍をこちらにまわして欲しい」とか言っています。
これは長盛が毛利を含めた全軍を統括する立場でなければ、
こんなこと言っても意味ないですよね。
三成が実質的な総大将ならば直接要請すれば済むことです。

伏見城攻略後、鳥居元忠等三将の首実検は輝元と長盛が行っています。
安濃津城攻撃の頸注文は輝元側近と長盛あてに出されています(毛利家文書)。
鍋島勝茂や立花宗茂も輝元・長盛の指示で動いていたようです(日本戦史)。
>>492
今まではそれらは三成が増田長盛に指示して、それを長盛が実行したという感じで捉えられてましたが
なるほど、考えてみれば長盛宛の三成の書状読んでも、後方から全体的に軍を動かし、配置などを
動かす時には必ず長盛の名前が出てきますね、ふむふむ…

ありがとうでした、かなり面白い論ではないかと
きっちり調べ論文にまとめてみてはどうですか?
関ヶ原の観点が変わるかも知れませんよ
494無名武将@お腹せっぷく:03/09/03 16:21
>>489
玄以の孫3人が自害って、初耳ですが、本当なんですか?
>>494
手元にある資料では、日本戦史・大坂の役(参謀本部編)の賞罰の項で、
元和元年七月二十九日に前田玄以の孫三人、三十日に荻野道喜の子三人に
それぞれ自殺を命じたとあります。