2 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/13 01:11
\ 2ゲッツ!!
/ _,,..-ー、,..____ | _,,.-‐-、 _,,.__
| /  ̄ ,; _,,__lこ) ● |____| ● | / , ヽ_;_;_)
| / 〕 | | | / `' ,ゝ_lj,__〕
| / 〕 | | | / {_i_,__〕
| / _〉 | | |/ ノ {_i__〉
|/ _,..-'" |、 ,| / _,..-'"
/ V /
sage進行でよろ
4 :
こおろぎ|・ω・):03/07/13 01:11
断る!
新スレ、おめ
魏で言うと曹休みたいなもんか?
曹休はかなりメジャーだと思われ。
魏だと、毋丘興はどうだろう?
>>8 >>1は孫乾・簡雍が影薄いって言ってるんだしいいんじゃない?
(つまりハードルがかなり低いと言いたいのだが…どう?)
>>9 いいと思うよ
名前は知ってるけど何の功績があるか分かんない
名前すら聞いたことがない みたいな武将のエピソードを語るスレでつ
スレ立てZ。
毋丘興はスレの主旨的にいい感じ。
毋丘倹のパパだ。
劉備と一緒に行軍した事ある毋丘毅とは関係あるかな?
>>12 俺もそれが気になってた
毋丘って姓はそんなメジャーなものじゃないよな
簡雍たんはもう他にエピソードないのぉ??
調べてみたんだけどかなり簡雍について書かれてるのって少ないよねぇ
>>14簡雍は前スレであらかた出尽くしたような気がする。
簡雍については、未だに「吹き矢が得意」の一文の出所がわからん・・・。
(前スレ811)
もしかして講談関係ではそんな設定だったのか?暗殺者かよ!
是儀vs胡綜というのもなかなか魅力的
前スレで蜀の話題はかなり出たからそろそろ他の国も語りたい今日この頃
記憶にあるのは是儀が孔融に言われて氏儀から改名した事くらいです。
俺も名無しになろ…コテが重い。ていうかコテを持つべきでもない。
>>17 どんどん語ってください。
>>18 是儀は意外にも、石亭の戦いに一役かってますね。
武官としても将軍位にあったようだし、孫亮と孫覇の対立時にも、節義を
貫いてますね。
けっこう自分の好きなタイプの人物なんだけど、いかんせん無名すぎ…。
>>20 是儀は関羽討伐にも参加していたという記述もありますね。
当人は、「自分には軍事の才能はない」と言って
兵士を預かるのを固辞したそうですが、どうしてなかなかの軍才ですよね。
そういえば孔融→劉ヨウ→孫権と属する陣営を変えていますが、
このルートは太史慈や孫邵と一緒ですね。
彼らとの個人的な繋がりを想像してみるのも一興かと。
孫静もあまりエピソードないな
出世欲が無い人だったとか、、
その子孫はアレなのにな。
お久しぶりです。
>22
そういえば、孫堅の兄、孫キョウも無いですね。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
26 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/15 12:22
あげ
このはもうスレ死んだの?(涙
スレタイ通りに隠れているだけです
では燃料として今までスレ開始から名前が挙がった人物の略歴書いてみます。
・毋丘興
河東郡聞喜県の人です。
建安十九年(214年)、安定太守となりました。
任地に赴く時、羌族の統治について曹操から
「羌族の支配地にこちらから人を送れば、
羌族をそそのかして自己の利益を図ろうとするに違いないので、
こちらから送ってはならない」(要約)
という注意を受けますが、毋丘興はこれに従わず、
校尉の范陵を羌族の支配地に送り込んだ結果、
范陵が羌族を通じて、属国都尉に任命するように要求してきました
(范陵がその後どうなったのか記述はありません。)(武帝紀)
黄初年間(文帝曹丕の初年)に武威太守となります。
この頃、西平の麹演が二度目の反乱を起こし、
張掖の張進と酒泉の黄華がこれに呼応。
さらに三つの異民族が武威で暴れます。
毋丘興は、金城太守・護羌校尉の蘇則に救援を要請。
カク昭と魏平を引き連れて来援した蘇則とともに
麹演、張進を斬り、黄華と異民族を降伏させて
無事反乱を平定しました。(蘇則伝)
この功績により高陽郷侯に封ぜられました。
反乱者を討伐し、服従者をなつけ、河右を切り開いたことで
この近辺では蘇則に次ぐ名声を得たと言います。
後に中央に入り、将作大匠となったそうです。
記録に残っている子は二人。一人は怨霊様の仰るように皆さんご存知の毋丘倹。
もう一人、倹の弟に毋丘秀がいて、彼は毋丘倹が殺された時に、
毋丘倹の孫の毋丘重とともに呉に逃亡したそうです。
・毋丘毅
後漢の都尉。
大将軍何進の命を受け、丹楊に募兵に出向きます。
その頃安喜県の尉の職を捨てていた劉備は彼に同行し、
徐州の下ヒで遭遇した賊相手に奮戦して軍功を上げ、
下密県の丞となりました。
以後、毋丘毅の名前は登場しません。
・是儀
字は子羽。北海郡(国)営陵県の人です。
はじめ県の役人となり後に郡(国)に仕えました。
元の姓は氏でしたが、当時北海の相だった孔融に
「氏の字は民の上が欠けたものだ。
是に姓を改めるがよかろう。」とからかわれ、
是に改姓しました。
後、戦乱を避けるために劉ヨウを頼って江東へ避難し、
劉ヨウが敗れると会稽に移住しました。
建安五年(200)、孫権が孫策の後を継ぐと召し出されて
機密事項の処理を任され、騎都尉に任ぜられます。
建安二十四年(219)、呂蒙の荊州奪取計画に関して
孫権から意見を求められた是儀は、呂蒙に賛成し自らも従軍します。
この功績で忠義校尉の官を授けられることとなります。
是儀はこれを辞退しようとしましたが、
孫権は公式の命令書でこれを諫めました
(結局任官されたのかどうかは記述にありません)。
魏の黄初二年(221)、孫権が呉王となり武昌を都とすると、
是儀は裨将軍となり、後には都亭侯に封ぜられ、侍中を代行しました。
更に加えて孫権は彼に兵士たちを預けようとしましたが、
是儀は自分に軍事的才能はないとして固辞しました。
長くなるので切ります。
呉の黄武年間(222〜229)、皖に派遣され将軍劉邵の下で
曹休をおびき寄せる計画を練り、
黄武七年(228)、曹休がやってくるとこれを大いに打ち破りました
(誘い込みの中心人物は周魴、撃破の指揮を執ったのは陸遜です)。
この功で偏将軍となり、朝廷に入って尚書の事務を担当し、
諸官庁の間を取りさばいて、同時に訴訟の処理も行い、
また諸公子の学問掛にも任ぜられました。
呉の黄龍元年(229)、孫権が建業に遷都し、太子孫登が残って武昌を守ることとなると、
是儀は陸遜らと共に孫登の補佐を命ぜられます。
孫登は是儀に敬意を払い、事を起こす時にはまず彼に諮問して
意見を聞いてからその後で実行したと言います。
爵位を進められ都郷侯となりました。
嘉禾元年(232)、孫登とともに建業へ移ると、再び侍中・中執法となり、
元のように諸官庁の間を取りさばいて、同時に訴訟の処理を行いました。
呉の嘉禾三年(234)、蜀の丞相諸葛亮の死去に際して、
孫権は是儀を蜀に使者として派遣し、呉蜀の友好を再度固めさせます。
是儀の外交使節としての働きは大いに孫権の意に沿うもので、
後に尚書僕射に昇進しました。
太子孫登の死後、南宮(太子孫和付きの官僚組織)とともに
魯宮(魯王孫覇付きの官僚組織)が設けられると
是儀はそれまでの職務に加えて、魯王の傅に任ぜられます。
是儀は孫覇の傅でしたが、一方的に孫覇の側に立つのではなく、
孫和と孫覇の地位がほぼ同等に扱われていることを
後継者問題の火種として危惧し、
二人の地位に差を設けるべきであると幾度も上書しました。
孫覇に対しては傅として忠誠を尽くしつつも
事あるごとに諫め正したと言います。
もう一回切ります。
是儀は上に仕える際には職務に励み、
人々との交際する際にには常に尊敬の念を持って接しました。(原文:與人恭)
家産の経営に心を傾けることは無く、他人から援助を受けることも無く、
その家はやっと住めるだけのものだったと言います。
衣服は目の粗い粗末な織物で、食べ物も非常に質素であり、
代わりに他の貧困な者への経済的な援助を惜しまず、
家には蓄えが無かったと言います。
八十一歳で亡くなりました。
その遺言は白木の棺を用い、平服のまま入棺し、
葬儀はなるべく倹約につとめるように、というものだったそうです。
最後まで質素な生活を貫いた人でした。
他にも対呂壱とか、大きな家の話とか細かいエピソードがありますが
今回は省略です。
本当は胡綜も書こうと思っていたのですが、
疲れたのでまた今度に。
王さん いつもあり〜&藻つかれ
35 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/20 00:30
age
36 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/20 01:57
ほとんど丸写しじゃんかよ
>>36 なんもせず文句を垂れる事しか能のないおまいよりマシ
>>34 ありがとうございます。
いえ、36氏の仰るように写してるだけなので、
大したことではないです。
>>36 すいません、是儀の正史における記述は是儀伝と胡綜伝にしかなく、
他の紀や伝には全く登場しないものですから、
どうしても是儀伝を右から左へ写す形になってしまいました。
(ただし、いつのことか分かるように是儀伝には無い年代の記述を追加しています)
私の略歴書きの目的は正史を読んだことがない人にも
その人物の略歴を伝えることですので、
正史を既読の方には退屈でしょうが、まあご勘弁を。
>>37 フォローありがとうございます。
>>36なんすけど、そこまで丁寧に返答されると、かえって恐縮する。
失礼した。
久しぶりに簡雍タソの話だけど、、、
一部説では桃園の近いは簡雍を含めホントは「4人」だったとか
簡雍こそ本当の意味で劉備の弟分で、関羽・張飛は単なる部下
つまり立場的には劉備にとっては
簡雍>>>関羽=張飛 だったとか
今まではオレは簡雍はそのキャラがいい味出していたので
みんなが「簡雍タソはしょうがない香具師だなぁ」ってな具合で
(しばしば怒られながらも)周りからは大目にみてもらってたんだと思ってたんだけど
どうも孔明の前でさえも横柄な態度だったり
関羽以下の武将を立たせたまま自分は寝っころがって話をしたりとかで
劉備の側近として一目置かれてる立場だったんではないだろうか
と想像しますが、どうでしょう??
主なソース元:三上修平編著 KOEI 「三国志vs三国演義」より
誤って途中で書き込んでしまいました(汗
>>40様
興味深い説ですね。
劉備と簡雍が古馴染みであるが故にかなり親密であったのは確かかと思います。
ただ、もしも仰るように劉備にとって関羽、張飛に比べて簡雍の方が上だったのだとすれば、
何故、関羽や張飛と劉備の親密さはあれほどまでに記録され、
簡雍との親密さがそれほどに記録されなかったのか、
そこが説明できないと説得力が弱いかな、と思います。
ただ、逆に言えば、そこが説明出来れば十分に成り立ち得る説ではないかと。
>>41様
正に簡雍ってそんなイメージですね(笑
>>43 > 何故、関羽や張飛と劉備の親密さはあれほどまでに記録され、
> 簡雍との親密さがそれほどに記録されなかったのか、
> そこが説明できないと説得力が弱いかな、と思います。
確かにソコなんですよ
記録自体が簡雍はあまりに少なすぎるんですよね
実績も劉璋の元にやった使者ってぐらいで
禁酒令の話もまあ単なるひとつのエピソードにすぎないし
(本人も酒好きだったから禁酒令は好ましくないと思ったに違いない)
あえて簡雍と劉備の間柄を記した記録がない理由を説明するならば、、、
『劉備とは親しい間柄にも関わらずこれと言って簡雍は活躍しなかったので
劉備軍にとって重要な位置をしめた関羽・張飛のほうがよく語られた』
と解釈するのはちょっと無理がありますか?w
それに関羽と張飛は実際に正史でも義兄弟であるとされてますが
関羽と張飛 それに劉備を加えた3人が兄弟の契りを交わした
っていう記録は正史にはないと思うんですがどうでしょう???
劉備と関羽張飛の2兄弟は義兄弟というより
曹操と典イのような関係だと私は常々感じております
「のびのびとした態度でみごとな論をなし、性格は傲慢で無頓着」と簡雍伝にあるので
彼はもっとやる気があれば重要な外交官などを務めて出世も狙えたはずだと思うんですが
いかんせん、自分の才能に甘える みたいな所があったんではないでしょうかねぇ
近隣の出身である士仁についても語ってくれ!
士仁ちゃんは、いつから劉備の元にいるのか、集団内でどんな位置付けだったのか、不明ですね。
ただ、例の寝返りまで彼が居た公安は荊州牧劉備の治所(役所のあるところ)なので、劉備集団内の重要人物の一人だったのは間違いないと私は思います。
学術スレ、いいですねえ。
影は全然薄くないんですが、正史の蜀書「先主伝」で、
「初平年間、先主は都にいたが、曹公と一緒にシ市に帰り・・・」
という記載があるんだが、これって事実なんですかね?
武帝紀にはなにも載っていないわけだが・・・。(スレ違いすまぬ)
いや、初平年間には有り得ないんじゃないかねぇ。
先主伝のどこらへん? 見付からんかったのですが。
>>48様
先主伝の裴注に引く『英雄記』ですね。
高唐県の尉となって令に遷った、というところの注です。
但し「初平年間」ではなく「霊帝末年」という記述になっていますね。
>>47 劉備のこの頃の行動は年代がはっきりしないものばかりなので、
全くなかったとは言い切れませんが、
先主伝の本文に書かれた劉備の一連の行動の間に、
「曹操とともに沛に行って募兵し、反董卓連合に参加」
する時間があったようには思えないですね。
なんとなく不自然な感じがするのは否めない気がします。
全く関係ない上に余計なおせっかいですが、
武将名コテハンは、なりきりスレ以外では使わないのがこの板のお約束でして
そのコテハンはおやめになった方が良いのでは、と個人的には思います。
ごめんなさい、上のカキコで47様に敬称つけるの忘れてしまいました。
別に他意があるわけでは無いので平にご容赦を。
>>44様
>『劉備とは親しい間柄にも関わらずこれと言って簡雍は活躍しなかったので
劉備軍にとって重要な位置をしめた関羽・張飛のほうがよく語られた』
確かにそういう一面はあると思います。
長い間弱小だった劉備一党の中でも関羽、張飛の二人は
当時からかなりの知名度があったようです。
現に一行が許都に滞在していた際に曹操の上表でともに中郎将
(関羽の中郎将任官は『華陽国志』の記述より)になっているのは、
劉備懐柔の一環でしょうが、同時にそれだけの勇名を
この二人が得ていた証拠でもあると思います。
劉備といえば関羽と張飛、というのが当時から人々のイメージだったと
言えるのではないでしょうか。
対して簡雍のことは劉備陣営に余程詳しい人以外は知らなかったでしょうから、
もし簡雍への恩愛が関・張以上だったとしてもどうしても伝わりにくかったと思います。
簡雍と劉備が関羽、張飛以上に親密だったというのも
全くあり得ない話ではないと思いますね。
>関羽と張飛は実際に正史でも義兄弟であるとされてます
確かに張飛伝に張飛が関羽に兄事したとは書かれていますが、義兄弟という記述はないですね。
それを義兄弟と捉えるなら公孫サンと劉備もまた義兄弟になってしまいます。
44=40様への返事のつづきです。
>関羽と張飛 それに劉備を加えた3人が兄弟の契りを交わした
っていう記録は正史にはないと思うんですがどうでしょう???
そうですね。確かに無いです。
但し、関羽伝の
「先主は二人(関羽・張飛)と同じ寝台に休み、兄弟のような恩愛をかけた」
という記述と劉曄伝の
「関羽と劉備の関係は道義では君臣だが、恩愛では父子」という劉曄の言葉から、
一般的に実際に義兄弟に近い関係にあったのだろうとは言われていますね。
王秦明さん、丁寧にレスしてくださってありがとうございます。
たしかに読み返してみると、正史ではなく英雄記からの引用でした。ごめんなさい。
王泰明さん
いつも丁寧なレスありがとうございます
勉強なりますた
王さんは過去ログ(まだちゃんと全部読んでないけど)で
趙雲お好きなようですが他にも誰か好きな武将はいますか?
私はやっぱスレタイにもある簡雍が一番興味を惹かれるんですが、、
簡雍についてはどう思います?
まああまりきじつが無いのでほぼ完全に推測の域を出ませんけどね
>>52=47様
あ、いえいえ全くのウソをお書きになっていたわけではないのですから、
気にされることはないと思いますよ。
>>53様
私の好きな人物ですか?
前スレを見るとバレバレな気もしますが、
劉備と馬超ですね。で、続いて趙雲と。
・・・一番好きな連中は、マイナー武将好きという割にはメジャーな人物ばかりですね(笑
マイナー武将も勿論好きなんですが、挙げだすとキリがないというか・・・。
強いてあげるなら呉懿と呉班の従父子でしょうか。
蜀の外戚で軍の重鎮なのにまるで目立たないところが大好きです(笑
あと陳登も好きですね。
魏なら陳羣、陳泰父子。呉なら朱治と朱然の義父子なんか好きです。
あと、羅憲、馬忠、李恢、張嶷、etc・・・キリがないです・・・(笑
>簡雍についてはどう思います?
劉備旗揚げ依頼の最古参であるが故に、
武では関・張に及ばないけれども
劉備からの信頼と、数々の修羅場をくぐったが故の度胸に関しては
誰にも引けをとらない人物、そんなイメージです。
前スレの390で黄緑様(当時はまだ楊雄様でした)が仰ってる
簡雍のイメージが、私の簡雍イメージには一番近いですね。
私の個人的嗜好はスレ違いなので、この辺で・・・
長文書き散らして申し訳ありません。
成公英はどうですか?
>>55 良いですね。渋いですね〜。
韓遂の腹心中の腹心ですよね。
ちなみにこの人も二字姓の方だそうで。
(蒼天では彼の自称が「英」だったので、
きちんと分かっているのだなぁと感心しました)
個人的には張魯が好きなんだがどうだろう
隠れた逸材とまではいかないかなぁ
当時の中国にありがちな胡散臭い教祖様 っていうより
幾分、良心的な人だと感じたけど
蜀漢末期のマイナーな奴を語りませんか?
どんなの知りたいんだ?
ええとね、蜀漢末期の派閥争いとか・・・。
ショウ周ら不戦派とキョウイら北伐派の確執! とか
個人に絞りますと、結局黄コウってどんなやつなんだ!! ってのが知りたい。
黄コウか。22時までに誰も書いてなかったら、少し調べてみるぽ
ありがd
64 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/01 00:42
>54
>>呉懿と呉班の従父子でしょうか。
確か、従兄弟じゃなかったですかねぇ。つまらない突っ込みですが(笑)。
私も呉懿好きですね。楊戯の言うとおり「骨っぽい漢で博愛精神に満ち、
弱兵を率い強敵を制した」のなら名将だと思うんだけどなぁ。
なんで、伝が立てたれなかったのでしょうか。
あと呉班についてですが、呉一族は予州出身ですよね。
で、呉班の父は何進の属官の呉匡でしたっけ?だとすると、父親がよっぽど早死に
しないかぎり呉懿とともに益州に行ったとは考えにくいような気がします。
もしかしたら呉班は劉備の予州時代に随従したのかな・・?と考えちゃうんですよね、
どうでしょうか。
簡雍・・・。地味ですが好いキャラです(笑)。
劉備と出身地が同じですよね。関、張より劉備との付き合いは長いのでしょうか。
幼馴染かもしれませんね。
横槍でスマソだけど、石井説によると従父子になるんですよ。
で、更につまらない突込みだけど、「陳留の呉懿」ですよ。
>66
なるほど、そういう説があるのですか。
浅学で存じませんでした。ご指摘、ありがとうございます。
どのような本などに載ってるのでしょうか。
よろしかったらご教示を。
「陳留」でしたか。てっきり予州かと思いこんでました。
だいたい「ちくま」の正史で確認するんですが、手元になくて・・(笑)。
それでも、呉班の出仕は呉懿より早いような気がするんですよねぇ。
>>66様
フォローありがとうございます。
仰る通り。私の言いたかったことそのものです(笑
>>64様
確かに『季漢輔臣賛』では「呉壱(呉懿)の従弟が呉班」と書かれてますね。
ただ私の言いたいことは66氏が仰ってくださいました。
私の頭の中では石井仁氏の説の方が正史の記述を
存在感において上回っていたようです(笑
呉懿、呉班それに呉懿の妹の穆皇后は陳留が本籍。
従ってエン州の出になります。
呉匡は何進の死の直後、宦官と結託したのではないかと疑って何進の弟、
車騎将軍何苗を兵を率いて殺害して以後、さっぱり名が見えませんから、
むしろ早く亡くなったものだと私は思ってましたが。
それで呉班は呉懿を頼ったものだと。
まあこれも推測に過ぎませんが。
>なんで、伝が立てたれなかったのでしょうか
何故でしょうね。
陳寿は「業績が失われてしまっていたので伝を立てられなかった」
(原文:失其行事,故不為傳)と言い訳してますが。
それは裏を返せば伝が立てられないことを不審に思われるような
大物であったということではないでしょうか。
呉班も驃騎将軍まで上ってる割に伝がありませんし、
陳留呉氏には伝が立てられないような何らかの事情があったのかも知れませんね。
さて、62様が黄皓のことを書いて下さるのをのんびり待ちますか。
>>63 一応調べてみますた。
まず、政権を握ったのが258年。これは蜀の滅ぶ5年前。
それまで黄門丞という下っぱだった彼は、中常侍になって政権を掌握しました。
中常侍は、後漢末期の十"常侍"で知られていますね。小間遣いの親玉みたいなモンです。
有名な姜維との相克は、四年後の262年の正月に露見しました。
彼を憎んだ姜維が、何を思ったのか劉禅にいきなり彼を殺すように上奏したのです。
大将軍として兵権を握っていた姜維の発言力は馬鹿に出来ず、劉禅は彼に姜維の下
へ向かい、謝罪してくるよう命令しました。このとき、姜維は短絡的に彼を脅しに
かかったため、彼は逆にこれを上訴することで事無きを得ました。
姜維は同年秋にケ艾に敗れますが、彼が姜維の失脚に追い込もうとしたのは言うま
でもありません。このとき、彼は右大将軍であった閻宇と組んでいました。
彼が憎悪の対象であったのは間違いありません。
諸葛尚や羅憲、劉永などから恨みを買ったり、諸悪の根源としてケ艾に殺されかけたり。
何より宦官であったこと、そのものが憎悪の対象だったのかもしれません。
このように、一般に彼は「諸悪の根源」とされていますが、意外にも、彼と徒党を組んだ人物は
多かったようです。尚書令の陳祗、平尚書事の諸葛瞻と董厥、右大将軍の閻宇など。
確かに羅憲の件を含め、彼は方々から憎まれるようなことをしたのでしょう。
しかし、与党の大きさから、非常に横暴な政治を行っていたとするには疑問を感じますね。
端折り端折りですが、こんなところでどうでしょう?
>69様。
早速のご返事ありがとうございます。
呉懿、呉班従父子説・・。そのような説があるんですねぇ。
詳細をお聞きしたいですよ、ホント(笑)。
でも、呉懿、呉班って同時期にほぼ同格の将領になってるじゃないですか。
叔父甥が同格ってのはどうなんでしょうか?
まぁ、呉匡が呉氏の嫡流で、呉懿は傍流だった、と言うことならありえるの
でしょうか。
陳留呉氏・・・。「伝を立てられない理由」たしかに不思議ですよね。
子孫の状況もよく分からないですし。
呉懿の孫の呉橋(でしたっけ?)が成漢の李勢に30年間屈服しなかった、とか
読んだくらですし。
>70様、お疲れさまです。
黄皓って宦官ってだけでかなり割りを食っていますよね。
後漢末期の中常侍などと比べると、具体的な「悪事」があんまり見当たらない
ような気がします。蜀漢滅亡の原因のように言われていますけど、実際は姜維
の北伐と漢中防衛計画の変更が原因でしょうし。
陳祗、閻宇、諸葛瞻等は黄皓と結託した、ってだけでかなり貶められているような
気がします。まぁ諸葛瞻はそうでもないかな?(笑)。
結局、後漢末期の清流派系統だった人々からは宦官が少々権力を持つ、てだけで嫌
なんでしょうね。
黄皓は、
「最初は諸葛亮、次に彼の元部下や荊・益州豪族、最後は姜維に権力や軍事を牛耳られていたのを、
皇帝の手元に戻そうとした」人物と
考える事も出来ると思うなぁ。
宦官だから、宦官と結託したから、という理由で貶めているのは、むしろ我々現代の三国志ファンかも。
うん漏れもそう思う
劉禅は諸葛亮(蒋エン・費イ)から実権を取り戻したがっていた
だから蒋エン死後親政に乗り出した
(政治に興味ないなら費イに委任すれば良いのに
なかなか幕府開府権を与えず親政を始めた)
その時、劉禅が自由に使える駒が黄皓だったんだと思う
>>70 うお、わざわざ詳しい説明と、深い考察をつけて解説してくださるとは。
どうもありがとうございます。
黄皓って悪い人物じゃなさそう・・・という展開ですが、
どうもわたしにはそうと思えないので、二、三、未熟な疑問を呈させてもらいます。
わたしは
>>71さんの言うとおり、黄皓が暴政や奢侈などをおこなって、
蜀を直接に滅亡に導いたとは思えないのですが(正史には具体的な記述が無いから)、
北伐派と停戦派などの派閥党争を調停するべき皇帝を、堕落させたという意味で
彼のマイナス面は大きいと思います。
後主が実権をにぎるために宦官を利用したという説は初耳ですが、
根拠はなんでしょうか?(偉そうですみません)
わたしは後主がそんなに政治に積極的だったとは思えないのですが・・・。
ごめんなさい
根拠については、
>>74さんが
>(政治に興味ないなら費イに委任すれば良いのに
> なかなか幕府開府権を与えず親政を始めた)
と言ってますね。
>>75 ども、70です。
>北伐派と停戦派などの派閥党争を調停するべき皇帝を、堕落させた
なるほど。私も、劉禅は二つに分かれる派閥の調停は一切行っていないように思います。
ところが、黄晧が専権を行ったのは258年なんですよね。222年に劉禅が即位してから30
年余りが経過しています。それ以前から黄晧の影響力が肥大化していったことを含めても
数十年も経っているわけで、「彼が皇帝を堕落させた」とするには難しいように思います。
>実権をにぎるために宦官を利用した
これは後漢の和帝と鄭衆の件が論拠でしょうか。
上のような時間の経過を考えると、私は推し難いのですが。今更、という感が強い。
>>71=64様
>呉懿、呉班従父子説
まずこの説には二つ推測が含まれていることを
最初に申し述べておきますね。
袁紹の「奔走の友」の一人に呉子卿という人物がいます。
石井仁氏はこの人物を呉匡ではないか?と推測しています(第一の推測)。
で、これを前提として、呉匡(=呉子卿)と呉懿の字に注目します。
呉匡が子卿で呉懿が子遠ですね。
この時代、一族の同世代の人間は字に共通する字を使うことがありました。
そこで、呉匡と呉懿は一族の同世代ではないかと推測できます(第二の推測)
この推論を進めていくと、
↓
呉匡の子である呉班は世代が一つ下
↓
呉懿と呉班は従父子関係
という論になる訳です。
>呉懿、呉班って同時期にほぼ同格の将領になってるじゃないですか。
>叔父甥が同格ってのはどうなんでしょうか?
確かに例の李厳弾劾の上奏文で呉懿が左将軍、呉班が後将軍で将軍位は同格ですね。
従父、従子の関係であれば年齢差があるはずで、これだけ近い地位にあると奇妙な気もします。
ですが実は従父、従子の関係であっても歳が近い場合もあるんですよ。
上述の通り、この時代の親族の関係は「一族の中での世代」、
言い換えれば「共通の先祖から何代目にあたるか」によって関係が決まります。
Aという人物の孫Bと、別の孫から生まれた曾孫Cがいた場合、
BとCの関係は従父子になります。
ですが、人間が子を作ることが出来る期間は大変長いため、
場合によってはこの孫Bと曾孫Cの年齢が大変近かったり、
逆に曾孫Cの方が年上だったりする場合も出てくるのです。
有名な荀イクと荀攸の関係もそうですね。
荀イクの祖父と荀攸の曽祖父が兄弟という間柄ですので
一族の世代は荀イクの方が荀攸より一世代上ですが、
この二人、年齢は従子の荀攸の方が六歳年上です。
この例を考えるなら呉懿と呉班が従父子関係にあったとしても
二人の年齢が左程離れていなかったと考えれば、
地位があまり変わらなくても不思議ではないです。
もっとも私個人としましては、将軍位はともかくとして
漢中都督などの役職を任されていることを考えれば
呉懿の方が格上として扱われているように感じます。
皆様の黄皓論、興味深く拝見しました。
黄皓が、臣下に奪われていた権力を皇帝の側に取り戻そうとしていた、
というのは面白い考えだと思います。
あるサイトで陳シについての同様の論考を拝見した時に、
そういう考え方もできるのかと思ったものですが、
考えれば陳シと協力関係にあった黄皓も同様の見方も可能なわけですね。
なるほど。
そう考えていくと
蜀滅亡の責任も劉禅や姜維、黄皓といった個人にばかりあると決め付けるのではなく、
蜀の組織や派閥の関係といった別の見方をすることが出来そうな気もしてきますね。
個人的には黄皓の話が出ているのに、
黄皓を最も抑え込んだ人物として記される董允の名が
どなたからも出てこないのが寂しい・・・(笑
郤正って黄皓と親しかった・・・けど結託はしなかったという事で誉められてるけどこれもまた極端ね
黄皓については三国志を書いた陳寿にの個人的感情なのでは?と思ってしまいます
劉禅については「人を見る目はあったが使いこなす事はできなかった」人物だと思います
諸葛亮のように自分で考えて政治を行う人物がいればいいが、政務能力や軍事能力に優れただけの人物では駄目だったのでしょう
ところで、諸葛瞻と黄皓は、
間に「皇帝(劉禅)」をはさむと一直線につながるよね。
諸葛瞻=皇帝の婿
黄皓 =皇帝のオキニ
>>82=怨霊様
確か樊建伝に当時蜀の政権の中枢にいた諸葛瞻、董厥、樊建らの中で、
黄皓と親しく往来が無かったのは樊建だけ、という記述がありませんでしたっけ?
(うろ覚え)
確かそこの注に引く『異同記』には
例の閻宇と姜維交代案には諸葛瞻も関わっていたという記述もあったと思いますし、
黄皓と諸葛瞻は繋がりがあったと考えるのが自然な気がします。
>>83 70では省略したのですが、当にその通りです。<樊建
郤正や樊建には、黄晧と交わらずと書かれています。
ついでに譙周は?と考え、覗いて見ましたが譙周伝には記述ナシ。
あぼーん
86 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/02 05:17
age
>78-80、王泰明様、丁寧な解説、ありがとうございます。
荀イク、荀攸の関係もそうでしたね。彼らもほぼ同格に近いようですし。
呉懿、呉班の関係も色々な見方が出来ると言うことですね。
蜀漢の組織についてお聞きしたいのですが、私のウロ憶えですと、将軍位において、征四将軍の方が鎮四将軍より格が上だと思うのですが、蜀漢の場合、鎮四将軍の方が格上になっています。例えば、趙雲:征南将軍→鎮東将軍、張翼:征西大将軍→鎮南大将軍。
こういった例からすると、魏延は劉備即位した時に鎮北将軍になっており、趙雲は劉禅の時に征南将軍→鎮東将軍となっています。と、言うことは魏延の方が武官としては常に上位だったのでしょうか?スレ違いな質問で申し訳ありません。
董允・・。彼の方が蒋エン・費イの死去より惜しまれるくらいかもしれませんね、黄晧・陳祗嫌いな方からすると(笑)。
ただ、宮中をよく取り締まったのは事実のようですね。董允の生存中は劉禅もあまり遊べなかったようですし。董允の死後、譙周が一生懸命、劉禅を諌めているようですが。
特に費イ時代は外征こそ慎重だったようですが、国家的な弛緩は結構すすんでるような気がします。陳祗を重用したのも費イのようですし。董允の死後、行政面はとりたて問題なく運営していったけれど、国家的な規律面ではだんだん崩れていったように思います。
>>88 趙雲が征南将軍から鎮東将軍になったのは第一次北伐の失敗の責任の一端で格下げ
魏延は鎮遠将軍から昇進です
四征と四鎮の位階はよく判らないから、ほぼ同格程度でいいと思われ。
格下げにするくらいなら、はっきり雑号将軍にするんじゃないかな。
65=88です。
>89氏へ。
趙雲は、劉禅の即位に当たって、征南将軍となり、北伐前の、おそらく226年人事で鎮東将軍になってます。正史でも「後主の時に、中護軍・征南将軍から鎮東将軍に昇った」と明記してあります。
第一次北伐の時の降格人事は鎮東将軍から鎮軍将軍への間違えではないでしょうか?
魏延は劉備が漢中王になった時に、督漢中・鎮遠将軍となり。劉備の即位時に鎮北将軍に任ぜられています。
>>84様
あ、合ってましたか。自信なかったんですが一安心(笑
>>88=65様
>将軍位において、征四将軍の方が鎮四将軍より格が上だと思うのですが、
>蜀漢の場合、鎮四将軍の方が格上になっています。
そうですね。四征>四鎮の序列が確定しているのは三国でも魏だけであって、
呉・蜀は必ずしもそうとは限りませんね。
蜀においては四征より四鎮の方に大物が多く、四鎮の方が格上だったのではとは聞きます。
但し「それで確定か」と問われれば、自信がないですね。
>趙雲:征南将軍→鎮東将軍
これが昇進かと言われると
前述の四鎮>四征論とは別の問題でかなり微妙な気がします。
何故かと言えばこの時期の蜀においては四征・四鎮は後漢代同様、
雑号将軍の一種ではないかと思われるからです。
(四征・四鎮が雑号将軍の中でも品格の高い将軍位であったのは確かですが)
たとえばこれより後の230年、
姜維が征南(征西)将軍から輔漢将軍に遷っています。
輔漢将軍はかなり位の高い雑号将軍です。
これは魏制で考えれば明らかに降格ですが、
『蜀書』にはそんなニュアンスはこれっぽっちもありません。
これは純粋に昇進であって、四征・四鎮がこの時期
まだ雑号将軍の一種であったことを示すものではないかと思います。
また諸葛亮が北伐敗戦の責任を取って丞相から一時的に降格した際に
蜀の軍の最高司令である彼が四征・四鎮ではなく右将軍・行丞相事になっている点から、
この時期の蜀では、まだ後漢代同様に前・後・左・右の四方将軍が
四征・四鎮よりも上位だったのではないかと考えられます。
これも四征・四鎮がまだ雑号将軍の一種であったことを裏付けているのかも知れません。
後になると、蜀でも魏同様に四征・四鎮の地位が高まっているようですが、
いつ頃からかはっきりしない上、前述の四鎮>四征問題が絡んできて複雑ですね。
一度じっくり調べてみたいものですが・・・・。
で、本題の
>(趙雲と比べると)魏延の方が武官としては常に上位だったのでしょうか?
という話ですが、
前述のように四大将軍(仮)と四方将軍以外の将軍は
全て雑号将軍でして、「将軍であるという点では」
ほとんど同格と見て良いと思います
(とは言え雑号将軍内での格の違いはありますが)。
少なくとも蜀平定時の趙雲の官位は翊軍将軍、
対する魏延は将軍の中でも最低クラスの牙門将軍なので、
この時点では趙雲の方が上位です。
但し、漢中平定時に魏延は鎮遠将軍に任じられると共に漢中都督に任じられています。
趙雲も同時期に中護軍になっていますが、中央軍の部隊司令である中護軍と
地方軍総司令である漢中都督では明らかに漢中都督の方が上であって
この時点で将軍位はともかく、役職面で魏延の方が上位に立っています。
以後趙雲が死ぬまでずっと魏延の方が上だったと考えて良いのではないでしょうか。
>>89様
魏延に関してはその通りですが、
趙雲に関してはちょっと違います。
65様が91でお書きの通り
趙雲が北伐敗戦の責任をとった時の官位の変化は
鎮東将軍→鎮軍将軍です。
これは格の高い雑号将軍である鎮東将軍から
少し格下の雑号将軍である鎮軍将軍になっているので降格ですね。
しかしその前の征南将軍→鎮東将軍の際は理由が書かれておらず、
また降格であるとも書かれていません。
遷ったと書かれているだけです。
おお。気がついたら私の名前が。
ではちょっと出張所。
将軍位ですが、前漢では
大将軍 驃騎将軍 車騎将軍 衛将軍
と
前・後・左・右将軍
だけが別格です。
他はいわゆる雑号将軍で、戦争の時だけ置かれる臨時の職です。
後漢でもほぼ同様のハズで、あんなに将軍が乱立するのは末期からと言っていいでしょう。
ですからまだ雑号将軍内の序列は固まっていない時期と思われます。
王泰明氏が
>>93で言っている通りじゃないかと思います。
また、初期なら「征」と「鎮」という字の意味を使い分けていたかもしれません。
領域外へ侵略することを前提とした将軍任官なら「征」、
他勢力の侵攻から守るための将軍任官なら「鎮」と、
位の上下は無くてこういった役割(目的)によって将軍位を使い分けたのかも。
これは思いつきですが・・・。
>92-95、王泰明様、丁寧なご返答ありがとうございます。
早速「【官職】 漢の制度を語る 【政治】」見てきました。このスレ同様、中身の濃い内容でかなり勉強になりました。
制度的な記述はやはり魏の制度が記載されている事が多いのですね。蜀も魏と同様に考えてしまいました。
蜀は劉備即位後から戦争に次ぐ戦争で制度を整える間がなかったのかもしれませんね。ようやく整えたのが、比較的平穏な蒋エン・費イ時代だったのかな?なんて思います。
さて、このスレの本題「隠れた逸材」に戻ります。
やはり、地味な人々をピックUPする素材としては、楊戯の「季漢輔臣賛」が外せないと思います。
同書は重要な人物から記されているようですが(ある意味、当たり前ですが)、その中で、No10であるトウ方に興味があります。全く無名ですが「季漢輔臣賛」の記述以外にも逸話があるのでしょうか?
>96、怨霊様、「【官職】 漢の制度を語る 【政治】」拝見しました。
後ほど、疑問点を幾つかお尋ねしますのでよろしくお願いします。
前後左右の「方」将軍の中で、蜀の左将軍は、呉懿、向朗などが任ぜられています。
左将軍と言えば、かつて劉備が長らく称していた官位。呉懿は外戚であり、軍の重鎮、向朗は荊州譜代で、長生き(笑)。
この2人が就任していたのを見ると、左将軍位は劉備に由来し、かなり名誉だった、あるいは「方」将軍の中でも特別だった、と考える事は出来ないでしょうか?
むろん、左将軍には、巴西出身のコウ扶や、費イを暗殺した郭循なども任ぜられているので、一概には言えないかもしれませんが。
>>96=怨霊様
お疲れ様です。
なるほど、征と鎮は同位で字義の使い分け、ですか。
面白い説ですね。
>>97=65様
ケ方!渋い!渋いですねぇ!
南中地方の責任者、ライ降都督の初代任官者ですね。
残念ながらケ方の『季漢輔臣賛』以外における記述は
『蜀書』李恢伝の 「章武元年,?降都督ケ方卒」という文だけです
(このケ方の死を受けて、李恢がその後任に選ばれるくだりは
前スレに書いたことがあるので良ければご参照ください)。
ケ方の伝がない理由ですが、陳寿は呉懿と同じ理由で言い訳しています。
ライ降都督は南中地方を統括する蜀の南の総責任者です。
北の漢中都督、東の江州都督と並ぶ重大な職務ですね。
漢中都督や江州都督と違い、魏や呉の直接的な脅威こそ受けませんが、
異民族と接することの多い、難しい役目です。
ケ方の後任、李恢は現地の出身者であり、彼の抜擢は彼の才能の他に、
現地に詳しいという面が買われたのだと思いますが、
ケ方は荊州の中心地、南郡の人。南中地方と何らつながりはありません。
それでもこの重大な役目を任されていた辺り、
実は劉備からかなり信頼されていた人物なのかも知れませんね。
ちなみに蜀の歴代ライ降都督は以下のようなメンバーになっています。
ケ方→李恢→張翼→馬忠→張表(副官:楊戯)→閻宇(副官:霍弋)→霍弋
ライ降都督として最も有名なのは馬忠ですが、
こうやって見てみると他にも意外な人物がライ降都督だったことがあったりして面白いです。
>>98=65様
・・・・劉備の直接の後任の左将軍である馬超はどこへ?(笑
ちなみに句扶の官位は『華陽国志』では右将軍になっており、
左将軍とする『蜀書』王平伝附属の句扶伝と食い違ってます。
どっちが正しいのやら。
>>98 >>101 たしか唐太宗、宋太祖・太宗が臣下時代に就任していた官は封印され、
その後は臣下が就任する事は無かったのですが・・・。
この時代、そういった意識があったかどうか。
それでも前後左右の中では最高位、くらいならあったかもしれませんね。
ところで新ネタ、魏人もいいのかな?
なら倉慈。
敦煌再建の名太守。
酷吏と循吏の性格を兼ね備えた、まさしく「良二千石」ですな。
ケ方も謎が多いですね(笑)。
ウロ憶えですが、漢中・江州両都督は仮節ですが、ライ降都督のみ、遠方なので使持節だったような・・。
もしそうだとするとそれだけ、瞬時の判断を求められる重職だったのでしょうか。
さきほど、筑摩の正史を確認したのですが、ケ方の死去年が先主伝だと221年なのに対し、「季漢輔臣賛」では222年ですね。写し間違えなのでしょうかね?謎です。
馬忠伝では、閻宇が評価されてますね、馬忠ほどではないにしろ。南中地方で業績を(しかも長年)上げるってのは、一般に流布されている様な人格の人物ではないことを物語っているように思います。
すると、結託したという、黄晧の評価も変わるかな?まぁ、結託したのがライ降都督退任後で、年老い性格が変わってった、ってのもありえますが(笑)。
>>100-101、王泰明様、貴方の好きな馬超を失念しておりました(笑)。
>左将軍位は劉備に由来し、かなり名誉だった。
と言う点、馬超も当てはまるのではないかな、と考えます。
馬超は劉備陣営の中でも飛びぬけた経歴の持ち主であるため、仕官直後ではあるが、自身(劉備)の前任官に封じたと。
つまり「わが陣営は主君の直前の官位を馬超に与えるほど、馬超を大事にしている。曹操陣営の幹部でも来降すれば同じように待遇するぞ」
と言う内外に対する宣伝だった、と取れないでしょうか?
言うまでも無く、馬超自身の実績・能力も十分に考慮されたでしょうが。
>102、怨霊様、唐代の件をちょこっとかじったので、そう思ったんですよ。
確かに三国時代にそういった意識がったか不透明ですね。特に記録系の事には結構無頓着(黄権&魏延のW鎮北など)な蜀(って言うか劉備)のことなので、適当に任官しちゃっただけなのかもしれませんが・・・(笑)。
倉慈ですか。
名前だけは知っております。地方文官系の人物ですよねぇ・・。
よろしかったら、人物像など教えてください。
魏の人物ですと、マイナーではないですけど、趙ゲンとか気になります。
>>103少し訂正。
>>馬超は劉備陣営の中でも飛びぬけた経歴の持ち主であるため、仕官直後ではあるが・・云々、と書きましたが、
馬超が左将軍になったのは仕官後数年経ってますね。それでも、経歴が浅いことは浅いですが。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/03 17:34
>>66 なんでもかんでも「ぽ」をつけるんじゃねえ
張南、馮習って若かったの?
108 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/03 20:25
>107
張南って確か袁紹配下にも同姓同名の香具師がいる。
馮習でわかっているのは呉軍を軽く見ていたことぐらい・・・。
>>102=怨霊様
倉慈ですか。これまた良いですねぇ(笑
二十年間の太守不在期間があったせいで
豪族のやりたい放題になっていた敦煌の行政を、
土地の分配、裁判、異民族との交易、などあらゆる面で、
公平なあるべき姿に立て直した名太守ですよね。
そのため官吏や人民に恐れられながらも慕われたそうで。
彼が死んだ時に異民族の中には自分の顔を刀で傷つけることで
真心を示すものもいたとか(痛そう・・・・)。
>>103=65様(いや、64様か)
>ライ降都督=使持節?
李恢は確かにそうですね。
ただ、他のライ降都督が節を与えられた記録がないようなので、
この使持節がライ降都督の職権に合わせて与えられたものなのか、
ライ降都督と関係なく李恢個人に特別に与えられたものなのか、
ちょっと分かりませんね。
>閻宇
そうですね。
演義の影響により世間では黄皓と結託した出世亡者と思われがちですが、
言われるほど出世だけが目当ての人物ではなかったと思います。
ライ降都督の後は東の責任者である巴東都督になっています
(この頃は巴郡に置かれていた江州都督の権限が削られて督江州となり、
代わりに永安に置かれていた督永安の権限が巴東都督(巴東領軍)
として強化されているようです)が、
南と東、両方の総責任者を経験したことがあるのは蜀では閻宇ただ一人です。
更に蜀滅亡直前には魏軍の来襲を知った蜀の朝廷から、
成都の危機ということで、わざわざ任地の永安から成都に召還されています。
蜀の宮廷から大変信頼されていたと言えるのではないでしょうか。
>馬超、左将軍任官
後に驃騎将軍になった時、涼州牧を領しているという点で馬超が特別待遇なのは分かりますね。
(怨霊様のスレで劉備勢力の州牧・州刺史の話題がありましたが、
劉備の生前に牧位を与えられているのは馬超だけです。)
そういった意味では確かに左将軍任官も特別待遇の一環であった可能性はあると思います。
ただこれらの宣伝行為の対象は曹操陣営の幹部にむけてというよりは
むしろ雍・涼二州の豪族や馬超と繋がりの深い羌族、テイ族を蜀側へ付けるための
アピールだったのではないかなぁと私は思います。
>>107様
>張南、馮習
彼らについて分かっているのは以下のことだけです。
(後は年齢も何もかも不明です)
・張南(字:文進)
蜀の将軍。
荊州から劉備に従って入蜀。
前部(ちくまでは「先鋒」と訳されてます)として夷陵に参戦。
敗戦に際して戦死した。
・馮習(字:休元)
蜀の将軍。南郡の人。
荊州から劉備に従って入蜀。
夷陵の時の官位は護軍(『呉書』潘璋伝。『華陽国志』劉先主志では左領軍。)
夷陵の前哨戦で呉班とともに李異を撃破。
大督(ちくまでは「総指揮官」と訳されてます)として夷陵に参戦。
敗戦に際し、潘璋の部下に討ち取られた。
『季漢輔臣賛』や先主伝で二人並べられていることで何か同格のようなイメージがありますが、
明らかに馮習の方が格上ですね(まあ言うほど差はないですが)。
『季漢輔臣賛』に載っている上に、馮習は夷陵戦における大督であって
下手をすればこの二人、黄権よりも高い地位の将軍であった可能性すらありますが・・・、
死人に口なしです・・・(苦笑
>>108様
いますね。袁煕の部下にも張南。
もっとも焦触と一緒になって袁尚と袁煕を追い出してしまった人ですが(笑
つかさ、張南なんて名前の奴は
いくらでも居ただろうし気にしても致し方なし。
109-111、王泰明様。
てっきり、ライ降都督=使持節だと思っていました。
確かに李恢伝にしか明確でないですね。
馬超はやはり、仕官前は(漢中居候は別として)劉備と同格かそれ以上の群雄だったと言うことで特別待遇されたのではないでしょうか。
当然、西方異民族の歓心を買うと言うことも含めて。
閻宇は巴東都督も後にやってますねぇ〜。
忘れてました(笑)。
王泰明様の指摘で思ったのですが、江州都督の権限が巴東(永安)都督に移譲されていたとすると、
諸葛亮の死後、督江州のトウ芝、その後、永安都督の宗預が対呉交渉の第一線に立っているようですが、
宗預の病気帰還後の都督である閻宇が蜀漢末期の対呉関係の責任者となっている可能性はあるのでしょうか。
つまり、江州・巴東(永安)都督が対呉外交を担ったと思えるのですが。
ライ降都督は仮節くらいは持ってたと思うけどね。
ところで、怨霊といい、青といい、王泰明といい、全レスやるヤツが増えとるな。
2chで全レスは非常にウザイんだが。
別にいいだろ。三戦では数少ない高度なスレなんだし。
焼き餅焼くなよ
>>113=64様
>ライ降都督
114様の仰るように仮節は与えられていたかもしれませんね。
さすがに処断権全くなしで、処断の度ごとに
成都にお伺いを立てるのでは遠方を治めるには不便ですから。
>閻宇が蜀漢末期の対呉関係の責任者?
ケ芝の死後、督江州(江州都督)が見当たらないことを考えると、
宗預の頃にはすでに対呉の窓口は督永安(巴東都督)だったと思われますので
その後任である閻宇もその役目を果たしていたのではないかと思います。
なお、先の書き込みでは江州都督の権限が削られて代わりに
督永安が巴東都督になったと書き込みましたが、
江州都督は李厳、李豊父子、巴東都督は閻宇しか見当たりませんね。
東の責任者は督江州あるいは督永安なのが普通で、
彼らだけが特別扱いだったと見る方が自然かも知れません。
そうだとするとなおさら蜀における閻宇の地位の
特殊性や重要性が見えてくる気がします。
将軍号も閻宇のものは「右大将軍」というかなり特異なものですし。
>>114様
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
折角出てきた話題をスルーしてしまうことが
勿体無くて出来ないものでして。
これはスタンスの問題ですのでご要望に沿うのは難しいです。
寛容に許して頂ければ幸いなのですが・・・。
>>115様、116様
フォローありがとうございます。
>117-118、王泰明様、
閻宇、こうして議論を進めると、一般的なイメージとかなり変わってきますね。南中都督、巴東都督、どちらの職務も蜀漢にとって重要ですからね。
閻宇の最終的な位階は「右大将軍」ですが、この位階は「(費イ、姜維等が就いた)大将軍の右職」なのか「右将軍の経験の深いもの(魏延の征西大のような)」
どちらなんでしょうね。
>>119=64様
>右大将軍
個人的には「右将軍の経験の深いもの」
の方ではないかと思います。
基本的に、ある官職が左右職に分割される時には、
元の官職は置かれなくなるものだと思います
(例えば蜀で言えば、259年に車騎将軍が分割されて
張翼が左車騎将軍に、廖化が右車騎将軍に就き、
車騎将軍は置かれなくなります)が、
ご存知のようにこの時期は姜維が大将軍の職にありますから、
「大将軍の右職」は存在し得ないと思いますので。
しかし、四方将軍に「大」の字が加えられる
というのは普通ありませんよね。
(呉には上大将軍がいますが、これは大将軍より上位の将軍だそうで、
四方将軍とは別物のようですね)
蜀でも閻宇の他に例がありません。
例外づくしの人ですね、閻宇って(笑
>120、王泰明様。
左右車騎将軍の件ですが、夏侯覇の死去年ははっきりしているのでしょうか?
姜維の遠征で戦死したのは確かなようですが。
張翼等が左右車騎将軍に昇進したのが259年。夏侯覇の死去に伴う昇進人事だとすれば、259年以前に夏侯覇は戦死したことになります。
とすると、257年のボウ水の役か、256年の大敗北である、上ケイの役と言うことになります。
私のウロ憶えだと、トウ水方面の戦闘で戦死したと思っていたのですが・・・。
それだと、262年の侯和の役が該当するとなぁ、と。
もし、262年戦死だとすると、車騎将軍は左右も含めて3名となります。
蜀漢の人事は劉備の頃に黄権&魏延のW鎮北将軍、231年頃の姜維&魏延のW征西(魏延は大将軍ですが)、あるいは姜維&劉巴のW征南など
首をかしげる記述が多く、左右、あるいは数名同職を乱発してたのかな?なんて思ってしまします。
そうだとすると、遠征ばかりの姜維の代行として、蜀漢中央の軍事の責任者として閻宇を大将軍の右職にしてたのかな?なんて考えたのですが。
実際に閻宇が中央の責任者だったのは、南中から帰還後〜諸葛センが行都護に任命されるまでの短い間だったかもしれませんが。
ほとんど私の妄想で申し訳ありません(苦笑)。
話題が支離滅裂
>>121=64様
>夏侯覇の死去年
はっきりしていません。
それどころか彼がの死因は記録に残っていません。
彼が戦死したと描かれるのはあくまで「演義」です。
従って私は259年に夏侯覇が病死したので、
張翼と廖化が左右の車騎将軍となったのだと考えます。
>左右、あるいは数名同職を乱発してたのかな?
自称とは言え正統王朝を名乗る以上、
そのようないい加減な官職の与え方はしないと思いますが(笑
同名の将軍に二名以上が就くことは無いと思います。
蜀の場合は長い間正式な史官が存在せず、正確な記録が残らなかったために、
そのように官位の混乱・異同が生じているのではないかと。
(ただ李厳弾劾上奏文中では確かに、姜維と劉巴がともに征南将軍なんですよねぇ・・・
個人的にはどちらかの官位が誤写なのではないかと思いますが。)
>>姜維の遠征で戦死したのは確かなようですが。
>彼が戦死したと描かれるのはあくまで「演義」です。
演義なんて読んでないから、マジでビビったw
>124様、私もビビリました(笑)。
>123、王泰明様、早速のお返事、ありがとうございます。
演義の方はあんまり読まなかったのですが、やっぱり影響されていたようです。
ホントに戦死だと思ってましたから(笑)。
夏侯覇のような人物の死に様は戦死が似合う、なんて思い込んでたのかもしれませんね。
閻宇の方に話を戻すと、右大将軍以前はライ降都督ですが、歴代ライ降都督は馬忠・カクヨクは安南将軍に封ぜられていますが、
閻宇も安南将軍だった可能性はたかかったと思いますが、ライ降都督以前の彼の経歴は残っているのでしょうか?
>>124様、125=64様
>夏侯覇の死
やはり諸葛亮死後に関しては皆の興味が薄れて、
触れる人が相対的に少なくなるので、
良かれ悪かれ演義の影響が強くなるようですね。
>ライ降都督以前の彼の経歴は残っているのでしょうか?
残っていません。
閻宇の官位の記録はライ降都督、
そして後年の右大将軍・巴東都督だけです。
>歴代ライ降都督は馬忠・カクヨクは安南将軍に封ぜられていますが、
>閻宇も安南将軍だった可能性はたかかったと思います
そうですね。確かに馬忠・霍弋は共に安南将軍に上っています。
但し馬忠は当初、奮威将軍として(安南の後は鎮南大将軍)ライ降都督を、
霍弋は長年翊軍将軍として南中監軍(ライ降都督を改称)を務めている
(安南将軍になったのは蜀滅亡の正にその年)なのを考えると
「ライ降都督であれば安南将軍」とは単純に言えないとは思いますが、
「南」の付く将軍号はライ降都督と最も密接に関わりがあると思えますので、
閻宇が安南将軍や鎮南将軍などの位にあった可能性はあると思います。
証拠はゼロですが(笑
また初代ライ降都督、ケ方は安遠将軍として、
二代目ライ降都督、李恢が安漢将軍としてライ降都督を務めていますので
「安」の字の方も何か関係しているのかも知れません
(とは言え、李恢の安漢将軍の方は、かつて麋竺が就任した高位の雑号将軍で、
後に北の責任者の一人である王平も就いているのでこれは別物なのかも知れませんが)
つか正史を読んでいて演義を(あまり)読んでいない人たちがいるのに驚いた
逆なら普通にいるだろうけど
横山や吉川は何度も読んだけど、演義は読む気が起きない。
平話ともども、持ってはいるんだけど。
なるほど そういうコトか
オレも正史も吉川も読んだけど演義はロクに読まずじまいだった
>125
#夏侯覇のような人物の死に様は戦死が似合う
きっと、元の時代の人もそう思ったんだろうね。
漏れは横山→光栄の人物辞典→正史
126、王泰明様、お久しぶりです(笑)。
閻宇に関しては伝が残っていてもおかしくない人物だったようですね。
かなりの顕官に昇ってるようですし。
閻宇についてはやや語り尽くしたような感がありますので、次の人物についてお聞きしたいと思います。
演義にも出演(?)していり高翔なんですけど、劉備の漢中平定戦から、諸葛亮の北伐にまで参加しています。
最終的な位階も「督前部・右将軍・玄郷侯」と言う顕官です。しかし彼も事跡が伝わりませんねぇ。
もし、ご存知のことがありましたらお話願えませんか?
私的には、蜀漢内では歴戦の将軍で勇名もあったのだろうと考えていますが。
>>64 ゴメン、高翔については街亭大敗の立役者ってイメージが強くて漏れは何も言えん
どうも馬謖以上の責任がありそうに見えなくもない
街亭の戦いが起きた理由としては諸葛亮の北伐に某三郡が呼応して雍州の郭淮が逃亡
曹真、張コウがそれを取り戻す為に進軍、初の魏蜀の全面対決が起きる
高翔は街亭の後詰、張コウと戦う馬謖を助けなくてはならないところで・・・・逃亡してた郭淮にやられ敗走→馬謖敗退
かなり端折ってますがこんな感じだったと思います
この二人のうちのどちらかが魏延だったら・・・って考えちゃうのはちょっと妄想入り過ぎでしょうか?
こんなわけであまり好きではない武将だったりします
>>132=64様
>高翔
実は私もかなり興味を持っている人物だったりします(笑
まず前提として「高ショウは一人か?二人か?」という問題を。
蜀将「高ショウ」は高翔・高祥・高詳の
三通りの人名の記述がありますよね。
高翔は『蜀書』の諸葛亮伝注の引く『漢晋春秋』と李厳伝の注、
高詳は『魏書』の明帝紀、
高祥は『魏書』の曹真伝と郭淮伝にその名が見えます。
この中で明帝紀の高詳と郭淮伝の高祥は
同じく馬謖敗戦の際に名が現れており、
高詳と高祥はどちらかの記事で誤記か誤写されたものであって
同一人物と見て間違いないと思います
(「ショウ」の字の「へん」こそ違えど「つくり」は同じですし)。
しかし果たして高翔と高祥(詳)が同一人物かというと断言出来ません。
「祥」と「詳」ならともかく、「翔」と「祥(あるいは詳)」は
そう簡単に誤記や誤写するほど似た字ではないように思えます。
現代日本語では同じ読み方ですが、当時の中国語でも同じ読みなのでしょうか?
だとすれば同一人物の可能性は高くなると思いますが、
同一人物と考えるか、別人と考えるかで、論はかなり違ってくる気がします。
ですが、ここではとりあえず、
二人とも同一人物の「高翔」として話を先に進めます。
高翔の記録を追ってみると、
・219年、劉備の漢中攻めに参加します。
高翔は別将(別働隊長)として陽平に駐屯しますが、
征蜀護軍として徐晃らを率いた曹真に撃破されています。
(徐晃伝によればこの時劉備が派遣していたのは
「陳式ら十余の軍営の兵」だったと言います。
高翔はこの内の一営を率いる将だったのでしょう)
・続いて228年。諸葛亮の第一次北伐に参加します。
高翔は街亭に布陣した馬謖を支援する形で列柳城に駐屯しますが、
133様の仰る通り、馬謖は張コウに撃破され、高翔も郭淮に敗れてしまい
蜀軍は撤退を余儀なくされました。
・231年、諸葛亮の第四次北伐に参加します。
ですが蜀軍は兵糧が続かず撤退を余儀なくされます。
この時、魏の総司令の司馬懿は張コウの反対を押し切って
真正面から追撃しながらも、何故か要害に立てこもり
戦闘を避けようとしますが、部下の諸将の「戦うべき」
という要請を抑えきれず、蜀軍に攻撃をかけて散々に打ち破られます。
この時、活躍したのは魏延・高翔・呉班だったということです。
この年の撤退は長雨による兵糧輸送の失敗が主因でしたが、
責任者の李平(李厳)は嘘の上奏をして責任を諸葛亮に押し付けようとします。
これに対して、諸葛亮は諸将と連名で李平弾劾の上奏をしますが、
この上奏文に高翔が「督前部・右将軍・玄郷侯」として名を連ねているのは
64様の仰るとおりです。
高翔はここで記録から姿を消してしまいます。
漢中攻防戦〜北伐という彼の活動時期は
ちょうど呉班や陳式の活動時期と重なります。
彼らと同世代の将軍だったと見て良いのではないでしょうか
(李厳弾劾上奏文では呉班と同格ですしね)。
『華陽国志』によれば夷陵の前哨戦で馮習と呉班が
同格の左・右領軍だったことを考えれば
馮習や張南とも同世代ではないでしょうか。
後述するように高翔は荊州の南郡の出身のようですので、
荊州奪還にも賛成だったでしょうから馮習同様に、
夷陵にも参陣していたのではないかと思います。
上の戦歴を見ると
決して戦上手ではなさそうですが、幾度敗戦しても生き残り、
また街亭敗戦の片棒を担いでいるにも関わらず
処刑どころか降格さえされないところを見ると
かなりしぶとい人物だったのかも知れません(笑
正史『三国志』の他に高翔の記述がある書としては
巴蜀の地方誌『華陽国志』があります。
この書の劉後主志の237年の記述に
この年に呉懿が亡くなったこと、
呉懿の従弟に呉班がいて常に呉懿に次ぐ位階と名声が
あったことが書かれているのですが、
その後にほぼ同じ時期に高位の将軍だった四名が
二名ずつ二組列記されています。
前者が輔匡と劉邕、後者が袁綝と高翔です。
(袁綝は李厳弾劾上奏文でも高翔らと並ぶ前将軍ですね。
彼らが同格であることが裏付けられます)
ところでここの袁綝と高翔の記述はかなり奇妙です。
原文は
「潁川袁綝、南郡高翔至大將軍,綝征西將軍。」
です。
袁綝が豫州の潁川の出身、高翔が荊州の南郡の出身
ということは容易に読み取れますが、
ここに書かれた「大将軍」とは果たして何を意味するのでしょう?
素直に読めば袁綝と高翔は位が大将軍にまで至ったと読めそうですが、
蒋エン、費イ、姜維以外に大将軍に就いた蜀臣がいるとも思えません。
魏延が征西大将軍だったように「○○大将軍」まで上ったという意味かと
個人的には思います。
その後ろの「綝征西將軍。」も意味が良く分かりませんが、
袁綝は征西大将軍だったという意味かなと私は解しています。
いずれにせよ高翔が蜀の軍部に置いて呉懿や呉班に次いで
かなり高位の将軍職を歴任していた点は間違いがないようです。
>>136 高翔、結構記述少ないですね
漏れが知っているのと殆ど同じ量です(三国志以外を探せばまだ記述があるかもしれませんが)
街亭敗戦の責任者として
諸葛亮、馬謖、趙雲、高翔
(髪を剃られた陳式を入れてしまうと同じ様な罪の人はもっといただろうから省きます)
の4人まではすぐに挙げられると思いますがこの中で高翔だけが降格してないんですね
一応補足しておくか。
ライ降都督であった閻宇は後に右大将軍になっている。
高翔も同じく右大将軍だったんじゃないかね。
それなら、「右将軍」と書かれるのも納得できるだろう。
あと、袁綝を征西"大"将軍にはしなくていいと思われ。
素直に征西将軍としておくべきではないかな。
>>138様
>髪を剃られた陳式
陳寿の父が馬謖の参軍で、敗戦の責任を取ってコン刑に処されたのは確かですが、
それが陳式だというのは俗説ですから、断言は出来ないと思います。
後の第三次北伐で主将的な地位を任されていることから考えて、
陳式は馬謖の敗戦に直接の関係は無く、
馬謖の参軍ではなかった(=陳寿の父ではない)のではないかと
私は考えています。
そもそも前述の通り漢中攻防時代から別将として一軍の指揮を任されている陳式が
北伐の時期に馬謖の一介の参軍に過ぎないというのは無理があるのではないかと。
>高翔だけが降格してない
そうなんです。とっても不思議です。
>>139様
>高翔=右大将軍
右大将軍ですか・・・。なるほど。
ただ個人的にはそうであれば李厳弾劾の上奏文に
魏延がただの征西将軍ではなく征西大将軍と署名したように
高翔も右大将軍と署名されているはずではないかと思います。
またこの上奏文では呉懿ら四方将軍より征西大将軍魏延が上位に記名されています。
つまり雑号将軍である征西将軍も「大」がつくと四方将軍より上位になる訳ですが、
もし高翔が四方将軍に「大」が就いた右大将軍なら、征西大将軍より上位のはずで、
魏延より上位に記名されないとおかしな気がします。
139様はそのあたりどうお考えでしょうか。
上記二点により、私は高翔は右大将軍ではなく、
李厳失脚事件の後で雑号将軍位の○○大将軍に就いたのではないかと考えています。
この上で閻宇の話の時に書いたように私は右大将軍は
蜀の将軍号の中でも閻宇の地位の特殊さを現した
かなり特異なものだったと思っていますし。
>袁綝=ただの征西将軍
私も最初はそう考えたんですが、
そうすると
「潁川袁綝至征西將軍、南郡高翔至大將軍。」
と書けば良いはずで、どうしても原文の後半の
「綝征西將軍。」が浮いてしまう気がするんです。
ですから「至大將軍(○○大将軍になった)」は袁綝と高翔、
二人にかかる言葉で、中でも袁綝は征西の位だった、という意味かな、
と解してみたんです。
無理やりな感じは否めないんですけど(笑
>>141 >高翔も右大将軍と署名されているはずではないかと思います
至極単純。
王平らも鎮北将軍・鎮北大将軍のように混同されている者が多いんだよ。
>>142 >王平らも鎮北将軍・鎮北大将軍のように混同されている者が多い
なるほど。言われてみれば確かに王平と馬忠は自身の伝では
「大」の字が無いんでしたよね。
高翔も大の字が抜けているのではないか、ということですね。
確かに筆写の際に脱落した可能性はありますよね。
ですが、それだけでは少し説得力が弱いように思えてしまいます。
何故なら高翔の官位が記述されているのは上奏文の中だからです。
前述のように高翔がもしも右大将軍なら征西大将軍魏延より
上の序列となり、文中で先に書かれるはずだと思うのですが、
実際、高翔は件の上奏文では魏延より下位で、
袁綝、呉懿、呉班と並んで他の四方将軍と同格の位置、
すなわち普通の右将軍の位置に記述されています。
高翔の官位から大の字が脱落しているだけで
本来は右大将軍であるのであれば、
この位置に書かれるのは不可解です。
袁綝、呉懿、呉班まで四方将軍全員分、
大の字が抜けているというのはさすがにあり得ないと思いますし。
個人的にはやはりこの時期の高翔は
普通の右将軍ではないかと考えてしまいますね。
>右大将軍なら征西大将軍魏延より上の序列となり
ならないよ。華陽国志での
「魏延を鎮西、呉懿を左」(その前に魏延の副将が呉懿だった)、という
建興八年の順列から考えて、当時、既に四征>四方だったことは確実。
正史では魏延は「征西」になっているなどの異同はあるけど、概ね大差ない。
また、華陽国志での魏延は、何時の間にやら鎮西大将軍に昇っていたんだが、
建興八年の時点で「征西大将軍になった」とあるので、
上の「鎮西」が鎮西大将軍のことを示していた可能性は十分にあるだろう。
また、四征>四方であっても、〜大将軍になると位階がかなり上がる。
魏の品官では「諸大将軍は二品」であり、これと同じ事が蜀にもあったんじゃないかな。
だから、右大将軍>征西なら変ではない。
もちろん、大将軍>征西大将軍も確実だから御身の仰っていることも判るのだけれど。
高翔の話題で盛り上がってますね。
私には付いていけないくらい・・・(笑)。
>王泰明様。
高翔は大将軍クラスまで昇っているのですね。
敗戦が勝ちより多いようなのに、ある意味凄い人間だ。
街亭に関して言うと、高翔は諸葛亮の命令通りに動いたけど、馬謖が命令違反し、街亭で敗北したその結果、高翔も敗れた、と言うことで不問になったと言う可能性はないでしょうか。
それと、>蒋エン、費イ、姜維以外大将軍はいない・・・、とありますが、蒋エンが大司馬になってから費イが大将軍に就任するまで間がありますよね。この間に高翔などが大将軍になった、あるいは「行大将軍」になった可能性はどうでしょうか。
向朗も「行丞相」になってますし。妄想で申し訳ないのですが(笑)。
>144、王泰明様。
僭越ながら首を突っ込ませてもらうと、
やはり、方将軍全員が「大」付きってのは妙な気がします。
袁綝・高翔だけ「大」が付く「方」将軍だとすると上奏文の序列もおかしくなるでしょう。
やはり231年の段階で高翔はただの右将軍だったんじゃないかな、と思います。
>やはり、方将軍全員が「大」付きってのは妙な気がします。
んな事言ってないってば。
そうそう・・・馬謖の敗因って統率力の差だけではなかったのですか?
王平伝では「兵が混乱していた」ですし
山頂、命令無視のソースは何処でしょうか?
馬良伝だけじゃわからんっす
>>144様
>華陽国志での「魏延を鎮西、呉懿を左」(その前に魏延の副将が呉懿だった)、という
>建興八年の順列から考えて、
ふむふむ。確かに「延遷前軍師、鎮西將軍,封南鄭侯。懿左將軍、高陽郷侯。」
と『華陽国志』には書いてありますね。
なんと!魏延は『華陽国志』では征西ではなくて鎮西なんですねぇ。
気づきませんでした。
面白い記述を教えて頂き感謝です。
>当時、既に四征>四方だったことは確実。
いや、その記述しかないならその通りだと思いますが、
後述しますが反例もけっこうありますから「確実」というのはさすがに言い過ぎな気がします。
>正史では魏延は「征西」になっているなどの異同はあるけど、概ね大差ない。
正史ではそこは
「遷為前軍師征西大將軍,假節,進封南鄭侯。」
ですよね?
鎮西将軍と征西大将軍は権能が大幅に違うと思います。
大差ないどころかこの議論の骨子に関わると思いますが。
>また、華陽国志での魏延は、何時の間にやら鎮西大将軍に昇っていたんだが、
>建興八年の時点で「征西大将軍になった」とあるので、
>上の「鎮西」が鎮西大将軍のことを示していた可能性は十分にあるだろう。
そこには大いに賛成しますが、
そうであれば、余計に「四征>四方」は確実とは言えないでしょう。
「魏延>呉懿」の上の事例が
「鎮西大将軍>左将軍」の事例になってしまって
「鎮西将軍>左将軍」の事例にはならなくなってしまいますから。
(あ、でも144様はここも呉懿は左大将軍だと解してらっしゃるのか・・・)
「四征>四方」に対する反例を幾つか挙げてみますと、
まず
>>93に挙げた姜維と諸葛亮の二つの事例。
更に件の李厳弾劾上奏文で二人の征南(どちらかは誤記だと思います)
の劉巴と姜維が他の雑号将軍たちと同等かそれ以下の序列で記名されている点。
加えてこれは諸葛亮の件と同じ理由ですが、256年、大将軍姜維が敗戦の責任を取って
一時的に降格した時、後将軍・行大将軍事になっていることも
「四方>四征・四鎮」の根拠となり得ると思います。
この件から、下手をすれば蜀では最後まで
「四方>四征・四鎮」だった可能性すら考えられると思います。
個人的には『華陽国志』の「鎮西将軍魏延>左将軍呉懿」は
「鎮(征)西大将軍魏延>左将軍呉懿」の間違いじゃないかなぁと思ってしまいます。
>>やはり、方将軍全員が「大」付きってのは妙な気がします。
>んな事言ってないってば。
えぇっ?さすがにそれは出来すぎだと思いますよ、私も。
四人全員実は「大」付きの四方将軍で、
しかも全員「大」の字が落ちてるなんてのは。
であればこの上奏文で魏延の「大」の字も落ちていないと
筋が通らない気がしてしまうんですが。
>(あ、でも144様はここも呉懿は左大将軍だと解してらっしゃるのか・・・)
してない。そんなことは露ほども書いた覚えは無い。
>>145=64様
>高翔などが大将軍になった、あるいは「行大将軍」になった可能性はどうでしょうか。
私も昔、最初に『華陽国志』を読んだ時はそう思いましたが、
さすがにそこまで上ったのなら正史に一言も載ってないのもおかしな話だと思って、
その説は諦めました(笑
>>147様
>山頂、命令無視のソースは何処でしょうか?
諸葛亮伝ですね。
「謖違亮節度,舉動失宜,大為郃所破.」という文があります。
ちくまで「馬謖は諸葛亮の指示に背き、行動は妥当性を欠き、
張郃に大敗した」と訳されてる部分です。
>>150様
>>(あ、でも144様はここも呉懿は左大将軍だと解してらっしゃるのか・・・)
>してない。そんなことは露ほども書いた覚えは無い。
あれ、そうでしたか。
四方将軍全員「大」付きがおかしくないという話なら、
そういうお考えなのかなと思ったのですが、
深読みし過ぎでしたね。
>>147様
追加です。
山によって、下に降りず、水を絶たれたというのは
張郃伝にあります。
あ!読み間違えてました(汗
>>146様の書き込みを「そんなことない」って意味に。
「そんなこと言ってない」って仰ってたんですね。
いやぁ勘違い(汗
失礼しました。
ではそこまで戻って話をすると、
李厳弾劾上奏文では
車騎将軍劉?、
征西大将軍魏延、
前将軍袁?、
左将軍呉懿、
右将軍高翔、
後将軍呉班
の順で記名されてますよね。
これ何度も言ってますが上奏文です。
後世の人間が書いた順番じゃないので
位階の順が間違ってる可能性は低いです。
それでもし高翔が右大将軍であるなら
(四征>四方の場合)
車騎将軍劉?、
征西大将軍魏延、
右(大)将軍高翔、
前将軍袁?、
左将軍呉懿、
後将軍呉班
この順に書かれてないとおかしくないですか?
って話です。
それでなおかつ付け加えて、
もし高翔が右大将軍であるということを肯定しつつ、
あの位階順も肯定するなら、全員が大の付く四方将軍で
しかも全員「大」の字が欠落している、ということにでもしないと
説明がつかないと思うのですが、それはありえないですよね?
という話を143で言ってた訳です。
150様ごめんなさい。
>>149の最後の段落だけ皆様の記憶から抹消して下さい(苦笑
劉琰と袁綝が化けてしまいました・・・・
だから、袁綝は前将軍止まりだったのか? そうじゃないだろ?
とすれば、高翔はずっと右将軍だったのか? "大"を加えられたんじゃないの?
231年の時点でなんて言ってないよ。
少し勘違いがあるのかもしれんので補足。
>それなら、「右将軍」と書かれるのも納得できるだろう
これは最終官位として書かれた、という意味。
あの時は華陽国志の話でしょ? 正史と混ぜこぜに話されても困る。
>>157 ああ、なるほど!ようやく分かりました。
157様は高翔の官位が
右将軍→右大将軍となったのでは?と主張なされていた訳ですね。
それなら納得です。
それで、なおかつ袁綝は
前将軍→前大将軍→征西将軍
という官位の変遷だろう、ということですね?
なるほど。それなら納得の論理展開です。
十分あり得ますよね。
ただ、私個人は先述のように「四方>四征・四鎮」説を主張してますので、
袁綝の方は申し訳ないですが賛成し難い、という感じです。
ですが大変勉強になるご意見を聞かせて頂けたと思っております。
ありがとうございます。
あ、また間違えてしまいました。
137での157様の主張は袁綝は
前将軍→征西将軍
ですね。
お詫びして訂正します。
私、自説に引っ張られすぎのようです(苦笑
私も失礼しました。
李厳伝註を見たところ、四方>四征だと思いました。
征南として名を挙げられている劉巴は既に死去しているのでともかく(別人?)、
姜維が四方よりも後に挙げられてました(これも征南ではなく征西か?)ね。
あまりにも信頼しにくい記述ではありますが、さすがに順序は間違えていないでしょう。
あまり蜀を調べたことが無かったとはいえ、失礼つかまつりました。
それにしても、李厳伝註の間違い?は酷いな。
征西大将軍の魏延と征西将軍の姜維が同時に在るとも思えないけど。
それとも、やはり魏延は鎮西大将軍ということなのか?
>王泰明様。
私も自説を引っ張って見ると・・・(笑)。
大司馬のショウエンと費イが最高責任者として存在してるから、名誉職的な大将軍であり、おそらくこの時期高齢ですぐに死去してしまい、記録に残すほどの事ではないと判断した。
まぁ。このように妄想してみました(笑)。
蜀の場合、記録がしっかりしてないでしょう。劉備が即位した直後も「方」将軍がいたと思うんですが誰だか分からないし。
>160様。
難しい議論に口を挟み、しかも読み間違えをしてしまい申し訳ないです。
確かに李厳伝の上奏文は酷いですね。
劉巴は別人だとしてもかなり高位なのに謎な人物ですし。
姜維も・・・。
あの上奏文、すべて鵜呑みには出来ませんね。
お二人にお聞きしたいのですが、将軍位と実際の人物の位階がイコールで無い可能性はどうなんでしょうか?
あの上奏文だと偏将軍の何名かが「征」将軍や雑号将軍より上になってます。
まぁ、劉エン以下、最初の方に書いてある人物の序列は正しいような気がしますが
お分かりとは思いますが、
丞相長史や監軍、それに護軍でしょう。
あぼーん
164 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 22:36
age
>>161 上奏文の序列問題ですが、劉備が漢中王に即位した際に、
漢の朝廷に上奏したとされる文章(どうせ上奏したという形式を整えただけでしょうが)では、
筆頭は平西将軍馬超・次席は左将軍長史領鎮軍将軍許靖。
以下、営司馬(左将軍司馬)龐羲・議曹従事中郎軍議中郎将射援・
軍師将軍諸葛亮・盪寇将軍関羽・征虜将軍張飛・征西将軍黄忠
鎮遠将軍ョ恭・揚武将軍法正・興業将軍李厳
となっています。
当時の劉備陣営において実務面で最も大きな権限を有していた文臣は諸葛亮、武臣では関羽ですが、
その上の序列に馬超と許靖と龐義と射援が位置しています。
馬超は西方に勢威を張っていた元群雄。
許靖は動乱前から天下に名前が鳴り響いた名士でした。
龐義は元漢王朝の議郎で、後に益州に走って劉焉政権の重臣となった人物。
射援は関中から益州に流れてきた名士で、皇甫嵩の娘婿という毛並みの良さも兼ね備えていました。
また、劉表の重臣で交州刺史を務めたことのある頼恭が、
厳格な諸葛亮でさえ、違法行為を止めさせる事ができなかったほどの実力者法正の上位に位置しているのも注目されます。
上奏文の序列問題に関しては、実権や官位の高低より、
社会的名声や政治的立場が優先されることもあるのでは無いかと思います。
偏将軍なのに他の諸将軍より序列の高い人物は、
おそらく社会的名声や政治的な理由で、他の諸将軍より格上の人物とみなされて、
上奏文の中での序列が高くなっているのでしょう。
単に、左将軍長史、同営司馬、同従事中郎と優先順位が決定されただけだろ。
>>165 会社ではランクよりも勤続年数で上下関係がある
そんなところ?
実際万年平社員みたいな人は上司からも敬語使われてるよ
無理があるな。
万年平社員が上司よりも責任のある立場に置かれる?
そんな筈、無いって。
>>166 鎮軍将軍を領している許靖はともかく、
龐義と射援は劉備の属官に過ぎず、
何の背景も無しに独立した軍権を有する諸将軍より、
高い優先順位が与えられるとは思えないのですが。
>>167 全然違います。
馬超も許靖も龐義も射援もみんな新参者です。
このメンツの中で勤続年数を問うなら、
関羽=張飛>諸葛亮>黄忠>法正>李厳>馬超>許靖>龐羲=射援の順になります。
頼恭の仕官時期は不明ですが、彼は荊州の劉表の重臣だった人ですので、
黄忠より前か、黄忠と同時期に劉備に仕えたと思われます。
上位四人が諸葛亮や関羽より社会的名声が高い人物だったから、
上奏文の序列では上に置かれたのでは無いかと思います。
李厳弾劾上奏文の場合、上位の将軍達はいずれも蜀漢建国の元勲といっていい人物ですから、
社会的名声と地位が釣り合っていて、官位がそのまま序列に現れたのでしょうが、
それ以下の将軍達の場合は、必ずしも社会的名声が官位と釣り合っていない場合もあったのでしょう。
「会社では」って注意書きを読めないのかね?
>>170 「会社では」、等級序列を無視して平社員を上位とするような真似は、通常しないのです。
同等級の人間が二人以上並んだ時に初めて勤続年数を比較するんですよ。
敬語を使ったりするのは、人間関係を円滑にするための知恵のようなものですよー
……と、微妙にズレた横レスをしてみる。
いくらなんでも、そんなことを知らずにツッコミ入れる人間がいるとは思えないですからね。
常識ですから。
ご無沙汰しました。
>李厳弾劾上奏文の劉巴
劉子初の方は222年に死没しているので
皆様の仰る通り別人と解するのが一般的なようですね。
>高翔=行大将軍?
う〜ん。名誉だけ与えてあげたいのなら
三公に祭り上げてしまった方が良い気もしますが。
蜀における三公は許靖が司徒(『華陽国志』では左司徒)に就いた以外は
全くの空位で、許靖が就いていた時にも実権はなかったようですから。
大将軍は蜀においては実権があったことが確かな職ですから、
名誉を与えるだけの手段としては博打が過ぎるかと・・・(笑
もっとも仰るように、向朗の「行丞相」なんてとんでもない職もありましたから、
絶対ないとは言い切れないのですが。
>上奏文の序列
なるほど、官位や実権以外にも社会的な名声が序列に作用したと考えられる訳ですか。
勉強になります。ありがとうございます。
>>167様は永遠の青様の解説を現代に置き換えて、
「社会的な名声」を「勤続年数」に比してお話になったのですよね?
つまり実際の職位(官位や実権)とは別に勤続年数(社会的な名声)が
社内の上下関係(上奏文の序列)に関係し得る、と。
大まかな関係では合ってるような気がします(笑
>>171様
なるほど。確かに仰る通りだと思います。
ただ
>>167様の仰ることも全くの的外れとは言えないのではないかと。
勿論、「社内の序列(というか人間関係)」における「勤続年数」が
「上奏文の序列」における「社会的名声」ほどには
大きく作用しないものであるのは確かだと思いますが(笑
なんか三国志とまるで関係なくなってきてるので
この件はこの辺で終了にしませんか?
続けると荒れそうだし・・・・。
>>172訂正
許靖は『華陽国志』では右司徒でした。
お詫びして訂正します。
高翔のまとめ(勝手に)
・荊州南郡の人で、蜀漢内では古株。
・呉班、馮習らと、ほぼ同格の将軍で、諸葛亮の死後は袁綝と並び称された。
・漢中平定〜北伐まで参加してるが1勝2敗。しかもその1勝は正史の注(笑)。
・にもかかわらず、基本的には昇進続き!!
・で最終的には大将軍クラスまで昇っている。
・補足トリビア:袁綝、呉班もほとんど同じ経歴。
こんなところでしょうか?
なんか、地味〜に働き続けたら、結果的に報われたと言う人物でしょうか。
しかし、これだけ戦争に参加していて、しかも敗戦の方が多いのに、(おそらく)天寿をまっとうする、ってのは、ある凄いコトなんでしょうけど。
>>176 人材不足、この一言に尽きるような気がする
昇進続き・・・
夏侯惇も敗戦続きで昇進続き
万年平社員の話を出したの漏れですスマソ
身分と上下関係が逆の場合があるパターンを言っただけのつもりだったのだが・・・
ひょっとしたら諸葛亮や魏延は趙雲に対して敬意を払っていたのかもしれないとかいう妄想も
呉ではそういう記録あるけど蜀ではきかんね、確かに
王双に斬られる為に登場した謝雄とキョウ起
実在したのでしょうか?
>>180 いや、そもそも儒教では年上に敬意を払わないといけない
というか、今更どうでもいい
>176
負け方がうまく、損害が小さかったとかはないかな?
強くはないがしぶとい将軍ってのは地形がああだし
守勢になったときに重要なんじゃないかな。
>高翔・補足
前スレで書いたことがありますが、
後に晋の武帝・司馬炎の諮問に応えて、
羅憲が推薦した十人の元蜀臣やその子弟たちの一人に、
南郡の高軌がいます。彼、恐らく高翔の一族でしょう
(もしかしたら子か孫かも)。
南郡の高氏は蜀でもかなりの名家扱いだったのかも知れません。
>敗戦続きだけど昇進続き
さすがに負けばかり、という訳ではないのだと思いますが。
派手に記録されるような大舞台での戦功がないだけで(笑
案外、入蜀時に活躍したのかも知れません。
入蜀時の戦闘ってほとんど記録がないので。
>夷陵で根こそぎ
馬良・王甫・馮習・張南・傅彤・程畿らが戦死。
(沙摩柯もですね。蜀臣じゃないですけど。)
黄権・龐林は魏に、杜路・劉寧は呉に降伏。
無事に帰ったのは劉備その人の他には輔匡・呉班・向寵・廖化くらいですか
(趙融は無事に帰ったんだろうか・・・)。
あと劉巴や李朝が直後にぽっくり逝ってしまっているのも、
もしかしたら従軍していて戦傷を受けたせいなのかも知れませんね
(全然関係ない病死の可能性もありますが)。
兵や物資の損失も勿論ですが
幹部級の人材をここまで大勢失ったのはやはり蜀の最大の損失ですよね。
>謝雄と龔起
『三国志』や『華陽国志』には見当たりません。
恐らくは王双の格を上げるために
『演義』で創作された人物と見て良いと思います。
>185、王泰明様、補足ありがとうございます。
高翔って、こんな例えで良いか分からないけど、プロ野球で言うと、弱小球団に入ったドラフト下位指名の選手で、
タイトルを取った事も無ければ、タイトル争いをした事もないけど、ずっとレギュラーだった現役生活の長い選手、って感じでしょうか?(笑)
2000本安打にも程遠いし、200勝なんてとてもとても。でも、チームには不可欠な選手っていますよね。
弱小球団じゃないけど川合みたいなもんか。
いや、川相は偉大な選手でしょ。
蜀でいえば麋竺みたいな?犠牲心とかからして。
>187
高翔は世界記録ってガラじゃないだろ。
初芝なんかどう?
書き込んだ後に思いついた。
上が消えて浮上し、金メダリストの妻を得たってことで、
オリックスの谷はピッタリではないかに?
>187
川相じゃ大物過ぎ。犠打世界記録があるし。川相並なら伝が残るはず(笑)。
高翔もやや語り尽くしたような感がありますね。
次は、さらにマイナー系で、胡済などはどうでしょうか。
諸葛亮の幕僚から王平の死後、漢中都督まで勤めていますね。世代的には費イ、董允と同世代のようなので190年代半ば前後の生年と思われます。
蜀漢建国から滅亡まで見届けた可能性があり、最終的には右ヒョウ騎将軍まで(左は誰だ?)昇ってますが、これまた経歴が・・・。
ご存知のコトがあったらご教示ください。
王甫も気になります
馮習と張南は記録が少ないようですが
取りあえず順番に胡済から。
胡済も通説では二人いると言われてますね(私は疑問に思ってるんですけど)。
一人は191で64様が挙げて下さってる、董和伝注に主な記述がある胡偉度。
もう一人は姜維伝に記された鎮西大将軍の胡済です。
私はこの二人同一人物なんじゃないかと思ってるんですが、
取りあえずその件は後回しにして前者の胡済に関して。
彼の記述は主に董和伝の注にありますね。
董和伝の本文で諸葛亮が自分とよく気が合った人物の一人として
董和、徐庶、崔州平とともに挙げているのが胡済です。
スタートこそ文官の丞相主簿ですが、
様々な軍の要職を務め、最後は右驃騎将軍まで上っています。
もはや上には大将軍しかいないという高位も高位の将軍です。
さて彼は高翔以上に出世した人物ですが、
記録に残る軍事上の実績は
・・・ほとんど何もありません(汗
例の李厳弾劾上奏文に行中参軍・昭武中郎将として名を連ねているので
北伐に参加していたのは確かなようですが、
それ以外は勝利も敗戦も反乱討伐も何の記録もありません。
名将王平の後を受けて漢中を任される程の人物です。
無能ではないと思うのですが、さりとてここまで記録がないと
どうにも評価のしようがありませんねぇ・・・(苦笑
おまいら、沈友たんは既出ですか?
それで、「胡済は一人では?」問題なのですが、
前述の通り姜維伝(及び後主伝)に
鎮西大将軍(後主伝では鎮西将軍)胡済という人物が出てきます。
256年、上邽で姜維と落ち合うはずだったのにやって来ず、
寡勢でケ艾と戦う羽目になった姜維は大敗北を喫し、
多大な戦死者を出してしまったという、あの胡済です。
彼が来なかった理由は「約束を破った」とする『蜀書』と
「期日に間に合わなかった」とする『華陽国志』で大きく違うのですが、
間違いなく大敗戦の責任の一端を握る人物です。
この胡鎮西、前述の董和伝注の胡偉度の履歴に鎮西(大)将軍の官位が出てこないせいか、
はたまたこの誉められない事績のせいか一般に胡偉度とは別人と扱われます。
しかし、姜維伝の258年の次項(この項自体の年は不明)にある
姜維の悪名高い漢中防衛ライン解体の記事には
「督漢中の胡済を漢寿まで退かせた」という記述があり、
この胡鎮西が督漢中であったことが分かります。
同姓同名で同じく督漢中。
同一人物でないとする方が難しいように思います。
恐らく、胡済は督漢中としての最後の時期は鎮西大将軍の官にあり、
姜維のよる防衛システム解体によって督漢中の任を解かれた後、
右驃騎将軍に任命されたということなのではないでしょうか。
これなら259年の張翼・廖化の左右車騎将軍任命とも丁度時期が合いますし。
ただこの「胡偉度=胡鎮西」説、唯一ネックがあります。
『華陽国志』劉後主志の延煕十一年(248年)に
「鎮北將軍王平卒。以中監軍胡濟為驃騎將軍,假節,領兗州刺史,代平督漢中事。」
という文があります。
これによると248年時点で胡済は驃騎将軍だったことになり、
上の説は破綻してしまいます。
個人的にはこれは胡済が「後年に」右驃騎になったのと
「この年に」督漢中になったのを
ごちゃ混ぜにして書いてしまった記事なのではないかと考えていますが、
皆様はどうお思いでしょうか?
「胡偉度=胡鎮西」説を正しいと仮定すると、
胡済の軍事の事績が一つだけあったことになりますね。
・・・でも大敗戦の原因の一端を作ったことなんて
悪名にしかなりませんねぇ・・・(涙
王甫と沈友に関しては本日はもう時間がないのでまたいずれ。
馮習と張南に関しては既に
>>111で書いていますのでよろしければご参照ください。
相変わらずの良スレぶり。勉強になるよ。
>193,195-197、王泰明様。
胡済は同一人物でしょうね。
前将軍→鎮西大将軍→右驃騎って感じでしょうか。
しかし、唯一の軍歴が「約束破ったんで姜維大敗」・・・。
ただ、段谷の大敗の件で姜維は大将軍から後将軍・行大将軍事に自ら降格してるのに対し、胡済に処罰が行われた形跡がありませんね。
まぁ、胡済自身、伝も立ってないので記録に残ってないだけかもしれませんが。
しかし、後主伝、姜維伝、両方に記録されるほどの大敗ですから、街亭の馬ショクのように処断されても不思議じゃないような・・・。
実際、段谷の敗戦で「西方が動揺した」って書かれてるくらいだから街亭以上の影響かも。
にも係わらず、3年後には昇進です。不思議だなぁ。
この辺りは推測すらできませんね(笑)。
妄想させてもらうと、胡済は費イと親しかったようですから、姜維の北伐には反対で、姜維と反目していた。
で、段谷の件は胡済と作戦の合意がないまま、姜維が出征し、敗れた。胡済自身は守勢派なので、成都に支援者も多く、姜維も処罰で出来なかった。
258年に漢中防衛体制解体のおり、目障りな胡済を督漢中から解任し、成都にかえした。
こんな妄想はどうでしょう?(笑)
200 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/23 22:00
>>185 趙融って曹操と同じ位名声があった人がいましたね。
>>198様
マタ〜リ、続いています(笑
>>199=64様
>胡済は費イと親しかった
董允伝の記述からすれば費イ、董允そして胡済が
親しく往来する間柄だったのは確かなようですね。
勿論、だからといって彼の北伐に対する姿勢が
費イと同じだったとは断言できませんが、
仰るように胡済が費イ亡き後の守勢派(北伐反対派)の大物で、
姜維の北伐に反対していたと考えると、
段谷の際の胡済の行動のちぐはぐさや、
姜維の無謀とも思える漢中防衛ライン解体も
姜維を頭とする北伐賛成派と胡済を頭とする反対派の
蜀軍内部での暗闘と考えると納得が行く気がします。
(どっちも蜀全体の国益から見れば明らかに損失ですけど・・・・)
>>200様
禰衡に「台所を取り締まって接待させるのが適任だ」と
その太鼓腹を揶揄された人ですよね?
その名声の割に事績は残っていないようですね。
もちろん、夷陵の蜀将とは別人だと思います。
では遅くなりましたが王甫について。
『三国志』における王甫の記述は楊戯伝に引用される『季漢輔臣賛』と、
それを補足している陳寿の記述だけですね。
それから分かることは以下だけです。
広漢郡シ県の人。字は国山。
立派な風格を持ち、人物評価や議論を好んだ。
劉璋の時代は益州の書佐だった。
劉備入蜀の後、緜竹県令となり、荊州の議曹従事となった。
夷陵に従軍し、敗戦の際に殺害された。
「演義」では関羽の幕僚の随軍司馬として描かれる王甫ですが、
上の記述からは関羽との関係は読み取れません。
羅貫中は何故、王甫を関羽の部下に設定したのでしょうね。
ちなみにこの王甫を輩出した広漢郡シ県の王氏、
地元では李氏と並ぶかなりの大豪族(大姓)だったそうで、
王甫の他にも
劉焉〜劉璋時代には王商(王甫の族兄)が、
王甫と同じ頃(蜀建国期)の人物としては王士(王甫の従兄)が、
蜀〜晋の時代にかけては
王彭(王商の子)や王祐(王甫の子)、
王化、王振、王岱、王崇(皆、王彭の子。五人兄弟だったらしいが四男は名が分からない)
とかなり多く人物が『三国志』や『華陽国志』に名を留めています。
皆、有能だったり高名だったりしたようです。
特に王商は劉焉の部下の中でもかなり高名な人物で、
趙イとともに劉璋擁立にも関わったほどの大物だったそうです。
>201-202、王泰明様。
当時の蜀漢で北伐賛成派ってのは姜維以外だと誰なんでしょう?
かなりマイナーですが、戦死している王嗣とかくらいですかねぇ。
張翼、廖化は従軍してますが、決して賛成ではないようですし。
姜維独りで、あれだけの軍事行動を続けたというのは不可能でしょうから。
反北伐派は陳祗以下、閻宇、諸葛膽ら成都の主だった廷臣連中でしょうけど。
当時の廷臣のほとんどは、姜維の人となりは尊敬するけど、政策(北伐)には困ったもんだ。替わってもらいたいが他に人物がいない。
黄皓が権力持つのは憎むべきであるが、戦争反対ってのには賛成で、一概に排斥出来ない(する力もないが)。
まとまりがないですねぇ。滅ぼしてくれ、って言ってるようなもんですね(笑)。
王甫、季漢輔臣賛の評価が高いですね。なんか、ホウ統を彷彿させます。
夷陵で亡くならなかったらどうだったんでしょうか。
諸葛亮を補佐して活躍したかもしれませんね。
あと、黄権も無事帰国出来ていれば、あるいは、諸葛亮の北伐も随分違った展開になっていたかもしれませんね。
>>64 後期の北伐については姜維だけの意志では難しいと思いますね
仮に姜維が漢中を掌握してたとしても劉禅の賛成が無くては無理ですし
そう考えると姜維以外の北伐賛成者は劉禅と考えるのが自然かもしれません
北伐再開については劉禅も賛成だったとは思いますがその後もずっと続ける事に果たして乗り気だったのかどうかは疑わしい気もします
それでも北伐を続けるのは単なる反逆ですし、漢中の権限が皇帝に並ぶものだったのでしょうか?
実は劉禅もやる気満々だったのでしょうか?
それとも皇帝に権限が無かったのでしょうか?
劉禅については何処にもほとんど書かれてないのでわからないです、正史を書いたのが蜀の陳寿だったからというのならば破り捨てられたっていう他の史書も残ってれば良かったのにとも思ってしまいます
反対しながらも彼らの心中には諸葛亮の遺志が残っていたに違いない。
>205、206様。
劉禅については、諸葛亮の死後ですと、238年に蒋エンが漢中に出征した際の詔勅を読むと、北伐の意思があったようです。
ただ、劉禅の積極的な意向かと言うと疑問ですが。諸葛亮の時も、諸葛亮の意向に沿った詔勅を出してますし、蒋エンの場合も同様かもしれません。
241年になると、蒋エン自身の病と、作戦に対する朝議の反対から、攻勢から守勢に基本方針を変えたようです。
費緯、姜維がその旨を伝えてます。成都の留守を預かる費緯からすると、いつまでも前線に大軍を駐留させておくのは財政的に避けたかったのかもしれませんね。
以後、費緯の死去後まで大規模な軍事行動は控えるようになります。
劉禅自身は、時の国政執行者の意向に沿って、政治を行うというのが基本姿勢だったのでしょう。
信頼して任せたと言うより、どこかの国の首相のように「丸投げ」ってのがホントのところのようですが(笑)。
ま、とにかく蒋エン・費緯の頃は「彼らが遠くに駐屯していても、国の恩賞、刑罰はすべて彼らに諮問して決定された」とあるように、政治・軍事が一体化(当然ですが)していました。
姜維の時代となると、ほぼ連年出征しており、姜維自身も国政を省みなかったので、成都の世論と乖離してしまったようですね。
今晩は。時間があまりないので少しだけ
>当時の蜀漢の北伐賛成派
強いて言うなら夏侯覇ですか。
王平も生前は北伐賛成派(というより蒋エン派)だったようですね。
・・・姜維も含めて魏からの投降者ばっかり(苦笑
唯一例外は張嶷くらいですか。
益州出身者で自分から北伐に行きたいといったのは彼くらいでしょう。
ただ蜀の建国(というか彼らの主張では継承)の理由からすれば
魏を攻めることは国是です。
もっと言うなら魏を攻めて中原を回復しないと
国の存在意義がない訳で、守勢派より北伐派の方が
大義名分を掲げやすかったのは確かではないでしょうか。
>破り捨てられたっていう他の史書
夏侯湛が陳寿の『三国志』を読んで、その素晴らしさのあまり、
恥ずかしくなって自分の書きかけていた『魏書』を破り捨てた、
という逸話のことでしょうか?(夏侯湛については前スレ
>>549をご参照ください)
書名からお分かりとは思いますが、魏を中心に書いた史書のはずですので、
それが現存しても恐らくは蜀のことは詳しくは書いてはいなかったのではないかと思います。
蜀の歴史が記された本は『三国志』の他に『華陽国志』などもありますが、
それでも劉禅に関することがあまりはっきり残っていない点を考えると、
特に陳寿が意図して隠した訳ではないのではないでしょうか?
むしろ正統王朝を自称した割に史官を置かないといういい加減なことをしてくれた
劉備と諸葛亮にこそその責任者です(笑
どなたか沈友たんを語ってもらえませんか(ノД`)゜
>>209様
>>194様でしょうか?
申し訳ありません、蜀に比べて呉のことにはてんで疎いものでして(苦笑
遅くなりましたが沈友について。
文章、論議、剣技など文武両面に優れた逸材で、
孫権自ら礼を厚くして招聘し賓客とし、
期待に違わず様々に有意義な献策を行ったにも関わらず、
妥協を知らない態度が無能な人物たちに疎まれて讒言され、
孫権もいつか彼が命令に従わなくなるだろうと思ったため、
ついには処刑されてしまった人物ですよね?
彼の具体的な献策は「荊州を得るべき」
というものしか残っていないので彼の実力のほどは窺い知れませんが、
これほどまでに絶賛されているのを見ると、かなりの人物だったのでしょうね。
赤壁の四年前に二十九歳にして世を去った彼がその後も活躍を続けていたら
歴史はどのように流れを変えたのでしょうか。
>210、王泰明様。
沈友の>妥協を知らない態度が・・・・。
読んで思い出した人物がおりました。
李漢南です(笑)。
劉備に対し、劉璋の件を当てこすり、激怒させ、諸葛亮にも疎んぜられ、最後に劉禅に処刑された彼です。
時の権力者に嫌われながらも、建為太守・丞相参軍・安漢将軍と言う高官に昇ってます。
かなり不思議な人物ですが、単なる変わりモノだったのでしょうか?
>>211=64様
>李漢南
李バクですか・・・・
「単なる変わり者」説を推します(笑
彼の場合、出世出来た理由としては
まずその出身だと思います。
>>202の王甫のところで挙げましたが、
彼の家、広漢郡シ県の李氏は王氏と並ぶ大豪族です。
優遇されてしかるべき家の出身だった訳です。
第二点として彼の兄弟、李朝や李邵の存在があります。
李朝は別駕従事、李邵は治中従事が最終官位で、
李バクと比べると随分低い官位ですが
これは二人が才能を嘱望されつつも李朝は222年に、李邵は225年に
李バクより十年ほども早く、若くして亡くなったためです。
もしかしすると彼らの分まで李バクが引き立てられた面があるのかもしれませんね。
特に李邵は諸葛亮が南征の留守を託す程に信頼していた人物ですし。
こう考えると彼がそこそこ高位の官位に就いているのは不自然ではないと思います。
212、王泰明様。
変わり者ですかね、やっぱり。
あそこまで言っちゃう人ってある意味貴重かと(笑)。
当時の人々が心の奥で感じてるコトを言葉にしちゃった人物の様な・・・。
「そりゃそうだけど、それは言わない約束でしょ!?」みたいな(笑)。
李兄弟は名族ですね。
優秀な二人の兄弟がいたので、引き立てられたのもあるでしょうし、兄弟並みの優秀さを期待されてもいたんでしょうね。
マイナーという枠は外れるでしょうが、王累の詳しい伝等ありませぬでしょうか。
無知なる私に、教えていただけませぬか。
おや?ずいぶん寂しくなったな。
>214
王累ですか・・。
正史・劉二牧伝に「劉璋が劉備を益州に迎え入れる時、従事の広漢の王累は自ら州門に身体を逆さづりにして諌めた」ってあるくらい。
華陽国志も、蜀の立派に人物ってんで記述があるけど内容は同じ。
ただ、華陽国志だと、広漢郡新都県の人ってあるんで、広漢の王氏でも、王甫や王士の様な名門の王氏ではないと思うよ。
自分が知ってるのはそんなトコ、ってか皆さん知ってる範囲だろうけども。
216 :
牛尾 幸清:03/08/30 11:18
再びやってきました。「孫十(喩ーロ十王)そんゆ」って、どんな人?知ってる人がいたら、素性を教えてくれませんか?
217 :
牛尾 幸清:03/08/30 11:20
あと、満寵も。
つまり孫瑜のことか?
孫瑜はいいとしても満寵は活躍した人じゃない?
それよりも孫静の事がまったく分からない
孫堅の兄で孫瑜の親父って事ぐらい
充分分かってる方だよ。<孫静
周倉は謎だな。
丸分かりだよ。<周倉
周倉は演義の創作だし
モデルはいたかも知れないが
孫静とその子孫たちは呉でずいぶんと活躍したし、
全体的に見ても孫一族はなかなか優秀な人物が多かったと思う。
ご無沙汰です。
>王累
補足すると『華陽国志』には王累の記事が
劉二牧志と先賢士女総讃論の二箇所にあります。
二箇所とも劉璋を諫めたが聞き入れられなかったという
ほぼ同じ記述ですが、
先賢士女総讃論の方はその後に
「州門において自ら首をはねた」(乃自刎州門)という記述があります。
「演義」で王累は城門から逆さづりになり、
自ら縄を切って墜落死してしまいますが
これは『三国志』の逆さづりの記述と『華陽国志』の自刎の記述を
合成したものなのかも知れませんね。
>孫瑜(177〜215)
字は仲異。孫堅の弟、孫静の次男で、孫策・孫権とは従兄弟になります。
恭義校尉、丹陽太守・綏遠将軍、奮武将軍を歴任しました。
己を虚しくして人を鄭重にもてなしたため、
幕客や部将たちに人望があったと言います。
206年に周瑜とともに山越族の麻・保の二屯を攻略、
212年の濡須での戦いでは孫権に自重するよう進言するなど優れた軍略家であり、
周瑜の益州侵攻計画においても周瑜とともに入蜀する予定でした。
(周瑜の死と劉備の協力拒否で頓挫してしまいましたが)
また盧江郡と九江郡が孫権の勢力となるのには
彼の任命した饒助と顔連という二人の県長の働きが大きかったそうで、
人物を見る目も確かだったようです。
加えて彼は古典の愛好家で、遠征の陣中でも書物を誦じない日はなかったそうです。
馬普という古典に通じた学者を礼遇し、
配下の部将や官吏の子弟、数百人を馬普の下で学問に励ませたと言います。
建安二十年(215)に三十九歳で亡くなりました。
>満寵(?〜242)
字は伯寧。山陽郡昌邑の人です。
郡の督郵として豪族の李朔や同僚の張苞の不正を取り締まり、名を上げました。
後、曹操に召しだされ、エン州の従事、大将軍府の西曹属を務めた後、
許県の令となり厳しい取締りを行いました。
その後は汝南太守として袁家の門生故吏による後方撹乱を防ぎ、
行奮威将軍・汝南太守として関羽による樊城攻囲を曹仁とともに見事に乗り切った後、
揚武将軍として江陵包囲に参加し、軍功から伏波将軍となり、以後は対呉前線で活躍します。
汝南太守や豫州刺史を兼ねつつ前将軍を、
曹休の死後は更に都督揚州諸郡事として鎮東将軍を務め、
景初二年(238)に老年を理由に召還されて大尉となるまで、
二十年弱に渡り幾度と無く呉を破り多大な戦果を挙げました。
(対呉の戦いは多すぎて書ききれないので省略させて頂きます)
正始三年(242)に亡くなりました。
蜀とほとんど関わらなかったために「演義」では扱いが小さく、
そのためにマイナー扱いですが、
魏に置ける対呉戦線の総責任者であり、紛れも無い名将ですね。
呉にとっては張遼亡き後一番イヤ〜な存在だったに違いないと思います。
>孫静とその子孫
彼の場合、出仕を好まなかったようですから、
記録があまりないのも致し方ないと思います。
彼の子孫に孫瑜や孫皎を始めとして優秀な人物が多いという点は同感です。
ただ孫峻と孫綝は頂け無いなぁ、と思ってしまいます(笑
王泰明様、ごくろうさまです。
満寵は合肥城を移転したのが大きな功績ですね。新城になってからは、呉は負けっぱなし
で・・・呉にとっては本当にイヤ〜な存在ですね。
多すぎて書ききれないと書かれると気になるw
そんな読みたいなら本買ったらどうか?
何せ半端ない量で、読むのも一苦労。書くのはその10倍疲れる。
>>215殿、王秦明殿
ありがとうございました。三国志の時代で自刎で主を諌める士等、
そうは見なかったと思ったものでして、惜しむらくは劉備に従っていれば、
夷凌も防いでくれたのでは・・と妄想しておるのですわ。
225-228、王泰明様、ご苦労様です。
お次はどの人物を挙げましょうか。
マイナー系・・・・。ではないかもしれませんが、董蕨などどうでしょう。
諸葛亮の下級幕僚から、最終的には宰相級まで昇っています。
しかも、最後の同僚が諸葛亮の息子の諸葛膽。
ある意味、蜀漢内での諸葛亮父子の特異な地位を際立たせる存在とも言えます。
諸葛亮伝に附伝があるのみですが、行政府の要職である、尚書僕射をかなりの年月(おそらく10年以上)勤めており、諸葛亮死後の蜀漢官僚機構の最重要人物であったと思われます。
諸葛亮にも「良史」と讃えられていますが、董允の様に朝廷を矯正できませんでした。
この人物について語って行きましょう。
ところで、王秦明ってだれ?
霹靂火?
そんな多いのか・・・調べてみよう。
王秦明とは、たしか『水滸伝』の108人のうちのひとりではなかった?
>>236 >>234の「秦明」(アダナ霹靂火)です。
王泰明氏とは違うようですな。(秦←→泰)
ワタシも「王泰明」は知りません。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/06 15:16
季漢輔臣賛を見てみると、張存のところで計策を立てたと書かれています。
彼は、荊州従事から広漢太守になった人物で、
(当事の太守達、張飛・法正・孟達・李厳・劉えん・霍峻・輔匡・劉よう)
事跡がないですが、荊州・益州をとるのに功績のあった、法正のようなタイ
プの人物と考えます。
>>237 そうであったか…わざわざ、すまなんだ。
保守
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/20 19:56
保守あげ
242 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 14:43
陳祗についてはどうですか?
演義にもゲームにも登場していませんが、黄皓の登用とかを見ると蜀滅亡の最大の戦犯って気がしますが。
>>242 tp://www009.upp.so-net.ne.jp/to-genkyou/sankoram6.html
ここなんてどうよ
黄皓の存在によって国が滅んだと考える発想が(ry
>>244 彼も、俺も、君も、最初はそんなモンだよ
246 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/22 07:14
>242
黄皓の昇進は陳祗の死去年の258年以降なんだよ。
陳祗自身は、許靖の兄の孫で、若い時から有名だったらしい(当たり前だが)。
おそらく許靖の七光りで中央官僚の道へ。
占いから事務処理まで出来たので、時の大将軍費イに気に入られ、トントン拍子に出世し董允の死去後、序列を超えて侍中に。
呂ガイの死去後には守尚書令になり、鎮軍将軍を加えられる。侍中に就任以後、後主に寵愛され、黄皓とも上手くやったので姜維より官位は低かったが、朝廷での発言力は大きかった。
258年に死去し、特別に「忠侯」と追贈された。(ちなみに死去後に「〜侯」って追贈されたのは法正、諸葛亮、ショウエン・費イのみ)
で、黄皓なんだけど陳祗の死後に黄門令から中常侍・奉車都尉になったとある。
ある意味、陳祗が黄皓の重しになっていた感もあるような気がする。
蜀漢の滅亡の最大の戦犯は黄皓だ、って意見が演義の影響で多いのだけど、実際、黄皓の悪事ってのは具体的なモノは少ない。
羅権を左遷したコト、蜀漢滅亡時、姜維の援軍要請に対し、巫女の言葉を信用し援軍を派遣しないように進言をした事(これも実際に採用されたか不明)。
明確なのはこれくらいで、後漢の中常侍などと比べると可愛いモノ。
後漢後期から続く、清流派の官僚からすると、宦官と言うのは唾棄すべき存在で、その宦官が少しでも権力を持つと、凄まじい拒否反応をしてしまうの常。
色々な事が関係したんだろうけど、蜀漢滅亡の最大の責任者は、戦争を繰り返した姜維だろう。
>>246 >ちなみに死去後に「〜侯」って追贈されたのは法正、諸葛亮、
>ショウエン・費イのみ
正確には歿後まもなく、になるんではない?
幽州時代から劉備に付き従ってるのって簡雍ぐらい?
劉王炎もかな。他にはいませんか?
249 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/22 18:46
>247
そうそう。死去直後って書きたかった。すまんね。
>248
劉備、挙兵(って表現が正しいか不明だが)時からの人材は関・張、簡雍ぐらいだね。
趙雲は正史だと、劉備が徐州に向かった頃の193,4年だけど、別伝だと袁紹の庇護下にあった頃の199年前後。
劉エンは劉備が予州牧の地位にあった頃の194年以降に臣従してるね。陳到も同様。
孫乾等は徐州刺史の時に招致してる模様。
後年の有名な家臣連中のほとんどは荊州を得てからの人材だね。
>>248 一つの可能性として、士仁が幽州時代からの人物やも知れません
士仁の出身は、幽州の広陽郡(燕国)で、劉備の出身地であるタク郡に非常に近い場所です
士仁も呉に行ってしまわなければ季漢輔臣賛くらいには記述が残ったかもしれんのに。
今じゃどんな奴だったかもよくわからんな。
士仁たん、
1 幽州出身
2 要地公安の守将
この2つから劉備旗揚げ前後からの生え抜きと考えますねぇ。
幽州出身なだけでは怪しいですが、
公安に駐屯していたのを見るとそれなりの人物ではないかと。
もう真実は分かりようがないですけどね。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 09:42
>>246 でもそれだけの要人が出てきていないコーエーの「三国志」ってどうよ!!
肥の中で、ちくま読んだ香具師なんて数えるほどなんだろ
>>254 正確には「正史」な。
でも、”ちくま”の「正史」は誤記もあるしな…。
有名どころでは、顧雍の生年を10年誤ってるし、
コーエーもそれを鵜呑みにしてるからたまらない。
子の顧邵との年齢差でおかしいと感じて、原文で
確認したけどね……コーエー駄目ぽ…
粋がりたいのは構わないが、 何を今更。
ん? べつに粋がってなどいないよ。
随分と前の話なんだし。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 16:43
>>251 季漢輔臣賛読んでないだろこのシッタカ君め
>>258 そういうのってどこに売ってるのか教えていただきたいんですが・・
卞喜が好きだと思われ…
262 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/23 18:43
時代が時代だからなあ・・・。
若き馬超をぶちのめした閻行は外出ですか?
(過去ログ読めないもんで…)
それと、呂布軍を撃破したという李進も気になります。
たった一ヶ所にしか出てこないけど、そのたった一ヶ所の記述の内容が呂布軍撃破。すごい。
他の文献には出てきませんか?
その割にゃ正史にしか出ないのもいるよな。どっちつかずで中途半端。
>>264 確認してみたが、武帝紀にしか出てこないようだ。まあ、破ったといっても敗残の軍勢の状態だから
たいしたことはないという気もするが
>>266 あれ?そうなのか。最近のはやってないからなー。
少なくとも昔は演義準拠ですって言ってたよな。
>264
それだけ当時の豪族の力は強かったというわけで
そー言えば前々から気になってた事だけど、ちくま本の人名索引では本来二人いるはずの陳表が一人としてカウントされてるね。
どちらも孫家に仕えたから混乱するのも無理ないけど。
孫策の幕僚だったが若死にした陳表と、
孫登の、いわゆる“太子四友”の一員である陳表と。
曹叡伝より
「郭淮が軍を二手に分けて、蜀の陰平太守廖惇を攻撃させた際、軍を分けないよう指示した(郭淮の派遣した軍は廖惇に敗れた) 」
238年の9月らしいんですけど、この『廖惇』なる人物は、廖淳(=廖化)のことなんですかね??
272 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/26 19:57
>271
廖淳=廖化ですよ。
いつごろ改名したのかは不明だけど。
陳寿の親父の陳式と呉の陳式って同じ香具師?
陳式が陳寿の父親というのが演義の創作。
初出は演義じゃねぇよ
276 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 14:50
そもそも活躍年代があっていない。
このままおちたりしないよな?
次は誰を語るべきか誰かネタ振ってください
このままこの良スレを落としてしまうのはしのびないよね?
だから色々ネタふってるじゃんかよ
280 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/10 16:25
281 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/10 18:15
じゃあ、費観についてお願いできますか?
人付き合いが上手かったらしいけど。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 22:25
>281
費観ねぇ。
劉璋の母が族姑で、その上劉璋の娘を娶ってる。
似たような経歴(娘は娶ってないし、一世代下だけど)の持ち主の費イも同じく、江夏郡・ボウ県出身だから同族だろうね。
江夏の費一族は揃って益州に移住したのかもしれない。
李厳に従って劉備と綿竹で戦ったけど、李厳と共に降伏。劉備が益州を平定するとヒ将軍に任官。
その後、巴郡太守・江州都督になる。223年には都亭侯・振威将軍を加えられる。
当時、李厳は自尊心が強く、護軍の輔匡らが李厳に次ぐ年齢・閲歴であったにもかかわらず彼らを近づけさせない厳しさがあったが、費観だけは李厳より20歳余り年下であったのにタメ口を聞いてたと。
で、37歳で死去。
こんな感じかな。
分かるコトは190年前後の生年ってことかな。
費イより世代的には上のはずだけど、年齢的には近いかもしれない。
その割に若くしてかなり出世してる。
190年前後の生まれだと仮定すると223年には33〜35歳ほど。その時の官位が都亭侯。これは魏延と同じ官爵。
魏延の年齢は当時、40代後半だから、比較するとかなりの出世だってのが分かる。しかも魏延自身、出世は早い人間だし。
蜀漢国内ではかなり重要視された人物ではないかな?
江州都督っていう重要ポストも任されているしね。
>>282 サンクスです。早世が惜しまれる人物ですね。ただ、李厳と親密だったのは
どこかで付き合いがあったのではないか?と感じました。ていうか、30代
で劉備に抜擢され、それだけの出世と言うのはかなり有能だったのでは?
江州都督と言うと・・・・趙雲や陳到が哀れになってきた気が。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/11 23:20
>283
有能だったって言うよりも、おそらく一門が荊州から移住して来ており、荊州閥中心の蜀漢政権にとって、自身より先行して入蜀し、影響力を持っている費一族の代表として厚遇したんだと思うよ。
交際上手、ってのも能力の一部だとすれば有能だと言えるしね。
李厳との関係で言うと、李厳が曹操の荊州平定後に蜀入りした際に費観を通して劉璋に取り成してもらった可能性はあるね。
李厳自身は劉表時代に郡県の長を歴任した、ってあるからボウ県の費氏とも交流があったのかも。
資料的には全くソースは無いのだけど(笑)。
趙雲は鎮東、陳到は征西将軍(個人的には鎮西将軍まで昇進したと思う)。彼らの出自を考えると相当な出世だと思う。
当時は出自=官位の高下だから。三国時代が戦乱期であったとしても、出自が定かでない者が出世するのは難しいと思う。
特に各勢力が国家体制を整えて来るとね。そういう意味では趙雲や陳到、魏延は関羽・張飛のように劉備と特別な関係に無かったにも係わらず、武功一筋でよく昇進したと思うよ。
忠義・武功が際立っていた証拠じゃないかな。
最近、長文が多くて老体には辛いね・・・
長文マンセーなんですが…
287 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 22:05
保守
288 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 07:38
陳到は予州時代に劉備に仕えたとあるが、陶謙に徐州を譲られる前の刺史時代? それとも曹操に牧に任じられた後?
289 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 18:34
>288
そりゃ不明だねぇ。
もう一つの可能性として、陳到が汝南出身なんで、官渡の戦いの頃に出仕したかもね。
当時、劉備は汝南にいたし。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 09:04
>>289 俺は予州刺史の時だと思っている。
当事は数万の兵を率いる力があった郭貢がいたんだろうけど
陶謙の影響力が、陳到の汝南・陳群の穎川・劉エンの魯と
沛にあったんじゃないかと。
ほっしゅ
293 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 10:19
>>268 最近は正史準拠で演義登場人物はその設定を尊重って感じじゃないのかな。
まったり
ほしゅ
呉や魏には簡雍みたいな興味深い人物はいなかったのかな?
呉なら張昭か虞翻
魏なら楊修かな、簡雍に似たイメージの人物は
>>296 楊修?詳細きぼん
「けいろく」で斬られたお人でしょ?
張昭と孫権の関係は知ってるけど虞翻はあまり知らないな
いや、単に口が達者そうな人物あげてみただけw
楊修はかの楊震の玄孫。
父は董卓政権下で三公等になっていた楊彪。
母は袁術の姉妹だったようです。
楊修は孝廉に挙げられ郎中となると、
丞相曹操が倉曹属主簿に任命。優れた能力を示したとのことです。
例の「K6」は実際には処刑の原因ではなかったようですが、
その才能が忌まれたのと、より具体的には曹植と一緒に飲んで曹彰を誹謗したことで
殺されたそうです。
いまだあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
300げとーーーーー!!!
ってここ過疎板だから
マターリ取れちゃうね(´∀`)
301取るのも、こんなにカンタンですから
302 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/25 21:31
虞翻は「易」の大家として後世に有名。
へぇー
「孫乾、糜竺などは白面の一書生。大事にはあたれますまい」
孫乾・簡雍は外交担当・糜竺はスポンサー。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 21:51
北海郡の孫氏。
孫乾・孫邵・孫賓碩・高密県の親分・孫朗(高密県出身、157年司空)
さっき応劭が漢の刑法を整理したことを初めて知った。
エライな応劭。
こんなスレがあったのか。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 15:49
>>302 鐘繇は書家として名を残した。また「千字文」を彼の著作とする伝説もある。
>>305 孫邵って呉の最初の丞相だったよな。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 19:29
「魏書」は中盤にさしかかってからも興味深い人物が多い。
盧毓、傅嘏、杜襲、杜畿、楊阜、高堂隆、高柔あたりが好き。
軍事一辺倒で事績を残した人物よりも、自分には魅力的なんだよなぁ……
応劭を称えてやってくれ
312 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 21:08
今年いちばんのり〜!
つうか簡雍っていつ頃死んだか分かるの?
何か益州に入って、大分落ち着いてきた辺りで死んだ、
とか何かで読んだけど、それっと本当?
>>313 わかんない。ので、それはおそらくその読んだ「何か」を書いた人の創作。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 23:58
>313
劉備の益州獲得時、最終的に劉璋を説得したのが簡雍なので、214年頃には生存してたのは確か。
その後、219年に劉備が漢中王になった時の上奏文に名前が出てないので、その頃には死去していたと思われる。
現役引退してた可能性も若干あるけどね。
でも、官位とかは終身制だろうから、214年頃〜219年の間に亡くなった、って考えるのが普通かな。
ちなみに孫乾も似た感じだね。
しかし二十日以上もこんな決まりきったツッコミがないとは(´・ω・`)
語りつくされたのか人がいないのか。この板初心者にはつまらん
>302さん
虞翻の易学は、後世では一時期中絶していました。彼の易の解釈は「漢易」(象数易・五行易)と呼ばれる
複雑なものだったわけですが、王粲の一族に当たる王弼により「易経の本質を忘れ瑣末な議論に陥っている」
とされ、虞翻の易学は清の時代に復興されるまで断絶していたようです。
なお五行易に関しては専門家の方がわかりやすく解説されているページを発見したので
URLを張っておきます。
ttp://www.touyou-unseigakkai.com/unseigaku/19/
おう、しょうですか
とかいって欲しいんだろ
321 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 11:10
>>315 生きていたら、「長年仕えていた」という理由で蜀の高官になっていただろうが。
俺も同意見。簡雍に息子がいたりそれに準ずる者(許靖→陳祗)みたいな者がいれば、劉禅の代に史書に出てくるなり爵位が貰えたりすると思われる。
諸葛亮すら如何ともし難い程の近臣である簡雍が失脚するとは思えないし、したらしたで大事件の筈。
だから219年頃に病没して子供を遺さずに断絶したと思う。
でも、俺的には呉討伐直前に見舞いに来た劉備に簡雍がそこはかとなく軽挙を諫める遺言を遺して息を引き取るみたいなシーンが欲しかったのだが。
みんな応劭を称えないので自分でやるよ。
このスレ活性化のためにも。
応劭、字仲遠
汝南の人。漢の司隷校尉応奉の子。
「少くして学に篤く、博覧多聞なり」とされる。
霊帝の時に孝廉に挙げられ車騎将軍何(朱)苗の掾となる。
後に泰山太守となり、黄巾30万を破る功績があったという。
避難してくる曹操の父曹嵩を保護することになっていたが、
ご存知のように陶謙部下が曹嵩を殺したので、
応劭は曹操に殺される事を恐れて袁紹の元に逃げた。
その後袁紹の軍謀校尉となり、業βで死亡。
中国史上では「漢儀」(漢官儀)「風俗通」などの編者、「漢書」集解(「漢書」の注釈)
などで知られる。
また漢の刑法典を整理したという。
曹嵩、曹操との絡みで三国演義(第10回)でも登場するのだが、
どうも三国志ファンの間での知名度が低いような気がする。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 12:39
>>322 刑法典なら俺的には魏末・晋初の劉頌(子稚?〜300)の方が気になるが、「晋書」もちょっと簡略すぎ。
新武将設定をするなら生年をどこへ持っていけばいいのやら。
>>323 征蜀の頃に孝廉・秀才に挙げられたらしいから、その頃20代前半ってことでどう?
>>321 病で現役を退いたけど、なんとか生きてて劉備の呉親征の時に諫言をして世を去る……
なんて言うのなら多少は望みが……無いか、無いよな。
無いな
327 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 18:27
>321、325
あの性格だと、段々組織だってく劉備の集団にいるのが息苦しくて「仙人になる修行でもすらぁ」とか言って隠遁、って感じが合いそうな気がする。
仙人といえば諸葛果タン
ほしゅ
振れるネタのない己の口惜しさよ_| ̄|○
臧覇ってかなり軍才あったらしいけど実際どんな事したのかよく知らない
調べようにも正史紛失するし金ないし、誰か教えて下さい
あと出来れば蒋済もキボン
補完中
334 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 15:31
李豊って3人いるけど、コーエーでは全員揃ったことは無い。
初期…袁術配下(W以後出ない)
中期…李厳の息子
最近…魏の奴も登場
335 :
無名将軍@お腹せっぷく:04/02/08 16:43
思うに簡雍って劉備より年上だったんじゃないですか?
主従関係を犯さぬよう義兄弟やら寝食を共にするというようなことはしなかっただけで、
孔明以前は常に肝心なところでの相談役として機能してたのでは?
既出ですかな?
>>335 年上云々の話題は初出だと思います。
ただ、相談役としての機能に関する話は出ていたかと。
自分は、彼は入蜀後まで常に側近として劉備とともにあった人間だと思っていますが。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 18:42
隠れた逸材じゃあないけど、費イ。
蜀漢滅亡の直接的原因を作ったのは姜維だと思うのだけど、費イの時に国家としてのタガが緩んだような気がする。
費イの性格に裏表があるような感じが・・・。
魏延の敗死や楊儀の自噴も費イが絡んでるしねぇ。
費イの時代に大赦が多くなってるし、黄皓とつるんだ陳祗を抜擢したのも彼だ。
劉禅の信頼をいいことに、結構好き勝手にやってた、って感があるんだよねぇ。生存中の政策は正しかったとは思うが。
彼が暗殺された時、おそらく50代半ば。ボロが出ないうちに死んだ、って感じがするんだが。
簡雍って蜀志の楊戯伝の 誰々を讃う って書物に名前載ってたっけ?
確か載ってなかった気がするんだけど…
旗揚げ当初から幕下にいるなら載っててもいいような気がするんだけど…
手元に正史がないんですみません
>>337 費イを殺した郭脩(演義では郭循)も謎が多いな
名士だったらしいのに刺客に成り下がるとは・・
時間管理の達人って感じだとどこかで読んだな。
>>340 関羽と張飛は旗揚げ当時からの功臣うんぬん って一緒に書いてある
そこに一緒に書いてあっても良いのでは?
もしかして簡雍は、弟子と言うか、召使のようなやつなのかも
でも劉璋への降伏勧告があるし・・・
因みに簡雍と同等の待遇を受けた孫乾も輔臣賛に出てないね。
>>343 んなこたないと思うが。散逸してしまっていたか、楊戯が知らなかっただけ
か、はたまた知ってて記述する程の人物ではないと判断したのか。
しかしすげーな。
このスレの既存の文献の行間を読む感じは結構好きだ
大変なのは解かるが陰ながら応援してるぜ ノシ
346 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 00:03
>338、340、343、344
219年に劉備が漢中王になる前後、蜀が国家としての体裁を整えだした頃から後に活躍した人物を載せた、って感じだね。
簡雍と孫乾は、おそらく劉備が漢中王になる前に死去してたようだから。
強いて例外って言うと、関羽と法正だろうけど、この2人は218〜219年に大活躍してるからかな。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 21:13
348 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 20:59
孫乾・簡雍以外にも、伊籍・劉エン・ホウ羲・射援・陳震・劉封
等もあってもいいような。
例えば、呉に孫邵の例があるけど、楊戯の属していたグループに
対する反対勢力の人物は載せなかったというのがあったりして。
前の6人の子供がわからないのは、権力から遠ざけられたため?
349 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 18:56
>>339 魏にいた頃はそれなりの名士だったらしいが。
∩___∩
| ノ ヽ
/ |
| ● ● | いただくクマ──!!
| ( _●_) ミ
彡.__ |∪| 、`\
/ |・∀・|ヽノ /´> )
(___) / (_/
| |__| /
| | | \ \
趙韙と龐羲についての記録の少なさが嘆かわしい
353 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 10:25
354 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 14:33
>>339 費禕を殺す事で魏に遺された家族の安全を図ろうとしたのでは?
現に魏では大喜びで陳泰の反対を無視して重く取り立てたらしいから。
>>354 その辺り、馬岱スレの初代スレでかなり詳しく語られていたな
>>354-355 ( ・∀・)ノシ∩ ガッテンガッテンガッテン
さんくす。調べてみまつ。
関係ない人間だけど、調べちゃったので一応載せておこう。
61 名前:郭循[] 投稿日:2001/01/10(水) 18:41
郭循は、三少帝紀・張嶷傳・諸葛恪傳注では郭脩。魏の中郎将だったが、姜維の
侵略にあってやむなく降伏、でも雑魚だったので本国から何の咎めも受けず、
それを悔しく思い、派手な手柄を狙って費偉を暗殺。その後の生死は不明だが
『通傳』に魏が招魂祭でもってこれを祭ったことが出ているので、少なくとも
魏の勢力圏内では死んでいないらしい。
その功績で魏の曹芳によって長楽郷侯、食邑千戸に封じられ、謚は威侯。
子は爵位を継ぐことを許され、奉車都尉となり、銀千枚、絹千匹を下賜された。
なお、『晋書』に傳は無い。
>>357 !Σ(´・ω・`)b ぐっじょぶ。調べる手間がはぶけた
359 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 08:27
同じ巻の列伝にまとめられる人ってだいたい同じ様な功績を残した人でしょ?(董ニ袁劉伝とか、関張馬黄趙伝とか)
でも、許靖、糜竺、孫乾、簡雍、伊籍、秦[宀必]が同じ巻でまとめられてるのは何故?共通点とかあんまりなさそうだけど。。。
只単に諸葛亮、法正、ホウ統以外の文官ってこと?
>>359 劉備挙兵当初から比較的はやい時期に幕下に加わった人物なせいでは?
許靖に関しては、蜀で唯一の司徒であり、内実は別としても名声では士大夫の
中で抜きんでていたせいもあるのでは?
「文官」って認識は誤解を生むから捨てた方がいい。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 19:05
簡雍って戦闘力低くないか?
義勇軍時代から蜀平定までの劉備軍の苦難の歴史を考えると40台はあってもいい気がするが。
>359
政治的な面は薄いけれど、蜀漢において学識や名声があって、社会的な影響力があった人物の列伝って事でないのかな。
学者連中も別の巻に纏められてるし。
>>359 漢中王になった前後の重鎮でない?
もちろん、諸葛亮以下3人は抜きで。
>>360 文官って言い方は自分でもどうかと思ったけど、他言い換えれなかったです。実際文官とか武将とか関係ないんですよね。トウ芝は呉に使者としていってるし、第一次北伐で陽動作戦で趙雲と一緒に出陣してるし。
>>362 簡雍って名声あったんですかね?劉備と同郷って事は、劉備のヤクザ仲間の一人だと思うんですが。劉璋に降伏勧告できたって事は有能って事で載ったんでしょうか。
秦[宀必]は学者連中と一緒じゃなくてこっちに纏められたのは何故?
>>363 漢中王になったとき孫乾や簡雍って生きてたっけ?
あ、あと劉備が糜竺の姉妹と結婚したのは、劉備が徐州で名声のあった糜竺と婚姻関係を結んで徐州支配を安定させようとしたから?
>359=364
蜀漢内で名声があれば充分でないのかな。
建国者と同郷で、一番最初から付き従った、ってのは蜀漢国内では凄いヤツで通るでしょ。
劉璋を説得したのも大したもんだし。
秦ミツは益州の大学者でもあるけど、劉備の東征を諌めて投獄されちゃうような面もあって、ただの学者って範疇にはいらない、って事じゃない?
伝の最後の評を読むと、この6人は周りはどうあれ、自分の意見を堂々と言える人物って事で一緒になった感じだ。
糜竺の妹と結婚したのは、呂布に徐州を奪われて妻子も捕虜になって非常にキツイ状況の時。
その時に糜家の下僕2000人を兵隊として供給してる。劉備から糜家に近づいたと言うより、糜竺が助けてやった、って感じだな。
この時の恩から、その後も劉備の友人筆頭みたいな待遇になったんだろう。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 21:03
>366
いや、糜竺自身は人を率いるのが不得意だったようで、兵員を提供しても指揮は執れないだろうから、麋竺軍ってことにはならんだろうね。
軍資も相当提供した様だから、スポンサーみたいな感じかな。
>367
ほう、でも個人的な武略はあったんだよな?
いいとこのぼっちゃんだから、子供の頃から武芸の師匠を招いてたんだろうな
370 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/28 12:02
たまたま斎藤道三の小説を読んでいて
麋竺って、野心のない道三って思った。
>368
正史に「弓と馬が達者で、巧みに射、御した」ってあるんで、武略ってよか、武芸が達者だったのかと。
李通ってどんな人かわかります?
>>374 江夏の出身で、当地では名を知られた存在。
同地で挙兵し、曹操の南陽(張繍)討伐の際に従属し、張繍撃破に功績が
あり、汝南郡・陽安都尉となる。
官渡の戦いの折には袁紹からの勧誘を趙儼の説得で拒絶し、同地の叛乱を
鎮圧。
赤壁の戦いの後、周瑜に攻囲された南郡を救援して後に歿。
奉邑は四百戸で、諡号は剛。
>>375 ありがとう。相当すごい人物なんだね。
そういえば蜀が滅亡したとき石碑かなにかに蜀のことを書いた人っているよね
その人の名前が李通だった気がするんだけど・・・
>>376を書いた後ちょっと調べてみたら李通って二人いました。
あと、石碑じゃなくて[言焦]周の肖像の頌辞でした。それを書いたのが
>>375さんの李通じゃないほうの李通でした。
陳寿が陳式の子って根拠は何かわかりますか?
判りません
380 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 20:16
まぁ呉蘭にはかなうまいて
ひ
やはり馬忠だな。
>>380 あるけど、父の名前は書いてない。
「父の喪に遭い…」という記述はあるけど。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 00:04
王平って魏の降将だけど益州人なんだよね。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 00:19
どんなに弱くても、
ゲームとかで「うあ、こいつ使えねー、斬首」
とか言われているヤツでも、
一応優れているから宮仕えができたわけで、
「使えねー、斬首」とか言ってるおれらよりも
よっぽど優秀なんだろうな・・・。
そう考えると曹豹を尊敬できる自分がなんだか謙虚になったように思えるw
人脈とか財力とか根回しとかに長けてるだけのヤツってのは現実にもいるもんだ
388 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/23 22:25
魏の暦「景初暦」を作った楊偉って正史に出ていますか?
ぐぐるのか?
検索するなら、中央研究院にしとけよ。
391 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/03 20:11
392 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/23 20:08
蜀は後漢の制度をそのまま流用したので、暦も魏・呉と一日ずれていたとも言われていますが、後漢と蜀の官職にも大差はなかったのでしょうか?
>>392 官制でいえば、蜀は魏よりもズレが多い気がする。
漢を継承した魏が前代のそれを踏襲するのはわかるけど、
蜀は何故なんだろうね。
>393
本気で聞いてるの?
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/07 10:36
救済age!
もうだめぽ。
もうだれもいねえしな。
>397
お前がいるじゃん。
って、俺もか・・・
俺もいるぞ
400 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:49
管亥
401 :
パンダゴリラ:
にゅる すぽ!