【官職】 漢の制度を語る 【政治】

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1怨霊
三国志を語る上で欠かせない政治制度などを語りましょう。
初心者の質問歓迎。
専門知識持った人の解説歓迎。
仲良くやっぺ、ってことで。

演義も制度を知ってから読むと印象が変わりますよ。
曹操とか董卓が就いたポストがどれだけ凄いのか、とかわかるので。
2無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 19:27
税制についておしえてちょうだい 
3怨霊:03/06/28 19:52
税の大きなものは2種類あります。
一つは田租。農作物の30分の1を上納します。
一つは算賦。人頭税です。一人当たり銭120枚(だったかな)を上納します。

これに労働力(庸役)と兵役があります。
庸役は城壁や橋みたいな社会資本を作るのに駆り出されます。
兵役は言うまでもありませんね。
漢では女子にさえ兵役相当の庸役があったらしいです。

ただしこれは前漢の話で、三国近くではこの制度自体は相当崩れていたようです。
理由は上記の税などが払えず逃げた者(これが「亡命」の本来の意味です)が増え、漢が把握できた人数が激減したためです。
その亡命者は豪族の私有地に逃げ込み、そこで農奴のようになって囲い込まれました。
三国時代に羽振りの良かった連中は大体こういった荘園を持っていたと思われます。

魏・呉・蜀とも政府としては税収入にならなくて困るので、なんとか亡命者を戻してまた税を払ってくれる民を増やそうと懸命でした。
4無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 20:01
魏は、牛を借りると6割の税金で、何も借りないと5割の税金と聞いたことがある。うろおぼえスマソ
5無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 20:02
2です。サンクスです。消費税みたいのはあったのでしょうか?
6無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 20:08
ソ チョウ ヨウ てやつですか?
7怨霊:03/06/28 20:09
おいらもそれはうろ覚えなんですが、それはおそらく亡命した浮浪民なんかが主な対象だと思います。
要するに牛は耕作に欲しいが浮浪民で牛を持ってない&買う金が無い。
なんだか帝愛みたいな暴利に感じますが、浮浪民としてはさすらって死んだり兵戸に編入されるよりはマシだったのでしょう。

三国時代は前漢中期あたりと比べて、庶民の生活は相当キツかったと思います。
華々しい活躍をする人たちはそもそもメシに困らない雲上人なのです、庶民にしてみれば。
暗黒時代ですから。
8無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 20:12
牛借りて、食べちゃう人いなかったのかな。
病気でしんじゃったことにすれば、また借りられるんなら食べるかもね。
9怨霊:03/06/28 20:14
あ、消費税は無かったようですが塩と鉄の専売はやってました。
生命維持に必要な塩と、農耕に必要な鉄(農具)を専売して正しく暴利で販売するのです。(漢武帝から)
これに違反すると死刑です。
当時からかなり批判があったようですが国家財政にとってかなりの収入だったらしく、ずっと後世まで続きます。
現代日本でさえ、専売公社という形で同様制度の名残が見られます。
10無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 20:17
塩の専売って、関羽が係わってましたよね。
11怨霊:03/06/28 20:19
>>8
これは想像ですが、死んで食べた場合は罰を受けるか買い取らされるか、のどちらかでしょう。
この頃も牛は食べましたが、労働力にも燃料にも衣服にもなりうる万能選手なので牛を食うのは相当な事なのです。
魏というか政府はそこまでは甘くなかったでしょう。
12無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 20:24
1さん、ありがd。牛を管理してる役職って何?農水省みたいの。
>>10
暴利で売るからその利益を狙う奴がいる。
その護衛をしてたってことかな?
うーむ、下の者には優しかったらしい関羽に想像つかない仕事だな。
要は上の甘い汁を吸う手助けをしてたってことでしょう。
関羽がかかわってるってのは、
関羽は塩の産地で有名な郷土から逃げてきたらしい→塩の密売にでも関与したんじゃないか?
という犯罪人説のことじゃないの?
15怨霊:03/06/28 21:00
>>12
これも不案内なとこなんで多分ですが、大司農ですな。もしかしたら改名されてたかもしれないけど。
まさに農業を所管する中央官庁です。
現代でなら農水に大蔵まで加えた感じかもしれませんが。農=田租ですから。

なお、政府の国家予算は大司農、皇帝の私有財産扱いな金は少府が管理します。
私有財産といっても山や湖などから取れるモノは皇帝の私物という考えがあったりして、とんでもない規模の私財があったのですが。

>>13
これについては逆です。
関羽がやっていたと考えられているのは塩の「密売」の方です。
暴利・・・!な政府印より安価(といってもかなりの高利益)な闇塩を作って売る連中が後を絶たなかったのです。
見付かれば死刑ですが、ハイリスクハイリターンだし庶民を政府の暴利から救うという任侠的な大義名分が立つのです。
これで一番有名なのは唐の黄巣あたりですが、関羽はその「密売」に従事したかその用心棒をしていたのでしょう。
だから、ある意味「下の者に優しい」稼業だったのです。
16無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 21:03
軍の責任者と農業の責任者は、どっちが権限あったんでしょう?
17怨霊:03/06/28 21:21
>>16
それはもともと命令体系自体が違うので難しい問題ですね。
漢では将軍はそもそも常置ではなく、必要なくなればやめるのが普通でしたし。

でも、三国時代の各国は常時戒厳令下にある軍事政権的な存在なので、優位性は軍の方にあったのではないでしょうか。
それに上に挙げたように田租の制度自体やばかったワケで。
自前の農民からはろくに食いもんが取れなかったので、軍が自力でなんとかしようという発想で屯田なんかも始めたのでは?
そっか。軍事国家だもんね。
19無名武将@お腹せっぷく:03/06/28 22:05
金で官位が買える。
曹操の祖父も宦官の身であるが大尉になってたりするし。
そもそも「屯田制」ってどういうシステムなんですか?
普通に農民から収穫を徴収するのとどう違うの?
官職の現代語訳(徳間書店の三国志から適当に抜粋)

少府=内務大臣
光録勲=近衛大臣
廷尉=司法大臣
宗正=宮内大臣
太僕=行幸大臣
太常=儀典大臣
宗作大匠=造営長官
衛尉=皇宮警察長官
長楽少府=皇太后府長官
大長秋=皇后侍従長
長楽太僕=皇太后侍従長
尚書令=皇帝政務秘書長
司隷校尉=警視総監
執金吾=憲兵隊司令
河南尹=首都圏長官
侍中=近侍武官
尚書=皇帝政務秘書
22怨霊:03/06/28 23:55
買官は後漢末、霊帝の制度ですな。

三国の屯田は詳しくないですが、現地で生産するのと、もう崩壊同然の田租を諦めて手元にある兵士を酷使して農業までやらせようということ?
詳しい人求む。

官職は少し解説。

少府
訳すなら内務大臣兼宮内庁長官でしょうね。
でももともとの少府は皇帝の私的財産の管理や、宦官など皇帝の身の回りの世話全般を司る官庁です。
尚書もここの所轄。
前述のように皇帝の資産は膨大なのでこの大臣はその名前や説明以上に重要な官でした。
23怨霊:03/06/29 00:14
続けてみる。

光録勲
もとは郎中令。宮殿内の近衛兵の長官というのが本来の仕事です。
が、宮殿内の近衛兵(「郎」という。議郎とか郎中とか)は皇帝の目にとまりやすく、ゆくゆくはエリートとして出世する存在でした。
そこから「郎」とその長官は重要視されていきました。
あえて言うなら「郎」は近衛騎士団とか、もしかするとイェニチェリみたいとか言ってもいいかもしれません。
まあ、三国頃は「郎」の兵士の側面は薄れているかもしれませんが、それでもエリート予備軍の意味合いは残っているようです。
議郎なんてのはまさしく議論担当というワケで。
曹丕がなった五官中郎将はここの部下です。

廷尉
法務大臣でしょうな。そのままです。「大理」と言っていた時期もありました。
裁判関係を所管します。
なお、「尉」という軍事的な官名なのは、裁判や刑罰というのが軍令・軍規から来ているためかもしれません。
24怨霊:03/06/29 00:47
あ、この説明は主に前漢中心になってますが、後漢や三国でも大きくは外していないと思います。
間違ってれば訂正お願いします。

宗正
特殊な官庁で、「皇族の名簿」を管理します。
皇族は血縁関係によって認定され、あまりに離れると皇族扱いされなくなります。
(七代離れるとだめなんだったかな?劉備はアウト。皇族とは言えないです)
皇族は刑罰の減免など特典もあったと思われますが、逆に重要な場所の太守になれないなど、前漢では政治的には制限を受けていました。
宗正は皇族だけが相手という特殊性のためか、殆どの場合皇族が就任しました。

太僕
これも少々特殊。
皇帝の車の運転手から漢の正規軍の軍馬の管理まで、馬・馬車に関する事は何でもやる。
「馬だけかよ」などと言うなかれ。現在で言えば交通・通信・軍事のどの分野にも関わるのですから。
武器なんかも作っていたらしいです。
後漢に入って弱体化した形跡がありますので、三国時代ではそれほどでもなくなったのかも・・・。

太常
祭祀、儀礼といったことを中心に管理します。
先祖やら河の神やら何やらといった色んな神様に失礼の無いよう、お供え物を忘れないようにするのです。
儀礼というのも神様に失礼無いようにするのが中心ですし。
また天文観測(天文には神というか天の啓示が現れると信じられていました)や記録管理もやります。
これを所管するのが有名な司馬遷がなった太史令です。
前漢では神様相手のためか列侯が就任していました。
ほこらの瓦一枚風で飛んでも首になるきついポストでしたが。
25無名武将@お腹せっぷく:03/06/29 11:12
北軍五校尉
北軍中候=宮城警備総司令
越騎校尉=越族部隊司令
歩兵校尉=離宮警備司令
長水校尉=胡族部隊司令
射声校尉=狙撃兵司令

26怨霊:03/06/29 11:56
衛尉
皇宮の守備隊の司令官というところでしょうか。
光録勲とちがうのは宮殿の「外側」を守るところです。
宮殿の城門なんかもここが管轄していました。

北軍中候
北軍(禁軍)の司令というか、北軍の事務やら監督(憲兵ですな)やらを行っていたと思われます。
真に総司令と呼べるのは皇帝あるいは衛将軍でしょう。

越騎校尉
漢に臣従した蛮族を帰義蛮夷といい、彼らは漢の領内で自分の習俗で生活していい代わりに従軍を義務付けられました。
越騎校尉はそんな帰義した越族で構成された騎兵部隊の隊長です。
越と騎兵は結びつかないような気もしますが、当時はそうだったようです。

長水校尉
長水は胡族の名前だそうで、胡族の騎兵部隊隊長です。成り立ちは越騎校尉と同様で、帰義した胡族により構成されています。

歩兵校尉
前漢では長安から少し離れた広大な皇帝の御苑「上林苑」の護衛部隊隊長でした。
後漢ではどうなったのか、手元の資料では詳しく分かりませんが、成り立ちからすると上の訳のように離宮などに居たと考えていいのかもしれません。

射声校尉
暗闇でも物音を聞いたら射撃する、という意味で、狙撃兵と呼んでいいでしょう。
この時代、弩自体は標準装備でしたがここの部隊は特に優れたスナイパーだったのでしょう。

屯騎校尉
北軍五校尉ならこれが抜けてますな。
越・胡でない漢人の騎兵の部隊の隊長。
27怨霊:03/06/29 16:18
需要なんざないかもしれんが、密かに追加。

執金吾
もとは中尉。京師(首都)の守りが職掌。
宮殿ではなく、都全体を守ります。
きらびやかな装備で京師を巡回したらしく、光武帝劉秀は(皇帝になる前)「執金吾になりたい」と言ったといいます。

河南尹
京兆尹・右扶風・左馮翊(三輔)
「尹」と付くのは首都の民政長官。普通の郡で言うところの「太守」です。
後漢は河南尹(洛陽)、前漢は京兆尹(長安)。
右扶風・左馮翊は京兆尹の周りの関中で、これら三つ合わせて「三輔」と呼びます。
漢では首都周辺は中央政府の直轄領扱いで、普通の太守と違い中央政府の大臣として扱われました。
そのため刺史にも属しておらず、代わりに皇帝直属の監察官である司隷校尉に属しました。
このあたりは、現代日本で東京が「県」ではなく「都」なのと似たようなものです。
牛云々の話は屯田民の話じゃありませんでしたか?
たしか税率を変えたという話があったと思います。

あと、ついでに漢の八校尉。

 屯騎校尉。漢では騎や士を掌った。後漢初期に改めて驍騎としたが、建武十五年、元に戻された。
 歩兵校尉。漢では上林の苑門に置かれた屯兵を掌った。
 越騎校尉。後漢初期に改めて青巾左校尉としたが、建武十五年、元に戻された。
 長水校尉。漢では長水を掌った。又、烏桓騎を纏めた。
 胡騎校尉。漢では池陽の胡騎を掌る。不常置。後漢では長水に併合された。
 射声校尉。漢では待詔射声士を掌った。
 虎賁校尉。漢では軽車を掌る。後漢では射声に併合された。
 城門校尉。漢では京師城門屯兵を掌り、八屯を統べた。後漢では洛陽の城門十二所を掌る。
29怨霊:03/06/29 17:55
フォロー&情報ありがとう。

前漢の八校尉ですが、沿革は基本的に>>28の通りかと。
ただ中塁校尉というのがあり、後漢の北軍中候のような事をしていたようですが廃止。
職務は北軍中候に引き継がれたようです。
どうやら城門校尉でなくこの中塁校尉を入れて八校尉のようですな。
後漢では胡騎校尉と虎賁校尉が廃止。
>どうやら城門校尉でなくこの中塁校尉を入れて八校尉のようですな

ごめん。見誤ったw

中塁校尉。漢では北軍の営塁の門内を掌り、また、外にあって西域を担当した。
              後漢では省かれて(北軍)中候が置かれ,五営を監督した。

後漢の秩禄でいうと、五校尉が比二千石で、北軍中候は六百石ですね。
需要あり鱒。質問思いつかないだけ。サンクスコ
32怨霊:03/06/29 19:22
そう言ってくれると嬉しいノラ。
ここらで後漢末から三国の制度のキモに入ってみましょう。
後漢の中央官僚の中でも特別な位置にあったのが三独座と言われる官です。
尚書令
司隷校尉
御史中丞
がそれです。

尚書令
尚書は皇帝の政策秘書といったところでしょう。
もとはただの文書係(文房具管理とか書類の記録とか)だけやっていたらしいですが、次第に詔書起草や政策顧問、三公以下から上がる文書処理等が職務になっていきました。
特に官僚の昇進や選任を職務にする選部尚書なんかはエリートコースだったようです。
もちろん尚書令はその長官ですから、これまた要職です。
三公などよりも、皇帝の側近という意味では重要だったのです。

司隷校尉
元をただせば武帝末期の巫蠱事件を取り締まる秘密警察みたいな存在でした。
皇帝の代理権を示す「節」と、奴隷1200人を手勢として持っていたのです。
その後、巫蠱事件が終息してからは手勢と節はなくなり、監察官へと内容を変えました。
中央の官僚や三輔(首都)の長官などの不正を摘発します。
三輔にはそれを監察する刺史がいないのでその代わりだったのです。
後漢では事実上三公以下全ての官僚の不正摘発をするような強力な監察官として機能しました。

御史中丞
尚書発達以前は御史が皇帝の秘書・側近として活躍しました。
その名残で、後漢では侍御史が宮殿内の官僚の違法行為や上奏文内の間違い・違法等を弾劾しました。
上奏文で間違えて皇帝の諱をそのまま書いたら首が飛ぶかもしれないような世界ですから。

後漢の皇帝は、この三独座を自分の政策秘書とし、また三公以下の諸官庁に対する抑止力として使っていたのです。
こういった存在がないと、皇帝はよほど有能でなければ三公ら官僚の言いなりになるしかないですから。
そういえば御史中丞って国ごとで扱い違うよね?
魏じゃ有能・有望な人材がつくもんなのに、蜀じゃ閑職扱い
呉じゃどんなんかわからんけど、劉センが就いてるってことはどうでもいい役職ってことか
34怨霊:03/06/29 21:53
御史中丞自体は後漢ベースでは皇帝の側近的な存在と言っていいでしょう。
しかし、少なくとも後世ではその「弾劾」という他人の恨みを買う職務のため、貴族は避けるポストだったそうです。
(有望だが家柄が悪い、というタイプの人材が多かった)
そういった意識があった可能性もあるのではないかと思います。

そもそも呉や蜀は後漢とは違う体系の官僚組織(名前は同じでも)だった、という可能性もありますが。
35無名武将@お腹せっぷく:03/06/29 22:43
虎賁中郎将=親衛隊司令
親従衛尉=特別警固隊長
城門校尉=城門警備司令
屯騎校尉=騎兵隊司令
奉車都尉=供奉司令
従事中郎=大将軍参謀
羽林左騎=近衛隊長
騎都尉=近衛騎兵隊長
羽林郎=近衛隊将校
>>35
関東軍?
37ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :03/06/30 20:26
▲資本共産法▽
 職業安定所を国税庁に統合し、かつ公権力化する。企業面接を撤廃して雇用創出を図る。
備考:企業教育の必然性と人材派遣業の処分
▲琉球国際認定規格推進▽
 同一国内でありながら、国籍と民族の固有化を尊重し、続けて北方領土問題にも取り組む。
 【地域社会保護法案】
 住民投票を公権力化し、地域社会の破壊を阻止する。
▲教育改革法▽
 義務教育の数学・音楽・美術を廃止し、情報処理・脳神経学(精神学)・マインドコントロール手法(音楽・美術)を新たに加え、資本主義社会の虚弱性に抗する消費者層の暗黙的な社会主義化を目指す。
▲予約売買法▽
 卸売り業者すべてに予約販売制を導入・義務化し、物資の流通を共産主義化する。
板違い
>>38
三国志の時代の範疇に限っていえばそうでもない。
職業安定所、国税庁、企業面接、北方領土問題、琉球、
義務教育の数学・音楽・美術、予約販売制、共産主義化 のどこに三国時代が?
41怨霊:03/06/30 23:32
なんで国税庁に職業安定所?猛烈にワケワカランですな。
あと、琉球云々いうなら未だに「県に蛮夷混じるを道と曰う」の北海「道」の呼称からどうにかしたほうが・・。

脱線しましたな。32の続きのつもりで再開。
三独座と言いましたが、実の所三国志の時代ではそんなには目立っていないかもしれません。
なぜかと言うと、この時代は皇帝の権力が著しく抑圧されていた時期が長かったのです。
曹操の時代が一番分かりやすいでしょう。
丞相曹操は部下の大臣達を強力に統率し、一方で自分のシンパ(荀ケ)を尚書令など皇帝のそばに置いて皇帝の単独行動を牽制。
こうなると皇帝はやる気や実力以前に何も出来ません。命令を出そうにも尚書を曹操シンパが束ねていては曹操の意に反する事は出来ませんから。

長年の制度だった三公制から丞相制に後漢、蜀、呉と変更しているのは、実は皇帝の権力の弱体化と表裏一体なのです。
三公が三人で分担していた事を丞相はほとんど単独で処理する事になるので、権力が集中するのです。
この時代主だった丞相がしばしば皇帝と対立しているのは、丞相の権力が皇帝の権力をおびやかしていたためと見てよいでしょう。
42無名武将@お腹せっぷく:03/07/01 00:11
屯田について。
後漢から三国時代になって戦争が長期化すると、
多くの兵士を雇っているけど戦闘はそんなにない、
という状態になり、そうした兵士に暇な時は耕作をさせるというもの。
簡単に言うとこんな感じ。
でも実際は兵士とは名ばかりの農民を前線の農地に縛り付けて、
いざという時の盾にするものらしい。その農民も元は難民だとおもわれ。
ソースは何? あと、軍屯と民屯の区別くらいは呈してくれ。
で、色々かなり疑問があるんだけど、訊いてもいいかな?
44怨霊:03/07/01 00:26
正直まとまりなくなった気がする41。反省。

三公はこの時代では
 太尉
 司徒
 司空
です。ほぼ同格ですが一応上のほうがちょいエライ。
太尉は軍政、司徒は民政全般、司空は土木関係と言ったところが所轄。

んで丞相の制度のもとでは
 丞相
  御史大夫
となり、少なくとも民政は全般的に丞相が処理します。御史大夫は副丞相的な存在です。
あるいは軍政も丞相が処理していたかもしれません。
これだけでもわかるように丞相制の方が丞相の職務が多く、権限が一手に集中するのです。
曹操が漢では200年ぶりに丞相に就任したのは、以上のような理由から政治史的な大事件だったのです。

皇帝にしてみれば、宰相が三人いればお互いに牽制しあうので飛びぬけて権力を握る独裁者などが出なくて済みますが、一人の手に宰相の権限が集まると皇帝の出る幕がなくなってしまうのです。
ただ、その一方で強力な指導力を発揮する宰相がこの戦乱の世には必要だったとも言えます。
この辺は難しいところですね。
45怨霊:03/07/01 00:30
連続で失礼しますが、質問歓迎。
ただし、質問者の満足のいく返答が出来るとは限りませんし誤りだって沢山あるでしょうけど。
また、間違い等は指摘して頂ければ幸い。
4643:03/07/01 00:39
>>42に対して、ね。w

じゃ、ついでに。
三独座というと、
 1.御史大夫、司隷校尉、尚書令
 2.御史中丞、司隷校尉、尚書令
の二つの場合、もしくは説があったみたいですね。
漢書註の應劭によると、1.となっていまして、
転じて、後漢書以降ですと、2.と書かれています。

これは御史大夫が司空と更名され、
中丞が大夫の職を負うようになったためと考えられますよね。

ところで、後にチ慮や華歆が御史大夫に就いたときにはどうだったんでしょう。
1.に準じたのか、それともやはり2.のままなのか。
また、後者だとすれば、チ慮らは以前の大夫以上の職務を負っていたんでしょうか。
4742:03/07/01 00:40
ソースね…実は高校の授業だ。
だからきかれても正直いって困る…しったかで断定口調なのは謝るから、
とりあえず軍屯と民屯、知ってるなら説明してください。
皮肉とかじゃなくて、まじでおねがいします。
48怨霊:03/07/01 00:54
前漢の御史大夫は後に言うところの三公格ですから。

前漢官僚出世コース
県令→太守→イイ!!→九卿→イイ!!→御史大夫→(前任者が死ねば)→丞相(+列侯)

んで、御史中丞は御史大夫の副官(丞)。大夫が司空になった時に切り離されて半独立。
大夫の職分を受け持ったのではなく、侍御史の職分「弾劾」だけを受け持ったと思われます。
チ慮なんかは三公制ではなく丞相・御史大夫制での御史大夫ですが、この時は逆に中丞はもはや独立状態のままだったのではと推測。
職務がもう別になっちゃってますから。
チ慮あたりがやったのは丞相の補佐的な所でしょう。
よって、その質問の答えは私としては1でも2でもなく、3「当時の御史大夫は三独座ではない」を取ります。
かといって前漢では御史大夫は尚書令なんかとは格が違うので1はありえんです。
49無名武将@お腹せっぷく:03/07/01 01:00
三国会要に割と詳しく乗ってるよ。魏呉蜀それぞれの国の屯田について。
ひとつだけ追加。

>宗正は皇族だけが相手という特殊性のためか、殆どの場合皇族が就任しました。

 漢に限っては「殆ど」ではなく「必ず」だったようです。
私の確認した限り『漢書』『後漢書』とも劉姓のみでした。
唯一『後漢書』皇后紀に姓氏不明のがいますが、その集解に
「『国語』注によれば漢の宗正は必ず劉姓から任命する(意訳)」、と引かれていました。
51無名武将@お腹せっぷく:03/07/01 01:10
歴史群像の三国志シリーズは結構時代背景について詳しく書いてる。
官僚制度、宦官、名士、屯田、軍制など。

特に名士についてかなり詳しい。名士を使いこなした曹操、名士に振り回された袁紹とか。
曹操時代には方面軍の大将は殆どが曹操の一族だったのに、曹否、曹叡と時代を経るに従って名士が登用され
司馬一族を中心とする名士(のちの貴族だな)に軍事力が掌握されてしまって、ついに晋に取って変わられるとかね。
>>47
いや、2chだし、別に謝る必要は無いんじゃないか?w
君より教師の方が困ったもんだ。こんな無責任なことを教える教師がいるんか。
私も詳しいわけではありませんが、一応ご返答。

軍屯は軍事戦略の一環として食料供給を図るもの。
駐屯兵という言葉があるけど、この駐屯兵に土地を耕させることによって、
地方戦線の安寧と食料の供給を同時に行おう、という訳です。
三国時代でいうと、諸葛亮で北伐の際に行ったものや、孫権が江北で行ったものがこれ。

民屯は国家戦略として食料生産・供給を図るもの。
流民などに農業用具等を供出し、経済の安定や治安の向上を願う。
特に軍事行動に縛られることはなく、兵の徴発などは他の郡と同様。
青州兵に代表される屯田はこちらだと言われます。

違ってたら補足きぼん

>>49
楊晨のヤツですか? そんな無茶なw
53怨霊:03/07/01 08:30
42さんの先生の説明は52さんの言うところの軍屯と民屯が混ざってますね。
そういや、これもソースと言われると困るんですが、上の方にあった4割5割という税率は屯田(民屯)の税率で、これは荘園の税率と同じくらいなんだ、とか聞いた覚えが。
国家で貴族の荘園経営を真似た、と言う事らしい。

三国時代は前漢なんかと比べると貴族と庶民という階級分化が進んだ時代です。
土地を離れては生活できず、かといって荘園では重税、でも国家も重税。
兵卒は被差別的な世襲制で、一応国民皆兵で誇りある兵士だった前漢とは大きく異なります。
(何でも漢では兵役を終えて郷里に戻るときに皇帝御自らのねぎらいの言葉があったとか)
こう考えると結構悲惨な時代ですね三国時代。
54怨霊:03/07/02 23:38
さて今度は刺史や太守について語ってみましょう。

刺史は州と呼ばれる区域内の郡太守を監察する事を職務としていました。
元は太守の上司ではないのです。
刺史の「史」は御史の「史」と同一です。皇帝の秘書とでも言えば良いでしょうか。
皇帝の勅命で地方官の不正を摘発する使者なのです。
しかし、監督する者が位の上下に関わらず権力を有するようになるのは当然の帰結で、次第に太守に命令する上級官庁といった関係になっていったようです。
後漢末では民政・軍事双方で所管の地方の太守を指揮する強力な地方長官となりました。
群雄割拠のお膳立てと言えるでしょう。
三国志の物語中で地方に割拠した群雄の殆どが刺史、またはその上位互換バージョン州牧になっています。
(例えば漢中王になる前の劉備は左将軍、自称司隷校尉、益州、荊州、豫州牧を兼任していました)
袁紹の大勢力も、自分と親族で数州を掌握することで成り立っていたのです。
(だから袁紹死後勢力がすぐバラバラになったのは不思議ではありません。元に戻っただけなのです)

太守は領域内の県を統括する治民官で、太守としての手腕はしばしば官僚としての能力の指標になります。
補佐するのは副官の「丞」と武事を司る「都尉」です。
さらに数多くのスタッフ(掾、史)がおり、幾つかの部署(曹)に分かれています。
現代の総務部とか人事部とかいうのと同じです。
太守官庁「府」には県からの各種報告や、中央からの命令が集められ、日々文書をやり取りしていました。
そして都尉の存在が示すように軍事も統率していました。

なお、諸侯王の国を事実上統治する太守格の官職が「(諸侯王)相」です。
職務は太守とほぼ同じです。
曹操・劉備は面白い事にどちらも「相」になっていますね。
>>54 怨霊氏
御高名は常々ですが、無知な自分からの質問について、よろしければ
教えていただきたい。

三国時代に入ると専ら史料で目にするのは、「州牧」ではなく、「刺史」のような
気がする。
後漢末の戦乱を慮って、「刺史」に軍事力を付加させたものを「州牧」とした…
という認識だったのだけれど、三国時代にはいってからの「州牧」と「刺史」の
存在と内実はどのように変化していったのか、浅学な自分にもわかるように
説明をお願いしたく…。

長々と、教えて厨ですまんです。
56怨霊:03/07/03 20:47
私の愚説で良ければ。

後漢書、続漢書百官志や三国志なんかを見ると、どうも「州牧」への改称と「刺史」の民政・軍権掌握は別のレベルの問題に思えます。
後漢書劉焉伝を見ると、焉は確かに混乱に対応するため重臣を州牧として乱を鎮めるべし、と主張し、それが通ったようです。
で、この時州牧になったのは太常劉焉のほか、太僕黄エン、宗正劉虞と九卿です。
なお刺史は六百石で格としては太守以下です。
で、この時刺史は廃止されたのではなく、その後も沢山出てきますね。
これは、おそらく就任者の「格」の問題ではないかと思います。
この時の「州牧」は権限そのものは刺史とそれほど変わらず、ただ九卿など普通なら刺史になどならないような高官が就任する場合は「州牧」となったのではないかということです。
もちろん、高官が就任する事でより権威が高く、より権力も強くなるのかもしれませんが、本質的には権限ではなく名前の問題ではないかと思うのです。
いわば、「ハクを付ける」程度なのではないかと思うワケです。

刺史(州牧)が軍権や民政権を得る契機と言われると、正直まだ私には分かりません。
少なくともそういった記事にはまだお目にかかってません。どこかにあるのでしょうが。
ただ実情としては州牧制試行前から刺史が反乱征伐に出かけたりしており、州牧もその後追い的な面があります。
あるいは「監軍使者」(劉焉が益州牧就任時に同時になった)などの職を加えられて軍権等を持ったのが常態化したのでしょうか。

あくまでも私見であり、世間一般の概説とも史学会での通説とも合わない電波説かもしれませんが、このように考えております。


あと>>32あたりの訂正。
御史中丞は侍御史とともに刺史をも統率します。
中央政府、地方双方の弾劾を司る、と言う事ですね。
57怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/03 23:23
しまった長すぎて読みにくいぜ。
まあいいや。
いっちょ上げちまえ。ついでに何となくトリップ。これでいい?

ああ、「州牧制試行前」なんて書いてる・・・。
「州牧制施行前」の間違いだよ。
州牧は前漢末期にも施行されてる。
この時は「太守より位が低いのに権限強いから、太守と同格にしようYO!」
って事で採用されて真二千石の官になった。後漢で戻ったけど。
58無名武将@お腹せっぷく:03/07/03 23:24
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「戦乱を慮って」復活した州牧制の内実というのは、
言い出しっぺの劉焉が、野心と言うか、中央からの独立を目指して
考え出した「なんちゃって諸侯王」に近いものがありそう。
中央側も一種の藩屏として期待する面があったかも知れない。想像ですが。

その場合の六百石というのは、結局、足りなきゃピンハネしろって
事ですね。それとも兼職が多かったのかな?
60怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/04 00:39
>>59
劉焉の本心が「戦乱を慮って」ではなく中央からの独立を目指していたというのは三国志劉焉伝の話ですね。
後の時代(六朝)でも、戦乱や軍閥の跋扈を抑えるには刺史を何とかしろ、って議論が出たりしてます。
まあ、後漢末では中央政府も
「とにかく蜂起を抑えるのが先!暴走は怖いけど賊を倒すには刺史を強化してやらせるんだ!」
とか考えたんでしょうね。
でも皇帝の権威が落ちたから暴走した刺史・牧の方が漢の賊になっちゃった。

あと、多分ですが州牧は二千石クラスの俸給だったと思います。
前漢の時そうだったし、最初に州牧になったヤツはみんな中二千石の九卿でしたから。
これが六百石になっては降格ですし。
まあ、これじゃ足りないでしょうけどね。ピンハネはしてたでしょう。
6150:03/07/04 22:24
>60
 あなたが>56で引用した劉焉伝に、続けて
「皆以本秩居職(皆本秩を以って職に居らしむ)」
と書いてありますよ。少なくとも劉焉たちは、中二千石のままです。

 他の就任例を見ても、高位の者が命じられ、本官の秩禄のままという
形式のようなので、おそらく守刺史事の変形なのでしょう。
要は箔付け、軍権は監軍使者から、というあなたの説でほぼ間違いないと思います。
 ただ、不精して州牧刺史に関する論文を全く読まずに書いているので、
何の保障にもならないのですけど。そのうち暇があったら確認して報告します。
御無礼御海容の程。
62無名武将@お腹せっぷく:03/07/05 01:04

なるほど
 
63怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/05 15:01
>>61
ありがとう。自分で劉焉伝見ておきながら「皆以本秩居職」を忘れるとはアホですな私。

ところで「二千石」とかいう表現出てきたので余計かもしれんけど解説。
普通は「ニセンセキ」と読みます。「どれくらいの俸給がもらえるか」をあらわすものです。
この「石」は重さで1石=120斤=約27kgでしたか?もらえる穀物の重さです要するに。
三公は一万石、九卿は中二千石、太守は二千石、刺史は六百石。
中二千石は二千石より多く、比二千石は二千石より少ない。
そして、この俸給の等級が官僚間でのランク付けや、朝廷での席順なんかにも関係していたようです。

なお、実際には穀物だけではなく、半銭半穀と言って、約半分は金(銭)で受け取り、残りを穀物で受け取っていました。

余談ですが、太守は二千石であったため、「二千石」を太守の俗称として使われる場合があります。
最近蒼天航路で賈逵だかの太守就任でそんな表現を使っていましたね確か。
あの、一ヶ月27kgで家族養えます?
ちくまでは一斛20Lとしていますんで、2400Lにあたりますけど...
って、ごめんなさい、1石=約27kgでしたか。お詫びに。

顔師古曰く、漢制,
三公は萬石と号し,月俸それぞれ350斛穀。
中二千石は180斛,
  二千石は120斛,
比二千石は100斛,
  千石は90斛,
比千石は80斛,
  六百石は70斛,
比六百石は60斛,
  四百石は50斛,
比四百石は45斛,
  三百石は40斛,
比三百石は37斛,
  二百石は30斛,
比二百石は27斛,
  一百石は16斛。
66司馬子上:03/07/06 00:06
質問ですが、刺史と牧の違いが良くわからないんですが
お、司馬昭がおる。

その質問は、>>61の人が良くまとめていると思います。
少なくとも私と50さんの言うところでは、
「名前が違うだけ。仕事は変わらない。但し牧の方が格上」
となるかと。
68無名武将@お腹せっぷく:03/07/06 00:20
見てるだけで頭痛くなったんだが
こんなことを張良から説明されて
すぐに吸収した劉邦はやっぱりすごいやつだね
>>68
自分が知る必要は無いことを知ったんだろう、きっと。
曹叡と陳矯の故事を読む可し
70怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/06 00:57
自分でも読み返す気にならないようなレスだったから、>>68のご意見はごもっともと思うのだった。
ヒマだったんでついダラダラ書いちゃったんだ。すめんなさい。

オイラ自身も含めて、三国頃の制度とか文物でわかんない事を書いて誰かが回答したり想像したりするようになればいいな、と思う次第。
オイラだって長沙走馬楼呉簡の事とか全然知らないし。
あれの研究どうなってるか誰か教えてくらさい。
71怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/06 11:55
おいらも>>69見て陳矯伝見たよ。知らなかったよ今まで。

明帝が文書を調べようと思ったら陳矯が
「臣下を信じてお任せください。へーかはそんな細かい事しなくていいです」
みたいに言った話だよね。

でもこれって見方を変えると、
「へーかに文書を調べられちゃうと、不正とか失敗とか色々見付かって俺らの立場がまずいんだよ!てめーは引っ込んでろ!」
という意味にも取れるよね。
皇帝は君主独裁のためには、むしろ臣下の不正とか失敗を厳しく摘発しなきゃいけない。
そうしないと臣下に好き勝手やられちゃうから。
でも臣下としては皇帝には政策の大枠決めて、あとは決裁に「可」と書いてもらうだけになってほしいんだよね。

三国時代は全体的にはその臣下の発言力が強く、皇帝の方が行動しようとすると抑えられちゃうみたいだね。
72怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/07 00:34
寂しい気もするけど盛り上げる努力はしよう。ついでに上げちゃえ。

中国古代の官僚にも有給休暇はありました。
「洗沐」というのがそれで、5日に1日、身体を洗うために家に帰る、という名目でした。
逆に言うと、それ以外の日は宮殿内などに泊り込みだったようですが。
しかもこれはどうやら朝廷の高官から地方の下役まで共通だったようです。
記憶に間違いが無ければ、当時の木簡などにそういった情報が記録されていたはずです。

あ、丞相だとか太守だとかの「府」を持つ官は、その「府」に家族とともに住んでいたらしいですが。
73怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/07 23:16
ほとんど日課だね。人知れず書くよ。

この頃の文書は、普通木簡(竹簡)を使用していたと思われます。
細長い木や竹の板を縄でつなぎ(南京玉すだれみたいに)、木の板に一行か二行ずつ文章を書いてゆくのです。

公文書を送るときは、文面を内側にして巻いて筒状にして運びます。
これなら中の文章は見られません。
さらに、巻いて縄で縛るとき、縛ったところに泥(粘土)を盛り付け、そこに官僚の証の「印」を押し付けるのです。
こうすると中を見ると粘土が壊れるのです。これを「封泥」といいます。
当時の印は朱肉を付けて紙に押すのではなく、このように封泥に押すために使われました。

余談ですが、倭国の金印もそういった時代のモノなので、あの金印に朱肉付けるのは間違った使い方だと、ある先生は言ってました。
74怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/08 00:38
なお、「もう紙の時代じゃないのか?」と疑問に思うでしょうが、少なくとも完全には紙への移行は終っていないようです。
三国志太史慈伝には、太史慈が州の文書を隠滅するために刀でその文書を破壊したとあります。
しかし紙なら破けても張り合わせられるかもしれませんね。
これは刀で木の表面を削り取ったのです。つまりこの時代の公文書に木簡が使われている実例があるのです。

木簡には、「消せる」という利点があるので、意外と長く使用されたのではないでしょうか。
いつまでかは不勉強ゆえ知らないですが。
怨霊さん、いつもご苦労様です。
俺は無学者なのでROMってますが、楽しませてもらってます。
参考文献とかって、何を使っていますか?
やっぱり、史記・漢書あたりですか。
よろしければお勧めの本を教えてください。

無理しない程度で頑張って頂ければ幸いです。
これからも楽しみにしています。
同じく応援sage
77無名武将@お腹せっぷく:03/07/08 05:49
参考文献なら、『礼記』もいいだろう。 
78怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/08 07:49
皆様応援ありがとうございます。

参考文献ですが、官職については漢書百官公卿表、続漢書百官志(後漢書併載の)が中心です。
中華書局本(原文、句読点と固有名詞への傍線付き)を持っているのが史記、漢書、後漢書、三国志、晋書。
ちくま持っているのが漢書。
また、73や74で書いたような木簡の話は主に学生時代の講義の記憶や木簡学関係の研究書等より。

辞書は一応大漢和辞典。大声では言えませんが貧乏学生の味方、かいぞ(ry です。
ちょっとした確認程度なら角川の新字源。

こんなところでしょうか。
漢の制度や文物については、入門という意味では西嶋定生先生の「秦漢帝国」(講談社学術文庫)などがいいかもしれません。
三国時代以降なら定番の「九品官人法の研究」(中公文庫)ですかね。
板違いかもしれませんが質問です。
今、張角を主人公とした小説を書いているのですが、
巨鹿という地方の政治的な背景なんかは、
歴史的資料があるのでしょうか?
例えば、人口や都市としての規模、統治していた豪族やその評判、
中央とのつながりなど。

また、日本でいえば記紀に対する風土記のような資料がありましたらお教え願いたいです。

よろしくお願いします。
真剣に「おとこのせいどをかたる」と読んでしまった…
81怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/08 19:54
鉅鹿ですか。とりあえず出来る範囲で。

そっすね、まず字義から。「鉅」は「大」、大きいの意味。
「鹿」は「林の大きなもの」と「山のふもと」(=山麓)の二説あるようで。
もう一つ、「四角い米倉」という意味も辞書に載ってました。

そして史記殷本紀より。
「(帝紂)厚賦税、以実鹿台之銭而盈鉅橋之粟」とあります。
「(帝紂)は厚く賦税して、以て鹿台之銭を実たし而して鉅橋之粟を盈たす」とでも読みましょうか。
この「鉅橋」は鉅鹿にあった食糧基地とされております。
要するに殷代に鉅鹿が食糧基地とされていた、と史記(もとは書経)に記されていることになります。
おそらく水運により食料(穀物)を集積していたのでしょう。その後の発展も水運と関係していたに違いありません。

また、鉅鹿で有名な歴史的事件には「鉅鹿の戦い」があります。
秦の章邯と項羽が戦い、項羽が「背水の陣」による必死の戦いを見せたものです。
この戦いは鉅鹿に立て篭もった張耳、それを囲んだ章邯、さらにそれを攻撃する楚(項羽)という構造でした。
章邯はこの時、壁で脇を囲った軍用道路を作って自軍に食料輸送したという記述があり、ここでも鉅鹿近辺に食糧基地的なものがあった事を思わせます。

申し訳ありませんが、今のところ思い浮かんだのはこれくらいです。
近世以降なら地方志もあるんですが、このあたりの時代のモノとなると・・・これも思い浮かびませんね。
不勉強でスンマセン。

も少し関係しそうな所を見てみるのでとりあえずこんなところで。
8279:03/07/08 21:20
怨霊さんどうもです。
なるほど、食料基地ですか。
殷代から後漢までだとかなり間があきますけど、
政策的には結構な要諦だったみたいですね。


張角の蜂起を考えると、やはり、県令か太守あたりを一番最初に血祭りに上げると思ったので、
土着の豪族のせいがわかればリアリティがでるかと思ったんですが、
なかなか難しいみたいですね...
探してるんですけど見つからないです。

しかし、このスレはとても参考になるっす
ウホッ いいスレ発見!
84怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/08 22:15
続報デス。

後漢書皇甫崇伝によると黄巾討伐時の鉅鹿太守は馮翊の人、郭典とのこと。
この人が張角挙兵時の太守かどうかは不明ですが、皇甫崇伝では張角の挙兵によって
「所在燔焼官府、劫略聚邑、州郡失據、長吏多逃亡」とのこと。
鉅鹿太守郭典は鉅鹿を追い出されたのではないでしょうか。

鉅鹿県令については現在不明です。
85怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/08 23:16
補足。
「所在燔焼官府、劫略聚邑、州郡失據、長吏多逃亡」を意訳。
「いたるところで役所に火をつけ、ムラムラを略奪したので、刺史・太守は拠点を失い、長官は多くが逃亡した」ってとこかな?

鉅鹿太守郭典も本拠(鉅鹿)を占領されて逃げ出し、どこかで兵を再編成したのでしょう。
8675:03/07/09 00:38
結構いろいろあるんですね、ありがとうございます。
やっぱり、じっくり自分で考証しながらじゃないとダメですか・・・。
ちょっとした時間でも見つけてやれればいいんですが。

質問ばかりで申し訳ありません。
実際、前漢代の丞相・後漢の三公って権力をもっていたんでしょうか?
武帝の時は、能吏に任せていたような・・・
公孫弘はなってますけど、李蔡とか公孫賀とか劉屈釐とかはぱっとしません。
宣帝の丙吉とかはよく知りませんが。
霍光や王鳳といった権臣は大司馬とか大将軍でしたし。
後漢の姻戚は大将軍とかになっても、三公とは書かれていなかったような・・・。
梁冀の兄弟も司隷校尉とか将軍だったような・・・。

駄文&知ったかばかりでしょうが、お許しください。
87怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/09 08:01
李蔡(李広の親戚)
公孫賀(衛青の義兄弟、武帝の時代で最も長く丞相を務めた)
劉屈釐(武帝の甥、従兄弟である戻太子の反乱で官軍の指揮を執る)
とはなかなかシブイとこ突いてきますね。

丞相、三公と皇帝の関係は、現代の執行機関(政府)と立法機関(国会)の関係を思い浮かべるといいかもしれません。

蕭何のような名宰相の時代とは、言い換えれば執行機関の発言力が強かった時代です。
逆に皇帝は執行機関に口をはさむ余地がありません。

一方、武帝頃の丞相との関係は、立法側(=武帝)が側近の能吏を重用することで政策担当能力を増し、執行機関の独自性を抑えていたと言えます。

というか、皇帝は丞相に全て任せてしまうとやる事がないお飾りになってしまうのです。
そんな丞相の権力を抑え、自らの政治的発言力=権力を確立するのが武帝の側近政治であり、後の尚書強化につながっていきます。

成帝後期の丞相テキ方進などは、儒者としての能力とコネを総動員して高官の多くを儒家で占め、
丞相直属の監察官である丞相司直を使って外戚王氏関連の官僚の不正を多く摘発し、
権勢を誇った王氏を切り崩し弱体化させることに成功しました。

このように、丞相は前漢末期近くにおいても人を得れば極めて強い権力を握る事が出来るポストだったのです。
三公制度の創立と丞相ポスト廃止は、宰相の権力を抑えるためのものだったと思われます。

前漢、後漢とも皇帝の外戚はほとんど丞相、三公にはならず大将軍などになって軍権を掌握しますが、これらの点についてはまた次回。
88あああ:03/07/09 08:34
保守age
30分で保守るな、ヴぉけ
9055:03/07/09 10:56
>>56>>57>>59>>60>>61>>63
遅レスとなってしまってすいません。
非常に丁寧に説明いただき、感謝します。
91無名武将@お腹せっぷく:03/07/09 12:05
◆◇◆◇ 海外サイトだから安心無修正 ◇◆◇◆
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 ↑ 
ココは丸見え! 今ならまだ消されてないよ。たぶん・・・
92怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/09 19:20
あ、カスミンだ。土曜じゃなかったんだ。

前回のまとめ
漢の宰相(丞相)は執行機関の長であり、現代でも執行機関を立法機関が抑えることがしばしば問題になるように、当時も問題だった。


ということで続き。

漢における外戚の主な役割は、「軍権掌握」です。
皇帝の権力の源泉としての武力を現実に管理し指揮するためには、誰かが指揮官・将軍にならなければなりませんね。
しかし、皇帝としては何の関係も無い人に軍権を渡したくはありません。
信用できる人物、自分を裏切らない人物に渡そうと思うのが当然です。
しかしそこらの官僚や、叩き上げの武人は優秀だとしても皇帝にとっては別に親しい仲でもないので、その点では失格です。
んで、残る選択肢が自分の母方の親戚、妻の家族といった「外戚」(姻戚)なのです。
外戚は官僚や武人としての実力でのし上がったのではなく、皇帝との関係だけで出世するわけですが、だからこそ皇帝を裏切る心配が少ないのです。
裏切ったとしても、実力を疑われがちな彼らには官僚も武人もついてこないでしょうから。

少なくとも平時であれば、軍権を任せるのは実力ある人物よりも皇帝に近しい人物の方がいいのです。
そこで外戚は大将軍などになるのです。
(霍光はまったくの別格なのですが、王鳳、梁冀、あるいは有名な衛青・霍去病らは外戚ですね)

さて、では丞相が外戚にもなり、軍権まで手を出すとどうなるか・・・。
曹操になります。
漢はそんな存在を生みださないように、官僚と外戚=軍権を切り離すことに腐心してきたのです。
93怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/10 00:03
前レス、最後のほうが我ながら分かりにくし。
前漢では外戚は極力丞相にしないような不文律があったようです。
現に姉妹が皇子を産んだ馮野王なる官僚は、御史大夫間近と言われながら太守に左遷されました。
まあ、一方で王商のように外戚出身丞相も存在してはいましたが。
ただ、同じ一族が軍権を握っている状況で丞相までなってしまうと、権力が強すぎるという問題があるのです。

軍権と民政権両方を同時に握ってしまったら、皇帝の立場が無いじゃないですか。
曹操の時は現に皇帝の立場が無くなったのですが。

今度は尚書について。
素晴らしいスレだ。
95怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/10 08:01
前回のまとめ
漢では外戚は皇帝の軍権掌握のために必要な存在だった。しかし外戚の権力が強くなり過ぎないように、丞相などの行政側とは切り離していた。

前に尚書が皇帝の秘書として次第に重要となり、尚書令は三独座と呼ばれる要職になった、と書きました。
>>32あたりを参照。
では、前漢では「領尚書事」、後漢では「録尚書事」という職務があるのですが、これらと尚書の関係はどうなるのでしょうか?

そもそも、「尚書」とは「皇帝の文書」のことです。「尚書の事」とは「皇帝の文書事務」となるでしょう。
それを「領」するとは、「皇帝の文書事務取り扱い」という感じの意味合いになります。
皇帝が不在、あるいは幼年など自力では文書事務(決裁)できない時に代行、または補佐する、それが「領尚書事」なのです。

これは尚書令とはまったく性質が違います。
尚書は秘書であり、皇帝の決裁(意思決定)そのものを代行したりはしません。意思決定するための判断材料を収集したり、意思決定に基いて細部を決めたり、といった事を行うのです。
それに対し「領尚書事」「録尚書事」は、皇帝が幼年等で自分では意思決定困難な時、または皇帝は健在でも政務の場に出てこなかったり、単に文書量が多いので皇帝一人では処理しきれないような時、代わりに文書を見て決裁するのです。
皇帝の専決事項というのは数多いですが、その肝心な皇帝が決裁できなかったら業務は滞りますから。

9655:03/07/10 10:43
>>92-93
重ね重ねすみませんが、外戚の竇嬰や田蚡などは武帝の時代に丞相となってますね。
彼らの場合は、皇帝権力が強く他の公卿との均衡が保たれていたためになれた、
といった解釈でいいんでしょうか?
不勉強と思いつきでレスしてます。 御容赦を…。
武帝の時代って、割と漢では特殊な方ですよね。
98怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/10 19:25
>>96
私とて思いつきでレスしているのは同じ事ですので。

で、その竇・田はいずれも武帝の長い治世の初期の人物です。
それまで、官僚は黄老思想と称される「上に立つ者は下に任せていればいい」という政治思想の信奉者が優勢でした。
それが優勢であり、しかも太皇太后竇氏の支持を得ていました。
武帝はそんな世間に逆らおうとしていた状態でした。
要するに、皇帝の権力がまだ弱かった時代、せめて丞相くらいは、とばかりに武帝が送り込んだと見るべきでしょう。

それ以降も、武帝一代の宰相人事は例外的な措置が多く、こういった面で>>97さんの言うとおり、武帝時代はどうも分からないところが多かったりします。
上手く言えないですが、秦・漢初の官僚制度や権力構造が前漢後期・後漢型へと安定してゆくサナギのような時代だったのでしょう。

後の時代に一般化する「大司馬○○将軍領尚書事」が、武帝の死と同時に成立する点なども極めて興味深いですね。
そういえば、武帝時代に名称変更された役職も多かったよね。
大農令を大司農と改めたり(太初元年)、太尉を省いたり(建元2年)。
儒教を国が奨励しだすのもこの頃からじゃなかったですっけ?
景帝の頃?

100怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/10 22:56
100getしちゃった?

実は太尉は盧綰、周勃、灌嬰、周亜夫、田フンしかなっていないのです。
建元2年以前もたまにしか置かれていない・・・。

官名改称は景帝の時と、武帝の時と二回大きいのがあります。
景帝中に
奉常→太常
衛尉→中大夫令→衛尉
廷尉→大理
典客→大行令
治粟内史→大農令
将作少府→将作大匠
内史→左右内史
主爵中尉→主爵都尉

郡守→太守
郡尉→都尉
諸侯王丞相→諸侯王相
諸侯王御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士→廃止

といった大改称がありました。
続く。
101怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/11 00:10
ああ、よく考えたら改称ばかりでもないな。廃止とかあるし。
で、武帝の時はもっと盛大かも。
あと、将行→大長秋と、またすぐに大理→廷尉に戻ったのを忘れていたのら。

武帝の太初元年、中央の官名はさらに変わります。
郎中令→光禄勲
大行令→大鴻臚
大農令→大司農
中尉→執金吾
右内史→京兆尹
左内史→左馮翊
主爵都尉→右扶風

この他、太初以外でも八校尉、水衡都尉、丞相司直、司隷校尉、護軍都尉、奉車都尉などが設置され、刺史も武帝の時です。
更には大司馬を将軍に加官するのも武帝の時。
102怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/11 19:46
何度もスマヌ。

で、景・武帝のこれら改名は、主に「ハク付け」が目的だったと思われます。
またか、という気もしますが、実のところ中尉とか郎中令は諸侯王国にもいたので、格の違いをはっきりさせたかったのです。
また、秦との違いを明確化するため、秦で使われていた官名を敢えて改称したというのもあるかもしれません。

だから、呉楚七国の乱終結後でなくては実行できなかったのでしょう。

旧官名も、三国時代でも魏国などで出てきたりするので、この話題もスレ違いとは言い切れないでしょうね。
おそれ入りますが、漢代の右内史・左内史・主爵都尉と、
秦代の内史の間には、どのような関連があるのでしょうか。
秦の内史は首都圏の行政の他に、かなり強力な軍事指揮権を持っていたみたいです。
六国の一つ韓を滅ぼした戦争の総司令官は、内史の騰(姓不明)ですし、
かの蒙恬も内史として軍を指揮し匈奴を討伐し、内史の地位のままで北方防衛にあたりました。

また、秦と漢の過渡期においては、御史あがりの杜恬という人物が、
漢の内史として軍を率いて各地を転戦し、長脩侯に封じられています。
右内史・左内史・主爵都尉の軍事指揮権は、どのぐらいあったのでしょうか?
恐れ入りますが、御教示いただければ幸いに思います。
104怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/12 00:32
>>103
おお、よもや永遠の青氏にここでお会いするとは。

先に逃げ道を作ってしまいますが、私の言など漢書などから類推しただけの仮定ですので、そんな程度でよければ暇つぶしに見て下さい。

内史の本来の意味合いは、秦の直轄領代官といったところでしょう。
軍権についてですが、正直はっきりとはわかりません。秦の時点で指揮していたのは確かに引かれる通りですね。
韓を滅ぼす時は秦本拠=内史管轄から直接出て行って攻めたでしょうから、内史が指揮していた理由はそのあたりでしょうか?
蒙恬も、咸陽からは離れていても内史管轄として考えられていたのでしょうか?

漢初の杜恬については、御史大夫も戦場に出て煮られてスープになる時代ですから、よく分からないというのが正直なところですね。
ただ、武帝元鼎4年に三輔都尉が置かれており、おそらくこれ以降は郡太守と郡都尉のように民政と軍事・警察が分離したのでしょう。
逆に言うと、それ以前は(左右)内史は太守と違って軍事権も有していたのでしょう。


指揮権の所在(武帝まで)
 宮殿内=郎中令
 城門=衛尉
 長安全体=中尉
 関中全体=内史
105無名武将@お腹せっぷく:03/07/12 02:07
李典の破虜将軍って何?
106_:03/07/12 02:08
10775:03/07/12 04:01
>>怨霊さん
ありがとうございます。
ということは、権力握った外戚でも、三公の人事までは手をつけられなかったか、
もしくは自分の言いなりになる奴(たとえ手下でなくても)を送り込んで、
悪名・疑惑を防ごうとしたと考えても良いですかね。
そのあたりは、権臣の人柄や当時の政治状況を見て、自分で推測していこうと思います。

ところで板違いかもしれませんが、食邑って、どういうものだったのでしょうか?
実際に、その地の政治を司る・・・というイメージがわかないもので。
○○戸からあがると思われる計算上の租税をもらえるということなのか、
もしくは上記プラス名目上はこの地の殿様だというものかと想像したのですが。

うむ・・・日本語下手だ・・・。
歴史を学ぶ前に、ことばの勉強でもするか・・・。
>怨霊さん
>ただ、武帝元鼎4年に三輔都尉が置かれており、おそらくこれ以降は郡太守と郡都尉のように民政と軍事・警察が分離したのでしょう。
>逆に言うと、それ以前は(左右)内史は太守と違って軍事権も有していたのでしょう。
ありがとうございます。とても参考になりました。

>漢初の杜恬については、御史大夫も戦場に出て煮られてスープになる時代ですから、よく分からないというのが正直なところですね。
この人は御史から内史に昇進して各地を転戦し、漢の建国後は廷尉になっています。
漢の将軍として功績をあげて、封侯された人々のほとんどは、
漢帝国の官僚にはなっていないので、かなり特異な経歴だと言えます。
もともと御史で、後に廷尉の地位に就いたことを考えると、
杜恬は内史として、京師の軍事権と行政権の両方を持っていて、
前線で苦戦する劉邦の元に、京師の兵を率いて応援に向かったのではないかと、
妄想を膨らませてしまったりもします。
>>105
>李典の破虜将軍って何?
非常設の雑号将軍の一種です。
前漢末になると、大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍の四つの元帥級のポストと、
前将軍・後将軍・右将軍・左将軍の四つの中央軍司令官のポストが設置されます。
いずれも朝議に参加する資格を持ち、政治的にも強い影響力を持っていました。

雑号将軍というのは、これらの8将軍より格下で、
基本的には政治に参加する資格も無く、
軍の指揮権と占領地行政の権限のみが認められていました。
大将軍を大元帥、驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍を元帥、
前将軍・後将軍・右将軍・左将軍を大将とすると、
雑号将軍は中将・少将にあたります。
厳密に言えば、雑号将軍の中でも、格の違いはあるのですが、
時代によって格の違いが明確ではないので、ここでは述べません。
雑号将軍について、厳密に考証しようとすると、スレがもう一つ必要になります。
なお、後漢になると、8将軍も雑号将軍と同様に非常設の職とされました。
>>105
後漢末になると、朝廷や群雄が雑号将軍を濫発しまくったので、
あまりありがたみは無くなってしまいましたが、
それでも李典は華北を実効支配している曹操政権の破虜将軍なので、
当時としてはかなり重みのあった将軍号であると思われます。
ちなみに、三国時代に驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍に次ぐとされた、
四征将軍・四鎮将軍は、漢代では格の高い雑号将軍の一種でした。

ちなみに後漢が建国された際に、
征西大将軍馮異、征南大将軍岑彭、建威大将軍耿弇などの雑号将軍が、
右将軍ケ禹や左将軍賈復や前将軍耿純より遥かに大きな軍権を握っていましたが、
これは乱世ゆえの過渡的な措置だと思われます。

三国時代には乱世が常態化したため、当初は過渡的な措置であった雑号将軍の任命が、
正式な官制として採用されることになるのです。
111怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/12 08:06
>>107
外戚については、私もあなたのように理解しています。
>もしくは自分の言いなりになる奴(たとえ手下でなくても)を送り込んで、
悪名・疑惑を防ごうとしたと考えても良いですかね。
これについては、霍光の時の丞相が80代の老人や元部下(故吏)ばかりなのがそのままですね。

食邑は、実際には上がりを貰えるだけかもしれませんが、一応そこの君主です。
もらえるのも、少なくとも前漢の場合は「実際にそこから徴収した租税」でしょう。
陳平は額面5000戸、実際には30000戸の曲逆に封侯されていますが、実際の上がりを貰えるのでなかったらこれは劉邦からの特別な配慮になりません。
実際に徴税したものを貰えるからこそ、こういった話になります。

列侯の国の長官は「相」といい、また家丞などの執事っぽい者も付きます。
周勃のように、三公クラスが罷免される時の常套句に「国に就け」というのがあり、自分の列侯国へ行かされるのです。
官職に就かない者は就国が原則だったようです。


雑号将軍の沿革は永遠の青氏のまとめ通りでしょう。
付け加えるなら、前漢では大将軍以下の8将軍は常置ではなく、これらが整理されるのも武帝の頃です。
武帝以降は常に誰かが将軍位にありましたが、大将軍は前漢で4人しかいなかったように、いつでも全ての将軍がいたワケではありません。

雑号将軍も漢武帝から始まると思われます。
楼船将軍などのように、多くは実際に率いる兵種(楼船将軍の場合は水軍)や目標などから名付けられているようです。
11255:03/07/12 09:57
>>98 怨霊氏
ありがとうございます。

>>101
>ちなみに後漢が建国された際に、
>征西大将軍馮異、征南大将軍岑彭、建威大将軍耿?などの雑号将軍が、
>右将軍ケ禹や左将軍賈復や前将軍耿純より遥かに大きな軍権を握っていましたが、
>これは乱世ゆえの過渡的な措置だと思われます。

三国時代にはいり九品官の制度が確立すると、、四征や四鎮、四平、四安将軍が
常設されて、左右前後の将軍位よりも上位になる、という認識でよいのでしょうか。

もうひとつ、将軍位のなかでも特異に感じるのですが、中領軍や中護軍といった
ものと領軍、護軍将軍の位置づけ、また曹丕の時代に設置された鎮軍、撫軍将軍
の位階(というか、衛や四征将軍位と比較しての格付け)などについても、御説明
いただきたいのですが。
職務内容や権限はそれなりに認識しているのですが、これらの将軍位って、常設
ではないと思ったので…。
質問ばかりで、すみません。
>>112
>三国時代にはいり九品官の制度が確立すると、、四征や四鎮、四平、四安将軍が
>常設されて、左右前後の将軍位よりも上位になる、という認識でよいのでしょうか。
凄く大ざっぱに言えば、そうなります。
補足すると、大将軍は上公(元老扱い)の一品官。
驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍・四征将軍・四鎮将軍は宰相格の二品官。
ただし、序列は驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四征将軍>四鎮将軍です。
なお、魏制の四征将軍・四鎮将軍同士の間でも序列がありました。
東(揚州方面)>南(荊州方面)>西(雍州方面)>北(幽州方面)です。
ただ、これらの職はいつも設置されていたわけでもなく、空席だった時期もあります。
四平将軍、四安将軍、左右前後将軍は、閣僚待遇の三品官ですが、序列は不明です。
ただ、就任した人物を見ると、前将軍≧後将軍=左将軍=右将軍≧四安将軍>四平将軍と類推されます。
>>112
>中領軍や中護軍といったものと領軍、護軍将軍の位置づけ、
中領軍は宮門守備部隊の総司令官で、閣僚待遇の三品官。
中護軍は四品官で、中領軍の副司令官兼参謀長で、宮門守備部隊の人事も担当します。
領軍将軍、護軍将軍は非常置の職で、中領軍や中護軍にしておくのには大物過ぎる人物に、
特に中領軍や中護軍の職務を担当させたい場合に選ばれます。
ただ、官制が固まるまでは、中領軍や中護軍、護軍将軍が前線で戦ったりもしており、
単なる上級将官ポストとして扱われていた時期もありました。
中護軍から護軍将軍に昇進し、さらに領軍将軍まで昇進した蒋済が、
二品官の大尉(国防相)になっているので、護軍将軍は三品官相当、
領軍将軍は二品官相当と考えられます。
魏の武官で三公になった人物は、みな二品官の将軍位から、三公に昇っているからです。

なお、中領軍と中護軍は宮中の守りを担当していたので、
蒋済のように皇帝直属の軍事幕僚として諮問を受けたり、
領軍将軍夏侯献のように、死の床にある皇帝から後事を遺託されたり、
(政敵の劉放と孫資の策略で取り消された上に、失脚させられましたが)
大将軍として政権を握った曹爽が中領軍に弟の曹羲を送り込んで、
宮外の衛兵である中塁将軍と中堅将軍を廃止させ、その部隊も中領軍の管轄に組み入れて、
近衛軍の掌握を図るなど、武官職のはずなのに、政治的意味合いの強い職でした。

余談ですが、司馬懿が反曹爽クーデターを起こした時、
中護軍はもともと長男の司馬師が務めており、
中領軍の兵は曹羲の留守に付け込んで、シンパの太僕(運輸大臣)王観が掌握しました。
曹爽直属の兵は、やはり司徒(内相)高柔が掌握しました。
さらに、中領軍や中護軍の兵に睨みの利く大尉蒋済まで味方に付けていたのです。
大将軍直属の兵と、中領軍、中護軍の兵力を掌握した時点で、司馬懿は洛陽を掌握しました。
それだけ、中領軍、中護軍の部隊の政治的存在感は大きかったのです。
青、やり過ぎだ。
それに、もう少し余談を少なくしろ。関係ない話が多すぎる。
116怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/12 23:26
おお。やはり私ごときとは格がちゃいますな。
私は晋書職官志見ても良くわかんなかったですから。
余談については私も似たようなものなので、気を付けますデス。

中領軍、中護軍は皇帝の親衛隊の指揮官ですかね?
朝廷でのクーデター等がしばしば起こっている三国以降では、中領軍、中護軍の動向が重要そうですな。
皇帝が親政出来ていれば皇帝の側近が、そうでない時は権臣の側近が就任するのでしょうか。

司馬懿のクーデターでは中護軍司馬師が曹爽派に打ち込んだクサビとして機能した、という感じですか?

>>112
>また曹丕の時代に設置された鎮軍、撫軍将軍の位階
>(というか、衛や四征将軍位と比較しての格付け)などについても、
>御説明いただきたいのですが。
鎮軍大将軍は、曹丕が親征する際に付き従って、筆頭幕僚と前線部隊を監督させるために、陳群に与えたポスト。
撫軍大将軍は、曹丕が親征する際に、後方支援と後方部隊の監督をさせるために、司馬懿に与えたポストです。
ですから、将軍と考えるより、陳群は参謀総長、司馬懿は兵站総監兼参謀次長と考えた方が早いです。

曹叡が即位すると、陳群は鎮軍大将軍から二品官の司空(建設相)に、
司馬懿は撫軍大将軍から驃騎将軍に昇進しています。

将官が三公になるには、二品官相当の将軍位を有していなければならないことは前述しました。
また、体制が固まってからは、将官が驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍になるためには、
やはり二品官相当の将軍位を有していなければならなかったみたいです。
よって、鎮軍大将軍と撫軍大将軍は、非常置の将軍号ですが、二品官に相当すると考えられます。
(というより、『大』が付く将軍号は、だいたいは二品官相当と考えていいのですが)
118怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/13 10:50
中領軍、中護軍ですが、漢の衛尉の職掌なんですよね。
で、衛尉は晋書職官志見ると晋ではかなり弱体化したらしく、東晋ではついに廃止されました。
中領軍、中護軍の方に吸収されたんですな。
119怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/13 23:55
さてここいらで少し話を変えましょうか。

司徒と丞相と相国。
この三者はいずれも民政長官的存在ですが位置付けや格式がまるで違います。
もともと、後漢では太尉・司徒・司空の三公制でしたが、曹操の時に丞相制に復古しました。

これは単に名前が変わっただけではありません。
荀ケの下で尚書郎をしていた仲長統は、今の三公制度はお互いに責任逃れしたり、方針の統一が取れないので、丞相を復活して権力を集中し、外戚などに対抗せよ、などと主張しました。
この言からわかるように、丞相は一人で三公の職務すべてを統べるような存在と認識されていたようなのです。

漢の再建のため、軍事民政両面で八面六臂の活躍を見せる曹操にとっても、複数の省庁の管轄にかかるような事業なども多かったでしょうから、より強力な権力を握ろうとするのは政務の上でも当然の事でしょう。
丞相を復活させ、その丞相になる、というのは漢の政治を全て取り仕切る、というようなものなのです。
また逆に言えば、丞相就任までは曹操自身の政治的権力には限界があったのです。
120無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 00:12
漢(おとこ)の制度・・・
121怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/14 00:22
>>120
「おとこ」の制度を語りますか?
まあ、前漢の丞相は確かに「漢」(おとこ)にしかできませんよ。
罪があったら自殺、が原則ですから。
122無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 00:27
>>121
今の政治かもそれぐらいの覚悟でやってほしいですな。
脱線気味なんですが質問を。
漢という字が民族名や中国一般を指す言葉になったのは、
川の名前(漢水)→地方名(漢中)→漢中王→漢帝国
の流れなんだろうな、と想像がつくのですが、
漢が「おとこ」の意味を持つようになったのはどうして、いつからでしょう?
仏教の訳語として例えば羅漢とかは「おとこ」の意味が含まれそうですが、はて?
124無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 01:38
>>123
痴漢、熱血漢、破廉恥漢、正義漢、好漢
漢民族、漢土、
125無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 01:45
>>123
地名に用いられた漢の文字に「男」の意味もある、というだけのこと。
>>124-125
この時代の文書にこういう用例がある、という
具体例があったら教えてください。
127怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/14 07:56
「漢」=おとこ
の用例ですが、辞書等によればどうやら南北朝から隋唐あたりからの使用法らしいです。
由来までは説明が無かったですが、尊称として使われる場合、蔑称として使われる場合、両方があります。
地名、王朝名としての「漢」が意味としては先にあるのです。

南北朝時代の北朝あたりで、漢人と異民族それぞれの民族意識みたいなものから
「漢」人=ろくでもないおとこ(異民族から見て)
「漢」人=いいおとこ(漢人から見て)
といった連想が生まれたのではないでしょうか。
あくまで想像ですが。
「門外漢」なんかは一見故事成語っぽいんだけどね。

南北朝時代の姚秦で亀茲出身の鳩摩羅什が始めて漢訳した『阿弥陀経』に、
梵語のArahatの音写として阿羅漢という字が当てられています。
これは、立派な修行者というような意味のようです。

「漢」=あの野郎、俺達 という解釈は、米語のヤンキーに通じるものが
ありますね。ありそうな話だw
129怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/14 22:39
>>128
ありがたう。
そうですか、阿羅漢は音訳ですか。
ただ、現代中国語でも外来語の表記で「音訳+意訳」と、音が似ていて且つ意味も通じる字を当てるケースがあるので、
阿羅漢の「漢」には「おとこ」の意味を込めていた可能性もありますね。
私はその辺門外漢なのでただの思いつきですが。

確かに、「漢」は成り立ち的に「ヤンキー」と似たようなモノなのかも。
13050=61:03/07/14 23:05
間が開きすぎて今更感がありますが。

 石井仁先生の「漢末州牧考」(1992年、秋大史学38号)を読んでまいりました。
要約いたしますと、刺史州牧とはようするに

:刺史…郡県の行政に対する監察権を持つ。本来軍事権は無い。

:監軍使者…一個の官名ではなく、中郎将・謁者等、持節して軍を監督する勅使の総称。
      軍事司法権を持つ。

:州牧…刺史かつ監軍使者。ただし領兵権はない。
    将軍等の兵権を有す官職と兼任する事で軍事権を掌握し、強力な軍鎮と化す。

とのこと。さらに要所を埋めますと、

 安帝以降に刺史が鎮圧の指揮をとっているのは常態ではなく、劉焉の州牧制提案は
これの追認・強化を(表の)目的としたもの。
 『三国志』劉二牧伝注引『漢霊帝紀』、『華陽国志』などによれば、
劉焉の監軍使者・益州刺史・益州牧への就任は時間的な隔たりがあり、
最初に受けた「監軍使者・益州刺史」が益州牧へ一本化されたのではないか。
 董卓が并州牧就任に伴い部曲の解散を命じられると頑強に抵抗したのは、
州牧に単体で領兵権が無いことの傍証となる。
 州牧+将軍はあまりに強力なので、放任して独立政権化するのを防ぐために
三国以降は刺史・都督制に移行していく。

という論考でした。どうもわたくし監察権だの軍権だのの分析を怠っていたようで。
石井先生は「学会の軍事マニア」と呟かれる方で、ほとんど反論は無いみたいです。
大変勉強させていただきました&御報告まで。
官職の兼任について質問です
後漢書霊帝紀の中平三年に掖庭令畢嵐に玉堂殿修復を命じさせた。みたいなところがありますが、
畢嵐は十常侍メンバーで官位は中常侍のはずですが、
ここは下位の掖庭令を兼任している。と考えればいいんでしょうか?
13250=61:03/07/14 23:25
さらに遅レスを重ねますが。

>70
>>長沙走馬楼呉簡の事とか
 わたくし4年程前、知人の依頼でデータベース化のための打ち込み作業を手伝ったのですが、
「趙の家は何人家族だから税金はいくらで今のところ未払いがいくら」
ってな感じの、市役所のロッカーに眠ってた事務書類みたいのを延々と打たされ、
知人にその感想を漏らしたところ、
「面白いブツだったら金まで払って人に頼みゃーしないって」
と返され、こいつめハハハ!と思ったもんです。
その時のわたくし及び知人の共通見解では、「あれ、無意味」でしたね。
今どうなってるのかは不勉強につき知りません。

>96,98
 竇嬰と田蚡は儒学に通じており、儒者の政治を行おうとしたので、
黄老思想の信奉者である太皇太后に罷免された、と専傳に書かれてますな。
それにしても二人の人生に、儒学が全く役に立っていないのが笑えます。
 ここらへんも思想史等に詳しく触れている論文があるのですが、
例によってもう覚えちゃいないうえ確認してません。
また十日ぐらい後に報告したりしなかったり。それでは失礼致しました。
133怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/15 00:05
>50=61さま
ありがとうございます。
石井大先生の論考でしたか。恐れ多い事です。

長沙走馬楼呉簡、私は>>132を聞いてむしろ面白くなりました。
税金やら何やらの事が書いてあるのなら、当時の税制とかの研究にちっとは役立つのでしょうか?


で、>>131の畢嵐ですが、兼任なのでしょうね。
もともと(前漢)では中常侍は「加官」で、禁中に入り皇帝が奥で政務を行う時の顧問応対に当たる一種の資格でした。
(資格なので官秩も設けられていなかったようです)
資格であって、正式なオフィスを持って業務に当たる官ではなく、加官である中常侍とは別に正規の官職を持つ場合もあったのです。
後漢では加官ではないようですが、前漢時代をひきずって同様に別の官を持つ場合があったのでしょう。

もっとも、三国近くなると加官どころか皆平気で三州牧兼任とかするようになるのですが。

>>133
ありがとうございます。ステイタス的な意味があったのですね。
ということは蹇碩なんかも八校尉の上軍校尉と小黄門を兼ねてたんでしょうね。

>もっとも、三国近くなると加官どころか皆平気で三州牧兼任とかするようになるのですが。
やってますねぇ。もう支配地域とか過去なった官とかそのまま兼任してますよね。
135123:03/07/15 00:54
ありがとうございました。
いつ見ても面白いし勉強になるなぁ。
勉強不足でくれくれ君状態な俺が言うのもんなんですが、ここでもっといろいろ学ばせていただこうと思います。
スレ主(?)の怨霊さんをはじめ、みなさん、改めて宜しくお願いいたします。

>州牧+将軍はあまりに強力
三国志(正確に漢じゃなくてすみません)で、
呂昭が将軍(鎮北将軍?)兼冀州刺史(or牧?)につくとき、誰かが諌めていたような気がします。
もっとも、「安定している冀州に軍事をもってくるのはよくない」みたいな理由だったと思うんですけど。
まぁ、行政権プラス軍権をもつと・・・国の状態によっては独立したくもなりますね。
連続ですみません。

三公というと、時代によって変わっていってますね。
古代(西周頃?)なら、太師・太傅・太保。
漢は丞相・御史太夫・太尉とか大司馬・大司徒・大司空とか太尉・司徒・司空・・・。
晋になると、太師(太宰)・太傅・太保・大司馬は上公・・・でしたっけ。
唐になると太尉・司徒・司空は名誉だけかな?
時代によって変わっていくのを見ていると、
官職も人あってのものだから、生きているんだなぁと感慨を抱いてしまいます。
138怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/15 07:38
>>136
>>137
刺史の領域の広さの軍事・民政権を持ったら、それは前漢初期の諸侯王くらいの権力って事になるので、ほっといたら独立するでしょうね皆。

あと、上古(周)の三公は班固の時点で既に説が分かれており、実際はよく分かりません。
(太師・太傅・太保の説と司馬・司徒・司空の説があったようです)
秦から前漢では丞相と御史大夫(太尉は常置ではありませんでした)が三公と呼ばれていました。
それが前漢末に丞相・大司馬(大司馬○○将軍から改称)・大司空(御史大夫から改称)で三公とします。
これは一旦守旧派によって元に戻されますが、また三公が復活します。
今度は大司馬・大司徒・大司空と、丞相の名称が変わった上に筆頭から滑り落ちました。
後漢では「大」を取り、大司馬を太尉と変えて太尉・司徒・司空となって末期まで行きます。
で、曹操の時に丞相と御史大夫に復古するのです。

この変遷は、結局のところ権限が強大な丞相を何とか解体再編しようとしたためのものだったのです。
そのため、実は曹操の丞相就任はそんな長年の皇帝たちの努力を水泡に帰するものでした。

余談ですが、大司馬とか「大」をつけていたのは、当時、将軍や都尉の下士官に「司馬」というのがいたので「大」をつけないと紛らわしいし威厳がなかったためでしょう。

で、以降の時代では司徒などの三公は事実上名誉職として扱われるようになり、実際の宰相は尚書・中書・門下各省が担当する事になります。
>>113>>114>>117 永遠の青氏
>>116>>118 怨霊氏
遅レスとなってしまいましたが、ありがとうございました。
140山崎 渉:03/07/15 12:01

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
周代の"三公"というのは、「周公、畢公、召公という三人の公」でしょ。
漢代以降の"三公"とは全然違う。
142怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/15 18:57
>>141
私の「三公」の説明は基本的に漢書百官公卿表に基づくので、間違い等ありましたらご指摘お願いします。
典拠となる書名、篇名など教えていただけると幸いデス。
とくにその「周公、畢公、召公という三人の公」を三公と言うのは私はお恥ずかしながら初耳なのです。

なお、今になって確認したところ、三公=太師・太傅・太保は書経(尚書)周官にあります。
漢以降の三公とは確かに全然と言ってよいほど違うのですが。

14375=136:03/07/15 23:40
>>141
師・傅・保からして、先生みたいなイメージが出来るわけで、
周代と漢代の三公は違うんじゃないかっていうのは、素人の俺でも想像くらいはできました。
確かに、司徒とか司空とか司寇っていう官職もありますし。
ただ、なんかの国語辞書には、俺が書いた三公がのっていたので、拝借しました。
知ったかぶって、すみませんでした。
でも、召公セキは太保になったような気がします。
記憶が曖昧なんで断定は出来ませんが、金文だったような・・・。
また知ったかでしたらすみません。

俺は無知なのでみなさんが不愉快になるカキコをしてしまうかもしれませんが、
いろいろご指摘頂ければ幸いです。
144怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/16 00:10
いえ、こちらこそ返答ありがとうございます。
私としては初耳の話を聞きたかっただけでして。
国語辞典でしたか。
金文はこれまた恥ずかしながら無知なので私もなんともですが、
史記燕召公世家に、成王が幼少の時に召公が「三公」となった、とあります。
この三公は太師・太傅・太保です。
漢書賈誼伝によると、漢文帝の頃の人賈誼の文章中に
「昔者成王幼在繦抱之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師」とあるのです。
金文ではないですが、143さんの見たものと同様ですね。これでしょうか?

漢では太傅だけはありました。もっとも前漢では初期と王莽期のみに現れるものでしたが。
太師と太保は古いの大好きっ子王莽が平帝のおもり役として作りました。
あとは董卓が太師を自称してますね。
金文というのは文字の種類ですな。多分。
殷時代は甲骨文、秦・漢代は小篆が使われてたようです。
ちなみに、この篆書を発明したのは秦宰相李斯だったらしいです。



146怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/16 20:08
説明どうもです。
補足しましょう。

漢書芸文志によれば、篆書は周の時の「大篆」、秦の丞相李斯らが創ったという「小篆」があります。
またどちらとも違う、より簡易な「隷書」も秦で創られ普及したようです。

で、金文は周代などの青銅器(=「金」)なんかに記される古代の文字です。
例えば「さんずい」に当たる部分が「水」の形だったりと、我々の知る漢字の形に整理される前の状態といったところでしょうか。

甲骨文は殷で占卜した結果などを、占卜に使用した甲骨に刻み込んでいたものです。
今の漢字の源流と言われています。

正直詳しくないので、おかしいところは誰か教えてプリーズ。
147145:03/07/16 21:22
篆書には他にも繆篆というのがあって、これは漢代での
印に使われたようですね。別名印篆とも言います。
小篆などは後漢の許慎の「説文解字」に詳しくあります。

スレタイに合わせて、少し制度的な話も交えましょう。
漢帝国の文官採用規定によると、17歳以上の男子を試験して、
漢字(隷書)9000字以上を暗誦できるものを史に任命したようです。
史とはつまり書記ですね。ちなみに「史記」の史もこの意味で「歴史」の
史ではありません。
それに合格すると、さらに高度な8種類の試問が課されます。
前述の「篆書」、割符に用いる「刻符」、旗指物に使う「蟲書」、
判に彫る「モ印」、木簡・竹簡を封した上書きの「署書」、
青銅武器の銘文である「シュ書」と「隷書」です。
それらに合格すると、尚書省の書記になれます。

漢代の官吏登用制度というと孝廉による推挙のイメージが
強いですが、ちゃんと科挙みたいな試験もしてたんですね。
ちょっと資料不足なので、漢代のどの時期かまでは細かくわかりませんが。


148怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/16 21:55
>>147
ありがと。

その制度は漢書芸文志に似たようなのが載ってます。
全く同じではありませんが。(試問されるのは六体=古文・奇字・篆書・隷書・繆篆・蟲書の6つ)
なおそれは蕭何の法だそうで。

現代風に言えば、9000字を読み書き出来れば国家一種・地方上級試験合格、って感じでしょうかね?
まあ、この時代は財産による官吏登用資格もありましたが。
149145:03/07/17 02:06
僕がみたのは司馬遷の父が太史公としてその試験の試験管を
していた時代だから、恐らく景帝から武帝あたりの範囲だと思います。
前の方にもあるように、この2帝の代にかなりの変法があったらしいので
もしかしたら採用規定についても何か改正があったのかもしれません。
中途半端な知識で書き込みして申し訳ありません。

ところで、武官の方の採用規定などはどうだったのでしょうか?
外戚や世襲制で将軍などが決まるのはともかくとして、
他はやはり雑兵から叩き上げられるのですかね?
後世の武科挙みたいな制度はあったのでしょうか?
150怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/17 07:38
>>149
デタラメ書いていた訳ではないので、謝ることは無いッスよ。

前漢なんかでは兵卒は徴兵された民、が原則です。優れた功績でも無ければそこから出世、は難しかったのでは?と思います。
将校以上はいわば職業軍人です。
正直、正確な登用方法については恥ずかしながら私も良く知らないのですが、>>147にあったような試験の軍人版があったのかもしれません。

一旦武官になった場合、昇進の規定はしっかりありました。
特別な功績があった時の抜擢もありましたが、平和な時などでも勤務日数で昇進するようになっています。
要するに年功序列ですが、秋に「試射」があり、弩の射撃大会を行って命中数に応じて勤務日数がボーナスとしてもらえる(=昇進が早まる)ようになっていたそうです。

高級軍人になると、いわゆる武官と文官の違いは薄くなります。将軍として高名な人物は大抵は太守や中央の官僚(三公九卿)になっています。
前漢では「郎」という郎中令(光禄勲)の下の宮殿警備兵になることが文武双方の出世のスタートでした。
「郎」には軍人なら多大な功績(あの李広がそうです)、そのほか大臣の子弟、「賢良・方正」に推挙された者、などがなりました。
151zz2002050048007.userreverse.dion.ne.jp:03/07/17 08:36
__∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
152132:03/07/17 20:31
>141
 中央研究院の十三経及び電脳四部叢刊でいくつか項目を変えつつ検索してみましたが、
周・召・畢の三人を称して「三公」という事例は一つも発見できませんでした。
まだ調べていない文献も山ほどあるんですが、その国語辞典の著者の新説じゃないでしょうか。
そもそも国語辞典を典拠とは言いませんが。
 もっとも、その三者はそれぞれ「三公」の職についています。
最初は>144に挙げられている通り、太保に召公、太傅に周公、太師に太公が就任し、
太公死後に周公が太師、畢公が太傅に昇進し、周公死後は畢公が太師となったことが、
『尚書』周書の各篇に散見されます。金文資料は私も詳しくないのですみません。
 就任者がみな「公」だったのでその三つの役職を「三公」と呼ぶようになった可能性も
ありそうな気はしますが、そういった資料は残念ながら見たことないですね。

>143
>>師・傅・保からして、先生みたいなイメージ
 名前がどうだろうと、天子の補佐をする役目、ということは変わりません。
「栗」を植えるのは「慄然」とさせるため、なんてことを言って孔子に怒られた弟子がいますが、
先秦の文献資料に出てくる漢字を現代の漢字のイメージで勝手に解釈すると、
恐ろしい間違いの元になります…と、わたくし先日教授に叱られました。何年院生やってんだ、と。
お互い気をつけたいものですね。

宿題はやってきてません。あんまり勝手なことばかりくっちゃべって申し訳ない。
153怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/17 20:31
さて、(もしあれば)質問は随時受け付けとして、ここいらで少し趣向を変えてみましょう。
三国志中の有名人を、官職面から分析します。

まずはやっぱこれでしょの曹操。

曹操の初任官は20歳。「孝廉」で推挙され、「郎」となります。
孝廉は主に徳行など立派な人物を推挙するもので、郎になっている事から分かるようにエリートコースです。
そして洛陽北部尉に。洛陽県は尉(警察)が二名いたと思われるので、その北側担当でしょう。
「五色棒」なるものを作り蹇碩の叔父を叩き殺すほどの厳格さでした。
続いて頓丘県令に。エン州は東郡の県です。
で、一旦親戚の事件(誅殺)のあおりで免官され、その後ほどなくして上奏文が霊帝に認められて議郎に復帰したそうです。
議郎は官秩600石。県令は1000石なので少々下がりました。

そこで黄巾の乱。曹操は騎都尉になります。

続く。
154怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/17 20:38
>>152
おっと同時でしたか。こんばんは。
そしてやはり院生の方でしたね。私なんぞにお付き合いいただき光栄の極み。

ええ、古代の漢字の意味はむずかしいですねぇ。
例えば、「女」=「汝」とか。
夏侯嬰の侯国、「汝陰」が漢書では「女陰」と書かれる事があるのです・・・。

まあ、あと有名なところでは、「易」という字には「変わる」という意味と「変わらない」という意味があるとか・・・。
155怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/18 00:28
153のような事って今さらなのかもしれないけど、一応やってみましょう。
続き。

騎都尉は光禄勲の下。比2000石。名前の通り、本来は羽林(禁軍)の騎兵を監察するらしいです。
豫州穎川郡の黄巾賊討伐に向かい、先発していた皇輔嵩(左中郎将)・朱儁(右中郎将)を応援します。
おそらくその功績でしょう、その後済南王相に昇進します。
時の済南王は劉贇かな?献帝の時に黄巾に殺される運命です。
相はその王国の宰相で太守とほぼ同格ですが、この時代の王国はちっぽけなのでむしろ太守より一段格落ちします。
この時、曹操は「淫祀」として城陽景王のほこらを破壊、崇拝を禁止しています。

続く。



156怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/18 08:05
ああ間違えたよ皇甫嵩だよ皇輔嵩じゃないよ。ゴメン。

続き。というか少し脱線。

城陽景王について。朱虚侯劉章と言ったほうが分かる人が多いかもしれません。
彼は高祖劉邦の長男(非嫡子)斉王肥の次男で、呂后の専権時代に長安にいました。
呂后を恐れぬ威勢の良い貴公子だったそうで、呂后亡き後の呂氏誅滅クーデターでも中心的人物として働き、呂氏側の巨魁呂産を討ち取りました。
その後、城陽王に立てられ子孫は前漢末期まで王位を継いでいます。

問題、というか興味あるのは、「なんで城陽景王章が祀られているのか」です。
王莽の命取りとなった反乱の一つ、斉の劉盆子集団には城陽景王を祀る巫女が居たそうで、集団内でご利益を求めて祀っていたようです。
その集団が皇帝を立てる時には城陽景王の子孫を探し、くじ引きで劉盆子に決定したそうです。
ここまで城陽景王が神格化されるのは斉地方特有と思われますが、諸侯王になった貴公子はいくらでもいますし、呂氏誅滅の参加者も山ほどいます。何故彼だったのでしょうか?

中国で神格化されやすいのは、「恨みを持って死んでいった英雄」だそうです。
まあこれは古今東西どこでも似たようなものかもしれませんが。
実は、城陽景王というか斉は呂氏を滅ぼした時に長安の大臣・元勲たちに警戒され、イマイチ功績に見合った褒賞が無かったのです。
しかも、城陽景王はクーデター後数年で兄の斉王と前後して死亡します。
余りにも若いその死から、文帝・大臣による暗殺を妄想する私はおかしいでしょうか?

事実暗殺であれば、城陽景王はまさしく「恨みを持って死んでいった英雄」なのでしょう。
斉では、あたかも日本における源義経のような存在になったのではないでしょうか。

曹操が根絶しようとした「淫祠」とはこういったものでした。
漢を守るクーデターの功労者で、漢の賊王莽を滅ぼした反乱者に祀られていた城陽景王が、後に漢の実権を奪う曹操によってその祭祀を根絶されるというのは、なかなか皮肉な話ですね。

好きな話なもので長くなりました。スマねっす。
157怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/18 19:43
世間は夏休みですか。いいねぇ、学生に戻りたい気もするねぇ。

続き。

済南国をよく治めた曹操は続いて東郡太守に任命されます。
しかし彼は病と称して辞退、郷里に戻ってしまいます。理由は不明。
ただ東郡は黄巾の乱で皇甫嵩が戦った地なので、荒廃した後の戦後処理が嫌だった、またはもっと単純に黄巾残党などが危険だったので嫌だったのかもしれませんね。

辞めていた間に、曹操は冀州刺史王芬、許攸(あの許攸です)らによる霊帝廃立計画の同志に誘われました。
しかし曹操は拒絶、クーデターは当然失敗します。そんな誘いが来るという事は、宦官の孫とはいえ彼は宦官よりはいわゆる清流派として見られていたようですね。

曹操が再び官僚に復帰して就任したのは西園八校尉の一つ、典軍校尉。
西園八校尉は霊帝が中央軍の再編成を狙ったものと言われ、西園八校尉の総大将には霊帝自身が「無上将軍」と言う形で就きました。
八校尉には清流派と思われる者と宦官の双方が含まれており、両者の融和や、皇帝による両者のコントロールをも狙っていたのかもしれませんね。
霊帝はすぐ死んだので成功しませんでしたが。

なお、劉備は張純の乱討伐に参加し、死んだフリして九死に一生を得ていた頃でしょうか。
さすがにエリート曹操とは比較になりませんな。

続く。
158怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/19 23:31
よく考えたら、今やってる事なんてそこいらのサイトやら書籍やらでやってることだよなぁ。
需要ナシかな?でも上げる。

続き。

西園八校尉の曹操ですが、霊帝の死とその後の混乱の後、董卓により驍騎校尉に就けられ腹心になるよう誘われました。
しかし曹操は逃亡、陳留で挙兵します。
曹操は例の対董卓挙兵に参加し、「行奮武将軍」となります。
この「行」は「臨時代行」の意味で、ここでは「仮に奮武将軍の業務を代行している」という扱いで兵士を率いるのを正当化したのでしょう。
正当な官職や命令が無く兵を出したら反乱ですから。
かといって太守・将軍等でない(校尉に就く前に逃げましたし)彼は正規には兵を率いる権限が無いのです。

その後の動向を見ると、この戦いではどうやら曹操は挙兵の地陳留の太守張バクと近い関係にあり、実は張バクの指揮下だったのかもしれません。
袁紹が曹操に張バクを殺すよう持ちかけられ、曹操が拒絶したというのも(三国志呂布伝附張バク伝)、上司の張バクを裏切れ、という意味だったのでは?

その後、劉虞擁立失敗やら韓馥失脚やらで同盟崩壊の後、曹操は東郡の黒山賊を討って袁紹の上奏により東郡太守となります。
といっても実際には朝廷は長安にありましたので、勝手にやったようなものかもしれませんが。
前回と違い東郡太守を受けたのは、今度は自前の兵を持っていたからかもしれません。

続く。
オモシロイ(・∀・)イイ!!ヨンデルヨー
160怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/20 01:06
>>159
ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいです。

続き。

その頃長安では董卓暗殺、呂布敗北と激動し、一方曹操周辺ではあの青州黄巾が東郡の属するエン州を攻めます。
エン州刺史劉岱死亡。
同じ東郡内の済北国相鮑信は元々曹操に推挙されて相になったのですが、今度は彼が曹操を空位となったエン州刺史に迎え入れます。
しかも何故か領エン州「牧」に。前述のように牧の方が格上です。
また、「領」ははっきりとは分かりませんが、「自分の現在の地位以上のランクの官職を仮に受け持つ」とでもいった扱いでしょうか。
一気に領エン州牧へステップアップした曹操は青州黄巾の降伏を受け入れます。

その後、反乱者と一緒になってエン州を侵略した徐州牧陶謙を討ったり、その隙を呂布に狙われたりしながら、3年半後に正式に皇帝からエン州牧に任命されました。

続く。
後漢末は群雄同士の争いもそうだが、西園八校尉できてからの勢力争いが面白い。
兵権を独占していた何進に対抗するために霊帝が西園八校尉作って
更に大将軍を上軍校尉(蹇碩)の下につけて有名無実化するんだけど
その後の蹇碩の小心者っぷりが…
162怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/20 11:34
>>161
上軍校尉蹇碩は大将軍や司隷校尉をも監督する事になっていたそうですね。
但し、何進は霊帝に「無上将軍」と名乗り皇帝自ら兵を率いるポーズを示すように進言した張本人ですので、八校尉が何進に対抗するものかどうかは微妙な気もします。

んで曹操の続き。

正式なエン州牧任命の翌年、曹操は長安を離れた皇帝を保護、建徳将軍に任命されます。
更に4ヵ月後、鎮東将軍に任命され費亭侯に封ぜられます。
亭侯は県の下部組織、「亭」(劉邦のなった亭長の「亭」です)の侯で、その封邑が費という地にある事を示しています。
そして皇帝と共に洛陽へ到着すると、皇帝は曹操に「節」「鉞」を貸し与え(「仮」)、同時に「録尚書事」とします。
「節」は天子の使者の証となる旗で、「節」の元に発する命令は「詔」、すなわち皇帝の命令となるのです。
要するに皇帝の代理人です。
「鉞」はいわば「節」の軍事版でしょうか。軍権の象徴です。
「録尚書事」は先にこのスレに出たと思いましたが、皇帝の決裁を助け、あるいは代行するものです。
日本の摂政・関白に似たところがあるかもしれません。
2ヵ月後、許へ遷都するとともに曹操は大将軍に任命され、武平侯に封ぜられます。
今度は「亭」と付かないので、一つの県に封建された事になりますから封邑は相当増えたでしょう。

しかしその後袁紹が太尉就任に難色を示すと、曹操は大将軍を退いて袁紹に譲り、自分は司空に就任、軍事権は「行車騎将軍」として掌握する事としました。
一見すると袁紹の圧力に負けたように思えますが、曹操はこれで三公の一人として民政、代行とはいえ車騎将軍仮節鉞として軍事権、そして録尚書事として皇帝の政務に干渉と、国政のあらゆる分野に睨みを利かせることの出来る存在になりました。

続く。
163161:03/07/20 14:48
>>162
レスどうも。そういえば蹇碩って出兵したこと無かったなー期間が短かったからだろうけど
とはいえ何進もなかったような…どちらかといえば何苗の方が軍事向きっぽいかな?

この頃から袁紹が何進にべったりついて何進の方策の方向修正をしているが当の何進も…
164ニセクロ:03/07/20 21:09
すごいすごいと思いながらここまで読ませて頂きました。
今まで私は三国志の方で出てくる劉焉の建議などから推測して
刺史と牧の違いを軍権があるかないかの二択と捉えていたのですが、
制度上はもう少し複雑だったんですね。
後漢末、劉表も陶謙も、州牧だけでは飽き足らず将軍職も兼任したがっていた
ように見えて、不思議に思っていたのですが、納得できました。
(私は州の外へ軍を使うことを考えて、牧だけではなく将軍職を望んでいたと
理解していたのですが、そういうことじゃなかったわけですね。)
勉強になります。

ここまで進んでしまった話の腰を折るようで申し訳ないですが、
幾つかお聞きしたいことがあります。

1)領兵権と言うものが、今一つイメージできないでいます。
これはどういうものなのか、もう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。
例えば兵が損耗した場合、中朗将などは中央からの増援をまたなければならないのに、
将軍は現地調達(徴兵・募兵)できる権限があったと言うような違いでしょうか?
2)この時期の郡や州、州刺史・州牧の軍事組織を詳しく教えて頂けないでしょうか?
州刺史については監察権によって郡太守を動かし、郡の都尉や司馬などが軍を率いたと
思うのですが、州牧の場合が分かりません。
呂布伝の中の『英雄紀』や三国志蜀書黄忠伝などから、州牧は中朗将を使っている様子
が見えるのですが、これは州牧が自分の権限の中で組織したものなのでしょうか。
それとも劉表など将軍職を兼有していた群雄が、将軍の権限を使って組織したもの
なのでしょうか。

3)督軍御史中丞と言う職名があります。
裴松之の注を含めて三国志の中、この職名が出てくるのは2度だけで、厳象と司馬懿が
就いたことのある官職なのですが、通常の御史中丞とどう違うのかよく分かりません。
督軍かつ御史中丞と言うことなのか、御史中丞が外に兵を率いて出るような特殊な状態
にあったとき、軍権を賦与され、そう呼ばれていたのか。
宜しければ教えて頂けないでしょうか。


あと、蛇足ですが、>>162曹操の録尚書事のところ、
ついでに尚書令の荀イクのことも触れて二人コンビでどういう狙い・働きをしたのか
説明追加して頂けるともっと萌えます。
ニセクロさん、前から気になってたんだが、
中「朗」将じゃないよ、中「郎」将だよ。

関係ない話で腰を折ってスマソ。
このスレは大好きだし、
ニセクロさんのサイトも応援してる。
気にせずに話を続けてくれ。
167怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 00:47
>>164
>>165
おお、よもや私も見るサイト管理人氏降臨とは思いもよらなんだ。
私の妄想含む駄文にお付き合い頂き恐縮です。
>>166
大好きだと言ってくれる方がいたとは驚きです。
レス少ないので無視されてるのかと思ってましたので。
もったいないお言葉。
ではニセクロ氏のご質問について、分かる部分からお答えします。
正直、まだ良く分からないような所もあるので。


私の持つ将軍などのイメージは、以下の通りです。
古来より、一旦都を離れれば将軍府内には君主の権力さえ及ばないとされていました。
それゆえ、目的や制限を事前に設定してしまうと、後は将軍任せになってしまうのです。
孫武の挿話や、淮陰侯韓信などがいい例でしょう。
だから、一旦命令を受けると後は自由行動。募兵なども、理屈の上では将帥の自由でしょう。
これは太守や中郎将が兵を率いる場合でも大して変わらないと思います。
ただ、なんでもあり、ではなく、当然ながら君主(皇帝)はその将帥のお目付け役をつけます。
それが軍事監察官であり、3の督軍御史中丞もその一例と思われます。
168怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 00:47

以前このスレに書いた私の考えが正しければ、州牧そのものには本来は軍事監察権しかないように思われます。
しかも州内だけなので、中郎将などに命令するのは権限では無いと思います。
劉表の場合は鎮南将軍・荊州牧・仮節なので、中郎将へ命令できるとしたら将軍か仮節のどちらかの権力でしょう。


督軍御史中丞ですが、1で述べたように皇帝は将軍が勝手しないように督軍を置きます。
督軍御史中丞はそのために御史中丞が外に出る時の職(官名というより、「督軍」は職務内容ですね)でしょう。
なぜ御史中丞かというと、秦では御史が後の刺史のように郡を監察したり(監御史)、将軍を監督していたようなのです。
前漢武帝期にも督軍御史が確認できます(終軍伝)。
これはもともと御史が君主の側近秘書官だった事によります。君主の側近が将軍を監視したのです。
督軍御史中丞はその流れをくむものと考えられます。中丞がじきじきに督軍するのは、ただの侍御史では位が低いと考えられたからでしょうか。

以上、少々まとまりがなく、もしかすると期待された答えになっていないかもしれませんがとりあえずの返答とさせていただきます。曹操と荀ケについては、また後で。
はっきりしなかった部分の確認、あるいはご意見等お待ちしております。
169ニセクロ:03/07/21 05:39
指摘ありがと。他に昔はカコウ氏のコウとか間違ってました。
170怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 08:58
>>168の2にあとから流し読みしていて見つけたので補足。
三国志鍾ヨウ伝によれば、曹操が関中を鍾ヨウに委任する際に「侍中守司隷校尉、持節督関中諸軍」としたとの事。
「持節」と「仮節」の違いはありますが、「節」によって軍事権を裏付けているようです。
劉表も「仮節」によって「督荊州諸軍」の権力を持ち、それに基いて荊州にいる中郎将黄忠に命令するという形だったのではないでしょうか。

では曹操の続き。

曹操は司空になってから各地を転戦。袁紹を破り彼が死ぬと曹操は皇帝の名の下に領冀州牧となります。
そして袁紹チルドレンを退治すると、三公制度を丞相・御史大夫に改めて丞相に就任します。
実はこのあたりになると曹操の官位はあまり変わりません。もう最高位なので。

そして馬超退治の後に
賛拝不名(朝廷で名乗る時、呼ばれる時などに諱を言わない)、
入朝不趨(朝廷内では本来身体をかがめて小走りに移動しなければならないが、それをせず堂々と歩いても怒られない)、
剣履上殿(殿中でも帯剣・土足してよい)
という前漢の蕭何と同じ特典を与えられます。
これらは権力そのものには変わりはないのですが、もはや曹操は単なる臣下ではない事を示しています。

さらに翌年、魏公に就任します。
魏公の制度は「漢初諸侯王の制」と同じにするとの事なので、魏国には漢初の諸侯王国にあった官が復活します。
なお漢での官職としては、丞相も領冀州牧もそのままです。
そのまた翌年には、魏公の位を諸侯王の上に置きました。
これで皇帝との差はわずかになりました。

なお、「公」は王莽が簒奪直前に「安漢公」になったのと同様であり、曹操の魏公就任も(誰も口には出さないでしょうが)王莽を真似たものと思われます。

続く。
後漢の地方将校の位について質問です
辺境各地に独自の営をもっている匈奴中郎将・護烏丸校尉・護羌校尉ですが
彼らの官位に上下とかあったんでしょうか?
一般的には中郎将>校尉だと思うんですがどちらも比二千石ですよね

あと度遼将軍も前述の官位のように独自の営を持ってるんでしょうか?


>>168
横レスで質問です
督軍御史中丞は中郎将や将軍の軍事行動で発生する臨時官で、
督軍御史中丞と御史中丞は同時に存在するということでしょうか?
172171:03/07/21 09:23
すみません書き忘れです

後漢時代には山越に対する匈奴中郎将みたいな官が存在してないようですが、
呉の時代には討越中郎将などの(営自体はなかったかもしれない)官があります。
これはやはり南方に重きを置いてなかったからでしょうか?
173怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 09:23
続き。

曹操は娘が皇后に立てられた年に、「承制封拝諸侯・守・相」する権限を与えられます。
要するに、「お前の一存で諸侯王や列侯、太守・諸侯王相を任命してよい」という事です。
形の上とはいえ今までは皇帝の命を待たなければならなかったので、より迅速に人事や褒賞を処理できるという訳です。

更に翌年にはついに「魏王」になりました。
王莽は安漢公からいきなり即位したので、曹操の魏王封建は王莽さえしなかった事と言えます。

曹操の官位や位についてはこれで終わりです。

あと、曹操の録尚書事と荀ケの尚書令の関係について。
これは前に書きましたが、録尚書事は皇帝の事務代行です。
一方、尚書令は皇帝の秘書長です。

ということで、実際は荀ケが尚書令として「皇帝が下す文書(詔)」の草案を作り、
曹操が録尚書事として荀ケの作った文書をチェックし、添削した上でゴーサインを出して皇帝に見せ、詔として発布するのでしょう。
モチロン皇帝自身もチェックは出来ますが、勢い「曹操の言うとおりにせよ」となる可能性が高いワケです。
そして、この2人のように尚書令と録尚書事が息を合わせる事で、事実上皇帝の出す命令を思うままにコントロール出来るという事になります。
174怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 09:51
>>171
匈奴中郎将・護烏丸校尉・護羌校尉ですが、それぞれ上下関係は無いと思われます。
少なくとも続漢書百官志では並列的に記載されていますので。
また、後漢では呉ほど切迫した対山越戦略を必要としなかったのではないかと思いますので、特に対応する官が置かれなかったのではないでしょうか。
あるいは、山越は服属した数が少なかったために置く必要がなかったのかも。

度遼将軍は出撃した時には将軍の幕府があるでしょうが、常設はされないでしょう。
将軍は、少なくとも名目上は臨時に置かれるものですから。

督軍御史中丞は、私は御史中丞が「督軍」する時の呼び名であって、
督軍御史中丞=御史中丞、言い換えれば同時には一名しか存在していないと考えます。

さて、次は劉備の官職を語りましょうかね。
督軍・御史中丞って書くべきなんじゃね?
持節征東将軍だと見難いでしょ。それと同じで。
176怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 13:33
>>175
確かに一理ありますね。
忘れっぽいのでまたつなげて書いちゃうかもしれないけど、分けて書きますね。

では「三国志有名人の官職を考察」劉備篇。
まあ某スレでやったんですけどね似た事を。

劉備は対黄巾の義兵となり、功を立てて(張純を討ったという説も)安喜県尉になります。
同じ県尉でも、曹操とでは就任の経緯も格もまるで違います。
しかも有名ですが督郵ぶったたいて逃亡。
同じ杖で叩くのでも、片方は督郵、もう片方は蹇碩の叔父・・・。

その後大将軍何進の下へ行き、都尉毋丘毅なる者にくっついて丹揚で募兵。
途中でまた賊相手に軍功あって、今度は下密県丞になります。しかしこれも長続きはしなかったようです。
続いてまた高唐県尉になり、今度は真面目にやったのか同県令になりました。
でも今度は賊の襲撃に負けたらしい。
んで公孫サンの所に逃げ込んで、もうすっかり独立気分の公孫サンの別部司馬となり、公孫サンは青州刺史田楷に袁紹を抑えさせるのを劉備に助けさせます。
(なお高唐は青州平原郡に属します。公孫サン・田楷の所に逃げたのはそれも理由かも)
そこでも功績のあった劉備は平原県令、ついで平原国相になります(平原も青州)。

続く。
177怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 19:13
劉備篇続き。んで定期揚げ。

その後劉備は徐州牧陶謙(自業自得)のSOSで徐州入り。そこでまんまと陶謙に乗り換えて豫州刺史をせしめます。
そして更に領徐州牧。この辺の事情は割愛します。有名ですから。
ちなみに劉備を徐州牧につけたがった者たちは袁術に対抗する為に劉備を迎えようとしたようですね。

曹操もどうやら対袁術に使えると踏んだのか、劉備を鎮東将軍、宜城亭侯につけて劉備の領兵に法的根拠を与えます。
今気付きましたが同年に曹操が鎮東将軍から大将軍になっていますね。
鎮東将軍は曹操のお古(?)ですな。

その後は呂布となんだかんだで、結局徐州追い出されて曹操の下へ逃げます。
そこで豫州牧にしてもらいます。そして曹操にくっついて呂布を打倒。
鎮東将軍から左将軍に遷ります。呂布打倒の褒賞でしょうか。

続く。
もし「続く」のを遮ったらごめん

>>127-128
漢の古語辞典の用例を見ると、「水滸伝」の「好漢」が取り上げられている。
順番として 地名>>男 の意味の発生だろう。また、>>129のように初めは
あまりよい意味ではなかったのだろう。それを小説中の「イイ男」を意味させる
ために「好漢」なんだろうな。そうでもなければ「好漢」の「好」をつける必要
ないし。
179怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 19:51
>>178
いえ、むしろどんどん遮ってくだちい。
住人少なくて全てのキリ番を自分が取る事にでもなったらワタシ淋しくて淋しい病気になってしまうので。
建設的であれば質問、回答、意見、反論、茶々、余談など大歓迎、ユーアーウェルカムの方向で。

確かに「好」がわざわざ付いているんだから、当時の「漢」は一般にはあまりヨイ意味ではなかったという事になりますな。
180永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/07/21 23:17
まさか、私が世界史板に常駐している間に、
かのニセクロさんが降臨していたとは…。
レスできなかったのが残念…!
181怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 23:53
>>180
こんばんは。
ニセクロ氏はまた来て頂けると信じておりますので、その時を待ちましょう。

さて劉備の続き。

左将軍になったあとは、暗殺計画発覚と徐州刺史車冑殺害・反旗、袁紹の懐に入り、継いで汝南へ。
ここまでは官位が変わらないので言うことないです。
但し、豫州牧と左将軍の印綬はしっかり握って離さなかった事に注意。
州牧はともかく、左将軍が兵士を連れ回す一応の根拠になったのだから、こいつは手放せないというワケです。

官位に変化があるのは赤壁まですっ飛ばしたあと、四郡を征服し、名目上は劉備が推挙した荊州刺史劉gが死んだ後に荊州牧になるところです。
そして益州。
ここで面白いのは、仲違い前に劉ショウとお互いに相手を高官に推挙している事です。
もちろん実際にそれが通るとも思えないので自作自演の自称みたいなものですが、劉備は劉ショウに「行大司馬、領司隷校尉」に推挙されました。
(劉備は劉ショウを「行鎮西大将軍、領益州牧」に推挙)
この「領司隷校尉」を、劉備はちゃんと最後(即位)まで名乗りつづけます。
(「行大司馬」は名目上臨時の官ですからその後消えています)

そして皆さんご存知でしょうが、成都を落とし領益州牧を加えました。

続く。
182怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/22 07:57
続き。

劉備が漢中王になるのは、実態は単なる自称です。
しかし形式上は劉備の部下である臣下が皇帝に「劉備を漢中王につけて下さい」と上奏して勝手に劉備を漢中王に祭り上げ、劉備も皇帝に事後報告する、という感じになっています。
あと面白いのが漢中王と一緒に大司馬も加えられ、左将軍と宜城亭侯の印綬を返上しています。
 左将軍→大司馬
 宜城亭侯→漢中王
王としては左将軍では低すぎるからと、最高位を名乗る事にしたのでしょうか?

という事で、劉備の最高官位はこうなります。

 大司馬、領「司隷校尉、豫・荊・益三州牧」、漢中王

理屈の上では、益州は漢中王かつ益州牧として領有&統治し、荊州は荊州牧として治めるだけで劉備が領有はしていないことになります。

この後は皇帝を自称して呉に返り討ちに遭っておしまい。

次は孫氏で。
183怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/22 18:41
では「三国志有名人の官職を考察」孫堅篇。
孫氏なら某呉書見聞があるのでワタシの出る幕なんて無いのかもしれませんが、とりあえずやりましょう。

孫堅は17歳前から故郷呉郡富春県の吏として働き、海賊をぶち殺しました。
これが呉郡に聞こえ、仮尉となりました。
富春県の尉ですね。
この「仮」の意味するところは恥ずかしながら良くわからないのですが、ここでは特例で若いけれど昇進、みたいなニュアンスではないでしょうか。

そして会稽で「妖賊」などと魅力的な修飾語が付く許昌(人名)の反乱が起こります。
孫堅は呉郡の司馬として兵を集め、陽明皇帝許昌を倒します。
司馬は郡の軍隊の中隊長でしょうか。

孫堅のこの妖賊退治の功績は揚州刺史臧旻によって中央に報告され、詔で孫堅は塩トク県丞(塩トク県は徐州広陵郡)になります。
県吏から、まだ「副」とはいえ長官職(「長吏」といいます)への道が開けました。
続いてクイ県丞、下ヒ県丞と遷ります。
(両県とも徐州下ヒ国。だんだん中央に近くなっていますね)

そして黄巾の乱勃発。
右中郎将朱儁が孫堅を「佐軍司馬」とします。
これは近くの郡県から優秀な者を呼び寄せたのか、それとも孫堅の事を知っていたのか。
佐軍司馬は先の「司馬」と同じで中隊長というところ。
将軍以下、軍隊あるところに基本的にこの「司馬」があります。
「佐軍」などと付いているのは、数多くの軍勢を率いるため司馬が沢山いたので区別したのでしょうか。
孫堅はここでも功績を挙げ、朱儁の「別部司馬」となります。
「佐軍」と「別部」の関係は良く分かりませんが、昇進なのは間違いないでしょう。
「別部司馬」は遊撃隊長、でしょうか?

続く。
184怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/22 19:25
あ、ごめん。
仮司馬は「司馬の副官」でした。修行が足りん・・・。
(続漢書百官志より)

続き。

孫堅は今度は辺章・韓遂の乱を平定するために司空にして行車騎将軍の張温の「與参軍事」となりました。
正規の命令系統にある職では無い筈で、字の如く参謀のようなものではないでしょうか。
この時に孫堅は先に反乱鎮定をしていた董卓を斬れと進言しています。
反乱は、反乱者が大軍が来たと知るや降伏したのですぐに終わりました。
そのため軍功も無かったのですが、董卓の罪を挙げて排除を主張したのに共感した人が結構いたらしく、孫堅は議郎になります。
曹操もなりましたが、必要な時に将や太守に就けるための人材プールです。

という事で、長沙で区星なる者の反乱があると孫堅は待ってましたとばかりに長沙太守に任命され、期待に違わぬ働きを見せました。
かくして反乱鎮定の功で早くも烏程侯に封建されました。曹操より早いですね。

そして例の反董卓挙兵に、孫堅は長沙太守として参加します。
しかしその途上、孫堅は自分の監察官(事実上の上司)である王叡と同僚の南陽太守張咨を殺害し北上しました。

続く。



185怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/22 20:00
また間違いつーか不足。
王叡は荊州刺史ね。ちなみにロウヤ王氏だったりする。
後任が劉表。

刺史、太守を殺した孫堅は、おそらく彼らの兵なども合わせつつ北上。
南陽郡魯陽県で後将軍袁術に会い、袁術は孫堅を「破虜将軍、領豫州刺史」に推挙しました。
と共に袁術は主の消えた南陽郡を不法占拠。
ここで、孫堅と袁術はいわば共犯者になったと言えましょう。
理由はどうあれ独断で刺史・太守を殺す孫堅は、かの袁術と似た者同志なのかもしれません。

孫堅は董卓側と戦い、洛陽の皇帝陵修繕などを終えて魯陽に戻ります。

それから袁術は孫堅に荊州刺史劉表を攻撃させましたが、ご存知のように射殺されました。
曹操が青州黄巾を配下に収め、袁術追い落としの戦いを進めていた頃です。

孫堅は昇進ルートが曹操のエリートタイプとはまるで違うし、劉備の乱世タイプとも少々違っていて面白いですね。
公孫サンなんかに似ているかも?
遮るようで悪いのですが、劉備の官職について二、三質問させて下さい。

1)徐州牧
劉備は陶謙の死後、徐州牧になったと言われますが、
正史本文を見ると先主伝と孫乾伝に「領徐州」とあるくらいで、
後の豫州牧や荊州牧と違って明確に牧になったという記述は無いように思うのですが、
劉備が徐州牧になったと言われる根拠はいったい何なのでしょう?

2)益州牧
劉備は皇帝即位前に益州牧だったことは間違いないと思うのですが、
即位後も益州牧を兼任してるのでしょうか?
普通、皇帝が官職を持つなんて異常なことは行わないと思うのですが、
劉備の皇帝としての在位中に、
劉備以外に益州牧や益州刺史が見当たらないのにも関わらず黄権が治中従事だったり、
劉備の死の直後に諸葛亮が益州牧になっているのなどを見ると、
どうにも兼任していたようにしか思えないのですが。

以上、よろしければご教示下さい。
187怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 00:36
>>186
正直言って、今のところ私にはどちらも明確な回答を提出することが出来ません。

1ですが、私が見たのはどれも「領徐州」で、186氏の言うように牧なのか刺史なのか分からないのです。
しかし、消極的な理由ですが、
 1:同時代の資料中、「領」が付くのは牧ばかりで、刺史の例は私はまだ見た事が無い。
 2:徐州牧陶謙を継いだのだから、刺史ではなく牧を継いだのではないか。
というあたりから、これは領徐州牧だと判断しました。

2は更に謎で、本来なら臣下から益州刺史を任命しそうなものです。
しかし出てこないとすると、劉備は即位後も州牧の権限をあくまで自分の手に握るために敢えて州牧を任命せず、空位のままにして皇帝たる自分が独裁したのかもしれません。
(細かい職務は治中従事などに任せる)
劉備は州牧の危険性(反乱の温床)に気付いていたのではないでしょうか。
しかし劉備死後は彼のようにガッチリ権力を握る者がいないため、臣下に州牧を任せた・・・?

もっとも、単に任命する前に戦争と劉備の死があり、実際に任命するのが遅れただけかも。

より明確な回答が出来る神の降臨を待ちます。
降臨しやすいように揚げ。
じゃ、2番について知ってるところを。

漢中王から皇帝を称する際、許靖や麋竺らが上表を奉っていますが、
この時の光禄勲が黄権ではないか、といいます。

ちくまでは単に「黄柱」となっていますが、
華陽国志では「光禄勲・黄権」と明記され、
三国志では芸文印書館版が同様、
中華書局版ではカッコ付きで「(黄権)[黄柱]」。

また、三国志集解ですと、
銭大マが「季漢輔臣賛による南陽の王柱とは別人」、
潘眉が「王柱を黄柱と作る」などと論じています。

以上を考えてみると、黄柱⇒黄権で良いのではないかと思われますし、
また、益州牧を領していた者はいなかったのではないかと考えられます。

1番は陶謙の持っていた印綬を朝廷に返したとは考え難いので牧だろう、と思いますが。
私は怨霊さんの2番とほぼ同意見です。
189186:03/07/23 01:32
>>187
お答え有難うございました。
1の徐州牧に関しては納得です。

2の方もほぼ納得できたのですが、あの後更に疑問が出てきてしまいました。
ホウ統の弟ホウ林が治中従事、王甫が議曹従事として夷陵に参陣していますが、
どうやら彼等は荊州の治中従事と議曹従事のようです。
すると劉備は益州牧のみならず荊州牧も兼任(というか独裁?)
していた、ということなのでしょうか?

>劉備は州牧の危険性(反乱の温床)に気付いていたのではないでしょうか。
蜀臣で劉備の生前に牧になっているのは馬超だけのようですね。
関羽ですら荊州董督で、牧位をもらえなかったのもその辺りが原因でしょうか?
ちなみに劉備の死後も牧になっているのは諸葛亮だけで、
後は滅亡まで皆、刺史のようです。

長々と申し訳ありませんでした。
官位の孫堅篇の続き、楽しみにしております。
190186:03/07/23 01:46
>>188
なるほど。てっきりそこは黄柱の誤写とばかり思っていました。

ただ黄権はそれで治中従事ではなかったと結論づけられたとしても、
先の荊州牧の属官二人がいますし、
益州牧の属官も
 李朝:別駕従事
 杜瓊:議曹従事
 程畿:従事祭酒
と、最低三人はこの時期にいたようなので、
「牧(刺史)がいないのに属官はいる」問題は残ってしまいますね。
う〜ん、困った。

ともあれ188さんもご教示ありがとうございました。
>>187
徐州・益州牧問題について、思うところを述べたいと思います。

先主伝においては、「先主遂に徐州を領す」と書かれているだけで、
徐州牧を領したとも、誰かが劉備を徐州牧にするよう上表したとも書かれていません。
劉備は豫州刺史の地位のままで、とりあえず徐州を領したように思われます。
徐州牧を称するための下準備の時間が無いうちに袁術の来攻を受けたため、
このようなことになったのではないでしょうか?

その後、袁術と戦っている最中に、曹操の上表で鎮東将軍となり、
曹操の下に亡命してくると、豫州牧になっています。
これは豫州の沛に駐屯して対徐州戦線の前線に立ったという事情もあるでしょうが、
その他に当時の劉備が豫州刺史のままで、徐州刺史や徐州牧ではなかったからではないでしょうか。
劉備が皇帝に即位するまで、徐州牧ではなく豫州牧を称し続けたのは、
徐州刺史や徐州牧を公式に称したことが一度も無かったからではないかと思われます。

皇帝即位後の益州牧問題については、
劉備が皇帝に即位すると、張飛が車騎将軍となり、司隸校尉を領しています。
司隸校尉は首都圏(司隸)の警察権の他に、行政に対する監察権も持っており、
益州刺史、あるいは益州牧の職務を執り行う資格のある官職です。
おそらく、蜀漢建国後は益州を司隸に擬して、
司隸校尉張飛が益州牧の職務を執り行ったのではないかと思います。

どちらも憶測に過ぎませんが、御意見がいただければ幸いに思います。
192怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 08:00
おお、早速神々が降臨しましたか。ありがたや。
>>188氏、補足ありがとうございます。

>>189
>劉備は益州牧のみならず荊州牧も兼任(というか独裁?)
おそらくそうでしょう。
即位後は州のオフィスや属官、命令系統などは残したまま、牧・刺史は(わざと)空位にしていたのでは、と考えます。
どうしても必要な時に「行」州牧事が臨時に代行するだけで、命令は皇帝の劉備が直接出していたのでしょう。
これならば>>190の属官がいる理由は説明できます。

実態があるのは益州と荊州2州だけですし、劉備一人で把握しきれないほどでもなかったのでしょう。

>>191永遠の青氏
徐州については、なるほどそのような事情かもしれません。
「刺史」とも「牧」とも正式には名乗れるような状況ではなかった、というところでしょうか?

ただ、
>劉備が皇帝に即位するまで、徐州牧ではなく豫州牧を称し続けた
これは献帝・曹操の下にいた時に徐州牧は返上したためでしょう。
徐州刺史車冑がいますので。
豫州牧は実態はどうあれ返上や譲与していないので以後ずっと加わっているのです。
193怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 20:12
では孫策篇。

孫策が活動を始めるのはパパ孫堅の死から一年後。
(実はもっと間が空いているかと思っていました)
父の軍勢を袁術より返してもらいます。
そしてこの時太傅馬日テイが全国を巡って反乱や独立を慰撫していたのですが、そこで懐義校尉にしてもらいました。
なんとなく、「朝廷に逆らわないから官位くれ」という気がするのですが気のせいでしょうか?
あとこの懐義校尉って続漢書百官志なんかに載っていないと思うのですが、臨時に置いた校尉ですかね?
余談ですが太傅馬日テイは袁術に拘留され、「節」も奪われたとか。
やべえ、孫策の任官も怪しくなってきた・・・。

その後、袁術は彼を九江太守にしようかと考えたそうですが、結局しませんでした。
袁術が勝手な任命を考える事が出来たのは、太傅馬日テイから強奪したアイテム「節」のおかげかな?
継いで、袁術は自分に逆らう廬江太守陸康(ミカン野郎こと陸績の父)を倒したら廬江太守をやる、と言いますが、倒したのにまた太守にしてくれませんでした。
まあ、年齢もさることながら、いきなり治民官の経験の無いヤツを太守にするのもどうかと思いますが。

そして更に、詔で就任した揚州刺史劉ヨウが前任者を殺して揚州を不法占拠状態の袁術と対立すると、今度は孫策が袁術に言います。
「オレが江東を平定してやるよ」と。
かくして袁術は彼を折衝校尉、行殄寇将軍に推挙して出陣させます。

続く。
194怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 20:41
続き。

さて、ここでは孫策のアバレっぷりを逐一紹介はしません。
劉ヨウ等を倒した孫策は、自立を果たします。
自分で会稽太守を領し、一族等に他の太守を分配したのです。
(郡を二つに分ける事までしています)

さあ、これは大変。
袁術に対しても、朝廷に対しても、反乱行為以外の何者でもありません。
今度は袁術を敵に回しました。
しかし、敵の敵は味方、という事でしょう。
曹操は袁術に対抗するため、孫策を討逆将軍にしてやり、呉侯に封建します。
(父孫堅の烏程侯はどこへいったのでしょう?)
またおそらく彼が立てた太守も正当化されたのではないでしょうか。
前漢が最初、呉楚に対抗するため独立状態の南越に自由にやらせていたようなものですかね。

孫策はその後袁術の兵を継いだ劉勲も倒し、江東を平定しました。絶頂期ですね。
しかし有名ですが彼は暗殺に遭い負傷、そのまま死亡します。
>>194
>(父孫堅の烏程侯はどこへいったのでしょう?)
孫策は烏程侯の爵位を継がず、弟の孫匡に譲っています。
そのため、呉侯に封じられるまでは、爵位がありませんでした。

>またおそらく彼が立てた太守も正当化されたのではないでしょうか。
孫策が漢の会稽太守の官位を正式に朝廷から与えられた時、
彼が丹陽太守に任命した呉景は、漢の揚武将軍の官位を与えられています。
朝廷が認めていない太守が、正式な官位を与えられるということは考えにくいので、
その推測は間違っていないと思います。
小ネタ情報提供。

>父孫堅の烏程侯はどこへいったのでしょう?

孫策伝の冒頭の裴注が引く魏書に
弟の孫匡に譲ったって書いてある。
197196:03/07/23 21:12
あ、被った。スマソ。
198怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 21:26
>>195
>>196
ありがとう。
読み飛ばしたらしいッスね私。

ところで、孫策は一度も刺史・牧になっていないみたいなんですけど、間違ってないですよね?
刺史に因らず権力を集中したとすれば、なかなか興味深い・・・。
>>198
はい。一度もなっていません。
ただ、曹操から督軍御史中丞として袁術討伐に差し向けられ、
袁術勢力の崩壊後にそのまま寿春に居座って、揚州刺史となった厳象が、
200年に孫策配下の廬江太守李術によって殺害されていますので、
その後に揚州刺史か、揚州牧を自称するつもりだった可能性はあります。
(この時期には曹操配下の広陵太守陳登とも交戦しており、曹操と孫策は事実上交戦状態でした)
>>198
補足です。
一度も刺史・牧にならずに権力を集中した当時の群雄としては、袁術・公孫瓚がいます。
ただ、袁術は左将軍、公孫瓚は前将軍なので、刺史より格上、州牧とはほぼ同格の地位にありました。
(公孫瓚はただの雑号将軍である奮武将軍だった頃に、3つの州の刺史を一挙に任命するという暴挙をやってますが。
 行殄寇将軍の孫策だって、そんなムチャな真似はしていません)
201怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 22:42
>>199
>>200
ありがとうございまする。
ふむ。刺史の広域的な支配に因らず、太守に親族や豪族、腹心を就けてゆくことで広い範囲を版図に入れていったのかな。

孫権篇です。

孫権は兄孫策の支配のため、15歳にして呉郡の陽羨県長になります。
いきなり治民官です。
次いで、呉郡(太守朱治)から孝廉に、揚州(刺史は>>199に出ている厳象)から茂才に挙げられます。
茂才は曹操の命令による政治的意図を持ったものだったようですが。
とにかくこれらのお陰か、行奉義校尉になります。
孫権が孫氏3人の中では一番出世コースに近いですね。事情はどうあれ。

その後、孫策が死ぬと後事を託されました。
官位は、少なくとも会稽太守は領していたでしょうが、後に曹操から正式に討虜将軍、領会稽太守に推挙されます。
「討虜将軍」は父の「破虜」と兄の「討逆」を合体させたのでしょうか?
誰が考えたのか、シャレた事をしますね。

続く。
202怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 08:33
続き。

孫権は近隣の平定、山越討伐を進めます。
そんな中、曹操が荊州を攻め、呉にも迫らんとする勢いでした。

曹操から見れば、孫権集団は僻地の数郡が半独立状態になっているだけで、攻めれば鎧袖一触だと思えたのではないでしょうか。
しかしご存知のとおり孫権は(主に周瑜ですが)赤壁で曹操を破り、追い返します。

この後、周瑜は曹仁を江陵から追い出し南郡を手に入れます。
その頃に劉備は孫権を「行車騎将軍、領徐州牧」に推挙。

さて三国志呉主伝を見ると、孫権は何度も勝手に郡を分割、再編して新しい郡を作ったりしています。
当然、中央の権威等を無視しているからこそできる事です。
これはどういう理由でしょうか?

仮説としては、孫権が呉の地を刺史などの権力に頼らず支配するために郡を細分化してゆくしかなかったのではないかと思います。
孫権自身が名目上とはいえ会稽太守でしかない以上、武力で威圧するには他の太守の力を弱めたい。
弱めるためには支配領域を狭めれば良い。
こうして細分化し、かつ太守には豪族と自分の腹心を互いに監視させるような格好で配置する。
孫策・孫権の支配は、自身の強力な武力や権力というよりはこういった緩やかな連合政権だったようですね。

しかしこのままでは長続きしなさそうです。何かあるとバラバラになりそうです。
そんな孫権の政権を長期政権化させる要因が、荊州占領だったのではないでしょうか?
素人考えですけど。

続く。
203_:03/07/24 08:42
204_:03/07/24 08:46
205怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 19:44
続き。

孫権は治所を秣陵=建業に遷す訳ですが、これまた面白い事に建業は孫権が太守を務める会稽郡ではありません。
丹陽郡です。遠く離れた秣陵を会稽郡の飛び地にしたのでしょうか?
これを見ても、孫権は従来の漢の組織にこだわっていないのが分かります。
漢の支配組織をぶち壊して気にも留めない、という荒っぽさ。
惚れますね。

孫権はその後荊州を手にするために曹操に近付き、曹操の側もそれを認めます。
かくして関羽が陣取る荊州挟撃が成立。孫権は関羽を倒し荊州を占領しました。

曹操はそれに対し「驃騎将軍、仮節、領荊州牧、南昌侯」を与えます。
これによって孫権の持つ兵(←驃騎将軍)と人事・命令権(←仮節)が正当化されたと言って良いのではないでしょうか。
そして荊州牧になったことで、荊州に関しては孫権の思うままに統治できるのです。
逆に言えば、揚州では孫権は刺史で無い上に、それぞれ自分と同格の太守が居るので、孫権の思う通りの統治は出来なかったと思われます。

続く。
206152:03/07/24 19:48
 度々の遅レス申し訳ないです。諸事情によりヒマを見て漫画喫茶から書き込んでいるため、
ろくに挨拶も返せませんで… むしろ私が居座ることで他の人が引いている懸念もあって
ぜんぜん感謝されるようなことはしておりません。重ね重ねご迷惑おかけします。

>171、173
 『後漢書』南匈奴傳には、永平八年に度遼営が五原曼柏に置かれたと記述されます。
で、百官志によれば「後数々不安有れば、遂に常守と為す」ということなので
たしかに将軍職なんですけど、後漢後期にはもう常設状態だったみたいですね、多分五原あたりに。 
207怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 19:58
>>206
ありがとうございます。
度遼将軍は他の将軍とは違うのですねぇ。
ろくに調べもしないで適当フイていた(>>174)私・・・。ごめんなさい。

いやまあ、私の文はほとんどが適当な駄文ですが。
読んでくれている(奇特な)方々、話半分に読んでいてください。
208152:03/07/24 19:59
ああっ、またかぶってしまった。話の腰を折って申し訳ないんですが、
あと三十分ほどでバイトなので書き溜めてきたのを張って行っちゃいます。

「漢」についての話。
 後漢の許愼『説文解字』には「漢。漢水也」とありまして、まずは地名から、で問題無し。

 「男」としての「漢」は、『北史』もしくは『北斉書』の魏ト傳に、
青州長史就任を断った魏トに対してキレた顯祖が、
「何物漢子、我與官、不肯就!(何物か漢子、我の官を与うるに、就くを肯んぜざるか!)」
「何慮無人作官職、苦用此漢何為!(何ぞ人の官職に作く無きを慮るも、苦いて此の漢を用うるは何為ぞや!)」
 この漢民族のガキゃあ俺の官位はいらねぇってか、官位に就かない奴がいるのは問題だが、
てめぇみたいな奴をわざわざ用いなきゃならん理由はないんだぜ、ってとこですか。

 さらに『北史』?嫌Bに、崔暹は無学と陰口を叩く?撃、文襄帝が疎んじて崔暹に告げ、
「此漢不可親近(此の漢 親近す可からず)」、
あいつは近寄らせるな、とこっちになるとより「男」に近いようで。

 さらに後になりますが、『資治通鑑』に後晋高祖が「汝輩亦た大いに漢を惡むか」と謂い、
その胡三省注に「南人は北人を謂いて漢と爲す」
とあって、漢=ヤンキー扱いですねこれなぞまさに。

 よって、「南北朝あたりで北方民族が漢民族を指して「漢」と言っていたのが
「男」の意味に転じた」、で正解です。怨霊さんお見事。
 まあ自分も偉そうなこと言ってからに、『漢語大詞典』から転載しただけなんですが。
209152:03/07/24 20:11
こっちはもっと問題だ、しまった。

>188
>>中華書局版ではカッコ付きで「(黄権)[黄柱]」。
>>また、三国志集解ですと、
>>銭大マが「季漢輔臣賛による南陽の王柱とは別人」、
>>潘眉が「王柱を黄柱と作る」などと論じています。

 あなたは資料の読み方を身につけていないようです。
中華書局本の[]は、校勘を行った結果、底本の()内の文字が誤っているようなので、
正しいと思われる文字に改めていることを示す記号です。つまり書局本のその記述は、
「黄権は誤りで、正しくは黄柱」と言っているのです。
 ちくまの訳本は書局本を基にしていますから、当然「黄柱」としか書きません。

 また『三国志集解』の解釈もいただけません。銭大マの注釈全てに目を通しましたか?
 氏はまず「上文已に偏將軍黄権有り、應に重見すべからず」、
二十五年に提出された二連の上奏文のうち前者に「偏將軍黄権」の名が見えるのだから、
後者にまで「黄権」とあるのはおかしい、という前提で立論しています。
 その後、楊戯伝の輔臣賛の注に、先主が漢中王となると、頼恭・王柱・王謀を
それぞれ太常・光祿勳・少府としたとあるので、
「此の傳三人連名す。必ず是れ王柱にして、黄権に非ざるなり」、
ここ先主傳は「太常頼恭・光祿勳黄権・少府王謀」と連名しているが、
「太常頼恭・光祿勳王柱・少府王謀」の連名でなくてはおかしい、黄権のはずがない、と続け、
 最後に「潘眉曰く、王柱は當に黄柱に作るべし」、
潘眉によれば輔臣賛の王柱は黄柱の誤りである、だから先主傳の「黄権」は
「黄柱」の誤りなのだ、と結論づけているわけです。
 あなたの解釈では、銭大マの結論と全く逆です。
無論、『華陽国志』に「黄権」とあるのも、銭大マにとっては同様の理由で誤りとなるでしょう。

 あなたはそこまで資料の選択が出来るのですから、次いで良き師を得、
正しい資料の読解力を養うべきです。
あなたの才を惜しめばこその苦言と受け取っていただければ幸甚です。
210怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 20:12
>>208
それを言うと私も大漢和辞典が元ネタなので、偉そうな事は言えない・・・。

あと>>205について自分で補足。

>漢の支配組織をぶち壊して気にも留めない

>曹操はそれに対し「驃騎将軍、仮節、領荊州牧、南昌侯」を与えます。
>これによって孫権の持つ兵(←驃騎将軍)と人事・命令権(←仮節)が正当化された
は微妙に噛み合っていないような気がします。我ながら。
これを説明すると、孫権は
「太守の治所は太守の領域内に」
とかいうある種の固定観念(?)が無く、漢の制度を利用はしてもそれにこだわったり引きずられたりしていないなあ、と思った次第。
とはいえ何かの制度がないと支配&統治にならないので、漢の制度を利用はしています。

でも、曹操のやり方と比べるとかなり漢の伝統的なやり方を崩しているような気がするのです。
何となく。
211209:03/07/24 20:25
うー、完全に書き逃げになってしまった。ごめんなさい。
212188:03/07/24 21:30
>>209
すまんが、勝手に解釈して貰っては困るんだが。
俺は一言も銭大マや潘眉が「黄権の間違い」と言ったつもりはないよ。
[]と()の区別くらいは知っている。だからこそ態々勘違いしないように書いたんじゃないか。
偏将軍の部分に気が付かなかったのはこちらのミスだし、非常に申し訳ないと思うが、
勝手な解釈は止めてもらおう。
○俺は一言も「銭大マや潘眉が『黄権の間違い』と言った」と書いたつもりはないよ
重ねてすまん。
今改めて調べてたんですけど、
214年に黄権は偏将軍になっているわけですけど、
216年に南陽の黄権という人物が光禄勲になっています(華陽国志)。
ただ、220年に偏将軍・黄権、221年に光禄勲・黄権が続いて明記されている。
実は、私は「南陽の」という箇所を常キョの勘違いだと思っていたんですけど、
2人いたとする方が無難かもしれませんね。

本題の益州牧からずれてしまって申し訳ありません。
215怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 22:06
>>214
ほう。南陽?
黄忠の縁者ッスか?

孫権の続き。

孫権は禅譲を受けて魏に対し「藩」を称しました。
ブチ切れ金剛こと劉備に対抗する為でしょう。
魏は孫権に対し、呉王に封建し、「大将軍、使持節督交州、領荊州牧(事)」を与えました。
(驃騎将軍と南昌侯は返上)
魏は呉に対して荊州の(当面の)支配を許すと共に、南方(交州)は任せたから好きにしろ、と言ったことになります。
名目上は、魏王国が漢の藩国だったように呉王国も魏の藩国だったワケです。
だから、たとえば呉の初代丞相の孫劭は「魏帝国内の呉王国の丞相」です。

まあ、即位までの事ですけどね。

続く。
>>215
かもしれません。
黄忠の息子に後継がいなかったらしいので、推し難いですが。
もしかしたら、黄承彦の系統かもしれませんし。
217怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 22:14
>>216
>黄承彦
ああ、そっちがありましたか。
そちらでしょうかねぇ。
これまでの官職の流れとはまったく関係ない質問なのですみません

程cの名が「立」から「c」に変わったのって曹操に仕えて数年内のことですよね
他人(この場合君主)から言われて名を変えるっていうのは当時の常識的にはどうなんでしょうか?
李厳なんかは自分で改名したように書かれています
儒教的には君臣の間柄でこういうことに口出しするのはOKなのかなと思っていますがどうなんでしょう?
219怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/25 00:04
>>218
広い意味では制度って事でいいんじゃないかと。

漢では宣帝が自ら諱を改名しています。
理由は「自分の諱を書いてしまうとマズイから」。
(劉病已→劉詢)

あと司馬相如とか。(旧:司馬犬子)

また、王莽はヤケに名前にこだわる人でした。
変な意味、悪い意味を含む字を変えようとしていますし、二文字名は一文字にしろと命令しました。
(後漢・三国でやけに二文字名が少ないのはこれが定着したためらしい)


と言う事で、結構みんな平気で諱を変えてるみたいです。

三国では他に陸遜や廖化が有名ですね。
>>201
>ふむ。刺史の広域的な支配に因らず、太守に親族や豪族、腹心を就けてゆくことで広い範囲を版図に入れていったのかな。
袁術、公孫瓚は自分で刺史を任命しています。
やはり、州を支配するには刺史権力は不可欠だったのでしょう。
孫策の場合は、本来の官位では自分と同格か、格上の部下が多いという状況があったので、
彼らを差し置いて刺史になることは出来なかったように思われます。

孫策が丹陽太守に任命した呉景は漢の騎都尉で、袁術配下では丹陽太守・広陵太守を歴任しています。
豫章太守に任命された孫賁は、漢で督郵や県長を歴任し、袁術配下では豫州刺史、丹楊都尉、行征虜将軍、九江太守を歴任しています。
廬陵太守に任命された孫輔は、漢での官歴はありませんが、袁術配下では揚武校尉に任じられ、孫策の本官である折衝校尉とほぼ同格です。
孫策が孫輔に指揮権を行使しえたのは、行殄寇将軍の資格があったからでしょう。
呉郡太守に任命された朱治は、漢の揚州従事、長沙太守の司馬、行都尉、行督軍校尉を歴任し、
袁術配下では、太傅掾、呉郡都尉を歴任しています。
(太傅馬日磾の与えた官位は、袁術が与えた官位と同様にみなしています)
いずれも官歴においては、孫策と同格かそれ以上の人物です。
また、丹陽都尉全柔は漢の尚書右丞、揚州別駕、会稽東部都尉を歴任し、
会稽南部都尉賀斉も、漢の時代に県長を歴任した人物です。

曹操に会稽太守に任じられるまで、袁術陣営の一幹部でしかなかった孫策が揚州刺史になるなら、
漢の官歴を有していたり、袁術配下で孫策と同格かそれ以上の幹部だったりした彼らが、揚州刺史になる方がよほど自然な話です。
ですから、早い時期に揚州刺史を名乗るか、部下を任命することが出来なかったのでしょう。
>>202
曹操が揚州の大半を実効支配している孫権がいたにも関わらず、
しつこく揚州刺史を任命し続けているのは、
基盤の脆弱な孫氏政権に対する牽制のように思われます。
要するに足元を見られていたのでしょう。
ですから、孫権は自分が持っている郡太守の任命権を駆使して、
揚州刺史の圧力を避けようとしたのでしょう。

>>206
魏書張楊伝に、董卓が政権を握っていた時代に、
黎陽に駐屯していた度遼将軍耿祉が、
匈奴の単于於夫羅に撃破されたという記事があります。
北方に備えるはずの度遼将軍が黎陽なんかで何をしていたのか、
耿祉は誰が任命した度遼将軍だったのか、
耿祉は後漢の大貴族である扶風耿氏の一族なのかなど、
疑問がたっぷり残る記事であります。
>>209
劉璋政権下では広漢県長でしかなく、劉備の時代になってから、
ようやく重臣に列した黄権の地位を考えれば、
彼が劉璋の重臣で、巴郡太守、益州治中従事を歴任した王謀や、
劉表の重臣で、交州刺史を務めた頼恭と同格の光禄勲に就く事は、
そもそも考えにくいですからね。
軍務や行政で辣腕を振るっていた黄権が、
名誉職同然の九卿に棚上げされることも考えられないでしょうし。

それに季漢輔臣賛に「南陽の黄柱を光禄勲と為す」という記述があり、
巴西郡閬中県の出身と伝の冒頭に明記されている黄権と別人であるのは、
銭大マの注釈をわざわざ読まなくても明白です。

>>214
名誉職でしかない漢中王の光禄勲の名前なんぞ、黄権だろうが、黄柱だろうが、
大した事跡を残していないのですから、どうでもいいんですけどね。

>>215
光禄勲黄柱の出身県が分からないと、何とも言えませんね。
魏の名門貴族だった太原郡祁県の王氏と、 太原郡晋陽県の王氏の例がありますから。
同族であるにせよ無いにせよ、黄柱の黄氏も、黄忠の黄氏も、それなりに有力な一族であったとは思いますが。

>>218
あまり名前に関しては、後世でも主君から名前を賜って改名した例が腐るほどありますので、
特に問題では無いと思われます。
ただ、姓を変えるのにはかなり問題があったみたいです。
主君の孔融に言われて、姓を「氏」から「是」に変えた是儀は、
注でボロクソに言われています。
>>221-222
補足ありがとうございます。やっぱり青氏には敵わんなw
季漢輔臣賛の件は一度考えたんですけど、日が変わってすっかり忘れてました。
って書かなきゃ言い訳にすぎませんよね。すいません。w

あと。差し出がましい話ではありますが、もう少し短く書いていただけませんか?
特に>>220などは本題は半分以下だと思いますので。
開けた場ということで、見易さも考慮していただければと思います。それでは。
>>223
>もう少し短く書いていただけませんか?
>特に>>220などは本題は半分以下だと思いますので。
>開けた場ということで、見易さも考慮していただければと思います。それでは。
出来ることならそうしたいのですが、ソースを示さずに文章を書くと、
信憑性を疑われかねないので、過剰なぐらいソースを示すことにしています。
特に三国時代に詳しい方は大勢おられますので、少しでもあいまいなことは書けないのです。
恐れ入りますが、そういう事情ですので、ご了承ください。
いや、孫賁以下は名前だけで後は確認して、でいいと思うけど。
論文じゃないんですから…
226怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/25 08:23
まあ、三国志に立伝されている人物で、その伝中にある記事なら「あとで確認して」でもいいような気はしますね。
三国志以外、または別の人の列伝等から引く時はソース必要だろうけど。

あいまいな事を書きまくっている私が言う事じゃないかもしれないけれど。


孫権の続き。

孫権は対劉備戦の後、陸遜を領荊州牧にしていますね。
今や呉王だから、荊州は分離して臣下に任せてもなんとかなるのでしょうか。
この辺、死ぬまで三牧・司隷を名乗りつづけた劉備との立場や考え方の違いが出てますね。

官職的には、その後は皇帝に即位しちゃうのでもう書く事が無いです。
呉の制度はまだ良く分からないですし、私。
227209@夜勤明け:03/07/25 08:51
>188さん
 こちらこそ謝らなくてはなりません。散々えらそうな口きいといて
論証が間違っていました。輔臣賛を確認しないという初歩ミスのせいです。
銭大マが「王柱」というので、「いやそこ黄柱だから」と潘眉がツッコミ入れてる場面だ。
デッチ上げで誹謗してるぞ俺、と気づいた時にはバイトに行かなくてはならず、
結局先延ばしにしてしまいました。何卒お許しを。
228209@夜勤明け:03/07/25 09:35
 人の揚げ足取りなんかしてるからいらん迷惑をかけるのだ。自力でネタ出そう。

 官制度じゃなくて、與服制度の話ですが。
ここまでにも「持節」「仮節」といった用語に登場した「節」。
皇帝の代行であることを示すアイテムとして紹介されていますが、この形状は
「八尺の竹製の柄に、鳥の頭を模した金具を付け、その嘴から旄牛の尾で作った
 赤いふさ状の旗飾りを縦に三つつないだもの」
だそうで。節義とか忠節の「節」じゃなくて、竹の「節」かよ!
いちおう赤い木の実(勅令)を運ぶ鳥、ってことなんでしょうか。
 この旄牛、現在のヤクだといいます。この毛は日本だとシャグマと呼ばれ
家康が相当大事にしていたらしいのですが、本場でもなかなかの嗜好品。
なんせチベット高原原産なので、蜀の南端の山岳地帯までいかないと獲れない。
前漢・後漢とも「旄牛県」なる県が置かれていますが、どうもこれは
もともと「旄」という地名だったというより「旄牛がいるから旄牛県」のようで。
 この毛はあらゆる旗飾りに用いらており、「節」の作成のみならず、
與服の整備に欠かせない産品でした。蜀を本拠とする勢力にとっては、貴重な収入源の
一つだったと思われます。

ヤク参考リンク
ttp://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/tibet/tibetphoto07.htm
>>226
>孫権は対劉備戦の後、陸遜を領荊州牧にしていますね。
>今や呉王だから、荊州は分離して臣下に任せてもなんとかなるのでしょうか。
孫権は221年に荊州の武昌に遷都していますよ。
あと、223年には、呂範が揚州牧に任命されています。
これは「領揚州牧」でも、「行揚州牧」でもない、れっきとした揚州牧で、
初めて孫氏が自前で任命した揚州牧です。
この頃になってようやく、孫氏の揚州支配が完成したのでしょう。
この年に治所を建業から武昌に遷しているのも、その自信の表れかもしれません。

>この辺、死ぬまで三牧・司隷を名乗りつづけた劉備との立場や考え方の違いが出てますね。
前にも書いたとおり、司隷校尉は車騎将軍張飛が領し、
彼の死後は丞相諸葛亮が領しています。
益・荊・豫の三州の牧は、自分で兼ねていたというよりは、
わざと空位にして、実務は属僚にやらせていたのでは無いかと思います。

劉備時代の州の属領はえらい高官だったらしく、
黄権は護軍から益州治中従事になり、そこからいきなり鎮北将軍になっています。
鎮北将軍は、督漢中・領漢中太守魏延が劉備の即位時に与えられた将軍号で、
普通に考えれば、州の属僚から一気に就任できるポストではありません。
(黄権が鎮北将軍になった時、もともと鎮北将軍だった魏延の将軍号はどうなったのでしょうか?
 将軍号を解かれたとも、別の将軍号を受けたとも記録されていないので、ミステリーです)

彭ヨウは、益州治中従事から、江陽太守になっています。
州の属僚から、二千石である郡太守になるのは、普通なら栄転なのですが、
彭ヨウ伝の中では完全に左遷扱いであり、彭ヨウ自身も不満を漏らしています。
上に牧がいなくて、皇帝、あるいは丞相の直轄だったので、
州の属僚の権限がとても大きかったと考えれば、
劉備時代の州牧問題も解決するような気がします。
230怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/25 23:26
おっと、大間違い。
>>229
劉備が領し続けたのは司隷・三州牧とも「即位まで」ですよね。
だめだなオレ。
ごめんなさい。

牧が君主たる劉備または空位だとすれば、「治中従事」などは事実上は州の民政長官ですからね。
一郡の太守より上に見られるでしょうね。

そうすると荊州治中従事だった潘濬などは劉備の元でもかなりの顕官にあったわけですな。
>>230
>牧が君主たる劉備または空位だとすれば、「治中従事」などは事実上は州の民政長官ですからね。
>一郡の太守より上に見られるでしょうね。
そういうことです。
治中従事を事実上の刺史と考えれば、偏将軍・護軍であった黄権が治中従事に遷り、
さらに鎮北将軍という高位の将軍になるという、漢制や魏制では不可解な人事も納得がいきます。

>そうすると荊州治中従事だった潘濬などは劉備の元でもかなりの顕官にあったわけですな。
潘濬は劉表時代に、江夏太守(おそらくは黄祖)の従事となり、湘郷県の令に昇進しています。
蜀書を読んでみれば分かると思いますが、劉備に重用された若手官僚の多くは、
劉表か劉璋の下で県令か州の従事クラスだった人物です。
若手登用策の一環として、事実上の荊州刺史である荊州治中従事の職に就けたのでしょう。
232怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/26 13:20
さて、官職は小休止してここいらで「銭」について語りますか。
本棚の奥から山田先生の本が出てきたし。


漢で流通していた貨幣は基本的には「五銖銭」です。
これは漢の武帝が定めたものです。
五銖(0.67g×5=3.3g位)の重さの銅銭で、円形で、中央に正方形の穴があり、その左右に「五」「銖」と書かれていました。
漢では算賦という人頭税がかけられていたし、官吏の俸給も半分は銭でした。
貨幣経済が進んでいたのです。

もっとも、原料となる銅の不足と、貨幣経済に重きを置かない儒教の思想から、前漢末期には銭の廃止論なども出ていましたが。
実のところ、この前漢末期ころからは貨幣経済自体にかげりが見えはじめていたらしく、王莽が打ち出した貨幣改革もそれを克服するためだったと言われています。
(大失敗していますが)

結局は王莽は失敗して五銖銭は生き残り、後漢でも五銖銭は使用されました。
後漢でも銭の廃止(布帛を代わりに使用する)などの論が出ましたが、五銖銭は使われ続けます。
しかし前漢末以来の貨幣経済の落ち込みはあまり変わらず、後漢末にはほとんど崩壊しました。
董卓による小銭制も王莽同様に貨幣経済の落ち込みに対応しようとしたようです。

大混乱で明日の食事にも困り、政府の信用0な世の中では貨幣より現物に比重が傾くのは当然でしょう。
そんな現状に合わせたのか、魏は文帝の時に五銖銭をやめて布帛を貨幣代わりにさせました。
ただし五銖銭はその後明帝により復活し、以後は五銖銭が使われます。
社会的混乱が収まるにつれて、貨幣経済も多少は息を吹き返したようです。
233218:03/07/26 14:40

>>219,>>222
ありがとうございます

親の喪にあって数年間喪に服する
ということがよくみられる当時の状況だと親から貰った名は大切にするのかな、と思ったんですが結構一般的なんですね

ということは
諸葛喬の字が仲慎から伯松に変わったりしてますが、こういうことも頻繁にあったんでしょうか?
字を変えるのはよくあるみたいですよ。
関羽も変えてる(長生→雲長)。
トウガイ(士載)なんぞ、トウ範(士則)から名前も字も変えてるし。
 
235怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/26 16:31
字の場合、諱と連動して変える場合が多かったと思われます。
諱の意味に絡んだ字にする事が多かったですから。

また諸葛喬の場合は瑾の次男から亮の養子(長男)になったためですね。
それほど多くはないでしょうが、この場合で言えば諸葛喬がもはや瑾の家とは関係なくなった(相続対象などにならない)事を示すために必要な措置だったと思われます。
>>233
>親の喪にあって数年間喪に服する
>ということがよくみられる当時の状況だと親から貰った名は大切にするのかな、と思ったんですが結構一般的なんですね
諱の付け方はかなりアバウトだったみたいで、
親に付けてもらう人もいれば、自分で勝手に変えてしまう人も多かったみたいです。

>諸葛喬の字が仲慎から伯松に変わったりしてますが、こういうことも頻繁にあったんでしょうか?
字は自分で付けるものですから、いくら変えても基本的にはオッケーです。
普通は諱と字は関連のある文字を付けるか、一族内の通字を使う場合が多いのですが、
呉の折衝将軍甘寧のように、諱は「寧」という穏やかな文字なのに、字は「興覇」という物騒な単語で、
明らかに自分の趣味で字を付けたとしか思えないケースもあります。

史書を読んでみて、諱と字を読み比べてみれば、
その人物の人柄や家柄が想像できて、楽しいですよ。
>>228
>節義とか忠節の「節」じゃなくて、竹の「節」かよ!
これを見ると、節義、忠節の「節」と竹の「節」をまるで無関係のものの
ようにお考えのようですな。
どちらもアイテムの「節」(もとは竹符)から出た言葉のようです。
ほかに節度も節操も節制も節約も季節も、みなおなじ「節」。
竹の節目
239怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 00:52
>>237
ちょいトリビア風に。

蘇武は匈奴抑留中に「節」に付いていたヤクの毛で餓えを凌いだ。
へー
241怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 09:32
さて、官職の袁紹篇をやってみましょう。
いつものように見苦しい点や間違いがあるでしょうから、随時突っ込んで下さい。

三公を4人輩出したという袁氏に生まれた袁紹は若くして郎となり、20歳にして濮陽県長となりました。
いきなり副などの付かない長官であり、かなりのエリートです。
しかしどうやらその任期中に母が死んだらしく、喪に服します。

なお父母の喪は3年ですが、実際には「足掛け3年」なので丸3年ではありません。
その間は墓の近くにあばら家を作ってそこに一人で住み、粗末な食事を取り妻妾は近づけない、という生活をする事になっていました。
後漢はこの「3年の喪」に服する事が重要になり、官僚知識人(士人)の間で定着した頃でした。

袁紹はこの母の喪が終ると、自分が生まれた頃に死んだ父の喪に服しました。
約6年も服した事になります。
こういった行為が「親孝行だ」と評判になり、出世の足がかりになる。そんな時代でした。

喪が明けると袁紹は洛陽に移住、そこで有名人と交流し、賓客を養い、「游侠」をしていたと言います。
要するに今後の為のコネ作りと、鉄砲玉養成ってことでしょう。
曹操とも交友関係にあった事はよく知られていますね。
あと許攸がこの頃に袁紹の「奔命の友」
(命を的に助け合う友人とでも言うところでしょうか)
になっています。

その後、三公などから府の属官にならないかと誘われたようですが行かず、大将軍何進の誘いに乗ります。
かくして大将軍何進の掾となり、ついで侍御史になりました。
当時は「上司が誰か」がとても重要だったので、引く手あまたなエリートなどはこんな風に仕官先を注意深く選んだのです。

続く。
242218:03/07/27 10:11
>>234,>>235,>>236
ありがとうございます勉強になります

>>241
確か後漢書で、20年くらい母親の喪に服していた男が
実はふりだけだったみたいな話がありましたね
>>241
>「奔命の友」
奔走の友じゃなかったっけ?
244無名武将@お腹せっぷく:03/07/27 12:12
よく分からないけど三国時代の将軍の位ってこんな感じ?

大将軍>驃騎将軍=車騎将軍=衛将軍>四方将軍(前後左右)>=四征将軍=>四鎮将軍
>四平将軍>四安将軍>=雑号将軍

実際の軍権は四方将軍より、四征将軍の方が偉くなったり逆転する事もある。
四方と四征が逆転したのは、
魏が受禅後(直後か暫く経ってからか)、
呉は孫権が帝位に就いたとき、蜀は諸葛亮専権辺りから。こんな感じだと思われ。

平や安はあまり考えない方がいい。
袁家は4世3公の家柄ですが、輩出した数は5人ですよ。

袁安(司徒)---京---湯(大尉)---成---紹
        |           |
        --ショウ(司空)   --逢(司空)---術
                     |
                     --隗(司徒)

>>241
今回は袁紹ですか。
漢の官僚出身の群雄の官歴には興味がありますので、とても楽しみにしています。

>あと許攸がこの頃に袁紹の「奔命の友」
>(命を的に助け合う友人とでも言うところでしょうか)
>になっています。
英雄記では、奔走之友と記しています。
許攸の他に、張邈(後の陳留太守)、何顒(後の相国長史)、呉子卿(伝未詳)の三人がいました。

>かくして大将軍何進の掾となり、ついで侍御史になりました。
魏書ではそこまでしか書いていませんが、後漢書の袁紹伝では、
この時に侍御史の他に、虎賁中郎将に就任したという記録があります。

>>243
>奔走の友じゃなかったっけ?
それで正解です。

それでは、今回の補足はここまでということで。
彼の官歴は、その後ものすごい大波乱になり、史書の記述も混乱しますので、
私の補足&ツッコミ役としての出番も増えてくるでしょう。
>>244
>よく分からないけど三国時代の将軍の位ってこんな感じ?
>大将軍>驃騎将軍=車騎将軍=衛将軍>四方将軍(前後左右)>=四征将軍=>四鎮将軍
>>四平将軍>四安将軍>=雑号将軍
いえ、多少異なります。

正しくは、大司馬>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>
四征大将軍>四鎮大将軍=二品雑号大将軍>四征将軍>四鎮将軍>
四方将軍(前後左右)≧三品雑号将軍≧四安将軍>四平将軍
四品雑号将軍>五品雑号将軍>偏将軍≧裨将軍です。

なお、偏将軍≧裨将軍としたのは、
魏書于禁伝の、裨将軍于禁が官渡の戦功で偏将軍になったという記事と、
魏書徐晃伝の、裨将軍于禁が延津の戦い(文醜が戦死した戦い)の後に、
偏将軍になったという記事があったからです。
ただ、魏の武官の伝記の全てを細かく調べて参照したわけではないので、
私の知らない事実がまだ出てくるかもしれません。
その場合はご指摘いただけたら幸いに思います。
249怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 21:18
まず「奔走の友」についてはご指摘のとおりです。
大変失礼致しました。
また確かに侍御史と虎賁中郎将ですね。
チェック甘かったです。

まあ、私の知識・文章力等はこの程度ですが、皆さんが私にツッコミ入れつつ実のある議論をできる事を期待して続けます。

前回の補足ですが、「上司が誰か」と「推挙者が誰か」はこの時期大変重要でした。
何故なら、上司や推挙者自身が勢力のある人物であれば本人もそれだけ出世が望めます。
さらに、良くも悪くもその官僚は上司・推挙者の派閥に取り込まれる事を意味します。
モチロン派閥から離脱する選択もあるのでしょうが、それは「恩知らず」として官界全体のつまはじき者になる道です。
ですから、当時の高官から誘いがあったとしても敢えてスルーし、自分にとって利のある上司につく場合があるのです。
変な上司の下についてしまい、いつの間にやら辺鄙な地まで付き合わされた、では笑えません。

さて、その後に袁紹は例の西園八校尉の一つ、中軍校尉となります。
(後漢書袁紹伝では佐軍校尉ですが、注の方に従っておきます)
八校尉については前に書いたので省略。
ただ、曹操と並んで就任したのは興味深いですね。
また、黄巾にほとんど絡んでいないのは何進の下にいたからでしょうか?
あるいは虎賁中郎将なので出陣のため待機していたとも考えられるかもしれませんね。

さて、袁紹はこの後の霊帝死後の大混乱の重要人物、いや混乱させた張本人の一人です。
この辺は上手く語れるか不安ですが、ここで切ります。

続く。
>>245
>四方と四征が逆転したのは、
>魏が受禅後(直後か暫く経ってからか)、
禅譲後まもなく、鎮南将軍・仮節都督諸軍事(おそらく都督揚州諸軍事と思われます)となり、
病没した大将軍夏侯惇の軍権を引き継いだ曹休が征東将軍に、
禅譲と同時に中領軍夏侯尚が征南将軍・仮節都督南方諸軍事に就任しています。
この二人は、都督の称号を帯びているので、禅譲後まもなく、
四方将軍と四征将軍の地位は逆転したと思われます。
魏帝国最初の四方将軍である前将軍張遼、後将軍朱霊、左将軍張郃、右将軍徐晃の四将は、
いずれも他の諸軍の指揮権ををあらわす都督の称号を帯びていないからです。
>>245
>呉は孫権が帝位に就いたとき、
呉の四方将軍と四征将軍の地位がいつ逆転したのかは、判然としません。
そもそも、この時期のめぼしい四方将軍が、征北将軍朱然しかいないからです。
後に彼はこの地位から車騎将軍・領兗州牧(後に蜀との関係で解任)に昇っていますので、
魏の四征将軍並みに大切にされていたことはたしかです。
ただ、同時期の前将軍呂範は揚州牧、後将軍賀斉は徐州牧を領しており、
孫権の即位に伴って、呂範が前将軍から大司馬に昇進すると、
後任の前将軍朱桓が青州牧を領しています。
また、右将軍歩騭も、この時に驃騎将軍・領冀州牧(後に蜀との関係で解任)に昇っています。
どうも、孫権が呉王になり、皇帝に即位した頃は、四征将軍も四方将軍も、あまり地位に差が無いようです。
むしろ、立伝されるような人物が多くいる分だけ、四方将軍の方が格上だった可能性も高いです。
孫権が即位してしばらく経ってから、左将軍朱拠が驃騎将軍になっています。

呉の末期になれば、さすがに大司馬、驃騎将軍をじかに出した四方将軍の権威は落ち、
陸抗・陸凱・文欽ら征北将軍(文欽は征北大将軍)、征西将軍留平など、
大物の四征将軍も現れてきますが、呉には、左大司馬、右大司馬、上大将軍など、
大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍よりも位階の高い武官が居ますので、
四征将軍の権威は魏ほど強力では無かったようです。
余談ですが、呉の後期の左将軍丁奉は、クーデターの功績によって、
大将軍・左右都護(非常置職。都督中外諸軍事に同じ)・領徐州牧になっています。
252無名武将@お腹せっぷく:03/07/27 22:02
車騎将軍とか偏将軍についておしえてください
253怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 22:37
>>252
私の出来る範囲で。

偏将軍はいわゆる雑号将軍で、偏将軍、裨将軍はその雑号将軍の最下位です。
(宋書百官志)
一応は偏将軍の方が上かな?宋書の記載順によれば。
(偏将軍が先に来ますので)

車騎将軍は>>251
>大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍
という順番とおり、「将軍」の中でも上から三番目です。

その間の詳しい順序などは>>244>>248などを参照してください。
偏将軍>裨将軍
でよいと思われ
偏裨に入るって言葉があるからなー
>>245
>蜀は諸葛亮専権辺りから。
実は、諸葛亮在世中の四征将軍の大物と言えば、
征西大将軍魏延しかいないんですよね。
征南将軍趙雲はなぜかすぐに鎮東将軍に遷っているし、
本文だけを読めば、古参でそれなりに有能だったという以外には、
これといったインパクトが薄い人物です。
征西将軍陳到は、劉備が豫州に居た頃からの古参の将軍で、趙雲に次ぐ名声があり、
永安都督として東方国境警備に当たった事以外は、事跡が残っていません。

四方将軍の場合は李厳が前将軍、高翔が右将軍、呉懿が左将軍、呉班・劉エンが後将軍に就任しています。
李厳の場合は、もともと四方将軍より遥かに格上の中都護で、前将軍に降格されるようなヘマもないし、
権限も前将軍のそれに限定されたわけではなかったみたいなので、単なる加官だったみたいです。
ただ、蜀には大将軍も驃騎将軍も車騎将軍も衛将軍もおらず、
魏で言えば都督中外諸軍事に匹敵する中都護李厳が前将軍になったということは、
前将軍が当時の蜀の軍部の将軍職ではトップに位置していたと考えていいでしょう。
高翔は諸葛亮の北伐に従軍した歴戦の武将ですが、立伝されるほどの大物でもなく、季漢輔臣賛でも名前が出てきません。
呉懿は旧劉璋軍の重鎮で、北伐で活躍した長い戦歴を持つ将軍です。
諸葛量の死後は左将軍から、四征・四鎮将軍を経ずにいきなり車騎将軍・督漢中として、漢中防衛の責任者になります。
呉班は夷陵の戦いを生き残った数少ない高級将官の一人であり、最終的には驃騎将軍にまで昇進しています。
劉エンは豫州時代からの劉備の腹心で、大した能力は無いのですが、年功序列で車騎将軍になりました。

李厳が驃騎将軍に、呉懿・劉エンが四方将軍からそのまま車騎将軍になったことから考えると、
諸葛亮の時代とその直後は、四方将軍の権威は驃騎将軍、車騎将軍を出せなかった四征将軍より大きかったみたいです。
四征と四鎮は一蓮托生として、同様に見てよいと思いますけど。
とりあえず、その考えのままレスします。

>>251
孫権の呉王就任後、しばらくは四方>四征は崩れていないと思いますよ。
陸遜は夷陵の後に輔国将軍に就いていますが、同時に荊州牧となっています。
彼が荊州牧となったことは、孫権が彼を自分の右腕として認めたことに等しく、
それはほぼ同時に揚州牧となった前将軍・呂範にも同じ事がいえます。
さらに陸遜は荊州征討の後、右護軍になっていますが、
しばらくして左護軍を加えられたのは右将軍・歩隲でした。
そして荊州牧の陸遜に対し、朱然はおそらく江陵督のまま。やはり四方>四征。

四征将軍は朱然の後しばらくいませんが、四鎮将軍はいました。
私の調べ不足でなければ、孫権即位直後、
前後左右は朱桓、朱拠、潘璋の三人、四鎮は孫韶と呂岱の二人がいました。
触れて頂いた通り、朱桓が青州牧を(一時?)兼ねていたのと同じように、
孫韶が幽州牧を兼ね、呂岱も広州刺史を一時期担当するなどしていました。

そこで、孫権の即位前の彼らはどうだったかというと、
呂岱が交州刺史であり、孫韶も宗室の筆頭であったのと比べると、
朱桓と潘璋の二千石、朱拠の建義校尉というのは少し物足りなく感じます。
ここにきて、明らかに四方>四征の図式は崩れ、同位か或いは逆転したように
考えられます。

蜀についてはややこしいので遠慮しておきます。
257怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/28 00:00
>>254
フォローありがと。
んで、>>252さんへまとめ。
官位、権威でいえば

車騎将軍>>>越えられない壁>>>偏将軍

位の差があります。
車騎将軍まで行くと当時のトップレベルの将帥。
偏将軍はまだまだこれから、みたいな感じ。
>>252
>車騎将軍とか偏将軍についておしえてください
現代っぽく説明すれば、車騎将軍は元帥です。
全軍の指揮や戦争指導だけでなく、国政にまで口を出すことが出来ます。
ですから、軍歴が無いにも関わらず、軍部に睨みを利かせつつ国政に関与するために、
車騎将軍に就任する文人官僚や貴族もいたりします。

現代っぽく説明すれば、偏将軍は准将です。
将軍の中でも最も低い官位で、指揮権を及ぼせる範囲も狭いです。
ただ、これは帝国や王国の中での話であって、
州レベルの勢力の中での偏将軍は、とても高い地位です。
州牧は九卿クラス、すなわち三品官に相当します。
軍部でなら、四方将軍と同格。つまり、中将クラスなわけです。
ですから、それなりに由緒ある少将クラスの雑号将軍を簡単に何人も任命は出来ません。
自分に次ぐ地位の人間をたくさん増やしてもいいことは無いですから。
そういうわけで、将軍号の中で一番ランクの軽い偏将軍や裨将軍あたりが、
軍の最高幹部に与える手ごろな地位なのです。
259怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/28 00:26
>>258
おお、ありがとうございます。
私は余計でしたな。

さて、ここでは晋書職官志から「節」の順位・権限を挙げましょう。

あくまで晋書の記事なので三国時代でそのままとは限らないですが、参考までに。

・督・都督の順位(上>下)
「都督諸軍」>「監諸軍」>「督諸軍」

・「節」の順位
「使持節」>「持節」>「仮節」

「使持節」は官秩二千石以下の官僚・民をその場で殺す権限を持つ。
(戦争中で無くとも)
「持節」は官位を持たない民のみ殺す権限を持つ。
戦争中は「使持節」と同等に二千石も殺す権限あり。
「仮節」は戦争中に限り軍令違反者を殺す権限がある(だけ)。

逆に言えば、この「節」が無いと法律違反でも原則として勝手には断罪できず、中央に裁可を仰ぐことになるようですね。
>>256
>四征と四鎮は一蓮托生として、同様に見てよいと思いますけど。
それが、蜀の場合はそうでは無いみたいなんですよ。
四征将軍より、四鎮将軍の方が明らかに国家の柱石と言える人物が多いんですよ。
四征将軍には中央軍の指揮官が多く、四鎮将軍は方面軍司令官が多いんですよね。
蜀は魏が四征将軍にさせてた仕事を、四鎮将軍にさせてたような気がします。
呉はどうやら四征・四鎮将軍を高位の雑号将軍と考えてたみたいです。

>孫権の呉王就任後、しばらくは四方>四征は崩れていないと思いますよ。
いつも魏制で考えてるものですから、呉の四方将軍の地位の高さに困惑し、
四方>四征であると断定することが出来ませんでした。
根拠を示していただき、ようやくすっきりしました。

>ここにきて、明らかに四方>四征の図式は崩れ、同位か或いは逆転したように考えられます。
それはおそらく、前将軍呂範と右将軍歩騭という重鎮が昇進したこと、
そして、生きていれば大将軍クラスに昇進したであろうと思われる後将軍賀斉が既に死亡しており、
代わりに政治的存在感の薄い軍人が入ってきたからだと思われます。
>>256
>そこで、孫権の即位前の彼らはどうだったかというと、
>呂岱が交州刺史であり、孫韶も宗室の筆頭であったのと比べると、
呂岱は南方でコツコツと功績をあげてきた叩き上げです。
鎮南将軍の地位を得た時点で、既に66歳。
彼は主に前線司令官として活躍してきたので、
鎮南将軍を花道に引退してもおかしくない人物です。
この時点では、政治的存在感は無いと言ってもいいでしょう。
(彼が政治的存在感を急速に増すのは、副宰相格の潘濬が急死して、
 その代役として政務の処理にあたるようになってからでした。
 その時、なんと79歳。常識を越えています)

孫韶は孫策の腹心で、孫姓を与えられた廬江太守孫河の甥です。
宗室の中で一番出世したのは確かですが、軍事能力で出世した人物であり、
血筋による政治的地位を買われて鎮北将軍になったわけではないです。
宗室としての地位なら、孫権の甥の射声校尉孫松、従兄弟である揚威将軍孫奐、
孫一族の家長だったことのある従兄孫賁の子威遠将軍孫鄰らの方がずっと高いです。
ついでに言えば、威遠将軍は初代丞相孫邵が兼任したこともある、
呉ではかなりの由緒ある将軍号です。
>>256
>朱桓と潘璋の二千石、朱拠の建義校尉というのは少し物足りなく感じます。
潘璋に言及しなかったのは、彼は単なる軍人だからです。
朱桓は並みいる呉の重臣たちと同じように州牧(遥任ではありますが)を領したので、
単なる軍人というだけでなく、国家の重鎮として扱われていると判断しました。
朱據はもともとの地位は校尉に過ぎませんが、孫権の娘婿で、
しかも呉の四姓の一つとされる呉郡呉県の朱氏という名門の出でした。
右大司馬にまでなった全jの例からも分かるように、
呉において皇帝の娘を娶るというのは、スーパーエリートコースです。
(魏・蜀では皇帝の娘婿が宰相や大将軍クラスに出世することは不可能でした)
それに家柄まで加わっているのですから、朱拠は呉のサラブレッドと言えます。
華々しい勲功が無いのに、驃騎将軍にまで出世したのには、そういう背景があるのです。

ですから、孫権即位の時点で、四方>四征の図式が崩れたと考えるのは、
難しいのではないでしょうか?

>蜀についてはややこしいので遠慮しておきます。
蜀の方がむしろ簡単だと思いますが。
私は呉の官制が一番分かりにくいです。
訂正します。

華々しい勲功が無いのに、驃騎将軍にまで出世したのには、そういう背景があるのです。

華々しい勲功が無いのに、驃騎将軍にまで出世したのには、そういう背景があるように思います。
ちょっとソースは忘れましたが、
漢〜後漢中期くらいまでは大将軍〜衛将軍は賊軍討伐の非常置職で、従公将軍とも呼ばれて三公より格下扱いだったそうです。
それが後漢の代々の外戚のリーダーが大将軍となったことで次第に格があがり、
実質的な宰相職として三公より格上となったそうです。確か開幕権はありますよね?

そういえば桓帝〜霊帝くらいまでって車騎将軍がやたら出てきますよね。
代わりに驃騎将軍とか衛将軍とかはあまりいないような…
265怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/28 07:56
>>264
前漢では大将軍〜衛将軍は確かに非常置でしたが、武帝死後はほとんど常置同然にでした。
そもそも職掌・権限が違うので三公と一概には比べられませんが、大将軍は全く別格に扱われていたように思われます。
まさに「将に将たる」べき存在なのでしょう。

驃騎将軍は大将軍に匹敵するものとして武帝が霍去病に与えた事に始まりますが、それでも「大将軍」は別格。
驃騎はその名と就任者が示すように、騎兵の将なのではないでしょうか。

衛将軍は衛尉・城門・北軍の屯兵を指揮するという記載が漢書張安世伝にあり、その名の通り宮殿護衛の将軍です。
車騎将軍はまだハッキリした典拠を見つけていませんが、南軍の方を指揮するのではないでしょうか。

これら四将軍は、前漢後半では筆頭者に「大司馬」が加官され、時には「領尚書事」となって皇帝の事務取り扱いとなります。
この「大司馬」が末期に将軍と分離して三公の「大司馬→太尉」になりました。

このように、大将軍〜衛将軍の四将軍はそれぞれ役割が違っていたようです。

>そういえば桓帝〜霊帝くらいまでって車騎将軍がやたら出てきますよね。
については私も理由はわかりませんが、興味深い話ですね。
266怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/28 20:03
袁紹篇続き。

後漢書何進伝によれば、蹇碩ら宦官が大将軍何進を中央から追い出そうとする策に対し、何進は自分の代わりに袁紹を派遣しようとしています。
また、霊帝死後も清流派起用と宦官打倒を何進に進言したのも袁紹です。
袁紹は若い頃の親交と鉄砲玉まで養成している用意の良さ、そして自身の親戚等育ちの良さを総動員し、何進の信用を得ると共に宦官打倒を図ります。
荀攸や逢紀は袁紹の進言で大将軍何進が登用しました。

何進が宦官の内通で蹇碩を誅殺しその兵を奪うと、袁紹は宦官の一掃を進言しました。
しかし何進は彼の権力の源泉、何太后に反対され、躊躇します。

そして袁紹は続いて猛将豪傑を全国から呼び寄せ、何太后を脅迫しようと進言。何進は賛成しました。
そこで前将軍董卓、武猛都尉丁原らが召し出されました。
そんな中、袁紹は何進により司隷校尉に任じられ、更に「仮節」=「節」を渡されます。
おそらく、倒すべき宦官と集結した全国の「猛将」、両方を抑えるための人事でしょう。

袁紹は何進の参謀となり、太守にもならずに一気に「三独座」司隷校尉になりました。
何進のお陰とはいえ、彼はこの時点で実質的に朝廷を動かしたキーパーソンだったと言えるでしょう。

続く。
267怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/28 20:39
袁紹篇続き。

遂に何進は宦官一掃に着手します。
しかし張譲ら宦官は逆に何太后の詔を称して何進を呼び出し、暗殺します。
そこで司隷校尉交代の詔を作ってそれを尚書に下します。
変事に気付いた尚書が「大将軍に相談します」と言うと、その尚書に何進の首を投げてよこす宦官・・・。

残された大将軍配下の将兵や同盟者達は復讐&反撃に出ます。
(余談ですが配下には呉懿の親戚、呉班の父である呉匡がいました)
袁術(虎賁中郎将)、廬植(尚書)、袁紹(司隷校尉)、袁隗(太傅)、王允(河南尹)・・・。
彼らが奔走し、宮殿は燃え、宦官は死に絶えました。

この事件は大将軍何進と袁氏一党が組んで宦官を全滅する大事件となりました。
ここで袁紹は何進の腹心として、司隷校尉として重大な役割を果たしました。
いやむしろ張本人と言うべきかもしれません。

続く。
268怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/29 00:44
話の流れに関係ないですが、何進は意外なほど部下の将兵に慕われていたらしいです。
何進の弟の車騎将軍何苗が兄に協力的でなく、何進が死んだ後に呉匡らは何苗を恨みました。
そこで「大将軍の死は車騎将軍のせいだ!敵討ちするヤツいるか!」と言ったらみんな涙流してついて行ったそうです。

何進は過小評価されているような気もしてきた。根拠はないですが。
呉匡と言えば、>>247で青氏が挙げてる「奔走の友」の一人、
呉子卿が呉匡なんじゃないかって推測してる本があったような。
誰の本だったかな。石井仁氏の『魏の武帝・曹操』だったかな。
仰せのとおり
271怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/29 07:58
>>269
>>270
おお!そうでしたか。チェックしてなかったッス。ありがとう。
だとすると呉匡を何進に推薦したのは袁紹かな。

袁紹篇続き。

洛陽入りした董卓ですが、自前の兵は3000のみだったそうです。
そこで毎朝新しい兵が到着したかのように自演したとか。
また行き場を失った大将軍(何進)、車騎将軍(何苗)の兵を吸収。
さらには執金吾となった丁原を殺して呂布もろとも配下の兵を吸収しました。

董卓はその兵力をバックに朝廷に入ります。
まずは司空となり、ついで皇帝廃立を強行。
強行とはいえ、父の霊帝からして後継ぎを誰にするか迷っていたそうですから、陳留王(献帝)が担ぎ出される下地はあったのでしょう。
両袁紹伝によれば、この時司隷校尉袁紹は反対し、洛陽の城門に「仮節」の「節」を置いて冀州に逃げたそうです。
但し印綬は置いていないので、司隷校尉は保持しつづけています。

その後董卓は袁紹を捕らえようとしますが、袁紹側の人物である周ヒツ、伍瓊が説得し、袁紹はまんまと渤海太守、コウ[亢β]郷侯を貰います。
追っかけられていたのが逆に封侯される不思議。
袁紹はもう既に多くの大臣や官僚にかなりの影響力を持っていたのでしょう。
かくして、渤海太守の兵権を得た袁紹は反董卓の兵を挙げるのでした。

続く。
272264:03/07/29 10:57
>>265
記憶に自信が無かったので漢籍電子文献で検索しました
桓帝〜霊帝の頃に車騎将軍となったのは

単超、馮[糸昆]、曹節、張温、趙忠、何苗
周靖(行車騎将軍)、皇甫嵩(左車騎将軍)、朱儁(右車騎将軍)

以上です
驃騎将軍・衛将軍は献帝の頃にはありますが、桓帝〜霊帝の頃には見当たりませんでした
273怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/29 20:04
>>272
ありがとう。単超と曹節と趙忠は宦官だね。

袁紹篇続き。

反董卓同盟の盟主となった袁紹は、司隷校尉はそのままに車騎将軍を自称。
「車騎将軍、領司隷校尉」です。
将軍の死によって瓦解したであろう車騎将軍何苗の兵を少しでも吸収する気だったのでしょうか?
(車騎将軍何苗は何進派にむしろ恨まれましたから、逆に僭称するのにも抵抗感が少なかったのでしょうかね?
流石に大将軍を自称したら、
何進派に「おまえ自分が大将軍になりたかっただけちゃうんか」
とか言われるのではないかと・・・。これは妄想ですが)

但し、これによって叔父の太傅袁隗、袁術の同母兄弟の太僕袁基、そして洛陽在住の袁氏全員が殺されます。
三公九卿将軍クラスにこんなに袁氏がいた事に驚きますね。
袁紹は洛陽に住んでいましたから、袁紹の家族縁者も相当犠牲になったでしょう。
なお、これに対し世間は袁紹に同情的だったらしいです。

董卓は彼らに対し、大鴻臚韓融ら大臣を遣わして解散を説得させるのですが、袁紹・袁術はその大臣を殺してしまいます。
彼ら大臣はれっきとした漢の官僚のハズです。
それを殺してしまう袁紹らの本心は「董卓を除く」ではなく「漢の実権を握る」というキナ臭いものだったと言う事でしょう。

まあ、そんな事は袁紹が一緒になって劉虞を皇帝に立てようとした相手である韓馥からまんまと冀州牧をせしめた事だけでも分かるでしょうけれど。
韓馥は袁紹側の高幹(袁紹の甥)、荀ェ(荀ケの弟)に説得させ、更には韓馥自身が袁氏恩顧の人物だったのが効きました。

袁紹はかくして領冀州牧を加え、一方韓馥には奮威将軍にしつつ兵は与えませんでした。
袁紹は覇道まっしぐらですね。

続く。
274怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/29 20:50
あ。
>>273
>韓馥は袁紹側の高幹(袁紹の甥)、荀ェ(荀ケの弟)に説得させ
「させ」じゃないな。「され」だな。
ゴメン。ただでさえダラダラ長いのに。
都に一族がいて天子を奉ずる者に対して兵を挙げた結果、
一族の多くが殺されたという点では同じ。
なのに何故袁紹は世間に誉めそやされ、
馬超は不孝者と罵倒されてしまったのだろうか・・・。

スマソ。関係ないな。続けてくれ。
>>275
相手である、董卓と曹操の差じゃないか?
277怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/30 00:21
>>275
>>276
あと、袁紹と馬超の本人の問題もあると思います。
袁紹は少なくともそれまでは名門の名に恥じぬ振る舞いをしていた。
馬親子は涼州で反覆常無き反乱者。
この差はデカイ。

袁紹篇続き。

冀州を入手した袁紹は、もはや董卓への興味を失ったようでした。
騎都尉沮授を奮武将軍に推挙して配下を統率させ、また審配、田豊といった韓馥時代に不遇だった者を別駕、治中従事といった州の属官に迎えます。

その後、薊に陣取る奮武将軍公孫サンと交戦状態となると、袁紹は事態収拾のため、自分の「渤海太守」を公孫サンの従弟公孫範に渡して彼と協力しようとしますが失敗。
渤海太守はまんまと公孫氏に渡ってしまいました。
公孫サンは恐ろしい事に州刺史や県令を勝手に任命、冀州には公孫サンの決めた厳綱が向かいます。
(余談ですが劉備と一緒に陶謙を助けに行った青州刺史田カイも実は公孫サンが勝手に決めた一人です)
しかし袁紹は厳綱を撃破。以後領内の賊退治を進めました。

続く。
278怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/30 08:01
袁紹篇続き。

この頃には董卓は殺され、長安は李・郭らの争いで大変な事になっていました。
そんな中、シンパ大臣たちのお陰か、李・郭らが袁紹と仲直りしようとしたのか、袁紹に右将軍が与えられました。
自称ではない将軍位は初めてですね。

そして献帝が脱出を図る際、沮授は献帝を助けギョウ(業β)に置いちゃいましょう、と進言。
一方で郭図や淳于瓊は、天子がいる方がめんどくさいよと反対。
少なくとも郭図、そして袁紹はもう漢を見限っているようで、献帝救出はスルーしました。

袁紹は勢力拡大を図り、子の袁譚を青州刺史、袁熙を幽州刺史、甥の高幹を并州刺史とし、自らの冀州と合わせて一族で4州を分担するような形としました。
もう中国東北部はいただきです。

続く。
さて、一仕事しましょうか。

>>266
>袁紹は何進の参謀となり、太守にもならずに一気に「三独座」司隷校尉になりました。
西園八校尉の中で、元の官職が分かっているのは上軍校尉蹇碩(小黄門)・中軍校尉袁紹(虎賁中郎将)・下軍校尉鮑鴻(屯騎校尉)・典軍校尉曹操(議郎)・左校尉夏牟(諫議大夫)の5名です。
このうち、蹇碩は霊帝の寵臣であり、通常の出世コースとは関係ない人物ですので、省きます。
袁紹の虎賁中郎将は比二千石ですので、二千石の太守の一歩手前です。
鮑鴻の屯騎校尉はやはり比二千石ですが、董卓伝の記述によると、彼は右扶風太守だったことがあり、二千石の経験があります。
曹操の議郎は六百石ですが、彼は元済南国相で二千石の経験があります。
夏牟の諫議大夫は六百石。この人物の官歴は不明ですが、諫議大夫は議郎と同様に、
過去に功績のあった人材や、将来性のある人材を確保しておくための予備職という性格が強いので、
過去に軍職にあったか、郡国を治めた経験があったかもしれません。

その実権は中二千石の九卿すら凌ぎますが、それでも司隷校尉は比二千石です。
比二千石や二千石経験者の揃っている西園八校尉から直接就任するのは、困難なことでは無いと思います。

六百石の予州刺史から、同じ六百石の大将軍従事中郎になり、
袁紹と同時に中二千石の河南尹になった王允の方がよほど不可解です。
この人、後漢の秩石制では四階級飛びという怪挙を成し遂げてます。
>>268
>何進は過小評価されているような気もしてきた。根拠はないですが。
私も彼はそれほど無能じゃないと思います。
王允や賈jのように冷や飯を食わされてた実力派官僚や、
袁紹、袁術のような危険人物、逢紀、何顒、荀攸のような策士など、
癖の強い連中を集めて、反宦官勢力の領袖になりました。
最後に判断を誤って殺されたから悪く言われてますが、
際立って無能だったとは思えないです。

ただ、核廃棄物並みの危険人物袁紹を信用しすぎたのが、
欠点と言えば欠点かもしれません。
>>271
>その後董卓は袁紹を捕らえようとしますが、袁紹側の人物である周ヒツ、伍瓊が説得し、
>袁紹はまんまと渤海太守、コウ[亢β]郷侯を貰います。
>追っかけられていたのが逆に封侯される不思議。
袁氏の本拠地の汝南で挙兵されるよりは、
地縁の無い河北に縛り付けておいた方が害が少ないと踏んだのでしょう。

>袁紹はもう既に多くの大臣や官僚にかなりの影響力を持っていたのでしょう。
袁紹は王允と並ぶ(賈jは既に死亡)旧何進派の事実上の最高幹部の一人で、宦官皆殺しの立て役者ですから、
当然清流派中心で構成された董卓政権の大臣達は、袁紹に好意的になるでしょう。

>>273
>董卓は彼らに対し、大鴻臚韓融ら大臣を遣わして解散を説得させるのですが、袁紹・袁術はその大臣を殺してしまいます。
董卓はわざわざ清流派で名声の高い大臣を取り揃えて和議をもちかけたんですけどね。
いったい何を考えて殺したんだか、理解不能です。
殺したところで知識人の反発を買うだけなんですが。
>>275
>都に一族がいて天子を奉ずる者に対して兵を挙げた結果、
>一族の多くが殺されたという点では同じ。
>なのに何故袁紹は世間に誉めそやされ、
>馬超は不孝者と罵倒されてしまったのだろうか・・・。
袁紹は「君側の奸董卓を除く」という大義名分をもって挙兵しましたが、
馬超は大義名分も何も無く、ただ疑心暗鬼に駆られて挙兵しただけですから。
一族の仇である董卓と一戦も交えようとしなかった袁紹よりは、
曹操とガチで戦った馬超の方がずっと孝行者のような気はしますが。
>>277
>その後、薊に陣取る奮武将軍公孫サンと交戦状態となると、
>袁紹は事態収拾のため、自分の「渤海太守」を公孫サンの従弟公孫範に渡して彼と協力しようとしますが失敗。
史書を読むたびに気になるのですが、どうして公孫範に渤海郡を譲ったら、事態を収拾できると考えてたんでしょうか?
直接、公孫瓚に譲った方、話が早いような気がするのですが。
そして、なぜ公孫範が公孫瓚に合流したのが、計算違いになってしまったのでしょうか?
正直な話、公孫範の当時の立場が分かりません。
袁紹の部下でないのは確実ですが、公孫瓚の部下でもないっぽいです。
公孫範は従兄弟とは別に自立していて、袁紹は渤海郡と引き換えに仲裁を頼んだのでしょうか?

>そんな中、シンパ大臣たちのお陰か、李・郭らが袁紹と仲直りしようとしたのか、袁紹に右将軍が与えられました。
この政権は、将軍号をあちこちの群雄にばら撒いてるので、たぶんその一環でしょう。
陶謙の安東将軍も、劉表の鎮南将軍も、袁術の左将軍も、公孫瓚の前将軍も、
全部この政権がばら撒いた官位です。
余談ですが、このメンツの中に後将軍がいないのは、郭が後将軍だからです。
284怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/30 19:41
まずは最近気付いた小ネタ。(え?遅い?そりゃスマねっす)

十常時に蹇碩は入っていない。


永遠の青氏、ありがとうございます。
ああ、袁紹の右将軍は李・郭政権のばら撒きでしたか。
気付きませんでした。

では袁紹篇続き。

天子は曹操が保護しました。
そこで天子は曹操を大将軍、袁紹を太尉、ギョウ(業β)侯にしました。
しかし袁紹はそれに不服。わざと「いらないモン」とすねてみせます。
曹操に風下となるのがイヤだった、そうです。

位で言うと、どうやら太尉の方が上らしいです。
しかし袁紹がそれでも不服なのは、おそらく権能の問題でしょう。
要するに、太尉になっても兵を率いて冀州を領有する裏付けにはなりません。
むしろ、「三公なんだから都に来て政治しろ」とか言われちゃいます。
それでは困るのです。いやむしろ、袁紹を無力化する曹操の企みだったのかもしれません。

曹操は袁紹が態度を硬化させたのを見ると、大将軍位を明け渡し、「督冀・青・幽・并」の権限、ついでに「弓矢」「節」「鉞」までオマケにつけてやりました。
これなら大軍を率い、将軍達に命令する権限、更には冀・青・幽・并の刺史の上位から監督指揮する権限が正当化されるワケです。
天子の代理たる「節」まであります。

この曹操の処置は、袁紹の既得権を保障すると共に、将来に渡って袁紹が4州に根を降ろす事を事実上認めるものです。
後に禍根を残したとも考えられますが、おそらく当時は曹操にはほとんど選択権が無かったのでしょうね。
逆らえばすぐ袁紹に踏み潰されたでしょうから。
袁紹は曹操を生かし、面倒事の多い天子の保護を任せておく、みたいに思っていたのではないかと思います。

続く。
285怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/30 20:31
袁紹篇続き。

といっても、この後は公孫サンを滅ぼし、曹操と戦って負ける。
で終わっちゃうんですよ。

なので袁紹チルドレン篇。

袁紹死後の権力を巡る争いが袁氏滅亡の要因なのは言うまでも無いでしょう。
といっても、本来は大将軍やらは世襲の爵位では無いので、改めて就任しなければいけないハズですが。

そこで青州刺史袁譚はパパと同じ車騎将軍を自称。
袁尚は出て来ませんが、袁紹の冀州牧や大将軍の印綬や「節」を持って命令したのでしょうか?

一応続く。
286怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/31 00:10
一応ロスト・チルドレン篇続き。

袁譚は袁尚に対抗するため、曹操の協力を取り付けました。
曹操はまんまと旧袁紹勢力を分散撃破する事に成功。
ギョウを落とし、并州刺史高幹は降伏(官位を安堵されます)。
(この時ですね、明帝の母甄氏が捕まるのは)
でも袁譚は曹操に背き、結局は敗死。

そして袁尚・熙兄弟はといえば、配下だった焦触が幽州刺史自称するし、もうさんざん。
烏桓へ逃げ、更には遼東の公孫康へ逃げ、そこで死亡。

ある意味一番しつこかったのは高幹。
反乱し、上党太守を捕らえ、壺口関を抑え、匈奴に救援を求めました。
それは失敗し、今度は荊州に逃げようとして捕まり、ついに殺されました。

以上。
こんなに内訌が起こるのは、袁紹の領域支配のやり方に問題があるのではないでしょうか。
劉備のように全域の牧になるのではなく、各州にそれぞれ子供を置いた。
その上から監督する袁紹が居なくなると、バラけてしまうのも仕方ないでしょうね。

今度は董卓あたりかな?
それともこの程度でよければ誰かのリクエストに従います。
>>286
陶謙キボンヌです。
この人、意外と面白い官歴ですよ。
288怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/31 07:55
>>287
では、陶謙から行きましょう。

陶謙は丹陽郡丹陽県の人。父は早くに亡くなったようです。
で、14歳になっても竹馬に乗って遊んでいたとかで、周囲にバカ者扱いされていた節があります。

その後、自分の住む丹陽郡や揚州の役人となり、孝廉に挙げられます。
このあとの経歴は三国志と後漢書でなんだか随分違うんですが。
三国志を基本にすると、州・郡の属官になり、茂才に挙げられて盧県令、幽州刺史、議郎となります。
その後皇甫嵩の元で揚武都尉として羌を討ちます。
ついで涼州の韓遂・辺章等の乱を平定するために車騎将軍張温の「参軍事」となりました。
張温に対してはこの人大層無礼だったそうで。

その後、徐州黄巾賊が現れると陶謙に白羽の矢が立ち、徐州刺史に任命されました。

実は後漢書では車騎将軍張温の「司馬」となっています。
もしかすると、張温に疎んぜられて途中で幕僚(参軍事)から現場の隊長(司馬)に変えられたのかもしれません。
また盧県令、幽州刺史、議郎になったという記載がなく「四遷」でまとめられ、微妙に違います。
さらに、三国志・後漢書で注に引く「呉書」では孝廉→尚書郎→舒県令だそうで、そうだとすると超エリートですが・・・。
これは誤りでしょうか?

皇甫嵩・張温の元で軍事に従事したという事で、どうやら軍事に精通した人材と位置付けられていたようですね。
劉備が陶謙の若い頃くらいの(すこしは)平和な時期に生まれていたら、似たような経歴になったんじゃないでしょうか。

続く。
289怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/31 19:44
陶謙続き。

さて、彼は軍事的な能力を買われて徐州刺史になったっぽい。
で、実際に黄巾を撃って功績もあったらしい。
でも、刺史でしかないので本当は軍を自由にする権限はないんですよ。

可能性としては以下の2つかな。
1:実は「監軍使者」(例:劉焉)などの軍事監督権を与えられており、
  その権限で兵を動かした。
2:越権行為だけど気にせず兵を動かした。
まあ、わざわざ軍事に明るいヤツを選んだんだから、何か兵権を臨時的に与えていても不思議じゃないと思うんですけどね。
ただ、本来は兵を動かしたりするべきでない刺史についてこんな記事が出る事が、漢の制度が崩れている証拠ですね。

陶謙は例の反董卓同盟には加わらなかったようです。
長安の天子に「貢献」を欠かさなかったそうですが、単に傍観して漁夫の利を得ようとしたんじゃないかと勘繰ってしまいます。
そして李・郭政権から安東将軍、徐州牧を与えられ、リツ陽侯に封ぜられました。
>>283参照)

ところで、陶謙の徐州経営はかなり評判悪いです。
「刑政失和、良善被其害」(三国志陶謙伝)とまで書かれています。
まあ、軍事は優秀でも政治的能力はダメだったんでしょうな。
自称天子の闕宣なる人物に一度は荷担し、それから闕宣を殺して兵を吸収したとか、問題行動もありました。

と言うワケで、陶謙は見れば見るほど妖しい人物のような気がします。
正直、三国志演義的世界観とのギャップに頭がついていかないというか・・・。

あと少し続く。
>>284
>要するに、太尉になっても兵を率いて冀州を領有する裏付けにはなりません。
>むしろ、「三公なんだから都に来て政治しろ」とか言われちゃいます。
霊帝の時代に太尉に任命された幽州牧劉虞は、特に都に呼び出されることも無く、
死ぬ日まで幽州牧の地位を保持し続けました。
三公でありながら、何年も州牧の地位を帯び続けた劉虞の前例があり、
袁紹は太尉に任命された時に、冀州牧を解かれていませんので、
「袁紹ほどの大物がただの冀州牧じゃまずいから、景気良く三公でも贈っとけ」という意味で、
機嫌を取るための贈官だったと思います。

>>285
>袁尚は出て来ませんが、袁紹の冀州牧や大将軍の印綬や「節」を持って命令したのでしょうか?
魏書袁紹伝には、「乃ち尚を奉じて紹の位に代わらしむ」という記述があり、
後漢書では、「尚を奉じて嗣と為す」という記述があります。
彼の官位に関する記述はありませんので、おそらくは勝手に父の地位を継いだことにして、
実際に青州以外の地域を実効支配していたので、
実質上の大将軍・冀州牧・督冀・青・幽・并四州であると当時はみなされていたのでしょう。
後漢末の官位は、自称して武力で認めさせた者勝ちですから。
そうでないと、袁譚が、袁尚に対抗して車騎将軍を名乗ったのが理解できません。
数州に勢力を張っていて、勝手に刺史を任命するほどの勢威を振るっていた袁術は左将軍、公孫瓚は前将軍だったのに、
青州刺史でしかない袁譚が車騎将軍という三公に匹敵する官位を自称するのは不自然です。
おそらく、車騎将軍の権威をもって、大将軍袁尚の権威に対抗しようとしたのでしょう。

なお、袁尚は冀州の属僚や郡太守・県令を自分で任命していたらしく、
幽州刺史袁熙、并州刺史高幹にも指揮権を行使していたので、
少なくとも冀州牧・督冀・青・幽・并四州の権限を保持し続けたことは間違いないようです。

余談ですが、荊州牧劉表の子で、その跡を継いだ劉jについても、
後漢書でも「遂にjを以て嗣と為す」と記述されているだけで、
荊州刺史さえ公式には名乗っていないのですが、
やはり荊州の支配者扱いになっています。
>>286
>こんなに内訌が起こるのは、袁紹の領域支配のやり方に問題があるのではないでしょうか。
>劉備のように全域の牧になるのではなく、各州にそれぞれ子供を置いた。
>その上から監督する袁紹が居なくなると、バラけてしまうのも仕方ないでしょうね。
他の広域支配を行った群雄も刺史を置いています。
中には、袁術や公孫瓚のように、自分の根拠地にまで刺史を任命している群雄さえ存在します。
二州にまたがる勢力を持っていたのに、部下を刺史を任命せずにニ州の牧を兼任した劉備の方が、
当時の常識から外れています。

私は、袁紹の領域支配のやり方に問題があったとは思いません。
彼の死後に内訌が起こったのは、むしろ政権中枢部に問題があったからでしょう。
内訌を悪化させたのは、郭図や辛評といった袁紹政権の最高幹部が、
袁譚のいた青州に走って、彼を兵を帯びた刺史以上の存在にしてしまったからだと思います。
292怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/31 21:59
どもッス。

>>290
>「袁紹ほどの大物がただの冀州牧じゃまずいから、景気良く三公でも贈っとけ」という意味で、
機嫌を取るための贈官だったと思います。

まあ、実際はそんなもんかもしれないですけどね。
ただ、袁紹は何故「大将軍」が良くて「太尉」ではイヤだったのか。
そこが気になるんスよ。
え?当時は「大将軍>太尉」だったんじゃないかって?
まあ、それだけかもしれないですけど・・・。
その上下関係もどうなのかよく分からないし。

権力・権限面から妄想してみたんですよ。>>284
でも妄想ですので、皆さん真に受けないように。

>>291
確かに劉備の方が普通じゃないんですよね。
制度から見ると劉備は独裁的な傾向が強いかもしれないですね。
>>288
>実は後漢書では車騎将軍張温の「司馬」となっています。
>もしかすると、張温に疎んぜられて途中で幕僚(参軍事)から現場の隊長(司馬)に変えられたのかもしれません。
刺史や議郎まで経験した官僚である彼が、ただの隊長でしかない別部司馬やただの司馬になるのは、
当時の官制を考えると非常識な話なので、車騎将軍司馬に就任したと考えるのが妥当でしょう。
車騎将軍司馬は千石ですので、六百石の幽州刺史や議郎の経験しかない彼にとっては、栄転です。
(県令は比千石ですが、明らかに刺史より格下と見られていたらしく、
 県令を経て刺史に就任した例が腐るほどありますので、
 陶謙が張温の参軍事に就任する前の最高官を刺史、議郎としました)

>また盧県令、幽州刺史、議郎になったという記載がなく「四遷」でまとめられ、微妙に違います。
>さらに、三国志・後漢書で注に引く「呉書」では孝廉→尚書郎→舒県令だそうで、そうだとすると超エリートですが・・・。
>これは誤りでしょうか?
張温の参軍事になった186年の時点で52歳だったのに、
六百石の幽州刺史以上の実務ポストの経験が無く、
当時30歳だった孫堅と同じ車騎将軍の参軍事ですから、
明らかにエリートコースから外れています。
ですから、註に引かれている呉書の記述より、
魏書の陶謙伝の記述に従った方が正しいと思われます。

>皇甫嵩・張温の元で軍事に従事したという事で、どうやら軍事に精通した人材と位置付けられていたようですね。
後述しますが、後漢末の刺史は既に軍権を有していたようです。
50過ぎの窓際族である陶謙を、皇甫嵩や張温が起用したのは、
幽州刺史時代に何らかの軍功があったからでは無いかと思われます。
>>289
>でも、刺史でしかないので本当は軍を自由にする権限はないんですよ。
霊帝の時代に、揚州刺史臧旻、交阯刺史朱儁、交阯刺史賈j、荊州刺史王敏、予州刺史王允らが、
軍を指揮して反乱を鎮圧したという記録があります。
臧旻は丹陽太守陳寅、王敏は南陽太守羊続に対し、指揮権を行使していました。
ただし、この二人は立伝されていないので、軍権を臨時に与えられていたかどうかは不明です。
立伝されている朱儁、賈j、王允の三人は、臨時に軍権を与えられておらず、
刺史の資格で反乱の討伐に当たったことが明記されています。
どうやら、霊帝の頃には、非常時に限り、刺史の資格で軍を指揮することが可能だったようです。
>>292
>ただ、袁紹は何故「大将軍」が良くて「太尉」ではイヤだったのか。
>そこが気になるんスよ。
>え?当時は「大将軍>太尉」だったんじゃないかって?
後漢に政治を壟断した太尉はいませんが、政治を壟断した大将軍は何人もいます。
名目上はともかく、実質上の権威は大将軍の方が、太尉より明らかに上です。
後漢末最大の実力者であり、次代の政権への野心を燃やしていた袁紹としては、
曹操が「大将軍として天下の政を執り行う」ことを認めるわけにはいかなかったのでしょう。
その意図を理解して「天下の政を執り行う」のが時期尚早と判断した曹操は、
袁紹に大将軍を譲り、自らは三公の一人に退いたのだと思います。

>制度から見ると劉備は独裁的な傾向が強いかもしれないですね。
おそらく、後漢末から三国の時代にかけての群雄の中では、
最も独裁指向の強い群雄だったと思っています。
296怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/01 00:28
>>293
色々とフォローやご指摘ありがとう。

んで、反省して「司馬」について勉強。

将軍の「司馬」(千石)は将軍の軍事関係の副官。幕僚ですね。
ちなみに主に事務系の長が「長史」です。

それとは別に、「軍司馬」(比千石)というのがあります。
これが現場隊長みたいなもんですね。
部曲の指揮官。
(大将軍だと部校尉というのもありますが)
その副官が「軍仮司馬」。

「別部司馬」は遊撃部隊の隊長みたいな感じらしいです。


もしかしてこうなるのかな?

将軍―司馬―(部曲)軍司馬―仮司馬・・・兵隊さん
          別部司馬(?)・・・・・・・兵隊さん
>>296
そうですね。三将軍と、四方将軍の軍の指揮系統はそうなっているみたいです。
しかし、この場合の別部司馬は遊撃部隊の隊長と言うよりは、
将軍の親衛隊では無い大隊の大隊長で、原則としては将軍と一緒に行動すると思われます。
298怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/01 07:38
>>297
別部司馬については、あえて「別部」といっているので、本隊から切り離す事を前提としたのかと推測しました。
実例等についてはチェックしてませんでしたが。
なもんで間違っていたら失礼。

また、「参軍事」なんてのもあったわけですが、これは漢書百官公卿表、続漢書百官志、晋書職官志には見えないようです。
これはおそらく常置ではなく、もしかすると他の官を持ちつつ兼任するものかも知れません。
だとすれば、陶謙は車騎将軍司馬の官にあって「参軍事」だったという事もありえるのではないかと思います。
まあ、これも妄想の類ですがね。
299怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/01 08:27
陶謙篇続き。

さて、陶謙はその後曹操パパを死なせた件が元で曹操に攻められます。
ただ、陶謙には先の闕宣の一件のように、罪に問われてしかるべき事をやらかしているので、攻められた事は不思議ではないと思います。

なお、三国志で「死者万数」だったのが後漢書では「殺男女数十万人」と、表現が変わっています。
後漢書の通りなら確かに「虐殺」でしょうが、どちらが実態に近いのでしょうね?

曹操は足許をお留守にしてしまいそこから呂布が湧き出てきたので、どうやら陶謙攻めは時期尚早だったようです。
その後ほどなくして陶謙死亡。ご存知のように劉備が後を継ぎました。

以上です。公孫サンあたりに似た感じですね。
当地の太守や元太守に気に入られて娘を貰う、なんて所まで同じ。


>>299
本旨から少しずれるんですが、陶謙と曹操の決定的な確執にいたる過程
(曹嵩が殺される一件です)が、「本紀」と「伝」では食い違ってますよね?

そのあたり、もう少し検証できないもんでしょうか?

永遠の青 氏からも、よろしければ御意見をいただきたいです。
勝手言ってもうしわけないす。
301怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/01 19:44
では自信はないけどやってみましょう。

まず三国志武帝紀。
初平4年、陶謙が闕宣と組んで暴れたという記事の後、同年秋に曹操は陶謙を攻撃。
「太祖(曹操)陶謙を征し、十余城を下し、(陶)謙城を守り敢て出ず」
翌年興平元年春に曹操帰還。
なぜかここで
「初め、太祖の父(曹)嵩、・・・陶謙の害する所と為り、故に太祖は志復讐して東のかた伐つに在り」
との記事につながる。武帝紀では確かに陶謙がパパン殺害犯とされていますな。

同陶謙伝。
闕宣を殺した後、いきなり初平4年の曹操侵攻に続く。理由は無い。
裴注引「呉書」によると
「曹公の父泰山に於て殺され、咎を(陶)謙に帰す」
と、陶謙のせいではないと思っている記述になっているようです。

陳寿の公式見解は、陶謙伝に記載がない以上、武帝紀の
「曹操は父の敵討ち気分だった」
ではないかと。
302怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/01 20:07
>>301追加。
そして、曹嵩殺害は陶謙側に責任があるとの見解。>三国志

後漢書陶謙伝。
「時に(陶)謙の別将陰平を守りて、士卒(曹)嵩の財宝を利とし、遂に襲いて之を殺す」
三国志演義なんかでの展開はこれが下敷きですね。
陶謙は直接の犯人ではなくとも、監督責任は確かにあります。
しかし殺人に対する過失致死のように、少しばかり陶謙の責任が緩和されるものではありますね。

ついでにこっそり当事者の一人になっている、私には親しみ深い人の列伝。
後漢書応劭伝。
泰山太守応劭は曹操の意を受けて(泰山郡はエン州)、徐州からムスコの元にやってくる曹嵩らを迎え、護衛しようとしました。
しかし、合流する前に以下のような事が。
「徐州牧陶謙素より(曹)嵩の子(曹)操しばしば之(=陶謙)を撃つを怨み、乃ち軽騎をして(曹)嵩・(曹)徳(=曹嵩の子)を追わしめ、並びに之を郡界に殺す」
これによると陶謙の逆恨みといった感じ。完全に主犯ですね。
(ちなみに応劭は曹操が怖くなって袁紹の所に逃げました)

後漢書ではここで引いた両伝で食い違っています。
後漢書陶謙伝でのみ、この件では陶謙は「それほどは」悪くない、とされているようです。
303怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/01 22:56
続き。

要するに、その時代からそれほどは経っていない三国志において、
少なくとも陳寿は
「陶謙がパパ殺しの犯人だったので曹操攻めた」
と考えていた事になります。
陶謙伝にその辺の記載が無いのは、
その本人にとってはあまり芳しくない記事を敢えて別の所に記載し、本人の伝中には入れないというある種の配慮かもしれません。

ただ、そうだとすればその沈黙自体が
「陶謙にとって芳しくない理由が曹操侵攻の裏にあった」
ことを示唆していますね。

陶謙が曹嵩殺人事件の犯人ではないと主張するのは裴注引の呉書(BY韋昭)のみ。
もちろんそこに真実がある、という可能性も否定はしませんが・・・。
呉人によって記された以上、どちらかといえば反曹操的な立場にあったのではないかと考えるべきです。
「陶謙悪くない!曹操逆恨みカコワルイ!!」
という方向に持っていきたいが為の記事という可能性も捨てきれないでしょうね。

ということで、陶謙は曹操に怨まれてしかるべき凶行に手を染めたのではないかと思います。
>>303
陶謙は曹操の徐州侵攻以前に、兗州東郡の発干で曹操に敗れ、
後に闕宣と組んで兗州泰山郡華県と費県を占領し、任城国を攻撃していますね。
その仕返しに、曹操に十余城を落とされてます。

後漢書や魏書の記述を参照すると、最初に兗州に手を出して、
逆に曹操に攻め込まれてボロ負けしたので、
逆恨みして曹嵩を殺したというのが、妥当なような気がします。

史書を見る限り、陶謙はかなり度量の狭い人だったみたいですので。
一生窓際でいた方が良かった人かも知れませんね。
305怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/02 00:12
>>304
ふむ。にゃるほろ。
つーことは曹嵩が徐州から曹操の所に行ったのは、
「ヤベエ陶謙に殺されるかも」という切羽詰ったものだったのかも、という事かな・・・。
306288:03/08/02 01:32
>>304
闕宣て天子を自称した奴ですよね。
そんなのと手を組むということは陶謙は儒教的価値観とは無縁だったんでしょうか?
そんなのと手を組まねばならないほど追い詰められていた、とも考えられますが。

陶謙の死後、何故劉備が刺史に奉戴されたのかも気になりますね。
すみません>>306の名前欄、間違いです
>>305
少年時代の孫策が陶謙の迫害を恐れて、
長江を渡ったという記事が、孫策伝にあります。
陶謙と怨恨らしい怨恨の無い孫策がいじめられるのを恐れるぐらいですから、
息子が陶謙に怨み買いまくりの曹嵩にとって、
徐州はさぞ針のムシロだったことでしょう。

>>306
>闕宣て天子を自称した奴ですよね。
>そんなのと手を組むということは陶謙は儒教的価値観とは無縁だったんでしょうか?
この人は、学問好きの少年だったそうです。
そして、儒教至上主義の後漢末で官僚をやっていたのですから、
それなりの知識はあったのでしょうが、清流派的観点での名声があったとも、
清流派の名士と親しくしていたという記述もありませんので、
おそらく、あまり儒教的価値観に則って行動する人物ではなかったのでしょう。

だからと言って、強情な性格のせいか宦官や外戚に諂う事も出来ず、
清流派にも宦官や外戚にも引き立ててもらえないで、
特筆されるような目覚ましい功績も無かったから、
50代半ばまで窓際だったのではないかと思います。

>そんなのと手を組まねばならないほど追い詰められていた、とも考えられますが。
曹操侵攻以前の徐州は経済的に繁栄していて、
陶謙自身も安東将軍・徐州牧に任命され、溧陽侯に封じられ、
追い詰められるどころか全盛期でした。
ですから、青州黄巾との戦いで荒れ果てていた兗州に手を伸ばしてみようと
目論んだのではないかと思います。
309307:03/08/02 03:12
>>308
あ、本当だ。
陶謙伝読み直しました。略奪のために闕宣を利用して表立ってきたので殺した。
ともとれる内容ですね。エグイなぁ。
>>306
>陶謙の死後、何故劉備が刺史に奉戴されたのかも気になりますね。
本来、漢の官制では郡太守・国相>刺史なんですが、
反董卓連合軍結成の辺りから、刺史が勝手に兵を擁するようになり、
もともと州内の郡国に対する行政監察権も持っていたので、
刺史>郡太守・国相になったみたいです。

長沙太守孫堅が後将軍袁術に豫州刺史に任命されたり、
平原国相劉備が徐州牧陶謙に豫州刺史に任命されたりし、
それが栄転と受け取られているのがその好例です。

陶謙が死んだ時点で、徐州には5つの郡国があり、
沛国沛県(小沛)に豫州刺史劉備が駐屯し、
沛の国相である陳珪(陳登の父)も陶謙に従っていたみたいなので、
豫州でも1つの国を保有しており、
陶謙領は6つの郡国を有していたことになります。

当然、本来は6人の郡太守・国相がいて、
(実際には下邳国相笮融、彭城国相薛礼が長江の南に走り、広陵太守趙cが殺害されていますので、
 この3つの郡国に後任の太守や国相が着任していたのかどうかは不明なのですが)
州牧の次ぐらいに偉いのですが、陶謙勢力には彼らより偉い豫州刺史劉備がいます。

陶謙の息子の陶応・陶商の年齢は不明ですが、史書には仕官しなかったという記録があり、
陶謙勢力の要人である徐州別駕従事麋竺や、典農校尉陳登、陶謙の同盟者である北海国相孔融らが、
必死になって陶謙勢力を継ぐように、劉備を説得していますので、
陶応・陶商に跡を継がせるべきではないというコンセンサスが、
陶謙勢力の要人の間にはあったのだと思われます。

そういう事情で、陶謙勢力の中で一番地位の高い豫州刺史劉備が、
後継者として擁立されたのでしょう。
311あぼーん:あぼーん
あぼーん
312307:03/08/02 08:12
>>310
>そういう事情で、陶謙勢力の中で一番地位の高い豫州刺史劉備が、
>後継者として擁立されたのでしょう。
劉焉→璋のように僻地で半独立状態でもなく、劉表→jの頃のように中央と地方軍閥との隔絶がはっきりしてない時期なので、
陶謙の子に世襲させようと動きは無く、結果的に最高位の劉備が継いだということですね。
そう考えると、徐州の遺臣的には住民の動揺を抑えるためのやむなしの暫定リーダーだったんでしょうかね…
313怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/02 16:04
刺史についてですが、漢代の刺史の職務はそれなりに制限されていました。
その制限が「六条問事」です。

六条問事
1 豪族などが目に余る土地兼併や搾取をしている。
2 郡太守・諸侯王相が詔書に従わず、私利私欲に走っている。
3 郡太守・諸侯王相が裁判権を濫用している。
4 郡太守・諸侯王相が人事権を濫用している。
5 郡太守・諸侯王相の関係者がその威光で好き勝手している。
6 郡太守・諸侯王相が豪族などと結託している。

本来、刺史はこれら六条の項目に違反するものを弾劾することになっていました。
それ以外は越権行為です。
だから、
・県令の権限に属する事についての監察
・太守に命令する
・自ら兵を率いる
といった事は刺史にとっては越権行為のハズなのです。
制限しないとすぐに太守に対して監察権を盾に命令するようになっちゃいますから。

もちろん、実際には後漢末には完全に崩れていましたが。
それでも、多くの群雄の官職が「将軍+刺史(牧)」の形を取るのは、
刺史だけでは制度上は自前の兵隊を持つ事が出来ないからです。
314怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/02 16:13
↑が話の流れを切ってしまったならゴメン。

漢の制度上は全中国の10分の1近くもの領域・人口を支配する官職なんてものはありません。
それでもなお事実上の支配者たらんとした(というか支配者になった)群雄達は、
「将軍」によって支配の裏づけとなる兵力を握り、
同時に「刺史」によって行政全般を統括する事で
事実上の「王」になったのです。

将軍だけでも、刺史だけでも不可能なことです。
当然ながら、平時では官の兼任自体がほとんどありえない話でした。
兼任の乱発は後漢末の乱世を象徴する事象の一つですね。
315質問:03/08/02 16:23
後漢書にでてくる「徐州伯」ってゆう官名は袁術のオリジナルですか?
316怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/02 17:02
>>315
ごめんオイラそれ知らなかった。
今どこにあるのか調べてる。後漢書のどこ?
317315:03/08/02 19:20
後漢書、袁術伝の途中の
「殺楊州刺史陳温而自領之,又兼稱徐州伯.李カク入長安,欲結術為援,乃授以左將軍,假節,封陽テキ侯」
ってところです。
318怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/02 19:30
>>317
ありがとう。役に立たない俺を許しておくれ・・・。

確認したッス。自称ですな。
この「伯」は古代の「方伯」ですな。
転じて州刺史・牧の雅称として使われたようです。
ただし、袁術は「伯」を自称しているので、雅称ではなく実際にそう名乗ったと思われます。
理由は、
「自分は刺史・牧とは違うんだ」
ということを示そうと、とかでしょうか。

いずれにせよ、漢末群雄でも真っ先に天子になった、漢の権威を誰よりもないがしろにした漢(おとこ)らしいエピソードですねぇ。
教えてくれてありがとうございます。
>>312
>劉焉→璋のように僻地で半独立状態でもなく、劉表→jの頃のように中央と地方軍閥との隔絶がはっきりしてない時期なので、
>陶謙の子に世襲させようと動きは無く、結果的に最高位の劉備が継いだということですね。
劉焉は6年しか益州に在任していませんので、変えようと思えば中央からしかるべき高官を派遣して変える大義名分もありましたが、
劉璋はもともと漢朝から正式に任命された比二千石の奉車都尉の官職を有していましたので、
中央政権にちゃんと工作すれば、ニ千石(ただし、九卿から就任する場合は中二千石)の州牧に、
合法的に昇進したという形をとることも可能な「しかるべき高官」でした。
そのため、趙韙による劉璋擁立工作は正当性を帯びたのです。

劉表→劉jの例に関しては、完全に20年近く独立王国を作ってきて、
中央の威令を無視して刺史や太守を任命していたので、
世襲が当然と考えられていたのでしょう。

>陶謙の子に世襲させようと動きは無く、結果的に最高位の劉備が継いだということですね。
陶謙は劉表と同じように、勝手に刺史や太守を任命し、独立王国の君主気取りでしたが、
徐州に君臨した期間は短く、その政権も民心を得ていた劉表政権と違って、支持を失っていました。
圧制者にして、無謀な戦争によって州を壊滅状態に陥れた陶謙の息子よりは、
下級士官から、実力で豫州刺史まで昇進し、評判もいい劉備を立てる方が、
徐州の民衆や豪族の支持を得るのには都合が良かったのだと思います。
劉備を豫州刺史に推挙したのって陶謙じゃなかったっけ?
321320:03/08/02 22:16
あ、>>310に書いてあったわ。スマソ
>>312
>そう考えると、徐州の遺臣的には住民の動揺を抑えるためのやむなしの暫定リーダーだったんでしょうかね…
陶謙政権の悪いイメージを一掃して、
崩壊しつつあった政権を立て直すためのリーダー選びで、
暫定的なものでは無かったと思います。

>>313
>・太守に命令する
>・自ら兵を率いる
>といった事は刺史にとっては越権行為のハズなのです。
>制限しないとすぐに太守に対して監察権を盾に命令するようになっちゃいますから。
後漢中期の皇帝安帝の本紀に、
青州刺史法雄が御史中丞王宗の監督下で反乱軍を討伐し、
涼州刺史(姓名不詳)が単独で先零羌と戦って敗れ、
益州刺史張喬が単独で夷の反乱を平定し、
幽州刺史馮煥が二つの郡の太守を率いて高句驪を討伐したのに勝利できず、
益州刺史と蜀郡西部都尉(いずれも姓名不詳)が旄牛夷の反乱を討伐したという記事があります。

既に後漢中期では、刺史が兵を率いて反乱を平定したり、
郡太守に対して軍事指揮権を行使していたみたいです。
後漢中期以降の刺史は、非常時に限り兵権を有していたみたいです。
>>313
>それでも、多くの群雄の官職が「将軍+刺史(牧)」の形を取るのは、
>刺史だけでは制度上は自前の兵隊を持つ事が出来ないからです。
冀州牧韓馥は公孫瓚と安平で交戦して敗北し、
兗州刺史劉岱は東郡太守橋瑁を殺害して、東郡を占領しています。
荊州刺史王叡は武陵太守曹寅を攻め滅ぼそうと目論んでいましたが、
兵の暴動に見せかけて城内に侵入した長沙太守孫堅に襲撃されて殺されています。
彼らは将軍号を帯びていませんでしたが、自前の兵隊を有していたようです。

また、陶謙は徐州刺史の資格で、黄巾討伐に派遣され、
後に徐州牧・安東将軍に任じられますが、
それ以前から徐州において強大な権勢を振るっており、
刺史に着任して、徐州に根を下ろしてからは自前の軍隊を有していたと思われます。

どうやら、群雄割拠の時代になってからは、
刺史は将軍号や監軍・督軍の資格が無くても、平気で自前の軍隊を持っていたようです。

漢末の自立していた州牧・州刺史が将軍号を欲しがったのは、
単なるハク付けであったと思います。
州牧・州刺史でない袁術や公孫瓚にとっては、
喉から手が出るほど欲しかったでしょうが。
324怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/02 23:45
>>323
補足ありがとう。

>どうやら、群雄割拠の時代になってからは、
>刺史は将軍号や監軍・督軍の資格が無くても、平気で自前の軍隊を持っていたようです。
まあ、だもんで「越権行為の“ハズ”」「“制度上は”自前の兵隊を持つ事が出来ない」
と書いたのデスヨ。
実態は違うけど、本来の制度を守ろうとすれば兵を持つのはおかしいぞ、と。

続漢書百官志によれば、司隷校尉(刺史)の属官に「兵曹従事」というのがあり、軍事があれば置かれたそうです。
ここからしても、確かに兵を使う事もあったのでしょう。
しかし将軍のように司馬・候などの下士官クラスの規定は無く、刺史・司隷の兵はどんな命令系統だったのかすら不明です。
恒常的に兵を持つのであればこういったあたりが整備されていないと辛いところではないでしょうか。
恒常的に、且つ一本化された体系的な自前の軍事力を持つには、やはり将軍が必要だったんじゃないかと思います。
刺史onlyでの領兵は、領域内の郡国からかき集めてきた臨時的なものでしょうし。


まあ、私の話は所詮シロウトの妄言ですので、皆さん真に受けないように。
話半分に聞いてください。
(え?ずっとそうしてるって?)

さて、次は董卓でしょうかね。それとも何か案などあります?
>>324
>まあ、だもんで「越権行為の“ハズ”」「“制度上は”自前の兵隊を持つ事が出来ない」
>と書いたのデスヨ。
失念していました。失礼いたしました。

>実態は違うけど、本来の制度を守ろうとすれば兵を持つのはおかしいぞ、と。
たぶん、内戦になりそうだったから、勝手に兵を集めだしたんでしょうね。
非常時のみ兵を帯びることが出来るという職権を生かして、
「董卓が大乱を起こしてるから、平定するために兵を集めるんだよ」と言い訳して。
陶謙の兵は、黄巾討伐のために臨時に指揮した兵をそのまま横領。
劉表や劉焉の兵は、州郡から刺史の権限で召集したわけではない完全な私兵ですから、
制度的には豪族が保有してる小作人や使用人が、武器を持つか鍬を持つかの違いですから、
「兵じゃなくて小作人や使用人なんだよん」と激しく苦しい言い訳はできそうです。
326怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/03 00:51
>>325
なるほど、はなっから私兵であれば刺史の権限とは関係ないですね。
私兵というのは頭から抜けてました。

ところで刺史は前漢では領兵は全く許されなかったハズなので、後漢で許されるようになった契機が知りたいものです。
後漢では郡都尉が原則廃止になっているのと対応しているのでしょうかねぇ?
(前漢なら郡都尉が兵を率いた所を、後漢では有事に限り刺史が兵を領する、とか・・・?)
また妄想ですけどね。


>>325
>続漢書百官志によれば、司隷校尉(刺史)の属官に「兵曹従事」というのがあり、軍事があれば置かれたそうです。
>ここからしても、確かに兵を使う事もあったのでしょう。
後漢書では、刺史の属官については、
「属官の職務と数は司隸校尉と同じだが、都官従事を置かず、功曹従事を治中従事とする」という記述があります。
この記述に従えば、刺史の属官にも非常時に限り、兵曹従事が置かれたようです。

>しかし将軍のように司馬・候などの下士官クラスの規定は無く、刺史・司隷の兵はどんな命令系統だったのかすら不明です。
>恒常的に兵を持つのであればこういったあたりが整備されていないと辛いところではないでしょうか。
建国時には、四方将軍を凌ぎ、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍に匹敵する軍権を有した
征西大将軍、征南大将軍、建威大将軍などの諸大将軍や、雑号将軍の指揮系統だって、記載されていませんしね。
宰相ポストでもある大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、
閣僚ポストでもある四方将軍と違って、
純粋に戦争の指揮に携わる雑号将軍や刺史の軍の指揮系統は、
現場の都合でいくらでも変わることがあるので、記録に留めなかっただけで、
州刺史の兵にも指揮系統は存在していたと思います。

>ところで刺史は前漢では領兵は全く許されなかったハズなので、後漢で許されるようになった契機が知りたいものです。
おそらく、前漢では九卿がしょっちゅう出征し、三公クラスの人物が出征することさえありました。
(もちろん、高祖の時代は除きます)
後漢ではこれらのポストの軍事色が薄れ、常置の八将軍も政治色の強いポストだったため、
代わりに刺史が引っ張り出されるようになってきたのだと思います。
328怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/03 09:33
さて、そろそろ「三国志有名人の官職を考察」董卓篇をしてみましょう。
需要があるのかどうか知りませんが。
いつものように皆さんツッコミのご用意を。

隴西の人董卓は、若い頃は「侠」を好み、羌族の中に出入りしていたとか。
羌族に随分気に入られたらしい。
後漢書によれば州(涼州)の「兵馬掾」になったそうです。

その後、「六郡良家子」によって羽林郎になりました。
「六郡良家子」とは
隴西、天水(=漢陽)、安定、北地(以上涼州)と
上郡、西河(以上并州)の六郡です(涼州金城郡も含む説もある)。
この対象郡を見ても想像つくでしょうが、この「六郡良家子」に求められていたのは「騎兵」です。
董卓はおそらく若い頃の羌族とのヤンチャと、涼州兵馬掾としての仕事で騎兵としての技量を身につけたのでしょう。

続く。
329怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/03 09:38
>>328
ああ、中途半端だった。補足。
「六郡良家子」とは、上に書いた六郡を対象に、それらの郡内から「郎」たるに相応しい人材を選び出すものでした。
そして、この六郡だけが対象なのは、武力、特に騎兵としての能力に優れたものを選ぶものだったからです。
武人のエリート候補生、ってトコですかね。
330怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/03 16:15
ヒマだから董卓篇続き。

のち、使匈奴中郎将張奐の軍司馬として并州征伐に向かいます。
桓帝の死亡年、永康元年ころの事ですね。
董卓は良将張奐の元で功績を立て、郎中になりました。
またこの時に貰った下賜品は士卒に分け与えたそうです。

その後、広武県令(并州雁門郡)、蜀郡の北部都尉、西域戊己校尉になりました。
戊己校尉は西域を鎮撫する為の官です。車師国に役所(というか基地)があったですね。
(トルファンあたり?)
しかし何かあったらしく免官されたようです。

そして再び并州刺史、次いで河東太守になりました。
そこで黄巾の乱勃発です。

見事なまでに武官というか、荒っぽい感じの官職ばかりですね。

続く。
33164:03/08/03 21:30
「隠れた逸材」スレから参りました。
向こうでは65ですが勘違いで64のようです(笑)。

ちと話がそれますが、武官の職制の事です。
よく、監軍、護軍、領軍、典軍などが出てきますよね。
そういった職の解説サイトなども多いのですが、中護軍やら、後典軍、前監軍など色々派生していて、いまいちよく分かりません。
例えば、護軍と中護軍との違いや、典軍と監軍の違いなどを教えていただけませんか。
適当なんじゃないの?漢代ってか中国の制度はメチャメチャ。
333怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/03 22:08
>>331
こんばんは64さん。
正直、私は「護軍」「領軍」「典軍」「監軍」といったものそれぞれを立て板に水で解説できる能力は無いッス。
でも、できる範囲のことをやってみます。

「護軍」自体は秦・前漢以来の官です。
陳平が護軍中尉になっています。
また武帝以降、大司馬将軍の属官として「護軍都尉」というのがありました。
これらがどんな職務かはよく分からないのですが・・・。
「護」という字義に「監視する」というのがあるので、将兵の監視をしたのではないかと想像されます。
(「西域都護」など、この時代に「護」は「監視」の意味で使われているようです)
後漢では廃止されたようです。

三国頃の「護軍」は、晋書職官志によれば曹操が韓浩を任命したのが始まりです。
三国志夏侯惇伝によれば「領軍」と共に「禁兵を掌る」のだそうです。
どうやら、漢において「北軍中候」が掌っていた近衛兵を指揮or監視したようです。
これが建安12年に「中護軍」に改称。
「中」は殿中、禁中などを意味する「中」と思われます。
魏では「護軍将軍」が置かれ、武官の人事をも掌り、後述(予定)の領軍に所属したとのこと。

>>332
適当な部分はとことん適当なんですけどね。
全てが適当というわけでも無さそうなのが悩ましい。
>西域戊己校尉
西域戊己校尉は西域都護の配下じゃないんですか?

車師国といえば後漢書董卓伝に、長安にいた車師王(おそらく董卓が連れてきた)が
勝手に振舞うので誰かが誅殺したところ、董卓が激怒したというのがありましたね

この頃まで長期的に異民族と関係を持ってることから、
韓遂たちが起こした涼州の乱で董卓が兵を損なわなかった、というのは
実は内応していたという論が的を得ているように思いますがどうでしょう?

ちょっとフライング気味ですか?
335怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/03 23:22
>>334
董卓伝中の事は後で・・・というかまだチェックしてないの。

戊己校尉は確かに西域都護の命令を受ける関係だったようです。
(前漢に、都護甘延寿、副校尉陳湯が独断で戊己校尉や西域の服属している諸国の兵を招集し、逃げていた匈奴単于を討つという事件がありました)
しかし、後漢書の西域伝を見る限りでは、董卓の頃には西域都護は置かれていないようです。

都護は西域の南北二つの道を両方(=都=「みな」)「護」する事から生まれた名前です。
烏孫、康居などまで取り締まり、その基地は亀慈(クチャ)にあります。
漢の宣帝の時に成立しました。

一方、戊己校尉はそれより後、元帝の時に置かれました。
治所はトルファンあたり。まだ敦煌などに近い方です。

都護は漢が西域の支配力を失った時点で意味が無くなってしまったのでしょう。
一方、より漢本国に近い戊己校尉は、車師が支配下にある内は対匈奴などの関係もあり、意味を失わなかったのではないかと思います。
>>331
魏制の中領軍、中護軍に関しては、>>114で説明しています。
そちらを参照ください。

監軍、護軍、領軍、典軍は、ケースバイケースで、
前線指揮官にも、近衛兵の指揮官にも、軍の監察官にも、参謀にもなることがありますので、
中護軍、後典軍、前監軍など、それぞれのケースでお考えになった方がよろしいかと思います。
後漢末から三国時代における監軍、護軍、領軍、典軍を定義をしろと言われても、私には無理です。

>>333
蜀書李厳伝に、劉璋配下だった護軍李厳が劉備を迎撃に向かったという記事があります。
どうやら、護軍は前線指揮官ポストとして使われることもあったみたいです。
また、後漢書袁紹書伝には、逢紀が護軍だったという記事がありますが、
この人の経歴や当時の行動を考えてみると、どうやら軍の監察官か参謀で、
前漢の護軍ときわめて性格の近いポストであったと思われます。
それが曹操軍では親衛隊の指揮官で、護軍という肩書きそのものには、
まったく厳格な定義が無かったかのようです。
337怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/04 07:30
>>336
ありがとう。
「領軍」についても>>336>>114を参照してもらえば良さそうですね。
漢末では、まず「領軍」になったのは史渙。監軍同様で「禁兵を掌る」ものでした。
後に「中領軍」と改称。
魏では「領軍将軍」が置かれたこともありました。

晋では中領軍が「北軍中候」に改称されたことがあり、職務内容が
「(中)領軍」=「北軍中候」
だと認識されていた事が分かります。


>>335に補足。
後漢は西域経営に熱心ではなく、というか西域側の巻き返しで都護戦死などがあり、都護は安帝永初元年にやめて以来ついに置かれなかったようです。
>>334
>車師国といえば後漢書董卓伝に、長安にいた車師王(おそらく董卓が連れてきた)が
>勝手に振舞うので誰かが誅殺したところ、董卓が激怒したというのがありましたね
後漢書董卓伝を参照しましたが、そのような記事を見つけることは出来ませんでした。
もしかして、後漢書趙典伝で、趙典の子の司隷校尉趙謙が、
董卓が側に置いて寵愛していた車師王が法を犯したので逮捕して処刑し、
激怒させたという記事を指しているのでしょうか?

>この頃まで長期的に異民族と関係を持ってることから、
>韓遂たちが起こした涼州の乱で董卓が兵を損なわなかった、というのは
>実は内応していたという論が的を得ているように思いますがどうでしょう?
よく言われる俗説ですが、完全に間違いです。
後漢書の皇甫規伝、張奐伝、段熲伝をお読みになれば、
羌との戦争が全面戦争だったことがお分かりになると思います。
そんな大戦争に涼州兵馬掾として参加して剛勇ぶりを恐れられ、
張奐の軍司馬として、莫大な恩賞を賜るほどの武功を立てています。
羌にとっての董卓は関係を結ぶ対象どころか、憎むべき仇敵でした。

辺章・韓遂の乱では、董卓は反乱軍が流星群を凶兆と見て士気が低下しているのを知ると、
右扶風太守鮑鴻(後の西園八校尉)とともに急襲して、数千人を斬るという大勝利を収めました。
その追撃を指揮した周慎がヘマをしたため、董卓軍は包囲されて食糧も尽きてしまいましたが、
魚捕りをするふりをして、川をせきとめ、激しい勢いで全軍脱出した後に、川に水を流し、
反乱軍の追撃をかわすという奇策を用いたから、兵を損なわずに帰還できたのです。

辺章・韓遂の乱で董卓以外の部隊が壊滅したのは、
周慎が孫堅の言うことを聞かずに用兵を誤って負けたからで、
別に董卓が反乱軍に内応したわけではありません。

董卓は黄巾討伐では成果をあげられませんでしたが、
当時の最大の紛争地帯であった涼州方面では多くの勲功を立てており、紛れも無い名将でした。
董卓が勝ち続けたのに、涼州の反乱勢力が完全に壊滅しなかったのは、
反乱軍の主力である羌が、戦争の一つや二つに負けても壊滅しないぐらい強力な勢力だったからです。
339怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/04 07:58
董卓篇続き。

黄巾の乱に際し、董卓は東中郎将、「持節」となり、盧植に代わって張角を討ちました。
しかし盧植同様彼も張角を討てず、敗北して罪に問われます。

それでも彼の軍事的な才能は認められていたのか、はたまた演義のように裏工作でもあったのか、
今度は北宮伯玉・辺章・韓遂らの乱の平定に差し向けられました。
大将は左車騎将軍皇甫嵩、董卓は中郎将です。

しかし勝利を得ぬまま皇甫嵩は解任され、今度は代わりに派遣された車騎将軍、「仮節」の張温のもとで破虜将軍となりました。
この時に張温の元に居たのが孫堅です。
孫堅は董卓は攻撃すべきなのにしていない、負けているのに態度がデカイ、などと言って誅殺を張温に勧めています。
「仮節」の張温には軍令違反を以って董卓を斬る権限があったのです。
張温は結局董卓を許し、董卓らは辺章らを破りました。

続く。
340怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/04 08:19
董卓篇少しだけ続き。

董卓が辺章を破ったあと、続いて羌との戦いがあるのですが、これについては
>>338永遠の青氏を参照してください。
そこにあるように、羌と戦いながら将中唯一兵を全うした事を功績とされ、タイ郷侯(千戸)に封ぜられました。

続く。
>よく言われる俗説ですが、完全に間違いです。
>後漢書の皇甫規伝、張奐伝、段?伝をお読みになれば、

たぶん読んだうえで
>実は内応していたという論
になったんだと思うよ。
342164:03/08/04 21:41
>>322
私はその事例、刺史は監察権のみ、牧は軍権も有す(但し限定的)あらわしている
ように思われます。
良く見ると、その事例の多くが、太守か属国都尉と組んでの出兵です。
それは刺史には軍を直接指揮する権限がなく、太守や都尉を「率いる」形で
軍事力を用いている事例集のように見えます。

三国志内でも反董卓に立ち上がった豫州刺史孔チュウは陳国相許湯と、エン州刺史劉岱は済北国相と組んでいます。
州牧が軍を率いたのは、冀州牧韓馥が従事に弓兵を率いらせてますので、牧は従事に軍を指揮させることが出来たようです。
益州で従事賈龍が「私兵」数百を率いて州の混乱を救っている記述が見られることから、
(出ましたね、「私兵」)牧は軍を率いることは出来るが、それには常備制が無いのではと言う推測が出来ます。
軍権があるとはいえ、それは警察権の拡大解釈で臨時に組織されたようなもので、
将軍とその職が率いる軍のような組織として常時存続した「軍」ではなかったと見ることができます。
やはり刺史よりは大分増しだけど将軍がないと辛いと言うのが実際だったのではないでしょうか。

それではまた半月後にでも。ぶくぶく…
334を書いた者です。

>>341
フォローありがとうございます。

>>338
>車師王
すみません、そのとおりで趙謙の方に記載がありました。

>韓遂云々
確かにその時点(張温配下)ではそうかもしれません。
しかし皇甫嵩が指揮官となると皇甫嵩の主張とは違うことをいって皇甫嵩は従わず、結果的に涼州の乱は一時的に沈静化されます。
更に三国志董卓伝注(華キョウの漢書)には「辺章・韓約(韓遂)から手紙がきて朝廷に遷都して欲しいと言ってきている」という箇所があり、
このことからやはりなんらかの関係はあったのかと思いますし、
上洛前には并州刺史就任を断って涼州に留まり続けていることからも涼州を基盤とした者たちの横の繋がりを感じます。
344怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/05 00:29
まず董卓篇続き。

王国・韓遂・馬騰の乱が起こると、董卓は前将軍となり、左将軍皇甫嵩と共に討ちます。
韓遂(たぶん黒幕)らを破り、反乱軍は自壊。

その後、董卓は少府に任命されるのですが、彼は拒否。
要するに兵を手放したくないらしいのです。

続いて霊帝危篤時、璽書(皇帝の勅書)で董卓を并州牧に任命し、兵を皇甫嵩に引き渡すよう命令しますが、これも拒否。
この人事から、州牧には将軍同様の領兵権は無いものと考える事が出来そうですがどうでしょう・・・?
ここは
「州牧にしてやるよ。あ、州牧に兵は必要ないよな。皇甫嵩に渡しといてね」
という意味でしょうから。

かくして董卓は前将軍として胡兵を領したまま、霊帝の死を待ちました。

続く。
ただ単に涼州の兵隊を并州に連れて行っては駄目というだけでは?
>>342
>良く見ると、その事例の多くが、太守か属国都尉と組んでの出兵です。
>それは刺史には軍を直接指揮する権限がなく、太守や都尉を「率いる」形で
>軍事力を用いている事例集のように見えます。
そういう場合と、そうでない場合があるんですよ。
霊帝の時代に活躍した朱儁、賈j、王允の三人は、
伝記の中で刺史の資格で、単独で反乱を鎮圧したことが明記されています。
誰かを率いたと言う記述が残ってないだけかもしれませんが、
州は戦時には軍事を担当する兵曹従事を置く事が出来るので、
単独で軍権を行使することも可能と思われます。
ただし、平時に軍を持つことは出来ないでしょうが。

>三国志内でも反董卓に立ち上がった豫州刺史孔イ由は陳国相許湯と、エン州刺史劉岱は済北国相と組んでいます。
許瑒はともかく、鮑信はむしろ挙兵の時点では、曹操と行動を共にしている人物です。
汴水で曹操が徐栄に敗北した際に、鮑信は負傷し、弟の鮑韜は戦死しています。
この戦いで曹操が兵を失って、酸棗を去ってから、揚州で兵を募っていることを考えると、
おそらく鮑信もこの時に軍事力の大半を失い、軍事的には無力な存在になったと思われます。
その後、兗州刺史劉岱は、東郡太守橋瑁を殺し、東郡を占拠しています。
この事件は全く大義名分の無い私戦だったらしく、
仮にこの時点で鮑信の軍事力が回復して、劉岱に付いていたとしても、
清廉な堅物で反董卓意識の強烈な彼の性格から考えれば、
わざわざ董卓を利するような連合軍内の内輪もめに、兵を出すとは思えません。
少なくとも、劉岱は単独で東郡太守橋瑁を殺し、
後釜に王肱という人物を据え、東郡を支配下に治めるだけの軍事力は有していたと思われます。
曹操が私兵を集めたのですから、刺史が私兵を集めたっておかしくありません。
霊帝が悪政を敷いてくれたおかげで、貧民はいくらでもいるのですから、兵は簡単に集まります。
>>342
良く見たら、ニセクロさんではありませんか。
あなたと直接お話が出来るとは、光栄です。
最近知人が立ち上げたサイトで、三国志関連の人物伝を担当することになりましたので、
あなたには遠く及びませんが、微力ながら頑張って生きたいと思っております。
(現時点で袁紹伝の列伝部分と分析部分、沮授伝の列伝部分だけしか出来ておりませんが)

>牧は軍を率いることは出来るが、それには常備制が無いのではと言う推測が出来ます。
漢末で反董卓連合軍以前に州牧になり、後漢書に立伝されている人物が劉焉以外に二人います。
豫州牧黄琬と幽州牧劉虞です。なお、二人とも州牧以外の官位・節は帯びていません。

黄琬は反乱軍を平定していますが、どのような性格の軍隊を率いて戦ったかは不明です。
1年ぐらいしか豫州に在任していなかったので、当時の豫州牧の軍制については不明ですが、
彼には軍歴が無いようですので、子飼いの部下を軸に1年程度で常備軍を編成することは困難だったと思われます。
豫州牧黄琬の軍は、常備軍で無かったと言っても問題は無いでしょう。
彼の後任が軍権を持たない刺史の孔イ由であることも、豫州牧が常備軍を有していなかったことの裏付けになると思います。
豫州のように不安定な地域が常備軍を有していたら、やはり軍権を有する牧に引き継がせるでしょうから。

劉虞が赴任した時、幽州は張純・張挙の乱で大荒れに荒れていましたが、
前線から兵を引かせ、反乱軍に対して懐柔策をとる事によって、反乱軍を自壊させました。
戦わずして勝ったとはいえ、前線から兵を引かせたのですから、
幽州の郡国の軍に対して指揮権を行使したことは明らかですが、
この時点で常備軍を有していないことは明らかです。
彼が常備軍を有するようになったのは、大司馬の称号を帯び、
反董卓連合軍結成によって、全国が内乱状態に陥ってからでしょう。
それ以降の彼は、明らかに常備軍を有していますが、
それが幽州牧の兵なのか、大司馬の兵なのかは分かりません。

ただ、本来の牧の軍権は自ら常備軍を有するのではなく、
恒常的な郡国の軍に対する指揮権なのではなかったのかと思います。
>>342
>軍権があるとはいえ、それは警察権の拡大解釈で臨時に組織されたようなもので、
>将軍とその職が率いる軍のような組織として常時存続した「軍」ではなかったと見ることができます。
>やはり刺史よりは大分増しだけど将軍がないと辛いと言うのが実際だったのではないでしょうか。
州牧の軍権については、漢の軍制が正常に機能していた反董卓連合軍結成以前と、
軍制がおかしくなってしまった結成以降に分けて考える必要があると思います。
後漢末の州牧の兵にも、色々な性格の兵があります。
冀州牧韓馥は都督従事趙浮、程奐という人物が1万の兵を擁して遠方に駐屯していました。
彼は郡国の兵では無く、自ら軍を所有していたようです。
ただ、彼は袁紹の抑えとして起用された人物であり、そのために州軍を有する権限を与えられた可能性があります。
袁紹が出奔した次の月に、太尉・幽州牧劉虞が大司馬を加官されているのも、
機嫌を取ると同時に、その軍権を強化して、袁紹を牽制するための措置でしょう。
劉虞は天子の東帰を支援するために騎兵隊を送ったり、
奮武将軍公孫瓚を討伐するために10万もの兵を集めています。
公孫瓚の時は不意打ちを掛ける計画で、短期間にこれだけの大軍を動員できたのですから、
おそらく劉虞の軍は郡国の兵を動員したのではなく、州軍もしくは大司馬の軍です。

冀州牧袁紹、荊州牧劉表、益州牧劉焉は私兵で郡国を軍事的に威圧・制圧し、
郡国の兵も私兵化していたと思われます。
兗州牧(の時点の)曹操、揚州牧劉繇の兵は単なる私兵でしょう。
徐州牧陶謙の軍は、徐州黄巾の討伐に来て、そのまま大きなトラブルも無く居座ったという徐州支配の経緯と、
曹操侵攻時の軍の動きから、出身地丹陽出身の私兵と、郡国の兵の連合軍と思われます。
>>343
>しかし皇甫嵩が指揮官となると皇甫嵩の主張とは違うことをいって皇甫嵩は従わず、結果的に涼州の乱は一時的に沈静化されます。
それは皇甫嵩の方が董卓より正しい状況判断をしたということを表すエピソードに過ぎません。
董卓と涼州反乱軍が内通していたと言う陰謀論の証拠にはなりません。

>更に三国志董卓伝注(華キョウの漢書)には「辺章・韓約(韓遂)から手紙がきて朝廷に遷都して欲しいと言ってきている」という箇所があり、
>このことからやはりなんらかの関係はあったのかと思いますし、
董卓が長安遷都を検討して実行に移したのは190年。
辺章は187年に韓遂に殺されてますが、何か?

>上洛前には并州刺史就任を断って涼州に留まり続けていることからも涼州を基盤とした者たちの横の繋がりを感じます。
長いこと涼州方面で戦ってきて、子飼いの将兵が大勢いるから手放したくなかっただけでしょう。
>>344
>その後、董卓は少府に任命されるのですが、彼は拒否。
>要するに兵を手放したくないらしいのです。
子飼いの将兵だけが、彼の唯一の財産ですから。
皇甫嵩のような職業軍人に徹することの出来た人物とは違い、
軍閥的な性格の強い人物だったのでしょう。

>続いて霊帝危篤時、璽書(皇帝の勅書)で董卓を并州牧に任命し、兵を皇甫嵩に引き渡すよう命令しますが、これも拒否。
>この人事から、州牧には将軍同様の領兵権は無いものと考える事が出来そうですがどうでしょう・・・?
并州牧の領兵権は、あくまで并州の兵にしか通用しないものであり、
董卓が率いる涼州の兵には及ばないだけのことでしかないと思われます。

つまり、
「董卓君には、并州牧になって并州の軍権と民政を握ってもらうことになった。
 涼州の兵は皇甫嵩君が担当することになったから、彼に引き継いでくれ」
ということです。
351怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/05 07:32
>>345
>>350
そんなところでしょうかね、やっぱり。
短絡的な思いつきでした。失礼。

>>342
少し遅くなりましたが、こんにちは。
以前の件はどうだったでしょう?
何か役に立てば幸いです。
次は袁術やら孫策やらについて何か知見をお伺いしたいものです。

352怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/05 07:55
んで董卓篇続き。

霊帝の死、そして大将軍何進、司隷校尉袁紹らと宦官のスッタモンダ。
董卓は宦官誅滅を渋る何太后への脅しとして何進に呼び出されます。
董卓は喜び勇んで出発。

彼とその軍勢は王宮内戦には間に合わなかったのですが、宮中から上がる火を見て急行、少帝らを保護しました。
董卓はここで陳留王協の方が優れており、かつ董太后と関係が深いことから彼を即位させようとしたとの事です。
董太后(故人)は霊帝の母、河間の人で隴西の董卓とは近親とも思えないのですが、「同族」だから、と董卓は擁立する理由に挙げています。
同姓なら同族みたいなものだったのでしょうか。
そして、そう考えていたとすれば、董卓は新帝の外戚と称して権力を振るおうというビジョンがあったのでしょう。

どうやら董卓は強行軍で京師に急行したらしく、歩騎3000しか手勢がなかったそうです。
そこで、毎日援軍が到着したかのように自作自演し、ついで何進、車騎将軍何苗の所属だった兵を吸収。
また、執金吾丁原を殺してその兵も吸収。

こうして武力の裏付けを得た董卓は、まず「長いこと雨が降らない」を理由に司空劉弘を罷免させ、空いた司空になりました。

続く。
またも334です。制度とは関係ないようですみません。

>辺章は187年に韓遂に殺されてますが、何か?
またもや失礼。失念しておりました。その一文には資料性がないということですね。
というか韓約という名前だったのも反乱初期くらいまでだったような…改名時期はハッキリしてないんでしたっけ?

董卓の(あくまでも羌族に対する)対異民族政策ですが、
段ケイの推薦で司徒袁隗の掾になったりしたことから段ケイの故吏とまではいかないにしても親交があったと思えます。
異民族に対する政策の差異から張奐が段ケイと対立し、更に董卓を嫌っていることから
董卓は段ケイの異民族弾圧路線を踏襲したということでしょうか?
よく考えれば段ケイは夏育など子飼いの部下が幾人かいたようなので、その辺の軍閥化も踏襲しているように思えます。
韓遂の字が文約です。
字とは関係なく、改名は明らか
>>352
>こうして武力の裏付けを得た董卓は、まず「長いこと雨が降らない」を理由に司空劉弘を罷免させ、空いた司空になりました。
後漢書の霊帝紀のこの年の部分を見ると、「自六月雨、至于是月。」となっていて、
雨が降らないどころか長雨だったとされています。劉弘が罷免されたのは長雨の最中の八月です。
すると三国志か後漢書、どちらかの記述が間違ってることになりますが、
どっちなんでしょうね
董卓が間違ってたんだよ
>>356
「乃諷朝廷策免司空劉弘而自代之」
後漢書董卓伝には、このような記述があります。
つまり、流言を流して劉弘を罷免させたと言うことです。
董卓本人に関する記述については、魏書より後漢書の董卓伝の方が詳細で、
後漢末の状勢に関する描写も後漢書の方が三国志より詳細ですので、
後漢書の方を信用して構わないと思われます。
>>353
>というか韓約という名前だったのも反乱初期くらいまでだったような…改名時期はハッキリしてないんでしたっけ?
後漢書献帝紀で馬超と共に曹操と戦って敗れた時の記述では、韓遂と呼ばれています。
また、魏書武帝紀で、麹演と蒋石に殺害され、曹操の下に首を送られた記事でも、韓遂と呼ばれています。
韓約は別名扱いで、本名は最後まで韓遂であったようです。

>異民族に対する政策の差異から張奐が段ケイと対立し、更に董卓を嫌っていることから
>董卓は段ケイの異民族弾圧路線を踏襲したということでしょうか?
それは考えすぎだと思います。
羌への強硬政策は、段熲でなくても、
武断的思考をする軍人なら誰でも考え付くことでしょう。

>よく考えれば段ケイは夏育など子飼いの部下が幾人かいたようなので、その辺の軍閥化も踏襲しているように思えます。
段熲は軍閥化せずに、大物宦官王甫と手を組んで濁流派の政治家として中央政界で暗躍し、
太尉にまで昇りましたが、王甫が処刑された時に、一緒に処刑されました。
>>352
>董太后(故人)は霊帝の母、河間の人で隴西の董卓とは近親とも思えないのですが、「同族」だから、と董卓は擁立する理由に挙げています。
>同姓なら同族みたいなものだったのでしょうか。
董卓の何進一族に対する冷淡さ、わざわざ皇帝廃立というやらなくてもいいことをしていることから考えて、
おそらく董卓は、本来は董太后のシンパだったのではないかと思われます。
(そうすれば、王允を除く旧何進派の多くが反董卓に回った背景も理解できます)
仲間と言う意味で「同族」と述べたのではないでしょうか。
334は董卓が段?のやり方も参考にし、それを発展させて軍閥化したのでは?

と言っていると思われ。
>仲間と言う意味で「同族」

そんな無茶な・・・
>>361
段熲のように、長いこと同じ地域で戦って戦果をあげてれば、
どんな軍人でも、子飼いの将兵が出来て当たり前です。
それで地方に居座り続ければ軍閥ですが、
段熲は子飼いの将兵を捨てて、中央政界の大臣(文官)になっています。
董卓は、当たり前のように出来た子飼いの将兵を後生大事に持ちつつけた時点で、
文官に転じた段熲とはまったく違う道を歩いています。

>>362
同姓なら出身地が離れてても同族という方がムチャです。
何も牽強付会をしなくてもいいだろう。判らないなら流せよ。青も他の連中も。


あと、青。あるスレで貼られたのコピペしてあげるよ。

>青の奴って他人を小馬鹿にした皮肉なレスが多すぎ
>>364
そんなのわざわざコピペしてくるおまえの神経を疑う。
青が偉そうで気に食わんのは分かるが、それを言うためだけに出て来るな。
スレ汚しだ。
>>363
>>同姓なら出身地が離れてても同族という方がムチャです。

劉備が劉瑁は出身地が離れているが同族。
そのために劉瑁の未亡人である呉氏との婚姻をためらったという記事が蜀書にある。
系図を見てもちゃんと繋がってる(劉備のは自称云々のツッコミは却下)

それとも河間の董氏と隴西の董氏がまったく無関係であることを証明する資料でもあるの?
あるいは同族という言葉が「仲間」という意味で使われている用例は?
367366:03/08/05 23:31
劉備が劉瑁は×
劉備と劉瑁は○
スマソ・・・
368364:03/08/05 23:38
すみません、漏れが馬鹿でした。
回線切って首吊ってきます。
正直、董卓の「同族」は、ジャイアンの「心の友」程度の意味だと思われ。
370怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/06 00:53
眠い・・・。

正直、董卓と董太后一族の関係は>>366>>369みたいに考えればいいように思うナリ。
系図たどれば何処かでつながるかもしれない、というのが366的解釈。
あと、「同じ苗字だ、おお兄弟よ!権力貸せ」みたいなのが369的解釈。

ただ、どっちにしろここの董卓は「同族」と本気で信じたというよりは、
陳留王派を取り込み利用するための方便として「同族」と称しただけだとは思うけれど。
「同族」だ、という理由付けが366か369になる、と。
確か、儒教では同姓=同族と言う解釈が成り立つらしい
勿論、本当に同族かは疑わしいのだけど
同姓だと結婚が出来ず、養子も基本的に同姓より取ることとなっている
陳矯が批判されてたね>同姓不婚
373怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/06 01:39
王莽もさ。>同姓不婚
374永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/06 03:30
>>366
>劉備が劉瑁は出身地が離れているが同族。
>そのために劉瑁の未亡人である呉氏との婚姻をためらったという記事が蜀書にある。
先主穆后伝の「下勸先主聘后、先主疑與瑁同族」という記述ですね。

>系図を見てもちゃんと繋がってる(劉備のは自称云々のツッコミは却下)
まあ、確かに劉備の先祖?の中山靖王劉勝と、劉瑁の先祖の魯恭王劉余は兄弟ですね。

>それとも河間の董氏と隴西の董氏がまったく無関係であることを証明する資料でもあるの?
血縁的なつながりを明確に示す資料も存在しません。
ただ、蜀書先主伝注に、「董承,漢靈帝母董太后之姪」という記述があり、董承が河間董氏であること、
そして「又以故牛輔部曲董承為安集將軍」という記述が後漢書董卓伝にあることから、
董承が董卓軍に属していたことから、河間董氏と隴西董氏の関係が悪くなかったことは間違いないようです。
同時に車騎将軍となった郭は、やはり董承と同じく旧董卓軍主力部隊の牛輔軍出身。
後将軍となった楊定も「故卓部曲將」でやはり、旧董卓軍の軍人です。

>あるいは同族という言葉が「仲間」という意味で使われている用例は?
探してみたが、ありませんでした…。
失礼いたしました。

>>370
>陳留王派を取り込み利用するための方便として「同族」と称しただけだとは思うけれど。
おそらくそんな感じなのでしょうね。

>あと、「同じ苗字だ、おお兄弟よ!権力貸せ」みたいなのが369的解釈。
董卓が董太后派であったと考えるよりは、そちらの方が妥当かもしれませんね。
董卓のアバウトな性格を考えれば。
>>365
世界史板に行って尚、そう感じるのであれば、俺はお前の神経を疑う。
376怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/06 09:41
董卓篇続き。

司空董卓は、ついに廃立を朝廷の百官に対し表明します。
「邪魔すると斬るよん」と言う彼に対し、反対を言ったのは尚書盧植一人。
その翌日には何太后を脅迫して少帝を廃する策書を出させました。
(皇帝を廃位できるのは、皇太后だけです)
そして後顧の憂いを絶つために、何太后を董太后を死なせた罪に問い、始末してしまいました。
かくして陳留王協が即位します。

董卓は太尉、領前将軍事となり、「節、伝、斧鉞、虎賁」を与えられ、ビ侯(眉β)になります。
「節」は皇帝の代理権の証。
「伝」は関(関所)を通行するための通行証。これを与えられているという事は、どこでも自由に通行できるという事です。
「斧鉞」は軍事権の証。
「虎賁」は近衛兵。臣下でありながら皇帝と同じ護衛が付くという事です。

なお、領前将軍事はおそらくですが司空の時からでしょう。
でないと、せっかくの子飼いの兵を解散させてしまうことになりますから。

董卓はその後、党錮の禁を解き、爵位の回復や子孫の任官を行いました。
すくなくともこの時点では、董卓はいわゆる清流派官僚との協調を考えていたのでしょう。
陳留王擁立についても、武力で脅しただけではなく、官僚にも陳留王派がいたでしょうから、少なくとも彼らにはそれほどは悪く思われなかったのではないでしょうか。

続く。
377怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/06 18:47
董卓篇続き。

まず、この頃の三公等人事を整理します。

董卓が太尉になった時、前任者劉虞は「大司馬」になっています。
後漢では基本的には大司馬を置きませんでした。
なのでこの「大司馬」の位置付けがどうも難しい気がします。
由来からすれば「大司馬」→「太尉」なのですが、太尉は董卓なので、
この「大司馬」は「大将軍」と同格程度の将帥の官名と思われます。

まあ、実の所はこれも董卓を太尉につける為に劉虞を太尉から追い出した、というのが真相だと思うのですが。

また、董卓の後任の司空は揚彪。
霊帝死亡直前から空位だった司徒には黄エン(王宛)がつけられました。

なお、太尉劉虞は燕、司徒空位と、董卓が廃立を図った時に他の三公はいなかったようです。
司空董卓が傍若無人に振舞えた裏には、官位の上で同等の存在がほとんど居なかった事も関係あるのではないでしょうか。
少なくとも、同等の立場からの反対意見が出ないことは彼の対朝廷戦略をかなり楽にしたのでは。

また太傅、録尚書事に袁隗。袁紹の叔父さんです。
しかし、もともと少帝の太傅だったのですから、その少帝が廃位されてからは肩身が狭かったかもしれません。
また、董卓が当初抜擢したという人材は何進・袁紹に連なるものがけっこう多く、もしかすると袁紹らは董卓と(当初は)協力関係にあったのではないでしょうか。


ということで、董卓は入朝の時、具体的にはこういった利点がありました。
1:朝廷を仕切るべき三公の不在(1人しか)
2:京師駐留軍の司令、大将軍・車騎将軍の不在
3:外戚・宦官を共に失い、孤立無援の皇帝と何太后
4:陳留王支持派の存在

続く。
378怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/06 19:02
董卓篇続き。

上の4つが、機を窺っていた董卓にとっての利でした。
ということで、董卓は(2)に乗じて京師駐留兵力を支配下に置き、
(1)を見て自らが朝廷に残るただ一人の三公になり、朝廷の大臣連中の暫定トップに。
そして足許を固めた上で(3)を逃さず、陳留王を担いで(4)からの支持を取り付けつつ皇帝を廃位。
廃立後は、行き場を失いかけていた何進派の官僚や今まで不遇だった清流派を味方につけることで与党を作り出す。

少なくとも、ここまでの董卓による権力奪取の過程は合理的で、決して暴力にものを言わせて的なものではなかったことが分かります。

董卓はほどなく相国、入朝不趨、剣履上殿をもらう事になりますが、このあたりまでは多分大臣たちも多くは好意的、または少なくとも容認していたのではないでしょうか。
そうでもなければ、さほど混乱もせずにここまで話が進んだりはしないでしょう。
379怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/07 09:39
董卓篇続き。

董卓は相国になり、「入朝不趨、剣履上殿」を許され、母親を「池陽君」に封ぜられます。
これは公主などのように封邑をもらったのです。

この時の相国は、三公より上に置かれたものでした。
これにより太尉が空いたので、司徒黄エンが太尉、司空楊彪が司徒、そして光禄勲荀爽が司空になります。

後漢書董卓伝見る限りでは、董卓は自分の直属は将校とするのみで顕職には就けず、主に今まで宦官と対立していた者や党錮の被害者を抜擢した、とのことです。
韓馥、劉岱、孔チュウといった反董卓同盟の参加者も数多く含まれていますし、袁紹も渤海太守を貰っています。
大臣、官僚等からの支持を得ようとしての事でしょうが、この点でもやはり董卓はそれなりに理性的です。

しかし董卓は洛陽を荒らしまわったのだ、とされています。
もちろんこれが董卓失脚の要因の一つであり、この点はまるで理性的ではありません。
正直、対朝廷政策がそれなりにクレバーな感じなのに対して、あまりにもギャップがあります。
もしかすると反董卓派による誇張や捏造が無いとも限りません。
また、急激に膨れ上がった自軍を、董卓は実はコントロールし切れず、兵の略奪を止められなかったのかもしれません。

とりあえず、史実の董卓は演義のような典型的ともいえる暴君とも、矢印頭の魔王とも違う、と言ってよいでしょう。

続く。
ここに二人の鬼才コテが降臨してます。
そのうちのどちらかを得れば天下統一もできましょう。
381怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/07 19:12
>>380
その二人の内の一人がオイラなら、オイラは鳳雛ってことで。

董卓篇続き。

董卓が抜擢したという連中に揃って反乱された董卓。
私の記憶が正しければ反董卓同盟を恐れて遷都した、というのが三国志演義あたりの話だったと思いますが、実際はどうでしょう。

ここで後漢書董卓伝を見ると、当時「白波賊」10万が河東を荒らしていたとの記事がありました。
どうも、董卓は白波賊への対処にも苦労したようです。
というか現に派遣した中郎将牛輔は征伐失敗。
初平元年には東郡まで来ています。
すぐに仲間割れし始めた反董卓同盟よりもずっと危険だったでしょう。
食いつめ者が黄巾残党に率いられていたらしいですし。

ということで、董卓が長安遷都を決めた理由は、主にこの「白波賊」からの避難じゃないかと思います。

なおこの長安遷都に対しても、董卓は大臣と会議を開いています。
というか重要事項はこのように大臣会議の上で皇帝にお伺いを立てるのが正しいやり方なんですが。
董卓もそれには一応従っていますね。

続く。
382怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 00:39
董卓篇続き。

董卓は長安に入る前に、廃帝こと弘農王を殺し、また太尉黄エン、司徒楊彪を罷免しています。
後任太尉は光禄勲趙謙、司徒は太僕王允。
黄エン、楊彪は長安遷都に反対したらしいので、その報復人事でしょう。
ということは司空荀爽や新任の三公は反対しなかったのでしょうかね。

長安では太傅袁隗、太僕袁基と袁紹・術関係者を誅滅。
また司空荀爽死亡、後任はチュウ拂。

なお、この後董卓は反董卓同盟に対し、九卿クラス5人も派遣して同盟解散と休戦を申し出るのですが失敗。
袁紹らは1人除いて彼ら大臣を殺してしまいます。

そしてその翌年、董卓はいよいよマジになります。
もしかすると追い詰められたのかもしれませんが。

続く。
383怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 08:23
なんだかツッコミ等がないので淋しいのう・・・。
ってまだ2日だけか。

董卓篇続き。

長安に遷都した董卓は関中諸県に中郎将等を配して反董卓軍を待ち構える一方、朝廷には自分を「太師」とするよう働きかけます。
太師は太傅より上の太傅と同様の官です。

前漢末、平帝の時に太傅だった孔光が昇進(?)しています。
(なお、その時の太傅は王莽です)
その時は天子の教育係筆頭でしかありません。
しかし董卓の太師は、なんでも位は諸侯王の上だそうで、どちらかというと王莽を真似て簒奪を図ろうとしたかのようです。

また弟の董旻を左将軍、兄の子、董コウ(王黄)侍中、中軍校尉(西園八校尉です。まだあったんだ)としてそれぞれ兵を掌らせます。

この人事と、大要塞「万歳塢」建設で初めて彼は安心したのでしょうか?
それ以後、董卓の行動は暴虐なものとなっています。
乗り物や衣服を天子のそれを真似たものにし、反乱者を拷問殺害し、将が何かおかしな事を言うとその場で処刑しました。

そんな中、当然大臣たちからも反董卓の動きが顕在化します。
まずは袁紹の「奔走の友」伍孚が暗殺を試みるも失敗。
また以前董卓の上司だった現衛尉張温も殺されたのですが、暗殺計画に荷担していたらしいです。
幸運にも計画は発覚しなかったようですが、洛陽の時には大臣からはクーデターの話が無かったらしいのとは違っています。
そして暗殺計画といえばアレを忘れてはいけません。そう、王允、呂布のクーデターです。

続く。
384怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 19:31
董卓篇続き。

話は王允に飛びます。
王允は後漢書王允伝によれば若い頃から将来を嘱望されていたらしい人物で、荀爽、孔融を辟召したこともあります。

大将軍何進の従事中郎として先に紹介しましたが、その前に豫州刺史の時に宦官張譲と争い、それが元で一時失脚していました。
そんな経歴があり、従事中郎から河南尹になるのも不思議ではなかったようです。
献帝即位に伴い太僕、守尚書令となり、後に司徒、守尚書令になったそうです。
そして、太尉と司空が何度も入れ替わるのを尻目に地位を維持します。

というか、三公たる司徒と三独座たる尚書令を兼任し続けた彼は、行政と皇帝の意思決定両方に大きく関与していたように見受けられます。
言い換えれば、王允こそ董卓が政権を奪う裏にいた黒幕的存在でしょう。
そう、董卓は協力者に見放されたからこそあっけなく暗殺されたのです。

・・・多分。

続く。
385無名武将@お腹せっぷく:03/08/08 20:53
横槍スマソ。

漢の制度って、考廉とかあるけど、結局は地方官の辟召が幅を効かせていたって考えていいのかな。
それと任子の制みたいなのが、すでに慣例としてあったらしいよね。
九品中正制度がでてくると、多少はわかりやすくていいんだけど。古代の制度はなあなあで進む場合が多くて、どうもわかりずらいです(TT
386永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/08 20:59
>>383
何顒(袁紹の奔命の友)、荀攸、鄭泰も暗殺計画を立てて失敗しています。
荀攸はともかく、何顒は相国長史(董卓の副官)、議郎鄭泰は董卓の側近でした。
かなり重要な朝廷内部での反董卓の動きであったと思われますので、補足したいと思います。

>なんだかツッコミ等がないので淋しいのう・・・。
董卓に関しては、非常な疑問を感じています。
このことについては、終了後にお伺いしたいと思います。
387怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 21:17
>>385
いや、横槍どころかそれこそこのスレ本来の目的と思っています。

この頃の官吏登用はこんな感じでしょうか。


辟召
州の従事などの属官を、刺史などの長官がその権限で召し出す(招く)。

孝廉・茂才
高級官僚予備軍(エリート)となる人物を州・郡に推薦させる。
推薦されたら県令など、エリートコースに連なる治民官などの勅任官になる。


辟召と孝廉はカテゴリーが別、というのでしょうか。
曹操や袁紹など超のつくエリートは辟召に関係なく孝廉・茂才に挙げられています。
逆に上の王允などは、刺史まで経験しても大将軍何進の辟召を受けました。
388永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/08 21:23
>>385
>漢の制度って、考廉とかあるけど、結局は地方官の辟召が幅を効かせていたって考えていいのかな。
後漢に関して言えば、孝廉や茂才は、基本的にはよほど名声の高い人物か、
辟召で自分の部下として働いた人物を推挙する場合が多いです。
なぜなら、変な奴を孝廉や茂才にしてしまうと、その太守や刺史の評価が落ちるからです。
ですから、世論が保証している名士か、自分の部下の中で「これは間違いないだろう」という人間を、孝廉や茂才にするのです。

また、三公や大将軍の府も辟召を行っていましたが、これらの府の辟召を受けるには、
既に孝廉や茂才に推挙されていたり、もともと朝廷での官歴のある人物だったり、
個人的な関係で呼ばれたり、天下に名声が鳴り響いている無官の名士だったりと、無数のパターンがあります。
しかし、後漢の士大夫にとっては、最強のエリートコースです。
389怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 21:28
>>385続き。
任子は前漢では主流の官吏登用法でした。

なぜなら、前漢、特に前半は官僚の家族くらいしか官僚予備軍となれるような教養を身につけられなかったからです。
教育に必要な財力も、そしてその教養を教える先生も、高級官僚たる父兄がいれば揃います。
逆に言うと、官僚でないと財力・教師が揃わないのです。

時代が下る(前漢後半〜後漢)と、社会の発展に従って官僚以外にも財力・教師を揃えることが可能になり、任子が時代遅れとなっていくのです。
それでも、推挙が主な登用法だったので、血縁が地縁・コネに代わっただけとも言えるかもしれません。


九品中正は元は実力を中正官が見極めて等級を決めるものでしたが、
貴族連中によって骨抜きにされ、「家柄」がほとんどを決めるようになってしまいました。


私の素人理解はこんな感じです。


>>386
コワイ気もしますがお待ちしております。
390無名武将@お腹せっぷく:03/08/08 21:29
なるほどね。孝廉や茂才ってのは、いわば、地方から中央へ出世するための足がかりみたいなものなんだね。
辟召を考えると、漢代の官史って、人事権に関しては結構自由裁量が与えられているような気がするんだよね。もちろん相手が有能でないとダメなんだろうけど、もう自分の一存でホイホイと役職を与えられてしまう、みたいな。
そこまで自由にやらせていいのか? と心配にさえなるんだけど、現代みたいに通信技術もないから、自由裁量ってのはやむをえないのかもしれない。
まあでも現代の感覚で考えると、いまひとつつかみにくいような気がする。

スレ汚しすまんでした。
PS.唐の官僚制度が一番わかりやすくて好きなんだよなあ・・・・・
391怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 21:31
しまった被った。
私不要でしたな失礼。
392無名武将@お腹せっぷく:03/08/08 21:37
九品中正に関しては、宮崎市定先生の九品官人法の研究を呼んでます。
結局は魏晋の段階で、功臣の末が優先的に高い官品で登用されてしまって、ほとんど任子の制と変わらないような状態で始まってしまっているんですよね。
最初からそんな状態では、能力による推挙なんてうまくいくはずもなく、結局は家柄によった官品の高低が決まるという、貴族身分制じみたものになっていってますね。
唐代に入ると科挙がでてくるから、多少の変化はあったようですが、科挙に対応できるのは貴族階級だけで、結局そのピラミッド構造は貴族のものだったみたいですね。
本格的に能力による登用として完成したのは宋代になってからだと聞きましたが。
393怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/08 21:42
>>392
唐から宋は中世から近世への過渡期とされ、宋では民衆レベルでの生産力、教育水準が格段にあがりました。
それが科挙においていわゆる貴族以外の者も登用される契機となり、貴族を駆逐し、皇帝の独裁政治を支えたのです。
394永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/08 22:00
>>390
>なるほどね。孝廉や茂才ってのは、いわば、地方から中央へ出世するための足がかりみたいなものなんだね。
国家公務員資格と考えてください。

>辟召を考えると、漢代の官史って、人事権に関しては結構自由裁量が与えられているような気がするんだよね。
地方官は、勅任官である副知事である丞と、軍事・治安責任者の尉以外の部下は、好き勝手に任命できました。
大将軍・三公となると、勅任官クラスの俸禄を貰っている高官さえ、選び放題でした。

>そこまで自由にやらせていいのか? と心配にさえなるんだけど、
>現代みたいに通信技術もないから、自由裁量ってのはやむをえないのかもしれない。
現代だって、地方公務員は現地採用じゃないですか。
地方官が辟召した部下は、地方公務員と考えてください。

>PS.唐の官僚制度が一番わかりやすくて好きなんだよなあ・・・・・
唐は貴族官僚と科挙官僚が同居してる時代ですから、
官制は分かりやすくても、どうやって出仕するのかは分かりにくいです。
真の最強コースは皇帝からの辟召(ん?こうは言わないのか?)
大将軍や三公といった宰相クラスの辟召にも応じないヤツに対して行われてる。
この場合はいきなり議郎とかいうパターン。
396怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/09 13:13
>>395
後漢では、自分を高く売るため三公府からの辟召を無視する場合もありましたからね。

科挙は、高級官僚全員をこの「皇帝からの辟召」にすることで、
全員を「皇帝の故吏」とし、皇帝一人に恩義を感じ忠誠を誓うようにするのが目的の一つ。
三公や将軍の辟召に応じるという事は、そいつがよっぽどの自信家で無い限りは、
選んでくれた三公等に対して「選んでくれた恩義」みたいのを感じるのが普通なんですな。
そしてそれが派閥形成につながり、数の力で皇帝にさえ反発するようになる。
孝廉茂才と挙主(推挙したヤツ)の関係も同じ。
科挙は皇帝が直接選ぶ事で、全員に「皇帝に対する恩義」を感じさせる。

みたいに宮崎タンに書いてあったと思った・・・。
397怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/09 19:47
董卓篇続き。

王允は司隷校尉黄エン、尚書鄭泰、護羌校尉楊サン、執金吾士孫瑞らと共に、まず武関から袁術を攻めるという名目で出陣し、内外から呼応しつつ皇帝を洛陽に戻す策を実行しようとしました。
しかしどうもこれは董卓に疑われたらしく、その出陣自体中止。
ただ、これで王允らが始末された訳ではなく、楊サンを尚書、士孫瑞を(尚書?)僕射にしています。

また、>>386にあるように、何顒は司空荀爽、司徒王允とやはりクーデター計画を立てています。
(後漢書党錮列伝)
鄭泰は何顒、荀攸と暗殺計画を練っていました(後漢書鄭泰伝)。
荀攸は何顒、鄭泰、侍中チュウ輯、越騎校尉伍瓊と共に暗殺計画を練ったそうです(三国志荀攸伝)。

これらが同じ事件を指していたとすると、実行犯として何顒達が暗殺を企みつつ、士孫瑞らは兵を持って皇帝を救う役だったのでしょうか?
それとも別々の計画でしょうか。
ただ、間違いないのは王允が士孫瑞らの出兵計画にも、何顒らの暗殺計画にも、名前が出てくることです。
そしてもちろん有名な王允、士孫瑞、呂布のクーデターも。
中央政府内での反董卓派中心人物は王允でしょう。

王允伝には、董卓が「豺狼」であるのを恐れてやむなく従い、裏で董卓を除く計画を立てたのだ、とされています。
しかしこれは別の面から見ると、行政的な面や対官僚政策は不得手と思われる董卓を手引きしたのが彼だった、とも取れます。

そして、董卓死後、王允は蔡ヨウを「司馬遷が武帝を怨んで誹謗したように、俺も誹謗されたくない」と殺してしまいます。
その裏には、王允が誹謗されても仕方ない事をしていたという自覚があったのではないでしょうか。

続く。
398怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/09 20:04
董卓篇続き。

まあ、自分で言うのも変ですが、
「中央政府内での反董卓派中心人物は王允でしょう」
なんて当たり前の事書いちゃいましたな。
言いたかったのは、呂布の時だけじゃなく、前から暗殺計画を立てていたよ、ってこと。
あと、それなのに董卓から始末されたりしてないよ、ってこと。

漢にとっての忠臣としての計画ではなく、何となく陰湿な宮廷闘争、陰謀のニオイを感じるのです。
言いすぎかな?

まあ、とにかく董卓は山東の反董卓同盟が分解、エン州では曹操と青州黄巾が戦っていた頃に王允らに暗殺されたワケで。
なお三公は以下のとおり。
太尉:趙謙(罷免)→太常馬日テイ
司空:荀爽(死亡)→チュウ拂→光禄大夫淳于嘉
董卓暗殺の時はこれに合わせて司徒王允。

暗殺自体は有名でしょうからパス。
399永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/09 23:26
それでは、さっそく>>386で予告していた通り、
いくつかの疑問を提示させていただきたいと思います。

>>379
独裁権力を握るのなら、何進が死んで空いた大将軍・録尚書事で十分だと思うのですが、
なぜわざわざ董卓は相国という、とうの昔に廃止されたポストに就任したのでしょうか?
袁隗は太傅・録尚書事ですが、大将軍と違って軍権を有しておらず、
その経歴からは最高権力への野心が無い政界の重鎮といった感じが伺えますので、
大将軍・録尚書事のままでも、最高権力者になることはそれほど難しくないと思うのですが。
前の大将軍何進も、侍中・将作大匠・河南尹を経て、大将軍に昇進しています。
合法的手続きで三公から大将軍に昇進することも不可能ではなかったような気がします。
それとも、後漢の大将軍は外戚以外に就任してはならないという不文律でもあったのでしょうか?
わざわざ前漢の建国の元勲二人しかなれなかった相国になるよりは、
その不文律を破って、後漢に何人もいる大将軍・録尚書事になる方がよっぽど簡単だと思うのですが。
大将軍・録尚書事は縁起が悪い
「前漢の建国の元勲二人しかなれなかった」

自分で答え、書いてるじゃん。
>>401
董卓は太師をも僭称した男だよ。それは愚問。
403永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 00:19
>>381
>ということで、董卓が長安遷都を決めた理由は、主にこの「白波賊」からの避難じゃないかと思います。
この説は、私も思いもよりませんでした。
確かに主力部隊の牛輔軍が白波賊に敗れ、満を持して東征させた胡軫と呂布の軍が敗れてしまい、
董卓は軍事力への自信が持てなくなってくるでしょう。
そんな状況下で、白波賊の大軍が首都圏を脅かしていれば、
不安になって遷都しようと思ったのかもしれませんね。

>すぐに仲間割れし始めた反董卓同盟よりもずっと危険だったでしょう。
魏書や後漢書を読む限りでは、董卓は山東の状勢に疎く、
反董卓同盟を過大評価していたように思われます。

>>382
>ということは司空荀爽や新任の三公は反対しなかったのでしょうかね。
荀爽は無官から90日で董卓に司空にしてもらった人ですから、
この頃は董卓にあまり強いことが言えなかったのでしょう。
言っていたら、「暴虐な董卓に反対し、清流の名士の気骨を示した」という格好のエピソードとして、
荀爽伝に記載されたでしょうし。

趙謙は司隷校尉として、董卓の寵臣を処刑して怒りを買ったのに、
部下が代わりに殺されただけで、地位は安泰だったというエピソードがあるぐらい、
董卓に一目置かれてた人物で、むしろ遷都後に顕職を歴任した人物ですから、
特に反対もしなかったのでしょう。

当時の王允はバリバリ董卓派です。
遷都に反対してたら、「よくやった」と言わんばかりに、
王允伝で書かれてたでしょうから、たぶん反対してなかったと思われます。
404401:03/08/10 00:19
「前漢の建国の元勲二人しかなれなかった」相国>>>決して超えられない壁>>>「肉屋にも成れる」大将軍

ってことじゃないスカ?
405永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 00:55
>>383
>しかし董卓の太師は、なんでも位は諸侯王の上だそうで、どちらかというと王莽を真似て簒奪を図ろうとしたかのようです。
太師は周制の三公筆頭で、やはり諸侯以上の権限を有しています。
前漢建国期しかいなかった相国になっただけでも十分フライングなのに、
なんでわざわざ周制までさかのぼって、太師にまでなろうとしたんでしょうかね。

>また弟の董旻を左将軍、兄の子、董コウ(王黄)侍中、中軍校尉(西園八校尉です。まだあったんだ)としてそれぞれ兵を掌らせます。
ここで、最大の疑問が生じます。
董卓が洛陽にいた頃は、白波賊討伐の大任にあたり、
長安遷都後は河南で反乱を起こした朱儁を討伐し、
さらに山東の陳留や潁川を攻略していた東部方面の総司令官にして、
董卓の娘婿でもある中郎将牛輔。

董卓の一族であり、数万もの兵を擁する遠征軍を指揮するほど、巨大な軍権を有している彼が、
なぜ前線の拠点を固めていた董越や段煨、
中央軍直属の将軍である徐栄や呂布と同じ中郎将なのでしょうか?
(しかも董越の官位である東中郎将は、董卓が黄巾の乱の時に就任したこともあり、
 ただの中郎将の牛輔よりずっと偉そうです)
これだけ大きな軍権を有していて、董卓の一族であれば、
将軍号を与えられてもおかしくは無いと思うのですが、
なぜ彼より軍権の小さい諸将と同様の中郎将に留められたのでしょうか?
406怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 01:00
おお、色々話が出ている。

>>399
大将軍、録尚書事は実際に
>後漢の大将軍は外戚以外に就任してはならないという不文律
があったように見受けられますね。前漢以来の伝統。

とはいえ董卓は>>352以降で多少議論になったように、自らを献帝の外戚であるかのように発言しています。
それなら大将軍もアリかもしれません。
でも、董卓が最初に朝廷で地位を得た時は「少帝(弘農王)の」もとでの司空です。
そこでいわば出世コースが「三公」系のルートにシフトしちゃったんでしょうか?
外戚が三公になったり、外戚以外が大将軍になった例は、その時代まではかなり少ない筈です。

三公の延長線上にあって、なおかつ三公以上の位なんて相国や太師みたいなのしかなかった、と。
妄想ですが。

あと、>>400氏の縁起悪い説は思考の死角を衝かれました。
実際そんな気持ちだったのかも。
つい先日、当の大将軍が殺されている訳ですし。

そして>>404氏が言うように、董卓が早い段階から朝廷の支配や簒奪あたりまで考えていたなら、董卓は手垢のついた(?)大将軍以外のモノを欲しがった事でしょう。

王莽は大司馬→大司馬、太傅→大司馬、太傅、宰衡の順になった筈です。
これ、董卓は真似してるようにも見えます。
司空→太尉→相国→太師→太師、「尚父」(未遂?)
大将軍からではこのルートにならないというワケです。

・・・苦しいかな?
407永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 01:18
>>384
>というか、三公たる司徒と三独座たる尚書令を兼任し続けた彼は、行政と皇帝の意思決定両方に大きく関与していたように見受けられます。
>言い換えれば、王允こそ董卓が政権を奪う裏にいた黒幕的存在でしょう。
彼の官歴を観察すれば、どう見ても董卓派の重鎮中の重鎮ですよね。
何進の政権奪取計画にも参加してますし、かなり生臭い人物だったのでしょう。
董卓から政権を奪取した後も、董卓一族とブレーンの蔡邕を粛清し、
胡軫、楊定、徐栄ら長安の軍部の実力者を完全に抑え込み、
自派の人物を次々と要職に就ける手際の良さには驚かされます。
これで牛輔軍の扱いを間違えなければ完璧だったのですが、
何進の時も政権奪取に失敗し、董卓に政権をかっさらわれていますので、
きっと詰めの甘いタイプだったのでしょう。
408永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 01:44
>>406
>でも、董卓が最初に朝廷で地位を得た時は「少帝(弘農王)の」もとでの司空です。
>そこでいわば出世コースが「三公」系のルートにシフトしちゃったんでしょうか?
そう言えば、最初曹操も大将軍・録尚書事に就任しようとして失敗し、司空に転じていますね。
その後、大将軍を横取りした袁紹が死んでからも、大将軍に就任しようとはせず、
あげくの果てに三公制を廃止して、前漢の官制上のトップの丞相を復活させていますので、
三公コースから大将軍になるのは無理があると、当時は見られていたのかも知れませんね。

>外戚が三公になったり、外戚以外が大将軍になった例は、その時代まではかなり少ない筈です。
建国期には存在したような記憶もあるのですが、それはあくまで過渡的な措置でしょうからね。

>司空→太尉→相国→太師→太師、「尚父」(未遂?)
>大将軍からではこのルートにならないというワケです。
>・・・苦しいかな?
前漢末期の大司馬は、後漢の大将軍と同じような位置付けにあったポストです。
ですから、王莽の前例にならうならば、
大将軍→とんでもなく偉そうな官位→皇帝というルートもありでしょうね。
ただ、董卓が簒奪を考えていたという説は、私は採りません。

霍光になってみたかったけど、
外戚でも、先帝の遺命を託されたわけでも無かったから、
歴史の中に埋もれてた偉そうな称号を名乗って、三公の上に立ち、
皇帝に匹敵するほどの権威を自分に持たせたかっただけのような気がします。
>でも、董卓が最初に朝廷で地位を得た時は「少帝(弘農王)の」もとでの司空です。

そもそも、董卓が大将軍になりたければ、その時になれたのではないでしょうか。
わざわざ「雨が降らない」などと難癖をつけて劉弘を追い出すよりは、何進の死で空いた大将軍に座るほうが容易であるように思えます。

董卓が大将軍・録尚書事としての執政≠選択しなかったのは、それまでの政治体制のゆきづまりが誰の目にも明らかとなり、人心が抜本的な改革を望んでいたためでは…
410怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 10:11
>>409
>そもそも、董卓が大将軍になりたければ、その時になれたのではないでしょうか。
大将軍になれるのが外戚のみという不文律があったとすれば、難しかったと思います。
少帝と董卓の間には外戚に該当する関係が無かったですから。
それなら、まだ三公の方が朝廷での抵抗感が少なかったのではないかと。
前将軍は(多分)そのまま領していたでしょうし。

でも、
>人心が抜本的な改革を望んでいたため
というのは大いにありうるかもしれませんね。
王莽の時もそんな感じでしたし。
曹操の丞相就任なんかも、「抜本的な改革」の一環でしょうしね。
>>408
>ただ、董卓が簒奪を考えていたという説は、私は採りません。
お、面白い説。じゃあ「劉氏の血統など残すまでもない」発言の真意は?

>>409
>そもそも、董卓が大将軍になりたければ、その時になれたのではないでしょうか。
ただでさえ三公に登るのに(買官意外だと)九郷クラスの地位が必要だったわけで、
司空になることすら不文律を破ったともとれるのかも。

「尚父」を名乗ろうとしたことから「自分が皇帝を擁立した」っていう自負が結構強かったんじゃないかな?
(自称)官位の変遷を見る限りではヤバめな復古主義者なようにも思える…マジで王莽か。
412永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 19:43
>>409
私も大将軍・録尚書事にならなかったのが不思議なのです。

清流派の望むような人事を行い、まともな政治をやる気を見せていましたが、
董卓が抜本的な改革を望んでいたかどうかは、
抜本的な改革をやる前に挫折してしまったので、分かりません。
ただ、政争に明け暮れる中央政府への憤りは感じていたようです。
天子の身柄を確保した時、随行していた大臣たちを
「あなた方は国家の大臣なのに、王室の過ちを正そうとせず、国家が混乱に陥ってしまったんじゃないか」
と怒鳴りつけています。
もしかしたら、自分が「王室の過ちを正してみせる」と意気込んでいたのかもしれません。

>>410
もう一度お伺いしたいのですが、
白波軍を討伐し、山東を攻撃していた牛輔は、
数万の大軍を擁し、明らかに方面軍と言って良いほどの軍権を有し、
董卓の一族でもあるのに、なぜ禁兵を掌握する董卓の一族が高い官職を得ている中で、
中郎将に留められていたのでしょうか
413永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 20:01
>>411
>お、面白い説。じゃあ「劉氏の血統など残すまでもない」発言の真意は?
「皇帝なんてそれほどありがたがるほどのもんかよ。神聖不可侵なんてことはねーよ」程度の意味で、
董卓が皇室の権威をそれほど重んじていなかったことを示してはいますが、
この言葉を持って「董卓に簒奪の意あり」とするのは、すこしフライングではないかと思います。
皇室の権威を軽んじるのには誰にでも出来ますが、簒奪をマジで考えることは普通は出来ません。
皇室の権威を軽んじた独裁者は前漢、後漢の歴史上何人もいますが、
マジで簒奪の準備をしていたのは、王莽と曹親子だけです。
(曹操は途中から簒奪を考えるようになったと思いますが)

>ただでさえ三公に登るのに(買官意外だと)九郷クラスの地位が必要だったわけで、
>司空になることすら不文律を破ったともとれるのかも。
董卓の上洛時の官位は前将軍。
九卿と同格で、三公に昇る資格があるポストです。
実際、前後左右将軍から、三公に昇った例は董卓以前にも存在します。

>「尚父」を名乗ろうとしたことから「自分が皇帝を擁立した」っていう自負が結構強かったんじゃないかな?
その自負の強さが史書のはしばしから感じられるので、霍光になってみたかったんじゃないかと思ったのです。

>(自称)官位の変遷を見る限りではヤバめな復古主義者なようにも思える…マジで王莽か。
見る限りでは、常軌を逸していますね。
しかし、そうでもしなければ、外戚でもなく、官界の実力者でもなく、
擁立の功と軍事力しか無い彼が、三公の上に立って独裁権を振るうことが出来なかったのでしょう。
414怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 20:22
>>412
牛輔の件は、うっかり返答を忘れていました。
大変失礼しました。

で、牛輔はどうもずっと中郎将のようですね、確かに。
これは、妄想に近いですが、董卓や董旻と牛輔の率いる兵の所属が違うからでしょうかね。
董卓らは「将軍」の屯兵を領していたと思われますが、
牛輔の方は中郎将の兵=羽林の兵、正に皇帝を守る禁兵を領したのではないでしょうか。
この羽林の方は、どうも中郎将のままで率いて外へでる将も多数確認できますが、それらをさらに統率する直接の上官は無いんじゃないでしょうか?
牛輔は董卓らが「外」の兵を持つ一方で、「中」の兵を持っていたのではないでしょうか。
そして、「中」の兵を持つ身分としては、官位は低くても中郎将がトップなので中郎将のまま、と。

そういえば曹丕も(五官)中郎将でしたね。
なんだか、董卓らの経歴と曹操らの経歴は共通点が多いですね。
まあ、皇帝を擁して権力を振るったのは同じだから似て当然か・・・。
415怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 21:14
言葉足らずかもしれないので一応補足します。

牛輔が「将軍」になったとしても、少なくとも形式上は宮殿を直接守る兵ではなく、
外敵に対抗する為の兵ということになります。

それに対し中郎将は、官位などは低いとしても、宮殿を直接守るべき兵を率いる存在です。
将軍はどんなに偉くても、中郎将所属の兵に対して直接命令できません。
ということは、これらの兵を支配化に置こうと思ったら、
中郎将に関係者を置かないといけないのです。

もしかすると曹操における五官中郎将曹丕も似たような意味合いだったのかも。
416永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 21:38
>>414
>牛輔の方は中郎将の兵=羽林の兵、正に皇帝を守る禁兵を領したのではないでしょうか。
>この羽林の方は、どうも中郎将のままで率いて外へでる将も多数確認できますが、それらをさらに統率する直接の上官は無いんじゃないでしょうか?
確かに、黄巾の乱の時には、左中郎将皇甫嵩、右中郎将朱儁が出征していますね。
また、北中郎将盧植、東中郎将董卓など、後漢書の百官志に記述の無い中郎将まで出征しています。
四人とも持節ですので、通常の中郎将の権限を越えた大きな軍権を有していたようです。

>牛輔は董卓らが「外」の兵を持つ一方で、「中」の兵を持っていたのではないでしょうか。
>そして、「中」の兵を持つ身分としては、官位は低くても中郎将がトップなので中郎将のまま、と。
明らかに「中」の兵を帯びていない辺境の軍人が中郎将の官職を有している例も、
ちらほら後漢書には見受けられますので、
「中」の兵を帯びなくても、中郎将は名乗れたようです。
ですから、中郎将から雑号将軍に昇進している例も少なくありません。

また、董卓政権時代、長安にいた可能性が高い中郎将は、
左中郎将蔡邕、中郎将徐栄、中郎将呂布と、後漢書を見る限りでは3人います。
蔡邕は確実に、あとの二人も董卓の信任ぶりから考えて、
「中」の兵を帯びていた可能性が高いと思われます。

この3人と、数万の大軍を擁して遠征している一族の牛輔が「中」の兵を擁するというだけで、
同格の中郎将であるのはおかしいような気がするので、
おそらく黄巾討伐時の諸中郎将と同じように節は持っていたのでしょう。
もし、牛輔の官位がただの中郎将で無く、
右中郎将・持節と後漢書に明記されていれば、納得もいくのですが。

それにしても、呉匡と一緒になって何苗を攻め殺したぐらいしか実績が無く、
大軍を率いて遠征したことも無い董旻が後将軍で、
牛輔がそれよりはるかに格下の中郎将というのは、どうも納得がいかないのです。
(しかも、何苗を殺した時の董旻は奉車都尉。完全に文官ポストです)
単に董旻は同腹の弟、牛輔は妾腹の娘(もしくは母親が死んでいる娘)の夫とか、そんな些細な理由じゃないかな?結構妄想入っているけど。
あと董卓の姻戚関係は郎中令の李儒だけど、郎中令って光録勲のことであってるのかな?だとすると光録勲府の兵に対しては結構融通きいたからバンバン中郎将増やしたのかもね。

光録勲府の方だけじゃなくて、この時の五校尉の方はどうなんだろ?
418怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 23:05
>>416
その中郎将メンバーは、みな董卓派のようですが、
董卓にとって「絶対に裏切らない」レベルの腹心ではないと思います。
そこで、やはり娘婿くらいは置いておきたかったのでしょう。

また、董旻はすでに奉車都尉(比二千石)だった、と言う事は同秩の中郎将はいくら要職でも昇格ではないので、
董卓にとっての腹心のうち、董旻は将軍、牛輔は中郎将という組み合わせに必然的になったのではないでしょうか。

>>417
ごめんなさい、マジに聞きたい事が・・・。
李儒ってどこに出てましたっけ?
>>418
霊思何皇后伝です。でも董卓の縁者とは書いてないので演義からの勘違いでした。
420怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 23:23
>>419
本当だ。ありがとう!

でも郎中令って・・・。王国にしかないと思うんだけどなぁ、この時代。
復古したのかな?それとも王国郎中令?
教えてエライ人!
>>419
それ李賢注が引いてる『後漢紀』だろ?
『後漢紀』の、そことは別の一条に「王儒」名義で記載なかったっけ。うろ覚えでスマソ
422永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 23:29
>>417
李儒は弘農王劉弁(廃帝)の郎中令です。
後漢書百官志によれば、諸侯王の王国には光禄勲の代わりに郎中令を置くことになっています
あと、李儒が董卓の姻戚であったという記述は、史書にはありません。

なお、董卓専制時代に光禄勲を歴任したことが、
後漢書で明記されているのは、荀爽、趙謙、宣璠です。
3人とも、董卓専制時代になってから顕職を歴任した人物で、
特に宣璠は董卓の腹心と言ってもいい人物です。
>>420
そこらへん、後漢紀校注で周天游がゴチャゴチャ言ってたな。やっぱりうろ覚えだけど。
424怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 23:30
>>421
「王儒」の方は知らないッスけど、
「郎中令李儒」は本文ですよ。

あ、わかった。
李儒は弘農王(廃帝)の郎中令か!なりゅほど。
425怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/10 23:33
かぶった・・・。
ありがとうエライ人。
百官志読みました。そのとおりだと思います。
どうもお騒がせしました。
427永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/10 23:51
>>415
なるほど。
確かに牛輔がいきなり四方将軍になれるクラスの官歴を持っていなければ、
中央軍で就任できる軍司令官ポストは中郎将ですからね。
牛輔にも中央軍の司令官としての地位を保持させておきたかったから、
中郎将に留めていたとなれば、納得はいきます。
黄巾の時ののように節を与えれば、中郎将でも大軍を率いて出征できますからね。

>>418
>その中郎将メンバーは、みな董卓派のようですが、
>董卓にとって「絶対に裏切らない」レベルの腹心ではないと思います。
確かにこの3人は厚い信任を受けていましたが、董卓に殉じたのは蔡邕だけですからね。

>また、董旻はすでに奉車都尉(比二千石)だった、と言う事は同秩の中郎将はいくら要職でも昇格ではないので、
>董卓にとっての腹心のうち、董旻は将軍、牛輔は中郎将という組み合わせに必然的になったのではないでしょうか。
たしかに、奉車都尉なら権力者の引き立てさえあれば、九卿クラスの後将軍にはなれますからね。
光禄勲、衛尉、執金吾といった禁兵を握る文官ポストでもいいような気はするんですが、
文官ポストは董卓派の士大夫が受け取るという約束事でもあったんでしょうか?
428永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/11 00:39
>>417
>光録勲府の方だけじゃなくて、この時の五校尉の方はどうなんだろ?
董卓専制時代に五校尉を歴任したことが、後漢書で明記されている人物の名前を列挙します。

屯騎校尉 記録無し
越騎校尉 蓋勲、伍孚、王懐
歩兵校尉 記録無し  
長水校尉 禾中輯
射声校尉 記録無し

蓋勲は文武両道に通じた人物で、反董卓派の実力者でした。
彼は越騎校尉になる前は、長安のある京兆を統治する京兆尹でしたので、明らかな左遷人事です。
伍孚は董卓を暗殺しようとして失敗した人物。
王懐は他の大臣達とともに、反董卓連合軍との和平交渉に派遣され、殺された人物。
禾中輯は王允の反董卓クーデターに参加した人物です。
429怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/11 00:40
>>427
>文官ポストは董卓派の士大夫が受け取るという約束事でもあったんでしょうか?
あったんじゃないですかねぇ。
もちろん妄想に近いですが・・・。

董卓は本人の三公位と武官系の官職以外は、ほとんど直接手を付けていないようですよね。
三公・九卿、三独座等はいわゆる士大夫が持ち回っています。
(もちろん董卓派が占拠しているようなものですが)
董卓の子飼いは居ませんね。

董卓を暗殺したのがその三公・九卿等だったのを考えると、
このあたり(三公・九卿にまで直接影響力を及ぼせなかった)が董卓の限界であり、失敗だった、との評価も出来るかも。
430永遠の青 ◆pkFA3D428. :03/08/11 00:57
>>429
武官系でも、記録から類推すれば、
四方将軍や五校尉も士大夫に取られてたみたいです。
長安遷都後の前将軍に、士大夫の趙謙が就任しています。
朝廷の官位には、ほとんど子飼いを置けなかったみたいです。
曹操みたいに、清流派の子飼いがいればかなり楽になったのでしょうが。

>このあたり(三公・九卿にまで直接影響力を及ぼせなかった)が董卓の限界であり、失敗だった、との評価も出来るかも。
曹操も丞相就任までは、三公・九卿クラスに子飼いを就ける事はほとんど不可能でした。
早い時期に賈詡が執金吾になれたのは、朝廷の高官だった経歴があるからです。
曹操が三独座のうち、尚書令を握れたのは、子飼いの荀ケが士大夫でもあったからでしょう。
431怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/11 01:15
結局、
 叩き上げの辺境軍人出と、
 本人は清流派かどうかグレーゾーンとはいえ清流派の支持を得ていたエリート
の差ですかね。董卓と曹操。


あと、長安遷都ですが、当時はまだ三輔はかなりの位人口があったようですね。
荒れていたのは長安だけらしい。
董卓としては最悪でも関を閉じて篭っちゃえば何とかなる、との計算だったんでしょう。
また前漢以来の家柄である三輔出身士大夫は遷都を支持したかも。
董卓は反董や白波にビビッただけでもないし、官僚たちも董卓が怖くて反対しなかっただけでもないぞ、
ってことで。
董卓が暴虐な魔王ではないことはよくわかったのですが、
董卓銭を鋳造して経済を混乱に陥れたのはいただけません。
誰も反対しなかったのでしょうか?
それとも、そうするように彼に入れ知恵した人がいたのでしょうか?

433怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/11 08:03
>>432
では山田勝芳センセイの「貨幣の中国古代史」朝日選書を参考に。

この時代は銭が大いに不足していた時代でした。
(原料不足、退蔵増加など)
周囲を削ってしまい、その削った部分を鋳銭に使う「剪輪銭」、
五銖銭を打ち抜き、外側も内側も銭として通用させてしまう「エン(糸延)環銭」など、
銭の不足をなんとかしようと「悪貨」が生み出されていたのです。
(これは民間でかってにやっていたこと)

董卓の小銭は、
「とにかく流通量を増やそう」
「財政危機を打破しよう」
といった目的で作ったと思われます。
上に挙げたように、当時「悪貨」が既に流通していたので、
紛れも無い「悪貨」である董卓の小銭も
「似たようなものだから平気だろう」
的な気持ちで作られたのではないでしょうか。

誰が入れ知恵したかは分かりませんが、もともとそういったものが生まれる素地があったのです。
>>433
なるほど。大変参考になりました。ありがとうございます。

僕は、董卓の悪行の中でも、この行為がもっとも
後漢末の経済を混乱させ、ひいては荘園拡大・豪族の勢力助長を
促したものだと思っていたのですが、そういうことではなかったのですね。

だからと言って決して褒められたものではないと思いますが。
南朝でも「悪貨」を敢えて導入して貨幣流通量を多くした"名君"がいたね。梁武帝だったと思うけど。
それで失敗したせいか、晩年は耄碌したらしいが。
436怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/11 19:53
>>434
貨幣については、董卓の一存、思いつきではないと思います。

>後漢末の経済を混乱させ、ひいては荘園拡大・豪族の勢力助長を促した
はその通りな側面はあると思いますが。


董卓の悪行といえば、洛陽での兵士の略奪とか放縦っぷり、盗掘、火をつけた、
などの方がヒドイッスね。

その割にいわゆる士大夫の側からは表立った反抗や非難が少ないと思うんですけど。
1:本当は誇張や捏造
2:士大夫は自分達の命や財産さえ守られていればどうでもイイ!!だった
どっちでしょうね?
3.混乱に乗じて董卓配下が勝手にやったことも董卓のせいにされた
俺は3番
439怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/11 22:19
まあ、董卓が悪い部分もあるにせよ、
大方は3番ですかねぇ。

お祭り乱入そのままカーニバルなんかは、部下の兵士の暴走かな、って気が。
440怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/11 23:18
それでは、次はちょいと意外なところで賈詡を取り上げましょう。
(某スレでユニコードをテストしていたのは秘密)

賈詡は実は孝廉で郎になっているんですね。
辞めちゃうようですが。

その後、太尉董卓の掾となります。
おそらくはその前から董卓にくっついて都に来たのでしょう。

それから平津都尉、続いて討虜校尉になります。
また中郎将牛輔が陝に駐屯すると、彼もその軍中にいたらしいです。

と言うワケで、賈詡って何故か知らないけれどエリートコースをちょっと踏み外したけど只者じゃないんです。
孝廉になってますから。

続く。
>>439
カーニバルワロタ

『九品官人法の研究』によると人口が少ないほど孝廉とかに挙げられる確率が低かったそうで
となると涼州で孝廉ていうのは只者じゃないよな。
賈クって(多分)曹操と同年代だから150年前後か。羌族とのドンパチが始まるギリギリ前だが、
それでも涼州って人口少なかったイメージなのだが?
442怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/12 00:08
カクカク続き。

賈詡は董卓と牛輔の死を知り、動揺する李・郭らに董卓の敵討ちを進言します。
これ、演義でしたが最初に知った時は「お前のせいか!」とか思いましたが・・・。
まあ、彼らにしてみればただ逃げても賈詡の言うように捕まるだけだし、
やはり彼らは彼らで董卓には恩顧があったのだから、敵討ちしようと言うのはおかしなことではありませんね。
そこで李・郭らは王允を殺し裏切り者呂布を追い出します。

賈詡はその功績が大きいという事で、左馮翊と列侯を贈られるのですが彼は固辞。
また尚書僕射も固辞。
代わりに尚書になり人事を取り仕切ったそうです。
なんでも、この時に真面目に仕事をしたそうで、李・郭らも一目置く存在だったようです。
そんななか母が死亡、一旦官を離れ、後に光禄大夫となります。

続く。
443怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/12 00:20
>>441
賈詡の出身地、武威郡は続漢書郡国志で人口34,226人。
穎川郡は人口1,436,513人。
荀ケなんかとは全く違う世界の住人ですね。
前漢武帝までは匈奴の住んでいた土地ですし。


マンガの創作ですが、蒼天航路の賈詡は淳于瓊を斬っていますね。
あれも、彼の出身地を考えればアレくらいは出来たんじゃない?とか思える不思議。
賈詡は対反董卓同盟の一将でもあるしな。後漢紀の初平三年の条。
>>436
>貨幣については、董卓の一存、思いつきではないと思います。
董卓は文官ポストは士大夫に丸投げしていたので、
そういうことを董卓に吹き込んだ士大夫がいたと私は考えています。

>董卓の悪行といえば、洛陽での兵士の略奪とか放縦っぷり、盗掘、火をつけた、
>などの方がヒドイッスね。
>その割にいわゆる士大夫の側からは表立った反抗や非難が少ないと思うんですけど。
4:田舎者の兵隊どもが都会に出てきて浮かれて暴れてやがると冷笑していた。(非董卓派士大夫)
5:董卓のおかげで甘い汁を吸ってるから、つい董卓軍の兵士にも甘くなり、それぐらい大目に見てやれと思った。(董卓派士大夫)
>>440
っていうか、孝廉で郎までやった経歴があるのに、
何でこの人は軍人コースを歩いているんでしょうか?
れっきとした士大夫なんですから、文官ポストをやっても、
士大夫グループには文句を言われないと思うのですが。

あと、孝廉で郎までなってそれっきりという人が、実際にはとても多かったそうです。
どうも、孝廉→郎官は定期的に供給されますが、それ以上のポストは定期的に空かないので、
こういうことになってしまうみたいです。
踏み外したというよりは、ごく普通のコースだったんでしょう。

>>442
官歴というか軍歴からいけば、二千石の左馮翊も列侯も飛ばしすぎですからね。
文官ポストを全く経験して無いから、いきなり要職の尚書僕射もきついでしょう。
尚書僕射も尚書も同じ六百石で、秩石的には同じなんですが、
やはり尚書僕射は三独座の尚書令の次官ですから。

討虜校尉というのがどの程度のポストかは知りませんが、
首都防衛軍以外の校尉は、だいたい比二千石クラスの中郎将の次の階級ですから、
尚書なら抵抗無く引き受けられたんでしょうね。

あと、復帰後に比二千石の光禄大夫になったんなら、
実権は尚書の時より落ちますが、官僚としてのランクは上がってますね。

余談ですが、李・郭達が賈詡にあげようとした左馮翊の前任者は、王允の腹心だった宋翼です。
左馮翊と、王允の兄貴の王宏が太守をやってた右扶風はかなりの兵力を持ってたらしく、
李・郭はこの二人の兵力を恐れて、宋翼と王宏を勅命で呼び出して殺すまでは、王允一族を処刑できなかったそうです。
ですから、賈詡に左馮翊の兵を仕切ってもらって、首都圏を固めたかったのかもしれません。
447怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/12 08:27
>>446
>孝廉で郎までなってそれっきりという人が、実際にはとても多かった
彼の場合、そうなってしまったのはやはり家柄やコネがなかったからですかね。

あと、左馮翊が首都固めのためってのはなるほど。
王允も大将軍何進が宦官殺そうとする時に河南尹になってますしね。

カク続き。

李・郭の長安内戦時に、李カクは賈詡を宣義将軍にします。
彼は内戦を調停し、また天子、大臣を助けるのに功があった、との事です。
天子が東に脱出すると印綬を返上。
おそらくここで李・郭らを見限ったのでしょう。そのまま同郡の寧輯将軍段ワイ(火畏)に身を寄せます。
段ワイは天子を真面目に保護したようです。
あるいはここでも賈詡の助言があったかもしれませんね。
(なお段ワイはこの手の人物にしては珍しく後に寿命で死んでいます)

今度は主を張繍に代えました。まあ、ここからは特に有名な話が多いですね。

続く。
うーん、続きが楽しみだ
449怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/12 19:08
賈詡続き。

賈詡に対し、張繍(武威郡出身)は「子孫の礼」を執ったそうです。
要するに相手を父と同格に崇めるワケで、ものすごい礼遇・厚遇です。
また段ワイもまた賈詡が張繍に対して自分の有利になるよう助けてくれると思い、残してきた家族を厚遇したそうです。
賈詡は涼州人にとっては並ぶ者なき有名人になっていたようですね。

なお張繍は李・郭の同僚、張済の族子で、モチロン李・郭集団に所属。
軍功で建忠将軍、宣威侯になっています。
張済の戦死によってその兵を引継ぎ、宛に駐屯しています。

賈詡は印綬を返上しちゃったので無位無官だったように思われます。
もしかしたら張繍の属官の可能性もありますが、「子孫の礼」を執る立場ですからそれは無いかな?

もうこの時点で賈詡は当時の軍人以外では涼州人でも出世頭だったんじゃないでしょうか?
(李・郭の下でとはいえ、エリートの就くべき尚書となっています)
段ワイ・張繍間でのやり取りなど、それを感じます。

続く。
>>447
>(なお段ワイはこの手の人物にしては珍しく後に寿命で死んでいます)
段煨は旧董卓軍では中郎将。
涼州武威郡の人ですので、董卓の子飼いの軍人の中ではトップクラスの地位ですね。
長安政権成立後は、校尉連中が車騎将軍・後将軍・右将軍・鎮東将軍だの大層な将軍号を名乗って列侯に封じられているのに、
寧輯将軍というしょぼい将軍号しかもらってないので、長安政権には冷遇されてたみたいです。
旧董卓軍の軍人としては、珍しく内政に力を入れて、悪さを働きませんでした。
また、許に遷都した後に李カク討伐の勅命を受けて、李カクの一族を皆殺しにしています。
そのおかげで安南将軍という立派そうな将軍号と、郷侯の位をもらっています。
その後は顕職を歴任し、最後は九卿の大鴻臚にまで昇っています。
後漢末の朝廷において、軍人上がりが九卿までなるのは、相当なことです。
たぶん、悪さをしなかったのと、天子に忠実であったおかげでしょう。
旧董卓軍のメンバーの中では、たぶん賈詡に次ぐ勝ち組です。

>>449
>賈詡は印綬を返上しちゃったので無位無官だったように思われます。
>もしかしたら張繍の属官の可能性もありますが、「子孫の礼」を執る立場ですからそれは無いかな?
属官では無く、張繍本人より格上の客分と考えたらどうでしょうか?
451怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 01:15
>>450
>勝ち組
張繍も入れてやって下さい。
まあ、その「勝ち組」がみんな賈詡絡みなワケで。

>張繍本人より格上の客分
そういうことでしょうね。
ただ、そうだとすると官職では無官だったんだなー、と。

続き。

賈詡は張繍のため劉表とも会い、礼遇されています。
なんでも劉表の優柔不断を見抜いたそうで。

ところで、賈詡伝の記述には宛での張繍降伏→反逆での事が出てこないですよね。
いくら相手が主君曹操とはいえ、なんか絡んでいたなら本人の伝に記事があってもいいと思うんですが。

そして官渡の時に袁紹の使者に面と向かって「お前にゃつかない」と言い放ち曹操に降ります。
このあたりの見切りの良さが彼の真骨頂かもしれません。
分析能力というか。

続く。
452怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 01:36
続き。

さて、降伏した賈詡は曹操に「執金吾、都亭侯」をもらいます。
そして続いて「冀州牧」!
これは袁紹が占有していますので実際に任地に赴いた訳ではなく、実際は
「参司空軍事」として司空曹操の幕下に参謀として居りました。

ただ、冀州牧を曹操が領する(建安9年)まで、
名目上の冀州牧が賈詡だったということは重要だと思います。
戦後処理などの面で、冀州の接収した部分は賈詡が長官という事ですから。
まあ、これも曹操が冀州牧を領するまでですが。

曹操に牧を渡すと賈詡は太中大夫となります。
太中大夫は千石と比二千石の二説がありますが、基本的には無任所の人材プールの官です。
その後も賈詡は曹操にくっついているようなので、
以後も「参軍事」として幕下にあったんじゃないかと思います。

続く。
453怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 10:25
続き。

荊州、涼州では賈詡は太中大夫として従軍したようです。
また、三国志武帝紀註、曹操魏公就任の際に「太中大夫、都郷侯」として勧進しています。
このようにずっと「太中大夫」なのは、前回書いたように無任所で、決められた職務がなかったからでしょう。
実際は丞相曹操付き(「参軍事」など)として従軍し、あるいは諮問を受けたのでしょうね。

余談ですが荀ケは早い段階で侍中、守尚書令となり皇帝のそばにいました。
現場にはほとんど居なかったのであり、賈詡とは役割が全く違っていた事がわかるでしょう。

賈詡は曹丕の魏王即位後に魏の太尉となり、魏寿郷侯に上がりました。
魏が禅譲を受けてからもそのまま太尉です。
封邑は全部で800戸。内200戸は末子賈訪の封邑として分割しました。
また長子賈穆はフ(馬付)馬都尉に。

黄初4年6月薨ず。享年77歳。諡は粛侯。

454怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 10:33
賈詡補足。

賈詡が疑われるのを恐れ、敢えて私的な交際や名家等との婚姻を避けたのは有名ですが、
子孫は晋でそれなりに活躍しています。
曾孫賈疋は晋書に立伝されています。
愍帝の時に長安近辺で劉曜らと戦い、けっこう善戦したようです。
最後は敗死しましたが、「勇略有志節」と評され、なかなかの人物だったようですね。
455怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 10:47
連続で失礼。

穿ち過ぎというか妄想ですが、
賈詡が必要以上とも思えるほど目立たないようにしていたようなのは、
もしかすると最初の孝廉→郎→帰郷で挫折したからなんじゃないかな〜、と思ったり。
それまでは「さあやるぜ!」と意気込んでいたけれど、
実際に中央に行ってみると穎川、汝南などの名士ばかりが出世するように出来ている。
涼州の自分がまともなルートで出世する望みは無いに等しい・・・。
そんな現状を見た彼は、華々しく活躍するのを諦めた、と。
あるいは、郎の時に
「田舎モノのくせにでしゃばるな」的な扱いを受けて自分のなすべき処世術を悟ったのかも。

そんな彼が、曹操を支えた謀士(荀×2、郭、程)の中では一番出世したのだから面白い。
456怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 22:20
今度は穎川のエリートを取り上げます。

鍾繇、曾祖父の鍾皓も後漢書に立伝されています。
「郡著姓」で、代々「刑律」が得意だったそうです。

鍾繇はまず穎川太守陰修の功曹だったそうです。
その太守陰修により孝廉に挙げられ、尚書郎となり、次いで陽陵(京兆に属す)県令に。
もう既にこの時点で只者ではありませんね。孝廉で直に尚書郎ですから。

その後病を理由に官を去ります。
しかし彼がほっておかれるはずもなく、三府(三公でしょう)が辟召。
どこにどう召抱えられたか不明ですが、それを経て廷尉正となり、続いて黄門侍郎に。

廷尉正とはその名のとおり廷尉の属官で、官秩1000石。
廷尉には副官としての「丞」は無いらしく、この「廷尉正」や「廷尉監」が副官のような感じだったようです。
裁判官なので、もしかすると廷尉の判決を審査・監査するのが本務かも。
鍾繇がこれになるのは、「刑律」という家業があったためでしょう。

続く。
こうして、HPの存在意義と作家の収入を奪っていく怨霊であった。
>>450
>張繍も入れてやって下さい。
確かに彼もたくさん食邑をもらったから勝ち組ですが、雑号将軍ですので、
ただの軍人から、堂々たる朝廷の重臣である九卿にまで成り上がるという偉業を成し遂げた段煨よりは少し落ちるかな、と思いました。

>>452
賈詡は尚書や執金吾、冀州牧といった実務ポストを経験していて、
実務能力も十分にあるはずなのですが、太中大夫になってからは実務から離れ、
専ら曹操の高級参謀として行動していますね。

彼が長安政権時代に見せた行政手腕や、
曹操に仕える以前に、朝廷の重臣である尚書や光禄大夫を歴任した経歴を考えれば、
もっと権限のあるポストに就けてもいいように思うのですが。
それとも、経歴が華々しすぎたから、顧問官に留められたのでしょうか?
張繍が、明らかに自分より格上だった賈詡を客分として扱ったように。

>>453
荀ケは軍師というよりは、留守番担当の人ですよ。
こういう危ない時代に本拠地を離れる時は、
片腕クラスの人間を留守に置いておかないと危ないですからね。
>>455
>賈詡が必要以上とも思えるほど目立たないようにしていたようなのは、
>もしかすると最初の孝廉→郎→帰郷で挫折したからなんじゃないかな〜、と思ったり。
確かに業績が華々しいわりには、ギラギラしたところの無い人ですよね。
策謀だけで乱世を渡ってきた人間と言うのは、アクが強すぎるタイプと、
逆に自分の存在感を薄くしようと努力してるタイプが多いですね。

>そんな彼が、曹操を支えた謀士(荀×2、郭、程)の中では一番出世したのだから面白い。
荀×2は、禅譲後まで生きてたら、確実に三公になれてたでしょう。
特に荀ケは太傅も狙えるポジションにいたと思います。

郭嘉は参謀以外の仕事が出来ないので、
長生きしてても官位は光禄大夫か太中大夫止まりで、
代わりに食邑を奮発するという形で厚遇されたと思います。

程cは曹丕が彼を三公にしようと思ってる間に死んでしまいましたが、
もう少し生きてたら三公になれてたでしょう。
まあ、普通なら10年前に死んでてもおかしく無いぐらいの老人なのですが。

名声が無くて、しかも外様の賈詡が三公になれたのは、
曹操に仕える以前に、漢の重臣であったことがあるという閲歴と、
後継者争いで曹丕を支持したことがモノを言ったのでしょう。
>>456
>もう既にこの時点で只者ではありませんね。孝廉で直に尚書郎ですから。
かなり凄い経歴ですよね。
以前、人に頼まれて沮授の伝記を書いたことがあるのですが、
彼は州に仕えて別駕まで昇進してからようやく茂才に推薦されて、その後県令を歴任しています。
それと比べると、目もくらむようなエリート街道ですね。
ちょっと郡の役所にお勤めしただけで、すぐに孝廉ですから。
あと、穎川太守陰修はとても面白い人物ですので、是非調べてみてください。
この本伝とは関係ありませんが、ある「一見、当時では非常識に思えるある重要な事件」が容易に理解できるようになりますよ。

>廷尉には副官としての「丞」は無いらしく、この「廷尉正」や「廷尉監」が副官のような感じだったようです。
前漢では廷尉正、廷尉左監、廷尉右監を置いていました。
後漢になって廷尉右監が廃止され、廷尉左監だけが残ったそうです。
もともと、左右の廷尉監がいて、廷尉正が一人だけだったと言うことは、
本来の廷尉の副官は廷尉正であったと思われます。
>>457
そこまででもないだろう。
462怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 23:27
>>459
>自分の存在感を薄くしようと努力してるタイプ
張良みたいな感じですかね?
賈詡の処世術は張良と似てますよね。

>荀ケは太傅も狙えるポジションにいた
魏公就任を巡る動きを見ると、彼は難しいような気もしますが・・・。
太傅に祭り上げておく、って言う意味ならありえるかも。

>>460
>「一見、当時では非常識に思えるある重要な事件」
今のところ、お恥ずかしながら何だかわかりませんのです。
もし良かったら永遠の青氏またはその他の方々に解説お願いしたいです。
大変興味があります。

このあたりの時代の「事件」というと党錮か廃立か宦官誅殺か・・・?
463怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 23:53
鍾繇続き。

彼が黄門侍郎だった頃は董卓の長安遷都の頃でした。
エン州牧自称を事後報告してきた曹操を認めるよう李・郭を説得したのは彼だそうです。
その後李・郭らによって皇帝が危険にさらされると、鍾繇は皇帝を助け、脱出にも功績があったようです。
賈詡ともここで面識があったでしょうね、関係ないですが。

皇帝の長安脱出後、彼は御史中丞となりました。
次いで侍中、尚書僕射、東武亭侯。
特別に功績があったとはいえ、流石の出世ぶりですね。

鍾繇の経歴はスゴイですが、このアトもっと凄くなります。
と煽っておいて続く。
>>462
>張良みたいな感じですかね?
>賈詡の処世術は張良と似てますよね。
張良は、単に天下統一後に貰う物を貰ってばっくれただけです。
賈詡の処世はむしろ、陳平に似ていると思います。
官職に就いて国のために働きながら、極力自分が影響力を持たないように、
心を砕き続けた点が共通しています。

>魏公就任を巡る動きを見ると、彼は難しいような気もしますが・・・。
>太傅に祭り上げておく、って言う意味ならありえるかも。
魏建国の最大の功臣は、誰がどう見ても荀ケですよ。
絶大な功績と強力な権限、陣営内にくまなく張り巡らされた人脈は、
まさに臣下の最高位たるにふさわしいものがあります。
こんな強力過ぎるナンバー2は、宰相の地位に就けてもヤバイし、冷遇してもヤバイです。
ですから、太傅になってもらって、みんなが丸く収まるようにするんですよ。

>もし良かったら永遠の青氏またはその他の方々に解説お願いしたいです。
>大変興味があります。
それでは、ヒントを差し上げましょう。
@陰修が穎川太守だった時代に登用した人物の名前を思い浮かべてください。
A陰修はどのような最期を遂げたのでしょうか?
Bある人物がある大物の下を去り、それより格下の人物に付いたという事件です。
C最期に「門生故吏」という言葉について考えてみてください。

>党錮か廃立か宦官誅殺か・・・?
それよりもっと後の事件です。
その事件が起きた時はささいな事として受け止められたでしょうが、
後になって考えれば、その事件なくして三国時代は有り得ませんでした。
私は劉備と諸葛亮の出会いより重大な事件だと受け止めています。
465怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/14 00:51
>>464
ヒントありがとう。
調べてみます。
>>464
陰修のこと調べてみた。そういうことなんだろうか?
実際、「門生故吏」がどこまで幅を利かせていたかはよく調べてないが、
故吏となることを恐れて仕官しなかった例も確かにあるから、そういう考えでいいんだろうな。

でもそう考えると、それぞれ結構葛藤があったみたいだな。
>>466
つまり、あの二人の大物の間には、怨恨があったわけです。
ですから、片方が先見性に飛び抜けていたからもう片方から離れたのではなく、
後漢の常識的な士大夫なら、やはりごく当たり前の判断なんですよ。
特に名士なら、恩人に無道な振る舞いがあったわけではないのに、
門生故吏関係を無視した行動を取ったら、名声を失ってしまいます。
>>467
郭図は?
>>468
彼は後年の行動から見て、どうも儒教的倫理観にあまり囚われない人物だったようです。
天下の名士の下で栄達するという輝かしい未来を夢見て、
あっさりと恩人の非業の死については、あっさり水に流してしまったのかもしれません。
>>469
確かにそんな気もしないではないですが。
あと、気になるのは、郭図が天子奉戴を袁紹に進言したという説がありましたよね?
そうすると、陰脩によって推挙された二人が同じく奉戴論を献策したことになるんですよね。

という事は、陰脩という人がそういう思想の持ち主だったのかなあ。
471怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/14 08:11
>>467
董卓政権下で少府となった陰修(後漢書袁紹伝では陰循ですが)は、
反董同盟説得に向かって袁術に殺されていますね。
これですか?

袁術・袁紹は陰修に推挙された穎川名士の多くを敵に回したんですね。
で、>ある人物がある大物の下を去り、それより格下の人物に付いたという事件
っていうのは一旦は故郷を離れ袁紹の保護下に入った荀ケが、
挙主陰修殺しを目の当たりにして袁紹を見限った、ですか?
472怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/14 08:30
>>471
あと荀攸もですな。

>>470
どっちかっつーと、天子推戴を「めんどい」と言ってやらなかった袁紹が珍しい思想の持ち主だったんじゃないかと思う。

鍾繇続き。

李・郭から逃げ出した後、皇帝を保護した曹操は、山東の群雄を相手にするため、
関中を抑え、平定する人物を必要としていました。
その大役に抜擢されたのが鍾繇です。
彼は侍中、守司隷校尉となり、「持節、督関中諸軍」と軍事権と関中にばらまかれた軍閥の処断権を与えられ、
「之に委ねるに後事を以ってし、特に科制に拘らざらしむ」
と、独断で柔軟な対応をしても良い、と委任されたそうです。

まさに関中方面の総司令官的存在です。
鍾繇は馬騰・韓遂や并州からの袁氏勢力、匈奴などを退け、
見る影もなくなった司隷校尉部の復興を図ります。

一歩間違えば鍾繇自身が軍閥化してしまいそうな気もしますが、
それだけ信頼があったのでしょう。
同時に、その権力に見合うだけの実力があると思われていた事になります。

続く。
473怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/14 20:03
鍾繇続き。

司隷校尉部は関中(三輔)と三河(河南・河内・河東)、弘農郡を領域とします。
そして監察官としては全ての官僚に対してその権限が及びます。
宦官との決戦を控えた大将軍何進も腹心の袁紹を司隷校尉にしました。
三独座と称される要職です。

しかも今回、鍾繇には曹操の背中を守るという任務があり、それを可能にする権限も与えられました。
当時の朝廷での彼の位置付けが見て取れるでしょう。
新進気鋭の若手で優秀、そして毛並みも良い。
ただのエリートではなく、非の打ち所が無い逸材、かもしれませんね。

鍾繇は長期にわたる任務を期待に違わずこなします。
関中の民を、同じく見る影も無くなった洛陽に移住させました。
いわば洛陽の復興です。
関中は李・郭の乱や韓遂・馬騰などのため政情不安でしたから、
強制移住というよりは避難や流民の受け入れとして機能したのでしょう。

また漢にとっての姦賊、韓遂・馬騰には懐柔策を用います。
一気に攻め滅ぼせないが、山東が終ったら滅ぼすor解体するという長期戦略があったのでしょう。
また関中は馬の産地に近いので、官渡戦時には馬2000匹を曹操に補給しています。
曹操が淳于瓊を破った時の騎兵はこの馬に乗ったのかもしれませんね。

また袁尚が派遣した河東太守郭援、并州刺史高幹、匈奴単于が関中を攻撃した時は、
馬騰を味方につけて撃退しますし、さらにその後の高幹の反乱も鎮圧しています。

内政面から軍事まで、強硬手段から柔軟な外交まで、なかなかの手並みです。
曹操は彼を蕭何になぞらえましたが、軍事的にも曹操を助けた彼はあえて言うなら
(蕭何+韓信)÷2 くらいの功績じゃないでしょうか。

続く。
474怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/14 22:39
続き。
まあ、正直マンセーが過ぎるかもしれないですが・・・。
物語等で一般に知られているであろう鍾繇とは違うよ、ってことが言いたいのです。

鍾繇が司隷校尉から遷るのは曹操の関中征伐後。
鍾繇はそれまで関中と洛陽を守り、また復興しました。
特に洛陽の復興は曹操の軍事行動にかなり役立ったようです。

鍾繇は「前軍師」になりました。
実は「前軍師」ってなんだろう・・・。と思っています。
ただ、侍中、守司隷校尉よりは高位とされたのでしょう。
魏公勧進の連名上書では、筆頭である中軍師荀攸の次になっています。

続いて魏国の「大理」、続いて「相国」です。
「大理」は漢における「廷尉」。
「相国」は魏公国の宰相です。当時の諸侯王の制度なら本来「相」なのですが、
魏国の制度は「皆漢初の諸侯王の制の如くす」とされています。
漢初には諸侯王にも丞相or相国がいたのです。
丞相ではなく相国なのは権威付けと、
当主である曹操自身が「丞相」の肩書きを持っていたので紛らわしいという事情があったんじゃないでしょうか。

廷尉でなく大理を置くという記述はみつからないのですが、
漢でも一時期廷尉を「大理」と称していましたので同じ官のことでしょう。

続く。
475怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/15 08:01
続き。

そんな鍾繇はトラブルに見舞われます。
関羽が于禁を捕らえ曹仁を包囲していたころ、
魏相国の西曹掾である魏諷なる人物の反乱計画が発覚したのです。
魏諷は当時その才能で知られた人物だったそうですが、
ギョウ(業β)の兵力が対関羽に取られているのを見て反乱を計画したとの事。
鍾繇は彼を辟召した責任を問われ罷免されました。

だがそれでも失脚とまでは行かず、翌年に曹丕が魏王になると魏の大理に復帰。
曹丕が禅譲を受けると大理は廷尉に改称し、同時に「崇高郷侯」に爵位が上がります。
その後、太尉賈詡の死を受けて鍾繇が太尉となり、「平陽郷侯」に。

文帝が死に明帝が即位すると、太傅になり「定陵侯」となります。
この時の封邑1800戸。

太和4年薨ず。諡は成侯。
476あぼーん:あぼーん
あぼーん
>>471
>っていうのは一旦は故郷を離れ袁紹の保護下に入った荀ケが、
>挙主陰修殺しを目の当たりにして袁紹を見限った、ですか?
半分正解で半分間違いです。
もともと、荀ケは韓馥が冀州牧だった頃に客分として招いていた穎川名士グループの一人でした。
その後、袁紹が冀州を乗っ取ると、このグループはほとんどが袁紹のブレーンになります。
しかし、陰脩は袁紹が冀州が乗っ取る前に殺されているので、
袁紹が冀州の支配者になった時点で、冀州に留まる気を無くしたのでしょう。
>>477
半分間違いって具体的にどこよ?
>>472
当時の常識的な士大夫は漢王朝の権威に弱かったので、
天子奉戴は画期的な名案では無く、わりと常識的な発想ですね。
袁紹がそれをやらなかったのは、自分自身が後漢末最高級の名士でしたので、
別に天子を奉戴しなくても、自分自身の名声で十分に支持を得られると踏んだのでしょう。

>一歩間違えば鍾繇自身が軍閥化してしまいそうな気もしますが、
>それだけ信頼があったのでしょう。
荀ケ伝によると、鐘繇は荀ケの引きで曹操陣営に参加したようです。
荀ケが連れて来た人間は基本的に忠誠心の面でも能力の面でも曹操を裏切らなかったので、
鐘繇自身への信頼の他に、彼を推挙した荀ケへの信頼もあって、この破格の人事は行われたのでしょう。
480怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/15 22:35
>>477
回答解説ありがとう。

>>478
オラの答えは荀ケが「袁紹に」身を寄せた、だけど、
青氏の答えでは荀ケは「韓馥に」身を寄せたけど袁紹が乗っ取っちゃった、になってるね。
韓馥が抜けてるのが半分減点ってことでしょう。
半分?
482怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/15 23:30
そんな優秀なエリート鍾繇も下半身系の醜聞には事欠かないんですが。
まあ、それはそれで。
むしろ人間臭いかも。
>>473
>曹操は彼を蕭何になぞらえましたが、軍事的にも曹操を助けた彼はあえて言うなら
>(蕭何+韓信)÷2 くらいの功績じゃないでしょうか。
韓信は遠征して強敵を潰していった将軍ですので、
防衛戦を戦った鐘繇とは色合いが異なるように思います。
後方支援担当兼鉄壁の防衛司令官であった光武帝の功臣寇恂に近い人物だと思います。

>>474
>おそらくは実は「前軍師」ってなんだろう・・・。と思っています。
華歆が軍師(前後左右は付いていません)から御史大夫になっていて、
魏国建国後に中軍師荀攸は尚書令に、右軍師毛玠と左軍師涼茂は尚書僕射になっています。
ランクとしては、尚書系の要職と同格で、相国や御史大夫といった公ポストの直前に位置する要職では無かったかと思われます。
おそらく、文臣系の曹操軍最高首脳であることを示すポストではないでしょうか。

>>475
>鍾繇は彼を辟召した責任を問われ罷免されました。
魏諷の乱はかなり大がかりな計画で、魏の重臣の子弟の多くが参加して処刑され、
鄴の治安を預かっていた中尉(執金吾)楊俊は摘発出来なかった責任を問われて、なんと平原太守にまで左遷されています。
(計画が失敗したのは、途中で共謀者の一人が怖じ気づいてたれこんだからです)
いかに魏諷が名士とは言え、兵を帯びておらず、相国の西曹掾という一官僚でしかありません。
兵力の裏付けも、有力な将軍を味方に付けるだけの権威も持っていない彼が、
単独で大規模なクーデター計画を立てられたとも思えないのです。
共謀者であった長楽衛尉陳禕は魏諷より遥かに高官で、長楽宮の衛兵を指揮下に置いていました。
兵を帯びていない一官僚の魏諷が、陳禕のいうな卿クラスの高官を巻き込むことが出来たのは、
クーデター計画の裏に何らかの大きなバックがあったのでは無いか。
そして、そのバックが鍾繇だったのでは無いかと思ったりするのです。
ただ、あまりに大物過ぎて処刑出来ず、罷免してお茶を濁すことしか出来なかったのでは無いかと。
ほとんど、妄想に等しい考えですけどね。

この事件に何らかの形で絡んだ人間がほとんど厳罰に処されていることを思えば、
実際は監督責任を問われて罷免といったところが正しいのでしょう。
政治生命を絶たれたわけでもなく、すぐに政界に復帰して、最後は太傅にまで昇っていますし。
鍾繇ほどの男が、自分の属官の不穏な動きに気付かないとも思えないのですが…。
魏諷の反乱事件は色々な意味でミステリーです。
485怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/16 12:11
>>484
確かにどこにも鍾繇が魏諷の計画に関与した証拠は無いですが、
そんな計画を立てられた裏には何かありそうですよね。

>自分の属官の不穏な動きに気付かないとも思えない
全くです。
荀ケの不審死に端を発し、当時穎川系の人物と曹操の間である種の緊張関係にあったのかも、
とまで言っては言いすぎですかね。

話変わってスマソ
王莽が二字名を廃止してから随分と経つのに一字名がやたらと多いのはどういう訳なんだろ?
487怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/16 13:46
>>486
何故でしょうね?
私も良く分かりませんが・・・。

確か「昔は諱は一文字じゃん!昔に戻ろうYO!」ってのが王莽の禁止理由だったはず。
これは当時の儒者等の考えに通ずるものだったんじゃないでしょうか。
つまり、王莽が独り善がりに発した命令などではなく、
当時はある程度思想的に理解を得られる事だったんじゃないかと。

で、王莽政権崩壊後も定着した、と。
言い換えれば、王莽だけがその気だったんじゃなくて時代の趨勢だった、と。
488怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/16 15:05
>>487
すこし訂正。

今んトコ、王莽による二字名の禁の命令文は見つからないのです。
だから>「昔は諱は一文字じゃん!昔に戻ろうYO!」
といってたかどうか確認出来ていないです。スマねっす。

ただ、漢書匈奴伝下によると漢(王莽)の使者は匈奴単于にさえこの命令を守らせようとしたので、
王莽の簒奪前から、形式上は漢の制度として命令(詔)が出されていたようです。

そして、おそらくその根拠となった思想は、白虎通姓名篇にある
「春秋二名を譏るは何ぞや?譏る所以は、乃ち其の常無き者を謂うなり」
といったものでしょう。
(春秋あたりでは二名だと一方の字が省略されて記載されたりして分からなくなる。
また、諱が多くなるので避けにくいという説もある)
後漢でも「二名=悪い」という考え方があったのです。
王莽は、おそらく春秋学派等で言われていたであろうそれを取り入れたのでしょう。

王莽の気狂いじみた思いつきでやったことではないと思います。
もともとそういう考え方があったのです。
489怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/16 22:41
さて、今度は晋の宣帝こと司馬懿の官職について。
主に晋書宣帝紀より。

司馬懿は曹操の初任官を決定したという司馬防の次男として生まれました。
彼はまず河内郡の上計掾となり、郡の「計」(予算・決算書みたいなもん)を持っていく役目を果たします。
持っていくだけではなく、その「計」について三公府の役人からの下問などに答えたりする必要があり、
それなりの実力がないと上計を任せられませんでした。
そして、それ故にこの「上計」を上手く説明した者は三公府などの目に留まり、辟召の対象になります。
司馬懿もまたその事が司空曹操の耳に入り、辟召されました。

それに対し司馬懿は辟召を拒んでいます。
辟召に応じないのもしばしばあった事で、自分をより高く「売る」ためか、あるいは本気で出仕したくないか、どちらかでしょう。
彼の場合にどうだったのかは知りませんが。
ただ、宣帝紀によれば彼は病気と称して引き篭もり、曹操はそれに対しヒットマンを放った、とさえ言っています。
また、妻張氏は病気のはずなのに虫干ししていた本取り込んでいる夫の姿を見た婢を口封じに殺したそうです。

曹操が丞相になったときも曹操は彼を丞相の文学掾に辟召しました。
今度は「来なかったらひっとらえてこい」と厳命、司馬懿はやむなく就職したそうです。

まあ、少々胡散臭い気もしないでもないですが。とりあえず曹操の属官となりました。

続く。
490怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/17 12:06
司馬宣王続き。

丞相府に辟召された後、司馬懿は黄門侍郎となり、続いて議郎、更に丞相東曹属、同主簿と転任します。
曹操のオフィスである丞相府の属官が多く、大体は曹操の元で働いていた事になります。
曹操の魏公就任後、「太子中庶子」になりました。
この「太子」は魏の太子、即ち曹丕。
「太子中庶子」は続漢書百官志によれば、「太子少傅」に所属し、「職は侍中の如し」だそうです。
(これは漢の皇太子の官ですが、魏でも同様だったと思われます)
曹丕の側近といったところで、将来曹丕が即位すればそのまま側近として要職に就くのがほぼ約束されたといえるでしょう。

次に「軍司馬」に遷ったのだそうです。
軍司馬といえば将軍等の属官、というか中隊長くらいの存在なのですが・・・。
まずどこの「軍」の司馬なのかが良く分かりません。曹操の軍司馬でしょうか?
また官秩としては昇進かもしれませんが、正しく武官であり、
それまでの実務畑から後継者側近という経歴に不釣合いな気がするのですが・・・。
どうしても「左遷」じゃないかと思えて仕方ありません。考えすぎ?
もっとも宣帝紀の記述では指揮官というよりは参謀として活躍したように書かれているので、
曹操が近くに置こうとしただけで、左遷とは限らないかもしれませんけれど。

続く。
491怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/17 23:04
なんだか独りになっているような気がするが、
よくあった事なので気にせずいこう。

晋宣帝続き。

軍司馬司馬懿は曹操の死後、曹丕が後を継ぐと河津亭侯に封ぜられ、丞相長史となります。
やはり曹丕の側近が約束されていただけのことはあります。
更に、次いで尚書になり、魏の禅譲の時は「督軍御史中丞」でした(三国志文帝紀誅)。
禅譲後のご祝儀で皆爵位を貰っており、司馬懿は安国郷侯になります。

翌年、「督軍御史中丞」の「督軍」はなくなり、その時に侍中、尚書右僕射になりました。
こうしてみると、この時の「督軍御史中丞」ってのは、
禅譲の時に予想される混乱や不満分子による騒擾行為を取り締まる為に、
特に軍にまで監察権を及ぼして曹丕側近の司馬懿に見張らせる臨時の官だったのかもしれませんね。

その後、文帝曹丕が許昌で対呉に水軍を連ねて示威行為(後に出兵)を行った際、
撫軍大将軍、仮節、給事中、録尚書事となり、
兵5000を領し、向郷侯(三国志註によると西郷侯)になります。
司馬懿は許昌での留守居役となり、後詰の軍の監督と皇帝の文書処理を任されたそうです。
(なお同時に陳群が鎮軍大将軍となり文帝に従っています)
ここでも司馬懿は陳群と並ぶ文帝の側近官僚として大役を仰せつかっていますね。

続く。
492無名武将@お腹せっぷく:03/08/17 23:11
はぁ〜





鍾 離 昧!                                              
>491
司馬懿はあんまり面白くないから・・・
494怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/17 23:30
>>491
一箇所「註」が「誅」になってた。スマヌ。

495怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/18 00:57
>>493
面白くないかぁ〜。
まあ、そうなのかもしれない・・・。
でも、せっかく始めたから最後まで。

補足。
司馬懿の就いた>撫軍大将軍、仮節、給事中、録尚書事
ですが、実際に軍事力や、他の軍に対する指揮権等を有することになります。

また給事中は元は皇帝のプライベート空間に入る権利を有する事を指す加官(資格)で、正しく側近です。
皇帝が朝政を終えてからも仕事する時のスタッフなのです。
(後漢では廃止されていたのを復活したものです)
録尚書事は、この場合は親征する予定の文帝に代わって皇帝の文書事務(決裁)を代行するものでしょう。

これらの官職はどれを取ってもそこいらの馬の骨には渡したくないものなので、
漢では外戚なんかが良く受け持ちました。
しかし魏ではこのように側近とはいえ一般の官僚がこれらを全て掌握したのであり、
そこに漢と魏の違いと、魏の支配力の限界のようなものを感じないでもないです。
|∀・)ミテルヨ チシキナイカラ ロムッテルダケダケド
497怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/18 07:51
>>496
それはどうも。気が向いたら質問でも何でも言ってやってくらさい。

司馬懿続き。

文帝曹丕はその後コロッと急死。
中軍大将軍曹真
鎮軍大将軍陳群
征東大将軍曹休
撫軍大将軍司馬懿
の四人が後継者曹叡の輔政となります。

そして明帝曹叡が即位すると舞陽侯に改封。
そして呉の侵攻を撃退すると驃騎大将軍になります。
そして翌年、彼は詔により宛に駐屯、「督荊・豫二州諸軍事」を加えられます。
この時点では対呉というか荊州方面の守備担当という感じのようです。
彼は新城太守孟達の反乱を鎮圧。太和2年の事です。

太和4年、司馬懿は大将軍、大都督、仮黄鉞となり大司馬曹真とともに蜀方面へ転進。
蜀を攻撃しますが長雨に悩まされます。

続く。
…「司馬軍司馬」とか「陳鎮軍大将軍」とか呼ばれてたんかなぁ?
陳群に関しては、呼称に姓はいらんだろ。
総理が一人しかいないのに、「小泉総理」と呼ぶようなもの。

でも、「司馬軍司馬」はどうだろうな。状況によっては有り得たのかも。
ぐんしばしばい ちんぐんちんぐんだいしょうぐん
501怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/18 18:38
>>499
でも、例えば劉備も実際に「劉豫州」と呼ばれたりしているワケで、
「陳鎮軍」なんて呼ばれた事もあったかもしれないなぁ。
「ちんちんぐん」か・・・。
502怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/18 19:58
して続き。

大司馬曹真の死を受け、司馬懿は今度は対蜀の防御を担当。
「都督雍・涼諸軍事」を加えられ、車騎将軍張コウ(合β)、後将軍費曜らを統べて諸葛亮を迎え撃ちました。

諸葛亮が死ぬと大将軍から太尉となります。
そして太尉のまま公孫淵討伐へ。
で、帰ってきたら明帝さようなら。

この時、燕王宇を一旦は大将軍として輔政者としようとしながら曹爽に代えるという事件がありました。
中書令劉放によれば文帝は「藩王は輔政にしないこと」と命令していたそうです。
これは曹丕独特の考えではなく、秦・漢以来の伝統だったようです。
王としての地盤や兵力と輔政者としての権力が結びつくのを恐れていたようです。

そこで曹爽が大将軍として司馬懿と共に輔政することとなりました。
司馬懿の専権はこの輔政から始まると言えると思います。
漢ではこの「輔政」と軍権を持たせる相手にけっこう気をつけていたのですが、
魏は外戚でも皇族でもなく、また宦官でもない司馬懿に与えました。
その結果・・・。

続く。
503怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/18 22:47
続き。

新帝斉王芳が即位すると、まず司馬懿は
(おそらく太尉のまま)侍中、持節、都督中外諸軍、録尚書事とされます。
大将軍、仮節鉞、都督中外諸軍、録尚書事の曹爽とともに、
それぞれ兵3000を率い、殿中で交代で宿直し、一緒に車に乗って殿中に入ったそうです。
なんだか、やけに何かを警戒していますね。
どちらかというと「皇帝の秘密がばれたりしないように」
という警護のしかたに見えるのは私だけでしょうか?

まあ、血筋すら不明な皇帝なので、いくらでも秘密や問題はあったかもしれません。
しかしそれを守るために曹爽と司馬懿の権力があったとすれば、皮肉な話です。
この二人の強大な権力と、その権力を巡る政争の果てに魏皇帝が骨抜きになるのですから。

続く。
504無名武将@お腹せっぷく:03/08/18 22:48
鍾離昧優勝
彼の首の構造を知りたいな・・・
506怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/19 07:48
>>505
三国無双でしたか、それは?やったことないので他の人に訊いて下さい。

続き。

曹爽は自分の方が先に上奏文を先に点検できるようにと、司馬懿を大司馬にしようと画策します。
太尉と大司馬でどう違うのかよくわかりませんが、
もしかすると宮中から追い出そうとしたのでしょうか?
大司馬はこの時は将軍クラスの最高位です。
将軍なので宮中ではなく外で幕府を開くようになる、と。

ただ、大司馬になって死亡が多くて縁起悪い、と言う事で太傅に変更。
同時に入朝不趨、賛拝不名、剣履上殿の権利を与えられます。
曹操が魏公になる前に与えられた権利と同じ(>>170参照)で、曹爽もこれをもらってます。

但し、司馬懿は太傅になった時も持節、都督中外諸軍はそのままです。
そのかわり侍中ではなくなったようです。
録尚書事はどうなったかよくわかりません。
ここで兵権はそのままであることが後に大きな意味を持ちます。
曹爽の風下についたのは確かですが、完全に実権を失った訳ではありません。

続く。
>怨霊さん
505の人は、多分「司馬懿の首は180度曲がった」という
ことについて言ってるのでは?
>>507
でもそれは官職に関係無いのでは?
509怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/19 08:08
>>505,507
おっと失礼。三国無双では首が回るとか何とかだと聞いたもので。

晋書宣帝紀で、確かに「身体は動かさず真後ろに向いた」という記述がありますね。
構造は分かりませんが・・・。特異体質?
510怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/19 19:37
司馬懿続き。

司馬懿は曹爽との二頭体制のもと、外敵を防ぐ役割を果たします。
晋書を見る限り、司馬懿と曹爽の仲が破局したのは例の正月クーデタから2年前の正始8年で、
それまではお互い含むところはあっても少なくとも表面上は協力的でした。

どうもその破局のさきがけは、
曹爽が制度を変えてまで弟曹義を中領軍として禁軍の兵権を掌握した事、
腹心何晏を尚書として人事を掌り、
同じく畢軌が司隷校尉、李勝が河南尹と要職を占めたあたりのようです。

更には、どうやら名義上は皇帝の後見人となる皇太后郭氏をも転居させました。
これは晋書宣帝紀・三国志后妃伝には明記されていませんが、
もしかすると事実上の廃位、幽閉だったのかもしれません。
皇太后がいなければ、命令権者は皇帝しかいないワケで、
皇帝を操れる立場の曹爽の天下です。

ここまでくると、反曹爽派は勢いとして司馬懿に付くのが当然でしょうし、
司馬懿自身も危機感を感じたでしょう。
皇太后さえこんな目に遭うなら、次はもう一人の輔政者の番ですから。

続く。
511怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 00:38
シヴァイ続き。

ボケを装った司馬懿の芝居にひっかかった曹爽は、ついに嘉平元年正月に隙を見せます。
大将軍の本人、中領軍の弟曹義ら揃って宮城を離れました。

そこで司馬懿は幽閉されていた(?)皇太后に曹爽らの廃位を上奏。
その上で禁軍のもう一人の指揮官にして長男である中護軍司馬師の兵を使います。
また自らの持つ「節」を当時の司徒高柔に渡し、「行大将軍事」として曹爽の兵を回収させます。
>>114参照)
「行大将軍事」とは大将軍不在時の代理であり、もはや曹爽は大将軍ではないという事。
「節」は「邪魔だてすれば殺すよん」という無言の圧力。
また同様にして中領軍も太僕王観に回収させます。

かくして皇太后を擁し、軍権も回収したとあっては曹爽には勝ち目無し。
皇帝を押し立てて対抗したとしても、司馬懿は皇太后を使って対立皇帝を立てるだけのことでしょう。

というところで続く。
512怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 00:51
続き。

曹爽を倒した司馬懿は皇帝から丞相の位やら九錫やらを賜るのですが、彼はどちらも断ります。
時期尚早と思っただけなのか、
この時点ではまだ簒奪を考えていなかったのか、
それとも今は謙譲の徳を見せておこうとしたのか。

そんな中での令狐愚、王凌(さんずいが正しいけど)の乱を早業で鎮圧した司馬懿は、
楚王彪が絡んでいた(というか擁立されるところだった)ことで魏の王公を全て業βへ置き、
監禁状態にするという荒業にでました。

しかしその直後死亡。

続く。
シバイの正体はナムリス。
514怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 07:54
>>513
ナムリスって土鬼皇帝でクシャナの夫のことですか?
ヘルメットにも目がついてたんだっけ?

晋高祖続き。

司馬懿は死亡後に最初「文」の諡をもらいますが、
のちに「宣文」に変更。
諡でもっとも良いのは「文」で、次に「武」といいます。
「宣文」など二文字は一文字の「文」よりは落ちます。
そのためこの措置は諡ランクを下げているのですが、どうしてでしょうね?
司馬昭を「文」にするためかな?

ということでシバーイたんの奇妙な一生終わり。
こうして見ると斉王芳即位の時にいきなり出世しすぎ。
何か裏がありそうなんだけど・・・。
515怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 08:30
今度は曹仁。

曹仁の官歴はまず曹操の別部司馬、行事N校尉から始まります。
対徐州戦で「督騎」、即ち騎兵の指揮官だったようで、その騎兵を率いてかなり軍功を立てたようです。
曹操が天子を擁すると広陽太守を貰いますが、曹操は郡に行かせず、議郎として「督騎」にしておきました。

要するにこの頃の曹仁は曹操の虎の子の騎兵を指揮していたのです。
516怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 19:29
>>515
ハゲ(蒼天)続き。

騎兵隊長の曹仁は、張繍征伐、官渡戦、冀州平定と曹操に従い、
主に別働隊の騎兵として数々の武功を立てています。
冀州平定後、都亭侯になります。

荊州では「行征南将軍」として江陵に居残り、呉の周瑜の攻撃に耐えます。
この「行」はこれまでも何度か出てきましたが「代行」の意味です。
ただ、この場合はずっと「行」のままで軍を率いるワケで、いわばずっと代行していることになります。
これは、おそらくですが、本来なら将軍になどなれない官歴、格である彼を将軍にしておくためのものでしょう。
正式任官するのは難しいので、
「今だけで、すぐに他の人に譲るから、今だけは将軍にしといてよ」
って感じで「臨時代行」扱いにしているのだと思います。

結局は流石の彼も江陵を追い出されますが、
曹仁は部下牛金救出などの功績で安平亭侯となります。

馬超の乱に対しては、今度は「行安西将軍」として従軍。
続く蘇伯、田銀の乱では「行驍騎将軍」として七軍を「都督」して乱を鎮圧。
そして、曹操の魏公就任はこの頃です。
(勧進の時の曹仁の官位が「行驍騎将軍安平亭侯」)

続く。
話の腰折るようでスマソ
後漢書百官志にある九卿の少府府(?)に属官が多いのは宦官の勢力が伸張したから?
漢書や晋書の方だとどうなんだろ
518怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 21:41
>>517
いや、大歓迎ですだ。

後漢の少府の属官には尚書、侍中、侍御史や宦官の官があり、確かになんだか巨大に思えます。
実はこれ、ほとんどが「文を以って属す」=書類上の所属、でしかないのです。
実際に少府の下にあるのは太医令、太官令、守宮令、上林苑令のみ。
(続漢書百官志)

他はすべて実際には皇帝直属の側近官ですが、
おそらく給料の支給などの関係で所属を決めなければならなかったのでしょう。
少府は前漢までは皇帝の私的財産や私的空間を管理する官だったので、
国家ではなく皇帝が直に雇っているというイメージから少府に一応付けられただけなのです。
実際には当時の少府には尚書などへの命令権は無かったと思われます。

晋では南渡後ですが廃止された事さえあり、後漢以上に廃れていました。
519怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 21:52
まあ、書類上は属官が多いのも事実です。
しかしそれは宦官というより、尚書など側近官の伸張を示すものでしょう。

尚書や宦官は前漢でも少府所属でしたが、
侍中、侍中、中常侍は所属のない加官でした。
また侍御史は前漢では御史大夫の所属でした。
後漢はこれらを再編成した上で少府に書類上所属させたため、
少府がやけに膨れ上がったように見えるのです。

実際は、前漢では独立し、かつ大規模だった皇帝の私有財産の管理という職務が、
王莽から後漢の頃に大司農が所管する国家予算に繰り入れられたらしい、
という経緯があり、少府の職務、権力は低下の一途だったようです。
>>518>>519
参考になりました。
魏で尚書台が分立した後は皇帝直属だったっけ?
521怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/21 18:42
>>520
そのようですな。
魏制は漢書、続漢書のようなまとまった記事がないんでよくは分かりませんが。

細目(横山三国志)続き。

曹操の魏公就任後、曹仁は「行征南将軍、仮節」となって樊にいました。
南陽郡の郡治所がある宛県で宛の守将侯音なる者の反乱が起こると、
曹仁は早速鎮圧。
そして樊に戻ってくると遂に「行」の付かない「征南将軍」に就任しました。

なお同時期に漢中方面では夏侯淵が殺されています。

しかし樊を関羽が攻撃。援軍于禁の軍は漢水氾濫で魚のエサ。
さあ曹仁ピンチ。樊も水に浸かっています。
しかしそこで部下の将兵を激励し士気を維持し、
援軍徐晃が到着し関羽を攻撃すると曹仁も討って出、関羽を撃退しました。
関羽はその頃には戻る場所を失っているのですがそれは別の話。

続く。
522怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/21 19:21
お。書き込めた。
朝はアクセス規制とか何とか言ってハジカレタんだよね。

曹イ二続き。

曹仁は漢の元ではほとんどの期間中「行」付きの将軍でしかありませんでした。
これは彼が漢の官歴の慣習などに照らすと、
到底将軍位などを望めないような位置にあったからだと思います。

それは無理やり例えれば、
いくら総理大臣でも国家試験に通ったばかりの者を、
才能があるからっていきなり部長にすることはできない、といった感じでしょうか。
それなりの順序や何やらを踏むべきなのです。
順序を踏んでいない曹仁は、「行」付きでないと将軍にはなりにくかったのではないでしょうか。

まあ、そんな彼も曹操の魏公就任、そして魏王就任と進むうちに「行」なしの将軍になります。
魏の文帝が魏王になると「車騎将軍、都督荊・揚・益州諸軍事」となり陳侯に封ぜられます。
荊・揚・益州といえば呉と蜀のテリトリーですから、
主に対呉・蜀双方がありうる荊州方面の大将なのでしょう。

後に彼は魏の元で大将軍、続いて大司馬となります。
実は文帝は大将軍になった直後に孫権を「大将軍、呉王」にしており、
大司馬になったのは大将軍が取られちゃったからだと思われます。

彼は大司馬就任から二年ほどして合肥で死去。
最後まで軍にあった、正しく生涯一武人ですね。
諡忠侯。
523無名武将@お腹せっぷく:03/08/22 07:07
曹仁の息子は曹泰でしたっけ?
曹一族の子弟にしてはかなり活躍してるみたいですね。鎮東将軍でしたっけ?
524怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/22 07:38
>>523
そうですね。曹泰は最高官位「鎮東将軍、仮節、ィ陵侯」。

またご存知かも知れませんが曹仁の実の弟、曹純も騎兵隊長でした。
「虎豹騎」なる精鋭騎兵の「督」となり、
袁譚を斬り、単于トウトンを斬り、長坂では劉備を追っかけて劉備の娘を捕らえ、江陵を降しています。
曹操は彼が死ぬと「虎豹騎の督の代わりなんていねえよ!ウアァン!」と言っています。


ところでこの兄弟の関係はどうも不可解で、
曹仁は穎川太守まで行った祖父、侍中・長水校尉であった父を持ちながら、
官歴は曹操の別部司馬が最初のようです。

一方、曹純は「父の業を承け」とあるように弟でありながら父の遺産を相続し、
18歳にして黄門侍郎になったとの事。
要するに弟の曹純の方が祖父・父のような官僚の道を歩んでいるのです。
なんで曹仁は父のような道を歩まずにフラフラしてたんでしょうか?
若い頃はよっぽどの無頼漢だったのでしょうかね?
遺産も父に「お前にはやれん!」とか言われたとか・・・。
>514

孔子の諡号は文宣じゃなかったでしたっけ?
孔子にあやかって宣の字を付けたとかいうのは・・可能性としては弱いかな。

司馬懿のセガレが司馬文王だからじゃないかと思います。
526怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/22 19:07
>>525
孔子のこの時点での称号は「褒成宣尼公」。
(漢平帝の時、王莽が贈ったもの)
どこからどこまで諡なんだ、って話もありますが、「宣」が確かについていますな。

確かに無いとは言い切れないかもしれませんね。

なお、>>514の時は気付かなかったんですが、
晋書景帝紀によれば司馬懿・司馬師の諡を司馬昭が辞退していました。
「魏の武帝・文帝と同じ諡なんてガクガクブルブル」とか言っています。
そこで、漢の大功臣霍光の諡が「宣成」である事などを例示して、
こうして下さい、って言っています。
そこで司馬懿は「文」から「宣文」、司馬師は「武」から「忠武」になったとか。
527怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/23 19:53
しかし相変わらず人いない〜。

さて、今度は劉虞について。

劉虞は東海恭王彊の子孫だそうで、祖父は光禄勲、父は丹陽太守に昇っています。
彼は孝廉に挙げられ、書いてないですが多分いくつかの官を巡って幽州刺史となります。
一体なにをしたらここまで、という気もしますが、
その時に随分と鮮卑、烏桓等が彼に心服し、民も戦が減って大喜びだったそうです。

のちに官を去り、その間に黄巾の乱勃発。
彼は乱の中で王が住人に捕まるなど乱の被害があった冀州の甘陵国の相として呼び戻されます。

そこでもそれなりに治績を上げたらしく、続いて宗正になります。

続く。
>>527
続き期待してます。
怨霊殿
いつでも結構ですから官職一覧をピラミッド型に示してくれませんか?
>527
そのレベルで語る人間がたくさん居たら・・・
それはそれで嫌な世の中だよ。
大学の教授は知識を全て発表しない。
何故なら、自分のアイデンティティーに関わるから。
天才中の天才は別だけどな。
532怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/24 00:52
>>531
まあ、大学教授にとっちゃある意味メシのタネだからね。
発表するまでは胸に秘めている部分はあるだろうね。
でもオラは小役人なので、知識は別に隠す必要が無いダス。

で、>>529氏のご依頼はいずれやってみます。
533怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/24 13:01
劉虞続き。

宗正ってのは前にも解説したかもしれませんが漢の宗室、劉氏を管理する官です。
劉氏の事だけ管理するので、その長官も劉氏です。
なお、劉氏なら全員が宗室というわけではありません。
傍系で諸侯王位などを継いでいない者は、どうやら7代以上離れると
「属が尽きた」と称して宗正が管理する宗室名簿から削除されるらしいです。

劉虞はおそらくまだ宗室の一員でしょう。
他にも劉焉、劉曄、劉繇などもそうでしょうね。
しかし、劉備はおそらく宗室ではないでしょう。とっくに縁が切れていると思います。

さて、劉虞が幽州に戻ってくるのは漁陽の人張純・張挙の反乱が契機でした。
この二人はどちらも元郡太守・王国相で故郷に戻っていたようですが、
辺章征伐に駆り出されながら逃げ戻った烏桓と盟を結んで刺史の治所、薊を攻めました。
烏桓騎兵を手中にした彼らの勢いは凄まじく、
護烏桓校尉箕稠(烏桓の監視役)、右北平太守劉政、遼東太守陽終が殺されています。
張挙は天子、張純は「彌天将軍、安定王」を自称。
更に青州、冀州にも侵攻しています。
そこで宗正劉虞に白羽の矢が立ちました。彼は幽州牧に任命されます。

ここで彼と公孫瓉の関係について少々。
公孫瓉は実は辺章征伐の時の烏桓突騎の督でした。
そう、逃げ出した烏桓の隊長だったのです。
と言うワケで公孫瓉は張純と結んだ烏桓を追いかけて攻撃。
その後も降虜校尉として烏桓を滅ぼそうとしています。

一方劉虞は前の幽州刺史の時以来烏桓に対しては融和策を取っており、
公孫瓉とは対烏桓政策が対立していたのです。

続く。
534怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/24 18:39
しかし前から気付いてはいましたが、まだ533レスだってのに357KBっすか・・・。
その大半はワタシの長文ですな。スマヌ。
この調子だと、700〜800くらいで終わり?

劉虞続き。

劉虞の対烏桓戦略は、あえて屯兵を減らし、使者を遣わして説得するなどの宥和策でした。
これが上手くいき、二張は逃亡したとの事です。
しかし実は一方で劉虞の下にいたのが公孫瓉であり、
彼の軍事力と烏桓に畏れられた勇あってこそ劉虞の宥和が上手くいった面がありそうに思います。
そこで、「手柄取るなよ!俺のお陰だろ!」的な不満が公孫瓉にあり、
それが最後まで引きずったのかもしれませんな。

ともあれ、劉虞は賊の一方張純に賞金を懸け、ほどなく首が送られて来ます。
この功で劉虞は太尉となり、容丘侯に封ぜられました。霊帝が死ぬ直前の事です。

続く。
なんかこの頃って北も南もほとんどの反乱で宥和策とってるね。
完全に平定するのはめんどいって事ですかね?
黄巾とか韓遂の場合は主力を叩いてるか。と自分にツッコミ。
537怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/25 00:02
>>535
全ての反乱に対する施策を確認してはいないけれど、
本来なら草の根分けても首を取ろうとするであろう乱の首謀者や幹部が、
後漢末ではのうのうと生き延びているね。韓遂とか。

また、異民族に対してはまた別だと思う。
自主的かつ組織的に反抗してくれば潰すし、白旗掲げて無条件降伏なら赦す。
中華の余裕なのか、異民族に対してはむしろ優しく(?)接しているように思う。

これは、彼ら異民族を兵力として利用するという面があるからだろうけど。
属国、帰義蛮夷など、辺境等には漢に服属した異民族の集落がけっこうあったらしい。
これらは大体は自治権と引き換えに軍事力を提供する事になっていた。
張挙の乱に加わった烏桓もこのような連中と思われますな。
538怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/25 00:36
劉虞続き。

彼は太尉になりましたが、幽州に居続けています。
単に行くヒマ等が無かっただけなのか、それとも政情不安を知っての事か。

その間に中央ではご存知董卓政権となりました。
司空董卓は劉虞を「大司馬」にし、「襄賁侯」とし、自分が空いた太尉になりました。
この場合の「大司馬」は曹仁の時の大将軍上位互換ではなく、
太尉の上位互換として設定されたものだと思います。
董卓「太尉は俺が欲しいけど劉虞のヤツがいる。
 よし、一応中身は同じママで大司馬ってことにすれば太尉が空くじゃないか。
 どうせ都にはいないんだし」
ってな感じ。

漢書百官公卿表では「太尉」の項に「大司馬」も「大司馬将軍」も説明されており、
「太尉」=「大司馬」という考え方があったのです。
しかし後漢では前漢の大司馬のポジションには太尉がありましたから、
わざわざ復活させるのは董卓側の事情でしょう。

その後、董卓は太傅袁隗をぶち殺すと太傅の後任に劉虞を選んでいます。
「大司馬」の次に格は高いが事実上無任所の太傅にされるあたり、
ここでの「大司馬」も同様の「格は高いがやるべき仕事は無い」
というものだったことを傍証していると思います。

もっとも、太傅に就ける命令書は劉虞まで届かなかったらしいですが。

続く。
539怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/25 07:57
劉虞続き。

彼のいる幽州は、なんでも慢性的に赤字で、
青州・冀州から不足を補ってもらっていたそうです。
しかし、劉虞は農業振興や異民族との交易、塩鉄専売によって財政を立て直したそうです。
黄巾に追われた青州・徐州の流民も幽州に移住。

そしてそんな劉虞の名声を知る反董卓同盟の皆さんは、
天子が董卓に連れて行かれて自分達が「逆賊」とされているのを憂慮し、
劉虞を対立皇帝として擁立する事を画策します。
しかし劉虞はあっさり断ります。

計画の首謀者、韓馥・袁紹らは、
「じゃあせめて領尚書事、承制封拝だけでも」と言いますが、これも拒否。
領尚書事は詔の処理を代行する事であり、
反董側で「代行」と称して勝手に詔を出し、あるいは決裁する気なのでしょう。
承制封拝は爵位や官職を授ける権限と思われ、
これはもちろん自分達を将軍や大臣に任命してもらおうということでしょう。

そこいらの人物を天子に擁立しても正統性も信頼性も乏しいですが、
劉虞なら正統性はともかくその名声故に信頼はあるだろう、という計算があったのでしょう。

続く。
540怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/25 08:23
あ、言うまでも無いかもしれませんが、
袁紹らの劉虞擁立には何の正統性もありません。

董卓の廃立は実は
「群臣の会議」→「皇太后の決定」という形式は備えています。
これは前漢の霍光の時の手続きと同じで、実態はどうあれ手続き的には同じなのです。
541怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/25 19:35
劉虞続き。

劉虞は領尚書事、承制封拝を勧める使者を斬ってしまい、
同時に長安の皇帝に使者を遣わします。
朝廷に二心の無い事を示すと共に、多分長安にいる子の侍中劉和の救出を図り、
あとおそらくは反董側との関係悪化から長安の政府に助けを求めたのかもしれません。
なおこの時の使者が若き剣の使い手田疇。

この使者は無事長安に到達。
長安脱出を図る皇帝は劉和を武関から東に行かせ、
劉虞に迎えに来るようにさせる使者とします。
しかしこの道は袁術の支配下でした。
袁術は「俺が一緒に皇帝を迎えるから、劉虞あんたは兵を出して劉和に付けろ」
と劉虞に告げます。

これに対し、公孫瓉は袁術の詐言を看破。
兵を出すなと言いますが、劉虞は従わず騎兵数千を派遣しました。
もっとも、偽りだろうが劉和が事実上の人質なので、
劉虞としてもスパッと「出さないよ」とは言えないでしょう。
なお公孫瓉は今度は袁術に袁術に怨まれる前にと自分が袁術に使いを出し、
劉和を捕らえて兵を取ってしまえと袁術にけしかけます。

結局袁術が約束を守る筈もなく、騎兵は取られ、皇帝は迎えられず、
劉和は逃げたけど今度は袁紹に捕まります。
踏んだり蹴ったり劉虞。
彼は地方長官や宰相としてなら有能だったかもしれませんが、
群雄の一人としては能力不足かも。

続く。
542怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/25 23:05
劉虞続き。

公孫瓉は袁術と結び袁紹と敵対するに及んで、
もはや劉虞の支配下から離れてしまいます。
袁紹と戦い、自分で刺史を決め、もう完全に独立勢力。
まあ、もしかすると本当は劉虞は息子劉和救出(あるいは敵討ち)のため、
積極的に袁紹を攻撃させていたかもしれませんが。

それでも公孫瓉にとって一応劉虞は上司。
袁紹への執拗な攻撃を止めたい劉虞は補給を止め、公孫瓉の袁紹攻撃を遮ります。
怒った公孫瓉は略奪に走り、もうこの二人の対立は行くところまで行きました。

実はこの対立が終るきっかけは劉虞による公孫瓉攻撃でした。
しかし公孫瓉だけ討てばよい、家などに火をかけるな、
などの宋襄の仁さながらの命令のせいでせっかくの好機を逃し、
公孫瓉に反撃を食らって敗北。斬られます。

なお、捕まったと同時に天子の使者が劉虞を「督六州事」にするという辞令を持ってきました。
どの六州かはわかりませんが、豫・荊・エン・徐・揚・益州でしょうか。
(幽・并・青・冀は公孫瓉が督します)
当時は李・郭政権下なので、
「俺たちは関中で精一杯だ、関中以外は劉虞と公孫瓉に任せた」
ということだったのかもしれません。

なお、劉和は袁紹に付き、後に袁紹が公孫瓉を滅ぼすのに従い、
父の敵を討ったのだそうです。
543怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/26 07:53
劉虞補足。

劉虞たちに督州権が与えられたのは、反董卓同盟と距離を置いていたから、かな?

あと、公孫瓉は劉虞処刑に当たって
「お前が天子になるべき人間なら、天がお前のために風雨を起こすだろう。やってみろ」
などと無茶を言いますが、これは当時の思想「天人相関」を反映したものです。
これは天子や宰相が失政すれば、天は日食や地震や旱魃のような天災の形で叱責し、
同じく政治が上手くいっていれば天が瑞祥を降して褒めるのだ、というものです。

実際にはそんな事はないので、この話や日食などの自然現象で三公が罷免されるなど、
色々と現代から見れば無茶な話も出てくるのですが、
これは逆に言えば当時の天子や三公の動向が天に通じていた、
と考えられていたワケで、
ある意味ではその権威には相当なものがあったのです。

あと、劉虞が捕まった時に来た使者が幽州刺史になった、という話を見ると、
それまで幽州牧は劉虞がずっと領していたのでしょうね。
544怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/26 19:20
>>543
最後の一文を再補足しておくと、
いままで幽州刺史が居なかったのに、
劉虞が死んだ時点で新たな刺史が任命されると言う事は、
それまでの幽州長官は劉虞だったと考えるのが妥当でしょう。
劉虞は正しくは「大司馬、領幽州牧」だったんでしょうな。
545怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/26 20:09
さて次はどうしよう。
官歴紹介は諸葛亮、許靖、夏侯惇、荀ケが俺の中の候補。
考え中・・・。
許靖キボンヌ
荀ケきぼんぬ
惇兄ィきぼんぬ
みんなバラバラかよ!

じゃあ先着の利。許靖から。

汝南郡の許靖はかの有名な(?)許劭の従兄で、ともに人物評価をしていました。
許靖は汝南太守劉翊によって郡の上計吏となり、ついで孝廉に挙げられました。
そこで就いたのは尚書郎。「選挙」すなわち人事を掌る職です。

時に董卓政権下。
彼は吏部尚書となった周ヒツとともに、
荀爽、韓融、陳紀など、穎川関係を中心に人物を抜擢します。
尚書韓馥、侍中劉岱、張咨、孔チュウ(イ由)など、反董卓同盟を作る連中も含まれます。
なお周ヒツは伍瓊と共に董卓に対し袁紹をかばった人物です。

そして許靖自身は巴郡太守の辞令をもらいます。
刺史や県令はすっ飛ばしたんでしょうか。
しかしそれを受けず、代わりに御史中丞に。
まあ、官秩よりも中央に居る事を選んだのでしょうかね。

続く。
許靖続き。

彼は御史中丞になりましたが、これは、
彼もまた王允以下の董卓に協力した官僚グループの一員だった事を物語っています。

しかし董卓は韓馥、袁紹らの反董卓同盟結成を知り激怒、周ヒツを殺しました。
恐れをなした許靖は豫州刺史孔チュウの元に逃げ込みます。
しかし孔チュウ自身すぐ死んでしまい、今度は揚州刺史陳イ(示韋)の元へ。
陳イもほどなくして死にます。
揚州刺史は初平4年に陳温と言う人物が就任しており、袁術に殺されるのですが、
陳イと同一人物でしょうか?

許靖は呉郡太守許貢、会稽太守王朗と仲が良かったので、今度はそちらへ向かいます。
で、ご存知のように孫策が攻めて来るのですが、許靖は交州に逃げます。
交阯太守士燮が彼を厚くもてなします。
大した逃げっぷりです。

続く。
551怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/28 19:29
何か蒼天に出てるし許靖。

許靖続き。

彼はどこまで逃げてるのでしょうか。
まあ、ある意味乱世の人物らしい生き方かもしれません。

同じく避難していた陳国の袁徽が荀ケに対する手紙で称揚するなど、
許靖の名声は変わりません。
やがて劉璋の招きを受けて蜀入りしました。
蜀では巴郡太守、広漢太守、蜀郡太守と歴任。
一度は行かなかった巴郡太守になるとは面白いものですね。
劉備が蜀を裏切り攻めた時は蜀郡太守でした。

続く。
|д゚)<ちゃんと読んでるからね…ところで青氏はどこへ行ったんだろう…
553怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/28 19:48
>>552
青氏、このところ世界史板でも見ませんな。
仕事が忙しいのか、急にやる気なくなったのか、叩きに遭ったからなのか。

何時かまたお会いする日を待ちますよ。
554怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/28 22:32
許靖続き。

さて許靖といえば有名なのは成都脱出(失敗)ですな。
これは三国志法正伝に書かれています。
本人の伝にはそんな事書かれていません。
お陰で探すのに苦労しましたよ。こっちゃ索引無いんだ。

で、それによると劉備が成都を包囲した時、許靖は成都を脱出し、劉備に降ろうとします。
しかし失敗。劉璋に捕まります。
劉備はそれを知り許靖を軽んじます。
しかし法正いわく、
「ヤツは実はないけと虚名はあるので、重用すれば宣伝になるぜ」だそうで。
しかしそこまで言われる「虚名」とはなんでしょうな。

彼が人物評価的な事をしていたのと無関係では無さそうですが、もう一つ、
彼が例の穎川、汝南の人士とつながりがあったらしい事を忘れてはいけないと思います。
彼はそのコネクションで、穎川出身のいいとこの出の官僚を動かす事が出来るのです。
まあ、劉備の元では穎川よりは南陽等荊州系人士と蜀の豪族が強いので、
許靖のコネも大して働かないでしょうから、「虚名」と呼ばれるワケです。

続く。
規制が入っていて、投票ができなかった・・・
許靖は思いのほか面白いので結果オーライ。

いずれ息抜きで飛将軍なんかも語っちくり。
>>554
その虚名の説明なんかヘンだぞ。
「虚名」=「大して働かない」だと、法正の発言の意味が・・・

単純に「実質がともなわない名声」と考えたほうがいいと思う。
>>554
もしかしてちくま文庫の三国志じゃないですか?
索引なくても青タンいなくてもガンガレ怨霊タン

適当に読んだだけでうろ覚えだけど、
許劭も結構濃い性格(行動)してたような…
558怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/28 23:31
>>555
飛将軍って李広のこと?

>>556
そうかもしれん・・・。
一応自説補強(というか訂正と言うか)としては、
劉備が期待するような、直接行政処理をしたり、策略を立てたり、
には大して役に立たない(だから虚名と呼ばれる)けど、
敵対勢力まで見据えた場合には宣伝効果はあるぞ、と。
「お!あの許靖タンがいるのか。ならオラも安心だ。降伏しよう」
とか他勢力の官僚・将が思ってくれるかも、ってくらいの。

でも苦しいかも。スマヌ。

>>557
中華書局。人名索引どこかにあったかもしれないけど探すのメンドイ。
それは漢の飛将軍れす。
三国志の飛将軍といえば呂布れす。奉先れす。
560仮面ライダー555:03/08/28 23:54
>558
うん、李広。
息抜きに番外編って事でさ。
李広を語るなら衛青や霍去病についても
語らねばなりますまい。
全く以って
    三
  国

じゃねぇ
スレタイは「漢の制度を語る」だから
元祖大将軍&票騎将軍を語っていけないということはないと思う

まあべつにどうでもいいけど。
564怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/29 00:50
衛将軍・驃騎は官歴が一本道というかすぐ最高位になってしまうので趣きがないッスね。
張安世なんかの方がオキニですがどっちにしろスレ違いですわな。

許靖続き。

劉備が蜀を奪うと彼は左将軍長史になります。
左将軍=劉備。劉備の属官の中ではトップクラスです。
また、劉備を漢中王に奉る時には「領鎮軍将軍」も付いていたらしい。

劉備が漢中王になると太傅になります。
これは漢中王の太傅でしょうかね。
漢中王の官制は漢初の制度を用いているのですが、
漢初の諸侯王には「太傅」がいました。
(後に「傅」となりますが)

さらに劉備が即位すると司徒に。
しかし諸葛亮が丞相になりながら司徒許靖っていうのは本来はありえんのですが。
司徒の前身が丞相だったのですから、同時に存在するのはちょいと変です。
曹操はしっかり司徒を廃止して丞相になっていますからね。

まあ、蜀にはその代わり(?)御史大夫がいないから、まあいいか・・・。

続く。
三国会要に「蜀には太尉がいた」っつー説があるけど、どうなんだろうね。
司徒がいたなら太尉がいてもおかしくないワケだが。
いやさ、飛将軍って通り名みたいなもんだったと
記憶しているんだが、そんな奴を集めてみるのも良いかなって事。
こうそんさんは白馬将軍だっけ?
息抜きには良いんじゃないかな?
568怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/29 07:55
>>565
太尉、見た事ないんですがどこに出てくるんでしょうね。
もし太尉も司空も見た事ない気が。
それに丞相諸葛亮亡き後、宰相はどうなっていたんでしたかね?
マトモに調べてないですが。
どうも、魏呉蜀で一番「漢」から離れた官僚制度なのは蜀のそれのような気がします。

>>566
公孫さんのは白馬義従ですな。本人のアダナではないですが。

許靖続き。

彼は劉備が死ぬ前年に死亡。70歳以上だったそうです。

彼は陳紀(&陳群)、袁渙、華キン、王朗などと交流があり、
よく手紙のやり取りをしたそうです。
(なお前出の袁徽は袁渙の親戚)
あるいは、蜀でもこういった手段による情報収集が評価されたのかもしれませんね。
情報が相手方に漏れる、というのもあるでしょうが、
中原の動向等の情報はやはり欲しいところでしょうし。
569無名武将@お腹せっぷく:03/08/29 10:02
曹操のつくった法律で征服民を中原に入植させて税をとる制度ってなんていいましたっけ?


570無名武将@お腹せっぷく:03/08/29 10:14
>>569
屯田制
これは班田収受の元になったんか?
5公5民だったらしいけど
571569:03/08/29 11:19
>>570 
どうも
572怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 01:01
飲み会から帰ってきたのでアルコホルのせいで頭が回りません。

次は>>547氏のリクエストのイクたんの予定。
官歴自体は簡単。たぶん。
ワクワク(・∀・)
なんか制度というよか著名人の官歴スレになってるな。
面白いからいいけど。
>>574
質問があればどうぞ。
576怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 08:43
>>574
最初は考えてなかったけど、
ヒマだったから官職の紹介を兼ねて人物を取り上げる事にしたのです。
昇進した順序なんかにもそれぞれの官職の特徴が現れると思いますし。

荀ケスタート。

荀ケは穎川郡の出身。父荀コン(糸昆)は宦官、中常侍唐衡の娘を荀ケに娶わせます。
これは唐衡の、というか宦官の権勢を恐れての事とされていますが、
荀コンが宦官とのコネを作りたくて積極的に縁組した可能性もあると思います。
どちらにしても問題なのは、その縁組が当時の官界、
いわゆる清流派人士たちには評判が悪かったらしい、ということでしょう。
(この話は後漢書にしか見えません。三国志では隠蔽されていた可能性も・・・)

彼は若い頃に何ギョウ(袁紹の友達)によって「王佐の才」と評されています。
そして永漢元年(=中平6年9月の献帝即位から12月まで)、
即ち太尉董卓が献帝を擁立した頃、孝廉に挙げられました。

続く。
577怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 09:52
荀ケ続き。

前回の補足としては、荀ケはまず穎川太守のもとで主簿をしていました。
そして孝廉に挙げたのは穎川太守陰修。
鍾繇、荀攸、郭図も彼によって挙げられています。

で、主簿(その名の如く「簿」即ち戸籍等の担当でしょう。郡の要職の一つ)から孝廉、
そして守宮令になりました。
守宮令は少府所属の600石。
「御紙筆墨及び尚書財用諸物及び封泥を主どる」(続漢書百官志)そうです。
まあ、皇帝の文房具係って事でしょうか。
皇帝の側仕えという意味では悪くありませんが、
治民官でも尚書でもないのは微妙な気がします。
(鍾繇と比べてみてください)
妄想ですが、先に述べたように荀ケは当時の清流派の中では評判が芳しくなかったのかも。
彼らにとっては宿敵の宦官に尻尾を振った、と思われたのではないでしょうか・・・?

しかし董卓の元から去ろうとした荀ケは外任に出る事を望み、亢父県令にしてもらい、
(亢父はエン州任城国)
それから官を棄てて故郷に帰ってしまいました。
この時は都もエン州方面も反董卓、賊(黄巾、白波)など不穏な情勢でした。
彼はそんな危険な地に居たくないのと同時に、故郷の方が気になったのでしょう。

続く。
578怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 17:14
続き。

前レスでの清流派内での評判ですが、
官秩などを見れば荀ケのヤモリ令は冷遇とまでは言えないとは思います。
しかし、「王佐の才」とまで言うなら、
早速尚書となって人事やら詔書起草などに従事しても良さそうなものだと思うのですが・・・。
考えすぎかもしれないのですが、
序列では上でも真の要職は与えられなかったのではないかと思えるのです。
そしてその要因が宦官とのつながりがあった点かと。
その時は宦官が殺された直後ですから、
宦官との関係が深い者はなるべく中枢からは排除する方向だったのでは?

まあ、これは想像でしかありませんが。
故郷に戻った荀ケはその地の人に避難を勧めました。
あまり聞き入れられなかったようで、荀ケは一族郎党だけを連れて冀州へ逃れます。
同郡の冀州牧韓馥の手の者が迎えに来たので、彼を頼ろうとしたのです。
しかしその頃、丁度韓馥は袁紹に冀州牧を明け渡してしまった後でした。
なおこの時に袁紹側で活躍した荀ェは荀ケの弟です。

さて、以前に永遠の青氏らが指摘していたように、それより前に袁紹は荀ケらの挙主、
陰修を殺しています。
そのためか、荀ケは袁紹には付かず、東郡にいた行奮武将軍曹操の元に向かいます。
曹操曰く「我の子房なり」だそうです。
彼は奮武将軍の司馬(将軍の副官、ナンバー2)となりました。
穎川出身で「王佐の才」と呼ばれ孝廉で召し出された人間が就くような職ではないようにも思うのですが、
曹操にはそれ以外に彼を遇するべき官を任命できないのでしょう。
その後も曹操の将軍位に従って鎮東将軍司馬に代わります。
エン州牧なので州従事とかもあると思うのですが、
次官級とはいえ軍事系の司馬に留まるのはどういうことでしょうね。
単に司馬に慣れていたのか、それとも従事等には不適だったのか?

続く。
579怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 17:42
荀ケ続き。

荀ケは曹操の陶謙攻めの際には州を託され留守番しました。
そこで呂布、陳宮、張バクの反が起こりました。
しかし荀ケ、夏侯惇、程cらは反しなかった三城を死守、曹操の帰還を待ち、
曹操が戻ると呂布を撃退。
荀ケは正しく曹操の片腕、留守を任せられるだけの存在だったと言えるでしょう。

荀ケは関中を脱出した皇帝を擁する事を勧めました。
そして実際に曹操が皇帝を手中にすると、荀ケは侍中、守尚書令となりました。
侍中は皇帝の側仕え、尚書令は皇帝の詔書起草等の担当。
これを兼ねるという事は彼は皇帝の政務のほとんどに関与する訳で、
決裁代行または不在時の事務取扱者たる録尚書事=曹操と共に、
一躍政権の中枢に踊り出ました。

続く。
580怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 18:10
ところで皇帝の意思決定はどうだったのか・・・。

帝「そうだ詔を出そう」

帝「侍中よこの命令どう思う?」
侍中イク「それじゃ曹司空あたりが納得しないッスよ」
帝「そうかショボーン」

帝「でもやっぱり命令だしちゃえ」

帝「尚書令よ、こんな詔出すから文面作っといて」
尚書令イク「でもこれじゃ曹司空あたりが納得しないッスよ。それでもいいすか?」
帝「(またこいつか・・・)そうかショボーン。じゃあやめた。曹操怒らせると怖いから」

と、皇帝はいくら命令出したくても、
曹操の意向に沿わないものだとこのように荀ケに阻まれるのです。
581流浪の民 ◆VLgK092DHI :03/08/30 20:40
>>570
実際に班田収授の元になったのは唐代の均田制ですが、
曹操の屯田制も均田制に至るまでのルーツとしてとても大切ですね。
屯田制から均田制に至るまでの流れを簡単に説明させていただくと、
後漢時代では、上の方のレスにもあるように豪族が荘園経営を始めており、
また、官民達も政府への金納の税が大きな負担となり
(当時は通貨量が不足していた時代であった)、本籍から逃亡して豪族の荘園に潜りこみ、
その結果、さらに豪族の大土地所有が続くといった状況でした。
そこで、曹操が豪族のやり方を政府単位で行う屯田制を始めます。
この屯田制、もちろん当時不足した食糧を補う為の方策であるのですが、
豪族に対抗できる程の力を蓄え、君主権を強化するといった側面もあります。
しかし、これには豪族の大土地所有に対する制限がない
(制限できる状況でもなかったですが)ので、
豪族の大土地所有に歯止めがかかることはありません。
そこで、晋が天下を統一したときに、武帝こと司馬炎によって
新しく作られたのが占田・課田法。
この占田・課田法の内容には諸説あるそうですが、占田が大土地所有の制限、
課田が屯田の系譜を汲むものとした説が有力です。
しかし、これも官位に応じてある程度の土地所有額を容認したり、
無税の労働力の所有を認めているなど制限があまり厳しくないものであったので、
それほどの効果を見せることはなかったようです。
582流浪の民 ◆VLgK092DHI :03/08/30 20:41
南北朝時代の北朝でもこれと似た問題
(実際には氏族制の残存とか少し違ったものなのですが、ここでは省略)
が依然として残っており、それらに対処せねばならない状態でした。
そこで、当時北魏の実権を握っていた馮太后は均田法を発布します。
この均田法は前述の占田・課田法に較べて一際厳しいものであったようで、
全ての男子の土地所有を制限し、また、それに加えて身分に応じて
一定の土地を貸与するといったものでした。
しかし、この法は奴婢や耕牛も土地の貸与対象になっていた為に、
奴婢や耕牛の数を水増しして大土地所有を行おうとするものも現れるという状態でした。
これが、後に隋、唐と時代を経るにつれて徐々に改正され、
奴婢や耕牛への給田がなくなるなどして唐代の均田制が確立され、
それを元に日本の班田収授ができるというわけです。

本当は三長制などいろいろややこしい要素が混ざってくるのですが、
簡潔に説明するとこんな感じでしょうか。
もっと詳しく知りたい方はこの辺の本を参照にしてみることをオススメします。

ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000003607/ref=lm_lb_3/250-9783365-7394661

まあ何にせよ、スレ違いの話題で申し訳ない。このスレは楽しく拝見させていただいている
スレの一つなので、怨霊氏はじめ、知識人の方々頑張ってくださいませ。
583164:03/08/30 21:10
別スレでじっくるしたりしてたのですが、顔出さなくなって一月…すいません。

今更ながらですが、まだ刺史とか書込んでいいですか?
単独で軍事行動をとった事例を永遠の青氏に挙げていただいて刺史には軍権はあったと
なっとく出来たのですが、そのあと、疑問が出てきました。

元々刺史職は監察官と言う立場で始まった職だと思うのですが、
そういう原則から考えると、刺史が単独で軍を率いるようなことになった場合、
どこから兵を集めてくるのか? どういう形式で兵を集めてくるのか?といった
ところが不明で、気分が晴れません。

三国志の中では并州刺史丁原が、呂布や張遼に兵を集めさせていましたが、
それもどうやって(どこから)あつめていたんだろう?と疑問でしかたありません。

どなたか爽やかな回答で不肖164のもやもやした頭をすっきりさせて下さい。
おながいします。

あと、私が刺史とか牧とか将軍の率いる組織に興味があるのは、
劉備を見ていると、袁術と徐州を争った時に、部下に『劉備の中郎将、丹楊の許耽』
が出てきたりするからです。
中朗将職が将軍の下にしかない職なら、この時、劉備は将軍職を持っていたと思うのですが
それは曹操が上表して就けてくれた鎮東将軍か、陶謙が死んだ時に牧位と同時に将軍職も
嗣いだのか、など、色々考えてしまって…。

で、最後。
許靖ですが、法正が彼を劉備に薦めたのは当時の劉備配下の中で、
中央の官職で人事などを取仕切って実務を覚えていたのが、彼だけだったのでは?
と思ったのですが。
その後、彼が左将軍長史から司徒へと上って、行政の長になるのもそういう理由では
納得できませんでしょうか?

あと『虚名』ですが、やっぱ反董卓連合のフィクサー…げほげほ
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>中朗将職が将軍の下にしかない職

どういう意味だ?よくわからんが・・・
586164:03/08/30 21:41
>>585
あ。ごめん。誤解を招く言い方でした。
刺史や牧が軍を率いる場合、部下の従事、指揮下の郡国の太守や都尉が下につき、
将軍が軍を率いる場合、中朗将とか、校尉とかが、下につけられるみたいです。

だから劉備の下に中朗将として許耽がいたと言うことは、
劉備がなにか将軍号をもってたんじゃないかと言うことです。
それって、曹操がはたらきかけて取ってやった鎮東将軍だろう?と思うのですが、
その時期は明言されてません。

曹操が劉備のために鎮東将軍に就けてあげたのが、下ヒを失う前だったのか後だったのか?
前だったならいいのですが、後だったなら、じゃあ劉備はその時、どんな将軍号を
持ってたんだよ?ってことになります。

もっともこの前提として中朗将を部下に持てるのは将軍のみ(光禄勲とかありますが)
ってことがあるのですが。
(だから刺史や牧、将軍の下の組織、部下の職名とか知りたかった…)

わかりづらくてすいません。

あまり役職に囚われすぎないほうがいいんじゃない?
>>586
荊州牧・鎮南将軍の劉表は黄忠を中郎将に任じたりしてる。
こういう例?
許耽は陶謙が劉備に貸してそのままになってしまったんだろう。たぶん
590怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/31 01:24
飲んで帰ってきたらレスがこんなに。素晴らしい。

>>581,582
最近各所でお見かけする流浪の民氏、ありがとうございます。
ワタシはもはや現役ではないので屯田から均田までの流れなんか説明できませんので。
なんでも曹操の屯田での税率は当時の荘園の税率と同じくらいだったとか。

>>583
じっくらーだったのですね。素晴らしい。
刺史・牧の軍事権については、
ワタシは監察権に基いて郡県から臨時的に徴発するようなものと理解しています。
下部の命令系統は郡太守任せだったんじゃないかと思います。
恒常的かつ組織的な軍事力を得るにはやはり「将軍」が必要だったのではないかと。
将軍であれば司馬、軍司馬以下の組織が決まっていますから。

あと、中郎将はあくまで「本来は」羽林軍等を指揮する皇帝直属の官で、
必ずしも将軍が統属するとは決まっていないのではないかと思います。
中郎将が実際に将軍や牧に統属されていたとしても、それは将軍の部下というよりは、
一時的に将軍の下に付けられているという扱いなんじゃないかな〜と思っています。
もちろん、後漢も末期にはそういう原則なんて関係なくなっていた感じですけどね。


アルコール入っているので多少(?)変な事言ってるかもしれないです。
591怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/31 16:55
荀ケ続き。

侍中、守尚書令荀ケはいわば許を離れがちな曹操の留守番&皇帝の見張り番、
と言ったところでしょう。
さらに、特に穎川系に顔が利く人脈も重要です。
荀攸、鍾繇、郭嘉、杜襲、陳群、司馬懿らを重用するよう勧めたのは彼だそうです。

荀ケは曹操が袁紹を破った時に今までの功績によって万歳亭侯に封ぜられます。
封邑1000戸。
また冀州を平定すると更に1000戸を加えられ、2000戸となります。

この時に曹操は彼を三公にしようとしたそうですが、
荀ケは辞退しています(三国志荀ケ伝註、荀ケ別伝)。
但し後漢書では「守尚書令」から「守」の無い「尚書令」への昇進だったことになっています。
この時点で彼が三公になるのは横紙破りな昇進ということになると思われるので、
三公というのは誤りではないでしょうか。
ただ、彼がそういった昇進を敢えてしなかったことは興味ある事実です。

続く。
592怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/31 22:52
荀ケ続き。

荀ケの官職という点では、変化があったのは例の曹操魏公就任の時です。
董昭らが魏公勧進について事前に荀ケに諮ると、荀ケは反対。
しかし曹操は心中穏やかではなかったそうですから、
この謀議は曹操の発案だった事になります。

この反対が問題になるのは、
荀ケが曹操の朝廷対策に相当な影響力を有する存在だったためでしょう。
曹操と一心同体であれば皇帝を操るモストデンジャラスコンビですが、
侍中&尚書令が曹操と反対意見であれば、
皇帝の諮問に対して侍中は曹操の意に反する意見を述べ、
尚書令は曹操の意に反する詔を起草するでしょう。

曹操は荀ケを排除する事にしました。

続く。
593怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/01 00:31
続き。

時に孫権征伐前。
曹操はわざわざ皇帝に
「荀ケを軍をねぎらう使者とし、そのままワタシと一緒に従軍させてやって下さい」
とお願いします。

さあ、この人事が問題です。
荀ケは「侍中、光禄大夫、持節、参丞相軍事」となりました。
これは官秩では変化ないように思えますが、内実は大違い。
今までは皇帝の側仕え兼詔書起草係というこれ以上ないくらいの要職だったのが、
そこから外されたという事です。
それは、曹操からの「君とのペアは解消させてもらうよ」という意思表示とも言えましょう。
「飛ばされた」というヤツです。

そして、その征伐に従軍している間の死。
曹操から空箱が贈られたかどうかはささいな事です。
 権力者の片腕で長年傀儡皇帝の監視役をやっていた者が、
 その権力者の意向に逆らった後に首都から離れた権力者の手元に呼び寄せられ、
 その直後に死んだ。
世間はどう思うでしょう。殺されたか死を強制されたか、あるいはそれを恐れて自殺したか。
いずれにせよ、曹操との関係が決裂したことによる(半)強制的な死である事は明らかです。

続く。
>526
すっげー遅レスだが、孔子の子孫は代々褒成公に封じられているから
「褒成」は地名で、諡は「宣尼」の部分だろう
595怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/01 19:17
>>594
ありがとう。そうだね。宣はいいけど「尼」ってどういう意味の諡だよ、と言いたい。
仲尼から来てるのは分かるけど。

荀ケまとめ。

三国志荀ケ伝では病気で寿春に留まったあと
「憂を以って薨ず」とあっさり気味に死が書かれているのに対し、
後漢書では例の空器を見て「薬を飲みて卒す」と、はっきり自殺としています。
さらに後漢書では献帝が彼の死を悼んだという話を続けています。

これは、陳寿の頃には諸説あった彼の死因等が范曄の時代には整理されていた事と、
陳寿の時はつい最近まで一方の当事者の子孫たる魏(曹氏)が存在し、
もう一方の当事者、荀ケの子孫も魏・晋で活躍(荀ケの孫の妻は司馬懿の娘)していたので、
微妙な問題として敢えて明言を避けたという事があるのではないでしょうか。

一つ不思議なのは、
荀ケの死はもっと穎川系官僚たちの反発を引き起こしそうなものですが、
見る限りではそんなに反発していないように思えるのです。
荀ケは生前既に孤立していたのでしょうか?
596怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/01 19:39
補足。

荀ケが死んだ建安17年、実はもう曹操に「賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿」が与えられ、
また周辺の県を魏郡に編入する措置(魏公国を大きくするため)が取られています。
荀ケの反対をよそに、魏公就任そして更にその上に行く準備は進められていたのです。


次は>>548氏の希望に従いトン。
ジュンイク…(´Д⊂
598怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/01 20:52
>>596
ああ、一個だけ付け足し。
>荀ケの反対をよそに、魏公就任そして更にその上に行く準備は進められていたのです。
は、
「荀ケの反対をよそに、荀ケの生前から、
魏公就任そして更にその上に行く準備は進められていたのです。 」
左遷&排除は時間の問題だったってことで。
>>598
怨霊さん、一つ質問して宜しいでしょうか?
荀ケは後漢書、三國志、両書に立伝されているわけですが
この二つに差異はあるのでしょうか?

後、次に採り上げる人物は孔融なんかが面白いと思います
600怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/02 07:44
>>599
差異としては、まず文章量が後漢書の方が多いです。
もっとも三国志は裴松之注を含めると多くなりますが。
また、一番違うのは既に>>595で挙げたように、死亡原因でしょうね。
後漢書は三国志注で引く魏氏春秋を元にしたらしく、
空の器を贈られて自殺と本文で明記しています。

孔融ですか。では惇の次にでも・・・。
601怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/02 08:27
夏侯惇篇。

夏侯惇は曹操挙兵以来曹操に従い、
反董同盟の元で曹操が行奮武将軍となるとその司馬になります。
別働隊を率いたり、揚州へ兵を集めに行くなど、
副官として信頼されていた事をうかがわせます。
その後折衝校尉、領東郡太守となります。おそらく曹操がエン州牧を領した時でしょう。

曹操の徐州攻めには彼が荀ケらと留守番となり、
そこで呂布に襲われます。
彼は荀ケらと共になんとか三県と曹操の家族を守り、曹操の帰還を待ちます。

続く。
602怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/02 19:48
夏侯惇続き。

曹操が戻ってくると、今度は呂布との戦いに従軍。
左目を失ったのはこの時です。
その後、領陳留太守、領済陰太守を歴任するとともに、
(東郡、陳留、済陰、いずれもエン州)
建武将軍を加えられ、高安郷侯となります。
この太守だった頃の事跡として、
自ら堤防作りや農作業を率先したという話が伝わっています。

その後領河南尹に転任。
この頃の河南尹は荒れ果てていた筈なので微妙ですが、大した出世と言えるでしょう。
司隷校尉鍾繇は洛陽(河南尹)に三輔の流民を移住させていたので、
夏侯惇もその事業に従事していたのでしょう。

曹操が冀州を平定する際には「大将軍後拒」となったそうです。
「後拒」とは後詰の事ですが、この大将軍は誰の事でしょう?
大将軍といえば袁紹だと思うのですが・・・。
あるいは、主のいなくなった大将軍府を抑える役だったのかもしれません。

続く。
603怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/03 00:29
続き。

夏侯惇はギョウ陥落後に伏波将軍となり、そのまま河南尹を領しました。
そして、ここで「便宜を以って従事し、科制に拘らざるを得しむ」と、
鍾繇が関中を抑える際に与えられたのと同様の委任を与えられました。
洛陽近辺を復興するために、
ある程度は超法規的措置まで含めて実行できる人物を必要としたのでしょう。

荊州攻めの前には功績を賞して封邑を1800戸増やされ、合わせて2500戸となりました。
その後も基本的には河南尹として河南にあったようですが、
建安21年の孫権征伐には従軍。
帰る時に彼を「都督二十六軍」とし、居巣に留めます。
更に後には前将軍となり、「督諸軍」として寿春、召陵に居ました。

魏文帝が魏王を継ぐと、彼は大将軍となりますが、数ヶ月で死去。
禅譲は見られなかったのでしょうか。
604怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/03 07:38
というわけで、夏侯惇は兵を率いて敵を討つというよりは、
主に河南(洛陽など)のような要地の守りと統治、
そして将たちの統率といった役割を果たしていたといえるでしょう。

これらは、曹操にとって能力面で信用でき、
なおかつ裏切るおそれの少ない特別に親しい関係にある人物でなければいけません。
その点、惇は曹操のイトコと言う事で、「清倹」と評される品行と共に適任だったのでしょう。
605怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/03 08:29
次は>>599氏の勧めにより孔融。

孔融は孔子20世の孫だそうです。
子供の頃は小生意気なガキでしたが、
その学問、孝行などは有名だったようです。
しかも16歳の時兄を頼ってきた中常侍に追われた張倹なる人物を匿うという事件を起こし、
その頃には中央政界にもその名が知れ渡ったようです。
(その際は兄が犯人隠匿で罪に坐した)

後、州郡の辟召には応ぜず、司徒楊賜の辟召に応じて中央へ出ます。
ここで早速大将軍になるところの何進を怒らせるマネをしますが、
何進は孔融の評判を案じて逆に彼を辟召。
後に侍御史となります。
しかしここでも御史中丞趙舎と折り合わず、ついに病気を理由に辞職して故郷に戻ります。

続く。
606怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/04 07:48
続き。

その後司空掾となり、次いで中軍候になります。
中軍校尉(西園八校尉)の「候」(属官の一つ)でしょうか?
そこでの在職3日にして虎賁中郎将になります。
ところでその頃は董卓の廃立があった時だそうで、
在職3日での昇進も董卓によるものでしょう。

今度は董卓にもその発言が疎んぜられ、議郎に落とされました。
しかしまた北海国相になります。
董卓は北海国が大変だと知りつつわざとやらせたかのように後漢書は記しますが、
この人事は韓馥、劉岱、張咨、許靖などを刺史、太守にしたのと同様のものでしょう。
むしろ、大変だからこそ高名な孔融に任せれば大丈夫だということでしょう。

孔融は青州北海国で黄巾相手に奮闘します。

続く。
607怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/04 19:27
600レスにして400KB近し!

孔融続き。

その頃北海に黄巾の張饒なる者が冀州略奪の旅から戻ってそうで、
孔融はそいつを攻撃しますが敗北。
しかし孔融はめげずに降伏者を受け入れ、また学校を建てるなど文化復興にも努め、
儒学を推奨、儒者を抜擢します。(鄭玄、丙β原など)

しかし黄巾に囲まれると、困った孔融は当時遼東に逃げていた太史慈の助けを借り、
(孔融は高名な太史慈の母を保護していました)
平原国相となっていたあの劉備に助けを求めました。
まあ、このあたりは比較的有名ですね。演義でも出てきますし。
劉備の助けによって孔融は危機を脱します。

続く。
あと3KBだね
2になっちった
610怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/05 00:17
孔融続き。

孔融は曹操、袁紹どちらも漢をないがしろにする輩だと看破していたので
どちらにも付かずにいたそうですが、
黄巾と戦っていて乗り遅れただけなんじゃないかと勘繰ってしまいますな。

で、その後、興平2年に劉備が孔融を青州刺史に推挙します。
(劉備は陶謙から徐州を受け継いだ後のハズ)
これは公孫瓉が任命した前任者田カイに代わるものでしょう。
また劉備が青州を自分の側につけておきたいという気持ちがあったのでしょうか。
かくして孔融は北海国相、領青州刺史となります。
しかし翌年、袁譚に攻撃されて敗走。

なお青州刺史はその袁譚が就任しますが、
面白い事にその袁譚を茂才に挙げたのが劉備です。
劉備は田カイ、孔融、袁譚の三人の青州刺史と深いかかわりがあったのです。
余談もいいところですが。

続く。
611怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/05 08:22
続き。

袁譚に負け妻子まで捕虜にされた孔融は許にいる皇帝の元で将作大匠、
次いで少府になりました。
朝議のたびに彼が意見を出し、他の者はそれに賛成するだけだった、
なんて書かれてますがさすがに言いすぎでしょう。
まあ、オピニオンリーダー的存在だったんでしょうな。

色々と論を立てていますが、面白いのは曹丕が袁熙の妻甄氏を妻とした事に対し、
「周武王が殷紂王を討った時は、妲己を周公に賜りましたね〜」とか言っていること。
実際は処刑したそうで、要するに武王みたいにしろよ!妻を奪うなよ!と言いたかった模様。
諫言というかイヤミというか・・・。

後、孔融の論が曹操攻撃の傾向を強めてくると、曹操はチ虜
(チ=希β、この時は光禄勲?後の御史大夫)に孔融を弾劾させ、免職させます。
免職された彼は太中大夫になります。

続く。
怨霊タソ凄すぎでつw
次はホウ統キボンヌ!
613怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/05 19:25
>>612
凄くはありません。一箇所間違えてるし(チ虜→チ慮)。
恥ずい・・・。穴があったら入れたい・・・。
ホウトウ、そうですねそうしましょう。
コーメイは人気ないですな。

続き。

孔融は太中大夫としてヒマとも言える状態になっても相変わらずでした。
賓客を多くもてなし、善を勧め短所は指摘する。
優れた人物は推薦を忘れない。
その知名度とあいまって、朝廷内でそれなりに発言力を持っていたのではないでしょうか。

しかし彼の元に集まる者はおそらく曹操政権下における非主流派が多かった事でしょう。
というか孔融は曹操に敵対的な言辞がしばしばあったようです。
また、どうも孔融の思想や発言は時に非常識な事もあったようで、
そのためにチ慮にまた足許を掬われます。

続く。
目玉を食った話が抜けているのが残念。
>>613
孔明はみんなしってるからでしょ。…公明ジャナイヨネ?

>>614
まぁ官制とは関係ないしね。…ていうかアレは演義の話じゃ?
官と関係ない脱線話も多いけどね
617怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/06 00:44
>>614
孔融って目玉喰ったっけ・・・とか考えちゃいましたYO!
トンちゃんのことなら、三国志夏侯惇伝で見つからなかったのでスルーしたです。
官職に関係ないし。
三国志のどこにあるんでしたっけ?

続き。

孔融が弾劾され処刑されるのは曹操が丞相になった直後あたりのようです。
首謀者は御史大夫となったチ慮と丞相曹操の属官、丞相軍謀祭酒の路粋なる人物。
どちらも曹操の息のかかった人物と思われます。

その中で、孔融は昔
「我は大聖の後、而れども宋に滅ぼさる。
天下を有つ者は、何ぞ卯金刀に必せんや」
と言ったとか。
意味はこうです。
「家は宋に滅ぼされちまったが、俺は大聖人(=天子)殷の湯王の子孫だぜ。
俺だって天子の末裔なんだから、劉氏でない俺が天子になってもいい訳だ」
そう、罪名は「大逆不道」。
まあ、チ慮らのでっち上げかもしれませんが、ただここで孔融が
「俺が天子になってもいいじゃん」と言った(事になっている)のは重要です。
ここに、当時の孔子像みたいなものが見えてくるからです。

続く。
618怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/06 00:49
>>616
バレタ!

あ、一つ小補足。
卯金刀=劉ね。劉という字を分解したものです。
最初に言い出したのは王莽。
王莽は金偏が入ると「劉」を思い出してイヤなので、
銭を「泉」と改称しています。
619怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/06 22:34
孔融続き。

さて、史記では孔子は殷人だという説というか孔子本人の言を載せていますが、
孔子が殷王の末裔だとは明言していない筈です。
但しこれは春秋の方で言われていた筈で、一応は根拠のある話ですが。
そして前漢末期に孔子の子孫は「殷湯王の末裔」として封建されています。
しかしよくよく考えてみれば変な話で、周は殷王の末裔を「宋」に封建しました。
宋の末裔の方が殷王の血筋としてはより好ましいのでは?という疑問が湧いてきませんか?

実際そのとおりです。
しかし孔子を教祖と仰ぐ初期儒教の徒は、孔子の神格化を推進していました。
戦国から前漢にかけて、儒者は
「孔子は本当は天子になるべき運命と能力と血筋を持って生まれながら、
世間の無理解のせいで天子になれなかった。
でも春秋を作ったりと聖人に相応しい業績は残した。
だからみんな孔子を聖人=天子として崇めよう!
(そしてその教えを守る俺たち儒者を大事にしてね)」
という論法を用いているのです。

孔融が「俺っちが天子になるんだモン」発言は、
「孔子は天子になり損ねた聖人だった」
というこの頃の考え方に基づいたものと考えられるのです。
要するに、
「孔子は殷湯王の子孫で聖人=天子になる運命」
「孔融は殷湯王と孔子の子孫=天子になってもいいじゃん!」
って感じです。
620怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/06 22:55
続き。

脱線してしまいましたが、
孔融が弾劾された「俺が天子になってもいいじゃん」発言は、
たとえでっち上げだとしても、それなりの説得力を持つ内容だったのです。
孔融は実際に天子となった殷の湯王と、天子になる筈だった孔子の子孫だったからです。
血筋で言えば劉氏より歴史ある天子の家柄と言う訳です。

他のヤツが「天子になってやる〜」とか言えば、
大逆には代わりありませんがただの誇大妄想ですし、
私的な場でなら多少は見逃されるのかもしれません。

しかし、以上のような血筋に生まれた孔融が発言した(とされる)事は、
皇帝劉氏の権威を大きく揺るがす可能性のある重大事件だったのです。

だからこそ、孔融は妻子(おそらく後妻と袁紹に捕まらなかった子)と併せて処刑され、
曹操は孔融の死体(棄市=晒し者になっていた)
を収容しようとした脂習なる人物まで殺そうとしたのです。

実際には曹操にとって政敵排除でしかなかったとしても、
その罪状は漢の権威にも関わる重大なものだったのですから。
621無名武将@お腹せっぷく:03/09/06 22:59
この書き方だと↑発言だけが処刑の理由という印象を与えると思うが
確か他にも色々言ってたんじゃなかったっけ?
622怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/06 23:10
>>621
確かにそうですね。すいません。
最初他のも書こうと思ってたら、上の件書いてる内に熱中して忘れてました。

・「俺が天子になってもいいじゃん」発言
・孫権との会話で朝廷を非難した
・朝廷の制度に従わず、宮殿内で好き勝手した
・禰衡と放言いろいろ

これだけ挙げられていますね。
ただ、忘れてた事への自己弁護のつもりは無いですが、
中心的というか一番重い罪はやはり「天子」発言でしょうね。
これだけでも十分なほどに。
623a:03/09/06 23:12
a
陳舜臣の孔融を主人公にした短編がおもしろかったな
割り込んですんません

国公の位の「国」とは、州、郡の他に単位があるのですか?


626怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 02:00
>>625
形の上では、郡と同等の諸侯王国と同じ筈です。
だから形の上では州の下にあります。



郡・諸侯王国・公国

県・道

但し、例えば魏公曹操の公国は魏郡がベースですが、
前もって他の郡から県を沢山くっつけているので、
領域面積、人口等は他の諸侯王国とは比べようが無いほど大きいです。
しかも曹操の場合は州牧も兼ねていたので、
結局公国では完全な君主として振る舞えたことでしょう。
627怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 11:28
孔融の補足。

曹操は本人はおろか妻子や死体を埋葬しようとした脂習にも容赦しなかったのに対し、
曹丕は孔融の著作を随分気に入っており、懸賞金まで懸けて彼の文章を集めたそうです。
曹丕によれば孔融は揚雄、班固にも匹敵するとの事です。
ついでに脂習まで褒めています。

この曹親子の孔融に対する温度差はなかなか面白いですね。
時間が過ぎて大逆だという意識が薄れたか、
実際に劉氏以外で天子になった曹丕は孔融の発言を肯定したのか。
漢初の諸侯と比べてどのくらいだったんだろう?>曹操の魏
どのくらいって、例えばどう?
630怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 12:35
では龐統篇。

龐統は南郡襄陽の人。
若い頃の司馬徽やらとの関係は有名すぎるのでパス。
司馬徽に気に入られた彼は南郡から郡の功曹に任命されます。

そして、その後南郡は漢(曹操)、孫権、劉備により争われますが、
最終的に周瑜が江陵から曹仁を追い出して孫権から領南郡太守に任命されます。
ということで龐統はここで周瑜を上司に迎えました。
しかし蜀攻め前に周瑜が死ぬと、龐統は彼の遺体を呉へ送り届けました。
そこで陸績、顧劭、全綜らについて人物批評をし、仲良しになったそうです。

その後、領荊州牧劉備の従事となり、「守耒陽令」と従事の身分で県を任せられます。
しかし県が治められなかったとして免官。
そこで諸葛亮と何故か呉の魯粛が彼を弁護します。
「こいつは治民官に向いてないよ。
治中従事、別駕従事あたりにして主の側において始めて才能が発揮できるんだぜ」と。
劉備はそこで龐統と面談し、そこで彼を認めて荊州の治中従事にします。

ここでわざわざ魯粛が劉備の人事にくちばしを突っ込んでいるのが少々気になります。
呉と関係の深い龐統を劉備の側に置いておきたいという意図でしょうか。
また逆に劉備としても、
呉と上手くやっていくためには龐統を近くに置いておいたほうがいい、
という計算が働いたかもしれません。

続く。
631怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 12:47
>>628
実際には、魏公国の制度は
「漢初の諸侯王の制度を用いる」
とされていました。

諸侯王は漢初以降、領域も官員も削られ、
曹操の頃には勢力でも威厳の上でも制度上でもちっぽけな存在でした。
しかし魏公国の官制は「漢初の」諸侯王の制度を使うと規定され、
また領域等の面でも、魏郡を始めとする冀州の十もの郡に封建されており、
この点でも漢初の巨大な諸侯王国に負けない勢力になっていました。

漢初の巨大勢力だった諸侯王を漢は長い時間をかけて弱体化したのに、
わざわざそれ以上に強力な諸侯を作った、というのが魏公国という事でしょうか。
>わざわざ〜〜作った

っていうか、曹操が作らせたんでしょ
633628:03/09/07 13:17
>>629
領土的に、ということ。

>>631
10郡…漢初のそれを遥かに凌いでますな。
漢朝の丞相府とは別に魏には魏の朝廷(こうは言わんか?)があるわけでしょ?
郡の大きさが違わないか?>10郡
635634:03/09/07 13:22
漢初のそれと比べてって意味でね。
>>633
領土的に、どうよ?w
広さや人口、名誉、その他。具体的に言ってくれや。
637怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 13:33
>>634
確かにその点に言及しなかったですな。
漢初は郡自体が巨大。
秦が全国を郡に分けた時は36郡で、漢初も同じくらいの規模と思ったほうがいい。
前漢末(漢書地理志より)では103郡国。
後漢(続漢書郡国志)では105郡国。

>>633
そうですな。漢では丞相、魏では君主。
また理屈の上では魏公国も州牧の監察を受ける立場の筈ですが、
その冀州牧は曹操自身だったりします。
要するに実態としては漢の支配、指導がまるで及ばない存在という事ですね。
>>631
後漢末に劉氏以外に王っていた?
それともとっくの以前に全て廃されてた?
漢委奴国王
640怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 17:20
>>638
居なかったはず。

但し、服属した蛮夷等の首長には「王」位を許しています(>>639のように)。


今気付きましたが、ワタシどこかで
「孫権が漢から呉王に封建された」と間違って書いたかもしれません。
魏からですね。ごめんなさい。
641怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 23:55
龐統続き。

龐統は諸葛亮とほぼ同等の扱いを受け、
諸葛亮と一緒に「軍師中郎将」になります。
漢のそれまでの官制には見当たらない官名だと思います。
勝手に作った?

そして諸葛亮が荊州の留守を守る一方で龐統は劉備と一緒に蜀へ。
ところで彼が蜀へ行くのは、
もしかすると彼が周瑜と一緒に周瑜の蜀攻めプランを練ったからでしょうか。
いや、プランを練ったなんて記事はないですが、
周瑜の元で郡の属官だったワケですし。
もしですが、そうだとしたら周瑜の計画は形を変えて成就したという事ですね。

なんて事を書くのは、このあと龐統は劉備に献策し、ラク城で死亡、
で終るからですが。
642怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/08 07:51
でも少し補足。

龐統死後、劉備は龐統の父を議郎(後に諫議大夫)とし、
龐統に関内侯の爵を追贈します。
また後主劉禅の景耀3年には諡「靖侯」を追贈。
劉備の元に居た時期などを考えれば、相当な優遇でしょう。
それだけ惜しまれた存在だったということですね。

龐統の息子、龐宏は後にフ陵太守まで至りますが、
時の尚書令陳祇と仲が悪かったらしく、それ以上出世できませんでした。

また龐統の弟、龐林は荊州治中従事となって(降った潘濬の後任?)、
鎮北将軍黄権に従い対呉戦に従軍しますが、
ご存知のように黄権は魏に降伏。彼も一緒に魏に入ります。
ここで龐林は荊州陥落以降会えなくなっていた妻習氏に再会できたそうです。
魏では列侯となり鉅鹿太守にまでなったそうです。
643怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/08 19:39
さて今のところ特に希望もないみたいなので諸葛亮にしましょうかね。

ざっと見ただけなんスけど、諸葛亮って赤壁後まで無位無官?
違ったらゴメンなさい。
もしかすると、だからこそ孫権らと会って説得する事が出来たのかもしれませんが。
ヘタに従事とかだったら警戒され、先に降伏派とかに阻止されたかもしれないし。
まあ、妄想ですけどね。

主の劉備が長沙郡等を接収すると、諸葛亮は「軍師中郎将」となり、
零陵、桂陽、長沙を督し、賦税を徴収したそうです。
苛斂誅求ですな。

脱線すると、原義からいうと「賦」は人頭税、「税」は作物にかかる租税、だそうです。
「賦」はもともと都市国家で君主が
「守ってやるから武器(=武)の代金よこせ」って事で金品(=貝)を徴収した。
「税」は「へん」を見てのとおり「穀物」(=禾)から取った。
まあこの頃には原義がどこまで意識されたのか不明ですが、
一応そういった違いがあります。

続く。
>苛斂誅求

諸葛が来るまでは無税のユートピアだったとお考えですか?
645怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/08 22:06
>>644
いやあ、それまでも税を取られていたであろうところにわざわざ
「税を取りに行った」という記事があったから>苛斂誅求 などと書いたので。
・・・とはいえ、悪乗りの過ぎた一語だったですな。
「オカシイ!」と思った人すいませぬ。
当時の劉備達を取り巻く情勢等を考えるに、
金・食をかき集めようと多少のムリはしていても不思議ではないかもしれませんけど、
それも所詮は私の妄想です。

続き。

劉備が蜀へ行き、そこで劉璋をさくっと裏切ると、
諸葛亮は張飛、趙雲と共に江を上って攻め上がり、成都で合流。
(なお、諸葛亮らの出発は龐統の死ぬ前で、
諸葛亮らが成都へ向かう途中で龐統が死んだようですな。
なにしろラク城で1年ですし)

成都を落とした後は諸葛亮は「軍師将軍」&「署左将軍府事」となったとの事。
この「署左将軍府事」が実際に何をするのか良く分かりませんが・・・。

「署」は動詞としては「手分けする」「署名する」でしょうから、
左将軍府の仕事を劉備と手分けして処理する、または
左将軍府の仕事を全面的に劉備に代わって処理、署名する、
のどっちかでしょうか?
分かる人、教えて下さい。

続く。
徳間書店の「三国志全人名事典」の巻末の「主要関連『官職』一覧」には

【署】は【代行】の意。「署〜〜」の形の一例である。劉備(左将軍大司馬)が蜀をせいしたとき、
董和と諸葛亮にいわば自分の身代わりとして政務をとらせたもの。−原文ママ

となってます。
647怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/09 00:26
>>646
ありがとう。

そうか董和伝にもあったんだね。
で「献可替否」、「可を献じて否を替える」(董和伝)か・・・。
劉備に「可」の処理を献じて「否」の処理を他の処理に替える、って事?
つまり劉備が決裁する前に事前審査した、ってところかな?
まあ、細かい処理は一任して代決させていたかもしれないですね。
あと劉備不在時は代理決裁したかも。
王平伝には王平が延煕元年「為前護軍,署(蒋)[王宛]府事」とあります。
王平って読み書きができなかったんじゃ…
649怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/09 07:47
>>648
まあ、書類とかは部下に読み上げさていたんじゃないですかね。
自分で書くのは署名だけでしょうし。
ところで蜀では「署府事」が多かったんですねぇ。
魏でありましたかね?

諸葛亮続き。

諸葛亮は劉備外征時には成都の守りと兵・食の補給をしていました。
蕭何と同じです。

そして劉備が帝位に就くと彼は丞相、録尚書事、仮節となり、
張飛が死ぬとその司隷校尉をも引き継ぎます。
つまり「丞相、録尚書事、領司隷校尉、仮節」。
漢における曹操と同等ですね。

続く。
650怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/09 18:56
コーメイ続き。

劉備が死ぬ時、諸葛亮は後事を託され、
「武郷侯」に封じ、「開府」させます。
今までは「府」は開いていなかったんですね。
そして「領益州牧」も。

これである意味半独立の行政庁が出来た訳で、
「政事は巨細無く咸(みな)亮に決せらる」という状態になります。
まあ、これは皇帝が幼少(といっても17歳ですが)で政務を執る状態ではないので、
今まで劉備による独裁政権だったものを急変させてぶちこわさないようにと、
劉備の代わりに独裁者になって体制を維持したのが彼だった、と言うところでしょうか。

曹操も丞相、録尚書事、領冀州牧だったはずなので、
皮肉にもと言うか、この時の諸葛亮とそっくりです。

続く。
>650
開府って、どの官位になると行う物なの?
んで、開府ってくらいだから幕僚もいるんだよね。
一般に、どの程度の権限を持つんだろうか?

なんか、人物の略歴に終始しているので
茶々入れてみました。
652怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/10 00:31
孔明続き。

まあ要するに、規模は違えど諸葛亮の北伐時の体制は、
曹操が皇帝を擁して四方を攻めていたときと似てるなぁ、てことです。

諸葛亮は開府後南征、そして北伐に着手。
章武5年には漢中に駐屯し、例の「出師の表」を上疏。

北伐自体の内容は省きますが、例の街亭での失策等により漢中に戻ってきます。
諸葛亮にとっては失敗であり、彼は自ら罰を乞いました。
それによって「右将軍、行丞相事」となります。
実際には権限・権力にはほとんど変わりが無かったそうです。
これは「行丞相事」と、丞相の職務を「臨時代行」の形でそのまま任されているためで、
当然これは責任を取った、というポーズを示したと言うだけのことです。

この辺は有名すぎますね。
私はそれほど詳しくないので、誰か突っ込みたい人が居たらお願いします。

続く。
653怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/10 00:43
>>651
ありがとう。

前漢では太守府、将軍府、丞相府とあったわけですが、
どうもこの時代では「開府」は相当なレベルにならないと許されないようですね。

将軍も「開府」を許されて初めて自分で属官等を自由に出来る「府」を開ける、
と言うところらしい。

参考として、
晋書職官志によると「開府」を許された者は三公と同格として扱われているようです。
また「開府儀同三司」などという称号(?)も生まれています。
(「三公と同じ制度の府を開いていいよ」という意味)

蜀では、丞相でありながら諸葛亮はそれまで開府していなかった事になり、
じゃあそれまで彼は何処で何の仕事をしていたんだろう、という疑問が湧いてきます。
丞相「府」こそがオフィスになるはずなのに。
劉備存命時の諸葛亮は、
丞相も名前だけで曹操のような大権は保持できず、大した仕事はしていなかったんでしょうか?

正直蜀の体制は漢のそれと明らかに違うところが多いです。
だからこそ語る価値があるかもしれないですが。
>653
素早い返答どうもです。
開府がおくれたことが、
人材育成の不足につながったのかなぁ・・・
おくれったって言ってもたった2年だが・・・
【開府】
役所を開設し、下役を置くこと。漢の制度では三公だけが府を開き官属を置いたが、
後漢の末になると将軍もこれにならった。

某漢和辞典より
657怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/10 08:30
まあ、もしかするとこの諸葛亮の「開府」は、
軍に従って動く事を前提とした「幕府」を開いたという可能性もあるかもしれませんね。

諸葛亮続き。

降格人事の後も事実上のトップであった諸葛亮は翌年にも出兵。
陳倉攻略を果たせず漢中に退却しますが、追撃する王双を斬ります。
また翌年(章武7年)にも武都、陰平両郡を陳式に攻めさせ、
自らが魏の雍州刺史郭淮を牽制して占領に成功します。
これらの功績を以って諸葛亮は丞相に復帰。

章武8年には司馬懿らの攻撃を迎撃しますが雨により魏は撤退。
章武9年には祁山に出兵。補給が続かず撤退しますが張コウ(合β)を殺しています。

そして章武12年、最後の出兵をします。
五丈原に陣取った諸葛亮は屯田を始めます。
今までで一番長安に近付いた事になるのかな?
しかしご存知のように彼も病には勝てず陣没。

続く。
658656:03/09/10 11:46
【西晋の武帝 司馬炎】とうい本では

−公府もしくは軍府を開き、府主の裁量でその幕下に人士を召す特権が賦与されていた。

と解説されてました>開府(辟召)儀同三司
659怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/10 19:53
>>658
ありがとうッス。
少なくとも晋以降は「開府」は特権だったようですな。
この場合の諸葛亮も特権なんでしょうね。

続き。

諸葛亮は生前に漢中の定軍山に自分を薄葬よう言っていました。
朝廷は「丞相、武郷侯」印を墓に入れ、諡「忠武侯」を与えました。

蜀の功臣で諡を死亡時点でもらったらしいのは彼と法正くらいでしょうか。
また「忠武」という最高級の諡も、彼への評価を良く表していますね。

また後には同じく漢中に廟を立てました。
鍾会が征蜀時にここを訪れ、諸葛亮を祭ったそうです。

>諡号
陳祗も
661怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/11 00:27
>>660
ほう、そうでしたか。知らんかった。
ありがとう。まあ、蜀の「功臣」と書いておいたですが。

蜀は諡は出し惜しみ気味だし、官制は分からない事が多いし、
事跡伝わらないヤツラばっかだし・・・。

だからこそ面白い面もあるかもしれないけど。
張合βとかはどうでせう?
あんまし面白くないかしらん…
蒋[王宛]・費[ネ’韋]、そしてたぶん夏侯覇も死亡時点で諡をもらっていると思います。

664怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/11 07:51
>>663
ありがとう。流石に彼ら位になるともらうのですな、諡。
諸葛亮以前では法正だけ?それとも法正も追贈だったかな?

>>662
やってみましょう。

張郃は黄巾討伐に従軍して冀州牧韓馥の元で軍司馬となりました。
韓馥はその後袁紹に吸収され、
彼の兵は張郃もろとも袁紹指揮下に入ります。
袁紹は張郃を校尉とし、公孫瓉に当たらせました。
公孫瓉打倒の際には、張郃の功績が大であったといい、
その時の功で「寧国中郎将」となります。

こういった称号付きの中郎将はそれまでの漢の制度には無かった筈で、
将軍位同様に乱発されてゆく過程で箔付けと区別のために生まれたのでしょうか。

続く。
665怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/11 20:33
さてゆるゆるとやりましょうかね。

続き。


張郃は官渡戦時に淳于瓊を烏巣に送り曹操がそれを攻めた際、
すぐに救援を出すよう進言しますが郭図のため却下されました。
張郃の言うとおりになると郭図が彼を讒言、
張郃は追われるように曹操の元へ逃げました。

曹操はそんな張郃に偏将軍と都亭侯を与えます。
早く降伏した者に手厚く恩賞等を与え、
本人を懐柔すると共に他の降伏者を誘うという策ですね。

その後、業β攻撃や勃海の袁譚攻め、柳城の袁尚攻めなどに従軍。
これらの功績で平狄将軍となります。

その後も東ライなどを攻撃、また張遼の下で荊州の陳蘭・梅成などを討ちます。

戦歴はまだ続きますが、ここで一旦続く。
666怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/11 23:27
アンチキリストの数666

続き。

今度は張郃は対馬超戦に参加、安定で楊秋を下し、
また夏侯淵の下でテイや馬超、宋建を倒します。

漢中ではそのまま夏侯淵の督下にあり、漢中平定にも活躍。
盪寇将軍になります。
劉備の漢中攻めに対しても、劉備の夜襲にも負けず持ちこたえました。
しかし肝心の大将、夏侯淵が劉備の白兵戦に敗れて死亡。

なおそこで主を失った夏侯淵の軍を安んじたのが司馬だった郭淮。
彼は張郃を新たな大将に推し、それによって最悪の事態を避けました。
曹操もまたその措置を支持、張郃に「節」を貸します(=仮節のこと)。
三国志の注で引く魏略によれば、劉備は夏侯淵よりも張郃の方を畏れていた、
とまで言っていますが、これは流石に贔屓が過ぎるような気も。
ただ、まさに叩き上げでここまで来た張郃を、
劉備が要注意とチェックしていたとしても不思議ではないでしょう。

また、淵死後のエピソードは、
当時大将の死がどれだけ軍にとって問題だったかを良く表しています。
大将ってのは命令系統のトップですから、
大将が居なければどれだけ優れた兵も烏合の衆って事ですね。

続く。
対馬超戦を、
対馬、超え、戦と読んでしまった。
疲れてるかも・・・
668怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/12 07:56
>>667
それは疲れてるかも。でもたまにそういう読み間違いってありますよね。

続き。

張郃は曹操の漢中撤退後は陳倉に駐留。対劉備の抑えですね。
魏文帝曹丕が魏王になった時に左将軍、都郷侯となり、
禅譲を受けると莫β侯へと進みます。

列侯になった後も彼の戦いは続き、胡、羌を曹真の下で討ち、
今度は荊州で夏侯尚の下で江陵を攻撃し、別働隊として諸軍を率いて江を渡ったそうです。
文帝が死に明帝となると荊州に駐屯。
司馬懿の下で呉を迎撃しました。
張郃は「特進」位を加えられ、諸軍を督して街亭へ向かいます。

続く。
669怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/12 08:29
続き。

「特進」とは位をその本官よりも上に位置させることを示す加官です。
ここでいう位とは、朝廷で大臣が揃う時の並ぶ順番のことです。
普通は大将軍とか三公とか、エライ方から先に並ぶのですが、
「特進」はその本人が就いている官に関わらず、その次くらいに並ぶ事が出来るのです。
また、「特進」により俸禄も与えられるようです。
但し、それ以外の職能や特権は無かったと思われます。

張郃は馬謖を撃退、また諸葛亮に応じた南安、天水、安定郡を平定。
食邑1000戸を与えられ、全部で4300戸となりました。
司馬懿が荊州攻めに加わる際は、張郃は関中諸軍を督して司馬懿を助けます。
しかしこの戦いは船が使えないという事態で失敗。

そうこうしているうちにまた諸葛亮が出兵。

続く。
670662:03/09/12 23:15
読めば読むほど、張郃の経歴はたたき上げの軍人のそれですね。
「特進」を与えられたのは、出自や経歴から大将軍や三公などの高位に
上げることはできないので、その代わり、ということでしょうかねぇ〜

文帝が死んだころとなると黄巾の乱から戦っているほどの長い軍歴を持つ
人物はほとんど残ってないでしょうし…
671怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/13 13:25
>>670
特進についてはそのような感じだと思います。
単に高位のポストが埋まっている、
または諸般の理由からより高位の、より権限を持つポストには就かせたくない、
でも功績に報い、恩典を与えたい、という場合に与えられるのでしょう。

張郃はおっしゃるように曹操等と特別な関係にあったわけでもなく、
純粋に軍事のみで昇進したという事のようです。

続き。

諸葛亮の陳倉攻めに対し急遽召還した明帝は、自ら彼を見送り、
南北軍3万を与え、武衛・虎賁を護衛に付けます。
彼への恩典と信頼、
そして諸葛亮の出兵に対して魏がどれだけ事態を深刻に受け止めているか、
が分かりますね。
(もっとも、虎賁らには南北軍を持った張郃の監視という意味もあったと思いますが)

張郃は諸葛亮の遠征軍が兵糧不足であることを看破し撃退。
「征西車騎将軍」になったとの事です。
この「征西車騎」は合わせて一つの将軍位なのでしょうか?
もしかするとまず「征西将軍」になり、後に「車騎将軍」になったのかもしれませんな。

その後またも諸葛亮が襲来。
退却する諸葛亮を追ったところ矢に当たって死亡しました。諡は壮侯。

なお、三国志張郃伝注魏略では、
張郃本人は追撃を反対したのに司馬懿に命令されてしかたなく追撃、
伏兵に出遭って死亡した、としています。
もし事実なら、晋で書かれた三国志は敢えてそれを隠蔽したのでしょうか。
672662:03/09/13 16:34
ありがとうございました。
>もっとも、虎賁らには南北軍を持った張郃の監視という意味もあったと思いますが
将軍として高位にあり、軍歴もありながら、ほとんど誰かの下についた、というのも
監視に通じるものがあるのかもしれませんね。
あるいは逆に、総司令官には一門などを任じても、能力的に心配なので
古強者の張郃をつけたのかもしれませんが…

673怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/14 00:53
>>672
孫子では、将軍に全権を委任しないと勝てない、と主張していますが、
実際にはそうもいきません。
反乱者を討てるだけの兵を持って辺境に行くのだから、
その気になればそのまま反乱出来ちゃうってことですから。

そのため、中国では将軍の下に皇帝の側近を監軍として付けたり、
反乱等を考える事の少ない外戚や親戚をトップに据えるなど、
なるべく好き勝手させないようにしていたようです。

叩き上げなヤツに自由な兵権を与えると、はっきり言ってロクなことがありませんでした。
董卓、公孫瓉、劉備など、軍事に長けているので始末に困るのです。
でも、張郃のような叩き上げが将として有用な事も事実なので、
曹慎や司馬懿の指揮と監視の元で使われているのです。
質問です。

@街亭時点での張郃の官職、張郃伝では左将軍、明帝紀では右将軍となっていますがどちらが正しいのでしょうか。
 司馬懿も明帝紀で「驃騎大将軍になった」と書かれたすぐ後で「驃騎将軍」と書かれていますが…

A劉虞が太尉の上位互換として大司馬になったとのことですが、大司馬は太尉より格上≠セったのでしょうか。
 また後漢での大司馬の任命は誰以来、何年ぶりのことだったのでしょうか。
 
>>674
@
張コウのは記述ミスだろうけど、司馬懿のはその前に撫軍大将軍に就いてるので、同じ「大」のつく驃騎大将軍ほうじゃないかな?
同時に同じ将軍位になることはまずないと思うので、他の人の伝を根気よく調べれば
張コウが実際どっちの官だったのかわかるのでは?ちなみに左右では左の方が格上。

A
前漢では軍部ナンバー1の官で霍去病が最初に任じられたらしい。後漢ではもともと三公の一つで、建武27年(つまり光武帝存命時)に太尉に改称された。
調べてみると董卓政権下で復活したみたいだから、乱発された復古官名の一つなんだろう。
"相国"とかと同じで、どうも昔の官名は尊重される傾向にあるみたいなので太尉より上じゃないかと。

俺はそれほど詳しくないので怨霊氏の降臨を待ったほうがよいと思われ。
676怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/14 11:58
>>674

張郃のは675氏の言うように何らかのミスでしょう。
どっちが正しいかは、他の記述等から判断するくらいしか無いでしょう。
何らかの研究があるのかもしれませんが、私は知らないです。
司馬懿のは、単に「大」を落としただけじゃないかと。


大司馬の歴史は、
>>675氏の通り前漢武帝の時に霍去病&衛青が大司馬を加えられた事から始まります。
これは将軍位に加える称号に近いもので、
武帝が驃騎将軍霍去病を大将軍衛青と同格にしてやるために考案されました。
その後、将軍の筆頭者に与えられる加官として定着したようです。
なお、宣帝の時に一度だけ、霍光の子で後を継いだ霍禹を、
将軍の無い「大司馬」にしたことがあります。
これは彼から実権を奪い祭り上げるための宣帝の策略で、
ここから前漢では「大司馬」自体は実権や職掌が無い称号に近いものだと分かります。

で、前漢末期に丞相をやめて三公制度を始めますが、
その時に「大司馬+将軍」から将軍を取って「大司馬」として三公に加えました。
これはもちろん軍事関係を司る実態のある職です。
後漢初期、その三公制を更に改変。>>675の言うように、大司馬は太尉に改称されました。
その制度でずっと来たものが劉虞の時に大司馬が復活。

大司馬と太尉の間には明確な上下は無かったと思われますが、
(というか同時に存在しなかったので分からない)
これも675氏の指摘のように、劉虞の時点では現に使われている太尉よりも大司馬の方が、
「古官」として尊重されたのかもしれません。
677怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/14 18:21
さて、次は姜維。
よく本人の能力やら蜀滅亡の責任やらをうんぬんされるようですが、
官歴等から彼について考察する事もできるかもしれません。

姜維は天水郡冀県出身。父ケイは郡の功曹で、羌戎の反乱で死んだそうです。
姜維本人は父の功で中郎を与えられ、その身分で天水郡太守の参軍事となっていました。
父も郡に仕えているので、しばしば役人を出すくらいの家ではあったようですね。

なお、冀県といえば馬超が羌らを従えて襲撃した所で、
反抗した楊阜の母姜氏が馬超に殺されています。
(最近蒼天航路でも首をセリフごと斬られてました)
この馬超の乱で姜維の父の名(ケイ)は出てきませんが、
父が死んだという「姜戎叛乱」が馬超の乱だという可能性はあるような気がします。

続く。
678怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/14 22:40
ああ、最後の「姜戎」、「羌戎」の間違いだ・・・。ゴメン。

続き。


建興6年、諸葛亮最初の出兵の時、姜維は天水太守馬遵に付き添っていましたが、
蜀の出兵とそれにより近隣の県が蜀に応じたのを知るや、
太守は姜維らを置いて独り天水郡上圭β県に逃げ込みます。
姜維らが裏切るのを畏れたそうです。
近隣の県が蜀に付いたという事は、
そこいらの豪族、在地の実力者達がこぞって蜀に付いたということでしょう。
姜維らはそれと同一視された訳で、彼は在地実力者に連なる存在だったと言うことでしょう。

上圭βに行っても入れてもらえず、冀県でも入れてくれず、
行き場を無くした姜維らはやむを得ず諸葛亮の下へ行きます。
いくら実力者だとしても、蜀側かと疑われてはどうしようもないでしょう。
折りしも例の街亭戦後。諸葛亮は彼らと天水郡西県の千余家を引き連れて帰還しました。

姜維は倉曹掾、更に奉義将軍を与えられ、当陽亭侯となります。
諸葛亮は彼に軍事の才能を認め、まずは「中虎歩兵」を与え、陛下に会わせろ、
とか言っています。
「中虎歩兵」がなんなのか良く分かりませんが、近衛兵か何かでしょうか?

後、中監軍、征西将軍と兵を領する官に就きます。
監軍ですから、皇帝に近い存在として軍を監察したことになります。

続く。
679無名武将@お腹せっぷく:03/09/14 23:45
中虎歩って虎歩監って職務がなんかの本に歩兵隊長って書いてあったから、歩兵部隊の名将では?
WWUのドイツの「ヘルマン・ゲーリング師団」みたいな。
ちなみにその本では五丈原の役時の虎歩監は孟エン(字:休明)だそうです。
王平(何平)が率いた無当監と同じようなモノかもしれませんね。
ちくまの巻末「三国官職表」の光禄勲府の部分に

>虎歩監・虎騎監(各1)。宿衛の兵を司る

となってますよ。
681怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/15 00:54
>>679,680
ありがとう。そうか、中虎歩は光禄勲とこの宿衛兵か。
その>虎歩監・虎騎監(各1)。宿衛の兵を司る
の典拠が分からないのが残念ですが、王宮の守護兵ですな。

あとこれは妄想に近いんですが、彼が軍監をしたってのはなかなか面白い。
監察は出世コースだけど汚れ役でもあるので。
真面目に仕事しちゃうと怨まれる仕事だからね。
それだけに、「能力はあって門地は無い」タイプの人物が就任する事が多いようです。
この時の姜維にピッタリじゃないですか?

続き。
諸葛亮が死ぬと、「右監軍、輔漢将軍」となり、「平襄侯」に封ぜられます。
延熙元年、大将軍蒋エンに従い漢中に住むことになりました。
蒋エンが大司馬になると、その司馬となって軍を率いたそうですが、
三国志後主伝には延熙5年に「監軍姜維督偏軍、自漢中還屯フ県」とあり、
監軍はずっと続いていたのかもしれませんね。
で、上記の通り延熙5年には一旦漢中を出たようですね。

続く。
何故、騎馬でなく歩兵なのだろう?
虎騎監はすでに糜照(糜竺の子)だったからじゃない?
684怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/15 11:40
姜維続き。

延熙6年、姜維は「鎮西大将軍、領涼州刺史」となります。
なお、この年に大司馬蒋エンが漢中からフ県へ戻っています。
(漢中には大将軍費イが残りました)
これは蒋エンの病と、
姜維を涼州に出してフ県を対魏・呉の基地にしようという彼の策によるものです。
姜維の人事もそれを受けたものです。

姜維のその後は、ここで決まったという気がします。
姜維は諸葛亮の後継者蒋エンに見込まれ、その対魏戦略に組み込まれました。
その後の姜維の出兵も基本的には蒋エンの計画に基づくもののようで、
少なくともこの時点では蜀の基本戦略だったのです。

延熙9年、蒋エンが死亡。翌10年、姜維は「衛将軍、録尚書事」となりました。
同年、「シ文山平康夷」が反乱、鎮圧。
その後隴西等涼州へ出兵。魏の郭淮、夏侯覇らと戦いました。
また涼州の胡、王の白虎文、治無戴が蜀に降伏、姜維がそれを迎えます。
隴西出兵と呼応した行動でしょう。

続く。
685怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/15 19:30
続き。

ところで延熙3年にも姜維は隴西に出ていますな。
雍州刺史郭淮が出てくると退却してますが。
延熙10年戦も決着は翌年らしい。
(三国志郭淮伝より)

で、延熙12年。この年は司馬懿がクーデタで大将軍曹爽誅殺。
夏侯覇が降伏してきます。それを受け、姜維は「仮節」を与えられて再度出兵。
今回は将軍句安、李韶を失い退却。
ここまでは費イの統制の元、兵1万までしか与えられずにいたそうです。
どうやらその兵の不足を羌、テイら胡を利用して補う戦略のようですね。

また、ここまでの敗戦では姜維が責任を取らされた形跡はありません。
これは、彼が最高責任者では無い事と、
兵数などの関係でそれほどは大きな被害になっていなかった事が理由でしょう。

続く。
686怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/15 22:56
続き。

延熙13年にも姜維は出兵するも、特に功無く帰還。
そして延熙16年正月、大将軍費イが殺害されます。
前年に開府を命じられた直後の死。
蒋エン、費イは成都を離れていながら賞罰を先に諮問されていたそうで、
意思決定という意味では皇帝を凌いでいたと言えるかもしれません。

その夏、「数万人」を率いて出兵。雍州刺史陳泰に阻まれ、兵糧が尽きて退却。
そう、費イ死亡によって兵1万人の縛りが取れたのです。
翌17年には一度成都へ戻り、「督中外軍事」を加えられてまた出兵。
隴西郡の狄道を下し、魏の徐質を破り、狄道等の民を蜀へ強制移住させて戻ってきます。

蒋エン在命中から費イは大将軍となっていたのですが、
純荊州系の蒋エン、荊州出身で劉璋とも縁続きな費イと違い、
どこの系統にも入れない外様(?)のせいか、
姜維が真にトップになるのはまだ先のようです。
とはいえ「督中外軍事」、「録尚書事」を持っているので既に相当な地位ではありますが。

続く。
687怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/16 07:49
続き。

延熙18年、一旦成都に戻った姜維はまた車騎将軍夏侯覇らと共に数万の兵で出兵。
雍州刺史王経を破りましたが、狄道に篭った王経を下す前に陳泰らが到着。
姜維は退却しました。

そして、おそらく前年の王経を破った功績がものを言ったのでしょう。
翌年に姜維は大将軍となりました。遂に最高位です。
で、チャンスと見たのか、姜維は鎮西大将軍胡済と上圭βで落ち合う計画で大規模出兵。
魏側では、もう余力も無いだろうから出兵は無いという観測が多かったようですが、
当時「安西将軍、仮節、領護東羌校尉」のケ艾が出兵を看破。
万全の体制で待ち受けたケ艾らに対して胡済が到着しなかった姜維が勝てる筈も無く、
段谷で大敗。今までに無かった大被害で相当怨まれたらしいです。
姜維は大将軍になったばかりなのに諸葛亮の故事に倣わざるを得ず、降格を申し出ます。
「後将軍、行大将軍事」となりました。

この19年の段谷での敗北は相当な痛手だったようです。
ただ、責任は彼にあるのは事実ですが、
敗北の理由としては胡済の「失誓不会」が大きかった筈です。
まあ、勝負を賭けたバクチに近い動員だったようにも思えるので、
彼はバクチに負けたという事でしょうか。

続く。
688怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/16 08:31
戦はバクチではない、というのも正論ですが、
蜀は元から劣勢だという事情を忘れてはいけません。
もし勝つ気があるなら、絶対にどこかでバクチになるのですから。

しかも、魏との人口、領域、経済力その他、その差は大きいです。
戦乱で双方とも弱体化していたのでしょうが、
その国力減少度が魏>>>蜀であったために蜀は魏(漢)にある程度渡り合えたのです。
安定化してからは時間が経てば経つほどにその国力差が広がってゆくのは自明の理。

しばしば「蜀(姜維)は内政に専念してから北伐すればよかった」、
または「内政に専念して蜀に篭っていれば滅びなかった」的な意見を見るのですが、
これは違うと思います。
蜀をどう建て直そうが、魏にも同じ時間が与えられる以上、
魏は同じ事をしてもっと国力を回復します。
アキレスと亀のパラドックスのように、追いつけることは無いのです。
なんとかできるとすれば、何があるか分からない戦争での一発逆転ぐらいだったのです。

まあ、そもそも「内政」ってなんだよ、と言いたいですが。
戦乱が沈静化すると蜀に流民が流れ込む事もないので、大幅な人口増は望めません。
生産力も兵力も限られてきます。
蜀の在地豪族は多くの荘園農奴を持っているでしょうが、
徴発したら戦乱で蜀が滅ぶだけです。
結局魏あたりを攻め、民を強制移住させるしか人口を大幅に増やす手が無いのです。

姜維が望んでいたかどうかではなく、
蜀が長生きしようと思うなら攻めるしか無かった、そう思います。
689怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/16 20:51
というわけで続き。

後将軍姜維は延熙20年、魏の諸葛誕の乱で関中の兵が淮南に向かうのを知り、
その手薄になったところを狙ってまたも出兵。
この時は魏側は兵糧の蓄えは多くて兵が少ないという状況で、まさにカモネギ。
が、大将軍司馬望とケ艾が防戦。
翌、景耀元年に諸葛誕の乱が終息したのを聞いて戻ります。
そして、大して功績も無かったように思うのですが大将軍に復帰しました。

で、どうやらこの頃に姜維は悪名高い漢中防御策変更を行ったようです。
今までは漢中の諸要塞にそれぞれ兵を配置して守っていたのを、
敵が来たら敢えて兵と兵糧を漢、楽二城へ集めさせ、そこを堅守させ、
それから疲弊した敵を一気に叩く、という方法に変えました。
私にはそれぞれの策の評価は容易には下せませんが、
姜維が功名や戦勝を求めて改悪したというよりは、
漢中全てを守るのが兵力面や経済面で負担になってきたためではないかと感じます。

続く。
690無名武将@お腹せっぷく:03/09/16 22:55
怨霊様、いつもご苦労さまです。
勝負はバクチってのはどうでしょうか?
漢中の防衛は寡兵でも充分可能だと思います。
曹操の張魯攻め、曹操VS劉備、曹爽による興勢の役。どれもかなりの兵力差がありますよね。
そういった状況で、姜維が無茶な遠征を繰り返さず、国内にどっしり腰を落ち着かせていたらどうでしょう?
(内政なんてゲーム用語は使いません(笑))

費イの姜維に対する発言や、仇国論の内容が当時の蜀漢が歩むべき道だと思うのですが・・・。
漢中防衛計画の変更も、度重なる姜維の遠征の結果、兵力面や経済面の負担になった為じゃないでしょうか。

蜀漢国外に目を向けると、当時の魏(晋)の重臣連中は戦争に対して慎重(と言うか拒否反応的?)で、司馬昭が蜀を攻めたのも、姜維の遠征の繰り返しで蜀漢の国力が疲弊したからでしょう。
もし、遠征を控え、漢中防衛をしっかりしておき、姜維が主力を率いて蜀漢国内(フ付近)で後詰をしておれば、そうそう攻めても来ないように思います。

無理な遠征が無かったならば263年に滅びるようなコトは無かったと思うんですよね。
スレ違いで申し訳ありません。
何年に滅びればよかったんだ?
五胡十六国時代あたりに、インド人に滅ぼされるくらいが丁度よいのでは?
戦略面では姜維は孔明に及ばず、孔明は魏延に及ばない。
と言うのが俺の受けた印象。サンクス。
というかさ
まず、諸葛亮の北伐と姜維の北伐は別物

>蜀が長生きしようと思うなら攻めるしか無かった
これも諸葛亮の北伐には当てはまるが姜維の北伐には当てはまらないと思う
姜維の北伐は計画性なさすぎ、“姜維の”北伐ならやらない方がまし
他の人がやるならまた違うかもしれないけどさ
(自分は蒋エンの北伐が見たかったなあ、バランス感覚あるから)
695怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 00:30
>>690
いや、実のところ少々煽り気味というか、挑発的な文書いていたかもしれません。
気分を害した人がいたらすいません。

ところで、勝負はバクチってのは関中(隴西)出兵の事ッスよ。
690からは漢中防衛がバクチという認識で書いてるような気が。

あと、魏晋の重臣が対蜀戦に慎重だったというのこそ、
姜維の連年の出兵の影響があったりしませんかねえ?
いや根拠はないんですけどね。

今思いましたが、費イが姜維に言ったという例の言葉、
これもある意味では気の長いバクチですなぁ。
まあ、確かに数十年(?)は国を保ち人を保てたかもしれませんけどね。
でも姜維と漢中軍府を何とかしないと内乱簒奪の危機。
しかし漢中の軍が無いと蜀を保てない。
うむ・・・。アンビバレントって言うんですか?
>>688
どうでもいいツッコミだけど、
>>アキレスと亀のパラドックス
の言葉の使い方が間違ってるよん。

これは位置と時間の概念をごちゃ混ぜにすることで起こりうる錯覚で、
実際には「アキレスが亀に追いつけない」というのは間違いだよ、という話なのだ。

…話の腰を折ってしまって申し訳ない。
蒋エンって魏書には名前すら出てこなかったりするからカナスィ
698怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 00:48
さて続き。

景耀5年に出兵。あっさり風味の記述でケ艾に敗れたと記されてます。
その頃に例の黄皓が姜維廃位を謀っており、察知した姜維は成都へは戻らなくなります。
まあ、流石に更迭されてもおかしくない状態なのは間違いないですね。
長年兵権を握る姜維は、北伐の成否に関わらず危険な存在です。
そして費イの言に象徴されるように否定的な意見も少なくなかったようですし。
皇帝権力にとって、早い排除が望ましい状態ではないでしょうか。

が、皇帝による排除や姜維の暴発が起きる前に大事件発生。
征西将軍ケ艾(沓中)、鎮西将軍鍾会(駱谷)、雍州刺史諸葛緒(武都)
らの征蜀軍が迫ります。

続く。
699怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 00:49
>>696
なるほど。
ありがとう。一つ勉強になったッス。
内容の濃い良スレだと思うが、
漢の制度ではないねぇ・・・

平時の漢では、漢中&蜀にどのくらいの軍を
どのように配置していたのかな?
「東漢の兵制」でぐぐると、参考になるページがヒットするぞ
「漢中&蜀」とか細かいところまでは無理だけど
702怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 07:34
>>700
兵数とかは分からないけれど、
平時には県に県尉に属する兵、
郡に太守(または都尉)に属する兵がおかれていた筈。
もちろん数はそれほどではないでしょう。
特に県尉の兵なんてのは警察に近い。
あとこの兵は民が兵役で就いているものです。

余談になりますが、三国時代は徴兵制が崩壊し、兵の供給源は主に
・募兵
・軍戸
・異民族
で、民の兵役による場合と違って、解散しても行き場の無いような連中。

軍戸は青州黄巾や東州兵のようなのが淵源といわれ、
兵士だけを出す家として代々飼われていたそうです。
抜ける事は許されず、父が死んだら息子、というように兵士にされていったらしい。
奴隷兵士といった方が近いらしく、もしかすると刺青などされていたかもしれないですね。

主に魏では異民族を大々的に中国内地に強制移住させ、
反乱を防ぐと共に辺境の反乱軍や敵(蜀)に利用されないようにしたけれど、
この移住が例の五胡の大乱を生んだと言われています。
703怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 07:58
続き。

姜維は蜀の危機に成都へ陰平・陽安を守る援軍を要請しますが握りつぶされます。
そのため未然に防ぐ事が出来ず、侵入されてからやっと援軍の
右車騎将軍廖化(沓中)、左車騎将軍張翼(陽安)、輔国大将軍董厥(陽安)
らが派遣されてきました。
しかし陰平で諸葛緒の動向を見なければならず、なかなか動けません。
孤立した格好の姜維は援軍が来る前にケ艾に敗れて陰平へ退きます。
鍾会は漢中に侵入、漢・楽城を攻め、さらに別働隊に陽安を攻めさせます。
楽城は落ちませんが、陽安も援軍が来る前に守将の蒋舒が降伏して落ち、
鍾会はそちらに向かいます。
姜維、廖化、張翼、董厥は剣閣に合流、鍾会を防ぎます。
鍾会は剣閣を抜けず、補給に困り退却を考え始めます。

ここだけを見ると、漢中陥落は初動の遅さが致命的だったようです。
鍾会は結局楽城は落とせていないので、
姜維の防衛策は全く機能しなかった訳でも無さそうです。

続く。
>>702
少々気になったことがあるのでちょっと横槍させていただきますが、
五胡の大乱の原因は烏桓部族の移住よりも、後漢代の匈奴分裂時に
南匈奴が万里の長城内に定住したのが一番大きいのではないかと思います。
五胡大乱のきっかけとなった劉淵もあの石勒もあそこの出身ですし、
むしろ、烏桓系はこの件にはあまり関わっていないように思えます。
匈奴以外でも氐や羌の内地雑居っぷりもなかなか凄かったそうですが。
この異民族内地雑居の危険性については江統が『徙戎論』で指摘していますね。

しかし、ちょうど五胡の大乱のときには面白い名前がいろいろ出てきますね。
禿髪氏とかかなり大好きです。
705怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 08:33
続き。

しかしご存知ケ艾が陰平から道無き道を行き、遂に江油へ至ります。
江油を落としたケ艾は綿竹の衛将軍諸葛瞻と激突、諸葛瞻らを破ります。
そしてラクまで来たところで遂に劉禅降伏。
姜維は諸葛瞻敗死を知ると、皇帝の動向がわからないことから広漢に退いていましたが、
劉禅は姜維に降伏を命令。遂に姜維は鍾会の元へ出頭します。

さてケ艾は「ケ禹の故事」に従って劉禅に行車騎将軍、太子に奉車都尉など、
官位を与えます。
これは後漢創業の功臣ケ禹が河東平定の折に太守、県令を独断で決めた時の事を指し、
要するに一々皇帝の決定や裁可を仰ぐヒマが無いので先に自分でやっちゃう、
って事です。
これがケ艾の命取りになりますがそれはまた別の話。

まだ少し続く。
706怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 20:31
続き。

姜維は鍾会にフにて投降。
その際、将兵はみな怒り、剣で石を斬りつけたそうです。
少なくとも姜維直属の将兵はそれなりに高い士気を保っていたのでしょうか。
鍾会は姜維を厚遇し、一旦は献上されたであろう印や節などを持たせておきます。
鍾会は随分と姜維を評価していた事が鎮西将軍長史杜預への話からわかります。
というか、魏ではもしかすると
「蜀を一人で支え、魏を悩まし蜀攻めを阻む柱石」とでも思われていたのでしょうか。
言い過ぎかもしれませんが。
なお、ケ艾も自分を誇る言葉の中とはいえ姜維を高く評価していますね。

で、ケ艾は自分(征西将軍)司馬の師纂を領益州刺史とし、
隴西太守牽引には蜀中の郡を領させます。
また決戦の地となった綿竹に戦功を顕彰する台を作ったそうです。
勅任官(刺史、太守)の任命も、自らの功を誇るがごとき行いも、
その真意はどうあれ皇帝(というか司馬昭)にとっては反乱にも等しい僭上の行い。
失脚は目前です。
彼は光武帝にとってのケ禹ほどの信頼は得ていなかったのです。

この状況を知ったか、それとも関係なく野望を秘めていたか、
鍾会はケ艾の蜀での独断行動を「反乱」と密告。
司馬昭は監軍衛カンを先頭にして鍾会を成都へ向かわせます。
監軍が監察という務めを立派に果たそうとしていました。

続く。
なんか、人物伝になってないか? >>1
708怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 22:41
ゴメン、上の「隴西太守牽引」は牽弘の間違い。バカだな俺。

続き、というか番外編。

監軍衛カン。この時、廷尉をもって「持節、監艾・会軍事、行鎮軍軍司、給兵千人」。
(晋書衛カン伝)
当時の有力者誰とも距離を置いていたというクワセモノです。
その職務が示すように鎮軍将軍鍾会に同行していたようです。

鍾会は二将を監察する彼と共にケ艾の僭上を上奏。
鍾会は彼を押し立てて成都へ向かいます。
これは鍾会が、
「ケ艾が衛カンを殺しちまえばそれもケ艾の罪に出来る」
と考えたのだそうです。

そこで衛カン考えた。
逃げる訳にも行かないが、のこのこ成都に向かえばケ艾に殺されるかも。ヤバイ。
で、急いで夜間に成都へ入り、ケ艾指揮下の将に対して命令、
「詔」を称してケ艾を捕らえさせます。
その後、ケ艾の将が取り返そうとやって来た時にも、
衛カンはケ艾の罪状を述べた命令書を偽作し、将を信じさせてしまいます。

命令書偽造は別にして、このように監軍衛カンは将軍の逮捕権があった訳です。
務めを「立派に」果たしたかはよく考えると微妙ですが、
監軍が極めて重要な意味を持った場面であったとは言えるでしょう。

続く。
709怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/17 22:44
>>707
いや、そうなんですけどね。
各人物の官職や、制度運用にスポットを当てた人物伝的なもの、
というつもりでやってます。
まあ、確かに脱線しがちなのは認めますが。

質問を待っていたのですが、なかなか来なくてヒマだったから始めたのですよ・・・。
710怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/18 00:31
続き。

ドナドナの如く車に乗せられたケ艾。
鍾会は遂に反乱。成都に入って益州牧を自称します。
そして姜維に兵5万を与えて先鋒にしようと図りました。
鍾会伝によれば姜維の率いていたのが4,5万だそうですから、
この5万は元々彼が率いていた兵なのかもしれません。

で、三国志注に引く華陽国志によれば姜維は鍾会に魏将を殺させ、
それから鍾会と魏兵を殺し、蜀を復興させようとしたのだと言う話を載せます。
それが真実かどうかは知りませんが、華陽国志に載るという事は、
蜀方面でそうだと信じる人たちがある程度はいたという事でしょう。

鍾会は賈充と司馬昭が既に蜀に近付いているのを知り、
焦り気味に皇太后の遺詔を偽作し、
魏将から兵権を取り上げて鏖殺し、自分の腹心に変えようと図ります。
しかし魏将の一人胡烈の元部下が情報を洩らし失敗。
鍾会「どうしよう」姜維「撃つだけの事だ!」と、
姜維は怒って向かってくる魏兵数人を斬りますが多勢に無勢。
遂に姜維死亡。
征蜀戦自体も衛カンと司馬昭だけがオイシイ思いをするという結末でした。


たしかに官職とか関係無いんですよね。でも姜維の話のオチ(?)なので・・・。
711無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 07:13
しかし、毎回正史読むと思うんだけど、魏では権謀術数の鬼のような鍾会が、コロっと姜維にそそのかされてあっさり叛乱おこしてるのは何とも・・・w。
苦労続きの老将と天才肌で順風満帆の坊ちゃん育ちとの差ですかねぇ。
712怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/18 07:51
姜維が成功したとしても、
後から司馬昭自ら率いる兵が長安まで近付いていたのでそこで終ってた気もしますが。
ただ、兵5万を返してもらっていたようなので、
あそこで死んでいなければどうなったか。

むしろ、鍾会としては韓信あたりの故事が最初から頭にあったのでしょう。
蜀を滅ぼした後は自分とケ艾がやられる番じゃないか、と。
権謀術数の鬼だからこそ。
一方のケ艾はその点無邪気っぽい。
一番老練な立ち回りしたのは衛カン。
たしかに鍾会って最初から自立の野心があった気がするね。

そうじゃなきゃ、司馬懿が遼東でやったぐらい豪快に虐殺でもして
「自立する気なんて、さらさら御座いません」ってアピールしないと
権力者の猜疑から身を守るのなんて無理っぽい
714無名武将@お腹せっぷく:03/09/18 15:02
やっぱ司馬懿が罠にはめた可能性が高いな。
尚書について質問があります。
政治の実権を握った人たち(曹操、曹爽や司馬氏など)は大概、尚書に与えられた権限をも領しており
しばしばこれが実権の掌握に大きな力を与えているように見受けられるのですが
前漢の宣帝が霍氏政権打倒のため尚書に与えられた権限を一部剥奪していますよね。

にもかかわらず以後も政権掌握に際し尚書が重要なポジションになっているのはなぜなんですか?
716怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/18 23:35
尚書ですが、曹操らの「録尚書事」は、
尚書に与えられた権限を与えられたのではありません。
与えられたのは「皇帝の大権の一部」です。
より具体的に言うと、「上奏文等の決裁権」です。

これは尚書台の職掌とは全く違います。
尚書令以下の尚書台は、細かい事を皇帝に代わって決める事はあっても、
皇帝に代わって決裁するわけではないです。

本来「録尚書事」、そして前身である「領尚書事」は、幼少、またはやる気なしなどで、
上奏文をまともに判断して決裁する事のできない皇帝に代わって判断、決裁するものです。
一方尚書台(尚書令、尚書僕射等)は、
皇帝が上奏文を決裁する際の判断材料を揃えたりすることはあっても、
皇帝に代わって勝手に決めていい訳ではないです。

ということで、曹操ら権臣が握った大権=録尚書事と、
皇帝の政務補助から宰相へと強化されてゆく尚書台とは、
職掌自体が違うのです。

録尚書事になった権臣としても、皇帝に代わるものである以上は、
政務補助・雑用(=尚書台)は別に必要になりますから、
尚書台の重要性に変化はないのです。
717怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/19 00:27
録尚書事を別の言葉で表すと、摂政・関白が近いでしょうね。
決裁権のほか、上奏を皇帝より先にチェックしてダメなのを棄てたり、
下される詔や決裁にイチャモンつけたりすることも可能だった筈です。

それに対して尚書令とかは三国まででは皇帝の秘書(官房長とでもいうのでしょうかね?)、
後の時代で言えば宰相。
いずれにしろ、決定を下すのは皇帝であって彼らではありません。
お膳立てや助言をするだけ(それはそれで重要ですが)。
718怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/19 00:46
漢の武帝が死んだ時、後継者として母亡き幼児、昭帝が即位しました。
しかしこれは皇帝の裁可無しには文書事務が動かない当時の機構では致命的な問題です。
なぜなら、皇帝が幼ければ母である皇太后が
法定代理人(臨朝称制)として政務を執るのが筋でしたが、
このとき武帝には皇后はなく、昭帝の母も既に死んでいます。
代理する人が居ないのです。
そこで霍光らが「領尚書事」として皇帝の政務を代理しました。

しかしその後即位した宣帝がいい年になると、もはや代理を置く理由が無くなって来ます。
逆に、霍光にとって目障りな上奏文を握りつぶす事が出来るなど、
明らかに皇帝の意思決定の邪魔になっていました。
そこで宣帝は制度(慣例?)を変え、
上奏文を領尚書事が見る前に宦官に直接取りに行かせ、
自分だけが見ることが出来るようにして握りつぶされないようにしたのです。

その後も「領尚書事」は存在しますが、基本的には政務を代理し、
代わりに決定するのが仕事です。
これは皇帝がいい年をして代行者を必要としていなくても、
膨大な日常業務の決裁を代わらせるなどの利点があったのでしょう。

で、実はこれは尚書台には関係無い話です。
尚書台の歴史は次回。
719怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/20 08:51
尚書台、即ち尚書令、尚書らの方ですが、これは少し複雑な展開をしています。
まず、漢の武帝くらいの段階では尚書は皇帝の文書係に過ぎず、
仕事はせいぜい「命令文などの管理、保管」や「詔の清書」など、
一言で言えば雑用係です。

一方、漢の武帝、宣帝の頃に重用されたのが中書です。
この時の中書は宦官で、「中尚書」「中書宦官」ともいいました。
中書は皇帝の居住空間(後宮)における尚書なので宦官なのです。

なぜ重用されるかというと、
後宮に引っ込んで宦官以外の官僚の預かり知らぬところで政策を決定し、
いきなり詔を下すという密室政治を行ったため、
政策決定のための補助や詔の起草などの仕事をする者が必要だったからです。
また、上に書いたように宣帝は領尚書事から上奏文を取り上げるために宦官を使いました。
つまり、中書(宦官)は皇帝による独裁政治、密室政治を行うための側近、手足だったのです。
漢の元帝の時に中書令石顕が実権を握ったというのも、この事情によります。

しかし元帝が死に、石顕が失脚すると中書にメスが入れられます。
それは中書の権限、職務を尚書に移し、宦官ではない官僚の側近の強化を図ったのです。
これがそれ以降の尚書台の出発点です。
これ以降は尚書が詔の起草や、勅任官人事などの管理運営をするようになっていきます。
720怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/20 16:07
なんだかヘンなスレが乱立中らしい。
ひどい荒らしだな。
昭帝代
  | 霍光が政権を掌握。霍氏に対する劾奏は尚書が全てシャットアウト(゚д゚)ウマー
  | 霍光病死。宣帝の親征開始。
宣帝代
  | 宣帝、尚書に邪魔されないように中書に上奏文を持ってこさせるようにした。劾奏素通り(゚ж゚)マズー
  | 気が付いたら軍権も剥奪されていて霍氏(´Д`;三;´Д`)ウオーサオー → 一族アポーン
元帝代
  | 宣帝と同じく中書を通して上奏文を披見する。・・・が、病弱だったからなのかやる気がなかったからなのか
  | 気が付いたら中書令石顕が実権を掌握していた。
  | 石顕(*゚д゚)ウマー。批判した簫望之アポーン、でも元帝(゚ε゚)キニシナイ!!
成帝代
  | 石顕失脚(なんで失脚したんですか?)、外戚王氏台頭。
  | 中書の権限、職務が尚書に移される。
  ・
  ・
蛇足
  | 王莽、漢帝国を美味しく頂きました(*゚∀゚)ウィホー

こんな感じであってますか?

エート、つまり宣帝によって弱められた尚書が成帝代には中書を吸収し、昭帝代よりも強化されたということですか?

あと、領尚書事と緑尚書事の差異がいまいちピンときません。どちらも「尚書を領する」という意味で同じではないのですか?
722怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/21 19:16
>>721
スバラスイ!力作ですな。
ただ、昭帝、宣帝ころの「尚書」はたいした事してないと見るべきかと思います。
上奏をシャットアウトしてたのは「領尚書事」=摂政であって、
当時の尚書はぼんやり見ていただけの文書係。
それが一気に成帝になって強大化と。

領尚書事と録尚書事の関係、違いは正直良くわかりません。
ごめんなさい。
前漢では全て「領」、後漢から「録」ですな。
単に呼び名が違うだけなのか、何らかの変化があったのか・・・。
723怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/21 19:24
という訳で少し変えてみました。
721氏、勝手に使ってすんません。

昭帝代
  | 霍光が政権を掌握。霍氏に対する劾奏は領尚書事が全てシャットアウト(゚д゚)ウマー
  | 
宣帝代
  | 宣帝、領尚書事に邪魔されないように中書に上奏文を持ってこさせるようにした。劾奏素通り(゚ж゚)マズー
  | 気が付いたら軍権も剥奪されていて霍氏(´Д`;三;´Д`)ウオーサオー → 一族アポーン
元帝代
  | 宣帝と同じく中書を通して上奏文を披見する。
  | 宣帝の頃からの腹心、中書令石顕が政権を左右。 寵姫亡くして寝込む元帝、彼にお任せ。
  | 石顕(*゚д゚)ウマー。批判した蕭望之アポーン、でも元帝(゚ε゚)キニシナイ!!
成帝代
  | 成帝と外戚王鳳の意向で石顕失脚、外戚王氏台頭。
  | 中書の権限、職務が尚書に移される。
  ・
ウホッ!!
怨霊さんサンクス!!!

>ただ、昭帝、宣帝ころの「尚書」はたいした事してないと見るべきかと思います。
領尚書事=尚書
録尚書事=尚書
と思っていたんですがぜんぜん違うモノだったんですね(;゚∀゚)アヒャ

領尚書事と録尚書事についてぐぐったらこんなページをハケーン
ttp://tokyo.cool.ne.jp/ato/shiryou/kansyoku/syousyo.html
前漢〜後漢に掛けて呼び方が替わっただけなのかもしれませんね。

石顕って、宣帝の時からいたんですか。
しっかりしている皇帝の元では優秀な腹心だった、ということでしょうか。

>寵姫亡くして寝込む元帝、彼にお任せ。
そんな純な皇帝だったのか・・・

>成帝と外戚王鳳の意向で石顕失脚、外戚王氏台頭。
あ・・・やはり外戚王氏による失脚だったんだ。
でも刑死したわけではないんですね。チョト意外。
725怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/22 08:27
面白い事に魏では中書が復活し、
曹操、曹丕の側近の劉放&孫資がそこにはいりましたね。
彼らには給事中も加えられ、どうやら尚書からの文書取次ぎをしたようです。
これはまさしく漢宣帝の頃の中書と同じですね。
こういった官が置かれ、しかも能力を認められた側近が就任するということは、
曹丕が目指した体制が漢の宣帝の頃に似ていたという事を示すのでしょうか。
また、この中書の劉・孫によって明帝臨終時の輔政者が交代しているあたり、
秦の趙高の事例にも通じるものがあります。

彼らは宦官ではないですが、
皇帝の側は一番の側近として中書のような官職を必要としていたという事でしょうか。
魏では例の宦官誅滅を経ているためか宦官を重用しなかった(できなかった?)ようですが、
昔と同様の中書を置いて、かつて宦官が務めたような職務をさせたという事のようです。
>725
俺は、よりによって劉&孫コンビつうのも面白い。
727怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/23 02:04
>>726
劉&孫が司馬氏に政権のお膳立てしてやったような気も。
歴史の皮肉ってほどではないでしょうけど、面白いですねぇ。
728怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/23 14:31
そうだ、劉放の経歴を見てみましょう。

劉放ってタク郡出身で、しかも広陽順王の子、西郷侯宏の子孫。
広陽順王って誰か分かりませんが。
前漢元帝ころに「広陽頃王建」(武帝の子、燕王旦の子)の子に「西郷侯容」がいますね。
どうやら「順王」は「頃王」の、「西郷侯宏」は「西郷侯容」の誤りですな。
劉備と似たようなもので、多分この頃には皇族としての属が尽きており、
皇族待遇されているとは思われません。
もっとも、劉備も劉放も家はある程度勢力家のようですが。

劉放は郡吏となり、後に孝廉に挙げられます。
ありがちといえばありがちなエリートへの出世コースです。
しかし時は正に乱世。彼の住むあたりもかなり荒れていました。
劉放は自立した(おそらく在地土豪の類の)漁陽の王松なる人物の元に身を寄せます。
しかし曹操が冀州を席巻すると、劉放は王松を説得し、
王松は曹操の誘いに従って曹操に降伏。
その際、劉放が書いた返答文が素晴らしかったので曹操の目に留まったそうです。
曹操は劉放を辟召、参司空軍事、主簿、記室等曹操の属官を歴任。
後に県令となります。

続く。
劉放経歴も興味あるんだけれど、
「ありがちなエリートコース」とかに主軸をおいて
話を進めたらどうでしょ?
730怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/24 00:34
>>729
ふむ。それもいいかもですね。
とりあえずは劉放を最後まで。
魏における側近政治について(?)多少わかれば幸い。

続き。

彼は曹操が魏公になってから孫資と共に「秘書郎」となります。
孫資も県令や参丞相軍事などを歴任した、劉放と似た経歴の持ち主。
「秘書」とはそのものズバリ「秘密の書」の事です。

なお後漢では桓帝の延熹2年、例の梁冀誅殺後に「秘書監」なる官が置かれています。
おそらくですが、「秘書」を外に洩らす(機密漏洩)者を
取り締まるような存在だったのでは無いでしょうか。
この時の「秘書監」は後に廃止されていますが、
劉放達の「秘書」もこれらと同様に「機密文書」を起草・管理する官だったのでしょう。

曹丕に代替わりすると二人は秘書(左右)丞に(劉放が左丞、孫資が右丞かな?)なり、
さらに程なくして劉放は秘書令になります。
曹丕の禅譲後、「秘書」は「中書」に名称変更。
そこで劉放は「中書監」、孫資は「中書令」になります。
さらに「給事中」を加官され、皇帝の側仕えの資格を与えられました。
なお劉放は関内侯、孫資は関中侯に封ぜられたそうです。

この時の「中書」は以上のように「秘書」から改名されており、
劉放伝中に「機密を掌る」とあるように正しく機密文書を管理する要職だったようです。

続く。
731怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/25 00:11
DION復帰。
おお、随分下に来たなぁ。

続き。

劉放はほどなくして魏寿亭侯、孫資は関内侯に上がります。
明帝の時には更に重用されたそうで、二人して「散騎常侍」を加官され、
劉放は西郷侯(先祖の領地だった)、孫資は楽陽亭侯になりました。

前漢の加官に「散騎」と「中常侍」というのがあり、これはその二つを合わせたのでしょうか。
加官とは本官に加える資格で、「散騎」は皇帝の乗輿車の側に騎乗して従う資格、
「中常侍」は皇帝の私的空間に入って皇帝の側仕えする資格です。
「散騎常侍」はその両方の資格を合わせたものとして作られたのでしょう。
晋書によれば特に職掌は無く、皇帝の側に仕えて諫言する役割だそうです。
ただしこの二人は同時に中書監・令でもあるので、本職は中書の方です。
「散騎常侍」の加官は、中書だけではなく皇帝あるところ常に付き従うという事を表します。

後、孫資は公孫淵に通じようとした呉将攻撃を進言した功績で左郷侯に昇進。
劉放も孫権の文書を偽作して蜀、呉を混乱させたりしています。
それらの功績等で侍中、光禄大夫を加えられます。
侍中も皇帝の側仕えですから、終始皇帝の近くにいるというのは変わりません。
遼東が滅ぶと「参謀之功」によって二人はそれぞれ出身県に封建されます。
(劉放はタク郡方城県、孫資は太原郡中都県)

続く。
732怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/25 08:29
続き。

劉・孫二人が列侯になった年、明帝が危篤。
この時、明帝は燕王宇や曹肇、秦朗らを後継者(斉王芳)の輔政としようとしました。
燕王宇は大将軍となって明帝の側にいたのですが、
劉・孫は秦朗らと仲が悪かったそうです。

そんな時、燕王宇が一旦殿中から退いて曹爽だけが残る状況となると、
この二人は燕王宇に反対。曹爽と司馬懿を推しました。
そこで劉放は「黄紙」(詔を書く紙)を受け取りその旨の詔を作成。

しかし曹肇が泣いて諌めると明帝はまた変心。先の詔を止めさせようとします。
今度は劉・孫が明帝を諌め、結局劉・孫の言うとおりとしました。
今度はもう変えられないようにと思ったか、
劉放は「もう力が入らん」という明帝の手を取ってムリに直筆詔書を書かせます。
(中書に書かせた詔と直筆では効力に差があったのでしょうか?)
かくして燕王宇以下は免官。曹爽と司馬懿が輔政になりました。
(このあたりの話はどうもハッキリしないですが、劉放伝と明帝紀注を参考にしました)

斉王芳が即位すると、二人は封邑を増加され(劉放は計1100戸、孫資は計1000戸)、
子供を亭侯や騎都尉、郎中にしてもらえるなどの恩典を受けます。
翌年、劉放は左光禄大夫、孫資は右光禄大夫になり、
「金印紫綬」「儀同三司」もあたえられました。
「金印紫綬」は彼らの持つ印綬(ハンコとそのストラップ)の材質・色で、
「金印紫綬」といえば漢では丞相クラス。
「儀同三司」は「儀、三司と同じ」という意味で、
三司=三公と同じ儀礼を用いるという事です。
要するに二人は三公格の待遇を受ける、という事です。

続く。
名臣とは言えないねぇ。
734怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/26 00:19
続き。

さて、劉・孫は光禄大夫、儀同三司をもらいましたが、これは左遷かもしれません。
つまり皇帝側近たる侍中等の加官が外されたようなのです。
中書監・令はそのまま領したようなのですが、
皇帝の側にいないなら単なる文書係の係長程度でしかありません。

まあ、この時はそもそも皇帝が意思決定する状態ではなく、
曹爽が実権を握っていたのですが、曹爽らが劉・孫を追い出した可能性はあるでしょう。
ともあれ、劉・孫はここで長年の皇帝側近から外れました。
数年後、劉放は「驃騎将軍、領中書監」、孫資は「衛将軍、領中書令」となりました。
が、また数年して二人は老年を理由に引退、領地に帰らされ「位特進」だけ与えられます。
「位特進」は以前も出ましたが朝廷の序列が「特進」するもので、
位は高くても何の権限も無い、ということになります。
まあ、これは確実に左遷というか罷免ですね。
なおこの年は翌年の司馬懿クーデターを控え、曹・司馬の緊張が高まっていた頃です。
曹爽は政権固めとして、二人に代えて自分の身内を置く気だったのでしょうか。

そしてどうやらこの頃から劉放は病臥していたのではないかと思われます。
翌年に司馬懿のクーデターが成功すると孫資が「侍中、中書令」に復帰するのに、
劉放は復帰せず、その翌年に死亡しているからです(諡敬侯)。
一方孫資は驃騎将軍となり、後にまた侍中へ遷りました。
しかし翌年死亡(諡貞侯)。

という事で、この二人はヘタすれば怨みも買いそうな皇帝の側近を長年勤め上げ、
曹爽・司馬懿によって中枢からは追われながらも悲惨な運命は避けることが出来ました。
なお、余談ですが孫資の子孫が孫盛です。
もしや三国志注に引かれている「孫資別伝」は作者孫盛でしょうか?
735怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/26 00:34
>>733
劉・孫は名臣とは言えないでしょうな。
私が紹介したのは「中書」もしくは三国時代における側近政治に触れようとしたからですし。
とはいえ、ただの「君側の姦」で片付けられるような連中でもないですね。
少なくとも皇帝が健在な状態ではそれなりに辣腕を振るったようですし。
736怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/26 08:31
さて、ここいらで後漢、三国時代の官僚の昇進について見てみましょう。
もっとも、乱世では昇進なんかも実際には随分流動的ですが。

一般に官僚予備軍と言うべき連中は普通はまず出身郡の郡吏あたりに就職します。
予備軍というのは要するに父や兄弟が既に官僚で、
また家としても周囲の豪族や太守などの有力者と顔なじみだったり親戚だったりします。
ですから郡吏といっても当然下っ端ではなく、
今で言えば係長・課長クラスや太守の参謀格から始まり、
郡の中では枢要な地位を占め続けます。
まあ考えようによってはコネ就職と言えるかもしれませんが、
当時はそもそも当人の実力を客観的に測るシステムが確立していなかったのですから、
それも仕方ありません。

しかし、郡吏は太守の属官として太守が任命したものであり、
中央政府は関知しません。
つまり郡吏を続けても郡から脱出できないし、
太守、県令などの勅任官にも一生なれません。
という事で、郡から中央へ出る道が「孝廉」です。
これは「郡内の優秀な者を太守が推挙する」制度で、
これによって初めて中央政府はその人物を知ります。
直前に紹介した劉放も、途中まではそういったコースに乗って出世しています。

孝廉で推挙されたものは、600石程度までの中央の官や、
あるいは県令(長)、県丞、県尉などに就任します。
もちろん同じ中央官でも重要度などには大きな差があるわけで、
尚書などへ就任したら最も良い評価を受けたものと思って良いでしょう。
もちろんその評価というのは実際にはコネ的なものも込みでの話です。
また、袁紹や曹操がそうなのですが、超一流の家では
「いきなり孝廉」というケースもあります。郡吏などをすっ飛ばすのです。

続く。
737怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/27 01:00
ああ、もう一つの昇進ルートを忘れるトコだった。

辟召。
三公、将軍等が自分の属官(といっても側近です)として召し出す。
これはその三公らの属官とはいえ地位も高く、また中央にいる訳ですから、
中央政府の目に留まりそのまま中央の勅任官に転じる事も珍しくない。
また孝廉に挙げられた後などでも、
一旦官を離れていたるすると辟召で掬い上げられたりしています。

これも名声とコネがモノをいう場合が多いのですが、
正直この時代はみんなこんなものです。
そんな中でロクにコネなど無い者が出世していくのはなかなか大変であり、
董卓や孫堅なんかのように軍事に出世の道を見出すのが早道(というかこれしかない)
だったのでしょう。
コネ社会というのは汚職の温床ですなぁ。
まぁ、中国は今でもそうだという話もありますが・・・

後漢の汚職事件簿なんてあったら面白いだろうな。
厖大な量になってしまって編纂しきれないのでは?
740怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/27 08:51
>>738,739
コネ社会なのはそのとおりですが、汚職はまた別の問題かもしれません。
当事者のモラル的な部分と、
汚職を防止、あるいは摘発するシステムの整備によって変わってくるのでは?
後漢あたりは汚職に限れば中国ではマシな方かもしれませんよ。
無かったとは言いませんが。

コネ社会で問題になるのはどちらかというと「閥」じゃないでしょうか。
派閥、門閥、閨閥といったものが形成する集団が、
皇帝の意図や命令に組織的に逆らうようになるということですから。
上意下達の意思伝達による官僚機構にとっては致命的な事態です。

後漢の皇帝権力の衰微は、
大局的に見ると「閥」により結びついた貴族官僚集団が皇帝(とその代弁者たる宦官)を
圧倒した、という見方もできるのではないかと思うのです。

その後歴代の皇帝は、官僚を取り込むためにそれなりに策を講じます。
西晋では、皇帝自らが積極的に官僚と通婚することで
自ら閨閥を作って官僚を取り込もうとしたのではないかとも思いますし、
例の科挙は皇帝自身が官僚の挙主になることで自ら門閥を作り、
すべての官僚を自分の子分にしてしまうものでした。
田中真紀子みたいにやると
短命政権になるというのは
昔も今も一緒ですね。

奇異な汚職事件とかあったら教えてください。
742怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/27 12:42
>>741
奇異では無いですが、多分後漢一有名な賄賂の話を紹介しましょう。
かの楊震が荊州刺史から東ライ太守になった時の話。
赴任地へ向かうため昌邑を通った時、
彼が刺史時代に茂才に挙げた王密なる人物が昌邑県令になっていました。
この王密は楊震に金十斤を持って会いました。
もちろん楊震にその金を渡そうとしますが、楊震はこう言って拒否。
「私はあなたを知っているが、あなたは私を知らないだろう。(受け取る筋合いは無い)
なんでこんな事をするのかね?」
王密は「夜だし他に知っている人なんていませんよ。
(周りの目は気にせず受け取ってください)」
と言いますが、楊震は
「天知、神知、我知、子知。何謂無知」とキメ台詞。
「天が、神が、私が、あなたが知っているじゃないか。
知っている人がいないなんてとんでもない。
(カミサマだって見てるんだぞ。俺はお前を軽蔑するぞ。自分の良心が痛まないのか?)」
ってとこでしょうか。

楊震は清廉で私的な面会をしない人物だったといい、それを良く表しているのですが、
逆に言うと清廉だと称揚されていない大多数の官僚は、
程度に差はあれこの手の賄賂の授受をしていたことになります。
おそらく、賄賂に頼らずとも引く手あまたな有名人や良い家柄の者以外は、
抜きん出て出世していくためにこういった手段が必要だったのでしょう。
おお早速どもです。
これは有名な話ですね。
後漢の時のこととは知らなかったです。
日本の政治家にも聞かせてやりたい話ですね。
>>742
いつも楽しませていただいてる。

でましたな、「四知」っ!
「売官」に関する詳しい資料ってありますか?
746怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/28 00:15
>>745
資料ッスか。後漢書で良ければ、後漢書孝霊帝紀ですね。
孝霊帝紀光和元年の条。
「初めて西邸を開きて官を売り、関内侯・虎賁・羽林自り、銭を入れるに各差有り。
私かに左右をして公卿を売らしめ、公は千万、卿は五百万なり。」

同所の李賢注に引かれている「山陽公載記」によれば、
「時に官を売ること、二千石は二千万、四百石は四百万なり。
其の徳次を以って選に応ずる者は之を半ばにし、或いは三分の一とし、
西園に於て庫を立てて以って之を貯える」
とのこと。

金額の差は、両資料の示す年代がずれているためではないでしょうか。
(「山陽公(=献帝)載記」は献帝頃かそれに近い時期で、
開始当初よりインフレが進んでいたのでは?)

どうやら、関内侯・虎賁・羽林は公式に売りに出し、
公卿は一応非公式なものだったようですね。

なお、中平4年には「関内侯を売り、金印紫綬を仮し、世よ伝えること、
銭を入れること五百万なり」
となっています。これは関内侯だけですが参考までに。
後漢では関内侯は爵位ではなく官位だったの?
748怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/28 01:45
>>747
関内侯は爵位ですね。少なくとも直接の職掌や権限を持つ官では無いです。
746では多少誤解をさせてしまうような書き方だったかもしれませんね。
失礼しました。
そうなると「売官売爵」と言うべきだったのかもしれませんな。
竇太后(党錮で自殺した大将軍竇武の娘)が死んだ後、霊帝に売官を勧めたのが董皇后みたいだな。
このときは百官に反対されてるが光和元年に実施に踏み切ったんだろう。

確か、桓帝も売官したとかいう上奏だったかがあったような…
750怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/28 21:27
>>749
ありがとう。
確かに後漢書皇后紀の董太后の条には
「竇太后崩ずるに及び、始めて朝政に与り、帝をして官を売り貨を求めしめ、
自りて金銭を納め、堂室に盈満す」
とありますね。
反対されたという部分は私はまだ見つけてませんが。
桓帝の方も不明。分かる方、教えて下さい。

なお「売爵」なら前漢で辺境への兵糧集積を目的に実施された筈ですな。
751怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/28 22:36
ここらで一言。スレ趣旨には関係無いが勘弁。

750まで来ましたか。3/4ですね。
でももう479KBなので、800か850あたりで打ち止めにすることになりそうです。
次スレは、もし今後も需要があるなら立てますが、
みんなにイラネって言われるなら終わりにします。
大変なら無理しないで。
楽しんでいるなら続けて欲しいな。
753怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/28 23:35
>>752
いや、大変ってこたぁないです。
ワタシも勉強になりますし。
俺も勉強になるので続行の方で。

制度、というか二字名について思うことがあって。
病已=病気が已む
去病=病気が去る
無忌=忌まれることが無い
は分かるけど、「不韋」ってどういう意味だろ?
「韋」という名前もあるから上の三例のような打消しの意味の名前じゃないみたいだけど。
辞書引いたら単語の意味は”なめし革”…うーむ。
755怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/29 00:31
>>754
今辞書(角川新字源)を見ると、
「そむく」なる意味があるそうですよ。
要するに「違」と同じ。
これなら、「不韋」で「そむかない」という意味になりますね。

「食其」なんてもっと不明なのもありますけどね。
しかも「食」は「イ」と読むのでさらに意味不明。
>>755
レス早ッ!ありがとう。
「不韋」が「そむかない」なら、「韋」はまた違う意味なんだろうな。
俺の辞典にも「食其」は人名用字って書いてる。養うとか殖やすとかいう意味じゃないのかな?
>>755
ちとスレ違いですが
戦国時代の田不礼とかだと却って意味が悪くなってるような
何を思って名付けたのか理解に苦しみます
758288:03/09/29 20:57
おお、いつのまにやら二ヶ月経ってましたか。

>>742
 ごくいい加減に中哲概説をしますと、中国の儒教的な「天」は、
「果てしなく高く、万物を覆い、陰陽を操り、世界を在らしめている形而上の存在」
で、別の学派の言葉では「道」、現代のわかりやすい言葉だと「大宇宙の意思(藁)」です
 「上帝」は、天の祭祀の際に祭られるのため、「天」と同一視されやすいのですが、
本質的には皇帝の先祖神で、実体の無い天のために、子孫の中から
天命を与えるに相応しい者を貸し出している、いわば天の仲介者で、天そのものではありません。
 また、中国の「鬼」という字は日本風の「おに」というより、「ゆうれい」「人の魂」
を指すのですが、これと対になる「神」も、やはり日本語の「かみさま」だけなく、
「善であれ悪であれ、優れた魂」という意味で用いられます。
 祖先を祭るには、廟を立てその中に形代を置き、これに先祖を招いて祭るのですが、
その形代を「神位」「神主」といい、この「神」を和訳すれば「御先祖様」です。
 楊震個人を見守り、また楊震が天の次に気負わなければならない相手なのですから、
「四知」の「神」は楊震の御先祖様、具体的には高祖安平侯の楊敞を指すと思われます。

「天道」と「御先祖様」は、「カミサマ」というニュアンスから外れる気がします。
専門が禮制度なもんですから、ゴタゴタと口を挟んでしまいました。御無礼。
番号コテうざい
760758:03/09/29 21:37
いかん、この前来たときは228だ。288さん詐称しましたごめんなさい。

 過去ログを読んでいると、陶謙や袁術らに対して「儒教的価値観が薄い」
という評価がなされているのですが、では「儒教的価値観」とは何でしょう。
 儒教というのは、水のごとく変質が得意で、時代や地域の特性に応じて
自在に変化し適応してきた思想です。このため現代日本の中国哲学者は、
数千年読みつがれ変化しなかった、その本質は何であるか、ということを追求し
「儒教とは何か」を語ります。それはそれで儒教を現代に生かす正しい学問とは
思うのですが、結局それは日本的現代的儒教であって、中国のそれぞれの時代の
儒教ではないし、朝鮮半島や、その他アジア圏でそれぞれ変化した儒教とも違います。
これをわきまえた上で、中国後漢時代の人間の「儒教的価値観」を云々しているのですか?
 後漢の儒教というのは、他に例が無いほど多彩な価値観があり、
今文学・古文学の二大勢力に、それぞれ独自の家学、それらの折衷学派が混在する上、
そもそも国家公認の纎緯儒教からして
「光武帝即位は孔子によって預言されていたんだよ!」「な、なんだってー!?」
という内容を本気で説くトンデモ儒教だったりします。
 「漢の思想史を語る」場ではないのでこの辺でやめますが、
彼らは彼らなりの儒教に基づいて簒奪したり覇者を立てたり亡命政権を作ったりしてたのであって、
現代人の感覚で安易に「儒教的」かどうか判断するべきでない、と思います。
761怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/29 22:25
>>758,760
これはこれはお久し振りです。
訂正、補足ありがとうございます。
そうですね、「神」は現代日本で言うところの「カミサマ」では不正確でしたね。
失礼しました。

>トンデモ儒教
前漢の儒者は
「孔子は本当は天子になるべき天命を受けていたんだよ!」「な、n(ry
「孔子の先祖は殷人だから、子孫は殷王の子孫として封建を受けるべきなんだよ!」「(ry
などと語っていますね。
私なぞが758氏に言うのは釈迦に説法というヤツでしょうが。

あと、確かに「思想史を語る」スレではないですが、
後漢や三国の思想的側面を知る上では興味深い話だと思うので、
もし気が向いたらお願いします。
762怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/29 22:36
>>756,757
「食其」については昔から面白いなあ、とは思いつつもマジメに調べたことは無いです。
ただ、「食」を「イ」と読むのはこの場合だけだったような・・・。
あと、757氏の言う「田不礼」などは本当に悪い意味でつけたのかも知れませんよ。
「礼」に何か背いた形で生まれた子供だったとか・・・。
(その人物のことは知らないので適当言ってしまってますが)

前漢までは名前のバラエティーが豊富で、かつ意味がはっきりしているのが多いです。
二字名が多いのも特徴?
武帝頃から、「勝胡」だの「安国」だのといった勝利を記念or祈願する名前、
または「延寿」「千秋」などの長寿を祈願するような名前が増えているように見受けられたり。
が、王莽による「二字名の禁」以降は二字名はぐっと減っていますね。
三国頃は一番名前のバリエーションが少なかった時代かもしれません。
763怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/30 08:30
そういえば楊震は楊敞(前漢の丞相、息子楊ツは司馬遷の外孫)、
そして楊喜(項羽の死体を持ち帰って列侯になった人)の子孫ということになっています。

しかし、漢書には楊敞と楊喜の関係が一切記されていないのです。
もし本当に血縁関係なら、書かれていなのは不自然です。
ということで、少なくとも楊震が楊喜の子孫というのは偽称でしょう。
楊敞と楊震の関係は分かりませんが。

後、六朝時代あたりでは張氏は「張良の子孫の張湯の子孫」、
蕭氏は「蕭何の子孫の蕭望之の子孫」を自称していたようですが、
(というか南斉、梁の蘭陵蕭氏がそうだった)
張良と張湯、蕭何と蕭望之の関係も漢書では一切言及されていない筈です。

これは漢書注釈者、唐の顔師古の指摘なのですが、
六朝、唐あたりの貴族の家譜の類が当てにならないことが分かると思います。
>>762
田不礼は宋の人物で、後に趙の武霊王に仕え、長子の章が代に
封じられるに及んで相となる人物です。
後に「沙丘の変」を起こして恵文王の暗殺を試みますが失敗し、
章ともども死にます。

田不礼については、『呂氏春秋』が詳しいかと。
「食其」は「箕を用いて五穀を掲げ、穀物の豊作を願う」という意味。
と手持ちの「中国姓氏考」って本に書いてある。

あと命名に用いる場合の「不」は、意味のない添え字とも書いてある。
766怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/30 22:41
>>764
ありがとう。うむぅ、その辺詳しくネェ・・・。

>>765
情報ども。
なりゅほど、「其」=「箕」ですか。それなら納得。

でも、「不」が当時添え字として、ってのは正直「ホントかよ」とか思わないでもないですが、
何か典拠があるのかも。
767765:03/09/30 23:10
同じ本に

>『詩経』大雅の文王に、
> 帝命時ならざらんや[帝命不時]
>とあり、鄭玄の注には「不時は時なり」とある。命名に用いる場合の不も、同様に意味がない。

ってなってます。
768怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/30 23:16
>>767
アリガトッス。
反語表現ですかね?
その例で行くと
「不時」=「何ぞ時ならざらんや?」=「どうして時じゃないだろうか?」=「時である」と。
769765:03/09/30 23:40
>>766は春秋時代の復名についてふれた部分の一節で

>一見二字に見えるが、他の一字は之・施・設・式・斯・不・思など意味のない語気助詞か付属語。

とあるんで意味自体あるのかどうか。
「之」なら北京大学の研究室が編纂した「先秦文学史参考資料」に「之は語気助詞であり、之を以て姓名の間を介する」
と解説されてるらしいですけど・・・
韋だの不韋だの書いた者でし。

調べた。韋には「囲(=圍)」の意味もあるみたい。
これなら「そむく」じゃなくてもOKかな?
771765:03/10/01 00:24
>769の>766は>767の間違いです。スマソ・・・
772怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/01 00:39
面白いなぁ。
語気助詞、か。
まあ、二字名の場合は諱としては片方だけ避ければいい、とか言うし。
片方の文字は意味が無い、のだとすれば繋がるなぁ。
意味があるのは片方の文字だけ、って事か?

関係無いけど、孔子の諱「丘」は頭部が丘のようになっていたからだったっけ?
素直に身体的特徴とかが付けられたりしてるんだね。
773怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/01 08:22
尼丘山の形に似ていた、からだったかな?>孔子

三国志関係の人名での話といえば令狐愚と顧雍が真っ先に思い浮かびますね。
でも他には思いつかないや。何かありましたっけ?
ageる?
775怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/02 00:45
そうですね。
もうすぐ打ち止めだし挙げときましょうか。
776怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/02 08:23
小ネタ。

続漢書百官志注より、祭酒について(博士祭酒より)。
「祭酒」とは、もともと昔の礼の中で、
主人が供え物をするとき、賓客の年長者が酒を持って地を祭った、
ということらしいです。
ごめんなさい。儀礼か礼記にあるかも知れないけどそれは調べてません。

「祭酒」はそれから考えると「賓客の筆頭」という扱いで、
「部下」ではないのでしょう。
777怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/02 08:31
間違えて上げてしまった。

という事で、郭嘉がなった「(司空)軍祭酒」なんかも、
曹操としては最大限といえる礼遇なのでしょう。
「命令を受けるだけの部下ではなく、
 主人(=曹操)から敬意を持って遇される、軍事に長けた賓客の第一人者」
という意味合いでしょうから。

従来の命令系統からは外れた位置にある員外の官、
言い換えれば曹操の参謀、スタッフということですね。
(多分直属の部下を持たない)
>>777
>従来の命令系統からは外れた位置にある員外の官、
>言い換えれば曹操の参謀、スタッフということですね。
>(多分直属の部下を持たない)

そうなると、行動に制約がかからないというメリットなんかも
あるんですかね?
779あぼーん:あぼーん
あぼーん
780怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/03 08:22
>>778
>行動に制約がかからない
そういう面もあったでしょう。
ただ、郭嘉なんかの場合を見ると、
司空軍祭酒の彼は司空曹操に助言・献策をし、それ以外はしていないように見受けられます。
もちろんその裏で情報収集の類をしていたのでしょうが、
なんらかの決定権を持っていたり、兵を率いて出陣したりはしていないようです。
この場合の「祭酒」は、
このように賓客として主のブレーンとなる事を期待される存在として置かれていたのでしょう。

781怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/03 08:24
おや、あぼーんされてる。
どなたか依頼していただいたのでしょうか?
依頼した方、ありがとうございます。
782760:03/10/03 22:45
>761
孔子感生帝説、孔子素王説というやつですね。その辺ちょっと概説してみましょう。

「孔子は黒帝龍王の子。黒帝は湯の先祖であり、母は母で湯の子孫。だから孔子は殷の王族」
というのが感生帝説で、

「黒帝の子だから王となる素質はあったが、周の天命が尽きていないので無冠に終わった」
というのが素王説。

 また春秋公羊学派では、
「孔子の天命は、将来周に代って天下を治める王者のため聖人の制度を作ることであり、
 その規範が最も具体的に書き著されているのが春秋である」
といい、前二者とあわせて
「聖人孔子は天命を受けて劉氏の天下を予測し、漢のために制度を定めた。
 漢は天命を受けて建国されたのだから、聖人の制度を用いる権利と義務がある。
 儒教を用いることで、漢は神聖帝国として繁栄するのだ」
といった主張が行われました。
 前漢初期は黄老思想が幅を利かせており、儒者の立場は弱いものでした。
孔子を神格化してハクをつけ、漢帝国を持ち上げて皇帝に取り入ったわけです。
「儒教の国教化」で知られる董仲舒の家学は公羊伝なので、漢の正統儒教は公羊学派のそれでした。
783782:03/10/03 23:06
容量が残り少ないそうなので、続いて董仲舒の「天人相関論」のみ紹介します。

「人の体は天地を象って作られている。人体に360の骨のがあるのは周天360度、
 肉は地の厚み、血管は水脈、五臓は五行の運行、耳目は日月、呼吸は風に相当する。
 だから人間は誰でも、天地の運行に何かしらの影響を受けるし、与えている」

というのがその前提。でも天地と人体についてはかねて陰陽家が主張しており、ここまではパクリ。
董仲舒の天人相関の特徴はこの先で、これに「休祥災異説」が加わります。

「万民に優れた者、つまり天子であれば天地への影響は飛躍的に増す。
 天子が徳を修めれば天下は治まり天が瑞兆を降すが、
 修めなければ天は陰陽を乱し災害を起こして警告する。
 行いが改まらなければより激しい天災を起こし、
 それでも改めなければ諦めて天命を剥奪しその国を滅ぼす」

孔子はこのことを獲麟の故事に悟り、漢王朝に示すために『春秋』を編纂した、と公羊伝は説きます。

つまり「徳のある天子は天と心を一るにする。だから天下を支配する資格を持つ」
という理屈で、画期的ではないけども、先秦哲学の集大成だとされています。
少なくとも、太后と古株どもの黄老思想に対抗しうる理念を探していた武帝にとっては、
先の「儒教は神聖王朝の制度」といった宣伝文句も併せ、十分過ぎるほど魅力的に映りました。
漢の国教・儒教は、この「天人相関説」を下敷きとし、漢皇帝の権威を守るために発展していきます。
 もっとも、董仲舒は災異説により武帝を諫めたかどで朝廷を追われてしまったぐらいで、
武帝にとっちゃ皇帝を神秘化さえしてくれりゃ修徳の部分なんざどーでもよかったんですが。

 ここらへん中哲史でも重要な所ですし、董仲舒の思想にはまだ「陰陽刑徳説」が続くので、
私なぞの正しいかどうかもわからないつまみ食い解説を鵜呑みにすることなく、
御自分の目で専門書を一読されることをお勧めいたします。
長!
よくも、まぁ突っ走るもんだ。
手段のためには目的を選ばんヤツだな。
786783:03/10/03 23:41
関連してもう一丁。三公の責任について。

 皇帝の責務が天と一体になることだとすれば、宰相の役割とは何でしょうか。
「三公は天子を補佐し陰陽を調和させるのが仕事だ、些事は知ったことか」
これぞまさしく大體を知るお言葉。

 この時代、外戚や宦官と対立した三公が、災異責任により罷免される事件がままありました。
が、先に掲げた通り、この時代の天災は、全て皇帝の不始末による別の意味で「人災」でした。
それは「司空が河川工事を怠ったから、日照りの被害が増した。責任をとれ」
とかいうことじゃーなく、日照りが起きたそのこと自体がもうアウトなのです。
陰陽を調和させる手段が皇帝と共に徳を修める事しかない以上、現代人には運次第にしか見えませんが、
「日食は天がマジギレ寸前だから起こる。祭祀を代行した大尉の罪だ」
とか平気で言われます。
 実際に災異が起こってしまった以上、それを事前に防ぐため補佐役を承った三公は
任務を果たせなかったことになり、当然弾劾され、本人も自ら進退を伺うことになる。
ここまでは「孔子の制度」の範疇で、恐ろしいことにイチャモンでも何でもないのです。
 これが批判されるのは「外戚や宦官が、天子の人事権に介入し勝手に処分を左右している」
ことに対してでした。「陛下は間違うはずないのに、君側の奸どもが!」ってな風に。
 もっとも、皇帝が「朕一人の罪」として自らを処罰し、臣下の罪を問わないのが、最上級の解決策です。
事実、光武・明・章の三帝のように、聡明で儒教の素養を持つ皇帝ががっちり権力を握っている時代には、
一人として災異責任により罷免された三公はいません。
 それとは対照的なのが、宦官を用いてある意味で強力な君権を持っていた霊帝です。
責任は全部三公の無能のせいにして、別枠の官位売買制度と結びつけ、

災異キタ━━━(゚∀゚)━━━ !!!! → 三公あぼーん → 新三公から1億銭(σ゚д゚) σゲッツ
のコンボをかまし、霊帝紀をざっと数えるだけでも20人以上の三公をなぎ倒しました。
しかしまあこれでも、儒教に基づいた制度にゃ変わりなかったのです。
 基本的に性善説にのっとっているせいか、知恵のあるやつが悪用するともうガタガタ。
だから刑より徳だ、と孔子は口をすっぱくして言ってたのに。
スレの断末魔が聞こえてくるようだw
ふと思ったので質問!

聖徳太子の『冠位十二階』って
陳群の『九品官人法』と似てる気がするんですが、
既出もいいところですか?
789怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/03 23:57
>>782,783,786は
天人相関説とかこの時代を理解する上で大変重要なキーワードが解説されてるので、
そのあたりに興味ある人には面白いと思います。

なお、日食などの災異の咎を三公に帰するのをやめさせたのが曹丕。
魏の黄初2年5月です。
これは思想的な変化と、三公と皇帝の政治的な関係の変化との両面から捉えられますね。

あと話は変わりますが、
>宦官を用いてある意味で強力な君権を持っていた霊帝
と指摘されているように、霊帝はケッコウやり手かもしれない。
前漢で言えば宣帝に近い?
宣帝になれなかったのは、漢自体が傾いていたから・・・(多分)


>>787
800で乗り換えですかね。




もうだめぽ・・・
791怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/04 00:01
>>788
少なくともここでは既出ではないですね。
私も詳しくないですが、
九品官人というか官階を九段階に分けるのは魏以降もずっと続き、
聖徳太子が手本にしたであろう南朝や隋あたりの制度も同様でした。

それより、現代日本の勲章制度に九品制の名残がありますよ。
「勲2等」とか言ってるでしょ?
霊帝といえば、陶謙の部下の曹宏って・・・
793怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/04 00:04
すこし早く終りそうではありますが、800位で終わりだろうとは思ってたので・・・。
AA以外でこの消費は主に私のせいですな。スンマセン。
次スレ立ててこよう。
794786:03/10/04 00:09
追記。

>>356に、司空劉弘が罷免された理由は「不久雨」と「連月雨」とどっちだ、
とありますが、雨の災異は地を掌る司空の責任なので、どっちでもあまり変わりません。
ただ『後漢紀』でも長雨の記事があるので、おそらく『後漢書』が正しいのでしょう。
 雨の災異は大概日照りのほうなので、董卓伝の元史料に「災異責任で罷免」としか
書いてなかったのを「司空が災異で罷免された→じゃ日照りだ」と陳寿が脳内変換したとか。
いや、あくまで仮説だけどな。

また>>358で、永遠の青さんは
 「久しく雨ふらざるを以って、乃ち朝廷に諷し、司空劉弘を策免し、而して自ら之に代わる」
を、
 「流言を流して劉弘を罷免させた」
と解釈していますが、実際長雨だか日照りだかあった以上は別に流言じゃないので、
「諷」は、最近雨降らないなぁ、と「それとなく諭した」ということでしょう。
後の部分は意を察した側近の政治工作。

 なお順帝の大尉?參は、夫人の人殺しがスキャンダルになって罷免されましたが、
表向きの理由は災異責任でした。これは三公のメンツを保つための措置ですから、
むしろ罷免理由が災異責任でなかった方が、元三公にとっては恥だったようです。
795怨霊 ◆NRtIkON8C2
次スレ立てました。

【政治や】 漢の制度や文物を語る 【思想も】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1065193864/

つうことで
>>794氏やニセクロ氏、最近見ない永遠の青氏、
そして名無しの回答者、質問者、ギャラリーの方々、
皆さんヨロシク。