1 :
無名武将@お腹せっぷく:
正直こいつどんくらい凄かったのよ?
2 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:44
3
g
e
t
3 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:44
2
4 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:47
5 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:47
あんたの5000000000000000000000000倍すごい
6 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:47
7 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:51
蘭丸の肛門を独占できるほど凄かった
8 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 17:53
童門冬二の本でも読んで出直せ!
レモン200個分
10 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:02
11 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:03
俺が何かしたか?したなら悪かった。
信長について語ってください。
信子ちゃんスレに逝け
すべてはそこからだ
>>13 逝ってきたよ。正直ハア?て感じ。
信長スレと関係ないじゃん。重複じゃないじゃん。
とりあえず土人ヲタは氏ね。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:12
信長は元祖構造改革!
1.楽市楽座(中間搾取の撤廃による商業の活性化)
2.兵農分離(農閑期の出兵可・高い士気)
3.新兵器鉄砲の組織的活用(長篠の合戦が有名)
4.鉄甲船の製造(毛利水軍の撃破の立役者)
5.政教分離(比叡山延暦寺の虐殺&石山合戦)
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:16
17 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:17
楽市楽座は信長発案じゃないし兵農分離も本当はしてない
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:17
19 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:21
>>17 >楽市楽座は信長発案じゃない
そうだね。確か六角氏が最初だっけ?
でも比較的広大な支配圏で楽市楽座や関所撤廃を
やったからこそ、効果が絶大だと言える。
>兵農分離も本当はしてない
兵農分離が完成しきったのは秀吉の代だけど、
信長の代でしてないわけではなく過渡期だっただけ。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:26
>>20 そうだよ、せっかく1が良スレを期待して立てたのに
荒らし連中に荒らされたから、ネタスレと誤解されたのだよ
農閑期じゃなくて農繁期だった!スマソ
農閑期にはどこの大名でも出兵できるよな・・・
23 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:36
>>1.楽市楽座(中間搾取の撤廃による商業の活性化)
もともとは六角氏。
>>2.兵農分離(農閑期の出兵可・高い士気)
農閑期でも上杉などは出兵している。傭兵がなぜ高い士気なのかと。
豊臣時代でも兵農分離はできていない。
>>3.新兵器鉄砲の組織的活用(長篠の合戦が有名
三段撃ちは無かったとされている。長篠の合戦の勝因は主な兵力と地理。
>>4.鉄甲船の製造(毛利水軍の撃破の立役者)
実際証拠は無い。
>>5.政教分離(比叡山延暦寺の虐殺&石山合戦)
キリスト教を信仰。
とマジレスしてみる。
農閑期じゃなくて農繁期だった!スマソ
農閑期にはどこの大名でも出兵できるよな・・・
25 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 18:47
【1】楽市楽座(中間搾取の撤廃による商業の活性化)
>もともとは六角氏。
六角氏以外にも用いた大名が少なくない。
各大名其々の徹底度は… 誰か補足頼むw
【2】兵農分離(農繁期の出兵可・高い士気)
>豊臣時代でも兵農分離はできていない。
理想・構想を言いたかったんだろう。
書いてあるだけを考えると、曹操の方が格段に凄くなってしまう
【3】新兵器鉄砲の組織的活用(長篠の合戦が有名
>三段撃ちは無かったとされている。長篠の合戦の勝因は主な兵力と地理。
輸入後、30年近くも経って『新兵器』も無いだろ。
戦術的に素晴らしかったのは電撃的速攻と駆け引きの巧さだと思われ
【4】鉄甲船の製造(毛利水軍の撃破の立役者)
>実際証拠は無い。
撃破したのは確かだが、鉄甲船かというと微妙。あまり信じられてはいないな
戦勝要因の一つ、程度で良いと思われ
【5】政教分離(比叡山延暦寺の虐殺&石山合戦)
>キリスト教を信仰
そんな事は無いと思われ
彼は無信仰であり、かつ多信仰と言えるのでは?
>>23 >もともとは六角氏。
おっしゃる通り。
ただ、港をたくさん抑えているなどの好条件な大名が
やったのがデカイ。
内陸国の六角氏ではウマ味が少ないので、
全国で目立つ経済改革の結果が出たのは信長が初。
>農閑期でも上杉などは出兵している。
>>22参照。
>傭兵がなぜ高い士気なのかと。
譜代の部将たちが率いていて、軍律がしっかりしていた。
信長は負け戦の撤退が上手いので、総崩れにはならない。
兵農分離とは直接関係ないかも知れない。
>豊臣時代でも兵農分離はできていない。
刀狩令で完成したと見てよいと思う。
>鉄甲船の製造(毛利水軍の撃破の立役者)
実際証拠は無い。
フロイスの「日本史」に記述がある。
機動力は不明だが、限定された地形で迎撃するには
有用な兵器だ。
>キリスト教を信仰。
弾圧をしていないだけで、別に国教にしたわけではない。
また本願寺などと違って、キリスト教が
信長の権力を脅かすようなことはなかった。
宗教を政治に介入させないことが政教分離。
>三段撃ちは無かったとされている。長篠の合戦の勝因は主な兵力と地理。
輸入後、30年近くも経って『新兵器』も無いだろ。
戦術的に素晴らしかったのは電撃的速攻と駆け引きの巧さだと思われ
ここは全面的に同意。
『新兵器』にいち早く着眼し、生産ラインを確保した点に注目されたい。
長篠合戦で千丁(三千丁の説もえり)揃えられる事実が重要。
>戦勝要因の一つ、程度で良いと思われ
象徴的な兵器ということ。
もちろん信長の持ち味は、多数で少数を破ることにある。
有名な桶狭間の合戦は例外と言える。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:04
>傭兵がなぜ高い士気なのかと。
>>譜代の部将たちが率いていて、軍律がしっかりしていた
戦国時代の傭兵は普段から訓練していたの?むしろ臨時兵で
訓練はしていないと思われ。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:08
日本史に鉄甲船の記述あるのか・・・ふーん。
俺が知る限り鉄甲船の記述は無いようだけどなぁ。
>>29 >戦国時代の傭兵は普段から訓練していたの?むしろ臨時兵で
訓練はしていないと思われ。
訓練よりも兵の多寡、軍律や的確な指示が戦果を左右している。
兵の練度では長篠合戦の時の武田軍などが優れていた。
>>30 手元にないのでこちらから明示できないのが弱い。
後日明示する。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:17
かってに結論。
1.楽市楽座(中間搾取の撤廃による商業の活性化)
やったけど初めてじゃない。
2.兵農分離(農閑期の出兵可・高い士気)
やったけど完成してない。
3.新兵器鉄砲の組織的活用(長篠の合戦が有名)
実際鉄砲のおかげではない。
4.鉄甲船の製造(毛利水軍の撃破の立役者)
やってたらすごい。
5.政教分離(比叡山延暦寺の虐殺&石山合戦)
政教分離する気は無かったが抵抗したから結果的になった。
すごい。
結論 誇張報告だけど優秀。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:18
>>32 オルガンティーノが書いた手紙の中に
ポルトガル船に似た大砲を積んだ船のことは書いてあるけど、
当時、世界でも見なかった鉄を張った船とは書いてないよ
ま、明示してくれるようだから、別の項かもしれん
期待してるよ。
<アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)←脳の機能的疾患(遺伝が要因)>
http://www3.ocv.ne.jp/~cochome/kaisetsu.htm#chigai http://www.autism.jp/l-02-03-aspe3.htm http://www.geocities.co.jp/Beautycare/5917/as/ ●接し方のルールがわからず無邪気に周囲の人に対して迷惑なことをしてしまうこと
がある。人を傷つけるということには鈍感です。年配の先生に向かって「おばあさん
先生おはようございます」と明るい大声で挨拶する生徒もいる。こういった言動をす
る場合にも彼らには悪意はない。
●小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがある。
●融通が利かないことも学校生活で問題になる。時間割の変更や突然の教師の欠勤と
いう事態で不安を感じたりかんしゃくをおこしたりする。あまりに規則に厳格なため
に、遅刻した同級生に延々と注意をしたり、修学旅行などで消灯時間をかたくなに守
り、他の生徒の顰蹙をかったりすることがある。
●行動・興味・活動のパターンが貧困で反復常同的なことも自閉症の特徴である。すな
わち、日常の活動の様々な面にわたって柔軟性のないルーティン(決まった手順や日課)
を押しつける傾向、これを慣れ親しんでいる習慣や遊びのパターンだけでなく、たいてい
は新しい活動にも押しつける。そしてルーティンや個人的な環境の細部の変化(家の中の
置物や家具の移動によるなど)に対する抵抗がみられることがある。
●揺れる木の葉を見続ける子どもは興味のレパートリーが狭いとも言え、視覚的な敏感さ
があるといっても良い。
●精神遅滞を伴うものと伴わないもので大きく分かれる。100%果汁のオレンジジュー
スを思い浮かべてください。それにだんだん水を加えて薄めて行くと終いには水にごく近
くなる。一口飲んで「オレンジジュースだ!」とわかるものは自閉症、水に近いけれどな
にかオレンジの味が混じっているのがアスペや高機能・・。その濃度はさまざま。濃いオ
レンジジュースであったとしても早期の療育や周りの対応によって水に近づいていくこと
は可能。しかし間違えてはいけないのはオレンジジュースが一滴でも落ちている場合は
「純粋な水」にはなれないのです。
>3.新兵器鉄砲の組織的活用(長篠の合戦が有名)
実際鉄砲のおかげではない。
長篠の合戦と結びつけてしまったために
誤解を招いてしまった。
鉄砲は長篠の合戦の決定的勝因ではないものの、
練度不足を補うだけの兵器であったことは事実。
また生産ラインをしっかり確保できている点が
何より大きい。
雑賀の傭兵集団もこの条件は満たしているが。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:32
信長よか北条早雲の方がすげえ
39 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:39
>>37 信長が鉄砲の生産ラインを確保できたのは
地理的要因でしょ。
今川だって武田だって鉄砲集めようとした
し島津、大友は実際鉄砲集めてたでしょ。
毛利はどうなのかな?誰か詳しい人頼む。
まあ上洛のご褒美として堺を貰ったってのは
すごいね。
鉄砲といえば龍造寺
41 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:52
なんで?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 19:53
>>39 褒美として貰ったのではなく要求したのが正解では
そうでした。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:08
信長は武田家を攻め滅ぼしたけど、後継者である秀吉や家康は
信玄の政策を見習ったから、政策的には信玄が信長に勝ったね
45 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:08
信長が優れているのは
1、弱兵でいかに勝つか(鉄砲や長槍、圧倒的兵力)
2、戦略の構想(今川義元を討ち取っておきながら
領土にしなかった。本国の移動とう)
にあると思うのだがどうよ?
46 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:17
45が「今川義元を討ち取っておきながら領土にしなかった」と
アホなことを言ってますが…
47 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:20
あっと悪い悪い。
今川義元を討ち取っておきながら
そのまま敵とせず斎藤のほうに向
きをかえた
にすりゃいいんだろ。
つまり傷を
おわせただけで、今川のせがれに
傷を治す能力が無いと見こんでた
こと。
>>45 むしろ優れているのは
勢力の巨大化に合わせて
戦略戦術を上手適応させ
人材、物資などを勢力規模に合わせて、巧みに活用できた事だと思うんだが
信長が優れているのは独自の美学を持ち続けた事、これが大きいと思う次第
いやいや、天下を取るということがどういうことか体現したことだろ。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:28
信長が優れているのは
誰も他の大名がやらなかった革新的な経済政策
戦略的にいえば方面軍の設定(必要性に迫られたともいえるがこれにより多方面での軍団運用が可能に)
まだ不徹底ではあったがに兵農分離政策を行なった。
この辺ではないかと思うのだが。
>>44 秀吉は信玄のどの政策を見習ったんだ?
どっちかといえば信長的だと思うがね。
家康は確かに軍事は信玄的と思うが
53 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:34
>誰も他の大名がやらなかった革新的な経済政策
これは無いだろ。
>まだ不徹底ではあったがに兵農分離政策を行なった。
信玄だってやろうとしたぞ。次男三男を間引きするな
といってる。信長が優れてないといってるわけじゃない
が。
秀吉の軍事は信長的、ただし懐柔策については信玄を見習っている。
家康は軍事や政治など殆どの面で信玄的、ただし一部分は信長を見習ってる。
でも信長がいなけりゃ、中国の春秋戦国時代みたいに
あれから何百年、群雄割拠の時代が続いたかも知れないな。
今川武田上杉北条毛利島津長宗我部だとかで。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:38
>>47 それも違うなー実際は尾張国内の今川勢力を駆逐しているじゃん。
あと義元が死んだとはいえ今川家は遠江駿河2カ国の大国、また北条、武田と同盟関係にあった。
易々と攻めれると思うか?三河には松平がいたので、それと同盟するとこで東の防壁にしたと思われ。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:42
秀吉は懐柔策を信玄を見習っているのではなく、もともと彼自身のやり方でしょう。
それは美濃攻めで既に発揮されてますよ。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:45
>>57 >秀吉は懐柔策を信玄を見習っているのではなく、もともと彼自身のやり方でしょう。
だけど、懐柔策の要領については信玄を見習って上達させている。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:46
>>56 そのとおりだが、漏れが言いたかったのはなみの
将なら今川と徹底抗戦していただろってこと。
>今川家は遠江駿河2カ国の大国、また北条、武田
と同盟関係にあった。
確かに信長不利だが、氏真がしっかりしていても
し国力を持ちなおしたらまた信長ピンチになるだ
ろ。 それなら弱っているうちに徹底的につぶし
ておこうって思うジャン。漏れなら思うね。
そこが汎将と信長の違いかなーと思ったわけよ。
つうか、今川以上の宿敵は斉藤かと。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:49
>>59 義元が死んだだけで、配下の武将はほとんど健在。兵力もそこまで損なわれたわけではない。
これと正面から戦うのはかなり無謀。
だいたい、まだこの時期信長は尾張統一してない。外より内を固めるのが先。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:50
>>59 お前ゲーム厨か?
単純に当時の織田の総兵力と今川の総兵力を考えてモノをいえよw
63 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:53
秀吉って信玄のところに何度か外交で使いしてたよな。
そのときの信玄の自分に対する態度とかを見習ったんだろうな。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:54
65 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:55
あぁ太閤立志伝の話だね。漏れもよく行ったよ。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 20:57
ん?漏れは別に信長をばかにしているわけ
じゃないが。
>単純に当時の織田の総兵力と今川の総兵力
を考えてモノをいえよw
松平ってどうよ。圧倒的に今川有利だったら
信長につかないだろ。つまり今川は義元が討
ち取られてぼろぼろだったわけだ。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:00
>>66桶狭間直後は織田と交戦してる。氏真の器量を見切ってから織田と同盟した。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:00
297 名前:日本@名無史さん :03/05/11 20:46
>>220 秀吉の朝鮮出兵の頃ですら半数近くが農民。
信長が兵農分離なんてできてたという証拠は一つも無い。
マンセー馬鹿どもの脳内妄想。
といってるけど・・・
ぼろぼろだったのは間違いないだろうが、信長が渡り合うのと
松平が渡り合うのとでは意味が違うような
70 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:01
>>67 なるほど。どうやら無知だったようだ。
いってきまつ。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:03
>>19 楽市なんてのは本当は誰が考えたのか分からない。
わかるのは、寺内町など公権力の及ばない地域で発生したということ。
六角氏や今川氏の楽市は既にあった楽市に大名権力として認可を与えた
ものに過ぎない。信長の岐阜加納も同じく。
そして信長は寺内町の真似をして安土に楽市を作ってみたわけだな。
信長の「楽市令」は安土含めて確か三箇所程度しか確認されてないはず。
しかも、オリジナルは安土だけ。
信長が道三と会見したという尾張富田正徳寺なんかも楽市だった。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:07
73 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:09
>>27 >>豊臣時代でも兵農分離はできていない。
>刀狩令で完成したと見てよいと思う。
刀狩で完成したのは身分の分離。朝鮮出兵の頃でも動員した人間の
半数近くが農民だった。
>>鉄甲船の製造(毛利水軍の撃破の立役者)
> 実際証拠は無い。
>フロイスの「日本史」に記述がある。
>機動力は不明だが、限定された地形で迎撃するには
>有用な兵器だ。
捏造だな。『イエズス会士日本年報』にオルガンティーノの報告はあるが。
いずれにしろ、装甲には全く触れていない。大砲を積んだ船だと分かるのみ。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:09
>>70 そんなに卑屈にならなくていいよ!
信長は家康と同盟を締結した後も、今川より斉藤を攻略目標にしているよ。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:10
>>74 そりゃ東と同盟したんだから、北にいくしかないだろ。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:11
>>28 >『新兵器』にいち早く着眼し、生産ラインを確保した点に注目されたい。
>長篠合戦で千丁(三千丁の説もえり)揃えられる事実が重要。
じゃあ信長よりずっと早く3000挺以上を揃えた紀州勢が最も先進的だな。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:14
>>45 どこの誰が兵力を集めようとせず戦に望む?
長柄なんてどこでも使ってたし鉄砲の配備に熱心だった大名も
いくらでもいる。
だいたい斎藤とは既に敵対関係にあったのだから、それを放置して
東に進むことなぞそもそもできないだろ。
どちらかで妥協せざるを得ないのであり、家康がうまい具合に独立を
狙っていたから引き込んだだけだろう。
信長の兵農分離というのは、
農民と職業兵を分けると言う意味ではなく、
農将と職業将を分けると言うのが一般的な意味だと思う。
つまり、部下の土豪たちを城下に住まわせて云々とか、
配下に土地を与えるけど、その権限は制限し、
または実際の管理は織田家から目付けなどの官僚を派遣するとか、
まぁそんな感じで、
土地と人民の一元的管理という戦国大名の特徴的政策のことを
一般的に農兵分離と言われていると思う。
もちろんこの政策は信長が最初だとか特別凄いとか、そんなのは知らないけど、
秀吉の刀狩とは違う意味の農兵分離という単語なんじゃないかな?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:18
>>75 そりゃそうだが、私の言ったことは事実だよ
80 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:20
>>79 事実と、そのときの信長の戦略はまたべつものだろ。
おれは信長ではないから本当にそう考えていたかどうかは知らんが。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:22
74 :無名武将@お腹せっぷく :03/05/11 21:09
>>70 そんなに卑屈にならなくていいよ!
信長は家康と同盟を締結した後も、今川より斉藤を攻略目標にしているよ。
75 :無名武将@お腹せっぷく :03/05/11 21:10
>>74 そりゃ東と同盟したんだから、北にいくしかないだろ。
79 :無名武将@お腹せっぷく :03/05/11 21:18
>>75 そりゃそうだが、私の言ったことは事実だよ
会話になってないね・・・
82 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:22
当時、茶というのは堺辺りの商人が楽しんでる程度で、
当時の文化というほどのこともなかったけど、
信長が政策的に扱い、または保護したりしたので、
信長の権力の成長とともに文化として大成し、
秀吉などは大茶会などというのまで開くほどになった。
というのはどうだろう?
まぁ権力者の嗜好が広まっただけなら、
信長を褒めるのは茶関係者だけかもしれないけど。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:26
金を与えて、いざ叛かれたときに軍資金にされるよりも、茶器に価値を持たせてそれを褒美として与える
のを考え出したのは名案だろ。
信長は虚像がはがれても尚、異彩を放ち続けるのはなんでだろう
なんでだなんでだろう
87 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:28
>>77 >どこの誰が兵力を集めようとせず戦に望む?
別にどこの大名も兵力を集めないとは言ってないよ。
>長柄なんてどこでも使ってたし鉄砲の配備に熱心だった大名も
>いくらでもいる。
信長の長柄はほかの大名より長かったよ。
>鉄砲の配備に熱心だった大名もいくらでもいる。
そりゃ知ってるよ。鉄砲を使わなかったほかの大名より
優れている程度のことを言いたかったの。
>だいたい斎藤とは既に敵対関係にあったのだから、それを放置して
>東に進むことなぞそもそもできないだろ。
これはさっき論破された。もうわかったって。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:29
武田信玄の使った茶器とか残ってるけどね。茶を粉にするための
石臼とかさ。堺だけなんてこたあない。
そもそもの茶は「禅茶」であり禅宗と共に広まったもの。
そして武士は禅宗を好んだ。
だからそれなりに広まってはいた。
もちろん、それを政策的に用いたという点では信長秀吉だろうが、
素養が全く無い所にはいくら彼らでも広められんよw
89 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:30
>>87 >これはさっき論破された。もうわかったって。
厚顔無恥な香具師だなw
90 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:32
>>87 >信長の長柄はほかの大名より長かったよ。
『信長公記』首巻に「三間や三間半」と書かれただけだけどな。
三間柄はどこの大名も採用してるし、三間半がどれほど使われていた
のかは何の記録も無い。細かい軍役の一つでもあれば分かるんだがね。
明智光秀の軍役では槍の長さは特に規定されていなかった。
>そりゃ知ってるよ。鉄砲を使わなかったほかの大名より
>優れている程度のことを言いたかったの。
使わなかった大名?
むしろ珍しいんじゃないか?
そうか、茶だけについても、そんなに褒めるほどのことはないかもね。
茶の保護も、時の権力者は色々保護してるので、
別の人が天下人になっても茶保護の話は出るだろうしな。
なんだか他の話が盛り上がってるようなので、
他のネタ振りは後にするか・・・・
93 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:36
信長の虚像が剥がれたと言っても、
織田家が天下人になり、天下統一も出来そうだったという事実と、
本能寺でアボーンされて実に惜しい!どうなったのか妄想興味津々!!
というのがある以上、英雄視は続くだろうな。
良い曲出してオリコン一位など取って、直後に事故死したりして
「やつは天才!実に惜しい!他のやつは駄目だ〜」
などといわれるのに似てる気がする。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 21:43
96 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:02
で結局どこが優れてたの?
全部が優れていた
ただしちょっと神格化されすぎ
ただの乱暴なおっさんだった一面も強い
98 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:05
1位かどうか知らんが尾崎豊みたいなものか
喧嘩が一段落したようなので、他のネタ振り
・うつけやカブキ者というのを有名にした!リアルDQNどもに夢を与えた!!
・家臣団統制が進んでいた!与力・同心制などによる権力統制カクイイ!!
・最高にして唯一の権力者を目指し、神になろうとまでした!!(カモシレナイ)
・外来物や珍宝を好むだけでなく、マントやブーツで外出したカクイイ!!
・・・・成金や成功DQNを褒めてるような気がしてきた・・・
全部は優れてないだろう。
戦争も負けが多いし、家臣統率にも失敗してる。
敢えて英雄性を問えば、
極端に突出したカリスマ性と極端に低い人的魅力
ってとこでどうだろう?
戦争は常勝将軍と言ってもいいと思うし、
最後には勝つ凄い将軍とも言ってもいいと思う。
まぁちょこちょこ負けやひきわけてんのは間違いないんだけどね・・・。
やっぱさぁ、信長の凄さは、粘着性かな・・・
英雄に必須の粘着性
我慢強さ・諦めない心・・・
そんなことで信長を褒める人が少ないのは、
そんなもののイメージが泥臭いからだろうか
我慢強さや諦めない心というイメージは、家康の方が上だしね・・
信長の魅力で大きいのは「全て行動、結果で示した」って事だと思っとります
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:22
戦闘は弱いよな。本願寺やら姉川やら
最終的には勝ってるが・・・
107 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:22
信長の凄さは尾張が大国だったんだろ。
美濃も大国で伊勢も大国で近江も大国だな。
ああ、信長といえば、アレがあったろ
譜代や身分よりも有能者を優先する合理性!
滝川・明智・秀吉など・・・
これも良く褒められるんじゃない?
身内を粛清しすぎただけだろう。
境遇には同情するが
まあ信玄なんぞは足元にも及ばんぐらいの天才であることは間違いない
>>109 急激な成長で譜代の数不足で使ってるうちにそうなったんじゃねーの?
113 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:28
なぜそこで信玄が出てくるのかと・・・
タイプが違うだろう。
成功して失敗するのが信長。
地道に成功して寿命に勝てないのが信玄。ってとこ?
115 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:29
今の広告代理店みたいだな…
有能だったらすぐに出世出来るが、一度失格の落胤捺されると
リストラや閑職にまわされる…
身内粛清をやっていないところに限って
統制が取れず悩み続けている
謙信とか
117 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:30
今と違うのは刑法が無いので恨まれると殺される危険性もある
ということか。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:30
まあ信玄なんぞは足元にも及ばんぐらいの運が良いことは間違いない
119 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:31
信長の優れた誰にも真似できなかった事
速断即行
これは他の大名では類を見ない程
信長個人に判断力と決断力があった。
そして地理的要因が大きかったと思う。
確かに意思決定の早さ、つうか家中が纏まる暇もなく
一人突撃して付いてこさせるってのは、凄いのかもしれない。。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:36
それが裏目に出ることも多かったのだから、何ともいえんな。
運が悪けりゃ早々に死んでたぜよ。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:38
俺ら凡愚は運としか見えんかもしれんが
偉才には成算があったのかもな
裏目にでて本能寺であぼーん
異才なのか?奇才?鬼才?偉才?天才?秀才?
ノブにはどれが適してるだろ?
128 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:44
勤皇家
漏れ的には奇才かな?
>>128 信秀なら分かるが、信長は… 疑問符を付けたい
・上京したら堺を押さえ、浅井を滅ぼしたら国友を抑え、
または大湊で砲船を作らせるなど、最新兵器活用を忘れてない
・少数で勝っても、それに驕ることなく大兵を準備した
しかし必要とあらば小兵で突撃することも忘れなかった
こんな風に書かれるとチョットずつ凄いっぽいから、秀才かなぁ?
131 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:50
奇妙な才能
132 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:51
>しかし必要とあらば小兵で突撃することも忘れなかった
これってなに?
133 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 22:53
速断即行は過去の世界の征服者の特徴的なトコだと思うけどなぁ
これって意外に出来そうで出来ないね
>>132 桶狭間で少数で突撃という他に、2回か3回は突撃してるというか、、
例えば上京後に岐阜に戻ると三好が攻めてきて
「ぬぉー 俺はすぐ出る!みんな付いて来いー」とか
小城に本願寺が攻めてきて取り巻いて、信長援軍に行っても敵のほうが多くて
「ぬぉー 俺はあの城に入るぞー みんな付いて来いー」とか。
それで本願寺側もびっくりとか、そんなん。
信長=異才
秀吉=奇才
家康=秀才
信玄=天才
謙信=鬼才
137 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:06
138 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:07
長島は伊勢だろ
139 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:14
伊勢長島は願請寺
140 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:14
情をかけても裏切られてばっか。
信行・土田御前の乱
浅井長政の乱
足利義昭の乱
武田信玄の乱
上杉謙信の乱
松永久秀の乱
荒木村重の乱
明智光秀の乱
勝手に叛いて滅んでいく輩ども・・・
信友は入らない…ですか。そうですか。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:16
武田信玄も上杉謙信も主家は織田じゃないだろ!
143 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:19
六角や波多野もはいるのでせうか?
144 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:20
貢物や養女をやって情をかけましたが裏切られました。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:22
>>143 香具師らにかけられた情はなく
ただ潰されただけの存在
146 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:23
乱ってのは主家に対して行うものだろ。
だから教科書でも「乱」と「変」に別か
れる。
ただの織田厨か
分かりきったことよ…
( ・∀・)シネ | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >__Λ∩
_/し' //. V`Д´)/ ←
>>147 ≪_フ彡 /
150 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:29
風任せ〜
>>135 んー おぼろげな記憶なので、調べてみると、
天正四年五月五日、落城間近の大坂天王寺を救援に行くも、味方少なし。
一万五千ほどの敵に、三千程度で突撃。
先手の足軽に混じって指揮し、軽症を負うも、天王寺入城(入寺?)し、合流。
ご家老衆が「味方は無勢だから・・」というのを退け再突撃し勝利。
これだったかなー たぶんこれ。
>>137 少数じゃねーの?
天正四年五月五日→ 天正四年五月五日から
ちなみに信長公記より
他の資料で「実は小数突撃は嘘!単なるヨイショ」
ということなのかな?
信長の凄いところ、上司にしたくない男NO1
154 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:37
>>151 少数じゃないよ、断言出来る
過去ログにも詳しく書いてあったから探してるんだけど、見つからない・・・
しばし待たれよ
155 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/11 23:42
157 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/12 00:05
じゃあ物量か・・・
物量蓄積と展開が凄い!・・・・うーむ
159 :
15=19:03/05/13 07:29
>>34>>73 >オルガンティーノが書いた手紙の中に
ポルトガル船に似た大砲を積んだ船のことは書いてあるけど、
当時、世界でも見なかった鉄を張った船とは書いてないよ
まったくその通りです。失礼しました。
『多聞院日記』に「鉄の船」とあるだけですね。
後世の歴史家の描いたイメージに踊らされていたようです。
160 :
15=19:03/05/13 07:35
>>39 >信長が鉄砲の生産ラインを確保できたのは
地理的要因でしょ。
その通り。
あの時期に尾張に領土を持っていたことは、
天下布武に向かう大きい要素と言えるだろうね。
足利義昭を擁して上洛するできたことも、
地理的要因が左右していた。
幸運もまた英雄の条件だ。
>>73 >捏造だな。『イエズス会士日本年報』にオルガンティーノの報告はあるが。
いずれにしろ、装甲には全く触れていない。大砲を積んだ船だと分かるのみ。
当時来日していたイエズス会の宣教師の間にも日本人観を巡っての
対立があったから、強硬派を勢いづかせる記述を避けたんじゃないかな?
かの八切止夫は、『信長殺し、光秀ではない』でイエズス会による
信長謀殺の理由に鉄甲船の存在挙げている。
ただし、それが天正10年の四国攻めの艦隊の中に有り、マカオ攻めを
疑ったなんて史実の捏造を行なったいるが・・・
>>159 >『多聞院日記』に「鉄の船」とあるだけですね。
後世の歴史家の描いたイメージに踊らされていたようです。
でも『安土日記』には、滝川一益の造った船は「白船」であったとの
断りがあるし、文禄の役にも「くろ鉄板」で装甲された船があった
らしいから、「大鉄砲」の銃手を守る為の部分的な装甲が施されていた
のを、『多聞院日記』は「鉄の船」と表現したのでしょう。
そうした船って、当時の西洋船には無かったのかな?
「大鉄砲」は、『日本通信』では「大いなる長銃」と表現されています。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/13 09:58
ひょっとして鉄船ってただ単に鉄砲隊のせた船のことでは・・・
とんでもない巨大な船の絵が出てる本があったな・・・黒船来航?って感じの・・・
鉄鋼船と安宅舟って違うの?
大型戦艦が安宅舟で、それを鉄板で覆ったのが鉄甲船と認識されています。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/14 06:33
>>161 >かの八切止夫は、『信長殺し、光秀ではない』でイエズス会による
>信長謀殺の理由に鉄甲船の存在挙げている。
矢切・・・
>でも『安土日記』には、滝川一益の造った船は「白船」であったとの
「白船」には例えば『日葡辞書』で「ジャンク」という意味も
あるようだが、伊勢でそんなものが作れるはずもなく。
これは単純に無塗装の船という意味で良いだろうね。他の6隻は軍船として
一般的である漆で塗装したのだろうが、滝川の船だけ無塗装だったと。
これは部隊識別のためかもしれないし、あるいは別の意図かもしれないが、
そこまでは分からない。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/14 06:33
>断りがあるし、文禄の役にも「くろ鉄板」で装甲された船があった
>らしいから、「大鉄砲」の銃手を守る為の部分的な装甲が施されていた
>のを、『多聞院日記』は「鉄の船」と表現したのでしょう。
『多門院日記』から離れた方がいいと思うが。5000人乗るだの
長さ12〜3間で幅7間だの、適当なことばかり書いている。
それに「鉄ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也」とあるのも
「鉄ノ」=「くろがねの」=「堅固な」であって、
「堅固な船で、銃弾が通らないように造られている」という程度の意味
で書いたものだと思うのだが。
「鉄ノ船也」で「船の表面に鉄板を張って云々」ではちと脳内で
補完し過ぎだろう。
「部分的な装甲」という折衷案のようなものを出す人もいるが、
「鉄甲船」の通説は「防火用」だろう。ならば全体に鉄板を貼らねば
意味が無いはずだが。「防弾用」ならば安宅船クラスの矢倉板は
厚さ5寸もあるもので鉄砲はそもそも通用しない。村上水軍が大砲や
大筒を積んでいたとする記録も無いから、「防弾用」ならば装甲は
不要である。
それに秀吉の時は、あちこちの大名から鉄板を供出させているが、
結局どれほどの装甲船を作れたものか。
>>168 >「鉄ノ」=「くろがねの」=「堅固な」であって、
ってのは恣意的な解釈だが、
>>167 >一般的である漆で塗装したのだろうが、
一般的であったかどうかは別として、全体が黒塗りであったのを
鉄張りと見誤った可能性はあるかもね。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 02:08
>「鉄ノ船也」で「船の表面に鉄板を張って云々」ではちと脳内で
>補完し過ぎだろう。
なんで?
>『新兵器』にいち早く着眼し、生産ラインを確保した点に注目されたい。
>長篠合戦で千丁(三千丁の説もえり)揃えられる事実が重要。
雑賀衆と手を組んだやつは天下を取れるってのは信長が鉄砲を大量導入する前から言われてたわけだが。
しかも1行目からすると、種子島一族と津田算正が
信長の数倍優れていたということになるだけなんだが。
168自身の脳には、欠損部分が多いのでしょう。
一人で生きるが〜♪
辛いからと〜♪
悲しみ知らずに〜♪
生きてみたいと〜♪
仏に縋って
座って居るのか〜♪
地獄に落ちる
覚悟もせずに〜♪
お前に何が
出来るというのか〜♪
一重瞼の〜信長が〜♪
光る眼に炎を映し♪
燃える比叡の寺を眺める〜♪
一重瞼の〜信長が〜♪
仏を太刀で
切り割って〜♪
俺が〜信長〜♪
見知りおけ〜♪♪
結論 織田信長は凄くないが他が弱すぎた
176 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 03:37
>>169 >>「鉄ノ」=「くろがねの」=「堅固な」であって、
>
>ってのは恣意的な解釈だが、
恣意的かな?
大船の現物を見てもいない人間が、「鉄張りの船」なる「非常に革新的な物」
とされる船を念頭においた上で「鉄ノ船也」と書くほうが可能性として
ずっと低いと思うよ。
「鉄の」=「くろがねの」=「堅固な」
辞書に普通に載ってる程度の、当たり前の用法だと思うけど。
「堅固な船で、鉄砲が通らないように作られている」という程度の
解釈で、問題無いと思いますが。
>一般的であったかどうかは別として、全体が黒塗りであったのを
>鉄張りと見誤った可能性はあるかもね。
軍船が漆塗りなのはごく普通であって、それを当時の人間が鉄張りだと
見間違える方が変だと思うよ。「鉄甲船」がそんなに革新的なものならね。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 04:09
>>170 「鉄ノ船也」を「鉄張りの船なり」とそのまま解釈できるのかな?
てつのふねなり
↓@
全金属製の船か?しかし、そんなものは当時は作れない
↓A
では、木造船に鉄板を張り付けたものだろう
Aの部分は、結局は「鉄甲船」からの逆算的なイメージで類推しているに
過ぎないね。
太田牛一が書かずオルガンティーノが書かず九鬼家の人間が書かなかった
「鉄の装甲」が、伝聞したに過ぎない多門院英俊によって書かれる。
しかも「鉄ノ船也」とだけ。これは「鉄甲船」として考えれば、
あまりにも不自然。
だが、前後を通して読めば「堅固な船」という程度だと理解できる。
安宅船ともなれば、確かに厚さ5寸もの椋板で囲われた、鉄砲の弾を
通さない堅固さを持っているからね。
>軍船が漆塗りなのはごく普通であって、
って本当?
って言うか、一般的に上部構造物まで漆塗りだったのかな。
一益の船はそれが白木のままだったってことじゃないかな。
しろふね【白船】
塗装を施さない白木のままの船。江戸時代、幕府・諸藩の船が
漆塗りであったのに対し、民間の船はそれらと区別するため
塗装しなかった。
江戸時代より遡れるかと言うと、どうだろう?
確かに、江戸時代を通して軍船の技術は何の進化も無いけど。
八王子の信松院にある軍船の模型は漆塗りだなw
漆を塗ると耐水性や耐腐食性はもとより、白木に比べて耐熱性や
耐火性も増すからね。白木の船に比べれば、火矢などを受けても
はるかに燃えにくくなっただろうとは分かるが。
何分、戦国当時の船の造り方の資料って少ないからなあ。
江戸時代に描かれた絵だが、村上水軍の陣容を描いた
『野島流船軍備之図』を見ると、安宅船や関船では、
船体そのものよりも矢倉(楯板で囲った上部構造物)の部分
に目立った彩色が見受けられる。
この時代の塗料とすると、やはり漆だろう。
攻撃を防ぐための楯板だけに、漆を塗って強化していたのだろうか。
ちなみに江戸時代の軍船だと、船体から上部構造物まで
全体を漆塗りにしたようなのがあったみたい。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 06:42
あくまでも模型は模型だからね〜。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 06:50
戦国時代ってのは、鎧に漆を塗って槍の柄も漆を塗って
陣笠も漆が塗ってあって、回り中漆、漆、漆。
漆アレルギーの人は昔はいなかったのだろうか。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 06:53
>>181 >江戸時代より遡れるかと言うと、どうだろう?
考えてみれば、漆って高価なものじゃなかったのかな。
当時としては経済力のあった信長だからこそ全体を漆で
塗り込めることが可能であったが、当事者=牛一にとって
それはは当たり前のことであり、むしろ一益の「白木の船」
のほうが珍しく、それを特筆したんじゃないかな?
187 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 06:57
>>186 漆は今でこそ高級なイメージがあるが、昔はむしろありふれたもの。
ってことは、やはり「漆塗りの船」=「黒船」=「鉄ノ船」
と多聞院英俊は認識していたんじゃないかな。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:02
>>171 長篠の「千丁の鉄砲」とはデフォルトの鉄砲装備とは別にかき集められた部隊というのが今日の見方。
でないとおかしいんだよね。
当時は武田、上杉ですら軍役帳を見ると約10%もの鉄砲を装備してたのに
織田の大軍の鉄砲の総数がたったの千丁というのは極めて異状だ。
しかも織田は長篠の合戦の前に近畿であちこちから九百丁ほど鉄砲を借用しまくってた記録がある。
もしも本当に鉄砲総数が「千丁」だったとしたら織田の軍勢は
デフォルトではたったの百丁しか鉄砲を持ってなかったんだろうか?
もしも、長篠の織田の軍が三万だったとすると10%で計算するとデフォルトで約三千丁の鉄砲を持ってないとおかしい。
それに加えて近畿で集めて回った千丁の鉄砲隊があったという事だ。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:02
微妙だな。英俊自身は噂を聞いた程度だろうし。
>>187 >漆は今でこそ高級なイメージがあるが、昔はむしろありふれたもの。
小物への塗装はそうかもしれないが、建築や船などへの使用はどう
かな?
192 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:05
>>189 鉄砲が10%ぐらい配備されていても、各小領主ごとにユニットを
組んで戦うやり方では、鉄砲の全てを前線に集めることは不可能。
故に、たかが1000挺でも鉄砲だけを引き抜いて前線に集めた
ことに意味があるのでは?
193 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:09
>>191 日本中で何万何十万といた兵たちの着ていた鎧の全てが
漆塗りの時代だよ?
秀吉時代に建てられた城の壁は、漆を塗って黒かったんだよ?
漆の量を気にする必要は無いと思う。
問題は、塗られていたか否か。
>秀吉時代に建てられた城の壁は、漆を塗って黒かったんだよ?
それ以前はどうだったのかな。
白木のままだったり、柿渋塗りだったりしたんじゃないかな。
雑兵の鎧だって柿渋塗りだったりしたんじゃないかな?
船だって柿渋塗りが一般的だったんじゃないかな。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:20
>>194 城は知らんが、鎧に柿渋というのは聞いたことが無い。
城に漆というのは、丸岡城など天守閣を持つ城ではごく初期から
行われていたようだし、それ以前は寺社が好んでやったものだろう。
>城に漆というのは、丸岡城など天守閣を持つ城ではごく初期から
行われていたようだし、
丸岡城は、まさに白木です。
>それ以前は寺社が好んでやったものだろう。
朱漆では?
199 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:24
>>195 江戸時代に商船は「白船」であったのだから、柿渋すら塗らなかった
のではないかと。
軍船で柿渋では何の足しにもならんし。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:32
>>197 丸岡城天守、1階2階は思いっきり板に漆だが。
しかも「白木」だとまた意味が変わるぞ・・・
201 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:41
朱漆を塗るなら、まず下地に黒漆塗ってるような。
そう言えば、「安土山御天主之次第」では安土城天主について、
「悉く黒漆也」と明記されているね。
それだけ、特筆すべきことだったんじゃないかな。
宣教師の記録では外観は白く輝いていたとされていることから、
それは内部のことと考えられ、当時としては耐候性にも問題が
あったんじゃないかな。
>丸岡城天守、1階2階は思いっきり板に漆だが。
そうだったっけ?
204 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:46
その割には内藤氏にしろ宮上氏にしろ安土城の復元図は全て
下見板張、すなわち、外側にも漆塗り・・・
>その割には内藤氏にしろ宮上氏にしろ安土城の復元図は全て
下見板張、すなわち、外側にも漆塗り・・・
多分、思い込みでしょう。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:52
内藤氏は、日の当たらない軒裏や軒下の壁の白さをもって
それを説明してます。
宮上氏は、自分が復元した大坂城天守にこじ付け過ぎ。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:57
『安土日記』など読む限りでは外壁は白漆喰+漆塗りの羽目板で
正しいが。つまり、松本城の外壁のような感じだな。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 07:59
漆で耐候性に問題あったらこれほど使われんよ。
安土城にしても瓦の金箔を止めていたのは漆だし。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:00
下見板張り=古式
漆喰塗りこめ=新式
という認識は、もはや否定的になっています。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:01
>安土城にしても瓦の金箔を止めていたのは漆だし。
下地だよね。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:04
>>211 だから耐候性に問題あったら発掘された瓦にいまだに金箔が
張り付いてたりしねーだろw
松本城や松江城の外壁はどうなるんだ?
そもそも、縄文時代の漆塗り製品が出土するのに耐久性を問題にして
どうなるんだという気がするがね。
>『安土日記』など読む限りでは外壁は白漆喰+漆塗りの羽目板で
逆に『安土日記』には白漆喰のことは書いていないよね。
でも、むしろ漆喰のほうが耐候性に問題があったとされているね。
>松本城や松江城の外壁はどうなるんだ?
秀吉の大坂城以降、標準仕様となったんじゃないかな。
当の秀吉は、それ以降、白い天守ばかり建てているけど。
秀吉が築いた白い城?なんだっけ。
大垣城とか?
確かに『日本史』には窓枠が漆塗りで壁は白いとかあるなあ。
そもそも何の話だったか忘れかけているがw
>秀吉が築いた白い城?なんだっけ。
聚楽第に石垣山城、名護屋城等。
なんだかんだいって、城郭建築にあまり詳しくない
方々が、似非知識で博学ぶってるみたいですね。
古い時代の下見板の黒は松煙と柿渋を混ぜたもの。
それに漆塗りは直射日光での劣化退色が早く、
なおかつ、鏡の如く磨ぎ澄まされたものに至っては
手間がかかって高価でした。
ですから、その後も下見板の黒は松煙と柿渋を混ぜたものが
標準仕様でした。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:37
へーそうなんだ。
じゃあ松本城が異常なんだね・・・
つまり「鉄ノ船」は、磨ぎ出された漆塗りの「黒船」だったのでは。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:40
とりあえず漆塗っておけば黒く見えるでしょ。
>>219 >じゃあ松本城が異常なんだね・・・
いいえ、一時(桃山時代)の流行だったのです。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:43
>>222 つまり、古い下見板張の城は漆塗りが多くて
新しい城には松煙+柿渋?
じゃあ備中松山城(元和以降の建築)なんかはどう?
範例としては、戦災で失われた岡山、廣島両天守の下見板は
松煙+柿渋の墨塗りでしたが、創建当初は黒光りした漆塗り
であったと考えられています。
桃山時代の下見板張りの天守は、地味どころか、光輝く
豪華なものであったようです。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:54
>>220 「鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也」
という文脈からして「堅固な船」程度で、英俊は色までは??
>>224 なるほど、なるほど。ありがとう。
それにしても岡山城は黒いねえ・・・
228 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 08:59
「…堺浦へ近日伊勢より大船調付了、人數五千程ノル、横へ七間、
竪へ十二三間も在之、鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也、
大坂へ取ヨリ、通路トムヘキ用ト云々、…」
黒船=鐵ノ船=テツハウトヲラヌ用意
との認識だったのではないでしょうか?
鉄の船ってのは
「ぬぉー 鉄砲装備凄い!大砲まで積んでる!鉄船だ!!」
てーな感じで鉄が象徴的に名称になっただけなんじゃないの?
もしもその鉄砲やマストなどが金箔で金ぴかだったら
金の船ってみんな驚いて言いふらすと思うよ。
なぜ黒いと鉄?
>>227 >それにしても岡山城は黒いねえ・・・
再建 ? 天守の塗装までは知りません。
>>231 一つ付け加えると、「鉄板の装甲」という話が出てきたのは明治以降の事。
>>233 一応、黒漆喰+下見板張ということで復元されてますね。
>もしもその鉄砲やマストなどが金箔で金ぴかだったら
金の船ってみんな驚いて言いふらすと思うよ。
何のこつちゃ?????
>一応、黒漆喰+下見板張ということで復元されてますね。
白漆喰+下見板張では?
238 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 09:08
金閣みたいに金ぴかだったら確かに「金の船」かもな。
秀吉が命じた鉄板の装甲を持ち出して、信長もそうだと考えられたんでしょ
真偽は不明だが、当時としては異色で奇抜な船であったなら、もう少し文献に残ってても
良さそうではある
くろがね【鉄】
〔黒い金属の意〕
(1)鉄の古称。現在も文語的に用いる。
「―づくりの門」
(2)きわめて堅固なもののたとえ。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 09:18
>>239 >当時としては異色で奇抜な船であったなら、もう少し文献に
残ってても 良さそうではある
それは間違いないでしょうが、如何せん用途が限られ、
大阪表の海上封鎖にしか用いられず、それが原因では。
まあ、本当に鉄張りだったら牛一が書き漏らすハズは無いでしょうね。
>>239 牛一が特筆したのが「白船」の方だったくらいで、残る六隻は大きさは
ともかく、仕様としては標準的だったんでしょうな。
ところで、「白船」と考えるとややこしいので「城船」の聞き間違いって説
を立てたんだけど、どう?
滝川の船は安宅船にさらに櫓を組み上げた船で、
全軍の指揮を任されていたとか・・・
ダメか・・・主に指揮したのは九鬼嘉隆ってことになってるもんな・・・
(2)きわめて堅固なもののたとえ。
鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意
これは
鉄砲弾も防ぐ堅固な船ってだけの話だったのか・・・・
244 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 09:22
>>241 朝鮮出兵に備えて、秀吉が山内一豊に宛てた書状で指示した船の大きさが、
幅6間の長さ18間で、この時信長が作らせた「大船」のサイズと同じ。
ということで、10年もするとこの「大船」ぐらいのサイズの船は
もうごろごろしてて、何も珍しくなくなっちゃったから、その後の活躍が
特に記されなかったんだろうと考えているんだけど、どうかな?
世界に先駆けた全金属製の近代的軍艦であった可能性を否定できないね。
信長のことだ、見た目は木で出来てるように見せかけて、
竜骨などはこっそり鉄製にしていたのだろう。。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 09:34
ふと思ったんだが、
「鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也、」
って、淡輪沖で、鉄砲で有名な雑賀衆らの船団を討ち破ったことが
念頭にあった記述なんじゃないかな。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 09:46
そういえば雑賀衆の主力は、この頃どこにいたんだろうか?
二年前の第一次木津川沖の時は、水軍として毛利水軍に与力して
一緒に織田の水軍と戦った。
しかしながら、1578年の時は、九鬼水軍に攻撃をしかけたのは
「小船」という記述で、雑賀と大坂の間で数千の人数を行き来させ
得るだけの水軍力を持っていた雑賀衆としては、どうにも小規模だ。
かといって、木津川沖の本戦にも加わっていないようだし。
ずっと大坂に留まっていたのだろうか。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 15:15
このスレは舟を語るスレになりました
251 :
糞コロガシ:03/05/16 15:26
辻加護的にもオールOK!!!!!
面白いことは面白いな。
日本史版みたいに「日本語しゃべれや!」ってほど難しくないしw
253 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 16:02
日本の城郭の黒は朝廷に服属する意思を示す意味があった
とかいうのをどこかのサイトで読んだよ
254 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/16 16:14
昔、ドラマでやってたキムタクの信長、面白かったな
乙
>>168 >「防弾用」ならば安宅船クラスの矢倉板は厚さ5寸もあるもので
鉄砲はそもそも通用しない。
が標準仕様なら、わざわざ牛一も「堅固な船」などとは特筆しない
でしょうね。
でも、多聞院英俊がそれをわざわざ記した背景には、
>>248 >淡輪沖で、鉄砲で有名な雑賀衆らの船団を
討ち破ったことが念頭にあった記述なんじゃないかな。
でしょう。
その上で「黒船」であったこともあり、「テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也、」
として「鉄張り」を推測して「鐵ノ船也、」と記した、というのが真相では。
あくまでも『多聞院日記』のそれは「鉄甲船」であったが、それは
寸法の曖昧さとともに、英俊の想像であったと考えるべきでしょう。
でもそれには、天正5年7月の木津川口での毛利船団との海戦での敗因分析
を客観的に行なう必要があるのではないかな。
「鐵ノ船」には何が要求されていたのかと・・・・・
>254
漏れも見てたよ。
過去から未来にやってくるっていうストーリーでしょ?
259 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/17 17:30
>>257 滝川一益の「白船」の方を牛一が特記したということは、「白船でない船」
の方が当時の軍船の「常識」だったんだろうから、そこから現物を見ても
いない人間が、「鉄板で装甲した船」を「想像」できるとするのは無理が
あると思うよ。鉄砲に対する備えだけなら船上に竹束でも並べた方が
当時としては分かり易いのではないかなw
>でもそれには、天正5年7月の木津川口での毛利船団との海戦での敗因分析
>を客観的に行なう必要があるのではないかな。
>
>「鐵ノ船」には何が要求されていたのかと・・・・・
太田牛一、オルガンティーノ、九鬼嘉隆(の子孫)が共通して述べている
のが、大砲。つまり、火力。
天正五年の海戦においては、織田の水軍は河口をふさぐ様にして布陣し、
毛利水軍を迎え撃つ体勢で戦ったことが、『毛利家文書』収録の水軍の
書状から分かる。しかしながら、織田水軍とは名ばかりで、大坂近辺の
水軍をかき集めただけで、しかも大型の軍船はほとんど用意できなかった
ような、ショボイものだった。数は牛一によれば300艘だが、毛利側に
よれば200程度。実際に戦場に出た人間の見た数だから、200の方が
近いだろう。そこに、毛利水軍+雑賀水軍が襲いかかって、壊滅させた。
数で勝っている上に、河口をふさぐために機動力を犠牲にしている相手と
海戦したのだから、まあ当たり前の結果だろう。
機動力が活かせない戦場なら、数を増やし、火力を増強する事が必須。
だから、信長はその通りにした。それだけ。
>>259 >そこから現物を見てもいない人間が、「鉄板で装甲した船」を
「想像」できるとするのは無理があると思うよ。
現物を見た、見ないにかかわらず、
「テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也、」
が鉄張りという発想だったんでしょう。
英俊にとっては。
現実問題は別として、無理な発想ではないでしょう。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 03:35
>>261 何度か出てますが、「鉄砲の通らない堅固な船」というだけでしょう。
「鉄」を「てつ」と読む理由も必要も無いと思いますが。
俺は高校では日本史専攻だったんだけど
最近世界史にも興味が出てローマ人の物語読んだんだけど・・
信長最高とか思ってた自分が恥かしいyo・・
>>261 >「鉄」を「てつ」と読む理由も必要も無いと思いますが。
「鉄張り」を否定するあまり意固地になってませんか?
確かに「鉄張り」は架空のものであった可能性が高いが、
軍船について素人の英俊だからこそ、鉄砲に対する備えとして
「鉄張り」を想像したとしても不思議きは無いし、むしろ
自然じゃないでしょうか。
あえて「クロガネの」なんて形容詞を使う必要性のほうが
低いと思います。
>あえて「クロガネの」なんて形容詞を
↓
あえて「クロガネの」なんて修辞を
とすべきかな?
266 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 06:19
>>264 「くろがねの」は普通の形容詞だと思いますが。
英俊が書いたのは「鉄の船」ですからね。
まんま読めば全金属製の船ですよw
それを何も「鉄張りの船」などと読む側が無理に補う理由が無い
でしょう。
>「くろがねの」は普通の形容詞だと思いますが。
やはり、修辞に近い用法でしょう。
それこそ「全金属製の船」なんて当時の人間に想像
出来るようなものでは無く、朝鮮の役での実例からも、
「鉄張りの船」は発想可能であり、それを「鉄の船」と
表現するのに無理はないでしょう。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 06:46
>>267 英俊が「くろがねの=堅固な」という表現を知らないはずは
ないでしょう。
当時の人間が「全金属製の船」を想像し得ないのであれば、
やはり「鉄の船」という表現はストレート過ぎます。
それを「じゃあ鉄板を張り付けた船を想像したのだろう」などと
補完するほうが、よほど不自然ですよ。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 06:51
漏れも>261、>264に同意
鉄張りという発想に至るのに無理がある理由がちっとも分からん
けっこう前から否定してる人がいるけどさ
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 06:56
それは明治以降に作られた「鉄甲船」のイメージを明確に持って
読んでいるからでしょう。
>>270 ハイハイ。お母さんのオッパイ飲んでネンネしてなさい。
戦国板にもIDが欲しいね・・・
「鎧を着せた船」=「鉄張りの船」=「鉄の船」
不自然な表現では無いと思います。
あってもおかしくはないと思うけどね
あったら朝鮮侵略に使われないのはおかしいとかそういうのはないのん?
考えてみれば、朝鮮側には亀甲船があったよね。
それって、日本側の火器に対する必要性からの発想であり、
「鉄張りの船」って、人種を問わず極素直な発想じゃないかな。
>>274 我々に「鉄甲船」なる予備知識があるから
「そのように理解できてしまう」に過ぎない。
「英俊はこのような『つもり』で『書いたのだろう』」とね。
だが、無理なこじつけに過ぎないね。
本当に「鉄張りの船」を想定していたのなら、『多門院日記』のみで
そうと分かるように書いてあって然るべきだろう。
>>277 亀甲船に鉄板が張ってあったという記録は、当の朝鮮側に
一切無いけどな。
あれはそのまんまの形だから亀甲船なんだよ。
むしろ倭寇の切り込み戦術に対応したものだ。
亀甲船に乗っていた朝鮮水軍の将が誰か鉄砲で撃たれて死んでなかったか?
亀甲船については金在瑾の『亀船』に詳しい。日本語訳で出ています。
結局、亀甲船も装甲について言われ出したのは近世の事であり、
亀甲船の特徴は屋根に逆さに釘を植えることで、敵に乗り込まれる
事を防いだこと。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 09:14
>>278 あなたの想像力が他者に比べて圧倒的に劣っている可能性はないのですか?
とりあえず第三者の漏れとしては、
「鉄張りの船」には消極的否定ってとこでつ。
城郭などの門に「(黒)鉄門」って呼ばれるものがあるけど、
それは、なにも総金属製ってワケではないよね。まさしく
「鉄板張り」だよ。
金閣だって、総金製ではなく「金箔張り」だよ。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 11:49
>本当に「鉄張りの船」を想定していたのなら、『多門院日記』のみで
そうと分かるように書いてあって然るべきだろう。
本人は「鉄砲を防ぐ鉄張りの船」を想像し「鉄の船」と書いた。
それを近代の歴史学者、小説家が真に受け、捻くれ者が過剰に
批判、攻撃。
それが実情。これにて一件落着。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 13:02
氏ね。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 13:13
鉄張りの船だなどと言い出す人間が現れたのは明治以降。
黒船以降に日本人が知るところとなった木造鉄板装甲の軍艦の知識を
遡って当てはめただけ。多門院英俊の記述は「たまたま都合が良かった」
だけw
291 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 13:13
292 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 13:17
確認できる(日本で)最初の装甲艦を作ったのは秀吉ってことで。
>>290 >鉄張りの船だなどと言い出す人間が現れたのは明治以降。
史料の公開性を考えれば当然のこと。ましてや個人の日記。
それで、過去の可能性を執拗に否定するのもね〜。
英俊は「鉄砲を防ぐ鉄張りの船」を想像したが、実際には
その様なものは存在しなかった。
だから、当時もそれ以降も話題に上らなかった。
そういうことでしょう。
大安宅船は木製重装甲艦ってとこか
295 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 15:01
信長は、義元亡き後の今川がどうなると読んでいたんだろう?
秀吉はハデ好きだから、表にバーンと鉄を貼って喜ぶ。
信長はひねくれ者だから、裏にこっそり鉄を使う。
鉄の釘とか。
どっちも鉄船っつーことで・・・。
で、結局信長は凄いのか、それともヘタレだったのか。
だいたい、海も無い奈良の興福寺の坊さんが噂を聞いて書いた記述。
真に受けて議論する事自体がおかしいよね。
軍船なんてよう知らん人間からすれば
「そりゃもうスゴイ船らしいぞ、鉄でできてて鉄砲の弾も通らんらしい」
とか無茶苦茶言な噂話をしてても不思議じゃ無い。
だから英俊の「鉄の船」が何を想像してたかなんてかなりどうでもいい。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 22:30
>>296 鉄の釘は普通に使われていたぞ・・・むしろ特殊な釘の開発によって
和船の大型化が可能になったと言って過言ではない。
秀吉は『家忠日記』によれば「一万石につき百五十枚」という基準で
鉄板を諸大名に集めさせ、『朝鮮日記』によれば二隻の「鉄船」を
作ったらしい。
ま、これは実戦用と言うよりも、秀吉の威厳を示す為という意味の方が
強いだろうね。たったの二隻だし。
炸裂弾の無い時代の大砲は、衝撃で標的を破壊するもの。
数ミリ厚の鉄板を貼るより船体構造の補強に使うべきなはずで、
西洋の軍艦ではまず補強用に金属材が使われたわけで。
江戸時代の安宅丸は装飾重視か、銅板張りだったし。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 22:39
信長の鉄甲船が世界最初の装甲艦であり、西洋では1859年にフランスで
「グロアール」が作られるまで存在しなかった、と主張した痛い人まで
いたけどね・・・
ちなみにグロアールは、炸裂弾に耐えるために、木造船の水線より上に
厚さ12センチの装甲を貼り付けたもので、「信長は厚さ一分(3ミリ)
の装甲を」とか言ってるようなものと比べたらいけませんw
それどころかそれ以前から全金属製の船は作られているのでね・・・
301 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/18 22:45
全金属製の軍艦は、グロアール完成の翌年、1860年イギリスの
「ウォーリア」が最初。最初と言っても、9000トンもあり防水区画
を備えた本格的な軍艦だけどね。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/20 06:09
>300
どっちが先とかに興味はないが、
劣るから比べられないとか、そういう話ではないと思うが・・・
304 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/20 06:51
「同じもの」を作ったのではないのだから、同列に論じるのは痛い、
という意味でそ・・・
書き方による
全くの別物だからね
っていうか誰もそんなこと言ってないのにそんなデムパ説と薀蓄垂れ流されてもなぁ・・・
いいんだよ薀蓄語りたいだけなんだからw
ちなみに痛い主張をしてる方々はかなりいるので検索してみると面白い。
・・・検索?
信長はヨーロッパより300年早く、とかの類やね。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
薀蓄騙り保守
age
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
315 :
無名武将@お腹せっぷく:
鉄船は勘弁だけど、とりあえずほしゅ