>290 別件だが長宗我部元親も初陣でムチャやってる。
ソースはしらんが義重の若いころの話じゃないの?
蒲生も大将の立場で一騎駆けとかしてるよ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 11:33
>>290 っつーか、信長登場以降は万単位の戦いが珍しくないけど、
畿内あたりをのぞいては万単位の合戦のほうが珍しい。
兵農分離してないころの、農繁期の戦いなどは、ほとんど史書にも残らない
数十〜百・二百レベルのヤクザや暴走族の抗争のようなショボイ争い。
ましてや佐竹が日本指折りの大名になったのは義宣の代であって、
それ以前は常陸の数ある豪族の筆頭に過ぎず、ほかの豪族とは対等または
従属的同盟であって、明確な意味での家臣ではなかったから、佐竹だけで
動員できる兵力もたかが知れていた。
‖
| ||'-' 川 ←鬼義重(自称)
| ( )
| | |
|
/ ̄ ̄ ̄ ̄
/
七人斬りの話が載っているのは『古先御戦聞書』という史料らしいです。
私はこれを見たことはありませんが、名前から判断するに
復聞きっぽい感じですね。まず同時代の史料ではないですね。
いずれにせよ、一軍の大将が一騎駆けしたとか何人切り殺したとかいう
話はかなり割り引いてみたほうがいいと思います。
同じいくさのことが『関八州古戦録』にも書かれていますけど、
こっちには一騎駆けの記述はないですね。
ただ絶対なかったかというと一応史料に書いてあることなので
そうともいえません。このいくさの頃は佐竹は四面楚歌だったので
そういう状況を打破するためにあえてそういう姿を見せて
士気を鼓舞したのかもしれません。
しかし普通軍隊の将官クラスが敵に突っ込むなんてことはないですね。
今の常識で有りか無しか言うたら無しですな。
まぁこのいくさは引き分けでしすた。
義宣未前の佐竹の動員力は、
佐竹宗家一家だけだと千から二千弱くらい。
一族従属合わせて六、七千弱てとこ。
江戸あたりが千かな。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 14:00
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 00:48
佐竹ファソのまなさま
あけおめヽ(´▽`)/
佐竹義重って弱いよね。はっきりいって孫の佐竹義隆以下。プ。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 19:16
>>285-286 そもそも「滅ぼした」とはどういうことなんだろうね
当主とその一族を全員死亡させることなのかな
白河結城の場合は佐竹に従属したって感じだね
ともチャン って三戦にも来るんだ…
302 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 13:09
おめっこ
303 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 18:10
てか1589年に政宗にやられるまで南奥は白河だけでなく
磐城や石川も佐竹の支配下だったんだよね?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 19:07
>>303 芦名も息子に継がせてたし、南奥での発言力は大きかったはず。
それこそ新羅三郎の頃から、北進を行って常陸奥州の境界を押さえる戦略をとってたわけだし。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 19:54
なるほど
実家が佐竹の本拠地常陸太田に近いから、信長の野望はずっと佐竹氏で遊んでいた。
そこそこ大きめの農家だから、自分のルーツは佐竹においていかれた土豪、くらいに思っていた。
正月に実家に帰ったときに、その辺りは岩城氏が支配していたのを知った・・・
ショック・・
最初に滅ぼしていた大名じゃん・・・
>>307 15世紀後半、佐竹義治の頃に同族争い等の混乱に乗じて岩城氏が南下して来たからな。
そのあおりを食った地域って事は、もしかして多賀郡?
自分は、出身地なら本来は江戸氏なんだが、信長の野望は佐竹しか使う気が起こらないんだよな。
久慈郡です。
久慈郡で岩城が支配していたところは深荻くらいしか知らんな。
ずっと久慈郡は佐竹の領土だと思ってたんだけど、そうじゃなかったってことね。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 00:41
佐竹義重は保守的
初期のK1で、日本人では唯一といっていいトップファイターだったからな
K1をメジャーなものへと引っ張ってきた功績はたいしたものだよ
315 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 12:17
期待age
316 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 12:47
栄光無き天才っていい響きだね
このスレタイ見るとライムスターがうかんでくる。
318 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 22:01
SATAKEYOSIHISA
319 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 16:33
>>296 >義宣未前の佐竹の動員力は、
>佐竹宗家一家だけだと千から二千弱くらい。
>一族従属合わせて六、七千弱てとこ。
>江戸あたりが千かな
そうなんだけど、なぜ佐竹氏が北関東や南奥に影響力を発揮したかというと、
血縁、外交、経済などの他に、規模の利益があったと思う。
自分の印象では宇都宮氏は合わせて4−5千人位で、その他の勢力が多くても
2−3千人程度という関係でその中で佐竹氏の宗家+一族従属六千人程度というのが
生きていたのだと思う。(戦力という意味で。)
320 :
無名武将@お腹せっぷく :04/02/05 19:07
佐竹義篤 1508-45
義昭 1531-65
義重 1547-1612
義宣 1570-1633
義昭は15歳で、義重は19歳で家督を継いでいるのですね。
2代続けて父が夭折しているのに、よく家を保てたというのが、私のような素人の実感。
ついでに
義敦(曙山) 1748-85
義和 1775-1815
佐竹家は、なんとなく短命の印象があります。
スレタイ、カッコいいな。「栄光なき天才」……しびれるフレーズだ。
>>320 義重が家督を継いだのは義昭が死ぬ少し前、義重16歳の頃だったかと。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/06 01:10
>>320 その前の当主も若くして家督継いでるよ。
佐竹義治1443〜1490
佐竹義舜1470〜1517
佐竹義篤1507〜1545
義舜は21のときに、義篤は11のときに親父が死んでる。
だからこそいわゆる「山入の乱」がなかなか収拾つかなかったんだよね
326 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/06 11:06
佐竹は凄いよ
北条、伊達に挟まれて両方と戦い抜いたってのは実際至難の技だろ
地味なのはそれだけ有能だったって事だ
派手に戦して勝てば聞こえはいいが実際はかなりの損害がでるから
百姓も郎党も苦しまなければならない
>>326 孫子にも、真の戦上手は勝つべくして勝つからその勇敢さは誰にも称賛されないってあるしな。
関東以東の大名のなかでは安東愛季と並んで
外交センスのある大名だと思う、婚姻外交での他家の乗っ取りとか
330 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 11:47
>>320 義舜以降は、兄弟をそれぞれ「東家」「北家」「南家」と分家させて、若い宗家当主をサポートさせていたとか。
「山入の乱」の苦い体験を教訓に、宗家をないがしろにすることを禁じたのも功を奏したのかも。
毛利元就に先んじて「三本の矢」の教訓を実行。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 11:49
>>328 「勝つべくして勝つ」というよりも、負け戦の傷口を広げない方が数倍難しいと。
戦国無双なるゲームが出るそうだが、「坂東太郎」義重は出ないみたいだ。
伊達正宗は出るのに・・・。
政宗がガキじゃあ、義重もやる気が出ないだろうよ
北條すら出ないし・・・
334 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 21:35
でなくてよかったけどな
>>331 正直、政宗なんかより無双向きだよな。
義重は、北条方の補給基地に夜襲をかけ、たちまちの内に7人を斬り捨てたとかって話もあるし。
真壁は卜伝の弟子で、戦場では3mもの長さの木杖を振り回してたらしいし。
デザインを鑑みれば、
>>334の言うように出なくて良かったのかもしれないが。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 10:15
常陸は武芸者うじゃうじゃいるからね
でも本場の鹿島家も松本備前やト伝が必死に守ってきたのに
佐竹にかかっては一瞬で抹殺されちゃったね・・・
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 13:46
>
>>333 あなたのご推薦は「北条氏康」でつか?
338 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 14:14
妖術使いの幻庵だろ
339 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 12:02
>>322 義昭は隠居後に大掾家の内紛に介入していたらしいから、隠居はもう2・3年前遡るのでは?
340 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 18:11
ちと関係ないけど・・・
常陸太田・正宗寺の佐竹氏累代の墓見に行ったけど、
石塔が5つくらいあって、義昭までの亡骸が眠ってるらしいんだけど、
どの墓に誰がいて、どの骨が誰のだかわからないらしい。
すごい暗いところにあったのが印象的ですた。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:
佐竹別当てなに?
常陸北部には御牧がなかったはずだから、寺かなんかの別当なのか、盲目なのか。
>>340 佐竹家の当主は血判押した書状を発給してるのが何人かいるから
鑑定しようと思えばできるんじゃない?