【関羽撃破】呂蒙を語るスレ【刮目】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1無名武将@お腹せっぷく
三国一の勉強家呂蒙について語ってください。
とりあえず2get
3無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 09:33
如何にもコーエーオタの立てそうなスレだ
蒋欽も語ってやってくれ。
5曹植仙人:03/02/21 09:37
折れも語れ
焦触や郭図も語れ
陳武もカタレ
徐盛も語れ
8無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 11:18
諸葛尚も語れ
9無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 11:20
公孫淵も語れ
10無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 13:36
コーエー歴代の中で一番彼の知力が高いのはどれ?
朶思大王に決まってるだろヽ(‘Д´)ノ
欝朶思王
13無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 14:14
冷包が一番頭が良い(正史、演技、ゲーム、漫画全てにおいて)
14陸遜 ◆IXKLQQNMbg :03/02/21 16:30
俺、陸遜、
陶兼
16陸遜:03/02/21 16:38
 呉の軍師

 周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜

 自分は三国志の中では陸遜が一番好きです。だから陸遜を見出した呂蒙
ももちろん好きです。
17無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 01:24
軍師というより名将に近そう。
献策よりも前線で軍を指導してたのがおおいでしょ?
18無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 01:59
関羽をうちとったことで損な役回りにされたね。
間違いなく名将なんだろうけど。
19無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 05:20
周瑜:戦術:戦略
魯粛:戦略・政治
呂蒙:戦術
陸遜:戦術・戦略・政治
20無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 08:53
ゲームで仕入れた程度の用語しか使えんのか?
軍師だの、陳腐な区分分けだのって…。
21無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 09:28
呂蒙:戦術
βακα..._〆(°▽°*)

呉の中心格だった徐州派を退けて荊州進行を国家方針としただろ?
22端くれ公務員:03/02/22 09:40
 徐州派・・・劉備と手を組み、曹操を討つ。
荊州侵攻・・・曹操と劉備の争いの間隙を突いて、荊州を奪う。

 といった感じだったのでしょうか。 
23無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 09:44
徐州派
故郷が徐州の人々。
魯粛が中心人物。他に張昭らもそう。
故郷が敵国にあるので呉の勢力化にしたい思想。
24無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 10:18
呂蒙の故郷って汝南だっけ?
25端くれ公務員:03/02/22 10:25
 手元にある本を見てみると・・・、
 呂蒙は「汝南軍富陂の人」とあります。
26端くれ公務員:03/02/22 10:29
 孫権が「徐州などはいつでも取れる。荊州奪取が悲願である。」とか
言ったんでしたっけ???
27無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 10:42
(´-`).。oO(こういうスレ見ると正史板って欲しいなと思う)
28無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 11:24
蜀または劉備勢力で三国志プレイする時、呂蒙は必ず殺してます。
カンヌ信者の漏れとしてはかわいそうだが好きになれない。>呂蒙
30無名武将@お腹せっぷく:03/02/22 12:11
人形劇三国志の呂蒙は激しく老人の悪人顔
汝南出身(曹操の出身地の近く)
同郷者は呂範。二人とも同郷同姓だが庶民出身で関係は無いと思うけどどうだろ?
あと袁紹と袁術も同郷
おそらく黄巾の乱で住んでいた所が荒れて住めなくなってしまい
姉が嫁いでいった先に疎開していったと思われる。
(袁術のところだから揚州であってる?)
姉の夫がこの頃はまだ袁術軍の下にある孫策軍の将だったので
揚州で孫策軍に入り
結果的に江東郡に孫策が戻ったので呉の将になったような気がする

三国志の本は小説くらいしか持ってないので詳しい人訂正よろしく

一番下から叩き上げで将になったイメージがあるので個人的には好きだ

http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1045787445/30
悪人顔どころか極悪人にされてた…。
幼少の折に本放送で観たのはすっかり忘れていたのだが、再放送を観て
こんなにひどかったのか、と衝撃を受けました。
個人的には好きな武将です。

33無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 00:44
横山呂蒙は、傘の取っ手みたいなもみあげが、素敵♥
34無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 00:55
カンウを殺した事でやたら損してるよな〜。
功績は呉で1,2を争うくらいだと思うが。
35     :03/02/23 00:55
人形劇三国志の呂蒙は、老人過ぎ・・・。42歳で死んでるはずなのに、
本当にあんなにふけてたのだろうか?
36無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 01:09
42歳つったら三顧の礼当時の劉備より若いし、
北伐のころの孔明より若いのでは・・・
37無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 01:17
>>26
徐州は平地での消耗戦になるので兵力集めれば取れるが
その後の守備にも多くの兵を必要とする。
だから初めに徐州を取ると軍事的に大きな制限を受けて鶏肋。
てな感じの事じゃなかったっけ。
38無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 14:11
>>37
それは呂蒙の主観。
その通りだとは思うが徐州を獲って後は落ち着くとすると奪還されるだろうが
徐州を通過点として中原に雪崩れ込むのは有効。
後世それで天下取ったのもあるぐらいだ。
だが呉のその時の力ではそこまでやれないと判断したんだろう。
呂蒙の西進は諸葛亮の長安ではなくキ山と同じ様な事なんだろう。
39端くれ公務員:03/02/23 20:15
 吉川英治三国志を読み返してみると、
 以前に私が書いたようなセリフは呂蒙本人のもののようです。
「・・・。いまこそ我が呉は長江の天与を利し、荊州をとって、蜀魏の侵略に
永遠の国境を展いておかねばなりません。上流長江の嶮をもって境とし、
強馬精兵を内に蓄えてさえおけば、徐州のごときはいつでも奪れる機会が
またありましょう」

 このセリフからすると、あくまで中原に攻め上るといった考えではなく、
呉の防衛的考えから荊州奪取を目論んだようですね。
40無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 21:13
吉川英治三国志を読み返してみると














ヾ(▽⌒*)キャハハハ
41無名武将@お腹せっぷく:03/02/25 12:36
病持ちの状態で荊州攻略に着手したんだよな。
それがかえって関羽の油断をさそったといえるけど。
42無名武将@お腹せっぷく:03/02/25 12:55
東京都足立区女子高生監禁リンチコンクリート詰め殺人事件
犯人の氏名
●ムコーニン ◆og5moFk5GU (A)
  主犯格。懲役20年の刑で服役中。
●学徒出陣 ◆FqnCMW2Np6 (B)
  サブリーダー。すでに刑務所から出所。
●装飾(C)
  犯行現場の部屋の提供者。すでに刑務所から出所。
●なっちの戯曲 ◆Qx/7DEzf5E (D)
  少年院でいじめに合い、現在引きこもり症候群。
●エノキ改めトム=ジョンストン ◆aATpbJGovQ (E)
  ムコーニン、学徒出陣、装飾からささいなことでリンチにあう。現在は地元スナックでこの事件のことを面白おかしく語る無反省人間。
●司馬炎 ◆HYRH4gq0sw (?)(F)
  結婚し娘をもうけ、新聞配達員をやっている(最近どこかの地方紙にこいつの記事が載ったらしい)。

★参考サイト★
http://profiler.hoops.ne.jp/concrete.htm
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1617/
http://topia.yam.com/home/aoiryuyu/pages/josikouseikankin.htm
男子三日あわざれば…って書こうとして変換したら「男子三日泡戯れ場」
とか出た。
泡戯れ場ってなんだ、女の人が気持ちイイことしてくれるところのことか。
44無名武将@お腹せっぷく:03/02/26 17:24
>>カンウを殺した事でやたら損してるよな〜。

といって鼻の穴を広げて悦に入る為のスレッドだな。こりゃ。
ソープに三日間入りびたりか。
呉→上海周辺と三日泡戯れ場→女好きで
張太炎を思い出したよ(w
47無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 01:50
三国志の戦争が詳しく解説してある本ってNHKのムックだっけ?(赤い本)
攻略戦が知りたくなった
48無名武将@お腹せっぷく:03/03/03 12:49
age
49無名武将@お腹せっぷく:03/03/03 12:57
なんだかんだといっても、呂蒙ほど大成した人物って、三国をみても、そうは
いないよな。
軍略家としては周瑜に次ぐ、って、孫権も評価してるし。
早逝が惜しまれるよ。
縁故でも名士でも寝返り組でもないのに、下っ端から曹操5名将の一員にまで成った楽進とウ禁は呂蒙の大成ぶりに劣らんと思うが。
51無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 02:34
楽進と于禁の場合は、大成というより昇進。
>>47
学研の歴史群像のムックじゃねーの?
53無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 03:52
孫策の時代から仕えていたっけ?
はい。重用されたのは孫権になってからですが。
15,6の時に勝手に義兄の対山越の部隊に紛れ込み初陣
その後役人とモメてうっかり相手を殺害
逃亡するがつての武将のところで自首
その話を聞いた孫策が気にいり側仕えにしたらしい


・・どっかで聞いたような略歴だな?
誰だろ?
周瑜対陸遜スレでとんでもないカップリングおこしてるな
関羽を捕まえた事で激しく嫌いだったけど
努力して認められたということで心底憎めない・・・・
58山崎渉:03/03/13 16:11
(^^)
周瑜→魯粛の時と呂蒙→陸遜の時の推挙のエピソードはよく知れているけど
魯粛→呂蒙の時にもあったのだろうか
60無名武将@お腹せっぷく:03/03/15 09:30
無い。
というか推挙などしていない。
魯粛がしたのは歩シツだ。
そして、呂蒙が推挙したのは朱然。


           /ヽ
          ││
           ││」ワ
        ヘ <ニ Σ
      / /  目てフ 
    / / i   ‖ミ
   ├ ミ,゚Д゚彡 ‖   <ワシを語れ。 
   ├(ノi 呂|つ‖
   ├  i 蒙i  ‖
    \_ヽ_,ゝ ‖
      U" U  ‖
コーエイ三国志の呂蒙の顔グラって
なんか大きく変化してないような気がする・・・それだけ
6460:03/03/21 10:12
すまん久々に見たら自分のかきこでまちがってた事を気づいた。
X魯粛がしたのは歩シツだ。
O魯粛がしたのは厳シュンだ。
>>55
前田利家?
魯粛が推挙したっけ?
孫権が厳しゅんにあとを継がせようとしただけじゃ?
6760:03/03/21 10:34
魯粛の御言葉だよ
68無名武将@お腹せっぷく:03/03/29 18:14
関羽に引導を渡したことだけでなく、死んだ時期も悪かったんだと思う。
だから演義であんな死に方をさせられた。まあ、潘璋や朱然みたいな奴もいるが。
69無名武将@お腹せっぷく:03/03/29 18:28
>>65
張飛だろ
70無名武将@お腹せっぷく:03/04/03 08:38
しかし関羽の子孫は関羽の行いのせいで根絶やしに…
71無名武将@お腹せっぷく:03/04/03 09:49
呂蒙後継者は朱然だったという話を聞いている。
荊州(南郡)奪取後は南郡太守になってるはず。
そこへ、
劉備呉へ侵攻→朱然・孫桓敗退→新司令官陸遜という流れでは?
>>69
張飛にそんなエピソードない
>>70
ホウ徳の子・ホウ会ですな。
>>71
そりゃムチャな御話。
朱然が呂蒙の後任というのは、貴方も書いた通り南郡太守のみ。
都督の権利も引き継いだ訳ではない。その証拠か分からないが、
(左)護軍は受け継いでいなかったし、太守も呂蒙が領した郡の内の一つのみだった。

そして決定的なのが朱然伝。
「陸遜と共に五千の兵を率いて劉備を迎撃し、その先鋒を打ち破ったため、
 劉備は撤退せざるを得なくなった」
あと、彼も関羽討伐に参加していたが、そのとき、どうも陸遜の麾下にいたらしい。
75無名武将@お腹せっぷく:03/04/04 01:14
かみ「やっときましたね。おめでとう!
このゲームを かちぬいたのは きみたちがはじめてです
阿部高和「うれしいこと言ってくれるじゃないの
かみ「わたしが つくった そうだいな ストーリーの ゲームです!
阿部高和「でかいのはいいからさ このままじゃおさまりがつかないんだよな
かみ「わたしは へいわなせかいに あきあきしていました。
そこでアシュラをよみだしたのです
阿部高和「俺はノンケだってかまわないで食っちまう人間なんだぜ
かみ「アシュラは せかいをみだし おもしろくしてくれました。
だが それもつかのまのこと かれにもたいくつしてきました。
阿部高和「ん?もうかい?意外に早いんだな
かみ「そう!そのとうり!!わたしは あくまを うちたおす ヒーローが ほしかったのです!
阿部高和「男は度胸!何でもためしてみるものさ
かみ「なかなか りかいが はやい。
おおくの モノたちが ヒーローに なれずに きえていきました。
しすべき うんめいをせおった ちっぽけなそんざいが ひっしに いきぬいていく すがたは
わたしさえも かんどうさせるものが ありました。
わたしは このかんどうを あたえてくれた きみたちに
おれいがしたい! どんなのぞみでも かなえてあげましょう
阿部高和「ところで俺のキンタマを見てくれ こいつをどう思う?
かみ「それが どうかしましたか?
すべては わたしが つくった モノなのです
阿部高和「いいこと思いついた お前俺のケツの中でションベンしろ
かみ「かみに ケンカをうるとは‥‥ どこまでも たのしい ひとたちだ!
かみ「どうしても やる つもりですね これも いきもののサガか‥‥

よろしい しぬまえに かみのちから
とくと めに やきつけておけ!!
>>70
劉家に嫁いだ孫娘?がいたから根絶やしでは無いはず。
つーか、根絶やしの原因は別に関羽が悪い訳じゃないんじゃ…ホウ徳も関羽と戦ったことで名を残せたんだし。
何気に、
龐悳や龐淯、閻温、典韋が李典や李通と並べられてるのって理解ができん
>>76
いや、子孫は
見つかってない

つーか名を残したのは羅貫中の影響だろボケ
79無名武将@お腹せっぷく:03/04/05 19:03
羅貫厨 <78
http://www.angelfire.com/bc3/irnakaya/index2.html
おそらく唯一の正史研究サイト

呂蒙の出自の秘密も書いてある
避難所としても使えるかも
81通りすがり:03/04/06 13:41
80はブラクラ!ちくしょー
81サンクス。思わず開けそうになったyo...
83無名武将@お腹せっぷく:03/04/06 20:40
嫌なスレだなー
84無名武将@お腹せっぷく:03/04/10 02:30
で、このスレは終わったのか?
85無名武将@お腹せっぷく:03/04/10 14:54
米青 ネ申 禾斗 え折 レ十 
86無名武将@お腹せっぷく:03/04/10 18:35
呂蒙は貰った恩賞は全て倉にしまっていて、自分の死後は全て国に返すようにと
遺言していたらしい。今の政治家に見習ってほしいね。
87無名武将@お腹せっぷく:03/04/10 20:51
>>86
正直惚れ直した
88無名武将@お腹せっぷく:03/04/10 21:43
>>86
マジならすげーかっこいい。
89無名武将@お腹せっぷく:03/04/10 21:44
>>86
マジならすげーかっこいい。
9086:03/04/10 22:26
マジみたいよ、補足します。

『呉志』呂蒙伝によれば、孫権は呂蒙の病気を治したものに
千金を与えると布告したが、結局、呂蒙は42歳で病死した。彼がたてた功績に対して
与えられた金銀はすべて国庫に保管されており、しかも庫役人に「自分が死んだらすべて
国に返すように。葬式はつとめて倹約に」といってあったと聞いた孫権はますます深い
悲しみに襲われた。 以上、三国志人物事典より。

呂蒙カコイイなー、好きになった。そういえば、田中芳樹が本の中で人形劇三国志の
呂蒙の扱いはあまりにもひどすぎる言っていたよ
>>90
>>そういえば、田中芳樹が本の中で人形劇三国志の
>>呂蒙の扱いはあまりにもひどすぎる言っていたよ

誰もがそう思うよ
呂蒙が民間人を人質にとるチンピラだった記憶がある
呂蒙「これで俺も英雄の仲間入りだ!」
そして赤兎馬が主人の敵を取るためもろともに滝壷へ…
↑人形スレのコピペ ひでえやw
しかもジジイ。ぜったい別人
>>86
他にも同じことをした人は結構いるんだが。。まぁ、いいや。
951:03/04/11 00:00
いい男専用しおり
_____________________________________________________________________
   | │                   〈   !
   | |/ノ二__‐──ァ   ヽニニ二二二ヾ } ,'⌒ヽ
  /⌒!|  =彳o。ト ̄ヽ     '´ !o_シ`ヾ | i/ ヽ !
  ! ハ!|  ー─ '  i  !    `'   '' "   ||ヽ l |
 | | /ヽ!        |            |ヽ i !
 ヽ {  |           !           |ノ  /
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
                    ここまであまさず読んだ
96無名武将@お腹せっぷく:03/04/11 00:28
>>94
だれだれ?教えて
死に際を除けば、演義の内容も結構いけると思うんだが。
兵士たちに略奪を許さず、些細なことでも厳しく取り締まったあたり。
人形劇作った奴らは反省しる。
98無名武将@お腹せっぷく:03/04/11 03:18
>>96
陸遜とか
>>97
その手法はあの司馬イも見習ってたな
病気になった時、孫権が壁の穴からのぞいていた
>>97
言われてみると、たしかに演義は悪くないね。
人形劇は最悪だが、三国志漫画はろくなのない。
ほとんどの三国志漫画で、呂蒙は小悪党顔。スウィートですらそうだった…
艶義では、何故か逆恨み厨だったし。
>>100
呂蒙の傑出した才能は、武略だけではないしね。

勉学に励んだ後は魯粛すら驚愕したほどの成長ぶりだったのは有名だけど、人事に
関しては、自分を讒言した人物すら、私情をはさまずに推挙して孫権に賞賛されてる。
後に孫権は、軍略にかけては周瑜に次ぐ、とまで評価してるし。

武辺一辺倒からあれだけの知勇兼備の名将にまで化けたのって、呂蒙くらいでは?
呂蒙は孫家の誇るべき名士。それを悪役っぽく描くのは酷すぎる。
大体荊州とられたのも関羽の驕りが原因だろうに。

>>101
三國志9だとシナリオによって知力が50も違うんだな。
103功徳 ◆yd4GcNX4hQ :03/04/11 23:19
禿同

いくら神仏扱いされてるからって
横浜中華街でも呂蒙だけ電柱に絵がないのも不快
104無名武将@お腹せっぷく:03/04/12 02:07
呂蒙を君主にしてやりたくなった
勝負というものは、どう転ぶかわからない。それこそ「ゲタをはくまで」。
語るのもシンドイが、9回で7ー1の6点差が逃げ切れない。それも2死から、
追いつかれてしまうのだ。このところ、不安視していた中継ぎ、しめくくりの軸が
ぐらついている。それが歯がゆい。ポートが打たれた。乗ってきた巨人の勢いを、
断ち切らねばいかんところ。左対左で吉野だが、ここで起用されている、
という真意を、わかってくれない。流れを止めるんだの、がんばりが出ていない。
阿部を四球で歩かせたのは、流れを加速させることになった。
 あと1人だった。あと1球だった。そこでクロスワードパズルを、
ぴたっとはめるようなホームランが飛び出す。後藤の同点3ラン、
さらには延長12回にあげた、虎の子の1点に追いつく高橋由の引き分け弾。
7回まで打たれながらも、決してリードを許さなかった伊良部の、せっかくの好投
、金本、アリアス、片岡のホームランも、すべてドローのための、捨て石に
過ぎなくなってしまった。結果は最上とはいえなかったが、選手はそれぞれ、
自分の力を振り絞って、がんばってくれた。粘り抜いたよ。
 これ以上、もう言わせるな。旅行日なしの移動で、4時間41分もゲームに
没入した。本音でいえば、勝ちたかった。ただそれだけ……。
気持ちはよく分かるよ。。横浜ファンだから...
107無名武将@お腹せっぷく:03/04/12 13:53


           /ヽ
          ││
           ││」ワ
        ヘ <ニ Σ
      / /  目てフ 
    / / i   ‖ミ
   ├ ミ,゚Д゚彡 ‖   <ワシを語れ。 
   ├(ノi 呂|つ‖
   ├  i 蒙i  ‖
    \_ヽ_,ゝ ‖
      U" U  ‖
108無名武将@お腹せっぷく:03/04/12 20:55
人柄もいいよな
甘寧に殺されそうになった料理人を庇って
後に甘寧が約束を破って料理人を殺したときは
怒って甘寧を殺そうとまでしたしな。

リョトウが演舞で甘寧を殺そうとした時も気づいて、とっさに
庇ったしな
関羽を倒せるほどの逸材だった
ということだよな?
蒼天航路でどういう扱いにされるかだな。

周喩の扱いも孔明の当て馬にされることが多い。
絶対に赤壁は周喩の功績なのに……。
あの戦力差を引っくり返せる天才は陸遜くらいだろ。
呉が不憫でならない。
一騎当千に期待か?
110無名武将@お腹切腹:03/04/13 02:19
リア厨の妹が学校から借りてきた故事成語の本に
「髀肉の嘆」や「泣いてバショクを斬る」は
なかったのに「呉下の阿蒙」だけは載ってた。

ちょっと嬉しかった。
111無名武将@お腹せっぷく:03/04/13 03:34
これほどの名将なのにな
呂蒙が『演義』(に限らんわけ)であれだけ不遇なのも、魯粛の後任としてから歿する
までの期間が二年しかなく、そのなかで関羽を征伐した一件が、あまりにも浮き上が
ってるからというのもあるのではなかろうか?
あまり回ってるスレでもないし、勝手に書き込んで救済するわけではないけど、自分
なりの呂蒙の考察を纏めてみたんす。
ここでは、呂蒙の人格、軍事・行政・人事面等での能力、君臣間の相関関係、総評
あたりを述べる。
長文なんで、ウザく感じる住民は、どうかスルーの方向でおながいします。

史料に見える呂蒙の活躍が多く記述される時期は、主として、建安年間の13〜24年
(208〜219年)あたりの12年ほどだが、生年から計算すると、30〜42歳というあたりの
まさに而立を迎えてから不惑を少し越えるまでの壮年期に相当する。

とりたてて権門貴顕の出身ではないためか、呂蒙の人心掌握や心遣いは秀逸である。

>>108氏が言うように、有為の人材に対しては、過失を咎めるよりも才能を発揮させる
方を優先する意識が濃厚で、>>101に書いてしまったが、自分に対し批判的な人物でも、
その才覚にみるべきものがあれば一切の私情をはさむ事をせずに推挙し、また投降者に
対しても、安易に古参の臣の麾下に配属するような粗略な扱いをさせない。
また、呉の特色として、当主の死後も後嗣に相続させる世襲兵というものがあるが、
当主が歿した家の子弟が幼年であれば、軍勢を取り上げずに扶育する心遣いがある。
また、甘寧のような素行に問題がある人物でも、有為であるからと庇ってもいる。

>>110氏にある「呉下の阿蒙」に関しては、孫権に諭されたというものだが、篤学に
至った時期がはっきりしていないが、魯粛が周瑜の後任となった際の話から生まれた
成語とすれば、赤壁前後が妥当かもしれない(このあたり浅学なもんで、訂正を希望)
その成長の程とは、議論をめぐっては時に魯粛を凌駕したといい、掲げた諸種の方策
は、非常に時宜に適し、現実を見据えたものであったという。
続いては、軍事・行政・人事面の能力を主とするが…

呉において、軍事的能力の第一人者は疑う余地なく周瑜とされやすいが、周瑜には
『正史』を見る限り、戦争とりわけ戦術面における詳細な記述はほとんど無い。
後に帝位に即いた、孫権が陸遜に語った呂蒙評にあるが、企画立案や構想力といった
面では周瑜に劣らず、関羽にまつわる荊州の諸問題に対しての見解は魯粛以上である
とされている。

魯粛に述べた方策にあるように、呂蒙の献策の特色は、周瑜や魯粛、甘寧らにあるよう
な壮大でどこか大言壮語を感じさせるものではなく、現在において直面する問題を着実に
分析・処理していくといった傾向が強い。
それが証左であるとは断言できないが、孫権は、父・堅や兄・策と較べれば、守成に対し
てより積極的な面があり、そのためか、壮大な構想よりは目の前にある現実的な諸問題の
処理を望む風潮があり、性質的なもので呂蒙とは極めて合致する部分が大きかったのでは
ないかと感じられる。
というのも『正史』において孫権は、呂蒙の献策や提議に対し、一度として否定的ないし
却下という裁断を下しておらず、ほとんどに対して賛意を表している。
これは周瑜に対してですら無い事で、その交わりたるや『演義』における劉備と諸葛亮を
思わせてくれる。
その呂蒙の軍事面での事績というと、208年の黄祖討伐では先鋒の陳就を撃破し、同年の
曹操の南征に際しては、周瑜麾下で曹軍の鋭鋒を挫き、続いて以降1年にわたる南郡の
攻防戦では、適切な献策を挙げ、また彼我の戦力や将の分析は精緻であり、勝利に大きく
貢献しており、すでにこのあたりから武勇一辺倒ではない将器を感じさせ、特に、局地的
な戦術眼では周瑜以上とも思わせる。
呉の主な戦線として荊州にくわえて濡須が挙げられるが、こちらでも呂蒙の才能は十分に
発揮されており、特に214年の、呉領に突き刺さったかたちで存在する魏領・皖に対して
の重要性と危険性への意識は敏感で、攻略においても積極策を掲げ、陥落へと導いている。
叛乱鎮定への手腕にも秀で、多くの(しくじった)前任者を圧する戦果を揚げている。
この時期に至ると以前の武勇は鳴りを潜めた観があるが、翌215年の合肥攻囲戦では、
撤退時の虚を張遼に衝かれた孫権が危機に陥るが、凌統や甘寧、蒋欽らと僅かの寡兵で
奮戦して窮地を脱しており、武勇は依然として健在のようである。

軍事面での書き込みが長くて恐縮なんすが…

呂蒙の軍事面での最大の事績は、いうまでもなく関羽征伐である。
よく言われる事だが、北進中の関羽の後背を窺い、名目上は対立関係ではない呉の
背信ともとれる行為を非難するむきもあるが、現実に背信を行ったのは、関羽である。
樊城攻囲中に魏の救援軍を率いる于禁を撃破し、その結果として降兵を抱えて食糧の
欠乏に陥り、解決策として、関羽はあろうことか無断で呉の食糧集積地である湘関を
攻撃し、食糧を強奪してしまうのである。
それ以前、呉は、呂蒙が関羽の油断を誘うために佯病を用い、安心した関羽は後背地の
戦力を前線に投入してしまう愚を犯す。
結果、樊城での戦果と呉への背信行為を生み、時宜と名目を得た呉は、守備戦力のおちた
南郡と公安を易々と陥落させ、念の入った事に呂蒙は、陸遜を用いて江、夷水流域の蜀領
である宜都や秭帰らを落とし、関羽を徹底的に孤立化させる。
後の関羽の顛末は周知のとおりである。
軍事面での成果と並行して等閑にできないのが、占領地行政である。
これを怠った為に、得た広大な領土の保持が叶わず、敵に再起と奪回を許した事例は多い。
南郡、公安を攻略後、呂蒙の布いた政策は絶妙である。
軍紀を厳峻として兵士の恣意的行為を許さず、結果として民心は順服し、関羽が使者を差遣
してくるとこれを逆用して関羽麾下の兵卒の意気を阻喪せしめ、投降・逃亡を助長させる。
笠を盗んだ同郷の兵士を処刑した話は有名だが、呂蒙はけっして国事に私情をはさむ事を
せず、かといって于禁の例にあるような批判を生む事も無い見事なものである。

当然の事ながら、死に臨んでの孫権のはからいも格別で、大金を投じて名医を広く
もとめ、祈祷を行い、快方したとみるや大赦を発するまでで、更には、容態の悪化を
懸念して>>99氏にあるといった具合である。
これほど恩寵を(特に死に際して)うけた臣は、呂蒙を除けば凌統と朱然くらいであり、
魯粛の後任となって後、かつて周瑜の俸邑であった地を呂蒙に下賜している事からも、
やはり最も信任した人物のひとりなのではないかと思う。

極めつけは、>>86氏にある寡欲と清廉さなのだろうか。

評価では、個人的にはやはり孫権の評にあるあたりが的をえており、付け加えると、
軍略面での才能では周瑜、陸遜に比肩し、魯粛はおろか陸抗を凌駕するのではと思う。
軍政のみならず人事においてもそつが無く、君主との良好な関係では随一ともいえる。


以上、本当に、ほんとーに長くてすまんす。
ウザく感じた住民の方々には、たいへんもうしわけないす。
こういった不遇の人物ほど、実像を知ってみると面白いので、ついやってしまいますた。
他には潘濬あたりが、そうかなぁ…。
長々と拙文で、御怒りは甘んじて…。
読んでくれた方々、もしもおられたら、感謝します。
ゼンブヨンダヨ(゚∀゚)
面白いし納得した。
評はちょっと呂蒙に良く読みすぎてる気がするけど、ほぼ全面的に同意
>>115
スレ違いだけど潘濬あたりの評も聞いてみたいっす
119無名武将@お腹せっぷく:03/04/14 01:18
>>118
はげどー
>>112-115
すげえな。演義では道化師役にさせられた魯粛あたりの評価も聞いてみたい。
単刀赴会はかっこよかった。
物凄くHNを問いたいのは漏れだけか?
>>121
漏れも。
ここの人の多くがそうじゃないかな。
孫権がついでから、孫呉の版図を広げたのは呂蒙くらいだな。
>>123
なんで肝心の周・魯を忘れるんですか…
125無名武将@お腹切腹:03/04/14 13:53
>>109の一騎当千といえば
ttp://www.ikkitousen.com/top.html
というのはガイシュツ?

スレ違いスマソ。
126功徳 ◆yd4GcNX4hQ :03/04/14 14:12
是非HNとってほしいです。
個人の偉業を正しく世に知らしめる行為はとても尊いと思います

すごくいいです!!
まあ呉の曹操との関羽挟撃は食糧を強奪已然の問題だよな
魯粛死後、あれだけ人望のない関羽を荊州に留置した劉備の責任だな
ついでに俺も潘濬の評をキボンヌ
>>127
と言っても、劉備配下の他の武将は関羽よりもさらに人望なさそうだぞ。
つーか蜀は人材いなさすぎ
外交を任せられる奴がいなかったから仕方ない
人がいないのは劉備の責任と言えばそうなんだが
>>128
ハン城の曹仁を攻める時に
糜芳,傅士仁に兵糧を送るのを拒まれ
劉封、孟達に援軍を頼むも送られず
江陵にいた潘濬も動いてくれない
そうしている内に呉が攻めてくると
あっさり糜芳、傅士仁、潘濬は呉に下り
関羽の兵は呉と戦おうとせず
みんな関羽を見捨てて降伏する
演義の流れだと仕方ない面があるけど
実情は関羽の人望のなさが思いっきり露呈した感じ
131無名武将@お腹せっぷく:03/04/15 00:45
>>109

蒼天の周喩の扱いはよかったな。
天才過ぎず、けれども曹操や孔明に臆していない

そういや陸遜はあのゴロツキ衆のうち誰なんだろうか?
呂蒙が評価される時は必ず関羽の悪いトコが引き出される・・・・。
呂蒙も関羽も好きな自分としてはとても辛い・・・
仕方ない関羽の擁護
本場、中国では人気ナンバー1
魏の劉ヨウ曰く「蜀で名将は関羽ただ一人」
程イクは「関羽、張飛は一人で一万相手にできる」と評す
戦績
顔良を斬る
洪水に乗じて宇禁を捕らえ、ホウ徳を斬る
>>132
あのゴロツキの中でいまだ不明なのは前髪付き禿なのだがw
たぶん陸遜はもう少しまともな格好だと
135無名武将@お腹せっぷく:03/04/15 13:50
>>133
仕方ない関羽の擁護
本場、中国では人気ナンバー1

あれは昔のことさ。香港、海外の中華街なら通用すると思うが、本場ではな。
あ、あとは日本人向けの旅行社の解説書にもそう書いているだろう。
中国では、男性なら曹操――実際この前「万王之王――曹操」って本も結構売れたし。
女性なら趙雲――これは不動だね。

趙雲って中国ではあまり人気ないって聞いたけど
女性に人気だったのか
周瑜は意外と人気があるようだけど
>>131
陸遜は良家のボンだからゴロツキの中には混じりません
多分。
>>125
一応は呂蒙なんだが・・・
まあ、さすがにこのアニメで三国志を間違って覚える奴はおるまい
>>137
でも徐盛いなかった?
周泰あたりを馬鹿にしてたからそれなりの出自かと
140山崎渉:03/04/17 10:56
(^^)
>>112-115で、勝手に長々と呂蒙評を書いた者です。
>>116-122>>127
叩かれるの覚悟だったんで、読んでいただいた住民各位には、感謝してます。
希望されてしまい、いちおう自分でもフッてしまった手前、潘濬を載せます。
勝手な進行でもって、>>1の他、住民各位にはもうしわけないす。

以下はやはり長文ですし、なによりスレ違いに近いため、ウザく感じられる住民には
どうかスルーの方向でおながいします。

ギコナビから載せてるんで、読みにくい箇所などあった場合は、御容赦ください。
潘濬と聞けば、関羽を裏切った人物、と思い起こす人間が大半ではなかろうか。
それともゲームでいうなら、現地登用の後は永住の二線級文官、といったあたりか。
たしかに、『演義』の影響か、潘濬の評価は甚だ低い。
それはやはり、関羽を裏切った、という一事に起因しているように思われる。
『蜀志・楊戯伝』に引く『季漢輔臣賛』においては、同じく関羽を裏切った、靡芳や
士仁と同列に論じられているが、ここに潘濬の救済を兼ねた実像の考察を試みる。

潘濬は、没年を赤烏2年(239年)とし、生年は熹平年間(172〜178年)と思われる。
潘濬は若くして学を修め、その人格にいたっては、後漢の蔡?も絶賛した王粲にも
高く評価され、而立に満たずして劉表に招聘され、江夏郡の従事(功曹)となる。
・功曹‐選挙や査定を主な任務とし、ここでは、郡都尉の属官か。
務めにおいては法に厳格にして私利をもとめず、時には敢然と死刑を課す事も厭わず、
後に県の長を歴任するが、統治の評判は高かったようである。
この法の厳守と行政手腕に秀でる事実は、潘濬の生涯を徹して一貫しており、また
人物の観察眼や先見性にも優れ、派閥などの自己保身にも関心は薄い様である。

次に、詳細な能力とそれに伴う事績について…
後に劉備に仕え、治中従事となり、劉備の入蜀後も荊州・江陵(南郡)での行政を担う。
・治中従事‐治中といい、州刺史属官の八従事のひとつ。功曹よりは上位か。
孫権の関羽討伐後はただひとり降る事を是とせず、孫権に半ば強制的に召し出され
ると、篤い礼容をもって迎えられるとともにその誠心を讃えられ、古代の賢人にも
通じるという高い評価をうけるが、これは、曹操に降った文聘や劉備に降った黄忠を
思わせる。
これを、儒教に則った打算をはたらかせた演出であると断定するのは、人格とそれ
以前の経歴を鑑みれば、穿ち過ぎた見方ではないだろうか。
孫権の潘濬に対する評価は、劉備のそれとは比較に値しない厚遇である。

輔軍中朗将として兵権を授け、荊州における軍事にも意見をもとめている。
・輔軍中朗将‐ここでは、兵権を有し、将軍位よりは下位といった具合か…。
では、この輔軍中朗将が当時の孫呉においてどのような位置にあるか、他の人物と
比較すればわかりやすいかと思われ。

『正史』における記述を信用するなら、韓当でいえば、209年の南郡奪取から夷陵の
戦いまでを編将軍であり、潘璋や朱然ですら、関羽討伐時までは編将軍に過ぎない。
周泰は平慮将軍、甘寧は折衝将軍、呂蒙は虎威将軍であるが、いずれも将軍位としては
下位といった方がよく、徐盛に至っては中朗将に過ぎなかったのではないかと思われ。
元勲である張昭や呂範は、綏遠、平南将軍という割合は高位にあるが、孫権自身が車騎
将軍に過ぎなかったせいもあり、降伏間もない潘濬の処遇は非常に手篤いものであった
のではなかろうか。
更にいえば、およそ10年間を用いた劉備の処遇が治中に過ぎなかった事実に反して、
降伏間もない人物を輔軍中朗将に据えた、孫権の果断と秀でた観察眼にも注目すべき
かもしれない。

では、孫権の厚遇に対し、潘濬がどの様に応えたかを追ってみる。

荊州併呑後、武陵郡が蜀への帰属を目論むと、当初、叛乱鎮定には一万の戦力が必要
との見解がだされた。
しかし潘濬は、投入する戦力は過大であると孫権に説き、事態の軽重と首謀者を分析
したうえで、半数の戦力で十分であるとし、結果、孫権に鎮圧を命じられると忽ちに
叛乱を鎮め、軍事手腕にも秀でているという事実が明らかになる。

潘濬は武陵郡出身であり、荊州における諸事情を悉知していたとみるべきか。
結果として、劉備には潘濬の才能を見出せていなかった事になり、余計に孫権の人事
が誤りのないものであったという事実を浮かび上がらせているようにもみえる。
孫権の潘濬に対する信任を表す話が幾つかある。

孫権が呉王となってよりの226年には奮威将軍となるが、この時、歿した?玄麾下の
兵を配属されている。

呉では、当主の死後に一族の後嗣が私兵を世襲する、世兵制とよばれものがある。
これは呉の軍事力の根幹を為すものであり、有力な各豪族の抱える多くの私兵により
呉の戦力が形成されていたものであるが、当主の死後に後嗣が幼年である場合、他の
有力な人物の麾下に編入される場合があった。
呂蒙や、凌統の死にまつわる話が有名だが、ここで潘濬に配属された?氏とは、孫堅
の時世より文武の両面で功績の大きい家であり、また、?玄自身の女が太子・孫登の
妃である事を思えば、孫権の潘濬に対する信愛の深さが窺えるのではなかろうか。

他に、孫権への諌言にまつわる話がある。

狩猟を好んだ孫権は帝位に即いて後も行い、虎狩りに際してそれを諌めた張昭の
話は殊に有名であるが、潘濬もまた、雉狩りにいそしむ孫権を諌めた。
ここでは潘濬の言葉を聞き分け、以降は雉狩りを慎んだといわれる。

もうひとつ…
呂壱の横行した時代(236?〜237年?)、呂壱に縁故のある人物の不正を罰した人物が
呂壱の恨みを買い、讒言によって死刑の危機に陥ったが、潘濬らによって諌められた事
で、死を免れたといわれる。

他にも挙げられるが、とかくこの様な次第であり、その信任の大きさと国内における
重きは時代を経る毎に増し、孫権が帝位に即いた以降では陸遜にも比肩し、諸葛瑾や
歩隲、朱然や呂岱を凌いだと思われる。
229年、孫権が帝位に即くと少府、次いで太常という卿位を得、建業への遷都にとも
ない、荊州の要衝・武昌へ、陸遜と共に駐屯する様になる。

武昌は、旧名を鄂といい、江水流域の要衝・夏口の東方150里に位置し、荊、揚州の
境に存在するいわば呉の副都的な存在であり、221年に改名されるに及んで城が築かれ
ると、孫呉の首都となっていた。

武昌は荊州の防衛線を形成する要地でもあり、当時の荊州は、陸遜と潘濬によって経略
されていたといっても過言とはいい難いように思われる。

太常となって後も、潘濬の働きは軍政両面にわたる。

ひとつは、231年より臨んだ、武陵(五谿)蛮の討伐である。
(おそらく)この僅かに前に太常となり、武昌に駐屯していた潘濬は五万の軍勢を率い
て討伐に赴くが、この遠征は三年に及んだらしい。

武陵(五谿)蛮とは、後漢の光武帝の時代より存在し、時には派遣された中央軍を
壊滅させる猛威をふるい、馬超の先祖といわれる馬援らの討伐で一時的に勢いは
失ったが、三国時代にいたって劉備の呉遠征に助力するなど、呉においては看過
し難い存在であったようだ。

潘濬が武陵郡出身であることは前述したが、この地の情勢や事情に通暁している
というのが、孫権より委嘱された所以ではなかろうか。
この遠征には、麾下に呂岱の他、朱績(朱然後嗣)、呂拠(呂範後嗣)、鍾離牧らを
加えており、法を厳守して信賞必罰を明らかとし、結果として戦果は数万を揚げ、
降伏した民を軍に編入して戦力の増加にも寄与する功績をあげた。
ついでながら、これよりおよそ三十年間、武陵は概ね平穏をたもったようである。
最後が、潘濬最晩年における呂壱の一件(236?〜237年?)である。
呂壱によって危機に陥った人物は、『正史』にある限りでも、顧雍、朱拠、?嘉、
是儀、鄭冑らがおり、孫権を諌めた人物には、太子・孫登、陸遜、潘濬、李衡、
歩隲といった名があり、多くの臣が戦戦恐恐としていたようだ。
呂壱に対して、自身でもって誅殺を試みたのは潘濬ひとりであり、呂壱によって
回避され未遂に終わったが、これは呂壱が孫権に誅殺される大きな要因となったの
ではないか。

歿したのは239年だが、この時期は遼東や呂壱をめぐる問題はあったがおおむね呉の
威勢に揺らぎはなく、太子・孫登が健在(241年歿)であり、彼の死後、後継者をめぐる
政争が起こる事を思えば、この頃が呉の最良期だった様にも思われる。

総じてみると、潘濬には、甘寧や董襲、周泰らのような武勇は無論、周瑜や陸遜の
様に軍略に一際優れていたわけでもない。
顧雍や歩隲のような揚州指折りの貴顕でもなく、孫権に仕える前の荊州時代では、
完全な二線級の文官扱いである。
呉の滅亡後、陸機の著した『弁亡論』では、顧雍、呂範、呂岱らと並んで政事に
おける能力を評価され、歩隲は孫登に対し、陸遜や諸葛瑾、裴玄、朱然らと並ぶ、
荊州における重きを為す人物であると告げている。

こうしてみると、潘濬は丞相としても申し分のない才覚をもった人物かもしれない。


呂蒙以上に長くて、ほんとにすまんです、というほかないです。
ウザく感じた住民各位には、たいへんもうしわけないす。
罵詈も雑言も覚悟してますし、もうしませんので御容赦ください。
呂蒙の方でもそうでしたが、やはり好意的に書いてるというツッコミは覚悟
してますし、御希望いただいた住民の期待に応えられてるかはわからないですが、
読んでいただけていたら幸甚というほかないす。   以上、長々とすんません。
147無名武将@お腹せっぷく:03/04/18 22:26
>>141
読ませて貰った
漏れの潘濬評と非常に似通ってるよ

潘濬はさ、政治においては張昭の跡を継ぐにふさわしく、武においては陸遜の補佐に足る人物だな
また張昭が左遷され死んだ後、潘濬が長生きしていれば二宮の変は起こらなかったかも知れない
と言うのも陸遜は人格能力共に優れるが厳しさに欠けるように思える
一方、潘濬は張昭ほどとはいかないものの、141が書いているように正義心あふるる諫言を行った

それによ劉備のことも諸葛亮亡き後に潘濬がいたらって、思えるくらいの人物なんだよな
補足。

呉二代目丞相の顧雍は
大理兼奉常 → 太常 → 丞相
という足取りを辿ったが、
潘濬も
少府      → 太常
となっている。

潘濬が太常になったことから察するに、
顧雍の後継を目されていたとして良いだろう。
事実、謝広もそれらしき発言をして呂壱に自制を求めており、呂壱もそれを認めている。
 謝広:「(顧雍が免ぜられれば、)潘太常が跡を継がれることになりましょう」
 呂壱:「あなたの言われるようなところであろうな」

彼が丞相まで昇れなかったのは、同世代か一世代上に当たる
顧雍が長生きしたからに過ぎず、政務では孫呉でも抜群だったのだろう。
顧雍を除けば、随一と言っても過言ではないと思われ。
>>148
頼み事して悪いけどよ
潘璋の評も聞きたくなった
演義や光栄のゲームで呂蒙や潘濬と一緒で関羽補正を受けてる人物だからな
150148:03/04/18 23:07
漏れは >>141 じゃないけど、やっぱり高く評価したい。
潘濬の余命があと十年あったら、二宮の変も起きなかっただろうし、
孫権も余命を汚さずに済んだんじゃないかな。
ちくしょう
すごいスレだな

呉ファンの俺には目頭が熱くなってよく見えないよ
152148:03/04/20 00:00
>>149
>>141 じゃないけど、漏れもして良い?
153148:03/04/20 00:01
いや、漏れが評価してよい?が正しい表現だな。スマンす
>>153
149じゃないが是非、頼むよ
155山崎渉:03/04/20 05:20
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>153
 誰を評価するの?
>>156
>>149で書いて潘璋だろ
呂蒙ってすごいな
>>141です。

>>147
捕捉いただいて、たいへんに助かる。
5レスいってて、これ以上は長いかな、と思ってたんで本当に感謝。
捕捉内にある事は、自分とほとんど同意見なんす。

他の目を通していただいた住民各位にも、本当に感謝してます。
これまで長々と、スレ汚しで失礼ですた。
>>160
間違えた。すまん
162148:03/04/21 21:31
すまん、時間が無い… 誰かできたら代わりにやってぽ <潘璋
他人任せは良くないぞ148!
164148:03/04/21 21:37
いや、ホントにすまんって… 泣いちゃうぞ!(涙)
>>141なんですが、ちょうど『呉書』読んでるので、書いてもいいすかね?
141
是非たのむ
167148:03/04/22 08:22
>>141
すまぬ。宜しく頼む…
168通りすがり:03/04/22 23:30
潘璋・・・
軍才があり、実務手腕もまずまずだが、金には汚い男だったらしい。
官民の豊かな人物を襲って、財貨を強奪したりしていたようだが、孫権は彼の能力を
惜しんで不問にしたようだ。

潘濬に関しては皆の言う通り。
彼が長生きしてれば、陸遜もあんな死に方はしなかったと、漏れは確信している。
>>141なんすけど、潘璋について大方はまとまったけど、大要は>>168にあるとおりなんす。 呂蒙や潘濬の様に長くなっても、いいんでしょうか?
どうぞ、どうぞ
>>170 了解です。んでは、本日中にでも。
御多忙の>>148氏に成り代わり、>>141が代行ということで、潘璋の考察を。
以下は例によって長文にて、またスレ違いに近いため、ウザく感じられる住民は
どうかスルーの方向でおながいします。
潘璋もまた、『演義』を筆頭に小説や漫画、果てはゲーム等によって実像を著しく
歪められ、不当な評価を下された人物といわざるをえない。
関羽を捕え(死に至らしめ)た、というその一事によるためか、その末路は、関羽の
亡霊と、仇とつけ狙う関興に追いつめられて斬殺されるという、およそ事実とは
かけ離れたものである。
この機会に、史料に基づいた評価と実像の考察を試みる。

『正史』によれば、潘璋は、東郡・発干の出身という。
建安元年(196年)、当主が孫策の時代、陽羨県長であった孫権のもとに赴いて仕えた
というが、出身地の東郡といえば中原の黄河南岸域であり、孫策は会稽太守となった
頃に過ぎず、一方の中原では、4年前に界橋で公孫氏を撃破した、袁氏の優位性が確立
している時代なのである。
江南を目指した所以はわからず、門地の無い身分を顧慮したうえで、更に先見の明が
あった、とはいい過ぎだろうか。

潘璋の人格については、気侭にして酒を嗜み、貧しいうえに借財は将来、富んで後に
返すとうそぶいていたといわれるが、孫権に見込まれて麾下の属将となる。
また、粗く猛々しい性格ではあったが、おかげで部下は蕭然と禁令を守ったといわれる。

次に、軍事面での功績および治績にうつる。
建安年間初頭、孫策の治める江東では、依然として山越や不服従民の叛乱が多く、潘璋
もまた孫権のもとで討伐に従軍し、戦功を認められて別部司馬に任じられる。
・別部司馬‐漢代の軍編制における、将軍直属にして、通常編制を越える部曲の統轄か。
次いで、呉(蘇州)の大市場の刺奸(治安取締の官吏)となると、盗賊らの犯罪行為が絶えたと
いわれ、これによって潘璋の評判が上がり、豫章郡・西安県長へ栄進する。

豫章郡は、建安4年(199年)に孫策に帰順したばかりであり、西安県は、西隣の
江夏郡との境に近く、劉表(黄祖か?)の軍卒による侵入・略奪が頻発していた。
潘璋が赴任するや、それらの略奪が絶えたといい、さらに南方の建昌県での叛乱
鎮定を委嘱され、武猛校尉となるやひと月で征圧を果たし、離散民を招集して後
は建業へ移る(これ以降は中央赴任か?)。
それより後も孫策、孫権の時代を通じて功績を揚げたと思われるが、次に『正史』
に名がみえるのは建安20年(215年)である。

この年、呉は、魏と蜀の間で長い戦時状態にはいる。
五月、前年に蜀を制圧した劉備との間で、荊州の領有権をめぐる一触即発の状況
となり、孫権は、かねてより接収を計りつつも関羽に阻害されていた武陵、零陵、
桂陽の三郡へ対し、呂蒙を将とした二万の軍勢を派遣し、魯粛には一万の軍勢を
もって益陽へ向かわせて関羽を牽制させ、自身は陸口に陣を据える。
潘璋は、孫皎、鮮于丹、徐忠、孫規らとともに呂蒙麾下の属将として従軍する。
これに対し、劉備が五万の軍勢を率いて公安にまで進駐し、関羽には公称三万の
軍勢を率いて益陽を窺わせるに及び、孫権は南部の三郡接収に向かっていた呂蒙を
北上させる。

※この時の呉蜀の布陣だが、関羽の屯する江陵と劉備の屯する公安からは、陸口は
南東380里(150q)の位置にあり、益陽は、公安の南方440里(180q)、これに反し、
最後に降った零陵から益陽までは、最短でも630里(250q)もあり、この年の八月に
合肥において大規模な軍事行動を行う事を鑑みれば、荊州に投入した孫権の戦力は
多くはなかったはずであり、益陽の魯粛以下一万では、関羽にはとても抗しきれない
と読んだのではなかろうか。
ついでながら、この益陽において魯粛と関羽の会見があり、魯粛の面目躍如となるの
は有名である。

三郡を征圧した呂蒙は、守備に孫皎、鮮于丹、徐忠の三人を配し、潘璋と孫規を連れて
北上するのだが、これには蜀との開戦を想定した場合の、潘璋の才幹を見込んでの人選
なのではなかろうか。

※「呉書」と「呂蒙伝」を比較すると撞着が存在し、「呉書」では、北上したのは孫規
ではなく孫皎となっている。
「孫皎伝」に詳しいが、呂蒙が指揮系統の混乱を憂慮しており、将の位階で上位の孫皎
は、やはり南部において鎮守にあたったのが事実なのではなかろうかと推測。
荊州をめぐっての争いは、第三者である曹操の動向によって劉備側が折れ、分割
協定を結んでいちおうの終息をみせる。

同年八月、潘璋は合肥戦役に従軍する。
この戦いでは、魏の張遼の用兵が際立ち、呉軍十万が僅か八百の軍勢に翻弄された
ともいわれているが、撤退時には孫権自身が危機に陥り、呂蒙、凌統、甘寧、蒋欽
らが奮戦するも、陳武は戦死し、徐盛と宋謙は潰走するが、後陣の潘璋は馳せつける
や逃亡兵を斬り捨てて士気を鼓舞し、態勢を挽回させる功を揚げる。
この功績は孫権の高く評価するところとなり、編将軍に叙せられる。

江南に拠ってより19年目にして将軍位を得るが、この時点における、潘璋のおおまか
な序列を記す。
この時点で編将軍は、韓当、董襲、凌統らで、上には周泰、甘寧、蒋欽らがおり、
先任ということでいえば、潘璋は、韓当や董襲よりは下で、凌統とはおおよそは
同位あたりではなかろうか。
徐盛や朱然は未だ将軍位ではなく、丁奉にいたっては、はるかに後である。

次は建安24年(219年)の関羽征伐だが、詳細は>>112-115にあるために割愛させて
いただくが、最後に関羽の退路を絶ち、関羽および関平と趙累を捕えた功績が認め
られ、振威将軍・慄陽侯となり、更に、関羽討伐の際に攻略した巫と?帰をもって
設けた固陵郡の太守となり、甘寧死後の軍勢を併せて統御した。

この巫と?帰は呉領の最西端に位置し、孫権により、意図的に対蜀最前線の担当を
運命づけられた観がある。
後に蜀との戦いがある夷陵は、?帰の南東に僅か150里(60q)ほどしかなく、巫は
益、荊州のほぼ境に位置し、孫権がどういった思惑で潘璋を配したか、才能を買ったか、仇敵を最前線に配する事で怒りを軟化できると考えたのか、推測する価値があるように
も思われるが、真相は定かではない。

三年後の222年、潘璋は、劉備の親征となる蜀の侵攻を迎え撃つことになる。
この戦いでは、古参の多くの将領が司令官の陸遜に服していなかったが、潘璋もまた
孫策の時代より仕える者としての矜持がはたらき、不服であったはずである。
緒戦では多くの将同様に血気に逸るも陸遜に掣肘されるが、決戦に及ぶや大督・馮習
を討ち取るほか多数の戦果を揚げた。
法に厳格であったというから、持久戦であったこの戦いでも、潘璋麾下の士卒は弛緩
する事なく決戦を迎えられたのではなかろうか。

戦勝後、余勢を駆って白帝を攻めるべく上申するが、魏軍の南下を懸念した陸遜の洞察
に違わず、魏は軍勢を三路(洞口、濡須口、南郡)へ侵入させ、潘璋は魏の曹真、夏侯尚、
徐晃、張?らに攻囲された、朱然の篭もる南郡の救援に向かう。

南郡の戦いは、半年を越える長期戦となった。
南郡では、他に諸葛瑾と楊粲が主力を率いて救援に赴いていたが、それに先んじて孫権
より派遣された、孫盛の一万の軍勢は張?に撃破されており、諸葛瑾と楊粲が着いた時
には、既に中洲を占拠されて城内との連絡が絶たれていた。
更に、諸葛瑾と楊粲は魏軍の夜襲をうけてもおり、戦況は全くの好転をみなかった。
また、朱然以下が篭もる南郡では傷病兵が多く、曹真は、臨(土山)、梯(高層の攻城兵器)、穴(地下道)らを駆使して猛攻をかけ、果てには、未然に発覚したものの、城内に内応者を
生む危機的状況下にあった。
この状況に際して潘璋は、正確に相互の状況と地形の分析をはかり、江水上流を扼し、
火をかけた筏を流して魏の本営と中洲との連絡橋を遮断する策を提案する。
この策戦が成就する以前に、察知した中洲の魏軍は撤兵し、加えて魏の陣中に疫病が発生
したため、遂には撤退に至った。

また、この魏の侵攻では、洞口と濡須口でも、それぞれに魏軍は戦果を揚げられず、呉は
一連の危機を回避したといえる。

戦後、潘璋は功績を認められて平北将軍に昇進し、要衝・陸口の守備にあたる。
その後の潘璋は、孫権が帝位に即くや右将軍となり、それ以降では史書に目立った
活躍はなく、234年に没する。
総じてみるに、潘璋は有能な実戦部隊長といった存在であり、麾下の軍勢は数千で
ありながら万人規模の力をもっていたといわれ、戦力差で勝る敵を撃破するに足る
優れた戦術眼を具えていたといえる。
その根拠は県長時代以降、敗勢にあっても進退に過ちをみせない事や、積極策を用い
て蜀や魏との戦いに臨む事例からも窺え、麾下の軍勢が法をよく守ったという事とも
相まった故に、多くの軍功と孫権の信任をもたらしたのではと考えられる。
呉の滅亡後に陸機の著した、『弁亡論』では韓当、黄蓋、蒋欽、周泰という名うての
人物と共に語られており、古参に部類されるこれらの人物のなかでも、最も戦功多数
といっても過言ではないと思われる。

が、名将であり、治績の面でも評価のある潘璋を論じるうえで、短所も、重要な意味を
もつと思われる。
潘璋は、若年期の反動であるのか奢侈に耽り、晩年にはそれが昂じ、官民吏卒を問わず
富者であればこれを殺して財を奪うという、不法を度々において犯したといわれる。
孫権としては、潘璋の惜しむべき才能と、対魏蜀という情勢が桎梏となり、不本意では
あるものの不問にふしていた、というところが真相ではないか。

呂範や陳武、凌統、朱然、朱桓などの、功臣の子に対して厚遇で報いる事の少なくない
孫権が、一方で、周瑜や甘寧の子、虞翻本人などには配流でもって報いており、潘璋の
死後、子の平が素行不良で会稽に流された事実は、あながち見当違いともいえないよう
に思える


5レスいってしまい、長くウザく感じた住民各位には、謹んで謝ります。
ひとりの人物の事績を調べるにも、『正史』の様な紀伝体は、『左伝』や『資治通鑑』の
様な編年体と違って、かなり疲れるというのが実情でつ。
補足の必要な部分もあるでしょうし、納得いかれない住民には、どうかつっこんでやって
ください。 失礼しますた。         (>>148氏、これでよろしいでつか?)
>>141
読ませて貰った。141は凄いな。
何というか、こう、漏れを始めとする呉ファンの琴線を揺さぶるのが旨いよ
ついでに涙腺も揺らいでしょうがないよ

呂蒙、潘濬、潘璋の評を読み、改めて分かることに、孫権の人材取り立て、人材活用の巧みさ
そして清濁併せ持つ器量が伺える。
これら孫権の長所が失われた晩年が本当に惜しいと思うよ
179無名武将@お腹せっぷく:03/04/23 21:05
ウザいよ。カエレ!
180148:03/04/23 21:12
>>141 さん、乙カレー。もう満足ですぜ!
慙愧と歓喜で涙が…
181無名武将@お腹切腹:03/04/23 22:50
蒼天りょもキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!




先週な
あの、あんましくわしくないんで、身近な例をあげてほしいのだが、
呂蒙って下からはいあがって圧倒的なヒーローになった、という
認識でイイのかな?

プロ野球でいうと、たしか、西武・ダイエーにいた秋山って選手が
ドラフト外で入団したにもかかわらず、バク転とか2000本とか
300本400盗塁とか…こんなかんじ?
>>182
堅実な能力を手に入れ、呉の花形にはなったが…
例を出すのは難しい、な。
>>182
あるいは掛布。
>>184
掛布はぴったりだろうね。努力で這い上がる&早すぎる引退
ちなみに秋山はドラフト外だけどそれは裏技の結果。ドラフト外≠評価が低い
186148:03/04/26 08:47
そうだ。遅れてしまいますたが、補足を。

>>173
潘璋の本籍地である発干県は、黄河の北にあったのでつ。

後漢の東郡は黄河の南北に跨っており、
212年に発干県は魏郡に移ったのでつが、
東郡他から魏郡に移った県は、黄河の北に位置したらしいのでつ。

ちなみに、10年も経たない221年に、
文帝・曹丕によって魏郡の東部として陽平郡に分けられたようでつ。

187173:03/04/26 11:47
>>186
捕捉いただいて、すんません。
少し調べればわかるのに、手を抜いたせいで、この有様のようでつ。
ありがとうございますた。
188148:03/04/26 11:55
いや、こちらこそ、任せてしまったのに偉そうに申し訳ない。
しかも、本編と関係の無いことを指摘するのは、かなり気が引けたのでつが...
189無名武将@お腹せっぷく:03/04/29 09:59
呂蒙はほとんど勝ち戦が無いんじゃない?
まともに戦って勝った事無いんじゃないの?
知恵はまわるが戦争は下手というのが俺の評価
>>189
なんか張良みたいだな・・・
>>189
君の評価は兎も角として、

【三国志\の武将能力値を正史基にして変えるスレ】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1050928101/

の316らへんを参考にしる。ちょっと分かり難いとは思うが。
192無名武将@お腹せっぷく:03/04/29 11:00
>>191
結局まともな勝ち戦が無いことに変わりがないと思われ
真正面から勝ったヤツなんて、そうそういないと思うんでつが...
>>192
黄祖討伐の際、敵の都督である陳就の首を挙げている。さらに黄祖も捕らえている
呂蒙は皖を落としている。
これは早朝に攻めて、朝食が終わらぬ内に落とすという早業
張遼の救援が間に合わなかった
それと、誰も鎮圧できなかった廬陵の反乱を鎮圧している
さらに濡須で敵の寄せ手を防いだ後、先鋒部隊をうち破っている

むしろ、呉においては周瑜、陸遜に匹敵する戦上手
195無名武将@お腹せっぷく:03/04/29 11:22
>>194
それってほとんどが非常に小さな局所での戦功でしょ。
周瑜や陸遜には遠く及ばないと思うけどね。
……
>>195
周瑜や陸遜の大きな戦いにおいて
まともな勝利徒やらを教えてくれよ
赤壁は疫病がはやった曹操軍に火攻めだし
夷陵は持久戦の後、火攻めだ
二人とも正攻法ではないな、立派に策を用いてるよ

後、江夏、皖、濡須は小さな局所じゃないぞ、呉にとっては重要な場所だよ
>>196
江夏って呂蒙一人で落としたわけでもないし
濡須では呂蒙のかかわった戦闘は非常に小規模だし
反乱ぐらいは鎮圧するっしょ。陸遜でもやってるしね

>>197
だれも陸遜より上とは言ってないよ

江夏は、確かに呂蒙一人で攻めた訳じゃないよ
しかし大功を挙げたのは事実だよ
それと、濡須は合肥の後に起こった濡須の戦いのこと
甘寧と共にもっとも活躍した呂蒙の戦が非常に小規模とは……
しかも、その「小規模の戦い」とやらで曹操は撤退したんだよ

人物の評価に色眼鏡はよした方がよいと思うよ
司令官としての仕事と部将としての仕事はちがうわけでさ、
濡須での戦は呂蒙のかかわった部分は局所的なわけで
大勢ではほぼ敗北して結局は孫権は降伏して兵を引いてもらったのだけど
これは呂蒙の功績ではないと思うなあ
>>199
合肥は敗北だけど濡須は違うよ、引き分けだよ
曹操は濡須を攻め切れていない
それに呂蒙は濡須防衛という主戦に携わった上で、先鋒部隊を撃破しているんだよ
局所的というのは可笑しいよ

司令官としての功績は荊州南部を奪取しているよ
勿論、まともに戦ってないは無しだよ。周瑜や陸産だって、大きな戦いで策を用いているんだから

後、「まともな戦い」とやらを詳しく教えてくれないかな
それと、周瑜、陸遜の正攻法で勝利した大きな戦いも
間違えた
陸産になってるよ。勿論、陸遜だよ
>>200
いやいや、孫権から徐詳に命じて降服を申し込んだわけだから形式的には負け戦でしょ
それに先鋒部隊を撃破したのは甘寧ではないでつか?
しかも合肥では大敗してるわけでしょ

荊州南部の奪取については、無しといわれても、まともに戦ってないわけで
どうみても戦術てきに見るべきものないよね

>>202
そう、形式的には負けだよ。でも「大勢ではほぼ敗北」ではないよ
先鋒を破ったのは呂蒙。甘寧も先鋒を襲撃とあるから
当時の地位を考えると呂蒙麾下にいたと思われるよ

荊州南部は関羽に気付かれずに南郡まで攻め寄せ、南郡を降服させてる。
その上、見事なまでの包囲網を築き関羽の退路を断っている。
それを指揮下の潘璋が捕らえたわけ
戦らしい戦がないのは呂蒙の策と用兵が巧みだったからで仕方がない事だよ
そもそも、正面衝突をせず敵を撃破するのは用兵術が巧みな証拠だよ

ところで、、「まともな戦い」とやらを詳しく教えてよ
比較材料も無しに、呂蒙にだけ「まともに戦ってないわけで」と言われても
荊州南部のはなしは時期がずれてるね
こちらが書いたのは魯粛在命中のときの三郡占領作戦のことだし
関羽戦のときはすでに関羽は徐晃に打ち破られてたわけでどうしようもないでしょ
これを呂蒙の手柄というのもなんだか色眼鏡で見すぎてるし
陸遜の手柄も大きいのじゃないかな

たしかに戦らしい戦がないのは半分は呂蒙の知恵でしょ。
戦は歴代の呉の名将とくらべたら下手でいいんじゃないの?

まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと

赤壁はよくわからないからおいておくとして夷陵はまともに戦っているでしょ。
呂蒙は正面衝突では合肥濡須という負け戦だけだと思うけど
>>204
……ごめん。三郡を帰順させたときのことですか
それは、あなたの言うとおりです

関羽戦ですが、勿論、陸遜の功を無視してませんよ
でも、関羽戦の場合、呂蒙が大半の策を考え、関羽に気付かせずに包囲網を築き、これを捕らえてるんですよ
用兵術のたまものでしょう

>まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと

……無理がありますよ。陸遜も火攻めがあっての勝利だし
正面衝突のみで戦うなんて、よほどの戦力差がないと無理でしょう
それとも火攻めは、軍隊と軍隊のぶつかり合いなのでしょうか?
そもそも「軍隊と軍隊のぶつかりあい」に限定するのが可笑しいと思います

>呂蒙は正面衝突では合肥濡須という負け戦だけだと思うけど
正直、正史のどこを読めばその様に解釈できるのでしょうか?
濡須を守りきり先鋒をうち破っても呂蒙の負けなんでしょうか?

>戦は歴代の呉の名将とくらべたら下手でいいんじゃないの
?、なぜ、そうなるのでしょうか。
一部隊長、一将軍、都督としても戦功抜群である呂蒙が
そもそも、>>195で呂蒙より遙かに優れているとする周瑜、陸遜も
「まともな戦い」での勝利がどれほどの物か教えていただいておりませんし
比較の対象は誰なのでしょうか?
陸遜について、夷陵しか語られないのは何故?
石亭を忘れてないかい?

それはともかく、呂蒙だって戦は上手でしょ?
>>206
石亭の戦いも周魴の策を用いているよ
だから>>204の言う「まともな戦い」の範疇からは外れるよ

>それはともかく、呂蒙だって戦は上手でしょ?
同意。色々な立場で数々の戦功を立てた呂蒙は
明らかに戦上手と思うよ
「軍対と軍対のぶつかり合い」がまともな戦なら、呂蒙に限らず大抵の
香具師はまともな戦で勝利していないな。曹操軍は呂布を水攻めで破ったし、
対袁紹戦では烏巣を襲撃して勝ったし、対馬超戦では偽手紙で馬超と韓遂の
仲を裂いて勝ったし。劉備の益州とりも内通者の存在は見逃せないし、
魏が街亭を落としたのも相手のミスに付け込んで水を断ったおかげだし。

まともな戦で勝ったのは、孫策(廬江攻略除く)、曹操の張魯攻め、
劉備の漢中取り、袁紹の公孫サン撃破くらいか。
軍隊でした。スマソ
>>209
漏れもそう思う
結局、名将と呼ばれる人物が、わざわざ被害が多くなる正面衝突をする理由がない
普通は、有利になるよう策を用いるし
決定的打撃を与えるため火攻めや奇襲、伏兵などを用いる
正面衝突が基本なんて猪武者くらいでしょう

それに>>189の言い分はおかしいんだよな
「小さな局所」とか「呂蒙一人で落としたわけでもないし」とか
「まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと」とか
何故、呂蒙にだけ適用するのかって言いたくなるよ
まぁ、乗り遅れたけど、残念ながら
>>189(だと思う)は知識はあっても比較ができてないんだと思うな。
著名な兵法家の書を学んだり、他の時代の知識も得るのも重要。
「兵とは詭道なり」くらいは応用してもらいたいところでつね。
>呂蒙一人で落としたわけでもないし

こんな言い方したら、周瑜だって一人で曹操を撃退したわけではないし、
陸遜だって一人で劉備を撃退したわけではないだろ。
189は関羽ファンのアンチ呂蒙では?
いや、関羽マンセーだろ。w
つーか、>>211の言う通り、孫氏兵法嫁と言いたくなるなあ。
兵を用いずに勝利を収めるのが最上の策だろうに。
少なくとも、三国時代では孫氏が戦術書としてはメジャーでしょ。
>>214
同意。
「百戦百勝は善の善なるものに非ず」(で、いいよね?)
なんて言葉も知らんのかと思ってしまうよ。
局地的な戦場下における、正面決戦での成績で名将の是非を論じられてもなぁ…。
こんなのもある
「先ず勝ちて、しかる後、闘う」
これも孫子が出典
こうして考えると、関羽戦の時
呂蒙が、孫子を始めとする兵法書をよく学んでいたことが分かる
217211:03/04/30 12:47
左氏に通じたくらいだからね。孫子くらいは擦り切れるほど読んだだろう
微妙な話だからナンだけど、孫権は孫武の子孫と言っているからね。
主要な配下には、必ず読ませていたのかも知れない、とか。

呂蒙と関係なくて悪いけども、孫氏兵法書は現代でも通じる所が多いから。
GWで暇している人は、目を通してみて損はないかと。
丁寧にも現代の状況に照らし合わせて解説してくれてる本もあるしなー
読むだけなら短いから簡単なモンだね、孫子は。
ただ、多少難解な部分があって、粘着するくらいの読解意欲があると
訳が分からなくなって来なくもない。

ま、つまりは分かるようで分かりにくい。
漏れも未だに分かっている自身は無い
>>205
> でも、関羽戦の場合、呂蒙が大半の策を考え、関羽に気付かせずに包囲網を築き、これを捕らえてるんですよ

いや状況を冷静に考えれば、関羽に気づけというほうが無理でしょうね
相手が呂蒙でなくとも気づけるわけがないでしょうに。
そもそもが関羽は川の北岸にいたわけでそういう段階ではないと思うんだけどね
また荊州攻略は夷陵の戦いを招いているわけで
考えが浅くないかとも思えるんですけどね

> >まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと
> ……無理がありますよ。陸遜も火攻めがあっての勝利だし
> 正面衝突のみで戦うなんて、よほどの戦力差がないと無理でしょう

これはこちらの書き方がわるかったですけど正面衝突という限定はどこにもしてませんよ。
火責めも戦法のひとつでしょう。それに夷陵の場合は火攻めがメインというわけでもないですし
そこまでには一年近く戦線を維持した功績もあるわけです。
呂蒙にはこのような司令官としての正攻法での対陣経験がないわけで、
つまり戦巧者あいてに戦ったことがないということですね。
周瑜、陸遜と比べるのは無理があるでしょうね

> そもそも「軍隊と軍隊のぶつかりあい」に限定するのが可笑しいと思います

これはそもそもがその部分に限定しているのだからしょうがないでしょうに。
そもそも戦争にはいろいろな側面があるわけで、今回はその正攻法の対陣で
どのくらいの実力があるのか?という部分に疑問を投げかけているわけなのですから。

> 一部隊長、一将軍、都督としても戦功抜群である呂蒙が

自分がみるかぎり功績抜群というのは言いすぎでしょうね。いやな言い方をすれば
人材難の呉だからこそ脚光を浴びてるだけじゃないでしょうか。
魏の張コウや徐晃に張遼、夏候淵、司馬懿等、呉の周瑜に陸遜、孫策に孫堅といった名将とくらべて
戦争の上手さという一面においては明らかに劣ってると思いますけどね
>>212
> >呂蒙一人で落としたわけでもないし
> こんな言い方したら、周瑜だって一人で曹操を撃退したわけではないし、
> 陸遜だって一人で劉備を撃退したわけではないだろ。

どちらも司令官ですね。呂蒙の場合は一部将でしょう。
うごかせる兵権が違いすぎますけどね
祭のヨカソ
>>220
>いや状況を冷静に考えれば、関羽に気づけというほうが無理でしょうね
相手が呂蒙でなくとも気づけるわけがないでしょうに

そりゃそうでしょう。気がつかないように策を用い、さらに素早い行動を以て包囲したんですから
しかしです、それでも普通はあれだけの軍事行動を行えば気がつかれるものなのです
重要なのは、関羽が気がついたときの状況です。
関羽が、呂蒙の行動に気がついたとき、どういう状況だったでしょう
もう、勝敗は決していたでしょう。
軍団を率い、素早い行動を以て敵の反撃すら許さない。まさに、優れた用兵術あっての物です
まさか、知恵だけで可能だ…とは、仰らないですよね

>これはこちらの書き方がわるかったですけど正面衝突という限定はどこにもしてませんよ。
火責めも戦法のひとつでしょう。それに夷陵の場合は火攻めがメインというわけでもないですし
そこまでには一年近く戦線を維持した功績もあるわけです。

……膠着状態を打破したのは陸遜の火攻めではなかったのですか?決定打は火攻めです。
また、戦法と策略、戦争に用いるにあたって、いかな違いがあるのでしょう
呂蒙の関羽を騙した策も、陸遜の火攻めも軍を動かすことを前提に用いているのでしょう
>呂蒙にはこのような司令官としての正攻法での対陣経験がないわけで、
つまり戦巧者あいてに戦ったことがないということですね

荊州南部に部将を配置し関羽に逃亡する隙すら与えなかったんですよ
それに対陣経験って…対陣するまでもなかっただけ
つまり呂蒙の完勝でしょう。
上で大勢の方が述べておられる通り、呂蒙は対陣するまでに勝利を手中に収めているのです
それは、何度も言うように策を用いただけでなく、素早く包囲を完成さ荊州を制圧したためです
これは、知恵があるだけで可能なのでしょうか。軍団を拙速に配置、行動させるのは用兵術ではないのですか?

これはそもそもがその部分に限定しているのだからしょうがないでしょうに。
そもそも戦争にはいろいろな側面があるわけで、今回はその正攻法の対陣で
どのくらいの実力があるのか?

……貴方があえて、上記のようなことを競いたいのならそれを止めることは致しません
但し、それを以て呂蒙が、戦が下手というのは如何でしょう
>自分がみるかぎり功績抜群というのは言いすぎでしょうね。いやな言い方をすれば
人材難の呉だからこそ脚光を浴びてるだけじゃないでしょうか。
魏の張コウや徐晃に張遼、夏候淵、司馬懿等、呉の周瑜に陸遜、孫策に孫堅といった名将とくらべて
戦争の上手さという一面においては明らかに劣ってると思いますけどね

この意見などは、貴方を疑うに足る意見です。今までの意見も合わせると、可笑しすぎます
貴方は「司令官」などと言う条件を出しながら「張遼」や「徐晃」を持ち出し
「人材難」だの不要の言葉を使う。
戦の上手下手を「軍隊と軍隊のぶつかりあい」に限定する。
その上で「火攻め」は戦法だ。などと言って肯定する。
さらに「戦争の上手さという一面においては明らかに劣ってると思いますけどね」
と、この様なことを言うのに具体例を出さない
しかも、戦争と言う。貴方はただ単に部隊を率いての強さを語っているに過ぎないのに
あたかも、それが戦争であるかのように言っている
貴方は>>208さんの意見になんと答えられました?
「どちらも司令官ですね。呂蒙の場合は一部将でしょう。うごかせる兵権が違いすぎますけどね 」ですよ
開いた口がふさがりません。何度も言うように関羽戦で呂蒙は司令官であり
優れた用兵術と策で、これを擒にしたのです。「軍隊と軍隊のぶつかりあい」が無かったのは結果に過ぎないのです
「自分がみるかぎり功績抜群というのは言いすぎでしょうね」
誰を対象にして仰られているのですか?
身勝手すぎませんか?まさにダブルスタンダード
明らかに、呂蒙を「戦下手」にしようと言う意図が感じられます
>>223
> そりゃそうでしょう。気がつかないように策を用い、さらに素早い行動を以て包囲したんですから
> しかしです、それでも普通はあれだけの軍事行動を行えば気がつかれるものなのです

いやいや、気づいたとしても関羽には何も出来ない状態だったわけですよ。
すでにどうしようもない状態にあったものを呂蒙がどうにかしたというだけなのですが。
そしてそれは呂蒙の行動というよりその他の要因が大きいと思いますけどね。
言い方を帰れば誰にでも出来る関羽掃討戦、荊州攻略戦だとおもいますが。
呂蒙は荊州をとることが簡単だと思い実行したわけですが、
これは夷陵の戦いを招いた失敗とよく言われているわけで、
孫子云々という反論があるならばこの辺りから理解できてないことになると思いますね

> 軍団を率い、素早い行動を以て敵の反撃すら許さない。まさに、優れた用兵術あっての物です
> まさか、知恵だけで可能だ…とは、仰らないですよね

だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう。
陸遜や周瑜はその上で強敵との対陣経験があるわけでやはり呂蒙よりは数段上でしょうね。

> >これはこちらの書き方がわるかったですけど正面衝突という限定はどこにもしてませんよ。
> 火責めも戦法のひとつでしょう。それに夷陵の場合は火攻めがメインというわけでもないですし
> そこまでには一年近く戦線を維持した功績もあるわけです。
> ……膠着状態を打破したのは陸遜の火攻めではなかったのですか?決定打は火攻めです。

いえ違いますね。
長期にわたる対陣経験があり、戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです。
この点呂蒙はこのような厳しい戦いは司令官として一度として経験してませんね。
>>224
> 荊州南部に部将を配置し関羽に逃亡する隙すら与えなかったんですよ
> それに対陣経験って…対陣するまでもなかっただけ
> つまり呂蒙の完勝でしょう。

そのことが戦上手になるわけではないでしょう。上記述べたとおりです。
呂蒙でなくとも完勝出来うるでしょうね。

> 上で大勢の方が述べておられる通り、呂蒙は対陣するまでに勝利を手中に収めているのです

それはこの特殊な関羽戦のみですけどね

> それは、何度も言うように策を用いただけでなく、素早く包囲を完成さ荊州を制圧したためです
> これは、知恵があるだけで可能なのでしょうか。軍団を拙速に配置、行動させるのは用兵術ではないのですか?

ですからこの呂蒙の進軍が際立って素晴らしいと思われる点はほとんどないわけで

> ……貴方があえて、上記のようなことを競いたいのならそれを止めることは致しません
> 但し、それを以て呂蒙が、戦が下手というのは如何でしょう

少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね。
ましてや周瑜や陸遜と比べるのは虫が良すぎると思えますが。
>>225
> この意見などは、貴方を疑うに足る意見です。今までの意見も合わせると、可笑しすぎます
> 貴方は「司令官」などと言う条件を出しながら「張遼」や「徐晃」を持ち出し

張遼にはたしかに司令官としての働きはほとんどありませんが、徐晃はありますけどね。
それがたいして穴だとも思えませんし、小さなものでしょう。
あとはその他の名将については呂蒙より上で同意ということですね。
まあそれなら争うことも少ないですけど。

> しかも、戦争と言う。
だからこちらの言葉不足で、内容は言いなおしたはずですけどね。

>貴方はただ単に部隊を率いての強さを語っているに過ぎないのに

これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての
戦争の実力ですね。これでFAです

> 貴方は>>208さんの意見になんと答えられました?
> 「どちらも司令官ですね。呂蒙の場合は一部将でしょう。うごかせる兵権が違いすぎますけどね 」ですよ
> 開いた口がふさがりません。何度も言うように関羽戦で呂蒙は司令官であり
> 優れた用兵術と策で、これを擒にしたのです。「軍隊と軍隊のぶつかりあい」が無かったのは結果に過ぎないのです

レスは>>212なので、まるでお門違いだと思いますけどね。
212は赤壁の周瑜、夷陵の陸遜を引き合いに呂蒙の合肥濡須について語ってるのですがね。

>> 「自分みるかぎり功績抜群というのは言いすぎでしょうね」
> 誰を対象にして仰られているのですか?

何度も書いていると思うのですけど、周瑜や陸遜といった名将ですよ
何で呂蒙が周瑜・魯粛と同列に扱われているかわかってんのかな?
>>226
>いやいや、気づいたとしても関羽には何も出来ない状態だったわけですよ。
すでにどうしようもない状態にあったものを呂蒙がどうにかしたというだけなのですが。
そしてそれは呂蒙の行動というよりその他の要因が大きいと思いますけどね。
言い方を帰れば誰にでも出来る関羽掃討戦、荊州攻略戦だとおもいますが。
呂蒙は荊州をとることが簡単だと思い実行したわけですが

一体、何を根拠に、この様なことを仰られているのでしょう

>これは夷陵の戦いを招いた失敗とよく言われているわけで、
孫子云々という反論があるならばこの辺りから理解できてないことになると思いますね

何が仰りたいのでしょう。呂蒙の戦の巧さと関係があるのでしょうか?

>だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう。
陸遜や周瑜はその上で強敵との対陣経験があるわけでやはり呂蒙よりは数段上でしょうね

その山ほどとやらは、一体誰のことなんでしょう?
あと于禁を捕らえた関羽は強敵でないと仰りたいのですね

>長期にわたる対陣経験があり、戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです。
この点呂蒙はこのような厳しい戦いは司令官として一度として経験してませんね

……長期にわたる対陣経験?
まさか、これが戦上手の条件じゃないでしょうね

「戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです」
これのソースをお教え下さい。できれば史書の中からで
>そのことが戦上手になるわけではないでしょう。上記述べたとおりです

あのですね。包囲しくと言うことは部将の配置をして、と言うことなんですよ
配置が、戦争において、どれほど重要か分かっておられないようですね

>少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね

経験が戦上手の条件だったのですか?
呂蒙の戦歴をもう一度お調べ下さい

>これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての
戦争の実力ですね。これでFAです

ついに、ここまで条件を限定しましたか
なるほど、ここまでの限定条件下にすれば、貴方の言い分にも一理ありますよ

それはそうと、戦上手な人物の具体例が一つもありませんが…
貴方の出す具体例は、きっと司令官としての経験が豊富で、その上、厳しい戦いを経験しているのでしょうね
とりあえず、南郡太守の就任者を並べてみるだけでも勧めておくよ
揚げ足取りで悪いが、劉備は戦巧者なのか?
陸遜が「劉備の用兵は敗北が多く勝利を収めることは滅多にない」
って言ったのはなんなんだ?実際に荊州に入るまでは曹操に一方的に
叩きのめされてたし。

ってか散々言いたい事言っておきながら具体例が出てないのはどういうこと?
釣り師扱いされるぞ。
>>233
189は>>228で、こう言っている
>これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての
戦争の実力ですね。これでFAです

しかも、>>227
>少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
と言っている

この条件の下だと戦上手は、曹操、司馬懿、周瑜だけしかいない
>>226
夷陵の戦いを招いた失敗ってあるが、呂蒙は何か悪いことでもしたのか?
悪いのは荊州を返さなかった劉備、あと油断して荊州失陥を招いた関羽だろ?
>>230
> 一体、何を根拠に、この様なことを仰られているのでしょう

当時の関羽のおかれた状況を見れば一目瞭然ですけどね。
北岸にあって包囲戦にて動けず、于禁の兵を吸収したため食料難に陥り
その上徐晃に撃破されどうしようもない状態だったのですが。
これで呉が動けばその時点でOUtでしょう

> >これは夷陵の戦いを招いた失敗とよく言われているわけで、
> >孫子云々という反論があるならばこの辺りから理解できてないことになると思いますね
> 何が仰りたいのでしょう。呂蒙の戦の巧さと関係があるのでしょうか?

関羽戦に関して戦わずに〜という論法が通じるのならば
荊州攻略の結果として別の戦闘を招いたことに対してついてはマイナス要因でしょうね。
あくまでこれは私の主張というよりはそちらの論法に従ったものでしかないですよ。念のため

> >だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう。
> 陸遜や周瑜はその上で強敵との対陣経験があるわけでやはり呂蒙よりは数段上でしょうね
> その山ほどとやらは、一体誰のことなんでしょう?あと于禁を捕らえた関羽は強敵でないと仰りたいのですね

状況によるでしょうね。関羽は対陣する余裕はどこにもなかったのですけどね。
そしてその状況を作ったのはほとんどが呂蒙の功績によるものではないでしょう。

> >長期にわたる対陣経験があり、戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです。
>  > この点呂蒙はこのような厳しい戦いは司令官として一度として経験してませんね
> ……長期にわたる対陣経験? まさか、これが戦上手の条件じゃないでしょうね

わざと理解していないのですか?戦争というのは流動的なものなのですが
立案どおりに動けるのは相手がいない場合だけでしょう。
呂蒙のしたことはほぼ無人の荊州を手中に収めただけで、その手腕は見事でしたが
難易度は低いといわざるを得ないでしょうね。
>>231
> >そのことが戦上手になるわけではないでしょう。上記述べたとおりです
> あのですね。包囲しくと言うことは部将の配置をして、と言うことなんですよ
> 配置が、戦争において、どれほど重要か分かっておられないようですね

いえまったく論点がずれてますね。今回論ずべきことはその難易度でしょう。

> >少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
> 経験が戦上手の条件だったのですか?

少なくとも、その経験があり、しかも戦勝している周瑜や陸遜とは同列に語ることは不可能でしょうね。

> 呂蒙の戦歴をもう一度お調べ下さい

いくら調べても出てきませんよ。

> なるほど、ここまでの限定条件下にすれば、貴方の言い分にも一理ありますよ

ならばそれほど争うことはもう残ってないですね。
あくまで私の言いたかったことはそれですから。

> それはそうと、戦上手な人物の具体例が一つもありませんが…
> 貴方の出す具体例は、きっと司令官としての経験が豊富で、その上、厳しい戦いを経験しているのでしょうね

少なくとも、周瑜、陸遜、曹操、曹仁、張コウ、司馬懿、諸葛亮、袁紹、
有名どころでも数えるだけで山のようにいると思いますが。
>>236
>> >だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう。
>> 陸遜や周瑜はその上で強敵との対陣経験があるわけでやはり呂蒙よりは数段上でしょうね
>> その山ほどとやらは、一体誰のことなんでしょう?あと于禁を捕らえた関羽は強敵でないと仰りたいのですね

>状況によるでしょうね。関羽は対陣する余裕はどこにもなかったのですけどね。
>そしてその状況を作ったのはほとんどが呂蒙の功績によるものではないでしょう。

ダメだ、全く答えになっていない。
抽象的なことばかりで一度も具体例を出していない。
そもそも包囲網完成のきっかけとなったのは関羽が守備兵を減らしたからだし、
「ほぼ無人の荊州」とあるが、そうさせたのは呂蒙の策だろう。
あと「難易度は低い」とあるがその理由もしくは「難易度が高い」のは
どういうものなのか説明してもらわないと納得できない。
>>236
こまごまとした理屈はもう良いでしょう
先ず具体例を出していただけないでしょうか

>少なくとも、周瑜、陸遜、曹操、曹仁、張コウ、司馬懿、諸葛亮、袁紹、
有名どころでも数えるだけで山のようにいると思いますが

これなどは名前を羅列しているだけです

貴方の言った

>少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
>これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです
>だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう
の条件に適った戦巧者を、言葉通り、山ほど挙げてください

張[合β]がいつ司令官になりましたか?
陸遜や曹仁、袁紹がいかなる強敵に勝利しましたか?

それと
「戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです」
これのソースの教えてください

貴方は呂蒙が戦上手にならないように条件や理屈を変えているようにしか思えません
>>238
> そもそも包囲網完成のきっかけとなったのは関羽が守備兵を減らしたからだし、
> 「ほぼ無人の荊州」とあるが、そうさせたのは呂蒙の策だろう。

それは呂蒙の智謀ですね。無論評価してますけどね
しかしこれをもって用兵云々とするには無理があるでしょう
そこまで突っ込むならば「戦略的見地から成功か?」という部分にまで突っ込んで
考える必要があると思いますけどね

> あと「難易度は低い」とあるがその理由もしくは「難易度が高い」のは
> どういうものなのか説明してもらわないと納得できない。

呂蒙は荊州戦に関して言えばほとんど戦争していないわけで、これをもって用兵が
上手いとはいえないでしょう。やったことはほぼ残党狩りに近いわけですから。
例えていうならば呂蒙は
「このテストで80点以上取れば合格にしますよ」というテストで80点以上取ったようなもので
「このテストで彼より高得点を取れば合格にしますよ」というテストをしたことがない
といいたいわけです。
>>240
はやく具体例を出してくれ

>少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
>これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです
>だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう

この条件通りのな

>「戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです」

これのソースも
>>239
> >>236
> こまごまとした理屈はもう良いでしょうようにいるでしょう
> 張[合β]がいつ司令官になりましたか?
知識がないのかわざとかわかりませんが。第一次北伐における街停方面の司令官は
紛れもなく張コウですよ

> 陸遜や曹仁、袁紹がいかなる強敵に勝利しましたか?

これもわざとでしょうか?
夷陵の戦いは強敵ではないと仰るならばそれは不見識というものでしょう。
袁紹に関しては後漢書でも読んでください。説明がめんどくさすぎますね

> それと
> 「戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけで」

劉備と陸遜は競り合ってないと思ってるのでしょうか?
初戦に陸遜は劉備とあたり負けた後、諸将に「劉備をい打ち破る方法を見つけた」
と言っていますが、コレすらどこに書いてあったか知らないのに陸遜云々と言われたくもないですが。
基本的なことに関してそもそも知識がなさ過ぎるように思えてしまうのですけど。
>>241
> >少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
> >これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです

> >だからそのレベルのことが出来る司令官はこの時代にも山のようにいるでしょう

>この条件通りのな

上の二つは別の事柄でしょう。別のことをさしているのに条件とは如何に?
したの「この」は呂蒙の荊州攻略に関してですけどね。

> >「戦巧者の劉備と競り合った中で出てきた計略であるわけです」
> これのソースも

だからこのレベルの内容がすっと出てこないで陸遜を語らないでほしいのですけど。
>>243
具体例マダー
呂蒙の戦歴

・丹楊討伐で至るところで戦功を挙げる
・黄祖討伐の時、先鋒となり敵の都督、陳就を斬る
・逃走した黄祖を捕らえる
・赤壁に参戦する
・南郡攻めの際、周瑜と共に包囲された甘寧を助ける
・その後、敗走する敵の進路に障害物を設け馬を手に入れる
・魏が謝奇が皖で屯田をし、その屯田兵が呉の辺境で略奪を働いた
そのため呂蒙はそれを攻撃、以後、魏が辺境を侵さなくなった
・皖城攻め。早朝に出撃、朝食が終わらぬ内にこれを落とす
・誰も鎮圧できなかった廬陵の反乱を平定
・合肥において孫権を守り抜く
・曹操が濡須を攻めると、これを防ぎ、先鋒部隊を破る
・関羽戦。荊州南部を奪取
>>237
>少なくとも、周瑜、陸遜、曹操、曹仁、張コウ、司馬懿、諸葛亮、袁紹、
(゚Д゚)ハァ? 少なくとも曹操、諸葛亮、袁紹は失格だろう? 周瑜だって大軍を運用してた
訳じゃない。

劉備が戦巧者? 大丈夫か?
陸遜にしたって、劉備と競り合ってた訳じゃなくて既定戦術だろ?

どうしても呂蒙を貶めたいだけのようだな。
>少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
>これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです
>上の二つは別の事柄でしょう。別のことをさしているのに条件とは如何に?
>したの「この」は呂蒙の荊州攻略に関してですけどね。

この二つは別と言いながら呂蒙には二つとも適用する。>>243に萌え
>>246
> >>237
> >少なくとも、周瑜、陸遜、曹操、曹仁、張コウ、司馬懿、諸葛亮、袁紹、

> (゚Д゚)ハァ? 少なくとも曹操、諸葛亮、袁紹は失格だろう? 周瑜だって大軍を運用してた
> 訳じゃない。

無知っていいですね。本気で言ってるとは思いませんでした。
というか呂蒙の戦争能力が本気でこれ等の人と渡り合えるだけの実績があったと思うなら
それは買かぶりすぎですよ。それと周瑜の3万は十分大軍でしょう。
呂蒙がこれだけの人数を率いたのは2回だけで、そのいずれも無人系でしたね。

> 劉備が戦巧者? 大丈夫か?

劉備が戦下手というのはどこからきたのでせう?
むしろ夷陵の劉備軍てのは強敵じゃないというならそれは不見識すぎ。

> 陸遜にしたって、劉備と競り合ってた訳じゃなくて既定戦術だろ?

だから一度仕掛けてまけてますがな。そのあと戦法を思いついたわけでつが。
それにしても>>189の執念は凄いな
関羽マンセーの呂蒙憎しもここまでくると呆れるよ
>>248
具体例マダー
>>247
> >少なくとも戦巧者相手にシビアな戦争経験がないということは、それだけの評価をすることは出来ないということでしょうね
> >これは違いますね。司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです
> >上の二つは別の事柄でしょう。別のことをさしているのに条件とは如何に?
> >したの「この」は呂蒙の荊州攻略に関してですけどね。
> この二つは別と言いながら呂蒙には二つとも適用する。>>243に萌え

あなたが引用している部分、それだとさっきと引用がちがうでしょ。
今度のならばその二つは同じ事を言っているだけで2つ引用する必要もないのだけど。
>>249
>>250

劣勢になるとこういう荒らしが出てくるのかな?
具体例って何?わざわざ出す必要ないでしょ。だいたい先にあげた人物で
反論がない人に関してはすでに呂蒙より上と認めてるも同然なんだしね
凄腕の釣り師だな。

周瑜だって戦ったのは病人系だろうに・・・

>だから一度仕掛けてまけてますがな。そのあと戦法を思いついたわけでつが。
本気で思ってるなら、もう手に負えん(w

貴公のいう条件まともに適用するなら、陸抗クラスでなければ不合格なんでないの?
>>253
しかも、いつまでたっても呂蒙と比較する相手の具体例を挙げない

>>246
> 劉備が戦巧者? 大丈夫か?
と言う言葉にも
>>248
>劉備が戦下手というのはどこからきたのでせう?
むしろ夷陵の劉備軍てのは強敵じゃないというならそれは不見識すぎ。
などと、具体的に劉備が戦巧者だという例を挙げない

それを指摘されると>>252での如く逃げる

荒らしか釣り師だな
>>253
> 凄腕の釣り師だな。
> 周瑜だって戦ったのは病人系だろうに・・・

確かに周瑜は判断が難しいとは思うけど、烏林では鮮やかに曹操軍を焼いているわけだし
実績はありますよね。

私が言いたいのは釣りでもなんでもないので、真面目に聞いてほしいけど、
呂蒙がある程度の指揮権をもらい軍を動かしたのは2回だけで、その二つともが
あいての軍隊を相手としたものではないわけで、軍隊との対陣をしていない以上
そのことに不安があるのはむしろ当然じゃないかと思うのですよ。

例えば于禁という将がいますけど彼は数万単位で軍権をもらったのは関羽戦が初めてだったわけで
それであれほどの失態を犯した以上やはり過剰評価はできないでしょう?
呂蒙も同じような評価だと思うわけですよ。
部将としてはなかなか強い。知恵もある。しかし戦争指揮官としては未知数とね。
周瑜や陸遜の指揮官としの実績に比べて呂蒙のそれはあまりに実績がないわけで
同列にする理由がわからないといっているのですよ。

>>だから一度仕掛けてまけてますがな。そのあと戦法を思いついたわけでつが。
>本気で思ってるなら、もう手に負えん(w

いや、これは「競り合って」というのははどうして?と聞かれたので
こういうふうに競り合っているけれど?と返しているだけのことです。
これを見てもわかるでしょうけど無人系とは違ってやはり一筋縄ではいかないわけですよ。
しかし最後には大勝しているわけで、これは陸遜の並々ならぬ実力でしょうね。
劉備は戦下手! これは確定事項。

曹丕に戦術を知らないと笑われてるの忘れたのかな?
しかも曹丕自体、さほど戦が得意じゃない。ソース挙げんのもめんどくさい。文帝記読んで
くれよ。
大体、夷陵戦であんなに戦死者出すこと自体おかしいんだよ。黄巾賊討伐では活躍したか
もしれないが、会戦のできる人じゃない。

呂蒙を誰と比較したいのか、はっきりして頂きたいものだが。
>>254
> >>253
> しかも、いつまでたっても呂蒙と比較する相手の具体例を挙げない
> >>246
> > 劉備が戦巧者? 大丈夫か?
> と言う言葉にも
> >>248
> >劉備が戦下手というのはどこからきたのでせう?
> むしろ夷陵の劉備軍てのは強敵じゃないというならそれは不見識すぎ。
> などと、具体的に劉備が戦巧者だという例を挙げない
> それを指摘されると>>252での如く逃げる
> 荒らしか釣り師だな

なぜ初歩的なことを突っ込んでくるのかわからないのですけど
劉備は自分の率いる兵士以下の敵に負けたことは生涯一度としてないのですけど
これでも戦下手ですかね?
于禁の場合、水害という不確定事項がある。
諸葛亮の場合、大軍を動かしながらまったく戦果が無かった。
呂蒙が評価出来ないというのは何故か? 敵軍と決戦していないからか?
荊州奪還は立派な戦果だと思われるが。

関羽はまずまずの将であるが、同僚から総スカンを喰ったのが致命的。
それを理解していたのだから、決戦などする必要が無い。そこを突くのが名将の所以では?

>>257
>劉備は自分の率いる兵士以下の敵に負けたことは生涯一度としてないのですけど
五万vs四万はたいして意味のある兵力差ではない。
寡兵に対して大軍で勝てるというのが、戦巧者の条件になるのか甚だ疑問だな。

劉備が濡須の朱桓、あるいは西陵の陸抗の立場に置かれたらどうなるか、想像は容易な
ハズですが。
>>257
で、それだけで
なんで戦巧者になるの

それと、いい加減、具体例を出してくれないかな
>>258
> 于禁の場合、水害という不確定事項がある。

兵は戦える状態だっただろうが兵糧が絶たれた状態だったのだろうと思うけど
それにしても無血降伏は指揮官としては信用が置けなくなるわけで
しかも権限を与えられての失態はやはり大きいでしょうね。
つまり軍司令官としての于禁は評価しにくいでしょう。

> 諸葛亮の場合、大軍を動かしながらまったく戦果が無かった。

少なくとも対陣しての戦争能力は非常に高いでしょうね。晋漢春秋での局地戦での
敵将の討ち取り数はかなりのものですよ

> 呂蒙が評価出来ないというのは何故か? 敵軍と決戦していないからか?

決戦以前に軍隊を相手に指揮をとっていないわけですよ。
荊州奪還は立派な戦果ですがそれと「軍隊を相手にした指揮官としての能力」は
まるで別物ですよね

> 関羽はまずまずの将であるが、同僚から総スカンを喰ったのが致命的。
> それを理解していたのだから、決戦などする必要が無い。

ですからこの事項は決戦する能力にはまるで関与していないわけですけど

>そこを突くのが名将の所以では?

名将かどうかという判断であればその先、つまり夷陵の責任まで考えねばならないとおもいますが。
呂蒙はこのとき徐州攻略と荊州攻略を天秤にかけて荊州攻略を進言したわけですが
この判断はよく「間違い」と指摘されてますよね。

>>260
> >>257
> で、それだけで
> なんで戦巧者になるの
> それと、いい加減、具体例を出してくれないかな

いい加減対偶で物を語るのはやめてほしいのですけどね。
そもそも戦巧者であるか?という以前に、劉備軍4万の侵攻と、敗残兵関羽軍討伐
の比較をすればどちらが難易度が高いもであるか一目瞭然だと思いますよ。
あなたはあまり知識がない人のようなので次からは内容のあるものにしてくださいな
>>261
于禁に関しては、もう何も言うまい。

諸葛亮
>晋漢春秋での局地戦での敵将の討ち取り数はかなりのものですよ
別に匹夫を何人討ち取ろうが、蜀に国益があったわけでも、魏に手痛い損害を与えた訳で
もない。一辺の土地でも手に入れたのだろうか?

>ですからこの事項は決戦する能力にはまるで関与していないわけですけど
つまり、無血で入手できる好機に、わざわざ、民衆の血を流せ、と?

>呂蒙はこのとき徐州攻略と荊州攻略を天秤にかけて荊州攻略を進言したわけですが
>この判断はよく「間違い」と指摘されてますよね。

誰に? 呂蒙の荊州攻略のせいで劉備に攻め込まれた、と言いたいようだが、呂蒙に責任
を帰すのはお門違い。
あれは、劉備を信用した孫権の判断ミス。あるいは魯粛にも責任があるかもしれないが、呂
蒙には責任は無い。
あるいは徐州攻略を行って、魏と正面決戦をしろ、と? 劉備のほうがはるかに撃退しやす
いが、いかが?
>>259
> >>257
> >劉備は自分の率いる兵士以下の敵に負けたことは生涯一度としてないのですけど
  五万vs四万はたいして意味のある兵力差ではない。

何に反論しているのかよくわからないのですけど。

> 寡兵に対して大軍で勝てるというのが、戦巧者の条件になるのか甚だ疑問だな。

少なくとも一度たりとて同数以下の敵には不覚を取っていないという指揮官という時点で
陸遜にとって強敵なのは明らかでしょう。

> 劉備が濡須の朱桓、あるいは西陵の陸抗の立場に置かれたらどうなるか、想像は容易な
> ハズですが。

いみのある内容なんでしょうか?そもそも劉備は上記で私の上げた人には入っていないのですけど。
それでも夷陵での劉備は十分に強敵でしょうね。
>>262
そう言うことは具体例を出してから言った方が良いんじゃないの

部分的に切り抜いているだけでは、納得しがたいよ
>>264
その陸遜、本人が
「敗北が多く勝利を収めることが全くなく、心配に及ばない」
と言ったことを言ってますが
189の軌跡

>>189
>呂蒙はほとんど勝ち戦が無いんじゃない? まともに戦って勝った事無いんじゃないの?
知恵はまわるが戦争は下手というのが俺の評価
でデビュー

>>192にて疑惑の言葉
「結局まともな勝ち戦が無いことに変わりがないと思われ 」
と言う

その意味は>>204
「まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと」
と説明

>>220でも、その様に言っている
「これはそもそもがその部分に限定しているのだからしょうがないでしょうに。
そもそも戦争にはいろいろな側面があるわけで、今回はその正攻法の対陣で
どのくらいの実力があるのか?という部分に疑問を投げかけているわけなのですから」

しかし「正攻法の対陣」と言いながら、同じ>>220において
「これはこちらの書き方がわるかったですけど正面衝突という限定はどこにもしてませんよ。
火責めも戦法のひとつでしょう。それに夷陵の場合は火攻めがメインというわけでもないですし
そこまでには一年近く戦線を維持した功績もあるわけです。
呂蒙にはこのような司令官としての正攻法での対陣経験がないわけで、
つまり戦巧者あいてに戦ったことがないということですね」
と火攻めは肯定。

しかも誰が、「まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと」
で、勝利したかも具体例を挙げない。
何時になったら、「まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと」
で、勝利した人物の具体例を挙げてくれるのでしょう
>>264
>>226で(おそらく貴公でしょうが)>長期にわたる対陣経験があり、戦巧者の劉備と競り合
>った中で出てきた計略であるわけです。
と言っている訳だが。

>それでも夷陵での劉備は十分に強敵でしょうね。
強敵としての比較対象は? 確かに見くびっていい相手では無いが、これ以上に危険な
相手はゴマンといるハズ。

まぁ、劉備のコトは忘れたというのなら構わないが。
戦争は結果が全てだよ。過程は問題ではない。
司馬宣王や陸遜より上位とは言わないが、呂蒙は軽んじていい人ではない。

>>267
漏れは断じて189ではないが、
>何時になったら、「まともな戦いについてだけどこれは軍隊と軍隊のぶつかりあいのこと」
>で、勝利した人物の具体例を挙げてくれるのでしょう
にレスしとく。

具体例は・・・



陸抗!
>>263
> >晋漢春秋での局地戦での敵将の討ち取り数はかなりのものですよ
> 別に匹夫を何人討ち取ろうが、蜀に国益があったわけでも、魏に手痛い損害を与えた訳で
> もない。一辺の土地でも手に入れたのだろうか?

その匹夫のなかに張コウも入っているわけですが。
領地であれば武都、陰平は領地に組み入れてますね。
領地の話であればそもそもいまの話している内容とはまったく関係ないと思いますけど。

> >ですからこの事項は決戦する能力にはまるで関与していないわけですけど
> つまり、無血で入手できる好機に、わざわざ、民衆の血を流せ、と?

いえ?だれもそのようなことは書いてませんけど???
しかしこれをもって私の言う戦争指揮官としての能力を評価するのは難しいでしょうけどね。

> >呂蒙はこのとき徐州攻略と荊州攻略を天秤にかけて荊州攻略を進言したわけですが
> >この判断はよく「間違い」と指摘されてますよね。
> 誰に?

言い切ったのは良くなかったかもしれませんが、一般に間違っていたのでは?といわれよく
論争される部分でもありますよ。あまり今回は関係がないので割愛しておきますが大学の
サークルなどでは活発に議論されるところですし。

> あれは、劉備を信用した孫権の判断ミス。あるいは魯粛にも責任があるかもしれないが、呂
> 蒙には責任は無い。

だから対立する説も知らないでそんな単純なことを言い切られてもこまりますけどね。
進言し実行されるということは責任も伴うわけですし。まあこれに関してははココマデにしましょう。
>>270
>しかしこれをもって私の言う戦争指揮官としての能力を評価するのは難しいでしょうけどね
普通は、戦争指揮官でも
「被害を最小限に押さえ、最大限の利益を手にする」
これを成した者が、もっとも評価される筈なんですが
一体、呂蒙のどこに問題があるのでしょう?
>>267
まともな〜にかんしてはFAだしたでしょ。
>>228「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての
    戦争の実力ですね。これでFAです」
とね

>>268
>強敵としての比較対象は?
この呂蒙の場合であるならば敗残兵関羽軍ですね

>まぁ、劉備のコトは忘れたというのなら構わないが。
>戦争は結果が全てだよ。過程は問題ではない。
>司馬宣王や陸遜より上位とは言わないが、呂蒙は軽んじていい人ではない。

少なくとも私が比較対照として山のようにいるとした、呂蒙より上の人物に劉備は入っていないのですけど
陸遜や司馬懿より下なのは明らかでしょうね

>>270
>その匹夫のなかに張コウも入っているわけですが。
司馬宣王が政敵を処分しただけのこと。諸葛亮が張<合β>を"実力"で討ち取ったとはいえ
ない。

>だから対立する説も知らないでそんな単純なことを言い切られてもこまりますけどね。
言い切っていかんか?
荊州侵攻なら、それこそ周瑜の言うように劉備を飼い殺しにするか、史実通り返り討ち
にすれば問題ない。
劉備に荊州を貸与したのと、益州のことで劉備に騙されたのが問題なだけだ。呂蒙のドコに
非があるのか?
徐州攻略なら魏と正面決戦だが?
>>271
> >>270
> >しかしこれをもって私の言う戦争指揮官としての能力を評価するのは難しいでしょうけどね
> 普通は、戦争指揮官でも
> 「被害を最小限に押さえ、最大限の利益を手にする」
> これを成した者が、もっとも評価される筈なんですが
> 一体、呂蒙のどこに問題があるのでしょう?

それは戦略などが渾然一体としている評価のことですね。
むしろ引用文にある「私の言う」というのはここでの論点となる部分についてのみでの評価
なのですけどね
一連の対関羽の策を評価していないのではなくて、あくまで>>228のような状況下における
戦争能力の評価をするには対象外というだけのことですけど
>>272
だから
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
の、具体例を出せと言っているんだが…

例えば、「曹操は強敵である誰々と、この様に戦い勝利した」
と言う具体例だ
>>274
「戦争とは他の手段をもってする政治の延長に他ならない。」
これは、クラウゼビィッツの戦争論ですが
これからは戦闘能力とでも言い換えては如何でしょう
>>273
> >>270
> >その匹夫のなかに張コウも入っているわけですが。
> 司馬宣王が政敵を処分しただけのこと。諸葛亮が張<合β>を"実力"で討ち取ったとはいえ
> ない。

そもそも諸葛亮の>>228の能力を貶める必要性がまったくないと思える場面で
なぜ噛み付くのかわからないですけど、また異説を持ってきてしまいましたね。
まあ枝葉の部分なのでスルーしておきますけど、晋漢春秋読めば彼の対陣戦闘能力
はそう疑うべくもないでしょうね

> >だから対立する説も知らないでそんな単純なことを言い切られてもこまりますけどね。
> 言い切っていかんか?

こちらが違う意見を持っているという前提を無視して言い切るのであれば、コレは別の話題に
移っていってしまうのですけど、その覚悟があるのでしょうか?
この議論が終わり次第話題を移してもいいですけど、どちらにせよ後回しですね。

>>275
> >>272
> だから
> 「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
> の、具体例を出せと言っているんだが…
> 例えば、「曹操は強敵である誰々と、この様に戦い勝利した」
> と言う具体例だ

あなたは>>260でしょ。
理解力がなく話題もふれず、延々と同じことを言うだけの荒らし系と議論できるとは
思えないので放置宣言しときます
戦略・・・
呂蒙は一度戦線を退き、関羽に魏を攻めさせた。
関羽が黄忠を活躍を快く思っていず、自分を戦果を挙げたいと思っていたこと、そして呂蒙
を警戒していたために残した兵力を、対魏に投入することを見越してだ。
そして陸遜の協力もあり、たやすく勝利を手にした。
戦略面で呂蒙に難があるとはいえない。

では戦術面では? 部隊長としての呂蒙にも問題は見当たらない。むしろ同僚達よりも、よ
く統率できていた。

さて、同僚に見捨てられるようでは関羽は確かに強敵とは言えないだろう。
で、その関羽を恐れていた曹操よりも呂蒙が下位に来るという根拠は?
決戦の戦果でいうなら、曹操は常勝だった訳ではないが。
>>276
> >>274
> 「戦争とは他の手段をもってする政治の延長に他ならない。」
> これは、クラウゼビィッツの戦争論ですが
> これからは戦闘能力とでも言い換えては如何でしょう

呂蒙の中で一級品といえるのは戦場の駆け引き以前の近視眼的戦略の立て方
にあるといえるでしょうね。あと統治能力かな
たしかに戦闘というニュアンスが近いけど、分類は結局のところ難しいので「戦争」とだけ言って
あとは言葉で説明してるのです
>>278
そうでもないだろう

だいたい呂蒙が戦下手と言ったのは貴方なのだから
まず、具体例を出して比較するべきでしょう
貴方は、名前を羅列しただけで、
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
の様な条件を満たした人物を具体的に説明していない
で、あるのに何故、呂蒙を戦下手と断定し、この程度の人物は山ほどいると仰られるのでしょう
荒らし系と断定なさらず、具体例を出されたらよいだけと思いますが
>>280
しかし、現実的に貴方の言い分は
「司令官としての戦闘能力」の方が適切でしょう
適切な方に言い換えるだけです。簡単なことですよ

それに私は思います
そもそも、貴方が
「呂蒙はほとんど勝ち戦が無いんじゃない? まともに戦って勝った事無いんじゃないの?」
と言う言い方をしたから、いけないんじゃないでしょうか
しかも「知恵はまわるが戦争は下手というのが俺の評価」
と言うおまけ付きです

ですから
「呂蒙は司令官として軍隊対軍隊をまともに経験したことが無く
その力量においては未知数だが、戦争においては優れている」
と認めた方が良いんじゃないでしょうか
>>282
ファイナルアンサー!

もう寝よっと。
>>282
> >>280
> しかし、現実的に貴方の言い分は
> 「司令官としての戦闘能力」の方が適切でしょう

そのとおりと思いますけど、それは単に言葉の問題であって内容ではないですね
たんなる上っつらの言葉に反応してしまう人がいるというのはいかにも中身がないと思いますけど。
そもそも適切な言葉は見当たらないわけですよ。
司令官としての戦闘采配とでも言い換えましょうかね

> それに私は思います
> そもそも、貴方が
> 「呂蒙はほとんど勝ち戦が無いんじゃない? まともに戦って勝った事無いんじゃないの?」
> と言う言い方をしたから、いけないんじゃないでしょうか
> しかも「知恵はまわるが戦争は下手というのが俺の評価」

まあ確かにやりすぎといえますけど。
一軍の彼の司令官としての指揮のなかで難易度の高いものはなかったわけで
それをもって高評価には出来ないということですね。

> 「呂蒙は司令官として軍隊対軍隊をまともに経験したことが無く
> その力量においては未知数だが、戦争においては優れている」
> と認めたほうがいいのではないでしょうか

いえ。ダメですね。実際にはあくまで私がしたかったことは周瑜、陸遜との差別化です。
このような過激な議論でもしない限りこのスレにおける呂蒙の分析じゃ不足だと思いましたしね。
戦争においては優れているのはどのラインなのかと線引きしたかったこともありますしね。
私にとっては少なくともそのような未知数部分があるが故に陸遜、周瑜以下というのは当然の評価だと思いますけどね。
>>284
>いえ。ダメですね。実際にはあくまで私がしたかったことは周瑜、陸遜との差別化です。
このような過激な議論でもしない限りこのスレにおける呂蒙の分析じゃ不足だと思いましたしね。
戦争においては優れているのはどのラインなのかと線引きしたかったこともありますしね。
私にとっては少なくともそのような未知数部分があるが故に陸遜、周瑜以下というのは当然の評価だと思いますけどね

>>274でクラウゼビッツを例にされてますが
「政治的目的である荊州南部」を
「戦争」という手段で呂蒙は手に入れたわけですよ
優れていると思いますが?
周瑜は「曹操を退ける」陸遜は「劉備を退ける」が政治的目的です
呂蒙も、彼らと同じように目的を達成しています。

貴方は、あくまで「司令官として軍隊対軍隊」の違いを言っておられるだけです
「戦争」そのものに対して>>282の意見に、何が不満なのでしょう?
>>274にかかれている戦争論の言葉を例に取ると
「戦争とは他の手段をもってする政治の延長に他ならない。」 です
「目的達成」を考えたとき呂蒙は、大変優れているように思います
>>284
また、過激な議論はおすすめできません
相手の冷静さを奪うような口調は、駆け引きによって
議論において優位に立とうとすると思われても仕方がないと思います
ディベートでは反則になります。気をつけてください
>>284
>そのとおりと思いますけど、それは単に言葉の問題であって内容ではないですね
たんなる上っつらの言葉に反応してしまう人がいるというのはいかにも中身がないと思いますけど。
そもそも適切な言葉は見当たらないわけですよ。
司令官としての戦闘采配とでも言い換えましょうかね

この意見についてですが、やはり「司令官としての戦闘能力」の方が適切と思います
言葉遊びをする気はありませんが
「采配」では人物の配置、起用なども含まれ
これらに関しては、呂蒙は孫皎、潘璋、朱然、蒋欽ら的確に配置し
さらに陸遜を起用して関羽に対する策を完全にしています
しかし、貴方は「司令官として軍隊対軍隊」をもって
周瑜や陸遜と差別化したいと仰っておられる
ですから「司令官としての戦闘能力」の方が適切で誤解が少ないと思います
難易度がどうのこうの言う事自体馬鹿げている。
司令官はいかに効率よく、自軍の被害を抑えて目標を達成するかを考えるべき
より難しいものに挑んで勝利して満足、なんてやり方を自ら選ぶのは
徒に戦を楽しみ、兵の命を弄ぶ感じがする。
すいません
クラウゼビッツについて言及されていたのは>>276でした
「徐州攻略と荊州攻略を天秤にかけて荊州攻略を進言した」ことの何処が間違っているのか
説明してくれ。徐州を取れば魏が、荊州を取れば蜀が仕返しをするのは
当然だが、広大な領土のうち徐州を失っただけの魏と領土が狭く、荊州まで
失った蜀のどちらが手ごわいか。

呂蒙の判断が間違っていると主張するのなら、魏の領土である徐州の内政事情と
魏にとっての戦略的重要性を挙げるべき。
>>290
そうですね
孫権が魏に対する反攻意思を持っている以上
家臣として、その意に添うことに問題はないですね
その上で、荊州か徐州かと問われれば荊州を選ぶでしょう
随分と頑強に呂蒙の評価を(幾分か)低くしたい香具師がいるようだけど、 いささか論旨が稚拙に感じるよ。 史書の字面だけを追って結果を云々いうだけで、現実的で妥当な考察なんかは まるでできてない。 戦略と戦術の区別もできていないんじゃないかと思ってしまう。 
>>285
> 「政治的目的である荊州南部」を
> 「戦争」という手段で呂蒙は手に入れたわけですよ。優れていると思いますが?

これではあなたは自分で言葉を定義づけ、反論しているだけですよ。
こういうのをひとり相撲とよぶのです。
こちらの論にのるのであれば反論はこちらの思惑した定義にのっとるべきでしょう。

> 周瑜は「曹操を退ける」陸遜は「劉備を退ける」が政治的目的です
> 呂蒙も、彼らと同じように目的を達成しています。
> 貴方は、あくまで「司令官として軍隊対軍隊」の違いを言っておられるだけです
> 「戦争」そのものに対して>>282の意見に、何が不満なのでしょう?

私の掘った穴の土を穴の中に戻すだけの議論ですね。非常にばかばかしい内容だということに気づかないのでしょうか。
あなたは私が「戦争」をどんな意味で私が使ったかを知っていながら、自分の言葉を適用して論を進めているだけです。
そもそも〜Aを議論している横から「いやBは〜だ」といっているだけのことでしょう。
定義は私が示していますし、それを云々言うことはすでに主旨からずれてますね。

>>274にかかれている戦争論の言葉を例に取ると
> 「戦争とは他の手段をもってする政治の延長に他ならない。」 です

もし>>274でそのように読めるのであれば誤読もいいところでしょう。
わざわざそれを否定している文なのですけどね。あなたの>>271ではないのですよ。

> 「目的達成」を考えたとき呂蒙は、大変優れているように思います

つまりハナから論旨がずれてますね。
目的達成するための手段の一つにたいして懐疑を投げかけているわけですが
かれはその手段を用いる機会がなかったため、未知数であることから
陸遜、周瑜と同等の評価は、その手段を用いることに関してという部分においては出来ないでしょう。
書こうか迷ったが。
>>189って、いつぞやの正史○究家っぽいレスだな。
煽りばかりして論点がズレまくり。比較対照が定まらない。

「単に言葉の問題であって内容ではない」なんて、
言葉の問題で誤解が起きることを知らないの丸出し。
それじゃ契約取ってこれないよ?w
リア厨か、でなきゃ社会に出たことのない研究者だろうね。
>>287
> >>284
>> そもそも適切な言葉は見当たらないわけですよ。
>> 司令官としての戦闘采配とでも言い換えましょうかね
> この意見についてですが、やはり「司令官としての戦闘能力」の方が適切と思います
> 言葉遊びをする気はありませんが
> 「采配」では人物の配置、起用なども含まれ

これらを言葉遊びというのですよ。元来言葉というのは非常に奥が深いものです。
ですからわざわざ私は議論のもととなる言葉を定義付け、それを元に論を展開するわけですよ。
これら数文字で表すことの無意味さというのはすでにどのように省略してもどこかのニュアンスを
削らねば成らない事からも明白ですし。采配ひとつとっても彼は戦場において火事場において
司令官として采配をとったことがないわけです。先の反論に無人系という言葉を使いましたが
切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力に関しては
未知数なのですよ。このことひとつとっても采配が不適切かどうかは難しいところでしょう。
そしてこの適切不適切を議論することは目的ではないのです
>>288
> 難易度がどうのこうの言う事自体馬鹿げている。
> 司令官はいかに効率よく、自軍の被害を抑えて目標を達成するかを考えるべき
> より難しいものに挑んで勝利して満足、なんてやり方を自ら選ぶのは
> 徒に戦を楽しみ、兵の命を弄ぶ感じがする。

より難易度の高いものに向かうべきとどこに書いてあるのでしょうね。
結果として難易度の高いものはなかったというだけでしょう。
そしてその実績から判断するならば、高難易度のものに対して未知数であるという結論は
暴論だとはおもいませんが。
>>289
> すいません
> クラウゼビッツについて言及されていたのは>>276でした

なるほど。自分も上から順に反論してるので>>293ではきつい言い方になってしまいました
すまんです
>>290
> 「徐州攻略と荊州攻略を天秤にかけて荊州攻略を進言した」ことの何処が間違っているのか
> 説明してくれ。徐州を取れば魏が、荊州を取れば蜀が仕返しをするのは
> 当然だが、広大な領土のうち徐州を失っただけの魏と領土が狭く、荊州まで
> 失った蜀のどちらが手ごわいか。
> 呂蒙の判断が間違っていると主張するのなら、魏の領土である徐州の内政事情と
> 魏にとっての戦略的重要性を挙げるべき。

戦略的に言えば蜀と交戦状態になっただけで失態と見ることも可能ですよ。
これは一方の意見をぶつけているだけですし、それなりに説得力のあるものです。
この話は今する内容ではないと思いますけどね。
>>294
> 煽りばかりして論点がズレまくり。比較対照が定まらない。

それは真贋をみる力がまったくないのでしょうね。
確かに当初は煽ってますけが、このような過疎の板では多少はやむをえないのではないでしょうか。

> 「単に言葉の問題であって内容ではない」なんて、
> 言葉の問題で誤解が起きることを知らないの丸出し。
> それじゃ契約取ってこれないよ?w

言葉の問題はどこまで説明をするかということのほかに、読み手がどこまで汲み取るか
ということが大事なことなのですよ。
お客さんに説明をするのではなくこれは論敵と討論をしているわけで
双方の相互理解をしなければならない度合いは別段のものがあるでしょうね。
あなたが商品を売りつけられるお客さんであるならば、討論する姿勢としては二流でしょう。
まあ、たしかにこちらの当初の態度も誉められたものではありませんがね。
>>299
>言葉の問題はどこまで説明をするかということのほかに、読み手がどこまで汲み取るか
ということが大事なことなのですよ。
お客さんに説明をするのではなくこれは論敵と討論をしているわけで
双方の相互理解をしなければならない度合いは別段のものがあるでしょうね。
あなたが商品を売りつけられるお客さんであるならば、討論する姿勢としては二流でしょう。
まあ、たしかにこちらの当初の態度も誉められたものではありませんがね。

討論=ディベートにおいては説明の義務が存在します
また、相手を挑発するような口調は、議論以外のことで有利に立とうとする意思の表れと見なされます
ですから、言葉は出来る限り適切な者を用いてください
それに対する批判に反論することが、貴方の仰られる討論ではないはずですよ?
また、討論において比較対照を明確に定めることは重要です
貴方の場合
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
この言葉の、具体的例を持ち出さなければなりません
>>299
また>>295でこの様な反論を頂きましたが

>これらを言葉遊びというのですよ。元来言葉というのは非常に奥が深いものです。
ですからわざわざ私は議論のもととなる言葉を定義付け、それを元に論を展開するわけですよ。
これら数文字で表すことの無意味さというのはすでにどのように省略してもどこかのニュアンスを
削らねば成らない事からも明白ですし。采配ひとつとっても彼は戦場において火事場において
司令官として采配をとったことがないわけです。先の反論に無人系という言葉を使いましたが
切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力に関しては
未知数なのですよ。このことひとつとっても采配が不適切かどうかは難しいところでしょう。
そしてこの適切不適切を議論することは目的ではないのです

議論する以上論点を明確にする必要があります
「言葉遊び」と仰いますが、論点を敢えて曖昧とするのは如何なものでしょう
貴方は、これまで、たびたび
「呂蒙は荊州戦に関して言えばほとんど戦争していないわけで」
と言う感じで、持論を主張されていますが、これでは貴方が主張している「司令官として軍隊対軍隊」でなく
「戦争」そのものについて語っているようにしか受け取らない人も多いでしょう
この様な誤解を受けると指摘されながら、貴方は敢えてこだわりを見せると仰られるのでしたら
それは「司令官として軍隊対軍隊」をして
「戦争」そのものに対してのイメージを植え付けようとする意図と受け取るより他ありません
何度も言いますが、適切な方に変えるだけです。一体何が不満なのでしょう
>>299
この意見についてですが
>采配ひとつとっても彼は戦場において火事場において
司令官として采配をとったことがないわけです。先の反論に無人系という言葉を使いましたが
切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力に関しては
未知数なのですよ。このことひとつとっても采配が不適切かどうかは難しいところでしょう。

貴方の言い分では、本人の関知しないところで戦が流れなければなりません
関羽戦において荊州の守備が少なかったのは呂蒙の策が成功したからです
荊州に戻った関羽の戦力が少なかったのは、関羽が呂蒙に気付かず徐晃と戦って敗れた上に
呂蒙の策によって兵士が四散したためです
戦場における流れをコントロールしたために上記のような批判を受けることになりましたが
「危機」や「軍隊による交戦」が無かったためと言う理由は、的はずれに思います
陸遜なども夷陵において、持久戦に持ち込んで戦場の流れをコントロールしてますし
石亭においても偽手紙を用いて、曹休を誘い出すという形で戦場の流れをコントロールしています
貴方は
「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
を、呂蒙のみに当て嵌めています。
「戦場の流れ」と言う物の「コントロール」をあえて評価から外し
その上で「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
この様な条件を適用するのは如何な物でしょう
呂蒙の経験したことのない状況のみを条件とし
呂蒙の優れていたとされる部分を条件より外す理由は一体どのような物なのでしょう?
つまり、
>呂蒙は周瑜&陸遜と比べ、戦争面では劣っている
と言ったら戦争論が発生したので
>呂蒙の戦争に於ける「指揮能力」は未知数
に主張が変わっているわけですか。

最初からそう書いておけば、確かに史記に残ってないんだから議論にはならないわなあ。
>>298
なら何故呂蒙の失態と主張してばかりいるんだ?
劉備と関羽と孫権の責任は追及しないのか?
>>300
> 「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
> この言葉の、具体的例を持ち出さなければなりません

いいえ。具体例というものは説明が不足しているときに補助として必要とされるものでしょう。
そもそもがそのような実例とは理論に対する帰納的存在でしかないわけですが、この事をもって
みても具体例が必要とするのはおかしいでしょうね。

> 討論=ディベートにおいては説明の義務が存在します

これはそのとおりでしょうね。しかし討論とは相手あってのものです。
双方が理解できていない部分を相互補完する必要があるわけですよ
あなたはこちらの発言の意図をあるていどわかった上で(他の一般が反応できないだろうと予見して)
そのようなレスをしていると思われる以上、最低限の説明はなされていると思いますね。
もちろんその最低限という部分がアンフェアであるとしてもです

>また、相手を挑発するような口調は、議論以外のことで有利に立とうとする意思の表れと見なされます
>ですから、言葉は出来る限り適切な者を用いてください

これは2chでの討論ですからね。あなたのように討論の見識がある人ばかりではないわけで。
つまりココは煽りも、荒らしも、理解不十分な乱入者もひっくるめたごった煮の鍋みたいなものです。
まあ火事場で杓子定規なこともいってられないわけで、まあ意見としては一般論として正論でしょうけど
だからといってこちらがスタイルを変える必要性もないですね
逆に言えば2chだからこそこのような論者選定システムは必須ともいえますね
>>301
>議論する以上論点を明確にする必要があります
>「言葉遊び」と仰いますが、論点を敢えて曖昧とするのは如何なものでしょう

論点を明確にすることはたしかに最重要事項でしょうね。
しかしココにおける言葉の定義は論点ではないでしょう。
あなたは単に「戦争」という言葉に引っかかったのではなく
私の論の中にある「呂蒙の不明とされる能力、限定した部分」について
意義があるのでしょうから、それを指摘すればすむことでしょうね。

> 貴方は、これまで、たびたび
> 「呂蒙は荊州戦に関して言えばほとんど戦争していないわけで」
> と言う感じで、持論を主張されていますが、これでは貴方が主張している「司令官として軍隊対軍隊」でなく
> 「戦争」そのものについて語っているようにしか受け取らない人も多いでしょう
> この様な誤解を受けると指摘されながら、貴方は敢えてこだわりを見せると仰られるのでしたら
> それは「司令官として軍隊対軍隊」をして
> 「戦争」そのものに対してのイメージを植え付けようとする意図と受け取るより他ありません

なるほどね。あなたの読みは半分は当たっているけど半分は違う。
ミスリードさせるという「目的」でそのような発言をしているわけでは無いですよ。

> 何度も言いますが、適切な方に変えるだけです。一体何が不満なのでしょう

適切なものがいますぐに決められると思っているのでしょうか?
>>302
> 貴方の言い分では、本人の関知しないところで戦が流れなければなりません〜中略〜
>「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
>を、呂蒙のみに当て嵌めています。
>「戦場の流れ」と言う物の「コントロール」をあえて評価から外し
>その上で「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
>この様な条件を適用するのは如何な物でしょう

この反論は多分に問題点がありますが段階に分けて反論しましょう
1、戦略的なコントロールが可能であったとしても戦場でコントロールできるかどうかは別次元の問題である
これはその計画立案にかける時間的猶予の違いが大きな相違点としてあげられます。
また情報の取捨選択能力も違うものが求められるでしょう、どちらも前者が確実性であるとするならば
後者は迅速性とでもいえましょうか。あなたの意見はこの両者の片方が出来れば片方も可能と考えているように
思えますが、少なくとも呂蒙に関して言えば後者にかんしてはそのような記述はありません。
そもそもが司令官として戦端をひらいたことがない将にたいして、その能力を過大評価することは出来ないということです。
むしろ前者と後者を同一として扱う姿勢こそ自分には理解できません
2、難易度の問題
呂蒙が荊州を奪取する行動は2つともがその難易度において陸遜、周瑜に劣るものでしょう
本人の関知しうる難易度が高いか低いかが一つの問題点となっているわけで
>貴方の言い分では、本人の関知しないところで戦が流れなければなりません
とはニュアンスが違うと思いますよ。

> 呂蒙の優れていたとされる部分を条件より外す理由は一体どのような物なのでしょう?

呂蒙の優れていた部分は近視眼的戦略能力と私は言っていますが、これは上記にあるとおり
戦場における臨機応変とは別次元のものでしょうね。
>>303
> つまり、
> >呂蒙は周瑜&陸遜と比べ、戦争面では劣っている
> と言ったら戦争論が発生したので
> >呂蒙の戦争に於ける「指揮能力」は未知数
> に主張が変わっているわけですか。
> 最初からそう書いておけば、確かに史記に残ってないんだから議論にはならないわなあ。

未知数である部分がある以上
ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面では劣るというのは
ごくごく当然の流れだと思いますけどね。

>>304

そもそもそれは議題にないからでしょう。頭悪いですね
関羽が守備兵を残していた場合、難易度は高かったんじゃねぇの?
その難易度を呂蒙は自分の策で低くしたわけだ。
つまり、難易度の高い敵にはこちらから低くして挑んでいく。
この姿勢を徹底するならあなたのいうような状況になるわけがない。

それと>>290の話題はあんたがふった話題に対するレスなんだから
今する内容のものではないというのはどうだろう?
310294:03/05/01 17:53
>>299
なんだ、前半部を否定しないのか。
まさか本人だとは思わなかったな。w

それでも、せめて番号コテくらいを使うくらいの知能は持っていると
思っていたが、それすら出来ないとは残念だ。
わざわざ>>189と書いて、注意を促してやったのに。

全員が理解してくれないと思うんだったら、
そろそろ殻に閉じこもっておくれよ。
別に>>189氏を擁護する訳ではないが、彼は戦略と局地的な戦術とを分けて考えているんだろう
いわゆる、warとbattleの差
極端な例かもしれないが、張良(war)と韓信(battle)の能力の違いだ
張良は長期的な戦略の立案、運用のスペシャリストであるのに対し、韓信は実際に戦地で指揮をとる局地的な(ちと語弊があるかも)戦術運用のスペシャリストだと俺は解釈している

そう考えれば、賛同できる部分が無いでもない…かも
ま、史書に記載が無い→その面では実績が無い→その面では未知数
まではな
そこから、実績のある他の人物より劣っているってゆーのは飛躍しているように思えるが
>>305
>これはそのとおりでしょうね。しかし討論とは相手あってのものです。
双方が理解できていない部分を相互補完する必要があるわけですよ
あなたはこちらの発言の意図をあるていどわかった上で(他の一般が反応できないだろうと予見して)
そのようなレスをしていると思われる以上、最低限の説明はなされていると思いますね。
もちろんその最低限という部分がアンフェアであるとしてもです

少し待ってください
「呂蒙はほとんど勝ち戦が無いんじゃない? まともに戦って勝った事無いんじゃないの?
知恵はまわるが戦争は下手というのが俺の評価 」
と問題提起したのも貴方ならば
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
この様な形の条件を設けたのも貴方です
当然、不特定多数に理解できるよう説明する義務があります
さらに貴方は、度々、討論や議論という言葉を用いておられますが
貴方が何を根拠にして、何を比較対照として呂蒙を「戦下手」と断定し
何を比較材料として、多数の人物を呂蒙より実力が上と判断したか、説明する必要があります
それを述べないため貴方の持論は不完全で、考えを理解することは難しいのです
ですから比較材料として具体例が必要なのです。しかも、具体例がなければ決着のつけようもありません
それに貴方は
「双方が理解できていない部分を相互補完する必要があるわけですよ」
この様な事を仰っておられる
そもそも確信もなく「呂蒙は戦下手」などと仰られたのでしょうか?
「議論によって模索する」と言うのなら貴方の言い分も分かりますが
それならば断定するような物の仰り方は、よされた方がよいと思います
>>306
>論点を明確にすることはたしかに最重要事項でしょうね。
しかしココにおける言葉の定義は論点ではないでしょう。
あなたは単に「戦争」という言葉に引っかかったのではなく
私の論の中にある「呂蒙の不明とされる能力、限定した部分」について
意義があるのでしょうから、それを指摘すればすむことでしょうね

それならば是非、「呂蒙の不明とされる能力、限定した部分」について纏めてください
正直、貴方はいままでにおいて
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
などの発言を多数されています。
正直、全てが貴方の言い分であるのか?非常に読みとり辛くなっています
ここで貴方の論点を明確にすることは有益なことと思います

>なるほどね。あなたの読みは半分は当たっているけど半分は違う。
ミスリードさせるという「目的」でそのような発言をしているわけでは無いですよ

勿論、「ミスリードさせるという「目的」」と言う気などありません
私は、誤解を招く可能性がある言葉は慎まれた方がよいと言っただけです

>適切なものがいますぐに決められると思っているのでしょうか?

どうでしょう?適切な物は無理でも、不適切な物を取り除き、それより適切な物を当て嵌めることは可能です
貴方の仰られた「司令官としての戦闘采配」ですが
これには戦闘に至るまでの起用、配置、なども含み、貴方の仰られる
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
から、逸脱する部分を含みます
前にも言いましたが、戦闘采配に関しては、呂蒙は孫皎、潘璋、朱然、蒋欽ら的確に配置し
さらに陸遜を起用して関羽に対する策を完全にしています。ただ、「軍隊で交戦」していないだけなのです
「戦闘采配」と言う言葉を用いるならば
「呂蒙は事前の策略と配置、起用のみで荊州南部を切り取った戦上手」とする事も可能なのです
>307
この意見と
>この反論は多分に問題点がありますが段階に分けて反論しましょう
1、戦略的なコントロールが可能であったとしても戦場でコントロールできるかどうかは別次元の問題である
これはその計画立案にかける時間的猶予の違いが大きな相違点としてあげられます。
また情報の取捨選択能力も違うものが求められるでしょう、どちらも前者が確実性であるとするならば
後者は迅速性とでもいえましょうか。あなたの意見はこの両者の片方が出来れば片方も可能と考えているように
思えますが、少なくとも呂蒙に関して言えば後者にかんしてはそのような記述はありません。
そもそもが司令官として戦端をひらいたことがない将にたいして、その能力を過大評価することは出来ないということです。
むしろ前者と後者を同一として扱う姿勢こそ自分には理解できません
2、難易度の問題
呂蒙が荊州を奪取する行動は2つともがその難易度において陸遜、周瑜に劣るものでしょう
本人の関知しうる難易度が高いか低いかが一つの問題点となっているわけで
>貴方の言い分では、本人の関知しないところで戦が流れなければなりません
とはニュアンスが違うと思いますよ。

>>303さんへの反論
>未知数である部分がある以上
ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面では劣るというのは
ごくごく当然の流れだと思いますけどね

この二つに対しては具体例を用いて後ほど反論させていただきます

具体例の定義は、貴方の仰った
「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
を条件としたときの戦いの検証です
また、その他の定義もおおむね貴方に従います
>>311
なるほど
確かに>>189さんは(battle)に限定する向きがあります
ならば、ハッキリと限定してくだされば、こちらとしても反論しやすくて良いのですが

ただ、その場合
>「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
こういった形で条件を狭めたのが>>189さんの大きな問題でしょうね
条件狭めすぎ。
しかも、それで「戦争は下手」と言われましても、と誰もが思うところ。
こういうタイプの人間に何を言っても無駄なことに気づけ
318無名武将@お腹せっぷく:03/05/01 23:24
呂蒙は優秀な人物で、周ユ、陸遜に次ぐ人材でしたとさ
あの、ROM者の分際で差し出がましいとは存知ますが、
>189さんにはそろそろお引取りいただけないでしょうか。

ご自身の結論はすでに充分以上に明示されていらっしゃいますし、
貴方のご意見として承ります。
しかし、新たな情報や視点も感じられない冗長な文字列を
目にするのは苦痛です。
320189:03/05/02 00:29
>>319
てめえに言われる筋合いはないな
>>320
偽者キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

週末の三連休をひかえ、そろそろ黄金厨が活発に動き出す時期です
極力sage進行でマターリといきましょう

ってかageんなヴォケがヽ(`д´)ノ
322無名武将@お腹せっぷく:03/05/02 00:41
>>321
同意
323無名武将@お腹せっぷく:03/05/02 00:44
甘寧にオヤジ殺されたのって呂蒙だっけ?
>>323
それは凌統では?
呂蒙は自分が保護した(しかも甘寧からw)料理人を甘寧に殺されたんじゃなかったかな。
>>311
> 別に>>189氏を擁護する訳ではないが、彼は戦略と局地的な戦術とを分けて考えているんだろう
> いわゆる、warとbattleの差
> 極端な例かもしれないが、張良(war)と韓信(battle)の能力の違いだ

私は戦略と戦術というひじょうにステレオタイプの分け方こそ否定しているのですよ。
もちろんそのような分類が存在することは暗黙の了解として
その上で長期的戦略、近視眼的戦略、広域戦術、局地的戦術は分けられねばならないでしょうね。

> そこから、実績のある他の人物より劣っているってゆーのは飛躍しているように思えるが

「実績が無い人物を、実績のある人物と同評価とする」の否定という論理的帰結ですね

>>312
> 「呂蒙はほとんど勝ち戦が無いんじゃない? まともに戦って勝った事無いんじゃないの?
> 知恵はまわるが戦争は下手というのが俺の評価 」
> と問題提起したのも貴方ならば
> 「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
> この様な形の条件を設けたのも貴方です。当然、不特定多数に理解できるよう説明する義務があります

前者は戦略的煽り、後者は戦術的煽りですね

> さらに貴方は、度々、討論や議論という言葉を用いておられますが
> 貴方が何を根拠にして、何を比較対照として呂蒙を「戦下手」と断定し
> 何を比較材料として、多数の人物を呂蒙より実力が上と判断したか、説明する必要があります

もちろんです。しかしその説明がないから人が噛み付いてくるのでしょう。
結論しかなくそれが気に入らないものであるため皆必死で噛み付くわけですよ。
説明せずに済ます気はさらさらありませんが、その時期は目的に照らしてみれば
最初から書く必要はまったく無いと思いますね。
議論とは前提を確かめながら歩み寄れるところまでは歩み寄る作業といえるでしょう。
すでに少しずつ前進していることに気づきませんか?

> ですから比較材料として具体例が必要なのです。しかも、具体例がなければ決着のつけようもありません

具体例は単なる帰納的結果ですので必須とはいえないと思いますね。

> 「議論によって模索する」と言うのなら貴方の言い分も分かりますが
> それならば断定するような物の仰り方は、よされた方がよいと思います

「断定すること」と、「〜と思います」という事は、やっていることは同じですよ。書いた以上は書き手の意思があり
目的があり、批判にさらされる用意があるわけです。もちろん究極の目的はコンセンサスを得ることでしょうね。
ただし段階を踏まずに結最初から結論がある方法が近道とは思えませんね。
>>313
> >論点を明確にすることはたしかに最重要事項でしょうね。
> それならば是非、「呂蒙の不明とされる能力、限定した部分」について纏めてください
> 正直、貴方はいままでにおいて
> 「司令官として軍を率い、強敵と対陣したと想定しての 戦争の実力ですね。これでFAです」
> 「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配能力」
> などの発言を多数されています。(略)
> ここで貴方の論点を明確にすることは有益なことと思います

いいたいこともわかるのですが、私から見ればその二つの条件はほぼ同じものに見えますね。
前者はつねに後者を含むという構造になっているからです。
あくまでFAどおり
「呂蒙の司令官として軍隊を率い、強敵と対陣したと想定しての戦争の実力は如何ほどか?」
これをテーマとしているとお思いください。
あなたと私、コレについてそれぞれ今から自論を述べてゆくのが一番まっとうなやり方でしょうね。

> >なるほどね。あなたの読みは半分は当たっているけど半分は違う。
> ミスリードさせるという「目的」でそのような発言をしているわけでは無いですよ
> 勿論、「ミスリードさせるという「目的」」と言う気などありません
> 私は、誤解を招く可能性がある言葉は慎まれた方がよいと言っただけです

含みが多すぎて何ですけどミスリードをさせることが目的ではないが、手段ではあるわけです。
そもそもが、「さあ討論しますよ。席についてください」といった場所ではないわけですから

> >適切なものがいますぐに決められると思っているのでしょうか?
> どうでしょう?適切な物は無理でも、不適切な物を取り除き、それより適切な物を当て嵌めることは可能です

適切、不適切はすぐに結論が出る部分でもないと思いますよ。
それはほぼ議論の中心と思われますからね
>>189
喪前用のスレがあるから名乗って来い。そして帰ってくるな。w
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1051704227/
つまり、呂蒙を周瑜、陸遜の下位に置きたい、という目的がまず最初にあって、そのための
論理展開をしているとしか思えません。

その展開がおかしいから皆噛み付いてくるのですよ。
私見では陸遜>周瑜=呂蒙と思いますが、わたしが貴方の意図のように論を展開するなら
「陸遜は軍司令官、内政の責任者として長期間呉を支えた、社稷の臣であるから」呂蒙以
上の功績であるとします。

周瑜については「孫策の友人として呉の建国に多大の関与があり、また孫策の急死時に
率先して君臣関係を固め、流出しようとする人士を引きとめ、権力委譲の際の混乱を最小
限に留めたから」呂蒙より上、とします。

これならば、> 「切迫とした刻々と情勢が変化するかも知れぬ戦場の中での流動的な采配
>能力」などと言うよりも賛同を得やすいと思うのですが、いかがですか?
>>326
>もちろんです。しかしその説明がないから人が噛み付いてくるのでしょう。
結論しかなくそれが気に入らないものであるため皆必死で噛み付くわけですよ。
説明せずに済ます気はさらさらありませんが、その時期は目的に照らしてみれば
最初から書く必要はまったく無いと思いますね。
議論とは前提を確かめながら歩み寄れるところまでは歩み寄る作業といえるでしょう。
すでに少しずつ前進していることに気づきませんか
>具体例は単なる帰納的結果ですので必須とはいえないと思いますね。

上記の貴方の言葉で
貴方が、どのようなことを「議論」「討論」と、読んでいたのか理解できました
残念ながら、一般に言う「議論」「討論」「ディベート」と
貴方の仰っておられる「議論」「討論」には隔たりがあるようです
残念ながら貴方が「自己流の議論、討論」をお続けになると仰られるのなら
私は今後スルーさせていただきます
私の方で具体例を出す気もあったのですが残念のことです
それでは失礼します
331303:03/05/02 14:39
いや、だから。
記述が残っていない以上、未知数なわけなんだから

>未知数である部分がある以上
>ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面では劣るというのはごくごく当然の流れだと思いますけどね。
じゃなくて

>未知数である部分がある以上
>ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面では劣る『のではないかと考える』のはごくごく当然の流れだと思いますけどね。
でしょうに。
何故劣ると断定するのか理解できないよ。

呂蒙が戦略家として上級なのは同意みたいなんで付け加えるけども、ちょっと改造すれば
>未知数である部分がある以上
>ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面でも対等というのはごくごく当然の流れだと思いますけどね。
なんて暴論吐いてるのと変わらないでしょ。
もうみんなスルーしろよ。
>>189
軍隊と軍隊とのぶつかり合いだけが合戦の強さと思ってるだけの荒しなんだから。
みんながレスしなくなったら自分が言い負かしたと満足していなくなってくれるよ。
189の壮大なオナニー議論にみんな付き合っちゃったね。
◆189のレスをNG電波に登録しました☆
335189:03/05/02 23:51
>>333
やめろよ〜ハハハ
336bloom:03/05/02 23:51
一連の189の発言を見て某ガイドラインを思い出したのは俺だけか?
あと189を騙るのはやめれ。
>>329
>つまり、呂蒙を周瑜、陸遜の下位に置きたい、という目的がまず最初にあって、そのための
>論理展開をしているとしか思えません。

思うのは勝手ですけど、根拠が述べられてませんね。つまりの前は一体何でしょうか?
あなたは上記目的から帰納した論が私の論だとお考えのようですが。
そのような反応があるかと予想したので、わざわざ煽りは目的ではなく手段だと書いたのですけどね

>その展開がおかしいから皆噛み付いてくるのですよ。
>私見では陸遜>周瑜=呂蒙と思いますが、わたしが貴方の意図のように論を展開するなら
>「陸遜は軍司令官、内政の責任者として長期間呉を支えた、社稷の臣であるから」呂蒙以
>上の功績であるとします。

あなたの意見はごもっともですがこの際意味のあるものではないでしょうね
>>330
> 上記の貴方の言葉で
> 貴方が、どのようなことを「議論」「討論」と、読んでいたのか理解できました

失礼ですがそのあなたが思う「どのようなこと」自体がわたしのそれと食い違っているように思われますね。
具体的にいえば引用部分の「目的」の中身の相互理解が無いだけだと思いますけどね

> 残念ながら、一般に言う「議論」「討論」「ディベート」と
> 貴方の仰っておられる「議論」「討論」には隔たりがあるようです

そもそも「議論」と「ディベート」はまったく異質なものですね。
異質であるから語れないという態度こそ無知の産物でしょうね

> 残念ながら貴方が「自己流の議論、討論」をお続けになると仰られるのなら
> 私は今後スルーさせていただきます

どうぞ。ご勝手に
>>331
> いや、だから。
> 記述が残っていない以上、未知数なわけなんだから
> >未知数である部分がある以上
> >ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面では劣るというのはごくごく当然の流れだと思いますけどね。
> じゃなくて
> >未知数である部分がある以上
> >ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面では劣る『のではないかと考える』のはごくごく当然の流れだと思いますけどね。
> でしょうに。
> 何故劣ると断定するのか理解できないよ。

まず>>326の最後において私の書いた内容を読んでください。

> 呂蒙が戦略家として上級なのは同意みたいなんで付け加えるけども、ちょっと改造すれば
> >未知数である部分がある以上
> >ほぼ完璧な実力を見せた人材に対して戦争面でも対等というのはごくごく当然の流れだと思いますけどね。
> なんて暴論吐いてるのと変わらないでしょ。

あなたの例にあげた文章は確かに暴論といえますが、それはなぜかと分析すれば
前半部分と後半部分の整合性が保たれてないからでしょうね。
「変わらない」という理由がよくわからないです
189キタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━ !!!!
まだ、やる気が起きるのかよ… 誰もレスしないでくれ、頼む。

漏れはコイツのレスを一つも読んでないんだよね。無意味に長いから。w
みんな、スルーしようよ
>>189
>>339で「自己流の議論、討論」をしていることを否定してないんだから
これからは勉強前の呂蒙と勉強後の呂蒙の違いを述べて、
彼がいかに努力家だったかを語っていこうじゃないか。
で、呂蒙と並び称された陳武はどうだったんだ?
近所の学者も敵わない程、の学識があったかどうか・・・
呂蒙は、敵と戦う、と決まった時点でその敵に謀略を仕掛け、弱体化したら戦いを
仕掛ける、ということが上手い武将だと思う。戦う前にもう勝っている。
曹操も呂布・馬超に同様の事をして被害をそれほど出さずに勝っている。
一国の君主としては、こういう部下がいるのはとてもありがたいでしょう。
自軍兵にまるで損害を出さないわけだから。
(いくつか例外もあるけど)
>>344
それでいこう

漏れは呂蒙が如何ほど兵法を体得したか語るよ
長文だがスマソ
348347:03/05/03 14:06
呂蒙は勉学に励んだ後、兵法の奥義を体得したと言っても良いと思う

孫子には、こういう言葉がある
「兵は詭道なり」
これは、「戦争とは騙し合い、駆け引きが重要だ」と言うことで
関羽を騙し油断させ、守備兵を減らさせた手腕が当たる

「百戦百勝は善の善なるものに非ざるものなり。戦わずして人の兵を屈するが、善の善なるものなり」
これは孫子において最も重要なことで
「百回戦い、その全てに勝利しても最上とは言えない、戦わずに勝ちを収めることが最上である」と言っているのです
呂蒙は、関羽と戦ったとき策を用いて敵を遠ざけ、策を用いて南郡を落とし「戦争の目的」である
荊州南部を制圧した。まさに戦わずして勝を実践しているのです

「善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも戦うに非ざるものなり」
これは「戦争に優れた者は、戦わずに敵を屈服させるものだ」と言っているのです
つまり魯粛生前の頃、荊州南部の三郡を帰順させたことや
荊州南部を奪取したときの公安の士仁、南郡の麋芳を降服させた事が当て嵌まります

「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを賭ざるなり。夫れ兵久しくて国に利するは未だ之有らざるなり」
これは「戦争とは、多少無理があっても素早く勝利を得たならば成功だが、戦争が長引けば成功は得難い。
それは、戦争が長引くと国家に利益をもたらすことが少ないからである」と言っているのです
これは呂蒙の戦争全般に言えることで、魯粛生前の時の荊州攻略、皖城攻略、荊州南部奪取と
その行動において、常に迅速な動きを見せています。まさに呂蒙が得意としたことでしょう

「善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為し、以て敵の勝つ可きを待つ」
これは「戦争に優れた者は、先ず不敗の体制を整えてから戦う」と言っていて
これは関羽を油断させ守備兵を減らさせ
その後、関羽に気付かせずに南郡および荊州南部を奪取し、関羽の根拠地を奪う
そして荊州南部を包囲することによって不敗必勝の態勢を築き上げる
この態勢にいたって呂蒙の戦略上の勝利は確定し、たとえ関羽が無傷で樊城よりとって返しても
兵を休める場所すらない状態であります。まさに上記の孫子の言葉を実践したと言えます
349347:03/05/03 14:11
続き

「風林火山」と言う有名な言葉があります。孫子の言葉が出典です。正しくは
「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く
動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し」
で、意味は
「行動は風の如く迅速に、情勢を展望するには林の如く静かに
攻め入るには火が燃え広がるように整然と、動いてはならないときは山の如く
敵に行動を知られないことは夜陰に紛れる如く攻めに転ずるときは雷鳴が轟くが如く敵を震撼させる」
と言う意味で、全てを合わせて臨機応変に対応するという意味もあります
呂蒙は荊州南郡を奪取したとき、これらを見事使いこなしています
「其の疾きこと風の如く」は、言うまでもなく迅速に敵地に攻め入り包囲を完成させたことです
まず「其の徐かなること林の如く」です。呂蒙は関羽を油断させつつ、その動きをよく観察していました
そして「動くこと雷霆の如し」です。呂蒙は関羽が守備兵を減らしたこと、于禁を捕らえたこと、湘関から兵糧を奪ったこと
などを知り孫権が号令するや「動くこと雷霆の如し」をもって攻め入ります
その行動は「其の疾きこと風の如く」をまさに実践し、素早く迅速行動で進軍、包囲を完成させ
「侵掠すること火の如く」の勢いで公安、南郡と攻略しています
さらに、「其の疾きこと風の如く」「侵掠すること火の如く」を実践しつつ、その行動は関羽に伝わることはありませんでした
士仁は、「大軍が動いたのに斥候がそれを確認できず、烽火が上がらなかった」と言っています
これは「知り難きこと陰の如く」を実践していたことを示しています
その後、関羽が引き返したとき、先に挙げた「動くこと雷霆の如し」が意味を成します
関羽が気付いたときに将兵達が震撼する状況が出来上がっていたのです
以上のことから、呂蒙は兵法の極意を体得し、それを実践において体現したことが分かります
350347:03/05/03 14:16
さらに続き

また孫子は
「善く戦う者は勝ち易きに勝つ者なり、故に善く戦う者の勝つや智名も無く勇功も無し」
と言っており
これは
「戦争に優れたる者は、勝ちやすい状況を作って、誰にも出来るかの如く勝つため
勝った上で知恵者だとか勇士と言った賞賛を得られない」
と言う意味です。
呂蒙の荊州南部の奪取は、その戦略を完璧と言っても良いくらい成功させているため
事が簡単であったかのように見えます。しかし孫子を紐解き分析すると、兵法の言う最良の形を見事に実践していることがよく分かります
これ程、兵法の理に適った勝利は、三國志において、例が限りなく少なく、見事の一言に尽きます

長々と話しましたが、以上のことから呂蒙が勉学によって、どれ程の知恵を身につけたかが、お分かり頂けたと思います
これ程、兵法を体得した呂蒙であるからこそ魯粛を唸らせ、孫権の称賛を受けることとなったのも当然と言えます

本当に長文すみません。ウザイとお思いの方は是非スルーしてください
141氏? 乙カレー
理論と実践が両立できてるよな。
>>347乙カレー
>>347
乙。
>>350は真理だよな。
どんな事であれ、成功するには必ず裏地がある。
ただ、他から見た人はその裏地が分からないから、単純に見てしまうって事だな。
>>350
たいへん、乙ですた。
>>353
大いに同意。
結果が全て、という言葉を安易に振り翳す香具師ほど、こういった物事の裏側面を
等閑にしすぎてると思われ。
呂蒙は、事前策を施して万全を期して行動をするという
三国志には数少ない稀有な人物の一人だと思う。
>>347とは違い、私は比較の点で触れてみたい。

関羽討伐の時には、陸遜の助言を容れたことが大きかったとはいえ、
絶対に失敗しない方策を施してから行動に移している。
その用心深く、手堅い行動理念にはなかなか敬服する点が多い。
それに反して、周瑜や曹仁などには事前策を施していくような注意深さを見つけにくい
(見つけにないから無かった、という訳じゃなく、あくまでも見当たらないだけ)。

また、魯粛や諸葛瑾のように用心深さの反面、行動に移すまでに時間を要す、
といったこともなく、名将の条件として問われる果断さをよく発揮している。
特に甘寧を夷陵に救ったときや、皖城で拙速を尊んだあたりにそれが表れているといえよう。

呂蒙が最強だと言う気は毛頭無い。
それは各々で置かれた立場が違い、活躍した時期も違うからだ。
だが、三国時代を代表する名将の一人に加えても良い資質と実績をちゃんと発揮していると思う。


つまり、だ。何が言いたいか、というと、
呂蒙マンセー!!w
2段落目、日本語が変ですた。スマソ...
357347:03/05/04 15:26
みなさん、漏れの駄文を読んでくれてありがとう

>>355
漏れも呂蒙マンセーなんだ
呂蒙伝を読んで人間、晩学でここまで変われるのか、と感動したんだ
それで呂蒙ってどれくらい頭が良くなかったんだろう?
何か事例とかないのかな?
それで何年くらいの勉強でそこまで賢くなったのかも知りたいね。
359355:03/05/04 18:08
特に頭が良くなった訳ではないと思いますよ。

知識が増えたのは確かでしょうが、
>>347さんや漏れの書いた彼の美点は、後天的に得ることが難しく、
また、逆に知識の享受によって失われかねないと思われ

若年の頃からガキ大将らしきことをしていて、
その時に色んな駆け引きを学んだんじゃないでしょうか。
当時孫策の部将であり、姉の夫であったケ当に勝手にくっついていったのは
その当時から軍事に興味を抱くような生活を送っていたからだと思いまつ
360無名武将@お腹切腹:03/05/04 22:42
勉強を始める以前(だと思う)に、
自分の兵士たちに目立った格好をさせて
孫権にアピールして兵士増やしてもらった
ってあるから、頭の回転は悪くなかったと思われ。

にしても若い時代に正式な学問をしたことがなく、
重要なことは口移しに人に書き取らせたって…
始めは読み書きすらできなかったのかもしれませんな。
それとも単に字が汚かっただけなのか(w
>>360
まあ、蜀には王平がいるし、魏にはケ艾がいる。

昔の学問事情や一般人の識字率を考えると、字を読み書きできなかったと
解釈したほうがいいと思う。
>>361
それもあるかも
というか、長くを戦場ですごした軍人のなかには、文盲はそこそこいるようだしね。
王平やケ艾は有名だけど、ほかにもけっこういただろうよ。
>>363
ケ艾は12歳で碑文を読めてるよ
ケ艾の場合は吃音だな。
364の言うとおり、文字の読み書きはできたが、どもりながら喋ると
重要な用件を伝えにくいという不利な要素があると思う。
361では少々説明不足だった。
保守が必要になるとは…
急に冷えたね。
みんな語りきって満足したの?
呂蒙一人だと結構辛いかもね
そういう漏れも話題が思いつかんのよ。w
んじゃ一応呂蒙に少し関係ある事を言ってみる。
光栄は「士仁」に直してる?今出てるのも傅士仁?
関羽戦で呉に降伏した連中、士仁含めてしっかり呉でそれなりに活躍してるのな。
9も傅士仁でつ。

>呉に降伏した連中
潘濬が太常になったのを始め、郝普が廷尉となり、
麋芳も賀斉に従って外征に赴いたりしているね。
士仁は記録が無い、はず
活躍ってほどじゃなかったが、何処かで将軍として兵を率いていたような。
間違ってたらゴメン。

そうですかやはり傅士仁ですか。
光栄は士仁とギランを出せ、と。
ギランをゴランの間違いと言うヤツがいて悲しくなったよオイラ。
372371:03/05/08 20:43
すまん呂蒙の話じゃなくなってしもうた。
373371:03/05/08 20:48
>活躍ってほどじゃなかったが、何処かで将軍として兵を率いていたような

それは麋芳じゃないですか? 士仁は見たところ無いです…
呂蒙じゃないのでsageで
374370:03/05/08 20:48
ゴメン。>>370ですた…スマソ
375371:03/05/08 20:51
では間違ったのでしゃう。うろ覚えでゴメン。
甘寧と仲良いんでしょうか?
やたらと話が残ってますが…。
>>376
呂蒙が対黄祖戦の前線に居た時からのクサレ縁カモナー
そこへ甘寧が転がり込んできたわけだから。
料理人と呂蒙ママの話もあるし、仲は良かったんじゃなかろうか。
友人と言うより、身元保証人って感じがする
呂蒙も自分が推挙した手前もあって、よく甘寧の面倒見てるよね
たくさんエピソードが残ってるのは、それだけ甘寧が問題児だったって事かもな
そして、呂蒙の責任感の強さを示唆するエピソードでもある
責任感というか、甘寧が呂蒙と仲悪くなり、その後甘寧が孫権の命令に背いた時に呂蒙がとりなしたというエピソードからして、
仲は必ずしも良くないが甘寧が孫権にとって得がたい良将と認識していた、という事らしい。
呂蒙は個人的な好き嫌いよりも大局的見地から発言できるつーこった。
甘・呂のカラミが多いのは、後世言うところの寒門出身の武人という共通点があるからだろう。
多少はつきあいあったかもしれないし。
なんか静かなので独り言だ。
呂蒙は呉最後の「叩き上げからトップ近くまで登りつめた立志伝中の人物」って感じだね。
次に呉の将帥として語られる陸遜が呉の大姓だと言うのは象徴的かも。
真の混乱期から小康状態へ変化すると共に、軍事中心で名を上げ出世する人物は減っていったんだろうね。
381山崎渉:03/05/22 01:54
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
後漢末期は光武帝のアホ政策が響いて、混乱しまくっている状態だからねえ。
孫権が呂蒙に学問を勧めたのも、当然といえば当然。
権謀術数が戦争の全てを握っていた時代に、純粋な武力だけで成り上がるのは不可能っぽい。

孫権は、呂蒙に限らず将軍位を冠する配下には当然学問を志させたハズ。
また、将軍になろうという武将は、言われなくても学問を修めていたハズ。

その上で「孫権が呂蒙&潘璋に学問を勧めた」という記録が残っているという事は…
陳寿が呂蒙の栄達のきっかけを説明する為にいちいち記載したのか。
それとも、この二人が余程のアフォだったからなのか。
>>382
士階級の人間は、四書や五経を幼少期から親しむからね。
それでなくとも文東武西、文尊武卑の傾向が強いし。
諸方で恥をかかせたくない為の意味もあったのかもしれんよ。
つまり、それだけふたりは将来を孫権に嘱望されてたんではないだろうか。

ついでだけど、潘璋ではなくて、蒋欽だったかと。
384382:03/05/26 11:01
>ついでだけど、潘璋ではなくて、蒋欽だったかと
失敬。
385あぼーん:あぼーん
あぼーん
386無名武将@お腹せっぷく:03/05/28 21:35
ほす
保守してみる。

蒼天のNEW呂蒙、早く出ないかなー
張合βみたいにシヴくなるのかなー
そういや周瑜が死んでから1コマしか出てないな
389無名武将@お腹せっぷく:03/06/04 20:23
張洽ってもうでたっけ
>>389
対馬超戦でさり気なく初登場だ
えらくシヴいオジサマだったよ
391無名武将@お腹せっぷく:03/06/05 20:31
げ、見逃した
単行本待ちか
392無名武将@お腹せっぷく:03/06/05 21:11
27巻で登場しているんだけどね>張合β
393無名武将@お腹せっぷく:03/06/05 21:27
ウザい。
文章のいい悪いじゃなくて、要約してくれ。
秘本の話だけど
病に冒されながらも関羽討伐に向かう呂蒙に切なくなった。
395無名武将@お腹せっぷく:03/06/10 06:37
蒋欽も直後に死んでるのにシカトだけドナー
ageちった… スマソ
うーん、呂蒙ってすごい人物だったんだな。
今まであんまり興味なかったけど、このスレ読んでちょっと見方が変わったよ。
呂蒙の三人の子どもって最終的にどうなったの?
上二人が死んで三番目が継いだ後までご存じの方います??
唐以前までに立伝された人はいなかった
400呂蒙(*´Д`*)ハァハァ
捕手
402無名武将@お腹せっぷく:03/06/22 23:47
そいつに野心はあるのか?
矢野には野心はなさそうだが、意外に古田は野心を持っていそうだ
そろそろ保守る。
ともかく、呂蒙が三国志の歴史を動かしたわけだ
保守
407ぬの人:03/07/12 11:01
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
408無名武将@お腹せっぷく:03/07/14 16:10
話題が出尽くしたかな。
409山崎 渉:03/07/15 11:58

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
410無名武将@お腹せっぷく:03/07/18 19:00
どの作品の呂蒙が好きか各々ageるってのはどうよ。
正史の呂蒙は俺のもの
412無名武将@お腹せっぷく:03/07/19 06:58
蒼天呂蒙に激しく萌え。
413無名武将@お腹せっぷく:03/07/19 07:00
お前ら朝から何やってんだ
蒼天呂蒙はあんまりだろ!

・・実際、あんな感じだったのかな?
415無名武将@お腹せっぷく:03/07/19 20:14
蒼天ではあんな感じでいいんじゃない?
孫権との関係も大きな上司と頑張ってる部下みたいでよさげだし。
それよりもやっぱり最期は大出血で陸遜を薦めて果てるのだろうか
>>415
正史では朱然を薦めて果てるわけだが・・・
極めて初心者的な疑問。

呂蒙の荊州奪還が正しかったとすると、魯粛が荊州を貸し与えていたのは間違っていた事になるのだろうか?
あんまり結果論で語ると
『(゚д゚)シバー』
って事になってしまう。
誰にも未来はわからないわけだから間違いではないんじゃない?
物事は状況状況だよ。









と言いつつも、ヤツが尻ぬぐいのために出撃したことを考えると、
間違いだったと言わざるを得まい。
お前らもこんな所に来てないで呂蒙みたく学問に励んでみろよ
>>420
三戦住民の多くは、言っても無駄なんではない?
422無名武将@お腹せっぷく:03/07/20 20:47
>>416
蒼天、多分そこまで詳しく描かないんじゃないかな。
ここから先はかなりかっ飛ばして描く気満々みたいだし。
>>417
まさか返さずにずうずうしく居座るとは思わなかったんじゃないか
>>423
うん、本人も直接交渉にいってるしな。
演義では関羽に怒鳴られソゴスゴと引っ込むことになってるが、史実では関羽は魯粛の
正論にグウの音も出なかった訳だし。
>>423
>>424
と言うことは、その部分で魯粛は判断ミスをした、と言うことになるのかな?
でもかと言って、返さなかった劉備の判断が良かったというわけでもないだろうし・・・。
孫権が劉備に荊州を貸したと聞いて曹操が箸を取り落としたって話をどっかで聞いたぞ
(ソース見つからなかった)。その時点では正しかったんじゃないのか。

ただ、昨日まで正しかった策が今日も明日も正解であり続けるとは限らない訳だが。
>426
そのエピソードは魯粛伝の本文に載ってるよ
428あぼーん:あぼーん
あぼーん
429無名武将@お腹せっぷく:03/08/14 23:00
hosyu
430あぼーん:あぼーん
あぼーん
431無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 01:20
ホシュ
上司にするなら呂蒙みたいなのがいいな。
仕事できるし、いい奴だし。
料理人を殺した甘寧に激怒して屋敷を包囲するものの、結局赦してあげる話とか。
ほんと人間できてるよなあ。
呂蒙と陸遜は育ちは違うけど人間できてるよね。
周瑜もいい。
朱桓とかが問題あるんだよなぁ・・・
435604:03/08/19 12:00
オレの呂蒙評価

能力(戦)  周瑜>呂蒙>陸遜>魯粛
能力(政)  魯粛>陸遜>周瑜>呂蒙
能力(仁)  呂蒙>魯粛>周瑜>陸遜

能力(総合) 陸遜>周瑜>呂蒙=魯粛

文句あるか

>>435
陸遜もかなりの人格者だぞ。魯粛以下ってこたぁない。
しかし、その3っつで評価して陸遜が総合で一番上ってのがよくわからない
なぁ(w

名前欄の604って何?
437604:03/08/19 17:50
個性。
438604:03/08/19 19:40
俺は天才
439無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 19:41
だから順番つけて遊んでるヴァカな光栄厨は
専用スレでオナってろよ。うぜぇな。頭悪すぎ。
440604:03/08/19 19:48
控えよ、御前である
441604:03/08/19 21:51
>439
君みたいな馬鹿がいるから、厨が入りめるんじゃないかな?
442無名武将@お腹せっぷく:03/08/19 21:54
鍾離昧>>>>>>>>>>>>>>>>>>呂蒙
鍾離昧>>>>>>>>>>鍾離昧厨
鍾離昧>>>>>>>>>>>>>>>>>>鍾離昧
鍾離昧>>>>>>>>>>>>>>>>>>鍾離味
鍾離昧>>>>>>>>>>>>>>>>>>鍾離妹
近頃三戦板の各スレで暴れまわってるのは最近「史記」か「項羽と劉邦」を読んだ厨なの
だろうか?
少なくとも、鍾離牧を知らんことは確かだ。
>>447-448
同意だな。
ほしゅ
教えてちゃんでスマソ。
無双3のコンプリートガイドで「呉下の阿蒙」が
「アホの蒙さん」になってたんだが、
これっていいんだろうか?
阿にアホってニュアンスはないよな?
無い
453無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 21:30
>>451
アホは言い過ぎ。
もっと学が必要って言われただけで、
呂蒙は元々それほどアホではなかった。
あれほどDQN扱い受けてる甘寧ですら
それなりに学問があったらしい。
甘寧の場合は確かに性格に問題あったみたいだけど。
光栄の人物辞典ほど役に立たない本はない。
マニュアル本のオマケにもならん。
>>453
甘寧の手下連中も、親分が急に読書なんか始めたりして、ふしんに思っただろうな。
>>455
確かに
サソクス。

まぁ、甘寧推挙したのが周ユと魯粛って無双3の人物辞典に載せてたぐらいだしなぁ。
役に立たないどころか信用もできんってことですかい。
>>457
それってホント?
甘寧を推挙したのは周瑜と呂蒙なのに周瑜と魯粛になってるの…
なんか凄いな…その本
459457:03/09/15 08:47
>458
本じゃなくて無双3のなかの武将辞典(オプションみたいなので見れる奴)でつた。
言い方悪くてスマソ。
<甘寧の推挙
それって正史版と演義版の違いでは?
461457:03/09/19 22:33
>460
吉川、演義の完訳だと呂蒙。
正史だと甘寧伝に周瑜と呂蒙が推挙したとあったはず。
んん
463無名武将@お腹せっぷく:03/09/28 12:45
呂蒙は蒼天のトリです

といいつつ落ちそうなのであげる
464無名武将@お腹せっぷく:03/10/01 23:44
     .┌┐                       
    ────  シィィィィネェェイ!リョォォォォモォォォォォォォォォウ!!!!                   
  /       \
 / ====関==== \              ≪≪≪≪   
 |________│           ..‖          
‖│\      /│‖         __□__                       
‖《<>    <>》 ‖       /∝∝∝∝∝..\   
‖│/ │ │ \│‖       |            |  ●
‖ │/  _ \ │ ‖       |==  呂 ==. |  
‖  w  /─\ w  .‖   ▲ 《《《《≡≡≡≡≡ 》》》》 ◆ ア゛ア゛ア゛ァァァァァァァァァア゛!!         
    .川川川川川      ● ■::: ━┛| | ┗━━:::■   ボッ!ガグゥオヴォ!!
    .川川川川         ‖::<<○>   <○>>::::■■  ア゛ア゛ッッッッウ!!
     川川川         ■::|■   ..|   |■::::::::■■   グ!
      川川        ■■■■┐   |_  ┌.::■::::■■  ・・・・・・・・・・
       川      ▲■■ ‖:: ■  ┃┃.  ./■::::‖■■
                      .■\│ ■■│/  ■     ■    ●
                      ■  丶■ ノ ■ ■      ■
       ◆■●     ■■   ■■■ ■■■■■■■◆◆ ■  ■  
               ■●■■  ■◆■● ● ■■●■■ ◆■● ● ■■
            ■    ● ■■●■■■ ●■●■■■■■■
                ◆■● ●■■■◆●■■■■■■◆◆◆▲●■■
           ■■■■■■■●■■●●■■●■■■■■■■■●■● ■           ● ■           
465こりゃこのシーンは来年に持ち越しだな:03/10/02 19:20
     .┌┐                       
    ────  シィィィィネェェイ!リョォォォォモォォォォォォォォォウ!!!!                   
  /       \
 / ====関==== \              ≪≪≪≪   
 |________│           ..‖          
‖│\      /│‖         __□__                       
‖《<>    <>》 ‖       /∝∝∝∝∝..\   
‖│/ │ │ \│‖       |            |  ●
‖ │/  _ \ │ ‖       |==  呂 ==. |  
‖  w  /─\ w  .‖   ▲ 《《《《≡≡≡≡≡ 》》》》 ◆ ア゛ア゛ア゛ァァァァァァァァァア゛!!         
    .川川川川川      ● ■::: ━┛| | ┗━━:::■   ボッ!ガグゥオヴォ!!
    .川川川川         ‖::<<○>   <○>>::::■■  ア゛ア゛ッッッッウ!!
     川川川         ■::|■   ..|   |■::::::::■■   グ!
      川川        ■■■■┐   |_  ┌.::■::::■■  ・・・・・・・・・・
       川      ▲■■ ‖:: ■  ┃┃.  ./■::::‖■■
                      .■\│ ■■│/  ■     ■    ●
                      ■  丶■ ノ ■ ■      ■
       ◆■●     ■■   ■■■ ■■■■■■■◆◆ ■  ■  
               ■●■■  ■◆■● ● ■■●■■ ◆■● ● ■■
            ■    ● ■■●■■■ ●■●■■■■■■
                ◆■● ●■■■◆●■■■■■■◆◆◆▲●■■
           ■■■■■■■●■■●●■■●■■■■■■■■●■● ■           ● ■
466すまん:03/10/02 19:21
ごばくした
467あぼーん:あぼーん
あぼーん
保守
ところで無双呂蒙はどう思う?
ホモゥだなんだって妙なあだ名はついてるが、
セリフとかは結構イメージにあっててカコイイと思うんだが。
無双なんてシラネ
471無名武将@お腹せっぷく:03/10/19 17:24
age
472アルス ◆Td1FJ2APJM
>>451今更ですが、「阿」は中国語で「〜ちゃん」という意味があり、本来はアホという意味で使われる言葉ではないそうです。
ただ、呂蒙さんの場合、呉下の阿蒙とされたのは、知識が子供程度という意味で呉の蒙ちゃん扱い=アホと書いてあるのだと思います。
ガイシュツでしたら申し訳ないでふ。。