1 :
無名武将@お腹せっぷく:
どうやって食っていってたんですか?
例えば氏真さん。歌詠んで蹴鞠してって遊んでばっかりのイメージなんですけど
収入はどこから……旧臣にたかってたのですか?
盛親さんなんかは働いてたみたいだけど……
昔大名だった魚屋とかいなかったのかな
2 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 03:34
わかったから死ね
他の大名にたかってたんじゃねーの。
養う方にしてももしかしたら利用できるかも知れないし。
土佐の覇王一条兼定タンも追放された後は縁戚の大友宗麟の所に転がり込んだようだし。
徴税権を失っても、自分の田畑などがあれば、、
援助でもあれば、、遺産でもあれば、、
もちろん思いつきだが。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 03:45
老人「わしは昔戦国大名だったんじゃよ」
近所の子供「ぷぷw」
老人「こら、笑うな。関ヶ原にも出たんじゃぞ。信長殿にも会った事あるし」
とかいう会話を縁側でしながら老いてゆく元戦国大名に萌え。
なんか浪漫を感じる
6 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 03:48
>>1 コネのある奴はそれで食い扶持くらいは
貰えることがおおい。元大名っていったら相当高い身分だしね。
滅亡したらほとんど斬られちゃうんじゃない?
8 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 03:56
小大名だったら見逃してもらえたりしない?
もしくは高野山追放後放免とか。
徒手空拳からのし上がって大名化したコネがないやつなんか
まじで
>>5みたいな老後を送ってたりして
敵対して攻められたりしたら息の根止められることも多いけど、
なんとなく滅亡した守護大名や、古い大名や、竜造寺家など、
けっこう生き残ってると思うよ。
数的には生き残りの方が多いと思うよ。
戦国時代と言っても無茶苦茶な時代というわけでもないし。
滅亡ってのは諸権利を失うことだと思うよ。
消滅とは限らない。
そういえば利家とまつでは追放された元大名が坊主になってたなw
11 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 04:02
>>5 いいね。老人が一度は天下をねらったことがある人物だったりしたらさらに好印象
>>11 そうだね。で、それに一番ほど遠いのが黒田如水(藁
13 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 04:24
14 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 04:30
>>5 子供態度悪すぎ。世が世なら首が飛んでるw
ところで、滅亡して生き残った元大名の生活ってのは興味がある
なんか家を保った連中より長生きしてることが多いし
やっぱり肩の荷が下りた感じでストレスへってたのかね
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 04:39
いくら浪人でも子供を無碍に斬ることは出来ませんぞ。
まあ当時のガキは宣教師の驚き具合を信じれば、
ものすごくしつけが出来ていたらしいが。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 04:59
木下勝俊「やぁ、もっちゃん」
長曾我部盛親「かっちゃんか。何だよ急に」
勝俊「旨そうな魚がつれたからさばいて酒でも飲もうかと思ってよ」
盛親「俺はお前と違って教員だから午後から講義はいってんだよ」
勝俊「ん〜、じゃ終わるまで待たせてもらうわ」
盛親「そんじゃなるべく早く子供帰すからよ、歌でも詠んで待っててくれな」
勝俊「ん、じゃいってらっしゃい」
見たいなことはなかったんだろうなw
17 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 05:00
司馬作品も盛親も釣り好きだったな。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 05:06
19 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 06:26
>>14 宇喜多秀家、土岐頼芸、信玄の親父、山名豊国、荒木村重……
確かにみんな長生きしてるね
それなりに質素で命ねらわれることもなく……ってのが長生きのに秘訣かも
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 06:51
21 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 07:02
>>5 信長に会ったことがって(部下だった?)関ヶ原参戦経験ありか……
やっぱプチ秀吉みたいな人生だったのかな?
織田家に仕えて徐々に立身、秀吉政権下で小大名化、関ヶ原で西軍加担改易とか。
今は子供に笑われる老人でもいろんなことを見てきたんだろうな……
22 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 09:05
>>5の老人の家の近所で大火事発生
逃げ惑う人々、統制が取れていないためはかどらない消火活動。
そこに老人登場。戦場を駆けた若い頃の血がさわぎ、昔取った杵柄で
避難誘導、消火活動を見事に指揮する。
おかげで被害は最小限。人々は口々に褒め称えるが
本人は年甲斐も無く目立ってしまったことが恥ずかしくなって
こそっとどこかに去る
23 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 09:15
じいさんカクイイ
24 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 09:33
25 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 19:00
>>19 信玄の親父は隠棲先で
謀反扇動したりしてるけどなw
すごいバイタリティだ。
このおっさんは追放されなきゃ信玄以上のやり手
だったのかも。
>>19 荒木は行方不明だろ?
>>25 でも後半は息子のために奔走してたよな。
>>1 ちなみに寿命関係なら日本史板にスレあるぞ。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 19:41
>>26 荒木は秀吉が天下取った後
御伽衆(秀吉の話相手)として召し出されてる。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 21:01
滅亡した大名でも兵を持っている奴もいるじゃん。
ああいうケースはどうなってるんだろう?
貯蓄で兵を養っていたのかな?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 21:15
【ココア】
チョコレートと同じカカオ豆を発酵させ、粉砕し焙煎したもの。甘みを
足す前のココアは苦く、最近の研究で、殺菌力のあるポリフェノール、
カテキンを多く含み、インフルエンザをはじめ各種のウイルスを殺菌す
ることが判明してきた。古くはヨーロッパで王侯貴族にしか飲めない
「不老長寿のクスリ」として重宝され、日本では大正時代に入り、全国
へ広まった。
>>28 あれは大抵、手弁当で旧臣らが集まっているんですよ。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 22:34
江戸初期に改易された大名のその後も気になります
32 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 23:18
たとえば?
後藤又兵衛たんは、一族郎党を引き連れて京都で餓死寸前のところを
豊臣に拾われたって聞いたことがあるけど。
荒木村重は今川氏真と通じるところあるな。
氏真は蹴鞠で、荒木は茶。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/30 23:30
氏真はコーエーが言うほどの暗君だとは思えないが。
それよか荒木はひどすぎるよな。
自分のことをうんこだと自称するだけの苦悩は味わっていたみたいだが。
この逸話にはこの哀れな男を養った秀吉の人情深さも感じる。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/31 01:03
>>16 ワラタ
ホントはこんなほのぼのした生活じゃないんだろうけど
>>35 剣術の達人説もあるよな<氏真
まあでも戦国大名としてはやっぱり疑問符がつくんじゃないか?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/31 08:56
滅亡後、で面白いのはやっぱりおがっちでしょ、おがっち。
信州の小笠原親子。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/31 15:45
>>37 コーエーゲームでは、氏真が戦国武将らしくない扱いをされているが、
今川氏輝時代には従軍していくらかの有力武将を打ち破っているし、
今川義元が死んでから十年も国を守っている。
塩止め、楽市楽座、北条との同盟。敗戦後には頼るべき家臣が誰か心得ていて、
朝比奈家に逃れている。戦略眼も悪い訳ではない。
無能とする材料はきっと、武田が攻めてきた時は恥知らずな家老たちが
武田徳川に寝返った事、徳川の独立を許した事、
滅亡後、織田家に保護された事などにあるんだろうが、
それにしても評価低すぎるだろう。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/31 15:49
本田正純や福島正則なんかは、捨扶持で1万石とか2万石とかもらってるよね。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 01:22
烈風伝の今川家の野望に爆笑させていただいて以来今川親子のファンです
42 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 01:50
>>19 土岐頼芸は鷹だか鷺の絵がウマーで
半ば絵描きみたいな事して晩年を過ごした、って話をなんかで見たかな
43 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 02:26
好きなことだけできる余生っていいよな
うらやましいぞ氏真、頼芸……
>>19の中だと宇喜多秀家が1番苦労してるかも。
松平忠輝とかも長く生きてたような
滅亡後の生活というと、忠臣蔵などでは良く出てくるね。
大学などが何してたのかとかはあまり出てこないけど、
家老や家臣などがうろうろしたり、誰かに頼ったりというのがよく出てくると思う。
戦国時代もこんな例は多かったんじゃないかな?
主君のあだ討ちもあったみたいだし、陣借りや帰農など、人生いろいろ。。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 04:44
>>39 >今川氏輝時代には従軍していくらかの有力武将を打ち破っているし、
?氏輝時代は義元はまだ坊主、当然氏真は生まれてないぞ。
>今川義元が死んでから十年も国を守っている。
徳川にやられまくりでしたが。
>塩止め、楽市楽座、北条との同盟。敗戦後には頼るべき家臣が誰か心得ていて、
>朝比奈家に逃れている。戦略眼も悪い訳ではない。
塩止めはせこいが、まあ敵対状態だしな。楽市は義元時代からやってなかったか?
北条との同盟は義元時代から。朝比奈は氏親時代からの第一の忠臣。
それに中御門家を介して姻戚でもある。
>無能とする材料はきっと、武田が攻めてきた時は恥知らずな家老たちが
>武田徳川に寝返った事、
なんであっさり寝返ったんだろう。氏親、氏輝、義元時代では考えられんことだ。
氏真がよほど頼りない大将だったようだな。
・・・俺、好きだよ。だめ人間。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 05:54
今川家内で扱いが違ったんだよ。
寵臣とそうじゃない奴とが。
かなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーり。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 09:04
>>24 なんか全員集合みたいでいいな
俺も関ヶ原あたりで潰された大名だったら入城したな
そして夏の陣では死なずに逃げるw
滅亡しちゃうと文献から姿消しちゃうから、どんな状況かと言ってもわかりにくい場合多いよな。
浅井の重臣で海赤雨三将の一人海北綱親の五男みたいに文献に残っている場合もあるが、こんなのは稀な話。
想像して楽しむのが一番かもナ。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 09:09
斎藤龍興
信長に美濃を追われる→越前朝倉氏の庇護を受ける→朝倉滅亡時斬られる
六角承てい
信長に近江を追われる→甲斐武田氏の庇護を受ける→武田滅亡時斬られる
50 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 09:18
【ココア】
チョコレートと同じカカオ豆を発酵させ、粉砕し焙煎したもの。甘みを
足す前のココアは苦く、最近の研究で、殺菌力のあるポリフェノール、
カテキンを多く含み、インフルエンザをはじめ各種のウイルスを殺菌す
ることが判明してきた。古くはヨーロッパで王侯貴族にしか飲めない
「不老長寿のクスリ」として重宝され、日本では大正時代に入り、全国
へ広まった。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 10:40
>>49 義賢は1598年まで生きた。息子の義治は武田家滅亡後、豊臣秀吉の
御咄衆になり、その後秀頼の弓の師範になった。1612年死去。
www.m-network.com/sengoku/haka/rokkaku600h.html
こぢんまりとしたお墓。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 11:57
>>48 世間的には友松の知名度の方が圧倒的に上だと思うが?
53 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/01 13:29
>>49 >斎藤龍興
> 信長に美濃を追われる→越前朝倉氏の庇護を受ける→朝倉滅亡時斬られる
戦死してなかったか?
越前と近江の間の刀禰坂で。
昔、墓があったはず。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 08:01
尼子はなんか大変だったらしいが
>>54 大変?確かに秋に幽閉されてはいたが収入的には毛利が支給していたはず。
その後息子は毛利家臣になったはずだし。
関ヶ原後は毛利の大幅減俸のあおりを受けて大変だったのは確からしいが。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 09:26
>55
何もそこまでいじめなくても・・・
勝久の方もおまけで書いてやれや。
なんかの小説で、毛利に囲まれた上月城の尼子勢が、
退却していく織田軍に法螺貝を吹くのは泣けたな。
>56
彼を暗愚と呼ぶ方が暗愚でしょ。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 11:25
立花宗茂は
1600年の関ヶ原の合戦敗戦から
1604年の秀忠の相伴衆として5000石で召抱えられるまで
無収入だったのか?
よく家臣がついて来れたよな?
59 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 11:36
>>58 なんかの小説だと家来が働いて宗茂に食わせてたとか書いてあったな。
しっかりしろよ宗茂、とか思ったなあ。
>>58 宗茂は流浪する時に、僅か二十数人の近習を除いて加藤清正を筆頭とする、
友誼のあった大名家に、立花家の家臣団を預けた。
武門の誉れ高かった立花家は、宗茂自身も引く手数多であったが、家臣団も例外ではなく、
新しい仕官先でも、かなり厚遇されたらしいと言う話。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 11:51
楽市楽座は義元の頃からやってたんだろ?
じゃ、氏真がわざわざそれを止めさせない限り
今まで通りにするのは当然かと
>>59 俺はむしろ宗茂の人望の高さを見たね。
家臣が無一文にもかかわらず宗茂を支えたのは
彼に心酔していたからだと思う。
こんな上司ばかりなら日本の景気も良かろうに。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 11:57
そういえば六角義賢も楽市楽座やってたな。
あいつが楽市楽座の創始者じゃなかったっけ?
64 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 11:58
たしか楽市楽座は本願寺が創始者
>>65 本当。山科本願寺が最初にはじめて、それに反発した香具師が日蓮宗を扇動して山科本願寺をつぶした。
浄土真宗が強い地域には楽市楽座の有利性が伝わって、六角や今川・織田が採用した。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 12:25
長宗我部盛親は寺小屋の先生の方はむしろ道楽で
主な収入は元家臣からの仕送りだったらしいよ。
家臣からの仕送りか…。
いい身分だな。
>海赤雨三将
この三人の子孫なら、みんな記録があるよ。
赤尾の子孫は京極の配下となり関ヶ原で大津城を守備している。
海北の子孫は海北友松。
雨森の子孫は雨森芳洲(東五郎)。対馬藩に仕え李氏朝鮮との交渉に活躍。
>老人「わしは昔戦国大名だったんじゃよ」
近所の子供「ぷぷw」
老人「こら、笑うな。関ヶ原にも出たんじゃぞ。信長殿にも会った事あるし」
黒田如水の晩年が激しくそんな感じ。家は長政に譲り、福岡に隠居所を立てて貰い、
近所の子供に菓子をやったりして隠居としてのんびりしたそうな。
成り上がり大勢力の前田家に再就職した人は多いでしょう
72 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 00:27
>>24 なんで浅井長政の子が夏の陣にわざわざ出て死んだんだろうか?
結構あっさりしてるのね。恨まないのかなー普通。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 00:59
浅井長政の子?
秀頼の叔父では?
家光の叔父でもあるが...
75 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 03:26
>>67 じゃ、ほんとに
>>16みたいな感じだったのだろうか
盛親に読み書き算盤教わったことがある奴はちょっとうらやましい
76 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 05:12
全部土佐弁だったりして。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 05:50
いやいや、、、
木下勝俊は土佐弁では・・・
文化人だから京都でも通じる言葉で。
百歩譲ってもせいぜい尾張弁でしょ。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 05:56
>>55 >関ヶ原後は毛利の大幅減俸のあおりを受けて大変だったのは確からしいが。
大変だったんじゃん(w
>>76 盛親は上方育ちだから土佐弁じゃないのでは?
物心ついてから土佐入りしたのは家をついでかららしいし。
司馬の小説ではそうだったぞ。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/04 20:21
そりゃみんな大変だったさ
82 :
無名武将@お腹せっぷく :03/02/04 23:57
丹羽長重は徳川秀忠とマブだちだったので御伽衆になり、その後二本松十万石
83 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 09:48
高山右近
内藤如安
この辺のキリシタン大名
南条元続
関が原裏切り改易組
こういうの、加賀藩が引き取ってるよね。
元大名が普通に家臣。筆頭家老(?)家が5万石。
加賀百万石はでかかったんだなぁ・・・と改めて実感。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 15:09
大阪側で大阪夏の陣のあと寺子屋の先生になった武将いなかったっけ?
>5
宇喜多秀家は八丈島でそんな感じだったりしないかな。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 16:57
88 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 17:13
夏の陣ではなく、関ヶ原の後では?
司馬小説だけど。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 17:16
>84
超曽我部の他にもう一人いたね。仙石んとこの奴だったか
斎藤龍興は、才能は無かったかのかもしれないけど、闘志においてはかえって苛烈な感じだ。
ある意味、戦争下手にもかかわらず悪足掻きしまくって各地を転戦、美濃からの逃走組も次々
戦死する中であくまであきらめず、ついには縁のない土地で客将として果てる、ってのは、
戦上手の将のプロ的な立派な戦歴よりも、かえって心を打つものがあると思う。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 17:19
91 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 17:30
氏真暗愚説は徳川史観が大きな原因じゃない?
家を潰したんだから凡将には違いないだろうけど。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 17:32
今川氏真の「滅亡その後」
氏真は駿府を追われてから1570年代の半ばくらいまでは
はじめは北条、そのあとは徳川へと渡り歩いて
駿河奪還を目指して活動していた(らしい)。
氏真を貶める文脈でしばしば引かれる
1575年に信長の面前で蹴鞠を披露という逸話は
家康が1576年に氏真を駿河を睨む要衝諏訪原の城主に任じたという説からすると、
実際は駿河復帰運動の一環だったのだろう。
しかしその後は駿河復帰を諦めたのか京都に定住し、
天正の後半から関が原あたりまでのだいたい20年間は
連歌三昧の暮らしをしていたらしい。
このあたりの動向は氏真と親しかった公家の山科言経の日記から追えるのだとか。
おそらく公家と同じように古典の筆写のような仕事をしたり
家康から仕送りをせびったりして糊口をしのいでいたのだと思われる。
関が原の後は息子と孫が幕府に仕えるようになったので
江戸に移住して安穏とした晩年を送った。
なんかいいな・・・このスレ
感動した。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 22:07
桶狭間で壊滅したとはいえ三州をまとめて義龍と連携して織田にあたれば十分に勝機はありそうだけどね。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/06 06:17
>>84 旧長宗我部家の家臣だった吉田政重が
大阪側に参加して敗戦後に
土佐に戻って医者をしていたということならある
98 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/06 10:29
>>96 今川家も一纏まりではなかったということだよ。
戦国大名はかなり微妙なバランスで成り立っているから大名個人の資質以前の場合が
多々ある。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/06 11:04
>>95 >凡将だろう。
と、現代の虚弱人間。
お前だったらなにができた?
100 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/06 12:13
俺だったら三河、遠江を信長に献上して、関ヶ原の戦いでは、家康さまに城を献上する
と言ってごますって、広島30万石ぐらいの大名になっただろう
>>100 献上した時点で、豪族なんかから裏切られて虐殺されるのがオチ。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/06 17:02
今川芸州守でござる
上総介
伸びそうだったけど終わりか?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/07 15:06
ハローワークのような組織があったのか?
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/07 15:10
彫塑壁森地価⇒寺子屋師匠
107 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/07 15:11
今川家⇒品川家⇒跡継ぎなく断絶
108 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/07 15:34
ペ路繰り
伊東義祐(1512〜1585)の末路ってのも哀れだね。親子でカナーリどん底味わったらしい。
60歳で日向をほぼ統一→謀反により雪崩れ込んだ島津勢に耐え切れず65歳で日向逃亡
→豊後大友氏を頼る→耳川合戦で大敗→かなり険悪になり三男祐兵の家族と四国へ渡る
→伊予河野氏の領内に居候→祐兵、秀吉に仕官するため家族を連れ姫路ヘ渡る
→義祐、プライドから秀吉に仕えることを拒み中国地方を放浪→73歳で病に犯される
→祐兵の住む堺へ向かう船中でブッ倒れる→同年祐兵の屋敷で失意の内に死去(;´д⊂)
ちなみに祐兵の当時の知行は500石だが、その後、島津征伐での道案内の功で旧領の
飫肥を回復、そのとき伊東勢は僅かに16騎しかいなかったそうな。
更に朝鮮出兵・関ヶ原を経て、ついには旧領の内5万石を回復、飫肥藩を開き豊後守、
従五位下民部大輔にまでなりましたとさ。いやー浮き沈みが禿しい。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 06:15
>>105 それきになる
大名級じゃなくても浪人の仕官って自分で頑張る以外になかったんだろうか?
分家とか加増されたとか新しくできた家の家臣はどこから持ってきたんだろう
特に江戸時代の安定しちゃったあとの浪人の新規召しか抱えってどんなものだったのか
「家臣○人募集中 ○○家」とかそういう掲示があったりしたのだろうか
確か、軍役状や感謝状というのを殿様が出すから、
マイナー武将でも「私はこんな戦歴です」という証明になって就職できる。
有名どころはいろいろ召抱えの声がかかる。
また、家光の乳母を高札で募集したとかの話もあるみたいだから、
直接市中に高札立てなくても、今度あの大名は加増されるから募集するぞとか
噂なども広まったり、または知り合いから教えてもらったりもするんじゃないかな?
地域の顔役などはそんな斡旋業務も請け負ったりするかも。
取り合えず血のつながりが武士の命だから、
全然知らない関係でも「数百年前は私の家と貴方の家は関係がありました」
とかなんとかで、しっかり繋がって、しぶとく生きていくんじゃないかな?
それに新しい城主に雇われたりもするだろうし、
田畑さえあれば帰農も出来る。
私の先祖は関ヶ原までは毛利で武家でしたって農民など多いとか聞くし。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 08:18
>111
家光の乳母を高札で募集した、ってのは当時としても随分奇妙な話で、
だからそれはアリバイ作りで、実際には春日局を雇わなければならない何かの
理由があった・・という傍証なんじゃなかったっけ?
114 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 08:23
仕官の際に家計図持参する浪人も多かったんでは。
だけど家系図なんか信用できないと思うんだが……
元大名クラスなら御伽衆とかそれなりに雇ってもらえたかもね
元はといえば自分よりしたの奴につく気分というのはどんなだろう……
特に織田系はそんな感じで過ごしていったよね。
秀吉・家康と。
まあ、命あっての物種だから気分とか言ってられないでしょ。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 11:19
斡旋は、菩提寺とか貴族のつてじゃないかな?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 12:58
菩提寺や手習いをした寺などのつてはあったでしょう。
浪人中に雲水で食いつなぐというのもあるし。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 13:15
人脈全ての時代ですかね?
想像としては今の縁故採用のようなものをフルに活用した感じだと思いますが
121 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 16:16
昔ののぶやぼ。。。将星録だったかなぁ
やたら伊東が仕官してきてうざかったね
122 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 19:51
>>109 小笠原親子もそれくらい・・・いやそれより厳しいよ・・・。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 20:33
信虎はどこかの小説の中では
甲斐に戻ってきたがあまりの粗暴ぶりに勝頼家臣に暗殺されてたな。
信廉に、信玄の事を愚痴って手討ちにしようとしてたり。
なんか文献とかもあった気がするが事実の可能性はあるかな?
124 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 00:22
甲斐には入れてもらえんかったんとちゃうの?
125 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 00:25
信濃で足止めされていたはず。
斉藤龍興みたいにどこぞの家に客将として参加してる場合、
やっぱり扱いは家来扱いなのかな
それともお客さん?
客将って言うくらいなんだから、客なんじゃない?
つか命令とかはそれとなく出来ると思うけど、
家来として動員の義務を負わせたり、
出勤させたり常務させるのって無理なんじゃない?
一応頼む形式になると思う。半ば命令だろうけど。
しかし自分の主筋とか、官位が上とかの人が客将になるってのは
扱いが難しいだろうね。家臣にするほうが難しいかもしれないけど。。
やっぱり居候みたいなもんで
住み込み飯つき給料なしなんだろうかね
相撲部屋みたいにw
朝倉「龍興殿にも兵をお貸し致す。存分に戦って下され!」
龍興「かたじけない!この龍興、獅子奮迅の働きで
積年の恨みを(うへえ、戦はもうコリゴリだYO!)」
130 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 10:36
>>129 龍興の純粋戦闘力はそれほど低くもないような気がする。
美濃攻防のときに手勢で信長を撃退した実績もあるし。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 16:32
>130
龍興を武辺がゼロのように扱うのは俺も不当だと思う。
人望は無かったか知れないけど、行動から察するに、
どうみても腰弱者ではなかったじゃん。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 16:35
>>131 天下統一2のPUS版が出る前のやつでは龍興の戦闘力は
14(MAX20)というおそろしい評価。
PUSが出てから10に引き下げられたが。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 19:01
龍輿はデブなんですか?
CGではデブっぽいけど
信長の野望ではデブ=無能という方程式が成り立っている気がする
134 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 19:09
今川の親父も龍造寺の熊もデヴだが無能じゃないぞ。
>>123 江陽軍鑑では死ぬ前に信玄亡き後の甲斐を訪れ、
色々しょうもない愚痴を言った後、眼に狂気の光が宿り、
刀を取ろうとしたが、追い出された。
まあ、信虎が死ぬ前、一度故郷に戻ったのは真実なので、
こういう事は実際にあったのかも知れない。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/09 23:45
>>135 甲陽軍鑑なんてヨタ軍記を引用する自体が(略
137 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 02:26
138 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 08:04
甲州に戻ってないって…
139 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 10:48
高遠で勝頼と面会しただけでは・・・
140 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 13:00
甲斐国内に入れてしまえば不穏分子が暗躍するだろうから入れるわけがないだろ<信虎
141 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 15:46
今、田中角栄が国会に現れるようなもんだな(実は生きてて、衆院も当選して…)
うん?影響あるかぁ?? 過去の人ちゃう?
142 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 16:32
的外れな例え
143 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 22:20
甲斐にせよ信濃にせよ、信虎と勝頼が面会をしたってことの信憑性はどうなんだろ?
俺が勝頼なら消しちゃうかも。
なんか事故とか病死とかに見せかけて。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 22:31
145 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 22:33
だあだあ
勝頼は会ってなかったと思うが・・・
147 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 22:52
>>144 祖父でも他人でも邪魔になる要素があるなら消すだろ?
しかも戦国時代だぞ?
148 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 22:57
追放されてから何十年たってると思ってるんだ?
しかも老いぼれ爺だぞ。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 23:45
元国主で影響力を考えれば不穏な芽は摘むに限ると考えても不思議じゃない。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/11 00:01
殺さなくても追放か幽閉って手もあるだろう
151 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/11 00:13
信玄という支柱をなくした直後で、しかも勝頼は
正当な当主じゃない(俗説だったらすいません)。
敵対勢力に利用される恐れも考えるとしょうがないかも。
ところで、ほんとに殺したの?
殺してないはずだが
そろそろほかの大名の末路も語ろう
154 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/12 10:00
北条一族は?
当主氏直は高野山で1年後に病死だったよね。それ以外はどうなったの??
(織田秀信と一緒・・・安楽死の術とかあったのだろうか)
関東のどこかで一万石の小大名として残ってたはず。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/12 10:55
誰の子孫?明治まで続いたの??
旧臣が大挙して押しかけたら1万石だと支えきれないねw
157 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/12 11:19
氏直はすぐ秀吉に召しだされて、一万石の大名に。でもすぐ死去。
それとは別に、氏規が河内狭山に一万石でこれは明治まで続く。
関東の一万石ってのは、家康に降伏した玉縄城主・北条氏勝で下総岩富一万石。
この家は、保科正之の子供が養子に来て、後に掛川3万石に転封になるが、元禄頃無嗣断絶。
氏勝の弟・繁広は旗本になって、これの息子が「北条流軍学」で少し有名な北条氏長。
北条氏邦は前田家に。何代か続いたらしい。
北条氏忠は毛利家に、そこで娘婿が入って、その家が重臣として続く
(小山ゆうのマンガ「おれは直角」に出てくる毛利家家老の北条は子孫かも・笑)
158 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/12 11:22
氏規って駿河人質時代に家康と仲良しだったとか…
(家康は隣の監視役のおっちゃんを駿河入城と同時に切腹させるほど根に持つタイプ)
なんか影響あったのかなぁ
159 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/12 13:53
>氏直はすぐ秀吉に召しだされて、一万石の大名に。でもすぐ死去。
>それとは別に、氏規が河内狭山に一万石でこれは明治まで続く。
氏規は7千石。その嫡男氏盛は氏直の養嗣子として氏直の死後関東に4千石。
氏規の死後氏盛が氏規の遺領を継承し、のち分家に千石を分与して1万石。
このような経緯で、この狭山北条氏は後北条氏の宗家でもある。
孕石の話は何で美談扱いなんだろうな
家康の嫌な奴っぷりがでてるだけだと思うが
161 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/13 07:24
美談だっけ?
162 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/13 07:51
GHQ統治下の日本においては美談になってもおかしくないな。
現代の感覚で言えばただの陰険野郎だが。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/13 08:31
初代
喜連川国朝(くにとも)右兵衛督 小弓御所足利義明の子足利頼済の長男。
二代
喜連川頼氏(よりうじ) 左馬頭 足利頼済の二男
三代
喜連川尊信(たかのぶ)右兵衛督 喜連川頼氏の子喜連川義親の子
四代
喜連川昭氏(あきうじ) 左兵衛督 足利尊信の長男
五代
喜連川氏春(うじはる) 左兵衛督 高家宮原義辰の二男
六代
喜連川茂氏(しげうじ) 左兵衛督 喜連川氏春の長男
七代
喜連川氏連(うじつら) 右兵衛督 喜連川茂氏の長男
八代
喜連川恵氏(やすうじ) 左兵衛督 加藤泰衛の三男
九代
喜連川彭氏(ちかうじ) 左兵衛督 喜連川恵氏の長男
十代
喜連川煕氏(ひろうじ) 左馬頭 喜連川彭氏の二男
十一代
喜連川宜氏(よしうじ) 兵衛督 細川孝応の二男
十二代
喜連川縄氏(つなうじ) 左馬頭 常陸水戸藩主徳川斉昭の十一男
十三代
喜連川聡氏(さとうじ) 左馬頭 高家宮原義路の弟宮原方斎の二男
164 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/13 09:15
>>163 こないだ新潟ではねられてたな・・・
喜連川さん。
雪の国道を朝五時頃歩いてて。
なかなかそんな苗字いないからなぁ・・・もしかして。
165 :
bloom:03/02/13 09:18
166 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/13 09:59
昔早稲田大の友達で足利君っていたけど… 珍しい?よくある苗字なの??
167 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/13 10:05
初代
北条氏盛(うじもり)従五位下 美濃守
二代
北条氏信(うじのぶ) 従五位下 美濃守
三代
北条氏宗(うじむね) なし
四代
北条氏治(うじはる)従五位下 美濃守
五代
北条氏朝(うじとも) 従五位下 遠江守
六代
北条氏貞(うじさだ) 従五位下 美濃守
七代
北条氏彦(うじよし) 従五位下 遠江守
八代
北条氏ム(うじあきら)従五位下 相模守
九代
北条氏喬(うじたか) 従五位下 遠江守
十代
北条氏久(うじひさ) 従五位下 相模守
十一代
北条氏燕(うじよし) 従五位下 遠江守
十二代
北条氏恭(うじゆき) 従五位下 相模守
>164
子孫だろう。乗り物に関わって死ぬあたり、
兵馬の管理に関わった先祖と同じニオイを感じまする
俺も先祖がせめて信長の野望に出るぐらいの武将だったらよかったのに・・・
170 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/14 18:19
畠山氏の子孫なら知ってるぜ
(石川県で畠山君だから勝手に、あいつは子孫だと決めつけてるだけ)
でも歴史詳しくなかった…「えっ?石川県の殿様って前田ちゃうの?」って
足利の主流はこっちじゃ〜
やっぱりコネがないのはつらいのう
俺の先祖もなぁ一応領主だったんだけど……
戦国ごく初期に竜造寺家にアボーンされてしまったため登場したことがないw
だから全シリーズを通して竜造寺一族は斬り捨ててます。ささやかな復讐w
172じゃないけどうちも先祖は竜造寺さんにやられたことになってるよw
ちなみにうちは直系じゃないらしいけど藤原北家流のTのながれをくむらしい
でも江戸時代農民だったのははっきりしてるんだよねw
一応紋とか苗字とか同じだけどうその可能性大
>>19すごいな
仙石、十河、長宗我部...三役揃い踏みじゃあないか
あと盛親は藤堂軍に勝ったはずだが
負けたのは木村重成だろ
>>172 うちのご先祖さんは反毛利派の豪族ですた。
おどされてあっさり降伏したようだが・・・(´・ω・`)
のぶやぼにもたま〜に出てます。
俺もゲームじゃ毛利一族斬り捨ててささやかな復讐してますw
177 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/17 20:08
178 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/17 21:48
俺の先祖・・・隈部親永っていうんだ・・・みんなよろすく
ノブヤボで変な顔グラの人ですね
ノブヤボはなんか恨みでもあるんだろうかって言うくらい
変な顔グラの人が毎回いるよね
なんか「あひょーーんっ」って叫んでるみたいに口あけて目を見開いてるのとか
嫌なにやけ顔とかさ
182 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/18 08:51
185 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/18 12:40
>>184 ここはゲーム厨を日本史板から隔離するために
つくられたんですが、何か?
186 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/18 15:56
>>178のご先祖AA作った。
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http://aa.2ch.net/test/read.cgi/kao/1038628967/l50
189 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/18 16:29
190 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/18 17:30
佐渡は本間
小笠原はすげえよ、マジで
よくぞ大名に返り咲いたもんだ・・・
191 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/20 07:52
大名の当主の滅亡後の収入 = 0
なんじゃねーの?
192 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/20 08:24
それを史学的科学的に実証・反証するスレなんだろ。
関が原とかで西軍についてた弱小大名って滅ぼされたあと結構他の大名家に仕官してるよな。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/21 05:23
筑紫みたいに旗本になった家もある支那
婚姻関係でどこかしら収入のある親戚に頼れば、暮らしてはいけますよ
>>195 会ったこともないような奴が、「親戚です、世話して」とかいってよくわからんじじいとかが転がり込んできたりしたんだろうな・・・
>>196 土岐頼芸がまさにそんな感じで上総の親戚に会いに行ったんじゃない?
「あんただれよ?でてけ」って言われた人いないかな
>>198 みんな嫌々ながらも受け入れたんじゃないか
200 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 16:39
いやぁ
若狭武田と甲斐武田が連絡取り合ってたぐらいだから、
案外同族の間は仲よかったんじゃん?
負け武将が転がりこんできても
・少なくとも同族であり持ち駒である
・(同族であってもなくても)頭領としての治世、采配の経験がある。
つまりその辺の奴より職歴的に使える。
・旧家臣が集まってきたり。これも使える。
・そんなのを引き取った懐の大きな我が家の名が上がる。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 16:42
>>200 中途入社みたいなもんか?
リストラでは真っ先に切られるタイプだが。
>>200 滅ぼした奴の領土に攻め込む時の大義名分になるしな。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 17:31
土岐為頼は土岐頼芸の親戚
204 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 17:35
畠山政長と畠山義就は仲が悪い
城井氏は宇都宮本家の跡継ぎ問題に介入するほど関係がある
小笠原長時は一時三好に逝った
足利将軍と関東公方は仲が悪い
205 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 17:43
六角義治
六角義賢-家督相続-滅亡-武田勝頼-豊臣秀吉-豊臣秀頼
206 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 17:45
>>205 デ最後は、高家だろ?うまく生き残ったね
207 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 18:58
嘘つくな。六角が滅びたときに義治も死んだに違いない。
で、義治の遺児が家臣に連れられて越前に落ちのびた佐々木小次郎。
お前ら大河くらいみろよ。
( ´_ゝ`)ふうーん
209 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/24 19:08
207は正しい
210 :
bloom:03/02/24 19:09
北条は直系の子孫が伊達家に仕えてるね。
212 :
178タンの先祖:03/02/24 22:09
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ノ. | ヽ / |`ー-、
キテナイ━━━━━━(・A・)━━━━━━!!
214 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/25 00:41
>>204 近畿の畠山は一度、後継に能登畠山の当主を指名してるはず。
当の能登畠山の当主が死んで、うやむやになったけど。
おがっち(小笠原)はもっと流浪してるですよ。
泣けるぐらい。
明治維新後に小笠原は伯爵になってたよな?
あれってその小笠原?
216 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/25 15:46
>>215 そう、その小笠原。
現時の名門だから、実際の石高よりも高い評価を受けた。
もっとも名門とか関係抜きで津軽のように明治政府と近衛家を通じて誼を結んでいたから高く評価された例もあるが。
じゃ、戦国最強・小笠原のこと、わたしの知識で。
間違ってたら訂正よろしく。
小笠原長時
天文19年(1550年)武田晴信に攻められ深志(現・松本)城落城。
平瀬城に逃走。
やっぱ無理で村上義清のところに逃走。
村上の援助で数度リベンジ奪還を狙うが、全て失敗・・・。
飯山城の高梨氏の紹介で越後長尾景虎の元へ。
息子の貞慶を預ける。
実弟の信定の下伊那鈴岡城に入城
武田軍により落城。
その後はその辺〜駿河〜伊勢〜京都へ。
足利義輝に招かれ摂津芥川城に入る。
ここもまた落城。
三好長慶の庇護を受ける。(実は三好氏は小笠原一族)
三好氏、織田信長によって追われる。
長時、再び越後上杉謙信の元へ。捨て扶持五百貫だとか・・・。
謙信死亡後は会津の芦名氏の元へ。
最後にこの地で家来に刺されて死亡。一説には家来の嫁に手を出した
そうで・・・。
小笠原貞慶
落城の時5歳の長時の三男。
貞慶は父に従い全国を流浪。
(この辺よくわかりません。ただし旧臣がどこまでも着き従ったそうで)
信長の元にいたり、いろいろらしいです。
1579年に父から家督を相続。
天正10年6月本能寺。
ドサクサに、旧領の家臣団の招きにて京都より出撃。
上杉軍、小笠原貞種(長時の弟)を立てて深志城を奪取
三河にいた小笠原貞慶、家康の支援を受けて天正10年(1582年)7月17日深志城奪取。
近所の木曽義昌、小笠原貞慶に攻撃をしかけるが撃退され、木曽谷まで攻め込まれる。
豊臣秀吉・家康により両者調停。木曽・小笠原両氏は徳川家康の管轄下に。
その後石川数正と一緒に秀吉方へ出奔!
小田原攻めで讃岐半国頂戴。
・・・尾藤知宣をかくまった罪で怒られて改易。
その後なぜかまた徳川陣営へ。下総古河3万石。
子の秀政の代(かな?)に松本復帰。6万石かな?
その後明石へ。宮本武蔵なんかが絡んで。
その後小倉15万石の大大名へ。
名物家老として宮本伊織の名が見える。
幕末には高杉晋作に落城させられたり(笑)
こんな感じで。
これ以上の流浪な人っているでしょうか?(笑)
足利義昭ぐらいかなぁ・・・?
鮭延秀綱の略歴もたのむ。
真田幸隆の流浪もなかなか凄いと思うな。
>>220 >>221 君たちが語って聞かせてくれ。
わたしのように稚拙で構わないんだから。
君らが思い入れたっぷりにここに書いてくれることで
少なくともこのスレッドを読んだ奴にはただの滅亡者ではなく、
記憶に残る滅亡者になるんだよ。
>222
幸隆は滅亡して無いだろ。
簡単にいくと、
村上&武田軍により真田城落城後流浪。
仇敵信玄に招かれ、父と別れ信濃先方衆として活躍。
旧領復帰。外様ながら優遇される。
信玄の後を追うように死亡。
>>223 滅亡の定義がいまいちよう分からんが、スレタイ見る限り、
領地を失う、ってことじゃないの?
だから少なくともこのスレでは幸隆は滅亡したってことになると思われ。
>>223 確かに(笑)失敬。<滅亡
224の言うように、滅亡の定義はちょっと曖昧でした。
>流浪
はどこを流浪してたのでしょうか?
どっかに仕えたり?その間のエピソードとかないんでしょうか?
二本松氏
うろ覚えなので補完よろしく
二本松(畠山)義継
数代かけていつのまにか芦名の属下のようになっていた
奥州探題の名門・畠山
逃げてきた大内定綱を庇護したことから伊達に攻め寄せられる。
二本松周辺5村の保有、との屈辱条件で降伏
伊達輝宗に会見
いちかばちか輝宗を拉致って逃走!
伊達政宗に追撃され、輝宗を刺して死亡。
(鉄砲で親ごと撃った、とかいうのは伝説らしい)
二本松義綱
怒り押し寄せる伊達方
家臣たちは遺児・梅王丸12才を立てて抵抗
周辺の反・伊達勢力の援助もあり撃退
しかしその後家臣団内紛、一年後の伊達再来襲の折、無血開城
会津芦名へ。
その芦名も滅亡。
芦名盛重(佐竹義重の二男)と共に常陸へ逃れる。
しかし数年後、蘆名盛重(の手の者)により殺害される。享年16。
男色関係のもつれだそうで・・・。
子がいたはずですが、わたし的に不明すいません
二本松義孝
義綱の弟
兄や母と共に会津へ。富田氏実屋敷に寄宿。のち、共に常陸へ。
兄が殺されると会津に帰る。
のち(成人して?)上杉景勝に仕える。名前がモノをいったかな?
関が原では出羽にて最上勢と戦う。
その後(上杉減封で?会津だし)蒲生秀行に仕える。当時の知行が三千石余。頑張った!
その後(蒲生減封で?会津だし)加藤嘉明に仕える。
その後、加藤嘉明家改易・・・
水野忠善の客分となって捨扶持が月々100だったか200石
その後二本松家は水野家家老職を務めたそうで。
すが・・・
かの水野忠邦が藩主の時、幕府中老を目指す水野忠邦が実入りの
いい肥前唐津から浜松へ転封をしようとしたときの、藩内総意代表で
反対して、自決となった家老が
「二本松大炊」
とか言ったような気がするんですけど・・・(涙)
虚構をはるかに越えたドラマが史実にはあるね
229 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 09:03
>225
岩櫃や箕輪にも実を寄せていた。
後に武田の先兵となって落としているんだが、
非常なドラマだと思う。
滅亡という意味では、幸隆の親父かな?
いや、親父じゃ無いという説もある。
武田に身を寄せるときに、
幸隆が殺したという説もあるし。
そこら辺まで含めて、
書くと長くなるからこれにて。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 09:04
>>216 表高15万石なら伯爵で妥当では?
同クラスの石高の伯爵は南部(盛岡13万石)、
上杉(米沢15万石)、柳沢(大和郡山15万石)
酒井伯爵(姫路15万石と庄内12万石の2家)などなど。
ただし実際のランク付けは表高ではなく実高で付けたそうだから
もしかしたら小笠原が実高低かったのかもしれないけど…。
スレ違いかも知れんけど流刑にされた奴の生活ってどんなん?
例えば八丈島の宇喜多秀家とか。屋敷でも建ててもらって監視?
まさかサバイバル生活?
232 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 11:39
秀家は一般流人とは少し違う扱いだったかもしれないけど、普通は
江戸時代だと、八丈島に流されたら、上陸後ポンと放り出されてここで
生きてけ、と宣告されて終わり。仕方ないから自分で掘っ建て小屋を作り、
乞食・小作・採集経済wをしながら何とか来年の収穫まで生きる。
といっても極端に民度が低いから、小作やら乞食やらもできないケースが
多く、上陸後間もなく死んだり、悪戦苦闘した後、数年で死ぬ者が
多かった由。流人だちの唯一の望みは恩赦。恩赦がなければ無期限にそこに居なくてはならない。
しかし、八丈島は他の島よりまだ豊かだったそうだから、その頃の島部の
貧しさは想像を絶する。ていうか、昭和40年代でも島民にとって
腹一杯食えるというのは難しかったらしい。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 14:18
今も名家なの?
234 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 19:11
235 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 19:14
236 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 19:26
摂津の豪族とかで滅亡したのは商人に転向したのが多かったらしいよ。
もともとここいらの小大名は通商で大もうけしてたタイプだから。
EX)池田氏、伊丹氏、塩川氏、茨城氏ほか
237 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 19:30
住友も鴻池の武将の子孫だよね
大名じゃないけど
238 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 19:31
商人といえば鴻池家は山中鹿之助の子孫ということになってるな。
239 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 01:35
越前朝倉の真柄十郎左衛門の子孫は
・・・越後に逃れて、石油掘り当てたことになっているらしい(マジで)
240 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 01:40
>>234 そこの関係者はよりによって韓国に「謝罪旅行」に出かけた
豊臣武将子孫団の一員だぞ。
アホかと。
子孫は大ボケだね。
ここに至って宇喜多家、正式に滅ぶ。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 02:05
>>240 なにそれ?
かつての武将達の末裔が大勢で?
242 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 02:48
足利義昭の息子は親父の遺伝子のせいか、陰謀の書状を書きまくったが、
徳川に却下されたらしいな。で、子孫も数代続いたらしい。
足利義澄系の直系子孫はいるみたいね。名字は変わってたけど。
で、その現当主が、俺は義満の子孫だから、金閣寺は俺のものだ!
当然タダで入場できるのは当たり前の権利だ!って、
金閣寺の管理者を困らせてたところを昔テレビでやってたよ。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 03:02
宇喜多をもう一度八丈島へ隔離しろ
244 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 04:25
>足利義澄系の直系子孫
阿波蜂須賀家で捨て扶持与えられて飼い殺し状態になってました。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 04:55
>240
秀吉のは一方的な侵略以外のなにものでもないだろ。
何百年も前の事を謝る必要はないと思うが、
別に謝っても本人の勝手だ。
イギリスだって、ジャンヌダルクを殺したことを20世紀になって謝ったし。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 18:43
246以降、ぐっとキムチ臭がしてまいりました
248 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/28 18:47
謝罪というより、先祖のときは刃を交えたが我々は
友好的に付き合いましょうっていうことだろ?
「あの頃は祖先が迷惑かけたね、すまんかった」以上のことを
言う必要も感じないし、現代の人間に謝る必要は感じないね
「謝罪しろ!謝罪しろ!」
「オマイラに?」
>249
漏れもそう思うよ。だけど宇喜多の連中が謝りたいならそれも連中の勝手で
別に他人がどうこう言うことでもないし、特に批判されるべき事でもない。
たぶん腰が低いヤシらなんだろw。
>247
漏れは「何しようが本人の自由」と言ってるだけじゃん。
謝りたい馬鹿も謝りたくない馬鹿も多々いるのが世の中ってもんなんじゃないの?
謝るのは勝手だが、あの国の場合
「秀吉の子孫が謝ってきたが一般の日本人は
いまだ過去の歴史に対し反省の色はなく、あまつさえ歴史を歪曲しようとしている…」
てな感じに持って行きかねないので、オススメできない。
とにかくこっちが悪くても(笑)謝ってはいけない、謝罪を要求してきたら
逆に殴り倒すくらいの気概がないと、未来永劫謝罪を要求されかねない。
その辺、中国は扱いに慣れてるというか…
252 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 00:45
254 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 07:02
筑紫新次
石田多加幸
これは違うだろ?
石田多加幸、このヒトは有名だね。
というか、漏れの元彼女、宇喜多。親父は秀○。
元八丈島の・・・リアル子孫でした。
いろいろやっちゃいました、すいません。
>>254 くわしく聞かせれ...ハァハァ
落ち武者ごっこか?
「宇喜多○○を召し捕らえたり!」とかいって縄で縛るのか?!
そんでもって
「冥土に行く前に極楽にいかせてやろう」とかいって
ハァハァなのか?!
うらやますぃ
257 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 12:34
たしか宇喜多ってチョンの子孫だったのでは?
宇喜多秀家の子孫は八丈島にいねーけどな
八丈島の連中が勝手に名乗っただけ
259 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 13:02
現地で娘とやってりゃ子もできるだろ
宇喜多姓は勝手に名乗っていても、血のつながりは十分ありうる
さすが三戦板w
>257
それ言いだしたら天皇家自体がそうだし
>261
良くも悪くも、平成天皇陛下ご自身が天皇家には朝鮮王家の血が入っていると
明言なさってますね。
平成天皇って誰でつか?
小学校のときにクラスに七本槍と同じ苗字の奴らがそろった事がある
子孫は一人もいなかったが
266 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 22:34
>>263 >朝鮮王家の血が入っていると
言ってねぇ。
捻じ曲げ自分に都合のいい解釈するなYO。
>264
近状天皇のことっしょ
>266
言ったじゃん??
「天皇家の祖先には朝鮮王族の血も入っているし、親近感を感じます」
と自分で言った。秩父宮とかも以前よくそういう事を言ってたね。
ていうか、266は新聞雑誌を一切読まないんか?
269 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 22:59
>>268 捏造━━━━(゚∀゚)━━━━ キター!!!
>>268 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると
続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」
天皇家の祖先ではなく、天皇の母の一人に百済王の子孫であると
記録されている女性がいると言っただけだよ。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 23:45
と、いうことで平家はチョンの末裔であることが判明しました。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/01 23:52
源氏も朝鮮発祥だよ
清和源氏の義光は新羅の出身だから新羅三郎って言うし。
273 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 00:01
捏造━━━━(゚∀゚)━━━━ キター!!!
あほ発見
結局言ってるじゃん。
>>270は「天皇の祖先は朝鮮である」と
>>263が言ったものだと誤解したに一票。
ちなみに武寧王は(在位501〜523・日本生まれ)と6世紀初頭の人。
桓武天皇の母親の高野新笠までに300年、約8代ほど世代が変わっており
大和系氏族との婚姻もあって、純粋に百済人とは…。
しかも身分が低かったせいで、死ぬまで皇后扱いはされてない。
天皇家に渡来系の血が入ってるのは、まぎれもない事実だが
それをもって朝鮮系とは、とてもじゃないが言い難い。
ついでに言っておくと、戦前はこの事実が大きく喧伝され
内鮮一体のスローガンに利用されていますた。
一応、滅亡後の百済王家ということで
微妙にスレに関連してるのでよしとするか…
>>272 そうそう、それ朝鮮の在野史家がよく勘違いしてるよね(笑)
ひどいのになると、足利尊氏は朝鮮系氏族出身とか。
(↑足利銀行の北朝鮮がらみの、韓国新聞サイトの英語版新聞記事。
尊氏は半島系だから、足利は朝鮮に好意的なのだみたいな)
ただ自分読み間違えてる可能性ありますが
277 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 00:17
ようは性根の問題だな
278 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 00:22
日本は神話時代を含めてもたかだか2600年ほどの歴史。
朝鮮は5000年だからね。ルーツが半島だからって、別に恥じる必要はないよ。
我々が恥じねばならないのは秀吉や明治以降の侵略だね。
アフォハケーン
280 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 00:32
この理屈で言うと戦国大名は全員アフリカ系だな(藁
まあ、取り潰されても読み書きできれば寺子屋やってられるだろうけど
馬鹿殿なら元家臣が恨みを込めて闇に葬りそうだな。
>>278 ハァ?
お前何言ってんの?
韓民族の歴史は9000年、BC7199年に建国された桓国が起源で
カムチャッカから中東にいたる広大な地域を支配したんだよ。
無知が
この理屈で言うと戦国大名は全員韓民族系だな(藁
ウリナラ半万年からさらに増えとるw
284 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 01:05
>>268ってリアルアホか脳内変換機能を持っているのか
285 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 03:41
ちょんが来てからこのスレ荒れてきたね。けっこうおもしろかったのに。
>>281 世の中には「ほめ殺し」っていう手法があるんだよ
>>267 まだ「平成天皇」になると決まってはいない。多分なるけど。
(´・ω・`)モシモシ
あのう・・・天皇家のルーツとかではなく、
大名家の衰亡について語りませんか?
263のあほんだらが悪いんです。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 16:28
日本人は朝鮮ネタになるとすぐムキになるからな。
>290
逆だろ(藁
>>291 いや、一部の2ちゃんねらーが過剰反応しているのは紛れもない事実。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 16:57
天皇家には百済の王族の血が入ってるらしいが
当時の百済人と今の朝鮮半島に住む人間とは血縁的関係はあまりないらしい。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 17:05
百済って確か日本に亡命してきたよね。
百済の正当な末裔はチョンか日本、どちらだろう
そんな話はほかのスレで出来る
また朝鮮ネタになってるし
297 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 17:32
百済王家の子孫と言えば大内家。
大内も滅亡後は結構悲惨だったらしいな。
はいはい、みんな落ち着こうね・・・
ところで、斉藤家ってどうなったん?
竜興って朝倉行ったんだっけ? そのあと、どうなったん?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 18:00
300 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 20:52
301 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 21:45
朝倉家滅亡後、朝鮮半島に逃れた斉藤竜興は名を李舜臣と改めたわけだが
302 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/02 22:06
>>301 な ん で そ う 必 死 な の ?
>302
ふだん相手にされてないから構って欲しいんだよ
ふだん相手にされてないから何となく世の中が恨めしくて、人を傷付けたいんだよ
本当の馬鹿だから
>>298 ええ、と。
実は二説あって
・一乗谷落城→大野→義景切腹時に同行
・越前敦賀〜近江間の刀禰坂あたりで戦死
でもまぁ後者なんだけど。
後日談ですが、そこに墓石があったのですが10年ぐらい前に
盗まれました(涙)マニアの仕業でしょうか・・・未返却です。
龍興に弟がいまして。
斉藤長龍と言いまして。新五郎とも。
佐藤某の養子になったりもしてますが、織田秀信忠配下で活躍し、
飛騨から越中へ抜けて上杉謙信と戦ったり。河田長頼に勝ってみたり。
美濃加茂にある加治田城を攻め落とし、佐藤紀伊の名跡を継いだり。
http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/virtual_museum/sanpo/14/P2-3.htm このままいけば多分、信忠の下で有力な一員としていけたでしょう。
ですが・・・本能寺の変の折、二条城に同宿・・・信忠を庇って戦死。
余談ですが、数年前に話題になった岐阜の怪奇音団地、
この加治田城攻略云々による怨霊話だそうです。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/03 13:26
龍興の息子はカムチャツカ半島へ逃亡した後、名をヌルハチと改め…
>306
もういいよウンザリ
308 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/03 14:35
ヌルハチと言えば又八
そういえば
小笠原で家老になった宮本伊織の家。
そのまま幕末まで家老職?
彼一代?
なあ、俺去年日本を離れててよく知らなかったんだが、
今年、テレビのナレーションで、
巨人の真田が幸村の血をひいてる、って聞いた。
本当? 信之じゃなくて?
幸村の血だったら、一応滅亡大名の子孫だよね。
どういう血筋で生き延びたの?
やっぱり信之の庇護?
ちなみに俺、武田の血筋の女性二人と付き合った事があります。
あと相馬の一族も。
つまり源氏も平氏もクリア済み。
でも当の俺、百姓家・・・。身分のない時代でよかった!
>>309 真田は騙り。
捏造系図すら持ってないと言っておった。
真田幸村の娘が伊達家の片倉家に嫁いでなかったか?
312 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 02:12
>>309 最近は、だから言わない。<読売
失笑ものだから。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 19:09
なんか、幸村の子孫がやってるページあるよね
片倉家の家臣の真田
314 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 19:14
>>309マジレスすると信之の子孫
かくいう漏れも武田の子孫。ただし若狭・・・
315 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 19:27
家系捏造野郎多いなココ
317 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 01:41
長宗我部盛親の寺子屋にて
「先生、帰ってこないね」
「もう半年以上も空けてるよ」
そこへ子供が泣きながら猛ダッシュ
「大変だ!先生が、先生が〜」
318 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 02:58
>>314 マジレスするが真田とやらは偽系図。
途絶えた血統に無理矢理繋いでいる。
で、お前から武田元明までの関係を説明してくれ。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 03:01
劉備くらいの説得力はあるのか?>真田
検索しる
東京まで出て来て講習会とか開いた子孫もいるぞ
321 :
scipio:03/03/05 10:36
うちは武士の出だよ
オノ・ヨーコが大友宗麟の家臣の子孫と読んだことがある。
信長の野望の武将ファイルのどれかで。
俺が付き合った武田子孫二人は、家系図がちゃんとあったし、
子孫みんなで会合を開いて、先祖を研究した冊子を発行していた。
一人は甲斐武田でも若狭武田でも安芸武田でさえもなくて、
そのまた支流の、伊予武田の子孫。
冊子読んで、初めて伊予にも分家がいたのを知った。
来島に滅ぼされたけど、江戸時代になって一族が旗本にとりたてられお家存続。
もう一人は、武田二十四将に入ったり入らなかったりの、
信玄の弟で名家に入ったあの武将の子孫。
これは甲斐の田舎に立派な邸宅をもっていた。
へー、で?
325 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 13:31
嘘は吐き通さないと駄目だからな。
>>323 いやあ、スゴイっすねえ。
武田の血筋を引く女を征服したんですかあ、シビレルなあ、憧れるなあ。
ハイ、気がすんだかな?
ヴァカはさておき、捨扶持もらって食ってる元大名の心境ってのも推し量るに、ツライものがあったろうなあ。
かつての競合相手に鷹揚に酒を勧められて、今の暮らしはどうだね?とか聞かれたら
なんて答えりゃいいのか。
ツライけど、歯を食いしばりながら
「サイコーデス!」としか言えなかったんじゃないかなあ。
普通の人って自分のルーツなんて知らないよな。
そう考えると、実は周りにいる人が超有名大名の子孫・・・ってこともありえるよな・・・
328 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 16:27
おれのツレ前田君、オヤジまでは利の字を名前にずっとつけてた。
明治になって曾爺様が加賀から名古屋に戻ってきてしばらく、でも全然前田家とは
関係ないそうです(;´Д`)
329 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 17:57
とりあえず、武田も真田も現代になっていきなり騙るパターンではないんだよな。
先祖が名乗ったものだけに始末が悪いんだ。騙りかどうかはともかく。
それなりの遺物も伝わってるわけで。
子孫としちゃ、それを無下に否定する気にもならんのだろうね。
敢えて自分の家系をウソっぱちだと否定するような滅亡大名の子孫って
めったに居ないだろうし。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 18:10
331 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/05 18:12
前にもドッカで書きこしたが隈部親永だから、「治」が名前に入るやつが結構いる。
>>326 何も「付き合った」=「征服した」なんて思ってもないんだが・・・。
ま、どうでもいいや。
自慢めいたように見えて、不愉快にさせたならスマン。
俺としては、ただ、当時の武家の子孫って、
大名になるほどの家じゃなくても、
意外にきっちりした形で現在まで残ってる、って言いたかっただけ。
二人とも捏造でないのは確か。
はっきりと農民の子孫だと分かってる俺としては、
それが羨ましかったんだなぁ。
ま、これ以上は書かん。それじゃ。
333 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 00:35
>>332 平安時代までさかのぼれば、先祖人口が当時の人口を上回る
=源平藤橘、その他大伴菅原在原ete.の血が入ってないほうが珍しい
そんな中、この平民主権の現・日本においては
「ずっと農民」
と言い切れるほうが偉いぞ。
>>329 武田も真田も、江戸時代ぐらいに名乗ったほうがやばいって。
明治〜大正でもまぁいろいろ不都合が・・・
案外、戦後捏造だったり、酒飲んだ親父の与太話だったりするんだよ。
それを今の世代の子供が純粋に信じてる、ってのが。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 00:41
でも俺が織田や武田だったら、子供に「信」の字をつけるだろうなぁ
別に大名にゆかりは無かろうと
335 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 05:46
>>334 そういう在日多いよ
なんでお前が羽柴○吉やねん!?つか羽柴って・・・?とか。
(誠三秀吉殿下ではなく)
歴史を知らん(認識が浅い)から・・・
在日の話題ですいません・・・
336 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 06:08
漏れの友人に武田信豊がいる。
本人談、椎津武田家の子孫らしいが、聞いたこともない大名なので案外本当っぽいかも。
大名の子孫といえばはずせないのが、下和泉半国守護細川家の護煕か?
江戸幕府・明治政府認定の家系だし。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 08:07
肥後の細川家ちゃうの?
338 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 08:09
織田家現当主信孝氏は息子に信の字を使わなかった
周囲から文句が出たそうだけど・・・
339 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 10:09
どうせその織田家には信長の血は流れてないし・・・
340 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 10:53
江戸時代にはいいかげんな系図を書かせるのが流行したから、
系図を扱う業者=詐欺師、という意味になったりした。
丁度、山師=鉱山技術者→詐欺師、という意味になっちゃったみたく。
俺んちも、先祖をたどれば畠山重忠とあるんだが、全くの出鱈目だと思う。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 11:47
おれんち相撲大好きな佐賀藩に囲われた力士の家柄
元々料亭だったのかその時の金で出したのか料亭3つ持ってたらしいんだが力士
引退後豪遊癖の抜けない曾爺様が借金作って潰した。
名前とかわからんけど曾爺様が豪遊しなけりゃ長男の俺結構楽できてたんでないか?
342 :
>>331:03/03/06 12:10
,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、
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. ハ / |、
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ノ. | ヽ / |`ー-、
343 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 15:48
実例。たしか奈良県史あたりで昔見た。大和で南北朝以来北の筒井氏と対抗し、
戦国期に筒井氏の大和統一で没落した越智氏の話。
信長・豊臣検知後も在地豪族として生き残ったが、大阪夏の陣で豊臣方に参戦し、
完全に離散。その後、一部が郷里に帰り、帰農したらしい。今でも高取町の越智には
越智さんがいっぱい住んでいる・・・
344 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 16:24
肥後出身で、江戸時代「隈部」から「宇野」へ改姓したよ。
>>333 お望み通り、断言しちゃる。
家の家系は、父方も母方も微塵の疑いも持てないほどの農民さね。
もっとも、両方とも豪農だがな・・・
あぁ、自分の先祖が有名武将って事を騙ってみたいものよのう・・・
>>336 細川護煕は肥後の当主だろ?
千年以上かかってようやく天下を取ったはいいが、結局細川家は
トップ下の定位置が血筋として染み付いちゃってるわけで、やっぱ
頂点ってのは細川家にとっては居心地悪かったってことだな
347 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 21:46
>>346 肥後藩主細川家は細川一族の中でも下和泉守護家と呼ばれていた家。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/06 22:36
>>341 このスレと関係ないけどそれはとてもおもろい!
家の栄華や没落にも多分、その時その時の時代背景的要因もあるはず。
いつか是非三代記とか書いて欲しい。
>>345 >豪農
・そこそこ勢力のある地方武士(郷士)
・没落小領主
・流浪の貴質
などなど。
土地が財産の古には、大農家というものはすぐになれる身分ではないですよ。
先祖もただの農民ではないと思われる。
少なくとも戦国期、なんらかの戦働きはしていると思われます。
大村が華族制度で伯爵になれたのって信じられん
なんで藤堂なんかと肩を並べられたんだ・・・
三国志だと同じ苗字だと同族ってことで、劉備なんか結構やりたい放題やってたけど・・・
日本は宗族意識ないからね
(^^)
352 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 08:25
大変です
353 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 09:44
>>336 椎津武田家は上総武田の支族じゃねえか?
354 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 12:18
>>346 細川家の当主は未だオヤジの護貞氏です。
護煕氏の政界引退のひとつの理由として、父護貞氏に
「これ以上政治に熱を入れたら細川家代々の財産まで
失うことになりかねん。当主の座は他の者に譲るぞ」
と叱責されてたというのがあります。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 13:08
>>350 あるある。
天皇家に成り代わろうとする臣籍降下氏族はなかなかいないけど。
(足利義満ぐらいか?)
源氏の氏長者をめぐってはいろいろあったし、
甲斐武田と若狭武田や上総武田は連絡取り合ってたらしいし。
土岐一族同士も横繋がり結構あったらしいし。
とにかくこのスレ読み返せ
356 :
:無名武将@お腹せっぷく :03/03/16 21:56
今でも主従関係が残ってるのかな?
宇都宮家では九州の城井宇都宮の長房が
下野にある宇都宮本家のところまで何度もなく赴いていろいろ口出してたみたいね
所在は豊前だが心は下野にある、みたいな
そんなだから次の代で滅ぶわけだが
358 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/22 00:52
細川護煕って田舎で焼き物とか作って隠遁生活してるんじゃないの?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/22 04:53